16章 泉谷の死、伝説のオトリ捜査官
16章 episode 1 巨星堕つ
◆ 命が尽きるとき、泉谷は舞美に甘えた。
青木のポケベルに、泉谷の本を出版した男から連絡が入った。大学内の演劇博物館前のベンチにいると言う。大きな風呂敷包みを2つ抱えて男は待っていた。風呂敷を開いて本を取り出した。青木が依頼した教科書と著書の見本刷りだった。
「わざわざ悪いなあ、ありがとう」
「残りはお前の研究室に送る。じゃあな」
男が立ち去ると同時に、近くで立ち話をしていた二人組の若い男がいなくなった。青木は2つの風呂敷を研究室に持ち帰り、鍵をかけた。案の定、4冊の本がくり抜かれて現金を入れた封筒が入っていた。しばらく身を隠すつもりか、青木にはわかった。
「藤井、食堂に行く予定はないか? 出来れば士郎さんにも会いたい」
そろそろ閉店しようかという時間に青木は訪れた。
「何か食わしてくれ、腹ペコだ。何でもいい、早く食いたい」
舞美は厨房でシャカシャカと中華鍋を揺すって、レタスチャーハンと卵スープ、お新香を出した。大口開けて食べる青木が可笑しくて舞美が笑ったところに、士郎が顔を出した。
「旨そうだな。僕にもくれるか」
この時間に士郎坊ちゃんがチビたちを連れずに来たのは、何か話があるのだろうと、おばさんは席を外した。
「舞美ちゃん、ちょっと銭湯に行って来るよ」
家路を辿る車内で、
「どうしたんです? 私たちのチビ・トリオは?」
「山本がケンを連れて親父のところに泊まる。チビたちはケンがまとめて面倒見てくれるそうだ。舞美、子供が生まれてからこんなことは出来なかった」
車を暗がりに停めて熱すぎるキスを続けた。シートを倒し舞美のスキャンティを剥いで重なった。狭い車内で開脚できない舞美を69バージョンで愛した。アップテンポの刺激に耐えていた舞美の口が割れて、切ない吐息が漏れた刹那、士郎の分身は張り切って進撃したが、散々弄ばれた挙句に放り出された。頼む、僕を締め出さないでくれ!
「父さん、この金はどうしますか? 最初に用立てた経費は返してもらっても、こんなにいただいていいのでしょうか」
「舞美ちゃんが稼いだ金だ、舞美ちゃんの再婚資金に充てよう。3つもコブ付きでは男は躊躇するだろう、その軍資金だ」
途端に士郎の顔色が変わった。
「何ですかそれは、舞美は再婚しません、許しません!」
「冗談だ。そんなに心配だったらお前は死ぬな、わかったな」
ある夜、士郎に包まれて眠っている舞美が「お父さま!」と、急に大きな声をあげた。驚いた士郎は舞美を見たが、穏やかな顔で眠っていた。驚かすなよ、寝言か……
とろとろと夜が明けて行く静寂(しじま)に、「お父さま!」、再び絶叫が響いた。すくっと起き上がり、何かに憑かれたように服を着て出て行った。さすがに只事ではないと士郎も後を追い、中村を起こして泉谷の寝室に急いだ。
泉谷は眠っているように見えたが、声をかけて揺すったが反応がなかった。脈を取った舞美がすぐ人工呼吸と心臓マッサージをし、東京医科歯科大学病院に救急搬送された。
舞美が行ったプロ並みの人工呼吸と心臓マッサージがなかったら、その時点で心臓停止だったと医師は告げた。子供たちを山本に頼んで舞美は泉谷の看護を続けたが、意識は戻らないまま、むなしく3日間が過ぎ去った。
いつも手を握りしめて話しかけ、室外に出るときは耳元で、すぐ戻って来ますと声をかけた。死にかけている人間とは見えないほど泉谷の血色は良く、今にも起き上がって悪態をつきそうだったが、家族以外は面会謝絶の危篤状態に変わりはなかった。兄たち夫婦は見舞いに訪れたが、「舞美さん、お願いします」と枕元に近寄らず、遠くから恐々と眺めるだけで帰った。
死期が近づいていることを薄々感じた士郎は、舞美の看病を受ける父を見つめていた。人生の最後を舞美に甘えたいのか、惚れた女の温もりが欲しいのか、舞美にされるがままの安らかな寝顔だった。舞美が顔や胸元を拭くと気持ち良さそうに眠っていたが、やがて下顎呼吸(かがくこきゅう)が始まった。すぐに主治医を呼んだが、残された時間は少ないと告げられた。
「お別れさせたいです。子供たちを呼んでください。ケンも」
子供たちがお別れの挨拶をする様子を山本がムービーに撮った。何もわからないレイは近寄って頰にキスした。
兄たちも駆けつけたが泉谷の心臓は動き続けていた。また見舞いに来ると兄たちが帰った深夜、泉谷が笑ったように見えて、舞美は小さくキスした。このとき泉谷は舞美の唇を吸った。えっ! お父さま! 舞美の声に士郎が振り向いたとき、泉谷健司は息を引き取った。享年76歳だった。
16章 episode 2 再会と和解
◆ 母と息子たちは
