14章 泉谷の出版とその波紋

14章 episode 1 泉谷の決断


◆ 青木の怨念は晴れるか……


 車両に下がった週刊誌の広告を見て南条は真っ青になった。士郎さんが白血病! 舞美はまた涙を堪えているのか…… なぜこんなことに、考えれば考えるほど辛かった。舞美が幸せになれると思って僕は心を閉じたが、間違いだったか? もう後戻りは出来ない。本当に幸せか? 南条は穴が空いた心の置き場所を探したが、どこにも見つからなかった。


 湯河原に戻った二人はたっぷり眠って、優しく抱き合い、悠々と流れる時間に身を委ねた。時おり口を押さえて、つわりに苦しむ背中をさすり、士郎は生きていて良かったと心の底から思った。

「新学期には少し遅れますが、5月から大学に通ってギリギリまで勉強したいです、いいでしょう?」

「休学しないで続けるのか? 本当に大丈夫か?」

「あの~ 仕事を持っている女性が仕事を続けるのと同じです。産前産後は少し休みますが、休学したくないです、お願いです」


 士郎はしばらく考えて、

「そうだな、5月になると安定期に入る。君の考えはわかったが、僕にも頼みがある。議員宿舎に住まないか? 間取りは3LDKで、子供が生まれても十分な広さだ。そこで暮らそう。今の調布より大学に近い。そして僕は院生の君を応援したい、女性が自立して行く手本を見せてくれ。ただし、無理するな」

 迷った舞美の口を塞ぎ、

「心配しなくていい。婚約者の舞美は間もなく僕の妻になる。マスコミに嗅ぎつけられても問題はない」


 ある日唐突に、青木は泉谷から電話をもらった。どう応答すればと2秒間ほど考えたが、泉谷健司は親しげに、

「青木先生、突然で申し訳ありませんが、お話したいことがあるのでお会い出来ませんか。もし会っていただけるなら大変失礼ですが、私の議員宿舎にお越し願いたいのですが、ご都合のほどはいかがでしょうか?」

 青木は何のことかと身構えて記憶を手繰り寄せた。舞美は俺の親父の話は知らないだろう。俺が何者かと気づいたのは泉谷の嗅覚か。何を考えているのか不明だが、地下深く埋もれた事件の真相に辿り着けるか? 青木は苦い希望に賭けた。


「はい、大変失礼ですが、差し支えなかったら話のさわりだけでも教えていただけませんか」

「話は昔のことで、もう人々の記憶に埋もれた話です。私はオイボレだと心筋梗塞の発作でわかりました。私にはあまり時間がありません。エンマさまに会う前に話したいことがあります」

 電話の向こうで泉谷は朗らかに笑った。


 後日、青木は泉谷と会った。会うなり泉谷は詫びた。

「青木先生にお会いしたとき、どこかで会ったかなとずっと気になっていましたが、やっと思い出しました。今から20年以上前のことです。先生のお父上は僕と同じ歳です。あの時は何も力になれなくて申し訳なかった」

 泉谷は深々と頭を下げた。

 いきなり本論に入る泉谷に青木はたじろいだが、父の無念を晴らすにはこの邂逅(かいごう)に賭けよう。青木は眼を閉じた。


「あの時の僕は欲があった。政界で有利なポジションを得たいという邪悪な欲望を抱えて、最後の詰めが甘かった。申し訳なかった。お父上にもだ。聞いてくれるか?

 僕は舞美ちゃんの予知で命が救かったが、所詮オイボレだ。生きているうちに、いいことはいい! 悪いことは悪い! 次の世代にそう伝えたいと思った。教科書に載っていないことを舞美ちゃんに教えた時、政界の汚職事件を話した。あの子は『なぜ罪がない秘書や公務員が犧(いけにえ)になるのですか、おかしいです』と言ったがその通りだ。

 既に20年以上経過して刑事罰は科せられないが、僕は今でも悔しい。最後のあがきで僕の生きざまを綴った回顧録を書くが、検証と清書は士郎と舞美ちゃんに頼むつもりだ。秘書を信用しないわけではないが、迷惑をかけたくない。そういう世界で僕は生きて来た。青木先生やご家族の名を出すことはない、決して迷惑はかけない。僕を信じてくれるか?」

 青木は眼を潤ませて、父の面影を瞼に描いた。


「泉谷先生、少しだけ考えさせていただけますか。父を追うように母は亡くなり、残されたのは僕だけです。怖いものは何もありませんが、気持ちの整理がつきません。先生、今のお話、有難うございます」

 頭を下げた青木に、

「躊躇(ちゅうちょ)していた僕の背中を押したのは舞美ちゃんだ。士郎が病気のことを告げて、婚約を解消して別の道を歩めと言ったが、あの子は生きる希望を失った士郎を見捨てなかった。内緒だが、舞美ちゃんは身重だ。それでも大学院は続けると言った。そんな猛女ぶりを見せつけられたら、オイボレの僕だって情けないまま死にたくないと奮起した」



14章 episode 2 妊娠の波紋


◆ いつでも戻って来いと酒井は告げた。


 青木は頭を冷やそうと思ったが、急展開した衝撃的な話に眠れなかった。舞美の顎を掴んでキスを続け、気絶させたことを思い出した。あの子は本当に幸せになれるのか…… 俺の手を離れてどこかへ行くのは予測したが、士郎さんは白血病だ。完治したわけではないだろう、心配で不安だった。翌日、谷川を自宅へ呼んだ。


「青木、何の話だ? 士郎さんのことか? 退院はしたが定期的に検査して、異常があったら即入院だ」

「そんなことは俺でもわかる。士郎さんは助かるのか、完治するレベルなのか知りたいんだ」

「なぜオマエがそんなことを心配する? 人の命は医者でもわからんが、常識的に答えると6割ちょいの生存率だ。他言するなよ、オレの首が飛ぶ。オレは泉谷さんのお陰で小児科部長になれた身だ。言えることは、体調が悪化して再入院したとする、その時にどのような治療が行われるかで、だいたい予測できる」

