15章 山本が愛した女

15章 episode 1 元日の新聞


◆ 紙面を見つめる南条は、遠く届かない恋人が忘れられなかった。


 穏やかに年が明けた。士郎は元旦の分厚い新聞を開いて、

「載ってる、すごいぞ! 1ページ全段だ。おやっ? なかなかの美人だ!」

 舞美をディープキスして抱きしめたら、シンの視線とぶつかった。ははあ、こういう記憶で女の子にチュウしたのか、夜を見られるとマズイなと思った。

「シン、舞美だよ、ほらここだ」

 シンはマンマ、マンマと新聞に近寄った。

「マンマじゃない、舞美だ、そしてママだ。メシと一緒にするな、わかったか?」

「シンはみんな同じなんでしょうね」、舞美が笑った。


 新年の初登院で多くの議員から士郎は言葉を掛けられた。

「君の奥さんはあんなに素晴らしい女性だと知らなかった。婦人部の幹部に推薦したいがどうだろう」

 舞美を称賛する声は多かったが、「大学院に通う学生なのでご容赦ください」と断った。


 名古屋で何気なく元旦の新聞を開いた南条は、遠くへ消えた舞美に出会って辛かった。本当に幸せか? 手が届かない舞美が恋しかった。紙面を見つめたまま涙を拭う息子を見た母は、声を掛けずに立ち去った。


 舞美はときどき深夜もパソコンに向かった。

 士郎が一戦交えた微睡みから醒めると、カタカタとキーボードを叩く音がする。気づかないふりして寝返り打った士郎の横に、そのうち舞美は甘えて滑り込む。

 俺がいても不安なのか? その言葉を呑み込んだ士郎は、夜はこのままずっと続いてくれ! 狂おしく抱いて夜明けを呪った。


 桜田門に戻れと言われた山本は、妻が第二子を産むまで先生の傍に置いてくださいと、泉谷のSPを続けた。妻の智子はなぜか伏せりがちで、舞美は山本家を訪れて手伝ったが、しばらくケンを預かることにした。

 シンは久しぶりにケンに会った興奮で寝ようとせず、真夜中までチビたちの歓声に悩まされた士郎は、「明日はチビたちを中村に頼んで、ラブホに行こうか?」と本気で言い出して舞美を笑わせた。


 しばらくして舞美は泉谷に呼ばれた。

「舞美ちゃん、実は山本の奥さんは結核だった。明日から隔離入院だ。腹の子がもっと小さいと中絶らしいが、もう7カ月だ。このまま病院で産むことになる。それでケンは山本の祖父母に預かってもらうことになった。わかってくれるか?」

「イヤです! 絶対にイヤです! 士郎さんにお願いして私が預かりたいです。ケンちゃんはシンの兄さんです。お父さま、お願いです、私にケンちゃんを預からせてください」


 士郎が戻って来た。泉谷は手短かに経緯を告げたが、士郎は眉ひとつ動かさず、

「ケンは預からせてもらいます。山本、悪いがケンはうちの子同然だ。シンの兄貴だ。智さんが元気になるまで預かるがいいか? 僕は命を諦めたときがあった。山本、覚えているか? どうせ死ぬなら舞美の傍で死にたいと泣いた。それに比べればどうってことないさ。山本、元気出せ」

 士郎の言葉が終わる前に、山本は吠えるような大声で床に泣き崩れた。


 隣室にベッドを加えて子供部屋にした。1歳4カ月のシンを見守る3歳の兄は、仁王さまを幼くしたようで微笑ましかった。この兄弟が揉めるのは、モモが来た時にどっちが先にチュウするかだった。


 6月、ケンに妹が誕生してマリと名付けられた。妻の智子は退院して山本の祖父母と一緒に湯河原で静養することになった。体と心を癒してくれる温泉に浸かった智子は幸せだった。泉谷先生、士郎さん、舞美ちゃん、こんな贅沢をありがとうございます! 感謝した。山本はケンとシンを連れて度々湯河原に宿泊した。

 山本に娘が誕生して士郎はますます舞美を離さなかった。

「僕も次の子が欲しい、突撃する、覚悟しろ!」



15章 episode 2 決め打ちの極意


◆ 舞美がストレス? だが次の命を宿した。


 士郎は毎晩のように舞美を愛して夢中になったが、妊娠の兆候はなかった。恥を忍んで山本に相談した。

「毎日2回よりも、ここぞという時に2回なんて言わずに本気で何回もやるんです」

「ほう、ここぞとはいつだ? 毎日ではダメか?」

「タマゴが出る3日前あたりから連続1週間程度じゃないですかね、そんな気がします」

「タマゴはいつ出るんだ?」

「奥方のアレが終わって10日前後がタマゴの日ですから、アレの1週間後から1週間を狙い撃ちするんです」

 士郎は山本から習ったことを忠実に守ったが、なかなか舞美に体調の変化は訪れなかった。あの話はガセか? だったら毎日抱きたかったと後悔した矢先、味噌汁を喉に詰まらせた舞美が何かを吐いた。ケンはすかさず背中を叩いて、「ママ、大丈夫?」と心配した。ケンは舞美をママ、実の母を母たんと呼んでいた。


 今のはつわりか? ぼーっとしている士郎に、「パパ、水だよ!」とケンが叫んだ。そうかと水を飲ませて、舞美を抱きしめたが意識がなかった。シンはマンマ、マンマとまとわりついた。救急車を呼ぼうとしたが、その前に谷川に電話するとすぐ応答した。

 パトカーで到着した谷川は舞美を診察すると、

「検査の結果を待たないと断言できませんが、触診では十二指腸の腫れを確認しました。潰瘍が胆嚢を刺激した胆嚢炎による激痛で、気絶したと推測します。大の男でも胆嚢の激痛は我慢できません、胆石の痛みと同じです。痛み止めを注射したので休ませてください」


 翌日、緊張した表情の士郎に連れられて舞美は検査を受けた。検査結果は谷川の診断どおりだった。

「舞美は一度も痛いなんて言ったことはないが、本当ですか?」

「十二指腸潰瘍です。ピロリ菌は陰性だったので、原因はストレスの蓄積だと推測します。わかりませんか、彼女が痛いなんて言うはずないでしょう! 気持ち悪いことがあったと思います。ギリギリまで我慢したが、体の方が悲鳴を上げたのです。わかってください」

「舞美はそんなに大変な病気ですか?」


「大変な病気ではありません。1週間もすれば楽になり、完治するのは6週間前後でしょう。安静の必要はありません。通常の生活でいいですが、毎日を頑張り過ぎたのでしょう。ああ、それから、おめでとうございます。舞美ちゃんは妊娠しています。今まで以上に労ってください」

「はっ? それは本当ですか?」

「まだ5週目なので、胎児への影響を考慮して強い薬は出せません。そして、つわりの時期と重なるので辛いかも知れません。栄養があって消化が良いものを食べて、何も考えずに体力をつけることです」


 妊娠? 信じられないほど嬉しくて、士郎は腑抜けた顔でぼんやりして目を潤ませた。

「あ、ありがとうございました! 大事にします」

「そうだ、食堂のおばさんが押しかけると言ってましたよ。食事のことは任せてくれと張り切ってました」

 士郎はいつまでも頭を下げていた。


「父さん、舞美は十二指腸潰瘍だが心配ないそうです。それよりも子供が出来ました! まだ出来たてです」

「そうか、おめでとう! いやあ、良かったなあ! 少しのんびりしてもらおう。頑張り過ぎだ、あの子は。妊娠初期は危ない、しつこく迫るなよ、流れるぞ、大切にしろ!」


 食堂のおばさんは惣菜をたくさん作って幾日も訪れ、チビを寝かしつけて帰った。士郎は、

「神様がくれたご褒美日だから、何も考えないで休みなさい。僕は自分のことぐらい自分でするし、チビの世話も協力する。だが毎日でも舞美を抱きたい。絶対に虐めないから、これだけはお願いだ!」

