7

 無事に事務所まで辿り着いたロックは、すぐにフィーネを風呂へ入れ、その間に諸々の準備を済ませることにした。


 久しく目に触れていなかった女物の衣類を引っ張り出し、湯を沸かし、チェストに立てかけた遺影をそっと自分の服が仕舞ってある箪笥に隠す。どうしても捨てることができなかった実妹の遺品が、まさかこんな風に実用的な役立ち方をするとは夢にも思わなかった。


「あのぉ、すいません」


 イヴに纏わる小物の整理をしていると、風呂場から困ったような声が聞こえてきた。


「トリートメントは、ないんでしょうか」


 ひょこっと顔を覗かせるフィーネが繰り返す。濡れそぼった金髪から滴る水滴がぴたぴたと音を立てて床に水たまりを溜めていた。


「……男二人住まいなんだ。今日は我慢してくれ」

「あ、そうでしたね……すみません。ご厄介になっているのに、わがままを……」

「いや、構わない。タオルと替えの服を置いておく。自由に使ってくれ」

「ありがとうございます」


 しばらくするとシャワーの音に混じって鼻歌が聞こえてくるようになった。


「……似ているな」


 耳を澄まして聞いているだけで荒んだ心が洗われるようだった。


「そういやぁ、イヴも好きだったな」


 機嫌のいいときに聞かせてくれたイヴの歌声が好きだった。ロックがギターを鳴らし、ダインは興味がないふりをして小難しい小説を読みながら耳をそばだてていたあの頃の記憶が瞼の裏に蘇る。

 他愛のない退屈しのぎは、いつしか掛け替えのない思い出になってしまった。


 彼女の歌声に添えるギターの音色はもうない。

 弦を弾くには、この手は汚れすぎてしまった。


「……そろそろ飯を準備しないとな」


 ジャケットを脱ぎ、ラフな格好に着替えたロックはキッチンに立つ。

 たいした腕前ではないが、ホストとして飯くらいは提供しなければ。


 程なくして風呂上がりのフィーネが恐縮しきった様子でキッチンにやってきた。イヴと瓜二つだから、近くに寄られるだけでどぎまぎしてしまう。同じシャンプーを使っているはずなのに、どうしてここまで違う香りが漂ってくるのか不思議でならない。


「あの……色々とありがとうございます。男物の服じゃ、ないんですね……」

「ん、ああ。そいつは妹のだ」

「そういうことですか。妹さんは、いいのですか?」

「……まぁ、気にすんな。もうこの世にはいないんだ」

「…………気にするな、というほうが無理ですよ、それは」

「悪い。本当に気にしないでくれ。もう過ぎたことだ」


 適当に誤魔化してしまえばよかったか、と思ったが、どうせダインが戻ってくれば隠し通さずにはいられなくなるのだ。中途半端に隠してあとでばれたり、変に勘ぐられて余計な気遣いをされるよりはずっといい。


「喉渇いたろ。ココアでいいか」

「え、あ……、その……」

「遠慮しなくていい。事務所に連れてきたのは俺だ。リビングで適当にくつろいでくれ。つっても、娯楽になるのはラジオかテレビくらいしかないがな。ソファーが煙草臭いかもしれんが、そこは勘弁してくれ」

「……ご厄介になります」


 ぺこりと頭を下げたフィーネは、ホットココアの入ったマグカップを握ってリビングへ向かうと、クッション性の強い革張りのソファーに身体を沈め、ココアを啜りながらその眼を窓の外へ向けた。かくり、とときおり船を漕いでいる。首が据わっていないのは疲れているからか。


「そろそろ飯もできる。軽く食べたら横になったほうがいい」


 沸騰した大鍋にパスタを二束突っ込んだ。平行してフライパンに火をかけ、油を敷いて、刻んだピーマンやウィンナーを炒めておく。


「食事まで……ありがとう、ございます」

「野暮なことかもしれないが、一人でうろついてたのか」

「……そう、みたいですね」


 その言い方が引っ掛かった。

 だが、次の瞬間、その答えが彼女の口から紡がれる。


「……これまでの記憶が、ないんです」


 そんなことだろうと思ってはいたが。


「名前以外、なにも、思い出せなくて」


 どこか投げやりで、諦めたような声音だった。


「気付けばこの街にいました。正確な場所は覚えてません。あてもなくふらついていたら怖い人たちに捕まって。変なところへ連れて行かれそうになって……そこで、ロックに助けられました。あのときはお礼も言えずに逃げてしまって、すみませんでした」


 記憶喪失で混乱しているところを拉致されかけたのだ。襲った側も救った側も区別できず、恐怖でいっぱいになってその場から逃げ出してしまうのは無理もない。


「あの後、ずっと公園の茂みに隠れていたんです。どうしようもなくて、どうすればいいのかわからなくて……。そしたら今度は、白装束の人たちに見つかって……」

「……どうして追われていたのかもわからない、ってことか」


 フィーネは力なく首を横に振った。


「あの人たち、理想郷がどうのこうのとか、れふぃくーる?様に捧げるとか……そんなことを呟いてました……」

「レフィクール……」


 忌々しい名前を耳にして、ロックは渋面を浮かべた。

 ダインが戻ったら、色々と話し合う必要がありそうだ。

 フィーネから、もっと話を聞かなければならないだろう。


 だが、その前に。


「飯にするか」


 茹で上がったパスタをフライパンに移し、ケチャップを入れて強火で炒める。

 食欲を掻き立てる香りが鼻孔をくすぐる。匂いにつられたように、フィーネが弾んだ声とともにリビングからやってきた。


「ナポリタンっ!! 私、大好きですっ!!」


 ――だろうな。

 イヴも好きだった一品を作ったのは、随分と久しいことだった。

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