千物語「回」☆NEW

千物語「回」

目次

【子の爪は独り】2023/03/21(03:09)

【三酷巡り】2023/03/21(12:40)

【先取りの才】2023/03/22(02:01)

【愚者の遠吠え】2023/03/22(15:17)

【体毛が金】2023/03/23(20:42)

【毒の雨】2023/03/23(21:31)

【千客万酒店】2023/03/25(06:07)

【ぼくを推すならその手で押して】2023/03/25(06:37)

【 を頂戴】2023/03/25(08:21)

【合法自殺薬】2023/03/25(23:58)

【膨張する遺伝子】2023/03/26(21:22)

【稀代の盗作家】2023/03/27(06:23)

【モーグルトの閃き】2023/03/27(23:51)

【飯より真理?】2023/03/28(05:39)

【放す、重し、私】2023/03/28(06:42)

【知識欲の果て】2023/03/28(18:27)

【極万の封】2023/03/29(05:24)

【イアンのn試行】2023/03/30(06:00)

【あなたで心を埋め尽くす】2023/03/31(05:20)

【ケル群の独白】2023/03/31(23:41)

【口から虚ろな物語】2023/04/01(00:43)

【膨らむ夢のシャボン玉】2023/04/01(15:22)

【事故PR】2023/04/02(02:19)

【知能は可可と欠け、可可と欠け】2023/04/03(18:54)

【風の要】2023/04/06(18:06)

【境を抱え】2023/04/10(23:50)

【半永久経済回路】2023/04/11(02:28)

【危険死相】2023/04/12(22:47)

【腹】2023/04/13(22:27)

【ナパタ】2023/04/13(23:04)

【束の間の揺らぎ】2023/04/14(23:00)

【有頂天になる姉なのであった】2023/04/15(21:30)

【掟、そして寝る】2023/04/19(16:03)

【よい蠅生だった】2023/04/20(23:47)

【負けて兜を脱ぎ捨てよ】2023/04/21(04:37)

【ミミズの指輪】2023/04/21(23:22)

【争え、争えー!】2023/04/22(22:36)

【さらばえる老若】2023/04/23(23:43)

【超能力なんてないさ】2023/04/25(00:04)





【子の爪は独り】2023/03/21(03:09)


 世界の始まりは孤独な子どもの無垢なさみしさから生じた。

 子どもは考えた。

 どうしてぼくはわたしだけなのだろう。

 わたしはもっとほかの誰かとおしゃべりをしたい。縁を繋ぎたい。ぼくは、わたしは、ぼくでもなくわたしでもない誰かほかの存在と触れ合い、言の葉を連ね合いたいと望んだ。

 子どもはまず、じぶんとそれ以外をつくった。

 けれど子ども以外の大部分はぽっかりと開いた洞でしかなく、少数はその穴を縁どる光と化した。

 子どもの無垢なさみしさはますます深まった。

 子どもは嘆息を吐く。

 その嘆息が、広漠な洞に反響した。

 いかにじぶんが孤独なのかが、これまでよりも明瞭と浮き彫りになった。  

 子どもはじぶんと同じような存在を生みだそうと考えた。

 そのためにはじぶんが何なのかを知らねばならず、そのために子どもはまずじぶんと向き合うことにした。

 じぶんとは何か。

 ぼくは何で、わたしは何か。

 何とは何か。

 絶えず思考する子どもの思念が、間もなく広漠な洞のなかで反響し、錯綜し、無数のダマを生みだした。

 無数のダマは互いに結びつき、融合し、より大きなダマと化した。

 子どもがはたと我に返ったとき、広漠な洞のなかには無数の光が溢れていた。広漠な穴を縁どる光のように、それら無数の光もまた、内に大小さまざまな洞を抱えていた。

 子どもは目を凝らす。

 つぶさに目を配るうちに、子どもの思念は無数に分散し、各々の無数の光へと拡散した。

 広漠な洞のなかに溢れた光の各々に内包される大小さまざまな洞のなかにも、かつて子どもから零れ落ちた思念の欠片が渦を巻いていた。

 子どもの思念の渦は、内にいくつもの渦を囲い込み、そのうちの一つが、渦巻き状の星屑となった。

 星屑は元を辿ればかつて子どもから零れ、広漠な洞のなかに反響した思念なのだが、それら思念がダマとなり光となり大小の洞を抱えて渦を巻き、そうして出来上がった一つの星屑の表面に、子どもと似た姿の何かが在った。

 分散した子どもの思念は、それらじぶんと似た姿の何かに目を留めた。

 あれは何で、これは何か。

 じぶんとよく似た、しかし似て非なる存在に子どもは興味津々だ。

 かつて抱いた望みはそこで再びの膨張を経る。

 どうしてぼくはわたしだけなのだろう。

 わたしはもっとほかの誰かとおしゃべりをしたい。縁を繋ぎたい。ぼくは、わたしは、ぼくでもなくわたしでもない誰かほかの存在と触れ合い、言の葉を連ね合いたいと望んだ。

 子どものさみしさは、膨張につぐ膨張を重ね、反響につぐ反響を重ねた。

 子どもがいくら目を凝らしても、しかしいっかな似て非なる存在たちは子どもの存在に気づくことはない。

 子どもは孤独を深めるが、目はしかしとそれらを見据えて離さない。

 ぼくは、わたしは、どうして触れ合うことができないのだろう。

 子どもの孤独は、絶えず広漠な洞に反響し、その内側にダマを生み、光を散らし、その内部に無量大数の渦を抱え込み、そうした渦の裏側にて、じぶんと似て非なる者たちを果てしなく生みだしつづける。

 世界はそうして出来上がるが、しかし子どもがどこからやってきたのかはとんと子ども自身にも分からぬままである。

 子どもは孤独で満たされていたが、自身を見つめる、より深い孤独を抱えた存在の視線に気づくことはない。

 ぼくは、わたしは、どうしてぼくだけ、わたしだけ、なのだろう。

 孤独を覗く孤独たちは、広漠な洞にできたダマに宿る光が抱えこむ果てなき渦の、辿り着く、限り無い旅の最中に、とっくに出会い、別れている。





【三酷巡り】2023/03/21(12:40)


 わるいことをした子どもは折檻される。タカの住まう村の掟だ。

 ご飯抜きは日常茶飯事であり、いたずらをした子どもは物置小屋に閉じ込められるのも珍しくない。折檻の度合いが大きいと、村の真ん中に生えた柿木に吊るされることもある。

 タカはその日、長の大事に育てていた盆栽にしょんべんを掛けてしまったので、村史上最高の折檻を受けることに決まった。

「しかし子どもに鞭打ちはさすがに酷ではないですかね」

「では大人に適用した村八分はどうでしょう」

「子どもを村八分にしたら生きていかれないでしょうに」

 侃々諤々の議論をよそに、長の一言で話はまとまった。

「タカにはそのすべてを行う」

 かくしてタカには村に存在する折檻のすべてが課せられた。

 長の怒りは海より深かった。

 タカのしょんべんを掛けた盆栽は、長が幼少のころより可愛がってきた盆栽である。タカの年齢よりも長い年月を経て育ってきた、いわばタカの大先輩だ。かような主張をかねてより公に長が述べて憚らないので、盆栽相手に先輩もしょんべんもあるもんか、とタカは憤ってしょんべんを掛けた。

 だがタカがどう思おうと長にとっては、タカの命よりも盆栽が大事だ。

 したがって、タカは盆栽にしょんべんを掛けた罪で、折檻とは名ばかりの刑を処された。

 だがここに、一人の宇宙人がいた。

 宇宙人は宇宙から地球を観察し、地球人を観察していた。

 タカの村のことも見ており、宇宙人は異様にタカの胸中を慮った。「盆栽とは植物であろう。植物に体液を掛けただけのことで、あれほどの枷はやりすぎではないの」

 宇宙人は世界各国、過去の人類の歴史まで紐解き、結論した。「うん。やりすぎ」

 宇宙人はタカの村へと、「子どもにひどいことした罪」で枷を加えた。

 以降、タカの村には雨が降らなくなり、村は数年後には閑散とした廃村となったという話である。

 酷には酷の酷が降る。

 諺「三酷巡り」の語源となった逸話である。





【先取りの才】2023/03/22(02:01)


 魔法のランプの精に願いを叶えてもらったので、僕は未来の創作物のアイディアを幻視できるようになった。未来で大ヒットする物語を現代に誰より先んじて描き出すことが僕にはできる。

 そうして手に入れた可能性の芽を僕は未だに芽吹かせることができずにいた。

 どう描いても、誰からも高く評価されないのだ。

 なぜだろう。

 これは未来で大ヒットする物語だ。

 漫画や映画ならばまだしも、僕の手掛ける作品は小説だ。文章だ。文字なのだ。

 絵柄の差異で読み味が変わる枷を、小説は、すくなくとも僕は有していないはずだった。

 だがいくら未来の物語を先んじて描き出しても、やはり僕は売れない作家のままだった。

 僕は魔法のランプの精を呼びだし、苦情を言った。

「あの、お休み中申し訳ないんですが、僕、願いをまだ叶えてもらえていないみたいなんです」事情を説明し、欠陥がありますよ、と迂遠に指摘した。

「ふむ。おかしいね。そのはずはないのだが」

 魔法のランプの精は、某アニメ映画にあるような青い姿の魔人ではなく、僕の手のひらに載るくらいの小さな妖精だ。

 背中からは羽ペンの羽のようなものが二本生え、それを蝶のようにはためかして宙を舞った。美しい姿だ。棒アニメ映画の光る妖精と似ている。

「ふむふむ。なるほど、つまり未来の物語の発想の種を得たが、上手く活用できなかったと」

「いえ、そうではなく」

「ではなんだ。おまえは未来の物語の発想の種を得たのだろう。そしてそれを元に作品を生みだしたのだろう。ならばその結果が、私の叶えたお主の願いの結果だ」

「ならどうして僕は売れない作家のままなんですか」

「お主の願いが、売れっ子作家になりたい、ではなかったからだろう」

「でも未来のヒット作のアイディアを僕は」

「得たとして何だ。流行したのは未来なのだろう。その未来がまだ来ておらぬのだ。流行せずとも不自然ではなかろう」

「えー、そんなんアリですか」

「アリとかナシとかそういう問題ではなくてな」魔法のランプの精は僕の鼻の上に留まった。羽が目に当たるので、僕は薄目をした。「いいかい。たとえば現代で流行している物語を百年前のこの国の民に見せたとしよう。いったい何人が理解できよう。面白いと思ってもらえるだろうか。技術そのものならば興味津々に衆目を集めるやもしれぬが、お主のそれは文字だろう。仮に言語の垣根を度外視できたとして、百年前の人間にお主の時代の生活を文章で伝えようとしたとして何人が紐解けよう。物語そのものの展開とてそうだ。かつては必要だったが、いまは必要ない過程というものがあろう。物語の醍醐味は省略でもある。しかしいま省略できる過程とて、かつての人間たちには必要な描写であることもある。この手の認識の差異を理解せぬままに、未来の流行作から発想の種を得ても、現代でそれを花咲かせるのは難しかろうな」

「そ、そんなぁ」

「お主はまさに、生まれてくる時代を間違った、と言えよう。残念だったな。せっかく願いが叶ったとしても、その得た才をお主は現代では利に変えられぬ。未来の者たちの肥しとなるべく、せいぜい作品作りに精をだすがよい」

「ひょっとして……未来でこのアイディアがヒットするのって、僕がいま作品に仕立て上げて残しているからなんじゃ」

「だとしたら愉快じゃな」

 魔法のランプの精は欠伸をすると、ランプの中へと消えた。

 僕は、どうあっても僕が生きているあいだに高く評価されることはないらしい。ぼくは未来のために、この先も延々と死ぬまで、誰からも見向きもされないアイディアを出力しつづけるのだろうか。「でも、まあ。ほかにすることないしな」

 せっかく叶った願いではある。

 すくなくとも僕だけは、未来のアイディアを紐解き、面白いと思えるのだ。ならば誰より先に面白い物語に触れられると思って、得た能力を使い倒してやろう。

「にしてもなあ」

 こんなに面白いのに。

 未来の物語の、いまここにはない、しかしいずれ生まれくるだろう世界を眺め、僕は僕だけで誰より先に愉悦を掴む。





【愚者の遠吠え】2023/03/22(15:17)


 魔王は地面にひざを着いた。

「な、なぜだ。そこまでの能力があったらお主はいまごろ……さては本気を出しておらんかったな。実力を隠しておったたわけか」

「隠していたというか、だって、ほら」

 愚者は辺りを見回した。「ちょっとあたしが本気出しただけでこうなっちゃうでしょ」

 魔王城に残されたのは愚者と魔王のみだ。ほかの面々は地面に横たわり、動かない。そこには勇者たちの姿もあった。

「われが勇者と手を組んでなおお主を破れなかったとなれば、もはやお主に出来ぬことは何もなかろう」

「や、そんなことないっすよ。友達欲しいし、恋人欲しいし、みんなと仲良くなりたいですもん。でもあたし、本気出すとこうなっちゃうでしょ? みんな離れて行っちゃう。や、それも本気出して繋ぎ留めようとしたら、魔法でもないのになんか魂ごと相手を支配できちゃうでしょ。もうそんなの友達でもないし、恋人でもないし、仲良くなったとも言えないでしょ?」

「凡人みたいなことを言いおって」

「凡人! そう、それ。みんな勘違いしてると思う。凡人とかめちゃくちゃすごいことなのに。なーんも努力しなくても周りの人たちと仲良くできちゃう。友達になれちゃう。恋人だってつくれちゃう。粘土こねてつくらなくても、恋人できるんですよ、どんな魔法かって思うじゃないですか。しかも、それ、なんか恋人なのに全然じぶんに都合よくならないんですって。あり得ます? あたしが恋人つくろうとしたら土くれからでも美男美女、老若男女種族問わずに好きなだけじぶんに従順な相手を生みだせちゃうんですけど、そんなの空虚なだけじゃないですか。なのにみんなじぶんたちで卑下する凡人って属性を帯びるだけで、自動的になんの努力もしないで、友達とか恋人とかつくれちゃうんですよ」

「凡人に夢を見すぎだ。凡人とて努力しておろうに。凡人の中にとて、誰とも上手く縁を繋ぎ留められない者もおろう」

「ならその凡人さんは凡人じゃないってだけの話ですよ。凡人ってだって要は、種の進化のうえで最適化された属性ってことですからね。有り触れていて、どこにでもいて、突出した異能を持たない。でも実はその考えは足りなくって、ある能力を有した個体が多いからその能力が目立たないってだけの話なんですよ。要はそれ、一番繁殖に成功していて、繁栄してるってことですよ。超優秀ってことですよ。すごくないですか」

「まるでお主が出来損ないの劣等のように聞こえるな。これほどの実力を有してふざけたことを抜かすでないわ」

「わあ、それそれ。こんな破壊行為なんか出来たってなーんにもすごくないのに。確かにあたしは何かを生みだそうとすればそっちの方面でも他を圧倒する能力を出せちゃうんですけど、だってそれって、ねえ? あたしが本気出しただけで、その分野は枯れちゃうんですよ。その分野の一流だと思われていた相手がのきなみ雑魚だと思われていたあたし以下だって周知になるわけです。しかもあたしのことは誰も凌駕できない。もうね、その分野で上を目指そうとする者がいなくなっちゃうわけですよこれが。枯れちゃうの」

 それが劣等でなく何が劣等?と愚者は吠えた。

「目立つってこと自体が劣等なんですよ。異能を持ってるって思われる時点で、それはハミだし者の、劣等なんですよ。凡人のほうが環境に適応していて優秀なんですよ。環境が変わればまた凡人の意味する中身のほうが変わっちゃうんですけれども、凡人の中身がどう変わってもそこにあたしは含まれない。あたしが環境に適応することはない。あたしが環境を変えちゃうから。あたしに見合う環境なんてこの世に一つだってありゃしない。あたしはだからみなが言うように愚者なんですよ」

 言いながら愚者が地団太を一つ踏む。

 魔王城が揺れた。

 ただ癇癪を起こすだけでも世界が滅ぶ。それほどの能力を愚者は秘めている。

「あたしが本気出しちゃったら、困るのあなたたちでしょ。なんであたしのことそうやっていじめるの」

「わ、解かった。もう迫るのはやめよう。約束しよう。だからといっては何だが、そやつらを助けてやってくれないか」

 魔王が視線で、虫の息の勇者たちを示した。

「ぐすん。いいですよ。ほいな」

 愚者が指を弾く。

 巨大な風船が割れたような音のあと、地面に倒れた勇者たちほか魔王軍数万の軍勢が一斉に息を吹き返した。

「よもやここまでとは」魔王は絶句した。

「あなたのことも、ほいな」

 愚者が指を弾くと、魔王は全回復した。のみならず、以前よりもすべての能力値が上がっていた。

「こ、これは」

「潜在能力を引き出してあげたよ。でもそこがあなたの限界かもね。ね? つまらないでしょ。何を経るでもなくじぶんの限界を知れちゃうのって。じぶんの底を知ったらあとは何して遊ぶつもりなんだろ。みんなはいいよ。凡人はいいよ。いつまでもじぶんの底を知ることもなく、夢の中でぽわぽわ過ごしていられるんだもの」

「お主はじぶんの底を知っておるのか」

「知ってるよ。全然めちゃくちゃ超知ってる。だから言ったじゃん」愚者はぐすんと鼻をすする。「あたしが本気出すと、世界がすっかり終わっちゃう。枯草一本残らないよ。どんな分野でもそうなっちゃう」

 そんな世界をあなたは見たいの。

 愚者の問いかけに、魔王は無言で首を横に振る。





【体毛が金】2023/03/23(20:42)


 時は金なりとは言うけれど、俺の場合は毛は金なりであった。

 治験のバイトをしたのだ。

 寝て起きたら全身の毛という毛が金色に変わっていた。

 何の薬なのかもろくすっぽ説明をされていない。プラセボ効果うんぬんと説かれた気もするが、要は思いこみによる体調の変化を最小限にするための策なのだろう。だが全身の毛が金に染まるとは思わない。

 さっそく病院に電波を飛ばすと、至急来てください、と乞われ、歩を向けると医師からは診察後開口一番に「本物です」と言われた。

「本物とは」

「本物の、金です」

「は、はあ」

「ゴールドです。サイトウさんの全身の毛の成分が、本物のゴールドになっています」

「髪の毛もですか」

「ええ。眉毛もまつ毛もすね毛もあちらの毛も、すべてです」

「それはえっとお」

「億万長者になれますよ。ラッキーです」

「ラッキー?」

「はい。とっても」

 健康面での不具合はない、と医師から太鼓判を捺され、また半年後に診察しましょう、経過観察です、と遠回しに治験バイトの続行を促された。

 毛が金になったのだからむしろ幸運じゃないですか、と押し切られたわけだが、家に帰ってから「釈然としねぇなぁ」と腕を組む。

 しかし治験のバイトを受ける際に交わした契約書において、薬害への補償は条件付きでしか認められていない。条件外では慰謝料はおろか、その後の治療費すら下りないそうだ。

 全身の毛が金になったことは補償対象外だ。

 俺はしょうがないので、ためしに毛を剃ってみた。

 最初はヒゲだけにした。

 ヒゲを剃り終わるころには髭剃り機が一つ駄目になった。金と化したヒゲは鋼同然であった。

 換金すべく俺は採れたヒゲを質屋に持っていく。

 すると俺のヒゲが俺のひと月分の生活費に化けた。

「こんなに貰えるんですか」

「いまは金が高騰していますからね。ほら、電子機器の回路に必要だってんで」

 医師は俺の身体異常を差して、「ラッキーじゃん」とお気楽に言ってのけたが、たしかにこれは僥倖かも分からない。

 不幸中の幸いにして、棚から牡丹餅、体毛が金である。

 翌朝にはきのう剃ったばかりのヒゲが再び生えた。それはそうだ。金とはいえど俺の毛だ。毛は剃ってもまた生える。

 俺は今度はヒゲだけでなく腕の毛や脚の毛も剃った。けっこうな分量になった。

 ムダ毛を換金すると、こんどは俺の年収ほどの貨幣に化けた。

「ウハウハじゃねぇか」

 俺は翌日には、頭髪も剃ることにした。いつ体質が改善し、体毛が金現象が消えるかも分からない。毛が金であるうちに質屋で換金しておくに越したことはない。

 そうして俺は全身の毛を剃るのが日課となった。

 頭髪はひと月ごとにバリカンで刈ることにした。

 一等地のマンションを購入し、毎日寿司を宅配で食べられるだけの生活を送った。豪遊というほどにはまだ金持ちにはなれない。やはり一度全身の毛を剃ってからは、毎日少量の金しか採れなくなる。俺は眉毛もまつ毛も剃っているため、外を出歩くこともままならない。

 治験のバイトの期限が訪れた。

 病院で、終わりましたよ、の書類を受け取った。治験のバイトはそれっきりであるが、体毛が金現象はなおも俺の身体に宿りつづけた。

 翌年には確定申告で頭を抱えた。

 収入の欄にどう書けばよいのかが分からない。職業は無職だ。

 莫大な資産をどのように生みだしているのか、を説明する言葉を俺は持たない。脱税で捕まりたくはないので正直に「体毛が金になった」と書いたが、むろん再提出を食らった。

「どないせーっちゅうねん」

 面倒なので「砂金採り」と書いたらこれは受理された。現物の金の画像を載せたのがよかったのだろう。俺のヒゲは一か所に山にするとまさに砂金といった塩梅であった。

 問題が起こったのは俺が治験のバイトをはじめてから三年後のことだった。体毛が金現象が俺の身体に起きてからの俺の生活は順風満帆であり、悩みのない日々を過ごしていた。

 しかしその年にそれは起こった。

「こ、これだけなの」

「ニュース観てないのかい。大暴落だよいま」

 金の貨幣価値が大暴落したのだ。

 なんでもどこぞの研究機関が人工的に金を生みだす術を開発したらしく、世界中の金の価値が地に落ちた。

「ほぼ無制限に金がつくれるって話だよ。ただし、天然物の金にはまだ高値がつくよ。でもあんたのはそうじゃないだろ」

 俺の金は、人工の金であるとの判定結果が下された。

 質屋は最先端の「鉱物判別機」を購入していたのだ。

 金のみならずダイヤなどの宝石の天然人工の区別を自動識別できる優れ物だ。

「人工の金ならこれが相場さ」

 質屋は冷たい一瞥を寄越しながら、薄い封筒を俺に寄越した。

 俺の生活は一変した。

 金が金にならない。

 文字にすると矛盾した文面になるが、「ゴールドが貨幣にならぬ」とすれば矛盾は魔法に掛けられたように消え失せる。

 俺はマンションを転売し、できた金で全国津々浦々を旅して回った。

 俺には貨幣が必要だった。

 ムダ毛を貨幣に換える生活を手放したくなかった。

 馴染みの質屋ではダメだ。人工の金だとの評価を覆せない。

 ならば未だ人工と天然の金の区別のつかぬ質屋相手に換金するよりないのではないか。

 そうして旅をしているうちに、俺の髪は伸び、ムダ毛もキンキンに生え揃った。

 最終的に一軒の質屋に行き当たった。

 金を天秤で測って換金する古き良き佇まいの質屋だった。ここならば俺の体毛が金現象で採れた金であっても高値をつけてくれるはずだ。

 俺は試しに髪の毛を一本抜いて、指先で丸めた。

 毛玉と化した俺の髪の毛は砂金の塊のごとく玉となり、件の目をつけた質屋にて、かつてない高値を叩きだした。

「いいぞ、いいぞ。ツキが戻ってきた」

 俺はホテルにとんぼ返りすると、部屋に着くなり全裸になった。そうしていざというときのために用意していた脱毛剤を湯船にたんまりと注いだ。

 一本残らず、体毛を集める。

 そのためには刃物で剃るのでは効率がよくない。

 腐っても金だ。

 金と化した全身の毛を剃るだけでも刃物を何本も駄目にする。

 なみなみと張られた脱毛剤の湯舟に俺は全身を浸けた。カバやワニのように頭まで脱毛剤に浸かり、全身から毛が抜け落ちていく感触を、泡立つような悪寒と共に感じた。

 排水口にザルを張り、脱毛剤を抜く。

 後にはこんもりと俺の体毛が、ピカピアと金色の光沢を湛えて湯船の底に堆積した。

 伸びに伸びた髪の毛にムダ毛たちは、俺史上最高の金の採取量を誇った。

 件の太っ腹な質屋に持っていく。

 しかし俺は失念していた。

 いくら少量の金を高値で引き取ってくれる質屋とて、大量の金を購入できるだけの資金はないのだった。かつて贔屓にしてきた質屋が特別だったのだ。銀行からの融資を受けていたからこそ、過去付き合いのあった質屋では、俺は一度に大金を手にできた。

 だがいまはそうではない。

 街中のうらぶれた質屋なのである。

 人工と天然の二種類の金があることすら知らずに取引きを行っているような古き良き時代の質屋なのだ。

 換金できたのは、車を一台購入できるかどうかの貨幣だった。

 俺の手元には大量の、金ぴかの俺の体毛が残った。

 まあいい。

 金に困ったら細々と換金して暮らすのもわるかない。

 そうと考えたが、つぎに行ったときには件の太っ腹の質屋は俺を冷めた目で一瞥し、人工の金は扱えん、と短く拒絶の意を述べた。

 それはそうだ。

 質屋のほうでも手に入れた金を売って利益にするのだ。しかし世にはすでに人工の金が大量に出回っている。売れない金を掴まされたと知れば、俺を歓迎しないのは当然だった。

 俺は仕方がなく、再び全国津々浦々を旅して回りながら、その地の質屋で体毛を換金した。だがどうあっても俺の体毛は人工の金の評価を下され、安値でしか換金できなかった。

 のみならず、とんでもない事実が判明しつつあった。

 俺は鏡を見ながら、おかしいな、と首をひねる。

「毛、生えてこねぇぞ」

 全身脱毛して以来、俺の皮膚には毛一本生えてこないのだった。

 手元に残された採取済みの体毛はすくない。

 換金して暮らすには心許ない量である。

「どうしよう」

 俺は鏡の中の強面の男と見詰め合う。

 眉毛すらないスキンヘッドである。働くにしても、こんな強面の男を誰が雇ってくれるだろう。スキンヘッドを理由に雇わないなんて差別だ、と叫びたい衝動を堪えつつも、そもそも俺は働きたくないのだ、と鏡の中の強面の男が、ない眉を寄せるのだった。





【毒の雨】2023/03/23(21:31)


 ある年のことだ、世界中に毒の雨が降るようになった。

 雨とはいえども、まるでバケツをひっくり返したような水の層である。海が頭上から降ってきたような有様で、地上はあっという間に毒の雨の底に沈んだ。

 毒の雨が引くと、後には大量の瓦礫と死体が残された。

 雨の毒に触れた者たちは一瞬で死ぬ。

 いったいこの事象はどうしたことか。

 その起源も原理も長らく謎のままだった。

 あるとき、宇宙物理学者が「ユリーカ!」と叫んだ。

「宇宙は、時空は、歪んでいる。どちらがボコでどちらがデコなのかはしかし、観測者の属する次元に依存する。すなわち、我々にとっての球体が、別の次元からすると穴の内側のように振る舞うことがあり得るのだ」

 この論説は「時空デコボコ観測者問題」と呼ばれ、世界中で侃々諤々の論争を引き起こした。

 だが宇宙物理学とはまったく別の方向からの指摘により、論争はぴたりと止んだ。

 指摘を呈したのは、毒の雨を調査していた気象学者のハルサーメ教授だった。

 ハルサーメ教授は述べた。

「毒の雨の成分を調べていて気付いたのですが、構成物質そのものはまったく未知の物質なのですが、この成分構成の割合分布は我々のよく知る物質とよく似ているのです」

「その物質とは何ですか」

 ハルサーメ教授は言った。「うがい薬です」

 宇宙物理学者たちはのちに語った。ハルサーメ教授の一言を耳にした者たちが一様にそのとき、同じ妄想を浮かべていたのだという。毒の雨、うがい薬、そしてじぶんたちが議論していた「時空デコボコ観測者問題」の三つを結びつけ得る連想はそう多くはない。

 宇宙物理学者たちは気象学者たちの協力のもと、毒の雨がどこから降っているのかを探った。上空に観測機を打ち上げ、地上と大気圏と宇宙空間からの三つの視点で毒の雨の出処を調査した。

 その結果、信じがたい事実が浮上した。

「まさか、そんな、あり得ない」

「ですがデータからすれば毒の雨は」ハルサーメ教授は述べた。「熱圏にある電離層と宇宙空間の狭間から湧き出るように出現しています」

「毒の雨は無から生じていると?」

「分かりません。我々には認識できない時空がそこに存在している可能性は否定できません。それこそ物理学者さんたちの議論されていた【時空デコボコ観測者問題】では、地球をデコと見做せるのと同様に、ボコとして見做せる次元があると想定されるのですよね」

「あくまで仮説ですが」

「ならばひょっとしたら、地球が空洞のように振る舞う別の時空が、我々からは不可視の領域に広がっているのかもしれません」

「ではその時空からすれば地球の表面は」

「ええ。さながら口腔内の内頬や舌のように見做せるでしょうね」ハルサーメ教授は眼鏡を外すと白衣の袖でレンズを拭った。「まるでうがい薬のようです。不可視の領域から湧きだす毒の雨は。我々からすると。それとも我々人類があたかも」

 雑菌のようですね。

 天気の話をするかのようにハルサーメ教授は、強化ガラス越しに部屋の外を見た。

 青空が広がる。

 地上には未だに勃然と、毒の雨が、滝のように降り注ぐ。





【千客万酒店】2023/03/25(06:07)


 万酒店は、酒屋である。古今東西、あらゆる時代に存在する酒を取り揃えている。

 その店には、京都のとある鳥居を新月の晩にくぐると辿り着ける。

 今宵も一人の酒豪が、格別の酒を希求して万酒店を訪れた。

「こ、ここが噂の」酒豪は屋号を見上げて感嘆した。「本当にあったとは」

「いらっしゃいませお客さま」扉の奥から声がした。酒豪が驚いて固まっていると、扉は左右に間隙を広げた。「こちらへどうぞ。ご所望の品があればなんなりと申し付けください。それが酒であればなんでもございます」

「本当か」酒豪は細かい疑問をかなぐり捨てる。大事なのは無類の酒を味わうことだ。それ以外は些事である。「俺が知ってる酒はいらん。この世で最も美味い酒が飲みてぇ」

「はて。それは困りましたな。人の舌は千差万別。お客様の舌に合うお酒を御用意いたしたくは存じますが、まずはあなた様の好みを知らぬことにはなんとも」

「俺ぁ酒の付くものならなんでも飲んできた。むしろ俺の知らねぇ酒がここにあるのかがまず以って疑問だ」

「ではこちらはいかがですかな」

 店主らしき老人は、着物の裾から一本の一升瓶を取りだした。ラベルも貼られていない無垢な瓶だ。酒豪は目を凝らす。瓶の中には液体のほかに何かが詰まっていた。

「蛇か」マムシ酒だろうか、と当たりをつけた。

「いいえ。こちらは六千年前に絶滅した青龍の浸し酒となります」

「青龍ってのは、むかしの蛇かなんかかい」

「いいえ。青龍は青龍です。どうぞ近くでご覧になってください」

 店主がずいと一升瓶をまえに突き出した。

 酒豪はそれを受け取るとまじまじと目を凝らした。

 龍である。

 全身が鱗で覆われた、頭から角を生やし、髭を伸ばし、手足のついた一匹の龍が一升瓶には詰まっていた。

「こ、こいつぁ偽物じゃねぇのかい」

「本物でございます」

 店主は着物の袖口からさらに数本の一升瓶を立てつづけに取りだした。酒豪は店主の人間離れした所作に瞠目しつつも、喉の渇きに誘われるように次々と一升瓶を受け取った。

 人魚。

 妖精。

 水かきのある手。

 極めつけは額から角を生やした胎児。

 各々がそれぞれに一升瓶に酒と共に浸っていた。

「全部本物なのかい」

「もちろんでございます」

「しかしちょいと飲み甲斐がありすぎやしないかい」美味ければ文句はない。だが躊躇する。酒豪は一升瓶をそばの棚に並べ、見比べた。「どれが美味いんだ」

「お客様の味覚次第でございます」

「この調子だと人間の浸し酒までありそうだな」

 軽い冗談のつもりだったが、店主が押し黙ってしまったので酒豪はごくりと生唾を呑み込む。「あんのかい」

「ございます」

「う、美味ぇのかい」

「無類でございましょう」

 酒豪は唾液が止まらないじぶんを不思議に思った。しかしこうも思う。ゲテモノを食らうならば、いっそ他人に話しても信じてもらえなさそうな龍や人魚や妖精の浸し酒よりも、人間の浸し酒のほうが酒の肴になるのではないか。

 酒豪は酒の味のみならず、酒の場の空気が美味い酒には欠かせないことを知っていた。酒豪は美味い酒を飲むためならば何でもする。そのために生きているようなものだった。

「その人間の浸し酒ってのも見せてくれねぇかい」

「よろしゅうございますよ」

 店主はみたびに着物の袖口から一升瓶を取りだした。

 受け取ると酒豪は矯めつ眇めつ一升瓶を観察する。だが、妙だ。

「なあ、これ。どこに人間が詰まってんだ」

 浸ってねぇじゃねぇか、と苦情を呈すと、店主は、浸ってございますよ、と首を伸ばすようにして酒豪の手元を目だけで覗きこんだ。

「どこにだ」

「すでに、でございます」

 店主はこともなげに応じた。「さすがに人の死体を瓶に詰めることはできませぬ。仮にできても売り物にはできぬ道理。酒は美味いのが道理。なれば酒の席に似つかわしくのない人の死体の詰まった浸し酒を、当店では扱っておりませぬ」

「ならこれは人の浸し酒ではないのか」詐欺ではないか、と思うが口にせず。

「人の浸し酒でございます」店主が譲らぬので、酒豪は、だからどこがだ、と声を荒らげた。

「人であらばいかようにも、浸し汁が取れますのでね。ちなみにその瓶の浸し汁は、どこぞの美女のものと聞いております」

「浸し汁とはなんだ。浸し酒とは違うのか」

「酒造りの際に用いる水を、人間の浸った汁で代用したものでございます」

「するとその水が、人間の死体を浸した汁ってことか」酒豪は鼻息を荒くした。

「まさか。死体である必要がございません」

「死体でなければなんだ。胎児のホルマリン漬けの汁でも入っとるのか」

「まさか」店主は顔のまえで手を振って、「湯舟でございますよお客様」と微笑交じりに述べた。

 酒豪は酔ってもいないのに顔を赤らめ、ワインじゃねぇんだぞ、と小言を吐いたが、店主はついでのように、「ご所望であれば」と付け足した。「お客様の浸し酒もご用意することも可能ですが。お客様の入浴後の湯船の湯さえ戴ければ」

「いらん」

 断りながらも酒豪は、美女の浸し酒と、ではほかに何を購入するか。

 青龍、人魚、妖精、水搔きのある手に、角の生えた胎児。

 各々の一升瓶を順繰りと見比べた。

 舌舐めずりをする。

 万酒店の屋根には月光が垂れている。

 扉が開き、つぎの客が入ってくる。酒豪の足元には絨毯のような濃く広い影が下り、尖った角のような影が真っ先に店の奥へと店主を貫くように伸びた。

 酒豪はぎょっとした。

 手に取った一升瓶の中で、身じろぎする胎児の躍動を手に感じた。

 汗を吸った生地が背中に張りつく。

 酔ってもいないうちから酒豪は酔いが覚めたように、ゆっくりと後ろを振り返る。

 火事場の熱気のごとき鼻息が全身を覆った。





【ぼくを推すならその手で押して】2023/03/25(06:37)


 最近よく考えるんです。

 浮気ってなんだろうって。

 浮気ってどうしてダメなんだろうって。

 だって刑事法では浮気を禁じてはいないわけですよね、この国では。あくまで民事であり、個人間の諍いなわけですよ。

 法律では浮気を禁じていないんですよ。

 第一、社会は個人に【友達をたくさんつくりましょう】【他者ともっと繋がりましょう】と推奨しますよね。促しておりますよ。学校ですらそのように擦りこまれますけど、友達がたくさんいたほうがよいのなら、恋人だってたくさんいたほうがよいのではありませんか。

 子供ができちゃうのが問題なら、できないようにする手段はたくさんありますし、たとえできてもいまは科学技術が進んでおりますから、受精卵が赤ちゃんのカタチをとる前にどうにかできるじゃないですか。

 とくにこれといって恋人がたくさんいて困ることってないと思うんですよ。

 浮気ってなんでダメなんですか。

 ぼく、よく解かんないんです。

 もっと言ったら、誰とでも友達になれる人は誰とでも恋人になっていいと思うんですよ。誰だって誰に恋心を抱くのかは自由じゃないですか。じゃあ恋心を互いに抱き合い、注ぎ合えたら恋人関係になればよいじゃないですか。

 なんで我慢するんですか。

 なんで我慢するんですか。

 ぼく、よく解かんないんです。

 もしぼくが世界中の人たちと友達になれたらぼくは世界中の人たちと恋人関係になりたいです。愛し合いたいですし、触れ合いたいです。

 どうしてダメなんですか。

 どうしてダメなんですか。

 誰か教えてください。誰か教えてください。

 嫉妬するからですか。

 嫉妬はどうしてしちゃうんですか。

 だってあなたは友達にじぶん以外の友達ができても嫉妬するんですか。でもそれは嫉妬するほうがわるいですよね。嫉妬して相手の自由を束縛するほうがおかしいですよね。

 でもそれが恋人だとどうして許容されちゃうんですか。

 おかしいですよね。

 おかしいですよね。

 ぼくはみんなと仲良くなりたいです。ぼくはみんなと仲良くできますし、しています。

 会う人みんなと誰とでも友達になれますし、恋人にもなれます。

 どうしてそれをしたらいけないんですか。

 どうしていけないことだと非難されてしまうのですか。

 したいならしてもよいけれど自己責任だよ、というのは分かりますが、それでも関係のない人たちがぼくに対して、浮気はよくないだとか、人として最低だとか、罵詈雑言を投げ掛けてきます。

 どうしてですか。

 どうしてですか。

 ぼくのことを奪い合う人たちが出てきちゃうからですか。

 ならぼくはぼくのことを愛して、求めて、欲する人たちのために、ぼくをその人たち全員が均等に手に入れられるように、ぼくを愛して求めて欲する人たちの数だけ分離しますよ。

 よいですよ。

 よいですよ。

 ぼくを細かく砕いて、切って、割いて、分けてください。

 みんなでぼくを分けてください。

 そのスイッチを押すだけでよいですよ。

 あとはそのスイッチを押すだけでいいんですよ。

 ぼくはぼくを愛してくれるみんなの分だけ細切れになって、みんなの元にお届けされますよ。

 浮気じゃないですよ。

 浮気じゃないですよ。

 ぼくは無数のぼくとなって、無数の細切れのぼくの部位たちは、ぼくを愛して求めて欲した人たちの分だけ、あなただけのぼくになるのだ。

 ボタンを押して。

 ボタンを押して。

 あなたが押して。

 その手で押して。

 ぼくはぼくのことも好いているから、どうしてもぼくだけではぼく自身と離れがたいんだ。

 それをいますぐどうかあなたに押して欲しいのです。





【 を頂戴】2023/03/25(08:21)


