27章 未来へ翔び立つ
27章 episode 1 少年剣士の初稽古
◆ 杉浦八段の油断をついて小手を決めた。
山々が色づいてキノコが旨い季節になった。
杉浦は橋本を訪ねては子供たちを指導し、谷川とも親しくなって、舞美ファミリーと食卓を囲んだ。目元が凛々しくなったヒロに目を細め、
「この前は遠くにいたからヒロ君の水泳は見てないが、次は必ず見に行くよ。約束するから泳いでくれるか?」
「うん、泳ぐよ。だけどスイミングに通ってないからダメだってさ。来年までしかエントリー出来ないんだって、パパ、そうだよね?」
「そうだ。水泳部がある中学に進学したら出場できるが、それは私立中学へ通うことになる。そこへ入ってもパパはヒロを教えることはない」
「どうして?」
「水泳部には顧問の先生がいる。チャンプになったパパでもヒロを指導できない。大人の世界にはゴチャゴチャ取り決めがあるんだ、テリトリーを犯すとペナルティだ」
「ペナルティって?」
「罰を受けることだ、見せしめだ。わかるか? オレは平気だが大学に迷惑をかけそうだ」
「ふーん、ヘンなの。水泳は好きだけど、勉強も好きになったんだよ。もっと勉強したいなぁ。いっぱい泳いでから次の目標に向かってもいいって、谷川先生から聞いたんだ。そうだね?」
「そうだよ。ヒロくんは思ったとおりに進むといいよ。勉強は選択肢のひとつだが、もっと面白いことを見つけたらそっちへ行ってもいいんだ、応援するよ」
舞美は笑顔で食後の珈琲を運んで来た。
「ヒロ君は勉強して何になりたいのか教えてくれるかい?」
杉浦の問いに、
「僕はね、お医者さんになってここで暮らしたいんだ。兄ちゃんたちの東京はあんまり好きじゃない、あのさ、騒がしくて臭いんだ」
「東京は臭いか、なるほどなあ。それでなりたいのは医者か、ヒロ君の志は立派だなあ」
「でもさ、命ってお医者さんでもわからないんだって」
「何の話かい?」
「人がいつ死ぬか、どうして死ぬかだよ。普通に考えると僕はあと60年は大丈夫で、スギちゃんは30年かなあ。あのね、リョウ兄ちゃんはそれを勉強してるんだ、遺伝子だよ。誕生した生命体が滅亡する原因を研究してるんだって。難しくてわからないけど不思議なんだ」
「ヒロ君は遺伝子のゲノムは知ってるか?」
「知ってるよ、ゲノムのDNAを解析して病気を治療するんだって。リョウ兄ちゃんは遺伝子工学が専門だ。僕は遺伝子治療を勉強したいんだけどさ、それを勉強できる大学に入れるかわからない、難しそうだ。それより明日、スギちゃん教えてくれる? 僕さ、ニイニイの真似が出来るようになったんだ!」
「よし、明日か。楽しみだなあ」
その会話を聞きながら、酒井は窓に映り込んだ満月に視線を走らせ、いつまでも見上げていた。
翌日、道場の片隅で杉浦とヒロはステップを踏んで遊んでいたが、そのうちヒロが本気になった。スピードアップしても杉浦が息を乱さなかったからだ。
「スギちゃん、練習したの?」
「そうだ。ヒロ君に負けないように練習した」
「えーっ、そんなんずるいよ」
「そうかな? 弱いと思った相手もいつかは強くなるんだ」
「わかった! 小さかった子が大きくなった時、負けるもんか! そう思って泳いだんだ」
「そうだろう。僕みたいなおっさんに負けたくないよね」
「当たり前だよ! ニイニイのようにバシッと決めたい!」
「なるほどいい考えだ。おっさんに勝てるように教えたくなったよ、どこからでもかかって来い!」
大師範がヒロに初稽古をつける様子を、酒井は階段の途中で耳を澄まして聴いていた。
杉浦は振り下ろした竹刀の動きが見えるように、円を描いて舞うように技を見せつけた。ヒロは睨みつけて突撃しようとするが、動けない。
「ニイニイみたいに打ち込みたいけど出来ないよ! 足が動かないよぅ、どうして!」
