桜桃
#002 車窓
圏外、と書かれたスマートフォンを閉じてポケットにしまい込む。母からの通知の履歴を見ないふりしていっそいないものとでも扱ってくれ、と願いながら窓によりかかった。規則正しく揺れ動く列車に身をゆだねていれば、まるでゆりかごのようで瞼が重たくなってくる。不思議なことに手あか一つもついていなかった窓に目をやれば、何もないただ真っ暗な世界が広がっている。時折見えるオレンジ色のトンネル照明が速さに応じて線となり、これまでの道筋を描いているようだった。
車掌すらやってこないこの列車。本来であれば、違和感だらけであると思われる。しかし、いたってどこにでもあるような列車なのだ。乗っている人々も、幽霊や化け物のような類ではなく、確かにそこに存在している人だ。違和感がないことが違和感、というのが正しいのかもしれない。イヤフォンのコードを指でいじりながらできるだけその人と目を合わせないようにしよう、したい、しよう、と思った。
「お前、ひどい反応をするね」
「なにが?」
「こっちのほうなんかちっとも見てくれないだろ」
「べつに」
普段、あんなにも家に帰りたくないと願っている身でありながら、今日ばかりは家に帰れるかを心配している自分が嫌だと感じている。思わずため息をついた。
「窓の外なんてトンネルの壁しかないよ。無理やり連れてきたのは謝るから、許せよ」
「許してもらう態度ではないよね」
「ぐるりと巡った後は元の場所に戻れるんから、安心してほしいね」
「検討はするよ」
彼は、困った少年だね君は、と苦笑する。
「存在すら不思議な列車だろう。君の琴線に引っかからないかなと思ってね」
ローカル線を走る列車のボックス席のようなこの空間は、解放されているのにこの人と二人きりの空間に座らせているようで気が休まるとはいえない。だが反対に体は正直だ。一日中働かせた脳の動きは静かになりたいと望み、ずきずきと痛む。体のいたるところに鉛をつけられたようだ。俺はいったい、ここで何をしたいんだろう。どうして、どうしてあの時、あの手を無理やりにでも拒まなかったのだろう。
「バカみたいだ、ほんと」
「いいじゃないか、馬鹿みたいなことをしたって。だれも君を咎めやしないよ」
そういう問題じゃない。少し睨みつけてみるが、またにこりと笑みを返してくるだけだ。
満月の目からまた目を逸らし窓の外を見るふりをする。
「お前は、家と何かあったのか」
「……どうしてそう思うのかわからない」
「母親かな、携帯の画面に連絡が来てただろ」
「覗き見たってこと」
「見えちゃったんだよ、しょうがないじゃないか」
音楽を嗜んでいる紳士のように優雅な面持ちで、足を組み、そこに優しく手を添えている。そこに威圧感はない。全反射する窓越しにその人の方を観察してみれば、心の余裕のようなものを感じた。
「あなたは未知のものが怖くないの」
「未知のもの?」
「俺は、父親がわからない。わからなくて怖いんだ」
「腹の内ではなに考えてるかわからないってことか。まあ、わからなくはない」
見ている姿は、姿勢よく椅子に座り文明の中で一つだけ異彩を放つパソコンと向き合っている姿か、縁側に腰をかけながら分厚い本を開き、一枚一枚を丁寧に目で舐めて嗜むものばかりだ。庭の景色が桃色で満ちようとも、蝉の鳴く音が飛び交おうとも、木々がすっかり化粧をして色とりどりになろうとも、冷たい匂いが差し込むようになって床板が氷のようになろうとも、父の姿はほとんど変わらない。
いつからだろう、俺がそんな父を尊敬や憧れの対象から、恐怖の対象としてしまったのは。
「あなたは父と会うべきだった、こんな俺よりもよっぽど」
「それを決めるのは僕であってお前ではない」
「なにが面白くて俺なんかに話しかけたんだ」
「さあ、なんでだろう。お前となら友達になれると思ったからかな。……そんな顔をしないでくれよ、ちょっと傷つくな」
世界を一層美しく、そして醜く捉えられる父であれば、彼にもこの列車自体にもきっと好意や興味をもって接していたことだろうと思う。あえて口にはしないが、俺はこの人と友人になれるとは一ミリたりともおもっていない。本当は今すぐにだって帰りたい気持ちなのだ。
「あら、セナくんね?」
ふと、ハープを奏でるように、穏やかで高い女性の声が聞こえてきた。
彼は小さく手を挙げて声の主と目を合わせているようだ。声がする方を見てみる。そして少し懐かしいような感覚を覚えた。大きなつばの白い帽子の下からは皺のよった優しい垂れ目が覗く。爽やかな白色のワンピースの袖からは木の幹のように年季の入ったか弱い手が伸びており、その手は杖を優しく包み込んでいた。
「やあ、久しぶりに会うね」
「そうかしらぁ……。歳のせいか久しぶりに感じないわね」
するとその老女は次に俺の方へと視線を向けて、微笑んだ。
「見かけないお客さんだこと。セナくん、こちらの方は?」
俺は、彼の方を見た。すると少し悩んだように手を顎に当てた後に、怪しく笑いかけてくる。
「この子? そうだね、リン、とでも呼んでおくといいさ」
読んでおくといいさ、ってどう言う意味なんだよ……!
