#005 捕食

 今か今かと静まり返ったその空間に、小さく息を吸う音が聞こえる。こくりと生唾を飲んでその時を待っていた。俺も、双子も、そしてここにいる皆皆たちも。

 パーッっと一つの音が高らかに鳴る。閉じられたこの空間の壁に、ガラスに、天井に、床に、あらゆるところに反射しては幾重にもなって大きな音を響かせる。

 次にやってきたのは、荒波だった。穏やかな波と、たくさんの恵みを求めてやってきた漁師たちを一層してしまいそうな勢いだ。絶え間なく巡っていく音と音に本能的な命の危機を感じる。大きい、大きかった。大きなサメが、彼の後ろを横切る。口を大きく開いて何か——いや、小さいものたちを飲み込んだ! 大きな影が空間内に生まれて、ぞわりとする。鳥肌が立った。

 しかし、次の瞬間。

 たった一秒の無音の時間が流れる。

 かと思えば、恵みであり厄災でもある生命の源を根こそぎ吸い取っていってしまったんじゃないかというくらいに静かに、静かに……だんだんと失われていった。残ったのは、空虚で乾いた音。ひどく虚しかった。その場にいたみんなすら、唖然として、微動だにしない。

 これには、どんな景色が浮かぶだろう。海が、水が無くなった世界? 砂漠。植物一つ存在しない悲しい世界。けれど、この空間と同じくらいに静かな世界だ。砂漠に独り、ぽつりとたったままでどこに行けば良いのかもわからず、ただそこで何をするんだろう。

 絶望。

 だんだんと音が小さくなっていき、トランペットの音とは思えないほどなよなよした音で、命が尽きるように演奏は終わってしまった。みんな何かを失ってしまったのだろうかと疑ってしまうくらいには、数十秒の間が完成している。

 しばらくしてようやく、可愛らしい声が上がった。子どもたちの優しい感動の声だ。

「わ〜!」

「すご〜い!」

 ただ盛り上がるための拍手と異なる、何か思いを込めたような重たい拍手が彼に送られていた。俺もまた、おもむろに両手を上へと持ち上げてゆっくりと手を叩いた。

「またききたいな!」

「きかせてね!」

「つぎはなに?」

「たのしいのがいいな!」

「えーかわいいのがいい!」

 まさしく十人十色の声が上がって、周囲の大人たちも感嘆の声を漏らしながら近くの人同士で語り始めている。

 ちょうど視線の先に彼の姿が見えるようになった。子どもたちの先生であるかのように、何かを伝えると、子どもたちは「やったー!」と口々に声を上げながら、またあたりへと散っていってしまう。そうして彼は大きな水槽の前に独りぽつりと残されている。

 俺はようやく彼の元へと向かう決心をして、足を踏み出した。

「選曲は不満だったか?」

「そんなことないよ。相変わらずすごいなって思っただけ」

「ならよかったよ」

 せっかく誘ったのに楽しんでもらえなかったは悲しいからな、と呟いて、彼は大きな水槽の方を見た。また、大きな鮫が俺たちの上を泳いで通り去っていく。口を開けて、また捕食する。

「青色を見ていると」

 彼は、トランクケースをその場に置き去りにしたままで、そっと水槽に触れた。

「俺は正されていくのを感じるのだよ」

 ちょっと、わからなくはなかった。燃える炎を見ているよりも、清廉な空気を感じることができる。水族館に入ってすぐにあるような大きな水槽のような世界。見上げる。太陽の光は、きっとここまでは入って来れないはず。しかし、綺麗なマリンブルーのグラデーションを見ていると、背筋を正される思いだ。

「昔、イルカが怖かったことがあって」

「君がか? 見えないな」

「俺だって怖いものはあるよ、人間だし」

「……そういうものかね」

 イルカは可愛らしい見た目とは裏腹に口を開けば、尖った鋭い歯が並んでいる。もしも飲み込まれてしまったらどうしよう、自分は小さくてイルカの口にすっぽりと頭が入ってしまいそうだったからだ。