汗を垂らしてハァハァと肩で息しているヒロに、
「それはね、僕の周りに目に見えないバリアがあるんだ、壁だ。その壁に僕は包まれている。この状態をスキがないと云うが、わかるかい? だからヒロ君は打ち込めない!」
「へーっ、スギちゃんは見かけより凄いおっさんなんだ! 教えてよ、そのバリアを打ち破る術を」
「うーん、練習するうちにわかってくるが、少しだけ教えよう。ヒロ君は本当に剣道は初めてか? 初めてとは信じられないほど基本が出来ている、構えが橋本そっくりだ」
杉浦はヒロの竹刀の握りと振りを少し矯正した。橋本がじっと見ていた。
「いいか、竹刀の握り方は雑巾をグイッと絞る感じだが、絞る方向に力を入れちゃダメだ」と、実際に幾度も手本を示し、ヒロにやらせては修正した。
「いいぞ、『剣勇伝説 YAIBA』の鉄刃のように立派な少年剣士になった。よし、勝負だ。遠慮せずに向かって来なさい。バリアを破れるかな?」
ヒロは進もう、振り下ろそう、打ち込もう、突こうとするが動けない。そのうち、竹刀を持ったヒロの手が“横握り”になったことに杉浦が気づいた。修正しようと一歩足を進めた途端、ヒロは正しい握りに戻して竹刀を振り下ろし、杉浦の小手に見事に決まった。
「1本!」
橋本の声が響いた。
「参った! 負けた! バリアを破られた。ヒロ君は剣道を知らないと勝手に油断したのが失敗だった。竹刀を握ったら最後まで絶対に油断しない、相手を見下してはいけない、教えられたよ」
この子の誘いに騙されたと気づいた杉浦は、愉快で仕方がなかった。
「ヒロ、大師範に1本入れたな、見事だった!」、橋本が声をかけた。
「うーん、とにかくやっつけたいと夢中だったけど、大師範ってどんな人?」
「クライが高いコーチのことだ。僕は六段だが大師範は八段だ」
「えーっ、ホント! パパとどっちが偉いの?」
「それはヒロ君のパパだよ、間違いない! その年のそのジャンルでチャンプは世界中でたった一人だが、剣道の八段は全国に600人もいるんだ。そして、水泳は活躍できる期間が短い。その時間内で世界一のタイムを出すのは想像も出来ないほど大変で、とてつもなく立派なことなんだ。
しかし、剣道は違う。おっさんになってもやれるし、八段は八段のままで落ちることはない。そう考えると、僕なんかよりヒロ君のパパのほうが絶対に凄いよ、偉いに決まってる! わかったかい」
杉浦の言葉に、酒井はそっと階下に降りた。
27章 episode 2 オヤジの成長
◆ デカイだけの男が大きな父親になった。
その夜、
「オレは幸せだ。オマエがヒロを産んでくれたから」
「へぇー、どうしたの? 急に何を言うのよ、頭のミソが腐ったの?」
酒井は蜜壺に顔を埋めたまま、巨砲を舐め続ける舞美を見た。舐められるとビビビッと衝撃が走るが、今宵は不安な気持ちが強くて素直に悦楽に飛び込めない。
「バカ! オマエと結婚する時な、ホント言うとオレの子は諦めたんだ。3人のママだからもう無理だろうと思った。オマエの心が元気になって、子供たちが普通に育ってくれるだけでいい。欲張るな! 欲張るとろくな事がない! 自分にそう言い聞かせたがヒロを産んでくれた。オレの子が欲しいとねだってな。そしてヒロが生まれた。
ヒロが成長するにつれて、オレはいろんなことがあって、少しはオヤジらしくなった。舞美、本当にありがとう。ヨメに来いと喚き続けたが、オレは最初からオマエが好きで夢中だったんだ。ムコになれて幸せだ! つくづく思うがオマエのあそこは万物の生まれ故郷だ、根源だ。オレの悩みや疲れをぶっ飛ばして癒してくれる。
そうだ、思えば結婚してから12年も過ぎた。毎朝オマエのぼけーっとした寝顔を眺めてるが、オレは second husbandを卒業して、best husband になれたか、どうだ?」
