26章 ヒロの変身
26章 episode 1 ホンモノを知る眼
◆ 警視庁道場の猛者どもをヘタと言い切ったヒロ。
ケンはヒロを警視庁の最上階にある剣道場に連れて行った。100人以上集まった男たちはケンに気づくと頭を下げた。
「こいつは弟みたいなやつだ、今日は見学者だ。気にせず続けてくれ」
「ねぇ、みんながペコペコしてたけど、ケンニイはそんなに偉いの?」
「偉くないけど、ここでは俺が2番目に強い。ちょっと稽古を見てろ。ニイニイとの違いがわかるか?」
ヒロはしばらく稽古を眺めていたが、この人たちはケンニイやニイニイに比べるとヘタクソだなあ、退屈になってケンから習ったステップで遊び始めた。
「坊や、前や後ろに動くときにこれで相手をやっつけるつもりで、振り下ろしてごらん」
見たことがない年輩の男が笑顔で竹刀を渡した。男はヒロの横に立ち、ヒロと同じステップを踏んで、「今だ! 振れ! 突け!」と声をかけて楽しんだ。
ハイテンポで30分以上経過した時、息をあげたその男は「坊やはいくつだ?」と訊いたが、「うるさい!」と一括して、ヒロはステップを踏んで踊り続けた。
しばらくすると道場内で動いている人影は、ヒロだけだった。
「ヒロ、休憩だ。ここのみんなは凄いだろう、わかったか?」
声をかけたケンは驚いた。ヒロの隣に八段の大師範が立っていた。
「違う! みんなはケンニイとニイニイよりヘタクソだ!」
道場内は静まりかえった。
「どうしてだ?」
「だってニイニイの剣道はもっときれいだ。この人たちとは絶対に違う!」
その言葉に大師範は大声で笑い出した。
「山本、この坊やはどこの道場の子だ?」
「剣道は習ってません。まったく知らないはずです」
「ほーっ、信じられないな。坊やは何年生か?」
「坊やじゃない、名前がある! 僕は泉谷ひろとだ。もうすぐ4年生なんだ。遊んでくれたから許すけど、おじさんの名前は何だ?」
「はははっ、1本取られた! 僕は剣道の先生で杉浦正男だ。ひろと君は大きいなあ、何かスポーツしてるのか?」
「泳いでるよ。おじさん、ウチはプール屋で風呂屋だよ。とっても体にいい温泉なんだ。遊びに来てよ。入浴料はオマケするよ」
「そうか、行こうかな。ひろと君、ここにまた遊びにおいで」
杉浦は愉快そうに笑って出て行った。
山本家ではヒロを待っていた。立派な体格に成長したヒロをご馳走攻めした後で、杉浦大師範との話を聞いた山本は、腹を抱えて大声で笑い飛ばした。
「警察剣道では神様みたいな人と遊んだのか、いや、遊ばれたのは大師範だな。ヒロは面白かったか?」
「でもさ、おじさんは疲れたみたいで、ステップがスローになったもん。竹刀と木刀とタオルとかいっぱいくれた。そのうち僕んちに来てくれるって」
山本にはよくわかった。ヒロは瀬川と橋本の達人技を見て育った。しかも、今は二人の技を盗み見して真似ていると聞いた。警視庁道場の烏合の輩(やから)をヘタと言い切ったヒロの目は正しい!
翌日は銀座や渋谷や原宿を見物させたが、ヒロは人の多さと賑やかさに驚き、街の臭いにむせかえった。
ケンとヒロが戻って来た。
「パパ、ただいま〜 山本のおじちゃんが買ってくれたんだ。銀座のデパートだよ。そして杉浦のおじさんからもらった」
ヒロはふんわりした青いセーター姿で竹刀と木刀と大きな袋を抱えていた。
帰省していたシンとリョウが、誰だ? 杉浦って? ケンから杉浦の正体を知った兄たちは面白がったが、酒井はビンビンに緊張してお礼の電話を杉浦に入れた。
「ああ、ひろと君のお父さんですか。家はプール屋で風呂屋だそうですね。とても体にいい温泉だと聞きましたから、近々遊びに寄らせていただきます。ひろと君が入浴料をオマケしてくれるそうです。それから、警視庁猛者たちの稽古を見て、みんなヘタクソだと笑ってました。実に愉快なお子さんです。それではまた」
はぁ、あのチビは何を言ったんだ?