「そうか、辛い現実だ。そして藤井は身重だと泉谷さんから聞いたが本当か?」

「泉谷さん? 会ったのか?」

「俺の親父の話は知ってるな、葬り去られたあのことを含めて回顧録を執筆したいと言われた。その時に藤井のことを聞いた」

「舞美ちゃんのことは本当だ。主治医には女医をお願いしたいとリクエストがあった」

「しかし、放射線治療を受けた男の子供を産むのは危険じゃないか?」


「それはない。オマエは何を心配してるのか? 計算したが治療前に着床した子だ。放射線の影響はない。オレが心配しているのは彼女が男児を出産したとする、その子が幼いうちに士郎さんと泉谷さんが死んだら、オレたちの後輩は財産はあっても針のムシロだ。泉谷さんは四男の士郎さんを後継者に選んだらしい。あくまでも憶測だがな。舞美ちゃんは壮絶なお家騒動に巻き込まれるだろう」


「藤井は士郎さんをそんなに好きだったのか? 俺が見たところ夢中なのは士郎さんだけだったが」

「白血病になったから別れようと言われて引き下がる子か? はっきり言えば、絶妙なタイミングで士郎さんは病気になった。押し切られて婚約はしたが、迷っている舞美ちゃんが腹を括ったんだ。そんなことがなかったら、あの子はどこかに飛んで行く子だ。男と女の関係なんてホントわからない!

 話を戻そう。オマエの親父さんの無念を晴らせる千載一遇のチャンスだ。話によると、顔を見て誰だかわかった泉谷さんはさすがだ。あの人もまた引きずっていたんだな、あの事件を」


 青木は校内で走り抜ける舞美を見かけた。おい、走るな、腹の子が危ないじゃないか、そう心配した自分に笑った。あの子はこの先どんなことが起こるのかわかっていない。知ろうともしないで真っ直ぐ走って行く舞美を見送り、青木は不安で仕方なかった。

 舞美を一晩中抱きしめた夜を思い浮かべた。母親が男に去ったことを知り、何も食べずに泣き通しだった舞美を洗って寝かせたあの夜を…… 過ぎ去った夜を悔いても舞美はいなかった。


 5月中旬、士郎は国政に復帰して精力的に仕事に励んだ。ある日の深夜、舞美のケイタイが鳴った。

「あれっ? 酒井さん、どうしたんです?」

「どうしたかって? それはオレのセリフだ。子供が出来たんだって? オマエさ、士郎さんが死んだらいつでもオレんとこに来いよ。オレさ、オマエが戻って来たら、子供がいてもヨメにするぞ!」

「? あの~ 酔っ払ってませんか?」

「酔わないでこんなことが言えるか、バーカ」


 酒井の大声は横にいた士郎にもビンビン届いた。舞美のケイタイを取り上げ、

「士郎だ。君の大声は聞こえた。気持ちはありがたいが俺は死ねない、死んでたまるか! 酒井に舞美をさらわれると思うと死ねないぞ、頭を冷やせ! バカ!」

 舞美はハラハラして、二人のやりとりを聞いていた。

「どうやらチャンプは舞美に惚れていたようだが残念だな。妻子を残してそう簡単に死ねるか! しかし、いいヤツだなあ。ライバルに敬意を払うよ」

 士郎は優しく舞美の中へ入って、独り占め出来る幸せに笑った。



14章 episode 3 二人の結婚


◆ ひとつの幸せの陰にひとつの悲しい思いがある。


 7月、湯河原の本宅で士郎と舞美の結婚式が親族のみで行われたが、頼みもしないのに地元商店のオッさんやおばさん連が勝手に台所に押しかけ、魚を捌き煮て焼いて、次々に料理が運ばれて来た。

 文金高島田に黒綾子の艶やかな舞美と紋付羽織袴の士郎は、地元五所神社の神主の祝詞に笑んだ。山本は身重の妻に見せようと、シャッターを押し続けた。


 舞美の父とその兄弟夫妻は前日から本宅に泊まり、緊張した面持ちで臨席した。父は舞美の介添えをしながら、「ママと離婚した。許してくれ」とささやいた。舞美は一瞬立ち止まったが、父を見て眼を閉じた。宴は夕暮れになると地元の人々の飛び入りで、いつ果てるとも知れない大宴会が続いた。

 宴半ばで引き上げた二人は、

「ひとつの幸せを掴むには悲しい想いがあるのですね」

 舞美の涙を見た士郎は、

「悲しい想いをした人の心を忘れないで、僕たちは幸せになろう」

 舞美の涙が枯れるまで士郎は抱きしめた。


 大学は夏季休暇に入った。舞美は泉谷の草稿を清書し、食事を作り、士郎がいない昼間は寂しくてお腹の子に話しかけた。夜遅く帰って来た士郎に抱きついた舞美は、

「坊やが呼びかけるんです。ママ、僕は元気だよって」

 妊娠してナーバスになっている舞美に戸惑い、どう応えればいいのかと言葉を探していると、

「この子は男の子です。士郎さんと同じように頑固だけど優しい心を持った子なんです」

「なぜ、わかる?」

「だって、私はママですもの」

 少し膨らんだ腹を触った士郎は、俺はさっぱりわからないがそういうものかと、幸せな気分に浸った。主治医はエコー画像を解析して男児だと告げた。


 9月の後期授業が始まり、舞美は目立ち始めた腹をジャケットで隠して大学に通った。舞美の結婚と妊娠は教授たちに知れ渡り、頑張り続ける院生を見守った。

 予定日が12月中旬だと聞いた食堂のおばさんは、店を閉めて舞美の世話をすることを決め、泉谷に直談判した。

「舞美ちゃんは1円も受け取らず、何年も私を支えてくれたんですよ。これくらいはさせてください!」

 家政婦を依頼していた士郎と泉谷を慌てさせたが、それを聞いた舞美は飛び上がって喜んだ。


 12月21日、予定日よりやや遅れて舞美は分娩室に入った。破水したが骨盤が狭くて胎児が下りられず、難産になった。舞美は死ぬかも知れない、恐怖にかられた士郎は万一の場合は妻だけは助けてくれと主治医に懇願した。

