#003 疑心

「え、ツルミヤさんも教育学部の卒業生だったんですね! しかも僕と同じ学校の、僕と同じ中学校で、同じ国語ですか……。初めて知りました」

「別に、俺のことなんか積極的にいうことでもないなと思って。でも、なんだろう。あなたの話を聞いてて、もしかしてって思ったからさ」

 こんなにも暑い日だというのに暖かい紅茶を嗜みながら、本を読んでいたらしいツルミヤさんは、不意に自分の話をしてくれた。相変わらず空調が整いすぎている喫茶店は肌寒いが、それ以上に喉が冷たいものを欲していたために僕はストローに口をつけてアイスココアを飲んだ。

「でも、教員にはなってないんですよね」

「なってたら平日の真昼にこんなところにいないよ?」

「ですよね」

 ずっと思っていたことだったけれど、どうにもこの人が不思議でならない。謎だらけの人だ。

「だったら、何のお仕事をされてるんですか」

「うーん、こんなこと言うと少し恥ずかしい気もするんだけど」

 今は働いてないんだ、とそう言った。

 見るからにしっかりしていそうだし、安定職についてそうな人なのにな。でもそうか、公務員とかなら普通、休みは土曜や日曜だもんな。

「元々は仕事してたんだけど、お金を稼ぐためにやってたことでもないし俺の中で立てていた目標は達成されたから。その後はご覧の通り、かな。それなりに稼いでいた分は、もう全部妻に渡してしまってね。今は、ごく稀に彼女の職場に手伝いをしにいったり、あとは専業主夫ってやつかな。最近流行りの」

「専業主夫……」

 それを聞いて一層、僕はこの人のことが気になって、気になって仕方がなくなる。何がどうして教育学部に入ってその後別の仕事について専業主夫になったんだろう。

「なんでって顔してるね」

「えっ」

「なんとなくそう思ったから」

 ツルミヤさんはそういうとティーカップをすっと持ち上げて冷めてしまったのか湯気の立っていない水面を揺らし、一口分だけこくりと飲んだ。

「元々は、人のためになる仕事がしたくて。色々考えたんだけど、多分俺は誰かに何かを話したり教えたり伝えたりすることが好きなんだって思った瞬間があってね。教育学部に行こうって思ったのは確かそのときだったと思う」

 小学校でもなく中学校の国語を選んだのは好きなことに集中できそうだからっていう適当な理由だし、志望校を決めたのはもう受験間近みたいなときだったんだけど、と言いながら静かにカップをソーサーに置いた。カチャリという控えめな音が響く。

「なんかでも、ツルミヤさんの言っていることはわかるかもっていうか。なんだろう……ツルミヤさんにならなんでも話せそうなそんな気分になってくるんですよね」

「嬉しいけど、そう簡単に人を信用したら危ないよ」

「ツルミヤさんだけにですよ」

 僕がそういうとツルミヤさんは困ったように笑っていたけれど、僕は本当のことしか言っていないつもりだから、自信を持って欲しいって思っていた。暇を持て余している手でストローを摘んでくるりと一周かき混ぜれば、まだ元気にしている氷がカランコロンと鳴いた。しかし、相当疲れているんだろう。そのコップからは汗がとめどなく滴り落ちている。

「ツルミヤさんなら、僕の親友を助けてくれたんじゃないかなって。そう思うとなんかとっても辛くなるんです」

 完全に無意識のうちに僕はそう言っていた。色々考えているうちに、内心で思っていても言わないようにしていた言葉を言ってしまった! 慌てて口を塞いだけれど、吐いた言葉は二度と自分には戻ってきてくれないし、言った事実は消えてはくれない。

 ツルミヤさんはハッと驚いた顔をしたのちに、いつもの穏やかな顔とは一転して、眉をひそめた。

「ダメだよ、そんなこと」

「ごめんなさい、急にへんなことを……!」

「別に叱ろうとしたわけじゃないんだ、こちらこそごめんね」

 ツルミヤさんは、そう言って軽く頭を上げたものだから、僕はどうしようかと戸惑って、頭を上げてください、ととりあえず言ったのだが、その声が想定外なことに裏返ってしまったので、二人でクスクスと笑い合った。

「俺だって完璧な人間じゃない。どれだけ掬い上げようとしても、指の隙間から滴っていく水をもう一回掬い上げることはできないし。実際、助けられなかった人だって多い」

「それでも、きっとツルミヤさんなら気づけたんじゃないかって僕は思うんです。……だって、僕はあんなにずっと一緒にいたのに、あいつが作家一人にあんなに心酔していたなんて知らなかった」