心の内でそう叫びたい欲がふつふつと湧いてきたが、それを見越したようにその人は、何も言うな、といいたげに睨みつけてくる。
「そうなのね、リンくん。私はアカネよ、よろしくね」
「はぁ……よろしくお願いします、アカネさん」
「話が落ち着いたなら、座ったらどうだい?」
「よいの? 二人旅のお邪魔にならない?」
アカネさんは気を使ってくれるようにそう言ってくれたのだろうが、こっちとしてはむしろ二人きりのあまりにも居心地の悪いことに辟易していた頃だ。むしろいてくれた方が助かる。と、思ってはいたが、うまく声に出すこともできず、俯くことしかできなかった。
「まぁ、ご覧の通りかなりのシャイな性格のようだから、話が弾まないのだよ」
「あらあら……。そうなのね、ではお言葉に甘えて失礼しちゃおうかしら」
アカネさんはそう声をかけると、よっこらしょ、という掛け声と共に俺の隣の空いている席へと座った。どうして俺の隣なのかと少し疑問に思ったが、彼の隣には荷物が置いてあるからしてここに座るほかなかったのだろうと納得する。だけれど、すこし、人が隣にいる状態には緊張してしまう。そうして、やり場をなくした俺の目は自ずと真っ暗な車窓へと向いていた。
「もう少しで、見えてくる頃よね」
「ああ、そうだね。見えてくる頃だろうよ」
「ふふ、楽しみだわぁ……あれが見たくてこの列車に乗っているといっても過言ではないもの」
「そういう人も決して少なくはないだろう」
窓に反射する光景からしても、彼らが僕の後ろ姿を視界に収めたままに、僕と同じように窓の外へと視線を向けていることがわかった。しかし、彼らのいう何かが少し気にかかる。少しだけ座席の方へと向き直り、恐る恐る聞いてみることにした。
「見えるって、何がですか?」
「この先にある桜の森、かしら?」
「桜の森?」
「もしかして……いいえ。もしかしなくとも、リンくん、あなたこの列車に乗るのが初めてどころか、今日この列車の存在を知ったわね?」
アカネさんは、少し驚いたように尋ねてきたので、俺はそれに頷いた。
「そう……。なら、きっとこの先の光景は一生モノの思い出になると思うわよ」
すると、アカネさんは皺だらけのその手を俺の手へと重ねてくる。あまりにも弱々しくて触れたら意図も容易く壊れてしまいそうなその手に俺は振り払うこともできないまま、拳を握ることしかできなかった。
「楽しみにしていろ。もうすぐ、本当にもうすぐだ」
彼が、俺にそう説いてから数秒の出来事だった。
背後から空気が抜けるような、風を切るような音が聞こえて、俺は、横目に窓を見た。
そして、その先にあった光景に目を疑ってしまった。
目の前に広がるのは、一面の白色と桃色。地面の緑すら覆い被さってしまうほど花びらで満ち満ちている。花びらのプールだ。綺麗、なんて薄っぺらい言葉では言い尽くせないほどの圧巻の景色だ。木から風によって虚しくも離れてゆく桜の花びらは、空に舞い、そして落ちていく。一枚、数枚だけではない。何枚も、何十枚も、何百枚も、何千枚も、何万枚も……とても目視では数え切れないほどの桜吹雪だ……!
