11
(……確か、この辺りだったはずだ)
塔都神宮砦の中央部まで潜ってきたダインは、声を殺して物陰に身を隠していた。白装束の集団や害獣の包囲網をかいくぐってきたその身はあちこちが薄汚れてしまっている。
道中、数え切れないほどの動物と人間を殺めたが、それでも、過去の経験と比較しても驚くほど遭遇率は低かった。そのことが逆に、まるで九龍城の中央へと踏み込むことを歓迎しているかのようでもあった。
背筋を怖気が終始這いずり回っている。異様な雰囲気がねばつくようにまとわりついてくる。宗教にのめり込んだ連中が産み出す、常軌を逸する神聖で純粋な狂気――それが、あちこちでとぐろを巻いている。
辿り着いた中央部は、かつて天皇を祀っていた神聖な領域だ。いまはその拠点を西へと移してしまったが、その権威は不変である。
だが、塔都理想教会が支配するようになって以降、教会のトップであり、神の堕とし子であり天使の一柱とも呼ばれるレフィクールを奉る場所へと、その性質を変えてしまっている。国としても教徒の排除を企図していたが、九龍城に住まう何百万の命を人質に取られているがゆえ、迂闊に手を出すこともできない状況が続いていた。
そこへ発生した『
久しぶりにやってきた中央部の様子は相も変わらずだった。
大樹の周囲には二つの建物――聖堂と礼拝堂があるのみで、いまは人影もない。静謐を保つ空間は不穏さと不気味さを孕んでいて、とてもじゃないが長居をする気分にはなれない。
低草の生い茂る一帯を素早く通過し、まずは聖堂へ。扉は鍵で頑丈に封鎖されていて、びくりともしない。銃で錠を壊すか後まわしにするか少し悩み、断念する。発砲音で教徒を呼び寄せてしまったら面倒だ。調べる価値があるとすれば屋根の上につり下がる黄金の鐘くらいだが、身を隠せるスペースのない高所もまたリスクが多い。
(なら、あとは礼拝堂か……)
以前にここまで潜り込んだときはかなりの数の教徒が熱心に祈りを捧げていたが、いまはもぬけの殻。これなら際限なく物色できそうだと踏んで、ダインは警戒心を保ちながら目に付いた教卓へ足音を殺して近づく。
「……これは」
そこに置かれていたのは一冊の小さな書籍だった。
「聖書か?」
ぱらぱらと中身をめくってみる。そこには思わず見とれてしまいそうになる精巧な絵画と、その絵を意味を表のようなものが書き連ねてあるようだった。
「……さっと読んだくらいじゃあさすがに解読はできないか。まぁいい、折角だ、いただくことにしよう」
書物を懐にしまい込んだダインは物色を再開する。
だが、教卓を除けば他にめぼしい備品もない。
ダインの意識は自然と神木へと向いた。
「…………それにしても、本当に大きいな」
いまや世界でもっとも大きな木として知られる一本だ。天皇家の永遠を誓って植えられたとされるものだが、いまとなってはその使命を果たすこともなく無為に生かされている代物。
根元まで近づき、顔を上げる。太陽の恩恵を全身で受け止めるべく張り巡らされた新緑は、夜天に瞬く星の瞬きの一つだって地上へ漏らさんと頭上を覆い尽くす。その生命力は未だに健在らしかった。
「…………あれは」
視界を巡らしていると、ある一点におかしなものがあった。目をこらす。黄金に輝く球状の物体は、形状からして林檎そのもの。
「……果物か?」
馬鹿な、とダインは自らの眼を疑う。
この大樹が果実を実らせるなど、聞いたことがない。文献にもなかった。天皇家が管理していた時期にも観測されていない。
それが、どうしてこんなときに。
「綺麗だろう、その果実」
「――っ!!」
唐突な声がダインの鼓膜を叩いた。即座に反応する。
咄嗟にその場に身を伏せ、同時に数発の弾丸を撃ち放った。
だが、それらは対象の頬を掠るだけ。威嚇と牽制を前にして、標的は悠然とした所作で両手をひらきダインの来訪を出迎えた。
