#009 理由
心臓が激しく鼓動を打っている。息が苦しい。血の味が口の中に滲んできた。ほんの少し走っただけでも膝が笑い出していて、先頭車両にいつになったら辿り着くんだろうという不安でいっぱいだった。でも、それでも向かわなければならないというその一心だけで、走り続ける。
彼と、俺は、ニタモノドウシ。その言葉の意味をよく理解した。
あの夢は、彼の夢だ。そしておそらく俺は彼の抱えている感情と強く結びつけられてしまった。共感、できる。なら、神が彼に課した彼の幸福を見つける手掛かりはきっと俺が持っている。
これまでの旅の中で見つけたどこかに……。
自分がちゃんと呼吸できているのかわからなくなってしまうくらいにもう限界寸前の体を、強い念じだけで動かす。音色がだんだんと近づいてきた! これならもうすぐなはずだ。
六回目の演奏。これは、使徒と騎士たちが一斉に溢れ出す勇ましく、そして残酷なメロディ。本当に、タイムリミットが近いんだ。
扉を開けて、開けて、開けて、開けて、そして開けてきた。たぶん、これが最後の一枚……。
意を決し開けば、そこには、彼がいた。
ふわふわとした夜空のような黒髪に、紺色のタートルネックと、砂色のトレンチコート。傍には空っぽのトランクケースを置いていて、くすんだ金管楽器を掲げている。目にかかる前髪の間からは、光の一切ない新月が覗く。
俺は、その人に近づこうと一歩踏み出した。
すると彼は、静かにそのトランペットを下ろして、作り笑いをする。
「やあ! 凛太郎! 待っていたよ! いや、待っていなかったよ! どっちなんだろう? 私は、僕は、俺は? 何をしているんだろうか?」
彼のちぐはぐさは、きっと彼自身の兄弟や、極楽に住まう天の者たちを飲み込んでしまった影響なんだ、とそう直感した。パッチワークでできたぼろぼろのぬいぐるみのようなハリボテの彼は、頭のネジが外れたのだろう。あははははははは! と、高笑いをしているばかりだ。
「……セナ」
「ははは……どうしたのだ、凛太郎。そんなに睨まれたら、私……どうしていいかわからなくなっちゃうんじゃないかな?」
「セナ!」
彼の、名前を呼んだ。今まで怖くて呼べなかった彼の名を、ようやく口に出した。
彼の両親が、愛情を持ってつけてくれた彼の名前。人としての、名前。
「あなたは、このままこの列車ごと獣に取り込ませて死ぬつもりなんだろ」
「大正解〜! だって、独りはぁ…」
彼は目を見開いて真っ黒な瞳を見せる。
「寂しいだろ? でも、みんながいれば怖くない。それがたとえしぬことだってねぇ!」
彼らは現世から解放されて、僕は自由を手に入れられる。利害の一致、でしょ?
さも当然だといいたげに彼は首を傾げる。自然と手に力が入っていくのがわかった。絶対に、絶対に辞めさせなければならない。
「これまで僕はずっと、もう自分には幸福なんてものは訪れないってそう思ってた。一生この狭い箱の中に閉じ込められて、空気をただ震わせるだけ。虚しくて虚しくて、どうしようもならなかった」
赤い灯が、点滅を繰り返すようになる。目がチカチカとして、彼の姿形をうまく捉えられない。
「でも、君と会って、君を見ているうちにね。自分にとっての幸福がなんとなくわかったような気がするんだ。誰かと一緒に終末を迎えられたらそれ以上の幸福はないんじゃないかって!」
だめだ、ここで止まっていたら何にもできない……。
「俺には、はやく会いたい人たちがいるんだ。そして早く、会いたかったよ、寂しかったんだよ、ごめんね、ありがとうって色々なことを伝えたい。そのためには、解放されなくてはならない」
何かを思い忍ぶように新月を隠してしまうと彼はすう、と息を求めた。
「今なら……完璧に吹けると思わない? 僕のラッパはねぇ、強い強い獣を呼び出して世界を飲み込んで壊してしまうそうなんだ!」
そう言い捨てると、彼はトランペットをもう一度上へと向け始める。
「不思議だ……。あんなに憎んだ私の音色に感謝する日が来るなんて!」
その声を聞いた途端、自分の中の何かがぷっつりとキレる音がした。
「違うだろ、セナ!!!」
完全なる、無意識だった。心に抱えた彼に対するあらゆる想いが、言葉となって弾ける。爆発に後押しされるようにして俺は彼の元へと走り、そして……。
手を伸ばした。
彼の持つ、トランペットに。
彼は、ただただ目を見開いていた。
「なに、を……! 返せ、返せ!!!!!!!!」
「断る」
手に収まったトランペットを胸に抱え込みながら、俺は考える。
俺の、彼の望みは、なんだ? 彼は何から解放されたくて、彼は何になりたいのか。
「おかしい。おかしいおかしいおかしい! なんで、神ってのはいつだって無慈悲だ!!! 人間にもなれない、天使でもいられない、ならどうしろって言うんだ!! 返せ、返せ!!」
彼の器からは、負の感情が絶え間なくどろどろと溢れ続けていて、それは止まることを知らない。支離滅裂で、誰に向かって言っているかもわからないその言葉……。
「セナ、俺は誰になんと言われようとも。あなたを止めるよ」
「リンタロウ……お前まで、お前まで俺に独りで死ねって言うのか!? ははっ、あいつらと同じように!」
「違う!」
心はもう定まっていた。不思議だ。海が凪いだようなくらい静かになっている。
俺は、このトランペットに向けて伸ばされた彼の手を、静かに握る。強く、決して離さないように握った。
「……怖かったけど、セナは。でもそれ以上にセナと一緒に色々な場所を巡れたことは楽しかったよ」
桜の並木の下で、大きな海の真下で、神々の山嶺に見下ろされて、そうして体験した数々は、大切な思い出、記憶だ。
「独りは、いやだしとても虚しい。でもそれならちゃんと言わなきゃだめなんだと思う」
だから、セナ。よく聞いてほしい。
「俺とみんなと一緒に帰ろう」
だって……。
「死んだらどこにいくのかな。……結局、セナは独りになっちゃうよ」
俺は、誰かのためになりたい。そして、どうか生きていくことを許してほしい。
だから、セナにも、頼ってほしい。
「みんなのところに、帰ろう」
なんとなくそうしなければいけないような気がして、俺はトランペットを持ったまま、セナを抱きしめた。独りなんかじゃない、俺も、みんなもいるよって伝えたかったんだと、思う。
「俺も、誰かと関わることから逃げ続けるのはやめる」
セナから逃げたりしない。
しばらくそうして、赤いライトに照らされたままで音のない空間を過ごした。俺はどうか止まって、というただその一心で彼を宥めようとすることしかできない。じっと、待つ。セナが、独りを諦めるまで。
やがて、肩にずっしりとした重さが来て、咽び泣く声が聞こえる。
「セナ?」
彼の体を支えながら、真正面をとらえ、じっとその目を見つめた。
涙は彼の目の黒い影を流していき、瞬く間に満月が浮かぶ。青白い、月明。きっと、それが答えなんだろうと俺はセナに向けて微笑んだ。
赤い灯は、だんだんと月明かりのような白に戻っていったようだった。
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