8

 疲れが溜まっていたのだろう、ナポリタンを平らげたフィーネはそのあとすぐに意識を落としてしまった。ソファーに身体を沈めたまま、安らかな顔をして、静かな寝息をたてている。

 後片付けを終えたロックがブラックコーヒーを煎れて一息ついていると、悄然とした様子でダインが戻ってきた。


「……おう、戻ったか」

「こんな役目、引き受けなければよかった。とんだ大誤算です。まさかあんなに白装束がいるとはね。今日だけで三桁は殺しましたよ。どいつもこいつも本当に理想郷とやらを信じているんですか。ふざけてますよ、まったく……」

「巻き込んで悪かった。手間をかけさせちまったな」

「仕方ないことだと割り切っているのでもういいです。ですが、義兄さんのお節介に巻き込まれる身も考えてください。それで、例の彼女はどうしたんです?」

「ほら、そこ。ソファーでぐっすり眠ってるよ。いろんな奴らに追っかけ回されて疲れてたみたいだ。ベッドに移そうとも思ったんだが、あまりにも気持ちよさそうにしてるから今日はここで寝かせることにした」

「そうですか」

「寝顔、見てみるか? きっと驚くぜ?」

「いまさら他人の顔を見て驚くやつがありますか。僕ら、ざっと五千年も生きているんですよ。パーツが欠けたものから潰れて原型を留めていない顔まで、ごまんと見てきた」

「……まぁ、見てみろって」

「ちょっと……っ、これ、お気に入りのジャケットなんです、引っ張らないでください。しつこいですね……わかりました、見ればいいんでしょう、見ればっ!!」


 ジャケットを脱ぎ、「まったく……」と目を眇めてフィーネの寝顔を覗き込むダイン。

 ソファーの背もたれに手をかけ、彼女を覗き込んだまま、唖然としたように固まった。


「………………………………え、なっ」


 たたらを踏んだダインは、そのまま腰を抜かしたように尻餅をついた。

 見開かれた双眸に浮かぶ動揺は計り知れない。


「な、んで…………そんな…………っ!!」


 声にならない悲鳴のようだった。

 いまにも泣き出しそうな顔をして、小さく首を左右に振る。


「こいつは……、冗談、でしょう…………っ」

「名前はフィーネリアというらしい。フィーネと呼んでくれ、だってさ。名前以外の記憶はないんだと。お前とおんなじだ」


「…………嘘だ」

「嘘じゃねぇよ」


「彼女は、イヴだ」


 それはどこか、そうであってほしいと懇願するような響きが宿っていた。


「そいつは幻想だ」

「だって、こんな……あり得ない、ですよ。そっくり、なんてもんじゃない……」

「気持ちはわかるが、フィーネ、なんだよ。イヴじゃねぇ。どれだけ外見が似ていようが、死人は戻らない。神能もそれを許してはくれなかった。世界の絶対法則だ。死者が蘇るなんて、それこそあり得ねぇ。天使の施しも、神の恵みも、死に戻りだけは許さなかったんだからな」

「そんな絶対なんて存在しませんよ……。現に、時間という流れが延々と同じ一ヶ月を繰り返しているんです。四次元法則すら滅茶苦茶な世界で故人が息を吹き返すことくらい、わけないでしょう。世界の物理法則なんてとっくのとうに壊れてしまっているんだから」

「世の中には自分と姿形がそっくりな人間が三人いるって言うだろ?」

「だからって、泣きぼくろの位置までまったく一緒なんてあり得ない!!」


「そうかもしれねぇ。けど、彼女はイヴじゃねぇ。これは厳然たる事実だ。俺もお前も見ただろうが。イヴの死体を」

「…………っ」


 ぎりっ、と奥歯を噛みしめる音が聞こえるようだった。


 よろよろと立ち上がったダインはフィーネが眠るソファーから離れ、こめかみを押さえるようにして寝室へ。着の身着のままベッドへ倒れ込んだ。


 疲労困憊しているところへ、この情報量だ。明日の我が身に任せたい気持ちはロックにも理解できる。だが、このまま寝かせるつもりもない。


 考えなければならないことは山積している。


「イヴのことは話した。服を貸しただけなのに、申し訳ないだなんて謝ってきてな」

「……あんたって人は、とことん最悪ですね。なんですか。僕へのあてつけですか」

「釘を刺してんだよ。間違ってもイヴって呼ぶなよ」

「……明日、我慢すればいいことでしょう。それくらいだったら――」

「記憶喪失の女の子をほっぽり出すのか? それも、やつらに追われているってのに」

「冗談はよしてください。彼女、ここに暮らすってことですかっ!?」

「この状態のフィーネをほっぽり出すほうがよっぽど冗談だろ。明日になったらハイサヨナラ、あとは塔都でお好きに強く生きろってか。野垂れ死ね、ってか。それともなんだ。捕まって、強姦されようが奴隷にされようが構わないってか。お前、いつからそんな薄情になっちまったんだよ」

「考えなしの義兄さんに言われたくはないですね。次の一ヶ月はどうするつもりですか。身寄りがない、そして奴らから追われているということは、普通の生活なんて望めない。そんな彼女をまた保護するんですか? 会える保証すらないのに。そうやって延々、その繰り返しをするってこと、理解しているんですか? 責任を持つというのはそういうことですよ」

「彼女をどうするかはこれから考えるさ。まずは落ち着ける場所を与えてやるのが一番だし、そうしたら次はなんでフィーネが追われているか解明する。それで原因……いや、この場合は彼女を狙う奴らをどうにかする」

「……思考レベルが小学生ですか。ここは無期懲役も死刑も意味がなくなった世界なんですよ。私刑でどうにかできると本当に思っているんですか」

「だから、これからちゃんと考えるって言って――」

「だからじゃないでしょう!!」


 ロックが宥めるような口調が苛立たしくなり、ダインはベッドに拳を打ち付けた。


「そもそもフィーネさんを人身売買しようとしていた連中だって、以前にあなたが痛めつけたのに犯罪を繰り返したんですよ!? 後先考えず、中途半端に手を差し伸べて、いま僕の前で言ったことを完遂できる根拠があるんですかっ!? 下手に与えられた希望が絶望に変わる瞬間……これが、もっとも堪えるんですよ、人間はっ!!」

「落ち着け、ダイン。たしかにお前が言うとおり、この一ヶ月を乗り切ったあとのことはまだ考えてない。そいつは事実だよ」

「だったら――」

「けどな、目の前で困ってる誰かを平気で見捨てるほど落ちぶれたつもりもねぇんだよ。それに、フィーネを狙ってる奴らは白装束を束ねるイカれた宗教団体だ。あいつらの目的さえ知ることができれば対処ができるかもしれねぇ」

「…………まさか、やつらを相手取るつもりですか」


 ほとんど閉じかけだったダインの双眸が見開かれた。


「ああ」


 ロックは厳かな面持ちで頷いた。


 腹の内を探る相手など、もはや互いに確認するまでもない。


 この閉じた世界で最大の信徒を構成する。教祖レフィクールを頂点とする白装束集団。



 その正式名称を、塔都理想教会といい。



 ロックとダインにとっては、切っても切れぬ因縁のある組織だった。

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