 ところが、主治医が帝王切開の準備を整えたとき、大きなうぶ声をあげて男児が転がり出た。産道を通るのが苦しかったのか、浅黒い肌で泣き喚く4キロもある立派な子だった。ナースが士郎に抱かせたが、不満げに四肢をバタバタさせて泣き続けた。


 病室では舞美が微笑みを浮かべて眠っていた。舞美、ありがとう、そっとキスしたが眠っていて動かなかった。

「坊ちゃん、舞美ちゃんは女の大役を果たしたんだから、眠らせてください。私がついてますから安心して祝杯でもあげてくださいよ。さあさあ、男はジャマなんだから帰った、帰った!」

 子を持たないおばさんは嬉しくて仕方がなかった。


 その夜、父と息子はしみじみと酒を酌み交わした。

「いろんなことがあったなあ。舞美ちゃんはお前を支えて、跡継ぎまで生んでくれた。しっかりした赤ん坊だった。お前が抱いたときは不満タラタラで泣きわめいたが、その後ぴたりと泣き止んで、不敵な面構えで俺を睨んだぞ、お前より見所がありそうだ。俺は長生きしたくなった。赤ん坊が一人前になるまで生きていたいなあ」


 一度は命を諦めた士郎だが、父の言葉を聞きながら今を生きている喜びと小さな命の重みを噛みしめた。幼い息子を残して俺と父が死んだら、後楯を失くした妻子に苦難の日々が訪れよう。俺が健康であれば何の不安もないとわかっても、その先が考えられない士郎は眼を閉じた。



14章 episode 4 息子の名は「心」


◆ シンは千両役者? ママを拍手で応援した。


 士郎が見舞ったら、舞美の父が赤ん坊を抱いて大喜びしていた。

「おめでとう! 良かった、良かった! 実を言うと男の子が欲しかったんだ。名前はどうした、まだ名無しのゴンベイか? 早くつけなさい」

 赤ん坊が鬼瓦そっくりの顔で泣き出した。舞美は乳房を咥えさせたが、吸おうとせずに赤鬼の形相で泣き狂った。そのとき、おばさんが熱々の蒸しタオルを舞美の乳房に当てながら少し揉み解すと、サラリとした薄い乳白色の液体が溢れ出た。

「舞美ちゃん、今だよ!」

 乳房を咥えた赤ん坊はグイグイ吸いついた。お腹いっぱいになったかと思うと、また泣き出して乳を求めた。何度もせがんだ小さな暴君はやっと満足して眠りに着いた。

「ふっー、赤ちゃんって正直なんですね」、戸惑った舞美におばさんが笑った。


 5日間の入院で舞美は家に戻った。

 おばさんは「舞美ちゃんはまだ子宮口が完全に閉じてないし、会陰切開の傷が治ってません。大事にしてくださいよ、命令です!」と、厳しく士郎に迫った。

 士郎、泉谷、舞美の父で命名会議が始まり、名前は「心」と書いて「しん」と読ませ、通称は「シン」に決まった。

 いい名前だわ、舞美は士郎との出会いから母になるまでを思い浮かべ、どんなことがあってもシンはママが守るからね、乳を吸い続ける小さな生命に約束した。


 寝室にベビーベッドを入れた。時間かまわず腹をすかしたシンは大声で泣き出し、乳を飲んで腹一杯になるとストンと眠った。その度士郎も起こされたが、おっぱいだけで人間が育つのが不思議だった。

 ある夜、乳房に食らいついてゴクゴク飲んでいるシンを眺めて、士郎は片方の乳房に吸いついて、シンのように飲んでみた。母乳はほのかに甘く、牛乳より薄い爽やかな味で旨かった。

 シンに負けずにゴクゴク飲んだら、シンは小さな手で士郎を押し除けようとした。これには士郎が苦笑した。こんなちっぽけな赤ん坊のくせに、自分のテリトリーへ無断侵入した何者かを排除しようとする本能に敬服した。人間ってすごいなあ!

 シンがぐずったときはミッキー・シローを横に置くと、安心して眠った。おそらく舞美の匂いがわかるのだろう。夢中で大きくなろうとする小さな命と共存して、かつて自殺を考えた自分を恥じた。


 3月、舞美は大学院修士課程を修了した。

 やっと首がすわったシンを抱いた士郎と泉谷とSPと舞美の父が見守る中、名前を呼ばれた舞美が壇上に進もうとすると、シンは大きな声でキャッキャと笑ってゴキゲンになった。おそらくマミと読み上げられた音声に反応したのだろうが、大隈講堂は静まりかえった。

 総長は「おめでとう、よく頑張りました。あなたの後ろには多くの女性がいます。いっそうの勉学と努力を願います」と、異例のコメントを添えて祝福した。


 席に戻る舞美をシンはパチパチと手を叩いて迎えた。それが引き金となって、大隈講堂は拍手と笑い声が広がった。シンは嬉しいのかいつまでもパチパチして上機嫌だった。

「お前があの場面で拍手しろとシンに教えたのか?」

「父さん、シンは3カ月です、教えてもわかりませんよ」

「そうか、千両役者だな!」

 

 舞美はシンをオンブして大学院に通った。修士課程は修了したが、学びたいことや知りたいことが山ほどあると言った舞美を士郎は快く送り出した。食堂に寄って、シンと哺乳瓶に詰めた母乳を預かってもらい、講義や演習が終わると急いで食堂に戻った。

 