 早く帰れた日は食事が終わると、ケンが運んだ食器を士郎が洗った。チビを風呂に入れ、休みには洗濯して掃除機をかけた。



15章 episode 3 不倫の罠


◆ 山本が愛した女はバケモノだった。


 士郎は主婦を経験して、初めて気づいたことが多かった。

『女性が幸せになれる社会、安心して社会に参画し、子供を産める社会の実現』と言い続けたが、家庭に入った女性に社会で輝いてもらうには、夫の協力が不可欠だと痛感した。夫が堂々と育児休暇や産休を取れる制度を検討しよう。

 また、ゼロ歳児から受け入れる保育園と学童保育の拡張と充実化、平均賃金の上昇など数々の解決しなければならない案件が机上の計算ではなく、切実に理解できた。舞美、女性の大変さがよくわかったよ。

 士郎は優しく舞美の秘部に舌を這わせながら、小さな命に語りかけた。悪いがキミのパパは我儘だ。ママを借りるぞ、しばらく子宮の中で眠ってろ。


 士郎に甘えて舞美はゆったりと日々を過ごしたが、博士論文の執筆は続けていた。後期課程は大学院に通うのではなく、研究に励んで論文を作成することが主題である。

 午後8時、士郎の食事の支度をしていた舞美のケイタイが鳴った。

「酒井だ! カナダにいる。世界チャンプになったぞ! オマエに自慢したかった! オマエも頑張れ!」

 ケイタイは切れた。


 旧盆すぎ、やっと休暇が取れた士郎と湯河原に静養に行った。

 シンはマリにチュウしようとしてケンからダメと遮られた。べそをかいたシンに「士郎さんそっくりだ」と笑った山本を見て、舞美はなぜか違和感を感じた。

 本庁に戻って少し痩せたようだ。あか抜けして都会の雰囲気を漂わせ、目が鋭くなった。母子に向ける表情は変わらないが、何か気になった。

 舞美たちは湯河原でたっぷり休養し、ケンは家に帰って行った。


 ある日、泉谷から呼ばれた舞美は角封筒を渡された。

「勉強中で悪いが、大事な書類だから頼めるのは舞美ちゃんしかいない。これを山本に届けてくれないか、本庁16階の警備1課だ」

 舞美はそれを抱えて本庁へ入り、10階までエレベーターを使ったが、あとは階段を上って行った。14階の踊り場で山本が女性と話しているのが目に映った。舞美はとっさに柱の後に身を隠した。離れ際に山本は女の腰を抱いてディープキスを続けた。山本は目を閉じていたが、女は視線を泳がして辺りを警戒していた。一部始終を見ていた舞美は、目の前を通り過ぎた女の胸のプレートを確認して本庁を出た。


「お父さま、この書類はどうしても今日届けなくてはいけませんか?」

「舞美ちゃん、どうしたんだ、何かあったのか? そのまま帰っておいで。話はそれからだ」

 舞美は見たことを話した。士郎もいた。

「私の気のせいだといいですが、あの女の人は信用できません。山本さんは夢中だけどあの人は違います。キスされても目を開いて周囲を警戒してました。ヤキモチで言ってません! 何かヘンです、おかしいです、直感なんです!」


 士郎はパソコンで女を検索した。経歴は問題ないが気になった。36歳でこの階級か、なぜだ? 何か怪しい、既婚者だが背後に誰か有力者がいるのだろう、絶対おかしい!

「舞美ちゃん、席を外してくれないか。士郎と相談する。話が終わったら呼ぶからね」

 しばらくして、舞美は呼ばれて封筒を預かった。

「明日これを渡してくれ。山本には今日は行けないと連絡しなさい」


「あの~ 山本さん、ごめんなさい。家を出たけど気分が悪くなって戻って来ました。お父さまに叱られましたが、明日なら大丈夫です。何時だといいでしょうか」

「そうか、悪いなあ舞美ちゃん、明日は申し訳ないが朝の8時じゃ無理か、お願い出来るか? 気分が悪くなったら電話くれないか、それじゃお願いします」


 翌日、本庁16階に舞美は行った、薄暗く静まり返った廊下に山本と女は立っていた。山本が女を引き寄せた瞬間、腹を立てた舞美は「山本さん、お待たせしました」と声を掛けた。女は表情を変えずにツカツカと舞美に近づき、直立不動の姿勢で敬礼して立ち去った。

「あの綺麗な人は誰ですか?」

「ああ、上司だ。キャリアの出世頭だ」

「ふーん、凄い方なんですね」


 舞美の胸に燦然と輝く“ダビデの星”に気づいた山本は、

「今でもこれを付けてるのか?」

「はい。士郎さんとお父さまが外出するときは必ず付けなさいって」

「警視庁内でもか?」

「そんな場所こそ魑魅魍魎(ちみもうりょう)やバケモノがいるから、魔除けになさいって」

 怒っていた舞美は言われてもないことを口走った。

「魑魅魍魎とバケモノか……」、山本は呟いた。



15章 episode 4 バケモノ談義


◆ なかなか魑魅魍魎には勝てないさ。


 その夜、シンを寝かしつけて夜はこれからというとき、士郎は父から呼び出された。そこで何が話されたのか舞美は知らされなかったが、翌日泉谷から告げられた。


「山本は見事に罠に嵌った。女のことは智さんには言わないでくれ、心配かけるだけだ。年が明けたら山本は警察学校の教官に転出する。あの女は用済みの男を絶対に追わない。舞美ちゃんが届けた書類は封を切らずに山本が返しに来た。恩を仇で返した自分を責めて謝ったが、お前は魑魅魍魎とバケモノには勝てないだろうと許した。舞美ちゃんがそう言ったんだって?」

「はい、言いました。智さんを忘れて別の女の人を抱こうとする山本さんに怒りました、キン蹴りしようかと思いました」


「男は女に狂うことがある。それがスリリングな不倫ならなおさらだが、あの女は常習犯だ。体を張って情報を盗み出す女だ。山本を許してやれ」

「イヤです、そう簡単には許せません! 士郎さんも狂ったことがあったのですか?」

「そうだなあ、たくさんの女に狂ってたな」

「えーっ! まさか? 許せません、絶対にキン蹴りです!」

「はははっ、冗談だ。狂ったのは舞美ちゃんだけだ」 

 部屋に入ろうとドアの外にいた士郎は、股間を押さえて安堵した。


 9月になって舞美のつわりは収まり、週に2日は大学院に通って教授の指導を受けた。子供を食堂に預けて通学する舞美に、指導教授はインターネットを利用しなさいと、通学の機会を減らす便宜を図った。

 

 泉谷事務所を訪れた山本と廊下で出会った。大きな体を縮めて舞美に頭を下げた。

「舞美ちゃんの魑魅魍魎とバケモノの話で目が覚めた。僕はどうかしていた、先生を裏切ってしまった。もう少し遅かったら取り返しがつかなかった。舞美ちゃん、ありがとう」

 

 士郎は舞美の首筋に舌を這わせながら、

「あの女は舞美が言ったようにバケモノだった。野党の渡辺議員が離党したが、あの女の罠に堕ちたらしい。山本はワキが甘すぎる!」

「山本さんは智さんが入院して、独りで寂しかったんでしょうか」

「僕は2年間も独りだった。舞美を抱くまで2年だぞ! 我慢したんだ、わかってくれ」

「だからあんなにムチャしたんですか、痛いって泣いても聞いてくれなかった」

「そうだったなあ、悪かった。いろんなことがあったが僕は幸せだ」

 

 士郎より一足先に、湯河原本宅にシンを連れて舞美は逗留した。暮れも押し詰まって士郎はやっと訪れた。

 激しく熱い夜が訪れた。

 とろけるキスの後、10日間の乾きを癒すように首筋から乳房に愛撫を続け、じらしながら脇腹からゆっくりと秘部に辿り着いた士郎は、むしゃぶりついた。切ないため息を漏らした舞美は弛緩して、夢の中を漂っていた。

 士郎はうねりながら優しく舞美に挿入したが、締め付けられた分身は活躍する前に悲鳴を上げた。まだだ、我慢しろ、堪えろ! 分身に言い聞かせだが、指令を無視して大きく鬨の声を放って身震いした途端に、撃沈された。士郎はこの瞬間が最高に幸せだといつも思った。

「頼む、もう一度」、茜色に染まって横たわった舞美を抱き上げてうつ伏せにした。触ると指が吸いつく肌を愛撫して、背後から秘部を狙った。舞美が枕を抱きしめて尻を持ち上げた刹那に、分身はするりと侵入し、軽やかなステップで踊り狂って玉砕した。



15章 episode 5 突然の講演


◆ 舞美は自然体で講演し、何とかセーフ!


