20章 それぞれのリスタート
20章 episode 1 新生活のスタート
◆ 幸せに背を向ける瀬川に舞美は語りかけた。
子供たちが生まれ育った議員宿舎を出て、徒歩10分の賃貸マンションに引っ越した。父親がいない生活に子供たちが慣れるまで、橋本に協力を頼み、
「今すぐではありませんが、橋本さんは瀬川さんを手伝って、湯河原に住む気はありませんか? 瀬川さんの家を建てるプランを進めますが、2軒同時に建てた方が効率的らしいです。こっちが瀬川さんで、あっちが橋本さんの家を考えてますが、私の暴走でしょうか?」
「瀬川さんは知ってるんですか?」
「いいえ、まだ話してません」
「はあ? 僕は一緒に仕事したいけど、瀬川さんは家のことを知らないんですか?」
「瀬川さんはやっと素敵なお相手と巡り会えたみたいです。その方と暮らして欲しいと勝手に思ってます」
「はっ? そんなこと聞いてませんが」
「橋本さんって鈍いのね。瀬川さんが来るから聞いてみましょう」
翌日、何かなと不思議な顔した瀬川を前に、舞美は図面を広げて、
「これは瀬川さんの家で、こっちが橋本さんです。そろそろ落ち着きませんか。小さな家ですが、外壁と屋根はオレンジで明るい家にしたいと思います。どうでしょう? いつまでもキャプテンルームでは申し訳なくて、勝手に先走りしました」
「舞美さん、キャプテンルームはどうするんだ?」
「ああ、あそこは私に返していただきます。私は難破船の船長です。瀬川さん、タエさんはいい子ですよ。彼女が高校生の時から知ってますが、もうタエさんは25歳になりますか? 瀬川さんの気持ち次第です。人生は失敗だらけだそうです。でも、ドンマイ、ドンマイなんです。踏み出せずに後悔するより、チャレンジして後悔した方が、遥かに気分がいいんだって。これは酒井さんの持論ですが、いつも頭の中でうるさく響くんです。進め、動け、何もしないで後悔するなって」
「しかし、僕は、その~ 今までちょっといろいろあって……」
「瀬川さん、どうして考え過ぎるのです。過去を考え過ぎて、まだ見ぬ未来を否定するのですか?」
突然、橋本が笑い始めた。
「舞美さんの言うとおりだ。今の兄ィを好きでいてくれたら、いいじゃないですか!」
それでも瀬川は考え込んだ。
「瀬川さん、私は生きて目の前にいるんですよ。わかりますか?」
舞美がドンと瀬川の肩を押すと、不意打ちに遭った瀬川はよろけた。
「あらっ、瀬川さんも普通のオニイになったようですね。これで決まりです」
「舞美さんはどうするんだ?」
「しつこいですねえ、私の希望は1年後か2年先になるかわかりませんが、湯河原に住みたいと思ってます。だけど、子供たちのことを考えるとまだ結論を出せません」
「あの子たちは転校なんてすぐ慣れますよ。舞美さん、それより大学の仕事はどうするんです?」
「大学と相談しますが、週2日で5、6コマを認めていただいて、前日の21時過ぎの新幹線で東京へ行き、士郎さんが独身のときに使っていた調布のマンションに泊まります。そうすれば翌日は1限目から仕事できます。子供たちはニイとニイニイがいると知ったら、心が動くでしょう。私も安心して家を空けられます。お母さまは高齢なのでいつまでも頼ってはお気の毒です」
「舞美さん、ひとつ聞かせてくれ。舞美さんは士郎さんを吹っ切れるほど泣いたのか?」
「いいえ、泣いてません。私が最後に会った士郎さんは、『水曜日だ、大学に行きなさい。待ってるよ』と何度もキスして微笑んだ士郎さんです。私が泣くと士郎さんが悲しみます。泣いてはいけません!」
橋本はうっすらと涙がこみあげて来た。
20章 episode 2 家長になった舞美
◆ 父がいない日常に子供たちは慣れていった。
子供たちはパパがいない生活に少しずつ慣れて、本来の明るさを取り戻したようだ。病気のパパにずいぶん気を使って、いろんなことを我慢していたのかも知れない。舞美は男に走った母を案じながらも、穏やかに父と暮らす生活を大切にしたいと思った昔を思い出した。親子や夫婦であっても結局は独りなのか、士郎さんは私をたくさん愛してくれたけど、私はどうだったのか?