 付近に来たついでにふらりと食堂を覗いた近藤は赤ちゃんに驚いた。そうか、この子が藤井の子か。人見知りせず、誰に抱かれても嬉しがるシンは人気者だった。

「おばさん、この子の名は?」

「あれっ、近藤さんかい? ココロと書いてシンだよ。そうだよねぇ、シンちゃん」

 シンは楽しそうに手を叩いて喜んだ。あの泉谷家の後継者が、学生相手の小さな食堂で客から可愛がられている、不思議な光景だ。深窓の御曹司のはずだがさすが藤井の子だと納得した。近藤には泉谷になった舞美は今でも藤井だった。


「遅くなってすみませーんと、舞美が滑り込んだ。

「あれっ、近藤さん、ご無沙汰してます」

「元気か? でかい赤ん坊だな。可愛いなあ」

「みんなにかまってもらえるので、ここに来るのを喜んでるんですよ」


「君はまだ鍛えているのか? 少しも変わってないが」

「いや~ 恥ずかしいです。ちょっと緩んだので、腹筋と腕立て伏せは日課です。シンは毎日重くなるんです。鍛えないと太刀打ち出来ません。それよりも真夏の選挙が心配なんです」

 近藤は、士郎さんは元気かと聞きたかったが、無邪気なシンを見て口を噤んだ。



14章 episode 5 まもなく選挙戦


◆ 選挙は策を考えず、ありのままの姿で行こうと。


 7月の総選挙に向けて泉谷家は動き出した。泉谷も出馬する意向を固め、水面下では1年以上前から有権者の動向や市井のニーズを独自に調査していた。士郎よりも長男の当落が気になる泉谷は、選挙はどのような波乱が起こるかわからない水物だと、口酸っぱく助言したが長男は聞く耳を持たなかった。


「士郎さん、あれから4年も経ったのですね。あのときは怖いもの知らずの学生でしたが、今度はどうしましょう? シンもいるし、うーん、考え中です」

「舞美は表に出ないで裏で支えてくれ。僕だけでやる、心配するな」

 そのうち、7人の元家来たちが有給休暇を取りまくって応援に駆けつけるというニュースが入った。4年前のメンバーが青のジャージ姿で揃うことになり、士郎は舞美に負担をかけたくないが、アナウンス嬢・舞美が復活した。シンを抱えて選挙カーに乗るつもりの舞美に山本からケイタイが入った。


「舞美ちゃん、智子はシンちゃんを預かりたいと言っている。息子のケンは2歳だ。仲良くなれるかシンちゃんと会わせたいが、どうする?」

「えっ、ホントですか、ありがとうございます。はい、士郎さんと伺います」

 早速、シンを連れて山本のマンションを訪れたが、ケンは士郎を見て隠れてしまった。

「こいつは男が苦手で人見知りするんです。お姉さんだとすぐついて行きます」

「なんだ? 山本とそっくりじゃないか、父親似か?」

「ケン、出ておいで。シンちゃんが来たよ」

 ケンはシンを不思議そうに見てほっぺを触った。遊んでくれると思ったシンが嬉しそうにパチパチして笑ったら、ケンもつられてパチパチした。絵本やおもちゃを見せるケンに、シンはパチパチの連続でご機嫌な半日を過ごした。

「友だちになれそうですね。選挙前に何度かシンちゃんをお泊りさせましょう」

 士郎は先輩パパの山本が逞しく見え、健康で強靭な肉体を羨ましく感じた。


 選挙中はシンを山本家に預け、保存母乳と食堂のおばさんが作る惣菜や離乳食を、家来が当番で山本宅へ届けることに決まった。最も心配な士郎の体調は治療から1年以上経過して、数値的には安定していた。

 夜の舞美は士郎を夢中にさせた。子供を産んで艶やかな女に成長し、しっとり潤った白い肌が徐々に薄紅色に染まり、愛撫すればするほど燃え上がり、腰をくねって喘いで、侵入した士郎を締めつけて1滴残らず吸い取ってしまう。このひとときのために体を鍛えているのかと勘ぐりたくなるほど、女として完成の域に近づいていた。放射線治療の影響を考えて、生身では抱けなかったが、士郎は夜が来るのが待ち遠しかった。


 シンを山本宅へ預けた舞美は心配だったが、士郎はおっぱいを欲しがるチビがいないとゆっくり舞美を抱けるので、こんな夜もいいなあと舞美に浸った。

 翌日、山本からメールが届いた。

「僕らのベッドはあいつらに完全に占領されました。シンちゃんは、夜10時に最後のおっぱいを腹一杯飲んで、朝までぐっすりでした。食い物と寝る場所があったら大丈夫な子です」

 添付画像には、ミッキー・シローを挟んで左にケン、右にシンが眠っていた。


 ある夜、舞美を抱きながら、

「選挙をどう闘うつもりだ? 考えがあるなら言ってくれ」と言ったが、

「わかりません、出たとこ勝負でしょう。私は勝手なことを言いますから、そのまま返してください。こんな話はやめましょうよ」

 舞美は眼を閉じてねだった。何ひとつ種明かしをしない舞美に腹を立て、士郎は攻めまくって重なった。乱れた髪を掻き上げて、

「虐めてごめん、悪かった。僕は不安なんだ、どうすればいいんだ?」

「ありのままの士郎さんを見てもらいましょう。きっとわかってくれます」



14章 episode 6 7人+1人


◆ 学生時代の友情復活戦


 選挙戦に突入した。士郎陣営は第一声を新宿都庁前で上げた。選挙カーには7人の若者が勢揃いし、

「みなさーん、お元気ですかぁ~ 僕たちは4年前は学生でした。クラスメートの舞美に頼まれて選挙の応援をしましたが、今はサラリーマンです。上司にゴマを擦りまくって休暇をゲットして、ここにいます。

 ところが僕らの舞美は、病気持ちのオッサンと結婚しました。これって考えられますか?

