午前0時の0番ホーム
夜明朝子
午前0時の0番ホーム
#001 待合
わずかにひんやりとした空気が頬をかすめた。人気のない薄暗い無人駅のホームには頼りない赤色の椅子が置いてあるばかりだ。今にも切れてしまいそうな蛍光灯に虫がたかっている。明るさを求めているのか、それとも温かさを求めているのか、それはわからない。しかし俺にはそれが気持ち悪くて仕方がなかった。暗い。暗いのに、明るい色ばかりが存在している。不思議な感覚だった。
終電はもうなかった。重い腰をどうにか持ち上げながら乗り込んでは見たものの、重たく苦しい空気に耐えかねて適当な駅で降りてしまったらしい。家に帰ることもできないまま、そこに座り込んで真っ暗闇を見ている。何しているんだろう。もうどうでもよくなってきた。
はじめこそ家に帰らなくてはというような使命感に駆られていたが、今では一ミリたりともその気持ちが起きない。目的もなく聞いていた音楽の出る先、スマートフォンを見ればそこにはもう午前零時が近づこうとしていた。母から、何百件もの通知と着信履歴が残っている。少し憂鬱になった。
午前0時の0番ホームには、極楽行の列車がくる。
有名らしい噂話だった。どうしてこんなことを思い出したのだろう。
クラスの誰かが何かの都市伝説サイトから拾ってきた話を声高に披露していた光景が脳裏によみがえる。あまり詳しくは聞いていなかったから、その後にどんな話が続いていたのかはわからないが、なぜか今の俺が置かれている状態と強く結びついてしまった。ばかばかしい、と独り言をつぶやいた。イヤフォンのコードを指で巻いて遊びながら目を閉じて耳から流れるポップスへと意識を移そうとする。
「……のか……」
うっすらと、人の声が聞こえてきた。音楽から聞こえたものだとは到底考えられず、イヤフォンを取って今度はそちらに耳を傾けてみる。誰もいない? 静かな風の音がするくらいだと思っていた。すると、わたあめのようにふんわりとした、もてなされるような優しい声がするりと摩擦を感じないほど滑らかに入ってくる。
「聞いてるのかな。お前は家に帰らないのかい」
なんでこんな時間に人が。そう考えるよりも先に体が声の聞こえる後ろの方を向いていた。
「え、誰……」
「親が心配してるんじゃないのか」
目にかかる前髪から覗く白い月のような眼に、目を奪われる。吸い込まれそうなくらいきれいだ。夜風になびかれている黒髪は、蛍光灯に照らされて、やんわりと天使の輪を作っている。
「どうしたんだい。鳩が豆鉄砲食ったような顔をして」
「どうして、こんなところに?」
「それは私の台詞だよ少年」
砂色のトレンチコートが、風でなびいていた。いかにも旅行者という身なりのその男の人は、やれやれと困り顔をしている。大きなトランクケースを軽々と持ちながら立つその人の存在が見た目よりももっと大きいような気がして威圧感を感じた。硬いコンクリートの上を踊るように革靴で踏みながら、くるりと椅子の横を通って、俺の隣へと座りこんだ。
「どうして帰らないの。家に」
横目でその人の方を見てみる。なんてきれいな人なんだろうか、と呆然と眺めていた。いろいろな感情が心の中でぐるぐると目を回している。胸のあたりが気持ち悪くもあったが、しかし、どうしてかそれをすべて吐き出してしまいたいような気持がしていた。
「その姿、学生……高校生だね。こんな時間に外に出歩いたらだめだろう」
「そんなの、別に、あなたには関係ありませんよね」
「ふつう、じゃないね。お前」
くつくつと喉を鳴らして、その人は笑った。これまで感じていたプラスの感情が一瞬で冷え切っていく。なんだか少し腹立たしくなって、俺は強く言葉を吐いた。
「じゃあ、ふつうって何ですか」
「そんな怒らないでくれよ。ふつう、って言葉を使ってみたかっただけなのだから」