大晦日、舞美たち一行は夜遅く湯河原に着いた。喪中のことで本宅は何ひとつ松飾りはなかったが、遠巻きに出迎えた人々は舞美を見ると走り寄った。気が利いた励ましの言葉はなかったが、浜荒れした手で舞美を抱きしめて無言で泣いた。
元日、地球上にこれほどの海の幸はないと思うほどの、極楽の珍味に心が癒されて嬉しかった。夜になって寝室のベッドに横たわったが、いつも隣にいた士郎がいないのが淋しかった。夫を亡くすという意味が初めてわかった、セミダブルのベッドが広すぎた。
眠りに就こうとしても体が士郎を覚えていた。窓から見える漁火を舞美に数えさせて、「いくつ見えるか?」と聞かれた舞美が「40かな?」と応えると、「そうか40か」、士郎はニヤリと笑って舞美の秘部に顔を埋め、40回以上ループを描いて舐めまわした。そんな戯れを思い出した体の芯が疼いた。ああ、士郎さん、お願い、抱いてください! 士郎の匂いが残った枕に顔を埋めた。
東京に戻って、
「湯河原の家は4月には完成しますが、橋本さんはもう少しここに居てくれませんか、お願いします。急に誰も居なくなると心細いです」
子供たちに情が移っていた橋本は、
「いいですよ、ここに居ます」と応えたが、舞美さんは次のことを考えているようだ。パパが消失したこの家のパパになった舞美が、健気に頑張っているのが痛々しかった。
3月初旬、辰巳の国際水泳場で行われる「全日本水泳選手権」が酒井の最後の勇泳になった。舞美や青木や山本が固唾を呑んで声援する中、2位を悠々引き離しての優勝だったが、世界で戦えるタイムではなかった。日本の水泳界を牽引して来たチャンプも既に34歳になっていた。
「酒井選手、お疲れさまでした。引退のコメントをいただけますか」とマイクを向けられ、「これからは指導に専念します」と真面目に応えたが、「10年以上前からヨメに来いとおっしゃっていた方に何か告げたいことはありませんか? ラストです、何でもどうぞ」
「うーん、もうそんなに経ちましたか。それでもヨメに来いと言ったら笑いますか?」
会場は割れんばかりの拍手が湧き上がった。
酒井は山本と舞美のマンションを訪れ、
「本当に元気かどうか見に来た。週刊誌沙汰になると迷惑かける、それで山本さんに来てもらった。そうか、ここで子供と頑張るのか、無理するなよ、オマエはいつもヤセ我慢するからなあ。おお、そうだ、とにかく腹ペコだ。何か食わしてくれ、作ってくれ!」
突然現れたチャンプに子供たちは驚いた。瀬川から空手を習っているシンは酒井の胸筋に触って、トレーニング方法を聞いてメモっていたが、リョウは冷めた視線を投げていた。
橋本はずっと見ていた。なるほど、リョウは舞美さんの迷いがわかってるんだ。ママを取られそうな不安を感じている。シンはチャンプにすっかり心酔しているが、リョウは違う。人生って厳しいなあ、橋本はため息ついた。チャンプは舞美を抱きしめることもなく、旨い、旨いと喜んでガツガツ食べて、甘いセリフひとつ言わず帰って行った。
春休み、舞美は子供たちを連れて湯河原に行った。瀬川と橋本の家は内装の段階に入っていた。橋本はタエを紹介された。町役場に勤めているその人は、どこにでもいる娘さんに見えた。瀬川がタエを紹介する目線を見て、コラッ! 恐れられたオトリ捜査官はどこへ行った? だがこれでいいのかと橋本は苦笑いした。瀬川は、舞美の命を救った話をした時と同じの優しい眼をしていた。
大きな荷物を抱えてケンはやって来た。
「一人で新幹線に乗れたの? ケンは凄いなあ、ママは頑張るケンが大好きだよ!」
抱きしめられたケンはポッと頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯いた。ここは物騒な土地ではない、ケンがいれば俺と瀬川さんの出番はない。舞美さんをケンに任せようと思ったが、橋本は少し頭を使った。ケンにリョウを口説いてもらおう。ケンはチャンプを嫌っていない、そして山本さんはチャンプと友達のようだ。
20章 episode 3 リョウの危機!
◆ 生きるも死ぬもバディと一緒、私を信じてください。
舞美の外出時はケンがピタリと後ろについていた。
「ダンナさんが死んでも、隠し子の長男さんを大切に育てなさる奥さんは大したものだ」と、舞美への同情と賞賛の声は相変わらずで、それを身近かで聞く橋本は面白がっていた。
あるとき、ケンに聞いた。「チャンプは好きか?」
「うーん、チャンプより瀬川さんが好きだ。ママがいちばんで、父さんで、亡くなったパパで、瀬川さんかなあ」
「僕はダメかい?」
「チャンプと同じでよく知らない。でも父さんはチャンプと友達だ。父さんが言ってた、ママとチャンプはよく似てるって」
「そうか、知ってたら教えてくれ、リョウはチャンプが嫌いか?」
「嫌いじゃないけど、合わない気がする」
「どうしてだい?」
「リョウはパパそっくりで頭で考える。だからチャンプがわからないんだ」
「なるほどなあ、そうか。舞美さんが言うようにケンは鋭いなあ」
「ママが何か言った?」
「うん、4人の子供の中でケンが飛び抜けて賢い。きっと立派な人になると言ってた」
ケンは頬を染めて嬉しそうに笑った。
夏休みの大半を子供たちと湯河原で暮らすことに決めた。
以前、地元の中高生に遠泳指導したことが好評で、町から懇望されて、『チャンプの水泳教室』を7日間行うことになり、酒井は名大の水泳部員を引き連れて来た。舞美はタエと毎食30人分の食事を作った。この年はいつまでも梅雨が明けずに肌寒い日が続き、プールと大浴場は大盛況だった。
