R2L機関

【R2L機関】 


目次

『開花』

プロローグ『エンド・ロビー』

【授粉~ハルキ~】

『幻肢』

第一章『退屈な、日常の崩壊』

【着床~ハルキ~】

第二章『退屈な日常、の崩壊』

『銀三十枚の重さ』

第三章『現在の所在』

第四章『天は差異をいなし、差異は害をいなす』

【授精】

『加護の中の彩りは』

第五章『時は動きだす』

【交錯】

第五・五章『毒吐く』

【分裂】

第六章『失われた環』

【熟成】

第六・五章『長閑な能動』

【熟成~休眠】

【出芽】

【ミカ】

第七・五章『野次馬』

第八章『努々抱くことなかれ夢を』

~無有・夢遊~

『そして、誰も』

第八・五『グッドラック・フィールド』

『眠り姫』

第九章『外皮』

第十章『夢・現・鏡』

第十一章『転』

第十一・五章『私はリンクする』

第十二章『差異化することの罪過』

第十三章『ウサギは耳でとぶ』

主観は失われ、客観こそが主格となる

第十三・五章『断罪断』

第十四章『パリティ』

【開花】

第十五章『百花繚乱』

【媒介者】

エピローグ『ひょうはくアウトロー』

『アフタービート』 671




   SS『開花』SS

 

 たとえば――と青年は立ちあがり叫んだ。

「たとえば僕が、そとの生え散らかった雑草のひとつを引き抜くとしよう。どうです? あなた方は何もなさらないし何も思わない。思ったとしてもそれは、欺瞞に満ちた憐憫です」

 青年はゆっくりと歩みながら続ける。

「けれど、もしも僕のひっこ抜いたその雑草が、世界最後の植物だったとしたのなら。僕の身をひき裂くほどの憎悪が世界中から僕に向けられ、僕を包むでしょう。これはすなわち、あなた方の価値に対する基準が、自分や自分達にとって希少かどうかに帰着します」

 婦人達がざわめくなか、とある紳士だけがにこやかに青年の話に耳を傾けていた。

「それはあまりにも浅薄だ」

 青年が言い放つや否や、紳士が口をひらいた。

「たしかにその通りだね。でも私たちは、全てのものが存在するだけでそれらが希少なかけがえのない存在だと思っていますよ」

 婦人たちは黙り、青年は紳士を睨みつけている

「そして私たちにとって“自分たち”とは、家族や身の回りのひとびと、ついには人類だけでなく、地球に生きる全てのものを含んだ繋がりなのですよ」

 紳士は終始にこやかに微笑んでいたが、最後はとびっきりの笑顔を青年へ向けた。婦人たちの拍手が会場を包む。

 青年は思う。

 それこそ一番の浅薄だと。いや、そう考えていながら、その意思にまったくそぐわない行動をしているだなんて、正に、悲惨そのものだと。

 右手にはガスマスク。

 左手には銀色の筒。

 青年は緩慢な動作でマスクを被り、表情を消した。

 銀色の筒の蓋を開ける。床へていねいに転がす。

 建物のそと――遠くで花火に似た爆音が轟いた。

 知覚すると同時にシャンデリアの明かりが失せる。

 視界が途切れ、闇が覆う。

 突然の闇に平常を乱された紳士や婦人たち。

 彼らのさんざめきによって、呟かれた青年の嘆きは、ロウソクの灯のごとく掻き消された。

「思うだけなら――死者でもできる」 





 +++プロローグ『エンド・ロビー』+++

 【始まりと終わりがありますね。始点と終点があるのです。始点から終点へと辿りついたあかつきには、始点と終点は結びつき、円となるのです。円に始点と終点がありますか? 円には点がありません。逆に、どこを指してもそこには点があるのです。ですから、円が途切れた瞬間、そこには必然的に、始点と終点が生まれます。生じた二つの点のうち、どちらが始点でも構いません。あなたが好きなほうを選べばよいのです。両方を始点とすることもこの場合、ええ、不可能ではないのですよ】

 


 タイム○スキップ{~時系列の基点~}


 ***コロセ***

「めずらしい波紋ですね。新入りさんですか?」

 風鈴のように透き通った声だった。

 はかなげな声でもあった。

 どこから響いているのかと見回すと、すぐうしろのケヤキの樹――空にちかいその樹枝に彼女は座っていた。あどけなさの塊といったかわいらしい体躯の少女で、「わたしは木の妖精です」と言われたら僕はきっと、瞬き二回分くらいは信じたかもしれない。

 彼女は純白のワンピース姿で、その裾からは、小枝のように、ほそくしなやかな肢が覗いている。

 木漏れ日がきらめいていて、所どころ眩しい。目をほそめる。

「危ないよ」額に手をかざしながら忠告した。

 降りてもらうことが目的ではなかった。忠告した理由は保険で、原理は保身。僕がこうして忠告しておくことで、彼女が落下したとしてもそれは百パーセント彼女の責任となるはずだ。

 危ないことを認識してからも、なおもその状況に身を置いて怪我をしたとなれば、それは誰のせいでもない。

 己の責任なのだ、と僕は思う。

 子どもであっても例外ではないのだ。だからと言って、保護者に責任がないとまでは言いきれないのだけれど、あいにくと言うべきか、幸いというべきか――僕は彼女の保護者ではない。

 だから僕は最低限のマナーをさきに果たしておいただけのことで、けれど彼女はそんなこちらの狡猾な思慮を知ってか知らずか、

「ありがとう。心配してくれるんですか」と柔和に囁いた。

 彼女の白い肢が、風に揺蕩うように交互に振れている。なんだかすこし楽しげだ。

「こわくないの? そこ、けっこう高いよね」ちょっと興味が湧いた。「見晴らしはどう? なにか見える?」

「なにも見えないです。葉っぱがじゃまなの。ほら、こんなに茂っていて」彼女は葉を、ちょんちょん、と引っぱった。「あ、でも、冬になっても――たとえ葉っぱが枯れたとしても、ここからはなにも見えません」

 あれが邪魔だから、と少女は視線をまっ直ぐと向けた。

 視線を辿ると、そこには山脈のように高く大きな壁が、風景を塗りつぶすようにずっとよこにつづいている。まるで、地平線と競い合っているかのようだ。山脈然としたその壁は、この『アークティクス・サイド』の敷地を囲んでいる。荘厳ではあるけれど、威圧的ではない。山のように風景に溶け込んでいる。溶け込んでいる、と僕がなんの違和感を抱くことなく思えてしまえるくらいに、ここではあの壁は、当たり前の存在だった。それはまた同時に、そう思えるようになってしまうほど長い期間、僕がここで過ごしているということでもある。

 肉眼では判らないのだけれど、あの壁には、壁の表面を覆い尽くすように花が咲き乱れている。

 百花繚乱とはこのことだろう、とこの『アークティクス・サイド』に足を踏み入れたあのときに僕は思った。最初に浮かんだ言葉がそれだったのだ。圧巻だった。言葉を連想するまえには「驚愕」という感情が僕を支配していて、最初になにを思ったかまでは覚えていない。驚愕するというのはきっと、思考の混線と同じようなものなのだろう。


 百花繚乱――。

 小学生の僕が、精いっぱい背伸びをして知っていた、数少ない四字熟語だ。

 妹の七五三のときに母が買ってきた着物が、まさに「百花繚乱」といった柄だった。

 当時、妹はとてもよろこんだ。「かわいいね。似合っているよ」と有り体な言葉で僕は褒めた。「妖精さんみたいだ」とも言った。妹は純粋無垢に破顔した。妹のその笑顔はまるで、繊密な花柄の着物に、大きな向日葵が咲いたみたいだった。妹の笑顔はいつだって僕を元気にしてくれた。これもいまや遠く掠れた過去の思い出だ。

 

 壁を彩る種種雑多な花には、季節外れの花も多く見受けられたように記憶している。こちらの社会に特有の技術なのだろう。一年中咲き乱れているらしい。

 あの壁は、我々の安全を確保するための守護塀だ、と僕らはそう教えられている。事実そうなのだろう。あの壁を乗り越えることは向こう側からは不可能にちかいし、こちら側を覗くことも無理なのだから。だからこそ僕らにとってあの壁は、僕たちと外界との境界線を明確に引いてくれている、外皮のような存在だ。

 安心の象徴。

 自己とそれ以外との境。

 外側と内側を生みだす線。

 それは一方で、その壁が僕らを〝外界から隔絶している〟ということでもある。

 拘束。束縛。

 堤防。防塞。

 ただそれを僕らが「不自由だ」と思わないだけのことで結局は――壁があってもなくても――たぶん、関係ない。

 この世界は、どこもかしこも、内と外の連続した連なりでできているのだから。どこに納まっていようとも、きっと、大差ない。

 

「あの壁がなければ、もっとたのしい景色が望めるはずです。こんな、なにもない草原ではなくて」

 寂しそうに言うと少女は、あ、となにか思いつたように声をあげた。

「ねえ、知っていますか? 向こうがわになにが見えるか、どんな風景がひろがっているのか、新入りさん、知っていますか? 私、生まれたときからここにいるから知らないの……あのさきに、あの壁の向こうがわに、どんな風景がひろがっているのかとか、なにがあるのかとか、そういったことを。ぜんぜん。まったく。これっぽっちも知らないの。ねえどうですか? 新入りさん、きっとあなたなら見たことありますよね、あの壁の向こうがわ? もし知っていたらでいいの……私に教えてくれませんか」

 期待の籠った口調が健気だった。

 僕はみじかく、いや、とその期待に応えられない旨を最初に示す。「いや――僕が入ってきたのって反対側にある門からだから、こっち側は見ていないんだ。それに、ここまでは車で送ってもらったから。外の風景は一切見られなかった」

 ごめんね期待に答えられなくて、と申し訳なさを醸しつつ謝る。

 思い起こしてもみれば、送迎車の窓はスモーク加工されていた。視覚は閉ざされていたも同然だったのだ。けれど、たとえスモーク加工されていなくとも風景を眺めている余裕なんて僕にはなかった……。ああ、思いだしたくもない。忌々しいとはまさにあのことだ、と僕はかぶりを振る。

「あ、そっか。そうだったですね」一瞬の落胆を見せるも少女はすぐさま、「ここに来るには仲介所を経由しなくてはでしたね」と口調を柔和にした。

 しらばく沈黙が漂う。

 風の音が際立つ。

 際立つ風の音が、静寂を引き立てる。

「もうひとつ訊いてもいいですか?」と彼女が声を張った。

「いいよ。なんでも訊いて」

 眩しいので僕はしたを向く。足元には木から伸びる影がある。そこには彼女の影もあった。「答えられないかもだけど」

「ここ以外の場所から見ても、ああやって壁はどこまでもつづいているのですか?」地面にうつる少女の影は首を傾げている。「どこの景色も、ああやって壁に――遮られてしまっているのですか?」

「そうだけど……え、もしかしてあっちにも行ったことない?」

 中央棟のほうとか、と僕はゆび差す。

「だって人が沢山います。あっちには。人込みは苦手です」

「たしかに」と同意する。だからこそ僕もこのベンチで一日の大半を過ごしているのだけれど、「たしかに、そうなんだけど」だとしても、「キミ。本当にこの場所しか知らないの?」半信半疑だった。

 僕も人込みは苦手だ。というよりも嫌いなくらいだ。

 けれど、いくらなんでもここアークティクス・サイドで生活している以上は、ほかの場所にだって――建物のなかにだって――『ステップ』内にだって――踏み入れなくてはならないだろう。まさかベンチで寝泊まりするわけにもいかない。こと、こんな幼気な少女なら、なおさらだ。

「ないですよ」ここしか風景は知りません、と少女は無機質に答えた。「でも、そんなこと、どうでもいいんです。どっちだっていいんです。だから信じなくたって――信じてくれなくたって、まったくぜんぜん」

 かまいません、と語尾を萎ませる。

 刺々しい口調が、どことなくむつけて聞こえた。だからというわけでもないけれど、「信じるよ」と僕は言った。

 それに、彼女の雰囲気はたしかにほかの者たちと違って思えた。

 だいいち話し方が子どもらしくない。老成している。もっとも、年齢は高く見積もっても小学校中学年――でもたぶん、まだ六歳児と言ったほうがしっくりとくる。それほどに少女の体躯は幼くて、小さかった。

 にも拘らず――彼女の容貌が矮躯で幼いにも拘わらず――少女の口調や仕草は大人びている。はっきりとした話し方をして、抑揚の付け方、感情の表し方、演じ方、それらをよく弁えている。舌ったらずではあるのだけれど、それはそれで、そのハンディキャップを覆すほどの卓越した口調なのだ。

 彼女の座るケヤキの大木の高枝から、僕の座っているベンチまでにはそれなりの落差と距離がある。僕は視力が良いほうではない。それでも少女の仕草や、周囲に漂う成熟した大人の雰囲気が、僕にも充分に伝わっていた。

 なによりも大人の女性に特有の、あの消え入りそうな――鈴を転がしたような――耳をくすぐる喋り方が少女の見た目と、僕との会話の間に大きな違和感を生じさせて、僕に現実との不協和を抱かせている。

 星空のしたで虹を見ているような、そんな感覚だ。

 でも、これはちょっと大袈裟な気もするけれど。

 

「外に出てみたいと思う?」見るだけじゃなくってさ、となんとなく訊いてみた。

 意図はない。意味もない。空いた沈黙を埋めるだけの言葉だ。

「そう……ですね。出られるものなら、はい。いちどでいいから見てみたいです。この眼で、この身体で」

 外の世界を、と彼女は詩を詠むみたいに口にした。

「一度でいい、なんて言わずにさ。もし気にいったらずっと住めばいい。まあ、でもね――むしろ、もう二度と行きたくない、ってなると思うよ。ここと比べたら面倒くさいことばかりだし、ここのほうがよっぽど住み心地いいって感じるひとのほうが多いだろうし」

「住めばミヤコ?」

 ひとの名前を呼ぶようなその言い方に思わず顔がほころんだ。

 少女の影は、相変わらず脚を交互に揺らしている。その仕草だけは子どもっぽくて僕は変に安心する。安心しつつ、「というよりも」と指摘する

「というよりも、逃げ込んだ場所こそ都。逃げだしたくなる場所に比べれば、どんな場所も快適なんだろうね」

「ふうん。そういうものなのですか」

「さあ。どうだろうね。適当な僕のデマカセだから」真に受けないほうがいいかもね、と冗談めかす。言ってから厭みな言い方だったかな、と反省する。

 少女は急に寡黙になった。思索に耽っているのか、それとも僕を相手にするのが億劫になったのか。


 以前、ことあるごとに僕へ、「コロセは気障な野郎だ」と言っていた知人のことを思い出す。

 知人いわく、僕の口にする言葉はことごとく、気障か・お寒いか・お門違いか、の三択らしい。ひどいときは三色丼と化すので僕と会話する相手は度々返答に窮するらしいのだ。でも無理をしてまで会話をする必要はないのだから、僕も相手も、会話が途切れて困ることはないだろう。

 木々がさわさわと涼しげな音を奏でている。

 視界の先で雄大に屹立している壁を、僕は眺めた。そのさきに広がっているだろう風景を想い描きながら。

 

 あれから十一年も経ったなんて信じられない。いや違う、そうではない。信じることは容易であるし、信じるほかないのだけれど、それでも僕はこの十一年間を、曖昧模糊に漠然とした記憶としてしか持ち合わせていない。

 一体なにを習い、なにを知り、なにを考え、なにを学んだのか……これといった、確固たる成長の軌跡を僕はなに一つとして挙げられない。挙げることができない。できるわけもない。

 この十一年間、僕は。

 ――何もしてこなかったのだから。

 風が頬を掠める。

 少女の脚が振り子となって視界の端、意識の内と外の境界にちらついている。

 木漏れ日からそそぐ日差しが気持ち良かった。

 ねえ、と少女は笑みを含んだ声を発した。「ねえ、そっちに行ってもいいですか? ベンチの空いているところ。あなたのとなりに」

 小鳥が口を利けばこんな風だろうか、と僕は遠くに聳える壁を眺めながら夢想する。夢想しつつ、「いいよ」と答えた。

 断る理由が思い付かなかった。

 ありがとう、と少女の言葉が耳に届いてから僕は、あの小さな身体でどうやって降りるつもりだろうか、と遅ればせながら気付き、「手伝おうか」と腰を浮かしつつ首を捻って振り向いた。

 視線の先。ケヤキの枝。

 少女がさきほどまでいた場所には木漏れ日がきらきらと瞬いているだけである。

「背、大きいですね」

 真横から声がとどく。

 反射的に身体がうごき、声の主を捉える。

 少女がこちらを見上げていた。

 思っていた以上に小さい。体躯も顔も人形のように小さい。

 眉目秀麗な顔立ちだ。

 どこかで見たような容貌だが、しかしでも、こんなにきれいな女の子を、僕はたぶん、見たことがない。

 彼女はやさしく微笑んでいる。

 たのしそうに、ではなく、やさしく。

 笑顔が担う役割を彼女はすでに理解しているのだろう。ただ、その柔和な微笑は、僕にはとうてい仮面には見えなかった。洗練されているのか、無垢なままなのか――結局、どちらでも同じことなのだろうけれど。

 たった今。たった一瞬。それは刹那のできごとだった。

 瞬時に少女は移動した。

 これが彼女の『パーソナリティ』か、と僕は納得する。

 パーソナリティ――僕らが保有する個別の能力。

「ああ、びっくりした。気をつけて欲しいな。僕はね、心臓が弱いんだ」

 冗句を口にしつつ、浮かした腰をゆっくりとベンチに戻す。

「心臓が……ごめんなさい。知らなかったから」彼女が委縮する。「ねえ、大丈夫? ほんとうにごめんなさい」とおっかなびっくり僕に触れようとしてくる。

「あ、いや、ごめん。ウソうそ」

 冗談だから、と焦った。

 彼女から距離をとるべく、座ったままで僅かによこへ退く。ひとに触れられるのはあまり好きじゃない。

「冗談だよ、心臓なんて弱くない。むしろ人よりも丈夫なくらいだから。そうさ、時々こうやってびっくりさせないと、逆に動悸が激しくなりすぎてね、突然からだが躍り出しちゃうくらいなんだよ」

 言いながら僕は、左手が勝手に暴れだして首を絞める、といったパントマイムを即興で実演する。おどけた仕草で誤魔化した。

 彼女の冷ややかな視線がいたかった。

「うそはきらいです」

 睨まれてしまうが、こわくはない。どう謙虚に窺ったとしても、その仕草は上目遣いだ。かわいらしい。

 少女の髪の毛は長く、肩まで届き、鎖骨にかかっていた。風が吹けば一度に舞いあがって、風と同化してしまうほどに滑らかで繊密で――とてもうつくしい髪だった。

 髪の色は黒。

 瞳も黒い。

 大きく円らな眼球で、瞳の周りには薄らと純粋な青がまだ充分に残っている。子どものうちは誰もがこの青を瞳に宿している。けれど、大人になるにつれてこの澄んだ青色は濁って消えていく。そして淀んだ、血走った瞳になっていくのだ。

 髪と瞳の枠美な黒は、彼女を取りまく純白を際立たせている。ワンピースと四肢の白さ、相乗効果によってだろうか、髪と瞳の黒色が、さらにより漆黒に際立って見えた。


 ふいに少女が顔を伏せた。

 少女が俯いてしまったことで遅ればせながら僕は、彼女の顔をまじまじと直視していたと気付く。女性を凝視するなんて不躾だったかな、とやや反省した。

 相手が幼い子どもであろうと、女性は女性だ。三つ子の魂百まで。こういった幼少時の扱いで人格は決まるのだ、と誰かが謳っていたような気がする。だとすれば、いまから彼女を僕好みの人格に仕立て上げることも可能ではないかろうか、などと不遜な思惑を巡らせた。もっとも、今のままでも充分結構にこのまま順調に育ってくれさえすれば、彼女の場合、僕好みの人格になるだろうな――とまたもや僕は凝視してしまっていた。

 けれど少女は意に介しているわけでもなく、赤面する様子もなく、さほど恥ずかしそうにも嫌がっているようにも見えなかった。でもこの子のことだから、上手に隠しているのかもしれない。どこまでもポーカフェイスな少女だった。

 彼女から視線を外しがてら僕は訊ねた。

「名前、なんて言うの」

 視界の隅に少女の姿が燻っている。

「ひとに名前を尋ねるときはまず、ご自分からでは?」とからかい口調の声が返ってくる。彼女が風でなびく髪を押さえているのが判る。

「レディーファーストだよ」

「ならそうですね、お言葉に甘えて。あなたのお名前は?」

 頭の回転が速い子だった。

 僕の頬は、陽差しによって温もりを帯びている。今はその温もりのうえから、さらにつよく、彼女の愛くるしい視線が感じられた。斜めしたから、見上げられるようにしてそそがれている。

 でも、僕が彼女を見つめると、また顔を背けられてしまいそうで、だから僕はまっ直ぐと、遠くを見つめたままの姿勢を維持していた。

 久しぶりにひとと対話した気分だった。久々に冗句を口にした気もする。およそ三年振りくらいだろうか。

 案外に喋られるものだな、と虚しく自賛する。

 

 名前を尋ねてくれた少女。

 だから僕は、この施設で用いている記号、サイドネイムであるところの「クウキ」ではなく、自分の名前を――僕の本当の名前を――彼女に教えた。いつも以上に気紛れな気分だったのだろう、とそう思う。

「コロセ。僕はノロイ・コロセ」

「のろいころせ」彼女が咀嚼するように口遊む。「なら、コロセと呼びます」俯きながら彼女は言った。「そう呼んでもいいですか?」

「うん。呼び捨てのほうがいい」そのほうが落ち着くよ、と僕は莞爾に首肯する。それから続けて、「で、キミの名前は」と問うた。

 少女は、遠くの空を眺めるようにした。

「私は、ひより。小さな春の日和で、小春(こはる)ひより」

 ――小春ひより。

「いい名前だね」思ったまま僕はつぶやく。「今の季節にぴったりだ」

 それっきり僕らは緘黙した。

 

 小春ひよりの視線の先には、壁と空との境界に浮かぶ太陽が浮かんでいる。僕らの座るベンチに、眠気を誘う日向をつくっている。さっきまではケヤキの木に隠れていたのに。

 人と会話していると、時間の経過がはやく感じられる。

 さわさわと風に擦れる枝葉のささめきや、鬼ごっこに夢中の小鳥たちのさえずり――雑多な喧騒が醸しだす静寂に、僕と彼女はそろって耳を欹てた。

 僕の真横に座る小春ひより。

 彼女は今、一体どんなことを考えているのだろう。

 ぼくは久方ぶりに自分以外の者の思考を気にした。

 きっとなにも考えてなどいないのだろう、と勝手にそう結論する。

 僕もなにも考えず、透明で温かな陽だまりが、赤くぬるい夕陽へと遷移していく様を、ぼんやりと間抜けに眺めた。

 ぼんやりしているのも、間抜けなのも、いつものこと。いつもの僕。

 いつもの僕なのに――夕陽に染まる赤い僕は、鼓動の一脈一脈にまで耳を欹てつづけている。

 鼓動が、

 呼吸が、

 骨の軋みや、

 呑みこむ唾液の音が、

 これまで無意識に行っていた所作のすべてが意識下に置かれる。

 

 夕日が夜に沈む間際。

 ようやく僕は、首を捻って、視線を曲げた。

 よこを見遣る。

 いるべき場所に少女の姿はすでになく。

 彼女の代わりに、

 夜に連れられた暗影が、

 そこにはどんよりと漂っていた。

 いつの間にか僕はまた、ベンチに独り、座っていた。





   ○○○【授粉~ハルキ~】○○○

 今年の春、地元県内の私立高校にハルキは入学した。これといって勉強が嫌いだったわけでも、成績が芳しくないわけでもなかったが、中学のある時期から義務教育とは別の方向への分野に関心が向かい、そのため、進学なんてそれなりでいい、といった一見楽観的にみえる判断をハルキは下していた。

 買い物をするために町外れの路地を歩いていた。

 ハルキは俯き、視線を足元へ落としている。汚い、と思った。剥き出しのアスファルトは黒く、まるで、ごつごつとした怪物の皮膚のようで、酸味の利いた饐えた匂いが染みついている。人通りも少なく、どこか陰気な雰囲気が漂っている。

 それもそうだろう、ここに立ち並んでいるのは、潰れたブティックやコンビニ、廃れたナイトクラブのような、営業中かどうかも怪しい店舗ばかりだ。終盤に差しかかったオセロのようにそれらの店が、規則正しく密集しながら建っている。見上げてみれば、ビルディングの天辺と天辺の合間に小さく空が覗いている。たまに、白い雲がのんきな魚のように横切っていく。まるで場違いなハルキを真上から見張っているような錯覚に陥る。

 そんな折、

 

 ――唐突に声がした。

 

 ハルキは声のしたほうを向く。が、誰もいない。

 周りを見渡してみても、やはり誰もいない。

 しかし声は言う。「世界を毀したいんだろ」

 鼓動が大きく高鳴った。

「ど、どなたですか……」

 警戒しながら、その場をゆっくりとぐるぐる回転する。

「お前がもっとも知っている者だが、同時にもっとも理解していない者だ」

 聞こえるたびに、声は違う方向からひびいてくる。

 足がもつれる。店の壁にもたれ掛かる。

 沈思の間を空けてからハルキは口にした。「ぼく……なの?」

「ああ――そうだ。察しがいいな」

 冷笑を浮かべていそうな声だった。

 前方には誰もいない。背面は壁である。首を捻る。横はガラス張りだ、そこに映る自分は笑ってすらいない。蒼白な怯えた表情だ。

「き、君は、もう一人のぼくなの?」小声で問うた。

「俺は同じことを二度言うことが嫌いだ。そして理解されないことを理解されるように言い直すこともだ」

 声はたしかに聞こえている。これまで幻聴というものを体験したことのないハルキは、これが幻聴なのか、どこかに隠されているスピーカから聞こえてくる声なのかを判断しきれずにいた。

 現実味が薄らいでいく。

 これは夢ではなかろうか、ぼくは起きているのだろうかと困惑した頭でぼんやりと疑う。ハルキはトイレで用を足すときにも、これは現実だから小便を出しても大丈夫だよな、実は夢の中で現実では布団の中で漏らしているなんてことにはならないよな、と確かめることが度々あった。だが今はそんなことを考えている最中にも、ハルキの意識とは無関係に声は聞こえてくるのである。

「なら、どうしてぼくのまえに現れた……のですか」何か目的があってのことだと想像した。

 ぼくは乗っ取られるのだろうか……。

 不安が恐怖へと変わらないことをハルキは祈る。

「なんだ、意外に冷静じゃないか。それに頭の回転もわるくない――が頭はわるいな」心底馬鹿にした物言いだ。

「君はぼくなんだろ? てことは、鏡に向かって馬鹿と言っているのと同じだぞ」

 反抗することで、自分が主人格であることを分からせようと試みた。この身体はぼくのものだぞ、と暗に強調する。

「それは少し違う。いや、大いに違う。普段ひとは脳をまんべんなく使ってはいるが、すべての領域を過不足なく使っているわけではない。稼動可能範囲というものがあるとすれば半分も使っていない。その少ない稼動可能範囲の使用率はさらに低い。それは知っているな?」先ほどまでの軽い口調から一転、威圧的な口調に変わった。

「……うん。どっかでそんな話……聞いたことはある……とは思う」

「その余った範囲で作り出されたお前が俺だ。つまり俺はお前であってお前じゃない。こういう喩えは好きではないが、言うなれば俺は、お前の身体に居候している他人だ。そして脳の使用率からして俺のほうが思考能力は上だ。どちらが主たる人格にふさわしいかは推して知れるというもの、そうではないか?」

 ではなぜぼくを乗っ取らないのか、といった疑問が口を衝きそうになったのを、ハルキは必死に押しとどめる。そんなことを指摘して、「ああ、そうだった、そうだった」とあっけなく身体を奪われては堪ったものではない。

 そんなこちらの小心翼々具合に呼応するように声は、だがな、となおも語りかけてくる。

「だが、俺の稼動可能範囲には肉体の制御を司る範囲が残っていなかった。だから今、俺がお前を消すと、俺は死ぬまで動くことができなくなる」

 声はまるで、こちらの心を見透かしているかのように話す。

 しかし実際にそうなのかもしれない。声の主はぼくのもう一つの人格なのだから、とハルキは溜まった唾液と共に、自分の置かれている状況を懸命に呑み込もうとする。

 この【もう一人のぼく】だと名乗る声がしたときから心臓はかつてないほど活発に血液を送り出していたが、声の言葉に「消す」という動詞が出た今、鋭角にピークを向かえ、あとは徐々に安定していった。後がないと判ると人は、案外に余裕を抱けるものなのかもしれない。

「なまえ……君の名前が必要じゃない?」咄嗟に違う話題を口にした。

「お前と俺しかいないんだ。名前なんて無意味だ」

 突き離されたような寂しさが湧いたが、こちらの心中を知ってか知らずか声は、

「だがまあ」と言った。「呼びたければ好きに呼んだらいい」

 もたれ掛かっていた壁からずり下がる。ハルキは膝を崩し、しゃがみ込んだ。

 思考はまだ霞んでいる。一方で視界はどこまでも良好だ。見上げれば白い雲が刻々と形を変えつづけている。じっと眺めていると、立体的な印象を与えてくる。まるで巨大な白い化け物が、こちらに襲い掛かってくるような錯覚をもたらすのである。それは安心を約束されたゲームのような昂揚感であり、映画の主人公に同一化したときのような緊迫感にも似ていた。

 この声もそういった、いっときの自分が無意識にしてしまっている妄想である可能性を信じたかったハルキであるが、それを否定するかのように、家路に着くまで声は、延々とこちらに話しかけてくるのであった。

   ○○○+*+○○○




    SS『幻肢』SS

 

 少年は病室にいた。さきほど目を覚まし、憔悴しきった母親とうれしそうな妹を尻目に、かれは、なぜここに自分が寝ていたのかを記憶から探り出そうとしていた。

 三日前である――。

 かれは突然の雷雨にもかかわらず、夕方からはじまるアニメを観るために、いそぎ家へ帰ろうと走っている最中であった。

 それは一瞬の出来事であった。

 少年の視界が白の世界に侵食され、つぎの場面ではまばゆい光の剣が、自身の右手に突き刺さっている光景を目にした。薄れいく意識のなか、身体を吹き飛ばすほどの音の塊が、少年を中心にひろがった。

 少年の主観としてはこのような叙述となるが、実際のところは、「雷に打たれた」の六文字で表すことのできる、ただそれだけの出来事でしかない。

 しかしいま、かれは自身に、【とてつもない力】が宿っているという自信に満ち満ちていた。

 目を瞑り、右手を意識するとそこには、肩から中指にかけてぐるぐると巻きつく黒い剣のような焼け跡が残っている様が、少年には視えるのである。両親の慈悲に満ちた顔などお構いなしに、少年はうれしさを必死に隠していた。正義のヒーローは、己の力をなん人にも明かしてはならないのだ――と少年は勝手にそう思い込んでいたからである。

 その日から、病室のベッドのうえで、秘密の特訓がはじまった。

 右手に力を入れ、腕が光りだすようなイメージを頭で描く。そうすると右腕が熱くなるような気がしてくる。そのうち寝ている間も腕が熱くなってくるようになった。少年はいよいよ自身に天の剣が宿ったのだと確信を抱きはじめていた。

 それから数日後――。

 少年は医師から、その右手は天の剣ではなく、実は、透明な右手であると諭された。





 +++第一章『退屈な、日常の崩壊』+++

 【僕の考えたことなんてきっと、すでに誰かが】

 

 

   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ十一年前~}


 ***コロセ***

 ノロイ・コロセが『R2L』と呼ばれる機関に取り込まれたのは、彼が小学校に入学してから一年も経たぬ間のことであった。

 家族の誰にも別れを告げず、理由も告げず、目的も告げずに、彼は親元を離れ、日常をも手放して家を後にした。

 そうしてコロセは、『R2L』が統括する「学び舎」の一つ――「アークティクス・サイド」を訪れた。ほんの冒険のつもりだったし、終わりのある旅だと思っていた。


 雷が直撃したコロセの右腕は、肘からうえを残して消えてしまっていた。

 それは文字通りの意味で消えてしまっていた。ただ、その存在までは消えていない。だからそれは、消えたのではなく透明になったのではないか、と指摘されることもしばしばであったが、そうではないのである。

 コロセの右腕は消えている。

 存在だけを残して。

 退院したコロセは、自身に宿ったこの異能とも呼べる能力を、周囲の人間たちに対してひた隠しにしていた。なぜなら、「ヒーローはいつなんどきであれど、自身の正体を知られてはならないからだ」と彼自身がそう信じていたからである。

 それからしばらくしてコロセは組織の一員となった。

「キミの右手は特異な性質を宿している」と教えてくれた医師の進言によって、彼は組織に身を置くことを決めたのである。

 医師はそのときコロセに、「キミの右腕は雷によって透明になった」と説明した。

 ――透明な右腕。

 ところがどうやらそれは、子どもであったコロセへの配慮によって簡略化された説明だったようである。

 

「やあ。こんばんは」

 まだ起きてたんだね、と医師は深夜だというのにコロセの病室へ入ってきた。眠れなかったコロセは、個室だったこともあり窓を開け、夜風を肌に感じていた。窓辺には陽だまりじみた月光の明かりが垂れていたが、医師が部屋の明かりを灯したために消え去った。

 いつもお世話になっている担当医であった。

 医師の名前は「林」だか「御崎」だかあまり良く覚えていない。呼びかける時はいつも「先生」だったからだ。名札も、医師が今はこちらに背を向けているので読むことがままならない。そもそも名札を見ることができたとして、そこに記されている漢字をコロセが読めるかも定かではない。

 コロセは今年小学校に入学したばかりで、ひらがなは読めても漢字はからっきしであった。いまもまだ、それほど多くの漢字が読めるわけではない。

「夜の病院はいつになっても不気味だね」医師はベッドの横に椅子を引っ張り出してきて腰掛けた。「眠れないのかな?」

 コロセは首を振る。

「なら、そうだな。先生と少し、お話ししてくれないかな?」

「なにはなすの?」と問う。

 うん、と医師は調子を取って、「コロセくんが知るべき話だよ」とささやくようにした。

 それから医師はとりとめもなく、脈絡もなく、幾ばくかの世間話や怖い話をした。その話のどれもこれもがコロセ好みのお話で、次第に医師の談話にのめり込んでいく。

 最後に医師は、一つの物語を披露した。

 医師が口にしたその物語の梗概は、次のようなものである。


   ***

 ――《真の世界》はとても広く深遠で、唯一絶対の世界であるという。けれど我々人類は、《その世界》の極々一端しか視ることが叶わない。さらに、すべての人間があまねく同等に《真の世界》の断片を感受しているかと言えば、どうもそうではないらしい。感受できる世界には個人差があり、その個人差こそが個性となり、才能となり、または病気や疾患を引き起こすきっかけにもなるという。

 ただし、個人差と言っても、微々たるものであることに変わりはないらしい。

 ところが大きな問題が一つある。

 《真の世界》が大きく変遷すれば、個々人の視る世界も大きく変わり、それぞれに多大な影響をこうむることになるのだという。その《真の世界》の変遷が、人類の視えない部分で引き起きていたとすれば、人類はそれに気が付くことなく、ただただ不遜な影響のみを知らず知らずのうちに及ぼされてしまうらしいのだ。

 それは困る。

 だから、より広い範囲で《真の世界》を知覚できる者たちで――《真の世界》に干渉できる者たちによって――その不遜な変遷が引き起こす影響を阻止する必要があり、そういった者たちが、この世界を秘密裏に守っているのだという。

 ***


 まさしく、コロセの憧れるような、ヒーローの話であった。

 ただし、憧れることと信じることは必ずしも同義ではない。

 いずれにせよ、理解できていないまでも、医師の語る話は、小学生のコロセからしても現実的ではない、荒唐無稽な話に思われた。

 しばらくすると医師は緘黙した。

 どうしたの、と尋ねると、「コロセくんの……その右腕のことなんだけどね」と医師はこれまでの口調を一転させ固くした。

 包帯が巻かれているコロセの右腕を、医師は持ち上げるようにした。雷が直撃した腕である。痛くはない。そもそも落雷から目覚めたあと、現在に至るまで、一度も痛みは感じなかった。むしろ、今までにない、何か、圧倒的な威圧を右腕に感じていたくらいである。

 そんな健康そのものの右腕が一体どうしたというのか。

 大袈裟に包帯の巻かれた右腕は今、医師の手のうちにある。

 成されるがままコロセは、医師と右腕を交互に見遣った。

「キミの右腕はね、ほら」右腕に巻きついていた包帯を医師は取り去った。「透明なんだ」

 包帯が取り払われた瞬間、コロセは愕然とした。

 右腕はどう見ても透明なのではなく、存在していなかったからだ。なぜその判断がついたかと言えば、それまで医師に持ち上げられていた包帯巻きの右腕が――包帯を解かれた刹那――医師の手をすり抜けるようにしてベッドに落ちたからである。

 右腕の肘からしたには何も無かった。

 右腕の肘からした、在るべきところに腕が無い。さきが無い。

 左手で幾度も確かめた。虚しく宙を掻くだけである。


 右腕を覗く。

 断面は鳶色に濁っている。

 グロテスクではない。皮膚でもない。なにか、そう、淀んだ靄のような膜が張ってある。コロセには、そう視えた。

 切断されたのだと思った。手術によって。

 考えてもみればそれこそが当然の帰結である。

 雷に撃たれたのだ。右腕が無事なはずもない。ましてや右腕の損失で済んだことが奇跡的ではないか。

 動揺してはいたが、同時にコロセは冷静でもあった

「きっちゃたんだ…………僕の、うで……」不思議と涙は滲まない。

 現実を受け入れたからだろうか。それとも未だに受け入れていないからだろうか。それは解らない。むしろそんな些細な自問、今はどうでもいい。どうでもいいのに、一向にこんな瑣末な問答をかさね、思考を巡らせている自分にコロセは苛立った。

 ――なにがどうしてなにをどうすればよいのか。

 問題だけが目のまえにいくつも漠然と積み上げられていく。焦りや憤り、その他もろもろの憤懣や動揺は、奔騰するがごとく、一瞬で許容値を超えた。爆発するまえに思考はいったん静止する。極度の緊張を緩和するために、自己防衛が働いたのだろう。

 コロセは放心する。

 客観的に自分を見詰めることができた。まるで他人ごとのようだった。

 考えなければならないことはもっとほかにあるだろうに、それが何なのか、コロセには解らない。

「僕、両利きだから……」

 だから右腕がなくなってもこまらないかも、と慰めの言葉を紡ぐ。

 だから平気だよ僕、と自分を鼓舞するように。

 いやいやちがうよ、と医師は大袈裟にコロセの言葉を否定する。

「ちがうよ、そうじゃない。切断したわけじゃない。ほら、キミの腕はこうして」と今度は自身の手のひらに包帯を巻き付けて医師は、「ここにちゃんと存在している」と微笑んだ。

 包帯の巻かれた医師の手のひらには、存在しないはずのコロセの腕が載っている。

 無いはずのコロセの右腕が、医師の手によって持ち上げられている。

 肘からしたはたしかに失われている。

 目に視えない。触れられない。

 それは自分自身の瞳で、そしてコロセの左手によって確認された事項だった。けれど今、その失われた右手は、肘からうえと繋がって、コロセの右腕全体を持ち上げている。視えないだけで、医師の手のひらに載せられた形で、そこにはちゃんと右腕の感触が残っている。

 そもそもコロセは雷が直撃してからも、包帯を解かれた今も、ずっと右腕の感覚は継続されている。途切れてはいない。

 視認できず、また、触れられないものの、知覚することはできているのである。

 だからこそコロセは落雷の後も、そしてついさっきまでをも含めたいまのいままで、自身の右腕は、肩から包帯のしたまで一切が無事である、とそう思っていた。信じる以前に、疑う要素を知らなかった。

 ところが今はどうだ。

 肘からしたが視えない。視えないどころか、先ほどは医師の手のひらをすり抜けてしまっていたではないか。にも拘らず今は、包帯を巻いた医師の手のひら越しに、コロセの透明な右腕は持ち上げられている。これは一体どうしたことか。

 頭がこんがらがる。

 思考は混濁を極めた。冷静ではあるが、現状の整理、情報認識、不明瞭な問題の処理、状況判断、それらが一向に追いつかない。むしろ滞っていくばかりである。

 コロセは混乱する。

 しかしその混乱は、コロセが冷静に、自分の身に起きている現象を受け入れようと必死になっているからこそ引き起こされている混乱である。だからして、錯乱ではなかった。

「驚くのも無理はないよね」医師はコロセの腕を放しながら言う。「これはね、医学界でも認められていない稀有な現象なんだ」

「ケウ? ゲンショウ?」

「そう、珍しいということ。そして、病気ではない、ということ。だからコロセくんは安心していいんだよ。むしろ、この現象が自分に引き起きていることを喜でもいいくらいなんだ。さっき先生は、医学界では認められていない、と言ったよね」

 うん、とコロセは頷く。

 医師の話はゆったりとした口調で、聴きとることは容易であった。ただ、なにぶん小学校低学年のコロセには難しい話である。それでもコロセは精一杯理解しようと努めた。

 ――僕の右腕は普通ではない。

 ただしどうやらそれは、特別だということらしい。それがコロセは少しばかり、いや、素直にうれしかった。

 コロセは口に出して確認する。「イガクカイでは、みとめられてないんでしょ、僕のみぎうで」

「そうなんだ。認められていない、というのはね、発見されていない、という意味と、発見されても容認されない、という意味なんだ」

「ヨウニンされない」と反芻する。

「そう、容認されない。そんな現象は有り得ない、あってはいけないものとして扱われてしまう。そうするとね、もしかするとコロセくんは悪者みたいに捕まって、どこか暗いじめじめした場所に閉じ込められて、痛い実験だとか、苦しい解剖だとか、もの凄く嫌な思いをさせられるかもしれない。身体を好き勝手に悪戯されちゃうかもしれない。コロセくんは何もわるくないのに」

「それは……」

 嫌だ。

「うん。そんなことはあってはならないことだよね。でもね、コロセくんが何と言おうと、どれだけ嫌がったって、傲慢な大人たちはコロセくんの言葉を――コロセくんのお願いを、聞いてはくれないんだよ。自分たちの都合ばかり考えている悪い大人が多いんだ。先生はね、そういった悪い大人たちからコロセくんを守りたいと思っている」

 わかってくれるかな、と医師は優しく説いた。

「守ってくれるの?」僕を守ってくれるの、と縋るような気持ちで問う。

「うん、守ってあげたい。でもね、先生は弱いから、正義のヒーローにはなれないから、だから先生はコロセくんを直接に悪い大人たちから守ってあげることができないんだ。でもね、直接守ってあげることはできないけれどね」とそこで医師は一旦区切った。

「けれど?」コロセは先を促す。

 わざとらしく周囲を見渡し医師は、うん、と顔を近づけ、耳打ちするように声を窄めた。そうして、先生はね、と囁く。

「先生はね、正義のヒーローの居場所を知っているんだ」

「ホントにっ!?」

 それは凄い。

 自分の状況なんてあさっての方角へと放り出し、コロセはその話に食いついた。

「本当だよ。それでね、ここからが大切な話なんだけれど」

 前置きしてから医師は、包帯を自身の手のひらに巻いたままで先ほどと同じようにコロセの腕を掴むようにした。

 コロセの透明な右腕は持ちあがる。触れられていると判る。

 ただし、医師は宙に手を添えているようにしか見えない。

 コロセの右腕は、依然、視えないままだ。

「この腕はね、コロセくんの右腕は、とても特別なんだ。それはね、さっきも言ったけれど、コロセくん自身が特別だ、ということなんだ。コロセくん、キミはね、ヒーローになれる素質を持った子どもなんだよ。この不思議な腕を持ったその瞬間からね」

「ソシツ? ヒーローに僕もなれるってこと?」

「そう、その通り」医師はコロセの頬に手を添えた。言い聞かせるように、「キミは強いヒーローになれる。でもね、ヒーローはとても忙しいし、凄く勉強しなくちゃならない。自分の力をもっともっと強くするための修行なんかもね、しなくちゃいけないんだよ」

「どうすればいいの」コロセはすっかりその気になっている。

「うん。ヒーローはね」とコロセから手を離し医師は、「仕事じゃないんだ」と言った。「やらされるものじゃない。自主的な、自分がヒーローになるんだ、っていうコロセくんみたいな気持ちが大切なんだ。だから、そうだね――もうすでにコロセくんはヒーローにとって大事なものを二つ持っていることになるね」

「うん」と力強く頷いてはいるものの、コロセにはその二つが何であるかなど皆目見当もつかない。だが、自分が選ばれた者である、という説明だけは先ほどからの医師の話によって理解が及んでいる。なかなかどうして都合のいい知性である。

 ともすればそれは、コロセにとって都合の良すぎる話を医師がしているだけ、という可能性も充分すぎるほどにあるのだが、その可能性を察し、危惧しろというのは、幼いコロセには酷なことだ。

 ――僕はヒーローになれるのだ。

 ただただそれがコロセには嬉しかった。

 ヒーローにとって大切な二つのものっていうのはね、と医師は続ける。

「強い意志と、特別な能力。この二つなんだ。コロセくんは今、ヒーローになりたいという強い意志と、そしてヒーローになるための特別な能力を――この右腕を――持っている。この二つはね、入学するには必要な条件なんだよ。ヒーローになるための学校にはね」

「がっこう?」ヒーローにもそんな学校があるのか、とコロセは感心する。

「そう、学校。どんなものでも、学ばなくては真に正しい選択は導けないし、学び合わなくては、自分の考えに固執して、自分が間違っていることにも気づけない。ああ、いやいや――これはまだコロセくんには難しい話だったかな」

「わかるよ」なんだか子ども扱いされているようで腹が立った。

 むろん、医師が言った理屈など解ってはいない。

「そうか。なら安心だ」顔を綻ばして医師は続けた。「だから、コロセくんはヒーローになるために、その学校に入ったほうがいいと先生は思うんだけど――コロセくんはどうしたい?」

「いく!」即答だ。

「おお、行きたいか」

「ちがうよ。いくの!」ぜったいに、と宣言する。

「うん。それは頼もしい」立派だ、と神妙に相槌を打ってから医師は、でもね、とうなじに手をまわし、言い難そうに続けた。「でもね、さっき先生はさ、ヒーローの居場所を知っている、と言ったよね? ただね――居場所を知っているからといってもね、先生には、その場所まで行くことはできないんだ」

「どうして?」不満げにコロセは溢す。

 だって、と医師は表情を曇らせた。「だって先生、ヒーローじゃないもの」

 ああ、とコロセは同情のこもった納得の声を上げる。

 ヒーローの秘密基地へ行けるのは、ヒーローとして認められる『ソシツ』のある者だけなのだ。思っていた通りだ、とコロセはますます嬉しくなる。

 それでだね、と医師は仕切り直すように強調し、「コロセくんは今週中にも退院できるはずなのだけれど、退院したらその足でここへ行きなさい」と封筒を差しだした。

 受け取りコロセはさっそく中身を改める。


 封筒を傾け、膝のうえに中身を落とす。

「紙幣が数枚」と「地図」と「雑誌か何かの切り抜き」、それから「呪符のような名刺大の和紙」が転がった。

 お金、地図、切り抜き、お札――全部で四つ。

 まず初めに地図を手に取った。

 そこには俯瞰的に駅周辺が記されている。コロセの住む街で一番大きな駅周辺地図のようだ。

 見ると、駅前に広がるアーケード近くに、赤くマーキングされている場所がある。さらにそこから矢印が伸びて、喫茶店の写真が張りつけてある。看板には「Ding an sick」と描かれている。

「ここはコロセくんの家からバスで三十分くらいの所にある駅だね。その駅には行ったことはあるかな?」

 コロセは地図を見詰めたまま頷く。

「うん。ならそこに、えっと、そのお店を訪ねたらね、お店にいるマスターに、珈琲とチョコケーキを頼みなさい」

 とっても美味しいんだよ――と医師は白い歯を覗かせた。

 コロセが怪訝に眉根を寄せると、「あ、お金は大丈夫、タダで食べさせてくれるからね」と医師は付け足す。「それに」とコロセの膝に散らばる紙幣を指差しつつ、「それに、そのお金で、お店に行くまでの途中にでも、好きな物を買っていくといい。遠慮しなくてもいいからね。それはコロセくんのお金なんだから」

 手元の紙幣を見詰める。コロセは戸惑った。

 子どもにしては相当な大金である。いや、ひょっとしたら、大人でさえも大金かもしれない。そんな大金をタダで受け取っても良いものか。若干の後ろめたさがある。

 医師は、コロセの戸惑いを見透かしたように、

「このお金は」と多少強引にお金をコロセに握らせた。「これからコロセくんがヒーローになるために必要なお金なんだよ。沢山の人を助けるために必要なお金なの。だから好きに使って大丈夫。先生たちのように弱い人間はね、ヒーローになった未来のコロセくんに沢山助けてもらうんだ。そのお金はね、みんなからのお礼なんだよ。未来の分のね。そう、だからね、なにも気兼ねなく、むしろ当然のようにこのお金はコロセくんのものなの。だから、うん、コロセくんの好きに使ってくれたほうが、先生たちも嬉しいな」

 さらに念を押すようにし、紙幣を受け取るよう促した。

 でも、とコロセが渋ると、「コロセくんがヒーローになってくれさえすれば、それでいいんだから」と医師は食い下がった。

 医師の懸命な説得にコロセは折れる。「みんなには内緒にしててね」という医師の言葉が決定打であった。内緒にしていたかったのはコロセのほうも同じである。

 小さな声でコロセはお礼を述べる。

 すでに眼を通した「地図」と「紙幣」を封筒へ戻す。

「封筒に入っているそれらをほかの人たちには見られないようにしてね」

 絶対だよ、と医師は念には念を押すかのように忠告した。

 その時の医師の表情がこれまでになく真剣なものだったので、コロセは黙って首肯した。

 ――ヒーローは何人にもその正体を知られてはならない。

 自分の信条はやはり正しかったのだ、とコロセはこのときにも思った。

 それ故に、強く自身を戒めて、決して誰にも明かさないことを誓った。

 ヒーローになるべく自分に。

 ヒーローとなりいく自分に。

 そして、

 ヒーローとなり得た未来の自分に。

 コロセはつよく誓った。


 時刻はすでに深夜を回っている。

 徐々に重くなってきた瞼をしばたたかせながらコロセは、まだ封筒に仕舞われていない「呪符」と「紙切れ」を手にした。

 呪符は、小さめの名刺に、糸ミミズのような文字が、蜘蛛の巣のように四方八方へ縦横無尽に走っている。

「その『お守り』は、地図のお店に着くまでは肌身離さず、その右手で握っていなさい。コロセくんの右手に握られている限り、その握られている物は先生たち普通の人には視えなくなるから、だからそれを握っていても不自然じゃないからね。その『お守り』だけが宙に浮いている、なんて奇怪に視えることはないんだ。解ったかな? 地図にあったお店に着くまではずっと握っているんだよ? 約束できるかな?」

「よゆうだよ」

 答えながらコロセは、実際に右手で呪符を握ってみた。

 右手自体が視えないので、どうも呪符を右手に落とすのが難しい。何度か繰り返して、ようやく呪符を右手で握る。

 握った瞬間、たしかにコロセの視界から呪符が消えた。

 ――すごい。

 コロセは心を躍らせる。

「あ、今は握ってなくてもいいからね」と呪符を仕舞って欲しそうに医師が言うので、コロセはそのまま封筒へ戻した。

 

「疲れたよね。そろそろ寝ようか」

 言うと医師は、コロセの右手に包帯を巻き直しはじめた。

 右手の奇怪さに気を取られていて気付かなかったが、包帯には、呪符と同じような、糸ミミズの文字で描かれた紋様が、蜘蛛の巣みたいに小さく巡っている。点描のようにそれらは、白い包帯を薄らとした水玉模様に仕立てあげている。

 包帯を巻き付けつつ医師は、ああそうそう言い忘れていた、と忠告を一つ補足した。

「コロセくん、その右手に手袋なんかは嵌めちゃ駄目だよ。お父さんやお母さんや妹さんにもね、先生、『コロセくんの右手は手術で失われました』と説明してあるからね。もしも右手が視えなくて不便だとしても、手袋とかは向こうの『学び舎』に着いてからにしたほうがいいと先生は思う」

 そうだったのか――とコロセは得心がいった。

 だから父や母はあんなにも悲愴な表情、哀れんだ顔をしていたのか。

「でね、先生が『手術で腕を切っちゃいました』ってコロセくんのご両親に説明したのにも拘わらずだよ、それでもいままでこうしてコロセくんが包帯をしていたのは――先生がコロセくんのご家族に、上手く誤魔化して説明していたからなんだよ。『手術のすぐ後に息子さんへ、腕を失った、と教えるのは如何せん早すぎます。子どものコロセくんにはショックが大きすぎて、術後の身体には負担です』ってね。そう説明していたからなんだ」

 なかなかに迫真の演技でしょ、と医師は自分の鼻の頭に指をあてた。

 子どものコロセくん、という台詞が癪に障ったが、それでもコロセはにこやかに頷いて、医師の本日最後であろう話に相槌を打っていた。

 

 さて、と包帯を巻き終えた医師は、膝をポンと叩き、「さて、最後にその紙切れ――漫画の切り抜きについてだけどね」と言って封筒の中身――雑誌の切り抜きらしき紙を――指差した。

 コロセも最初から気になっていた。

 気になっていた理由は、これまでの封筒の中身のうちで一番粗末で場違いなアイテムに思えたからである。封筒の中に入っていたどの品と比べても――いや、比べればこそ――その紙切れはゴミにしか見えない。

 漫画の切り抜きだと医師は言った。

 事実その紙切れには、表と裏に、奇抜なファッションの男の子が台詞を言っている絵が描かれていた。

 医師は、その「漫画の切り抜き」を指で挟み、コロセが目を通す前に封筒へと仕舞った。

「これはね、コロセくんが地図のお店に着いたら、そのお店の人に渡して欲しい大事な暗号なんだ。とてもとても大切なものだからね。これさえ渡せば、そのお店の人が、コロセくんを、必ずヒーローの学校まで連れて行ってくれるから。多分、凄くカッコいい車で送迎してくれるよ」

 期待しててね、と医師は結んだ。

「ソウゲイ?」

 この時点でコロセの眠気はすでに臨界へ達していた。

 瞼が、閉店間際のシャッターのように重々しかった。

 医師はまだなにか話している。だがコロセには、その言葉たちがただの子守り歌にしか聞こえなかった。

 極度の動揺と緊張と期待と希望と夢と目標と、医師による新鮮という名の難解な言葉たちが生みだす退屈に誘われて、コロセの元へ、睡魔は今日もやってきた。

 この日、コロセは生まれて初めて、思考の巡らせ過ぎによる眩暈を引き起こし……そして、しずかに穏やかな眠りへと落ちた。

 小学校へ入学した年の、肌寒い夏のことである。



   タイム△△スキップ{~基点からおよそ十一年前~}


 ***マスター***

 喫茶店「Ding an sick」のマスターは、たった一人で訪れたその子ども――少年と形容するにはまだあどけなさ過ぎる男の子――に対して、表情や態度に一切の怪訝さを滲ませることなく、店の奥にある席へと案内した。

 だが体面とは裏腹にマスターは内心とても驚いていた。

 カランリン、と扉を空けて入ってきた客が、マスター自身の腰骨にしか満たない背丈の低い、幼い男児だったから、というのももちろん瞳目した要因の一つではあるだろうが、それよりもなによりも――店を訪れてきた男の子からは『波紋』がまったく発せられていなかった、というその有り得ない事態に面食らったのである。

 しかしその驚愕と警戒の入り混じった精神の起伏は、すぐさま安定した水面へと治まった。男の子がチョコレートケーキと珈琲を注文したことに加え、彼から手渡された封筒の中身を確認したことで。

 

 ***コロセ***

 封筒の中身に軽く目を通しただけでマスターは、

「ノロイ・コロセ様――ですね。わざわざご足労のこと、まことにお疲れさまでした」

 と慇懃に低頭した。

「本日お越し頂いたこと、なにより喜ばしく存じあげます。わたくしども『R2L』機関はコロセ様を、わたくしどもの尊くも同等で平等な仲間とし、或いは家族として、ときに友人として、なににも増して、パーソナリティを保有する特化した人類として、大いに歓迎致します」とまるで稽古済みの台詞のように、または言い慣れた挨拶のように、軽やかに口にした。

 言い終わるや否や、マスターは下げていた頭を起こし、「少々お待ちを」と微笑んでカウンターの奥へと姿を消した。

 そうしてすぐに、注文の品――チョコレートケーキと珈琲を、お盆に載せて戻って来ると、コロセの前へ丁寧に置いた。

「わたくしども『R2L』機関はただ今をもちまして、暫定的ではありますが、コロセ様を組織の一員として認定かつ登録致しました。詳細はのちほど、学び舎に着いてから担当の者がご説明致します。現時点では不明な点が多すぎて混乱なされていることと心中お察し致しますが、コロセ様が現時点でご自身の境遇をご心配なさる必要はまったく何もございません。これからの生活――とくに衣食住、および学習や進路など、すべてわたくしどもにお任せください。コロセ様にはなに不自由なく『機関』の監視のもと、そして管理のもと、パーソナリティの制御を学び、切磋琢磨、精進に励んで頂きたく存じあげます」台本を読み上げるかのごとく言うと、マスターは再度ゆっくりと低頭した。

 マスターの口にした、それら呪文じみた台詞の中身について、コロセは皆目理解できなかったが、それでもマスターがなんと発音しているのか、なんという言葉を声に変換しているのか、といった音声認識は容易に行えた。子どものコロセにも聞き取れるほどにマスターの口調は俳優並みに洗練されている。

「えっとさ。『あーるつーえる』ってなに?」

 挨拶もろくすっぽ返さずにコロセは尋ねた。

「おや、これは失礼致しました。『R2L』でございますね。――正式名称『リング・リンク・リンケージ』と呼ばれる、わたくしどもが属する機関の略称――組織の名前でございます。『RING・LINK・LINKAGE』のイニシャル――頭文字をとりまして、『R2L』でございます。コロセ様はこれから一生涯を通してわたくしどもと共に、『R2L』機関の一員としてご活躍されることになられるでしょう。そのためにこれから先、数年の期間は、機関の運営する『学び舎』で多くのことを学んで頂きます――わたくしどものこと、世界のこと、わたくしどもに課せられている使命や義務、そして法律――即ちルール・掟・罰則――でございます。『学び舎』というのは、新規にわたくしどもの組織の傘下に入った者たちへ、わたくしどもの保有するパーソナリティの遣い方や熟し方、制御の仕方、または発動の仕方、果ては各々のパーソナリティが持つ『特質』の発掘、強化――その他多数、種々折々、諸々の事項をお教えさしあげる機関施設でございます。年齢別、特質別、総合人格別、など様々なクラス分けと階級がございます。コロセ様にも、学び舎までご案内さしあげましたのち、早速でございますが、適正検査並びに総合査定を行って頂きます。あ、いえいえ、そうお気構えなさらずとも心配には及びません。コロセ様がどのようなお人柄で、どのようなパーソナリティを有しているのか――即ち、コロセ様の『特質』がどのようなものなのかを、わたくしどもが勝手に見極めさせて頂きますので――コロセ様はそうですございますね、二日ほど室内でのんびりと生活なされるだけで、コロセ様からすればいつの間にやら、といった感想を抱いて頂けるように、わたくしどもが穏便かつ迅速に、勝手に、審査ならびに査定を行わせて頂きますので、コロセ様のお手を煩わせることのない内に、審査並びに査定の一切が終了致します。コロセ様ご自身になにか特別なテストや試練を受講して頂くわけではございませんので、ご心労をお掛けするまでには及びません。大丈夫です、はい。漫画やゲームにスポーツ、映画鑑賞、温泉入浴、などなど――お好きにお過ごしになってください。室内といえども、窮屈とも退屈とも無縁の室内でございますので、お気を張られずに、ごゆるりとご養生――いえ、お休みになられるとよろしいかと存じあげます」

 淀みなくマスターは唱えた。息切れ一つなく、涼しい顔をしている。

 一方のコロセは、まったく話の展開についていけない。どころか、あまりにマスターの話が長ったらしく、危うく意識を失いかけた。

 ただ、マスターの語る最後辺りの話については、断片的におぼろげながらも、何とか理解することができた。

 どうやらこれからあの医師の言った通り、ヒーローの学校へ案内してくれるようであり、案内された後には、二日間ほど室内に閉じ込められるようである。もっとも、この柔和な初老の言葉を信じれば――そして楽観的に捉えれば――二日間ほど部屋の中でただ気ままに遊んで過ごしていればよい、ということらしい。多少の不安はあるが、今のところコロセに不満はない。

 ただし、聞き取れていた語句の中で、解らない単語がいくつかあった。その単語について尋ねる。

「あのね。ぱーそなりちぃ……ってなに?」

「これはまた、重ね重ね失礼いたしました。『パーソナリティ』とは、わたくしどもが各々に持つ自分だけにできること、でございます。言うなれば、能力であり、異能であり、変異であり、世界への変質を及ぼす力のことでございます。これまでのコロセ様には無かった力、他方で、今のコロセ様には在る力。いえ、きっとコロセ様には元来、先天的に、このような力が備わっていたのでしょう。それを何かのきっかけ――そうですねコロセ様の場合は、そう雷でございましょうか――多少不躾なもの言いになってしまいますが、コロセ様は運よく落雷によって、切られていたパーソナリティのスイッチが切り替わり、不可侵だったパーソナリティを司る回路がコロセ様の意識下において循環しはじめたのでございます」

 マスターは、子どもであるコロセにも解りやすく説明しようとしてくれている。抽象的な比喩と具体的な話とを織り交ぜて語ってくれている。が、残念なことに、コロセにとって抽象的な比喩はただ単に訳のわからない概念であり、具体的な話においては未知なる話でしかなかった。

 次第にコロセの意識はマスターの説明から乖離しはじめる。コロセにとって難解なことと退屈なことは同義である。退屈なものに意識は向かない。拒絶する。ゆえにコロセの意識は手元のチョコレートケーキへと視線と共に向かった。

 食べたい。でも食べてよいか分からない。でもでも、差しだされたのだから、食べてもよいはずだ。けれど違ったら嫌だ。怒られたくはないし、幻滅されるのも嫌だ。もしかしたら何かしらのテストかもしれない。こうやって僕を試しているのだろうか、とコロセは懊悩した。

 医師から渡された「呪符のような紙切れ」がコロセの右手には今もなお握られている。医師はここへ着いたらもう捨てても良い、と言っていたような気もするのだけれど、どうも記憶が覚束なく、だからコロセは握ったままにしておいた。ケーキを食べるにしても、これまでのように一応ここでも左手だけを使って食べよう、と思った。コロセは元来両利きである。

「ええ、どうぞお召し上がりください」

 俯いていたコロセの頭上にマスターの声が届く。自分の心を見透かされた気がしてコロセは気恥しく思った。けれど折角の好意だ、とチョコレートケーキにかぶりつく。

 うん、ウマイ!

 勢いよく頬張ったので、ケーキがのどに詰まった。急いで珈琲をすする。

 うん、ニガイ。

 なんだこれ、とコロセは酸っぱい顔をした。

 甘味ちゃんと苦味くんが口のなかで喧嘩している。その様子を映像化して妄想していたコロセは、ふと疑問を浮かべた。

 ここへ来てコロセはまだ自己紹介どころか自分がなぜここへ来たのか、目的は何なのか、といったことをなに一つマスターへ説明していなかった。それにも拘らず、この初老の紳士はコロセがヒーロー見習いとして秘密の学校へ入学を希望している、ということを知っていた。それ以前に、なぜコロセが雷に直撃したことを知っている……。

 いやいや、とコロセは眉根を寄せる。自身の疑問を否定するように。マスターがそのことを知っているのは、僕が医師からの封筒を渡したからだ。それ以前にきっと医師から前以って連絡があったに違いない。コロセはそう結論付けた。

 けれど、だとすれば、それは中々に後ろめたい気持ちが生じてくる。なぜならコロセは、退院したあの日から随分と期間を空けてここを訪れたからである。

 医師からは、「退院したらすぐに訪問しなさい」と言われていた。

 だがコロセはそうしなかった。やはり、いざ家族から離れるとなると、コロセは激しく戸惑い、躊躇し、逡巡した。それはコロセが幼いこととは無関係の葛藤である。だがコロセはそうは思わなかった。こんなに未練がましく尻込みするのは、きっと僕が弱虫の意気地なしだからだ。子どもだからだ。そうと考え、自分に対して失望した。

 ヒーローにあるまじき臆病風だ――と。

 その呵責がコロセを後押しするかたちとなり、退院してから二カ月半後の秋。現在に至って、コロセは誰にも別れを告げずに家を後にした。

 誰にも別れを告げずに、とはいったものの、実をいえば妹だけには手紙を残してきた。あれだけなついてくれていた可愛い妹だ。コロセより三つも年下でありながら、彼女は文字が読める。そんな賢く健気で愛しい妹に、コロセは手紙を書いていた。未だに平仮名と簡単な漢字しか書けないコロセは、使いなれない辞書を引きつつ、精一杯に背伸びをして手記したのだ。お気に入りの「自分が映った写真」の裏に、なんとなくヒーローっぽい台詞を書いただけの手紙であったが、それだけでコロセは「妹ならきっと察してくれるだろう」と満足した。三歳児に一体なにを期待したというのか。きっと本人も分かっていない。

 結局、二カ月半も経ってからの訪問だ。

 医師が前以って連絡していたのであれば、二カ月半の遅刻ということになる。小学校で遅刻は大罪という認識である。コロセは今になって畏まる。

 

「さてコロセ様。そろそろよろしいでしょうか」マスターは仮面でも付けているかのように先ほどからまったく変わらぬ莞爾とした笑みを浮かべている。「色々と解らないことの多い現時点におきまして、さぞかし不安がお募りであられましょうが、詳細な情報や、正しい認識にはそれ相応の伝聞者と指導者、そしてなににも増して時間が必要でございます。しかし心配には及びません。それらすべては、『R2L』機関の統括する学び舎こと『アークティクス・サイド』に身を委ねられれば自ずと解決いたします」

 時間は数限りなくございますゆえ、とマスターは結んだ。

「ならはやく行こうよ」

「それは結構でございます」これ以上優しくなんてなれないよ、というぐらいにマスターは微笑んで、「さぞかし優秀な『アークティクス・ラバー』と成られることでしょう。期待しております」と述べた。

「うん。期待の新人だね」コロセは数々の疑問を呑み込むまでもなく放り投げて、自画自賛した。

「それでは送迎用の車体をただいまご用意致しますので、しばしの間ここでお待ち下さい」

 マスターは丁寧にお辞儀をすると、颯爽と踵を返してカウンターの裏へと消えていく。

 

 フォークに付着していたチョコレートケーキのカスを舐めてきれいにしたり、テーブルの上に置かれていたなぞの褐色の液体が入ったケースをいじくったり、スプーンにその褐色の液体を垂らして舐めたりしてコロセは暇を潰した。褐色の液体の正体はカラメルであった。

 珈琲もまだ残っていたが、それはそのままにしておいた。苦い泥水にしか思えなかった。なにが美味しくて大人はこんなものを飲むのか、と怪訝に思う。

 お酒も煙草も同じだ。

 大人は訳が解らない。コロセは何ともなしに宙へ向けて顰め面をしてみせる。

 子どもが大人ぶる際にもっとも典型的で気軽に行えるマセタ行為とは「大人を否定すること」である。否定しながら、否定したモノへと成長していく。それが人間という種の性質なのであろうか。悲劇的である。または、喜劇的である。数年後のコロセは独り虚しく、そう嘆くのであるが、現時点のコロセがそのことを察することはほぼ不可能である。時間とは常に、不可逆的なものであるからだ。記憶もまた、同じように。


 店内を見渡す。

 コロセ以外にも数人の客がいた。

 どの客も、コロセのいる座席を誰一人、気に掛けている者はいない。そのことについて若干の違和感をコロセは抱く。あれだけマスターが声を張っていたのだ、喫茶店が普段どの程度の喧騒に溢れているのかを知らないコロセでも、些か騒がしかったのではなかったか、と周囲の目を気にしないではいられなかった。

「煩いぞ餓鬼め、ここはお前みたいなオコチャマが来るような場所ではないのだ。がおー」と取って喰われてしまうのではないか、と心配した。

 しかし客たちは一様に、コロセの存在を意に介することもなく、さもコロセの座る席には誰もいないかのように振る舞っている。ここから観察する限り客たちは、カップに口をつけてなにやら得体のしれない液体を啜りながら、雑誌や単行本を開いてその上に視線を走らせている。ほかにも、大学ノートに筆を走らせていたり、またある者はキーボードを開いてカタカタと小まめに指を躍らせている。

 マスターの語りが消えた今、店内には僅かばかりの客たちの仕草が鳴らす控えめな雑音と、その音を覆い隠すように流れているジャズトロニックが聞こえているばかりである。静寂を埋めようと流れる海風に似た音楽が、より店内を森閑とさせている。

 森閑な店内はどこか寂しげな雰囲気をコロセへ抱かせる。

 今頃どうしているだろうか、とコロセは家族のことを考えた。

 僕がいなくなったと知って、驚いているだろうか。いや、それはまだ早いだろう、きっと明日になってから騒ぎ出すのではないか。それはそれで困るような怖いような――これから向かう学び舎のことよりも、そっちのほうが不安な気もする。ただ、この二カ月間、散々悩んで遊んで逃避して、それでもやっぱり考えて、宿題そっちのけで考えあぐねた結果に決断を下した答えがこれなのだ。もう悩むのは止めよう、とコロセは、ぽい、と悩みを投げ捨てた。

 友達のことも思い浮かべる。あいつらはバカだから、きっと僕がいなくても毎日を楽しんで生きていくに違いない。ただそれでも、少しは寂しがってくれるとうれしいな、とコロセは無責任に思った。

 一緒のクラスの吉村さん――気持ちを伝えずじまいだったけれど、それでもきっとこれから、辛く、厳しい修行を楽々と熟なす僕は、数年後には異例中の特例として、選ばれし者、すなわちヒーローの中のヒーローとなって、運命的な出会いを経て吉村さんに告白する――といった青春じみたことを行って、結婚を前提にお付き合いをする予定だから、それまでの我慢だ。それまでどうか、元気でいて欲しいな。大好きなカワイイかわいい吉村さん、とコロセは目じりを下げて笑う。

 そのままコロセの妄想は、ちかい未来に訪れるだろうヒーローに成った己の活躍へと移ろっていく。

 悪人をやっつけ、弱きを助け、美女を助け、たまには嫌いな人間も助けてあげて、悪人にも情を施し、人類すべてを意味する「みんな」から感謝されて、ニュースには引っ張りだこで、「いらない」と断わっても無理やりに送られて来る感謝状および謝礼金で美味しいものをタンマリと食べ、欲しいものも沢山買って、それでもきっとお金は余るから、余ったお金はすべて貧しい人たちへと分けてあげる。するとコロセはますます感謝される。「ヒーロー万歳!」「コロセさま万歳!」民衆は感謝感激アメあられに雪ナダレ。ノーベル平和賞やらカンヌ最優秀主演男優賞やらギネスブックやら本屋さん大賞やらと、沢山の色々な記録と記憶に残る栄誉を「みんな」はコロセへ与えてくれる。それも、一方的に。

 コロセがどんなに声を大にして慎ましやかに且つ謙虚に、「僕はそんなものはいらないよ。謝礼が欲しくてみんなを助けているわけではないのだから」と遠慮しても、授与式を辞退しても、勝手にコロセへ寄こしてくるのだ。

 そんな偉大なヒーローに僕は成っているのだろう――と夢想する。

 いや、なるのだ。それは決定事項なのだ。

 でも仮に、万が一、何かの手違いで――たとえば神の悪戯や悪魔の囁きによって――選ばれし者的なヒーローになれなかったとしても、けれど、それでもそれにちかいヒーローには成れているだろうな、とコロセの表情筋はさらに、にへら、にんにん、と弛緩する。

 絶えまない妄想は、マスターが呼びにくるまで無駄に鮮明なストーリィとなってコロセの脳裡へひろがった。今のコロセからは「感傷」という文字は奇麗さっぱり消え失せていた。



 ***マスター***

 マスターは連絡を済ますと、カウンターの裏からコロセの気配を探った。やはり一切の気配を――すなわち『波紋』を――まったく関知できない。そんなことはこれまで一度もなかった。いや、例外的にはある。それでも少なくともマスターの知る限り、こんなことは有り得ない。

 波紋それ自体、その余韻すらも感じられないなどというのは。

 波紋を探ることを止めてマスターは、視覚に頼ることにした。

 カウンターの奥の部屋からマジックミラー越しに店内を見渡す。一番奥の席にコロセはいる。見ると左手で頬杖をつき、ひとりで呆けていた。右手は長袖に隠れて見えない。

 ここに来てまだ一度も彼が右手を使用しているところを確認していない。それともそれ自体が――パーソナリティを認知できないことが――彼のパーソナリティなのだろうか。

 マスターは渡された封筒の中身に目を通す。

 中には、この喫茶店を記した地図と、漫画の切り抜きが入っていた。地図は丸めてゴミ箱に捨てる。

 漫画の切り抜きを手に取る。

 この「形式」を利用するのは、あの胡散臭い『古美術商』か、あの『女医』だけだ。古美術商とは言っても、骨董屋を開いているだけの男であるし、骨董屋と言ってもそこにあるのは正真正銘のガラクタばかりだと聞き及ぶ。女医に至っては、患者と真摯に向き合うことを放棄して、金儲けばかりに関心があるらしい。どちらもマスターにとっては唾棄すべき人物である。

 紙切れから仄かに香水の匂いが漂っている。コロセへ「ここに来るように」と諭したのは古美術商ではなく、『女医』であるとマスターは推測した。ひょっとしたら悪戯好きな古美術商がそう思わせるように仕組んだ小細工かもしれない。それゆえの「推測」である。推測であるからして、けっして結論ではない。

 いつだって結論は慎重に行わなければならない。マスターはそれをよく弁えている。

 調理棚から一本の小さな瓶を取り出し、紙切れへまぶすようにする。砂糖のような白い粉末が紙面に染み入るように浸透していく。それから、専用のクリアファイルへ、その紙切れを密封した。

 挟まれたその紙切れごとクリアファイルに手を翳す。

 僅かに曇るクリアファイル。

 しだいに表面が鮮明になる。

 そうしてクリアファイルの表面には、内に挟んだ漫画が浮き上がるように表示された。

 表示された漫画が動き出す。アニメーションみたいに。

 台詞の吹き出しも揺れ動く。電光掲示板のように。次々と文字が流れて文章となる。

 鎧を身にまとったマンガの主人公は、鏡に映った自分に向けて剣を構えている。

 主人公は言う。むろん音声はない。ただし、声はする。頭の中へ直に響くかたちで。空気の振動ではない。

・この子のパーソナリティは珍しい。

・この子は自ら機関に入りたいと望んでいる。

・規定通りに一人であなた方の元を訪れたのならば、後はそのまま規定通りに規定通りの手続きを経て規定通りに学び舎までの案内をよろしく頼む。

・くれぐれも規定を外れることのなきよう。

 文章は同じコマの吹き出しに順番に表示されていく。

 そして一巡するとまた冒頭の台詞が羅列される。

 視軸をずらして違うコマに描かれた絵をマスターは見遣る。

 そこには、それまで主人公を映し出していた鏡面が歪んでいく、といった構図が描かれている。

 歪んだ鏡には今、順々に次のような文章が記されている。


【 名称 】:ノロイ・コロセ。

【 性別 】:♂

【 年齢 】:八月二十四日現在を以って、六年と十カ月二十一日生存。

【 備考 】:アレルゲンなし、疾患なし、体力・知力・成長率、共に規定範囲内。

【諸事項】:パーソナリティが常時観測される。極めて稀有。

『特質』――作用と反作用、双方に不可侵領域が認められる。

推測・仮定――パーソナリティが常時発動中である右腕前腕部において、生物ないし、生物の内的認識領域に包括される物質に対して、いかなる作用及び反作用も生じない。(電磁波も例外ではない)

【つづき】:一方で、無生物(内的認識領域及び〈レクス〉を有しない物質)においては、通常人と同等の作用反作用が認められる。

【つづき】:無生物(内的認識領域及び〈レクス〉を有しない物質)であるが為に、右腕前腕部に反射する電波などが、無生物側からどのように知覚できるかは定かではない。

【つづき】:もしかしたらあなた方より深い層域に彼の右手は常時『浸透』しているのかもしれない。彼の〈レクス〉は規格外に異質であると言えよう。

【 結論 】:彼はアークティクス・ラバーとなる因子を充分に有していると判断する。

【 余談 】:ところで、私の口座は先日変わった。生憎私はそちらへの連絡手段をこれしか持たない。なので些か不躾ではあるが、この場を借りてお知らせする。口座番号は…………。

 

 そこからさきに目を通すことなくマスターはクリアファイルから漫画の切り抜きを取り出し、丸めてゴミ箱へ投じた。一瞬沸き上がった嫌悪を、溜息と共に体外へ排出する。

 なにをそう憤る。

 所詮、金が目当ての女狐に過ぎない。そう、やつらは総じて畜生に過ぎない。我々が高尚なる職務を遂行するにあたって無駄な手間を省くための道具。そう、道具だ。メンテナンスを独自に行う、我々にとって便利な道具。やつらにとって金とは、自らをメンテナンスするに必要な餌なのだ。三大欲求を満たすための餌。

 食欲、睡眠欲、性欲。こちらの社会では、それらの欲求を「金」という存在が統率している。

 食材を買い、食品を買い、またはご馳走を買うことで、食欲を満たす。

 住処を買い、寝床を買い、安全を買い、或いは快適を買うことで、睡眠欲を満たす。

 自分を彩り、着飾り、発情を発露させる相手を値踏みし、さらに「金」をかけて自らを装飾することで、性欲を満たす。

 性欲はなにも他者を求める欲望だけではない、自らを愛するナルシシズムそのものでもある。

 彼らにとって「金」は、それら欲望を満たすために必要なのだろう。自己のメンテナンスのために必要な「餌」なのだ。

 良き道具というのは、いつ如何なる環境であれどもメンテナンスが行き届いていて、いつ如何なる状況であれども使うことができ、そしていつ如何なる場合でも即座に代替の効く道具のことだ。

 そのために「餌」が必要ならば与えなくてはならない。

 だが、欲求には「底」というものが存在する。

 あるリミットを超えると、「底」が毀れてしまう「道具」どもが出てくる。

 端から満たされている「器」に、無理やり詰め込めば「器」が毀れるのは当然の摂理だ。空気を入れ過ぎた風船は破裂する。たとい毀れなくとも、元々「器」に詰め込まれていた中身はこぼれ落ちるだろう。

 満杯の「器」に詰め込むには、詰め込むモノ以上の何かを失わなければ詰め込むことはできない。それでも無理やり詰め込めば、やはり「器」は毀れるだろう。「毀れた器」にいくら詰め込んでも「器」が満たされることはない。

 困ったことに、それら底の抜けて「器」の毀れてしまった道具どもに、「餌」は「餌」として機能しない。毀れた奴らにとって「餌」は「ゴミ」と同義なのだ。

 誰しも最初は、なにかしらの目的があり、目的のために必要な何かを「器」に詰め込む。例えばそれは、食べなくては死んでしまう、眠らなくては狂ってしまう、残さなくては途絶えてしまう、などといった、自己のメンテナンスに欠かせない明確な「目的」があったはずなのだ。そして、詰め込むという行為は目的を遂行するために不可欠な手段であったはずである。

 しかし、「器」の毀れる輩は、その目的と手段が入れ替わる。

 詰め込む行為そのものが目的となる。

 だが「毀れた器」に詰まりはしない。

 ブラックホールに何を投げ入れても無意味なように、彼らのしていることはゴミの投棄にほかならない。

 そんな道具に対して、「餌」を与える必要がどこにあるだろうか。メンテナンスの効かない道具はもはやガラクタでしかない。

 ――そろそろ変え時かもしれぬな。

 満杯になってきたゴミ箱をマスターはじっと見詰める。



 ***コロセ***

 フォークを揺らしながら、「曲がって見える、曲がって見えるぞ。不思議だなあ」と夢中になっていると、カランリンと鈴の音が店内に響き渡った。

 来客のようだ。コロセは視線を向ける。

 座っている位置が店の一番奥に当たる場所であり、なお且つ扉からもっとも遠い位置にあたるため、コロセは必然的に店内を一望することになる。客たちの様子がコロセの視界に入った。

 店内の客たちのうち、幾人かは、新たな入店者の様子を窺うようにあごを上げ、確認するとすぐさま元に戻した。しかし何かに驚いたように――そして何かに気付いたように――視線を急旋回してふたたび対象へと向けた。とどのつまりが彼らは二度見をしたのである。

 彼らの視線が二度向かった先、扉の前には、若い娘が立っている。痩身で背の低い、モデルのような娘だった。体躯だけで判断すれば中学生にも小学生にも見えるので、少女と形容しても差支えなさそうではあるのだが、いかんせん彼女が漂わせている雰囲気はつららのように鋭く、威圧的だった。

 容貌一つとっても目を惹く。たとえば彼女の小さな頭部から流れるように生えている栗色のカールした長髪や、ほっそりとした脚に吸いつくように穿かれたスキニーデニム。その上から段々にフリルが重なっているスカートを身に付けて、質の良さそうな革のブーツを履いている。秋らしい薄手のコートは、彼女の華奢な身体をより線の細い輪郭へと脚色している――つまりは、それらの服飾が可愛らしい彼女を、よりか弱く、より可愛いらしい女の子の姿に強調している。弱さを強調する、というのは矛盾しているようにも思えるが、そのアンビヴァレンスな不安定さが彼女の美貌をより際立たせている、と言っても過言ではない。

 ただし、そんなか弱そうで愛くるしい娘は、なぜか頭にバケツを被っている。いや、一見すればそれは細長いふわふわの帽子に見えないこともないのだが、それでも彼女が頭に被せているのはバケツであった。そのバケツには、ふわふわとした黒くみじかい毛のカバーが被せられている。だから黒い帽子に見えなくもない。

 だが繰り返す。バケツである。

 客たちが二度見した理由は彼女の端整な容姿という要因も少なからずあったのであろうが、それよりも一番の理由は、娘のその奇抜なファッションにあったのだろう。

 バケツからは取手が弧を描いて伸びており、彼女のあごを経由して、ふたたびバケツへと連結されている。ゆえに、バケツだと判る。

 端的に表せば、少女はバケツの取手をあごへ引っかけて、やや後方にバケツを傾けた形で被っているのだ。頭に被ったそのバケツの上からさらにカバーを被せている。

 奇抜だ。

 奇怪である。

 時節は秋だ。たしかに最近になって肌寒くなってきた。それゆえのバケツカバーであろうか。などとコロセも含め、二度見という小動物然とした仕草をみせた客たちは思ったことだろう。

 少女はバケツを微動だにさせず、コツコツと足音を鳴らせてコロセの席へとまっすぐに向かってくる。客たちの視線も、ちらちら、と遠慮がちではあるものの、不可解なものを追うように付いてくる。

 彼ら以外の客たちは――即ち、少女が入店してきた際に、扉の音に反応して瞬時に顔を上げた者以外の客たちは――少女が店内を縦断しはじめたときになってようやく各々のテーブルの上での動作を止めて、店内を闊歩するバケツ娘を見遣った。けれど一度一瞥しただけですぐに顔をテーブルへ戻し、中断させていた各々の動作へ戻った。ふたたび彼らの視線が自分たちの手元から離れることはなかった。バケツ娘への関心がまるで感じられなかった。

 彼らの見えざる内心の独白としては、「ああ、彼女か」といった言葉が妥当であろう。

 どうやら、前者の客は新参の客であり、後者の客は常連客、ということらしい。となれば、バケツ娘も常連客ということになるのだろう。常連客たちにとって彼女はいまや暮らしのなかの一部、日常の風景、もはや奇怪な存在ではないのだろう。

 バケツ娘はコロセの座るテーブルの前へ立つと、一切の断わりもなく、上品な所作でコロセの対面に座った。彼女は店内の扉に背を向けた格好となる。いくら背が低い女性、といえども小学校低学年のコロセよりは幾分も背が高い。自然、コロセの視界からはほかの客たちごと、店内の風景が断たれた。

 バケツ娘は無言でコロセを見詰めている。コロセは見返すことができない。俯き、彼女の視線をつむじに受けて防御した。

 コロセと彼女とのあいだに漂う静寂に、店内を流れる音楽が絡みつき、より沈黙を重くさせている。

 コロセはあごを下げたままで上目遣いに少女を窺う。が、少女の視線と真っ向から交わって慌てて伏せた。照れではない、少女の発する眼光が鋭かったのだ。

 マスターの朗らかな笑顔が恋しかった。「早く戻ってこないかなぁ」とコロセは念じる。

「きっと、もうすぐですよ。ケーキのお代りを持って戻ってきます」唐突にバケツ娘は言った。

 急に発せられた台詞にコロセは戸惑う。

 これは僕に向けての言葉なのかな、それともメディア端末で会話でもしているのかな、とコロセはもう一度、少女に視線を向けた。

 少女はやはり姿勢よくこちらを見詰めている。

 目が大きな猫みたい、

 まつ毛も長い。

 毛虫みたい、とコロセは思った。

「まあ、失礼」

 少女が呟いているが、何のことか解らずにコロセは聞き流す。

 次に視線は、迷うことなく少女の顔から外れ、惹きつけられるように彼女の頭部、バケツへと向かう。視界にバケツが燻っていて、気になって仕方がなかった。

 やはりバケツである。どこから窺ってもバケツである。むしろ見れば見るほどバケツである。なぜかバケツには黒いふわふわのニットのカバーが被せられている。バケツカバーの意図も不明であるし、なにゆえバケツなどを頭に被っているのやら、そのこと自体が究極的に謎である。

 少女の髪型は一種独特であった。むろんそれは、バケツを含めての独特さである。バケツからはみ出ている栗色の彼女の長髪は、緩やかにウェーブしている。それはあたかも、バケツをひっくり返してそのまま水が溢れ返った、といった有様である。

 汚れた水がこぼれたんだな、と彼女の頭髪を眺めながらコロセは想像した。

「まあ、失礼」

 少女が呟いているが、何のことか分からず、コロセは聞き流す。

 黒いふわふわのバケツカバーから僅かに覗くバケツのふち部分からは、さらに、ポリエチレンの滑らかな曲線がうかがい知れる。覗いているそのふちを見る限り、バケツ自体の色も黒かった。

 黒いバケツに黒いバケツカバー。

 それじゃ重ね着の意味ないよなぁ、とコロセはバケツから目が離せなかった。じっと見ていると次第に、バケツも中々にカッコいいかも、と思いはじめる。小学校でバケツを被り、勇者ごっこと称して遊んでいた思い出が懐かしかった。ちなみに先週の思い出である。

「ありがとう」バケツ娘はいきなり礼を口にした。

 コロセが身構えると、彼女は続けて、でも、と言う。「でも、黒いかどうかは判らないのですよ。あなたのまえに広がる世界と、あなたの瞳に映っている世界が同じかどうか、それすらが曖昧なのですから。たとえ同じだとしても、その瞳に映った世界が、そのまま真実の世界かどうかは、また別の問題なのです」

 わかりますか、とバケツ娘が見据えてくる。

 ゆっくりとコロセはバケツから名残惜しげに視軸を下ろす。少女の瞳に合わせた。

 視線が交わる。

 コロセは逃げるように視軸を少女の口元に合わせた。

 ぷっくらとした赤い唇は、ぱんぱんに詰まったタラコを思わせる。

 この赤さは明太子だな、とコロセは想像した。

 少女がまたも不服そうに、「まあ」と言っているが、何のことか分からない。まあ、が口癖なのだろうか。変なの。コロセは表情に浮かばないようにあざけ笑う。

 とほぼ同時に、少女がいきなりコロセの頬っぺたを、むぎゅ、とつねった。しかも両手で。

 中々どうして痛いものがある。

 というか、痛い、ふつうに痛い。かなり痛い。

 抵抗しようとしてコロセは両手を机上へと出す。しかしコロセが抵抗する前に少女は、「お間抜けなお顔」と吐き捨てるようにし、コロセの頬っぺたから手を離した。姿勢をただしてからもう一度、「わかりますか?」と言った。今度は明確にコロセへ発せられた言葉だった。

 わかりますか、と問われても、コロセには「なにが?」としか答えようがない。コロセは頬っぺたを左手で擦りながら怪訝に少女を睨みつける。

 なにが解らないかも解らない。

 大抵の物事は、問題点や不明な点を認識することが理解とほぼ同義の意味を持つ。そして今、理解とは程遠い状態にコロセはあった。ただし、それは当然だ。決して責められたものではない。

 この場合、少女の発言のほうにこそ非がある。

 発言のタイミング、発言の内容、前後の対話における脈絡、意味不明な頬っぺたむぎゅ、それらすべてが不明瞭であり、不可解だ。

 しらずコロセの身体に力が入った。いきなり現れた不審人物に対して緊張しているのかもしれない。コロセは背もたれに身体を押しつけ、不貞腐れた。

「あら。その右手に握っているものはなに?」バケツ娘が小首を傾げた。視線だけでテーブルのした、コロセの膝のうえに乗っている右手を示している。

 コロセは生唾を飲み込む。

 ここまでのあいだ――家からこの喫茶店までの道中、いや、ここに着いてからも含めて、否否、この二カ月の期間――誰からも、誰にも、何ものにも、右手について言及されなかった。

 コロセのことを知っている人間は落雷については知っているので、今さら右手について尋ねてくる者はなかったし、コロセのことを知らない者たちは、コロセのことを「右手のない、可哀想な子」としてしか見なかった。憐憫を抱いた者がその対象へ憐憫の根本である欠損部について問い質すことはまずない。

 それでも稀に、「その右手どうしたん」と失った理由を訊ねてくる者もいた。

 だが、それらと今のこの少女から発せられた問いは明らかに趣を異としている。

 右手のことだけならいざ知らず、バケツ娘、彼女は右手の中身のことまで指摘したのだから。

 仮に右手を指摘するだけなら、「コロセの右腕がない」のだから「なぜ腕がないのか」という意味で他人から指摘されることは充分に有り得る。しかし、だとしても、「無いはずの腕」に対してどうして「腕の中身」について問うだろうか。問える道理がない。考えられるのはただ一つ、彼女、バケツ娘には、コロセの右腕が存在していることが解るのだ。それも、一切視覚に頼らずに。

 ――このバケツ娘、ただ者じゃない。

 もういちど生唾を呑みこむ。

 柔和な初老であるマスターに対しての感想は、「やるなお主」といった評価であったが、このバケツ娘に対する感想は、「奇怪」の一言に尽きる。

 きっとこのバケツ娘は、ヒーローの仲間かなにかに違いない。

 コロセは考えた。

 マスターの言っていた「迎え」かもしれない。

 

「ああ。すみません」少女の肩越しにマスターの声が聞こえた。続いてマスターの柔和な顔が覗く。「いらしてらっしゃいましたか。どうも気付きませんで」

 そんなわけがないでしょう、と言わんばかりに少女は、「いつものに、今日はミルクとグラニュー糖を」とマスターの顔を見もせずに乱暴に応じた。続けて彼女は、それから、と言葉を付け足す。「私、もう少しこの子、ノロイ・コロセさんとお話したいのですけれど、お時間はありまして」

「ええはい。送迎の申請――その連絡をたった今致しましたところでして、『迎え』が着くまでのあいだならば、皆目問題ございません」

 しかしながら、とマスターはいったん言葉を切り、テーブルにチーズケーキの載った皿を二枚、バケツ娘とコロセの前へそれぞれ置いた。踵を返してカウンターへと消える。短時間で湯気の立ち昇るカップを持って戻ってきた。まるで準備していたかのような手際の良さである。カップの中身は褐色で、若干白く渦巻いている。ミルクを入れてかき混ぜた余韻がそこには見てとれた。

 礼も言わずにバケツ娘は、上品にフォークを使って早速ケーキを口にしていた。

 どうやら食べても良さそうだ。

 マスターにちょこんと頭を下げると、バケツ娘に続いて新しいケーキに手をつけた。

 なんだこれ、とコロセは唇の合間からゆっくりとフォークを引き抜く。

 ……めッちゃウマイっ!

 コロセが生まれて初めてチーズケーキを食べた、記念すべき瞬間である。

 その瞬間を祝うような笑顔を浮かべながらマスターは、申し訳なさそうな口調で、「しかしながら」とバケツ娘へ向けて言葉を紡いだ。「問題はございませんが、しかしながら、ここで『その話』をされるのは憚られるのではと存じあげます」

「その話というのが私にはどのお話のことか判断つきかねます。ただ、たとえここで私が奇声を上げたとしても、このお店のそこにいる方たちへ」と彼女はあごをしゃくり、「そこにいる方たちへ影響を与えることは、一切ありませんことは貴方だって承知していますでしょ?」

 言うとバケツ娘はやっとマスターの顔を見遣った。睥睨するように一瞥すると、あら、とタンポポに止まるテントウムシを発見したような声を発した。

「あら、貴方だってこの子に『機関』についてすでにもうお話しているではありませんか。貴方が善くて私が駄目だなんてそんな理不尽、紳士の貴方が許容するわけがないですよね」

「もちろんでございます」しかしながら、とマスターが弁解口調で言うと、バケツ娘は、「ならいいではありませんか」と彼の言葉を遮った。

 店内に視線を巡らすと彼女は、「彼らの鼓膜を振動させることすら私は致しません」と口早に言って、きっ、とマスターを睨んだ。「そのことについて、危惧なさっているのならば、貴方もだいぶん脳細胞の老化が進んでいるのではなくて」

「いえ。はい。それはもちろん承知致しております」

 バケツ娘の眼光に臆することもなくマスターは、ですが、と再度穏やかな表情のまま弁解した。「ですが、なにぶん〝弥寺様の前例〟がございますし、最悪の事態も想定した上で、その最悪がもたらす災厄に対処でき得る施設内で――でございますね、談話なり説明なり致したほうがよろしいのではないか、とわたくしは思う次第にございます。如何でございましょうか、もちろん、貴女様のことですから、その辺りの配慮も不可分なく熟慮なされた上でのお話であられるのでございましょうが、このお節介なわたくしと致しましては、それを口に出して確認しておきたい次第なのでございます。どうかご了承願いますれば、わたくしは大変うれしゅうございます」と低頭する。

「今日は一段と長ったらしいですね」彼女はにっこりと微笑む。「それに、中々厭みを包むオブラートも透明になってきたではありませんか、良い傾向ですよ。何に対して善い傾向かと言えばですね、貴方が人間らしくあるかどうか、という点で、好ましい傾向だという意味です。もちろん、人間らしいほうが善いものとして私は判断しています。心中と体面との差が明確であることが、必ずしも理性的だとは限らないのですからね。理性的と機械的とは違う、ということですよ」お解りになられるかしら、と少女は口元緩やかな表情を保っている。「理性的を追求することと、人間性を追求することは矛盾しないのです。精神の機械化を進めることが、理性的である、と勘違いなされないことをお勧めしますよ」

「結構なご忠告、まことに痛み入ります」マスターは感謝を述べた。

「いいえ、これは厭みではありません。こうも体面と内面が相反するなんて、まったく、貴方は。――いえ、そうですね、これはこれで、清々しくも思えますね」

 バケツ娘どこまでもマスターの言葉を歪曲して返答する。

 さきほどから彼女の言動は変だった。

 ずっと変だった。

 とどのつまり、彼女が変なのだ。

 コロセは怪訝にバケツ娘を見詰めている。ともすれば、睨んでいるに等しい目付きだったかもしれない。コロセとしては、マスターのほうにだいぶん感情移入をしている。

「とんでもございません。わたくしは貴女様から戴ける箴言には感謝の念が絶えません。厭みだなんてそんな、滅相もございません」相好を崩したままで困った表情をマスターはつくった。

 なるほど、笑顔マスターだ、とコロセは思った。

「貴方の嘘つきもここまでの域に達すると、芸術的ですね」とバケツ娘は呆れた声で言った。「では、この子と私は少しばかりお喋りを致します。迎えが来るまでのあいだですが――そうですね、言葉を交わすだけなのですから充分な時間です。どうぞそれまで貴方は喫茶店の営みに精をお出しになられて結構ですよ」

「お気遣いありがとうございます」ですが、とマスターが言葉を返そうとするとすかさずバケツ娘は、「下がりなさい」と一蹴した。「私は、貴方にそう言ったのです。迂遠な表現ではどうも伝わらなかったようですね、もう一度言いましょうか?」

 下がりなさい――と少女は口にした。

 威圧的ではあるが、舌ったらずな声音で迫力はない。

 マスターは破顔を崩すこともなく、むしろ相好を崩したままで、「畏まりました」とだけ呟き、バケツ娘とコロセへお辞儀をした。そのままカウンターの奥へと帰っていく。

 身体をよこへ倒して席から身を乗りだすようにし、コロセはマスターのうしろ姿を目で追う。なんだかマスターが可哀想に思った。

「そんなことはないわ」バケツ娘がまたしても唐突に言った。「もうちょっとで剥がれそうだったのに。彼の仮面」

 ざんねん、と声を弾ませる。

 バケツ娘はこちらを見据えている。

 その視線に気づき、傾けていた身体を座席に戻す。

 バケツ娘、彼女のことがこわかった。

 彼女の容貌はバケツ以外、特に変わったところはなく――というよりもバケツを頭に被るという行為が醸し出すマイナス因子と、彼女自身の持つ端整な容姿というプラス因子がちょうど複合されて、打ち消し合い、それなりに普通の人物に見えてしまうのである。ともすればそれは、モデルが奇抜なファッションをしてもなんとなく似合ってしまい、そのために周囲から奇異な眼差しで見られることがない、という点と傾向としては同じと言えるかもしれない。

 むしろこうして数分間、彼女と空間を同じにしていると、バケツを被るという行為自体が、少女の美貌を引き立てる丁度いいアクセサリに思われてくる。

 バケツ娘の口調は終始貫徹して抑揚があった。それに加え、舌ったらずであり、穏やかでもある。ただし、そこから漂う雰囲気はやはり威圧的であった。先ほどまでのマスターとの応酬を観察していた限りコロセは、マスターよりもバケツ娘のほうが力関係では上なのではないか、と分析していた。それゆえに抱いた畏怖なのかもしれない。

 バケツを頭に乗せるなんてすごく間抜けでひょうきんな格好だ。なのにどうしてこの人には覇気があるのだろう、とコロセは取り繕った澄まし顔のままで考える。むしろバケツを被っているから神々しいのだろうか、バケツによる相乗効果なのだろうか、などとも考えた。

「あまり嬉しい評価ではありませんね」バケツ娘は尚も独り言ちている。片手で頬杖をつくと、それに、と言葉を紡いだ。「それに、あの方と私は真剣にお手合わせをしたことがありません。どちらが上かは、わからないのです。それでもそうですね――お互いに本気でパーソナリティを解放した場合に、どちらが生き残るか、という点でいえば、確率が高いのはあの方のほうでしょうね。余裕があるからこそああやって気取っていられるのです、彼の場合」

 ホント、いけすかないわ――と彼女は顔を綻ばせた。

 それを聞いてコロセは安心する。

 それを聞いて、というよりも彼女の自然な笑みを見て緊張がいくぶんか和らいだ。言っている内容はよく解らなかったが、どうやら彼女とマスターは、犬猿の仲、という訳ではなさそうだ。

 喧嘩するほど仲がよい、とコロセは脳裡で口ずさむ。

 そんなことはないわ、とまたも少女が突如として呟いた。

「そんなことはないわ。喧嘩をしないに越したことはないのよ。それに、喧嘩をすれば通常、一般的にも歴史的にも、仲は悪くなるものです。それが現実ですよ。ただし、何度も喧嘩する機会がある、という事実を鑑みればたしかに、単純に『仲がわるい』とは言いきれないのでしょうけれど」

 言うとバケツ娘はカップを上品に口元へ運び、残っていた液体を飲み干した。

 ところで、と彼女は小首を傾げた。姿勢を正したままで、コロセを覗くようにし、「ところで――さきほどのお話ですけれど、あなたが右手に握っているものをここへ出してくれないかしら」とテーブルを指先で軽く叩くようにした。

 どうしたものか、とコロセは逡巡する。逡巡しながらも、身体は動いていた。どう考えてもここで拒否するのは利口ではないし、拒否する理由が思い浮かべられない。自分よりも年上であろう少女の言うことだ、大概は正しいことを要求しているのだろうし、正しい選択を提示してくれているのだろう。

 極々素直な子どもじみた思考でコロセはそう判断した。

 右手をテーブルの上に差しだす。

 手の甲をしたにする。

 視認不可能なそのてのひらを開いた。

 開かれると同時に紙が現れる。

 テーブルの上に。

 突如として。

 現れる呪符。

 マジックのようだ。

 しかもその紙は、宙に浮かんで視えている。

 だが、飽くまで突如現れたように視えるだけであり、それはそこに先ほどからコロセの右手と共に存在していたのである。

「存在しているからといって、必ずしも、視えるわけではない」という「ガラス」を示唆するような理屈とは異なり、コロセの場合は、「存在しているからといって、必ずしも、形あるとは限らない」のである。コロセの右手は、透明だというだけではない。強いて言うなれば、「空気」にちかいのかもしれない。いや、これもまた違うだろう。

 そのことを理解しているのだろうか、バケツ娘は驚く素振りも見せず、むしろ得心がいったように、「あら」と小さく声を上げた。

「なるほど、これを渡されていたのね」

 言いながら宙に浮かぶ紙――コロセの右手に載せられている呪符――をつまみ上げる。

 途端、くふふ、とうれしそうに彼女は深く微笑んだ。

「あなたの波紋、珍しいわね。これならどこにいてもすぐに解っちゃう」あなたの居場所、と今度は人指し指で宙を掻きまわすようにした。

 紙の浮かんでいた辺りを、

 視認できないコロセの右手を、

 探るように彼女は掻きまわした。

 コロセの右手は呪符を差しだしたときから今に至るまで、ずっとそこにある。だが、彼女の人差し指と接触することはなかった。

「この紙はね」

 呪符をひらひらと振って彼女は、「あなたのパーソナリティをリバースさせるの」と頼みもしないのに説明した。「パーソナリティとパーソナリティを相殺させて、あなたの外へと影響が及ばないようにしてくれている。とっても高等な代物なのよ、これ。滅多にないの。これほど繊密な『言霊』はね」

 

 少女はしばらく、コロセの右手で遊んでいた。自分が触れられない代わりに、テーブルの上に置かれている包装された角砂糖や、丸めたナプキンなどを、コロセの右手に置く。無生物であるそれらは、コロセの右手に載る。

 宙に浮かんで見える角砂糖の周辺を彼女の指は旋回した。

 指を旋回させながら彼女は、「不思議ね、あなたのパーソナリティ」と楽しそうに呟いた。

 言われるがまま、なされるがままに、じっとしていたコロセはそろそろいいだろうか、と思って口をひらいた。

「あの――ノロイコロセです」

 初めまして、と遅ればせながら口にする。マスターにもしていなかった自己紹介である。

「ええ、知っていますよ」とバケツ娘。「あなたはまだ小学一年生。そして、栞(しおり)岬(みさき)医師に教えられてここを訪れた。あれだけお世話になっておきながら、彼女の名前、あなた覚えていないのね。でもそうですね、彼女、医者のくせに粗忽者だし、守銭奴だし、私もあまり好きではないかも」

 【〝人格者の振りをする〟演技】だけはお見事だと思いますけれど――と彼女は栞岬医師という人物に対して辛辣ともとれる台詞を吐いた。

 だがコロセには褒めている風にしか聞こえない。お見事という言葉は、コロセにとっては十割褒め言葉である。

 シオリミサキ医師って、もしかして僕に封筒を渡してここへ行くように助言してくれたお医者さんのことだろうか。そういえばお母さんがそんな名前で呼んでいたような気がする、と曖昧な記憶を呼び起こす。

 

 指でカップのふちを弾いて、キン、と高い音を鳴らせると、バケツ娘はやがて言葉を紡いだ。

「あなたのお母さんは小学校の教師で、お父さんは大学の教授、三歳になる妹さんがいるのね。あら、妹さんはもう字が読み書きできるの? すごいですね。ああ、だからご自慢の妹さんなのね、可愛らしいですね」淀みなくバケツ娘は喋り続ける。

 まるでその場で何かを読んで感心しているみたいな口ぶりであった。けれど彼女は今もまだ、宙に浮かんでみえる角砂糖の周囲に指を旋回させているだけで、特になにもしていない。愉快そうにしているだけである。

「そうそう、落雷にあったのね。ふうん、記憶は飛んでしまったのね。でも、それがきっかけになったのはやっぱり確かみたい。怪我がなくて本当に良かったです。こうして面白いパーソナリティも開花したことですし、これからは思う存分に世界を感受なさい」

 いいですね、と確認してくるので、解せぬままにコロセは黙って頷いた。

「今、この瞬間に解らなくともよいのです。解らなくとも、あなたは今この瞬間――この現在に――私の話を――私の言葉を――その耳で捉えて己の世界に刻み込んだのですから。いずれ理解の及ぶ時が訪れるはずです。その時になれば必然的に私の言葉は意味を成します。あなたの一部として、顕在化するでしょう。大事なことは、あなたが今、この瞬間に――この現在――この現実に――私の目のまえに存在しているということなの」

 わかりますか、と彼女は小首を傾げた。バケツがゆれる。

 憮然として見詰め返しながらコロセは、解らなくともよいと言われたそのすぐ後に、「わかりますか?」などと訊くとはこの女、さてはバカだな、と思った。

「まあ失礼」バケツ娘は柳眉を寄せた。

 まただ、とコロセは思う。さっきから逐一この少女は――コロセの年齢からすればお姉さま的な少女は――小言のように脈絡のない言葉を吐く。それも、まるでコロセの内心の呟きに応えているかのような言葉である。そう、心を読まれているような、そんな違和感。居心地のわるさ。不気味さ。

「そんなに単純なものではないの」

 なおもバケツ娘はコロセを置き去りにして独り言ちている。

 ともすればそれは、コロセを巻き込んでの寸劇のようでもある。もちろんその場合、コロセはただ一人の観客だ。欠伸をかみ殺している義理高い客。

「心という存在が如何ほどに不鮮明で曖昧なものか、あなたは考えたかことがありますか? 多くの人たちは、さも心という曖昧なものが存在しているかのように思考し、愛だとか感情だとかそんな希薄で浅薄な概念を崇拝しています。ねえ、どうしてですか? 幼い頃からそう教わっているから疑うことを知らないからですか、それとも便利だからという自堕落によって受け入れているからですか。ええそうですね、たしかに心や感情なんてものが自己の内に成分のように存在していると考えれば、常日頃、奇怪に感じる他人の行動や言動に対して許容ができるし、自分の理不尽で自家撞着に思える行為に対しても安心できますね。あの人には愛が足りないからだとか、自分はあの人を愛しているからだとか――心が幼い、心が大人だ、心が毀れている、心が塞いでいる――そうやって大義名分を見繕って免罪符にしています。他人を許容するために必要だから、なんて私は先ほど言いましたけれど、でもそれは許容というよりも妥協と呼ぶべき問題放棄にほかなりません。誤魔化しに過ぎない詭弁なのです。それに気づいていながらもきっとあなた達は気付かぬ振りをして、便利だからという一点のみで、面倒臭い疑問や他人が引き起こす理解の及ばない現象に対処しようとしているのですね。あまねく、保身からくる自己防衛なのですね」

 愚かだわ、ねえ、そう思わないですか――と彼女は、コロセの顔をしたから覗くようにした。

 コロセはすっかり俯いていた。

 よく喋る。そしてよく息が持つ。

 マスターにしろ、このバケツ娘にしろ、やはり只者ではない。コロセはそんな的外れな所感を抱くことで精一杯だった。精一杯にも拘わらず、「うん。そうおもう」と如何にも納得している素振りで首肯した。

「まあ。嘘がお上手ですね。あなたも」少女は楽しげに囁いた。

 それもまた、小鳥のような囀りであった。





   ○○○【着床~ハルキ~】○○○

 あの声と出会ってから数週間。(声を認識することを、ハルキは「会う」と表現した)

 ハルキはすっかり自分の身に起きた現実を受け入れていた。

 ハルキは声の人格を「フユキ」という名で呼ぶことにした。

 フユキと出会ってから、数日間過ごして分かったことが三つある。

 一つ目は、フユキと会話をするには実際に声を出さなければならない、ということ。

 ハルキがどんなに心の中で呼びかけてもフユキはまったく反応を示してくれない。そのためにハルキはひと気のないことを毎回確かめながら、声に出して会話をすることを強いられた。だが彼との会話の最中にはしばしば、今ぼくの心を盗み見たなこいつ、と感じることがあった。

 二つ目は、フユキは一日のうち、決まった時間帯にしかハルキの呼びかけに応じない、ということ。

 ハルキの声量に関係なく、フユキはまったく反応を示さなくなる。もしかしたら寝ているのかもしれなず、だとすると自分が寝ているときに、フユキは起きている可能性もでてくる。そう考えたらハルキは不安になった、がフユキに言われたことを思いだした。彼は自分でハルキの身体は動かせない。そのことはいまのところ確かなようである。

 最後は、フユキが本当に頭の良い人格だ、ということである。

 ハルキが寡聞にして知らなかったことや、これまで知りえなかったような、知識や思考形態をフユキはもっていた。

 しかし、流石にこれはおかしいな、とハルキは頭を悩ませた。フユキがもうひとりのぼくである以上、ぼくの体験している世界内の知識しかないはずだから、思考に必要な知識や常識、つまり思考材料は同じはずだ。いくら思考能力値数が高いからといって、こんな顕著に知性の違いが出てくるものだろうか。思う都度、フユキに尋ねてみるべきかをハルキは迷った。


「今ぼくが何を考えているかわかる?」

 夕方。家から歩いて数分の距離にある貯水池にハルキは来ていた。そこは半分が森林と接しており、その反対側は公園に面した大きなグランドがあった。そのため森林側に来てしまえば、ひと気は皆無であり、フユキとの会話をする場合、ハルキはここに来ることが多かった。

「お前は俺が考えていることが分かるか? 分かんねぇだろ? 同じ人格じゃねぇんだから分かるわけがねぇ」

 フユキは最近コロコロと話し方を変える。そのことを指摘した際には、「お前は感情が滞ることなく変化しているというのに、なぜ言葉にするときは話し方を統一して話すんだ? それは話し手に対する配慮ではないのか? だとするのなら俺はお前に配慮する必要はまったくない」とフユキは冷たく言い放ち、それから眠りについた。

 眠りにつく、とはハルキが言い表した表現で、フユキが反応を示さなくなることを「ああ、今フユキは眠っているのだな」と言語化してハルキは思考した。

 フユキは同じことを二度質問されるのが嫌いであるらしい。そのために、会話をする際には、前とは違う話題から同様の質問にもって行かざるを得なくなり、ハルキはただでさえ低い語彙力をフル動員させて懸命に繋ぎ穂を捻出しなくてはならなかった。その結果、ハルキの思考は、彼との会話中には目まぐるしく駆け巡った。

 数日を費やし、ハルキはどうにかこのあいだの質問の続きへと漕ぎ着けた。今回は途中でフユキが眠ってしまわないように、時間に余裕を持たせ、学校が終わるとすぐにいつもの林へ向かった。

「――まぁ、同じ人格ではないが、同じ身体である以上、何となくキミの考えが分かるときはあるな。うん、たしかにある」フユキはさも興味がなさそうに言った。

「それって双子のシンクロニシティと同じってこと?」

「まあ、そんなことだと思い込めばいい。この議題を私が考えても面白くはない」

「今はフユキ、真面目ちゃんなの?」ハルキは相好を崩した。聞きたかった応答が得られ、気分が良かった。

「常々言おうと思っていたが、いやしかしくだらない、と私は却下していたために言い逃してしまっていたが今後またこのような無駄な思考をしないように今のうちに述べておこう。キミはもう少し、いや今の三倍は思考してから言葉を発するべきだ。キミの発言のあとに私がどういった言動を返すかぐらい容易に想像できるだろ」

「うん。そう言うと思っていたよ」ハルキはさきほど崩した相好をさらに砕いた。

 このころになるとハルキはもう、フユキがおそろしい存在だ、などとは考えなくなっていた。フユキに対する疑問は残ってはいたが、疑心はなかった。疑問においてもそれは、初めてできた親友への好奇心のようなものなのだ、とハルキは割り切ることができた。

「私は冗談や冗句が嫌いだ。ああいった他者とのコミュニケーション形態は無駄としか思えない。ある発言において、それが一般的な解釈を伴わない場合に、それを共有し得る解釈を持ち合わせる相手に対してにしか有効ではないのだよ、こういった冗句だのという類の代物は。よく口にする者たちはこのことを利用して、相手と自分との関係性が円滑に築けるか否かといった判断基準の要素にしているのだろうか。もしくは、笑いあうことが互いの警戒心を解き、親密になることの条件だと信じているのだろうな。まったく単純な動機だよ、理解しがたいね」

「それって、本人たちよりも理解してるんじゃないの?」

 相好が砕けたままでハルキは、それでも口調だけは整えていた。身体を持たないフユキに表情を見られることはない。声に出して笑わない限りは露見しないはずだ、との考えからだった。

「理解しがたい、と私は言ったんだ」むつけたようにフユキは、「それはつまり理解できるが、したくないという意味だ」と反駁してきた。

「ずいぶん解りやすく言い直してくれたね、嫌いなことをしてくれてありがとう」

「ふん、なるほどな。それを言わせるために、わざとか。だとしたらオマエはずいぶんと無駄なことが好きなようだ。つまりそれは、オマエの頭の回転は速いが頭はわるい、ということの証明ができたわけだ。なぜなら、頭の良い人間は総じて無駄なことは行わない。もちろん、頭の良い人間なら、無駄なことに価値を見出す者もいるだろうが、しかしそれは無駄なことが無駄であると自覚している者に限る。だがオマエはそうではないだろ? もちろんこの会話は極めて無駄だ。だが私はそれを自覚している。自覚している限り、私はオマエとは大きく異なり、頭の回転は速いが頭はわるい、などとそのような愚行に陥ってはいない」

「同じことは二度言わないんじゃなかったの?」もう駄目だ、とハルキは噴きだした。

 ぐむ、と口籠ってから軽く舌打ちをするとフユキは、「揚げ足を取るやつは嫌いだ」と溢して緘黙した。

 それからハルキがいくら話しかけても応じてくれなくなった。

 眠りについたのかもしれない。

 だがこの時間帯はまだのはずだ。まさかとは思うが、拗ねたのかもしれない。

 意外に幼いのかもしれないなフユキは、とハルキは余裕をもってフユキを分析するほどに彼を信頼し、親しみを抱いていた。

   ○○○+*+○○○





 +++第二章『退屈な日常、の崩壊』+++

 【無数の原因がドミノのように積み重なり、外部からのきっかけにより連鎖的に崩壊する。問題の多くはこうした無数の原因と、きっかけによって生じる。ふしぎなのは多くの者たちがきっかけを原因だと見做している点である】 


 

   タイム△△スキップ{~基点からおよそ十一年前~}


 ***コロセ***

 どこの異国か――とコロセは自分が立っている居場所を疑った。言うなればそれは、自分が身を置いているこの世界そのものを疑ったことに相違ない。意識的に唾液を飲み込む。

 首の可動を限界まで駆使して辺りを見渡した。

 前方には、近未来型テーマパークを連想させる建造物。プラモデルのように小さく、シルエットと化して見えている。厳密に形容するならば……いや、ここからではそれが、細長い建物が霜柱のように密集して、一つの巨大なタワーみたいに視える――としか言いようがない。ほかにも形容の余地があるが、コロセにとってはそれが一番妥当な表現だった。なぜなら、ここから詳細に視認するにはあまりにその建造物との距離が離れすぎているためである。

 入り口だと思っていた門から、さらに奥、はるか遠くに位置するその建造物に、コロセがこれから住むべき住居があり、施設があり、社会があり、即ちそれらが「学び舎」であるらしい。

 それは、一つの建造物というよりも「街」そのもののように思われた。

 異世界を思わせるに不足ないほど広い平原に、ぽつん、とその縦長の街が置かれている。

 とどのつまりが、この遠くに視てとれる縦長の街(建物群)を含めた、この視界に入りきらない風景――壁が取り巻いているだろう内側の世界――それらすべてが、『アークティクス・サイド』なのだろう。

 コロセの後ろには今しがた通ってきた荘厳な門がある。

 一見、彫刻や繊細な装飾が施してありそうなくらいに神々しく、巨大でありながらその実、とても質素で、重厚な威圧感を放っている。

 その門から左右に延々と荘厳な壁が続いている。地平線の向こう側を経由して『この世界』を囲っているようだ。それとも、囲われているからこその『この世界』なのだろうか。

 左右に広がるにつれて、壁が僅かに婉曲して見えていた。その壁は門と同様に巨大であったが、彩色は門とは異なり、潤色に富んでいた。壁を覆い尽くすように花々が咲き誇っている。

 一瞬、そのあまりの派手やかな様に、コロセはグラフィックアートの類かと思った。しかし色とりどりの花はペイントではなく、実体をもった立体的な花弁であった。また造花の類でもない。なぜ判断ついたかと言えば、頬を撫でる風に、甘い花の蜜の香りが混じっていて、鼻腔をくすぐってくるからである。何種類もの花の香りが混じり合って、一種独特な匂いと化している。けれどコロセにとっては別段嫌いな匂いではなかった。むしろ落ち着くような――そう、母親がたまに焚いていたアロマの香りに似ていた。

 ――お母さん。

 この刹那に顔を覗かせた母への思慕の念を、コロセはすかさず戒めた。胸中の奥深くへと押し戻す。

 意気地なし、こんなことではヒーローにはなれないぞ――と諌めるように。

 

   ***

 喫茶店「Ding an sick」でのバケツ娘との会話は、終始一方的に説かれるといった形で行われ、コロセは心底うんざりしていた。

 説かれた話の内容は、一見含蓄に富んでいそうな話ではあるのだが、小学生のコロセがそれを咀嚼するにはあまりに難儀な話であった。もうすでに、バケツ娘から何を話されたのかコロセは微塵も思い出せない。

 バケツ娘と二人きりになってから二十分程でマスターが、

「迎えの者がチューブ先に到着致しました」

 と言いにきた。

 心底助かった、といった笑顔でコロセは応じた。

 コロセのなかでは今、世界のうちでマスターほどヒーローに似つかわしい人物はいないだろう、というレベルまでマスターの株はウナギの滝昇りであった。ただし、ウナギが滝を登りきれるか否かは、現状、定かではなく、むしろ、どんな相手に対してでも、そのウナギが途中でまっ逆さまに滑降していく可能性が無きにしも非ずであるのはもはや小学生のあいだでも常識なのである。山の天気よりも流動的に、人への評価は変動するものである。

 それはまた、バケツ娘へ抱いた評価にも当てはまることではあるのだが、この二十分を経てもなお、バケツ娘へ抱く評価は下降の一途を辿っていた。

 もう二度とこのバケツのお姉さんとは話したくないや、とコロセは未熟な記憶に刻み込みつつ席をたつ。

「残念、嫌われちゃった」

 バケツ娘は片方にだけ笑窪を空けた。「でも次にお逢いするときはきっと、あなたのほうから私へ話しかけてくるはずよ」

 そんなことはない、ありえない――とつよくコロセは思ったが、わざわざ口にするのも憚れる台詞だと理解していたがために、沈黙をまもった。この二十分のあいだ(コロセにとっては地獄の二十分間)においてもコロセはずっと緘黙していた。

 僕は椅子だ、テーブルの椅子に過ぎない、と自分へ言い聞かせて、バケツ娘の口が紡ぎ出す「退屈」に耐えていた。

 一方でコロセは「自動相槌打ち機」とも化していた。それでなくともコロセには喋る間もなかったし、必要もなかった。バケツ娘はずっと寸劇を続けていたからだ。それに対してコロセは完全に観客としての位置に納まっていた。そう納まろうと努力した。

「これくらいの退屈という名の苦痛は、ヒーローになるために熟すべき修行の一環だ」とコロセは自身を納得させ、マスターのもとへ逃げ出したい自分と一生懸命戦っていた。そんなコロセの孤独な葛藤を知ってか知らずかバケツ娘は、独り楽しそうにコロセへ向けて慇懃(無礼)な言葉を吐き続けていた。

 バケツ娘は間違いなくコロセのみじかい十余年の人生のうちで、文句なしの――むしろ文句だらけの――関わりたくはない人物「ベスト・オブ・ベスト」を捧げられる逸材であった。

 だからコロセはバケツ娘から投げ掛けられたちゃめっけたっぷりの、「こんど逢ったときにも『バケツ娘』と呼んでね」という意味深長なのか、ただ単に意味不明なのか、その判断に困る台詞に対して、「一度も呼んでねえよ」とは突っ込まずに、敢えて、親指をびしりと直角に突き立てながらの、満面の笑みで応えた。爽やかなヒーローを意識した「グッジョブ!」である。もはや、やけっぱちのコロセであった。

 くふふ、とバケツ娘は肩を揺らして笑った。

 マスターのあとにつづいてコロセは喫茶店の奥へと向かった。

 バケツ娘は席にのこり、「またその日まで」とコロセへ向けて小さく手を振った。

 コロセも不承不承、手を振り返した。

 

   ***

 喫茶店の奥には、階段が地下へと向けて伸びていた。螺旋階段である。周囲は壁に囲まれている。円柱が垂直にしたへと伸びていて、その中心に螺旋階段が芯のように、或いはドリルのように通っている。

 どれだけ下ったか分からない。判断する指標がまったく見当たらないばかりか、ぐるぐると渦を巻いた階段であるために、後ろを振り返ってみても、ここから入り口までの距離を確認することもできなかった。

 足音が反響していないことに気が付いたのは、「この階段、どこまでつづくのだ?」といった疑問が生じてからだった。

 意識が階段全体へと向かう。

 降りても降りても延々とつづくおなじ階段におなじ壁。一定のリズムで上下するマスターのうしろ姿。まるで出口のない迷路にまよい込んだような不安をコロセは覚える。

 しかしそんな不安も、しばらくマスターのうしろに続いて階段を降りていくと途端に消えた。

 階段が途切れたからである。ようやく底に着いたらしい。

 マスターは壁にぶち当たったように立ち止まっている。

 コロセは屈む。マスターの背で隠れて見えない向こう側を見た。

 実際にマスターは壁にぶち当たっていた。

 階段は途切れている。マスターは地に足をつけていた。けれどその向こうは行き止まり。そこに扉はない。

 扉の代わりに、壁面が長方形に若干窪んでいる。あたかも扉がそこにあるような形ではあるのだが、それは窪んでいるだけであり、やはり壁に過ぎず、扉ではなかった。スイッチらしい器具も壁面には見当たらない。光源もまた見当たらないのに足元はなぜか明るい。

 どれだけ降りてきたのかは判らない。

 ぐるりと周りを囲んでいる壁の側面にぴったりと階段が収まっている。やはり何度見上げてみても、頭上には階段の裏側が見えるだけであった。

 マスターが振り返る。こちらを見遣った。コロセは階段を下り切っていないので、マスターとほぼ同じ視点の高さにいた。それなりに斜度の急な階段であり、幅が狭い。帰りが億劫だな、とコロセは暢気に考えた。

「ここを抜けて頂ければ、その先はお車で送迎致します。学び舎まで直通でございます。でございますから、残念ながらもわたくしはここまでのご案内役となります。いったんのお別れをコロセ様とせねばなりません」その前に、とマスターは笑みを絶やすことなく申し訳なさそうに言った。「一つ確認させて頂きたいのですがよろしいでございましょうか」

「うん。なんでも聞いて」

「はい。ありがとうございます。先ほど、リザ様と――いえ、喫茶店内でコロセ様がお話しされていた、バケツをお被りになられていた女性とは、どのような会話をなされておいででございましたでしょうか?」

 バケツ娘の名は「リザ」というらしい。が、そんなことコロセにとっては興味のないことだった。きっとこの空間から脱出したときにはすでに、コロセの脳裡には浮かんでいないだろう瑣末な情報であるし、むしろこのまま即座に海馬の奥底へと沈めてしまいたいくらいであった。

 唇のしたに不満の溝をつくるとコロセは、「喋ってないよ、僕は一言も」とむつけた口調で言った。

「なにか彼女にされませんでしたか」

「なにも。あ、ほっぺたつねられた」

「それだけでございますか」

「えっとほかにはね。う~ん」

 マスターは何かしらの答えを期待している。なるだけその期待に応えようとコロセは眉間にしわを寄せ考えた。

「あ、そうそう」と声をあげる。右手をマスターへ向け、「僕のみぎうでってね」とマスターへ自身の右腕のことを説明した。

 その上で、バケツ娘の卓見を伝えた。コロセが呪符を握っていたことを見破った、その慧眼ぶりを。

「得心いたしました」満足気にマスターは頷いた。「ありがとうございます。胸中に閊えておりました靄が、きれいに晴れました。ところで、でございますが――その呪符は今どこに? 彼女に渡したのでございますか?」

 首をよこに振ってコロセは、「とられた」とだけ呟いた。

「なるほど了解致しました。コロセ様、そのほうがよろしかったのでございますよ。彼女への憤懣や不満、コロセ様の不愉快な心中のほどは、わたくしも重々承知いたしておりますし、同意致すこともやぶさかではございません――が、やはり、あの呪符はこの先、コロセ様には不要のものでございます。現に今、わたくしにはコロセ様のその右手の存在が、ありありと感じられるのでございます。それもこれも、コロセ様が呪符をお持ちになられていないお陰なのです」

「みえるの?」

 言ってコロセは右腕を見遣った。しかしやはり視えない。

「いえいえ。瞳に映ってはおりません」マスターはコロセに近づき、コロセの頭を撫でた――とコロセには思えたが、実際にはコロセの髪についていた埃を払っただけであった。だが、それだけでコロセの憤懣や不満は消え去った。気持ちが落ち着く。

 マスターは姿勢を戻して言葉を続ける。

「この先、これからコロセ様の向かわれる学び舎――アークティクス・サイドでございますが――そこで『パーソナリティ』や『波紋』などについて学ばれて頂くのでございますが、しかしわたくしの口から先にご説明させて頂きたいのです。老婆心、と解釈なさってくださればうれしく思います」

「ろうば? おばあさんってこと? おとこなのに?」コロセは呟くが、マスターの耳には届かなかったようで、彼は直立を維持したままでさらに背筋を伸ばして襟を正した。

「さて、でございますが――パーソナリティを保有するものは、一様にして生物が乱している『メノフェノン』の波を感知できるのでございます。それを我々は『波紋』と呼んでおります。『波紋』は、パーソナリティ保持者であればあるほど、より顕著に波立ってしまうものなのです――詰まるところ我々のようなパーソナリティ保持者は、『波紋』をより強く発してしまい、また同時に、より敏感に他者の『波紋』を感知することができるのでございます。各々のパーソナリティが異なるように、『波紋』もまた個人によって異なってございます。パーソナリティを有している者のみが強く発している気配であり、また知覚できる情報なのです。言うなれば、『波紋』は指紋のようなものなのです。けれど、指紋は目を凝らして分析しなくては、その指紋が誰のものなのか、どの指のものなのか、といったことには気づけないものですし、また手相のように分析することも難しい――それと同じくしてでございますが――『波紋』も、よくよく気を張らなくては、ただなんとなく感じるだけ、といったように漠然とした気配のみが感じられるだけなのです。でございますから、より深く繊密に『波紋』を感知するには、我々は自身のパーソナリティをより開拓、向上させなくてはなりません。ご自分のパーソナリティをより遣いこなせる者が、より『波紋』を深く詳細に読むことが可能なのでございます。要するに、パーソナリティの感度を高めて駆使することで、『波紋』を通じて相手のことを詳細に知ることができるのです。極端に言い表しますれば、パーソナリティの強い者ほど、『波紋』からその対象の情報を読み取ることが可能である、と言っても、ええそうごでございますね、的外れではございません。また、パーソナリティの強い者は、ご自身の『波紋』を敢えて乱し、隠蔽することも可能です。そのことを我々は、『波紋を糊塗する』と呼んでおります」

 一呼吸空けてからマスターは、もちろん、と断わりを入れた。

「もちろん、単純に各々のパーソナリティの強さ――すなわち『特質』の、威力、応用力、継続時間、適用範囲値などが高いからと言って、『波紋』を読むことに長けているというわけではございません。何事にも向き不向き、分相応というものがございますゆえ。ただ、でございますが、やはりパーソナリティをより遣いこなしている者ほど、『波紋』を読む術が高い傾向がある、というのもまた事実なのでございます」

 唇のしたと眉間、その両方にコロセはシワを刻む。それこそ深刻な表情でマスターの言葉を咀嚼しようと努めた。

 マスターの話し方はとても発音がよく、抑揚もあるので、言葉自体を聞きとるのは容易ではあったが、いかんせん内容が晦渋すぎる。大人の話などコロセにとっては呪文にしか聞こえない。

 ところで、とマスターはうしろに組んでいた腕を前で組み直す。ああ、マスターってば執事みたいだ、とコロセは思った。

「ところで、でございますが――波紋を読む場合、通常ですと我々は波紋を感知しているあいだは常時パーソナリティの発動を余儀なくされることになります。それはとても疲れることでございますし、そのあいだは逆に、ご自身の波紋もよりはっきりと周囲に知らしめることとなってしまうのでございます。ですが、と申しますか、であるからして、と申しあげましょうか――今、わたくしはコロセ様の波紋を読むことが可能でございますので――失礼ながら、コロセ様の波紋を読ませていただいた限り、コロセ様のパーソナリティはとても珍しい『特質』だとお見受け致します。常時開放型、と申しあげれば端的かもしれません。つまり、コロセ様の場合、波紋を常時隠蔽しつづけても――言い換えますれば、波紋を『糊塗』しつづけても、でございますが――満身創痍になる心配がない、というとても優位なパーソナリティなのでございます。これは、我々の組織内にもほとんど知られていない、稀有なパーソナリティでございます。ただ、それは逆説的に、常に波紋が垂れ流しになっている、ということでもあるのです」

 つまり、と強調してマスターは続けた。

「つまり、コロセ様のその右腕は――コロセ様がアークティクス・ラバーとしてご活躍なさられるに当たって、とても優位に働く『特質』であると共に、また不利な状況へと導いてしまう、厄介な『特質』でもあるのです」

 しかしながらコロセ様、とマスターは口調を朗らかにした。反してコロセを見据えているその表情は厳粛な面持ちである。

「しかしながらコロセ様――どのような状況になろうとも、ご自身の波紋を隠してはなりません。『糊塗』してはなりません。いえ、通常ならば波紋は、味方であっても隠し通すものなのです。しかし、コロセ様の場合、それでは危険なのでございます。我々が危険である、という意味以上に、コロセ様が危険である、という意味でございます。それをわたくしはコロセ様の波紋をこうして間近で講読させていただき確信いたしました」

「どういうこと?」コロセはやっとこさ相槌を打った。

 マスターが紡ぎだす言葉たちのことごとくに対して、どういうこと、と問い質したいところではあったが、それはそれで気が重かった。こんな話を延々とされては、バケツ娘との会話の二の舞である。

 はい、とマスターは答えた。

「特異なパーソナリティを持つ者は、往々にして『暴走』することがございます。意思に反しない暴走も含めた、危険な『暴走』でございます。仮にそうなった場合には、一刻一秒を争う迅速な対応が必要なのでございます。組織に属する者であろうと、それ以外の者であろうとに拘わらず、でございますよ。学び舎に着けば解ることと存じますが――現在、『R2L』機関において強大な戦闘武力を有しておりますパーソナリティ保持者、すなわちアークティクス・ラバーが十六名おります。コロセ様の言葉で申しあげれば、ヒーローが十六人いるのです。そのなかでも抜きん出て破壊的なパーソナリティを持つ方が、弥寺様という方なのでございますが、以前、その弥寺様が暴走されてしまったことがございまして――その際に、その当時のアークティクス・ラバーは総勢で一一六名おりました。ですが、弥寺様を制圧するためだけに、その一一六名の彼らのうち、一一四名が、弥寺様との戦闘においてお亡くなりになられました。そのときに彼らに出されていた指示が、弥次様の『処分』であったにも拘わらず、です」

「ショブン? ゴミを捨てるとかのショブン?」

「はい。破壊し、ゴミ屑と化して、キレイさっぱりこの世から消してしまう、という意味の処分でございます」

 マスターの声はこのときに限って、冷淡に聞こえた。

「どんな場合においても、『暴走者』は厳格に罰せられます。パーソナリティの武力が高い者ほど、暴走した場合の処遇が厳しいのです。弥寺様は戦闘能力に特化したパーソナリティを有しておりましたがために、その弥寺様が暴走されました際、それは処刑とほぼ同義でございました。とどのつまりが、『処分』でございます。いえ、この世から排除するための殲滅の末の消滅、それでございます。そして、ここからが重要でございますよ」コロセ様、とマスターはふたたび強調し、「僭越ながらもわたくしめは、波紋を読むことにほかの方々よりも数段長けております。そのわたくしめがコロセ様の波紋を講読致しました限り、きっとコロセ様が暴走なされた場合も、即刻『処分』の指示が下されると思われるのです。弥寺様の場合は、一一四名の被害が出ましたのちに、弥寺様が自制心を取り戻されたことで、弥寺様への『処分』勧告は取り消されました。暴走の治まった弥寺様へ攻撃したことでふたたび彼が暴走することを懸念しての撤回でもありましたが、それ以上に、弥寺様のあのパーソナリティを失うには惜しい、という決議だったのでございましょう。そして仮に、コロセ様が暴走なされた場合、その際にコロセ様の処分実行を任されるのは」

 その弥寺様なのでございます――とマスターは表情を固くした。

「万に一つもコロセ様が生き残る術はございません。いいえ、そもそも処分を言い渡された者が――暴走した者が――生き残り、あまつさえ自由に生きていること自体が異例なのでございます。弥寺様以外、そのような事例はこれまで一度もございませんでした。もちろん、現在に至っても、そのような特別な処置を施されているのは弥寺様お一人だけでございます。いいえ、そうではございませんね――特別な処置が施されていない者が弥寺様お一人だけなのでございます」

 わたくしの申しあげたいことがお解り頂けますでしょうか――とマスターに問われ、コロセはちからづよく頷いた。もちろん解っているはずもない。

「コロセ様が仮に暴走されてしまった場合」とマスターは要約するように言った。「わたくしはコロセ様をお守りしたいと真に願っております。ですから、コロセ様が暴走なされてしまったとき――弥寺様に処分実行の指示が行き着くまえに――迅速にわたくしがコロセ様の暴走を抑制しようと考えております。そのためにはコロセ様の波紋は常に感知可能な状態にして頂かないと、暴走したときのみならず、コロセ様のいち大事においてわたくしめは駆けつけることができないのでございます。ゆえに、これだけはお心に刻み込みくださいませ。この先、どのような機会がございましても、あの呪符を身に付けてはなりません」

「だから僕、今はもってないってば」

 耳たぶをいじりながらコロセは不平を鳴らす。

 また、とマスターは語気を強めた。「波紋を糊塗してしまうような状態になってもいけません」よろしいですかコロセ様――とみたび強調してマスターは言い聞かせた。「ヒーローはなにものかと闘うためにいるのではないのです。何かを守るため、そのためだけに存在しているのです。そのことを、どうかお忘れなきようにわたくしめは真に願っております」

 

 言い終わるや否や、マスターは、無造作に手を壁へ押しつけるようにした。

 途端、地面がよこに揺れる。コロセはよろけた。

 それから数秒、僅かな加速度が感じられた。

 扉の形に窪んでいた壁を見遣ると、そこには徐々に隙間が開いていく。

 振動と同調しているみたいによこへとスライドし、隙間が広がっていく。

 ああ、この空間そのものが回転しているのだ――とコロセは直感した。

 続けて、なるほど、と感心する。

 たとえ敵(あれ? 敵っているのかな?)がここまで辿りついたとしても、壁が通せん坊をしている。目のまえには扉の形に窪んでいる壁がある。通常ならば、そこが何かしらの方法で開閉すると考えて、敵(って誰だ? まあいいや。どこかにいるのだろうその敵)はそこを破壊しようと試みるのだろう。でも実際に、そこはただの分厚い壁であり、いくら破壊したところで延々と地層が続いているだけなのだ。

 真実に通路が隠されているのは、真逆の壁。

 壁が扉の形に窪んでいたのは、実際に扉として壁に穴が開いていたからだ。しかしその穴の向こう側には通路はない。分厚い壁が存在しているだけなのだ。

 螺旋階段を挟んだ向こう側――コロセの背後の壁の裏側に隠されている通路に合わせて――この空間ごと壁が回る。

 螺旋階段を取り囲んでいる壁――この縦に深く空いた空間――筒状の空間――この階段自体が回転しているのだ。

 あれに似ているな、とコロセは連想した。

 喫茶店内に置かれていたカラメルの容器だ。蓋を回転させると、フタに空いた溝と容器自体の溝が噛み合って、注ぎ口と化す。それと同じ原理なのだ。コロセは自身の考えに満足した。

 扉は完全に開かれた。

 マスターは通路のことを少しばかり説明した。

 ここから先が、「チューブ」と呼ばれている通路であること。

 その向こう側に、送迎車と出迎えの者が待っていること。

 あとは、ここから学び舎までは直行であり、その先からは、新しい世界において新しい生活に適合し、日々精進をすると共に毎日を楽しみ、そして日々生きられることへの感謝を抱いて、より卓越した「アークティクス・ラバー」となられることを祈ります――というマスターの激励だか抱負だか判断付きかねる感想を聞いた。

 

「わたくしはここまででございます。この先はまっ直ぐ一本道でございます。迷われることはございません。どうか足元にお気を付けて、迷うことなくお進みくださいませ」

 迷いは道を惑わせます――とマスターは厳粛な表情を浮かべた。

「いっしょじゃないの?」

 マスターは一緒に来てくれないの、とコロセは甘えた口調で問う。

「大変申し訳ございませんが、規則でございまして。わたくしはここから先――いえ、この店から出ることを許されてはおりません」

「なんで?」

「規則なのでございます」淡々と言ってマスターは頭を下げる。

「つまならなくないの?」コロセはマスターが不便に思った。それ以上に、マスターとの別れが心細かった。だからコロセは会話を少しでも長引かせようとしている。

「ええ。そうでございますね。つまらない、というのはとても曖昧なお気持ちでございます。いえ、人の気持ちというのはあまねくして曖昧なものでございます。衣食住が最低限確保されて、齎されていれば、大抵の人間は満足できるはずなのでございます。しかし、そんな質素で素朴な生活のみをつづけておりますと、問題が発生致しましたときに、対処しきれないのです。問題というのは、飢饉や地震や火事などの災害、ほかにも病気や怪我や出産などです。ですから人は、それらの問題を解決すべく技術を高め、術を身に付け、知恵をつけて、もっともっと、と便利を追求し、日頃から問題への備えを培っているのでございましょう。そうして便利を追求していった結果、人は、より潤沢な生活をも求めるようになったのです」表情を曇らせて話していたマスターは微笑む。「けれどわたくしに限って申しあげれば、現在、これ以上の贅沢を求めておりません。必要がないのでございます。現状で満足でき得る環境に、わたくしは置かれているのです。その上でさらに何かを求めるなど、それは傲慢であり、怠慢であり、唾棄すべき愚行なのでございます。コロセ様も、この先なにかと不自由を感じることが多々あるかと存じあげますが、しかしその不自由が、実は多くの便宜をご自身に齎している結果に感じられる不自由なのだ――ということを、どうかご自覚なさってください」

「うん」頷いてからコロセは正直に答える。「僕、よくわかんない」

「そうでございますか」マスターは苦笑した。

「もう僕ダメ。むつかしいはなし、今日いっぱい聞きすぎて、あたま、いたくなってきた」うなじを掻きながら、でもさ、と口にした。「でもさ、そとに出たくないの? マスター。逢いたいひと、いないの?」

「外に出たくない、と申しあげればそれは嘘になりましょう。しかしわたくしが外に出れば、それだけで多くの者が不幸になるのでございます。逢いたい者はこのわたくしめにもおります。しかし、その者がわたくしにとって大切な者である以上――大切だからこそわたくしはこの店から――この制御された〈小さき世界〉から――出てはならないのでございます」

 お解りにはなられないと思いますが、とマスターは疲れたように微笑んだ。

「マスターがそとにでると不幸になるの? みんなが?」

「その通りでございます」

「なら、マスターがそとに出てもみんなが不幸にならないようにすればカイケツ? マスターはそとに出られて、逢いたいひとにも逢える?」

 呆気にとられた表情をしてマスターは、「ええ、仮にそのようなことが可能になられれば、そうでございますね。わたくしはここから出ていくこともやぶさかではございません」

「なら僕がヒーローになったらさ、みんなのこと守るから、そしたらみんなは不幸にならないでしょ? だから僕がヒーローになったらさ、マスターはここから出られるね」

「そうで……ございますね」

 深く平身低頭するとマスターは、コロセ様、と声を床に溢した。

「ほんとうに、申し訳ございません」

 謝罪の意味が解らなかった。けれどこのひとは頭を下げるのが好きな人なのだ、とコロセはすでに学んでいたので、特に意に介することもなく、「逢いたいひとって、かぞく?」と問いを重ねた。

「左様でございます」身体を起こしながらマスターは答える。「孫……が一人おります。これからコロセ様の向かわれる学び舎に――ああいえ、わたくしの私情などはどうでもよいのでございます」

「なまえは?」コロセは尋ねた。「お孫さんのなまえ、なんていうの?」

 ここから出られないということは、マスターは孫とも会えないのだろう。

 たしか、とコロセは思い出す。たしかあの医師の話では、学び舎に入ってからは数年の期間出られない、という話だった。だからこそコロセはここを訪れる決心を抱くまでに時間がかかったのだ。数年も家族と離ればなれに暮らすのだ。それは絶対に寂しい。マスターもきっと寂しいのだろう。マスターが寂しいのだ、孫だって寂しいに決まっている。コロセはそう思った。

 孫の名前を聞いておきたかった。名前を頼りにして探し出して、お孫さんにマスターの話を聞かせてあげようと考えた。キミのお祖父さんって、すごいんだよ――と。

 せめてものマスターへのお礼。コロセながらの親切心であった。

「コロセ様」マスターは微笑みながらも神妙な口調で、「差しでがましくも、もう一つ忠告を申しあげます」と続けた。「学び舎におきましては、『サイド・ネイム』という偽りのお名前が各々に与えられるのでございます。学び舎では誰しもが、そのサイド・ネイムをご自分のお名前として生活されているのです。もちろんコロセ様にもそのサイド・ネイムが与えられます。これからコロセ様は、学び舎でそのサイド・ネイムをご自身のお名前として生活して頂くことになりましょう。それが学び舎での規則の一つでございます。でありますから、たとえわたくしの孫の名前をここで申しあげても、」

 無意味なのでございます――とマスターは淡泊に答えた。

「なんで? たとえば僕のなまえがコロセじゃなくなっても、『このなかに本名がコロセというひとはいますか?』って訊かれたら、僕は名乗りでるよ。ほら、だいじょうぶだよ」

 お孫さんのなまえ、おしえて、とコロセは食い下がった。

 それに対してマスターは、「いいえ」と穏やかに諭した。

「学び舎におきましては本名を名乗ることも、名乗りでることも、まずございません。それは、仲間内においても、他人に知られては困る重要な個人情報だからです。例えばの話でございますが、仮にコロセ様のお仲間のうちの誰かがでございますよ、コロセ様のことを快く思わなかった場合――コロセ様を困らせてやりたいとお思いになられた場合――その際にその方はコロセ様を直接攻撃することはせずとも、コロセ様のご家族を攻撃してしまうかもしれません。それは絶対に避けなくてはならないことです。もちろん、そうした仲間内での争いごとは固く禁じられておりますが、だからこそ、そうして相手のご家族や大切な者を傷つけることで、間接的に気にいらない者を攻撃することが、有効になってしまうのでございます」

 ですから、とマスターはコロセを持ち上げ、階段から下ろした。自然、マスターがしゃがむ格好となる。視線が真っ直ぐと交わる。

「ですから――コロセ様も、ご自身の本名やご家族のこと、これまでの生活のみならず、その右腕のことですら、むやみやたらと吹聴なされてはいけません」

「ナカマなのに?」

「仲間だからこそ――です。組織に組み込まれた者たちは、みな一様に家族であり、友であり、仲間である――とそう教えられておりますが、しかし、組織は組織です。組み込まれた者は組織を構成する一つの部品に過ぎません」

「最初とちがう。言っていること、マスターの言ってること、最初とちがうよ」と指摘する。

「はい、その通りでございます」潔くマスターは認めた。「人の言動や行動において、そこには必ず偽りがございます。本人が自覚していようといまいとに拘わらず、でございますよ。コロセ様、人を信用するということは、その人を疑わない、という意味ではないのです。信じた相手がどのような選択を進もうとも、その先にある結果に対して許容するということ、それが『信じる』という行為でございます。信じた相手が嘘を付くこともございます。信じた相手が裏切ることもございます。しかし、相手を信じるというのは、そういった結末をも許容して、どんな結果が訪れようとも相手の幸せを祈りつづけるということ、その覚悟を持ちつづけると己に誓うことなのです。信じるという行為は、その過程がどうであれ、結局は己の覚悟をいつまでも貫き通す、という意味なのでございます」

「そうなの?」

「いいえ。違うかもしれません」立ち上がってマスターはコロセを優しく見下ろした。「それはわたくしにも判り兼ねます事柄、与り知らぬ言霊なのです。わたくしが解ることというのは、全てにおいて、わたくしが見聞きしたわたくしの世界――わたくしの〈レクス〉――についてのみです。この世界は、解らないことばかりなのでございます」

 ――わたくしが知っていることと云えば、知らないと云うことだけ。

「それだけなのでございます」とマスターは謳った。

「でもマスターは僕にこうして、沢山いろいろおしえてくれるよ。マスターは物知りだ」元気だしなよ、とお門違いに励ました。

 返答に窮したようにマスターは何度か唇を噛み締めるようにした。

「お時間ですコロセ様」

「おわかれ?」

「いいえ。またお逢いできますよ。いずれ、また」

 コロセ様ならきっと――とマスターは柔和に囁いた。

「うん。ヒーローになったら僕、ぜったいに逢いにくる。コーヒーもきっと好きになってると思うから。そしたらさ、いっしょにお茶しよ」

 バケツのお姉さんも一緒でもいいからさ、とコロセは軽口を叩いた。

「おや。コーヒーはお口に合いませんでしたか。気が回らなくて申し訳ございません」

 それは別にいいんだけどさ、とコロセは言い難そうに、「僕がヒーローになったらね」と俯き加減で呟く。

「はい」

「そのしゃべり方じゃないしゃべり方で僕と話してくれる?」首を傾けてマスターを見上げた。「もっと、たのしい話し方で」

「と申しますと」

「もっとなんて言うか――ともだち、みたいな?」

「お友だち言葉――でございますね」

「そう。だめ?」

「いいえ。勉強してまいります」

「やくそくね」

「はい。約束でございます」

「ゆびきりげんまん」マスターの左手をとってコロセは小指をからめた。「はい。これでマスターと僕はともだち。だから、マスターの孫と僕もともだち」

 友達の家族も友達なんだからね、と理屈になっていない台詞を吐いた。

「ならばコロセ様のご家族とわたくしもお友だち――ということでございますね」

「え? あ、うんそうだよ。ここに来たらよろしくね」

「はい。きっとサービス致します」

 振動は止んでいた。階段は回転を終え、扉の形に窪んでいた溝は、今や、完全な扉として空け放たれている。口をひらいたその扉の向こうに、塗装された通路が灰色に続いている。曲がりくねっているのか、ここからは出口の光はまだ見えない。

「心残り、迷いはございませんでしょうか」マスターが確認してくる。

「ないない。よゆうだよ」マスターの手から小指を離してコロセはそのまま握手した。

 マスターの手はとても大きくて、そしてとても冷たかった。

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「マスターもね」

「わたくしはどこにもまいりません」おどけた口調でマスターは言った。

 彼なりの冗句だったようだ。初めて聞いた陽気な発言だ。

 コロセは目尻を下げて応えた。

 手を放して扉の前に立つ。

「手がつめたいひとはね」

 言いながら扉を跨いだ。

「こころが、あたたかいんだって」

 境界線を越える。

 笑顔で振り返ると、そこにマスターの温もりはなく、ただただ冷たい壁が立ち塞がっていた。



 ***マスター***

 少年が扉の奥に消えると同時に、螺旋階段を取り巻く円柱の空間は、闇に閉ざされた。

 次の瞬間には、マスターは独り、個室に佇んでいた。

 久しぶりの感覚だった。懐かしい階層でもあった。

 けれどマスターは懐古の念よりも、たった今、既存の世界を外れた少年の未来を思った。

 そちらの世界は――その階層は――少年の知っている世界ではない。

 見たことのあるような風景ではあるだろう。特別珍しい世界でもないだろう。

 しかし、折角身に付けはじめた彼の常識は大きく揺さぶられ、容易に崩されてしまうはずだ。

 周囲の風習はいとも容易く塗り替えられてしまう。けれど、己の習慣はそうそう容易く変えることはできない。

 尊重されるべきと教えられた思想も思考も手段も秩序も、少年の想っているそれとは大きく異なる。急激な世界の変移に、彼は適応できるだろうか。

 せめて、学び舎から自由に離脱できるくらいにまで、成長してくれさえすれば。

 アークティクス・ラバーになることさえ叶えば。

 いや、成らなくともよい。

 成らぬほうが良いのかもしれぬ。

 暴走することさえなければ――。

 暴走。

 秩序。

 犠牲。

 崩壊。

 修繕。

 運命。

 世界。

 抑止。

 抵抗。

 忘れていた記憶に、マスターは一瞬触れてしまった。

 忘れようと努力していた記憶だのに。

 その記憶は瞬く間に脳裡に浮上し、意識の表層で展開しはじめる。

 ――回顧など無用だ。

 マスターはすかさず目を瞑り、妄念を振り払う。

 思考を意識的に切り替える。

 てのひらには少年の温もりが残っている。

 つよく握りしめ、それから開く。

 冷えていくのが判る。

 霧散していくその温もりが視認できるかもと思い、開かれたてのひらを見遣った。

 そこには老いた己の手がある。

 ――温もりなど視えぬ。

 それよりも、

「皺が増えたな」とマスターは重ねて余計なことを呟いた、そうすることで、先ほど浮上しかけた忌々しい記憶を完全に沈めようとした。


 個室を出るとそこはカウンター裏の通路で、カウンターから顔を出し、店内を覗いた。

「随分とお喋りだな。意外な発見だ」

 バケツ娘がカウンターの席に座っていた。

「もう客はとっくにお帰りだぞ」

 彼女の口調がさきほどまでと違っている。見れば、口調どころか体格も大きくなっている。先ほどのバケツ娘は小学校高学年から中学生くらいの体躯であった。けれどカウンターに腰掛けている彼女は大学生くらいの容貌である。

 服装はおなじ。バケツも被っている。顔も似ている。だが体躯が違う。

 体格が異なっているのだから、その女性と先ほど来店していたバケツ娘の二人は別人である、と判断するのが通常の思考というものだ。より想像を巡らすならば、親族――とくに姉か従姉である――と推測するのも決して飛躍した思考ではないだろう。常識的範囲内の推測である。

 しかしマスターは、彼女の口調と体躯が違うことで逆に納得した。

 彼女は彼女――《リザ・セパレン=シュガー》であると。

 彼女は先ほどのバケツ娘にほかならない。

 だが今は《彼女》ではない。ただそれだけのこと。

 店内を見渡すと、たしかに客が一人もいなかった。閑古鳥でも鳴けば風流ではなかろうか、と思いを巡らしつつ、「インコか何か、小鳥を飼ってみよう」とマスターは真面目に思案した。

 マスターの思案顔を怪訝な表情と勘違いしたのかバケツ娘は、「ああ。客どもの勘定なら主様が代行なさってくれたようだぞ。マスター代理としてな」と退屈そうにジョッキの中身をストローでかき混ぜている。

 ジョッキには緑色の液体が入っている。メロンソーダだろうと見当をつけた。その飲み物を用意した覚えはない。ほかにも緑色の飲料水はあるのだが、彼女一人で淹れられる飲み物となれば、メロンソーダが関の山である。

「大変申し訳ありませんでした。お心遣いのほど、ありがとうございます」助かりました、と慇懃に感謝の念を示した。

「バイトでも雇ったらどうなんだ」

「ええ。左様でございますね。それは良きお考えでございましょう。検討しておきます」

「バイト代を戴きたいものだがな」

 はあ、と訝しげな声を上げるマスターに対して彼女は、「私へのバイト代だ」とカウンターに頬杖を付いた。

 間近で見た彼女の指には、指輪と絆創膏が仲良く並んでいる。

「今の今まで私は店番をしていたのだ。消費した時間と貢献に対する対価というものがあっても罰は当たるまい」

「たしかにそれは仰せられる通りでございましょうが、けれどわたくしの瞳が捉える視覚情報の限り、あの扉に掲げられているのは『CLOSE』の看板ではございませんか? だとすれば、店を訪ねてくるお客様はおりません。店番の役目に対してお礼を差し上げるとするならば、わたくしめはあなた様ではなく、あの看板に差し上げるのが道理かと」

「屁理屈だ」

「はい。仰しゃられる通り、屁理屈でございます。しかしこの場合、冗句と呼んで頂きたいものです」

「柄にもなく陽気だな。ほお。随分とご執心のようではないか」

 ふうん、この子がなぁ――とバケツ娘はマスターに視軸を合わせながら目を細めた。

 マスターはにっこりとほほ笑んで、「一つよろしいでございましょうか」と断った。バケツ娘の承諾を得る前に口にする。「差しでがましいご忠告かと存じまして、これまではあまり申しあげませんでしたが――感心し兼ねますよ、他人の心をお読みになられるのは」

「何を言うかと思えばそんなこと。あんたはまさか、心なんてそんなものが存在していると? 本気で信じているのか? 霊魂を信じていないのに?」滑稽だぞ、とバケツ娘は頬杖をついたままで語気を荒らげた。

「いえ、言い方が不適切でございました。他人の思考をお読みなられるのは、の間違いでございます」

「思考なんてそんな複雑な代物、いくら読めたところで理解などできるものか。口から発せられる整理された言葉ですら理解が及ばないというのに」

「では、記憶をお読みになられるのは、とそう申し換えましょうか?」

「そうではない。いや、よいのだそんなこと。それこそ言葉で伝えられるものではないのだからな」

「左様でございますか」

「さようだよ、レンド」

「その名はおやめ下さい」マスターは、ぴしゃりと抗議した。「ここでのわたくしは、『マスター』でございます。ですからあなた様もここではわたくしのことを是非に『マスター』とお呼び下さい。外で皆々様がわたくしのことをどのように呼称されるか、といったことについてわたくしがとやかく言えた義理ではございませんが、しかしここではその名を、」

「わかった、わかった」と言葉を遮りバケツ娘は、「わかったって。なにもそこまで青筋立てることもあるまい」怖いぞマスター、と嘯いた。

「そのようにお呼び頂けるよう、よろしくお願い致します」頭を下げずに念を押した。それから、ところで、と話題を変える。「ところで、いつ『同期』なされたのでございましょう。《リザ様》は今、どちらへ?」

「ん? ああ、同期ね。同期は十分ほど前だ。片づけを手伝ったりしたからな。一人よりも三人のほうが早いであろう?」

「お心遣い、痛み入ります」腰を折ってマスターは頭を下げた。

「いけしゃあしゃあと、まあ」彼女は清々しく嘲笑した。「心にもないことを」

「心がないのならば、その通りなのでございましょう。あなた様の仰られたように」

「ぬかすではないか」ふん、と鼻で笑うと彼女は、あのな、と声を張って付けたした。「あのな、今日のこの時間帯、いつもなら《主様》はこの店から出て、像の前で――駅前にあるあの【遡る像】の前でだな――『私』と『暁(あかつき)』と『楓(かえで)』の三人と同期していたはずなのだ。だがな、中々主様が現れなんだ。妙に思って来てみればこの通り。店は閉まり、あんたがおらん。あんたの波紋までもが途切れていた。何事か、といざ覗いてみればどうだ、《主様》がそこの豆を床へとぶちまけて四苦八苦なさってた。おっと、そんなこと言うとあとで叱られそうだが――まあなんだ。私がなにを申したかったかと言えばだ。それもこれも、あんたが店を長時間空けたのが要因であろう? 礼は主様にするとして、私に詫びの一つもあって然るべきではなかろうか」

「とすると今のあなた様は『雫(しずく)』様でございますね」どうやら〝彼女たち〟は同期したままのようである。

「さようだよ、マスター」揶揄するように彼女は答えた。「そして、ただいま《主様》はお休みであられる」

「『楓』様や『暁』様も休眠でございますか?」

「ああ。『暁』は主さまと共に休んでおる。しかしな、『楓』はどっか行きおった。あの子もいったん同期はしたのだが、《主様》がすぐお休みになられたのをいいことに、許可なく遊びに出ていった。自由奔放、気儘なものだ」

 まだ幼いからなあの子は、と彼女は窓の外に視線を向けた。

「たしか四年前に、五年の齢を分離させたのが『楓』様でしたかな。ならば今は九つでございますか。遊び盛りでございましょう」

「そうは言うがなマスター。今日同期してみて驚いた。あいつ、一人で『虚空』を縫っておった。しかも『ニボシ』どもを屠る傍らに、だぞ。どこでなに仕出かしているのだか分かったものではない。《主様》ももっと同期する周期を狭めても善い気がするのだけれど。干渉のしすぎは個性を潰す、とそうおっしゃられていてな」

 怒ったり心配したり愚痴を溢したりと忙しいお人だ――とマスターは隠すまでもなく表情に浮かべて苦笑した。「そうは申されますが――ニボシが生まれるようなメノフェノン混濁地であれば、アークティクス・ラバーのどなたか様が組織から派遣させられるはずでは?」

「だからな、あいつらが来る前に片づけてしまうのだよ」あの子はな、と彼女は嘆息を吐いた。「鼻がいいのか勘がいいのか分からんが、とんだじゃじゃ馬だ」

 それはそうと――とバケツ娘はマスターに向き直った。「それはそうとだなマスター。後日きちんと礼を申せよ。申すばかりか礼を尽くせよ」

「どなたにでございますか?」

「推して知るべしだぞ、馬鹿者め。言わずもがな《主様》に対してだ」

「と仰られますと?」

「解らないのか? 呆れた愚鈍さだな。よいか、《主様》はあんたがいないあいだ、たしかにここの店番をしておったのだ。客の勘定に応対し、客の食器を片づけ、追加のコーヒーを頼まれたら――いや、これはいいか……。ともかく、《主様》はあんたがその少年と談話しているあいだにだな、あんたの代わりにこの店を切り盛りしておられたのだ。そのことに対する礼をおぬしは見える形で渡すべきだ」こちらを指で突くようにバケツ娘は指を振った。

 まさか《彼女》がそんなことを、と訝しむ。

「そのまさかだ。慣れぬことをしたが故の休息なのだ。《主様》を労わらんか」

「そのようでございますね。ご養生なされておいでのようです」

 おい、とバケツ娘に凄まれる。「勝手に読むな。波紋を読むなんてのはだな、スカートの中身を捲って覗くぐらいに、はしたない所業だぞ」こころしな、と彼女は立ち上がった。「そろそろ〝私たち〟は失礼する」

 では、と目だけで挨拶してカウンターを離れた。

「またのお越しを」低頭しながらマスターは、「わたくしの内面を覗くようなあなた方に言われたくはない」と伝わること承知の上で心に思う。

「聴こえんよ」

 言って彼女は扉を勢いよく開け放した。店から出ていく。

 ――どの彼女もまったく以って騒がしいおひとだ。

 閉じていく扉の向こう側には、街並みが見えている。

 それを眺めながらマスターはふかく溜息を吐いた。

 からんりん。

 静けさを強調して扉は閉じる。

 店内を改めて見渡す。

 仕舞われずに立て掛けてある褐色に染まったモップ。

 客が座っていたと思しきテーブル。そのしたの絨毯には、濡れたような染みが。

 店内から視線を戻してカウンターの内側に目を落とす。

 床には、散乱した珈琲の豆とその粉。拭おうとした痕跡がある。

 キッチンには中途半端に洗い残された食器があり、割れているカップまである。むしろ割れたまま床に放置されている。

 そういえば彼女、絆創膏を張っていたな――と察し至った。

 割れたまま放置したのは賢明でございましたな、と《彼女》を褒めた。それこそ伝わらない思いではあったが。

 ふと、カウンターのうえで視線が止まった。なにか置いてある。

 言霊であった。

 あの少年が握っていたものだ。預かっておけということだろうと彼女の意図を汲み、仕舞っておくことにする。ここから出られない以上、遣い道もないのだが。もしかしたらいつか遣うやもしれぬ。そのときは遠慮なく勝手に遣わせてもらおう。そう思うと愉快になった。

「バイト代、ですか」

 普段からサービスはしているのだがな。別途に用意しておくのも一興か。明日きたときにでもご馳走しよう。

 本日――珍客四名の来店。

 少年と、三名の彼女たち。

 暁と楓。あの二人には逢わずじまいだった。

 今はもう、店にはだれもいない。

 マスターの〈世界〉を外れて、それぞれの日常へと赴いた。

 ――さてと。

 やるべきことがほかにない。

 マスターは、颯爽と店の片づけに取りかかる。

 


 ***コロセ***

 何キロ歩いただろう。何度途中で泣きべそをかいただろう。

 コロセは立ち尽くすこともできなかった。通路を抜ける以外に選択肢がなかったからである。

 入り口の扉はなぜか塞がり、あとは進むしかなかった。しかし、いくら進んでも同じ通路が右往左往と続くだけである。お腹がすいた。尿意だってそろそろ催しそうな気配がある。

 照明は見当たらないが、通路の壁自体が発光しているためか明るい。しかし壁の色は灰色だ。灰色でなければここまで心細い気持にはならなかっただろうに、とコロセは壁を蹴りつける。明るいといえども灰色の通路は、洞穴か廃墟を進んでいるような感覚を憶えさせる。

 青とか白とか、もっと心穏やかな彩色にすればいいのに。せめて黄色とかピンク色だとか、派手な色にしてくれればいいのに。

 コロセの苛立ちはとっくに限界を越えていて、今は成す術もなく通路をただひたすらに進んでいた。駄々を捏ねる相手がいなければ、泣くだけ無駄だ。疲れるだけである。大抵の感情表現は、相手がいなければ無駄な行為なのだとコロセはこの通路で学んだ。

 ああ、僕はここで永久に彷徨いつづけ歩くミイラになるのだ、と諦めの覚悟を抱いてからゆうに三十分を越えたころ――ようやく灰色の向こう側に光が視えた。

 光に向かって駆けだす。

 たすかった!

