15
「ぬぅ……。まさかの事態じゃな」
ヴァルカンは喉を唸らせながら目を眇める。
すでに遊び相手は遙かの暗闇へと消え去り、その影も形も捕捉できない。
かつての弟子に邪魔されてしまった。端的に言って虫の居所が悪い。
「逃がしたとて、彼奴を足止めするための布石は幾重にも打ってある。が、儂個人としては手痛い失態じゃの」
じぃっと睨む先、当の弟子もまたヴァルカンを前にしてその名にふさわしい烈火の怒りを胸に灯す。その拳に嵌めた紅玉色の指輪が、その意志と呼応するように燦然ときらめいた。
「じじい、こいつは一体全体どういう了見だ? フィーネの子守が任務だったんだろ?」
「その役目はとうに済んだことだ。であれば、残すはレフィクール様の悲願を成就を願うのみ。そして、ただ祈るにあらず、できることはなんでもする、というのが至上命令でな」
ヴァルカンが高らかに歌いあげる。
「……止めてくれるなよ。もはやこの世界に救いはないのだ。なればこそ理想郷へ旅立ち、人類は今一度、新たな神のもとでやり直す他ない。一つを極めるべく粉骨砕身したその身なら分かるであろう?」
「知らねぇよ、そんなの。分かりたくもない」
「世のため人のため、幾多の武器を鍛えた。鍛冶を以て世界に期待した。じゃが、その結末がこれだ。人類に期待などできん。神能なぞあるべきではなかった。我々は間違えた。その過ちが産み出した悲劇なのじゃよ、この世界は。そう思わんんか?」
「あんたの勝手な思い違いを押しつけるんじゃねぇよ。くっだらねぇ、なにが過ちだよ。なにが悲劇だよ。そんなの、あんたが勝手に絶望して、都合のいいもんに縋り付いてるだけだろうがよっ!? 目ぇ覚ませよっ!!」
「この世界の有りようが絶望でないとしたらなんだ? ただ無為に繰り返される一ヶ月が絶望でないとしたらなんと形容すればいいっ!? この呪われた輪廻を断ち切る術を持つレフィクール様こそが唯一の救いだ。それを理解せぬお主には心底がっかりじゃよ。せめてここで楽になれ。師として、できるだけ苦しめずに送ってやろう。理想郷へと出立する贄として、できる限りの救いをくれてやろうぞ」
「いつまでも弟子だって見くびってると痛い目に遭うぜ、このロートル風情がっ!!」
《神能発動:ギリシャ神話――
レッカが振るった腕、その軌跡から溢れ出る火炎流がヴァルカンに襲いかかる。
だが、ヴァルカンもまた杖で地面を叩くと、
《神能発動:ギリシャ神話――
白銀をきらめかせて顕現した大盾があっさりと火炎流を受け止め、
《神能発動:ギリシャ神話――万機の鍛冶――
同時、顕現させた大鎌を振るった。
間髪入れずの神能二連発現。息もつかせぬ早業に、レッカは瞠目する。
そこに動揺を見て取ったヴァルカンがほくそ笑んだ。
「躱せるか?」
「――っ、舐めるなっ!!」
《神能発動:ギリシャ神話――叡智の焔を盗んだ賢人――
がきぃ、と劈く音が鳴り響き、大鎌の切っ先が溶ける。
予期せぬ結果にヴァルカンは瞠目した。
「……神が振るった鎌をも溶かすか。なるほど、しばらく見ない間に少しは骨のある鍛冶屋になったということか」
「……その態度が気に食わないんだ。あたしのことをなにも分かっちゃいなくせに、見透かしたつもりでいやがる」
レッカが吐き捨てる。
ヴァルカンのもとで鍛冶の修行をしたのは五年と少し。乳臭い餓鬼だった頃から仕込まれた鍛冶の技術と、生来からの才能をいかんなく発揮したレッカは、わずか五年――十七歳で師の腕を越えてしまった。
根に持たれているのは知っていた。
嫉妬されていることも分かっていた。
ただ、それは仕方のないことだった。そう見られても仕方がないものだと割り切っていたから辛くはなかった。
けれど。
「捨て子だったあたしは、あんたに拾われて捨てられた。それを忘れはしない。捨てられてからは必死だった。生きるために、身につけた技術でなんとか食いつないできた。ただそれだけで一杯一杯だった。他のことなんて眼中になかった。ましてあんたの語る戯れ言に興味なんてないんだよ。神なんざ信じない。いたんだったら、孤児になるわけないんだから」
救われたいなら、自分で救うしかないのだ、と。
そんな当たり前のことすら口にしなければならないのか、と。
「そんな程度のこともわかんないのかよっ!!」
レッカが怒りを込めて灼熱を叩きつけた。
津波の如く迫る苛烈な炎を、ヴァルカンは杖の一振りで切り払い、霧散させる。