 舞美は日を追う毎に腹が膨らんだ。士郎は時間を工面して家へ戻っては、舞美の顔色を確かめて昼飯を囲み、昼食後によく隠れんぼをした。隠れんぼの目当ては他にあった。いつもシンが鬼で、どこかに隠れたパパとママを探すのだが、二人はカーテンに潜んでは真昼の情事に耽った。

 シンに見つかったら取り繕ったが、パパの濡れて大きく膨れたペニスとパパに抱かれて倒れそうなママを見つけて、シンは不思議な顔をした。

 ある日、用があって訪れた泉谷はその情景に遭遇し、呆れ過ぎて戻った。

 直ちに士郎を呼びつけ、「真っ昼間から何をしている! お前は嫁に溺れ過ぎだ! いい加減にしろ!」とお灸をすえたが、やはり俺が妻にしたかったと心の奥底で人知れず嘆いた。


 舞美は順調に行くと出産は4月だ。次の子も男児だと知っていた。女児を欲しがる士郎に、「男の子です。シンを助けてくれる子です。その次に授かれば女の子です」とはっきり伝えた。なぜそんなことがわかるのか、士郎は不思議に思った。舞美は博士コースの大学院を1年間延長する決心をした。

 舞美は大きく膨らんでいく自分の腹よりも、士郎の体調が心配だった。あれから3年過ぎた。完治と言われるまであと2年か…… いつも不安と恐怖を抱えているが、心配させてはいけない、辛いのは士郎さんだ。いつも言葉を呑み込んだ。


 季節は僅かに春めいて梅が咲きこぼれる頃、泉谷は舞美に平身低頭して切り出した。

「身重なのに申し訳ない、断りきれずに引き受けてしまった。党の婦人部の総会で何か喋ってくれないか。気楽に20分程度を話せばいいだろう、お願いだ、この通りだ」

「えーっ、20分も! そんな簡単に言わないでください。何を話せばいいのです? 私は薄っぺらな人間で、人様にお話するようなものは何もありません!」

「幼い子供を抱えて大学院で頑張ってるとか、水泳やダンスの話とかいろいろあるだろう、そんな事でいいんだ」

「いいえ、そんな話は総スカンでブーイングです。女性は同性に厳しいんですよ。ああ、困った、困った」


 講演当日、舞美はシンの手を引き、ビリビリに緊張して党本部のホールに入った。

 演壇に立って聴衆に微笑み、深く頭を下げて陳謝した。何事かと思う聴衆の視線を集めて、

「誠に申し訳ございません。何をお話すればいいのかずっと悩んで考えておりましたが、まったく答えが見つかりませんでした。私は人生経験に乏しく、まだ学生を続けている半端な人間で、お話できるような見識は持っておりません。

 しかしながら、お出かけいただいた皆さま方に大変申し訳ないので、どうぞご遠慮なく私に質問をいただけませんか。ご質問にお答えすることで話を進めさせていただきたいと存じます。4月が産月なので座らせていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます」


 一方、ステージ上の小さな椅子に座せられたシンは、舞美が喋り終えるとパチパチと手を叩いて、聴衆の笑いを引き出した。意地悪でシビアな質問も多々あったが、知らないことは知らないと謝り、言葉を飾ることなく自分の意見を述べた。そのうち退屈したシンはステージ上を右に左に歩いてはバンザイしてパチパチを繰り返した。聴衆はその愛らしさに魅了され、笑いの渦の中で講演は終了した。


 翌日、中村が撮ったビデオを泉谷と士郎は観た。

「シンはスーパースターだな! 意地悪なおばさんたちを瞬く間に味方にした。素晴らしい孫だ!」と、目を細めて喜んだ。

 ウチの嫁はそういう手を考えたか。大上段に構えず、質問を拾いつつ自分の考えを披露したのかと納得した。それでシンを連れて行ったのか。

「舞美ちゃん、これは考えた末の作戦か?」

「いいえ、何を喋ろうかとマジ考えましたが、私には何もありませんでした。出たとこ勝負です」

「あーあ、舞美ちゃんは士郎とは度胸が違うな、立派だ! 舞美ちゃんが男だったら良かったなあ!」

「へっ、はぁ??」


 上機嫌でシンが走って来た。

「シン、よくやった! パパは驚いたぞ。おいで、お昼寝しよう。これからママと楽しいことするんだ、早く寝ようね、早く寝ろ!」

 泉谷は本当に呆れて目を閉じた。



15章 episode 6 名前はリョウ


◆ 光と影、平穏な日常とスリリングな時間。


 4月、舞美は難産ながら見事に大きな男児を産み落とした。士郎は前日から心配で付き添ったが、シン以上の不敵な面構えをした新生児を抱いて、大粒の涙が溢れた。俺が生きることを諦めてから3年経ったか。この間に2つの命を授かった、生きている証を手にした。舞美、本当にありがとう!

 疲れて眠っている舞美にキスしようとしたら、シンに先を越された。おい、パパが先だ!


 舞美が目覚めたら6つの目が覗き込んでいた。

「あれっ、ケンちゃんどうしたの? 泣きべそで」

 ケンは舞美をママと叫んで抱きついた。ケンはどうしたんだろう?

「私は大丈夫だから、士郎さん、ケンちゃんをお泊まりさせてくれませんか」

「そうだな、シンと遊んでくれるか。旨いものを食いに行こう。ケン、ついて来い」


 舞美は2カ月前に山本宅を訪れた時の智子の寂しそうな顔が気になった。山本は滅多に帰って来ないとケンから聞いたとき、住所を書いた紙とお金をケンに渡して、

「タクシーに乗ってこれを見せれば、ママのとこに来れるわ、シンに会えるよ」と誘った。

 山本さんはまだあの女を忘れられないのだろうか、家に帰ってないなんて……


 家に戻ったら、泉谷親子と舞美の父が赤ん坊の名前でもめていたが、士郎のウンチクが採用されて、諒(リョウ)に決まった。この文字の意味は真実! つまりマコトだと士郎は披露した。

 リョウもシンと同じでおっぱいさえ飲めば眠ってくれる、育てやすい子だった。毎晩、リョウがお腹いっぱいになって眠ったあと、士郎はリョウのおこぼれに吸いついて喜んだ。


 ある朝早く泉谷が訪れたら、シンは独りで遊んでいた。パパはいるかと聞いたら、アッチと奥の部屋を指差した。静かに寝室のドアを開けるとカーテンは閉じられたままで、士郎は舞美の乳房を口に含んだまま眠っていた。

 ため息をついた泉谷はケイタイで士郎を起こした。

「こら、バカモン! おっぱいしゃぶっていつまで寝てるんだ! すぐ来い、山本のことで話がある」


 さすがにバツが悪い表情の士郎を一瞥して、

「お前が嫁に狂おうと文句は言わん、問題は山本だ。調べさせたら、あいつは家に帰らず警察学校の仮眠室で寝ている。それだけではない、あの女と続いている。山本はお前のように若い時に遊んだ経験がない。あの女は山本ごときを弄ぶのは朝飯前だ。たまに山本に抱かれるのは、鍛えられた体と大きな男根だろう。スキャンダルになるのは時間の問題だ。その前に何とかしたい。お前の力が必要だ」


「それで僕に何をしろと言うのです?」

「山本のことで話があると言って女を誘え! 2、3回会えばあの女はお前を絶対に誘惑する、飛んで火にいる夏の虫だと思ってな。女のセリフを全て録音して山本に聴かせろ。そうでもしないと目が覚めない。ああいう女と山ほど付き合ったお前なら、ミイラ取りがミイラにならないだろう。堂々とホテルのロビーやバーで会え、常識だが密室では釈明できない、わかってるな」