「私は、時折思うんだ。共存は、本当にできるのかって」

「あなたからしたら不可能ってこと?」

「なら逆に聞くが、お前はできると思うか?」

「共存を目指している人を否定はできない、かな」

 俺がそういうと、呆れたような顔をして、視線を別のところへと向ける。

 イーラとサーラの姿だ。兄妹で仲良く走り回っているようで、時々周囲の人に当たってしまったり、転びそうになったりしている。かと思えば、俺たちのことを見つけてまた、可愛らしくパタパタと走ってやってきた。

「ねえねえ、ユーノ、セーナ!」

「これね、これね、あげる!」

 二人はそう言って、イーラは俺に、サーラは彼に何かを差し出した。よくみるとそれはイルカのマスコットキーホルダーである。つぶらな瞳と目があって、ああ、可愛いものだなと思った。青緑色の綺麗なボディをしている。彼の方を見れば、同じデザインの色違いのマスコットが手に置かれているのがわかった。くすんだ深い青色のマスコットだった。

「じゃーん! みてみて!」

「イーラとサラともおそろいなの!」

 二人はそういうと、それぞれ右手と左手を掲げて、指に引っ掛けていた同じデザインのイルカのマスコットを見せる。若々しさを感じる黄緑色はイーラの手に、愛らしさを感じる桃色はサーラの手に収まっている。

「これ、もらっていいの?」

「うん! なかよしのアカシってやつだもん!」

「セーナも、ユーノも、イーラとサラのおともだち!」

 二つの満開の笑顔が目に映る。仲良く手を繋ぎ、まさしく一蓮托生であるようだった。どこまでいったってきっと二人の縁を切れるものはないんじゃないかっていうくらい。

「ずっと仲良しでいられたら、いいね」

 口から自然と、そう言葉が出ていた。何でか、とかじゃなく、なんとなくそう言えたらいいなと思った言葉だった。ふと、隣の彼を見る。すると、ひどく無表情で、手の中のマスコットを眺めていた。その後、少しだけ力を込めてそれを握る。

「サラはね、イーラといっしょにいれたらうれしい」

「ぼくもサーラといっしょならうれしい」

「だって」

「しあわせも」

「ふしあわせも」

「はんぶんこ」

「できる」

「でしょ?」

 二人で一人、共存の究極の形。

 きっとこの二人なら、ずっと一緒にいることだってできるのかもしれない。そうに違いないし、俺はそうであって欲しいって思っている。

 神妙な面持ちの彼は、独り言かと思えるくらい小さな声でありがとう、とつぶやいた後、大きなトランクケースを持ってその場から去ってしまおうとした。俺はそんな彼を追おうとしたのだが、足元に小さな力を感じて、動くことができなかった。

「ユーノ」

「ユーノ」

「おねがい、あるの」

「きいてくれる?」

 上目遣いでそんなことを、言われることの、なんと断りづらいことか。俺は、腰を少し落として、彼らと視線が合うようにする。そして、真剣で少し潤んだその四つの目を見回した。

「お願いって、なに?」

 できるだけ優しい声のつもりでそう聞くと、二人は一度顔を合わせて頷きあった後、改めて俺の方を見つめた。

「……セーナと、はんぶんこしてあげて」

「……セーナをね、たすけてあげて」

「セーナとユーノはね」

「ニタモノドウシ、だから」

 頭を金槌で打たれてしまったような衝撃を受ける。ニタモノドウシ、似た者同士? 一体どういうことなんだろう。わけがわからない。突然の、二人からの言葉に心臓が静かに音を立て始めるのを感じる。ぞわぞわとする。鳥肌が立った。

「……ねえ、どうしてそう思ったの」

「なんかね、よくわかんない」

「わからない」

「かなしそうなのかな」

「でもユーノもセーナもやさしい」

 悲しそう……?

