#003 音色

 駅の方へと降りる。遮るもののない空から、日光が差し込み、眩しさを感じた。日にならしてうっすらと目を開ければ、そこには解放が満ちていて吸った時に入ってくる空気がとても美味しく感じられる。

「時間がもったいないわね。リンくん、あちらの方へいきましょうか」

 そう言ってアカネさんは、正面に見える桜並木の道の方を杖で指した。桜の絨毯が敷かれているその道は、多くの人々で賑わっている。その道を通る人の頭上を守るようにアーチ型を描く桜の木々たちは、風になびいて、そよそよと葉音を立てていた。

「そうですね。いきましょう」

 俺は、足が不自由なアカネさんのペースに合わせながらホームのスロープをおり、一歩一歩を確実に踏みしめながら、その桜のトンネルへと向かう。地面を踏み締めるたびに、ふわりと柔らかい感触が、身体中に張り巡らされている神経を辿って充満していくのを感じる。ひどく心地のよい感覚であることに違いない。

 まさしく、桜の雨が降り注いでいる。地面は桃色の恵みを待ち続けてそして満ち足りたと頬を染めているように見えた。

 桜のトンネルへ。一歩足を踏み入れる。先ほどよりも日差しが遮られ、濃い桃色が目に飛び込んできた。木漏れ日が、まるで俺たちがたどるべき道を示すパン屑のようにてんてんと輝いていて、心が躍った。

「……童心に帰った気分になります」

「そうなのね、よかったわ。あんまり表情を変えないものだから、実は落胆してるんじゃないかって思ってしまったけれど」

 そういうと、アカネさんは先ほどよりも強く俺の手を握る。自分はあまり表情に出ないタイプだったのかもしれない。それともあまりにも想像を絶する光景に言葉が出なかったのが、無表情にみえたのかもしれない。実は不安にさせていたのかもしれないそのことに申し訳なさが募る。

「それは、ごめんなさい」

 しかし、そんな気持ちとは裏腹にアカネさんは、帽子で影が作られたその顔にまた優しく柔らかい笑顔を浮かべた。

「いいえ、あやまらないで。それなら、きっとご期待には添えたのかしら」

「とっても、すごく」

「そうなのね」

 この人の笑顔を見ていると、俺自身の口角も自然と上がる。嬉しくて楽しい気持ちが心のうちで無限に湧いてきて、陽光を浴びて、だんだんとぽかぽかとしてきた。

 桃色の絨毯を確実に一歩ずつ進める。右を見て、左を見て、上を見て、下を見て、正面を見る。ここにいるのは俺だけではないのに、自分だけの世界みたい落ち着く空間だ。

「リンくんは、こうやって歩くのは好き?」

「えっと、それなりには?」

「そうなのね」

「気分をリセットしたいな、とか、何も考えられないな、って時には歩きます」

 俺がそう答えると、アカネさんは少し俯いてしまう。大きな白い帽子のつばと、身長差のせいで、アカネさんの表情が全く見えなくなってしまった。

「私もね、本当は何も考えずにこうやってぼーっとしながらゆっくりと時間を浪費して歩くのが好きなの」

 何かを噛み締めるかのように、アカネさんは言った。

「でも、そんな私とは反対に夫はあまり外に出ることを好まなかったのね」

「悲しくなかったんですか?」

「悲しかったことがない、といえば嘘になるわ。何度だって誘おうと思っていたけれど、言い出せなかった回数なんて両手じゃ収まらないもの」

「その、旦那さんとは仲良くなかったんですか?」

 アカネさんの話を聞いているうち、俺は意図せずそんなことを口走っていた。ああ、やってしまった! と、慌てて口をつぐむ。

「えっと、その。答えづらいことをごめんなさい……」

「ふふ、いいのよ。実はその逆……。夫は私の話をただ聞いている時間が好きなのだと言ってね、お休みの日はよく二人で紅茶や珈琲を淹れて、とりとめのない話をしたわぁ。私にとってのかけがえのない時間……」

 そう言って顔を上げたアカネさんは、無邪気な子どものように笑っていた。アカネさんにとって、旦那さんがどれほど好きな人だったのか、という様子が聞かなくとも伝わり、溢れる家族愛に少し目が熱くなった。

