現世

#010 降車

 誰もいない先頭車両の壁に二人寄りかかりながら座り込んで、無事に方向転換がされた列車に揺られている。

 その間に、セナは色々な話をしてくれた。

 自分のことや、家族のこと、トランペットのこと……とにかく色々な思い出を聞かせてくれた。天使にも、人間にもなれなかった中途半端な存在であったことを憂う思いも、一つ一つ丁寧に語り聞かせてくれた。俺は、黙って聞くことしかできなかったけれど、あの夢と重なっていく彼の感情に目が熱くなるのを感じて必死に堪えた。

 トランクケースにしまってあったぼろぼろの家族写真を懐かしそうに眺めて、彼はつぶやく。

「水無月瀬那って名前は、この家族がくれたんだ。川の流れのように、どうか気の赴くままに生きていけるようにって。……ぼくには、勿体無い名前だと思うけど」

「そんなことは、ないんじゃないかな」

「災いの名前にしては贅沢なものだよ」

 泰然とした大人びていた彼を思い出せないほどに、子どもらしく光の灯り始めている彼は、目を赤くしたままの鼻声で、ぼーっと宙を眺めている。同じように見上げてみたが、そこには無機質な列車の天井があるだけだった。白い灯りが優しく俺たちを照らしている。

「現世に着いたら、ちゃんと家に帰るんだよ。凛太郎」

「……セナはどうするの」

「ぼくも家に帰る。在るべき場所へ、ね」

「家、燃えちゃったんじゃないの」

「まぁ、なんとかなるだろ。別に野宿したって死にやしない」

 そういう問題? 俺はそういうことが言いたいんじゃなくって。

「……いく場所がなくなったらうちにおいでよ。俺、一人っ子だし。なんとかなるし、多分」

「そうか」

 やがて、この列車旅も終わるんだろう。

 みんなは現世へと降り、そしてもうこの列車には二度と乗ることはなくなる。彼の負の感情で出来たこの空間は、彼が解放されると同時に存在意義を失うのだから。

 列車が、だんだんと速度を落としていく。ふと、列車の最先頭を見れば、空は朝焼けていた。日の出はきっともうすぐなんだろうな。

 ブレーキの音がはっきりと聞こえて、無機質なアナウンスが、聞こえるようになる。

「現世、現世……。ご乗車ありがとうございます。お降りの際はお足元にご注意ください。なお、この列車は回送列車となります。お降り遅れのないよう、ご注意ください」

 ようやく、帰って来れたんだ。

「早く降りようよ、セナ」

 俺は立ち上がって、彼に手を差し伸べる。セナはそれを何かを考えるように凝視したあと、ため息をついてこの手を取ってくれた。

 傍のトランクケースを持ち上げ、彼を引っ張るようにして乗降車口へと二人で向かう。……兄弟、みたい? 勝手に浮かれて勝手に笑っている俺の顔はセナには見られてないはずだとタカを括った。これから、に期待をしながら俺はそうして現世のホームへと降りる。

 しかし、ふと、その手が離された。

「セナ……?」

「……凛太郎」

 相変わらずの白い目はこちらを魅了させて離さない。しかし、彼は境を跨ごうとはせず、乗降車口の前で止まっていた。

「どうしたの。早く行こうよ」

「旅は楽しかったか?」

 突然、何を言い出したのか理解が追いつかない。しかし、蔑ろにすることもできず、彼の腕を引こうと手を伸ばした。

「さっきも言ったじゃん。楽しかったって……。それより早く……っ!?」

 俺がそう答えて伸ばした手は、掴み返されてその後、思い切りホームへと押された。

 突然のことで反応することのできなかった俺はそのまま床に倒れ、トランクケースまでもそこに落としてしまう。外皮の擦れる音がきゅい、と響いた。俺はそのままそこに留まり続ける彼をじっと見上げた。

「それなら、よかった」

「セナ…………?」

 彼は、困ったような、歪な笑顔を無理やり形作ってそして一歩後ろへと下がった。何も考えられない。何を考えているんだろう? どうして、セナ。どうして降りて来ないんだよ……!

