龍海

#004 双子

 しばらくして客室に戻れば、そこには大きなトランクケースだけがあった。今彼と会っても気まずくなるだけだったから、それは助かった。座り込んで、大きなため息が漏れて、そして窓に頭を寄りかからせた。自分では気づいていないだけで、きっとかなり疲れていたんだと思う。そのまま眠ってしまったようだった。

 次に目を開けた時には、視界いっぱいに顔が二つ並んでいる。どうやってそう並んだんだと思ってしまうくらいびっくりした光景だった。

「セーナのともだち!」

「セーナのともだち!」

「なまえは?」

「なまえは?」

 新鮮さを感じる元気な高い声だ。その顔立ちからしても、子どもだと言うことはわかる。だけど、ただの子どもじゃない。彼らは兄弟——いや、双子のようだった。

 ゆっくりと体を元あるべき位置へと戻すと、二人は、ぱたぱたと忙しなく体を動かして一・五人分くらいの席に二人で座っていた。その傍にはあいかわらず大きなトランクケースが残されているようだった。

「君たちは、名前、なんていうの」

 俺がそう聞くと、双子の男の子の方が左手で隣の女の子を指す。

「サーラだよ!」

 すると次に双子の女の子の方もまた、今度は右手で隣の男の子を指した。

「イーラだよ!」

 変わった名前だなとは思ったが、本人たちがそう言うのならばそうなのだろう。

「イーラと」

 男の子の方に手を向けてみる。

「サーラ、っていうんだね」

 女の子の方に手を向けてみる。

 すると二人は、正解だとでも伝えるかのように大きく二回頷いてみせた。続くように、俺も名乗る。

「俺は、湯野凛太郎だよ。……よろしくね」

「じゃあ、ユーノだね!」

「うん! ユーノ!」

「よろしくね!」

「よろしくね!」

 彼らの中ではどのような基準で名前を呼んでいるのか、わからなくなりそうだったが、別に訂正する必要性はない。子ども相手は少しなれないが、とりあえず笑顔になっておこうと思った。

 二人は、ゆっくりと当たりを見渡した。何かを探しているようだったが、すぐに真っ直ぐで綺麗に丸い目をこちらに向け、首を傾げた。

「セーナ、いないね」

「いないね。ユーノ、セーナとけんかしたの?」

「ぼくも、サーラとはけんかしちゃうよ」

「それはイーラがサラのモノとるからじゃん!」

「ちがうもん!」

「仲がいいね……」

 自分にもこんな頃があったのだろうか、と思ってしまうほどに胸焼けする元気を浴びて、ずいぶんと休んだはずなのに、疲れが湧き起こるのを感じる。こんなに元気だと、あとからずっと疲れてしまうに違いないのに、どうしてこんなに元気でいられるんだろう。

「喧嘩ではないよ、たぶん。喧嘩はしてない」

「そっか!」

「なかよしにもどれるといいね!」

「……そうだね」

 何も知らない子どもというものは、罪深いものだと思った。

 俺は、あの人と仲良くなれるとは思えないよ。みんなには好かれているようだけど、あまりにもあの人は怖すぎるんだから。でも、それをこの二人に言うことはできなかった。

「二人は、彼のことが好きなの?」

「すき!」

「すき!」

 声を合わせて、元気いっぱいにそう答える。

「だって、いっしょにあそんでくれるし」

「セーナのラッパ、たのしいもん!」

 嬉々としてそう語る二人の姿を見ていると、あれだけが彼の全てではないのだということはわかる。……誰にだって、裏はあるものだろうから。

 ただそれでもいまだに脳裏に張り付いて取れてくれない彼女の姿を思うと、胸が締め付けられる思いになってしまう。どうして、彼女ごと手を引いてくれなかったんだろうか、と。