 歓喜するコロセであったが、思わず口を吐いた言葉は、「ッざけんな!」という誰に当てればよいかも分からないほどの、怒りとも嘆きとも付かない叫び――溜まりに溜まった鬱憤であった。

 出口の外に広がっていた光景は、山と道路と質素な駐車場で、どこか山並を通っている国道にありそうな廃れたパーキングエリアであった。

 そして。

 それらの風景を遮るように。

 パンツスーツ姿の女性が立っていた。

 黒髪でおかっぱだ。サングラスをしている。

 コケシが頑張って脱和風を試みたような、そんないびつな出で立ちである。

「遅えよクソ餓鬼、こんにちは」女は抑揚なく挨拶した。「お前がノロイ・コロセか? 違うならそのまま死ね、おまえがそうだってんなら己のノロマをあたいに詫びろ。遅刻は死刑だ、とかのツンデレも言っているだろうが」

 思いがけない罵声にコロセは咄嗟にうしろを振り返る。

 出合い頭に投げ掛けられた悪口雑言がまさか自分への言葉だとは思わなかった。

 見知らぬ洋風かぶれのコケシ風情に、蔑まれる謂われなどない。だいいち、必死に地獄の通路を抜けてきたヒーロー見習いの自分に投げかけられるような台詞ではない、とコロセは瞬時に判断したのである。

 きっと、僕のうしろに立っている、第三者へ投げかけられた罵詈讒謗だろう、と勘繰った。そのために、背後を振り返ったのだ。

 しかし振り向いてもそこには誰もいなかった。

 誰もいないどころか、そこはたった今まさに辟易としながらも生還した灰色の通路ですらない。

 あごを突き上げる。見上げてみた。

 古びた「公衆トイレ」の看板があり、その先には曇天が広がっている。

 視線を戻す。

 たしかにそこには何かしらの出入口があった。

 しかし、コロセの知るあの忌々しい通路ではない。

 視線の先にひろがる光景は、まさしく公衆トイレの入り口である(しかも汚い)。

 整理しよう。

 出口を求めて三千里(も歩いてはいないが)『通路』の出口をくぐると、なんとそこはどこかの山間にある、さびれた駐車場の一角であった。しかも誰も利用しないようなおどろおどろしい粗末な公衆トイレの前にコロセは立っている。

 どこから出てきたのかさっぱり分からない。否、たった今コロセはその公衆トイレの出入り口から出てきた。それは間違いない。というよりも間違いようがない。

 なぜなら、『通路』と出口の境界線を踏み越えてから一切、コロセは移動していないからである。にも拘らず出口をくぐったコロセが振り返ったそのさきに構えていたのは、見紛うことなき公衆トイレの出入り口であった。さらに視線の向こう側には、洗面所と壁にかかる鏡が覗いている。

 あるべき『通路』が見当たらない。マスターの言葉でいえば、『チューブ』とやらが消え失せた。

 はてな――どういうことだ?

 チューブ内で溜めたり吐いたり跳ねかえったりしていた憤懣をすっかり忘れてコロセは、この奇怪な現象に頭を捻った。

「おいクソ餓鬼。なに無視してくれてやがんだ。あまりのシカトっぷりに、お見事ですね、って褒めたくなっちまうだろ。どうしてくれんだよ、このオタンチン」

 背中に声が届く。突き刺さり兼ねないくらいに尖った声だ。震えた声でもあった。

 けれどコロセは声に応答することなく、また声のしたほうを振り向くこともせず、「オタンチンってなんだっけ?」とぼんやりと考えながら、未だ公衆トイレを怪訝に見渡していた。現状が把握できず、茫然自失としているのである。

「おい餓鬼。いい加減にこっち向け」

 頭をがしりと掴まれ、コロセは無理やり方向転換させられた。さきほどのスーツの女が目のまえで睨みを利かせている。目と鼻の先をくっ付けるがごとく間近である。直線に切り揃えられた前髪が揺れている。コロセはコケシを連想する。左耳には、小さくて丸い石のピアスが二つ輝いていた。

 スーツ姿のおかっぱ女。

 洋風かぶれのコケシ娘。

 そんな彼女にコロセは、うりうり、と顔を弄ばれた。

「あのな。あたいは指示通りにここへ一時間も前に出迎え万端してたんだ。気の効いた歓迎挨拶のひとつもかけてやろうと、ちびっとばかし気合入れてたんだ。なのにてめぇときたら一時間の遅刻だぞ」一時間、一時間だぞ、と彼女は強調した。「こんな山ん中のくそ寂しい場所――しかも糞くせぇトイレの前にだッ。WCの前にだぞ! WCって何の略だよ! ふざけんなよあんッ?」

 頬っぺたを捏ね繰り回されながらコロセは、「ふぉーたー、くほーふぇっと」と答えた。

「ちげーよバカ! わたしかなCーの略に決まってんだろ」

 まったく違いますよ、と訂正する暇もなかった。

 語気が上がってくるにつれ、頬っぺたを揉みしだく彼女のちからも強くなっていく。

「あたいはな、今か今かと恋人待つみてぇに愛すべき新人を待ち焦がれてたんだ! ちなみにあたいに恋人はいねぇし居たことすらないが、そこんところは気分だから責めてくれるな。そういう気分を妄想してたんだ」わるいかクソ餓鬼どうなんだッ、と自虐気味に呻いている。

 見遣ればたしかに顔色が青白い。地の肌も白いようだがそれだけではなさそうだ。一時間も前からこんな極寒の森閑とした場所で待ち惚けていたというのはどうやら本当らしい。

 だとすれば正直、罪悪感が湧き上がらないわけでもない――がしかし。

 でもなぁ――とコロセは踏ん張るがてら唇を窄めた。

 視線を彼女から外す。

 閑散とした駐車場らしきスペースには一台の車が止まっている。ほかに停車している車は見当たらない。

 彼女の言う通り、この場所は山中ということもあって街中よりも数段寒いし、寂しい場所ではあるけれども、寒いなら寒いなりに、寂しいなら寂しなりに、身の置き方というものがあるものだ――と幼心にそう思うのだ。

 なおもコロセの顔はぐりぐりと、もみくちゃと、撫でまわされている。

 撫でる勢いを増しながらコケシ娘は、あたいはな、と声色を悲哀に染めた。

「あたいはな、愛すべき新人が中々到着しないから、みじかいこの首を気持ち長くして待ってたんだ。中々こない、遅い、まさか出迎える場所を間違えたんじゃないか、それともチューブの途中で愛すべき新人が行き倒れてやしないか、と不安で不安で不安だったんだぞ」それがどうだ、と今度は一息に語気を荒らげて、「てめぇときたら悠々と間抜け面で御到着だ。そのうえ、あたいとの記念すべき初対面、拝顔直後の第一声が、『ふざけるな!』だぞ? ああ? ふざけてんのはてめぇだろうが! 一体どこをどうすりゃあの道で道草食えるってんだいお前さん。道草食いてぇくらいに腹減ってんだったらな、まずはこれでも食いやがれってんだ!」

 言い終わるや否やコケシ娘は、コロセの顔から両の手を離し、床に置いてあった紙袋を差しだした。

 逡巡してコロセが受け取らないと彼女は、いそいそと袋から中身を取り出した。無理やり口に詰め込まれる。抵抗する間もなくコロセはそれを口に含む。

 甘い。そしてウマイ。

 唾液がじわりと滲む。

 見遣ると彼女が持っているのはドーナツであった。しかも紙袋から推測するに手作りである。

 もぐもぐ、とこめかみをしきりに動かしながらコロセは思い出す。

 確かマスターから「送迎係に連絡をした」と報告されてから――バケツ娘との退屈な対話を挟んで――二十分後には、「送迎係が到着した」とマスターは伝えに来た。マスターから連絡を受けてから二十分でドーナツを揚げて用意し、そこからこの場所まで急いで駆け付けてきたのだろうかこのお姉さんは。

 本当にこの場所は閑散としている。今こうして彼女に揉みくちゃにさられていたあいだも、このパーキングエリアに面している車道には、車が一台も通らない。民家らしき建物も見当たらないし、こんな辺鄙な場所に住むもの好きがいるともコロセには到底思えない。むしろ、「風の申し子」とも表されたことのあるような、ないような、そんな中途半端にやんちゃなコロセですら住みたいと思わない。それくらいに山の中なのである。

 果たして自動車を走らせたとしても、麓からここまで二十分で来られるだろうか。甚だ疑問であった。だからこそ、彼女のこの実行力は中々どうして結構にすごいことではなかろうか、と感心しつつコロセはドーナツを呑みこんだ。

 歯に付着したドーナツを、器用に舌で舐め取りながら、「どれだけ飛ばしてきたのだろう」とコロセは瞑想する。瞑想しつつも、「なぜにドーナツ? そしてなぜに彼女は車内で待っていない」と頭を捻らざるを得なかった。

 寒いなら寒いなりの、寂しいなら寂しいなりの、身の置き方というものは有るはずだ。少なくとも寒さに限っていえば、車内で待つことで大方解決できる問題のはず。

「お姉さんってもしかして」とコロセは口にした。

「な、なんだよ」

「――バカなの?」

 思い切り頬っぺたをつねられた。容赦ない。

「出せ! いま喰ったあたいの愛を、その愛の結晶を吐き出せ!」

 がたがたと激しくコロセは揺さぶられる。

 自分で詰め込んでおいてそれはない。

 コロセは不承不承ながらも言われた通り、紙袋のなかへ吐き戻した。

「ぎゃあ! きったねえなてめえ!」彼女は大きく仰け反った。勢いでサングラスが吹き飛ぶ。大きく凛々しい眼が露わとなった。「つうか吐くか? 真面目に吐き出すか? ひとの愛をなんだと思ってやがんだよ、最近の餓鬼は食べ物のありがたさどころかひとの愛まで無下にするのかっ!? そうなのかッ? ひどいよ! あまりにヒドイッ」

「なら食べるからいいよ」言うとコロセは紙袋を手にとった。なかでべちょべちょになっている消化不良ドーナツに口を近づける。

「ぎゃあ! 食うなっ! 食うなってッ」紙袋を分捕ると彼女は、「あとでまた揚げ直すから、食べるならそっち食べてよ」とぶつくさ文句を垂れた。

「だって。吐けって言ったじゃん」

「おうおう、ならお前さんはあたいが言ったことならなんでもすんのか? 餓鬼は餓鬼だな」サングラスの外れた彼女の目尻は下がっている。コロセの足元を指差しながら彼女は言った。「だったらそこで三回まわってニャンと鳴け」

 なんだそりゃ。

 思いつつも三回まわってニャンと言った。

 両手で拳をつくり、顔の横に掲げるといった、いわゆる「招き猫のポーズ」もサービスしてやった。

 ポーズをとってから、あっ、と思い至る。

 忘れていた、僕の右腕は……。

 コロセは硬直する。

 その隙を見逃すまいと彼女が、「きゃあ可愛い!」と飛び付いてきた。

 なんなんだこの人――と対処に窮しながらもコロセは、自分の危惧がただの杞憂であることを知る。

 ヒーローの仲間なのだから、このお姉さんが悪い人なわけはない。それにこのお姉さんは、マスターの仲間でもあるのだ。余計に悪い人のはずがない。ましてや僕もその仲間のひとりとなるのだから。この右腕のことも、これからは隠す必要はないのだろう。

 とは言え、コロセはこの数カ月間、別段右腕の特異な性質を必死になって周囲から隠し通していたわけではなかった。

 隠しておくべきだ、とは思っていたが、コロセのパーソナリティそのものが、「存在を残して右腕が消えている」というものだったために、秘匿にする努力はいらなかった。ただし、周囲の瞳にはコロセの右腕は、「失われているもの」として映っている。だから、右腕の無い障害者としてのコロセは、やはり周囲から奇態な眼差しで見られていた。それがたとえ、コロセの身を心配したゆえの眼差しだったとしても、その視線に対してコロセは、あまり良い印象を抱いてはいなかった。

 あの眼差しはなんなのだろうか。どういう意味があるのだろうか。

 どうして僕の死角から、あんな隠れるみたいにして纏わりつくような視線を注いでくるのだろうか。

 それがコロセには理解できなかった。

 そういえば、とコロセは思いだす。喫茶店にバケツ娘が入ってきたときのあの客たちの視線。コロセに向けられた眼差しとアレは似ているな、と類推した。

 珍しいと思ったのなら、こそこそしないできちんと真っ直ぐ見詰めればいいのに――とコロセは思う。

 疾しい気持ちがあるから隠れるのだろうか、とそう思わずにはいられない。

 そう思うと同時に、まっ直ぐ堂々とみんなから見詰められるというのも、それはそれでやっぱり嫌だな、とも思った。けれど、こそこそと死角から視線を当てられても、気付くときは気付くのだから、やはりこそこそするくらいなら、見るか見ないかハッキリしてほしいものだ――と、そうも思った。

 一方で、コロセはこうも思うのだ。

「おい兄ちゃん、何見てんだよ」と不良にイチャモンつけられている漫画をコロセは読んだことがあるのだが、それを読んだ際に考えたことは、「見られて困るものを公然に晒しとくな」と言い返せばよいではないか、という屁理屈であった。屁理屈ではあるのだが、それはそれであながち的外れではないような気がしてきて、コロセは何が何だかよく解らなくなった。

 だからバケツ娘はああも堂々としていたのだろうか。

 同じように僕も堂々としていれば済む話なのだろうか。

 よく解らない。

 物事を深く掘り下げて思考することにコロセはまだ慣れていなかった。

 ところで――とコロセはこの沈思から早々と離脱する。

 マスターは「仲間を信用するな」というようなことを言っていたけれど、「それは間違っている」とここにきてコロセはつよく思った。

 ――このお姉さんはバカだけど、でも、いい人だ。

 抱きつかれたうえに、抱き上げられたコロセはいま、彼女に振り回されている。精神的にも、物理的にも。彼女がコロセに行っているのは、まさにジャイアントスイングのそれである。

 ぶん回されながらコロセは、地面に落ちていたサングラスを彼女が踏んづけた瞬間を目撃した。彼女がしていたサングラスだ。カシャンと軽い音が鳴ったが、踏んづけた当の本人が気付いていない様子だ。

 そろそろ目が回ってきた頃合いである。しかし相も変わらず彼女は、「可愛いなコンチクショウ。可愛いなぁお前。いいなぁ、いいなぁ、かわゆいなぁ」と口づさんでいた。

 いち男として、「かわゆい」と形容されるのはコロセとしては潔しとはしない。ただ、彼女の幸せそうな緩んだ顔に、正直コロセは癒された。

 彼女が一時間を艱難辛苦に過ごしたのと同等か、それ以上に、コロセもまた人肌恋しい一時間だったのだ。

「お前、抱き心地いいな。合格だ」莞爾として笑うと彼女は、コロセを砂利の上に解放した。

 視界がぐるぐる回っている。振り回されているあいだに場所が移動していた。いや、場所は移動しないから、振り回されながらも僕が移動していたのだ。それはつまり、僕を振り回しながらこのお姉さんが移動していた、ということだなうん。コロセは少し賢くなったような気がした。むろん気のせいだ。

 そんな心身ともに酔っているコロセに対して、「お前、あたいの弟にしてやるよ」よろこべ、と彼女は嬉々として命じた。

 よろこべ、と言われたのでコロセは素直に喜んだ。「わーい」


「アレ? あたいのグラサン知らん?」彼女は上着をまさぐりながら訊いてきた。

「あそこ……」とコロセは地面を指差す。

 その指を辿って彼女は視線を移した。

 そこには無残にひしゃげたサングラスが地面に張り付いている。

 子どもをぶん回しながらのスピンが加わった一撃だ。そんな一撃必殺を喰らったサングラスは、「粉々」と称するに、まったく恥じない、立派な砕け方をしていた。

「なんてことを!」彼女は声を張り上げた。「ジョバンニっ! あたいのジョバンニがッ」叫びながら彼女はサングラスに駆け寄る。「コンチキショー! 誰の仕業だ、こんな……こんなおそろしいことを」

 誰がやった、誰がやりやがった、と彼女が睨んできた。さも、お前だろ、と糾弾するかのように。続けて、「あたいはそいつを許さないからな!」と脅しともとれる台詞を吐かれる。

 コロセは冷静に、それはあなたが踏んづけたのですよ、と説明した。そのジョバンニを破壊した非道な犯人はあなたです、と名探偵さながらに宣告した。

「ばかなッ」

「クツ、くつ」とコロセは彼女の足を示す。

 彼女の靴底には砂利に混じってジョバンニの破片が突き刺さっていた。破片が突き刺さるくらいに彼女は強烈に踏みつけていたのだ。さぞかしジョバンニは無念だったろうな、とコロセは思った。

 余程ショックだったのか、彼女はその場にしゃがみ込んで項垂れた。塞ぎこんでいるのだろうか。案外に繊細な女性である。

 仕方なくコロセは、「かけてないほうがかわいいと思うよ。グラサン」とお門違いに慰めた。

「ホントお?」彼女が上目遣いに睨んできた。

「うん。ほんと」

「何倍かわいい?」

「え? ああうん」ナンバイって何だよ、と思いつつ、「う~んとね……いっぱい? いっぱいカワユイです」

 スイッチを切り替えたように彼女の表情が明るくなった。

「だよな、だよな」とはしゃぐ彼女は、両膝をぱんぱんと叩いて、ふう、と小さく息を吐いた。「あたいもそう思ってたんだよ。いまどき、スーツにグラサンはないよなぁ、ってさ。よし、ジョバンニとはここでお別れだ」

 言って彼女はおもむろに、無残に粉々となったジョバンニへ手を翳した。その手に遮られて、一瞬、視界からジョバンニが消える。

 彼女が手を退けると、そこにジョバンニの無残な姿はなかった。ジョバンニの破片の代わりに、小さな小さな黒い塊がそこにはあった。丸まったダンゴムシのような塊だ。

 え、え――?

 黒い小粒と彼女を交互に見遣る。

「なになにどうしたのさ」と彼女は照れたように手を振った。その手で黒い小粒をひょいと拾い上げる。ポケットに詰め込むと、「そっか、そっか。あたいが好みか少年よ。あたいがゆるす、遠慮はいらん。存分に惚れるがいい」惚れるだけならタダだぞ、と呵々大笑した。

 ジョバンニの突然の消失にコロセは思わず、「あんたは僕のタイプじゃない」と否定し忘れた。

 たった今、目のまえで起きたマジックについて、彼女からの説明は一言もなかった。コロセもとくに追求しなかった。ヒーローの仲間なのだから、これくらいの手品はできて当たり前なのだろう、と納得したくらいである。

 ご機嫌になった洋風かぶれのコケシ娘は、「おっしゃ、行きますか弟くんよ」と車道へ抜けて歩んでいく。

 あれ……車は?

 コロセは背中に呼びかけた。

「あの車、どうするの?」駐車場に止めてあった車をゆび差す。

「うん? あっと忘れてた。そうそう車で来たんだった。滅多に乗らないからさ」ついね、と照れくさそうに踵を返す。

 滅多に乗らないって――。

「どれくらいぶりなの?」

 むしろ免許は持っているのだろうかと不安が募る。

「だいじょうぶ、心配すんな。キィ回してエンジンさえかかれば、あとはアクセル踏むだけなんだから」

 そういう問題ではない。コロセは不安げに彼女の横顔を見上げる。

「来るときだって案外にさ、簡単とだね、最高速度に到達したわけですよ」

 そういう競技でもない。

 このひと、根本的なところでズレている。コロセは呆れたように口を空けた。チューブ内での散歩でコロセは一週間分の体力を消費してきたつもりであったが、それでもやはりここから徒歩で向かえるのなら、徒歩でもいいような気がした。

「さあ乗って」

 彼女は乗りこんだ。戸惑いながらもコロセは後部座席に乗りこんだ。

「あんぜん運転だよ」と囁く。

 おう、と応えると彼女はキィを回した。

「よろこべ少年。音速を超える瞬間ってのを見せてやる。バーンって音がするんだ、バーンって」

 よろこべ、と言われたのでコロセは素直に喜んだ。「わーい」

 とは言ったものの、言葉とは裏腹に、コロセの顔は引き攣っている。

 ひとの話をきちんと聞ける人間になろう――コロセは静かに心へ刻んだ。

 

   ***

 車内の空間は――いたって、最適、適温、清潔であった。

 身体の自由が、車内という制約によって束縛され、動けないせいか、コケシ娘は先ほどより幾分かおしとやかになった(ようにコロセには映った)。運転に集中していたことも関係しているのだろう。コロセにとってそれは僥倖であった。

 それでも彼女はずっと喋りつづけていた。特に意識して聞いていたわけではないが――というよりも意識できる状況ではなかったからだが――コロセは無意識のうちに彼女の言葉の先々で、聞き慣れた語句を拾っていた。

 それらを統合させると、どうやら彼女の話している主旨は、医師やマスターから聞いていた情報が大半で、他者の言葉を介して三度耳にしたことで、子どものコロセでもようやくある程度の認識が整った。

 

 『R2L』機関という組織はやはり、ヒーローのように世界を守るために活動しているらしいこと。

 コロセはこれから「学び舎」と呼ばれる施設で生活すること。

 そこが「アークティクス・サイド」と呼ばれていること。

 パーソナリティという、非凡な能力を持っている者だけが、所属できること。

 パーソナリティには「特質」と呼ばれる各自異なる能力があること。

 パーソナリティを持つ者は、「パーソナリティ保持者」または「保持者」と呼ばれていること。

 保持者は、他者の保持者が発している「波紋」を読むことができる。また、自分から発せられている波紋を読ませなくすること、すなわち波紋を「糊塗」することもできるという。

 学び舎で強くなると、「アークティクス・ラバー」と呼ばれている真のヒーローになれるとのこと。

 アークティクス・ラバーになるには、相当の努力と資質が必要なこと。

 コロセにはどうやらそれがあるらしいこと。(洋風コケシの彼女は、「お前はラバーになれるよ」とさらりと言ってのけた)


 ほかにも彼女は、コロセの知らない多くの話を早口で捲し立てて語った。だがコロセにはそれらの口上に意識を向けることができなかった。なぜなら、彼女の運転がとても(尋常ではないほどに)荒々しかったからである。

 車内の空間はこれ以上ないくらいに整っている。最適だった。

 ただし――快適ではなかった。

 右に揺れ、左に揺れ、蛇行運転の限界に挑戦しているような運転――だけならまだしも、上下左右それら許される限りのベクトル変換の極限値を彷徨い、すべてを曖昧にさせ、不明にさせ、統合させ、重力をも超越して、シェイクシェイクブギーな胸焼けをコロセに与えていた。コロセは身体を固定する。しがみ付くように。

 シートベルトの必要性と有能性をコロセは初めて実感した。と共に感謝した。

 シートベルトくん、キミ、すごくいいやつ! 

 コロセが生まれて初めて死を覚悟した――そんな体験である。





   SS『銀三十枚の重さ』SS

 

 幾人かの男たち。

 ひい、ふう、みい……八名の男である。

 そのうちの一人がふるえを抑えるように声を絞り出す。

「いよいよ結構の時――」

 その男を囲むように、ほかの者たちが彼を見詰めている。

 真剣な眼差しだ。つよい意志の光が宿ってみえる。

「これは報復ではない――」

 彼らはある目的を共通に掲げている者の集まりだ。〝ある男〟を消し去る為だけに募られた精鋭だ。

「これは使命である――」

 幸福な社会を夢みて、最低限、だれもが安らかな死を迎えることを理想とする。その淡い望みの為に〝ある男〟を消し去らねばならぬとそう信じている者たちである。

「我々の手で葬ってやるべきなのだ――」

 抑えていたふるえを志気へと変えて、男は語気を荒らげた。

「死は平等にやってくる――あの男にも、それを思い知らせてやろう」

 八名の男たちは、咆哮をあげた。

 ――死は平等にやってくる。

 彼らもまた例外ではない。

 にもかかわらず彼らは、そのことから目を逸らしている。

 いや、

 逸らそうとしているが為のふるえであったか。

 このさき、だれが死のうとも安らかな死とは無縁である。

 与えられる死など夢を妨げられるようなもの、安眠を邪魔する者もまたうつつに苛まれるだろう。





 +++第三章『現在の所在』+++

 【常識にとらわれている者などいない。人はその手で、自ら縋りついているに過ぎない。解き放て、常識を。なにかを束縛するものもまた、不自由になるのだから】

 

 

   タイム△△△スキップ{~基点からおよそ三カ月後~}


 ***コロセ***

 小春ひよりはあれから毎日ここへ来るようになった。いつも突然、僕のとなりに座っている。

 ――空間転位。瞬間移動。

 それが彼女の特質なのだろうと僕は当たりを付けているのだけれど、実際どのような特質なのかはわからない。というよりも、例えばアークティクス・ラバーなどは、《アークティクス》近くまで「浸透」することで、僕のようなパーソナリティ値の低い者には視認できない層へと到達することが可能なのだそうだ。だから瞬間移動でなくとも、こっそりと対象へ近付くようなことも可能なのかもしれない。どちらにせよ、僕には縁のない話なのだから、なんとなくの曖昧な解釈で僕は納得している。

 彼女はそういうパーソナリティのだ――と。


 ベンチから見える風景は限定されている。

 地平線から垂直に聳えて、空の半分を覆い隠している壁が視界いっぱいに広がっている。その壁と空との境界を、もやと化した雲が曖昧に塗りつぶしている。それだけだ。

 不思議なことに、門をくぐって、こちらの敷地に(社会に、世界に、)足を踏み入れたとき――向こう側からこちらを眺めて見えた風景は、遠くに小さく聳えていたこの学び舎、アークティクス・サイドの街並みだけった。

 壁の屹立しているあの地点からこの学び舎までは相当に離れている。それはつまり、ここから展望できるあの巨大な壁は、それこそ本当に巨大な――山脈と比べても遜色のないくらいに荘厳な――絶壁だということになる。

 そしてなにが究極的に不思議かといえば、あのときの記憶が確かなら、あの壁はそこまで巨大ではなった、というその記憶と現実とのいびつな点だ。

 蜃気楼による錯覚というのが僕にとっての一番有力な推測だ。

 こっちからはあの壁が実物よりも巨大な壁として視えている。それが意図的に引き起こされている錯覚なのか、それとも偶発的または自然的に引き起こっている現象なのか、それは判らない。そうした蜃気楼の引き起こりやすい場所に、この「街」を建設した可能性もあるのだろう。

 けれどそれらの可能性を確かめる術を僕は持たない。術を持たないどころか、意志も意欲もとうに枯渇している。

 むかしの僕はここまでアパシーではなかった。それこそ、こんな場所から逃げ出してやろう、家族のもとへ帰ってやろう、とそう考えて逃走を目論んだことも恥ずかしながらある。

 けれど、実際にアークティクス・サイドを抜けて、壁に向かってひた走っても、一向にどこにも到達しないのだ。目指すべきあの壁は、進めども、進めども、まったく大きさを変えないし、いざ振り返ってみれば、数キロほど先に、アークティクス・サイドの内でひときわ大きな中央棟が、オモチャの遊園地なみの大きさとなって見えている。いくら必死に駆けても、いくら時間をかけても、それ以上、後方に聳えるアークティクス・サイドは小さくならなかった。視界いっぱいのこの壁は依然として目のまえに――眼下のはるか先に――見上げる必要すらないくらいに悠然とした様で――地平線と空とのあいだを覆っているにも拘らず。

 まるで滑車の中を必死に走るハムスターになった気分だった。

 それから僕は、アークティクス・サイドから逃げ出すという妄想を抱かなくなった。逃げ出そうにも逃げ出すことができないのだと知ったからであるし、とくに逃げ出す理由もなかったからだ。

 一度の失敗で充分だった。充分納得できた。

 僕はここで一生を過ごす。それでいいのだと。


 不意に風が木々をざわめかす。

 ベンチの後方に根を張っているケヤキの木がある。

 葉の掠れ合う音が涼しげで心地よかった。

 足元を見遣る。

 大理石のようなタイルだ。

 室内と同じような材質だ。

 俯瞰的に見れば、ここも充分に室内といえる。

 アークティクス・サイドという名の室内だ。

 ふと僕はむかしを思いだす。

 最近、彼女、小春ひよりと言葉を交わすようになって、むかしみたいに対人関係が形成されはじめたからだろうか――以前の僕にはそれなりに言葉を交わせる相手、言葉を交わしたいと思う相手がそばにいた。そう、すっかり忘れていた。

 忘れていたことを思いだす――。

 それは結局、思いだすための手続きなのだろう。忘れなくては思いだすことなどできないのだから。

 忘却によって人は回顧を経て、つぎに懐古を得て、そして悔悟を担うのだそうだ。

 だからきっと僕は、ただたんに、当時の僕を忘れたかっただけなのだ。

 決して忘れられないだろうと、忘れることなどできないのだろうと、そう予感していたから――だから僕は忘れたかっただけなのだ。

 忘れようと思うだけで、結局は忘れることなどできはしないのに。

 望みも、願いも、祈りも、どれも同じだ。

 結局、できないからこそ、人はむやみに、祈り、願い、望むのだろう。

 そうして、思いだしたときが辛くなるだけだと知っていながらもむかしの僕は、一時の忘却を選んだのだ。

 逡巡している僕を差し置き、掻きまわされた心の水面は海馬に沈んだ記憶をも撹拌した。

 物理世界とは異なって、精神世界では比重の軽い記憶ほどはやく沈む。そして、おもく密度の濃い記憶ほどはやく浮上する。

 ていねいに仕舞われていたその記憶は、古びているふうもなく、また、風化している気配もなく、しっかりと僕の脳裡に浮上した。結局僕は、忘れることなどできなかったのだ。未来の僕へ――現在の僕に――思いだす機会を与えていただけなのだ。

 辛くなるだけだと解っていながらも僕は、その浮上した記憶に意識を差し向けた。

 折りたたまれていたそれは、あっという間に過去に視た世界を構築する。

 

   ***

 僕をここへ送迎してくれた女性――洋風かぶれのコケシのような女性――は名をノドカといった。彼女からいつ自己紹介をされたのかは曖昧模糊として覚えていないのだけれど、きっと正式に名乗ってくれたわけではないのだろう。いつだって彼女はいい加減だった。

 ノドカはまず僕を、アークティクス・サイドの中心地へと連れていった。土地の真ん中から軸のように『中央棟』と呼ばれる大きな建物が生え、聳えている。

 ノドカは僕にとって、このアークティクス・サイドで多くの言葉を交わすこととなった数少ない知り合いだ。大切な、大切にしたいと思えた、そんな僕の知り合いだった。

 記憶はさらに過去へと遡る。

 

 僕がマスターと別れたあと。

 ノドカと出会ってからさき。

 門までの道中のことはあまり思いだしたくない。

 けれど思いだしたくない記憶ほど、人間はつよく刻み込んでしまう傾向にあるようで、僕はいまでもあの自殺行為としか思えないノドカの運転を鮮明に思いだせる。

 ノドカがどんな道のりを辿ってあの門まで行きついたのかを、僕は、確認している余裕がなかった。危なっかしくて、車窓から見える景色を眺めてなどいられなかったのだ。かといって、余裕があったとしてもスモーク加工の施された車窓から景色を楽しむことなどできなかったのだけれど。どちらにしても僕はアークティクス・サイドがどの辺りに建造されているのか、などといった大まかな座標すらも知り得ることができなかった。

 あんな自殺行為すれすれの(というか十二分に自殺行為の)運転だったにも拘わらず、運よくというべきか、首尾よくというべきか、僕とノドカは外傷を負うことなく車から降りることができた。けれど、外傷はなくともしっかりと心には傷が刻まれている。

 ああ、なんだろうな、こうして生きていることが不思議だ。だんだんと不思議に思えてきた。生きている不思議に感謝を言いたくもなってくる。だとすれば、まず初めにお礼を言っておくべき相手は決まっている。

 ――そう。

 ありがとう、シートベルトくん。

 本当に、ありがとう。

 

 閑話休題。

 

 車を降りたあと。

 門を抜けてから、学び舎に辿り着くまでの移動手段をよく覚えてはいない。

 ただ何となくノドカに手を引かれ、連れられて歩いていた。

 気付くと、いつの間にか前方に――見上げてもとうてい見上げ切ることのできないほどに、高く高く、とにかくバカデカい建造物が屹立していた。

 そのバカデカい建造物は見上げてみる限り、タワーじみた円錐の形のようで、土台が太く、先に行くほど細くなっていた。それが遠近法による錯覚なのか、それとも実際にそういった形状なのかを僕は判断することができなかった。それほどに大きいのだ。僕のいる場所からそのタワーの足元までは、まだかなり距離があるのに、そのままブリッジしてしまいそうになるくらいにあごを上げても、タワーの全貌を把握することは叶わなかった。

 見れば、その巨大なタワーを中心に、低いタワーが囲むように乱立している。もちろん、僕が突っ立っていた地点からは、タワーの向こう側がどうなっているかなんて視認できるわけもないのだけれど、見るまでもなく、そうやっていくつものタワーが集合して、この「街」とも「ビル群」とも形容し難いコロニーが形成されているのだと判った。

 大きいタワー、小さいタワーと言ったものの、すべてが等しくバカバカしいほどにバカデカいことに変わりはない。僕が見たことのあるデカイ建物なんて、東京タワーが関の山だ。けれど、ここにある一番低くて一番細いタワーでも、東京タワーに匹敵するくらいの大きさと規模だった。言を俟つまでもなくそれらの建造物は、東京スカイツリーのような――言い換えれば針金細工のような――建物ではなく、ビルディングとして機能するに充足な、そんな重層な建物だった。

 

 圧倒されて呆気にとられていた僕は、ノドカに引きずられるようにして中央棟へ向かった。

 歩きながらもノドカはこの街のこと――アークティクス・サイドについて話した。

 そもそもノドカは、初めて僕と顔を合わせたあのときから、ここに来るまでの車内、そしてこのときに至るまでのあいだ、ほとんどノンストップで喋りつづけていた。

 僕は相槌を打つことをすっかり放棄していた。

 でもそれはバケツ娘のときとは異なる放棄だ。

 ストライキではなく、諦観だ。

 僕がどのように疑問や指摘を投げかけたところでノドカは自分の思ったままに、自由気ままに話した。

 そういえば、と僕は思考を曲げる。

 そういえば、バケツ娘やマスターの顔も、現在の僕にはぼんやりとした印象しか思いだせない。

 バケツ娘はバケツの印象。

 マスターは朗らかな印象。

 でも、これは逆に結構にすごい記憶力ではなかろうか、と僕は自分を励ますことができる。遠いむかしの、ほんの数時間、ちょこっと顔を合わせただけの人物を僕は思いだせてしまえるのだから。でもまあ、それも、あの二人がそれほどに強烈な人物だった、というだけのことかもしれない。

 車内でのこと。ノドカは僕に、マスターが言っていたような話や組織についての概要を説明してくれた。そのお陰で僕はしっかりと理解した――彼女がチャランポランな人間だということを。

 徹頭徹尾いい加減な話し方で説明をして、難しい話を余計にややこしく難しくさせていた。このひとはダメだな、と僕は漠然とノドカのことを評価した。

 バカでありアホでもありノウタリン(つい最近まで僕は、「ノウタリン」という名称の化学物質があるのかと誤謬していたくらいにノウタリン)でもある三重苦のこの僕から、「チャランポラン」の称号を与えられたことなど知る由もないノドカは、(とは言っても知っていた可能性は充分に高いのだけれど、)アークティクス・サイドの街中を中心地に向かって歩を進めた。僕もよこに並んでついていく。

 周囲をあちらこちらゆび差してノドカは、チャランポランにさらなる拍車をかけて説明した。

 

   ***

「ほらほら、ここのさ、零三二号棟のさ、えっと、G-2フロアかな――? そこにある寿司屋のマカロニグラタンがさ、メチャクチャにバカクチャうまいのよ! 『寿司屋なのにグラタンかよ!』ってね、ツッコむの忘れちゃうくらいにおいしいの。ホントおいし過ぎてあっという間に頬っぺたぷくぷくだよ。お腹まわりもぷくぷくだよ、って大きなお世話です。あーもう、ノリわるいなぁ。『そんなことないよお姉ちゃん』って残酷なクソ餓鬼の微笑で言ってほしかったなぁ。つうか言え! 今すぐ言えっ」

「よしよし、よくぞ言ってくれた少年よ。あたいはうれしいぞ」「ああもう、かわいいなぁお前は。頭撫でてやるからちょこっとオデコ出してみ。こっち来て、そうそう――オデコを撫でる振りをしてからの――デコピン! きひひ、誰が撫でるかバーカ!」

「あ、おこった? ごめんごめん、ちょっとした冗句やないの。もう、怒りなさんなって。ほら、痛いの痛いの飛んでいけーってやってあげるから、ほらほら、オデコを出しなさい」

「え? もういやだって? 大丈夫だって、なんもしないから。そうそう、このお姉さんに、そのかわいらしいオデコを見せてみなさい。痛いの痛いの、飛んでいけー。おう、飛んでったぁ――っと思いきやUターンしてきてからの、デコぴん!」

「きしし、どうかね少年? ひとに裏切られた気分は?」

「イッテ、蹴るんじゃないよ。イッテ! だから蹴るなって餓鬼! ああ、嘘うそ、ごめんって、ごめんなさいってば。ああもう、少年よ、落ち着けって!」

「なにもそこまでぶち切れなくたってさあ。つうか、なに泣いてんだよ。かわいいじゃない。ああもう、なんかまたイジメたくなってきちゃった」

「イッテ! だから蹴るなって。ごめんってば」「人生の厳しさというものをキミに教えてあげたかったの。キミの為にやったことなの。キミを思えばこそなの」「うん、ホント。けっしてキミをからかったわけじゃないのだよ。ウソじゃないってば」「うんそうだって言ってるでしょ。このあたいを信じなさい。むしろ感謝しなさい。つうか感謝しろ」「よしよし。いい子だなお前」

