19章 何もかも消え去った
19章 episode 1 残された日々
◆ 青木の指摘がわからない士郎。
士郎は家に戻って3日目から吐き気がおさまり、体調はやや安定したように見え、いつも子供たちに囲まれていた。
「士郎さん、私は来期の講義をお休みします。少し疲れたし家にいたいと思います。大学には迷惑かけたので休講したいと話したら、わかってくれました。4月から士郎さんの扶養家族になります」
照れ笑いして、舞美は子供たちと買物に行った。
何? クビか? あんなに頑張ったじゃないか、どうしてだ? どんなに考えても士郎は納得できなかった。しばらく考えて青木に電話した。
青木が「お元気そうなお声で安心いたしました」、型どおりの挨拶を述べると、士郎は性急に尋ねた。
「先生、舞美がクビになったそうですが本当ですか?」
「藤井がそう言ったのですか?」
「クビとは言わないが、いろいろ迷惑かけたので来期は休みたいと言ったら、あっさり認められたそうです。あんなに頑張っていたのに、大学とはそんな所ですか?」
周りが見えずにこんな質問を投げかける士郎に、青木は猛烈に腹が立った。
「それは違います。藤井の授業は人気No.1です。来期は助教授に昇格して講義数も増える予定でしたが、藤井は断りました。わかりませんか? あなたの看病に専念したいと考えたのです。夫の看病では大学は無理は言えません。後期には復帰することになったようです。藤井はこれ以上の後悔はしたくない、今しかやれないことをやると言ってました。藤井の気持ちがなぜわからないのですか!
あなたの行動に傷ついた藤井は、まったく立ち直ってません。自分と子供たちは捨てられたと考え、埋めようがない孤独と絶望の中に溺れています」
士郎は何を指摘されているのかわからなかった。俺が舞美と子供たちを捨てた? そんなことはない。検査を受けるのが怖かった、グズグズしただけだ。そう思った士郎は黙って聞いていた。
「士郎さん、たとえ検査結果を恐れたとしても、もっと前に、せめてあの騒動の前に、検査を受けていないと打ち明けていたら、藤井は救われたでしょう。あの醜聞で全てを知った藤井は、自分と子供たちはあなたにとってどのような存在なのか、見せかけの家族なのか? 藤井はそう思って子どもたちに詫びたでしょう、捨てられたと思っています。その程度の存在だったのかと絶望しています。
あなたがあの女性を愛していたら、藤井は答えを見つけたはずです。士郎さん、お願いします。藤井のどうしようもなく凍った魂を救ってから、死んでくれませんか。このままでは、藤井はあなたが死んだ後に誰かを愛しても、幸せになれません! そんなことすらわからないのですか、もう切ります。大変失礼しました!」
青木の横にいた谷川は、驚きのあまり顔色が変っていた。
「言い過ぎだ! よくもまあ言ったなあ。相手はいつ死ぬかわからない病人だ。オレは恐ろしくて口を挟めなかったが、胸がスカッとした。舞美ちゃんに甘えるんじゃない! いつも思ってたんだ。オマエを見直したぞ! 士郎さんは人の気持ちがわからない、わかろうとしない。悪い人じゃないけど、自分しか見えてない」
士郎は、食事の支度をする、ケンの話を聞いている、本を読み聞かせする、そんな舞美を見ながらじっと考えていた。俺は家族を捨てたつもりはない。捨てる気もなかった。しかし、青木さんがああ言った以上、舞美はそう思って絶望しているのか?
士郎は思い起こした。
最初はうっとおしい検査を単純にさぼった。そのうち倦怠感と眩暈を感じるようになったが、気のせいだと無視したかった、心配かけたくなかった。次第に自覚症状が顕著になり、再発したかと思ったが今さら言えなかった。俺から捨てられたと考えた分岐点はここだろう。
それからは猛スピードで体調は悪化した。家族のことは考えないようにした。妻と子供たちから逃げた。そして肉体的な苦痛と不安で、家族のことは考えられなくなった、考えたくなかった。そうだ、それを家族を捨てたと言われると、確かにそうだ。士郎は後悔しても取り戻せない時間と自分の弱さを悔やんだ。
絶望したままの舞美は幸せになれないと青木は言った。裏切られた思いが消えないからだろう。その原因は俺だ。自分しか考えず、舞美を不幸にしてしまった。命なんかどうでもいい! 士郎は再び逃げ出したくなった。
19章 episode 2 届かない言葉
◆ 子供になった士郎に、戸惑う舞美。
舞美は眠っている士郎を起こさないように、静かに背を向けた。ウソ寝していた士郎は、逃げずに話さなければ舞美の心は凍りついたままだ。わかってくれるかどうかわからないが、逃げてはいけない。
「起きてるか? 聞いてくれ、話がある」、舞美の背中に話しかけた。
「僕は取り返しがつかない時間を失った。それは舞美と子供たちを捨てたのではない。最初は検査に行くのが面倒だった、油断があった。そのうち何となく不快を感じるようになり、それは以前と同じ予兆の気がした。それからは再発の予感に怯え、恐ろしくて検査に行けなくなった。気のせいだと思いたかった。だが再発したとはっきりわかった。それでも言えなかった。言わなければならないとわかっていても、言い出す勇気もなかった。
全身を襲う倦怠感をごまかしていたが、体調は日毎に悪化し、君たちと顔を合わせるのが辛かった。何も言わずに現実から逃避し、隠れたかった。今さら話せなかった。僕は死ぬことだけを考えた。そしてあの結末になった。僕は逃げたが、決して舞美と子供たちを捨てたのではない。お願いだ。これだけはわかってくれ!