通夜や葬式をどこで行うかと思案する兄弟に、「先生からお預りしています」と中村が1通の封書を手渡した。表書きは「息子たちへ」と書かれていた。
この申し状は、葬儀一切は湯河原の本宅で親族のみで執り行う、喪主は士郎が勤める、遺骨は菩提寺の城願寺に埋葬する。「お別れ会」を開催する場合の喪主は長兄を指名する等、実に細々と指示が書き連ねられていた。舞美は休む間もなく湯河原へ向かい、通夜と告別式の準備に没頭した。地元の人々の協力が何よりも嬉しかった。
通夜の最後の弔問客を送り出して、士郎は舞美を抱えて湯船に浸かった。大広間ではまだ通夜振る舞いが続いているが、二人は泉谷の看取りで疲れていた。
山本は酔い覚ましに風呂に浸かろうと来たが、士郎が舞美の足の指にタオルを絡ませて洗っている姿をガラス越しに見て、柱の陰に隠れた。そのうち士郎の指先は舞美の秘部を攻め出した。何か喋っているようだが聞こえない。開かれた足の付け根に士郎が顔を埋めるのが見えた。仰け反った舞美の表情は見えないが、士郎の動きで何をしているかは想像できる。動きが止まって士郎が吠えて重なり、舞美の喘ぎが浴場にコダマした。これか、士郎さんが教えたかった和合の秘訣は……
翌日は朝から篠突く雨だった。東京から食堂のおばさんと青木・谷川のおっさんズ、上司を伴った近藤が焼香に訪れた。涙雨か偲び雨かわからないが、日がな1日雨は降り続いた。
「谷川先生、教えてください! お父さまが微笑まれたように見えてキスしたんです。そしたら、私の唇をすごい力で吸ってバタンと亡くなられました。お父さまの死期を早めたのは私です。軽率だったと悔やんでいます」
「舞美ちゃん、そうじゃないよ。そのキスが死の引導を渡したのではなくて、人は死ぬときに2つの選択肢があるんだ。息を吸って死ぬか、吐いて死ぬかだ。
生まれたときオギャーと泣くだろう、あれは息を吐くんだ。泣けない嬰児は死んでしまう。でもね、『息を引き取る』という言葉がある。人が死に際に息を吸い込むことは普通なんだよ。
舞美ちゃんのキスで泉谷先生があっちの世界へ旅立ったというのは、いい話だ。先生は絶対に幸せだったと思う。今だから言えるが、先生は大学生の舞美ちゃんを好きだったんだ。力ずくで自分の女にしたかった時期があったんだ」
士郎は静かに聞いていた。そうか、親父は人生の黄昏時に舞美と出会った。最後の恋だったのか……
弔問客が帰った夜半、人目を忍んで老婦人が焼香に訪れた。舞美はその人を士郎の部屋へ招いて部屋を後にした。母と20年ぶりに再会した士郎は驚いた。
「すみませんがここで寝かしてください」と、舞美が大広間に現れた。
「どうしたんだ、士郎さんとケンカしたのか?」、山本が訊くと、「いいえ、士郎さんはお母さまに会ってます。ジャマしたくないので来ました」
すると近藤が目を覚まし、「藤井かぁ、ここに来い」と隣を空けた。
「とてもママには見えないなあ、すぐにもダンス出来る体だ。まだ鍛えてるのか?」
「はい、クセになってずっと続けてます」
「君を見てるとダンスしたくなった。僕がダンスを始めたら見に来てくれるか?」
「勿論です。じゃあお休みなさい」
舞美はスースーと眠ってしまった。よほど疲れていたのだろう。少しも変わってないなあ、近藤と山本は顔を見合わせて笑った。
翌朝、山本が目覚めたら、近藤はしっかり舞美を抱き包んで幸せな顔して眠っていた。この男も舞美ちゃんが好きだったのかと、山本はニヤリとした。
士郎の部屋へ入ると、その人は窓辺に立って海を見つめていたが、士郎はまだ眠っていた。
「お父さまからお預かりしたものがあります。お父さまが愛された女性はお母さまで、次が私だそうです。お母さまが家を出られたとき、お父さまは権力を握って政治を動かしたいと考え、妻子は眼中になかったと話されました。今は独りのお母さまを心配されて、罪滅ぼしだと私に託されました。舞美が開いた袱紗(ふくさ)の包みは大金だった。
「私は泉谷を裏切って飛び出しました。これは受け取れません。気持ちだけで十分です」
「いつもお父さまは寂しい目をして話されました。『あの頃の僕は自分しか愛せなかった、見えてなかった。妻の悲しみや絶望を知ろうとせず、恋人や愛人に囲まれていたが、いつも心は奈津子を探していた。そして愛していたと気づいたときは遅かった。僕は愛する人を不幸にした』と……」
眠ったふりして聞いていた士郎は、堪えきれずに鼻をすすった。
「得意のタヌキ寝入りですか、バカタレ!」
パチンと士郎の頭を叩いて舞美は出て行った。
16章 episode 3 士郎の再発資金
◆ 赤い下着を焼いて供養した。
