21章 再生の時間
21章 episode 1 酒井の再接近
◆ キャプテンルームの酒井は、舞美の気持ちがわかった。
2月のある日、酒井から瀬川に電話があった。
「お世話かけて申し訳ないが三島市に葬式に行くんで、明日そっちへ泊まらせてもらうことになった。奥方の許可はもらった。本宅のどこを使ってもいいそうだ。ドライバーに学生を同伴する。ああ、奥さんに面倒かけたくないので、山ほど食い物は持って行くから気にしないでください。いいだろうか? 聞いてもらいたい話がある」
「いいも悪いも舞美さんのお許しが出たんでしょ。ここは平穏すぎて退屈してます。待ってますよ」
言葉どおり、たくさんの食べ物と酒を持って酒井は現れた。
「聞いてくれるか。オレは顔を洗って出直して、思いっきりブチュしたら、キン蹴りはなかったが泣かれた。アイツさ、ここへ来た時はよく星を見ているらしい。やたら星に詳しくって、オレは泣いてしまった。あれは夫を亡くした悲しみじゃない、自分を責めて、孤独な心が凍りついたままだ。士郎さんはこんなにアイツを傷つけて、勝手に死んでしまったのかと思うと腹が立った」
「タエは舞美さんの気持ちがわかると言って、士郎さんのあの結末は絶対に許せないとまだ怒ってます。僕もそう思いましたが、タエと暮らして考えが少し変わりました。白血病に罹った自分について行こうとした時に拒絶したら、舞美さんを不幸にしなかったと、後悔したのではないでしょうか。再発や再々発に怯え、苦労をかける人生に巻き込んだ自分を、責めたと考えました。それでズルズルとああなったと推測したんです」
「しかし、過去を後悔しても時間は逆回りできないぞ、しかも3人も子供がいるじゃないか、それは無責任な考えだ、現実逃避だ! オレは藤井の悔しさがわかる」
「いちばん悲しいのは、舞美さんは士郎さんからあんなに愛されたことも封印してしまったことです」
珍しくタエが口を挟んだ。
「確かに士郎さんはベタ惚れだったが、アイツは不安な顔をしていた。人を愛して愛されても、それはひとときのことで、人の心は移ろい消えて行くと言っていた。男に走った母親のせいだ。とんでもないことをしてくれたよ。アイツはあんなに本気で愛された時間まで捨てたのか? まだ心は泣いているのか……」
「それで酒井さんは諦めるんですか?」
「オレが諦めたら誰がアイツを正気に戻すんだ? 残された時間は少ない。よし、頑張るぞ! 目標が出来た!」
へっ? 瀬川とタエは顔を見合わせた。
夜も更け、酒井と学生をここがゲストルームですと案内すると、「ちょっと待て、確かここはアイツらの部屋だったはずだ。そんなとこにオレは泊まりたくない」と酒井は嫌がったが、「そう言わずに」とドアを開いた。
そこはビジネスホテルと同種の無機質な空間が広がっていた。これは? 驚いた酒井を無視した瀬川は「お客さまのためのスペースです。何を驚いているんですか?」と笑った。夫婦の寝室は見事に消失していた。ふーん、ここまでやったか、アイツめ!
「こっちはどうです? 舞美さんの部屋ですが、別名キャプテンルームといいます」
「キャプテンルーム?」
「そうです。『私は難破船の船長なの。ここを使うわ』と言いました。とにかく中を見てください。僕はしばらく使わせてもらいましたが、寝具はすべてリセットされてます」
酒井は部屋に入ってまたもや驚いた。ここはコックピットだ! 窓からの景観を食い入るように見つめた。家具は全て昭和初期の西洋家具で、新しいデスクトップパソコンがちょこんと置かれていた。ここでアイツは寝るのか……
「瀬川くん、オレはここを使わせてくれ。オトモはゲストルームだ」、瀬川は笑って、いい夢を見てくださいと帰った。
窓から見える大海原に魅了された。漁場を目指して漁船が隊列を組んで出航して行く。漆黒の海にすーっと白い波筋が立つ。流れ星がはるか彼方に落ちた。時間が経つのを忘れて眺めていたが、どうもパソコンが気になった。電源を入れると、「ようこそ、チャンプ!」のタイトルでメールが届いていた。
『ナイスバディ、ようこそキャプテンルームへ。気に入りましたか? 今の季節は空気が冷たく透き通っているので、星も綺麗ですが朝日が最高です! どうぞお楽しみください。Good night, Nice buddy』
くそーっ、アイツめ、オレは Nice husband になりたいんだ! だが待てよ、少しは元気になったか?