僕は弱虫で情けない最低の人間だ。再発の恐怖で混乱し、自分を見失ったが、君たちを捨てはしなかった! 本当だ。許してくれとは言えない、お願いだ、せめて信じてくれ!」
静かに聴いていた舞美は涙を溜めていたが、泣いてはいなかった。無言のままパジャマを脱ぎ捨て眼を閉じた。「許してくれるのか、いいのか?」、返事はなかった。やがて舞美が他の男に抱かれるかと思うと、嫉妬で体が火照った。
そう、そうだ、その感じだと言い聞かせると分身は徐々に硬度を増し、舞美の中に潜り込めた。渾身の力を込めて突き込んだ途端、締めつけられた分身はあえなくパクパクと口を開いて陥落した。あーあ、2カ月ぶりかぁ、やっぱり舞美はいいなあ、最高だ……
満足した士郎はそのまま子供のように眠ってしまった。舞美の太腿にだらしなく寄りかかったペニスからはポタポタと滴が垂れていた。
以前の士郎さんは、ペニスの中の残りを完全に出し切って、ぼんやりしている私を拭いてから自分を拭った。今の士郎さんはもう私のことは考えられないのか?
きれいに拭いてパジャマを着せたが、士郎は熟睡していた。寂しい思いで寝顔を見ていたが、眠っている時間だけが幸せなのかも知れないと思った。
翌朝から舞美は筋トレを始めた。
「あー、やだ、やだ、緩んじゃったぁ」、ブツブツ呟いて、ひとまわり痩せた体に負荷をかけた。舞美さんは何かを諦めて少し吹っ切れたのかな、瀬川は見ていた。藤井が筋トレ始めたら電話くれと、酒井から言われていた。
「あー、そーか。やっと始めたか、ちっとは元気になったな。瀬川くん、ありがとう、またデートしてくれ、じゃあな」
あっさり酒井は電話を切った。瀬川は酒井の気持ちがさっぱりわからなかった。
昼間の士郎はいつも子供たちの輪の中にいた。レイとママゴト遊びしてリョウと図鑑を開き、シンの空手に眼を細めた。そして夜を待ちかねたように舞美を抱いた。分身は嬉しそうに舞美の中で暴れまわり、活気を取り戻した。艶めいた表情の舞美の秘部に舌を這わせて呼吸とリズムを合わせ、舞美の全身が小刻みに震え出すと再び分身を投げ入れた。士郎はこの瞬間に死にたいと思った。信じてくれるか、君たちを捨てたんじゃない、自分を捨てたんだ……
「舞美のおっぱいをよく飲んだなあ、爽やかで旨かった。シンが横取りするなと小さな手で僕を押し退けようとした。おっぱいで人間が育つのが不思議でしょうがなかった。初めてのことばかりだったが、僕は幸せだった。舞美はどうだ?」
「はい、幸せでした」
「そうだ、その言葉が欲しかった。プロポーズした僕に君は迷っていた。僕が病気になったからついて来たのかと考えたことがあった。僕は強引だった。それでもいい、僕が幸せになれば、君も幸せになると思った。僕はとんでもなく君を愛してたんだ。みっともない姿を晒したが、あんなに情けなくて弱いのも僕だ。わかってくれるか? おいで、幸せになろう。1カ月間は抱けないが必ず戻ってくる。待っていてくれるね」
舞美は眼を閉じて聴いていた。瀬川から言われた言葉が胸にあった。
「舞美さんはウソが下手で本当のことを言ってしまう、そして言葉が足りない。迷ったら黙っていましょう。今の士郎さんには、舞美さんの言葉はきついかも知れない」
19章 episode 3 骨髄移植
◆ カウントダウンの命に延命治療が始まった。
士郎がだんだん子供のようになるのがわかった。避妊しないで私を抱くことをまったく疑問に思っていない、放射線を浴びた精子の危険度を想像しない、考えようとしない。谷川先生はそれを言いたかったのか? 残された時間を知った我儘か?