母を客間に迎えた息子たちは驚いたが、温かな時間が流れた。泣いたり、笑ったり、失われた時間を取り戻すように目を輝かせて、母の言葉に耳を傾け、頷き、宙に視線を泳がせては涙ぐんだ。そして、レイが「ジィジィ、ジィジィ」と、屋敷中をトコトコ歩いて泉谷を探し回る姿は涙を誘った。
「舞美ちゃん、話は母から聞いた。恩にきる。ありがとう」、兄たちは頭を下げた。
初七日が過ぎ、大事な話がありますと切り出された士郎は舞美と向かい合った。
「お父さまは亡くなられました。秘密にしてましたが驚かないでください」
何を言い出すのか、まさか親父に抱かれたとでも言うのかと固唾を呑んだ。舞美は静かに預金通帳を開いた。そこには考えられない数字が印字されていた。
「どうした、これは? 君は錬金術師か、この金は何の金だ? 説明してくれ」
「これは私たちがお手伝いした2冊の本の印税です。二人の労働報酬だから遺言以外のお金だとお父さまは私に預けられました。辞退する私に、『病が再発すれば最高の治療を受けさせたい、それには金が必要だ。命は金で買える時代になった。士郎に万一があったら、迷わずこの金で救って欲しい。これは二人で稼いだものだ。これで士郎を生かして欲しい、孫の父親を守ってくれ。そして、士郎と幸せになってくれ』と、お願いされました。
親父は俺のために莫大な金を必要としたのか、そのために本を書いたのか、命をすり減らして書いたのか……
「教えてくれ。母に知らせたのも舞美か?」
「はい、お父さまと約束しました。秘書さんや運転手さんや中村さんへのお金も預かりました」
士郎はペタンと座り込んだ。
息子すら信じなかった親父がなぜ舞美だけ信じたのか? 親父は舞美に真底惚れていた! 結論はそれしかなかった。士郎は舞美がわからなくなった。かつて俺の女を横取りしてあっさり捨てた親父だ。最初は舞美を自分の女にしようと思っただろう。そして翻弄されているうちに娘のように可愛くなったのか? 違う! 未練がましい目つきだった。病気の俺について行くと舞美が決心したときから親父は変わった、そんな気がする。
「わかった。親父に何と感謝すればいいのかわからないが、これは有難く納めさせていただこう。舞美、ありがとう!」
「お礼はお父さまに言ってください」
部屋を出て行こうとした舞美を後ろから抱きしめて泣いた。
「パパはママにラブラブ~ いつもラブラブ~」
「うるさい、シン、あっちへ行け!」
数日後、泉谷が使っていた議員宿舎の部屋を兄弟全員で整理した。
泉谷は死を予感していたのか、3つのランドセル、レイの七五三の装束、舞美の和服が何枚も残されていた。三越外商部の口舌で購入したものだろうが、好々爺の親父の顔が浮かんだ。だが、士郎が肝を冷やした品があった。それは真紅の女性下着セットだった。このサイズは舞美しか履けない。親父は何を思ってこれを買ったのだろうか、慌てて隠したが呆れてしまった。親父、脅かすなよ、どういうことだ、やめてくれよ。照れ笑いが見たかったが父はいなかった。
その夜、士郎が赤い下着を渡すと、眼をパチクリした舞美は「へーぇ、何でしょう、あっ、エッチなスキャンティ! どうしたんです?」
「たまにはこういうのもいいだろう」
「えっ、私たち倦怠期でしょうか?」
「違う、いつでも舞美に飛びつきたいが、今宵だけはこれを着てくれ。どうせすぐ脱がせるんだ」
激しく切ない夜が訪れたがいつもとは違った。
舞美は昇天する刹那にすくっと上体を起こして、「お父さま見ないでください。恥ずかしいです」と、はっきり言った。士郎は舞美の視線を辿ったが何も見えなかった。
もっと抱いてと擦り寄られ、縮んだ分身を奮い立たせた士郎は、一心不乱に挑んだ。秘部は分身を挟み込んで燃え沸り、やがて収縮が始まった。絶頂の瞬間に突き刺した士郎は舞美に重なり、いつまでもいつまでもヒクついていた。
翌日、士郎は赤い下着を焼いた。親父、これでいいだろう。舞美を守ってくれと手を合わせた。
16章 episode 4 泉谷健司の「お別れ会」
◆ 客員講師になった舞美は安全か。
秋晴れのある日、都内のホテルで泉谷健司の「お別れ会」が催された。
レイは祭壇に飾られた泉谷の大きな写真に、「ジィ、ジィ」と呼びかけて離れず、出席者は目頭を押さえた。不機嫌な表情で周囲を常に睥睨した泉谷が、孫からこんなに慕われる祖父だったのかと驚いた。テレビカメラは、写真にお菓子を食べさせようとするレイを追った。
一方、泉谷が誂えた和服をまとった舞美は凛とした清婉さを漂わせ、来場者に頭を下げていた。「あの人が奥さんで博士か」と人々を魅了した。士郎は内心鼻高々だった。
士郎について挨拶回りしていた舞美に、懐かしい声がすぐ近くで聞こえた。顔を上げると男が談笑していた。上司のお供で来場した市村大輔だった。士郎に気づいた上司が、
