#007 流星
ホームへと降りた瞬間、澄んだ空気が肺を満たしていくのがわかった。
優しく頬を撫でる風が心地よい。そして、一面の白い世界はあらゆるものを無にしてしまいそうだとすら感じた。コンクリートのホームを降りて、雪原を踏んでみる。靴の底が少し見えなくなるほどの優しい積もり方をしているようだ。
「少し歩いてみよう。いい景色が見られると思うよ」
彼の提案に同意をして、俺たちは先へと進んでみることにする。
彼のいう通り、この駅では降りる人の方が少数派らしい。まだ足跡の少ない雪原に道を敷くかのように二人で横に並んで先へ先へと進んだ。目の前に見える足跡は、まだ一つしかない。地を踏むたびに、雪がそっと舞って、また落ちていく。さく、さく、さくと美味しそうな音を立てていた。
しばらくすれば、少し心許ないボロボロの木の柵が見えてくる。その姿は、もう力のない人々が最後の力を振り絞ってそこに立ちはだかっているようにも見えた。
「あの柵の先にあるのは、断崖絶壁。落ちてしまったら二度とは戻れない地獄の道だからね」
「怖いこと言わないでよ、やだな……」
そんな呑気なことを言っていると、瞬間、目を疑う光景を見てしまう。
女性が柵を越えそうなほどに身を乗り出している。そして、驚くことに柵に乗り出していた女性が、だんだんと前のめりになって……!?
「あっ!」
「なにしてるんだ!?」
俺も、そして彼も何が起きているのかわからないままにそこへと駆け出した。
まずい、これはまずいんじゃないか……!?
その気持ちは、どうやら彼も同じだったよう。俺は、そして彼も絶対普段ならこんな速度が出ないだろうというほどに急いで女性の元へと向かう。
足が、宙に浮き始めていた。一秒、いや一瞬が命取りになる瞬間であるようだった。ようやく手が伸ばせるくらいに辿り着いて、そして、俺と彼は浮いてしまっていた足を思い切り引っ張る。すると女性は「きゃあ!」と甲高い声をあげて、地面へと落ちていった。
勢い余って、俺も彼も尻餅をついてしまっているようだった。頬にだらだらと汗が流れている。肝が冷えたとはこのようなことを言うんだろう。走ったせいか、それとも嫌な緊張のせいか、心拍数が上がっている。
「なんなんだね、お前は。危ないじゃないか!」
隣で同じように座り込んでいる彼も、相当驚いたようで珍しく大きな声を上げる。それに関しては同意するほかない。しかも直前に彼に「二度と戻れない地獄の道」とまで言われていたら尚更だろう。
この女性の姿は、さっき見かけた、セーラー服の女性だ、と思った。この黒色の装いは、先ほど見たものであると確信する。一体何だってあんなに危ないことを……。
女性はしばらく力ないままに地面にうつ伏せになっていた。
ようやくむくりと体を起こしたかと思うと、こちらの方を強く睨みつけてくる。もしかしてまた余計なことをしてしまったんじゃ……!? だんだんと顔から熱が引いていくのを感じた。
そんな俺の内心を裏切るみたいに、女性は、へにゃりと崩れた笑みを浮かべてあははは〜! と調子の良い声を上げて笑い始める。笑い事ではないんじゃないか??