「リョウはどこへ行ったの? もうすぐ5時だというのに、お昼も食べないで何してるの」
舞美が心配していたら、近所の主婦が走り込んできた。
「息子から電話があって、坊ちゃんたちは川の中州に取り残されてる!」
自転車で幕山公園に渓流釣りに行ったらしいが、2日前の大雨で新崎川が増水したのか、上流が崩れたか、気が気ではなかった。公衆電話から電話してきた子に聞くと、あっちだと言う。
川幅は10m程度だが上流で放流しているのか、畳1枚ほどの中州に小学生の男児が3人取り残され、水は膝まで迫っていた。
酒井はすぐ救助に行き、いちばん幼い子を岸に戻した瞬間、上流から濁り水が音を立てて押し寄せた。振り向きざまに「踏ん張れ!」と酒井は叫んで、2人の所へ戻ろうとしたが流された。リョウたちがいた中州は崩れ去り、2人は濁流に飲み込まれた。酒井は濁流に流されながら子供2人を抱えたが、川底はえぐられて足が届く深さではなかった。
橋本が農家からロープを持って来た。舞美は下着になって体にロープを縛って5mほど上流に行き、
「ロープの端をあそこの木に結んで! 私は行きます!」
舞美は流れに逆らって立ち泳ぎをしている酒井のもとへ泳ぎ着いた。
「オマエがまだ泳げるなら、こいつら2人をロープで縛って、岸へ帰そう。オレたちはその後だ。わかったな、ナイスバディ!」
子供2人は岸へ引っ張りあげられて助かったが、濁流の中に酒井と舞美は取り残された。舞美を抱えて立ち泳ぎを続ける酒井に、
「チャンプは限界だけど私は大丈夫です。私を信じて体を預けてください。生きるも死ぬもバディと一緒です。いいですか、行きますよ!」
舞美は体を預けた酒井を抱くように岸を目指して泳いだ。駆けつけた名大水泳部員がロープに結えた浮輪を投げた。フラフラ状態で岸に引き上げられた酒井と舞美は救急車で搬送された。
町中が大変な騒ぎになった。舞美は20時過ぎに意識が戻ったが、疲労困憊の酒井は眠り続けていた。
「舞美さん、酒井さんを助けてください」と瀬川が呼びに来た。病室では、酒井が真っ青な顔で震えて横たわっていた。舞美は懸命にマッサージして温めたが、冷たいままだった。病院着を脱ぎ捨て酒井の横に滑り込んだ。
「起きてよ、私を残して死なないで! 早く起きて! お願いだから死なないでよ!」
叫びながら、抱きついた。
しばらくして酒井はぼんやり眼を開き、何か呟いて再び目を閉じた。いいなあ、ずっとコイツに抱かれていたいなあと思ったが、また睡魔に襲われて不覚にも眠ってしまった。
酒井を舞美に任せて、今頃になって電気毛布を持って来た役立たずの医者を追い払い、瀬川は病室の前で寝ずの番をした。病室内は物音ひとつしなかった。
20章 episode 4 酒井の覚醒
◆ 女の説教と化粧は長いに決まっている。
明け方、舞美は懐かしい感覚で目覚めた。裸の男にすっぽり抱かれて、膨らんだペニスがヘソに当たっていた。そうだ、酒井さんがリョウたちを助けてくれたけど、疲れすぎて体温が下がって朦朧としてた。舞美はベッドを抜け出してドアを開けると、瀬川が床に座り込んでいた。
「リョウは?」
「病院に運ばれたけど、すぐ帰された。心配ないそうです、橋本がついてます。安心してください」
舞美を送り届け、瀬川は酒井を起こした。
酒井はきょとんとして「藤井は無事か?」と聞いた。
「さっきまで酒井さんに裸で寄り添ってたんです。覚えてないんですか?」
「あーっ、そうか、アイツの匂いに包まれて本当に寝てしまった。惜しいことしたなあ。こんな所でライフセーバーが役立つとは思ってなかったが、どうやってオレを助けたんだ?」
「舞美さんはブラを外して、ブラを酒井さんの首と自分の左腕にからませて、首を抱き込むようにし、右手で水をかいてました。何度も流されそうになりながら、最後は学生が投げた浮輪と命綱の消防団に守られて岸に上がりました。そのときの舞美さんは凄い形相でした」
「いやあ、オレは殆ど意識がなかった。昔な、救助に向かったオレが疲労で低体温症になった時、添い寝して温めてくれた。そんときはおっぱいポロリだったが今回は見てない、オレはダメな男だなあ。しかしブラを命綱にするとはなあ! オレの重い体を確保するには左手だけでは無理だ。たいしたヤツだ、ナイスバディだ、また惚れてしまった!!」
酒井と瀬川は大声で笑い続けた。
酒井が本宅に戻ると、リョウを座らせて舞美が説教していた。酒井はしばらく聞いていたが、
「オマエは暴れなかった。もう一人の大きなガキは泣き喚いて暴れた。二人に暴れられると最悪だったが、リョウはなぜおとなしかったんだ?」
「はい、酒井さんが泳いで僕らを守ってたから、負担を少なくしようと思いました。岸には大学のお兄さんたちが来たし、時間との勝負だと思いました。ありがとうございました」
「オマエは何年生だ?」
「2年生です」
「ふーん、ガキのくせに流体力学がわかるのか、流れに逆らい無駄な動きをして消耗するほどバカなことはない。いい経験になったか? 藤井、この子をオレにくれないか、コイツが気に入った」
「はぁ? 何言ってるんですか、私の子です」
「そうだったな。オマエの子にしてはよく出来た子だ。ブレない頭の良さとそれを緊急時に使えるヒラメキを持っている。リョウ、よく聞け!」
「はい」
「オマエのママは、屈強な男が足をすくませて遠巻きに見てるだけの濁流に飛び込んだ。アイツは必死でオレたちのとこへ来た。オレは毎日泳いでいるが、アレは10年以上マトモに泳いでないだろう。それでもオマエを救けようとした。忘れるな!