「おっと。もうこんな場所か。しゃべりながらだと徒歩でも早いな」

 ~~~~。

「そうそう、んでな、こっちの立派な零四七号棟にはな、あたいの同僚のイルカちゃんってのが住んでてさ――あれ、今もまだ住んでんのかな――? まあいいや。んでさ、そのイルカちゃんってのがまた気難しい子でさぁ。可愛いから許せるんだけどね、ホンっトあたいってばいっつも冷や汗でびしょびしょの濡れ濡れなわけなのだよ。いつ逆切れされて殺されちまうんじゃないかってスリリングでさあ」「そうね、毎日が楽しいねって話――まあこんな話はどうでもいいんだけどね」

「ほら、見てみなさいよアナタ。いや、そっちじゃなくって、あっち! あの生意気に気取って建っていらっしゃる一番デカイのが『中央棟』って呼ばれてる『ステップ』で、今からあたいらはそこに行くのだよ。デッカイだろ。びくった?」

「んでもって、このアークティクス・サイドには全部で三〇六本のステップが建ってるわけ。その全部が全部、一本一本が単独で、ひとつの学び舎としての機能を果たしているわけなのよ」「まあ別に、それぞれのステップが独立した機関としての機能を担っているわけじゃないから、そのステップに住んでるからって、ほかのステップの施設やら講義やら訓練やらを受けちゃいけない、てことにはならないから。そこんとこは完全にフリーなわけ。むしろ人道に反しない限り、ここではすべてがフリーなわけ」

「え、なに? ああ、そうな、そうそう――『ステップ』てのはね、この一本一本のバカデカい建物のこと。タワーって呼んでもいいけど、みんながステップって呼んでるし、ここじゃその呼称で統一されてるから、ここではアレは『ステップ』なわけ」「そんでな、なにがすごいって、全部のステップがあの中央棟に繋がってるわけなのよ――って見れば判るか」

「え? なんでかって? なんでそんな蜘蛛の巣みたいな作りなのかって? おうおう、コロセちゃんってば中々どうして面白い視点を持っているじゃないの。蜘蛛の巣ね――そう言われりゃそう見えなくもないか。俯瞰的に全体を想像するなんて、お前ってば餓鬼だな」「だからぁ、餓鬼の発想だって言ったんだよ。うん? 褒めてんだよ、むつけんなって。餓鬼でいつづけるってのは、それはそれで中々に難しいんだぞ。餓鬼だからこそ素直が一番なのであって、性根の腐った大人が素直だったら、それはただの最悪だ」「うん? 見上げりゃ解るって? お、ホントだ。蜘蛛の巣みたいだな。コロセくんってば天才じゃないのかい。ほら、あたいが褒めてやったんだ、機嫌を直してくださいよ。つうか直せ」「よし、お前は本当にいい子だな。ふうん、でも、ホントにそうな――いままで見上げてもそんなふうに思ったことはなかったけど、蜘蛛の巣みたい。これじゃ俯瞰的じゃなくってラッコ的視点だな」

「うん、そうな。どうして全部のステップがアレに繋がってるかって話な。そりゃまあ、あの中央棟が一番充実しているからだ」「うん、そうそう。施設もだし、人材だって、品ぞろえだって、一番良いのだよ」

「お金? そんなもの必要ない。これ下さい、ってお願いすればその時点で自分のものさ」

「泥棒じゃないかって? なに言ってんだい、勝手に持ってったらそりゃ泥棒みたいだけど、これ下さい、って一言お願いして断わってんだ。文句はないだろうに」

「ああなるほどな。もちろん、ほかの人のモノをとっちゃ駄目さ。支給品に限っての話だよ。当たり前の話さね」

「うん? どういう意味? どうしてお金を払わなくってもいいのかって? 意味が解らないな。お金なんていらないんだよ。ここは外とはちがう。対価を払う意味も、対価を紙幣に付加してだな、価値を統一する意味もない。ここはただ『保持者』が生きるために――『アークティクス・ラバー』となるためだけに存在している施設なんだから。労働するためでもなければ、ここを維持するためでもない」

「あたいらはね、存在自体が社会貢献なのだよ」

「生きているだけで、それだけで、社会のためになっちゃってんの」

「だってそうじゃないか。いずれラバーとなる者たちだよ? ラバーになれば、それこそ全身全霊で外の社会のために貢献すんだから」

「ああ。まあそうな。実を言えばラバーになれない者が大半だ。それでもさ、ラバーになれる資質を持った保持者とだな、切磋琢磨して成長しあえるのは、同じ保持者にしかできないんだ。一般人に波紋が読めるか? 一般人に《アークティクス》の存在が理解できるか? できないだろ。だからあたいらは生きているだけで社会貢献してるわけ」

「え? 《アークティクス》が何かって? 車ん中で説明したっしょ」「いいか? この世界はね――――ってめんどいな! 時間は腐るほどあるんだ、知りたきゃ講義受けなよ」「あ? なに? 声が小さいよ少年。キミね、もう少しおちついて話しなさいな。お姉さんにも解るように。そう、もう一度言って。つうか言え。なんつった? あたいがなんだって?」「そうそう、そうやってきちんと話してくれなきゃ意味が伝わらないでしょうに――って誰がナマケモノだって! ナマケモノってあのかわゆい生き物のことじゃないか! 褒めてくれてありがとう」「え? 褒めてないの? ナマケモノって悪口なの? へえ……へえ、そっかそっか。いや、知ってたし。知っててよろこんだ振りしただけだし」「うん。ホント。もういいよこの話題」

「おっと、我が弟よ、しばし待ってろ。向こうにミタケンさんが――」

 

「――こっち、こっちですって、ちょっとどこ行くんです! こっちだって言ってんだろクソミタケン!」「ええそうです――この子が報告のあった子です。ええ、ええ、その通りです。流石ですねミタケンさん、お目が高い。まったくもってクソ餓鬼なんですよーこいつ。クソ同士、きっと気が合いますよ」「え? いやいや、私とこいつの気が合うんじゃなくって、ミタケンさんとこいつですよ。相変わらずマヌケだなぁミタケンさんは。自分がクソだってことも忘れちゃうだなんて――」「あ、いや――ウソです、冗談です、ユーモアですってば。あ、待って、なんですその準備体操っ!? わ、ないって、ここでそれはなしですって! わ、わ、わ」

「イツツツツ。あーもう! なんなんですか! か弱き乙女に向かってコンボって……あたいじゃなけりゃ死んでますよ」

「あ、クソ餓鬼、なに笑ってんだよ。言いたいことがあるならお姉さんに言ってみなさい」「ほうほう、か弱い乙女が見当たらないだって? 目ん玉くり抜いて清浄してやろうか、あん?」

「あ、やっぱり、ミタケンさんもそう思います? こいつ、かわいんですよ」「あ、駄目ですって。いくらミタケンさんの頼みでも、こいつは渡せません。こいつは私の弟にしましたから」

「ていうかミタケンさん、こんな時間にサイド側にいていいんですか?」「へえ、今日は待機命令でしたか。珍しいですね。ではこれからどちらへ?」「ああニコールで飲みですか。またお独りで?」「余計な御世話だと。さいですか」「じゃあ、ま、あたいもあとで行きますよ」

「あいあい。ではまたのちほど。失礼しまーす」

 

「はっは、よろこべ少年。あれがあたいの憧れのひとだ。ステキだろ? お前の未来のお兄さんだ」「なんだって? モッタイない? どういう意味よそれ」「かあ。解ってないなぁ。これだから餓鬼は。あたいの素晴らしさが解らないようじゃ、大人な大人になれないよ」

「お? 言うにこと欠いてクソ餓鬼、お前が大人になれ、だと? ああそうかい。あたいが餓鬼だって言うならな、お前は閻魔様だ!」「いや褒めてねえし。え、悪口になってない? ふむふむ。ならば悲しめ!」

「えーんえーん、ってなにそのベタな悲しみ! 餓鬼かッ! ああ餓鬼だからいいのか。にしてもかわゆいなぁ、お前は。いい子いい子してやるから、いっちょ、あたいをお姉ちゃんと呼んでみーさい」「拒否すんなよ。なんでよ」

「ふんふん、精神年齢が年下の相手は姉とは認めないと、そういうことですか。つまり私は永遠の六歳児ってことですか。若いっていいよね」「あ? なにため息吐いてんだよ。ため息吐くとな、幸せが飛んでっちゃうんだぞ」

「なになに、中々どうしていいこと言うじゃないの少年。それって要するにさ――溜息を吐く、幸せを手放す、飛んでいった幸せがどこかで誰かを幸せにしている――とそういうことですか。なあに悟ってんだ、この子はもう! いい子、キミってばなんていい子! 餓鬼ね、餓鬼なのね!」

「ああもう! だからむつけんなって。あたいはコロセくんのことを褒めてんだからさ」「イッテ! 今わざと足踏んだ? ウソこきなさんな、波紋が乱れてんぞ」

「波紋を読むと何が解るのかって? そんなの、お前くらいの純粋な餓鬼の波紋なら――というかお前はかなり駄々漏れているけどさ――意識的に読まなくとも、喜怒哀楽、現在地、動揺、その他もろもろの心理状態くらいなら手に取るように解るよね」「勝手に読むなってか? はん。読みたくなくたってお前の波紋はあまりに駄々漏れなんだよ」

「よいかな少年、普通はね、パーソナリティを使用しているあいだ以外、波紋ってのは表層に少ししか露呈していないんだ。本気で感知しようと感覚を研ぎ澄ませなきゃ読めないものなの。なのにコロセちゃんってばそうやって、ずっと波紋が駄々漏れちゃってるんだから、そりゃ読むなってほうが無理だよ」「え? どうすれば読まれないで済むかって? 修行なさい。パーソナリティの扱いを身につければ、自然、波紋もある程度、意識下で制御できるようになるから」

「ほうほう、波紋の読み方を教えて下さいってか。さてはてめぇ、あたいの波紋を読んであたいのすべてを掌握しようって魂胆だな――この、オマーセサンっ」「でも残念。あたいはね、読まれるのも読むのもどっちも嫌いなんだよ。もっとも、チミが大きくなったら相手になってあげてもよいだろう。このすてきなお姉さんが相手になってやる」

「ええぇ、なんでよ!? なんでそんな寂しいこと言うのさ、『誰もあたいの波紋を読みたがらない』だなんてそんな悲しいこと」「誰もあたいに興味がないからだって? 魅力もないからだって? ひどいぞ少年っ」

「なにその、ウザいなぁ、って顔。言いたいことがあるなら言葉で示せ! 態度で示されてもバカなあたいは気付かないよ? やるだけ損だよ?」

「ふんふん、どうしてそんなにキャラ作りに必死なのかって? なかなかどうして鋭いことを言うねえ。そうだよ、キミの言う通り、あたいは独りのときは、それはそれは寡黙でおしとやかな、深窓の佳人なみにお嬢様なのだよ」「は? 真相の怪人? 真相の怪人なみのお嬢様って、そっちのそうがそそるじゃん! お前の鼓膜は誤変換機ノン――んっんっ、噛んじゃった。『誤変換能搭載か、むしろ満載か!』ってツッコミみたかったんだけどね。噛んじゃった」

「ん? ああ、そうね。たしかにこれはキャラだよ。あたいの本当じゃない」「どうしてそんなに無理してるのかって?」「そりゃあ少年、こうしてあたいという世界の稀有なひとかけらを、ここぞとばかりに世界へ向けてアピールしなきゃ、あたいの存在意義が有耶無耶に曖昧模糊やもん。これはね、あたいに与えられた使命なんだな」

「そうだなあ――コロセちゃんは星って知っているかい?」「知ってるって? おうおう、見くびっちゃったよ、すまないね」「その星ってのはだね、精一杯に光り輝いているのだよ少年。私はここにいます、ここにきちんと存在していますよ、ってそのことをだね、遠く何万光年も先にいるちっぽけなこのあたい達に向けて、示してくれちゃっているわけでしょ? それでもさ、精一杯に光輝いたうちの、ほんの僅かな光だけがほんのちょこっと伝わるくらいなんだよ。しかも夜のあいだだけっていう期間限定」「あんなにでっかい星が頑張って、これだけしか伝わらないんだ、あたいみたいにさ、こんな陳腐でちゃっちくも小ちゃい存在なんて、いくら頑張ったところで何にも伝わらないんじゃないか――と、不安になることはないかい少年」「ないの? そっか。うん、ないならいいです」

「そうだね。お姉サン……今、ちびっとばかし熱くなり過ぎてたね。熱く語り過ぎちゃってたね。お姉サン、なんだかちびっと、恥ずかしくなっちゃった」「うん。うん。そうかいそうかい、コロセくんってば何も見てないし聞いてないんですか。そういう体ですか。お気遣いですか。そっか、それはどうもありがとうね。わるいね、気ぃ遣わせちゃって」

「なに笑っちゃってくれてんだい。おいこらクソ餓鬼。ひとが折角しんみりとした感謝を、わざわざ言葉に変換して、口から健気に捻くりだしているってえのに」

「はぁーあ。あのな少年。キミには解らないだろうけどな、はっちゃけたキャラってのも存外難しいのだよ。時々あたいもさ、なんでこんなに必死なんだろうってね、コロセちゃんが言うようにさ、そんな風に考えなくもないのよ。でもな、こうやってあたいがあたいであることを多少歪めても、多少の無理を強いてでも、あたいにはあたいの存在を知らしめてやりたい重要なお人ってのがいるわけですよ。本当のあたいじゃ決して関わりあえないような人なんですよ。だったらだよ少年? どうすればいいかってさ、そんなの決まっているじゃないか。あたいはゆび咥えて黙って現状に甘んじているなんてイヤだね。自分を曲げてでも、自分を変えてでも、あたいはあたいの求めるものを手に入れたい。つうか、手に入れるっ。絶対に手放さない! 盗んでもこの手に握ってやる! むしろ握りつぶしてやるっ! 捻りつぶしてやるッ! 奪ってでもなにをしてでもあたいは、あたいの求めるものを、この手に!」

「なっ――誰がバカだって!? どの口が言った、この口か、この口が言ったか!」

「もう知らない、案内するのやーめた。あたいはお前をここに置いていく」

「あん? そうだよ、一番でっかいステップだよ。そこに向かえばいいんだ。一人でも行けんだろ」

「そうそう、見上ればどこからだって見えるあのステッ――」

「――ップ……。あれ。なんかもう――着いちゃいましたね」

 

   ***

 騒がしいひとだった。

 滅茶苦茶なひとだった。

 それが今では……懐かしい。

 

 彼女、ノドカに連れられて到着した場所。

 ――中央棟。

 見上げただけで、足場が崩れ去ってしまうような錯覚に陥る。

 あまりに壮大で、高大で、強大で、雄大で――辞書に載っているあらゆる『~大』を以って形容してもまだ足りないくらいの大きさで――すっかり圧倒されてしまった僕は、その場にへなへなとしゃがみ込んでしまった。

 いまではすっかり見慣れた中央棟も、あのころの僕からしたらそれは、人間を目のまえにした、今にも踏み潰されそうになっている蟻んコの気分と大差なかった。

 蟻が人間に対してどのような感情を抱くかなんて僕には解らないけれど、そのときの僕は、興奮と畏敬のない交ぜになった感動を覚えていた。それは今でも僕にしっかりと刻まれているくらいの衝撃を僕に与えていたのだ。

 その衝撃があまりに強過ぎるためか、そこからさきの記憶が一気に飛んでいる。

 つぎに思い出せる光景は、ノドカが僕から手を離したその瞬間で、僕とノドカは、誰もいないショッピングモールのような空間にいた。

 

「適当に遊んでな」

 ノドカはいい加減に述べた。「時間になったら迎えに来てやる。解らないこととか、知りたいことがあったら、バイタルでも使って――ああえっと、そっちでいう所のインターネットみたいなもんだけど――そのバイタルとか使って、勝手に調べりゃいいさ。今から二日間、このフロアは出入り禁止だし、立ち入り禁止。だからここに誰かが入って来ることもないし、誰かと遭うことも話すこともキミにはできない。でもさ」

 ――問題ないっしょ?

 ノドカは僕を見下ろして、いしし、と笑った。

 彼女の言う通り、なにも問題はなかった。充足した時間だった。

 最初の数時間こそ戸惑ったものの、その二日間は時間の経過がはやく感じられた。そのくらいに濃厚な、充実感ある体験だったのだ。

 そこに置かれていた品々、機器、食品――すべてが目新しく、新鮮な代物だった。

 いまでこそ僕はそれらが日常の一部として、または有り触れたモノとして――気にも留めていない代物たちなのだけれど、そのときの僕には、それらの品物が一様に、ピアピカと輝いて見え、驚きと好奇心で満たされた。

 このときの心境を安直に言い表すならば、江戸時代の人間が突如として現世に召喚されてしまった、といった心境だろう。

 江戸時代の人間にとっては、メディア端末をはじめとするあらゆる電気機器――電話やTVやPCや冷蔵庫や扇風機や掃除機や車や飛行機や電車や新幹線やビルやトンネルやドームやネオンなど――街中に溢れる雑貨のことごとくが驚愕に値する代物だと思う。ライター一つとっても、江戸時代の人間にとっては超常現象に匹敵する――と言うよりも超常現象そのものだろう。

 子どもまっただ中である当時の僕(今も餓鬼という点ではさして変わりはないのだろうけれど、幼き日の僕)にとっては、手に取る品々すべてが魔法のように映った。

 たとえば、

 動く絵はアニメーションであるけれど、漫画そのものが動くというのは珍しい。しかも、自分で意識した通りに、観たいペースで絵が動くのだ。

 どういう仕組みだろう。だなんて高尚な考えは、興奮状態の僕には浮かばなかった。とは言うものの、たとい興奮状態でなくとも幼稚な僕のことだろうから、きっと疑問を浮かばせることもなかっただろう――「外の社会」に生きる現代の子どもたちが、ゲーム機本体がどのような仕組みで動いているのか、などと真剣に悩むことのないのと同様に。

 動く漫画以外にも、とにかく様々な代物が特別な操作を必要としなかった(ややもすれば、それこそが特別な操作とも言えるのかもしれない)。

 機械的な道具には、そもそも端から、操作するためのボタンやコントローラやリモコンが付属していない。

 携帯電話(に似た機械)も、ゲーム機も、自動販売機(飲み物以外にも多くの自販機があった)も、ほかにも僕が「外の社会」で使っていた電気機器らしき物のほとんどが、より向上した機能と性能を付加されていた。

 操作が簡単だということのほかには、明らかに必要とされる工程の多くが省略されている、という一点が際立っていた。それはどんなことにおいても、作業時間の縮小、作業時間の削減、とも呼べる効果があった。

 起動時間をまったく要さなかったり、待機時間がなかったり。

 今の僕が日常的に使用している洗濯機も、衣類をなかへ放り入れて蓋をしたら、ものの数秒で完了だ。取り出せる状態に仕上がっている。洗い、すすぎ、脱水、乾燥――の過程が省略されている。一瞬で衣類が清潔に、新品同様になっている。

 これらの便利な道具たちが、一体どんな仕組みで動いているのか、などといった詳細を僕は寡聞にして知らない。未だに知らない。謙遜でなく、本当に知らない。たぶん、すこし調べれば解ることだろうし、ひとに聞けば事細かに教えてくれるだろうとは思うけれど、そうしようとは思わない。道具なんてものは、使うことができさえすればそれでいいのだ。僕にとってはそれが全てだ。


 ところで。

 二日間、という時間の経過のなかで子どもが行える作業というのは、案外に限られているものだ。たかが知れている、というやつだ。

 だのにあのときの僕は、それまでに蓄積してきた「常識」と呼ばれる知識などをはるかに凌駕した多くの体験的知識を手にしていた。

 それには明確な理由が一つある。

 通常、日常生活のなかでも往々にして『検索』という作業が、多くの作業を滞らせている。にも拘わらず、こちらの社会ではそれがことごとく省略されているのだ。

 たとえば、操作の仕方が解らない、なんてことは皆無だ。

 どんな機器も、『思うだけ』で操作できてしまう。

 自分ではない物、体外にある物、それらがまるで意識下に置かれた、身体の一部ように制御できてしまうのだ。

 ある程度の距離ならば(道具によって距離は変わるけれど)、遠隔操作も可能だ。漫画を読みながら、バイタルを閲覧しつつ、どこに行けばなにが置いてあるのか、どこに行けばなにを食せるのか、といったことを容易に調べることができる。

 一方で、大抵の食品は自動販売機で購入できた。料理人がいないのだ。いや、それは日常的なレベルでの食料に関してであって、バイタルで得た情報によれば、『料理を趣味としている住人』が店を構えてもいるらしい。もちろんあらゆる食品は無料だ。僕は人と接するのが苦手なので、現在においても自販機で食事を賄っている。

 自動販売機のまえに立ち、食べたいものを『思う』だけで、取り出し口にその料理が瞬時に用意される。

 どういう仕組みか、なんてことはどうでも良かった。すごく便利だな、としか僕は思わなかったし、未だにそう思っている。いつだって僕は思うだけなのだ。一方で、料理人が調理するご馳走というのも食べてみたいな、とも思うのだから、人間というのはどこまでも貪欲だ。いや、僕が強欲なだけなのかもしれない。

 とにもかくにも僕は、その二日間という時間の経過のなかで、日常生活に困らない程度の情報を、大方得たことになる。むろん、アークティクス・サイド内での生活についてだ。

 

 バイタルは、漢字の読めない僕にはかなり用途に優れたメディアだった。バイタルの画面には文字が一切表示されない。動画や静止画のみである。それなのに頭のなかには、その動画や静止画に連動して様々な文章が流れ込んでくる。たとえば、バイタルで映画やアニメを観ているとすると、キャラクタの声が直に脳裡にひびいてくる。

 当時、僕はそれが、部屋のどこかに設置されている巨大なスピーカから流されている音声だと思っていた。まさか鼓膜を経由しないで音を認識できるなんて想像もしないし、できるわけもない。音の仕組みすら当時の僕は知らなかったのだから。

 もちろん、意味の解らない言葉なんてものも、幼い僕には多々あった。それでも、映画やアニメを観賞しつつ、その理解の及ばない語句についてバイタルで検索することが可能だった。

 最小のモーションで最大限の収穫を――。

 知識はゆみずのように僕の裡に溜まっていった。

 検索は一瞬で済む。ただし、その検索した結果に得られる解説が、僕にはとうてい理解できないことが大半であった。調べ挙げた事柄が(概念が)解らないのだから、それ以上は誰かに教わるか、諦めるかの二択だった。言わずもがな僕は後者だ――とは言っても、その二日間は尋ねる相手が誰もいなかったのだから、仕方がない。しかしながらやはり、自堕落な性質は今もむかしも変わらないのであって、そのときに抱いた疑問の数々を僕がのちのち誰かに尋ねることなんてするはずもない。だからして、多くの謬見や疑問を放任したままとなっている今のこの現状についての言い訳にはとうていならないのだろうし、そのことを僕はきちんと自覚している。

 その自堕落の結果なのだろう――得られる情報量が爆発的にあがったことで、僕の頭が良くなったかといえば、残念ながら否定せざるを得ない。

 頭が良い、というのは、「どんな知識を得たか」ということと同等かそれ以上に、「どんなことを考えたのか」「どんな思考を巡らせたか」という、得た知識に付加された独自のメカニズムが重要なのだろうと僕は思う。

 『悪』という概念を知ったところで、悪とはなにか、いったいどんなことが悪なのか、そして悪ではない事柄とはどういうものなのか、と考えられなければ、そして考えた結果、行動に結び付けられなければ、何も得ていないのと一緒なのだ。そして僕はいまもむかしも多くの事柄を「知っているだけ」で済ませている。

 だから僕は頭がわるいのだ――と今のこの現状を僕はそう解釈している。

 とにかく僕は、与えられた二日間という自由時間の許される限り、部屋に収まっていた商店街丸ごと貸切り、というこの豪勢な待遇を満喫していた。

 あとは迎えが来るのを待つだけだった。


 そう――それは突然だった。

 弾け飛ぶ空間。

 遅れて耳をつんざく爆音が轟く。

 爆風が襲ってこないことから、爆心地が離れた場所にあることが判った。

 遅れて瓦礫が舞い落ちてくる。

 雹のようにバラバラと――。

 雨のようにぱらぱらと――。

 雪のようにひらひらと――。

 雲のようにもくもくと――。

 粉塵が視界を覆っていた。

 悪寒が全身を這い上がる。

 何かが身体に侵入してくるような違和感があり、それは拒否感かもしれず、危機感かもしれなかった。

 冷えた血流が背筋から分岐して全身を巡る。

 噴きだす冷や汗の幕を張るようなきもちわるさと同時に、僕が感じた違和感の正体に見当がついた。

 悲鳴だと思った。

 身体に染み込んできたのが、悲鳴なのだと解った。

 鋭い叫喚が、

 悲痛な叫びが、

 許しを乞う祈りが、

 恐怖に怯える呻きが、

 後悔に逃避する嘆きが、

 ひとつの感覚として僕の内側になだれ込んできた。

 鼓膜を経由せずに、僕の断わりもなく、僕の拒絶したい思いをも振り切って。

 逃げ込む場所を必死に探すかのように、藁をも掴む勢いで、それは、僕のこの身になだれ込んできた。

 悲鳴につづき、ひとつの声が僕の鼓膜を揺らした。

 ――罪を担え。

 ――生きて償え。

 ――死に託せ。

 ――あぶれた罪は人に科せ。

 ――そののちに。

 ――滅びろよ、弱者が。

 男の、ひくく唸る、しずかなつめたい、慈悲を帯びた。

 それは――声。

 僕の内側に蔓延っていた悲鳴たちはひっそりと失せた。

 息を殺すかのように。

 息を殺されたかのように。

 息の根を止められたかのように。

 男の声に、打ち消されたかのごとく。

 僕の内で、僕の裡に、溶け入るかのように。

 痛々しい起伏を、激しい振幅を、平らな水面にして。

 ひっそりと線となって、集束した点となって。

 脳裡をつんざく悲鳴は、消え失せた。

 身体の表面が温かい、生温かい。

 粉塵と、耳鳴りと、拍動のひと打ちひと打ちが、僕の身体を取り巻いている。

 前方に影が揺らめいている。

 粉塵の奥に、男が一人立っていた。

 彼は口をひらく。

「どっちだ?」

 なんのことだろう。

 ドッチとは、ドレとドレのことだろう。

「オマエは、いま、満ち足りているか?」

 ミチタリテイル。

 なにがなにで満ちているのだろう。

「オマエは誰かを毀したいと、望んでいるか?」

 コワシタイ。

 いや、今の僕はただ。

 コワイだけだ。

 逃げ出したいだけだ。

 蹲ってしまいたいだけなのだ。 

「ならいい。オマエは、〝まだ〟らしい」

 言うと彼は、いつの間にか僕の頭に手を載せていた。

 粉塵は一切揺らいでおらず、彼も僕も、なにものも動いてなどいない。

 にも拘らず――彼は僕のうしろに立っていた。

「罪は担えよ。貸せるものでもなく、課せられるものでもない。ただ、許せ。それでもオマエは許されないが、それで誰かが許される。罪なき者などいはしない。それ故に、許す必要などはない。己の裡の許されざる者を、許されざる行為を」

 ふたたび声は、粉塵の向こう側から聞こえてきた。

「だが、耐えねばならぬ、ことを知れ」

 まるで前方と背後に二人いるかのように、彼は瞬時に空間を移ろう。

 それとも、空間が捻じれているのだろうか。世界が歪んでいるのだろうか。

「在るが儘を受け入れろ。許容しろ」

 不意に彼は絵具の付いた筆先をかき混ぜるように僕の頭を掻き撫でた。

「それができているうちはオマエは、〝まだ〟でいられる」

 僕の頭上に言葉が落ちて、ぶつかり、染み込んだ。

 彼はふたたび僕の背後に立っていた。

「在るが儘と、我が儘の差異。オマエは理解、しているか?」

 言いながら彼は艶やかに黒い僕の頭を――艶やかな黒に染まっている、湿っている、粘着質な僕の頭を――乱暴にグチャグチャと撫でた。

 人の中身は赤くなどない。

 どす黒く濁っている。

 臭い。

 汚い。

 穢らわしい。

 人の中身は、純粋に黒く、純粋に醜い。

 僕は――。

 細切れた人間の血肉に――。

 ――塗れていた。

「赤いだとか黒いだとか、そんなことはどうでもいいんだよ」彼は溢す。

 僕の頭上に鉛のような言葉を落とす。

 ――そんなことはどうでもいいんだよ。

 人が死んで、人が千切れて、肉片になって、泥塗れのように血塗れに染められて、それらの〝そんなこと〟は果たして、どうでもよいことなのだろうか。

 どうでもよいことなのだろう。

 僕は彼がこわかった。死ぬことよりも、肉片になることよりも、肉片に塗れることよりも、彼がとてもとても、こわかった。

 どうでもいい。

 そう。彼がおそろしいということ以外、彼から逃げ出して彼から遠ざかること以外、全ては平等にどうでもよかった。

 平等なんて言葉は、「例外なく」の名詞化された言葉だ。

 だとすれば――そのときの僕は、「同等」でも「均一」でもなく、【例外なく】全てがどうでもよかった。

 なのに、例外が存在する。

 例外がないはずなのに、僕の目のまえには例外が存在した。

「彼がこわい」というただ一つの現実が。

 矛盾を超越した現実が、そこにはあった。

「怖がるな。受け入れろ。罪を担うことのできる『生』がそこにあるかぎり。オマエはそれに、感謝しろ。己が己である、その現実が保たれている、奇跡と軌跡に。思いを馳せろ。それだけで充分にオマエは――満ち足り得るだろ? それ以上を望むというのならいずれ、」

 本当に満ちてしまうぞ――と彼は唸った。


 何も知らなかった僕がかつて憧れていたヒーロー。

 その頂点に君臨する人物。

 これが僕と弥寺さんの出会いだった。



   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ十一年前~}


 ***コロセ***

 バスルームから出ると、「そいやー!」とチョップをかまされた。コロセはノドカを弱々しく睨む。意に介さず彼女は、「なになに、大変だったねえ」と癪に障るほど陽気に振る舞った。

 ――なにがここまで彼女を陽気にさせるのか。

 シャワーを浴びたコロセはもう黒くはない。臭くもないし、汚くもない。なのに、鼻にはあの饐えた臭いが残っており、そして肌にはあの感触が――ぬめり気を帯びた生ぬるい液状の感触が――拭いきれずにへばりついている。それは結局、鼻でもなく肌でもなく、コロセの脳に刻まれた記憶なのだろう。

「よくもまあ生きてたよね、あの状況でさ。アレに巻き込まれなかったのは不幸中の幸い――むしろ幸福中の幸福だな、こりゃ」

 ノドカはそう言ったが、果たしてあの状況で、巻き込まれなかった、と言えるのだろうか。甚だ疑問だ。けれどコロセは言い返すこともなくノドカのよこを通り抜けた。

「そりゃ!」避けるように通ったはずだが、ノドカは機敏に反応し、こちらを後ろから抱きすくめるようにした。「なに怒ってんのさ。あれあれ、もしかしてあたいが迎えに行かなかったからって怒っているのかな? むつけっちゃているのかな?」

 餓鬼だなこのこのー、と楽しそうにからってくる。

 的外れではなかった。実際コロセはそのことに少なからず腹を立てていた。だが、面にあらわすほどの感情の起伏はない。

 

 弥寺という男と遭遇し、コロセは血肉に塗れた。

 アレからすぐに、若い女と中年男の二人がコロセの元にやってきた。弥寺は姿を消していた。

 若い女は制服を着ていて、身なりも年齢もまるで女子高生のようだった。

 中年男はワイシャツにジーンズ姿で厳つい面構えをしている。

 こちらの安否を気にする素振りもなく女子高生のような娘はポケットから煙草のケースを取り出し、そこから筒状に丸められた透明なフィルムを取り出した。それを広げながら彼女は視線を向けずにこちらへ尋ねた。「答えて、彼はどこに行きましたか」ぞんざいな口調だ。

 コロセは頭を振る。答えられなかった。知らないからだ。

 解ることと言えば、彼女の言った『彼』というのが、『あのおそろしい男』を示しているのだろうということだけだ。

 離れる瞬間すらはっきりとさせずに、曖昧に薄まりながら『彼』はコロセの目のまえから姿を消した。

「おい。被害者はどこの馬鹿だ?」若い娘に向かって中年男が投げかける。「これ、元はなん人だ?」

 一人じゃないよな、とあごを撫でている。無精髭がじょりじょりと鳴った。

「五人……いえ――七、八人ってところでしょうか」

 コロセの周囲――商店街の一角は半径五十メートル四方の規模ですべてが粉々に粉砕されていた。唯一コロセを残したすべての物体が、である。店もフロアも花壇もオブジェも何もかもの一切合切が砂のようになり、アリ地獄の巣のように局地的な窪みを形成している。

 爆発――ではない。

 どちらかと言えば、「解体」と言ったほうがより正鵠を射る表現に思えた。ただ、それも精確ではない。そもそも何が起きたのか、その瞬間をコロセは目撃していない。

 一瞬で周囲が破壊された。

 一瞬で赤黒く塗れた。

 ――血肉に、塗れた。

 一瞬の出来事だったにも拘わらず――なにも視ていなかったにも拘らず――自身に付着している〝それ〟が人間の肉片であるのだとコロセには判った。コロセの裡に侵入してきたあの悲鳴の存在があったがゆえの判断だ。ただそれだけの根拠で、肉片の主が『彼ら』なのだとコロセには解った。

 ――悲鳴。

 ――七人。

 七名の悲鳴だった。

 最期の声であり、命乞いだった。

 無残に霧消した叫びは、悲惨に霧散した喘ぎとなり、

 無残に飛散したアケビは、無駄に細かなミンチとなり。

 人間と人間と人間と人間と人間と人間と人間のミンチ――と、彼と僕。

 血と、肉と、骨と、温もりと、意思と、意志と、遺志――と、赤と黒。

 ない交ぜにして。

 ごちゃまぜにして。

 ゼリー状になって。

 液状になって。

 気化していく。

 冷えていく。凍てついていく。

 こうやって人は無に帰すのだろうか。

 こうやって世界の循環に加わるのだろうか。

 戻っていくのだろうか。

 知らない言葉で、知らない思いで、馴染まぬ寒気で、コロセは身体を小刻みに震わせた。凍えてしまわぬように。火照った身体をいなすように。

 こんなに寒いのに――なのに身体は滾っている。

 熱く。アツく。篤く。あつく。

 汗が止まらない。

『彼ら』と混じった汗は、脂っこくも赤黒く滲んでいる。

 恐怖の余韻なのか安堵なのか、コロセは放心していた。

「ウブカタさん」と娘が声を上げた。「被害者の一人、身元判明しました」彼女の手元のフィルムには、なにやら抽象的な映像が浮かんでいる。透明なので、コロセの低い視点からもそのフィルムに浮かぶ映像が裏側から望めた。

「どこのどいつよ」

 身のほど知らずの脳なしは――とウブカタと呼ばれた中年男はしゃがんでいる。臓物の一かけらを忌々しそうに見詰めていた。

「残された『メノフェノン鱗状痕』によれば――えっと、一零七号棟のH-12フロアに住むアヤシのものです。登録情報によれば、アヤシは来期からラバー候補生として『無印エリア』への移転が決まっています。それなりのパーソナリティを有していたものかと。アヤシの『特質』は――」

「あーいい。言わんでいい。脳なしの情報なんぞ聞いても無駄だ。というか死んだんだろそいつ。だったら聞くだけ損じゃねぇか」脳なしだけに用なしだ、と中年は詰まらないことを言った。

「ええ、はい。その通りですね」彼女は素っ気なく首肯する。「とりあえず、アヤシ以外のほかの連中ですが――彼らはパーソナリティを発動させる前に致命傷を負わされていたようですね。メノフェノン鱗状痕がありません」

「前以って発動させずにアイツに挑んだのか」呆れた口調で中年ウブカタは言った。「脳なしを通り越してやっぱし脳なしだな」

「アヤシは、どうやら最近になってサークルの仲間を募っていたようです。ほかの犠牲者もそのサークルの一員かもしれません」

「アヤシ――ね。多分、あいつらのことだろうな」

「ウブカタさん知っているんですか、彼らのこと?」

「おう。このあいだの『修理』が思いのほか大規模になってな」

 ああなるほど、と娘は合点した表情を浮かべた。「その際に彼らの家族でも死にましたか。それで、弥寺さんに意趣返しですか。八つ当たりも甚だしいですね」

「本気で言ってんのか?」冗談だろ、と中年ウブカタは冷笑する。「本来なら一般に被害が及ぶような規模での『修理』じゃねーんだよ。八つ当たりというのならアイツのほうだろうよ」

「ああ、はい。良くあるアレですね。力の加減を間違った――ってヤツですか。いつもいつもお疲れ様ですよね、弥寺さんも」

「力の加減を間違った……ねえ。毎度毎度、間違わないようにする気があんだかないんだか」

「ないんでしょうね」と娘はあっさりと応じた。

「こいつらの気持ちは解らんでもないが、にしても脳なしには変わりねーよなぁ」ったくバカだバカ、とウブカタは苦々しく顔を歪めた。「アイツに仕掛けりゃどうなるかなんて考えりゃ判るだろうに」

「いえ、考えるまでもないでしょう。だれに訊いたって結果はこうなること答えますよ。幼児ですら解りますよ」

 死亡確定ですよ、と穿き捨てるように言って娘は周囲を見渡した。透明なフィルムを丸めて煙草ケースの中に戻す。「それはそうと、どうします? 彼らは自殺志願者だった、とでも報告しますか?」

「どうすっかなあ。あーくそっ。面倒くせぇったらねーな」

「現場掃除のことですか? それとも弥寺さんへの事情聴取のことですか?」そら惚けたように彼女は中年ウブカタへ視線を向けた。

「その二つを同列に並べられるならイルカちゃん」と彼女の視線を払うようにして中年は、「アイツの事情聴取、そっちのほうを頼む」

「あ、ずるいです! ちょっと待って下さいよ!」一転してイルカと呼ばれた娘は取りみだした。「冗談も通じないんですか!? セクハラで訴えますよ!」

「いやいや。ちょっと待つのはイルカちゃんのほうでしょ」中年ウブカタは立ち上がって背を伸ばすようにする。「セクハラで訴えられるのはセクハラを受けるくらいに容姿端麗な女性のみだ。わるいが、イルカちゃんにその資格はない」

「その発言自体がセクハラです」

「それによ」と彼は語気を強め、「その歳にもなってブタさんパンツってどうなのよ? え、イルカちゃん」

 イルカは短く、ひっ、と声をあげた。スカートのすそを押さえる。「み、見ましたか!? 覗いたんですか!? ヘンタイなんですか! ヘンタイなんですね!」

 語気を荒らげ彼女は両手を構えた。

「だれが覗くかよ。見たんじゃない、見えたんだっつーの。安心しろ、オレはセクシーな大人の女が好きなんだ。テメーみてぇなオコチャマにゃ興味ねーよ」ピクリとも反応しねぇや、と言って自らの股間を叩くようにした。

「よし死ね! 今すぐ死ね! 死んで詫びたうえで重ねて死ねッ」

「お、本性あらわしやがったな。悔しかったらもうちょっとなんだ、色気あるパンツでも穿けっての」

「ブタさんのなにがわるいんですか! かわいいでしょ!」これだから中年は、これだからもう、とイルカはぶつくさ零した。

「いやな、別にブタさんはわるくないんだが、その、なんだ。ブタさんパンツを穿くイルカちゃんのセンスがわるいんだ」

「だれかっ、だれかこいつに処分の通告を! 迅速なる抹殺の許可をわたしに!」粉塵の晴れてきた空間を仰ぐようにし、イルカは喚いた。

 あーウゼいウゼい、とウブカタが自分の肩を揉む。そしてイルカから視線を外し、「おい。坊主」とこちらに向き直った。「今からここはお掃除タイムだ。ちょっくら外してくれるかい」

 反応を示すことができずにいると痺れを切らしたのかウブカタは、「おいちゃんが、もう少し分かりやすく言ってやろうか?」とドスの効いた声で唸った。「出てけって言ってんだよガキ」

「ちょっとウブカタさん! なんて口の利き方ですか! 駄目ですよ」

 そんな親切な言い方では――と中年男を押しのけてイルカ娘が近づいてくる。こちらへ向け、「ねえ、クソガキちゃん? 今からおネイさんが一分だけ待ってあげます。そのあいだにこのフロアから消えてくれなきゃ、おネイさんがキミの頭蓋を親切丁寧に叩き割ったあとで、ただでさえ空っぽの脳みそを心底ぞんざいに残らずすべて取り除いてあげます。ついでに、この世界から跡かたもなくキミとキミの家族も友達もこれまでにキミと関わったすべての人間たちを消し去ってあげます」

 もちろんこのオジさんも含めてね、とウブカタをゆび差しながら猫撫で声で予告した。

「おいおいイルカちゃん、そりゃないって」いくらなんでも酷いって、と中年ウブカタは喚いた。「オレは見逃してくれ」

 イルカの言葉が『予告』である以上、言葉の示す現象をイルカは必ず実現させるという意気込みなのだろう。すかさず彼女はカウントダウンをはじめた。「五十九、五十八、五十七……」

 ああ、そうか。

 冗談ではないのだな。

 コロセは冷静に彼女の言葉を信じることができた。

 このひとたちは、なんの躊躇いもなく僕を殺すのだろうと。

 家族や友達やおととい出会ったばかりのマスターやノドカたちをも殺すのだろうと。

 ――きっと彼女たちは、十把一絡げで大勢の人間を殺してしまえる存在なのだろう。

 なんの疑いもなく。そう思った。

 

   ***

 中央棟を含めたステップと呼ばれるタワー型の建造物の集合体――すなわち、学び舎全域――が、一つの国として機能している。

 ステップという一つの建物の中に、いくつもの街が広がっている。

 フロアが各階ごとに点在しているために、一つのステップに「市町村」がミルフィールのような層になって区分されているというふうに言える。

 ステップの大きさや規模などによって、そこに内包されているフロアの設備はステップごとに大きく異なっている。ステップが小さいなら、必然、フロアも狭くなり、規模も小さくなるからである。単純に豪勢なマンションとしての機能しか持たないステップもある。

 または中央棟のように、一つのフロアの中にさらにいくつもの区分された住宅街が存在しているステップもある。碁盤の目のごとく、区切られている。

 そしてコロセが様々な意味合いで衝撃的な二日間を過ごした商店街は、中央棟のG-08フロアであった。


 あの騒動のあと、気付くとコロセは中央棟の外にいた。

 階段を降りてきた覚えもないし、エレベータに乗った覚えもない。

 そういえば、と思い返す。二日前。アークティクス・サイドに足を踏み入れたあと。ノドカと一緒に中央棟に入った。そのときにも階段やエレベータを使った覚えはない。適当に歩いていたらいつの間にかあの商店街に立っていたのだ。

 喫茶店から外に抜けるまでに通った『チューブ』を思いだす。

 門を抜けてからこの学び舎までの道のりを思い浮かべる。

 いずれもコロセはただ歩いていただけだった。

 何かが変だ。今までの世界とは決定的に違う。

 そもそもノドカのあの車の運転だって、いくらなんでも事故を起こさないわけがない。しかし無事に辿り着いた。あれはもしかしたら山道を走っていたわけでも、区切られた道路を走っていたわけでも、コロセの知っている世界を走っていたわけでもないのかもしれない――何もない世界を走っていたのかもしれない。だから事故を起こすことがない。

 いや、視たわけではないから解らない。そもそも、そんな些細な問題はどうでもよいことだ。いや、問題にすらなっていないではないか。それが解らないからといって、コロセはなにも困らない。何一つとして困らない。

 知らない土地。

 知らない世界。

 知らない人と、

 知らなかった死と。

 空は明るい。

 見上げる。ステップとステップを繋ぐ通路が見えた。段違いになって交錯している。通路の奥に、闇が覗いていた。それを確認して、やっと今が夜なのだと判った。

 中央棟に背を向ける。

 ステップとステップの狭間にも闇。があり、その闇に向かってコロセは歩んだ。

 そうだ、帰ろう。

 もう終わったのだ。

 旅はもう終わりだ。

 帰ろう。

 妹にこの話をしてやろう。

 ここはとてもこわい場所なのだと。わるい場所なのだと。

 教えてあげなくては。

 コロセはアークティクス・サイドを彷徨う。

 しずか。

 とてもしずかだ。

 ここには音がない。

 空気がないからだろうか。

 どうして僕はそんな難しいことを知っているのだろう。

 音は空気の振動によって伝わる。

 そんなことを僕は知らない。

 ――知らないことを知っている。

 あれ、だれの言葉だっけ。

 コロセは歩を止めた。

 その瞬間にうでを掴まれる。

 左のうでを掴まれた。

 振り返る。

 息を荒らげたノドカが立っていた。

「どーこ行くんだよ、このヘチマ! お前はあたいの弟だろ」

 

   ***

「弥寺さんってのはね、アークティクス・ラバーでいっちゃんヤバイ人なの。クウちゃんは近付いちゃ駄目だかんね」

 うしろからこちらを包みこむように抱きかかえたままでノドカは言った。

「クウちゃん」というのは、コロセのサイドネイムが「クウキ」と決まったからだろう。ここではコロセは「ノロイコロセ」ではなく、「クウキ」なのである。

 さきほどからノドカは、コロセを抱えて離さない。コロセも大して抵抗しない。

 ノドカにとってコロセは、抱き枕か、人形なのだろう。

 ――無償で自己を反映させることのできる存在。

 ――無性に自己を注ぎたくなったとき、無条件で自己を押し付けることのできる存在。

「愛を注ぐよりも、愛を受け入れるほうが難しい」――この二日間にコロセが観たアニメに出てくる悪役が、そんなことを言っていた。

 けれど、でも、今のコロセにとって、ノドカのその押しつけがましい愛情はそれほど苦痛ではなかった。

 彼女がコロセをそうしたように、コロセにも彼女が必要だった。

 支えることで支えられる――人とはそういうふうにできているらしい。

 こちらの肩にあごをのせノドカは、こちらの耳のすぐよこで囁いた。「イルカちゃんってのはさ、めっちゃ子どもが嫌いなんだよね。二年くらい前かな。なんかね、外での任務のときにさ、子どもにひどい目に遭わされたんだって。あのイルカちゃんがだよ? どんな子どもだよって思うでしょ?」

 彼女に揺さぶられながらコロセは耳だけを澄ましている。

「あたいはまだそんときラバーじゃなかったから、だからイルカちゃんを瀕死にしたその子どもってのがどんな子かは知らないんだけど、でもね、あのイルカちゃんが相手でさ、イルカちゃんが負けるなんて、あたいは信じられないんだよね。パーソナリティは歳に関係なくイっちゃってる人はイっちゃてるからね。だからまぁ、相手が子どもだってのは別に不思議じゃないんだけど。むしろイルカちゃんだって二年前って言ったらじゅうぶん子どもだよねって話でさ――でも、あたいは密かに、イルカちゃんを痛めつけた相手ってのが弥寺さんじゃないかって睨んでたり深読みしちゃってたりするんだよ」

 コロセは口を閉ざしたままで、相槌を打つこともない。だが耳をふさぐこともしなかった。

「でさ、なにが言いたいかって言うとね――事実イルカちゃんに怪我を負わせたのが、弥寺さんじゃなくってもさ、あたいにそう思われちゃうくらいに弥寺さんはヤバイ人ってこと。ヤバイって分かる? 危険だってことだよ。クウちゃんもそう思ったっしょ? このひとはアブナイって。うん? クウちゃん、弥寺さんに遭ったんでしょ?」

 より小さく蹲ることでコロセは無言の肯定を示した。まだおそろしかった。あの男がこわくてしかたがない。

「そっか。うん、しょうがない。誰だってあのひとと対峙しちゃったら、最初はそうなるって」

 気にすんな、とノドカは軽く言った。

 その軽さが心地よかった。

 当初こそ彼女はやかましいだけの楽観主義者かと思っていたけれど、彼女は彼女なりに彼女の苦痛を知っているのだろうと幼心にそう思った。

 彼女はやめて欲しいほど的確にこちらの心情を汲み取った。

 きっと彼女もこわいのだ。少なくともむかしは、こちらと同じ恐怖を抱いていたのだろう。

「んでさ、たぶんイルカちゃんと一緒にいた男ってのは、ウブカタさんだね」

 イルカという少女も、中年男のことをそう呼んでいた。

「ウブカタさんはね、口はわるいけど、ラバーのなかじゃ一番の常識人かな。っていうか、一番人間らしい人間って気がする――ラバーのなかではってことだけどね。なんだろうなあ。相手に合わせて行動とか発言を変えるんだよね。あたいと一緒のときは、あたいに合わせて、よくアニメの話とかしてくれるし。でもたぶん、ウブカタさん自体はアニメにそれほど興味ないんじゃないかな。あたいの顔色読んだり、たまには波紋も読んだりしてくれちゃってさ。まあなんだかんだで、あたいに合わせてくれてるんだよね。ああいうのって八方美人っていうのかな、コミュニケーション能力が備わっているっていうのかな。というかほかのラバーのみんながみんな揃って人間らしさが欠如してるってだけの話なんだけどね。まあそうやって、ウブカタさんって人はさ、普段から小物みたいに振舞ってあんまり目立たないようにしてるんだろうなー、ってあたいは思っちゃうわけですよ」

 ノドカは手を組みかえ、よりやさしくこちらを包みこむ。

「ウブカタさん――あの人、実際はさ、あたいの波紋を読むくらいには実力があるんだ。これでもあたい、普段からできる限り、波紋、糊塗してんだよ? それって結構すごいことだと思うんだよね。自分で言うのもなんだけどさ。以外にこの地道な努力が疲れるんですわ。まあ、まだクウちゃんには解らないだろうけどもね」

 緘黙したままでコロセは彼女に身を委ねている。

「ねえ、ちゃんと聞いてる? 聞いてたら褒めてくれてもいいじゃんか。あれあれ、聞いてないのかな? 聞いてないんだね? 聞いてよ聞いてよ、あたいの話を聞いておくれよ」

 つうか聞けくそガキ、とノドカはこちらの頭の上にあごを載せ、ぐりぐりと刺激を加えた。

 ああ、イタイ。

 そして、ウザイ

 きちんと聞いていますよ。その刺激も地味に効いていますよ、だからやめてよ、とコロセは彼女を上目に睨んだ。

 きしし、とノドカは嗜虐的な笑みを浮かべた。つよく抱き直される。「なのにウブカタさんはあたいの波紋を盗み読みするんだ。自分の波紋を糊塗しながらにだよ。あたいの日頃からの努力が通じない。あのひとはね、あたいが知る限り、相当の手練だよ。ミタケンさんといい勝負かもしれない。あーあ、オヤジなのがもったいないよね」

 どうやらノドカもアークティクス・ラバーの一員らしい。

 ラバー以外は学び舎から外に出ることが許されない。ここの住人――保持者たちは通常、アークティクス・サイドから出られないのである。けれどノドカはコロセを迎えに外に出ていた。

 アークティクス・ラバーである以上は、彼女も相当の手練だということになるのだろう。とてもそうは見えないのだが。

 ノドカはそれからクドクドと回りくどい話し方で、コロセが遭遇した状況を説明した。

 もっと簡素に言ってくれれば、一言で終わるような内容に、彼女はゆうに三十分はかけた。とにかく話が途中で脱線する。脱線したまま元には戻らない。戻らないのにいつの間にか脱線した話が本筋に結びついているから驚きである。だからきっと彼女にとっては脈絡があるのだろう。とはいえ、客観的に話を聴いている限り、脱線しているようにしか聞こえない。コロセにとっては難儀な思考回路の持ち主であった。

 ノドカの説明をまとめると、次のようなものだった。

 弥寺という男に恨みをもった連中が弥寺に奇襲をかけ、逆に殺されてしまった――という内容。

 もう少し補足するならば、弥寺はそのとき、中央棟のG-10フロアでペットショップに陳列されていた亀を眺めていたらしい。中央棟のG-10フロアというのは、コロセが二日間を過ごしたあのフロアの隣であるという。

 ところで。

 ――亀を眺めている弥寺。

 コロセには想像できない。ノドカもきっとそうだったのだろう、だからあんなにも興奮しつつ強調して亀を眺める弥寺の描写を熱弁していたのだ。そうに違いない。

 亀の話もそうであるが、ノドカが幾度も脱線した話の数々は、結局は『弥寺さん奇襲事件』の説明に対する補足であった。

 たとえば、個人が有しているパーソナリティは、武力や起動力、影響力、自身にかかる応力、他者に及ぼす応力、〈自身〉と『世界』との境界に生じる歪――界面張力、その他諸々のパーソナリティが持つ外力を、この学び舎では数値化しているのだという。

 それらのいくつかを総合して、戦闘力や守備力、適応力――さらにそれらを統合した「パーソナリティ値」として組織から個人に対して通達されるようである。

 その数値が規定値以上に達していればアークティクス・ラバーとして組織直属の総括部から任務を受けることになるという。

 そして重要なことは、相手のパーソナリティが自分よりも高いからといって、必ずしも相手に敵わないかといえば、そうではないという点だ。

 ラバーの面々は突出して戦闘武力が高いという。対峙して戦えば瞬殺は必至。ただし、それは飽くまでも、対峙した場合である。不意をついた奇襲であれば――そしてこちらの有しているパーソナリティが人間を殺傷するに値する特質だったならば――容易にラバーを殺すことができる。

 むろん、パーソナリティを発動させれば同時に波紋も大きく波打って相手に気付かれてしまう。だからパーソナリティを行使するのと並行して波紋の糊塗に努めなくてはならない。それはそれなりにパーソナリティ値の高い者でなくてはできないという。今回の件でいえば、アヤシという若者がその域に達している保持者だったようだ。

 ほかの者たちも人を殺せるくらいのパーソナリティ保持者ではあったようだが、殺傷と同時に波紋を糊塗するには至らないレベルだったそうで、だから彼らはナイフなどの道具を持ち寄って弥寺に襲い掛かったそうだ。

 それは高い戦闘力を有している保持者に対して有効な手段なのだろう。すれ違いざまにナイフでひと刺し。負傷して悶絶している相手に、すかさずパーソナリティでとどめを刺せば完了なのである。殺害という目的を遂行させるだけならば、これで完璧だろう。仮に問題が浮上するのだというのなら、それは殺害後の処理についてだ。

 ここアークティクス・サイドでも殺人は重罪である。

 人を傷つける行為は、相手に傷害を負わせるに至る経緯に関係なく罪なのである。こと、パーソナリティを用いた傷害沙汰は罪が重い。

 パーソナリティを発動させるというのは、それなりの意力が必要なのだという。強く意識しなければ行使できない。つまりパーソナリティによって誰かを傷つけるというのは、明確な殺意を伴っていたというなによりの傍証となる。

「弥寺さんは特別だから。殺そうとすればさ、逆に殺されちゃうんだ。絶対にね。それ以前にさ、弥寺さんに目をつけられたら――興味を持たれちゃったら――殺されてしまう。毀されてしまう。弥寺さんにその意思がなくとも、こっちがあのひとの力に耐えられないんだ。それがここでは当たり前なんだよね。許されてしまっている。ね、解った? あのひとはヤバイんだよ」

 クウちゃんはあのひとに近付いちゃ駄目なんだかんね――とノドカははじめと同じ台詞を繰り返した。

「今日はもう寝な。ね?」

 コロセを解放してノドカは、そのお喋りな口を閉じた。

 何かを言いたげに逡巡したのち、そのままなにも言わずに彼女はコロセを残して部屋から出ていった。

 薄暗い部屋。

 独りはさびしかった。

 独りがこわかった。

 独りはさむかった。

 コロセはノドカの温もりが霧散してしまうまえに、ベッドにもぐった。

 ベッドのなかでうずくまる。

 自分の身体から、おしゃべりなノドカの匂いがした。

 眠りにはすぐに落ちることができた。ベッドのなかはいつまでも温かかった。



   タイム△△△スキップ{~基点からおよそ三カ月後~}

 ***コロセ***

 むかしを懐かしむという懐古は案外に、いま目のまえを流れている時間の経過から目を逸らさせてくれるらしい。

 忘れていた記憶を思いだす換わりに、「今」という時間を忘れさせてくれる。

 回顧というのはそういった代償行為によって齎されているのかもしれない。いや、代償を必要としない現象なんて有り得ないのだろう。どんな現象も、そこにはそれに見合った代償が生じているはずなのだ。

 ――作用されれば、同じだけ作用される。

 気がつくと時刻は昼を過ぎていた。朝からベンチに座っていたから、僕はかれこれ六時間ちかくも「むかしの自分」に思いを馳せていたことになる。アインシュタインも納得のタイムトラベルだ。

 ――待ち人は未だ来ず。

 ベンチに座り直すかたわら、うしろにあるケヤキの木を確認する。

 ――まだ来ない。

 でも、そう、この時間帯はまだなのだ。いつも小春ひよりは夕方になってから姿を現す。まるで幽霊みたいだ。夕刻にならないと現れない。でも、仮に幽霊がいるのなら、夜でなくともそこにいるはずなのだ。視えないからといって存在していないということにはならない。僕の右腕がなによりの証だ。

 ――ひまだ。

 と僕は思った。

 そんなことを思うなんて、ここ数年なかった。これまでの僕には考えられない心境の変化だ。

 それもこれも小春ひより、彼女と出逢ってからの顕著な変化だ。彼女と言葉を交わすようになって、彼女と囁き合うようになって、彼女の笑顔を、儚げな顔を、優しい顔を、あのわずかに青みを帯びた円らな瞳を見つめるようになってから僕は、それ以外の時間を――僕のとなりに彼女がいない時間を――つまらないと思うようになった。逆説的にそれは彼女と共に過ごす数時間で僕が満たされているということなのだろう。詰まっているということなのだろう。

 そして今、僕のとなりにはまだ彼女がいない。誰もいない。

 だから、

 ――ひまだ。

 暇をつぶすために僕はふたたびタイムトラベルを試みる。

 思いだしたくない多くの記憶を思いだすことを対価に――小春ひより、彼女が現れるまでの時刻まで飛ぶ。

 ノドカと過ごした日々を僕は思いだす。

 

   ***

 ノドカという破天荒な人間は、有言実行――本当に僕を弟にした。

 周囲にそう公言するだけでなく、記録上もそのように登録し直したのだという。その無茶苦茶で横暴ともとれる行動力が、果たしてアークティクス・ラバーの持つ権威によって後押しされたものなのか、それとも単純に彼女が、行動力の著しい人間だったのかはいまとなっては判らない。

 ともかく僕は、ノドカと姉弟の関係となった。

 姉弟というのはつまりは家族ということであって、結果として僕はノドカと一緒に住むこととなった。そのために――僕と一緒に住むためだけに――ノドカはわざわざ引越しまでしてきた。家族は一緒に暮らすものだ、がノドカの曲げられない信条のようであった。異論はないのだけれど、ノドカが言うと正論も歪んで聞こえるのはなぜだろう。

 僕には「クウキ」というサイドネイムのほかに、立派な住居が用意されていた。

 零一六号棟の最上フロアの一角が僕の住居だった。

 ほかのステップに比べればかなり小ぶりのステップだ。なんだか普通の(とは言っても相当大きいことは否めないのだけれど、それでもほかのステップと比べれば質素に見えてしまうような普通の)マンションみたいだった。ほかのステップとは大違い。もちろんわるい意味で。

 けれどそれはあとで聞いた話によると、ノドカが僕に合わせてできるだけ外の世界にちかい造りの環境を選んだ、という配慮によるものだったらしい。

 零一六号棟は人気がない。人気がなければひと気もなくなる。そうやって僕は、森閑な零一六号棟でノドカとの日々を送った。

 ノドカも僕と同じように、数年前に、外からここへ来た人間だったらしい。家族もいない、友達もいない、見知った者が誰一人としていない環境で彼女は孤立したのだという。現在の僕と同じだ。

 僕とちがう点は、異例のスピードでノドカがアークティクス・ラバーとなったことだろう。

 保持者になったそのときから、ラバーとなり得るほどに強力なパーソナリティを有している者も決して少なくはない。ただ、そういった者の多くは遠からず『暴走』してしまうのだという。暴走した者は処分される。マスターから聞いた話は事実だった。

 だから、ノドカがアークティクス・ラバーとして認定されたのは、結構にすごいことなのだと僕は思う。確率的にも。実力的にも。

 アークティクス・ラバーがどんな任務を熟なしているのか、詳しいことは僕には解らない。ノドカも僕には言わなかった。言わなかったということは、必要のない情報だということなのだろう。きっと知る必要のない情報だったのだ。彼女は僕に、必要なことは必要なこととしてきちんと教えてくれた。すこしエッチな知識も僕は彼女から教えられた。もちろん話を聞いただけであって、実技はなかった――ということを僕はノドカのために弁解しておこう。僕らは健全に姉弟だった。いや、これはちょっと言い過ぎかもしれない。僕らはある程度には不健全な、それでいて仲の良い姉弟だった。

 男女の身体の違いや、その役割。そのほかにも愛し合うときにはお互いのあいだにできる子供たちのことをよく考えること――そういったことをノドカは熱心に説いた。熱心なのは毎度のことだったけれど、そのときはいつも以上に熱が入っていた。

「大人になるためにはだね、知らなくてはならない重要なことなのさ。なにも恥ずかしがることはないのだよ少年」とノドカは真面目に説いた。ちゃっかり余計に余分なエッチな知識も織り交ぜながら。

 恥ずかしがるな、と言うほうが無理というものだ。僕は大いに恥入った。忸怩たる、というのはこういった場面でも用いる言葉なのだろうか、と僕はすこし迷う。

 こうやって何かを疑問に思って迷えるくらいの学力を――保健や国語、数学などの必要最低限の教養を――僕はノドカから教わった。ノドカによって培われた。

 そう、ここでは義務とされる学校がない。色々と知識を得るための「学校」として機能する場所はあるのだけれど、そこに行くことを強要されていない。

 一方で、『保全クラス』『基礎クラス』『素養クラス』『応養クラス』などといったように、個々人のパーソナリティの制御レベルに合わせて、クラスが割り当てられてもいた。そのほかにも『特別育成クラス』というものがあるのだけれど、僕には無縁のクラスなのだとしばらく経ってからノドカは言った。

「クウちゃんってばさ、どんなにすごい逸材かと思ったのに、期待外れ過ぎだよー。でもお姉ちゃん、逆にうれしい」いしし、と笑ってからノドカは、「できた姉には駄目な弟ってのが定石っしょ?」と僕を駄目な人間扱いした。

 悲しいことにノドカの言う通り、僕は立派に駄目な人間だった。立派なのでもなく、ただ駄目なのでもなく、立派に駄目な人間だった。酸素と水素は別物だけれど、結合させるともっと異質な水になる、みたいな具合に僕は自堕落街道をまっしぐらに進んだ。

 ――よろこべ我が姉よ。

 あんたの言うことは正しかった。

 いつだって正しかった。

 いまだって正しい。

 きっとこれからも正しいに違いない。

 ただ僕は、あなたの忠告のことごとくを守らなかった。そのことをノドカは知っているだろうか。なんだろう、今になって僕はすこし不安だ。バレてなきゃいいな、と思いつつもこの自分の無駄な思考――バカさ加減に呆れる。

 ノドカの忠告はいつだって抽象的だった。「自己を高めるには修行をしろ、修行を」とこんな感じである。

 けれど僕はもう、「抽象的に言うからわるいんだ」とは思えなくなった。成長しようとしない人間は衰退する。そんな当たり前のことに今さらながら気付いたのだ。

 なんだかんだ言って僕は、あのチャランポランな姉にいつまでも振り回されている。


「寝ているのですか?」

 控えめに囁く声がした。

「目を開けたまま眠れるなんて、すごいです」こんど教えてください、と小鳥のさえずりに混じって、彼女の声がした。

 宙を漂っていた視線が風景に定まる。身体から旅立っていた意識が舞い戻ってきた。

 タイムトラベルは成功した。

 僕のとなりには小春ひよりが座っており、いつものように身体を前後に揺らしながら足を振っている。

 体躯の小さな彼女には、このベンチは大きすぎるみたいだ。それでも僕は移動しない。いつもこの場所で彼女とお喋りをする。彼女のその、足を振る仕草が好きだから。僕は自分のために移動しない。きっと彼女もそうやって足を振るのが好きなのだろう、と都合よく考えて、僕はこの自分勝手な思考をすこしでも正当化しようとしている。

「目を開きながら眠るとね」僕は答えた。「夢と現実が入れ替わるんだよ」

 彼女は目をパチクリとさせて、それは、と口にした。

「それは、すてきです」

 

   ******

 ただこうしてベンチに座って、時折り狂いそうになる遠近感覚に酔いしれるのが、僕は好きだった。

 壮大な壁がそうさせるのだ。

 遠く離れたこちらからはまるで、抽象的な紋様が描かれているように見える。ただしそれらはグラフィティアートではない。ペイントみたいに平面ではなく、きちんと立体に存在している模様。花々がつくりだす色彩の模様。

 触れれば解ることだが、造花ではない。生きた花だ。

「生きるってのはだね、循環することなのだよ少年」と僕はノドカから教わった。

 世界の循環に自己の循環が内包されている状態が生きるという意味なのだという。

 あるいは、世界の循環から逸脱しようと抗えることが、命が命足り得るに重要なファクタなのだという思想も、なにかの講義で耳にした。

 そんなの眉唾だ、とその思想を理解していないうちから僕は粗末に思った。理解する気も起きなかった。

 だって、思想も主義も、解釈に過ぎない。

 どんなものであっても解釈に過ぎないのだ。そこに元来、意味などはない。

 あるのは人類が勝手に見繕い付加した解釈だけだ。

 僕がそう言うとコヨリは、「ニヒルね」と微笑んだ。

 ――ニヒル。虚無。

「ニヒルってクウキのためにあるような言葉だよな」と言ったのは誰だったか。考えるまでもない。僕にそんなお節介な言葉を振りまく酔狂な人間なんて、僕にはノドカ以外には、努樹(ドキ)しかいないのだから。

 ――城門(じょうもん)努樹(ドキ)。

 こちら側に来て僕が幾度となく言葉を交わした数少ない人間の一人だ。ノドカ以外での唯一。

 城門努樹は、本名ではない。こちら側でそれぞれに与えられた、自己を特定する記号――サイドネイムだ。

 努樹にも、「僕はコロセ。ノロイ・コロセだよ」と自己紹介した。その際に僕は、不謹慎にも努樹に対して本名を尋ねた。「よかったら努樹の本名も教えて」

「オレの本名? だから城門努樹だよ」努樹は愉快げに言った。「おまえみたいに二つも名前は持っちゃいないのさ」

 そのときになって僕は、如何にこのアークティクス・サイドで自分が異質であったかを再認識した。自我が形成される以前から学び舎へ身を置き、生活をしている者のほうがここには圧倒的に多いのだ。そもそも、そうやってここで育ち、ここで結婚し、子を持ち、育て、一生を終える。そうやってここが世界の全てだとして生きていく者も決して少なくはない。そしてそういった者たちが生んだ子どもが、努樹たちのような純粋なアークティクス・サイダーなのだろう。

「アークティクス・サイダー」なんて言葉、本来はない。ただ、僕が勝手に彼らのことをそう心のうちで呼んでいる。区別している。ともすれば、差別をしている。そのためだけに創った、僕だけの、僕のための言葉だ。

 そうやって僕は、自分と彼らとのあいだに越えられない壁があることを認識しようとしている。でないと、僕はここで、理由なき孤独を身に纏いつづけなくてはならなかったのだから。


 ところで。

 パーソナリティを強化して、規定以上の能力値を身に付けられなければ、アークティクス・ラバーにはなれない。ラバー以外はこの学び舎の外――アークティクス・サイドの外に出ることが許されていない。

 あの女医さんが言ったように、ヒーローとして活躍するに値しない者は、アークティクス・サイドから出ることができないのだった。

 もちろん、出られないからといって、別段生活に困ることは何もない。なに一つとしてない。設備は充実しているし、治安もこれ以上ないくらいに秩序が保たれている。ここでは争う必要がないからだ。貧富の差もなければ、生活水準もほぼ一定。不満を抱くほうが難しいくらいの社会。唯一の例外が、アークティクス・ラバーとその他の保持者たちとのあいだにある、生活環境と生活習慣の違いなのだろう。任務のあるなし。尊敬の念を注がれるか否かの違い。その程度の差異。微々たる差異。

 アークティクス・サイドの人口は、およそ三十万と聞いている。そんなにいるのか、と当時は驚いたけれど、いまにして思えば、こんな異質で特殊な都市を三十万人で維持していると考えれば、むしろ大いに少ないのでは、と心配にもなる。といっても住民たり得る僕らが、このアークティクス・サイドの維持になにか貢献しているのか、と問われたところで、「何もしていません」と慎ましく答えるのが関の山だ。ここでは人口の多さと社会維持とのあいだに、密接な相互関係がない。

 僕らは本当に何もしていない。いや、消費と浪費をしているので、むしろ足を引っ張っている存在なのだ。

 どんな経済システムでここが維持されているのか――といった疑問はここではあまり共有されにくい。

 なぜなら、純粋なアークティクス・サイダーである努樹たちにとって、こここそが社会の中心であり、「当たり前」であるからだ。僕は外の社会とここの社会との差異を感じることができるけれど、彼らはその差異によって生じる絶対的な違和感を抱くことはない。

 労働に対する対価――対価を得るには代償が必要だというその「当たり前」がここにはない。物資も食料も娯楽も勉学も、ここではすべてが無償なのだ。

 いやもしかしたら、ここに幽閉されていること、それ自体が代償なのだろうか。

 いやそんなわけはない。

 ここの環境を知って自ら拒むような人間はまずいないだろう――僕のような捻くれた人間を除けば。

 僕はここから出られるのなら、出たい、と思っている。けれどそれは、出られるものなら、という限定条件であって、どうしても出たい、ではないのだ。そこまでの拒絶の意志を僕は持ち合わせていない。

 ここは本当に良い環境が整っている。

「良い環境」というのは、「自分にとって都合の良い環境」という意味だ。

 僕にだってそれは充分該当する。ここは、僕のような自堕落な者にこそ適した環境とまで言えてしまえるかもしれない。

 一方で、努力する者が報われないか、といったらそれは違う。努力した者は、その努力が規定値以上の技能として実っていれば、アークティクス・ラバーとしてさらなる自由と名誉と地位が与えられる。権威を得るのだ。

 多くの者は、アークティクス・ラバーとなるために、日々精進している。

 世界の構造を学び、パーソナリティの原理を知り、己の特質を理解し、パーソナリティを開拓して、強化する。知力と体力の底上げを一つの美徳として、毎日を生きている。彼らにとって向上心は、三大欲求に並ぶ、一つの快楽となっているのだろう、と僕は分析している。そうでなくとも、娯楽の一つにはなっているはずだ。

 僕にはそんな風に日常を過ごすことは無理だった。

 学ぶことは好きだ。けれど習うことは嫌いだ。

 精進は好きだ。けれど勉強は嫌いだ。

 要するに、やらされることが僕は嫌なのだ。

 外でもここでもそれは同様に「我が儘」と呼ばれるものらしい。ときに――頑固者、自分勝手、自分よがり、自己中心的、利己的、独善的、唯我独尊――そんな風に呼ばれることもあるのだろう。

 その通りなのだと思う。ここでいくら僕が弁解を展開したところで、そう思われていることに変わりはないし、周囲の認識が変わることもないのだろう――相手が、どんなことを考えているかという思考と、どんな行いをしたかという事実は、無関係でないにしろ別物であることに違いはないのだから。

 他人を評価するにあたって通常、人は、相手の行動を基準にして評価するものらしい。言動も行為の一つではあるけれど、それ以上に、より社会に対して直接的に、物理的に、作用する行為を人は重要視する。逆説的にそれは、いくら口で高尚で高等な理屈や思想を述べたとしても、舌の根の乾かぬうちにそのひとが卑劣で下賤な行為をしたのならば、そのひとは明らかに「排他されるべき者」といった評価を他者から付加されてしまうのだろう。

 それが世の常というものだと僕は思っている。経験的推論から導いた僕なりの法則だ。誰でも思い付くような稚拙な発想なのだけれど、それでも僕がこの法則に気がつくにはこの世に生を受けてから十数年を費やしたことになる(当たり前のことだからこそ誰も教えてくれなかったのだろうか。それとも僕が頑なに他人の箴言に、ノドカや努樹の言葉に、耳を傾けなかったからこそのこの怠慢なのだろうか)。

 たとえばの話――。

「人の命は尊いものだ。たとい尊くなくとも、人を殺すことはいけないよ」と言った者が、次の瞬間に人を殺してしまったのなら、それは明らかに忌むべき人間として大多数の者から糾弾される。

 言っていることは正しい。ただし、やっていることは許されない。矛盾している。しかし僕は自家撞着を指摘したいわけではない。

 だから今の場合、「ある人が熱心に大衆へ向けて命の尊さを説きながらも破廉恥に大衆へ向けて立ち小便の雄姿を晒している」という場面のほうが適切な喩えだったかもしれない。

 吉田歌田(かでん)教官いわく。

   行為は思想を凌駕する。

   行為に昇華されなければ、理想はただの妄想である。

 ――だそうだ。

 

 アークティクス・ラバーとしての任務をノドカが果たしているあいだ――ノドカと一緒に過ごせないあいだ――は必然、僕は彼女から教鞭を振るってもらうことができなくなった。そのために、ノドカがいないときは仕方なく、割り当てられていた『素養クラス』で僕は講義を受けていた。

 そのころの教官が吉田歌田教官――通称、吉田のジイさま、だ。

 吉田のジイさまに指導されていた時期、僕は反抗期まっただなかにいた(ひょっとすると現在もまだその延長線上にいて、反抗期を脱しきれていない、という見方もできるかもしれないけれど、しかしそれでもあのころよりかは幾分も落ち着いたと思いたい)。

 吉田のジイさまは説教の好きな爺さまで、ことあるごとに僕らへ向けて寓意染みた教訓を口にした。偉人先人たちが宣わられた言葉なのか、それとも自分で考えて嘯いていたのか、吉田のジイさまが宣巻いていた箴言の出所については一切の説明はなかった。だから、というわけでもないけれど、僕らは幾度となく異議を申し立て、異論を唱え、反論に勤しんだ。

 吉田のジイさまのことで僕が唯一心から尊敬できる点は、そうやって口角沫飛ばして息巻く僕らの稚拙な反論に対して、彼が誠心誠意、耳を傾けてくれるような大人だったというその一点に尽きる。生徒たちやほかの教官たちからは、「暇人」などと揶揄されていたようだけれど、それは本当にただの揶揄でしかなかったのだといまになって僕は思う。

 吉田歌田教官は、先日、お亡くなりになられた――らしい。

 僕はそれを風の噂で耳にした。

 こうしてアークティクス・サイドで「受けるべきだろう」とされる講義にも参加せず、課せられた「やるべきであろう」トレーニングのメニューも擲って、日がな一日、ひと気のないベンチに座って時間の経過をただ、ぼうっ、と見つめている。それでも噂はどこからとももなく僕の耳へ届いている。ほんと、人間の耳というのはなとも不思議だ。

 僕は自分の部屋が嫌いだった。

 ある日を境に、ノドカと過ごしたあの部屋が嫌いになったのだ。

 登録さえ変更すれば、引越しはいつでも好きなときに好きな空き部屋へ移ることも可能なのだけれど、僕はそうしなかった。嫌いな要因が、部屋の構造ではないと自覚しているからだ。だから、たとい引越したとしても、たぶん、僕はその部屋を気にいることはない。加えて僕は、あの嫌いな部屋を――ノドカと共に過ごしたあの部屋を――手放したくはないと思っているのだから始末がわるい。自家撞着の塊こそが僕なのだ。

 僕はでき得る限り、空のしたにいたいと思っている。

 空気の流れている場所、仕切りのない場所。人のいない場所ならなおのこと善い。そうして蟻が餌を探して放浪するように、数年を要して、この狭隘かつ広域なアークティクス・サイドという仕切りのなかで、より開放的な場所を僕はさがし当てた。

 それがこのベンチだった。

 アークティクス・サイドでは、天候も気温も季節すら制御されている。

 このベンチのある場所では、雨が明け方にしか降らない。日中は必ず晴れている。

 季節は巡るけれど、天候も巡るのだけれど、ここアークティクス・サイドでは、それらが人為的に制御されている――ように僕は思う。そのことに対する解説を僕はノドカから受けていないし、説明されて納得できる理屈でもないのだろう。

 どんな仕組みで雨が降るのか――人為的にしろ自然的にしろ、僕には理解などできない。聞くだけ無駄というものだ。

 ただ、無駄なことでも無駄だと割り切ったうえで、「無駄ではない」と思い込むことは必要だとも思う。人との会話においてはそれがより顕著だ。

 開かれている講義を受ければ良いだけなのに、ノドカは可能な限り僕への学習指導を自分で行った。必然、ノドカと過ごす時間は増す。それと反比例して僕へ割り当てられた「素養クラス」で過ごす時間は減る。

 結果的にはそれは正解だった。僕はクラスに溶け込めないどころか、明らかに孤立していたからだ。ノドカはそうなることを予測していたのだろう。過去の自分がそうであったように。

 過保護なようにも思えるけれど、ノドカのその配慮に、僕は本当に救われたのだと思う。

 ノドカとの会話は九割がどうでもいい、無駄なことに思えた。ノドカにはノドカの意図があって話していたのだろうけれど――事実それは意図されたように本筋と関わっていたのだと最後には分かるのだけれど――僕には無駄な話にしか思えなかった。もっと話の脈絡を整えて、筋道を簡素にすれば、その言葉数の十分の一で済むのではないか、と思ってしまう。つまりはやはり、無駄なのだ。

 だけれど、その無駄な言葉の数々は、僕とノドカとの信頼関係を育むのに必要な無駄であった、といまになって僕はそう思えるし、確信している。

 ――無駄なことのなかにも無駄ではない無駄もある。

 こんなのは有り触れた教訓だし、結果論みたいな考え方でもあるし、ただの詭弁や、視点のすり替えに過ぎないのかもしれない。こんなことを言いはじめたら、「この世には無駄なものなんて何一つとしてない」という極論を説くことになり兼ねないのだけれど――それでも、だとしても、誰かと関わり合うためには、そして関わり合いつづけるためには――なににも増して友好関係を築きあげるためには、多くの無駄な努力が必要なのだと僕は思っている。もちろん友好関係を維持しなくてもいい相手、維持したくない相手、に対してまでもこの努力を注ぐ必要なんて微塵もないとは思うのだけれど。

 そうして多くの無駄な努力を積み重ねることで僕は、ノドカと努樹という大切な知り合いを得た。

 そして今、僕はもう一人、『大切』を得るために、その無駄を重ね合っている。

 その無駄は僕に――ノドカと過ごしていたあのころのように――最初から大した努力を用せずとも退屈だとは思わせなかった。無駄だけれど、退屈ではないのだ。

 なぜってそんなの、コヨリとの会話が楽しいからだ。

 彼女、小春ひよりとの会話が僕にはとても楽しみだった。


 ねえ、とコヨリは甘く素朴な声を発した。

「ねえ、毎日ここにいるけれど」と心配そうに、「コロちゃん、ご飯はどうしているの?」

「ちゃんと食べてるよ」唐突な話題に僕は小さく噴きだす。「今日もここに来るまえ、グラタン食べてきた」

 今の今まで、『ホットケーキを作る際には卵が先か牛乳が先か』といった究極的に無駄な議論に花を咲かせていたその矢先の発言だった。

 もしかしてお腹が減ったのだろうか。だとしたら随分と子どもらしい発想で、素直にかわいらしいではないか。

「いつからいるの?」ここに、このベンチに、と彼女は円らな瞳をこちらへ向けた。「朝からだよ」と応じる。

「十時間ちかくも前ってことですか?」今はもう夕方ですよ、と呆れたふうにコヨリは目を細めた。

「一日一食。それで充分なんだ」すこし間を置いてから、「働かざる者食い意地湧かず、学ばざる者食う必要なし」僕はほらっ動かないからね、と付け足す。「日がな一日ここでぼうっとしているから、エネルギィが減らないんだ」

「でもですよ」コヨリは身体ごと僕に向き直し、「三食しっかり食べること」と言いつけるように言った。

 め、と叱られている気分だ。

 それから彼女は、「少しでいいの。一日に三食をとる、その行為が身体には必要なのです」食べる量は少しでいいですから、と優しく説くようにした。

「うん。わかった」

 コヨリにそこまで言われたら、反駁する意思も湧かない。

 僕は潔く、明日からはきちんと三食、なにか胃袋にいれるよ、との旨を伝えた。

 するとコヨリは、「今日からです。これから一食なにか食べてください」と柳眉を逆立てて、口元をゆるめた。

 見透かされていたようだ。

 困ったように僕は笑った。


 コヨリというのは、「小春ひより」という彼女の名前をもじって僕が付けた仇名だ。

 ここでは本名で呼び合うことはない。

 むしろ隠すべき情報とされている。

 呼びかけるときはサイドネイムやニックネームで呼ぶのが礼儀なのだ――と僕は、ノドカや努樹から、そう教わっている。

 とは言っても、「小春ひより」が本名かどうかがまず定かではないし、このベンチの周辺に人影はないのだから、ここで互いに本名で呼び合うことになんら遠慮はいらない。結局はただ僕が、彼女をそのままの名前で呼ぶことに――「ひより」と呼ぶことに、若干の抵抗を持ったというだけの話で。

 照れ、というものかもしれないし、またはフレンドリーを醸し出すための演出だったのかもしれない。いまになってはニックネームを付けた理由なんてよく解らない。ただ、コヨリはこのニックネームを嫌がることなく受け入れてくれたし、コヨリも僕のことを呼び捨てから「コロちゃん」と変えて呼ぶようになった。

 明らかに年下の子から「ちゃん付け」で呼ばれるというのは一種なにかしらの心地よさがあった。自分に言い聞かせるわけじゃないけれど、一応、断わっておこう。僕は世間でいうところのロリコンやペドフィリア、チャイルドマレスターの類ではない。

 餓鬼は苦手だ。

 でも、

 コヨリは得意だ。

 ほかの餓鬼どもと比べてコヨリが特異だからだ。

 そうなのだ、コヨリは見た目がとてもとても幼いのだけれど、餓鬼ではない。僕以上に大人、と言ってもまったく問題はない。どこからも異論が湧くこともないだろう。もちろん身体の成熟加減のことではなく、精神的、人格的なことについての評価であることは断るまでもない。

「そろそろ私、戻ります」

 言ってコヨリは僕の左手に触れた。

 コヨリの体温が伝わる。

 そよ風のように冷たい。

 それは僕の体温が彼女の手に伝わった、ということでもあるし、僕の体温がコヨリに奪われた、ということでもある。

「あ、温かい」コヨリはうれしそうに僕を見上げた。「体温、たかいんですね」

「コヨリが冷たいんだ」もしかして血が通ってないんじゃないの、と僕が返すとコヨリは目をパチクリさせてから、「いじわるはきらいです」と両の手で僕の手を包んだ。より冷たくなった。

 どんどん体温が奪われていく――。

 温もりと一緒に、僕の心も伝わればいいのに、と念じる。

 念じつつ僕は、

「手が冷たいひとはね、心が温かいんだ」と教えてあげた。

 きっとコヨリは知らない言葉だ。

「そういうものなんですか?」僕の手を揉みながら、コヨリは俯いたままで言う。「なら、手が温かいひとは、私よりも、もっともっと心が温かいということですね」

 コロちゃんみたいに――と、コヨリはつぶやいた。

 言葉に詰まる。

 窮するでもなく。閉口するでもなく。

 コヨリのその言葉で。

 僕の胸のなにかが詰まった。

 なぜだかすこしくるしい。

 僕が言葉を選んでいるあいだに、コヨリは掠れるように消えていった。

 いつものように、霞んで消えた。

 ――また明日。

 そう言うのを僕は忘れていた。

 いつもはきちんと挨拶できていたのに。

 きっとそのせいなのだろう。

 翌日から。

 いくら待っていても、コヨリは現れなくなった。

 このベンチに。

 僕のとなりへ。

 コヨリの姿は。

 現れなくなった。

 ひぐらしが鳴きはじめた、

 そんな夏と秋が入り混じる、

 夕暮れのきれいな日のことだった。




 +++第四章『天は差異をいなし、差異は害をいなす』+++

 【「私は天才ではない」と賢者は言った。ある愚者が彼に近寄り握手を求めた。「私も天才ではない」】

 

 

   タイム▽▽スキップ{~基点からおよそ三カ月後~}


 ***とある天災***

 やあ諸君。私だ。

 さあ諸君。はじめようか。

 会遇直後、開口一番、早速で申し訳ない限りであるが、「あんた誰だよ」などと野暮な疑問は慎んでいただこう。ここで重要な事項は――否、いつなんどきにおいても重要な事項は――私が私であるという確固たるべき事実であり、諸君たちが如何ように私を認識するかどうか、といった慎ましやかな問題などではない。

 ゆえに――繰り返そう。

 やあ諸君。私だ。

 さあ諸君。はじめようか。


 諸君は「バブルの塔」というものをご存じだろうか。

 これから少々、その「バブルの塔」について言及しようと思う。ややもすれば、私は諸君に「バブルの塔」へご案内差し上げようとすら思う。

 さあ、着いてくるがよい、選ばれし者である私が選んだ、勇敢なる「死者」たちよ。おっと間違えた、「使者」たちよ。

 たっは。なにを言うかと思えば――諸君は私を「怪しき者」だと申すか。たっは。莫迦め。

 私ほど英雄豪傑でおごそかな存在などおらぬぞ――とはやや誇張しすぎた。許せよ。

 私が誰であろうか、などと斯様にささやかなる疑問、問題、ともすれば憤懣は、鼻孔に溜まった白血球や花粉や埃のカタマリのように、指でつつきまわして、取り除き、さっさと捨ててしまっていただきたい。もしくは、口に含むという処理の仕方をしてもらっても私は一向に構わない。うむ。伝わらんか。ならば端的かつ簡素に一文で言い換えよう。そのような瑣末な愚問など、鼻くそのようにほじくって食べてしまうがよい。

 うむ。

 きまったところで、

 さて――。

「バブルの塔」についてだ。


 歩きながら話そう。遠慮はいらん、付いてまいれ。

 諸君も知っている通り、アークティクス・サイドに乱立しているステップの多くは、中央棟を囲むように屹立している。そのほとんどのステップにおいて、諸君のような住民は誰もが、一切の手続きをせずとも出入りが自由である。また同様にして一切の制限もなく利用できる。

 その一般居住区であるところの三百ちかいステップの大部分が「サイドエリア」である。それに対して、許可と権利のない者はけっして立ち入ることの許されない、限られた不可侵領域がここアークティクス・サイドには存在する。

 諸君も存じているだろうが、敢えて私は強調しよう。

 それが――無印エリアだ。

「無印エリア」は、「サイドエリア」に点在するように区分されているのは周知であろうが――言うなれば、アークティクス・サイドそれ自体の敷地が「サイドエリア」であり、その極々一部、局所的な区域のみが「無印エリア」として斑に分布しているわけだ。

 であるからして、双方の「エリア」が、一つのフロアに跨って混在しているステップも少なからずある。

 ――無印エリア。

 さあ諸君。ここがその無印エリアである。

 諸君のような非凡ならざる凡夫の見本のような者は、けっして立ち入ることの許されない秘密の花園であるがゆえに、とくと存分に、よくよく目を凝らして目に焼き付けておきたまえ。おっとそこのキミ。あまりまじまじと見ていると失明してしまうぞ。たっは。冗句だ。遠慮なく笑いたまえ。

 さて諸君には、この無印エリア内を適当に闊歩していただきたい。私が許可する。自由に歩きたまえ。そして私が「集合」といったらすぐさまここへ集結だ。だからして、私の声の届かない場所までは行かないこと――とこうしていったん相手に自由を認識させておいたのちに、暗に束縛の条件を提示することを精神分析学ではなんと呼ぶのだろう。知っていたら是非とも私に教えてくれ。

 ふむ。よし、さっそくだが「集合」だ。

 たったいま諸君が検分するように歩き回ったここは、中央棟に隣接する一二三号棟のフロア内にある無印エリアだ。中々に規模の小さきフロアといえよう。まあ、ここは予備のフロアであって、ご覧の通り、とくになにもない。臨時の物置フロア、とでも解釈してくれて一向に構わない。

 さきほど諸君にはこの「無印エリア」を数十秒という短い時間で練り歩いていただいた。その際に、賢明卓見であるはずの諸君は、いくつかの発見をしたと思う。

 そう。

 通路を進んでもすぐに行き止まり。

 やたらと壁にぶち当たる。

 その都度、壁には『止まれ』の文字が、可愛いらしい絵柄と共に描かれていたであろう。

 (小声で話すが、ちなみにその絵柄を描いたのは、かつてのアークティクス・ラバーであるところのノドカという女と、現在もラバーとして活躍中のウブカタという中年だ)

 その絵柄の描かれた壁のした――床には、青い足跡があったであろう。さも「これから自殺します」といったような雰囲気で、両足をちょん、と揃えた足跡が、青いペンキでかたどってある。それはな、認証センサーとほぼ同義の役割を果たす。

 さあ諸君、私が許可する。その足跡のうえに合わせて、立ってみたまえ。

 その青い足跡のうえに立つと、諸君が、この先へ侵入する許可を得ている者かどうかが解るのだよ。むろん、許可がない者が立っただけでは、そこはただの壁だ。

 だが、諸君のように許可を得ている人物だと判ると、その人物のみに知覚できる通路が、壁にあく。

 ほら見なさい、道が開けたであろう。

 『認可された人物のみに』であるからして、許可を得ている者のうしろに付いて、ちゃっかりと無認可の者がその先に侵入することはできない。まっこと便利なチューブセキュリティなのである。

 自慢ではないが、これは私が開発した。自慢ではないのだぞ。そこはぜひとも勘違いしないでいただきたい。私はこんな陳家な自慢をするような不遜な人間ではないのだよ。しかしながら、備考として付け加えておくと、この程度のセキュリティなど、私は五歳のときにはすでに開発できるレヴェルだったのだ。いや、多少、大言壮語だったかもしれないので、やや控えめに見積もって訂正しておこう――六歳かもしれないし、七歳だったかもしれないし、もしくは十六歳を超えてからだったかもしれない。一気に倍ちかく歳があがったが、なに、気にするでない。十六歳でも十二分にすごいと私は思う。

 むしろ、私が十六歳で開発したようなレヴェルの高いセキュリティシステムだ。自慢したいくらいだが、別にこれは自慢ではない。繰り返す、自慢ではない。一八〇度回って、自慢でもよいような気がしてきたが、「一八〇度」という尺度を私はそれほど信用していない。「一八〇度」という表記は、温度のことなのか、それとも角度のことなのか、はたまた情熱の高さを表しているのか、その分類に多少、てこずる。

 そもそも、私のようなエンジニアならば、角度のことは「ラジアン」、温度のことは「ケルビン」、情熱のエネルギィについては「パッション(自称)」で表記する。ゆえに、ここで用いた一八〇度とは、人格の大きさ、すなわち「器量」のことであるからして、やはり、自慢ではないのである。器量が一八〇度もある私のような叡智あらたかな人間は、自慢などと矮小な所業は振舞わない。

 補足であるが、かの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」氏は、「器量」が、一九〇度であったと聞く。誰から聞いたかといえば、彼と逢ったことがあるという人物からだ。

 かの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」氏と謁見したことのある人物が現代に生きているなどとそんな世迷言は、装飾された情報に踊らされているだけの純粋莫迦な諸君ですらも信じられないことであろう。如何にも眉つばである。が、しかし――人を愛し・信じ・敬う、私のような寛大な人間は、「疑うこと」を知らない。

 諸君と同様に私も純粋なのだよ。

 ただし、純粋莫迦ではなく、純粋無垢のほうだがな。

 たっは。莫迦どもめ。

 ああいや、むろん冗句だ。遠慮はいらん笑いたまえ。

 怒ってくれるな。諸君は狭量ではあるまい。

 諸君らもちりあくた並ではあるが、いちおうの「器量」を持ち合わせてはいるようだな。とは言え、塵も積もれば山となる、と諺にはあるが、塵の山など欲しくはない。まあ、諸君と私とを比べれば、諸君が塵のようだ、という相対的な話だ。腹を立てるでない。

 

 ところで私は今ふと思ったのだが――、

 かの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」氏が現代に生きていようならば、私と良い勝負の「器量」を形成していたことだろう。ただし、良い勝負とは、いかなる場合も「引き分け」などと曖昧な結末は有り得ない。勝敗は必ずやはっきりと、しっかりと、分相応に、該当する者へとそれぞれ、「勝ち」と「負け」が配分されるのである。勝ち負けによって生じる価値こそが、ただの勝負を「良き勝負」へと変えるのだ。

 であるからして、かの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」氏と私との勝負において、どちらが勝つだろうか、どのような激戦を繰り広げて、輝かしい栄誉のてんこ盛りとなった勝利を掴みとったのだろうか、などという些細な顛末は、敢えてみなまで言う必要もないだろう。優れているほうが勝つに決まっているからだ。だからして、どちらが勝つかなど、みなまで言う必要はないな? 本当か? 解っているのか?

 よし、そこのキミ、ならば、どちらが勝つか言うてみなさい。

 ほうほう、ダヴィンチ氏が勝つとおっしゃるか。たっは。莫迦め。私が勝つに決まっておるだろう。たっは。失敬、ついつい本音が。たっは。冗句だ。聞き流したまえ。

 こんな話をしてみたは良いが、実際には、死者は蘇らない。それゆえに、叶わぬ夢の勝負――格好をつけて言えば「ドリームマッチ」である。そう、「夢のマッチ」だ。童話、「マッチ売りの少女」が売っていたマッチのことだな。たっは。冗句だ。遠慮はいらん、突っ込みたまえ。

 対決の叶わぬ勝負ゆえに、私の圧勝という可能性も無きにしも非ず、であることはここに控えめに示しておこうと思う。とはまあ言っても、かの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」氏ならばきっと、私も余力を残すことなく全力で迎え撃ち、激闘の末に、善戦健闘するだろうことは「雲を掴むよりも明らか」ではあるな。ああいや、これは誤用であったな。「『陽』を見るよりも明らか」――が正しい。

 なに、正しくないだと。

 そこのキミ。なんぞ、その人を小莫迦にしたような目は。

 たっは。莫迦め、私を虚仮にするなど光の速さほどもはやいわ。たわけめ。お前などいらん、去ね。

 たっは。いい気味だ、強制送還してやった。

 あんな無知はいらん。誰があんな奴を「バブルの塔」へ案内などしてやるものか。

 なにっ!?

「『火』を見るよりも明らか」が……正しいとな。

 たっは。

 たっはっは。

 莫迦め、知っておったわ。当たり前ではないか。ギャグだ、ギャグ。わざとだ、決して誤謬ではない。繰り返す、誤謬ではない。真に天才を極めている私は、その辺に溢れかえっている真面目なだけが取り柄の秀才どもとは違うのだ。おちゃらけることもできる天才なのだ。超天才と自称しなかったところが我ながら謙虚ではないか。ふむ。いやはやなんとも――しかしながら、多少、そう、多少なりとも謙遜してしまったかもしれぬが、このように私は、げっへっへ、謙虚な人格の持ち主である。

 

 さて――。

 諸君は、無印エリアをこんな奥にまで進んできた。

 私の含蓄に富んだ多少なりとも質の低い訓戒に耳を傾けすぎて、その場に寝転んではいないだろうな。うむ。ならばよい。そのまま自分を信じて道を進め。そして壁にぶちあたれ。その都度、その場で足を揃えてしばし待て。自ずと壁は開かれようぞ。

 奥へ奥へと進むにつれて、次つぎと壁へ壁へと追いやられるであろう。そこには用意されているかのように、可愛らしい絵柄と共に描かれた『止まれ』の文字と、青い足跡。

 そろそろ諸君は、この壁と足跡と、開いたのちもつづく通路に飽きてきたころと見受けられる。

 延々と繰り返される、壁、足跡、通路。

 それは、一見同じようであるが、ここだけの話、セキュリティがより厳重になっている。先に進めば進むほどにな。

 さあ諸君。よく見ていただきたい。

 そろそろ、あの可愛らしい絵柄たちが見当たらなくなってきたころあいではなかろうか。

 青い足跡のみが、壁の前にちょこん、と両足を揃えている。

 なぜか――と言えば、聡明なはずの諸君のことであるからして、言わずもがなすでに心得ていることだろう。そう、ノドカというあの小娘も、ウブカタという中年も、ここまで深い無印エリアへの侵入を許可されていないのである。(さらに補足すれば、彼らは私からの指示も許可もなく、その可愛らしい絵柄を勝手に壁に描いていただけである。よほど暇だったのだろう。可哀想に)

 さあ諸君、もうひと踏ん張りだ。頑張りたまえ。

 延々と連なっているかのような道のり、「いつまで引っぱる気、はやくしないと飽きちゃうぞ」といつもは素っ気ないあの娘までもが思わせぶりな台詞を溢してしまいそうな道のり、そんな道のりもようやく佳境である。

 長々とした道を敢えて選んですすんできた諸君は、地下へとつづく一本道へと辿り着いた。

 おめでとう。よくやった。よくぞ挫折しなかった。偉いぞ、と私は諸君に「いい子、いい子」と頭をナデナデしてやろう。そら、頭を差しだすがいい。

 頭だ、頭。

 撫でてやるから頭を手前にだしたまえ。

 そう、それでいい。

 たっは。莫迦めっ。

 撫でるわけがなかろう。

 すぐさまその汚らしい茶色の頭を私の前から遠ざけろ。髪の毛を染めるなどと、自分の身体も大切にできない自虐的なオコチャマを褒めるほど、私は寛容ではない。そんなに身体を痛めつけるのが好きなら、あとでいくらでも痛めつけてやる。だから黙って私についてきなさい。

 いやはや、そんなに肩を落とすことはない。なに、これも一つの愛情表現だ。折檻であって、決して糾弾ではない。安心しなさい、私には諸君が必要だ。たっは、照れるねェ。

 うむ。気付いたかね諸君。

 この一本道は、地下へとつづいているはずなのに、なぜか真っ直ぐである。諸君はこの道を間抜け面をしてヒョコヒョコとひょうきんに、ただ真っ直ぐと辿っていけばよろしい。すると、一つの施設群へと行き着く。ほら、もう出口である。

 ――地下フロア。

 無印エリアの地下である。

 見たまえ。

 いくつもの広大な施設が、距離を置かずに隣接している。箱詰めならぬ、地下詰めだ。

 ここもまた室内であるからして判らないであろうが、これら展望できる施設はすべて、地下に建設されているのだよ。

 そう、ここはアークティクス・サイドの地下なのだ。

 個々の建物によって高低差があるために、俯瞰的にのぞめば、巨大な迷路のようにも見えるかもしれない。だが、この地下施設群も、ステップの構造と同じように、下へ下へとフロアが地層みたいに段々といくつも重なっておる。

 おっと、説明口調だからといって、私が解説書を読んでいるなどと疑ってはいけないぞ。繰り返す、私は解説書など読んではおらんよ。

 うん? その手の平に書かれている文章は何か、だと?

 これは、ほら、あれだ。

 ふ……封印の書だ。

 莫迦ッ、やめろ、汚い手で私に触れるな!

 ええい、やめい!

 たっは。莫迦めっ。誰が見せるか!

 

 うほん。

 さてお浚いだ――。

 いい加減にくどい、と思われるかもしれないが、関係ないことを繰り返し聴かせられることで人の脳は、催眠状態に入りやすくなるという。そう、入りやすくなるだけであって、別に、繰り返し聴かされることで、催眠状態には入らない。

 入るとすれば、睡眠に――である。

 おい、そこのお前。そこで寝ているお前だ。ああ駄目だ、寝ている。あ、すまないが隣のキミ。そいつを叩き起こしてくれ。私が許す。ごつん、とな。

 よし、ありがとう。

 おい、お前。失格だ。早急にお引き取り願おう。私の子守り歌然とした訓戒に耐えられぬような軟弱な者など、迅速に去ね。ただし、ここから無事に地上へ辿りつけるかは保障せんがね。げっへっへっ。冗句だ。遠慮はいらん、帰りたまえ。

 ふむ。諸君は彼女のように、居眠りなどと、そんな退屈のカタルシスじみた行為に走ってはいないだろうな。気をつけたまえよ、ここが現実かどうか、それすらも証明できない諸君にとって、睡眠は、自我と世界との融解を意味する――ような気がする。

 ん、なんだ。気がするだけでは不服かね。

 おいおい、なんだね、その不満そうな顔は。

 よいかね諸君。賢明な研究者たるもの、何事も軽率には断言しないものなのだ。もっとも、私は「研究者」と呼ばれるよりかは、「探究者」と呼ばれたい。そう、願望だ。

 おい、キミ。私のことを「探究者」と呼んでよいぞ。遠慮するな。呼んでよいぞと私はキミに申しておる。

 ほうほう、キミは私を「探究者」と呼ぶか。見るからに見聞の狭そうなキミが言うくらいなのだから、私はきっと「探究者」なのだろうな。ふむ、光栄だ。ありがとう。

 

 またもやお浚いだ。そう、またもやである。

 はて、こいつはボケているのではないか、と危惧なさっているそこのキミ。思考が駄々漏れだ。危うく言動までもが駄々漏れてしまうぞ。

 よいか諸君。思うだけなら自由だが、言動と行動には責任が付き纏うものだ。それを忘れないほうがいい。気をつけたまえ、私の二の舞になるぞ。たっは。事実だ。笑うんじゃない。


 はてさて、諸君は覚えておられるだろうか。

 アークティクス・サイドは――ごく小規模な土地に、ステップがいくつも、天に伸びる形で密集して建っている。それが、アークティクス・サイド――の地上部分だ。

 それら地上に屹立しているステップと、そこに内包されているフロアなどを換算すればだな――換算すればの話だぞ――中央棟などが建っている小規模な土地に、膨大な表面積となる街並みが内包されていることになる。

 言うなればアークティクス・サイドのステップは、「肺胞」のような効果を生み出しているのだ。むろん諸君は知っておるな、肺胞だ。人体の肺がより効率よくガス交換するための仕組みだ。中学校か、またはここの講義で習っておるであろう。

 おい莫迦、お前、それは「ハイホウ!」ではないか。誰が七人の小人をやれと言った。お前、詰まらないから失格。そのまま去ね。いや、死ぬな、死んではいかん。私は「去れ」と申したのだ。ここで死なれたら困る。まだ死ぬな。死ぬくらいなら一緒に来なさい。

 ふむ。

「反省しているからそろそろ僕たち帰ります」だと。

 たっは。莫迦め。諸君は帰さん。付いてきなさい。まだ「バブルの塔」に到着していないではないか。

 ゆくぞ。

 さきほどの続きだ。

 諸君、「肺胞」の話だ。

 アークティクス・サイドはだな――肺胞のように屹立しているがゆえに、「天空都市」と表してもあながち間違いではないだろうと私は思うのだが、如何だろうか。ほう、無理があると。ふむふむ。却下だ。私語を慎め。うるさいぞ。なに、「問われたから答えた」だけだと。ふん。減らず口を。

 その肺胞じみた天空都市に相反するようにだな、地下には広大な無印エリアが展開しているのであるが、それは丁度、植物が枝葉と根をそれぞれ地上と地下へ向けて伸ばしているがごとくであってだな――――――って聞けよ! 人の話を聞きなさい! 思考が散漫になるではないか!

 ああもういいや。もういい。諸君は勝手にここら辺を観光してらっしゃい。私は一人で講釈垂れるから。そう、独りごちているから。そうね、聞きたかったら勝手に聞いていればよろしい。そう、よろしく。


 では、仕切り直して。

 諸君は枯れた木々を見たことはあるかね。それくらいはいくら引きこもり体質の諸君たちであろうとも見たことくらいはあるであろう。

 木々というものは、葉を落とした際には、まるで根っこが空へ向けて生えているように見える。

 樹がまるで逆さまに生えているように見えるのだ。

 季節が夏から冬へと変遷するにつれ、木々も根と枝葉を逆転させていっているのではないか、と夢想することもしばしばである。誰がしばしば夢想するかといえば、言わずもがな私である。

 木々が根と枝葉によって「地上」と「地下」へ相互に伸びていること――と同様に、アークティクス・サイドも、表向きは上空へと伸びる荘厳な樹木を思わせる造りではあるのだが、その実、地面下では、蟻の巣のように根を張らせるがごとく、四方八方へ地下フロアが巡っているのだ。

 中央棟の地下も含めたこの広大な地下フロアには――よいか諸君、この地下フロアにはだな――様々な「研究機関」および「分析機関」の総括部が集結しているのである。

 その地下フロアの一角――。

 つまり、我々が向かっている場所であるが。そこには。

 ――何重にも複雑に「糊塗」されている『空間』が存在する。

「波紋」を含めた一切の情報媒体を完全に遮断されている空間だ。そう、特別な空間がそこにはあるのだ。擬似的な《アークティクス》とも呼べる代物かもしれない。いや、これまた誇張しすぎであるな。《アークティクス》など、そうそう容易く擬似できる世界ではないのだからな。

「浸透」できない諸君にしてみれば、《アークティクス》が真実存在しているかも判らないであろうに――宇宙の外側を知覚できないのと同様にな。

 たっは。可哀想に。

 よいかな可哀想な諸君よ。

 その特別な空間には、外界と介在するものはなにもない。一切ないのだ。完全に遮断されている空間なのである。

 ――外と内を区切っている境界すら、そこにはない。

 その特別な空間へ幾度も干渉することのできる者は一切いないのではあるが、何事にも例外は存在する。

 その唯一の例外は、その空間を行き来することの許された『限られた数人の者』である。その『限られた数人』だけが、唯一その空間に出入りできるのである。

 ただし、その空間へ入っていく者はこの『限られた数人の者』以外にも、多数存在する。

 ふむふむ。矛盾だ――とそう思うか。たっは、莫迦め。

 だがな、それらの入っていくだけの者が、外へ情報を持ち出すことはないのだよ。なぜならその『空間』へそれらが入ったきり、出ていくことはないのだから。

 だから――それゆえに、情報が漏洩したのならば、その『限られたその数人』が因子であることは必然的に自明となるのだよ。

 情報漏洩の隠蔽はほぼ不可能。

 裏切りや失態は、直結して処分の対象。

 そもそも、裏切る意味がない。利益がなに一つとしてない。

 『限られた数人』は、失態などを犯す人材でもない。

 彼らの行う作業自体が、ただでさえ単純だからだ。

 ただし、往々にして――単純なことが簡単なことだとは限らない。

 ふむ。懐かしい台詞だ。この際だ、少し紹介しておこう。諸君らも知っておるだろう――吉田歌田という教官がおったのだがな、そいつのモノマネを私が今から披露してしんぜよう。

 私から彼への、せめてもの「たむけ」だ。

 

 ***吉田歌田***

 よいかね君たち、例えばだ――。

 例えば、家族の写真を些かの躊躇も抱かずに踏みつけられる者はそう多くはないだろう。そうでなくとも、多くないことを儂は祈っておる。

 それと共に、踏みつけられない理由を述べられる者はここに、ただの一人もいないであろう。考えれば考えるほど、踏みつけられないことのほうが理不尽に思えてくる。そうではないかね?

 それは写真でしかない。家族ではないのだから、踏みつけられないほうがおかしい。

 そう、この躊躇とは、論理的思考の結果ではない。

 そう、感情的なのだ。欲情的でさえある。

 ただし、これもまた、一つの理性なのだ。

 矛盾を矛盾だとして許容することこそ、人間の本質的な能力ではなかろうか。

 ――機械的な思考では、人間に理性は宿らない。

 『今は亡き教官。吉田歌田~道徳的制約から学ぶ人間是正論の講義より~』

 

***

 たっは。似ていたであろう。たっは。懐かしい! 死んだ者を思いだすというのは、中々に面白い無駄だな。無駄を無駄だと思いながらも面白いと感じるメカニズム――中々に興味をそそる題目だ。がしかし、今は私のもとに残ってくれた諸君をこの先へと誘うことが先決である。さあ諸君、いざ進めや。


 歩きながらまた話そうか。

 そう、どこまで話したか……ああ、『特別な空間』に出入りできる者が、『限られた数人』という話までだったか。

 ふむ。

 『限られた数人』とは、組織から直属として通達された精鋭たちだ。

 メンバーは三人。

 一人は、諸君も御存知の有名人、弥寺という名のおっかない男。

 もう一人は、諸君には永遠に縁のないだろう、サイカという名の無愛想な女。

 最後に、ライドという名の天才。超天才。

 諸君、大いに目を見張りたまえ。そのライドという超天才は、才色兼備でなお且つ、菜食主義者という聖人だ。いや、ここは一つ、控えめに表して、賢人に留めておこう。たっは。謙虚さは何事にも必要だ。

 おっと、誤解していただかないでおこうか。ライドという超天才と私は必ずしも同一人物ではない。諸君、早とちりは褒められた行為ではないぞ。繰り返す、私ではない。

 ――何事も、可能性に留めておくべきだ。

 おっと、これもまた懐かしい台詞だ。

 誰が言っていたっけ――えっと――そうそう、あいつだ。あの偽善者だ。私の父上を殺した忌まわしい男だよ。しかも父上に勝っておきながらあの男は〝名〟を踏襲することを拒みやがってからに。だったら父上に譲ればよかろうに! まあ、あんな男に負けるようなのだから、我が親もまたそれだけの男だったというだけのこと。それにしても莫迦な奴め。いまごろは珈琲などという墨汁と成分がほとんど同じと言っても十二分に過言な泥水のような液体を飲んでいることだろう。そう、十二分に過言だからして、墨汁と珈琲の成分は同じではない。莫迦め。たっは、莫迦め。繰り返そう。たっは、ワカメ。おっと、髪型が崩れた。ううむ。どうも私の「特質」は、身体の毛という毛に作用を及ぼすようだ。こうしてたまに撫でつけないと、はぁ~あ、ワカメみたくなってしまう。

 これで、よしと。

 ふむ。

 ところでよいかね。

 謙虚さというものはだね、概ね、根底には感謝が敷かれているものだ。

 『私なんかがこうして「ふなららふんぬん」と生きていけるのも、諸君のおかげです』とそういった「自分の生活を支えている世界」に対して向ける感謝だ。それがない謙虚さなど、ただの虚栄か、媚びである。いや、またもや言い過ぎた。

 訂正しよう――ただの保身だ。

 保身といえば、そうそう、セキュリティ。セキュリティといえば、私。私といえば、天才。天才といえば、すでにご存知の超天才のライド氏。まあ、ついでに弥寺くんとサイカくんも思いだしておこう。

 ともあれこの三人のみが、その限定された『空間』を行き来することができる。ともすれば、生き来することの可能な、限られた三人である。

 閉鎖された空間。限定された空間。隠蔽された空間。

 それは、密室という意味ではない。

 この『限られた三人』なら、いつでもどこからでも侵入可能なのである。

 ただし、この三人以外の者たちにとっては、その『空間』は密室にすら成りえない。

 なぜなら、

 ――そこに在るべき空間が無いものとして扱われる世界。

 だからである。

 いわば、緻密に『縫合』された世界。

 繊密に隔絶された世界。

 世界から剥離された世界。

 ただでさえ厳戒態勢の排他主義として徹底されている無印エリアの、さらなる奥地にある地下フロア――そこからまたさらに排斥の徹底された――不可侵領域。

 

 それがここ――「バブルの塔」。

 

 やあやあ、御苦労だったね諸君。ようやく到着だ。

 長かったね、まどろっこしかったね、煩わしかったね。ウザかったね。

 ってオイ!

 ソコハ否定スル場面ヤデ!

 とかなんとかエセ突っ込みでもしたくなってしまうほどに私は今、ご機嫌なのだ。

 諸君、私はうれしいよ。よく来てくれた。今度こそ本当に、「いい子、いい子」と頭を撫で切ってあげられるよ。待っててね、今すぐ、ほんとうに今すぐに用意するから。ちゃんといい子で待っててね。

 ふん、ふん、ふん。

 らん、らん、らん。

 あ、そうだ。まだここの説明がまだでしたね。たっは。失礼つかまつった。

 あのね、あのね、「バブルの塔」といっても、ステップみたいな建設的な意味合いでの『塔』ではないの。ここに立ち入れる者がね、便宜上に呼称している手前勝手な愛称のようなものなの。

 たっは。自称というやつだね。

 ふむ。お察しの通り、言うまでもなく、ここ『バブルの塔』は、かの「バベルの塔」のパロディに違いない。名称者は超天才のライドさん。名付け親が超天才の彼である以上、こうして新機軸と評価できる画期的な名称でここを呼んでいるのも、実を言えば彼一人だけなんだ。

 天才はいつの世も孤独だ。超天才ともなればそれはますます顕著となって、孤独と孤独を同居させるに至るのだよ。想像を絶するだろ。そうさ、超天才であるところのライドさんは、創造をも脱するのさ。

 意味が解らないですって? なんてお莫迦さん。解らなくたっていいのよ、解らないように言っているのだもの。

 口調が変だとおっしゃるか? たっは。莫迦め。統一する意味がないのだよ。ああいやいや、私が誰であろうと、どんな人物であろうとも、どうでも良いことなのだと最初に念を押しておいたであろう。

 ところでな諸君。

 超天才のライドさんがここを「バブルの塔」と名付けたにもかかわらず――悲しいことに、そして虚しいことに、弥寺くんもサイカくんも、なぜかこのホットな名称を採用してくれない。ともすれば、このネーミングセンスの奇抜さと鋭さを理解してくれていないのだ。まことに残念だ。

 たっは。諸君、準備はもうすぐだ。

 たっは。もう少し待ってくれたまえよ。

 たっは。たっはっは。

 ほら、どうかね、時間があるうちに、ここをよく見ておきたまえ。

 諸君はここ「バブルの塔」に、もう二度と立ち入るチャンスはないのだから。

 こんなチャンス、今だけですよ。

 ふむ。そう、キミのおっしゃる通り。ここの存在を知る者は弥寺くんとサイカくんと私――ではなく、超天才のライドさん――この三人だけだ。

 あ、今は諸君もいるがな。

 ここ「バブルの塔」が最重要機密かつ極秘施設である以上、データベース上にも載せるわけにはいかない。ゆえに、正式名称などは必要ない。

 知っている者だけが知っていればよい空間。

 それがこの実験施設――「バブルの塔」だ。

 さあ、準備ができた。

 うん? どうしたんだい。何をそんなに驚いているんだ。

 ふむ、これかい? これはだね、昨日届いたばかりの、かの超天才ライドさんが新たに構築した科学式によりつくりだされし、特注炭素繊維だ。またの名を、「カーボンナノチューブEXC」だ。

 たっは。そそるであろう?

 両手のこの特殊グローブがいささか派手であるが、注目すべきはそこではない。

 ボクの両手のあいだにかかっているこの繊維が、諸君には視認できるかい? できないのかい? たっは。莫迦め。それはそうだとも。どれだけ細いと思っているのだ、視えるわけがなかろう。

 これで切断された人体は、およそ切断と形容されないくらい絢爛に、鮮明に、新鮮さを維持したままに分断される。さも、プラモデルの腕が外れるみたいにね。元から繋ぎ目があったがごとくだ。

 あたしはさ、それをこの眼で見るのが楽しみで楽しみで、試し切りをしたくてしたくて、あはは、諸君に来てもらっちゃった。

 さて、本当に理論通り、切断されるのだろうか。ふむふむ。「理論通り」は言いやすいけれど、「道理の通り」というのは言い難いったらないですね。舌を噛んじまいそうですよ。

 ふむ。どうした諸君、顔面が青白いぞ。大丈夫か。まるであの『足跡』のようだな。

 たっは。そうそう、諸君みたいなその表情にインスピレーションを得たんだ、あの『足跡』は。

 たっは。莫迦め。なにが「もう帰してください」だ。

 言ったであろう。ここは、『限られた数人』しか出入りができないのだ。

 よく思いだしてくれたまえ。

 諸君はその『限られた数人』だったかな? 違うのではなかったか?

 『限られた数人』というのは、そうそう――弥寺くんと、サイカくんと、莫ッ迦、ちがうッ、ライドさんじゃない、ライドさまでもナイないっ。

 あ、おしい。天才ライドさんでもない。

 そう、それ! 超天才ライドさん。

 たっは、おめでとう。おや、キミはあれだね、あたしのことを「探究者」と呼んでくれた子じゃないか。

 ではキミの敬意に応えて。

 さっそく。

 ――キミから分解してやろう。

 やあ諸君。私だ。

 さあ諸君。はじめようか。




   ○○○【授精】○○○

「なにすんだよ」

 頭を押さえながら振り返ると、ミカが立っていた。

「カツよ、活。なんだか元気なさそうだったからさ」

 下校中のことである。ハルキはうしろからミカに頭を叩かれた。まったくの不意打ちであったし、あまりにも突然だった。なによりも、フユキに話しかけようとした間際の出来事だったために、はげしく動揺した。

 それでもハルキは冷静を保つことができた。正確には、そう努めたのである。あとでフユキに笑われたくないから――言葉で表せばこれだけの動機であった。たとえハルキが緘黙していてもフユキにはこちらの動揺や戸惑い、悲哀や懊悩などの感情が――僅かながらにも――伝わっている節があった。

 ミカはハルキの同級生である。住んでいるアパートも同じであり、所謂ご近所さんだ。ハルキがこの町に引っ越してきてから彼女とはそれなりの交流があったが、それはお互いの親同士の親睦があったからで、そうでなくともミカが一方的に構ってくるのであり、ハルキとしては交流が途切れようと一向に構わなかった。フユキと出会ったいまなら、なおさらである。

 ミカから視線を外すとハルキはふたたび歩きはじめた。

「さいきん変だよハルキ」ミカは早歩きでこちらの横に並んだ。

「なにが?」

「分からないけど、なんか変。だってさ、学校で会っても挨拶もしてくれないし、話しかけても今みたく無視してどっか行っちゃうし……」彼女は語尾を萎めた。「……全然わたしと話してくれないし」

 小首を傾げるハルキ。ミカの横顔を覗くようにして、「ぼくと話したいの?」

「ちがうって」鞄を振り回しミカは、自意識過剰だなぁハルキは、と小さくぼやくようにした。「そんなんじゃないんだけどさ。ただね、最近、ずっと元気ないなぁって……そう思って」

「そっか、心配してくれてたんだ。ありがと。でも大丈夫だよ、ぼくはほら、いたって元気だもん。むしろまえよりも毎日が楽しいくらい」

「なら、いいんだけどさ」

 二人はしばらく口をひらかずに歩いた。沈黙が二人の間に漂う雰囲気を重くするには二十歩もかからない。次第に相手の存在が無条件で意識の端にくすぶりだす。

「えっとさ」耐えかねたハルキが口をひらく。「まだなにかあるの?」

「はぇ? あ、うん」ミカが髪の毛をいじくっている。「うん、そのね、ハルキってさ、学校でずっと独りじゃない? 独りって、さびしくない?」

「ぜんぜん」

「即答すぎ」ミカが破顔する。視線が交わると、すぐに目を伏せた。声を萎めてミカは続けた。「でもさ、周りから見てたりするとね、なんか暗いし、雰囲気ワルいよ。いつも怒っているみたいに見えるし……今日もほかの子たちがハルキのこと、良く言ってなかった、そういうのイヤじゃないのかなって」

「それは忠告?」

「そんなもん、かな」

「そっか。ありがとね。でも、だったらぼくには無用な気遣いかも。他人からの評価ってさ、あんまり気にしないようにしてるんだ」

「そう……なんだ」

「そうなのだ」とおどけて首肯する。「要件ってそれだけ? もう終ったのならぼく、先にいくよ」

 待ってよ、と呼び止められる。「それだけじゃなくってさハルキ最近ひとりで何してるの? だって家にはいないよねバイトとか?」

「ううん」と否定する。「ただの散歩。それと昼寝かな」

「どこで?」

「どこでだってできるよね」

「そういう話し方もまえはしなかった。冷たく聞こえるよ」初めのような抑揚ある声はすでにミカからは消えている。「そういうの、ニヒル気取ってるって言うんだよ。ねえ、どうしたの? ハルキはハルキでしょ、そのまんまでいいじゃん」まえのハルキのほうが嫌いじゃなかった、と責めてくる。

 嫌いじゃないということはきっと、好きでもないということなのだろう。だったら構わなければいいのに、とハルキは思う。

「ぼくにはそんな意思はまったくないんだけど」ハルキはしかたなく微笑んでみせた。「成長期だし、思春期まっただ中だからね、ぼくたちは。変声期で声も変わったし、それの影響もあるんじゃない? それにね、たしかにぼくはぼくだけど、ミカの言った『そのまんまのぼく』っていうのはさ、ミカの記憶に残っているむかしのぼくのことでしょ? いつだって人は変質しつづけているものなんだよ。肉体も、精神もね。だから、ミカの言う『むかしのぼく』が『そのまんまのぼく』だとは限らないんだよ」

「なにが言いたいのか解らないよ。わたしが頭わるいの、ハルキ知ってるでしょ! まどろっこしい言い方しないでハッキリ言ってよ」

「頭がわるいのはぼくのほうだよ。他人に意思が伝わるように話すことができない。説明が下手なんだね。でもそうだね――ぼくの言いたかったことは、いつまでだってどこまでも、ぼくはぼくで在りつづけるのだけれど、そのまんまなんてそんなことは叶わないんだ。ミカもぼくも、変質しつづけるし、変遷しつづける。その変化も含めてぼくなのさ――ってこと」疲れてきたのでハルキは声に温度をもたせるのを怠った。「いつまでもミカが知ってるぼくじゃない」

「でも。それなら、どうして無視するの。どうして前みたいに……仲良くしてくれないの」ミカは項垂れた。「ハルキ、避けてるじゃん……わたしのこと」

「避けてないよ。無視もしてない。ほら、こうして話してるじゃん。ぼくは誰に対してもこうなんだ。むしろミカに対しては随分と親しく接していると思うし、ミカがこうしてぼくに接してくれていることがぼくは結構うれしかったりするんだよ」

 臭い台詞だ、と内心では冷静に自分を客観視している。フユキにあとでからかわれそうだ、と考えると愉快だった。

 そんなのウソだよ、とミカが呟いた。「ねぇ、わたし、ハルキになにかイヤなことした? したなら謝るからさ……」

 ミカらしくなかった。ハルキは戸惑う。

 自分が戸惑っていることに対して、ハルキは戸惑ったのである。

 こんなに陰った声と表情のミカを見るのは初めてかもしれない。どうしたのだろうか。

 なぜかこれ以上、会話を続けないほうが――会話を終わらせたほうが良い気がした。

 ハルキが学校(以外の日常も含めて、であるが)で他人を排他する理由、独りとなって他人との会話を避ける理由は、最初は人と関わるのが面倒だからであったし、それはミカに対しても例外ではなかった。ミカは幼馴染である。そのために、いままでもそれなりに助けてもらっていたりした。だから、むかしながらの友好を維持したいと思っていたことも事実である。けれど現在はそうは思っていなかった。努力をしてまで、これまでの関係を維持しようとは思わないのである。だからハルキにとってはミカも、ほかの者たちと同様に、排他するに値する人物であった。ともすればそれは、関心を抱くに値しない人物、無関心と無神経であり続けられる人物として、ハルキに分類されている、ということなのだろう。

 にも拘らず、今は別の理由――ミカを自分から遠ざけたいほかの理由――排他したいと思う要因――が介在していた。ハッキリとしない漠然とした危惧。自分が変わってしまう気がする、といったそんな根拠のない、小さな拒否であった。この危惧が果たして、何から何を防衛しようとしているのか、何と何を反発させようとしているのかが、ハルキの冷静な分析であっても詳らかにはならなかった。

 だからハルキは戸惑っている。自分が戸惑っている、なぜ戸惑っているのか、その理由が解らないがために動揺していた。

 自分とは――戸惑っている自分とは――いったい誰のことだろうか。

 ハルキは一瞬自問した。雪の結晶が皮膚と触れて、あっという間に形が失われるくらいの刹那のあいだ疑問した。

「なにも。なにもわるくないよ。ミカがわるいわけでもないし、ぼくは怒っているわけでもない。だからミカが謝る必要もない」言いながらハルキは額に手を当てて、顔を覆う。日差しが陰り、気持ちが落ち着く。付け足すようにハルキは、だって、と言葉を紡いだ。「だって、ぼくは僕だもの」

「なら、なんでそんなに――」そこまで言ってミカが立ち止まった。俯いたまま、言葉の代わりにアスファルトへ涙を溢していた。

 立ち止まる。

 逡巡の間を空けたのに、ゆっくりとミカへ近づいた。

「ごめん」「どうしたの」「大丈夫」といった言葉のいずれかを掛けようとしたのだが、言葉を口にするまえに踵を返し、ハルキはその場を後にした。

 ――やめておけ。

 囁くようなフユキの声が。耳元に響いていた。

   ○○○++*++○○○







    タイム△スキップ{~基点からおよそ三カ月後~}


 ***サイカ***

 サイカはおよそ四十時間ぶりに「バブルの塔」を訪れた。

 直接ライドがいると思われるラボラトリーへと赴く。

 宙には見慣れない『ラビット』がいくつも浮かんでいる。大きいのやら小さいのやら、分解されて丁寧に宙へ並べられている。

 それらが浮いているということは、ライドは今まさに、試験中だということか。

「お邪魔でしたでしょうか」見向きもしないライドに背後から声をかける。

「仕上がりが遅れているね……そう、遅れているのだよサイカくん」

 納品はまだなのかい、とライドはボサボサの髪の毛を両手で梳かすように撫でた。髪は瞬時にボサボサからサラサラヘアへと整う。

 髪型一つの変化で、ライドの雰囲気までもが変貌した。不衛生な印象から清潔な印象へ。けれど見た目が変化したからといって、ライドの人格までもが変わることはない。ひょっとすると、「定まっていないこと」それ自体がライドの人格であるとも呼べるかもしれない。ライドはとても不明瞭な人格であった。

 サイカは言葉を選びながら発言する。

「そのことについてのご報告に上がりました。現時点において、次なる『ラビット』の確保にはいたっておりません」申し訳ございません、と謝罪を口にしつつ、ところで、と疑問を投げ掛けた。「ところで、〝これ〟はどちらから?」

 宙に浮かんでいる分解されたラビットを視線で示した。仮にサイドエリアから調達していたのだとすれば事後の処理が面倒である。先に確認しておきたかった。

 だが、ライドはこちらを見ていない。返答は得られなかった。

「ぷう」とライドがみじかく息をついた。首を回す。ゴキンと関節が鳴った。鳴りそうだな、と感じると無意識に首を回してしまうらしい。ライドの癖である。サイカはその癖が嫌いだった。

 鳴らしたところで身体の変調が正されるわけでもないのに。

 自分の気が晴れるだけだろうに。

 自分だけの気が、とサイカは思う。

「そこで超天才であるところの私は考えた――」と不意にライドが口にした。声には出していないはずのこちらの独白に続けるようにして、「――内面の変化が外観への変化を促進することはあっても、外観の変化が内面へと干渉することはまずない。人間の変化とはいつだって、内から外への一方通行なのだよ。遺伝的なものも本能的なものも感情的なものも理性的なものも含めてな。だが例外があるとすればそれは、『外観の変化』によって引き起こされる『外的な刺激の変化』による『内面の変化』に過ぎない。たとえば、腕を失くしたのなら、失くしたなりに不便になるし、容貌が異性を惹きつけるように変化したならば、異性からの対応がこれまでと変わります。それらの『今まで変わらずに感受していた外的要因』が変化したことで、内面にも変化が及ぼされるのです。腕が無くなったその瞬間に人格が変わることはまずないでしょう。無くなったことで引き起きるあれやこれやによって生じる問題や、その結果に抱くことになる憤懣や懊悩や苦痛、または、失った腕についてのあれやこれやの危惧――そういった紆余曲折、回りくどい過程があってこそ、外観の変化は内面の変化に干渉する。変化は必ず循環しているが、直接的か間接的かは大きく異なるのだよ」

 ライドは次つぎと声色や口調を変えて話し続ける。

 まるで演劇だが、主張は首尾一貫している。演じ分けてはいない。どれもライドなのである。

 ライドはさらに続けた。

 ――世界は連なっている。だが、一つに重なってはいない。

 ――世界は繋がっているのです。けれど、一つではありません。

「身体の一部が欠落したからといって、瞬時に人の内面は変わらない。だが、内面が変化したのなら、それがたとえ一瞬の変化だとしても、人は死に急ぐこともあるのだよ。『内面の変化』と『外観の変化』は、人の場合、このように大きく異なるのだ」

 なおもライドは作業を継続させ、説法を振りまいた。

「いいかい。これは、内と外のどちらの変化がより深刻か、といった話ではない。どちらがどちらに、より大きく作用しているのか、どちらがより迅速に作用してしまうのか――その極々小規模な差異の話なのだよ。そうこれは、とるに足らない、些細な考察に過ぎない」

「……ライドさん」サイカは応答に窮しながらも、あの、と問う。「あの、いったい何のお話でしょうか? 誰に話しかけておられるのでしょうか? もしかして、私にですか。私になのですか。でしたらそれらのラビットに向かってではなく、私に向かって話しかけてください。不気味です」

 やめてくださいお願いします、と早口で唱えながらサイカは懇願した。

 ようやくこちらに向き直ってライドは、「キミは自分が物語の主人公だと考えたことはあるか?」と急に話題を変えた。

「いえ、ありません」と淡々と応じる。

「いや、あるね。キミはあるね」と断定するライド。「キミくらい現実から遁走したいと、しきりに目を背けている乙女をあたしゃ見たことがないよ」

 むっとしてサイカは、「いちいち、一人称を変えるのは如何なものかと私は心底ライドさんの神経を疑います。聞いていてイライラするので、どうか、できることならやめてください」

「それね、それ。その便利な言葉」ライドは首を回した。ゴキンと鈍い音がする。「できることならやめてください――というのは、相手がやめることができると知っているからこそ使う詭弁だよ。それは暗に、やめろ、と強要しているに過ぎない」

「なら、やめろ――と申し上げればよろしかったですか?」

「その通りだよ」言いながらライドが白衣を脱いだ。白衣には黒い染みが斑に滲んでいる。ライドは白いワイシャツに短パン姿だった。細身の足が露出する。「で、キミは、運命を信じるかい?」

 突然にまたもや話題が変わった。

「運命……ですか?」

 毎度のことであるが、脈絡がないのにも程がある。

「そう、運命だよ。全ての因果はすでに決定している、という理論のことさ」

「理論なんですか? 理屈ではないと?」サイカは適当な相槌を打って挟む。

 宙に浮かぶラビットの一部をライドはボールみたいにしてもてあそびはじめた。リフティングと呼ばれる遊戯だろう。サイカもむかしはよくそれをした。ただしサイカの場合は一般的なボールで、であって、ライドのようなそれではない。

「運命論――これも一つの理論だ。いや、悪魔の証明をここで引き合いに出すのはフェアじゃないが――いや、やはりやめておこうか。ただね、ぼくは思うんだけど、たとえば、唯物論というものがある。これは、一つの理論として、多くの現象を紐解くにあたっての道具として用いられている。医学などが良い例だね。そうだなぁ、ならこの際だ、『人格』を例にとって一つ講釈を垂れようか――」

 どこらへんが「この際」なのかが分からない。サイカは壁に寄り掛かかる。ライドがこの調子では、今日も冗長な長談になりそうだった。電磁波や波紋の伝播すらも遮断されている空間というのは、ほとほと不便である。暇つぶしにバイタルすら使用できない。

 以前からサイカは、「超天才なら、凡人にも解りやすく説明するくらいしてみせろよ」と思っていたが、ある日、「それはな」と弥寺に睨まれた。冷たく見下ろされ、「お前のその愚痴は、目の見えないお前へ、言葉を駆使して風景を説明してやってるのに、その盲目のお前が、手っ取り早く風景を見せろよ、と駄々を捏ねているようなものだ」と静かに諭された。

 そんなことを言われてしまえば、なにも言い返せない。

 極端な理屈を宣巻くような相手になにを言っても無駄だとサイカは思っている。

 全てを一括りに扱えるとでも信じているのだろう。

 弥寺もライドも。

 それからきっと、私も。

 諦めの嘆息を吐く。

 うんざりしながらもサイカは、ライドの紡ぐ、解りづらくも退屈な戯言に耳を傾ける。

 

「――オレという人格は、多くの外的な刺激を、この身体にある五感を通して『情報』として認識している。それらの情報を『思考』へと結びつけ、これまでに蓄積してきた『記憶』という情報と照合させ、鑑みることでさらに一つの『複合された情報』として昇華される。そうしてようやく、『自我』として還元されるわけだ」

「人格と自我は違うものなのですか?」一応理解しようとする努力は欠かさない。

「ちがう。まず字がちがう」ライドは真面目に答えた。つづけて思い付いたように、「字がちがうだけに、自我もちがう」と文字で示されないと伝わらないような駄洒落を言った。

 さむい。珍しく鳥肌がたった。

 この部屋は涼し過ぎる。分析中の『試験体』が傷まないようにするために部屋を冷気で満たしているらしい。ライドの駄洒落がおさむいだけが要因ではない。

「自我があってはじめて人格は個としての枠組みを形成するのだよサイカくん」とライドが脈絡のない講釈を続けた。

 まるで断片的に情報を小出しにされている感じだ。到底ついていけない。

「知覚、認識、感情、記憶、思考、意志――これらは総じて、脳の内部で引き起こっている電気信号の総括だ。もっと端的に言い換えるならば、脳内物質の変化によって人格は形成されている――それが唯物論だ。まあ、現在もっとも常識とされている理屈だな。ただし、これらは理屈であって、理論ではない。唯物論の特化した理論形態は、こんな幼稚な仮定のことなどではない。どうしてそうなっているのか、どうしてそんなことが論じられるのか、といったことに『多くの傍証』が示されている、という因果関係を確認できる点にある」ライドは嘯いた。

「ええ、解ります。理屈だけでなく、そういった理屈に合った事実が観測されている、ということですね」

「違うが、それでいい。この際だ、そういうことにしてしまおう。キミと僕との会話なのだから、きっと誰も困らない。キミは自分の意見が取り入れられてうれしいし、僕は会話として自分の意見を口にすることが許されるわけだ。相手を無視してクドクド長々と喋っているだけでは、会話とは呼べない」

「鏡に向かっておっしゃられるとよろしいかと」サイカは憎まれ口を叩く。付き合わされていることに対してのせめてもの反抗だ。「そうすれば、きっとそのお言葉ももっと高い意義を持ちますよ」

「意義に、高いも低いも、大きいも小さいも――そんな差異はないのだよサイカくん。意義は『あるか』『ないか』のそれだけだ。意味や意義なんてものはね、おおむね『付加できるか』『付加できないか』といった個々人の認識でしか生まれない、どぉうでもいい概念なんだ。とどのつまり虚像さ。まやかしなのさ。けどね、どうでもいいことこそ、楽しいじゃないか。どうでもよくないことなど詰まらない。生物にとって重要なことなんて、あまねく辛いものだ。苦しいだけではないか」

「そうでしょうか?」

「そうなんだよ。生きるうえで必要なことには大抵、快楽が伴うものだがな――生きるうえで重要なことには大抵、苦痛が伴う。それらを重要なことだとして認識するために――問題を問題だと認識するために――痛みや苦しみといったシグナルを発するような仕組みが、我々の肉体には備わっているからね。そうではないか?」

「さあ。それこそどうでもよい問いかと」

「キミはときどき天才的な切り返しをするなあ。ふむ。あたいでも予想が付かなかった。だがしかしサイカくん、その返答はあまりに失礼じゃないか」

「もう、意味が解りません」

「意味が解らない、と思えるのなら、それは相手の言いたいことをそれとなく認識している、ということだ。本当に意味が解らないのなら、そこに意味が含まれているかどうかさえ認識が困難なのだよ。豚や鳥や虫の鳴き声に意味があるか? そこにあるのは機能だ。意味ではない。しかし一方で、客観的に視れば至るところ、存在する全ての現象に意味を付加することは可能だ。いや、実際に存在しないものにすら意味を付加することもできる。そもそも、意味というそれ自体が、想像上の、空相に過ぎない」

「はあ」と曖昧に頷く。ライドの話はいつも早口で聞き取りづらい。「なるほど」

「だが、意味を元々込めてあるもの、付加されているものというのも存在する。それが言葉であるし、その集大成が理論だ」

「ですから、ライドさんはなにがおっしゃりたいのですか?」

「運命についてだよ」

 どこがだ、とライカは内心で毒づく。その不平はライドには波紋として伝わっていることだろう。

 その不平に呼応するように、ライドの舌は回転速度を増した。脈絡などクソ喰らえだ、と言わんばかりにライドは自分勝手な舌鋒を振りまいた。

 *

「私はいつも思うのであるが――犯罪がなぜ引き起きるのかといったような『人為的』と括られる事象に対しての問題提示は、いつの時代も漠然と人々の問題意識のなかに巣くっているものだとして――『自然災害』においてはどうして現代人の多くは避けられない現象、受け入れるべき災厄として許容することができるのだろうか。

 地震、雷、火事、オヤジ。津波に干ばつ、嵐に竜巻、雨あられ。

 豪雨や寒波。温暖化が要因とされている数々の異常気象。

 多くの人間たちは、その現象自体を制御しようとはしない。

 昔の人間は、幼稚ながらも、神頼みや生贄といった儀式を対価として、自然と交渉しようと抗った。

 話は逸れるが――その時代からすでに人類は、『頼む方』が『頼まれる方』よりも多くの犠牲を担わなくてはならない、といった錯覚に陥っていたのだな。まったく以って人類は阿呆だ。

 阿呆だからこそ「発展」と「破滅」とを見間違えることもできているのだろう。いつの時代も人類という種は、楽観主義者のようだ。

 話を戻そう。

 自然災害と呼ばれるそれらに対しての諦観は、いつごろから現代人の内面に巣くいはじめたのだろうか。なぜに現代人の多くは救いを求めないのか。どうして抗う意志を持ちえないのか。災害対策などと世迷言を抜かすのはどうしてだろうか。対策を持ち得たなどと勘違いするのはなぜだろうか。

 決して安全となったわけではないというのに。

 災害を食い止めることなどできてやしないのに。

 到底叶わぬことだと知ったからだろうか。

 到底制御の及ばぬ現象だと匙を投げたからだろうか。

 到底避けきれぬ『運命』だと信じたからだろうか。

 運命――。

 そんなものはないし、あったとしてもそれは結果が決まっているというだけの話であって、そこまでに至る経緯は、結果が決まっていようがなかろうが――運命が存在しようがしなかろうが――同じなのだから、ならばやはり、運命が決まっていようがいまいが、己には関係のないことなのだろう。

 自分が成すべきことは、運命が存在したとしても、しなかったとしても、結局は同じなのだよ。


 そもそも、 

 ――全てが決まっている物語を読んでも人は、充分に楽しめる。


 その物語を楽しめないという輩は、自分が神にでもなるしかあるまい。なんともはや、おこがましい我が儘であろうか。たっは。莫迦め。

 そう、莫迦といえば――自然災害の多くが、人為とはかけ離れた要因で引き起きている、とそう信じている者は多い。

 事実そうなのだろう。人為とは、人間の意識を『行動』として昇華した際に引き起きた、より直接的な物理現象の結果だ。だとすれば、自然災害は、人間の営みや行いによって干渉されることのない、我々へ一方的な干渉を強いる、【物理法則からかけ離れた現象】と言えるだろう。

 作用を及ぼせば同じだけ反作用される――物理原則の一つだ。

 押せば押し返されるし、触れれば触れられる。

 相手に触れずに触れることなど、できはしない。

 だがこの場合、自然災害はそうではない――ということになるだろう。

 地震や台風は、一方的に我々人類に干渉してくる。そして我々はそれらの災害に対して抗う術を持たない。

 この物理原則の通じない現象が、こんなにも身近にあるというのに、我々はその大いなる矛盾から目を背けている。

 いや、受け入れているからこその、諦観であったか――。

 だが実際には地球温暖化やオゾン層の破壊、森林が減少したことによる土砂崩れの多発など、自然災害の要因が、間接的な人為によって齎されていることは、現代人類史ではもはや常識である。

 ただし、それらが事実かどうかは定かではない。

 サイカくんなどは、そのことをよくよく弁えているだろう。

 うん? 本当に弁えているのか? どれ、答えてみたまえ」

 *

 ようやくライドは一呼吸おいた。何を言いたかったのかがまるで解らない。どうせいつものような詭弁に違いないのだ。

 欠伸を噛み殺しながらもサイカはなんとなく聞いていた。眠気で頭痛を覚えるなど、サイカはここでしか体験したことはない。

 瞬時に思考を覚醒させてサイカは答えた。

「我々が『虚空』を修理しようとした際に、【ティクス・ブレイク】予防のために実施が必要だと判断された場合には――『虚空』を形成しているメノフェノン混濁を拡散させるために――自然災害を意図的に引き起こすことで、鎮静化をはかります。その意図的に引き起こされた災害によっては、少なくない犠牲が払われることもまま生じます。しかしそれは、大多数の最大幸福を得るための、必要最低限の犠牲です。功利主義に則った、最善の対策です。我々に課せられた使命は、【ティクス・ブレイク】を引き起こさない環境の整備とその予防。『虚空』の処理および、ニボシの殲滅。それが我々の熟すべき任務であり、各々が自分に対して与えている使命です。我々に課せられている次なる議題は、必要とされる犠牲の徹底的な削減です」

「優等生の回答だな。よし、今度、弥寺くんにも同じ質問をしてみよう。彼はなんと答えるだろうね。たっは。弥寺くんのことだから、もしかしたら『気晴らし』の一言で片づけられちゃうのだろうか。弥寺ちゃんがさ、そんな寝惚けた台詞を口にしたら、あたしゃ即座に、そいやっさー、ってしちゃうよ? いいかな? しちゃってもいいかな?」

 そいやさーってさ、とライドはスリッパをラケットのように振った。

「お好きなようになられるとよろしいかと」

「うん。サイカちゃんが許可したと言い訳しておこう」

「やめてください」

 ラビットでのリフティングに飽きたのか、ライドは首をゴキンと回して、「オモチャ箱」をあさりはじめた。そこにはライドのお気に入りの道具が無造作に仕舞われている。手入れも整備もあったものではない。エンジニアらしからぬ横暴で乱雑な扱いである。

 その箱から、ライドは小瓶を取り出した。

 小瓶の中には、蟲型の機器が入っている。甲殻類を連想させる機器だ。

 ライドは小瓶の蓋を開けてその中身を、ラビットの一つへ振りかけた。

 甲殻蟲モドキは、ぞわぞわと群がるようにラビットを覆う。かと思うと、次の瞬間には、染み入るようにラビットの内へと消えていった。

 サイカは鳥肌をまとう。

 昆虫じみた群集は苦手だ。

 しみじみと観察するようにライドは腕を組んで仁王立ちしている。こちらに背を向けて立っているので、短パンがワイシャツに隠れて卑猥な図柄に見える。斟酌せずに言えば、まるでノーパンみたいだ。

 こんな節操のないヘンテコな奴が上司だなんて――とこぼれそうになった愚痴をサイカは呑みこむ。それから雑念を振り払うつもりも兼ねて目頭を押さえた。

「そもそも」とライドは口調を戻して、脈絡のない話に戻った。

 まだ続くのか、とサイカは辟易する。

 *

「そもそも、我々を構築している多くの情報は、自分で実際に体感したものではない。他人の言葉を介して得た知識が大半だ。

 我々のように、社会に内包され、社会に依存している人間というのは、総じて社会によって人格が形成されている、と言ってもあながち間違いではないだろう。

 我々は他人によって生み出され、他人によって自己を形成してもらい、他人によって自己の曖昧さを補強している。

 人間以外の動物の多くは、自分と外界との区別はつくが、自己を認識することはないらしい。自己を認識しないからこそ、他者と自己との同一化によって生じる『慈しみ』や『情け』という概念を抱けない。

 自己を対象に反映させることによってのみ、憐憫を抱くことが人にはできる。しかしそれは自己愛の反映でしかない以上、相手を一つの尊厳ある個として認めてはいない。相手を自分のように、自分の一部として看做しているに過ぎないのだ。

 犬が子猿を育てたり、トラが子犬を育てている、といった事象をサイカくんも観たことがあるだろうと思うのだが、あれは愛情などという代物ではない。あれは母性本能が齎している誤謬に過ぎない。だからして、ああやって『勘違い育児』をするのはメスと相場が決まっている。とどのつまり俺が言いたかったのはよ、たっは、メスは莫迦だなってことだ」

 *

「性差別です」サイカは反応した。「撤回してください」

「なにを言う。性は区別するべきだ。それを差別だというのなら、区別は差別と相違ないではないか」いいですかサイカさん、とライドは口調を変え、「勘違いしてはいけません」と言った。「区別は区別。差別は差別です。区別に侮蔑が含まれて初めて差別と呼べる行為になるのですよ。区別は手段ですが、差別は行為です」

「それは結構ですが、さきほどの発言は区別でしたか?」

「いや、差別だ」悪びれる様子もなくライドは応じた。

 カチンときた。

「生きとし生けるすべてのメスに謝ってください」

 なぜに、とこちらを一瞬振りかえったライドであったが、こちらの険難な眼光を捉えたのか、「すみませんでした」と軽く謝った。

 なんだその釈然としない謝罪は。

「では次に」とサイカは付け足した。「すべての女性に謝ってください」

「なに!?」大袈裟に振り向いてライドは、「雌と女性って違うのかい?」と声を荒らげた。

「性を区別するのなら、種を区別するのもまた当然かと」

「サイカくんはいつも突然莫迦になるのな」呆れたように言ってライドはラビットに向けて手を振った。バラバラに浮かんでいたラビットが一か所に集まる。「突然の天才的ひらめきを、突発性サイカ莫迦、と名付けようか?」

「それこそ差別です。侮蔑の塊です。重ねて謝罪を要求します」

「今のは賞賛だよ。なんにしろ、すまなかった」言いつつライドは手を絶妙に動かし、一つのラビットを操作した。やがてそれに染み込んでいた蟲のような機器が浮き出てくる。わらわら、と群がったと思ったのも束の間、ほかのラビットへと伝染していく。最初に染み込ませていたよりも多くの甲殻蟲モドキが蔓延り出している。

 ラビットの内で増殖させていたのだろうか。気色わるい。

「……いいえ」目を逸らしつつサイカは、「謝っていただけたのなら結構です。では引き続き、すべての女性にも謝罪をお願いします」

「ふむ。おかしいな。私がつい今しがたに口にした謝罪がそれに相当する謝罪だったのだが……」

「先ほどのは私に対する謝罪です」

「ぐむ」不承不承ながらもライドは、「女性のみなさん」と加えてから、「すみませんでした」

「なら次に、すべてのオスおよび男性にも謝ってください」

「なぜに!?」

 いい加減にしてくれ、とライドは地団太を踏んだ。

「ライドさんにはご理解いただけないでしょうけれど、多くの男性は、多くの女性たちのことを好んでいるのです。ともすれば、我が物にしようと虎視眈々です」

「それがどうした」ライドの髪型が逆立ち初めていた。よくない兆候だ。

「自分が好きなものを侮辱されたのなら、そこには憤りを抱く権利が生じるのだと私は考えます」

「憤りを抱くのは――うむ、サイカくんの言う通り勝手であるし、自由ですらあるのだが。その憤りをわしに向けられるのは理不尽というものだ」

「おっしゃられる通りですが、多くの方が大切にしているモノを差別して、多くの方に憤りを抱かせるような因子を生みだしたのはライドさんです。それは事実です。ならば、ライドさんには謝罪する義務が生じます」

「それはおかしいよ!」駄々っ子ようにライドが吠えた。「向こうが権利で、なんで僕だけが義務なの!」

「ならば、ライドさんにも、謝罪する権利が生じます」

「ふむ。つまり、その権利を行使するか否かが、あたしの人間性を顕わすのだと、サイカさんはそう言いたいのね」ええいいわ、とライドが襟を正す。「ならば一括りに、すべての生物へ謝罪を致そうか。結局は、全てが連なっている。境界を引くか引かないか。区分するかしないか。分類するかしないか。どの階層から見下ろすのか、見上げるのか。どの視点から観測するのか、どの世界を基準にするのか、それら主観を置く位置によって『視る者の世界』は変遷するのだからして――ならばいっそ、全てを一つとして捉えれば良いのだろう。全てを一つとして扱えるほどの能力と時間さえあれば、全てはより単純化されるのだから」

 ――全てを包容し得る力があれば。

 とライドは謳った。

「もしかして、それが、『ここ』の意義ですか?」サイカは唐突に閃いた言葉を口にした。

「そうです。それが『バブルの塔』の存在意義です。最初から付加されている、意義としての意味なのです」言いながらライドが近づいてくる。「『意味』はそれ自体では意味を成しませんが、『意義』はそれ単体で意味と成り得ます。『ここ』は、そういった独立した『意義』になり得る意味を有しているのです」

 つまり、と言ってライドはサイカの前で歩を止める。

 ――つまり『まだ独立していない』『完成していない』ということです。

「意味は出来上がっているが、意義には成っていない。そこに漕ぎつけるための段階が整っていないのだ。そのための研究を私はしている。キミも知っているだろうが、およそ、十年前からだ」

 十年前――。

 そう、それがきっかけだった。

 あれからサイカの歪みは始まった。

「十年といえば、それは僅かな時間の経過であろう。しかし、種を蒔き、葉が萌え、根が張り巡り、幹を太らせ、実をならせる樹を育てるには、充分な月日だ。いよいよではないか。機は熟した。あとは、どこで実を摘み取るのか。それを見定めるだけだ。よりよい実を得るには、養分やら環境やら諸々の管理が必要だ。サイカくん、キミはそのための助力なのだ」

 よろしく頼むよ、とライドは結んだ。

 サイカはライドと向き合っている。

 ハイヒールを履いている分、サイカのほうが背が高い。いや、元々からしてサイカのほうが背丈は上である。

 ライドの性別をサイカは知らない。外見上では区別がつかない。強いて言うなら女性だろうか。小顔でであり、目がくりくりとしている。細い身体。白い肌。美白なのは、この空間から滅多に出ないからだろう。

 髪型や髪の色はライドの感情の起伏によって変化する。ライドは感情によってパーソナリティが作用されてしまうらしい。

 特質を持たず、得失を宿した保持者。

 制御しきれていない保持者。

 軸を失くした保持者。

『魔害物』の保持者。

 名目上、この「バブルの塔」は、極秘研究施設とされているが――それも一つの事実であることはこの際、否定の余地はないのだが――それでも、ライドというこの不安定な保持者の隔離施設として機能していると言ったほうが精確なのではないか、とサイカは睨んでいる。

 出入り自由とは言っても、ライドはこの空間から滅多に出ない。外よりもこの空間のほうが、よりライドに適した環境だからだ。ライドの好みの空間。帰巣本能ではないが、人には人の、適所がある。

「バブルの塔」は閉ざされた空間である。

 そのため、ライドが必要とする物資の運搬は、主にサイカの役割であった。

 そして今日、こうして二日ぶりに来てみれば、サイカの知らないラビットがこの空間に浮いている。

 ――誰が運んできたのだろうか。

 訝しんでいるサイカを差し置いて、さて、とライドは口調を軽くした。髪を整えている。今はストレートから、細かくウェーブがかったパーマの髪型だった。

「さて、サイカくん。仕上がりが遅れているが、順調か?」次の納品はいつごろになるのだろうか、と首を回す。ガキン、と関節が鳴った。

 最初の会話に戻った。

 今までのやり取りは一体何だったのか、とサイカは鬱屈となる。この徒労感だけは慣れない。

「ラビットの開発が多少遅れております」と当初の目的である弁明を再開した。「来月の適正検査ののちに、該当者を数名連れてまいります。それとも幾人かはさらなる開拓を期待して、こちらに納品せずに残しておきますか?」

「いや、いいよ。そんなに時間をかけたところで、駄目なモノは駄目だ。小粒をたくさん揃えてくれれば良い。そのなかで、たまにぴりりと辛いモノがいてくれれば幸い――その程度だよ。充分に理論の実証を行ったあとに、アレを用いれば済むことだ」

 中央まで踵を返すとライドは、それに、と付け足した。

「それに、使用したラビットが多ければ多いほど、『共鳴度』も高くなるだろう。まだまだ〝これ〟は凝縮すべきだろうしね」

 言ってライドは、紅い容器を愛おしそうに撫でた。中には液体が満ちている。

 紅い液体。

 ラビットの波紋を多重に記憶させ、蓄積、凝縮させた液剤。

 学名:『血肖液(けっしょうえき)』。

 完全なるアークティクス・ラバー――【ゼンイキ】の元となる触媒。

【ゼンイキ】を人工的に生み出すための液剤。

《アークティクス》に愛される者の種。

 そして、

 その種を植えられる予定の者。

『血肖液』に堪えられる器を持つ者。

 ――オリア・リュコシ=シュガー。

「あの、ライドさん……あの子はいまどこに?」サイカは問う。「その、彼女はどこに隔離しているのですか?」

「隔離?」

 莫迦を言うな、とライドが顔を顰めた。「隔離など、そんなことできるわけがないではないか。せいぜいが、ここを嗅ぎ付けられないようにする程度なのだよ」

「大丈夫なのですか?」

「大丈夫か、とおっしゃられたのですか? サイカさんは何をそんなに危惧なされているというのです?」

「あの子は、その、我々に抗わないのかと……敵対しないのかと、そう思いまして」

「敵対? たっは、中々面白いことを言うお嬢ちゃんじゃないか。ボクぁ驚いたよ。たっは。敵対ねぇ。アレはさ、お嬢ちゃん――アレはだね、自分自身が敵なのさ。この世で一番自分を責めている。それ以外のすべてを許容してしまうくらいにね。自分を責めているのさ」

「以前から聞いてはいましたが……その説明だけでは納得できないと申しますか、信用できないと申しますか」

「不安かね? ならば教えておくが、アレは自分が母親を殺したのだと己を責めている。自分が生まれたせいで、母が死んだ。それは文字通りに、『自分が生まれ、そのせいで母が死んだ』という解釈でいい。アレが自分で母親を殺したのさ。赤子でもパーソナリティは放てるからな。人格が形成される以前の反射的な発動だ――誰かれ構わずにパーソナリティを四方八方ぶちまけて行使してもおかしくはない。その結果、アレは自分の母親を殺したのよ」

「ですが……私が知っている情報では、あの子の母親は――その、生きていると」

「おっと、サイカちゃん、それはここでは最重要の機密だよ? むやみやたらに口外してはいけないじゃないか」

「ここでの沈黙はそれこそ無意味です」

「違えねえや」とライドが首肯した。「そうさな、お嬢ちゃんの知っている通り、アレの母親は生きている。ただ、アレはテメェでテメェの生みの親を殺したと思っている。アレにとっちゃそれが事実だ。その事実がアレにとっての事実である限り、アレは我々に忠実――とまでは言わないまでも、敵対することはないのだよ。これは言わば、枷なのだ。物理的な枷は、アレにとっちゃ、なんの意味も持たない。だが、精神的な枷は別だ。最初にも言ったが、内面は外観に大きく干渉する。その如実な実例がこれさ」

「呪縛、ですか」

 理屈は解るがそんな単純なことで。

「呪縛などとそんな大層なものではないのだがな」ライドはラビットの集まった場所まで歩を進める。「そうさな、さしずめ、『虚縛』とでも括っておこうか」

「ですが、我が娘がそんな扱いを受けていると知られたら、《あの方》は黙っていないんじゃないですか。娘としての愛着がなくとも自分のモノをこのように瑣末に扱われていると知れば、余計に《あの方》は何かしらの行動を……」

 待ちたまえ、とライドはサイカの言葉を妨げた。「今のサイカくんの主張において、僕は指摘したい点が三つある。一つは、《彼女》はそれを知っておられる。第二に、《彼女》はアレに対して並々ならぬ愛着を抱いている。第三に、我々は《彼女》の勝手な行動を抑止するために、アレをこうして『保護』している。誤解を招く言い方はよしたまえ。我々は〝まだ〟、アレに手を出してはいない」

 それにだな、とライドは卑屈な口調で、「我々がこのアークティクス・サイドに隔離されていると仮に言い換えるならば、アレも我々と同じようにこのアークティクス・サイドに隔離されているということになるだろう。少なくとも、アレが単独でこのアークティクス・サイドから抜けだすことはない。離脱することはできないのだよ。我々と同じようにな」

 なるほど。

 サイカはライドの意向を理解した。「よく解りました。魯鈍な私に、寛容なご指導、感謝いたします」

「感謝などいらん。何かくれるのなら、次にここへ来るときに、ズンダ入りのあの冷たい饅頭を持ってきてくれ。このあいだ弥寺くんが食べていたのを分けて貰ってね、食したら気にいった。後はそうさね、予定通りに『納品』をよろしく頼む」

 ――規定値を満たしたラビットをね。

 ライドはみじかく笑い、宙に置いているラビットへ向き直った。

 どこから仕入れてきたのかは詳らかではないが、このラビットたちは――ライドのオモチャにもならない。

 ラビットが「被験者」と同義だとするならば、あれらの細切れに分断された、生きた少年少女たちは、ただの「被害者」だ。

 たっは、と楽しそうにライドは、その死ぬことも血の滴ることもない〝頭部〟で再びリフティングをはじめた。

 きっと運動不足だったのだろう。気が済むまでやっていればいい。


 ライドが蹴るたびに、声を出すこともできない首たちは宙で回転した。

 蹴られる首も、浮かんでいるだけの首も、彼らは一様に、固く、固く、目を瞑っていた。

 瞼が痙攣するほど強く、強く、瞼をがんじがらめに閉じている。まるで、現実から目を背けるように。

 夢のなかで眠ることで。夢から醒めようと。懸命に念じているかのように。

 ――あさましい。

 サイカは思う。

 自分も含めた一切の者が空虚だ。

 逸らすべき現実などはない。

 これは夢ですらない。

 ここにあるのは。

 この肉体の細部が形作るものは――。

 連続した曖昧と。

 痛覚と悦楽と。

 欲と動。

 ――痛みに怯えるが為に悦びを奪い奪われて増やす楽しみを欲し望み叶えるために、動く。

 動く。いつまでも動く。とどまることはない。循環は止まらない。大きい循環か、小さい循環か。その程度の相対的な違いだ。どこまでも動く。個という小さい循環。私という小さい循環。私という器が崩れたあとも、循環はより大きな循環へと引き継がれる。人間そのものは本質ではない。そう、人間とは本質からかけ離れた、曖昧なだけの存在だ。

 一つの曖昧が、曖昧として曖昧であり続けようとする連鎖。

 それが自我なのだ、とサイカは思う。

 私という存在は――宇宙の循環から外れ――物質の循環から外れ――自然の循環からも外れ――種の循環からも外れ――社会の循環からも外れて――個の循環からも外れようと抗う。

 だがそれは、もはや『死』ではないか。

 個から抜けだすなどと大それた、理を外れた横暴が許されるような、そんな願いが叶う可能性があるとすればそれは、『死』以外にはないのではないか。だが死んでみたところで叶うかどうかも怪しい。

 死は凡ての存在を《世界》の循環へと回帰させる。

 人間の根源的な性質にはこのように――メビウスの輪のごとく、ミクロとマクロを彷徨うような――途方もなく仕様もない分解を繰り返していくような――反転しつづける連鎖が――捻じれが――そんな『本質』を求めるシステムが備わっているように感じられる。

 だから、

 ――あさましい。


 ライドの背へ向けて、サイカは無言で腰を折って頭を下げた。

 肩に掛かっていた髪が垂れる。振り払うように上半身を起こすと、何やらライドは、分断されたパスタ然とした細切れの少年少女たちへ向けて、「諸君」と呼びかけ、「いよいよ大詰めだ」と最初から用意されていた透明のビーカへ、それぞれのパーツがそれぞれに収まるように誘導していた。

 容器に格納された部位たちは、ライドの「用意、ドン」という掛け声とほぼ同時に血を噴き出させた。透明なその容器を真っ赤に、或いは真っ黒に染めていく。

 ライドはパーソナリティを解除したらしい。いや、部分的に解除したようだ。

 おそらく、細切れに分断されていながらも彼らの身体はまだ、一つだ。

 彼らすべてで「一つ」という感覚の共有の意でもあるし、彼ら一人一人が肉体としても精神としても自己を保っている、という自我の継続の意でもある。

 ビクビクと部位たちが血を垂れ流しながら、または噴き出しながら、痙攣している。陸にあげられた鯉のように抵抗の余地もなく、今や麻痺をも解かれて痛覚は波紋を通してほかの部位たちと結ばれたうえで――他人の苦痛をも上乗せされたうえで彼らは、喉を苦しそうに鳴らしている。

 母乳を飲む赤子のようだな、とぼんやりとその様子をサイカは眺める。

 んく、んく、と喉の奥で鳴るその音は、肺と切り離された彼らの、決して声にはならぬ悲痛な叫びである。

 ビーカを揺らす彼らからは、体液に混じって、あの小さな機器が蟲のようにうじゃうじゃと無数に湧きはじめていた。波紋の分析機器か、或いは、「血肖液」をつくるのに必要な機器なのだろうが、趣味がわるい。あれもライドが開発したものなのだろう。

 サイカは眉一つ動かさない。意図的に感情を遮断している。

 ――帰ろう。

 その場を後にしようと踵を返す。


「ああ、そうそう」といったん作業を止めてライドが頭をうしろにもたげた。天井を仰ぎ見ているような姿勢で、「サイカくんが異議を唱えていたあの件についてだけど、ボクが総括部のほうに問い合わせたら、あっさりと承諾が得られた。準備が整い次第、サイド全域にまで『検問』を広げるよ。該当者があっちエリアにいないとも限らないだろ? まあ、いないとは思うのだけれど、少しでもサイカくんの仕事が減れば、キミも楽になるだろうと思ってね。キミは、自分が育てた子たち以外を『ラビット』にするつもりはなかったようだけれど、そうは言ってもさ、ほら――いくらキミが冷徹だからって」

 ――教え子を毀すのは忍びないだろ。

 ライドは、たっは、たっは、と呵々大笑した。

 サイカは振り向かずにライドの声に耳を欹てる。

「たっは。最初から最後まで自分の手で『ラビット』を揃えたいというサイカくんの気持ちはよくよく解るけれどね、でも、こっちのほうがなにかと好都合なのだよ」ライドは笑みを引き、まあよ、と声を太めた。「該当者がいれば、それでお前さんも、もう一方の仕事に専念できるじゃねェか。わるい話ではねェだろ?」

「ええ。ありがとうございます」

 サイカが歩を進めると、ライドはついでのように投げかけた。

「吉田歌田――あのジジィを殺したときの話、あとでゆっくり聞かせておくれな」

 遮断された感情が、一瞬、揺れた。

 緩んだ紐を結び直すように、ふたたび遮断する。

 暗殺の体験談――。

 いつもみたいに、波紋を通じて疑似体験するつもりなのだろう。趣味がいいとは到底思えない。それを拒まない私も、そうとう毀れている。ああいや、そもそも、人を殺めることを生業としている私が、他人の嗜好をとやかく非難できる謂れはない。

「はい。記憶のほうを整理しておきます」

 言ってサイカは指定のタイルまで進む。

 この「バブルの塔」への侵入はどこからでも可能だが、離脱は指定の場所からでないとできない。

 青い足跡の上に乗る。

 この空間、「バブルの塔」から離脱した。

 ――全ては循環する。

 とどまることは難しい。

 しかしあの空間は、何かが滞っている。

 んく、んく、と授乳されている赤子の声がまだ、サイカの鼓膜に張付いている。




    SS『加護の中の彩りは』SS

 

 彼女は大事そうに箱を抱えています。

 中からは、小さな生き物の息づかいが聞こえています。

 風に吹き消されてしまわないようにと彼女は箱を大事そうに抱え、堅牢に、懸命に、守っているのです。

 

 けれど、やがて彼女は、その箱を地面へ、そっと落としていきました。

 

 その箱は、小さな息づかいを守ってはいるものの、しかし、その箱を守ってくれる者は、もう、そこにはいませんでした。

 

 箱の中の小さな息づかいはいつしか、風に吹き消されまいと、自ら懸命になきごえを上げたのでした。




 +++第五章『時は動きだす』+++

 【言葉は尽きない。なぜなら言いたいことなどないからだ】

 

 

   タイム△△スキップ{~基点からおよそ三カ月半後~}


 ***コロセ***

 今日も僕はベンチに腰掛け、遠く聳える壁とにらめっこをしている。地面に浮かぶ自分の影に向かって、独白を落としたりする。

 過去も未来も僕には見えなかった。見たくなかった。過去は美化された思い出となり現在の僕を戒めるし、未来は理想と化して現在の僕を諌めてくる。

 お前は駄目だ、お前は陳腐だ、お前は卑怯だ、お前は放恣だ、お前は卑小だ、お前は蛇蠍だ、お前は屑だ、お前は狡猾だ、お前はせこい、お前は甘い、お前はさもしい、お前は寂しい。

 だから……僕は悲しい。

 悲しいことは嫌いだ。どこからともなく苦しさをも引き連れて、余計に僕を辛くさせるから。だから僕は俯いて、みんなから顔を逸らし、自分の足元だけをみて、独り、自分の影と対話しているのだろう。悲しいことが嫌いだから。傷つくのが嫌だから。だから僕は独りが好きなのだ。

 でも。

 できることなら。

 僕はみんなといっしょに……。

 とそう思ってしまう我が儘な自分が、僕は一番、きらいだった。


「よお。久しぶり」

 

 突然の声。

 懐かしい声。

 懐かしいと瞬時に思えた声。

 たぶん、ずっと僕が、待ち望んでいた声。

 その声が、陰々滅滅と自己の裡へと潜っていた僕を、ふたたび表層へ呼び戻した。

 意識が浮上しきる前に僕は、反射的に視線を向けていた。

 声の主は、素養クラス時代の知人――城門(じょうもん)努樹(どき)だった。

 努樹は、サイドネイムの通りに努力を積み重ねて、大木みたいに才能を育ませるようなやつだった。

 数年前に、「特別パーソナリティ開発機構」通称「ミドル」に引き抜かれてから以降、努樹は現在その部の直属クラス(パーソナリティ開発クラス)俗称「ミドルクラス」の教官補佐として職務についている、と僕は風の噂で耳にしていた。

 僕の暮らしている零一六号棟のある区域とはまたちがう、特別な区域で努樹は暮らしている。僕なんかが立ち入ることの許されない、より組織側の区域――「無印エリア」にだ。

 僕のような、組織に貢献することのできない者たちは、「無印エリア」に対して、「サイドエリア」と呼ばれる一般の区域で暮らしている。

 このアークティクス・サイドで生活している大多数の者は、この「サイドエリア」に居住区がある。そして、努樹やアークティクス・ラバーたちみたいな、ごく少数の選抜された者たちのみが、「無印エリア」と呼ばれる特別な区域で、それこそ特別な生活と訓練を受けている――らしい。

 立ち入れない以上、「無印エリア」内のことなど僕が知る由もないし、知る術もない。

 ノドカも、僕と暮らす前は、そこに住居があったらしいのだけれど、「無印エリア」内のことをノドカは僕には話さなかった。なに一つとして。

 僕が知る必要のない情報なのだろうと思っていたし、いまになって思えば、「無印エリア」内について他言しないことを義務とされていたのかもしれない。それもまた僕には縁のない話だし、関係のない世界の話だ。

 そんな世界へと努樹は行ってしまったのだ。

 僕と別れて。

 僕を置いて。

 こうして努樹と会うのは実に三年ぶりのことだった。


 背がすこし伸びただろうか、もしくは訓練の甲斐あって胸囲がたくましく見えるせいもあるのだろう、努樹は以前よりも大きく成長して見えた。成長期まっただなかの僕たちなのだから、これくらいの変化は問題ない。たとえ変化が著しくとも問題はないのだけれど。

 しかしながらこの体格の変貌も、僕がベンチに座っていて努樹が起立しているがゆえの、その視線の高低差のちがいによる影響が、一番大きいのかもしれない。むしろそうなのだろう、と未だに痩身の僕は僻みに似た感想を抱く。

「久しぶり」

 逡巡したのちに僕は、一言だけそう返した。

 動悸がすこし窮屈に感じる。なぜだろう。

「それだけ? 素っ気ないのな」首に手を回して努樹は、よこ座っていいか、とすでに腰を屈めながら断りを入れた。構わないよ、と僕が答えたときにはやはりすでに座っていて、ありがとよ、と照れくさそうに礼を述べた。

 座ってからは、僕も、努樹も、しばらくなにも話さなかった。

 眼下のはるか先に連綿と聳える、百花繚乱な壁を眺めていた。

 

「今年は駄目だ」

 と、なんの前置きもなく、努樹は独り空へ嘆いた。

 空は快晴だのに努樹と邂逅してからものの数秒で、それも、ものすごい勢いで、僕は陰鬱な気分に陥った。これだから僕は誰かと会話するのが嫌なのだ。いや、会話したくないから気分が陰鬱となるのか。どっちが先かも判らない。

 僕に解ることといったら、全てにおいて、僕が何も知らないということだけだ。

 ――知らないことを知っている。

 それが僕の全てと言っても過言ではない。たとえ過言だったとしても、それこそ誰も困らない。

 さて。

 充分な間を空けてから僕は渋々、「なにが?」と訊き返した。

 なにが今年は駄目なのだ、と。

「子どもたちだよ。今年は駄目だ――というか前回も駄目だった。素質がない子どもばっかりでな。いやな、私だって大したパーソナリテイじゃないけどさ、それでも努力すればしたなりの成長があるってものだろ? だのに最近の子どもは駄目だ。戦闘にも使えないし、防衛だとか治療だとか、そういった救護にも不向き。自分のパーソナリティを如何に遣い、如何に応用するかといったな、そういったなに? 向上心? それがないんだ――というか明らかにかれらのパーソナリティには、湧き上がるオーラがない」

「なんなのオーラって。波紋のこと?」

「ちがう。波紋ならパーソナリティ値の高い人ほど感じられないだろ」オーラはオーラだ、とふんぞり返りながら努樹は脚を組んだ。

「オーラって、もしかして、人のうしろに視えるとかいう、胡散臭いあれのこと? 北極の星空に浮かぶオーロラみたいなやつ? 努樹にはそんなものが視えるようになっちゃったの?」

 大変だね、と一切の同情の籠らない言葉を吐く。

 もちろん冗句の一種だったが、

「いや、見えないけどさ」と流された。「でもほら、あるだろ? そういったやる気っていうか根性っていうか。うん、やっぱり目が違うんだよなあ。たとえば弥寺さんとかね」

「ここで弥寺さんを出すのは適切じゃないと思う。だってあの人は別格だもの。もはや人じゃない」

 ――そう、人じゃない。

 まあな、と空を仰ぎながら努樹は、「でもやっぱりああいった人には貫録っていうか覇気っていうか……やっぱりオーラだな。オーラがあるんだよ」

「逆だと思うけど」僕は反駁する。「パーソナリティが元からすごいから自信を抱けるんだ。だから自然と寛大な態度になって、結果、オーラが滲んで見える――ように他人には思えちゃうだけだよ。オーラがあるからすごくなるんじゃないよ、逆なんだ」

「同じことだね」努樹は一蹴した。「オーラが先だろうが、実力が先だろうが、そんなことは些細な問題、取るに足らない差異なんだよコロセ。だいいち自信っていうのは己を信じることじゃない、己の成長を信じることだ。過信と自信は別物だからね。現状の自分に甘んじている人間なんて、ただの傲慢チキに過ぎないだろ? そうじゃなくって、私が言いたかったのは、凄い人ってのは心構えからして違うってこと。うん? ちょっと違うな。えっと――心構えがしっかりとしていながらに固執はしておらず、なお且つ柔軟でいる者。そういった人が凄くなるってこと。まあ、これは受け入りだけどね。でだ――」

 ――今年は駄目だな。

 と努樹は大気へ唸るように言った。

「昔の人も同じことを言っていただろうね。それこそ弥寺さんだって僕らのことをそう嘆いていたに違いないよ」

「さもありなんだな」

「愚痴を吐きに来ただけなの? それとも僕を貶しにきたの? だとしたら僕はもうとっくに惨めな気分になってるよ。さすがは城門努樹さまさまだね、三年という時間を掛けてくれただけはある。随分と壮大な厭みを練ってくれちゃってさ、本当にありがとう」

 僕、すごく悲しいよ、とにっこりとほほ笑んでみせた。

 もちろん、それが冗句であると示すための皮肉口調だ。

「なに言ってやがる」努樹は愉快そうに語気を上げた。「私のこんなちゃっちいパーソナリティなんかよりも、コロセのその右手のほうがよっぽど羨ましい。この三年間、私が如何に自分のパーソナリティを疎み、コロセのその右手よろしくパーソナリティを羨ましがったことか」

「謙遜されてもさ……世辞を言われたって、うれしくないよ」ちっともうれしくない、と唸る。

 むしろ僕の場合、相手の寛大さによって相対的に自分が小さく思えてくるので、そういった心遣い、気遣いは苦手なくらいだ。

 捻くれた人間、それが僕である。

 アンビヴァレンスに塗れている人間、それも僕である。

 自分が捻くれていることにも、自家撞着に陥っていることにも、きちんと僕は自覚している。自覚しているにも拘わらず現状に甘んじている。

 以前に努樹が言っていた言葉を借りれば、「無自覚な者よりも性質が悪い」なのだろう。往々にして、自覚しているから良いということにはならないらしい。世の中は常に僕に対してシビアだ。

「世辞じゃない」と努樹は言った。「私は本心からコロセが羨ましいんだから」

「その冗談、おもしろいね」表情には現れないようにして僕は幼稚にむくれた。「でも残念。努樹のパーソナリティのほうがよっぽど羨ましい。僕だけじゃなくて、みんなだってそう思ってるもの」

 言いながら、なにを僕はこんなに苛立っているのだろう、と思う。

「そう思っているのはそう見えているだけだからだ」努樹は謙虚に反駁してくる。「城門努樹くんのパーソナリティってもしかして凄いんじゃないか、ってそう見えているだけ。虚像だよ。大体な、私のこれ――」

 ――戦闘にはあんまし向いてないんだ。

 と努樹は悔しそうにつぶやいた。

「なら何に向いているのさ」

 ああうん、とすこし間を置いて、「あんまし言いたくないかな」と努樹は言葉を濁す。

「秘密にする意味、あるの?」

「うーん、そうだな。でも他言無用だぞ?」

 それは高度な厭みかな、と僕は眉を顰める。「他言しようにも、する相手が僕にはいないんだけど」

「そいつは悪かった」片側に笑窪を空けると、あのな、と努樹は声を窄めた。「あのな、私のパーソナリティはな、援護用なのさ」

「援護用?」

「そう。援護。ちゃっちいよな。僭越ながらも、他人さまのパーソナリティの開拓を仰せつかっている私がだぞ、戦闘に参加できないどころか補佐に特化しているってのは、なかなかどうして肩身が狭いわけですよ。ましてや子どもたちに知られたなんて際には、もうね」

 ほんと内緒だぞ、と努樹は唇に人差しゆびを当てた。

 そういうことか、と僕は納得する。

 ここでは、パーソナリティの武力こそがより重宝される。他人を評価するにあたっても、武力が高い人間はそれだけで高く評価される。それは力に屈するという意味もあるのだろうけれど――そういった権威主義よりも、さらにそれを踏まえたうえで――武力の高いパーソナリティ保持者は、畏敬の眼差しを注がれ、憧憬を抱かれるのだ。

 ――勝ち負けで生まれる価値がここでのすべてだ。

 どうして僕らは価値を求めるのだろう。

「うん、努樹の特質なら援護にも向いているだろうね」と『援護にも』の『も』を強調して僕は言った。

「武力が高くなきゃいつまでもラバーにはなれない。ホント、駄目駄目だよ、」

 ――私のコレは。

 言って努樹は、ベンチから離れた場所に咲いている鬼百合を見つめた。

 ――途端。

 鬼百合は霜をまといはじめる。

 次第に花弁をもたげていく鬼百合。

 数秒もすると、霜の重さで、花弁の根元からパッキンと折れた。

 芝のうえに霜に飾られた鬼百合が落ちる。

 おもむろにベンチから立ちあがって僕は、その鬼百合を取りに歩いた。

 案の定――鬼百合は凍っていた。

 それを持って僕はベンチに戻る。

「ねえ。たしか、僕の拙い記憶によればだけど、許可なしでのパーソナリティの使用って禁止されてなかった? 厳罰の対象だったような気がしますよ」教官補佐どの、と揶揄しながらベンチに腰を沈める。

「ああ、いいんだよあんなのは」努樹は払うように手を振った。「ルールなんてのはあまねく処罰するためのもので、守るためのものじゃないんだから。ルールを守らない者のために、ルールはあるんだ」と教官に属す者らしからぬ台詞を吐いた。「守る自由も、守らない自由も私たちにはある。そうだろ?」