「……おや、これは随分なご挨拶じゃないか」
鈍い銀色の髪をたなびかせながら、白装束に身を包んだ赤目の青年が薄ら笑みを浮かべて会釈をしてみせる。敵意はない、と嘯くような仕草に、ダインはいっそう警戒心を強めた。
「そちらが足音の一つも立てずに背後を取るのがいけないんですよ。撃てと言っているようなものじゃないですか」
「なんとも悲しいな。長い時間をかけて、きみは随分と野蛮な世界に浸ってしまったようだね。僕らの文化にそのような暗黙の了解は存在しない。独りよがりなルールを持ち込まないでくれたまえよ」
「…………何者ですか、あなたは」
「名乗らずとも、きみはすぐに思い出す。なにせ、きみは元々、僕らの同胞なのだから」
「なにを言っている? 同胞? 冗談もよしてくれ。仲間になった覚えなんてこれっぽっちだってありはしない」
「記憶がないのは当たり前。なにせ、その記憶に鍵をしたのは僕だからね。けれど、機は熟した。ゆえに、もはやその鍵を掛けたままにしておく必要はなくなった。だから僕がこうして解錠するため出迎えにあがったのさ。ここにくるまで僕らの同胞が妙に大人しかったろう? 皆、歓迎しているのさ。きみが戻ってくるのをね」
「黙れっ!? なに馬鹿なことを言っているんだ!!」
世迷い言を重ねる標的へダインは警戒を強め、ゆっくりと後退する。
(まさか、この僕がここまで怖じ気付くとは……)
病的なまでの白い顔に浮かぶ微笑みから感情の色を読み取れない。場違いなほど無防備でいながら、付け入る隙もない。銃口を向けられ、命の危機に晒されているというのに、どこか泰然とした態度から滲み出る不気味さ。本当に同じ人間なのかと錯覚してしまうそうな存在だった。
果たしてこの弾丸で、その身体を撃ち抜けるはずがないと、そう確信してしまいそうになるような異様な気配。
(なんだ、こいつ……。なんで僕はこうも警戒している? 優位に立っているのは僕だ。ここで怖じ気づいてどうする……っ)
込み上げてくる恐怖心を振り払うように、ダインは震える声を押し殺して再び誰何する。
「……名乗れ」
「礼儀がなっていないね。問う前にみずから名乗れと教わらなかったかい」
「生憎と行儀のいい振る舞いをしつけられるような生まれじゃないんだ」
「それは残念だ。まぁ、僕は当然、きみのことを知っているのだけれどね。異能殺しのダイン。折角戻ってきたんだ。ゆっくりと話をしようじゃないか」
「っ――動くなっ!! 近づけば撃つっ!!」
ダインは震える両腕を震わせながら吠えた。
「僕の姿を見たり多少は正体を明かせば封印が緩むと思ったんだけど。どうやら本当に
「……っ、くるなと言っているだろうっ!!」
「いいや、近づくさ。だって、そうしないときみ、なにも思い出さないだろう?」
そう言いながら、一切の躊躇いなく青年がダインとの距離を詰める。
「記憶を復活させるのは脳に相当な負担がかかるから、少しくらいは自力でその封印をこじ開けてほしいんだよね」
「く、くるなっ!!」
「なら、その銃で僕を殺してみるかい? ひっぴり腰のきみは引き金を引く――」
「っ――!!」
《神能発動:ギリシャ神話――神殺しの始祖――神喰い》
ダインもまた、宣告どおり無慈悲に撃発した。
だが。
「――……ふむ。まともに喰らってみるのは久しぶりだ。なかなかクるものがあるね」
「なっ――」
銃弾を胸元へまともに喰らった青年は軽くよろめくだけだった。身体から吹き出るはずの血潮はなく、ただ黒い穴が開いて、その周囲がぽろぽろと剥がれおちる。「ああ、これはしまったな」と痛痒など感じていない風に弾創を擦ると、暗がりの覗く穴はみるみる塞がっていった。
神能を殺せばただの人。ただの人間なら、心臓に銃弾をぶち込まれて生きていられるはずがない。
神能は殺したはずだ。
なら、目の前の青年はなんだ?