それからな、女の説教と化粧は長いに決まっている! よく覚えておけ、ドンマイ、ドンマイ!」
呆気にとられた舞美を残して、酒井は大股でプールへ消えた。
橋本が笑い出した。「酒井さんってカッコいいですねぇ!」、「へっ、あれが?」、舞美も笑った。
夕方、町長と警察署長が酒井に感謝状を持って来た。それよりも嬉しかったのは、町民が海の幸をどっさり届けてくれたことだった。早速、町民も混じって大宴会が開催された。『世界のチャンプ、少年3人を救助!』と全国紙に報道された。
「そうだ、忘れてた、学長から頼まれていた。オレの大学で公開講座をやってくれないか? 名古屋出身の新進気鋭の女性学者ってことでさ、文化の日だ。ウチの学長がオマエんとこの総長に許可をもらうが、その前に本人の承諾をもらえと頼まれた。どうだ?」
「えーっ、何を講演すればいいんですか? そんなエラソーなこと喋れません。うーん、自信ないです!」
「自信なんて無いのが当たり前だ、そんなものがあったらロクでもないぞ。頼む、オレの顔を立ててくれ」
「ママ、やったら? 面白そうだよ。自分の大学だけじゃなくて、外でやったら」
「おお、オマエも見所がある、気に入った。オレの息子になれ!」
「ちょっとぉ! 私の子を2人も取らないでくださいよ。まったく油断も隙もあったもんじゃない!」
リョウはそんな酒井をじっと観察していた。
酒井さんがいるとこの家はみんなが笑えるんだ、いいなあと橋本は思った。いつも士郎さんに抱っこされていたレイは、オレに甘えてる。パパの温もりが恋しいのか、とすると舞美さんは? このままで終わるわけないよな……
20章 episode 5 酒井のプロポーズ
◆ 壊れかけた舞美を気遣う酒井は、自分の心に正直になった。
翌日、酒井が渋い表情で、
「オレとオマエの写真が新聞に載ったのを知ってるか? 中日スポーツだ」
「いいえ、知りません。何ですか?」
ケイタイに添付された画像を見せた。
「ぽっかり浮かんだ巨大ラッコのオレが、ピンクのブラで縛られて岸へ運ばれるとこだ。オマエはおっぱい丸見えだ」
「ええっ、誰です、そんな写真を撮ったのは!」
「多分、消防団員だ。あいつらは飛び込みもしないで、フザケタ野郎だ! 今度会ったら叩きのめしてやる!」
「うわっ、完全に見えてる、恥ずかしい! それにしてもチャンプが気の毒だわ。ブラで首を縛られて水に浮かんだ大仏様なんて見たことないわ!」
ちょうどやって来た瀬川が、巨大ラッコの写真を後ろから覗いて大笑いし、子供たちも笑い出して、なかなか止まらなかった。その時、山本から怒りの電話が飛んで来た。瀬川と橋本は何をしてたんだ! 危うくチャンプと舞美ちゃんが死ぬところだったと、カンカンに怒っていた。
「山本さん、酒井です。心配かけてすみませんでした。僕と藤井は海で鍛えられたライフセーバーだから当然です。瀬川くんと橋本くんが川に飛び込んだら間違いなく溺れてます、責めないでください。ヘタしたら4人がドザエモンです。ああいう展開に素人は邪魔です。瀬川くんはそれがわかってました。
僕はナイスバディに命を助けられました。これで2回目です。ブラを命綱にするとは思ってなかったですが、リョウはいい経験をしたと思います」
酒井は難なく山本の怒りを鎮めた。
文化の日、舞美は名大講堂で『身近な法律のトラップ』というタイトルで、講演した。控室には大きな深紅の薔薇の花束が届けられていた。これはチャンプ? 花片に小さなカードが挟まれて、『僕の気持ちは変わっていない』
ああ、リュウ…… ポロリと涙が落ちた。
酒井がドアを開けた。「おい、出番だ。どうした、泣いてるのか?」、花束だけが残された。
このどこかにリュウはいる。リュウ、今の私を見てちょうだい。舞美はメッセージカードを胸に秘めて、演壇を縦横に駆け巡り、聴衆から質問を吸い上げては全員で考え、わかりやすく解説した。
講演なんてものは、偉い先生が立派なことを喋るのを静かに聴くものだと信じていた聴衆は驚いたが、舞美の話に引き込まれ、拍手の嵐で終わった。
「おお、ナイスバディ、オマエのおしゃべりは最高だ! エンターティメントだ。実家に泊まるんだろう、送って行くよ」
「寄らないで湯河原に泊まります」
「そうか、夕飯食って送って行こう。話がある」
酒井は珍しくスーツ姿だった。レストランに案内して、「素晴らしかった、本当にありがとう、感謝する。学長が驚いていた。あれでは疲れたろう、オレが運転するからオマエは何か飲め」
「いいです。けっこう飲んじゃうことがあるので、外では飲みません。それよりペコペコです。食べましょう」
「まさかキッチンドリンカーか?」
「いろんなことを考えると眠れなくなって、お星様を見ながら朝まで一人酒したことがあります」
「オマエが? それはいかん、いかん! 飯食う前に言いたいことがある。オマエと本気で付き合いたい、いや、付き合ってくれないか」
しばらく俯いて考えていた舞美は、
「まだ士郎さんの一周忌も終わってません。それからにしていただけませんか」
「ああ、悪かった。それもそうだな。キン蹴りされなかっただけでもマシか」
湯河原を目指す車内は薔薇の香りで息苦しかった。
「誰が持って来たんだ?」
「さあ……」