「その議論をここでするつもりはないからね」と軽くあしらう。「そもそもむかし、その議題でさ、吉田のジイさんと努樹が言い合ってるの、僕、見た覚えあるもん。すでに終えている議論をするつもりは僕にはない。時間もないし、意思もない」

 暇人だけれど暇人には暇人の一日があるのだ、と突っ込まれる前に暇人であることを自己申告しておいた。

 

 以前に展開された吉田のジイさんと努樹の議論の結びが、どのようなものであったかは詳らかではないけれど、吉田のジイさんこと吉田(よしだ)歌田(かでん)教官によって努樹が遣り込まれて、諭されていたのは模糊としながらも覚えている。

 むかしからなのだけれど、努樹を観察分析していると、努樹という人物が真面目なのだか独善的で不羈とした人間なのか、てんで解らなくなるときがあった。(飽くまでも三年以上前の努樹についての話――なのだけれど)

 けれどややもすればそれは、努樹が杓子定規ではないということなのかもしれないし、または努樹が、当意即妙、泰然自若な荘厳あらたかな人間であるのかもしれない。一方ではただ単に、日和見主義の豪放磊落、放蕩不遜な人間なのかもしれない。いまに至ってもそれは定かではない(努樹を観察分析するという権利の執行を、この三年という時間が、僕から取り上げていたからだ。努樹は三年前、別れの挨拶もろくすっぽせずに、僕のまえから姿を消した。呆気なかった別れだったように思う)。

 ただそれでも――僕の目にはいつだって、努樹がただただ真っ直ぐに純粋な人間として映っている。今もむかしも。それは変わらない。きっとこれからだって変わらないのだろう。

 面倒くさがりな僕は、たとえ努樹の人格が変貌していたとして、いまさら認識を変えたくはないのだ。ほとほと面倒くさい。

 それゆえに、むかしの城門努樹と、今、目のまえにいるこの城門努樹が同一人物なのだと、なんの違和感も抱かずに僕はそう受け入れることができている。

 この三年間がまったく介在していなかったがごとく。

 凍結されていた時がそのまま解凍されて、動き出したがごとく。

 そのため、僕のこの曇りガラスの眼によって見定められた城門努樹という人物は、いたって真っ直ぐな心根を持った若者なのだ、と決断された。

 

「まあ、破ったもんは仕様がないな、あとで罰則は科せられておこう」と努樹は言った。

 こういうところが真っ直ぐなのだ。

 努樹のこの真っ直ぐさが僕はたぶん、嫌いじゃない。

「にしてもこれがさあ」と努樹は内ポケットから時代遅れな携帯電話に似た機器を取り出した。ディスプレイを眺めている。「ホント、楽じゃないんだよな、罰則ってのが。ほら見てみろよ。この私の溜まりに溜まったぺナルティ。真っ赤っかだろ? あれを使ってはいけない、ここに立ち入ってはならない、この飲食物に手を出してはいけない――あーだ、こーだ、そんな規制をだな、私はいくつも強いられているわけ。なのに、ただでさえペナルティであっぷあっぷと溺れかけている私がだ、こんなところで無駄なこと――いやホント無駄でしかないこの無駄な行為をだな――敢えて行っているわけ。なぜだかわかる? 多くの時間と労力の無駄遣いになると判っていても敢えて、わざわざパーソナリティを実践してやったのはな、それもこれも、コロセくんに解りやすく説明してやるためなんだ。まったくもって私に感謝しなさい」

 と厚かましくも努樹は言った。

 早くも前言撤回の危機だった。

 はなはだ言いがかりにすぎる。

 勝手にパーソナリティで遊んだのは努樹のほうだ。

 でも、誰よりも我が儘なのはきっと――僕のほう。

 誰かを責めるなんてできるはずもない。

 左手には凍った鬼百合。

 冷気が手を伝う。

 悪寒が全身に走った。

 鳥肌がたつ。

 けれど今日も気候は温かい。

 努樹はさ、と僕は口にした。

「努樹はさ、ただでさせ自由な僕らよりも、さらに自由なんだから。すこしは縛られたほうがいいよ」と返す返す悪態を吐く。「だいいち、努樹のこの特質――一体どこが気にいらないの? なにが物足りないの? 誇張もお世辞も、一切の嘘偽りすらなく、このパーソナリティはすごい特質でしょ。誰もが羨むパーソナリティだよ」

 漫画やアニメに出てくる「氷遣い」と言えば、かなりの確率で、強くて二枚目。また、人気の高いキャラクタが多い。クールな性格である傾向も高いように思われるが、その点、努樹はクールとは程遠い。むしろ熱血漢だ。

 手が冷たくなってきたので僕は凍った鬼百合を宙へ放った。

 いつぞやの僕たちがしていたように。努樹が凍らせ。僕が放った。

 宙に弧を描いて。氷結した鬼百合は。飛行する。浮遊する。落下する。

 懐かしいな、と思った。

 カシャンと軽い音を立てて鬼百合は地面とぶつかり。砕け。弾け。散らばる。

 その様子を眺めながら努樹は、心底つまらなさそうな調子で、「こんなの遣えない」と拗ねた口調で言った。

 その言い方がすこしかわいらしかった。

 喉まで出かかった笑いを呑み込んで僕は、「こんなにすごい特質なのに?」と怪訝に声を上げると、「凄いからって最適とは限らないだろ」と努樹はいじっていた帽子のつばを、くい、と下げて深く被った。

「何度も言うようだけど、私のパーソナリティは、戦闘には遣えない。大砲を担いだ人間と、ナイフを手にした人間――接近戦ならどっちが最適の武器かは言うまでもないだろ? そういうこと」

「でも努樹のパーソナリティはさ、その喩えで言えば、いちどきに沢山のナイフを投擲できるくらいに適応の効く特質に思えるけど」

「だからさっき言っただろ。そう見えるだけだって」うんざりした口調で努樹は、大体な、と続けた。「大体な、一度に大量のナイフを投げたんじゃ、手元にナイフが残らないだろうに。無制限に攻撃しつづけるなんて、そんな都合のいいパーソナリティは存在しない。それくらい、無学で怠け者のコロセだって知ってるだろ? 物理法則に反することはいくら私たちだって無理なんだ」

 無理なものは無理なの、と努樹は謳った。

「そんなこと言われても、」と指摘する「僕らの存在自体が充分に反していると思うんだけど。物理法則から」

 まあな、と努樹は釈然としない相槌を打つ。打ちつつも、ベンチに片足を乗っけて頬杖を付いた。

「パーソナリティのメカニズムは未だに解明はされてないから。まあでもね、それでも物理法則を外れてはないらしいんだよ、私たちは」というかパーソナリティってのはね、とふたたび空を仰ぐ努樹。僕もつられて喉を伸ばした。「ちゃんと物理的な相互作用によって引き起きている現象らしい」

「へえ、そうなんだ」寡聞にして知らない情報だ。「僕、無学なので勉強になります」と皮肉交じりに、「流石エリート、流行に乗ってるね」と口にした。

 口にしつつ、風に乗って落ちてきた葉っぱを掴む。

 葉の色が、鮮やかな緑ではなくなっている。

 木々は紅葉しはじめていた。

「流行に乗る、か」努樹がぼやいている。「クルマじゃないんだから」

 うん。車じゃない。ぜんぜん関係ない。

 可哀想なので僕は、聞かなかったことにした。


 改めて努樹の横顔を眺めてみる。

 ぱっちりとした大きい目なのに鋭い眼光。まつ毛が長いのは変わっていない(努樹いわく僕のほうが長いのだという。絶対にうそだ)。頬が以前ほどぷっくりしていないのは、訓練によって引き締まったからだろう。あごが鋭角で、端整だった顔のつくりが、今は、もっと整って見えた。

 ようするに、努樹は美形で格好いいのだ。この点、典型的な「氷遣い」っぽい。

 教官の制服に身を包ませて、大きめの襟が、努樹の白い首を覆っている。

 つば付きの帽子を被っている。制服と同じ生地、同じ色、同じ柄の帽子だった。束ねた髪の毛が、帽子の後ろに空いた穴から、ぴょこん、と尻尾のようにはみ出ている。推測するに、髪型はどうやらむかしのままらしい。

 当時――。

 三年以上前の努樹は、「面倒くさいから」と言ってろくすっぽ理髪もせずに、光に当たると、かすかに銀髪に光沢して見えるその黒髪を、伸ばしっぱなしにしていた。

 邪魔だから、と言って努樹は、その長髪を常時うしろに束ねていた。邪魔なら切ればいいのに、と僕がいくら言っても、「面倒くさい」の一点張りで頑なに髪を切ることを拒んでいた。努樹は変なところで頑固だった。

「チョンマゲは大和魂だな」と努樹は自慢げに謳って、短髪である僕にもチョンマゲを強要しようとしていた時期がある。そうやって度々わけの解らない言動を発し、その論理破綻している理屈にのっとって暴走することもしばしば。努樹は変なところが偏屈だった。

 けれど今、僕のよこに座っている努樹の髪型は、チョンマゲというよりはチョビマゲだ。

 そのまま毛筆として使えそうだな――と僕は声に出さずに毒づく。当時よりは短髪のようだ。

 僕の眼差しに気付いたのか、「なに見てんだよ。気色わるい」と努樹は酸っぱそうな顔をした。それから崩れた顔を元に戻しつつ、お、と声をあげた。「お、なんだコロセ。ピアス空けたのか?」

 僕は耳たぶをいじる。

 黒くて小さな石のピアスが二個、僕の耳にはついている。

 努樹と離ればなれになってからの三年間に空けたピアスだ。

「ついにコロセも、ファッションに気を使うお年頃になったかぁ」努樹は兄貴気取りで感慨深げに言った。「素直にうれしいぞ」

 あんまり触れられたくない話題だったので、「いいじゃんこれくらい」と突っ張った態度をとる。

 誰も悪いなんて言ってないだろ、と努樹は苦笑した。

 

 触れるべき話題ではなかったかな、と気を回してくれたようで努樹は、あれさ、と即座に話題を変えてくれた。「あれさ、コロセはさ、私のこのパーソナリティ、どんな特質だと思ってんだ?」

「そりゃあ――物自体を氷らせる特質でしょ」こともなしげに僕は答えた。見たままの感想だ。握っていた葉っぱは、無意識の所作によっていつの間にか細々と千切れていた。

「そこからして違うんだよなぁ」と努樹は大仰に溜息を吐いた。「さっきの話に戻るけど。コロセも含めてみんなはな、私がパーソナリティを遣った結果、そのあとに引き起こっている現象を見てそう思っているんだろうけども」厳密には違うんですよコロセくん、とおどけた口調で人差しゆびを立てた。

「へえ。ちがうんだ」僕は言ってやった。「じゃあなに、努樹のパーソナリティって、特質によって引き起こされる現象はほかにあって、その現象を生じさせる過程で対象が副産物的に凍るだけってこと? 要するに、物体を凍らせる特質ではないわけだ」

 副産物的ねぇ、と努樹は吊るした口元から白い歯を覗かせる。「むかしから思ってたんだけど、ときどき肩っ苦しいよな、コロセの話し方って」

「別にいいでしょ。それこそ僕のパーソナリティだもの」

「だーかーら。紛らわしいからパーソナリティって言葉を『個性』の意味で使うな。ここでは個性のことは『インディビジュアリティ』って言いなさいって私がむかし教えただろ? 未だに治ってなかったのか。あのなコロセ、これだからいつまで経っても教官たちに目をつけられるんだぞ」

 しっかりしような、と努樹は教官みたいな喋り方をした。

「だって。ほら、僕って滅多に人と話さないでしょ」単純に忘れてただけです、と言い訳がましく僕は言った。「でも言っちゃなんだけど、先生たちから目を付けらてるのは努樹のほうだって同じでしょ。ううん、警戒のされ方でいえば僕よりも努樹のほうがランクは上だよきっと」

「なんのランクよ」

「問題児のランク」

 そんなランク聞いたことない、と努樹は口を窄めた。「というかなんで私が問題児なんだ? こんな才色兼備で清廉潔白、品行方正な人間はそうそうお目にかかれないのに」

「その冗句、おもしろいね。さすがはエリート、口にするユーモアまでちがう」

「コロセには言われたかない台詞だな」破顔して努樹は、「コロセのジョークこそ、凡夫の私にはさっぱりだ」と身体をのけ反らせた。「おっと、危ない危ない。話をはぐらかすなって。で、どうして私が問題児なんだ?」

「まさかとは思うけど、あのときのこと、忘れたわけじゃないよね?」

「どのときだ?」

「ほら、僕と努樹がまだ同じクラスだったころにさ――というか僕と努樹がそこそこ喋るようになったばっかりのころ――努樹ってば、僕のこと苛めてたカジキマグロたちを半殺しにしたじゃない。忘れたとは言わせないよ」

 言いつつ僕は脳裡の表層に、記憶の断片を浮上させる。


 あのころ――。

 僕は、ここアークティクス・サイドを訪れてすぐに孤立していた。

 誰からも相手にされなかっただけならまだ良かったのかもしれないのだけれど、あのときの、あの「素養クラス」の者たちから僕は、奇異な眼差しを注がれていた。とくに、「カジキマグロ」というヘンテコな名前のギャング気取りの連中は、僕へ必要以上に絡んで、干渉を強いてきた。

 このアークティクス・サイドでさえ、肉体的な――目に視える規模での――パーソナリティは珍しかったらしい。

 右腕が無いのに、視えないのにも関わらず――僕は右腕を遣っている。

 その奇異な現象が、不可解さが、子どもたちはこわかったのだろう。

 未知へ対する畏怖は大人も子どもも大差なく、平等に沸き起こる感情らしい。そして彼らはその畏怖を他人に知られないように強がるのだ。弱みを見せてはいけないと誰もが本能で知っているのだろう。

 大人であればそれを、相手を認める、といった行動で示すのだろうけれど、あのクラスの子どもたちは違った。

 僕を苛め、力の差を明白に誇示することで、己が抱いた畏怖を包み隠そうとした。

 けれど、この城門努樹だけは違った。

 僕を苛めていた子どもたち、そして黙認していたほかの人たちに対して異議を唱えた。

 唱えて、論じて、喝破し、説き伏せた。

 そうして、

「そいつをイジメんのはやめろ、やめなきゃおれがテメェらイジメんぞ」

 と、ドスを効かせた声を荒らげて僕とクラスの者とのあいだに――主格であったカジキマグロたちのまえに――立ち塞がった。

 それからは、阿鼻叫喚、悶え乱れてのてんやわんやの大乱闘。

 せっかく説き伏せたクラスの子たちをも巻き込んでの争乱であった。

 暴れているのがたとえ子どもであっても、ここはパーソナリティを兼ね備えている特質保有者――すなわち「保持者」の学校兼居住区である。

 講義中以外でのパーソナリティの使用はもちろん禁止されている。教官やアークティクス・ラバーであってもそれは同じだったけれど、逆上した子どもに最早、ルールという名の倫理など、なんの意味も持たない。騒動は流血を伴った。

 ――僕はこわかった。

 自分を守ろうとしてくれた者が血を流している。その一方で、僕を苛めていた者たちも互いに互いで争いあって、傷付けあっている。彼らはみんな、僕さえいなければクラス一丸となって平安に楽しく毎日の生活を送っていたはずなのだ。

 それなのにどうだ。この状況はなんだ。この惨状はどうしたことか。

 なにがわるかった。だれがわるいのか。

 僕は考えた。そして思い至った。

 今こうしてみんなが喧嘩しているのは誰のせいでもない――僕のせいだ。

 ――僕が悪いのだ。

 僕は叫んだ。

「ごめんなさい」「もうやめて」「僕がいなくなればいいんでしょ」「僕がわるかったから」「いなくなるから」

 だから、だからもう、

 

 ――やめてよ。

 

 必死だったのだと思う。悲痛な叫びだったのだと思う。

 けれど言葉で説得するには遅すぎた。

 暴力は暴力を呼び集め。

 さらに周囲を巻き込んで。

 こうなってしまってはもう。

 僕の言葉に耳を傾ける者など。

 どこへ叫んでみてもいなかった。

 だれへ訴えてみても、届かなかった。

 どいつもこいつも悲鳴と罵声と命乞い。

 だれもかれもが自分の身を案じるだけで精一杯。

 言葉はこれっぽっちも意味をなさなかった。伝わらなかった。

 けれど、やはり一人だけ、この城門努樹だけは僕の叫びに応えてくれた。

 僕の目のまえにくると、「おまえが謝る必要なんかない。こいつらが悪いし、こうなったのはおれが悪い。おれが勝手にはじめたことだし、こいつらが勝手にやっているだけだ。おまえはなんも悪くない」

 言って努樹は、血だらけのシャツで血塗れの額を拭った。

 努樹の視界がその際、一瞬、閉ざされた。

 僕と努樹とのあいだから影が伸びる。

 巨大な黒いナメクジに見えた。

 その黒いナメクジは、ものすごい勢いで努樹を突き飛ばした。不謹慎ではあるけれど、その光景を目の当たりにした僕は、ゴルフのスイングを連想した。

 努樹は吹っ飛び、壁に激突する。

 努樹のぶっ飛んでいく様を眼で追っていた僕は、視界の端に未だ燻っている巨大な影を見た。

 そのつぎに僕の瞳には子どもの姿が映った。

 こちらに手を翳しながら仁王立ちしている、カジキマグロのリーダの姿だった。

 ――彼は笑っていた。

 そして、宙を割くように手を振った。

 瞬間――。

 僕の思考は停止した。

 意識が、ふっ、と遠く沈んでいくように飛んでいった。

 つぎに意識が舞い戻ってきたとき。

 僕は努樹に抱き寄せられ、揺さぶられていた。

 身体がひどく痛かった。

 努樹は泣いていた。

 クラスのみんなの姿が見えなかった。

 探ろうとして首を持ち上げた。

 僕は目を疑った。

 まだ夢のなかにいるのかと思った。

 視野のすべてが凍っている。

 つまりは僕らのいた講義室が凍っていたのだ。

 すべてが凍っている事実を目の当たりにして僕はやっと、この身体の痛みが、寒さからくる痛みなのだと気が付いた。

 広い室内のあちらこちらに、ブロンズ像が不規則に、斑に、置かれている。ぼやけた視界とぼんやりとした思考でありながらも僕は、変だな、と訝しげに思った。そんなものはこの講義室には置かれていなかったはずだ。

 よくよく目を凝らす。すぐにそれらが、凍ったクラスのみんななのだと思い至った。

 みんな凍っていた。凍った室内と一体化するように。クラスのみんなは凍っていた。

 僕と努樹だけが静止せずに蠢いていた。

 涙が、努樹の頬を伝っている。

 霜に覆われて努樹は真っ白だった。綺麗だった。

 艶やかな努樹の白い肌に弾かれて、涙の滴は落下する。落下する。落下して、僕の頬に着地した。

 染みていく。

 温かいと感じた。

 努樹の涙は温かかった。

 次第に眠くなっていった僕がつぎに目にした光景は、ベッドの上から見た病室の天井だった。点描のように、小さな穴ぼこが沢山あいていたのを覚えている。なんだかとっても抽象的な模様の天井に思えた。ぐにゅぐにゅ、と形の定まらない模様。それはきっと、僕の視界が定まっていなかったからそう視えていたのだろう。

 意識が途切れていたあいだ――。

 そのあいだにずっと聞こえていた。

 努樹のむせび泣くかぼそい声が、僕の耳にはまだ、風の音のように残っている。


「あれは――」と努樹は言い淀む。「あれは――仕様がなかったんだ。ああしなきゃ止められなかった」

「でも、やりすぎでしょ」僕は敢えて揶揄した。

「でもな、でもな。私のアノおかげでだな、結局死者は出なかったわけだろ? 褒められはすれど責められる筋合いはない。そうだろ? まったく何なのさ。コロセは入院していたから知らないだろうけどな、実際あのあとに表彰されてるんだぞ私は」

「知ってるよ」

 あのときの努樹の対処が評価されて、その五年後に努樹は、「ミドル」に引き抜かれて僕の元から去った。そういうことなのだと僕は自分で調べて知った。努樹は僕に、なにも告げずに去ったのだ。

 どうして教えてくれなかったのだろう――そんなとげとげした疑問しか湧かなかった。

「努樹が表彰されたことは有名な話だ。クラス全員病院送りにしたその狂犬ぶりに、アークティクス・サイドの住民一同感涙する、ってね」

「そんなの聞いたこともない」

「本人に面と向かって言う人はいないよ」嘯きつつ、「僕はそれを友達から聞きました」と見栄を張る。

「はあ、誰に? 誰から聞いたって? 友達のいないコロセくんが誰から聞いたって? 滑稽過ぎて臍でピザが焼けら」

 ピザが焼けるとは随分な言われようだ。料理、できないくせに。

「ウソも大概にしておけよ」と努樹。「でないと、いずれ現実を見失っちゃうからな」

「ウソじゃないよ。だってこれは冗句だもの」と指摘。努樹の揶揄など意に介しない。「そもそも見失って困る現実なんて僕にはありません」

 どんだけ捻くれてんだよ、と努樹は呵々大笑する。その大笑が大気中へ染み入るように治まったあと、一転して努樹は、「あんときは悪かったな」と深刻な口調で謝罪した。

「本当にごめん。どう仕様もなかったとはいえ、コロセにパーソナリティを向けてしまった。危うくコロセを殺すところだった」

「僕はそんなにヤワじゃない」繊細なだけだ、とおどける。「大体さ、努樹は大袈裟なんだよ。凍らされたみんなのなかで、僕は一番軽傷だったんだ。僕が凍死していたとしたら、それこそ努樹はクラス全員を殺しちゃってたってことになるよ? でもそうならなかった。なんだかんだ言って努樹は僕にもみんなにも手加減してくれたんだよ。意図してなかったとしてもね」

「そう言ってもらえると助かる」努樹は帽子からはみ出ている髪の毛をいじっている。それから、情けないように眉を曇らせた。「でもな、本当はさ――――」

 努樹の言葉を遮って僕は、「はい、この話はお終い」とベンチの背もたれに体重を預けた。大きく背伸びをする。「僕から振っておいてわるいけど、いま話していた話題はこれじゃなかったでしょ?」

「あれ。なんだっけか?」

「努樹のパーソナリティが、対象を凍らせる特質じゃないって話」と無理やり話題を戻した。

「そういやそんな話だったな」努樹はすんなり順応してくれた。

 

「で、努樹のパーソナリティって実際はどういう特質なの?」と話の軌道を完全に修正する。「今なら理解できそうな気がする……なんとなくだけど」

「ほんとか?」

 一時期、僕は、努樹のことを分析して掌握してやろう、と意気込んで、完膚なきまでに挫折させられたことがあった。無学な僕には無理だったのだ。

 けれど今なら、とそう淡い期待を抱いている思い上がり甚だしい僕がいる。

「言語を用いて概念を伝えるってのは、あんまり得意じゃないからなあ。上手く話せないだろうとは思うけど、そこはご愛嬌、ご勘弁な」

 前置きしてから努樹は、あーえっとな、と悩みながら話しだす。

「私の場合、パーソナリティを遣って対象を凍らせるんじゃなくって、遣った結果、その影響で対象が凍るだけなんだよ――というのはさっき話したっけな。うん、そうだなあ。さっきコロセが言ったように、副産物的に対象が凍るわけなんだが……ふむ。コロセはどうしてだと思う?」

 早々に匙を投げだした。

 散々悩んだあげくにこれだ。

 自分以外に対してはとことんいい加減な奴である。

 そう、城門努樹とはそういう奴なのだ。

「知らない」間髪容れずに僕は返した。

「即答かよ」努樹はベンチに落ちていた葉を丸めてゆびで弾いた。「少しは考えろって」

 弾かれた葉の玉は僕の額に当たる。

 額を撫でながら僕は仕方なく、あれでしょ、といい加減に答えた。

「努樹のパーソナリティはたぶん、物体を構成している分子とか原子とかの活動を停止させて、物質の温度を下げる感じ」

「と言うと?」

「なんて言えばいいんだろう――要するに、分子運動を停止させるっていうのが努樹の『特質』で、その『特質』によって副産物的に物体が凍ってしまう、とこういうことではないでしょうか」と真面目な優等生を演じつつ、「温度は原子や分子の運動によって生じている、だったよね確か? 講義サボってばかりだからあんまり覚えてないけど、そんな話だったような気がする。で、その分子運動を努樹は停止させることができる」どうやってかは解らないけど、と答えた。

「おう。成長しましたねコロセくん」先生うれしいです、と努樹は教官口調で言った。「うん、概ね正解。まあ、私の場合、電子レンジの逆バージョンって言えば早いかな。電子レンジはさ、マイクロ波加熱って現象を利用していてね」

 おっと、と僕は身構えた。

 なんだかちょっと、もうすでに付いていけなくなる予兆が感じられる。努樹に身体を向けて、ベンチに正座した。「マイクロハカネツってなに?」

「うん。マイクロ波加熱ってのいうのは、簡単に言ってしまえば――波長の短い電波を物体に投射することで、波長に応じた分子が共振するんだけど――」

 どこが簡単なの、と僕は溢す。努樹は微笑んで続けた。

「――そうやって特定の物質を共振させることによって、物体を構成している分子の運動をも活発化させる。結果、温度も上昇する、ってこと。よくさ、分子同士の摩擦によって熱が発生するって言うだろ? 厳密には違う気がするけど、イメージしやすいからそう思ってくれていいよ」

「ふうん。そうなんだ」

 どうしよう。むつかしい話になってきた。

 万年無学の僕にはやはり重い話題だ。というか全然簡単に言ってくれていない。あれ、でも、電子レンジは摩擦熱で良かったような気もする。努樹が間違っているのだと僕は思うのだけれど、まあ、どっちでもいい。努樹が間違っているからといって、僕が電子レンジを使えなくなるわけではない。

「マイクロ波加熱ってのは喩えるとだな――そうだな、分子を馬として、マイクロ波を騎手とすると――馬をもっと早く走らせるために騎手が馬を鞭打っている、って感じかな。馬はたくさん走れば走るだけ体温が上がるだろ? そういうことだ」と努樹はいい加減に並べた。「おう、我ながら解りやすい喩えだ」

 残念ながら大して解りやすくもない。むしろ的外れな感すら漂っているのだけれど、実際のところどうなのだろう。僕の理解力が芳しくないだけなのだろうか。

「それで私の場合は、今の比喩を用いれば、馬が走らないように鞭打って黙らせる――ってよりもあれかな、羊牧犬みたいに猟犬遣って馬を一か所にじっとさせている、みたいな感じかもしれない。走らせないことで、体温が上がるのを防いでいるんだな」

 うん解りやすい、と努樹は自画自賛した。

「はしょって説明すればね、分子運動に対して相反するエネルギィを物体に衝突させて、物体中の分子運動を静止させる――それが私のパーソナリティの特質なんだ。どこからそのエネルギィを投射してんだ、とか、どっから発生させてるんだ、とかその辺の原理は言葉じゃ説明しにくいんだよね。あ、そうそうちなみにね、停止じゃなくって、静止――ここ重要だから。仮に原子が停止しちゃったらさ、それこそ核融合だの核分裂だのプラズマだの、トンデモな現象を引き起こしかねなくて、堪ったもんじゃないんだから」と溌溂とした声で嘆いた。

「そうだね、堪らないね」

 とは言ったものの、堪らないのは僕のほうだ。情けないことに理解が及ばない。

 そんな僕を置いてきぼりにして努樹は独走する。

「停止は物質の死を意味するからな。でもそんなのは有り得ない。なぜって、どんな場合でも物質は循環しつづけるから。どんな物質でも、現象でも、それ自体が完全に止まってしまうってのは完全な崩壊と同義なんだ。ん、いや違うか、そうじゃないな。動いているってのはつまりは循環しているってことで、それは言い換えれば、崩壊と構築をイタチごっこみたいにして繰り返しているってことだ。でもって完全に止まる、停止する、というのはその循環を断ってしまうってこと。構築することを止めてしまうってこと。そうそう、言うなれば、崩壊のみスイッチが入ったままで、構築のスイッチが切れてしまった状態――それが停止の意味だ」

 ちなみにこれは、時間の話じゃなく、運動の話だからね、と努樹は念を押した。

「私がいま言っている『構築』っていうのはとどのつまり、修繕とか修復とか補完とか、そういった回復の意味でさ。言ってしまえば、停止ってのは世界の循環からの逸脱を意味するんだろうな。でも私のパーソナリティはそんな大それた特質じゃない。停止じゃなくて静止だから。飽くまでも、エネルギィの循環を一時的に抑えているだけなんだ。だからつぎの瞬間にはまた運動し出す。とは言ってもね、いったん分子が静止してしまった物体は、絶対零度になっちゃって凍ってしまうんだけど。それでも徐々に周囲のエネルギィを奪いながら、もう一度分子運動を活発化させるから、凍結した後には必然的に解凍もされるわけ。静止の場合、循環から逸脱していないから」努樹はようやく息を継いだ。「まあ、この説明も、大半が私の仮説に過ぎないんだけどね」

「ごめんなさい」僕は素直に謝った。「ぜんぜん解りません。この三年間を以ってしても、やっぱり僕にはぜんぜん解りませんでした」

 努樹は満足そうに、「変わってないなぁ、コロセは」と虚仮にした。

 言われるまでもない。

 だってこの三年間、僕は、これっぽっちも成長してないのだから。

 

 でも一つだけ確認できたことはあったよ、と僕が言うと努樹は、「なんだ?」と相槌を打った。

「これまでの話が本当だったとして――だとしたら、なおさら努樹のパーソナリティが無敵だってこと。だってそうでしょ?」

 分子運動を静止させるなど、それこそ拳銃だとか爆弾だとかそういった並の武器にならまったく引けを取らないくらいの――むしろ軽く超越してしまうほどの――殺傷威力かつ殺傷規模の高さではないだろうか。

 ともすれば努樹のパーソナリティは、物質に流れる時間を静止させるに等しい特質なのかもしれない。努樹は否定していたけれど。

 でもここでどうしても引っ掛かる疑問があった――運動を静止させているとなれば、なぜ崩壊するのだろうか。動かないのに崩壊するとはこれ如何に。やはり良く解らない。

 だから僕は、それに、と繋げてそのことを告げた。

「それに、どうして静止しているのに崩壊するの? 静止しているなら時間だって経過しないはずでしょ?」

 ところが努樹は僕のこの邪推とも揚げ足取りとも付かない指摘をあっさりと否定した。

「それは違うって。まあ、時間っていうのは結構色々と定義されちゃっていて、ここで時間の話をするのは面倒くさいから省くけど……。いい? もう一度確認しておくけど――私がいま言っている静止っていうのはね、時間の静止のことじゃない。運動の静止のことだ。運動ってものは押し並べて自主的で能動的なものだろ? 自分で動くからこその運動であって、自分以外の、ほかのものに動いてもらってそれを自分の運動とするなんて、そんな横取り搾取みたいな理不尽な運動はありえない。ここまではいいよな? 当たり前の話だ」

「うん。いいよ」

 他人が働いていることを、自分が働いていることには置換できない。ニートはニート。親の働きを自分の働きにはできない。また、王様は王様。家来の働きを自分の働きにはできない。うん、当たり前の話だ。僕は納得する。納得しつつも、でもさ、と茶々を入れた。

「でもさ、『当たり前というのは真理ではないけれど、さも真理であるかのように錯覚させる。だから気をつけろ』、でしょ?」

 以前、努樹が偉そうに説法振りまいていた言葉だ。

 おう、解ってるじゃないか、と努樹は満悦そうにあごを引く。それから、だがな、とむかしの自分の箴言に新しい訓戒を付け足した。

「だがな、真理はすべからく当たり前であるべきだ」

 でもってな、と努樹は軽やかに主題へ戻る。

「ここからがさらに重要なんだけど――崩壊っていうのは運動によって引き起こされる現象ではあるけど、運動していなくたって引き起こるものでもある。何もしなくたって私たちは年を取るし、たとえ凍って年をとらなくなったとしても、凍っているあいだにほかの誰かから殴られれば砕けてしまう。飽くまで静止しているのは運動であって、時間じゃないんだ」

 動いていないモノも、働いていないモノも、何もしていなくとも時間の経過の中にいる。

 どんな場合においても崩壊という変遷は止められない――と努樹はそう謳った。

 すなわち、時間は経過する、ということか。

 いや、逆なのだろう。どんな場合も時間は経過する。だから崩壊は止められない。

 卵が先か、牛乳が先か――うん、まるでホットケーキを作るときにぶちあたる問題のようだ。

「なるほど」僕はなんとなく解った気になる。もちろん、理解などしていない。

「けどまあ、こんな屁理屈を並べたら余計に凄いパーソナリティに思えるだろうけど、前にも言ったように無制限に使えるエネルギィなんて存在しない。私も自分のこのパーソナリティを行使するにはそれなりの代償――要するに、対価を支払っているわけだ。外の社会でだって電気を使うには発電しなきゃならなくて、発電するには火力だの水力だの風力だの太陽光だの原子力だのと、そういった膨大なエネルギィを必要としているだろ? 私たちだって同じさ。供給されるエネルギィがなければパーソナリティは遣えない。だから大抵、ほかの保持者たちだってパーソナリィを使用するには私と同じように――といっても大なり小なり格差はあるだろうけど――何かしらの代償が必要なはずなんだ。その代償の結果、身体に変調をきたしてしまう者も少なくはない。だからわざわざ私たちはこの『アークティクス・サイド』に身を置いて、自分のパーソナリティを危なげなく遣い熟せるように学んでいるわけだ――自主的にな。にも拘らずコロセのその右手、コロセのそのパーソナリティはそうじゃない。代償とか対価が必要ないんだ。それが一番の利点だよ」

 心の底から羨ましいのさ、と努樹は僕の肩を小突いた。

 いつの間にか僕の話題に変わっていた。

 自分のことに関してはなぜか反論したくなる思春期の僕である。三大欲求や遺伝子に組み込まれた抗えない本能のように僕は否定する。自虐気味に。

「それは僕のパーソナリティが、代償を必要としないくらいにちゃっちぃパーソナリティだってだけのことでしょ」

「それは違うな」斟酌する間も空けずに努樹は却下した。「そもそもコロセがあのときイジメられていたのは、私たちとコロセが明らかに異なっていたからだ。パーソナリティってのは元来、普通は、内面的に存在している能力なんだよ。使用しない限りは、見た目上、身体に変質が起こることはない。なのにコロセは常時右手が消えているよな? それはやっぱり明らかに私たちとは異なったパーソナリティなんだ。根本からして違う」

「でも僕は努樹たちと違ってこれがマックスだよ。ただ単に、右手が存在を残して消えているだけで、そんなの不便なだけだ」

「そのことなんだけど――」

 努樹は改まった調子で仰々しく語気を下げた。「本当にこの三年間、コロセのパーソナリティって、成長してないのか」

 どうしよう。真顔で虚仮にされちゃった。

「見れば分かるでしょ」立腹するのもバカらしい。

「そっか。それは安心だ」

 莞爾として言いながら努樹は帽子を被り直した。

 オデコに傷痕が見えた。以前はなかった傷痕だ。

 この三年間に積み重ねてきた訓練は相当に厳しいものだったのだろう。僕は敢えて傷痕については触れずにおいた。 


   ***

 しばらくのあいだ、努樹は僕に向けてなのか、それとも誰ともしれない視えざる者へ向けてなのか、はたまた寸劇のような独白なのか――上機嫌に講釈を振りまいていた。

「あのなコロセ、本質的なことほど表面には漂っていないものなんだ。本質であるモノは、常に内面的に存在している。なぜなら本質っていうのは、形を成しているものの核にあたるものだからだ。森羅万象、あらゆるものは最初に『核』ありきだ。『核』に様々な要素が肉付けされて貌容となり得る。だからこそ、外界にのみ存在している私たち観測者にとって本質っていうのは、おしなべて、事象に内包されている中枢――すなわち『核』ってことになる」

 ――ゆえに、その核にとって本質とは己のことにほかならない。

 言いながら努樹は僕の胸をゆびでつついた。つんつん押しつつさらに努樹は、「自分自身が本質になり得ることも、往々にして引き起こるものなんだよ」と謳った。

 う~ん、と僕は呻ることしかできない。

 いったい努樹は、なんの話をしているのだろう。

 僕は黙って聞き耳を立てている。

「そもそも、無から有を創り出せるとしても、無から有だけを創りつづけるなんてことはできない。『ゼロ』はマイナスによってプラスを生みだし、プラスが生み出されれば必然的にマイナスも生じる。物理世界においては代価を支払わなければ、無から有を取り出せないんだよ――すなわち、『有』を得るには『負』もまた得ることになるんだ。因果応報だとか、塞翁が馬だとか、禍福は糾えるか縄の如し、だとか言うけど、まあ、そういうことなんだろうな。私は思うんだ、きっとそれが宇宙なんだろうなって。ただまあ、人の心だとか、そういった不明瞭な世界においては私もよく解らないんだけど。むしろ私は心なんて存在していない、と考えているくらいだしね。存在していない物からは何も発っせられないし、何の対価も支払う必要が生じない――無だからな。だからこそ、『心』ってのは無限大ってことなんだろうなぁ。あ、それってもしかしたらさ、心という無が、無という心が、宇宙が『宇宙』となり得る前の状態ってことなのかもしれない」

「それって要するに、宇宙の起源は誰かの心ってこと?」

 艱難辛苦となりながらも僕は、なんとか氷解しようと懸命に相の手を挟んだ。挟んだはいいけれど、努樹ってば飄々とした態度で、「んなわけないだろ。コロセはアホだな」とさらりと言ってのけた。

 あんまりだ。

 とどまるところを知らない努樹の怒涛の弁舌はまだまだ続くようだった。いい加減にして欲しい。長いよ。

 それでも僕は黙って耳を欹ててしまう。

 すこしでも理解したいから。

 努樹の言葉を、僕は。

 すこしでも。




   ○○○【交錯】○○○

 ハルキが小学三年生のころである。

 近所の山のふもとには、カブトムシにクワガタ、オオスズメバチなどなど、子どもたちが目を輝かせて希求する宝物の集まるクヌギの大木が、林のなかに立っていた。

 その日もハルキはそこへ向かった。秘密の場所だからもちろん一人だ。するとどこからか、「みゃーみゃー」「みゅーみゅー」「みょーみょー」と声がする。ハルキは耳を澄まし歩む方向を変えた。

 三十メートルは歩いただろうか、林の中から抜け、人気のない車道に出ると、ほそい水路があり、そこに段ボールが捨てられていた。先ほどの声はそこからさらに大きな鳴き声として放たれている。


 ハルキは今日も公園へと出向いた。

 両手には新しい段ボールが抱えられている。

「さー、みゃ子にミュウに妙太、今日は好きに走っていいぞ」

 段ボールを芝生のうえに置き、なかから一匹ずつ計三匹の子猫を取り出した。

 三匹の子猫はよたよたとふた手に分かれた。

 黒い子猫の妙太。その跡を追う白い子猫のミュウ。

 そして二匹とは九十度ちがう角度に駆けていく、斑模様の三毛猫、みゃ子。

 三匹ともメスであったが、名づけたハルキにとって、性別の違いは重要ではなかった。

 先ほどからミュウは纏わり付く妙太を迷惑そうに押しのけており、みゃ子は赤トンボを追いかけていた。

「ハルキ君、ミカたちも触ってみていい?」

 同じクラスの女子、ミカたちが寄ってきた。近くで遊んでいたようだ。

「いいけど、乱暴にしたら駄目だよ」

 本当は嫌だったが女子たちのなかには憧れのモモちゃんが居たため、笑顔で許可を出した。

「かわいい。ねえ見てみて。ほらモモも触りなよー」

 ミカがミュウを両手で持ち上げて、モモの前に差しだした。モモは両手をぱたぱたと振って、

「いいよぅ……わたし、ネコ嫌いだし」と迷惑そうな顔をした。


 それからハルキはしばらくしゃがみこみ、一人で雑草を抜いていた。

 周りから声が聞こえなくなったことに気が付いたのは時間がかなり経ったあとだった。

「あれ――?」

 みんなは?

 ミュウたちは?

 誰もいない公園を見てハルキは焦った。子猫は長時間外で遊ばせていると脱水症状が出て弱ってしまうと先日、本で読んだばかりだった。

 ハルキは四方を走り回った。

 ようやくミカたちを見つけ出す。

 どの子の腕にもミュウたちの姿はなかった。

「ミュウは? 妙太たちは?」ハルキはモモの前だということなどお構いなしに声を荒らげて聞いた。

「ん? さっきユウミちゃんたちに渡したよ」ミカはハルキを煩わしそうに睥睨しながら貯水池のほうを指差した。

 なんて勝手な。ハルキは歯を噛み締めた。

「わかった、ありがとう」ぶっきら棒にもその言葉をなんとかひねり出す。それから汗を拭って、ユウミたちを探しに、ミカの指差した方角へ駆けだした。


 ユウミたちはすぐに見つかった。

 いつもの四人で子猫にミルクを与えていた。

 ハルキは目が熱くなるのを何とか冷まそうと道端の石ころを拾い、目に当てた。

「ようハル」とタケルがこちらに気が付いた。「――ってなにしてんの、おまえ?」石を額にあてがっているハルキを見て可笑しそうに声をあげた。となりのシゲルもゲラゲラと笑っている。

「その子猫、僕が飼ってるんだ」ハルキは息を整えながら告げた。「うんっと、なんて言えば――とりあえず、ホント、ありがとう」言いながらさらに石を目に押し付ける。子猫が無事だった。それだけで目頭が熱くなった。

「らしいな。ミカに聞いた。でもハルん家ってアパートだろ。ペット駄目じゃなかったっけ?」

「うんそうなんだ」大仰に肩を落とす。「お母さんも駄目だって、今は仕方がないからって特別……」

「うん、まぁこいつらなら飼い主くらいすぐ見つかるだろ、気にすんなって」

 僕が気にしているのはそんなことじゃない。ハルキはそう訂正したかったが、我慢した。

「てかさぁハル、聞いてくれよ。ミカたちな、こいつらをスーパーのレジ袋に入れてたんだぜ、信じられるかよ? 可哀想にもほどがあるよな」タカルはユウミの足元で無邪気に転がりまわる子猫を指差した。ユウミもこちらを見上げた。垂れた髪を耳元に払いながら、「この子たち、かわいいね」と妙太たちを褒めてくれた。ハルキは素直にうれしく思う。

「うん、本当にありがとう。助かったよ」と頭を下げつつハルキは、ユウミの足元の子猫たちを眺めた。「はれ? ミュウは?」

 ハルキの視線の先、ユウミの足元には二匹の子猫しかいなかった。黒猫の妙太と三毛猫のみゃ子である。白猫のミュウが足りない。

「は? どれがミュコだよ?」タケルが振り返る。

「ちがう、ちがう! 僕の子猫は三匹なんだよ!」ハルキはさっきよりも強く石を目に押し当てた。

「って言われてもなぁ……俺らがミカたちと合ったときはもう二匹しかいなかったし。なあ?」とタカルはうしろで子猫を眺めているほかの三人に聞いた。

「そだよ」ユキヤが軽く頷く。

「そんなぁ……じゃあミュウはどこだよ」

「いや俺らは知らねぇし」

 そう言ってタカルが頭を掻くのを、ハルキはぼやけた視界で見詰めていた。

「ちょっとその子ら、預かってて!」そう叫ぶとハルキはいま来た道を力いっぱい全力で駆け戻った。「おい、ハルっ!」とタケルが呼びとめているが、「お願いだよっ!」と振り切った。

 あのしっかり者のユウミがいる以上、それこそしっかりと世話を見ていてくれるはず。タケルも正義感だけは人一倍だから、妙太とみゃ子を蔑にすることはないだろうと、ハルキは彼らを信頼した。無責任な信頼ではあったが、じっとしてなんていられなかった。

 走りながらハルキは思う。

 そもそも、信頼など、あまねく無責任なものなのかもしれない。

 持っていた石は投げ捨てた。

 熱くなる目からは、その熱を冷まそうと頻りに水が溢れていた。


 その夜。

 ハルキは二匹の子猫が入った段ボールを枕元に置き、寝付いていた。ハルキが家に帰ってきた時刻は十時を回っていた。親にそのことで怒られてもハルキはわけを話すことも、睨み返すこともせず、ただ俯いて涙を流していた。

 それから数日後。

 ハルキは、みゃ子と妙太の入った段ボールを抱え、階段を上っていた。親の車に乗せられてやってきた建物の入り口である。

「飼い主を探してもらえる所があるから一旦そこに預けましょ。もし飼い主が見つからなかったら仕方ないわ、家で飼ってもいいから。ね?」母親にそう言われて二匹を連れてきたのだった。

 二匹の幸せを考えればそのほうがいいのだろう。そう考え抜いての決断であった。

 母親はこの建物の受付でなにやら言葉を介している。ハルキはその様子を見ることなく、腕に抱いている段ボールに視線を当てた。

 もう会えなくなるかもしれない。いや、飼い主が見つかったって会いに行くことくらいはできるだろう――必死にそう自分に言い聞かせた。

 

 別れはあっという間だった。

「じゃあね、幸せにね」そう言うとさきほど母親と話をしていた受付の男が、段ボールを抱えて通路の奥へと消えていった。

 建物の階段を下りるとき・帰りの車の中・家に帰り着いてからの夕飯のとき――ハルキは三度、母親に同じ質問をした。「もし飼い主が見つかっても、会いにいけるよね?」その三度とも母親は、「ええ、飼い主さんが了解してくれたらね」と応じた。

 その後、ハルキが、みゃ子と妙太に会うことはなかった。もちろんいなくなったミュウともである。それでもハルキが三匹の幸せを祈り続けていたことなど、誰も知る由もなかった。


 数年後。ハルキは中学生になり、猛烈などす黒い憎しみの渦のなかにいた。こみ上げる殺意、憎悪、それらの向かう先が母親へなのか、このシステムを作り出している社会へなのか、それともあのときに易々と子猫たちを手放してしまった自分に対してなのか、それはハルキ自身にもはっきりとはわからなかった。ただ言えることは、その感情の熱を涙で冷ますことは到底できないということである。

 高い熱を帯びたその粘着質な大量の憎悪は、ハルキにどぎつく絡みつき、それを払い除けようとして生み出されるものは破壊だけであり、その破壊のあとには何も創造されないだろう、という虚しさがやがてハルキを無気力にした。

 彼がこのさき、なにを成し、何者になるのかといった道にはこの時点ですでに、彼が渡らずに済んだはずの地中へとつづく一本道が架橋し終っており、その先にはマグマのような今よりも高温の粘着質なものが、嵐の海のように渦巻いているだけであった。

 どこにでも溢れかえっている日常の些細な出来事ではある。ただし、それがハルキにとって重大な出来事として胸に刻まれたことなど、誰も――ハルキ自身も――気付いてはいなかった。

 有り触れた小さな出来事だからといって、それによって齎された傷もまた小さいかと云えば、この場合――否である。

   ○○○+*+○○○




 ***コロセ***

「いくら私らでも物理法則には抗えない、これは絶対だ。循環から逸脱する存在なんて完全に人じゃないからな。そんなの神じゃなければ無理だ。神になろうなんてそんな輩は馬鹿馬鹿しいと思うだろ?」

「思う思う」と僕は適当に相槌を打つ。

 足元を見遣る。

 影の推移からして、久闊を叙してからおよそ三時間が経っている。けれど努樹の舌鋒はとどまることを知らない。

 努樹は次第に舌鋒を鋭くしていく。すっかり演説モードに突入してしまったようだった。

 最初は口に出す言葉や表現を吟味しながらゆっくりと話してくれるのに、徐々に饒舌になっていく。むかしの努樹もそうだった。努樹だって変わっていないではないか。

 そして、こうなってからの努樹はひどい。

「――――ああでもでも違うかもしれん。あのな、アレだよ。さっきも言っただろ、私はな、分子運動に相反するエネルギィをぶつけているに過ぎないんだ。要するに、アレなんだよ。戦闘ってのは、その場その場のその時その時に、臨機応変、当意即妙、瞬間的な状況判断と行動選択を迫られるわけだろ? つまりな、刹那にアレしなければならない戦闘においてはだな、私のパーソナリティほど問題の多いアレはないんだぞ」

 アレをアレしてだな、だから結局アレなんだ、と努樹は口角沫を飛ばしている。

 どうしよう、付いていけない。

 アレのことか、ソレのことか、それともコレのことなのか、もしかすればあの封印されし思い出――いまとなっては羞恥に塗れているだけの、忸怩たる、キミとのあの一時の気の迷い、気の間違い、であるところの思い出――赤面必至のアレのことなのか?

 僕は首を傾げる。いやいやあれはすでに僕らのあいだでは無かったことになっているはずだ。

 ではアレとはなんだろう。発言は的確かつ簡素に。言動を曖昧にして発しないで頂きたいものである。

 僕の訝る仕草に気付かぬままに努樹は、その曖昧な発言を続けている。

「私のパーソナリティの問題点というのはだな。まず第一に、その見極めに時間がかるって障害がある。なんて言えばいいのかな、アレだよアレ、力の加減が難しいってやつ? もし過剰にエネルギィを対象にぶつけてしまったら、そのあぶれたエネルギィが私にそのまま返ってきて、丸焦げになっちゃう。跳弾すると判っていてコロセは銃の引き金を引くか? 引かないだろ? 私だって同じだ。どこにどれだけエネルギィを飛ばせばいいのか、それを私は直感で何となく解る。でも、何となくじゃ駄目なんだ。外した時の代償が大きすぎる」 

「たしかに」と首肯する。

「ああ。でもな、過剰にエネルギィを投射するのはまあ、自殺行為なわけだが、一方で、対象に当てるエネルギィが足りないだけなら、問題はないんだよな。過剰は問題だけど、不足は問題ない。原子が静止するに至らないだけだから」手の平をもてあそびながら、でもなぁ、と努樹は続けた。「でもなぁ、それだとさ、対象を完全に静止させることができないだろ? だから結局、私のパーソナリティは相手に致命傷を与えられない戦い方しかできない」

 つまり戦闘向きじゃないんだな、と努樹は嘆くように言った。

「相手を殺せないから?」

「そういうこと。でもそれだけじゃないんだ、私のパーソナリティの欠点はな」

「まだあるの?」

「あるよ。あるけど」へへっ、と努樹は悪戯っ子みたいに顔を歪めて、教えてあげない、と言った。「一個教えただけでもかなり不利だし損なんだ。コロセだから教えてやったんだ、有り難く思えよ」

「よく言うよ。勝手に喋っといて」

 頬を緩めると努樹は、「それに比べりゃ、コロセのパーソナリティは最適なのさ。戦闘においてはな」と嘯いた。

「だからどこが? 今の努樹の話で判ったのは、努樹のパーソナリティが戦闘には向かないってことだけでしょ。あのね、言っておくけど」と僕はこれ見よがしに右腕を持ち上げ、「努樹のその自虐のお陰で、僕のチンケさが無駄に際立っただけなんだからね」

「チンケ」いやらしく努樹が笑った。

「努樹のパーソナリティですら実践向きじゃないとすれば、僕のコレなんか邪魔なだけの代物だ」とさらに右腕を掲げる。「むしろ役立たず以下の障害だ!」

「ところがどすこい」言いながら努樹は僕の肩をつっぱった。「コロセのそれは戦闘においては最適のパーソナリティだと私は睨んでいるわけですよ」

「なんか勘違いしてない? 僕のパーソナリティはただ単に、この右手が瞳に映らなくって生き物に触れられないってだけだよ。これが一体なんの役に立つの? こんな無価値なパーソナリティよりも、努樹のパーソナリティのほうがよっぽど価値が高いじゃん」

「パーソナリティに普遍的な価値なんてないだろうに。ほら、あれだ。授業で吉田のジイさまが言っていたようにさ、重要なことはただ一つ。パーソナリティの特質に対して自分が見出した価値だけだ」

「ちがうよ。価値はある」

「どんな?」

「利用価値。僕のパーソナリティにはその利用価値がない」

「利用価値ねえ。それこそ自分で見出せばいいだけの話だろ」

「それが見出せなかったからこその無価値なの!」自分の非力さを顕示しようとむきになっている僕がいる。「比べないでよ、努樹なんかと。惨めになるだけなんだから」

 ほう、と努樹はわざとらしく声を上げた。「本当にそう思っているわけ?」とにわかに言う。

「思っておりますよ」

「ならその認識は間違ってる。私が保障する」

「なら訊くけどね。僕のこの右腕、努樹ならどう遣うの? どう利用するの?」

 おしえてよ、と手元にあった葉っぱを千切るようにした。

 努樹は、やれやれ、と深い溜息を吐いた。

「さっきも言ったがな、コロセの右腕、それな――戦闘に関していえば、そうとう有利なパーソナリティだぞ」

「だからどこが?」

 僕はもう正座なんてしていない。ベンチの上にあぐらをかいて膨れ面になっている。頬に溜まった空気が抜きたくても抜けないのだから仕方がない。

 あのな、と身体をこちらへ向けて努樹は真面目な口調で説明しだす。

「たとえばコロセが石ころを握って私の胸に手を差し入れたとするだろ? コロセの右手はその特質ゆえに、生物である私を通り抜ける。それもコロセに握られている石ころと一緒にだ」

 さてここでだ、と努樹は両手を打った。「私の身体に腕を差し入れたままでコロセが手のひらを開くとしよう。さあ、どうなると思う?」

「どうって言われても」

 てのひらから外れた石ころは――。

「そうなんだよ。コロセの手から離れた石ころは私の胸のなかで顕在化する。急に現れるのさ。身体のなかにね。常人であればひとたまりもない。解ったか?」

「なにが?」解らない。解りたくもない。

「コロセのその右手はな、身体のなかに異物を埋め込むことができるんだ。迅速かつ容易にね。コロセが握っているのが単純に石ころであっても、脳だとか心臓だとか、そういった重要器官に埋め込まれなんかしたらまず即死だろうし――石ころじゃなくたって砂鉄だの毒物だのを握っていたとしたらな、埋め込まれた相手は瞬時に身動きが取れなくなる。コロセのパーソナリティは殺傷から生け捕りまで応用の幅が利く用途に飛んだ能力なんだ。これはな、戦う相手としては相当脅威なんだぞ」

 教官補佐の私が言うんだ、間違いない、と努樹は太鼓判をおした。

「そうかなぁ」

「そうなのさ」頷いてから努樹は、ただ、と付け加える。「私が不思議なのは――えっと、コロセのそのパーソナリティってさ、視えないことを抜きにして簡単に言ってしまえば、生物には触れられず無生物には触れられる、って特質だろ? なのにコロセの右腕は私らが身に着けている服ごと私らの身体をすり抜ける。それって、なんでだ?」

「ああ、それはたぶん」と解説した。「僕らって日常的にさ、服も自分の身体の一部だと看做しているでしょ? 無意識的に。だからかも」

「うん? それは、えっと……つまり、自己認識が反映されている物体もまた自己だってことか?」

「どうだろ。よくわかんない」

 自分と世界との境界すら見当もつかない僕に、そんなこと解るはずもない。食事を摂ることで僕という肉体は日々つくりかえられているし、爪を切ればその爪は僕から離れ、世界へと回帰する。なら僕と世界とに明確な境などあるのだろうか――とそんな不毛な思索に耽るのはもはや僕の日常でもある。

「でもさ、ほら、髪の毛と服の違いなんてあってないようなものでしょ。うん、そんな感じだと思う」

 ははぁ、なるほどね、と努樹は相好を崩した。「だったら、私が今、『この服は服であり私の身体ではない』と強く念じれば、コロセの右手はすり抜けないわけだ。私を」

「ああうん。そうかも」

 すり抜けないって言うよりは、触れてしまう、のほうが正確だけど、理屈上ではそうなるはずだ。

「なら、ちょっと実験」

 言って努樹は胸を張った。どうやら、触れてみろ、ということらしい。

 心臓があるからでもないけれど、胸に触れるのは気が引けたので、目標を努樹の腹に定めた。

 右手に嵌めている手袋を外すと僕は、

「いくよ」

 断ってから右手を努樹の腹に突きだした。

 ――突き抜けた。

「ダメじゃん!」努樹は大仰に顔を顰めて、「コロセの理屈は破綻した!」と高らかに宣言した。

「なんでだろう……。努樹の意志が弱かったんじゃない?」僕は責任転嫁を目論む。目論みつつ努樹の身体から右手を抜き出して、手袋を嵌めた。

「そうなのか?」おっかしいなぁ、と努樹はつぶやく。「私の意志は鋼よりも黒く、豆腐よりもモロいのに」

 錆びてボロボロではないか。「ひどいね」

 私はよわいんだ、と努樹は白い歯を覗かせた。

「まぁなんにしてもだ。コロセのパーソナリティは、接近戦において言えば、無敵にちかいってことがこれで証明できたわけだ。なんせ理屈のうえではコロセの攻撃を一発でもくらったら致命傷になってしまうんだから」

 コワいコワい、と努樹は抑揚よく口にした。

「だとしてもさ」

 

 ――そんな人殺しのパーソナリティに、いったいどんな価値があるというのだろう。

 

「だとしても、なんだ?」

「なんでもない」と首を振る。

 ふうん、と努樹は空を仰ぐ。僕もまた喉を伸ばした。

 雲が流れているのか、僕らが流されているのか。不思議な感覚にしばらく浸っていた。

 やがて努樹が唐突に、ああそうだ、と声を張った。「コロセ、彼女とかいないの?」

「いるわけないじゃん」

「だろうな」努樹は意地悪そうに目尻を下げた。「じゃあ、友達は?」

「いないよ」

 それに、

 そんなものはいらない。

「うっわ!」と仰々しく努樹は声を立てた。「そこはさ、キミが友達だろ、って私に微笑むところじゃないの?」

「ああ……ごめん」

「このニブチンめ」

 オデコを叩かれた。

 いたい。

「まあいっか。感動の再会、とはならなかったけど、うん、こんなもんだろ」

 それから努樹は口調を一転させて、

「ごめんなコロセ」と弱々しく口にした。

 ――勝手にいなくなって、ごめん。

「でも、これからはまた一緒だ」

 と、僕の頭をあやすようにぽんぽんと叩いてくる。

 まるで子ども扱いだ。

 僕は応えない。答えたくない。

 この三年間、僕は寂しくなどなかった。

 孤立してはいたけれど、孤独ではなかった。

 たとえ孤独だったとしても、その孤独は安らぎに属する孤独であったはずだ。

 けれど僕は。

 それでも僕は。

 ……哀しかったのだ。

 努樹がいなくなってしまったから。

 努樹が黙っていなくなってしまったから。

 その喪失感が、努樹への理不尽な怒りに変わることが嫌だった。

 努樹を嫌いになることが僕は嫌だった。

 だから僕は、なぜ努樹が謝るのか、その理由から目を背けて、解らぬ振りをした。

 その謝罪の意味を、解らないことにした。

 

 努樹の視線が頬に感じる。

 けれど僕は真っ直ぐと、遠くにのぞむ外壁に視線を当てている。

 胸中穏やかではなかった。それには気付いていた。目を背けずに、認めていた。

 僕は単純に動揺していたのだ。とても。とても。動揺していたのだ。

 相手が努樹じゃなくたって僕は、誰かと会話を交わせばこうなる。気分が乱れる。けれどそれが今に至っては、込み上がる何かを抑え込むのに必死で、さらに胸中の内の心中にまで何かが渦巻いている。いつにも増して何かが、何かが渦巻いているのだ。何かとは何なのだろう、何なのだろうこの気持ちは。

「なあ、寂しかった?」私がいなくなって、と努樹はこちらの頭をさらに小突くようにした。

「努樹が寂しかっただけでしょ……」

「うん。そうかも。寂しかったような、ほっとしたような」

「どういう意味」

「とにもかくにもこうやって三年振りの邂逅にはさ、私としては感慨深いものがあったわけ。なんやかんやで、コロセくんも私と同じように思ってくれちゃっていたらいいなぁ、なんて思っちゃったりなんかしちゃってたりするわけ」

 言いながら努樹は屈んで、靴ひもを結び直している。それから丸めた背を元に戻し、これからはまたいつでも会える、と言った。

「ご馳走してやるし、ご馳走もされてやる。だからたまには、私の所にも遊びに来い」

 こちらの頬を無闇につねってくる。「サイドエリアでまた暮らせるようになったんだ」

 頬を擦って、いたいなぁ、の視線を向けつつ、「大抵ここに座っているよ。僕は」と答えた。

「そうじゃないって。私がここに来るのは簡単。でも簡単なことはつまらないだろ? だから、私がここに来るのではなくって、コロセが私ん所に来てってこと。むしろ来なさい」

 つか来い、死んでも来い、と恫喝してくる。まるでノドカだ。

「そうすれば私も満足で、コロセも未知の世界に飛び込めるだろ? 一石二鳥だ」

 ベンチから腰を上げて努樹は大きく背伸びをした。

「久々に話したあ、って感じだ。こんなつまらない話なんてコロセとじゃなきゃできないからな」

「ほかに面白い話があるならそっちをお願いします」

 たしかに、と努樹は僕の口真似をして可笑しそうに言った。

「でもな。さすがの私にもそうそういないんだよ。つまらない話を楽しく話せる相手なんてのは。それこそコロセだけかもしれない」

「さすがの私も――がなければすてきな言葉なのに」

 言ってから、さすがの僕も最後までこんな捻くれ者では、久々の知人との邂逅が忍びなく思え、だからでもないけれど、「でも」と僅かばかりの披歴を付け足した。

「でも――ありがとう」

 おう、と努樹は右手を差しだして、握手を求めてきた。教官口調で、「困ったことがあったらいつでも逢いに来なさい」

 僕はいったんズボンで拭ってから、敢えて左手を差しだした。

 けれど努樹は悪戯な歯を覗かせて、無理やり僕の右手を両手で握った。ちからづよい。

 手袋越しに努樹の体温が伝わる。

 僕の体温は、伝わっただろうか。

 友達にはさ、と努樹は独り言ちるように口にした。

「友達にはさ、なんでもとは言わないまでも、愚痴程度のことなら相談すべきなんだ――と私は思うわけ」だから遠慮なんてするなよ、と柔和に睨んでくる。「私も遠慮なんてしない。これからは溜まりに溜まったこれまでの愚痴を聞いて貰わなきゃならないんだし。むしろコロセに会いにくるためだけに愚痴を作りあげてやる。コロセはそんなことしなくたって、何もなくても会いに来い」

 そう言って努樹は、じゃあな、と手を上げると踵を返して、後方にそびえ建つ数々のステップの影に消えていった。

   ***

 僕たちはとっくに友達だったらしい。

 いつからだろう、と思考を巡らせた。巡らせたことで、無様に頬を緩めている自分に気が付き、僕は急いで顔を両手で覆うようにした。

 誰も見てやしないのに、それでもこの情けない笑みを世界に晒すことが恥ずかしかった。

 知らず知らずのうちに僕には友達がいた。友達ができていたようなのだ。それも僕が、友達だったらいいのに、と思っていた相手と。

 

 サンタクロースがまだ僕のもとに訪れてくれていた時代。欲しかったオモチャが枕元に置かれていた朝。あのときみたいな不思議な気持ち、くすぐったい気持ち。胸が躍り、心湧き立つあの感覚。それらの大切な思い出がこうして脳裡に浮上してくることでようやく僕は思い知る。僕はその時々に、その瞬間は、たしかに幸せだったのだと。

 そうしていつかこの記憶も、記憶の底から浮上して、そのときの僕に気付かせてくれるだろうか。そのときに僕はこの記憶を思いだせるだろうか。

 胸中は相も変わらず穏やかではないけれど、それは海の底深く沈んでいくような下向きの渦ではなく、壮観で清々しい空へと軽快にふき飛ばしてしまうような、そんな上向きの気流だった。

 ずっとベンチに座っていたのでお尻が痛くなっている。立ち上がってお尻を撫でた。

 撫でつつ僕は、もしかしたら――と閃いた。

 もしかすると僕は、コヨリとも、この時点でとっくに友達なのかもしれない。

 そんな途方もない、ひどく素晴らしい考えを、ふいに僕は思い付いたのだった。

 そう考えたら、なんだか陰々滅滅していることが常であった僕の精神は、今を以って不思議と楽しげに波打ちだした。

 気分が晴れている。

 なのに、つぎの瞬間にはもう、僕の精神は安定し出してしまった。胸中は穏やかさを取り戻す。それこそ、原子が運動を静止するかのごとく。しずかに心の水面を線にした。

 疲れたからではない。カタルシスが行われたからでもない。陽が沈み、今日という日が過ぎ去ろうとしていることに気が付いたからだ。

 僕がここにいる目的。

 ここに座っている理由。

 ベンチで一日を過ごす意味。

 それが本日も果たされなかった。

 

 コヨリは、今日も、来なかった。




 +++第五・五章『毒吐く』+++

 【毒が毒として意味を成すには、対象にとって毒が毒足り得なくてはならない。ならば毒とはつまり、そのものの本質を揺るがすに値する脅威であると共に、本質を知らしめてくれる共振剤でもあるのだろう】

 

 

 ***クウキ***

 外の社会は荒んでいる――アークティクス・サイドの住人たちはそのように認識しているらしい。事実そうなのかもしれない、と彼らの話を聞いてコロセは思った。

 聞くところによれば、コロセの元いた社会の医師たちは、その地位を利用して薬剤を非正規に売りさばき、それを用いて他人を安易に傷つける者をつくりだし、そうして病院にかかる者を生みだして、その負の循環によって地位を高めているという。生活習慣病などと吹聴されてはいるが、実際は組織ぐるみの社会的策略の一部でもある、とまで噂されている。

 誰によって噂されているかといえば、このアークティクス・サイドの住人に、である。もっとも、噂である、と認識しているのは当のコロセ一人のみである。ほかはみな、それが真実だと疑うことを知らない。疑う必要もないからだ。彼らにしてみれば、この壁に囲われた塞内こそが彼らにとっての世界であり、社会である。壁の向こうに広がる世界は存在していてもしていなくとも、まったく関知しない幻相の世界と同じなのだろう。

 例えばコロセにとってそれは、TVやインターネットに映し出される、遠い国の戦争を観ているときの感情にちかいかもしれない。ひどいニュースだとは思う。しかし、コロセにとっては現実味のない話なのだ。現実味がないということは、緊張感も湧かないわけで、それはつまり、危機感を持っていないということにほかならない。言ってしまえばどうでもいい出来事としていずれ近い内に昇華されてしまう情報に過ぎないのである。

 人は、自分へもっとも物理的に干渉してくる問題を優先的に解決しようとする。それは、自身の生命維持活動に支障をきたす恐れが、物理的な問題ほど高いからだ。物理的とはすなわち直接的を意味する。

 生命の危機。

 自己保存。

 そうして人は、己にとって直接的――物理的に干渉してこない問題に対しては積極性を持ちにくい。だからコロセは、戦争のニュースを観てもそのときに、「三日間なにも食べていない」という状態に陥っていたならば、戦争という悲惨な出来事よりもまず、己の空腹を満たすために躍起になる。

 それと同じように、ここアークティクス・サイドの住人も、外の問題などにさほど興味はない。コロセがここを訪れる以前の小学校では、都市伝説などの噂話がはやっていた。それと程度を同じくした巷説の類に過ぎないのだろう。

 それでも、コロセの元いた社会(即ちそれこそ、この『R2L』機関が守ろうとしている世界)をより客観的に学ぶための講義は存在している。コロセたちはでき得る限りの受講を求められていた。求められてはいたが、義務ではない。学び舎という俗称ではあるものの、講義を受けるか否かは、それぞれの自由意思が尊重されている。そのため、必然的にコロセのようにまったく講義を受けない者も少なからず存在した。一方で、多くの者は、誰に指図されずとも自ら進んで受講し、学ぶことをした。学ばなくては成長できないことを彼らは知っているからである。そして、成長なくして、目標への到達などあり得ないと彼らはよくよく知っているのだ。

 ――アークティクス・ラバー。

 学びなくては、成長もなく。

 成長がなくては、成就することもない。

 学ばなくてはアークティクス・ラバーに成ることができない。そのことを彼らは知っている。自分たちの軟弱さを弁えている。だからこそ彼らは学ぶことを苦としない。

 言い換えるならば、コロセのように受講せず、勉学を苦として感じる者たちが一様に、「アークティクス・ラバーに成ることを強く望んでいない」というふうにも言えるだろう。

 目的意識を忘れた者。

 目的意欲を失った者。

 そうして彼らは孤立に陥り、堕落を歩むのである。

 或いはそれは、孤立から辿りついた奈落の底なのかもしれない。

 人はいつだって己の道を進もうとするものだ。

 踏み外したのではなく、自らそこへ赴くものなのかもしれない。

 

 ところで、コロセが耳にした巷説はほかにもあった。

 たとえば――不景気を敢えて引き起こし、そうして社会に溢れた浮浪者たちを懐柔することで行う人身売買。浮浪者たちに「自分が商品なのだ」と自主的に認めさせることで、彼ら自身の存在価値を薄め、なお且つ、商品価値として高める。一方で、まだ手中にない浮浪者たちをも、より扇動しやすくなるのだという。拉致まがいのことをするよりも合理的な手法である。これはいつの時代でも労働者と資本家の間に生じている基本的なマジックである。

 人は周囲(社会)に流される。

 損をしたくないがために。

 それはひと昔前に問題となった派遣労働者などのいわゆる「使い捨て雇用」にも見てとれるだろう。理不尽であることに気付けない。そういった流行りを社会は意図的につくりだしている。

 そうして商品(浮浪者)を前以ってリストアップしておくことで、顧客の要望にあった人材をより効率的に売買することができるのだという。しかも当の浮浪者本人たちが、人身売買されていると気付かないだけでなく、逆に納得してしまっているのだから救いようがない。自分たちが浮浪者になってしまったその要因(不景気)が、この人身売買のために恣意的に引き起こされているとも知らずに、彼らは自らを安売りしていく。

 むろん断るまでもなくこれらは噂である。

 噂はまだまだほかにもたくさんある。

 危険ドラックを用いた集団催眠。違法電波による脳内新皮質の硬化症および萎縮による思考麻痺。インターネットサーバの軍事化による情報操作。次々にマス・メディア化され、淘汰されていく物理的意思疎通――などなど、こうして一部の組織が、扇動しやすい民衆を生みだそうとしている……というものだ。

 それらは当初コロセにとっては、多岐亡羊とした根も葉もない噂話に思われた。もちろん小学生のコロセにその噂話の趣旨を理解することなどは難しいからして、この場合、「当初」というのは、コロセがこれらの噂話を「噂」として認識することが可能となった時分を示す。

 噂は案外にレトリックに凝っていた――製薬会社にいたっては、代金さえ支払えば個人相手にも毒薬を売り、「疑いなき殺人」をキャッチコピーに販売しているらしい。しかし自由に使える金を多く懐に抱えている個人というのは、自ら毒を購買して殺人を犯すなど、そんなリスクの高い真似はしない。だからして、毒の購買層は必然的に企業相手、または卸売業者相手となるようだ。

 致死性の毒を売る店――。

 社会に有るまじきその店は、極々有り触れた街中の一角に設けられた、それこそ有り触れた外観過ぎて、逆に目立たないほどに質素な個人商店だという。そうやって街中で堂々と「毒物」が売られている――らしい。行政や司法の介入がないのは、それこそ、立法に対して、圧力がかけられているからであるという。三権分立とは言っても、その原理が正常に働いていなければ意味がない。近代ではすっかりと行政や司法は立法によって統率されているようだ。そして、立法は一部の権力者たちにそのイニシアチブを握られているらしい。むしろ、操られている、と言ったほうがいいのかもしれない。

 裏社会のシステムがなくては困る組織――つまり、そのシステムで権力を持った組織――が、政治を秘密裏に牛耳っている、ということらしい。

 企業は未だに談合を裏で行い、その延長線上で『暗殺請負会社』を援助している――とも聞く。むろん、そんな物騒な会社を心から支援している企業は決して多くはないだろう。しかし裏社会を暗躍するその『暗殺請負会社』の存在を知らされた以上は、どんな企業であっても援助を行わざるを得なくなる。でなければ、自分たちが始末されてしまう、と想像力を人並に持ち併せている者であれば自然とそう考えるからだ。加えて、援助を断った場合、自社は確実に談合から省かれてしまうだろう。

 昨今の資本主義経済において、談合なしでは、確実な経営破綻が目に見えている。一方では、『暗殺請負会社』に援助さえしていれば、代償以上の利益が、自社には確実に回って来るのである。

 人殺しを生業とするその『暗殺請負会社』を、糾弾する企業はどこにもいなかった。いや、過去には存在していたのかもしれないが、仮に過去にあったとしても、その企業はもはや存在していない――まさしく社員ともども、社会の歯車に擦り潰され、霧散霧消したのだろうから。

 ここアークティクス・サイドに来るまでコロセは、寡聞にして聞いたことのないような荒唐無稽な話であったし、端から与太話だと思い、面白いとは思ったが、真面目に聞くことはしていなかった。

 さらに聞き慣れてくれば、次から次へと新たに風に流れてささやかれるそういった巷説に対して、「有り体な話だ」とこれまで耳にしてきた噂話と比べて話の骨子を分析するまでに至った。

 しかしさらに数年という期間で耳にしつづけていると、どうやらそれらが本当のことのように思われてくる。聞けば聞くほど利にかなっている、と納得しはじめてしまう。たしかに資本主義というシステムを知れば知るほど、そこに生まれる「歪」に足を掬われないためには、人道的でない方法論をときには選択せざるを得ない局面が訪れるのだろう。そうしていったんその『邪知』を用いてしまえば、あとはそれに縋り続けるほかなくなる。すると、ほかの正攻法で営んでいた者たちがさらに苦しくなり、苦しくなった者は『邪知』に縋って愚行へ走る。と、まさに泥沼と化す。そんな悪循環がある。

 それこそがコロセの元いた社会。

 ――そんな荒んだ世界からきた人間が、僕だ。

 周囲から蛇蝎視されていた理由が、段々と解るようになった。右腕のことだけではなかったのだ、とそう思うようになった。

 彼らは僕という存在そのものを拒んでいたのだ。蔑んでいたのだ。忌んでいたのだ。疎んじていたのだ。

 なるほどな、とコロセは思った。

 荒んだ世界に身を置いている人間もまた荒んでいるのだろう。

 納得してしまう自分が、ますます以って醜く思えた。

 環境によって人の品性や良識や人格は決まってしまうものなのだろうか。

 決まってしまうのだろうと思う一方で、それを言い訳にして現在の堕落しきった自分を肯定することはしたくなかった。

 環境の影響はあるだろう。無視するには大きすぎる影響が。

 しかしそれを言い訳にしてはいけないように思えてならず、そしておそらく言い訳するには体のいい環境に自分はずっと身を置きつづけてきたのだろうとも思えた。

 そう思う自分がコロセは、ひどく、不愉快だった。




   ○○○【分裂】○○○

 下校の途中。

 ミカと別れたあと、まっすぐ家には戻らずに公園へと向かった。

 中学生たちが公園にあるテニスコートで部活を行なっている。グランドでは少年たちが野球をしている。いつも散歩に来ているおじさんが、犬を放し、駆け回らせている横で、中年男性が黙々とゴルフの素振りをしている。

 のどかな日常の断片を眺めるのをやめ、ハルキは公園を外れ、林のなかへと入っていく。

 公園に来ると思いだす。大切な思い出でありながら、思いだしたくない思い出だ。胸が優しく温かくなったあとに、締め付けられるような、やり場のない憤りが生まれる。

「あのさぁ、フユキ。実はぼく、やりたいことがあるんだ」ハルキは木漏れ日を織り成す古木に座っている。フユキは応じない。

「初めてフユキと出会った場所、覚えてる?」落ち葉を拾い、ゆびで弄りながら、ハルキは続ける。「本当はぼく、あれから買い物をしようとしていたんだ。でも君が出てきたからそれどころじゃなくなって、買わずじまいだった」

「なにを買おうとしていた?」フユキが応答した。

「むかし、猫を飼っていたんだ。一度だけ。捨て猫だった。三匹いてね、すごく可愛かったんだ。みゃ子と妙太とミュウ。ぼくが名づけたんだよ。まだ子猫で、小さくて……本当に小さくって、可愛かったんだ。でも三匹ともいなくなっちゃった。きっと殺されたんだ。ぼくは守ってあげたかったのに、守ってあげられたのに」

「それで?」

「許せないんだ。でもこの怒りが誰に対してなのか、誰が理不尽を生み出しているのかがわからない。けどぼくはどうしてもやらなくちゃいけない、この理不尽を許しておいちゃいけないんだ。だからぼくはあの日、あそこへ買いに行ったんだ――けどやっぱりわからない、どうすればいいのかはわかっているのに」

「簡単なことだ。俺ら人類がわるいのさ、君も含めてね。むろん俺もさ」フユキはあっけらかんと言った。

「人類すべてに償わせるの?」

「そうじゃない。たしかにこの世のなかには無知や無関心、歪んだ思想や思考は溢れている。しかしそれを正せばいいというものでもないし、そういったメンタルな問題だけじゃない、そこには必ず実状が絡んでいるものだからな」

「わかるよ。だからわからなくなるんだ」顔を上げると瞳のピントが合わないせいか、遠くの木々がぼやけて見えた。

「お前はわかっていないね。いや考えが足りないのさ。いいか、よく聞けよ? お前の母さんが猫を飼えないのはお前らが住んでいるマンションにそういった規約があるからだ。ペットを飼ってはいけません、という規約だ。そんでもって社会には、飼えないペットを捨ててはいけない、という【より破るべきでない】とされているルールもある。じゃあどうすればいいのかといったら、お前の母さんがしたようにだ、国が運営している施設にいったん預けて、飼い主が現れなければ処分だ。だがこれは違法じゃない。法的に正当な行為だ。だからお前の母さんがした行為はむしろ社会的には正しい」

「ならそれが正しいなんてまかり通っている世の中がわるいんだ」

「その理屈で言えば、お前が制裁を加えたい相手は人間じゃなくなる。だがまぁまて、話は終わっていない。さっきも言ったが人の行動には実状が深く関わっている。極論を言えば、立派なことを考えなきゃいけない、とどんなに叫んだって、飢え死にしそうな人間は食いもののことで頭が一杯だし、生きることが何より優先されて、聞き入れてくれないのは至極当然の結果だ。だから善悪で二分化できるほど、単純じゃないし、もともと善悪なんてものは人間が便宜的に単純化した概念だ。そのほうが誰にもわかりやすいからな。まあ考えることの嫌いな人間たちを納得させるにはたしかに都合のいい概念なのさ。だから本来は誰が悪いじゃないし、だれが善しでもない。ただ、もしお前がこの社会のシステムから発生する義務を担っているにも拘らず、そのことから齎される恩恵を正当に配分されていないと、理不尽に感じているのならそれはもう、お前が社会に属する必要はないわな。だからお前が社会から消えればいいだけの話さ」

「それじゃだめだ」

「社会なんてもんはな、結局エゴイズムの複合体なのさ。ただそのエゴイズムの向かう利益が共通のもので、なおかつ、協力したほうがより効率がいいと理解し合っているだけの話でな。まぁ今は、この社会が、というか国家が、一つの巨大なエゴイストとなってほかの巨大なエゴイストと原始状態の争いをし合っているわけだけどな」

 戦争というのはそういうものらしい。現代の経済もまた同じように。

「結局ぼくは、何も変えられないんだ……」

 小枝の網目から零れる光をハルキは見上げた。ぼくはそう、とてもちっぽけな存在だ。

「いや、それも違う。というよりも問題は、自分の成そうとしていることをお前が『善』だと思い込んでいる点にある。どちらかといえば現代のこの社会からしたらお前が成そうとしていることこそが『悪』だ。だがな、お前がその悪を『悪』だと理解していてもやらなければならないと思うならすればいい。ただそのときは誰かのためだとか、他人の命や尊厳を理由にするな。それはただのお前のエゴイズムだ。お前が一番制裁したい標的によってお前は行動するのさ。エゴイズムによってな。それでもいいなら行動を起こせばいい」

「それはぼくに行動を起こすなと言っているようなものじゃないか」

「どちらかといえば俺はお前に行動して欲しいがな」

「――なぜ?」意外だった。

「俺はこの社会に内包されていない。されているのはお前にだけだ。だったら俺は、俺にとって都合の良いようにお前を変えてやりたいと望むのはいたって合理的な発想だ。お前らが社会を住みよいものにしたいと考えているように、俺も、俺が存在している環境をよりよい環境にしたい。つまり、お前の内情がより好ましい状態になることを不本意ながらも俺は望んでいるわけだ。むしろ、お前が俺にとって都合のいいものになるようにと、俺には努力する権利がある。だから手っ取り早くお前がもっとも叶えたい考えに俺は従うまでだ」

「えっと、今は何の話をしているの?」

「お前の精神状態の話をしているのさ。まぁいいんだ。要はお前がしたいと思うことを、お前のしたいようにすればいい。誰かが駄目だと言っているなんて理由にはならない。自分の成したいことをしろってことさ。ただそれには自分の道理は守るべきだ。道理のない行為なんてものは麺のないラーメンのようなもんだからな」

「なに、その喩え?」ハルキはようやく笑った。

 それから何を言っても、フユキは眠りについたときのように反応を示さなかったが、ハルキにはフユキが優しく微笑んでいるような気がしてならなかった。

 フユキは今、ぼくを慰めてくれたのだ。

 家路に着きながら、そういえば、と疑問に思う。

 なぜフユキはぼくの過去を知っていたのだろう。いっしゅん思ったが、フユキがぼくに話しかけて来る以前から、ぼくの内側には彼が存在していて、ぼくのことを見守っていたんだろうな、と納得した。

 夕陽が真横から差し込む。地表近くの温度と色を吸収していくかのように夕焼けはしだいに色を濃くしていく。それはまるで粘土でつくった作品を潰して丸めていくような、猥雑な昼間をやり直すために、この世界を消去していくかのような、初期化染みた変遷に思えた。

   ○○○+*+○○○




 +++第六章『失われた環』+++

 【我執に溺れているのは溺れている私を助けたかったからだけど溺れている私が無数にいて我執になっているから私は今、埋もれている】



   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ六年前~}


 ***クウキ***

 その日はノドカが任務から戻って来る日だった。

 コロセは気持ち早めに努樹と別れて、帰宅した。我が家というには幾分にも豪勢過ぎる、零一六号棟の最上階だ。

「さよなら」の間際、努樹はいつも切なそうな顔をする。最近にいたっては、なにかを伝いたげに逡巡の間を空けたのちに、「また明日」とさも何事もなかったかのように微笑むのだ。

 玄関を抜けてリビングへ向かうと部屋は真っ暗だった。

 なんだ、ノドカはまだ帰ってないのか。

 落胆したコロセは、リビングの照明を点けようとした。

 意識するだけでそれは点灯するはずだったが、このときはなぜか点灯しなかった。

 はてな故障かな、ともう一度点灯させようと意識する。一瞬、部屋が明るくなった気配がしたが、点灯するまでには至らなかった。

 どうしよう。故障かな。

 ノドカが帰って来るまでここで待つのも気味がわるいし。

 コロセはリビングの入り口でおろおろした。

 ふいに物音がし、続いて、「みゃー」と鳴き声がした。

 暗闇の向こう側からだ。

 もう一度、「にゃー」と聞こえる。リビングを通りこした、さらに向こう側、寝室のほうからだ。

 おそるおそるリビングを抜け、寝室へと近付く。暗闇の室内は足元が覚束ない。

 寝室の襖は閉じているが、近づけば自動で開く仕組みだが、照明と同様になぜか開かない。

 手動で開けようと襖に手をかけたそのとき――リビングの明かりが点いた。

 眩しさと驚きで手が固まった。

 襖を挟んだすぐ向こう側でガサゴソと物音がする。

 ――だれかいる。

 決意の生唾を飲み込むと、コロセは一気に襖を開け放つ。

「わあビックリ、お帰りクウちゃん」

 仰々しく驚いた振りをするノドカがいた。毛布にくるまって突っ立っている。まるで幼稚なお化けの仮装だ。

 怪しいを通り越して健気だった。必死になにかを隠そうとしているその頑張り振りが健気なのだ。

 ノドカがなにかを隠している。そのことを知っている自分が有利な立場に立っているような気がして、だからなのか、「お帰り。待ってたよ」とついつい本音を溢してしまう。その恥ずかしさを誤魔化そうと、早々に詰め寄った。

「なに隠してるの?」覗くように身体を斜めにする。

「うん? うん? お姉さん、なんのことかさっぱりだなー」棒読みでノドカは言った。

 噴き出しつつコロセは、「何も隠してないんだったら、その場で三回まわってみせてよ」と言った。回ったあとににゃんと鳴け、と付け足しもする。

「うぅークウちゃん、今日はイジワルや。いじめっ子の言うことなんてあたいは聞きません。正義は悪には屈しないのだよ少年」

 けっして屈しないのだ、とノドカは叫びつつその場で華麗に三回転する。続いて「みゃー」と聞こえた。

 なんだ、やればできるじゃないか。

 なかなかどうして、可愛らしい。

 満足気にコロセは、ノドカの足元で転がっている子猫を拾い上げた。

 みゃー、と鳴いたのはもちろんこの子猫だ。可愛らしいのもこの子猫のことだ。

 ノドカが可愛いなんて天地がひっくり返っても有り得ない。

 姉弟なんてそんなものである。異性として意識することなんてまずない、とコロセは信じて疑わない。

 コロセの予想に反して、ノドカから出てきたのは「子」猫だった。子猫は成熟した猫よりも可愛い。というよりも、どんな動物も生まれたばかりの子どものほうが可愛らしい。例外は昆虫と人間のみだ。昆虫の幼虫は気持ちわるいし、産まれたばかりの人間は皺皺モゾモゾとしていて、総じてこわい。人間らしくない人間――それが赤ん坊だ。

 子猫は真っ白だった。産まれて間もないというわけではないだろうが、それでも充分に赤子の称号を与えるに値する。

 ノドカはこの子猫を隠していたのだろう。

 リビングの明かりが点灯しなかったのも、ノドカが寝室からコロセの邪魔をしていたからだ。襖が開かなかったのも、彼女が妨げていたからに違いない。

 ただし、扉などといった鍵の付いた機構は、「意識の命令」よりも「物理的な解除」を優先する。そうでないと、「誰かを閉じ込める」などといった犯罪染みたことが簡単に起こせてしまうからだ。それは鍵の付いていない襖も同様である。だから襖はコロセの手によって容易に開いたのだ。

「どこでもらってきたの。このニャンコ」コロセは訊ねた。ノドカは未だ毛布に包まっている。「登録が面倒くさいからって、ノドカ、ペットは飼わないんじゃなかった?」

 アークティクス・サイドでペットを飼う者は滅多にいない。義務とされる社会的制約がないのに、ペットを飼育しはじめると、途端に義務とされる作業が必要となる。予防接種や飼育状況のチェックなど、色々と厄介なのだ。

 いやね、と弁解口調でノドカは答えた。

「貰ってきたっていうか……拾ってきたっていうか……可哀想だったからさ、ついね」

 ――拾ってきた?

「どこから?」

「……竹林の近く」

「チンクリン?」ノドカはチンチクリンだけどね、といった台詞が浮かんだが、話の腰を折る場面ではない。「どこのちくりん?」と重ねて尋ねる。

 そういった竹林のあるフロアも、どこかのステップには存在しているのだろうが、竹林のある場所をコロセは思い浮かべられなかった。

「どこっていうか……」ノドカの歯切れはわるかった。

 場所を聞いたところでコロセに分かるでもないのだが、それでも煮え切らない態度が引っ掛かり、「どこで」と語調を強め、再度詰め寄る。

「そ、そと」片手でこちらを制すようにしノドカは、「外でです」と不承不承と言った調子で唱えた。

「そと? そとってアークティクス・サイドの外のこと?」

 そうですよ、その外でござんすよ、とノドカはおどけた。

 そんなオチャラケで誤魔化せると思っているのだろうか。だいいち別にコロセは怒ってなどいない。

 誤魔化す必要なんてないのに――とすこし寂しい気持ちになる。

 むしろコロセは以前からペットを飼いたくて、ノドカに提案してみたことがあったくらいだ。そのときは彼女に、「めんどっちーっしょ。我が家は餓鬼を一匹飼うだけで精一杯なのだ」と反対されてしまった。

 ああそうか――とここで合点する。

 ペットを飼うことに反対しておきながら、今回、反対した当の本人である自分が子猫を拾ってきてしまった――そのためにきっと、後ろめたい気持ちがあるのかもしれない。

 案外に繊細な人物なのだ、ノドカは。

 コロセはなんだか胸の内がほくほくとした。

「世話なら僕がするから。気にしなくてもいいよ、僕、ネコ好きだし」

 宥めるように言って、抱きかかえている子猫に頬ずりをする。

「なら頼まれてくれるかい我が弟よ」申し訳なさそうにしてノドカは顔を背けた。「あたいはネコが苦手なのだよ」

 ――どこか遠くへ捨ててきておくれ。

 言ってノドカは毛布に頭から包まった。

 ほほお。

 いよいよもって意味が解らない。

「どこか広い広い、複雑に入り組んでいるような、秘密の花園みたいなフロアにでもさ」

 捨ててきてちょ、とノドカは毛布から顔だけ覗かせた。身体をモジモジ揺らしている。

 コロセは頭を悩ませる。

 言葉の意味は解るが、子猫を拾ってきておいてなぜその言葉がでてくるのかが解らない。

 バカなのか?

 こいつはバカなのか?

 我が姉はバカなのだろうか?

 ああ、ちがう。

 バカなのだった――とコロセは深々と嘆息を吐いた。

 

 

 ***~三時間ほど前~ノドカ***

 アークティクス・サイドの外――実質的な位置座標から北東八十二キロ離れた地点の郊外である。

 山間に広がる竹林だ。風に笹の葉の香りが交じっている。

 ノドカとイルカは揃って、古びた石垣に腰掛けていた。イルカは今日もスカート型の制服姿だ。組織から支給される制服だがノドカはスカートが苦手なので試着したことすらない。また、男性用の制服をわざわざ着る必要もないので、ノドカはいつも自前のスーツを身に纏っている。

「ノドカさんってあの餓鬼と一緒に住んでるって話、ホントですか?」イルカが頬杖を突いたままで窮屈そうに口をひらいた。

「うん、そうだよ」ノドカは柿の種を頬張り、ついでのように応じる。器用にピーナッツだけを避けて食べる。

「正気ですか? 餓鬼ですよ、クソ餓鬼。餓鬼っていうのは、精神も年齢も身長も経験も知識も体力も能力も、何もかもがカスな人間のことですよ」

「ちょっとちょっと、それは言い過ぎだって。あの子のこと悪く言うのは、あたい、聞き捨てならないよ? いくらイルカちゃんといえどもさ」

「ノドカさってもしかしてショタコンですか」

「ショタコンではないけど――でも」と正直な気持ちを伝える。「餓鬼は餓鬼で可愛いと思うよ」

「かわいい? 餓鬼がですか?」正気ですかノドカさん、とイルカはただでさえ丸い目をさらに丸くした。「ノドカさんって変わってますよね」

「イルカちゃんに言われちゃうんじゃなぁ……あたいも、ちぃっとばかし自分の性格について考え直しちゃうかも」

「そうですか? なら良かったです。この機会に命一杯考え直してください。ショタコンは人としてナイですから」

「だからあたい、ショタコンじゃないってば」

「そうなんですか? あ、でも聞いて下さいよ、ウブカタさんにいたってはロリコンなんですよ。信じられますか? 生物として有り得ないですよね、死んでほしいです。いえ、冗談でなく。だってこのあいだなんかミドルクラスの餓鬼を抱っこしてたんですよ。きっとパンツとか覗いてたんですよ、キモイですよね」

 死ねばいいのに、とイルカはノドカのほうを睥睨する。

「う~ん。ウブカタさんって熟女好きじゃなかったっけ?」ノドカは一応、イルカよりも先輩であるところのウブカタの肩を持つ。「イルカちゃんの発言を聞く限りさ、それってロリコンがどうのこうのってよりもイルカちゃんがウブカタさんのことただ嫌いなだけじゃないのかなぁ」

 そこのところはどうなのかなぁ、と控えめに異論を唱えておく。

「そりゃ好きなわけないですよ」

 だってオヤジですよオヤジ、とイルカは肩を両手で抱いてぶるぶるとふるわせるようにした。如何にも汚らわしいものを目の当たりにしているかのような仕草である。

「うん、まあね」ノドカはイルカの意見を否定も肯定もしなかった。それから、あ、と思い付いたように話題を変えた。「イルカちゃんってミタケンさんのことはどう思う? やっぱり年上って嫌い?」

「なに言ってるんですかノドカさん。あの方こそラバーとしての見本のような方じゃないですか」

「え、そうかぁ?」

「ちょっとノドカさん、それはミタケんさんに対して失礼というものですよ」

「そ、そうかなぁ」

「あの方の命令ならわたし、たとえ火のなか水のなか、中年ウブカタを抹殺せよという任務だってよろこんでやりますよ」

「そりゃよろこびそうな命令だもの」と一応、つっこんでおく。それから、「もしかしてイルカちゃん――」とノドカは奇態と期待のない交ぜにこもった眼差しを注ぎつつ、「――じつはミタケンさんと喋ったことないんじゃないの」と確認する。

「それくらいありますよ。失礼ですよ。さっきから何なんですかノドカさん」と流石のイルカも憤りを露わにした。「初めてご挨拶したときに、『うん、じゃ、頑張って』とわたしを激励してくれましたもん」

「えっと……それだけ?」

「それだけ、ってひどいですよノドカさん」イルカは声を萎ませた。深刻な表情を浮かべて、「わたし、とってもうれしかったんです。ああ、こんなに優しくすてきなひとが上司なのか――そう思っていたのに、楽しみにしていたのに」

「――いたのに?」

「忌々しい中年が、中年ウブカタが、このわたしの上司だったんですよッ!?」柿の種の袋をこちらからぶんどるようにし、イルカは中身を口のなかに放り込んでいく。バリボリ云わせながら、「あの汚らしいとわたしのなかで話題沸騰して蒸発しちゃったくらいに穢らわしいと評判のクソオヤジが上司だったんですよっ!? 信じられますか? いえ、わたしはいまでも信じられません。どうしてミタケンさんじゃないの。どうしてあんな中年が上司なの。どうしてウブカタのクズ野郎なの!」

「落ち着きなって」と彼女を宥めすかす。ノドカは取り分けていたピーナッツの山を差しだし、「ほら、このお豆をお食べ」

「こんなものじゃ治まりません! わたしの怒りはッ」

 叫びつつイルカはピーナッツの山を分捕ると、そのまま一気に平らげた。

 食うのかよ。

 落ち着きを取り戻したようでイルカはため息を吐き、「それにしても」と殻の包装袋を放り投げた。「それにしてもこのお菓子、喉が渇きますよね」

 宙を舞う包装袋は、イルカの視線がぶつかると同時に炎に包まれた。

 一瞬で墨と化した包装袋は、笹の葉の香りに混じり、風に乗って消え失せる。


「あのさぁ……」と男の声がする。

 ノドカのとなりにずっと座っていた中年男――ウブカタが小さく口をひらいた。

「オレ、帰ってもいいかな」

「ええ、さっさと消えてください」イルカが穏やかに許可した。「ですが、消えるまえに――向こうに自販機がありました。飲み物をぶんどってきてください」

 辟易した様子でウブカタはこちらを向く。

 先ほどからずっと、助けを求めるようにそうして視線を向けてきていた。ノドカは素知らぬふりをしつづける。

 触らぬ祟りに厄はなし。

 イルカは今の今まで、ノドカと、その横に座っていたウブカタのまえで、彼の悪口雑言、罵詈讒謗の数々を吐き捨てていた。吐き出されたそのトゲトゲでドクドクな言葉の数々は、地面に跳ねかえり、中年ウブカタの胸にグサグサ、ザクザクと遠慮も容赦もなく突き刺さっていたことだろう。可哀想に。

「はやく飲み物とってきてきださいよ。善行のひとつでも働いてからこの世から消えればいいんです、中年のウブカタなんて」イルカは莞爾として笑った。「あーあ。餓鬼とオヤジとウブカタ、いつになったら滅びるんでしょうね」

 容赦ねえな、とノドカは二人の主従関係を認識しなおした。

 

   ***

 今回の任務は虚空の『修理』ではなく、虚空の『縫合』であった。


 現地に着いてノドカはまず驚いた――。

 『ティクス・ブレイク』を引き起こし兼ねない規模にまで「虚空」が広がっていた。メノフェノンが限界近くまで混濁している。

 泥に浸かっているかのごとく、身体が重く感じられた。

 メノフェノン混濁にじぶんの波紋が引っ掛かっている――とそんな印象をノドカは思い抱く。

 実際どうしてそのように感じられるのかは詳らかではない。ただの錯覚という可能性も拭えない。それでも保持者やサポータにはそのように感じられてしまうようである。

 異質なノドカたちからしてもまた、異質に感じられる空間――それこそが「虚空」だ。

 

 『ニボシ』化した生物のほとんどは、途中で合流した弥寺によって大方が細切れにされていた。虚空の「修理」が今回は行われないと知った弥寺は、ニボシを一気に殲滅させると、ノドカたちの虚空の「縫合」が完了するのを待たずに颯爽と任務を放棄した。彼はすでに帰路についていて、ここにはいない。

 いまはイルカとウブカタとノドカの三人が、竹林の隅で作業をしている――といっても実際に作業をしているのはイルカだけである。

 周囲には新たにニボシ化しつつある鳥や昆虫、植物などが夕焼けのなか、かすかに青白く発光している。いや、可視光線や電磁波の類ではない。それらの生物は「波紋」を帯びはじめているのだ。

 その波紋が、アークティクス・ラバーには青白く感じられる。

 完全に生物がニボシ化すると、その青白い光は消え、代わりに禍々しい波紋を発するようになる。あまりに激しく波紋が振幅するので、そのニボシの波紋はまるでトゲを纏っているように感じられる。そのためノドカたちは、ニボシのその波紋を、『棘紋(きょくもん)』と呼んでいた。

 

 ノドカは密かに疑っている――共感覚や霊感といった特殊な感覚は、自分たちのように「波紋」や「虚空」や《アークティクス》を知覚することで生じる断片的な感覚、歪んだ感覚なのではないか――と。

 実際に、パーソナリティ保持者ではないけれど、波紋や虚空の存在を知覚することの可能な一般人は存在する。存在するだけでなく、彼らは組織に『サポータ』と呼ばれて利用されている。サポータの彼らにしてみれば、狂っていると思っていた自分のほうが他者よりも優れた感覚を有していると知れるだけで、組織を肯定的に見做すことを潔しとすることに抵抗はないようだ。

 組織はサポータたちへ、知識と任務を与える。加えて組織は、働きに応じた報酬も与えていた。それは現金であったり、社会的な利益を生み出す情報であったり、社会的権力者への斡旋だったりする。

 持ちつ持たれつ、相互依存――だとサポータたち自身はそう思っている。

 彼らのなかには、パーソナリティまでをも開拓し、サポータから『保持者』へ昇華する者も少なからずいる。「サポーター(協力者)」と銘打っておきながらも組織にはきっと、彼らを監視するという名目もあるのだろう、とノドカは認識している。

 そもそもが、あのアークティクス・サイド自体がパーソナリティ保持者の隔離施設ではないのだろうか――とノドカは自身がラバーとなってからはより一層深く疑っていた。

 かと言って、その隔離政策がわるいことだとは思っていない。

 パーソナリティを有している者が、なんの対抗知識も対抗手段も持ちえない一般人に混じって生活しているとなれば、それはそれで末恐ろしいものがある。

 その者に悪意があろうとなかろうとに拘わらず、パーソナリティ保持者には『暴走』という危険が備わっている。

 周囲にその暴走を止める者がいなければ――そして暴走を止められる力を持つ者が、いつでも対応可能な環境でなければ――暴走した者は意識的にしろ無意識的にしろ、多くの人間を殺めてしまうだろう。

 そして何よりも、その暴走時に、もっとも初めに殺めてしまうだろう被害者は、親族や友人などの、自分がより親しく接している者たちなのだ。

 一方それが、

 アークティクス・サイドにさえいれば保持者たちは、少なくとも自分が暴走することによって誰かが犠牲になる危険性はぐんとさがる。アークティクス・サイドの住民はみな、身を守る術は持ち得ている。

 だから、たといあの環境が虚像だったとしても――アークティクス・サイドが実際には刑務所のような危険因子(保持者)の隔離施設だったとしても――それは保持者にとっても、保持者でない者たちにとっても、双方にとって好ましい選択なのではないだろうか。

 とノドカはそう考えている。

 さらには、ノドカたちアークティクス・ラバーの行っているこの活動は、やはり、明らかに世界の秩序を保っている、とも言えるのだ。

 虚空を『修理』、または虚空の『縫合』を施さなくては、その周辺の生物の多くがメノフェノン混濁の影響を受けて『ニボシ化』する。人間も例外ではない。ニボシ化は、無条件でパーソナリティを保有してしまうという個体の急激な変質を伴う。その場合、保持者と化した生物は最初から『暴走』した状態なのである。

 そうして虚空の影響で『暴走』した生物を、ノドカたちは『ニボシ』と呼んでいる。

 ニボシに理性はなく、三大欲求すらも失くして、己のエネルギィが尽きるまで――そして己の循環が途絶えるまで――周囲にぶちまけるようにしてパーソナリティを発動しつづける。

 暴走した者を止めるには、それ相応の拘束を与えなくてはならない。拘束には絶対的な力の差がなくてはままならない。そのために、強大なパーソナリティを有している保持者が暴走した際には、殺すこと以外に止める術がないのである。

 それがニボシの場合、一々その相手がどのくらいのパーソナリティを有しているのか、などと考慮している時間はない。少しでも早く止めなくては、被害が雪だるま式に拡大していくからだ。

 ――ニボシには迅速なる死を。

 ――暴走した保持者には卓見なる判断ののちに早急なる処置を。

 ――場合によっては死を。

 それがアークティクス・ラバーの鉄則であった。

 知性を持たない植物のニボシ化においては、ある程度パーソナリティの乱発が規則的であるために、数が多いという点を除けば、処分は容易である。

 だが昆虫や鳥類、野良犬や野良猫などは厄介だ。知能を有する生物ほど、処分実行に窮する。それゆえに、弥寺という男は虚空の「修理」には不可欠であった。弥寺がいれば、まず、ニボシの処分は彼一人で片が付く。

 その傍らで、ノドカたちが虚空の「修理」を行う。今日の場合は『縫合』であった。


「どうして今日は修理じゃなかったんだろ」ノドカはイルカへ訊ねた。彼女は作業をしている。

 イルカは年下であるが、アークティクス・ラバーとしては先輩だ。

「そうですね――今日の場合はメノフェノン混濁が著しいみたいなので、修理を行ったらそのままティクス・ブレイクを誘発しかねない、との判断のようですよ」

「でもさあ、だったらどうしてニボシがこんなに変異してないんだろ? もっとこう、ぐわーってなっててもいいんでないかな」

 ティクス・ブレイクの数歩手前の虚空――。

 尋常ではないメノフェノン混濁地にも拘わらず、ニボシ化している生物はまだ完全にニボシ化していない『魔害物』ばかりであった。

「ですから、弥寺さんが大方のニボシを片づけてくれたじゃないですか。弥寺さん、今はもう帰っちゃいましたけど」イルカは作業をつづけながらも答えてくれる。「だから今はニボシ化進行中の『魔害物』だけしかいないんですよ」

「うーん。でもね、でもね。弥寺さんが来たのってあたいらと同じくらいの時刻だったでしょ? むしろあたいらのほうがちびっと早かったじゃん? ということはだよイルカちゃん。あたいらが処分してたニボシどもが、一番ニボシ化してたってことだよね? んでさ、んでさ、結局弥寺さんが来てくれたからほかのニボシは全部片してもらったけどさ」

「あーもう! なにが言いたいんですかっ! あのですね、ノドカさん。もうすこし端的に話して下さい。言いたいことがあるのなら、最初に伝えたいことのまとめをおっしゃってから、そのあとにその根拠と補足を付け加えていただいてですね――そしてもしもわたしに対してなにか問題提起がしたいのであれば、最初にその主題の提示をしていただいてですね、そのあとに、なぜそれを疑問に思ったのか、なにが問題なのかを説明してください。冒頭ですべてが解るような話し方をわたしはノドカさんに強く、つよく、求めます」

 求められても困るなぁ、とノドカは肩に垂れた髪をくしゃくしゃと掻きあげる。

 最近ノドカはこれまで貫いていたボブカットをやめ、髪型を変えた。いまでは引っ詰めよりのポニーテールに落ち着いている。束ねた髪が、片側の肩にいつもかかっている。ノドカは無意識のうちに少しずらして束ねてしまうようだ。左利きなので、髪を結う際に、どうしても右に寄ってしまうらしい。それをコロセに指摘されていながらも、未だに放っておいている。「ずれてるほうがカワイイだろ」が一時期ノドカの口癖になったくらいだ。

 髪型を変えた理由は、「スーツにおかっぱは変だよ」とコロセから苦言を漏らされたからであった。おかっぱじゃないのに、と言っても聞き入れてもらえなかった。たしかに小学生かしたらボブカットもおかっぱも同じだ。というか同じか。

 髪型に合わせて服装を変えるという手もあったのだが、「おかっぱ」と言われてしまってはノドカとしては不満が残る。ネコの絵を描いたのにイヌだと言われたような不満だ。ネコもイヌも可愛いのだけれど、意図していない見解を持たれるというのは、それはそれで納得がいかない。だからノドカは髪型のほうを変えることにした。

 ところで、他人から、「強く、つよく」求められてしまった以上は、何かしらを返すのが礼儀というものだ。イルカの忠告を取り入れて、ノドカは端的に言った。

「この虚空ってさ、人為的に発生させられた虚空じゃないの?」

 作業の手を止めてイルカが振り返った。「どういうことですか?」

「いやさ、ここってね――このあいだの虚空とはケタ違いに大きいでしょ? なのにここのニボシを見る限りじゃ、このあいだと同じくらいの規模じゃない?」

「ええ、まあそう言われればそうかもしれませんけど……でも、それがどうして『人為的』という結論になるんです?」

「えっとなんて言えばいいんだかなぁ――ほら、仮にここでメノフェノンを混濁させて虚空を発生させるとするでしょ?」だれだかは判らないけど、とノドカは指に髪の毛を巻きつけながら話す。「それでさ、その誰かしらがさ、虚空を創るっていってもさ、ティクス・ブレイク寸前の虚空にまで規模をデカくするなんて、すぐにはできないと思うのよ」

「そうですね。虚空を人為的に発生させられるかどうか、それすらもわたしは怪しいと思うんですが、でも、ノドカさんが言いたいことは解りました。つまり、ここで虚空を生成しているあいだ、虚空がより大きくなっていくのと連動して周囲にはニボシたちも多く発現する」

 ああそうそう、とうれしそうにノドカは首肯する。

「それでもなお、ティクス・ブレイク寸前の虚空を創り上げるには、ニボシ化した多くの生物を排除しつつ継続して虚空を生成させなくてはならない。となると、虚空が完成するころには、虚空の周囲にいたニボシの多くは、その何者かによってすでに処分されてしまっていることになる――ニボシが近くにいるのに放っておく保持者はまずいませんからね。ニボシの存在を知らなかったとしても保持者ならば無意識的に危機感を抱いてしまいますから――」

 うんうん、とノドカは初めてニボシを目の当たりにしたときのことを思いだす。

 あれは――感覚でわかる。

 やらなくてはやられる。

 生存本能なのか、それとも、波紋を通じて相手の狂気の沙汰が伝わるからなのか。どうしてなのかは詳らかではないが、とかく、考えるよりも先に身体が反応する。

 相手(ニボシ)を毀すことがなによりも優先すべき選択なのだと。

 イルカは口元に指をあてがい、考えるようにしながら続けた。

「――虚空を創るなんてお馬鹿さんなことを行っていた者がこの場にいたとなれば、多くのニボシも同時に排斥されていたでしょうね。そのために、いまこうしてわたしたちが駆けつけたときには、初期にニボシ化した『より凶暴なニボシ』がいない――とノドカさんは言いたいのですね」

「イルカちゃんってばスゴイんだけど!」あたいの言いたいことはずばりそれでした、とノドカは無邪気に破顔した。「あ、もしかしてあたいの波紋、読んだ?」

 むっ、とした様子でイルカは、「だれが」と否定した。「だれが読むもんですか」

 それを聞いてノドカはしょげる。以前にコロセから、「おネイさんの波紋なんてだれも読まないよ、興味ないもん。それに、魅力もないもん」と言われたことがよみがえる。

「まあね、所詮あたいはあたいだよ」

「なんの話です?」心配そうにイルカが声をかける。

「ううん。こっちの鼻血」とノドカは鼻を押さえた。それを見たイルカに、鼻血なら仕方ないですね、とあしらわれてしまう。

 ああ、ツッコみすらもらえんのか、あたいは。

 ツッコミのないボケなんて、麺の入っていないラーメンじゃないか――とノドカはションボリと肩を落とす。

「それで、ノドカさんの仮説ですけど」イルカは作業を再開させた。「一応ライドさんにもあとでご報告しておくべきなのだと思うのですが、ノドカさん、ご自分でなさいますか?」

 いつもよりもちびっとばかし丁寧な口調なのはなぜだろう。もしかしてイルカちゃん、自分で報告したいのだろうか。それとも、それぐらいあんた自分でやれよ、という意思表示なのだろうか。

 う~ん、とノドカは悩む。面倒くさいからお願いしちゃいたいけど……。

 でも、これってわざわざライドさんに直接報告する必要がある話なのだろうか。まあ、虚空絡みの情報は少しでも多く、些細なことでも報告すること、と指示されているから、当然といえば当然なのかな――でも端末に入力するだけでいいような気もする。

 あたい苦手なんだよなぁ……ライドさんって。

「あたいさ、今日、クウちゃんに――じゃなくって、ウチの餓鬼にね、早く帰るからって約束しちゃっててさ」言い訳がましく前置きしてから、「イルカちゃん、報告するならお願いできるかな」とノドカは頼んだ。

 言ってから、彼女が子ども嫌いなことを思いだして、この前置きは余計だったな、と心の中で舌打ちする。

「それは大変です」とイルカが声を荒らげた。「早く帰ってあげるべきですよ」と暗に報告を引き受けてくれた。

 あれ――?

「頼んじゃっていいの?」

「もちろんですよ。一人で残してくるなんて、あまりにひどいです」イルカは真摯な口調で、「すぐにでも帰って、ノドカさんは付き添うべきですよ」

 なんだなんだ。どうしたことか。イルカちゃん、子どもなんて死に絶えればいいのに、と思っているのではなかったか?

「ガキを残してくるときは、息の根を止めてからにしてください。なにを仕出かすか分かったもんじゃないですよ。危険過ぎです」

 ガキをバラして来ないなんてあまりに無責任ですよノドカさん――とイルカは真面目な口調ですごいことを言った。

 ギャップもなにもなかった。

 彼女は彼女、子ども嫌いのイルカだった。

 そうそう人は変われない――とは良く言ったものだが、ここは一つ、彼女が変わってくれることを祈ろう――とノドカは誤魔化しの笑みを浮かべた。

 

 その時である。

 あのさ、と男の声がノドカの耳へ届いた。「あのさ、いいかな――お嬢さん方」

 低い声だった。それは声の周波数が低いという意味でもあるし、低い位置から発せられた声だという意味でもある。

「オレはいつまでこうしてればいいんだい?」

 ノドカの眼下には今、カーボンナノチューブ性のロープで何重にも縛られたウブカタが、地面に横たえている。そのうえからさらにイルカが『言霊』の描かれた紙切れを張ろうとしていた。

 イルカのしていた作業とは、この『ウブカタ抹殺』のための下準備。ノドカが敢えて手伝っていなかったのはそのためである。

「おいおい、イルカちゃん、ちょっと待ちなさい」とウブカタが縛られてもなお毅然とした態度で抗いを試みている。「それを貼られちまったら、いくらオレでも抜けられなくなっちゃうって」とあごを振って『言霊』を示した。

「はい、知っています」なにか問題でも、と言いたげにイルカは顔を向けた。

「馬鹿なことは止めなさいって」珍しく厳格な口調でウブカタが囁く。

「バカなこと? それはもしかしてもしかすると、忌々しいだけの中年をこの世から一匹消し去ろうとするこの高尚な行為に対して文句を垂れている体を装って、クッサイ息をわたしに吐きかけるという愚行然とした邪魔を今この瞬間に現在進行中でなされているウブカタさんのことですか?」

 ノドカは傍観者の位置にまで引いて、二人のやり取りを見守っている。

「あのな、イルカちゃんよ。オジさんはだね、SMとかそんなアブノーマルな性癖は持ち合わせてないんだよ。まさかイルカちゃんがこんな性癖の持ち主だったなんて、オジさん少しばかり驚いちまった。人間の可能性が無限大に近付きやがった気さえするよ」

「ならそのまま宇宙の無限大を確かめてきてください」イルカは殺気むんむんで言った。「素粒子に分解されるまで、燃やし尽くしてあげますから」

「そんなことしたらオレの粒子で空気が穢れるぞ? ほら、考え直そうか。ブタさんパンツをやめたみたいに」

 ぴたり、と作業を止めるとイルカは、「どうしてそのことを知っているのですか」とうわずった声を発した。

「どうしてって……だってよ、イルカちゃん、あの日からブタさんパンツ穿いてないだろ?」ウブカタは誇らしげに指摘した。「オレがブタさんパンツはやめたほうがいい、って忠告した日から。穿いてないよね」

「だからどうして! わたしが、ブタさんパンツを穿いていないこと! 知ってるんですかッ!」

「あれあれ、なんでだろうね……。でもだな、ほら、今日だってイルカちゃん、ブタさんパンツじゃなく、縞柄のパンツだろ? しかもストライプだと思わせておいて実のところ、そのシマシマの一本一本が、ヘビなのなそれ。なかなか凝っていると思うよ、うん。オレだってだな、その点は評価してやるにやぶさかではないんだよ。だがな、やっぱりアニマル柄のパンツってどうなのよ? しかも幼稚なアニマル柄ときたもんだ」

 ノドカちゃんもそう思うでしょ、と同意を求められた。「もっと色気あるパンツのほうがいいと思うよね?」

 求められたら何かしらを返すのが礼儀というものだからノドカは、「色気も色々だと思うので」と無難な意見を返しておく。本音としてはちょっとナイなと思わないでもない。

「ほらな、ノドカちゃんだってああ言ってんだろ」とウブカタが畳みかける。

 また波紋を読まれた――ノドカは動揺する。

「ねえ、ウブカタさん」イルカは立ち上がってウブカタの顔を踏みつけた。もはやその位置関係ではパンツを見せつけているとしか思えない。

 あれあれ、イルカちゃんってば自棄になってないか――ノドカはおろおろと二人を見遣る。

「死んでくださる?」

 言ってイルカがウブカタを睨めつけた。

 瞬間――。

 彼女の足元が爆発する。

 中年ウブカタは縛られたままだ。

 彼が横たえていた場所が消し飛ぶ。

 遅れて炎が膨張する。

 煙。

 粉塵。

 砂塵。

 塵芥。

 砂粒。

 礫塊。

 順々に知覚する。

「イルカちゃん!」

 ウブカタの安否よりもまず彼女の心配をした。

 彼女のパーソナリティはあんな眼下で遣うようなパーソナリティではない。もっと自分から距離を置いた場所へ向けて行使するのが常である。

 野外ということもあり、風がある。

 粉塵は風に流される。

 視界が晴れる。

 イルカはそこに立っていた。

 制服はボロボロだ。

 スカートから煤けた脚が、すらり、と伸びている。

 風でスカートが棚引き、彼女の赤みを帯びた髪もまたなびいた。

 焼けて破れたスカートの隙間からは、縞柄のパンツまでもがチラチラと点滅するように垣間見えている。

 けれど、イルカ自体は無傷のようだった。

 よかった、とノドカは安堵する。間に合っていたようだ。

 彼女よりも一瞬早くノドカがパーソナリティを発動させ、爆風を圧縮させていた。

 圧縮し損ねた熱風やススボコリで、多少イルカが汚れてしまったが、火傷などの外傷はないようだ。

「イルカちゃん?」自分の声がどこか笑って聞こえる。「だいじょうぶ?」

 自分でもなぜ笑っているのかがなぞだった。人間、突拍子もない状況に置かれると、自然と笑ってしまうものらしい。

「やってしまいました」イルカがぽつりと呟いた。

「な、ホントに? ウブカタさん――死んじゃったの?」殺しちゃったの、とは訊けなかった。

 ノドカは圧縮した爆風や熱のエネルギィを、空間ごとさらに圧縮させる。一つの塊にし、地面に転げる玉を拾い上げて、専用の容器に入れる。内ポケットへ仕舞った。

 夕焼けが竹林の影を伸ばしている。

 風が冷えてきた。

 もうすぐ秋か――とノドカは外の季節に思いを馳せた。

 人間に制御されていない、自然の循環だ。

 ふと気配がした。知っている波紋だ。中年臭い波紋だ。知っているけれど、読むことのできない波紋でもある。

「ああ、ウブカタさん……きちんと成仏してください」冗句のつもりで口にしてみた。「恨むならどうか中年であるご自分を」

 マジでやるか普通――と竹林の影から声が返ってくる。

 ウブカタがそこに立っていた。

「貼られてなかったから良かったものの、アレ貼られていたら、いくらオレでも死んでたぞ」

 そう、彼に『言霊』を貼る前にイルカの堪忍袋の緒が切れた。

 やってしまいました、となおもえぐれた地面に向けてイルカが呟いている。

「いや、生きてたよウブカタさん」よかったね、とノドカは彼女に呼びかける。

「どうして貼っておかなかったんでしょうね……貼っていれさえすれば、貼っていれさせずれば……」

「ね、ねえ、ちょっとイルカちゃん?」おそるおそる彼女に近寄る。「ねえ、だいじょうぶ?」

「貼ってさえいれば、消せたのに! 忌々しい中年をこの世から一匹抹殺できたのに!」失敗してしまいました、とイルカはノドカに泣き縋った。

 おいおい。

 なんだこの茶番は――。

「ひっでえなあ。ノドカちゃんもそう思うだろ?」

 同意を求められたので、求められた分は、「たしかにひどいですね。目も当てられませんよ」と返した。それからノドカは付け加えるように、「ウブカタさん、どうでもいいので服を着てください」と顔を背ける。

 ああ、やだやだ――。ノドカは酸っぱい顔をする。

 ウブカタは裸体だった。胸毛やらスネゲやら口にしたくもない所から生えているお毛けやらを纏ってはいるものの、中年ウブカタはすっぽんっぽんだった。むしろその体毛が汚らわしさを象徴している。または増長しているようにすら思われる。

 毎回毎回こんな卑猥なものを見せられていたのでは、たしかに消し去りたくなるかもしれない――とノドカはぼんやりとイルカに同情した。

「服ごと物質を転位させるってえのは、中々至難なんだ」

 責めてもいないうちからウブカタが弁解をはじめる。いや、また波紋を読まれたのだろうか。ノドカは集中して波紋をよりつよく糊塗した。

「自分を転位させるときは絶対に間違えられねーからな。間違ったら死んじまう。そうでなくとも身体が分断しちまうからな」

 服ごと一緒には難しいんだよ、とウブカタはどこから取り出したのか、新しいデニムとシャツを手に持っていた。

 いや、彼は取り出したのではなく、取り寄せたのだ。こちら側の社会に用意してあった着替えを。

 基本的にアークティクス・サイドとこちら側の社会は遮断されている。パーソナリティもまた例外ではない。こちら側にいるノドカたちが、アークティクス・サイドの自室から服を取寄せることは実質不可能だ。ならばやはりウブカタはこちら側の社会に服を用意していたということになるだろう。

 それはつまり最初から――今日ここへ来る段から――こうなることを予期していたということか。

 イルカの幼稚な策略を知っていたということか。

 知っていたうえで、彼女に付き合っていたのか。

 いや、そうではないのだろう、からかっていたのだ。ウブカタはすべてを知ったうえで、きっと、遊んでいたのだ。イルカちゃんを使って。

 ウブカタはそうやっていつも脇役に甘んじている演技をしていてその実、すべてを掌握しているかのような狡猾さを感じさせる。買いかぶりなのだろうか。よく解らない。そう、よく解らない男なのだ。それがウブカタなのだとノドカは認識している。

 それに比べてイルカちゃん――あんたは純粋すぎるよ。

 視線をイルカへ向けた。

 パンツを覗かれたくらいで――ブタさんパンツを貶されたくらいで――果たして殺意を抱くだろうか。いや、抱くにしても、それを計画するだろうか。あまつさえ実行するだろうか。

 ――しないだろう。

 普通はしないのだろう。

 でもそれだって、あたいにとっての普通なだけなのであって、彼女にとっての普通ではないのだ。ノドカは思う。

 ――イルカちゃんがそう考えて、そう行った。

 それを含めた事実が本来は『普通』と呼ぶべき事柄なのかもしれない。いや、どうだろう。よく解らない。

 なにをもって「普通」と呼ぶのだろうか。いくつもの個人が重なり合って、その重なり合って重複している部分、それこそが普通と呼ばれている事象なのだろうか。そんなもの、極々一部、極々微小に限定された性質ではないか。ああそうか、普通とはそうやって限定された枠内に収まっているということか。

 規定値範囲内――それが普通ということなのか。ならば、イルカちゃんも、ウブカタさんも、ある意味では普通だし、ある意味では異常なのだ。あたいも例外ではない。

 だって――。

 だって最初から、規定値なんてもの、どこにも定められてなどいないのだから。

 各々が各々で勝手に見繕っている目安で、勝手に換算している基準値で、勝手に決めたそれを、勝手に他人へ押し付けている。当て嵌めている。

 でも、そんなのって、そんな勝手なことなんて、それこそが、それ自体が――。

 ――普通じゃない。

 よく解らないな。あたいに解ることなんて、この世の中に、なにか一つでもあるのかな。

 ノドカは一気に不安になる。

 不安定になる。

 女性という種は、突如センチメンタルになると聞くが、これもそれなのだろうか。

 なんだ、あたいもきっちりしっかり女性なんじゃないか――とノドカは唐突な発見に愉快になった。

 

 もうすでに虚空の「縫合」は済んでいる。この区域は完全に封鎖されているのだ。一般人がこの空間に干渉することはない。ノドカたちのような異質な技能を持たない者は、この縫合された世界に干渉することができない。

 そしていま――。

 任務を終えたイルカは空いた時間で、兼ねてより計画していた『ウブカタ抹殺計画』を実行したのだった。計画といってもその場任せの出たとこ勝負。力任せの力技――そんな杜撰な計画であった。

 計画の全貌はこうだ。

 まず、中年ウブカタを縛りあげます。彼の性格上、ノリで縛られてくれます。

 次に、動けなくなったウブカタに『言霊』の描かれた呪符を貼って、パーソナリティの発動を困難にさせます。『言霊』によって「メノフェノン」を制約された保持者は通常よりもパーソナリティの行使が困難になります。

 最後に、抵抗できなくなった彼を殺します。赤子の手を捻るくらいに簡単です。

 こんな単純かつ杜撰な計画を、結局イルカは遂行できなかった。

 単純なことが簡単なことではない。良い実例といえよう。

「失敗してしまいました」とイルカはこちらへ泣き縋る。

 彼女を抱き寄せて頭を撫でながらノドカは、「あの、ウブカタさん」と声をかけた。

「なんだ」彼はぶっきらぼうに応じた。

「あの、できたらでいいんで、イルカちゃんの制服の着替えも取り寄せてくれませんかね。ほら、これじゃ女の子にはちびっとばかし過激なファッションだとあたいは思うわけでして」とかまをかける。

「ん? なんでだよ。いいじゃねえかそのままで。やっとセクシィになった」

「まあセクシィはセクシィなんですがね」と思わず肯定してしまう。

「ノドカさん!」顔を埋めていたイルカが顔を上げた。彼女はノドカよりも頭一つ分背が低い。

 彼女に睨まれてしまったノドカは、「ごめん、ごめん。冗談だから」と彼女の頭を撫でる。「じゃ、ウブカタさん、イルカちゃんの着替え、ちゃちゃっとよろしく頼みます」

「あいよ」重い腰を上げるように了解して、「おい、イルカちゃん。どっちの制服がいいんだ? ベッド横のタンスの方か? それとも青いタンスみてぇなのに仕舞ってある方のか?」

 はっ、としたようにイルカは声をわななかせた。

「どうして……どうしてウブカタさんがわたしの部屋のなか……知ってるんですか…………どうしてわたしが制服を分けて仕舞っていること、知ってるんですか! 覗きですか? 覗きですねっ! 覗いたんですねッ!」

 イルカちゃんの言う通りだった。

 そう、どうして知っているのでしょうか、ウブカタさん。

 きっとこの中年は自分の分の着替えだけでなく、イルカちゃんの分の着替えまでも、前以って準備していたのだろう。イルカちゃんの部屋に侵入して。

 …………侵入して……?

 おい、それ。ただの変態じゃないか。

「あ。いやあ」ウブカタは言い淀む。「侵入したっていうか、覗いたっていうか、なんていうか――読んだっていうか、視えてしまったというか」顎髭をじょりじょりと撫でている。

 もしかしてイルカちゃんの波紋を読んだのだろうか。

 部屋に侵入せずともウブカタさんのパーソナリティならば、イルカちゃんの制服を用意しておくことは可能である。そうでなくともイルカちゃんの身に着けている制服は、組織から支給される制服なのだから。

 それでもやはりウブカタさんがなぜイルカちゃんの部屋の間取りを知っているのかの説明にはならない。波紋を読んだとしても、それはそれで、覗きよりもタチがわるいとしか言いようがない。部屋の見取り図が解るまで深く読むなんて、そんなのは、記憶を読まれているのと変わりがない。そこまでこの中年は、他人の波紋を講読できるのか……イルカちゃんレベルを相手にしてそこまで鮮明に。

 ――もっとあたいも警戒を強めなきゃまずいかもしれない。

 イルカの頭を撫でている手に自然、力が入った。


「ノドカさん! お願いです!」イルカから縋るような目を向けられる。「あいつを消してください!」

 ウブカタを指さす手は滑稽なほど震えている。

「ええぇ……」

 おいおい、諦めわるいなぁ。この子も。

「そのお願いはどうかと思うなぁ、さすがのあたいも」言いながらもイルカの剣幕に気圧される。

「おい、ノドカちゃん! お前、まさかとは思うけどよ」警戒を含んだ怪訝な口調で、「その、なんだ。そいつの馬鹿に付き合うなんて馬鹿なことはしねぇよな?」

 むざむざと馬鹿に感染する必要なんてねーからな、と必死に馬鹿を連呼しながらウブカタは服を着ている。

 こちらが波紋を、より複雑に糊塗したために、彼もまた警戒したのかもしれない。だとすればウブカタはやはりこちらの波紋を探っていたということか。

 一瞬、胸に湧き上がった感情があったが、ノドカはそれを溜息とともに吐きだした。

「ええまあ。そりゃあね。安心してください、しませんよ何も」

 パンツを見たの見られたので殺しを請け負うような人間ではない。「あたいたちってこれでも一応、仲間ですからね」

「仲間ねえ」中年は顔を顰めた。

「あんなのを仲間だって言うんですか! 認めるんですかノドカさんはッ。人類に加算するんですか。中年を。ノドカさん、中年ですよ、中年!」

「うん、中年だね」

 どこからどう見ても中年である。ウブカタは加齢臭漂う中年だ。

「そうなんだよイルカちゃん。アレはただの中年なんだよ?」どうしてそんなに嫌うのさ、と彼女を宥めた。

「ああやっぱりそうなんだ、そうやってノドカさんはわたしの嫌いなものばかりを贔屓するんです。中年だって餓鬼だって辛い食べ物だって、そうやってわたしの嫌いな物ばかり」ノドカさんはわたしが嫌いなんです、とむつけた。

 子どもでしたッ!

 彼女、純粋に子どもでしたッ!

 ていうか辛いもの苦手だったの? 初耳だよ。だって柿の種めっちゃ食ってたじゃん。

「そんなことないよ」ノドカはほとんどやけっぱちでこの茶番に付き合うことにした。「イルカちゃんはあたいにとって大切な仲間だし、大切な友達だと思ってる。だいいちイルカちゃん、一応あたいの先輩っしょ?」あんまし駄々捏ねちゃイヤだよ、と頬を撫でるようにする。

「ノドカさんのパーソナリティならあんな中年、あっという間に消せますよね! わたしと仲間だっていうのなら……友達だって言うなら……大切だって言ってくれるのなら――」

 あいつを殺してくださいよッ――とイルカは叫んだ。

 ――この子、異常だ。

 ノドカはたじろぐ。

 悪寒が首筋を這う。

 思考に何かが雪崩れこんでくる。侵入してくる。

 波紋が乱れる。

 解れる。

 絡まる。

 イルカの波紋がいつになく波立っていた。

 ノドカの波紋が、彼女の波紋に同調する。

 いや、そうではない。

 イルカの波紋が、こちらの波紋に同調する。

 ――共鳴。

 ただ、イルカのそれは、

 叫びの裏にあったそれは、

 想いは、

 真意は、

 ――殺意ではなかった。

 どこか切ない、どこまでも切りがない、そんな深い深い、空白に反響しているような、悲愴な想いであった。

 言葉でもなく、思いでもなく、記憶でもなく、情報でもない。

 ――叫び。

 激昂のあまり、イルカは波紋を糊塗するのを忘れているらしい。

 鮮明に彼女の感情がノドカには伝わってきた。

 流れ込んでくる。

 ――彼女の感情。

 いや、感情なのか。

 これは――これは――彼女の――――。

 今度は意識的に、彼女の波紋へ同調した。

 ノドカは拒まなかった。

 手を差し伸べるように。

 抱き寄せるように。

 さらに深く。

 同調した。

 断片的な感情。

 憤懣。

 懊悩。寂寥。

 苦衷。悲哀。愕然。

 煩悶。周章。狼狽。瞋恚。

 糊塗しているノドカの波紋は濁り、ざらついている。

 けれど、糊塗していない、まっさらな、素のままのイルカの波紋は、荒々しく波打っているものの、とても澄みきっている。純粋に純水な波紋だった。

 油と水のように、ノドカが糊塗している限り、同調しても同調しきれない。糊塗が強ければ強いほどノイズが混ざる。それでもノドカは構わなかった。自分の糊塗を解かなかった。ノイズがあったほうがノドカの心は痛まない。

 一方的に覗くことになるけれど――それはとても許されない行為なのだけれど――それでもノドカは、彼女の波紋を受け入れた。

 それはイルカへの侵入であり侵害であり侵略にもなり得る行為だが、強いてノドカは彼女を覗いた。

 見られたくない自分を誰もが抱いている。それをよく知っていながらに。知っているからこそ。ノドカは自身の波紋を糊塗したままで、彼女を覗いた。覗かせてもらった。

 一瞬触れた彼女の裡が、あまりにも辛そうだったから。潰れてしまいそうなほどに、崩れてしまいそうなほどに、傷んでいたから。痛そうだったから。

 痛いことなのだと――。

 ――本人が気付いていなかったから。

 だからノドカは。

 彼女の波紋に。

 重なった。

 

   ***

 彼女は――イルカは――ここに来る前――アークティクス・サイドを訪れる前――親戚の伯父の手で――中年と呼ばれる男の手よって――身体によって――欲情によって――歪んだ愛撫によって――獣によって――弄られて――弄らされて――舐められて――舐めさせられて――やめて――やめさせて――誰か――助けて――――いつからか――彼女は――――人間ではなく――ひとではなく――伯父の――・・だった。

 殺すことで――中年を消すことで――彼女は――・・から――人間に――ひとに――自分に――わたしに――なれた――保持者に――なったと同時に――人になった――人殺しになった――そしたら――自由に・れた。

 中年は燃えて――灰に――炭に――塵に――なった。

 アークティクス・サイドに来てから――わたしは――強くなって――認められて――ラバーになって――居場所を失いたくなかったから――誰にも頼ることもなく――それでも誰かに頼りたくて――でも側にいるのは〝中年〟で――ウブカタで。

 どうしようもなかった、なかった、わたしは――あの日――ある日――自分よりも年下の――自分よりも幼い――少女に――自分よりも餓鬼の――小さな手で――手によって――この身体を――傷つけられた――強さを――見せつけられた――弱さを――付きつけられた――破壊を――魅せられた。

 蘇る過去と――屈辱と――空白と――――弱い自分を――支えていた――矜持ごと――自尊心ごと――寂しさに――怯えている――自分を――過去の記憶に――震えている――自分を――過去の記憶に――泣いていた――自分を――それらの――たくさんの――自分を――閉じ込めていた囲いごと――わたしは――わたしは――わたしは――崩された。

 立ち直るきっかけは――ノドカさんと――そして――やっぱり――ウブカタさんで――ずっと――側にいてくれた――ウブカタさんで――・・・きなウブカタさんで――でも――彼は――中年で――でも大・・な――たい・・な――わたしの――――――でも、だけど、どうして――彼は――でも、ちがう、彼は――ちがう――あの中年では・い――わたしを穢した――わたしを消した――わたしの消した――わたしが・した――わたしが燃やした――あの中年では・い――では・いのに――どうして――どうしてあなたまで――あなたまでわたしの――わたしの身体を――いやらしい――イヤラシイ――目、め、眼、メ――メスをみる――汚らわしい――穢れメ――ゴミメ――消えればいい――燃えればいい――いやらしい――その存在ごと――燃えればいい。

 でも、できるなら。

 その穢れだけを――――――燃やせたら・・のに。

 叫んだ。叫びで。叫んで。裂けんばかりに。

 イルカちゃんは。

 胸が裂けんばかりに。

 叫んだ。


 ――あいつを殺してよ。


 あいつ。

 あいつっていうのはさ、イルカちゃん。ねえ、イルカちゃん。

 ウブカタさんじゃなかったんだね。

 ウブカタさんのことではないんだよね。

 あいつっていうのはさ。

 キミの、イルカちゃんのなかに巣食った、伯父さんのことじゃないのかな。

 伯父さんのことにしても、イルカちゃん――キミはさ。

 キミは。

 本当は。

 本当はさ、殺したくなかったんじゃないのかな。

 殺すつもりもなかったんじゃないのかな。

 辛くて、つらくて、ツラクテ、つらくて、だから逃れようとしたんだよね。助かろうとしたんだよね。嫌だっただけなんだよね。怖かっただけなんだよね。

 イルカちゃん、キミはさ。ただその手を伯父さんへ――その手のひらを伯父さんへ――ただ向けただけだったんだよね。

 そしたらさ。

 燃えちゃったんだよね。

 伯父さんが、燃えだしちゃったんだよね。

 殺そうと思ったわけでも、消えてしまえと願ったわけでも、燃やそうとしたわけでもなくて、ただ伯父さんを押しとどめようとしただけなんだよね。伯父さんを止めたかっただけなんだよね。

 そしたらさ、勝手に燃えちゃったんだよね。

 びっくりしたよね。

 どうしようもなかったんだよね。

 ねえ、イルカちゃん。

 イルカちゃん、ねえ。

 キミはさ。

 ウブカタさんが。

 本当はさ。

 ウブカタさんが。

 ――大好きなんじゃないのかな。

 好きで好きで好きで。でも。どうしてもどうやっても信じられなくって。信じ切れなくって。

 だから辛くあたったり、蔑んだり、傷つけようとしたり――そうして試していたんだよね。信じてもいいと思いたかったから。裏切られるのがこわかったから。自分がまた傷つくのが、おそろしかったから。次に傷付いたらもう立ち直れないと知っているから――だからそうやってキミは強がっていたんだよね。失いたくないのに、抱きしめたいのに、手放したくなんてないのに。

 なのに、できなかったんだよね。できないんだよね。失うくらいなら、失ってしまうくらいなら――――いっそ。

 って、そう思うしかなかったんだよね。

 だからイルカちゃん、キミは自分の手で、その手で、ウブカタさんを――。

 大好きなウブカタさんを――――――その手でじかに。

 って、そう考えたのかな。そう思っちゃったのかな。違うのかな。違うんだよね。ごめんね。どうでもいいよね、こんなことはさ。どうもでもいいんだよね、あたいの考えなんかさ。

 でもさ、イルカちゃん。

 ねえイルカちゃん。

 そんなに辛いなら、そんなに苦しいのなら、消すことはないよ。

 燃やすこともないよ。

 殺すことだってないんだよ。

 辛いなら、しなくたっていいんだよ。

 キミは、自分の我が儘を押し通せるほど、強くない。

 弱くて素直でかわいくて、そんな一人の女の子だよ。そんな一途な女の子だよ。

 普通に恋する、普通の恋する、普通の女の子じゃないか。

 ああでも、とノドカは思う。

 ――これは、恋じゃないのかもしれないね。


 ノドカの浮かべた表情の変化を読み取ったのかイルカは焦ったようにこちらを突き飛ばした。

 遅ればせながら彼女は、波紋を深く読まれたことに気が付いたようだ。

「どこまでみたんですかッ」

 イルカの呼吸が乱れている。咄嗟に波紋を全開で糊塗したのだろう。いや、彼女の気配ごと波紋が消えている。きっと彼女は波紋を「断層」に沈めたのだ。糊塗ではなく、波紋のみの浸透。

 ――波紋の『沈下』。

 イルカちゃん、やり過ぎだ。

 慣れない『沈下』は、数分で疲労が溜まる。限界値を超える。

 すぐにでも立っていることすら辛くなるだろう。言ってみれば『沈下』は、水に潜っている状態にちかい。息継ぎができないように、彼女は今、身体を循環しているエネルギィが急速に滞っていっているはずだ。

 でも――。

 ノドカは冷静に考える。

 苦しくなれば、イルカちゃんも平常状態に戻るだろう。疲れれば感情の高ぶりだって沈静化するだろう。それこそ激しかった波紋の振幅ごと。

「ウブカタさん」ノドカは彼に呼びかけた。

「なんだ、どうしたよ」ウブカタは真顔で、「すっかり悟りきったような顔しやがって」と無精ひげをなでるようにした。

 そうか……彼はすでに知っていたのだ。

 イルカちゃんの素性を。

 イルカちゃんの想いを。

 ――どこまでも食えない男だ。

 それに、

 ――不器用な男だ。

「ウブカタさん、時間、まだあったりします?」意識的に声を弾ませてノドカは、「ちびっとお喋りなんかしちゃったりしちゃいません?」と提案した。

 イルカを見遣ると、すでに彼女は肩で息をしていた。

 彼女の波紋はすぐそこに感じられた。糊塗されてはいるが、やはりノドカが睨んだ通り、穏やかになりつつある。『沈下』は身体に負担がかかる。そうそう容易く使用できるものではない。こと、イルカのように波紋の制御技術に疎い保持者にとっては。

「お喋りだあ? まあ、いいけどよ。どうせオレは蚊帳の外だろーがな」悪態を吐きながらも彼は承諾した。「オコチャマの談話にとけ込めるほどな、オイちゃんな、若くねーんだぞ」

 すっかり警戒してしまっているイルカへノドカは近づき、

「時間あるし、お話ししちゃおっか、イルカちゃん」と肩に触れるようにする。

「同情ですか? なんなんですかッ?」息切れを隠すように早口で彼女は捲し立てた。「気持ちわるいですよノドカさん」

「同情? なになに、イルカちゃんってばあたいに同情されたいのかな? 同情するってのは難しいことじゃないけど、でもあたいはさ、自分以上に可哀想な人間を知らないからね。仮にあたいがイルカちゃんを同情するってんなら、イルカちゃんこそあたいに同情してちょうだいよ」

「なんの話ですか」

「あたいの鼻血だよ」

 イルカは首を傾げて目を細める。「別に……血は出てませんよ」

「もっと自信持ってツッコんでくれなきゃ」言ってノドカは彼女を抱きしめた。「捕まえた」

「ずるいです。ノドカさんはずるい」こちらの腕を掴んで彼女は、「いつもそうやって、遠くからわたしたちのことを見下ろして……わたしに構ってくれないくせに、関わってくれないくせに。こうやって自分の好きなときにだけ、自分の都合がいいときだけ、こうやって関わってきて。一番関わってほしくないときにだけ関わってきて。ひとの裡側に入りこんできて……触れて欲しくないことに勝手に触れて、掻きまわして……」

 あのときだって――と彼女は口を噤んだ。

 あのとき――。

 彼女が任務中に負傷して、塞ぎこんでいた時期。イルカが『少女』と対峙したことで、アイデンティティを破壊されてしまっていた時期。ノドカがイルカと出会った時期。

「いいじゃんそれで」いいんだよそれで、とノドカは控えめに微笑んだ。「関わりたいときに関わればさ、それでいいんだよ。拒まれても拒まれても――関わりたかったらさ」

 関わればいいじゃない、ともう一度つよく抱きしめた。

 ノドカの胸から、ぷはっ、と顔を上げてイルカは、「それじゃストーカーとおなじです」と上目遣いに睨んでくる。

「ううん。ちがうよ。ストーカーはね、あたいから言わせてもらうとね、相手と関わろうとしていないんだなぁ。関わるっていうのはね、いいかなイルカちゃん」関わるというものはだね、と口調を整え、「関わり合うという努力をする、という意味なのだよ。相手がなにを好んで、なにを忌むのか、そういったことを理解しようと努力することなんだよ。ストーカーはそれを無視して一方的な干渉を強いるでしょ?」だからちがうのだよイルカちゃん、とノドカは謳った。

「でも。だったらなおのこと、拒まれたならやめるべきです。ノドカさんはストーカーとおなじです!」

「そうは言ってもね、イルカちゃん――」


 ――寂しいでしょ。


 ノドカは彼女の頬を撫でた。イルカの頬は湿っていた。

 すすけた彼女の頬には縦に真っ直ぐと艶やかなスリットがはしっている。

「だってさ、さびしいでしょ。だれにも相手にされないのなんて」

 唇を噛みしめているイルカはやがて警戒を解くように脱力した。

 強張らせていた身体が弛緩した感触があり、さらに身体を預けるようにしてイルカが寄りかかってきた。ノドカは支えた。自らも寄り添うように。

「あっちでさ、ちびっとお喋りをしようじゃないか。驚きたまえイルカちゃん、ガールズトークというものに実はあたいってば憧れているのだ」

「似合いませんよ」イルカは素っ気なく言った。「どちらかと言えば、ノドカさんはオヤジトークがお似合いです」

「ですって、ウブカタさん! ガールズトーク&オヤジトークに花を咲かせましょう」

 オヤジトークってなんだよ、とウブカタのぼやき声が聞こえた。

 

   ******

 この竹林では、いささかお喋りには物寂しい場所ではないか――ということになり、ノドカたち三人は、いったんアークティクス・サイドへ帰還することにした。

「あたい、最後にちょいとばかし見回りしていくよ」ノドカは気を効かせて二人をさきに帰した。

 少し歩いてから振りむき、「イルカちゃん、あのさ」と二人の背中に投げかける。「ウブカタさんを始末しちゃうときはあたいがいるときにしてよ。あたいもウブカタさんの無様な最期、この目に刻み込みたいからさ」

 だからあたいがいるときにしてよ――と念のために一応念を押しておく。

 

「保障はし兼ねます」イルカがしれっと嘯くと、勘弁してくれよ、とウブカタが無精ひげを撫でた。

 彼女らは、消え入るように溶け込むように姿を掠めながら縫合されたこの世界――虚空内から離脱した。

 ――すこし、時間つぶすか。

 ノドカは周囲を見渡し、竹林を見回りがてら散歩した。

 足元には細長い影を伸びている。夕陽の変遷と共に、影は徐々に闇と同化していく。

 縫合された虚空は、やがて世界から完全に隔絶される。

 より《アークティクス》側に埋没した世界へと沈んでいく。

 アークティクス・サイド自体もまた、そういった埋没した場所に存在している。

《アークティクス》――絶対唯一の世界。

 たった一つの世界。

《真の世界》によりちかいという意味で――アークティクス・サイド。

 安直すぎないかね、とノドカは耳たぶをいじる。ピアスの感触が心地いい。

 パーソナリティを有している者たち。保持者。

 彼らは一様に、ほかの多くの者たちよりも多感に《アークティクス》を認識できる。《アークティクス》の変質を、変遷を、構造を、法則を――その肌に、目に、耳に、〈自己の世界〉に感じることができる。

 見えないものに触れ、触れられないものが聴こえ、聞こえないものが視える。

 否が応でもより多くの《世界》を感受してしまう。

 意識せずに五感が世界を感受するように、意識せずとも自然と身体が動かせるように、意識せずに、保持者はパーソナリティを行使することができる。もちろんそれは、制御や操作や抑制するといった意味ではない。それらパーソナリティが「本能」の一つとして自己に組み込まれている、という意味だ。

 沈思黙考していると突如、

「みゃー」

 声がして、影が飛び出してきた。

 ――油断した。

 反射的に飛び退き身構える。

 飛び出してきた影は、夕闇のなかで蠢いている。

 おや、とふと気付く。

 青白くなく、「棘紋(きょくもん)」も感じられない。

 これはつまり――ニボシ化していない生物ということだ。

「みゃ―」と鳴いてその生き物は、人懐っこく足元に擦りよってきた。

 しゃがみこむようにし、おっかなびっくり抱き上げた。

 温かく、小さい。

「みゃー」と腕のなかで鳴くそれは、子猫だった。

 なんて――なんて、かわゆいのだよう。

「おまえ、ひとりなのか? 独りなんだな? さびしいだろうね、さびしかったんだろうね。よしよし。あたいが今からお前をあたいのペットにしてやろう。よろこべ、このニャンコめっ!」ノドカは頬ずりする。

 瞬間――。

 背後からわずかな波紋の乱れを感じた。

 ――誰かいる。

 子猫を抱いていたことで反応が遅れた。

 それ以前に、完全に死角からの掩撃だ。

 子猫に気をとられ過ぎていたか。

 身体に緊張が走る。

 節々へと一気に。

 思考は冷静だった。

 ああ――ヤられる。

 回避は無理だ。

 仮に致命傷をかわせたら、つぎの瞬間が勝負だ。

 感覚はゆるんだ線を張るように一瞬で研ぎ澄まされた。

 ――くる。

 思うと同時に背中が熱くなった。

 意識はまだ飛んでいない。

 致命傷――ではない。

 振り向きざま、視界の隅に『影』を捉える。

 闇のなか――。

 ――〝殺意を孕んだ波紋〟が如実に感じられた。

 影はこちらもまた青白くない。

 殺気の形に波立っている波紋には明確な殺意が。

 ニボシでも、魔害物でもない。

 あれは、

 ――人?

 思考は乱れた。躊躇する。滞る。

 けれど。

 ゆえに。

 もっとも無意識的な意志に従って、ノドカの身体は動いていた。


 対象を補足し、拳を向ける。

 対象までの距離を認識し、座標をロックする。

 曲げている指を弾くようにして開き、こんどは一転、対象を握りつぶすように一気に、

 ――閉じる。

 刹那、空間が歪む。

 この時点ですでに対象は潰れている。

 さらに拳を握りしめて、圧縮する。収斂させる。

 空間に皺が放射線状に走って視える。

 対象がいた一点へ向けて皺が収束していく。

 膨張した空気が一か所に戻るようにして空間の歪みは治まった。


 瞬く間のできごと。

 瞬き一回分のできごと。

 一秒にも満たないみじかい時間の経過が、まるで轟々と身体のうえを這っていくように鮮明に克明にノドカには感じられた。

 濃厚な一瞬である。

 

 遅れて呼吸が苦しいと感じられた。

 勢いよく息を吐き出し、すばやく吸いこむ。

 深呼吸を一回、二回、と繰り返す。

 無意識に呼吸を止めていたらしい。

 

 対象が収斂した場所まで歩を進める。

 背中が熱い。

 ずきずきする。

 地面が円形に窪んでいる。UFOの着陸地点のようだ。見たことはないが、きっとこんなだろうな、と想像を逞しくしてしまうのはいつものことだ。

 溝の中に黒い塊が落ちている。ビー玉くらいの大きさだ。

 ノドカはさらにそれを圧縮し、念入りに圧縮し、グリーンピースくらいにまで小さくする。それを優しくつまんで、専用のカプセルへ入れる。上着に仕舞った。

 あれは……人だったのだろうか。

 これには……人がはいっているのだろうか。

 ――潰れているのだろうか。

 どうでもよかった。

 あれが人であろうと、保持者であろうと、生物であろうと、ニボシであろうと、関係がない。

 ――やらなければ。

 ――やられていた。

 だが、どうなのだろう。

 先ほどの影は、波紋を糊塗していたように思う。

 完全に油断していたこちらをまえにし気を緩めたのだろう、一瞬の殺意を溢してしまった――そんな感じがした。

 正気を保った人間だった。

 それも、相当の手練の保持者ではなかったか。

 波紋からは殺意以外を感じ取ることはできなかった。おそらくは仲間ではない。アークティクス・サイドの住人ではないのだろうと思えた。住人たちのなかでアークティクス・サイドから離脱することの可能な保持者は決まっている。ラバーか総括部の者だけだ。

 アークティクス・サイドからの勝手な離脱は許可されていない。許可がなければ離脱は不可能だ。ならばやはり、アークティクス・サイドに身を置いていない、組織外の保持者ということになるだろう。

 一般人に混ざって生活している保持者は案外に多い。彼らの多くはサポータではない、組織の傘下に入らないだけでなく、自らが保持者であることも自覚していない。

 他者と比べると自分が異なって思える――それだけの理由で、自分が病気なのだ、とそう勘違いをして、自虐し、卑屈になり、窮屈な暮らをしている者が相当数いるという。

 ただ、それはそれで当然なのかもしれない。ごくごく自然なことなのかもしれない。

 パーソナリティを遣い熟すことのできない者は、ただただ、自分を取り巻く保持者の波紋や、他者が知覚できない世界の存在を感受してしまう。

 《アークティクス》などがその最たるものだろう。

 《アークティクス》は世界の本質そのものだ。本質であるはずなのに、多くの者は、その本質のごくごく僅かで局所的な部位しか感知していない。いや、感知することができない。だからこそ、彼ら以上に多くの本質を感知できてしまう保持者やサポータは、自分がおかしいのではないか、と案じてしまう。不安になってしまう。

 組織に属するというのは、そういった不安から逃れることができるという利点もある。むしろ、それが保持者やサポータにとって、組織に属することで得られる、一番大きな利潤かもしれない。

 だが往々にして、大きな力に従うことを善しとしない連中がいるものだ。捻くれ者とも言えようか。大きな利潤をまえにしても、卑小な問題を過大に意識して、反発しようとする者がいる。そういった反発する者たちは、なぜか大きな力、大きな組織に対して抗おうとする。組織のほうは端から敵対などしていないというのに。

 保持者のなかにもそういった捻くれた荒くれ者がいるのだ――とノドカは学び舎の講義で聞いたことがあった。

 あの人影もそのような、荒くれ者――アウトローだったのだろうか。

 現在『R2L』機関には敵対する組織がない。コロセはアークティクス・サイドがヒーローの養成所だと聞いていたらしいが、ノドカの知っている限り、ヒーローとは悪と戦ってなんぼものものではなかったか。

 虚空のなかでニボシ化した生物を殲滅することはある。しかしそれは敵ではない。こちらはニボシに対して敵対しているが、向こうはこちらの存在など歯牙にもかけていないのだから。

 だからノドカたちアークティクス・ラバーは、ニボシを一方的に滅しているに過ぎない。そんなのはヒーローとは呼べないだろう。

 コロセに対して、胸を張って任務の内容を言えないことが何よりもそのことを如実に物語っている。

 ノドカは自らをヒーローなどと思ってはいない。

 残虐な殺し屋、始末屋、掃除屋さん――その程度の認識であった。

 ただし、必要とされる任務であるとは自負している。

 ――誰かがやらなければならない。

 そうでなければ、虚空の被害によって、多くの者が苦悩に陥り、ただでさえ困難な人生を、よりつらい人生へと変貌させてしまうのだ。命を落とすだけでなく、残された者たちの人生まで大きく狂わせることになる。

 ――痛いほどによく解る。

 ノドカはその悲惨さが、傷口を引っ掻かれるほどによく身に染みている。知っている。

 虚空内でノドカは、これまで四度、人を殺めた。

 ニボシ化した人間だった。

 助けられることなら助けたい。

 そう、助けたかった。

 けれど、ニボシ化した生物に尊厳を与えられるほど、こちらには余裕がない。力の差が拮抗している相手、その相手が暴走してしまっているのだから――言葉が通じないのだから――それは排斥以外に道はない。己が存続するためには、そうするしかなかった。消し去るしかなかった。殺すしかなかった。

 しかし一方で、理屈では解ってはいても、上手く納得しきれていない自分もいる。割りきれていない自分がいる。

 ――本当にこれが最善なのだろうか。

 こんなときいつもノドカは思ってしまう。

 ――なにをやっているのだろう、あたいは。

 

「みゃー」

 子猫が寄ってきた。

 ノドカは抱き上げようとしゃがむ。

 背中に激痛がはしった。その場へ倒れるように横になる。

 寝そべっているノドカの顔を子猫が舐めた。

「ひとの気も知らないで」

 言ってノドカは子猫を抱きしめた。

 心細いとき――挫けそうなとき――もうずっと深く深く眠ってしまいたいと思ったとき――そばにこうやって抱き締めさせてくれる存在がいるというのは――どうしてこうも気持ちが落ち着くのだろう。どうして幸せな気持ちになるのだろう。どうしてまだ生きていてもよいと思えるのだろう。

 ――コロセ、いまごろなにやってんだろうな。

 身体を起こし、背に手を回し、ノドカは傷に触れてみた。流血を確かめる。切創だった。失血は多くない。そろそろ痛みには慣れてきた。いや、麻痺しているのだろう。はやく帰って、傷を手当てしないと。あの子が戻って来る前に――コロセが戻って来る前に――手当を終えないと。

「みゃー」

 みたび子猫が顔を舐めた。

 

   ***

 縫合された虚空は、徐々に閉じていく。

 よりアークティクスに近い階層へと潜るように沈むように「この世界」から消えていく。

 それは丁度、巾着袋の口を閉じるのに似ている。『縫合された世界』を徐々に狭めていき、やがてすっかり閉じきるのだ。

 ――世界と世界との分離。

 ――虚空の縫合。

 虚空側(縫合された世界)にいれば、生物などはその隔絶された空間から一生涯でることができなくなる。

 現在の地球上の面積は、実際の表面積よりも少ないとされている。世界中、いたるところで、縫合が行われているからだ。空間を切り離し、より深い断層へ沈める。

『R2L』は、縫合した空間すべてを記録し、超・長期的な管理を担っている。

 虚空を縫合することでメノフェノン混濁を、時間の経過に委ねて鎮静化するのを待つ。それが縫合の目的である。長い期間をかけてメノフェノン混濁の鎮静化した「元虚空」は、縫合を解かれて、新たな土地としてこの世界へと回帰する。

 一般的に、縫合が必要とされるレベルでのメノフェノン混濁は、「ティクス・ブレイク」を引き起こさない限りは、およそ一千年~三千年で、鎮静化するとされている。そうして鎮静化した「縫合虚空」は、縫合を解かれ、こちらの世界へと戻されるのである。

 そのため、数年に一回、記録上にあるもうすぐ鎮静化するとみられる数千年前の「縫合虚空」を視察しに出向くのも、アークティクス・ラバーの重要な任務であった。いまのところ、ノドカがその任務を任されたことはないし、記録上、縫合を解かれた虚空も、現在のところはないと聞く。

 ちなみに、アトランティス大陸やムー大陸などの、伝説とされる土地も、こうして縫合されたうちの一つとされている。

 データ上では、最古の「縫合虚空」が、およそ六千年前となっている。そのことを信じれば、『R2L』機関というこの組織の大本がすでに、六千年も前から存在していたことになる。組織の設立については、ノドカも調べてみたものの、一切が不明である。アークティクス・ラバーであるノドカにしても、組織の沿革についての主要な情報コードへはアクセスできなかった。しかし、情報が開示されていない、ということは、裏返せばそういった情報が少なくとも存在するということで、それだけ判れば、今のノドカとしては、充分に収穫と呼べた。

 ところで。

 ノドカのパーソナリティも、この「虚空の縫合」の仕組みと、基本的には同じ原理だとされている。

 ――空間の分離。

 ――空間の区切り。

 ノドカの場合は、切り取った空間を、《世界の断層》へと浸透させずに、この世界と同じ階層で圧縮させ、圧縮された空間自体も、同じ階層に維持される。

 圧縮された空間を、ノドカはもう一度解放することができる。その際には爆発的なエネルギィの拡散が生じる。ノドカはその爆発を『ブラックホール・ボマー』と自称している。滅多なことでは使わない。自分でもこわくて、遣い熟せない。前に一度、この業を放ったことがあったが、そのときは、ステップが一棟、半壊した。無人の無印エリア内だったので、負傷者は出なかった。さらに、ミタケンの監修のもとに行った修行(トレーニング)であったために、ノドカ自身も負傷しなかった。なんとかミタケンの迅速な「浸透」によって、爆発の及ばない断層まで逃げることができた。

 損壊したステップが復旧するまでの期間、ノドカは罰則のために、一切の菓子類の飲食を禁じられた。

 

 虚空が閉じていく。

 閉じきる前に、ノドカは子猫を抱いて離脱した。

 アークティクス・サイドまでは、チューブを通ればものの五分で到着する。その際に雑念があると、チューブが歪み、指定された座標までの最短距離を大幅に歪曲して進む破目となる。

 チューブは、指定された二点間の距離を、いくつかの階層を経由することで、最短距離を進むことができる。アークティクス・サイドの中央棟にある総括部へ、「任意の結びたい座標」二か所を申請することでチューブは形成される。

 

 チューブも含めて、アークティクス・サイド内にあるメカニックの多くは、個人が発する波紋の活動に同調している。波紋を介して、意思を反映できる。機器が捉える波紋を通して、個々人のパーソナリティを日々分析している――ともノドカは聞いている。はたしてどの程度の分析が可能なのかは定かではないにしろ、日頃から監視されていると呼べる以上は、どうも気持ちのよい環境とは思えない。むろん、アークティクス・ラバー以外の保持者たちが知る由もない情報である。

 彼らにしてみれば、こんなこと、どうとでもない粗末なシステム、捨ておいてもなんの問題も生じない余計な知識に過ぎないのだろう。むしろ知ることで不快な気持ちを抱くことになる。ならば放っておくに越したことはない。

 仮に知ったとしても、不快の大本を取り除くことはできないのだから。

 

 ノドカは帰還する。

 チューブを抜けるとそこはステップ外だった。

 風が冷たい。

 おかしいな。

 今日の場合、申請してあった出口は、中央棟のフロアにあるブティックだったはずだ。ノドカが開いている店である。店といっても売り買いする必要がないので、欲しいものを保管しているコレクトルームとして使っている。趣味のための店だ。どの店も大抵はそういった趣味の延長線上で開かれている。美容室にしろ、ペットショップにしろ、雑貨屋にしろ、玩具屋にしろ、本屋にしろ、レストランにしろ、ブティックにしろ――それらは店員がやりたいからやっているだけである。

 ただし、誰かが「これ下さい」と言ってきた際には、とくに大切なものでなければ寄付するのがここでの流儀であり、礼儀であり、風習であった。サービスもしかりだ。

 ここではやりたくないことはしなくてもよい。

 ただし、やりたくないことがない人間などいない――というのがアークティクス・サイドの現状を目の当たりにして抱いたノドカの感想だ。人はなにかしらの願望を常に抱いているものらしい。それも、他人への貢献という要素を含んで。

 ステップの外ということもあって、風が冷たい。

 そろそろ冬なのだな、とノドカは外と同じ感慨を抱いた。

 結局、人為的も自然的も、同じなものなのかもしれない。人間が自然界から脱しているなんていうのは、あたいらの思い上がりだったりして――と柄にもなく幼稚なことを考えた。でも、そんなことは当たり前なのだ。

 人間と自然を分けて考えることが便利な考えだというだけのことで。

 ――ん?

 とノドカは不審に子猫を見詰める。

 あたいらしくない。こんなことを考えるなんて――ましてやそんなことで苛立つなんて、可笑しいぞ。

「お前、なにかあたいにした?」自分らしくない自分を誤魔化すようにノドカは子猫に尋ねてみた。「みゃー」と子猫は応じる。チューブ内では灰色に見えた子猫も、こうしてステップのネオンのしたで見ると、真っ白い毛の子猫だと判った。

 

「なんだ、その白いのは?」

 

 声がノドカの額に届いた。一切の気配を断たれた声だ。

 視線を向けることなく、すぐ目のまえ、誰かに見下ろされていると判る。

 反射的に後退するも、背中が壁にぶつかった。

 いや、壁ではない――瞬時に冷や汗が噴きだす。

「逃げることはないだろうが。なにも捕って食らおうってわけじゃない」

 振り返るとそこにはあの男が立っていた。

「弥寺さん……」

 深く息を吸い、乱れた呼吸を整える。鼓動を抑えるように意識するが、音を立てて暴れている。

「そう、俺は弥寺だ。そして、お前はノドカだ。ならその白いのはなんだ?」

「これは……」たじろぐが、なんとか「子猫です」と応じる。

「ほお。子猫――ね」

 言って弥寺は一歩下がった。

 ノドカは思わず溜息を吐く。だがすぐに気を引き締める。

 子猫を見もせずに弥寺は言った。

「俺は可愛いものが存外に好きだ。そして、人間以外の生き物にも割と寛大な感情を抱けていると自負している。だが、その子猫は妙だな。メノフェノンが乱れているぞ」

「え?」このひとはメノフェノンまで知覚できるのか? センサーなしで? ありえない。

「どこで貰った? どのペットショップだ?」

「いや――これは、その」

「そういえばノドカ、お前はつい先ほどまで、虚空の縫合作業をしていたそうだな。無事に終えたのか?」

 なにが、そういえば、だ。

 あんたも同じ現場にいただろうが――ノドカは彼の意図が大体読めた。

 ――このひとはあたいで遊んでいる。

 彼が言いたいことも大体解った。もちろん彼は、ノドカがそう考えたことすらも波紋を通して読んでいるのだろう。こうやって人の心を見透かして、そうやって人の心を操って、この男は楽しんでいるのだろう。神にでもなったつもりなのだろうか。

 ――クソ忌々しい。

 ノドカがここまで思っても、弥寺は演技染みた話し方をやめなかった。続けて問いを並べる。

「現場に、その子猫も連れて行っていたのか? それとも、縫合を終えて、こちらに戻って来てから急いで貰いに行ったのか?」

「いえ」ノドカは正直に答えることした。「現場で拾ってきました」

 嘘を吐かないこと、それがこの男に対しては一番賢明な応対だ。

「虚空を縫合しなくてはならないほどに、メノフェノンが混濁していたとするならば、それは通常、虚空内に存命している生物――それらの殲滅が、俺たちラバーには指示されているのではなかったか?」

「はい。その通りです」

「でだ。その子猫――メノフェノンが乱れているぞ、と俺が教えたのだから、ノドカ、お前がこのあとにすべきことは決まっているよな?」

「はい。コレの――」

 ――処分です。

 言ってノドカは子猫を胸に抱き寄せた。

 できるわけがない。こんなに可愛いのに。こんなに小さいのに。こんなに弱弱しいのに。

 ――折角、助けてあげたのに。

「厭なら俺が代わってやろうか? 俺はソレを上手に毀すぞ」

 時間をかけてな、と弥寺の手が仔猫に伸びる。

「いえ……あたいが、あたいがやっておきます」ノドカは子猫を彼から遠ざけるように身を捩った。背中が痛む。それでも表情を崩さずに、「弥寺さんのお手を煩わせるようなことはありません」と呟く。

「なら頼むぞ」弥寺はこちらの肩をうしろから叩いた。「つぎに俺がソレを目にすることがないように、しっかり消しておけ」

 いつの間にか弥寺が背後に回っていた。

 硬直する。

 ゆっくりと振り返ったそのさきにはもう、彼の姿はなかった。

 ステップのネオンが奇麗に霞んで見えている。万華鏡みたいだなとぼんやりと思う。

 彼の手が置かれた右肩が重く感じられた。まるで、心臓を握られているみたいだった。そんなの、わるい妄想に過ぎないのに。なのに、ノドカはその場にぺしゃこりたん、と崩れてしまった。

 体力の限界だった。ここまでしていたのにも拘らず、ノドカは弥寺に波紋を読まれていた。『沈下』が通用しない。断層に沈めた波紋までも彼は読み漁る。相手の波紋を追うように、自らの波紋も「沈下」させることで。そんなこと、あの男以外でほかにいったい誰ができるだろう。どれだけの力の差があるというのか。

 ――無力。

 背中の痛みなど、今はどうでも良かった。

「にゃー」

 子猫が縋るように鳴いた。

 

   ***

 スーツを脱ぐと、上着には縦に真っ直ぐとスリットが入っていた。鏡越しに背中を見遣る。

 ――うっわ、痛そう。

 他人事のように顔を顰める。

 上着のなかの小物を取り出す。上着はシュレッダーに入れた。そのままゴミは外部へと排出される。ゴミがどこに集められて、どうやって処理されているかは、ノドカには解らない。

 アークティクス・サイドのシステムについての情報は、基本的に閲覧が規制されている。ラバーであっても、容易には知れない。ただし、難易には知ることができる。だが、その労力をかけてまで知りたい情報ではなかった。ゴミの行方など、知ったことではない。

 そもそも最近は、それどころではなかった。

 コロセと一緒に暮らすようになって、家族のようなものができた、というのも大きな要因だろうけれど、それ以上に、コロセがここへ来たその日。

 コロセを中央棟へ案内したあと――。

 ノドカの内情はこれまでと大きく変わった。

 ノドカの上司――ミタケンからもたらされた情報によって。

 シャワーを浴びてからノドカはベッドに腰掛けた。それから背中の傷の手当てを自分で施す。

 傷は斜めに背中を切り裂いていた。シャワーのお湯が傷に染みて、思考はクリアになっている。

 ふたたび血が滲みはじめた傷口を、もう一度タオルで拭う。消毒をする。傷口を挟むように皮を引っ張り、医療用のホッチキスで傷を塞いでいった。その上から軟膏を塗り、さらに接着剤を塗る。これで背中を曲げても傷は広がらない。あとは自然治癒を待つだけである。

 だが、自分で自分の背中の手当てをするというのは、中々に手間がかる。

 治療を行いながらもノドカは、ぼんやりと、あのときのことを振り返っている。

 

 

   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ十一年前~}


 ***ノドカ***

「ココ、いいですか?」

 ん、と振り向いた男は、「ああ、ノドちゃんか」と抑揚なく言って、「待ってたよ」と心にもないことを言った。

 そうだ、この人はいつも心にもないことしか言わない。真意の計れない男。天の邪鬼。それがミタケンという男なのだ――とノドカは彼をそのように分析している。

 髪をメッシュに染め、黒いスーツを身に纏っている。あごには髭が生えているが、中年ウブカタのような無精髭ではない。こぎれいに整えられている。薄暗い店内にも拘わらず彼はサングラスをかけている。けれどノドカは知っている。彼は童顔だ。童顔を隠すために、顎髭を蓄え、グラサンで厳つい雰囲気を醸しているだけなのだ。実質的なノドカの上司で、ウブカタとはちがい完璧に放任主義であった。ノドカが構ってもらえることは滅多にない。こちらから近寄らなければ、距離はどんどんと空いていく。

 彼の向かいに腰掛ける。

 ここは「ニコール」という名のバーである。ミタケンがよく通っている。マスターとは一度も喋ったことはないが、いそいそと新しいカクテルの開発に日々励んでいるといった話を耳にしたことがある。実際にカウンターの奥には、研究室のような部屋があるという。客は勝手に自動販売機(自動バーテンダー機とでも呼ぶのだろうか)を用いて飲み物を手に入れる。完全セルフサービスだ。

 ミタケンは店の一番奥、ボックス席でひとり頬杖を付いていた。

「なに飲んでるんです?」

 テーブルのうえには飲みかけのジョッキがあり、中身は泥のように黒かった。

「ココアだよ」

 んなわけあるか、と思いつつも、「ああ、やっぱり。だと思った」と調子を合わせる。中ジョッキでココアを飲む男が果たしてこの世界にいるだろうか。居て欲しくはない。

「あの子はどうしたの?」ミタケンが背もたれに身体をあずけるようにした。片足をソファに乗っけ、ひざを抱え込むように座っている。「ほら、さっき一緒にいた」

「だから、今日から二日間の検診ですよ」さっき言ったじゃないですか、と呆れる。呆れつつもジョッキに注いできたカルピスを口に付ける。

「ああ新入りだったのか。どうりで見慣れない波紋だと思ったよ。そっかそっか、新入りね。で、どこで?」どこで検診中なのだい、と興味なさげに呟いた。

「それもさっき言いましたって。全然聞いてないじゃないですか」

「ノドちゃんの話はさ、難しいんだよ。理解しづらいし、聞きとりづらい。なによりも、記憶しづらいんだ」

 要するに、印象にのこらない、という意味だろう。

「さいですか。いいですよ。ええ、ええ、いいですとも。どうせあたいはその程度なのでしょうね、そうなんですね、そうなんですよね。あたいはどうせ影が薄い、キャラの薄い、胸板も薄い女ですよ」さいですか、さいですか、とリピートする。

「誰もそんなことを言っていないじゃないか」

「言っていないからって、思っていないことにはならないでしょ、そうなんでしょ、そうなんですよ。ミタケンさんは思っていないとでも言いきれるんですか? あたいの胸板が厚いだなんて、『胸がたわわだよね』だとか、『着やせするタイプだよね』だとかそんなうれしいこと、思ってくれちゃってたりするんですか。どうなんですか」

「思ってはいないけど――でもぼかぁ胸は小ぶりなほうが好きだなぁ」

「どうせあたいは小ぶりですよ! BにちかいCですよ! だれもクソミタケンの胸の好みなんて聞いてないよッ! でもでも、あれ、なんかだかちょっとうれしいかも、ありがとう」

「機嫌なおった?」

「別にあたいはもともと機嫌わるくないですよ」

「そうなの?」

「そうだよ」

「でもさ、ノドちゃんって、ぼくと一緒のときっていっつもさ」彼は両手を祈るように組み、「かなり殺気――抑えているよね。無理してない?」と口にした。抑揚のない口調は穏やかなままだ。

「なにをなにを、もうもう、ミタケンさんったらもう。いよいよミタケンさんも冗句を言うようになったんですね、あたいはちょっきし感動してますよ」

「殺意の我慢はさ、身体にわるいんだよ」

「かあ! 冗句に冗句を重ねてくれるなんて、ボケにボケを被せて収集つかなくなる高等ジョークですね。流石ミタケンさん、こっちの腕も上達がはやい!」

 右腕をポンポン叩きながらノドカは捲し立てた。

「いいよ無理しなくて。ぼかぁもう疲れたんだ。もういいんだよノドちゃん。ぼくはもう嘘を吐かない。何も隠さない。訊きたいことがあるなら聞いてくれ」

「なんの話ですか?」

「ぼくの鼻血だよ」

 いひひ、とノドカは笑うが、ミタケンの冷めた表情を見てしゃちほこ張った。そうだ、この冗句をあたいはこのひとに言ったことがない。

 ――なぜそれを彼が知っている?

「知っているよ。なにもかも――ね。さあ、訊きたいことがあるなら今だよ。なに、遠慮はいらないさ。この機を逃したらぼくは二度とキミの質問には答えられない」

「……どういうこと、ですか」

「その疑問の意図というのは、ぼくがキミに答えられなくなる理由かい、それともまだ白を切るつもりなのかい」

「ああ、もうなんだろうな」ノドカは頭を掻き乱す。「どいつもこいつもラバーってのはひとのプライベートを覗くのが趣味なんですか。ウブカタさんにしろ、弥寺さんにしろ、ライドさんにしろ……。隠しごと一つできやしない」

「隠されると覗きたくなるのが人の常だよ。ノドちゃんは隠し過ぎなんだよ。なにをそんなに必死に隠しているのだろうってね、いち男として妄想を掻きたてられる。それでもってノドちゃんは、隠し方が甘いんだよ。圧倒的に波紋を糊塗するのが甘い。厳重なんだけど、でも、ワンパターンだ。ノイズをかけるなら、うえからさらにモザイクをかけないと。いいかい、上司らしく一つ忠告しておくとね、本当に波紋を糊塗したいのなら、ちがう性質の糊塗を多重にかけなくちゃいけないんだよ。そして、一個一個にダミーも混ぜてあるとなお素晴らしい。気付いていないだろうから言っておくとね、ノドちゃんが読んでいるぼくらの波紋の大半がきっとね」

 ダミーだよ、と呟いてミタケンはジョッキに残っていた黒い液体を飲み干した。

「それは……」どんな意味で言っているのだろう。どんな意図をもって言っているのだろう。仮にすべてがバレていたとして、だったらアドバイスなんかしてくるわけがない。いや、これからあたいを消すつもりなのか。だからここで訊いておかないと、あたいは二度と聞くことができないと、そういう意味なのか。だからこうも簡単に教えてくれるのか――。

「ああ、そんなに警戒しなくともいいんだよ。大丈夫、ぼくは何もしないさ。そう、何もする気がない。ぼくはもう」何もしたくないんだよ、とミタケンは祈るように手を組み、項垂れた。項垂れたまま彼は、ノドちゃんとはさ、と続けた。「ノドちゃんとはさ、こうして腹を割って話したかったんだ。ノドちゃんだってそれが望みだったろ? いい機会だよ。さあ、詰問でもなんでもしてくれ」

「どうして……」

 急にこんな、こんなあっさりと。

「そうだな。なら、ぼくがノドちゃんの知りたそうな話を勝手に喋ろうか。うん、それがいいかな。なんだろうね、なにから話そうか。そうそう、まず一応確認しておくけど、ノドちゃんってさ――」

 ――虹が丘の生き残りなんだろ。

 言ってミタケンはサングラスを外した。彼の瞳は、赤く赤く充血していた。まるでいままで泣いていたかのように――これからどこかへ駆けだしそうなほどに、赤く赤く血走っていた。




 

 

 ***ミタケン***

 いつから話そうか。そうだな。まずはぼくの話をしようか。

 ノドちゃんは、知らないだろ、むかしのぼくのことは。ああそうだったね、今のぼくのことも知らないよね。

 沢山調べてくれていたみたいだけど、うん。ぼくらのようにさ、ラバーになった保持者の情報は公開されていない。ラバー同士でも互いの情報は閲覧できない。実際にそうだったでしょ? 

 秘匿にする意味は、そう、あまりないんだろうけど、でもね、やっぱり明かさないほうがいいことも沢山あるんだとぼくなんかは思うんだ。知らないほうがいいことってのも、世の中にはそう少なくはないんじゃないかな。それが自分だけ知らないのなら、それは嫌だけどね、でも、誰も知らないことなら、それは知らないほうがいいことだとは思わないかい。ぼくの好きなある詩人は言うんだ、「知らぬが仏、知らされるが惨め」ってね。

 まあでもね、だから、自分だけが知っているってのも、結構辛いことだと思うんだ。それが人に言えないことならなお更だよ。

 ああいや、きちんと話すから安心してよ。

 あ、それ、今の糊塗のしかたは上手だった。うん、それくらい多重に乱されるとぼくにも読めない。あとはダミーの形に波紋を形成できるようになれば、ノドちゃんは鬼に金棒だね。弥寺くんに匹敵するんじゃないかな。ああいや、これはあんまり褒め言葉じゃないね。ごめん。


 九年前だよ。

 ぼくがここへ、アークティクス・サイドへ来たのは。

 生まれつきぼくは、みんなには理解できないものに触れられた。そこにあるのに、みんなはそれを認識できない。ぼくには視えているそれが――ぼくには触れられるそれらが――ぼくには聞こえるそれらが――みんなには視えないし触れられないし聞こえない。

 それっていうのはね、大抵は、人の身体にくっ付いているんだよ。なんて言えばいいんだろうね、立体的な〝紋様〟って言えばいいのかな。ああこれもきっと抽象的で伝わらないんだろうね。

 あ、解るかい?

 そうか、ノドちゃんは「潜れる」んだもんね。

 だったら、『プレクス』のことも〈レクス〉のことも、それらの世界の違いが解るだろ? 概念的にじゃなくって、感覚的にだよ。

 解るならいいんだ。そういえばノドちゃんもラバーだったね、ごめん。ちょっと忘れてた。

 ノドちゃんの演技に慣れちゃうと、時々ね、ノドちゃんがラバーだってことをついつい忘れちゃうんだ。でもあれだよ、けっして侮っているわけじゃないからね。うん、誤解はしていない。ぼくはきちんとノドちゃんの厄介さを知っている。ううん違うな――知りたくない――ということをぼくは知っている。身の程を弁えているのさ。対峙しちゃったらぼくはノドちゃんには敵わないからね。こうやってぼくのテリトリーにノドちゃんを連れ込まない限りは、二人きりで対等に話し合うことすらできない。

 そうさ。だからぼくはいつだって人込みにいるんだ。ノドちゃんと二人きりの空間をつくらないようにね。そう、人質だね。ぼくは、姑息な人間だし、卑怯な人間だから。そのとおりだよ。ぼくは狡猾なんだ。

 責めないでほしいな。ぼくだってそうしたかったわけじゃないんだから。だってノドちゃん、殺意満々でこわいんだよ。いくらぼくでも、そんな相手とお近づきにはなりたくはない。

 ああ。弥寺くんは別だよ。かれは殺気だとか殺意だとかを持っていないからね。ぼくにとって弥寺くんは友達だ。

 ん? 弥寺くんのことを知りたいならそっちを話そうか?

 そうだね。ノドちゃんはぼくだもんね。

 はは、こんなことを言うと怒られそうだけど、もしかしてノドちゃん、ぼくのことを本気で好きなのかな、と勘繰ったことがあるんだ。憎しみの裏は愛情だっていうだろ? まあ、愛の反対は無関心らしいけどね。裏と反対はどうやら同義ではないようだ。

 でもキミは違った。憎しみじゃなくて、恨みだった。そう、恨みさ。罪を償わせたいという祈りだね。