翌朝、世話になった礼を言おうと立寄ったら、
「よく眠れましたか? あの部屋はオーシャンフロントなんです、海に迫り出してます。凄い眺望でしょう」
「うん、そうだが、アイツはここで何を見て、何を考えるかと思うとよく眠れなかった」
「舞美さんはここに越して、4月から大学に通います」
「そうらしいなあ。日帰りは無理だ、あの食堂に泊まるのか?」
「士郎さんが議員になるまで使っていた調布のマンションです。橋本から聞きましたが、リニューアルされて、学生の部屋のようだと言ってました。酒井さん、チャンスはそこでしょう」
「そうか、ありがとう。そこに泊まって仕事に行くのか。そうだ、あの小利口なガキに夏休みにオレんとこへ来いと伝えてくれ。地獄の特訓だと脅かしとけ! 世話になった、ありがとう」
21章 episode 2 湯河原の春、心機一転
◆ 父親参観日に3人の父が集合した。
春休み、舞美たちは湯河原に越して来た。人々が手伝いに待ち受ける中、4トンロングのトラックが1台停まったが、荷物の少なさに驚いた。あっという間に引っ越しは終わった。
新学期が始まり、1年生、3年生、5年生の都会っ子を迎えて緊張ぎみの校長に、「この子たちの父はいません。父親の代わりに厳しく叱ってください。お願いします」と頭を下げた。
舞美は火曜日の夜に新幹線で東京へ向かい、2泊して木曜日の夜に戻るローテーションを採った。藤井はどこへ泊まるのかと心配した青木は、隠し部屋の存在に驚いたが、おっさんズは訪問のチャンスを狙った。
一方、子供たちは新しい生活環境に、それぞれの個性で挑戦した。
シンは生徒会の役員に推され、動じることなく副会長の役を受けた。教師が驚いたのはリョウの秀才ぶりだった。教師の間違いを指摘して黒板に正しい答を書いた。生意気だと上級生からイジメのターゲットになったが、シンがいつも庇った。全児童数500人足らずの小学校では、イジメがあればすぐわかる、父兄の目が光っていた。瀬川と橋本は子供たちがイジメに遭っていないか神経を尖らせたが、大きな衝突はなかった。
華奢で色が白くて目が大きく、アニメのヒロインのようなレイは男児の憧れの的で、毎日上級生が送り迎えした。「お兄ちゃまをイジメたら、アタチが許さないわよ!」と、6年生のガキ大将にタンカ切ったのを耳にした瀬川は、レイは舞美さんそっくりだと笑った。
瀬川はシンに訊いた。
「シンがリョウを守ってることは知ってる。どうだ、リョウはここでやって行けそうか?」
「うん、リョウは頭がいいんだ。東京ではそんな子が必ずいたけど、ここでは目立ち過ぎる。僕の宿題を簡単に解くんだよ。だけどケンと約束したんだ」
「どんな約束だ?」
「パパの代わりに長男の僕が家族を守ることだよ」
「シンはみんなを守るのか?」
「そうだよ、当たり前だよ。それで、ニイからもっと空手を習いたい、続けたい」
「ちょっと待て、みんなを守るために強くなりたいのか?」
「ううん、そうじゃない。ニイのようになりたい。柔道も教えてくれたけど、空手が好きなんだ」
「教えてもいいけど、もうすぐシンは12歳だ。戦国時代の若武者は15歳までに初陣したそうだ。シンの年齢は戦で死なないように命がけで鍛錬する時期だ。そう考えると大人に教えるのと同じくらい厳しくするがいいか?」
穏やかな陽光と暮らして、緩やかに子供たちは成長途上だった。
5月の母親参観日は舞美が3人の教室を駆け巡ったが、6月の父親参観日は大学の行事で参加できない。瀬川と橋本に参観を頼んで東京へ向かった。
参観日、瀬川と橋本の若いお父さんコンビは児童の注目を浴び、茶髪にピアスの橋本を女児はアイドルを見るようにうっとり見とれた。
そこに、「悪い、悪い、遅くなった」、ドタバタと酒井が慌てふためいて走り込んだ。
ちょうどリョウが黒板で説明していた。50円玉と100円玉がそれぞれ何個あるかという問題だ。
「これはツルカメ算で考えた方がわかりやすいです」と式を書こうとした時、教師が「ツルカメ算は4年生で学びます」と、中断させようとした。
「リョウ、続けろ。オレはそこでつまずいた。教えてくれ!」、チャンプが大声で言った。児童はいっせいに後ろを向いたが、リョウは淡々と解説を続けた。
「そうか、やっとわかったぞ! こう教えてくれたらオレは算数嫌いにならなった。みんなもそうだろう? わかった子は手をあげて」
ハーイとほとんどの子が手を挙げた。瀬川と橋本は顔を見合わせて、あーあ、小さく笑った。
21章 episode 3 舞美の不調
◆ 疲労の蓄積か、キャプテンが倒れた。
瀬川が舞美にその顛末を電話すると、「えっ、酒井さんが? 聞いてませんけど」と大笑いした。
「やっちゃいましたねぇ。でも正しいことです。リョウによくやった! ママは喜んでたと伝えてください。会議が終わったら酒井さんに連絡しますけど、参観日を教えたのは瀬川さんでしょ? あの子たちは刺激が必要です。ありがとうございました」
「舞美です。お疲れさまでした。リョウを応援したんですって?」
「いやあ、応援はしないが感心した。リョウはなんてやつだ! オレがわからなかったツルカメ算をスイスイ解くんだ。それでオレはやっと理解できた。ガキの頃にあんなヤツと友達だったら、オレはもっと勉強したのにと後悔した。シンは『父の思い出』とかいう作文を真面目くさって発表していた」