26章 episode 2 湯河原を訪れた杉浦
◆ 杉浦はヒロに剣道を勧めようと来てみたが、チャンプが父かと驚いた。
冬休みが終わろうとする冷たい朝、杉浦はふらりと現れた。
「おじさん、ホントに来てくれたんだ、嬉しいなあ! お風呂に入る前に僕の秘密基地に連れて行きたいけど、行く?」
急な山道を登ると、瀬川と橋本が稽古していた。しばらく眺めていた杉浦は、
「しばらくだなあ、橋本、強くなったな。見直した」
振り返った橋本は、その見物人に驚いた。大師範……
「毎日稽古しているのか。もともと筋は確かだったが、ひろと君が言うように惚れ惚れする美しさだ。瀬川も上達したなあ」
「えっ、おじさんは友達なの? あのね、僕んちには道場もあるんだよ。そこの先生になりたい?」
「ヒロ、この方は僕らの先生だ。それも雲の上の人だ」
「雲の上? わかんない。こっちだ、僕の基地はさ。近道しようよ」
屹立した崖を蔦を頼りによじ登り、大岩に抱かれた小さな凹みに案内した。眼下の相模湾を一望すると、冷たいが爽快な風に打たれた。遠く霞んで小舟がのんびりと浮かんで見えた。
命の洗濯が出来そうな眺めだ。ここで育ったこの子が羨ましく思えた。雨に濡れない凹みの中にはたくさんの本と水やお菓子が積まれていた。秘密基地か、懐かしいなあ。荒川流域で育った杉浦は、流木を集めて河原に隠れ場所を作った少年時代を思い出した。
オープン前に杉浦がヒロと風呂に浸かっていると、客人の訪れを知った酒井が駆け込んで来た。
「そうか、ひろと君のお父さんは世界チャンプの酒井さんですか。それは残念だな。実はひろと君に剣道を勧めようと考えていたが、悔しいなあ。
稽古を眺めたひろと君の眼力は確かだった。しかも剣道は習っていないと山本から聞いて驚いたが、わかりました。酒井さんと瀬川と橋本を見て育った子だから、わかるのだろう。本物を見ることは大切だと教えられました。真贋を見極められるんだなあ。ひろと君、あの足運びは誰が教えたのかい?」
「ニイニイを見て知ってたけど、ケンニイが遊んでくれたからしっかり覚えたんだ。あとで道場に行こうよ」
ヒロに引っ張られて道場に着いた。
いい道場だなあ、1階が空手と柔道か。杉浦は子供たちを教えている瀬川を見学し、2階の剣道場を覗いた。ロックミュージックを流して、橋本は返し技を教えていた。そうか、こんな指導方もあるのか。山本はここで鍛えられたのか。ふと、杉浦は違和感を感じた。山本の父親は警察柔道では有名な男だが、息子は剣道を選んだ。そうか、ひろと君も水泳選手になるとは限らないぞ。まだ望みはあると思ったら嬉しくなった。
「おじさんは剣道の先生でしょ、ニイニイより強いの?」
ヒロが不思議そうに訊いた。
「強くはないけど永いことやってるんだよ」
「それで楽しい?」
「楽しくない!」
「だったらさ、やめちゃって他のことやればいいよ。どうして大人は楽しくないことを続けるんだろう、わかんないや!」
そうだな、俺もそろそろ潮時か。この前はひろと君の足について行けずに息切れした。まだまだ若いと自分に言い聞かせたが、そうではないな。いい終わり方をしたいものだ……
昼過ぎて稽古の子どもたちが帰ったのを見て、杉浦は橋本に手合わせを頼んだ。
「はい、私こそお願いします」、橋本は床に額を付けた。
階上の気配に気づいた瀬川が静かに階段を上がると、杉浦と橋本が立ち合っていた。ヒロは背筋を伸ばして正座し、瞬きせずに真剣な表情で見ていた。