たぶん、生えているのは一種類ではないだろう。日本中……あるいは世界中? あらゆる桜の種類を寄せ集めて、そしてそこに存在していると嘘をつかれてもきっと信じてしまうだろう。澄んだそらの濃い水色とのコントラストを描き出している。
「すっかり、桜の虜ね、リンくん」
「それはそれは見事なまでの桜の森だろう。ここまでぎっしりと桜が詰め込まれている様はそう見れたモノじゃないだろうし」
ところどころで見える幹の色は、少し頼りなく思えるほどだった。身に余るいっぱいの桜を抱えてなお、そこに立ち尽くしている。
「ここは……ここでは、春なんですか?」
「いいえ?」
「いいや」
「春じゃないんですか?」
俺が二人にそう尋ねると、二人は顔を見合わせた後に、くす、と一笑いして何かを企んでいるような、あるいは楽しんでいるように口角をあげる。
「今は、秋だ」
「なら、どうして桜がこんなにも咲いているの。そもそもここは……どこなの」
どれだけ列車がすすめども、そこには桜が在り続けている。ここはもしや日本ではないところなのか? いや、そんなに遠くまではいっていないだろうし、距離的にはそんなに離れていないはず。でも、この列車は『極楽行き』の列車だといっていた。もしかすると僕が知っている世界とははるかに離れたところなのかもしれない。
「まあ、全てを説明するには少し時間が欲しいところだけれどね。この列車は各駅停車だ。終点の『極楽駅』に到達するまでには、四つの駅に停車することになる。その一つ目の駅が……」
「次に止まる『
彼は、少し苦笑いしたのちに、一応言っておくと、とこの場所についても話してくれた。曰く、ここはもう『現世』とは少し離れたところに存在する世界だ、とのこと。
「一年中、咲き続ける……」
俺は、アカネさんの言った言葉について考えた。確かにこの景色は、素晴らしい景色だと思う。目に焼きついて、忘れさせてくれないほどの見事な風景。写真には収まりきらないほどの魅力。でも、俺にはそれが少し寂しいもののように感じた。
桜が散るからこそ、そこで出来たいろんな人々との思い出を、その光景を決して忘れまいとして、一年後を楽しみに、その希望を根拠に過ごすことができるものではないのかな。
「散らない花は、なにか、むなしくならないの」
「散る方が虚しくならないか? 桜が散るのは、悲しいだろう」
俺がバカだったのかもしれない。桜が散るのは、悲しい。でも、だからこそそこに……なにか心にもやがかかるような気がしたが、それは口にはしなかった。
「……そう」
「こうしてやり取りを見ていると……。二人は兄弟のようね」
「どこをどう見てそう思うんだい、アカネ」
「あら……大人になったお兄ちゃんと、ちょっと反抗期の弟くんみたいな感じじゃなくって? うちにも、男の子が三人いたけれど、それを思い出してしまうわねぇ」
この人と兄弟なんて、それはごめんだ……! ずっとこんな気持ちで過ごさなきゃいけないのは、気が休まらないに決まっている。でも、そんな俺の気持ちすら見透かしたように、アカネさんは、優しく微笑んだまま、目尻に皺を寄せて見つめ続けてくる。
俺には、それが少し怖いようにも思えた。
「ところで、二人は桜桃駅に降りる予定はなくって?」
「……リン次第、といった感じだな。私は」
「降りてしまうの」
「一時間の停車時間があるんだよ。その時間、駅周辺くらいは歩くことが許されてる」
「乗っている人の多くは降りて、生の桜を堪能していると思うわぁ」
詳細はどうであれ、桜を目と鼻の先で見ることができるというのは、興味があった。子どもっぽい好奇心、というものに基づいた動機であることに恥ずかしさを覚えたが、ここで取り繕ったところで何にもならないだろうから……。
「なら、見てみたい、かも」
「ええ、それがいいわ。窓ガラス越しに見るのと本物を見るのとじゃあとても差があるもの!」
アカネさんはそういうとパチン、と両手を胸の前で合わせて、子どもらしく無邪気に笑っていた。少し照れ臭さを覚えた。頬が、熱を持っているような気がする。
程なくして、列車は緩やかにブレーキがかけられている。一定のリズムで響いていた車輪の音も、間隔がだんだんとゆっくりになっていった。やがて列車は甲高い声を上げる。
どこから響いているのかもわからない車掌らしき人に寄せた機械の声が車内に響き、それに呼応するように乗客たちは降りて行く。
「桜桃駅、桜桃駅……。ご乗車ありがとうございます。お降りの際はお足元にご注意ください。なお、次の発射時刻は一時間後となっております。お乗り遅れのないよう、ご注意ください」
無防備にも荷物を置きっぱなしにしたまま、そこから人の姿はだんだんとなくなっていく。
「俺たちもそろそろ降りよう」
「そうね、早くいきましょ。ほら、リンくんも」
「……はい」
彼は、もう後ろを振り返ることはなく、乗降車口へと歩いていく。
俺は、杖をつきながらこちらへ伸ばされたアカネさんの手をしばらく見る。このまま無視することに抵抗があった俺は、やむを得ずにその手に自分の手を重ねた。
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