「先生、部下で市村大輔という者がおりますが、奥様の家庭教師をしたと申しております」
士郎は立ち止まって市村を見た。「舞美、本当か?」、「はい、バカな私を合格させてくれた家庭教師の先生です」
市村は士郎と舞美に深くお辞儀して微笑んだ。舞美は静かに会釈を返した。
去っていく舞美を目で追いながら、いい女になったなあ! 士郎さんからたっぷり愛されているようだ。市村は舞美の成熟した姿を見て安心した。幸せになれよ。俺はキァリア官僚で順調に出世する。舞美、またどこかで会おう、元気でな……
4月、舞美は大学で週に3コマの授業を受け持つ専任講師に招かれた。この年シンは小学生、リョウは幼稚園児になり、舞美の不在時は士郎の母が子供たちの世話に訪れた。妻が仕事を持つことに士郎は快く賛成したが、“ダビデの星”の新バージョンを渡して、外出時は必ずこれをつけろと厳命した。子供たちにはコンパクトな品をバッグにつけさせた。
舞美の講座は受付と同時に満員になり、大学本部を驚かせた。受講生と年齢差が少なく、国会議員夫人だが学内を早足で駆け抜ける、元気なお姉さん先生に人気が集まった。
ある日、山本が士郎の事務所を訪れて「ちょっと外へ出ませんか」と誘った。人に聞かれたくない話だと思い、レストランの個室に入った。
「昨日ですが、警察学校の教官だった神戸署の出村刑事から連絡があって、舞美ちゃんの誘拐を企てた主犯の渡辺亮太が、溺死体で発見されたと教えてくれました。死体からかなりの量のアルコールが検知され、千鳥足の渡辺が一人で海に降りて行く目撃証言があったので、事件性はないと静岡県警は事故死扱いにしたらしいです」
「ちょっと待ってくれ、あの男はもう出て来たのか」
「強盗殺人じゃありませんから刑期はそんなものです。半年前に出所してブラブラしていたが、改心した様子はなかったそうです」
「それで、俺に何を言いたい?」
「渡辺が溺死した海岸は大崩(おおくずれ)海岸です。焼津から静岡へ抜ける国道から入った断崖絶壁が続く所で、危険を承知で海へ降りるのは釣り人だけです」
大崩海岸? どこかで聞いた地名だ、記憶を探った。そうだ、舞美の母親が入院している病院はその海岸を見下ろす丘の上だ。
「その付近の病院に舞美の母親は入院しているが、渡辺との接点があったとは考えられない。溺死した場所は偶然だろう!」
「これから話すことはあくまでも僕の乱暴な推測ですが、渡辺は舞美ちゃんの母親にユスリ・タカリの目的で再び近づいたと仮定します。渡辺が死んだから心配ないように思えますが、もし仲間に悪事の企みを漏らしていたら危険です」
「何だと! 母親が渡辺を殺したとでも言うのか! あの病院の出入りは完全に施錠されている。不可能だ」
「いや、それはないでしょう」
「じゃあ、誰だ。事故死なんだろう!」
「わかりません。事故死であっても仲間がどう思うかです。最悪のシナリオを想像すると、舞美ちゃんと3人の子供たちが危険です。士郎さん、僕は警察を辞めます。僕をガードに雇ってくれませんか」
「山本、何を言い出すんだ。お前は警視庁を辞めるな! とにかく早まるな! 少し考えさせてくれ」
16章 episode 5 またもやターゲットに
◆ 男に狂った母の置き土産に、いつまで苦しめられるのか?
この話を舞美にするべきか士郎は考え込んだ。母親の不倫のツケがまだ舞美を追いかけるのか。親父、力を貸してくれ、頼む! 舞美が心配なんだ。
心配のあまり早めに家路に急ぐと議員宿舎のアプローチに車が停まり、舞美が降りた。トランクを開けて本の束を取り出した。運転席から青木が降りて「藤井、手伝う、運んであげるよ」と本を下ろした。
「藤井の授業は面白かった! 海外の新しいニュースを紹介するから学生は必死でノートを取っていた」
「ええっ? 先生、まさか聴いてましたあ?」
「そうだ、廊下でね。藤井の授業に興味を持ったからだ。合格だ!」
両手に山ほど本を抱えてエレベーターに乗り込む二人を、士郎は見ていた。青木さんには舞美はいつまでも「藤井」なんだとよくわかった。彼にあのことを相談してみようと思った。
青木が帰ろうとドアを開くと、
「ただいま、おやっ、青木先生」
「お帰りなさい。欲張って図書館からたくさん本を借りたんです。そしたら持てなくって、先生のお世話になりました」
「青木先生、お世話かけたそうで申し訳ない。もし良かったらこれからゴハンどうでしょう。舞美、いいか?」
舞美がキッチンに消えた後、士郎は青木に話した。
腕を組み長いこと天井を見つめて、青木はやっと口を開いた。