「いやぁ、めんぼくない! 助かりましたぁ……。ちょーっとその先に何があるのかなーって気になって見ようとしたら、まさかこんなことになるなんて! びっくりでした」
あんまりにも気軽にそう言うものだから、俺も、彼も唖然としてしまっていた。
「びっくりでしたで済まされるほどのことじゃないよ、君。もう少し気をつけたらどうだい」
「ですよね、いっつも私、言われるんです。周りをよく見て行動しろって」
「ああ、その通りだね。流石に肝が冷えたよ、これは」
ここまで、怒りという感情を表に出している彼は見たことがない。しかし、彼をそうさせてしまうことに理解はできる。
「えへへ、気をつけなきゃですね!」
「笑いどこじゃないよ……」
なんて子なんだろう。びっくりしてしまうほど能天気だ。
彼女は、顔に雪を張り付けたまま、はらおうというそぶりも見せず、あはははと笑っている。一種の狂気のようなものを感じた。
「死にたくなければ、危ないことはしないことだね」
「そうですよね! もうあそこには近づきません」
「あそこ以外でも気をつけた方がいいね、君」
なんか彼女のことを見てしまっては、もう俺にあの先を見てみようという気は起きない。
ハラハラ気分はもう十分すぎる。十二分くらいあったかもしれない。
「あ、あなた! トランペットのお兄さんですよね! 聞いてましたよー! とってもすごい演奏でした!」
「……この状況でそれを言うお前が不思議でならない」
「名前、何て言うんですか? 私は
変わった子だ、と思った。彼の言葉に反応するような様子は一切見せないままに、急にべらべらと個人情報を語り始める。彼女は、俺と同じく今日初めて乗った人だということは聞かなくても何となくわかった。
それに高校二年生ということは一個下ということになる。同じような人がいるんだな。彼女の髪型は三つ編みが二つ結われていて、どこか古さも感じるものだ。見た目と中身が比例しないいい例だと思ってしまざるを得なかった。
「……水無月瀬那。セナでいいよ」
「瀬那さん! はい、覚えました! よろしくお願いします〜」
「俺は、湯野凛太郎っていうんだ。よろしくね」
「凛太郎さんですね、大丈夫です! よろしくお願いします!」
何が大丈夫なんだろう……?
よくわからなかったけれど、追求するのも面倒になってきたので俺はそのまま流すことにした。彼女はようやく自身にかかった雪を振り払う。かと思えば、飛び跳ねるようにジャンプをして、俺たちを見下ろすように仁王立ちしてきた。
なんだ? と思っていたら、急にニカっと満面の笑みを浮かべてこう言ってきたのだ。
「神社にいきましょうよ!」
「なんて……?」
あまりにも唐突だったから俺は息をするようにそう返してしまう。彼女はきょとんとして首を傾げたのちに、右手人差し指を立てて、何かに触れるようにしてとんとんと指を動かした。
「で、す、か、ら! 神社、ですってば!」
どういうことなのかという思いを込めて、あの人の方に視線を向けると大きなため息をついてからタバコの煙を吐き出す時のようにして口を開いていく。
「この神白駅には、神域らしく神に祈ることができる場所があるんだ」
「そんなのがあるんだ」
「そうなんです! 私、絶対そこに行きたいと思って、毎日駅のホームで日付変わるまで待ってたんですよ〜。今日、ようやく乗ることができました!」
両腕で拳をつくり、その腕を振りながらその熱意を語ってくれるのだが、俺はどうも彼女のテンションに追いつくことができなさそうだと感じた。彼女のテンションについていくのは、少し難しいかもしれない。
しかし、彼女の意思を応援するかのように、風が吹いた。山脈にかかっていた霧がわずかに動いたようなそんな気がして、いっそう神社にいくことの応援をされているように感じる。
「しかたがない。何がそんなに君を元気にしているのかはわからないが、行こうか。凛太郎、それでいいか?」
「俺は大丈夫」
「じゃあ、すぐにでも行こう。時間はあまりないからね」
「やったぁ! 楽しみ〜」
あの人は、そう言って元来た道を少し戻ったところで曲り、その先の奥の方へと進んでいった。藤野さんはテンションが高いままで飛び跳ねるようにしてついていっている。俺も置いていかれないようにしないと。
少し進めば、先ほどとは異なり、雑木林が広がり始めた。神社っぽいというとそんな感じだ。視線が自然と上へ向くのがわかる。程なくして、雪を被った木々の間に朱色が見えてくる。あれは、鳥居だ。
二人は遠慮する様子もなくずかずかと鳥居を潜り抜けていってしまう。別に心から神を信頼しているというわけでもないけれど、堂々とど真ん中を通っていくのはどうかと思ったり。
とりあえず申し訳程度に鳥居の前で頭を下げ、その後は鳥居の端の方を歩いた。本殿はそんなに離れてはいなかった。それどころか、これが本殿かと疑ってしまいたくなるほどにこじんまりとしたものであった。
「えぇ!? これなの!? もっと大きいと思ってたのになぁ……」
「なんだい、その不遜な態度は。生意気にもほどがあるんじゃないか?」
「だってぇ……ここに来たらぜぇーったい! 願い事が叶うっていうからきたのに、ちょっと寂しくないですかぁ?」
藤野さんの態度は相変わらずであったが、一方で彼の方は先ほどよりも落ち着いて淡々としている。ため息の量が増えているのは気のせいではなさそうだけれど。
「願い事をするならさっさとしたらどうだい」
「言われなくともしますって〜」
藤野さんは調子のいい声でそういうと、本殿の前にある階段を登って、そして賽銭箱らしきそこに硬貨を入れたようだった。二礼ニ拍手一礼だっただろうか。彼女はちゃんとできるのか心配になってきて、じっと見守ってみることにする。
二礼、二拍手。
そこまでは順調だった。しかし、その後、風の音に紛れて息を吸い込むのを感じた。何をするつもりなんだ藤野さん?