ベッドでは舞美がいつも聞き役だった。士郎はこれまでの10年間を熱っぽく語った。君たちを捨てたのではないと一生懸命に言い訳した。時々舞美が頷くと、嬉しそうに微笑んだ。最後の言葉を残しているとわかって、我慢できなくて何度も泣きそうになったが、辛いのは士郎さんだ、後悔したまま死なせてはいけない。
1月9日に無菌室に収容され、11日に骨髄移植の手術を受けた。約1カ月間の入院予定だが、今回は放射線治療は行われず、手術経過観察と薬剤による治療が施された。見舞いに来た子供たちに、ベッドの士郎は笑いながら手を振った。パパは手術したからもう大丈夫と子供たちは信じたらしく、士郎が家に戻る日を楽しみにした。予想より早く生着が認められ、自分で白血球を造り出せるようになった。
2月初旬、都心に珍しく雪が舞う午後に士郎は退院した。迎えに行った舞美と瀬川にぽつりと、
「雪景色は静かでいいものだなあ、音が雪に吸い込まれて行く。知らなかったなあ、知らなかったことが多いなあ。雪はこれで見納めか……」
子供たちは帰宅した士郎に大喜びで、離れなかった。レイは幼稚園の制服を見せて、「パパ、入園式に来てね」と約束げんまんをねだった。舞美は知っていた。手術は成功したが、浸潤が止まらない限りは延命措置にしか過ぎない。士郎さんは私と子供たちのために1日でも多く生きて、記憶を焼きつけ、捨てたのではないと思わせたいのだ。
士郎は舞美に寄り添い、ほとんど外出することもなく、自宅で静養を続けた。
ある日、舞美は総理に呼ばれた。
見舞いの言葉と花束をもらって官邸を後にしたが、市村大輔とすれ違った。市村は丁寧に頭を下げながら、「舞美、頑張れ」と去って行った。
幸せの絶頂にいた舞美と会ったのはいつだったか、市村は思い起こした。あれは確か泉谷健司のお別れ会だ。和服の舞美はしっとりした落ち着きと自信に満ち、いかにも国会議員の若奥様風情を漂わせていた。士郎は自慢げに妻を紹介していた。
しかし今日の舞美は、まったく違う顔をしていた。哀しみと絶望を隠した眼の奥に、怒りと闘いの炎を見た。あいつは誰にも頼らずに生きて行くと決めたのか、士郎さんへの感謝と愛情を捨てたのか? お願いだ、次は本当に幸せになってくれ……
毎月1週間弱、士郎は入院した。進行を遅らせるための治療だった。主治医と谷川は舞美に、
「広範囲に浸潤が確認されている。浸潤した撤去手術を受ける体力は、もう士郎さんにはないだろう。そして完全撤去は不可能だ。どうしても手術したければ小規模な手術は可能だが、メスを入れるだけでかなりのダメージだ、勧めたくない。
残された選択は、苦痛を和らげて命を延ばすことしかない。舞美ちゃん、士郎さんをむざむざ死なせたくないが、今の医学ではこれしか出来ない、申し訳ない。かつてタラレバで話を進めたくないと言ったが、せめて3カ月前だったらといつも思う。
希望すればホスピスの選択もあるが、まだ時間は残されている。考えてくれないか。舞美ちゃんとは10年以上の縁だ。おたふく風邪には驚いたがね。困ったことがあったら、いつでも電話くれていいよ」
「おたふく風邪で士郎さんと初めて会ったんです」
「あのとき、士郎さんを叩いたんだって?」
「ベランダで士郎さんがグダグダ長話を続けるから寒いと言ったら、温めてあげるとキスしようとしたんです。こんな人は大嫌い! それで叩きました」
舞美は遠くを見て小さく笑った。
19章 episode 4 お星様になる準備
◆ クロコンドルとツルになるなと、酒井は告げた。
翌日、舞美は谷川の診療室を訪れた。
「おたふく風邪かい?」
「先生……」
「わかった。士郎さんと最後まで一緒に過ごす決心をしたんだね」
「そうです。悔しいけど見捨てられません。私を守って一人前にしてくれました。先生、教えてください。士郎さんは少しずつ子供のようになっています。考えたくないことを避けて、感情の赴くままに行動し、喋ります。それは病気のせいでしょうか?」
「それはね、士郎さんはお星様になる準備をしているからだよ。幼い子は好きな物ばかり食べたがり、好きな遊びばかりするだろう、あれと同じだ。手がかかる大きな子供だ。やがて幼い子と同じように、おもらしするようになる。徐々に生まれた時に戻って行くんだ。僕は舞美ちゃんにこんな話をするとは思ってなかったが、挫けるな、キミが選んだ道なんだよ」
舞美は泣かずに、谷川を見つめて聞いていた。
「先生、おたふく風邪やジンマシンでいつも先生を頼っていました。何も考えてなかったあの頃に戻りたいと、ずっと後悔しましたが間違ってました。1日でも永く士郎さんが生きられるように力を貸してください。私は現実を受け止めてませんでした。先生、いつも甘えてごめんなさい」
「舞美ちゃん、いつでも力になるよ、やれることをやるだけだ。病院はシフトを組んで訪問看護しよう、子供たちもこの方がいいと思う。士郎さんを責めてはいけないよ」
谷川は舞美の頭を撫でて、「ほら、ライオンさんの体温計だ。高いより低すぎる日が続くと要注意だ」、懐かしい体温計を舞美に渡した。
士郎の体重は少しずつ戻り顔色が良くなって健康そうに見えるが、そうではないことを本人が一番知っていた。
ある日、瀬川に酒井から電話があった。
「瀬川くん、頼みがあるんだ。ファミリーのムービーを撮ってくれないか。それから藤井に言ってくれ、いつまでもメソメソするな、クロコンドルとツルにはなるな! そう言ってくれ、頼んだぞ!」
電話はプツンと切れた。クロコンドルとツル? 何を言いたいのか?