じじじ、と蛍光灯が鳴る音が耳をかすめた。足の先に広がる黄色い線が光に照らされて生き物のように波打ったように見える。ぽとりと一匹の峩々こちらの方へと向かってきた。すると、隣の男の人は気持ち悪くとも、か弱いその命を一切の躊躇なくたたき落とした。
「大方、あらゆることに嫌気がさした、とかか?」
「まあ、そんな感じ、です」
「いいよ、無理にかしこまらなくとも」
「ふつう、じゃない」
「ふつうじゃなくてもいいんだよ」
首元をすっぽりと覆うニット地のタートルネックは、この時期にしては少し厚着のようにも感じた。寒いとはいえど、冬というほど寒いわけでもない。昼間ならまだ温かいし、夜でもそんなに着込むほどだろうか? 自分の服装を見てしまえば、それに対して何か言えるわけでもないが。
「それならお前……いっそ死んでしまってみるかい?」
男は、長い前髪の合間から満月のように白んだ眼でこちらを凝視した。薄い桃色の唇が静かに弧を描く。陶器のように白い肌は、死人のようにも見えて不気味だったが、そのおかげか一層彼の色が映えた。
ああ、吸い込まれる。心地よくて、気持ち悪くなる。
「え……」
「冗談、だ」
「ああ……」
「だが、全くの嘘というわけでもあるまい」
強い語調だった。きっぱりとナイフを刺すように言葉を吐き捨てて、その人はその場から立ち上がり、何もないはずの、後ろ側へと向かっていった。
「そっちには、なにもな……」
何もないんじゃないか、開きかけた口は、唖然として閉じることがなかった。耳を指すような汽笛とともに、勢いよく空気が吹き荒れる。目の前には、黄色い線の上に立つその人の姿があった。先ほどまではただの何もないホームの裏側だったその場所に、新しいホーム(、、、)が存在している。それだけではない。俺とこの人の他、誰もいなかったはずのそこに、老若男女様々の人々が並んでいる。奇妙な光景と言うほかない。ふと上を見上げる。そこには紺色で縁取られたひし形の板の中に「0」という記号が書かれている。存在しない、してはいけないはずの幻のホーム、これが「0番ホーム」なのか?
「言い方を変えよう。君は、極楽を知りたくないか」
何もかもが俺には新しすぎる。頭の中で蛇がとぐろを巻いている。ゆったりと細められたその人の目は三日月の形をしている。戸が開かれた列車に次々と人は乗り込んでいく。その口に吸い込まれていったのだ。
「無言は肯定とみなしていいかな。ほら、おいでよ。乗り遅れるよ」
大きなトランクケースをまたも軽々と持ち上げて、その人は俺の手を取った。そしてこちらの反応なんぞ気にすることもなく、吸い込まれるようにその列車へと飛び乗った。俺もまた軽く跳ね飛びながら、汽笛を鳴らして閉まり始める戸を寸前で回避する。
がこん、という鈍い音が背後で聞こえた。心臓が激しく鳴り響いて、血液が全身を循環する感覚が分かってしまうほどだ。火照る体表とは逆に、体の芯は冷え切っているのを感じる。頬を伝う汗がぽたりと落ちた。風を切る轟音とともに、周囲が暗くなって、オレンジ色の明かりで包まれた。
もう、取り返しがつかない。
「ようこそ、極楽行きの列車旅、どうか楽しんでおくれ」
「あなたは、いったい、誰、なんですか」
するり、と口からはみ出した言葉を、その人は横髪を耳にかけて微笑みながら受け取る。
「セナだ。ここではそう呼ばれている」
そうじゃない、と心で返してみる。
何もかもが、普通じゃない。
「よろしく、ユノリンタロウ」
今、この瞬間に全知全能の神が存在しているのなら、どうか答えてください。俺は、今、正常に動くことができていますか? 目に映るものがすべて別のものに見えてしまう病にでもかかってはいませんか。
目の前のこの人は、いったい何者だというのですか。
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