四章 ラハタとセティヌ 第七話

 目覚めたのは、おそらく夕方近くだった。木々の隙間から入ってくる光は橙色を帯び、あれから何時間かが経過した事を知らせていた。


(身体が冷たい――)


ケヤクは雪の上であおむけに倒れていた。手袋の中の手の感触がない事に気づき、慌てて、指先を動かそうとしてみると、ほんのわずかに指が動いた。何時間も雪の上で倒れていたら、普通は凍傷になっているはずだが、まだ自分の指が動く事を知り、ケヤクは安堵した。


生臭い匂いを感じ、そちらを見ると、あのラハタが血を流して倒れていた。何時間か前に死闘を演じたラハタは確かに死んでいて、既にその目に光はなかった。何度も鉈を打ちつけた頭蓋は割れ、流れ出た血が雪の上に薔薇のような赤い血模様を作っている。


それを見て、自分も足に裂傷を負っていた事を思い出し、左足を触ってみると、ぬるり、という感触があった。まだ血が流れ続けている。血が止まっていないのに、まだ生きているという事は深手ではないようだが、骨が折れているのか、動かそうとすると激痛が走った。


――止血……


 まずは血を止めなくてはならない。まだ生きているという事は動脈をやられているわけではないはずだが、まず血を止めなければ、失血死か、体温が下がり続けて死ぬ。


血を止めたら、何か添え木になるような枝を見つけて左足を固定し、山を降りなければならない。何時間か分からないが、雪の上に倒れていたことで身体も冷たくなっている。凍死一歩手前のはずだ。この状態で夜を越すのは絶対に無理だ。まだ日があるうちに降りなければ、方角が分からなくなる。


 ――急がないと……


 急速に意識がはっきりして、やるべきことが分かったケヤクは、腰に括り付けた小さな鞄から、布を取り出して左足に巻こうとした。その時だった。


――おぉーい


遠くで少女の声が聞こえた。


 ケヤクの心臓が、どくん、と音を立てて、身体を凍て付かせた。この森で人と出会った事は一度もない。まして子供など……。


 ――聞き違いか? いや、そんなはずは……


 はっと気づいた。いつだったか、人妖の話を聞いた事がある。人の心を読み、声をまね、人を誘き寄せる人型の魔獣。ケヤクは息をひそめて、傍らの鉈を握った。


――おぉーい


 再び、声が聞こえた。今度は少年の声に聞こえた。さっきよりもわずかに近い。鉈を握る手に力を込め、立ち上がろうとしたが、怪我を負った左足が動かない。どうすべきか考えがまとまらぬうちに三度目の声が聞こえた。


「おーい! ケヤクー!」


 ケヤクは驚いた。その人妖はケヤクの名を呼んだのだ。それも今度は母の声で。

 ケヤクは考える間もなく、叫んでいた。


「おーい! おぉーい!」


 誰かが走ってくる足音が聞こえた。茂みを掻き分け、顔を出したのは、ジナンだった。


「ケヤク!」


ジナンはケヤクと、そして、死んでいるラハタを見て、ぎょっとした顔をしたが、すぐに後ろを振り返って叫んだ。 

「ここだ! 怪我してる!」


続いて現れたのは、シャミルと母だった。


 二人もジナン同様、驚き、そして、飛びついてきた。誰かが折れた左足に当たり、一瞬、痛みが走ったが、ケヤクは心から安堵し、また意識を失った。






 幸運にもラハタとの激闘を制したケヤクは、さらに幸運な事に、死ぬ前に母と友人たちの手によって保護された。山を下りて、すぐに手当てをしてもらったものの、左足と肋骨が折れ、足の傷からは熱を出し、一週間ほど寝込んだ。朦朧とする意識の中で母が泣きながら看病してくれたのを夢うつつに見ていた。


 意識がはっきりしてから、事の顛末を聞いた。あの日、朝早くに起きたシャミルは嫌な予感がして、ケヤクの家を訪ねたらしい。起きてきた母はケヤクがいない事に気がつき、また山に行ったのだと思ったが、すぐにラハタの事を思い出した。


シャミルはジナンを呼びに行き、村を走っている途中でラハタの足跡と、それを辿る誰かの足跡がある事に気づいたのだそうだ。ケヤクがラハタから逃れるために茂みを走ったのが仇となって、見つけるのに時間がかかったが、三人は運良くケヤクが死ぬ前に見つける事が出来たのだという。

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