 なぜそんな男と結婚するかと全員が猛反対しました。そしたら舞美は、病気だからって捨てられないでしょ、みなさんに約束した公約も半分しか達成してないのに、私がヤーメタって無責任になれますかと笑いました。ホント、あいつはバカなやつです。僕らはそんな舞美を見捨てられません。でも、よーく考えると僕らもバカでした!」


 若者が7人も並んで何を言うのかと注目していた聴衆から、そうだ! そうだ! 拍手が起こった。

 次に士郎が登場し、

「病気持ちのオッサンです、泉谷士郎です。志半ばで白血病になりましたが、検査結果は安定して最前線で働いています。みなさんとお約束したことを実現しないうちは簡単に死ねません。そして、白血病は不治の病いではありません! まず、僕が実現させたことをご報告いたします~」

 士郎は丁寧に説明を続けたが、ウグイス嬢がマイクをONに切り替えて突然に割り込んだ。


「みなさーん、お久しぶりでーす。私がバカなやつと言われた舞美です。士郎さん、話はシンプルにしましょうよ。もう忘れたんですか、4年経ってもバカ息子のままですか? しっかりしてくださいよ!」

「おい、話のコシを折らないでくれ、僕はしっかりやっている!」

「どこがですか? はい、次に行きましょう」

 実現できなかった公約のいきさつを説明する士郎に、

「ちょっと待ったぁ! 要するにガチガチ頭の偉ーい方々が反対したんでしょ! だから立案が通らなかった、違いますか?」

「いや、そんな簡単なことではない。先生方には様々な考えがあって~」

「ゴチャゴチャ言わない! 時代は変わったとガチガチ頭に言ってくださいよー!」

 聴衆は片手を挙げて、オーッと賛同した。


 こんなやり取りで第一声を成功させた士郎陣営は、各局のニュース番組で全国に紹介された。どの街角、どの駅前に車を停めても、たくさんの人々の声援を受けた。ニュースを観た泉谷は、今回は作戦を変えたな、学生時代の絆か。選挙は最後まで気を抜けないが、波が変わらない限り士郎はトップ当選だろう、いい嫁でいい女だと士郎を羨ましく思った。

 名古屋でテレビを観た南条は、元気な士郎と舞美に安心したが、寂しさはより大きく、哀しみはさらに深くなった。


 今回もラブホを全館借り上げた。谷川は初日からラブホに待機し、全員の健康に気を配った。ある夜、山本に抱かれてシンが来た。谷川のヒゲを引っ張ってクククッと笑い、診察中は谷川のシャツの裾を足で蹴って遊んでいた。シンの陰嚢が黒くて大きいのに気づき、この子は黒金ちゃんかと見とれた谷川に、シンは見事にオシッコを引っ掛け、気持ちよさげにキャッキャッと笑った。

 士郎は恐縮して、

「先生、本当に申し訳ありません。シン、無礼だぞ!」と抱き上げたときに舞美が来た。シンは身を乗り出して、舞美のTシャツの上から乳房に食らいついた。あーあ、何て子だ! 士郎は笑うしかなかった。


 その夜、シンは舞美の乳房の上で眠った。翌朝、いい匂いが漂うカボチャのポタージュスープをおばさんが運んで来た。シンはガバッと寝返り打って口を開けて待った。1口食べるたびにパチパチするシンに舞美は呆れた。


 山本がシンを迎えに来た。「シンちゃん、ケンが待ってるよ」

 山本はシンを抱いて「バイバイしようね」と手を添えたら、わけも分からず上機嫌で手を振って消えて行った。

 こら、親と別れるんだぞ、ウソでもいいから泣けよと士郎は不愉快だったが、

「寄ってくるのはおっぱいのときだけです」

「舞美のおっぱいは僕だけのものにするか、絶対シンにはやらないぞ!」



14章 episode 7 バカ同士


◆ 水泳チャンプの飛び入りで、早々と当選が確定した。


 士郎と舞美と7人の家来との絶妙なキャッチボールは有権者の心を掴んだ。舞美が突っ込み過ぎたら、7人は「おい、そこまでダンナをコケにするな!」と緩衝材になり、聴衆を笑わせた。聴衆は自分の4年間の軌跡を士郎と重ねた。


 最終日、酒の匂いをさせて酒井がふらりと選挙カーに上がった。

「すいませーん、ボクは飛び入りです。いつもヨメに来いと喚いた水泳バカです。バカが集まって選挙を戦っているなら、ボクも参加資格があるかなと来ました。ずらっと並んでいるこいつらはみーんなバカです。バカが国の将来を変えたいと騒いでます。バカでもこの国の政治を変える力はあります。みなさーん、バカ同士で結束しましょう! 見えにくい政治を丸見えにしましょう!」


 飛び入りした酒井に聴衆は喜んだが、マスコミは驚いた。一度も政治的発信をしたことがない水泳チャンプが、ライバルの泉谷士郎に塩を送る発言に耳を疑った。拍手は鳴り止まず、舞美は酒井の気持ちに涙して、

「酒井さん、ありがとうございます。そのお気持ちはバカな私でも決して忘れません」と涙ぐんだ。

 士郎は血の気が引いた。酒井は聴衆の前で舞美に告白したとわかった。

「バカはバカでがんばろう! バーカ、バーカ」の手拍子がいつまでも新宿の夜空にコダマして、選挙戦は終了した。

 この報道を観た泉谷は、

「酒井くんは舞美ちゃんに本気で惚れてたんだなあ。俺はあの言葉を聴いて辛かった、男の中の男だ」、目が潤んだ。


 投票日当夜の午後9時30分、3%の開票率で泉谷士郎は当選が確定した。投票締め切りは午後8時、当確が出るのは早くて午後11時頃だと予想した全員が驚いた!

