(9)
時を同じくして。
渋谷九龍城の最奥。
かつては天皇を祭神として奉っていた神社があったと言われて久しい庭園では、寿命数千年の神木と見紛うほどの大樹が野天に向かってその枝葉を伸ばし、月光を受けて数多の夜露を滴らせていた。その背丈はゆうに百メートルを越え、年を通して新緑を実らせるその奇跡と神々しさから、渋谷九龍城の住民にとっては礼拝の対象になっている。
だが、その大樹を直に拝むことができるのは、白装束に身を包んだ集団だけだ。
こここそは、塔都理想教会の根城であり、総本山。
大樹の根元には大樹を挟んで対になるように二つの建物があった。
一つは黄金の鐘が吊され、一部の者のみ立入りが許された聖堂。
もう一つは、大樹の恩恵を賜るために天井を取っ払った礼拝堂。
そこに、白装束を血で染めた二十あまりの集団が平服していた。
頭を垂れるその先、円形の壇の上では、月光に照らされた一人の青年が大樹に祈りを捧げている。
「――神託である」
青年は腰元まで伸ばした銀髪を緩く結い、その天辺に月桂樹でできた冠を被っていた。平服する集団と同じ白装束を身に纏いながらも、その背に施された瀟洒な刺繍から、塔都理想教会の意志を束ねる存在であることが窺える。
「この周期を以て、機は完熟する。理想郷への道は開かれ、新たなる創世が紡がれる」
謳うように紡がれる言葉。その声は清らかでありながら、他者の心を引きつける妖艶さを滲ませる。
まさに神託の代弁者。
その声に心を掌握され、理想教会へ入信した者は数知れない。
「理想郷への道を握るは、はじまりの人間の遺伝子。あるいは、その力を有する者だ」
訥々と告げられる神託を、白装束らは微動だにせず拝聴する。
……否。
恐れ戦き、けれど反駁する道がないがゆえに絶望していた。
跪く信徒は皆、これから遂行される儀式を熟知している。だからこそ、心を無にし、虚空へと祈る他なかった。
どうか、望まぬ神託が下らぬように、と。
「――今宵、神託は新たに下された。このアポロが、ここに新たな神託を告げる」
祈りを捧げていた青年――アポロは、閉じていた双眸を開いた。
白銀の髪の隙間から覗く薄青色に宿る感情を排し、抑揚のない声音で告げる。
「はじまりの人間の回収という使命を受けながら、一縷の成果もないままに夜を迎えた。これから行われるはその償いであり、罰だ。理想郷へ至るために、その血で原罪を洗い流し続ける必要があることは周知のとおりである。彼女であれば血の一滴で足りたことだが、結果としてここに彼女は存在しない。諸君らは、その意味を理解しているな」
返事はない。
否定もない。
招集された全員が、その宿命を理解している。
ゆえに、指の一本さへ動かせない白装束どもは、生唾を飲み込むことがせいぜいだ。
「二十。それが今宵、大樹へ捧げなければならない数だ」
「……昼間、私たちが殺めた同士の血では、駄目……なのですか?」
震えるような声音で白装束の一人がそう漏らした。
「愚問だな」
泣き腫らしたような女の声に、アポロは憐れみの目を向ける。
「意味合いが異なる。彼らは聖抜に選ばれた。聖抜のために流れた血は、すでにその役目を終えている。贄となった同胞は輪廻の楔を断ち、新たな創世を刮目する使命を負い、理想郷へと出立した。現世に二度と戻れぬ定めを躊躇うことなく受け入れた。この地獄にしがみついた諸君らとは魂の在り方が異なる。流した血の価値はまるで異なる。理解しろ。この場にいる者全員が、時の牢獄と化した現世での生に執着した。ゆえにこそ、だ。現世で果たさねばならぬ使命すら真っ当に果たせなかった、その意味を理解しろ。貴公らのような能なしの同胞に残された道はただ一つだ」
アポロが右手を振り上げた。
「……お許しをっ。必ずや、使命を果たしますゆえ、いま一度、寛大なる大赦を――」
「懇願に意味はなく、価値はない。そしてまた、神託に慈悲はない。大樹の贄となれ」