 ちがうって? ならノドちゃんは気付いていないだけだよ。キミはとても恨んでいる。ぼくだけじゃない。すべての人間を恨んでいるよ。もしくは、興味がないんだろうね。もし、キミに恨まれることなく愛情を注がれる人間がいたとしたら、そいつはきっと――人間ではないんだろうね。

 ごめん、怒らないでくれ。これも一つの忠告として流してくれないか。どうせ最後だ。上司を立ててくれよ。


 成長と共に自我が形成しはじめて、ぼくが自分と周囲を比べるようになってからだ。

 自分がみんなとは違う存在なのかもしれないと疑いはじめたぼくは、ぼくだけが感受できる〝それら〟について調べることにした。

 そしてそのうち、ぼくは気が付いたんだ。

 ぼくにしか干渉することができないそれらのモノをぼくが弄ると、それを付けている人間がおかしくなるってことに。ああうん、もちろんみんなからしたらおかしいのはぼくのほうさ。でも、そのおかしいぼくから視ても、ぼくが弄った人間はおかしくなった。変になった。気が狂うのさ。誰もいないのに会話をしたり、怒ったり、誰かから話しかけられても気付かなかったり、反応を返さなかったり。あるはずもないモノを在ると言い張ったり、この音はなんだ、この壁はなんだ、とヒステリーを起こしたり。

 それはきっと、客観的にみたぼく自身だったんだろうね。頭がおかしいと思ったよ。ぼく自身も。その変わってしまったみんなも。

 もちろん一番初めに変になったのはぼくの家族さ。

 ぼくは家族の身体を覆っているその紋様に触れてみた。

 色がね、渦を巻いた虹みたくなっていてね。大きい渦だとか、小さい渦だとか、それらが水玉模様だとかを形作っているのさ。喩えるならそうだな、万華鏡を覗いているみたいに奇麗なんだ。とても奇麗なんだよ。幼さをいい訳にはしたくないけど、でも、好奇心の塊だったぼくがそれに触れないはずがないだろ。しかもぼくの家族は、そんな紋様は存在しない、と叱るんだ。こんなにハッキリと視えるこれがだよ、彼らは存在しないと言う。

 ぼくは理解して欲しかった。それが存在していることをじゃなくって、ぼくにはそういったモノが視えている、というその事実を解って欲しかった。ぼくはみんなに、ぼくを理解して欲しかったんだ。

 紋様に触れると、それは絵具のように粘着質だったり、砂のようにさらさらしていたり、砂利のようにじゃりじゃりしていたり、空気のようにふわふわだったり、水のようにゆらゆらしていたりする。温度があるもの、匂いがするもの、音が鳴るもの、人によってことごとく違う。すべて違う紋様なのだけど、どれを弄っても人は変わった。ぼくが絵具で遊ぶように、〝それら〟の模様を変えてしまうのと連動してね。

 みんなが視えないと言い張るなら、触れたっていいだろう、関係ないだろう、とむつけているぼくがいた。

 ――こんなに汚してもまだ気付かないのか。

 ――こんなに悪戯してもまだ怒らないのか。

 そうやってね、ぼくは意気地になって紋様を弄った。

 ぼくは気付いて欲しかったんだろうね。構って欲しかったんだろうね。

 その結果、ぼくは、大切な人たちを失ってしまった。ぼくはぼくの手で家族を毀してしまったんだ。ぼくが四歳になる前のことさ。

「正常な保護者」がいなくなったぼくは施設に預けられた。

 どうしたらいいのか解らなかった。人と接することがすっかりこわくなってしまっていた。

 なにがみんなには視えなくって、なにが触れてはいけないものなのかの区別を当時のぼくはつけられなかった。単純にこわかったんだ。人を傷つけてしまうことが。大好きな人が豹変してしまうことが。

 おどおどしている人間に対して、子どもは敏感だ。施設の子たちはぼくに対して執拗に悪戯を繰り返した。結局はみんな、より性能のいいオモチャが欲しいのさ。

 より支配欲を満たせるオモチャが――。

 より期待通りの反応を示すオモチャが――。

 それは大人だろうが子どもだろうが変わらない。

 ぼくは疲れていた。怒ることにも。苦しむことにも。悩むことにも。辛いと訴えることにも。哀しいと伝えることにも。感情を抱くことにさえ――ぼくは疲れていたんだ。

 そんなときだ、ぼくはふと気が付いた。

 突然の閃きだった。

 何も考えていなかったぼくが、なにも考えないようにとしていたぼくが、考え至ってしまった。

 あの奇麗な紋様に触れれば、ぼくは人を変えられるのだ――と。

 悪戯っ子たちを変えることできるのだ――と。

 そのことに気付いたお陰で、あの施設は精神病棟と化したよ。

 罪悪感も虚しさも何も湧かなかった。あの施設内でこそぼくはまともになれたんだ。狂人たちの中でこそぼくはまともに。

 みんながぼくよりも狂うことで、ぼくはぼくとして、一人の人間として、周囲に認めてもらうことができた。

 ああそうだね。きっとぼくも、イルカちゃんと同じだったのだろうね。

 仮にそうやってパターン化して、無理に当てはめようとするのなら、そうなるだろう。

 人は誰しも認められたがっている――この一言で片付いちゃうのだろうね。


 年長者になる前に、ぼくは施設を出されたよ。ああ違うな。ぼくが自分から頼んだんだ。

 ぼくは大丈夫だから、ぼくは普通の人間だから、変じゃないから――だから一人でも生きていけます、ってね。

 外に出てぼくはすぐに思った。

 社会というのは本当になんて自由なんだ、と無感動に思った。

 人を助けるのと同じだけ、人を騙すことが尊ばれている。いや、人を助けること、それ自体が人を騙すことのように、ぼくには見えたよ。

 善良な言葉のほとんどは、この社会を崩さずに、いかに自分に都合のいい環境を保持するのか、それだけのための言葉だと未だにぼくは思っている。たぶんノドちゃんもさ、そのイデオロギーじみた偽善自体が、別に悪いことだなんて思ってないだろ?

 結局社会なんてものは、個人の最大幸福を、いかに高め維持しようかって、大人数で抗っているだけなんだから。

 なのに、そのことを忘れているのか、恣意的に気付いていない振りをしているのか、目を背けているのか――多くの人たちは善良だとされている思想や、善良だとされる社会的選択を、「みんなのためだ」と言い張る。

 自己犠牲を重んじて、みんなのために生きることこそ素晴らしいことだと嘯いている。

 もちろん、そう考えることは大切だろうとは思うよ。そう信じるのも勝手だろうとぼくは思う。でも、それを強要することだけは頂けない。そこを穿きちがえているから――それこそが真理なのだと思いあがっているから――自分たちのしていることが、ただの欺瞞なのだと気付けない。

 たしかに利己的な行動は他者との調和を乱す。

 現在の社会体制が合意社会である以上、社会を形成している民衆が利己的では、秩序ある社会システムが維持できないのは当然のことだろうとは思う。でも、利己を追求した結果の社会じゃないか。

 そう、インディビジュアルだよ。個人が最大限に幸福を求めた結果が――楽を追求した結果が――この共同社会なのさ。

 誰だって少し考えれば思い至る結論じゃないかな。

 ぼくたちは、多くの手間と労力を分散することで、この潤沢で便利な生活を手に入れている。楽をするために社会に内包され、贅沢をするために社会に貢献するんだよ。

 だってそうだろ。

 生命維持活動以上の営みは、総じて贅沢じゃないか。

 社会にはたしかに多くの理不尽な搾取が存在するよ。なのに、それに目を向けていてなお、どうして自分たちのしていることが利己的ではないと言いきれるのだろう。

 多くの人たちは言うんだ。

 他人のために生きなさい――と。

 社会のために生きなさい――と。

 そこまではいいよ。でも、その次に出てくる言葉にぼくは吐き気を覚えた。

 どうして社会のために生きなくてはいけないのかとぼくが問うと、彼らは一様にこう言った。

 ――あなたも多くの人の手によって生かされているのだから、あなたもその恩を誰かに返さなくてはならないんだよ。

 ぼくには理解できなかった。

 多くの手によって生かされている?

 多くの恩恵を授かっている?

 そんなの、社会があろうがなかろうが同じことだ。人はいつだって生かされているし、恩恵を受けている。ただそれが、人間社会の場合――食物連鎖の循環よりも繊細な「経済という名の循環」だから――だからすぐに労働や生産といった行為に還元してもらわなければいけない、というだけの話だ。

 そして重要なことは、ぼくは社会から齎されている恩恵に、恩義なんて感じないということだ。美味しい食べ物もいらない、温かいベッドも、整った服も、雨風しのげる重層な家も、電気も、水も、下水設備のなにもかも、ぼくは一切の文化性の象徴を放棄できる。

 なのにこの国のどこにも、人間社会の干渉を受けていない自然なんて残っていないじゃないか。

 同意社会である以上、同意しない自由もぼくらにはあるはずなんだ。なのにこの国には、社会に内包されたくはない人間が暮らせる土地がない。自然がない。世界がないんだ。

 だからねノドちゃん――ぼくらはね、社会の恩恵を受けているんじゃない。

 ――受けさせられているんだよ。

 ぼくは幻滅した。なにも考えず、なにも感じずにいたこのぼくが、幻滅したんだ。

 気持ちわるかった。

 腐るべき社会なのに、腐っていない。

 防腐剤だらけの、毒だらけの林檎のように、ぼくには映っていたよ。外の社会がね。

 それからだ――。

 ぼくが意図的に紋様を変えるようになったのは。

 人間を狂わせることに使命感を抱きはじめたのは。

 きっと、ノドちゃんは知らないだろうけど、ぼくはね、キミが思っている以上の人間を毀してきた。

 殺すんじゃないよ。

 ――毀すんだ。

 人を殺すという行為は、保持者じゃなくたって――それこそ子どもにだって、誰にだってできるけど、生きたまま苦痛を与えつづけるってのは、中々に骨が折れるんだよ。

 ストーカーや嫌がらせも、それを行いつづけなくてはいけないからね。被害者と同じように、加害者もそれなりの代償を支払っているのさ。時間と労力をね。

 でもぼくはちがう。ただ毀したい人間の紋様を変えるだけなんだ。一瞬の干渉で、ぼくは相手に継続的で絶対的な干渉を強いる。

 ――ぼくだけが一瞬。

 ――相手は一生。

 この違いがどれだけの違いか、どれだけの重さか、ノドちゃんには解るだろ?

 人の一生を変えるっていうのは、その人間だけでなく周囲にいる人間たちの一生をも奪うことなんだよ。

 まあ、でもね。死んだほうが増しだと思える生もあるし、死んでしまえば苦しまずにすむ、と尊ぶ死もある。

 殺すことと、生かすことを同じ指標で語ることは無意義だと、うん、ノドちゃんが思う通り、ぼくもそう思うのだけどね。

 はは。波紋が鮮明になっているよ。あんまり集中して聞き入らないほうがいい。警戒しなくてもいいとは言ったけど、でもやっぱり警戒は解かないのが賢明かもしれないね。

 あ、いや、からかっているわけじゃない。すまないね、もう少しだから待ってくれ。ここからが一番聞いて欲しいところなんだ。

 なんだかんだ言ってぼくは、もしかしたらノドちゃんに懺悔しているだけなのかもしれない。

 許して欲しいだとか、そんなくだらない意図はないから安心していいよ。許されるというのはさ、その人の世界から存在を消されることと同義だとぼくは思うんだよね。

 極端かな?

 いや、でもね、許せないと思うくらいに酷いことをしてきた相手と、そのあとにもう一度関係を築き上げられるとは思わないんだよ。許す可能性がある怒りや憎悪なんて、結局は最初から相手を許しているのと同じだよ。相手に謝らせるために怒っているわけだからね。

 大抵そういった半端な怒りだとか憎悪ってのは、相手に理解されなかったから生じる攻撃的な感情なんじゃないのかな。だから、本当は最初から許しているのさ。

 でも、怨恨はそうじゃないんだ。許す余地がない。許されることもない。そんな絶対的に頑なな排斥の意思なんだ。だから、仮に許してもらったとしたら、それは、単純に相手から、「お前は私の内では既にいない者としている」という死刑宣告なんだろうね。精神的に殺されてしまっているのさ。もちろん、死んでいるのは、「許す」と言ってくれた相手のなかにいる自分だよ。実害はない。

 ああ、ごめん。余談だったね。

 でも、ノドちゃんにはまだ時間があるだろ? あの少年は二日経つまでは出てこない。むしろキミはそれまでにぼくの件に片をつけようと思っている。そうなんだろ?

 いいさ。話の続きだけどね――。

 ぼくはアウトローになっていた。完全なる社会の異物だよ。排除されて然るべき存在だった。なのにぼくはいつまでも社会のなかを彷徨うことができた。社会はね、力のあるものには寛容なんだ。力っていうのは、叡智と暴力と権威さ。どれも道具のようにして用いるものだけど、その道具を持っている者が優遇されるような仕組みになっている。遣い方は関係ない。それを持っているかどうかが重要なんだ。

 これは社会のながれなんだ。

 変わることのない、大きなながれだ。

 

 話を戻そうか。

 うん。いいかいノドちゃん。

 ぼくはね、その時まで――彼女と出会うまでその瞬間まで――一度たりとも、模様替えを邪魔されたことはなかったんだ。だって誰にもぼくが塗装し直すそのモノが――その紋様を感じることが――できないんだから。感じないものをどうされようが、彼らには関係ない。

 ぼくらだって、きっと同じさ。

 ぼくらの浸透できない層、たとえば《アークティクス》でなにかが引き起きていようが、ぼくらに物理的干渉が引き起きない限りはどこでなにが引き起きていようと関係ないだろ? その変質が認識できない限りは関係ないんだ。

 太陽系の外れで砂粒一つが消えようと、ぼくらには一切関係がない。そのことと同じだよ。

 ただし、実際には砂粒だろうが原子だろうが、この世界から物質が消えるなんてことが引き起きていたら、それだけでぼくらの認識は大きくかわるだろうから、関係ないわけがないんだ。いや、これこそ今は関係ないか。

 とにかく、ぼくはぼくの模様替えを見破られたことがなかった。ましてや、咎められたことすらなかった。

 でもね、彼女はぼくを叱ったんだよ。子どもを叱るようにね。自分が不機嫌だから怒るのではなく、ぼくのためを思って怒ってくれた。

 彼女は医者だった。

 彼女もまた、大多数の他人と共有できないモノを感じ取れる人だった。でも、ぼくと彼女はそれを共有できた。

 いや、ちがうよ。彼女は保持者じゃない。サポータだった。パーソナリティを有していない。でも、波紋を感じることができた。そして、ぼくのやろうとしていたこと、ぼくがしてきたことを彼女は見抜いた。

 実際ぼくは彼女に殺されるかと思ったよ。それほどにコワかった。本気で怒った人間をぼくはこれまで見たことがなかった。

 呆れた顔と、不機嫌な顔。

 ヒステリーをおこす者と、パニックをおこす者。

 それだけだった。

 でも彼女は、毅然とぼくに向き合って、真面目に人としての在り方と、人としての尊厳を説いた。言っている言葉の多くをぼくは覚えていないし、きっとそのときも聞いちゃいなかったのだろうけど、それでも彼女が必死になにかを伝えようとしていて、そしてそれが、ぼくにとって必要な概念なのだと彼女が信じている――そのことだけは充分すぎるほど判った。

 むかしのぼくと彼女のその姿が被ったのかもしれない。必死になにかを伝えようとするその姿がね。

 ただの自己愛に過ぎなかったのかもしれない。

 それでもぼくは彼女を信用した。無条件で、信用した。

 そこに理由はいらなかった。

 彼女を信じたかったからだし、もしかしたら、信じる対象をぼく自身が欲していたのかもしれない。

 ぼくは思うんだよ。

 人は誰しもがなにかしらを信仰しているものだってね。

 それはときに、科学だったり、宗教だったり、常識だったり、良識だったり、学問だったり、愛だったり、善だったり――そういった何か自分を支えてくれる対象が、物理的に存在していなくとも、ぼくらには必要なんだよ。いや、物理的な支えと精神的な支えの二つが必要なのかもしれない。

 ああ、これもどうでもいい、粗末な余談だ。

 どうも脱線してしまう。こうして弥寺くん意外と会話するのは久しぶりだからかな……。すまないね。弁解の一つもさせてくれ。

 

 彼女はぼくに、ここ、アークティクス・サイドへ行くことを勧めてくれた。ラバーになるまでは戻ってこられないということも聞いていた。でもそれは、ラバーにさえなれば自由になれることなのだとぼくは思ったし、彼女もそういったニュアンスで話していた。

 もう少し待ってくれとぼくは頼んだ。ぼくは彼女に惚れていた。少しでも一緒にいたかったんだ。

 彼女もぼくを受け入れた。

 不思議だよね。そうやって愛おしく思える人間が側にできただけで、どうでもよかった自分までもが尊く思えてくる。ぼくはそれまで自分なんていついなくなっても、いつ毀れても、いつ消えてしまってもいいと思っていた。要するにぼくは、何も考えていなかったんだ。

 そのときに初めてぼくは自分のしてきたことを後ろめたく思った。でもそれは、悔恨だとか悲嘆だとか、そういった高尚な感情ではなかった。いままで自分が毀してきた者たちが、実はこういった幸せの中で過ごしていたのかと思うと、もったいない気がした。もっと執拗に時間をかけて、その幸せごと奪ってから毀すべきだったのかもしれない――そういった蛇蠍な妄念だった。

 そしてそのときのぼくは、その妄念を、ひどくさもしい感情のだと自覚できた。唾棄すべき感情なのだと、そのときのぼくは彼女を通して知ることができていた。

 それがきっかけだったのだと思う。

 こんな醜い感情を抱いているぼくを、ぼくは彼女に視られたくなかった。知られたくなかった。

 ぼくは彼女と一時的な別れだと約束を交わして、ここを訪れた。アークティクス・サイドをね。

 必ず再会することを――誓い合って。

 互いに互いを想いつづけることを――信じ合って。

 

 ラバーになるまでには正直苦労したよ。

 ノドちゃんなんかはトントン拍子だったよね――なんて言ったら怒るかな。ごめん。キミが影で並々ならぬ努力をしていたのは知っているよ。いや、努力なんて生ぬるいものじゃないね。自殺行為一歩手前の自虐かな。ああこれも褒め言葉じゃないか……。

 ぼくはさ、学がないからね、語彙が足りないんだ。勘弁してほしい。けっして聞き手であるノドちゃんに合わせているわけじゃないから、安心してくれていいよ。これがぼくの話し方だ。

 普段は気障な振りをしているけどね、これでもぼくはお喋りなんだ。弥寺くんともよくディスカッションするし。でも、彼とディベートはしないよ。絶対に勝てないからね。飽くまで意見交換の枠を出ない。

 そのせいなのかな。ぼくの話はこうしてぐだぐだと冗長になってしまう。どうでもいい分析だけどね。


 それでだ――ぼくはラバーになった。

 やっとなれた。三年の月日が過ぎていたよ。大変だった。アークティクス・サイドには月日の概念がないからね。一週間だとか、一年だとか、そういった時間の経過はあるけど、今年は西暦何年、今日は何日、明日は何曜日、そういった概念がないだろ?

 三年という月日が経っていることをぼくはまったく認識できていなかった。しっかりと慣れてしまっていたんだね。ここの生活に。

 自分が何歳なのか、あれから何年経ったのか――そういったことは、日頃から意識していないと、すぐさま亡羊としてしまう。時間の海で迷子になっちゃうのさ。どこにいても海は海だ。座標なんて関係がない。そう思ってしまう。今日という一日を楽しく生きられればいい。どうせいつかは死ぬのだから。その死が訪れるまで、『今』という奇跡的な時間を誠心誠意、命一杯、精一杯、一生懸命に感じればいいじゃないかとそう悟ってしまう。

 ただ不思議なことに、そうした考えを持ちはじめると、自然と毎日を有意義に過ごそうという気になってくるんだ。『今』というぼくが手にすることのできる時間を、でき得る限り、すべてを感じようとする。自分という身体に刻み込もうとする。

 それは決して時間に振り回されているとか、そういったことじゃないんだよ。

 時間を『ぼくという器』に注ぎこむ感じかな。ぼくの密度を、ぼくという可能性の密度を高めようとする行為。

 そうだね、だからここの住人はみんな狂ったように自分磨きが好きなのかもしれない。修行だとか勉学だとか訓練だとか。

 そのお陰といえばそのお陰だし、そのせいと言えばそのせいなんだけどね。ぼくは三年も彼女を待たせてしまった。三年で彼女と再会できた、と言い換えるのなら、まあ、それはそれでその通りなんだよ。ぼくなんかが三年でラバーになれたんだから。それは偉業と褒めてくれてもいいと思うくらいだ。

 ノドちゃん、今のキミなら判るだろ? ぼくの波紋を読んでごらんよ――上辺だけは素のままだから。

 うん。そうなんだ。

 恥ずかしながらぼくはね、「浸透」と「同一化」ができるってだけで、パーソナリティ自体の武力はそれほど高くはないんだよ。

 まあ、相手を殺傷できるという意味では、武力の高さにあまり意味も違いもないだろうとは思うのだけどね。


 ラバーとなったぼくは三年振りに彼女に逢えた。

 彼女は母親になっていた。

 ぼくがいないこの三年のあいだに、彼女はこどもを生んでいたんだ。

 驚いたよ。

 彼女のほうも、突然ぼくが逢いに来たものだから、驚いていた。とても困ったような顔をしていた。なんと説明したものかと思惑を巡らせている、といった感じだった。

 でも、ぼくには判った。

 彼女の抱いている女の子が、ぼくの娘なのだと。彼女とぼくの子供なのだと。

 うれしかった。本当にうれしかった。うれしいという気持ちの概念が、ぼくのなかでがらりと変わったくらいにね。「嬉しい」という言葉以外に、この気持ちを言い表す言葉をぼくは知らなかったから、だからぼくは、「嬉しい」という言葉の意味を塗り替える必要があった――そのくらいにうれしかったのさ。

 なんなんだろうね、あの子供の持つ影響力というのは。本当に不思議だ。なにをどうすれば、ぼくをあんなに舞い上がらせることができるのだろう。どうしてぼくはあんなに嬉しかったのだろうね。不思議だよ。誰でも良かった、「ありがとう」とぼくは叫びたくなったくらいだ。

 このぼくがだよ、ノドちゃん。

 屈託のない笑顔を絶やさずにいた時期があったんだよ。信じられるかい。卑屈な笑みしか浮かべない、いまのぼくからは信じられないとは思うけど。


 ラバーになってからは、三日に一度は外界に出た。

 彼女と娘に逢いにいったんだ。

 もちろん任務がなければ無断での離脱が駄目なのは、今もむかしも変わりない。だからぼくは、その当時の任務のほとんどを受け持っていた。その名残さ、ぼくのような凡夫の保持者がラバーの総括組にいるのは。

 まあ、「虚空の修理」の実質的な実施度でいえば、ぼくなんかは弥寺くんのつぎに多いからね。傍から見ればたしかに勤勉で、ラバーの上に立つべき人格者に見えたのかもしれない。それとも、攻撃的な人間に見えていたのかもしれないね。まあ、他人の評価なんてこの際どうでもいいよね。


 娘が五歳になった年だよ。

 本当に急だった。突然だ。

 禍福は糾える縄のごとし、とはよく言ったものだけど――娘が難病を患わせてしまってね。

 心臓病さ。

 もちろんここの医療を受けさせようとも思った。でも、許可がおりなかった。

 娘は、ぼくとも彼女とも似ていなくてね。最初こそ娘が保持者でもサポータでもなかったことを僥倖だと思っていたけど……どういった深層心理なのかな。ぼくは娘にアークティクス・サイドとは無縁の社会――組織とは無縁の世界で生きて欲しいと願っていた。

 結局それが裏目に出た。

 娘はアークティクス・サイドには入れない。

 許可が下りないも何も、娘はどうやったって入れないのだからね。

 保持者のみが立ち入れる世界。

《アークティクス》により近い世界。

 それがアークティクス・サイド――なのだから。

 ぼくがどうこうできる問題じゃないんだ。

 外の社会の医療では、心臓の移植しか術はないようだった。

 ただ、彼女の話では、日本では圧倒的にドナーが足りないらしく、移植を成功させることのできる技術をもつ医師も数が限られているらしかった。

 だったら海外の医療に縋るしかない。

 結果、ぼくと彼女は、ドナーが回って来るのを待ちながら、海外の心臓移植の権威とされている医師のいる病院へ話をつけにいった。

 ひどかったのはその手術料だった。

 法外と言ってしまってはただの愚痴にしかならないのだろうけど、でもね、ぼくと彼女二人だけで支払えるような金額ではなかった。

 彼女は医者だったから、一般の所得よりかは多かったけど――それでも、彼女の年収の数十年分を以ってしても支払えないだろうほどの金額だった。

 ノドちゃんも同じなように、ぼくらに所得はない。

 どんなに任務を遂行したところで、与えられるのはさらなる任務だけだ。昇格したって任務と部下が増えるだけ。

 こっちの社会とあっちの社会とを行き来していたぼくは、この違いに愕然とした。ほんとうに落胆させられたよ。ここじゃ衣食住をはじめとしたありとあらゆる設備、医療、サービスが無料だ。言ってしまえば、この環境こそがぼくらの報酬なのさ。

 ぼくは娘のためになにもできなかった。

 彼女はなんとか資金を得ようと、本職のかたわら、サポータとしての仕事も多く担うようになった。

 ぼくが娘に付き添えるときは、彼女はサポータとして、組織から与えられた仕事を熟していた。

 こんなことは言いたくないけど――仮に、娘があと少しで死んでしまうのだと決まっていたのなら、彼女にとっては娘と過ごす一瞬一瞬がなにものにも代えがたい時間だったのだろうと、今さらのようにそう思う。その貴重な時間を彼女は、娘が絶対に助かるのだと信じて、娘を絶対に助けるのだと誓って、そうやって削っていたんだろうね。そうやって身を削る思いで頑張ってくれていたんだろうね。

 ぼくはただただ娘の苦しそうな寝顔と、どんどんやつれていく彼女の姿を見ているしかなかった。

 見守ることすらぼくにはできなかったんだ。任務がなければ、アークティクス・サイドに戻らなければいけないからね。

 益体なしだよ。ぼくはただ眺めていることしかできなかったんだ。惨めだった。それ以上に、こんな大変なときだというのにぼくは、そうやって自分のことを蔑むしかないことがなによりも悔しかった。辛かった。自分を殺したいくらいにぼくはぼくが憎かった。


 そんなときだ。

 そう、ほんの数か月前のことさ。

 彼女はぼくに、「大金が入る。娘は助かる」と嬉々として報告してくれた。

 天にも昇る気持ち、というのは、ああいった気持ちをいうのかな? ぼくは舞い上がった。娘と初めて会ったあの瞬間くらいに舞い上がった。でも、その気持ちをどう表現していいか分からなくて、だから、ぼくは彼女を抱きしめた。ただただ強く抱きしめた。

 彼女の身体は細かった。少しでも乱暴にしてしまえば折れてしまうのではと不安になるくらいに細かった。その彼女の細い身体をぼくは、毀れてしまわないように、ちからいっぱい抱きしめた。言葉なんかなんの役にも立ちゃしなかった。抱きしめる以外で、この気持ちを伝える手段をぼくは何ひとつ知らなかった。

 

 こんな時にだよ――。

 海外の銀行が破綻した。

 彼女が利用していた銀行だった。

 海外の病院に支払うからといって、向こうの金融機関を利用していたんだ。

 これまでに貯めていたお金が――彼女が必死になってつくったお金が――彼女が身を粉にして、身を削って、貯めていたお金が――全部だよ――全部なくなってしまった。

 それでも彼女は笑って言った。

「今回の仕事の報酬で充分に支払える。娘は助かるの。今までのお金なんて関係ない。ゴミ箱にでも捨ててしまえばいい」

 そう言って笑っていたんだ。

 健気だった。

 愛おしかった。

 彼女も。

 彼女が生んだ娘も。

 彼女たちのすべてが愛おしかった。

 ぼくは初めて他人のために涙を溢した。

 痛いこと以外でも人は、泣けるのだと。

 感動によって人は泣けるのだと。

 そのときぼくは知ったんだ。

 物心ついてから初めて流した涙だった。

 そのつぎにぼくが流した涙は――。


 娘が死に、

 跡を追うようにして死んだ、

 彼女の遺体を見たときだ。


 ぼくは全てを失った。

 ぼくはぼくを失ったのさ。

 生きる意味も。存在意義も。

 なにもかもをぼくは失ってしまった。

 組織から金の支払いはなかった。いや、もしかしたら今になって支払われているのかもしれない。確認していないから分からない。ただ、間に合わなかったんだ。

 

 もっと早くお金が振り込まれていれば。

 

 嘆いたところで仕方がないんだけどね。

 結局、手術はできなかった。

 組織から支払われるだろう資金には、社会的信用なんてものが表向きには皆無だからね。担保にすることもできなかった。

 娘は死んだ。

 彼女も死んだ。

 過労死だとぼくは聞いたけど……実際はどうなんだろうね。

 もう、ぼくにはなにもない。ぼくはまた空っぽになってしまった。

 これがぼくという人間だよ。

 つまらない人間だ。

 せっかくコップに注いだココアを、ぼくは、あっという間に泥水にしてしまった。ぼくというコップにさえ注がれさえしなければ、彼女も娘も泥水になんてならずに済んだのに。ましてやぼくは、コップのなかの泥水さえも溢してしまった。コップにさえ入っていれば、泥水もココアも同じなのに。溢してしまったら、たといそれがココアだろうがコーヒーだろうがコーラだろうが、泥水だ。

 ぼくは彼女たちの紋様までも大きく変えてしまった。関わるべきじゃなかった。ぼくはずっとここに閉じこもっているべきだったんだ。アークティクス・サイドがなぜ存在しているのか――ノドちゃん、キミの考えている通りだとぼくは思うよ。


 そして、ノドちゃん。

 キミが一番知りたがっていることだけど――。

 キミの家族も、友達も、近所の人間たちも、町ごと虚空を縫合したのは――このぼくだ。

 キミの住んでいた町、『虹が丘』をこの世界から消したのは、ぼくだよノドちゃん。

 あのころぼくは、ただただ彼女と娘に少しでもはやく逢いたかった。少しでも長く過ごしたかった。過ごしていたかったんだ。

 時間をかけて虚空を修理しようなんて、そんなまどろっこしいことをしている場合じゃなかった。

 ああでもね、誤解のないように断っておくけど――そう、ぼくのために断わっておくけど――娘が病気に侵される前の、幸せな時期のことさ。

 娘のことで必死だった時期じゃない。

 余裕があった時期のことさ。

 ぼくはぼくのために、

 ぼくの幸せのためだけに、

 わずかでも幸せな時間を感受しようと思ったがために、

 ――キミの町ごと人間を消したんだ。

 邪魔だったんだよ、人間が。

 面倒くさかったんだよ、任務が。

 弥寺くんみたいに、修理の延長線上で災害に見せかけて、町人たちを『処分』することもやぶさかではなかったんだけど、でも弥寺くんみたいなパーソナリティを持たないぼくに、組織に盾つくような真似はできなかった。

『縫合』なら、緊急の対処として組織に誤魔化しがきくし、人間を巻き込んだことも、発覚しにくい。発覚したとしても容認される。お咎めなしだ。

「功利的な判断だった」とむしろぼくは感謝されたくらいだ。

 そうそう、ノドちゃん、キミはさ――本当は弥寺くんに拾われたんだろ?

 縫合されて集束していく虚空のなかで、唯一ニボシ化していなかったキミを、弥寺くんが拾ってきたんだろ?

 違うだって?

 嘘を吐いちゃいけないよ。

 ノドちゃんの個人データにはさ、たしかにキミが、「サポータの仲介の元にここを訪れた」とあるけど、でも、そのサポータが誰なのか、識別コードが記されていない。

 ノドちゃんを紹介してきたサポータが誰なのかが解らなければ、そいつに報酬を支払わなくてもよくなる。わざわざ組織のほうからそのサポータを追求しようという動きにはならないのだろうけど、それは逆に言えば、そういった無償で奉仕するようなサポータは皆無だということの裏返しでもあるんだ。どいつもこいつも報酬目当てだ。そのなかで、ノドちゃんの仲介者だけが謎なんだよ。

 ぼくは弥寺くんに、「ノドちゃんを連れてきたのはキミではないのか」と訊いてみたけど、弥寺くんはそのことを肯定しなかっただけで、否定もしなかった。

 すべてはキミの一言によってのみ報告された調書なんだよ。

 弥寺くんはああ見えても平等を重んじているようでね。きっとキミに復讐の機会を与えたんだろうね。酔狂な男だよ、弥寺くんは。おくびにも出さずに涼しい顔してぼくと会話を交わすんだから。

 これでぼくの話は終わりさ。

 さあ、これからどうしようか。

 ノドちゃん――キミはぼくを殺すのかい。

 それとも、ぼくが死ぬのを待ってくれるのかい。

 さっき波紋を読ませてあげたよね。

 きっとノドちゃんのことだから、ぼくが思っている以上の情報を読み盗ったんじゃないのかな。

 つくづく油断のならない子だね。

 ノドちゃん、キミはどこか「彼女」に似ているよ。

 だからなのかな。

 ――ぼくはキミが、嫌いなんだ。

 

 

   タイム△△△スキップ{~基点からおよそ六年前~}


 ***ノドカ***

 部屋を覗くと、子猫の入ったボックスを枕元に置いてコロセは眠っていた。

 ――かわいいな。

 おでこを撫でる。

 子猫のと。コロセのと。代わりばんこに。

 ノドカは音を立てぬよう、忍び足で部屋から出た。

 ていねいに、扉を閉める。

 リビングのソファに腰を沈めた。

 深く、みじかく、息を吐く。

 ――五年。

 そうコロセと暮らすようになって、あれから五年が経った。

 外界では去年と同じように春と夏と秋を経て、季節が移ろい、冬が訪れる。

 ここ、アークティクス・サイドにも同じように冬が訪れる。ただし、雪は予定された時間帯に、予定された量しか降らない。気温もおおかた制御されている。

 同じなようで、同じではない。

 同じになるように模倣されているだけだ。

 それも――人間に都合のいいように。

 わるいことではない。自然を制御することは、決してわるいことではない。問題はなにもない。むしろそれこそが求めるべき理想なのかもしれない。すべてが問題のないように、すべてが人間の都合の良いように。

 自然を破壊することなく、自然と共存しつつ、自然を利用しつつ、社会を維持する。

 わるいことではない。

 ただ、何かがおかしい。

 最近――ノドカはそう思う。

 どこかで歪んでいる。どこかにしわ寄せがいっている。時折、そう不安になるのだ。

 人は、自分にとって都合の良いことがつづくと、途端に不安になるという。これもその一つなのだろうか。

 ――解らない。

 過去の自分とも決着をつけて、仲間を仲間だと少しずつ思えるようにもなってきた。毎日コロセと楽しく暮らしてもいる。不満はない。満ち足りている。

 コロセと喧嘩したり、貶し合ったり、抱き合ったり、褒め合ったり、悩み合ったり、笑い合ったり、くすぐり合ったり、脅かし合ったり、嘘をつき合ったり、怒鳴り合ったり、殴り合ったり、慰め合ったり、無視し合ったり、いじけ合ったり、騙し合ったり、喜び合ったり、悲しみ合ったり…………一緒に寄り添い合って。

 そうやって今は。

 それだけで今は。

 幸せだと思える。

 幸せなのだと。これこそが。この平安こそが。幸せなのだと――そう思える。

 コロセの笑顔が、泣き顔が、むつけた顔が、しかめっ面が、塞ぎこんだ顔が、照れ隠しの素振りが、強がった仕草が、一挙手一投足のすべてが愛おしい。この手に抱き寄せて、手放したくないと思う。そう、願う。願っている。望んでいる。

 でも、だからこそ――不安になる。

 いつかはこれらが無くなってしまうのではないかと。この手から零れ落ちてしまうのではないかと。砕けてしまうのではないかと。失ってしまうのではないかと。ふと不安になる。

 ノドカはクッションを抱きしめ、顔を埋める。

 ここでは月日という概念がない。

 今日は西暦何年の、何月何日何曜日――そういったことが決められていない。

 今日だとか明日だとか昨日だとか、二日前だとか、二十四時間だとか、春夏秋冬だとか、そういった、「今」を基点とした時間の単位しかない。

 ノドカは時々、自分が何歳なのかを忘れてしまう。ここでは年齢などはあってないようなものだ。パーソナリティこそが個々を分類するための指標なのだから。

 アークティクス・ラバー以外の多くの者は、もはや年月を数えることを行っていないだろう。自分が何歳だろうと、そんなことに興味を向ける者はいない。必要がないからだ。

 コロセですら、もうすでに、忘れかけている。ここに来た日から五年が経過していることに、彼は気付いていない。いや、気付けない。

 知らないことは知らないほうがいいのだろう。知るべきことは、己が己で見つけ出すのだろうから。

 コロセには、その力があるのだから。

 そうやってノドカは、自分がラバーとして知っている情報をコロセには頑なに教えていなかった。

 ――あたいってば、無責任だよな。

 信じるだとか、そんなの……無責任だよな。

 センチメンタリズムか。またか。またなのか。

 ノドカは頭を掻きむしる。

 背中の傷が痛んだ。あつく滲むように、じわじわと。


 ***クウキ***

 翌日。コロセは、ノドカに言いつけられた通りに、不承不承、嫌々ながらも子猫を捨てに行った。といっても、捨てるも何も、ここにはそういった生き物の世話をするのが趣味だという人間が少なからずいる。どのステップにも大抵一人はいる。そういった人間に、この子猫を預ければいいだけのことなのだ。ノドカの希望としては、どこか広くて街並みが複雑なフロアに捨ててきて欲しいみたいだったが、そんな我が儘まで聞いていられない。

 中央棟はどのフロアに行っても広いけれど、コロセはあまり中央棟には近づきたくなかった。中央棟は好きじゃない。あの時のあの出来事がそう思わせていることは自明であった。コロセ自身も自覚している。

 あの時のあの出来事――。

 弥寺という男。

 赤と黒。

 細切れ。

 七人。

 人間。

 液体。

 醜い。

 におい。

 生臭い。

 饐えた臭い。

 悲鳴。慟哭。発狂。

 コロセは頭を振る。左手で額を押さえる。頭の中からその記憶を。この嫌悪を。惨憺たる感情の起伏を取り除きたかった。

 時折不意に訪れる。

 この発作的な衝動。

 どこへ向かって、

 何にぶつければよいのか。

 何をして、どうすれば止まるのか。

 治まるのか、奇麗さっぱり消えるのか。

 どうすれば、どうなれば、これは、この渦巻く欲動は。

 ――僕に返してくれるのか。

 僕の静謐な水面を。

 僕の空を。僕の海を。

 僕の森を。僕の世界を。

 どうすれば、汚さずにいてくれるのか。

 靄のごとく濁った衝動がコロセの感情に巻きつくように湧き上がる。

 左手を額にやったので、抱きかかえていた子猫の入った箱が、崩れ落ちそうになる。慌ててコロセは抱え直す。間に合わず、箱は地面に落ちて、ひっくり返ってしまった。子猫が驚いたように逃げ出した。

「あ、待って!」コロセは追いかける。

 子猫が走っていく方向には、芝のうえで横になっている男がいた。

 腹に飛び乗った子猫を男はすかさず両手で受けとめた。顔に本を載せているが見えているのだろうか。

「この白いモフモフは少年、キミのものかい。それとも少年が、この白いモフモフのものなのかい」

 男は緩慢に起きあがると、子猫を片手で持ちあげた。首を絞めるように。

「僕のだよ」答えつつ、むっとしてコロセは男のもとへ急いだ。

 サングラスをかけたスーツ姿の男だった。髪の色が斑である。変なの。そもそもグラサンをしていて、よく白い子猫だって解ったものだ。不思議な人だ、とコロセは思う。

 奪い取るようにして、子猫を両腕で抱える。こうやって持つんだよ、と男へ教えるように。

 上半身だけを起こしていた男は、おや、と立ちあがった。「少年。キミはもしかして、ノドちゃんの少年ではないかい?」

「ノドちゃん?」ああノドカのことか、と合点がいく。「うん、そうだよ」

「そうか。やっぱりな。この波紋は印象的だから」逢えば判ると思っていたよ、と男は口元を斜めにした。サングラスで表情の変化が解りにくい。でも、どことなくやる気のなさそうな顔をしている。「にしても、子どもというのは成長がはやい。見た目はすでに別物だ」

「おじさん、だれ?」つっけんどんに訊いた。「ノドカのなに?」

「はは。おじさんか。キミは見た目で判断しないんだね。それとも、キミから見たら大人は総じてオジさんかオバさんなのかな。そんな考えではキミが大人になったときに大変だぞ」男は朗らかに言った。「そう構えなくてもいいよ。たしかに以前、ぼくは彼女の上司だったさ。でもね、今はちがう。ぼくは彼女に枷を背負わされたからね。だから、言ってしまえば、ぼくは彼女のしもべだよ」

 饒舌な男だ。

 ご機嫌なのだろうか。

「僕はクウキ」と軽く自己紹介した。本名は名乗らない。それから、「お兄さんはノドカのなに?」と訊き直した。彼の説明ではよく解らない。

「ぼくはミタケンというおじさんだ。うん、おじさんでいいんだよ。ノドちゃんの元、上司さ」

「ジョウシ?」

「そう、上司。でもいまは違うから」と誤謬を避けるように言ってから、ところで、と彼はサングラスを外した。「ところで、その白いモフモフ、これからどうするつもりだい?」

「こいつ?」子猫を見下ろしてコロセは悩む。今さっき、この子猫は自分のだ、と宣言したばかりだ。言った矢先に、これから捨てに行きます、とは答え難いものがある。「さんぽ。外でいっしょに遊ぼうとおもって」

「そっか。でも、もしもその白いモフモフの飼い主を探しているのなら、ぼくに譲ってくれないか」見透かしたようなことを言う。

「ああうん。でも……」

 子猫の首を絞めて持ちあげるような男に、果たして預けてもよいものだろうか。甚だ不安だ。

「ああそっか。さっきは済まなかったね。こうやって抱けばいいのかな?」

 言ってこちらからひょい、と子猫を取り上げると、ミタケンは優しく赤子を抱くようにして子猫をかかえた。

「そうそう。なんだ、できるじゃん」コロセは偉そうに言う。

「ありがとう。そうだね、こうやればよかったんだね」

「本当に飼ってくれるの?」大切にしてくれるの、とコロセは彼に抱かれている子猫を覗く。

「クウキくんさ、キミはさっき困っていただろ?」言いながらミタケンは、子猫が見やすいように腰を落とした。

「あ、うん。まあね。どうしよっかな、くらいはおもってた」コロセは子猫をつつく。「本当にたのんでもいいの?」大丈夫なの、としつこく問い質す。

「大丈夫――かな。まあ、ぼくが困ったら、クウキくんに訊きに行くから。そのときは教えてくれるかな」

 それはいい考えだ。

「うん、おねがい」コロセは男の腕に抱かれた子猫に頬ずりをした。「いつでも訊きにきていいから、こいつ、たのむね」

「ありがとう。なら、このコはぼくが預かるね。あっと、それからさ、クウキくんに頼みたいんだけど」ミタケンは声量を絞って、「ノドちゃんには、ぼくに譲ったっていうのは、内緒だよ」と唇に指をあてた。

「どうして?」なんで言っちゃダメなの、と子猫を撫でながらコロセは訊いた。

 口ごもってからミタケンは、

「だって、ノドちゃん……ぼくのこと、嫌いなんだって」

「そんなのだいじょうぶだよ。だって僕、おじさんのこと嫌いじゃないもん」と答えになっていない言葉を返す。

「ありがとう。そうだね、おじさんもさ、クウキくんとは思っていたよりも仲良くできそうだ」

 よろしくね、とミタケンが手を差しだしてきた。彼は子猫を抱いているので、右手を差しだされる。

「うん、よろしく」コロセも手袋を嵌めている右手を差しだす。

 二人は握手を交わす。

 一回、二回、と握り合った右手を小さく上下に振る。

 途端。

 弾かれたようにミタケンは勢いよくコロセから手を離した。

「わッ!」コロセは跳ねあがる。びっくりした。「なに? どうしたの?」

 ミタケンが右手を左手で抑えている。

 子猫は反動で投げ出されていた。優雅に着地をキメている。

「いや……静電気……かな」ごめん、とミタケンは謝った。「ごめん。驚かしちゃったね」右手を拳に握ったり、開いたり幾度かさせている。

「だいじょうぶ?」やや尋常でない彼の仕草に心配になった。

 ミタケンの顔は青白く、額には汗が滲んでいる。

 今は秋。汗をかくような気候ではない。

「キミはさ――」

 言いかけた口を彼は閉じた。それから芝のうえを無邪気に駆け回っている子猫を抱きあげる。

「いや、ノドちゃんと仲良くしてあげてね」と囁くと、中央棟のほうへ歩んでいった。すこし進んでから振り返って、「コレ、ありがとう!」と子猫を掲げた。

 ああもう、そうやって持ったら駄目だって……。

 不安に思いながらもコロセは、手を振り返した。

「うん。またね」

 

 おかしなおじさんであった。

 そもそもこんな肌寒い季節に、外で寝ていること自体も変である。

 まるでコロセを待っていたかのような具合だ。

 ふと彼が寝ていた場所を見遣ると本が残っていた。彼が読んでいた本だ。

 忘れ物――?

 何を読んでいたのだろうか、と手に取る。

   『R2L機関創立の歴史と経緯~~Wバブル理論の提唱~~』 

      Written By「リザ・セパレン=シュガー」

 難しそうな本であった。

 コロセはそれを持って、ノドカの待つ零一六号棟へと戻った。

 

   ***

「お帰りクウちゃん!」

 スーツにエプロンという色気もなにもあったもんじゃない格好でノドカは出迎えた。

「さっきモンドちゃんから、今日はダンスバトルしよう、ってお誘いの連絡があったよ」

 モンドちゃん――ノドカがそう呼ぶ人間だから、きっと努樹のことだろう。というよりも、コロセに連絡を寄越す人間など、努樹以外にいない。

「ジョウモン・ドキ」のあいだをとって、ノドカは努樹のことを「モンド」という仇名で呼称している。ノドカの好きなミュージックに、「BLAZE IT なんとか(忘れた)」という曲がある。それを作曲したアーティストが、「モンド・なんとか(忘れた)」という名前らしい。名前の由来は、「大きな世界」という意味らしいのだが、コロセは詳しく知らなかった。

 どうしてこうもノドカはネーミングセンスがないというか安直というか――捻りがないのだろうと思わざるを得ない。

 とは言え、最初こそノドカは、努樹のことを「ドキンちゃん」と呼んでいた(これはこれでセンスがあるとは思えないが)。それをコロセが無理矢理に却下して、やめさせたのだ。努樹が嫌がるだろう、とそう危惧したからである。

 男の子に対して「ドキンちゃん」は如何なものだろう。わるくはないが、善くもない。コロセ自身、どちらかと言えば、自分の仇名が「ドキンちゃん」だったら嫌だな、と思った。

 

「また今度ウチに連れてきてよ。モンドちゃんのこと。またさ、三人で柿の種パーチーをしようじゃないか」

 ノドカが喚いているが、コロセは相手にしない。

 ダンスバトルかぁ――とコロセは武者震いをする。

 ここ数年、努樹に誘われて、トレーニングがてらにストリートダンスをやっていた。まだ努樹のように上手くは踊れない。片手で身体を支えたり、跳ねたり、回ったり、地面と戦っているかのように動いたり。まるで修行である。でも、楽しい。

「あの子さ、かっくいいよねぇ。くぅ、あたいもあんな弟が欲しかったよ」まだ喚いているが、コロセは気にしない。気にしないつもりだったのだが、今の言葉は聞き捨てならなかった。

「僕だってもっとカッコいいお姉ちゃんが良かったよ」とついつい売り言葉に買い言葉が口を衝く。

「そんなぁ」としょんぼりとするノドカ。「ひどいよッ。クウちゃん!」

 自分も同じこと言ったくせに、とコロセは不貞腐れる。「あーあ、努樹みたいにしっかりした兄弟が欲しかった」

 ショック! とノドカがその場に蹲った。

「いちいち大袈裟だなあ、もう」

「あ、あんましあたい以外の人間と仲良くして欲しくないかなっ!」言いながらノドカが縋りつくように抱きついてくる。「お姉ちゃん、寂しいんだよー」

「くっつかないでよ」逃れようとコロセはもがく。「毎回毎回さ。暑くるしいんだから」

「暑苦しいって、クウちゃんのホッペ、こんなにひゃっこいじゃないか! いいじゃないか!」

 たしかに身体は冷えていた。

 部屋の壁に視線を向ける。天候予定表のディスプレイには明後日の午後三時に「雪マーク」が付いていた。どうやらあさってには雪が降る予定らしい。道理で寒いはずだ。

「ホッペが雪みたいにちべたいのよさ! チミのスベスベ頬っぺたは冷徹なのだよ少年! あたいが温めてあげてるんだから、ありがたく温められなさいってんだ!」ノドカはこちらの頬を両手で挟んで揉みしだいている。

「ふぁだ(ヤダ)ってば」とコロセはバタついて抵抗した。

 それでも中々抜けだせず、さらにもがくと、投げ出した足がノドカの背中に当たってしまった。

「うっ」とうめき声を発してノドカがその場に蹲った。

 そんなに強くは蹴っていないはずだ。

「もう、ホントさ、いちいち大袈裟だってば」立ち上がってノドカを見下ろす。

 どうせいつもみたく演技に決まっている。

 だが、蹲ったノドカは本当に苦しそうだった。

「だ、だいじょうぶ……?」

 ごめんなさい、とノドカの背中を擦ろうとした。

 そのとき。

 がば、と身をひるがえして、ノドカが覆いかぶさってきた。「やーい。ひっかかったーっ。餓鬼はいつまでたっても餓鬼だなぁー」こんなんじゃ落ちぶれちゃうぞ、とコロセはさらに揉みしだかれた。

 くすぐりの刑に処される。

「もうコーサン! ノドカ、降参っ! やめて、やだ、やめてっ!」

 涙目になりながら訴えた。

 へっへっへ、とノドカは満足そうにコロセを解放して、「ご馳走さまでした」と手をいやらしくクネクネとさせている。

 ――こわい。

 身体をもてあそばれるっていうのは、こわいんだ。

 コロセはしっかりと学んだ。

 おや、とノドカは視線をこちらから外して、床に落ちている本を手にした。「クウちゃん、これなに?」

「あ。うん。落ちてた」

「ふうん。あ、でさ――子猫はどうしたの? ちゃんとさ、きっちりしっかり捨ててこられた?」

「うん。捨ててきたよ。ノドカの目の届かない場所まで」

「え、本当に捨ててきたの!?」

 どういう意味だ?

「うん。こうね、置いても寄ってくる子猫を、心を鬼にして、こう、足で蹴って、踏んづけて、動けないようにしてから」とコロセが冗談と動作を交えて説明していると、「ちょっとバカ! なんでそんなことするのッ!」とノドカに怒鳴られた。

「どこのステップに捨ててきたの!? ひどいじゃんそんなん。クウちゃんならきっとさ、ちゃんとさ、しっかりとしたさ、飼い主をさ、探してくれると思ったから頼んだのに!」ああもう、と髪を掻きあげて、「こんなんだったらアイツにでも頼めば良かったよ」

 まったくもう、クウちゃんのバカぁ――とノドカは立腹した。

「アイツってだれ?」

「アイツはアイツだよ。どこほっつき歩いてるか知らないクソったれ。いいかい少年、この世にはね、ミタケンっていうクソッタレがいるんだよ」

 ああ無理にでも探し出して頼むんだった、とノドカは半狂乱だった。

 ミタケン?

 やっぱり知り合いだったのか。

「うそだってば。そんなひどいこと、するわけないじゃん僕が」と訂正する。「ちゃんと飼ってくれるひとに渡したよ」

「……ウソなの? なんだ。ビックリさせんなよ。まったく」

「でもノドカ、ネコ……きらいじゃなかったの?」

「うぇ? ああ、うん。きらいだよ、嫌い。大っきらい」もちろんだともさ、と彼女は髪の毛を撫でつけるようにし整えながら、「子猫なんて死に絶えればいいのに」と誰かのモノマネをするかのような口ぶりで嘆いた。「で、子猫はどうったの? きちんと始末してこられた?」

「うん。その本を持ってたひとにあげた」すごく子猫が好きなんだって、と誇張して伝える。

「そっか。そっか。ふうん」言いながらノドカが本をひっくり返して表紙を眺めている。「うん? おうっ!? しょ、少年……これ、どったの?」

「だからさ、落ちてたの。たぶん、その子猫をあげた男のひとの忘れものだと思う」

「男のひと? それってもしかして」こうさ、とノドカは身振り手振りを交えながら、「髪の毛の色がぐちゃぐちゃと混じってて、スーツを着ていて、グラサン越しでも充分に、やる気なさそーな顔している、って判っちゃうような感じが満々で、ああぼくはどうしてこんな所にいるのだろう、みたいな倦怠感だか哀愁だか区別つかないようなナルシシズムに溺れているような、そんなアホくさい雰囲気を漂わせている、青年のようなお兄さんではなかっただろうか?」

 よく息が持つものだ。コロセは感心しつつも、あの男の容貌を思いだしてみる。

 言われてみれば、そんな気もするし、ちがう気もする。ノドカが説明した形容も随分と抽象的だし、青年とお兄さんの区別すらコロセには付かない。

 そもそも、「お兄さんじゃなくって、おじさんだって自分で言ってたよ、そのひと」とコロセは指摘した。

「どうでもいいよぉ! そんな些細なちがい、どうでもいいんだよぉ。ねえねえ、ちょっとさ、あたいさ、餓鬼ンチョであるところのコロセくんにさ、『揚げ足をとるんじゃありません!』とかってお母さんみたいなこと言っちゃってもいいかな? ていうか言っちゃうよ? 言いますよ?」

「言えばいいじゃん」

「バカ! 否定しろ! あたいはお前の母ちゃんじゃない、お姉ちゃんなのに!」

 それこそどうでもいい。

「ていうか僕、ノドカの揚げ足なんてとってないよ」間違いを正しただけだよ、とむすっとして睨みあげる。

「そんなん、どっちも同じじゃ!」

 同じだそうだ。年上であるところのノドカがそう言うならそうなのだろう――とおとなしく引き下がっておく。

「で。あいつ、なんか言ってた?」ノドカが腕を組んで見下ろしてくる。

「うん。ノドちゃんには内緒だよって……」

 言ってしまってから、しまった、と思う。内緒なのに言ってしまった。

 コロセが閉口していると、

「ふむふむ。まあね、致し方ないというやつだよクウ坊」とノドカは言った。「世の中、いつでも取捨選択の日々さね。どちらに忠義を尽くすのか、どちらがより自分にとって大切なものなのか、それをだね、その時々で選んでいくのだよ」或いは逆にだね、と強調して彼女は、「または、捨てていかなくてはならないのだよ少年」と嘯いた。

 コロセは酸っぱい顔をした。説教なら間にあっている。いまのコロセには、努樹というもう一人の説教魔がいるからだ。

「あの野郎、戻ってきてやがったのか」呟くとノドカは、ところで、と口調を変えた。「ところでだねクウちゃん、今日はあたいのスペシャルカレーだぞ」よろこべ、と命令してくる。

 命令されるがままコロセは喜んだ。「わーい」

「でだ、お姉ちゃんは、ちょいとばかし外で読書をしてこようと思うのだけれど……」ノドカが窺うように睥睨してくる。

 それを聞いてコロセは少ししょげる。「家族は一緒に団欒しながら食事をするものなのだ!」がノドカの家訓であったし、そうして、できるだけ一緒に食事をとるのが常だったからだ。

「かってに読めばいいじゃん」と強がる。

「うん、……あたいは、読書をしようとは思うのだけれど――でも、やぱりお腹減っちゃったから。たーべよっと」ノドカが本の縁でかるく頭を小突いてくる。「ほら、クウちゃん、モタモタしてんじゃないよ。お皿に盛った、盛った」

「ノドカの分も?」

「当たり前だろー」へっへーん、とノドカは、びしり、と指を突き立てて、「四十分で支度しな!」

 長いよ。

 四十分ならもう一品くらい作ってしまえる。

 コロセは無視してキッチンへと向かった。皿を二つ用意して、それぞれにご飯をよそった。うえからカレーをかける。いい香りだ。

 振り返るとノドカはもうテーブルに座っていた。エプロンも外さずに、スプーンに映った自分の顔とにらめっこをしている。真剣に変な顔をつくって、時折、いひひ、と笑っている。不気味だ。

 あれが姉だと思うと、心底自分が心配になってくる。

 あ、違う違う。別に僕たち、血は繋がっていないんだった――と少し寂しく、大いに安心した。

 ノドカの分をキッチンに残したままでコロセは、自分のカレーを持ってノドカの向かいに座った。

「あれ? あたいのぶんは?」

 無視して一口頬張る。

 うんおいしい。

「ねえってば。ちょいと少年、あたいのは?」

 黙々と口にスプーンを運びながらコロセは仕方なくこう言った。

「四十分後にね」




   ○○○【熟成】○○○

 ハルキがフユキと出会ってから、三ヶ月が過ぎようとしていた。

 三ヶ月、これは人が人と出会い、打ち解けるには充分であるが、充分であると理解した行動をとることを通常、人は行なわない。なぜならそれは、裏切りや、詐欺といった、騙されることによる不利益や負傷を人が恐れているからである。

 だがハルキはフユキに対して、無条件の信用を与えていた。それはフユキがハルキとしか話せないことや、フユキが物理的な損害をハルキに及ぼすことのできない相手だから、といったフユキの明確な特異点が起因していたことは間違いないが、なによりも大きな要因は、ハルキが生きてきたこの十数年のうちで、こんなに己を偽ることなく曝け出すことができた相手がフユキだけだったからである。

 ――ハルキはフユキの人格に魅せられていた。

 しかしそれも、これまでの抑圧されてきたハルキの心の反動によるものかもしれないし、フユキ自体、ハルキが抑圧していた結果に生まれた人格だったのかもしれない。いずれにせよ、フユキの存在が一般的にはどのような認識のものなのか、といった事実など、ハルキにとっては瑣末な事項に過ぎなかった。

 フユキと出会ってからハルキは、多重人格障害――解離性同一性障害について調べた。それはこのハルキとフユキとの関係性にはまったく当てはまらないものだった。

 元来、報告されている多重人格保持者は通常――基本人格と他人格が入れ替わっている場合――基本人格にはそのあいだの記憶がないのである。いわゆる解離性というものだ。つまり、表と裏の関係のように、一方が表になっている間は必然的にもう一方が裏になる。

 表面的に片方の人格が現れている場合、もう片方は「眠っている」状態なのである。もっとも、この眠っているとは、ハルキが使う、『眠っている』とは異なる。この場合の「眠り」とは、表面的にハルキが思考し、行動しているときに、同時にフユキも、表面的に思考し、話すことはできない――という意味の「眠り」である。言うなれば、スイッチの「オン」と「オフ」の関係に似ている。片方が「オン」ならば、もう一方は必然的に「オフ」となる。

 しかし、ハルキとフユキは同時に個別の思考をし、会話をしている。これは医学書に載っているような症例ではなかった。ハルキとフユキは、同時に「オン」の状態になり得るのだ。

 それでもハルキがそのことについて気を揉むことはなく、むしろ喜ばしいとすら感じていた。

 フユキと会話ができなくなるなど、今はもう、考えられなかった。

   ○○○+*+○○○




 +++第六・五章『長閑な能動』+++

 【考えれば考えるほど、考えるだけ無駄だと解ってくる。それでも考えるのを止めない理由は、考える目的が、何かを解決したいからではないからだろう】

 

 

   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ六年前~}


 ***ノドカ~回想~***

 ノドカは以前、弥寺についての愚痴をウブカタへ溢していたことがある。ウブカタになら垂れても大丈夫だろうと思ったのだがそれは、単純に親しみを込めた信頼の意でもあったし、また一方では、ウブカタの実力を考慮しての狡猾さが配分された愚痴でもあった。ノドカが愚痴っていたなどと――陰口を叩いていたなどと――弥寺へ知られないために、ウブカタでなくてはならなかった。

 通常――波紋から「記憶」を読むことなど、不可能にちかい。

 喩えるならばそれは、写真から、映っていない場所や枠外の風景までをも読みとって観賞するようなものだ。

 しかし、弥寺にはそれができてしまう。

 それゆえに、都合のわるい会話をするならば、ある程度、波紋の糊塗に優れた者を相手に選んだほうがよい。特に、弥寺についての会話ならなおさらであるし、弥寺との接触の機会を持つ者を相手に話すなら、いっそうの用心は欠かせない。

 とは言え、

 ノドカが愚痴などを溢さずに口を噤んでしまえば済むことなのだが、溜めこむばかりでは身体にわるい。近くにゴミ箱があるならば吐き出したくなるというものだ。ノドカは中年ウブカタへ吐き掛けた。

  

「弥寺さんって、ホンっと性根が腐ってますよね。ひねくれているっていうか」

 何なんですかね、あのドS野郎――とノドカは声を尖らせる。尖らせつつも、自家製「卵ボーロ」を口へ放れるだけ放って、頬張っている。

「まあ、あいつはな。意地悪だからな」

「イジワルだなんてかわいげのある一言で済ませられたら、あたいの憤りまでもがかわいげを持っちゃうじゃないですか」

「お前はもっと可愛げを持てよ」ウブカタが嘆くとノドカは、「これ以上あたいがカワイクなっちったら、イルカちゃんに申し訳ねーです」と宣巻いた。

 それから口調を一転させて、「弥寺のオタンコナスのドテカボチャめ。ひとの波紋を読んでおきながら、白々しくも問いを重ねてきやがるわ、あたいの恨み辛みは連なるわ」

 ここにいない弥寺を罵倒する。

 つづけて愚痴の種を装填するみたいに、口のなかへ、ぽいっぽいっ、と卵ボーロを放りこむ。噛み砕きつつ、「くっそぉ、力と勇気と機会さえあれば、あのドS野郎に、三回まわって『にゃん』と鳴かせてやれるのに」

「逆に泣かされるのがオチだろうな。というかだな、『ニャン』なんて言わされても、別に悔しくないだろ。せめて、『ぎゃふん』にしておけよ」とウブカタはやんわりと真顔で提案してきた。

 ああ、ぎゃふんのほうがカワイイかも、とノドカは感心した。

「健闘しておきます」

「検討しろよ、戦う前に」ウブカタが呆れたように言った。

 時折このようにして、ウブカタは、文字でなければ判断しようのない誤謬を正す。それはつまり、彼がこちらの波紋を読んでいる、というなによりの証である。

「あのな、愚痴をオレに吐きかけるのは勝手だが、知らねーぞ、あいつに殺されても。オレの責任じゃねぇからな」

 言いつつウブカタが卵ボーロへ手を伸ばしてきたので、ノドカは手で遮った。

 オレにも寄こせよ、とウブカタが視線で訴ってくる。「仕方ないなあ」と卵ボーロを掴みとって、「あたいのやさしさを噛み締めなさい」と一粒だけプレゼントしてやった。

 礼はなかった。

 その一粒を受け取っても食すことなく、ウブカタは手のひらの上で転がしている。転がしつつ、目を細めていやらしく口元を歪めた。「ノドカ、お前もな、意地汚さで言えば、あいつとどっこいどっこいだぞ」

「ウブカタさんは『すっとこどっこい』ですけどね」としたり顔をしてみせる。

「別に上手くもなんともねーからな」

「え、ウブカタさん、まだ食べてないじゃないですか」

「卵ボーロのことじゃねーよ」

「あたい思うんですけど、その突っ込みってどうなんですか?」

「愚痴の次は駄目出しかよ。唐突すぎんだろ」

「ですから、その突っ込みは古いなー、とあたいは忠告しているのだよ中年」

「あぁ? ならお前が手本みしてみろよ」とウブカタが腕を組んだ。

「いいですよ。あたいはいつだって、逃げも挑みもしませんから」

「ただの現実逃避じゃねぇか。せめて挑めよ。おい。こんなんじゃいつまで経っても話が進まねえだろうが」

「これだから中年は」とノドカは、仕様がねえな、の溜息を吐いた。「物語はいつだって進行しているのだよ中年」

「知らねえよ。オレはオレの物語しか知らねぇよ。とりあえず、オレは今からボケるから、その最先端のツッコミとやらを見せてみろよ」

「おう、かかってこいや中年」

「腹立つな、こいつ」まあいいや、とウブカタがいったん間を置いた。それから無精髭を撫でつけながら、演技がかった口調で、「ボケかあ、難しいなぁ。そうな、あれくらい難しいな――ボケくらい難しい」とボケた。

「あ、ウブカタさん、鼻毛でてますよ」

「うっそぉん」鼻を擦りながらウブカタが反射的に言った。「っておいコラ、ちょっとまて。流れガン無視かよ、つーかそれボケじゃね? ツッコミですらねーよ」

「あ、ウブカタさん、お腹でてますよ」

「大きなお世話だよ」

「あ、ウブカタさん、眉毛ゲジゲジですね」

「ただの感想! それただの感想だから」

「おい、ヒジカタ。ちょっくら近藤さんのスネ毛ぬいてこいよ」

「ツッコめねえよ。いろいろ満載過ぎてツッコめねえよ」

「つっこめよっ!!」とここぞとばかりにノドカはウブカタに体当たりした。

 ウブカタは吹っ飛んだ。

「ぎゃ、逆切れ!?」

「はい? 今のが最先端の突っ込みですが」なにか問題でも、とノドカはすっと惚けた。「これぞ、あたい流の突っ込みです」

 実を言えば、鬱憤を晴らすための八つ当たりでしかない。だが、まだまだノドカの鬱憤は晴れない。

「前置き長すぎだろ。ツッコミつうか、ツッパリつーか、本当にただ突っ込んできただけじゃねーか」ウブカタは体勢を整える。頬を撫でつけながら、「いろいろ危なっかしくて使えねえよ」

「つかえよっ!」とビンタしようと腕を掲げる。しかしビンタを放つ前に、ウブカタが条件反射で丸くなった。頭をかかえながら中年は、「もういいって。もう分かったから。つうかそれ、普通のツッコミじゃねーか」

「知ってるよっ!」

「もはや怒鳴ってるだけだろ!」

「ですね」

「いきなり素に戻んなって」

 びっくりするわ、と安心した口調でウブカタは襟を正す。

「つーかな、鼻毛なんぞ、一本や二本とび出てたってべつに構わねぇだろうが。とび出ているか出ていないかの違いであって、だれの鼻んなかにだって鼻毛は生えてんだよ。鼻毛が出てたっていいじゃねーか。まつ毛にマスカラだとか塗ったくるくらいなんだ、鼻毛だっていつオシャレになっても不思議じゃねーよ」

 ――不思議だよ。

 不思議を通りこしてもはや超常現象だよ、とノドカは内心で毒づいた。続けて、声に出して否定する。

「それって誰の体内にもウンチくんがいるから、ウンチくんを垂れ流していようが、きちんと我慢してトイレで解放しようが関係ない、という屁理屈と同じですよ」

「ああ、ほんとだ」ウブカタは立ち上がって、「まあよ。鼻毛の一本や二本、気にすんな。おじさんオシャレとか身だしなみとか、ご無沙汰なもんで、鼻毛とか気にしてなかったもので、汚らしいもの見せちゃったけど、まあよ、気にすんな」

「ウブカタさん、それ、自分に言い聞かせてません?」

「いいんだよ、いいんだ。気にすんな。あとできちんと処理しておくから。鏡見ながら、ちょちょいのちょい、ってな。抜いておくから」

「え、そんな、もったいないですって。似合ってますよ」

「うれしくない」

 ウブカタはいつの間にか手鏡を手にしていた。彼のパーソナリティで取寄せたのだろう。可愛らしい、花柄の手鏡である。まるでイルカちゃんが持っていそうな、むしろイルカちゃんが所有していたような気のする手鏡だ。鼻のなかを覗きこむようにして中年ウブカタは、「あれ、ノドカちゃん……鼻毛、どこ?」と必死に鼻穴を膨らませている。「出てなくない、鼻毛?」

「ええ。だってウソですもん」

 はっはー、と高笑いするとウブカタは真顔に戻り、「てめぇ」と吠えた。「移植すんぞ鼻毛」

 ノドカは笑って誤魔化した。

 

「まあ、あれですね。要するに、あたいが言いたかったのは」と一番言いたかったことをまとめてみる。「弥寺さんって変態ですよね、ってことで」

「どこを要した?」

「弥寺さんがやっていることって、あれですよね。スカートめくりあげながら、『きみ、パンツ何色?』って訊いてくるようなもんで、ホント、最低だ。あのドS野郎――あたいら乙女の敵だぜ、敵」

「あたいらって、オレも含まれてんのか?」

「当たり前じゃないですか」

「今こそツッコめよ」とウブカタが目尻を下げた。「だけど、まあ、そうな、一理あるか。言われてみればそうだよな」

「え、あの……ウブカタさんは中年ですよ。その、はやまらないで下さいよ。あたい、見たくないんですけど、乙女のウブカタさんなんて」

「そうじゃねぇよ馬鹿」ウブカタが唾を飛ばした。それからしみじみと、「あいつもさ――弥寺の野郎もさ、オレみたいに控え目に覗くべきだよなって、そう思ってな」オレって偉いよな、とウブカタは吠えた。

 盗人猛々しい――この慣用句はこの中年ウブカタの生態を形容していると言っても過言ではないだろう。加護すらも不要だ。

「お願いなんでウブカタさん、一回でいいんでイルカちゃんに燃やされて死んでくれないでしょうか」

「……一回もなにも、死んだら次はないだろ」

「んなことないですよ。イルカちゃんなら最低一〇〇回は殺してくれますって。念のためにあたいからも頼んでおきましょうか?」

「や、やめろって。冗談に聞こえねえから怖いって、ほんと」


 数週間前に交わしたウブカタとの会話だ。

 ノドカの気は晴れることはなかったが、気が紛れたことだけは確かである。

 だがいまは冗談ではなく、弥寺と比べればウブカタの配慮が――謙虚さと狡猾さの入り混じった波紋の盗み読みが――聖人君子の慈悲に匹敵するような偉業にノドカには思われた。

 ノドカは子猫が大好きであった。

 ――弥寺。

 あの男は、鬼畜だ。

 鬼のくせして、人に飼われている。

 人の群れに紛れている。

 怖いだろ、そんなの。

 小さく溜息を吐く。

 怖いよ、あんな化け物。

 大きく嘆息を吐く。

 それから、深呼吸。

 もう一度、深く息を吸って、止める。

 おし!

 ノドカは気合を入れた。





 ***クウキ***

「ねえ。最近ピアスしてないよね、ノドカ」

 やめたのあれ、とコロセは不意な疑問を投げかけた。

「え、ああうん。似合わないかなと思って」

 そんなことはなかった。

「なら頂戴よ。僕がするから」

「だめッ」ノドカが声を張りあげた。

 そのノドカらしからぬ発声にコロセは驚いて、「ごめんなさい」としゅんとなる。

「あ、ちがうの、ごめん、そうじゃなくって」と慌てたようにノドカは弁解した。「あのピアスね、形見なんだ」

「形見?」

「そう、形見」

「二つとも?」

 ノドカはピアスを左耳に二個していた。

「ああ、うん」どっちも、と歯切れわるくノドカは首肯した。「あたいのお母さんがさ、むかし、友達からもらったんだって。なんかね、モナリザのモデルになった人がしていたとかなんとかっていう、胡散くさい逸話の込められたね――そんなピアスらしいんだあ」

「なにそれ」

「なんだクウちゃん、モナリザ知らないの?」おっくれってるー、と小馬鹿にしてくる。

「そういう意味で言ったんじゃないよ」コロセはむすっとして抗議した。

「冗句やないの、怒りなさんなって」と上機嫌なノドカが抱きかかろうと腕を伸ばしてくる。コロセは逃れようとするが、一歩遅く、ノドカに捕まった。抱きしめられてしまう。

「あたいにとってあのピアスはね」とおっとりとした口調でノドカは語った。「あのピアスは、家族のようなもんだったんだ。独りだとさ、時々、ものすごく折れそうになるんだよ。心も身体もさ。蒸発するようにね、何かが抜けていっちゃう。その代わりに、重いなにかがあたいに溜まっていって、その重さで、ぽっきりと折れちゃいそうになるんだ。そういうときにさ、あのピアスを見て、ああ、あたいは独りじゃないんだなって安心できるんだ。あっと違うなぁ、そうじゃないのかも。なんて言うんだろ――あたいは独りなんだけどさ、でも、あたいだけが独りじゃないんだなってさ、そう思うと、なんだか、そう、救われる気がするんだ」

「ひとはみんな孤独だってこと?」

「そうだけど、そうじゃない。みんな孤独だからこそ、独りじゃないよ、ってこと」

「意味わかんない」

「わからないことが解っているなら、それで充分さね」ノドカが肩に顔をのせてくる。耳元にかかる吐息がこそばゆかった。「でも、今は、あたいにはコロセがいるだろ? だから、もう、あれは必要ない」

 ――コロセがいるから、ひとりじゃないし、あたいは孤独ですらないんだ。

 囁いてノドカは、くふふ、と悶えるように笑った。「今のあたい、格好よかったっしょ?」

「うん」と淡泊に口にする。「気持ちわるかった」

「はあ? もっとこうさ、ほかに言うことはないのかね少年」

「とってもさむかった」

「ならば」とノドカの声が弾んで聞こえた。「温めてやろう! 心から身体の芯まで」

 コロセはノドカに揉みくちゃにされた。

「あはは、やめて、やめてノドカっ!」くすぐったい、と目に涙を浮かべて、「コウサン! もう降参、やめて!」と叫ぶ。

 いしし、と意地わるく口元を歪めるとノドカは、「お姉ちゃん、やさしいから、やめたげるね」と囁いた。

 大きく息を吐いてコロセは緊張を解く。「ありがとう」

「なになに、どういたしまして」ノドカはご機嫌にそう言った。

 まだ乾かない涙を指で拭いながらコロセは、ありがとう、ともう一度ちいさく口にした。




   ○○○【熟成~休眠】○○○

 道に薄く雪が膜を張りだしたころ。

 ハルキは入院していた。ハルキからしてみれば、入院させられている、が正しい表現だろう。

 このころにはすっかり、フユキとの会話が生活の中心行事となっていた。会話をしているときには、自分の世界に閉じこもるみたいにフユキと話をした。ハルキにとってそれは夢のような時間だった。まさに夢中だった。そのことが、周りへの配慮を著しく怠らせていた。

 その結果、周りからの評価は人間関係を築くうえで、好ましくないような捉え方をされるようになった。

 たびたびハルキが誰もいないところに話しかけていたり、ぼーっと公園の隅の木陰に腰掛けて、独り言を呟いていたり――と不審な行動をしている、と周りの人間は訝しがったのだ。その疑問が「気味のわるい変人」という認識に変わるのに、時間はそう掛からなかった。

 いったん、そういった噂が立てば、ちょっとした奇異な行為もすべて関連付けられて、評価される。それが子どもたち同士でなくとも、である。実際にハルキとフユキの会話を目撃した者たちがどれほどいただろうか。噂を口にした者たちの大半以上は聞きもせず、見もせずに、ハルキの孤独な立ち振る舞いが醸し出す雰囲気のみによって、その噂を鵜呑みにした者たちである。

 結果、ハルキは短期間のうちに「病的」というレッテルを貼られた。そのことにハルキはもちろん、すぐ気がついた。だが気にとめることもなく、ハルキは生活を続けた。

 フユキからは、もうちょっと周りの目を気にしたらどうだ、とフユキらしからぬ忠告をもらっていたが、ハルキは、「だってぼくは本当に普通じゃないんだよ? それはフユキが一番よく解っているだろ? だったら、正しい評価を皆がしてくれているんだから、それをいまさら隠す必要なんかまったくないよ」と言ってフユキを黙らせた。

 それから一週間が過ぎぬ間に、ハルキは精神病棟へ移された。ハルキは暴力を振るったのである。それも精神科医に、である。周りの大人たちにとってその暴力は、理不尽極まりなく、動機すら理解しがたい行為に映ったことだろう。

 精神科で検診を受けた日のこと。フユキの存在を真っ向から否定するような医師の言動が引き金だった。ハルキは医師に掴みかかり、殴りつけたのだった。涙を溢れさせながら、どぎつく歯をかみ締めて。

 しかしのちにハルキが語ったその言い分について、そばにいたハルキの母親も、看護師も、誰もが納得することはなく、医師の言動に問題があったようにも思われなかった。

 医師の言動は細心の注意と配慮が施されていたものだったし、フユキの存在を否定するものではなかったからだ。だがハルキはその言動の奥に、医師の懐疑的なニュアンスを感じ取ってしまったようだ、というのが病院側から母親への説明であった。それが本当に、医師がそう感じていたのかすら、今になっては誰にも解らない。

 けれど人の心というものはいつだって解らないものであり、理解など端から不可能だ。だからこそ、人は分かりあいたい、と思い、係わり合う努力をするのだろう。

 ハルキにとってはそれが、フユキを唯一の存在と感じている要因であり、人間が苦手に感じている理由なのかもしれない。

 ――フユキは自分のことを理解してくれている。

 ――不可能なはずの出来事を、フユキは叶えてくれるのだ。


「お子さんの病名は精神分裂症です」これが、医師が下したハルキへの評価だった。要するに、ハルキは多重人格障害、解離性同一性障害ではない、というものだった。

 医師たちはハルキに、このことを直接伝えなかったが、どこからどういった思考経路で導き出された解答なのかは定かではないが、フユキはこのことをハルキに伝えた。

 ハルキは憤慨に堪えないほどの屈辱を覚えた。これは正に、フユキの存在を全否定するものだ、と激怒した。けれどフユキの存在を説明するにも、説明しようがない、ということは、フユキと出会ってから何度も考え抜いた末に辿り着いた答えでもあった。

「あいつら、なんも解っちゃいない」ハルキは純白のシーツが敷いてあるベッドに腰掛けて言った。この部屋もまた、一面真っ白であった。

「まあいいじゃねーか」フユキが答えた。「お前の世界はお前だけのものだ。他人様に認めてもらう必要も、教えてやる必要もねーよ」

「ぼくがなんて言われようが構いやしないよ。でもフユキのことをとやかく言う奴を僕は絶対に許さないッ」

「おいおい、泣かせること言ってくれるじゃねーか。だがな、大声は出すなって。また安定剤打たれるぜ」フユキは声量を低くして言った。

「いいよあんなの、何べんだって打たれてやる」

「あのなあ、あれ打たれてお前が朦朧としているあいだは俺もお前と会話でできねーんだよ。わかる? この不便さ」

「それはぼくも困るなぁ……。あれ、でもフユキがそんなこと言うの珍しいね、もしかして寂しいの?」

「戯けたことを言うじゃないか。だがな、自惚れんのも大概にしとけよ、冗談で言っていたとしても、だ」フユキが声を荒らげずに棘のある口調で言った。

「うん。ごめん」ハルキはにっこりと微笑んだ。

 通路を歩む足音が聞こえてきた。ハルキの部屋のまえにある廊下だ。それは段々とはっきり聞こえてき、この部屋へと真っ直ぐ近づいてくる。

 今日も来たか……、と気を引き締める。

 ハルキが察した通りに足音はこの部屋の扉のまえで止まった。ドアの鍵が開く。白衣の男達が入ってきた。臨床心理士や、サイコセラピストと一般に呼ばれる者たちらしいが、ハルキは、フユキの存在を認めようとしない者は、もはや誰一人として信じるつもりはなかった。

 体格のよい若い男と、痩身で白髪の小柄な老人の二人だけだ。若い男はドアのまえで立ち止り、こちらを見下ろすように佇んだ。老いぼれは、こちらのまえに椅子を置き、そこに座って、静かに話し掛けてくる。

「こんにちはハルキ君。気分はどうかな?」

「無駄だよ。何度話したって。理解する気のない奴と何を話せっていうのさ」

 老いぼれの表情は、この部屋のように眩しい。ハルキの刺々しい応答にも顔色を変えずに言う。「おやおや、ずいぶんと嫌われてしまったようだね、私は。そうだなぁ、よし、じゃあハルキ君のお友達――フユキ君のことを聞こうかな。私にフユキ君を信じる気がないとハルキ君は言ったがね、たしかに私はそのフユキ君のことは信じていないよ」

 それが一番気に食わないことをなぜこいつは気がつけない。大人は本当に馬鹿ばっかりだ。ハルキは老いぼれの顔を睨みつけることをやめて俯いた。足元の床にはボンヤリと自分の輪郭が影となって浮かんでいる。

 そのあいだも、「でもね」と白髪の男は話し続けている。「私はハルキ君、キミのことは信じるつもりだよ。だからキミが、『フユキ君は存在するんだ』と言うのなら私は信じるよ。ただね、キミが何も話してくれなかったり、言うことを聞かずに、お薬をきちんと飲まなかったりしていると、私がハルキ君を信じても、みんながキミを信じてくれないんだよ」

「だったら、だれも信じてくれなくたっていいッ」言いたくなかったが、何となく声に出してしまった。

「うん。でもね、それだとハルキ君はこのままこの部屋から出られないんだよ? 自由になれないんだ」

 もう何も言いたくなかった。身体を意識的に硬直させる。

「なにか、ハルキ君には趣味はないのかい?」

 ハルキはだんまりを決めこんだ。

 老いぼれが首を傾げて返答を待っている。だが言葉を返すつもりなどハルキにはない。

 老いぼれはなおもこちらの顔を覗き込みながら、「将来の夢は? やりたいことはないのかい?」と問いを重ねてくる。

 そんなことを聞いてなんになるのだ。やりたいこと? まずはお前をこの部屋から追い出してやりたいね。

 ぼやけていた視界が輪郭を得て、自分が宙を見詰めていたことに気がつくまで、ハルキの意識はずっと内に閉じこもっていた。

 

 視線を上げる。そこには、老いぼれた顔も椅子もなかった。ドアのほうを向いても、壁と一体化したドアがあるだけであった。

 右腕がチクリと疼いたので見遣る。皮膚に新しく、小さな赤い盛り上がりができていた。注射針の跡だった。ハルキが意識を内に仕舞いこんでいるあいだに、薬を飲まないハルキに代わって、奴らが注射を打ったのかもしれない。それとも打たれたために自分の意識は内に閉じこもったのだろうか。

 部屋の白さは、窓から差し込む夜の暗闇によって、緩急のある紺色に染まっていた。

「フユキ? いるの?」ハルキは呼びかけた。だが、フユキはまだ眠っているのか返答はなかった。

 起きたばかりのハルキも何だか異様に疲れを感じ、今日はフユキとの会話は諦めて、もう眠ることにした。

 現実を離れ、夢に落ちてゆく。

 薄れいく意識のなか。

 ハルキは違和感を覚えていた。

 身体を取り巻くこの世界の――希薄さを。

 

 明くる日の同時刻。ハルキは極度に困憊していた。

 こんなことがあってたまるか。

 どうなっているんだ、ぼくは。

 そんなわけ、あるわけがない。

 絶対に、おかしい……………。

 フユキが………………いない。

 こちらの呼びかけに応答しないだけではなかった。これまで何となく感じていたフユキの存在感自体が無くなっていた。夢から覚めたような――妙にすっきりとした感覚。自分だけしかこの部屋にいないという確かな孤独。それはいつも独りでいながら、フユキと会話をしていたときには感じずに済んでいた、懐かしくも忌々しい感覚であった。

 ハルキは呼びかけ続けた。考え続け、思いだし続けた。フユキへ、フユキのことを、フユキとの会話を。その場をぐるぐると回りながら、天を仰ぎ見て、居もしない「友人」に呼びかけ続けた。

 そのハルキから発せられる数多の表現。

 他者にとって、そこから読み取れる唯一のハルキへの解釈は、「理解しがたい行為だ」という「異常性」だけだった。そして、おそらくそれらは、医師でなくとも異様に映るだろう奇行であり、どうにかしてあげたい、と同情や哀れみを向ける対象としてしか、ハルキは見られなくなった。

 その奇行に対する医師たちからの処置は、ことごとくハルキには効果がなかった。

 祈りのような、悲痛な叫びは三日三晩続いた。

 四日目の朝。

 ハルキは倒れるように深い眠りに着いた。

   ○○○+*+○○○




   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ十一年以上前~}


 ***ノドカ***

 ピアス。

 黒くて小さな、丸い玉。

 光に照らすと瑠璃色に輝く。

 ――瑠璃。

「瑠璃」というのは、ノドカの名前だった。以前の、名前だった。

 ノドカにはたおやかな母と、面倒くさがりの父がいて、おっちょこちょいの間抜けな弟もいて――けれどみんな一様に優しくて――そんなありふれた家族があった。どこにでもある家族を持ち、どこにでもある平凡な暮らしをしていた。

 していたのに、それは突然、崩壊した。


 コロセと出会う数年前のことだ――。

 目を覚ますとノドカは荒れ地に佇んでいた。

 辺りは仄暗く、ノドカの家も、近所の家も、マンションもお店も、何もかもが無くなっていた。

 周囲には所々、青白い光が霞むように漂っている。

 青白い光に照らされている――いや、照らされている物がなにも無かった。

 だからこそ、ここが荒れ地なのだと判った。

 青白い光は、

 一つ。

 また一つ。

 と消えていく。

「あ、弥寺くん」

 と声がした。

「目を覚ましたよ、この子」

 どこからともなく聞こえてくる声。

 男の声。

 抑揚のない声。

 すぐうしろから響いているようでもあるし、またはすごく遠くから聞こえているようでもある。それとも、ノドカの裡側から届いている声なのかもしれない。

 続けて声は、「どうする気?」と問いを重ねた。

「まあ、処分が妥当だろうな」これまでの声ではなく、重く低い声が聞こえた。「しかし俺は思うんだが――こいつは面白そうだ。面白いかどうかは分からないが、なにか面白いことを仕出かしてくれそうだ。実際、もうこんだけ面白いことを仕出かしてくれた。処分するには勿体ない。俺はそう思うんだが、お前はどう思う?」

「連れていくってことかい? アークティクス・サイドへ?」

「不服か?」重い声は、さらに声を低くした。

「いや、そういうわけじゃないけど。でも、機関の意向を鑑みれば、処分になるんだろ?」

「処分なんていつだってできる」

「でも、ウブカタさんが先に帰ってしまったから。きっともう報告しちゃっているんじゃないかな」

「なら実際に処分したことにすりゃいいだろうが」冷たいのに重圧な声は愉快そうに唸った。「こいつはサポータの案内のもとに、自分の足でアークティクス・サイドへやってきた――そうだろ?」

 弥寺くんがそう言うなら、と二つの声は途切れる。ノドカの意識もそこで途切れた。

 

 つぎに目を覚ましたとき――ノドカは見慣れぬ部屋にいた。

 知らない土地。

 知らない景色。

 知らない建物。

 知らない風に、知らない人。

 知らないものだらけだった。

 目を覚ましたノドカのもとへ、すぐに、弥寺という男が尋ねてきた。

 彼はノドカへこう説明した。

 ノドカの住んでいた町が消えたこと。町の人々も消えたこと。それは死んだという意味であること。ただし、町の人々は苦しむ余地もなく町の崩壊と共に一瞬で死んだだろうということ。苦しまずに死んだというそれ自体は、不幸中の幸いだということ。ノドカはそのなかで、ただ一人の生き残りだったということ。

 弥寺はさらに説明した。

 自分たちがアークティクス・ラバーという、特別な能力を持った「特別な者」だということ。その彼らが、この世界の均衡を保っているということ。均衡を保つためには、特定の秩序を乱すこともやむを得ないということ。そのやむを得ない事情で、ノドカの町が消されてしまったこと。でも、そうしなければ、町は街を、街は島を、島は大陸を、大陸は地球を崩壊させてしまっていただろうということ。最小限の、あるべき犠牲だったこと。ノドカはこれから、このアークティクス・サイドという土地で、暮らすはめになるということ。

 それから、「早くなれるといいな」というなんの慰めにもならない感想を弥寺は口にした。

 ノドカは黙って聞いていた。

 相槌を打つこともなく。

 咀嚼しようとする意思もなく。

 しかしノドカの耳は、ノドカの意思とは無関係に、弥寺の声をしっかりと捉えていた。聞き洩らさぬように。真偽を見定めるかのように。

 最後に弥寺という男は、ノドカへ小さな黒い玉を渡した。

「家族の形見だ」

 それは、ノドカが母から譲ってもらったピアスに似た形状の玉であった。

 母から貰ったピアスは、ノドカの左耳で控えめに輝いている。ピアスは一個しか貰っていない。

 もしかしたら母がもう一つ、持っていたのかもしれない。ノドカはそう思った。

「俺が今、お前に説明した話は他言しないほうがいい」

 弥寺はそれだけ忠告し、ノドカをまた一人にした。

 言われなくとも他言できるような話ではなかった。

 自分のことを知ってくれていた者たちが――あたいが知っている者たちが――死に絶えた話など。口にできるはずもない。

 ノドカは考えた。

 弥寺から聞かされた話の内容を。

 疑問は浮かばなかった。

 この時点では――まだ。

 

 それからノドカは時間の許す限り、彼らアークティクス・ラバーのことや、アークティクス・サイドのこと、保持者のこと、そして『R2L』機関という組織について調べた。そして学んだ。

 こうしてノドカは、弥寺の説明の意味を理解した。

 弥寺が口にした、「早くなれるといいな」というのはきっと、アークティクス・ラバーに成れるといいな、という意味と、この異質な社会に慣れるといいな、という二つの意味であったのだろうことも含めて。

 自分にはアークティクス・ラバーになれる資質があるのだと、そう思えた。

 そしてまた、弥寺の説明に対しての疑問もあらたに生じた。

 町の人々の死が、苦しみを伴わない死であることを、どうして弥寺は知っていたのか――という疑問。

 虚空についてノドカはより詳細に学んでいた。家族や友達やおじさんやおばさんたちが、虚空のせいで死んだのかと思うと、どうしても虚空についての情報を欲してしまうのだ。

 どうすれば防げたのか。

 どうすれば救えたのか。

 いま考えても仕方のない悔恨の念である。こんな悲劇が繰り返されないように、といった正義感はこのときのノドカには微塵もなかった。ただ知りたかった。それだけであった。

 そうしてノドカは学んだ。

 虚空の発現条件――メノフェノン混濁の発生メカニズム。

 虚空内部で引き起きる様々な弊害や実害が引き起こす世界への影響。

 虚空を鎮圧することがアークティクス・ラバーの任務であることなど、それらを一通り理解した。

 もっとも、得た知識が正しいとするならば、町そのものが一瞬で崩壊することなどあり得ないことも解った。ニボシの被害によって町民が一斉かつ一瞬で殲滅させられる、ということは考えられない。

 仮に、ニボシによって町民が殲滅させられていたとするならば、それは虐殺のような、悲惨な状況であるはずだ。野獣に次々と食い殺されていくような、そんな残虐な光景であったはず。

 しかし弥寺は言っていた。

 町民はみな苦しむ間もなく死んだのだと。

 一瞬の消滅だったのだと。

 とは言え、この弥寺の発言は、ノドカを慰めようとした配慮の元に吐きだされた嘘だったのかもしれない。ノドカはそう考え、自分を納得させた。


 アークティクス・サイドは、ノドカにとってこれ以上ないほど理想的な環境であった。

 ここでは、好きなことを好きなだけ行えた。

 ところで。

 ――やるだけ身につくのではない、やっただけ身につけなくてはならない。

 これはノドカの信条の一つである。

 また一方でノドカは、やればやるだけ実になるものだとも思っている。実にならないのは、やるべきことをやっていないのだ、足りないだけなのだ、とノドカはそう考える。

 どんな努力も実になる。ただし、その実が、望んでいた実ではなかった――ただそれだけのことなのだと割り切ることができたし、自分を鼓舞することができた。

 ノドカは好きなことを好きなだけ行った。

 自己を高める。

 精進に励んだ。

 通常なら苦しいと思われてしまうようなトレーニングでも、受け入れることができた。それこそが、ノドカにとっての「好き」という意味だからだ。

 知識と理解を深め、パーソナリティも順調に制御し、特質を開拓――結果、ノドカはアークティクス・ラバーに成ることができた。

 順風満帆。ノドカはこのアークティクス・サイドで、新しい自分を得ることができた。

 暗く沈んでいたノドカは、いつの間にか、いなくなっていた。

 

 このころからである。

 任務を熟していく内に、ノドカはある懸念を抱いた。

 ――虚空を鎮静化させるのに、死者が出ることなんて、ほとんどない。

 ――町一つが消滅するなんて、あり得ない。

 そのことに気付いたのだ。

 アークティクス・ラバーは、「サポータ」やほかの地区の「学び舎」との連携によって、虚空発現とほぼ同時に現地へと向かうことができる。チューブを通っていくので、移動時間はほとんどかからない。虚空の影響で生物がニボシ化する前に、虚空のメノフェノン混濁を鎮静化させることができる。もしくは、「修理」に時間が必要とされる場合や、「縫合」が必要とされる場合は、町民を避難させることは必須であり、またそのくらいの余裕は必ずあった。

 町一つが虚空の「修理」のために消滅するなど、到底考えられない。

 ノドカは、アークティクス・ラバーのみが閲覧可能な任務報告書――『エア・レコード』を探った。

 当時の記録を。

『虹が丘消失』の記述を穿鑿した。

 そしてノドカは知った。

 自分が、サポータの紹介をもとにここアークティクス・サイドを訪れた、とされていることを。

「虹が丘」が、「縫合」の処理によって世界からその姿を消した、とされていることを。

 ――話がちがう。

 それも、悪いほうへ。

 ノドカが聞かされていた説明では、飽くまでも『虹が丘消失』の要因は、虚空であり、弥寺たちアークティクス・ラバーが到着した際にはすでに消滅していた、というものであった。

 しかし、『エア・レコード』によれば、「アークティクス・ラバーが行った処置――〝縫合〟によって――『虹が丘消失』はもたらされた」とされている。

 どういうことだ――?

 ノドカは当事者へ訊ねようと思った。

 真実を確かめたかった。ただ知りたかった。

 その結果がどうであれ――ただ単純に知りたかった。

 『虹が丘消失』についての報告書――『エア・レコード』の製作者は複数名とされており、そこに固有名詞は載っていなかった。

 誰がどのような報告をしたのか、記述をしたのか、虚偽を記したのか、それは終ぞ判明しなかった。

 ノドカは弥寺を問い質した。

 あの男は知っているはずだ。絶対に知っているはずなのだ。ノドカは詰問する。すると弥寺は犬儒的な笑みを浮かべて、「それを知ってどうする?」と疑問を返してきた。

「どうもしない」

「なら聞くだけ無駄ではないのか?」弥寺は威圧的に言った。

「無駄かどうかを決めるのは弥寺さんじゃない、あたいだよ」

「その通りだ。だがな、この世には知らないほうがいいことだってあるんだ」

「それだってあたいが決めることだよ」

「違うな。お前は確実に傷つく。俺はそのことを知っている」

「あたいですらあたいのことを理解しきれていないのに、どうして他人であるあんたなんかに――弥寺さんに、そんなことが判るんですかッ」

「俺が俺だからだよ」弥寺は嘯いた。「お前に分からないお前が、俺には解るのさ」

 手に取るようにな、と宙を握る仕草をした。

「ッざけんな!」

 ノドカは吠えた。つぎにこの男がふざけたことを抜かしたあかつきには、本気で叩きのめそうと思った。

「知りたかったら強くなれ。俺が理解できないくらいに強くなれ。そうすりゃ――」

 ――そんときは教えてやるよ。

 言われたノドカは、弥寺にぶっ飛ばされた。

 触れることなく。

 触れられることもなく。

 ノドカはぶっ飛んだ。

 生死を彷徨う重傷をノドカは負った。

 初めて死を間近に意識した。

 アークティクス・サイドの医療がなければ、確実に命を落としていただろうね、と看護担当のラバーに教えられた。

「あの人には気をつけなよ」と遅すぎる忠告もその際にもらった。

 この件について、弥寺が罰せられることはなかった。

 弥寺から攻撃を喰らう寸前の記憶。感覚。

 ノドカは思いだす。

 刹那に捉えた余韻。

 弥寺の波紋の余韻。

 ――化け物。

 弥寺という男は、人ではない、とそう感じた。

 苦しみが圧縮されているような。

 痛みの塊のような激しい渦があった。

 惨痛と暴虐と。

 苛厳と残酷と。

 ありとあらゆる存在を酷虐する、鳶色の意思を感じた。

 ノドカは弥寺に、地獄を垣間みた。

 

 ノドカが弥寺への畏怖を確固たるものとした瞬間である。

 

 しかしその畏怖は、ノドカへ、ある意志を宿した。

 ノドカは思う。

 暴力が黙認されるなどと、暴力に屈しているなどと、ここの社会は歪んでいる。

 機密情報である『エア・レコード』についても甚だ疑問だ。

 こんなズボラな管理体制、あって良いはずもない。

 こんな組織体制、正しいはずもない。

 仮にも世界の均衡を保つ組織が――こんないい加減だなんて。

 胸の内にわだかまっていたいくつかの疑問はこのとき、明確な疑念へと変質した。

『虹が丘消失』への疑心。

 組織への懐疑心。

 ともすれば、

 義心へと。

 大義ある、破壊への信念を、ノドカは胸の奥に抱くに至る。

 ノドカには守るべきとする世界があった。

 ただしこのときにはまだ、ノドカには、守るべき者がいなかった。

 ノドカがコロセと出逢う、二年ほど前のことである。




   ○○○【出芽】○○○

 眠っているあいだにハルキは夢を視ていた。それはたしかに、ハルキが「視ている」夢であり、世界だった。その世界の内で、ハルキはフユキと会話をしていた。

 いつもの公園の隅の林のなか。一本の広葉樹の根元にハルキは腰掛け、フユキは対面に立っている。見上げるようにして視線を向ける。

 逆光で彼の姿はよく見えない。

 初夏の柔らかな日差しが風で揺らめく緑葉たちに阻まれて、きらきらと眩しい木漏れ日と化している。自然のつくり出したイルミネーションが、フユキを人型のシルエットに仕立て上げている。

 ハルキは眩しさをこらえ、目を細める。

「久しぶりだね」とフユキを見上げて言った。

「そうか? 俺は初めまして、だと思ったが」

「そんなことないよ。生まれたときから一緒だったんだよ。だってフユキは僕で、ぼくはフユキなんだから」

「たしかに俺はお前を見続けていたが、お前が俺を見つめているのは今が初めてだぜ」

「そりゃだって。いつも君はぼくの内面に隠れていて、姿を見せてくれたことなんてなかったもの」

 声だけだったもの、と非難するが、

「そういうことじゃないが」と煮え切らない返事だ。「……まぁいいか。面倒だし」

「うん、何でもいいよ。こうやってまたフユキに逢えた」

「大げさな奴だな」フユキの表情は見えなかったが、声は笑っていた。

「本当に嬉しいんだ。こうやって話せることが――フユキが存在していてくれたことが――――」じぶんでも頬が引き攣るのが判った。不意に泣きそうになった。それを隠すようにハルキは膝に顔を埋めた。

「これからどうするんだ?」

「どうもしないよ。どうでもいいよ。ぼくは君とずっと一緒ならそれでいいんだ」

「それがお前の願望か? 俺には難しい話だな」

「なんで」と咄嗟に顔を上げる。「ずっと一緒にいてくれるだけでいいんだ、それ以外はフユキに何も望まないよ。お願い、ぼくのまえから消えないで、いなくならないで」

 悲痛に叫ぶと、

「ああ、俺は消えないさ」そうだな、と言ってフユキは数秒の間を空ける。「なら、ハルキも俺の願望を叶えてくれるか?」

 フユキのこのお願いが、これまでにない特別な問いかけなのだとハルキには判った。彼が初めて名前を呼んでくれたからだ。

「なんだってするよ、ぼく」

 本当に何だって。何を犠牲にしてでも叶えてあげたいと思った。

「そうか。だったら」とフユキは両手を広げ、「俺にも身体の支配権をくれないか」と肩を竦めた。

「うん。いいよ」即答する。「でも、どうすれば渡せるの?」

「本来ならお前が消えてくれさえすれば、身体の支配権は俺のものになるんだが、それだとお前の願望が叶わなくなる。お前が自棄する意思を持っているのならお前の願望を叶えずとも俺はお前を消して、身体を乗っ取っても良かったんだ。だがお前は今、強い願望を持っている。いや、強い願望を持っている、と自覚している。それがある限り、俺はお前を消すことができない」

「ぼくを……消すの」

「俺は同じことを二度言うことが嫌いだ」

「そうだったね、ごめん」苦笑してから真面目な口調で、「なら、どうするの?」とみたび尋ねる。

「俺の願望は――ある欲動を満たすために必要な条件だ。俺が俺でありつづけるためには欠かせない、絶対的な要素なんだ。逆説的に、それさえ抱きつづけることができれば、俺はいつまでも俺でありつづける。たとえ俺が時間の経過と共に変質してもだ。だが、この願望が無くなれば――願望が叶わないと挫折した場合や、そのための努力を俺が永遠に断たれた場合――俺は俺自身に存在意義を付加することができなくなる。だから、俺もハルキと同様に、自分の願望を破棄することは絶対にしたくない。そこで、だ。お前の願望と俺の願望を同時に満たすことにする」

「どういうこと?」むずかしくて解らない。

「要するに、二人同時して願いを叶えようってことだ」

「そんなことってできるの?」

「できるが、その前にもう一度だけ確認しておく――俺と一緒なら、どうなろうと文句はないのだな」

「うん、ないよ」間髪容れずに答える。

「なら問題はない」一呼吸空けてからフユキは、「俺とお前を統合する」と口にした。

 ハルキはフユキのその言葉に躊躇った。咄嗟に相槌を打てなかった。

「解っていないようだな、もはや異論は認められない。これはすでに決定事項だ。気付いているか? 今は立っているのは俺で、座っているのがお前だ。決定権は今、俺にある。安心しろ、統合したあとの人格もお前だし、俺だ。今となにも変わらないさ」

 複合ではなく統合だからな、とフユキは優しい口調でそう説いた。

「ほんと?」

「ああ。多分な」

 呟かれたその声はもう、笑ってはいなかった。

 それでもハルキはフユキに笑って欲しくて、微笑みかけていた。そうだ、いままではどんなに微笑みかけてみても、それがフユキに伝わることはなかったのだ。こうして面と向かって話し合えることなどあり得なかったのだから。だからこそ、精一杯にハルキは微笑みかけた。

 木漏れ日が瞬くのをやめた。

 強い光が差し込む。

 視界が支配をされる。

 白に。

 または、

 黒に。

 対比する色がないと、人は自身の内に対比する色を見出だそうとする。そうすることで、見ている色を認識しようとするのだろうか。見比べることでしかそのものの価値を、本質を、探し出すことができないのだろうか――とそんな場違いなことをぼんやりと考えた。

 思考が濁っている。滞っている。淀んでいる。

 足首を掴まれた。いや、手首かもしれない。見えないことがこんなにも身体の認識を困難にするものなのか。本来は逆ではないのか。見えないことで、研ぎ澄まされるものだと思っていた。

 ぼくを掴んでいるのは、フユキ?

 いや、この感触は、

 睡魔。

 どうして――側にいてよ、フユキ。

 見えない、君が見えない。

 遠のいていく、フユキが、君が。

 待ってよ。どこにも行かないって。ずっと一緒だって。言ったじゃないか……。

 約束……。

 ……したじゃないか。

「ああ、ずっといっしょさ」

 優しい声が。

 希望に満ちた声が。

 意識が、遠のいていく。

 フユキが、遠のいていく。

 ハルキが、遠のいていく。

 でも、何だろう――。

 この鮮明な、気持ちが落ち着くような、これは。

 不思議だ。何だろう。ここは。僕は。

 近づいているのはだれ。

 そこにいるのはだれ。

 やんわりと音もなく闇が訪れる。


 光以上に熾烈な闇があり。

 黒以上に、闇にちかい白があった。

 これが無か。

 そう考えたとき、瞼はすでに開かれていた。

 すこし離れたさきには白い壁がある。いや、天井だ。天井が見えている。ベッドに横になっている。窓から差し込む日の光がある。

 新鮮な目覚めだ。目覚めが、というよりかは、この現実を認識しても、喪失感や憂鬱を感じない。むしろ、これから成すことへの期待じみた躍動感すら湧き出るようだった。

 これから成すこと――?

 そうだ、僕はやらなければならない。

 彼は起き上がり、ベッドからゆっくりと降り立った。

 白い床に自分の影が浮かんでいる。

 真っ直ぐとドアのまえへ歩む。ドアノブを回した。ドアノブは抵抗なく回った。ドアを引く。ドアは素直だった。

 開いた空間のさきには白い廊下と白い天井があり、壁には等間隔に同じようなドアが並んでいる。

 誰かに手を引かれているかのように淡々と廊下のさきへと歩をすすめる。

 やがて彼の姿は通路の奥、白色の彼方にあるただ一点の黒くかすんだ闇のなかへと消えていった。

    ○○○+*+○○○




    タイム△△△スキップ{~基点からおよそ三カ月半後~}


 ***コロセ***

 

 ***

「ダブルバブル理論のことはノドちゃんから聞いているかな?」

「うん。でも――泡がなんたらってことしか解らなかった」

 ノドカの話ってややこしいんだもん、と弁解気味に言う。

「それでいいのさ」とミタケンが朗らかに、「上出来だよ。ノドちゃんの説明でそれだけ解っていたらね」と褒めてくれた。

 くすぐったそうにコロセは笑う。ミタケンさんにまでこんなふうに言われているなんて知ったら、ノドカはなんと喚いて怒るだろうか。そう考えただけで愉快だった。

「いいかい弟くん。ダブルバブル理論っていうのはね、この世界が、泡と泡とが無数に重複して――重りあって形成している――つまり、沢山の泡で世界が作り上げられている――というお話なんだ」

 いいかな、と調子を整えてからミタケンは、「ぼくらには主に三つの世界がある」とゆびを三本突き立てる。

「一つ目は、個人個人がそれぞれに持っている世界――〈レクス〉」

 ゆびを二本にしてから、二つ目、と口にする。

「二つ目は、そのレクスが重なり合って一纏まりとなっている、ぼくらが共通して知覚することのできている世界――『プレクス』」

 ゆびを一本にすると、最後に、と彼は強調して説いた。

「そして最後に、真実の世界――《アークティクス》だ」

 ***

 

 僕はひどく物分かりがわるかった。

「酷い」のではなく、「物分かりがわるい」のでもなく、「ひどく物分かりがわるい」のだ。

 言ってみればそれは、墨汁を、「コーヒーです」と偽られて飲ませられたような、そんな悪辣な印象。墨汁も、それ単体ではコーヒーだと誤飲することはないし、真っ白い修正液を、「コーヒー」ですと言われても、騙されることはないのだけれど、『墨汁』と『嘘』、その二つが揃って初めて、この極めて幼稚であり陰湿でもある悪戯は成立する。

 とどのつまりが、『酷い』と『物分かりがわるい』――この二つの異質な性質が合わさることで、このような悪辣へと変貌を遂げてしまうのだ。

 うん、我ながら下手な比喩だ。

 要するに、僕へなにかを説明する人間は、とても苦労するということ。

 また逆に、僕がなにかを誰かへ説明するというのも、同じくらいに大変だということでもある。

 それでも僕は今からある事柄を一つ、自分へ向けて説明しようと思う。自分へ向けて、自分の考えを説明しようと思う。整理してみようと思うのだ。

 もうすでにこの思考は、自分へ向けての説明だ。

 ひどく物分かりのわるい僕が、ひどく物分かりのわるい僕へ情報を伝える。これは、相乗効果を成して、より「ひどく物分かりのわるい僕」が生じるのかもしれず、はたまた、ひどく物分かりのわるい僕へもっとも上手に説明できる者は、同じくして、ひどく物分かりのわるい僕だけなのだから、うまいぐあいに理解を深めることになるのかもしれない。

 どうだろう?

 やってみれば自ずと判ることだ。

 ところで、人は、アウトプットすることで情報の整理を行うらしい。

 口に出して話すことで人は、概念を言葉へと還元し、その「言の葉」に合わせて概念や意味を仕舞いこむ。そうすることで、蓄積された情報は、ある一定の規則性を帯びるのだという。

「夢」も、そういった情報整理のための、一つのプロセスだという仮説を僕は聞いたことがある。

 真偽のほどは定かではないけれど、概念を言語化して考えるというのは、まあ、きっとわるくはない。善いことかは解らないけれど、でも、わるいことではないだろう。

 世の中には、わるいことなんて、なに一つないようにすら思える。人殺しもきっと例外ではないのだ。ただ、人を殺すことや、悪戯に命を奪うことを、「悪いこと」なのだと無条件に思い込めるのが人間だ、というそれだけの話で。

 そう、「ヒト」という生物が「人間」であるためには、人殺しは絶対に駄目なのだ、とそう思えることが一つの必要条件なのだと僕は思う。いや、どうだろう。解らない。だって僕は、こんなにすぐに話を脱線させてしまうほどに、頭のわるい人間なのだから。

 そろそろ本題へ移ろう。

 ――ダブルバブル理論。

 今からすこし、そのことを復習してみようと僕は思う。

 最近になって恒例となりつつある暇つぶし。いわゆる独り言だ。


 何度も何度も繰り返して振るわれた、我が姉――ノドカ先生の教鞭。

 けれど僕には、ノドカが何を言っているのか、彼女の使っている用語が一体どのようなシステムを内包している言葉なのか、を理解することができなかった。

 ノドカの説明はいつだって抽象的で難しかった。

 例えば――《アークティクス》・『プレクス』・〈レクス〉、この三つはどうやら世界を分類するために用いられている語句らしいのだけれど、僕にはただの呪文にしか思えなかった。それぞれが一体どのような世界のことを示しているのか、といった語句に内包されている概念を僕が知らなかったからだ。

 ほかにも、「ティクス・ブレイク」だとか「メノフェノン」だとか「メノフェノン鱗状痕」だとか、とにかく意味の解らない語句を多用された。

 けれど、まだそれらは、理解の及ばない未知の言葉として聴き分けることでき、そうすることでどうにか、「理解できない」という自覚を持つことができた。

 言うなれば僕のこの混乱は、「虫喰い文章」なのだ。どこに穴があいているか、どこが空白なのかを僕は知ることができた。

 でもその一方で、「虚空」だとか「修理」だとか「縫合」だとか「浸透」だとか「同一化」だとか、そういった僕がなんとなく意味を知っている語句に、僕の知らない意味を含ませて使用されることも往々にして引き起こされた。

 そうして生半可に理解してしまった語句を元にした文章を用いて僕は、ノドカから説明される概念を理解しようとする。でもそれは間違った文章なのだから、解るはずもなく、僕は途方に向かって、えいや、と匙を投げるしかなかった。

 このようにしてちぐはぐに構築された僕の思考は、言うなれば「怪文書」なのだ。

 どこが変なのかが判らない。どこが間違っているのかも判らない。だから文章そのものがおかしく思える。

「虫喰い文章」ならば、空白部を埋めるように努力すれば良いのに対して、「怪文書」はその文章自体を暗号解読のようにして講読しなくてはならない。この違いは僕にとってかなりの痛手だった。そういったとき、いつも僕は、途端に鏡の国へ放りこまれた気分になった。

 似ているけれど、異なった世界。

 結局のところ――。

 ミタケンさんによって説明し直された結果、僕は「ダブルバブル理論」という、世界を解釈するための理屈を、理解することができた。いや、理解などできていないのだけれど、なんとなく模糊として、概要を、骨子を紐解くぐらいのことはできているはずだ――と思いたい。

 そう、だから、結局のところ――ノドカが説明していた事柄は、とても単純なものだった。いったん理解してしまえば、それはただの「当たり前」として消化される。

 ただ、その単純な事柄や当たり前の現象が、「なぜ引き起きているのか」「なぜ僕たちに作用しているのか」とそれを説明するのが難しいだけのことで。

 水はなぜ流れるのか――という疑問一つとっても、それを完全に説明するには、「水とは何か」「流れるとは何か」という定義から始まり、「エントロピー増大の法則」や「ゆらぎ」を経由して、ミクロへと向かい、マクロへと広がり、そして最終的には「何とは何か」という哲学へと集束していく。

 よくは解らないけれど、たぶん、そんな感じなのだろうと思う。突き詰めていけばゆくほど、考えれば考えるほど、学べば学ぶほど、僕はどんどん頭がわるくなっていく。解らないことが増えていく。

 この世がいかに未知に満ち溢れているのか、とそのことを思い知らされるのだ。

 ともかく――モノすごく当たり前のことでも、それを説明するために巡らせる思考というのは、とても膨大で多角的で、なおかつ複合的なのだ。

 僕という人間が存在していることは当たり前のことだし、とても単純な事柄なのだけれど、どうして僕は存在していられるのか、なぜ僕は僕なのか、を説明するには、膨大な言葉と、時間と、労力を要する。それでも完全な説明なんてできないと思う。それと同じことなのだ。

 ただ僕の場合、「当たり前の現象」に「解釈」をつけるのではなく、「解釈」から「現象」を想像しなくてはならなかったことが、大きな弊害となっていた。

 観測できないことを僕は認識しなくてはいけなかったのだ。

 喩えるならば、宇宙の外側を認識しなくてはいけないのと同じことだろうと思う。それくらい難しかった。さらに言い換えるならそれは、江戸時代のひとを相手に、携帯電話の仕組みを現物を用いないで説明して聞かせているに等しい状況だった、といまになってはそう思う。

 ところで――。

 僕が耳にたこができるほどノドカから聞かされた説明というのは、ミタケンさん風に言ってしまえば――『僕たちはそれぞれの家の窓から外の世界を眺めているような存在だ』ということだ。(ミタケンさんのこの比喩は僕には想像しやすかった)


 まず、僕たちはそれぞれがそれぞれに、自分の家を持っている。

 大抵、どの家の窓も一つしかなくて、それもほとんどの窓が同じ方角を向いて開いている。言うなれば、みんなが自分の家の窓から、空にある花火やお月さまを観賞しているような感じだ。

 だから、窓から視える風景は、どの家から眺めてみても大差ない。ただ、家の建っている位置や、窓の大きさなどが違っているから、風景の視える角度や、視える範囲は、家ごとにそれぞれが僅かに異なっていたりする。僅かな違いだけれど、たしかに違って視えているのだ。

 でもやっぱり窓から視える風景は、大体はみんな同じ。どの座席から映画を観ても、観ている映像が同じなように、視えている風景それ自体は変わらない。

 家のなかは、それこそ住んでいる人それぞれに、置かれている家具はちがうし、飾られている小物や、部屋自体のデザインもちがう。整理整頓されている家もあれば、混沌としている家もある。完全に千差万別、色取り取り。

 この喩えの場合。

 

 家のなかの世界が〈自分の世界〉となる。

 個人個人がそれぞれに持つ世界――学名〈レクス〉

 心だとか精神だとか、人格や個性に大きく関わっている〈世界〉だ。


 つぎに。

 家の窓から視える風景が『大勢が共有認識している世界』となる。

 みんなが同じように観ている世界――学名『プレクス』

 社会や現実、常識や事実と呼ばれる僕らの共通認識を生みだす『世界』だ。


 そして最後に。

 窓の外に広がる世界が《本物の世界》だ。

 唯一無二の偉大なる世界――学名アークティクス

 通常僕らはその一部しか認識することしかできない。

 〈レクス〉や『プレクス』、それら全ての世界を包括している《世界》でもある。


 〈レクス〉の説明はとくにいらないだろうと思う。この瞬間に、僕が感受している世界。視ている世界。聞いて嗅いで、触れて、味わっている世界。僕が生まれたときから知っている世界だ。通常、人はみな、〈レクス〉で生きている。そこから出ることも出来ないし、人を招き入れることもできない。

 そういえばミタケンさんは、「人はみんな引きこもりなんだ」と自虐的に笑っていた。いま思い起こしてみてもやっぱりおもしろい人だ。


 窓から視える風景『プレクス』というのは、それこそ映画を観ているみたいに断片的だし、局所的だ。限られた世界。《アークティクス》の一部分。映画のなかに入り込んで、映像を自由自在に、立体的かつ多角的に展望することが叶わないように、そしてまた、触れることが叶わないように、『プレクス』はいつもそこに視えているのに、その存在が不明瞭なものなのだという。フィクションなのかノンフィクションなのかの判断がつかない。でも、大多数の人たちは、その『プレクス』を現実だと認識している。

 実際には窓の向こう側には広大で壮大な《世界》が広がっている。けれど人は、〈家の中〉から出られないから、《外の世界》がどれだけ広いのか、どんな場所なのか、を知ることができない。自分の家の窓から視える範囲でしか、《外の世界》を認識できないのだ。

 みんなは《外の世界》だけじゃなく、家から出ることもできない。だから、ほかの人の家に入ることも無理だし、ほかの人の『家の窓から視える風景』も知ることができない。

 もしかしたら他人の家の窓からは、自分が視ている風景とはまったく異なった『風景』が展望できているのかもしれない。そう考えても、それを確かめることはできないのだ。

 つまり、『自分の家の窓から視える風景』と、『他人の家の窓から視える風景』が、どの程度異なっているのか、を知ることはできないということ。社会と自分がどの程度ずれているのかを知ることがままならないのと似ている気がする……なんだかちがう気もするけれど。

 要約すれば――〈レクス〉と『プレクス』は、必ずしも一致しない。

 ただし、概ね同じだから、微妙な差異はほとんど無視してもいい。

 例えば、窓から富士山が視えていて、その麓に大きな湖があったとして、他人との会話のうえでは、「あそこに富士山がありますね」「そうですね。湖も視えますね」と会話が成立する。でも、一方にはその富士山の後方に太陽が覗いて眩しいのだけれど、一方ではその太陽は富士山の影になっていて眩しくない。その程度の差異が往々にして引き起きているようなのだ。

 自分が自分である以上は、主観から脱して物事を視ることも感じることも考えることすらもできない――とそういうことらしい。

 当たり前と言えば、当たり前だけれど、実はそれが当たり前ではなかったとしたら――きっと誰もが驚くだろうと思う。(捻くれ者の僕は驚くことをせずに、ただ単純に信じなかったのだけれど)

 

 通常、僕らにできることといえば、自分の『家の窓から視える風景』を、目を凝らすようにして、集中して、より鮮明に捉えることと、〈家の中〉を飾りたてて潤色することぐらいが関の山だ。

 あとは、他人の〈家の中〉を想像して、そしてその他人の『家の窓から視える風景』が自分の視ている風景と同じであることを望むくらいで。

 それが「普通」と呼ばれる人のすべてだ。

 でも、そうじゃない人たちもいる。

「当たり前」――の例外的存在。

 それが、パーソナリティ保持者――つまりが、僕たちだ。

 たとえば、家の窓がみんなとはまったく別の方角を向いていたりする場合。

 この場合、『窓から視える風景』はみんなとは大きく異なることになる(でも、大きく異なっているだけで、同じ部分もある)。

 また、〈家〉が高層マンションだったりする場合。

 その場合は、『みんなの家』を俯瞰的に一望できたりするし、より広域の《本物の世界》を〈家の中〉から展望できる。

 そして、マンションの階層ごとに、展望できる風景も異なっている。もちろん、『みんなの家』と同じ視点から世界を視ることも可能だ。

 僕らは、保持者ではないみんなよりも《本物の世界》を視ることができるし、より『みんなとちかい景色』を眺めることもできる。

 さらには、

 〈自分の家〉から飛び出せる、より特別な者たちもいる。

 アークティクス・ラバーがこれにあたる。

 彼らラバーのなかには、〈自分の家〉から飛び出して、出歩ける範囲で《(よりアークティクスに近い)世界》を感受することのできる者がいる。また、〈他者の家〉に入り込める者もいるのだという。

 そんな逸脱している者たちのなかでも、極めつけは、【自分の家を持たない者】だ。

 そういった者は、《外の世界》が〈自分の家〉そのものとなる。

 つまり――。

 《アークティクス》それ自体が〈家〉である者。

 《アークティクス》と〈レクス〉が同義である者。

 【ゼンイキ(オール・エリア)】と呼ばれる存在だ。

 特別な保持者のなかの、さらに特異な――選ばれしアークティクス・ラバー。

 僕たちが〈自分の家〉を好きに飾り付けることのできるように、その者もまた、《本物の世界》を変質させることができるのだという。

 けれど、《本物の世界》が変わってしまえば、みんなの『窓から視える風景』も変わってしまうわけで、そうすると、多くの者の〈家の中〉をも変えてしまうことに繋がる。大抵の人間は、『家の窓から視える風景』に合わせて――すなわち、『プレクス』に影響されて――〈家の内部〉を装飾する。『窓から視える風景』がきれいな雪山なのに、〈内装〉を密林のように飾り付ける人は少ないだろうし、壁の色が黄色なのに白く変色するカメレオンがいないのと同じ理由だ。

 もちろん、【家を持たない者(ゼンイキ)】は、〈他者の家〉に入り込むこともできる。また、窓から死角になっている〈他者の家〉の周囲に張り付いて、その〈他者の家〉に対して悪戯描きや破壊行為を行える。

 自分では視ることのできない〈自分の家〉の外壁も、〈他者の家〉からは視えるわけなのだけれど、他人から、「キミの家の壁は汚れている」だとか「毀れている」だとか、そんなことを言われても、〈自分の家〉を馬鹿にされているという意味に捉えられてしまうのが常だろう。それは、多くの者が、〈自分の家〉が汚れていることを視認できないからだし、毀れていることに、内側からは気付けないからだ。

 自分の顔を視たことがない者が、自分の顔についたシミに気付くことは稀だ。そのことと同じだ。自分では、〈自分の家〉を外側から視ることができない。なぜなら、〈自分の家〉からは出られないのだから。

 ――人は主観から脱して世界を視ることはできない。

 ただし、【ゼンイキ】にはそれが叶うのだという。

 それが可能な、例外的存在。

 主観と客観を並列化できる存在。

 世界を操る異形の者。

 【家を持たない者(ゼンイキ)】や、外に出られる者(アークティクス・ラバー)たちは、〈自分の家(レクス)〉から出られない多くの者に対して、より優位に接することができる。しかも、その優位性を、保持者でない多くの人々はまったく知らない。

 なぜなら彼らは、〈家〉から出られることを知らないからであるし、〈家〉から出られるわけがない、とそう信じて疑わないからだ。ともすればそれは、『窓から視える風景(プレクス)』が、窓の外のすべてだと、そう信じているに相違ない。または、部屋に飾られた絵画の一つといった程度の認識なのかもしれない。

 〈自分の部屋〉そのものが世界そのものだと、みなはそう思い込んでいる。

***

 ミタケンさんは何度も、唐突に僕のまえに現れては、色々と様々な話をしてくれた。それは、ノドカが僕へ、必死に理解させようとしていた「ダブルバブル理論」についてだったり、または、まったく関係のない世間話だったり――ノドカがどんな任務を熟していて、それがどのように重要でどんなに危険な仕事なのか。そしていつも最後には、「ノドちゃんが困っているときには、本当の意味で助けになってあげられるのは弟くん、キミしかいないんだよ」といったなんとも曖昧な忠告を朗らかに説いてくれた。

 けれどもう、三年以上も逢っていない。

 

 彼は離反者だった。

 人を殺したのだと聞いている。

 アークティクス・サイドから逃げ出した者。

 組織から離反した者。

 裏切り者。

 

 離反者は厳罰に処させれる。

 ――『処分』される。

 

 離反者が生き永らえることはないと聞く。

 けれどその噂が、僕を動揺させるには及ばなかった。

 死んでいようと、

 生きていようと、

 ――逢えないことに、変わりはない。

 今日も一段と冷え込んでいる。

 秋の冷たいこの風は、もうすぐ冬を、引き連れてくる。




 +++第七章『千切れた絆はたゆまない』+++

 【なぜ影ができるのかって? そうじゃないだろう。なぜ明るいのか、それが問題なんだ】

 

 

   タイム△△スキップ{~基点からおよそ四カ月後~}


 ***コロセ***

 所定のベンチで一日の大半を過ごす僕の日常は、一見すれば以前と変わらない、ただ自堕落な奔放そのものであったのだけれど、それでも「ここ一カ月間という時間の経過のなかに身を置いていた限定的な僕」に関して言えば、それは心休まることのない、ただひたすらに、経過した時間がそのまま僕の内へと加算されて詰め込まれていくような、どんよりと心中を重くしつづけるだけの、息の詰まるような一カ月だった。

 一言で表すれば僕は、彼女、小春ひよりに恋焦がれていた。

 ――恋煩い。

 バカらしい、とさすがの僕も思った。この世の全てがバカらしいと常に思っている僕にとって、バカらしいことが常であるのだから、それはつまり、僕にとってこの世の中には「バカらしい」モノなんて一つもないことに等しかった。

 均一化された価値など、価値がないのと大差ない。

 全ては最初に差異化ありき。同じものは同じもの。水に水を足しても水にしかならない。水に溶け込んでいるそれぞれの水分子には、水という「均一化された個」に混じっている限り、そこに意味も価値も生じない。だから、全てがバカらしいモノだということは、全てが等しく無価値だということで、そこには卑下も欲も情もなにも生まれない。虚無。

 ――ニヒルね。

 コヨリの言ったことは、そう、きっと正しい。僕はニヒルだ。それも、とびっきり卑屈な。

 それにも拘わらず僕は、僕がバカらしかったのだ。バカらしいと思うようになってしまった。

 自分だけを特別扱いするのは頂けない、と思ったりもして、だから僕はきっと、小春ひよりのことも特別視しようかと考えあぐねた結果の「恋焦がれ」なのかもしれない。

 ああ駄目だ駄目だ。

 論理破綻している。こんなのは子どもの言い訳だ。

 小春ひよりを特別だと意識しているから僕は恋焦がれているわけで、その恋焦がれている結果に僕は、「僕って奴はバカらしい」と思ったのだ。僕が僕をバカらしいなんてそんな特別視した感慨を抱いている要因は、コヨリなのであって、「バカらしい」と感慨にふけっているからコヨリを特別視しているわけではない。まったくの逆なのだ。

 コヨリがいて、恋焦がれている僕がいて、そんな自分をバカらしいと卑下することでニヒルから脱却している僕がいる。

 それゆえに、決して、

 脱却している僕がいて、ニヒルに戻ろうとする僕がいて、だからコヨリに恋焦がれているわけではない。

 前提と結論の逆転。

 たとえば――細切れにしたいから殺したのか、殺してしまったから細切れにしたのか。どちらも死体が細切れた事実は変わらないけれど、それでもその過程は大きく異なる。

 人間の騒いでいる大抵の物事は、結論ではなく、結論に至るまでの過程を重要視しているように思う。どうしてそうなったのか、どうすればそうなるのか、を説明するためだけに労力の大半を費やす。結果は同じだというのに。いや、結果を変えたいがための過程なのだろうか。

 ああ駄目だ。またこうやって思考のすり替えを試みている僕がいる。どこまでいっても僕は詭弁染みている。

 そう、こんなのは完全なる詭弁だ。無意識からの詭弁だ。自分を自分で騙そうとしている。何から何を騙そうとしているのか。

 僕は彼女に愛想を尽かされた。興味を失くされた。見捨てられた。捨てられた。

 ――僕はコヨリを失った。

 たぶん、きっと、僕は、そう思いたくはないのだ。

 いや、そうなったときのことを考えて、だから僕は、そのときのじぶんが深く傷つかないようにと、保身のいい訳を見繕っているのだろう。

 僕は別に、彼女なんて好きではなかったのだと。

 僕は僕のために、彼女を利用していただけなのだと。

 そうやって自己弁護を構築しようとしているだけなのだ。

 バカらしい。そう、これこそが、もっともバカらしい。

 結局は堂々巡り。どこかが捻じれている。反転して、また反転。ふたたび元の場所へと戻っている。クラウンの壺でもメビウスの輪でもなんでもよいのだけれど、僕は延々とこうしてうじうじと渦巻きながら落ちていくように、自己の裡へと孤絶に向かっていく。

 ベンチの背後に生えるケヤキの木は、すっかり紅葉している。

 日差しは温かい。でも、風が冷たい。気温も上がらない。だから余計に日差しが温かい。

 どこまでも高く澄んだ空は、風邪をこじらせそうな僕へ、冷たい風を保冷剤のように吹きつけている。孤独な僕としては、親切な秋風に感謝を表明したいくらいだったのだけれども、僕にとってはありがた迷惑な風には違いないのだけれど、いつだって親切にされるというのは、「お前は軟弱だ」と突き付けられているような気がしてくるから感謝するのもちがうように思う。

 保冷剤のような親切な秋風も、軟弱な僕には冷たすぎる。

 風の音が静かだった。

 風の音が僕に静けさを教えてくれていた。

「あ」

 と声がして、続いて、

「どうして」と声は言った。


 ――どうして、こんなところに。


「――こんなところにナルシストが」

 などとわざとらしく台詞を吐いてから、城門努樹は、時代遅れな携帯電話みたいな機器で写真を撮った。時代遅れな携帯電話じみたその機器は、どうやら便利な機能が沢山いっぺんに搭載されているらしかった。それを用いてベンチに座っている僕を撮ったのだ。不意打ちならぬ不意撮り。

 やめてほしい。

 さらに努樹は何枚かつづけて僕を撮った。

「哀愁なのか陰気なのか、うーん。判断に困るな」ディスプレイを眺めなら努樹は、僕のとなりに腰掛けた。

「消してよ。写真は苦手なんだから」

 へえ、と努樹は僕から遠ざけるようにその機器を仕舞った。「知っているか? ナルシシズムに溺れているやつは勝手に写真を撮られることを嫌うらしい。変に映るのがいやなんだな。撮られるならびしっと、しっかり映りたい。そんな心理がはたらくのだそうだ」

「そんなんじゃないやい」

 努樹の蘊蓄なんてどうでもよかった。ああ今の僕、すごくヤな奴。

「ならどうして苦手なんだ? 写真」努樹は足を組んだ。

「魂を盗られるから」

「魂なんて撮れないぞ」映らないって、と努樹は哄笑する。「そもそも魂なんて存在しない」

 そういう意味じゃなかったし冗談のつもりで口にしただけだったのだけれど、訂正するのも面倒くさい。ああ今の僕、すごくダメな奴。


 しずかだ。

 平穏なのだろう、ここは。

 僕の周りは、平安なのだろう。

 となりに努樹が座っているだけで、風が妨げられて、僕を凍えさせていた冷気が緩和されている。となりに誰かがいるだけでこうも心地よくなるものなのだな、と感慨深くなった。

 努樹が口をひらくのを待つあいだ、僕は自分がいかに恵まれているかを考えてみた。思考は一気に展開する。

 むかし、ノドカに頼んで外の社会の新聞を持ってきてもらったことがある。オームシックに罹った時期だ。新聞の記事には、日給一円以下でカカオを収穫している子どもたちのいる国があるらしいことが書かれていた。その子どもたちは、自分たちの収穫しているカカオという種子が、一体このさき、どのような食べ物となって出荷されるかを知らないという。彼らはチョコレートを食べたことがないのだ。それどころか、チョコレートというオヤツそのものを知らないのかもしれない。豊かな社会を辿っていくと、その豊かさの末端にあるのは、ひどく歪んだ、社会に弾圧されている社会なのだ。

 一方で、ひどく貧しいながらも、自分たちが弾圧されている事実に気付かない者たちもいる。そういった国では、貧しいことが当たり前であり、ほかの国ではもっと貧しいのだと教えこまれているのだという。

 また、水が飲めなくて脱水症状で死んでしまうのが日常の一部となっている国では、世界のどこかに、実質タダで奇麗な水が飲めてしまう国があることすら知らない民が決して少なくないとあった。たった一杯の水が飲めないだけで死ぬことを、当たり前の死だとして受け入れている国があるのだ。

 そういったいつも身近に「死」を置かれているような、不便で危険な環境で生活している彼らのことを、僕はとても可哀想だと思っている。

 でも、こうも思うのだ。

 人は幸福を知っているからこそ不幸になるのではないのかと。

 ならば、幸福というものを知らない不幸な者は、実は、世界で一番幸福な者なのではなかろうかと。

 たしかに僕からすれば不幸に思えてしまうそういった者たちが、僕にとってはとても可哀想な存在なのだと同情してしまうのだけれど、でも、その当の本人たちは、はたして自身が不幸だと知っているのだろうか。不幸しか知らない者にとって、不幸なことこそ日常であり、それはその者にとっては不幸ではないのではないか、と僕は不意に思ってしまうことがある。

 ――僕が自分をそこまで不幸なのだと思っていないのと同じように。

 でも彼らを見て僕は、「ああ彼らは不幸だな、可哀想だな」と反射的に思ってしまうのだ。たといその者が、自分は不幸なのだと思っていなくとも。

 なにが言いたいかといえば、もしかしたら僕は、幸福を知っているがために不幸を手にしてしまっている本当の意味で不幸な者なのではないか、ということだ。

 たとえば――仮に、世界でもっとも不幸な者がいたとしよう。彼は、生まれたときから、幸福というものにはまったく縁がない。それでもそうして「生」を途切れさすことなく生きてこられたのは、ある意味では幸福なことだと思うし、またある意味ではやはり不幸なのかもしれないとも思う。生きている限りは、苦痛を感受しつづけてしまうのだから。

 ここで僕が疑問に思うのは、果たして彼は、自身が不幸なのだと知っているのだろうか――という彼の主観についてだ。

 生まれたときから幸福を知らずに生きてきた者が、どうして不幸を知ることができるだろう。

 不幸を知っているからこそ、これが幸福なのだ、と僕たちは思い込み、過去の幸福と対比させることで、今は不幸なのだ、と悲観し、嘆く。

 だとすれば、幸福を知らない彼は、不幸を知らない、幸福な者ではなかろうか。

 僕たちは幸福を知ることで、不幸を得た、不幸な者ではなかろうか。

 これまでずっと苦痛のなかで生きてきて、その苦痛こそが日常なのだと思っている者が、果たしてその日常を「不幸だ」と嘆くだろうか。たしかに不満は抱くだろう。けれど不満は、こんなに満ち足りた生活に入り浸っている僕だって抱く、人間としての性だ。

 僕の抱く不満はきっと、傲慢と同義なのだろう。

 そんな傲慢に苛んでしまう僕って、もしかたら、とんでもなく不幸な者ではないだろうか。

 とそう思うのだ。

 結論として僕が言いたいことは、最初に言ったように、こんなふうに自分が不幸かもしれないし幸福かもしれない、といった究極的にどうでもいいバカバカしい考えを、命の危機という最重要事項から、はるか遠く離れた、日向の気持ちの良いベンチのうえで、のうのうと滔々と巡らせている僕という卑小な存在って、本当にどう仕様もなく、とてもとても恵まれているよなあ――という間抜けた考察だ。

 まこと贅沢だとしか言いようがない。

 この程度の思考は、脳内では数十秒で終えてしまうような短い思索なのだけれど、それを言葉として換言すると、結構な時間と労力を要する。さらにそれを他者へ伝えようなんてした際には、僕はとんとやる気を失ってしまう。

 僕は思うのだけれど、

「想い」を伝えるのはわりと簡単――泣くか笑うか喚くかすればいい。

「理屈」を伝えるにはひと苦労――言葉を尽くせば何とかなりそうな気もするけれど、やる気は起きない。

「概念」を伝えるのだと四苦八苦――抽象的な説明は、抽象的な言葉を遣う時点で限界が定まっているように思う。

「僕」を伝えるとなれば艱難辛苦で七転八倒――一生を費やしてもまだ難しいかもしれない、と悲しくもなるし、虚しくもなるし、または、そんな簡単には理解されない、という意味で救われる気もする。

 けれど、

 努樹や小春ひより――彼らを知るのは別に苦にならない。

 いや、この際、まったく苦にならないと言ってしまってもいい。

 どうしてだろう。不思議だ。

 と、僕の思考はいつの間にかまったく別の方向へとワープしている。飛躍とはちがう。僕のなかではどこかで繋がっていたのだと思う。それが何なのかは、答えられないのだけれど。

 今のところ、僕は僕が一番不可解だった。

 僕にとって一番信用できないものが僕なのだ。曖昧すぎる。矛盾し過ぎている。自家撞着の塊。全然一貫していない。ぐにゃぐにゃに曲がりくねって形が定まっていない。ついにはそこにあるものが一体なんなのかが解らなくなってくる。

 さっき努樹は僕に言った。

 ――お前はナルシストだな。

 けれど僕には自己愛なんてこれっぽっちしかないのに。ほんのすこしのこれっぽっちしかない自己愛で、僕は僕として生きつづけている。生きつづけることができている。

 ねえ努樹。

 僕はさ、ナルシストなんてそんな立派なものじゃないんだよ。

 努樹の揶揄は的外れだよ、と努樹のほうを向いた。

 努樹は腕を組んで、あごを引き、何か深く考え込んでいる様子だ。

 帽子のつばが影をつくっていて、まるで努樹が眠っているみたいだった。

 というか、

 ――眠っていた。

「ちょっと」と努樹を小突く。「ねえってば」

「んん……」と気色わるくも、かわらしい声を努樹は発した。「あれ、寝ちゃってた?」

「僕は起きてるけどね」と厭みが口を吐く。

「ああ、ちくしょう。油断した」努樹は帽子の隙間からゆびを差し込んで頭を掻きながら、おっかしいな、と大袈裟に悔しがった。「おっかしいな。どうして寝ちゃたんだろ。うん、疲れが溜まっていたんだろうな」と弁解気味に言って、「ごめんなコロセ。でもさ、ここは日向が気持ちいいんだ」

 日向がわるいんだよ、と責任転嫁を目論んだ。

「寝惚けてんの?」小さく噴き出してしまう。「テンションおかしくない?」

「ん? う~ん。まだすこし頭がくらくらしてる。コロセも知っているだろ、私は目覚めがわるいんだ」

 むかしの努樹はそうだった。現在も相変わらずのようだ。寝起きの努樹はどこか幼稚だ。退行、というやつだろうか。この幼い努樹が僕はわりと嫌いじゃない。

「そうだね。日向がわるいね」僕は和んだ。

「えっと。なにか考えていたような気がするんだけど。なんだっけ。えっと、何だっけ? 私はコロセと何を話してたんだっけ」

「知らないよ」僕が知るわけがない。

「ああ、そうそう」思いだしたようで努樹はなんでもないような調子で、「今日、久々にコロセん家泊っていいか?」と言った。

「僕の?」

「そうコロセん家。どうせまだあのガラクタに住んでるんだろ?」

「そうだけど……なんで?」

 僕の住処が置かれている超小型ステップであるところの零一六号棟は、そのあまりに凡庸過ぎるデザインゆえに、「ガラクタ」の異名を誇っている。

「別にどこに住んでたっていいでしょ? 僕みたいなガラクタが済むにはガラクタが似合うんだから」

「なんでって――むかしはよく泊ってただろ。三年振りの再会の記念にさ、多少控えめに懐かしの『あれ』でもしようかなって」

 僕の自虐はあっさりと流された。愛しのコヨリちゃんならきっと、「骨董品とガラクタのちがいってなんでしょうね」と切り返してくれたに違いない。ああ今の僕、すごく気持ちわるい。

 思考が散漫になりつつ、「あれってなに?」と訊き返す。

「柿の種パーティだよ」よくやっただろ、と努樹は屈託なく笑った。

 ――柿の種パーティ。

 懐かしい。

 懐かしいのだけれど、思いだすと僕は途端に辛くなる。あのころのことを思いだすと、ノドカのことを、あのバカ女のことを、身勝手過ぎる我が儘な、我が姉のことを思いだすだけで僕は、途端にやるせなくなる。僕は緘黙した。

「駄目ならいいんだ。すまない」

 なかなか僕が応えないので努樹は遠慮がちに引きさがった。笑みを浮かべていたにも拘らず、努樹のその声があまりにも寂しげだったから僕は思わず、「だめじゃない」と応えていた。

「だめじゃないよ。そうじゃなくって、最近あんまり家に帰っていないから、汚いんだ」

 部屋がとっても汚いんだ、と釈明した。

「ふうん。でもな、コロセの家が奇麗だったためしなんてないぞ」努樹は揶揄するでもなく純然たる事実として口にしているふうだった。「汚いのなんて関係ないって」


 努樹たちのように設備の整った家に住む者たちは、自分で家のなかを掃除することがない。二十四時間経つと、部屋は自動的に整頓されるシステムになっているらしいのだ。道具や小物や本などといった物が一定時間経過すると、納まるべき場所へと自動的に収まっている。そういったシステムがそれぞれの家具や物に装備されているのだ聞いている。

 形状記憶合金という代物があるが、それと同類の、「環境記憶合金」という魔法のような代物が、ここアークティクス・サイドにはあるのだという。一定の時間が経過すると、記憶している環境(場所)に戻ろうとするのだそうだ。

 僕はその、部屋が綺麗になる瞬間、を残念ながら見たことがない。なぜなら、僕の住む家にはそういった便利な機能が備わっている家具や代物がないからだ。でも、使ってから二十四時間後に元へ戻るということは、僕が想像しているように、ぴったりその時間になったら一気に部屋が奇麗になる、ということではないのかもしれない。同時にすべてのモノを使うわけではないのだから、使用時間にもバラツキがあるのだろう。使った物がいつの間にか元の場所に戻っている、とその程度の違和感しか抱けないのかもしれない。

 とにかく、未だに僕には知らないことが沢山あった。それもこれも、あのバカな姉のせいなのだ。思いだしていると胸をくすぐられたようにおかしくなってきた。すこし気持ちが朗らかになる。


 あのころノドカは僕へ嘯いた。

「いいかい少年。自分の住みかの掃除は動物だってするんだ。でも人間は、自分のもの以外の物も片づけることができる。そうやって人間はほかの動物よりも頭ひとつ分、賢くなれたんだ」とそんなふうにノドカは、らしくもなく、やけにお姉さんっぽいことを言った。

 続けて、

「人間、自分で使ったものは自分で片づけると同時に、誰かのものもついでに片づける。整理整頓ってのはだね、自分以外のひとのためにするものなのだよ。なぜかと言えばだね少年、自分だけのためなら、散らかっていようが汚らしかろうが、どこに何があるかを知っていれば、それは整理整頓されていることになってしまうっしょ? だから、整理整頓はだね、人間だけができる、とっておきの思いやりの行為なのさ」

 とかなんとか、感動的な、ますます以ってノドカっぽくないことを謳ったあとに、でね、と胸を張ってこう結んだ。

「でね、あたいはそういった、とっても人間らしい、立派な弟が欲しい」

 言い張ってノドカは、いま思えばどこかおかしい理屈を大義に掲げ、便利な環境記憶合金の練り込まれていない物資ばかりを部屋に置いた。

 その結果、いつだって部屋は散らかっていた。ノドカはいつだって僕にばかり片づけさせようとした。自分ではちっとも掃除をしようとしなかったのだ。僕が、理不尽だ、と訴えてもノドカは、「バカを言っちゃいけないよ」と反駁した。

「バカを言っちゃいけないよ少年。あのね、あたいはだね、クウちゃんが整理整頓のきちんとできる人間にするために、あえて片づけないのだよ。嫌々ながらも、甘んじてこのきちゃない部屋で過ごしているわけ。いいかな少年、あたいはね、ホントは片付けたくってうずうずしているんだよ? 本当のホントはすっごい綺麗好きなんだよ? でもでも、クウちゃんのことを思えばこそ、こうやって散らかしっ放しにしているのさ」

 そうして、イシシ、と笑いながらノドカは僕に洗濯物を渡してきた。ブラジャーだのパンツだの、そういった、正常な思春期の男子ならば多少興奮してしまいそうな蠱惑的な衣類も、僕にとってはただただ不遜で不潔な、バカ姉の下着でしかなかった。

「このくらい自分でやってよ」

 言ってその衣類を投げ返した。

 ノドカは衣類に塗れて、「クウちゃんのケチンボ」と唇をすぼませた。

 どっちが、と怒って部屋から出ていくのだけれど、その数十分後に戻ってみると、僕が投げ返した衣類はそのまま床に散乱しているのだ。

 結局、僕は不承不承、致し方なく、溜まった姉の衣類を洗うのだった。とは言っても、洗濯なんて、衣類を万能洗濯機に投げ込めば一瞬で終わるので、あとは取り出して畳むだけなのだけれど。それだけの労力を押し付け合うために、僕らはいつも、それ以上の労力をかけて言い争っていた。本当、なんとも健全な姉弟ではないか。(ちなみに、一般的な洗濯機は、衣服を畳むところまで仕上げてくれる。けれどガラクタにある洗濯機はそこまでの機能はついていない。だからこそのガラクタなのだ)


「むかしよりは汚くないよ」安心して、と僕はおどけて言った。「ああでも、努樹からしたら汚いことには変わりないと思うけど」

「だから言ってるだろ、私は気にしないんだって。部屋が汚いとか、コロセの顔が醜いだとか、そんなのは関係ないんだ」

「そっか。ならいいんだけど」

 おやおや。なんか今、どさくさに紛れてひどいことを言われた気がしたけれど、でもたぶん、聞き間違いだろう。続けて僕は提案した。「なら、今からウチに来る?」

 きっと今日もコヨリは来ないだろう、と僕は諦めていた。

 ならば今日はこのまま努樹と一緒に帰ろうと思った。

「ああちょっと待ってな」努樹は上着をあさって、例の時代遅れな携帯電話じみた機器を取り出す。「えっと、ああそうそう。これからいったんあっちに戻って、やらなきゃならない手続きがあるんだ。それを終えてから行くよ」と立ち上がった。

「来るとしたら何時くらいになる?」

「そうだな。んと、三時間後くらいかな」努樹は破顔して、「食材はまかせとけ。だから料理はまかせた」

「ええ……」面倒くさかった。「ならどっかで買ってきてよ」

 買うと言っても実質タダでもらってくるわけなのだけれど、僕はそれを「買う」と表現している。お金を払わずに物を貰うことについて後ろめたい気持ちが未だに抜けないのだ。いや、違うのかもしれない。誰にも何ものにも貢献していないのに、ずうずうしくも潤沢で便宜な恩恵を受けている自分が僕は嫌なのだ。だから、すこしでも誤魔化そうと、そうやって「買う」と表現するだの、「必要以上に食べない」だの、無駄なことをしているのだろう。そうやって自己弁護を形成しているのだ。つくづく僕はバカだな、と思う。

「もらってくるのは駄目だ」と努樹は僕の提案を却下した。「もらってくるくらいなら私が作る。だから、コロセは横で見ていてくれ。美味しくなるように横からアドバイスもくれたら私はうれしい」

「二度手間じゃん」だったら最初から僕が作ったほうがいい。「そもそも努樹って料理できなかったでしょ。無理しなくていいよ」

 心外だと言わんばかりに、なにを、と努樹は柳眉を逆立てた。「これでも修行したんだぞ。この三年間で、いくらかは」

「なんの修行?」とからかってみた。「冷凍食品の作り方?」

「ふつうの温かい料理に決まっているだろ」努樹はムキになった。

「なら料理は任せます」と重ねてからかってみた。どうしよう、今の僕、すごくイジワルだ。

「いいよもう」つっけんどんに努樹は言った。「どうなっても知らないぞ。コロセは私の修行がどれだけ過酷だったかを知らないだろうから言っておくけどな――なにを混ぜたか覚えてないけど、私のパーソナリティでも鎮静化できないくらい、おっきな火柱が上がって、そしたら、何やら得体のしれない紫色に見えるヘンテコなガスが立ち込めはじめて――もうな、もうな、すごくこわかったんだからな! そのせいでな、私がそんとき住んでた家は、第二級隔離指定までされたんだぞ」

 ――と懺悔なのか自慢なのかの判断に困ることを真摯に訴えてきた。

 火柱に毒ガスに隔離指定。

 どんな料理だろう。見てみたい気がしないでもない。

 第二級隔離指定がどの程度すごいことなのかは無学な僕にはピンとこないのだけれど、どうやらすさまじい結果になったようだ、ということは努樹の涙目を見てよく解った。というか泣くなよ。どんなトラウマだよ。無理しないでよ。

「なにも泣かなくとも」と慰めると、努樹は、「泣いてない! 誰が泣くかバーカ!」とぽろぽろと涙を溢した。

 そこまで悲惨な事故だったのだろうか。

 まさかとは思うが、努樹の額の傷はその際に負った傷だったりするのだろうか。

 いやまさかな、とそう思っていると努樹は涙を拭って、「見ろよこれ」と帽子を取り去った。

 前髪を持ち上げて、掲げるように額を突きだす。

「見ろ、このおでこを、この傷を! これはな、私がその際に………………必死に炎と戦ったときに負った傷だ!」

 そのまさかだった。なんてお間抜けな傷なのだろう。僕は冷静に、呆れた視線を努樹へ向けた。

「私のパーソナリティの限界を駆使して、その炎を止めようとしたんだ」止めようとしたんだよコロセ、と努樹は頭を抱えて蹲った。

「それで?」と話を促す。なんかこの努樹は見ていて面白い。「止めようとしてどうなったの?」

「止めようとしたらな、消炎システムが発動して、私ごと炎を吸い込んだんだよ」天井にあるプチプチの穴ぼこが、と努樹は声を萎めた。「水玉模様だと思っていたアレが、あんな恐ろしいモノだったなんて……沢山ちいちゃな穴が空いているだろ、天井に?」

「いや、ウチにはないけど」

「そっか、ガラクタだからな」と努樹はいらない同情を口にしてから、「あるんだよ、普通は」と教えてくれた。「そんでな、その天井のプチプチがさ、おれごと吸いこんだんだよ!」

「それはさっき訊いたよ」

「頭が天井にゴンってなってな、それだけならまだしも、おれはずっとそこにおでこを吸いつけられつづけて、おでこだけで天井にぶら下がっていたんだ。周りには炎とか煙だとか紫色の気色わるいモヤだとか、そんなのがおれのすぐ横を竜巻みたいになって吸い込まれていってんだぞ。もがくだろ? そこは人としてもがくだろ?」

 その結果がこれだ、と努樹はみたび「おでこの傷」をこれ見よがしに僕のまえへ付きつけた。

 努樹ってば興奮し過ぎて一人称がむかしみたいに「おれ」になっている。

 出会った当初、努樹は自分のことを「おれ」と言っていた。でも、段々と教官たちやノドカといった大人と触れあうようになって、徐々に「私」と言うようになった。いっとき僕も努樹に付き合って、自分のことを「私」と言っていたのだけれど、肩っ苦しくて、ついぞ馴染まなかった。

「落ち着いてよ努樹」と僕は宥めた。こんな一言で落ち着かせることなどできないが、これは暗に『今あなたは興奮していますよ』と相手へ教える常套手段なのだ。「落ち着きなって。解ったから、一緒に料理しよう。それすれば大丈夫でしょ? 大丈夫、僕のウチには天井にそんな化け物みたいな穴ぼこ――水玉模様はないから」

「ホントか!」

 努樹は赤ん坊みたいに破顔した。

 純粋だ。

 純粋なうえに、素直だ。

 僕みたいな性根の腐った人間は素直になってはいけないと思うけれど、努樹のような人間には是非とも素直でいつづけて欲しいな、と真に願う。

 帽子を被り直して努樹は、「食材はまかしとけ」と親ゆびを立てた。

 以前に僕が教えた、『グッドジョブ』だ。

 でも、努樹……それ、親ゆびの向きが上下逆だよ。

 キミのそれは「地獄へ落ちろ」だ。

 その誤謬を正す間もなく、爽やかな笑顔をひるがえして努樹は、「またあとで」と踵を返した。

 夕日が沈むまで僕は、ベンチに座っていた。

 遠く向こうに聳える壁をただ漫然と眺めていた。

 ベンチを離れるとき。

 僕の代わりに闇が座りはじめたベンチは、なんとなくすこし、寂しそうだった。

 

   ******

「懐かしいな」

 部屋を見渡しながら努樹は、食材の入ったボックスをテーブルに置いた。

「全然変わってないのな」

「そう?」僕は曖昧に答えた。

 こんなにも変わったのに。三年前と現在とでは、まったく違うのに。でもそれを言ってみたところで努樹を困らせるだけだ。努樹の言う通り、部屋の内装は以前とほとんど同じだ。変わっていない。変わるはずもない。だってここには、無気力な僕しか住んでいないのだから。無頓着な僕しかいないのだから。ノドカはもう、いないのだから。

「でも、そうな。前よりは汚くないよ」と努樹は社交辞令としか思えない言葉を吐いた。

 僕は苦笑する。

 どう見たって、この部屋は汚い。

 本当は努樹が来る前に片づける予定だったのに、できなかった。

 努樹といったん別れたあと。

 予期せぬ人物と会遇してしまったからだ。


 四十分ほど前――。

 ベンチから真っ直ぐと、自分の住処であるところの零一六号棟へと僕は向かっていた。

 陽は沈み、辺りは薄暗い。

 学び舎の外れに、ベンチはある。

 ステップのネオンもここには仄かにしか届かない。

 薄暗い影から声がした。

「もう少年ではないんだね」と声がした。

 抑揚のない無気力な声。なんとなく、僕に似た声。

「少し、話をしないか」と影は言った。

「誰……ですか」僕は影へ訊ねた。

「重要な話。そして、大切な話なんだよ。聞いてくれないか」

 弟くん、と声はしずかに諭してきた。

 僕は声に近寄る。影に近寄る。

 そこには、真っ黒いスーツ姿のあの男が立っていた。

「ミタケンさん……」

「そう。いかにもぼくはミタケンだよ。クソッタレのミタケンさ」

 久しぶりだね、と彼は囁いた。

 そよ風のように儚い声だ。

 ――ミタケンさん。

 過去、幾度も僕に親切にしてくれた人。

 過去、ノドカの上司だった人。

 過去、組織を離反した人。

 そして、現在。

 ――彼は殺人者として『R2L』機関から直に名指しで手配されている、最重要危険人物。

 アークティクス・ラバーを殺した元アークティクス・ラバー。

 組織に敵対しているアウトローにして、組織からも敵視されている唯一。

 敵愾心の権化――狂人作りの兇人――そのひとだった。

「ミタケンさん……僕もあなたに、訊きたいことがあります」自分でも不思議なくらいに落ち着いていた。

「うん。弟くん、キミには訊く権利がある。そして、聞く義務もある。さあ、何から話そうか」

 言って彼は、僕の手を掴むと、その影へと引きこんだ。

 僕は一切の抵抗をしなかった。



   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ三年前~}


 ***クウキ*** 

   ***

 あたいは最近悩んでいた。

 何が悩みの種かと言えば、何を隠そう弟のことなのだ。

 親愛なる我が弟について、さくっとまとめてみようと思う。

 【サイドネイム】:クウキ。

 【本名】:ノロイ・コロセ。

 【愛称】:クウちゃん。

 【年齢】:十四歳。

 【オネショ歴】:七歳のときに六回、八歳のときに三回、合計で九回オネショをしたことがある。

 【悩みの種】:最近なんだか姉離れが著しい気がする。

 【とどのつまり】:相手にしてくれなくて寂しい。

 【原因】:城門努樹ちゃん(モンドちゃん)という仲の良いお友だちができたこと。

 【それについての感想】:コロセに友達がいることはとてもうれしいことだし、必要なことだとは思うのだが。(※……え、でもさ、あたいの立場は?)

 【結果】:ヒマだからこんな日記みたいなこと書いてみた。

 【結局】:あたいの言いたいことはですね――コロセのバーカ! ってこと。

 おやおや。天の声が聞こえてきたぞ。

 なになに、だったらこんな日記に書かないで、直に言えばいいっておっしゃるか?

 はん、残念でしたー。もう一万回は言ってます。そして無視されちゃっています。

「ノドカさん。いい加減煩わしいですよ」とかなんとか滅茶苦茶バカ丁寧に言われてしまいました。

 ひどいよ。

 でもクールなコロセも嫌いじゃないんですなこれが。

 あれあれ、もしかして前にあたいが、「モンドちゃんみたいにカックいい弟が欲しかったなぁ」とか我が儘言ったから、だからクールになってくれちゃったのかな? ほうほう、なるほどねえ、そうだったのか。新事実発覚だ。

 おっし。元気になってきたぞ。そろそろコロセが帰って来る頃合いだ。

 今日はコロセの大好物、『お好み焼き風ピザ』だ!

 繰り返す、『お好み焼き風ピザ』だっ!

 有り難く食いやがれよ、と念のためにここに記しておこう。

 さらにこの日記は、コロセには見られないように、慎重に隠しておこう。見られたらお姉ちゃん、恥ずかしくって死んじゃうから。大好きなコロセに見られたら、恥かしくって死んじゃうから。でも、仮に読まれちゃっても、コロセがあたいの望み通りに一緒に遊んでくれたなら、死ななくても済むと思うなぁ。ちなみに明日はあたい、なんと任務がないのだ。要するに、ヒマだから一緒に遊ぼうぜ、ってことなんだ。

 おっし。この日記はきちんと隠しておこう――とその前に、お花を摘みに行こう(本をあまり読まない我が弟のために一応説明しておくと、「お花を摘みに行く」っていうのは要するに、「おトイレに行こう」ということなのだ。あ、でもでもあたいが今からするのは、うんちじゃないよ、おしっこだよ。ここ大事だから)。

 だからして、もしかしたらもしかすると、ここにこの極秘の日記を隠し忘れて、出しっぱなしにしているかもしれないが、それは決してわざとではないので、変な疑いは持たないように。おちゃめなお姉ちゃんが、大事な大事な日記をうっかり仕舞い忘れているだけなので、読んで欲しいだとか、明日一緒に遊びたいなという願望を遠回しに伝えようだとか、そんなんじゃないので。勘違いしないように。

 では。

    かわゆくってカッコいいステキなお姉ちゃんより。

          親愛と信愛を注ぐ我が弟、ノロイ・コロセ様へ。

    ***

 

 読み終わるとコロセはそれをその場所にそのまま、一寸の狂いもなく元通りに置いた。

 さも読んでいませんよ、と思わせるように。

 クリアフィルム型のディスプレイに表示されている文書で、ノドカが創作したことは自明である。

「病気じゃないよね……?」

 本気で姉が心配になった。

 最近になって――ノドカと家族になってから八年が経とうとしている今になって――コロセは彼女が実はかなり頭の切れる部類の人間なのではないか、と認識を改めはじめていた。能ある鷹は爪を隠すし、上手の猫も爪を隠す。それと同様に、ノドカもバカな振りをしているだけではないのか、とふと思うことが多くなった。

 この欲求不満に満ちた日記モドキも、一見すればあからさまにコロセへ向けての催促文書だ。これ見よがしに、「読みなさい」と言わんばかりに、ノドカはこれをリビングのテーブルのうえに置いている。だが、ノドカはこの日記モドキに罠を仕掛けている。

 冒頭のコロセについての記述だ。

 そこに「オネショ歴」というコロセにとって汚名でしかない情報を記すことによって、コロセがこの日記モドキを読んだ場合、見て見ぬ振りができないようにしている。少なくとも思春期の子なら誰だってこんな「オネショ歴」の記載された日記モドキをテーブルのうえになど放置されたくはない、と思うことだろう。だがこちらもバカではないのだ。そんな手になど乗るものか。

 テーブルから離れてソファに座る。

 見計らったように、「あれれ、お帰りクウちゃん。お腹すいた?」

 言いながらノドカが自室から出てきた。

 白々しいな、と思いながらも、「ただいま」と答える。

「よろこべ少年」ノドカはキッチンから叫んでいる。「今日はね、なんとクウちゃんが大好物の――」

 知ってる、お好み焼き風ピザでしょ、とノドカの下手な演技に内心うんざりとした。

「――ドーナツ・グラタンだよ!」

 ピザは!?

 お好み焼き風ピザは!?

 危うく突っ込みそうになった。

 すっと惚けた振りして、この策士め、と声に出さずに称える。

 よろこべ、と言われたのでほとんど反射的に、「わーい」と喜んだ。

 そうこうしていると、突如、部屋の壁が青く変色した。

 来客を知らせるサインだ。音ではなく視覚に訴える仕掛けだ。普段は白い壁が、人が訪れてくると変色する。知り合いなら「青」、見知らぬ者なら「黄」、管理者や職務で来訪してきた者の場合は、夕焼けのように「赤く」壁が変色する。今は青色なので、ノドカかこちらの知り合いが訪ねてきたということになる。

「きたきた」とノドカは小走りで玄関へ向かった。「いらっしゃい。さあ、上がって上がって」

 来客があるなんて聞いていない。

 そう言えば――とコロセは部屋を見渡す。

 今日はまだ片づけをしていないのに、部屋が小奇麗になっている。ノドカが掃除したのだろうか。ノドカが掃除をするところなど想像つかないが、ほかにこの部屋を掃除する者などはいない。ノドカが自ら掃除をするなどと、一体どれほど重大な珍事であろうか。ともすれば、ノドカにとってどれほど大事な来客なのだろうか。

 だれが来たのだろう、と身構える。

 廊下でノドカが喋っている。

「モンドちゃんはドーナツ、好きかな?」

 モンドちゃん――ということは、努樹が来たのか? ノドカが呼んだのか? 何のために?

 そういえば、とコロセは思いだす。

 最近よくノドカは、努樹を連れてくるように、と宣巻いていた。というよりも、コロセが努樹のほうへ行くのではなく、「モンドちゃんがこっちに来ればいいじゃないか」と文句をぶつくさ垂れていた。「三人で遊びたいんだよ、ヒマなんだよ、さびしいんだよ」とノドカは駄々を捏ねていたのだった。

 僕が中々誘わないから、自分で呼んだのだろう。コロセはそう解釈した。

 まあ、努樹なら別にいいか、と思って緊張を解こうとした、そのとき。

 コロセの視界にテーブルのうえのアレが映った。

 そう、オネショ歴の書かれたノドカの日記モドキである。

 これが狙いかあのバカ女、と焦る。

 このまま、あと数秒もすれば、努樹はこの部屋へ入って来る。夕食を一緒にどうぞ、と誘ったのだろう。だとすれば、料理が出来上がっている今、努樹はテーブルへと誘われるだろう。直行だ。そして今、料理の代わりにそのテーブルに置かれているのは――。

 ――日記モドキ。

 ノドカがそれを仕舞うはずもなく、料理が運ばれて来るあいだ、努樹はソレを読むだろう。

 このままではコロセの「オネショ歴」は、もっとも知られたくない相手に晒されることになってしまう。

 頻繁に交流を介している相手に、自分の弱みを握られることほど恐ろしいことはない。いや、そもそも日記モドキに書かれていることすべて――日記モドキそれ自体が――コロセにとっては羞恥の塊に相違ない。我が姉があんなアンポンタンな日記を書いているなどと知られたら、それも、こんなテーブルのうえに堂々と置かれていて、さも交換日記のように毎日読み合っています、などと誤解されたあかつきには、コロセに明るい未来はない。ただでさえ薄暗い未来なのに、と一瞬で焦ったのだった。

 ――ああ、どうしよう。

 ここはあの日記モドキを隠すのが賢明な判断なのだろう。だが、それではコロセがその日記モドキを読んでいたことがノドカにバレてしまう。いや、たぶんもうバレているのだろうけれど、それでもそれをコロセが認めない限りは、ノドカは実力行使にはでないだろう。というよりも〝でられない〟のだ。

 コロセが日記モドキを読んだ、というその事実が白日の下にさらされて初めて、ノドカはヒステリィになることが許される。ひるがえっては、コロセ自身が日記モドキを読んだと認めざるを得ない状況に仕立てることで、それだけで、ノドカの理不尽なヒステリィへの弁明が成り立ってしまうのだ。

 ――クウちゃんがわるいんだよ。

 とノドカはそう言い張ることができるのだ。「あたいの気持ちを知っていながらあたいの気持ちを蔑にしたクウちゃんがわるいんだよ!」そう言い張るつもりなのだ。

 事実、以前に引き起こされた、部屋の全壊という事態も、すべてコロセのせいにされた。コロセも反駁を試みたものの、ついぞ聞き入れてもらえなかった。ノドカの言っていることにも一理あるのだ。コロセはたしかに、彼女から「すこしは構ってよ」とせがまれていた。それを拒んでいたのも事実なのだ。ただ、だからと言って、殺されかける謂れはない。八つ当たりも甚だしいのだが、ノドカはそういったことにとんと頓着がない。

 蔑にされたら、されただけのお返しをする。

 それがどうやらノドカの信条の一つでもあるようだった。ややもすればそれは、部屋を全壊させてしまうほどに、彼女は辛かったということにもなるのだろうか。――いや、ならない。

 コロセは沈思を結んだ。

 ――断固戦おう。

 コロセは決意した。必ず、かの理不尽な破壊神に、「我が儘は通用せぬぞ」と思い知らせようと決意した。

 扉が開く。

「クウちゃん、こちらモンドちゃん! あたいの友達、よろしくね」ノドカが努樹を紹介してきた。

「うん、知ってる」コロセは淡々と応じる。続けて、ごめんな、と努樹に謝った。「ウチのバカが迷惑かけて」

 な、とノドカが声を発する。心外だと言わんばかりだ。

「そんな言い方はないと思うぞ」部屋に入って来ると努樹は、お土産の飲み物やらお菓子やらをテーブルに置いた。「だいたい、私だって遊びに行きたいって頼んでたのに、クウキが了解してくれないから――こうしてノドカさんが誘ってくれたんじゃないか。それをオマエは、」

 努樹の説教を遮ってコロセは、「わかった、わかったってば。ごめん、僕がわるかった」

「謝るのは私にではないだろ」努樹は本気で憤っているようだった。

「ああうん」向き直ってコロセは、「ノドカ、ごめん」と重ねて謝った。

「別にいつものことだからそれはいいけど」と明るく言うとノドカは、「モンドちゃんって、クウちゃんのこと、『クウキ』って呼んでるんだ?」とキッチンから努樹に向かって投げ掛けた。

 すでにテーブルに着席しているコロセである。日記モドキはポケットのなかだ。クリアフィルム型のディスプレイなので、収容に問題はない。

 努樹もコートを椅子にかけてから着席した。「いえ、いつもは――ノドカさんのまえだったので……」と言葉を濁す。

「気にしなくっていいんだよ。いつも通り、普段通りに、気兼ねなく、礼儀もなく、好きに振る舞ってもらって構わないんだよ。あたいらはもう、友達なんだから」言いつつノドカは三人分の料理をお盆に載せて運んでくる。並べながらノドカはさらに、「ちょっぴりの労わりと思いやりさえあればいいのだよ、ナイフ・レンドっ」と親指を立てた。

 それを言うなら「マイ・フレンド」だ。

 ああもうバカ。バカばかバカ。コロセは嫌になる。

 しゃんとした姉として努樹には認識してもらいたいのに――初っ端からこれでは立つ瀬がない。

「ノドカさんは物知りですね」努樹は苦笑いを浮かべている。

 それは皮肉なのか、厭みなのか、それとも社交辞令なのか、判断に困る言葉だ。だがノドカは額面通りに受け取って、「褒めてもなにもでないぞ」と破顔した。

 

 ドーナツ・グラタンは美味しかった。そもそもノドカは普段から、パンやお米の代わりにやたらとドーナツを用いる。穴の空いたリングドーナツや、捻じれた形のツイストドーナツ、棒状のスティックドーナツ(自称)や、ナンのようなレベルドーナツ(自称)。

 ほかにもノドカは、レベルドーナツとホットケーキを重ね合わせて、「レベル4」という名の料理を生みだして、食卓に出すことがあった。断層のあいだにはクリームやらハチミツやら果物やらが挟まれていて、これが中々においしい。

 ドーナツが好物なのか、と一度訊ねたこともあるが、その都度ノドカは、「知ってるクウちゃん? ドーナツ化現象ってのが外の社会にはあるんだよ。でもここアークティクス・サイドじゃ絶対にドーナツの穴は空かないわけよ。過疎っても穴は空かないわけ」と意味深長なことを言ってきちんと答えてはくれなかった。

 きっとあまり訊かれたくないことなんだろうな、と幼心に思ってから以降、コロセはそのことに触れなくなった。

「レベル4」以外にも、ノドカが独自に生み出したドーナツ料理は枚挙にいとまがない。そのなかで、抜きん出ておいしい料理があった。それがこの「ドーナツ・グラタン」である。

 コロセは、マカロニが好きだという理由だけでグラタンが好きだった。そしてノドカにそのことを話すと、彼女は早速グラタンを作ってくれた。

 ドーナツをベースにマカロニをまぶして、そのうえにホワイトソースをかけて、グラタンとして焼く――という「炭水化物+炭水化物+炭水化物」といった如何にもノドカらしい偏った料理が、コロセの味覚の琴線に触れたのだった。

 そして今、努樹がそれを食して、「ウマイ」と唸っている。やがて努樹は、当然の疑問を口にした。「ノドカさんってドーナッツが好きなんですか?」

 今日の食卓のみを窺ったとしても、だれもがそう疑問に思うことだろう。なにしろ、ドーナツづくしだからだ。

 期せずして努樹はこのとき、コロセが長年放置していた疑問をコロセに変わって尋ねてくれたのだった。

 ――ドーナッツが好きなんですか?

 食事を終えたコロセは食器を片づけている。

 ノドカと努樹も食事を終え、今はテーブルで談笑していた。その一場面。何気ない会話の一コマだ。

 敬語は抜けていないが、努樹はもうすっかりノドカに馴染んでいる。

 これまでにも二人には交流があった。しかしここまで打ち解けてはいなかったようにコロセは思う。二人が仲良く会話を交えている風景というのは、素直にうれしい。よろこばしい。自然、顔が綻びる。

「ドーナツはね、クウちゃんの好物なんだよ」ノドカが努樹の質問に答えた。「初めてクウちゃんと会ったときにね、あたいはドーナツを土産に携えていったわけなのよ。したらクウちゃんってばよっぽど大好物だったのか、一気に口に詰め込んで頬張ったの。でもさ、そんなことしたらノドに詰まっちゃうでしょ? あたいが案じた通りにクウちゃん吐き出しちゃって、それでもよっぽど大好物だったんだね。その吐き出したドーナツまで食べようとして、あたいってば引き止めるのに苦労したなぁ」としみじみと宣巻いた。

 どこか遠い目をしているのが癪に障る。

「へえ。知らなかったです」感心するように頷いてから努樹は、「コロセって自分のこと、あんまり話してくれないので」と寂しそうに溢した。

「うそだから」コロセは指摘した。それからノドカにも、「出まかせばっかり。やめてよね」と愚痴る。

「出まかせじゃないよ。ドーナツを口に詰め込んだのも、吐き出したドーナツをまた食べようとしたのも、そのクウちゃんを引きとめるのが大変だったのも、全部ホントじゃん」あたいは嘘なんか吐いてません、とノドカはぴしゃりと言った。「それに、ドーナツきらいじゃないでしょ?」と縋るような口調で呟く。

「うん。たしかに」とそれは認める。

 ドーナツが好きなことは本当だ。でも、誇張されて話されていたことも同じくらい確かだった。けれど面倒だったので訂正するのは諦めた。今はとても穏やかな心持ちなのだ。きっと幸せなのだろう。

 ああ、どうしよう。今の僕、すごく気持ちわるい。コロセはひとりで失笑する。

「あれ」とノドカは突然テーブルのしたを覗き出す。何かを探す素振りをはじめた。「あれあれ? そう言えばクウちゃん――ここに置いてあった、あたいの日記、しらない?」

 きたか、とコロセは酸っぱい顔をした。

 ここで来るか。

 この長閑で平安で穏やかになった心の隙間を突くようなタイミング。策士め、と今度ばかりは素直に褒め称える。称えつつも、「知らないよ」と白を切った。

「おっかしいなぁ――あ、そうだ。クウちゃん。ちょいとズボン脱いで」

 なにが、あっそうだ、なのだろう。脈絡がないにも程がある。

「なんで……いやだよ」

 日記モドキがどうのこうのではなく、普通に嫌である。

「いいじゃないかコロセ、ズボンくらい」と努樹がノドカの横車をさらに押した。努樹は楽しそうだった。

「なら努樹が脱げばいいじゃん」

「それじゃ意味ないだろ」努樹が言うと、そうだそうだ、とノドカが囃した。「せっかくあたいがクウちゃんのズボンを洗ったげるって言ってんだ、神妙にズボンを脱げっ」

 お縄についたほうがマシだった。

 一方で、いや待てよ、と悩む自分もいる。

 ノドカが自分から洗濯するなどと言い出すなんて、こんなこと、後にも先にもこれっきりしかない気がした。しかも、自分の服飾ではなく、僕の服飾をだ。こんな機会、こんご一切巡ってはこないだろう。

 コロセは葛藤する。

 結局脱いだ。

 ズボンを脱いだ。

 その場で脱いだ。

 颯爽と脱いだ。

 ポケットに隠した日記モドキごと脱いで渡した。

「本当に洗ってくれるんだよね?」

 我ながら情けないほどの親バカだった。ああちがう、姉バカか。

「ふんふん、ホントだともよ少年。よっしゃ、奮発して手洗いだよ。だからその前に、ポケットの中身を出さなきゃね」

 一緒に洗ってしまっては大変だ、と棒読みでノドカはズボンをまさぐった。

「ここでやらなくとも……」と制するも、時すでに遅し。

 おやおや、とノドカが日記モドキを取り出した。「おやおや、クウちゃん。これってあたいの日記モドキではないかい?」

 自分で日記モドキとか言っちゃってるよ。

「ああそれね。なんかここに置いてあったから。邪魔だと思ってどけておいたの。そのあとすぐに努樹が来たから、ポケットに入れっぱなしになってたみたい」

「ふうん。で、読んだ?」読んだでしょ、とノドカが日記モドキを突きつけてくる。キッチンカウンターに乗り上げて、こちらの顔のまえに掲げた。読んでないなら今すぐ読め、と言わんばかりだ。「お姉ちゃん、とっても恥ずかしいなあ」きゃー、と喚きつつも満面の笑みだ。

「読んでないよ」毅然とした態度を保った。ここでノドカがさらに強調して、「読んだでしょ」と決めつけにかかったら、コロセはこう切り返せばよかった。「そっちこそまた僕の波紋を読んだでしょ」こう切り返すとノドカは黙るのだ。

 ノドカは勝手にひとの波紋を読むことを何よりも嫌っていた。蛇蝎視していると言っていい。だから、こう言われることをとても嫌がった。読んだにしろ、読んでいなかったにしろ、ノドカは気分を害するらしい。そうしてしばらくのあいだ、緘黙する。それがむつけているからなのか、反省しているからなのかはよく判らない。

 ノドカが機嫌をわるくすることは滅多にないし、気分を害すると解っていて敢えてするのにも抵抗がある。それゆえの、「切り札」だった。コロセが滅多にそれを口にすることはない。でも、今は例外だ。圧倒的にノドカがわるい。

 けれどコロセのその思惑は、努樹の一言で簡単に崩された。

「あれ、なんかコロセ、動揺してない? ウソついてるでしょ」努樹は悪戯な歯を覗かせた。「波紋、乱れてるよ」

「なんで読むんだよ」と一応怒ってみたものの、「だってコロセの波紋、垂れ流し過ぎて勝手に解っちゃうんだもん」と言い返されて、逆に閉口してしまう。

 そうなのだ。

 ノドカは普段、敢えて自分の感覚を閉ざしてこちらに接してくれているらしい。こちらの垂れ流されている波紋を知覚しないように。

 ただそれは、常に波紋を読もうとするのと同じくらいに疲労する高等技術なのだという。だから、ノドカのようにアークティクス・ラバーにちかい実力を持っていないと、そのような交友の築き方は不可能であるという。

「読むなってほうが無理だよ」努樹は笑いながら言った。言ってから急に、何かに気付いたように、「ごめん。そうじゃなくって……」と表情を曇らせて取り繕った。

 やり場のない戸惑いを努樹に見透かされた。

 それは瞬時に憤りへと変わる。

 コロセの心情の変化を努樹はまた読みとったのだろう。こういった努樹の優しさが、時々コロセは辛かった。

 見て見ぬ振りはできないものだろうか。

 贅沢な要求なのだろうな――と深く息を吸ってから、鼻から小さく漏らした。ノドカからズボンを奪う。

「僕、もう寝ます」

 二人の返答を聞く前リビングを後にした。

 きっとこの幼稚なむつけた気持ちも、伝わってしまっているのだろう。そう考えるだけで、その場にいることが耐えられなくなった。

 怒ってはいなかった。ただすこし、哀しかった。自分だけが取り残されているような哀しさだった。

 独りになりたかった。

 毛布に包まる。

 眠れるわけもなく、朝までずっと、暗闇を見詰めた。


 一週間後。

 努樹はミドルクラスへ編入して、コロセのまえから姿を消した。

 突然の別れだった――。

 どうやらあの夕食会は、ノドカが努樹のために開いたものだったらしい。編入のことを中々言い出せなかった努樹が、コロセにお別れを打ち明けるきっかけをノドカがつくったらしいのだ。

 アークティクス・ラバーであるノドカは、努樹の編入を前以って知っていたらしい。ミドルクラスは、より直接的にラバーを育成する機関だからだ。

 あと一週間という残された時間を、努樹は、コロセと共に有意義に過ごそうと思ったのだという。そのために努樹はノドカの提案にのった。あの夕食会で、コロセに別れを打ち明けようとしていたのだ。

 けれどコロセは。

 席を立ってしまった。

 機会を、断ってしまった。

 でも――最初からそうだと知っていれば、努樹と離ればなれになるのだと知っていれば……僕だって。

 そういった、どこか理不尽な憤りを、コロセは抱かざるを得なかった。どこかに怒りを向けなくては、毀れてしまいそうだった。

 自分が犯した過ちを、自分が冒したきっかけを、それらの罪を、コロセは背負いきれなかった。

 どれだけ努樹を傷つけたか、どれだけ努樹が悲しんだか、どれだけ努樹は悩んでいたのか。

 考えるだけでコロセは、身を切り裂きたい衝動に駆られた。

 あの晩、あのとき、努樹はどんな気持ちだっただろう。

 僕も波紋を読めたら良かったのに――このときほどそう思ったことはない。

 コロセは責めた。自分を責めた。それでも足りなかった。

 だからコロセはノドカを責めた。

 なんで教えてくれなかったの、とノドカを責めることで背負いきれない呵責の念を誤魔化した。