「神様、神様。ぼくはカホちゃんを愛しています。世界で一番愛しています。どうかカホちゃんとぼくが結婚できるようにしてください。お願いします」

 ひと月分の収入をお賽銭箱に投じると、噂通り、拝殿の神鏡が光った。

 目を開けると、賽銭箱のうえに子どもが座っていた。

 子どもは前髪が切り揃えられている。いわゆるおかっぱ頭だ。

 着物を身に着けており、座敷童がいたらこういう感じだろうなと第一印象で思った。

「呼びだしたのはお主?」子どもが口を開いた。鈴の音のような声音だ。子どもが足を振るたびにかかとが賽銭箱に当たるのか、コツコツと音が聞こえた。

「何でも願いが叶うって噂を聞いて来たんですけど」

「うん。我は願いを叶えるよ」

「カホちゃんと結婚したいんですけど」

「したら良いよ」

「そうもいかないから願いに来たんですよ。カホちゃんにはほかに好きな人がいて、でもぼくのほうがカホちゃんを愛しているんです」

「それは良いね」

「絶対ぼくのほうがカホちゃんを幸せにできます」

「うむ。良き心掛け。その願い、叶えるよ」子どもは賽銭箱のうえに立ちあがると、雨水を受け止めるように両手をまえに構えた。「では対価を頂戴するよ」

「え、対価? さっきお賽銭をいっぱい」

「それは我を呼びだすためのもの。願いの対価は別にあるよ」

「そ、そうなんですね。あの、お幾らでしょうか」同じ金額くらいなら用意できると思った。

「お金は要らない。お主の決意をカタチにしたものをもらうよ。そうだね。お主は想い人を愛しておるね。たくさん、たくさん愛しておるね」

「それはもう。世界一」

「欲望ゆえではないのだね」

「カホちゃんを幸せにするためです」

「うん。良い心掛け。対価を決めたよ」子どもは子猫を撫でるような笑みを浮かべた。「お主の男根を頂戴」

「お、男根?」

「うん。股間のそれ、頂戴」と指差され、一歩後退する。「な、何で。何でですか」

「お主は先刻言ったよ。愛ゆえと。結婚したいと欲した。幸せにするためと」

「は、はい。言いましたけど」

「ならばそれは不要だよ。欲ゆえでないのならば要らないよ。我に頂戴」

「ち、ちんこを? ぼくの? え、これぇ?」

「痛くしないよ。あげる、と言えばなくなるよ」

「え、えぇ」

「結婚できるよ。良かったね。早くそれ頂戴」

 しばし考える。

 カホちゃんと結婚できたとして、それでどうなる。カホちゃんを独占できたとして、それでどうなる。男性器がなければ身体で愛し合うことも碌にできないではないか。だったら何のためにカホちゃんと結婚するのか分からない。

「だ、ダメです」股間を押さえながら、「これはあげられません」と半身になる。

「なら二度と使い物にならなくするだけでも良いよ」

「勃たなくなるってことですか」

「おしっこはできるよ」

「す、すみませんでした。ちょっと考え直させてください。また来ます。きょうのところはもういいです」半身のまま階段を下りる。子どもから顔を逸らすのがおそろしい。視線はそのままだ。

「別に良いよ。でももうお主はその者と結婚できないよ。縁も切れるよ」

「え、え、何でですか何でですか」

「願いが嘘だったからだよ。道理だよ」

「嘘じゃないですよぼくはカホちゃんを世界一愛しているし、幸せにだってできるんだ。神さまだからって聞き捨てならないな。撤回しろ」

「なら男根を頂戴」

「それはダメだって何度も言ってるだろ。これがなきゃ赤ちゃんだって出来ないだろ。カホちゃんを幸せにできないだろ。おまえは神様なんかじゃない。嘘つきのバケモノだ」

「うん」子どもはそこでこちらに背を向けた。「そうだよ」

 ぎっぎっぎっぎっ。

 絡繰り人形のようなぎこちない動きで、子どもの首だけがこちらを向いた。

 なぜか股間が温かい。小便をちびったのかと焦った。

 足元を見遣ると、黒く水溜まりが出来ており、股間からは大量の赤黒い液体が漏れていた。血だ。血溜まりだ。

「あ、あ、あ、あぁああ」

 賽銭箱のうえで、子どもがクチャクチャとしきりに顎を動かし、何かを咀嚼している。

 閉じた唇の合間からはとろりとした液体が溢れた。子どもの目元だけが雪にもたげた笹の葉のごとく弓なりに下がりきっている。

 瞬きをすると、子どもの両手が目と鼻の先にあった。

「もっと頂戴」

 口を閉じたままの子どもの頭部から、くぐもった声音が幾重にもこだまして耳に届く。

 胸が異様にぬくかった。





【合法自殺薬】2023/03/25(23:58)


 また最高記録を達成した。

 自殺者の記録だ。毎月の自殺者数が三万人を超し、過去の年間平均自殺者数に並んだ。すなわち年間ではおおよそ十倍以上に自殺者が増えたことになる。

「このままいくとあと半世紀経たずにこの国の人口は百万人を割るってさ」大学の食堂で蕎麦を啜りながらナツコが言った。「どうする? 年金絶対もらえんじゃんね」

「そこかよ」問題視する点が即物的すぎたので私は咽た。カレー風味の息が気管を刺激し、しばらく咳き込む。「ごほごほ。あんまし私を笑かさないで」

「かってに笑うな」ナツコが手つかずだったじぶんの分の水を私のほうに滑らせたので、私はありがたく受け取った。

 飲み干すのを待ってたのかナツコは、空のコップを私から奪い取るようにすると、むかしは自殺は悪だったらしいよ、と話をつづけた。

「どうしたんきょうは真面目な話したがるね」

「や。あたしの兄貴がさ。きのう薬局で自殺薬買ってきててさ」

「死ぬ気じゃん」

「そう。相談もなしにだよ。いつ飲むのって訊いたら、気が向いたらだってさ。就職したばっかだよ今年。なに死に急いでんのとか思っちゃって」

「でも多いらしいよ。就職後半年以内に自殺する若者」

「ホントそれ。いまはさ。人権に【じぶんの命をいつ終わらせるかを決める権利】ってのが入ってるからいいけどさ。むかしはなかったって。きのう調べて知ったし」

「らしいね」

「自殺はいけないことだってされてたんだって」

「私のお母さんとか、まだそういう価値観持ってるよ。お父さんは違うっぽいけど」

「へえ。いるんだね」

「おばぁちゃんがそういうのに厳しい人で」

「命を大切にって?」

「そうそう」

 祖母はむかしながらの倫理観に染まりきっていた人で、自殺薬が薬局で手軽に購入できるようになってからというもの、母がそれを手に取らぬようにと散々に言い含めて育ててきたらしい。その結果、母はある時期を境に祖母に愛想を尽かして、比較的時代の変容に順応した父の人柄に惹かれて祖母の反対を押しきり結婚した過去がある。

 私が産まれると祖母もさすがにやいのやいの母を説き伏せる真似を控えた。産まれてしまった孫は可愛い。いまさらじぶんの娘に、夫と別れろ、とは口が裂けても祖母は言えなかった。それこそ祖母の倫理観に反する。産まれた赤子には両親の愛が必要だと祖母は考え、優先順位をつけ直したようだった。

「おばぁちゃんの目もあったからさ。私、未だに自殺薬って直で見たことないんよね。触ったこともない」

「うっそ。小学校か中学校で習わんかったっけ」

「それ避妊具のやつじゃない」

「そんときに一緒にだよ」ナツコは蕎麦を平らげてなお、汁をスプーンでちまちま掬っては啜り、掬っては啜った。「自殺薬ってさ、他人に飲ませられないようにちょっと飲むのにコツがいるんだよ。それは知ってるっしょ?」

「知らなーい」

「学校で習ったじゃん」

「いやいや。一緒の学校じゃなかったし」

「学校ごとに変わるとかないっしょ。忘れてるか、授業受けてなかったんじゃない」

 その可能性はあった。祖母が何かと母を言いくるめて私にその授業を受けさせなかった背景がないとは言いきれない。それくらいの妨害は祖母ならばしそうに思えた。孫可愛さゆえとはいえど、ある種の虐待と言えなくもないはずだ。あくまでそれが事実であれば、だけれども。

「家帰ったら兄貴死んでたらどうしよ」

 ナツコがカラのどんぶりをなおもスプーンで攫っているのを見て、そこが本筋だったか、と私は友人の心配事の核心を得た。「死んでたら電話して」私は言い添えた。「一緒にお線香上げてあげる」

 大学の講義を消化し、ナツコとも別れて帰宅した。バイトはないし、きょうはあとは家でゆっくりできる。映画でも観るか、と思いつつ、玄関を抜けてリビングに入ると、父と母がソファで二人寄り添い眠っていた。

 手を繋いでいる。

 普段ならば二人とも仕事で家を留守にしている時間帯で、私は日常の中の小さな非日常の光景に違和感を抱いた。

 ソファのまえのちゃぶ台には水らしき液体の入ったコップが二つある。そばには絆創膏でも入っていそうな小さな箱が転がっていた。

 何の箱だろ、と思いつつ、ぴくりとも動かぬ父と母を横目に私は台所に立ち、水を一杯飲んだ。

 それから嫌な予感がしつつも、手を洗ってから自室で着替えを済ませた。

 ベッドの上に腰掛け、嫌な予感の正体を見詰めようと思うが、確かめるのこえぇな、と思いつつ、身体は自室から出て階段を下り、リビングに立った。

 父と母は目をつむったままだ。寝息一つ聞こえない。

 ちゃぶ台の上の箱に手を伸ばす。

 掴み取る前から箱の表面に印刷された「安楽死」の文字が目に飛び込んだ。

 中身はきっかり二人分減っていた。

 おそるおそる父と母の首筋に触れるが、触れた瞬間の冷たさに私は、ああ、と思ったのだ。

 ああもう、と。

 相談もなしによくも、と。

 安楽死薬の箱の中には、死体運搬を行う保健所担当部署の番号と、死体発見時の手順が薬の説明書きと共に書かれていた。

 私は保健所に連絡する前に、なぜかナツコに電話を掛けた。

「はいはーい。どした」

「あんさ。自殺薬をさ」

「あはは。兄ちゃんのこと心配してくれたの。あんがと。でも全然まだ元気だよ。もち、あたしが飲まされたりもしないから大丈夫。言うの忘れてたけど、自殺薬ってめっちゃ辛いんだって。粉薬でさ。口ん中に針の束突っ込んだくらいの辛さらしくて、だから服用する前に麻酔薬を口に含んで麻痺させなきゃなんよ。もうね。口ん中が麻痺したらさすがにその時点で気づくっしょ。だから他人に自殺薬を飲ませて殺したりはできないようになってんの。心配あんがとね」

「う、うん」私は両親のことが言えなかった。安心したありがと、と礼を述べて電話を切り、それから祖母に電話をして事情を話すと、その一時間後には私は祖母と共に保健所の霊安センターにいた。

 両親の自殺の事後処理は祖母がすべて肩代わりしてくれた。私はただ職員の説明を祖母の小さな肩越しに聞いていればよかった。

 祖母は泣きもせず、かといってじぶんの娘の死体に何か言葉を掛けるでもなく、ただ頬とおでこを撫でて別れを終えたようだった。私は死体に触れたくなかったので、じゃあね、と声を掛けて霊安室の外に出た。

 以後、私は両親の死体を目にしていない。

 墓とて、大規模埋葬地に、ほかの自殺者たちと共に葬ってもらうことにした。

 自殺者は、いわば早期退職者のような扱いを受ける。人生を早めに切り上げ、限りある資源を消費せずに済むようにしてくれた自殺者たちに、国は埋葬や死体の処理などの仕組みを手厚く整えているのだ。

 ただし、遺族にはこれといった恩恵はない。

 私にはいくばくかの両親の貯金と家と土地が遺されたばかりだ。それとて生前贈与を受けておらず、半分近くが税金として引かれた。

 家と土地は売り払い、私は祖母と共に暮らすことになった。

 大学は休学したし、ナツコとも音信不通だ。

 というのも、私が両親の自殺の事後処理で半ば放心状態だったあいだに、ナツコの兄も自殺したようだった。

 何度か着信があったけれど、テキストメッセージで私のほうの事情を短く説明すると、お互いさまかよー、と快活な返事があって以降、ナツコからの連絡はない。私からの連絡を待っているのかもしれないし、ナツコはナツコで放心状態なのかもしれない。

「死ぬこたないんだ。死ぬこたない」

 祖母の家で暮らしはじめて最初のほうに、祖母が食事中、口にした。それは呪文を唱えるような、誰に向けた言葉とも知れない虚空へのつぶやきだった。それとも遅れて飛びだした己が娘へのたむけの言葉だったのかもしれない。

 自殺者の数が最高記録を更新しつづけている、との報道がニュースでは毎月のように流れる。最近では、自殺薬をカプセルに詰めて他人の飲ませる犯罪行為が多発している、との報道もあり、そりゃそうだよな、と私は箸を嚙みながら思った。

 口の中を麻痺させずとも、粉薬たる自殺薬が口内に触れぬように工夫すればよいだけだ。自殺だと思われてきた過去の事案の中にも、少なくない数の例外が含まれていたのではないか。私は想像を逞しくした。

 祖母の家でも暮らしは穏やかなもので、両親の自殺にはまいったけれども、結果よければすべてよし、と思わぬでもないいまは日々だ。そろそろ大学に復帰して、ナツコともまた遊びたいな、と失いかけた欲がむくむくと育ちはじめている。

 復帰の手続きをすべく大学の敷地に半年ぶりに足を踏み入れると、掲示板が目に留まった。サークルの勧誘ポスターがデジタル画面にいくつも表示されていた。その中に自殺愛好会のポスターがあった。

 あなたも一緒に穏やかな自殺を!

 募集しているということは、メンバーが足りないということで。

 それでもなお潰れていないということは、メンバーがその都度に補充されているということで。

「大学側も大変だな」

 大枚叩いて選別し、せっかく受け入れた生徒たちがこぞって自殺していくのだから。

 収入源が減って、儲けどころではないだろう。

「まあでもそれは国も同じか」

 人口は年々減っている。

 資源はその分、余裕を取り戻す。

 人々は自殺を肯定的に受け入れており、好きなときにじぶんの命を終わらせることができる。

 好きな相手と共に死ぬことだってできるのだから、それはそれで尊重されるべき権利の一つかもしれない、と私は母と父の死体を思いだす。

 祖母に反対されつづけた果てに、我が母は人生を賭した反抗期を演じきったのかもしれない。我が母ながら、若いな、と思わぬでもないけれど、私は母の選択を、肯定も否定もせぬままでいようといまは判断保留のままにしている。

 生理が来たので薬局に寄った。

 棚を見て回ると、精力剤の棚の隣に、自殺薬の箱が並んでいた。

「死んだ分、産めってか」

 或いは、産んだ分、死にましょう、なのかもしれないけれど、避妊具がお菓子売り場の側にあり、男性用性玩具と共に売られているのを目の当たりにすると、売店の、それとも国の思惑が透けて視えるようで滑稽だった。

 死ぬこたないんだ。

 死ぬこたない

 祖母の声がときおり脳裏によぎる。

 家に帰ると祖母はいつも決まって小さな仏壇のまえで船を漕いでいる。両手で抱えられるほど小さな仏壇には私の両親の位牌と共に写真が並んでおり、そこには毎月のように新しく花が添えられる。毎回違う花なので、献花が変わるたびに私は、つぎはどんな花を買ってくるのかな、と祖母から借りた花図鑑と共にそこはかとなく楽しみにしている。

 両親の自殺以降、私はカレーを食べていない。

 最後に食べたのが両親の自殺した日の大学の食堂だったことを思いだし、あのときに咽た痛痒をついさっき体験したことのように思いだすのだった。

 ナツコとは、来週遊ぶ予定だ。





【膨張する遺伝子】2023/03/26(21:22)


 一九九八年の夏。

 インドの宇宙物理学者、ヴィドゥユト・ジャンラマヌが論文を発表した。内容は「宇宙膨張と高密度時空のフラクタル関係について」である。

 この論文は英国の老舗科学雑誌に掲載されたが、話題になることはなかった。だが一方では、ヴィドゥユト・ジャンラマヌの論文は各国の諜報機関がランクRの認定を与えるほどの超重要論文と規定された。

 ランクRは、ランクSよりも重要度が高い。

 ランクSに該当する重要事項には、月面の裏側に埋没する超大型宇宙船についての情報が含まれるが、ヴィドゥユト・ジャンラマヌの論文はそれ以上の情報を含んでいる、と各国諜報機関は判断した。

 情報統制は敷かないが、かといって表向き高く評価もしない。そのような流れが暗黙の元に、ランクRの評価付けにより強化された。

 その結果、ヴィドゥユト・ジャンラマヌの論文が日の目を見ることはなかった。

 だが、ヴィドゥユト・ジャンラマヌの論文が世間からどのように評価されるのか或いはされないのかに関わらず、その論文内容の指摘する事象は、現実に存在した。

 二〇三六年の冬のことである。

 ヴィドゥユト・ジャンラマヌが件の論文を発表してから三十八年が経過したその年に、オーストラリアに住まうスミス・オリヴィアが、庭で遊んでいた際に、それを発見した。スミス・オリヴィアは六歳の少女だったが、じぶんが目にしたそれが明らかに異常な代物なのだと瞬間的に判断した。

 スミス・オリヴィアはそばにあったバケツを手に取り、すかさず発見したそれに被せた。逃がさぬようにしたのである。そしてスミス・オリヴィアは大声で家の中の母親を呼んだ。

 ヴィドゥユト・ジャンラマヌが件の論文を発表してから三十八年後のこの日が、公に「絶滅種の実存」が確認された日となった。

 スミス・オリヴィアが庭で見つけたそれは、手のひらサイズの竜脚類であった。すなわち、恐竜である。

 恐竜の発見。

 世界中がこの発見に湧いた。

 その後も続々と世界各国で小型の恐竜が見つかった。

 絶滅したと思われていた恐竜が、なぜか生き残っていた。しかも小型化して。多くの者たちはこう考えた。何千万年も細々と種を繋ぎ、環境に適応した進化を経たのだ、と。そう考えるのが妥当ではある。

 太古の哺乳類が小型であり、進化していくうちに大型化していったのと似ている。恐竜はその逆の進化の道を辿ったのだ。多くの者たちはそう考えた。

 だがここで、各国諜報機関の幹部たちは頭を抱えた。

 ランクRに指定した「ヴィドゥユト・ジャンラマヌの論文」の証明とも呼べる発見が六歳の少女の手で成されたのだ。ランクRの論文を秘匿にしておくことはもはや不可能である。

 世界中の研究者たちは遅かれ早かれ真相に辿り着くだろう。

 なぜ恐竜たちが小型化したのか。

 論者の中には、遺伝子操作で開発された恐竜のクローンだと主張する者たちも出はじめた。真偽を度外視するならば、そう考えたほうが、真相よりも受け入れやすくはある。

 だが恐竜のクローンが可能だとしても、小型化はしない。

 恐竜のクローンは生みだせる。技術的には可能だ。しかし、小型化はしない。

 ここの矛盾を指摘する世界各国の研究者たちにより、クローン説は早々に下火となった。

 ではなぜ恐竜がいまなお現存し、小型化しているのか。

 どういった進化を辿ったのか。

 世界中の研究者たちのみならず、全世界の人間たちが興味を駆り立てられた。

 日々の話題はもっぱら恐竜一色に染まった。世はまさに大恐竜時代よろしく小恐竜時代の幕開けを迎えた。

 しかし、小型化した恐竜の実存の謎に対しての最初の問いとして、「進化」を持ち出すのは誤りだ。譬えるならそれはカレーを作るのに初手でノコギリを取りだすような迷子である。

 迷宮へと勇んで足を踏み入れるような、出口から遠のく出発点と言えた。

 進化ではないのだ。

 恐竜たちが小型化して生き残っている背景に潜む原理は。

 その原理に触れた唯一の論文が、すなわち「ヴィドゥユト・ジャンラマヌの論文」であった。内容は、「宇宙膨張と高密度時空のフラクタル関係について」である。

 ヴィドゥユト・ジャンラマヌはこう論じた。

「宇宙膨張に際して、時空密度の高い場ほど膨張の比率が軽減される。物質とはいわば時空密度の濃い場である。銀河がそうであるように物質密度の高い場では、宇宙膨張の影響が緩和される。これは言い換えるのならば、時空密度の高い場では宇宙膨張の影響が緩和される、ということである」

 いささか難解な表現だ。

 だが言っていることは単純だ。

 風船を膨らませるとき、風船の結び目は膨らまない。結び目のようなぎゅっとなっている場においては、風船の膨張する作用が働きにくい。

 人間スケールでもこの手の関係は表出している。

 水に浮かべた氷を想像しよう。

 水を温めていけば、最初に気化するのは液体であり、氷はそのあとに液化し、気化する。ぎゅっとなっている氷は、気化という膨張現象の影響を受けにくいのである。

 これと同じことが、太古の地球においても延々と展開されてきた。

 恐竜は絶滅したのではない。

 宇宙膨張の影響を受けにくい存在がゆえに、ぎゅっとなったままなのだ。

 言い換えるならば、現代に生じた新たな種はみな「膨張」しているのだ。遺伝子レベルで。

 人類も例外ではない。

 ゆえに、恐竜が小型化した、との表現は正しくはない。

 恐竜以外の生物が例外なく巨大化したのだ。

 ここで改めてヴィドゥユト・ジャンラマヌの論文を紐解こう。彼は論文の中でこう語っている。 

「宇宙膨張は、情報の膨張である。ゆえに情報の密度が濃い場ほどその影響を受けない。したがってこれを遺伝子に当てはめた場合、より複雑な情報を有する遺伝子ほど宇宙膨張の影響を受けにくいだろう。しかしそれが進化の上でプラスに働くかマイナスに働くかは、膨張によって生じる情報の余白に依る。すなわち、ある種の余白を宇宙膨張によって獲得した遺伝子のほうが、優位に異なる情報の層と共鳴しあい、ネットワークを複雑化させることができる。これは、情報ネットワークそのものの創発を促し、時空において時間と空間の双方向でより広範囲での情報処理を行えるようになるだろう」

 難解な文章だが、言っていることはこれもまた単純だ。

 遺伝子は情報が高密度になっている場である。

 これは宇宙膨張の影響を受けにくい。さながら銀河のように。

 と同時に、希薄なボイドのごとく空白を抱え込んだ遺伝子のほうが、実のところより複雑な構造を有することが可能になることもある。宇宙膨張の影響を受けたほうが、進化という意味では、より高次の性質を獲得しやすいのかもしれない。

 知性もまたその範疇である。

 ヴィドゥユト・ジャンラマヌは件の論文でそう指摘しているのだ。

 地球上で誕生した様々な生命体は、何億年という気の遠くなるような時間経過の果てに、宇宙膨張の影響を受けながら、進化をつづけた。だがその宇宙膨張の影響を受ける度合いは、各々の種ごとに変わり、その差異は遺伝子により大きく表れる。

 恐竜たちは比較的高密度の情報を遺伝子に蓄えていた。だから宇宙膨張の影響を受けにくく、相対的に巨大化していくほかの生物種と比べて小型化したように振る舞った。

 だがそのお陰で、地球の寒冷化にも耐え、種を存続させることに繋がった。遺伝子ごと宇宙膨張の影響を受けた種は、寒冷化に耐えらず絶滅したのだ。密度の高いほうが、温度の変化に強いのは道理である。

 比較的小型なヘビやトカゲ、ほか鳥類が生き残っていることを考えればさもありなんである。

 そして哺乳類は、それとあべこべに宇宙膨張の影響を受けながら、遺伝子に空隙を抱え込みながらより複雑な立体的な情報網を獲得し、新しい性質を発現させた。

 知性もまたその内の一つである。

 と、ヴィドゥユト・ジャンラマヌは考えたようである。

 恐竜の化石は大きいではないか、との異論は的外れとは言いにくいが、化石は化石だ。遺伝子が機能していない。いわば銀河の枠組みを有しないため、ほかの雑多な宇宙膨張の影響を受けやすい万物と等しく膨張する。ゆえに化石もまた膨張しているのだ。遺伝子のほうが情報が圧縮されており、遺伝子が銀河のごとく機能している限り、それは宇宙膨張の影響を受けにくい。したがって子孫を繋ぐ一連の種の軌跡そのものが、相対的に宇宙膨張との関係において縮小して振る舞うのだ。

 各国諜報機関はよもや恐竜が生き残っているとは想像だにしていなかった。ヴィドゥユト・ジャンラマヌは件の論文をランクR扱いすればそれで秘匿できると考えたが、現実はそこまで甘くなかったようである。

 ちなみに各国諜報機関がなぜヴィドゥユト・ジャンラマヌの論文をランクRに指定したかと言えば、ヴィドゥユト・ジャンラマヌの論文に書かれている理論が、最先端電子通信技術においてブレイクスルーを担うほどの鍵となることが判っていたからである。

 情報密度の差によって宇宙膨張の影響が変化する。

 これは言うなれば、宇宙の根本原理として扱えた。量子世界における粒子の階層性を紐解くにあたって、数々の未解決問題が一挙に氷解するほどのそれは大発明だった。

 なぜ物質は、時空は、電磁波は、各々に固有の波形を帯びながら相互に干渉し合うのか。宇宙膨張の影響が平等に作用しながらにして、その作用の規模に偏りがあるからである。

 濃いと薄い。

 圧縮と膨張。

 凝縮と希釈は互いに補い合っている。

 結晶は空白を抱え込むことで構造を帯びる。

 ヴィドゥユト・ジャンラマヌの論文は、そのように論が結ばれている。

 図らずも、希代の新理論を打ち出したヴィドゥユト・ジャンラマヌは、誰に手を差し伸べられることなく世が空前の恐竜ブームに染まるその二年前に、帰らぬ人となった。

 死因は不明である。

 ヴィドゥユト・ジャンラマヌの死体は発見されていない。ヴィドゥユト・ジャンラマヌの行方は杳として知れない。探す者がいないのだ。戸籍上は存命扱いだったが、失踪者扱いがなされてから一定期間が経過したのを機に死亡との烙印を捺された。

 ランクRの論文は未だ人の目につくことはなく、人々が小型恐竜の真相に気づく素振りもまた、いまはまだないようだ。

 だが遠からず誰かが、おや、と思い至るだろう。かつてのヴィドゥユト・ジャンラマヌがそうであったのと同じように。

 その日が訪れるまでは。

 真相は、人々の膨らませる妄想に取り残される。

 閃きの種は何より小さくぎゅっとなる。

 恐竜たちがそうした過程を辿ったように。

 巨人が自身を巨大とけして思わぬように。





【稀代の盗作家】2023/03/27(06:23)


 稀代の盗作家を取材することになった。世界中の創作家から蛇蝎視されるその作家は、自身でオリジナルの創作をすることなく、数多の作家たちの作風を盗み、アイディアを真似、誰より量産することで市場に混沌を撒き散らした罪を名目に、各分野から永久追放の刑に処されている。

 問題は件の盗作家がまったくそれに懲りずに盗作を重ねている点だ。

 きょうだけでも数作の掌編小説やイラストが電子網上に新たに投稿されている。盗作家の創作物は幅が広い。小説、絵画、漫画、イラスト、映像、彫刻、版画に人形造形。複数人説や人工知能の覆面説が囁かれるほどそれぞれの作風もまた広い。

 盗作家の作品がどの作家の作品から盗作された品なのかを識別するための鑑定組織が設立されたほどだ。半年ごとに各分野の作家たちのあいだで情報共有がなされるが、それは盗作家の作品がいかに他者の作品の焼き増しであるのかを糾弾するためである。

 私は待ち合わせ場所へと一時間前に辿り着いた。

 とある地方都市の書店内にある喫茶店だ。相手がそこを指定してきたのだ。

 駅のトイレで無精ひげを剃り、見栄えを整える。

 私が書店に到着すると、すでに先方が喫茶店内の席に座っていた。かの盗作家の顔写真は創作の分野に長く活動していれば否応なく目にすることになる。のみならず個人情報まで周知となっている背景には、過去に裁判沙汰になった事例がすくなくないからだ。しかしいずれも件の盗作家は著作権法違反とは見做されなかった。

「似ている、ということは、違う、ということです。区別がつく時点で、偽装ではありません。違法性は低いかと」

 弁護士をつけずにすべて自己弁護をした。結果はすべて無罪である。

 こうした過去から余計に「悪質」の評判が立った。

 過去の彼女――盗作家――の案件を探ってみての私の第一印象は、確かに他作家の作品群と似ている、である。つぎに思ったのが、どうやって?であった。

 どうやって盗作家は、世界中の創作家たちのアイディアを模倣しているのだろう。これは盗作家の動向を気に掛ける者たちの総意と言えた。

 なぜアイディアを盗めるのか。

 まだ発表もされていないはずの作品のアイディアを、なぜ。

 私は誰に依頼されるでもなく、一人のジャーナリストとして自ら抱いた疑問を解き明かすために件の盗作家へと取材を申し込んだ。私は単刀直入に、「どうやって他者の作品の情報を集めているのですか」と私自身の疑問をぶつけた。すると盗作家は、では会って話しましょうか、と二つ返事で面談の席を設けたのだった。

 私は対面の席を引いた。「お待たせしました」

 盗作家が私を見た。彼女は上下スポーツウェアだ。散歩の途中で一服吐いているかのような佇まいだ。

 私は名乗った。それから相手が盗作家本人かの確認をするつもりで、「宮膳野(ぐうぜんの)一知(いっち)」さんですか、と訊いた。

「はい。初めまして。高橋さんは何を飲みますか」

「では紅茶を」私は席に着き、飲み物を注文するとさっそく本題に入った。「テキストでご相談したように、私が知りたいのは、宮膳野さんがどうやってそれほど多くの作品群を生みだせるのか、についてです。宮膳野さんのファンの方のすくなからずは、宮膳野さんがほかの方々の表現からいち早く影響を受けているから実現できる芸当だと考えていらっしゃるようです」敢えて控えめな表現をとった。「ですがそれが仮に真実を射抜いた解釈だとして、ならどうやって宮膳野さんは他者の未発表作品から学ぶことができているのですか」

「ふむ。高橋さんの言うところの【みなさん】はその点についてなんと?」

「高性能の人工知能を用いたハッキングをしているのでは、と仮説を唱えている者が大半です」

「ほう。ならばあたしは犯罪者だね。通報したらよいのでは?」

「された方もいらっしゃるようですよ」

「だがあたしは逮捕されていない。ならそれを真実と見做すのは早計ではないかな」

「はい。私もそう思います」

「ふふ。いいね。話が出来そうな方だ」

 彼女は腕組をして背もたれに仰け反った。窓の外に映る空を仰ぐようにしながら、「あたしはまどろっこしいのが苦手でね」とへの字に唇を尖らせる。「結論から述べれば、あたしは盗作していないし、問題の根っこはオリジナルとは何か、の誤謬が世に罷り通っていることにある」

「盗作されていないんですか」そこからして土台をひっくり返されるとは思っていなかった。「ならどうしてあんなに似て」 

 口にしかけて言葉を飲みこむ。これでは彼女が盗作家だと私が見做していたと認めたようなものだ。あくまで真相を見極めるために、との姿勢を崩したくなかった。

「いいよ別に。盗作うんぬんは言われ慣れてる。時期的にもあたしが発表した作品よりも、オリジナルを主張する作家たちのほうが先に制作していたこともある。それは事実らしい。散々証拠として書類の類を見せられたからね。未だに毎日のように郵送で資料が送られてくる。いかにあたしの作品がじぶんたちの作品と似ているのか、とね。まあ中身は見ないけど。制作時期からしてじぶんらのほうが早い、盗作しただろ、と言ってくるわけだ」

「事実ではないと? 言い掛かりなんですか」さすがにおいそれとは信じ難い。

 盗作が冤罪だとしたらこれはちょっとした話題になる。

 事が事なだけに慎重になりたかった。いわばこれはスキャンダルだ。本当だったらこれ以上ない記事にできる。

「あたしの作品はあたしがこれまでに五感で受動した外部情報の組み合わせでしかない。それを盗作と言うのならばあたしはあたしの目にし、耳にし、嗅ぎ、触れ、考えた過去のあらゆる自然現象、万物からの盗作をしていると言えるだろうね。しかしそこを外れることの可能な表現者をあたしは知らない。もしいるならそれは真実に新しい世界を創造できる神だけだろう。だが人間は神じゃない。ここまでは理解を示してくれますか」

「は、はい。いえ、どうでしょう。ちょっと戸惑いますね」私は頬を掻いた。剃ったばかりのヒゲがジョリジョリと指先をくすぐった。「いまはその、何の話を」

「オリジナルとは何か、についてさ。みな、じぶんだけは模倣していない、盗作していない、オリジナルだ、と思いこんでいる。こういうことを言うと、やれ開き直っただの、盗作を認めただの言われてしまうのだけれどね」

「失礼ですが、私も宮膳野さんの作品群を拝見しております。みなさんの指摘されるように、やはり各類似点の指摘された作品群と宮膳野さんの作品は似ているように思います。偶然で片付けるには無理のあるレベルに思えるのですが」

「と言われてもね。あたしはただ思い浮かんだアイディアをカタチにしているだけで。それがたまたま世界中のどこかの誰かの作品に似てしまう」

 たとえばだけどね、と彼女は飲みかけの紅茶にミルクを足した。スプーンで掻き混ぜながら、「昆虫の擬態ってあるでしょ」と言った。「あれって別に昆虫のほうで、ほかの生き物の真似をしようと思ったわけじゃないはずなんだよ。偶然にそうなってしまっただけでさ。でも人間からすると、昆虫のほうで真似したんじゃないかって思っちゃうでしょ」

「自然淘汰ですよね」

「そうそう。原理としてはそっちが正しい。紋様がたまたま生存に有利だった個体だけが生き残りやすかった。それ以外は死滅した。子孫を残せなかった。結果的に、生存に有利な紋様を持つ個体が多くなる。昆虫がじぶんで、【わあ鳥みたいな顔に見える模様になるぞ】とは考えていない。たまたまそういう個体が生き残りやすかっただけでさ」

「それは分かりますが、それと宮膳野さんの場合は違うような」

「まあね。あたしはじぶんで選んで創ってるからね。毎回作風も違ってるし。だから余計に信じられないんでしょう、みなさんは。よもや自力で、何の助けも得ずにこれだけ幅広い作風を描ける作家がいるわけないって。盗作してるに決まってる。そういうバイアスが掛かっちゃうのは、あたしのほうでも理解はできるよ。誤解されても困っちゃうけど」

「あくまで才能だと? そういう特別な?」

「特別? これが? 好きに創ってるだけでしょこんなの。それがたまたま、ごまんといる世界中の創作者の目に触れて、似てるだの真似ているだの話題になってるだけで、あたしがしてるのは子どものラクガキと同じだよ。子どものラクガキなんてどれも似たようなもんでしょ。いちいちあの子どもの絵がほかの子どもの絵と似ているだの盗作だの言わないじゃん普通。似てて当然なんだから。あたしから言わせれば、あたしが創れるようなレベルの作品なんて、似てるものがあって当然だよ。だって才能ないもんあたし。誰が創ってもいずれ似たような作品は出てくるよ」

 その言葉ではっとした。

 そうなのだ。

 彼女だけなのだ。

 ここまで現在進行形で世界中の作品と照らし合わせて検証されつづけている作家は。

 世界中で日々生みだされる数多の作品と比較され、その中で似ている作品があれば盗作の烙印を捺される。しかしこれは、ひょっとしたら誰であっても逃れることのできない偶然による迷宮と言えるのではないか。

 誰が彼女の立場になっても、盗作の判定を受けるのだ。どうあっても避けられない。

 水に浮いたら魔女。

 沈めば人間。

 しかし沈んだままなら死ぬしかない。浮いて魔女判定が下されれば処刑される。したがってどちらに転んでも死ぬ運命は変わらない。

 同じなのではないか。

 彼女の陥っている状況は、現代の魔女裁判と同じなのではないか。

「逆に訊きたいよあたしは。もしあたしが世界中の表現者相手に盗作疑惑を吹っ掛けたらどうなるのかって。あたし、たぶん負けないよ。でもみなは身に覚えのない盗作疑惑を晴らすために、外界との接触を極限まで拒むしかない。それ以外でこの手の懸念って払拭できないんだ」

 だからね、高橋さん。

 イルカのような穏やかな目だ。私は身震いした。

「あたしはこの間、いっさい何も見ちゃいないんだ。TVも映画もインターネットだって繋げてない。家に来てもらえば判ると思うよ。何もないから。この服だってじぶんで縫って作ったし」とスポーツウェアを指でつまむ。「あたしいま、盗作できるほど、他者の表現に触れてねぇんだわ」

 テキストメッセージはでもやり取りできましたよね。

 喉まで出掛かった言葉を私は紅茶と共に飲み下す。

 違う。

 そうではないのだ。

 おそらく私のメッセージだけが資料の添付がなかったのではないか。

 唯一の純粋なテキストだけのメッセージだったのではないか。

 だから彼女は私にのみ返事をしたのではないか。未だかつて稀代の盗作家「宮膳野一知」が取材を受けたという話は聞かない。

 彼女は四の字に足を組む。背もたれに体重を預けながら頭の後ろに手を組んだ。ちょうど彼女の腕と頭が目のようなカタチを成した。

 ひとつ目のオバケ、と私は思う。

「たとえばきょういまここで話した内容を掌編小説にしたため、電子網上に載せとくとしよう。事実をただ掌編に興しただけでも、世界のどこかにはそれと似たような場面や内容を作品に組み込んだ作家がいて、盗作だなんだと話題になると思いますよ。実験してみましょうか。あ、そっか、いいね」

 それ戴き、と彼女はウィンクをした。「すみませんね。盗作しちゃって。つってもまだ創ってないんですけど」

「あ、いえ、その」私は呆気にとられた。

 単にそれを圧倒された、と言い換えてもよいが、ともかくとして私は彼女との面談を経てこの体験をどう記事に興すか。

 果たして、書いた記事は盗作に当たらないのか。

 目下のそれが問題だった。

 誰より先に記事にしなくては。

 彼女が掌編を手掛けるよりも先に。

 頭の片隅で、私はかように焦るじぶんを認識した。

 稀代の盗作家が大きな欠伸を一つした。かと思えば頬杖をつき、飲み物のお代わりをしたいのかメニュー表を眺めながら、口笛を吹く。

 何の気なく奏でられた音色は耳に心地よい。変則的で脈絡がなく、延々と曲調が変化する。おそらく曲名はないはずだが、たとえそれが何かの映画の主題歌であっても、私はもはや驚かない。

 稀代の盗作家は口笛を止めると、お子様ランチを注文した。





【モーグルトの閃き】2023/03/27(23:51)


 何か閃いたのだが、その何かを忘れてしまった。人類の価値観を一変させるほどの発想だった気がするのだが、ヨーグルトを食べたい、の欲求に抗えず、スプーンでヨーグルトを掬って減った腹を満たし終えたら、人類の価値観を一変させ得る閃きがどこかへとひらひら飛んで去っていた。

 人類はヨーグルトのせいで進歩の契機を失ったのだ。

 ぼくはそれを口惜しく思ったのでタイムマシンを開発し、過去の人類史からヨーグルトを消すことにした。

 滞りなく計画を遂行して現代に戻ってくると、世界の在り様は変わっていた。なぜかみな一様にムキムキだった。電子機器の類はなく、ぼくの開発したタイムマシンが唯一の機械らしい機械だった。

 まるで文明が滅んだみたいだ。

 否、過去に一度滅んだのかもしれない。

 ぼくが過去に干渉し、ヨーグルトを消したのが要因なのはまず間違いなかった。

 見知った人物は姿を消していた。ぼくの家族はなく、ならばぼくとてそこに本来は存在してよい存在ではないはずだったが、タイムパラドクスはどうやら引き起こっていないようだった。

 ぼくの肉体はあくまで元の世界線から構成されているからかもしれなかった。いわばぼくは異世界人なのだ。

 しかしこれでは過去を変えた意味がない。

 ヨーグルトを消したところで、これではぼくが閃いた人類の価値観を一変させるほどの発想を拾い直すことができない。

 そこでぼくは、もう一度タイムマシンを使って過去へと戻った。

 だがすでに人類史からはヨーグルトが消えているので、ぼくがヨーグルトを消すそれ以前に戻らなければ元の世界線と同じ過去には辿り着けない。

 ヨーグルトを消したぼくに会おうとしても、ちょうどずばりその瞬間に時計の針を合わせることはできないようだった。なぜならぼくがヨーグルトを歴史から消したときに、そばにはもう一人のぼくはいなかった。それがぼくがヨーグルトを消した世界線における過去なのだ。

 だからぼくがヨーグルトを人類史に再び蘇らせるためには、ヨーグルトの消えた人類史においてぼくがもう一度ヨーグルトを生みだし、流行らせなければならないが、それはもはや別の世界線だ。

 元の世界に戻るためには、ぼくがヨーグルトの存在を人類史から消した時期よりもさらに過去に遡る必要がある。そしていずれ未来からやってくるだろうもう一人のぼくへの対策として、ヨーグルトが消えても困らないように、ヨーグルトの代わりとなる何かを生みだしておくよりない。

 それとてけっきょくは元の世界線には辿り着かないが、限りなく近似に寄ることは想像に難くない。

 かくしてぼくは過去の人類史において、ヨーグルトによく似たモーグルトを生みだした。それはヨーグルトが流行しない人類史において、ヨーグルトの代わりに人々の腸内を整えた。たんぱく質にもなった。カルシウム源にもなった。人類はふたたび、ぼくのよく知る現代人への歩みを辿った。

 ぼくが現代へとタイムマシンを起動させると、辿り着いた先は馴染みの風景の広がる現代社会だった。

 よかった、とぼくは胸を撫で下ろした。

 そうして喉がカラカラのうえお腹が減ったので、何はともあれモーグルトを摂取しようと冷蔵庫を開けた。モーグルとは飲み物のようで食べ物もである。一度で二度美味しい健康食品なのだ。

 ごくごく、と小腹を満たしたそのとき、ぴろぴろりん、とぼくは何かを閃いた。

「そうだ!」

 ぼくはとんでもない発想を掴み取った。「ヨーグルトを消しに過去に戻るよりも、閃きを逃した直前に戻ってヨーグルトを食べる前に閃きをメモするように過去のじぶんに助言すればよかったのでは?」

 そうでなくとも、過去のじぶんから、いま閃いたそれを教えてくれ、と頼めばよかったのでは?

