神白
#006 期待
見慣れた席に座って、目の前のその人をじっと観察するが、何もわからない。
みるものもない真っ暗な車窓を見ているようだったが、それ以上のことをしようとは思わなかった。俺は、手の中にすっぽりと収まっているイルカのマスコットを握っては離して握っては離してと繰り返し、その柔らかさを楽しんでいることしかできないでいた。
「この列車旅は、不思議なことばっかりだ」
「どうしたんだい、急に」
「……ねえ、本当にアカネさんとはもう会えないの」
「そういえば、詳しくは話していなかったな」
彼はそういうと、少し悩むそぶりを見せてから何かを決心したかのように一度頷く。
「そろそろ知りたい頃だろう。話そうじゃないか」
「うん、そうしてほしい」
彼と話そうとすると、声が裏返ってしまいそうになる。やっぱり、少し怖いみたいだった。彼は、そんなことに気にする様子もないままで話し始める。
「この列車は、本来生きている人間のたどり着くことのできない神域を体験できる列車だ。ゆえに俺たちが行く先々は、神の住む場所ということになる」
「神のすっ!?」
「そう、神の住処だよ。そんなに驚くこと?」
薄々普通じゃないことくらい気づいてただろうに、と彼は言う。けれど、そんなこと俺にわかるわけがないじゃないか。確かに不思議だとは思っていたけれどまさか神の住む場所、だなんて……。
「だから、人間はそこに長くとどまることはできない。神の力に耐えかねた体は、その場で跡形もなく消失し、現世に帰る頃には死んだことにされるか、元から存在しなかったことにされる。そこに、もう心や体という概念は存在しない。文字通り跡形もなく死んだことにされてしまうんだろうね」
「じゃあ、それじゃあ、アカネさんは……」
俺は、どうしてもその先を言うのが怖くなって躊躇ってしまった。しかし、彼は平然と言ってしまわれた。
「彼女の場合は、存在そのものを失うと彼女の子供たちに影響が出るだろうね。行方不明扱いになった後に死亡、というようになるんじゃないか?」
「そんなのって……報われないよ」
「残された家族がか?」
俺は縦に首を振った。彼は、呆れた、とでも言いたいような顔をして足を組み、手を重ねた。
「アカネは、自分の死に様を家族に見られたくなかったんじゃないか。だからあの場で消えるような死を願ったに違いない。幸福の絶頂にいるその時に、何も後腐れのないように、ね」
だとしても、そんなのは悲しすぎる。そう心の中で思うと、胸がキュッと締め付けられてしまいそうだった。これ以上は、もう聞きたくないような気分がしてくる。
「なんで、なんでそんな危ない列車に、乗るんだろう。ここに皆さんは……。イーラとサーラみたいな小さい子まで……」
「列車に選ばれるのさ。いつだって選ばれている。きっとこれまでだって君の両親、友人、みんな権利は配られていたはずだよ」
「……でも乗っている人は、総人口からしたら決して多くない人数」
「そうだね、そこから『午前0時の0番ホーム』に来るか。そしてそこに乗ろうとするかの問題になる。多くの人は乗らない。夢に違いない、可笑しい、そんな時間ない……色々な理由はあるだろうが、そうなると乗る人は限定されていく」
確かに、俺だってこの人に手を引かれなければきっと乗ろうとしていなかった。
「でも、こんな時間に子どもが乗るなんて……。小学生、いや幼児くらいの歳じゃないか」
「……彼らの場合は、母親が権利を持っていたんだ」
そしてそこでもう一つ、と彼は言う。
「この列車に一度でも乗ったことがある者は、以降この列車乗りたいと願ったその時に自分の意思で乗ることができるようになる」
静かに目を落とした彼は、色々な感情が入り乱れている複雑な表情をしているようだった。
「それは、つまりあの二人が乗っているのは……」
「二人が乗りたいと願ったからだろうね」
「ここにいる人たちは、みんな乗りたいから乗ってるってことになるの」
「そうなんじゃないか? ……これに限らずとも乗りたいという意志がないと列車には乗らないだろ?」
何を言ってるんだか、という表情をする。しかし、俺が言いたいのはそう言うことじゃない。
この列車は、極楽行きの列車なんだろう。そしてここは神の領域で、一歩間違えば幸福の代償として死がもたらされる世界なんだろう。それに、乗ってみたいと足を踏み入れてしまう人は、こんなにもいるのかと思うと、俺は、それすらも怖くなってしまう。
「もしかして、みんな、死ににきているとでも思っているのかい」
「それは、だって」
「死に近づく体験ができるといえばそうだけれど。言っただろう、ちゃんと現世には戻れるよ。自分で死を選ぼうとしない限りは、ね」
そう彼に言われたとき、頭にまた、桜のようなあの人の未練一つないような笑顔が浮かんできて、鳥肌が立った。