「……なんと、嘆かわしい。お主は勘違いをしておる。類い稀な才能を持ちながら、なんともったいない。それありようこそ絶望だろう。お主ほどの腕があれば、なんとでも生きていけるものを、こうして宝の持ち腐れとしてしまっている事実こそ、救いようがない」
「魚の釣り方を教えてくれなかったこと、いまでも恨んでるよ、あたしは」
「なんとも矮小な恨みだ。儂がお主に抱いた激情と比べれば、なんて小さい……」
憐れみの表情を浮かべてヴァルカンが杖を振るう。
次々と虚空から産み出される大鎌を、レッカは万物を溶かす焔で焼き払う。荒れ狂い激突する神能が産み出す熱波に、周囲のアスファルトが拉げて原型をなくしていく。
「才能はあれど志はなく、崇高な技術を宿した腕をただ日銭を稼ぐためだけに振るったというのか……。やはり、レフィクール様の仰る通りだ。現世には救いをもたらす真なる神など存在しない。才能は、あるべき場所にあらねばらなん」
「なにを言っているの……」
「生涯を費やして築きあげた鍛冶の腕をたった数年で追い越される、その絶望と嫉妬など想像もできぬであろう。非凡な才能は多くの民にただただ虚無感を突きつける。報われぬ努力など意味など為さぬ。未成年の腕前に劣る老いぼれなど、誰も興味なぞ示さん。お主に地位も名誉も踏みにじられ、儂は己が運命を呪った。天才があるがために消費される人生など無価値だろう。我こそが唯一の価値を持つ存在でありたいと願った。そして、レフィクール様に理想郷へ誘われることとなったのだ。あそこならすべての願いが叶うのだっ!!」
「……宗教にはまっていく人間は大体がそうよね。情けないったらありゃしない。反吐が出るわ。あんたにも、白装束の輩にも」
「レフィクール様を愚弄するでないっ!!」
ヴァルカンは訥々と語り、両腕を高々と掲げた。
その瞳は滂沱の涙に濡れ、嗄れた声は感極まって震えている。
「彼こそが、この世界の現人神だっ!! 我の功績を賞賛し、新たなる世界の礎としてくれることを誓ってくれた!! 理想郷は選んだのだっ!! 才能のうえに胡座を掻き、その技能を徒に費やすお主ではなく、この儂をっ!!」
「……得体の知れない宗教ってのは末恐ろしいね。見るに堪えない。世迷い言も大概にしておきなよ、師匠。そろそろ本気であんたを正気に戻したくなってくるからさ」
「……ここまで彼の崇高さを語っても届かぬか。理想教はお主が虚仮にしてよいものではない。この世界の永遠輪廻を終わらせ、唯一の救いである理想郷を顕現させることのできる、ただ一つの崇高な教えであるぞ!!」
「そんな大層な教えに殉じる面々が揃いも揃って人攫いってのは、なにかの冗談?」
レッカの貶すような問いかけに、ヴァルカンは首を振った。
「……大義のためならば多少の犠牲はやむを得まい。それもまたこの世にはびこる残酷な真理だ」
「ごめん、師匠。やっぱ全然理解できないわ。必要な犠牲って、なに?」
「……不可解じゃな。人を殺すための道具を売り捌いて日銭を稼ぐその口で、誘拐を悪であると断罪するのはあまりにも善悪の判断が主観に過ぎる。しかしなぜだ? あの小娘はお主となんのつながりもあるまい?」
「そんなの、あたしの勝手。手を差し伸べる理由はないかもしれないけれど、目の前で困ってる誰かを見過ごせるほどのうのうと生きてないの」
「いくら言葉を交わしても堂々巡りじゃな」
「それはこっちの台詞。いまさらなに悟った顔してやがるんだ。主義も正義もひとそれぞれだろ。そもそも、端から通じ合う信念も矜恃もなかったろうがっ!!」
叫ぶとともにレッカが腕を振るった。
《神能発動:ギリシャ神話――叡智の焔を盗んだ賢人――
刹那、中空で焔が炸裂し、ヴァルカンを火の海に沈める。
だが、ヴァルカンは海すらも切り裂く。
焔の濁流がヴァルカンを避けるように流れ、彼の背後はすべてが紅蓮に染まった。
「そうじゃな……、お主とは、わかり合える道理などなかったな」
「はじめからそう言ってる!!」
《神能発動:ギリシャ神話――叡智の焔を盗んだ賢人――
「だからこうして、すれ違ったままぶつかり合うしかないのかの……」
《神能発動:ギリシャ神話――万機の鍛冶――
)》
ヴァルカンはわずかに嘆息すると、杖を振り回して無数の雷を呼び寄せた。
灼熱を飲み込みながら、けたたましい雷霆が荒れ狂う。
両者の神能はほぼ互角。焔と雷の衝突に、周囲の草木は荒れ狂い、地面はめくり上がってコンクリートの破片が宙を舞う。軒を連ねる商店のガラス戸は粉々に砕け、惨憺たる有様だ。
「……こいつは、参った。まさか相殺されるとはの」
やがて焔と雷が収まり、一帯には地獄と呼ぶに相応しい焦土だけが残る。