 ラブホのエントラスに待機していた報道陣の前に、青いジャージ姿が整列し、90度の最敬礼をした。マイクを向けられた士郎は感謝のコメントを述べたが、今年の胴上げはエプロン姿の食堂のおばさんだった。早大正門通り『フクちゃん食堂』のオーナーシェフと紹介され、

「いやだよー、怖いよー、落とすんじゃないよー」と騒いだ。これにはテレビの前の人々が大笑いした。 


 午前2時、泉谷健司は当選したが、長男は落選して泉谷家の不敗神話は崩れた。長男は妻の実家の巨大企業を前面に出して選挙を戦ったのが裏目に出た。時代はすでに変わり、有権者は巨大企業をバックボーンにした候補者に興味を示さなかった。

 泉谷から労わりの電話をもらった舞美は、

「お父さま、ひとつだけ我儘を言わせてください」

「何でも言いなさい。all rightだよ」


 祝賀会もそこそこに、全員で湯河原の本宅を目指した。本宅では夜明け前から地元の人々が心尽くしの煮物や新鮮な食材を持ち寄り、一行が着くのを待っていた。後を追った報道陣も加わって賑やかな宴会が始まった。

 山本はケンとシンを連れて昨夜から泊まり込んでいた。

「いつの間に藤井は2人も産んだのか?」と呆れた家来たちに、「チビが私の子です」と返すと、「そう言えば、小さい方はバカな顔してヘラヘラ笑っているが、大きい方は凛々しいなあ。への字に口を曲げて俺たちを睨んでるぞ」

「ケンは男の人が苦手で人見知りするの。だから脅かさないでよ」

「ふーん、こいつらと風呂でも入るか」

 シンを抱えて尻込みするケンの手を引き、山本は舞美の家来たちと風呂に浸かった。

「ケンちゃーん、背中ゴシゴシしてくれ~」、「こっちも頼むぞー」の声に、最初は山本の背中に隠れていたケンは、そのうちタオル片手に駆け巡った。シンはどっかりとタイルにお座りして、パチパチと手を叩いてケンを応援した。


 眩しい朝日に目覚めた舞美は、疲れ切って眠っている士郎を起こさないように、プールに行った。酒井の気持ちがわかって溢れる涙をゴーグルで隠し、バタフライで泳いだ。

「調子はどうだ?」、士郎が立っていた。酒井の心情が痛いほどわかった士郎は舞美を写メして、酒井のメールに添付した。

「応援、ありがとう。舞美はゴーグルで涙を隠して、チャンプ仕込みの見事なバタフライで泳いでいた。酒井くん、礼を言う」

 ゴーグルを外した舞美に、

「舞美、本当にありがとう! 感謝してもしきれない、愛してる」

 士郎は舞美をキスして抱きしめたままプールに沈んだ。

 ふうっ! 苦しくなって浮かび上がった二人を山本に抱かれたシンがパチパチした。

「はははっ、イルカと間違えたようだ」、照れ隠しに士郎が笑った。



14章 episode 8 予測された罠


◆ 妻しか愛せない情けない男だ。


 ある夜、舞美を抱いた士郎は、

「僕は30の半ばを超えた。次の子が欲しい。また負担をかけるが元気なうちに子が欲しい。お願いだ!」

 士郎は抜き身で舞美に迫った。とろけるような愛撫に喘ぎながらも舞美には不安が残った。


 10月、士郎は党の若手議員のドイツ視察団に参加した。

 泉谷は士郎を陥れようとしている罠を嗅ぎつけ、秘書兼ボディガードの肩書きで山本を帯同させ、山本に言い含めた。

「よく聞いてくれ。金髪女を抱かせて士郎の窮地を作る策略が耳に入った。本番画像をばらまくつもりだろう。これで幾人もの若手議員が自滅した。山本、頼んだぞ。片時も士郎の傍を離れるな、特に夜はな。寂しいだろうが男二人で寝ろ。これは俺の最後の命令だ! 山本はいつまでも俺の番犬をする男ではない、桜田門に帰すつもりだ。士郎を頼んだぞ!」


 士郎の留守中、舞美は山本家にシンと泊まった。妻の智子は、

「舞美ちゃん、私ね、次の子が出来たみたいなの」

「えーっ、おめでとうございます! ケンちゃんが本当にお兄ちゃんになるんですね、羨ましーい。今度は私にケンちゃんを預からせてください、約束ですよ!」


 一方、ベルリンに宿泊した士郎は、泉谷が予測したとおり深夜の訪問者を迎えた。ドアを細めに開けて二言三言話した士郎はすぐ閉じた。

「士郎さん、今のすごい美人は何と言ったんですか?」

「日本から来たプリンスに自国をアピールしたいと言ったが、僕はプリンスではない、アピールなら明るい陽の下で聞きたいと帰した」

「へぇ~ 何だか勿体ない気がしましたけど」

「おい、今の発言をカミさんたちに知られたら大変だ、袋叩きだぞ!」


 翌日、日本に留学する相談をしたいと2人の美女がやって来た。山本がいるのを知って2人派遣したのか、おかしかった。

 ザクセンに移動した夜、3人のスーパー美女の訪問を受けた。彼女たちが帰った後、山本が訊いた。

「何と言ったら引き下がったのですか?」

「僕は妻しか愛せない情けない男だ、僕のペニスは妻のものだ、悪いが君たちには貸せないと言ったんだ」

 それを聞いた山本はビールを喉に詰まらせて、いつまでも笑っていたが、

「明日は4人でしょうか?」とふと真面目に心配した。

「4人でも5人でも山本に任せよう。君なら大丈夫だろ? 勝手にしてくれ!」

 山本は当惑したが翌日は誰も来なかった。

 士郎は父が山本を帯同させた真意を薄々察していた。そして、若き日の父は同じ経験をしたのだろうと思った。



14章 episode 9 泉谷の著作


◆ 青木が抱く無念の真実が明るみに出る。

 

 ある日、青木は舞美から宅急便を受け取った。印刷会社に渡す前の原稿コピーだった。タイトルは『今だから言う! これが政治の現実だ!』だった。食い入るように全文を読んだ。鬼籍に去った人物以外は偽名が使われていたが、多少とも政治に興味ある人間が読めば全て理解できるものだった。敗戦の混乱期から◯◯疑獄、◯◯疑惑などが明るみに出る度に、秘書や官僚が自殺や不審死に追い込まれた経緯が事細かに解明されていた。