《神能発動:ギリシャ神話――アポロン――
平伏していた白装束たちが、不可視の弓矢に穿たれ、一瞬のうちに絶命した。
最期の瞬間まで、如何なる現象によってその心臓を貫かれたのか理解もできないまま、信者たちは事切れた身体を大地へ放り出す。
大樹の根が張り巡る大地へ広がりはじめる紅を睥睨しながら、アポロは遺骸に向けて再び不可視の弓矢を放った。絶命した五体がちぎれ、そこかしこに臓腑が散らばる。
尊厳を踏みにじる非道だが、この場に彼を批難できるものなどただの一人も存在しない。
大樹の注ぐ血を大地に吸わせたところで、アポロは再び円形の壇へと戻った。
そこへ。
「…………首尾はどうだい、アポロ」
鈴のように凛と響く声がして。
大樹の向こう側から現れた人影に、アポロは静かに傅いた。
「此度は申し訳ございません。神託のとおり同胞へ命じましたが、例の少女はいまだ捕まらず。ヴァルカンを筆頭とした部隊を新たに編成し、さきほど捜索人員を補充しました」
「……そう、か」
中性的な声に、喜怒哀楽のなにも宿らない。
月光と見紛うほどの銀髪を煌めかせ、死人のように白い肌を夜の月の下に晒す若者は、いましがたアポロが処理した白装束らに紅玉色の瞳を向けた。
「急ぐ必要はない。居場所は判明しているのだろう?」
「……例のよろず屋に匿われているようです。明日にはすぐに――」
「急ぐ必要はない、そう言ったよ。大樹に捧げる贄には十分な余裕がある。早きに越したことはないけれど、機が熟すのを待たないとならないのは変わらない。その間はどうしても手持ち無沙汰になってしまうからね」
「……っ、これは出過ぎた真似を。申し訳ありません、レフィクール様。重々承知しておりますが、多くの信徒は機の完熟を知っている状況。ゆえにはやる気持ちを抑えきれないのも事実でございます」
「そりゃあそうか。いや、分かっているのならいいんだ」
微笑を浮かべて、レフィクールと呼ばれた青年は続ける。
「禁断の果実が熟れるころにすべてが整っていればいいのだから、焦る必要はない。そもそも、私たちの同胞にあの二人組を相手取る力などありはしない。きみかヴァルカンでもなければ太刀打ちできやしないだろうに。どのみちすでに種は撒かれているのだから、神託の示すとおりに手筈を進めるよ」
「この不手際は遅からず私めが始末をつけましょう」
「結果が伴えば、過程などすべては些事だ」
「なんとも寛大な御心、恐縮の至りでございます」
レフィクールは神木に咲き誇る白い花を仰ぎ見る。
「……して、アポロよ。彼を出迎える準備はできているか?」
「ええ。こちらは予定どおりに。すでにあちらも算段を立てている頃合いでしょう」
「ならばいい。彼は気兼ねなく迎え入れてやれ。役割を思い出させる必要があるからね。差配は任せるよ」
「仰せの通りに。では、私めは儀式の後始末をしますゆえ」
「……僕はしばらくここで瞑想をしていくことにするよ」
「承知しました。それでは、また明日に」
《神能発動:ギリシャ神話――アポロン――金糸の傀儡》
アポロが指揮者のように両手を振るうと、腕や臓腑を欠損した死骸たちが一斉に起き上がり、幽鬼のような足取りで礼拝堂から散っていく。やがて失血死した遺体として、九龍城内部で人知れず処理されるだろう。
すでに使命を果たし尽くした有機物に用途はない。蛆や蝿の餌になるのがせいぜいだ。
アポロが去り、静まりかえった礼拝堂で、レフィクールは瞑想を終える。
そして、その口元を歪ませ、両手で顔を覆った。
「――……く、くくっ――」
堪えきれないとばかりに漏れ出す黒い感情が哄笑となって神聖なる領域に谺する。
「終末はまもなく成就する。あと少しで、理想郷の創世に必要となる因子はすべて揃う。悲願まであと少しだ……ははっ、あはははははははははははははっ!!」
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