まさに互角。
「なぜここまで儂にたてつく。あの小娘のためにここまでできるものなのか? ……いや、そうか、そういうことか。くくっ、くはははははははははっ!!」
一つの真理を見つけたかのように、ヴァルカンが気の抜けたような笑い声を漏らす。
「気味が悪い。なに笑ってやがる」
「いや……これはなんとも滑稽じゃない。お主、あの男のために身体を張っておるのか。なるほどのう、所詮は乙女だったということか」
「……だったら悪いのかよ、じじい」
「いいや、結構だとも。誰かの為に武器を取る、その弱さを未だ知らぬな、若輩」
「あんたは違うの? レフィクールのためとやらじゃないなら、なに?」
「己のためだ。戦など、その本質はどこまでも己が信念と矜恃のためでしかあるまいよ」
「……ふぅん。そう。やっぱりあたしには分からないや。そんなものないから」
「……ならばこれも先達の役目じゃ。最期の手向けに、絶望をくれてやろうっ!!」
高らかにそう宣言し、ヴァルカンは両腕で握りしめた杖を思い切り地面へ叩きつけた。
《神能完全解放:ギリシャ神話――万機の鍛冶――
ヴァルカンが幾度となく杖を地に叩く。
それを合図に。
焦土に転がっていた青銅の鐘が、
拉げた大金槌が、
打ち棄てられた数多の刀が、
切っ先を溶かされ用を為さなくなったはずの大鎌が、
そして、ありとあらゆる武具が真新しく生まれ変わり、組み合わさって一塊の巨人を組み上げる。
「……お主に、こやつを止められるか」
それは、殺戮兵器と呼ぶに相応しい異形。すべてを抹消せんとする願望の具現。
「なんて悪趣味でちっぽけな絶望だこと」
「これが、儂が到達した鍛冶の果て。ただ殲滅のために創り上げた神造兵器。お主にこれを越えられるか」
「…………舐めるな」
レッカは静かな憤怒をその双眸に灯す。
ヴァルカンは大きな間違いを犯した。
それは巡り巡ってレッカの存在意義すら貶す、最低最悪の所業だ。
その事実に気付くこともなく、ただただ己の不甲斐なさを愛弟子にぶつけている。
それが赦せなかった。
己をただ無辜であると信じて疑わず、努力や献身は報われて然るべきと願って止まず、そんな弱い心に付け入った存在を救世主と崇め奉る。
縋るように救いを求めている存在を前にして、レッカには微塵も救ってやろうという気が起きなかった。
若き才能に嫉妬し、敗北した事実だけは変えようがない。
けれど、そこから先はすべて己の所業が呼び寄せた悲惨な結末でしかない。
結局は生き様の問題なのだ。
「どこまでも自分勝手なあんたなんて、もう師匠でもなんでもない」
残酷なまでに冷めて、覚めて、醒めた思考で眼前の老人をどこか憐れみながら、レッカは右腕で虚空をなぞる。その弧は円を結ぶと、燐光を帯び、拡散していく。
「――あたしの前から、消えてくれ」
《神能発動:ギリシャ神話――叡智の焔を盗んだ賢人――
光円から無数の巨大なマスケット銃が次々と顕現しては弾丸を放ち、迫り来る殺戮兵器に鉛玉の驟雨をぶち込んでいく。
「はははっ、その程度の攻撃で永久機関を壊せると思ったか」
圧倒敵な質量の凶器を前に、ヴァルカンは哄笑しながら杖を振るう。
意志を持つような動きを見せる殺戮兵器は止まらない。鉛玉に刃を削られ、拉げて曲がりながら、それでもなお、レッカを切り刻まんと刃を振るう。
だが。
それがどうした。
その程度なのか。
かつて師匠と慕った、その実力は。
そう叫んでしまいたいほどに、その刃は錆び付いている。
「ヴァルカン爺。あんたはあたしに敵わない。どうあがいたって、指一本すら切り落とすことなんてできない」
「……この期に及んで減らず口を叩くか。銃などという、人を殺めることしかできぬ代物で儂の殺戮兵器をどうにかできると本当に思っておるのか」
「……そうね、そういえばあんたは銃という兵器を酷く嫌っていた。殺すことしか能のないものだと吐いて捨てていた。けれど――」
もう、敵ではない。ただ、動くだけの的だ。
レッカの鼻先を殺戮兵器の剣閃が掠める。
だが。そこまでだ。
それ以上は届かない。
彼我の距離は埋まらない。
「――銃ってのはね、だからこそ、その一撃に願いを込める」
軽薄で淡白で薄っぺらい男が貫く信念を知っている。
もう二度と大切なものを失わぬように。
守ると決めた存在を絶対に手放さないように。
放つ弾丸に想いを込めていることを知っている。
その信念に惹かれ、尊いと感じた。
だから――あたしは。
あたしも、また。
そうありたいと願うことのなにがおかしい?
