#011 花束

 あれから、俺は数日は発熱で寝込んでしまって全くと言ってもいいほど動くことができなかった。長い旅をして、冷たい風にしばらく当たってしまっていて、帰ったあとすぐに母にこっ酷く叱られて、諸々の疲労が一気に襲ってきたみたいだった。

 ようやく体調は回復はしたものの、なんとなくしばらくは教室に入る気分が起こってこず、担任の先生に連絡をし、もうしばらくだけ休ませてもらうことにした。それに、やってみたいこともあったからそれに少し取り組んでみたいところだったし。

 学校に行き、授業を受け、放課後は講習も受ける。受験勉強の傍らで余計なことをしながら過ごしているある時、家に帰ると、リビングには来客が来ていたらしい。そこには、父や母と同じぐらいの歳に見える女性が座ってさまざまな紙を広げていた。俺は、ともかくやってしまったとその場で固まってしまい、動けなくなった。

「あら、こんにちは」

「あっ、こんにちは……」

 突然の出来事に声が裏返ってしまい、余計に恥ずかしくなって頬が熱を持ち始めるようになってしまった。どうしよう、早く去りたいと願っていた折に、女性はニコリと笑って父に話しかける。

「初めてお会いしますね。湯野先生の息子さん?」

「そうですよ。かなり内気な子ですから」

 先生という呼び方からおおよそ女性は担当というやつであることはわかった。なら尚更早く去ったほうがいいはずだろう。頭ではわかっているのに、全くと言ってもいいほど動くことができない。どうしよう、どうしよう。

「機会があれば、彼とも話してあげてくださいよ藤野さん」

「もしかして……二世、とかのご相談ですか?」

「どうでしょう。でも、優秀で面白い子だとは思いますよ」

「それは楽しみですね」

 父はどうしてそう余計なことを言うんだと心で叫ぶ。一気に羞恥心が上っていき、俺は顔に熱が集まっているのを感じる。

「あーあ、先生が意地悪するからですよ。なんてひどい人なんですか。息子さんが可哀想だわ」

「失敬、からかってみたくなってしまって」

 女性は、困ったように笑いながらビジネスバックを探り出し、やがて小さな四角いケースを取り出したかと思うと中から一枚紙を取り出した。そしてそれを持ったまま俺の方へと立ち上がって歩いてくる。

「私、藤野奈津って言います。あなたのお父さんの担当編集をやっているものです。もし何かできたのならぜひ読ませてね。連絡待ってますから」

 俺は、はっと顔をあげる。

「どうかしました? もしかして、なにかついてる?」

 化粧をしているからわからなかったが、よく観察してみれば、彼女の顔立ちは非常に見覚えのある。他人の空似というには、名前まで同じなんてあまりにも似過ぎている。

「願い、叶ったんだ……!」

「へ? 願い?」

「あっ、いや! なんでもないです! 名刺、ありがとうございます」

「ん? こちらこそですよ」

 彼女から受け取った名刺をじっと眺める。やっぱり、きっと、この人はあのフジノさんだ。

 ますますあの列車のことがわからなくなってくる。でも、きっと全ては運命の巡り合わせで、彼女の願いが叶ったことも、アカネさんが亡くなってしまったことも、きっとどこかの世界の記録に残されていくんだろう。そのためには他でもない俺が、まずは一歩を踏み出さなくてはならない。

「……ちょっと、頑張ってみます。なので、その時はよろしくお願いします」

「はい! よろしくお願いします!」

 フジノさんは、そうして期待に満ちた目を向ける。

 そして少し顔を寄せてこっそりと呟いてきた。

「後ついでなのですが、お父様がお仕事をちゃんとしているか見守っててくれます?」

「聞こえてますよ、藤野さん」

 心がじんわりと暖かくなるのを感じて、俺はたまらなくなった。今この場でうずくまってしまいたい衝動をどうにか押し込んで俺は父やフジノさんに頭を下げて自分の部屋に戻る。その後、下でなにか藤野さんの大きな声が聞こえたような気がしたが、多分きっと気のせいだろう。


 電車に揺られながら、巡り巡る紅葉の風景を堪能する。もうすぐ冬が来るんだと思うと寂しいような気持ちにもなるが、さらにその先にある春を夢見ると心が踊るものだ。赤いシートには、もう一人も座っていない。目的の駅について、車掌に切符と乗車賃を払えば、そこは秘境と呼ぶに相応しいような人一人見当たらない閑散とした風景が広がっている。心許ない錆びついた手すりだけが縋り付くようなホームを降りて、俺はその先の開けた道を辿った。草は生い茂りすぎており、誰も手入れはしていないだろうことが容易にわかる。こんなんでは助けに行けないじゃないか、助けたくたってさ。

 草がズボンと靴の隙間に見える足首に当たってこそばゆい。しかし、それももう少しすれば気にならなくなるはずだ。高鳴る胸と、得体の知れないものへの不安を抱えながら、ゆらゆらと道をたどる。

 ようやく、開けたところに出れば、そこには、草原はなかった。燃えた基礎だけが未練がましく残されていて、そんな基礎に寄り添うようにして周囲をを花と木々が囲んでいる。空から刺す太陽光は、天使がここに帰ってくるのを待ち侘びているのかもしれない。帰ってこようとしているのかもしれない。俺は、花を踏み、その場所へ近づく。崩れて原型を留めていない塀の開かれたところを通り抜けて、一歩二歩と歩よった。

 俺は、玄関らしき痕跡の残っているそこに持ってきていたネリネの花束を横たわらせて、次に大きなトランクケースを置く。持ってきたトートバックもそのそばに置いて、中からケースに入った小さいスコップを取り出した。そして玄関前の適当な場所にスコップを当てて、少し土を掘り返す。

「ちょっと埋められるくらいにできたらいいんだけどっ」

 ただ無心になって土を掘り返し、十センチ……いや、五センチほどの深さの穴を作り出した。息切れをした体でよろりと立ち上がり、先ほど地面に置いたトランクケースを持つ。そして、少し強引ではあるが、掘り返してできた穴に差し込んだ。

「さすがに、これ以上掘る体力は……ないな」

 少し申し訳なく感じながらも、掘り返した土で補強するようにトランクケースを囲い、押し固める。少しどころでなく不恰好なものが出来上がったが、様にはなったと思う。

「ちゃんと返したから、これでいいかな」

 改めて花束を持ち上げ、そしてそのトランクケースの前に置いた。

 俺はその墓標の前で静かに両手のひらを合わせる。合わせてから少しした後に、一度手を離して、今度は指を組んで胸の前で握った。

「セナ。俺は、あなたを一人にしないように書き残すよ。そしたらきっと……」

 また会えるからさ。

 手を強く握り、目を瞑る。そうして俺は、しばらく祈り続けた。

 木々や花がさわさわと噂するように鳴いている。どうか、この気持ちがどこかへ飛んでいきますように、見守っていて。

 俺は、トランクケースと花束を置き去りにしてその場を後にする。きっとまた来る。その時を心待ちにして……。

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