「編集者に、なれますよーーーーーーーーに!!」
耳をつんざくような大きなこれが、木々にぶつかって響き渡る。正直言って、とってもうるさかった。しかも願い事、口に出してしまっていいのかな。
もうとにかく突拍子もない彼女の行動には、ハラハラさせられている。
「最後は一拍手? あれ、礼だったかな……? まあ両方やればいっか!」
色々罰当たりな子だと思った。
「藤野さんまって、最後は一礼だよ」
つい口を出してしまったけれど、余計なお世話だっただろうか。それはすぐに杞憂であったことがわかる。
「あ、そっか! ありがとうございますっ!」
彼女はこちらを一瞥してそして、本殿に向かって綺麗に九十度ほど腰を折った。もう、なんか、それでいいんじゃないかなって思い始めてくる。
「よし! これできっと叶うよね!」
彼女は楽しそうにそう呟いて、そして本殿から降り、戻ってくる。しかし、俺たちの顔を見るなりきょとんとしながら首を傾げたのだった。
「……あれ? お二人はお願いしないんですか?」
俺はどちらでもいいけれど、彼はどうするのだろう?
気になってそちらの方を見れば、首を二回ほど横に振ってみせた。
「あいにく、神頼みはしない主義なのでね」
「えぇ? じゃあ、凛太郎さんは?」
「え、俺?」
「はい、俺さんです!」
何か願うことなんてあったかな、と少し考えてみようとする。
「なんかないんですか? 将来の夢ー! とか、欲しいものー! とか」
「……少し静かにしててほしい、かも」
しばらく、色々なことを考えた。学校のこと、他者のこと、母のこと、父のこと、彼のこと、自分のこと。
どうしようか、と悩んでふわふわとしていた気持ちを、そのまま言葉にしてみよう。
「じゃあ、ちょっと願い事してみようかな」
「はい! それがいいと思いますよ!」
彼女に後押しをされる形で、本殿の方へと足を進めていった。なんとなく重たい空気を感じる。極楽に近い、ということに説得力が増した。
俺は、真正面からその社に向かい合い、そして二礼、二拍手——祈った。
——俺が誰かのためになって、そして生きていることを許してもらえますように。
居心地の悪い学校という閉鎖空間を思い出して悔しくなる。たった一度、真実を言っただけで、クラス中が敵になったあの瞬間を思い出してしまった。あぁ、もう一度忘れてしまいたい。息を吸うことすら許されないような張り詰めたあの空気は、もう二度と味わいたくない。
そういう願いをしてみた。一礼をして、本殿を後にする。そこで待っていた藤野さんは、にっこり笑顔で待っていた。
「凛太郎さんは、何を、お願いしたんですかぁ?」
「……教えないよ、内緒」
「えーけちんぼ!」
タコみたいな口になった彼女は、しばらくそうして文句を言っていたが、こちらが何をしてもいうつもりがないことを察すると自然と何も言わなくなってしまった。そのほうがこちらとしてもありがたい限りだ。
「じゃ! 目的も済んだし……私は戻りますねぇ? お二人はどうするんですか?」
「俺たちもすぐに向かうかね、凛太郎」
「そうだね、いこう」
ほぼそんな成り行きだったと思う。終始テンションの高い彼女についてくのが精一杯の俺たちはだんだんと彼女と距離が離れていくのを見送りながら歩いていた。
「……ここにいると、私が私でいられなくなるみたいだ」
「急にどうしたの。なんか様子、変」
「神はいる。でもそれは僕たちを助けてくれるわけじゃない。……所詮は娯楽の駒なんだろうね」
「藤野さんの夢は、叶わないと思ってる?」
彼は、俺のその問いに少し目を落として考えたのちに、まあ、と口火を切った。
「それが動機づけになってうまくいくことは十分に考えられるがね」
ようやく元来た道に戻る。流石にもう時間が迫っているようで、あたりには人がいない。俺も、藤野さんや他の人に従うようにして列車へと戻ろうとした。しかし、彼は、あの交差点のところで呆然と立ち尽くして動こうとしなかった。
