Ch1-4

 血にまみれ、痣だらけになったことで、気持ち悪さが増していた。

「なあ刑事さん。そのナイフ、俺のチンポに刺してよ」


 この男の発言に呆れる。

「あんた、まさか興奮してんの?」


 河合が汚い歯を見せた。

「もうイキそうなぐらいビンビンなんだよ」

「嫌だ。あんたを満足させたくない」

「とか言って、ほんとはそれ、本物じゃないんだろ」

「・・・・・・試してみる?」


 今度は千里が笑みを浮かべた。とても冷たい、恐ろしげな笑みだった。


 河合の口角にナイフの刃を当て、ためらいなく斬り裂く。瞬く間に大量の血が、唾液と共に流れ出た。


 ビル内の廊下に、河合の苦痛に満ちた声が響き渡る。まさしく絶叫であった。




 覆面パトカーの前では、諸星が苛立たしげに待っていた。そこへ千里が歩いてくる。

「何してたんですか?」

「事情聴取」

「嘘つかないでください。彼に何かしたでしょ」

「だから、ただ話を訊いただけ」


 しれっとした顔の千里を見て、諸星は我慢の限界に達した。

「緋波警視、あなたを逮捕します」

「は?なんで?」

「小野寺課長と河合に対する暴行の現行犯です」

「ふーん・・・したいならどうぞ。でも、困るのはあいつよ。綿矢」

「え?」

「私が逮捕されたとなれば、管理官のあいつが責任を負うことになる。あんたはそれでもいいの?」

「あ・・・いや・・・・・・」

「きっと恨まれるでしょうねえ。あいつが私を呼んだのに、あんたが妨害しちゃうんだから」

「ですが、警視は職務規定を逸脱しています」

「あいつは人脈が広いから、どっかの田舎か、離島にでも飛ばされちゃうかもねえ」

「ちょっと!聞いてるんですか!」

「早く手錠かけたら?ほら?」


 千里は両手首を示した。諸星は憤るも、自分の将来が不安になった。

「わかりましたよ。今は逮捕しません。でも、警視正には報告させてもらいます」

「あっそ。勝手にして」


 そのとき、救急車のサイレンが聞こえてきた。こちらに近づいてくる。


 諸星はハッとして声を上げた。

「警視!やっぱり何かしたでしょ!」

「私が呼んだんじゃない」

「違法捜査になりますよ!」

「オーバーだなあ」


 そう言うと、千里は「行くよ」と促し、早々に助手席へ乗り込んだ。余計に苛立つ気持ちを抑えながら、諸星も運転席に向かう。


 やがて、ふたりの車が走り出した直後、救急車がビルの前で停まった。




 冷静さを取り戻した諸星は、千里に尋ねた。

「それで、結局のところどうなんですか?河合が犯人なんですか?」

「あいつは犯人じゃない。心臓の件を知らなかった。もし奴が犯人なら、絶対にしゃべってる。河合はそういうカス野郎」


 乱暴な口調で述べると、緊急無線が入った。全裸で吊るされた遺体が見つかったとの一報だった。




 新宿区内の低層アパート。そこの屋上が現場であった。千里と諸星は臨場する。


 時おり強い風が吹くなかで、納体袋の傍らでしゃがみ、目を閉じ、遺体に合掌している男がいた。


 グレーのスーツを着ており、黒い短髪で、がっしりとした体格。一見すると、柔道家のようにも感じる。そして、穏やかで温厚な印象を受ける顔立ちだ。


 その男は、新宿中央署刑事課の滝石直也たきいしなおやである。


 ゆっくり目を開けた滝石は、赤バッジをつけた諸星の姿に気づき、おもむろに腰を上げた。

「本庁の方ですね」

「はい。捜査一課の諸星です。それでこちらが・・・・・・」


 後ろを向くが、千里がいない。


 当人は離れた場所に立ち、遠くの景色を眺めている。


 諸星は千里を指した。

「あちらが、同じく一課の緋波警視です」

「新宿中央署の滝石です。よろしくお願いします」


 ひととおり挨拶を済ませると、諸星は千里を呼び、遺体を検めた。


 その遺体は、若い女だった。


 屈んでいる諸星の背後から、千里が覗き込む。滝石は発見の経緯を説明した。




 通報者は最上階に暮らす住人で、部屋の窓から黒い影が見えているのに気づき、開けてみたところ、遺体を発見したという。


 遺体は屋上の鉄柵を通じて吊るされていたらしい。


 被害者の氏名は、鎌谷穂香かまたにほのか。このアパートの二階に住む専門学生で、管理人が身元を確認していた。


 死因は、首を絞められたことによる窒息死だった。




 遺体を一瞥した千里は、滝石に尋ねる。

「顔にはなんか被せられてた?」

「はい。パーティーなどで使われるマスクを」

「ロープで縛られてたの?」

「いえ、バスタオルです。何枚かを結び付けてありました」


 千里は素っ気なく、ひと言で推定を述べた。

「模倣犯かもね」


 そしてまた、景色に目を遣る。


 諸星も同意するように推察した。

「そうかもしれませんね。ラバーマスクもロープも、普通の家には置いてませんし、第一、心臓が抜かれてない。警察発表されてませんから」


 遺体の胸部は傷もなく、きれいなものだったが、滝石は異を唱える。

「決めつけるのは早計です。犯人が趣向を変えたという可能性もあります」


 千里は返した。

「わかってるわよ。だから〝かも〟って言ったじゃない」


 すると、諸星が滝石に訊いた。

「ここって住人は入れないんですよね。鍵が壊されてましたけど」

「ええ。立ち入りは禁止されています」


 諸星は思ったとおりだという顔になり、滝石に申し入れた。

「被害者の部屋、見せてもらえますか?」

「案内します。どうぞ」


 滝石は鑑識に後を任せ、ふたりを部屋に連れて行った。




 なんの変哲もない普通の部屋だったが、雑誌やコップなどの物が数点、カーペットの上に散らばっている。


 滝石が目で指し示す。

「この部屋が犯行現場のようです。被害者が殺害されたのは、ベッドの上かと思われます」

「確かに、ぐちゃぐちゃですね」


 諸星はベッドを見た。激しく抵抗したであろう痕跡が窺える。

「部屋が散らかってんのも、犯人と争ったせいでしょうか」

「おそらくそうでしょうけど、まだわかりません」

「ひとり暮らしだったんですか?」

「いえ、同棲相手の男性がいたようです」

「その人はどこに?」

「連絡がつかないんです。所在も不明でして」

「じゃあ、その男が犯人かもしれませんね」

「まだなんとも言えませんが・・・・・・」


 滝石が難しい顔になる。そこで、千里はひとつの仮説を立てた。

「多分、被害者は相手と口論していた。理由はわかんないけど、物をぶつけるほどの喧嘩。それで怒った相手は、被害者の首を絞めて殺害、一連の事件に見えるように偽装し、遺棄した。かなりお粗末だったけど」


 諸星が訊く。

「どうしてそこまでわかるんです?」

「なんとなく」

「なんとなくって・・・それじゃダメでしょう」

「あくまで私の考えだから、無視しちゃってもいいわよ」


 千里がそう答えた直後、滝石は「あっ」と声を発した。まだ報告すべきことが残っていたのだ。

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