 俺に対しても、彼に対しても、そう感じたことはない。むしろ俺は彼に対して今まで多く占めてきたのは恐怖という感情だ。子どもの視点は、わからない。大人とは違う、別の高さから、別の場所から何かを見ている。彼は一体何を抱えているのだろう? 俺は何を悲しんでいて、彼は何を悲しんでいるのだろう。

 よく考えれば、俺はあの人のことを何も知らない。

 そもそも、知ろうとしていなかった。

 幸も不幸も半分こ。双子の彼らに言われたからこそ納得のできる言葉に聞こえた。二人はきっと今までもそうして生きてきていて、これからもそうして生きていく。進学しても、就職しても、結婚しても、老いても、死んでも。そう信じたくなってしまうような二人なのだ。

「あの人は、なんで悲しそうだと思うの?」

「うーん、なんでだろう?」

「でも、サラとイーラのことをみてるセーナは、すこしかなしそう」

「たしかに! ちょっとかなしそう」

 その言葉を聞いて頭に浮かんだのは、共存はできるのかと聞いてきた彼の表情。あの時の彼は、様子がおかしかった。ひどく声色が暗く、海底を這いつくばるような声がしていた。そして、共存に肯定的な態度をとってしまった俺に呆れるとともに、そこにはきっと諦めが入っていた。何が彼をそうしたのだというのだろう。不思議に思って、俺は手の中のイルカのマスコットを握った。

「それなら、彼のところにいかなくちゃいけないよね」

「うん!」

「きっとそれがいいよ!」

「ユーノなら、はなしてくれるかも」

 俺は立ち上がって、マスコットのキーリングに右手の指を引っ掛けて持ったまま、二人の頭を撫でてあげた。

「イルカのこれ、ありがとう。大切にするね」

 二人は、笑った。幸福と期待に満ち満ちた顔で笑った。

「じゃあね、ユーノ!」

「サラとイーラ、さきにもどるね!」

 二人は手を繋いで、駅の方へと走っていってしまう。こちらの方を時々振り返って、手を振りながら……。

 あまりにもその光景が微笑ましいものだったから、自分の頬が気付かないうちに上がってしまっている。せめて、二人の縁が切れてしまわないように、と心の中で願いながら。

 時間も迫ってはいたが、しかし、彼にはもう一度会わなくてはいけないと思い、彼の進んだ水族館の奥の方へと足を進めた。

 小さな水槽も所々にあってその中には小さな魚やクリオネのような小さな水生生物が展示されている。柱のような水槽もあって、その中にはカラフルなクラゲがふよふよ漂っていた。

 先へ先へ進むと、水槽のトンネルのような空間がある。入り口はあっても出口はない。その出口もまた大きな海が広がっていた。そこがこの水族館の最深部のようであった。彼は、そこに立っている。

「あの……」

 そっと声をかけてみる。すると彼は、静かに手を水槽に添えていた。

「なぜここが龍海たつみというか知っているかい」

 そうして彼は振り返った。海の暗さで彼の姿があまりはっきりと見えない。俺は、とりあえず反応しなければ、と首を横に振る。すると、ゆったり口角を上げる様子が垣間見えた。

「この海からは、かつて龍が飛び立ったと言われているんだ。暗い、くらあい海の底で眠っていた龍は、枯れた大地の悲鳴を聞いてこの海から空へと飛び立っていったらしい」

 彼が、そう語り始めると同時に、何か大きな影が上で揺らめいたのがわかった。

「そうして飛び上がった龍の上げた水飛沫は、その地全体に恵みの雨をもたらしたんだそうだ。民はそうして龍を崇めて……この地にその名を残した」

 それが由来なんだ。

 俺はすっかり感心しきってその言葉に聞き入ってしまっていた。彼の声がどうにも心地よく、俺は黙ってそれを聞いていたいと思っていたみたいだった。

「やがてそれは宗教になり、神の元に平等だったはずの彼らに上下関係が生まれる。伝道者たる司祭を筆頭とし、その下には神官が連なり、その後に、後にと民に位づけがされていってしまった」