「その話が取り越し苦労だったらいいですが、藤井が、いや失礼、危険なのは大学への往復でしょう。学内では人の目があり、行動範囲は限られているようです。車で通えば危険度が減少すると考えます」
士郎は笑いながら、
「学生の舞美を知っている人たちは今でも「藤井」のままです。気を使われる必要はありません。おっしゃる通りです。車にしようと思ってました」
「可能であればドライブレコーダーを勧めます。追尾されるとすぐわかりますから」
「そうします。父のSPを務めた中村が警視庁に戻っていますが、渡辺の仲間の動向を探っています。怪しいようであれば、舞美と子供たちにすぐガードを依頼する手筈をしました。ただ、舞美にいつ話そうかと悩んでいます」
「そうですね、母親が家出したとき藤井はボロボロでした。それを思い出しました。告げる士郎さんも聴く藤井も辛いでしょうが、藤井は知っておくべきでしょう」
「話は変わりますが、先生は市村大輔という男をご存知ですか? 現在は財務省のキャリア官僚ですが、舞美の家庭教師だったとか」
「家庭教師? ああ、思い出しました。その子も僕らと同じ高校で、東大に入学したが間もなく母親を亡くし、生活の糧を失ったときに藤井が助けた子だと思います。女子寮で塾を開いて生活の基盤を作ってやったらしいです。手作りした塾の宣伝チラシをたくさん抱えた藤井に驚いたことがあります」
そうか、舞美は大学に入れてくれたお礼をしたのか、ダンスマシンになったのもそうなのか……
「ハーイ、お待たせしました」、いい匂いがする皿をたくさん運んできた。
「みんなー ゴハンですよー」
居酒屋のような大きな座卓を囲んで、賑やかな夕餉が始まった。レイは泉谷の写真に「ジィジィ、どうぞ」とスプーンを差し出し、シンはレイの皿の肉を小さく切り、リョウはみんなに水をついだ。
懐かしい光景だと青木は見とれた。これが本当の家族団欒だ。目の前の情景と失われた自分の家族の思い出を重ねた。
子供たちが寝静まった深夜、士郎は舞美に山本から聞いたことを話した。途端に恐怖で大きく眼を見開き、小刻みに震え始めた舞美が可哀想でどうしようもなかった。
「士郎さん、母のことでこんなことになるなんて、ごめんなさい、ごめんなさい」
怯えて泣いている舞美が哀れで、抱きとめるしかなかった。
まもなく舞美は通勤や送迎は車を使うようになり、何事もなく12月を迎えた。その日は朝から北時雨が降りしきる冷たい日だった。レポートを添削していたが薄暗くなり、帰ろうとする舞美と夕飯に行こうとした青木が7号館前で鉢合わせした。
「暗いな、駐車場まで送るよ」
「ほんと陽が短くなりました。雨ですよ、入ってください。先生と会うといつも雨なんですね」と、傘を差しかけた。
肩を並べて駐車場へ入った途端、背後から青木は頭を殴打された。驚いて振り向いた舞美の口を男の手が覆ったが、舞美は瞬時に“ダビデの星”をプッシュした。大音響でパトカーのサイレンが鳴り響き、付近にいた学生たちが走り寄って、一人は捕らえられたが片割れは逃走した。二人は救急車で搬送された。
病院に駆けつけた士郎は怒りで体が震えた。山本の推測は正しかった、半信半疑した俺は迂闊だったと後悔した。何かを嗅がされた舞美はすぐさま処置室に運ばれ、眠っていた。その安らかな寝顔を見つめて、こんな恐怖はもう沢山だ。しかし、俺に何が出来るのか……
16章 episode 6 狙われ続ける舞美
◆ 真実と青木の不倫報道が流れた。
5日ほど経ったとき、写真週刊誌が青木と舞美が不倫関係だと報じた。『泉谷議員夫人、不倫疑惑! 相手は大学の恩師』のタイトルで、数カ月前の「お別れ会」と学食で並んで食べている写真が掲載されていた。
士郎はまったく気にしなかったが、青木さんに迷惑はかけられないと気遣った。早く教授になって欲しい、学内の評判を下げてはいけないと考えた。
近藤に連絡し、「記者の斉藤くんに話したいことがあるが、外ではマズイ話だ。悪いが来てくれ」と告げた。
訪れた斉藤と近藤に、男に狂った母親のせいで、舞美は3回も誘拐未遂に遭ったと切り出した。さすがに斉藤は驚いた。
9年前の母親の家出に端を発し、舞美は大学生のときに2回、この前で3回も誘拐に遭遇したと伝えて、母親の診断書と陳述書に添えてレコーダーを渡した。
このグループには多くの余罪があって、拉致された当時中学生だった子は未だに入院だ。身も心もこいつらに破壊され、失語症だ。こんなことがあっていいか! いいと思うか! 舞美を誘拐しようとした目的は強姦の挙句に金の要求だろう。こんな事件が巷には山ほど埋もれている。世間体を気にして被害者が沈黙するからだ。日本は性犯罪者に甘すぎる! こういう卑劣な人間のクズたちが堂々と世間を歩いているのは許せない!