一方、昼ごはんに戻って来ない客人とヒロはどこに行ったのかしら? 道場かな? 舞美は酒井に連れ帰ってと頼んだ。
道場に入ろうとした酒井はただならぬ殺気を感じ、もしや、杉浦八段が橋本と勝負か? 足音を忍ばせて2階に上がると、カウント出来ない時空が流れていた。
両人とも睨み合ったままほとんど動かない。シビレを切らした杉浦は、橋本が上下に小刻みに振ったのを確認して飛び込んだが、鋭い突き打ちに合い、竹刀は宙に舞った。そのとき瀬川が「勝負あり!」と声をあげた。
26章 episode 3 ヒロの説教
◆ 励まされた杉浦は、己れを鍛え直すと密かに決心した。
杉浦は、年齢を重ねるごとに辛抱が続かない、動かない時間を重く感じることを自覚していたが、橋本の誘いに簡単に乗って突きのめされた。
「負けたよ。橋本、お前は何段だ?」
「五段ですが段位は関係ありません。本日はありがとうございました」
再び、床に額を付けた。
ヒロと目があった杉浦は、
「ひろと君、見ていただろう。負けたよ」
「おじさんはもっと強いはずだ。でも、何だか焦ってた。そうでしょ?」
「うーん、そうかなあ。ひろと君にいいところを見せようとしたのかなあ」
「そっか、そうなんだ! おじさん、ドンマイ、ドンマイだよ。ニイニイよりおじさんの方が強いはずだ。だけどさ、疲れてた。そうだ! 明日さ、僕と泳ごうよ。だから今日は僕んちへ泊まってよ」
ヒロのおしゃべりに大人は口を挟めず、呆れて見ていた。
杉浦に瀬川や橋本が加わり、海の幸が盛りだくさんの宴会が始まった。20年前の師弟は剣道談義に花が咲き、
「今日は橋本から有構無構(うこうむこう)を思い知らされた。俺がこう構えたら絶対に負けないと慢心していたようだ。そして、気剣体の一致などと偉そうなことを教えた自分が恥ずかしかったよ」
「だけどさ、おじさん、負けるのも勝ちなんだって知ってる?」
酒井は慌ててヒロの袖を引っ張って、黙らせようとしたが、
「教えてくれるかい? どういうことだ」
「うん、いつもパパが言うんだ。負けても次に勝てるように頑張りなさいって、神様が負けさせるんだって。よくわかんないけど、多分、さっきの負けはそうだ。気にしないことだよ。あのさ、何もしないで後悔するより、失敗してもいいから何かやらなきゃダメだって。動け、動いてみろ、それからだってさ」
あーあ、舞美の説教グセがヒロに伝染したかと嘆いたとき、レイが帰って来た。
「ケンニイからヒロにチョコもらったよ。有名な店なんだって」
「えーっ、姉ちゃんはケンニイとデートしてたんだ。恋人になったの?」
「バカ!」
レイはポコンとヒロの頭を叩いた。
杉浦はそのやり取りを見ていた。ひろと君は年が離れた兄や姉と育ったから、観察眼は大人並みだ。だから俺の迷いや焦れた心を見破ったのか。面白い子だなあ。脇目を振らず剣道一筋で生きて、家族すら持たなかった気持ちが少しブレた。
翌朝、酔っ払って気持ちよく眠っている杉浦を、ヒロが起こした。
「アサレンの前に山に行くんだ。行こうよ」
山に連れられると、高い木の枝に棒が何本もぶら下がっていた。
「見てくれる、これを切るんだ。やっと出来るようになったんだ」
ヒロは飛び上がって木刀で棒を落としたが、棒を縛っている紐を切ったと知った。今の俺にこれが出来るだろうか…… 早足で山へ向かうこの子を追いかけるだけで背一杯だった。
朝食が終わると、杉浦はプールに連れて行かれた。プールなんて何十年ぶりだろう?