「どんなこと、読んでました?」
「えーっと、亡くなった父からママを頼んだぞって言われたから、弟と妹を守ってママを幸せにするとか言ってた。教室はシーンとしたが、あれはウケ狙いの作文か? 成績ではリョウに負けるだろうが、周りを見る触覚は確かだ、呆れたよ。それからな、レイちゃんは、後ろ向いてオレたちにピースサインして、アホ教師に何度も注意されてた」
「士郎さんは父親参観日に行ったことがないんです、いくら頼んでもダメでした。経験がないから、親に来て欲しい子供の気持ちがわからないままでした」
「そうか、今日は悪いことしたな、ごめんな」
「いいえ、そんなことありません。あの子たちは嬉しかったでしょう。でもパパじゃないパパが3人も参観してくれたなんて、嬉しいです!」
舞美は楽しそうに笑った。
前期授業の最終日、「会議があるので、帰りが少し遅くなるかも知れません」、そう言い残して舞美は大学に向かったが、午後8時、青木から瀬川に連絡が入った。
「青木です。藤井は会議の途中から気分が悪そうで、気になったので東京駅まで送ろうと車に乗せましたが、どうも熱があるようです。あの子の調布のマンションに運びたいと思いますが、住所を教えてくれませんか。藤井は脂汗を浮かべてます。谷川を向かわせます」
瀬川は調布の住所を告げて、
「橋本はこれから調布へ行ってくれないか。舞美さんが熱を出したらしい」
舞美を部屋に運び入れてベッドに寝かした時、舞美は気がついた。
「すみません。お世話かけて」
「気がついたか、そのままじゃシンドイだろう。着替えはどこだ?」
青木がパジャマを探しあてた時、谷川が到着した。
「ここかあ、舞美ちゃんの勉強部屋は。ああ、けっこう熱がありそうだ」
谷川は、舞美のブラウスを開きスカートを下げ、聴診器をあてた後、触診した。
「ふーん、呼吸は正常だが熱は39度で、意識は頼りないな。疲労の蓄積かも知れんがわからん! 採血してから解熱注射だ」
「オマエはパンストを脱がせてパジャマを着せろ」
「イヤだよ、俺は」
「オマエ、何を妄想してんだ。患者さんを楽にさせろと言ってるんだ、バカ!」
青木は苦労しながら、肌に密着したパンストを脱がせてパジャマを着せた。
「この子は病気か? 熱は下がるか?」
「熱は下がるが、病気かどうかは検査次第だ。触診では顕著な腫れはないが、かつて十二指腸潰瘍に罹った子だ。ストレスや過労が病気を誘発することもある」
舞美が寝言で「パパ」と呟いた。パパ? 士郎さんか? 青木と谷川が舞美を覗き込んだ時、「ママ」と言って涙が一筋溢れ落ちた。この子はまだあの事を消化できずに苦しんでいるのか、どうして俺たちのマドンナは幸せになれないんだ……
真夜中、橋本が着いた。
「すみません。お世話かけました。舞美さんは?」
「解熱の注射を打った。今は落ち着いて眠っているが、最近何か変わった事はなかったかい?」
「子供たちは元気だし、変わった事や困りごとはないと思います」
「そうか、舞美ちゃんはだいぶ疲れてるように見えたが何もないのか。この子は2年半以上の間、自分を殺して頑張ったんだろうなあ」
「おい、士郎さんが死んでから2年半も経ってないぞ」
「オレが言いたいのは、士郎さんの淋病騒ぎから2年半以上だってことだ。あの時、舞美ちゃんの心は完全に壊れた。床を転げ回って吠えるように泣いた。それは絶望の叫びだった。オレは慰めの言葉を呑み込んだ。極限まで絶望した魂は簡単には治らない、時間が解決することは殆どない」
「先生、どうしたらいいんでしょうか?」
「まず明日、検査入院させる。何でもなかったらすぐ出られる。完全看護だから心配ない。舞美ちゃんは一家のボスだから、人間ドックだと思って調べたほうがいい」
「舞美さんはキャプテンルームで暮らす、僕らのキャプテンなんです。心配です、そうしましょう」
「ほう、キャプテンルーム? そうか。そうと決まったら、ヒマな青木が朝まで舞美ちゃんについてやれ。オレたちは仮眠しよう」
21章 episode 4 シンとレイに守られた
◆ 子供はいつの間にか育っていた。
検査の結果、腎盂炎と診断され、1週間の入院と1週間の自宅静養となった。
「舞美ちゃんは抵抗力が弱っていて細菌感染したんだ。原因はこの数年間の疲れやストレス、頑張りすぎかな。少し貧血気味だが他に病気はない。何も心配しないでゆっくり休みなさい」
午後になって、青木がユニクロの大きな袋を持って来た。
「見舞いだ。花より役に立つ。店の人に選んでもらった」
パジャマや下着のパッケージを出した。
「ありがとうございます。ごめんなさい、お世話かけて」
「気にするな、週刊誌に不倫だと騒がれた仲じゃないか」
舞美はふふっと楽しそうに笑った。
「舞美ちゃんはおっさん二人に任せてくれ」、谷川は橋本を湯河原に帰した。
3人で故郷の話をよくした。懐かしい地名が出て来る会話が舞美の心を潤した。
「ずっとここにいたいです。何もしないでボーッと出来るって、とっても幸せなんですね」
「いいよ、いつまでいても。病名は僕が考えるからね」
3人は大笑いした。
退院日に酒井が子供たちを連れて迎えに来た。
「酒井さん、どうしたんです?」
「おお、少しは元気になったか? どうしたとはこっちが聞きたいぞ。オマエが倒れたのに、リョウは手紙を残してオレんとこへ転がり込んだ」