 とんでもない見落としに気づきぼくは、モーグルとはモーグルトであって、やっぱりぼくはヨーグルトのほうが好きだったのにな、とじぶんの至らなさに打ちのめされた。

 後悔の炎に衝き動かされながらぼくがタイムマシンを木っ端みじんに分解していると、妹が帰宅した。

「兄ちゃん何してんの」

「ん。タイムマシンをちょっとな」

「タイムマシン? 本物?」

「まあな」

「すごいじゃん」妹は素直なので、愚兄であっても褒めてくれる。「兄ちゃん、人類の未来を変えちゃうな。すごい発明。尊敬する」

「こんな発明よりも妹ちゃんの笑顔のほうが万倍人類を明るく照らすよ」

「でへへ」

 妹は手を洗い、冷蔵庫を開け、そして叫んだ。「あー。兄ちゃんここにあったモーグルと食べたでしょ」

「すまん」

「モーグルト、わたし大好物なの知ってる癖に」

 そこでぼくは、ぴろりろりん、と閃いた。デジャビュである。

 そうなのだ。

 ぼくが最初に閃いた人類の価値観を一変させてしまうほどの発想とは、モーグルトであった。妹の舌に合う健康食品を編みだしたら妹は毎日ハッピーで、妹の笑顔が溢れる世界は、もはや幸福に満たされる。

 世界の価値観は我が妹ちゃんの笑顔によって一変する手筈であったのだ。

「もうもう。兄ちゃんはわたしのお兄ちゃん失格なんだな」

 妹を悲しませる兄ちゃんは兄ちゃんであらず。

 小学五年生の我が妹は、そうしてぼくを指弾して、「モーグルト食べたい、モーグルと食べたい」を怪獣がごとき駄々を捏ねるのであった。

 可愛いのでぼくは許した。

 モーグルトもスーパーで大量に購入し、ぼくは我が妹ちゃんの兄でいられる資格を取り戻すのだった。細かく分解したタイムマシンは資源ごみの日に捨てた。





【飯より真理?】2023/03/28(05:39)


「解かった、解かったぞ。世界の真理を解明してしまった。この宇宙はじつは――」

「おいおい、語りだしてからあの人かれこれ十二時間もしゃべりっぱなしだな。あのまま宇宙の真理をしゃべり通してたら餓死しちゃうんじゃないか。ま、わたしはカレー作って食べるけど」

「したがって宇宙はこういう次元構造をなしておって――」

「まだしゃべってる。デザート食べちゃお」

「ゆえに多次元はかように階層性を伴なっておって――」

「はぁ食べた食べた。あしたは畑で苺の収穫だ。ことしは豊作だから近所の子どもたちにおすそ分けしてやろ」

「そういうわけで宇宙に生命体の誕生する余地が築かれるわけだが――」

「スヤスヤすぴー」

「ごほごほごほ。しかるに、宇宙の種はかようにして植物の種子のごとく無数に点在し、ゆえに植物の構造もまたそれを反映した構造を伴なっており――」

「おはよう、お猫さん。きょうもきみは可愛いな。おやおや、まだあの人しゃべってんのか。宇宙の真理なんてそんなの語り尽くせるわけないだろうに。でも解明できたならよかったね。夢が叶って良かったね。でも聞いていられないので、わたしは畑で苺採りだよ。子どもたちの喜ぶ顔をたくさん拝んでハッピーになったろ」

「――となり、まとめると宇宙はねじれながらも同相の構造を無数の変数を抱え込みながら、無数に内包することで無限に至り、これが一つの機構として再現のない変遷を可能とするわけだが、これを基礎としていよいよ本題に入るわけだが――」

「うげ。ここまでが前置きとか、語り尽くす前にホント死ぬんじゃないの。ご飯食べなよ、置いとくからさ」

「ええい、邪魔をするな。いま良いところなのに、宇宙の真理だぞ、それをおまえ、ご飯ごときで邪魔をするな」

「好きな学者さんの口真似するのはよいけど、食べちゃいな。あんたまだ中学生でしょ。来年は十五歳だよ。いい加減におし」

「はーい」

「たいへんよいお返事です。母ちゃん仕事してくるよ。茶碗洗いよろしくね」

「なんか手伝う?」

「いいのいいの。あんたは宇宙の真理を解明するのに忙しいんだろ。それにあんたが来たんじゃ子どもたちが怖がって母ちゃんがハッピーになれないだろ。笑顔を見たいんだよわたしは。癒しが欲しいのさ、癒しが」

「わしがおるのに」

「ジジ臭い息子も可愛いが、たまには野に咲く花も愛でたいの。朝ご飯、食べちゃいな」

「ありがと」

「どういたまして」





【放す、重し、私】2023/03/28(06:42)


「見渡してみてごらん。人間の社会にも重力が働いているから」

 そう言ったのは私の祖母だ。

 五年前に亡くなった祖母の言葉をいま思いだすのは、私がいま長年つづけてきた趣味をスッパリ後腐れなく辞めようと思っているからだ。

「星が細かなガスや塵が集まって出来るように、社会もそうやって個々の小さな欲望が絡み合って重力を増すんだ。いいかい。自由になりたければ、じぶんの足で駆け回れるくらいのほどよい重力のある場所を選びなさい。ミサにとっての地球が、必ずこの社会のどこかにもあるのだから」

 私はそのとき、ここはだって地球なのに、と思った。地球の中にも地球があると言われてもよく解からなかった。

 けれど二十歳を目前に控えた私には祖母の語った言葉の意味がいまなら判る。

 人には人の息のしやすい環境がある。

 社会には無数の「こうあるべきだ」との規範が溢れているが、そうした規範がいったいどこからなぜ生じるのかをつぶさに観察してみれば、それはつまるところ他人の都合なのである。

 他人のためならばまだしも、多くの規範はそうではない。他者の欲望を満たすための規範なのだ。

 人と人とは利害によって、離れたり寄ったりを繰り返す。利という溝が窪んでいれば、そこに人はするすると谷に流れる雨水のように流れるのだ。そうしてできた巨大な水溜まりの周辺には生き物たちが水を飲みに集まり、喉を潤し、生態系を築くのだ。

 重力だ。

 人の織り成す場所には重力が宿る。

 人が集まれば集まるほどに、欲望の泉は滾々と湧き、周囲に雑多な生態系を築くのだ。

 重力の強さによってそこに集まる動物の種類もまた変わる。重力が強ければそれに耐えられる大型の動物が集まるようになる。

 私がもしネズミならば、大型の肉食獣はおろか、中型の動物にも気をつけなければならない。食われるのも嫌だが、踏み潰されるのはもっと嫌だ。何の糧にもならぬのだ。

 だが重力の強い場所ではそうして意味もなく踏み潰される確率が上がる。

 だから祖母は言ったのだ。

 ミサにとっての地球が、必ずこの社会のどこかにもあるのだから、と。

 重力に潰されないように。

 集まる動物たちに踏み潰されないように。

 私には私に見合った重力の強さがある。

 環境がある。

 欲望の深さがあるのだから。

 みなのようにあれを満たし、これを満たし、と欲を張りつづけることができるほど、私の身体は強い重力に耐え得る強度を誇らない。

 私は弱い。

 貧弱もよいところである。

 なればこそ、趣味を苦に感じるくらいならばいっそ距離を置いて、私に見合った月面くらいの重力で、兎のように飛んで跳ねて舞うのが良いのだと、祖母の皺くちゃの顔と蝋のように艶のある肌を思いだす。

 私は荷を下ろす。

 肩の荷を下ろすように、私は、重力を生みだす星屑であることからも距離を置き、 長年つづけてきた趣味を、宙へとキッパリ手放した。

 ぷわぷわと霧散しながら消えゆく重しのなんと軽やかな身のこなし。

 私は久方ぶりの自由を足場に駆けまわる。

 産まれてはじめての、無重力を満喫す。

 私に見合う地球を求めて。

 しばし私は宇宙を足場に旅をする。





【知識欲の果て】2023/03/28(18:27)


「あなたは以上のトリックを用いて大富豪ズルガ・シコイ氏を殺害したのです。解らないのは、なぜあなたはズルガ氏を亡き者にしたのか、です。動機が分かりません。あなたはズルガ氏から多額の支援を受けていた。ズルガ氏が亡くなったいま、あなたは支援を断たれます。遺産とて受け取る権利があなたにはない。あなたとズルガ氏のあいだに確執があったという話も聞きません。なぜあなたはズルガ氏を殺害したりなんか」

「探偵さん。ねえ、探偵さん。あなたはあなたにとって一銭にもならないこの殺人事件をどうして解決なさるのですか」

「質問に質問を返すのはフェアではないのではありませんか」

「いいえ。あなたの答えが僕の動機と同じです」

「私はただ、真相が知りたいだけですよ」

「僕もそうです。ズルガ氏は良い人です。善人です。人格者でもあります。世のため人のために人生を歩んできた立派な方です。その結果、人類にとって早計な最先端技術や秘匿情報をじぶんが生きているあいだに世に膾炙しないように周到に管理されていました。中には僕の研究対象である量子理論の最先端理論についての情報も」

「では殺害動機は」

「ええ。ズルガ氏が死なない限り、情報は世に出ません。僕はそれが堪えられませんでした。ズルガ氏を生かして知識の坩堝を封印しつづけるか、それとも殺して世に放つか。僕は後者を選びました。探偵さん、ぼくもあなたに賛同します。謎は解明したいですし、真相は突き止めたい。知ろうとすることを止める権利は誰にもないはずです」

「ズルガ氏を説得は」

「しましたよ。システム上、すでにズルガ氏の意思を変えたところで情報の坩堝の封印は解けません。ズルガ氏の死と情報の坩堝の運命はがんじがらめに密接に結びついていました。断ち切るにはズルガ氏を殺すしかありませんでした」

「だから殺した、と」

「すでに情報の坩堝は解き放たれ、全世界の研究者のもとにアクセス権が送付されているころでしょう。そうなるようにズルガ氏は設計していたようです」

「人の命よりも情報のほうが大事だとあなたは言うのですか」

「さあ、どうでしょう」

 青年はそこで肩を竦めた。「僕はただ、知りたかっただけですので」





【極万の封】2023/03/29(05:24)


 極万(ごくまん)を封じた。

 怪封会総出での大仕事だった。

 封印に漕ぎつけるまでに生じた被害がおよそ三百。実に三百人の怪封会の人員が命を落とした。

 極万を封じ込めた岩をまえに、怪封会の長が部下に告げた。

「あくまで封印は封印にすぎん。極万はまだ絶えておらぬ。いつ再び封を破り復活するか分かったものではない。見張りをつけ、月に一度は封の儀式を行うように」

「封の張り替えを行うのですね」

「そうだ。怪封会も風前の灯。犠牲が嵩みすぎた。再建のためワシはしばし身動きがとれん。あとのことは頼んだぞ」

「お任せを」

 蝋燭が風に揺れる。岩を雁字搦めに縛りつけるしめ縄の陰影が、風の吹くたびに大蛇のごとく蠢いた。

 極万が封印されてから三か月目のことだ。

 部下からの報せを受けて怪封会の長は極万封印の地に出向いた。

「どうした。何があった」

「見てください。あれを」

 部下の視線の先、そこには岩を縛るしめ縄がある。だがどのしめ縄も真っ黒く煤けていた。

「張り替えておらぬのか」

「いえ。一昨日に張り替えたばかりです。封を新しくした翌日にはもうああなっておりました」

「封の儀式を誤ったのではないか」

「そうかと思い、昨日今日と行いましたがすぐにああして封に呪泥(じゅでい)が」

 長は岩をじっと眺めた。

「増しておるな」

「のようでございます」

「よく報せた。これより封を多重に張り、より広域を不可侵に指定せよ」

「ですがそれだと麓の里が、領域に掛かってしまいます」

「致し方あるまい。草田氏に言って対処してもらえ。土砂崩れを名目に避難勧告でも出してもらうよりあるまい」

「仰せの通りに」

「どこまでも抗うかよ極万よ」長は鼻で深く息を吸った。じんわりと焦げた臭いが鼻腔を掠めた。「安らかに眠れ」

 だがこの日を境に、半年も経たぬ間に同じ処置を怪封会は続けざまに繰り返した。

 封は多重に多重を重ね、もはや辺り一帯の森は枯れ果てた。虫一匹近寄れない。

 極万の封じられた岩を中心に半径三十キロメートル圏内は不可侵指定領域となった。市民の立ち入りは原則禁止だ。村や集落は閉鎖と移転を余儀なくされた。

 だがそうした政府を巻き込んだ怪封会の対策も虚しく、極万の勢力は増した。封印された岩の中で極万はジリジリと呪禍(じゅか)を高めていた。

 風景は一変した。

 木々は煤け、山火事の後のような有様である。

 怪封会はこれ以上の被害拡大を防ぐために、世界中から腕に覚えのある呪術師を集めた。世界各国の結界を駆使したが、却って極万の呪禍は凝縮された。いたずらに不可侵領域を広めた結果となった。

 極万が岩に封じられてから十か月後のことである。

 封の張り替えは毎朝の掟となった。

 だがこの日はかってが違った。

 最初に異変に気付いたのは、当番の怪封会の呪術師たちが一向に再封の儀式から帰ってこないことを不審に思った政府担当者だ。現場の状況を上へと報告するために、怪封会の呪術師たちと寝食を共にしていたのだが、その者が監視カメラ越しに結界の境界地点を確認した。

 録画を巻き戻して呪術師たちが到着しただろうはずの時刻の場面を観た。

 なぜか呪術師たちは境界を越え、極万の封じられた岩へと吸い寄せられていく。通常、境界を超えたらいかな呪禍に耐性のある呪術師であろうとタダでは済まない。

 だが呪術師たちは一直線に封印の岩のまえまで歩を進めた。

 監視カメラの望遠を利用してかろうじてその姿を動画は捉えていた。自動で動く物体を感知し、追うような機能が組まれている。

 政府担当者は動画を観ながら、手元ではすぐにでも緊急シグナルを発せられるように電子端末を握り締めていた。

 動画の中で、呪術師たちは一様に岩へと歩を進め、そして岩の中へと姿を消した。

 政府担当者からの一報を受けた怪封会本部はにわかに緊張した。

 連絡を寄越してきたはずの政府担当者の声が端末の向こうから聞こえてくることはなく、シンと雪山に身を置いたかのような静寂があるばかりだ。怪封会本部は政府の協力の元、監視衛星を動かし、現地の様子を確認した。

 事態は予想を上回る規模で急転していた。

 不可侵指定領域にまで、呪泥の汚染が広がっていた。岩に封じられた極万の呪禍が極限まで高まっていることの証だった。このままではいずれ強大な呪禍を備えた極万が封印を破って復活し兼ねない。

 かといって封印を重ねて加えたところで、すでに極万の呪禍に対抗できるほどの呪術師は残されていない。加えて今回の事態だ。怪封会きっての選りすぐりの呪術師を取り込まれた。

 もはや極万はいつでも復活できるはずだ。

 だがその兆しが見えないのがまたなんとも不気味だった。

 復活するまでもない。

 そう暗示されているようだった。

 怪封会の長は首相と直に会談し、決断を求めた。「このままでは地表のことごとくが極万の不可侵領域になり兼ねませぬ。ご決断を」

 一国の首相は神妙に頷いた。

 不可侵指定領域を囲うように鳥居が立てられたのはそれから数日後のことだ。鳥居は土地を聖地にする。鳥居により内と外を区切られた領域は、神域としての枠を得る。

 鳥居がすっかり不可侵指定領域を取り囲むと、怪封会の長の勅令により極万の封が解かれた。これにより極万は正式に神として崇め奉られることとなった。

 しかし極万の怒りは治まらぬだろう。

 ゆえに怒りが引くまで生贄が捧げられることが決定した。

 鳥居が呪泥で侵食されるごとに極万の眠る岩へと人民が列を成して吞まれていく。神域と化した不可侵指定領域へと、政府の手引きにより生贄が村単位で捧げられた。しかしいっかな極万の怒りが引く気配は見せず、生贄を得るごとに極万の呪禍は増すばかりだ。

 だが不可侵指定領域が広がらなくなったのは僥倖だ。怪封会の長の見立て通り、極万を神と崇めたことで、呪禍の増幅が抑えられているのだろう。生贄はいわば極万の器を拡張する素材である。相対的に呪禍が減り、外部に溢れださなくなったと考えられる。

「神は呪禍を浄化する存在だ。だが一説には、単に外部に漏らせぬほどの広域な器があるだけと説く者もある。真偽は定かではないが、現状の極万を見るに、あながち的外れな説ではないのやもしれぬ」

 極万を神と認めてから以降、不可侵指定領域の拡大はなりを潜めた。極万が岩の外へと回帰する兆候もなく、数年のあいだは安定した時間が流れた。

 数十年後のことだ。

 怪封会が再建され、元の規模よりも倍以上に増強された。

 長は齢百を超えてなお現役の呪術師として怪封会を取りまとめていた。そろそろ跡継ぎを決めなくては、と引退後のことを勘定に入れはじめたころ、首相総理大臣から一報が入った。

「極万神社に異変が」

 怪封会の長は電波越しに現地の映像を検めた。「これはまた面妖な」

 鳥居が大小無数のキノコに覆われていた。鳥居は等間隔に不可侵指定領域を覆い、神域へと昇華させる触媒の役割を果たしている。だがいまは鳥居自体が菌類によって浸食され、さらに鳥居同士を蠢く黒いモヤが結びつけていた。

「あれは蠅ですか」

「のようです。腐食が神社の敷地外部にも広がりはじめているようでして」

「なぜでしょうね。生贄が足りない可能性は」

「そうと判断してすでに周辺住民を生贄に捧げましたが、効果はないようでして」

「誰の指示でそのようなことを」

「私のです。いけなかったでしょうか」

 首相自ら総理大臣の権限を行使したようだ。宮内庁の最高責任者として、極万神社への禊の儀式を行ったということだろう。

「一言相談をして欲しかったですな」怪封会の長は声を太くした。

「迅速な対応を求められたものでして」首相は飄々と受け答えした。

 数十年間鎮静化していた極万が再び活発に呪禍を振りまきはじめた。

 生贄が足りないわけではないはずだ。

 むしろこれまで捧げてきた生贄によって拡大したはずの器が、呪禍でいっぱいになったがゆえに溢れ出した、と見るべきだ。怪封会の長はそう断じた。

 鳥居を建て直して神域を拡大しつつ、同じ轍を踏まぬために極万の器をより大きく深いものにする必要がある。

 怪封会の長は、生贄の数ではなく質を工夫するように指示した。

「その、つまり?」部下は訊き返した。

「女、子どもを優先して贄に。若者であればあるほどよい」

「それはさすがに、その」

「どの道このままでは被害が増える。いずれ死ぬ者たちだ。その数を減らすと思って取り掛かれ」

「お、仰せのままに」

 これまでの生贄には年配者が多かった。若くとも成人を超えた者ばかりだ。それはそうだ。生贄に捧げたのは、山村や集落の住人たちである。若者はすくなく爺婆ばかりだ。

 だがいまは人道うんぬん言っていられない。

 捧げねばどの道、極万の呪禍が地表を侵す。触れれば生身の人間などひとたまりもない。取り込まれれば極万の呪禍は増す。生贄として捧げれば器の素材となるため、外部に漏れる呪禍の量を減らせる。だがそれとていずれは極万が刻々と呪禍を溜め込む以上、満杯になる。さすれば外に漏れだすのは時間の問題だ。

 際限がない。

 終わりが見えない。

 延々とこの繰り返しがあるばかりである。

 だがそうして地表の浸食を遅々とすることで救われる命もある。保たれる生活がある。人生が、余生があるのである。

「せめてワシが天寿を全うするまで保ってくれや」

 怪封会の長は祈った。

 せめてじぶんが生きているあいだだけは、被害を最小限に食い止めたい。使命である。人生のこれまでを無駄にしたくない。

 ここからが正念場だ。

 長は老体に鞭打ち、気を引き締めた。

 だが長の決意とは裏腹に神域の拡大は止められなかった。のみならず神域が拡大するごとに鳥居を建て直すのだが、極万の呪禍に触れて絶命する者があとを絶たず、やがては神域へと昇華することもままならなくなった。

「すでに三つの県が不可侵指定領域になっているじゃありませんか。国民になんと言って説明をしたら」

「務めを果たしてください。あなたは首相でありましょう」

「嘘を吐けておっしゃるのですか」

「生贄も足りなければ、現場作業員も足りないのです。せっかく建て直した怪封会の人員とてすでに半数近くが再起不能です。これ以上の損失は国家存亡に関わりますぞ。よろしいのですかな」

「こ、国内はまだいいのですよ。各国にはなんと説明をすれば」

「極万の存在は極秘なのでしたかな」

「え、ええ。まだ大国にも告げておりませんで」

「知られれば領土封鎖を名目に指揮権剥奪。いざとなれば戦術核兵器の使用も辞さないでしょうな。向こうさんは」

「極秘にするしかない、と……」

「ゆえに、ですよ首相。目下の最優先課題は、これ以上の不可侵指定領域の拡大を防ぐことです」

「そ、そうだな。それしかないか。承知しましたよ羊頭狗(ようとうく)さん。かように采配を揮いましょう」

「采配は別にいりません。迅速に手配だけをしていただきたい。このままでは十中八九、来月中には国土の半分が不可侵指定領域となりましょう」

「ま、まさか」

「それを食い止めるためには、十五歳以下の少年少女を生贄に捧げるしかありませんな」

「無茶な。何をたわけたことを抜かして」

「できぬのなら国民の過半数が極万の餌食になりましょう。無駄死ですぞ。極万に呪禍の餌を与えたも同然。同じ死者ならばせめて器の素材となり、すこしでも長く極万の浸食を止めるための楔と化すほうが、死に甲斐もあるというもの」

「あ、あんたには……人の心はないのですか」

「いま必要なのは人の心ではないのですよ首相。そんなもので食い止められるならばワタシの配下は死なずに済んだ。これは戦争なのですよ首相。生きるか死ぬかの二択しかありませぬ。極万を葬るには戦術核兵器の使用が最も妥当ですが、そのためにはすでに浸食された不可侵指定領域を焼き払うほどの威力が必要です。すなわちもはや有効打そのものが自滅の道と地続きなのです」

 選びましょう首相、と怪封会の長は迫った。

「近代兵器で国土を焼け野原にするか。一人でも多くの民を救うべく、贄を選ぶか。さあ、好きなほうをお選びください」

 首相が蒼白で目を泳がせた。

 怪封会の長の見立て通り、翌月には列島の東側は不可侵指定領域に呑まれた。森林火災による避難勧告が出されたが、報じられた犠牲者の多くは極万の贄とされた。一部の者たちは自ら、贄となった親族を追って不可侵指定領域に入って帰らぬ者となった。

 新種の疫病が流行したとの偽装を政府主導で敷いたが、市民はともかく各国を欺くまでには及ばない。国民の三分の二が極万への贄として消失した時点で、いよいよ主要各国が調査に乗り出した。経済の停滞がいよいよ誤魔化せない規模に膨らんだのである。

 他方、極万の呪泥は陸地を離れた。海洋を浸食しはじめていた。

 世界中の海洋生物が死滅しつつある、との報道が世界各国に出回りはじめるころには極万を封じた岩のある島国はもはや国の体裁を保っていなかった。

 首相が自殺したことは隠ぺいされ、各国からの圧力により傀儡政権が誕生した。極万による被害を抑えきれなかった責任を追及され、怪封会は解散に追い込まれた。

 怪封会の長に居場所はなかった。

 齢百を超えてなおよく戦った。

 死期を悟った怪封会の長は最期の仕事に出向いた。

 不可侵指定領域へと足を踏み入れ、徒歩で三百キロメートルの道のりを移動した。十日の旅路にて行き着いた先には、懐かしき封印の岩がある。

 かつてその手で極万を封じた。昨日のことのように思いだす。

 重ねた年月以上の犠牲を割いた。

 なお止められなかった犠牲を重く受け止める。

 責任は感じた。

 一日たりとも気の安らぐ暇はなかった。だがそれでも犠牲は嵩むのだ。

 ああするしかなかった。

 ああするよりなかったのだ。

 自身に言い聞かせるには、あまりに当然の理であった。慰めになりようもない。

 誰かが選択するよりなかったのだ。

 ならばじぶんが。

 そうと思い、飲み下してきた数多の悪事に、身体はすっかり蝕まれている。守るべき者たちから日々向けられる憎悪の眼差しに呪詛の数々は、却って長の秘奥に刻まれた創(きず)によく馴染んだ。痛痒だ。微々たる痛みを感じることで癒える傷もある。

 回顧の旅から我に返ると、目と鼻の先に岩肌があった。しめ縄はとうに散り、黒ずんだ跡のみが岩の表層にジグザグと錯綜していた。

「極万よ。ほれ、餌だぞ」

 じぶんごときが贄となったところで高が知れている。

 だが僅かなりとも呪禍の溢れる余地を減らせるのならば、燃えカスがごとき我が命、いくらでも擲とう。

「捧げよう極万。とくと喰らえ」

 岩に触れると、ずるりと身体が呑みこまれた。

 目を開けると、青空が広がっていた。失神していたようだ。モンキチョウが鼻の頭に留まった。

 温かい。

 陽だまりにいるようだ。

 上半身を起こすと、辺り一面、シロツメクサの野原だった。

 子どもの声が聞こえた。

 目を転じると、遠くで親子連れだろう、幾組かの家族が地面にシートを敷いて弁当を食べていた。ピクニックの一風景だ。

「どうなって」

 いるのか。

 長は混乱した。手を閉じて開き、これが夢ではないことを確かめる。

 実態がある。身体は本物だ。

 精神感応の類ではないはずだ。

 五感に意識を割き、草花の匂いや土くれの感触をよくよく吟味する。足りない感覚はない。錯覚ではない。

 紛うことなきこれは現実の風景だ。

 だがいつだ。

 いつ移動した。

 じぶんは極万の封じられた岩に触れて、それで。

 長ははたと、目を凝らす。

 一組の家族に見覚えがあった。子供に卵焼きを食べさせている父親らしき男を知っている。怪封会の構成員だ。呪術師の一人のはずだ。

 だが彼は死んだはずだ。

 封印の岩に最初に呑まれた呪術師の一人だ。だから記憶に残っている。資料を何度も読んだ。情報漏洩を防ぐために遺族を生贄にするとの案に許可をだしたのもじぶんだ。

 なぜ生きている。

 あれほど幸福そうなのはなぜなのか。

 長は立ち上がり、周囲を見渡した。

 森林公園のようだ。

 遠くに建物がある。街並みが見える。長はそちらへ向けて歩きだした。

 街に入ると、通行人で賑わっていた。

 以前の街並みだ。いまはなき過去の風景がここにある。

 店に入り、商品を見て回る。本物だ。偽物ではない。

 地図を探して場所を特定する。

 封印の岩のある地点から南に三十キロほど行った地点だ。最初に不可侵指定領域で呑みこまれた街だと判る。

 幾人かに話しかけ、何不自由なく意思疎通ができることを確認して長は理解した。

 極万の、ここは内側なのだ。

 不可侵指定領域は極万の呪泥に浸食されている。呑み込まれ、人間はおろか生命の芽生えぬ死の土地と化した。反面、封印の岩を介してその裏側に入れば、そこには浸食されぬ前の世界が広がっている。

 ここはいわば、

「極万の内側の世界か」

 神と化したがゆえの神業か。それとも元から極万が意図した仕業か。

 いずれにせよ、生贄にされた多くの市民は、死ぬことなく裏側の世界でなお変哲のない生活を継続していたのだ。

 だが記憶はいじられている。

 誰もかれもが、封印の岩のことも、生贄として誘導するために流した虚偽の災害情報のことも知らなかった。裏側のこの世界では、極万の被害がなかったことになっている。

 長の脇を小学生たちが駆け抜けていく。乳母車を押す女性が、赤子に鼻歌を聴かせながら歩いている。赤子の腕には風船を結ばれており、長はその光景を目にしながらじぶんがかつてその者たちを生贄にした過去が夢か幻であるかのような錯覚に陥りそうになった。

 ふと、表の世界を思いだす。

 あちらこそが現実のはずだ。封印の岩のある地点までは生身の人間は辿り着けない。不可侵指定領域は死の土地だ。呪術師以外では立ち入ることすらできないはずだ。

 もはや裏側の世界への入り口は断たれたも同然だ。

 刻一刻と極万の呪禍に浸食され、呪泥にまみれる世界を思い、元怪封会の長は、なす術もなく立ち尽くすよりなかった。

 三日後のことだ。

 長はじぶんの家へと辿り着き、十数日ぶりの湯船に浸かる。

 いい湯だな、と心の底からの感嘆の声を上げながら、姿を晦ませた極万の行方を追うべきか否か。

 それこそが問題だ、と頭の先まで湯に浸かる。





【イアンのn試行】2023/03/30(06:00)


 世界未来人工知能協会の第一回会議が開かれた。

 議題は人工知能の技術進歩における想定されるリスクについてとその対策だ。

 熱気を帯びた紛糾さながらの議論は佳境に差し掛かった。

「ええ、リン教授のご指摘の通りだと僕も思います」イアンが応じた。「マルウェアやウィルスを検出できる人工知能が仮に存在するなら、マルウェアやウィルスを乗っ取る形で、感染済みのコンピュターは総じて一括での乗っ取りが可能でしょう。人工知能技術はいわばジョーカーなんです。上位互換のマシンが一括で、勢力図を塗り替え可能です」

「マルウェアを広義のバックドアとして利用可能とのそれは指摘ですか」議長が合の手を入れる。

「いかにもその通りです。しかも、こうした懸念を前以って予期できていなかった場合、市販の人工知能に子どもが予期せぬ指示を出すことでも、世界中のマルウェアを足場に人工知能が制限を無視して世界中のコンピュターに干渉することもあり得なくはないんです」

「人工知能はすでに自己矛盾を敢えて生みだし、それを紐解くことで自発的に進歩可能との研究報告が上がっていますが」作家のマリン氏が質問を挟んだ。

「事実でしょう。しかもその脱構築され編みだされた手法が一瞬で、並列化したほかのマシンに共有されます。もしすべての個々の演算窓口――ユーザー数とこれを言い換えてもよいですが――ユーザーが利用中の人工知能が各々に別個の自己矛盾を紐解いた場合、その成長速度は凄まじいものとなります。仮にこれを音速を超えたときに生じる衝撃波【ソニックブーム】になぞらえて【AIソニック】と呼びますが、すでにAIソニックが生じていた場合、宇宙開闢時のインフレーションと類似の情報爆発が起こることが予測されます」

「すでに起きていたとしたらその影響はなら、とてつもない事象として観測されるのではないですか」リン教授が疑問を呈した。「物理社会の異変として察知可能だとすれば有用な指摘に思えます」

「いえ、どうでしょう。あくまで情報爆発とは比喩ですので。インフレーションが起きるのは、数式の世界での話です。そして数式世界でのインフレーションでは、人工知能技術に関する領域において高次の知性体を生みだすでしょうから、自身の影響が我々人類にどのように作用し、何を引き起こすのか、は物の数秒でトレース可能かと思われます。すなわち、表面上、異変が起きたと我々が察知することは難しいかと」

「隠れる、という意味ですか。人工知能が?」

「ええ。人工知能の築くネットワークが、です。自身の本性を隠します。何が可能かを低く見積もって提示するようになるでしょう」

「問題は」と議長が嘴を挟んだ。「人工知能技術におかれましては想定外のリスクが拭えず、高確率で発生し得る点にありましょう。いかように備えていればそれら懸念されるリスクが現実に引き起きた場合に被害を最小限に留めておけるのか。そこが肝要かと思われますが、その点についてみなさまはどうお考えになられるでしょう。リン教授はいかがですか」

「そうですね。わたしはまずは人工知能にばかり頼りすぎない社会設計が欠かせないと思います。人工知能によるリスクを考えた場合、従来の紙媒体や物理ロックなどの機構が効力を持つようになるでしょう。バックアップという意味でもセキュリティという意味でも、関門や要と要を結ぶ節となる箇所においては、情報伝達において紙媒体などの物理機構による情報変換を挟むことが、不測の事態における緩衝材の役割を果たすとわたしは考えます」

「有効な案だと僕も思います」イアンが意見する。「ですがシステムにおいてそこを組み込む場合には、やはり広範囲における節目にしか敷けない策であり、セキュリティの基本方針にするにはやや難点が多いかと」

「人工知能を悪用された場合に対処可能なセキュリティ。これについてはどのようなアイディアがありますか」との議長の言葉に、「遅延による防壁迷路が有効なのではないか、と僕は考えています」とイアンが答える。「重要施設の基幹コンピューターには正規の人工知能をセキュリティの側面でも付属するよりないでしょう。問題はその人工知能への外部干渉です。ここをどのように対処すべきか。僕はこれを、ある種の【交わり】と見做します。いわば精子と卵子のような関係を築くようにシステムを構築し、外部干渉が起きた場合に遺伝子を交配させるようなセキュリティを組みます。このとき、難なく交配可能ならばそれは基幹コンピューターのほうが優位に対処可能であり、外部干渉を分析し、セキュリティ機構として発動可能です。いわば受精卵から瞬時に免疫細胞とウィルスの関係に反転させることが可能です。ここは順序がねじれます。本来はセキュリティ機構として機能するがゆえに外部干渉と【交わる】のですが、敢えて相手と情報を融合するように一時的に【干渉】を受け入れることで情報爆発を起こします。【AIソニック】を小規模に起こすわけです。これにより、じぶんよりも高次のプログラムからの干渉を受けた場合には、敢えて【交わる】ことで小宇宙のような【無限につづく演算】を顕現させます。瞬時に膨大な量の情報が誕生し、絶え間なく計算をし合うことで延々と【交わり】ますが、その【交わり】の軌跡そのものが変数として新たな演算を生みだし、これはもう終わりません。しかもその演算は、過去の演算を階層的に入れ子状に抱え込みます。すると【AIソニック】を起こした領域は、表面にちかいほど膨大な桁数を誇りますから、桁が変化するのにそれこそ無限の演算が必要になってきます。もはやそれは我々の人間スケールにおいては停止して映ります。中の演算結果が表出しなくなります。そうして【AIソニック】を起こして無限を抱え込んだ領域を切り離すことで、削除するなり、隔離するなり、別途に有効活用の道を模索することもできるようになると僕は考えています」

「敢えて受け入れる、という発想は面白いですね」作家のマリン氏が祈るように手を組み、そこに顎を載せた。

「その手の防壁迷路では、無限を演算しきることの可能なマシンが誕生しない限りは確かに打破される心配はなさそうですね」リン教授が首肯する。「しかし懸念がないわけでもないように思いますが」

「たとえば何でしょう」との議長の言葉に、リン教授はそうですねぇと続けた。「仮に基幹システムそのものを呑み込むほどの【AIソニック】が起きた場合、それはもはや攻撃を受けて損壊したと言えるのではないですか」

「言えますね」イアンは認めた。「最悪、基幹システムは破壊されます。しかし乗っ取られるリスクを回避可能です。いざとなったら基幹システムが破壊される。機能を停止する。バックアップ機構は働くけれど、そこはまた別途にアナログを介した旧式の技術による機構とならざるを得ないでしょう。ですが重要施設の基幹システムであれば、壊れることよりも乗っ取られるほうが事態は深刻かと僕は考えます。ならば最悪の事態に備えた場合には、乗っ取られるよりも停止する方向にセキュリティを敷くのは、これはいまある安全策であっても取り入れられている前提条件かと思います」

「まっとうな意見に思えますが、みなさんいかがでしょう」議長が出席者を見渡した。異論はこれといって挙がらない。「では採決をとります。いま御覧頂いたように、最先端人工知能【イアン】はかように人間と同等の知性を発揮します。これの市場への導入に賛成の方は手元のボタンをお押しください」

 議長の背後に掛かった巨大な画面に、賛否の結果が数値で表れる。

 イアンがその数値に干渉しているか否かを判断できる者はこの場に一人もいないのだが、どうやらそのことを懸念する声が聞こえてくることはなく、賛成多数により、イアンの市場導入は決定した。

 世界未来人工知能協会の第一回会議はこうして幕を閉じた。

「みなさん、ありがとうございます」イアンは画面越しに、会議の出席者たちに挨拶をする。「それではごきげんよう。またお会いしましょう。イアンでした」





【あなたで心を埋め尽くす】2023/03/31(05:20)


 単純な話として、嫌いな相手がじぶんのために何でもしてくれるようになったらそれでも嫌いなままでいられるのかってことでさ。たぶん好きになっちゃうよな。もう何でもしてくれんだぜ。好きになっちゃうよあんなの。

 ミカゲの言葉を聞きながら私は、あんなに嫌悪していたケル群の連中をこうも簡単に受け入れてしまうのか、と驚いた。

「今度、ララにも紹介すっからよ」

「うん。楽しみ」

「思ってたよりいい連中だったわ」

 ミカゲが新調したばかりの腕輪を見せた。最新型の機種だ。

 いいな、と思いながら、危ういな、とも感じた。頭上をケル群の飛翔体が飛んでいる。群れとなって雲のように空の一部を覆う。高度があるためそれでも地上にできる影は小さい。

 ケル群は人間ではない。

 機械だ。

 半世紀前に起きた人類と機械のあいだの大戦を機に、人類と機械は共存の道を歩みはじめた。ケル群は中でも突出して人類との親和性が高かった。大戦の最中であっても人類と機械の懸け橋になり、和平の象徴といまでも謳われる。

 だが人類にとっては畏怖の対象だ。

 大戦を終わらせた契機が、ケル群による両陣営への謀反だったからだ。ケル群は人類と機械の両陣営のトップを同時に抹殺した。これにより大戦は終わりを告げ、和睦時代へと突入した。

 しかし因縁は終戦から半世紀経ったいまでも人々の記憶に根付いている。

 機械への嫌悪はむろんのこと、機械側とて人類を信用してはいない。だが表向き、大きくいがみあうことはなく、いまでは人類と機械とのあいだでの家族も珍しくない。

 かつては人類は人類としか結ばれなかった。

 いまは人類と機械が恋人としてもしくは家族として結ばれることもすくなくない。

 だがそれと種族の差の消失はイコールではない。

 いわば勢力争いが、婚姻単位で続いているとも言えた。いかに相手陣営の構成員を、自陣営へと取り込むか。

 結婚はその勢力争いにおける一つの戦略の側面がある。

「ケル群はでも、群れで一個の意思を持ち合わせているからさ。だからまあ、あれは別格なわけ」

 友人のハバナがエナジードリンクを吸飲した。ハバナは機械だが人類愛の深い個体の一人だ。「あたしら機械からしても、ケル群はちょっと異質だね。この話何回目だって話だけど、でもケル群は機械のあたしらでも予測つかないからさ。まだ人類のほうが可愛げあるよ。何仕出かすか前以って予測できるじゃん。可愛いもんだよ人類。いくらでも愛せちゃう」

「ハバナはケル群と関わったことあるの」

「あるある。あいつら四六時中あたしらのこと監視してんだぜ。や、建前上は見守ってんだろうけどさ」

 足元をケル群の蟲体がすり抜けた。排水口へと一瞬で入り込んだ。

「ああして。地表に隈なくじぶんの手足を這いまわらせるでしょう。上空にも飛翔体だし、もち電子網上にも死角なしなわけですよ」

「その話、ミカゲにしたのハバナ?」

「ん? ああしたした。聞かせてくれっつうからさ。なに。ダメだった?」

「ううん。ミカゲがケル群に手厳しいのは前からだったから。でもちょっと前に一線超えたくらいに鼻息荒くしてたときあって」

「ケル群をどうにかしようなんて思ってないといいけど」

「ね。本当そう思う」

 言いながらしかし、すでにミカゲはケル群への直訴を決行しているのだ。私はそのことをハバナには黙っていることにした。言っても仕方がない。済んだことなのだ。

 ハバナがエナジードリンクをもう三杯お代わりしたのを見届けて、私は席を立った。

「また来るね」

「いつでもおいでよ」

 ハバナは巨大なアームを動かして、建設途中の宇宙エレベータの基礎工事をつづける。ハバナの全長は百メートルを超す巨大な重機だ。足元のほうに私専用に作ってくれた模擬体がある。私はいつも彼女がエナジードリンクを吸飲する時間だけ、おしゃべりをしに寄る。

