#004 神様

 浮かないモヤモヤとした気持ちのままで現在一人暮らしをしている自分の家へと向かう。ひどく足取りが重い。もはや右足は引きずっているほど。僕は帰って夕飯を作り、食べなくてはならないが、そのやる気すら起きない。

 どうしようかと悶々とした感情を抱えながら、スローペースで階段を登った。自分の部屋の前へとゆっくり進んで、ポケットから鍵を取り出し、ようやく異変に気がつく。

 家の電気がついている……。

 いやでも家を出る前に僕はちゃんと電気が消えていることも、鍵を閉めたことも確認したはずだ。だというのに、あかりがついているだなんてまさか……! ごくりと生唾を飲み込んで鍵を差し込んで回し、静かに扉を引く。中にいるのが知らない人だったら? どうか僕の確認不足であってくれ!

 どくんどくんと心臓が激しく鳴り響いている。そして恐る恐る僕は扉の隙間から家の中を覗いた。どうやら台所に人影があるようだ。よくよくその人影を観察してみる。

 あれ、もしかしてこの人は……。

よう兄ちゃん……?」

 そう声をかけると、コンロの火をかちりと止め、人影は振り返った。

「お帰りなさい、黎明。お邪魔しています」

 ワイシャツにスーツの姿のままでネクタイを外し立っていたその人は、僕の従兄弟の影谷かげや陽山ようざんくんだった。どうやら仕事帰りのようで、少し目元に隈があるように見える。

「え、なんで陽兄ちゃんがここにいるの」

「なんでと言われましても……君が僕に合鍵を渡してくれたのでしょう。今日は少し早めに帰れる日でしたので、黎明の様子でも見ようかと。案の定、何かあったようですが?」

 予想外の来客に、嬉しさが込み上げて、僕は玄関に靴を脱ぎ散らかし、走って彼に駆け寄って抱きしめてしまった。陽兄ちゃんは、いつもの冷静な顔を崩してとても驚き、持っていたおたまごと降伏するみたいにして両手を上げる。

「なんか色々考えて憂鬱になってたけど、陽兄ちゃんに会えたから少し元気になった」

「そうですか。それはよかったです」

 もう一度、彼の顔を正面から見れば、いつもと変わらない無表情だった。美味しそうなカレーの匂いがキッチンに充満して、僕のお腹はぐう、と悲鳴を上げる。

「もう少しでできますから、お皿とスプーンを準備していただけますか?」

「わかった!」

 つくづくこの人も不思議な人だよな、と思う。

 食卓に並べられたカレーライスを、二人で手を合わせていただきますと言って食べる。陽兄ちゃんってなんかテレパシーみたいな何かを持ってるんじゃないかと思うくらいに、タイミングのいい人だ。

 この前もレポートの山に埋もれて苦しんでいたら、家まで訪ねてきてくれて家事を一通りしてくれたし(確かこのときに合鍵を渡してしまったんだと思う)、今日だって僕が気分的に落ち込んでいるときに来てくれた。昔から人の心の動きには敏感な人だと思っていたけど、離れていてまで気づいてくれるなんて……さすが僕の憧れの人。

「対馬真くんのこと、聞きましたよ」

「え、あ、そうだったんだ」

「はい。相当仲が良かったようで」

「まぁ、そう思ってたの、僕だけかも知んないんだけど」

 ふと救う手を止めて、するとカレーをじっと見つめることになる。僕は陽兄ちゃんに、対馬真からもらった遺書の話と、それから『黎明の天使』の話、あとはツルミヤさんの名前は出さずにツルミヤさんに言われたことをそっくりそのまま話した。すると陽兄ちゃんは、表情筋はぴくりともしないままで小首を傾げる。