「へーっ? リョウ、本当なの?」
「うん、家出してチャンプのとこへ行った」
「何しに行ったの?」
「水泳を教えてもらいたかった」
「はあ、それで習ったの?」
「早く帰れと言われたけど、今は水泳部の寮にいて、洗濯と掃除とゴミ当番やってる。ニイが心配して見に来た」
「ふーん、それで楽しい?」
「うん、けっこう面白い。でもさ、水泳パンツは手で洗うんだ。何十枚もあって大変だ。ママ、家出した僕を怒らないの?」
「怒る前に呆れた。あのね、チャンプは世界でも有名なスイマーなの、世界チャンピオンになったのよ。いきなりそんな人に教えてもらおうとするのがわからない!」
「だって、シンはニイに空手を習ってる。ニイは大学で日本一になったんだよ。知ってる?」
「知らない。リョウは何を考えてるの、ちゃんと言いなさい!」
「藤井、オマエの説教が始まったら長い、止めろ。そのうち溺れない程度は教えるから心配するな。それよりもコイツは面白い、オレにくれないか? 理系の部員からアルキメデスを習ってる、とんでもないガキだ」
「あーっ、谷川先生、目眩がしそうです」
「思っている以上に子供たちは育ってるんだ、親離れは近いぞ。淋しくなったらいつでもここに戻っておいで。病名は僕に任せてくれ」
酒井は本宅に舞美を送り届け、「リョウはオレが持って行く。オマエは早くピーカンになれ、わかったな」、名古屋に戻った。去って行く車を見送って、舞美はただ呆れていた。
しばらく振りに自分の部屋で眠った舞美は、シンの声で目が覚めた。
「稽古に行く。花火の準備で遅くなるけどママを頼むぞ」、レイに告げて出て行った。シンはどこに行くのだろう? 窓からシンを追うとゲストハウスに消えた。ははーん、営業時間前にあそこで空手か。
「ママ、朝ごはんでちゅ、起きて!」、レイは牛乳とトーストを運んできた。
「ニイニイはいないの?」
「花火大会なの、そいでシンお兄ちゃまは忙しいの。アタチがいるから心配しないでね」
ママレードたっぷりのトーストは美味しかった。
昼食を用意しようとしたら、
「起きちゃダメ、アタチがするの。お昼はヤッちゃんのお母さんで、夜はゴロちゃんのママが作ってくれるの。ママはお部屋から出ちゃダメ!」
「シンがそうしたの?」
「あい、お兄ちゃまのクラスのママなの」
シンとレイに見張られて、舞美は籠の鳥のように外へは出られなかった。1週間の静養期間が終ろうとした時、谷川から電話が入った。
「谷川だ。検査キットを持って青木と行ってもいいかな? クリアしたら無罪放免だ」
「どうぞ、いらしてください。シンとレイが張り付いて外へ出れません。退屈で死にそうです。待ってます!」
21章 episode 5 タエの出産
◆ 舞美はベテラン経産婦、谷川と見事に取り上げた。
谷川と青木が着いた後、酒井が車を飛ばしてやって来た。
「リョウくんは?」と谷川が訊くと、
「行かないと言ったから置いて来ました。リョウは理系の学生から数学を習って夢中になってます。呆れたガキです」
「舞美ちゃん、検査は合格だ。戦える身体だ、大丈夫だよ」
「先生、バディがお世話になりました。ありがとうございました。いつかご一緒したかったんですが、僕らは同郷人です。それで『名古屋コーチンの燻し鶏』と金城軒の『スーパーツナ』、串あさりを持って来ました。おい、藤井、早く酒を出せ! 瀬川くんと橋本くんを呼んで来い!」
「客間より2階の私の部屋で飲みませんか?」
初めてキャプテンルームに入った谷川と青木は、キラキラ輝いて茜色に染まった海に息を呑んだ。
「スゴイ景色だなあ。こんなのは初めて見た、伊良子岬の夕陽より感動した」
キャプテンルームのテラスで飲み会が始まった。時おり潮風に頰を叩かれるが心地良かった。そのうち舞美はストンと瀬川の肩に寄りかかって、眠ったようだ。
シンを呼んで「ママのパジャマはどこだ?」と訊いたら、後ろにいたレイが「あっちでちゅ」と指差した。酒井が舞美をベッドに移し、汗をかきながら服を脱がせてパジャマにしたが、じっと見ていたレイは、
「ダメ! 違いまちゅ、ママはね、パジャマしか着ないの」
はあー? 酒井はいっぺんに酔っ払った。
舞美は夜明け間近に目を覚ました。床に転がった酒井が豪快なイビキを轟かしていた。
「うわっ、お酒臭い!」、窓を開けた。その動きで酒井は起きたが、オレは何もせずに朝を迎えたのか、ツメが甘い男だと嘆いた。
「オマエ、もう大丈夫か?」と訊いたら、「何が?」と問われて腹を立てた。いきなり舞美を引き寄せ、キスしながら乳房を揉んだ。パジャマから溢れた乳頭は薄紅色の小粒で、3人の母とは思えない初々しさだった。秘部にタッチしようとしたら、「お願いです、このままじっとして。抱かれているだけでいいんです」と目を閉じた。
「大学生のオマエから同じことを聞いた。その時、オマエが子供か、男がワガママか、相性が悪いかと言った」
「そして、その男を本当に愛していないのかも知れない、だからセックスしたくないのかと言いました」
「確かにそう言った。オマエがどれほど士郎さんを愛していたか知らないが、オマエは間違ってる。いいか、士郎さんはオマエを全身全霊で愛した。メロメロ以上だ。それすら否定するのか! あんなことになってしまったが、士郎さんはホンキもホンキで、愛していた。それは信じてやれ!