「うん。ごめん」ノドカは頭を下げた。しょげるように。懺悔をするかのように。「あたいだって最初はクウちゃんに言おうと思ったんだよ――でも一応モンドちゃん本人に確認してからにしようと思って。そしたらモンドちゃん、『自分で言いますから、まだ黙っててくれませんか』てさ……そうお願いされちゃって」

 ノドカはそう釈明した。

 そんなのってなかった。

 あれから一週間、努樹が無印エリアへ引っ越すまでの期間、コロセは努樹と一切会わなかったのだ。逢えなかったのだ。合わせる顔がなかったからだ。つまらないことで楽しい雰囲気をぶち壊しにした自分が許せなかったから。情けなかったから。気不味かったから。だからコロセは中々努樹に会うことができなかった。それが裏目に出た。

 空になった努樹の部屋を見て、コロセは初めて日常が変質したことを知った。急いで帰り、ノドカに訊いた。「努樹が消えちゃった!」

 ノドカは一通の手紙を寄越した。

 努樹からの手紙だった。

 紙媒体での文書で、アークティクス・サイドでは久しぶりに目にした。

 手紙には、夕食会でのことについての謝罪の文と、今まで仲良くしてくれてありがとう、といった感謝の文。それから、ずっと前から決まっていたことだったんだけれど、中々言い出せなかった、ごめん、という謝罪の言葉と、最後に、また逢おうな、という主旨の、明るい言葉が記されていた。

 別れの挨拶も交わすことなく、一方的な別れの手紙だけを受けとった。

 コロセは納得できなかった。悲しかった。怒りすら湧いた。自分だけじゃない。努樹にも。ノドカにも。

「なんですぐに教えてくれなかッたの」

 コロセはノドカを責めた。責める相手がそばに彼女しかいなかったから。

 夕食会のあと、一週間という時間があったのだ、努樹に頼まれたからって、黙っているほうがひどいに決まっている。そう言ってコロセはノドカを責めた。

「バカバカ! ノドカのバカっ! もうノドカなんて知らない! いつもいつも自分勝手で、ノドカはいつだって自分のことしか考えてないんだッ」

「わるかったよ。ごめんって。でも、コロセが寝たあのあとに、あの子があたいに頼んだんだよ。頭下げて、泣きながら頼まれたんだよ。あたいはあの子に頼まれたんだ。『自分で言いますから、絶対にコロセには言わないで下さい』って。あたいだって反対したんだよ。でも、あの子、本気だった。本気でコロセと向き合おうとしてたんだ。だったらあたいにできることは、あの子の頼みを聞いて、応援してあげることしかないじゃないか。コロセはあたいのこと自分勝手って言うけどさ、そうやってモンドちゃんの意志を汲もうともしないで、自分勝手にうじうじいじけていんのはコロセの方だろ」

 ノドカは泣いていた。何が悲しくて、何に悔しくて泣いているのか。波紋の読めないコロセにも解った。充分に伝わった。

 でも、それでも、コロセは自分の気持ちを抑えられなかった。感情のどこかに引っかかっていた塊が、体積を膨張させて一気に噴き出した。抑えようがなかった。耐えきれなかった。

「ノドカは僕のことなんかこれっぽっちも考えてくれてやしないんだ。どうせ僕のことなんか、人形かペットにしか見てないんだっ! 僕はノドカのオモチャじゃないッ。オモチャなんかじゃないんだぞッ!」コロセは叫んだ。思いの丈を歪ませて。

「ペットだなんて言うなよ」ノドカは消え入りそうな声で、「人形だなんて言うなよ。オモチャだなんてそんなひどいこと――言わないでよ」一言一言絞り出すように溢した。ノドカの声は震えていた。「だってあたいらはさ、きょうだいだろ」

 ――家族だろ。

「かぞく? だれとだれが家族だッて? そんなのノドカが勝手に決めて、勝手に言ってるだけだろ! 血だって繋がってなければ、僕はあんたの本名すら知らない。むかしどこに住んでいて、両親はだれで、外でどんな任務を熟なしているのか、僕はあんたのこと、何も知らないんだぞ。あんたの口からなに一つだって聞かしてもらってないんだ! いつだってあんたは、いつまで経ったってあんたは、自分のことを僕に何も教えてくれないじゃないか! そんなのは家族だなんて呼ばない! 僕は認めない」

 言いながら泣いている。すべての言葉が自分に返ってきた。

 自分で言って、自分で傷ついている。傷つけている。バカだ。正真正銘のバカだ。

 ――僕は大バカ野郎だ。

 ノドカは歯を食い縛っていた。

 目に涙を溜めて。溜めて。溜めて。溜めて――。

 ――零れ落ちた。

「黙れっ黙れッ黙れッ!」ノドカは叫んだ。溢れた涙につづくように、溢れた思いが叫びとなって。「コロセがなんて言おうがな、お前はあたいの弟だ! あたいだってコロセの全てなんて知らないよ、あたいが知っているノロイ・コロセは、あたいがこの八年間、一緒に暮らして、一緒にバカして、一緒に喧嘩して、こうやって一緒に怒鳴り合ってる、このノロイ・コロセしか知らないんだよ! それで充分だろ……ッ。足りないんだったらな、足りないんだとそう思うんだったらな、このさき一生かけて補えばいいだろうが。あたいを知りたけりゃ、思う存分知りやがれってんだ。あたいは逃げも隠れもしねえぞ、おいクソ餓鬼、聞いてるか、あたいはお前と一生家族するんだ。文句ならいくらでも聞いてやる。でもな、家族やめられるなんて思うなよ。あたいとお前はもうすでに家族なんだ。いちど家族になっちまったら、それで終いだ。覚悟しな。もう二度ともとには戻れないんだ――赤の他人には戻れないんだよ、ばーか」

 ノドカは叫んだ。呻いた。喚き散らした。

「家族はいつまで経っても家族なんだ。うだうだほざいてないで、あたいの弟ならしっかりきっちり腹をくくりやがれってんだ」

 ノドカは大きく息を吐く。

 涙がぽろぽろと落ち、床にぶかり弾け飛ぶ。

 コロセは嗚咽が止まらず、言葉も、視線も返せずにいた。

 視界は涙で霞んでいる。

 ノドカの視線が額に熱く感じた。

「今回はあたいがわるかった。それは謝る。あの子のことばっかり考えてて、肝心のコロセのことまで頭が回ってなかった。本当にごめん。でも、あたいには解るんだよあの子の気持ちが。あの子の葛藤がさ」

 痛いくらいに、とノドカは言った。

 横隔膜が痙攣していて、コロセは呼吸すら困難だった。

 手で拭っても拭っても涙が止まらない。

 何がそんなに悲しいのか。何がそんなに苦しいのか。

 何がそんなに嬉しいのか。何がそんなに響いたのか。

 コロセの頭をノドカは撫でる。

 屈んで、そのまま彼女は優しく抱きしめてくれた。久しぶりの抱擁だった。

「あたいはさ、うれしいんだよ。こうやって全力でぶつかりあえる相手がいるってのがさ。全力で本心ぶちかまして、そうやって素直になれるのがさ、あたいはとってもうれしいんだ」

 ――ありがとな、コロセ。

 言ってノドカは強く強く抱きしめた。こちらの身体を抱きしめてくれた。

 ノドカはゆっくりとしずかに囁いた。言い聞かせるように。子守り歌のように。「明日からあたいはまた三日間、任務で家を空ける。けど三日後にはここにこうしてコロセを抱きしめに帰って来る。いつも通り、いつものあたいたちだ。オーケー?」

 こちらの頬っぺたを両手でつねってむぎゅむぎゅともてあそぶようにする。

「おーふぇー」とコロセは答える。

 涙も嗚咽も横隔膜の痙攣も、ふしぎとすべて治まった。

「よし」莞爾と笑ってノドカはさらに頬をこねまわすようにした。「じゃあ今日は、仲直りの記念に、一緒にお風呂に入ろう!」

「そうやってすぐ調子にのる」コロセは彼女の両手を掴んで止めた。上目遣いに睨みつつ、「風呂は別。寝るのも別。食事は一緒。それが家族でしょ」

 むかしからノドカは家族とはそういうものだと宣巻いていた。

「今日ぐらいイイじゃんか」

「だめ」

「ケチンボ」

 ノドカは唇を窄ませた。

 大きな口が、小さく萎んだ。

 果実みたいで、おいしそうだなと思った。今ならキスの一つでもしてみてもいいかもしれないな、とこっそり思う。

「僕ってバカだー」とおかしくなる。

「だってあたいの弟だもの」

 言ってノドカも噴きだした。

 それからしばらく二人して、変な顔をして笑い合った。何をしても可笑しかった。鼻と口のあいだに箸を挟むだけで笑い転げた。どんな些細なこともことごとく笑いの壺に嵌まってしまう。しあわせな時間が流れた。

 この日、コロセとノドカは、互いの家族としての絆を、これまでのような行動だけではなく、言葉を介してさらにつよく確かめ合い、心を深く交わせた。

 この三日後である。

 ノドカの帰宅を待っていたコロセが、彼女の死を知らされたのは。



   ******

 玄関を開けると男が立っていた。

「よお」と彼は言った。

 壁の色は青かった。ノドカだと思った。でもちがった。

「さきに報せておこうと思ってな」

 知っている声。刻み込まれた声。意識よりも先に身体が硬直した。緊張した。反応した。

 コロセは彼を知っている。

 ――弥寺。

 遅れて記憶が甦る。決して思い出とはならない、凍結された記憶。情報。映像。感情。惨状。

 七人の肉塊。

 血肉。黒。艶やかな黒。

 七名の阿鼻叫喚。

 タスケテ。殺す。ヤメテ。殺す。イヤダ。殺す。シニタクナイ。殺す。イタイ。殺す。殺す。殺す。アツイ。殺す。サムイ。殺す。コロス殺すコロスころす殺すコロス殺す。

 ――ソイツを殺せ。

 蘇る、悪寒、畏怖、憎悪。

「小僧。『混線』しているな」

 彼はおもむろに手を翳す。こちらの身体に、額に、波紋に、彼は触れた。

 僕は――触れられた。

 ぞっとした。ハラワタに手を突っ込まれ、ごろごろと掻きまわされているような感覚がある。彼の腕ごとすべてを吐き出してしまいたいほどの嫌悪が湧くが、吐くべきものがない。吐き出すべき異物、排斥すべき遺物が、彼の手によってすでに取り除かれていた。

「これはお前が背負うべきモノじゃない」水を切るように腕を振ってから弥寺は、なあ、と声を発した。「もしかしてあいつ、全然読んでなかったのか? お前の波紋」

 身動きがとれない。

 あいつ――あいつとは誰のことだろう。

「まあ、お前に訊いても解ることではないな」彼は壁に寄り掛かる。「〝これ〟が未だにお前に混線していたってことはだぞ小僧、即ちあいつは――ノドカという女は、お前のただでさえ垂れ流しにされている洪水みたいなこの波紋を、敢えて読まずに感覚を閉ざしていたってことだ。それがどういうことか解るか?」

 言葉を認識できない。ただの音の羅列としてしか認識されない。

「それはだな――お前という存在が、あいつにとっては自分と同等レヴェルかそれ以上のレヴェルで、大切な相手だったってことだ。自分を犠牲にしてでも、仲良くしたい、一緒にいたい――そういった存在。あいつにとってお前がそういった唯一無二の代替不可能な存在だったってことだ。それはお前にしても同じだろ?」

 なぜこの男がここにいる、とそれだけが思考の大部分を占領する。

「それでだ」彼は続ける。こちらの応答を待つことなく。「俺がわざわざここにこうして尋ねてきた理由、そのことについて俺は答えようと思う。それは奇しくも小僧、お前がいま一番知りたい情報ですらある。しかも、二重にな。解るか?」

 占領している思考は、

 ――なぜこの男がここにいるかということ。

 より詳細に言うなれば、

 ――なぜノドカの代わりにこの男がここにいるのか、という漠然とした不安だ。

「勘はいいようだな。折角だ、俺が講釈のひとつでも垂れてやろう」機嫌の良さそうに彼は、いいか小僧、と腕を組んだ。厳めしい口調のまま、「勘というものは重要だ」と語りだした。

「勘とは直感だ。直感を信用しない者に、自分を信じる力などはない。覚えておけよ小僧、人間というのは瞬間的な暗算能力に秀でている。こうしている今も、俺とお前は、知覚しているあらゆる情報を取捨選択し、複合し、個としての自我を継続させつつ己の内に世界を構築し、認識している。それは膨大な情報を一瞬のうちに処理していると言ってもまったく問題はない。人は元来的に刹那的な暗算能力が突出している。だからこそ、直感というものは、その先天的に備わっている刹那的な暗算能力によって導き出された解答であると言える。むしろ、直感は、そういった人間に備わっている特化した性質だ。だとすれば――直感とは、これまでの経験や知識を複合的に踏まえたうえでの解答ということになる。直感を信じろ、というのは言い換えれば、今までの己が蓄積してきた知識や経験や努力を、自分の人生そのものを信じろ、ということだ」

 いいか小僧、と彼は声色をさらに太くし、

「お前のその危惧は正しい」

 とこちらの頭を掴むようにした。そうしてぐりぐりと乱暴に頭を揺さぶると、しゃがみこむようにし、真っ向からこちらの目を覗きこんだ。

「あいつは死んだぞ。だから俺が代わりに来てやった」

 徹頭徹尾意味が解らなかった彼の言葉が、このときはなぜか、すっ、と頭に入ってきた。

 彼は続けた。

「お前の姉貴は死んだ。ノドカは死んだんだ」

 必要以上に繰り返して言った。

 ――ノドカは死んだ。

 こいつは何を言っているのだろう。思考の大部分占めていた彼に対する畏怖は、今やすっかりと失せていた。

「信じるも信じないも勝手だ。思うだけなら人は自由だ。死と同程度にして自由だ。だがな小僧、お前がどう思おうと社会はあいつを『死んだもの』として扱う。死んだこととして扱うという意味だし、死んだ者として扱うという意味でもあるし、また、死んでしまった人間は物として扱うという意味でもある」

 だからして――と彼は強調した。

「遺体の埋葬も、遺骨の処分も、こっちで勝手にやらせてもらう。あいつは既にあいつではない。あいつを模した腐敗するだけの容あるものに過ぎない。ただ崩壊を待つだけの物質に成り下がった。そのことに関して小僧、お前がどうこう思おうともそれは先にも述べた通り、自由だ」

 ――勝手に憤っていればいい。

 弥寺はつまらなそうに言った。

「明日にでも機関の者が、あいつの死に様について説明しに、ここを訪れるだろう。一応あいつの同僚だ。ああ違うな、もう既に『元同僚』だったな」

 立ち上がると弥寺はしばらくその場で屹立していた。こちらも同様に身じろぎ一つしない。動けない。

 動揺はない。ノドカが死んだなどと言われて、はいそうですかと信じられるわけがない。信じられるはずもないのだが、ただどうしてだか、コロセは、ノドカの死を受け入れていた。ノドカは死んだ。弥寺の姿を見た瞬間から、なんとなく模糊として、そんな気がしていた。ノドカの死を受け入れていたがゆえの、無感動であった。いや、それとも、なんとなく模糊として抱いた危惧から生じた自己防衛――ノドカの死を断固として拒絶しているがための無感動なのかもしれない。

「一応断っておくが、本来は俺がこうして直に、小僧、お前なんかに報せに来る必要はないんだ。だがな、どうしてもお前の顔が見たくなってな」お前がどんな顔をするかと思ってな、と弥寺は真顔で呟く。「お前のことはミタケンからも聞いていた。ノドカが餓鬼を飼いはじめたとな――ああ、そうそう、ミタケンで思いだした。すっかり言い忘れていた。重要なことだからよく聞いておけよ小僧」

 彼は囁くように告げた。

 ――お前の姉貴は殺されたらしい。

 ――ミタケンが殺したらしいぞ。

「ころされた」と反芻している。

 勝手に口から零れていた。

「いいか小僧、俺は同じことを二度説明することが好きじゃない。いや、同じようなことを言い換えて言うことは嫌いじゃないが、同じことを同じ奴に言い聞かせることが好きじゃない。だが俺は小僧、お前が気にいった。特別にもう一度言ってやる」

 ――お前の姉貴は殺された。

 今度は、「らしい」ではなく、断定された言葉だった。

「ノドカが殺された……」

「ミタケンが殺したらしいぞ」

 もう一度言ってから弥寺は、徐々に掠れて居なくなった。

 ノドカが殺された……。

 コロセは何度も呟いた。

 呟くことでその意味を咀嚼しようと努めた。

 ノドカが殺された……。

 だが、咀嚼すべき意味が、コロセには見いだせなかった。


 翌日。

 弥寺の示した通りにノドカの同僚が二名訪れてきた。イルカという女性と、ウブカタという名の中年だ。コロセは覚えていなかったが、一度会ったことがあるらしいことを言われた。

 彼らに何を説明されたかをほとんど記憶にとどめることができなかった。

 渡されたノドカのピアスだけが、コロセの手元に残った。

 二つの小さな黒い玉は、まるで、血の涙のようだった。

「形見にするといい」

 中年がそう言っていたような気もする。

 そのピアスを耳にして以来、コロセは片時もそれを外したことはない。



 ***イルカ***

 ステップとステップとのあいだに二つの影が並んでいる。

 今は夜で、ステップから淡く垂れるネオンのような灯りが奇麗だった。

 しかしそれらは街灯でもなければ装飾のためのネオンでもない。

 可視光線を含めた電磁波によるステップ外の監視線である。

 零一六号棟からの帰路、二つの影は中央棟へ向かっていた。

 チューブを通らずにわざわざ外へ出たのは、大方、単なる気紛れなのだろう。

 時折、ふいに風に当たりたくなる。

「あの」と二つの影のうちの一つ、彼女、イルカは呟いた。「あの、ウブカタたんはどう思いますか」

「あん?」もう片方の影、中年ウブカタは答えた。「どう思うってそれは――ノドカちゃんの死についてか、それともその舌を噛みそうな可愛らしくも馬鹿げた呼び方についてか」

「両方です、ウブカタたん」

「ならそのふざけた呼び方についてから答えてやるが、その呼び方はハッキリ言ってわるくない。むしろちょっとうれしい。うれしいのだが、オレとイルカちゃんが二人っきりのときだけにして欲しい」今みたいな二人っきりのときだけに、と中年ウブカタは抑揚なく口にした。

「なぜですか。いいじゃないですか」イルカはあごを上げて視線を送る。中年は口籠りつつ、だって、と呟いた。「だって……恥ずかしいだろ」

 イルカは失笑する。

 誤魔化すようにウブカタは、そんでもって、と続けた。「ノドカちゃんの死についてだが――そのことをオレたちがどう思おうとも、死因についてどんな見解を抱こうとも、あいつが死んじまったという現実は何も変わらない」

 一番大事なことが変わらないんだよ――とウブカタはつまらなそうに煙草の煙をくゆらせる。

「そうですか……そうですよね」

「なんだ。腑に落ちないって感じだな。言いたいことがあるなら言っておけよ」

 ウブカタの口調は乱暴だったが、こちらを気遣って口にしている言葉であると判った。だが、ウブカタに言って聞かせるべき話なのかを量り兼ねていた。

 そんなこちらの煮え切らない態度ををしばらく横目で眺めるようにするとウブカタは、知っているか、と前置きしてから言った。「人間の耳ってのは欠陥品でな、耳を塞ぐって機構が付いていないんだよ。だからオレは、なんの努力もなしに、イルカちゃんの喋った言葉が勝手に耳んなかに入ってくる。自動的に聞こえちまう」

 まあ要するに、と彼は無精髭を撫でた。「聞くだけならタダだぞ」

「でも、言動はタダではないですよ」

「まあそうだな。だが、オレがこれまでイルカちゃんの言動に対して損害賠償やら名誉棄損やらで糾弾したことがあったか?」

 そう、彼は一度だってこちらの言葉を、干渉を、作用を、拒んだことがなかった。

「私は思うんですけど」イルカは静かに口火を切る。

「おう」

「ノドカさんって――暗殺されたんじゃないんですか」

「……暗殺?」

「ええ。公表された情報では、組織を離反したミタケンさんに殺されたと偽られているようですが、それは飽くまでも情報操作なんですよね」

 アークティクス・サイドの住民たちには、「ノドカ」というアークティクス・ラバーが、「ミタケン」という離反者によって殺されたということにされている。

 ノドカの弟だというあの餓鬼にもそう説明してきたばかりだ。

 でもそれは虚偽であって、真実ではない。

「ああ、そうだ」なにを今さら、とウブカタは肯定した。

「一応、正規の報告書には、ノドカさんはニボシからの奇襲により殉職――みたいなことが書いてありましたけど、でも、そんなのってあり得なくないですか。そっちのほうが信じられません」捻りだすような声で、「不謹慎だとは思いますが」と断ってからイルカは、「まだミタケンさんに殺されたと聞いたほうが、信憑性がありますよ」

「まあな」ウブカタは曖昧に肯定した。「オレだってあいつがニボシごときに殺されるとは思っちゃいねぇよ。だが世の中にゃ絶対なんて存在しない。オレらだって油断していればイヌにだって噛み殺されるだろうし」

「でも、あのノドカさんがですよ? なら言い方を変えますが、弥寺さんがニボシに殺されたって聞いて、ウブカタさんは信じられますか」

 しばらく考えてからウブカタは、「それは信じられないな」とこちらを見下ろすようにした。

「ですよね。ノドカさんだって同じですよ。いくら奇襲だって言ったって、ノドカさんがニボシごときにやられるはずがないんです」

「それは私情を抜きにしての疑問か?」

「もちろんです」力強く答えてから、「あ、いえ、私情はもちろんありますよ」と語気を下げて言い直す。「でも、そのことを抜きにしても私は納得がいきません」

「そっか」

 頷いたきりウブカタは考えこむようにし、間を空けた。

 彼は何か知っている。イルカは察して中年の応答を待った。

 風が冷たい。

 もうすぐ冬だ――イルカは夢想する。

 いや、もうすでに冬なのかもしれない。雪が降らない冬というのは、季節の境が判りづらい。来週には雪が降る予定だ。そうして雪が降ることで季節は「季節」として「冬」という枠組みを得るものなのだろうか。ならば人も、「死」という枠組みを得て初めて「人」と成り得るのだろうか。「死」を認識できることが、人が人として在り得るために必要な条件の一つなのだとイルカは聞いたことがある。

 風が冷たく、心地よい。

「イルカちゃんは知らないだろうから教えておくが」とウブカタは沈黙を破った。

 中年の言葉に耳を欹てる。

「今からオレが話すことは、多分、報告書には記載されていない情報だ。そのことを知っているのはごく一部の者だけだろう。アークティクス・ラバー内においては、そのことを知っているのは、そうだな、ノドカちゃんの遺体の分析を担当したライド氏と、オレの二人だけ――ああいや、オレが知っている、ってぇことは必然的にアイツにも――弥寺にも、露呈しちまっているんだろうが、それでも、それ以外の者は知らない情報だと思う。いや、生前にノドカちゃん自身がだれかに打ち明けていたってんならそいつも知っていることになる――例えばあのクウキだとかいう少年とかだが――それでも少数には違いない」

 少なくともあの少年は、イルカが知っていた以上の情報は何一つ知らなかった。あの餓鬼の波紋を読んだ限り、イルカはそう判断する。弥寺が前以ってあの餓鬼へ教えていた情報も、それはイルカたちが教えた情報よりも少ないものだった。

 イルカは声に出さず相槌を打つ。

 ウブカタは未だ考えながら話しているようで、どこかまだ踏ん切りの付かない自分を納得させようとしているようにも見えた。伝えてもいいものかと、もどかしそうにしているのが判った。

 ウブカタが歩く速度を緩める。

 見上げると、中年は髭を撫でており、どこか遠くを見詰めている。イルカはこの顔が好きだ。好きなのだと自覚できるようになった。

「オレが今から教えることは――ノドカちゃんについての情報は――守秘義務からの情報隠蔽というよりは、死者の尊厳を守ることを第一とした、死者への労わりと弔いの意を兼ねている――言うなれば仲間への情だ。だから、これをオレがイルカちゃんに話すということは組織の規律に反するだとか、そういったこと以前に、人として反する行為なのだとオレは思っている――だがそれでもオレは敢えてイルカちゃんに話そうと思う」

「前置きがやたらと長ったらしいですよ」イルカは冗談っぽく言った。そうすることで少しでもウブカタの深刻さが中和されればいいな、と思った。

「そうだな。まあ、死んだ者に、情も愛も信頼も、何もかも意味はなさないんだがな」

「そうですね。意味が生じるとなれば、」

「生きているオレが満足できるか否か、その程度なんだろ」

 ウブカタの表情が切なく歪んだところで、「で、何なんですか」とイルカは尋ねた。「そのノドカさんについての話っていうのは」

「そうだな」一呼吸置いてからウブカタは口調を軽くした。「ノドカちゃんな、あいつ、任務中に一度重傷を負わされてんだ」

「はい?」

「だから、任務中に――多分ニボシにだろうけど――負傷してるんだよ」

「でもわたし、そんな話、一度も……」

 ノドカが任務を休んだことはイルカの知る限り、ない。怪我を負っているノドカも見たことはなかった。

「だから隠してたんだろうよ。オレたちにも」ノドカちゃんつよがりだったからな、とウブカタは知ったふうな口を叩いた。「ライド氏にも報告してなかったようだし」

「ですが、重傷というのなら、どこかで治療をしてたはずでは」

「それがしてなかったんだよ。いや、自分で治療してたんだろうが――馬鹿だよな、ニボシからの攻撃なんてあとでどんな後遺症が生じるか。それくらいちょっと考えれば配慮しそうなもんだけどな」

「それっていつの話ですか? いつから傷を負ってたんですか、ノドカさん」

「三年ほど前らしい」

 随分とわたしの知らないことを彼は知っている。それがそのまま組織からの信用の差なのだろう。ともすれば、実力の差、距離の差なのかもしれない――とイルカは密かにさびしく思う。

「オレも遺体は見てないから、というか見せてもらえなかったからなんとも言えないが。ライド氏の説明では、ノドカちゃんの隠していた傷ってのは、あいつの背中を斜めに切り裂いていたらしい。とても日常生活を過ごせるような傷じゃなかったとも言っていた。それで任務まで熟していたとなると、相当無理してたんじゃねえのか、あいつ」

「ノドカさん……どうして黙っていたんでしょうか」わたしたちにくらい、とさびしい気持ちが増した。

「さあな。そんときに――傷を負ったそのときに、言えない事情があったんだろうよ。もしかしたら、傷を負った事情、その経緯、それ自体が言えないことだったのかもな。ニボシに傷を負わされること自体、ひとに知られたくないことだしよ」ウブカタは投げやりに言った。「どうせオレらからしたらそれもくだらない理由なんだろうさ。下手したらニボシ化する前の小動物でも助けようとしたんじゃねーのか」

「まさか」と苦笑する。「いくらなんでもそんなバカなこと、いくらノドカさんでも――」しませんよ、と言いかけたイルカの言葉に被せてウブカタは、「わからねぇぞ、ノドカちゃんだからなあ」

 イルカも途中で言葉を曲げた。「――しそうですね。そんなバカなこと、ノドカさんなら。ああどうしよう、すんごく想像できてしまいます」

 あのノドカなら、たとい虫けら一匹の命すらもいったん目に留まれば、虚空内から助けてしまいそうに思えた。それは明らかに組織の意向に反する行為だ。厳罰の対象となり得る違反行為だ。

「とにかく、ノドカちゃんはもとから負傷していて――それも重傷を負っていて――それを組織に隠していた。この事実っていうのは、ノドカちゃんの汚名にしかならないんだよ。そんでもって、これが事実だとすれば、ノドカちゃんがニボシに殺されたっていう話も真実味が増すだろうに」

「……そうですね」もとから負傷していたのなら、ニボシからの奇襲に対処できなくてもおかしくはない。そもそもニボシから重傷を負わされていた事実があるならば、その重傷を負った際に死んでいてもおかしくはないのだ。一度あることは三度ある。

 それから思い付いたように、「ああ、だからミタケンさんに殺されたということにしているんですか」と投げ掛けた。

 ラバーのなかでも、とくに実力者として認められていたノドカが、ニボシごときに殺されたなどと公表はできなかったのだろう。

 そういうことか、と納得した。そんなくだらないことか、と。

「それだけではないだろうが、まあそんなところじゃねぇのか」組織の考えなどオレには解らん、とウブカタは嘆いた。

「そもそも、どうして組織を離反したんでしょう、ミタケンさん」イルカはそのこともまた引っ掛かっていた。「得になるようなことなんて何もないのに」

「それこそオレらがどうこう言える話じゃないだろうな。人の心なんていつだって意味がわからん。意味がわからんからこそ相手を理解しようとすることは大切だが、理解していると錯覚するのは危険だ」

「今日は一段と偉そうですね、ウブカタたん」

「こうやってたまに偉そうにでもしなきゃ自己を保てないんだよ」照れくさそうにウブカタはあごを撫でる。「オレは弱い弱い中年なんだ」

「だって、ウブカタたんですもんね」

「そろそろ中央棟に近い。その呼び方はやめろ」

 前方から顔見知りの教官たちが歩んでくる。

「ウブな方ですね、ウブカタさんって」イルカはからかってみた。

「おう、そうだが?」ウブカタが襟を正して威厳たっぷりに応じた。如何にも教官たちへ聞こえるように。

 教官たちとすれ違う間際、イルカは悪戯な笑窪を空けてウブカタを見上げた。「正直なウブカタちゃんって、かわゆいです」

 ウブカタの身体がぎょっと固まったのが見えた。

 中央棟の入り口まで無言だったウブカタは、「おい、いま絶対聞かれたって、あいつら笑ってたぞ!」振り返り、「ほら、爆笑してるじゃねえか。あいつら。くっそ、あとであいつらの秘密、暴いてやる」と幼稚に喚いた。

「中年のくせに餓鬼ですね」

 二つセットなんて最悪です、とイルカはほくそ笑む。

 ノドカが死んだのに、世界はなにも変わらない。

 変わらずに、変わり続けている。

 それがイルカは哀しくもあり、なぜか、救われる気もした。






  タイム○スキップ{~時系列の基点~}


 ***コロセ***

 独りになった。独りだった。独りだと知った。独りだってよかった。独りがよかった。独りは楽だった。独りは安全で、安定が約束されている。傷つかない。出会いがない。だから別れもない。信頼もない。だから裏切りもない。好きになることもない。だから嫌いにならなくてもいい。

 独りはいい。自分の不確かさ、曖昧さ、不明瞭さ、不甲斐なさ、蒙昧さ、それらと向き合う時間ができる。自分と見つめ合える。傷ついている場所を見繕って、弱っている箇所、弱い自己、軟弱な自分、脆弱な気分、それらが腐敗する前に対処できる。

 自分の裡へと押し込めたり、外壁に包ませて隔離したり、色を塗ったり、飾りつけたり、容を変えたりして、誤魔化したり。そうやって対処ができる。

 ――独りはいい。

 でも。

 ――独りはもう、いい。

 忘れるということは思いだせるということだ。

 押し込めるというのは力を与えるということだ。

 装飾するというのは侵すということだ。傷つけるということだ。

 腐敗は進む。余計に進む。腐敗の進行を増長する代わりに、腐敗そのものから目を背けることができる。ただそれだけ。それだけなのだ。それだけなのだと知った。

 努樹が去って。ノドカが死んで。僕は独りでベンチに佇む。

 帰りたくはなかった。あの部屋へ、あのノドカと過ごした日々の刻まれた、その部屋へ。僕は帰りたくはなかった。かと言って、あの部屋を捨てることなどできるはずもなく、僕はただ、手の届かない場所に遠のけていた。手の届かない場所へと出かけていた。

 思い出も、悲しみも、楽しみも、苦しみも、嬉しみも、温もりも、香りも、感触も、声も、あのころの僕ごと、僕は遠のけてしまいたかった。

 手の届かない場所へ。

 でも、

 手放さずに済む場所へ。

 中途半端なのだ。宙ぶらりんなのだ。曖昧なのだ。

 僕は――独りにはなれない。

 そんなとき。

 空から声が降ってきた。僕をすくってくれた声だった。

 

「めずらしい波紋ですね。新入りさんですか?」




  ○○○【ミカ】○○○

 彼は変わってしまった。

 もうすでに、ミカの知っているハルキではない。

 帰路の道中、ハルキと話して、泣いてしまって、置いていかれて、哀しくなって、虚しくなって、嫌気がさして、寂しくて、惨めで、泣いてしまった自分が許せなくて、あんな弱い自分をハルキなんかに晒してしまった自分が許せなくて――でも滔々と溢れてくる涙を抑えられなくって――そんな脆弱な自分こそが一番許せなかったことで――そんな風にうじうじと悲嘆していたら、いつの間にかマンションまで帰り着いていた。

 エレベータに乗りこむ。上昇を感じることなく上昇していく。

 エレベータも箱だ。外と内がある。なのに、安心はできない。自分の家とは明らかに違う。

 自分の家というのは不思議だ。

 家という箱。ただの仕切り。外と内を区切るもの。境を生むもの。ただそれだけのものなのに、ほかにも沢山溢れかえっているうちの一つに過ぎない箱なのに――帰る居場所があるというだけで、安心できてしまう。

 けれど、その安心に包まれる間際――家に帰りついた瞬間――というのは、どうしてだか外では感じられなかったあれやこれやといった輪郭の定まらない妄念が形を得て、はっきりと感じられてしまう。

 その瞬間にミカはいつも、外と内での自分は別物のようだ、と明確に意識される。

 家に一歩踏み入れただけで、人格が崩れ去ってしまうような錯覚。仮面が外れる感触。装飾や防壁が剥がれて、一番やわらかく、一番よわい自分に変質してしまう――そんな徒労がある。

 安心するから疲れるのか。

 疲れているから安心できるのか。

 よく解らないし、どちらも結局は同じことだ。

 ――わたしは今、疲れている。

 この世は、箱のなかに無数の箱が有されている――そんな連続でできている。

 どこの箱が自分にとって丁度いいのか、といった程度の差だ。

 宇宙の内に銀河があって、

 銀河の内に太陽系があって、

 太陽系の内に地球があって、

 地球の内に大気があって、

 大気の内に大陸があって、

 大陸の内に国があって、

 国の内に県があって、

 県の内に町があって、

 町の内にマンションがあって、

 マンションの内にわたしの家がある。

 家の内にはわたしの部屋があって、

 部屋の内には夢へと旅立てるわたしのベッドがあって、

 ベッドの内にはわたしがいて、

 なら、わたしの内には一体なにがあるのだろう――と、ここまで考えて沈思は途切れた。

 ああもう、やめよう。

 こんな馬鹿な考えは、無駄な考えは、幼稚な思索はもうやめよう。

 こんなことを考えるなんて、本当にもう、とことんわたしは疲れている。

 玄関で靴を脱ぎ、リビングの扉を開ける。ミカの思考はすでに、お腹減ったな、という欲求で満たされていた。

 ただいま、とミカは呟く。

「おかえりなさい」父がソファで新聞を読んでいた。紙面を下して顔を覗かせた。「はやかったね。部活はなかったのかい?」

 テスト休み、と答えた。

 部屋を見渡す。目当てのものが見当たらない。「あれ、ミルクは?」

「牛乳なら冷蔵庫だよ」と父がからかい口調で言った。

「もう、わかってるくせに」制服のネクタイを外しつつミカは嘆いた。「あんまりつまらないこと言わないで」

『ミルク』というのは、ミカの飼っている猫の名前だ。全身が白い毛に覆われている猫で、数年前に父が貰ってきた。今ではすっかりミカの家族だ。

「冗談じゃないか」誤魔化すような笑みを浮かべてから父は、「ミルクならさっき散歩から帰ってきて……あれ、どこいったかな。さっきまでそこで寝てたんだけど」とキッチンのほうを指差した。

「ふうん」

 慰めてもらおうと思ったのに、とミカは不貞腐れる。

 一応キッチンを覗いたが、そこにミルクはいなかった。冷蔵庫をあさる。食材は沢山あったが、調理する気にはならなかった。アップルジュースをコップに注ぎ、冷蔵庫を閉じた。

 ふと見ると、カウンターのうえにドーナツが置いてあった。

 皿に取り分けて、ジュースと共にお盆に載せる。そのまま自室へと持って向かうことにした。

「あ、お父さんさ」ミカはリビングの入り口で問いかけた。「つぎ、休みいつ?」

 父は新聞から目を離して顔を上げた。「今日以外でかい?」

「うん」

 ミカの父は今週いっぱい休みであった。普段は毎日のように仕事に追われている。

「そうだなあ――来月くらいか、いや、どうだろうな。どうしてだい?」

「ううん、聞いたみただけ」と首を振る。ジュースが零れそうになった。「とくに意味はないかな」

 父はなにか言いたげに口を空けたまましばらく沈思した。やがて、「最近、なにか困ったことはないか?」とだけ言って口を閉じた。

「ううん。だいじょうぶ。毎日楽しいよ。幸せ太りしちゃいそう」

「それはちょっと意味が変わってくるぞ」父は小さく笑った。「なら、困ったこととか、助けて欲しいこととかあったら、遠慮はいらないよ。いつでもいいなさい。お父さん、ミカに何かをしてあげたいんだから」

 ちょっとは頼りにして欲しいんだな、と遠慮がちに溢した。

「それが趣味?」

「そう、お父さんの趣味。ミカのお願いをきくこと」

「変なの」とミカはわざと厳めしい表情をつくるが、すぐに耐え切れなくなって噴き出した。「ホント、変なの」

「ミカのお父さんだからな」

 言って父は新聞に視線を戻した。顔が紙面で隠れている。

 恥ずかしいなら言わなきゃいいのに、と朗らかに毒づく。

 扉を閉め、ミカは自室へ向かった。

 廊下でミルクとすれちがう。おっと待ちたまえ、と足で引き止める。お盆を片手に持ちかえて、ミルクを抱きかかえる。そのまま、「ちょっといいかな付き合いたまえ」と自室へ拉致した。

 制服を脱いで、部屋着をまとう。

 ベッドに腰掛けて、膝のうえにミルクをのせた。

 片手でドーナツを口に運びつつ、もう一方の手でミルクを優しく撫でつける。

 ミルクは気持ちよさそうにのどを鳴らしている。

 撫でてあげているのだ、わたしの話を聞きたまえ、と少しばかり愚痴に付き合ってもらうことにした。

 ミルクは眠たそうに欠伸をしている。構わずにミカは話しはじめる。

「あのね、わたしの友達のことなんだけど――」

 

    ***

 ミカは養子だった。高校に入学するまでミカは、その事実を聞かされていなかった。今年の春に高校へと入学したと同時に、ミカはそのことを両親から告げられた。

 ミカの両親は終始、世間話を語るような、昔話を聞かせるような、そんな穏やかな雰囲気でミカへ説明した。最後に両親は、「だからといってなにが変わるわけでもない」と毅然とした態度を示した。

「教えられることなら、お父さんとお母さんは、ミカに包み隠さずにきちんと教える。だから、知りたいことがあったらミカから言いなさい」とミカの出生については敢えて説明しなかった。

 血の繋がっている両親について、ミカも敢えて知ろうとは思わなかった。父が言ったように、「なにが変わるでもないのだ」と、本当にそう思ったからだ。どうでもいいとは思わなかった。しかし今はまだ知らなくてもよい瑣末なことなのだと思えた。そんなことに労力を使うよりかは今は、新しくはじめた部活――演劇に力を注ぎたかった。ようするに、面倒くさかったのだ。その程度の関心でしかなかった。

 ミカが思っていたように、また、両親が言っていたように、養子だったことについて知らされても真実なにも変わらなかった。

 両親ともに忙しい仕事人間だったけれど、それでも相も変わらずに両親は穏やかで、優しくて、朗らかで、温かい。

 ときに我が儘な父と、怒るとこわい母。そんな二人の態度も、二人に対するミカの想いも、なにも変わらない。

 ただ、「ミカには兄が一人いるらしい」という話だけは、気にかかっていた。兄弟と呼べる存在がミカには、猫のミルクだけだったからだ。それとも、今までは、ハルキがそれにあたる存在だったのかもしれない。

 でもきっとそれは――いまはもう、ちがう。

 いまは、ハルキが異性として――恋愛対象として――気にかかっている。そのことを、あの帰り道に気付いた。いや、そのことに気が付いたのはもっと日にちが経ってから――ハルキがどんどん弧絶に向かっていくのが自分にとって辛いことなのだと自覚するようになってから――だったのだが、気付くきっかけになったのは、あの帰り道の小恥ずかしい出来事に違いはなかった。

 けれどハルキに対する自分の想いが恋愛感情なのだと気付いても、ミカにはどうすることもできずに、ハルキに対しての重い想いだけが募っていった。

 ずしりと鉛のように重く、胸につかえている苦しさ。

 これが世に言うところの、恋煩いなのか――と時折おかしくなって、独りさびしく笑ってしまう。

 兄がいれば相談できたのだろうか、と妄想したりもした。妄想はあっという間に展開し、その恋愛超大作に逃避することで、さらに不気味に笑っている自分に気付き、ミカは、「ああ、今のわたし、すごく気持ちわるいな」まるで女の子みたい、と自虐して、「いやわたしは女の子だろ」と虚しく自分に突っ込み、また悶えるようにさびしく笑うのだった。

 

 そんなミカに両親の訃報が入ってきたのは、ハルキが入院してから二月ほど経った、ある冬のことである。

 企業パーティへ父が珍しく、母を誘って出かけていった、そんな微笑ましい日の出来事である。

   ○○○+*+○○○




   タイム△△スキップ{~基点からおよそ四カ月後~}


 ***サイカ***

 サイカは冷静だった。

 ついさきほど発覚した事実があり、発覚した事実を報告しようとサイカはライドの元へ向かっていた。

 ここ、「バブルの塔」へ。

 しかし、

「バブルの塔」までの移動の最中、緊急を要する事態が発生した。その事態のまえには、サイカの得た事実など霞んでしまうも同然であった。

 ならば、サイカが得たその情報を、ライドへ伝える必要はない。

 サイカは緊急を要する事態のみを報告した。

「たっは。莫迦め。え、え? サイカちゃん、今なんて言ったの?」ライドは取り繕うこともなく焦燥を露わにしている。

「ですから、現在進行形で、オリアさんが弥寺さんと戦闘中です」

「たっは。莫迦め。たっは。なぜに、なにが? いわんやなにゆえそうなった!?」

「はい」十五分ほど前に、とサイカは淡々と報告する。「オリアさんがアークティクス・サイドからの離脱を試みたもようです。その結果、サイド内全域に施されている防壁に接触。離脱は失敗に終わりましたが、そこからは急激なメノフェノン混濁を引き起こされまして――つまり、パーソナリティを全開になさいまして、周囲半径三百メートル四方が瞬時に『蒸発』し、消滅致しました。急遽ラバー数名が対処にあたったのですが、鎮圧に向かった四名がオリアさんと接触する前に『蒸発』。戦闘は回避すべしとの指示ののちに、ラバーの二名がただ今、メノフェノン混濁を収束させることにのみ徹底させています。ですから、現状、オリアさんのパーソナリティ作用範囲は半径三百メートルから数メートルまで縮小しています。しかし、オリアさんご本人が、無印エリア内を通ってこちらに向かっているとの報告、情報があったので、弥寺さんが『処分』の実行を独断で選考なさいまして、そして現在に至っております。数メートルとはいえ、オリアさんの通られた無印エリアはほぼ壊滅的です」

 言い終わって深呼吸をする。息が切れた。喋るという行為は疲れる。

「たっは。離脱を試みただと? いや、遊び心、興味本位でそのくらいのことはするだろうとは思っていたが、なぜその直後に暴走を?」ライドは立ったり座ったりと忙しなく動いている。

「いえ、暴走ではありません。明確な意志のもとに、パーソナリティを行使しています」

「なぜ?」

「解りません。ただ、私の推測なら申し上げることはできます」

「だからなぜ?」

 言えということだろう。サイカは答えた。

「はい。もしやとは思うのですが、オリアさんは、ご自身が騙されていたことに気付いたのではないかと。ご自身が母親を殺したのではないと。いえ、母親は未だどこかで生きている――と、そう知ったのでしょう。そう仮定いたしますと、離脱を試みたことも、その後、我々への敵対行動へ移ったことも納得できます。いえ、それ以前に、なぜ敵対行動よりもさきに離脱を試みたのか、といった行動原理そのものも納得できます。母親に逢いに行こうとしたのではないでしょうか。そしてそれが閉ざされた今、行き場を失った感情は、矛先を変え、主旨を変えてこちらに向かってきているのではないかと」

「たっは。だからなぜ?」

 なぜ露呈したのだ、ライドは泣き笑いのような顔をする。

「これも私の推測に過ぎませんが――その前に一つ確認しておきたいことがございます」

「な、なんでございましょうか?」頬を両手で挟むライドのあごから冷や汗が滴る。

「はい。前回、私がここを訪れた際、ライドさんは私の関与していない『ラビット』をいくつか解体なさっていましたが――あれは、ご自身で持ち込まれたものですか?」

「なんだ」そんなことか、と安心したように呟くと、「そうだ。サイドエリアからわざわざ無印エリアへ連れ込んで、自分の足でここまで来てもらった」おれのこの手でな、とライドは自慢げに答えた。

「ならばそのときでしょう。オリアさんもご一緒にここまで来られたのかと。ライドさん風に言えば、ここ、バブルの塔に」

「たっは。なにを」とライドは鼻で笑う。「〝アレ〟など、いなかったぞ。私が連れてきた者はすべてこの手で分解したからな。あのときここに立ち入ったモノは残らずすべてだ」

 いくらあちきでも〝アレ〟と他者の区別くらい付くわい――とライドは声を荒らげた。

 ライドにとって他者は総じて「ラビット」に過ぎない。すべてのマウスが同じネズミに見えるように、ライドにはすべての人間が同じに視えているのだろう。

 等価値なのだろう。

 すなわち、

 無価値なのだろう。

 ですから、と呆れたようにサイカは語調を強めた。「ですから、オリアさんは『浸透』なされていたのではないですか? 我々の『プレクス』から数段層ずれていれば、とくに警戒していない私たちでは知覚しようもありません。たとえライドさんでもです」

「たっは。マジでか?」ライドはおどけた風に言った。

 ふざけんな、と怒鳴りたかったが、サイカは寸前でその怒りを呑みこんだ。「ええ。マジです」

「そっかぁ。ボクのせいだったのか。ふふふ。怒られちゃうのかなぁ……」

「ご自身の保身ばかり気にしていては、ライドさんの心の友、『オルノくん』にインチキ野郎と蔑まれますよ」

 作家「三猿(さんえん)円(まどか)」の小説に出てくる主人公――織上オルノ。

 ライドはその主人公を心の友と公言している。

 サイカとしてはオルノくんそのものがインチキ野郎に思うのだが、きっとそれを踏まえたうえでの心の友なのだろう、と納得している。サイカの分析としては、ライドは自家撞着の塊であった。

「ふむ。そうだな」笑われてしまう、と襟を正すとライドは、「まずは対処か。それにしてもよく俺の代わりに指示を施してくれた。厳戒態勢の勧告を敷いたのもキミだろ?」よくやった、と声に威厳を宿した。

「はい。僭越ながら。一刻を争うものでしたので、勝手ながらもラバーへ指示を出しました」

「それは結構」満足気に頷いてからライドは、「で、どう思うかね」と口にした。疑問を口にしつつ、髪の毛を指に巻き付けていじっている。動揺はやはり抑えきれないようだ。「忌憚のない意見を聞きたい」

「何についての見解でしょうか?」

「弥寺くんとオリアちゃん。どっちが残ると思うかね?」

 そういうことですか、とサイカは拍子抜けする。幼稚な質問だった。同時に、答え難い質問でもあった。

 どっちが残るか。どっちが生き残るか。どちらが消えるか。どちらが死ぬのか。難しい問題である。二択ほど難しいものはない。いや、共倒れと和解を含めて四択か。さらに難しい。選択肢が増えるというのは難しさが増すということだ。ならばやはり、二択とは易しい問題なのかもしれない。

「そうですね。私の個人的見解で言えば、弥寺さんに勝機はないでしょう。パーソナリティの特質で言えば、オリアさんの右に出る者はいません」

 右どころか四面楚歌の八方塞がりだ。オリア・リュコシ=シュガーとの戦闘に勝利することはおろか、逃げることすら容易ではない。

 ――物質の粒子分解。

 意図した対象を物質の最小単位にまで分解する――それがオリア・リュコシ=シュガー、彼女の特質だ。

 質量保存の法則で言えば、物質が消滅することはない。しかし、素粒子まで分解されるというのは、我々にとっては消滅とほぼ同義である。

 さらにオリア・リュコシ=シュガーは、自分自身をも粒子分解することができる。

 分解して、さらに再構築することが可能なのである。

 それゆえに、二つの意味で彼女に「囲い」は無意味であった。

 第一に、彼女にとって障害物となり得る物質がこの世界には存在しないということ。

 ありとあらゆる物質は彼女にとっては空気と同じだ。そこに在って無きがごとく。彼女は、自身に立ちはだかるもの全て、一瞬で消し去ることができる。あたかも氷が蒸発するように。そのため、サイカたちは彼女のその破壊行為を『蒸発』と呼んでいる。

 第二に、彼女にとって如何なる重層な壁も、無数の扉の空いた壁と大差ないという点。

 彼女は自身をも蒸発させることで、どんなに密封された空間からでも、物質に空いた僅かな隙間を擦り抜けることができる。ミジンコから見れば、ドアの隙間など、さながらナイアガラの滝である。

 粒子分解された彼女にとって壁は壁になり得ない。塞がってなどいない。

 分子と分子のあいだ、原子と原子のあいだ、そこには隙間が生じている。

 言い換えるならば、力が均衡している空間には、「無」が生じているのだ。

 円を敷き詰めて並べれば必ず円と円とのあいだに隙間が生じるように――プラスとマイナス、陰と陽、正と負、それらが合わされば、ゼロが生じるように――均衡には無が生じている。

「無」が崩壊して「有」が現れる。

 ――全ては『無』から生じている。

 【ダブルバブル理論】その第一原則である。

 かくして、オリア・シュコシ=シュガーは、物質を構成している力の均衡を操ることができる。

 それが粒子分解という現象を引き起こしている――というのがサイカの知り得る通説であった。

 オリア・リュコシ=シュガー。彼女の体躯は幼い。

 とても齢七十を超えているようには見えない。

 けれどそれも、自身を『蒸発』させることによる後遺症。副作用。払うべき対価。

 粒子化させた肉体のすべてを再構築させることは、彼女にもできない。『蒸発』する前と後では、肉体を構成している物質が、必ず減っている。そのためにオリア・リュコシ=シュガーは、成長をすることができない。けれどそれは、自身を粒子化させなければ良いだけの話である。『蒸発』しなければ、それだけで解決する問題だ。

 逆に言えば、彼女は自身を定期的に粒子化させつづけてさえすれば、老化することはない。また、身体が傷ついても、いったん『蒸発』して肉体を再構築すれば、傷は塞がる。

 それが彼女のパーソナリティ。

 組織に脅威を抱かせる特質。

 《あの人》が欲するモノ。

「オリアさんを止められる人間はいません」サイカは断言した。

「だよね」脱力するとライドは勢いよく椅子に腰かけた。膝を抱えてくるくると回転している。墨汁を溢したような長髪はしゅんと項垂れるように垂れ、格好だけ見れば、思春期の少女である。「ボクに会いに来ちゃうのかなぁ……彼女」

 こういったときだけ、〝アレ〟を人間あつかいし「彼女」呼ばわりする。狡猾だ。インチキ野郎だ。それが人間というものなのかもしれない。自分も同じだ、とサイカは思う。だからライドを責めない。責められない。

「誰にも止められないと私は申し上げましたが――」ですがそれは、とサイカはさきほどの発言を訂正する。「私の知っている保持者たちで推し量った場合です」

「と言うと――はて、どういうわけだね?」

 瞬時に髪型がパーマになり、ライドは精悍な少年のような顔つきになった――とサイカには思えた。ただそれも錯覚に違いない。髪型で人の印象はぐっと変わる。

「最後まで言いなさい」とライドは椅子の回転を止めて、話のさきを促した。

「はい。『私の知っている弥寺さん』を考慮に入れた場合の話、ということです。おそらく私の知っている弥寺さんは、極々抑えられている弥寺さんの片鱗、あの方の極々一部、小さな断片に過ぎないのでしょう。私は弥寺さんの本気を知りません。あの方はいつも、ご自身の能力の余韻しか用いていないように私には思えます。極力ちからを抑えている――ちからの解放を恐れているようにすら私には思われてなりません。あのように『虚空』の修理の際、余分にメノフェノンを混濁させているのも、そうやって定期的にちからを解放させないと、いずれまた暴走してしまいそうだから――とそうして暴走の予防を行っているからのように私には思えるのです」

「たっは。考えすぎでしょ」ライドは鼻で笑った。「弥寺くんは遊んでるだけだよ」

「ですが、保持者の暴走は花粉症のメカニズムと似ているという説もあります。ある一定値以上にまで、メノフェノンが〈レクス〉内で混濁すると、その混濁を自身の〈レクス〉が異物と判断して、拒絶反応を引き起こす。それが暴走ではないか、という解釈です」

 ――〈レクス〉。自分の世界。主観の世界。

「だとしてもですよ、サイカさん」ライドは異を唱える。「いったん暴走した者は、メノフェノンを混濁させていく一方なのです。その理屈では、暴走のきっかけを解説しているだけではないですか。仮にサイカさんのおっしゃられた通り、弥寺さんがメノフェノンの混濁を自発的に引き起こすことで暴走を予防しているのだとすれば、ほかの保持者たちも、ご自身の裡に溜まったメノフェノン混濁を解放させれば暴走しなくなる、ということになるのですよ。言い換えれば、〈レクス〉に溜まったメノフェノン混濁を取り除けば暴走しなくなるということです」いちど区切って一呼吸空けるとライドは、口調を変えた。「だがなよいかサイカくん――だがな、そんなことにはならなかった。その仮説はすでに価値のない理屈として扱われている。きっかけを解説したところで、対処に繋がらなければ意味がない。そう、対処には繋がらなかったのだ。弥寺くんは遊んでおるだけだ。我々が地べたを歩む蟻をほんの気紛れで踏み潰すようにな。その程度のことなのだよ。そうではないか?」

「はい。おっしゃる通りです」サイカは引き下がった。こんなことをディベートするつもりもなければ、している場合でもない。

 そのことをライドも弁えているようで、

「でだ。現状はどうなっている?」

 と冷や汗を拭いつつ尋ねてくる。

 やはり表面ほど心中は穏やかではないようだ。

「いえ。解りません」と正直に答えた。

 解らないならなぜ今すぐに調べない、とライドは眉根を寄せているが、「ああそうか」と遅れて気付いたようだ。ライドにしては随分と思考が鈍っている。それだけ焦っていたということか。

「そうだったね。ここにいては外界からの情報が得られないのだったね」

「はい。ですが、ここに誰も侵入してこないということは――」

 少なくとも、オリア・リュコシ=シュガー、彼女はここへ辿りつけない状況にあるということになるだろう。それはそのまま、弥寺が、僅かにでも彼女に対抗し得ているということだ。

 それはすなわち、オリア・リュコシ=シュガーの実質上の敗北を意味する。対抗手段が弥寺の側に毫末ほどでもあるならば、それはそういうことにほかならない。弥寺を知っている者ならば、こう考えてもなんら差支えはない。この推測は飛躍も破綻もしていない。これがただの推測ではなく、類推だからだ。

 前例がある。

 サイカは書類上の情報でしか知らないが、過去、弥寺が全力を出したことが二度あったらしい。

 一度目は、弥寺自身が暴走したとき。

 二度目は、《あの人》が組織との全面戦争を引き起こしたとき。

 その際、組織は壊滅しかけたという。

 アークティクス・サイドの崩壊ではない、『R2L』機関という組織の崩壊だ。

 全世界に点在する多くの「学び舎」と、組織の統括している表世界の様々な権力機関を巻き込んでの戦争。

 ――リザの断裂。

 そう呼ばれている惨劇がある。

 組織の戦力の八割が失われたと聞く。人が沢山死んだのだろう。

 《あの人》こと――《リザ・セパレン=シュガー》は、『R2L』機関の創始者の一人にして、組織を唯一たったひとりで崩壊させ得ることが可能な、超規格外の危険因子。

 あのときに――「リザの断裂」の際に――弥寺という男がいなければ、組織は存続していなかっただろう、とまで言われている。それは、弥寺という男の強大さを表しているというよりも――ただでさえ強大な弥寺という男が、組織の戦力を盾にしてもやっと、ギリギリで、鎮圧することのできた相手が、《あの人》であるという逆説である。

 それも、《あの人》が「組織からの言葉」に聞き耳を持つようになる時間を稼ぐことに終始した作戦の甲斐があっての成果だ、と書類には記載されていた。つまり、武力での鎮圧ではなく、「お前の娘である『オリア・リュコシ=シュガー』がどうなってもいいのか」といった脅迫に《彼女》が屈しただけ、というなんともお粗末で卑劣な作戦の成果だという。

 サイカ自身、組織のこのやり方には賛同できないが、しかし、弥寺にすら手に負えない相手が、なんの枷もなしに世界に存在しているというのは、それはそれでぞっとするものがあるのも確かだった。

 どちらにしろ、《あの人》には、娘という人質が必要だったのかもしれない。そう思えてしまう自分が情けなくもあり、しかしまた、一番納得できる自分でもあった。

 なにを優先し、なにを失うのか。その二択の連続こそがサイカにとっては常であるからだ。

 第二次世界大戦が、その「リザの断裂」の余波で引き起こったという話も、あながち嘘ではないのだろう。けれどサイカは、第二次世界大戦は、組織と《あの人》とのあいだで勃発した争い――「リザの断裂」をカモフラージュするための歴史だと疑っている。歴史とはいつだって、つくられたものでしかない。記憶もまたそうであるように。記録もまたそうなのだろう。

 

「オリアさんは、弥寺さんが何とかしてくれたのでしょう」サイカはみじかくそれだけを口にした。気休めではない。真実そう思っている。

「ふむ。そういうことになるのかな」ライドも簡単に納得を示した。「たっは。そうとなれば、弥寺くんになにかご馳走してやらなければな」

 何か良い食べ物はないか、とライドがご機嫌に尋ねてきた。

 そうですね、と少し考えてから、「ドーナッツなどは如何でしょう」と答えた。なんとなくふと浮かんだ。

「なんだそれは? 食べ物なのか?」とライドは訝しがった。

 どうやら見たこともないらしい。

 ライドさんは偏食だからな、とさほど不思議にも思わない。

「なら、つぎに来るときにでもお持ちいたします」と口約する。

「たっは。頼むぞ」言いつつライドは椅子のうえで回転している。心底浮かれている。楽しそうだ。

 あの、とサイカは水を差す。「計画のほうは――実験の予定の進捗具合は、いかがですか? 仮にオリアさんがいなくなってしまっては……」

「なあに気にすることはない。我々が生きている限り、プロジェクトは継続できる。〝アレ〟を失ったのは痛いが、なあに、替わりは数でカバーできるだろう」

 それに、と言ってライドは飛び跳ねるように椅子から勢いよく立ち上がった。「それにまだ、〝アレ〟が毀れたとも限らないだろう」ふらふらと身体を揺らしている。さしづめ目が回ったのだろう。「弥寺くんのことだ、対処できるなら〝アレ〟を毀すことなく捕獲してくれそうではないか」

「そうですね」

 《あの人》にはなんと報告するのだろうか――と考えてすぐにその愚問を振り払う。

 報告する必要なんてないのだ。

 ――娘は平穏に過ごしている。

 これからさきも同じように、そうとだけ伝えていればよい。

 言葉だけの脅迫でよいのだ。

 それ以上でも、それ以下でもなく。

 それだけで。

 

 

 ***コロセ***

「ミタケンさん……」呼びかけながら僕は彼を捜す。

 光のない世界だ。影に満ちた世界でもある。

「安心しなよ。ぼくはここにいる」

 前方から届く声があり、闇に反響する声がある。ややもすれば、闇それ自体が空間そのものを響かせているのかもしれない。

 声のなかに僕はいる。彼の裡に僕はいる。でもこの感覚はきっと錯覚で、けれどミタケンさんの気配はここにはなく、やはりというべきかこの空間それ自体が気配そのものに思える。

「殺したんですか?」僕は単刀直入に訊いた。闇へと尋ねた。「ノドカを、ノドカを、殺したんですか? ほんとうにミタケンさんが」

 ――殺したのですか。

「ぼくが殺したようなものだ……それは否定しない」闇は答えた。「ただ、ノドちゃんを――彼女を直接殺したのはぼくではない。それは信じて欲しい。彼女をその手で殺したヤツは……ぼくじゃない」

 ぼくじゃないんだよ、と闇はふるえた。

「――何も信じません。僕はただミタケンさんに訊いてみたかっただけです。ミタケンさんの口からなにが聞けるのか尋ねてみたかっただけなんです。僕はミタケンさんの言葉も、機関の言葉も、神も科学も現実も、何もかもを信じていません。ただ、何も信じない代わりに僕は、疑うこともしません。たとえミタケンさんがノドカを殺していなくとも、または殺していたとしても、それはもう終わったことです」

 そう。

 終わったことなのだ。

 いまさらなにをしてもノドカには関係がない。

 ――死んでしまっているのだから。

 関係があるとすれば――変わることがあるとすれば――それは、僕が世界へ及ぼす「小石がずれる程度」のささやかな変遷と、僕自身の極々わずかな脳内の変化だけ。つまりはやはりノドカにも世界にも、関係のないことで、僕の問題に過ぎないことで。

「いまの僕には、怒りだとか、悲しみだとか、そういった高尚な感情はないんです。このさきにミタケンさんがほかのラバーの方に殺されようとも、仮にそれが冤罪だったとしても、僕は未来の僕に訪れているだろう【その時を】受け入れるまでです」

 あなたの行く末を受け入れるだけです、と闇へ向かって言葉をぶつける。

 ぶつけたはずの僕の声は、どこにもぶつかることもなく――どこにもぶつかることもないくせに反響して――闇のなかへと吸収されていった。

 遅れて、

「そうだね」とだけ声が返ってくる。

「僕が訊きたいことはもう、聞けました」

 つぎはミタケンさんの番ですよ、と懐かしいやり取りをした。

 僕が彼から教鞭を振るってもらっていた時代のやり取りだ。

 僕が訊き、彼が答えて僕が聞き。

 彼が訊き、僕が答えて彼が聞く。

「ならぼくも率直に説明するけど」

 言って闇は膨張する。

 視えないのだけれど、僕には判った。声が反響しなくなったから、というのも判断材料にはなり得たのだけれど、それ以前に、僕にはこの闇が広がったのだという感触が伝わっていた。

 或いは僕が闇に潜っている、沈んでいるということなのかもしれないし、闇に呑まれているということなのかもしれなかった。でもそんなことは大事のまえの小事だ。

 闇は所詮、闇に過ぎない。

 光に怯えて光に居場所を追われ、そんな迫害されるだけの弱い存在。

 それが闇だ。

 なら僕は、その闇ごと守ってあげられる存在になりたいと思った。受け入れてあげたいと、そう思った――などと幼稚に考えていると、いつの間にか――本当にいつの間にかであったからして、僕が幼稚な独白に気を回して警戒を怠っていたせいではないのだけれど――ミタケンさんはそこに座っていた。

「さあ。座って。ああいや、立っていたいのならそれでもいいんだけど」

「おじゃまします」

 僕は座った。闇に座った。

 相変わらず周囲は闇だった。でも、僕とミタケンさんだけが、優しいランプの灯りに照らされているように形を浮かべていた。形を得ていた。闇のなかで僕たちだけが。

「ぼくはねノドちゃんに頼まれていたんだ」

 ぽつり、ぽつりと、ミタケンさんは話しはじめる。

「組織について調べて欲しいのだと、ぼくはノドちゃんに頼まれた」



 ***ミタケン***

 ぼくはね、いっとき死のうと思っていたんだ。生きている意味がなくなってしまった。ううん違うな。元々生きていることに意味なんてないんだよ。見つかる意味なんてない。見出す意味しかないんだよ人生になんてね。

 でも、ぼくは、せっかく見出した意味を失ってしまったんだ。

 ああごめん。ぼくのことはどうでもいんだったね。

 それで、ぼくは死のうと思ったわけなんだけど、でもそしたらノドちゃんに怒られてしまってね。

「死ぬのは勝手だけどさ、きちんとあたいに償ってから死ねよな、クソミタケン」

 そんなふうに怒られてしまった。

 うん?

 ああやっぱりキミは何も知らなかったんだね。

 そう。ぼくは彼女に借りがある。罪がある。償わなくてはならない罪が、ぼくにはあったんだ。だからぼくは、ぼくの命を彼女のために捧げようと思った。

 ああ、これも違うな。捧げよう、だなんて言い方は随分とおこがましい。大袈裟だし、立派に聞こえてしまう。そんな高尚なことじゃないんだよ。これは自己犠牲じゃないんだから。いやどうだろう、自己犠牲が高尚かどうかもぼくには判らないのだけど、まあなんていうのかな、罪を償うなんてことは当然のことなんだ。だからぼくは、彼女が死んだ今、すぐにでも死ぬべきだったのかもしれない。

 でも、ノドちゃんはぼくに、二つのことをお願いした。

 だからぼくは死ねないんだ。彼女の意志を、その遺志を、ぼくは成し遂げなくてはならないから。

 いまになって思えば――そう本当にいまさらなのだけどね――ノドちゃんのその厚意のお陰でぼくは生きる意味をまた得られたのかもしれない。もとを辿れば弥寺くんの気紛れが発端なのだから、弥寺くんにも感謝しておくべきなのかな。

 ああごめん。ぼくのことなんてどうでもいいんだよね。どうも人と会話するのが久しぶりでね。それも、こうしてむかしの友人との会話だとね。

 うん?

 ああ、ぼくはね、キミのことを勝手ながらも友人だと思っている。迷惑だったかな? でもね、見逃してくれないか。たとえぼくがキミの友人ではなかったとしても、キミはぼくの友人なんだ。大切な、友人なんだ。ぼくがぼくであるために、必要な人間なんだよ弟くん、キミはね。

 ぼくが勝手にそう思っているだけだからどうかな、思うだけなら許してくれないか。

 ありがとう。キミはノドちゃんに似て優しいね。

 どうも話が進まないな。すまないね。

 

 そうそう、ノドちゃんからお願いされていたことだね。

 ぼくはノドちゃんに、組織について調べて欲しいと頼まれた。

 ぼくは言われた通りに、でき得る限りの探りをいれた。組織について調べたんだよ。創立の起源から、現在に至るまでの経緯――基本的なことすら容易には分からなかった。それは暗に、基本的なことすらもぼくらが知らなかったという怠慢を示しているのだろうけどね。

 とにかくぼくは組織を穿鑿した。

 するとたちまちぼくは殺されそうになった。

 組織に殺されそうになったんだよ、ぼくは。

 知っているかな、組織にはアークティクス・ラバー以外に、暗殺専門の機関がある。主に、ラバーたちを処分する機関らしい。極秘とされている機関らしいから、ぼくにもその機関の名称は分からないんだけど、でも、そういった機関があるというのは確かなんだ。

 どんな保持者においても、暴走しない限りは、「処分」の前に、段階的な罰則や警告があるものなんだ。それらもなしに『即刻処分』の指令はくだされないはずなんだけど――どうやらぼくのように組織に懐疑的な行動をとっている不穏なラバーやパーソナリティ武力の高い保持者たちは、秘密裏に処分されてしまっているらしい。

 組織にとって不都合な者たちは始末される。

 いや、不都合と言うよりかは、利用価値のない者たち――かな。

 ラバーなんかは、任務そのものが危険だからね。いつ死んだって疑う者は少ない。

 ぼくはね、ラバーをやめた。というよりも解任された。解任されたすぐあとだよ、立てつづけに寝首を掻かれそうになったのは。

 ぼくは逃げた。死ぬわけにはいかなくなったからね。

 償いをしないとぼくは死ぬことすら許されないんだから。ノドちゃんのためにじゃないよ、ぼくのためにだ。だからぼくは逃げた。アークティクス・サイドの外に。

 そうして組織を離反した。

 もちろん、ラバーをクビにされたぼくに、単独での離脱は不可能だ。一人では外界へ逃げることはできなかった。

 そう。ノドちゃんの助けを借りたんだ。借りたんだ、とは言っても、ノドちゃんが自発的にそうしてくれたのだけどね。ようするに、ぼくはノドちゃんに助けられたのさ。

 ノドちゃんは優し過ぎる。どこまでもぼくはあの子に救われている。それと同じくらいぼくは、ノドちゃんに苦しめられているんだけどね。

 ああごめん、愚痴を溢したいわけじゃないんだ。いちおう今のは、ぼくなりの彼女への感謝の意なんだよ。そうは聞こえなかったとは思うけど。


 話を戻そうか。

 離反したぼくは組織について調べた。

 ほかの地方にある「学び舎」へも侵入した。

 侵入は離脱ほど難しくはないし、このアークティクス・サイドは、ほかの「学び舎」よりも突出してセキュリティが厳重なんだ。ここのセキュリティに慣れていたぼくにとって、ほかの「学び舎」のセキュリティシステムなんてざるも同然だったよ。

 ああそうだ、一応これも教えておこうか。

 前に『言霊』については説明したよね。そう、『言霊』の作用を受けるとぼくらは正常にパーソナリティを使用できなくなる。でも、本来は、メノフェノンを安定させるためのものなんだよ。

 いちおう、『言霊』について復習しておこうか。

 形には力が宿る。というよりも、力の形成するものこそが「形」なんだ。『言霊』というのは、その「形」に宿る力を擬似的に集積させる働きがある。世界に漂う力を、『言霊』の形に循環させる。循環するものは「形」を得る。「形」を得るものは、その形にあった力を発揮する。システムは、システム以上の力を発揮することはできないけど、最低でもシステム通りには働くものだからね。『言霊』にはそういった、世界を漂う力――要するに、メノフェノンに性質を与えるものなんだ。

 循環するものは安定する。

 とどのつまりが、『言霊』はメノフェノンを安定させるための触媒だ。

 けど一方で、メノフェノンを敢えて乱雑にしてパーソナリティの発動を妨害するようにもできる。

 力の「形」を歪ませて、力の循環を滞らせる。

 流れない水が腐るように、循環しない力は衰える。

 まあ、復習はこれくらいにするとして――。

 そしてここ、アークティクス・サイドには中央棟を中心にしてステップ同士が結ばれているだろ? あれはね、通路というよりは巨大な『言霊』を模しているんだ。あれのせいでここアークティクス・サイドはほとんど完全に閉ざされている。あとで見上げごらん、ステップ同士が複雑に結びついていて、幾何学模様を形成しているから。それが『言霊』なんだよ。

 ああ、見たことがあるんだね。あれが紋様になっていると気付けるのだから、キミはやっぱり特別なのかもしれない。

 そう、あれは巨大な『言霊』なんだ。あれの所為でここアークティクス・サイドからの勝手な離脱ができなくなっている。あれが『言霊』の形を模している限り、勝手な離脱は不可能なんだ。

 でもほかの地方の「学び舎」にはそんな機構は付いていない。だからぼくはそこそこ自由に調べ回ることができた。

 ――『R2L』機関という組織について。

 そして、

 ――【ダブルバブル理論】の提唱者にして組織の創始者。

 ――《リザ・セパレン=シュガー》について。

 以前、キミを介してノドちゃんに《彼女》の著書を渡してもらったことがあったんだけど、それは覚えているかな。そう、子猫をぼくが預かったときだよ。

 うん? ああ、あの子猫は元気さ。いまはぼくが飼っているわけじゃないんだけど大丈夫だよ。きちんとぼくの代わりに飼ってくれるひとを探して、そのひとに引き取ってもらったから。

 うん、親切そうなひとでね。《彼女》の紹介でもあったから、信用はできる。

 幼い娘さんがいるみたいで、家族ぐるみで可愛がってくれそうだった。家を空けがちなぼくに飼われるよりも、裕福な家の温かい家族のもとで暮らしたほうが、ミルクのためにもなると思ってね。

 うん? ああ、あの子猫、ぼくは「ミルク」と名付けたんだ。可愛らしいだろ。

 あっと、ごめん。また話が脱線してしまったね。最近すこしノドちゃんに似てきたような気がしてきたよ。ぼくがだよ。そう、こんなふうに、寄り道ばかりの説明とかね。


 とにかくぼくは、《リザ・セパレン=シュガー》について調べていた。そして、すごく面白いことを知ったんだ。ううん違うな、そうじゃない。ぼくは、体験したんだ。

 『R2L』機関の創立は紀元前にまで遡る。つまり、組織の創立者である《彼女》は、キリストよりも以前に生まれていた人物なんだよ。なのに、《彼女》は今もなお現存している。

 ――生きているのさ。

 うそだと思うよね。信じられなくてもそれが正常な思考だよ。でもぼくは《彼女》と直に会った。そう、ぼくは《彼女》とのコンタクトをとれたんだ。

 なにが一番驚いたかというとね――ああ、いや、これは言うべきことじゃないのかな。ぼくの問題で、弟くんが知るべきことではないね。ごめん。

 まあ、ぼくはね、《彼女》と出会って、うれしくなれたんだ。とてもね。

 

 ぼくの質問に《彼女》は答えてくれた。教えてくれた。

 《彼女》は組織に懐疑的になっている。いや、すでに組織の在り方を否定していた。失望していたんだよ。

 一方で、ぼくの境遇を嘆いてもくれた。悼んでくれた。

 そこでぼくは《彼女》と協定を結んだ。

 ぼくは《彼女》から情報をもらう。

 その代わりに《彼女》はぼくを駒として遣う。

 《彼女》はいま、組織を瓦解させようとしている。

 完成されたシステムを修理するには、いったん分解しなくてはならない。

 その分解はこの場合、崩壊と同義なのだと《彼女》は言った。

 ぼくもそう思う。

 そうして分解されたシステムは、より強固に、なお且つ柔軟性を帯びて再構築されるべきなのだ――というのが《彼女》の主張でもあり、思想だった。

 それは、人間界と自然界との関わりにも適用されるべき思想なのだとぼくは思う。

 システムから逸脱した部品はいつだって弾き飛ばされる運命にある。でも人類は自然界という循環システムから逸脱しはじめると同時に浸食しはじめた。ついには自然界を弾き返すほどに膨張してね。

 ただそこには圧倒的に無視できない問題が孕んでいる。

 なにかと言えば、それは、人類が生み出したシステムが、自然界の循環システムに依存しているということなんだ。人類は自然界に寄生していると言い換えてもいいだろうね。なのに人類はその自然界を弾き飛ばそうとしている。それは明らかな自爆だよ。自ら心臓を取りだそうとしているようなものだ。

 それを知っていながらに人類はいまさらどうしようもない。なす術がない。このまま行けば人類はいずれ自然界を弾き飛ばす。その進行に抗えない。

 人類が築きあげてきたシステムは欠陥品だからだ。

 修理し直すには分解しなくてはならない。

 でもそれっていうのは、さっきも言ったように、崩壊と同義なんだ。

 でも、そうしなくてはならない状態にまで深刻さが増してきている。

 どこかで誰かが「人類」というシステムを再構築し直さなくてはならない。

 ところで弟くんは、骨がどうやって新しく構築されていくか知っているかい?

 骨というのはまず「破骨細胞」という細胞が骨を溶かして吸収する。そしてその破壊された部位を「骨芽細胞」という細胞が骨を形成しつつ補強するんだ。そうして破壊と構築を部分的にかつ同時に進行していくことで骨全体の再構築を行っているんだよ。

 そうして、「破骨細胞」と「骨芽細胞」の関係のように、「部分的破壊」と「部分的構築」を繰り返すことで、人類というシステム全体を再構築することができなくはないだろうとぼくは思う。まあこれも《彼女》の受け入りだけどね。

 でもね、その部分的に再構築していくという方法には限界があるんだ。

 まず時間がかかり過ぎる。骨の場合ですら全体を再構築するのに二年以上の年月を要するのに、それがもっと複雑な人類というシステムともなれば、最低でも数百年という時間を要してしまう。それも、時間がかかればかかるほど、同時に問題も複雑化していくという弊害も生じる。それら複雑化していく問題と解決の連鎖が、「部分的再構築」という方法では追いつかないんだよ。

 そして部分的再構築という方法には、多くの者の協力が不可欠だ。

 それは問題点の共通認識と倫理観の統一という最低限の同一化――思考の同一化――が必要なのだけど、それすらもまず無理だろう。歴史的に見ても、現状を見てもそれは明白なんだ。人類は、同じ思想を共有できない。また、すべきではないんだろうね。

 だからこそ、誰かが思いきって崩壊させなくてはならない。

 組織というシステムを。

 人類というシステムを。

 なによりも、

 世界の循環を。

 うん?

 いや、決して洗脳なんかされていないよぼくは。

 ああごめん。

 でも今のはキミの波紋を読んだわけじゃないんだ。キミの顔色を読んだんだよ。――洗脳されてるんじゃないか、と訝しがっているような表情だったんだ、弟くんがね。

 いや、怒ってないから安心していいよ。

 だれだってきっと怪訝に思うのだろうね――世界を変えようだなんて世迷言。

 洗脳か――。

 どうなんだろうね、実際。

 でもさ、ぼくは思うんだ、マインドコントロールというのは日常的に行われているものだとね。教育なんてものはその最たるものじゃないか。ぼくらは生まれ出た瞬間――他者と接したその瞬間から洗脳を受けているものなんだよ。ただ、どこまでその洗脳が恣意的に引き起こされているのか――または、どこまで個人の意思によって及ぼされているのか――どこまで他人の人格に自身が侵されているのか――が境界線なんだろうね。

 きっとそれが洗脳と成長のちがいだよ。

 ぼくらの知っている情報の大半は、自身で体験したものじゃない。他人から見聞した知識だ。

 他人の言葉や、文字や、写真や、映像など、様々なメディアを介して得た知識が大半なんだよ。

 そうやって間接的に得た知識によってぼくらは世界を視ている。認識している。それが洗脳ではないとどうして言い切れる?

 単純に、仮にそれがマインドコントロールだとしても、まったく困らない、というそれだけなんだよ。結局はね。

 マインドコントロールされて困ることがあれば、それは洗脳として認識されるし、困らなければそれは教育だ。

 どちらも、結局は、ただのそこにある現実なんだよ。

 意図されようがされなかろうが、何も問題がなければ、それは善いことなんだ。

「善いこと」というのは突き詰めれば、自分にとって「都合の善いこと」でしかないのだからね。

 洗脳も教育も、自分ではその違いに気づけない。他者がそれをどう感じるか、の違いだけなのさ。

 ああまた脱線してしまったね。ごめん。

 

 そう、ぼくは本気だよ。

 世界の在り方を変えようと思う。

 ぼくは変えてみせるよ。

《彼女》についていく。それが多分、ノドちゃんの遺志でもあるんだと思う。

 いま説明したことも全部本当の話さ。

 もちろん弟くんの言う通り、ぼくは《彼女》に洗脳されているのかもしれない。

 でもそれが何なんだい?

 ぼくは今の自分に満足している。それで充分じゃないか。それがすべてじゃないのかな。

 どう思い込むか、なにを信じるのか、それらの対象が違うだけで、どこまでいったってぼくらの視ている世界なんてのは、とどのつまりは、思い込み、錯覚、洗脳に過ぎないのだから。ぼくらには、完全な《世界》を感受することなんてできないんだから。

 ああいや、こんな当たり前の話をしたかったわけじゃないんだ。

 

 とりあえずぼくは、《リザ・セパレン=シュガー》の協力のもとに、組織について調べている。ほかの学び舎にも、こうして『R2L』機関に疑問をもった保持者たち、組織の意向に懐疑的な者たちが「サークル」を通じて集いはじめている。

 彼らと共にぼくは、このさき、きっと組織を変えることになる。

 そのためには破壊が必要になる。

 組織と敵対することにもなる。

 そうすれば、いつか、ぼくと弟くんが敵対しなくてはならなくなる日が訪れるかもしれない。

 でも、そうなったときは、構わない――キミはぼくを殺せばいい。

 キミがそうしなくてはらない状況にあったのなら、ぼくのために、キミはぼくを殺してくれ。

 そうすることが、多分、ノドちゃんとの約束を〝二つ〟とも、守れたことになるのだから。

 言い難いことだったから最後になったけど……。

 ぼくがキミに一番伝えたかったことを今から言うから、どうか、きちんと聞いて欲しい。

 ――ノドちゃんは組織に殺された。

 ――暗殺という卑怯極まりない手段でだ。

 ぼくも知らなかったことだけど……ノドちゃんは傷を負っていたらしい。それも、かなり以前から。それをぼくら同僚に対しても隠し通していた。もしかして弟くん、キミにも隠していたんじゃないのかな。

 ああやっぱり。

 傷のこと……知らなかったんだね。

 ノドちゃんはそういう子だったからね。仕方ないよ。いつだって、自分のことは隠そうとしていた。ぼくが知る限り、ノドちゃんが本音を隠さずに、表に出していた感情というのは、大抵キミについての想いだけだったからね。

 まあ、他人であるぼくがノドちゃんのことを解ったような口をきくのは気持ちの良いものではないだろうけど、でも、このことに関しては、ぼくは自信をもってキミに断言するよ。


 ノドちゃんはキミを愛していた。

 キミが彼女を愛したように。

 大切な家族として。


 はは、臭かったかな。

 この年になると、どうも感性の嗅覚が鈍る。

 さてと――。

 ぼくからの話はこの程度にとどめるけど、どうだろう? ぼくの言いたいことは解ってもらえたかな。

 ぼくが伝えたいことは二つあったんだよ。

 いいかい、一つ目はね、

 ぼくは組織をぶち壊す、というぼくが今ここにいる目的だ。

 二つ目が、

 ノドちゃんが組織に殺されたということ。

 ――暗殺されたというその事実。

 こんなことを言うと無責任なこと言わないで、ってノドちゃんに怒られちゃいそうだけど、でも言わせてもらうよ。

 弟くん、キミはキミの信じる道を生きればいい。

 誰かがそれを責めるだろうけど、その誰かはキミの人生の責任をとってはくれないんだ。

 彼らの言葉はとても無責任な恫喝に過ぎない。

 キミの責任は、キミにしか背負えないんだ。

 ぼくはもう戻れないところまで来てしまった。道はもうすでに出来上がってしまっている。そこを進むしかぼくにはないんだ。

 でも、

 キミにはまだ道はできていない。

 いくらでも好き勝手に歩めるんだ。

 キミがこれから歩む場所こそがキミの道で、

 キミがこれまで歩んできた道こそがキミの人生だ。

 道を迷うことなんてない。

 いつだってキミはキミの道を歩んでいる。

 願わくは、その道をもう一度辿りたいと思えるような道になりますように。

 ぼくは陰ながら祈っているよ。

 

 

 ***コロセ***

 ミタケンさんの様子はどこかおかしかった。僕の知っている彼ではなかった。

 なにがちがうのか――そのなにかがようやく分かった。

 彼にはやる気が漲っている。気力が満ちていた。

 いつだって気だるそうにやる気のなさを漂わせていた彼が今は――面には現してはいないものの――どこか溌溂としている。

 明らかに僕と彼はちがうのだ、と実感した。

 実感できてしまった。

 今までのような親近感がない。

 ――異質。

 ミタケンさんは変わってしまっている。人は変わるものなのだろう。ただ、その変遷がある一定の枠内に収まっていられるからこそ、人は「個」として成り立っているのではなかったか。

 このミタケンさんの変貌具合は、果たしてその枠内にとどまっているものなのだろうか。僕には判断つかなかった。けれど、判断つかないような規模での変質ならば、やはり枠内なのだろう。

 ミタケンさんはミタケンさんだ。僕がどう思おうが、僕が彼を一瞬でもミタケンさんだと認めることができたなら、それはきっとミタケンさんなのだろう。

 これからどうするのですか、という質問を呑みこんで、代わりに、「僕になにをして欲しいんですか」と訊いた。こうして直接逢いに来たのには、それなりの訳があるのだろうと思った。

「どうもしなくていいよ。ぼくはね、キミに聞いておいて欲しかっただけなんだ。本当にただ、それだけなんだよ」

 どうして、という言葉も僕は呑みこんだ。意味がないのだろう。「どうして」も「だから」も「疑問」も「理由」もそこにはないのだろう。

 だから代わりに、「死んだら駄目ですよ」と言った。

 ――ノドカはあなたを許していない。

「……そうだね」彼はゆっくりと瞬きをした。

 闇が一瞬だけ反転した。

 許していない。

 そう、ノドカはミタケンさんをこれっぱかしも許してなどいない。

 だって、ノドカは、

 ――彼をこれっぱかしも恨んでなどいなかったのだから。

 同情したのだろう。可哀想だと思ったのだろう。だからノドカは彼を救おうとした。

 ノドカとミタケンさんのあいだになにがあったのかを僕は知らないけれど、ノドカはそういう人間だった。

 バカで自惚れている自信過剰の、愚かしいほどやさしい人だった。

 思いだしたくないほどに大切で、口にしたくないほど誇らしい、僕のただひとりの姉だ。

 でも今は、もういない。

 ――ノドカは殺された。

 だれに殺されただとか、どんな風に殺されただとか、そんなことはどうでもいい。

 ――ノドカはすでに死んでいる。

 死んだら終わりだ。

 終わりだからこそ人は「死」を畏れる。

 だからこそ「生」が尊ばれる。

 理由はある。

 理由なき尊厳などはない。理由なき制限などもない。あってはならない。命が大切な理由はそこにある。

 なぜ人を殺してはならないのか――。そんなことすこし考えれば解ることだ。

 命が儚く、代替不可能なものだからだ。

 ならばどうして人以外のものを殺しても良いのか――。そんなことはない。

 人以外だろうが、命は儚く、尊いものだ。でき得ることなら殺生なく過ごしたい。でもそれはできない。命を奪うことでしか僕たち人類は生きる術を持たない。

 でも一方で人類はそれに抗っている。いや、かつては抗おうとしていた。

 大切な人を殺さずに済むようにと社会をつくった。共存することを学んだ。社会をつくって食を豊かにした。奪い合うことを極力せずに済むようにと。

 そのうち、命を奪う生物を取捨選択できるまでに社会は発展した。家畜とペットと家族と敵と。そうやって選べるようになった。選択肢が増えた。

 だがそのころにはすでに、当初の目的は失われ、発展するという意志のみが残った。

 ――目的と手段の逆転が起こった。

 そうやって人類は、抗うことをやめた。

 以前は生きるために命を奪い――。

 今は発展するために命を奪う――。

 そこには人の命も動物の命も区別されない。

 発展のためには人殺しすらも正当化される。

 本当に命が尊いものだと主張するならば、国という人の複合体が、人殺しを断固として否定すべきだろう。忌むべき行為として糾弾すべきだろう。

 だがそうはなっていない。国は殺人を容認する。戦争然り、死刑然り。

 それらが必要悪というのなら、理由さえあれば殺人は許容されるということになる。

 本当に命が尊いのならば、殺人に情状酌量の余地すらもあってはならないのではないだろうか。

 たとい殺された側の意思が、「殺してもらうこと」だったとしても、その者の命を奪うという罪を背負うという覚悟がないのなら、その者を殺すべきではないだろう。仮にその覚悟があったならば、裁かれて当然だ。

 正当防衛にしても、緊急避難にしても、殺されそうになったから殺した、などというのは言い訳に過ぎないではないか。でもそう言うと、「なら抵抗することなく殺されろというのか」といった反駁が飛んでくる。抵抗するな、なんて僕は一言も口にしていないにも拘わらず。

 抵抗することと殺人することは同義ではない。

 そして、抵抗の結果に人を殺したと言うのなら、それは立派な殺人だろうと僕は思う。ただし、圧倒的に殺意を持っていたほうに非があるのは言うまでもないだろうけれど。でも、そのことと殺されて当然だという主張はまったく結びつかない。

 どんな思想を持っていたとしても、どんな行動を犯していたとしても、殺していい人間などは存在しない――。

 ――そう思わない限り、命の尊さなど語ることはできないだろう。

 殺人を忌むべき行為として扱うならば、絶対的に許されてはならない行為として扱わなければならない。それは、どんな場合でも同じはずだ。例外などあってはならぬ。それこそが平等の意味だ。

 例外なく、殺人は否定すべきだ。

 どんな状況であろうとも、どんな動機であろうとも、肯定してはいけないではないか。

 だが、現実はそうはなっていない。

 必要悪として殺人が許容されている。

 ならば、命は尊くなどないのだろう。代替可能な命なのだろう。

 尊い命と、そうでない命。

 代替不可能な命と、代替可能な命。

 その双方が存在するのだろう。

 少なくとも、人類が構築してきたシステムは、そういった結論を生みだす。

 極論だろうとは思う。

 だが結論でもあるだろう。

 殺人は許容される。けれど僕はそれを否定する。

 命は尊い――。

 どんな命も代替不可能だ――。

 思うからこそ僕は、ノドカの死を受け入れる。

 ノドカは死んだ。彼女はもういない。彼女の替わりなどどこにもいやしない。

 ノドカを殺した者がいるならば、それは裁かれるべきだろうとは思うけれど、社会がそれを許容すれば裁かれることにはならない。そしてノドカはその社会によって殺された。組織によって殺された。

 でも、裁かれるべきだろうという僕の思いは社会の意向になど――組織の意思になど――まったく微塵も作用されない。変わらずここにありつづける。

 でも、「殺人者は裁かれるべきだろう」という僕のこの思いは、それこそ思うだけの代物だ。

 ノドカがいなくなってしまったいま、その思いになんの価値もない。ノドカが喜ぶこともないし、ノドカが生き返ることもない。

 ――死んだら終わりだ。何もかも終わりだ。

 ならば、僕が成すべきことなど何もない。それは僕がノドカのためにすることが何もないという意味だ。

 ノドカが死んで、いなくなってしまったいま、ノドカのためだと名分を掲げて何かを成したとしても、それはどこまでいっても僕のためでしかない。僕の自己満足でしかない。

 僕はノドカを理由にだれかを傷つけたくはない。

 これは正論でも正義でもなんでもない。

 ――ただの我が儘だ。

 ――怠惰な僕の自堕落だ。

 でも、いまを生きている大切なひとを僕は守りたい。

 僕にとって大切なひとを、僕は守りたい。

 一緒に笑いあって生きていたい。

 僕が成すべきことは、それだろう。

 殺人者を恨むことではない。

 殺人者に報復することでもない。

 大切なひとたちと一緒に楽しく平穏に生きることだ。

 そのためになら僕は、ノドカを殺した者を許そうと思う。ノドカを殺したその行為は赦されるべきではないだろうけれど、僕はそいつを許そうと思う。

 そのせいでだれかがこのさきに、そのノドカを殺した誰かに傷つけられることになっても、社会が殺人を許容している限り、僕の知ったことではない。組織が殺人を完全に否定しない限り、僕の知ったことではない。

 だから――。

 ――殺人を否定する代わりに僕は、ノドカを殺した者を許そうと思う。

 そいつの存在を、許容しようと思う。

 そいつを咎めることを僕はしない。そいつを捜すこともしない。

 誰のためにでもなく、僕のために。

 今を生きる、大切なひとのために。

 一緒に生きていきたいひとが、僕のそばにはいるのだから。

 

「僕、これから約束があるんです」

 立ち上がって彼を見下ろす。

「とても大切なひととの約束です」

「うん。すまないね、時間とらせちゃって」ミタケンさんは謝る。

 それから立ち上がって、僕に手を差しだした。

 僕はその手を握る。

 ミタケンさんはもう片方の手も添えて、両手で僕の左手を覆った。「ありがとう」

 ――さようなら。

 彼の声は鼓膜を揺らさずに、僕の脳裡に直接響いた。

 闇は掠れて形を帯びていく。

 ミタケンさんの「さようなら」だけが、いつまでも、僕の脳裡にこだましていた。

 

   ***

 零一六号棟のまえに僕はひとりで立っていた。

 ステップからそそぐ灯りが眩しい。僕の周囲に闇はない。

 胸がざわついた。

 ――ノドカ。

 僕は思いだす。思いだす。思いだす。

 ノドカの顔を、声を、笑みを、涙を、怒号を、体温を、無邪気さを、我が儘を――――拗ねた顔、泣いた顔、怒った顔、優しい顔、幼い顔、小麦粉まみれの顔、浮腫んだ顔、むつけた顔、困った顔、おどけた顔、ノドカの顔を――僕は思いだす。

 ノドカは死んだ。殺された。殺された。殺された。

 思いだす。思いだす。思いだす。

 湧き上がる重い思いが。

 溢れる想いが。

 落ちる滴が。

 目から。

 伝う。

 涙。

 が

 。

 ッざけんな――と拳を握る。

 ノドカを殺した者が、いまこの瞬間に、目のまえに現れたなら――僕は、たぶん、そいつを殺してしまう。

 少なくとも、殺そうとするだろう。

 僕はそいつを、殺してやりたい。裁くのではなく、捌いてやりたい。死ぬ寸前の寸前まで、苦痛という苦痛を、恐怖という恐怖を、残虐という残虐を与えてから、身体の末端から徐々に徐々に細切れに切り刻んで、その肉片をそいつの口にねじ込み、食わせてやりたい。己の血肉で窒息させて殺してやりたい。殺してやりたい。ころしてやりたい。ころして。ころして。ころして。ころして。ころして。ころして。ころして。ころしてやる。

 ふざけんなッ――と僕は頭を掻きむしる。

 ノドカを返せ。返せ。返せ。返せ。返せ。僕に返せ。僕に謝れ。僕に詫びろ。ノドカに逢わせろ。ノドカとのあの日々を、あの楽しかった日々を、あの温かかった陽だまりのような日々を、誰が奪った――誰が僕から奪いやがった。誰が僕にこの数年間の孤独を強いた。誰が僕を苦しめる。殺したい。僕のために殺したい。ノドカのために殺してやりたい。みんなのために殺したいし、しておくべきだ。殺人者など死ねばいい。死に絶えればいい。否、殺されればいい。自分がしたように殺されればいい。否、否、僕が殺してやる。やっぱりこの手で殺してやる。捌いてやる。皮膚という皮膚をはぎとって、筋肉という筋肉にある一本一本の筋を、裂いて、除いて、血管と臓器と骨だけにしてやる。筋肉を取り除いてやって、動けなくしたうえで、痛みという痛みの極限を味あわせてやる。内臓を鷲掴みにして、ゆっくりゆっくりと爪を食いこませて、その映像を見せつけてやる。お前の腹はこんなに黒いのだと、腹黒いのだと、ドス黒く濁っているのだと、グロテスクなのだと、てめえは人間などではないのだと、化け物なのだと、鬼畜なのだと、そうやって自覚させてやる。

 理屈じゃないんだ。

 そう、理屈じゃない。

 感情的でもない。

 理性的ですらある。

 より人間的な感情だ。

 この想いを割り切れる者がいたとすれば、そいつは人間じゃない。それでも人間だと言い張るのなら、きっとそいつにとってその殺された者が、大切な者ではなかっただけの話だ。

 僕はきっと殺す。

 ノドカを殺したそいつを殺す。

 殺人者なんて、人じゃない。

 殺されて当然だ。

 涙を拭う。ステップを見上げた。

 風が冷たい。

 まるで、僕の煮えたぎった心を冷ましてくれるように。

 僕の心は冷えていく。冷めていく。急速に。冷却されていく。していく。秋の風によって。

 どうしてこんなに僕の心は不安定になっているのだろう。波立っているのだろう。刺々しいのだろう。

 ノドカの死なんて、随分と前に受け入れていたはずではなかったか。

 なのに……どうして。

 ミタケンさんが犯人ではないと知ったからだろうか――それとも、ノドカが組織の勝手な意向で殺されたと知ったからだろうか――いや、関係ない。

 きっと僕は、今の今まで、このことを――ノドカを殺した殺人者のことを――考えないように、考えないようにと目を逸らしつづけていた――そのツケが回ってきただけなのだろう。

 逃避しつづけていた現実に、追いつかれてしまっただけのことなのだろう。

 ならばまた逃げればいいだけだ。

 考えなくてもいいことなのだ、こんなことは。

 こんなことは…………。

 それとも、

 いま考えなくてはいけないことだったのだろうか。

 いま考えておくべきことなのだろうか。

 そういえば、と僕は思いだす。

 小春ひよりとの会話の一断片。

 彼女が僕に聴かせた言葉を。

 

   ***

「ひとの感情はあいまいです」

 コヨリは毅然とした様でそう言った。

 きっと僕が彼女の気に障るようなくだらない愚痴を溢したからかもしれないし、または、なにか詰まらない悩みを吐いたからかもしれない。

 彼女は僕に言って聞かせた。凛々しい口調で、説いてくれた。

「感情や思考――ううん、人という存在そのものが不安定だし、複合的なものです。割り切ることなんてそうそうできるものではないの。こと、考えあぐねているならなおさらにですよ」

 彼女は身体ごと僕に向きなおって、まっ直ぐと見つめた。きちんとあごを上げて、見据えるように。

「うん。わかっているよ。相対主義ってやつでしょ」

 その考えに僕はうんざりだった。

 でもコヨリが真剣に僕へなにかを訴えかけてくれているというその行為が、僕はとてもうれしかった。

「そうだけどそうじゃないの。私が言いたいのはそれとはちがいます」不満気に彼女はあごを引いた。上目遣いになる。

 それからコヨリは自分の手のひらを見つめながら話しだした。彼女は時折そうやって話す際に、本を読むようにして手のひらを見つめる癖があった。

「曖昧な状態でいい場合がだいたいなのですが、それでもいつかはどこかで折り合いをつけなくてはならなくなります。そういったときが訪れるの」

「折り合い――か」

「折り合いです」いいですか、と言わんばかりにコヨリは真剣な眼差しを向けてくる。「ひとの感情なんてものは割り切れるものではありません。割り切れない、割り切れないのですが、それでも、いずれ断ち切らなければならないときがきます。絶対に訪れちゃうの」

「断ち切る?」

「そう。割り切れないものは、いずれ断ち切らなくてはならないから。曖昧な感情に折り合いをつけるために、余分なものから断ち切っていく、取捨選択していかなければならないの。なにを捨てて、なにを得るのか。その選択です」

「うんと……なにを基準に?」

 そう、なにを基準に――。

 僕が相対主義を苦手とするところは正にここだった。

 物の見方や考え方、感じ方、抱き方、そういったことが人それぞれだというのなら、いったいなにを基準にすればよいのかが解らなくなる。誰を基準にすればいいのか、とんと視えなくなってしまう。

 僕には、出会うひと出会うひと、それぞれの世界を背負えるだけの器量がない。だから、基準が必要だった。だから、相対主義が苦手だった。

 僕の質問に、コヨリは淡々と答えた。

「自分にとってなにがもっとも納得のできる結果に繋がるか――です」基準はそれだけです、と言い聞かせるように口にした。「結局、自分なの」

 僕が納得しかねる、といった面をしていたためか、コヨリはさらに説明した。

「とどのつまりが、だれかを助けるのもだれかを傷つけるのも、どちらも根本的には同じことなの。どちらも自分のためにしていることです」

 どんな行動も、自分にとって納得ができるからこそ選択した結果の行為でしかないの。ただし、自律的に行なっているならのはなしですよ――と彼女は補足していた気もする。

 いや、どうだろう、歪曲してしまった記憶かもしれない。

 彼女は最後にこう結んだ。

 ――流されているだけなら、死んでいたってできちゃうんですよ。

 そよ風のようにはかない声だったように思う。

 彼女にしては随分と極端な主張だな、と僕はなぜか漠然と不安になった。

 彼女らしくないことが不安だったのだ。

 僕の裡で勝手に作り上げられた『小春ひよりという虚像』に当てはまらない言動というたただそれだけの不安だ。身勝手な不安だ。ひどく歪んだ不安。

 不安とは精神の歪みだ。

 ならばこれは、歪みの歪み。歪みがさらに歪むというのは、圧縮されるということだろうか。凝縮する。歪みが凝縮する。その凝縮されてできた塊とはいったい何なのだろうか。いや、これもどうでもいいことだ。瑣末なことだ。砂塵のように卑小な、とるに足らない小事。でも、小さいからこそ厄介なことって往々にしてあるものだ。

 あのとき、コヨリが言いたかったことはつまり、きっと、こういうことなのだろう。

 ――リスクを恐れていては何もできなくなる。後悔を危惧しはじめたら切りがない。だからこそ、その迷いをいつかはどこかで断ち切らなければならない。

 それはつまり、後悔するだろう幾多の結末を許容してしまうことだし、また、妥協することにもなる。

 多くの理想を諦めて、多くの後悔を担う覚悟が一つの明確な意志を生みだす。

 曖昧な感情を揺るぎないものにする。固定する。限定する。安定させる。

 常にそんな意志を抱きつづける必要はないし、それでは疲弊しきってしまうのだろうけれど、でもやはり、そういった明確な意志や、思想や、理屈や、目的を、紡ぎ出して選択しなくてはならない時がくるはずだ――とコヨリは言いたかったのだろう。

 そのときが訪れたら、逃げ出すことなく、多くの「後悔」と「苦痛」と「受け入れ難い現実」を背負わなくてはならない――と、そういうことなのだと思う。

 僕にもそういった「時」がいつかは訪れるのだろうか。

 それともすでに訪れていて、僕は逃げているだけなのだろうか。

 ――わからない。

 そう、わからないじゃないかコヨリ。

 それがいつなのか、それを教えてくれなくては、僕のような腑抜けには「その時」が判らない。

   ***

 

 小春ひより――彼女に逢いたかった。

 今すぐにでも逢いに行きたかった。でも、どこにいるのかが解らない。

 この世界は解らないことだらけだ。

 ああ。そうだった。

 ――僕の知っていることなんて、知らないということだけだ。

 独りはいやだった。だれか側にいてほしい。寂しい。心細い。

 ステップをもういちど見上げた。

「努樹……」もう来ているかな。

 つぶやいて、僕は念入りに涙を拭った。

 努樹のまえで、こんなみにくい感情は晒せない。

 殺意なんて、そんな醜いモノ。

 親切な保冷剤のような秋風は、急速に僕の頭を冷ましていく。

 どうして世界はこんなにも親切なのだろう。

 親切にされた分だけ僕は、自分が軟弱なのだと思い知らされる。

 

   ******

 努樹の料理はすごかった。何をどう形容すればいいのか分らないのだけれど、とにかくすごかったのだけれど、ざんねんなことに美味しくはなかった。

 一応の礼儀として、「独創的だね」と褒めてみたのだけれど、「食いたくなけりゃ食わなくていいよ。一人で処理するから」とむつけられてしまった。

 波紋がどうこうよりも、僕の顔が引き攣っていたことが問題だったのだろう。

「コロセが私の厚意を無下にした」

「吐き気を抑えただけで表彰ものの忍耐だと思うんだけど」

 ついつい独白を声に出してしまった僕はバカだ。

「なら表彰してやるよ!」

 言って努樹は、口のなかに、得体のしれない穴のあいた虹色の塊を、むんずと詰め込んできた。

 刺激的な味に耐えきれず吐き出す。吐き出しつつも、慌てて、「二度見ならず、二度食い!」と訳の分からないことを叫んでもういちど自分で口に詰め込んだ。

 死ぬかと思った。

 けれどもどんどんと険のある表情になっていく努樹を見ていると、そうせざるを得なかった。

「コロセがドーナッツ好きだって聞いたから……練習したのに」

 つくってきたのに、と唇を噛み締めて心底悔しそうに(いや、恨めしそうにかもしれないけれど)努樹はつぶやいた。

 ドーナツだったんだ……この毒々しいやつ。

 独創的というよりも芸術の域に達している。どうやって着色したのだろう。案外にすごい技術ではなかろうか。味はともかくとして。

「いや、うん、ありがとう」飲み物で流し込み僕は、そういえばさ、と話題を変えた。「努樹ってアークティクス・サイドの住人についてどれくらい把握してるの」

「どういう意味で?」

「たとえば、名前だとか、特質だとか、パーソナリティ値とか」

「とくに突出した人物ならある程度の情報は知ってるけど。でも、どうしてだ」

 なぜそんなことを訊くんだ、と努樹は眉根を寄せた。

「うんあのさ」

 思いきって尋ねてみた。「このくらいの背丈の幼い女の子なんだけど」と手で高さを示し、「年齢が七、八歳くらいで――たぶん、特質がテレポート系で、結構にパーソナリティ値も高い子だと思うんだけど。ちなみに、頭もそこそこいい」

 知らないかな、と僕は自然なふうを装って訊いた。

「どういう風の吹き回しだ」努樹は大仰に目を見開いた。「コロセが他人に興味を示すだなんて」

 ボロボロと手に持っていた虹色ドーナツを落としている。

 まあそうなるだろうな、とは思っていた。が、それにしても大袈裟だ。

「いいでしょ、べつに。僕にだって努樹以外のトモダチはいるんだ」

 柳眉を曇らせたかと思うと努樹は、何かに気付いたように一転、ぱっ、と表情を明るくし、「あ、いまトモダチって言ってくれた、私のこと」

 向日葵が開花したように笑みを浮かべた。

 なんだこの努樹。すこしかわいいぞ。

「でもそんなに幼い女の子と友達って……コロセ、大丈夫か?」と努樹は余計な心配を口にした。

「大丈夫もなにも――そうやって過剰に反応するほうが危ない気がする。子どもと友達になったって自然だろ」

「なにを言うか。幼児を案じることのほうが自然だろ。それに問題は、コロセが幼児とじゃなきゃ友好関係を築けない、その希薄な交流関係にある。それはどうみたって危ないだろ」

「じゃあなに? 努樹は僕の友達じゃないとでも言うの。それとも、実は努樹が幼児だった、とでも言うんですか?」と皮肉交じりに揚げ足をとる。

「ああごめん。そうだな、コロセには私がいたな」

 努樹は照れくさそうに頭を掻いた。

 相変わらず皮肉が通じない。

「で。どうなの?」ともういちど訊いた。「知ってるの?」

「ああうん。どうだろうな。そんなに幼くて、でもってテレポートというのは私が知る限りじゃ、いないかな」

「ならテレポートじゃないのかも。そういえば、知り合いに聞いたことがあるんだけさ」

 コロセに知り合いなんているのか――と揶揄しつつ努樹が落とした虹色ドーナツを拾い上げている。

 僕は横にあったクッションを投げつけてやった。

 前にミタケンさんから聞いた話を思いす。

 アークティクス・ラバーは、より《アークティクス》にちかい断層まで「浸透」することで、『僕らが共有している世界(プレクス)』から外れることができるのだという。そして浸透した者は、『プレクス』内にいる者たちから認知されなくなるらしい。コヨリもそれなのかもしれない。浸透していただけなのかもしれない。ラバーの一員の可能性があることを僕は思いついたのだった。

 まあいいや、といったん区切ってから、じゃあさ、とあたかも話題を変えるようにして、「努樹はラバーの人たちについてどれくらい知ってる?」と探りを入れなおす。

「どれくらいって――そうだなあ、名前と業績くらいは知ってるかな」

「ならメンバーは知ってるんだ。誰がラバーなのかとか」

「まあね。どうして?」

「そのなかで最高齢のひとってどんな人?」

「サイコウレイ?」唸ってから努樹は、「ラバーになるには、パーソナリティ値の高さと同じくらいに体力もないといけないから、ご高齢になられた方たち――というか、老化した方がたは退職されるんだよ。まあ言い方がわるくなるけど、ようするに解任されるんだな」

「へえ」

 やはり努樹、僕が寡聞にして知らない話を知っている。

 こっちの社会にも――アークティクス・サイドにも――退職制度(ともすれば馘首制度)というものがあるのか、と僕は感心した。アークティクス・サイドでは完全に実力主義なだけに、年齢は関係ないと思っていたけれど、高齢者と若者とのあいだにはやはり、どうしても体力の差がでてしまうらしい。

「なら、いちばん年上のラバーって誰?」

「いまのところはウブカタさんかな――ああいや、ないと思うけど、弥寺さんって可能性もあるな」

「どういうこと?」弥寺さんはどうみても三十路前だろう。

「私も噂でしか聞いてないんだけど――弥寺さん、半世紀前にはすでにラバーとして任務を熟していたらしい」

「うそだぁ」だとすれば現在は最低でも六十歳ちかいということになる。「だってそれ、噂でしょ?」と僕が訝ると、すぐに努樹も、「まあね」と認めた。

「あとは、そうだなあ。一応、ここのラバーの方たちを統括しているひとってのがおわしているんだけど」

「ラバーのリーダ?」

「まあ、そんなとこ。それがライドさんってひとなんだけど」

 その名前は以前、ノドカが何度か口にしていた名前だ。記憶にある。

「――そのライドさんってひとが結構なご老体だった気がする。謁見したことも見たこともないんだけどね。でも話で聞くとどうもご高齢であられるらしい」 

「へえ。なら逆に」と僕は一番知りたかったことを尋ねた。「ラバーのなかで一番若い子ってだれ?」

「一番若いひとかあ。さっきも言ったけど、年齢とかそういったことまではさすがに私も知らないんだが」

「だが?」と相槌を打つ。

「イルカさんってのがいてね。このひとは割かし若いと思う」

 僕は彼女を知っている。若いと言っても、僕よりも年上だ。「ふうん。見た目が若いってこと?」

「そう。年齢がわからないからね。あとはそうだな、ライドさんの秘書みたいな人がいて、そのひとはイルカさんよりも若いらしいよ」

 逢ったことはないけど、と努樹は付け加えた。

「名前はなんてひとなの? 年齢は?」

「えっと、サイカさんってひとで、多分、ウチラと同じくらいじゃないかな」

「ふうん。すごいね。年功序列じゃないってのは本当なんだ」

「まあ実力主義って言えば聞こえはいいけどね。実際、権威主義にちかいよ」おっと今のは内緒にな、と努樹はゆびを唇に当てがってから、「ああそっか、コロセには洩らす相手がいなかったな」と僕を虚仮にした。

「僕、イルカさんと知り合いだよ」不敵な笑みで言う。

「うっそ!? あ、ごめん。今のなし」現金にも努樹は謝った。「内緒だぞ」

 その豹変ぶりに噴き出しつつ僕は、「まあ、知り合いだからって交友があるわけじゃないけど」とここ数年はまったく交流がないことを伝える。「なんだよ。やっぱりコロセは孤独じゃないか」と努樹は安心したように言った。

「いまは孤独じゃないけどね」

「え、なに?」と努樹が聞き返してきたけれど、なんでもない、と誤魔化した。「そのサイカさんっていうのは、見た目、どれくらい若いか分かる? もっと具体的にさ」

「聞いた話だから定かじゃないけど、そうだな、多く見積もっても二十歳よりうえってことはないと思う」

「そうか」ならコヨリではない。少なくとも二十歳に見間違えられることはない。

「あ、もしかしてコロセ、自分の捜している子が、ラバーのなかにいるとでも思ったのか?」努樹は鋭い。気づかれてしまったようだ。「いないって、ラバーには。そんな小さな子がラバーになれるほどのパーソナリティを有していたら、暴走を危惧して必ず一定期間は拘束されるか、隔離されるか、どちらかはされるはずだもん」

「拘束って……閉じ込められちゃうってこと?」

 まさかコヨリは今ごろ――と僕は不安になった。努樹にもそれが伝わったようで、「大丈夫だって。そんな情報、私は聞いてないから」とこちらの不安を否定した。

「ならいいんだけど」煮え切れない僕の応答を案じてか、「なんだ。話してみろよ」と努樹は促した。「その子、コロセの何なんだ?」

 逡巡したのち、僕は努樹に――コヨリことを――小春ひよりという女の子のことを――話して聞かせた。

 コヨリとの出会いから、会話、彼女がアークティクス・サイドの極一部の敷地しか知らない世間知らずな面があることや、それなのに、やたら博識で見識のあること。体躯の幼さと精神の成熟が、歪なくらいにつり合っていないこと――すなわちコヨリがとても老成した女の子だったこと。

 そして、僕が彼女に恋焦がれてしまったそのバカバカしい感情と、そのバカバカしい感情のせいで、今、僕はとても辛いのだということを、僕は彼女にとても逢いたいのだということを、ゆいいつの友人に語って聞かせた。

 どうしてコヨリがいなくなってしまったのか、それは嫌われてしまったからなのか、それとも彼女の身に何かよからぬことが起きているのか――そんな狡猾な自己保身と純粋な心配とがない交ぜになった懊悩の狭間で僕が悶えているといったことまでもを僕は滔々と語って聞かせた。

 さっきは努樹に危ないやつだと言われて咄嗟に否定してしまったけれど、自分で話していて僕はやっぱりおかしいのかな、と笑いたくなった。

 僕が恋焦がれている相手――小春ひよりは、見た目から推定すれば年齢は五~六歳児なのだ(努樹には七~八歳とサバをよんで説明してしまっていた。僕ってやっぱり狡猾だ)。

 一方で彼女の精神年齢は、明らかに僕よりもうえだった。だからと言って、なんの弁解にもならないのだけれど――とそういった弁解染みた戯言まで僕は努樹に披歴した。

 そう。僕は今、ただ単に、愚痴を溢しているだけに過ぎない。過ぎないのだと判っていながら僕は、次から次へとのどもとをせり上がってくる言葉たちを呑み込むことができずに、吐き出してしまっていた。

 止められなかった。抑えられなかった。溜まりにに溜まった僕の有耶無耶なあれやこれやの言葉たち、思いたち、憤懣や不満、理想や幻滅、希望や諦観、願望や悲観、それらが一気に溢れだしてしまった。せき止めていたバリアが決壊してしまった。

 溢れたそれらを、努樹は、黙って受けとめてくれた。耳を、傾けてくれた。

 助かった。ありがたかった。努樹の存在が僕は、とてもとてもうれしかった。

 僕の裡から溢れでた言葉たちの換わりに、そういった感謝の念が僕の内へと溜まっていった。

 一通り語り終えると、しばらく森閑とした穏やかな空気が僕を包み込んだ。

 ひっそりとしずかで。

 僕の鼓動と。

 努樹の呼吸が。

 しずけさに。

 ぽたん、ぽたん、と。

 小さな波紋を浮かべている。

「そっか。コロセにもついに春がきたか」今は冬だけどな、と努樹は自分で言って自分で笑った。「要するに、その子に逢いたいわけだな?」

「うん。あ、ちがくて、そうじゃなくって――コヨリがいまどうしているのか、平穏に暮らしているのかどうか、幸せなのかどうか、それを知られればそれでいいんだ」

「その人が幸せかどうかなんて他人には判らないよ」努樹は軽い口調で言った。

「そうだね」と同意する。「でも、僕が彼女を視て、幸せそうだな、と思えればそれでいいんだ。僕がそう思えたらそれでいい」

「そっか」努樹も頷いた。「なら参考として聞いておくけど」と悩むように頭を掻いてから、「仮に相手が幸せそうに見えたとして――というか、本人は自分が不幸だと気付いていないとして――でもそれは私からしたら不幸に見えるわけで、そのとき、その相手を救いだせるとしたら、コロセはどうする?」

 どういった状況だろうか。いまいち思い浮かべられない。「そりゃ救えるのなら救うけど」

「でもな、救った結果、その相手は自分が不幸だと思うようになってしまったとしたらどうする? そしてコロセには、前以ってそうなることが判っていたら」

「どういうこと?」

「だからさ――そう、例えば、そのコヨリちゃんが道を歩いていたとする。でも、このまま歩いていったら落とし穴に落ちてしまう」

 危ないね、と僕は言う。

「でも彼女はその落とし穴の存在を知らない。でもコロセは落とし穴の存在を知っている。そしたらコロセはそのコヨリちゃんに落とし穴の存在を教えようとするだろ?」

「するね」当たり前だ。誰がみすみす落とさせるものか。

「でもわけあって、彼女に落とし穴の存在を教えることができない」

「随分と理不尽だね」

「そう理不尽なんだ。でも、彼女が落とし穴に落ちると解っているのに、コロセはじっとしていられるか?」

「いられない。なんとか彼女が落ちないで済むようにしてみせるよ」我ながら随分と照れくさいことを言っていると自覚し、自然と顔があつくなる。

「そうだよな。何とかするよな」うれしそうに努樹は相好を崩した。「でな、その何とかした結果――例えば、コヨリちゃんを落とし穴へ落とさないようにしようと思って、コロセが彼女を突き飛ばしたとしよう。その結果、彼女は転んで、彼女の大切にしているこのノロイちゃんが毀れたとする」例えばの話だぞ、と断ってから努樹はポケットから時代遅れの携帯電話じみた端末を取り出した。

 どうやら努樹はその端末に名前を付けていたようだ。道具に名前を付けているその幼稚なやさしさにも、いかにもノロマそうな名前にも、意表を突かれて思わず僕は失笑する。

「なんだよ文句あるか」

「いや。かわいらしいと思うよ」と端末の名前を褒めると、努樹は顔をまっ赤にし、「か、からかうなよ」と怒った。

 どうやらネーミングセンスのなさは自覚しているようだ。

 でだな、と努樹は強引に話を戻した。

「コロセはコヨリちゃんを落とし穴へ落とさないようにするために、彼女を押した。その結果、彼女は落とし穴に落ちずに済んだわけだが、倒れた拍子に彼女の大切にしていたこのノロイちゃんは毀れてしまった。でも、コヨリちゃんは落とし穴の存在を知らないから、ただ単にコロセが体当たりをしてきたようにしか思えない」

「ああなるほどね。努樹がなにを言いたいか分かりましたよ」僕は答える。「そうなると初めから知ってたとしても僕は彼女のことを助けるよ。コヨリに嫌われるのは嫌だけど、それでも彼女が怪我をするよりはずっといい」

「そっか。わかった」努樹はなんだかうれしそうだった。

「誰かを助けようとするのなんて当然のことでしょ?」

 言ってから僕は、「それが何なの?」と訊いた。

 どうして努樹がそんな話を振ってきたのかが解らなかった。脈絡のない話をするのはノドカだけで充分だ。肝心のノドカはもういないのだけれど。

「いや、コロセがどの程度の覚悟を持って、そのコヨリちゃんのことを想っているのかと思ってな」

「別にそれは彼女に限った話じゃないよ。努樹に対してだって僕はそうするし、見ず知らずの人に対してだって僕はきっとそうする」

「うーん。ありがとう」照れくさそうに身体を大きく身じろがせると努樹は、「でも、落とし穴ってのは比喩だぞ」と指摘した。

「どんな場合でも同じ気がするけど」

 どんな状況であっても僕は、コヨリも努樹も助けたいけどね――と照れくささを抑えつつ、最大級に格好をつけて言った。なんだか今の僕、すごく臭い。

 努樹は必死に笑いを堪えているようだった。

 目に涙まで浮かべている。

「なあコロセ」と努樹が言った。

「なに」

「今すぐシャワー浴びてこい」

「どうして?」

「なんかコロセ、すごく臭い」

 言って努樹は、僕がさっき投げつけたクッションに顔を埋めて、ひひひ、と笑い転げた。

「ならお言葉に甘えて」

 僕はシャワールームへと向かった。

 はーあ、と努樹の大きな息継ぎが聞こえた。そのあとにまたすぐ、くふ、くふふ、と厭らしい笑い声が響いた。

 人に笑われることは好きではないけれど、大切なひとが笑顔でいるというのは、特別にうれしいものだ。ふと、思い付いて僕は、脱衣所から努樹に投げ掛けた。

「努樹もいっしょに入る?」

 笑いが止まる。

 そのあとすぐに、「コロセのすけべっ!」と努樹の陽気な声が聞こえた。

「なにがスケベだ」僕も笑った。「男のくせに」

 

 

 ***弥寺***

「ご苦労さま、弥寺くん」とライドが労ってくる。

 担いでいた少女を乱暴に床へ落とした。それから、ライドを睨む。

「弥寺くん……ではなくて……弥寺さん、どうもお疲れ様です」とライドが言い直した。

 そんなことに腹を立てていたわけではないが、おっかなびっくりと近寄って来るライドを見て、憤っている自分が莫迦らしくなった。

 こんな奴が仮にも上司だなんて、俺は頭がおかしいのではないか、と正気を疑いたくもなる。

 こうしてライドと直に顔を合わせるのは、弥寺とサイカ以外にはいない。ほかのアークティクス・ラバーたちは、ライドが操る「老人紳士の人形」越しにライドと会話をする。

 溜息じみた深呼吸をしてから弥寺は、「で、これで良かったんだよな」と、床に横たわる少女――オリア・リュコシ=シュガー――を処分しなかったことの是非を問うた。

「うん。うん。ノーベル平和賞に値するくらいだ」ライドはご機嫌に言ってから、「あれ、〝コレ〟起きないよね?」と体躯の幼い少女を突っついている。

「最低でも十日は昏睡状態だろうな。処置を施さないと死ぬぞ」

 意識がなければ、自分を『蒸発』させて肉体を再構築することもできない。

「それは結構」

 言ってライドは少女へ手を翳す。少女は宙に浮かぶ。ライドはそのまま宙に浮いた少女ごと移動した。部屋の中央に準備してあった容器へ少女を納めた。容器は透明で、赤い液体で満たされている。ボロボロの服のまま少女をそこへ浸けた。

「たっは。サイカくんにも報告しなくてはな」

「あいつはもう知っているぞ」

「ふむ。では今頃準備をしているのだろうな。サイカくんもつれないよなあ。どうして祝杯くらい一緒にという考えを持たぬかな」

 相手がお前だからだ――と弥寺は思う。口にはしない。ライド相手に、声帯を振るわせるエネルギィを遣うなど勿体ない。

「ボクは思うのだがね」ライドは独りごちるように、「弥寺くんのこの偉業とも呼べる業績が果たしてノーベル平和賞などと陳家な名誉でこと足りるかは甚だ疑問だよね――とは言え、こと足りるものとして過大に評価して言ってしまったとしてもだ――まああの賞も、所詮はこの程度のレヴェルなのだね」とライドは遠回しに軽口を叩いた。

 この組織には明らかに人選的欠陥があるな、と弥寺は珍しく、陰鬱な気分になった。さきの戦闘で思っている以上に疲労しているのかもしれない、と自己弁護を形成する。

 ライドは、ふむ、と容器に密封された女の子を眺めて、「こんな小さいの一匹助けただけで授与できてしまうのだから、ノーベル平和賞などもたかが知れている。だが、〝コレ〟一匹が犬死にしなかっただけで、このさき何万人もの人間が毀れずに済むわけなのだから、平和という意味では、ノーベル平和賞でもいいのかもしれない」

 というわけで――とライドはこちらに向き直り、はいこれ、といつの間にやら右手に持っていた袋を差しだした。「はいこれ。ドーナツ平和賞。アタシからの感謝の気持ち」

「なんだこれは」

 袋を開ける。なかには種類の豊富な塊がいくつか入っていた。穴があいていて、モサモサしている。

「食べるといいよ。ドーナツという食べ物らしい。ボクも食べてみたけどね、うん、美味しいよ」これまたいつの間にか右手に持っていたドーナツをライドは頬張っている。見ると今さっき開けたばかりの袋の中身が減っていた。

 堪え切れずに弥寺は、「食いたきゃ全部やる」と袋を放る。

 バブルの塔から離脱するため、指定の場所へと赴いた。

 離脱する間際、「いいのかい。たっは。ありがとう」と陽気な声が聞こえた。続いて、パタパタとスリッパが床を叩く音が聞こえる。

 あんなのがどうして俺の……。

 喉まで出かかったぼやきを、弥寺は無理矢理に呑み込んだ。



   ***

 あんなに言ったのに。

 あいつを悲しませないでくれと――悲しませるようなことをしないでくれと――あんなにもお願いしたのに――頭を下げて――誠心誠意懇願したのに――どうして彼女はあんな愚かなことを――ここから離脱しようなどと――組織に敵対しようなどと――自暴自棄になどになったのか――なぜなったのか―――あんなにも頼んだのに――あいつを悲しませるようなことをするなと――中途半端な優しさで悲しませるなと――いっそのこと冷たい一言をあいつへ残して消えてしまえば良かったものを――何も言わずにただ見守っていただけなんて――そんなこと――自己満足でしかないではないか――あいつが今の彼女を知ったら――――これまで以上に暗く悲愴に――哀咽に苦しむ――あいつは優しいやつだから――だからあんなにもお願いしたのに――なのに彼女は――どうして彼女は――――――冷酷だ――残酷だ――やはり彼女は《彼女》の娘だ――残虐な《あの人》の娘だ――彼女のせいで――お前のせいで――あいつはあんなにも苦しそうではないか――あんなにも不幸そうじゃないか――お前さえいなければ――お前さえいなければ――いなくなってしまえば――いっそのこと――死んでしまえば――お前が死ねば――――。

 ――――あいつも諦めが付くだろう。

   ***



 ***ミタケン***

「ぼくにできることはここまでだ」ミタケンは足を止めた。

「ああ。構わない」彼よりも一回り小さい影は辺りを見渡している。「助かった。ありがとう」

「いいのかい。《彼女》は知らないんだろ、このことは?」

「ああ。でも、関係ない」影は言った。「あなたには感謝している。でも、関係ないことだろ? あなたにも。《あの人》にも」

「キミについて訊かれたら――ぼくは正直に答えるよ」ミタケンは周囲を警戒しながら言った。「《彼女》に嘘は吐けない」

「それでいいよ。どうせあなたが《あの人》のまえに立てば、それだけで露呈する」

「それは……うん、そうだね」こちらの思惑など、筒抜けなのだろう。

「あ、そうだ」影は小さく声を発した。「一番セキュリティの粗末な無印エリアって、どこ?」知っていたら教えてくれないか、と尋ねてくる。

 考えてからミタケンは、

「規模の大小はあるけど、どこもセキュリティ自体には大差ない」と答えた。それから、でも、と補足する。「でも、ひと気がないという意味では、一二三号棟のS-Dフロアはまず人は来ないだろうね。一二三号棟は――無印エリアとサイドエリアが混合しているステップだから、侵入する分には都合がいいと思うよ」

「そのフロアに侵入するだけなら簡単?」

「さあ、どうだろ。ぼくはセキュリティの傾向を知っているから案外に容易だけど――そうだ、もし必要なら、そこまでくらいなら案内してもいいですよ」

 この子をまえにしていると、ついつい敬語を遣ってしまう。《彼女》ではないと解ってはいるのだけれど。

 困ったものだ――と豊かな気持ちになる。

「ありがとう」影はぞんざいに述べてから、「でもいいや」と断わった。「自力で辿るから」

「辿る? なにをです?」

「気配」

「なんの気配です?」

「自由の気配」

 一瞬の静寂のあとミタケンは乾いた笑いを発する。「カエデちゃんは冗句も言うんですね。《彼女》とは大違いだ」

「まあね」

「じゃ、ぼくはそろそろ」とミタケンは手を差しだす。「ここでさよならになるのかな」

「良くもわるくも」

 握手を交わす。

「――また逢うときがあるといいね」

 言ってミタケンはいったん深い階層まで浸透する。アークティクス・サイドから離脱するために。「じゃ、気をつけて」

 ミタケンは世界へと潜った。

 


 ***カエデ***

 思っていた以上にこの「学び舎」は糊塗されている。いや、これは『波靡(はび)』のようなものか。どんなシステムで可能にしているのか――相当に大掛かりなシステムが施されているのだろう。

 離脱は容易ではないな――とすでに帰る算段を立てている自分に気付き、カエデはおどろく。

 アークティクス・サイドという特殊なこの「学び舎」には今回初めて訪れた。

 本来、『学び舎』という空間は、「パーソナリティ保持者の保護施設」として機能している。そのために、侵入する分には自由なはずだ。

 保持者のみが侵入可能な空間。

 蟻地獄のように一方通行の要塞。

 大抵、保持者が無意識のうちに学び舎に足を踏み入れてしまって、入ったきり出られずに、一生そこで過ごすことになる――というのが定石である。

 人が急に消えてしまうみたいに観察されることから、古から「神隠し」などと呼ばれる現象として認知されてきた。

「サポータ」の協力だけでは、保持者の保護は追いつかない。そのため、こういった罠じみたシステムが太古から人類には存在したらしい。この場合、隔離と保護は同義だ。

 だが、このアークティクス・サイドはどうもそれらの学び舎とは異なるようだ。侵入それ自体が規制されている。制限されている。まるで、人選を選んでいるかのような――余計な干渉を受けないように警戒しているかのような――意図が感じられる。

 あの男、ミタケンの話では、無許可の侵入は、『即刻処分』の対象になり得る危険な行為らしい。「内部の者の手引きなしでの侵入はまず不可能だ」と言っていた。

 ということは、すでに外部の者として――異物として――認識されている、離反した身のミタケンには、アークティクス・サイド側に侵入を助勢してくれている者がいるということになる。となれば、もしかしたらミタケンは、離脱したのではなく、「浸透」して密かにその助勢者に会いに行ったのかもしれない。

 組織に反してまで助太刀してくれるような酔狂な人物がこの組織の「総括クラス」にいるとは到底思えないが――しかしたとえいたとしても、狂っている者の集まりこそが「ここ」なのだから、瞳目するには及ばない。

 時間はあまりない。

 いまも。

 このさきにも。

 手段を選んでいる余裕はなくなった。

 思っていた以上に「虚空」を生じさせるというのは骨が折れる作業だ。

 使える駒もなかなか揃わない。

 六年前に「彼女」をやられたのが大きな痛手だった。

「彼女」がやられてからだ――様々な弊害が生じはじめたのは。

 それまでは順風満帆にことが運んでいたのに。

 基本的になにかを成すには単独のほうが発覚しにくい。カエデはそう考えている。たとえ発覚したとしても、足が付きにくいこともまた利点である。しかし「ティクス・ブレイク」を引き起こすまでに虚空を成長させるには、ほかの駒では力量不足だ。単独では行えない。

 しかし彼女、「アカツキ」は違った。

 単独でも問題なく、充分に虚空を成長させることができた。やはり素体が同じだけあって、「彼女」は、こちらにちかい作業が可能だった。ほかの駒との能力の差は歴然だ。

 やはり「彼女」は重宝すべき人材だったのだ。大切にすべきだったのだ。

 しかし「彼女」はあの日、虚空内で消滅してしまった。

「アカツキ」が消されてからのこの六年――計画は大幅に遅れた。

 組織に勘付かれたものと危惧し、目立つ活動を控えてしまったせいだろう。

 だのに組織に特別な動きはなかった。杞憂だった。

 だが一方では、「一体これはどうしたことだろう」「どういった意図が絡んでいるのだろう」などと余計な警戒をしてしまったために随分と二の足を踏んでしまった。

「アカツキ」のことを消したのが、アークティクス・ラバーの誰かであることは「メノフェノン鱗状痕」を確かめたので十中八九間違いない。そのラバーがなぜ組織へ「アカツキ」のことを報告しなかったのかは今をして謎である。

 不安だった。

 疑心暗鬼に陥った。

 臆病になってしまった。

 さらに――。

 一体の『ドール』が無断に消滅したと知って――「アカツキ」が消失したと知って――《あの人》は警戒を強めてしまった。

 ほかの『ドール』に協力を求めることはできなくなった。

 このままでは駄目だった。

 そろそろ保険を準備しておく時期かもしれない。

 いや、保険などと言ってはいられない――。

 自分自身がこうして直接行動しているのは、もしかしたらこれが最後の手段になり得るということなのかもしれなかった。リスクが高すぎる。それとも、こちらの計画のほうが、リスクが高いぶん、本気で取り組むべき解決策なのかもしれない。

 リスクが高いぶん――そう、成功した際のリターンもまた高い。

 これは、駒に任せられる作業ではない。

 ――ボクがこの手でやらなければならない。

 失敗は許されない。

 そう、成功させられなかったとしても――収穫がなかったとしても――失敗さえしなければいい。

《あの人》の娘を――オリア・リュコシ=シュガーを連れだせさえすれば。

 最悪、彼女に逢うことができさえすれば、それでいい。

 組織の嘘を知れば彼女だって、

 ――ボクと一緒に離脱してくれるだろう。

 そう。

 真実を話す必要はない。真実を織り交ぜて話せばいい。

 まだ彼女を引き合わせるわけにはいかない。

《あの人》に逢わせることはできない。

《あの女》に知られるわけには。

 オリア・リュコシ=シュガー、彼女さえいれば、彼女さえ手に入れられれば――。

 ボクは自由になれる。

 ボクはボクになれるんだ。

 ボクはもう。

《あの人》に縛られたくはない。



 ***コロセ***

「泡と泡とに潰されて――そういうことだろ?」

 柿の種を摘まみながら努樹が言った。

 

 僕が風呂からあがると、努樹は湯船には浸からずに、殺菌ルームのエアシャワーで済ませていた。殺菌ルームには、瞬時に清浄が完了する電磁波殺菌洗浄と、服を着たままで浴びることのできる微粒子殺菌洗浄:通称「エアシャワー」がある。これくらいの設備は、「ガラクタ」の異名をほこるこの零一六号棟にも備わっていた。なぜ「骨董」ではなく「ガラクタ」と呼ばれるのかは、この中途半端な設備の充実にあるのではないか、と僕は密かに分析している。

 僕と努樹は、テーブルを挟んでソファに腰掛けていた。

 むかし二人でしたイタズラの話や、この三年間をどのように過ごしていたかといった、それぞれの日常の話をした。

 むかしの思い出は主に僕が、ここ三年間の話は努樹が話した。

 ノドカの話を僕は敢えてしなかった。努樹も尋ねてこなかったことから、たぶん、ノドカの死については知っているのだろう、と察した。

 三年以上前。僕らはしょっちゅう吉田歌田教官――吉田のジイさまに怒られていた。どうしてだか吉田のジイさまをまえにするとイタズラが発覚してしまうのだ。笑いながらその話をした。それから、吉田のジイさまが亡くなったことについて、詳しい話を努樹から聞いた。

 突発性の心臓病だったらしい。動脈硬化がどうだとか、副作用で脳溢血がどうだとか、僕が知りえない詳細な死因を努樹は説明してくれた。それからしばらく僕たちは、吉田のジイさまを偲ぶように、慎ましやかな談笑を交わした。

 吉田のジイさまは、親のいない努樹にとって、親のような存在だった――と僕は認識している。僕と出会う前から、努樹はずっと、吉田のジイさまに面倒を看てもらっていたらしい。

 基本的にアークティクス・サイドでは、居食住に困ることはない。子ども一人でも充足に暮らしていける。それでも、やはり、子どもには大人が必要だ。そして、僕にはノドカ、努樹には吉田のジイさまがいた。

 いまでは僕も努樹もひとりだ。

 でも、独りじゃない。

 僕には努樹がいて。

 努樹には僕がいる。

 僕にはコヨリがいて、きっと努樹にもそういった大切なひとがいるはずだ。

 僕にとって努樹は、空気のような存在だ。

 そこにあって当たり前だけれど、そこに無くては生きていけない存在。

 だから僕にとってのこの三年間は言ってみれば、窒息死してしまわないようにと、ずっと仮死状態になっていたようなもので、コヨリと会話を交わすようになったこの数カ月間だけ、僕は呼吸ができていたのかもしれなかった。

 大袈裟だけれど、切実な比喩だ。

 こんな恥ずかしいこと、絶対に口にはできないけれど。

 話題は巡った。恋愛の話になって、すこしエッチな話で盛り上がり、最終的には原点回避――僕とコヨリの話になった。

 そうして努樹が話をまとめるようにして言ったのが――、

 ――泡と泡とに潰されて。

 

「泡と泡とに……なに?」僕は聞き返した。

「一応断っておくけど、これも比喩だからな」努樹は髪を掻きあげた。帽子は被っていない。部屋のなかだろうと帽子を被っているようなやつなのだけれど、それも今は脱いでいた。部屋がすこし暑かったのかもしれない。

 というかさ、と努樹はからかうようにゆびを振った。

「コロセはさ、ダブルバブル理論についてはどこまで理解しているんだ?」

「世界が三つから形成されているって話でしょ」

「そう。でもそれは飽くまで、子どもに教えるような簡略化された概要だ。その三つの世界は言えるのか?」

「もちろん」

 僕は三つの世界を唱えてやった。

 

   ・個人の世界――〈レクス〉。

   ・〈レクス〉の集合した世界――『プレクス』。

 そして、

   ・全てを包括している唯一絶対の世界――《アークティクス》。

 

「基礎くらいは知ってるんだな」努樹は感心したように頷いた。

 みくびるなよ、と言い返してみるものの、それ以上の知識を持ち合わせていないこともまた事実だった。

 ぼりぼり、と努樹は柿の種を頬張る。

「ダブルバブル理論ってのはだな、世界のことを泡で喩えることが常なんだ。まあだからこそ、【ダブルバブル】なんだけどね」

「どうしてダブルなの?」

 なぜ泡が二つなのだ、と僕は疑問に思った。世界が三つからできているのなら、「トリプルバブル理論」と呼ぶべきだろう。語呂は著しくわるくなってしまうけれど。

 主観の世界〈レクス〉は、ほかの〈レクス〉と多重に融合しあっている。そうしてできた多重の泡が『プレクス』なのだという。

 泡と泡と泡と泡――そうやって円と円が、すなわち世界と世界が、部分的に融合し合って、点ではなく面で接し合い、そして内包し合う。ノドカやミタケンさんから僕はそう教わった。それがこの世界の在り方なのだと。

「ダブルバブル理論は、『二つの泡』って意味じゃないよ」努樹はツボに嵌まったように哄笑して、「Wバブル理論――ワールドバブル――『泡の世界』――とそういう意味だ」

「ふうん」と僕は拗ねたい気持ちを抑えながら、「でもさ、さっき努樹は――泡と泡とに潰されて――って二つしか言わなかったじゃないか」

 だから二つの泡だと思ったのだ、と屁理屈を捏ね、努樹の言い方がわるかったんだよ、と責任転嫁を目論む。

「まあね」と軽く受け流される。「そうさな、さっき私が言ったのは、コロセがいま言ったように二つの泡という意味だ」

「どういうこと?」だから世界は三つではないのか、と僕はこんがらがる。

 うん、と調子を整えてから努樹は、

「コロセの言う通り、泡はさ、多くの泡同士が局所的に内包しあっている。重なりあっている。でもね、私は思うんだ。人間には目が二つしかないし、鼻の穴も二つだけ。口も肛門とセットで二つだし、肺だって、脳みそだって、二つだろ?」

 人間は二つからできているのさ――と努樹は謳った。

 脳は二つじゃないよ、と僕が指摘すると、「右脳と左脳でわけるじゃないか」と努樹はしかめ面をした。あまり屁理屈で私を困らせるな、とも付け足される。

 屁理屈はどっちだ、と口まで出かかった言葉を呑み込んで、代わりに僕は、「腕を忘れているよ」と補足した。僕には無いけど、と自虐しつつ。

「そう、それだ。腕だ。人には手が二つしかない。誰かと手を繋ぎ合うとしても、せいぜい二人が限度だろ?」

 五体満足の人間ならの話しだけど、と努樹は淡々と言う。

「まあ、そうだね。でも、それが何なの? 今は泡の話――Wバブルの話でしょ?」

「だからね」と努樹は身を乗りだし調子を整えるようにして、「人は二つ以上の世界を同時に認識できるようには出来ていないのさ」と演説モードに切り替わった。

 僕は身構える。

 こうなった努樹はノドカに引けを取らないくらいにこちらを置いてきぼりにして口上を捲し立てる。ついていくにはそれなりの集中力が必要なのだ。僕は努樹をすこしでも理解したい。

「コロセの言うように、真実、この世界は二つ以上の、多くの世界が存在している。それらすべてがWバブルだ」

 世界の泡だからね、と努樹は強調する。

「それらのWバブル群は互いに内包し合っている。言い換えれば抱擁し合っているのさ。そしてそれらのWバブル群は、さらに大きな世界に内包されている――と考えられている。その大きな世界が私たちの言うところの《アークティクス》であり――つまりは《本当の世界》だ。ただ、私たち人間は、二つ以上の世界を、認識しつづけられるような機構にはなってないから――仮に、二つ以上の世界を認識しようと無理しているとすれば、いずれ世界に潰されてしまうよね――ってそんな話だよ」

 一息吐いてから、要するに、と努樹はまとめた。

「要するに、人間は、二つの世界で限界だってこと。一杯一杯。二つで飽和状態。それ以上の世界と同調しようとすれば、それはもう潰されるしかない。そして私が言いたかったのは――二つで一杯一杯なのだから、だからコロセはきっと潰されそうになってしまっているのさ、ってこと。解った?」

「それって僕の腕が一つ足りないから?」自嘲っぽくならないように意識しながら訊いた。

「関係ないよ」比喩だって言っただろ、と努樹は呆れたように、「今の話で重要なことは、人間の設計図が元来的に二つからできているってこと。本質的な性質のことであって、見た目の話じゃない。現に五体満足の私も、泡と泡に潰されそうだよ。いつだって私の片手は空いているのにな。ああ違うな、むしろ私は、両手で相手の手を握っているようなものなのだと思う――離したくないから」

「一つの世界で精一杯ってこと? 努樹が?」

「そう。一人の相手で精一杯ってこと」努樹は首肯した。「仮に私が両手で以って二人の人間と手を繋ぎ合ったら、その瞬間に私は潰されてしまうんじゃないかな。というかね、私は誰かと手を繋ぎ合うことが苦手なんだな。片手じゃ不安だから両手で―――自分の限界値を注ぎこんで――一人の相手を繋ぎとめている。一つの世界に縋りついているんだ」

 必死なんだよな、と鏡の自分に唾を吐きつけるような口調で努樹は言った。

 いまいち努樹がなんの話について説明しているのかが推し量れず、返答に窮していると、察したように努樹は、「まあ私のことはどうでもいいな」と陽気に言った。「今はWバブルの新解釈、私の画期的な発案のお披露目だ」

「え、そうだったの?」知らなかった。

 この状況はどうやら、努樹の画期的な屁理屈のお披露目会だったらしい。観客は僕だけ。贅沢だ。

「で、どうよ。納得した? 人は二つからできている――ゆえに、二つの世界で一杯一杯。泡と泡とに潰されて――というのはそういうことだよコロセくん」

 解ったかい、と教官口調で努樹はおどけた。

「わからない。それって手が二つしかないからなの? そりゃほかの誰かと手を繋ぎ合としたら二人が限度だとは思うよ。たださ、それとこれとは話が別でしょ?」

 『それとこれ』の『それ』とは手を繋ぐ人数の限界の話であり、『これ』とは主観が捉えられる世界の認識数の話だ。

「いや、同じさ。人間は自分の世界も含めれば、最高でも三つの世界しか共有できない。もちろん自分以外の二つの世界というのは日常的に入れ替わるよ、手を繋ぐ相手が変わるようにね。ただ、やっぱり二つは二つなのさ」

「どういうこと」

「そうだなあ」と額に手をやって、古傷を撫でながら努樹は、「まずは三つのうちの一つ、これは決定済みだろ?」とさも当然知っていますよね、と投げ掛けてきた。

「自分でしょ」と僕は期待に応える。

「そう自分、つまり主観。主観的な世界は不動なんだ。絶対に自分だけは認識しつづけることになる。自分の〈レクス〉から脱して《アークティクス》を視ることも、他人の〈レクス〉から《アークティクス》を覗くことも本来ならできない。だからこれは誰だって同じだから、度外視する」

「でもさ、ラバーの人たちはそれができるんでしょ? 他人の〈レクス〉に入ったり、他人の〈レクス〉から《アークティクス》を覗いたり」

「うん。だから私は、『本来なら』と言ったんだ」

 本来ならできない――それはつまり例外がいるということだ。

 例外的存在――アークティクス・ラバー。

 僕たちの最終目標。

 そして、

 ここにいる目的。

 ここに留まる理由。

 ――ここを去れない要因。

「アークティクス・ラバーの方たちは、そうだな、完全に『浸透』できるらしいよ」努樹はピーナッツを口に頬り込む。「他人の〈レクス〉に」

「それって泡で言えばさ、ほかの泡と完全に融合できるってことでしょ?」

 他人の世界に完全に溶け込むことができる人間――人ならざる者たち――アークティクスに愛された者たち――それが、アークティクス・ラバー。

「融合っていうか、完全なる同調、って感じだな」

 目当ての〈世界〉へ完全に浸透すること――〈他人の世界〉と〈自分の世界〉を完全に同調させること――それが『同一化』と呼ばれる技術の一つらしい。波紋の「同調」よりも高等な技術だと努樹は言った。

「私は『浸透』を少し覚えたばかりだから本当にそんなことが――『同一化』なんてことができるのかは解らないよ。視覚的には確認できないことだからね。というかね、自分でやろうとして解ることが往々にしてあるけど、あれは無理だ。選ばれし者にしかできない、って感じだ。どんなに浸透したところで、他人は他人だし、自分は自分だよ。その壁だけは絶対に越えられない」

 波紋の「同調」が他人の夢に侵入する行為だとすれば、『同一化』は他人の夢を現実に変える行為に相当するらしい、と努樹は教えてくれた。

『現実とは、生物の数だけ存在する』――とは吉田歌田教官のお言葉だ。

 努樹は吉田のジイさまのモノマネを披露した。

「自分からすれば〈他人の世界〉は総じて夢だ。他人からしたら夢のなかにおるのは自分のほうだ。《世界》を俯瞰的に眺めれば、わしらは総じて夢のなかだ――そのとき、現実など存在しない。わしらに在るのは、〈己〉と『それ以外』と《アークティクス》だけだ」

 解るようで解らない理屈だ、と僕は頭を悩ます。

「その話はもういいよ。普通は自分から脱して世界を視ることはできない、これはまあその通りだよね。解ったからさ」それで、と僕はさきを促した。「それで、二つっていうのは?」

 今は人間が認識できる二つの世界についての話題だったはずだ。

 よろしい、と満足気に頷くと努樹は、「残りの二つの世界だけど――そのうちの一つは、対立する相手。もう一つは対面する漠然とした相手――つまり断片的なWバブル群のことだな」

 個人と世間の違いさ、と言いながら袋からマシュマロを取り出してテーブルに載せた。そのとなりに袋を置くと努樹は、「こっちが世間」と袋をゆび差し、「こっちが個人」とマシュマロをゆび差した。

 〈レクス〉と『プレクス』の話だろうか。

「どういうこと?」努樹が何について話しているのかが段々判らなくなってきた。

「あ、そうか。ごめんごめん、説明不足だわ。あのね、両手で二人の人間と手を繋ぐことはもちろんできる。それはそのまま二人の世界を自分に繋ぐことだ。これはいいね?」

「だからさ、その両手に繋いだ二人が要するに、残りの二つなんでしょ?」

「そこがちがう。いや、説明の順序を間違えた私がわるい。そのほかに私たちは、個人の集合体を一つの個として看做すことができる――というよりも日常的に看做している」

 要するに社会だな、と努樹は説いた。

「右手で『相手』の手を握り、左手で『社会』という個人の集合体を掴んでいるのさ。そんでもって、大抵の人は、『自分』と『相手』と『社会』との三つを見比べて均一を保とうとしている」

 自己の安定を求めてね、と語気を抑えつつ努樹は謳った。

「それって本当にWバブルの話? 心理学の話じゃないの?」

「Wバブルでも心理学でもないよ。だから言っただろ、これは私の画期的な新解釈だって。心理学にも応用でき得る理屈ではあるかもしれないけど、これは世界の話さ」

 言うなれば真理学かな、と口頭で言われても気が付けないような詰まらない洒落を努樹は口にした。

「なるほど。おもしろいね」

 溢れた洒落を僕は拾った。

 

 いったん脱線するけどいいかな――と断わって努樹は、そもそも、と続けた。

「そもそも、Wバブル理論ってのはさ、確固とした証明が未だに成されていないんだよ。証明しようとしても、証明するために用いる既成の学問がない」

「ならどうしてWバブル理論が正しいとされているのさ」

 嘴を挟むと、僕が言いきる前に努樹は、

「証明する前に現象として観測されてしまったのさ」と答えた。「論より証拠だよ」

「ああ」僕は間抜けな相槌を打つ。

「概ね科学の発展というのは、そういうものだと私は思っている。パラダイム転換、などと往々にしてイノベーションが起こる時期をそう称すけど、でもね――パラダイム転換っていうのは、『古い理論』が『新しい理論』の闘争に負けたというだけで、理屈の正当性とは無関係に引き起きている場合がほとんどなんだ」

「というと……どういうこと?」

 僕は頭がわるい。理解力が乏しい。

 文章を読んでそれを理解することは人並にはできる(と自称している)のだけれど、こうして口頭で理屈や概念を説明されると、理解に苦しむ。

 それは僕の短期記憶の拙さが関わっているのではないか、と見当をつけてしまえるくらいに日常的に顕在化する問題だった。だから僕は訊き返す。努樹の話を理解したいから。

「理論が理屈として正しかったから――筋が通っているから――だから新しい理論として受け入れられるんじゃないの?」

「ではないんだよ。その理屈に合致した現象が観測できたから、ならそれは正しいだろうね、というそれだけの妥協なんだ。パラダイム転換はね」

「でもさ、なら例えばの話――その観測された現象とか、発見された事実にね、また違う、もっとそれらしい理屈が提唱されたなら、それはどっちが正しいとされるの?」

「そりゃあもちろん、既成の理論を用いて、より〝らしく証明されている〟理屈のほうが踏襲されるだろうね、現象への解釈として」

 姿勢を正すと努樹は、ただね、と付け加えた。「Wバブル理論においては、理屈を理論へと昇華させ得るその現象が、ほかの理論をことごとく否定し得る現象だったというのが重要なんだ」

「ごめん解らない。どういうこと?」

「たくさんあり過ぎるんだよ、世界の真理を紐解くために用いる理論がね。たとえば、一言に科学と言っても、量子力学だとか、宇宙物理学だとか、ピン切りだろ? 極論を言ってしまえば、オカルトだって科学なんだ。けど、ある日、それらでは説明のつかない現象が観測されてしまった――そうすると、取りあえず、その現象を説明するための〝あたらしい解釈〟が必要となってくる。その〝とりあえずの解釈〟が、【Wバブル理論】なのさ」

「なるほど」と頷いたものの、解ったような、解らないような。

「Wバブル理論がゆいいつ〝今のところ〟有力な解釈とされているだけなんだよ。今のところ、といったただそれだけの、まだまだ完成されていない理論だし、完成していないからこそまだまだ思想の域を脱していない理論なんだけど――それだけだからこそ、それ以外の理論で世界を紐解くことができないんだ」

「暫定一位、みたいな?」と僕が冗句を口にすると、「みたいな、じゃなくて暫定一位なの」と努樹は真面目に肯定した。

「でもWバブル理論でも物理法則は認めているんでしょ?」僕は質問する。以前に努樹がそんなことを言っていたのを覚えている。

「まあね。基本的な物理原則は変わらない。物理法則ってのは、とどのつまりが世界の法則だろ? これまでに観測された現象を元にした解釈で構築された理屈なのだから、それはWバブル理論でも同じだよ。Wバブル理論は、今までの論理を包括し得るほどの現象が新たに観測されて、その現象にとりあえずの解釈を付加したというだけのことだ。だからまあ、Wバブル理論に否定されてしまった理論と、内包された理論の二つがあるってことになるかな」

 新たに観測された現象。

 それがつまり、

 ――《アークティクス》なのだろう。

 本当の世界。

 存在を生みだす存在。

 世界を生みだす世界。

 ――全てを包括している《世界》。

 だからね、と努樹は得意げに声を高くすると、

「もしも《アークティクス》内で――質量保存の法則だとかそういった基本的な物理原則のような――そんな理論をも否定してしまうような現象が新たに観測されればだ、現在それが事実だとされている物理原則なんてものも、簡単に否定されてしまうんだよ」

 論より証拠。

 それこそ物理世界において、もっとも原則的な法則なのかもしれないな――などと幼稚に考えてしまう僕がいる。

 

「脱線しすぎたな。じゃ本題だ」と努樹は襟を正した。

「え? 何の話だったっけ?」本気で思いだせない。

「いやだからさ」とすこし間を空けてから努樹は、ほら、とゆびを振る。「ほら、あれだよ……そうそう、人は『自分』と『相手』と『社会』を認識しているって話さ」

 主観と客観と集合だな、とリズムよく唱えた。

〈レクス〉と『プレクス』と《アークティクス》が、世界の話だとすれば――。

「自分」と「相手」と「社会」は、人間の話になるのだろう。〈レクス〉内の話。

 努樹はきっと、個人の話をしていたのだ。

「それが、人が認識することのできる三つの世界?」僕は確認する。

「そう。それが、人が同時に認識することのできる限界だよ。まあ、私のこの理屈では、の話だけどね」

 そう、これは努樹の屁理屈なのだ――と思いだして、溜息が洩れた。

 Wバブル理論――世界の話は、真面目な話で。

 一方で、手を繋ぐだとかなんとかの話は、努樹の画期的な屁理屈。

 人を騙すなら、ウソに真実を織り交ぜろとは良く言ったものだが――どうりでむかしから努樹にディベートで勝てないわけだ、と僕は合点した。

 努樹の会話は八割がた詭弁で構成されている。それも、日常的に、自然に熟しているようだ。一体どんな生活をしているんだ、と僕は愉快さと心配を同時に抱く。親バカならぬ友バカだ。

 努樹はテーブルのうえのマシュマロを口に入れる。さらにカップに口をつけた。中身は、コーヒーのカルピス割といった、けったいな飲み物が注がれている。

 ぷう、と一息吐くと、「例えば」と努樹は口上を再開させる。

「例えばだ。こうして私はコロセと一対一で話している。この場合、私とコロセは握手していると言っていい状態だ。でも、ここに一人増えたら、それは三人で手を繋ぎ合っている状態になる」

「努樹の理屈でいえば、飽和状態ってこと?」

 両手で二人の人間と手を繋いでいる状態。

 両手が塞がっている状態。

 三つの世界の共有。

「うん。で、これが四人になったらどうなると思う? ちなみに、三人のときみたいに輪っかにはなれないからね。それじゃ伝言ゲームみたいになって、意思疎通がうまく機能しない。世界の共有が成り立たない」

 なら答えは簡単だ。

「一人あぶれる」僕は自信ありげに答えた。「その状態こそ、むかしの僕だ」

 隠す素振りもなく努樹は、それもあるだろうけど、とおかしそうに目尻を下げた。「普通はさ、手と手を、そのときそのときで組み替えながら繋ぎ合うんだよ。相手を変えるのさ。同時に四つの世界を認識することは――できないこともないけど――それでも大きな負担になるからね」

「これって、比喩でしょ?」いちおう確認した。

「そうだよ。なんだと思ってるのさ」努樹は笑った。

 この比喩の場合、相手と会話することが相手の世界を認知することだとして、ならばやはり、同時に四人と会話をすることは実質不可能かもしれない。

 いや違うな――と僕は思い至った。

「でもさ、一人が話して、ほかの三人が聞き役に徹する。そうすれば四人の会話は成立するよね?」

「さすがコロセくん、よく気が付きましたね」と教官口調で褒められてしまう。「コロセがいま言ったような対処であれば、このまま四人から五人、五人から六人、と人数が増えても会話は成り立つ。でもね、それは『個人』対『個人』ではなくって、『個人』対『大衆』の会話なんだ。『多くの聞き手』を『一纏まり』として、『多くの世界』を『一つの世界』として認識する。集合を個として看做すのさ。演説なんかは大抵これだよね。誰に説いているかと言えば、それは大衆へであって、そのなかにいる特定の誰かへではない」

 ここまでは解ったかな、と努樹は同意を求めてきた。

「わかった気がする」と曖昧に頷く。「それで、それがなんなの?」

 これが結論だとすれば、僕が「なるほどね」と納得するだけでこのディベートは終わってしまう。けれど、こんな結論を導くために努樹と僕は討論していたのだろうか。それともこれはディスカッションだったのだろうか? これが討論ではなく、議論だったとしたのなら、解決すべき問題点があったはずだ。

 けれど僕はすでに、そもそもの議題を見失っていた。

「だからね、何度も言うようだけど」と僅かに苛立ちの籠った口調で努樹は、コロセはさ、と強調した。「『自分』と『誰か』と『大衆』の三つをその手で握っていて、そのうえでほかの誰かとも手を繋ごうとしている。そうだろ?」

 どうやらコヨリのことを言っているらしい。

「しかもその相手はだな、私から言わせれば、手を繋ぐだけじゃ全然足りない――コロセの身体全体で抱え込まなくちゃバランスの取れないような、そんな相手だ」それだけでも足りないとすら思う、と努樹は語気を荒らげた。「ただでさえコロセは両手が塞がってんだ。いま現在手を繋いでいる相手をコロセは両手で握っている。そんでもって、これからは社会とも手を繋がなきゃならないだろうに。まだ、二つだけなら、両手で握っていても、手と手をその都度その都度、繋ぎ換えて、安定を保てるとして――それでもすでに二つと手を繋いで満身創痍でおられるコロセくんがだよ、どうしてさらなる相手を抱え込めるっていうんだ。あのな、その相手はやっかいな相手だぞ。どこの誰とも知れない女の子なんだろ? それも、ラバーでもないのにパーソナリティが異常に高いときたもんだ」

 見るからにやっかいだ、と努樹は厳めしい表情で言った。

「見たことないくせに」と僕が揚げ足を取ると、「なら聞くからにだ」と訂正した。

 僕は押し黙るしかない。

「コロセがその相手と手を繋ごうとするのはな――私には、自ら潰れようとしている自殺行為にしか見えないんだよ。だから私は言ったんだ」

 ――泡と泡とに潰されて。

 努樹はつまらなそうに口にした。

「ならどうしろと?」

 僕にどうしろと言うのさ――と僕は問うた。拗ねた口調になったのが自分でも判った。

「選ぶんだよ」努樹は冷たく言い放つ。「どれかから手を離さなきゃならない。いまはそうやって踏ん張っているつもりかもしれないけど、いつかは絶対に限界がくる。自分が潰れたら、そしたら三つとも手放すことになるんだぞ。そうならないために、そのときはどれか一つを捨てなきゃならないだろ。さっきも言ったけど、自分は絶対に捨てられない。なら残る選択肢は三つだ。いまコロセが手を繋いでいる個人か、それとも大衆か、或いは、これから手を繋ごうとしているそのコヨリちゃんを切るか――この三つだ」

 ちなみに言っておくけどね、と努樹は畳みかけるように補足した。

「大衆を切り離すっていうのは、それは社会からの隔絶と同義だ。人はいつだって『個人の集合である社会』と『自分』とを見比べて、そうして他者との調和を保とうとしている。この場合の調和っていうのは、世界の話じゃなくって、生活上の、精神上の話だぞ? 人間っていうのは異端であるものを忌み嫌い、疎んじる性質がある。異端というのは、それこそ正に、集合体から弾かれた者、集合体が生み出す『普通』という虚像からかけ離れた者のことだ。そうした者はあまねく唾棄すべき人物と評価される。それはコロセだってよく知っていることだろ」

 そう、僕は知っている。

 身に染みて知っている。

「それは、天才と呼ばれる異端であっても例外ではないんだ。例外があるとすれば、自分たちにとって都合のよい利益を齎してくれる者、自分たちに貢献する者に対してだけだ。そうやって社会にとって利益になる者、貢献する者のみが許容される。けれど誰だって最初は異端なはずだ。社会は飽くまでも社会であって、社会という個人は存在しない。人はみな異端なんだよ。なのにいつしか人は気がつくらしい、異端であることは都合がわるい――と。だから社会という集合体に映し出される虚像と、自己とを見比べて、異端分子を自己から削り落とす努力をする。大人になる、社会に適合する、というのはそういった添削作業の繰り返しによって成し得るものなんだ。コロセがこの『R2L』機関に所属する限り――この『アークティクス・サイド』に属する限り、社会は手放せないんだよ」

 だからなコロセー―と努樹は厳粛に僕を見つめた。

「捨てるとすれば、どっちの相手か、って話になるんだ」

「ちょっと待ってよ」興奮気味の努樹を宥めるようにして僕は顔をほころばせた。「僕はいつだって独りだ。だれとも手を繋いでなんかないし、大衆なんてのも僕には関係がない」

 ここにいながらにして僕はいないのと同じなんだから――とおどけた口調で自嘲した。

「だから僕には両手分の空きがある。それでも不十分だと努樹は言うの?」

 ほんの一瞬、努樹がとても悲しそうな顔をした。

 ひどくはかなげな表情に映った。

 けれどすぐに、「ならじゅうぶんだ」と穏やかに言った。「コロセが繋ぎたいひとと手を繋げばいい。コロセが潰れないのなら私はそれでいい」

 足りなけりゃ私の手も貸してやるよ――と努樹は笑った。

「手を繋ぐってのは比喩なんだよね?」僕は冗談めかす。「本当に手だけを貸してもらったって困るだけだからね」

「もちろん比喩だよ」努樹は大真面目に答えた。僕の冗句はまたしても不発だった。

 まあでも、と仕切り直して僕は、「ありがとう」とはにかんだ。

 はにかみながらも、さっき一瞬、垣間見えた努樹のはかなげな表情は、きっと物分かりのわるい僕に対しての呆れ顔だったのだろうと思うことにした。

 努樹はいつだって僕に合わせてくれる。

 努樹はいつだって。

 こうして。

 やさしく。

 微笑んでくれるのだから。




 +++第七・五章『野次馬』+++

 【見上げるから見下ろされるんだ。だったらぼくは手を伸ばそう。それだけで、ぼくはそらと向き合える】

 

 

   タイム△スキップ{~基点からおよそ四カ月後~}


 ***弥寺***

 まさかまたあいつから連絡があるとは思っていなかった。

 自分が置かれている立場を理解しているのか、と説教のひとつも垂れたくなる。

 こうも同じ手で何度も脅迫してくるなどそんな莫迦な真似はしないだろう――とあいつのことを過大評価し過ぎていたのかもしれない。

 莫迦野郎が、と弥寺は歯を食いしばる。

 あいつ。

 元アークティクス・ラバーにして組織の離反者。

 未だに生き永らえている危険因子。

 敵愾心の権化――狂人作りの兇人。

 そして、

 弥寺が許容し得る者。

 ――ミタケン。


   ***

 弥寺は思いだす。

 ミタケンが離反したのちに、ふたたびアークティクス・サイドへ侵入してきたときのことを。

 およそ六年前のことである。

「チューブを開いてくれ、頼む」と弥寺のまえへミタケンが現れた。離脱する手助けをしてくれ、とそう言ってきたのである。むろん、そんなことをすれば、弥寺自身も、組織に敵対したと看做されるだろう。だがそんなことは関係なかった。

 弥寺は面白くないことはしない男である。

 そして、ミタケンの離脱を手伝うことは、弥寺にとって面白くないことであった。いや、手伝わされるというその加勢が厭だというよりも、ミタケンが離脱することそれ自体が面白くなかったのだ。それは自覚している。

「無駄に足掻くな。悪いようにはしない。捕まれよ」

 俺が保障する、と弥寺は言った。

「たのむ。チューブを開いてくれないか。ぼくは……弥寺くん、キミに卑怯な真似はしたくない」

「なんのことだ?」卑怯もクソもあったもんじゃない。弥寺は鼻で笑う。「ミタケン、てめえ如きが俺になにをするってんだ」

「弥寺くん……むかしぼくに、妹がいるって話してくれたよね」

 なぜ今、妹の話を――。

 怪訝に思いつつ弥寺は、ミタケンの波紋を探っていた。だが一向にミタケンからは波紋が感じられなかった。

 どれだけ深く『沈下』させているというのか。どれだけ無理をしているのだろうか。どれだけの負担をミタケンは己へ強いているのか。珍しく弥寺は焦っていた。

「妹がなんだ……」

 何が言いたい、と弥寺は声を低くした。


 大分むかしの話である。口が滑ったとしか言いようがない。

 ただ一つの弥寺の記憶。

 家族の――記憶。

 それが妹についてのものだった。

 ほかに弥寺は家族の記憶を持ち合わせていない。

 と言うよりも、消されたのだ。

 ――あの《女》に。

「リザの断裂」での後遺症――記憶喪失。

《あいつ》に記憶を奪われた。脳内回路ごと。

 記憶の復元は不可能だった。物理的に。原理的に。

 家族について覚えていることと言えば、妹のことだけである。

 弥寺の妹も保持者だった。

 ただ、妹だけは組織に入れさせたくはなかった。

 弥寺の勘がそう囁いた。

 行くべきで場所ではないのだと。

 戻れることはないのだと。

 保持者だと知れた以上、妹も強制的に学び舎へ連れて行かれるのだろうと弥寺は直感した。

 それはどうしても厭だった。妹と別れることよりも、そのことがなにより厭だった。

 その結果があの様だ。

 ――弥寺は暴走した。

 数十年もむかしの記憶である。

 弥寺は老化しない。彼のパーソナリティがそうさせる。奇しくもそれはオリア・リュコシ=シュガーと同系統の特質であった。

 弥寺の「特質」は、世界を構築している『ちから』の制御である。

 より精確には、

 ――『ちから』の分解と蓄積を可能とする。

 物質は、極限的に突き詰めれば、『ちから』の均衡で形成されている。

 磁石が反発することで宙へ浮くように、物質もまた、視えざる力の均衡で形を得ている。

 弥寺は、その『ちから』を意識下で操ることができる。だがその特質は、弥寺の肉体に代償を求めた。

 ――副作用。

 弥寺の細胞は無意識下で『ちから』を蓄積してしまう。

 弥寺の細胞は成長と増殖を繰り返す。

 通常の人間よりも遥かに著しい代謝。

 ――にも拘わらず弥寺は老化しない。

 成長と増幅を繰り返す細胞を弥寺は、パーソナリティの特質で、常時削っている。相殺させている。そうしないと、たちまち弥寺は、己の身体の膨張で圧死してしまう。毀れてしまう。

 しかしこれまでそうした危機に直面したことはいちどもない。

 だが、弥寺には解っていた。そうしなければ自滅するのだと、己の勘がそう囁く。

 自分がどうすれば生き残れるのかを、弥寺の勘は囁くのだ。

 細胞の増殖を抑えるために弥寺は、常にパーソナリティを解放させていなければならない。通常ならば限界を超えるパーソナリティの解放は、そのまま肉体の崩壊を招き、速やかなる死を強制的に与えてくれる。だが弥寺は、その異常な細胞分裂かつ活性化の影響で、パーソナリティ解放の極限値を持たない。

 ――常に限界を塗り替えつづける。

 ――天井知らずの保持者。

 底の毀れた男――リミット・ブレイカー。

 世界の『ちから』を操る弥寺は、エネルギィを代替しつづける。それこそ世界のすべてが弥寺にとってはエネルギィの源である。食事を摂る必要すらない。弥寺にとって食事も睡眠も、娯楽としての意味合いしかない。

 細胞は増殖し、破壊され、増殖し、破壊される。

 増殖と破壊のスパイラルはそのまま、パーソナリティの極限を延長させる。促進させる。

 常にパーソナリティの解放を余儀なくされる弥寺は、限界を突破すると同時に、その超回復によって、限界値を常に伸ばしていく。高めていく。

 言うなれば――。

 生き続ける限り、弥寺のパーソナリティ値は高まり続けるということ。

 時間の経過と共に、弥寺は際限なく強くなり続けるということ。

 だがそれは、地獄と呼ぶに余りある日々である。

 常に身体は増殖し続ける。肥大し続ける。圧縮し続ける。

 それによる死を直感している弥寺は、自らを滅し続けなくてはならない。

 自分を削り続け、破壊し続け、殺し続けた。

 いまもなお、彼は自分を傷つけ続けている。

 生きている限り弥寺は己を殺し続ける。

 自虐の日々。

 言うなればそれは、生皮を剥ぎとる行為を延々と繰り返しているに等しい所業なのかもしれない。

 いや、それでは足りないだろう。

 自分で自分の皮を剥ぎ――肉を削ぎ――神経を、血管を、摘まみ、裂くようにして取り除いたのちに、引き千切り――内蔵をぶつ切りにして――すり潰して――骨を砕き――その破片を用いて、再生しつづける新たな身体の皮膚を剥ぎ取る――そういった、のべつ幕なしに繰り返される残虐行為であり、拷問という拷問を複合させた連鎖である。

 常人に、この苦辛を想像できるだろうか。

 想像できないのなら、実際にやってみれば自ずと知れることであろう。

 

 そう、ならば、仮に、

 自分で自分の爪を剥ぎ取らなければならなくなったとしよう。

 あなたは、生爪を――自力で剥がさなくては死んでしまう。さあ、逡巡などしている場合ではない。自分で自分の小指の爪に指をかけ、しっかりと固定し、小指の爪と、剥がすために引っかける爪を、少し痛いくらいにまでめり込ませ、徐々に徐々に、力を込めて爪を持ち上げる。ここで重要なことは、一気に剥ぎ取ってはならないということだ。小指が折れてしまいそうな抵抗を感じながらも爪を持ちあげていただきたい。めりめりと肉が裂ける感触を感じながら、そして、ふるふると痙攣する小指を感じながら、さらに、小指の爪の抵抗を感じながら、ゆっくりとゆっくりと爪を持ちあげる。結構な力が必要だが、焦ってはいけない。そのままゆっくりと力を込めつづけ、「てこの原理」を用いつつ、小指の爪を持ちあげていただきたい。まだ剥がれていないにも拘わらず、骨折にちかい鈍痛が最初に訪れる。つぎに、パキ、という感触と共に、爪は肉ごと持ちあがる。血が滲む。指をハンマーで潰されたような痛みと、包丁で指を切りつけられたような熱さ。両方が、リズミカルに押し寄せる。ズキン、ズキンと。キリリ、キリリと。痛みは時間の経過と共に増幅し、ぶわ、と冷や汗が全身に滲む。鼓動が激しい。一定の拍動が、痛みと熱さの訪れる周期と同調している。ドックン、ドクン。ズキン、ズキン。ドックン、ドックン。キリリ、キリリ。ドックン、ドックン。チリチリ、ジンジン。血は止まらない。呼吸は不規則で、止めたり、吐いたり、止めたり、吸ったり。時折、ひゅるるるる、と弱々しい深呼吸をしてしまう。高まった緊張は、より感覚を研ぎ澄まさせ、より痛みに対して敏感になっていく。だがまだ爪は剥がれきっていない。まだ、ほんの少し、持ちあがった程度である。割れた程度である。ほんのささやかな肉を、剥ぎ取った程度に過ぎない。ここで手を止めてはいけない。余分な力を込めてもいけないし、緩めてもいけない。なおもゆっくりとあなたは、その手で、小指の爪を剥ぎ取らなくてはならない――。それこそが、あなたの生き永らえるための条件なのだから。しかし、痛みに耐えかねて、ここにきてあなたは、爪を一気に剥ぎ取ってしまった。小指は血だらけ。まるで、指先が吹き飛んだように、違和感と痛みだけが、小指の存在を浮き彫りにしている。赤黒く微振する小指へ視線を当てると爪の形に指先が窪んでいるのが見える。明らかに、陥没している。剥ぎ取った爪のほうを見ていただきたい。そこには、血の滴ることが可能なほどの肉が付着している。つぎに、もう一度小指を見ていただきたい。そこには、たった今剥ぎ取ったばかりの爪が、もうすでに、復活している。治っている。よかった――などと安堵を抱いてはいけない。今すぐにでもあなたはその手で、もう一度、小指の爪を剥ぎ取らなくてはならない。さあ、もう一度、小指に爪をかけ、充分な時間をかけ、存分に感触を確かめながら、爪を剥ぎ取っていただきたい。小指が終われば、次は薬指、中指、人指し指、親指。それが終われば、逆の手の爪を剥ぎ、それも終えたら、足の小指から始まり、親指に終わり、そしてもう一方の足の爪を剥ぎ取っていただきたい。それで終わりではない。爪が終わったのならば、あなたはその剥ぎ取った爪を用いて、手首の皮を切り裂き、皮と肉のあいだに指を突っ込み、爪を剥ぎ取ったときとは逆に、一気に皮をひっぺ返していただきたい。まずは手首からうえの、手のひらの皮を。手袋を脱がすように、手の皮をめりめりと剥ぎ取る。両手が終えたら、つぎは足首からさきの皮を。それらを終えたならば、あなたにはその血だらけの指を、自力で切断していただきたい。しかしながら、この時点で血だらけのあなたにはもはや手先での作業は不可能だ。ならばあなたには、その健康そうな歯を用いて、指の断裂を行っていただきたい。神経が剥きだしになったあなたの手足は、歯に触れただけで、激痛に見舞われる。それでも、挫けてはいけない。生き残るために、あなたは自身の指を噛み切らなければならない。さあ、噛み切っていただきたい。指を咥え、あごに力を入れるだけ、たったそれだけの所作である。これまで熟してきた技術的な破壊よりも、ずっと単純だ。ともすれば、爪も皮もまだ剥いでいないアナタでも、手軽に実践できるのではないだろうか。さあ、まずは、か細いその小指から、噛み切ってみては如何だろうか――。

 閑話休題。


 どんな人間であろうとも、痛みに慣れることはない。

 痛みを感じなくなるとすれば、死ぬか、または麻痺するしかない。

 麻痺とは感覚の遮断であり、感覚の喪失である。痛みの慣れではない。

 人は痛みを感じることで、危険と成り得るあらゆる干渉に対して抗うことができる。熱いから咄嗟に手を離す、痛いから傷の存在に気づき、治療を施すなど。外部からの危害を察知する以外にも、体内の異常をも敏感に察知してくれる痛み。

 痛みがなければ人は、決してひとりでは生きていけない。ただでさえ生きていくには困難だというのに。

 弥寺は麻痺を嫌悪している。

 それは彼自身が麻痺することができないからであり、また、麻痺と逃避を同義として看做しているからでもある。逃げることを純粋悪として扱っている。それゆえに弥寺は、未だにすべての痛みを受け入れ続けている。

 どんなに深い傷でも弥寺は、一瞬で塞ぐことが可能だ。

 だがそれは、完治でもなければ、修復でもない。

 弥寺が完治することはない――。

 いつだって弥寺は、常に傷を負い続けている。

 傷を負い続けることで――自らを己が傷つけることで――弥寺は弥寺でいられるのである。

 弥寺が修復することはない――。

 弥寺は未だに『形』を得ていない。

 癌細胞のように、増殖し、浸食し、肥大する己へ――弥寺は抗っている。

 『形』を得ようと肥大している己を殺し続けることで――理想の自分を――自分という虚像を――生みだしている。保っている。

 自虐を行い続けている限り、肉体は保たれるだろう。

 だが常人ならば、精神のほうがさきに崩壊する。

 自分を殺しつづける日々は痛みという痛みを許容する日々でもあった。

 けだし、弥寺という生物は、この世でもっとも寛容な男なのかもしれない。

 ただし、寛容である者はまた、全てを難なく受け入れるがゆえに、もっとも鈍感な者なのかもしれない。

 自分がされて嫌なことを他人にするな――というこの理屈が、弥寺には一切、無効なのである。

 弥寺にとって、日常こそが痛みだ。

 空気と同じくらいに有り触れた存在――痛み。

 痛みを感じることこそが、弥寺にとっては生きている証であり、傷むことこそ生きる術であった。

 傷つくこと――。

 傷つけること――。

 それは、生きていくのに必要なプロセスだ。

 ――なくてはならない対価だ。

 こんな日常、常人ならば死を選ぶだろう。

 痛さ。熱さ。苦しさ。

 それらから逃れるために死ぬことは、決して責められるものではない。

 痛さからの逃避は、本能的なものですらある。

 仮に責める矛先を定めたいのであれば、そういった環境に身を置いてしまった自分を責めるしかないだろう。

 ――どんなに叫んでも、世界はなに一つとして動じない。

 ならば己を変えるしかないのだろう。己を終わらせるほかにないのだろう。

 こうして常人であれば、精神的な死を迎える。

 そう、常人ならば――。

 弥寺は死ななかった。自分を殺すことで生き続けた。

 弥寺の特化した性質とは、パーソナリティの特質でなければ、肉体的強度でもなく、その精神構造にこそあった。痛さをも許容し得るその寛容な精神。寛容な人格であったからこそ、『暴走』という致命的な破滅への道から、弥寺は己の意志のみで回帰することができた。自我を取り戻すことができた。膨張する自我を殺し、己を容つくった。

 責めるべき敵を――排斥するべき対象を――己の裡へ見出し、そして、痛みを受け入れた。

 ――己という器を削り出した。

 その器を。

 弥寺は。

 手放せないでいる。

 抱きかかえている。

 目を離せばすぐにでも。

 崩れ去ってしまう。

 その器を。

 大切に。

 大切に。

 抱きかかえている。

 まるで縋りつくように。

 その器を弥寺は未だに保っている。

 

 ふとした瞬間に弥寺は妹のことを思いだした。失っていたはずの記憶の一部が蘇り、それをぽつりとミタケンに漏らしてしまったのだ。

 あれはたしか、と回顧する。

 あれはたしか――ライドから、ふわふわとした生地にカスタードの入った菓子を貰ったときのことだ。それを食していたら、突如として脳裡へ記憶が浮上した。

 せっかく思いだした記憶の断片を、なぜ口にしてしまったのか。大切な己の破片をなぜミタケンなどに話してしまったのか。

 無意識の裡に、忘れてしまわないようにと――話すという行為で――アウトプットすることで――記憶の定着を試みたのかもしれない。理由など定かではない。

 あったのは、きっかけだけだった。

 そうして弥寺は、ふと、らしくもなく昔話をしてしまった。口にしてしまった。仕舞っておけなかった。

 それが妹の話であった。


「……それがなんだ」妹がなんだ、と弥寺は訊いた。

「弥寺くんの話だと、妹さんは当時まだ三歳だったとか」