「ユーノ、わるくち、いったの?」

「それでなかよしじゃ、なくなったの?」

「ごめんなさい、した?」

「セーナ、かなしいかもよ」

「そうだね、次に彼と会えたらちゃんと謝るよ」

 二人に流されて、先ほどまでの自分の荒んだ心がだんだんと落ち着いてくるのがわかると、自然と謝ろう、あんなにひどい問い詰め方をしたのはよくなかった、と思えるようになった。

 俺のその答えを聞いて満足したのか、二人はお互いを見て、そしてニコリと笑って……こちらに親指を立てた手を差し出してくる。

「いいね、ってこと? なら頑張らなくちゃ」

「きっとつぎのえきにセーナもいるよ」

「そうだね、きっといるよ」

「次の駅?」

 俺がそう聞き返した時だった。

 勢いよく眩しい光が飛び込んでくる。手で影を作りながら外の方を見ると、そこは海の中のようだった。

「どうして、海の中……?」

 透明なトンネルの中を、相変わらず進んでいく電車からは、色とりどりのたくさんの種類の生き物たちが見える。一面のマリンブルーの光景は、爽快感さえある。心が浄化されていくような、そんな気分だった。鮮やかな青緑のグラデーションは、静けさを思わせるのに、その大きな水槽の中にいる生き物たちは、そこに波を作り、渦を作る。小さな魚から大きな魚まで、あるいは哺乳類も、もう一つの宇宙と表現するにふさわしい世界が目の前に広がっていた。

「つぎのえきは、カイテイなんだって」

「うみのなかなんだよ」

 イーラの言う、カイテイが海底であることは、察しがついた。そうか、今は海の底を走っているのか。そう思うと、形容詞しづらいなんとも言えないような興奮を感じる。また、子どもに戻ったような、そんな気持ちだ。

「あのねあのね、もうすこしできっと、たぶん、つくよ」

「きっとたぶん、すぐにつくよ」

「そっか。そうなんだ」

「ユーノもいっしょにあそびにいこ!」

「スイゾクカンもあるんだよ!」

 二人もまた、興奮しているようで、座席の上で、ぽんぽんと軽く跳ねている。その姿に元気だなと思いながらも、海底の水族館というのに惹かれてしまっては、これに行かざるをえない。

「いいよ、一緒に行こう」

「やったー!」

「やったー!」

 二人は両手を上に高く上げた。なんとなくその姿を見ると、自分も嬉しくなってきて、心が踊るのを感じた。海底の水族館。一体どんなモノなのだろう……。きっと、普通じゃ味わえないような空間に違いない。

「まだかな」

「まだかな」

 二人は、そう言って俺を期待の目で見てくる。

「どう、かな?」

 とりあえずいいはしたものの、本当に俺は時間も、距離も、場所もわからないからこれ以上答えようがないのだ。どうしたものかと、二人の方を見ると先ほどよりもいっそうキラキラした目でこちらを見つめた。

「まだかな!」

「まだかな!」

「まだかなまだかな!」

「まだかなまだかな!」

 それは、ある種の言葉遊びを堪能しているかのように思えた。二人は、お互いに言葉を掛け合い、跳ね上がりながら、そう繰り返している。

「どうかな?」

 時折こちらの方に目をやってそのたびに俺がそう返すと、満足そうに笑うのだ。変わっているな、とは思ったがこれも子どもらしさというやつなんだろう。大人には想像できないような遊びを即興で作り出して、それを楽しんでいる。すごいな、と思った。

 暗闇と、青緑色を交互に眺めながら、二人と他愛のない話をしていればだんだんと列車のスピードが落ちていくのがわかる。次は、龍海たつみ駅だと言っていた。相変わらずの機械音声と共に、客室出入り口上にある電光掲示板にそう書かれていたのを見た。つくづく不思議だと思いながらも、緩やかな揺れに身を任せてみる。

 かこん、と慣性の法則の力を受けながら止まると、列車内にアナウンスが流れた。

「龍海駅、龍海駅……。ご乗車ありがとうございます。お降りの際はお足元にご注意ください。なお、次の発射時刻は一時間後となっております。お乗り遅れのないよう、ご注意ください」