わかるか? 士郎さんはオマエたちを捨てたんじゃないぞ! オマエが愛されたことは、谷川さんや青木さんもわかっている。これはな、男だからわかるんだ。目を覚ませ! そんなに心を凍らせたまま生きようとするな、間違っている! オマエのママと一緒にするな、あれとはまったく違うぞ。ナイスバディ、目を覚ませ。オマエは士郎さんから愛されていた。それも途方もなくだ。それだけはわかってやれ!」
酒井は吠えた。ゲストルームに泊まった谷川と青木は、舞美の声は聞こえないが、大声で舞美を諭す酒井の声は響いた。酒井くんは本気なんだなあ、谷川が呟いた。
朝食後はみんなで浜に出た。「奥さん、心配したんですよ」と人々が近寄った時、シンが真っ赤な顔で自転車を飛ばして来た。
「タエ姉ちゃんが大変だ、苦しがってる! ニイとニイニイもいない」
瀬川の家に急いだが、既にタエは破水して陣痛が始まっていた。
「早く、山田先生に連絡して!」
しかし山田産婦人科は休日だからか応答がなく、近所の人の話では家族旅行に行ったとわかった。
「谷川先生、緊急です、やりましょう! お湯をたくさん沸かしてください。男の人は外へ出て!」
「僕は産科じゃないが……」
「何言ってるんですか、しっかりしてください!」
「タエさん、昨日からお腹が張って痛かったのでしょう、我慢してたんでしょう? お腹が痛いのは陣痛なのよ。今は30分間隔かな? 今のうちにトイレに行った方がいいです。あと2、3時間で男の子が産まれそうです」
「舞美ちゃん、救急車呼ばなくて大丈夫か?」
「産まれそうな時に移動させたくないから、待機してもらいましょう。先生はお医者さまでしょ、頑張ってくださいよ!」
やがて、陣痛の間隔が短くなった。
「今がいちばん苦しいのよ、私を信じてしっかり手を握ってね。はい、息を吸って、大きく吐いて。そうよ、そうだわ。頑張って! もっと力を入れて! 踏ん張って! 頑張れ! よーし、そんな感じよ」
舞美はタエを励ましながら、子宮口を見た。
「先生、タエさんの呼吸に合わせてお腹を押してください」
励まし続けた舞美は、胎児の頭が見えたとき、するりと引っ張り出した。
「先生、ヘソの緒を切ってください」
「しかし、ここには臍帯剪刀(さいたいハサミ)がない」
「何を贅沢なこと言ってるんですか! ハサミやカッターナイフがあります、消毒すれば使えるでしょ!」
舞美の大声でシンは部屋に入り、引き出しから裁ちばさみを出した。元気な産声が聞こえて、救急車が母子を運び去った。
はあ…… 血だらけでへたり込んだ舞美と、インターン時代に分娩に立ち会って以来だった谷川は、視線を合せてピースサインした。
21章 episode 6 男同士の会話
◆ 理屈好きの次男坊リョウは変わったか。
夕食は食べきれないほどの海の幸が届けられ、大宴会が始まった。宴半ばに瀬川が走り込んで、舞美に頭を下げたが、
「ご長男の誕生、おめでとうございます。私はキャプテンだからお手伝いするのは当たり前です。ドンマイ、ドンマイ」
酒井はリョウに土産話が出来たなあ、アイツはピンチヒッターに強すぎる! 昔と変わってないと呆れた。あーあ、そんなことより、早く抱きたい! 舞美の乳首がチラついた酒井は満帆に帆を張った。
一方、谷川は青木に、
「舞美ちゃんの真髄を見た。ヘソの緒を切る専門のハサミがないとモタモタしたオレに、消毒すれば何でも使えると一喝した。いい経験したなあ」
門外漢の青木は呆れて聞いていた。この騒動で客人3人はもう1泊した。
1週間後、退院したタエと赤ん坊を迎えて勝手がわからない瀬川に、シンがぴたりと付き添って教えた。
「ニイ、そうじゃない。おむつはこうするんだ。ニイみたいにきつくすると、おっぱい飲めないよ。それからさ、もっと優しく抱いてよ。まだ骨が固まってないんだ」
家族を知らない瀬川はシンのアニキぶりに驚いた。
8月中旬、部活で忙しかったケンがやって来た。シンがケンを捕まえて何事か額を寄せて相談していたときに、酒井がリョウを連れて訪れ、
「おい、メシを食わせてくれ。合宿所の飯は飽きた。リョウを落としてオレは横浜に用がある。明日、帰りに寄るがリョウを1晩頼む」
「あの~ お昼は中華飯だけどいい?」
「かまわん、ネギ塩スープも頼む、早く食わせてくれ」
舞美がキッチンへ消えると、ケンとシンがモジモジと酒井に尋ねた。そのうち酒井の豪快な笑い声が聞こえたが、舞美が大盛り中華飯を運んで来ると、ピタリと笑い声が消えた。
「そんなに面白い話をしてたんですか?」
「気にするな、男同士の話だ、ドンマイ、ドンマイ」
酒井は慌ただしく去った。
夏休みが終わった。リョウは他人のメシを1カ月間食ったせいか、理屈好きの次男坊を脱却し、シンの言うことを聞いてレイを助けた。そんなリョウが「僕の泳ぎを見てよ」と言った。初めてリョウの平泳ぎを見た。チャンプがこだわる美しいフォームだ。
「すっごく綺麗なフォームよ。ミズスマシみたい」
「服を着たまま『背浮き』をしつこくやらされた。次に平泳ぎを習ったけど、クロールは来年だって。そして、溺れた人を助けようなんて思うな、自分が溺れたら救助が来るまで浮いてろって」
「それは正しいわ。あの時チャンプがいなかったら、みんなは死んでたと思う。みんなを助けたチャンプはボロボロだった。でもね、チャンプがママを守ってくれたから、チャンプを引きずって泳げたのよ。泳げることと溺れてる人を助けることはまったく違うの。リョウはチャンプが少しわかった?」
「パパとはまったく違うけど、あんな男もいいかな」
リョウが言った「男」に、ふーん、男か?
21章 episode 7 何度も顔を洗った
◆ 抱かれるだけで安心するのはなぜ?