「舞美さん、酒井さんがこんなことを言ったんですが、ムービー撮っていいんですかね? いつまでもメソメソするな、クロコンドルとツルにはなるな! そう言ってました」
「チャンプはそんなこと言ったの? ムービーかぁ、私が言います。チャンプの伝言はヒミツにしてね」
切なく哀しい契りの後で、役目を終えたペニスを拭いて舞美は士郎に抱きついた。「お願いです、子供たちとのムービー欲しいです。いいでしょう?」、舞美は小さくなったペニスをくわえた。カリの窪みと裏筋に舌を這わせ、「あっ、止めてくれ!」の声を無視して続けた。士郎は眼を閉じて耐えていたが、ダメだぁーと噴射した。しばらくして、やっと士郎の鼓動が平常に戻ったとき、「凄い!」と褒めると、その言葉に嬉しくなった士郎は、
「うん? ムービーか、僕はちっともかまわないよ。あの子たちは毎日成長しているから記録するのも悪くないなあ」
舞美の気持ちがわかった。そんなことより、いつまでも舞美を抱きたいと後悔した。
瀬川はムービーを撮りながら泣きたかったが、子供たちがレンズに向かってVサインしたり、士郎にチューする姿を撮り続けた。
「舞美さん、この前、酒井さんは変なこと言ってましたがどういう意味かい?」
「あのね、クロコンドルは相手の浮気を絶対に許さないそうです。ツルは相手が死んだら永遠に再婚しません。酒井さんから教わりました。チャンプは何でも知ってるのよ」
そういうことか、メソメソはやめろ、浮気は許してやれ、そのうちオレと一緒にならないかと告げたのか、なるほどなあ。舞美さんは意味がわかったようだ、二人が不思議に思えた。
桜が咲いて散った。瀬川は夏前にオープン予定の湯河原の工事を確認に行くことが多くなった。そのうち湯河原に常駐するだろう、この家には男手が必要だと山本は考えた。瀬川に相談すると、後輩でスナイパーに落ちこぼれた橋本という男を連れて来た。茶髪にピアスの今ふうで明るい若者だったが、警察大学校出身で柔道と剣道の有段者で、剣道は三段で警察道場で教えているという。
瀬川の他に男を依頼することに士郎はためらったが、舞美の説得でわかった顔をした。
なぜ警察を辞めたのかと尋ねると、「瀬川先輩みたいにスペシャリストになれば別ですが、絶対服従が苦手なんです」と笑った。子供たちはニイニイと呼んで、すぐ懐いた。
士郎は元気になったように見え、天気が良い日は舞美と散歩した。その後ろを橋本がイヤホンで音楽を聴きながら踊るようなステップで追った。
19章 episode 5 プロジェクトがオープン
◆ 士郎の死後を考えなければならない現実。
ある日、舞美は山本家を訪れた。突然の訪問に智子は驚いたが、しばらく待つとケンが学校から戻って来た。いつものようにケンを膝の上に乗せて、背中に話しかけた。
「ママは迷ってるの。ケン、教えてくれるかな? もしパパがお星様になったら、チビたちと湯河原に住もうかなって考えたけど、あの子たちにはキツイかなあ? ごめんね、ケンにこんな話して。ママは自信がないの。パパがお星様になったら、あそこは出なきゃならないの。チビたちに急に湯河原に住むよなんて言ったら、パニックだよね、ケンだったらどうする?」
ケンはじっと考えた。ちょうど帰ってきた山本に智子はシーッと言って、襖の陰に隠れさせた。
「ママ、本当のこと言っていい?」
「いいわよ、思ったとおりを言ってね」
「僕だったら近くに引っ越して、パパの思い出をいっぱい心に詰め込むんだ。そしたら次の場所へ行けるけど、レイはわかるかなあ? でもシンはわかるよ。リョウはパパそっくりでグチャグチャ言うけど、僕が言えばわかってくれるはずだ。そうだ! 心配しないで、レイはママそっくりで平気かも知れない」
「えっ? レイは私そっくりなの?」
「そうだよ、レイはあんまり考えない。ママは知らないの?」
「へーっ、知らない。ケンはすごいね! みんなわかってるんだ!」
「だって僕はみんなのアニキだもん。だけどシンは僕よりタイジンだ」
「タイジンって何? 教えて」
「この前さ、ヤクザが来たでしょ。僕はママを守ろうと飛び出すつもりだったのに、シンはファミコンやってた。ママが危ないのに何してんだと怒ったら、『ママはビクともしないよ、ヘイキ、ヘイキ』って笑ったんだ。シンはニイの子分みたいなやつだ。
僕は父さんと瀬川のニイを尊敬してるんだ。いつもママは父さんのことを話してくれたけど、やっとわかった。僕はいつもママの味方だよ」
「ありがとう、ママはケンがいちばん大好きよ!」
舞美はケンを抱きしめて笑い泣きした。ケンは照れくさそうに舞美の膝にいた。
山本はそっと家を抜け出した。ケンは俺を尊敬してると言った、嬉しかった。舞美ちゃん、ありがとう! こんな舞美ちゃんを残して、どうして死ぬんだ! 我儘なのは知ってたが我儘すぎるだろう! 士郎さん、聞こえるか? 山本は雨に打たれて吠えていた。
梅雨が明けて夏休みに入る直前、湯河原プロジェクトはオープンした。リニューアルした従来の大浴場とは別に女湯と子供湯を新設し、25mプールに加えて15mのプールを併設し、ジャグジーバスやトレーニングマシンを設置した本格的な施設がオープンした。
山本の運転でオープニングセレモニーに士郎は出席した。県知事や市長の祝辞の後、舞美が用意した挨拶文を読み上げ、拍手を受けて満足げに席についた。次に舞美の挨拶が始まると、町民全員が聞き入った。