 あいかわらず、抑揚のない声だ。

 そんなアナウンスとは対照的に、目をきらきら輝かせた、二人は立ち上がる。そして、イーラは俺の左手を、サーラは俺の右手を握って引っ張ろうとしていた。

「いこいこ!」

「ユーノ!」

「わかったよ。でも、もうちょっと待とうね」

 人の流れに身を任せてこのまま降りるのは、少し危ないかもしれない。二人は、えー! と頬を膨らませたが、こればかりは俺も不安だから許してほしい。

 自分に兄弟はいないからわからないが、もしも弟や妹がいたらこんな感じなのかもしれない。さすがにこれが毎日なのは、大変かもしれないけれど。

 ようやく人の波が引いた頃に、二人に引っ張られるまま立ち上がって、数歩進む。そして立ち止まった。

「どうしたの?」

「どうしたの?」

「あ、いや。ちょっと待って」

 二人はきょとん、とこちらを見ていた。申し訳なさを感じながら俺はその手を離して座席の傍に寄せられたトランクケースを持ち上げた。想像していた中ではもっと重たかったが、意外と軽い。人気のない車内よりも、彼はもう降りている確率の方が高いだろう。余計なお世話かもしれないけれど、先ほど次の駅でも演奏すると言っていた。

「セーナのラッパ?」

「もっていってあげるの?」

「うん、忘れていってるかもだから」

「じゃあぼくももつ!」

「サラももつ!」

 さすがに子どもが持って落としたとなると責任は取れない。

「……じゃあみんなで持とうか」

 少し考えてからそう答えると二人は嬉しそうに鞄に手を添えてくれた。不思議な隊形で、動きづらさはあったが、満足そうだからきっとこれでいいのだろう。先に降りていった乗客たちの後を追うようにして、狭い通路を進み、乗降車口へと進む。

 解放されたそこを通り抜け、龍海のホームに立つと、二人は途端に鞄から手を離し、ホームを跳んで降りたかと思えばそのまま走り去ってしまう。

「あ! 二人とも待って!」

 その声は届くこともなく、彼らは前へと進んでいってしまう。このままはまずいんじゃないか? 俺も、トランクケースを両腕で抱き抱えながら、ホームのスロープを駆け降りて二人を追っていこうとした。

 道は、一本だった。分岐点はなく、工事中のトンネルのように湿っぽさを残しているが、綺麗に固められているのだろう。壁は凹凸がほぼないと言って良いほど整っていて、天井からぶら下がっているライトはおしゃれなことにランタンの形をしていた。しばらく進めば、大きなエントランスが見える。自動ドア? 透明なその入り口は、その先をほんのり見せてくれる。

 一層楽しみになってきた。そんなことを感じていながら入り口に近づくと、歓迎の意を示すかのように扉は両サイドへ開いていく。

 境界を超えてしまえば、そこは幻想的な風景に違いなかった。海の底にいる。左を見ても、上を見ても、そこは海だ。大きな水槽を、俺は見つけてしまった。いやあるいは。俺たちが、海の生き物にとっての鑑賞物なのかもしれない。そう思うほどに壮大だ。

 頭上を大きなエイが通り過ぎて、影を作る。

 まずは、あの二人と合流しなければならない。だから先に進もうとした。けれども途端に目の前の何かとぶつかってしまい、情けない声を上げてしまう。

「あっ、すみ、すいません……」

 数歩後ろに下がって、そして改めて前を捉えると、そこには見覚えしかない姿があった。

「来たんだな。気分は……その調子だと良いみたいだ」

「あ……。はい……」

 身体中に緊張が走るのがわかった。心臓が、どくん、と一鳴きする。あの人がいた。

 こんな出会い方をするとは思っていなくて、まだ心の準備ができてはいないが、しかしながらこの人に対する俺の用事も先に済ませておかなければならない。俺は、抱えていたトランクケースを彼に差し出して、そして恐る恐る口を開いた。