勝手に質問して納得した酒井に呆れた舞美は、乱れた髪をかきあげて眼を閉じた。
「覚悟はいいか、オレは死ぬまで突撃隊長を続けるぞ!」
酒井は舞美を腹に乗せたままクルリと体を回転させて、突撃した。乱暴に突き上げられ、天井に放り投げられるかと舞美は必死で酒井にしがみついた。
「悪かった、驚いたか? ちょっとイタズラしたが、飛んで行くかと怖がったオマエが最高に面白かった!」
はぁと小さく息を吐いた涙目の舞美は、酒井の大きな胸に抱きついたまま眠ってしまった。いいなあ、だらんと力を抜いた舞美を抱くのがオレの幸せの確認だ。
ある夜、酒井のケイタイにリョウの声が届いた。
「ヒロがついに男の仲間入りした。小学5年か、早いなあ。僕は中1だった」
「おーお、そうか。そろそろかなあと思ってはいたが、オマエに相談するとはなあ、オレの不覚だ、許せ。サンキュー! ところでリョウ、彼女は出来たか? ママが心配してるぞ。シンは彼女がいるそうだ」
「えーっ、知らないよー」
「まあ、言わないな、そんなことは。オマエらは幾つも恋をして何度も振られろ。オレはアイツを14年も待ったんだ。そんな恋もあるんだぞ、ガンバレ!」
酒井は痛快に笑った。
27章 episode 3 最後の快泳
◆ 父子鷹が消滅する記念の日
小学生最後の夏が近づいた。ヒロはいちだんと成長し、チャンプをコンパクトにした体型になった。レイの2倍以上食べるヒロに舞美は食事を、レイはおやつを作った。授業中は眠そうな目をこすっておとなしく座っているが、教師の指名にはスラスラ問題を解き、給食時間をひたすら待ちわびた。
今年も水泳と木刀振りに励み、県大会は実力の違いを見せつけて楽々突破し、10月に開催される全日本の出場権を手にした。
この夏のアサレンは真剣そのもので、勝ちたいという闘気が強すぎるヒロに、酒井は不安になった。気持が先走りすると勝てないぞ、そんなにリキむな、空回りするぞと心配していたある日、杉浦が山ほどお菓子を抱えて訪れた。
しばらく振りにヒロに会った杉浦は、まん丸だった童顔がしっかりした輪郭を持つ少年に変わったのに気づいた。
「スギちゃんは剣道を教えようと来てくれたの?」
「違うな。僕はね、心を鍛える方法を勉強してるんだ。この前は油断してヒロ君に負けただろう。そうならないように修行してるんだよ。修行にぴったりの場所だと思ってここに来たんだ、泊まってもいいかい」
「うわあ、嬉しいなあ、絶対に泊まってよ。パパ、いいでしょ」
「ぜひ、お泊りください。またお会いしたいと思っていました。どうぞ幾日もご逗留ください。ここは部屋と食べ物だけはたくさんあります。今夜は一献いかがでしょうか」
「良かったね、スギちゃん。でもどんな修行するの?」
「僕は気が弱くて、試合の何日も前からドキドキするんだ。この試合はどうしても勝ちたい! そんなふうに勝ち負けにこだわった時は勝ったことがない。それで、真面目に“黙想”と“瞑想”の勉強をしてるんだよ。勝ちたい気持ちが強過ぎると、なぜだか体に力が入り過ぎて負けてしまった。静かな心で剣道できるように修行してるんだ」
「水泳もそうだよ。頑張りすぎると力が入って体が硬くなるんだ、力の入れ過ぎはダメだって。スギちゃん、その不思議な忍術みたいなものを教えてくれる?」
「いいよ。一緒に修行しよう」
剣道は稽古の前後に黙想をすることはよくある。静かに姿勢を正し、稽古前と稽古後の精神の落ち着きを促すものだが、杉浦が教えたいのは黙想と瞑想の真髄を理解して、“自然体”になることだった。
「ヒロ君、修行を始める前に全身をブラブラさせてリラックスしてごらん、そうだ。それからアグラだ」
ふたりは道場の隅っこにアグラをかいて座った。