「それが――」なんだ、と口にする前にミタケンが、「九歳らしい。現在は」と遮った。

「なんの話だ」

「妹さんの話さ。生きている。それも、かなり若い容姿で。明らかにいままで成長を止めていたような。そんな容貌だった」

 だった――とミタケンは言った。そのことで弥寺は確信する。こいつは妹の姿を確認している。妹の現在を知っている。ともすれば――命を握っている。

 敢えて弥寺は、「どういうことだ?」となおもミタケンの意図に気付かぬ振りをした。情報を少しでも多く聞きだそうとした。弥寺は知っている。ミタケンが、土台を固めてからでないと結論を言わないような迂遠な人間であると。むかしから、そういう奴だった。

「妹さんは現在、養子として育てられている」ミタケンは述べた。「とても温かいご家庭のようだ。妹さん自身も、とても活発で、毎日を幸せそうに生きていた。もしかしたら自分が保持者であることも忘れているのかもしれない」

 養子――。

 弥寺の両親は年齢的にはとっくに他界しているだろう――それとは関係なくすでに死んでいたのかもしれないが、殺されていたのかもしれないが、定かではないし、確かめようとも思わない。軽く半世紀以上も前のことだ。《あいつ》に記憶を奪われてからも相当な月日が経っているはずだ。

「あと、三年も経てば、妹さんは小学校を卒業して、中学生なんだ」

 その姿、見たくはないかい――とミタケンはこちらへ歩み寄る。

「見たくないと言ったら?」一応こいつの口から確認しておきたかった。

 波紋からは感じとれている。それでも、直接聞きたかった。ミタケンの覚悟を。その意図を。

「チューブを、開いてくれないか」ミタケンは繰り返した。「もしもぼくの頼みを聞いてくれないのなら……弥寺くんはこのさき一生…………妹さんに逢うことはない」

 ぼくができなくする、とはっきりと言った。

 

 弥寺はうれしくなる。こいつ――こんな顔もできんのかよ。

 楽しくなる。陽気になる。だからミタケンの要求を呑んだ。それは妹のためではなく、ミタケンのためでもなく、百パーセント、自分のためだった――と弥寺は思っている。

 事実、そのあとに妹について調べるようなことを弥寺はしなかった。

 興味がないわけではなかった。妹を知るということは、失った自分を知るということでもある。失った記憶を得るということになる。欠けた己の復元。補完。修復。自分自身をより確固とした完全なものにするという意味で、弥寺にとっては重要なライフワークの一部でもあった。ただ、そのときはなぜか、そうすべきではないのだと、そうすべき時期ではないのだと――そう思った。

 

 それから幾度か、同じようにミタケンを離脱させてやったこともあったが、いつしかミタケンは侵入してこなくなった。

 新しくセキュリティ・システムを再構築した影響かもしれないし、または、侵入する目的がなくなったからかもしれない。そう、ノドカが死んだのも、丁度そんな時期のことだった。

   ***

 

 あれから数年の時を経て、ミタケンが、ふたたびアークティクス・サイドへ侵入してきた。

 弥寺はミタケンから連絡を受け、指定されたフロアへと赴く。

 ミタケンからの連絡は、専用のバイタル通信が使用された。以前から二人のあいだで交わされていた「ある密約」を定期的に確認するためだけに繋がれた、極秘の回線である。その回線の存在を知っているのは、弥寺とミタケン以外では、ウブカタだけである。組織に無断でバイタル通信するには、手続きの偽装などを行うのに、どうしても第三者の存在が必要だった。だから弥寺はウブカタへ頼んだ。

 ミタケンが離反してからも弥寺はその回線を断つことはしなかった。

 アークティクス・サイド内にある、ありとあらゆるハードウェアや機器は、その人物の波紋を感知して、発動している。それゆえに、手動の操作は必要とされない。だがその実、そういった機器を用いて組織は、波紋を利用した保持者の監視や検査・分析を極秘裏に行っている。

 例えばそれは――外の社会における、インターネットを統括する軍事ネットワーク:「FIRE・WORKS」によって行われている、情報集積および、情報操作を用いての経済の動向の監視と制御――と同じようなものなのだと弥寺は認識している。

 そういった、意識外からの干渉が、弥寺にとっては堪らなく不愉快で陰湿なものとして映った。

 断固として、干渉などされるものか。いや、干渉されるのは拒まない。ただし、干渉するならば、こちらも同様に干渉し返すのが道理というものだ。だのに、ああいった陰湿な干渉は、一方的な干渉を強いようとする。それも、その狡猾さを相手に知られないように、全てを隠して行おうとする。影響を与えられていることすらも気付かせない――そんな一方的な干渉だ。

 ――神にでもなったつもりか。

 弥寺は苛立つ。

『R2L』機関という組織自体が、そういった存在であり、そういったシステムの一部に自分が取り込まれていると思うと、それ自体が何にも増して堪えがたい思いを抱かせた。

 なぜ隠れる必要がある。

 なぜ隠す必要がある。

 説明しても、到底理解されないからと諦めているのか。それとも、そうやってほかの者どもが莫迦であり、己たちこそが高等な部類なのだと、自分たちだけで考えれば済むことなのだと、そうやって驕っているだけなのだろうか。

 どいつもこいつも、結局は莫迦野郎だ。

 そんな莫迦野郎どもに良いように取り込まれてしまっている俺という存在、それこそが最も忌々しい。

 あとどれだけ待てば俺は、独りで生きるに値する力を得られるのだろうか。

 数百年か。

 数千年か。

 そのあいだに、人類のほうが先に打開するだろうか――この莫迦莫迦しい驕りと騙りの醜悪な渦から。

 時間さえ経過すれば、いつかは、理想を現実のものとすることが叶うのだろうか。いや、時間の問題ではない。どれだけ時間を費やそうとも、無駄に流れようとも、叶うことなどないのだろう。叶うはずもないのだろう。

 描いている理想そのものの根本に、問題があることに気づけないような、そんな莫迦どもの集まりこそが人類なのだから。

 弥寺は笑おうと腹に力を入れる。しかし、笑うことはできなかった。

 

   ***

 ミタケンが、すうと目のまえに現れた。気配はなかった。波紋すらも感じられない。

「すまない、もう一度だけ協力してくれないか」ミタケンは頭を下げた。

 以前と比べて面構えが変わっている。

 面構えだけでなく、時折、息継ぎのように浅い断層へと浮上してくるミタケンの波紋も大きく変わっている。

 波紋をどの断層へ『沈下』させているのかが判れば、たとえ相手が『沈下』させていようが、『糊塗』させていようが、弥寺には同じこと、無意味な足掻きに過ぎなかった。

 ただし、むかしからミタケンに対してだけは、波紋を意識的に読みとろうとはしなかった。勝手に感じ取ってしまう波紋以外、弥寺はミタケンの波紋を読まない。遊びにはルールがあったほうが面白い。その程度の気紛れだ、と弥寺自身はそう思っている。

 勝手に感じ取ってしまう僅かな波紋。ミタケンの波紋は変わっていた。

 かすかに触れただけで弥寺には充分に知れた。

 人は変わると言うが、ここまで変わる者がいるだろうか。

 本質から一変してしまう者が、果たしているのだろうか。

 怪訝に思う。

 こいつは本当に、俺が許容し得るあいつなのか。

 俺の知るミタケンなのだろうか。

 弥寺は考える。

 時折ふいに、自分は操られているだけではないのか――と。

 本当は、視えざる者の意思によって動かされているのではないのか――と。

 そう不安になることがある。

 普段は自由意思によって自分を支配できているが、ある条件が整った瞬間、ある状態に陥った瞬間、その瞬間に、何者かが俺に変わって己を支配しているのではないか――とそういった妄念がふいに訪れる。それは己へ囁く勘とはまた異なるささめきであった。

 生き物を殺すのも救うのも、自分が生きようと食し・眠り・抗うのも、弥寺の場合はすべて同じだ。

 ――俺がそうしたいからそうしている。

 意味も、意義も、意思も、意地も、目的も、役割も、与えられるのではなく、生み出しているのだと――そう思いたい。

 

「たのむ。チューブを。ぼくを外へ」ミタケンは懇願する。途切れ途切れに。息継ぎを挟みながら。「弥寺くん、キミなら……解って、くれるだろ」

「お前、変わったな」ミタケンのお願いには応じず、弥寺は言った。「なにがあった。なにを成したい」

 これまではとんと興味がなかったミタケンの『目的』に、好奇の矛先が向かっている。

「すまない。それは言えないんだ」

 ミタケンが自身の波紋をより複雑に糊塗させる間際。

「沈下」させつつ、さらに波紋を「糊塗」させるという――《あの女》が遣う『波靡(はび)』をミタケンが行う間際。

 弥寺は、一瞬はやく、ミタケンの波紋に同調した。

 そして離脱する。

 余韻でミタケンの波紋を読んだ。読みつつも、疑問を抱く。

 どうしてこいつが、『波靡(はび)』を知っている――?

 『波靡(はび)』の存在を知っているだけならいざ知らず、

 なぜ遣い熟せる――?

 ミタケンの波紋を講読することで、疑問は即座に氷解する。

 ミタケンの波紋からは《彼女》の存在が感じられた。

 こいつを変えたのは《あの野郎》か。

 またしても《あいつ》は俺を。

 俺に干渉しやがるのか。

 一方的な干渉を強いるのか。

 ――ありえねェ。

 許せねェ。

 あってはならない――そんなことは――あってはならない。ならないのに。

 なのに、なぜミタケンは…………。

 弥寺の波紋の微弱な乱れを感じたのか、ミタケンは飛び退いて、距離を置いた。

 腰を落とし、床に手をつけて、警戒態勢を維持している。

「まさか、読んだのかい?」苦しそうにミタケンは笑う。「流石だね。波紋を『波靡(はび)』させても、弥寺くんには通用しないんだね」

 いくら弥寺といえども、波紋を『波靡(はび)』されては、読むことはままならない。しかしこんな瑣末な指摘をかえす義理も、余裕も、弥寺にはなかった。

 気を抜けば今すぐにでも弥寺は、この部屋ごと、空間ごと、吹き飛ばしてしまいそうだった。

「なら解っただろ」波紋を読んだなら解っただろ、とミタケンは肩の荷が下りたかのように口調を軽くし、「ぼくは、ぼくはね弥寺くん。組織をぶっ壊す。弥寺くんが手伝ってくれるなら、そうだな、ぼくは、きっとうれしい。きっと楽しい。強大な敵だよ。絶対に楽しいって」

 ミタケンは嬉々として誘った。

 そう。

 きっと、それを最初に聞いていたのなら、弥寺は組織を解体する手助けをしていたかもしれない。むしろ、率先して破壊したかもしれない。

 しかし今、弥寺にはそんな選択肢など微塵もなかった。ありえなかった。

 《あいつ》の手助けなど、死んだほうが増しだ。それこそ、

 ――生き返ってもありえねェ。

 もう一度この人生をやり直すのと同じくらい、堪え難いことであった。

 大きく息を吐き、熱く滾った感情を、弥寺は冷ます。

 もう一度、深呼吸。

 呼吸が震える。

 身体も震えている。武者震いだろう。憤怒の震えだろう。

 弥寺は説き伏せるように、「今ならまだ間に合うぞ」と言った。

「戻ってこい。俺がライドの野郎に、直に頼んでやる。お前をラバーへ引き戻してやる。ライドの野郎を殺してでも叶えてやる。俺の人生、最初で最後に交わす約束だ。戻ってこい。絶対にお前は罰せられない。俺がお前を罰さないし、俺がお前を罰せさせない。離反もこれまでのいざこざも、全部なかったことにしてやる。俺が言うんだ、ライドも認めざるを得まい。だから戻ってこいよ」

 ――《クソアマ》なんぞに、侵されてんじゃねえぞ。

 ミタケンはゆっくりと目を閉じる。

「ありがとう」

 呟いて瞼を開けた。「ありがたい申し出だし、うれしい提案だけど」断るよ、と警戒態勢を解いて立ち上がる。「弥寺くんがぼくに対してそんなに気を遣ってくれるなんて、本当にうれしいけど――でも、《あの人》をわるく言うのはやめてほしい。いくら弥寺くんでも許さないよ」

「許さなかったらどうなるってんだ」弥寺は挑発するでもなく純粋な疑問で訊いた。

「妹さんを惨たらしく殺してから、それからぼくは弥寺くん、キミを殺しにいく」

「ほお」と感心する。「俺の妹を惨殺するのか」と口元を吊し、「安心したぞミタケン。お前はまだ、正常の範囲内だ。妹を惨殺すると断言している一方で、俺のほうは『殺しに行く』という過程のみに言及しているところを鑑みる限り、どうやらお前の思考は正常に働いているようだ」

「弥寺くんには敵わないからね。ぼくなんかはいくら抗ったところで……」

 死ぬだけだ、と続くだろう語尾をミタケンは濁した。

 わかってるじゃねえか、と弥寺は冷淡に笑う。「お前の覚悟は解った。だからお前の決心の固さに敬意を表して、俺が特別に講釈を垂れてやる。それを聞いたのちに、最後の問いかけを俺はお前にしようと思うが、どうだ。聞く耳は持つか――」

 それとも――とあごを上げてミタケンを見下ろす。「死に急ぐか」

「聞かせてもらうよ」ミタケンは視線を床に落としている。「どっちにしろ、弥寺くんとの会話はこれで最後になるだろうからね」

「最期にはなっても、最後にはしねえよ」

「そっか。なら、最期にならないように、祈るとしよう」

「誰にだ?」誰に祈るのだ、と弥寺は問う。

「弥寺くんに。それと、ぼく自身に」

「悪かない答えだ」

 頷いてから弥寺は、そうさな、と口火を切った。

 捲し立てるように。

 畳みかけるように。

 叩きつけるように。

 言葉の羅列をぶちまけた。

「そうさな、お前がそうしたいのならすればいい」



   ***弥寺***

 お前がそうしたいのならすればいい。

 だが俺はしない。

 それだけの話だ。

 お前がどこで何をしようが一向に構わない。

 お前が俺を殺そうと、お前が俺の妹を殺そうと、お前がどんな世界を毀そうと、それは自由だ。

 但し、俺はその場合、俺が持ち得るすべての自由意思を集束させて、俺の捧げる一切の労力を注ぎ、俺の掲げることごとくを擲って、お前の行為に対して抵抗するがな。

 俺はなミタケン。

 お前が俺に干渉した以上は。

 ――俺もお前に干渉し返すぞ。

 そのとき、お前が俺に対して会話という手段を認めてくれたのなら、甘んじて俺はお前との対話でもって解決を臨むだろうし、俺はそうであることを望んでいる。いまこの瞬間のようにな。

 但し、お前が対話を望まず、俺の言葉の一切を拒むというのなら、俺はお前と同等以上の暴力を以ってお前の存在を排除しよう。

 それが俺の持ち得る最大限のお前への友情であり、信頼であり、慈悲であり、愛だ。

 即ちこれが、俺がお前へ与えることのできる極限の譲歩だ。

 勘違いするなよ。

 前にも言っただろうが、俺は俺以外の者を人間だと思っちゃいない。人間はこの世界に俺だけだ。ほかに人間という存在はいない――《アークティクス》にも、『プレクス』にも、俺の〈レクス〉にも。

 それゆえに、人権も尊厳も何もない。

 俺こそが厳かであり、俺こそが尊ぶべき存在であり、俺こそが全てだ。

 それは俺にとっては、という意味でもあり、世界にとっては、という意味でもある。

 押し並べてこの世界を認識する生命という稀有なバグは、己の世界でしか生きられない。

 〈レクス〉に身を置き、〈レクス〉で育ち、〈レクス〉を世界の全てだと認識して、〈レクス〉で果てる。

 《アークティクス》に内包されていながらに、〈レクス〉という卑小な世界しか知ることのできない、出来損ないのバグ。バグですらないバグ。この場合、バグというのは虫けらという意味でもあるし、虫けらという意での欠陥という意味でもある。二重に掘り下げた、バグだ。まあ、そんなことはどうでもいい。

 俺が言いたいことはなミタケン。俺が、俺以外の全ての存在を「代替可能な存在である」と捉えているその認識にある。お前も含めた俺以外の生命が――どの黒毛和牛も変わらずして黒毛和牛であることと同様に――俺にとっちゃ俺以外の奴らは、どれをとってもどこまでいったって「俺以外」に過ぎない。

 だが少なくとも俺は、俺という存在を他者へ投影でき得る相手には、俺に似た感情を抱くことができる。その相手を一瞬でも、僅かにでも、人間だと思えるんだよ。完全には程遠いながらも、そいつは俺自身、俺の断片なのだからな。

 はん。

 歪んだ自己愛――そう思うか。

 だが誰しも少なからず俺に似た行動原理によって、己れ以外の他者へ「情」やら「愛」やら「好意」やらを抱き、それによって「行為」を及ぼしているんじゃねえのか。

 たとえばだが、

「自分だったらそれはされたら嫌だからやめよう」だとか「自分だったらそれをされたら嬉しいだろう」だとか「こいつと自分はこれこれこのようにして異なっているから、だからこの理屈は通じないだろう」だとか――全ては己との対比によって浮き彫りにされているのではないのか。

 解らないか。

 ならもっと具体化して言えばだな――人を殺してはいけない、という理屈もたとえその根拠が、「社会秩序の安定」という現実的なものであっても、煎じつめれば「社会秩序が安定することが己のためである」という自己保身にほかならない。

 そこまで言わずとも、「自分の欲望を優先するのではなく、他者の幸せを願うことが己の幸せなのだ」と思っている以上、それは自分にとっての幸福を選んだ利己的な思想にほかならない。

 ほかの奴らが幸せでいられることが己の幸せだと思い、そうなるように行動しているのだとすれば、それは自分の幸福のために行動しているのと同じだ。

 自己犠牲なんてふざけた行為も結局はそうすることがもっとも自分にとって好ましい行動だと思ったからこそやっているだけで、それ自体も結局は利己的な行為だ。自分を犠牲にすることがもっとも納得でき得る行為なのだ、とそうやって選択しているに過ぎない。

 自己犠牲で自分が死んだ結果、悲しむ者がいようがいまいがに拘わらず、その当の本人が、死ぬ寸前に、「これでよいのだろう」と選んで自己犠牲を実行しているのだから――それは利己的としか言いようがない。

 断わっておくが、自己犠牲をしなかった場合もまた同様に利己的だ。どこまで想像力を働かせて選択しているかなんてのは関係ない。どんな行為も、それを選択したという結果が重要だ。そして、その選択というのは、どんなものであれ、利己的だ。どんなに浅薄な思慮の結果の選択だろうと、どんなに高尚で複雑で筋の通った思慮の結果の選択であろうとも、同様にして利己的だ。どちらも、そうすることが、自分にとって一番善いと考えているのだからな。どこまで他者への影響が考慮されているのか、という違いはあれど、そんな違いは、戦争と死刑と快楽殺人の違いくらいに些末なものだ。

 そう。

 この理屈は、己が己である以上――そして他者へ完全な同一化ができない以上――全ての行為は利己的である、という結論になる。

 相手の心を視ることができない限り、そして相手に成り替わってその相手の視点から世界を認識できない限り、主観も客観も大差ねえんだよ。

 主観から脱して世界を視ることの叶わない限りは――だけどな。

 そう、俺という人間は、それが叶う。

 主観を脱して世界を視ることができる。

 他者の〈レクス〉から世界を展望することができる。

 それこそが、俺が俺である唯一のアイデンティティ。

 インディビジュアリティ――そして、俺こそが人間であるという限定だ。

 そう、俺はまだ【ゼンイキ】ではないが、【ゼンイキ】になる日も時間の問題だろう。

 お前らは自分のために人を殺し、自分のために人を助け、自分のために他者を犠牲にし、自分のために自己を犠牲にする。

 それが自分にとって一番良い選択であるとそう思うからこそ――それが自分にとって一番納得できる選択だとそう思えるからこそ――お前らは行動し、ときに後悔し、ときに反省し、ときに忘却し、ときに逃避して、己の安定をはかっている。

 ミタケンよ。目を覚ませ。

 或いは今すぐ目を閉じろ。

 世界を視ようとするな、まずは己の裡へと目を向けろ。

 自覚していなくとも、人はいつだって己にとって最良の選択を行っているはずだ。ただ、その選択のあとに迫った結末を納得できるか、できないか、といった程度の些細な違いがあるだけだ。

 だから――。

 お前がそうしたいと思うのなら、すればいい。やればいい。毀したければ組織でも世界でも、なんだって毀せばいいだろう。

 その結果、俺のまえからお前が消えようと、この世界から妹や部下や知り合いが消えようと、俺はなに一つ困らない。

 なぜならこの世には掃いて捨てるほどに人間モドキが蔓延っているからだ。いくらでも替えがきくからだ。

 だが、少なくとも俺にとってのお前は、俺にちかしいものだ。

 人間と認めることもやぶさかではない存在――だ。

 いいか、親しいじゃない、ちかいんだよ俺とお前は。

 俺は俺以外がどうなってもいいと思っているが、俺自身が傷つくのは耐えがたい。

 仮に俺という自我を統一しているこの身体の外部にいる、統率できない独立した俺であっても同じことだ。

 俺の外部にいる、俺が統率できない、俺以外の俺――。

 ――それがミタケン、お前だ。

 お前は絶対後悔する、いま成そうとしていることをすれば必ず傷つく。

 傷つけば精神が崩壊し、お前の〈世界〉そのものが崩壊する。

 お前は生きていながらに死に絶える。

 それでいいのか?

 俺はそれが厭だ。俺は俺が大切だからだ。

 それを客観的に見れば、俺にとってお前が大切だということになるかもしれないが、それは違うことをここで指摘しておく。

 ――俺は俺が大切なんだ。

 ――俺のために、俺はお前を止める。

 さて。

 ここまで俺は言葉を尽くしてお前を止めようと抗ってみたが――お前はこの俺の言葉に対して、なにを返す。

 言葉か。行為か。説得か。対立か。逃避か。対抗か。

 ――それとも妥協か。

 さあ選択しろよ、ミタケン。

 なにを選んだとしても、お前はお前だ。そのままのお前を俺は受け入れてやる。

 俺を毀していいのは俺だけだ。そしてお前は俺だ。

 お前を毀していいのも、俺だけなんだよ。

 なあミタケンよ。

 

 ――勝手に毀れてんじゃねえぞ。




 +++第八章『努々抱くことなかれ夢を』+++

 【死にたがり屋な私が化粧を落とすと、淋しがり屋な貴方が顔を覗かせる】

 

 

   タイム△スキップ{~基点からおよそ四カ月後~}


 ***~無有・夢遊~***

 記憶。

 ・の記憶。

 数年前の記憶。

 その日、コロセと努樹は、映画を観賞していた。

 バイタル専用のクリアフィルムでオブラート並に薄く、ゴム並みの弾力がある耐久性に富んだ透明なディスプレイだ。

 二人並んで、寝転びながらそれを眺めていた。クリアファイルにはチャップリン主演の映画が映し出されている。本来は視聴できない映像だ。

 バイタルにはこうやって、通常は規制されている外部の映像が、秘密裏に流れている。とは言っても、きっとそうやって蜜の味を意図的に作り上げて、アークティクス・サイドの住人を満足させようという魂胆なのだろう――と夢を夢だと自覚している俯瞰的な僕は冷静に分析している。

「ノドカがさ」

 とむかしの僕――夢の中の僕――は言った。

「ウチのバカ姉がさ」と言い直す。

「うん」素っ気なく努樹は相槌を打った。

 どうやら映画に夢中らしい。

「最近ね、すごく真面目なんだよ」

「いいことじゃないか」

「まあね。でも、僕、はじめて納得したよ」

 なにをだ、と努樹は適当にあしらっている。

「時と場合によって――てやつ?」僕も動画を眺めながら、「時と場合によってはさ、真面目なのもいかがなものなのかなってさ」

 それを実感した、と溢すと、

「なんだよ急に」努樹は頬を緩めた。「姉ちゃんなんだろノドカさんって? 大切にしろよな」

「でもさ、真面目って言ってもなんて言うか……ノドカは変なんだ」

「なんだよ。ハッキリしろって」意味わかんねえよ、と努樹は画面から視線を外さずに、僕へ向けてデコピンを放った。危うく目にあたりそうだった。「痛いって」僕はオデコをこする。

 煮え切らない様子のこちらに努樹は仕方なさそうに、「で、真面目なのがどうして駄目なんだ?」と相の手を入れた。

「うんあのね、ノドカが最近……エッチなこと、教えてくるんだ」

 ぶふっ、と漫画みたいに噴き出して努樹は、「はぁ?」と奇怪な声をあげた。「コロセの姉ちゃんってスケベなの?」

「スケベって言うか――そういうことじゃなくってね」僕は返答に窮する。

 映画のなかではチャップリンが敵に追い詰められて屋上から飛び降りる場面が流れており、真下にあったトラックの荷台がトランポリンの役目を果たして、チャップリンはふたたび屋上の敵とご対面する。努樹が笑い、僕も笑った。

「普通、弟とさ。そういうこと。話すもんなのかな?」僕は映画から目を離さずに、エッチな話とか話すもんかな、と質問した。

「さあな」にべもなく言われてしまう。「おれ――じゃなくって、私には兄弟いないし」と努樹はしれっと答え、バッタのようにぴょんぴょん飛び跳ねるチャップリンが、動きだしたトラックに連れ去られる場面でもういちど笑った。

「なに無理しちゃってんの。【おれ】でいいじゃん」僕の目尻が悪戯に下がる。

「無理してないし。私は私だし」むっとした口調で努樹は、というかだな、と話を戻した。「エッチな話ってどんなだよ」

 どんな話って……ここで言うの、と僕は酸っぱい顔をした。

「努樹さ、引かない?」聞いても引かないでよ、と頼んでみる。

「引く? そんなにエロイの?」努樹が食いついた。

「分かんないから聞いてるんだよ。言っても僕のこと変態ってバカにしない?」

「ヘンタイ? そんなにマニアックなのか?」努樹がさらに食いついた。

 マニアックってなんだろう――と首を傾げる。

「勿体ぶんなよ」と急かすように努樹が促してくる。「いいから話せって」

 もはや努樹の関心は、チャップリンの映画からエッチな話へと移っている。

 思春期の餓鬼とはこういうものだな、と夢を夢だと自覚して俯瞰的に眺めている僕は微笑ましく思う。

 夢の中の僕は――幼いころの僕は――唯々諾々と促されるままにノドカから聞かされたエッチな知識を努樹へ披露した。

 僕らは向かい合っている。

 話していくにつれ、努樹の顔があからさまに赤くなっていった。

 恥じらっているのだ。あの努樹が。

 ――おもしろい。

 調子に乗った僕は、身振り手振りを交えて説明してみせた。さらには、ノドカがやっていたように、果物をアレやコレやに見立てて人形劇のように模擬実演もしてみせた。

 努樹はますます顔を赤らめた。

 けれど文句のひとつも溢さずに、僕のピンク色な唇が放つ口上に、耳を傾けていた。

 努樹の反応の変化を推し量るかぎり、努樹自身もそれなりにエッチな知識を持っていたようだ。マニアックと呼ばれるようなエロチシズムも努樹は見聞済みだったらしい。

 一方で僕は、それすらもはるかに上回るエロチシズムをノドカからインプットされていたようだった。どんな姉だよ。ばかノドカ。僕は苦笑するよりない。

 当初こそ努樹は、「そんな程度でエロいだなんて言って。コロセってば純情だな」と強気だったのだけれど、次第に寡黙になっていき、やがて、おっかなびっくり、といったような、こわいもの見たさの表情へと変貌していった。

 それは丁度、ホラー映画の苦手な僕を客観的に眺めているようだった。鏡越しに自分を視ている感じ。

 そういえば――と僕は思いだす。

 努樹はしばしば僕に、ホラー映画を無理やり観せることがあった。もしかしたら努樹は、こんなふうにして、幼い表情を浮かべる僕を眺めることで悦に浸っていたのかもしれない。ならば遠慮はいらない――とばかりに僕は、惜しげもなく、遠慮もなく、恥ずかしげもなく、持ち得るかぎりのエロチシズムを努樹へ披露した。

 ノドカから僕へ、僕から努樹へと皆伝したエロチシズムは、さて、つぎはだれへ伝播するのだろう――とさらなる伝染者を夢想しながら僕は、珍しくおしとやかになった努樹を眺めて、悦に浸った。

 優越感に浸るというのは、じつに気持ちがよい。

 ああ、僕ってすごくイヤな奴だ。

 でもやめられない。

 だって努樹が――いつもは何事にも動じないあの努樹が――顔面をまっ赤にして恥入っているのだから。あまつさえ、恥入っていることをひた隠しにしている。そのひた隠しにしていることすらも僕には手に取るように解ってしまう。弱みを見せないようにと健気にも頑張ってくれちゃっているその挙動が、僕には解ってしまうのだ。こんな優越感ってこれまでなかった。いつもは逆なのだ。僕が努樹に見透かされている。

 こんな機会もう二度と巡ってはこないだろう、とそう思って僕は、艶めかしく、かつ、現実的に解説してみせた。

 ありったけのエロチシズムを出し切った僕は、「――という話をノドカは真面目に語って聞かせてくるんだ。これって変だよね」とイヤラシイ笑みを浮かべて、赤面の絶えない努樹へ尋ねた。

「変だよ……」努樹はつぶやいた。それから語気を荒らげ、「お前の姉ちゃん、変だって!」と下唇を噛みしめるようにした。「絶対に変だ! というかヘンタイだ!」

 努樹は耳までまっ赤だった。もしかしてこれは、恥じらっているのではなく、怒っているのだろうか、と不安になってくる。

「やっぱり変だよね」誤魔化しの笑みを浮かべつつ、「で、なんで怒ってんの」とおどけて指摘する。

「怒ってないしッ」このスケベどもが、と努樹は明らかに怒っていた。「ヘンタイだッ。不純だぞ。不潔ですらある」

「僕はバイ菌か」と突っ込むと、「知らなかったのか」とあっさりと肯定された。

 知らなかった。僕はバイ菌だったらしい。

「落ち込んだフリしたって不潔は不潔だからな」見透かしたように言って努樹は、「病気だっ。コロセはヘンタイという名の病魔に侵されている」とこちらへゆびを突きつけた。

 指さないでよ、と振り払う。

「はっ、まさか。すでに……おかされたのか…………」いやまさかな、と努樹がどんどん自分の世界へ閉じ籠っていってしまうのだから、僕の立ち入る隙はない。

「ねえ、だいじょうぶ?」心配になって声をかけた。

 まさかとは思うけど、と努樹が顔を強張らせている。「まさかとは思うけどコロセ――その変態の姉ちゃんから……【実技】で習ったわけじゃないよな?」

 言って努樹は、汚らしいモノへ触れるかのように僕を、ちょん、と小突いた。

「ジツギ?」

 実技というのはえっと……さっき僕がやったような、果物をアレやコレやに見立ててやった、模擬実演のことだろうか。ならば答えはイエスだ。

「そうだけど」

 だから何、と平然と返した。

 すると努樹がまっ赤だった顔を一転させた。

 今度は顔面をまっ青にして、「うっわ」だとか「マジかよ」だとか「ありえない」だとか、平常を乱した。それはそれはもう、乱しまくりだった。足をバタつかせ、クッションに顔を埋め、イヤイヤとお尻をくねらせながら、片手間に悪口雑言、罵詈讒謗を浴びせてくる――それはもう、もう、とんでもなく駄々っ子となっていた。髪から服から態度までもが乱れまくりであった。

 三六一度回って、努樹はもはや淫らだった。

「あの、努樹さん……服が肌けています。そして僕が足蹴にされています」痛いです、と冷静に訴えた。

「うっさいっ! このヘンタイッ! インランッ! マジありえん、どこの世界にきょうだいでそんなこと……そんなことするか普通っ!?」

 僕は怪訝に眉を曇らせる。

 なんだろう。僕と努樹との認識のあいだに、絶対的な隔たり、違和感、ともすれば齟齬が生じているような気配がしないでもないが、けれど、その誤謬がいったい何であるのかが定かではなかったので、「最初からそう言ってたじゃん」と弁解を試みた。ついでに、「それに僕とノドカ、血は繋がってないよ」と付け足してもみる。

「だからってなにやってもいいと思ッてんの?」

 ヘンタイッ、と努樹はすっかりご立腹であられる。

「そんなにわるいことかなあ」とひらき直ると、「わるいとか善いとか、そう言う問題じゃないんだッて!」

「なに怒ってんの?」段々と僕も不機嫌になってきた。

「怒ってんじゃない、私は叱ってるんだ!」

「なら、努樹は今、僕のためにさ、わざわざ不快な気持ちになってまで、僕の問題点を詳らかにしてくれているってそういうこと?」

「そうだ」威張るように努樹は怒鳴った。

「なら訊くけどね」と単刀直入に、「僕のなにが問題なの?」

「そんなの決まってる!」努樹はクッションから顔を覗かせて、「コロセの存在が問題だッ!」と上目遣いで睨んできた。

 どうやら僕の存在が気にくわないらしい――しかも決定事項ときたもんだ。僕にどうしろってんだ。さすがについていけない。けれど一方で、「顔が問題だッ!」と具体的に言われなくて良かった、とすこし安心している僕がいる。

 僕と努樹は、たまにこうして、意思の疎通が決定的に噛みあわなくなるときがあった。最近になって、その頻度が格段に増えた気がする。

 努樹はふるふると拳を握っている。このまま沸騰しそうな雰囲気だ。でも、努樹には物体を冷却するパーソナリティがあるから、沸騰しそうになれば自分で自分を冷やせるから安心だ、と僕は幼稚な妄想に顔がほころぶ。

「なににやにやしてんだ。思いだし笑いだろ。エッチ、スケッチ、ワンタッチッ!」

「お風呂に入ってアッチッチ?」ずいぶんと古い文句だなあ、と懐かしく思う。

「ああもう!」努樹は憤慨し、「コロセはだれでもいいのか! だれかれ構わずに身体を許すのかっ!?」

 ええいどうなんだ、と喚いている。

 正直、うるさい。

 僕は仰々しく両耳を塞いだ。

「でもな、でもなコロセよ」

 努樹はふるふると声も身体もわななかせ、

「身体は許しても、心は許すんじゃないぞ!」

 と熱く諭した。

 身体も許しちゃダメだよ、と僕が突っ込む前に、「愛はそんな軽いもんじゃねえだろ」と努樹は呻いた。

 もうわけが解らない。

 いや、努樹が完全に誤解していることは僕にも判った。

「あのさ努樹」

 落ち着きなよ、と宥めてみるものの、「落ち着いてるよ! つうかこれが落ち着いていられるか!」と自家撞着ここに極まれり、といったような台詞が返ってくる始末だ。

「わるかったよ。ごめんってば」

 謝ってみたはよいがしかし努樹は、「わかってない! コロセはなんにもわかってない! 謝ったってな、おれに謝まったって、犯した過ち――いや、犯された過ちは戻らないんだぞ。イヤラシイ経験を得た代わりにコロセは、お前はな、清らかな心を失ったんだ」

 と自分で自分の怒りに拍車をかけている。

「じゃあ、どうすればいいの?」僕は妥協した。

 こうなったらもう、どこまでも僕が努樹に近寄らなければなるまい。理不尽に思える努樹の怒りに対する憤りだとか、そういった不満はひと先ず措いとくとして、僕はどこまでまっさらなお皿のように受け身にならざるを得ない。

 だってこのままでは収拾が付かないのだもの。

「どうすりゃって……それはつまり、あれか?」

 コロセは私にもその――と努樹は言い淀む。

 急におしとやかになった。

 僕は思わず失笑する。「なんでもするよ僕」

「なんでもって、それはその」とさらに努樹は閉口した。

 やっと大人しくなったか。

「じゃあね。二つまでなら努樹のお願い、聞いてあげる」

 追い打ちをかけるように言う。これでもう大丈夫だろう。このバカバカしいドタバタ劇も収束に向かうはずだ。

「いいのか?」本当にいいのか、としつこく努樹が聞き返してくる。「というか、私でいいのか?」

 どうしよう……意味深長すぎる。

 僕は考える。その意味をではなく、最適な返答を。

「努樹でいいっていうか……」この場合は努樹でなくては意味がない。ほかの者の願いを聞いたって、努樹の怒りは治まらないだろう。「……努樹がいい」と僕は答えた。

 そっか、と俯いた努樹は逡巡するように間を空けた。

 それから、

 急に、

 ――僕の視界が傾いた。

 ゆっくりと重力の移ろいが感じられた。

 天井が見える。

 弾む視界。

 後頭部が痛い。床にぶつかったのだろう。

 続いて――。

 努樹の顔が見えた。

 僕に覆いかぶさっている。

「なに」

 すんだよ、と僕の言葉は最後まで続かなかった。

 口を塞がれた。

 目のまえには努樹のオデコがあり、髪の毛が暗幕のように垂れている。

 努樹の体温が直に伝わる。

 鼻と、

 頬と、

 唇と。

 肌と鼓動と微かな吐息。

 僕の口は努樹の唇で――舌で塞がっていた。

 悪寒が身体を巡る。

 努樹への嫌悪からくるものではない。僕には解っていた。

 努樹のパーソナリティだ。

 こちらから顔をはなすと努樹は垂れた髪を掻きあげるようにした。

 視線が交わるのがこわくて僕は、顔をよこに背けた。

 床には霜が浮かんでいた。

 しずかだ。

 顔を戻す。

 真っ向から見つめあう。

 努樹のまつ毛も、髪の毛も、白く、純粋に白く。

 うすい霜に、きれいに化粧されていた。

 真っ白な努樹の。

 唇だけが。

 赤く。

 紅く。

 艶やかに浮かんでいた。

 努樹は艶笑を浮かべた。

 それからもう一度。

 僕にキスをした。

 ――深い、深い、キスをした。

 舌と。

 唾液と。

 息と。

 熱気と。

 絡まる思考と。

 身体の微振動。

 けれど僕は拒まずに。

 受け入れた。

 そのままの努樹を。

 ――受け入れた。

 鼓動の音が響いている。

 おおきく。せわしく。めまぐるしく。

 努樹の拍動か。

 僕の拍動か。

 息苦しさが、心地よかった。

 

   ***

「お願いって二つだったよな」

 努樹は威圧するように切り出した。

 扉から顔を半分だけ覗かせている。

 努樹の顔面は、これ以上いったら黒くなってしまい兼ねない、というほどにまっ赤っかだった。俯き加減にあごを引いて、「さっきのこと……無かったことにして欲しい」と床へ言葉を溢した。

 数時間前――。

 僕は努樹に押し倒され、大人のキスをされてしまった。

 それが嫌なことだとは感じなかったし、恥ずかしいことだとも思わなかった。

「努樹にファーストキスを奪われた」

 馬乗りにされたままで僕がそう言うと、努樹は心底以外だと言わんばかりに――あってはならない事実を耳にしたとばかりに、

「はあぁぁあ?」と声を張り上げた。「キスはまだって……なん段飛ばしの初体験だよ」

「思うんだけどさ」遅ればせながらも僕はいちおう指摘しておいた。「なにかをものすごく誤解していると思う。努樹は」

 な、と努樹が口を空けた。すぐに下唇を噛み締める。

 なぜかそのとき、努樹の考えていそうなことが僕には手に取るように解った。

 どういうことだよ――あれ――あれれ――もしかして、もしかすると、もしかするのか――いやいやまて――だとすれば――どういうことになる――どういうこともなにも――こういうことになるよな――おい――おいおい――おいおいおい――うそだろおい――どうすりゃいいんだよ――うわ――うっわあ――なになに――うそだろぅ――どうしよぅ………………死んでしまいたい。

 努樹の視線が上下左右と泳ぎまわる。

 表情が険しくなって、つぎの瞬間には顔面蒼白になってから、ふたたびまっ赤になる。

 まるで信号機みたいだ、とどこか懐かしい町の風景が勝手に脳裡に浮上してきて、すぐに沈殿する。

 意識がふわふわしていた。僕が僕でない感覚だ。

 努樹は固まっていた。その場で赤面したまま。放心するように緘黙した。

 努樹に馬乗りにされていたので僕は起き上ることもできずに、そのままの体勢で努樹の解凍よろしく回答を待った。

 どんな対応を見せるだろうか、と無責任にも愉快げに見守っている僕がいる。

 数秒後――。

 努樹は勢いよく立ち上がり、そうして今にも泣きだしそうないじらしい表情で僕を見下ろすと、疾風のごとくプライベートルームへと突っ込んでいった。

 努樹の香りが遠ざかっていく。破裂音を立ててドアが閉じた。

 その場に僕は置き去り。

 嵐のあとの静けさ。そんな感じだった。

 僕は寝そべったままで、ずっと天井を眺めていた。天井にはなんだか模様のような柄が描かれている。ピントをずらすとその模様までもが一緒に、不規則に移ろった。小さな穴が無数に空いているだけなのにそれでもその無数の穴ぼこがまるで僕の視軸に連動するように――僕の意思に反応するように――抽象的な模様として変動する。

 それは丁度、目をつむったときに視える、瞼のうらに展開される抽象的かつ幾何学的な紋様に似ていた。

 僕は目をつむる。

 点滅しながら次々と光の線が変貌していく。瞼のうらの神秘的な紋様を見つめていると、僕は、いつのまにかその紋様の浮かぶ暗闇に漂っている。僕は気付く。自己の内へと潜っているのだ。ここは僕の裡側なのだと。ならばもっともっと潜っていくと、そこには一体なにがあるのだろうか――とさらにその闇を潜っていく。闇雲に。上下左右のベクトルはない。僕の進むべき方向こそがまえであり、僕の向かうさきにこそ中心がある。潜って潜って潜っていったそのさきにあったのは、いつの間にか眠っていた僕が目を覚まして眺めている、無数の穴ぼこの空いた、真っ白な天井だった。

 寝起きは視力が落ちていると聞き及ぶ。その影響なのだろう、視界はぼやけていた。

 部屋が夕日に染められている。

 日が傾いていた。

 あれからさらに数時間は経っていそうだ。

 起きあがって部屋を見渡す。努樹の姿はない。

 プライベートルームまで歩を進めた。扉のまえに立つ。

 ノック。

 さらにノック。

 応答はない。

 もういちどノック。

「努樹? いるの?」寝起きの掠れた声を出す。

「入るよ」と断ってから僕は、返事を俟たずにドアノブを回した。

 開かない。

 ということは、努樹はなかにいる。

 それだけ判ればよかった。リビングへと踵を返す。努樹が出てくるまでは帰らずに待っていようと思った。

 僕の服は湿っていた。床が濡れているからだ。

 ――霜が融けたのだろう。

 眠っているあいだは寒くなかった。それだけ僕の体温が上昇していたということかもしれない。

 努樹の住むこの部屋と、僕がノドカと暮らしている部屋は、広さやら内装やら性能まで、何から何までもがことごとく違っている。ここは努樹の家で、部屋を乾燥させる機構を僕は起動させることが叶わなかった。

 お泊まり用にと置いておいた、自前のバスタオルを使って床を拭いた。結構な時間がかかった。それだけここのリビングは広い。僕の家とは格がちがう。さすがガラクタ、と僕はマイホームでもある零一六号棟を褒めた。

 四分の三ほど拭い終わったころ。

 プライベートルームの扉がちょびっと開いているのが目に入った。首を伸ばして視線を向ける。

 パタン、と扉が閉じた。

 じっと待っていると、ふたたび扉が開いた。そこからひょっこりと顔を覗かせて、努樹はこうつぶやいた。

 ――無かったことにして欲しい。

 最初から僕は、努樹のお願いを二つ聞き入れるという約束をしていたので、それを拒む理由もなく、「わかった」とだけ返事をした。

 その日はその後、努樹がまたプライベートルームに籠ってしまったので、リビングを二度拭きしてから、ノドカが首を長くして待っているだろう零一六号棟への帰路についた。

 つぎの日。

 何事もなかったように僕は努樹の家のあるフロアへと赴いた。

 最初こそ無口だった努樹も、一週間後には普段通りに接してくれるようになった。

 そう、努樹が元通りになるのに、一週間もかかったのだ。

 そのあいだは本当に大変だった。まず努樹は僕と顔を合わせてくれなかったし、終始うつむいていた。僕が見ていた限りでは一日中、顔がまっ赤だった。もしかして風邪でも拗らせているのではないか、と心配になったほどだ(でも、一週間も風邪を拗らせるなんて、医療の充実しているアークティクス・サイドでは通常考えられない)。

 映画も一緒に観てくれなかったし、歩くときは距離があくしで――僕のほうが滅入って、気を病みそうになったくらいだ。

 もしかして努樹に嫌われてしまったのではないか、と半ば本気で不安になった。

 けれどめげずに、ハッキリと言動で拒まれるまでは、普段通りに僕は接した。

 ――一週間。

 長かった。

 でもそれが過ぎたら、以前にも増して僕らは仲良くなれたように思う。親しくなれたのだと、近づけたのだと、そう思えた。そう思っていた。

 あの日、あの別れがあるまでは――。

 どうして言ってくれなかったのか。

 どうしてあんなに重要なことを黙っていたのか。

 どして僕にも背負わせてくれなかったのか。一緒に悩ませてくれなかったのか。

 努樹はいつも独りで背負い込み過ぎる。なんでもかでも独りで片づけようとする。

 始末をつけようと、解決しようと、ひとの不幸を肩代わりしようとする。

 その結果、周囲の人間がもっと哀しむとも知らないで。

 僕がどんなに傷ついたかも知らないで。

 なのにどうしてだろう――。

 一向に僕は、努樹のことを嫌いになれない。

 責める気にもなれない。

 努樹のことを助けてあげたいとすら思う。守ってあげたいと望む。幸せになって欲しいと願う。

 そのためになら僕は、自分が犠牲になっていいとすら思える。

 結局それは、努樹がしていることと同じなのだけれど――僕と努樹は同じなのだけれど――だからこそ僕は――努樹に幸せになって欲しい――苦しまないで欲しい――笑っていて欲しい――と祈る。

 それこそが僕の幸せなのだから。

 

 頬が涙を弾いている。

 ゆびで拭った。

 僕は目を覚ます。

 夢は弾けて霧散した。。

 輪郭の崩れた夢はまたたく間に覚束なくなる。

 どんな夢だったかを僕はもう思いだせない。

 それでも一つだけ。

 一つだけ、夢のかけらが残っている。

 僕は今、

 ――夢を見ていた夢を視た。

   ******

 

 瞼を持ちあげる。顔はよこを向いており、正面のソファには努樹が毛布に包まって眠っている。

 身体を起こす。血液がさっと重力に引きずられて下がったのが分かった。

 部屋を見渡す。狭い室内。散らかっている。僕の家だ。

 昨晩は、努樹と夜通しで喋っていた。久しぶりの徹夜だ。

 普段からあまり夜に眠ることはなかったのだけれど――睡眠時間はさほど多くはないのだけれど――それでもこうして誰かと無駄な会話を重ねて、無益な夜を過ごして、そうして抱く徒労感には胸をくすぐるような痛痒がある。

 懐かしくて、どこか切なくて、意味もなく泣きたくなる――そんな朝だ。

 そう、おはよう、今日の僕。

 そして、さようなら、昨日の僕。

 立ち上がって背伸びをする。

 すぴゅー、すぴゅー、と規則的な音色が耳に届く。

 見遣ると、努樹が軽やかな寝息を立てていた。

 清々しい朝が、さらに清々しくなるような涼風のような寝息だ。

 ふとイタズラ心が湧きあがる。努樹の額にアートを施してあげたくなった。眉毛を丘に、眉間を谷と見立てて、その谷を飛び越えようとしている棒人間を描くのだ。これをアートと呼ばずして、いったい何をアートと呼ぶだろうか。そう、これをアートと呼びさえすれば、この世に蔓延るありとあらゆる落書きがアートとなるだろう。そうである、この世に蔓延るあらゆる落書きをアートに変えるほどに偉大なアートなのだ。ともすれば、仮に僕を天才だとしてしまえば、この世に生きる人間が総じて天才になってしまうことと同じだろう。僕ってすごく貴重な人間ではあるまいか、と情けない自分を鼓舞してみた。するとどうだろう、切なさと虚しさの尋常じゃない反動が襲ってきた。慣れないことはするものではないな、といつものように自虐する。かなしいことに落ち着いた。

 自分が包まっていた毛布を畳む。これは、眠ってしまうときにはなかったものだから、きっと努樹がかけてくれたのだろう。ここが自分の家ではないから、努樹もベッドではなく、ソファで眠ったようだ。僕のベッドを使っても良かったのに、とすこし申し訳なく思った。

 さて、と。

 僕はマジックペンを取りに行く。ついでに顔も洗った。ずっと嵌めつづけている右手の手袋も外す。存在という枠組みだけを残して消えているので蒸れることはないのだけれど、ずっと手袋を嵌めつづけていると、不意に右手が直の感触を欲する。手袋に遮られている質感や、温度、物質が発する存在感や重量感などを、直接確かめたくなる。とくに、水の柔らかさや、撫でるように伝う冷たさが気持ちいい。でも、素のままだと、自分に触れられないので、顔を洗うことはできない。十二分に水の感触を堪能してから手袋を嵌め直す。そのまま顔を、ばしゃぱしゃ、と洗った。

 リビングへ戻る。マジックペンを用意する。キャップを外して、努樹の寝顔を覗きこんだ。

 角度的に、左手のほうが使いやすかったので、左手にマジックペンを握って、右手は身体を支えるために、ソファへ添えた。

 けれど、

 結果的に、

 僕が努樹の額にアートすることはなかった。

 右手がソファへ触れようとしたそのとき。

 ――僕の右手は何かを感受した。

 ――そこには無い何かに、僕は触れた。

 それは手袋越しの触感ではなく、今さっき水を感受していたような、直の肌触りだった。

 驚いて手を引っ込める。

 体勢を崩した。

 右手を床について立て直す。

 手袋越しに伝わる床の感触。

 たった今触れた何かは――視えない何かは――手袋を介さなかった。

 もういちど、同じ場所に右手を伸ばす。

 努樹の肩のあたり。ソファの肘かけの付け根だ。

 手を伸ばしながら僕は、明確な気配を、右手に感じた。

 物質の放つ存在感がある。

 それはその、〝視えない何か〟から発せられていた。

 今までに経験したことのない異常事態に僕は、不思議と胸を躍らせる。

 ――このへんだろうか。

 探るように右手を下ろす。

 何もないはずの空間に触れる。

 触れる。触れる。温かい。

 温もりが伝わる。直に。遮られることなく。

 毛並みのような温もり。柔らかさ。艶やかさ。

 そして、

 一定のリズムで刻まれる――拍動。

 

 ――生きている。

 

 これは、生きている。

 〝視えない何か〟を伝うように、右手をまさぐる。形を確かめる。

 猫。

 いや、狐か。

 否、もっと細長い。ならばイタチだろうか。

 毛皮を纏った生物がいる。

 生き物には触れられず、無生物であれば触れることのできる僕の右手が今、視えない生物に触れている。

 僕の特質を大きく否定するような現象だ。

 これは――この透明な獣は――いったいなんだ?

 透明?

 本当にこれは透明なだけなのか?

 僕は左手でも触れてみようと思った。

 ただ単純に透明なだけなら、僕の左手でも触れられるはずだ。そう考えた。

 マジックペンを努樹のうえへ置く。

 左手を右手に沿えるようにした。

 ――触れられなかった。

 左手は虚しく空を掻くだけ。

 そのあいだにも右手は、〝視えざる生き物〟の息遣いまでをも感じとっている。

 ――どういうことだ。

 これは、この右手が触れているものは何なのだ?

 戦々恐々としながらも僕は、右手でその〝なにもの〟かを揉みしだいている。気持ちよいのだ。

 ん、と努樹が寝返りを打つ。それと連動するように、この〝なにもの〟かも小さく身じろいだ。

 火に触れたみたいに右手を引っ込める。

 ――びっくりさせんなよ。

 努樹のうえに載せていたマジックペンが転がった。

 マジックペンは落下する。途中で進路を変えた。宙で何かにぶつかったように。弾けてから。床と衝突する。

 マジックペンを拾いあげ、もう一度努樹のうえへ置き直す。無意識にそうしていた。

 ほとんど放心した状態にちかかった。

 動悸が大きくなっていることに気付く。

 ぼんやりとしていた意識が輪郭を得る。

 僕は落ち着きを取り戻す。

 深呼吸。

 もう一度右手を下ろしてまさぐってみた。

 やはりそこには〝なにもの〟かがあった。

 〝視えない獣〟がいた。

 落ち着いたことで僕は、客観的に自分を見つめなおすことができた。〝これ〟が目に視えないということは、視覚的には、僕が必死になって宙を揉んでいるように映っているはずだ。努樹の眠っているそばで、努樹の胸のよこを揉みしだいている光景というのは中々に変態的だった。

 どんなに揉みしだいてみても、〝視えない獣〟は動じない。死んでいるわけではないということは、右手を通じて伝わってくる息遣いや鼓動、温もりで判る。

 ふと思い至って、僕は右手をそのままに、左手で努樹の鼻をつまんだ。

 一秒。二秒。三秒。まだ努樹は動かない。三秒。四秒。努樹が苦しそうに首を振った。とほぼ同時に、右手のなかの〝それ〟も動いた。

 確信する。

 こいつは――この〝視えない獣〟は――努樹と同調している。

 高鳴る動悸を抑えきれない。

 ――努樹は知っているのだろうか。

 ――害はないのだろうか。

 ――報せるべきか。

 ――べきだろう。

 努樹へ教えるべきだろう。でも、仮にこの〝視えない獣〟が知能を有しているとすれば、そして努樹の思考とも同調していたとすれば――努樹へ報せたことで、この〝視えない獣〟は何らかのアクションを起こしてはしまわないだろうか。暴走しないだろうか。

 右手を〝それ〟から、そっ、と離す。

 いや、と僕は苦笑する。

 ――考えすぎか。

 とりあえず、今はこのまま眠らせておこう。

 努樹も。

 〝それ〟も。

 たとい〝それ〟が努樹へ害をなそうが、なしまいが――努樹と同調している以上、安易な行動は慎んだほうがいいだろう。

 とりあえずは現状維持。

 まずは努樹が〝それ〟の存在を知っているか否かだ。その確認が先決だ。

 これまでの少ない観察で分かったことが二つある。

 一つは、この〝視えない獣〟は努樹と同調しているが、努樹はこの〝視えない獣〟と同調していないということ。〝視えない獣〟をまさぐっても努樹は反応しなかったけれど、努樹の鼻をつまんだ際には、〝視えない獣〟は反応した。一方的なのだ。どちらがどちらに優位なのかはこれだけでは判断つかないのだけれど。

 二つ目は、〝視えない獣〟が、視えないだけでなく、僕の右手同様に、存在自体が曖昧だということ。僕の左手は触れられなかったけれど、落下したマジックペンは明らかにこの〝視えない獣〟にぶつかっていた。

 ――僕と同類の特質を持った〝獣〟。

 すこしこわくて、すこし興奮している僕がいる。

 努樹を起こさないように、もといたソファへ僕は戻った。毛布をかぶって目を閉じる。

 動悸は激しいまま、けれど意識はふわふわしている。

 このまま夢へ旅立つことができそうだ。

 そう、まるで、夢の中で夢を視ているかのような浮遊感だ。 



 ***ゆめうつつ***

「我々の意思など、この世界にはなんの影響も与えてなどおらん。いや、実際は与えておるのだが、その影響など無に等しい。塵も積もれば――などと言うが、積もることでやっと塵の一粒子になるほどの卑小な存在だ。我々の主観など、世界にはなんの影響も及ぼさず、また意味もない」

 声。声。声。

 黒と白と黒と白。

 反転しつづける視界のなかで。

 声が聞こえている。

 私は声を。

 聞いている。

「でも、それでも私たちは世界の一部でしょ? 世界は循環しているって。ヨシジイだって前にそう言ってたじゃない。その循環すべてが世界であり、その循環の一部に介在する私たちもまた、世界の一部――そうだったんじゃないの?」

 私の声。自分の声。

 声。声。声。

 私は私を聴いている。

「ふむ。おまえは随分と我々人類を高く評価しているようだな。だがよいかな、たしかに循環すべてが世界と呼んでも差し支えない。変化こそ時間であるし、変遷こそ、世界が世界として存在するために必要な型であり枷だ。しかし、我々人類などという集合は、そう、例えば――海は蒸発した海水が雲になり雨となり大地に染み込み川となり、そしてふたたび海となる。この循環が小宇宙だとすればだ、我々は雨の一滴にこびり付いた空気中の酸化化合物に過ぎんのだよ。循環する物質にこびり付いている余計なもの。せいぜいがその程度のものなのだ」

「なら、私たちが存在する意味なんてない、とでも言うの?」

「そうは言っておらんよ。儂が言っておるのは、意味というその『意味』が、不確定なものだということだ。そもそも我々の呼ぶ『意味』などというのは、総じて、我々が現象に対して勝手に付加しているものだ。解釈に過ぎないのだよ。だからこそ人によって異なるし、重要度も違ってくる。『良いこと』とは即ち『自分にとって都合の良いこと』なのだ。我々が付加している意味とはそういった極めて主観的な観念なのだよ。だが一方では、たしかに世界には意味が存在する。真理は存在するのだ」

「それって、つまり……神が存在するってこと?」

「おまえの言うところの神がどんなものかを儂は知らぬが、この大いなる循環によって統一的に生み出されている意思は存在するだろう。我々の脳内は微量ながらも変則的に刻々と変移しつづけ、その変移すべてが『個』という意思を生みだしている。つまり、それは儂であり、おまえであるわけだ。そして、脳内だけでなく、この世界そのものが、一つの自我を生みだしている可能性もあるわけだ」

「……ふうん」と私の声が間抜けな相槌を打っている。

「ここで多少脱線するがね、唯物論などの反論には度々、『人間を超有機機械とするならば我々とロボットとのあいだに区別など存在しなくなる』といった点で的外れな指摘がある。しかしこれは『複雑系』によって容易に回避される。たとえまったく同等の機構の有機ロボットを造り上げたとしても、それは超精密であるがゆえに、些細な変化によってそのロボットが導き出す答え、というのは大きく異なる。それが言わば我々にとっての自我なのだろう」

「ごめんヨシジイ。知識が足りないからなのかな、良く解らなかった。でも、唯物論ってのはつまり、えっと……『人間は魂などで動いているのではなくて、臓器や脳とか、そういった機械的な部品の集合体だ』ということ?」

「そうだな。いや、厳密には違うのだが、そう考えてもこの場合は差支えなかろう。多少修正するならば、我々の自我を生みだしているのは結局のところ脳みそという部品によってのみであり、ほかの部品は脳の稼働を維持するために必要な補助部だということだ」

「それって現在、一般的に常識とされている考え方でしょ?」

「常識――とな? しかし、それでも多くの者は魂の存在も同時に信じておるぞ」

「そう? 幽霊なんていないと思ってるけど私は」

「それでもおまえは死者を弔い、墓に花を添えるであろう? あれは死者がどこかでまだ生きている、とそう思っての行動ではないのか?」

「それに関して言えば、そうかも。ああ待って。でもね、そう思っている人もいるかとは思うけど――私なんかの場合はちがうかな」

「どう違うのだ?」

「えっとね――私にとって故人を悼むっていうのは、死者の生前の記憶を思いだすための機会、それと、故人が生きていたころに抱いていた感謝の意を表現する手段――それが死者を悼む目的なの。死んだ者へはどうやったって感謝は伝えられないでしょ? そうすると感謝はいつまで経っても、私が死ぬまで、私の内に仕舞いこまれたままになっちゃう。ううん、感謝だけではないかも。その亡くなった人との思い出すべてが、死者と共に無くなってしまって、私の内へ曖昧に掠れていきながら仕舞いこまれてしまうの。だからこそ人は墓を建てて、そのひとが存在した証を目にできる形で残すんじゃないのかな? そうすることで、『無くなった者』は『亡くなった者』へと変わるんだよ。『個人』は『故人』へと受け継がれるんだよきっと」

「ほお」

「思うんだけどね、死ぬことと消滅することってちがうと思んだ。覚えていてくれるひとがいる限り、『死』はあまねく自我の停滞なんだ、とかそう思ったりする。私は、だけど」

「言葉が足りないようだが――まあ、概ねおまえの言いたいことは解した。だがおまえは自分の行動原理をそのように分析しているが、多くの者はそんなことを考えていないし、考えていたとしてもおまえと同様の分析結果ではないだろう。むしろ墓を造る多くの者はやはり、死者の鎮魂という名目で弔っているのではないかな? いや、これは主題とは大きく外れた余談であったな――では話を戻そう」

「うん」

「我々の成すことに意味はないが、世界には意味がある。そして、我々はその意味を探し求めることができる。その探し求めているものこそが、真理だ」

「本当にあるの? 真理なんてもの? この世に?」

「ある」

「なんで断言できるの。さっきヨシジイは、『意味とはあまねく相対的だ』って言ってたじゃん。だったら、真理だって相対的なもの――つまりさ、『真理もあまねく曖昧なもの』なんじゃないの?」

「ふむ。たとえば、おまえのその主張が正しかったとしよう。ならば、それは真理ではないのか?」

「え? ああ、なるほど」私の声は驚きに弾んだ。「――『全ては曖昧であり、相対的である』という主張が真理かどうか――そういうことでしょ? でもさ、これは飽くまでも人類に限定された理屈だもん。人類がいてこそ、初めて真理になり得る理屈だよ。限定条件の定められた真理なんて、真理ではないでしょ? 私はそう思うけど」

「うむ。その通りだ」

「だったら、やっぱり、本当の意味での真理って、存在しないよね?」

「否。存在するのだよ」

「ええぇ……」と不服そうな私。「じゃあ、それってどんなもの? 教えてみせてよ」

「ここで儂がおまえに真理を具体的に示すことはできない。先人や偉人たちが――否、人類が追い求めてきた究極の問いを、儂ごときが答えられるわけもなかろうに」

「だったら」と慇懃な口調で、「ならなぜ真理があると断言できるんですか?」と私の声がひびく。

「そう、儂は真理がどんなものなのかを説明することはできないが、しかし、真理が存在するということは証明してみせることができよう」

「ふうん。なら教えて」

「その前に、おまえは『自己言及のパラドクス』というものを知っておるかね」

「うん? 嘘つきのパラドックスのこと?」

 如何にも、としわがれた声は頷いた。

 ああ、これはジイさまだ。

 ヨシジイとの会話なのだ。

 私は耳を澄ます。懐かしく思う。

 私の声が得意げにひびく。

「――嘘つき者が、『私は嘘つきだ』と口にした場合に、その発言が真か偽かという謎かけ――これって思うんだけど、ウソっていうのは、真実に偽りが混じっているからこそ厄介なんであって、こういった論理クイズの場合に用いられる嘘つき者っていうのは、私にとっては捻くれた正直者にしか思えないんだよね。むしろ病的なほどの正直者だよ。だいいち、彼らが口にする言葉は、偽りじゃなくて、真実を反転させただけの言葉だもん。真逆のことしか言わないのなら、それは正直者と変わらないでしょ? もしも、真実を絶対に言わないだけの者だとしてもさ、この、『私は嘘つきだ』という言葉は、決して矛盾した発言にはならないんじゃないかな? その人は、嘘を吐いているのではなく、真実を言わないだけなんだから」

「詭弁ではあるが、中々に言い得て妙な考察だ。しかし今は、嘘つきのパラドクスについてではなく、自己言及のパラドクスについてだ」

「ああそっか。すみません」

「いや、謝るには及ばない。おまえがそこまで知っていると分かっただけ、話しやすくなった。とりあえず、自己言及のパラドクスについての前置きはいらぬな」

「はい」

「ではな、例えば、『どんな法則にも必ず例外が存在する』というこの法則。これは、真理の存在を否定してはいるが、このテキストそのものは、真理の存在を肯定している――ということは解るかね」

「えっと待ってね…………ああ、なるほど。うん、解るよ」

 うむ、とジイさまは唸った。

 それだけで、説明してみせよ、と促しているのだと知れる。

 私の声がとおる。

「『どんな法則にも必ず例外』が存在するのなら、この法則自体にも例外が存在するということになってしまう。つまり真理が存在することを示唆している。そしてまた仮に、真理が存在せずに、この法則の通り、『どんな法則にも必ず例外が存在していた』場合、この法則自体が真理になる――どちらに転んでも、真理が存在することになっちゃうね。おお、これ、すごい!」

「うむ。正解だ。双方、同時に両立させようとすればたしかに矛盾することになるが、場合分けしてしまえば、これはパラドクスではなく、真理の存在を肯定するテキストになる」

 言葉遊びだ、と耳を欹てているだけの私は思った。「肯定」されることと「証明」されることのあいだには、天と地ほどの差がある。

 けれど私の声は感激したように、「すごいです」とはしゃいでいる。

 幼いな、と私はその声の私をそう思った。事実、幼い私なのだから。

 また、とジイさまの声がひびく。

「また、『絶対という事象は存在しない』や、『真理は存在しない』なども、同様にして真理の存在を肯定しておる。ゆえに、この世のどこかに真理は存在する」

「待って。真理の定義って――なに?」

「真理とは、限定されることのない、どんな矛盾をも許容し得る、完璧な存在だ」

「完璧な存在」と私の声が復誦する。私もまた内心で呟いた。「……完璧な存在」

「限定されるというのは不自由だということだ。不自由だということは、安定しているということだ。ひるがえっては、自由は不安定だということであり、不安定だということは、縛られていないということになる。けれど、真理は、限定されていながらに自由で、自由でありながら確固としている。そんな矛盾をも許容し得る、完璧な存在なのだ。正と負、陰と陽、生と死、それら両方を兼ね備えた存在。それこそが真理だ。森羅万象の根源。世界の根源。全てに通ずる法則。それこそが、真理だ」

「それがつまり、《アークティクス》?」

「いや。《アークティクス》という世界は、全てを包括している存在ではあるが、《アークティクス》それ自体は真理ではない。真理とは、法則であり、現象ではないからだ」

「でも――だったら、さっきの話じゃないけど、それって観測者がいるから生まれる、あやふやな理屈じゃないの? 人間がいるからこそ、現象は法則として捉えられるわけだし。だから私たち人間がいるからこそ真理は存在するってことにならない?」

「そう、その通り。それこそが人間原理だ。人間がいるからこそ、意味も、理も、生じる。ならば、我々こそが意味であり、理だとは思わぬかね?」

「私たちこそが意味……」私の声と私の独白が重なる。

「そうだとも」ジイさまは強調する。「人類がいてもおらずとも、宇宙は存在するだろう。しかし、人類がいなくては、宇宙には『宇宙』という名前も、意味も付加されることはない。ならば、『宇宙』を創り出しているのは、やはり我々だということになる」

「物理的にではなく、概念的な創造―――ってこと?」

「わける必要はない。この世に真理があるのだとすれば、物理的も、概念的も、どちらも根本では繋がっておるはずだ。ならば、我々がいるからこそ、宇宙は『宇宙』としての形を得ている、と言ってもよかろう」

「そうかなぁ?」と私の声が反駁している。

 それを聞いて私は懐かしく思う。

 納得できないことは妥協したくない――むかしから私は、そんな生意気な子どもだった。

 ジイさまは、または、と言って補足した。

「我々以外の観測者がおる可能性だってある。その者こそが、真理を生みだす者なのかもしれない。それこそ、最初に述べたように、この世界の変遷が、巨大な『個』を生みだしておるやもしれぬのだ」

「でも、それって……ずいぶんちがくない? 【Wバブル理論】の解釈と」

「……そうだな。おまえがもう幾ばくか大きくなって、分別が付くようになったらそうさな。話してもよかろうとは思うが」

 ――今はまだ早い。

 とジイさまは言った。

 時期尚早だとおっしゃった。

 ――ジイさまの馬鹿。

 あとの祭りだったじゃないか。

 このときに言ってくれてさえすれば私は、私は、私は、私は…………。

 どこまでいっても結局、私なのか。むなしいよ。さもしいよ。

 ――あさましい。

 白と黒と白と黒。

 反転の間際。

 その狭間へと。

 掠れて、消えて、落ちていく。

 夢の狭間へ落ちていく。

 夢と現のあいだには、一体なにがあるのだろう。

 手を伸ばす。いじる。にぎる。

 何かをにぎる。

 瞼をひらく。

 瞳がしぼむ。

 私は、目を覚ます。

 掠れた視界。

 消えた夢。

 落ちていく毛布。

 上半身を起こしている私は飛び起きるように、悪夢を視ていたかのように、跳ね起きて。

 汗を拭う。

 額の汗を。

 透明な汗を。

 深呼吸し、部屋を見渡す。

 溜息を吐く。

 安堵の溜息を。

 向かいのソファでコロセが眠っている。

 手を見遣る。

 私はマジックペンを握っていた。

「なんだこれ?」

 私は小さく、噴き出した。



 ****コロセ***

 コヨリは言った。果実のような唇を、ちいさく動かしながら、

「三猿(さんえん)円(・まどか)という作家をご存じですか?」

「ううん」僕は首を振る。「ごめん。本、あんまり読まないんだ」

「そうですか」と残念そうにコヨリは言った。

「あ。でも興味あるかも。その作家さんがどうしたの?」会話を続けたい僕は、必死さを隠しきれないままで訊いた。

「その作家さんの短編集があるんです。そのなかに、『ムジカの苦』というお話しがあるんです。二ページくらいの、とても短いお話です。童話みたいな、そんなお話」

「それがどうしたの?」

 その「お話」を読んでいないにも拘わらず僕は、あやうく、「おもしろいよね、あれ」と答えてしまいそうだった。コヨリが好きな話なら、僕だって好きなはずだ。いや、きっと僕は好きになる。意地でもきっと好きになる。

 どうして僕はこれまで読書をしてこなかったんだ。こんなにひまなら、いくらだって読めただろうに。今すぐにでもコヨリの口にした作家の小説を読み漁りたくなった。というか、帰ったらすぐにそうしようと思った。

「どんな話なの?」と尋ねてみるとコヨリは両足を揺さぶりながら、「そのお話ってね」と説明してくれた。

 

   ***

    SS『ムジカの苦』SS

        著:  三猿 円

 先日、先生が亡くなった。

 ぼくにとって唯一の家族、といまになってぼくは先生のことをそう想うのだ。あまりに遅い自覚だった。

 先生の死と時を同じくして、ぼくの村には恐ろしくも醜い化け物が出るようになった――らしい。

 だからぼくは最近、決まった時刻にはきちんと家に帰って、恐ろしくも醜い化け物と遭わないように気を付けていた。

 この世のどこかには、『化け物』という存在がいることを、ぼくは先生の残していった書物を読んで知っていた。まさか村の近くに潜んでいただなんて、寡聞にして知らなかった。

 このあいだ、ぼくが村の中心へと足を運んでいた時のことだ。

 村の中心にある広場では祭りをやっていた。村のみんなはとても楽しそうだった。

 と急に、警戒を示す鐘が鳴り響いた。村に建っている櫓からだ。

 どうやら化け物が村を襲いにきたらしい。

「ムジカがきたぞお」

「女たちは子どもを守れ! 急いで家のなかへ避難しろ!」

「男どもは武器をとれ、村のみんなを守るんだ!」

 村のみんなは格好良かった。

 だけれどぼくはまだ子どもで、武器は持っていないし、やっぱりちょっと、こわかったりするのだ、そのムジカという化け物が。だから今日のところは大人しく家に戻って、ぼくも隠れることにした。

 ぼく、村のみんなのことが大好きだから。

 化け物なんて早く殺して、みんな円満、笑顔で暮らせたらいいな、とぼくは願った。


 それからというもの、その時間帯はやっぱりちょっぴりこわいから、ぼくは極力外へは出ないようにしていた。

 化け物が出ないはずの時間帯にぼくが村を見回ると、家という家の窓はすべて厳重に閉じられていて、村は見事なまでに閑散としていた。

 ――化け物がこわいから、きっとしばらくのあいだ、閉じ籠ることになったんだな。

 そう思ってぼくも、なるべく家に閉じ籠るようにした。

 でも、すこしくらいはいいだろうと思って、毎日散歩をした。

 数日のあいだは、しずかだなぁ、くらいに思っていたのだけれど、流石に一週間もつづくと、ぼくは途端に心配になってきた。

 ――みんなは無事なのかな?

 ――家のなかで、だれかの助けを待っているんじゃないのかな?

 ぼくは思いきって、家という家の扉をこじ開けた。

 みんなの無事を確かめたかったのだ。

 みんなは、震えながらも無事だった。

 怯えながらも、無事だった。

 刹那――。

 一発の銃声が耳に届く。

 鼓膜へ、身体へ、伝播する。

 もう一発。

 遅れて銃声が轟いた。

 二発目は、祝砲のような。

 歓喜の混ざった音だった。

 ぼくはなぜか急に重たくなった身体を支えきれずに倒れながら。

 家々から飛び出してくる笑顔のみんなを視界にいれて。

 赤く染まる地面へとしずかに。

 おちていく。


 ――先生。

 みんなの笑顔が。

 ぼくはとても、うれしいです。

    ***

 

 コヨリとの会話の一断片。

 僕のまえから姿を消したコヨリ。

 コヨリはいない。だからこれもきっと僕の夢。

 コヨリとのあの長閑な日々を懐古することで僕は、自分を慰めようとしていたのだ。

 あの日から僕は、コヨリから教えてもらった作家の小説を読み漁った。僕は案外に感化されやすい性格のようで、すぐに口調だとか、思考だとかが、その作家の小説に出てくる主人公たちみたいになってしまう。そのことで随分とコヨリに笑われてしまった。でも、コヨリが笑ってくれるのなら僕は、なんにだってなれる。なんにだってなってみせる。

 どうせこれも夢のなかなのだもの。これくらいの虚勢を張ったって、責められることはないだろう。

 夢のなかでくらい、僕は自分に正直でいたい。

『ムジカの苦』という物語を僕は、コヨリとの会話のすぐあとに、バイタルで検索して読んだ。クリアフィルム型のディスプレイにダウンロードして、「三猿円」という作家の小説をたくさん蒐集した。その作家の小説はどれも、なんだかクライ話に僕には感じられた。

『ムジカの苦』についてコヨリは、「とても幸せなお話なの」と嬉々として説明してくれていたのに、僕はまったく逆の感想を抱いた。

 哀しい話だな、と感じていた。

 あのときコヨリは、遠くを見つめながらこう言った。

「誰もが化け物を飼っています。人は誰しも、です。でもねコロちゃん――もしかしたら、化け物が人を飼っているだけかもしれません。それに無自覚であるのは、とても幸せなことだと思います。化け物を飼っているかもしれないことも、人を飼っているかもしれないことも、そのことに無自覚であるというのは、とても幸せなの。私、そう思います」

 コロちゃんはどう思いますか、とコヨリが僕を見上げてきた。顔を斜めにして。覗き込むように。

「かわいいと思うよ」僕は答えた。「どんなふうにコヨリが思っていても、僕はそのままのコヨリを受け入れる。ただそれだけだから」

 僕にできることも、僕がすべきことも、それだけしかないのだから。

 と恥ずかしげもなく僕は言う。

「なんですか、それ」

 クサすぎです、とコヨリは最近覚えたらしい『皮肉』で僕を詰った。「身体だけでなく、きちんと中身も磨いてください」

 あのさ、と僕は苦笑して、

「誰からそういう嫌味な言い方をを習ってくるの? 僕はそいつが嫌いだな」

 きっと仲良くできそうもないや、と若干の嫉妬を籠めて言った。

「コロちゃんからですよ」

 なんと僕だった。

「なら僕は僕が嫌いだ」

「あまり嫌わないであげてください」

 私のたいせつなひとなんです、とコヨリはしごく真面目に僕を叱った。「つぎにわるく言うようでしたら、許しません。いくらコロちゃんでも」

 叱られたと気付いて僕はしょげた。

 でも、よくよく思考を巡らせてみると、なんだかとっても胸の奥がくすぐったい。

 遠回しにコヨリは僕を、大切な人だ、と言ってくれていたのだ。

 僕はうれしさのあまり舞い上がる。

「そんなにおもしろかったですか? 私の冗句」コヨリは笑った。

 僕は泣いた。

 なんだよ、そんなのってない。

 ぬか悦びもここまでくれば、人を殺しかねない。でも安心だ。これは夢なのだから。僕がかってに見ている夢なのだから。過去ではなく記憶であり、記憶でありながらも夢なのだから。

 でもどうだろう。これは果たして夢なのか。

 解らない。

 これが僕の視ている夢なのかすらも、僕には解らない。

 コヨリが真実に存在したかただって解らない

 哀しい。そんなのって哀しすぎる。

 コヨリがいなかったとしたら――だって?

 僕は孤独のあまりに幻覚を視ていただけなのだろうか。

 ならこのアークティクス・サイドも夢――?

 マスターやバケツ娘や。

 七人の惨殺体や。

 弥寺さんや。

 ラバーや。

 ミタケンさんや。

 僕の姉は――?

 ノドカは――?

 城門努樹は――?

 僕の大切なひとたち。

 僕を僕として支えてくれたひとたちも。

 みんながみんな、僕の夢だっていうの――?

 厭だ。嫌だ。否だ。

 イヤダ。いやダ。イヤだ。いやだ。

 そんなの絶対に。

 ――いやだ。

 それこそ孤独だ。孤立だ。弧絶じゃないか。

 ――独り。

 僕だけが存在しているだなんて。

 僕だけが視ているだなんて。

 僕だけの世界だなんて。

 くす――と小さく笑い声が聞こえた。

 誰だ、笑うのは。

 いや、誰だろう、笑ってくれたのは。

 だれだろう、そこにいてくれるのは。

 僕の側に寄り添ってくれているのは。

 ――だれ。

 僕は目覚める。

 瞼を持ちあげる。

「おはよう。お寝坊さん」

 オデコがこそばゆい。

「努樹……?」

「なんだ、寝惚けてんのか?」マジックペンにキャップをかぶせながら努樹は、「安心しろよ。私は私だ」と上機嫌に僕の頬っぺたをつねった。

 ――こちょばゆい。

「おふぁよう」と僕は努樹の頬をつねり返す。


 ***カエデ***

 日差しが眩しい。

 ベンチには気配が強く残留している。

 風は冷たい。

 秋も冬も、

 冷たいという、

 ただその一点のみで、

 同一だと言ってよいだろう。

 そこにある差異は、紅葉のあるなしでも、雪のあるなしでも、ない。

 生きようとする意志を抱く生物たちに、余裕があるか、ないか、といった死への距離の違い。それだけだ。

 おや。

 どうしたんだろうボクは……?

 カエデは両手で顔をこすり、雑念を振り払う。

 ――こんなクサい思索、ボクらしくない。

 気配に混じって、なにか変な、どんよりとした、陰湿な気配が……しないでもない。

 まあ気のせいだろう、とカエデは遠くを見詰める。

 山脈然とした壁。空じみた壁。

 見えてはいるけれど、視えてはいない。

 人に視えているものなんて、世界を構成している成分の、ほんの片鱗でしかない。

 視えていないもののほうが圧倒的に多いというのに、人は目に見える世界を、世界のすべてだと信じて疑わない。

 でも、それは賢明なのだろう――とカエデは思う。

 確かめようもないことを疑っていてはキリがないし、それはいつまで経っても疑問の域を出ることはない。

 疑問は疑問、問題には昇華しないし、問題にならぬなら、解決もみせない。ゆえに、答えがない。

 答えがないのなら、考えても無駄だ。

 考えても考えなくとも、悩んでも悩まなくとも、結果は同じならば考えなくてもよいはずだ。

 ただし、その過程で、何かが副産物的に生じるかもしれない。人はその副産物を得て、満足する。

 当初の目的が失われ、目のまえの利益へと走る。

 人間の性質とは、所詮この程度の、浅はかなものなのだろう。

 おやおや。

 どうしたのだろうボクは……?

 またもやカエデは頭を悩ます。

 ――こんなお寒い考察、ボクらしくない。

 勢いよく鼻から息をもらす。

 熱くなった幼稚な思考を冷却する。

 風は冷たい。

 ここはしずかだ。

 ――長閑なものだな。

 見上げると、葉を落とした広葉樹が寒々とした枝を伸ばしている。

 足元へ視線を向けると網目状のほそい影が浮かんでいた。

 何かの影をこうしてまじまじと観察することなど、本当に久しぶりだ。

 時間がないというのに、ボクはどうしてこんなにものんびりと構えているのだろう。余裕もないというのに、どうして。

 ――ここは不思議な場所だ。

 このベンチは気持ちが落ち着く。まるで、何年もここで過ごしていたような、こここそがボクの居場所であるかのような。

 なんだろう、この気持ち。

 カエデは和んだ気持ちを引き締める。

 

 気配はここで途絶えていた。

 というよりも、ここに滞っている気配が強すぎて、ほかの場所にもあるであろう気配を辿れなくなった。

 なす術なし。

 あと少ししたら方針を変更しよう――と思い至ってから、数時間もずっとこうしてベンチに座っている。

 移動できない。したくない。動きたくない。離れたくない。

 死活問題を抱えているというのに、この体たらくはなんだ――?

 カエデは笑えないこの状況を、案外に楽しんでいる自分に気付き、憤懣を抱く。しかしその憤懣こそが滑稽であり、ますます陽気な気持ちになる。

 はぁ~あ。

 思わず間抜けな声を出す。

 誰もいない空のした、こんなにも人は無防備になるものなのだな。

 カエデは感慨に浸る。思索に耽る。

 行動に移さなくては何もかもが無意味だというのに、こうして考えてしまう。

 思考は巡る。意思とは関係なく。淀みなく、果てもなく、出口のない迷路のごとく、反転しつづけるメビウスの輪のごとく。巡る巡る、ぐるぐると。死ぬまでずっと、死んでからもきっと。

 ボクは、とカエデは笑みを引く。

 ――生きてなどいないのに。

 風は冷たい。

 静けさを引き連れて。

 形と時間と迷夢を。

 カエデへと運ぶ。

 どこまでも運ぶ、どこまでも。

 いつまでも流れは止まらない。



 ***コロセ***

 鏡ごしに、ひたいを窺う。そこにはもう、城門努樹作アート、『第三の目』は描かれていない。けれどもいちおう念のため、もういちど水で濯いでから、タオルで顔を拭った。

 朝食を食べ終わってから努樹は、「そろそろ戻るな」と身支度を整え出した。

 朝食はなんと、そう、なんとも驚くことに、努樹が用意してくれていた。

 バターを塗ったトーストにハチミツを垂らしたものだが、となりにはまっ黒焦げの目玉焼きが載っている。

「食いたくなけりゃ残せばいい」努樹はふて腐れたように言い、それをこちらに出してきた。

 のこすわけがない。

 早速、「いただきます」と手をあわせる。

 そのあいだ努樹は、テーブルに頬杖を付いていた。僕の向かいに座っている。「努樹は食べないの」と尋ねると、「もう食べた」と素っ気なく返された。

 待っていてくれてもいいものを、とすこし残念に思う。

「起こしてくれれば良かったのに」と愚痴る。「努樹が食べるときに、起こしてくれれば一緒に食べられたのに」

「私だってそうしたかったんだ」努樹はとても不機嫌そうに、「なのになんだここのキッチンは。どうしてオーブンに時間設定だとか、温度設定なんてあるんだよ。普通はさ、入れたら一瞬で焼きあがるだろ。しかも自動的にさ。適度に焼きあげてくれるのに」

「失敗したの?」素朴に尋ねると努樹は、「してない」とむっとした。

 ……失敗したんだ。

 この話題には触れないほうがいいな、と思って僕は食事に専念した。

 と言っても、ハニートーストと目玉焼きだけなのだけれど。

 まあ、うん。

 食べごたえは充分だ。

 欠伸などをわざとらしく挟みつつ努樹は、食事をしている僕をちらちらと窺ってくる。

 僕はあっという間に平らげてみせた。

「はあ。おいしかった」と自然に言えた。「ごちそうさま」

「うん」控えめに努樹は頷いた。

 表情に変化はなかったけれど、口元がむずむずと動いていたのを僕は見逃さなかった。でも、からかうのはやめにする。こういった我慢ができることこそが僕へ優越感を齎すのだから。

「じゃあな」と努樹は立ち上がった。「また来るから」

「うん待ってる」僕が応答すると、「やめろよ、気色わるい」と努樹は甘酸っぱそうな顔をした。

 玄関先まで見送りに付いていく。なんだか新妻になった気分でおかしかった。

 陽気な気分だった。いわゆる、ご機嫌というやつだ。

 一瞬、コヨリの笑顔が脳裡をよぎった。

 続いてノドカの笑顔がよぎる。

「あのなコロセ」と努樹が玄関の扉に手をかけたまま口にした。「ノドカさんのことなんだけど」

「ああ……うん」

 そうだよな、努樹にも説明するべきだよな、と僕は耳たぶをいじった。ピアスに触れる。

「私は信じられないんだよ」と努樹は語気を鎮めたままで捻りだすように言った。こちらに背を向けたままだった。

「そうだね。あのチャランポランのノドカがね」と明るい口調を意識した。「殺しても死ななそうだったのに」

「うん。あ、いや――そういうことじゃなくて」

 帽子を整えながら努樹は、「あのノドカさんが――って言っても、コロセは知らないかもしれないけど、ノドカさんてな、ラバーのなかでも指折りだったんだよ」滅茶苦茶強かったんだ、と声を張った。

「うん。知ってる」

 ノドカの同僚、イルカさんとウブカタさんからそういった話は聞いていた。模糊としてしか覚えていなけれど、ノドカは一目を置くに値する立派なアークティクス・ラバーだった、と言っていた。

「そのノドカさんがだぞ、殺されたなんて私にはどうしても信じられないんだ」

 苦しそうに努樹は声をわななかせる。

「でも、殺したのはノドカの上司だったらしいよね」僕はミタケンさんから聞いた話は伏せたままで、一般的に出回っている事実に話を合わせた。「犯人がノドカよりも強かった。それだけだよ」

「だとしてもだ」努樹は語気を荒らげた。「だとしても、どうしてミタケンって奴は逃げられたんだよ。あのノドカさんが相手で、無傷なはずはないだろうに」

「あのさ努樹……なにが言いたいの?」

 胸が苦しい。

 この話題はもう、やめてほしかった。

 聞きたくなかった。

 ――ノドカの死。

 妄念として思うのと、言葉として聴くのとでは、こんなにも違うものなのか。真実と現実くらいに差がある。

 ミタケンさんから聴き、努樹からも聴かされる。

 辛い。

 他人の言葉を介すことで、やはりノドカは死んでいるのだと突きつけられる。僕の世界だけの話ではなく。錯覚ではなく。誤解でもなく。現実としてノドカは死んでいるのだと。

 重い。重い。重い。潰れてしまう。僕は、潰れてしまうよ。

「なにが言いたいの?」もういちど問う。

 せっかくご機嫌だったのに、気持ちがよかったはずなのに。

「ごめん」努樹は謝った。「ホント、なに言ってんだろうな。ごめん。よく分かんないんだよ私にも。でもな、言わせてくれ」努樹は捻りだすように、「ノドカさん……多分、すごく卑怯な手で殺されたんだ。そうじゃなければ、ノドカさん、殺されたりなんかしない。簡単に殺されたりなんて……。ノドカさんを殺せる保持者なんて、ここには弥寺さんくらいしか――弥寺さんくらいしか、いないはずだったんだ」

 でも、弥寺さんが殺したわけではない。僕はそれを知っている。弥寺さんからノドカの死を告げられたとき――漠然とながらもそれは解った。僕には理解できた。

 ――このひとは、ノドカを殺していない。

 弥寺さんがノドカを殺すならきっと、僕の目のまえで殺す。

 そういう男なのだ――と僕は知っていた。あのとき、なぜか僕は、知っていた。

「でも、ノドカは死んだ。殺された」僕は努樹の背へ、そっと投げかけた。「それだけだよ。ノドカはもういない。もう二度と逢うことはない。逢えないんだ。それだけだよ」

「そうじゃない! そうじゃないんだッてコロセ」

 努樹がなにを言いたいのか解らなかった。どうしてこんな話をするのかも。いや、それは分かる。努樹は努樹で、ノドカの死を悼んでくれていたのだろう。ノドカの死を受け入れようとしていたのだろう。これまで独りで。僕と同じように、独りで。

 ああ違う。

 僕はノドカの死を悼んでなんかいない。

 僕は逃げていた。背けていた。悼まないように。痛まないように。自分が傷まないように。

「ありがとう努樹。でも、もういいんだ。ノドカは死んだ。それだけが肝心なんだ。事故で死のうが、病気で死のうが、寿命で死のうが、殺されようが、変わらない」

 ――人は死んだらお終いだよ。

 ――そこで終わりなんだ。

 と僕は言い聞かせる。

 努樹へ。僕自身へ。諭すように。

「私が言いたいことはなコロセ」努樹は目を拭った。「私が言いたかったことはな」

 俯いている努樹が。

 床へ声を落とすみたいに。

 涙も床へこぼれ落ちている。

 ぽつり。ぽつりと。

 ぽたり。ぽたりと。

 透明な血液のように。

 感情の血液みたいに。

 滴り落ちている涙。

 澄んだ涙。

 努樹が泣いている。

 ああそうか。

 ノドカのために、泣いているんだね。

 泣いてくれるんだね。

 やさしいね。

 努樹はいつだってやさしいね。

 ――僕はうれしい。

 僕の大切なひとのために、

 僕の大切なひとが泣いてくれている。

 努樹は涙と共に言葉をこぼす。ぽつり、ぽつりと溢れだすように。

「ノドカさんは、負傷していた。万全じゃなかった。それだって、ノドカさんなら、あのノドカさんなら、殺されるようなことはないんだ……。絶対にないんだ。だから、きっと、ノドカさんを殺した野郎は」

 ――ノドカさんを嵌めやがったんだ。

 悔しそうに、恨めしそうに、努樹は呻いた。

 ごめん、ごめん、と繰り返して努樹は、「なにを言ってんだろうな私、意味わかんない。こんなこと言ってもな、コロセ困らすだけなのに」

 ごめん、ごめん、と繰り返しつぶやく。

「きっとそいつは、にこにこ顔で近寄って、ノドカさんに近寄って――ノドカさんは優しいから、そうやってノドカさんから信頼をもらっておきながら、友達になっておきながら――なのにそいつは、その野郎は、そのノドカさんの心を踏みにじって……。だから、ノドカさんはただ死んだんじゃないんだよコロセ」

 ――ただ殺されたわけじゃないんだよ。

 叫びながら努樹は振り返る。

 涙が飛んだ。

 努樹の涙が。

 遠心されて。

 求心されて。

 僕の頬に付着。

 僕の涙と交わる。

 交わる視線。

 泣いている。

 努樹は泣いている。

 泣いている。

 僕も泣いている。

「努樹……」僕はつぶやく。

 言葉がつづかない。

 もういいんだよ。

 もういいんだよ、努樹。

 判ったから。

 もう、解ったから。

 努樹の言いたいことは、全部。

 もう解ったから。

 もういいよ。

 やめてよ。

 僕を潰さないで。

 僕を毀さないで。

 これ以上、僕を。

 かなしませないで。

 きずつけないでよ。

 努樹、キミがそんなに、苦しそうな顔をするなんて。

 辛そうな顔をしているなんて、僕にはとても耐えられない。

 僕のために笑ってよ。僕のために笑っていてよ。

「ノドカを殺したやつが誰かなんて――関係ないんだよ」

 僕は努樹を抱き寄せた。

「ありがとう。でもいいんだ」

 震えている。僕も努樹も、震えている。

「ノドカは死んで。たぶん、ノドカを殺したやつは生きている。でも、いいんだよ」

 ――それでいいんだ。

 努樹は溜まっていた感情を涙に変えている。変えつづけている。

「今ここに、努樹がいて」

 震えを抑え込むように肩を抱き寄せる。

「今ここに、僕がいる」

 震えを共有するように頭を抱え込む。

「それで、いいんだ」

 ――僕はそれがいいんだよ、努樹。

 だって。

 いつまで経っても僕は。

 自分よがりで、我が儘なのだから。

 

   ******

 努樹が帰ってから、コヨリのことを考えた。

 もしもここに彼女がいてくれたら、と考えた。

 コヨリは僕を慰めてくれるだろうか。彼女は僕を元気づけてくれるだろうか。

 もちろん――くれるのだろう。

 コヨリが笑っていてくれさえすれば僕は、元気になる。それだけで僕は、微笑むことができる。

 コヨリの笑顔がたとえ仮面だったとしても。

 僕が彼女を笑わせていたのだとしても――無理に笑わせていただけだとしても僕は、それだけで元気になれる。

 コヨリの笑顔を見たかった。

 無責任で、勝手な望み。

 ひどく我が儘な願いなのだろう。

 表層に浮かぶ記号としての笑顔を求めているわけではないのだけれど。

 コヨリがどこまで本心から微笑んでくれているのかも分からないのだけれど。

 分からないからこそ僕は、コヨリの笑顔だけを頼りに、彼女の機嫌を汲み取って、彼女の苦悩を感じ取って、彼女の幸せを望むことしかできないのだろう。

 結局、変わっているのは自分なのだろう。

 間違っているのは僕なのだろう。

 いつも、いつでも、いつまでも僕は間違っている。それでも僕は、その間違いを、間違いだと知っていても、選択しつづけなくてはならない。

 ――間違いつづけなくてはならない。

 どの間違いを手にするかを選ばなくてはならないのだろう。

 いつだって、どこまでも、僕の選択肢に、答えなんてありはしない。

 選んだそれを納得するか、しないか――その程度の努力と覚悟を抱けるかどうか。工夫と装飾で、正しさへと加工するしかない。「正しい」というラベルを張り付けるしかない。偽装するしかない。

 ――そうすることしかできない。

 僕はなに一つとして、答えを、知らないのだから。

 知らないということを、知っているのだから。

 ただそれだけなのだから。

 ああ、今の僕、すごくニヒルだ。

 でも、これでいい。これがいい。こうすることで僕は、傷つかないし、痛まない。

 けれどこれも、結局は偽装に過ぎない。

 傷つかない、痛まない、とそう思い込んでいるだけで、痛みを麻痺させているだけのことで。遮断しているだけ。鈍くしているだけ。僕はたぶん、いまもなお、どこかが傷つき、その傷を癒そうとしている。

 そうして人は成長する。自己を形成する。

 肉体という器と――。

 自我という器と――。

 傷つこうとする意思と、癒されようとする意思と。この二つがあって初めて、人は成長するものなのだろう。

 それとも、

 傷ついても良しとする覚悟と、癒してあげようとする看護。この二つがあって初めて、人は人として成長するのだろうか。

「痛みを拒むのが獣ならば、死を畏れるのが人である」と吉田のジイさまは教えてくれた。

 他人の死も、自分の死も、同じように扱って、畏れることのできるものが「人」なのだと、そうおっしゃった。

 でも僕はきっと、自分の死を畏れてはいない。忌んではいるけれど、畏れてはいない。

 ――死は〈僕〉の終わりだけれど、無ではないからだ。

 死してなお、僕を構成する物質と、僕が生きているあいだに及ぼした影響は、さらなる物質の循環と、影響の連鎖を、延々と永遠に向かって彷徨いつづける。

 きっとそれは、円ではなく。螺旋なのだろう。ある一点へ収斂するように、ある終点を目指すように、或いは始点へ戻るようにして巡るものなのだろう。

 辿るのだろう、永遠が終わるそのときを目指して。

 輪廻転生などではなく、引き継ぎすらもなく、僕らはただ、宇宙を司る巨大で強大な【ながれ】のなかで、溺れるように、塗れるようにして、流されているだけの存在だ。

 流されていると自覚できないだけのことで流されているだけなのだ。

 抗う術など持ちえない。

 無駄だ。

 全てが無駄だ。

 生きることも死ぬことも、産まれることも崩れることも、生むことも殺すことも、全ては無意味だ。

 僕は生きているのではない。生かされている。

 色んな意味で、生かされている。

 死ぬことが分かっていても人は、生の意義を追い求める。

 死を受け入れてなお、生にすがり、生を真っ当しようとする。

 いつかは白紙になると分かっているノートへ必死に文字を綴り、絵を描き、色を塗り、線を引き、奇麗にまとめようと抗いつづける。

 なぜなら、

 死は無ではなく、

 死は自我の存続の破棄でしかなく、

 死を向かえてもなお、己が存在した事実と記憶が残るからだ。

 己のノートが白紙になっても、ほかのノートに「己のノート」の存在が綴られていることを知っているから。

 死後を考え、死してなお、人の目を気にし、ノートを彩ろうとする執念。

 生きるとは、他人に生かされることなのだろうか――?

 違うような気もするし。その通りなのだという気もする。どちらがわるいでもないし。どちらが善しでもない。納得できるか、できないか。その程度の小さな、さもしい、とるに足らない些細な不満。

 自己不満。

 僕は不満だ。生かされているなんて、不満だ。

 みんなには感謝したいけれど、生かされているなんて、そんなの、生きていないのと同じだと不満を抱く。

 なら僕はどうして生きるのだろう。

 どうして生きているのだろう。

 死ぬことでしか、その強制的な「生」に、「力」に、「ながれ」に、抗う術などないというのに。

 それは結局、僕が、

 ――流されているからだ。

 ――生かされているからだ。

 ――納得してしまっているからだ。

 不満になることで、何度も何度も僕は、納得を繰り返す。

 生きるというのは、不安定なことなのだと聞き及ぶ。

 生きる目的というのは、安定を求めることなのだと聞き及ぶ。

 ならば、安定の約束された「生」には一体なんの意味があるだろう。

 不安定になるというのは、生きる目的を思いだすための手段なのかもしれない。

 忘れることで思いだせるように、不安定になることで安定できる。安定へと向かえる。

 安定を求めよと、理想を求めよと、完璧を目指せよと、世界は僕らへ語りかけているのかもしれない。

 破壊も、崩壊も、破滅も、自滅も、それらはすべて、完璧を求めるために定められたシステムなのかもしれない。

 人類がこうして破壊と発展を繰り返してきたのも、そのシステムの一端を担っているだけなのかもしれない。

 流されている。

 誰も彼もが。

 抗う術はないのだろうか。

 この運命に。

 僕はひとりで、夢想する。


 ***サイカ***

 子どもという存在は実に可愛らしい。生意気な性格すらも、可愛らしさを引き立てる塩みたいな存在に思えてしまう。言ってしまえば、私は子どもが好きだ。大人が嫌いだというわけではないが、子どものほうが好きだ。可愛いのだから仕方がない。

 仮に、大人を塩だとすれば、私にとって子どもとは砂糖に値するだろう。私は塩を、一舐めするくらいにしか口に含むことはできないが、砂糖ならば、キロ単位で食すことが可能だ。そのくらい、子どもが好きだ。

 生物学的にみても同種の幼生を愛おしく思うのは、至極当然であるとされている。そういったシステムが、自然淘汰されてきた生物には備わっている。哺乳類であるならば、それはより顕著だ。幼生は自身をより可愛くみせるような容姿をし、仕草をしてみせ、成体はそれを見て、保護したくなるような感情を抱く。

 また一方で、本能から離れて述べるにしても、「大人は子どもを守るべき存在だ」と私は常々思っている。人類としても、生物としても、それは変わらないだろう。仮に異論を述べる輩などがいるならば、私はそいつを大人として看做さないし、認めない。しかし認めないからといって、私がなにをするでもない。そいつが大人でないならば、そいつもまた、守るべき子どもの一人なのだろうから。まあしかし、そういった奴のことを一般的には、「餓鬼」と呼ぶのだろうが。

 そして私は今、そんな守るべき子どものうちの一人をよこに連れ、とある通路を歩いている。女児と少女の中間くらいの女の子である。名はペン・グーインちゃん。髪の毛が肩にかかるほど長くて、思わず結ってあげたくなる。だが、グーインちゃんは他人に身体を触れられるのが好きではないらしい。髪の毛などはとくに敏感に反応して嫌悪を露わにする。子どもを怒らせるというのは、「中々におもちろいよなー」などと私などは感じてしまうのだが、そういった私利的な満足を得るために相手を怒らせるというのは、はっきり言って不遜だろう。面白そうだとは思っても、実行に移さない自制心を私はきちんと兼ね備えている。だからして、グーインちゃんを不快にさせるようなちょっかいは出さない。にしても、髪の毛は結ってあげたいな、と密かに胸をうずめかせているのもまた事実だ。

 こうして、可愛らしい年頃のグーインちゃんをよこに連れて歩いているという状況は、私からしてみれば、中々に心躍るものがある。

 よこを見下ろす。私の歩幅に合わせて、せかせかと腕を振っているグーインちゃんは、本当に可愛らしい。しかし私は敢えて歩行を緩めない。そういった悪戯心を抱いてしまうほどに可愛らしい。しかしこの悪戯心というのもまた、子どもだからといって特別扱いをせずに、同等に接しようとする私なりの配慮なのだ、と私は自分に言い聞かせる。

 ただ、この躍動する感情を掻き消してしまうほどの陰鬱さも、私の胸の裡にはある。しかし最近では、その陰鬱さを、波紋を『沈下』するようにして、内心の奥底へと押し込むことができるようになった。それこそが成長というものだろう。もしくは自己防衛からの逃避か。まあ、どちらも客観的には等しくみえるものだ。大差ない。

 ペン・グーインちゃん――彼女は、私の担当するクラスの生徒。筋がよく、保持者としての可能性が期待されている、いわゆる、出来た子である。優等生。秀才。芯がしっかりしている。自分を持っている。アイデンティティが形作られている。モラトリアムに陥る心配はいまのところ皆無だ。そう、でも、わるく言えば、生意気な面もあるにはある。

 余談だが、私は天才よりも、秀才のほうが好きだ。というよりも、天才が好きではない。苦手だ。「天才」はその名の通り、天に近く、人から遠いからだ。なるべくなら私は、人にちかい秀才と仲良くなりたい。まあ、余談だ。

 そんな幼くも秀才で、かつ生意気でありながらも、可愛らしいグーインちゃんは、ちょこちょこと私のあとに付いてきながら、「《アークティクス》って本当に在るんですか?」とこちらを見上げて質問しくる。

 そろそろ、そういった、デカルト的な質問を受ける頃合いだとは思っていたが、実際に問われてみると、中々どうして、説明し難いものがある。

 ここは詭弁の出番であろう、と私は説明の筋道を整える。

 それから、例えばさ、とグーインちゃんを見下ろして言った。

「例えば、グーインちゃんは、宇宙を知っているけど、実際に視たことはないでしょ?」

「あるよバイタルで」グーインちゃんはしれっと答えた。

 少し生意気な口調だが、私は気にしない。微笑ましくらいだ。

「それは『宇宙を視た』とは言わないよ」とやさしく指摘する。

「なら、なんて言うの?」

「バイタルを観た、と言います。または、ディスプレイを視た、だね」得意げに私は、「グーインちゃんが視たのは、バイタル画面に映し出された光の羅列であって、宇宙から発せられている光や闇を視たわけではない。そうだよね?」

 でも、とグーインちゃんは食い下がる。「宇宙だった。バイタルにうつってたのは」

「うん。映っていたのは宇宙だよ。けどね、映し出されていたその宇宙の映像は、ディスプレイが発した光であって、本物の宇宙ではない。そうでしょ?」

 う~ん、と納得のいかない様子のグーインちゃん。

 ませた感じがまたいちだんと微笑ましい。

 グーインちゃんが視たのはさ、と私は続ける。「グーインちゃんが宇宙だと思えるくらいに似せて映し出された、嘘の宇宙です。だって、映像だからね」虚像なの、と強調する。「人間っていうのはね、丸が三つあるだけで顔に見えてしまうくらいに想像力が豊かなんだよ」

「そう言われれば」とグーインちゃんはむつけたように、「そうですね」と敬語を遣う。

 もうひと押しで丸め込めそうだった。口調を最大限に柔らかくしてから、それに、と私は補足する。

「グーインちゃんは、バイタルで観た過去の偉人を示して、わたしはあの人と逢ったことがあるんだ、と言えるかな?」

「見ると逢うは、ちがうとおもう」グーインちゃんの意見は鋭い。だが私は、

「違わないよ」と柔和に否定し、「視るというのは、同時に相手からも視られるということなんだ」と意見する。「対象から隠れて視るとしても、少なくとも目だけは相手からも視ることが可能な場所に露出しているはずだからね」

 言いながらこの詭弁はちょっと無理があったかな、と内心ヒヤッとする。

 案に相違してグーインちゃんは、それはつまり、と言った。

「わたしがバイタルを観ているときは、バイタルのディスプレイもわたしを視ていて――そのときディスプレイに宇宙がうつし出されていたとしても、えっと、私が宇宙から視られているわけではない。つまり、こういう理屈?」

「さすがグーインちゃん。頭、いいね」その通りだ、と私は素直に褒めた。感心にちかい所感だった。「じゃ、話は初めに戻るけど、グーインちゃんは宇宙を知っているけど――」

「視たことはないよ」と彼女は続きを口にする

「そう、グーインちゃんは真実、宇宙を視たことはない。でもね、グーインちゃんが視たことはなくても、それでも宇宙は存在しているんだ」

「言われなくてもわかってます」

 ばかにしないでくださいとでも言いたげにグーインちゃんはこちらを睨みあげた。

 おーこわい。

 私は頬をほころばせ、「そして」と話をさきに進める。「大多数の人間は、一生、宇宙を視ることは叶わない」

「宇宙には行けないから。ふつうのひとは」

「そう。行けないからだ」と首肯する。

「でも行けるひとたちもいますよ」とグーインちゃんは指摘した。「宇宙飛行士とか」

「さすがグーインちゃん」私は満足気に頷く。「だから彼ら宇宙飛行士は、宇宙を視ることのできる特別な人間ということになるよね」

「だね」

「つまりそれが私たちなんだ」

 グーインちゃんは首を傾げた。眉根を寄せている。

 解りませんけれど、というサイン。

 説明してください、という催促。

 その両方。

「だからね」と私はおだやかに説く。「だから、私たちの〈レクス〉や、『プレクス』を包んでいる《アークティクス》という世界は、みんなが観測できなくても、それでも私たちのような特別な存在に観測されている以上は、存在するの。いまはまだグーインちゃんは《アークティクス》を視ることはできないだろうけど、でもね、グーインちゃんの認識とは無関係に、《アークティクス》は存在するんだよ」

 吟味するようにゆっくり頷くとグーインちゃんは、「なるほど」と納得を示してくれた。

 会話が結びを見せたところで、目的地に到着する。

「さて、グーインちゃん」と私は命一杯に意識して微笑みを維持する。「ここでお別れだけど――」

 ――頑張ってね。

 と無理に声援を送った。

 本当はちがう言葉を吐きたかったのに。

 それでも、口にすることができなかった。

「言われなくても」

 グーインちゃんは唇を噛んで、笑みを押し殺すようにした。

 私も唇を噛んで、溢れだしそうな感情を押し殺す。

「じゃあまたね」

 陰鬱な感情が顕在化しないうちに私は踵を返した。

「あ、せんせい」

 グーインちゃんは私を呼び止めた。

 立ち止まって、首だけ捻って、「どうしたの」と私は応じる。

「あの……お願いが……あるのです」とやうやしくグーインちゃんは言った。

「言ってごらん」

 表情に笑みを貼り付けてから私は振り返る。

 もじもじと細身のパンツを握って、グーインちゃんは言い難そうにしている。

「いいよ、何でも言って」私はその場にしゃがみ、目線を揃えるようにする。「できることなら先生、なんでもしてあげるよ」

 促すように、いいから言ってごらん、と首を傾げる。

「うんとね」

「うん」

「かみのけ……ゆって」

 結ってください、とグーインちゃんは丁寧に言い直した。

 胸が熱くなった。

 込み上げてくる何かを私は呑みこんで、押しとどめる。

「おやすい御用だ」と陽気に言った。

 グーインちゃんの肩に手を置き、身体を反転させる。彼女のそよ風のような髪をかるく指で梳いてから、花月巻きに結ってあげた。ヘアピンや櫛などは手元になかったが、半日くらいなら、私のパーソナリィティでも充分に維持できるだろう。

 よし、とグーインちゃんの肩を、ぽん、と叩く。「できたよ」

 確認するように後頭部にそっと触れるグーインちゃん。

 へへ、と照れ隠しの笑みで、「ありがと」と俯き加減に礼を溢した。

 溢れたその言葉を拾うようにして私は、「頑張ってね」と彼女を抱き寄せる。

 彼女の身体は硬直した。数秒もすると私の腕のなかで解れるのが判った。

 温かい。

 ひとの温もりは、大人だろうが、子どもだろうが、大差なく、温かい。

「ごめんね」私は呟いて、彼女から離れた。

 どう反応したらよいか分からずに、グーインちゃんは戸惑っている様子だ。

「ごめんね」

 もういちど呟く。今度こそ踵を返した。

 絶対になにがあっても、私はもう、振り向かない。

 やがて、グーインちゃんの「またね」という声が、遠く、背中へ届いた。

 まるで突き刺さるように。

 鋭い矢となって。


 揺さぶられる私。

 不安定。

 私はとても、不安定。

 緩む。ゆるむ。私は緩む。

 ああ、危険だ。

 遮断する。

 一切の感情を遮断する。

 私は私を、固定する。

 深呼吸。

 深く吸う息を。

 出しきって、出しきって。

 ――止める。

 静止。

 静止。

 静止。

 もういいかい、と肺がノックしてくるまで――静止。

 このまま死のうと思っても、私はどうせ身体の意思に抗えないのだろう。

 生きようとする本能に抗うことができないのだろう。

 くっくっ、と肺がノックする。

 くるしいよ、息をしようよ、生きようよ――とノック。ノック。ノック。

 ――ほらね。

 くはっ、と息継ぎをする。

 吸い込まれる空気。

 私が求めた、空気。

 繰り返される呼吸。呼吸。呼吸。

 貧血と過呼吸によって、視界が白く点滅する。

 ぼんやりとした意識で、私は私へ言い聞かせる。

 軟弱な意思へ、語りかけて、騙りかけて、飾り付ける。


 どんなときだって、選ばなくてはならない。

 選択肢が枯渇することはない。

 選択しない選択が残っている限り、死ぬことがない限り、それはつづく。

 手放さないために、何を捨てるのか。

 なにを捨てて、何を得たいのか。

 どちらがより大切なものなのか。

 そんなの、決まっている。

 私はあいつを、選びつづける。

 重要なことはそれだけだ。

 必要なこともそれだけだ。

 私はあいつが好きだから。

 好きで。好きで。好きで。好きで。大好きだから。

 あいつが私の凡てだから。

 私が幸せになるために、あいつが幸せにならなくてはならない。

 その結果、だれが死のうと、私が死のうと、関係ない。

 あいつの幸せだけが、私の幸せだ。

 理由は存在しない。

 救えるならば、救いたい。

 救えなくとも、救いたい。

 救われなくとも、救いたい。

 私の凡てを懸けて、救うだけだ。

 私の凡てを擲って、私の凡てを注ぎこみ――あいつを死から遠ざける。

 見返りなどいらない。

 あいつが傷つかなければ、幸せならば、それだけでよい。

 至極単純。

 酷く単純。

 でも、どうしてこんなに難しいのだろう。

 どうしてこうも上手くいかないのだろう。

 あいつはどんどん不幸になっていく。傷ついていく。傷ついている。

 これからまた傷つくのだろう。

 これからさきも、傷つきつづけていくのだろう。

 私の所為だろうか。

 私が悪いのだろうか。

 私があいつを傷つけている。

 私があいつを不幸にしている。

 でも、きっとそれも、あとすこしで終わる。

 これで、終わるはずなのだ。

 あいつには黙っていれば良い。

 知らないほうが善いこともある。

 言葉にしないほうが良いこともあるのと同様に。

 告げないほうが好い想いがあるのと同様に。

 そうすれば、これ以上あいつが傷つくことはない。

 邪魔なものは、すべて、私が排除しよう。

 私がすべて、引き受けよう。

 あいつの傷も背負えたならば、どんなに私は楽だろう。

 どうして私は、あいつと別なのだろう。

 どうして私は別人なのだろう。

 一緒になることが叶うのなら、重なりあえるのなら、溶け込めるのなら、取り込めるのなら、それ以上に幸せなこともないだろうに。

 こうしていつも私の願望は捻じれていく。

 私たちの幸せを望む私と。

 あいつの幸せを願う私と。

 私だけの幸せを祈る私と。

 根底にあるのは、あいつのことが好きだという、ただそれだけの単純な純粋なのに。

 どうしてこうも、複雑なのか。

 どうしてこうも、犠牲がかさむのか。


 凡てを丸くおさめるには、角を削らなくてはならない。

 しかし、削られた角や、傷つけられた核は、苦しいだろう。

 苦しみがあっては、丸くおさめても意味がない。

 苦しみが悲しみを。

 悲しみが苦しみを。

 そうして丸くなっていくのは、幸せではないだろう。

 もう、私には、私が何をしているのか、どうすれば良いのか、とんと解らなくなってきた。

 この世には、死ぬことよりもつらく苦しいことが沢山あるのだと、むかしの私は知らなかった。

 そう、生きているからこそ人は苦しむのだ。

 死んでしまえば、悦楽がない変わりに、苦しみもない。

 私はあいつがいなくなってしまうことを恐れた。

 結局私は、私のために、あいつを苦しめつづけているだけなのかもしれない。

 私のこの身勝手な選択の積み重ねによって、いったい、いくつの犠牲が払われた。

 いくつの命が無残に散った。いくつの子どもたちを私は殺した。

 いくつの苦しみをあいつへと与えた。

 決して後悔しないのだと抱いた私の決意は、覚悟は、信念は。

 いま、悔恨に揺れている。

 でも、だとしても。

 私は、きっと、また同じことを繰り返すのだろう。

 あのときに戻れたとしても繰り返すのだろう。

 そうして何度も私は、何度も何度も苦しめつづける。

 これからもまた、同じように。

 私は、あいつを……。


 目から零れたこれが、いったいだれへ捧げた雫なのか。

 私にはもう、わからない。


 ***コロセ***

 僕は目を凝らす。

 ベンチに誰かが座っていた。

 どうしようかなとその場で立ち尽くす。

 最初こそ、「こんな辺鄙な場所にも人が来ることがあるのだな。珍しいこともあるものだ」「はやく帰ってくれないかな」「そこは僕の場所です、と言ってみようかな」などと徒然なるままに陳腐な感想を抱いていたのだけれど、近付くにつれ、どうやらベンチに座っている人物が女性で、しかも、とても美人で、なお且つ心底おどろいたのは、その女性がとてつもなくコヨリに似ていたという瞳目するに余りある現実があったことだ。

 僕は目を見張る。

 動悸が激しい。

 こめかみが脈打っている。

 息をひそめてベンチを眺める。

 ベンチまでの距離は二十メートルとない。

 女性は短髪で若そうだけれど、少女ではない。横顔しか見られないけれど、凛々しい顔立ちだと判る。姿勢を正して座っている。惚けているようで、どこか意識を研ぎ澄まさせているような印象がある。視線を真っ直ぐと向けて、壁を眺めている。そう、宙を見つめているというふうではなかった。明確に壁を見つめている。睨んでいるような感じにちかい。

 目をほそめる。見れば見るほど彼女はコヨリに似ている。凛々しさもさることながら、どことなくはかなげな雰囲気や、突けば崩れてしまいそうな、か弱さ。それらを、美貌を引き立てる小道具にしてしまうほどの器量の良さがあり、それでいて、芯がしっかりと真っ直ぐに通っているのだと傍目からでも判るほどの包容力がある。

 一方で、やはりコヨリではないことも明白でもあった。ベンチに腰掛けている彼女は、成人だ。少なくとも、僕より年下ということはないだろう。コヨリとはひと回りもふた回りも体躯が大きい。きっとノドカよりも背は高いだろう。また胸もノドカよりふくよかに見える。

「消えるか、来るかハッキリしなよ」

 いきなり彼女が声を発した。いつの間にかよこを向いてこちらを見遣っていた。眼光が鋭い。彼女の冷たく鋭利な視線が僕を射抜く。

 僕は動けない。二十メートルちかくも離れた場所から睨まれただけですっかり緊張してしまった。

「暇なんだろ? だったら来なよ」彼女はベンチの空いているところをかるく、ぽんぽん、と叩いた。

 どうやら、となりに座れということらしい。

「そう。いいから座りなって」彼女が声を張った。視線はすでに僕から離れ、壁へと向かっている。「ボクはきみに、訊きたいことがある」

 彼女が「ボク」と言ったことに少なからず違和感を覚える。これも性差別になるのだろうか? こんど努樹に訊いてみよう。

 言われた通りに僕は座った。

 彼女が腰を置いている場所がいつも僕の座っている指定席だった。

 そして僕が腰掛けているこの場所が、以前にコヨリのいた座席だった。

 いつもとは逆の座席。ずれた風景。

 ほんの数十センチはずれただけで、展望できる景色がちがって見える。

 座っている場所のちがいのせいだけではないのかもしれない。

 僕が独りではないからかもしれないし、となりにいるのがコヨリや努樹ではないからかもしれない。

 独りで座っていたときと、となりにコヨリが座っていたときと、努樹が座っていたときと――どの景色もちがって視えていた。

「いつだって違っているよ」彼女はつまらなそうにつぶやいた。「そのことに思いを馳せるか、そのことから目を逸らすのか――その違いしかない。世界じゃない。きみの問題だ」

 心が読めるの――? 僕は声に出さずに囁いた。

「波紋が読めるだけ」

 くだらなそうに彼女は僕へ視線を向けた。

 哀れむような視線に感じた。でも、これもきっと彼女の言う通り、僕の問題なのだろう。

「いいや。それは正解。ボクはきみを哀れんでいる」彼女は飄々と言った。「きみ、可哀想だね」

 見ず知らずの女性に同情されてしまった。どうしよう、みじめだ。

「同情というよりかは、感心にちかい」風で揺らめく髪を押さえながら彼女は、「きみ、よくこんなんで生きてこられたね」と目をほそめた。「ああ、もしかして知らなかった?」

 ――きみね、思考、駄々漏れだよ。

 と彼女は冷淡に宣告した。

 思い遣りも、配慮も、なにもあったものではない。

 だれだよこいつとコヨリが似ているだなんて言ったバカは。

 彼女に睨まれた。

 はい。僕でした。

 なぜか急に、泣きたくなった。


 コヨリとの日々をすこし思いだす。小春日和のような朗らかなその記憶のなかには、こんなみじめな気分になった事例など一件も見当たらない。

 なにが、きみの問題――だ。

 あんたの影響力は計り知れないぞ、と伝わることを覚悟で僕は毒づく。むろん、声には出さずに。

 彼女は髪を押さえたままで、反応してはくれなかった。

 今日は風がつよい。

「どこかで逢ったことはないかな?」

 声に出す必要もないのに、僕は敢えて声に出した。

「ないよ」

「そっか」

 会話が終わってしまった。

 でも、と僕は彼女の横顔を凝視する。コヨリ以外にも、彼女は誰かと似ている気がする。いや、そもそもコヨリを初めて視たときも、僕は誰かに似ていると感じていた。それが誰だかは上手く思いだせない。

 きみは、と彼女はようやく声を発した。

「きみはボクに似た子を知っている」と疑問形ではなく、断定的に言う。「その子は今日もここへ来るのか?」

「今日もって……」

 どこまで記憶が漁られたのだろう、とこわくなった。

「いや。いくらボクでも波紋から記憶は読みとれない。こうして、きみが抱く、この瞬間のきみについてしか知ることはできない。ただ、さっきみたく、きみが、過去の思い出を引きだして感傷に浸っているなら、それはほとんどボクに伝わっていると思ってくれていい」

「遅い忠告ありがとう」皮肉のつもりで口にする。

「いやいや。礼には及ばない」

 そりゃそうだ。

 そういう意味で礼を述べたわけではない。

「だったら最初から口にしないで欲しいな」と彼女は僕を冷ややかに睥睨した。「そんな言葉だけのお礼なんていらないから」

 皮肉がまるで通じない。

 そもそも僕は、「皮肉のつもりで」とちゃんと思いながら言ったのに。なんだか、からかわれている気がしてこないでもない。案外にユーモアがあるひとなのかもしれない。だとすれば、ほとんど皮肉にちかいユーモアだけど。

「きみに諧謔のなにが分かる? そういうことを思うなら、面白いことを何かひとつでも言えるようになってからにして欲しい」

 カイギャクって何だろうと考えながら反駁する。「思うだけなら自由だろ」

「まあね」彼女は素直に同意した。「思想の自由は、尊重すべきだろうとは思う。でも、きみの場合は特別」

 どういうことだろう。

「きみの主張の通り、思うだけなら人は自由だ」彼女は抑揚なく語り出した。「それは、きみみたいに波紋が駄々漏れの者でも例外ではない。とは言え、ボクにとってはきみみたいな奴は、思ったことをなんでもかでも大声で喚き散らしているのと大差ない」

 一泊置いてから彼女は、言うなれば、とまとめた。

「ボクにとってきみという存在は、狂騒と轟音を足して、煮で終わったくらいに煩わしい存在だ」

 へえ。煮ちゃうんだ。

 そんなものを「二で割らず」に煮付けてしまってはたしかに煩わしい気もする。

 それにしてもひどい言われようだ。

「そう、きみは酷い。正直なことや素直であることが必ずしも好ましいわけではないのと同じだよ。正直であることや、素直なのは、純粋な者の特権だ」

 同意するにやぶさかではないけれど、僕がひどいかどうかはまた別のはなしだ。

「いや、きみは酷い。それも、かなり。でも、それはきみが悪いわけじゃない。ボクときみの立っている視点、環境、状態、土台――つまりは世界が違うだけの話だから」

 僕は黙って耳を欹てる。なるべく彼女の話の邪魔にならなうように。

 なにも思わないように、注意しながら。

「ああ。それは違う。何も思うな、というのは、死ねということと同じだ。ボクはきみにそこまで求めない。人間、眠っていても思考は巡っている。だからきみが波紋を駄々漏れにしていることは責められたものではないし、きみの駄々漏れな波紋を嫌だと思うのなら、嫌だと思う者のほうが――つまりボクのほうが、きみの波紋を読まないように努力するべきなんだ。波紋が駄々漏れであることが悪い、というのは、素顔を晒すことが駄目だ、というのと同じくらいに卑近な愚考だよ」

 なんだかよく解らないけれど、彼女は僕を擁護してくれているみたいだ。話の内容は咀嚼しきれていないけれど、僕はすこしほっとする。彼女からすっかり嫌われているものだとばかり思っていた。

「嫌いもなにも、ボクは人を好き嫌いで括らない。好き嫌いで括るとすれば、それは、ボクにとって短所に思えるその人の行為であって、その人そのものじゃない」

 えらいね、と僕は社交辞令で思う。

 こんな幼稚な説教を聞きたい気分ではないのだ。今日は、努樹との会話ですでに結構、疲弊している。

「ああでも、さっきも言ったけど、きみは酷い」

 とても酷い、と彼女は当てつけのように強調した。

「きみの場合は特別。思うだけなら許される、というのはきみの場合、必ずしも適用されない。仮にきみが誰かを殺したいと思うとする。そしてボクにはきみのその殺意が波紋を通じて伝わってしまう。そうなったら、ボクは視て見ぬ振りをすべきだろうか? それは否だ。人としてあるべきならば」

 いつの間にか殺人の話になっていた。僕は頑張って意識を研ぎ澄ます。

「きみは人を殺そうと思っているだけでまだ何もしていないけど、ボクはきみが人を殺そうと思っていることを知っている。ならボクがすべきことは決まっている。そうだろ? この場合ボクは、人を殺そうとしているきみを止めるべきだ。人としてあろうとする意思があるならの話だけど」

「これは比喩でしょ?」思わず僕は口を挟んだ。

「ああ。これは比喩だ。仮にきみが、『人を殺してやりたい』と思っていたら、の話」

「ほんとうに?」

「ああ。きみは人を殺したいなんて思っていない」と彼女はわざわざ教えてくれた。

「ならいいんだけど」

 僕は安堵する。比喩か。だとすれば仮に、殺意を抱いている、と前以って分かってしまっていたのなら、彼女の言う通り、そのひとが殺人を起こさないようにするのが当然だろう。

 例えばそれは、自殺しようとしている相手がいたとして、そのひとを止めるのと同じことだろうか。と言うよりかは、死んでしまいたいと塞ぎこんでいる相手を慰める行為にちかいのかもしれない。

「その解釈でいいんじゃないか」彼女は僕を睥睨すると、またまっすぐと壁へ視軸を合わせた。「思うだけならたしかに自由だ。でも、それは行動に起こしても、言動に起こしても、いったん行為に起こしてしまえば自由ではなくなる。責任という枷を背負わなくてはならなくなる。任意にしろ、強制にしろ、それは変わらない。思考と言動の違いは、相手に干渉を及ぼすか及ぼさないか、の有無だ。そしてきみは」

 ――思うだけで相手に干渉する。

「きみの意思に関係なくね」と彼女はみたび僕を見遣った。

「解ってるよ。そのくらい」と堪えかねて僕は口にする。「そんなことは言われるまでもない。誰だって知っているし、いくら僕でもそのくらいのことは他人に言われるまでもない」

 だいたいキミは誰なんだ――と問うた。

 まるで、僕は鏡に向かって喋っているようだった。

 彼女のこの皮肉な喋り方。

 虚無的で。陰湿な。この雰囲気。

 一見他人に興味がなさそうで、それでいて、どこか寂しげな。

 誰よりもみんなと仲良くしたい癖に、誰よりも理解し合いたい癖に、そうできないことを知って傷つくのが嫌だから、孤独へと逃げ込む。

 孤独を好む――ふりをしている。

 波紋を読めない僕にも、彼女の内心が解る気がした。それは、鏡を覗いて、そこに映る自分が自分であるのだと、なんの疑いもなく思えてしまうような錯覚にちかいのだろう。鏡に映っているのは虚像なのにも拘わらず、自分ではないのにも拘わらず、人はそれを自分だと思い込む。

 僕はキミを拒まない――と強くつよく、当てつけのように、僕は念じた。

 彼女が僕を睨んでいる。

 睨みをきかせつつ、一瞬、彼女は口をひらきかけた。

 そして逡巡の間を空けたのちに、出かかった言葉を呑みこむようにして、その艶やかな唇を閉じた。

「ボクは、カエデだ」

 やがて彼女はそう名乗った。

 キミは誰なんだ、というさきほどの僕の問いかけに応えてくれた。

「コヨリの叔母――に当たる存在だよ」

 

   ***

 コヨリについて僕は知りたかった。

 僕はコヨリのことをほとんど何も知らない。彼女が自分のことを語りたがらなかったからだ。

 僕も自分のことをコヨリへ多くは語らなかったけれど、そんな僕よりも幾分も頑なにコヨリは、自分の過去や来歴について、なに一つとして話さなかった。

 話したくないのならそれでいい、と僕は思っていたし、実際のところ互いを知り合うのに、過去は関係ない。

 互いとは、

 今この瞬間にある、接することのできる、自分の目のまえにいる――相手と自分。

 それは、

 刻一刻と、更新しつづけられてしまう――儚い関係。

 坦々と上書きしされつづけるだけの――希薄な関係。

 関係は、積み重なることはない。

 いつだって線のように、薄っぺらい。

 いつだって、そのときだけに現れる、幻だ。

 鏡のまえに立ったときにだけ視える、自分のように。

 関係とはそういった、一瞬一瞬に生じる、繋がっているという錯誤。

 同じ時を共有しているのだ――と思い抱く、謬見。

 ともすれば、諦観。

 そして、放棄。

 ――理解しあうことの放棄。

 それこそが、関係を生みだす。

 理解しあうには、反発しあうことが必須だ。

 理解しあうには、弾きあわなくてはならない。

 丁寧に、慎重に、ぶつかりあえば、欠けることなく、摩耗する。

 ぶつかればぶつかるだけ丸くなる。器が丸くなる。

 摩耗するには、労力と、配慮と、気力と、なによりも時間が必要だ。

 疲れる。とにかく疲れる。疲労は蓄積する。

 蓄積した疲労は、器を毀し兼ねない。

 器が毀れては、元も子もない。

 そして人は放棄する。

 研磨することを。

 丸くなることを。

 丸くすることを。

 丁寧に、慎重に、ぶつかりあうことを。

 そうして、理解し合うことを、諦める。

 その諦めこそが、関係だ。

 理解しあう努力を保留することで人は、関係を形成できる。

 削ることもなく、削られることもなく。

 疲れることもなく、憑かれることもない。

 理解という行為が、相手と同一化することであるならば、言ってしまえばそれは、自分に相手を憑かせることにちかいのだろうと僕は思う。

 或いはそれは、自己を否定することにも成り兼ねない。

 または、自己を歪めることになり兼ねない。

 緩やかな変質は、成長と呼べるものなのかもしれないけれど、急激な変質は、浸食にほかならない。それとも、そういった急激な変質こそが、進化と呼べるものなのだろうか。分からない。

 そう、僕には解らない。

 コヨリのことも、自分のことも、このカエデという、コヨリに似た女性についても、何もかもがわからない。

 だから僕は、知りたかった。コヨリのことを。カエデのことを。

 最初こそ僕は、カエデがコヨリに似ていると思ったけれど、それは見た目から抱いた印象の話であって、カエデの雰囲気は、明らかに、僕と似ていた。

 同属嫌悪を覚えるくらいに僕と似ているカエデ。

 そして、同情してしまうくらいに捻くれたニヒル。

 ――中途半端なニヒル。

 カエデに同情するというのは、僕にとっては、自虐と同じ。


 カエデは言った。

「きみがコヨリと呼ぶその少女――その子はボクの姪っ子だ。その子をボクは、連れ帰りたい。どこへ行けば逢えるだろう?」

「連れ帰るって……」戸惑いながらも僕は問う。「どこへ?」

「ここの外」

「ここって、つまり、アークティクス・サイドの外?」

 僕は思いだす。小春ひより、彼女と初めて会ったときのことを。

 コヨリは言っていた。外に出てみたい、と。

「ほかに外がある? ここはただでさえ野外だ」ちょっとは考えてから物を言って欲しい、とカエデは柳眉を逆立てて目をほそめた。どうやら彼女、ひとを睨むのが癖らしい。「で、小春ひよりが今日ここへ来ないのは、そう、きみのおかげで分かった」

 僕はコヨリの本名をまだ教えていない。この女性に――カエデに――波紋を読まれている。でも不思議と僕が嫌悪を抱くことはなかった。波紋を読まれることで、すこしでもカエデに近付けているような、そんな錯覚が僕を高揚させる。

「きみは変態の気があるな」

 気持ちわるいぞ、とカエデはまたもや目をほそめた。「断わっておくが、ボクはどんなことがあってもきみを生殖活動の相手に選ぶことはない。肝に銘じとけ」

「セイショク活動て……」思わず声に出して反芻してしまう。「僕だって、自分のことを、『ボク』とか言う女の子はタイプじゃない」

「知らないのか? 家族のまえでは、コヨリも『ぼく』だぞ」

「うっそお!?」と思わず身体を乗りだしてしまう。

「うん。ウソ」カエデは飄々と言った。「ふうん。きみはコヨリを、生殖活動の相手にしたいと思っているわけだ」

「思いもしないことですけどもっ!」

 言葉遣いが変に丁寧になったのは、動揺しているからではないんですよ――と僕は慌てて念じた。

 僕はコヨリをそういった本能とは切り離したところで想っていたい。


 ところで、

 まだ第二成長期が僕に訪れる前のこと――性欲に流されるのが嫌だった僕は、どうすれば煩悩を自分の内から排斥できるだろうかと悩んでいた時期がある。

 コヨリに教えてもらった例の作家の小説に、「欲求は、満たされるものじゃない、身体の外へ放つものだ」という台詞があった。

 必ずしもそうではないだろうけれど、性欲に限って言ってしまえば、外へ排出することで治まることに幼き日の僕は気付いてしまった。性欲に流されそうになると僕は、自主的に欲情を体外へと排出させるべく、「僕のノンタン」を懸命にマッサージしていたのだ。その行為が実は、ごくごく一般的なもので、しかもそれこそが性欲に流されている象徴とも呼べる行為なのだと知って、僕は随分と落ち込んだものだ。あのころのことを思いだすたびに僕は、もっと早くにノドカから教えてもらっておくべきだった、とノドカのやや過剰ともとれる性教育を肯定的に受け取ることができた。


「早熟だったんだな」カエデは視線だけで軽蔑の意を表明している。「どんなに卑しい欲情がきみに巣くっていようとも、コヨリには指一本触れさせはしないよ」

 そのつもりでいるといい、とくぎを刺されてしまう僕はやはりみじめだ。

 あまりに冷ややかな態度に僕は辟易するしかない。

 コヨリにゆび一本すら触れられないのは、そう、すこし嫌だ。というか、めちゃくちゃ嫌だ。

「コヨリの母親から言われる分には納得できるけどさ」僕は反論する。「どうしてキミからそんなことを言われなきゃならないのだろう。キミはコヨリの叔母なんでしょ?」

「そうだが?」

 どこまでも毅然とした態度でカエデは言った。「問題は、ボクが彼女の母親ではないということではなく、小春ひより、彼女のことをきみが、はるか年下だと思っていながらに恋愛対象として見ている、その浅はかな感情だ」

「歳は関係ない」冷静に僕は返した。「コヨリが大人になるまで待てばいい。それだけの話だ」

「そうじゃない。きみの問題ではなく、小春ひよりの問題だ」

「どういうこと?」両想いでなければ恋愛感情をもってはいけないなどと言うつもりだろうか。「もうすこしさ、僕にも解るように言ってほしいです」

「そう、なら訊くが――小春ひより、彼女の年齢が、実際は『齢百年』だとして、きみは彼女のことをいまと同じように想えるか? そう、例えば、彼女が現在姿をくらましている理由が――彼女の姿かたちが、実年齢に沿った、ヨボヨボで皺くちゃのおバアさんになっているから――だとして、きみは彼女のその姿ごと、彼女を愛せるか?」

「なんだよその比喩」僕は不機嫌になる。「そもそも、僕は一回だって、コヨリのことを愛しているだなんて、そんなおこがましいことを言った覚えも、思ったことすらないぞ」

「ふうん。ならきみは、小春ひより、彼女のことをどう想っているわけ? というよりも、きみにとって、彼女は何だ?」

「あのさ」僕は久しく出したことのない、険難な口調で、「キミ、コヨリの叔母って話、ウソでしょ?」と詰問する。「たしかに顔かたちは似ていると思う。でも、カエデさん、キミ、コヨリのこと――なにも解ってない」

「きみが人に言えるのか、それを?」

「言えるさ。たしかにね、そうたしかに僕は、コヨリのことを何も知らないし、コヨリのことが解らない。でもそれは、コヨリという名称についた彼女の歴史についてであって、コヨリという存在に溜まっている、中身についてじゃない。僕はコヨリの歴史は知らないけれど、でも、コヨリという存在から滲みでてくる中身を僕は感じとっていたつもりだよ。それは、コヨリのほんの一部、極々少ない、一部分だとは思うけれど、それでも僕は、コヨリという存在を、僕の裡で感じることができていた。でもキミはさ、僕よりも多くのコヨリの歴史を知っているだけだ。キミは、一回もコヨリに逢ったことがないだろ? そうだとも。キミは一度だって言葉を交わしたことがないんだ」

「……どうしてそう思う」

「コヨリはね、相手の気持ちを気にしたりしないし、大切にしたりもしない。コヨリにとって一番大切なことは、自分が相手をどう思うのか、それだけだからだ。コヨリと接したことのある者なら、コヨリのことをどう想っているか、なんてくだらないことを僕に尋ねたりはしない。少なくとも、僕の内面を覗ける相手なら――僕がコヨリへ抱いている想いが尋常ならざる想いなのだと知っているキミなら――なおさらにだ」

「小春ひよりは、そんなことを言う子なのか?」

「そんなことを口にせずとも相手に解らせてしまう、そんな子さ」

「きみも、彼女と同じ想いということか」

「そんなわけないだろ。同じ想いなんてそんなもの、存在しないよ」

「なるほど。そうかもしれない」カエデは音もなく立ち上がった。それから僕を見下ろして、その短い髪を押さえる。「きみと話していると、ボクは自分が嫌いになりそうだ」

「わるかったね」

「ほかを当たろう。きみの話を聞くかぎり、小春ひより、彼女は《あの人》とは違うらしい」

 ――ボクにも協力してくれるかもしれない。

 つぶやくと、カエデは挨拶もなしにその場を立ち去ろうとした。

「ちょっと待って」彼女を引き止める。「ねえ、待ってってば――あのさ、《あの人》って誰? 協力って、なにするの? 僕には力になれないこと?」

「聞くだけ無駄」乾いた声が返ってくる。

「無駄かどうかは僕が決めることだよ」とはっきりと言ってやる。「で、《あの人》って誰なの?」

 僕に背を向けたままでカエデは、小さく答えた。

「…………小春ひよりの母親」

「どんなひと?」

 言い淀んでから彼女は、身体を僕へ向け直した。

「変人だよ。頭にバケツなんて被せちゃってて……この世でもっとも我が儘なひとだ」

 バケツを被った女性――?。

 あれ、僕、そのひと、知っている気がする。

「えっ?」カエデが初めて抑揚よく喋った。「逢ったことあるのか?」

「いや、でもそのひと、コヨリの母親ってほどの年齢じゃないと思う」

 僕は思い浮かべる。

 ぼんやりと――、

 あのときの――、

 ――バケツ娘のシルエットを。

「おいッ!」カエデは感情的に声をあげた。それまでの淡泊な印象は微塵もない。「オマエ、あの人と逢ったことがあるんだな! そういえばオマエ、どっか変だッ。そう、そうだよ、オマエ、普通じゃない。この波紋――オマエ――その右手――おかしいだろ!」

「ええっぇッ?」彼女の豹変振りに気圧される。「こわいって、そんなこと急に言わないでよ。え、なにが? なにが変なの?」

「あっと……いやっ…………なんでもない」

 んなわけあるかッ。

「なら教えておく」とカエデはこちらを、きっ、と見下ろしてこう告げた。「きみ、憑かれてるぞ」

 疲れている? ああ、憑かれている、のほうかな?

「なにに?」冷静に訊き返す。「何に憑かれてるの?」

「あっちのケモノ」

「あっちってどっち? ケモノ? なにそれ?」

「説明するの……めんどくさい。いいんだ、きみの【それ】はまだ、目醒めていない。そのままにしておけば問題ない」

「なんだよそれ……」僕はむずかる。きちんと説明して欲しい。

「なんてな。冗談だ。気にするない」抑揚なくカエデは言った。精一杯におどけているつもりらしいが、台詞と口調が一致していない。「きみ、随分と小心者だな」

 そんなんじゃ誰も守れないぞ、と見透かしたようなことを言う。

「なんだ……冗談か」

 僕は安堵しない。ぜんぜん安堵しない。

 そんな演技じゃあなた、いくら僕でも騙されません。むしろ誤魔化す気がないとしか思えない。それほど彼女、演技が下手だった。こんなに下手な演技、ノドカ以来の逸材ではなかろうか。僕は冷静に評価した。

 まあいいんだけれどね。言いたくないなら言わないでいいよ。

 でも、「その代わり」と僕は彼女へ頼んだ。「これから何する気? それは教えて」

 カエデの眼光が鋭くなった。

 こちらをきつく睨んでいる。

 真っ向から僕は受け止めた。

 風が冷たい。

 さわさわと鳴る葉はない。ケヤキはすっかり丸裸だ。

 上空で気流がうなっている。ほかに聴こえてくる音はない。

 根負けしたようにカエデは口にした。

「小春ひよりを……ここから連れだす」一呼吸空けてから彼女は、もしきみが、とはっきりと発声した。「もしきみが邪魔をするなら、ボクはきみを殺す。わかった?」

「わかった」と頷く。「邪魔はしないよ」その代わり、とまた理不尽な交換条件を提示する。「邪魔をしない代わりに、教えてくれない? コヨリの母親って、どんなひと?」

「きみは逢ったことがある。バケツを被った、その人だ」

 カエデは僕の記憶のなかのことを言っている。

 僕が思い浮かべている、あのバケツ娘のことだろう。バケツ娘の容姿はぼやけていて、覚束ないままだ。

「あの子が、コヨリの母親?」僕は訝しがる。「とてもそうは思えないけど」

「《あの人》は歳をとらない。いや、歳はとる。でも老化はしない。いや、老化はする。でも《あの人》はそれを自分から取り除く」

 意味が解らない。

「そういう保持者なの?」僕は尋ねた。

「ああ。そういうこともできる保持者だ」とカエデはわずかに訂正し、「災厄の保持者だよ」と苦々しく口にした。

「最悪なの?」

「そうだ。最悪だし、災厄だ」どっちだっていい、とカエデは投げやりに言った。「《あの人》にとって、人の命も、獣の命も、虫の命も、植物の命も――すべては平等だ」

「いいことじゃないか」

「本当にそう思うのか? きみが生きてゆくために奪っていく家畜や害虫や雑草たちと同じように、《彼女》は人の命も、それらと同じように奪うのだぞ。《彼女》のまえに、すべての命は平等だ。例外なく、《彼女》のためにある、そんな代替可能な存在に成り下がるんだ。それがいいことだと本気で思うのか?」

「待って待って。ちょっとさ、何の話をしているの?」

「ボクは、《彼女》の思い通りに――都合のいいように扱われるのはもう……厭なんだ」

 壮大に屹立する壁を向き、カエデはそのさらに向こう側を見つめるようにしてしずかに唱えた。誰に告げるでもなく。自分へ言い聞かせるように。

「ボクは自由になる。《あの人》を殺して」

 自由。

 それは、不安定だということだ。

 不自由。

 それは、安定しているということだ。

 けれど、好きなときに自由になって、好きなときに不自由になれるのならば、それは本当の意味での、「自由」なのだろう。

 その本当の意味での自由とは、我が儘にほかならないのだろう、と僕は思う。

 在るが儘ではなく、思うが儘に。身勝手に。

 そんな自由、共有などできはしない。

 そんな自由、孤独になるだけではないか。

「キミはいまのままでも充分に自由でしょ?」僕はカエデへ投げ掛ける。「これ以上、なにを求めるの? キミが誰を殺そうと思っていようが、腑抜けな僕にはキミを止めることは出来ないのだろうけれど――でもね、カエデのその我が儘にコヨリを巻き込むのだというのなら、僕はやっぱり、邪魔をするかもしれない」

「そしたらボクはきみを殺すまでだ」カエデは僕を見ずに、冷たい殺気だけを放った。

 波紋の読めない僕にも、カエデのその殺気の棘棘しさが、痛いくらいに感じられた。本気なのだと知れた。

「なら殺せばいい」僕もまた、あの壁に向かってつぶやいた。「でも、その前に、どうせ殺すなら教えてよ。どうしてそこまでコヨリの母親を憎んでいるの? どうして、バケツのあの子を殺さなきゃならないの?」

 そう、カエデから向けられているこの殺気。

 これは、狂気ではない。殺意でもない。

 これは、明確な、

 ――拒絶の意だ。

 他人を傷つけたくないから、自分が傷つきたくないからと排他する。その哀しくて、虚しい――拒絶だ。僕にはそれが解る。

 そんな拒絶が身に染みているはずのカエデが、どうしてこうまでも、《コヨリの母親》に拘るのか。殺すなどと、そんなつよい干渉を求めるのだろうか。

 カエデの殺意を突き動かすその原動力は――愛か。または憎しみか。恨みか。辛みか。はたまた渇望と貪欲の穴が生みだす底なしの渦か。

 少なくとも、なにかを得るためにカエデは、コヨリに逢い、そして《コヨリの母親》を殺そうと思っている。

 ――邪魔するなら殺す。

 カエデはそう言うけれど、それはちがうはずだ。

 邪魔だから殺すのではない。

 いつだって人は、殺したいから、殺すのだ。

 だから、いくら邪魔でも、殺したくないのなら――人は人を殺さない。

 人は命を傷つけない。

 そしてきっとカエデは人を――殺せない。

「勝手なことを言うな」

 カエデは叫んだ。「ボクは、もう……もうすでに、いくつもの命を奪ってきた、殺してきたんだ。こんな平穏な場所で『死』を認識する機会も持たない、きみのような――きみのような守られているだけの弱者が、どうして知ったような口を叩く。ボクはな、ボクのことを妹のように接してくれたひとを騙して……自分のためにそのひとを利用して……そうして殺してしまった、そんな最低の奴なんだぞ」

 ――いまさらオマエを殺すくらいなんとも思わない。

 腹の奥から捻りだすようにカエデは唸った。

 まるで、怯えた仔猫のように。

「でも、ならどうして」僕は言った。カエデの瞳の奥を見据えながら、「ならどうしてキミは、そんなに自分を責めてるの?」

 彼女が目を伏せた。

 ぎり、と歯の軋む音が聞こえる。

 それでも僕は、彼女に向かって言葉を紡ぐ。

「本当にひどい奴ってのはさ、自分の罪に苛むことはないんだよ。カエデが殺してしまったっていうそのひとがどんな人だったのか、どんな死に方をしたのか、僕は知らないけれど――知りたくもないのだけれど――それでもキミは哀しかったんでしょ? そのひとが死んで、カエデは哀しかったんでしょ?」

 俯いた彼女のオデコに向けて僕はぶつけた。「キミはさ、誰よりも自分が許せないだけなんだ」

 大切なひとを奪ってしまった相手が、自分が、許せないでいるだけなんだ。

 だってキミは僕とちがってこんなにも。

 ――やさしいんだもの。

 

「だまれッ!」

 カエデは必死の形相で僕を睨んだ。

 目を真っ赤に充血させて。

 今にも泣きだしそうな顔で。

「黙れよッ!」と叫んだ。

 なら黙るよ。

 黙るけれど――それでもキミは、僕の言葉に耳を傾けてくれる。こうしてキミは、僕の波紋を読んで、僕を理解しようとしてくれる。ほらね、カエデはさ、誰かを傷つけられるようなひとじゃないんだよ。

「うるさい、うるさいッ! 黙れってッ」

 黙っているよ。僕は黙っているじゃないか。

 さっきカエデだって自分で言っていたじゃないか。聞きたくないならさ、カエデが聴かないようにすればいいんだ。見たくないのなら、視ないようにすればいい。

 でもね、僕は思うんだ。

 目を逸らしてはいけない現実だって、この世にはいくらでもあるんじゃないのかな。

 放っておけないことだって、いくらでもあるんじゃないのかな。

「それをッ。オマエが言うのか! 逃避ばかりしているオマエがそれをッ。笑わせるな!」

 なら笑えばいい。笑えるなら、笑って見せてよ。

 僕はね、コヨリの笑顔が好きだった。大好きだ。それがたとえ、バカで愚かしい僕をあざけることで浮かんだ笑みだったのだとしても、コヨリが笑ってくれてさえすれば、僕はそれで良かった。僕は、僕のために、コヨリの笑顔が見たいだけなんだから。コヨリがどんな気持ちで笑っていたのかなんて、僕には関係ない。どんなに考えても、僕にはコヨリの気持ちが解らないのだから。僕には波紋が読めないのだから。だから僕は、僕の波紋を通して、僕の気持ちが、僕の感情が、コヨリに伝わっていたのだと思うと、それだけでとてもうれしくなれる。そのうれしい気持ちだって、コヨリには伝わっていたのかもしれない。

「なにが言いたい」カエデは怒鳴る。感情的に。直情的に。

「笑えるなら、笑いなよ」

 僕は責めた。

 声にだして。

 もう、黙っている必要はない。

「キミは笑えないんだろ? 自分がしてきたことが許せないから、後悔しているから、そうやって暗い顔して、ニヒルに逃げ込んで――笑うことすらできないんだ」僕は俯いて、自分の影へ言葉を落としている。「我が儘を押し通すなら、自分が笑えるようにしなよ。せめて、笑って押し通しなよ。笑えない我が儘なんて、我が儘ですらないじゃないか」

「オマエになにがわかる」

「わからないよ」僕は語気を荒らげた。「わかないんだよ。僕にはなにも解らない――コヨリの気持ちも、コヨリの思考も、コヨリの居場所も、コヨリの今も、コヨリのむかしも、コヨリの悩みも、コヨリの願いも、僕が一番知りたいことですら僕にはなにも――なに一つとして解らない。それに比べて、キミたちは、すくなくとも僕よりは多くのことが知れるじゃないか。多くのことができるじゃないか。僕よりも多くのものを守れて、多くのことを得られる――それだけの力が、キミにだって――カエデにだってあるんでしょ」

「オマエだって……オマエだって、外の世界の奴らより、多くのことを知って、多くのものを得ているだろうが」

「そうだとも、僕より多くの哀しみだとか苦しみだとか痛みや辛みや悩みだとか――そうやって僕よりも多くの傷を背負って生きている人はごまんといるよ。でもね、僕よりも僕の傷で悶えている奴はいない」

「そんなの誰だって同じだ」

「同じじゃないよ」ぴしゃりと僕は言う。「キミらは、解るんじゃないの。人の懊悩が。解るんじゃないの?」

「他人の苦しみが解ったからって……」カエデは溢す。しずかに溢す。「……そのひとを救うことなんかできやしないんだ」

 ……できやしないんだよ。

 つぶやいて彼女は一度だけ目元をぬぐった。

「それでも、側にいてあげることはできるでしょ。話を聞いてあげることも。そうじゃなくたって、そばで見守ってあげることくらいはできるでしょ」

「なにが言いたい」カエデの声は冷めていた。

 すでに彼女はこちらを睨んでいる。どこか不貞腐れているように。呆れているように、諦めたように、目をほそめている。

「僕はキミを救いたい。でも、僕にはそれができない。だからせめて、キミの助けになりたいんだよ」

「ボクのためにか?」

「僕のためにだ」

 ――僕が、僕であるためにだ。

 見事なまでに自分勝手な我が儘だ。

「だから、教えてよ。カエデのこと。カエデの悩み。カエデの話を――聞かせてほしいんだ」

 

   ***

「……知りたければ知ればいい」

 カエデはそう言った。

「ボクはきみに教えられることなんて何もない。なに一つとしてない。きみの言葉じゃないが、そんなのは存在しない。教えるだなんてそんな魔法みたいなこと、ボクたちはだれ一人だってできやしないんだ。できることと言えば、ボクが口にした言葉を元にしてきみが知るだけ――推し量るだけ」

 個人にできるのは何かを成そうとする努力だけだ、とカエデはもう一度ベンチに腰を沈めた。

 僕のよこへと、座り直してくれた。

 カエデは前のめりになって、祈るように両手を組んでいる。そこへ唇をあてがっている。

 コヨリとは異なって、カエデは僕のことを睨みはしてくれるけれど、みてはくれない。それは、ボクを見つめてくれないという意味であるし、またきっと、ボクを顧みないという意思でもあるのだろう。深入りしないようにと拒絶しているのだろう。抗っているのだろう。

 いちど向き合ってしまったらもう二度と、あかの他人には戻れないのだと直感しているから。

 きっと僕たちが、とてもちかいしい存在だから。

 やがてカエデは重い口をひらいてくれた。

 僕のとなりでまた。

 語りはじめてくれた。

 打ち明けてくれた。

 地面を睨むようにしながらカエデは、言葉を、足もとの影へと落としていく。

 まるで自分へ語りかけるように。

 自分の影へ語るように。

 ぽつりぽつりと。

 訥々と。

 

 

 ***カエデ***

 ボクは自由になりたい。

 そのためには、《彼女》が邪魔なんだ。

 《彼女》がいる限り、ボクに自由はない。

 《彼女》は特別だ。全てにおいて、悠然と上位に居座っている。

 すべての命を、見下ろしている。見下している。

 今からボクは、ボクについて話す。聞きたくないなら聞かなくたっていい。

 耳を塞ぐか、この場から立ち去ればいい。ボクは独りで話すだけだ。

 

 《彼女》の老い。それがボクだ。

 老いという絶対的な枷を《彼女》は分散することができる。

 老いを分散するために自己を分断する。

 《彼女》が分散した老い。

 《彼女》が分断した老い。

 ――それこそがボクらだ。

 ああそうだ。

 きみが思うように、「分裂」「分身」――それにちかい。

 でも、違う。ぜんぜん違う。

 ボクらは《彼女》の一断片として肉体を得た。

 しかしその実、ボクたちは確固として《彼女》の一部で在り続けている。否応なく、ボクらは《彼女》の一部としての役割を担わなくてはならない。それは義務ではなく、強制だ。

 運命よりも直接的な使命。

 無意識からの使命だ。

 決して揺るぐことのない強制的な束縛、拘束力、統率力――を《彼女》はボクたちに対して持っている。

 それがある限り、

 《彼女》が求めたならボクたちは、《彼女》のためにこの存在が許すかぎりの努力を注がなくてはならない。そして定期的にボクたちは、《彼女》が取り決めた周期にあわせて、抗う余地もなく《彼女》へ記憶を差しだす――もう一度彼女と同期することでね。

 その際、《彼女》は、記憶と共にボクらと「齢」も同期する。

 ボクらと同期しているあいだ《彼女》は、加算された分の「齢」を――つまり、分断させていた「齢」を得て――成長する。そうして一時的な肉体の成長を《彼女》は遂げる。

 ただ、それは飽くまでも成長であって、老化ではない。

 《彼女》の老いから生まれたボクらは《彼女》の老いを糧に、《彼女》の老いを成長として昇華させる。五年分の「老い」で創られたのなら、最初からボクらの肉体は「五歳の成長」を遂げている。だからこそボクらは、まだ、老いを持っていないんだよ。

 ところで――産まれた瞬間から老化ははじまる、だなんて説く輩がいるが、ボクからしたらそんなのは戯言だ。

 細胞は、死滅と分裂を繰り返して、補強と補修を遂げる――それを人は成長と呼んでいる。

 細胞の死滅のことを老化と捉えることもできるだろうが、そんなの、形あるものいずれ毀れる、くらいに当然の前提だ。

 老化というのは、その細胞の死滅が、肉体の補強や補修を凌駕してしまう状態――「補強と補修」の連鎖が、鈍くなって「死滅」のみが際立ってしまう状態。

 その状態を「老化する」と呼ぶんだろう。

 成長には、「肉体の破壊」と「肉体の回復」の二つの意味が含まれている。その二つのバランスが崩れること、すなわちそれこそが老化だ。

 そして《彼女》の老いから生み出されたボクらは、そのバランスを保っている。老化していない。あるのは健常な成長のみ。だから《彼女》と同期したとき、《彼女》は身体が成人に成長するけど、老化することがない。ボクらと同期した際に《彼女》が老いることはないんだ。

 ただしそれは《彼女》が老いないというわけじゃない。《彼女》がボクらのような分身を生みださなければ――老いを分断することがなければ――《彼女》自身は成長をして、次第に老化しはじめる。老化しはじめた《彼女》は、その老いをあらたに分離させ、またボクらのような存在を生みだすんだ。

 そうして《彼女》はボクらと同期を繰り返し、記憶だけを蓄積していく。

 でも《彼女》と同期したボクらはまたすぐに分離させられてしまう。記憶だけを差しだしてね。

 ところが、《彼女》のほうの記憶は、ボクらには共有されない。ボクらは一方的に記憶を提供するだけ。プライバシーなんて立派なもの、ボクらにはない。まあ《彼女》からすれば、ボク自身が《彼女》の一部なのだろうから、言うなればボクらは《彼女》のプライバシーそのものなんだろう。

 ほかの「ドールたち」とボクが記憶を共有できるかと言えば、それもできない。

 ああ、説明が遅れたけど、《彼女》はボクらのことを「ドール」と呼んでいる。

 老いを分断して生みだされたドール。

 上品ぶって「お人形さん」だとか《彼女》はほざいているけど。

 ああ。ドール同士で記憶の共有なんてそんなのは無理だ。ボクらは情報記憶装置であって、メディアじゃない。情報は溜められるけど、媒介することはできない。

 ボクらから情報を取り出せるのは、言うなればマスターコードを持つ《彼女》だけ。しかもボクらに備わっているコードは、出力コードのみ。

 通常、生物の細胞には自己と非自己を見抜くためのコードが記されているようだけど、それが《彼女》の場合、かなり精密なんだろう。

 同期した《彼女》へ情報を出力することはできても、《彼女》から情報を入力することができないのはもちろんのこと、「ドール」同士でたがいに同期することも、ボクらにはできない。

 ずるいんだ。

 ことごとくが不公平だよ。


 記憶ってのは便利だ。形そのものだから。

 脳内物質の変異こそが記憶と呼べるのだろう。

 いちど変形して刻まれた記憶は、ふたたび変形するまでは情報としての機能を保持しつづける。だから《彼女》は、自身の脳内を変質されることだけはしない。

 老いを分離させるときも、《彼女》は自身の脳を模倣した「不完全な脳」を生みだして、そこに自己の断片を宿す。そのために、《彼女》の一部でありながらもボクらは、《彼女》とは異なる個性を獲得し得る。なかには完全に《彼女》を崇拝して同一化しようと模倣に模倣を重ねている「ドールたち」も少なくはないし、過去にも大勢いたことだろうと思う。

 ああ、その通りだ。

 《彼女》は老いを分散しつづけている。だから本当の齢ともなれば数百年にはゆうに届いているはずだ。ああいや、実際のところ、どうなのだろう。もしかしたら数千年かもしれない。

 《彼女》のことをボクはよく知らない。

 もちろん知りたくとも知れないからだけど、でも、知りたくもない。

 単純に言ってしまえば、ボクは《彼女》が嫌いだ。

 ――とても嫌いだ。

 ボクは、《彼女》の一断片であることに疑問を持っている。だからかな、こうして見た目は女なのに、一人称を「ボク」としている。

 確固とした《彼女》の一部ではなく、確固とした『自己』を確立したいんだ。

 ああ。

 もちろん解っている。

 確固とした自我なんて存在しない。

 自己とはあまねく曖昧で希薄な存在だ。

 だけど、逆説的にそれは、そうやって「己」が、曖昧で希薄な存在なのだと実感できていることこそ、確固とした自我が存在しているという何よりの条件となっているんじゃないのかな。

 その「自分が自分であるための条件」がボクらにはない。ボクらは、確固として《彼女》の一部なのだから。それが確信できてしまう。否応なしにね。

 なんだ、今の説明で解らなかったのか?

 なら言い直すけど。

 いいか?

 人というのは、

 ――曖昧であることが、自己を一つの個として成立させている。

 ――曖昧であることが、自己を形成しているんだ。

 それに比べてボクらは、はじめから終りまで、確固とした意義を内包しつづけている。そのために――曖昧ではないがために――きみたちよりもよっぽど不明瞭な存在なんだよ。ボクらはね。

 きみがさっき思っていた、「自由であることが不安定である」という関係性と似ている気がする。

 ただ、主観があればそう思えるという話であって、その主観がボクらにはないんだがね。いや、「主観だと思っているコレが、主観ではないと知っている」と言ったほうがより正鵠を射ているのかもしれない。

 は? なに?

「複雑な言い方になって解りにくい」――? これでか?

 ……まあ仕方あるまい。

 目の見える人間が、盲目の人間の視ている世界を理解しようとするには無理がある。

 だがね、喩えるのなら、そうだな――物語の主人公が、自分が物語のキャラクタだと気付いてしまったようなものだ。

 あ?

 これでも伝わらないのか?

 

 チッ。

 

 あ……いや。

 ……舌打ちじゃない。

 そんなの打ってない。

 きみの聞き間違いだ。

 言い掛りはよせ。

 しつこいな。

 はあ? なんで?

 物分かりのわるいきみがわるいんだろ!

 うっさいな。黙って聞いてろ。

 ああもうッ。

 そんなん言うなら、話すのやめちゃうぞ!

 はん。

 謝るくらいなら最初からそうしてろっての。まったく。

 

 じゃあ。

 ならそうだな。

 この際だ、趣旨を変えよう。

 きみは『運命』について考えたことがあるか。

 運命という言葉を知っている以上は、少なからず考えたことはあるんだろう。

 ところで、思考や自我は、脳内物質の変遷によって生み出されている――といったような考え、そういった解釈をしているのが唯物論だ。

 心や魂や霊。そういったものの存在を否定し得る理論。

 そして、唯物論が正しいとするならば――。

 この世が、視えざる者の手によって創造された世界だった場合――きみのその意思も、その行為も、これからの人生も、すべてが決められていることになってしまう。

 物質の変遷や循環までもが完全に、完璧に、操作されている世界――一切の物質の運動が決定されている世界――そういった世界がこの世の姿だったとすると、きみの人生そのものも決められていることになる。

 もっと極端に言ってしまえば、運命というのは――物語のようなものだ。

 作家が物語を紡ぎだしたとして、そこに生み出されたキャラクタたちの顛末――因果――は作家の手によってすでに決められている。そういうことだと理解してくれていい。

 この場合、キャラクタたちは、運命には抗えないことになる。さっき言ったのはそういうことだ。

 物語の主人公が、自分が物語のキャラクタだと気付いてしまったなら、それはそのまま、運命という抗うことのできない束縛を認識したに等しい。

 すべての結末も経緯も決まっているとすれば――これから何を選択しても、何を成しても、何を放棄しても、それらの行動もすべて決められていた――予定されていた行動ということになる。

 たとえ、物語の主人公であるヒーローがそのことに気付き、ヒーローであることを辞めてしまっても、その辞めた結果、新たな事件に遭遇する。その運命に悲観して自殺しても、そのヒーローの死によって、物語は終わり、そして新たな物語がまたどこかで始まってしまう。新たな事件と新たなヒーローが生まれることでね。

 そうやってボクらは自由意思すらも操られている。

 運命に抗えないボクらは、そうなるように、無意識の内でそうしてしまっている。

 いや、意識外からの視えざる意思によって強制されてしまう。

 しているのではなく、させられてしまうんだ。

 この運命論が仮に本当だったとして――。

 このようなことが仮にボクらにも同様に引き起きていたとすれば――どう?

 想像できるものならしてみろよ。

 己の意思も、その選択も、思考も、すべてが制御されて生み出されているのだとしたら。

 きみのその自由意志が偽りの幻相なのだとしたら。

 それらが偽りの幻相だと知ってしまったら。

 そのとき、きみは。

 

 ――正気でいられるか?


 ああ、その通り。

 きみの思っている通りだ。

 これは砂上の楼閣。仮定に仮定を重ねているだけの、馬鹿げた妄言にすぎない。

 この世界が、誰かの創造物だなんてボクは思ってないし、信じてもいない。

 それは判っている。

 ただし、ただしだ。

 ――そのような状況下にボクはいる。

 そのことを理解してもらいたかっただけだ。

 ん。なんだよ。

 え?

 だから。そういった状況下にボクがいることを「理解してもらいたかった」そう言ったんだ。

 それがなに?

 なんで笑ってんだ。

 

 ――はぁッ!

 べつにいいだろ、理解されたいと思うくらい別に。

 言葉として表現した以上、理解されたいと思うのはだな……思うのは…………うん……そう……自然なことなんだってば……。

 うっさい。

 いいだろ。

 黙れってば。

 オマエは黙って聞いてりゃいいいんだ。

 つぎ笑ったら殺すからな。

 

 ああもう。まったく。

 どこまで話したか忘れちゃったじゃん。

 あ。そうそう。

 ボクの現状についてな。

 

 うん。

 その通り。

 ボクの意思も、ボクの行動も、すべては《彼女》によって生み出されている。制御されてしまっている。

 ボクに自由意志などはない。

 それがどれだけの恐怖かきみに分かるか? 想像できるか?

 できないだろうな。

 いや、なにも言うな。

 言わなくていい。

 だから言うなって言ってるだろ。

 ――慰めなんていらない。

 仮にきみが「想像できる」「理解できる」だなんてクソッタレた中身のないクソ生意気な同情を口にしたならば、殺意の虫唾が走って反吐が出る。むろん、反吐を出すことになるのはボクじゃなくってオマエだけどな。

 けど、この際だから自家撞着の恥を忍んで言ってしまうが――それでもボクはきみに想像してほしい。

 うるさい。

 黙って聞け。

 だからまた例えばの話になるけど、

 ――きみは一度でも死をこわいと思ったことはあるか?

 そう。あるはずだ。誰にだってあるはずなんだ。今は思ったことがなくとも、いずれ必ず思うときがある。

 正常に生きていようが、異常に生きていようが、生きている限り、誰もが一度は思うはずだ。

 ――「死」はおそろしい。

 だがその「死」というものは、「今自分は生きている」と実感できているからこそ認識することのできる概念でもある。

 なら考えてもみろ、ボクのこの「生きている」という認識は、《彼女》によって齎されている幻相なのだぞ。

 ボクは本来、《彼女》の脳内における空想のキャラクタ――実体を持たない《彼女》の裡なる一断片に過ぎなかったんだ。それをこうして肉体を与えられ、《彼女》の体外へと排出されたに過ぎない。物語のキャラクタが具現化したところで、キャラクタであることに変わりはない。操られる舞台が変わっただけのことで、肉体があったって、ボクが《彼女》の一断片である事実は変わらない。なに一つとして変わらなかったんだ。

 実を言えばそのうち変わっていくんじゃないか、と淡い期待を抱いていた時期も恥ずかしながらあった。だがそんなことは、幼稚で浅はかな愚考なのだとすぐに思い知った。

 ――ボクはボクで在りながら、結局は《彼女》の意識下に置かれた操り人形に過ぎないのだと。

 ボクは生きながらに死んでいる。

 いや、生を帯びた者にしか死は訪れない。

 だとすれば、ボクは死ぬことすらできない。

 だってボクは、

 生きてなどいないのだから。

 ずっと死んでいるようなものだから。

 

 あ? 今なんつった?

 ――「キミは生きている」?

 きみはボクを生きていると認めてくれるのか?

 やめろ。やめろ。

 やめてくれ。

 もうきみはなにも言うな。黙ってろ。殺すぞ。

 『想像力の足りない慰めは凶器だ』という詩人の箴言を知らないのか。知らないのなら一度は読むべきだ。「三猿円」という詩人だ。なんだ、この作家のことは知っているのか。なら、機会があれば読めばいい。

 とにかくボクは、生きてなどいない。

 たしかにボクは、生物としては生きているし、《彼女》の一部としても生きている。

 だが、ボクとしては生きていない。そういう意味だ。

 きみがいくら言い張ったところで、赤は赤だし、丸は丸だし、ペンギンは空を飛ばないし、ボクは生きてなどいない。どんなに叫んだところで、誰もボクを生かしてはくれないし、ボクを《彼女》から解放してもくれない。誰も救ってやくれないんだ。

 折角の浅はかな誠意だが――きみのその言葉はボクを傷つけるだけだ。

 ああ、まだ言う気か。

 懲りないというか、想像力が足りないというか。

 ああ、だろうな。

 きみのような半端に優しい者ならそう言ってくれるだろうとも。

 だがな、仮にボクが生きているのだとすれば、それはそれで苦しいものなんだ。

 知らないだろうからきみには言っておく、ボクらが辿るべく結末を。

 

 分断されて生み出されたボクらに、《彼女》のような特質はない。

 むろん、パーソナリティは各々、《彼女》の断片である以上は有しているが、それでも老いを分断するなんて特質は持ち合わせていない。

 老いを分断することができないボクらは年をとる。

 年をとればいずれ老化もはじまるだろう。

 そうして老いを蓄積したボクらはどうなるか分かるか?

 老いを取り除くために生み出されたボクらがその老いを帯びるんだ。老いを得たボクらはその瞬間に存在意義を失う。失うどころか、その瞬間がボクらの終わりだ。

 老化を帯びたボクらは《彼女》の意思によって融解しはじめる。

 細胞を結びつけている《彼女》の意思の断片が解ける、とでも表現するのが妥当かもしれない。

 まあ、特別に利用価値のある「ドール」はそのまま生かされつづけることもあるみたいだが、結局それも生かされているだけであって、生きてはいない。いつ《彼女》の都合で毀されることか。

 ボクらはそれを安直に「解放」と呼んでいるが――ああ、まったく、なんて言い得て妙。

 きみもそう思うだろ?

 ほかの「ドール」たちが「解放」のことをどういった気持ちで受け止めているか、なんてボクには解らない。

 それでもボクにとっては「解放」だなんてただの皮肉に過ぎない。

 《彼女》から解放されたくて抗おうとしているのに、その解放は遠からず必ず訪れるのだから。意にそぐわない形ではあるが、必ず「解放」されるのだから。

 想像してみればいい。きみが一度でも死をこわいと思ったことがあるのなら。

 その死に内包されつづける時間を。

 生きていないのに死ぬという矛盾を。

 ボクの苦悩を。苦痛を。懊悩を。

 狂気に触れつづけるこの葛藤を。

 ――それがボクの動機だ。

 ボクは《彼女》を殺して生を得る。それ以外に道はない。

 ボクが生きるためには。

 ボクがボクとして生まれるためには。

 きみがもしも本当にボクを助けてくれるというのなら――ボクのために何かをしてくれるのだというのなら――捜してくれないか。

 なあ、捜してくれないか。

 あの子を。

 あの子のいる場所を。

 《彼女》の娘――小春ひよりの居場所を。

 

 

 ***コロセ***

 残念なことに――そしてさいわいなことに――僕はコヨリの居場所を知らない。カエデにコヨリの居場所を教えることができない。彼女とコヨリを今すぐに逢わせることができないのだ。

 捜すといっても、僕が捜して見つかるくらいなら最初からそうしている。

 コヨリは、人込みが嫌いだ、と言っていた。ならば、人込みにはいないのだろう。コヨリは必要以上のことはなにも話さなかったけれど、嘘も言わなかった。いつだってコヨリは僕に対して、真摯に接してくれていた。僕はそれを疑うことはしない。

 カエデは言った。

「捜せないのなら、邪魔しないで欲しい。ボクのやることを」

 風に流されてしまいそうなくらいに、か細い声だった。

「捜すよ。見つかるかは保証しない、さっきのはそういう意味」

「見つからないのなら、捜さないのと同じだ」カエデはあごを上げて空を仰いだ。

 僕もつられてのどを伸ばす。

 夕焼けが色彩の帯をひろげている。

 夕日からもっとも遠い場所から徐々に夜を迎える。

 でも、実際には夜というのは大きな影に過ぎないのだ。

 ならば、夜とはいつだってすぐそこにあるものなのだろう。

 影と夜に明確な境はない。

 見つからないのなら捜さないのと同じ――。

 カエデの言う通りだった。

 無力な僕にはやっぱり、誰かに何かをしてあげるなんてことはできないのだろう。

 さびしいようで、すこし安心する。

 だって、信じている通りなのだから。

 無気力だった僕はやはり誰よりも無力だ。


 何もしてあげられない代わりに僕は、僕が知っているコヨリのすべてをカエデに聞かせた。

 してあげられないからせめて、聞いてもらう。僕が満足するために、僕は話す。

 僕らが座っているこのベンチがコヨリと初めて出会った記念の場所であること――というよりも、僕らはここでしか顔を合わせることも会話を交わすこともなかったこと。毎日このベンチでお互いの顔と声と存在をささめき合ったこと。確認し合ったこと。コヨリがひと月前から姿を現さなくなったこと。それでも僕はここで彼女を待ちつづけていたこと。

 僕はカエデに言って聞かせた。

 できることなら、コヨリを幸せにしたいという僕の想いと、できることなら、キミとコヨリは友達として接して欲しいという僕の願いと、僕はキミが嫌いじゃないということ、カエデは自分で「ボクは生きていない」と言うけれど僕にはカエデが生きているようにしか見えないということ。

 キミは生きている。有り触れたただの人間のようにしか見えない。特別でもなければ、異質でもなく、悩んで苦しんで哀しんで、答えのない問題に頭を捻らせて、そうやって精一杯に生きている有り触れた人間にしか見えないということを――僕はカエデに言って聞かせた。

 それはもしかしたら、お門違いの八つ当たりだったのかもしれない。

 お前ひとりが悩んでいるわけじゃないんだよ――と。

 悲劇のヒロイン気取ってんじゃねえよ――と。

 それは一方で、僕がカエデのことをなに一つとして理解してやれていないという裏返しでもあるのだろうと僕は解っていたし、カエデもそのことには気づいていただろう。

 それでも僕はカエデに言葉をぶつけたし、カエデも黙ってぶつけられてくれた。カエデが僕の言葉を受け取ってくれたかどうかは判らないけれど、それでも彼女は耳を塞ぐことだけはしなかった。拒むことをしなかった。

 むしろ、どこか耳を澄ませて、意地になって耐えているようにも見受けられた。それこそ僕の思い込みなのだろうけれど。

 

「一カ月前というのに間違いはない? 小春ひよりがここに来なくなってから」僕の話を聞き終えるとカエデはそう口にした。「ここでは時間の概念が希薄だと聞いているが」

「うん。確かだよ。正確には、三十五日前だけど」

 逢えない日々を僕はきちんと数えていた。

 そのことをコヨリが知ったらきっと、気持ちわるいですね、と優しく詰ってくれることだろう。

「ああ。なるほど」カエデは意味深長に頷いた。「ところで、昨日ここに、きみ以外に誰かいた?」

「昨日?」昨日は努樹が尋ねてきて、それから今日の昼まで僕は努樹と一緒だった。「トモダチが一人……」と僕は答える。友達、と自分で口にするのは、すこしこそばゆかった。「そのトモダチとここですこし喋っていたけど」

 きみにも友人がいたんだ、というような表情をカエデは浮かべる。「そのきみの友人、名前は?」

「え、ああうん。名前は――城門努樹」頭のなかで漢字も思い浮かべる。

「そいつ、今はどこ?」

「任務だと思うけど……なんで?」

「任務? ラバーなのか?」

「ラバーじゃないけど、でも、無印エリアで暮らしてる。教官補佐って言ってね、」と僕が説明しようとすると、「ああ、わかった」ならそいつだ、とカエデは遮った。「だとすると、そいつ、ただの保持者ではないんだな」

「そう、ただの保持者じゃない」僕は頷く。「結構すごいパーソナリティだよ」となるべく努樹の特質を思い浮かべないようにしながら教えた。

 しばらくカエデは緘黙した。何かを考えているようだった。

 夕陽が壁の向こうへ沈んでいく。

 あの壁がなければ、ここはもっとずっと長く夕焼けに染められていられるだろうに。僕はそんなことを考える。きっと以前の僕は、あの壁がもっと高ければ朝はもっと遅れてやってくるのに、と考えたことがあるはずだ。僕はいつまで経っても、ぐるぐると反転しつづける思考を抱くのだろう。どちらが裏で、どちらが表かも、僕にはもう判らない。

 冷たい風が鼻の奥を、つん、と刺す。

 やがてカエデが、仮に、と口をひらいた。

「仮に、小春ひよりをボクが見つけ出して、ここから連れだすとしたら――きみはどうする?」

「そんなの、一緒に行くに決まってる」僕は夕陽に向かってつぶやく。「断られても勝手についていくから」

「ボクに殺されても?」

「うん。キミに殺されても」僕はカエデを見据えて、「幽霊になればさ、脱出しやすいんじゃない?」と軽口を叩いた。

 立ち上がりながらカエデは、「ここにはきみの友人もいるのではないのか」と背伸びをした。

「そいつも一緒に連れていく」間髪容れずに僕は返した。

 なにがおかしかったのか、「我が儘なやつ」とカエデは笑った。

 盗み見るように僕は見上げる。

 初めて浮かんだカエデのその笑顔は。

 どこにでも有り触れている。

 けれど。

 とても貴重で大切な。

 無垢で明るい。

 屈託のない笑みに。

 僕には思われてならなかった。

 有り触れたものでも、大切に思えた。

 これはきっと、錯覚ではない。

 錯覚でも、べつに構わない。

 そう身勝手に思ったのは、そう、僕だけの内緒だ。



    SS『そして、誰も』SS

 

 少年は狼になりたかった。

 だが村人は彼を見ても、おそれるどころか可愛がるのだ。

 むかしから少年はそれが不満だった。

 ある年。

 狼の群れが村を襲い、家畜の半分ほどが引き裂かれて食べられてしまう、という被害が出た。けれど村人は、「人間が誰も傷つかなかった。幸いだ」と喜んだ。

 少年はその日から「オオカミがきたぞ」と森から村へと叫びながら走ってくるようになった。

 村人たちも当初は、少年の言葉を真に受け、子供たちを抱え家に隠れた。少年の親も例外ではなく、少年を抱きかかえようとした。すると少年は親の足元でぽかぽかと親の足を殴るのだ。終には噛み付く始末である。

 村人たちはそれが少年の虚言だったと知っても、別段彼を咎めたりせずに、仕事へ戻っていった。

 少年の親は少年に、なぜ嘘をついたのか、なぜ暴れるのかを問いただした。少年はただ「うぅ~」と唸るだけであった。

 明くる年。

 今日も少年は森へ向かった。村へと叫びながら走るためである。だが森に着いた少年は目をまるくした。

 そこには狼の群れがいた。少年は震えて動けなかった。少年は叫ぼうとした。だがそのときにはすでに、少年のノド元には狼が噛み付いていた。

 目で捉えた瞬間には、もう、引き裂かれていた。

 少年の声はついぞ音にはならなかった。

 少年の幼い肉体に、無数の狼たちが群がっていく。

 少年は涙を流した。

 黒く変色していく自身の四肢を見ながら。

 

 嗚呼……これでやっとぼくも。

 

 この年。