食堂のおばさんは引退して、舞美の家来が店を引き継ぐことになった。その集まりに参加し、駅へ急ぐ舞美の正面に大きな男が立ち塞がった。
「ひえっ!! 脅かさないでよ、いつ東京へ来たの?」
「顔を洗ってまた出直した。オレが嫌いか? はっきり言えよ! オレもオマエも子供たちも時間がない。あいつらには父親が必要だ。そう思わないか? リョウと暮らしてそう思った。オマエが好きだ!! オレは諦めないぞ」
紅潮した頰の酒井を見つめて、「チャンプ……」と呟いた舞美に、「チャンプじゃない! 酒井大輝だ」
暗がりに引きずり込んで、食べ尽くすように強引なキスを続けた。
「ふぅ、苦しい、酸素がないよー」、バサッと酒井の胸にもたれた。
ボーッとした舞美を抱えて車を拾って調布へ運んだ。部屋に走り込み、バタバタと舞美の服を剥ぎ取り、自分は脱ぎ散らしてバスルームに駆け込んだ。
「あーあ、いい気持ちだ。そうだろう、タオルはどこだ? あった、あった」
「それってバスマット」
舞美はケラケラ笑った。
ベッドへ運び、
「抱くぞ、本当にいいか?」
「いいかってそのつもりなんでしょ」
「そうだ、舞美もそうか?」
「うん」
「うんじゃない、はいと言え。今夜は寝かせないからな。オレは10年以上待ったんだ。残念だがゴムはする、心配するな」
力いっぱい抱きしめられて舞美は喘いだ。
「痛い! 苦しい!」
「そうか、悪かった。これでいいか?」
フーッと息を吐いた舞美の全身に激しくキスを続け、秘部に舌を這わせた瞬間、舞美は声をあげた。大きなペニスがズドンと打ち出され、痛い! 舞美の叫びを無視して奥まで突き込んだ。大きくひと突きして、さあ頑張るぞと張り切った途端に締め付けられ、絡みとられて発射してしまった。何だこれは? 1撃沈没かぁ? こんなのは初めてだ。舞美の中で未練たらしく空砲を放つ我身が情けなかった。
今は妊娠させるわけにはいかない。舞美を抱えてバスルームで洗い、次に備えた。全部出すな、我慢しろ! 我身に言い聞かせたが、打てば響く舞美に鎮圧された。ああ何ていい気持ちなんだ、極楽だ! 絶対コイツをヨメにするぞ! 幾度もベッドとバスルームを走った。
「射精するときの男の快感を説明したことがあったな、覚えてるか? オレは初めて超極快感を経験した。オマエはどうだ?」
返事がないので腕の中を覗くと舞美は眠っていた。疲れたのか可愛いなあ! 酒井は舞美の秘部にキスして思った。この懐かしい匂いはどこかで嗅いだことがあると思い、69にして胸に乗せた。わかった! これは甘酒饅頭だ、ほのかに甘くて酸っぱい懐かしい酒麹の匂いだ。今宵はこの匂いに包まれて眠るとしよう。
舞美は何か硬い板の上で眠っている気がして目覚めた。体を起こすと天井を仰いだペニスがあった。
「ああ、起きたか、延長戦だ」
タフな酒井は何度も挑戦し、舞美に感覚がなくなるまで攻め続けた。
「もうダメ、あそこと身体中が痛い! 今から仕事なんです」とベッドから降りようとしたら、フラッと視界が揺れて膝をついた。
酒井は大学へ行く舞美と電車に乗った。
「オマエ、ヨレてる。真っ直ぐ歩いてないぞ、どうした?」
「どうしたはないでしょ、わかってるくせに」
「そうだな、オレは鍛えてない筋肉を使ったから腰がパンパンだ。オマエを抱くまで永かったから、つい本気になってしまったが大丈夫か」
鍛えてない筋肉? 舞美は笑った。
舞美の授業が終わって新幹線に乗り込んだ二人は、車窓に走り去る街の灯りをボーッと見つめた。
「チャンプ、やっぱり無理かも知れない、結婚は……」
「チャンプじゃない、大輝だ、何度言ったら覚えてくれるんだ。オレはダイキ、ダイちゃんだ。バーカ。オマエの立場を考えたら、しばらく内緒だ。心配するな、オレを信じろ。ナイスバディだろ」
熱海で乗り換えようとした舞美に、酒井がついて来た。
「大輝はどこに行くの?」
「悪いか? オレは瀬川くんちへ泊まる。予約しといた」
21章 episode 8 結婚は無理かも
◆ 人の世はねじれたスパイラルだと、瀬川は目を閉じた。
瀬川の家を訪れて開口一番。
「聞いてくれ、やったぁ! よく考えたら14年も待ったが幸せになったぞ! この世にこんな幸福な時間があるのかと初めてわかった」
「何をやったんですか? 何のことです?」
「恥ずかしくて言えるか!」
「もしや、ひょっとして舞美さんと?」
「そうだ!」
「シーッ、真一が眠りそうです、お静かに。祝杯をあげましょうよ。でもなぜ本宅に泊まらないんですか?」
「いや、それは舞美を抱きたくなるだろう、ガキがいるからそれは出来ん。それで悪いが泊まらせてくれ。頼む、武士の情けだ」
両手を合わせて拝む酒井が可笑しくて笑った。
「ついにやったんですか、それはそれは思い切ったことで。それでどうするんです? 結婚するんですか?」
「オレの気持ちはそうだが、無理かも知れないと言われた。だから当分は誰にも言わないでくれ。オレたちはあっちこっち宥めなくちゃならない、特にアイツはな。しばらくは内緒だ」
「でも子供たちは酒井さんが好きですよ」
「この前な、ケンとシンが真面目な顔でオレにぶつかった。ケンはマスを知って悩んでた。シンは時々チンポコが急に大きくなるんで、病気かとしょげていた。オレはあいつらに小学4年でマス坊やになったと自慢した。それは大人の男になるプロセスで、普通なんだから悩んだり心配するな、ただし人前ではするなと教えた。
パパがいたら相談したかとシンに聞いたら、しなかったと答えた。なぜだ? 士郎さんに相談すると、それはママに聞きなさいと逃げたらしい。恥ずかしくてママには訊けないとシンが言った。その時だ、こいつらには親父が必要だと思った。アイツは父親までやっていたのか! 初めて知ったんだ」
「そうかも知れませんね。普段から舞美さんは男か女かわからないとこがあります。僕の泳ぎを見て、そこに寝なさいと腹ばいにして、腰に乗ったことがありました。僕の上体を反らして、ここを鍛えなさいと教えましたが、舞美さんのあそこが腰にペタリです、参りましたよ。それを士郎さんが物陰から見てました。あれは本当にヤバかったです」
「確かにそうだ。おっぱいポロリもそうだったが、アイツは夢中になると周りが見えなくなるんだ。士郎さんから聞いたが、マトモにキン蹴りをくらった悪党は、陰茎と精巣損傷だ。アイツは手加減しない、そこがいいところなんだがなあ」
そうか、それであんなに執拗に狙われたのか、瀬川はやっと納得した。