「大切な、思い出なんですね」

「えぇ、そうね。夫と、子どもたちと……家族で過ごした時間は、私にとってのお守りよ。これがあればきっと何だってできる。そう思えるわぁ」

 そういうと、アカネさんは俺から手を離し、数歩さきにゆっくりと歩いて、空に手を添えた。器のように広げられた手のひらにひらりと花びらが落ちてアカネさんの手に収まるのが見える。俺はただ後ろからその姿を見守っていることしかできないままで、風に吹かれた。

「未練がないっていったらきっと嘘になる。でも、それでも……。私はこれ以上にないくらい幸せなのだから、いつ死んだって構わないって思えるのよね」

「……家族は悲しみますよ。きっと、今だって貴女が帰ってくるのを待っていると思います」

 アカネさんは、ゆっくりとこちらの方を振り返って……そしてじっとこちらの方を見つめた。

「こんなに話してしまえるなんて。もしかしたら、あなたは夫に似ているのかもしれないわね」

 それは、安心しきったような、力が抜けたかのような静かな海辺のような顔だった。しばらくそうやってアカネさんと向き合っていると、自分の未熟さを見透かされているような気がして、どくん、どくん、と心臓が強く波打つのを感じる。

 ふと、突き刺すような高音が耳に入ってくる。

 驚いて少し肩を跳ね上がらせてしまった俺と同様に、アカネさんも目を丸くしていた。どうやら聞こえるのは道の先からのようだ。春のうららかな日を想像させるこの景色と少しミスマッチな激しい音——これはトランペットの音だろうか。燃え盛る火炎に降り注ぐ雹のような、荒れ狂う金管の音色がトンネルを伝って、通り抜けていく。桜の木々もわなわなと震え始めて、ざわざわと身を擦っていた。

「なぁ! セナのラッパだ!」

「ほんとうだ! ほんとうだ!」

「早くいこ!」

 大きな声を出しながら、子ども達が脇を通り抜けていく。元気いっぱいに、桜の花びらを舞いおこしながら走り去っていき、だんだんと小さくなっていった。

「セナくん、今日はいっそう激しい音楽を披露するのね」

「いつも演奏しているんですか?」

「えぇ、彼の腕前はとてもすごいのよ。リンくんも行ってみましょう? きっとこの先だから」

「そうですね」

 アカネさんは音の鳴る方へ向き、ゆっくりとおぼつかない足取りで歩いていく。俺はその後ろを追うようにしてトンネルを進んだ。


 しばらく歩けば、人だかりが見えるようになる。どうやら音の根源はその中心からのようで、先ほどの子どもたちも、はたまた違う子どもたちも、はじゃぎながら彼を取り囲んでいた。

 アカネさんと共に中心部を目指して歩んでいくと、だんだんと彼の姿がはっきりとしていくのがわかった。両の手で支えるトランペットは陽の光を反射させて白く輝いている。風を受け、黒髪をなびかせている。砂色のトレンチコートもひらりと舞いながらゆらゆら波打っており、その堂々たる様には威厳を感じた。荒れ狂う波を望める崖の上に立っていてもなお、揺るがない偉人のような姿にも思える。

 ……俺には、そんな彼の姿がどうにも恐ろしく見えてならなかった。

「楽しそうね、みんな」

「そう、ですね」

 中三本の指と、左手の親指、小指を忙しなく動かし、大きく開かれた口から次から次へと音を紡いでいく。先ほどまでの凪のような気分がだんだんと荒波へと変わっていく感覚がどうにも俺には気持ち悪くて鳥肌がたった。しかし、周りの皆はそれすら興奮へと変えて、冷めやまない熱狂を渦を生み出している。

 知らない曲だ。有名なクラシック音楽ともちがうような気がする。あまりにも動きが忙しないモノだから目が回ってしまいそうだった。しかし、だんだんと音色に耳を傾けるうちに、トランペット特有の丸みを帯びていて優しい感覚がして、酔ってしまいそうだった。

 ふと彼を見ると、途端に目が合った。そうすると、彼は楽しそうにゆっくりと目を伏せ、ピストンバルブを押し、軽やかでしかし重さのある艶やかな高音を響かせた。先ほどまで動くことのなかったその体をマーチングバンドを体現するかのように、ステップを踏んだり、トランプのむく先を動かしたりし始める。観衆の両の手は本人たちの意思に沿ってか、それとも無意識のうちにかクラップし、リズムを生み出した。