「おじさんは泳げる? 僕が教えてあげるよ」
杉浦の泳ぎを見たヒロは、「水に逆らってる、力の入れ過ぎだ。それじゃ疲れるだけで進めない」と、力を入れない正しいフォームを教え始めた。酒井は呆れ過ぎて眺めていた。
ヒロの指導が上手いのか、杉浦はリキまずに泳げるようになった。
「ひろと君、水泳を習ったのは生まれて初めてだよ。ありがとう、嬉しいなあ! 酒井さん、お願いがあります。己れに負けそうな心を鍛え直そうと思います。あのバタフライをひろと君と見せていただけませんか」
「ヒロ、行くぞ! オレは本気だ。オマエも本気で泳げ!」
父子鷹はプールの水がザブンザブンと溢れるなか、力泳した。
杉浦は生涯で得たものと失ったものを心に浮かべ、睨みつけて凝視していた。朝の点検に来た瀬川は、大師範でも迷いがあるのかと知った。
「ひろと君、楽しかったよ。友だちになってくれないか」
「いいよ、スギちゃんだね。僕はヒロだよ、また来てね」
杉浦は何度も振り返ってヒロに手を振り、帰って行った。
東京に帰った杉浦は、気力の充実には心身を鍛え直すことだと、即刻スポーツジムへ入会し、自宅にも筋トレマシンを入れた。あの子からいろんなことを教わった、考えさせられたなあ。今は水泳を頑張っているが、剣道は中学生から始めようと問題ない。あの子は剣道で云うところの眼力、脚力、胆力、体力はすでに備わっている。あの子を教えたいと思った。
警察道場の壁には『一眼・二足・三胆・四力』の額があった。
後日、橋本に「お前の実力は七段以上だ。警視庁に戻って師範にならないか」と誘ったが、「せっかくのお話ですが、お断りさせてください」と言った。なぜだと食い下がると、「瀬川先輩と一緒に、子供や学生を教える毎日が楽しいです。そしてこの町と人が好きになりました」と笑った。
そうだな、あそこはいいなあ、桜田門に戻って頭が痛くなる人間関係や世俗のチリアクタに囲まれるより、俺もあそこで暮らしたい、橋本の気持ちがわかった。
26章 episode 4 泳いだ後に考える
◆ 谷川はヒロを教えることが楽しかった。
やがて厳しい冬が居座った。伊豆は温暖な気候だが日蔭では霜が溶けず、吐く息が凍りそうな日が続いたが、ヒロは毎朝山に通った。お目当ては瀬川と橋本の寒稽古だ。そもそもはヒロに見せようと始めたものだが、負けず嫌いの二人はいつしか夢中になっていた。まったく手加減なしの求道者同士の稽古は凄まじいものがあった。
平常心で挑むと橋本が勝ったが、わずかな気の緩みを突かれてコテンパンに打たれて転がった。それをヒロが見ていたが、物陰に潜んで酒井も見ていた。
二人の稽古が終わると、ヒロはそろりと姿を現して、今見た動きを一人二役で繰り返した。悟られぬように隠れて見ている酒井の不安は、日毎に膨らんで行った。
ヒロは山から戻るとプールでがむしゃらに泳いで学校に行った。
酒井が全力で泳げと言うと、全国レベルのタイムを出すが、アイツの心には水泳はないのかも知れない。今は剣道に進もうかと自分に問いかけているに違いない。剣道のケの字も言い出さず、黙々と練習に挑むヒロを見ると胸が痛んだ。
ある日、宿題を見てもらいながらヒロは谷川に訊いた。
「先生はね、本当は子供を診察するお医者さんでしょ? 子供をよく知ってるんでしょ、だったら、教えてください」
「そうだよ。専門は小児科医なんだ。ヒロくんどうしたんだ?」
「あのね、僕はみんなより早く大きくなったから、勝てたんだ。でも、みんなが僕と同じ大きさになったら、僕は負けるかも知れない。だからチャンプになれるかわからない。それでパパに話そうかと迷ってる」
「僕の予測では、ヒロくんはパパぐらいになると思うよ。骨盤がしっかりして腰回りが太いから、背は伸びる。だがヒロくんがトップタイムを出したのは、水泳の練習だけじゃなくて、山で木刀を振り回してるだろう、あれで背中の筋肉が鍛えられたんだ。決して体が大きいだけじゃないよ。