僕は、男に走った母親を責めはしないが同情もしない。斉藤くん頼むから、舞美を拉致しようとした男たちの顔写真や生活ぶりを記事にしてくれないか。可能ならあいつらの犯罪歴もだ。青木先生には舞美のガードをお願いしていた。決して不倫ではない。
舞美が可哀想で仕方がない。なぜ母親の浮気に10年近く経っても苦しめられるんだ! 座卓に顔を埋めて号泣する士郎の背中に近藤が手を置いた。
「知ってます、藤井の恐怖の原因を。あんなに健気な藤井が可哀想です……」
近藤はザーッと大粒の涙を零して「藤井、あと少しだけ頑張ってくれ!」と泣いた。
翌週、週刊誌の中吊り広告は圧巻だった。斉藤が書いた『3度の誘拐遭遇、狂気の母、泉谷舞美はあなたかも知れない!』の文字が躍った広告を人々は注目した。全社総力を挙げた取材で、士郎が知らなかったことまで書かれていた。
国会議員夫人を襲った母の暴走、狂った母に殺害されかかったことや他の被害女性の陳述書の抜粋、被害届の内容等が網羅された渾身の記事だった。週刊誌は瞬く間に完売し増刷されたが、週刊誌の増刷は異例のことだった。
舞美は1週間ほど入院したが士郎の母が付き添った。励ましや慰めの言葉は何ひとつ口にしないが、それが有難かった。士郎は時間を作っては顔を出し、涙眼で舞美を抱きしめた。
舞美の父が見舞いに訪れたが、
「顔を見たら挫けそうです、我儘な娘に戻りそうです。もっとしっかりしてパパに会いたいです」と、士郎に告げた。
一方、青木は頭部挫傷で3日間入院したが、週刊誌の「不倫疑惑」報道で自宅に帰るのを諦め、谷川のマンションに雲隠れした。
「オマエが舞美ちゃんと不倫してたら、赤飯で祝ってやるぞ。だがな、それほどあの子は危険なのか、酷い話だ。オマエさ、首吊りなんかするな、すき焼き弁当を買って帰るから大人しく留守番してろよ。辛いのはオマエじゃない、あの子だ」
舞美は2回の講座を休講したが大学へ復帰した。講義の冒頭で、休講して申し訳なかったと謝り、「みなさーん、私が載った週刊誌、『不倫疑惑』はどうでした? 青木先生には悪いけど嬉しく思いました。先生と初めてお会いしたとき、私は赤ちゃんだったらしいです。オムツの世話までしてくださったそうです。素敵なお兄さんだったんです」
学生たちは笑い出した。
「母の不倫は本当です。それで私は誘拐未遂に3回遭って、怖い思いをしたのは事実ですが、周囲の方々のお陰で拉致されずに済みました。運が良かったとしか言いようがありません。いちばん心が痛むのは、中学生だった方が拉致されて現在も苦しまれていることです。あまりにも忌まわしい出来事で、悲惨すぎます。卑劣な犯人を絶対に許しません!
本日の講義と若干の関係はありますが、特に男子学生に聞いて欲しいことがあります。男子は放出するだけの性です。これは神代からの定めです。やるだけやって逃げることが出来ます。でも女子はそれを受けて子を産む性です。それが望んだ結果かどうか、時には重い現実を背負うことにもなります。
男女平等、男女同権の世の中ですが、女子にはそういう絶対的なハンディがあります。望まぬ妊娠を避けるために、男子は必ず避妊を守ってください。そして女子を優しく労わって、不幸な女子を作らないでください。心からお願いします」
教室は静まり返ったが、女子が立ち上がって拍手を始め、すぐ全員に拍手が伝染した。
「えーっと、今日は『姦通罪』の制定経緯から進めます」、舞美は爪先立って背伸びし、ボードに文字を書き出した。ハイテンポで抗議する舞美先生が戻って、学生は心から安心した。
16章 episode 7 伝説のオトリ捜査官
◆ またもや狙われる舞美に、スナイパーが来た。
再捜査が行われ、渡辺は舞美の母親に面会に行ったが断られて、病院内で暴れた事実が判明した。
二十日ほど経った朝、逃走していた男は週刊誌で顔を記憶した駅職員の通報により緊急逮捕され、ワイドショーを賑わした。誘拐の動機を追求された男は、「溺死した渡辺先輩があの女に興味を持っていた、議員夫人を拉致して脅迫すれば大金が入ると考えた」と、あまりにも軽薄すぎる動機を堂々と述べた。
それを聞いた士郎は頭を抱えた。この男で終わりか? なぜ舞美が襲撃される! 舞美はお前たちに何をした? 何もしてない! 恐怖の記憶に堕ちた舞美は漂っている、俺はどうすればいいんだ!」
舞美は腕の中で喘ぎながら士郎にねだった。
「湯河原に行きたいです。あそこはすごく落ち着くんです。お母さまにたくさん心配かけたので、ご一緒したいです」
賛成したが士郎は不安が横切った。日本家屋の本宅は防犯上まったくの無防備だ。大浴場やプールへの通路は屋根はあっても屋外だ。どこからでも邸内に侵入できる。山本に相談した。
「まず僕の言うことを聞いてください。すぐボディガードをつけてください。ぴったりの男を知ってますから、紹介します。それとは別に、警視庁に舞美ちゃんの身辺警護依頼を出しました。気になるのは神戸署の出村刑事の連絡で、かつて舞美ちゃんを名古屋で襲った鈴木が上京したらしいです。中村が追ってます。一味の残党はこいつだけです。こいつの顔は週刊誌には出てません。7年くらって出所後は神戸で渡辺と同居してました。動きがあってからでは遅いので、明日にでもボディガードを連れて来ます」
山本の話を聞いて湯河原どころか危険だ、危険すぎる! 舞美にどう告げようか。話すしかないが、舞美をまた不安の奈落に沈めるのかと思うと、どうしても話せなかった。
その夜はいつもより舞美がねだった。片時でも辛いことを忘れさせてあげよう、士郎は舞美を燃え上がらせた。悦楽の極みを彷徨う舞美が天女に見えたが、危険が迫っている現実をやがて知るだろう、士郎は気づかれないように鼻をすすった。
翌日、山本に伴われて小柄で痩せっぽちの男が現れた。31歳の瀬川という男の経歴書を見て士郎は驚いた。見かけによらず極真空手四段、剣道二段、柔道三段で、趣味はボクシングとドライブと書かれていた。