 彼は、そういうと改めて水槽の方を見上げて、そして、弱々しく自信がないような声を出す。

「いいかい、凛太郎。よく聞いて。……生き物っていうのはね、一緒にいる限り対等にはなれない、そういう定めなんだよ。それが、僕が共存を疑う理由なんだから」

 見下すような、冷たい眼差し。この目を俺は知っている。

 あの時、残酷にもアカネさんを切り捨てた時の目だ。

 この世の真理を突きつける上からの目だ。

「お前は、あの双子——アイラとサラをどう思っているのだろう? 実のところ、アイラはサラが自分なしでは生きられないと思っているて、サラは自分がアイラの全てだと思っている。面白いだろう? お互いを思い遣っているようでその実、! なのに、どうして仲のいい兄妹だなんて言えるんだろうな?」

「そんな……! あの二人は本当に……!」

 あの二人は、本当に仲が良くって、あなたの考えていることは単なる深読みでしかないじゃないか! でも、それが俺の色眼鏡でみた二人の姿だったら? そんな、相手を下に見ているだなんて、俺は、信じたくない。

 手に収まったままのイルカのマスコットをより強く握ってしまった。

 怖い、どうしてそんなことを平然ということができるんだこの人は! これから多くのことを経験するかもしれない。喧嘩だってするかもしれない。でも、その繋がりは、兄妹で、家族であるという繋がりは、偽物であって欲しくないんだ……。

「凛太郎、俺は共存なんてものは存在しないと思っているよ。いつかどちらかは立場を奪われ、追われることになるに決まっているさ。平等、対等なんて綺麗な概念は……」

 海がゆらめく。

 大きな影を生み出して、そしてその後にうっすらと光を漏らした。やがて、それは水槽に添えられた彼の手へと吸い込まれていく。そこには龍がいた。赤い、紅い、朱い、そんな龍だ。大きなその身を海の中で漂わせて、そして服従を誓うようにその人の手に、自身の額を向けている。鱗の一つまでもが、存在の大きさを示している。そんな龍に付き従うようにして海中の生き物たちが集まってきた。龍を取り囲むように綺麗に輪を作っていく。彼を崇め奉るように。

 そして、そんな龍はこの人に、服従しているようだ。

「……平等、対等はこの世に存在しない」

 途端、鳥肌が立っていることを認識する。

 恐ろしい、怖しい、おそろしい……。この人の何もかもを疑いたくなってしまった。似た者同士なんてそんなわけがない。彼は、こんなにも残酷で冷徹で誰よりも大きな存在なのに、俺は、生半可な優しさで誤魔化している矮小な存在。

「あなたは……何者なんだ」

 彼は、堂々たる威厳を持って審判者のように仁王立ちしている。わずかに差した光が、彼の顔を照らすと、そこには半月のように影のかかった二つの目が存在して、そして俺はその闇に魅入られてしまいそうだった。

「私は、私だ。それ以上のことはわかるわけがないんだよ、僕にも、君にも」

 一生たってもこの人を知ることは叶わない。本能的にそう思った。

「さあ、早く戻ろう。乗り遅れてしまってはかなわないからね」

 差し出された手は、拒むことができずに取ることになってしまった。手が震えているのがばれやしないかと心臓が絶えず鳴り響いている。周りの音が聞こえなくなりそうだ。

 そうしてうずくまりそうな俺を、この人は導くようにして引っ張っていってくれる。

 平等、対等がない、か。

 ならきっと。あなたと俺も、同じになんかなれないんだろう。

 なすすべもなく、俺はそうして列車へと連れ戻されていった。

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