「ここだ、ここに気持を集中する。そして、ゆっくり息を吐き、体の中に溜まっている古い息を全部吐き出すんだ。吐き切ったらゆっくり吸う。何度もやってごらん。セロトニンが作られるんだ」
そう講釈した杉浦はヒロの丹田を押した。ふたりはしばらく大きな深呼吸を繰り返した。
「スギちゃん、これってスーッとして気持ちいいけど腹ペコになりそうだよ。セロなんとかはドーパミンと違うの?」
「おや、ドーパミンを知ってるのか?」
「うん、谷川先生が教えてくれた。やる気と集中力のもとなんだって」
「そうだね。でも増えすぎるとダメなんだ。それを調節するのがセロトニンだ」
「何だか難しいけど、体がゆったりして気持ちいいや」
大師範はヒロに黙想から一歩進んだ瞑想を教えたいのかと、瀬川は納得した。今のヒロは勝ちたい気持ちが強すぎる、あれは入れ込み過ぎだ。平常心と自然体をヒロに手ほどきする大師範の考えがわかった。
それからはヒロの日課に瞑想が加わった。時折、瞑想中にコックリコックリと舟を漕ぐのを見て、短時間でこれほどリラックス出来れば心配ないだろうと、橋本は笑って見ていた。
数日後、マミは学内の山中教授から最新ニュースを聞いた。山中は水連の理事だ。
「全日本ジュニア水泳大会にエントリーした児童に、イトマン大阪の男児で170cmの子がいる。その子はタイムも凄い。多分、ヒロくんのライバルになるだろう」
酒井に山中の話を告げた。
休日は、大学プールで170cm前後の部員と本気で競泳させた。児童が成人スイマーに勝てるはずはないが、追い抜かれそうな予感、横に並ばれた感覚、抜かれた瞬間、それを追いかける勝負など、何度もシミュレーションして泳がせた。170cmの人間が横に並んだ経験を覚えさせたかった。
10月、酒井はタツミの本番前に部員に告げた。
「みんな聞いてくれ! 全員でずっと協力して応援してくれた。本当にすまない、ありがとう!! ものすごく感謝している。世話をかけたがヒロが泳ぐのは今年限りかも知れない。中学生のヒロが泳ぐことは考えられない状況だ。学長の許可はもらったから、盛大にヒロを応援してくれないか、頼む! 水連のモンクはオレが引き受ける!」
頭を下げる酒井に、マカフシギな規則があって親子鷹の継続は不可能というウワサを知った部員たちは、
「7年後にこの水泳部がインカレ優勝するようにヒロを鍛えてください、お願いします!」
ヒロの本番当日、昨日までは見事な秋晴れだったが、朝から霧雨が濡れそぼる鬱陶しい日になった。コンディションは心配ない、あとはヒロがどう泳ぐかだけだ。オレはヒロが敗退しても優勝しようとどうでもいい! 願いはただひとつ、悔いがない泳ぎをしろ、全力で行け!! 頼む、神よ、仏よ、どうか応援してくれ! 酒井はレース前に初めて神仏に祈った自分を笑った。
観客席には家族とおっさんズ、ケンと山本、杉浦と瀬川と橋本が並んだ。
自由形決勝レース直前、杉浦を見つけたヒロは「あーっ、スギちゃんだぁ!」、嬉しそうに笑って手を振った。順天大の校旗と応援旗が何本も翻り、一度も追いつかれずに堂々の1位でゴールインした。
ありがとう!、ヒロは笑顔でドンと胸を叩いた。
バタフライ決勝のスタート台に上がったヒロは、自分より大きな選手を見た。大きな子が出場することは知ってたが、これなんだぁ!
全選手きれいなスタートで飛び込んだ。大きな児童に30m付近で並ばれたが、まったく気にせずまくりまくって40mを過ぎるとヒロの独泳になり、1位でゴールインした。このレースで酒井のジュニア・レコードを再び塗り替えた。
順天大応援部が演奏する祝福のトランペットを聴きながら、杉浦はじんわり涙がこみ上げた。ヒロ君、プレッシャーに負けなかったね! この勝利はヒロ君が自分で掴んだものだ! 俺が教えた瞑想のせいじゃない。素直に俺の言葉を信じたヒロ君の勝ちだ!!