「……遅れちゃうよ」
「まだ、時間はあるね」
彼はそういうと、持ってきていたトランクケースを開けて慣れた手つきでトランペットを組み立て始める。何をしているんだろう……? そんなことをしていては、乗り遅れてしまわないかと、気が気でなくなる。
列車と彼を交互に見比べ、乗り遅れてしまいはしないかと首を動かしていると、輝かしいようなトランペットの音が聞こえてきた。そんな呑気に演奏している時間なんてないはずなのに、彼は、怯む様子など全く見せずに、トランペットの先を上に向けて音を発した。
夜空に輝く星々が、いっせいに降り注いでしまいそうなほどの軽やかで熱くて激しい音。星というのは、どうして夜空をみただけではあんなにも小さいのに、落ちてくるとあんなに偉大なんだろう。きっとそれは、俺たちじゃ到底手の届かないようなところに存在しているからだ。それが、一斉に落ちてくるような音。流星群、というのがきっとふさわしい。
忙しないたくさんの音たちは、その地に一斉に降り注いで……。
霧が、晴れていった。
彼のトランペットの音色に応えるようにあたりを包んでいた霧が、晴れていってしまう。俺は、視線を遠くへと向けてみた。神々の山嶺はくっきりと形を持ち、こちらにその威厳を示していて、そこには金色の雲がかかっていた。
本能的に理解する。
きっとあそこが「極楽」なんだってことに。
そっか、極楽は、本当に存在していたんだ。夢物語なんかじゃなくて、本当にある場所なんだ。死んだ後に対する安心と、彼に対する不安が俺の中で拮抗していて、もうわけがわからない。
ひとしきり降り注ぎ終わった星は、じんわりとその熱を周囲に広めて、人々を住処から追いやった。残ったのは星によって焼かれてしまった大地だけ。……災害は、終わってくれない。
そっとトランペットを下ろした彼は、ハッとした表情をこちらに向ける。
「まずいね、早く戻らなくては!」
だから声をかけたのに!
心中の声は、ぐっと押さえ込んで彼と共に列車まで駆け出す。トランペットを右手に持ったまま、左手でトランクケースを掻っさらった。
本当にギリギリじゃないか!
駆け込み乗車にも程がある……。
どっと疲れが湧いてきて、俺は乗ってすぐに閉じたドアに寄りかかってしまった。
「ああ、危なかったね」
「危なかったどころじゃないよね? ただでさえ時間がない中だったのに!」
「間に合ったからいいだろ?」
「この駅だけで寿命が何年縮んだかわかんないよ」
彼は、くすくすと楽しそうにして、トランペットを静かに片付けていく。あまり新しさを感じないくすんだ金管。それを丁寧に丁寧にケアをして、静かに寝床へと戻す。閉じられたそれを静かに持ち上げる姿は、何か命を扱っている人に見えてしまった。
「……疲れたのかい、凛太郎」
「それは、あんなに走らされたら誰だって」
「悪いことをしたね、それは」
全く悪いと思っていないような口ぶりだったものだから、ちょっとくらい反省してくれたっていいじゃないかと心の中で叫んだ。聞こえるはずはないけれど。
「あとはもう、現世に戻るだけだよ。少し寝ていったらいいさ」
「そうする。ちょっと、寝たい」
口に出した途端に、洪水のようにして眠気が襲ってくる。それもそうか、もう、午前0時はとっくに過ぎ去っているんだから。
だんだんと体から力が抜けていく。
「おっと……」
彼に支えられてしまったのはかろうじてわかっても、それ以上体を動かすことは叶わなかった。そのまま、だんだんと意識が虚になっていく。
「おやすみ、凛太郎」
そうしてぷつりと意識が途切れる寸前、一番最後に見たのは……。どくり、と心臓が不安を感じて危険信号を発する。しかしながらが、俺はそれに応えることはできない。何を見たのか。それは。
——新月のように真っ黒に染まっていた彼の眼だった。
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