「『黎明の天使』は読んだことがあります。僕は、友人に勧められて読んだんです」

「え、そうなの」

「はい。黎明もよく知っている人ですよ。覚えていませんか? 西原にしはらかえで先生という国語科の先生がいらしゃったでしょう」

 それを聞いた途端、僕はお皿の上にスプーンをそのまま落下させてしまった。

「西原先生と知り合いなの!?」

「知り合いどころか、同じ大学出身で仲良くしていただいた友人です。それに彼女とは同じ教員になった身ですし、こまめにやりとりしていたんです」

 陽兄ちゃんはそれがさも当然であるように振る舞いつつ、カレーを口に運ぶ。

 西原先生というのは、僕のもう一人の恩人だ。真と一緒に大変お世話になった先生で、僕は陽兄ちゃんと合わせてあんな先生になりたいと目標にしている人なのだ。

「対馬真くんのことも彼女から聞きました。それで、あまりにも黎明のことが心配だというので、彼女のために一度顔を見なければと思ったんです」

「そうだったんだ……」

 世界っていうのは、案外狭いものなんだなということを実感しながら、僕はコップをもち水を飲む。そんな僕の様子を観察するようにして見ていた陽兄ちゃんは、だからこそ……と口を開いた。

「対馬くんの行動には僕も疑問が残りますね。おそらく対馬くんに『黎明の天使』を紹介したのは、西原さんだと思います。彼女は本当に湯村燐のファンでしたから。一方で、対馬くんはどうだったのでしょう。彼、本当に湯村燐が好きだったんですか?」

「正直なことをいうと、生きがいっていうには大袈裟なんじゃないかって思う。面白いよってこの本をおすすめされたことは覚えているけど」

 これが死ぬ理由になるとは到底思えない。

 湯村燐が好きだったのではなく、『黎明の天使』が好きだったというのなら理解はできるけれど、少なくとも僕の記憶の中にある真はそういうことは言っていない。じゃあ、これは一体なんなんだろう? ますますわからなっくなてきてしまった。

 ぐるぐると巡る思考の合間を縫って、ふと陽兄ちゃんの声が届いた。

「僕、どうしても君に言わなければならないことがあるんです」

 ひどく深刻で、低い声だ。でも、あまり表情の変化のない陽兄ちゃんが珍しくこんなに真剣で暗い顔をするものだから妙に緊張してしまう。

「なんで、しょう」

「君はどこか、教師を神様だと勘違いしている節がある」

 急にそんなことを言い出すものだから、僕は何をいっているのか訳がわからなくなってしまう。陽兄ちゃんは、一体何が言いたいんだろう。

「どれだけ助けたいと願っていても、僕はこの手からこぼれ落ちていく子たちを全員すくうことはできていません。むしろ、たぶんすくえた数の方が少ない」

 陽兄ちゃんは、そう言いながらスプーンでカレーを掬い取り、じっとそれを見つめていた。

「教師は、神様ではありません。神の使いでもない。ただの、なんの特別な力も持たない人間なんです」

「それくらい、僕だってわかってるよ」

「いいえ、わかっていません。わかっていないから、対馬くんを助けられなかったことを悔いて、その真実を知りたいと願っているんでしょう」

 陽兄ちゃんは、時に残酷なことをオブラートに包むこともないままに突き刺してくることがある。それは、彼の優しさであり厳しさであることは、十分に知っているはずだった。でも、なんでだろう。なぜか今日の言葉は、いつもよりも僕の中に深く突き刺さっていて、当分の間はずれないんじゃないかって思ってしまう。とても痛い言葉だった。

「だからこそ僕は、教師としての視点を持って救えなかった理由を考えるべきではないと思います。そうではなくて、一人のただの人間の彼の友達としてどうして彼が死んだのかだけを考えるべきだと思います」

 陽兄ちゃんは、そうやって言い切った後はすっかり黙ってしまって、ただひたすら皿が空っぽになるまで食べ続けている。俺は、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまって動くことができなくなった。

「……僕、今日は陽兄ちゃんの言ってることピンとこないよ」

「すみません、少し厳しいことを言ってしまいましたね。冷めてしまわないうちに食べてしましましょう」

 僕は、どうしたらいいんだろう。

 何枚ものパズルのピースが全部一箇所に集められてしまって、もうどこをくっつければいいのかもわからなくなっていた。教師は神様じゃない、か。そんなのわかっているよ。わかっているつもりだよ。でも、やっぱり思うんだ。救いたいって思うことってそんなに悪いこと? 僕みたいなちっぽけな人間には救うなんてことはおこがましいものなのかもしれない。そう、納得する以外にちょうどいい収め方がなくって僕はまた水を飲んだ。 


 

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