「あの、これ。あと、その……さっきは、ごめん。ひどいことを言ってしまった」

「わざわざ持ってきてくれたのか。後で取りに行こうと思っていたから助かったよ」

 彼は、軽々と俺からトランクケースを受け取って、それを片手にぶら下げる。その後に少し目を細めて言った。

「私は、なんとも思っていないよ。それに……きっとお前のいうことは、正しい」

 あまりにも諭すような優しいその声に、俺は思わず空になった右の拳を握った。

「俺は、あなたの言っていることも、正しいと思いました」

 人の幸せを自分の価値観で測ろうなんてそんなこと、おこがましいにもほどがある。俺は、人は生きるべきだという常識という枠で塗り固められた愚かな価値観でアカネさんのことを助けようとしていた自分が悔しくて、たまらない。

「そう。ならば僕も君も、両方正しくて、両方間違っているんだね」

 棒読み、そう聞こえた。しかし、声の調子とは裏腹に腑に落ちたように肩の力を抜いていた。色々なわだかまりがこの人との間にはあれども、とりあえずの補強くらいはできたようで俺は安心した。

 広い広い通路の真ん中で、彼と共にいれば、そこに二つの小さな人影がやってくる。

「セーナ!」

「セーナ!」

 二人で仲良く手を繋ぎながらぱたぱたと走ってきたのは、イーラとサーラだった。

「あのね」

「あのね」

「イルカさんみてきたの!」

「クジラさんもいたよ!」

「こんくらいおおきかったよ!」

「こーんなにおおきかったんだよ!」

 あいかわらず、の様子だった。その様子があまりにも微笑ましくて、俺までもが思わず笑ってしまった。小さな体を引きちぎれてしまうんじゃないかというくらいに伸ばして、目をキラキラと輝かせながら、見たものを再現しようとしている。二人の得た感動がどれくらい大きいものなのかが、いともたやすく理解できた。

「きっと、すごかったんだね」

「うん!」

「うん!」

「そうか。それは良かったじゃないか」

「よかった!」

「よかった!」

 ことばを繰り返しながら、二人は彼を囲むようにして手を繋ぎ、狭いサークルをくるくると回り始めた。楽しそうな双子とは対極で、彼はどうしたものかと困り顔をしてトランクを上に高く上げている。この光景だけを見ていると、俺とこの人よりもよっぽど兄弟だといえるんじゃないだろうか。むしろ、親子……?

「セーナ!」

「ラッパききたい!」

「やって!」

「やってやって!」

 そういえば、そうだ。

 双子は、先ほどからこの人の演奏を心待ちにしていて、きっとだからあのトランクケースも持つのを手伝ってくれたんだ。

「……しょうがない。約束したからね」

 少し、彼の言葉に間があった。俺は、そこに違和感を覚える。

「大丈夫なの」

「何がだ?」

「なんか、今は気分じゃないみたいに見えたから」

「……いや。そんなことはないよ」

 嘘だ。そんなことがあるんだよ。

 直感的にそう思った。

 小学生のときのある時を境にして、俺には、なんとなく本心じゃない言葉というのがわかるタイミングが存在するようになった。別に心理学者ではないし、本当に全部が嘘か本当かがわかるわけではない。でも、彼のこの言葉だけは、絶対に違う。そう思った。

 無理をしているんじゃないかって心配をしたくなったけれど、安易に口に出すこともできず、それよりむしろ言ってしまった時のその後が怖くなって俺は黙ることしかできなかった。

「なんだい、その顔は」

 彼は声をかけてきたが、別に答えを求めていたわけではないようでそのままトランクを持って開けた大きな水槽の前へと向かっていく。

 彼の気配に皆気付いたのだろうか。周囲に散っていた人々がだんだんとそこへ集まっていく。瞬く間にその姿は人だかりで隠されてしまって、それ以上みることは叶わない。俺は少し離れて壁際に行き、背をそこに預けて彼による小さな演奏会を味わおうとそう思った。

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