 青木は、親父、許してくれ、これくらいしか出来ない情けない俺を…… 父の写真に瞑目した。


『先生、もしお気づきの箇所がありましたら、遠慮なく私に返してくださいね。水さえ喉に通らない辛いときに先生から支えてもらいました。だから今の私がいます。甘えさせてくれる先生が大好きでした。

 頑張っていることがあります。やっとDissertation(=博士論文)の骨子が見えて来ました。自立したいです、頑張ります』


 翌日、青木は谷川に全てを見せた。プリントされた草稿に谷川は無言で目を走らせていたが、

「ほう、まったく知らなかった。こんなことがあったのか、それが20数年前であっても驚愕の事実だ。政治とはそんなものか? 今でも変わってないのか? オレは選挙戦をヘルプしたがあの世界は異常だ。腐ってる!」

「そんなに大変な世界なのか? 俺はさっぱりわからんが」

「言うならば、士郎さんは偉大な武田信玄の跡を継いだ武田四郎勝頼と同じだ。勝頼は立派な武将だったが結局は自刃した」

「待ってくれ! 藤井は自決の巻ぞえか?」

「そうじゃない、自決はない! 夫と最大の庇護者の義父を亡くしても、博士号を取れば迎えてくれる大学はいくらでもある。自立に応援したい」

「おい、そんなに士郎さんは危ういのか? 死ぬのか」

「それはわからんが再発の確率は50パーセントだ。話は違うがオレは離婚するぞ。舞美ちゃんの頑張る姿を見ていると、三段腹、いや四段腹がイヤになった。オレもオマエも40歳だ、まだ出直せる。少なくともあの女には耐えられない。怠惰な生活に安住しきって何も学ぼうとしない、それがイヤだ!」


「お前は平凡な生活に満足していたのだろう? そういう女にしたのはお前にも責任はある、そう思わないか?」

「聞いてくれ、おばさんに世話になったんでプレゼント持って食堂に寄ったんだ。そしたら舞美ちゃんがベビーカーでやって来て、常連客にシンちゃんを頼んで厨房に入った。彼女は代議士夫人だぞ! ウチの四段腹は近所中に夫は医師だと自慢しまくってる女だ。そのときだ、別れようと思ったのは」

「谷川、女はいろいろだ。藤井は中流家庭で何不自由なく育った一人娘だ。お前の奥さんとは環境や時代が違う、比べるのは酷だ。わかってやれよ。話し合ったのか?」

「話し合ったが、あっちは金! 金! 金だ。オレは脱出するぞ! 舞美ちゃんの家来の実家が持っている2DKに引越しする。今のマンションは四段腹に渡してローンはオレが払い、月々の生活費の半分程度は援助する。それで納得させた」


「そうか、お前が決めたら俺は何も言うことはない。俺たちは40歳のおっさんズか」

「オレたちに残された時間を考えると、舞美ちゃんみたいな若い子と結婚したいなあ。女子大生を紹介しろよ」

「何を言うか、お前んとこには若いナースがいるだろう、十分だろう」

「いや、ナースはダメだ。欲張りな女ばっかりでコリゴリだ。頼むよ、女子大生を」

「バカ言うな! 俺だって独身だ、フザケルナ!」、おっさんズは笑いあった。



14章 episode 10 ベストセラーの影響


◆ 舞美は新聞記者の取材を受けた。


 11月、泉谷の著書『今だから言う! これが政治の現実だ!』は、国会でも大きな反響を呼び、瞬く間にベストセラーになった。

 一切のインタビューに応じない泉谷に痺れを切らしたマスコミは、士郎を直撃したが、

「本は読みましたが、何も相談されていません。何分にも僕が子供の頃の事件で、無責任な発言は差し控えさせていただきます」とコメントした。


 次にマスコミは大学院に通う舞美に迫ったが、

「なぜこんなことが起こったかを精査・検証して、二度と同じ間違いが発生しないように学んでいますが、私は賢くないので必死で勉強してます。ところでみなさんはお腹空いてませんか? 今日のランチは生姜焼きです。美味しいですよ。お代はいただきますけど、ご飯と味噌汁のお代わりは自由です」

 マスコミは議員夫人が作るランチに興味を持ち、そして驚いた。背中に赤ん坊を背負って大きなフライパンを使う姿を見かねて、女性記者がシンを預かった。シンは窮屈な背中から解放されてキャッキャツと喜んだ。「はーい、3番テーブルさん、ご飯お代わり!」、舞美の元気な声が響いた。


 しばらく経って、泉谷から「僕の部屋に来てくれ、会わせたい人がいる」と、連絡があった。舞美がシンを連れて訪れると、先日の女性記者がシンと同じくらいの女の子と待っていた。

「あらっ、あなたは食堂でお会いした方?」

「そうです。私も子供を抱えています。モモちゃん、ご挨拶は?」

 モモはペコンと頭を下げた。シンは何を思ったのかよちよちと近づき、モモにチュウしようとして押し返された。泉谷は大笑いして、

「どうやらシンは女性と会ったらチュウするのが挨拶だと思っているらしいな。そうだ! 士郎は初対面の舞美ちゃんにチュウしようとして、思いっきり叩かれたんだ。血は争えないなあ」


 その女性は全国紙の婦人欄担当記者で、元旦特別版の紙面を1ページ全段使って舞美の記事を書きたいので取材させて欲しいと言った。

「えっ! そんな、困ります。私は新聞に載るように立派な人間じゃないし、お話しすることを何も持ってません。いつもウジウジと悩んでドタンと失敗します、お断りします」

「食堂でシンちゃんを背負ってキャベツを切り、モヤシを炒めている姿を見て、この女性を書きたいと思いました。世間で言う議員夫人でありながら、しかも無給で何年間も手伝っている舞美さんを記事にしたいと考えました」