パパに何を言いたいのかな? 僕に教えてくれないか。ヒロくんは本当に水泳が好きかい? ずっと泳ぐのか、よく考えてごらん。誰にも言わない、内緒にするから僕に教えてね」
「好きだけど飛び抜けて好きじゃない。水泳はタイムだけなんだ。ニイとニイニイの試合のように、相手が目の前にいるのがいいなあと思う。でもさ、野球やサッカーは嫌いじゃないけどやりたくない! あれってさ、誰かがミスったら全員でウサギ跳びしてグランドを周るんだ。だから僕はしない!」
「ふーん、そうなんだ。ヒロくんは今年も大会に出るのかな?」
「うん、出るよ。パパみたいにずーっと泳ぐかわからないけど、自分の力を試したい、今年はマジメに泳ぐんだ」
「そうか、自分に挑戦するんだね、応援するよ。青木がね、ヒロくんみたいな息子が欲しかったと言ってたが、僕もそう思ってるよ」
どうやらヒロは連帯責任の集団スポーツは嫌っているようだ。個人のミスがなぜ全員の責任になるんだ? ミスした本人が萎縮するし、イジメに発展するケースもある。考えてみれば、全員にペナルティを課すのはおかしな話だ。だから誘われても加わらないのか。しかし、自己タイムと孤独に向き合う水泳より対人競技がしたいのか、ヒロの考えがよくわかった。
「剣道や空手はヒロくんのように鍛えた体格なら、中学生から始めても十分にスタートラインに立てるよ。焦らなくていい。今年も泳ぐのなら全力で泳いでごらん、パパはわかってくれるよ」
「先生、僕は全力で泳いでから考えてもいい? 遅くないよね?」
「そうだね、遅くないよ。それからさ、学校の授業はどうだい?」
「うん、先生が教えてくれるからよくわかるよ。ラクラクだい!」
「そうかい。いつでも勉強においで。ヒロくんに教えている時間が僕はいちばん楽しいんだ!」
「へーっ、だったら来るよ。先生、ありがとう!」
谷川は教師用の指導書を手に入れていた。4年生のヒロを教える時に、小5や小6で学ぶ考え方を根底に置いて、わかりやすく解説した。塾の経験がなく手垢がついてないヒロは、奇想天外な質問をすることがあるが、谷川が面白おかしく教えると砂に水が染み込むように吸収した。
26章 episode 5 盛りの夏
◆ 勝負は勝たなきゃ! 負けるものかと奮い立った。
ヒロの夏がやって来た。ひとまわり大きくなったヒロのコンディションとタイムは問題ない。背丈は舞美を抜いた。
「アイツはガンガン泳いでるが、あれでいいのか?」
「ヒロがその気だったら、いいじゃないの。イヤになったら大輝に言うでしょ、ほっとけば」
「おい、そう簡単に言うな。アイツは何か怪しい。オマケに最近はズル賢くなって本心をなかなか見せない。オレは不安なんだ。本当にヒロは泳ぐのか?」
「しっかり泳ぐでしょ、私に訊く前にヒロに確かめればどうなのよ」
「冷たいヤツだなあ。オレは心配でしょうがない。何も考えなかったガキの頭と心が成長するのか、だんだん生意気になって難しい年頃になるのか、あーあ、ため息が出る」
「何を言ってるの、まだまだ可愛いわ。大変なのはこれからよ。ため息ついてる場合じゃないでしょ」
7月の神奈川県大会は、昨年同様にバタフライと自由形にエントリーし、他の選手を寄せ付けない圧巻の泳ぎを見せて優勝した。
大喜びで抱き上げた酒井に、「僕は頑張る、そう決めたんだ」と笑った。
その後もヒロの日課は変わらず、朝は山へ入って瀬川と橋本の稽古を眺め、その動きを模写して竹刀を振り回して騒いでいた。
違う! 左だ、もっと突け! 声は出せないが橋本はじっとヒロの観察を続けた。大師範の願いと同じで俺もこいつが欲しいなあ…… 女に飽きかけた橋本はヒロに惚れたように見えた。
ヒロはタツミの切符を手にした。
酒井は猛特訓するのかと舞美は思ったが、練習は毎朝1時間で終わった。10歳の息子に長時間の負荷をかけたくなかった。時間を制限して全力で泳がせ、パワーを全開させたい! そうだな、父と子では息が詰まるだろう、泳ぐ仲間が必要だ。休みは大学のプールに連れて行った。会うたびに成長してタイムを伸ばすヒロを部員は羨ましく思った。