泉谷健司から伝え聞いた明治・大正・昭和初期の活気に溢れた町の様子と暮らしを、原稿なしで活き活きと話し、この町を元気にして次の世代に伝えたいと語った。
「私は辛い気持ちをたくさん抱いてこの町に辿り着き、生き返ったことがあります。ここで生まれ育ってはいませんが、ここが大好きで他に帰る場所はありません、この町を元気にしたいです。それにはみなさんの体と心のケアが大切です。お役に立ちたいです! どうぞ気軽に利用してください」
マスコミで暴かれた士郎の醜聞や闘病を思い浮かべ、町民は目頭を押さえた。
舞美のスピーチが終わると、酒井が率いるレコードホルダーの初泳ぎが始まった。酒井が口説いた日本水泳界が誇るスター選手が次々にプールへ飛び込んだ。招待された報道陣は驚いてカメラを回し続けた。週刊誌記者の斉藤も驚いた。アメリカ合宿中の有名選手が、なぜこんな田舎のプールのオープンに参加するのか?? 国立競技場プールのコケラ落しではないが…… スター選手の最後は世界を魅了した酒井の華麗なバタフライがフィナーレを飾った。
19章 episode 6 カウントダウンの命
◆ 泣いて解決することはひとつもない! 舞美は大学に戻った
久しぶりに本宅は大勢の客人を迎えて賑わい、舞美が寝室に戻ったのは深夜に近かった。
「お疲れさん、今日のことは死んでも忘れないよ」
「何を縁起でもないことを言ってるんですか、士郎さん、夜更かしは体に毒ですよ。早く寝ましょう」
「絶対に抱きたい! 抱かしてくれ! いつまで君を抱けるかわからないが、お願いだ。抱きたいんだ!」
士郎は狂ったように舞美を組み伏せ、どこにそんな力が残っていたかと驚くほど瞬時に服を剥ぎ取った。何かに憑かれたように舞美に押し入り激しく躍動し、「舞美――!」、絶叫とともに果てた。
士郎の絶叫を瀬川と橋本は部屋に戻る廊下で聞いた。
「哀しい叫びだなあ」瀬川がぽつんと呟いた。橋本はそれには応えず、灯りの筋を残して水平線に消える漁火を眺めていた。
「この部屋はキャプテンルームですか?」
「そうらしい。代々この屋敷のトップが使った部屋らしいが、舞美さんは俺にぴったりだとこの部屋をくれた。朝日と夕陽が凄いぞ! 絶景だ! この窓から見える海を見ると東京なんかに帰りたくない。舞美さんは俺に普通に生きてくれと言いたかったようだ。痛いほど気持ちがわかった」
「舞美さんは瀬川さんが命を救ったことを知ってるのでしょうか?」
「うーん、あの人は直感が鋭い人だ。何も言わないが、わかっているだろう。酒井さんにはバレてしまったが、彼も余計なことは言わない。そんなことより、ケンの親衛隊長が楽しみだ」
「山本さんの息子でしょ」
「事情があって、舞美さんが引き取って3年近く育てた。浜では驚くぞ、ケンは士郎さんの隠し子だとみんなが信じてる」
翌朝、浜に行くと、地元の人々にお礼を述べる舞美の後ろに凛々しく胸を張ったケンが控えていた。
「こんなに坊ちゃんは大きくなられて」
そんな声に見向きもせず、舞美にぴたりと付き添っていた。
「ほらそうだろう、ここでは俺もお前も出番はない。ケンが守っている。山本さんですら呆れて見ている。俺は舞美さんの運転手でお前はパシリか、そんなもんだ、のどかだろう。俺はここが気に入った。おやっ、酒井さんだ」
「藤井、ここんとこはこうだ、忘れたか? やってみろ」
舞美は大きく腕を開いて宙をかいた。
「違う、違う。もっと肩の力を抜いて丸く円を描く、わかったか」
腰を支えて、何度もやらせていた。舞美の眼に涙が光った。
「思い出したか、ナイスバディ、人生はドンマイだ! 泣いて解決することなんてひとつもないぞ。オマエだったら出来る。自分を信じろ! 失敗なんてつきものだ、気にするな」
酒井はそれだけ言って立ち去った。
一部始終を見聞きした瀬川と橋本は呆気にとられて、顔を見合わせた。
「舞美さんはわかったんでしょうか?」
「わかっただろう。あの二人は似た者同士だ。酒井さんは舞美さんにずっと惚れてるが、深い関係はなかったらしい。不思議なものだなあ、俺は酒井さんが好きだ」
あるとき士郎は、
「舞美、後期は大学に復学しなさい。僕のことは心配しなくていい。助教授になれるんだろう? そんなチャンスはまたとない。君が自分の力で掴んだものだ。僕のために逃してはいけない。舞美がいなくても橋本くんや母がいる。心配ない」
助教授昇格の打診があったことをなぜ士郎さんは知っているのか、舞美は不思議に思った。なかなか決心しない舞美を士郎は説得した。
「僕が死んだら子供たちを頼みたい。それには安定した仕事が必要だ。ただひとつだけ頼みがある。講義を参観したい、少しだけでいい。僕は大学生の舞美と出会ったが、君は仕事を持つ大人の女性になった。その姿を瞼に焼きつけたい。舞美の授業は人気があると聞いた、どんな講義をするか見たいなあ、頼めるか?」
士郎は意識がしっかりしている時とぼんやりしている時間が交差する日々を過ごしていた。舞美を抱いても勃起できない夜が重なり、照れ隠しのように秘部を吸い続け、舞美の頬が薄紅色に染まったのを見て、抱き包んで眠った。
19章 episode 7 燃え尽きようとする命
◆ 舞美の講義を参観し、迫り来る死がはっきりわかった。
9月、舞美は大学に復帰した。舞美の講座は受講希望者が多く、今期から授業は大教室で行われた。教室を走り回り、ハンドマイク片手に汗を拭おうともせず、アクティブな講義を続けた。