マイクを向けられたヒロは、
「ありがとう! 応援してくれたお兄さん、お姉さん、みんな、みんな、ありがとう! 楽しかったぁ~ でもハンバーグとから揚げを早く食べたいよ!」と笑わせた。水泳部員に胴上げされて宙に舞うヒロは、Vサインで応援に応えた。
胴上げのあと、順天大の学長が応援団員に笑顔で握手する光景をテレビカメラが追った。
酒井は胸が熱くなった。ヒロは何も訊かなかったが、大人社会の欲がらみのドロドロをわかっていたんだ。これ以上、オヤジが息子を指導できないこともな。学長が応援に来て、見せつけるように応援団を労ったのは、オレと水泳部への風当たりを最小限にするためだ、その気遣いが嬉しかった。
そして、ヒロを囲んだ兄と姉とケンを眺めて、コイツらは正真正銘オレの宝物だと男泣きした。
27章 episode 4 父子鷹の波紋
◆ 世論に叩かれた水連の誘いを酒井は断った。
湯河原への帰路、ほっとしたのかヒロはリョウの肩に寄りかかって熟睡していた。そんなヒロを見つめる大人たちはそれぞれの思いを胸に秘めていたが、やがてパッチリ目覚めたヒロは、
「スギちゃんが教えてくれた忍術で強くなったんだ。ありがとう! スギちゃんはやっぱりニイニイの先生だ、スゴイや!」
「いや、凄いのはヒロ君とパパだ、僕は何もしていない、足元にも及ばないよ」
「なんだって? ヒロは忍術でスイスイ泳いだのか?」とシンがからかったが、忍術? 一体なんだ? ケンは訝しげに杉本を眺めた。
「よくやった! 姉ちゃんはいつもヒロの応援団長だよ、忘れるな!」
レイはヒロの口にブチュして抱きしめた。
「へっ! 姉ちゃん、僕はケンニイじゃない、恋人じゃないよ!」とヒロは驚いた。
思わずケンは頰を染めて父の視線を逸らした。それを見た山本は、ケンはレイちゃんが好きなのかと初めて知った。ケン、ガンバレ! 俺が若い頃に舞美ちゃんを好きだったように、舞美ちゃんそっくりのレイちゃんが好きなのかと知って、愉快で嬉しくなった。
夜のニュース番組でヒロの優勝が問題を提起した。
『世界の酒井チャンプがジュニア時代に記録したバタフライのレコードタイムを、酒井ジュニアが見事に2度も更新しました。ジュニアは父から指導を受けて、スイミングスクールに所属していません。昨年度より、スクールに所属していないジュニア選手の大会出場を認めないという動きが強くなりました。また、チャンプが監督を務める大学の水泳部員と応援団が応援したことに、日本水泳連盟がクレームをつけました。他の観客に迷惑をかけなければ応援は自由です。なぜクレーム対象になったのか理解できません』
ニュースキャスターは日本水泳連盟の示威行為に疑問を投げかけた。
『さらに、日本水泳界の将来を担うチャンプジュニアを父親のチャンプが指導できないのは、理解できません。コンピータ分析による指導を最優先して、世界チャンプの父が優れた能力を持つ息子を指導できないということは、水泳界の大きな損失になるかも知れません。日本水泳連盟はトップスイマーの指導をDX、つまりAIに委ねると発表しましたが、そうであれば理事や監督やコーチなど人間は必要ないでしょう。すべてをAIに任せればいいと思います』、辛辣な言葉で締めくくった。
ニュースを見た酒井は、学長が応援団を率いて観戦した真意がはっきり読めた。
翌朝のテレビ番組でもヒロの競泳が採り上げられた。酒井のジュニア時代の映像にヒロの映像を重ねて解析した。
『ほとんど同じ身長でも、父親よりジュニアは頭が小さく、手足が長いことがわかるでしょうか。ほんの4、5センチの差ですが、50mの競泳では大きな差につながります。胸筋に差はあまりないようですが、背筋はジュニアが父を上まわっています。しかし、チャンプジュニアがトップスイマーに成長するのを妨げる規則が存在します。チャンプジュニアのような逸材を受け入れようとしない日本水泳連盟の考えとはどのようなものでしょうか?