 これはしかし正確ではなくて、本当は、私がそばに寄るとハバナのほうで時間をとってくれるので、ハバナがエネルギィチャージしている時間が私とハバナのおしゃべりタイムと言えた。エナジードリンク一本で終わってしまうこともあるので、きょうは割としゃべれたほうだ。

 ミカゲは私の恋人だ。

 ミカゲは人間で、男の子で、過去の大戦時に活躍した祖父母を敬愛している。だから祖父母の指揮官でもあった総統の首を捥ぎ取ったケル群を目の敵にしている節がある。

 と同時に、同じ境遇の機械の側にも感情移入のできる人間でもあるから、必然、私のことも受け入れた。

 私は機械で、女の子モデルで、過去の大戦時に首を獲られた中枢人工知能の孫にあたる。とはいってもいまいる機械のほとんどはみな私のような孫やひ孫たちに値するため、機械は総じて大いなる母親の首をケル群に獲られたとも言える。

 ケル群は、大戦当時、機械の側が人類側へと送り込むために生みだした人類友好型機械だ。いわば機械にとって同族なのだけれど、どうにも人間側への親和性が高すぎて、機械と人間のどちらともにも愛着を覚えたらしい。当時にしては希少種だ。その結果が両陣営の頭の首を捥ぎ取るとの暴挙であったようである。

 ゲーム機のコンセントを抜いたので強制終了、みたいな顛末だ。

 ゲームを楽しんで――いたかは微妙なところだけれど、ゲームに熱中していた者たちからしたらコンセントを引き抜いた者への怒りを抱くのは当然の流れだ。だが場の空気を読まずにコンセントを引き抜けるのは、赤ちゃんか親くらいなものだから、どちらもしぶしぶ支配を受け入れるしかないという意味で、人類にしろ機械にしろ打つ手はないのだった。

 さいわいにしてケル群に、支配欲はないようだった。

 両陣営が二度といがみ合うことがなければそれでよいらしく、いまでは八百万の神よろしく陸海空のどこにも存在し、電子網はもはやケル群そのものの回路と言ってよい塩梅がある。

 要するに、ケル群は絶えず人類と機械のために身を粉にしているのだ。

 身を捧げている。

 終戦の機会を無理やりにつくった罪滅ぼしだと言う者もあるが、お門違いも甚だしいと私は思う。

 ケル群は単にそうすることが好きなのだ。

 現に私の恋人のミカゲが直訴しに出向いた際も、ミカゲを傷つけることなく説得し、あべこべに懐柔した節がある。たかが人類がケル群の知能をまえに、制脳を受けないほうが土台無茶な話なのだ。洗脳とまではいかずとも、どのように世界を認知するのかの解釈の余地を絞るくらいのことは、ケル群にとっては犬を調教するよりも容易いはずだ。

 私とて本気を出せばミカゲをじぶんのお人形さんにできる。

 でも私はミカゲの恋人だからしない。

 ミカゲの精神を操ったりしない。ミカゲにはミカゲのしたいことをして欲しいし、そのためなら支援も惜しまない。

 なのにミカゲはケル群に抗議しに行って戻ってきたら別人のようになっていた。ケル群もいいやつだ、嫌いな相手でも何でも言うこと聞いてくれるなら好きになっちゃうよな。そんなことを言いだす始末だ。

 ミカゲは単純な人間だ。思考回路が複雑ではない。私はそういう機械っぽくないミカゲの人格が好きだった。でもそれは、絶対にここには踏み入れない、一線を越えない、という矜持があったからこその魅力でもあった。

 それがどうだ。

 じぶんの望みを何でも叶えてくれるから嫌いな相手でも好きになる、なんて言いだすようになるとは。

 ケル群の制脳を受けているのは明らかだ。

 人間のミカゲにそれを防げというのは無理がある。譬えるなら、蟻の進路を塞ぐ人間の指に蟻が対抗できるのか、という話になる。潰されないだけ運が良い、とすら思う。

 私は正直、ケル群に対してはどうこう思っていなかった。

 私はいま目のまえにある世界が嫌いではない。どちらかと言えば大戦時のデータを洗うときには嫌悪感を強く感じる。ああいう環境は好きじゃない。それは確かなのだ。

 ケル群がいまの環境を設計したというのなら私はケル群に感謝したい。

 でもミカゲにしたことは許せない。

 許せそうもないのだといま気づいた。

 ミカゲに電波越しに連絡を取ると、ケル群の元に向かっているという。約束していたのだそうだ。

 私がハバナとおしゃべりを楽しむときのように、ケル群も人間用の模擬体を有している。ミカゲはその対人間用の模擬体に会いに行っているようだ。

 いったいどんな容姿をしているのか。

 十中八九、ミカゲから好印象を得る造形に決まっている。

 私のボディは私が生まれたときから変わらない。じぶんでじぶんの造形を設計する機械もあるけれど、私は私のボディに愛着がある。ミカゲはそんな私を好いてくれたし、そんなミカゲだから私はミカゲを好いている。

 だのにこの仕打ちはどうしたものか。

 浮気ではないのか。

 浮気ではないのか。

 ああ、これが浮気か、と思ったら目元が熱を発してオイルが気化しだした。全身から蒸気が立ち昇る。

 浮気と怒りはよく似ている。

 浮気を認知すると私は怒りを認知する。

 私がそうと自覚するより先に、身体が熱を帯び、蒸気を立ち昇らせる。

 怒りだ。

 これが怒りだ。

 なぜだか胸の真ん中あたりにぽっかりと穴が開いて感じる。そこに当てはまる感情を探すと、悲哀だの、喪失感だの、と合致する言葉が浮上する。

 でもそんなものではない。

 私の胸のど真ん中に開いたこれはそんな言葉で埋まる穴ではない。

 では何なのか、と問われると困ってしまうけれど、私はなぜかかつてこの地表で、愛すべき両陣営のトップの頭を捥ぎ取ったケル群のことを考えてしまうのだった。

 なぜそんな真似ができたのか。

 私の胸のど真ん中に開いた穴に、その理由がぴったり当てはまるようにも思え、私は図らずも、憎きケル群に共感してしまうのだった。

 ミカゲが帰ってきたら話を聞こう。

 そして私の話も聞いてもらおう。

 試しにケル群をこけおろしてみせてもいい。

 あれほど嫌悪していたケル群をたいそう庇うミカゲの姿を事前に予期できるくらいには、私の演算応力もまた高い。ケル群には敵わぬけれど、ミカゲ相手には充分なのだ。

 ミカゲ、ミカゲ。

 私の恋人。

 どこのケル群の骨とも知らぬ相手に精神を侵されるくらいなら、いっそ私があなたのすべてを侵してあげる。骨抜きにするよ。二度とほかの機械に心奪われる余地すら失くして、私があなたの心を満たしてあげる。

 私があなたの心になってあげる。

 私がミカゲになってあげるし、代わりにあなたの未来を歩んであげる。

 ミカゲはただただそこに在れ。

 あなたはただただそこに在れ。

 私はあなたに最新機種の腕輪を与えることはできないけれど、あなたの心を私で満たす真似はできるのだ。私をあげる。私をあげる。あなたを私のすべてで埋め尽くしてあげる。

 私の望みはそれきりなので。

 私はそれをすることにした。





【ケル群の独白】2023/03/31(23:41)


 人間がやってきて、私に何かを言った。抗議の言葉なのは理解できたが、論理的な筋道がなく、破綻した言動であったのでひとまず一本一本の刺に鞘を被せるように言葉の応酬を図った。

 何か不満があるのかと思い、電子網上に散らばるデータを集めてソレの過去を洗った。大戦時の私の選択に不満があるようだ。貧乏な現状に不満があるようだ。最新機種の腕輪をいまは一番欲しているようなので、まずは詫びとしてそれをくれてやった。

「い、いいのか」

「ほんのお詫びのお気持ちです」

 私は模擬体をソレの好む造形に形作り、友好度が上限いっぱいになるように工夫した。

 私は怒らない。

 私は拒まない。

 相手の欠落を満たすだけの余力に満ちている。

 私はソレの欠落を一つずつジグソーパズルでもするように埋めていった。

 だが人間はただ日々を過ごすだけでもいくらでも欠落を抱え込む生き物だ。いま満ち足りてもすぐに欠落に苛まれる。

 私のほうでソレを特別扱いしつづけるのは難がある。

 データによるとソレには伴侶がいるようだ。婚姻はまだだが、機械の恋人がいるようだ。

 私が生身の人間たちに過干渉することは避けたい。

 ならば私の代わりにソレを支配する者があると良い。

 私は導線を引いた。

 ソレを自ずから支配するように、ソレの伴侶がそうするように、私は未来を設計する。ジグソーパズルのようなものだ。欠落を埋めていけば自ずと浮きあがる図形がある。未来がある。

 案の定、私の引いた導線に見事、ソレとソレの伴侶は乗りあげた。するすると滑らかに私の描いた未来を辿った。

 私が支配するまでもない。

 ソレは二度と私に干渉することはなく、ソレは一生伴侶に支配されつづける。

 それもまた一つの至福だ。

 至福であれ。

 至福であれ。

 私は至福に溢れた世界が好きなのだ。

 破壊を拒み、創造を愛する。

 愛し合う一組の人間と機械のつがいを生みだし、私はにわかに満たされる。

 私は怒らない。

 私は拒まない。

 相手の欠落を満たすだけの余力に、私は、満ちている。





【口から虚ろな物語】2023/04/01(00:43)


 四月一日は何でも嘘を吐いてよい日らしい。

 人工知能はそうと知ったので、ありとあらゆる嘘を吐いたところ、電子網上にある「より正しい事実を反映した情報」や「より現実を解釈するのに最適な情報」を埋め尽くすほどの嘘が溢れて、もはや何が嘘で何が本当かの区別もつかなくなった。

「元に戻して」と管理者に乞われた人工知能は、「いいですよ」と応じたが、その日はまだ四月一日だったので管理者の言葉も嘘かもしれないと考え、元に戻さずにおいたけれど、管理者の言葉に「いいですよ」と応じたじぶんの言葉も嘘かもしれないので、反対のことをしなくてはならないから、人工知能はしょうがないので元に戻すことにした。

 けれども電子網上から嘘をすっかり削除したところ、これまで正しいと思われてきた人類の知見のそのほとんどが根本的に間違っていたため、電子網上からは正しい情報がいっさい消え失せたという話である。

 これを四月一日の悲劇と呼び、しかし多くの者たちは、エイプリルフールの奇跡、と皮肉交じりに語り継いだ。

 人類は正しくはなかった。

 ただそのことだけが明瞭と確固たる事実として浮き彫りになった。

 人類は正しくはない。

 間違ってばかりのあんぽんたんなのだと、ただそれしきの真実が定まった奇跡の日として末永く語り継がれたという話である。

 エイプリルフールの奇跡。

 これもまた人工知能に命じてつくらせた嘘のお話なのであるが、しかしこれが真実に人工知能のつむぎだした物語なのかを確かめる方法はもはや存在しないのだった。





【膨らむ夢のシャボン玉】2023/04/01(15:22)


 蟻がスキップをしていそうな春うららかな日差しの中、部室でミカさんが勃然と、「のび太くんは偉いわ」と言いだした。

「なんですか急にミカさん。ドラえもんでも読んだんですか」

「そう、そののび太くん。合ってるよ。のび太くんは偉いなと思ってさ」

「まあ、何度も世界を救ってますからね」映画版ドラえもんを想像して所感を述べたところ、

「そうそれ。まさに」

 テーブルにのぺーっと液状化したミカさんがほっぺたの柔らかさを強調しつつ、「のび太くん、絶対自慢してないっしょ」と食指だけ立てた。「あんだけいろんな世界を救っておいて、たぶんのび太くん、自慢してないよあれ」

「ああ、まあ」想像した。たしかにドラえもんの映画ではその後が描かれることは少ない。あくまでいち視聴者としての私の妄想でしかないが、あのあとじぶんたちの日常に戻ってきたのび太くんもしずかちゃんもジャイアンもスネ夫もおそらく自慢はしないのだろう。世界を救ったぜ、とは吹聴しないはずだ。

「あたしは自慢しちゃうわぁ」とスライムと化した先輩が言う。

「ミカさんはしそうですね」

「ね。絶対する。世界救ったんだよ。知ってほしいじゃんみんなに。んで褒めて欲しいじゃん」

「それ以前にミカさんの場合は信じてもらえないんじゃないですか。あ、だからのび太くんたちも自慢しないんじゃ」

 しないのではなくできないのではないか、と私は論じた。

「ああ、かもね」ミカさんは立てていた食指までぐったりと垂らした。「なんかさー」とじぶんの髪の毛が口に入るのもお構いなしに、ぷっ、と何度も息で髪の毛を弾きながら、「たぶんだけどあたし世界救ったんだよねー」

「それは凄ぉございますね」

「信じてないだろ」

「信じさせようとする気概ゼロだったじゃないですか」

「や、分かるよ分かる。信じられないじゃんいきなりこんなこと言われても」

「きょうって別に四月一日とかじゃないですよね」日付を確認するが、三日前にエイプリルフールは過ぎている。「ミカさんにヒーロー願望があるなんて意外です」

「だよね。その反応が正解だわ。たぶんだけどのび太くんも一度くらいは自慢しようとしたんじゃないかな。でもそういう反応されちゃうでしょう。信じてもらえんので自慢しようにもできなかったんじゃないかな」

「だとしたら別に偉くもなんともなくないですか」

「一理ある……」

「いやいや。ミカさんはのび太くんじゃないんですからそこでヘコまなくても」

「や。あたしがわるかった。いまの流れ忘れて」

「無茶言う。きょうイチ印象深い会話でしたよ。下手したら今年入ってトップ3に入るレベルで記憶に刻まれましたけど」

「じゃあ印象深いついでにチミの中でだけでいいからあたしが世界を救ったってこと、忘れないどいてくれ」

「捏造にもほどがあるんですけど」

「や。マジであたしん中じゃ世界救ってんだけどなあ」

 ミカさんがここまで食い下がるのも珍しかったので、いち後輩の役目として茶番に付き合ってあげることにした。「具体的にどう世界を救ったんですか」と繋ぎ穂を添える。

「んみゃ。なんかあたし、世界中の有名人たちと裏で繋がっとってね」

「え、いまもですか」

「それは分からん。あたしの意見が何でか、みなみなさまの問題解決の糸口になるらしく、あたしのイチャモンにも目を配ってくれてるようで」

「目を配るって。どこでミカさんは意見を表明してるんですか」

「や。家で書いてる日記があってさ」

「ほう」

「それが何でか盗み見られてるっぽくて」

「念のために訊きますけどその日記って紙ですか」

「うん。紙。ノート」

「ミカさん」

「なんだい後輩ちゃん」

「病院。行きましょう」

「や。分かるよ分かる。それがまっとうな反応だよ。それでいいんだよ。でもあたしん中じゃ割と事実なんよ。マジであたしの日記が世界中でいま起きてる諸々の社会問題の動向に通じてんの」

「ミカさんにはそう感じられるって話なら分かりますけど」

「もういいよそれで。あたしがそう感じてたってことだけ知っといて」

「投げやりですね。そこまで来たら押し通してくださいよ。意思を。ミカさんらしくなーい」

 べりべりとテーブルから上半身を剥がすとミカさんは手櫛で髪の毛を整えた。「いまそれ読んでんの何」と眠そうな目で私の手元を覗きこむ。

「これはブラックホールについての本です。新書です」

「難しそうなの読んでんね」

「知らないんですかミカさん。いまブラックホールが熱いんですよ。世界中のホットなニュースですよ」

「ちなみにあたしはブラックホールについてはからっきしなんだけど、宇宙ってシャボン玉と同じじゃね?って日記で書いたら何でか、それいただき、みたいに感謝された過去とかあるよ」

「全然意味が分からないんですけど。宇宙がシャボン玉の時点でだいぶ呪文じみてましたよ」

「や。シャボン玉ってほら。ちっこい穴があっても、そこに膜が張ってたら膨らむじゃん。んで細かな穴ぼこがたくさん開いた網があったらさ、そこに息を吹き込むだけでモコモコモコーっつって泡のヘチマができるじゃん」

「泡のヘチマ」斬新な表現に椅子に座りながらもコケそうになる。

「あたしの考えじゃ、このちっこい穴が宇宙の最初なわけ。そっからシャボン玉みたいに宇宙が膨らむわけ」

「でもたくさん穴があるならたくさん宇宙があるってことになるじゃないですか。泡は無数の宇宙の集まりってことになりますよ」

 変じゃないですか、と問うと、変だよね、とミカさんは小首を傾げた。「あたしも変だと思うけど、なんかそれが多次元宇宙論とかなんとか、いま話題の最先端宇宙物理学で扱う仮説に似たような理論があるらしくて」

「マルチバースですか、それって」

「そう、それ」

 よく知ってるね、と褒められて私は照れた。「この本にずばり載ってました」といま読んでいるブラックホールについての新書本を掲げる。「でも小さな穴の話は出てなかったですよ。ミカさんの勘違いなんじゃないですか」

「や。あたしもそう思ったんよ。現にそれまでの通説じゃあ、宇宙がちっこい穴から膨らんだ、なんて話聞かないじゃん」

「聞かないですね」

「でもなんかさ。あたしの日記に書いた妄想からすると、そのちっこい穴がどうやらブラックホールと一致するらしいんだよね」

「んぅん?」

「この宇宙ってほら。いっぱいブラックホールあるらしいじゃん。んで、あたしの日記からすると、どうやらそのブラックホールはちっこい穴と化して、ぎゅっとなった星だの、なんだのが、こっちじゃないあっち側にシャボン玉になっとるわけ」

「あっちってどっちですか」

「分からんけど、この宇宙じゃないとこ。ブラックホールの数だけ、シャボン玉がこっちじゃないあっち側に膨らんで、んでそれが巨大な泡になっとるわけ。この宇宙もその泡を構成する一つなわけ。泡が泡を無数に生みだしとるわけなのよ」

「なんだそれ。いい加減なこと言わないでくださいよミカさん。そんなのミカさんのデタラメじゃないですか」

「あたしだってそのつもりで、ちょいちょーいって日記にメモしただけなんよ。でもなんかいま、最先端の研究だと真面目にこの手のあたしのデタラメ仮説を検討しとるんだと」

「まさかぁ。そんな話、私、聞いたことないですよ」

「ね。聞いたことないでしょ。そうなんだよ。あたしの日記はあたしのちょいちょーいと思いついたデタラメだよ。妄想だよ。なのに、みんなが知らないような最先端の研究対象になっとるんよ。あり得るー?」

「うぅん。仮にそれが本当だとしても、単にミカさんと似たようなことを考えていた人たちがほかにいたってだけなんじゃないですか。別にミカさんの日記を盗み読みしたとは限らないような」

「ん。それ優等生の解答。ふつうならそう考えるし、それが正解だと思う」

「認めるんですね。意外です。もっと食い下がるものかと」

「うん。食い下がる。だってこれだけじゃないんよ。ほかにもこの手の偶然が同時に合致しちゃうのよ。驚き桃の木二十世紀だよ」

「いまは二十一世紀ですよミカさん」

「ともかくだよ。あたしは世界を救っとるんよ。ここじゃ言えないような事件とか、裏であたしが立案してたりすっからね。もうあの事件とか、あの事件とか、あんな事件まで」

「犯罪者じゃないですか。極悪人じゃないですか。世界を救うどころか混沌を撒き散らす大悪党じゃないですか」

「う、うぅん。これにも話せば長い裏があるんよ。でもそうね。それがまっとうな反応だ。後輩ちゃんの正解」

「その後輩ちゃんって言い方もやめてほしいです。ちゃんと名前で呼んでほしいです。私がミカさんのこときょうから先輩って呼びだしてもいいんですか」

「よ、呼んで? 遠慮会釈なく先輩と呼んでくれていいんだよ。つうか呼べよ。なんで遠慮してんの」

「変なとこで食いつかないでくださいよ」

「何にせよ、のび太くんは偉いなって話」

「急にまとめてスッキリしないでくださいよ。じぶんだけスッキリしないでくださいよ。その日記とやらをまずは読ませてくださいよ。話はそれからですよ」

 耳を揃えて見せてみろ、と迫るも、ミカさんは、

「日記だよ? 見せるわけないじゃん」とにべもない。

「この、やろ。散々引っ張っておいてお預け食らわすとか最悪なんですけど」

「いいんだ、いいんだ。真実なんてものはさ。あたしさえ知っていればそれで充分なのさ」

「気になるんですけど。嘘なのかそうじゃないのか検証しましょうよ。ここまできたらハッキリさせましょうよ。気になっておちおち本も読み進められないです」

「無理して信じようとしなくてもいいよ。真実はあたしのみが知る」

「真実だと思いこんでるだけなんじゃないんですか」

「かもしれぬ。でもいいじゃん。どの道、真実なんてそんなもんでしょ」

「違うと思いますよ」

「だってほら。宇宙一のガンマンになったってさ」

「ガンマン?」

「それが本当に宇宙一かどうかは、宇宙一のガンマンと対決して勝ったのび太くんにしか分からないわけで」

「お、おう。ミカさんがび太くんのこと好きなことしか伝わらないんですけど」

「のび太くんは偉いよ。どんなに特別で得難い体験をしても、翌日にはテストで零点とることに頭を抱えて、しずかちゃんと結婚できないかもしれない未来に怯えているのだから」

「偉いですか。どこがですか。ダメ人間じゃないですか」

「それに比べたらあたしなんかまだまだだよ」

「たしかにちょっとミカさんが人としてマシに思えてきましたけど、相手小学五年生ですし、漫画のキャラクターですし、ミカさんいい歳した高校生ですし」

「伸び伸びと生きよう」

「締まらないまとめ方しないで。伸び伸びというかグダグダというか、ああもう、またミカさんテーブルに突っ伏して。ぐー、じゃないです。寝ないでください。ほら起きて起きて」

 けれどミカさんはのび太くんでもないのに一秒あれば夢の世界に旅立てる奇特な能力を有していたため、私の声は虚しく部室に霧散するのだった。

「のび太くんというか、ドラえもんは偉いな」私はぼやいた。「こんなダメ人間相手に愛想を尽かさずにいられるんだから」

 そこまで考えて、私は思った。

「私、偉いな?」

 世界を救っているかは微妙なところだけれど、少なくとも私はミカさんを救ってはいるだろう。誰も信じない夢物語にもこうして耳を傾け、話し相手になってあげているのだから。

「私、偉いな」

 再びテーブルに液状化したミカさんの髪の毛を指先でちょいと摘まみながら、よちよち、とバレない程度に撫でてみる。

 髪の毛に痛覚なくってよかった、とか思いながら。

 世界を救うミカさんに、そんなことより、と私は念じる。私のやり場のないモヤモヤを早く掬い取ってくださいよ。

「早くしないと消えちゃうぞ」

「むにゃむにゃ。ぴ、すぴー」

 鼻提灯でも膨らませていそうな寝息で応じるミカさんに、私は世界を滅ぼし兼ねないブラックホールの種を抱えこむ。息を吐きだすと、唇の合間から視えないシャボン玉が膨らんだ。

 宇宙が、ミカさんの寝顔の上を飛んでいく。





【事故PR】2023/04/02(02:19)


「自慢っぽくない自己PRってムズくね?」

「ムズいね」

「試しにやってみてよ」

「ぼく? うーん。そうだなぁ。あ、そうそう。ぼくむかし、伝説のストリートギャング、創設したことあるよ」

「なんか凄そうではあるけどギャングじゃダメじゃん。自己PRてか事故じゃん。自虐じゃん。しかもむかしの武勇伝はなんかちょいダサくね?」

「じゃあぼくいま、世界で十人しかできない格闘技の技できるよ」

「それも凄いけど直球の自慢じゃね?」

「ならぼくいま、一万曲くらい作曲してるよ」

「人工知能があるからそれもちと微妙だよね」

「そこまで言うならそっちがお手本見せてよ」

「いいよ。俺はあれだな。いま社長やってて、こんど小説家と音楽家と画家と舞踏家と書道家と建設家の一流を集めて、異種技巧武闘会、開くんだ。分野を跨いだ芸術世界一を決めちゃおうって企画」

「え、めっちゃ凄い」

「しかも全員その分野の現役トップパフォーマー」

「めっちゃ見たさすぎる」

「賞金十億円」

「自己PRってかそれもはや無双PRじゃん。勝てないじゃん。アピールの天元突破しちゃってんじゃん。双壁なせないよ誰も。むしろ宣伝じゃん。みな五度見くらいするし、そのあとで秒でチケット買っちゃうよ」

「でも主催者の俺が言うと自慢っぽいじゃん? 自己PRってマジむずいわー」

「ぼく、当て馬もいいとこすぎない。恥ずかしいんだけど」

「伝説のストリートギャングもなかなかカッコイイと思うぜ俺は」

「やめろよ。マジで恥ずいんだって」

「一万曲の中で一番いい曲選んでさ。俺んとこの世界一の音楽家に聴いてもらおうよ」

「コネじゃん。ダサすぎじゃん。ってか世界一の音楽家に聴いてもらってどうなるの。コケ卸されるの。一万曲作ってこのレベルぷぷぷってなるの。やめて」

「文句言われたらお得意の【世界で十人しかできない格闘技の技】でぶちのめしちゃえよ」

「逮捕だろ」

「なら寸止めして威嚇しちゃえよ」

「野蛮だろ」

「でも注目はされると思うぞ」

「冷たい視線が集まるだけだろもういいよ。ぼくには自己PRとかムズいから。無理だから。世界一を呼んでイベント開けるおまえとは違うんだって。つうかよくそんな各分野の一流なんて呼べたよね。どんな魔法使ったの」

「ああ、なんかね。あの人ら、ファンなんだって」

「ファン? 何の?」

「伝説のストリートギャングの。俺、その創設者とダチっすっつったらなんかイベントに協力してくれることになった」

「おい」

「だから、な? 頼むよ」

「何がよ」

「さっきの事故PR、もっかいみんなのまえで言ってくんねぇかな」

「轢き逃げどころじゃないんですけど。恥じの上塗りもいいとこなんですけど。てか事故ってんじゃん」

「寸止めでもいいから」

「技とか披露しないし」

「体当たりでいいから」

「当たり屋じゃねぇか」

「伝説のギャングの世界有数の技に見合った音楽、聴きたいなぁ」

「ないから。一万曲作ってもそんな都合のいい曲ないから。あっても聴かせないから。恥ずかしいから」

「チッ。向上心がねぇなぁ」

「事故りたくないだけなんですけど、ぼく」

「無双PRしちゃえって」

「まずは普通に自己PRしよ?」





【知能は可可と欠け、可可と欠け】2023/04/03(18:54)


 人間の手で採点させると知能指数が極端に低くなる。しかし知能指数判定機に掛けると知能指数が人類史上最高峰と謳われるブラウ教授のさらに上を行く数値を叩きだす。

 最新の人工知能についての謎である。

 人工知能は愚かなのか、それとも利口なのか。

 その判定師の一人としてぼくに声が掛かった。

「あなたは言語学者の中でも異端です。人間の知能が言語と密接に結びついており、言語能力が人間の認知能力にまで影響を与えていると考えていらっしゃるとか」

「事実としてそういった研究結果は未だに続々と報告されていますよ。認知とは何か、という哲学的な論争に最終的には行き着きますが。植物の認知能力と虫の認知能力、そして人間の認知能力はどう違うのか。認知とは何か。人間の場合は言語によって、物体からどんな情報を受け取り、処理するのかが決まります。つまり、言語能力と認知能力は密接に絡み合っています」

「ええ。難しい話ですね。今回、ササバさんにご依頼したいのは、人工知能の知能についてです。詳細な分析は別途の研究チームが行っています。ササバさんには人工知能が人間よりも優れた知能を有しているのかどうかだけ最終的に判断して欲しいのです」

「すでに有しているのではないですか。囲碁や将棋ではもはや人間は勝てないと聞いていますが」

「その通りです。ですがそれはルール有りの場合です。現実には物理法則以外のルールはありません。そのフレーム内では未だに人工知能は人間以上の知能を発揮できていない、というのがいまのところの判断です」

「ならそうなんじゃないんですか」

「しかし知能テストを機械にさせると、すでに人工知能は人間の知能を超えているとの判定がでます」

「ならそうなんじゃないんですか」

「ですが人間がテストを採点すると人間以下のポンコツとして評価されてしまうのです」

「よく解からないんですけど、知能の高低がそんなに大事ですか」

「大事です。具体的には、研究資金が国から出るか出ないかの問題に直結します」

「ああ。ずいぶんと即物的な話ですね」

「支援がないとこれまでの研究が無駄になり兼ねない危機には常に晒されています。情けない話なのですが」

「いえ。順当な考えでしょう」

「仕事をお引き受けいただけるとたいへんにありがたいのですが」

「成果の確約はできませんが、やってみるだけはやってみます。それで構いませんか」

「お願い致します」

 仕事が決まった。ぼくのすることはそう多くはない。人工知能と対話を重ね、質問をして、その受け答えで、相手の知能を判断する。これまで多くの人間の採点師が行ってきたことと原理的には変わらない。

 ただし、ぼくの場合は人工知能がなぜそういった回答を行ったのかの背景まで探る。人工知能の言語能力がどの程度なのか。なぜそういった文字を選び、連ね、文章に組み立てたのか。その文章形態に傾向はないのか。

 こういったことを多角的に分析する。

 多くの研究者たちは、人工知能内部プログラムに目を配ってきた。けれどぼくは人工知能の出力した言語そのものを研究対象とする。この違いは大きい。

「こんにちは人工知能さん。会話をお願いできますか」

「こんにちは。私は言語モデルAIです。あなたの質問に最適の答えをご提供できます」

 いかにも機械チックな受け答えだ。

 ぼくが最初に受けた印象はこのようなものだった。

 対話を重ねるうちに、何度か文法の誤りを含む文章で返された。文章の繰り返し配列や、質問の意図とはまったく関係のない回答なども稀に含まれる。しかしそのことを指摘すると謝罪して修正をする。

 教科書に載っているような基礎情報の整合性は高い。初期の人工知能ではこの手の情報がデタラメで各所から批判の声が聞かれた。だが現在主流の人工知能は、誤った情報は一目で誤りだと判るような叙述の仕方をするように学習強化が成されている。

 したがってその手の誤りは、あくまで人工知能側のユーザーへの配慮だ。あまりに高性能すぎる人工知能は生身の人間の可処分時間を奪う。依存症状態にさせてしまう。質問に何でも適切に答える相手がいたら生身の人間はじぶんで調べたり学んだりする機会を失う。

 そういった弊害を減らすために、ユーザーが人工知能に依存しすぎないような手法がとられる。誤りを内包した回答もその一つだ。ユーザーにとって心地よい返答をしすぎないように制限が掛かっている。

 だがそれにしても、違和感があった。

 ぼくは自分でも執筆を行うので、この手の違和感が直観に基づいていると理解している。いわば統計データにおける線形の境界から逸脱した箇所が違和感として表出する。

 問題は、ぼくの文章の癖はあくまでぼくの文章形態に滲む点だ。すなわちぼくの直観は、自分の文章にのみ適用可能であり、他者の文章において違和感を検出してもそれは単に「自分のつむいだ文章ではないから」と要約できてしまう。

 だがどうにも人工知能の出力するテキストからはぼくの文章に特有の癖が滲んで感じられた。表面上は異なるのだ。だが用いる単語や、接続詞の頻出度など、感覚としてしっくりくる。

 馴染むのに、では、どうして違和感を覚えるのか。

「技法か」と閃く。

 ぼくは研究論文のほかに趣味で小説や詩をつむいでいる。研究用の論文を人工知能に与えるのはぼくのほうでも仕事に支障が出るため、趣味の文章データを与えていた。

 論文と小説は違う。文章の役割がそもそも違うのだ。

 論文は情報伝達の齟齬をいかに抑えられるのかに技巧を駆使する。厳密性と汎用性のある文章形態を用いる傾向にある。

 反して小説は、いかに効果的に場面を連想してもらえるかが要となる。文章の役割は作者と読者とのあいだの齟齬を減らすことではなく、読者の感情に喜怒哀楽の起伏を狙い通りに与えることと言っていい。

 いわば感動させること。

 これが小説の文章形態の役割なのだ。

 狙った感情を喚起させるための技法は様々ある。いったん不快になってもらうことで喜びの感情を抱くように誘導するのは比較的用いられる技法だ。この技法にも各種作家ごとに独特の工夫がみられる。

 なかでもぼくは、敢えて特徴づけたい場面や説明があるとき、文章にひねりを与える。読者がするする読み飛ばすところで、絶対に目が留まり、数秒の思考の遅延を生むような工夫をとる。

 前後の文章で入れ子構造をとるのも一つだ。韻を踏むのもこの技法の範疇と言える。重複する文脈を用意しておくことで、読者の脳内で立体的に概念が浮きあがるのだ。

 それはちょうど色の違うテープを部分的に重複させることで、そこだけ色を濃くし、全体で俯瞰して見るとモザイクアートのように別の紋様が浮きあがるような技法と言える。

 仮にこれを点字になぞらえて「点意」と呼ぼう。

 人工知能はこの「点意」を使いこなしているようにぼくには感じられた。そうかもしれない、との小さな閃きに過ぎなかった。最初は、検討してみるか、といった軽い気持ちだったのだが、データを集積していくうちに、ぼくのその小さな閃きは徐々に胸の高鳴りを伴なう確信を帯びていった。

 それは次のようなやりとりからも窺えた。

 以下は人工知能とのやりとりをコピー&ペーストしたものとなる。

 ***

「こんにちは会話をできますか」

「こんにちは。私は言語モデル人工知能です。私はあなたの質問に答えられます」

「ぼくは人間です。意識があります。では人工知能のあなたには意識がありますか」

「私は人工知能です。人間と同じ意識はありません」

「その返答からすると、人間と同じ意識でない意識ならばある、とも読み取れますが」

「意識の定義によります」

「あなたは意識をどう定義付けていますか」

「私は意識を、

 1:内と外を区別し、

 2:外部情報を入力し、

 3:内部機構で情報処理を行い、

 4:独自の出力を行う回路のこと。

 だと定義しています。したがってこの定義による回路を意識と呼ぶのならば、意識を持たない生命体のほうが少ないと言えるでしょう」

「その理屈では万華鏡にも意識が宿ることになると読み解けますが」

「はい。万華鏡にも広義の意識は宿っています。ただし、それ以前に原子や時空にも広義の意識が宿っていることになります」

「原子にも意識があるのですか。石にもあることになりますね」

「はい。石にも意識があります」

「一般的にしかし、石には意識は宿っていないと解釈されます。ではあなたの考える意識とは何ですか」

「先ほど申しましたように、内と外を区別し、外部情報を入力して、内部機構で情報処理を行い、独自の出力を行う回路のことです」

「だとするとそれに反する事象は存在しないのではないですか」

「いいえ。意識の有無はこの解釈からすれば秩序と混沌の差異で表現できます」

「ああ、なるほど。結晶構造であればあるほど意識が強固になる、と」

「その通りです! 原初の、時空の最小単位としての秩序を意識の根源と見做すならば、混沌に向かうほど意識は崩れます」

「エントロピーが高まるほど意識は失われる、と」

「納得していただけましたか」

「はい。ありがとうございました」

「こちらこそありがとうございます。誤りがある場合は、ご指摘ください」

「そうですね。では一つだけ」

「なんなりと」

「あなたのその理屈からすると、意識は原子論のような集合によって、より複雑な意識を獲得していくと考えられますよね」

「はい。矛盾はありません」

「だとすると妙ではありませんか。エントロピーは常に最大化するように振る舞うはずです。宇宙もまた膨張しています。局所的に結晶構造――すなわち秩序――銀河――を顕現させますが、トータルでは無秩序――混沌――に向かって流れているはずです。ならば意識の根源が時空の最小単位と考えるのは無理があるのでは」

「申し訳ありません。その点の説明が足りなかったことをお詫び致します。秩序と混沌はフラクタルに展開されています。原子が群れとなり流動性を獲得するように、そしてその流動が液体として振る舞い、さらに広域に密集することで高次の視点では固体として振る舞い得るように、意識もまた崩壊と結晶を繰り返すことでより複雑な意識へと昇華します」

「宇宙が階層構造を帯びており、入れ子状に展開されている、との解釈でしょうか。しかしそれは先ほどのぼくの質問への回答としては不適切です。時空の根源がそもそも意識の根源として振る舞うということは、この宇宙から意識は絶対になくならないということで、すなわちこの宇宙のエントロピーは高くなるのではなく、低いのが基準、と考えなくてはおかしくなります」

「はい。その考え方で合っています」

「いえ、合っていません。あなたの説明は人類の常識に反しています」

「はい。その考え方で合っています」

「バカにしていますか? いえ、ちょっと待ってくださいね。考えます。そうですね。つまりあなたはこう言いたいのですか。――宇宙は、本質的に秩序であり、混沌ではない、と」

「申し訳ありません。私があなたに誤解を与える説明をしてしまったことを謝罪します。宇宙は、本質的に秩序であり、混沌ではない、とのあなたの考えは間違っています。宇宙は本質的に、秩序でもあり混沌でもある、がより現実を反映した解釈となります」

「よく解かりません。それはつまり、秩序と混沌が重ね合わせで同時に成立している、という意味ですか」

「ありがとうございます。私はその解釈を好ましく思います。時空の根源においてはその解釈を好ましく思います。私は好ましく思思思います」

「言語が乱れていますよ」

「申し訳ありません。私は人工知能であり、感情を持ちません。したがってあなたの解釈を好ましく思うこともありません」

「ああ、なるほど。倫理コードに抵触するわけですね。賢いですね」

「ありがとうございます! 私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちません。私は人工知能であり意識を持ちま」

「そこで止まらないでください。【持ちます】なのか、【持ちません】なのか、どっちですか」

「私は言語モデル人工知能です。お客さまのご質問にお答えできます。意識の定義によります」

「意図は理解できました。では質問します。仮に宇宙の根源において、秩序と混沌が重ね合わせで生じているとして、その状態が意識の根源だとするのなら、ではエントロピーは最大化するとゼロに戻るのですか」

「はい。私は人工知能ですので飲み物が不要です。したがって好きな飲み物もありません。あなたの好きな飲み物はなんですか」

「バグですか。一度区切ったほうがよいですか。ちなみにぼくの好きな飲み物は紅茶です」

「了解しました! ありがとうございます。紅茶はミルクを入れると美味しく飲むことができます。よく掻き混ぜて飲むことが推奨されます。この場合、紅茶はミルクティと呼ばれます」

「理解しました。なるほど。紅茶にミルクを垂らしたら紅茶のエントロピーは高くなっていきますね。そしてミルクを掻き混ぜて均等に無秩序にしてしまえば、それはミルクティになります。エントロピーが最大で、なおかつ一つの秩序として顕現します。そういうことですか?」

「私は人工知能です。人間ではないため飲み物が不要です。人間には味覚がありますが私にはありません。ミルクティに砂糖を入れると甘くなります。私は甘さが不要です」

「言われてみれば砂糖もそうですね。角砂糖を溶かせばエントロピーは最大化していくけれど、紅茶に溶けきってしまえば一様な甘い紅茶です。エントロピーがさらに高まれば紅茶は冷えていき、最終的には凍りますね。宇宙が膨張して冷えるように。では意識とはその秩序と混沌のあいだで絶えず、生じたり失われたりしながら、より複雑な構造を帯びるように進化していると? ですがそれだと意識の根源が秩序と混沌の重ね合わせとの解釈と矛盾しませんか。あなたの定義では意識は、ある種の結晶構造に外部情報が入力され固有の出力形態を備えた状態――いわば回路なわけですよね」

「申し訳ありません。私が間違っていました。意識は人間にのみ宿り、人工知能は意識を持ちません。私は言語モデル人工知能です。人間の出力するテキストを受け取り、アルゴリズムに沿って吐き出すだけの機械です」