 敷き詰められた桜の花びらが一斉に待って、嵐を起こす。それは、一種の宗教の姿のようなのかもしれない。そう感じるほどだった。

 やがてゆっくりと、波は収束していく。彼がマウスピースから口を離し、トランペットを下ろすと、一斉に拍手が起こった。演奏は、とても素晴らしいものだったと俺もそう思う。気づけば俺自身も拍手を彼に対して送っている。単なる音楽で、あそこまで心を突き刺された気持ちになったのは一体いつぶりだろうかと思ってしまうほどだ。

「セナー! もう一かいやってー!」

「セーナー!」

 無邪気な子どもたちのアンコールを求める声が、騒々しい音楽の代わりに響き渡って、どこか和やかな空気を作り出している。彼は、そんな子どもたちに微笑んではいるようであったが、トランペットをもう一度持ち上げることはなかった。

「ここでは一回だけだよ。そういう決まりなのだよ」

「えー!」

「やだー!」

「わがままを言うんじゃない。いい子だね?」

 彼は、そうしてトランペットから離した右手を一人の子どもの頭の上に乗せて、優しく撫でた。それでも不服なのだろう。その子は、頬をリスみたく膨らませて俯く。

「でも、もう一かい、ききたいんだもん……」

「それなら次の駅に着いたらもう一回吹こうじゃないか。それでいいな?」

「また、きける?」

「聞けるよ」

 そういうと子どもたちはその場で次々に喜びの声をあげて、走り回り始める。

「若い子は元気でいいわねぇ」

「そうですね」

「あらぁ、あなたもよ?」

「え……」

 冗談めかしてアカネさんが子どもたちを見守るような視線を送る。俺には到底できないような、喜びの舞とでも言うべき不思議な動きは確かに微笑ましいものだ。しかし、どうにも自分が彼らと同じ元気の枠にはまる気はせず、首を傾げる。

 彼は、そんな子どもたちに目をくれることもなく、一人で黙々と手際よくトランペットを片しているようだった。あの大きなトランクケースの中身は、トランペットだったのだと理解する。程なくして、ケースを固く閉じた彼はこちらの方へと向かって歩いてきた。

「素敵な演奏だった、と思う」

「えぇ、そうねぇ。セナくん、いつにも増してとても素敵な演奏だったわ」

「ありがとう。感想をいただけるのは素直に励みになるね」

 その人の目を見つめる。疲れが滲み出ているのか、わずかに白いその目に影がかかっているような感じがしたが、それは表に見せなかった。

「ちょっと意外だった、かも。あなたって、トランペット奏者だったんだ」

「そうか? こう見えて、物心ついた時にはトランペットを持っていたんだよ」

「……それなら、やっぱり夢はプロになることだった?」

 ほんの興味本位だった。

 しかし、俺がそう尋ねると彼は目をかっと見開く。そうして一度目を伏せたのち……いつも通りの表情になった。

「そうかもしれないが……。はならか本物になれないことはわかっていたさ。早々に諦めたよ」

 先ほどの驚き具合に比べると、普通で面白みのない返答をされる。俺は、ますます訳がわからなくなって首を傾げた、その人もまた、俺に着いての何かを推し量ろうとしたのだろうか。同じように首を傾げる。

「音楽には詳しくないけど、すごく上手だと思う」

「そうかい。どうもありがとう」

 不思議だ。

 なんて形容するべきか迷うこの人の様子。

「どうした? なにか考えことかい」

「あ、いや……」

「リンくん、調子が悪いのかしらね。先ほどからあまり顔色がよくないように見えるけれど」

 二人に同時に心配されてしまい、その状況に慣れておらず、吃ってしまう。しかし、アカネさんたちが言うほど俺は自分自身に体調の悪さは感じていない。つまりは、俺の心の持ちようなのだろう。