10月、舞美は学生たちに頼んだ。
「申し訳ありません。プライベートのことでみなさんにお願いがあります。夫が授業を見学したいと申しています。参観日みたいで恥ずかしいですが、少しの時間でけっこうです。許していただけませんか、お願いします」
舞美の夫が白血病で死期が迫っていることを学生は知っていた。一人が立ち上がって拍手した。次の瞬間、拍手のリレーは大教室を揺るがした。
「先生、受講登録してない学生が今日もたくさん紛れこんでます。ご主人一人どうってことないです!」
天穹まで抜けるような秋晴れの午後、介添えの谷川と橋本が押す車椅子で士郎は大教室を訪れた。
噂を聞いた総長や教授たちが見守る中、舞美はいつもと同じ平常心で、エピソード満載の講義を茶目っ気たっぷりに披露し、ステージと通路を縦横に駆け巡り、学生に質問しては全員に考えさせた。
この講義には勝てないなあ、見ていた青木は思った。経済は日々変化するが、法律なんてカビ臭い分野だと考えていた。ところが藤井の講義は違った。これでは人気があるはずだ、自分の講義を恥ずかしく思った。
士郎は舞美の講義を震える心で聴いた。居眠りしたくなる内容をなぜあんなに魅力ある講義に変えられるのか? 不思議だった。教壇には妻ではない、ママでもない、見たことがないほど輝いた舞美がいた。
参観していた総長は、彼女は修士号授与式に赤ん坊を連れていた。父を失うあの子は幾つになったのだろうか、感慨深げに講義を見守った。それにしても面白い授業だ。ウチのカンバン教授になる日も近いだろう。
舞美はまだ講義があるので士郎は一足先に帰った。谷川と車中で、
「いい授業だったなあ! 僕は普通に講義しているとばかり思っていた。真夜中までアクションを交えて講義ノートを作っているのはこのためだとよくわかった」
「いやー、驚きました。僕も学生に戻りたくなりました。そのうち名物教授になるでしょう。忘れないでください、舞美ちゃんを育てたのは士郎さんです。誇りに思ってください。他の男では出来なかったでしょう。
あの子はぼんやりした普通の女子大生でした。今日の授業を見て思いましたが、士郎さんと会って、選挙や病気や出産や育児を経験して変わりました。危険から守ったのも士郎さん、あなたです。他の男では舞美ちゃんをどんなに愛していても、守れなかったでしょう。舞美ちゃんはわかっています」
士郎は谷川の話に静かに耳を傾けていた。舞美を残して死ぬことはどんなに後悔しても足りない! 何度も諦めた命が惜しかった。
橋本は聞こえないふりしていたが、辛いなあ、人を殺せずにスナイパーを落伍した俺だが、人の命って何だろう? 死にたくても死ねず、生きたくても生きられないか……
「俺は人殺しを何回もやったが、舞美さんを救った時は最高に嬉しかった。この時のために俺はスナイパーだったかと思った」、瀬川の声が聞こえた。
「舞美、素晴らしい授業を見せてもらった。いつも君はあんなに全力投球するのか? 信じられない! あれでは人気 No.1講座だな、納得した。僕は嬉しくて今更ながら惚れ直した。舞美、ここにおいで、褒めてあげるよ」
「今日はいつもより緊張してました。だって、士郎さんだけだと思ったら、谷川先生や青木先生や先生方がズラリ、おまけに総長先生まで覗いてた」
士郎は舞美に挑んだが硬度不足で終わった。舞美はペニスを口に含んで、大きくなれ大きくなれと呪文を唱えて、士郎を誘った。そしてやっと突入できた士郎をにっこり笑顔で包んだ。いつまでこの微笑みを見られるだろうか? 最近は記憶があやふやで昔のことは思い出しても、昨日のことを忘れている。そのうち、舞美も子供たちも忘れてしまうのか。痛みや不快感は薬剤や注射で抑えられるが、記憶がまだらになって消えて行くのが情けなかった。
19章 episode 8 最後の朝
◆ 子供たちに士郎の命は永くないと話した。
11月になると医師が訪問して、苦痛を和らげるために麻薬に近い薬剤を点滴した。その影響か、士郎は意識が朦朧とする時間が多くなった。子供たちも薄々気づいていた。橋本をつかまえては、「ニイニイ、パパが起きないよ、どうしたの? 教えてよう」と困らせた。聞いていた舞美は、真実を話さなければいけない、そう思った。
3人を前に本当のことを話した。
「しっかり聞いてね。パパはお正月まで生きられないかも知れない」
「ウソだ! 手術したから大丈夫ってパパは言ったのに、どうして?」
「パパはみんなのために手術を受けたのよ。手術しないともっと早く死んでたの。でもね、みんなといたいから頑張ってくれたのよ。パパの病気は血液の病気なの。血液って体中にいろんな栄養を運ぶ道路なの。血液に悪いものが混じってるの。だからね、悪いものがあっちこっちに運ばれてしまうの」
舞美は簡単な絵を描いて説明した。
「パパはね、ものすごく強い痛み止めを注射してるから、ボーッとしてたりするの。パパがおかしくなったんじゃなくて、薬のせいよ」
「薬を止めたらパパは死んじゃうの?」
「うん、多分そうだと思う」
「ママと結婚する前からパパは病気だったけど、治ったの。それで安心してたら、いつの間にかまた同じ病気にかかったのよ。シン、わかってくれた?」
「病気のことはケンから聞いた」
「リョウは?」
「学校のお医者さんから教えてもらった」