その生き様に恋い焦がれることを滑稽などとは言わせない。
「あたしたちは、引き金に掛けた指先にありったけの祈りを込めるのよ」
焦土に撃発が轟く。途切れることのない轟音は標的を際限なく叩き続ける。
数百、数千の祈りを乗せた鈍重な叫喚が、眼前の威容を削り、穿ち、屠る。
死者を永遠に弔うように焔が舞う。
「馬鹿、な……」
殺戮兵器が削れ、壊れていく。響く鋼の叫喚は焰に飲まれ、悲鳴のように戦場に散っていく。
刀を、鎌を、盾を、ヴァルカンの全身全霊を食い破った弾丸が、いよいよヴァルカンの五体すら引きちぎった。
「か、はっ…………」
ヴァルカンが、己の快作とともに頽れる。
原型を留めない神造兵器は、それでもなお立ちはだかり、弾幕に蹂躙され続ける。
いつかの頃にも襲われた感情と同じだ。
弟子が師を超える瞬間に味わう、あの劣情。屈辱。
そして。
もう、敵わない。才能を前に、凡人の努力は無意味だと思い知らされる。
そんな諦念。
まさか再び突きつけられるとは思ってもみなかった。
老いぼれて久しい心を挫くには充分すぎた。
「は、は……」
四肢がちぎれ飛び、身体が瞬く間に蜂の巣になっていく。
吹き飛ぶように地べたを転がったヴァルカンは、ただただ虚しさを吐き出すように笑うしかなかった。
大見得を切ってこのざまか。
結局自分はどこまでも脆弱だった。
いずれにしても、雌雄は決した。
ずっと、何万ヶ月も先送りにしてきた優劣を、つけてしまった。
「ま、さか……愛弟子に、こうも…………蹂躙されるとは、な……」
「誰が愛弟子だ。嫉妬に狂ってあたしを捨てたあんたが口にしていいもんじゃない」
荒れ果てた戦場に広がっていく紅を踏みにじりながら、レッカが千の銃口を突きつける。
「やはり……天才には…………敵わぬ、か……」
「そうやってあたしがなんの努力もしてこなかったって決めつけた時点で、あたしに勝つ道理なんてなかったんだ。
言い返せなかった。
すべてが事実で、否定しようのない過去だったから。
「あたしはずっと誰かのために鍛冶を続けた。師匠と決定的に違ったのは、あたしは与え続けて、与えられ続けてきたことだ。師匠はどうだった? ただの一度を願い、けれど、その願いはこれだけ生きてもまだ一度だって成就したことなんてなかったんだろ?」
弟子の呟きが心を抉る。
「錆び付いた手で鍛えた武器こそなんの価値も産み出さない――師匠が教えてくれたことだったんだけどね」
「…………っ」
どこまでも浅はかだったことを思い知る。
己の信念を受け継いだ弟子に、そんなことを言われてしまうようでは、もう。
「少しくらい自惚れたかったんだけどね」
――弟子として、愛されていたことを。
「…………は、はは」
ヴァルカンは小さく、そして自嘲するように乾いた笑みを浮かべて。
「無念、だ」
「――っ」
レッカは感情を殺し、引き金を引いた。
「……何遍も言わせないでよ。それだって、こっちの台詞だよ」
あまりにも呆気ない結末に、なんの感慨も浮かんでこない。
ためらいなく脳天に鉛玉をぶち込んだレッカだって、師匠に対する温情など欠片も残っていない。
けれど、やっぱり。
無念、だなんて。
どこまでも自分本位で身勝手な感情など、知りたくなかった。
「……馬鹿馬鹿しい」
溜息が溢れる。
絶命した亡骸はもう、返事をしない。
「偉そうなことをほざいておきながら、結局、どこまで言葉を尽くしても届かないんだ」
去来する虚無感から目を背けるように、レッカは空を見上げ。
懐から久々に煙草を取り出し、徐に煙を吸い込み。
「……こいつが終わったら、ロックを追いかけるか」
硝煙で霞がかった視界の先、蒼穹を衝かんと大樹から伸びる光芒をみて目を眇めた。
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