「覚えているか? 生きるも死ぬもバディと一緒です。信じてくださいと、オレに言ったのを。それを聞いたらヤバイほど気が遠くなって、とにかく力を抜いて浮かぶしかないと観念した。それから後は何も記憶がない。
うっすらと気づいたらオマエが泣いていた。『私を残して死なないで!』と聞こえた。いいセリフだなあ、オマエもオレも生きていると安心したらバタンと眠ってしまい、満足にお礼を言ってない。だからマジにお礼するぞ」
酒井は暗がりに車を駐め、舞美を抱きしめた。驚いた舞美を力まかせにキスした。鼻まで塞がれて息が出来ずに暴れたが、酒井は微動だにしない。激し過ぎるキス! やがて舞美はぐったりした。
気が遠くなった舞美の耳元で「オレのヨメになれ、ヨメになれ」、ぶつぶつ呪文のように呟き続けた。
目を閉じた舞美を見つめて、コイツは気絶しているか眠ってる時だけが幸せなのか。目覚めれば3人の子供に仕事とプロジェクトの管理か、これじゃあ持たないぞ! オマエは本当はそうじゃない、大丈夫か。
気がついた舞美はキッと酒井を睨みつけ、「ウソつき!」と叩こうとしたがその手を遮って、
「我慢するな、素直になれ! オマエは無理している。オレのヨメになれ、みーんなオレが受け止める。約束する」
「それってプロポーズですか? 私には3人の子供がいるんです。何をバカな事言ってるんですか」
「それがどうした、オマエの子はオレの子だ。ちゃんと育てればいい、心配するな」
「そんな簡単なことではないです。酒井さんの考えはおかしいです!」
「おかしいかどうか、やってみよう」
「いやです、顔を洗って出直しなさい!」
それっきり舞美は横を向いた。
20章 episode 6 失意の酒井
◆ 過去を辿っても未来は見えない。
舞美を本宅に届けたが、酒井は名古屋に戻る気になれず、瀬川の家へ寄った。突然訪れた酒井に驚きはしたが、いつもの元気がないのが気になった。
「悪いなあ、来ちまった」
「どうしたんです? どうぞ上がってください」
「瀬川くん、オレさ、藤井にヨメに来いって言ったんだ。そしたら顔を洗って出直せって、完全にフラれた」
「本当に言ったんですか? いきなり?」
「そうだ、いきなり言った。オマエの子はオレの子だ。ちゃんと育てればいいと言ったら、そんな簡単なことではないと怒った」
「なんと乱暴な! 舞美さんじゃなくても怒りますよ」
「じゃあ、オレはどうすりゃいいんだ。言っちまったしなあ」
本宅で士郎の一周忌に使う什器を揃えていたタエが戻り、酒の支度を整えた。
「まだ何もやってないんでしょ?」
「おい、オレを強姦魔みたいに思うなよ。嫌がる女を抱く気はない」
聞いていたタエが笑い出した。
「舞美さんは愛され過ぎて引きずられてました。士郎さんは我儘で、後片付けしている舞美さんを連れて行くんです。早く来なさいと強引なんですよ。
シンちゃんが呆れて、『パパはいつもママにラブラブなんだ。僕からママをすぐ取り上げるんだもん!』と言った言葉が忘れられません。みんなで大笑いしました。そんな事が続いて、士郎さんの評判はガタ落ちでした」
「士郎さんはそんなにシツコイ男だったのか?」
「うーん、僕は偉そうなことは言えませんが、確かにそうでしたね。パーティでもずっと舞美さんだけを見てました。若い妻を持つとこうなのかと思いました」
「だったら、体に異変を感じた時になぜ検査を受けなかったんだ? アイツを残して死んだら、さっさと再婚されると考えなかったのか? 理屈優先の人がなぜだ?」
「舞美さんはあの時ひどく苦しみ、士郎さんは自分たちを捨てたと悩んでました。再発を知りながら家族を欺き、行きずりの女と関係して性病になった士郎さんを、完全に拒否しました。その時の舞美さんの表情は忘れられません。あれは絶望の眼差しでした。周りを映していない、どんな光も届いてない、後悔と子供たちへの懺悔の眼でした。
舞美さんは死んでいく士郎さんを立派に看病し、時間が許す限り傍にいましたが、僕は違うと思いました。ずっと見ていた橋本がもっとわかったでしょう、舞美さんは氷の心でした。ある瞬間から許せなかったようです」
「何だと! アイツは最後の最後に不幸だったと!」
「週刊誌に載ったでしょう。妻を残して死んで行く哀しい男のモノローグみたいな記事でしたが、あれは違います、男性目線です。舞美さんの本当の気持ちは違うと思います。
もし、道路で倒れて発見されたら、舞美さんの気持ちは残ったでしょう。士郎さんがやったことは浮気や不倫のレベルじゃありません! 舞美さんの存在なんて、これっぽっちもないです、存在を完全否定したんです! その女性を愛していたならともかく、あれは絶対に許せません。多分、舞美さんはあの時、死にました!」
口数が少ないタエがこんなに喋るとは、瀬川は驚いた。
「ちょっと待ってくれ、タエさん、藤井は士郎さんへの気持ちは残ってないということか? 10年以上も夫婦だったんだぞ、オレは信じられない」
「こうなったのは士郎さんのせいです。私はそう思います。添い遂げたのは愛ではなくて感謝です、哀しい話です。でも士郎さんは舞美さんから愛されていると信じて旅立ちました。それでいいじゃないですか。ただ、舞美さんはオニになりました」
「オニとは何だ?」
「これからどんな修羅に陥っても、子供を守るというオニの母です。女にしかわからない気持ちです」
男二人は顔を見合わせた。
