第7話 愛は幻想
卒業式の日、私は朝野先輩を呼び止めた。体育館の裏、あの日と同じ場所で。
「一つだけ聞かせてください」
彼は振り返った。卒業証書を手に持って。
「あなたは、すみれのことが好きだったんですか。本当に」
朝野先輩は少し考えてから、まるで天気の話でもするかのように答えた。
「好きでしたよ。可愛かったし、一緒にいて楽しかった。素直で、明るくて、僕のことを慕ってくれて。でも、それだけです」
「それだけ? だってすみれは先輩の恋人だったんでしょ。そんな一言で……」
「子どもができたのは想定外でした。正直、面倒だなって思った。これから受験ってときに。でも、彼女がそこまで追い詰められるとは思わなかった。もうちょっと、強い子だと思ってたんですけどね」
その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。
この人は、すみれを愛していなかった。ただの、都合のいい恋人としか見ていなかった。一人の人間として、対等な存在として、見ていなかった。
「このクソ野郎が」
私は吐き捨てるように言った。
「…………」
先輩は何も言わなかった。自分の犯した罪に関しては思うところがあったのだろう。彼はそのまま人混みに消えていった。まるで何事もなかったかのように、静かなな足取りで。
桜が散る校庭を一人歩きながら、私は気づいた。
すみれは私の親友だった。でも私は、すみれの本当の苦しみを何一つ知らなかった。彼女が誰を愛し、何に絶望し、どれほど孤独だったか。何も、知らなかった。
恋も、妊娠も、堕胎も、死への願望も。全部、知らなかった。
親友だと思っていた。毎日一緒にいて、何でも話せる関係だと思っていた。でも結局、すみれは私にとって「赤の他人」だったのかもしれない。
それでも。
それでも私は、すみれを忘れない。
彼女が生きた証を、その笑顔を、そして最後まで見せてくれなかった涙を、私は覚えていよう。
数日後、私は再び月照川へ向かった。春紫苑の花束を持って。
川沿いの遊歩道に献花し、手を合わせる。
「すみれ、あなたの真実を知ったよ。遅かったけど」
風が吹いて、桜の花びらが川面に舞い落ちた。穏やかな流れに乗って、ゆっくりと流れていく。
まるですみれが、どこかで笑っているように。
私は空を見上げた。
「さよなら、すみれ。あなたは、私の親友だった。今でも、これからも」
そして、前を向いて歩き出した。
光という名を持てなかった、小さな命のためにも。
すみれが生きられなかった未来を、私が生きていくために。
(完)
暗渠 久藤 準時 @junji_san
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