今回のケースは、日本水泳界を牽引した世界チャンプのジュニアなので注目されていますが、市井の親子鷹の場合はどうでしょうか。過去の実例をご紹介します~』
1週間以上にわたり、酒井親子はワイドショーを賑わした。
10日ほど過ぎたある日、酒井に水連から書簡が届いた。どうせモンクだろう、喧嘩するかと封を切った酒井は大声で笑い出した。その紙片には美辞麗句が並び、理事としてお迎えしたいと印字されていた。
「オマエはどう思うか? オレが理事だそうだ」
渡された書面を読んだ舞美は、
「あらっ、世論をかわそうと大輝を抱き込む作戦ね。よっぽど慌てたのかしら。でもさ、水連の理事は複雑怪奇な推薦やタライ回しがあって、そんな簡単になれないはずよ。笑っちゃうわ」
「オレがペコペコして理事になっても、水連の中身は少しも変わらないだろう、フザケタ話だ! 理事は断るが理事長なら受けると言うか?」
「理事長? そんなのは禿げアタマにならないと無理よ」、舞美はゲラゲラ笑った。
勝手に断るわけにはいかないだろう。陰で応援してもらったこともあり、酒井は学長に書簡を見せた。
「水連は酒井先生のご機嫌取りに走りましたか。大学はそんな小事ではビクともしません。どうぞ先生のご自由になさってください」
学長は笑顔で応えた。
その言葉を受けた酒井は、水泳一筋で人生経験に乏しい浅学の自分は、理事を受ける資格がありませんと丁重に返書した。
秋は過ぎ去ったがヒロの日課は変わらなかった。山に入って木刀を振り回し、戻ってはアサレンに励んだ。
谷川は慶応湘南藤沢中学への進学を勧めたが、ヒロは兄や姉と同じように公立中学へ進んで、小田原高校から大学進学を目指したいと言った。
「応援してくれたお兄さんとお姉さんに約束したんだ。パパの大学で水泳部に入って、インカレで優勝するんだ。だからアサレンは続けるよ。そして、ニイニイから剣道を習うんだ。スギちゃんの不思議な忍術の正体を知りたいんだよ。パパ、いいよね」
27章 episode 5 まだ見ぬ未来
◆ 奈津子の最後の言葉は……
毎年、酒井は子供たちを連れて奈津子に面会に行ったが、成人した孫たちに喜び、ヒロの成長ぶりに驚き、こう言った。
「酒井さん、みんなを立派にしてくれてありがとうございます。こんなに大きくなった孫に会えるとは思ってなかったわ。あの子たちが独立してもヒロくんが継いでくれる、私は安心してあの世にいけそうね。泉谷と息子たちを置いて家を出た私は、勿体ないほどの老後を過ごさせてもらいました、本当に感謝しています。
ひとつだけお願いがあるの。泉谷の横に私の骨を少しでいいから埋めてくれないかしら。家を出た私が言うのは厚かましいけど、近頃ね、泉谷と士郎の夢をよく見るの。早く来てくれって、私を呼んでるのよ。甘えてるわ」
旧盆が近づき、浜から盆踊りの太鼓が響き渡る夕暮れどき、奈津子は静かに息を引き取った。ヒロが中学2年生の夏だった。逗子で荼毘に付し、次男夫婦と三男夫婦を迎えて別れの法要を行い、菩提寺の城願寺に埋葬した。
奈津子は酒井に手紙を残していた。これまでの感謝と孫たちをお願いしますと述べた後、ヒロくんは谷川先生のように医者になって、泉谷家を継ぎます。地域の人たちから頼りにされて、県会議員から国会議員になります。ヒロくんを助けるケンくんとレイちゃんが見えます。新しい泉谷家を作るのはヒロくんです。泉谷と士郎と私はヒロくんをいつも応援していますと綴られていた。
奈津子の予言が真実かどうかはわからないが、ヒロは登校前に泳いで帰宅後は剣道に励んだ。杉浦が眼を細める上達ぶりで、本格的に稽古を始めてまもなく一級審査に合格し、中学3年で二段を取得した。こんなヒロを知ると奈津子の未来話がまんざらウソに思えないから不思議だ。
青木が言った。「人生そのものが面白くないな。だが時々面白いこともある」と。面白いこととは何だろう? トラップか? スパイラルか? 生きることは捻れた迷路のようだ。そうだ、1秒後が見えないから人は生きていけるのかも知れない。
<完>
スパイラル&ツイスト 山口都代子 @kamisori-requiem
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