第5話 まだ殺すことも出来ない
わけのわからない女、正直気持ちが悪いが、ジムを通してスポンサーになりたいと言ってきた
ファイトマネーの30%はジムに出さないといけないが、俺にはチケットを売るツテもなかった
あの夜トランク一つで家を出て、この街のドミトリーに転がり込んだ
いつホームレスになってもおかしくはない
正直、少しはホッとしたのも確かだ
毎月少しでも、家賃の半分だけでも入ってくるというなら、不安からくるだろう過呼吸も楽になっていくような気がする
いつもまとわりついていて、どこか頭の中で響く
「お前には私がいなければダメなんだ」「一人で生きられるはずがない」
自由になりたかった
だけれど、俺が人生を生きるためには、あいつを殺さなければ
ボクサーになれば、世界で一番強くなればあいつを素手で殺せるだろう
武器ではなく、あいつが俺を支配した、両腕と同じもので…
強くなりたかった、あいつに怯えたくなかった、一撃で殺せる力を身につけたかった
俺はもう16で、競技を始めるのに遅すぎるとわかっていた
焦りすぎてるのはわかっている
けれど年齢からくるハンデのよりも、あいつがいつも夜ごと、俺に追いついてくるような気がして
ジムで倒れ込むくらい練習した夜だけは、何も考えず泥のように眠れた
こんな日々を、夜を続けていれば、俺は逃げ切れるような気がして…
ーー
ジムに入って1年、その日はセミプロ戦だった
ジムの俺と変わらないくらいの年齢の地区王者が、防衛戦をすることになっていた
俺はそのアンダーカードで、アマチュア8人で一日トーナメントをすることになっていた
決勝に残った2人がプロデビュー出来るとのことだった
あの女がスポンサーといっても、事業をしているわけでもない
ただ小遣いを、投げ銭しているようなものだろう
ロゴをパンツに入れるというわけでもなく、ただ控室からリングサイドについてくるだけだ
俺はあいつじゃない
ジムでは話すこともあるが、試合の日は最初に会釈だけして、目を合わすこともなかった
俺はスーパーフェザー級ではリーチが長いほうだが、入り込んでの接近戦をするように叩き込まれていた
長いジャブから、ステップで一気に距離を詰め、距離感を狂わせてからの、ショートレンジの顔面アッパー
股関節が柔らかいのか、腰と体幹の回転がスムースな俺は、ボディフックとほぼ同じモーションで、斜め下からのアッパーを出すことが出来た
一回戦、2回戦ともにボディからのアッパーでダウンを取り、勝ち上がった
自分が”人を殴ること”で勝ち残れると、心の底では思っていなかったし、実際殴るとうより無我夢中に振り回していただけだ
それでも、セコンドが肩を叩く感覚や、あの女のキンキン耳につく声援は聞こえていて、夢の中のような試合で、数少ない確かな感覚だった
決勝は、子どもの頃からアマで何十戦もしているエリートのようだった
一撃は無さそうだが、的確だと教えられた
ゴングが鳴る前にトレーナーが言う「お前のしつこい出入りとショートのフックアッパーを叩き込んでこい、ガードの上からでも」
決勝だけは、夢のようではなかった
左アッパーを打つ時のモーションにカウンターを取られ、空いた左頬に何度もロングレンジのフックを入れられた
何度も引っぱたかれているようで痛み響き続けたが、そのうちに感覚がなくなっていった
覚えているのは前に出続けて振っては、そのたびフックを入れ続けられることだった
ポイント差で俺は負けた
相手の片手がレフリーに挙げられている時、もう左目はふさがっていて見えなかった
ドクターには折れているかもしれないと言われた
土曜の夜の救急は、俺には値段が高すぎた
明日の午後に、トレーナーの知り合いの病院が診てくれるらしく、俺はそのまま家に帰ることになった
女が送りたがっていたが断った
ガンガンして、歩くたび頭が痛かった
メトロの階段を上がり、住んでいるドミトリーの最寄り駅に向かおうとしたとき
、涙がこぼれてきた
視界があいている右目からだけだったが
左目は壊れたのかもしれない
眼窩底でもやっていたら、この先戦うことも出来ない
こぶのように顔の横に出っ張って、腫れていた
負けたくなかった
トレーナーやあの女の手前も、仮にも応援してくれるやつらの前でも、負けることはしたくなかった
俺のパンチは届かず、最後は立っているのが精いっぱいだった
挙句この様だ
けれど、この痛みは自分でつけた傷よりも、ましてあの男から与えられた痛みよりも、現実感があってどこか爽やかだった
俺は弱い
弱い俺が憎い
けれど思った
「俺は俺を憎む力に耐えたい」
自転車に乗るとフラつき、押して安宿まで帰った
寒い冬の夜だった
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