「……少し、なれない気候で体が追いついてないのかもしれないです」

「あらまぁ、それはそれは、ちゃんと暖かくしないと」

「大丈夫です。たぶん、すぐに慣れますから」

 俺は、アカネさんを安心させようとした。しかし、それでもなお心配を重ねられ、少し早い時間ではあるが、駅の方へと戻って一休みしようと言うようになった。

 三人で来た道を辿り、スタート地点へと向かう。

「……リンは、父親がわからないって言っていたね」

「その話、覚えてたんですか」

「あら、そんな話をしていたの?」

「こう見えて、リンは家出少年らしい」

 彼は、からかう口調でアカネさんに対し答えるが、俺にはそれを訂正しなくてはいけない気がして、慌てて口を挟んだ。

「別に家出したわけじゃ……! というか、普通に帰ろうとしてたのに、列車に乗せたのは貴方だろ」

「違うね。帰らなければならないから、帰ろうとしてただけだ。じゃなかったら、知らない大人にほいほい着いていくような真似はしないだろ」

 勝ち誇った口ぶりでそう言われてしまうものだから、何も言い返すことができなくなって俺は唇を噛むことしかできなかった。

「家族とうまくいってないのかしら?」

「そういうわけじゃ……ないんですけど」

 すると、彼は突然俺の頭を鷲掴みにして、ぐらぐらと揺らし始めた。

「本当はさ、理解してしまうのが怖いから理解しようとしないだけだろ、リン」

「理解するのが、怖い?」

「そう。よくわからない父親のことが怖いんじゃなくて、そういう未知のものを理解してしまうことが怖い。違う?」

 俺にその自覚はなかった。言われてもいまいちピンとこない。彼は、そんな俺をクスッと笑っている。

「いかにも悩んでいるね。まぁ、まだ時間はあるから考えてみるといい。ただ、俺から一つ言えるのは……」

 息を吸って、言葉を大事にし、念を押すように彼は言った。

「家族は大切にした方がいい。……失ってから初めて気づいても、遅いんだよ」

 ひどく重たい言葉だった。説得力があって、心に直接重しを乗せられるような感覚。格言、とも似ているのかもしれない。しかし、そんな考えを持ちながら彼の方をみると、どうにも空っぽで虚で、軽い。

 あぁ、わかった。

 この人を形容する言葉は、きっと「ちぐはぐ」なんだ。

 パッチワークみたいに、きりはりされて歪な存在。俺は、そんな作り物みたいな状態の彼に恐れを抱いているのかもしれない。きっとそうに違いない。これが、わかってしまうという感覚なんだ、きっと……!

 俺は、そうして足を止めてしまう。踏み固められて、土で汚れている花びらに目を向けた。遠巻きに見れば綺麗な道も、こうやってみれば、粗だらけだ。綺麗なのに、汚い。歪なもの。

「リンくん、どうしたの?」

「あ、ええと。なんでもない、です」

 アカネさんは、先ほどから、ずっと辛そうな目をこちらに向ける。心配、あるいは不安が入り混じってるようだ。対して、あの人はこちらを振り返ることもなく、我が道を行き、着実に前へと進んでいる。

「……二人とも、どうしてか苦しそうだわ」

「そんなことないですよ。俺は無論ですが、あの人だってそんなそぶり」

「よくみてごらんなさい。あなたも、セナくんも意外とわかりやすいものよ。何かを抱えていることなんて、丸わかり。その何かが何なのかは、教えてくれるわけがないのだけれどね」

 アカネさんは、あまりにも不自然に口角を上げて俺の方へ向き直る。

「それとも、リンくんは、教えてくれるのかしら。……ほんの冗談よ、そんなに困った顔しないで?」

「すみません」

「いいの、謝らないで」

 きっぱりと、そう言い切られる。どうしてだろう、どうしてあの人だけでなく今となってはアカネさんまでもこんなに不安定に感じられるのだろう。穏やかさは、柔らかさは、不安定だとでもいうのかもしれない。影が作られているその顔に、何かを潜ませているような気がした。

「ねぇ、何かは……何だと思う?」

 あまりにも弱々しい声でそう尋ねられるものだから、俺はそれに返答していいものなのか少し考えてしまった。しかし、しばらく見つめられているうちに答えを求められていると感じ、ふと頭に浮かんだ言葉を言うことにする。

「大切な、何かを失った。とか」

「……そう、そうね。そうなのかもしれないわね」

 その神妙な顔で、何を考えているんだろう。

 思い詰めているみたいだった。しかし、俺にはそれ以上立ち入ることもできず、アカネさんに「行きましょう」と言われるがままに後ろを追いかけることしかできなかった。あんなにも心揺さぶられた桜の木々が、今や呪いのように手を引いているようで、だんだんと足取りが重たく、重たくなっていく。

 行きはあんなにも清々しい気分だったはずなんだけど。

 心臓が激しく波打っているのが、感じられるほどだ。


 ようやく辿り着いた駅には、多くの人がいた。次々に列車へと乗り込んでいき、綺麗に片付けられた部屋みたいながらりとした空間が目の前に広がる。大きな駅のホームと比べるとこじんまりとしていて最低限といったそのホームには、もう先に辿り着いていたあの人と、アカネさんと俺しかいなかった。