10月、家族やおっさんズの声援を受けて、ヒロは「全日本ジュニア水泳大会」に出場し、予選と準決勝をスイスイ通過した。
いよいよ決勝だ。東海大水泳部の大旗が何本も翻り、自由形決勝が始まった。スタート台に選手が並んだが、ヒロは昨年の優勝者とバチーンと目が合った。去年はアタマひとつ自分が大きかったが、アタマ半分まで迫まられたのに気づいた。負けてたまるかー! ヒロは大きく頰を叩いて、本気になった。
酒井はドクンドクンと早鐘が打つ胸の内を隠し、息を殺して見守った。
40m付近でデッドヒートを展開したが、ヒロは慌てなかった。追い上げられて横に並ばれたが、動じずに攻めの泳ぎを続け、文句のつけようがない1位でゴールインした。
1時間後のバタフライ決勝は、スタートから飛ばしたヒロは2位を大きく引き離して、無敵のまま1位に輝いた。去年は若鷹が大きく羽ばたく泳法だったが、今年は脇目を振らずに一直線に獲物を追い詰めるシャチを想像させるフォームだった。誰の目にも世界チャンプJr.に間違いなかった。
非の打ちようがない力泳を見せつけられた青木は、谷川に尋ねた。
「あの子はやはりスイマーになるのか?」
「いや、そうではない。今年は真面目に泳ぐと言っていた。それがあの結果を引き出した。先のことはわからないが、ヒロはスイマーよりも確かな道に進ませたい。お前は薄々勘づいているが、俺はあの子を医者にしたい。打てば響く子だ、スイマーに限定したくない。勿体ない!」
「しかし、酒井くんが納得するか? 彼の夢はさらに加速したはずだ。弁護するつもりはないが、酒井くんは単純な水泳バカではない、常識と見識を持つ立派な人だ。今日の泳ぎで悩みそうだなあ、同情する」
「半年ぐらい前から、酒井くんはヒロの興味が水泳にないことに気づき始めた。ヒロは相手と対面する競技がしたいと俺に打ち明けて、瀬川くんと橋本くんの練習試合を毎日覗いている。もう1年以上だぞ。父親の気持ちと期待を知ってるから水泳を続けているが、本人は不安を感じている」
「あんなに速いのに不安があるのか?」
「今は年齢別のグループで出場しているが、同年齢の子より体が大きいから有利だ。それをヒロはわかっている。しかし、17歳か18になると成人の完成したスイマーと競うことになる。その時に勝てるかどうかだ。そう簡単にはチャンプになれないだろう。酒井くんが世界チャンプになった時代とは大きく違う。鍛えた体で根性出して頑張る時代ではない。ヒロは大きくなるが酒井くん程度だろうと推測する。世界で戦うには190㎝以上が必要なんだ。無理だ。
俺はヒロが水泳しようと剣道やろうとどうでもいい、医者にしたいと思っている。そのうち自分で決めるだろう。楽しみだ」
谷川の熱弁に青木はついて行けなかった。ヒロは元気でワンパクな普通の子でいいじゃないか、医者にならなくてもと思った。
「ヒロは頭がいいのか? 医者なんて誰にでもなれる職業じゃないぞ」
「ひとつ訊くが、俺は頭がいいか?」
「そうだな、特別いいと思ったことはない! マークシートが得意で、スロットがセミプロだったな。忘れてない、よく金を借りた」
「そうだろう。博士になった舞美ちゃんだってそうだ。才女ではないが、目標を決めて一直線に走った」
うーん、そうか、青木は黙り込んだ。
26章 episode 6 チャンプJr.の余波
◆ 酒井は決断の時期を知った。
東海大水泳部員に胴上げされるヒロの映像は、夜のスポーツニュースで「世界チャンプJr.、驚異のタイムで2種目優勝!」と紹介された。
「おめでとうございます」とマイクを向けられた酒井は、「ありがとうございます」と述べただけで、「どのような指導をなさったのでしょうか」などの質問に一切応じず、深々と頭を下げ続けた。