「僕は文字通り死なない。この世界の物理法則では死ねないんだ。老いることもなければ殺されることもない。物理的に死なないという意味では概念的な存在に近いのかもしれないね。まぁ、ここに実在はするのだけれど」
「なにを、言っている?」
「それともう一つ。きみはいま神能を使ったろう? ぼくの記憶が正しければ、それは神能を打ち消すという希有なものだったはずだ。だが、残念ながら僕に満足な効果は望めない。なにせ僕のこの力は神能ではないからね。生まれからして人ならざる存在に、神能は通用しない。存在の格と次元がそもそも異なるんだよ」
「…………化物め」
「だから無防備になってしまうのも仕方がないんだ。この世界における僕のあり方は死と無縁。故に、きみに僕をどうにかできる力はない」
「くっ……」
ダインは今度こそ己の危機を悟る。
長居も対峙も意味を為さない。脳裏を過ぎるは撤退の選択肢のみ。
即座に判断し、踵を返して元来た道へ戻ろうとした、その刹那、
「レフィクール様に手を出したお前を、そう易々と逃がすと思うか」
「――っ!? が、はっ――」
ダインの身体中から鮮血が噴き出した。
「な、に……っ!?」
なにも見えなかった。目の前の青年は指の一本すら動かしていない。
まるで矢に撃ち抜かれたような鋭い痛みに耐えきれず、ダインはその場に頽れた。
そして、閉じていた聖堂の扉が開き、そこから一人の男が現れる。
「――……あまり無茶をされては困ります。レフィクール様」
「あれ、なんだ。もう終わったのかい、アポロ」
「ええ。これもレフィクール様が助言くださったおかげです」
「やはり手際がいいな、きみは。思ったよりも解錠の準備が早くて助かった。もう少し遅れていたら、僕は危うく蜂の巣だったよ」
「だから準備が終わるまでは待たれよと進言したのです。率先して彼を出迎えようとするその心意気には敬意を表しますが、もう少しご自身をお労りください。いくら御身が天使のそれといえども、痛々しい姿を見れば我が心は悲痛に噎び泣いてしまいます……」
アポロと呼ばれた青年が、レフィクールの隣に並び、ダインを睥睨した。
「く、そっ……」
地に伏せたダインが口から血を吐いて、レフィクールとアポロを睨み付ける。
「随分と無様な姿ですね、ダイン。帰りを心待ちにしていましたが、やはり長い歳月の経過とともにその性分もまた荒れ果ててしまったようだ」
「お前も、僕の、名前、を……どう、してだ……!?」
「記憶の鍵はしっかり掛かっていたようでなによりです。茶番もここまでとしましょう。はっきりと思い出していただきますよ。その使命と共に、ね」
アポロは両手を広げ、謳うように言葉を紡ぎ出す。
「《此処に、終末は間もなく成就する。新たなる神に傅きし教徒よ。己が命を理想郷へ捧げし者よ。覚醒せよ――》」
「一体、なに、を……――っ、あ、が、ああ――」
突如、ダインが頭を抱え、悲鳴を上げる。
脳天をかち割るような痛み。
天地がひっくり返るような錯覚と酩酊感。
暗転と明滅を繰り返す瞼の裏で、覚えのない映像が津波のように襲いかかる。
いや、覚えている。思い出す。これは――
「《忘らるる記憶を呼び覚まし、その魂に刻まれし使命を果たせ。是は、天命であり、神託である――》」
「あ、ああああああああああああああっ――――」
知っている。
それはダインが自ら封印していたもの。
決別して、葬り去ったはずの過去。来たるべき未来のために鍵をかけていたはずの記憶と使命。
それらがダインの思考や人格すらをも塗りつぶすほどの容量で脳裏に襲いかかり。
「《捧げよ。すべてを。血を、肉を、心を。そして、魂を。新たなる神に献上せよ――》」
「が、あああああああああああああああああああっ!!」
長い長い絶叫が唐突に途切れ、
「《
「――っ」
許容量を超えた脳が強制的にダインの意識を落とした。
死体のように転がる侵入者に、アポロが柔らかな声で告げる。
「ここに神託は下った。貴様は貴様の為すべきことを成せ」
――教徒の一人としてな。
意識を失う寸前、ダインが耳にしたのは、そんな冷徹な命令だった。
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