「レイは?」
「パパはジィジィのとこへ行くんだって。でもアタチと遊んでくれるって」
「よく聞いてね、パパがいちばん辛いのよ。みんなと別れたくないの、でも死んでしまうの。わかってね。パパが本当に死んじゃう日まで泣いちゃダメ! みんなが泣くとパパは心配でお星様になれないでしょ、パパにはとびきり大きくて立派なお星様になって欲しいの。だからパパが死んじゃう日まで絶対に泣いちゃダメ! 約束できるかな?」
橋本が我慢できずにポロリと涙を落とした。
「あっ、ニイニイが泣いてる。泣き虫なんだよニイニイは」
いつも夜になると士郎は少し意識が戻った。「すまない、苦労かけて」と何度も謝った。その都度、子供をあやすように、「もう寝ましょう、いい夢を見ましょう」と涙を拭った。
昼間は子供たちがベッドの周りを離れず、微睡んでいる士郎に話しかけた。レイはママゴト道具を布団の上に広げて、シンとリョウから「あっちへ行け」と怒られ、「ニイニイ、パパになって」と橋本に遊んでもらった。
時々「ああ、シンか、パパは眠ってたか? しっかり勉強しろよ。ママを頼んだぞ」と言った。シンはいつも「うん、わかってる」と応えた。
舞美は目覚めると部屋を暖めて、士郎の体を拭いた。暖かいタオルを当てると気持ちが良いのか、大きな赤ちゃんのように身を任せ、苦痛を忘れた穏やかな表情になって、いつしか眠ってしまう。大学に行く日は士郎の母に子供たちを頼んだ。
霜が降りたある早朝、「起きろ、出来そうだ。早く起きろ! 神様からのプレゼントだ!」、士郎は舞美を起こした。寝ぼけた舞美の前に突き出したものは、最大に勃起したペニスだった。驚いた舞美に乱暴に乗って、そのまま押し入り、激しくピストンを繰り返した。
「あーっ、気持ちいい! 幸せだ。このまま死んでもいい。舞美、愛してる!」
思いを遂げた士郎は恍惚の表情を浮かべて眠ってしまった。突然の出来事で、士郎が呼吸しているか確かめたが心臓は動いていた。
明け方、熱い吐息で眼を覚ますと、
「おはよう、今朝はずいぶん気分がいい。水曜日だ、大学へ行きなさい。待ってるよ」
幾度もディープキスして舞美を送り出した。
19章 episode 9 星になった士郎
◆ 最後まで授業は続けろ、それを見ながら死んでいくと言った。
午後の授業中、バイブにして教卓に置いたケイタイが振動した。橋本からメッセージが入っていた。
「士郎さんが亡くなられました」
舞美は何事もなかったように講義を続けたが、しばらくして顔色を変えた青木が教室に走り込んだ。
「藤井、何してる! 早く帰れ! 谷川から聞いたが、士郎さんが亡くなったそうじゃないか、送って行く、急ごう」
「知ってます。知らせてもらいました。でも約束したんです。もし講義中に僕が死んでも、そのまま続けて欲しいって。それを見ながら安心して天国に行きたいと言いました。君が選んだ道だ、途中で投げてはいけない、最後まで頑張れと…… だから私は授業を続けます。みなさん、続けさせてください」
学生のすすり泣きが聞こえたが、舞美は最後まで講義を続けて、深々と一礼して教室を去った。
寝室に入ると枕元に谷川と主治医がいた。ベッドの士郎は微笑んで眠っていた。
「士郎さんに苦しんだ形跡はない。残念だが大往生だ。今日までよく持ち堪えたと思う。言わなかったが肺や腸にも浸潤が進んでいた。舞美ちゃん、よく頑張った。士郎さんを見てそう思った。いい顔で亡くなっていた。士郎さんを責めるな、これは士郎さんと舞美ちゃんのどうすることも出来ない運命だったんだ。お子さんにお別れさせなさい」
子供たちは士郎が亡くなった現実が理解できず、ベッドを囲んで恐々と士郎を見つめた。
「シン、お星様になったパパに挨拶なさい」
「いやだ! パパはここにいるじゃないか、お星様じゃない!」
「パパ起きてよ、遊んで! お昼寝しちゃダメ」
レイが士郎の頬をペタペタ触ると、リョウは「死んじゃったパパを困らせるな」とレイの手を止めた。その時、シンがわんわん泣き出した。
母は士郎が亡くなるまでを舞美に話した。
「今日はとても気分がいい、いいことがあったと上機嫌で話しかけ、デパートのカタログを開いて、『少し早いけど舞美にクリスマスプレゼントを贈りたい。母さんも気に入った物があればプレゼントしたい』と笑ったのよ。
それから幼稚園にレイを迎えに行って、士郎と一緒に昼食を食べたけど、『パパは眠くなった。あとで遊ぼうね』とレイと約束して寝室に戻ったの。でも変わった様子はなかったわ。
午後2時過ぎ、シンとリョウが帰宅して寝室を覗いた時、士郎は眠っていたみたい。3時近くなり、いつまで寝てるのと起こしに行ったら、返事がなかったの。それで心配になって鼓動を確かめたら、心臓が動いてないと思って、すぐ谷川先生に連絡したのよ」
「先生、今夜はみんなで士郎さんを囲んで眠りたいと思います。いけませんか」
「少し待ってくれないか。そして一旦外へ出て欲しい」
家族を部屋から出して死体の処置をして、子供たちを呼んだ。
深夜近く瀬川が湯河原から駆けつけた時、舞美はどこかに電話で交渉していた。
「それでは、たった今から5日間を全館貸し切りでお願いします」
「舞美さん、忙しそうだな、手伝うよ。何してるんだ?」