「……この列車は残酷だ」
苦し紛れにそう吐き捨ててしまう。心臓に糸が巻き付いて締め付けられてるみたいだ。なんだか苦しい。呼吸はできているはずなのに。
彼は、哀れみの表情をこちらに向けている。そして彼は、俺にこう言った。
「そう思うのなら、君は相当賢い子だね」
意味がわからなくて、首を傾げて見せると、求めずとも彼は話してくれた。
「この列車がどうして走るようになったか。それはね、ある一つの魂……いや、信念とでも言うべきものだろうか……。そんなものが抱えていた負の感情が積み重なってできたものなのだよ。完璧で、幸福な、そんな世界を求めてね」
まるで桃源郷だろう、ここは。彼は、微笑んだ。
負の感情……きっと一言で言い表すことができないような、色とりどりでたくさんの糸が絡み合ったようなものに違いない。
「その魂、信念、みたいなものが願った世界ってこと?」
「そう、それがこの極楽行きの列車ということだよ。そしてその魂は今もなお、心からの救済を求めている」
「だから、この列車は存在し続けるって言いたいんだね」
「わかってるじゃないか、さすがだよ凛太郎」
救われたい負の魂が、現世の人々に共に幸福というものを探求しないかと呼びかける。そうしてそれに応じた人々がこの列車に乗り、様々な正の感情を生み出していく。喜んで、楽しんで、はしゃいで、嬉しそうで……。
「いつか、その魂は救われるのかな」
「どうだろう。全てはここに乗っている人次第じゃないか?」
彼はそう言った後、足を解いていく。そして突然少し前にのめり込む。やがて両手がこちらに伸ばされて……彼は、俺の両手で俺の顔を持ち上げ、視線を合わせてきた。距離が、近い。何かを見透かそうとしているように、じっとこちらを見つめる。
「あの、あの……」
「君は、何を恐れている?」
彼の三日月の目は、暗かった。今にも黒に覆い隠されてしまいそうな、そんな目だった。
俺は、ようやく彼の不思議さに気がついた。これは影がかかったとか、そういう優しい次元の話じゃない。彼の目は明らかに欠けている。満月が欠けていくかのように、彼の目もだんだんとあの綺麗な白い光を失いつつあるようだ。
確か、一番最初に会った時には満月のようだった。白くて、彼の髪の色と合わせて見たときに空に浮かぶ道標の月のようだと思っていたはずなのに。今はどうだろう? 彼のその目は、もう少しで消えてしまいそうな三日月程度の光しか残っていない。
「……俺は、未知のものが、怖いだ。恐れているんだと思う。楽しくて、嬉しくて、興奮して。でも、それが怖い。裏に何か潜んでいるんじゃないかって。だから、怖い」
あなたも、と心の中で付け足してみる。
彼はしばらくそうして無言のまま俺のことを見つめ続けた後に、パッと手を離し、元の状態へと戻っていった。
「そうか」
それだけを言って、彼は窓の方へと視線を落としてしまった。
「次は、一体どこに向かっているの」
「次は……あたり一面が白い世界。
「神白駅っていうんだ。聞くからに神聖な感じがするね」
「そうだね。なにしろ、神白駅が晴れている時には、そこから極楽が見えると言われている」
何の気なしに呟いた俺の言葉が、まさか事実に結びつくとは思っておらず、素直に驚いてしまう。極楽が、見える?
「え、見えるの」
「私は見たことがあるよ」
「あるの?」
平然とそこ耐えるものだから、一層俺は動揺してしまったことだろう。
「最初はあまりそういうふうには見えなかったが、結構表情が豊かだね。凛太郎は」
「この列車に乗ってからは初めてのことばかりなんだ。普通でいられるわけがないじゃん」
「それもそうだ」
彼は、こくこくと二回頷いて、そして自身の着ているタートルネックの襟元を掴んでいた。
「神白駅は、白い世界だ。年中寒く、雪が降り積もっているし、太陽が見れたら一年の幸福が約束されると言われているくらい。そしてなにより……」
「なにより……?」
彼は言葉をもったいぶった。
気になってしょうがないじゃなくなっていく。俺は息を呑んで彼の言葉を待っている。彼は、これまでに見たことがないような、いたずらっ子のように笑って見せた。
「これまでのどの駅より、極楽に近い場所だとされている」
突如として俺の中に緊張が走ったことがわかる。体がピンと糸を張ったようになって、動かせなくなる。あぁ、また好奇心が掻き立てられると同時に恐れを感じているんだ俺は。
「だから、他の駅とは違ってあまり長居はできない。三十分が限度だ。それ以上いると神々の力に飲み込まれていってしまう」
「そして最悪の場合は……」
「そうだ、待っているのは死、だね」
急な寒気を感じて、俺は、腕をさすった。
これまでよりもずっと生死が身近にある場所ってことだろう? 綱渡をするみたいな緊張感だ。綱渡をやったことがあるわけではないけど。