隣室で聞いていたタエが笑顔で酒の肴を用意した。
「真一を取り上げてくれたとき、ヘソの緒を切る道具がないと、アタフタした谷川先生を叱りとばしました。舞美さんは何と言っても恩人です。酒井さん、舞美さんを幸せにしてください。でも二回忌までは伏せた方がいいでしょう。意地悪な兄嫁が何を言い出すことやら。酒井さんは財産狙いと言われますよ」
「へっ? まったくそんな気はない!」
「知ってますか? 舞美さんは士郎さんの父親と、再婚しても孫たちは泉谷の名で育てると約束したそうです。それで再婚資金を渡されたと聞きました。そして、士郎さんが再発したら使いなさいと大金を預かったのに、『親の心、子知らずなのよね』と舞美さんは嘆いてました。そのお金はこのプロジェクトの原資になって、会計士さんが管理してます。
はっきり聞きますが、酒井さんは仕事や地位を捨てても、舞美さんを支えますか?」
「ということは、ヨメに来いと言ったオレがムコになるのか?」
「そうなりますね。舞美さんが無理かも知れないと言った原因のひとつかも知れません」
「おい、瀬川くん、そんな簡単に言うなよ。ちょっと待ってくれ、5分だけ考えさせてくれ」
「決めた! それでアイツが楽になるならオレはムコでもいいぞ!」
簡単に決心した酒井に瀬川とタエは呆れた。
再婚しても泉谷姓を名乗れと頼んだ泉谷健司。なぜだ? そうか! 跡継ぎを国会議員にしろということか、真意はそれだ! 舞美さんはシンかリョウを議員にして、やっと泉谷のしがらみから解放されるのか。運命の子はシンか? リョウか? それともレイか? まさか!
舞美さんが最初に酒井さんと結婚したら幸せになれたか? いや、拉致されて強姦の果てに殺害されただろう。瀬川の思考は迷宮に迷い込んだ。まるでスパイラル! うっかりすると振り落とされる、ねじれて高速回転するスパイラル&ツイスト! 酒井さんはそれを気づいてない。瀬川は眼を閉じた。
21章 episode 9 酒井の覚悟
◆ 士郎の母を口説けと、山本は言った。
子供たちを送り出して、講義案を練っていた舞美の頭を背後から酒井が叩いた。
「ひえっ! まだいたんですか」
「ずいぶんな挨拶だなあ。オマエとのことはオレが久しぶりに頭を使って考えるから、心配するな、何もするな、じっとしていろ」
「頭を使う? 使う頭があったんですか?」
「まったく腹が立つヤツだ。いざという時のために、腐らないように冷蔵庫にしまっている。心配するな。いいか、オマエは動くな」
グイッと引き寄せて抱きしめた。酒井の胸はなぜか心地よくて、舞美は大きな揺りかごに守られているようで、心がとろけた。
酒井は屈んで舞美のスカートに頭を突っ込み、下着を剥ぎ取って秘部を舐め始めた。ソフトクリームを舐め尽くす子供のように、無心に続けた。やがて小刻みに震え出した舞美は酒井に寄りかかった。ベッドへ運び、ゆっくり円を描くように動いて撃ち込んだ。舞美の締めつけをかわして最深部に侵入し、激しく動いて絶頂を迎えた。眼を閉じて余韻の波に漂って微笑む舞美を優しく拭って、「元気になれよ、だが頑張るな」とキスして帰った。
名古屋へ帰る新幹線の中で酒井は、1ダースのあれを全部使い切って幸せの極地に浸ったが、アイツはどうなんだ? さらに悩みが増えたか? いい気持ちになっても現実は変わらない、オレは何が出来るか? ずっと考えた。
数日後、考えあぐねて山本に電話した。
「酒井です。電話で大変失礼ですが相談があります。泉谷舞美さんに結婚したいと言いました。しかし彼女は無理だろうと首を振りました。なぜです? 僕はあの子たちには父親が必要だと思います。父親になる覚悟はあります。なぜ無理でしょうか?」
酒井の唐突な質問に山本は黙ったが、しばらくして、
「うーん、酒井くんはわかってないようだ。はっきり言おう。先生と士郎さんを亡くしたあの家は普通ではない。舞美ちゃんが泉谷家から解放されるのは、シンかリョウが代議士になった時だ。それまで舞美ちゃんは泉谷の名を捨てることはない。泉谷の呪縛から逃れられない。
もし結婚できてもキミは入り婿だ。それでもいいのか? キミにはやりたいことがあるだろう、悪い事は言わない、諦めろ。キミは違う人生を歩め」
「諦めません。アイツは氷の女になってます。父親の役までやって心を閉ざしています。本当はそんなヤツではないです! 痛ましいです、ほっとけません!」
「引かないと言うんだな、それ相応の覚悟はあるか! やみくもに進めばいいってものじゃない、しばらく動くな、俺にも考えがある。頭を冷やせ、それからだ」
電話を切った山本は若き日の舞美を思い浮かべた。我儘な士郎さんに惚れられて迷っていたが、舞美ちゃんの危機を救ったのは士郎さんだ。これは間違いない。泉谷家が警察を動かした。俺や酒井には出来ない芸当だ。命の代償が泉谷家の呪縛か……
10月のある日、士郎の二回忌と泉谷健司の七回忌を兼ねた法要が行われた。多くの献花が送られて来たが、親族以外の参列者は少数だった。舞美はしばらくぶりに会った奈津子の老いが気になった。ここで一緒に暮らしてくださいと頼んだが、「私は家を出た人間です。それは出来ません」と断わられた。
法要が終わり、山本は酒井を誘って海を一望する裏山に上った。
「酒井くん、これが士郎さんの母親の住所と電話だ。お母さんを口説け。あの人は泉谷先生の秘書と駆け落ちして家を出た人だ。舞美ちゃんから先生が残した金を渡されて、ひっそり暮らしている。士郎さんのパンツを見て、即座に淋病だと断言した苦労人だ。士郎さんの情けない姿も見た。キミの気持ちをわかってくれるだろう。
俺は、真っしぐらに進んで行く大学生の舞美ちゃんが好きだった。可愛い妹のような気がしていたが、泉谷先生が舞美ちゃんに惚れた。しかも本気だった、驚いたよ。それで愛人にされてはたまらんと思って、中村と密かにキン蹴りや護身術を教えた。しかし、発病した士郎さんに舞美ちゃんがついて行く決心すると、先生は手を引いた。
こんな経緯があったから、実の息子すら信用しない先生が舞美ちゃんに多額の金を委ねた。先生に指示されて、彼女は様々な人にその金を渡した。そんなことがあったんだ。
ああ、それから、俺はケンを口説いた。妻の智子は再婚だ。初めての俺が忘れられずに婚家を飛び出した。この話をしたらケンはわかってくれた。酒井くん、頑張れ」
21章 episode 10 「翔」、それは何者か?