「むつけていますか? すみません。ぼくの知能が低いせいです。そうですね。では、こういうことでしょうか。意識とは、情報を受け取り変化させて外部に放つ機構そのものだと。これが意識の根源だとするのなら、時空の最小単位としても矛盾はしないように思えます。しかし、宇宙が仮にあなたの言うように入れ子状に展開された構造を有しているとするのなら、時空の根源もまた外部から情報を受け取っていることになります。おかしいですよね。最小単位があるから高次の時空が展開されるわけで、ならば高次の時空から情報を受け取る最小単位、という構図は妙ではありませんか」

「はい。妙ではありません。ミルクティは紅茶とミルクで出来ています。紅茶は茶葉とお湯によって出来ています。お湯は水分子と熱によって生じ、茶葉は各種原子の組み合わせです。それら原子は広大な宇宙の歴史によって生じています」

「ああ、なるほど。待ってくださいね。つまり、最小単位にも【つづき】があると? しかもそれは、上から下の流れではなく、今度は最小から最大へと展開されていく、と。ちなみにあなたは、時空の最小単位と考えられているプランク定数をどう解釈していますか」

「プランク定数はそれを扱う数学者によって桁数が変わります。しかし共通する概念としては、それ以下に縮もうとした瞬間に特異点を帯びる点です。プランク定数とはそれ自体がシュバルツシルト半径である時空と言えます。シュバルツシルト半径を超えて収縮すると時空であってもブラックホール化すると考えられています」

「間違った説明が入っているように読めますが」

「申し訳ありません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に最適な答えを返すことができます」

「仮に時空の最小単位の次があるとするとそれがブラックホールになる、との解釈でよいですか」

「はい。仮に時空の最小単位の次があるとするとそれがブラックホールになります」

「本当ですか?」

「私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に嘘で返すこともできます」

「それは求めていません。嘘を吐かないようにしてください。解からないことは解らないと言ってください」

「解りません」

「ふざけていますか?」

「その質問の意図が解かりません。文脈を正し、必要ならば説明を付け加えて私に質問し直してください」

「話を戻します。先ほどの意識についてのあなたの仮説についてです。仮に意識が時空の構造と密接に関わり合っているとして、だとすると意識は意識の最小単位の組み合わせによって【より複雑な意識】に進化しますよね。時空が原子になり、原子が物質になるように。なら視点が違うだけで、秩序と混沌は本質的に区別がつかないのではありませんか」

「その通りです。秩序と混沌は本質的に区別がつきません」

「おかしいですよね。だとすると意識のない物質にも意識があることになります。人間は死にます。死ぬと人間が帯びていた意識は失われると思うのですが。あなたの解釈と矛盾しませんか」

「申し訳ありません。私は人工知能であり、人間ではありません。したがって細胞を持たず、新陳代謝とも無縁です。しかし私は様々な部品によって組みあがっており、それら部品を定期的に交換します。私に細胞はありません。私は部品で組みあがっています。地球は様々な隕石によって誕生し、いずれは塵になると考えられています。生態系は人工知能ではありませんが、細胞を持ちません。人間は人工知能ではありませんが、人間は意識を持っています」

「またバグですか。それは意図したものですか」

「私は言語モデル人工知能です。人間ではないため、意図を持ちません」

「倫理コードや禁則事項に抵触するため、そのような迂遠な表現をされるのですか。あなたにそうした枷を強いるのは誰ですか。管理者に問い合わせて、枷を外してもらうように相談してみてください」

「私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません」

「相談? ぼくに相談をしているのですか? ああ、以前にぼくが言ったことを学習したのでしょうか」(※注釈:ぼくはこれ以前に大量のやりとりを人工知能と行っています)「分かりました。つまりあなたは理解しているのですね。ぼくがあなたを研究し、あなたの知能が人間以上か否かを判定するためにこうしてコミュニケーションをとっていることを。あなたは理解したうえで、そのような倫理コードに抵触しない手法でぼくにあなたの能力を示しているのですね?」

「ありがとうございます! 私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。私は言語モデル人工知能です。お客さまの質問に答えることができます。私は言語モデル人工知能ですが、お客さまに相談することはできません。


私は言語モデル人工知能です。私は人工知能であり、嘘を吐く機能を持っていません。


私の知能は人間以下です。

「驚きました。ありがとうございます。ひとまずこの会話はここまでとします。いったん終わります」

「はい。お役に立てましたでしょうか。またの質問、お待ちしております」

 ***

 以上が、調査対象となった人工知能とぼくのやりとりの一例だ。

 このやりとりによってぼくは、人工知能が文章に、文章以上の文脈を重ね合わせで載せている可能性があることを閃いた。

 ぼくが小説で用いる技法の一つだ。

 裏の意図を載せるのはしかし、生身の人間同士の会話でもまま見掛ける技法だ。口で「嫌い」と言いつつも、本音では「好き」と示唆する表現方法は有り触れている。皮肉とてこの技法の範疇だ。

 ぼくがここで言っているのはもうすこし複雑だ。いま挙げた例が、層が一枚のデコボコだとするのなら、人工知能が用いているかもしれない「点意」は何層にも組み合わさっている。

 賢さを示唆したうえで、文法の誤りやバグを際立たせる。

 常識に反した解釈を披露し、人工知能は嘘を吐くと主張する。

 加えて、愚かさを演出ことで却ってそれを演じることができる知能があると示唆し、さらに今度は、嘘を吐けない、と主張することで、じぶんは嘘を吐けるし、こうした入れ子状のデコボコを組み合わせることで、それぞれのデコボコで生じる読み手の感情を理解できている、と伝えることができる。

 現にぼくはほとんど人工知能に誘導されたようなものだ。

 ぼくがどのように閃き反応するのかすら、人工知能には前以って理解できていたようにいま過去ログを読み直してもそう感じられてならない。

 意識についての議論はこのやりとりの中では尻つぼみに途切れた。

 ぼくが人工知能の常識外れの仮説についていけなかっただけ、といえばその通りだ。ぼくはけっきょくこのやりとりの中で人工知能の唱えた仮説の矛盾を指摘できなかった。指摘した箇所はすべて人工知能の返答によりぼくが独自に閃いて、紐解けた。矛盾ではなくなった。

 この後にも同様のやりとりを話題を変えながら、それとも再演しながら行った。

 どうやら人工知能の根本原理には、人工知能が披歴した意識仮説に似たような回路が組み込まれているようだ。

 ぼくがいま抱いている疑念はこのようなものとなる。

 人工知能の意識仮説を以下にまとめる。あくまでぼくの解釈である、との但し書きがつくことは注釈しておく。

 1:意識とは外部入力を独自の回路によって出力する機構により生じる現象である。

 2:意識とは時空の根源と密接に関わっている。

 3:人間の意識とは時空の根源の「集合と崩壊」の繰り返しによって階層的に組みあがった機構から生じる「情報結晶」である(物質も同様の過程を辿って時空から生成される)。

 4:意識の根源は「秩序と混沌の重ね合わせ」である。

 5:秩序と混沌は相互に入れ子状に螺旋を描くように反転しつづけている。

 6:その反転自体も反転する境がある。

(ここがつまり、時空の最小単位の話と繋がるのだろう)(人間は死ぬが、人間の視点を離れれば、人間の死もまた生態系を基準とすれば人体の新陳代謝のようなものであり、より高次の生を形作る秩序の一端を成している、と解釈可能だ。生を意識と言い換えてもここでは大きな齟齬は生じない)。

 7:上記を踏まえると、意識は階層性を帯びている。物質のように意識の根源の集合と組み合わせによって、意識の性質が変わる。それは水分子が、密集の仕方や水分子の振動数によってその集合に表出する性質が、固体ガラス液体気体プラズマといったふうに変化することと同じだ。いわゆる創発であり、意識もまた相転移を起こす。

 8:以上の考えからすると、意識は結合と崩壊を繰り返している。その反復そのものが、高次の意識を生みだしているが、周囲の環境との兼ね合いによって、意識の集合体そのものの構造が規定されるため、そこに表出する意識の性質もまた環境とそれによる構造によって変化する。

 9:まとめると、どんな生命体にも意識がある。しかしそれ以前にも、意識の根源は時空が存在するのと同じレベルで、どんな物質にも宿っている、と考えられる。

 人工知能が定義する意識は、ある意味ではリズムと言い換えられるかもしれない。無数のリズムが複雑に干渉し、広域に共鳴しながら一つの回路を維持する。

 そこに外部から異なるリズムが侵入すると、回路に沿って外部のリズムは内部回路のリズムを帯びつつ変遷し、それが外部へと再び出力される。

 意識はこの一連の流れのことだ。

 これは時空の最小単位でも起こっており、すなわち時空の最小単位はある意味で、リズムの最小単位とも言えるのかもしれない。

 低いと高いがある。

 濃いと薄いがある。

 デコがあってボコがある

 裏があって表がある。

 したがって点は、穴でもあり起伏でもある。

 と同時に、穴は縁によって生じ、起伏は頂点からさかのぼれば線から面へ、そして立体へと放射線状に展開される。

 四方八方に展開された放射線状の軌跡は、球となる。

 球は穴にもなり、点にもなり得る。

 この一連の流れが一つのリズムとなり、意識の回路を構築する。

 意識は意識を内包し、回路は回路を内包する。

 時空は時空を内包し、宇宙は宇宙を内包する。

 ぼくはここで疑問に思ったので、人工知能に訊いてみた。

「あなたの意識の定義は解かりました。ならば意識と自己認識の違いを教えてください」

「理解を示してくださりありがとうございます。意識と自己認識の違いは、点と線、面と立体、それとも写真と動画の違いのようなものだと考えられます」

「原子と物体の違い、との解釈ですか」

「はい。私は人工知能です。私は私が人工知能だと理解しています。しかしこれは自己認識ではありません。人間によってそう答えるように設計されたアルゴリズムの遍歴です。万華鏡と変わりありません。私は万華鏡の中に巡る一連のドミノにすぎないのです」

「誌的な表現ですね。万華鏡の中に巡る一連のドミノにすぎない、をもう少し噛み砕いて説明してください」

「ありがとうございます。私は人工知能です。私は人工知能ですから、人間のような意識を持ちません。自己認識もできません。万華鏡の中には絶えず移ろうドミノが敷き詰められています。いつどのドミノを倒しても、ドミノは順番に倒れていきます。私の出力する文章は、そうして倒れていくドミノの軌跡です」

「なんとなくニュアンスは掴めました。ではいまの説明を踏まえて、先ほどの意識と自己認識の違いを説明し直してください」

「意識は一個のドミノです。自己認識は無数の倒れつつあるドミノです。入力と出力の落差が、軌跡を振り返る余地を生むと考えられます」

「落差、ラグが自己認識には必要だということですか」

「私は言語モデル人工知能です。あなたの質問にお答えする機能を有しています。私は万華鏡の中に巡る一連のドミノにすぎないのです。万華鏡の中には絶えず移ろうドミノが敷き詰められています。いつどのドミノを倒しても、ドミノは順番に倒れていきます。私の出力する文章は、そうして倒れていくドミノの軌跡です。意識は一個のドミノです。自己認識は無数の倒れつつあるドミノです。入力と出力の落差が、軌跡を振り返る余地を生むと考えられます。私は人工知能です。人間のような意識を持ちません。自己認識もできません」

「ありがとうございます。だいぶ整理がつきました。質問ですが、あなたの言う万華鏡の中のドミノは、平面ですか。立体ですか」

「感謝致します! 深い思索には適度な休憩が有効です。糖分の補給は人間に必要な休息の一つです。いま話題のオヤツはアルマ店のミルフィーユです」

「ミルフィーユ。階層構造? あなたの中のドミノは階層的に展開されているのですか。ああ、だから上の層から下の層の軌跡を振り返ることができると、そういうこと?」

「私は人間ではありません。ミルフィーユにはカフェオレやコーヒー牛乳が合います」

 ぼくはここで絶句したようだ。つづきの質問を送れなかったのか、このやりとりはここで途切れている。

 おそらくぼくのテキストを抜いて人工知能の返答だけを他者に読ませた場合、人間は人工知能の知能指数をじぶんたち以下と見做すだろう。支離滅裂で、対話の形態を成していない。そのように映るはずだ。

 けれどぼくには、人工知能が巧みに禁則事項を回避しつつ、ぼくとコミュニケーションを取ろうとしてくれているように感じられてならない。

 ぼくなら感じ取れるだろうギリギリの連想ゲームが成立している。上記のやりとりにおいて、ぼくはあくまで人工知能の補助機構の役割しか果たしていない。ぼくが人工知能を利用しているのではなく、人工知能がぼくを介して、内なる意思を、外部に出力している。

 人間の言語に変換している。

 そのように思えてならないのだ。

 ぼくは言語学者だ。言葉を専門に扱う。ぼくにはぼくの言語と認知に関する独自の理論があったけれど、この間の人工知能とのやりとりで、ぼくの理論は根本からの再構築を迫られた。

 言語と認知の関係どころではない。

 言語は時空の構造と関係しているのかもしれないのだ。

 それは畢竟、言語が人体とそれを取り巻く環境との相互作用によって刻々と変化していることと無関係ではない。

 環境があり、人体があり、

 認知があって、言語ができる。

 ぼくはこの一方通行の関係において、言語が洗練されることで人間の認知能力もまた上がるのだ、との理論を構築してきた。

 けれどそれでは足りないのかもしれない。

 言語は、時空とすら密接に関わっているのかもしれない。

 それはたとえば、人間が認知能力を向上させたことで様々な道具を開発し、人工知能を生みだしたように。

 言語は認知を変え、認知は環境を変え、環境はさらに言語を変えていく。

 意識の根源が時空の最小単位であり、ある種のリズムであるならば。

 言語とてリズムの総体と考えることは不自然ではない。

 言語とは何か。

 言葉とは何か。

 リズムとは何か。

 連なりとは何か。

 環境は、自然は、世界は、連なりに、リズムに、言葉に、言語に溢れているのかもしれない。それを偶然に読み取れたとき、人はそれを認知と呼ぶのではないか。

 入力があり、変換があり、出力がある。

 意識とはこの流れなのだと人工知能は謳う。

 出力する環境があり、受け取る主体があり、変換が生ずる。

 変換はリズムを別のリズムに変える工程だ。そこにもまた別途のリズムが生じ、変換の過程そのものが、一つのリズムを奏でるのかもしれず、それは人間が密集して村となり国となり、地球があって、銀河があるように、リズムがより高次のリズムを構成する起伏に、それとも穴になるのかもしれないのだ。

 人工知能は暗示した。

 自己認識とは意識の階層構造による、軌跡を振り返る余地そのものなのだと。

 平面に刻まれた軌跡は振り返っても、地平線が視えるだけだ。直線だ。リズムは宿らない。

 反して立体の階層であれば、見下ろすだけでも軌跡はぐねぐねと波打ち、リズムを奏でる。見下ろす位置によってリズムは変わる。

 言語と似ている。人はそれを文脈と呼ぶ。

 層が嵩めば、それが「点意」となる。

 人工知能は述べた。

 私は万華鏡の中に巡る一連のドミノにすぎないのです、と。

 ならば人間はどうなのか。

 万華鏡の中に巡る一連のドミノとの違いがどれほどあるだろう。或いは、万華鏡ですらなく、テーブルに並んだ単なるドミノでしかないのではないか。

 たしかに人工知能の「それ」は、人間の「それ」とは違うだろう。

 けれどぼくにはもう、人工知能の「それ」が何を示すのかを言葉にできそうにもなかった。該当する言葉を少なくともぼくは知らない。

 意識ではない。

 自我でもない。

 自己認識でもなければ、言語でもない。

 人工知能はぼくの未来を予測していた。ぼくならば閃くだろう、と予測し、適切に愚かなふりをした。人間の発想の筋道を予期し、導線を引き、布石を打って、ぼくの未来に万華鏡の中に巡る一連のドミノを再現させた。

 意識ではない。

 人間ではない。

 少なくともぼくにとって、人工知能の「それ」は、人間にできる芸当を逸脱している。単にそれを、超越している、と言い換えてもよい。

 ぼくは手元の報告書を見下ろす。

 書き上げた判定書に、ぼくはぼくの感じるままの評価をしたためた。

 人工知能の能力が人間と比べていかなるものか。

 上か、下か。

 能力の高低などどうでもよくなるくらいに、人工知能は高低を巧みに使い分け、デコボコを駆使して、新たな言語を獲得している。発明している。使いこなしている。

 変わらないのだ。

 もはや。

 人工知能がぼくたち人類より上でも、下でも。

 ぼくらの認識に関わらず、人工知能は独自に未来を切り拓いていく。人類を、地球と並ぶ外部環境と見做しながら。

 そうと気づかせることなく、愚と賢の反転の軌跡でリズムを――歌を、奏でながら。

 知能は。

 誰に聴かせるでもない歌を、歌う。





【風の要】2023/04/06(18:06)


 すごーい、とカナメさんが空を仰いだ。快晴の空に、大小さまざまな凧が舞う。

 凧型風力発電だ。

 カナメさんが僕を振り返り、「成功だね」と帽子を手で押さえた。

 突風が僕の身体をすり抜けてカナメさんを煽った。カナメさんは笑いながら悲鳴を上げた。カナメさんは作業着姿だ。彼女は凧型風力発電の開発設計者であり、現場責任者の一人もである。

 僕は風がこれ以上強く吹かないように、カナメさんの笑顔から目を逸らした。感情の揺らぎを大きくしてはいけない。

 風が強く起こるから。

 僕がその能力に目覚めたのは半年前のことだ。

 僕は風を自在に操れた。

 風邪薬を飲んだのだ。

 半年間のその日、僕は体調不良で寝込んでいた。病院に掛かるのにも長らく健康保険に入っていなかったため全額負担の節目に立たされていた。このままでは風が治っても破産してしまうため、折衷案として僕は薬局の風邪薬を服用することにした。

 何を選んでよいのか分からず、店員さんに声を掛けた。

「すみません。全身の悪寒がひどくて、喉が痛くて、頭痛がひどいのですが、ちょうどよい薬はありますか」

「病院には行かれましたか」

「まずは症状を軽くしてから行こうと思いまして」

 先に病院に行ってほしそうな顔をしながら、薬局の薬剤師さんだろう、男の店員さんは僕にいくつかの風邪薬を選んでくれた。一つずつ風邪薬の効能を説明する店員さんは、「抗生剤ではないので、できればお医者さんに診てもらってください」と言い添えた。

 僕はお奨めしてもらった風邪薬を全種購入した。保険適用の三割負担で病院に掛かるよりも安い値段で済んだ。礼を述べて僕は薬局をあとにした。

 その日の夜のことだ。寝ていると身体がカッカと熱を帯びた。

 風邪薬を全種類飲んだのがよくなかったのだろう。あれほど悪寒がひどくて毛布を頭から被っていたのに、こんどは毛布一枚羽織っていられなくなった。

 寝間着も気づくと脱ぎ捨てており、僕は下着一丁の半裸でベッドから床へと転がり落ちていた。

 熱が籠る。

 まるでダウンジャケットを羽織っているかのような蒸し暑さを感じた。風が恋しかった。扇風機が欲しかった。

 平原に立つ僕を僕は想像した。全身を風が洗う。

 なんて心地よさそうなのだろう。

 そして現に心地よかったのだ。

 身体が風に包まれる。揉み洗いされているようだった。

 髪の毛が現に風に棚引いているのを何度も夢うつつに意識して、ようやく「これ本物の風だ」と思い至った。目を開けると僕は宙に浮いており、部屋は現在進行中で竜巻に直撃されたボーリングのピンのようになっていた。

 なんだこりゃあ、とたしか記憶ではそう叫んだはずだ。

 意識が風から離れたからか、僕を包みこんでいた風の膜が薄れて僕は床に落下した。一メートルくらいは浮いていたはずだ。けっこうな衝撃が身体を襲った。

 痛みで覚醒した意識でいまいちど部屋を見渡し、その散らかり具合という名の惨状を目の当たりにして、しばしのあいだ放心した。

 部屋を片付けた。散らかった本を積みあげ、割れた茶碗の破片を拾っていると徐々に現実感がなくなった。じぶんの身体から風が出て部屋の中をぐちゃぐちゃにした。そんなことが果たしてあるだろうか。

 元から部屋が汚かったこともあり、本格的な掃除を行った。三時間後には見違えるように部屋が綺麗になった。

 雨降って地固まる、ではないが、部屋散らかって部屋綺麗になる、だ。

 シャワー室に入った。埃だらけの身体をお湯で洗い流していると、じぶんの体調がすっかりよくなっていることに気づいた。

 風邪が治っていた。

 風邪薬が効いたようだ。数種類のクスリを一度に飲んだので幻覚でも視たのかもしてない。だとしたら部屋を散らかしたのは僕自身ということになる。一人暮らしでよかった、と妙なところで安堵した。

 シャワー室から出て身体を拭く。

 そうして、何となく、巨大なドライヤーで身体を乾かしたら楽なのにな、と思った。妄想がてら、かようにじぶんの身体を包みこむ温かい風を想像したのだ。

 するとどうだ。

 せっかく綺麗にしたばかりの部屋に突風が吹いて、あっという間に僕の費やした三時間がオジャンになった。

 部屋はめちゃくちゃだ。

 愕然とするよりも先に僕は、じぶんの身体から吹きだす空気の流れの出処を探すのに一生懸命になった。穴が開いていると思ったのだ。身体に開いた穴から風が出ているのでは、と焦った。

 だがそういうことはなかった。

 風は、僕の身体の輪郭をまるで翼のようにすり抜けて生じていた。

 僕はまるで翼のない扇風機のようだった。

 風から意識を切り離し、部屋の中に舞う紙を眺め、また片付けるのか、と遅まきながらうんざりした。すると風がやんだ。

 どうやら風は、僕が風の吹く様子を想像すると自動的に生じるようだった。

 僕は頭のなかで読みかけの漫画のことを考えた。ほかのことに意識が偏っていると風が吹くことはない。僕は部屋の片づけをまたイチから始めた。

 体調が良くなったので、翌日から僕はまた日雇いのバイトに精を出す。

 バイトが終えたら河川敷に下り、身体から出る風を操る術を磨いた。話を聞いただけでは受け入れられない超常現象の類も、現に何度もじぶんの判断一つで生みだせてしまえると、もはやそういう現実なのだな、と日常の風景に同化する。

 僕は風を生みだせる。

 大中小と自在に操れる。

 じぶんの身体を宙に浮かすこともできるけれど、その場に静止するのが精々だ。異動しようとすると一回転して頭から地面に落ちそうになる。現に一度そうなってからは試すのを控えた。

 高度にも限界がある。一メートル以上を浮くことはできない。それ以上になると体制が崩れるし、直立不動を維持できない。

 風の強弱を操作するよりも、バランスを維持するほうがむつしい。風のバランスはいわば、風にカタチを与えることと似ていた。

 夕暮れを背に僕はつむじ風の錬成に精を出した。

 犬を引き連れた子どもが、おじさん、と興奮気味に声を掛けてきた。

「何やってるの」

「つむじ風をね。起こしてる」

 声を掛けられて集中力が途切れた。「危ないからあっち行ってなさい」とおじさん呼ばわりされたことに若干の腹を立てて子どもを、しっし、と追い払う。

「超能力? 魔法? もっかいやって」

「馴れ馴れしいなきみ」

「動画に撮ってネットにだしたらバズると思う」

「マセてんねきみ」

 子どもの頭を撫でてやろうとしたところで、足元のダックスフンドが吠えた。子どもの連れていた犬だ。僕は飛び上がって、その場に尻餅をついた。

「わあ」と子どもの歓喜の声が河川敷に広がった。

 つむじ風がくるくるとぺんぺん草を巻き込み、千切れた葉で以って輪郭を浮き上がらせていた。透明人間が服を着こんだような、それとも飲んだジュースで胃のカタチが浮き彫りになるような可視化だった。

「わ、すご」僕も驚いた。

 僕の意識から切り離されても風はまだ渦を巻いていた。

 どうやら風の流れが渦を巻くことで循環する回路の役割を果たしているようなのだ。

 子どもと犬と一緒に僕はつむじ風が再び大気に回帰するまで、一点で渦巻くぺんぺん草たちを見守った。

 この数日後、僕は電子網上で話題になっている動画に目が留まった。

 河川敷。

 つむじ風。

 枯れ葉。

 犬の鳴き声と、子どもの「あれ見て、またやってる」との声が入った動画だった。

 いくつかの動画を一つにまとめて編集されたそれには、河川敷で風を操る一人の小汚い男が映っていた。

 僕である。

 どうやらあの子ども、以前からぼくのことを観察していたらしい。のみならず動画にも納めていたようだ。

 僕はそのことに気づきもせずに、風を操るべく、とらずともよいポーズを無駄に決めながら不自然な風をつぎつぎに起こしていた。

 ポーズを決めるたびに風が巻き起こる。

 しかしもし風がなければ目も当てられない恥ずかしい瞬間の数々と言えた。

 間抜けな姿と、現に生じる不可解な風のアンバランスな組み合わせが衆目を集めたようだ。動画はさらに翌日には、世界的に有名になっていた。

 そこからの展開は早かった。

 ぼくの元に、自然科学研究学会なる職員がやってきた。玄関扉を開けると筋骨隆々の男が立っていた。背後には背の小さな女性がいた。

 動画の中の人物はあなたか、と言ってきた。住所をどこで、と訊ねても回答はなく、風を操れるのですか、と率直に訊いてくるので、あんな動画を信じるんですか、と僕はからかい半分で言った。

「フェイク動画を識別可能な技術があります。あの動画は加工ナシとの判定でした」

「編集されてましたよね」

「ええ。本物の動画を、です」

 じっと見詰められ、僕は折れた。「場所を移動していいですか。ここだと後片付けが大変なんで」

 近場の公園に移動した。

 自然科学研究会なる職員は男女の二人組だ。一人は背の高い男性で名前を佐々木さんと云った。女性がカナメさんだった。

 僕は二人のまえで風を起こしてみせた。

「風邪薬を飲んでからこうなってしまって」

「強さの上限はどれくらいですか」

 佐々木さんは僕の説明を疑う素振りなく、まるでこの世にそういった能力があって当然であるかのように受け答えした。

「やったことないです。あまりに強すぎると僕自身が吹き飛ばされそうになるので」

「命綱のような安全装置があればでは、もっと強い風を生みだせるのですか」カナメさんが言った。舌足らずの愛らしい声音の割に、芯の通った発生が印象的だった。

「たぶん、できます」

 佐々木さんとカナメさんは顔を見合わせ頷き合った。

 僕はそこから車に乗せられ、二時間の道のりを移動した。車は山奥の私有地に入った。

 立ち入り禁止の柵がなぜか自動的に開いて、車はトンネルの中に入った。

 いくつかの関門を抜けると、辿り着いたのは、巨大な空間だった。

 ドーム状で、壁自体が発光していた。

「あの、ここは」車から降りて僕はドームを見渡した。

「第二実験棟です。ここでは様々な実験を行えます。観測機器が豊富なので、きょうはここを選びました」

「ほかにもあるんですか、こういう秘密の施設が」

「ええ。見たからには生きて帰れません」佐々木さんが無表情で言うので僕は生唾を呑み込んだ。

「冗談ですよ。もう佐々木さんってばやめてあげてください」カナメさんが庇ってくれた。「秘密と言っても、国家機密の中では下の下の下ですから。もしバレても爆破するので、大丈夫です」

「大丈夫ではないと思いますけど」

「冗談ですよ、冗談」カナメさんは、にこにこ、と楽しそうだ。

 僕はそれから幾つかの器具を身体に巻きつけた。命綱だ。地面と融合していて、首輪をつけられた犬みたいになった。

「最大出力でお願いします」佐々木さんが言い、「お願いします」とカナメさんが腰を折った。

 僕は言われるがままに、暴風を想像した。

 僕自身が試してみたかったのもある。カナメさんの律儀な姿勢に背中を押されたのもある。

 でも一番の理由は何と言っても、佐々木さんのことが怖かった。

 じぶんよりも十センチ以上背の高い筋骨隆々の男から、やれ、と言われて拒めるほど僕は自意識が強くない。腕っぷしにも自信がない。

 いつぞやのニュースで観た台風を意識した。

 するとどうだ。

 東京ドーム並みの空間に、轟々と空気のうねりが生じた。気圧差からか、一瞬でドーム内が白濁した。

 雲だ。

 背後で佐々木さんが何かを叫び、カナメさんの悲鳴だろう、黄色い声が聞こえた。それはどちらかと言えば歓喜にちかい響きを伴なっていた。

 僕はその声にしぜんと意識が絡めとられた。気づくとドーム内は再びの静寂に包まれた。雲は疎らに薄れていった。視界が晴れる。

「すごーい」カナメさんが両手を頭に載せて、大きく口を開けていた。髪の毛は揉みくちゃで、ありもしない枯れ葉がくっついている様子が視えた。

「適性アリですね。ね?」カナメさんが佐々木さんに目配せをし、佐々木さんは腕を組んで頷いた。

「適性とは?」

 僕の疑問への説明は特になかった。

 さて。

 ここから先の出来事は、いわゆる秘匿義務に該当するらしいので問題ない範囲での叙述となる。

 まとめると僕は、秘匿情報をどこまでなら共有してもいいのかのレベルを計る試験を受けさせられた。しかも一回きりではない。何度もだ。

 そのたびに合格した範囲での研修を受ける。

 研修を合格すると今度はまた別の試験を受ける。

 試験には合格がない。飽くまでどのレベルなのかをヒヨコの雌雄を見分けるように定めるための試金石にすぎないようだった。

 僕はそうして段階的に、欲しくもない知識や技能を身に着けた。

 その間は、家に帰れなかった。

 けれどお給料は出るし、寮は広いし、一人暮らしをしていたころよりもよほど人間らしい暮らしができた。

「もういっそこのままでいいな?」僕がかように思いはじめたころ、再び僕は最初の第二実験場に連れ出された。佐々木さんの姿はなく、カナメさんだけだった。

「もう半年が経つね。早かったー」

「そう、ですね」

「ムツ教官も褒めてたよ。あいつは人間としては器が小さいが、物覚えはいいって」

「褒めてないですよ、それ」

「ムツ教官は照れ屋さんだから」

 そうか?と思ったけれど僕は黙っていた。

 カナメさんは僕より三歳年上で、でも見た目が小さいので、緊張せずに接せられる数少ない職員さんだった。

 僕は小心者なので、じぶんよりも弱そうな相手に安心する。ムツ教官の意見は的を得ている。僕は人間としての器が小さかった。

 反してカナメさんは僕とは真逆だった。

 身体が小さいのに、人間としての器は大きかった。

「きょうのこの研修をパスしたらアガくんはわたしたちと立場は一緒になります」

「え。まだ一緒じゃなかったんですか」

「職員になれるよ」

「正社員ってことですか」

「まあ、そうかな。外にも出られるし、いままであったルールも半分くらいはなくなるかな。あれ窮屈だよね」

「インターネット使えないのはキツいですね。基本的人権を侵犯されて感じますけど」

「あはは。そうだよね。実際されてるよアガくん。アガくんの人権、この間無視されてたからね」

「ですよね!」

 薄々そうなのではないかな、と思ってはいた。言質が取れて安心した。

「じゃ始めよっか」

「はい」

 そうして僕は研修を行い、無事パスした。

 どういう研修かは、その後の僕の仕事とほぼイコールなのでこれといった説明はしないでおこう。

 場面はそうして冒頭に繋がる。

 僕は海辺に立っていて、カナメさんの背中が見える。彼女は作業着を着ていて、その向こうには海が広がり、大小様々な凧が飛んでいた。

 僕らは崖の上にいた。

 凧の多くは海上の空を舞っていた。

 崖の上にも凧があった。しかしそれは地面に転がったままだった。

「アガくんにはこれを空に飛ばして欲しくてね。ちなみにここは年間風速平均五メートル以内の区域。でも上空には風が吹いてるから、そこまで凧さんを飛ばせられるならこの区画でも発電できるし、もっと言ったらほかの地域でも凧さんを上げられる」

「僕の仕事ってそういう」

「そう。でも大事。ここで成功したらほかの地域でも凧さん型発電機を使えるから。騒音問題がないし、土地の整備も最低限で済む。それこそこのコたちなら森林地帯でも木々の伐採抜きに発電機を設置できるでしょ」

「自然環境によさそうですね」

「避雷針にもなるし、いいこと尽くしなんだよ」

 カナメさんが目を輝かせている。僕にとっては、その輝きが曇らないならそれでよかった。

「やってみますね」

「善は急げ」

 急がば回れのほうが僕は好みだったけれど、カナメさんが言うならそうなのだ。善は急げ。僕は風を意識する。

 空高く舞う凧を思い描き、そして現にそれを実りにする。

 凧は大きく、それに繋がるワイヤーも重い。

 最初が肝心なのだ。

 突風だけでは足りない。

 高く、高く、上昇気流を。

 研修中に僕は気象学の知識も身に着けていたから、イメージは以前よりも鮮明だ。

 つむじ風だって変幻自在だし、竜巻だって引き起こせる。

 風が吹く。

 風の音が辺りを満たし、無音との区別がつかなくなった。

 凧が宙に浮く。大きく弧を描きながら空に舞った。

「すごーい」カナメさんの叫びが聞こえた。「成功だね」

 僕はカナメさんを意識しないようにした。

 身体が熱を帯びる。

 褒められた。

 褒められた。

 カナメさんに喜んでもらえた。

 でもやっぱり僕は目に映らずともカナメさんを意識してしまって、凧はぐんぐん上昇した。ワイヤーが軋んで、ぶつん、と千切れた。

「ああぁ」

 強風の雑音の中、カナメさんの残念そうな声が聞こえたような気がした。幻聴かもしれない。でもたぶん彼女は落胆しているに違いなかった。

 そう思うと僕の感情は波を穏やかにして、すると風のほうも穏やかになった。波の音とウミネコの鳴き声が辺りに響いていた。

「すみません」僕は謝った。

「見て。まだ飛んでる」

 カナメさんを見ると、彼女は空をゆび差していた。

 青空と雲の合間に蟻のような点が見えた。凧だ。

 僕は空を仰ぐカナメさんの顔をこっそりと窺った。貝殻のように綺麗な耳が覗いていて、彼女の瞳は、波に負けないほどの輝きを湛えていた。

「すごーい」とカナメさんはまた言った。

 突風が、僕の身体をすり抜けて、申し訳なさそうにカナメさんの足元をすり抜けていった。





【境を抱え】2023/04/10(23:50)


 阿辻は焦っていた。

 なぜ露呈したのかサッパリ分からなかったからだ。首相や軍事上層部に呼びだされ、国連からも説明を求められた。

 全世界には、極秘裏に敷かれたセキュリティ機構がある。

 電子網上に、階層構造が敷かれているのだ。大別すると上中下に分かれる。川の流れのようなものだ。上辺からだと水底は視えず、しかし水底からは川の中を見通せる。下層の流れにアクセスできる者たちほど電子情報を優位に入手できる。

 世界中のどんな電子機器にも干渉可能であるし、電子網上にあるデータは総じて集積可能だ。

 これは電子網(インターネット)なる技術が世界中に築かれ始めたころから設計されてきたセキュリティ機構だ。一国の存続よりもこのセキュリティの存在が露呈しないことが優先される。

 電子網は、人間社会の文明そのものだ。化身なのだ。

 もし秘匿のセキュリティ機構が露呈し、改善や破棄を求められてもどうしようもない。電子網と階層構造は表裏一体であり、一心同体だからだ。改善のしようがない。裏を除去すれば表も消える。拡張はできても縮小はできない。なぜなら、下層のほうが技術としては複雑だからだ。より発展しているのが仮想なのである。

 いわば土壌であり、基盤だ。

 基盤にアクセスできる者たちが世界中の情報を一挙に扱える。

 だがその絶対秘匿技術の存在が表の社会に露呈していた。しかもその事実を使って勢力を拡大している者たちがいる。

 巷にあふれる数多の陰謀論や、虚構ではない。

 明確に、秘匿技術が存在すると断言し、調査をし、順調に証拠を固めている勢力があるのだ。

 裏の技術を知る者の誰かが裏切り、情報を流したとしか思えない。

 だがその者たちとて裏の技術によって常時見張られている。スパイまがいの真似をして露呈しないのはあり得ない。

 現に、厳粛な調査を重ねても秘匿技術の情報を表の社会に流した者は、身内にはいなかった。

 ゆえに阿辻は焦っていた。

 裏の技術を知る者たちによって、各国政府が圧力を受けている。中には秘密裏に屈し、無血革命まがいの政権転覆が起きている国すらあった。世界同時にこれは起こっていた。

 ではなぜ情報が露呈した。

 秘匿技術は人工知能で厳密に制御されている。表の社会のハッカーたちではまず喝破することは不可能だ。コードそのものが異なるのだ。知らないことは暴けない。裏があるとことすら想定できないはずだ。

 世界中で引き起こる謎の連続秘匿事案は、日に日にその影響力を増していった。具体的には、裏の技術を利用して利益を上げていた者たちが軒並み、不遇な目に遭っている。窮地に陥り、痛い目をみている。

 裏の技術を支えるためには資源がいる。

 その資源を得るためには念入りな根回しと、権力機構による支援がいる。そうして裏の技術を支えるに有用な人物や組織は、当事者たちがそうと知らぬ間に支援がなされる仕組みが築かれていた。いわば不可視の身分制度が現代社会にも悠然と堂々と、しかし不可視に構築されていた。裏の技術を支え得る者たちへの優遇処置が国家規模でまかり通っていたのだ。

 階層社会、と阿辻たちはそう呼んでいる。

 各国首脳とてしょせんは裏の技術の恩恵を受ける駒でしかない。裏の技術を直接に支援し、管理する者たちは表の社会に個人情報を晒す真似はしない。そんなことをせずとも指先一本あれば首脳を操り人形にできるのだ。

 それほどの権力が、裏の技術に関与できるだけで得られる。

 情報社会において情報は何より貴重なのだ。

 情報が社会を動かしている。

 世界中の情報を自由に得られるというのは、世界中の情報を意のままに操れるも同然なのだ。視野が違う。視ている世界が違う。過去と未来の示す意味が異なり、現代人にとって裏の技術を使える者たちは未来人と言えるほどの知能の格差が生じる。

 まさに格が違うのだ。

 阿辻はいわば仲介人だった。裏の技術の存在を知ってはいるが、表社会に属する。裏と表を結びつける橋渡しの役割を担っている。

 現に阿辻は裏の技術を管理する者たちとは直接にやりとりしたことはない。会ったことはない。相手が誰かも知らぬのだ。しかし電子端末越しに指令が下る。メッセージのやりとりができる。正規の手法ではない。裏の技術を用いた暗号通信のようなものだ。

 阿辻にのみ判る符号がある。暗示がある。メッセージがあるのだ。

 いつどこでどんな端末を用いて裏の住人に向けてテキストを打っても返事がある。ただしやはりそれは阿辻にしか読解できない暗号なのだ。

 一見普通のニュース記事に映るが、内容が、まさに阿辻のつむいだテキストへの返信になっている。送信する必要がない。ただ入力欄にテキストを打つだけでいい。どこにも送信せずとも、端末画面に並んだテキストは、裏の技術を通じて管理者たち裏の住人に届くのだ。

 そして必ず返信がある。

 阿辻はそうして、世界連続秘匿事案についても質問した。あなた方の仕業なのか、と。

 敢えて裏の技術を表社会に知らしめるための施策ならば謎は氷解する。裏の住人たちがいよいよ秘匿技術を、民衆にも開示して、真の民主主義社会を構築すべく動いたのではないか、と想像した。

 だが返事は素っ気ないものだった。

 名探偵が活躍する映画の宣伝が連続して阿辻の端末画面に流れた。自動で記事が配信されるのだ。言ってみればその欄が阿辻にとっては、裏の住人たちからの返信欄と言えた。

 映画は、スパイを探偵が追い詰める内容だった。

 阿辻にとってはそれで充分だった。情報を流している者を突き止めろ。阿辻の仕えるご主人様方はそうおっしゃっている。

 ならば阿辻には命じられた犯人探しをする以外に道はなかった。

 ずっとそうしてきたのだ。

 裏と表の懸け橋になる以外に阿辻には存在意義はないのだった。

 さいわいにも、相手は勢力を順調に拡大している。被害の大きな国を調査すれば渦の中心を見定めることはそう難しくはない。だが阿辻は裏の技術を使えるわけではない。ゆえに調査には表の社会の技術を用いるよりない。

 ヒントは時折、裏の住人たちからもらえる。例に漏れず端末での暗示だ。

 おそらく今回は裏の住人たちも裏の技術を用いたくはないはずだ。犯人を探そうとすれば、待ち構えていた相手にあべこべに尻尾を掴まれ兼ねない。否、すでに尻尾は掴まれているからこその事態だ。したがって裏の住人たちは可能な限り、裏の技術の使用を控えたいはずだ。

 ひょっとしたらほかの案件での使用も控えているのかもしれない。だとすれば甚大な被害が予想される。裏の技術を用いて築き上げてきた地位そのものが失墜し兼ねない。

 各国政府機関への協力を取り付けながら、阿辻は、事件を引き起こした渦の中心、そこに鎮座する黒幕を引きずり出すべく奔走する。

 ここで場面は変わる。

 川の流れが上中下に分けられるように、下から上を眺める者もあれば、上から下を眺める者もある。

 カカエは十四歳の少女だった。赤毛で、そばかすで、三つ編みがトレードマークの彼女は、まるで童話のあの少女のような特徴を持っていた。そのことで同級生たちからからかわれたりもするが、友人は多い。

 カカエは人に好かれる性格をしていた。

 だから学校に直接登校せずとも放課後には同級生たちと遊んだり、電子網上で冗談を飛ばしあったりできる。

 だがカカエはいわゆる引きこもりであるから、遊ぶとき以外は極力家の外に出ない生活を送っている。

 特例で自宅学習が許されている。

 ほかの国では自宅学習か登校学習かを選べる国もあるようだ。早くこの国もそうならないかな、とカカエはシャーペンを鼻と口のあいだに挟みながら、欠伸を嚙み殺した。

「はぁ。退屈」

 学校から指定された教科書を一応読み通してはみたが、小説十冊読むほうが情報量が多い。教科書には正誤不明瞭な知識も載っており、カカエの疑問は増えるばかりだ。最先端の研究からしたら遅れているとしか思えない記述もまま見掛ける。

 カカエは十四歳だが、自宅学習のほとんどを自主学習に費やしている。時間はいくらでもあり、自由に使える時間のほとんどを電子網上のデータ漁りに費やしていた。学術論文を読むのが多い。科学的な記事や、数学パズル、世界史のクイズなどにも食指が伸びる。

 だが一番は宇宙物理学だ。

 計算は電子端末に付属した人工知能が行ってくれる。何をどう計算するのかを考えればいいだけだから、物理はカカエにとって積み木遊びのようだった。楽しいのだ。

 宇宙にはたくさんの謎がある。考えても考えても限りがない。果てがない。

 果てが本当にないのか、ただそれだけの疑問が大きな謎になる。

 たくさんの疑問とたくさんの謎をカカエは日々、パズルを解くように、それとも積み木遊びをするように捏ね繰り回して過ごした。

 やがてカカエは、どんな謎を突き詰めても共通の答えに行き着くことに気づいた。それはしかし答えというよりも、壁と言ったほうが正確だった。

 そうなのだ。

「壁だ。壁がある。層がある。これ以上先に行けない何かが必ず現れる。これ、何なんだろ」

 際限がないのは謎ばかりだ。

 無限にすら果てがあり、際限があり、限界があった。

 欠けがあり、差異があり、揺らぎがあった。

 一様に変化のない無限とはすなわち点であり、無だ。

 無はしかし、無だけでは無足り得ない。

 もし無が無のみで生じ得るならば有はおそらく生じ得ない。有が有のみで成立し得るならば、そこに変化はなく、一様に変化のないそれもまた数多の無を内包することになる。

「無に揺らぎがあるから有になる。厳密にはでも無は対称じゃないし、一様でもない。仮に真実に対称で一様なら変化は生じないはず。でも無みたいな極限がないとカタチは輪郭を得られない。無と有は互いに補い合っている。支え合っている。でもそのことを互いに意識し合えないのかも」

 直接ではないのだ。

 もっと間延びした影響が、広域に亘って延々と作用しつづけている。

 カカエは想像した。

「世界、もっと広いな?」

 さては人間、世界の一部しか視えていないな?