「そろそろ時間だね。乗ろうか」

「わかった。今行く。アカネさん、大丈夫ですか?」

 俺は、アカネさんがそうしてくれた時と同じように、手を差し出して待った。程なくして手が重ねられて、そのままゆっくりと力を加減して列車の乗降車口の方へと引こうとした。

「……どうしたんですか? アカネさん?」

 しかし、何も答えず、じっと黙り込んだまま、アカネさんは俺の手を掴んで離そうともせず、動こうともしてくれない。問いに答えが返ってくることもなく、アカネさんは、静かに口を開いた。

「もう十分ね、私。これ以上、何かを求める必要なんてきっとないんだわ」

 右手に持っていた杖は、虚しいことにからん、と音を立てて、床に落ちてしまう。

「はやく、乗りましょう。発車時刻が近づいているんです」

 顔を覗き込んで、説得を試みる。しかし、死に際のように穏やかに薄く笑った笑顔のままでアカネさんはそれ以上動こうとはしなかった。

「リンくん。……いいえ、凛太郎」

 はっきりと、そう言っていた。

「私は、もう十分。十分すぎるほどに幸せで……未練がないって言ったら嘘になるけど、これ以上生きていてもきっと未練を重ねるだけね。だから、後悔はもうないわ。私は、幸せだった」

「アカネさん、何を言ってるんですか。早く、行きましょう、アカネさん」

 意味深長な過去形で話すアカネさんの姿に耳も、目も疑って、何かがおかしいと、俺は必死にアカネさんを呼んだ。そうして、静かに瞼を落として、持ち上げると、そこにはこれまで見ていたアカネさんの姿はなかった。

 綺麗な艶のある長い黒髪の女性。結われていたはずの髪はいつの間にやら解けてしまい、花びらとともに風で舞っている。可憐で麗しい若い女性の姿がそこにあった。

「ここで、お別れね。……最後にあなたと会えてよかった」

 先ほどまでの乾いた声とは違う、綺麗で潤いのある若い声で、それでもハープの音色のようだった。列車のアナウンスよりも、はっきりと俺の耳に吸い込まれていく音にばかり意識が向いて、彼女の言葉の意味を理解できない。

「リン……! 早く来い!」

 あの人が、そう呼びかけるとともに俺の手を引いていく。その拍子にアカネさんの手が離れてしまう。

「アカネさん……! アカネさん!」

 戻ろうとしても、それ以上の力で引っ張られて、取り残されたアカネさんの元へ戻ることは叶わなかった。だというのに、アカネさんは、満開の桜を思わせるような、心からの、本当の笑顔を見せて、小さく手を振っている。白い帽子に、白いワンピースが、別れを告げるかのようにひらひらと揺れていた。

 勢いよく引っ張られて俺は列車に乗り込む。伸ばした手は、閉じられた戸によって遮られてしまいそれ以上伸ばすことができなかった。

「こんな別れって……!」

 彼女が静かに目を伏せていくのを最後にして、その姿は、深い深い闇へとさらわれていってしまった。

 俺が、一体どう言うことなのか! と訴える気持ちであの人を見上げると、ひどく冷たい目とあった。無慈悲で残酷だった。

「彼女が望んで選んだ最後だろう。ならそれでいいじゃないか」

 冷たかった。

 周囲一帯を凍らせてしまうんじゃないかってくらいだった。俺は、立ち上がって衝動的に彼の胸ぐらを掴んでしまう。我ながら、愚かな行為だ。

「どうしてそんなに無情になれるんだよ……!」

 この距離で見れば、彼の目には、はっきりと影がかかっている。先ほどまでは満月のように白かったその目は、少しかけているみたいだった。光が当てられていない。

 彼は、鼻で笑ってそして言った。

「本人の選択に、他人が、口を、出せるとでも?」

 そうして、先ほどとは打って変わってピエロのようにちぐはぐでわざとらしい笑みを浮かべる。

「優しいんだね、凛太郎」

 言い捨てた後は、俺の手を振り解いて、そのまま客室へと歩いていってしまう。取り残されてしまった俺は、直ぐに戻ることもできないまま、一面真っ黒な乗降車口の車窓を見ていることしかできなかった。

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