「タエさん、聞いてくれるか。渡辺から狙われるようになったキン蹴りを黙認したのはオレだ。それから藤井は執拗にターゲットになったが、オレにはアイツを守る力はなかった。守ったのは士郎さんだ。政界の御曹司が警察を動かした。一般人では無理だ。
アイツが好きだったが、諦めた。地位と力がある大人の士郎さんだったら、オレのバディは幸せになるだろうと思った。士郎さんは最初から結婚を考えていた。この男なら大丈夫だろう、何より士郎さんはアイツにベタ惚れだ。太刀打ち出来なかった、まだオレは半人前だった。
そのうち、アイツを新聞やニュースで見ることがあった。国会議員の賢夫人だと報道されるアイツが不安だった。無理してるんじゃないか? これはオレの勝手な妄想か? 何度も思った。気になってしょうがなかった。笑ってくれ、抱いたこともない女を未練がましく想っている女々しい男を」
「僕は山本さんから聞きました。士郎さんが病気に罹らなければ、舞美さんは違う人生を歩んでいただろう。愛されても迷っていた舞美さんが、白血病の士郎さんを見捨てられなかったと言いました。勿論、それだけではないでしょうが、何となくわかります」
酒井は勧められた酒に口をつけず、頭を抱えた。
「オレはアイツの力になれないのか……」
「酒井さん、そんなことはないと思います。勝手な想像ですが、出直して来いと言われたなら、出直せばいいじゃないですか。チャレンジのチャンスがあるってことです。
11月に士郎さんの一周忌がここであります。それからでしょう。舞美さんは威勢はいいですが、けっこうポロっと挫けます。受け止めて甘えさせてくれる人が必要です。酒井さん、ドンマイ、ドンマイでしょう」
20章 episode 7 士郎の一周忌
◆ 兄嫁とのバトルで垣間見えた舞美の計画。
瀬川の朝は早い。適温•適湿の管理、ボイラーや空調点検から始まる。誰か泳いでる? あっ、舞美さんだ! 酒井に「舞美さんがバタフライで泳いでます。何か心を決める時はバタフライです。早く行ってください!」
酒井は舞美の泳ぎを見た。教えたとおりのフォームでゆっくりと往復した。
「おはよう、昨日は悪かった。オマエのことを考えてなかった、謝る。罰ゲームしよう、浦島やるか?」
舞美はにっこり笑って、酒井の背中に乗って、パカパカ叩いた。
「こんなんじゃ中学生に負けるぞ、これでも男かぁ!」
プールに響く舞美の声に瀬川はホッとした。舞美さんは何か決心したようだ。清掃しながら柱の陰で見ていたら、舞美さんを掴んで酒井さんが潜った。はっ? なかなか浮かんで来ない。どうした? 舞美さんがポッカリ浮かび上がり、何かを確認しながら酒井さんをプールサイドへ運んだ。そうか! 事故の再現か、この二人がやることはなぜかおかしい。山本さんが言っていた、二人はよく似ていると。ともあれ舞美さんは怒ってなかった。やれやれだ。
士郎の一周忌法要が湯河原の本宅で行われた。
士郎の母や兄弟・親族が勢揃いし、法要の後にお斉(とき)を食べながら歓談していたところ、長兄の妻が切り出した。
「舞美さん、プールの事業は軌道に乗ったみたいで、良かったわねえ。プールやお風呂だけでなくて、ここをレジャーランドにしない? 裏の山林を活用しましょうよ。資金なら心配しないで。私の実家がいくらでも出してくれるわ。悪い話じゃないでしょ、何もないこんな田舎に人を呼ぶチャンスよ。考えてね」
「せっかくのお話ですが、お断りします」
手伝いの町民が驚くほど、舞美は大きな声ではっきり言った。
「あらあ、少しは考えてから返事なさいよ。そもそも舞美さんが本宅を譲り受けるなんて、おかしな話だわ。遺言の話があったとき、ここは舞美さんに託すと一方的に言われたらしいけど、あなただけが相続するなんておかしいわ」
「お姉さま、仏さまの前でこんな話はしたくありませんが、ここはお父さまから預かっただけです。譲られたり、もらったものではありません」
「まあ、助教授になるだけあって理屈がうまいのねえ。その達者な口で舅をだましたのかしら」
血相変えて中腰になった酒井を山本が、口を挟もうとした青木を谷川が押さえた。
「士郎さんたち兄弟は泉谷家の四代目になりますが、初代は紀州から流れ着いた無頼の若者でした。皆さんの仲間に入れてもらい、漁師になってこの地に定住しました。ケンカの仲裁が上手だと評判だったそうです。二代目は網元になってこの家を建て、県会議員を経て国会議員になりました。この時代は大漁旗が翻り、町はとても活気があったと聞きました。
三代目がお父さまです。首相になられましたが、国のトップになると地元に利益誘導が出来ず、日本中の漁師町と同じようにこの町も寂れて行きました。ちょうど近海漁業から遠洋漁業へと変わって行く時代だったのです。これまで泉谷家を支えてくれた町の皆さんに役立つ活用を考えてくれと、私にここを預けられました。私なんかに騙されるようなお父さまではありません」
「うまいこと言うけど、舞美さんだって子供を育てるのにお金が必要でしょ。月々100万のお給料だって払いますよ。考え直した方がよくない?」
「お父さまと約束しました。今はプールとお風呂だけですが、地元の方に喜んでいただけるプロジェクトを考えています。発表はまだ差し控えますが、ご心配いただいてありがとうございます」
舞美が言い終わると、すかさずケンが拍手した。