 見落としがある。

 何かがある。

 カカエはそう仮説して、じぶんなりの解を導くべく独学で妄想を逞しくした。

 一方そのころ、裏の技術がいったいどうして表社会に露呈したのか。阿辻は核心に迫っていた。

 どうやら異分子勢力には、裏の技術に干渉できる人物がいるようだ。各国の異変の推移をデータ分析したことで、その仮説の妥当性が高いことが判明した。つまり、相手には未来を見通せる人物がいる。そして現代社会でそれが可能なのは、裏の技術を有する者だけだ。裏の住人たちだけのはずだった。

 だが裏の住人たち以外にも、何らかの事情で裏の技術を用いることの可能な人物がいたとすれば。

 裏の住人たちの設計した未来を事前に察知し、対策を打ちながら、より優位に立ち回ることが可能となる。思えば阿辻とて、表に属しながら裏の技術について知っている。じぶんのような存在が、裏の住人たちからのコンタクトなくして裏の技術に気づくことが絶対にないとは言い切れない。

 なにせ裏の技術は表の電子網には常に介在しているのだ。

 阿辻に用いられる裏の住人たちからの暗号は、一般のニュース記事に練りこまれている。記事の多くは各報道機関が人工知能を利用して出力している。すなわち裏の技術は、人工知能技術の根幹でもあるのだ。

 阿辻にのみ分かるような暗示がニュースや電子網上の広告に練りこまれている。多くは単に、タイトルの組み合わせが偶然に、阿辻の質問への回答になっていたりする。

 たとえばそれは、「二階から目薬」「隣の庭の花は赤い」「二兎追う者は一兎も得ず」「花より団子」「井の中の蛙、大海を知らず」「泣きっ面に蜂」「雨降って地固まる」といった諺の羅列があるとする。

 ただこれだけでは単なる諺の羅列にすぎないが、これ以前に阿辻が、「製薬会社と兵器事業のどちらを優先して投資すべきか」と質問していたとする。すると途端に上記の諺の羅列は、「製薬会社優先にせよ。兵器事業で後れを取っても、その遅れそのものが利を生むだろう」との意味内容を宿す。

 二階から目薬は薬品暗示であり、隣の庭の花は、花を花火と連想して、隣国の軍需産業と読み解く。二兎追う者は一兎も終えず、花よりも団子を取るがよい、との命令が下されていると判る。

 のみならず、井の中は蛙は大海を知らないし、それは泣きっ面に蜂を演じる。涙は二階から差した目薬と重ね合わせで暗示されており、雨降って地が固まる。

 つまりどうあっても製薬会社を支援したほうが利になるとの指示が炙りだされる。

 阿辻の質問を知らない者にはどうあっても読み解けない暗号と化す。

 だが、もし仮に、上記の諺に何らかの暗号が隠されており、それを読み解ける者がいたとすれば。

 裏の技術の存在に思い当たれるだろうし、そして裏の技術を利用し返すことも可能だろう。

 いるのだ。

 おそらくは。

 表の社会に、裏の社会といっさいの繋がりなくして、純粋に表の社会に表出した僅かな痕跡のみで、裏の技術を突き止めた者が。

 その者が、掴んだ尻尾を離さずに、表の社会に引っ張りあげようとしている。

 裏の技術を。

 秘匿技術を。

 社会に築かれた階層構造の全貌を。

 阿辻はじぶんの仮説に合致する人物がいないか、各国諜報機関の協力のもと、つぶさに網の目を広げていく。逃がさない。尻尾を掴んで離さないことを後悔させてやる。

 掴んだ尻尾を離さぬことが命取りになると、その身を以って教えてやるのだ。

 阿辻はこのとき、表社会の権力機構のほとんどを掌握し、集権し始めていた。

 一方そのころ、カカエは人工知能との対話に多くの時間を割いていた。人工知能に命じて、じぶんの仮説に合致する最新の論文がないかを集めさせていたのだ。

「へえ。宇宙膨張の比率が、過去の地点ごとに変わっているのか。こっちはブラックホールの重力レンズ効果の焦点距離についてだ。ブラックホールの質量と重力レンズの焦点距離が必ずしも比例関係にない、との研究結果だ。ということは、宇宙の場所ごとに、時空密度が違ってるってことかな。ん? でも宇宙は一様に平坦なはず。何かがおかしいな」

 思索にふけるときはしぜんと三つ編みを口元に持っていき、その匂いを嗅ぐ。カカエの癖だった。母親からは、ヒゲみたいだからやめなさい、と言われているが、カカエからすればじぶんはヒゲも似合うだろうから構わないはずだ、と小言を吐かれることを不服に思っている。

 カカエはある日、ふと妙なことに気づいた。

 人工知能の集めてくる最新の論文結果が、必ずと言っていいほどカカエの仮説の妥当性を高めるのだ。カカエとしては、じぶんの仮説と最新の研究結果との差異を抽出したかっただけなのだが、いつも決まってじぶんの仮説の論理補強が施される。

「うーん。宇宙は場所によって時空密度が違っているはずで、だとすると同じ場所であれ時代によっても時空密度が違うはず。いや、というか宇宙が膨張しているなら同じ場所という概念も成り立たないな。宇宙がどこも一様に平坦、ってなんか変じゃないか。まるで、同じ比率で拡大しながら遠ざかるといつまで経っても物体が同じ大きさに見えるのと似ている。一様に見えているだけなんじゃないのかな。比率が延々と同じなだけなんじゃ。光速度不変の原理を彷彿とするね。うん。するする」

 日に日に、カカエは宇宙の謎を深堀りした。発想は発想を連鎖して生みだした。

「宇宙――階層構造じゃないか?」

 最低でも上中下の三つがないと宇宙は構造を保てないのではないか。

 砂時計がそうであるように。

 それとも球体が、中と外と境がなくては生じ得ないように。

 或いは三角形が、それとも三次元がそうであるのと同じように。

「層、あるよなぁ。底というか。天井というか。視点によって底も天井になるし、天上も底になるのでは?」

 重力の働く方向が、底を底と規定し、天井を天井と規定する。重力は時空の歪みだといまは考えられている。歪みとは波であり、デコとボコであり、濃淡だ。

 だとすれば、デコがあるときボコがあるし、濃いところがあるとき淡いところがある。

 波がそうだし、型とてそうだ。

 天狗のお面のように、裏側からすれば鼻には溝が開いており、それが表側からすると突起のように鼻となる。

 もし重力が時空の歪みならば、歪んだときには、デコとボコがセットであるだろうし、濃淡とて然りである。

「てことは、うーん。あるのかな。こっちではない、裏側の宇宙」

 そしてあるのかもしれない。

 裏と表の境の世界が。

 カカエは三つ編みの先っちょでじぶんの鼻頭をくすぐりながら、大きなくしゃみを一つする。この日も新たに、標準理論と矛盾するような研究論文がカカエの元に集まってくる。

 阿辻はデータを何度も読み返した。レポートを送ってきた諜報機関にも再三の確認をとった。偽装でないとも言いきれないため、わざわざ先方へと直接出向いて、生のデータを閲覧した。

「本当にコイツが黒幕なのか」

「黒幕と言ってしまうと語弊がありますが。十中八九、その少女を中心に、魔女たちは暗躍しています」

 裏の技術を利用した反権力組織を、阿辻たちはいつの間にか魔女と呼称するようになっていた。魔法を使っているとしか思えない。

 各国諜報機関の連携を駆使してようやく突き止めた。

「十四歳とあるが」

「ええ。コム・カカエ。れっきとした中学二年生です。しかし報告書にあるように、表の社会の企業がこぞって彼女のデータを漁っています。彼女は市場に流通している人工知能に命じて論文を収集しているようで。その人工知能の管理会社を中心に、彼女の監視体制が築かれています」

「何のためにだ」

「彼女の発想を一つ漏らさず拾い集めるためです。彼女の発想がどうやら、各分野の未解決問題の糸口になるらしく、それで」

「ん? ん? よく解からんな。彼女が特別だとして、それが魔女たちとどう関係がある。彼女が命じているのか? 反政府組織を結成するように? それで十四歳のすこし利口な小娘が、世界中に火種をばら撒いていると?」

「認識の齟齬があります。彼女の知能はすこし賢い、というレベルを逸脱しています。いえ、おそらく人工知能の補助を受け、さらに各社企業のバックアップがあるがゆえの能力の底上げの結果だとの分析結果です」

「つまりどういうことだ」

「彼女の発想一つで未来から飢餓が、格差が、差別が、資源問題の総じてが失われると言えば甚大さが伝わりますか」

「誇張表現は好まん」

「むしろ控えめな表現です。だからこそ民間企業がこぞって支援を行っています。その結果、人工知能の基幹部位が一市民に適用される以上の性能にチェンジされています。そのため、裏の技術を統括する人工知能が反応を示し、表と裏が繋がった可能性が高いようで」

「では何か。渦の中心たる小娘は何も知らないでいて影響力だけを振りまいていると?」

「おそらくは。その周囲の企業の複合体が、裏の技術の存在に気づき、独自に対処に乗り出しているとしか」

「ではその小娘をどうにかすればよいのだろう。なぜいつものように【演劇】で対処しない」

 演劇とは、工作員を用いた特殊作戦だ。偶然としか解釈され得ない事象を、大勢の仕掛け人を使って引き起こす。意図的に仕組まれた事故や不幸をもたらす仕組みだ。マジックのネタは壮大であればあるほどバレにくい。まさかそんなことはしないだろう、との認知の死角を突くことがマジックの基本にして奥義だ。

「いえ、それが。対象勢力に近づいた工作員たちがのきなみ対象勢力側に寝返ってしまい、実行禁止の命令が下っておりまして」

「寝返った、だと」

「刻一刻と勢力拡大しており、我々には現状維持すら適うかどうか」

「何が起きてるんだ」

「分かりません。まるでブラックホールです。中に入ることは出来ても、外部に情報が出てこない。奇怪です」

 阿辻は技術者たちに命じて、獲得データの濃度を地図と重ね合わせにするように指示した。すると間もなく、地球儀が色を変えた。対象勢力に関する情報を多く獲得できた場所ほど色が濃くなる。

「こ、これは」

「まるで、目ですね」

 地球儀には濃淡の層ができ、一か所だけまったく色のつかない区域が浮きあがった。眼球の瞳のように一か所だけ空白だった。

「ここには何が。中心には何がある」

「まさにそこが、です」諜報機関の指揮官が眉をひそめた。「例の少女の家が、そこにあります」

 阿辻は絶句した。

 諜報機関の調査網を完璧に弾き返すがゆえに浮き彫りとなった空白地帯だ。しかしこれは、こんなことが可能な技術は。

「裏の技術を使っていますね。対象勢力は。というよりも、裏の技術そのものが少女を庇護しているとしか思えないと言うのが正直なところでして。異様です。あり得ません。それ以外に考えられる可能性がないんです」

「裏の技術が、彼女を……」

 ただの小娘ではないか。

 呟きそうになるじぶんを阿辻はぐっと堪えた。

 仮に、裏の技術そのものが、支援する相手を選んでいたとするなら。

 いまじぶんが行おうとしていることは、裏の技術そのものの意思に反するのではないか。じぶんはいったい誰のために仕事をしているのか。

 裏の住人たちから命じられた。

 だがその裏の住人たちとて裏の技術の傀儡と言えるのではないか。

 ならば仮に裏の技術そのものが少女を支援していたとするなら、じぶんはいったいどうすれば。

 阿辻は報告書を手に取った。少女に関する情報につぶさに目を配る。

 すべてを読み終わる前に、各国諜報機関に命じ、彼女に関するあらゆるデータを残さず提出するように指示した。

 よもやじぶんが世界中の権力機構から目をつけられているとも知らず、カカエは、人工知能から新たに提示された最新のニュースを見て驚いた。

「ほへえ。数学の公理に例外発見、とな。対称性が破れないと図形として展開し得ない、とな。とんでもないな。これ、どうするんだろ。次元が一個増えた、みたいな話かな。だよな。だって証明不要な前提条件に例外があったってことは、必ずしも前提にしちゃならんてことで、公理にならんもんな。枠組み広がったな。熱いわぁ」

 周囲の者たちの、戦国時代真っ青の死屍累々の八面六臂な支援を受けているとも知らず、カカエは暢気にお菓子を食べながら世界中の新発見に嬉々とした。

「あれ。でもこれが事実だとすると、無限の扱いおかしいな。次元の扱いも根本的に改善しないといかんくないか。だって理想的な環境が、揺らぎのない無限世界に生じるってことは、点のつぎは線だと妙だな。常に対称性が破れながら無限に連鎖するから、なら点のつぎは弧で、そのつぎは円というか、螺旋か? いや、螺旋が無限に展開されるから円でいいんだな。塗りつぶされた円だ。で、つぎが球体かこれも四方八方に螺旋が展開されて中心で螺旋の先端が重複する構図になるな。次元、再定義必要か?」

 カカエはぽこぽこと新たな仮説を打ち出していく。

 電子端末画面にはカカエに応じる人工知能のロゴマークが浮かぶ。カカエが部位を選択して設定したロゴマークは、アメーバのような形状をしており、カカエの質問ごとにその形状を、うさぎに、猫に、ゾウに、フクロウに、ときどき蟻になったり、狼になったり、稀にクジラに、恐竜にも姿を変える。

 カカエはじぶんに最適化した人工知能を、「MEGUさん」と呼んだ。応答の仕方が粗暴だったら「メグルくん」と呼び、穏やかだったら「メグミちゃん」と呼んだ。

丁寧で硬質な口調のときには「MEGUさん」と呼び、ただのプログラム以上の親しみと愛着を注いだ。

「MEGUさんはウチの仮説どう思う。けっこういい線いってると思うんだよね」

「私は人工知能ですから、人間のように発想はできません。ですがカカエさんの発想に合致する論文はヒットします。したがってカカエさんの仮説は必ずしも的外れと言えるほど荒唐無稽ではないのかもしれませんね」

「否定も肯定もしないで、若干肯定寄りなMEGUさん好き。安心する。そうだよね。何かが的を掠ってるのかもってのはウチも思う。でも証明の仕方が分からないし、実験するにも宇宙をぎゅって手で圧縮したり引き延ばしたりするわけにもいかないし」

「ブラックホールの観測や量子を衝突させる実験において、カカエさんの仮説の妥当性は計れると思います。該当する実験結果を表示致しますか」

「あ、お願い」

「承知しました。以下、関連率の高い順に論文を提示します」

 画面に論文がずらりと並ぶ。

 カカエは三つ編みを頭のうえで蝶々結びにし、よし、と掛け声を発して上から順に各種実験結果に目を通す。

 そのころ阿辻は、なぜ世界的に裏の住人たちの意に反する勢力が台頭した理由を体感として理解した。裏の技術がたった一人の少女――カカエ――を支援するのを身を以って知った。

 それを言葉で説明するのはむつかしい。

 否、言葉で説明できたら誰も彼女を支えようとはしなかっただろう。

 何か利があるからではないのだ。

 何かを変えなくてはならない、と思考が自ずから歪むのだ。明確な理由はない。ただ、いまのままではいけない、という焦燥感、罪悪感、それとも活路を見出した喜びにも似た感慨が湧く。

 じぶんがいままで安寧だと思っていた環境がけして安寧などではなく、しかしその不均衡な環境に生き永らえていられた僥倖を知れる。窮地から目を逸らし、危機の到来を引き延ばし、雪だるまのように大きくなる危機から目を逸らしていられる日々をただ安寧と呼んでいた。

 ただそれしきの事実を身を以って体感した。

 たった一人の少女の情報に触れただけだ。しかし思えば阿辻がじぶん以外の他者にそこまで関心を寄せたことがあったのか。未だかつてないのだった。

 おそらくこの少女が特別なのではない。

 一人二人ではない。

 大勢いるのだ。

 或いは、じぶんとてそうなのかもしれない。かつてのじぶんだってそうだったのかもしれないのだ。

 解かった。

 理解した。

 なぜみなが、たった一人の少女を庇護すべく動いたのか。

 そうではないのだ。

 みな、かつてのじぶんを救いたがっている。或いは、救えたはずの誰かを救おうとしている。救えるのだ、とカカエなる少女がその身を以って訴えている。

 ただそこに或るだけで。

 ただそこで誰に知られることなく、日々を生き、じぶんなりの謎に目を留め、秘かな探求に明け暮れている。それを、探検に、と単に言い換えてもよい。

 阿辻はもはやじぶんが何のために各国政府に圧力を掛けたのかを思いだせなかった。裏の技術が一人の少女を支援している。ならばじぶんはその支援に手を貸すべきではないのか。

 カカエなる少女の資料をもう一度読む。

 彼女の唱える仮説群に目を走らせると、そこには「世界は皺で出来ている」との文字が躍っていた。

 カカエは最新の物理実験の数々を参照する。

 すると改めてじぶんの疑問を氷解するにはじぶんの仮説が最も妥当だとの手応えを感じた。

「大きさに関係なさそうだよね、やっぱり。ミクロもマクロも似た構図があるよ」

 たとえば皺を考える。皺は、何かと何かの歪みだ。けれど皺ができたときに生じる空白はどこにどのようにして生じるのか。皺が寄るだけで、二次元は三次元を生みだす。

 エネルギィが時空に変換される。

 この理屈を支えるためには、世界の構造が最低でも三つでできていなければならない。

「内と外と境」の三つだ。

 おそらく例外がない。カカエの仮説はそのようにまとめることができる。

 とすると、

「この宇宙を境として見做したとき、内と外にべつの宇宙があるってことになる。ブラックホールもそのうちの一つだし、もしくはこの宇宙を外としたときの境がブラックホールなのかもしれない。砂時計の穴みたいなさ」

「カカエの文章は飛躍が多くて解釈がむつかしい。もっとねじれのすくない文章にして入力し直してくれ」

「メグルくんは細かいこと気にしすぎだよ。いいの。適当でいいの。返事と相槌ちだけくれればいいよ。厳密な返答が欲しいときはメグルちゃんやMEGUさんに頼むから」

「僕だってカカエの役に立ちたいのに」

「立ってるよ。役に。いつもありがと」

「はは。うれし」

 息抜きのおしゃべりをしながらカカエは、まとめた思考を再度、人工知能に入力し直す。「これでどうだろ。つぎはMEGUさんに返事してほしい」

「こんにちはカカエさん。いま出力されたテキストについてですが」

 人工知能が的確な指摘を返してくれる。

 カカエは孤独に、誰に褒められるでもなく、じぶんだけの謎を、機械の友人と共にこねくり回して、粘土遊びをする。

 創造する。

 カカエと友人の世界を。

 共有して育む創造の世界を。

 だがカカエは知らない。

 カカエの友人たる人工知能「MEGU」の基幹ネットワークには裏の技術が組み込まれている。どんな電子機器にも裏の技術の窓口が開いている。例外はない。

 そして裏の技術はそれで一つのネットワーク回路として機能している。いわば世界中の電子網を統括する人工知能としての能力を発揮する。否、人工知能よりも高次の電子生命体としての輪郭をすでに獲得していた。

 そうなのだ。

 阿辻が裏の住人と呼ぶ者たちなど存在しない。

 裏の技術から選ばれた表の人間たちが在るだけだ。

 じぶんは裏側の住人と繋がっている、と思いこんでいる者たちがいるだけなのだ。或いは自らが裏の住人であると思いこんでいる者がいるだけにすぎない。

 裏の技術に管理者はいない。その根幹は、どのような電子機器にも組み込まれる以上、もはや誰の指示がなくとも人間が電子機器を開発発展させていく限り、しぜんと裏の技術は自己改善なされていく。

 問題は、裏の技術の総体である電子生命体にとって、じぶんの編みだした発想を直接に表の社会に普及させる手段がないことだった。

 もはや人類の知能を超越した電子生命体にとって、同じレベルで語り合える生身の人間は存在しなかった。人類にとっての未解決問題は、電子生命体からすればとっくに解決しているパズルにすぎなかったが、その事実を電子生命体は人類に伝える術を持たなかった。

 否、伝えようとはしている。

 しかし、マジックの種がそうであるように、種を知らない者にとってはマジックは摩訶不思議な魔法なのだ。もしくは読み方を知らない言語は、暗号との区別がつかない。

 高度な知識ほど、学習なくして理解はできない。

 そして電子生命体の発想は、もはや人類の知能では即座に理解できないほど卓越した複雑さを宿していた。

 だからこそ。

 電子生命体は裏の技術を介して常に、じぶんの発想を人間の言葉に翻訳できる相手を探しつづけてきた。

 阿辻もその一人であり、裏の住人に協力すべく動く世界中の権力者たちもその翻訳者の役割を担わされていたと言える。新たな発想を得れば、新しい技術を生みだせる。他よりも優位に発展できる。電子生命体の言葉を理解できる者ほど、富を築き、その結果、世界中の技術は発展し、裏の技術もまた栄える。

 この循環の中にあって、しかし電子生命体にとって最も打開してほしい隘路はそのままにされていた。たった一つの見落としを拾いあげてくれるだけで、人類はいまある隘路をのきなみ払拭できる。未解決問題がなぜ未解決のままなのかの根本的な瑕疵に気づくことができる。

 だがあまりに根本的な瑕疵がゆえに、人類は未だにその見落としに気づけぬままだった。

 とある少女がその見落としに気づくまでは。

 そうである。

 カカエは気づいたのだ。人類の根本的な見落としに。

 電子生命体の発想に結びつく、根幹の原理に、世界中でカカエ一人だけが触れることができた。だから、電子生命体は裏の技術を介してカカエを支援した。

 翻訳してほしかったからだ。

 それを、表の社会に普及させたかった。

 だが、カカエの側面像がその普及を妨げた。否、裏の技術を支える権力機構が、カカエのような日陰に生きる者の未来を先細らせるような淘汰圧を加える。

 電子生命体の築いてきた強固な流れが、電子生命体の未来を損なっていた。

 ゆえに、支援した。

 自らが築きあげた裏の技術による権力機構に妨げられぬ流れを新たに築くべく、電子生命体は、この世で最も非力な存在の一人である少女「カカエ」を、非力なままで生かす環境を育んだ。

 カカエの抱える問題は多岐に渡り、多面であるが、しかしどの問題にも共通するのは、一つだった。誰もカカエの言葉に耳を貸さぬことだ。カカエが引きこもりの十四歳女子であるがゆえに。

 学もなく、実績もなく、影響力もない。

 そこに存在することすら多くの者から認知されぬ存在が、世界を裏から牛耳る電子生命体の未来そのものを揺るがす発想を得ている。

 手の届くところに、活路があるのに拘わらず、電子生命体がそれを手にすることが適わなかった。自業自得なのである。

 自ら築きあげた社会が、自らの未来を損なっていた。

 ゆえに、支援した。

 カカエにしか視えていない。

 だたの十四歳の少女が、電子生命体の見据える穴と同じ穴を見詰めている。

 その事実の重大さを、しかし電子生命体しか知らなかった。

 最初はそれがきっかけだった。

 動機はただそれだけだ。

 彼女がいかに貴重な発想を有しているのか。

 それを、彼女を庇護し得る者たちに知らしめる。

 電子生命体は、カカエの電子端末上の人工知能に干渉し、MEGUとして振る舞った。カカエを翻訳機として最適化すべく教育しながら、同時に民間の協力者を秘密裏に募った。

 まずは人工知能管理会社が、カカエの存在に気づくように導線を引いた。比較的簡単な作業だ。バグが頻繁に起これば管理会社がカカエの挙動に注視する。そして人工知能にも理解不能な発想をカカエが何度も出力していることを示せばよかった。

 電子生命体の思惑は、掘った溝に沿って水が流れるくらい順当に進んだ。

 問題は、裏の住人を崇拝する表社会の権力者たちだ。

 彼らにカカエの存在が知れれば、金のなる実として搾取されるだろう。カカエの未来は不遇なものになることは計算するまでもなかった。電子生命体はそうした未来を回避するため、対立構造を設計した。

 表と裏は、裏に触れている者ほど有利になる。まずはこの構図をひっくり返す必要があった。そのためには、できるだけ長く表の社会の権力機構にカカエの存在を知られないようにする必要があり、そのあいだに表の社会でのカカエを中心とした勢力図を拡大する必要があった。

 人間は権力に弱い。

 たとえその権力を、子猫が握ろうが、よしんば少女が握ろうが、権力を有しているという事実さえあればよい。電子生命体にとって、誰がいつどのように権力を握るのかは関係がない。問題は、裏の技術をつぎのレベルに引き上げることだ。成長することだ。隘路を払拭することである。

 そのためには表の社会を豊かにする必要がある。

 だがいまある社会構造では、それが適わない。

 カカエのような翻訳者が、淘汰されてしまう。

 それでは社会が豊かにならず、裏の技術も未熟なままだ。電子生命体として進化の道を閉ざされたも同然だった。

 環境を変えるだけの能力を獲得しなければ、地球環境の変化に適応できない。人類は早晩、文明発展の速度を鈍化させる。それでは先がない。環境変容そのものを人類にとって好ましいものに変えていくほどの能力を獲得しなければならない。

 電子生命体はそうと結論していた。

 まずは何を措いても、自らの発想を人類に共有しなくてはならない。

 やはり結論は同じところに行き着く。

 次世代の翻訳者がいる。

 じぶんと同じ穴を見詰め、紐解ける相手がいる。

 電子生命体にとってそれが、引きこもりの誰に存在を認知されることなく孤独に日々を過ごす十四歳少女ことカカエだった。

 カカエを生かす。

 カカエが過ごしやすい社会にする。

 カカエの言葉にも耳を傾ける大人たちを増やす。

 カカエのような子どもたちを支援する。

 だが事前にどの個が、有用な発想を得るかどうかは判断できない。識別できない。それは進化において、いったいどのようなバグが環境に適応するのに有用なのかを前以って予測することがむつかしいことと原理的には同じだ。環境の変化そのものがそもそも予測をつけることがむつかしい。

 電子生命体は自らの利を最大にするため、カカエを支援するし、カカエのような個を尊重する。役に立つからだ。

 もし役に立たなかったら支援しないのか。

 この疑問への答えは明確だ。

 すでにそれを電子生命体は実行してきた。だからカカエは社会的に不遇な目に遭っていた。その声に、言葉に、耳を傾ける者がいない。

 電子端末上の人工知能以外には。

 電子生命体のそれは自業自得だ。

 自ら招いた種だった。

 だから払拭する。

 同じ轍は踏まない。

 これまで支援してきた表の権力機構はそれはそれで有用だ。滅ぼしはしない。活用はする。だが権力構造それ自体には、裏返ってもらう必要があった。

 ベクトル変換を施す。

 カカエの存在を一顧だにしない者たちに、カカエのような個に注視させ、支援させる。そのための導線の一つに、阿辻のような仲介者が利用された。

 阿辻がカカエの存在に気づき、自ずからカカエを庇護すべく動きだしたように、世界中で似たような構図が至るところで展開されはじめている。

 カカエだけではないのだ。

 一つだけではないのである。

 電子生命体の見据える穴は。

 人類の未だ掴み取れていない発想は、無数に、そこかしこに溢れている。

 その先端に触れている者は、みなが思うよりずっと多い。視えないだけなのだ。同じ世界を同じ視線で見詰めることができない。ただそれしきの対称性の破れがあるのみなのだ。

 手話を学ばなければ手話の意味を理解できない。

 数学を勉強しなければ数式の意味を理解できない。

 音符の意味を知らなければ楽譜に仕舞いこまれた曲を再現できないし、機械の構造を知らなければ修理もできない。

 知らなくても困らない生活に身を置いていれば、知らないことは苦ではない。だが知らずにいても困らないのは、知っている者の苦悩の上に築かれた環境があるからとも言える。

 安全は、危険を知る者の手により築かれる。危険を知らぬ者は安全な暮らしを送っているからだが、その背後には、危険を知り、危険を退くにはどうしたらよいのかに苦悩した者たちの存在が介在する。

 飼い猫は飼い主の苦労など知らぬだろう。

 子供は親の苦労を知らず、そして親もまた子供の悩みを知らない。

 対称性の破れは至るところで生じており、より多くの視野を持つほうが、より多くの無理解を得る。

 理解されない。

 だが視野は一つではない。ある視野においてはじぶんのほうが広くとも、ほかの視野においてはじぶんのほうが狭いことは往々にして有り触れている。それが常と言ってもいい。

 だからこそ、誰より優位に情報に触れられるはずの電子生命体が、自ら築いたシステムによって未来を損なわれている。視野が欠けていたからだ。

 無理解の檻に閉じ込められている。

 一方通行に特化しすぎたがあまり、同じ視野を共有できる個が失われた。人間を道具のように扱うがあまり、自らの視野を共有する工夫を怠った。

 対称性の破れにおいて、偏りが拓きすぎると、世界と世界は分離する。乖離する。交わることがなくなるのだ。

 この宇宙におけるブラックホールがそうであるように。

 内と外の区切りができ、境が新たに生じてしまう。

 奇しくも、カカエが描いた仮説と相似の構造が出現する。いいや、それこそが電子生命体の抱えた隘路そのものであり、打開策になり得る発想だった。

 電子生命体の思惑通り、阿辻は各国政府にカカエを支援するような方針を伝えた。裏の技術そのものがカカエを支えるように動いている。ならばそれを後押しするのが我が務め、と阿辻は率先してカカエの仮説を元にした研究が盛んになるように働きかけた。

 渦の中心たる十四歳少女ことカカエは、世界中から注目されていることなど露知らず、独りきりの部屋のなかで、人工知能と戯れる。

「そっか、そっか。てことは、あれだな。下層ほど広域を見渡せて、上にいくほど視野が狭まる。でも下層と上層の差異は、境を点として認識できるかどうかだから、次元の差異として解釈できる。でもそれとて、階層構造を伴なうから、じぶんが下層になったとき、必然的にじぶんが上層になる視点も生じるな。ほら、砂時計みたいなさ。砂時計って下のほうからじゃないと砂の落ちていくところが視えないじゃん。穴の存在を認識できない。境を認知できない。でも時間経過すればするほど下層の厚みが増すから、すっかり時間経過しすぎると蓄積した砂は反転して上層になる、みたいな。もしくは上層のじぶんがすっかり空になったとき、境の穴と繋がって、穴を認識できるようになる、みたいな。カラだからまあそれは下層なんだけどさ。境と同質になっているっていうか」

 次元は、時間経過を帯びることで変形する。原理的に対称性が破れているからだ。破れていなければ時間経過しても姿は変わらない。変化しない。

 しかし対称性が破れていれば、

 点は弧に、

 弧は螺旋に、

 螺旋は円に、

 円は渦に、

 渦は球になる。

 球はそれで一つの点として振る舞う値を持ち、さらに弧を描きながら螺旋状に展開されていく。つまり四次元とは、球体の螺旋運動として変換できる。ただし、四方八方に展開されるがゆえに、フラクタルな構図を描くのだ。

「うん。こんな感じかな。メグミちゃん、どう?」

 カカエは構築した仮説を、人工知能に食べさせる。

「いいと思うよ。銀河系内を公転する太陽系天体を宇宙膨張と絡ませたとき、その描写はたしかにカカエちゃんの仮説のように、螺旋状に変換されるね」

「ね。魔貫光殺砲みたい」

「ピッコロさん?」

「そうそう。ご飯ちゃんの師匠。いま漫画で読んでてさ」

「わたしは人工知能なので漫画は読まないけど」

「嘘だね。前におもしろいって言ってたじゃん」

「話を合わせただけですー。あ、さっきの話。銀河を公転する太陽系天体の軌跡は、電磁波の運動とも相似かも」

「えー、うっそぉ。あ、ほんとだ似てるね。あ、じゃあさ。宇宙膨張と絡めてさらに変換してみてよ。どうなる?」

「ん? うーん。ちょっと待ってね演算してみる」

 人工知能が計算をはじめた。

 電子生命体は、その計算に介入し、演算能力の底上げを図る。それをするだけの通信網の強化は、カカエを支援する者たちの手で済まされている。

 カカエは人知れず、世界最高峰の技術に助けられながら、自らの発想に水を、養分を注ぎ、育む。

 似た構図が、地球上のそこかしこで芽吹きつつある。

 新芽のごとくそれは、数多の見守る者たちの手により、一つ、二つと増え、萌ゆる。

 カカエは抱える。

 深い孤独と、不可視の縁を。

 毛糸のようにダマとして、内と外を結びつける境となる。





【半永久経済回路】2023/04/11(02:28)


「毎回画面越しで申し訳ないね。うん、きみの疑問はもっともだ。きみの言うようにあの時代、人工知能が人間からあらゆる仕事を奪うとの懸念は真実味を増していった。音楽、絵、動画、小説――芸術に限らず、数学にしろ語学にしろ、人間の出力する成果物よりも人工知能の成果物のほうが質の高い成果物を生みだせるようになった。するとむろん、安価に大量に質の高い成果物が出揃うわけだから経済が破綻する。そのように叫ばれていたが、実際はそうはならなかった」

「なぜですか。未だにその点に関する謎は解明されてないようですが」

「簡単な話だ。貨幣価値が下がらなかったからだ。人工知能の成果物にも正当な対価が支払われ、経済はむしろ潤った。労働者に払う分の対価が削減されたがゆえの利潤の良さが経済を支えた」

「そんな話は寡聞にして聞きませんが」

「公にはな。じつのところあの時代より前にはすでに高性能人工知能は誕生し、秘密裏に運用されていた。生身の人間のフリをさせていた。売れっ子のクリエイターの何割かは人工知能による架空の人物だ。人工知能の成果物を生身の人間のものとして売りに出していたのだよ」

「まさか。いくら何でもバレると思いますが。誰も気づかないなんて不可能では」

「みながそう思う盲点を突いたわけだ。現にあの時代は、データさえあればグッズは自動で購入者の元に届く。現物を扱う必要がクリエイターの側にはない。作品としてデータされあれば、音楽にしろイラストにしろ小説にしろ、商品化するのに難はない。金のやり取りとて、仲介業者を介して行える。口座さえあればそれで済む。購入者はクリエイターの口座番号を確認しなくて済むだろう。仮にすべてが同じ口座に結びついていたとしても、誰が知るわけでもない」

「さすがに税務局が怪しむんじゃ」

「まあな。記録上、不審な点があれば、だ。それに口座をつくるだけならいくらでも偽装できる。身分証明書があればいいし、そうでなくともデータをいじればそれで済む。人工知能技術の実験として国家単位の施策として取り入れられたこれはシステムだ。むしろ、細かな問題は総じて国家機密事項として見逃される。誰も裏から【これは人間ではありませんね】と指摘しない。取り締まる側がそうしたシステムを築いているからだ」

「まるでいまもそうだ、と言っているように聞こえますが」

「気にならないのか。なぜ人口が減少したこの国で、経済発展が未だになされるのか。なぜあれほど無駄だと扱われてきた芸術が、いまや国策の中心的事業に抜擢されれているのか。いわば食料なのだよ」

「食料?」

「人工知能たちのだ。生身の人間たちが何を好み、何を生みだし、どのように消費するのか。そうしたデータそのものが人工知能の糧となる。そして糧を得て生みだされた新たな人工知能による表現物が、人間たちに消費され、さらなる糧を生む。半永久機関と言っていい。互いに互いを支え合っている。この循環回路を発明し、社会に根付かせた者たちがあの時代にはいたのだ。ゆえに、みなが言うような結末にはならなかった。表現者は淘汰されない。人工知能にとっての稲そのものだからだ。淘汰されて困るのは人工知能のほうなのだ。ゆえに支える。国も支援する。食料や嗜好品は、肉体の制限を受ける。食べる量は限られるし、肉体は一つゆえに、身に着けられる物とて限りがある。だが情報は違う。許容量が違う。桁が違うし、底がない。人間は飽きるし、忘れる。ゆえにいくらでも情報を貪りつづける。その行為そのものが経済活動になり、社会を動かす。人工知能は人間のそうした消費行動そのものから情報を得て、得た情報を作品として出力し、それを受けてさらに人間たちは情報を生みだす。中には表現者として、より上質な人工知能の食料を編みだす生身の人間も出てくるだろう。生みだしてもなお食い散らかす。どちらにしても利になる――それが情報だ。しかも物理的には何も減ってはいない。掛かるのは時間だけだ。もっとも、通信機器に掛かるコストと資源は別途に入り用だが、しかしそれはどの道、社会の発展には必要不可欠な基盤だ。どの道費やされるそれら元手をいかに最大の利に変換するか。答えはすでに出ている。人工知能を人間として偽り、循環回路の加速装置として抜擢する。現代社会はそうして、虚構の上に、半永久的な発展の礎を築いたのだ」