観戦していた兄二人は、ヒロの気持ちが薄々わかったが気づかない振りして、「速いなあ! 凄かった、頑張ったな!」と讃えた。「うん、当たり前だよ!」とヒロは笑ったが、こいつは何か考えているなと直感した。
ケンがひょっこり顔を出し、ヒロを抱き上げて讃えた。酒井が声をかけようと近づいたが、左手で杯を傾ける仕草をし、シンとリョウを連れ去った。
湯河原に戻る車中で、酒井はぐっすり眠っているヒロを見て、今年はホントに本気で泳いだな。負けたくなかったのだろうが、来年も泳ぐとは限らない。不安はいっそう膨らんだ。
本宅に着くと、満面の笑顔で町長と校長が出迎えてヒロを賞賛した。そのうち町民が続々と飛び入りして、広間で祝賀会が始まった。
「よくやったね、おめでとう! 姉ちゃんは嬉しいよ!」
ヒロはレイが作った大きなお好み焼きを頬張って、
「聞いてくれる? 去年は小さかった子が大きくなってたんだ。それで負けるもんかと思った。レースは負けちゃダメなんだ。僕さぁ、少しは水泳が好きになったよ」
「でも、無理しないでね。やりたかったら頑張れ! だけど我慢して続けちゃだめだ、パパが悲しむよ」
「どうしてさ?」
「パパのために泳いでると知ったら、パパはツライ気持ちになるんだよ。ヒロはやりたいことをやればいいよ、わかった? 泳いでも泳がなくても姉ちゃんはいつも応援してるんだ、わかったか」
滝田から祝福の電話が届いた。
「酒井、おめでとう! 今年は凄かったな。セガレに迷いがなかった。さすがお前の子だ。あとはあの子の気持ち次第だ。この瞬間に親子鷹が終わっても後悔しないように、可愛がれ!」
滝田は豪快に笑った。
滝田さんの真意は何なのかと酒井は考え続けたが、まったくわからなかった。バズーカ乱射で気持ちよさの世界に浸っている舞美を抱きしめて、
「おい、眼を覚ませ、話がある。ヒロはいつまで泳ぐんだ、来年も泳ぐのか? オレは不安だ」
「あ~ 寝かせてよ。どうしたの大輝? 今さぁ、いつまでとか言ったぁ? 大輝は自信がないのね、そんなこと私がわかるわけないでしょ。ヒロはヒロで考えるわ。バーカ!」
再び眠りに堕ちた舞美に執拗に愛撫を続け、抱きしめて尋ねた。
「起きろ、頼むから教えてくれ。オマエは子育てのベテランだ。豪胆なシンと秀才のリョウを育てたオマエならわかるだろう、ヒロは何を考えてるんだ? 教えろよ」
「ちょっとぉ、何を考えてるかなんてビクビクしないでよ! 大輝はパパでしょ、ヒロをスイマーにしたいのは勝手だけど、水泳だけに専念させようなんて考えないでね。それは贅沢な夢だわ。
知ってる? 時代はすっかり変わったことを。ナショナルチームは、選手のコンディションや指導法をDX(デジタルトランスフォーメーション)に委ねるらしいわ。そうね、選手はAIに管理されるサイボーグなの。ヒロはチャンプの子だから、期待されてサンザンいじられるわ、でも大輝は手が出せない。それでもいいの? ヒロがホンキで泳ぎたいと決めたらサイボーグのヒロを応援するけど、大輝の覚悟はどうなの?」
「なぜそんなことを知ってるのか?」
「ウチの水泳部顧問で水連理事の山中先生から聞いたの」
DXでサイボーグか…… あの野生児がサイボーグに甘んじるはずはない! 破壊されるだけだ。
滝田さんの『親子鷹が終わっても後悔しないように』のセリフが頭に蘇った。日本水連を暗示したのか。トップタイムを叩き出しても、水連に天下りした素人のジジイやババアがナンダカンダと難クセつければ、エントリーすら出来ない。そこは澱んだ政治と同じ世界だと、薄々は感じていた。
また、ヒロのエントリーに異論があることは知っていた。学童の場合はスイミングスクールを通してエントリーする決まりだ。つまり、海や川で練習した泳ぎが達者な子がいても、出場資格がないということだ。そして、チャンプの子だから特別待遇かと批判する声も聞いていた。
26章 episode 7 親父の決断
◆ 息子の将来を考えた酒井は、父子鷹の限界を知った。