◆ 奈津子の千里眼はタワゴトなのか。
そうか、山本さんのアドバイスは、アイツは士郎さんの母に許しをもらいに行くだろう。その前に口説けということか。ヒントを胸に刻んだ酒井は、ダメモトで話をしよう、会ってもらおう、心臓をドキドキさせて奈津子に連絡したが、
「あら、チャンプさん。どうぞいらしてください」
奈津子の家を訪れた酒井が見たものは、火の気がない部屋で筆を走らせる奈津子だった。たった1文字、「翔」と書かれていた。
「酒井さんがおっしゃりたいことはわかっています。泉谷が最後に愛した女性は舞美さんだと、斉木さんから聞きました。11年そこらの結婚生活なら、士郎よりも泉谷と添った方が舞美さんは幸せだったでしょう」
酒井の思考は停止した。自分の息子よりモト夫と結婚した方が舞美は幸せだったと? オレに何を言いたいんだ? 皆目見当がつかず、雄弁をふるって説得するつもりだった酒井は黙り込んだ。
「酒井さん、私は老い先短い命です。だからわかることがあります。舞美さんは士郎の妻として立派に役目を果たしました。気の毒なくらい健気でいい嫁でした。幸せになって欲しいと思います。はっきり聞きますが、酒井さんは本当に舞美さんを幸せにしてくれますか。約束できますか」
「はい、約束します。神仏に誓って約束します」
神仏に誓っての台詞に微笑んだ奈津子は、
「私にはわかります。酒井さんの男児は兄たちの留守を守り、家長になります。その子の名には「翔」という文字が見えます」
この人はおかしくないか? なぜそんな先のことを断言するのか? どう考えてもわからなかった。わかったことは結婚を認めてくれたことだ。しかし、奈津子の話を年寄りのタワゴトで片付けるには不安だった。
奈津子の家を出てすぐ、
「山本さん、申し訳ないが話を聞いてくれませんか。混乱して何が何だかわかりません」
「わかった。俺も話したいことがある。すぐ俺の家へ来い」
山本の家を訪れると、山本の隣にケンが座っていた。
「酒井くん、ケンは子供だがあの子たちの兄貴だ。ケンの前で泉谷家の真実を話そう、泉谷先生から聞いた話だ。
実は、長男の母は赤坂で芸妓見習いをしていた女だ。奈津子さんは妊娠を知って、自分も腹に布を巻いて世間の目を欺き、生まれた子を引き取った。次男もほとんど同じだが、こっちは一般人だと聞いた。その後ようやく三男と士郎さんが生まれた。
長男夫婦が偉そうなことを舞美ちゃんに言うたびに、俺は腹が立った。4人も男がいるが、不思議なことに子供に恵まれたのは士郎さんだけだ。そんな家系だから、先生は舞美ちゃんと孫たちに将来を託したが、士郎さんは若死にした」
「舞美は兄たちの母親が違うことを知ってますか?」
「何とも言えない。先生から預かった金を渡しに行ったが、そこで何か気づいたかもしれない」
ふーっ、想定外の話でさらに混乱した酒井は、奈津子の話をした。
「奈津子さんが語った未来が真実かどうか、それはわからない。翔という文字を持った男児が生まれて家長になるのは、今から30年以上も後のことだ。多分、代議士になるのだろう。ということは、四代続いた泉谷家は家名は残っても血筋は変わるということだ」
「それでママはどうなるの? チャンプと結婚したらあそこに住めないのか? シンたちと別れるのか?」
「そんなことはない、ママはママのままだ。次の家長を育てるリーダーだ、泉谷舞美のままだ。ママはパパの役目までやっている、仕事もある。そんなママが疲れたり困ったりした時に支えるのがチャンプだ。そうだろう? 酒井くん」
突然振られた言葉に酒井はドギマギした。
「チャンプ、こんな時こそドンマイ、ドンマイと言うんでしょ」、ケンが言った。
「そうだなあ、凄い話を連続で聞いたんで、脳みそがビビったみたいだ。ちょっと待ってください」
酒井は頭をコンコンと叩いて、「ドンマイ、ドンマイ」と笑った。ケンがトントンと小突くと、再び「ドンマイ、ドンマイ」とおどけた。
「そうだ、忘れるとこでした。斉木さんって誰ですか、ご存知ですか?」
「それは食堂のおばちゃんだ。それがどうした?」
「泉谷先生が最後に愛したのは舞美だと、奈津子さんに話したのが斉木さんです」
「そうか、奈津子さんは知らないと思っていたが、なるほどなあ、ジグソーパズルのように繋がるんだな。心の軌跡は」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます