第2話③ 先輩は後輩に奢るべきという古くて新しい議題
『そもそも先輩が後輩に奢るっていう文化が古いです。きちんと自分が食べた分だけ負担すべきです』
確かに渡良瀬さんの主張は正論ではある。ぐうの音が出ないくらい正しい。俺だって本当ならこっちに一票入れたい。
でも、それだけじゃ円滑に回らないのが職場の人間関係だ。いや、職場だけじゃない。
渡良瀬さん、わかってないだろ。
婚活じゃデートで割り勘を提案しただけで『こんな男がいてさー! サイアクー!』ってSNS上に晒されて大量にいいねが付き、あちこちに延焼しながら『初デートに割り勘はありか? なしか?』という不毛な議論が延々と繰り返されたりするんですよ?
たとえ不快に思っていても、納得していなくても、トラブルを起こさないために、ぬるっとやり過ごすために古臭い慣習を受け入れるのもサラリーマンの仕事だし、大人の宿命だ。
まだ、日本に生きる者の意識はそこまで変われていない。
……まあ、一つ訂正するなら、似鳥は『払ってくれ』と言えば普通に払ってくれるだろうということか。お調子者で生意気ではあるが、押さえるところは押さえている奴だ。ちょっとからかわれるとは思うけど。
渡良瀬さんには似鳥が典型的な『職場で男に媚びる女』に映っているようだが、特にそんなことはないし、そもそも俺などに媚びたところでメリットなど何一つない。別に俺があいつの評価をつけるわけでもないし。ただの素だろう。
「ま、まあ仮にそうだとしても、渡良瀬さんには特にデメリットはないんだし、お菓子だって一緒にもらっとけばいいんだよ。俺も似鳥も利用してやる、くらいのノリでさ」
唯一の救いは、似鳥のほうは渡良瀬さんを特に嫌ってはいないということだ。難しい性格の彼女にも、いつも気さくに声をかけてくれている。俺への態度はアレだが、基本優秀で周囲をよく見ている奴なのだ。
いや、本心は知らんけど。……でもこれは深く考えると怖くなるからやめよう……。真夜中に見るホラー映画より怖い。
「それはそうなんですけど、おもちゃにされてる先輩見てると何だかモヤモヤするっていうか……」
「え?」
すると、渡良瀬さんは視線を逸らし、ぼそぼそと小声で何かをつぶやいた。当然、俺には聞こえない。
「な、何でもないです……」
「?」
これは物語の様式美だから許してほしい。
その時、騒がしい奴が戻ってきた。
「パイセーン! 持ってきたっすよー! あ、もちろん渡良瀬ちゃんの分もあるよー! 一緒に食べようぜー!」
ニコニコ顔の似鳥はじゃーんとばかりにモンブランの入ったお菓子箱を掲げる。
なんか、この妙なムードをぶち壊してくれるヤツだ。もちろんいい意味で。
「……だってさ。どうする?」
俺は肩をすくめ、再び聞く。
今度は。
「……そ、その……や、やっぱりいただきます」
渡良瀬さんは顔を赤くし、気まずげに目を逸らしながらもこう答えるのだった。
うんうん、若い子は素直がやっぱり一番。
……すっかりオッサンだな、俺……。
……はあ。まる。
×××
「うまっ! このモンブランうまっ!」
のっけからで申し訳ないが、この派手な感想は見た目麗しい女性陣のものではない。
「ちょっと高槻パイセン。うるさいっす。あと普段口数少ないのに甘い物食べてるときだけテンション高いの微妙にキモいっす」
普通に30ジャストのオジサンのものだ。
俺はジト目で睨んでくる似鳥に反論……もとい、言い訳をする。
「しょ、しょうがないだろ。専門店のスイーツなんて日頃ご相伴にあずかれないんだから。いつもコンビニのお菓子か一般アイスなのに」
「高槻先輩、本当に甘い物好きですよね。なら普通に自分でもお店で買えばいいのでは?」
丁寧にフォークでマロングラッセを口に運んだ渡良瀬さんが、至極当然の提案をしてくる。
しかし……。
「い、いや。大のオッサンが専門店でお菓子買うなんてなんか恥ずかしいじゃん。買う量で明らかに家族宛てじゃなくて自分用ってわかっちゃうし……」
似鳥に言われるまでもなく我ながら相当キモいが、もじもじと答えてしまう。
ああ! こういう時、家庭持ちなら堂々としていられるのに!
「自意識過剰っすねえ……。でもまあ確かに、スイーツ男子って顔じゃないっすよね。パイセン」
うるせえ。わかってんだよ、そんなこたあ。だから買いに行けないんだろうが。察しろ。
「お店に行くのが嫌ならネットで注文すればいいじゃないですか」
またしても渡良瀬さんは正論をついてくる。この子もこの子で言葉のナイフがかなり鋭い……。
「まあ、そうなんだけど……。ネットって送料かかるから少ない数で注文するのもったいないし、かといって多く頼むとあるだけ食っちゃいそうだし……。まずそうなんだよね。体重的にも、健康的にも」
「……ホントめんどくさいっすねえ、パイセン」
似鳥はわりと本気で引いていた。
しかし、それも一瞬のこと。
彼女はすぐにニヤリと目を細くし、
「まあそういうことだったら、パイセーン?」
「な、なんだよ?」
「もちろんお駄賃っす! そんな繊細なスイーツおじさんに、名店のお菓子提供してあげてるんスから! このくらいバチ当たらないっすよね?」
「……仕方ない。ほら」
俺は財布から紙幣を取り出し、お菓子代をその生意気な後輩に手渡す。もちろん、似鳥だけでなく渡良瀬さんのぶんも。満足度が高かったのは紛れもない事実だしな。
似鳥は『ははー!』と大袈裟に頭を下げ、もうすぐ引退する漱石さん数人を恭しく受け取った。
その時。
「あ、高槻先輩。払います」
「いいよ。このくらい。大した額じゃないし」
俺はノンノンと手を振る。
しかし。
「いえ、払います。先輩とはいえ、仕事以外のことで借りは作りたくないので」
「…………」
ここでお気持ち表明かあ……。
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