気まずい雰囲気の中で、長男夫妻はベンツで帰って行った。町の人たちは走り去る車に塩を撒いた。
「すみません、座が白けちゃってごめんなさい。どうぞ無礼講で飲りましょう、お付き合いさせていただきます」
舞美の父は、娘はたった11年の結婚生活で夫に死なれて3人の子供を育てる以外に、そんなことまで考えなければならないのか…… 俯いて目頭を押さえた。
舞美は朗らかに酌をして回って返杯したが、「私はこれで失礼いたします。本日は誠にありがとうございました」と挨拶して下がった。瀬川はタエに目配せして、後を追わせた。
夫婦の寝室だった部屋に入ると思ったが、舞美はキャプテンルームに入った。
初めてこの部屋に入ったタエは、窓から見える漁火に驚いた。漆黒の海に輝くオレンジの塊に息を呑んだ。
部屋から舞美とタエの話が聞こえた。
「ここから見える日の出や夕焼けは言葉では表現できません。悲しい心で見つめると悲しい夕陽になるんです。大海原に比べると人は愚かで儚いです。
タエさん、瀬川さんは命を懸けて私を守ってくれました。だから私は生きています。そして瀬川さんは不器用で一途な人ですが、二人で幸せになってね。ああ、ホントに眠くなりました。お休みなさい」
20章 episode 8 揺れる二つの心
◆ 瀬川がどんなに驚いても、新しい命は育つ。
翌朝、酒井は水をガブ飲みして酔いを覚まし、プールの柱の陰で舞美を待った。予想どおり舞美はやって来て、バスローブをさらりと脱ぎ捨て水着に着替えた。初めて見る成熟した全裸が眩しかった。メスを入れないで3人も産んだのか、さすがだと見惚れた。
2枚貝の合わせ目がわかるほど陰毛が薄いが、贅肉はない。あれじゃあ、士郎さんが溺れたのは無理ないなあと妙なところで感心した。
「おーい、お疲れさんだったなあ」
「えっ、いつ来たんですか?」
「今だ。酔い覚ましに泳ごうと思ってな。浦島やるか?」
「いいえ、ラッコにしましょうよ」
「おお、それがいい。オマエさ、いろんなこと言われたけど気にするな! 人それぞれだ」
背泳する酒井の腹に乗った舞美は「逆にしますか?」と言った。「オレは重い、お前の2倍以上あるぞ、大丈夫か」、「やってみましょう、ハーイ、行きますよ」
舞美の上に酒井が乗ったら、ドスンと沈んだ。さすがにスピードはなかったが、
「しっかり水をかけ、腕を伸ばせ、もっと大きくかけ、頑張れ!」
朝の点検に来た瀬川は何をやってるのかと呆れた。
「左が弱い、溺れるな! ライフセーバーだろ、あと5mだ。おおっ、やればできるじゃないか!」
橋本が子供たちを連れて来た。ケンとシンは泳げるが、リョウはまったくの我流で泳げるとは言えない。
「チャンプ、夏までに泳げるようになりたい。教えてください!」
「泳げるようになってどうするんだ?」
「この前みたいにみんなに迷惑かけたくない」
「そんな考えのガキには教えない。中途半端に泳げるようになったら必ず溺れる。考え違いするな! オマエのママはインカレで結果を出した。オマエと違うとこは理屈で考えずに直感で進むとこだ。理屈バカが中途半端に泳げるようになるのは危険だ。川もそうだが海はもっと状況が急変する、オレの言うことがわかるか? 出直して来い!」
出直して来いのセリフに舞美がふふっと笑って、酒井を見た。
師走の風が吹き抜ける昼前、舞美は再び湯河原を訪れた。瀬川は驚いて、
「どうしたんです、一人ですか?」
「ここから新幹線で通勤できるかなって、実地検証です。春休み中に引っ越して、新学期はここの学校へ通わせようと思ってます。仕事の時は前日の夜の新幹線に乗って、調布に泊まります。翌日の朝から授業をして次の日の夜に湯河原に戻ります。無謀な計画でしょうか?」
「子供たちはどうです、賛成したんですか?」
「いえ、まだ話してません」
「はあ?」
「今日はね、それよりもっと大切な用事で来たの。もうすぐ役場は昼休みでしょ、タエさんを呼んでくれませんか、会いたいんです」
タエは町役場から自転車を跳ばしてやって来た。
「タエさんの気持ちを聞きたくて来たのよ。瀬川さんはタエさんにぴったりよ、決心したの?」
タエは恥ずかしそうに頬を赤らめたが、「はい」とはっきり言った。舞美は瀬川に向き直って、
「タエさんと幸せになってください。瀬川さんは大事なところでシャイでグズだから、言っちゃいました。しゃしゃり出てごめんなさい」
今度は瀬川が顔を真っ赤にして下を向いた。
「早くお披露目しましょうね、お披露目は本宅を使いましょう。瀬川さん、ぼーっとしてる場合じゃないです、パパになるんですよ、わからないのですか!」
瀬川は、予期せぬ方向から額にピタリと銃口を向けられて驚き、目を見開いた。タエからは何も聞いてなかった。女を抱くことはないだろうと、瀬川は避妊具の用意がなかった。抱いたのは3回だ、大丈夫だろうと勝手に思い込んでいた。
「タエさん、瀬川さんに言ってないの?」
「はい、まだ自信がなかったから……」
「じゃあ、病院に行きましょう。瀬川さん、役場には早退すると伝えてください」
20章 episode 9 小さな変化と大きな変化
◆ 湯河原に移り住む前奏曲。
しばらくして戻ったが、タエは妊娠10週目だった。
「瀬川さん、妊娠初期はとてもデリケートな時期です。あと2週間すれば安定期に入ります。大事にしてください。自転車はダメよ。お腹の子は、瀬川さんと同じで真っ直ぐな志を持った男の子です。私はそう思います」