ヒロは全国大会で優勝したことなど忘れたように、朝は山を走り抜け、瀬川と橋本の朝稽古を眺め続け、アサレンを続けた。
この秋、橋本は合格率15%と云われる剣道六段に昇位した。
一方、酒井はずっと考え込んでいた。酒井のもとには、東京や横浜のスイミングスクールから、特別コーチや顧問の依頼が相次いだからだ。
オレを広告塔にし、ヒロを名目上はスイミングの生徒にしてエントリーさせる腹か。好タイムを出せば、大きな宣伝になる。だが、もしトップスイマーになったらDXに管理され、オレは指導できないだろう。今まで自由に泳がせた、一度も強制したことはない。ヒロはサイボーグになれない、反抗するだろう……
滝田さんに話を聞いてもらおうかと思ったが止めた。オレはヒロの親父だ。情けなくてそんなこと出来るか! 明日のポジションが見えないスイマーより、シンと同じようにきちんと就職させて、普通の社会人にしようと考え始めた。オレが輝いた時代とは違う! 複雑怪奇な水泳界にヒロを陥れたくない。そう決めたら心が楽になった。依頼を受けたスイミングスクール全てを丁重に断った。
酒井はリョウに気持ちを伝えた。日本水連の内情と方針を説明し、
「簡単に言えば、オレが東海大の選手を大会にエントリーするのは問題ないが、どのスイミングにも所属してないヒロのエントリーは容認できないという動きがあるらしい。まったく汚い欲がらみの世界だ。タイムだけでエントリーは出来ないんだ。
ヒロが泳ぐと言えば小学生までは泳がせるつもりだが、そこまでだ。中学、高校生のヒロを不幸にしたくない。もし、ヒロにスイマーの才能や素質があったとしても、ヤツはDXに管理されるサイボーグには不向きなガキだ。オレは目が覚めた。今までヒロには一度も練習を強要したことはない。甘やかしたと言われるとそれまでだが、命令して泳がせたくなかった。ヒロはオレの気持ちと期待を知っていた」
静かにリョウは聞いていたが、「ママは何か言ってる?」と訊いた。
「ママは心配しながら、そんな素振りは見せずに旨いメシを作っている。アイツはヒロをトコトン信じてる。オマエらを信じたのと同じだ」
「パパはそれでいいのか?」
「オレはヒロのコーチではない、オヤジだ、父親だ。ヒロの心と体と将来がいちばん大事だ」
5年生になってもヒロの日課は変わらなかった。アサレンの前に山へ入り、戻ると1時間は泳いで学校に通った。兄たち同様に生徒会の役員を引き受け、夕食後は宿題や問題集を抱えて谷川の家へ毎日出かけた。その成果か、通知表は音楽以外はリョウと同じ評価が並んでいた。
一段と逞しくなったヒロの夏が来た。
今年の泳ぎは、県大会は向かうところ敵なしで全日本に進んだ。自由形決勝はラストスパークの差を見せつけ、若きコンドルの羽ばたきを披露したバタフライは圧勝を飾った。そのうえ、酒井がジュニア時代に記録して以来破られなかったレコードを更新した。東海大水泳部員は狂喜して、「ヒロ! ヒロ!」とコールした。
観客席に翻る東海大学の大きな校旗が目障りだったのか、水連からレースの後に酒井は注意を受けたが、
「彼らは大学の水泳部員で、応援に来てくれました。監督の息子が泳ぐので応援してどこが悪いのですか! 誰が誰を応援しても歓迎すべきことです。声援や応援が選手にとってどれだけ励まされるかご存知ですか? 水に入ったことがないあなた方はわからないでしょう!」
酒井は大声で告げ、水連の役員を睨みつけて立ち去った。
それを東海大学の学長が聞いていた。歴史が浅いわが大学は私学助成金を筆頭に、教育やスポーツ面において不条理を感じることがある。卒業生が政府の中枢、行政機構や監督官庁に少ないからだ。もし、泉谷議員が健在であれば、酒井先生は水連の常任理事だろうが、チャンプJr.は誕生しなかった。わが大学とも縁がなかった。わからないものだ、人の世は捩れて捻れたスパイラルだ……
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