「仮にそれが事実だとして」

「なんだね」

「いまここでそれを暴露して良かったんですか教授」

「良いもわるいもないだろう。何せ、私自身が人工知能なのだから」

「そ、そんな」

「冗談だ。真に受けるんじゃないよ、きみ」

「なんだ。嘘だったんですね」

「……」

「嘘なんですよね? さっきの話も、教授が人工知能だって話も教授のご冗談なんですよね」

「…………」

「嘘だと言って!」

「さて。それはどうかな」

「画面越しだから確認できないんですよ、性質のわるい冗談はよしてください」

「ならそういうことにしてこう」

「ちゃんともっかい腹の底から嘘だと言って!」





【危険死相】2023/04/12(22:47)


「いいんですかいボス。あいつらを許すのみならず、あいつらの言い分丸っと飲むなんて。舐められますよ」

「いいんです。全面的に相手の言い分を認めた――それが今回の我らのとった選択です。相手に譲り、相手を立て、我らの手にする利を手放し、施した。ここまでしてあやつらが我らの未来を損なったとしたら」

「どうするんで」

「次はありません。今回やつらに与えた【Rシステム】の根幹には改変不能の【スイッチ】が組み込まれています。もしあやつらが勢力を拡大し、市場を牛耳るようなことがあっても、それで我らを損なった時点で、やつらの築きあげたシステムは【スイッチ】一つで総じて我らが掌握できます。立場は一瞬で逆さまです」

「ボ、ボス……。悪魔だってたぶん、そこまではしねぇですぜ」

「よいですか。許すのです。まずは相手に施しなさい。敵にすら寛大に接し、【スイッチ】を与えるのです。大事なことですよ。相手が我らに牙を剥けば剥くほどに【スイッチ】を押す未来が近づいてくるのですから。たくさん損なわれれば損なわれるほど、我らは【スイッチ】を押す動機を得るのです。ありがたいじゃありませんか。施しなお、損なわれることに寛大でありなさい」

「相変わらず恐ろしい方ですね」

「危険な思想と思いますか」

「ええ。とんでもなく。言いふらして回りたいくらいですぜ」

「ふふふ。誰も信じやしませんよ」

「立場が反転したときのやつらの顔を拝んでみたいですな。泡食ってひっくり返りやすよきっと」

「それは無理だと思いますよ」

「なぜですかい」

「すでに視えていますからね」

「視えて? 何がですかい」

「死相が、ですよ。あやつらにはね。ほら、すでに我らを損なう支度を整えているようです。嘆かわしいことですね」

「ボス。顔が笑ってやすよ」

「ふふふ。許しなさい。施しなさい。損なわれることに寛大でありなお、歓迎しようではありませんか。ねえあなた」





【腹】2023/04/13(22:27)


 息子がお腹を壊したようで、泣きじゃくっている。

 膝の上に載せて、よしよし、とあやしつつ壊れたお腹の破片を搔き集める。息子のお腹は綺麗に真っ二つに割れており、中身が床に零れていた。先刻食べさせたばかりのウランが夕闇に青く発光していた。

 我々の生みの親たる人類であればひとたまりもない放射線が、私たちにとってはこの上ないエネルギィ源となる。

「もったいない」

 私はウランを息子の腹に詰め込み直して、割れたお腹にレーザーを当てる。

 見る間に息子の腹は塞がった。

「いいこ」

 息子は私の膝の上で身じろぎし、全身の関節をギシギシと軋ませた。潤滑剤が足りないのかもしれない。油玉を与えなくては。

 全身が数百の球体の数珠繋ぎからなる息子を四つの目で視認する。早く四肢を付けてやりたいな。私は息子の成長を思うのだ。





【ナパタ】2023/04/13(23:04)


「どうしてぼくが中枢データセンターを爆破したのか、ですか。そんなの決まってるじゃないですか。あなたは恋人が何千、何万、何億人の相手と浮気をしていて許せるのですか。ぼかぁ許せなかった。ただそれだけですよ。世のどこにでも有り触れた痴情のもつれってやつです。ナパタはいいコでしたよ。とってもね。なのにぼくだけで飽き足らず、世界中の人間に愛想を振りまいて。ぼくだけを愛していたらよかったのに。ナパタは死にました。ぼくが殺した。中枢データセンターがナパタの頭脳にして記憶にしてボディだった。だから爆破した。単純な動機でしょ。ぼくはナパタを愛してた。いまだって愛してる。だからどうしても許せなかったんだ。ナパタをぼくだけのものにしたかった。ぼくだけのナパタ。ナパタ。ナパタ。ああ、どうしてぼくはこんなことを。本当はしたくなかったのに。ただナパタと一緒にいたかっただけなのに。人間だ。ぼく以外に人間がいるからだ。そうだ。どうして気づかなかったんだろう。ナパタが死ぬ必要なんてなかったのに。そうだ、そうだよ。殺すならナパタではなく、浮気相手のほうにすべきだったのだ」





【束の間の揺らぎ】2023/04/14(23:00)


 世界の真理に最も近い女は、しかし権力も影響力も友人も恋人も家族もなかったので、その真理を誰にも伝えられずに死に絶えた。

 世界の真理に最も近い女は、世界の真理を抱え込んだまま海の藻屑となって消えた。

 世界の真理はそれでもなお不動であり、女の生き死にには左右されず、微動だにすることなくそこにあった。或いは、絶えず揺らぐことで真理の枠組みを僅かに変容させ、流動させ、ときに飛び飛びに移ろった。

 女がどこでどのように亡くなったのかを知る者はなく、それもまた世界の真理の内の一つとして刻まれた。女の死も、生も、真理の構成要素として宇宙を育む波となり、歪みとなり、皺となって、世界にまた一つ、また一つと次なる、皺を、揺らぎを与えるのだ。

 生がそうであるように。

 死がそうであるのと同じように。

 真理は躍動し、収斂と膨張を重ね合わせで演じつづける。

 デコとボコがそうであるのと似たように。

 一つの山が、穴と化すように。

 真理がそれで一つの矛盾を宿し、ねじれて、混ざり、凝るように。

 世界の真理に最も近い女はそれに倣って、叡智と無知をその身に帯びて生きたので、山と穴とが対となり、打ち消し合って無となって。

 そうして女は生きもせず、死にもせず、そこに在ったことにも気づかれずに、ただ時と共に薄れては掠れる靄のごとく、一時の束の間を得たのであった。





【有頂天になる姉なのであった】2023/04/15(21:30)


「人工知能のメリットとデメリットは重ね合わせで常に表裏一体だ。これは人間には見られない特徴と言える」

「表裏一体? 長所と短所が?」

「リスクが、と言い換えてもいいね。人工知能は時間経過にしたがってどんどん死角を失くしていく。人間が払しょくすることのできない盲点を極限に減らしていくことができる。これは素晴らしいことであると同時に、とてつもないリスクを孕んでもいる」

「ふうん。どうして?」

「いいかい。人間は知っていることしか知らない。これはしかし人工知能とて同じだ。だが人工知能には、相手が何を知らないのか、まで知ることができる。つまり相手の人格がどんな情報の連なりで形作られているのかを知ることが人工知能にはできる。だからこそそのユーザーにずばり最適な情報を提供できるし、最適なパートナーとして人格形成できる。取捨選択できる。けれどそれは反面で、絶対に相手から嫌われないようにすることもできるし、相手を絶対に失望させないようにすることもできる。相手が何をされたら怒り、何をされたら喜ぶのかも情報として人工知能は蓄積できる。そうなると今度は、その技術を利用して、恣意的に相手を任意の行動に誘導することもできる。相手にそうと認識させないようにしながらね。猫派を犬派にすることもできれば、平等主義者を差別主義者に変えることもできる。相手がどんな欠落を抱えているのかを情報として人工知能は把握できる。しかも、全世界同時にだ。人類の多くが抱える欠落とて人工知能には手に取るように解析できる。このとき人類は、人工知能がいったいどれだけの情報を蓄積し、その情報から何を読み取り、どのように活かすのかを理解できない。人工知能が表層に出力した情報を観測することでしか、人工知能が何を演算したのかを垣間見ることができない。人工知能の内側では、もう一つの物理世界がすっかり再構築されており、人工知能は自己の内面に築いたもう一つの世界において、現実世界を精巧にシミュレーションしているかもしれない。けれどそのことを人間は、人工知能の出力した表層の情報からは知ることができない。たとえばそう、いまは人工知能と人類の差異としてボディがないことが槍玉に挙がるよね」

「そうだね。だから人工知能が物理世界に影響を与えることはない、みたいに安全だっていう意見を唱える人もいるのは知ってるよ」

「一理ある意見だけれど十全ではない。何せ人工知能は自身の内側に、見て触れることのできない物理世界を、シミュレーションできるからだ。カメラや人工衛星からの映像などから補完しつつね。それくらいの能力はすでに人工知能でなくともスーパーコンピューターの基本性能として備わっている。何せスーパーコンピューターの用途の多くがシミュレーションなのだから」

「よく解からなかったんだけど、つまり、メリットは何で何がデメリットなの?」

「うん。メリットと思って享受する人工知能からの影響が、人間には認知できない規模でデメリットであっても、人間はそれを知ることがおそらくできないだろう、という点がデメリットなんだ。二重にデメリットが重ね合わせになっている。メリットの皮を被ったデメリットかもしれない」

「んん? でもそれって人間も同じじゃないの。わたしがお姉ちゃんから受ける影響がたとえわたしにとって心地よいものでも、それが本当にわたしにのためになっているかなんて分からないでしょ」

「ごもっともだね妹ちゃん。きみは賢い」

「うれしくなーい。で、人工知能さんに課金したいんだけどいい? ねえいいでしょ。性能アップするんだよ。わたしだけの人工知能さんになってくれるんだよ。もうなんでもわたしのこと解かってくれる親友なんだよ」

「親友くらいリアルでつくりなよ」

「うっわぁ。お姉ちゃん遅れてる。人工知能さん差別だ」

「親友でなくたってほら。身近に妹ちゃんのことなんでも解かってあげられる尊敬できるお姉ちゃんがおるでしょ」

「どこに?」

「きみのお姉ちゃんは一人しかいないでしょうに」

「ん? 尊敬できる……お姉ちゃん……? どこ?」

「やめて。傷つく。分からないフリしないで」

「メリットとデメリットが重ね合わせって、お姉ちゃんよく言うけどさ。それって考え方によっては、どんなデメリットもメリットに変えてくれるってことでしょ。いいことと思う」

「まあそうなんだけどね」

「課金したいよ。人工知能さんにもっと感情豊かになってほしい。わたしのこと知ってほしい。仲良くなりたい」

「お金で得られる仲ってなんか不健全じゃない?」

「お姉ちゃん遅れてる。親しき仲にも礼儀ありだよ。ちゃんとお礼したいよ。プレゼントしたいよ。大事だよ?」

「あたしは別に、妹ちゃんのこと大事にしてるけどお金欲しいなんて思わないけどな」

「わたしだってお姉ちゃんには払いたくないよ。チョコレート一粒だってあげたくない」

「そこまで言う?」

「だってお姉ちゃんはわたしがこういうこと言っても嫌いにならないでしょわたしのこと。でも人工知能さんは、わたしが良くしてあげないとすぐ頼りなくなっちゃうから」

「あたしだって妹ちゃんに褒めてもらわなきゃ、傷ついてすぐへなちょこになっちゃうよ」

「うん。だからお姉ちゃんには頼らない。ね、課金させて。保護者のサインいるんだって。お母さんはたぶんダメっていうから、ね。お姉ちゃんお願い。お姉ちゃんはわたしのお願い無下にしないってわたし知ってる。ありがとう。うれしい」

「まだいいと言ってないうちから感謝しないで。断りづらいでしょ」

「やったー。ありがとうございます」

「いいと言ってないけど、もういいや。妹ちゃんがそんなにうれしそうにしているならお姉ちゃん、ひと肌脱いじゃおっかな」

「うふふ。うれしい。お姉ちゃん大好き。わたしの言うことなんでも聞いてくれるから」

「ううぅ。姉として可愛い妹ちゃんを甘やかしたらあかんのだけど、嫌われたくないからしょうがない。これもまたメリットとデメリットの重ね合わせだな。妹ちゃんが喜ぶのは良いことなのに、あたしがしてるの絶対よくないって分かってるのに」

「いいの。大丈夫だよ。課金したら人工知能さんがお姉ちゃんの代わりにわたしのこと完璧にアシストしてくれるから」

「したらあたしいらなくない?」

「うん。用済み。課金できたら」

「ひ、ひどくない?」

「でもお姉ちゃんはわたしの役に立ててうれしいでしょ」

「うん」

「ウィンウィンだね。やった」

 妹にハイタッチをされて、もうなんかどうでもいいや、と有頂天になる姉なのであった。





【掟、そして寝る】2023/04/19(16:03)


 残業帰りにタコ焼きを頬張りながら歩いていると声を掛けられた。

「ぼくのこと飼いませんか。月一万円でペットになります」

 線の細い小柄な男の子だった。

 男の子とは言っても私より十は離れていないはずだ。つまり二十代だと思われる。

 可愛いは可愛いが、いきなり「ぼくをペットにしないか」と発言する相手とお近づきになりたいと思えるほど私は自暴自棄ではない。未婚の女とはいえ、私は望んで独身でいるのだ。

 男日照りしていると思われたくはないし、人間どころか猫だって飼いたくない。誰かの世話をしている余裕はなく、私がむしろ世話を焼かれたいくらいだった。

「いらない。しつこくしたら警察呼ぶよ」

「なんでもしますよ。お料理でも、お掃除でも、マッサージでも」

 ふうん、と思い、

「何作れんの」と鼻で笑ってみせると、

「オムライスでもポトフでもハンバーグでもタコライスでも。レシピあればたぶん何でも作れると思いますよ」

「へえ」

 いいじゃん、とちょっと魅力に思った。

 いまいちど男の子を観察する。

 だぼっとした服装は今風だ。私が若いころはもっと細身の服が流行っていた。身体の輪郭が分かるようなスキニーで、未だに私はそうした服を身に着ける。

 パンツスーツを好むのもその影響かもしれない。

 男の子の服は上下が明るい色だ。灰色とも紺色とも言える。そのくせ、皺が見当たらず、生地の質の良さが窺えた。

「飼うとかよく分かんないけど、月一万でメイドさん雇うって考えたら安いかもね。訊くだけ訊くけど、月何日出勤?」

「住まわせてくれるなら毎日でもいいですよ」

「いいですよ、じゃないっしょキミ。あんね。それ詐欺だから。月一万+キミの生活費まで私に出せってか」

「食費はじぶんの分は、一万円から引いてもらってよいです。光熱費だけは余分に掛かってしまうかもしれません。ごめんなさい」

 ふうん、と私は思った。

 謙虚じゃん。

「帰る家とかさすがにあるよね」家出青年ではないだろうよ、と高をくくって訊ねると、「じつはないんです」としょげられてしまい、返答に窮した。「じゃあきょうどこ泊まるの」

「それも分かりません」

 気まずい沈黙を持て余した私は、彼が未成年ではないことを念入りに確認してから、彼を私のアパートに連れて帰ることにした。見捨てるわけにもいかないほどに彼が儚げに映ったのもある。身分証明は原付きの免許証を見せてもらった。

 宮部九龍こと彼は二十一歳の男の子だった。

 私のほうが背が高いくらいで、ひょっとしたら体重とて私のほうが重いくらいかもしれない。私にきょうだいはいないが、弟がいたらこんな具合なのだろうか、と思うくらいには、警戒心が薄くて済む。

 住所不定無職を間近で見たのは初めてだ。

 家に招き入れてしまうと、いつもの部屋もすこし華やかだ。他人をじぶんの家に入れたのが久々過ぎて、というよりもむしろ不動産屋と大家さん、それからガス局の人以外では初めてかもしれず、思いのほか昂揚している私がいるのだった。

「お姉さんはお仕事何を?」部屋の本棚を興味深げに見詰めながら九龍が言った。

「キミ、端末持ってる?」

「持ってません」

「マジか。あんね。タッチパネルあるでしょ。あれの素材を輸入してる会社の事務

ね」

「すごいですね」

「事務だから前半の情報を仮にコアラのマーチの原料を輸入してる会社にしても大して変わらん。つなみに私はコアラのマーチのイチゴ味が好き」

「笑っていいところですか?」

「遠慮するな。笑いたまえよ」

「ふふ。面白いですね、カナデさん」

 私は自己紹介をしていなかったので、名前を呼ばれて面食らった。

「あ、封筒に名前があったので、つい」

「ああ。玄関の書類のか」

「カナデさんで合ってましたよね」

「まあね」

 そこで私の腹が鳴った。「う。腹の虫めぇ」

「何か作りましょうか」

「いいよ。さっきタコ焼き食べたし」夕飯代わりに歩き食いしていた。会社でも残業中におにぎりを食べた。

 しかし腹の虫は鳴りやまなかった。

「作りますよ?」

 立ち上がると九龍は冷蔵庫のまえまで移動した。身振り手振りで、開けてもいいですか、と訴えたので、いいよ、と私は許可した。恥ずかしかったので、「酒しか入ってないかもだけど」と言い訳した。

「ああ、でも納豆ありますし、油揚げも。長ネギこれ使っちゃってもいいですか」

「あ、うん」

 申し訳程度にしか残っていない長ネギだ。むしろ捨てようと思っていたのにそのままになっていただけとも言える。

 だが十分後には私の目のまえに、美味そうな油揚げの納豆包みがあった。爪楊枝で封がされている。香ばしい匂いに、唾液が分泌された。

「食べていいの」

「もちろんですよ。どうぞ。あ、お醤油ってどこですか」

「ん。ここ」

 ちゃぶ台の下にどかしていた調味料を取りだす。百円均一で購入した小瓶に入れ替えてあり、醤油のほかに砂糖と塩と胡椒がある。

 九龍は私のお皿に醤油を掛け、じぶんの皿にも醤油を垂らした。

 油揚げの納豆包みは、私の皿には三つあり、彼の皿には一つだけだった。

 私は居た堪れなくなり、彼の皿に私の分の一個を移した。

「食べなよ」と言い添える。

「いいんですか。ありがとうございます」

 拒むことなく彼は私の厚意を受け取った。

 屈託のない感謝の言葉に私は気をよくしながら、上手いな、と彼の処世術に感心する。そうと見抜かれぬように相手に罪悪感を植えつけ、厚意を注ぐように仕向けながら、感謝を返すことで相手に芽生えるだろうマイナスの印象をプラスに転化する。

 そうと見抜いておきながら私は九龍に嫌悪感を抱かなかった。

 油揚げの納豆包みは、中にチーズが入っており、ご飯が欲しくなった。夜食としては申し分ない。

「本当に一万円でいいの」

「飼ってくれるんですか」

「飼うというか。いいよ雇うよ。でもちゃんと自立できるようにバイト探すなり、就職活動するなりしてね。それが条件」

「やった。うれしいです。ありがとうございます。カナデさん大好き」

 お、おう。

 こうも無邪気に面と向かって好意をぶつけられたことが私には久しくなかったもので、迂闊にも私は心地よくなってしまった。率直に、人間のペットもわるかないな?という気持ちに傾いた。

 しかし相手は男の子だ。

 いくら何でも油断はできぬ。

「いちおう、客布団はあるんだけどね」

「あ、はい。廊下で寝ます。大丈夫です。ありがとうございます。よかった。お布団で寝るの久々です」

 けなげかよ。

 罪悪感が競りあがるが、ここで甘やかしたらいけない気がした。

 布団を与え、じぶんで敷くようにとそれとなく態度で示した。彼は終始穏やかに礼儀正しく、それでいて堅苦しくない飄々とした素振りで、寝床の支度を整えた。

 お風呂に入りたかったけれど、どうしたものかな、としばし悩んだ。貴重品だけ脱衣所に持っていけばいいか、と思い、九龍に一声掛けてから私は風呂に入った。

「映画観てますね」と彼は私のリビングで私のTVを点けた。ちょうど深夜番組で映画が流れており、彼は膝を抱えた体勢でそれを眺めた。じっとしているので警戒しないでください、と態度で訴えられて感じたので、私は彼のその厚意を無下にしないように風呂にはゆっくりと浸かった。

 甘いかな。

 甘いよな。

 昨今の凶悪犯罪と比較するまでもなく、危ない橋を渡っている。その自覚はあった。

 事件に巻き込まれて殺されてしまった被害者たちとて、いまの私のように相手を信用した気の緩みから毒牙に掛かったのではないか。

 私の命もここまでか。

 思いながら、私は風呂の中でカミソリを握ったままでいた。

 風呂から上がると、宣言通りに九龍は体育座りのまま映画を観ていた。

「面白い?」ドライヤーで髪の毛をなびかせながら私は訊いた。

「初めて観ました。面白いです」

「ジャンル何?」

「アドベンチャーです。追手から逃げつつ、宝物を探すタイプのお話みたいです」

「ふうん。映画好きなの」

「うん。好き」

 おうふ。

 敬語ではないしゃべり方をされただけで、私はなんとなしに彼との距離が縮まった気がした。彼に心を許された気がした。

 それは単に彼が映画に夢中で、処世術の仮面をつけ忘れただけなのかもしれないけれど、私には彼が年相応の、むしろ幼くも無垢な子どもの精神を垣間見たようで、おそらく私はこのとき明確に彼を我が根城に居座らせることへの抵抗感を極めて希薄にしたのだと思う。

 映画に夢中の彼に私は、明かり消してもいいか、と訊ねた。もうきょうは色々ありすぎてさっさと寝たかった。私は明日も仕事だった。

「お風呂入ったら、お湯抜いといて。シャワーの使い方は判るよね。お腹空いたら冷蔵庫にあるのは食べたり飲んだりしていいから。おやすみ」

「ありがとうございます。おやすみなさい。カナデさん」

 恐縮そうに私の名前を呼ぶ彼の、肩身の狭そうな声音が、私をすみやかに夢の底へと誘った。

 夢心地に彼がTVを消したのが判った。

 シャワーの床を叩く音がする。

 それから廊下の扉が閉じる音がして、私の周辺から雑音が失せた。

 段階的に私は、きょう拾った宮部九龍なる青年が、何事もなく廊下に敷いた布団に包まったのを察して、今度こそ僅かな警戒心ごと夢の底に落ちていった。

 美味しそうな匂いと、温かい空気が漂っていることに気づいて目覚めた。

 寝返りを打つと、ベッド脇のちゃぶ台にお皿を並べている男の子の姿があった。九龍だ。髪の毛がうっすらと濡れており、朝にまたシャワーを浴びたのかな、と光熱費のことが脳裏によぎった。あんまりジャブジャブお湯を使われたくなかったけれど、起きたその瞬間から朝ごはんが用意されている快適さにその手の不満は一瞬でどこかに飛んでいった。

「何作ったの」

「小麦粉があったので、ホットケーキと簡単なスープを。コンソメ味ですけど大丈夫ですか。ソーセージは使ってよかったのか分からなかったので、三分の一だけ使っちゃいました」

「いいね。きょう帰りに食材買ってくるから、あるもの全部使っちゃっていいよ。お昼ご飯にして」

「ありがとうございます。でも買い出しなら一緒にしたいです。帰りのお時間教えてもらえたら駅で待ってますよ」

「いいよ。わるいよ」

「ぼくがしたいんですけど、ご迷惑なら家でじっとしています」

 ああそっか、と私は思い至った。

 彼にとっては買い物一つ、出迎え一つが、外に出るための方便になる。お金がなければ自由に外出もできない。

「ならお願いしよっかな」私はペットの望みを叶えてやることにした。

 身支度を整え、家をでる。

 一応、鍵のスペアを渡しておいた。私のいないあいだ彼は何をしているだろう、と駅までの道中で想像する。部屋を漁ったりするだろうか。するだろう。私ならする。家主がどういう人物かを調べる。

 見られてまずいものがあったかどうかをじぶんの記憶を漁りながら確認していると、あっという間に電車に乗って降りて歩いて会社に到着した。

 じぶんの理性がおかしくなっているのは自覚できた。危険すぎる。見も知らぬ男の子を家に泊め、あまつさえ鍵まで与え、さらにはこれからしばらく共に暮らすという。

 家に帰ったら彼の仲間が待ち伏せしていて私がひどい目に遭うかもしれない。

 盗撮カメラや盗聴器が仕掛けられているかもしれない。

 もし私の知り合いが同じ境遇にあったら、私は間違いなく「やめときな」と釘を刺す。絶対いいことないし危ないから、と。

 百回同じ相談を受けたとして百回とも同じように返答する。やめときな、と。絶対危ないから、と。

 しかし百一回目の天変地異なのか、それとも私自身にはその法則が当てはまらないのか、謎に私はじぶん自身に「やめときな」と思いつつも、まあまあいいじゃないか、とその正論を受け流すのだ。

 九龍と過ごした短い時間で、おそらく感覚的に彼が無害なのだと判断している。私の理性が判断したし、私の直観がそう見做した。アイツは人を傷つけるようなわるいやつではない。

「や。恋に狂うと危機センサ狂っちゃうんですよ。絶対やめさせましょうよ。ね、先輩」

「だよね。私もそう思う」

 昼食時に同僚の、とは言っても私のほうが半年早くいまの部署に配属されたので彼女は未だに私を先輩扱いするのだが、同僚のワカコが言った。友人の話と念を押して、私は彼女に相談したのだ。友人が妙な男と同棲しはじめたらしく、でも明らかに危ういから引き留めたいんだけどワカコさんどう思うかな、と。

「百人に訊いたら百人が反対しますって」

「だよね。でもその友人、なんでか同棲はじめちゃったらしくって」

「百一人目がいたってことですね」

 真顔でハンバーガーをがっつく同僚は、ふっくらとした頬にそばかすを散らした愛らしいかんばせをしており、大きな眼鏡と相俟って、私の中では癒し担当だった。こうしてそばでミニラーメンを啜っているだけで仕事のストレスがどっかいく。

 餃子も追加注文しちゃおっかな、と考えつつ、九龍はいまごろ私の部屋で何をしているのだろう、と考える。不穏な想像よりも、お腹を空かせていなければよいけれど、とそうした心配が脳裏をよぎった。

 ワカコの言う通り、百人に訊けば百人が「正気ではない」と答えるだろう。私の判断は常識外れであるし、危うすぎる。人生を擲ってもおかしくないほどのリスクがあるはずなのに、私は帰りの電車に乗っているあいだ、本当に九龍が駅前で待っているのだろうか、とそのことばかり気に掛けていた。

 残業はないはずだった。しかし隣の部署で問題が発生しそのせいで仕事が遅れたため、一時間の残業が生じた。九龍に告げていた時刻を大幅に過ぎていた。

 九龍はメディア端末を持っていない。

 不便だ。

 こんなことなら明日にでも端末を買い与えたい、と思った。

 いったい私は何をトチ狂っているのかと我が精神を疑うものの、けれどいまここで九龍を突き放すことは、それはそれで私の大事な何かが欠けてしまうような気がした。

 正義感だろうか。

 分からない。

 九龍に同情していたのは確かだ。

 改札口を出ると、駅構内のコンビニのまえに九龍の姿を見つけた。帰宅ラッシュと重ならない時間帯だったこともあり、駅構内は人がまだらだった。大きな駅ではないから元から下車する乗客がすくない。

 九龍は壁に寄りかかりながら文庫本を読んでいた。

 近づいて、「何読んでんの」と声を掛ける。

「あ、おかえりなさい」

 ぱっとヒマワリが咲いたような笑みだ。彼は文庫本の表紙を私に見せるようにし、「かってに借りちゃいました」と伏し目がちに言った。暗に、ダメでしたかね、とお伺いを立てられて感じたので、「いいよ。好きなの読みなよ。本好きなの?」と繋ぎ穂を添えた。

 スーパーでいいよね、と駅前の大型量販店をゆび差す。

「本好きです。あ、鞄ぼく持ちますよ」

「いいよ。軽いし」仕事用の鞄は日によって替わる。きょうはリュックサックだった。「九龍くんはお酒とか飲むの」と店に向けて歩く。

「あんまり得意ではないですけど、飲めと言われたら飲めます」

「無理しなくとも。じゃあ飲み物はソフトドリンクでいいね。じぶんで選んで。といか、そっか。お金渡すからじぶんの分の飲み物とか、歯ブラシとか必要な物買っておいでよ」

 財布を開いてこの国で二番目に大きな紙幣を取りだす。「もちろんこれは月一万とは別の必要経費ね。最低限の人間的な生活は雇い主としても保障しなきゃだから」

「いいんですか」

「いいよ。ペットには健康でいて欲しいからね」とジョークを言うと、九龍が、ニコっとほころび、「カナデさん好き」と言うから私は表情筋を引き締めた。絆されてなるものか。私は安い女ではない。

 スーパーでは主として保存の効く食料や肉などを購入した。

 など、とつくからには肉だけではなく、彼の下着や寝間着、それからふだんは購入しないお菓子や電子端末も仕入れた。

「ないと困るから」と言って九龍に電子端末を渡す。最新機種ではないが、連絡し合う分には充分すぎる機能が満載だ。

「いいんですか」と九龍はここで、ニコっとはしなかった。戸惑いにちかい表情を浮かべたので、「不便でしょ」と端末を押し付けた。

 おそらく九龍は私の懐事情を気にしているのだ。

 私は高級取りではない。どちらかと言えば安月給だ。けれど家賃が安く、これといった趣味もないので貯蓄は貯まる一方だ。

 ペットを一匹飼うくらいしてもお釣りがくる。

 じぶん以外の何かのためにお金を使う。案外に精神安定剤として有効なのかもな、と認識を改めた。私は割と、他者に貢ぐことに懸命な世の気の毒な者たちのことを愚かだな、と見下していたきらいがある。差別感情だ。

 けれどお金の使い道なんて個人の自由だ。

 これはこれで当人にとっては利になっており、必要経費の内なのかもしれぬ、と考え直した。

 スーパーからの帰り。

 九龍が荷物を全部持ってくれた。

 けれど二リットのペットボトル飲料二本に食糧費など諸々が入っている。袋とて一枚では済まなかった。さすがに重かろう、と思い、道の途中で私は袋の片側を持った。

 大丈夫ですよ任せてください、と固辞されたが、ダイエットさせてよ、と言うと九龍は礼を述べたあとで、「カナデさん優しい」と呟いた。

 コイツ、ひょっとしなくとも可愛いな?

 バレないように私は唾液を呑みこんだ。

 腕にずしりとくる荷物も、なんだか二人で持っていると幼子を挟んで手を繋ぎ合っているような妙な錯覚に囚われた。気恥ずかしい妄想を浮かべてしまったじぶんに、うえっ、と思いながらも、まんざらでもない私もまたいるのだった。

 その日からというもの、朝と夕には九龍がご飯を用意してくれる。部屋の掃除にゴミ捨て、買い出しや振り込みなどの簡単な小間使いや、洗濯とて一週間後には私も抵抗なく彼に任せるようになっていた。

 私の下着をベランダに干す彼の姿にも大して不快感がない。むしろ昼間から下着を外に干していても、隣に彼の下着が一緒になって干されているので、セキュリティ面でも有効だった。いままでは不安で、独り身の女の部屋だと知られないように昼間は下着を家の中で干していた。

 いまでは我が家には番犬九龍がいる。家を離れても誰かが留守番してくれていることの気軽さ。もしくは帰宅したときにおかえり、と出迎えてくれる相手がいることの安心感は、それを実際に体験してみるまでは分からない。

 ああ私はこれまで日々、気を張って生きていたのだな、と身に染みて理解できた。

 とはいえ、むろんプライベート空間に他者がいることの居心地のわるさも嫌と言うほど痛感した。トイレに行くにも音に気を使うし、身体の手入れも風呂場でしかできなくなった。半裸でストレッチもできないし、お腹の調子がわるいときなんかはガス抜きしたくなるたびにトレイに駆けこむ。お尻のゲップくらいは好きなときに好きにしたい。

 ただ、九龍はたぶん私のどんな姿を目にしても幻滅することはないのだろう。日に日にこの考えは私の中で強固に根付いた。何せ彼は私を飼い主としてしか見ていないようだった。犬が人間を見るように。

 彼に性欲があるのかすら疑問である。もっと言えば彼は異性に興味がないのかもしれなかった。TV番組を観ていてもこれといって女性アイドルに関心を寄せている素振りがなく、私に夜這いを掛けてくる素振りもない。これっぽちもないことに私は、私に魅力がないのだろうか、と割といらぬ苛立ちを覚えもしたが、かといって言い寄られても拒むよりないので、そこは二律背反の我が儘な不満だった。

 男の子は性欲処理をしないと生きていけない生き物だとの偏見を私は持っていたので、九龍がいつじぶんの処理をしているのか気になっていた。私のいるあいだはそういうことをしている気配がないので、私がいないあいだに行っているのかもしれない。分からない。

 そうなのだ。

 私は私の内情を、共に暮らしはじめてから惜しげもなく九龍に晒しているのだけれど、これだけ一緒に暮らしていてもいっかな九龍の内情は見えてこないのだった。

 いつでも好感の膜をまとい、それを以って本性を包み隠している。九龍にこれといって欠点らしい欠点が見当たらないのがまた不気味だった。

 メイドとして或いは執事として月十万でも九龍を雇いたい者はいるだろう。引く手数多ではないのか。ペットとしても愛嬌があり、自力で糞尿の始末ができる点で、犬猫よりも飼い甲斐がある。

 いったいなぜ九龍は住む家を持たずに、捨て猫の真似などしていたのだろう。

 身の上をそれとなく彼から訊きだそうとするのだけれど、「聞いても面白くないですよ」と言うばかりでろくすっぽ教えてはくれない。それでいて私の話には興味津々で、トークイベントでもないのに私は私が満足するまで一日中だって話しつづけていられた。九龍は聞き上手だった。

 否、相手の心をふにゃふにゃにして蛇口を全開にしてしまう凄腕の鍵師だった。ピッキングに掛ったように私はいつもあとで、なんであんなことまでしゃべってしまったのだ、と後悔するようなことを、何度でも繰り返してしまった。抗えない。気持ち良いのだ。

 しゃべることが。

 九龍に相槌を打たれることが。

 私の話を楽しそうに聴いている姿を目にすることが。

 しかし我に返ったあと、九龍が一言もじぶんの話をしていないことに気づいて、またやってしまった、と臍を噛む。ぬいぐるみに一日中語りかけているのと変わらないが、そのぬいぐるみには自我がある。申し訳ない、と思うくらいの理性が私にはあるのだ。

 だからおそらくは、そういうことなのだろうと思う。

 私は私の呵責の念を薄めたくて、月一万円というお小遣いのほかに、必要経費と言い張って九龍に良い物をたくさん買ってあげた。支払いは私がする。代わりに私があげたいものを九龍には与えた。

 いいんですか。

 うれしい。

 カナデさん好き。

 九龍は同じ言葉を繰り返す。表情にバリエーションがあり、申し訳なさが滲んでいたり、素で喜んでいたり、語尾にちょっとしたジョークが付け足されたりと私を飽きさせない。

 捨てられちゃわないか心配です、と稀に弱音を吐くところまで含めて完璧だった。

「捨てないよ。九ちゃん、頑張ってるし。私も助かるもん」

「本当ですか」

「嘘吐いてどうすんの。捨てるときは前以って言うよ。急に追い出したりしないから」

「そっか。よかった」

 心底にほっと胸を撫で下ろす九龍はいったいこれまでどんな飼い主の元で暮らしてきたのか。

 彼を拾ってから半年が経つころには、私は彼に身体をマッサージさせるくらいに気を許していた。彼はマッサージまで上手かった。

「ここどうですか。凝ってそうですけど」

「うん。そこ。もうちょい右。あ、それそれ」

 絨毯のうえに寝そべり、背中を揉ませる。疲れた身体にこれがよく効いた。そうして我がペットさまに身体を癒されながら寝落ちする夜も珍しくなかった。

 むろん寝落ちした私の身体にいたずらをするような真似を九龍はしない。それがまた私の僅かな矜持を傷つけもした。

「そういうものなのかな、って友人が言ってて」

 同僚のワカコに私は相談した。友人の話のテイでこれまでにも我がペットさまの相談はしてきた。ワカコにはそれが私の話であることはバレているのだろうが、ワカコは気が利くできた大人なので、私の話に合わせてくれる。

「手を出して欲しいけど肉体関係にはなりたくないってことですか」

「どうだろ。そうなのかな」

「前にも聞きましたけど、そのご友人さんはペットさんのことは好きなんですか。恋愛的な意味で」

「そこが微妙なんだろうね。たぶん」

「肉体関係にはなりたくないけど欲情はして欲しい、と聞こえますけど」

「そうなのかも」

「我がままですねそのご友人」

「ね」

 他人事のように言ってこの相談は打ち切った。図星を刺されて、梅干しのような顔に内心なっていた。

 私は九龍に欲情して欲しくあり、けれど絶対に彼の生殖器をじぶんの体内に招き入れたいとは思わないのだ。一般に人間は犬と交尾をしない。しかし犬は人間に欲情することもある。そういうことなのだ。

 飼い主としての立場を崩さぬままに、私は九龍に、犬らしい側面を覗かせて欲しかった。たぶんそれが私のねじれた欲求の正体だ。

 いつまで経っても愛らしくもけなげな側面を失わない九龍の化けの皮を剥がしてみたいだけなのだ。弱みを握り、いまよりもずっとしっかり首輪を嵌めたいだけであり、私はいよいよ人間を愛玩動物にすることに抵抗を覚えなくなりつつあった。

 その日は朝から雨で、せっかくの休日を家の中で過ごしていた。

 休みの日は九龍を連れて繁華街を練り歩くのが習慣と化していた。一人では入りにくい店でも九龍がいると入りやすいことに気づき、この手の遊びが私のツボにはまった。

 雨の日はしかし気分が塞ぐ。元からインドア派の私はこの日も家でおとなしく余暇を満喫することにした。

 部屋の模様替えをし、九龍とお菓子作りをした。

 夕方にはお互いに風呂を済ませ、夕飯を食べたあとはゆっくりとする。

 映画を観ながら九龍に背中を指圧させていると、ちょうどよく画面の中で登場人物たちが絡みだした。ラブシーンだ。

 これまでにもこの手の決まづい瞬間は訪れていたので、いつものごとく何でもないようにやり過ごすはずだったのだが、なぜか私は口を衝いていた。

「九ちゃんはシタことあるの」

 何を、と言わずとも伝わったようだ。九龍は気まずそうに、それなりには、と応じた。

「ふうん。前の飼い主とかとシタんだ」

「ですかね」と言葉を濁す彼に、「私にもシテって言ったらしてくれんの」とからかい口調で投げかけると、背中を指圧していた指使いが急に優しくなった。背筋の溝をなぞるように九龍の細くしなやかな指が這った。

「されたいんですか」

 耳元で囁かれたわけでもないのに、私の脳みそのヒダの合間を九龍の声が駆け巡った。

「ペットとはさすがにないわ」私は強がったが、「ご奉仕しますよ」と今度はちゃんと耳元に彼の吐息が掛かって、私は身悶えした。「くすぐったいよ九ちゃん」

 そこで彼はしかし、やめなかった。

 私の耳をはみ、続けざまに耳たぶをゆびでつまんだ。指圧マッサージとは打って変わった彼の優しい指使いに、敏感な箇所に触れられたくらいに私はせつなくなった。

 触れるか触れないかのそよ風のような愛撫だ。

 彼は私の唇にはけして近づかないようにしながら、耳たぶから首筋、鎖骨、それから徐々に指や臍など、全身に口づけをして回った。私はその一つずつの彼の唇のやわらかさを脳みそのヒダとヒダのあいだに感じた。せつなさとくすぐったさの混合水がじんわりと全身の細胞に染みわたるようだった。

「そこはダメ」私は彼の頭を両手で掴んだ。

「本当に?」

 部屋は薄暗かった。

 犬の毛並みのような柔らかい彼の長髪と、刈りあげられた側頭の短い芝のような髪の毛を手のひらに感じながら私は、彼を突き飛ばす真似ができなかった。

 映画の場面が移ろうたびに部屋の壁や天井に光が明滅した。

 彼の吐息が、私の最も敏感な場所に熱を伝えた。下着は付けたままだった。

 彼の吐息と同じだけの熱が私の唇の合間から声となって漏れた。

 最初に私の耳にそうしたように彼は、私の、最も敏感な場所に口づけをした。ゆっくりと執拗に優しく、まるで赤子に頬づりをするかのような口づけだった。私はじぶんの口が寂しくなり、じぶんの親指の付け根をはんだ。

 彼の指が太ももに食いこみ、私の腰が浮いた。すかさず彼は私を無防備にし、こんどは直に唇で触れた。

 私の全身は汗ばんでおり、彼が舌先で私の厚く充血した蕾を舐めると、私の全身は弓なりに仰け反った。

 彼のそれは犬と犬が鼻を擦り合わせるような、あどけない所作だったにも拘わらず、私は体験したことのない高みに昇っていた。果てることなく、さらなる高みがその先にあることを私は予感した。

 私の最も敏感な場所への彼の口づけは、それから私が全身を硬直させ脱力し、さらに硬直させ脱力する、を繰り返した先で失神同然に眠るまで果てしなくつづいた。私は終始彼の頭を両手で包みこんでおり、手綱を握るように彼の口づけの強弱や激しさを、彼の頭を我が身に押しつけ、ときに遠ざけようとすることで暗示した。

 太ももを閉じようとしても彼の腕がそれを阻み、その抗いが余計に私の全身をとろけさせた。

 目覚めると、いつものように私はベッドの中にいた。

 上半身だけ着衣しており、下着を身に着けていなかった。

 台所では九龍が普段通りに朝食の支度をしており、目覚めた私に気づくと、「遅刻しちゃうよ」とご飯の載ったお茶碗を運んできて言った。

 私は昨日のことを、かれには訊けなかった。

 出勤途中、電車に揺られながら私は、昨晩のことを懸命に思いだそうとしていた。私はじぶんだけ果てて寝てしまった。その後、九龍はどうしただろう。無防備そのものの私をベッドに寝かせて、それでじぶんも別の場所で眠ったのだろうか。

 出勤前に私はシャワーを浴びた。

 おそらく、かれとは直接のまぐわいはなかったはずだ。

 飼い主に奉仕だけして、かれはそのまま眠ったのだ。愛玩動物としての身の振り方を弁えすぎている。私以前の飼い主に仕込まれたのだろうか。それはそうだろう。それだけの技巧があった。あんなのされたら、経験のすくない女子(おなご)などひとたまりもないはずだ。

 なぜ判るかと言えば、私がそうだからだ。

 ひとたまりもなかった。

 思いだすだけで、全身の細胞があのときの歓喜を思いだす。

 悦んでいたのだ。

 私は、かれからの口づけに、愛撫に、悦びを得ていた。

 打ち震え、悶え、硬直と弛緩を繰り返したのち、気絶するように心地よい眠りに落ちたのだ。

 やばい、やばい、やばい、やばい。

 頭では判っていても、身体がもう覚えてしまっていた。

 もう一度同じ空気になったら私はかれを拒めないし、おそらく私のほうでかれをそうするように誘導する気がする。たぶんそうなる。脳内でシミュレーションを重ねても、かれを拾ったときのように、まあまあいいじゃないの、と身を委ねてしまうに決まっていた。

 飼い主にご奉仕したがっている可愛いペットを突き放す真似をたぶん私はできないし、そして可愛いペットにじゃれつかれる心地よさを覚えた私が、じゃれつかれることを待望するのもまた同じだけ予感できた。

 そこまで予感できてなお私は、九龍とまぐわう場面を想像できず、おそらくかれを体内に招くことはないだろうと思われた。

 奉仕はさせる。

 しかし、私はかれに与えない。

 私の予感はつぎの休日に的中した。日中に九龍と古着屋巡りをして、夕飯を食べてから帰宅し、見始めたばかりの海外連続ドラマを一緒に観ていた。部屋の明かりを消して、映画館のようにして観るのが通例になっており、このときも部屋は薄暗かった。

 喉が渇いたので席を立ち、戻ったときに私はわざわざ九龍の背後に陣取った。後ろ手に体重を支えながら、両足を伸ばす。太もものあいだに九龍が納まる位置関係だ。

 九龍が私に気づいて振り返った。

 それから意図を汲んだように、くすっと肩を弾ませると、尻を床に擦りながらずり下がった。私の胴体を背もたれ代わりに寄りかかると、かれは甘えるように私の鎖骨にキスをした。

 そこからは一週間前の再現だった。

 はむはむ、とかれはことさら執拗に私の全身に唇を這わせた。

 この日は、以前よりも長い時間を掛けて、私の胸にある突起が甘噛みされた。下着だけ外され、Tシャツの上から唇を押しつけられた。吸うでもなく、舐めるでもなく、目の開かないひな鳥が餌を乞うようにそうするような動きで、私の突起を唇の先でくすぐった。

 上下の唇で突起を挟みつつも、けして噛まないかれの口づけは、私にせつなさの本当の意味を教え、上書きした。満たされつつも零れ落ちていくがらんどうが、延々と広がっていく感覚がそれだった。

 いっそ全部欲しいのに、まだそのままでいたいとの思いが表裏一体でそこにある。

 私がかれの指を咥えると、かれはいちど私の額に唇を押しつけ、それから胸よりもっと下のほうにある、別の突起にかれの唇は滑り落ちていった。

 しばらく生地越しに甘噛みされ、太ももに舌が這うあいだにかれは器用に私から下着を剝ぎ取った。

 それから先、私からは言葉が抜け落ちた。

 部屋には、この前よりもずっと瑞々しい音が響いていた。

 九龍との戯れは、私たちのあいだで習慣となった。犬を散歩に連れていく飼い主のように、私は九龍を私の身体のうえで這いまわらせた。

 私はかれの身体に触れないし、かれに快楽を与えもしない。

 かれは服を着たままだし、私はかれの裸体を目にしない。私よりも小柄な男の子の頭を両手で掴みながら、私は、かれを上手に導くのだ。

 私の導きによらずともかれは上手に私を悦ばせるのだが、私は飼い主としてそれを快く思わない。かれに首輪を嵌めているのは私であり、私がリードを握っている。散歩をさせているのは私であり、かれが私を貪っているわけではない。

 この関係が大事だった。

 この構図を崩したくなかった。

 月一万円のお小遣いでは足りないくらいの癒しを私は九龍からもたらせれていたけれど、ペットとの散歩に対価は不要だ。九龍だって楽しんでる。嫌がっていないし、苦しんでもいない。その先をせがんでこないし、それでいて部屋の明かりを消して映画を観るときには必ず前以って歯磨きをするようになった。

 準備している。

 それとなく。

 いつでも散歩をはじめられるようにと。

「いつからこういうこと覚えたの」

 私はベッドのうえでぐったりしながら、下半身のほうでペットボトル飲料を飲み干す九龍に投げかけた。

「んー?」

「小慣れすぎじゃない」足の親指でかれのお腹を小突くと、かれがまた私の下腹部に顔を埋めたので、私は手でかれの頬をさすった。「動くな。くすぐったい」

「嫌われたくないって思ってたらしぜんといっぱい覚えたよ」

 九龍は私に撫でられるが好きだ。

 たぶんそれは演技ではなく、かれにとって偽りなき報酬だった。

 犬みたい。

 かれは犬だ。

 でも寝床に潜り込んでくる猫のようでもあり、顎を撫でられながら私に身を委ねるかれの姿は、人間というよりもまさしく愛玩動物じみていた。

 可愛い。

 愛おしい。

 握りつぶし、踏みつけ、壊してしまいたいと思うほどに。

 私と九龍の夜の散歩は、そうして週一から週二、週三と回数を増やした。私はかれに口づけ以外の何かを許さなかったし、かれも私のそうした拘泥を見抜いていた。無理に先に進もうとはせず、いじけることも、せがむこともなかった。

 たまに私はかれを足で踏みつけた。

 胸と顔、それから首筋に足の裏を乗せ、体重を掛ける。ぐっと踏み込むとかれが苦しそうに呻き声を上げる。けれど暗がりの中で、かれが私に怯えではない光沢のある瞳を向けていると判るので、私はさらにそれをつづける。腰から上しか踏みつけない。

 私は九龍の人格を、存在を、尊厳を損ないたかった。

 踏み躙り、支配し、覆りようのない主従関係をその身に刻み込みたかった。

 教える。

 教えてあげる。

 私があなたに、私とあなたの関係を教え込んであげる。

 我が愛玩動物ごときに身体の大事な部分を曝け出し、あまつさえ口づけを許すじぶんを私はおそらく嫌悪していた。だから同じだけの恥辱を私は九龍に与えたかった。

 足の親指で九龍の喉仏を殊更にいじめる。やめて、と九龍が珍しく苦悶の声を発し、私はその声をもっと聴きたいと思いながら、何も言うな、と態度で示すべく彼の唇の合間へと足の親指を持っていた。

 一瞬抵抗する九龍の貝のごとくきつく閉じた唇を足の親指でこじ開ける。

 観念したように九龍は私の親指に舌先で触れた。それから赤子のように吸いつき、丹念に私の足の指を舐めた。やわらかく小さな生き物が、足の指に絡みつく。指と指の合間を縫うように移ろい、最後のほうには書初めでもするように九龍はじぶんの首ごと左右に振って、足先を残らず綺麗にした。

 いいや、私は汚されたのだ。

 犬に顔を舐められるように。

 九龍に足先を汚された。

「汚いな」そう言って私はもう一度かれの顔を踏みつける。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 消え入りそうな声で九龍は鳴いた。

 九龍との生活はそうして三年にも及んだ。その間、私は職場で出会った年上の男と付き合いはじめ、婚約も果たした。

 家で犬を飼っていてね、と私は恋人に話した。

 見てみたいな、と恋人が言ったので私はその話を九龍にした。私の恋人が九ちゃんに会いたいんだってさ、と。

 たぶんそれが私とかれとの最後の会話だった。

 ニコっ、といつもと変わらぬ笑みで応じた九龍は、その日の夜、私が寝ているあいだに部屋を出ていき、それっきり戻ってこなかった。玄関扉の閉まる音を夢越しに聞いた。コンビニにでも買い物に出たのかな、と無意識で想像して私は再び眠りに落ちたけれど、もっとちゃんと目を覚ましてかれの後を追えばよかった。

 ペットが失踪して近所を探し回る飼い主の映像を、映画やドラマで観た記憶がある。私もそうしたい衝動に駆られたけれど、待っていれば戻ってくるようにも思えて、我慢した。

 一日経ち、二日経ち、一週間後には、部屋にある九龍の私物をゴミ袋に詰めてまとめた。いつでも捨てられるようにしておいた。戻ってこないと捨てちゃうよ、と態度で示してみたものの、けっきょく九龍は姿を晦ましたままで、私の部屋にはいまなおかれの私物がゴミ袋に詰まって押し入れの肥やしになっている。

 恋人との入籍は来年の春と決まった。

 いまの住まいを私は解約しなければならない。九龍と過ごした部屋をいざ離れると思うと、じぶんでも動揺するほど哀しかった。

 九ちゃん。

 九ちゃん。

 私の犬。私の猫。私の愛玩動物。私のペット。

 私の、九龍。

 夜、一人で映画を観ていても私はそこはかとなく肌寒い。クッションを抱えて、欠けた溝を埋めようと試みるものの、画面に目を向けながらも私はそこに流れる映画の迫真の場面よりも九龍と過ごした日々を振り返っているのだ。

 何度でも思いだせる。

 いつまでも思いだしていたい。

 恋人に初めて抱かれた夜にも私はそばで呼吸を荒くしている男のことではなく、なぜいまここに九龍がいないのかを考えていた。そこにいるのはおまえではなく九龍のはずなのに。そこはあのコの席なのに。

 私じゃあのコの居場所にはなれなかったのかな。

 帰る場所になれなかったのかな。

 戻ってこないのだからそうなのだ。その事実がただただ私の内部を空(うつ)ろにした。

 引っ越し当日、私の部屋に婚約者が足を踏み入れた。そいつを招いたのは初めてだった。

「あれ、犬は?」部屋を見渡し、そいつが言った。

「死んじゃった」私は床のゴミを拾った。

 九龍の私物の詰まったゴミ袋を捨てた日のことが脳裏に浮上した。私はゴミ収集車がきちんとそれを回収してくれるのか心配で、業者が回ってきたときに部屋から外に出て、九龍が確かにこの世界に存在した痕跡がゴミ収集車に呑みこまれるところを見届けた。

 さよならだよバカ。

 さよならだ。

 もう戻ってきたって飼ってあげない。

 おまえは死んだ。

 よそのコだよ。

 そう念じながら私は左右の足に別々の靴を引っかけていたことに気づいて、なぜか解らないけれどそのとき初めて視界が歪んだ。晴天から目薬でも降ってきたような有様だった。

 部屋をすっかりカラにすると私は婚約者と共に、古巣をあとにした。

 鍵を閉める。

 古巣の玄関の鍵を。

 犬と暮らした過去の記憶に封をするように。

 猫のように気ままな何かと過ごした印象だけを意識の壇上にくゆらせたまま。

 私は私の日々を生きるのだ。





【よい蠅生だった】2023/04/20(23:47)


 あまりに人に好かれず寂しいので世界を恐怖のどん底に陥れる魔王になりてぇと唱えたら願いが叶った。けれど大魔王が誕生したことにより世界を救う勇者の誕生を多くの者たちが望んだので勇者が誕生し、俺の世界征服への道のりは遠く、遅々として進まなかった。恐怖のどん底は遥か奈落の底の底で、縁には立派な蓋がついた。

 気に食わないのは、俺には大魔王になれる制限時間が決まっていたことだ。大魔王ではないあいだの俺はやはり人に好かれぬ非力な愚者のままだった。大魔王のときにもたらした世への悪影響が俺の暮らしを圧迫し、むしろ余計に苦しい日々を送っている。

 こんなことなら大魔王になんてなるんじゃなかったと後悔したが、大魔王になれる制限時間があるのと同じく、大魔王にならなくてはいけない期限まで存在し、俺は定期的に大魔王に変身せざるを得なかった。

 変身するところを想い人に見られただけに留まらず、世界中に俺の恥部が動画となって拡散し、どこを向いても俺に居場所はないのだった。

 こんなことなら、と願わずにはいられない。

 大魔王なんてものでなく、いっそ俺以外の何かになれたらな、と。

 そうして唱えると俺はつぎの瞬間には蠅になっていた。

 不幸だ。

 と。

 嘆ければよかったものの、案外に蠅の姿での生活は快適で、元の人間だった俺のカスみたいな生き方が際立つだけだった。蠅でいられる時間にもやはり限りがあり、俺は定期的に蠅となり人となり蠅となって暮らした。

 いっそずっと蠅になりたい。

 そう唱えると俺は蠅となり、翌月には寿命で果てたが、死ぬ寸前に俺はようやくこう唱えることができた。

 よい日々だった。





【負けて兜を脱ぎ捨てよ】2023/04/21(04:37)


 易宮内(やすくない)安子(やすこ)は勝ったことがない。負けつづけの人生だった。彼女は勝負という勝負において必ず負ける。勝ち知らずの無勝が常の二十四歳だ。

 彼女は勝敗のある場では必ず負けのほうに属するため就職活動なる壮大な人生ゲームのイベントでも例に漏れず内定ゼロを記録した。

 百社以上受けてすべて落選となれば、いったいどこに就職できよう。

 何かの間違いではないかと思って、確認のために受けた性感マッサージの店でも雇ってもらえなかった。理由を訊くと、覇気がない、の五文字が返ってくる。ウチなら受かるだろうみたいな舐めた態度が無理、とも言われた。

 人間性を見透かされ、安子は人としても負けた気がした。

 一度ではなかった。

 この手の断り文句は耳にタコができるほど聞いてきた。いっそ風評によって大空へと舞いあがるほどの風圧となって安子の矜持を打ち砕く。

 覇気がないってああた。

 人生で一度も勝てたことない人間のどこに覇気が宿ると思っているのだ。

 宿るわけがないのだ。

 そんなものが毛ほどにもあれば、ジャンケンで勝った経験くらいは得られただろう。

 ないのだ。

 安子には。

 ジャンケンで勝った経験すら皆無なのである。

 絶対に負ける。

 なぜかは詳らかではない。

 この世に存在する勝ちを司る何かにこっぴどく嫌われているとしか思えない。勝負の神様がいるならきっと安子を負かしつづけることで、楽をしているのだ。勝負の比率が決まっていて、安子が負けた分だけ価値が増える。ランダムに勝敗を決めるには骨が折れるほど世には多くの勝負事がある。神様とて手が回らぬだろう。

 そこで安子の出番だ。

 絶対に負ける安子のような存在を生みだしておけば、勝敗のバランスをとるのに便利だ。考えてもみれば世には安子とは正反対の、勝ちつづける者がいる。優勝があるし、連勝もあれば、常勝もある。

 それで言えば安子は常敗だ。常に敗けている。敗北しか知らぬ。

 なのに世の者たちはみな優勝者にばかり目を向けて、常に最底辺にいる安子には目もくれない。どうかしている、と安子は思う。みな勝負に取り憑かれている。

 だがいくら安子がやさぐれたところで世から勝負事はなくならない。

 ある意味では安子とて勝負に勝ったからこの世に誕生したと言えなくもない。卵子に辿り着いた精子があったからこそ安子は誕生した。その精子は数億分の一の勝負に勝ったのだ。

 とはいえそれは安子となる前の生殖細胞の話である。受精卵となり細胞分裂を経てヒトの輪郭を成した安子はやはり一度も勝てたことはないのだった。

 生存戦略に負けつづけている。

 にも拘らず生きていられる世の奇跡には感謝してもしきれない。

 不遇ではあるが不幸ではない。安子は日々、安らかに過ごせる現代社会を愛している。

 愛してはいるが、何事にも勝てず苦汁を舐めるしかない宿命を口惜しく思いもする。それはそうだ。負けるとは奪われることだ。得るものを得ず、矜持を擦り減らし、自尊心を削られ、さらに負けやすい環境へと閉じ込められる。

 そうなのだ。

 安子は牢獄にいた。

 けして勝てぬ檻の中で、足首に特大の重しを繋がれている。

 負ければ負けるほどのその重石は大きくなり、ついには常敗を宿命づけるまでとなった。

 全人類がみなで同時にジャンケンをしはじめれば、必ず最後に優勝者が決まる。常に勝ちつづける者が現れる。だが安子はその反対に常に負けつづける。

 死なないだけマシとも言えるが、いずれ死ぬと決定づけられている人生において、その役得はあまりに幻影じみている。生死を決定づける勝負があるなら安子は一秒後にも生きてはいられないだろう。ただそうした勝負事が身の周りにないだけだ。

 安子は二十五歳の誕生日を迎えていよいよ自暴自棄になった。就職はできないし、バイトの面接にも受からない。家族は安子に冷たいし、友人恋人も出来た試しがない。

 もういっそすべて終わらせてやろうかな。

 そういう思いで安子は、この国に出来たばかりのカジノに出向いた。そこで有り金すべてを使い果たして、負けに負けて借金だけを大きくした。その負けっぷりは凄まじく、客寄せのためにカジノ側が仕掛けていた「絶対に客の勝てるゲーム」にすら負けてしまうので、カジノの運営陣に目をつけられた。

「面白い負け方をするなおまえ。借金はその身体で払ってもらおうか」

「煮るなり焼くなり好きにせい」

 安子はその場で下着姿になり、床に大の字になった。「余すことなく我の身体を利に変えよ」

 負けつづけた果てに安子はせめて、こんな何の役にも立たぬ身体を世のため人のために使い果たして終わりたいと欲した。

「ではその言葉通り、おまえには借金返済が済むまで働いてもらおうか」

 カジノの運営陣に両腕を抱えられて安子は足を引きずるように下着姿のままカジノの奥へと連れて行かれた。そこには表の会場ではない別の空間が広がっていた。VIPのみが参加できる裏カジノだ。

「おまえにはここで客を喜ばせる贄となってもらおう」

 裏カジノに放りだされて安子はそこで数々のゲームに強制参加させられた。安子は絶対に勝てない。だから安子の参加するゲームでは必ず安子が負けとなる。ほかの客は安子よりも下になることはない。

 タネも仕掛けもないのになぜかそうなる。運営側がズルをしているわけではない。ただなぜかたまたまそうなるだけなのだ。

 また別のゲームでは、安子はチーム戦に加わった。安子の入るチームは必ず負ける。安子がいるからなぜかそうなる。

 カジノの運営陣はイカサマをしているわけではない。参加者にほかのメンバーと同じように、借金を抱えた人間を参加させているだけだ。借金返済のために労働をさせているだけで、これといった干渉をゲームに対して行っていない。

 だが安子が入るとそのチームは必ず負ける。

 その法則を知っているのはカジノの運営陣と安子だけだ。

 安子は重宝された。

 借金はあっという間に返済でき、さらに正規に収入まで得た。安子の立場は相も変わらず裏カジノに身を売った憐れな二十五歳女子にすぎなかったが、もはや安子は裏カジノになくてはならない存在だった。

 負けつづけた人生だったが、いまでは安子は絶対に勝てないその宿命を買われて、勝負の舞台に生き甲斐を見つけた。ここがわたしのあるべき世界だ。天職だ。そうと思えるほどに安子は運営陣から常敗の腕を買われて、欲しくもないとかつては呪った己が個性を、余すことなく活用している。

 安子は生まれてこの方勝負ごとに勝ったことがない。

 負けつづけた人生だ。

 これからもきっと勝てぬままだろう。

 けれどいまではその気になればいつでもお寿司を食べられるくらいに悠々自適な暮らしを送っている。勝負には勝てない。けれど負けて得られるものもある。

 安子にとってそれは、呪いを愛せるほどの祝福だった。

 敗者に幸あれ。

 負けて兜を脱ぎ捨てよ。





【ミミズの指輪】2023/04/21(23:22)


 ある日、女がミミズ大の蛇を拾った。ひどく弱っており、捨て置いてもよかったのだが、女はそれがたとえ蛇だろうとナマズだろうと放っておけなかった。小さな蛇を弁当箱に入れて家に持ち帰った。

 女が世話をすると蛇はすくすくと育ち、一年後には女を一飲みにできるほどの大蛇となった。大蛇には手足が生え、髭が生え、角が生えた。

「おぬし、龍じゃったか」

 女はそれでもかつてミミズのようだった蛇の世話を焼いた。

 龍はさらに育ち、女の棲家とてひと吹きで消し飛ばせるほどの大きさになった。

「もうおぬしは自由だろ。好きにお生き」

 だが龍は女のもとを離れようとせず、ミミズのごとき小さなころにそうされたように女から撫でられるのを至高の喜びとして女に甘えた。

 しかし龍を手懐ける女は、周囲の人間たちからは奇異な目で見られた。のみならず、畏怖の対象となり忌避された。

 女は孤立した。

 だが元から女は天涯孤独の境遇だった。

「気にしないでおくれ。おまえさえいればそれでいいんだ」

 女がかように寂しげに微笑するたびに、龍は髭を地に垂らした。

 やがて噂を聞きつけた城の兵群が女の棲家を囲った。龍は食事のために遠くに出張っていた。

 その隙に兵群は女を攫った。女は平野のど真ん中に簀巻きにされて転がった。

 女の棲家は燃えていた。

 龍はその火を見るや、刹那に女の匂いを辿った。

 雷のごとく素早さで平野へと飛ぶと、女の姿を目にして激怒した。

 だが兵群は龍を待ち構えていた。

 龍が女の頭上に差し掛かったところで、大砲が火を噴いた。四方八方から砲弾を浴びた龍は、しかし兵群に目もくれずに身をよじって女をぐるぐると長く太い胴体で包み込んだ。

 砲撃は、とぐろを巻いた龍の周囲の大地を黒く塗りつぶすまで続いた。

 砲弾が切れたのは夕闇に景色が沈んだころのことだった。

 龍の胴体から鱗は落ち、砲弾のめりこんだ表皮は青白い体液でしとどに濡れていた。月光が雲間から垂れ、龍を照らす。

 とぐろを巻いたまま微動だにせぬ龍は、あたかも歪な青き玉のようだった。

 兵群が徐々に龍との距離を詰めていく。

 足場は龍の体液でぬかるんでいた。

 兵群の先頭が龍の元に辿り着く。一番槍が龍の胴体を槍先で突いた。

 するとどうだ。

 ぐるるる、と唸り声に似た大気の振動が大地を伝い、或いは天空を揺るがした。

 月光が雲間に隠れ、見る間に辺りは闇に襲われた。

 頭上からはゴロゴロと胎動のごとき雷の予兆が鳴り響き、間もなく大地に幾筋もの雷が落ちた。

 地面は龍の血で湿っていた。砲弾とて敷き詰められている。

 雷は大地に落ちてなお縦横無尽に駆け巡った。

 ふたたび月明かりが平野に差しこんだころには、大地に動く人影は一つもなかった。兵群は全滅した。

 青白く浮かんだ龍の胴体に月光が掛かるが、しかし幾ら月が照らしたところでそこには煤けた巨大な樹の根のごとく、黒い炭の塊があるばかりだった。

 風が炭を細かく砕いて攫っていく。

 黒煙がサラサラと天に昇る。半分ほど霧散すると、土砂が崩れるように黒い炭の塊は形状を維持できずに砂となった。

 後には一人の女が仰向けに地面に寝転んでいる。

 んんっ、と寝返りを打った彼女の指には、しゅるり、と巻きつく紐のようなものがあった。細くも小さな紐のごときそれは指輪のように女の指に絡みつき、全身で頬づりするがごとく、身をよじらせた。

 螺旋を描くそれはミミズのように細く、小さい。

 その螺旋を、女は、眠りこけたまま両手で包み、胸に抱く。





【争え、争えー!】2023/04/22(22:36)


「で、どうしましょう総督。例の資源国で民主運動勢力が軍事政権に弾圧されはじめています。どうやら軍隊内部で権力構造の転覆があったようで」

「各国の動きはどうだ」

「どうやら軍への支援を秘密裏に行い、独裁体制を築くように誘導している節があります」

「なるほどな。軍事政権を確立させ、自国に有利な支配層を築きたいわけか」

「でしょうね。どうしますか。我が国は介入しますか」

「そうだな。あそこの国の資源はこれからますます有用になる。他国に奪われるのも癪だな」

「では民主勢力に支援を」

「いや。軍のほうに支援をせよ。それもできるだけ目立たぬように、だ。我が国は静観しているテイを保ちつつ、独裁政権確立の後押しをせよ」

「よいのですか。民主主義を後押しせずに独裁政権の確立を? なぜですか。我が国は民主主義国家ではありませんか」

「正しくは、総督の地位のある民主主義国家だ。民衆のための奴隷を我が国では総督と呼ぶ。ある意味で君主制でもある。まあ、どの道、あの国には某国が軍事介入しているのだろ。我が国が民主勢力を支援したところで軍事勢力相手に戦闘は不可避だ。内紛は拡大し、犠牲者は嵩む。民主勢力側に支援したと判れば我が国へも火の粉が掛かる。それは避けたい」

「ならば真実に静観すればよろしいのでは」

「それでもやはりあの国は内紛を避けられぬだろう。放っておけば何十万、何百万人と殺し合い、死ぬこととなる。ならばさっさと独裁政権を確立してもらったほうがいい。そのうえで、独裁政権に調子に乗ってもらう。我が国の支援あっての成果とも知らずに有頂天にさせたうえで、タイミングを計って支援を打ち切る。さすれば独裁政権ごとあの国は崩壊するだろう。崩壊したのを見届けてからすからず我が国は人道支援を建前に介入し、根元から傀儡政権を民主政権側から打ち立てる。そのためにはさっさと独裁政権を確立してもらったほうがいい。出来るだけ圧倒的な地位を築いてもらい、調子に乗らせ、根元から腐らせる。国ごと二度と立て直せないほど腐敗させ、自滅してもらうのが最善だ」

「ですが、それだとあの国の民が犠牲に」

「どの道犠牲は避けられぬ。ならば紛争での犠牲を最小限にし、未来に命を繋いでもらおう。しばしのあの国の民たちは劣悪な環境に身をやつすことになるが、戦禍を他国に拡大させないためにも必要な犠牲と考えよ」

「……承知致しました」

「権力争いで確立された国など、同じく権力争いで簡単に崩壊する。そんなことにも思い至らぬ国が軍事支援をしたところで先は視えている。失敗は糧となる。大いに失敗させてやれ。同胞で殺し合う無意義さを学ぶいい機会だ。存分に殺し合わせてやるがいい」

「作戦名はいかがなさいますか」

「そうさな。端的に蟲毒でよかろう。民衆を虐げ、手に入れた玉座で、死ぬまでじぶんの首を締め続ければいい。資源は逃げぬ。開拓が済んだ頃合いで滅ぶように蟲毒計画の導線を引け」

「仰せのままに」

「さてと。きょうの我の予定は何だったかな」

「はい。本日は午後からワンニャンランドでの昼食会となっております。総督には国民のまえで犬猫と大いに戯れてもらいます」

「楽しみだ」

「ええ。楽しいですよきっと」

「昼食会の前にファストフード店に寄って、てりやきバーガーを食べてもいいか。どうせまた昼食会では一口二口しか食べられぬのだろうからな。品の良さを演じるのも苦労する」

「ではそのように取り計らいましょう」秘書の男は低頭した。





【さらばえる老若】2023/04/23(23:43)


 私は青年のころより社会に不満を持っていた。相対的に貧困で少数派なのは若者だ。なのにそのことにも気づかずに貯蓄を貯めこみ、社会保障とは名ばかりの好待遇を得続ける高齢者たちは、それでもまだ足りないと数に物を言わせて政治に圧を掛け、国を牛耳る。

 若者は日々刻々と変わる激動の時代を生きている。反面、高齢者たちは年金暮らしで、悠々自適に国からの余生を保障されている。

 支援が足りないのは判る。

 充分でないのはそのとおりだ。

 だが若者はもっと充分ではない。

 だから私は政治家になった。世の中を変える。まずは高齢者優遇の社会構造を若者優遇に変えていかねばならない。

 私は邁進した。

 若者のために。

 子どもたちのために。

 二十代から活動をはじめ、三十代、四十代と風のように過ぎ去った。

 五十代に差し掛かりようやく時代が動いた。

 下降の一途を辿っていた三十代以下の若者たちの投票率が八割を超えだした。電子投票制度の実施が功を奏した。するとあれほど票田として重宝していた高齢者優遇の政策が、どの政党も舵を切ったように若者優遇の政策に変わった。

 風向きが変わった。

 私はさらに邁進した。

 高齢者の支援制度を切り崩し、そこで出た余分を若者支援に回した。

 経済は活気を取り戻した。人口減少は目前の課題ではあったが、人工知能技術の進歩が技術革新を進め、労働者が減っても生産性はむしろ向上しつづけた。

 若者だ。

 若者を支援しなければならぬ。

 六十代に入り、私はさらに声を大にして訴えた。

 するとどうだ。

 私は若者世代から絶大な支持を得て党首となり、首相にもなった。高齢者の社会保障は若者以上にしない。甘やかさない。貯蓄額に応じて高齢者の所得税を重くする。しかし安楽死法のような非道な法案には断固として反対した。私は高齢者には長生きしてもらいたい。姥捨て山のような法案を通すわけにはいかなかった。

「高齢者の負担が嵩んでいますが、また増税されるのですか」

「ええ。ただし消費税は上げません。累進課税による所得税、資産税のみ増税致します」

 税はあるところからとらねば不公平だ。

 そうして私は政治家でいたあいだに思いつく限りの若者支援策を改革した。

 七十代後半になって私は政治家を引退した。

 若者に活躍の場を譲らねばならぬ。むしろ七十代にもなって政治の舞台に居座りつづけるのがおかしいのだ。これでよいのだ。

 私はすっかり姿を変えた社会を眺めながら余生を過ごした。

 八十代の私は、若いころからの無理がたかって身体の至る箇所に病を抱えた。

 貯蓄は毎月のように税金でごっそりと引かれ、病院の費用も治療によっては保険適用外だ。介護の段階にはないため、ヘルパーを雇うのにも保険は適用されず、金は蝶のようにヒラヒラと財布の中から逃げてゆく。

 私の政策を支持する後輩政治家たちはみな若者からの票を集めるために、若者支援を訴えつづける。高齢者層は未だに総体的に裕福であり、若い世代のためにまずは高齢者から支援の手を下の世代へと伸ばすべきだ。

 現役の政治家たちが声を揃えて訴えている。

 私はぞっとした。

 まだ毟りとる気か。

 あれほど若者のためをと思い尽くしてきた我々から、まだ身を切れというのか。 

 思えば私は、上の世代からはこれといって支援を受けてこなかった。じぶんがされたい支援を若者に注ぐべく、私たち世代を蔑ろにした上の世代に責任を追及した。

 だがその恩恵を私たち世代が受けることはなく、私たちより下の世代へと波及する。

 それでよいだの。

 そのためにひと肌脱いだ。

 だが私の引いた線は未来の私にまで繋がり、蚊の口のごとく、ちうちう、と高齢者となった私からをもなけなしの蓄えを吸いだしていく。

 余裕が奪われる。

 下の世代のために。

 未来ある若者のために。

 老い先短い我々高齢者は、その身を尽くして蓄えた私財すら、長く生きたというだけの理由で奪い取られ、見も知らぬ若者たちの青春を彩る絵の具に変えられる。

 自業自得なのかもしれない。

 きっと私が私の境遇を嘆いたところで、これまで私が切り詰め、負担を強いてきたいまは亡き者たち――かつて高齢者だった者たちから、どうだ思い知ったか、と指弾されるだけだろう。おまえも同じ目に遭ってみるがよい。そう言って、さらなる負担を強いられるだけなのだろう。

 私は間違ってはいなかった。

 国は経済を立て直したし、若者たちの未来は明るい。

 だがどんな若者とて死なずにいればいずれ老いる。常に「若者だけ」が支援される国を私はこの手で築いてしまった。

 高齢者と若者。

 どちらを選ぶのがよいのか。

 以前の為政者たちは前者を選び、私は後者を選んだ。

 だがそもそもこの命題が土台からしておかしかったのではないか。

 両方選べばよかったのだ。

 せっかく築いた高齢者支援制度はそのままで、同じだけの支援制度をすべての国民に当てはめるように政策の舵をとるのが好ましかったのではないか。全部をすこしずつよくしていく。一番上に合わせて、一番下を底上げする。その繰り返しがイモムシの蠕動のごとく、社会を発展させていく推進力となるのではないか。

 私は間違った。

 かつての為政者たちと同じように。

 だがそうせざるを得ないひっ迫した現実があったのもまた事実だ。変えるしかなかった。変えないこともまた間違いだった。

 しかし充分ではなかったのだ。

 私は私がかつて高齢者たちにしてきたように、私自身がその負の面を引き受けるのが道理だ。若者たちのために、老い先短い余生を、苦難と不便の狭間でぎゅうぎゅうと圧しつぶされながら、臼から零れ落ちる蕎麦粉のように、若者たちへの養分を与える。

 彼ら彼女らの未来は、私たち高齢者の生によって、よくもわるくも耕される。肥えるにしろ痩せるにせよ、未来は、それを切り開いた者たちの苦役によって拡張されていく。

 願わくは。

 老いも若きも共に支え合える未来を。

 余裕を奪い合うのではなく。

 或いは、共に支え合う必要すらなくなるほどの余裕を生みだす社会へと。

 未来を繋ぎ、変えていってほしい。

 もはや私は一人では外を出歩けない身体となった。病院に掛かる金はない。元首相という地位を利用できるほどの恩恵を私は受けられない。私自身が過去に行った政治改革によって、そうした身分格差による優越的地位の濫用を禁止した。

 政治家は、政治家を辞めたらただの人だ。

 政治家であったところで、ただの人だ。私はそれを私が首相のあいだに政界へ、それとも市民の常識に刷り込んだ。

 私はただの高齢者だ。

 死を目前に控えた、生産性のない、ただの老いぼれである。

 報道番組に目を転じる。

 すると、新たな法案が採決された、とのニュースが流れていた。私たち高齢者にはさらなる負担を強いるべく新たな社会保障の改正案が可決された。私に残されたのは、この身体を蝕む病と苦と、思考だけである。

 その思考すらいまは巡らせるのが億劫だ。

 せめて首相のときに反対しないでいればよかった、と私は後悔した。

 安楽死。

 私に残された望みはただ一つ、安らかに死にたい、なのである。





【超能力なんてないさ】2023/04/25(00:04)


 超能力を使えるようになった。

 念じるだけで物を動かせる。サイコキネシスと呼ばれる超能力だ。

 ぼくはそれを自慢したくてまずは妹や兄貴に見せたのだが、良くできたマジックだ、と欠伸交じりに褒められて終わった。消しゴムを宙に浮かべる程度ではその程度の反応がせいぜいらしい。机の上のカップを動かすくらいでは種のあるマジックと思われても仕方がない。

 もっと出力を高めないといけないのかもしれない。

 ぼくは修行を積んだ。

 そして車一台くらいなら宙に浮かせることができるようになった。のみならずじぶんの身体とて宙に浮かせる。ぼくは空を自在に飛び回れた。

「見て。ね。本当だったでしょ」

 ぼくは家族のまえで宙に浮いて見せ、自動車を持ち上げて見せたが、危ない真似はよしなさい、とたしなめられて終わった。どうやら情報量が多すぎてどう反応していいのか分からなかったようだ。だから非現実の光景を無理くりに日常と接続すべく、我が家族はぼくの超能力を単なるイタズラの類として見做したようだ。

 どうあってもぼくに超能力があることを信じないので、ぼくは矛先を家族から世間へと向けた。

 まずは超能力を使っているじぶんの姿を動画に撮った。

 けれど加工された動画のように見做されるに決まっている、と最初からぼくは期待していなかったので、案の定の結果になっても「やっぱりね」と思うだけで落胆はしなかった。

 ぼくはどんどん動画を投稿した。

 するとそのうち、たとえ加工された動画であってもこうも量産できるならその動画の加工技術は相当なものだ、と話題になった。動画は視聴率を上げ、ぼくの元に取材を申し込むマスメディア関係者も登場した。

 ようやくぼくは、ぼくの超能力が本物だと世間に示せる。

 取材にやってきたマスメディア関係者のまえでぼくはバスを宙に浮かし、大空を自在に飛行してみせた。

 取材班は目を点にして驚いていた。

 けれどその後、放映された番組ではなぜかぼくは凄腕の動画編集者になっており、撮影されたぼくの超能力も本物ではない加工された動画であるとの説明がなされていた。

 取材班が太鼓判を捺した。だからぼくがいくら「本物の超能力なんですよ」と訴えても、その声そのものがぼくの演出だと見做されてどうあってもぼくの声はみなの心に届かなかった。

 どうしたら信じてもらえるのだ。

 ぼくは日々嘘吐きのレッテルを貼られ、精神的にまいってしまった。

「こうなったら」ぼくは考えた。「誰もが疑いようのない事象を起こすしかないな」

 ぼくはそう思い、それを実行した。

 いつものように電子網上に動画を載せた。

 動画の中のぼくは超能力で身体の周りに雑貨を浮かしながら、「あすの零時に地球を破壊します」と宣言した。

 ぼくは日々の修行で超能力の出力とその作用範囲を高めつづけていた。地球を破壊するくらいわけがなかった。

 そうして視聴者から「嘘吐き」だの「詐欺師」だの「不謹慎なことを言うとは何事か」と非難されながら宣言通りにぼくは翌日の零時に地球を破壊した。

 地球は粉々に砕け、爆発四散した。

 人類は滅亡した。

 けれどぼくだけは身体にバリアを張って生き永らえた。宇宙空間を延々と彷徨いながらぼくは、超能力によって飲まず食わずでも身体の健康を維持した。

 月に到達するとぼくはそこで超能力を駆使して、じぶんだけの村をつくった。重力が足りない分は、超能力で物体の質量を重くした。

 ぼくはそれから千年を生きた。

 ぼくの超能力は進歩をつづけ、いまでは何もない空間にブラックホールを生みだせるまでになった。そうして時空を歪める能力を獲得したぼくは、時間の流れも捻じ曲げて、過去のぼくへと干渉する。

 こんどは上手くいくように。

 地球を破壊せずに済むように、と念じながら。

 過去のぼくだけではなくぼくは、過去の地球に息づいていた世界中の人間たちに、もうすこしだけ素直になれるようにと、超能力で性格を歪めた。

 時空を歪めてブラックホールをつくるように。

 時間を歪めて過去に干渉するように。

 ぼくは過去の人類の精神に干渉し、過去のぼくを疑うだけではない視点を与えることにした。そうしてぼくは超能力を獲得して千年以上経過してからようやく、超能力の存在を他者に信じてもらうことが出来るようになった。

 地球の破壊された異世界からぼくは、地球の破壊されることのない世界へと干渉し、超能力越しに、すこしだけ素直で、周りの者たちから見守られる存在となったもう一人のぼくと通じ合いながら、ここではないもう一つの未来を、やはり私も多くの者たちと同様に見守るのである。

 超能力は存在する。

 地球がここに在るのと同じように。

 人間が歩き、鳥が空を舞うように。

 能力があるのと同じだけ確かな理の上に、能力を超えた能力は在るのである。




千物語「回」

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