四章 ラハタとセティヌ 第六話
そこは小さな広場だった。森の中にぽかりと空いたような空間、頭上には木々の枝が茂り、いまだ昼なのにほとんど陽の光は入らず、雪も落ちてこない。そんな自然の気まぐれが作り出した薄暗い空間にそれはいた。
剛毛に覆われたその巨体を草むらにでんと横たえ、微かにいびきをかきながら、涎を垂らして寝入っている。ケヤクのいるところからは、その距離僅か十五メルテほどである。
ケヤクは音を立てずに近寄りながらも、心中では驚いていた。普通、野生の獣は何かが縄張りに入って来たら、飛び起きるものだ。敵か、獲物か、いずれにせよ、起きて警戒しなくてはならない。それなのに、ラハタは堂々といびきをかいて眠っている。
――これほどに近づいたのに、まるで気づきもしない
そのあまりに堂々とした寝入りっぷりに驚きと違和感を覚えたケヤクだったが、ここである事に気が付いた。山に入ってから、ここに至るまで、小動物の気配すらなかった。鳥の鳴き声も、兎の足跡も、何かの物音すらも――。
ケヤクは今さらながら理解した。ここには奴の天敵などいないのだ。奴はこの山の王であり、自身を脅かす者などいない事を知っているから、悠長に眠りこけているのだと――。
ケヤクは急に恐ろしくなった。ここまで喜び勇んで山を上って来たものの、いざ自分の何倍も大きな標的を目の前にした途端、自分の浅はかな思い付きを後悔した。
こいつが目を開けたら、自分は終わりだ――しぜん、鼓動が速くなり、冷や汗が背を伝った。弓を持ってきた事を思い出し、慌てて矢をつがえようとして、思いとどまった。
(もし、外したら……?)
外したらどうなるだろう? このラハタは耳元を矢がかすめたとしてもいびきをかき続けてくれるだろうか? 当たったとしても、あの巨体だ。致命傷には至らないかもしれない……。そうしたら、自分はどうなる?
誰かの囁く声が聞こえた。
(今ならまだ帰れるぞ?)
――そうだ、帰ればいいじゃないか。あいつはまだ寝てるんだから……
どくん、どくん、と脈打つ自分の鼓動を聞きながら、誘惑の声に心の中で同意した。音を立てずにこの弓をしまって、ここを離れればいい。ここまで気づかれず来れたのだ。同じように引き返せばいい。
そして、気づかれぬようにそぅっと矢を弓から外した瞬間、ラハタのいびきが止まった。
やつはゆっくりと重いまぶたを上げ、うつろな目でケヤクを見た。
目が合った――瞬間、ラハタは跳ねるように起き上がり、ぐおおおお! と大きな咆哮を上げた。ケヤクの心臓は縮み上がった。思わず叫び出しそうな自分を無理やり抑え、抜けそうになった腰にぐっと力を入れて踏ん張った。
起き上がるやいなや、一瞬で臨戦態勢に入ったラハタに向かって、ケヤクは再度、弓を構えた。矢を再びつがえ、巨大なラハタに向かって放った。ヒュン――という音と共に矢が飛ぶ。驚くべきことに、慌てて放ったにもかかわらず、なんと矢はラハタの額に命中した。
いや、命中した、と思った矢は一瞬突き立ったように見えたものの、ぽろりと落ちた。所詮、子供が引ける程度の張力の弓では、この猪の毛皮を貫く事すらできなかったのだ。
ラハタは一瞬、怯んだ様子を見せたものの、すぐに毛を逆立て、先ほどよりもさらに大きな咆哮を上げた。
先ほどの威嚇とは違う、逆上の雄叫び。
次の瞬間、ラハタは猛然と突撃してきた。ケヤクは咄嗟に手に持っていた弓を投げつけた。ラハタが首を振ってそれを払った隙にケヤクは横飛びに飛んで、すんでのところでラハタの突撃を躱した。ラハタは勢い余って、ケヤクの後ろに生えていた木に音を立ててぶつかる。
からくもラハタの突撃を避けたケヤクは一目散に駆け出した。
――逃げなくては!
自分の背丈ほどもある茂みを掻き分け、ひたすらに駆けた。心臓が爆発するほどの鼓動を感じながら、ケヤクは必死に駆けた。
自分の足は速い! 他の子供たちの誰にも負けた事はない。ラハタは凄い勢いで木にぶつかっていた。脳震盪を起こしたかもしれない! 今ならまだ逃げられるかもしれない! 茂みを走れ! 足跡を残すな!
自分が今、どっちに向かって走っているか分からないが、とにかく駆けた。
――愚かだった!
あいつがあれほど不用心に足跡を残していたのは、間抜けだったからではない。はじめからそんな“必要”がなかったのだ!
あの体なら、熊すら敵ではないだろう。あんな子供が作った弓で仕留められるような相手ではなかったのだ!
ケヤクは後悔しながらも駆け続けた。しかし、逃げられるかも――という一縷の望みはわずかの間に儚く消えた。走るケヤクの後ろの方で、がさがさがさがさ! という音が聞こえた。
――追ってきている!
ラハタは鼻が利く。足も速い。雪を避けて、茂みを走ったところで逃げられるわけがなかったのだ。ケヤクは自分が逃げられない事を悟った。足を緩め、ぜえぜえと息をしながら、振り返った。
奴も獲物が足を止めた事に勘付いたのか、少し警戒するかのように、のそり――と茂みの中からその巨体を現した。
鼻息を荒げ、低く唸りながら、姿勢を低くして慎重に近づいてくる。その冷静さを見せながらも、ラハタが激怒している事は、ケヤクにも分かった。
寝ていた自分を起こし、あまつさえ貧弱な武器で挑もうとした愚かな人間の子供に、ラハタは激怒していた。
下顎から、天を貫くように生えたその牙は長く、鋭い。ケヤクは走って荒くなった呼吸を少しでも落ち着かせようと努力しながら、腰に差していた鉈を抜いた。あの役立たずの弓は捨てた。もう自分にはこれしか残っていない。
ラハタはそろり、そろりと近づいてくる。ケヤクは、ふうっ、ふうっと、浅く息をつきながら、両手で鉈を構え、覚悟を決めた。猪とはもう五歩分ほどしか離れていない。
――ぐおおおお! とラハタが吠えた。
「おおおおお!」
ケヤクも吠えた。
次の瞬間、ラハタが下から牙で抉るように突っ込んできた。ケヤクは構えた鉈を全力で振り下ろした。
――がつん!
という手ごたえがあった。同時に左の太ももに強い衝撃が走り、身体が宙に浮いた。撥ね飛ばされて受け身を取れず、上半身から落下した。頭がぐらつきながらも、何とか体を起こして相手を探すと、ラハタはぼんやりとこちらを見ていた。その四本の足で立ってはいるが、目の焦点は合っておらず、頭からは血――。
――よし!
そう思い、立ち上がろうとしたが、鋭い痛みと共に左足がずるりと滑った。
「くっ!」
痛みをこらえて無理やりに右足で踏ん張り、鉈を頭上に振りかぶって、右足一本で跳んだ。目いっぱい力を込めて、鉈をラハタの脳天にたたきつけた。
「ぎひっ――」
という鳴き声ともつかぬような声を上げ、ラハタはよろけた。ここだ!――と思い、ケヤクは鉈でめった打ちに打った。
三度、四度、五度……何度打ったか、いつしかラハタが力を失い、ただ痙攣しているのを見てケヤクは悟った。
――勝った……
そう思った途端、ケヤクの気は遠くなった。
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