「はあ、いろいろ決めること、やることが多くて泣いてるヒマがありません。ここは狭いので、地方から弔問に来てくださる方々の宿泊先を決めました。いつものラブホを借り上げました。士郎さんはヘビーユーザーだからお安くしてくださるそうです」
葬式にラブホか? ビジネスホテルは予約がらみで全館貸し切りは無理だ。舞美さんらしいな、大胆な発想だ。ラブホのヘビーユーザーか、笑ってしまった。
橋本はどこだ? 姿を探すと、「ニイニイ、もう泣かないで」と子供たちから慰められていた。泣き腫らした目の子供たちはおとなしく宅配ピザをかじっていたが、橋本だけがメソメソ泣いていた。
子供たちは士郎の布団に潜り込んで、疲れていたのかすぐ眠った。深夜、子供たちを子供部屋に移して、やっと舞美は士郎と二人きりになれた。冷たくなった士郎にキスすると、「イタズラするな」と今にも起きて、自慢げに「神様からのプレゼントだ!」と、勃起したペニスを披露しそうだった。
終わってしまった、何もかも……
19章 episode 10 ふたつの別れ
◆ もうひとつの別れを瀬川は見た。
通夜と告別式は警備の都合で、青山葬儀所で行うことになり、舞美の多忙な日々は続いた。士郎の死去は既にニュースで報じられ、弔電や献花がたくさん届けられ、警察大学校の学生を連れた山本が全てを葬儀所に運び、通夜の準備をした。
厳重な警備で行なわれた告別式は、首相が弔辞を早稲田大学総長がお別れの言葉を述べた。その後は幾人もの国会議員の送る言葉が続き、最後に喪主として挨拶を述べる舞美の眼は、南条龍平を映したがすぐ見失った。
近藤と弔問に訪れた斉藤は、木陰で舞美が二人の男と話しているのに気づいた。知り合いかと記者目線で見ていたが、小さな包みを渡された舞美が膝を折って泣き崩れた。涙ひとつ見せず、喪主を務める舞美がどうしたのか? 斉藤は興味を持った。舞美の傍へ走ろうとする近藤を止めて、二人の男が戻るのを待った。
わかったことは、士郎は亡くなる当日の午前中、妻へのクリスマスプレゼントを自分で注文したことだった。それはエルメスの新作で淡いグリーンの地色に白い小さな花が咲き乱れ、従来のエルメスとはまったく違うフェミニンなスカーフだった。
一方、瀬川は色白で背が高い男を見つけた。
「失礼ですが、君は舞美さんと大学で会っていた方ではありませんか?」
「いえ、違います、失礼します」
「待ってくれ、僕は舞美さんのガード役で瀬川と言います。ちょっと話したいがいいかな?」
南条はしばらく無言で立ち尽くしていた。
「どのようなお話でしょう。急ぎますから手短にお願いできませんか」
「僕の推測だが君は舞美さんの元カレじゃないのか? 舞美さんを心配しないのか? このまま帰っていいのか?」
長い沈黙が続いた。
「母親のトラブルに巻き込まれて、誘拐されそうになった舞美を救ったのは泉谷さんです。学生の僕にそんなことは出来ませんでした。泉谷さんとなら幸せになれると信じました。今の舞美は幸せではありませんが、僕が心を揺らすともっと不幸になるでしょう。泉谷さんは舞美が生きて行ける力を作ってくれたとわかりました。僕の気持ちは封印します。失礼します」
ふーっ、ここにも哀しい別れがあったのかと、瀬川は去っていく男の背中を見つめた。
やがて出棺の時刻になった。舞美の背後に大きな遺影を抱えたシンとケン、リョウとレイが続いた。幼い子供を残して働き盛りで亡くなった士郎の葬儀は全国に流され、マスメディアが大勢訪れて記事になるニュースを探していた。
万一を想定した瀬川が舞美をガードし、橋本は子供たちを守った。出棺の際、山本と並んで棺を持つひときわ大きな男がいた。酒井はすさまじいシャッター音の中を顎を引き、粛々と進んだ。
葬儀の3日後、斉藤の特集記事が掲載された。
泉谷士郎は亡くなる数時間前、妻にクリスマスプレゼントを贈ろうと自ら注文し、それは告別式の当日に届けられた。妻に、講義中に自分が死んでも最後まで授業を続けて欲しい、それを見ながらあの世に行きたいと述べ、実際そのとおりに妻は授業を続けたことが書かれていた。
その記事は10歳以上年下の妻を残して、後髪を引かれながら死んでいく男の話だった。妻を幾度も危機から守って自立を助け、恥ずかしい失敗を重ねたが、結局は病気に勝てなかった、どこにでもいる普通の中年男の愛と苦悩の日々が綴られ、この号もすぐ完売になった。この記事が決定打となり、斉藤はこの年の「週刊誌記者大賞」を受賞した。
舞美は10日間大学を休んで復帰した。教室に入るなり大きな拍手で迎えられた。
「先生はしばらくお休みだって聞きました。みんな心配してたんです」
「はははっ、私は亡くなった夫の分まで働きます。みなさんに嫌がられても辞めません! でもね、仕事を持っていて本当に良かったと感謝してます。さあ、始めましょ、どこからでしたっけ?」
授業が終わって、
「これから話すことは変える必要があります。離婚した場合や死別した時、女性は半年間は再婚できません。妊娠の有無と、妊娠していたら父親は誰かを明確にするための『再婚禁止期間』があるからです。民法733条1項です。でも男性はフリーです。すぐ違う女性と入籍できます。これっておかしいです、不公平です。医師の診断で妊娠の有無が証明できればいいことでしょ! 法律は社会の変化に敏感に対応しなければなりません。この法律は時代遅れです!」
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