「それはわかってます。しかし、舞美に何と言おうか? 出産したばかりの舞美に心配かけたくない、まいったなぁ」


「俺が話す。ヘタするとキン蹴りだけで済まないからなあ。あの子を本気で怒らせると、子供を抱えてさっさとドロンしそうだ。周りは全員舞美ちゃんの味方だ。まず酒井くんが近づく、近藤くんもな。そして青木先生や谷川先生も安心できない。士郎、腹を括って挑め!」

 士郎は眼が眩みそうだった。

 舞美は泉谷から言い含められたのか、ひとことも質問せず、士郎のネクタイや小物に気を配り、メンズ香水まで用意した。面白がっているようだが、そうではないことを士郎はビンビン感じた。毎朝新しい下着を着せてにっこり笑って見送るが、士郎は毎日が恐怖だった。



15章 episode 7 オトリ成功


◆ オトリの代償はヘルペスの発症。


 士郎が女と会ってわかったことは、知識は誰かの受け売りらしく浅薄で、夫婦仲は最悪、子供を産む女はバカだと放言し、暗に舞美を非難した。興味があるふりして相手するのは苦痛だったが、何とか誘惑のセリフを引き出さなくてはならない。4回目にホテルのバーに誘ったとき、

「話はたくさん聞いたわ。大人の遊びをしましょうよ。今日の私は悲しいことがあったの、何もかも忘れたいから燃えさせて、もう待てないわ、いいでしょう」

 女は士郎の股間に手を伸ばした。

 股間を握られた嫌悪感で思わず士郎は身を引いたが、女は興奮した反応だと誤解した。


 女が士郎の股間に触るのを目撃して、

「よし、行こう」、近藤は連れの男に声をかけて、背後から士郎に声を掛けた。

「ご無沙汰してます、近藤です。お連れの方は?」

「警視庁の方だ」

 女は近藤に微笑んで会釈した。

 近藤は自分のケイタイを士郎の前に差し出し、

「藤井、士郎さんは警察のおばさんと打ち合わせ中だ。代わるぞ」

「お疲れさまです。近藤さんと話してましたが、ご一緒だったのですか。お仕事中、ごめんなさい」

「気にするな、仕事は終わった。すぐ帰る、心配するな」

 士郎はとびきりの笑顔でそう言った。女は席を立った。


「士郎さん、紹介します。この男はダンス部の先輩で週刊誌の記者です」

 男は名刺を渡して、

「斉藤と申します。離党した渡辺議員のスキャンダルを追ったところ、あの女が浮上し、泉谷さんの動きに気づきました。それで近藤に会わせろと頼みました」

 士郎はこの男が信用できるか怪しんだ。

「僕もスキャンダルか?」

「いえ、違います。失礼ですがオトリでしょう。女の正体を掴むための」


 士郎はうーんと唸った。ここでは落ち着かないから自宅で話そう、「舞美、お客さんだよ」とケイタイした。

 舞美は料理を用意して待っていた。近藤に「またママになったんですよ」と恥ずかしそうに笑った。

「舞美、お疲れさん。勝手にやるから心配しないでいい、もう休みなさい」


 朝、舞美が目覚めると士郎の左胸に発疹があった。何だろうと触ったら、痛い! 士郎は声を上げた。裸にすると左肩の後ろも同じような発疹があって水泡が出来ている。もしやヘルペス? 今日は日曜で病院は休診だ、とにかく谷川先生に電話しよう。谷川は症状を聞いて、

「左側だけ? それは帯状疱疹だろう。神経細胞の中で眠っていた水疱瘡のバイキンが暴れ出したんだ。病院に寄って抗ウイルス剤を持って行くよ」


「間違いなく帯状疱疹だ。劇症化しないように注射しよう。水泡が潰れてカサブタになって治るが、念の為にお子さんと2週間、舞美ちゃんとは3日間、親密な接触は禁止します。免疫低下やストレスが原因で発症することが多いが、何かありましたか?」

「恐らくあの女です」

「へっ、女! そんなこと言っていいんですか? まさかセックスで感染する性器ヘルペスも?」

 舞美はにっこり笑って、

「先生、全身を調べました。胸と背中だけです。性器ヘルペスだったら入院させて一生出さないでください!」


 士郎の診察後、谷川は泉谷に報告した。泉谷は驚いて、

「そうか、そんなにあの女狐を嫌っていたのか。悪いことしたな。実は山本がその女の罠にはまって、家に帰らずまだ追いかけている。それを目覚ませるために芝居を打ったが、士郎は役者不足だったか、悪ことしたなあ」

「山本さんがのぼせた女とはどんな女ですか?」

「そうだな、都会の闇を闊歩するバケモノだよ。士郎のボイスコーダーを聴いたが、そりゃあ呆れるほど口は達者だが実がない。男をバカにしながら男を利用して警視庁の幹部候補生になった女だ。舞美ちゃんはその女をチラッと見て即座にバケモノと判断した」


 泉谷は山本を呼びつけてボイスコーダーを聞かせたが、山本は信じられない様子だった。女に電話したが返事はなく、翌日から受信拒否された。



15章 episode 8 女狐失脚


◆ 女狐とのセックスが忘れられない山本に、士郎が告げた。


 士郎の帯状疱疹が治りかけた頃、あの女が週刊誌を賑わした。

 8名の国会議員と警視庁幹部2名が実名で掲載され、女と密会した日時と場所が克明に書かれていた。また、女が議員との寝物語で聞き出した情報を、警察幹部に抱かれながら報告した会話が生々しく再現されていた。

 堕胎に失敗して未熟児を産んだ苦い経験から卵管結紮手術を受け、いつも生身でOKの女として有名になった経緯が、10ページに渡って紹介された。士郎の股間に触る写真も載っていた。

 当然、警視庁は週刊誌を告訴するコメントを発表したが、政治的な圧力と「これ以上の恥を晒すのか!」と警視総監が止めた。女と関係した議員は8名以上の他に、尻尾を掴ませなかった長老議員が複数いた。

 組織は女を守らなかった。何事もなかったように素知らぬ顔をした。砂上の楼閣のマダムだった女は、依頼退職扱いで消え去った。


 帯状疱疹がやっと癒えた士郎は山本に会った。

「山本を覚醒させるためとはいえ録音したことは謝るが、俺もひどい目に遭ったぞ。野心と虚栄の話を我慢して聞いたが、ストレスで帯状疱疹を患った。お前はまだあの女が好きか?」

 しばらく無言が続いた。

「僕は彼女とのセックスに夢中になりました。智子と違って、すぐに燃え上がってナマで受け入れる女でした」

 士郎は笑い出した。

「女狐の演技を見破れなかったお前は大バカだ。女をまったく知らない! あの女は娼婦だ、どうにでも演技する。満足に立ちそうもない爺さんに抱かれた直後にお前と会っている、そんな女だ。

 いいか、よく聞けよ。挿入するだけで感じる女はたった5%だ。お前は女にすぐ挿れたがると思うがどうなんだ?」

 返事はなかった。


「女が喜ぶのは男性器の大小や硬度ではない。たっぷり時間をかけて、そうだな、20分は必要だ。女を燃え上がらせてからだ。そうすると智さんもいい女になるはずだ。お前は女を知らなさ過ぎる、そして自分勝手だ!」

「失礼ですが、20分も何をするんですか?」

 さすがに士郎は苦笑した。

「最初はディープキスだ。次は女の体全体が薄いピンク色に染まるまでキスの雨を降らせる。表情を見ていると感じる箇所がわかる。わかったらそこに集中攻撃だ。最後の聖域が女性器だ。あとは自分で考えろ。

 俺も偉そうなことは言えない、舞美と会うまでは山本と同じだった。挿入してペニスを動かせば女は喜ぶと思っていたが、舞美を愛してから俺は変わった。放射線治療の前に子供を作ろうと言った子だ、大切にしたい。とにかくお前は家へ帰れ。智さんは女の影を感じても真相を知らない。悲しい思いをしているだろう。ケンもだ。わかったか!」