「ぼくは天使でも、人間にも、どちらにもなれない不良品だからさ」

 じん、と痺れるように痛い手のひらで地面を思い切り押して立ち上がる。

「輪廻ってものが存在するなら、今度は人として現れるよ」

 何がなんでも彼に手を届かせなければ、届かせなければ!

「その時は、また友達になって。凛太郎……」

 あと数センチの、たったそれだけの距離を境にしてそれは完全に閉じられる。扉は、まるで彼と俺を引き離すようにしてそこに立ち塞がった。

 発車を知らせる汽笛が鳴る。

 なんで。

 俺がそうやって叫んでも、声は届かない。


 穏やかだった。

 まさしく幸福……あぁ、闇夜を照らす満月のように綺麗な。満面の笑み……。

 そして列車が動き出す直前。

 彼は、「ありがとう」と言っているように見えた。そして、「さようなら」と。

 主人を失ったトランクケースと共に、俺は現世のホームで立ち尽くし、彼の姿が見えなくなって、列車までもが光の粒となり消えてゆくまで、神々の住まう山嶺を彩る朝焼けを見続ていた。


 トランクケースをもったままでホームをしばらく歩いていると、藤野さんが立っていた。大きなリュックサックを両手に抱えて持ち主を探しているように……。あれは、俺の、か。

「……瀬那さんは?」

 首を振る。

「そっか」

 藤野さんは、リュックサックを強く抱えて、その場にへたり込んでしまう。

「何があったか、私は詳しく聞いたりしません」

「うん」

「乗客の皆さんは、無事です。みなさんもうそれぞれの帰るべき場所に帰りました」

「うん」

「だから、帰りましょう。……私たちも、帰るべき場所に」

「……うん」

 藤野さんの背後で、わずかに波打っているアーチが見えた。きっとあそこを潜れば元の場所に戻れるんだと思う。藤野さんは、リュックサックを俺に差し出して、ニコリと笑いかけてくれた。

「いつかまた、空いましょうね。凛太郎さん」

「藤野さんも。どうかお元気で」

「お互い、夢が叶うといいですね」

「……そうだね」

 俺は彼女からリュックサックを受け取る。そして二人で少しだけくすくすと笑い合ったあと、順番にアーチを潜っていった。

 潜る瞬間、そこから漏れ出す光の眩しさに思わず目を瞑る。光はだんだんと強くなっていって、徐々にその光は失せていった。

 ようやく再び開くことのできた視界の先にあったのは夜だった。ちかちか、じじじと点灯している蛍光灯には、まだ虫が集っている。ひんやりとした風が頬をかすめた。リュックサックから、携帯電話を取り出せば、そこには午前零時一分と表示されていて、思わず日付の方をみてしまう。あれだけのことがあったのに、まるで無かったみたいにされている。でも、確かに彼は存在していて、その証は今、俺の手の内にある。振り返ってもそこにはもう、「0番ホーム」は存在しない。それどころかこれからは乗りたいと願っても乗ることは叶わないんだろう。

 全ては初めから存在しなかったことに。

 誰もいないはずのホームがなんだか寂しくてたまらなくなって、俺は、また近くにあった椅子に座って腰をかけた。肺を満たす空気は、夜の味がした。だんだん心地良くなってきて、俺は、目を伏せる。

 あたりの音に耳を澄ます。

 ……足音?

 こんな時間に人なんて来るはずがない。もしかして……!