 天井を見上げ考えていた舞美は、

「うーん、約束して欲しいことが2つあります。食堂のおばさんは、何も知らない、何も出来ない私に料理や世間さまを教えてくれた東京のお母さんなんです。娘が母親の店を手伝うのは当たり前です。私だけじゃなくて、シンや士郎さんも支えてもらって、お世話になりっぱなしなんです。食堂を手伝わせてもらっていることを美談話にしないでください。あそこでいろんなことを勉強させてもらったんです。

 2つ目は、私は読者のお手本になるように賢くありません。自分でよくわかっています。グチャグチャ、グズグスのありのままの私を記事にしてくださるのならいいです」

「お父さま、士郎さんは反対しないですか?」


「舞美ちゃんは知ってるか? 士郎がドイツに行った時の話だが、3夜連続で美女が訪れたらしい。3日目に士郎は、『自分は妻しか愛せない情けない男で、僕のアレは妻のものだ。君たちには貸せない』と言ったそうだ」

「はははっ! そんなこと聞いてません!」

「言えるわけがないだろう。山本から聞いた。誰かが士郎のスキャンダルを欲しがったんだ、ワナだ。おやっ! シンが成功したぞ! あーあ、先が思いやられる!」

 見ると、赤ちゃんカップルが向き合ってチュウしていた。はあ~ 母親たちは呆れてしまった。


 その話を聞いた士郎はシンの頭をポンと叩き、「赤ん坊のシンはもうファーストキスか、パパは高校生だったぞ」と笑いが止まらなかった。

 この頃、士郎は生身で舞美を抱くことに熱中していた。第二子が欲しいこともあるが、じんわり潤った膣が、張り切ったペニスをキューンと締め付ける感覚に身震いし、夜が来るのを待ち遠しく思っていた。



14章 episode 11 暴露本の出現


◆ 青木は父の墓に報告しようと思った。


 泉谷の出販を追うように、仮面ルポライターと称する謎の人物が、泉谷の本に登場する人間の実名をあげた暴露本を世に出した。実名ゆえに党内部でも批判が続出し、舞美がキモオと嫌った村上の父は、息子の経歴詐称が発覚して釈明会見を開き、キモオは今期で大学を退職して渡米することになった。

 国民が最も驚いたのは、各内閣の存続期間中に平均4~5人のスケープゴート、つまり自殺者や不審な死者および行方不明者がいたことだ。泉谷はマスコミに追われたが、「その本は読んでいない、僕は無関係だ」と口を閉ざした。


 暴露本は誰が書いたか? 青木は推理したがわからなかった。

 最初から泉谷さんの原稿は2種類存在し、どちらも舞美と士郎さんが検証後に清書したと推測すると謎が解ける。30文字以内で句読点が打たれ、論文作成の基本を守ったクセがない表現、簡潔で読みやすい本文だ。新聞記者やルポライターのクセがある文章ではない! これは現役院生の舞美が草稿に手を入れたと思った。

 また、死者を出しながらも当該内閣を死守した官僚は、各々超一流企業に天下りした事実と経緯が仔細に述べられていた。国民はそれらの企業に不買運動を開始し、社会的責任の追及は日々高まり、企業は元高級官僚上がりの重役たちを解任せざる得なかった。


 青木の父の自殺経緯は、良心の呵責に耐えられずに退職願いを出したが受理されず、これ以上の証拠隠滅に関わることをためらって、首を吊ったと書かれていた。しかも、大臣を守り通せたら天下り先を斡旋し、より安定した生活を保障する計画をちらつかせ、万一の場合でも残された家族の生活は保障するから心配するなと、言い含められたことが述べられていた。

 親父が死んでも霞ヶ関の官僚どころか、県の職員すら焼香に訪れなかった。援助はまったくなかった。これだけの事実を知っている人間は政界でも極少だろう、著者は泉谷さんだと確信した。舞美、ありがとう、君のお陰だ。心の中でそう叫んだ。


 青木は久しぶりに食堂へ行ったが、おばさんしかいなかった。

「2階で谷川先生が診察してますよ」

「どうした! 藤井は病気か?」

「いいえ、シンちゃんが初めて熱出したんですよ」

 2階に行くとセーター姿の谷川が赤ん坊を診察していた。

「もう大丈夫だ。この注射で熱が下がる。明日、薬を取りに来れるか、SPさんでもいいよ。何だ? 青木は何しに来たんだ?」

「何しに来たはないだろう。お前は往診もするのか? 俺はメシ食いに来ただけだ」

「そうだ! オレもメシは食ってない。下に行こう」

 青木は舞美の息子をちらりと見たが、赤鬼の顔して熱と闘っていた。こいつは死にそうにない、ほっといても治りそうな子だ。しかし、舞美はいい女になったなあ……


 谷川と青木のおっさんズが夕飯にありついたとき、士郎が慌てて駆け込んで来た。

「シンは大丈夫か?」

「2階で眠ってます。谷川先生はお休みなのに来てくれたですよ」

「あっ、申し訳ない」


「シンちゃんはママから受け継いだ免疫が切れたんで、風邪を引きました。昔はここで3割の子が死にましたが、今は違います。何たってシンちゃんは黒金ちゃんですからね」

「黒金ちゃんっとは?」

「いえいえ、何でもありません。朝には熱は下がってますからご心配なく」

 シンを抱いてタクシーで帰る舞美と士郎に、誰があの暴露本を書いたのか詮索するのは止めよう。誰だっていいじゃないか、親父の気持ちは半分以上は晴れただろう。去っていくタクシーに青木は頭を下げた。


 翌日、青木はうろ覚えの菩提寺に電話した。

「ああ、その墓ですか。無縁塚に移そうかと思案していた矢先、確か2年前でしたか、体格のいい若い人が来て、永代供養を希望されてお金を置いて行かれました」

 山本さんか? 泉谷さんの指示で名古屋まで行ってくれたのか、知らなかった。初めて泉谷の人柄に触れた気がした。有り難かった、申し訳ない…… この先もし舞美が困ることがあったら恩返しをしよう。だがそんな日は来るなと願った。


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