 山本は大きな体を小さくして聞いていた。


 あと僅かで年の瀬を迎える朝、

「シンを連れて山本の様子を見てくれるか。リョウは僕に任せて、智さんとゆっくり話しておいで。多分、山本もいるだろう。迎えに行く」


 山本の家で舞美はケンの暗い視線に気づいた。

「舞美ちゃん、ケンはいつも僕に反抗するんだ。何度言っても拗ねて睨んでる。乱暴者でドアや窓にパンチする悪い子だ。そうだな、ケン!」

 ケンは憎しみに燃えた目で山本を睨み、小さな拳を握っていた。この子は山本さんが家に寄りつかない時、母親が不安や悲しみや嫉妬で苦しむ姿を見ていたに違いない。家に戻って勝手なことを言っても、そんなこと聞けるか! そう怒っている。しばらくケンと山本のケンカ腰の会話を聞いていた舞美は、たまらずに叫んだ。

「山本さん、話があります。キン蹴りしたくなりました。山本さんがいない間、ケンは智さんの寂しさや悲しみを見ていたんです。母親を苦しめているのは山本さんだと知ったんです。ケンは悪い子じゃない、乱暴者でもないです!」

「ママー!」、ケンは舞美にしがみついた。


「わかってください。ケンの心を傷つけたのは山本さんです。このままの山本さんだったら私がケンを預かります。幼い子の心の傷は早く治さないとダメです。ケンの顔を見てください。あんな暗い目をする子ではありません。ケンが普通の表情になるまでケンと暮らしたいです。はっきり言います、山本さんは父親失格です!」

「舞美ちゃんにケンの何がわかるんだ! 僕のどこが悪いって言うんだ! ケンを立派にしようと躾をしただけだ!」

「山本さんはケンの気持ちを何もわかってません! 智さんを虐めたのは山本さんだと思ってます。それで素直に受け入れないのです。父親不在の間、ケンがどれだけ辛い気持ちを我慢したかわかりますか? たった数カ月だと思うでしょうが、小さな子とっては何年にも思えるんです、山本さんは勝手すぎます! 自分がしたことをよく考えてください!」


 迎えに来た士郎は外まで聞こえる舞美の激昂した声に驚いて、立ち止まった。あの女狐は智さんとケンも傷つけたのかと知った。

「どうしたんだ? 舞美がこんなに怒るなんて初めてだ。何があった?」

「ケンがウチへ来ると言ったら、預かってもいいですか?」

「いいよ。シンの兄貴だ。ケン、パパの家へ来てくれるか、来るか?」

 ケンは山本と智子の顔を眺めたが、

「うん、行ってやるよ! チビがいるからさ」

「そうかそうか、パパは嬉しいぞ!」



15章 episode 9 潰れた幼い心


◆ 父を憎んだケンの心を舞美は抱きとった。


 大晦日の早朝に湯河原の本宅に着いた泉谷ファミリーは、地元の人々に出迎えられた。

 士郎と舞美が連れた3人の息子を見た人々は、突如現れた立派な男の子は士郎先生が外で産ませた子かい? 若奥さんも苦労なさるねえと勝手に同情した。

 泉谷健司が元旦の挨拶を述べると、士郎の次にケンがしっかり挨拶し、シンは「ジジさま、おめでとうございます」とにっこり笑った。最後は生後8カ月のリョウを抱いた舞美だが、あまりにも妖艶で泉谷は目のやり場に難渋し、溢れる色香に圧倒された。士郎が溺れるのは無理ないなと諦めた。数年前、痛い、怖いと大騒ぎして泣いた舞美を思い出した。


 午後、舞美はプールでケンを教えていた。両手を握って何度もバタ足で往復させた。シンはライフジャケットを着けて、のんびりポッカリ浮かんでいた。士郎がリョウを裸にして静かにプール浮かべたら、怖がらずに浮かんだ。ほぉー、怖いという認識がまだないのか。成長するにつれてさまざまな情報が混入して、先に進めなくなるんだよ。小さな生命に語りかけた。


 ケンはクロールを覚えた。無我夢中でバタバタと懸命に進むケンに、舞美は「凄い! 凄い!」と褒めまくった。

「ケンが少しわかりました。山本さんはケンを褒めたことがないのでしょうか、立派になって欲しいと厳し過ぎたようです。ケンはシンとリョウの世話をしてくれます。私が泣いちゃうほどなんです。ありがとう、そんなに頑張らなくてもいいよって言うと、嬉しそうなんです、切ないです」

「ケンはいい子だなあ。真面目すぎる山本と遠慮がちで優しい智さんとの狭間で、幼いながら辛かったのか? 明日、山本を呼ぼう。ケンを褒めてくれと言っておく」


「ケン、いいよ、いいよ、その調子! ガンバ、ガンバ!」

 舞美の声が響いた。山本はケンが嬉しそうに泳いでいるのを見て、プールに飛び込んだ。

「ケン、父さんも泳ぐぞ。競争しよう、どうだ?」

 一瞬顔をこわばらせたケンは真一文字に口を閉じて、沈みながらも必死で進んだ。ケンの後ろを山本は泳いだ。ケンがプーッと顔を上げたとき、山本はケンを抱き上げて、「いつの間に泳げるようになったんだ? 父さんはケンに負けたよ。凄いなあ!」と褒めた。ケンはニコッと笑った。山本はその日は東京へ戻った。


 舞美はケンを膝に乗せて、自分が山本から励まされたこと、支えられたことをケンに話した。どこまで理解できるかわからないが、ケンの父さんは本当は優しい人なのよ。お巡りさんを育てる仕事だから、ついケンにも厳しいんだよと何度も言い聞かせた。隣で聞いていた士郎は、なるほど上手いこと言うなあ、バケモノ女より気持ちが入ってる分だけ、その気になるなあと笑った。


 就学前には山本家に帰したい、舞美はそう考えて幼稚園を探した。

「幼稚園に行きたい? 友達がいっぱい待ってるよ」

 しばらく考えたケンは、「うん、行きたい」と答えた。

「父さんの家から行きたい? ここから通いたいのかな? どっちがいい?」

「ここがいい、シンやリョウといたい」

「そうなんだ。いいよ、そうしよう」

 山本は落胆したが、議員宿舎から歩いて通える幼稚園へケンを入園させ、舞美は送り迎えした。博士論文は殆ど完成に近い、今はケンが心配だ、そう思った。


 士郎は相変わらず多忙で、視察や勉強会や講演、選挙応援など、体を休める時間もないほどだが、舞美と3人のチビがいる家庭が何よりの安らぎだった。

「僕の我儘を聞いてくれるか、次は女の子が欲しい、お願いだ!」



15章 episode 10 新しい絆、泉谷の遺言


◆ 舞美に湯河原の本宅を託した泉谷の英断。


 ある夜、遅く戻った士郎を出迎えたのはケンだった。

「何だぁ? まだ寝てないのか、ダメだよ、早く寝なさい」

「ママがずっと泣いてる、パパ助けてよ!」

 疲れが吹っ飛ぶほどの衝撃を受けた士郎は、キッチンのシンクに両手をついて泣いている舞美を後ろから抱きしめ、

「何があったんだ? 泣くな。話してごらん」

「父が再婚するそうです」

「そうか……」

「ママ、泣かないで」、ケンは心配していた。

「あのね、ママにママが出来るの」

 ケンはきょとんとして、「ママにママが出来たの? やったー!」

 舞美はケンを抱あげて、

「ケン、ありがとう! そうだね、やったーだよね」

 ケンは母がいない私にママが出来ると聞いて喜んでくれた。父には父の人生がある、ケンから教えられた気がした。


「みんなで名古屋に里帰りするか? 舞美の母さんは僕の母さんにもなる、僕も会いたい」

 実母との細い糸が完全に切れると泣いていた舞美を、士郎はいつまでも抱きしめた。

「士郎さん、私はこんなに幸せでいいのでしょうか、ふと不安になります。こんなに愛されて子供を授かって、立派なお兄ちゃんまでいて、目眩がしそうです」

「何を言ってるんだ、僕は幸せ過ぎて目眩だらけだ。ずっと昔こう言った。『抱いて抱かれて愛し合おう、それからわかることだってあるはずだ』と。覚えているか?」

「ええ、覚えています。なぜ言ったのですか?」

「いや、白状すると思いつきだ。それまでそんな人はいなかった。舞美と会っていろんなことがわかった。このセリフは真実だ。僕は舞美のもので、舞美は僕のものだ」


 舞美は恐れていた。幸せの後ろには必ず悲しい思いをする人がいることを知っていた。私の幸せに泣いた人は誰? リュウを思い浮かべた。あのとき私は迷っていた、士郎さんの気持ちが恐かった。優しく甘えさせてくれるリュウが大好きだった。リュウは父から何か言われたのか? 互いに好きで抱き合って何も考えない、それでいいと思っていた甘ったるい若い日々が、懐かしく思えた。