「……このあいだ言っていた本の作者のこと?」

「はい。確かに、その人が好きだということは知っていたんです。でも、生きがいってなんだろうって思っちゃって」

 心酔するほど大好きだったあんまりにもショックだから、親友の僕にすら相談してくれることなく死んだんだろう? 僕じゃあ、お前の生きがいにはなれなかったんだろう? 本当にしんどくてたまらなくなったときに、一本電話でもメールでもメッセージでも送っていてくれたら、絶対に会うことのできないその人よりも、お前のために急いで地元まで帰ったのに、どうして。

 なんだか、少し泣きたくなってしまって、僕は顔を伏せる。

「ねぇ、黎明くん。少し聞いてみたいことがあるんだけど」

「うぇ? な、なんでしょうか」

 溢れそうな涙を気合いだけでどうにかとどめながら僕はツルミヤさんと目を合わせ、彼の言葉を待っている。ツルミヤさんは、じっと右手に顎を置き、左手で右肘を支えながら言った。

「なんだろうか、あなたから聞く遺書の話にとっても違和感がある」

「それは、どういうことですか」

「湯村燐が小説を書くのを辞めてその行方をくらましてから一体何年経っていると思う?」

「え?」

 ツルミヤさんは、そっと目を伏せる。

「俺の記憶が正しいのなら、彼が小説を書いていた期間というのは五年にも満たないほどの期間だけ。しかも、彼が最後に世に小説を送ってから十年弱くらいの期間を経ている」

「えっと、それはつまり?」

「本当に湯村燐が原因で死んだのなら、どうして十年近くもの期間を生きていくことができたんだろうか」

 ツルミヤさんは、横目に窓の外を見ながら、深く考え込んでいるようだった。僕はというとツルミヤさんのそんな問いかけにぴったりと当てはまるような返答が思いつかずふわふわと実体のない答え方をしてしまう。

「それは……なんか、『あぁもういないんだな』っていう実感が湧いたのがつい最近だったから、とかじゃないんですか」

「百パーセントないとは言わないけれど、それにしたって、生きがいっていうものをあなたに仄めかすこともないままで高校生活を送れると俺は思わない」

 それが生きがい、ってものじゃないの。

 ツルミヤさんは随分と悩んだ末に、そんなことをぽつりと呟く。……そんなの、僕だって聞きたいよ。でも、わからないじゃないか。どうしたって。

「死ぬのってさ、自分が思っている以上に怖いものなんだよ。ましてや自分でそっちを選ぶなんて、もう生きていくことが辛すぎて死んで楽になること以外何も考えられなくなっているか、来世があると信じてその期待を勇気に変えてしまっているとかしか俺には想像がつかない」

「それは……そうかもしれないですけど」

 死ぬ以上に怖いことが真のそばで起こっていたってこと? そしてそれは、真のお母さんですら気がつかないことだったのだろうか。今日は、とても思考が乱れる。ゴールの塞がれた迷路を延々と歩かされているみたいな変な気分だ。

「もう一回、思い出せる限りでその親友のことを思い出してみなよ。あなたからみた彼は、本当に自死を選んでしまうような人だったの?」

 珍しくも、僕に気遣ってくれることもなく、ツルミヤさんはキツく問い詰めてくる。わからないものはわからないじゃないか。そうしろっていうんだよ。糸は絡んで、玉結びができてしまって、脳細胞を通っていってくれないみたいだ。これじゃあ何もわからないし、考えられない。

「……そんなの、僕にはわかりません」

「ごめん。偉そうに言ってはみたけど、俺にもまだわからない」

 僕は、いつも明るくて誰とだって打ち解けていたし、勉強も運動も人より得意だったし、こんな僕ともわざわざ共通の話題を見つけに来てくれたくらいだ。そうして、同じ部活動に入って同じ時間を過ごすうちに、僕はどうやら誤解してしまっていたんじゃないかと思い始める。

「もしかしたら、親友だと思っていたのは僕だけだったのかも」

「……俺も、少し考えてみるよ。この違和感をうまく伝えられるように」

 ツルミヤさんは、俺の独り言には聞こえないふりをして優しい言葉で寄り添ってくれた。

 僕はやっぱり、この人が僕だったらってことを思わざるを得なかった。

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