「瀬川くん、君はなぜ警視庁を辞めたのか」と訊くと、「無茶やってお偉いさんの警護担当にされたので辞めました」と答えた。出世コースを蹴ったのか? 面白い男だと思った。
「舞美、この方にガードをお願いしようと思うが」
「はい? 私だったら全然大丈夫です。学内はみんなが守ってくれて、往復は車だし、いいです。そんな申し訳ないです」
山本が事情を話した。眼を閉じて聞いていた舞美はがっくり頭を垂れて、「士郎さん、私はどうしたらいいのでしょうか? 子供たちを巻き込みたくありません。命に代えても守りたいです」
そのとき、瀬川が笑顔で口を挟んだ。
「心配しないでください。僕が命に代えて守ります。安心してください」
瀬川の言葉を引き取って、山本が言った。
「舞美ちゃん、信用しろ! こいつはデカイ女より小粒で弱々しく見えるが、俺を投げ飛ばした唯一の男だ。おまけに女には興味がない、士郎さんは安心して夜遊びが出来る」
はあ? 士郎と舞美は驚いて顔を見合わせた。
その夜から瀬川は議員宿舎内の駐車場に大型キャンピングカーを停め、任務終了後はそこで眠った。
何事もなく2カ月が過ぎた。なかなか尻尾を出さない鈴木に、警視庁から派遣され、密かに身辺警護している警察官は焦ったが、姿を現さないのは当然だと瀬川は思った。彼らの身辺警護は呆れるほどお粗末だった。
16章 episode 8 救われた命、殺された命
◆ オトリになった瀬川は犯人と警察を欺いた。
平穏な日々が続いたが、突然、山本は瀬川に伝えた。
「鈴木の所持金が尽きようとしている。近々、絶対に勝負をかける、ぬかるな!」と伝えた。「万一の場合は、本庁派遣のバカどもが鈴木を拳銃で射殺する展開を作れ!」と指示した。「面白い筋書きですね。退屈していたところです、やりましょう」と瀬川は爽やかに笑った。数日後、
「舞美さん、すみませんが車を貸してもらえますか?」
「どうぞ」と舞美がキーを渡そうとしたが、
「僕のワゴンを貸そうか」と士郎が声を掛けると、瀬川の表情が僅かに動いたが士郎は気づかないふりをした。
昼前、女装した瀬川は舞美の車で湯河原に向かった。助手席と後部座席に大きなぬいぐるみを持ち込んで、子供に見えるようにカモフラージュした。高速に入った途端に「わ」ナンバーの車が追尾して来たが、確認すると鈴木に間違いなかった。山本に「ターゲット確認、湯河原へ進撃中」と告げた。
舞美の車が湯河原に向かっているという情報に、本庁派遣の警察官はパトカーで追跡して鈴木を追い詰めた。高速道路の路肩に停止した舞美の車と、ぴたりと追尾した鈴木のレンタカー、それを遠巻きに牽制する警察車両。一触即発のしじまを破ったのは、ドアを開けて赤いヒールの足を見せた女が降り立ったときだった。
鈴木はナイフを振りかざして女に突進し、馬乗りになって何度もナイフを振り下ろした。警察官は「やめろー」と叫び、「撃つぞ!」と脅したが、鈴木は狂ったようにナイフを上下した。ついに警察官は威嚇の1発を空に放ち、次に鈴木の足を狙った。
そのとき、組み敷かれていた女は軽々と鈴木を跳ね除け、足を狙った弾丸が心臓を撃ち抜くように鈴木の体を構えた。それは一瞬のことだった。声をあげることも出来ずに鈴木は倒れた。
平然とウィッグを脱ぎ捨てた瀬川は、
「お前たちは足を狙って、なぜ被疑者の心臓を撃ったんだ? お前らの目は節穴か?」
睨みつけて走り去った。警察官は驚いた。あの男は『伝説のオトリ捜査官』の瀬川だ!!
この顛末は警視庁を揺るがし、真実は隠蔽された。女性を拉致しようとした鈴木は、警察官の制止を振り切って女性を刺し続けたので、やむを得ず発砲した。歯向かうように立ち上がった鈴木に弾丸が命中したと発表した。世間は、前科を重ねた凶悪犯が射殺されたニュースに不審を抱かなかった。
自分を狙った男の名を知らなかった舞美は、ニュースは見たがそれ以上の詮索はしなかった。
翌日、山本と中村は真実を話した。驚愕した士郎は怒りと恐怖でワナワナと震え、眼を釣り上げた。
「何だと! 本当は舞美がメッタ刺しされたということか!」
「そうです。仲間の中であの男がいちばん凶暴でした。あいつは必ず何か起こす、単独でも舞美ちゃんを襲うと考えました。カネではなく命を狙うだろうと瀬川に頼みました。しかし、瀬川は一般人で拳銃を所持できません。だが、『伝説のオトリ捜査官』はうまくやってくれました。僕を拾いあげてくださった泉谷先生に少しは褒めてもらえそうです」
士郎はあまりの衝撃に、額を抱え込み言葉が出なかった。
しばらく経って、「山本、わかった、ありがとう! 僕はまったく気持ちの整理がつかないが、予測された舞美の惨劇を阻止し、恐怖の根源を断ち切ったのは瀬川くんだと言うのか? そして舞美には真実を告げるべきか?」
「それが瀬川の任務です。舞美ちゃんが真相を知る必要はありません。知らない方がいいでしょう。ただ、渡辺の仲間で凶悪な男が事件を起こして死んだから、仲間は壊滅した。もう心配ないと安心させてください。
ところで、瀬川は『ここは居心地がいいので、次の仕事が見つかるまで世話になりたい』と言ってますが、どうしますか?」
「ああ、いつまで居てくれても僕はまったくかまわない、大歓迎する! 舞美の命の恩人だ」
士郎にやっと血の気が戻ったとき、隣の部屋から舞美の声が聞こえた。
「瀬川さん、またピーマンと人参を残してるんですか、ダメです! 偏食は偏見に通ずと思います、食べなさい!」
士郎と山本は首をすくめて笑った。
舞美の髪をかきあげて額にキスして、
「山本から聞いたが、いちばん悪い男が死んだ。もう誰も舞美を襲ったりしない。何も怖がることはないんだよ。約束する、安心してくれ」、士郎は久しぶりに安らかな夜を迎えた。
16章 episode 9 隠された真実
◆ あばかれた真実は誰かを幸せにするのか?