 泉谷が執務している時間、舞美はよく顔を出して論文の進み具合を報告した。

「高い授業料を払ってもらってます。そろそろ卒業しないとヤバイです」と笑った舞美に、

「舞美ちゃんが博士になるのは時間の問題か、凄いなあ! 息子の中で一番お粗末なのが士郎と思っていたが、今や俺に説教を垂れるようになった。孫も抱けないのかと諦めていたが、二人の男児に恵まれた。舞美ちゃん、たったひとつ贅沢なお願いを聞いてくれるか。女の子の孫を抱きたいが、士郎が舞美ちゃんのおっぱいを飲んでるようではなあ……」

 頰を真っ赤に染めて舞美は俯いた。


 士郎は1年ぶりで長兄と泉谷の執務室で会った。室内には弁護士の他に次男と三男もいた。

「士郎、座れ。息子たち全員を呼びつけたのは、俺が死んだ後の醜い兄弟争いを阻止するためだ。財産の多くは祖父と親父が網元をやって作ったものだ、俺ではない。1年前までは士郎に全てを譲る気でいたが、そうしたら士郎の嫁が憎まれるだろう。それで俺は遺言を書き直すことにした。


 まず士郎に半分残す。残りを3人で分けろ。これとは別に湯河原の本宅は舞美ちゃんに残す。あの家は年間の維持費が馬鹿にならないが、彼女なら工夫して土地・建物一切を存続させるだろう。こういう才覚は他の嫁には到底無理だ。舞美ちゃんに託せば本宅は必ず残る。俺はご先祖様に堂々と会える、そう考えた。

 俺の本郷の私宅は次男に、茅ヶ崎の別宅は三男に渡すことにした。これで俺の遺言は終わりだ」

「ちょっと待ってください! 僕は士郎の残りの3等分だけですか? それは不公平でしょう。そもそも士郎に半分も渡すなんて、そんな乱暴な話は納得できません!」


 泉谷はジロリと長男を睨んで、

「まだわからんか! 泉谷の跡継ぎは士郎の2児だけだ。その子たちの学費や食い扶持を含めて、士郎に半分残そうとしたのがわからんか! お前はもうすぐ50歳だ、子供もないのになぜ欲張る? 俺には解せない。お前はインサイダーまがいの取引で、弟たちとは比較にならない蓄財があるはずだ。なぜそんなに財を欲しがる?

 はっきり言おう! 泉谷の次世代を担うのは士郎の子供たちだけだ。幼い後継者が今後どう成長するかわからんが、こうなったのは子を成せなかったお前たちだ。あの子らに少しでも残してやったら、祖父と親父は満足する。俺の考えに不服があるなら裁判しろ、俺はかまわん。話は終わりだ!」



15章 episode 11 新しい絆


◆ 新しい母と出会い、新しい命も授かった。


 遺言の内容はそのうち舞美の耳に入るだろうが、知ったら辞退するかも知れないと考え、士郎は舞美に話さなかった。財産分与より己の命の灯を考えた。今は不調ではないがこの病気は突然に再発することがある。毎晩のように舞美を抱いて、俺が元気なうちに男でも女でもいいから、もう一人子供を産んでくれと願った。

 舞美は鍛え抜いた柔らかな体でどんな要求もクリアして俺をいつも翻弄する。こんな女は離したくない。腕の中で甘えている舞美、愛し過ぎて子供が出来ないのかと不安に思った。


 盆休みを利用して、泉谷と士郎一家は名古屋へ向かった。新しい母に会う緊張で舞美の顔は青ざめていた。ケンは気にして「ママ、冷たくて美味しいよ」と、冷凍みかんを舞美に渡した。「うわっ、美味しい!」

 それを見ていた泉谷は「舞美ちゃんをいつ抱いた?」と、士郎にささやいた。「はあ? いつと聞かれても……」

「お前、まさか毎日か? あの艶やかな肌はオメデタかも知れんぞ、わからんのか、バカモン! 大事にしろ」


 舞美の父は、新しい妻との馴れ初めを顔を紅潮させて紹介したが、舞美は聞いてなかった。

 自分の部屋に入った。ベッドは北の壁際に移動され、新しいワードローブが置かれ、窓辺に花が飾られていた。立ちすくんでいる舞美に士郎は、

「帰れる場所を残してくれたんだよ。舞美は僕との家族があるが、お父さんは誰もいなくなって寂しかったのだろう。わかってあげなさい。それよりも舞美、教えてくれ、もしかしたらオメデタか?」

 舞美はにっこり笑った。


「嬉しいなあ! もう一人欲しくていつも抱きどおしだった。ごめん、辛かったか? 許してくれ。ひとつだけ覚えておいて欲しい。もし僕が死んでも僕は幸せだったと子供たちに伝えてくれ。心配してくれているのはわかっているが、死んでも悔いはない! 舞美を愛して子供も生まれた。舞美も僕を愛している。普通の男の一生分の幸せを手に入れたから、悔いはない! 舞美に子育てと生活の苦労をかけるのかと思うと、まだ死ぬわけにはいかない」


 トイレに行こうと廊下に出た泉谷は全てを聞いた。士郎は覚悟したのか、頑張れよ。再発するんじゃないぞ! 生きろ! 生き続けろ! 


 東京に戻って妊娠が確定した舞美は、博士論文の最後の詰めに入っていた。ある夕方、ケンたち3人がおやつを食べているところに泉谷が顔を出した。

「おや、うまそうだな、ジジにもひとつくれよ。ところで出産は5月かな?」

「はい、気候もいいし、論文は年内に完成します」

「博士から生まれる子か、さぞ賢い子だろうな」

「いいえ、私そっくりのおバカな女の子です」

「女の子、本当か?」

「そんな気がするだけです。信じないでください」

 泉谷は早速、デパートの外商部を呼び、女児用の産着や布団や何やら山ほど注文した。



15章 episode 12 法学博士が誕生した


◆ 士郎の再発を心配して、多額の金を舞美に託した。


 正月を泉谷は湯河原で過ごした。舞美は年末から準備で泊まり込んだが、地元の人々は心尽くしの品を持ち寄り、正月の用意を手伝った。

 元旦、和服がよく似合う舞美をボーッと潤んだ目で見ている士郎は、シンからパチンと叩かれた。「パパはママばっかり見てる、ラブラブなんだ!」、泉谷は吹き出した。

 士郎は5年前を思い出していた。冷たく凍ったこの家で舞美に別れようと告げた日を…… あれから5年か。何とか生き延びた、舞美ありがとう!