「それもあってか、これまでの駅では多くの人が降りていたと思うけど、神白駅では車内から楽しむだけという人も多い」
「それはそうだよ……」
彼は俺の様子を楽しみつつも、怪しくにっ、と笑ってみせる。
「とはいえ、降りないのはもったいないじゃないか」
彼があまりにも平然とそう言ってくるものだから、少しイラッとする。
「好奇心は猫をも殺すって知ってます?」
「僕が一緒にいれば大丈夫だよ。お前が帰りたくないって言ってこない限りはだけど」
「絶対言えないよ!」
確かに、気にならないと言えば嘘になるし、ここまで来たなら全てを見て帰りたいというのもある。彼がそう言ってくれるなら、少しだけその世界を直に見てみたい。
「……決まりだ。一緒にいこうか」
彼は、うさんくさいほどに満面の笑みを浮かべた。
本当に彼について行って大丈夫なんだろうか。俺は不安になってきていたんだろう、身震いをしていた。
「もう少ししたら、見えるころじゃないかな」
彼は、そう言って頬杖をつきながら窓を見つめている。俺もつられて外を眺めてみた。
相変わらずの暗闇の世界が、次はどんなふうに移り変わって行ってくれるんだろうと楽しみだ。もし、今日のことを父に話すことができたら……。昔みたいに、親子らしく過ごせるのだろうか、と思ってそれを振り払った。きっと、父なら。もしも父が俺の代わりのこの経験を得られたのなら。丁寧に世界をそのまま描きだして、世の人々にいかに素敵な世界であったかを表現してくれたことだろう。昔から、物語を作っては聞かせてくれていた父。そして、それを今も生業としている父。いつから、父との間にはわだかまりができてしまったんだろう。
原因は、わかっている。けれど、見ないふりをした。
そしたら、白が飛び込んできたのがわかった。眩しくて、目を閉じてしまう。しかし、それを徐々に開いていくと……。
「わぁ……!」
本当に、一面が白い霧の世界だった。ちょっとでも先に進めば、戻っていくことが難しそうなくらい。しかし、そんな霧に目を凝らして、うっすらと見える高い線は、山脈を象っているに違いない。神々の住まう山嶺。神秘的だった。
地面までもが雪で白い。しかし、そこに大きな角を携えた鹿の群れが道を作っていく。一匹の牡鹿と目があって、けれど、列車の進む速度が速いから視線がすぐに途切れてしまう。
「どうだ? これまでとはまた違う、
「極楽に近い、というのに納得できるくらいだね」
「現世に行くまでには、これが最後の駅になるから」
やはり、楽しみは最後に持ってこなければ。彼は、そう言って楽しそうに笑った。そこになにか違和感があるような気がする。俺は、ふとそう思った。これまでの彼は俺からしたらお兄さん……いや、大人という印象があったのに。どうにもここに近づいてからは子どもみたいにはしゃいでいるように見える。こういう一面もあるんだな、この人。
「ここを過ぎれば、現世に戻るんだね」
「あぁ、そうだよ。現世で降り過ごしたら……待っているのは極楽だけれど」
「どうしてそういう脅しを挟んじゃうんだろう」
「それを聞いて動揺するお前をみるのが楽しいからかもしれないね」
ちぐはぐな中にあるこの子どもっぽさというのは、どこか彼を知るためのヒントであるような気がしてくる。いつか、彼を理解できるようになるタイミングがあるかもしれない。俺は手の中にいまだ残っているマスコットを握りしめて、そしてあの二人の言葉を思い出していた。
大きなトランクケースは相変わらず彼の隣に堂々たる風格を持って座り続けている。きっと彼はここでも何か演奏してくれるに違いない。
「楽しみだな」
ふとそう呟けば、彼はすごく驚いた顔をしたがすぐにはにかんだ。元がとても白い頬を、少し赤く染めているようだ。
「期待は裏切らないと思う。楽しみにしているといい」
……ふと、何かが横を通り過ぎていくのがわかった。あまりにもせかせかと動いていたから、何かあったんだろうか、と座席が並ぶ繰り返しの道へ顔を出す。するとそこには乗客たちの話し声に溶け込んで消えてしまいそうなほど影の薄そうな女性の姿があった。学生、らしい。
黒色のセーラー服の襟、そしてプリーツスカートはひらりと宙に舞っている。彼女はそうして乗降車口の方へと向かっていった。
彼女の姿は、客室の自動ドアによってピシャリと閉じられてしまう。取り残されたその空間の電光掲示板には神白駅がもうすぐであるということ、それが示されていた。
「神白駅、神白駅……。ご乗車ありがとうございます。お降りの際はお足元にご注意ください。なお、次の発射時刻は三十分後となっております。お乗り遅れのないよう、ご注意ください」
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