タエの妊娠を聞かされた瀬川は人生最大のパニックに襲われ、うろたえた。
「申し訳ない、悪かった。後先を考えないで君を抱いてしまった、悪かった。あまりにも驚いて何と言っていいのかわからないが、とても嬉しい。こんな僕で本当にいいのか?」
タエはにっこり笑った。
二人に背を向けて舞美は涙を拭いていた。
「お披露目は急ぎましょう。私に任せてくれますね。やることが出来て嬉しいです。おめでとうございます!」
外で大きなクラクションが聞こえた。
「あっ、消防団の吾郎さんです。駅まで乗せてくれるんです。じゃあ、お腹の子を大切にしてね」
タエのお腹が目立つ前にお披露目しようと考え、五所神社に相談して1月5日に決めた。日取りは決まったがカタチだけでも仲人が必要だ。士郎さんはいないし、そうだ、ケンに頼もう。
「ケン、元気? あのね、瀬川さんが結婚するの知ってる?」
「タエ姉ちゃんと?」
「知ってたの?」
「何となく」
「だったらケンの力を貸してくれないかな。ママは結婚式でナコウドって役目をするの。それでね、パパがいないから、ケンがパパの役をやってくれないかな。挨拶はママがするから、ママの横に立ってるだけでいいの」
「うーん、何だかわかんないけど、僕にできるかなあ?」
その時、傍にいた山本が頭上に大きく丸を作って笑った。
「ママにはケンしかいないの。お願いだからママを助けてね」
「うん、わかった。いつ、それは?」
冬休みに入ってすぐ、舞美は子供たちと湯河原に来た。
「ニイは結婚するんだってぇ、ママから聞いた。ママと結婚するかと思ったのに、やるじゃん!」
シンがませた口をきいた。
「僕のことより、ここに引っ越すのか? 決まったのか?」
「うん、新学期からだ。東京はパパの思い出がいっぱいだから、ママはシンドイってさ。そして、選挙に出ろってうるさいんだ、ママは議員になるのはイヤだって。僕はここが好きだからいいよ」
「リョウはどうだ?」
「ママを信じる。それよりさ、ニイから酒井さんに頼んでよ。チャンプに水泳を教えてもらいたい。名古屋に行くから頼んでよ」
20章 episode 10 瀬川の婚礼
◆ 全てをリニューアルしても心はリセットできない。
1月5日、町民の祝福を受けて瀬川とタエの結婚式が行われた。
舞美とケンは仲人を務め、ケンが花婿の瀬川の露払いをし、舞美が白無垢のタエの手を引いて神前に向かった。シンは中学生だが身長は170cm以上あり、瀬川より長身だった。町民は緊張した表情のケンを見て、「旦那さんが亡くなっても、外腹の坊ちゃんをあんなに大事になさって」と涙ぐんだ。
参列した酒井は、留袖姿の清艶な舞美と立派な若武者に育ったケンに見とれた。
真夜中まで続いた宴が終わり、新郎新婦を送って行った舞美と酒井は、どちらからともなく浜辺へ向かった。
「すごい星だなあ! あれか? 三ツ星のオリオンは」
「そうです。あれが1等星のペテルギウスで、おおいぬ座のシリウスとこいぬ座のプロキオンで冬の大三角形なんです」
「いやあ、都会ではこんな夜空はない、凄いなあ!」
「あそこの赤い大きな星が牡牛座のアルデバランで1等星です」
「オマエ、いつも星を見てるのか? 哀しくないか?」
「どうして?」
酒井は舞美を抱きしめた。
「オレは何回も顔を洗って考えたが、答えはいつも同じだった。それで出直した。オマエが好きだ、本当だ! オマエが可哀想で見てらんない」
「同情ですか」
「バカヤロウ! 本気だ」
酒井は舞美の顎を両手で抱え、乱暴にキスして離さなかった。やがて舞美は大粒の涙を溢しながら大きな胸にすがりつき、いつまでも泣いていた。上着を脱いで舞美を包み、もう泣くな、帰るぞ。
舞美を抱き上げて本宅へ続く小径に差し掛かったとき、
「ママ! どこへ行ったのかって捜してたんだ」
「おお、ケン、コイツを頼んだぞ」
酒井はケンの腕の中に舞美を落とした。
「夜道は危ない、ママを抱き上げろ。オレが許す」
ケンは恐々舞美を抱き上げた。
「危なっかしいな。右手で女の体重を支える、こうだ。手は膝頭の後ろだ、ここだ。左手は女の左脇の下に回す。おっぱいは触るな、殴られるぞ。こうすると女はオマエの首に手を回す。これを『お姫様だっこ』という。ケンは女を抱き上げたことがないな、コイツは軽いが普通の女はもっと重いぞ。よく覚えておけ、必ず役に立つ」
「ケンは中学生です。余計な事を教えないでください、まだ早いです!」
ケンに抱かれた舞美がケラケラ笑った。ケンの後を追った山本は吹き出したいのを我慢した。
プールの横に事務所を兼ねたゲストハウスの新設と本宅を改築することにした。ゲストハウスの1階は付き添いの父兄や近隣の人々の憩いのフロアに、2階は習い事やサークルに活用できるスペースを設けた。
本宅は、2階の広間を潰して子供用に3部屋の洋間を造り、寝室は完全リニューアルしてゲストルームにした。どこにも士郎を偲ばせるものはなくなった。キャプテンルームにパソコンを置き、舞美は自分の部屋にした。同じように調布のマンションも全面リニューアルを行い、家具や家電はすべて新しくした。
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