 期待を込めて顔を上げた。人影を見た。しかしそれは、彼ではなかった。

「家出にしては優しいものだね、凛太郎」

「おとう、さん」

 足音は、どうやら父のものだったようだ。暗くて表情が見えない。

 叱られるだろうか、説教をされるんだろうか、怒鳴られるんだろうか、どう言い訳をしようかなんてことを考えるが、一向に意識が定まらず、吃ってしまう。しかし、父はそんな俺の頭に優しく手を乗せることしかしなかった。

「別に弁解しなくたって構わないよ。そういう気分の時だってあって当然だろう」

「でも」

「まあ、母さんにはたっぷり怒られてくるんだな」

「……はい」

 父は、ふふ、と控えめに笑って、そして黙って俺の隣に座った。

「何かあったんだね」

 一回だけ、頷いた。

「それは、悲しいことだった?」

 もう一回、頷いた。

「お前は何が悲しいことだったのか言える?」

 最後に一回、頷いた。

「俺は、今日、死ぬとかそういうのじゃなくて、消えるというものに触れてしまったんだと思う。死ぬっていうのは、きっと誰かの中に残るもので。でも、消えるというのは……」

「誰にも残らない、か」

 父は、ポケットから取り出したティッシュを一枚だけ手にもって、急に俺の目元に触れてくる。そこで俺は初めて自分が泣いていたのだということに気がついた。悲しい、悲しいんだ。彼にもう二度と会えないんだということがたまらなく悲しい。

「どうしたらいいんだろう……。また会うことができたら友達になってって言われたのに、今この瞬間にでも忘れてしまいそうなんだよ」

 父にポケットティッシュのケースごと渡されて、俺はそれを受け取り鼻をかむ。涙は溢れて止まってくれなくて、だんだん息が苦しくなっていった。父に背中をさすられながら、どうしよう、と自問をするけど答えは一向にやってきてくれない。

「……お前が中学生の時に経験してしまった辛い過去のことも、その原因となったのが私だったということも、それゆえお前が私を嫌っているということも、全て知った上での私の話を聞いてくれるか?」

 いつもの冷静沈着で、何事にも動じない柱のような父が、優しく今にも折れてしまいそうな声だったものだから、俺は頷かざるを得なかった。なんとなく、怖いけれど聞きたいというふうにも思った。

「はるか昔に、お前は私になぜ物書きをしているのかと聞いたね。……あの時はお前があまりにも幼くて適切な言葉を使える自信がなかったのだが、今ならきっとわかってくれるだろうと信じている」

「聞くだけ、聞いてみるよ」

 父は、そうかそうかと息を吐き、ゆっくりと吸った。

「私が物書きをするのは、何かしらのものを残したいと思うからだ。自分の夢の話、ふと思いついた世界の話、ちょっとした思いつき、日々の何気ない会話、その時々の思い、友人と笑い合ったこと、泣いたこと、そして——死んだ人のこと」

 ぶぅ、と何かの虫が背後を通り過ぎていく。

「芸術とは、何かを残すためにあるものだと、私は思っている。今度はそれを他の人に分けて、彼らに後世へと残し伝えていってもらう。そうして積み上げられたものが今であり、未来なんじゃないか」

 何かを残すため、か。

「お前が忘れたくないと願うのであれば、お前が残していけばいい。多少内容は変わっていくのかもしれない。全く別物になってしまうことは歴史でだってよく聞くだろう? でも、存在そのものは失われない。残したものがそこにある限り、その元となったものが存在していたという事実は消えないんじゃないか?」

 俺はなんとなく父の言わんとすることを理解して、恥ずかしさを少し感じて、不安になった。

「俺に、できると思う?」

「……できるさ、お前ならきっと」

「そっか」

 心で決意した途端に、俺の心の霧は晴れていく。俺もきっとそれがいいと思っているし、もう迷いはない。

「早く帰りたい」

「そうだね。母さん、とても怒っていることだろうな」

「……あのさ」

「なんだい」

「ごめん、今までずっと、ごめん……」

 父は黙って立ち上がる。そして俺の目の前に立ったかと思うと、そっと手を差し出してきたものだから、どうしたらいいのかわからなくて見上げることしかできないでいた。

「えっと」

「お前が無事に帰って来さえしてくれれば、なんだって許すよ。親なんだから」

「……うん」

 その手を掴んで俺は、立ち上がる。駐車場まで行こう、と言われて俺はこの後母になんて言おうかということを必死に考えながら父の後ろをついていった。

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