 1月が終わろうとする頃、論文審査に合格して法学博士号が舞美に授けられた。士郎は喜び、泉谷も相好を崩して祝福した。舞美は酒井に連絡した。

「よくやった! さすがオレのナイスバディだ! オマエなんかに負けてたまるか、オレは今年も世界選手権でチャンプになるぞ!」

 酒井は電話の向こうでワァーワァー泣いていた。舞美が遠くへ去った気がして、嬉しいが寂しかった。


 谷川と青木に報告した。予測していたが目標を決めたら何が何でもやり抜く舞美に、今更ながら呆れたおっさんズは祝杯をあげながら、

「オレらの後輩は可愛いだけの女の子だったよな、賢いと思った記憶はないぞ」

「そうだ、才女ではない。今でも多分そうだろう」

「だったら、オマエんとこの大学院は審査が甘いのか?」

「いや、博士論文は審査基準があり、本審査を受ける前に多くの論文が落とされる。文系の合格率は約30%だ。理系は実験データを添付すれば45%程度だ。審査は指導教授に決定権はない。合格した論文は公開されるから盗作や不正はすぐバレる」

「ふーん、なぜオマエは博士を目指さないのか? 舞美ちゃんに負けてないか?」

「うーん、そうだな。新鮮な感覚で探求できなくなった。これを追求しても結局こうだろうと、つまらない予測が先に立つ。情けないなあ」

「泉谷さんから聞いたが、舞美ちゃんは5月に出産らしいぞ。士郎さんは寛解導入療法から5年経過した。このまま何事もなければいいがと案じている」 

「驚いたな3人目か!」

「士郎さんが離さないんだろう。死んでも生きていた証が欲しいのかも知れない。白血病にならなかったら結婚してないだろうが不思議なもんだなぁ。何が幸せで何が不幸か、さっぱりわからん」


 ある日、泉谷は舞美を呼んで人払し、舞美名義の銀行通帳と印鑑を出した。怪訝な表情の舞美に、

「これは舞美ちゃんに預ける。手伝ってもらった2冊の本の印税だ。俺は士郎に万一があれば最高の治療を受けさせたい、そう考えて本を書いた。有名な俳優さんが海外で治療を受けた話を聞いたが、1億以上の金額だった。印税のことを士郎に言うかは任せるが、しばらく内緒にしてくれ」


「えーっ! こんな金額は見たことありません。でも、これほどの大金を私が預かっていいのでしょうか。お兄さんたちは?」

「あいつらに渡すものは遺言した。これはそれ以外の収入で、舞美ちゃんと士郎が稼いだものと考えてくれ。財産ではない、正当な労働報酬だ。

 俺は孫たちを思うと士郎の命が惜しい。もしものときは現金がすぐ必要だ。士郎と舞美ちゃんのため、孫たちのため、生まれてくる子のための金だ。わかってくれるか」

 しばらく舞美は考え込んだ。こんなに心配してくれて、ありがたくて言葉が出なかった。

「お父さま、預からせていただきます。ありがとうございます。何とお礼を申し上げればいいか言葉がありません」

 舞美は大粒の涙を溢して泉谷に抱きついた。

「よし、よし、いい嫁だ、士郎を頼むよ」


「父さんいますか、開けますよ」

 大きな花束を抱えた士郎がドアを開けた。

「いたのか、あれっ、泣いてるのか?」

「はい、お父さまの言葉があまりにも嬉しくて、つい泣いちゃいました」

「父さん、頼むよ、余計な話はしないでくれ。身重で神経過敏なんだから。これは総理からお祝いに頂いた。内緒にしていたが博士号がバレた。これはどうしようか」

「くれたんだろう、もらっとけ。バケツにでも入れとけ」

「うわっ、すごく豪華で綺麗! 百花繚乱です。お礼の手紙を書きます」



15章 episode 13 泉谷の執筆


◆ レイが生まれ、泉谷はレイを夢中で可愛がった。


 舞美のお令状に添えられた男児の写真を見て、総理は士郎を呼んだ。

「君は3人の子持ちか?」

「いえ、大きい子は親戚の子です」

「そうなのか。実は奥さんに定期的に婦人部で講演してもらえないだろうか。以前の講演が好評でリクエストが多く、協力してもらえると助かる」

「申し訳ありませんが、5月に出産を控えておりますので、この件はしばらくご容赦ください」

「ああ、そうなのか、おめでとう! どうも高学歴の女性は子供を産みたがらない傾向があって、頭を悩ましているところだ。君の素晴らしい奥さんから未来の首相が誕生することを期待しよう」

「お言葉ですが、生まれるのは女の子だと申しております」

「これからは女性でも必ず道は開かれる。世の中は加速的に変化している。失礼だが、奥さんはいくつになられる?」

「28歳です」

「いいなあ、若いなあ。いや、失礼。羨ましい、まさにこれからの時代を担う女性だ。陰ながら安産を祈らせてもらおう。今日はどうもありがとう。奥さんに宜しくお伝えしてくれ」


 ケンを家へ帰してシンを4月から幼稚園に通園させ、舞美は2歳になったリョウの手を引いて、大きなお腹を庇いながら送り迎えした。

 5月初旬、兄たちより小粒だが色白でぱっちりした目の女の子が生まれた。嬉しくて仕方がない泉谷と士郎は、眠っている舞美に両側からそっとキスして、祝杯をあげた。


 舞美と赤ん坊を迎えた士郎は幾度も舞美を抱きしめて感謝し、名前は「莉(レイ)」と「杏(アン)」のどっちかいいかと訊いた。「舞美のお父さんは「杏」に賛成だ。舞美はどうだ?」

「私は『莉』と書いてレイと呼びたいです。この漢字はジャスミンの花で、白い小さな花弁で甘い香りがします。確か、愛らしいとか愛されるという花言葉だったと思います。

「舞美ちゃん、『莉』に決めていいか?」

「舞美がそうなら異存はありません」

「莉」を提案した泉谷は大喜びしてはしゃいだ。まもなく総理からジャスミンの大きな花束が届けられた。


 前にも増して士郎は舞美を離さず、労わりながらも毎日抱いて幸せに浸り、レイの授乳のたびに士郎も欲しがった。

「赤ん坊はおっぱい飲むにも力がいるんだなあ、生存競争はここから始まるのか」と感心する士郎に、「おっぱいは私の血液なんですよ、いい加減にしてください」、舞美は笑った。

 しょっちゅうレイを抱きに来る泉谷は、「レイちゃん、パパにおっぱい取られちゃだめだよ」と、いつもジロッと士郎を見てからかった。


 だが、好々爺の泉谷の執務室を覗くといつも机に向かって何かを書いていた。舞美が訪れると何気なく取り繕うが、記憶を呼び起こして何かを綴っているように見えた。

「お父さまは何か著作なさっているようですが、それよりも体を労って欲しいです。探ってくれませんか、心配なんです」

 士郎は泉谷の指のペンダコと部屋の隅に置かれた小型シュレッダーを見た。舞美が言ったように何か書いているらしい。訊いても親父はオトボケだろう。しばらく静観するしかないか。


 あるときレイを抱いて執務室を訪れると泉谷は電話中で、机上の原稿用紙を隠す時間がなかった。舞美がチラリと目を走らせると、「日米安全保障条約」「秘密裏」などの文字が躍っていた。

 法律を学んだ舞美は、泉谷が何を書こうとしているか輪郭が想像できた。

 中学生のときに終戦を迎えた泉谷は日米安保の旧条約ではなく、新安保締結の裏側を書こうとしていると推測した。国幹を揺るがす裏取引を暴く気か? そうであれば悪徳政治家のスキャンダルを暴露する事とは次元が違う。内容によっては右翼の街宣車が押しかける可能性がある。士郎さんに相談しなくては。


 士郎は父に問いただした。

「そうだ、ご明察だ、さすが舞美ちゃんだな。俺は本名では出さない、偽名を使う。舞美ちゃんにバレては仕方ないな、法学博士に清書と監修をお願いしたい。最後の親孝行だと思ってお前からも頼んでくれ。しかし秘密裏に進めたいが出版社が見当たらない」

「父さん、そんな物騒な本は止めてください。舞美は一般人で3人の子の母です。もし執筆に協力したとわかったら恐ろしい目に逢うかも知れません。執筆の事は舞美に話しますが僕は不承知です」

 士郎から父の頼みを聞いたが、舞美は少し考えさせて欲しいと告げた。



15章 episode 14 青木の恩返し


◆ 日米安保の密約を公表する本を出販したい。


 うーん、こんな本を一般出版社から出すと、編集、校閲、版下作成という流れの途中で機密が漏洩する危険性が高い。どうしたものかと思案したとき青木を思い出した。

「先生は数多くの本を出されてますよね。いつも違う出版社のような気がしますが、危険な本を出すのに最適な出版社をご存知ですか?」

「突然何を言い出すんだ? 物騒な事を言うなよ。まあ知らない事もないが内容は不法薬物か? 密輸か?」

「いいえ、お父さまが世間を揺るがす本を出すつもりです。後生だからとお願いされました。私はまだ内容を把握してませんが、安保条約のことらしいです」

「そうか泉谷先生では断れないな、考えてみる」


 ある日、青木は士郎の自宅に招かれた。出迎えた舞美が抱いている赤ん坊に驚いた。舞美が赤ん坊のときとそっくりで、挨拶するのも忘れて見つめた。

「いやー驚いた! 僕が初めて藤井、失礼、会ったときこのくらいの赤ちゃんだった。そっくりだ!」

 青木はぎこちなくレイを抱いた。

「高校生だった先生は、私が縁側から転げ落ちそうになったのを助けてくれたんです」

「そうですか、浅からぬご縁ですね。本日はお呼び立てしまして申し訳ありません。外ではちょっと憚られる相談なので、ご足労をおかけしました。車でなかったら一献いかがでしょうか」