しばらく経った夕暮れどき、斉藤が士郎の事務所を訪ねて来た。
「鈴木が射殺された事件でお話を聞きたいのですがよろしいでしょうか」
「この前は大変お世話になった。ありがとう、感謝している。渡辺の仲間の鈴木は女性を襲って射殺されたんだろ、それは知っているが、舞美には鈴木のことは一切話してない。話は何だ?」
「先生のところに瀬川という男がいますね」
「彼には舞美のガードをお願いしている、それが何か?」
「瀬川は『伝説のオトリ捜査官』だったとご存知ですか?」
「山本から聞いた」
「そうですか、あくまでも僕の推測ですが……」
「ちょっと待ってくれ、その前に質問させて欲しい。君が僕に訊こうとしていることで何か判明したら、誰かが幸せになれるか? 幸せになる人間がいたら話してもいいが、どうだ?」
斉藤はしばらく考えた。
「誰もいません」
「そうか、メシでも食いに家へ帰ろう。瀬川がいる」
斉藤と帰って来た士郎に、「あれっ、近藤さんは?」と舞美は不思議がった。
瀬川は子供たちと夕飯を摂っていたが、シンとリョウは嫌がる瀬川にブロッコリーを食べさせていた。苦虫を噛み潰した顔で瀬川は飲み込んだ。
「瀬川くん、この人は友だちの斉藤くんだ。気にせず食ってくれ。舞美、何かツマミはあるか」
「ハーイ、あります! あっ、瀬川さんはまた残そうとしたでしょ、ちゃんと最後まで食べなさい! 強くなれませんよ!」
「わーい、ニイはママからまた叱られたぁ! 好き嫌いはダメだよ、大きくなれないんだよ」
食事が終わると瀬川は、子供たちに引っ張られて子供部屋に連れて行かれた。
「斉藤くん、あれが瀬川くんの素顔だ、普通の青年だ。偏食を舞美からいつも叱られている、偏食は心を狭くするそうだ、これはあくまでも舞美の持論だがね。
瀬川くんのストイックな内面に舞美は気づいているようだが、何も言わない。今まで生きた道とこれからを舞美は心配しているようだ。彼は幾人かの命を救ったが、何人かを抹殺しただろう。後悔しない殺人はいくつあったのかと思うと、その苦悩に同情する。まだ31歳だが時々人生に疲れた目つきをする。僕は瀬川くんに居てもらいたい、舞美の命を救ったことで彼は重荷をまたひとつ増やしただろう。生き急いで来た瀬川くんを休ませたいと思っている。真実を蒼天に晒すことだけが正義か?」
大学は春季休暇に入った。湯河原に行きたがった舞美と子供たちを、一足先に瀬川のガードで士郎は送り出した。本宅に到着した瀬川が驚いたのは25mの温水プールで、次が大浴場だった。
週刊誌を読んだ地元の人々は、舞美を心配して山海の幸を届けた。漁師のうんちくに大声で笑っている舞美をガードする瀬川は、こんな暮らしがあるのか、自然と対峙して漁をし、畑を耕し、山葵やキノコを栽培する。俺はここに住みたいなあと思った。
翌朝、舞美がプールを覗くと瀬川が泳いでいた。
「ダメ! ダメ! もっと力を抜いて。クロールはこうです。無駄な動きだと続きませんよ」
舞美はパジャマのままドボンと飛び込んで、手本を見せた。
「見てね、ここで息つぎよ。わかった?」
驚いた瀬川が声を掛けた。
「舞美さん、まだパジャマ……」
昼過ぎ、大きなリュックを背負ったケンが来た。
「うあっ、ケン、大きくなったね。一人で電車に乗れたの? 凄い、偉いなあ! 嬉しくて泣けちゃう!」
舞美はケンに飛びついて抱え込み、本気で泣いた。
「父さんがママとチビを頼んだぞって」
照れ臭そうにケンは涙目で舞美を見た。
瀬川は知っていた。「息子の心が壊れかけたとき、舞美ちゃんが2年間も育てたんだ。この恩は一生忘れない」と山本は言った。ケンを抱きしめたまま、ケンは凄い、立派になったと喜ぶ舞美を見て、おかしな女だな、自分の子でもないのに! 女に絶望した瀬川の心が少し揺らいだ。
午後の水泳特訓は厳しかった。
「瀬川さんは体が完成してるから容赦しませんよ!」と、瀬川が顔を上げそうになると、ボコンと頭を沈めた。「スポーツがすごく出来るでしょ。タイミングさえ合えばスイスイですよ。私は水泳とダンスしか出来ませんが、今度ダンスやりますか?」
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