 泣きもせず青木の顔を見つめていたレイは、いつの間にか眠ってしまった。腕の中の温かいカタマリが青木には懐かしかった。


 3人は夜更けまで話した。

「新聞やインターネット、反政府系機関紙などで宣伝してくれと父から渡されました。話題になればそのうち一般書店にも並ぶでしょうが、当面の経費にお使いください。ただし、著者が誰なのか秘密厳守でお願いします。たとえ右翼や公安の圧力があってもこれだけは絶対に守ってください。もし明るみに出ると父だけではなく、舞美も危険です」


「僕が考えている出版社は、奥さんと二人でやっている小さな会社です。大学を自主退学した男ですが2年間は同級生でした。今でも現役の革マル派の活動家で、最近はおとなしくなりましたが、かつては留置所の常連でした。公安から睨まれる本を出版しては会社を潰して、新しい出版社を立ち上げます。僕の教科書はそこにお願いしてます。

 彼は著者の名前は詮索しません、そんな男です。著者名は僕の胸の中に秘めて、決して口外しません。フロッピー原稿を奥さんがパソコンに落とし込んで版下を作成し、ヤツが印刷します。ここまでの工程は夫婦だけです。製本は外注ですが、製本業者も仲間だと聞いてます。


 定期的に公安の巡回があり、電話は盗聴の対象でしょう。通信手段は原始的ですがいつもポケベルを使います。ちょうど来年度の教科書の改版を書いているので、さりげなく連絡しましょう。

 泉谷先生には大変お世話になりました。親不孝の僕に代わって父の墓を守ってくださいました。父の無念が晴れた今、恐れるものはありません。お役に立たせてください」


 明け方近く自宅に戻った青木は、泉谷の役に立てることが嬉しかった。そして、3人の母になった舞美の艶やかさに酔いしれた。あの子と出会って9年か、泣き疲れた舞美を一晩中抱きしめて眠った夜は、遠くへ消え去ってしまった…… もし俺が強引にあの子を手に入れたらどうなっただろうか、時々ふと考えるが、俺の傍にいないことだけは確かだ。

 士郎の舞美への恋慕は俺の比ではない、3人の子がいても舞美にヘロヘロだ。見ていてよくわかる。俺は舞美をあんないい女に育てられなかっただろう。なぜだ? 士郎が人生を諦めたときに舞美が命を与えた、これしかないだろう。「白血病になったから別れてくれと言われて引き下がる子か?」、谷川はそう言ったが、まさにあれだ。舞美の支えがなければ士郎は自暴自棄に陥り、今ごろは土の中だろう。人との邂逅と運命の不思議さに目を閉じた。



15章 episode 15 ベストセラー出販


◆ 国民の疑惑を解き明かした、最後の著作。


 今後の進行は舞美が提案することになり、泉谷は喜んで承諾した。

「親父がしょっちゅう来ているようだが、原稿は進んでるのか?」

「お父さまは孫が可愛くて、暇さえあれば抱きに行くという触れ込みで、ここへ来てもらって、勝手に喋ってもらってます。それを録音して、ある程度まとまったら原稿にして、チェックしていただきます。こうするとお父さまの周囲の人に迷惑をかけません」

「それでは舞美の負担が大きいだろう、大丈夫か?」

「レイをお父さまに預けてシンのお迎えにリョウと行って、たまにスカイラークに寄ったりします。お父さまはオムツも替えてくれるんですよ」

「ヘェ~ あの親父が? 驚いたなあ。それでは恋人どころか舞美の家来じゃないか」

 

 しかし、午後11時過ぎの泉谷の訪問には困惑した。

「舞美は風呂だ、話なら明日にしてくれよ」

 風呂上がりの士郎が不機嫌に応対すると、濡れた髪のままバスローブをまとった舞美が出て来た。

「いやあ、悪いなあ。こんな時間に来てしまった。昼間喋ったのを少し訂正したい」

 そう言ってさっさと上がり込む。渋い表情で腕組みした士郎が横にいても一向に気に留めず、原稿と関係ないことまで1時間は喋り続ける。

 泉谷が退散した後、舞美は笑いながら、

「お父さまは寂しいのでしょう。家族の温かさを知って、家族が欲しいのかも知れません。どこかにお父さまのお嫁さんはいませんか?」

「はあ?? 親父の嫁?」

 士郎は本当に頭が痛くなった。


 あーあ、やっと帰ってくれた。とんでもない親父だ、待ちくたびれた。

 士郎は、舞美のどこか懐かしい匂いがする秘部の虜になっていた。舐め続けると甘い汁が湧き出し、士郎の舌先や口の周囲はびしょ濡れになるが、この匂いに包まれると心が癒され、愛する妻を抱いている幸せに浸れる。

 潤んだ眼に誘われて挿入すると強烈に締め上げられ、爪先から脳天まで衝撃が駆け抜ける。舞美は苦悶の表情で反り返り大きく腰を上下させて、1滴残らず絞り取ってバタンと動かなくなる。射精後は空気が薄く感じられ息苦しさにパクパクする。

 二人は人形のようにいつまでも重なって動かない。幸せになれたか? 舞美は小さく笑う。俺はこの交わりが至福の時間だ、いつも士郎はそう思った。


 桃の初節句、泉谷から贈られた雛人形の前で何枚も記念写真を撮った。レイは伝い歩きで泉谷が帰ろうとすると後追いする。それが嬉しくて泉谷はほぼ毎日のように士郎の家に顔を出した。珍しく明るい時間に士郎が戻って来た。

「今日はひな祭りなんですよ。レイを甘酒で祝ってくださいね」

 士郎は甘酒を口元に運んで、驚いてむせかえってしまった。これだ! この匂いだ、舞美のあそことそっくりだ! 正直な士郎の分身は条件反射で盛大に勃起した。


「着替える、手伝ってくれ」と舞美を寝室に引っ張り込み、ディープキスしたまま前戯なしの立位で一気に挿入し、あっという間にフィニッシュした。

「ああーっ、お父さまの視線にヒヤヒヤしてフラフラです。どうしたんです、何か?」

「恥ずかしいが舞美の蜜壺に挿れたくてまったく我慢できなかった! ずっと気になっていた謎が解けたんだ! ごめん、後で教える」

 その夜、士郎は幾度も舞美の秘部と戯れて確認した。間違いない! 芳醇なこの匂いだ。舌にまとわりつき鼻先でいつまでも匂う、甘くて少し酸っぱい匂い。麹(こうじ)の匂いか…… 舞美の秘部だと錯覚して欲情した分身がおかしかった。


 5月の連休が明け、泉谷の本は『密約だらけの安保は国の棺(ひつぎ)!』のタイトルで、名もない出版社から発刊された。サブタイトルは「霞が関100人の悪霊・日本を殺した男たち」だった。

 全国紙で宣伝したが注目されなかった。しかし、日本共産党が30万部の大量発注したというニュースが報道された途端に火が点いた。まもなく「田中太郎」と名乗る著者に関して様々な憶測や疑惑が飛び交ったが、泉谷と士郎家族は平穏だった。


 米軍の核弾頭掲載軍用機と軍艦の立ち寄り、通過はオールフリー、事前協議は事実上の形骸化、米軍の特権維持など、国民が薄々怪しんでいた疑惑が密約として実在することが白日に晒された。

 また、これらの密約に関わった公務員および民間人の経歴と内閣に対する貢献度がグラフ化され、素人でも密約の存在と恩恵にありついた公僕と企業人が一目瞭然に理解できた。やがて一般書店の店頭に平積みされ、政治本には珍しく80万部を越すベストセラーになった。

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