 村からは人の姿が消えた。少年を嘘つき呼ばわりする者はもう、いない。



 +++第八・五『グッドラック・フィールド』+++

 【ことごとくの存在が尊いことと、ことごとくの存在が瑣末なこと、けっして同じではあるまいに。一切の存在を同一の価値観で満たし、看做し、等価にしたからといって、凡てが同じであるとは限らぬのだよ】

 

 

 ***ソング・フィールド***

 人格を具現化して俯瞰的に見たとすれば、きっと泡が無数にくっ付き合っている構造に見えるであろう。泡沫構造とでも云えば解りやすいだろうか。うむ。逆に解りにくいか。

 一つの泡は、幾つかの泡と部分的に融合しておる。だが、二つの泡が完全に融合することはない。泡を構成する成分が異なるからだ。水と油が反発しおるのと同じようにな。

 人格とは複合的なものである。

 無数の泡が一つの人格を形成しておる。あたかも無数の細胞が一つの身体を形成しておるように、無数の米粒がおにぎりを形成するように。

 だが、一つの泡はほかの泡のすべてと接することはない。接しようとしてもできぬからだ。

 仮に「細胞」で喩えるならば、腕の細胞は飽くまでも隣合わせになっておるその腕の細胞としか結びつかず、「腕の細胞」が「頭の細胞」とくっ付いていないのと同じ理屈だ。当たり前の話であるな。

 無数の集合が一つの個を形成する場合、それは全てで一つであり、通常であれば決して、部分的な集合が個とはなりえない。腕を身体から切り離したところで、その腕が人間と云わないのと同じ理屈だ。

 しかし。

 よいかね、しかしだ――一つの身体に頭が二つ存在していた場合、それは切り離しても、それぞれが個となり得る。たとえば、そう、聞いたことがあるであろう、「結合双生児」だとか「シャムの双生児」だとか言われておる。彼らは二つで一つであるし、また、一つを二つにすることも可能だ。身体を切り離すことでな。

 それは人格とて同じこと。

 自我とは、一つの個に、無数の人格が有されている状態であるとも云えるのだが、その無数の人格というのは、自己の核となる元々の人格に、次々と肉づけされていった仮初の人格である。言うなれば、人格モドキを身に纏うことで、人格はより多彩な側面を有することができる。

 それを人は、「世界が広がる」または、「成長する」と表したりする。


 ところで、儂は思うのだが、実はこの世界も同じようなものではなかろうか。

 『我々の世界(プレクス)』が《巨大な世界(アークティクス)》に内包されておるのではなく、我々〈個々の世界(レクス)〉が泡のように部分部分で融合し合って、一つの《巨大な世界(アークティクス)》を形成しておるのではなかろうか。

 あたかも、細胞が身体を形成しておるように。我々の〈レクス〉がこの《世界》を形づくっておるのではなかろうか。

 そう、儂がなにを主張したいかといえばだ――「Wバブル理論」というものが、儂には屁理屈にしか聞こえぬのだよ――というその不満だ。

 幼稚と思うかね。

 しかしだ、不満という感情は元来的に備わっておる生物の特化した危機察知能力なのだよ。いっそのこと、危機回避能力と言っても差しつかえあるまい。何に対して不満に思っているのか、と考えるだけで人は、「自分の本質」と「環境の本質」、その両方を同時に紐解くことができる。

 ――不満とは、人が本能的に察知しておる本質のことなのだ。

 

 うむ。おまえが反駁したくなる気持ちもわかる。

 少々、出鱈目に言いすぎたかもしれぬ。定かではないよ。そう、何一つ定かではない。

 そうあるべきだろう、という共通の願望が我々に、多くの「共有し得る幻相」を見せておるのだ。

 それが現実というものであり、それが我々の視ている世界ではなかろうか。

 いったい誰がそんな風に我々を創り出しおったのやら。

 如何ぞ、儂たちはそれを受け入れておるのやら。

 そう、たとえば、我々の脳がわずかな化学変化のみで自我を生みだしているのと同様にして、我々という生物が各々に引き起こしている物質の変遷の加速――。

 ――それらが広域な自我を生みだしておるのではなかろうか。

 つまり、我々はある一つの自我を生みだすために動かされている脳内物質――神経伝達物質――のようなものではなかろうか。

 シナプスが、ホルモンなどの神経伝達物質や電流を循環させることで「シグナル伝達」を行い、自我を形成しているように、我々もまた、地球上で物質を加工し、自然界の循環よりもはやい物質の循環を生み出すことで、偉大なる一つの自我を形成しておるのではなかろうか。

 我々は、神経伝達物質と同類の役割を担っておるのではなかろうか。

 うむ。役割とはいつだって与えられるものだ。自覚できるか否かに拘わらず。

 

 自我を持った物質――。

 それらが形作る統一された自我――。

 その偉大なる自我は、我々人類などよりも、遥かに高い叡智を有しておるだろうことは、想像に難くない。高等であるはずの我々こそがそれを生み出しておるのだから。

 だが、我々に内在しておるミトコンドリアなどの細胞が、我々を構成していると自覚し得ぬように我々もまた、我々が生み出しておる「偉大なる自我」を認識することは叶わぬのだろう。

 ところで、人は、その偉大なる自我を『神』と呼ぶのであろうか。

 だが神とは、すべからく我々を救う存在であるべきだ。

 ならばやはりそれは神ではないだろう。

 我々が自身の細胞を一つ一つ気にかけておらぬように、その偉大なる自我からすれば、我々など、掃いて捨てるほどに卑小な、代替されるべくして然るべき存在に過ぎぬのであろうからして――我々がその偉大なる存在を生かすことはあっても、我々が生かされることはない。我々がその「偉大なる自我」に救われることはあり得ぬのだ。

 変遷することに意義があり、崩壊することに意義があり、死ぬことで意味を成す――――偉大なる自我からすれば、我々はそういった存在に過ぎぬのだ。

 認識できぬ以上、観測もできまい。

 ゆえにこれは、憶測にもならぬ、妄言である。

 だがしかし、それでも儂には解ることがある。

 それは、

 ――人には逆らえぬ、絶対的な意思が介在する瞬間がある。

 ということだ。

 たとえば、我々の血中には、血小板という細胞がある。

 ある条件下において血小板は、血管の傷を塞ぎとめるために凝固する。そのある条件が訪れない限りは、血小板は、血中を、ただ在るが儘に自由気ままに漂っておる。それはちょうど我々が、時間の波紋に揺さぶられておるように――自然という変遷の循環に流されておるように――血小板も血液にただ流されておる。

 仮に血小板に自我があったとするならば、さも自分は自由意思にのっとって血中を漂っておるかのように錯覚するやもしれない。本当はただ流されておるだけだというのに。

 しかも、血小板そのものは、実は、そもそもが「巨核球」という細胞の一部なのだ。巨核球という細胞から剥がれ落ちた細胞――それが血小板である。

 ある個を形成していた一断片。そうやって、物質は物質に内包され、または乖離し、変遷し、役割をとっかえひっかえし、循環し続ける。

 そう、全ては循環し続ける。ある枠組みのなかで。

 さも、刻一刻と変わり続けている「儂」という自我が、ある一定の枠内に収まって『個』を形成しておるように。

 赤子の儂も――、

 子どもの儂も――、

 思春期の儂も――、

 昨日の儂も――、

 今の儂も――、

 一瞬とて同じ「儂」ではなく、

 延々と変わり続けておる――その「儂」が、

 ――なおも変わらず連綿と儂であり続けておるように――ある枠組みのなかで循環を続ける。

 その枠組みこそが主体。境界こそが本質。

 中身ではなく。形でもなく。

 点が一つあるだけでは、存在し得ない「線」のごとく。

 正と負。陰と陽。プラスとマイナス。

 それらが生み出す境こそが本質。

 それこそが、無であり、零であり、点であり――線であり――面であり――存在である。

 循環と循環を隔てる境。

 大きい循環。小さい循環。

 包括する循環。内包される循環。

 せめぎあう境界に生じる一点こそが――世界の原点。

 ――世界そのものだ。

 

 それはさておき。

 細胞にはそれぞれがそれぞれに与えられた役割がある。

 その役割を熟すことなく崩壊を迎える細胞も少なくはない。

 だが、いったん、自身に組み込まれている『条件』が訪れると、物理法則や自由意思とは無関係に、操られるようにしてその『役割』を全うしようとする。

 細胞に限らず――人類も同じだ。

 人類は過ちを繰り返す。

 人類は学ばない。

 そういったように嘆かれることもしばしばであるが、その実は、ただ単に、人類の役割がそういった、『傷つけあう連鎖』、『争い合う本能』、『破壊』――『破壊による物質の変化の加速』――にあるからだ。

 また、人類という種だけでなく、人間という単一の個にも役割が与えられておる。

 巨核球から剥がれ落ちたカケラが、血小板としての役割を担うように――。

 儂という個にも、おまえという個にも、抗えない役割が組み込まれておる。

 しかしそれは、遺伝だとか、本能だとか、そんな一括りにできるような役割ではない。我々は高等だ。高等であるというのは、複雑だということだ。複雑であるということは、複雑なものを単純化できるということだ。

 大は小を兼ねるではないが――複雑なモノは、複雑な者にしか解らぬ。

 複雑な者は、複雑なモノを単純化することができる。

 内包しているモノは、内包されている物に作用を及ぼせる。支配を及ぼせる。

 そして、我々は複雑だ。複雑な者には、複雑な役割が当てられる。分相応に。

 その役割を全うした者は、なぜ自分がそんなことをしたのかを理解することはできぬのだ。自動的に腹がすくように、自動的に尿意を催すように、自動的に欲情するように、自動的に眠たくなるように、自動的に生まれてきたように――我々は多くの支配を受動しておる。そのなかでも自覚できない支配こそが、「偉大なる意思」から与えられた役割だ。

 我々よりも複雑な存在から与えられた役割。

 その役割を熟した者は、大抵、自分だけでなく、他者からも、社会からも、その行動原理を理解されることはない。

 それはたとえば――「なんとなく」「気の迷い」「一時のテンション」「無意識」「動機なき行為」「衝動的」「感情的」「欲情的」「野性的」「本能的」「突発性」「連鎖的」「触発的」「精神異常」――のように分類される。分析される。観測される。評価される。

 抗えない意識外からの意志。

 偉大なる意思から与えられた役割。

 繰り返すが、ある条件下において人は、自由意志から外れた行動をとる。

「どうしてあの人が」「そんなふうには見えませんでした」「意味はないんです」「楽しそうに思えたんです」「ふとそんな気がして」「ただそこにあったから」「ただそこに人がいたから」「どうしてかは解らない」「あの時の自分が解らない」「解らない」「解らない」「わからない」「わからない」

 ――どうしてあんなことをしたのか自分でもわからない。

 きっかけは必ず存在する。

 奇怪な行動にも例外なく、必ず「きっかけ」が存在する。

 そのきっかけこそが、その人物に組み込まれていた条件――役割を強制的に行わせるためのスイッチ。

 ただし、自分にあるその「きっかけ」が、ほかの者のきっかけになるとは限らぬ。

 そしてまた――そのきっかけが必ずしも、その者が起こした行動の説明にはならぬのだ。

 どんな些細なことでもきっかけになり得る。

 そう、こうして儂がおまえにこの話を聞かせている、この状況をつくることこそが、儂に与えられた役割かもしれぬ。また、こうして儂がつくったこの状況で、あらたなきっかけが生じているのやもしれぬ。

 全ては循環しておる。矛盾すらをも許容して。矛盾すらをも摂り込みながら。捻じれながら。歪みながら。

 加速しつつ、巨大化しつつ、繋がってゆく。連なってゆく。

 作用は作用を連綿と、雪だるま式に、平面に敷き詰めたドミノを倒すがごとく、拡大してゆく。伝播してゆく。

 そうして誰かがどこかであらたなる役割に目覚めおる。

 そのきっかけに。

 ――人は誰しも気がつけぬ。



    SS『眠り姫』SS

 

「本当に大切なものは目には見えないんだ。でもだからって目を瞑る必要はどこにもないんだよ。目に映るものにだって大切なものは沢山あるのだから」

 汚くて醜いものだって沢山あるのだけれどね――と悪戯な歯を覗かせて彼は私の頬にそっと触れた。

 私はけれど、その手から伝わる温もりを沢山感じたくって、やっぱり目を瞑ったまま、彼の顔を見ることなく俯いて、なされるがまま、撫でられるままに突っ立っていた。


 つぎの陽が昇らぬうちに彼は私のまえから姿を消した。

「終わらぬ旅に行ってくるよ」

 言った彼は夢のなかで、淋しく目元を下げていた。それが、私の願望がみせた夢なのか、ほんとうに彼が私の寝ているところへ出立の挨拶に来たのかは覚束ない。

 ただ、彼が私のまえから居なくなった。それだけはなんど夢から覚めても変わらない確かなことで、彼が今現在この世界に存在しているのか、存在していないのか、その認識を私はこの拙い記憶に頼るしかなくなった。

 私はひどく落ち込んだ。

「死んだわけじゃないのだから」

 ベッドのよこで母が言う。

 けれどそれは、ほんとうに死んでしまった人に対して、「わたしの心のなかでは生きているのよ」と言うことと同じ。そんな陳腐な慰めに過ぎない。死んでしまったらそれでお終いだ。逢えないのなら、それで終わりではないか。

 彼は、私から、遠く、とおく、どこまでもふかく離れていった。この空のつづくどこか、とは言っても、彼と二度と逢えないのだとしたら、それはもう、私にとっては彼が死んだということと同義であり、心の中心にあった柱が失われ、私の心が崩れるということと直結していて、私も同時に死んでしまうということに等しかった。

 母たちは、いつかまた彼に逢えるのだと安直に考え、短絡に信じているようであったが、私にはどうしてもそうは思えなかった。

 私を置いて出ていった。そのことだけでも、彼が二度と私のまえへ姿を現さない、と判断するに値する純然たる事実として、私の世界を急速に閉塞へと導いていった。


 あれからいったい、いくつの春夏秋冬を肌に感じてきただろう。崩れ去った私の心はすでに、崩れ去った状態が正常と成り果て、私を塞ぎつづけた。封鎖された心に季節の風はなに一つ届かない。

 貴方は――どうして私を置いていったのですか。

 なぜ私のまえから姿を消したのですか。

 瞳に映る貴方の姿だけが、私にとっての生きる意味なのだとせっかく理解できたのに。

 ああそうか。

 幼かったころの私は、彼を見詰めることから逃げていた。だから貴方は姿を消したのですね。

 眼を閉じ見える虚像は、私の創り出した都合のいい人格だった。しかしその虚像は実像である彼をも歪ませていたのかもしれない。

 だから貴方は私のまえから消えた。

 私の瞳に映し出されることを望みながら、きっと私の心に歪まされることを畏れたのだ。

 私のせいで彼は消えた。

 ならば、私が世界を直視すれば或いは……。

 そう想い、誓った私は瞳を世界へとさらす。

 やあ、おはよう、私。

 やあ、お帰り、僕。

 夢の旅は、どうでしたか?




 +++第九章『外皮』+++

 【中身が大切だから守るのか。守られているから大切になるのか。どちらが先か知っていますか?】

 

 

   タイム△スキップ{~基点からおよそ四カ月後~}


 ***ライド***

「まったくどうなってんだい」

 ライドは憤りを抑えきれない。

「弥寺くんが勝手なのはいつものことだが、なぜサイカくんまで行方が知れぬのだ。まったく」

 バブルの塔。

 ここには今、ライドしかいない。

 昨日、弥寺が食べ残した(とライドは思っているが実際は弥寺が譲ってくれた)ドーナツを口へ運びつつ、ライドは独りごちている。

 独りごと――。

 思考を言語に変換することで、日常的に人格の補強をライドは行っている。思考をアウトプットし、そのアウトプットした言語をふたたび耳にする。そうすることでライドは、己の人格の不安定さがある一定以上のぶれにならぬようにしている。

 人格の統合は行えている。

 だが、

 人格の統一は行えていない。

 感情の起伏よって、または波紋の行使によって、ライドの人格もまた変容する。子どもが駄々を捏ねるように、その時々で。

「たっは。どうなっている! あの二人、どこをほっつき歩いているのやら」

 散々準備を重ねてきた最終実験。

 ついにアレを用いて行えるというのに。

 アレ――オリア・リュコシ=シュガー。

 折角の機が熟したいま、実験執行の手筈が整っているにも拘らず、肝心要の弥寺とサイカの姿がどこにもなかった。それは、この「バブルの塔」にいないということでもあるし、弥寺に至っては、アークティクス・サイド内にすら姿がないようであった。セキュリティ管理データには、弥寺がアークティクス・サイドから離脱していると記されていた。

 いったん「バブルの塔」の外へ出て、弥寺とサイカへ連絡をつけようとライドは試みたが、専用の通信バイタルまでもが遮断されていて、連絡もつけられず。

 また、サイカの波紋も探ってみたが、なぜか波紋の余波が関知できず、どこにいるのかも詳らかではなかった。サイカは波紋をよりつよく糊塗しているようである。

「あのオタンコナスどもめ!」

 ライドは苛立ちを募らせるばかりであった。

 首をゴキン、ゴキン、と鳴らす。

 ドーナツにかぶりついていると、背後から声をかけられた。「あの……」

 おや、とライドは思う。

 この波紋は――「ラビット」にもってこいではないか。

 勢いよく振りかえる。

 子どもが一人、そこにいた。

 意思の強そうな瞳。女の子。小生意気そうだ。背は低い。頭髪が一纏めに結われている。

「どうやって入ったのだ?」ライドはしゃがんで女の子の肩を掴む。「まさか、一人できたわけではあるまい?」

「あの……えっと……せんせいといっしょに」女の子は怯えを隠すようにして、「せんせいに、あんない……してもらいました。その、トビラのまえまで」と振り返って指を差す。すぐに戸惑った表情を浮かべた。

「トビラ? ここには扉などないのだぞ。誰だ、その先生というのは?」ライドは鼻がくっつくほど女の子に詰め寄るが、「ああ、サイカくんか。なんだ、ああ、なるほどな。本番のまえにこの子で最終確認しておけと、そういうことかな? ふむ。本番は今日以降に延期しようと、そういうことか。はんはん。なるほどなるほど」

 女の子が小首を傾げている。

 ライドは女の子の波紋をもう一度読もうとするが、「このひとってオトコ? オンナ?」「なんかこわい」「はやく手、はなしてくれないかな」「あ、ヘンテコなあたま」「へんたいさんだったらどうしよう」「あ、ドーナツだ」といったような思考が邪魔で、女の子の波紋から、サイカとの会話や映像が消えていた。

「ま、いっか」ライドはそうそうに諦めて、「よし、今日はペンちゃん、キミで暇をつぶそうではないか」と女の子から手を離した。

「はっと」と「ほっと」をない交ぜにしたように女の子は、「あいさつ……あの、アイサツをします。わたしは、」と自己紹介をしようとするも、「いいよ、キミの来歴などに興味はない」とライドは遮った。「おれが興味あるのは――」

 ――きみの身体だけだ。

 言って腕を振った。

 女の子が宙に浮く。

 金魚のように口をパクつかせているが、声は出ていない。

「息ができないというのは苦しいものであろう? だが、安心したまえ。きみは呼吸ができなくても死ぬことはない。ましてや、こうして身体を切られても、」とライドは指を動かす。「痛いだけで、死ぬことはない」

 女の子は目を見開いている。

 陶磁器のように、つややかな足。

 白くて、しなやかな足。

 それが、すう、と彼女の身体から離れていく。

 血は出ない。

 ゆっくりと上昇。

 女の子の顔のまえで静止。

 断面を見せつけるかのように、回転。

 言葉にならない叫びをあげる女の子。

 声にもならない。

 空気が揺れない。

 呼吸ができない状態にしてあるからだ。

 だがライドには手に取るように解る。

 彼女の叫びが、痛みが、その怯えが。

 ――おもしろい。

 ライドは続けて、女の子の身体を分断していく。

 痛みが増幅することはない。

 痛みは痛みである。

 しかし、重複はする。

 痛みと痛みは重なり合って、より密度の高い痛みと化す。

 その痛みがライドは好きだった。

 相手の痛みが解るというのは、とても愉快だ。

 相手の痛みを共有しても、ライドが死ぬことはない。傷つくこともない。

 痛みだけが伝わる。

 その間、相手はこちらと同じような痛みを味わい、苦しみもがいている。

 ――おなじ痛みなのに。

 相手は滑稽なほど必死な形相を浮かべ。

 ライドは涼しい顔をして痛みに耐える。

 優越感と呼ぶには、あまりに高尚な快感。

 他人とは、こんなにも貧弱なものなのか。

 ライドは思う。

 自分は強い。弱くなどはない。

 こんなにも多くの痛みを共有しても、自分は堪え得ることができるのだ。

 もっとも、ライドはこれまでに三度、他人の痛みを共有しきれなかったことがある。

 一度目は、弥寺の「日常」に触れたとき――。

 二度目は、サイカの「自虐」に触れたとき――。

 そして最期は、ノドカの「傷」に触れたとき――。

 あの「傷」は、精神を蝕む。

 まるで、《彼女》のパーソナリティのようであった。

 それを背負って生活していたなど、ライドには到底理解などできない。

 普通ならば発狂する。

 だからこそ危険だった。

 あんな「傷」をあんなに浸食されるまで放っておいたなどと。

 始末しなければ、いずれ暴走していただろう。

 あのノドカの暴走――考えただけで、面倒くさい。


 十余年前。

 ノドカという女のせいでライドは、「何か」を失った。

 その「何か」は定かではないが、それ以来、ライドは不安定になった。

 パーソナリティが安定しない。存在が安定しない。

 しかし、ライドという自我は、安定を求めている。それゆえに――不安定な自己を安定させようとするがためにライドは――周囲の様々な人格を取り込むことで、安定をはかる。それは、人が生きるために呼吸するように、また、成長しようと細胞が分裂を重ねるように、意識とはかけ離れた無意識によって行われる。

 ライドは自己を自己として統一できない。

 決定的な「何か」が欠けていた。

 それをライドは、「軸」と呼ぶ。

 パーソナリティを制御させるために絶対的に不可欠な「軸」。

 それをノドカのせいで失った。

 ライドの特質とは――電子操作。

 物体に有されている電子を、意識化で自在に制御することができる。果ては、地球が生みだしている『磁界』をも操ることが、ライドにはできた。

 言うなればそれは、物質を構成している電子を、『磁界』と合わせて操ることで、物体そのものを自在に操れるに等しい特質。丁度それは、磁石のS極とS極を反発させることで磁石を宙に浮かべることが可能なように。物体を重力に縛られることなくライドは、自在に制御することができた。

 しかし。

 パーソナリティの「軸」を失ったライドは、常に、電子を乱してしまう。

 周囲を取り巻くすべての物質を構成する電子の運動を異常に活性化させてしまう。

 電子が動くことで電気は生じる。

 不安定な電子は、電気を伴う。

 生じた電気は、安定を求めて流れ出ようと抗う。

 蓄電と放電。

 ライドはそういった不安定な環境を作り出してしまう。意図せずに。知らぬ間に。

 それゆえに――。

 意識下で制御できるパーソナリティを駆使してライドは、それら活性化した電子運動の鎮静化を逐一行わなければならない。

 寝ることも儘ならない。

 体力は著しく減退していく。

 ライドの体力とは無関係に、周囲は雷雲のような環境へと変貌していく。

 危険極まりない。

 眠ることは許されない。

 ならば――とライドは考えた。

 ――眠らなければいい。

 脳内麻薬によって覚醒しつづければよい。

 人体がもっとも脳内麻薬を発散する瞬間。

 ――それこそが、苦痛への対抗である。

 ライドは他者の苦痛を共有することで、脳内麻薬を分泌しつづける。覚醒しつづける。活動しつづける。

 常に限界を超しているにも拘わらず、ライドはそれを苦としない。

 人が痛みに慣れることはない。痛いものは痛い。痛覚さえ麻痺させなければ、痛みは永遠である。

 しかし、ライドは気付いていない。

 脳内麻薬は意識を覚醒させる一方で――感覚の麻痺を強いる。

 ライドが感じている痛みは、数百分の一以下に薄まっていることを。ライド自身のあらゆる感覚が麻痺していることに、ライドは気が付いていない。いや、気が付くことができない。

 なぜなら、麻痺しているはずのライドにもきちんと、「痛み」が伝わっているからである。

 それは、ライド自身の痛覚を迂回せずに、直接脳内へと伝わる。

 波紋を通じて伝播する他人の痛み。

 他人が感じた「痛い」という概念。

 それのみが、ライドへ伝わっている。

 そんな「間接的な痛み」など――痛いはずもない。

 例えば、

 人がどんどん死んでいく映画やアニメ。

 残虐に人が殺されていく漫画や小説。

 悲鳴と鮮血と死という概念のみが、そこには描かれている。

 それらのメディアから「何か」を感受しようとする者たちは、そこから「悲鳴」と「鮮血」と「死」という『概念』を得ることができる。しかし、本当の「悲鳴」と「鮮血」と「死」という『いたみ』を感じてなどはいない。

 だからこそ――楽しめる。

 だからこそ――悲しめる。

 本当の『いたみ』を知らないから。

 それと同じようにライドも、「痛み」は感じているが、本当の『いたみ』を感じてはいない。

 そのことにライドは今もなお、気付いていない。


 ライドとノドカにどのような軋轢があったのかをライドは決して語ろうとはしない。

 アウトプットすることがライドにとって、自己の安定をはかることと同義であるならば、あのときの、あの出来事を口にすることは、ライドにとっては自己の崩壊の危険が伴う、避けるべき行為であり、あのときの出来事は、唾棄すべき記憶であった。

 あのときの出来事――。

 言ってしまえばそれは、ほんの些細な出来心であった。

 

 今から換算して、およそ半世紀ほど前――。

「リザの断裂」を機に組織は、ある保持者を危険因子として『凍結』する計画を実地していた。

 《あの人》に次ぐ【ゼンイキ】となり得る逸材。

 最悪の災厄となり得る保持者――世界の均衡を乱し兼ねない存在。

 その凍結された保持者の名は「未神(みかみ)」といった。

 ――弥寺の妹である。

 《あの人》との戦闘によって、弥寺の記憶から家族の情報が欠落した――と知った組織は、この機を逃しまいと未神を拘束した。

 未神の存在が危険であると組織は判断したからだ。

 武力が高いにも拘らず大人しい未神は、抵抗する間もなく、呆気なく『凍結』された。

 ――凍結。

 それは文字通り、対象を凍らせ、結ぶ。

 すなわち、静止。

 言うなれば、仮死。

 名づけるならば、静死。

 未神――彼女に流れる循環を止め、生命活動から、細胞分裂、成長、老化――彼女が彼女として行うあらゆる変遷を組織は止めた。ラバーを総動員させることで。止めた。

 『凍結』は、「虚空の縫合」にちかい作業である。それと共に、「言霊」を用いて、限りなくメノフェノンを安定させることを徹底した、精緻な作業でもあった。一定期間ごとに「言霊」を貼り変えなくてはならない。長期間の管理は一筋縄ではいかない。大変な労力を必要とする。

 未神を殺せばそれで済む話ではあった。しかし、組織はそうしなかった。

 人道的な理由などではない。

 ――保険である。

 仮に弥寺が記憶を取り戻した際、そのときに妹を――未神を――組織が「処分」したのだと知れれば、それこそ「リザの断裂」の二の舞である。

 弥寺の離反。

 あってはならぬ惨事である。

 それゆえに、組織は、未神を凍結することを選んだ。

「リザの断裂」を二度と繰り返さぬために。

 弥寺と未神。二つの突出した「力」を抑圧するために。

 未神の凍結は、アークティクス・サイド内で実地された。

 およそ半世紀ものあいだ、『未神凍結』の管理はつづけられた。

 アークティクス・サイドは、数ある「学び舎」のなかでも抜きん出て厳重に閉鎖された空間である。こういった、機密と安全を考慮すべき事項は、このアークティクス・サイドがもっとも適しているとされる傾向にあった。

 

 ところが――。

 凍結から数十年後のある日。

 ライドのもとへ『R2L』機関総括部からの伝達があった。

「未神凍結」の維持管理を、アークティクス・サイドではなくほかの地域で行うことにしたのだという。

 突然に指示された「未神搬送」。

 簡単な任務ではあったが、同時に重要な任務でもあった。責任者であるライドは、人形を着こみ、老紳士の格好で同行することにした。人手は少ないほうが良いと考え、ノドカ一人を助手に選んだ。

 その日ライドは、予定していた通りにノドカを引き連れて、「言霊の呪符に包まった未神」を運び出していた。

 それはまるで「繭」のようであった。

 ノドカはそれが何なのかを知らない。ただその「繭」が、重要な何かだということ以外、説明してはいなかった。ノドカのほうも、さして興味を向けている様子でもなかった。


 作業は坦々と行われた。

 チューブを抜けて、アークティクス・サイドの外へと運び出す。

 引き渡し場所は山中。

 古びたお屋敷のような敷地内であった。

 相手が来て間もなく引き渡しは完了した。

 波紋を通じての身分確認を行って終了だ。

 早々にライドとノドカは踵を返した。


 アークティクス・サイドへ帰還したそのときのことだ。

 あの出来事は引き起きた。

 いや、ライドが引き起こしてしまった。

 ほんの些細な出来心であった。

 久しぶりに外へ出たライドが抱いた気紛れ。

 久々に人と直に触れあったために生じた高揚。

 その高揚が、ただでさえ正常ではない「自称・超天才」であるライドの思考を、さらに撹拌し、迷走させてしまったのかもしれない。

 明確な理由はない。あるのは、一つのきっかけだけだった。

 いつもと異なる風景。

 いつもと異なる日常。

 ただそれだけ。

 たったそれだけのことでライドは、ふいに思い至った。

 ノドカのしていたピアス――あれを悪戯に壊してみたくなったのだ。

 そうしてライドは適当な理由をでっち上げて、渋るノドカから無理にピアスを外させた。それを受け取る。受け取って、すぐさま彼女の目のまえで破壊しようとした。

 ピアスを宙へと浮かべ。

 ライドは笑みを浮かべ。

 照準を合わせて、ピアスに「雷電」を落とす。

 だが、一瞬はやくノドカがパーソナリティを行使。

 ピアスごと空間を区切り、ピアスを防衛した。

「雷電」は進路を逸れ。そのままライドへともんどり打った。

 ――直撃はまぬがれない。

 ライドは身構える。反射的に。パーソナリティを全開にして。

 パーソナリティの全開――。

 それは瞬時に二人を含めた半径五メートル四方の空間ごと、《世界》へと「浸透」させるに至った。

 咄嗟のことでライドは制御しきれていなかった。

 《アークティクス》により近い断層まで二人は沈む。

 そのあいだにも「雷電」は進路をライドへと定めたままで直進。

 ピアスから跳ね返された「雷電」は、ライドに直撃――感電。

 感電しつつもライドは。

 直撃した「雷電」に。

 さらなるパーソナリティを上乗せさせることで。

 なんとか反射するに至る。

 ――全力での防衛。

 ここまでしてやっとライドは死線を越えた。

 だが、その代償は大きかった。

 この際にパーソナリティの「軸」をライドは持っていかれた。

 「軸」と共にライドから反射された「雷電」は、そのまま《アークティクス》付近の断層――その奥へと消え去る。

 ライドが気を緩めると共に、二人はその断層から離脱。

 アークティクス・サイドへと再浮上。

 ノドカはピアスを受け止め。

 ライドはその場に膝を崩す。

 ――一瞬。

 これらは一瞬で終わった。

 その瞬間からライドは、ライドとしての「何か」を失った。

 失態と呼ぶにはあまりに莫迦莫迦しい結末。徹頭徹尾、不甲斐ない。情けない。無様。浅薄。

 ライドは思いだすだけで、自分を否定したくなってしまう。

 超天才の己が、こんな過去を抱いているなど、そんなことはあってはならない。このときの出来事を肯定してはならない。否定もしてはならない。明確なストーリィにしてはならない。白黒はっきりさせてはならない。善悪をつけてはならない。結末をつけてはならない。脈絡をつけてはならない。あやふやなままにしておかなければならない。

 そうしなければ、私はきっと、自己を否定してしまう――とライドはそう確信している。

 ただでさえ不安定なこの自分という存在を、ライドは、自ら崩さなくてはならなくなる。

 ある一点のみでバランスをとっているこの不安定な自己。

 ――その足をすくうなど、考えたくもない。


 ノドカという女は、ライドにとって、禁忌とすべき存在であった。

 だからこそ、あれだけの実力者でありながら、この「ゼンイキ・プロジェクト」には関わらせなかった。

 そんなただでさえライドにとって厄介なノドカの暴走――。

 考えただけでぞっとする。

 早めにノドカを処分しておく必要があった。

 弥寺に言えばきっと、「面白そうだ、放っておけ」と逆に嬉々として偉そうに指示してくるに決まっている。処分の実行を引き受けてはくれないだろう。

 だからライドは、サイカに命じた。

 暗殺なら、サイカは本職だ。

 ノドカ相手でも失敗することはないだろう。

 そう考えた。

 事実、サイカはノドカを処分してくれた。

 いまにして思えばあのとき、サイカは珍しく渋ったような気もする。

 まあ、あのノドカ相手なら、尻込みするのも納得だ。

 境界を司る女――ノドカ。

 空間括りの傀儡師――弧絶作りの孤高。

 弥寺にすら破壊困難だと言わしめた、『最境』を生みだす者。

 ノドカを相手に戦闘を繰り広げるなどという愚か者は、喩えるならば、瓶のなかに閉じ込められたカマキリのようなものである。ノドカは水を注ぐ程度の労力で、そのカマキリを殺すことができる。

 そんなノドカに立ち向かうなど、まったくもって、「たっは。莫迦め」としか言いようがない。

 もっとも、それは立ち向かえば、の話である。

 暗殺を生業とする彼女、サイカには無縁の忠告だ。

 なかなか首を縦に振らなかったサイカを、ライドは説き伏せた。

 余計な説明も織り交ぜつつ、なんとかノドカの処分を引き受けさせたのだった。

 ノドカ相手に処分を実行できるとなれば、あとはウブカタくらいのもの。しかし、できることなら、サイカに処分を頼みたかった。内密にことを運ぶには、適材適所が原則である。

 ライドはサイカへ説明した。

 ――ノドカくんは組織に懐疑的だ。敵対しようとしている。あの傷は、組織には報告されていないものだ。どこか、極秘裏に行動した際に負った傷に相違ない。このまま放っておけば、ノドカくんは近いうちに暴走するだろう。治療させるにも、ノドカくんのほうから傷の報告をしてこない限り、難しい。こちらから傷のことを言及するのは控えたい、動揺したノドカくんがなにを仕出かすか分かったものではないからな。そもそもあの傷を治療できるものか、それすらも現状、定かではない。いや、ノドカくんは放置しすぎた。もはや治療は無意味だろう。もしもサイカくんが断るのだとすれば、弥寺くんに処分遂行を頼むことになるが、弥寺くんが周囲に配慮して処分を実行するとは思えない。それはキミにも分かるだろ? 無駄な犠牲は出したくはない。それに、このまま放置して、ノドカくんが暴走すれば、それはそれで、多くの犠牲が出るだろう。傷を負ったノドカくんは責められるものではないが、その傷を放っておいている彼女は、罰するに値する。ノドカくんは軽率すぎた。もはや、「暴走」か「処分」か、この二択しかない。さあ、サイカくん、私はキミに託そう。キミが選びたまえ。

 一つの犠牲か。

 大勢の犠牲か。

 良い機会ではないか。どうせもうすぐこちらへ正式に移転してくるのであろう? ならば遠慮はいらん、大規模にパーソナリティを行使してもらっても一向に構わんよ。あとの処理はこちらで適当に繕っておこう。少なくとも、ノドカくんのことも含めて配慮するならば、「処分」が妥当であろうな。たしかノドカくんには、弟くんがいたな? 暴走した結果、その大切な弟くんを殺めてしまうなんて悲劇は、ノドカくんだって避けたいはずだ。それともサイカくん、キミは、ノドカくんの暴走を止められるとでも言うのかね? まあ、やってみる価値はあるだろうが、私はお勧めしないよ。少なくとも、キミは――。

 ――戦闘には向いていないのだから。


 ***弥寺***

「わかったよ」とミタケンは言った。「ぼくをここから離脱させてくれさえすれば、ぼくは弥寺くんを《彼女》のもとへと案内する。それで譲歩してくれないか」

 ミタケンからそう懇願された。弥寺はその条件をのんだ。

 そうして二人は今、アークティクス・サイドから離脱し、ミタケンの案内のもと、郊外の山中を歩んでいる。

 森閑とした山並がつづく。

 木々は葉を落とし、足元には、色の抜けている落ち葉が干からびている。針葉樹はあまり多くみられない。伐採された歴史のない、そんな太古から群生している森なのだろう。白神山地か、それとも尾瀬だろうか。位置座標は不明である。

「おい。いい加減にしろよ」弥寺は前方を歩むミタケンの背へ言葉をぶつけた。「お前が俺を騙すのは勝手だが、せめて面白く騙せ」

 俺はお前に騙されてやってんだぞミタケン――と弥寺は吠えた。

「ごめん」とミタケンは謝る。「なら、そうだね。正直に言うよ。ぼくにもさ、死に場所を選ばせてくれないか」

「お前が死ぬことはない。《あいつ》の居場所を俺に教えりゃ済む話だろうが。この際だ、もう連れてかなくたっていい。場所だけ教えろ」

 ミタケンが足を止めて振り返った。

「弥寺くんを騙したことは、お咎めなしかい?」

「俺はお前に」と弥寺は声を太くする。「あの《化け者》の居場所を教えろって言ってんだよ」

「《あの人》を『化け物』扱いだなんて。弥寺くんも随分と口がわるい」

 化け物じゃない化け者だ、と弥寺は指摘する。「人間に化けている怪物、そういう意味だ」

「そうだね。天使だとか神だとか、そういったものもまた、弥寺くんの言うように『化け者』だね」

「お前、なにがあった?」どうしちまいやがった、と憤りだけが募っていく。

「ぼくはね弥寺くん。《彼女》と約束したんだ」

 沈黙を置くことで、何をだ、と促す。何を約束しやがった、と。

「ぼくは、ミサキとの日々を取り戻す」

 ミサキ――?

「それは、あの、ミタケン、お前の恋人の……」

 栞(しおり)岬(みさき)のことか――?

「そうだよ。死んでしまった、ミサキだよ。ぼくの大切なひと。ただひとりの、たったひとりの……大切な。ぼくの」

「お前――そいつあ、ちょいとばかし、ぶっ毀れすぎてやしねえか?」額に手をやって弥寺は、「死んだ人間を生き返してやるだなんて、そんな世迷言を《あの女》に言われて、そんで、お前、信じたのか?」

 信じちまったのか、と声を戦慄かす。

 そんな莫迦げたことを信じるような男ではなかったはずだ。

 どうしちまったんだ、と弥寺は動揺を抑えきれない。呆れかもしれないし、怒りかもしれない。

「馬鹿だと思うかい? なんとでも思ってくれていい。そうやって弥寺くんは、ぼくのことを心配してはくれるけど、ミサキを――彼女を生き返らせてはくれない。でも、少なくとも《あの人》にはそれができる。いや、解らないよ。もしかしたら弥寺くんの言うように、ぼくが馬鹿なだけで、《あの人》に騙されているだけかもしれない。でも、それだって、確かめなければ分からないことだろ。ぼくは可能性があるなら、どんなに低い可能性でも、その希望に賭けてみたいんだ。そのためなら、この命だっていくらでも賭けてみせる。いくらだって投げだせるんだ」

「なにを根拠に信じたんだ?」

 いくら自棄になっていようが、少なからずきっかけがあるはずだ。

 理由はなくとも、必ず、きっかけが。

「弥寺くんは信じてくれないだろうけど――」ミタケンはそう断って淡々と告げた「ミサキは、《彼女》の娘だ」

「むすめ……? 《あいつ》の娘だってのか? あの医者がか?」

 弥寺は、栞岬医師、彼女には逢ったことはなかったが、ミタケンの波紋を通じて容貌は見知っていた。

「そう。ああいや、娘というのは、少し違うのかな。『ドール』というものらしい。原理はぼくも知らないし、興味はないけど、でも、《彼女》には、ミサキを蘇らすことが可能なのだと言ってくれた」

「誰がだ?」誰がそんなことを言った、と弥寺は詰問する。

 《彼女》だよ、とミタケンは答えた。

「話にならねえぞ」弥寺はつまらなそうに鼻で笑う。「嘘つきの口にした言葉をお前は信じるのか?」

「嘘つき? 《彼女》が嘘つきだと、どうして弥寺くんに判るんだい」

「少なくとも《あいつ》は、お前のミサキを生き返らせるなんぞできねえぞ」

「だからどうして弥寺くんが」と叫ぶミタケンの声を遮って弥寺は、「お前の大切な人間ってのは、そんなコピー可能なほどに陳腐な人間だったのか?」と嘯いた。

「よしんばミタケン、お前の言う通り、シオリ・ミサキという女が、《あいつ》のドールとかいうオモチャだったとして――」

 いくら弥寺くんでもつぎにそんな言い方をしたら、とミタケンは憤る。

 意に介さず弥寺は、「――だとして、どうして《あいつ》が同じドールを作り出せる? 考えてもみろ。双子が同じ人間か? クローンが同じ人間か? 例えば、五年前のお前と、今のお前、同一の時間軸上に存在したとして、その二人のお前はおんなじ人間か? 人間てのはな、どんな場合でも、同じ人間ってことはありえねえんだよミタケン。遺伝子が同じだろうが、顔かたちが同じだろうが、記憶が共有されていようが、痛みが共有されていようが、それは同じではない。それらを同じだというのなら、人類すべての人間が、同じ人間だと言ってしまえるんだぞ。人類を一括りに、人類という個を認めるのなら、俺もお前も、お前のミサキも、《あいつ》も、みんな同じだ」

 弥寺はらしくもなく感情的になっている。

「そうじゃないだろ? お前が求めているミサキという女は、たった一人しかいない、なにものにも代えがたい、喩えがたい、代替のきかない、そういった存在なんじゃないのか?」

「そんなこと…………わかってる。わかってるんだよ。ぼくは解っててやってるんだ」

 ミタケンが頭を押さえ、蹲った。自分で自分の頭蓋を捻り潰そうとするかのようにして。「わかっているさ。知っててやってるんだ。ミサキはミサキ。――ぼくの愛した、ぼくの大切な、あのミサキは、もう死んだ。そんなこと、言われなくたって分かってるさ。でもね弥寺くん。でも、それでもさ、本当のところは、分からないじゃないか。なあ、弥寺くん……弥寺くんやみんなは、死後の世界を否定する。ミサキは死んで、無に帰して、そしてぼくが独りなのだと、そうやって諭すだろ。でも、本当にそうなのかな。もしかしたらミサキは、どこかでまだ生きていて、それでミサキは、ぼくが生き返らせるのを待っているかもしれないじゃないか。どうしてそれを弥寺くんが否定できるんだい。もしもミサキの魂がどこかで――」

「なら死ねよ」

 弥寺は冷淡に言った。

 ミタケンの言葉を断絶するように。

 冷たく突き放すように。

「死んで確かめてこいよ」と口にする。「どんなに可能性が低くても、お前はそのちっぽけな命を賭けられるんだろ。だったら限りなく零にちかい可能性に賭けてみせろよ。勝手に死んで、勝手にミサキとかいう女の亡霊と戯れてりゃいいだろうが」

 ――そんなつまんねエことに俺を巻き込んでンじゃねえぞ。

 と弥寺は吠える。

 単純に、ミタケンへの怒りで身体が震える。

 下らねえ。

 そんなことのためにお前は、ミタケン、お前は。

 ――世界をぶっ毀すだのと、そんな大それた戯言をほざいていやがったのか。

「弥寺くんにとってはくだらないことでも、ぼくにとっては、世界と比べても」

「うるせえよ」弥寺は声で黙らせる。「だから俺は止めねえよ、ああもう、ぜってえに止めねえぞ。お前にとって大切なことだあ? だったらさっさと死んで確かめてこいよ。なにが世界と比べても、だ。世界と比べてんじゃねえぞミタケン。これはお前の問題だろうが――お前にとって一番大切ことをなァ、世界に晒してンじゃねえよ。大切なら、本当に大切ならな、誰にも何ものにも教えるな、触れさせるな、毀させるな、比べんな。大事に大事に、自分だけの世界で守り抜けよ。なあ、ミタケン。本当に大切な想いならな――」

 ――死んでもこんな廃れた世界なんぞに晒してんじゃねえよ。

 弥寺はぶつける。

 容赦なく。

 蹲って何かを必死に堪えているミタケンへ。

 惨めなミタケンへ向けて。

 弥寺は思いの丈をぶつけた。

 言葉として、ぶつけた。

「どうせ人間はいつか死ぬぞ。俺もお前も、いつかは死ぬぞ。どうせいつかは確かめられるんだ、今でなくたっていいんじゃねえのか。ミタケン、お前の大切なミサキとかいう女――あと数十年くらいなら待ってくれるんじゃねえのか。数十年で冷める想いなんぞ、端からいらねえだろ。なあ、そうじゃないか? どうせお前は、このさき数十年後も、こうやってうじうじ莫迦らしくよ、そのミサキとかいう女を想いつづけてんだろうがよ。相手がどう心変わりしようが、死んじまっていようが、それでも想いつづけてんだろ。なあ、そうなんだろ? だったらたかが数十年、待ってみせろよ」

「待ってて、くれるのかな……」

 ――ミサキはぼくを、待っててくれるのかな。

 したたり落ちるしずくが、ぽとりぽとりと土に染みる。

 ミタケンは額に手を当てて、その顔を陰で覆っている。

 こぼれ落ちていく水滴だけが、弥寺からは視認できた。

 情けないと分かっているのだろう。

 その顔を見せたくはないのだと、見られたくはないのだと、そう思えるのだろう。

 だったらまだ、こいつは、

 ――毀れちゃいない。

「俺が知るかよ、そんなこと」弥寺は鼻で笑う。

 少し陽気に。

 おどけたふうに。

 弥寺は喉をふるわせる。

「俺は急用ができた。ミタケン、てめえは好きにこのさきの数十年を過ごせばいい。死ぬのも勝手だ。世界を毀すだ? 勝手にしろよ。お前ごときに毀される世界なんぞ、さっさと毀れちまったほうが増しだろうよ。俺はお前に愛想が尽きた。お前はお前だ。俺じゃアない」

 弥寺は背を向ける。

「弥寺くん」ミタケンは声をあげた。「ノドちゃんのことだけど……」

「ああ」わかってる、と弥寺は空を仰ぐ。「あれはあれで仕方がない。そうだな、忘れてたよ。ミタケン、お前には汚れ役を押し付けちまった」

 悪かったな、と弥寺は振り返らずに地面へ溢す。「後味悪くしちまった。すまん」

「いいよ」ミタケンは鼻水を啜って、涙を拭う。「ぼくは思うんだけど――あれでノドちゃん、ホントは全部知ってたんじゃないのかな」

「どっちでも同じことだ」

「そう……だね。ノドちゃんは優しい子だから」

「あいつの罪はあいつがきちんと背負っていた。なら、あいつを殺した奴にも罪を背負ってもらわなきゃならんだろ」

「知っているのかい?」ノドちゃんを殺したやつを、とミタケンは立ち上がる。

「俺を誰だと思ってんだよ」

「いちど訊いてみたかったんだけどさ」ミタケンが一歩だけ歩み寄ってきた。「そのお節介って……弥寺くんの趣味なのかい?」

 指で眉を掻きつつ、弥寺はちいさく嘯いた。

「道楽だよ。俺のな」

 

 やがて弥寺は世界へ浸透する。

 ミタケンを置いて。

 より深く。より遠くへ。

 ミタケンの波紋から読みとった、《あの女》の居場所へと。

 ――《あの女》だけは、許せねエ。

 理由などはいらない。

 そう、きっかけさえあれば。

 いつだって殺しておくべきだったのだ。

 

 

 ***マスター***

 喫茶店、「Ding an sick」。

 胸騒ぎがした。マスターは扉のそとを眺める。

 木々は葉を落とし、その枝はまるで根のようだ。冬がちかい。

 例年通りであれば、そろそろこの街にも雪が舞いはじめる。

 この胸騒ぎは――とマスターは思いだす。

 そう、あのときにも似たような不安を覚えた。

 半世紀以上も前のこと――。

 《彼女》が世界中で戦争をはじめた。

 のちに「リザの断裂」と呼ばれる悲劇である。

 まるで、世界という舞台をもとに、操り人形の寸劇をしているかのごとく。敵も味方もあやふやにして、分断して。水面下で《彼女》は世界を操っていた。それは同時に、『R2L』機関という組織を操っていたともいえる。

 その戦争が、《彼女》の戯曲をもとにして工作された恣意的な争乱なのだと気付けたのは、ダイチ・レンドという男、ただ一人であった。

 彼は、『R2L』全機関へと通達する前に、《彼女》への説得を試みた。

 話せば分かる。そう信じた。

 《彼女》の優しさを彼は信じた。

 人と動物とを区別せず、差別せず、分け隔てなく愛する《彼女》の姿を知っていた。

 《彼女》以上に慈悲深く、寛容な人間を、彼は知らなかった。

 きっと訳がある。この茶番染みた戦争にも、《彼女》なりの深い理由が。

 そう考えた。

 説得しに《彼女》のもとを訪れたダイチ・レンドが目にしたのは、彼の部下たちが殺し合っているそのよこで、その様子を悠然と眺めている《彼女》の姿であった。

「思ったよりもはやかったですね。でも。もう、手遅れです」

 《彼女》はそう告げた。

「何を、」

 ――何をしている。

 彼がそう思うと《彼女》は、

「デザインし直すの」

 と、凛、とした口調で囁いた。風鈴のような声音であった。

「やめないか!」

 ダイチ・レンドは部下たちへ向けて叫んだ。

 血に塗れ。

 波紋を殺気に尖らせ。

 まるでニボシのような『棘紋(きょくもん)』を放っている。

 歪んだ形相の。

 部下たちへ向け。

 ダイチ・レンドは叫んだ。「やめろと言うのが聞こえないか!」

「やめられるわけがないわ」

 そう囁く《彼女》は、彼らの死闘を愛おしそうに、儚そうに、眺めている。

 ――ねえレンド、いったい誰がはじめたのかしら?

 と疲れたみたいに《彼女》は嘆いた。

「ミントはシンに恋人であるユイサを傷つけられ、シンはユイサに形見を奪われて、ユイサはアンジェに脅されて――そのアンジェはケンジを救いたくて。ケンジはミントを愛していて、けれどミントはケンジの愛を拒み、見せつけるかのようにユイサと仲良くした。だからケンジはアンジェに打ち明けたの。どうすればよいだろうかって。だからアンジェはケンジのために、ユイサを誘惑して、それをもとに彼を恫喝した。きっとアンジェは、ユイサを悪者に仕立て上げようとしたんだわ。ミントとユイサを別れさせようとしたの」

 ねえレンド、いったい誰がわるいのかしら――?

「誰かが誰かを傷つける。傷つけられた者もまた、誰かをどこかで傷つけて。そうやって傷の連鎖は止まらない。どこかで誰かが幸せになれば、どこかで誰かが苦しんでいる。どこかで誰かが苦しんで、それで私が楽しめる。こんな歪んだ世界なんて――無いほうがいいわ」

「そんなことのために《リザ》、あなたは……この子たちを……」

「そうじゃないの、そうじゃないのよレンド。私だってこの子たちを止めようとしたの。でも、止められなかった。こうして……こうして彼らは散ってゆく。互いを互いの傷で削り合って、刻み合って」

 ほら、見て、レンド。

 ミントとケンジが残ったわ。

 きっとケンジは彼女を殺すのでしょうね。そうして自分も死ぬの。

 愛を永遠にしよう、だなんて、そんな世迷言を残してね。

「開けてください。この空間――《あなた》が閉ざしているのでしょ」ダイチ・レンドは仕切られた空間へ浸透しようと手を翳している。だが、まるでスクリーンに映し出された映像のように、その空間は揺らめくだけである。

 もっとも、この空間をこじ開けることはレンドにもできる。ただ、そうすれば中のかれらごと、粉砕してしまいかねない。やはりかれらを救うには、彼女の解除に頼るしかなかった。レンドはさらに懇願した。

「今ならまだ間に合います! どうか、どうか解いてください!」

 間に合うですって――?

 シンとユイサとアンジェ、その三名はすでに死にました。

 もう、手遅れです。取り戻すことはできません。

 彼らは私のために、そう、よく働いてくれました。

 世界をデザインし直そうという私のこの幼稚な思想を支持してくれた。

 でも、彼ら自身が世界の歪みにとり憑かれてしまっていたの。

 世界の循環に。システムのながれに。

 大きなながれに。彼らも蝕まれていました。

「ですが、ミントとケンジは生きています! まだ救えます!」

「生きていても、流されているだけでは、死んでいるも同然だわ」

 ――流されるだけなら死者にだってできるもの。

 《彼女》は涙した。

 その涙を《彼女》は拭わない。まるでそのしずくに気付いていないかのように、あたかも泣いていないのだと強がっているかのごとく。そんな、凛、とした表情で。

 ねえレンド――と彼女は謳う。声に出さぬまま。

 ねえレンド、「誰かを救える」だなんて、あなた、いつからそんなおこがましいことを口にするようになったの?

 生き残ることが救いですか?

 生きていることそれ自体が幸せですか?

 あなたにとっての救いが、ほかの誰かの救いになるとは限らないのに。

 本当に誰かを救いたいのなら、あなたはあなたという存在を犠牲にする覚悟で、その誰かを支えてあげようと、あなたという存在の一切を捧げなくては、誰かを救うだなんてそんなことはできないわ。それでも、あなたの存在の一切を捧げたとしても、救いたい者を救えるかどうかは分からないのです。

 救うと生かすは違います。

 生かすというのは、猶予を与えるということ。

 苦痛を感受する時間の延長。

 幸せになろうと抗える時間の延長。

 そうして善くも悪くも猶予を与えているに過ぎません。生きることでしか人は絶望も希望も抱くことはありません。けれど、苦痛から逃れることが救いの意味なのだとすれば、死だって充分に救いの一つなの。

 ほら、見てレンド――もう終わった。

 ね、言った通りでしょ。

 ケンジは自殺したの。ミントを殺して。その肉を食してから、ケンジは自滅したの。

 何もかも、ながれの通り。

 でも、分からない。

 ねえレンド、どうして彼は彼女の遺体を食したのかしら。

 同一化を望んだの? それとも、あれは贖罪ですか?

 ねえレンド。私、分からないのよ。

 人は、ほかの生き物の細胞を食すことで延命しますよね。

 食すことそれ以外では本来、ほかの生物を破壊するなんて行為は無用なはずなの。

 けれど、生物は生き残ろうと抗うために防衛するでしょ。

 自己防衛のための殺傷がそうして引き起るの。

 でも、自然界に目を向けて。

 本当に自己防衛のために生物は生物を殺していますか?

 自己防衛のために生き物を殺すのは、人類だけではありませんか?

 ミツバチは巣を守るために外敵を排除します。けれど、それは自己犠牲を伴う、決死の防衛です。自己防衛ではないのよ。

 誰でしょう、自己犠牲が人類の特権だ、なんておこがましいことを言ったのは。自然界では自己犠牲なんて珍しくはないというのに。

 むしろ、「種を守るために自己を犠牲にする」というシステム――自然淘汰されて生き残ってきた生物ならば、どの種にもこのようなシステムは組み込まれているものなのです。

 けれど人類は、そういった先天的なシステムに抗うことができます。

 それはある意味では進化と呼べますし、また一方では明らかな欠陥とも呼べるでしょう。

 そうして人類は、自己保存や自己犠牲などを、まるで出鱈目に、無秩序に、不規則に、行えるの。

 本来なら明確な規則性をもっていたそれらのシステムから人類は逸脱して――生贄や自殺や戦争や自爆テロ――そういった狂った未知なる道へと迷走し出しました。

 自由意志という幻相によって。

 人類は選択肢を増やしてきたの。

 まるで誰かの身勝手な意思によってもてあそばれているかのように。

「止められたはずです! 《あなた》なら! 彼らを!」ダイチ・レンドは問う。「なにを……なにを仰られているのですか、《あなた》は……いったい。なにを」

 おかしい。

 こんなのは、《彼女》らしくない。

 緘黙したまま《彼女》は、波紋を通じて語りかけてくる。

 まるで、声の届かない場所へと消えた、「彼ら」へ捧げるように。

 

 人類は、過剰に死を畏れ過ぎています。死を軽んじています。

 死を遠ざけ、忌むべきものだとして扱っています。それは、軽んじているのと同じです。

「私は彼らの死を見届けたかったの。とめられないのならせめて、彼らの死を――」

 ねえ、レンド。どうしてみんなは受け入れないのかしら。

 すぐ側に、誰の身近にも死は隣合わせて存在していることを、自分が死を内包していることを、どうして人は忘れようとするのかしら。なぜ目を逸らしてしまうのかしら。

 ――死を恐怖しつづけることこそ、人が人であるためには必要なことだというのに。

 ねえ、レンド。あなた、以前に言っていましたよね。

 ――生きるというのは抗うことです。

 ――抗う自分に抗うことです。

 あなた、そう言ったの。

 ねえ、覚えてますか?

 でもね、私は思うの。

 抗うのは自分にでもなく、他者にでもなく、この大きなながれに対してではなくて?

 世界は安定を求めています。

 完璧な存在、完全な世界へと変貌を遂げるために、破壊と構築を繰り返して、より「らしい」世界へと進化しようとしています。

 そのながれに流されてしまっているからこその、この人類の軌跡です。

 破壊と生産のスパイラル。

 もう、私、うんざり。

 世界が私たちをそうして道具として扱うのなら、私は抗いたいわ。

 だって、悔しいじゃない。

 本当はだれの犠牲もなくみんなが幸せになれるかもしれないのに、世界の身勝手な意思のせいで、私たちがこんなにも哀しみに暮れなくてはならないだなんて。

 だから私、決めたの。

 私は人類すべてを保持者へと変えます。

 そうして、人類として、世界へ抗うの。

 いいえ、保持者では駄目ですね。世界は広大だから。

 そう、《アークティクス》――人類はそれを認識しなくては、抗おうとすることすらできないのでしょうね。

 だから、だからね。

 私はきっとつくりかえます。

 人類すべてを、

 ――【ゼンイキ】へと。

 

   ***

 組織の解体を目論んでいた《彼女》。

 だが、皮肉にも、《彼女》自身が掲げていた「現状の平和維持」を信念としている『R2L』機関は、もはや《彼女》の革新的な思想には理解を示さない。

 それを《彼女》は見透かしていた。ともすれば、見限っていた。

 力ずくで組織を解体することを《彼女》は選んだ。

 むろん、個人が組織に対抗し得る力をもっているはずもない。それはまた、圧倒的な戦力を誇る《彼女》においても例外ではなかった。

 そのために《彼女》は――、

 学び舎と学び舎と学び舎と学び舎

 機関と機関と機関と機関

 国と国と国と国

 人と人と人と人。

 ――そうして確執を生みだし、摩擦を増やして、そこへ導火線を引くことで、自然発火するように仕向けた。

「ダイチ・レンドの部下」が仕込んだそれらは、「彼ら」が死んだことで、責任を追及する矛先を完全に失い、そして発火。

 組織は壊滅的な打撃を受けた。

 その隙を突くように《彼女》は、直接的に行動を開始した。

 全世界に散らばっていた《彼女》のドールたち。

 ドールを遣って《彼女》は、全世界に点在した当時のアークティクス・ラバーたちの半数以上を戦闘不可能な状態へと陥らせた。具体的な方法は未確認。《彼女》の攻撃を確認したはずのアークティクス・ラバーたちのことごとくが、意思の疎通が不可能な状態にされていたからだ。

 肉体と人格と存在の。

 死と崩壊と消滅を。

 《彼女》は齎した。

 『R2L』機関の戦力は激減した。

 各地の学び舎にいる組織幹部および、総括クラスの面々を《彼女》は恫喝した。

 圧倒的な暴力による恫喝。

 ときには抹殺した。無言の威圧として。できるだけ無残に。醜悪な肉塊へと。

 一対一で《彼女》に対峙して殺り合うなど、蜘蛛が人間と争うようなものであった。

 ただし、蜘蛛を苦手とする人間もいるものだ。または、毒をもった蜘蛛もいる。ましてや、一メートル級の巨大な蜘蛛であれば、いくら人間であろうとも、撃退するのは容易ではないだろう。

 そういったアークティクス・ラバーがその当時いた。

 その名を弥寺といった。

 いちど、《彼女》との激闘を交えるが、弥寺はなおも戦闘可能な状態で帰還した。弥寺はその一件で、ゆいいつ《彼女》に対抗し得たアークティクス・ラバーとして一躍その名を轟かせた。しかし弥寺はその戦闘で記憶の一部を失ってしまった。弥寺にとっては大きすぎる代償であった。

 体勢を整えてから弥寺は、《彼女》の「ドール」を次々に惨殺しはじめる。

 ――虱潰し。

 点と点を結ぶことで《彼女》までつづく道を紡ぎ出せるのだと信じて疑わない執心。それはまるで、子どもが目当ての玩具を引き出すまで、ひたすらに買い込むような執念。または、闇雲に蟻を潰しつづけて、女王蟻が巣から出てくるように仕向けるかのような執着。

 そうして弥寺は、本体とも呼べる《彼女》を捜す過程で、とある少女へと辿り着いた。

 少女の名は、オリア・リュコシ=シュガー。

 《彼女》の娘であった。

 父親は不明。

 組織の見解としては、《彼女》が特別に生み出した、《彼女の格》を有した「ドール」ではないか、というのが大筋の見解であった。真偽のほどは定かではない。

 初めて少女を間の当たりにした際にダイチ・レンドは、少女が《彼女》の娘であることを素直に納得した。少女の波紋が、《彼女》との「類似」と「差異」――の両方を物語っていたからである。

 その少女は、ドールでもなく、また「他人」でもないのだ――とそう知れた。

 その《彼女》に類似した波紋があったからこそ弥寺は、ドールや少女を見つけ出すことができていたようだ。記憶を失っても、弥寺の身体がそれを覚えていたようである。刻み込まれた《彼女》の片鱗を。

 少女が糊塗しきれていなかった波紋の余波から《彼女》特有の波形を感じ取って、少女が隠匿されていた断層まで嗅ぎつけることができたのだという。

 弥寺が嗅ぎつけたとき、少女は、アークティクス・サイドからもさらに数断層はずれた、より《アークティクス》に近い世界へと浸透していたらしい。

 弥寺か《彼女》でなければ、その階層へ浸透することなど、まず不可能であっただろう。

 弥寺がここまで《彼女》と同等レベルの保持者だったのか、とダイチ・レンドは素直に驚嘆した。どうやら少々、弥寺という小僧を見くびっていたようだ、と反省する。

 組織はオリア・リュコシ=シュガー――《彼女》の娘を、この無益な戦争を終わらせるための切り札として利用することを即座に決断。

 弥寺へ、ドールの殺戮をやめるようにと指示し、そのうえで継続してドールの確保を要請した。

 そのあいだ組織は、ドールを通して《彼女》への連絡を試みる。

 それをドールたちはことごとく拒んだ。如何ような拷問を施しても、どのような苦痛を与えても、ドールたちは《彼女》への連絡を頑なに結ばなかった。実際には連絡など取れなかったのかもしれない。だが組織は執拗な詮索をやめなかった。悠長に手段を検討している場合ではなかったからだ。

 一方で、《彼女》の組織解体作業はつづいていた。

 組織を形成していた主要人物たちは次々と姿を消していく。逃げ出した者も少なからずいただろうことは想像に難くない。

 そのころになってようやくダイチ・レンドは自分のしていたことが、実は、「過ち」ではなかったのか、という不安を抱きはじめる。《彼女》の娘――オリア・リュコシ=シュガーを《アークティクス》により近い断層へと幽閉したのは、実のところ、ダイチ・レンド、彼であった。

 少女を、《彼女》と組織との抗争に巻き込みたくはなかった。

 ところが、弥寺に捜しあてられてしまい、レンドのその配慮は、《彼女》の足を引っ張るものでしかなくなった。さらに、レンドは、《彼女》の組織解体という目的と計画を知っていながらに、それを止めることをあのとき、しなかった。レンドは《彼女》を黙認したのである。

 その結果がこの――犠牲と死滅と衰退と――熾烈で無益な悲劇――最悪の災厄であった。

 構築の前には破壊が必要だ、と《彼女》は言ったが――果たしてここまでの破壊は必要なのだろうか。

 ダイチ・レンドはゆれた。

 そして決断する。

 ――止めるべきだろう。

 止めることが《彼女》のためでもあるのだろう。

 《彼女》は矛盾している。

 いま《彼女》のしていることこそ、《彼女》が忌んでいた、「大きなながれ」に流されているということではないのか?

 《彼女》はいま、もっとも許し難いことを自分で行ってはいないか?

 ダイチ・レンドはドールたちに変わり、《彼女》への交渉を試みる。

 独断専行。組織には無断の説得であった。

 もうやめてくれ。

 《きみ》がやめなければ、きっとあの子は殺される。

 痛みに苦しみと恥辱を重ねられて殺されてしまう。

 もう、やめてくれないだろうか。

 あの子のために。

 なによりも。

 《あなた》のために。

 組織は引きつづき、あの子の面倒を看てくれるでしょう。《あなた》がもうこんなことをしないと約束して、それを実現しつづけてくれる限り、組織はあの子の平穏な生活を保障してくれるはずです。

 わたしはそれを監視します。

 《あなた》の代わりに、わたしはあの子を監視します。

 そのために、わたしの『核』をあの子へ与えましょう。

 そうすれば、あの子に何かが起これば、それはわたしの変調として、わたしに伝わります。あの子が死ねば、わたしもパーソナリティを制御できなくなり、自滅するでしょう。

 組織はわたしに隠れてあの子へ何かをすることはできなくなります。

 その代わり《あなた》は、『核』を失くして不安定になったわたしを――わたしのパーソナリティを――毎日、鎮静化しに来てください。わたしの特質は、きっと、《あなた》の力を借りなくては数年も持たずに世界への影響を引き起こすでしょう。これは危険な賭けです。わかっています。

 きっと《あなた》はわかってくれると信じています。このわたしの決意を。

 わたしは《あなた》と『機関』とのあいだの緩衝材となります。

 わたしにできることは、それくらいなものだから。

 組織はあの子に縛られて、

 《あなた》は組織に縛られる。

 その中間をわたしという存在で繋ぎましょう。

 ええ。わたしばかりが損をしているようにも見えますね。ですが、わたしには罪がある。それを償うには、こんな条件――随分と贅沢な罰でしょう。

 わたしはあの子へ《核》を譲ったのちに、『最境』へ籠ります。

 そうすれば、たとえわたしが不安定となっても、世界への影響は幾分も抑えられるはずですから。

 その『最境』へ《あなた》は毎日かかさず訪れてください。ドールたちではなく、《あなた》が必ず。そうでなくては、縛りになりませんし、《あなた》のドールでは力量不足です。

 この条件を呑んでもらえないというのなら、ええ、どうぞ、わたしを殺して下さい。

 そうすることで、《あなた》を縛るものはなくなるのでしょう。

 あの子は殺され、あなたは自由です。

 なにものにも縛られない――本当の自由になれることでしょう。

 さあ、時間はありません。

 終戦を宣言するのか。

 それとも、

 破壊を強行するのか。

 《あなた》は否定しましたが、わたしは今でも思っていますよ。

 ――生きるというのは抗うことです。

 ――抗う自分に抗うことです。

 

 

 ***ライド***

 弥寺からの連絡は一方的だった。

 

   ・ミタケンは始末した。

   ・俺は用がある。

   ・サイカがいれば充分だろ。

 

 それだけがバイタル通信に届いていた。

「さすが弥寺くんっ! ふざけおッて!」

 ライドは安堵と憤怒を、いちどきに抱く。

 ミタケンを処分してくれたのは吉報ではあるが、実験にはなるたけ弥寺に同席していてほしかった。

 万が一にも、実験中に「アレ」が暴走したときのことを顧慮すれば、是非とも弥寺には「バブルの塔」内にいて頂きたい。そうでなくとも、順風満帆にことが運び、実験が成功したあかつきにも弥寺には側にいてもらわねばならない。

 成功すれば、「アレ」は【ゼンイキ】となる。

 記憶も。善悪も。感情も。理性も。欲情も。なにも持たない完璧な人形として。

 ――【ゼンイキ】の創造。

 アークティクス・ラバーよりもさらに《アークティクス》に愛される者。

 《アークティクス》そのものが〈レクス〉の者。

 世界の全てを感受する者。

 ――【ゼンイキ】。

 三六〇六名の保持者たち――よりパーソナリティ値の高い者たちの「波紋」を重複させ、複合させ、記録され、凝縮させた――血肖液。

 その血肖液を「アレ」と共振させ、注ぎ込む――オリア・リュコシ=シュガーという器へ。

 人は誰しも器を持っている。それは自己という「かたち」であり、また、自己という循環をある一定の範囲内にとどめ、区切っている「境界」でもある。

 人はいつだって同じではいられない。しかし、それでもその変遷しつづける中身は、自分という器によって限定されている。そこから外れることはない。

 外れることがあるとすればそれは、器が崩壊したときである。

 人はそれを死と呼ぶのだろう。

 肉体の死と。

 精神の死と。

 形状の死と。

 記憶の死と。

 人は、器がある限り、己として継続される。

 だが、その器に、容量以上の中身が詰め込まれると、人は、器ごと崩壊する。決壊する。

 己という循環が、世界に流れる大きな循環へと呑み込まれてしまう。

 血肖液――これは、人の器には重すぎる。

 だが、オリア・リュコシ=シュガー。彼女には、それに耐え得る『器』がある。

 だからこそ、彼女でなくてはならない。

 今のところ、血肖液を受け入れられるほどの器をもっているのは、オリア・リュコシ=シュガーとその母親たる《彼女》、そして弥寺とその妹の未神の四人くらいなものである。いや、ダイチ・レンド――きゃつもひょっとすれば、そうなのかもしれない。計り知れない男である。実力者であればあるほど、その本当の実力が容易には窺えない。とは言え、仮にきゃつが『器』を有していたとしても、ダイチ・レンド――あの珈琲ヤロウには、これからも大いに役立ってもらわねばならない。

 組織のために。世界のために。《彼女》を縛りつづけてもらわねばならない。

 以前のライドも、もしかすれば『器』としての価値があったのかもしれない。

 しかし、ライドは「何か」を失った。自己の「軸」を失った。

 それゆえに、ライドはこの実験によって、新たな「軸」を得ようとしている。

 【ゼンイキ】は、《アークティクス》を変えることで、《アークティクス》に内包されていることごとくの〈レクス〉をも変えることができる。生物の生態を、性質を、変えることができる。

 ライドの不安定なパーソナリティも、【ゼンイキ】がその気にさえなってくれれば安定させることなど、「たっは。お茶のこさいさいっしょ」とライドは睨んでいる。

 ともすれば、全ての生物を保持者にすることも――不可能ではないのだろう。

 ライドの私情を抜きにすれば、この実験の目的は、

 『現時点で不安定とされている保持者たちの安定化』

 『暴走者の根絶』

 ――つまり、すべての保持者たちを進化させることにある。

 暴走の危険さえなくなれば、保持者は、学び舎という「閉鎖された世界」に隔離される必要はなくなる。学び舎そのものは、今後ともに保持者たちには必要となるだろう。しかし、現状のような幽閉を強いる必要はなくなるのだ。

 この実験プロジェクトは、十年前の事件がきっかけで発足した。

 

 一〇年前の事件――。

 とあるステップにあるフロアの一角でそれは起こった。

 ステップ内でひらかれていた「保全クラス」「基礎クラス」「素養クラス」「応養クラス」の講義の最中に、どこかのクラス内で乱闘騒ぎが突如発生した。またたく間にフロア内にいた保持者たちを巻き込んでの争乱へと展開した。

 だが、一瞬にして争乱は鎮静化した。

 騒動以上の異常な現象が発生したためである。

 争乱を引き起こしていたおよそ一五〇〇名の保持者のうち、三二六名の保持者たちが、一瞬にしてそのパーソナリティを消失。それと共に彼らは、保持者ではなくなり、また一般人でもなくなった。

 彼らは廃人と化していた。

 三二六名の保持者たちは、みな一様に、自己が完全に崩壊していた。

 死が『器』の消失であるならば、自己の崩壊は、『器』の中身が空の状態と呼べよう。

 ――死んではいない。

 ただし、

 ――生きてもいない。

 そんなモノに、三二六名の彼らは、成り下がっていた。

 その鎮静化した瞬間――アークティクス・サイド全域に仕掛けられている測定機器の一切が、一瞬にして計測不可能なほどの、高密度のメノフェノン混濁を観測していた。

 誰かが暴走したことは自明であった。

 しかも――弥寺レベルの――いや、それ以上のパーソナリティで以って。

 だが不思議なことに、暴走者は判明しなかった。

 争乱の発生源と思われる現場にいた一人の保持者。その保持者の証言によれば、暴走した者は、自滅したのだという。

「咄嗟に機転を利かせて、みんなを守るために、周囲の保持者たちの活動を静止させました」とその証言者は口にした。

 その者が証言した通り、現場には、粉々に砕け散った保持者の痕跡が残っていた。

 その室内は凍りついていた。

 ――その証言者と、その友人だけを残して。

 組織は認識を改めた。

 その自滅したと思われる暴走者の所属していたクラスは、『素養クラス』である。アークティクス・ラバーとなるには程遠い、パーソナルティ値の低い保持者のクラス。そんな屑のなかから、弥寺のようなバケモノ級の暴走者が出るなど、これまでの常識では考えられなかった。

 どんな保持者においても、初めに行われる検査や査定によって、「適正」や「総合パーソナリティ値」は決定される。それは一生涯変わることはないとされていた。組織からの認識が、ということではなく、その保持者の性質が、ということである。

 保持者の表層から探れる平均パーソナリティ値から、その保持者の最大パーソナルティ値を算出することが可能である――とこれまではそうされていた。

 元々ある性質が、その後の成長を決定する、という理屈である。

 元から「足の遅い人間」は、どんなに頑張っても、「世界一、足の速い人間」にはなれない。個性はあまねく、素質によって決められる。素質とは、元来的に発揮されている、素のままの性質のことである。何の訓練も精進も行わずに発揮することのできる能力――それこそが素質である、と規定されている。

 だが、この事件をきっかけに組織は、表層からでは計り知れない、潜在的に秘められたパーソナルティも存在するのだという事実を観測した。

 進化の可能性は広がった。

 どんな保持者にも、【ゼンイキ】となり得る可能性が有されている。ならば、教育次第では、その潜在するパーソナリティを開花させることも可能となるのではないかと。

 それこそが、ライドが着手している、この実験プロジェクト――『ゼンイキ・プロジェクト』である。

 だが、臥薪嘗胆、思うようにはプロジェクトは推進しなかった。

 才能は育むことが可能だ。一方で、素質だけは、先天的なものである。

 素質が知覚的に確認できない限り、素質のある者を探し出すのは宝くじを当てるような博打を期待することになる。

 事実、未だにライドの欲する「素質を有している者」を探しだせてはいない。

 弥寺と《彼女》と『未神』と「アレ」の四名以外を除いては――であるが。

 この事実はまた、素質が表に確認してとれる者を実験に利用することが難しいということも示唆している。できるだけ表層のパーソナリティ値が低く、けれど素質のある者――実験に堪え得る『器』を持っている者――であれば、都合が良い。

 死ぬことが分かっている実験に志願する好事家など、少なくともこのアークティクス・サイドにはいない、とライドはそう思っている。

 「アレ」の代わりに素質のある者を探す一方で、見つからなかったことも考慮し、「アレ」を用いての実験準備も行ってきた。

 「アレ」は、《彼女》を束縛するために必要な枷ではあるが、「平穏に暮らしていること」にすれば問題はない。

 弥寺にはこれからも組織に貢献してもらわねばならない。また、《彼女》を利用できるはずもない。一方で、『未神』は弥寺の怒りを買わぬようにと、生存しつづけてもらわねばならない。ならばやはり、実験に遣えるのは、「アレ」以外にはあるまい。

 そして現在、実験の手筈は整った。

 血肖液も、理論上は問題ないとされる値にまで濃縮させた。

 血肖液――。

 ――高密度に凝縮したメノフェノン混濁を波紋化した触媒。

 ――パーソナリティ値の高い保持者の犠牲によって生成された液剤。

 ――才能のある子どもたちの命を摘み重ねた結晶。

 【ゼンイキ】を生みだす元――血肖液。

 【ゼンイキ】に生まれ変わる者――「アレ」こと――オリア・リュコシ=シュガー。

 

 楽しみで楽しみで。

 楽しみで楽しめでしめしめで。

 ライドは胸の高鳴りを抑える気すら失くし、刻んだ女の子から「血肖液」を抽出する。抽出したそれを今度は、濃縮させている『血肖液』へと融合させた。

 犠牲はあればあるほど善い。

 ライドは「アレ」の収容されている容器を見遣る。

 オリア・リュコシ=シュガー。

「十日は目覚めない」と弥寺は言っていたが、果たして本当であろうか。

 ――できるだけはやく実験がしたいなあ。

 ライドは無邪気な子どものように、明日が待ちきれない。


 ***サイカ***

 本当は気付いていた。

 なぜオリア・リュコシ=シュガーが、アークティクス・サイドからの離脱を試みて、その直後に暴れ出したのかを。「バブルの塔」を壊滅させようとしていたのかを。

 私。

 本当は。

 気付いていた。

 ライドが自力で「ラビット」をサイドエリアから調達した際――。

 オリア・リュコシ=シュガー、彼女もまた密かにバブルの塔へと着いてきていた。偶然だったのだろう。ライドがバブルの塔の外に出ようと思ったのも。自ら「ラビット」を調達しようと試みたのも。ラビットとして犠牲になった彼らが、一二三号棟の無印エリア付近の、人気の少ない場所を通ったのも。その近辺にオリア・リュコシ=シュガーがいたのも。すべては偶然だったのだと思う。

 ライドの不安定な波紋の片鱗をオリア・リュコシ=シュガーは感知した。興味を持ったのか、はたまた不審に思ったのかは定かではないが、彼女は「浸透」して存在を掠めたまま、彼らと共にバブルの塔へとライドの案内のもと、密かに訪れた。

 ところが、バブルの塔へ侵入してみたものの、離脱ができなかった。オリア・リュコシ=シュガー、彼女の力を以ってしてもあの空間からの離脱は困難だったのだろう。

 そういった特殊な空間こそが、「バブルの塔」だからだ。

 そうして離脱できない状況のなか、彼女の目のまえでラビットの解剖および分解は淡々とライドの狂喜のなか行われた。

 どうしようもなかったわけではないだろう。オリア・リュコシ=シュガー、彼女であれば、ライドを止められたはずである。だが、彼女はライドの兇行を止めなかった。関わりたくなかったのだろう。崩されたくなかったのだろう。

 そのころ、彼女は初めての友達ができていた。

 無聊だった日常に潤いを得ていたのだから。

 彼女はそのまま浸透しつづけた。バブルの塔のなかで――「人間解体」を目のまえにしつつ――離脱の機会を窺っていた。存在を掠めたままで。ひっそりと。数人の若者たちが悲鳴すらあげることもできずに無残に切り刻まれていく光景を。ただ茫然と眺めながら。そこにじっとしていたのだ。

 そんな折にバブルの塔へ私が侵入してきた。

 彼女は聴いていたはずだ。

 私とライドの会話を。

 自分が組織に騙されていたことも、私たちが何をしようとしているのかも含めてすべての言葉を聴いていたはずだ。それでもじっと掠めていた。波紋も。存在も。感情も。すべての起伏を。抑え。沈めて。

 やがて私がバブルの塔から離脱する段になって。

 彼女は私と――『同一化』した。

 ――私の〈レクス〉と同調した。

 私にはそれを感知することができなかった。それはそうだ、そもそもの器に歴然とした差がある。彼女がすぐそばに「浸透」していたことにすら気付けなかった私ごときが、彼女の『同一化』に気付けるはずもない。

 オリア・リュコシ=シュガーは、私に溶け込むことで、私と共にバブルの塔を離脱した。

 そのとき。

 彼女は視たはずだ。覗いたはずだ。私の目から視た世界を、私の裡から感じた世界を、私が抱いている想いの数々を――私の歴史を、私の過去を、私という存在を――洗いざらい余すことなく視たはずだ。

 完全なる『同一化』なしにバブルの塔からの離脱は不可能だ。

 彼女は一時――。

 

 ――私となった。

 

 きっと、それからのことだろう。

 オリア・リュコシ=シュガーが、頑なまでに、人の目の一切を避けるようになったのは。

 

 あの日。

 あいつに逢いにいったとき、私は彼女を発見した。

 彼女はあいつのうしろに、うっすらと浮かび上がっていた。

 蛍の灯りのように淡く。

 風にゆらめく霧のように。

 まるで逡巡しているみたいに。

 彼女はベンチのそばで佇んでいた。

 咄嗟に私は声をあげていた。

 彼女が、はっ、と息を呑む様子が窺えた。

 そのまま彼女は透けて消えた。

 

 私が彼女を認知するまでのあいだ。発見するまでの期間。

 彼女はベンチの側にずっといたのだと知れた。

 浸透しつづけていたのだと知れた。

 あのベンチの傍らでずっと。

 彼女は。すぐ側でそっと。

 想い人の側でずっと。

 その想い人がなぜ悩んでいるかを知っていながら彼女は。

 彼のまえから姿を消し。

 存在を隠し。

 想い人である彼のために。

 一方的な別れを決意したのだろう。

 そばでしずかに見守っておきながら。

 私の裡を覗き、私の歴史を視た彼女。

 私の意図を知り、私の意志を酌んだ彼女。

 だからこそ彼女は、想い人のまえからも姿を消し、存在を眩ませたのだろう。

 それを。

 その彼女の決意を。

 ――私は揺るがした。

 私は彼女の配慮を否定した。打ち砕いた。言葉を吐いて、波紋を通して、あなたがやっていることはすべて中途半端で余計にあいつを傷つけているだけなのだと。

 そうして彼女は考えたはずだ。

 どうすれば想い人が救われるのかを。

 幸せになれるのかを。

 結論は、いたって単純なものだった。

 ――組織を壊滅させればいい。

 少なくとも、「バブルの塔」で行われている実験。進められている計画。それさえ潰れさえすれば、想い人の危険はなくなる。そう考えたはずだ。私ができないことを彼女ならば実現できる。それだけの器が彼女にはあるのだから。

 だが。

 それは失敗に終わった。

 弥寺――。

 彼の器もまた常軌を逸していた。

 その結果が現在だ。

 しかしこれもまた一つの救いではある。

 オリア・リュコシ=シュガー。彼女が犠牲になってくれさえすれば、私の危惧もこれまでの犠牲もこれからつづくだろう犠牲もすべて――すべて終結する。

 霧は晴れ、闇も消え、紅い雨も、悲愴な雨も、すべてが幸せの芽を育む雨となる。

 希望の朝陽が顔を出し。

 柔らかな陽差しに照らされて。

 あたたかな日々を迎えられるはずなのだ。

 オリア・リュコシ=シュガー。彼女を犠牲にするだけであらゆる危惧は取り除かれ、解決する。

 あいつはまた傷つくだろう。

 だがその傷は時間が癒してくれる。あいつはつよい。だからこそこれが最善なのだと思っていた。

 なのにどうだ。私がこれからやろうとしていることは矛盾を通り越して、ちぐはぐな傷の縫合ではないか。中途半端に傷口をいじれば、傷は悪化するだろう。化膿し、ついには身体ごと腐敗させてしまうかもしれない。一切を蝕み、じめじめとした浸食類の餌となるだけかもしれないのに、なのに私はそのさきに視える一筋の光、流れ星のように短命な一瞬の光を求めるためだけに私は、これまでの犠牲も、血も、涙も、傷も、痛みも、凡てを擲とうとしている。

 ばかだ。

 私はなんて頭がわるいのだろう。狂っているのだろう。どこまで毀れているのだろう。

 ひとつの笑顔。

 いっときの笑顔を得るためだけに私は。

 いったい。

 何人の命を奪い。

 幾つの笑顔を奪い。

 幼い子どもたちの血で。

 この手を。この身体を。存在を。

 どすグロく染めあげ。幼い命たちを。

 裏切って。千切り刻んで。踏みにじって。

 悲鳴を。助けを。血を。涙を。体液を。苦痛を。

 視てみぬ振りをして。耳を塞ぎ。謝罪の念で振り払い。

 蒙るべき罰を、いったいだれだけこの器に溜めてきたのだろう。

 でも、それでも、そうすることでしか私はあいつを守れなかった。

 誰も私の助けになってくれなかった。誰にだって打ち明けることができなかった。

 だって、だって、秘密にすることでしか、嘘をつくことでしか、偽ることでしか私は。

 当時の私はそうすることでしかあいつを守る術を知らなかった。非力なことは罪じゃない。

 でも、いったん誰かを守ろうとしたのなら非力なことは罪なんだ。それを私は知っている。何としてでも私は。

 私はあいつを守らなければならない。私のために。私が私であるために私は――あいつを守らなければならなかったんだ。

 相談なんて誰にもできない。非力な自分にできることのなかであいつを守るしかなかった。大切だと思うすべてを守ることなんて非力な私にはできなかった。

 大切なもののなかでどれを切り捨てどれを残すのか。そうやって選ばなければ私は大切なものを両方ともに失ってしまうのだから。

 いずれ凡てを失ってしまうのだから。

 私は選ばなければならなかった。何がもっとも大切で、何がつぎに大切なのかを。

 何を捨て、何を得るべきなのかを。

 選択の回数が増えていくたびに残ったものの価値はかさんでいく。これまでに切り捨ててきた分の犠牲が加算されていく。得勝手な価値観だと思う。それでもそうしなければ私は、切り捨ててきた大切なものたちへ申しわけがたたなかった。切り捨ててきたものは本当は手放したくなかったものたちで、ずっと手元に抱き寄せていたかったものたちで、そんな大切なものたちだったのに、それらを犠牲にしてでも残しておきたいものが、毀したくなかったものが、失いたくなかったものが、私にはあったんだ。

 ――コロセ。

 あの、暢気で、間抜けで、お気楽な。

 能天気で、優しくて、健気で、愛おしく、頼りがいのない。

 時折ふいに苛めたくなるような、守ってあげなくてはすぐにでも崩れてしまいそうな、一途でまっさらで真っ直ぐな、押せば押すだけ形が変わってしまう。そんな可塑性の高い素直なおばかさん。

 私はあいつに笑っていてほしい。ずっとずっと笑いあえたらいいとそんな夢物語だけを望んでここまで来てしまった。いまさら引き返すことなどできはしない。それこそ人は過去には戻れない。

 なのに私はあいつへ勝手に付加しつづけてきた。数多の犠牲による引き返せない言い訳を。そんな犠牲の凝縮した価値をも擲って、たった一瞬の儚いあいつの幸せのために私は。あいつの笑顔のために私は。これまでの犠牲と忍耐と苦痛と悲痛と汚名と悲鳴と残虐と自虐と苛厳と血と肉と赤と黒と醜悪の――醜悪の螺旋を――私は擲ち――飛び降りた。もうすぐ天辺へ辿り着くというのに私は遥かしたにある針のような一点――星のような輝きに向かって私は、飛び降りた。

 着地した瞬間きっとその輝きも私も両方がいっぺんに一瞬にして潰れひしゃげ崩れ去るのだと解っていながらも私はもうすでにこれまで辿ってきた醜悪な螺旋を横目にひんやりとした冷気をからだいっぱいに浴びながらはるか深淵へと向かって暗闇の疾風に抗い一矢のごとく一糸の幸のもとへ一死を対価にただしずかに落ちていく落ちていく私が落ちた分何かが浮上してくれればそれもまたひとつの救いになるのだろう。私にとってただそれだけがただひとつの希望ただひとつの祈り。

 誰でもいいんだ。誰でもいいからどうか。どうか私のこの祈りに誰か誰かこたえてください。

 あいつをどうかどうか幸せにしてください。

 誰だっていいんです。

 どうかあいつを救ってやってください。

 私にはもう。

 誰かを掴みとめておける手が。

 ひとつだって残ってなどいないのだから。




 +++第十章『夢・現・鏡』+++

 【鏡に映った景色もけっきょく目に映った風景の一つです】

 

 

   タイム△スキップ{~基点からおよそ四カ月後~}


 ***コロセ***

 カエデが立ち去ってから僕は、いつもみたいに夜の帳が下りるまでじっとベンチに座っていた。風が冷たくなってきて、そろそろ本格的な防寒が必要だな、なんてぼーっと間抜けに感想を抱いていたりして。すでに防寒が必要な気候なのに、僕はマフラーもコートも身に付けずにいる。もしかしたら僕の無意識が、頭を冷やせ、と言い聞かせているのかもしれない。

 なにも、考えたくなかった。

 これから成さなければならないことは何なのか。

 何が問題で、どれが放っておくべきことなのか。

 答えを出したくないだけかもしれない。

 コヨリは言っていた。

「割り切れないことはいずれ断ち切らなければならないの」と。

 けれど、僕は断ち切りたくなどはなかった。

 ほんとうにこれが断ち切ってしまってよいものなのかどうか自信がなく、覚悟もなかった。

 断ち切ってしまった僕は、僕ではなくなるのではないか――そんな気がして、なんだかすこしこわいのだ。臆病になっている。僕は失いたくないのだ。コヨリも努樹もさっき出逢ったばかりのカエデだって――ノドカだって――ノドカだって僕は――――これっぽっちも失いたくなどはなかった。たったこれだけの、こんなにすくない数の大切なひとたちを、僕は誰ひとりとして繋ぎとめることができない。できないどころか、僕なんかが繋ぎとめるべきではないのだとすら思う。それでも僕は、できることなら、許されるのなら、ずっと一緒に、変わらずに変わり続けていたかった。共に在り続けたかった。歩み続けたかった。

 でも、それは無理なのだろう。

 なら僕は、何をすればよいのだろう。

 いったい僕は、どうすればよいのだろう。

 気付くと僕は帰路に着いていた。眼下には零一六号棟。僕の住処でもある「ガラクタ」だ。

 

 部屋へと向かう。

 扉のまえに目を転じると、膝を抱えてうずくまっている努樹がいた。

「どうしたの?」声をかける。「仕事、終わったの?」

 努樹は顔をあげた。虚ろな表情で、「おかえり」と言う。

「ただいま」柔和に応じる。「どうしたの? なかで待ってても良かったのに」

 部屋のキィ・システムには努樹を登録してある。波紋認証で、努樹は僕に断わらなくとも入室できるようになっている。それは努樹も知っているはずだった。

 扉を開けられるようにと努樹が、よこへずれてくれた。「すぐに帰ろうと思ったんだけど……でも、もう少し待ってようかなってさ。あと少し、あと少しって、そうやってたら、引き際が分からなくなっちゃって」

「間抜けだね」

「コロセに言われるんだ、きっと本物の間抜けだよ……」

 扉をひらき、中へ招く。「ほら、あがって」

「ううん。ここでいい」努樹は拒んだ。「なあ、聞かせてくれないか」

「なにを?」

「コロセの幸せって……なに?」

「しあわせ?」

「そう。幸せがどんなものか、なんてそんな抽象的なことを訊いているわけじゃない。単純に、コロセにとっての幸せ」

 じゅうぶんに抽象的だよ、と開けたばかりの扉を閉じ、壁に寄りかかるようにする。

 すこし考えてから、

「周りのひとたちがさ」と口にした。「僕の周りにいるひとたちが、みんながみんな、幸せなことかな」

 言葉と一緒に吐きだされた息は白い。

「……贅沢だな」

「でもさ、幸せなんて、みんな贅沢なものじゃない?」

「そうかも」努樹は疲れたように笑う。「でも、それにしても、贅沢だ。コロセのその幸せは」

「しょうがないよ。幸せってのは、分かち合えるからこそ幸せなんだ。僕だけが幸せになるなんて、そんなのはあり得ない。そのことに気付いた。そう、だからね、いま僕、すこし悩んでる」

「ほんと……贅沢な悩みだ」

「まあね」照れると、褒めてない、と軽く叱られた。

「なら訊くけど」努樹はごもごもと言った。「周りの人たちって……だれ? だれが幸せなら、コロセは満足なんだ?」

 だれが幸せならコロセは幸せになれるんだ、と縋るように見上げてくる。

「うんとね。とにかく、僕の周りにいるひとたち。僕の目に映る範囲、触れられる範囲にいるひとたち。そのひとたちが幸せなら、それでいい」僕はずり下がるようにして膝を折る。よこを向く。目線が努樹と同じになった。努樹の瞳をまっ向から見据えて、だから今はね、と付け足した。「だから今はね、努樹の幸せが、僕にとっての幸せ」

 努樹は、きょとんと呆気にとられた表情を浮かべた。それからすぐに顔を逸らし、なんだよそれ、とつぶやいた。

「へんかな?」

「ヘン……じゃないけど」

「だめかな?」

「駄目……じゃないけど」

「けど?」

「だってそれだと、私が困るだろ」

「どうして?」わざとらしく苦笑する。「なんで努樹が困るの」

「だって……例えば、例えばの話だぞ?」

 比喩だからな、と念を押し努樹は言った。「仮に、私の幸せが、コロセが幸せになることだとするだろ? そうしたら、コロセは私が幸せになることが幸せで、私もコロセが幸せになることが幸せで――でも私は自分がどんな状態になってもコロセさえ幸せならそれでいいと思っていて、むしろ自分がコロセの分まで傷つくことでコロセを幸せにしたいとすら思っていて――でも、もしも、コロセが私と同じように私のことを想ってくれているとしたら、それって私が背負った傷だとか汚れだとかを、いつかコロセにそのまんま被らせてしまうことにはならないだろうか……」

 うん。

 ややこしい。

「よく分からないけど」

 断ってから僕は言った。「あのね努樹。昨日も言ったけど、努樹が困っていたら僕は、どんなことをしても、どんなことになっても、努樹の助けになろうとするよ。その結果に、僕が不幸になるとしても、僕はその不幸ごと受け入れる。なにもせずに努樹を見放すなんてこと、そんなの僕は堪えられない。僕が僕であるために、堪えられないんだ」

「コロセが幸せになるには…………私も傷ついちゃ、駄目ってことだろ」

「だね。僕から見ても、努樹が幸せになってなきゃダメってこと」

「コロセから見て……いまの私は幸せか?」

「さあ、どうだろ」僕は問い返す。「努樹は今、幸せ?」

「わからない……わからないんだ」

 わからないんだよコロセ、と努樹は頭を抱えるようにし、顔を膝のあいだに埋めた。「私の幸せはさ、コロセが幸せになることで、そのためになら私は自分がどうなってもいいと思ってた。でもさ、でもな、コロセがそんなこと言ったら、私は……私はじゃあ……どうすればいいんだ?」

「知らないよ」僕は穏やかに突き放した。「努樹の幸せは、努樹にしか解らないし、努樹にしか決められない。そこに僕は関わりたくても、関われないんだ」

「でも、私の幸せは――」

「そう、さっきの【喩え】で言えば、僕が幸せになることだよ。でもね、それは僕の問題じゃない。だって、いくら僕が幸せになるためだと言い張ったって、僕が自殺しようとしたら、努樹は絶対に止めるでしょ?」

「……うん」

「僕だって、いくら努樹が幸せになるためだと言い張ったって、努樹が傷つくのを見て見ぬ振りはできない。絶対に止めるよ。そのせいで努樹が苦しむことになるのだとしてもだよ」

 努樹は宙を見つめている。悩んでいるのだろう。割り切れないのだろう。僕はあごを上げて天井を見遣る。そのずっとさきに広がっているだろう星空を想い描きながら、だからさ、と続けた。

「努樹の幸せは、努樹だけの問題なんだ。どういったことが幸せに思えるのか、どうすれば幸せだと思い込めるのか――それは努樹の問題で、僕じゃない」

「……厳しいな」努樹はつぶやく。腕に唇を押しつけて。

「そう。きびしい」僕はうなづく。「世界はいつだって僕らにシビアだ」

「……寂しいな」

「さびしん坊だもの。僕も。努樹も」

「……孤独だよな」

「だね。いつだって僕らは孤独なんだ」

「やっぱり……孤独なのか」

 努樹は、くい、と帽子のつばを下げた。

 ――人はみんな孤独だ。

 誰もが考え抱くだろうこれは、当たり前だからこそ、普遍だと思う。

 それでもひとは――だからこそひとは――誰かと繋がりあおうと抗うのだ。孤独ではないのだと。僕とキミは孤独ではないのだと。孤独と孤独で、孤独ではないのだと。そう思い込む。だって孤独は、無ではないから。零ではないのだから。零でなければ、足せば増えるだろう。孤独が増すだけかもしれないけれど、孤独が深まるだけかもしれないけれど、それでもひとは、繋がる努力を重ねる。徒労だと知っていながら、それでも手を差し伸べつづける。ときには相手の手を掴み、ときには掴まれるのをただ待ち焦がれる。

 僕は、縋りついてでも繋ぎとめたい。

 でも、それでは駄目なのだということも知っている。

 本当に繋がりあうためには、手を離していても、繋がっていられるようにしなければならない。

 僕は努樹を、

 僕で縛りたくはない。

「僕の幸せは、努樹と僕が笑いあえること。逢うたびにくだらないことを言い合って、つまらない話を楽しく語り合って、たまには喧嘩もして、そうすれば仲直りもできて――僕らはずっと、繋がっていられる」

 静寂。

 僕の吐息が白く顕在化する。

 目に視えない息が、空気が、目に映る。

 大切なものは目に視えない。

 けれど、目をつむる必要はどこにもない。

 目に映る世界にだって、大切なものは幾らでもあるのだから。

 目を背けたくなるような悲惨なものも、沢山あるのだけれど。

 それでも、目をつむる必要はないのだと。

 僕は今、そう思っている。

 ――努樹と僕が笑いあえること。

 それが僕のしあわせだ。

 これからも僕はそう思いつづける。

「それが、私の幸せなのかな」静寂に、努樹の透明な言葉が染みた。

「知らないってば」尻を浮かして立ちあがる。「今のは、僕の幸せ」

 真似すんなよ、と軽口を叩く。

「誰がするかよ」と努樹は言い返した。

 その顔は、どこかすっきりとしていた。何かを吹っ切ったような、凛、とした顔だった。

「コヨリ――コロセにとって、そのコヨリって子の幸せも必要なんだろ? コロセが幸せになるためにはさ」

「うん。努樹、なにか知ってるの?」

「二時間後、ここに来て」立ち上がると努樹は紙を差しだした。

 受け取る。メモが記されている。

   ・一二三号棟。

   ・フロア:S‐D4

 紙媒体なんて珍しい。久々に目にした気がする。

「ここに行けば逢えるの? コヨリに?」

「行くだけじゃ逢えないからな。コロセはそこから自力で、そのコヨリって子を探し出さなきゃ」

 天井を見上げている努樹の白い喉元。口元から吐き出され息は透明で、澄んでいる。

 努樹には視えているのだろうか。

 天井のさきにひろがっているだろう星空が。

「大丈夫、コロセなら見つけられる」努樹はひと呼吸空けてから、「道、わかるようにしておくから」と帽子を被り直した。

「努樹が? だいじょうぶなの? ダメなことじゃないの?」

 漠然と、努樹がしようとしてくれているそれが、とても危ないことのような気がした。

「大丈夫だよ。逢いたいひとに逢う――それを手伝うことのなにがわるい?」

「でもさ」

「デモじゃない。抗議するには人数が足りない」

 ちょっと考えてから、あまりのくだらなさに不本意ながら口元が緩んだ。腕を抱えて身体を震わす。「さむいよ、努樹」

「ん。ああごめん。上手く制御できなくって」恥ずかしそうに努樹はうなじに手を回した。「もう大丈夫だから」

「うん?」

 そう言われて気が付いた。床が白く濁っている。霜が覆っていた。

 きっと、情緒不安定になっていた努樹は、無意識にパーソナリティを発動してしまっていたのだろうと察する。察しつつも僕は違和感を覚えた。

 カエデと会話をした直後で、比較可能だからだろうか――随分前からだけれど――いつのころからか、努樹との会話中にしばしば、齟齬が生じるようになっていた。それは至って普通のことなのだけれど、ここではそれが普通ではなかった。波紋の読める者にとって、僕の考えていること、思っていることなんていうのは、言葉で伝えるよりも幾分も簡単に知覚してしまうのだそうだ。そう、カエデの言っていたように、みんなには筒抜けなのだろう。僕の思考なんて。僕の言いたいことは、僕の口から吐いて出る言葉とは無関係に、相手に伝わってしまってしまう。齟齬が生じるはずもない。生じるとなれば、僕のほうだけが抱く一方的な誤謬。相手が勘違いすることはまずない。まずないのだけれど――いつからか僕と努樹のあいだに齟齬が生じはじめていた。

 感覚の遮断――。

 ノドカがそうしてくれていたように、努樹もまた、僕のためにそうしてくれていたのだろう。僕の波紋を読まないように努めてくれていたのだろう。いつからだろう――きっと、そう、これが普通なのだと僕が思ってしまうほどにずっと前から。

 あの三年前の別れのとき、気が緩んだのか、それとも僕へ打ち明けるきっかけを掴もうと已むに已まれず波紋を読んだのか――定かではないけれど、きっとあのときだけが特別だったのだと思う。

 僕は気付かなかった。気付けなかった。僕の大切なひとたちが、僕のことを思ってくれていたことに。何かを堪えて、何かを踏ん張っていてくれたことに。

 ノドカは――努樹は――こうして僕の波紋を覗かないようにしてくれていた。僕と同じ視点で、世界で、関わり合おうとしてくれていた。見つめ合おうと、理解し合おうと、ぶつかり合おうと、してくれていたのだ。

「ありがとう」

 つぶやいていた。

 ――ありがとう。

 微笑んでいた。

 言葉と。態度と。

 言動と。行動と。

 想いは、行為に還元しなければ、伝わらない。

 伝わったところで、

 解らないことが常だ。

 けれど、

 解らないからこそ、繋がりあえる。

 理解したいと思うかぎり。

 解りあえないことは、苦しいことじゃない。

 分かちあえないことは、決して嘆くようなことじゃない。

 相手の目から世界を覗かなくたっていいんだ。

 僕は思った。そう思えた。

 ぶつかり合っているということは、向き合っているということだから。

 向き合っているということは、抱き合えるということだから。

 ぶつかり合って空いた隙間や、亀裂や、傷痕は、互いにくっつき合うための溝にも成り得る。

 空いた隙間から二人だけの世界を覗くことも。

 裂けた亀裂から新しい水面が現れることも。

 耕された傷痕から芽吹く絆だってあるだろう。

 僕は受け入れる。理解できない相手ごと、その全てを受け入れる。受け入れたうえで、ぶつかり合えばいい。

 拒むのではなく、分かち合うために。

 

 メモに記されている場所の具体的な詳細などを説明してから努樹は、「二時間後に」と掠れるように消えていった。

 これが、最近覚えたという、「浸透」なのだろう。

 すごいよ努樹。

 僕は見蕩れるように見送って、部屋に入った。

 友情だとか愛だとか絆だとか縁だとか運命だとかそんな難しいことは、僕には分からない。皆目解らない。

 けれど、これだけは分かる。

 ――僕には努樹が必要だ。

 シャワーを浴びなきゃ、と浴室へ向かう。

 どうしよう、今の僕、「すごくクサイかも」

 つぶやく僕は、いしし、とひとりで笑っている。

 小春ひより――彼女もまた、僕には必要なのだ。



 ***カエデ***

 ベンチに舞い戻ったカエデは、夜に塗れて途方に暮れる。暮れた夜が心地よい。

 探しモノが見つからない。

 探しモノ――《あの女》の娘。

 ――オリア・リュコシ=シュガー。

 ベンチには、彼女の波紋の余韻が未だ強く残留している。まるで、ここが彼女の家であったかのような、帰る場所であったかのような、そんなつよい愛着すら感じられる。淀みは、必ずしも塞がっているから生じるわけではない。そこへ留まろうとする執着からも、生まれるものなのかもしれない。

 ベンチに淀んだ彼女の余韻を辿ってみたものの、ベンチから離れるにつれて相対的に余韻が薄くなっていく。

 どういうことだろう、と考えた。

 元々彼女は、このベンチにここひと月のあいだ、ずっといたのだろうか――?

 あいつのよこに、ずっといたのだろうか――?

 いや、ないな――とカエデは却下する。そんなのは異常だ。

 カエデはアークティクス・サイド内をくまなく(とは呼べないものの大方)探索してみた。

 《彼女》の娘ほどの保持者ならば、どのステップにいるかくらい、近付けば判ると思っていた。

 不本意ながらもカエデは《彼女》の分身のようなもの。(あいつがコヨリと呼んでいた)オリア・リュコシ=シュガーが、カエデの姪というのは、あながち的外れではない。

 彼女の波紋を探るのは、己の波紋を感知するようなものだ。

 首尾よくいくとは思ってはいないが、それなりの収穫――オリア・リュコシ=シュガーの痕跡くらいは、見つかると思っていた。

 だが案に相違し、期待は清々しいくらに裏切られた。けっして高を括っていたわけではない。

 だが、なにも見つからなかった。

 そもそも、カエデ自身が、思うようにパーソナリティを発揮できなかったことが大きな障壁となっている。

「浸透」しながらの隠密。

 波紋も「沈下」させている。

 そのうえで、ただでさえ多重に糊塗されているだろうオリア・リュコシ=シュガーの波紋を感知しようとする三重苦。

 サイド内をひと通り回るだけで、疲労困憊した。

 満身創痍ではないだけマシだろう、と弱気になっている自分を慰める。

 ふかい、ふかい、溜息。

 もういちど、溜息。

 溜息と深呼吸とのちがいはなんだろう、と疑問する。きっと、清々しいか忌々しいかの違いだろう、とひとり合点し、やっていることは同じなのに、抱く印象がちがうというのは、本当にどうしようもなく、己が腑抜けであるという何よりの証左だと思う。

 ああ、卑屈になっている。

 カエデは迷う。惑う。

 このアークティクス・サイドという特異な世界。

 ――何かがおかしい。

 そう感じた。

 いたるところ、監視システムが張り巡らされている。これもまた、異常だと思う。

 これは、監視というよりも、なにかを捕捉しようと触手を伸ばしている感じだ。居心地がわるい。

 こんな場所で生活しているなど――ここの住人どもは何も思わないのだろうか。気付かないものなのだろうか。

 いや、気付かないものなのだろうな、とカエデは思う。

 比較すべき対象をここの住人たちは知らない。たとい知っていたとしても、比較にならぬほどに異質であるがために、ここはこういった場所なのだ、と丸ごと慣れるしかないのだろう。慣れようとしてしまうのだろう。

 科学のなかに魔法が紛れていたとして、太古の人類ではその違いには気づけない。科学と魔法の両方を同じものとして扱う。

 ここの学び舎で普及しているありとあらゆる機器には常に誰かのパーソナリティが干渉している。誰かの意思が介入している。機器を使うたびに波紋を通じて内面を覗かれている。そういったシステムが組み込まれている。

 気付かないというのは幸せだな、とカエデは思う。

 知らぬが仏か。

 知らされぬが惨めか。

 おや、とカエデは訝しむ。

 これは誰の言葉だっただろう。

 まあ、誰だって関係ないのだろう。

 言葉なんてものも、概念なんてものも、原理なんてものですら、「その発信者がだれか」などという要素は、極めて瑣末な違いでしかない。重要なことは、誰が発したかでも、誰が広めたかでも、または誰が生みだしたかでもなく、それの引き起こす現象がどのようなものか、どんな作用を及ぼすのか、どんな影響を及ぼせるのか――それを感受する我々が、それを用いて何を成すか、何に活用するのか、という受動者の在り方。それだけだ。

 受け取った個人がそれをどう用いるのか、というその主観が重要なのだとカエデは思う。

 カエデはらしくもなく、またも、そんなことを考えている。

 ベンチに舞い戻ってきたせいだろうか。いや、とかぶりを振る。

 ――自分らしくもなにも、その自己がボクには無いのだった。

 逃避するようにカエデは、意識的に沈思した。

 思考はまたたく間に展開する。

 

 主観が求める利得。

 個人の求める幸福。

 利己的――。

 それは、ときに我が儘、ときに独善などと否定的に評されるが、果たしてそうだろうか。

 小手先の自利ではなく、決して短くはない人生を通して、連綿と感受しつづけることのできる自利を得ようとすれば、それは必然的に周囲の者たちとの円滑で穏やかな関係こそが、最大の利己に繋がるだろうと知れる。

 利己を追求しようとすればするほど、人は社会的な束縛を自ら受け入れる。その束縛こそが、己に対して、恩恵を齎してくれるのだと人は学ぶものなのだろう。

「利己的な遺伝子」という比喩を用いた、R・ドーキンス。彼のこの比喩はおもしろい。当たり前だからこそ、普遍性を帯びている。

 端的にまとめれば、

 遺伝子の増殖を目的としてはたらく種が、自然淘汰のなかで生き残る――という理屈。

 その理屈に対する比喩が、「利己的な遺伝子」。

 言い得て妙だと賛美するに値する。値する一方で、カエデはそれにとことん抗う。

 ――抗ってみせる。

 個人が利己の追及をすればするほど、そのさきに見えてくるのは、他者との共存、すなわち、社会秩序の繁栄と維持である――という考察。この考察の場合、個人が利己的であることが必ずしも「悪」とはならない。そもそも善悪とは、社会が決定するものである。社会にとって都合が善いか悪いか、という判断基準を、個人へと強いている。それが常識と呼ばれるものであるし、良識と呼ばれるものだとカエデは捉えている。

 しかし、社会そのものが、「利己を妨げる」諸悪の根源であった場合――さきほどの考察は成り立たない。あっという間に崩れ去るだろう。

 人類の歴史は、こうして繰り返されてきた。

 独裁国家や封建国家は、革命によって、より多くの利己が社会との結びつきを強固なものとし、「最大多数の最大幸福」が増幅するようなシステムへと書き換えられてきた。より利己が共有されるようなシステムへと。

 現代の社会体系を合意社会などと呼ぶが、カエデからすればそれは、複合社会を求めて未だ複合しきれていない、断層のある階級社会である。昔とほとんど変わっていない。独裁者が個人ではなく群集になっているだけのこと。世界の枠組みが少し広がっただけのこと。その仕組みはなに一つとして変わっていない。

 ――誰かが虐げられ、誰かが利己を得る。

 奪い、奪われ、まるで「椅子取りゲーム」だ。

 なぜ誰も、あぶれた者を自分の席へ座らせようとしないのか。それはきっと、自分だけが損をするのが嫌だからなのだろう。それとも、周囲がそれを、「ズル」として糾弾するからだろうか。

 一つの席に座れるのは一人だけなのだ――と。

 人であるならば、こういった席に座るべきなのだ――と。

 みすぼらしく寄り添うなどと、そんなことは許されないのだ――と。

 どうだっていい。そんなことは、どうだっていい。人類社会がどうであれ、このアークティクス・サイドがどうであれ、カエデには関係がない。

 カエデにとっての社会とは、《彼女》だからだ。

 カエデは《彼女》に束縛されている。呪縛されている。

 ならばカエデには、革命を起こす権利があるはずだ。

 《彼女》からの脱却。

 新しい利己を追求できるシステム。枠組み。社会。

 それを得るために抗う権利が、ボクにはあるはずなのだ、とカエデは拳を握る。

 人類の歴史がそれを容認しているのに、なぜ自分だけにそれが許されないというのか。

 ああ、そうだとも。ボクが人類じゃないからだ。人間ではないからだ。

 ならば――人間ではないのならばボクは――それこそ自由に、何を成しても良いではないか。

 人間に成りたい人間モドキ。それがボクだ。

 何をしても良いと思って、走り出してしまったカエデは、こうして迷走してしまっている。錯綜してしまっている。間違っていたのだと自分でも思う。間違ってしまったのだとそう思う。もっと緻密に、もっと臆病に動くべきだったのだ。自暴自棄になっていたのかもしれない。それとも、まさかとは思うが、反抗期だったのだろうか。幼稚な癖して、壮大になりすぎてしまった反抗期。馬鹿げている。すべてが馬鹿げている。

 カエデは手で額をおおう。闇が一層濃くなった。

 こんな馬鹿げたことでボクは。

 ボクのためだけにボクは。

 大切な何かを失くしてしまった。

 大切なあいつを。

 あいつをボクは。

 ――殺してしまった。

 これが、悔いか。

 これが、報いか。

 これが罪だと気づいて。

 初めてしる痛み。弾けてしみる愧じ。

 傷ついていたのだとボクは知る。

 傷つけていたのだとボクは知る。

 痛い。痛いんだ。

 忘れたい。忘れたいんだ。

 あいつのことを。

 あいつを殺してしまったボクの愚かさを。醜さを。罪深さを。

 ボクは。ボクは。

 ――忘れてしまいたい。

 カエデは迷う。惑う。

 頭を垂れて、懺悔するかのごとく。

 

 ***~十一年前~***

「おーい。待ちなさいって」

 後方から飛んでくる声。

 またか、とカエデは一瞥を返す。歩調は乱さない。緩ませもしないし、速めもしない。

「待てってば。この人でなし!」

 さらにうしろで叫ばれる。

 構わず歩を進める。背のひくい自分の影が足元から伸びている。追いかけても追いかけても、追いつくことはなく、また、逃げようとしても逃げ切ることのできない影。

 滑稽だ、とカエデは卑屈になる。卑屈になりつつも、そんな幼稚な自分が愉快だった。

 まったくもう、という呟きが遠ざかって聞こえたので、やっと諦めたかと思い、振りかえる。

 誰もいない。

 帰ったか、と内心で刻みつつまえを向いた。

 途端。

 壁にぶつかり、くぷ、と変な声を出してしまう。鼻を押さえる。

「お前な」カエデのつむじに言葉が落ちる。「そうやって勝手なことして、主様に怒られたって、私は知らんからな」

 ぶつかったそれは壁ではなく、アカツキであった。

「それって心配? それとも説教?」鼻を撫でつつカエデは見上げる。責めるみたいに口にした。「前者なら大きなお世話。後者なら余計なお節介」

「どちらも、おんなじではないか」

「解ってるならそこどいて」カエデは眼光鋭く彼女を射ぬいた。

 仕方ないな、とでも言うようにアカツキは一歩よこへずれてくれた。「で、ご機嫌斜めのじゃじゃ馬娘は、一体これからどこへゆかれるのだ?」

 おどけた口調が癪に障る。

「どこだっていいでしょ」乱暴に歩を進める。

 よこにアカツキも連なった。

「そう、どこへ行ったっていい。だがな、何をしたってよいということにはならないのだぞ」アカツキはゆったりとした足取りで付いてくる。

 せかせか歩んでいる自分が馬鹿みたいではないか、とカエデはおもしろくなかった。

 そんなこちらの心中などお構いなしにアカツキは、「私にはカエデがどこで何をしているのかを訊く義務がある」と頭に、ぽん、と手を置いてくる。

「そんな義務、あんたにはないし、権利だってない」カエデは彼女の手を払いのけて、「ボクがあんたに教える義理すら、なにひとつだってない」とぴしゃりと言い放つ。

「あるね」と間髪容れずにアカツキが言い返してきた。「カエデは私の妹だ。そして私はカエデの姉だ。姉は妹を案じ、道を外さぬように助言する権利がある」

「勝手なこと言うな」立ち止まって、きっ、とあごを上げる。「お姉さんぶりたい年頃なのかもしれないけど、ボクとあんたは姉妹じゃない。言ってみれば、同じ素体から生まれたクローンだ。そもそも、どうして姉が妹より優れた人格であるかのようにあなたが言うのかがまず解せない。姉が妹に助言する権利があるというのなら、妹にだって姉に助言する権利があるはずでしょ」

「最後の主張に関して言えば、カエデの言う通りだと私も思う。だからカエデも私に対して言いたいことがあるならきちんと言って欲しいし、私が間違っていることをしているなら、そのときは正してほしい。だがな、クローンのような存在だからといって、姉妹関係が生じない、という主張に関しては、反駁せざるを得ないだろう。よいかカエデ。今のカエデの主張は、一卵性双生児には姉妹関係が生じない、と言っているようなものなのだぞ。遺伝子が同じだろうが、素体が同じだろうが、私とカエデは同じではない。同じではない限り、そこには歴然とした差異がある。その差異を以ってして、区別をすることは可能であるし、必要なことだ。だからして、私がカエデを妹だと認識するのは、別段おかしなことではない」

「だとして――というかあんたの言う分が正しいのだとすれば――ボクはあんたを姉だと認めなくてもいいんじゃない? 他人として区別してもいいってことでしょ」

「まあな」アカツキは簡単に首肯した。「それもカエデの言う通りだ。しかしな、さっき私は区別が必要だと言ったが、また逆に、互いに共有している同じものを括って繋がりとすることも必要だ。そしてカエデと私は、いみじくもカエデが言ったように、同じ素体――すなわち主様から生みだされたドールであるがゆえに――カエデと私は血の繋がりが普通以上に濃いのだよ。それを姉妹と呼ばずして、なんと呼ぶのだ?」

「だからクローンだと何回」というこちらの言葉を遮ってアカツキは、「私にはカエデの考えていることが解らない」と嘆いた。

「波紋が読めないだけでなく、仮に読めとしても、きっと私にはカエデの考えは解らないだろう。それはカエデも同じではないのか? カエデ、私の波紋を読んでいないだろ? 私は糊塗しておらんぞ。私の波紋が読めるのにも拘らず、読むのをやめているだろう? こいつは読んでも無駄だ、思考と建前に変化がない。馬鹿正直がとり得なだけの生粋のお人よし――こいつの思考は読めるが、理解はできない――とそんなところであろう?」

「読んでるじゃん……ボクの波紋」

「読んどらんよ。読まずして何となく模糊としながらも解るのだ。それが姉妹というものだ」

 言われたからではないが、カエデはアカツキの波紋を読んでみた。ほとんど糊塗の施されていない彼女の波紋からは、今の発言が嘘ではないという真偽のほかには、「吾輩はネコ好きである」という心の底からどうでもよい彼女の嗜好以外、なにも掴めなかった。アカツキのネコ好きは相当なもののようで、どうやらネコを救うためには人命もいとわない、といった頑迷なまでに歪んだ愛情であるらしかった。

 そう。

 まっさら過ぎる。こわいくらいに。不気味なくらいに。まっさら。

 ――ドール。

 ――人間ではないもの。

「カエデも私を化け物だと思うか?」

 人間ではないと思うか、とアカツキは淡泊に問うてきた。

 見透かされている。

「うん」と素直に答えた。「あんたもおかしいと思う。化け物なみに」

「あんたも、か。カエデは正直だな」

 あんたほどじゃないけどね、とカエデは思う。「もういいよ。こうしてあんたと話していると頭がおかしくなりそう」

「うん? それは、狂いそうになるくらいに私の存在が不快だ、という意味か?」

「わかってるなら確認しないで」せっかくひとがオブラートに包んであげた言葉だっていうのに。「自分で剥がしてりゃ世話ないよ」

「オブラート? あの薄い、舌に触れた途端に消えてなくなる、あの儚げなオブラートのことか?」

「面倒くさいなぁ、あんた」カエデはノドの奥で笑った。彼女にきちんと向き直る。「で、訊きたいことって何? ボクに何を訊きたいの?」

「なんだ、教えてくれる気になったのか?」

「教えたらお引き取り願える?」

「願うだけじゃ夢は夢のままだぞ」アカツキはお茶を濁すようなことを言う。

「叶っちゃったら夢じゃないでしょ」負けじとカエデも言い返した。

「いいや、夢は夢だ」とアカツキはこちらの頭を、くしゃくしゃ、と撫でてくる。「あのな、カエデ。叶った夢は、己から離れて、ほかの誰かの夢へと変わるものだ。夢は夢。夢は叶うたびにどこかで新たな夢を生むのだよ」

「客観的に見ればそうかもしれないけど」とカエデは反駁を試みる。「主観的に見れば、やっぱり夢は叶ったらただの現実だよ」

 カエデのその反論を予想していたかのようにアカツキは、

「現実が夢ではないと、なぜカエデは思うのだ?」と切り返してきた。

 カエデは戸惑う。

 そんなことを言いはじめたら、何もかもを疑わなくてはならない。

 そもそも、最初に話していた「夢」と、アカツキが最後に口にしたその『夢』は明らかにちがう。

「詭弁だ」とカエデは渋面を浮かべる。

「そう、詭弁だ。解っているなら、黙って私の言うことに答えれば良いのだ」

 言い返そうと息を吸い込むが、数分前に自分が言ったことを思いだして、はっ、と息を呑む。

 前者なら大きなお世話――。

 後者なら余計なお節介――。

 同じことを違うことのように言うのも、違うことを同じことのように言うのも、どちらも詭弁である。

 渋面を余計に濃くしながらも、呑みこんだ空気をそのまま嘆息として吐きだした。

 ぶすう、という効果音が似合いそうだ――とアカツキが愉快に思っている。

 それくらいの感想はかくせよ、とカエデは腹がたった。

 いや、自分がこいつの波紋を読まなければよいだけのことだ、と思い直して、アカツキの波紋から離脱。

 遮断。

「なんだ、怒らないのか」とアカツキが不服そうに溢した。

 おこらせたかったのか……。

 どうやらからかわれているらしい。どこまで本気で、どこまでふざけているのか判りにくいったらない。もしかしたら、本気でふざけている、というやつなのかもしれない。質がわるすぎる。

「最初から立っている腹を、どうやったらこれ以上、立たせることができるだろう、」効果は期待できないと知っていても、皮肉を言わずにはいられない。「ねえアカツキ、よかったら教えてくれない?」

「お、久々に名前で呼んでくれたではないか」

 私はうれしいぞ、とアカツキは屈託なく破顔した。

 そう、こうやってこいつは、何を言っても気をわるくしない。アカツキを相手にしていると、立腹している自分が馬鹿みたいに思えてくる。

 ほかのドールたちは、もっと理知的で、合理主義者である。無駄を省くことを美徳としているのに、アカツキときたらまるで逆。無駄こそ美徳。いかに無駄に生き、その無駄をいかに楽しむか、といった競技でもしているのではないか――と疑いたくもなる。きっとこれは、『シズク』の影響だ。あのドールはあのドールで癖のある人格である。口調やら仕草はこのアカツキと似ているが(とは言え、アカツキが『彼女』に似たというべきだろうが)、『シズク』に《あの女》の真似をさせれば、右にでる者はいない。アカツキよりも年上だが、こちらに干渉してこないだけまだマシなドールだ、とカエデは『シズク』のことを評価している。

 

「要件があるならさっさと済ませてくれない」

 言いながらカエデは腕を組んだ。足先で地面にビートを刻む。刻みつつ、ボク急いでいるんだけど、と態度で示してみた。アカツキ相手では、言葉を尽くすだけ無駄に思えた。

 うむ、とアカツキは頷く。頷きつつ、風呂敷を腰に巻いたような長いスカートをひざごと畳むようにして折った。彼女は目線を低くした。自然、カエデのほうが彼女を見下ろす形となった。

「いつも独りで行動しているみたいだが、カエデ、いったい何をしている?」

「それに答えたら、消えてくれるの? それともますます干渉してくるの?」

「どっちが好いかね?」

「消えてくれるとうれしいかな」

「そう、なら、消えるとしよう」

 教えてくれたらな、とアカツキは快活な笑みを浮かべ、「ではお訊きしようか、じゃじゃ馬ちゃん。これからどこへ、何をしに行くのだ?」

 仕様がないな。

 彼女の質問に答えようと唇をしめらせた矢先――。

 カエデは「虚空」の出現を感知する。

 金で餌付けしたサポータからの報せであった。

 

 虚空の発現を観測したら、組織へ報告するよりもさきにこちらへ連絡させるように、と秘密裏に契約しているサポータからの通達。組織にも《彼女》にも内緒の密約であった。

 この密約が、サポータ側の裏切りで露呈する心配はきわめて低い。

 組織からもカエデからも二重に報酬が貰えるのだ、サポータ側に不足はない。

 ただし、サポータには組織を出し抜くようなかたちで、カエデへ連絡する技術はない。

 技術がなければ、手段をさがせばいい。

 技術を持っている保持者に委託すればよいのだ。

 その際、その保持者は組織の傘下に入っていない者でなくてはならない。

 そのためにカエデは、餌付けしたサポータから、条件にあった保持者を見つけださせ、そして組織へは報告させずに、自分のもとへと案内させた。そうしてカエデは、手駒として遣える保持者を確保した。

 その保持者へカエデは、断片的な情報を与える。

 ――組織に気付かれれば幽閉される。

 ――現在の生活はできなくなる。

 嘘ではない。紛れもない真実である。ただし、精確ではない。

 この情報が真実である以上、そしてその保持者にその真偽を確かめる術がない以上、カエデの言葉を考慮したうえでの行動を保持者はとるしかなくなる。嘘であると疑ってなにもせずに生活するよりは、幾ばくかの注意を払って生活するに越したことはないからだ。

 カエデにとってはそれだけで充分であった。

 信用される必要はない。

 重要なことは、その保持者が組織の干渉を受けないことなのだから。組織に勘付かれることのないように暮らしてもらい、たまにカエデの助力として働いてもらえればそれで良いのである。

 カエデはその保持者へ情報と金を与え、保持者はその見返りとして、サポータから送られて来る情報を、カエデへと飛ばす。その保持者にとっては至って簡単な作業。メディアとしての機能を担ってもらうだけ。

 カエデがサポータへ探させた保持者の条件は、『遠隔波紋共鳴反応現象』を引き起こせる「特質」を有した保持者であること。

 いわゆる、テレパシィである。

 空気を伝播するのが音ならば、世界を構築している成分「メノフェノン」を伝播するのが波紋である。

 一方で、〈レクス〉と〈レクス〉との合間を縫って伝達可能なのが、テレパシィと言えよう。

 〈レクス〉――個人の世界。

 『プレクス』を構成する気泡の一つ。

 〈レクス〉と〈レクス〉の合間――泡と泡との合間――『プレクス』にあく隙間――そこを通って、特定の〈レクス〉にだけ伝わる波紋――テレパシィ。

 喩えるならばそれは、人と人との合間を縫って、口にメモを咥えたネズミが走り抜けているのと似たようなものなのかもしれない。いや、それもまた詳らかではない。

 テレパシィの原理は詳細に解明できてはいないものの、そういった現象を引き起こせる者がいる、という事実が肝要なのである。

 そうして今、新たに発現した虚空の情報が、カエデのもとにだけ、その保持者を経由して伝わってきた。

 

「おい、どうした?」アカツキが覗き込むように顔を近づけてくる。

「ううん。なんでもない」取り繕ってからカエデは、「ボク、目的地変わったかも」と言ってみた。

「うむ。どこへだ?」

 どうしてだ、と問わないところが、中々どうして理知的だ。

「いちおう訊くけど」とカエデは質問する。「もしも目的地が、行ったらダメなような場所だったら、ボクのこと、止める?」

「止めるかどうかは別として――まあ、少なくとも、これからカエデの行く場所が感心し兼ねる場所であることは判った」殊勝に頷くとアカツキは、「で、どこへ行くのだ?」と重ねて問うてきた。

 我ながら随分幼稚な失言だった、とカエデは内心で舌打ちする。

 仕方がないので、ならさ、と姑息に提案してみた。「ならさ。知りたかったら付いてきて」

 探り探りの発言。

 アカツキ相手にどう接すればよいのか、未だにカエデは戸惑いを覚えてしまう。「暗中模索」と「暖簾に腕押し」を足して二で割ったようなややこしさ。さしずめ、「暗中に腕押し」くらいに厄介である。ともすれば、アカツキのほうも、カエデに対してはそういった感想を抱いているのかも知れない。

 いや、アカツキに限ってそれはないな、とカエデはみじかく溜息を吐いた。

 せっかく得た虚空の情報。

 できることなら、この貴重な機会を逃したくはない。どうせ邪魔されるのなら、せめて目的地に着いてからにしたい。奸知を巡らした結果の発言――「知りたければ付いてきて」であった。

「ほお。良いのか?」うれしそうに相好を崩すアカツキ。「ならば共にゆこうぞ。心配がために」

 知りたかったら付いてこい、という提案に対してこいつときたら、心配だから付いていく、と答えやがった。

 ひとの話を聞いていないわけではあるまい。わざとこうしてボクをおちょくっているのだ。カエデは怪訝に柳眉を曇らせるが、アカツキの波紋を覗いてすぐに、がくり、と肩を落とす。

 こいつは本気で言っていた。

 本気でひとの話を聞いていない。

 真剣に心配してくれているらしい。

「あんた、天然?」カエデは呆れる。

「ん? 我々はクローンではなかったか」大袈裟にアカツキは首を傾げている。

 自分たちが天然ではなく、創られたもの、人工物と言いたいのだろう。

 この台詞はどうやら、きちんとボクをおちょくってくれているようだ。

 そうと知れて、安心している自分がいる。ふしぎな気持ちだ。

「やればできるじゃん」カエデは皮肉を込めて褒めた。

「まあな」と彼女は得意げだ。

 少し照れくさそうにしている辺りが、癪に障る。

 一方では、なぜか微かに込みあげてくる笑いもあるのだ。

 カエデは下唇を噛み締めて、その笑みが表情に表れないように努めた。

「うん? どうしたのだ? 顔がすこし変だぞ?」

「しつれいだな」カエデはおこってみせるが、「ああ、自前だったか」というアカツキの一言に思わず、くふふ、と笑みを溢してしまった。

 下唇をさらにつよく噛み締める。

 続けて、あのね、とぶっきらぼうに指摘した。「あんたとボク、おんなじ顔なんだぞ」

「姉妹だからな」満足そうにアカツキは呟いて、おいしょ、と立ち上がった。「連れていってくれるのだろ、私を? どこへかは知らんが。さあ、誘いたまえ」

 言って彼女はカエデの手を握った。

 自分のよりも二回りも大きな手のひら。

 カエデがその手を振り払うことはなかった。


 この世に生み出されて四年――カエデが齢九つのころに刻んだ記憶である。

 あのときカエデは、アカツキのその手をしっかりと握り返したような気もするし、彼女の握力がつよすぎて離すことができなかっただけのような気もする。覚束ない。

 記憶に刻まれた想いなど――時間の波紋に揺さぶられ、いずれ薄れゆくものである。

 振り払うのが面倒くさかっただけなのだ――と夜に紛れたベンチで。言い聞かせる。自分へ。

 こうしてまた今日もカエデは自身の弱さを従えて。

 さらなる軟弱な物質へと変化するために。

 謝罪の言葉を舌に乗せたままで。

 悔恨の念に張り付いている。

 弁解と虚栄と掩蔽を。

 順番に剥がす。

 夢を深く。

 吸う。

 息。

 

 ごめんなさい。

 ほんとうに。

 ごめんなさい。

 

 ――――――おねえちゃん。


 ***コロセ***

 二時間後――と努樹は言っていた。

 指定された時刻まであと一時間弱はあるのだけれど、僕はじっとしていられずに、零一六号棟をあとにした。中央棟へ繋がっている連結通路を抜ければ、目的のステップにはものの一分ほどで着くのだけれど、それでは努樹が時間を指定した意味がない。きっと、いますぐに来られては困るのだろう。

 そう、努樹が困るようなことなのだ、これは。

「大丈夫」などと努樹は言っていたけれど、それでも規則に違反するような所業であることは、僕にだってなんとなしにではあるが分かる。

 努樹の指定した「一二三号棟」の「フロア:S‐D4」は無印エリアだ。

 バイタルで調べてすぐに判った。僕なんかが立ち入ってよい場所ではない。無印エリアに僕みたいな、許可も資格も持たない者が立ち入れば、ただでは済まされないだろう。それ以上に、招き入れた努樹のほうがきっと、より重い罰則を受けるに決まっている。

「なにが、だいじょうぶ、だ」

 努樹のうそつき、と苦々しく笑うしかない。

 断る選択ももちろん僕にはある。

 けれど、それでは駄目なのだ。

 僕は、僕のために、努樹を利用する。

 努樹も努樹で、自分のために、自分を犠牲にしてくれる。

 もちろん理由は僕のためだろうけれど、それでも努樹は自分のために――自分が自分で在るがために――そうするのだろう。

 ――ありがたい。

 自分の幸せのために僕のことを想ってくれている者がいる。なんて幸せ者なのだろう。僕は。

 だからこそ拒んではならない。努樹が悩んで悩んで悩み抜いて選択した道が、これなのだと思うから。だから僕は、そのままの努樹を受け入れる。このままの努樹を。素のままの努樹を。僕は受け入れる。

 気付くと僕はベンチのまえまで来ていた。

 習慣とはおそろしい。無意識のうちに僕はベンチまで踵を返していた。

 そう。僕にとってはこのベンチこそが帰る場所だったのかもしれない。

「なんてなぁ」

 すこしカッコ付け過ぎたかな、と独り言ちる。

 夜のベンチというのは、またいち段と寂しげだ。

 腰をおろす。

 自然、溜息が吐いて出た。

 はあ、落ち着く。

「コヨリと、努樹と、カエデと…………うん、三人か」

 いま僕が手を伸ばして届く範囲にいる。僕にとって大切なひとたち。

 ――三人。

 おもい。とてつもなく重い。

 僕みたいな貧弱の権化じみた存在なんかでは、とてもじゃないけれど、守ることも抱き寄せることも繋がっていることさえ難しい。

 夢と現と鏡――そんなかんじが妥当だろうか。どうなのだろう。

 コヨリは僕に、ぬくもりのある夢を与えてくれて。

 努樹は僕に、現実のきびしさを教えてくれて。

 カエデは僕に、僕という存在の影響をおしえてくれる。

 なんだろう。

 そう、やはり、重いのだ。

 努樹の言葉ではないけれど、人はバランスを求めるものらしい。

 天秤のようなものが万物には組み込まれているのかもしれない。

 片方の皿に自分を載せて。

 対極の皿には繋がっていたいと願う世界を載せる。

 この場合の世界とは、必要な者や社会や自然などだろうか。

 自分と、対極に載せられた皿とのあいだには支点が置かれる。

 その支点こそが、基準なのだろう。バランスなのだろう。

 自分と相手との質量が同じならば、支点は中間に置かれる。けれどいったん、両極の質量に偏りが生じれば、支点は、より重いほうへと寄っていく。

 僕の対極に載せられているモノが、社会だとか自然だとか宇宙だとか、そういったより重いものになればなるほど、支点は僕から遠ざかっていく。

 そうやって人はいつだって、バランスを見極めようとしているのだろう。

 対極に載せる大切なモノが重ければ重いほど、支点は僕から遠ざかっていく。

 ――繋がりが遠ざかっていく。

 ――僕が希薄になっていく。

 そういった大きなながれが、抗えない大きなゆらぎが、この世には脈々と、滔々と、巡っている。

 でも僕には、そんな冷厳なながれや、ゆらぎに、抗う術はない。力もなければ、抗う必要すらもないと思う。

 たとえ繋がりが希薄になっても、繋がり合っているというそれ自体が大切なのだと僕は納得できるから。

 ただ繋がっているだけではなく。

 繋がり合えているのだと。

 それが大事なのだと。

 僕にとってはそれこそが肝要であり、

 だからこそ僕は、

 寛容にならねばならぬのだと、

 そう思えるから。

 頬をさすように風が吹く。

 冬の夜の風はどこまでも澄んでいて、どこまでも冷たい。

 それはきっと、僕が温かくて、どこまでも濁っているからに違いない。

 この世界はどこまでも、相対的なのだ。

 

「そんなことはない」

 突然の声。闇からの声。

 僕の心臓は大きく跳ねあがったまま静止した。

 嘘、偽り、誇張、潤色、一切なく――確実に二秒は静止した。

「驚き過ぎだ」

 とまた声がした。

 僕のすぐとなりから聞こえてくる声。

 けれど、そこにはただぼんやりとした夜の闇しか漂っていない。

 だれもいないのだ。

 でも、その声には聞き覚えがあった。

 つい二時間ほど前に耳にしたばかりの、新鮮み溢れる声だ。

「……カエデ?」

「自己愛者のうえに小心者とはきみ、救いようがないな」

 夜の闇から滲み出てくるみたいにしてカエデはその姿を闇を塗りつぶすように浮かび上がらせた。

「急に現れるなんて、そりゃ誰だってびっくりするってば」

 正常に活動しはじめた心臓を労わりながら僕は訴える。「おどろくなと言うほうが無理だよ」

「急に現れる? ボクはずっとここにいたが」こちらの顔を覗きこむようにしてカエデは身体を斜めに傾けている。それから僕の口真似をして、「気付かないほうが馬鹿だ」と虚仮にした。

「ずっとここにいたって……それは、その、そういったパーソナリティってこと?」

「違う。なんだ、きみは『浸透』もできないのか。ならきみのためを慮って教えてあげる――『浸透』していれば、きみの〈レクス〉からは外れるが、存在する座標は同じだ。重なっていないというだけのことでね」カエデは親切にも説明してくれた。「ボクが『プレクス』から外れて、より《アークティクス》に近い場所にいたから、きみにはボクが認識できなかった。でもそれは、きみとボクの〈レクス〉が交わっていないだけの話で、きみもボクも、同じ《アークティクス》にいる。そういうこと」

 認識されないだけで同じ世界にいるんだ――とカエデは繰り返した。

「うん。よく解らない」率直な感想を口にする。

「きみ……思いのほか、馬鹿だな」カエデは目をほそめた。

「うん、僕はバカだ」と認める。ただ、本当のことを指摘されることほど悔しいものはないもので、「じゃあ、バカと似ているカエデもまたカバだ」と幼稚に揶揄した。

 ほそかったカエデの目が見開かれた。

 それから鋭さを増した眼光で、それにしても、と淡泊な口調で彼女は述べる。

「きみ。重いだとか、大切だとか、天秤だとか、守るだとか、繋がるだとか――ほとほとクサい台詞をよくもまあクドクドと。刺激臭すぎて痛いんだが」と苦しそうに顔を歪めた。

 カエデなりの冗句だろうか。

 というよりも、

「え、いつからここにいたの?」

 もしかして、僕のあの小恥ずかしい独白も筒抜けだったのかな――と想像しただけで、不安と羞恥で顔面が青褪め、赤面し、紫色になりそうだ。

「首を締めあげてやろうか?」

「こわい、やめて」

 本当に顔面を紫色にされてしまう。

「ふうん。いいのかなやめても?」カエデは僕の顔を覗きこむようにしてふたたび、「この世界はどこまでも、相対的なのだ」と僕の口真似をした。

 いっそ首を絞めて欲しいです。

 忸怩たる谷底へ突き落された気分だ。

 頭も尻も、身体ごとすべて、このまま埋まってしまいたい。

「残念だが、きみの死体は鳥葬だ。埋めてやるわけにはいかない」

 まだ死んでもいないのに。「ちょっとこの扱いはひどくないですか」

「ボクがきみへ吐いた数々の言葉たち。これを酷いと受け取るか、寛容だと受け取るか、それはきみの問題だ。好きに解釈してくれて構わない」

 それこそ相対的だ、とカエデは揶揄する素振りもなく揶揄した。

 カエデの発言が寛容だとすれば、その慈悲とやらを取り去ったあとに残る言葉には、一体どんな辛辣で冷徹な讒謗が露わになるのだろう。想像しただけでぞっとする。

「小心者」ぼそり、とカエデがつぶやいた。

 胸につき刺さる。けれど否定したところで惨めになるだけだ。いさぎよく僕は認めた。

「いかにも」

「自信たっぷりに認められてもな。果たして自信のないことに自信のある者は、一体どちらなのだろうな」と背を丸めて頬杖を突いた。

 ややこしいぼやきだ。

 僕、そういった頭を使う思考は好きくない。

 もっと散漫に、抽象的に、漠然と徒然なるままに思考するほうが好みだ。

 嘲笑的な思考、の間違いじゃないのか――とカエデが溢しているが、僕は拾わない。

「で、カエデはここで何をしているの?」コヨリは見つかったの、と尋ねてみる。

「見つかっていないと知っているくせにその質問とは――ほとほと嫌な奴だ」

「カエデほどではないけどね」

「ホントいまさらだが、なんで呼び捨て?」

 すごく嫌そうな声を出されてしまった。「なら、なんて呼べばいいの?」

「さて、そろそろ行こうじゃないか」とカエデがベンチから腰を浮かした。

 暗に呼ぶなということかな……ねえ、ひどくない?

「その『ドキ』とかいうきみの友達、二時間後に来い、と言っていたのだろ。行けばコヨリに逢えるかもしれない――そう言っていたのだろ?」

「だからさ、読むなとは言わないけど、もうすこし遠慮というものをさ……」持って欲しいなと語調は尻すぼみになってしまう。言葉の合間に睨まれてしまった。

「ボクも小春ひより、彼女に逢う。これからボクはまた『浸透』する――きみからは視えなくなるが、きみの側に付いていく」

 構わないよ、と僕。

「意思疎通は、きみの波紋を通して勝手に行う。そのつもりで」

「どういうこと? 僕はカエデの波紋、読めないよ」卑屈な口調にならないよう、気をつけて言った。

「関係ない。ボクのほうで、きみの波紋に同調する。こちらの言葉はきみの脳裡に響くはず」

「テレパシー?」

「きみからしたら同じかも」

 カエデからすると違うのだろうか。でもそれもきっと、僕が、携帯電話をテレパシーと呼ばないのと同じことなのだろう、とひとり納得する。

 なら行こうか、とカエデが手を差しだしてくる。

 僕はベンチに座っている。躊躇しながらも、彼女のそのやわらかそうな手を掴んだ。

 コヨリと同じように、冷たい手だった。きっと冬空に冷やされてしまったのだろう。

 温まってくれたらいいな、と思いながら僕はさらにつよくその手を握った。

 ぐい、とベンチから立たせられれる。向かい合う。

 暗闇でも、カエデの顔はぼんやりと確認できた。

 カエデの瞳は星空みいたいにキラキラと絢爛に輝いてみえた。

 コヨリも大きくなったらこんな顔になるのかな――と僕は夢想する。でもきっと、もうすこし朗らかでやさしそうな顔になるのだろうな、こんなキツくて冷たい顔でなく――とコヨリの成長した姿を想い描いた。

 カエデの手がぴくり、と微動した。彼女の手を離す。

「手、冷たいね」僕は言う。「カエデはきっと、心が温かなんだ」

「あのね」とカエデは宣巻いた。星空みたいな瞳を射るような光へと変えて、「つぎ、ボクのこと呼び捨てにしたら本気で剥ぎとるから。そのぶ厚い面の皮」

 ついでに自分の仏頂面も取り去ればいいのに。僕は念じた。そうしたら今よりもっと可愛いくなるのに、と。

「ッさいな!」カエデが吠えた。

「なにがうるさいの?」と素朴に尋ねる。

 うぐ、と言い淀みカエデは、「うるさいものはうるさいんだ! このデクノボウ!」

 吐き捨てると彼女は掠れて消えていった。

 消えていったように視えても、実際はまだ、そこにいるのだ。

「デクノボウって……久々に聞きました」敢えて僕は声に出してみた。

 なんだか目のまえの闇が、不貞腐れているように感じた。

 まあ、これもきっと、単なる錯覚。

 僕の願望がみせる卑近な幻惑に過ぎないのだろう。

 人が視ているものは総じて幻相なのだから。

   ――そんなことはないよ――

 もしかしたら僕は、だれかにそう言って欲しいのかもしれない。

 ふと、そんなことを思った。


 ***弥寺***

 よう、と弥寺は声をかける。

 林があり、湖があり、月がある。風にゆれる水面には月のひかりが揺れている。

 畔の岩に一つの影が佇んでいる。

 よう、ともう一度、弥寺は口にした。影へ向かって呼びかける。

「そんなに大事ですか?」影は応えた。「殺さずに、生かさずに、苦しみを与えて――それでもあなたは側に置いておきたいのですか?」

 何の話をしているのか、弥寺には判った。

「大事だとか、大切だとか。んなもん、俺には関係ないんだよ」

「私、あなたなら彼を救ってくれると思っていたのに……とんだ買被りのようでした」

「救うだ? てめえらしくない台詞だな」

「発言はいつだって自分からかけ離れたものです」

「言葉遊びしにきたンじゃねえんだよ、《リザ》」

「その名で呼ばれるのはホント、久しぶり」微笑を含んだ声だ。

 影は月光のしたに姿を晒す。

 リザ・セパレン=シュガー。

 以前に見たよりも容姿は幾分も成長している。推定、二十歳前後。

 毀してしまいたいほど端麗な形状。フォーム。デザイン。スタイル。

 ミタケンの波紋に視えた、カエデとかいうドールと同じくらいの背丈か。

 よう、と弥寺はみたび呼びかけた。「さあ、はじめようか」

 ふふ、と彼女は艶笑を浮かべる。「なにをかしら? 愉しみだわ」

「半世紀前の――」

 告げて浸透する。「――続きだよ」

 彼女の背後へと出現する。

 否、わざわざ出現する必要はない。

 浮上する必要はないのだ。

 だからこれは、彼女もまた瞬時に浸透していただけのこと。弥寺と同じ断層まで。彼女が。一瞬で。

 だが構わない。むしろ好都合。

 瞬間的なパーソナリティの発動。

 岩。湖。林。

 半径三百メートル四方が刹那のうちに崩壊。

 水面に砂を撒いたような小気味好い音色。

 軽くて。澄んだ。細かい。透明な。振動。

 それが幾つも重なって、壮大な効果音を奏でる。

 ――――――音。

 起伏に富んだ風景は。

 平坦な。白銀の砂漠と化す。

 粒子にまで粉砕された物質は光を反射しない。

 ただ、その粒子が集合すると、かすかに光を反射するようになる。

 透明な水も深さを帯びると青く視えるように。

 ――一切が白銀。

 完全に《あいつ》を捉えた、と弥寺は思った。

 強力と強力との死闘において勝敗とは一瞬で決するものである。

 にも拘らず。

 仕留めたにも拘らず。

 手ごたえがあったにも拘わらず。

「自然は大切にするものです」

 背後からの声。

 腹部に感じる鈍痛。

 あごを下げる。見遣る腹を。

 己の腹から生える、赤い手。女性の、か細い手。

 ずりゅり、ずりゅり、と臓物を掻きまわされる。

「いけない子」

 声が耳に届く。鼓膜がこそばゆい。

 刹那。

 脇腹が吹っ飛ぶ。

 五臓六腑のうち、心臓と肺以外をえぐられた。

「クッ」

 辛うじて上半身と下半身は繋がっている。

 えぐられたことで、彼女からの拘束が外れる。

 振り向きざまにパーソナリティを投射。

 空気から紐解いた、高エネルギィの塊である。

 弾道に真空が生じる。飛行機雲のように。

 真空は周囲の物質を引きつける。

 彼女の動きが、ややにぶる。

 その隙を逃しまいと。

 追撃を放つ。

 直撃。

 爆発。

 光と熱と風。

 その爆風を用いて彼女との距離を空ける。

 《あの野郎》――右手で俺の腹を突き刺し、あまつさえ背骨を掴んでやがった。

 その直後に彼女は、火遊び程度にこちらの腹部を破裂させた。

 挨拶のつもりだろうか。ふざけやがって。

 衝撃以外の感覚はまだない。痛みは遅れてやってくる。

 人間の感覚など、杜撰なうえに、愚鈍である。

「待ってあげるわ」

 言った彼女の周囲には、スターダストのごとく舞いきらめく光がある。

 弥寺の粉砕した物質が彼女の周囲に舞っている。

 まるで、地面から天へと昇る雪のように、星のように。

 幻想的な輝きに彼女は包まれている。

 そこでようやく弥寺は自身の異変に気が付いた。

 傷が……塞がらない。

 いや、塞がってきてはいる。細胞は分裂している。

 しかし――遅い。

 パーソナリティが鈍っている。

「何をした」思わず弥寺は問い質す。

 己の裡に焦りがみえた。

 自覚と同時に思考を修正し、安定させる。

「なにを、ですか? 何もしていません」

 私はなにも、と彼女は囁く。さざ波のように静かに。

 出血で足元が黒い。

 視界も白色に濁ってきている。

 貧血か。意識混濁の予兆。

 まずい。

 パーソナリティを封じられただけ。それだけでこれだけ無力に、これだけ惨めになってしまうものなのか。人とは。

 俺とは――無様だ。

「この数十年、あなたがどれだけ変わったのかを見てみたかったのですが。見事に期待を裏切られました」

 残念です、と彼女は困ったように視線を逸らした。

 無様だ。

 俺は無様だ。

 無様だが――おもしろい。

 弥寺は表情をなくす。笑っている。

 弥寺は笑っている。しかし、その表情はひどく冷めた面持ちであった。

「気分がいい」弥寺は言った。

 腹筋と背筋を背骨ごとえぐられている。そのために、上半身を起こすこともままならない。

 腕の力のみで半身を支える。

「俺がひとつ、《お前》に講釈垂れてやる」

「あら。うれしい」

「失望するのは勝手だが――」

 これまでずっと抑圧していたパーソナリティを弥寺は解き放つ。

「――失念するのはやめておけ」

 弥寺の身体が、ごぽごぽ、と波打つ。

 傷口は塞がり、筋肉は伸縮を繰り返す。

 膨張と圧縮。

 増殖と凝縮。

 周囲の空間はねじれる。バランスが崩れている。

 【分子を構成している『原子】を生成している陽子と電子と中性子』と――そうして物質を形作るエネルギィの均衡がゆらいでいる。まるで陽炎のようだ。

「死ぬ気ですか」愉快そうに彼女は謳う。「看取ってあげましょう、あなたという存在の消滅を」

「俺が死ぬときは――」

 意識を彼女へ向ける。「――世界の終わるときだ」

 空間の歪みが彼女のほうへと捩じれながら槍然として突き進む。

 触手が伸びていくような軌道。

 透明な陽炎は、彼女の数十センチ手前で止まる。弾かれるように。壁にぶつかった水のごとく。跳ね返りながら。撒き散りながら。彼女のまえで止まる。

 ――拮抗している。

 銀色の砂漠はしだいに、黒く、斑に滲んでいく。

 雨の振ったアスファルトのように黒く、世界に穴があいていく。

 弥寺の放つその透明な陽炎は、彼のパーソナリティの余韻が引き起こしているほんのささやかな破壊でしかなかった。太陽からはるか遠くに位置する地球で、虫めがねを遣って紙を燃やすようなもの。その程度のささやかな破壊。

 ともすれば、挨拶。

 さきほどの、お返し。

 その程度の破壊ではあるが、世界への影響は計り知れない。

 【ゼンイキ】などという存在が、果たしてどのくらいの影響力を有しているのかは弥寺も知らない。

 しかし、

 今の自分が、【ゼンイキ】よりも劣っているとは思わない。

 解き放ったはずのパーソナリティが、今はなぜか安定していた。

 ――今の俺なら、《アークティクス》ごと世界を変質させることも可能ではないのか。

 そんな淡い期待すら抱く。

「世界への影響はお構いなしですか?」

 微動だにせず、涼しげな顔で彼女は一気に「それ」を打ち消した。

 陽炎じみた「それ」は霧消する。

 白銀の砂漠に染みていた黒斑もにわかに消えた。

 まるで風に吹き流されたかのように。

 しかし風はない。

 静寂が耳触りだ。

「あとで縫合すりゃ済む話だ」彼女の揶揄に、弥寺は答えた。「《お前》を屠ったあとでな」

「あら、いい考え」

 感心する彼女のその表情には、余裕が満ちている。

 わずかにゆれる空気。

 そよぐ風。

 その余裕の満ちた彼女の顔を弥寺は今。

 ――右手に握っている。

「今すぐにな」

 首のない彼女の身体からは、溌溂と、しぶきがあがっていた。

 一定のリズムで噴きあがり、血しぶきは萎んでいく。

 それでもまだ彼女の心臓は動いている。

 拍動にあわせて噴出する褐色の液体。

 月光に照らされて、てらてらと。

 きらきらと輝いている。

 やがて頸なき身体はその場に崩れ落ちた。

 弥寺の手にはすでに、彼女の顔(かんばせ)はない。蒸散したばかりの余韻が、すらすら、と風に散らばっているだけである。最後のきらめきの一抹を手にとろうと腕を伸ばす。宙を握る。

 開いたその手には、なにも残ってなどはいない。

 人の死とは、いったいどこから始まり、どこまで巡り、どこで果てるものなのか。

 弥寺は考えない。

 死ぬもなにも、

 俺たちは元々、

 ――生きてすらいない。


 弥寺が彼女と対顔してから、およそ四分で訪れた終着。

 張りつめた弦の切れるがごとく、あっけないものであった。


 ***サイカ***

 バブルの塔において、サイカはアークティクス・サイドのどこからでも侵入することができる。

 専用のチューブで〈サイカの世界(レクス)〉とバブルの塔を繋ぐことが可能だ。

 ほかには、弥寺とライドのみがサイカと同じように自由な侵入を可能とされている。

 バブルの塔に侵入すると、見るからにライドが不機嫌であった。

「遅いぞ! 離反したかと思ったではないか!」

「そのジョークは面白くありません」

「あ、そう?」ライドは乙女な口調で言い直す。「もう……来てくれないかとおもった」

「そのジョークはお寒いです」

「たっは。凍え死ぬがよい!」

「……すみませんでした」面倒なので謝っておく。

 満足そうなライドを尻目にサイカは、ところで、と単刀直入に切り出した。「実験のほうは、今すぐに行いますか?」

「う~ん。それがな、弥寺くんがほら。見ての通り、不在なのだ」

 見ての通り、と言われておそるおそるサイカは見渡す。

 バブルの塔内――ここはラボラトリーの一つ。

 ライドは大概ここで過ごしている。「ラビット」を切り刻むことを暇つぶしとして。

 宙に浮かぶ細切れの肉塊。

 その解体されたラビットが誰なのか。考えるまでもなかった。

 突き抜ける悪寒が、全身から、サイカの気力を奪っていく。

 ――糊塗。

 波紋を強く。つよく。糊塗する。

 気取られてはならない。この感情を。動揺を。込みあげる呵責の念を。

 波紋の糊塗に気を取られて、膝が崩れる。

 地面に両手をつき、なんとか踏みとどまった。

 そのまま泣き崩れたかった。

 しかし。それもままならない。

 サイカは思う。

 不安定だ。

 何もかもを投げ出したい。こわい。こわいんだ。

 私のしてきたことの罪と。

 担うべき罰と。

 それらの。

 犠牲を対価に得るはずだった結末の放棄が。

 ――私はこわい。

 ごめん。

 ごめんなさい。

 本当にごめんなさい。

 歯を食いしばって。

 悔いを縛って。

 固定し、遮断する。

 小さく息を吐く。もう大丈夫。

 安定する。静止する。

「何をしておるのだ」というライドのおかしそうな声を受け取る。「ええ、あまりに奇抜なその配置に、思わず噴き出しそうになりまして」

 視線を向けた先――。

 宙には、ひとの泣き笑いの顔に配置された、細切れの肉塊。

 ――少女の肉塊。

 昨日までは生きていた少女の。屍。遺体。

 痛いよ。

 先生、イタイの。

 少女の声が聞こえた気がした。

 小さくかぶりを振る。雑念を振り払う。

 振り払うべきではないそれをサイカは振り払う。

 点描のように散りばめられた少女の遺体に向かって微笑みかえうようにし、「芸術的ですね」とサイカは言った。「ライドさんはユーモアもまた超天才的です」

「たっは。サイカくん、今日のキミは実にセンスがいい。いったいどこで磨いてきたのだ?」

「これだけの付き合いです、ええ、きっとこれも、ライドさんの影響でしょう」

「なぁに当たり前のことを言わんでも、ええがなええがな。もっと気の利いたことを言いたまえ」上機嫌にライドは、首をごきんと回しつつ、チリチリパーマを撫でつけている。

「精進いたします」サイカは低頭した。

 頭を起こしてから、「探してまいりましょうか?」と提案してみる。

「弥寺くんをかい? ええそうね。ならばお願いしましょうかしら」

 承知いたしました、とサイカは壁際にある、青い足跡のもとへ歩を進めた。

「三人揃い次第、開始しようではないか」

 宙に並んだ少女の肉片を操作してライドは、泣き笑いの顔にウインクをさせた。

 それをサイカは、床に反射した像で見た。滑らかな床である。

 像がぼやけているのは、きっと、その滑らかな床のせいだ。

 サイカはそう念じる。



 ***コロセ***

 本当にここなのか、とカエデの声が直に脳裡に響いた。

「……のはずなんだけど」

 見渡してみる。何もない空間。

 まだここは無印エリアではない。

 一二三号棟、S‐D4フロアの一角だ。

『からかわれたんじゃないの』とカエデ。

「僕の波紋、カエデがどこまで読んでいるのか知らないけど――すくなくとも努樹のあれは冗談ではないと思う」

 瞬き二回分ほど間が空いてから、そうだな、とカエデの頷きが聞こえた。

 それからカエデは、それはそうと、と話題を変えた。

『それはそうと、声に出さずとも会話は成立するんだが』

「それは、うん、その通りなんだけどさ」

 ――でも、慣れないんだよ、これ。

 ――カエデが勝手に読みとってくれる分にはいいんだけど、僕が声に出さずに何かを伝えようとするのってさ、なんだろうね、すごく、いずいんだ。

『いずい?』

 ――ああ、えっと、

「違和感があるってこと」と途中から声に出した。

 やっぱり会話をするなら声帯をふるわせたほうが落ち着く。

「むしろカエデのさ、なんだろう……テレパシーっていうの? それ、すこし大きいかも。聞こえるたびに、耳鳴りみたくキ―ンってなって、すごく、いずい」

『いずい?』

 カエデは笑っているようだ。方言が珍しいのだろう。まあ、カエデにからかわれるのはもう慣れたからいいのだけれど。それに、こんなことで笑ってくれるのなら、お安い御用だ。

 珍しくカエデはちゃかし口調で、『いずい――ってのは、ボクらの用語で』と囁いた。『ボクはホモです、って意味だ』

「うっそっ!?」

『うん。ウソ』とカエデ。『でも、コロセにそっちの気があるのは、ホント』

 どうやら努樹のことを言っているらしい。

「波紋を読むのは良いけどさ、読むなら読むで、きちんと読んでよ」と抗議する。「たしかに努樹は男だし、僕は努樹のことが好きだよ。でもそれは恋愛感情とかそういったのとはちがう」

『生殖活動をしたいとは思わないんだ?』

「…………えーっと」

 う~ん。カエデはすこし(どころか、かなり)恋愛感情について履き違えているように思うのは僕だけだろうか。恋愛イコール生殖活動ではないと僕は思うのだけれど……僕のほうが間違っているのかな。

『まあ、相手が男なら、たしかに生殖活動はできないな』とカエデはお門違いに首肯する。

「あのね」と誤謬を正すように僕は言う。「努樹は男だけど、でも――」

『しッ! 黙れ』

 急にカエデが凄んだ。もちろん僕の脳裡にしか響かない声で。

「な、なに?」

『誰かいる』

「どこに?」

 咄嗟にその場に屈むものの、何もない空間のど真んなかで屈んだところで、頭隠して尻隠さずどころか、尻を突き出しているだけだ。

『いや……気のせいだった』

「やめてよ。カエデはいいけど、僕は『浸透』ってやつができないんだからさ」

『だからわざわざ、こうして教えてやっただろ。どうして文句しか出ないかな。感謝されはすれど、文句を言われる筋合いはない』

 勘違いだったくせに、と僕は声に出さず毒づく。

 背中を思い切りど突かれた。いたい。

『視えないからって触れられないわけじゃないからな』

 なんだよその恫喝。

「ずるいよ……」僕からは触れられないのに、向こうからは一方的に触れられるだなんて。「ねえ、いまカエデ、どこにいるの?」

『きみの左だが。なぜ?』

 試しに僕は、カエデがいるだろう場所めがけて左手を振った。空を切る。

 はぁん、とカエデ。

『きみじゃ無理』と小馬鹿にした口調だ。『浸透しているボクに触れるのは、きみじゃ無理だ』

 なんだろう腹がたつ。

 負けず嫌いの気性がふつふつと湧き上がってきた。

 もういちど僕は同じ場所めがけて左手を振る。

『そこじゃない。いまはボク、きみの右』余裕綽々とカエデが告げた。

 教えられるのと同時に僕は右手で宙を引っ掻いた。

 むにゅ、とした。

 なんだかふくよかな感触。

 あれ――?

 なんか、ここに、視えないのに、何かある。

 確かめるように僕は何度かまさぐってみる。

 むにゅ。むにゅ。

 あれ、なにこれ?

『………………おい』

「はい?」

 思い切り顔面をど突かれた。

 この衝撃。

 ビンタではない。拳だと判る。

 痛いでは済まなかった。

 あごがふっ飛ばされたかと思った。

 でも大丈夫。

 あごどころか僕は、全身丸ごとぶっ飛ばされていた。

 床をころがる。

 人間、本気で命の危機を感じると、痛覚は遮断されるらしい。

 痛くはない。ただ呆気にとられて、間抜けに倒れている僕がいる。

『どこ触ってんだよッ!』と怒鳴るカエデ。

「どこ触ってたの?」とどもる僕。

 沈黙。

 よろよろと立ち上がる。服を払った。

 なんで触れられるんだよ、とカエデがぶつくさ文句を溢している。そのつぶやきが僕の脳裡に響いていて、すこしうるさかった。どうやらカエデは、自分の波紋を僕の波紋から切り離すのを忘れているらしい。なにをそんなに動揺しているのだろう。

 

 そのまましばらく待っていると、近寄ってくる足音が鳴っているのに気づいた。

「待ったか」

 努樹がカーテンをくぐるみたいに揺らめきながら現れた。

「ううん、僕もいま来たとこ」

「なんだよそれ」努樹がはにかむ。「彼女きどりか?」

「ここからどう行けばいいの?」単刀直入に僕は尋ねた。

「とりあえず付いてきて」

 言って努樹は歩き出す。僕もあとにつづく。

 カエデは緘黙している。黙る必要なんてないのに、と声に出さずに呼びかけてみるものの、応答なし。

 まさか僕を置いて、勝手に単独行動しているわけではあるまい。

 不安になった僕は右隣の宙をさぐる。

 欠伸を装って、右手を振った。

 むにゅ、とした。

 呼応するように脇腹に衝撃が走る。

「ぐほっ」と出したことのないうめき声が漏れた。

 なんだ、いるじゃないか……。

 いるなら返事くらいしてよ、と不平を鳴らす。応答なし。

 どうやら僕――カエデに無視されている。

 僕の奇怪な鳴き声に驚いたのか、「なんだ、どうした?」と努樹が振りむいた。咳です、と弁解すると、「頼むからできるだけ静かにしてくれ」と叱られた。

 カエデのせいでおこられちゃったじゃないか。嘆いてみるものの、やはり返事はない。

 女の子の気持ちが僕にはさっぱり解らない。ああいや、他人の気持ちが解らないだけの話か。う~ん、それもちがうかも――そもそも、自分の気持ちすら僕にはよく解らないのだから。

 相手の気持ちが解らなくてもいい、だなんてさっきまでは思っていたけれど、でも、やっぱり知りたいという気持ちはつよいみたいだ。どこまでいっても、いつまで経っても、我が儘なんだよな、僕は。

 いい加減、この気持ちにも、けじめを付けなくてはならないのかもしれない。

 曖昧な僕をそろそろ終わりにさせよう、と決意する。

 まえを歩く努樹のチョビマゲがしきりにゆれている。

 一定のはやさで。

 一定のリズムで。

 一定の振れ幅で。

 まるで、終焉までの階段をカウントダウンしているみたいに、ゆらゆらと、ゆれている。

 

   ***

「青い足跡のうえに立って」と努樹に言われた。

 壁と睨みっこする格好になってしまう。

 ヘンなの、と思いつつ足を乗せてみると、壁がひらいた。自動ドアみたいだ。なかに入る。振り返ると壁が塞がっていた。努樹はいない。不安になる。けれどすぐに努樹が壁を抜けきた。

「ここが無印エリアだ」努樹が声を窄めて言った。「ここからさきはコロセひとりで行ってもらわなきゃならない」

 僕は頷く。

「でも、どこへ?」どこをどう進めばいいの、と訊いた。縋っているみたいな情けない口調になってしまった。

 ここは、単調なつくりの通路ではあるのだけれど、どこまでも続いているかのような、そんな迷宮じみた構造に思えた。

「今さ」と努樹は壁をゆび差す。「青い足跡のうえに乗っただろ?」

「うん。そしたら壁がひらいた。あの足跡、センサなの?」

「そう。で、ここからさきには、壁にぶつかるたびに青い足跡がある」

「その足跡って、全部青いの?」と問う。

「そう。でも、そのなかに赤い足跡がある。それが目印。その赤い足跡にコロセは乗って」と努樹は教えてくれた。それから念を押すように、「青い足跡には絶対に乗っちゃ駄目だから」

「赤い足跡ね」

「そう。赤いやつだけ」

「わかった」ありがとう、と礼を述べる。

「赤い足跡を辿るように進めば、コヨリという子――彼女のいる場所へ辿り着く。そこからさき、どうするかはコロセ次第。私ができるのは、コロセがそこまで辿りつけるようにすることだけになるかもしれない」

 どういうことだろう。

「あのさ」と僕は質問する。「コヨリがいまどんな状態なのか、もしかして努樹、知ってるの?」

「うん。知ってる」あっさりと努樹は明かした。

 これまでにないくらいに清々しい返事だ。「なんだ。だったら教えてよ」

「自分の眼で確かめればいい」努樹は突き放すような台詞を、とても申し訳なさそうに口にした。「私からは言えないし、言っても仕方がないことだから。コロセがその眼で、コロセの世界で認識しなきゃならいことだから」

「そう――だね。ありがとう」

「やめてくれ」努樹は顔を背けた。「私は……私がコロセに……謝らなきゃならないくらいなのに」

 お礼なんて、やめてくれ――と努樹は溢した。

「あやまる必要なんてない。努樹があやまる必要なんて」語気を荒らげて僕は言った。それからもういちど口にする。「努樹、ありがとね」

 努樹の背中、肩が怒っている。力を入れているのだろう。ちいさく震えている。

 唾液を呑み込む音がした。

 僕のノドが鳴ったのか。

 努樹のノドが鳴ったのか。

 僕には判らなかった。

 努樹がちいさく口をひらく。

「――時間がない。はやく行ったほうがいい」

 ありがとう、と僕が口を開く前に、努樹は掠れていなくなった。

 


 ***サイカ***

 バブルの塔にサイカが戻ると、弥寺がそこにいた。

「たっは。サイカくん、ご苦労だった」

 作業をしながらライドが労いの言葉を投げかけてくる。珍しい。ご機嫌なのだろう。

「弥寺くんもこの通り、戻ってきてくれたよ。いよいよあたしのプロジェクトは佳境へ向かえるというもの。これまでの長々とした準備が嘘のように、あっという間に完了するだろうね。問題は、〝アレ〟が【ゼンイキ】になったあと――果たしてシミュレーション通りに我々の支配下に落ち着いてくれるかどうか」

 それが問題なのだ――とライドが唾を飛ばしている傍らで、弥寺が問うてくる。

「よう。どこへ行っていた?」

「はい。弥寺さんを捜してくるように、との指令をライドさんから承りましたので、」サイカは淡泊に応じる。「――総括部のほうへと足を運んでおりました。アークティクス・サイドの離脱履歴を確認するためです。履歴を拝見した結果、弥寺さんはすでに帰還しているとのことでした。なのですぐにここへ戻ろうとしたのですが、それでも弥寺さんがここへお帰りになっているかは未確認でしたので、ここへ戻るまえに、いま一度、サイドエリアのほうも探ってからにしようと、」

「言い訳はいい」こちらの言葉を遮って弥寺は、「どこへ行っていたのだと俺は訊いている。どこへ行っていた?」

「……一二三号棟へです」正直に答える。答えつつ、波紋を『沈下』させる。

「なあ。なぜ『沈下』する?」弥寺の冷めた口調が棘のように胸を刺す。

 サイカの身体は熱くなる。

 体温が上昇していくのが分かる。

 血が滾っている。動揺を悟られるのを承知でサイカはさらに波紋を『沈下』させた。

「それくらい『沈下』されば、そうだな、俺でも意識しなくては読めんだろう」

 呼吸が辛い。

 ここまでしても弥寺には通用しないのか。波紋を簡単に読まれてしまうのか。

「いや。それくらいの『沈下』であれば、俺にも容易には覗けない」

 弥寺の言ったその台詞そのものがサイカの波紋を読んでいることを示唆している。どこまでもふざけた男だ。サイカは舌を噛む。

「――というわけで弥寺くん、【ゼンイキ】がぼくに抗った際には、対処のほど、よろしくね」

 奥のほうで勝手に喋りつづけていたライドがようやく長々とした独白を結んだようである。

「あとで始末するくらいなら、今のうちに処分すりゃいいだろうが」

 弥寺のその冷淡な口調が心臓におもく響く。

「たっは。今日も弥寺くんのジョークは切れ味するどいねェ。流石おいらの相棒! いかしてるぜ!」陽気に言ったライドを弥寺は冷たく睨んだ。即座にライドは指でキツネをつくって、「いかしてるぜ相棒……」と弱々しく話しかけている。

 惨めだ。

 弥寺はつまらなそうに欠伸をしている。

 うほん、と咳をしてライドは仕切り直す。「さて、諸君、準備はよろしいかな」

 弥寺は返事をしない。

 サイカは声が出せない。

 いま『沈下』を解くわけにはいかない。弥寺に気取られてはならない。

「返事くらいしてほしいものだがな」寂しそうに漏らすとライドは、「元気だしなよ」と指のキツネを遣って形影相弔っている。「あんな冷血な二人なんて放っておいて、勝手に僕らではじめちゃおうね」

 惨めだ。

 ライドも。

 私も。

 誰も彼もが惨めだ。

 そんな惨めな者たちのなかであいつだけが笑っていられるのなら私は誰を裏切ってでもなにを擲ってでも凡てを犠牲にしてでもあいつの笑顔を選ぶだろう。

 あいつの横車を私は押してやりたい。

 たとえそれが。

 あいつを裏切ることになっても。

 あいつのことを裏切ってでも私は。

 あいつの我が儘を貫かせてやりたい。叶えてやりたい。

「すみません」サイカは発言する。「ご報告し忘れていたことが……」

「なんだ?」とライドは首を回す。

 ごきん、と鈍い音が鳴る。水を差されて機嫌がわるそうだ。

「無印エリアに侵入者がいたようです」

「たっは! 侵入者っ!?」ライドは白衣を掴んで両手をひろげた。今にも飛び立ちそうな格好だ。「どういうことだ? なぜそれをさきに言わんのだ!」

 弥寺も冷たい視線を注いでくる。

「申し訳ございません」と低頭しながら、「ですが、ライドさんのセキュリティをかい潜って侵入してくる者など、私には信じられませんでしたので――その、もしかしたらライドさんが『機関』の重鎮の方がたを招待したのやもしれない、とそう思いまして、先にライドさんへ確認しておきたかったのです。ですがライドさんにはどうもそのような気配はないようでしたので、魯鈍ながらもこうして私は今さらながら、ご報告した次第です」

「だったらさっさと報告なさいよ!」ライドは立腹している。「まあ、いいわ。で、侵入者って本当なの」

「はい。総括部へ弥寺さんの離脱履歴を拝見した際に、いちおう確認しました。それによれば、無印エリア内に侵入した者は、登録されている者ではありませんでした。ただ、ライドさんのセキュリティは完璧です。こちらからの許可がなければ、侵入は不可能なはずです」

「それはそうだ」当然であろう、とライドは相槌を打つ。

「ということはやはり、さきほども申し上げました通り、ライドさんか、またはどなた様かが許可をくだして招き入れたお客人ではないか、と私は考えた次第です」

「たっは。莫迦め。ならばなぜその真偽をすぐに確かめぬ! なぜもっとはやくわしに訊かぬのだ!」

「ええはい。お言葉を返すようで恐縮なのですが――仮にライドさんがお客人をお招きしていたとするならば、超天才であるところのライドさんが私にそのことを報せていなかったということは、何かしらの理由があるのだと考え、素知らぬ振りをしながら様子をみようかなと思いまして――」

「たっは。莫迦め。客ではなく、侵入者だったらとは考えなかったのか!」

「もちろん顧慮しました。ですが、たとえ侵入者だったとしても、『ここ』には決して辿り着くことはできません。放っておいても我々のプロジェクトには差支えないものと考えました」

「たっは。莫迦め。……ああいや、なるほどな」ライドは納得してくれたようである。

 サイカは視線を向けずに弥寺の気配を窺う。それは波紋を読むということではなく、視界に燻ぶる模糊とした気配を感じとるといった素朴な警戒であった。

 興味なさげにしているような雰囲気ではあるが、気は抜けない。

「念のため、その侵入者――私が排他してまいりましょうか」とサイカは提案した。

「どうすっかなー」とライドが白衣をばたばたと羽ばたかせている。そのまま飛んでいきそうな仕草だ。「おれさ、ちゃっちゃと〝コレ〟を【ゼンイキ】にしちゃいたいわけ。たっは。サイカちゃんもわかるっしょ? このおれの胸の高鳴りっつーか、苛立ちっつーか」

「承知しています」

「だったらさ、サイカちゃん待たずにはじめちゃっててもよいかね?」ライドは腰をくねくね捩じっている。

 じれったいのだろう。はやく取りかかりたいのだろう。

 しかし、

「……それは」

 ……困る。

「なあ。ライド」と緘黙していた弥寺が口をひらいた。

 反射的にサイカは彼を見遣る。弥寺はソファに腰を沈めて本を読んでいた。紙媒体の本である。珍しい。紙媒体の本が珍しいという意味と、弥寺が本を読んでいるという行為が珍しい、その二つの意味で稀有であった。

「なあ、ライド。お前が片づけてきたらどうだ」

「どういう意味だね」

 そう、どういう意味だろうか。どんな意図があるのだろうか。サイカの鼓動が大きく高鳴る。

「少なくとも俺はその侵入者を招き入れた覚えはない。ライドでもないのだろ」

 ライドは頷く。

「んでもって、サイカ。お前でもないんだよな」

「はい」と間を空けずにはっきりと肯定する。

「ならその侵入者――総括部の誰かが招き入れたゴミだ。だがゴミはゴミでも、総括部にいるような奴が目をかけたくらいだ、それなりのパーソナリティを兼ね備えた保持者だろう」

「弥寺くんはなにが言いたいのですか」ライドは急かすように嘴を容れた。

「だからよ、『血肖液』はどれだけ濃くても、濃すぎて困ることはないのだろ? だったら最後にその侵入者を刻んで加えてみるのも一興じゃないのか、と俺は言っている」

「なら弥寺くんに鹵獲を頼みたいものだがな」

 コレを持ってきてくれたときみたく――。

 ライドは赤い液体に浸かった少女を指差す。

 ――オリア・リュコシ=シュガー。

 彼女はクリアボックスに収納されている。まるでホルマリン漬けにされた標本のようだ。ただしその姿はこちら側からは見えない。血肖液の色が濃すぎるのだ。

「俺が行ったらそれこそ、その場で刻んじまう。かと言ってサイカでは、戦闘になっちまったら時間だけが無駄にかさむ。だったら話ははやい。ライド、お前が行けばいい」

「ぐむ」とライドは閉口する。

「あの、弥寺さん……」サイカが口を挟もうとするも、「黙ってろ」と冷たく威圧されて、何も言えなくなってしまう。

 こわい。

 弥寺という男がこわい。

 畏怖の念がサイカの言葉を詰まらせているというのもたしかにあった。だがそれ以上に、ここで食い下がって異論を唱えたところで、ことを波立たせては意味がない。

 いまは様子をみようとサイカは判断した。

「はやく行け」紙面から視線だけを上げて弥寺は、ライドを睥睨する。「なんなら俺が処分して来てやろうか? 総括部にいるだろう裏切り者ごと」

 その台詞の意味するところは、総括部ごと消しちまうぞ、という恫喝である。

「でもね、でもだよ弥寺くん……その、もしもぼくよりも強かったら、その侵入者が強かったらさ」

 危なくないかなぁ、とライドは迂遠に意義を唱える。

「だったらウブカタだとか、ほかのラバーにでも頼めばいいだろうが」

 なるほど、といったような表情をライドは浮かべる。だがすぐに表情を曇らせた。「どっちにしろあたしが指令を出さなきゃいけないってことじゃない!」

 遮断された空間であるこの「バブルの塔」からは指令が出せない。指令や情報を入手するには、いったん、外へ離脱しなくてはならないのである。

 そしてライドが一瞬にして巡らせただろう思考は、サイカにも容易に想像できた。

 サイカは暗殺を生業としているため、アークティクス・ラバーたちへ直接指示をくだせる地位にはいない。表向きの地位も、ライドの世話係といった秘書的な人物として周囲には認識されている。ただし、オリア・リュコシ=シュガーが暴れたあのときだけが例外であった。サイカは、ライドの老紳士型の人形を操って指示を出した。しかしそれはあのときだからこそできた手法。無印エリア内がオリア・リュコシ=シュガー、彼女によって崩壊されていて、なお且つ、彼女のつよく乱れた波紋が充満していたために、サイカはほかのラバーたちに気付かれなかったのである。だが今は、そうではない。

 サイカではラバーに指示は出せない。かと言って、総括部に裏切り者がいるかもしれない状況のなか、総括部を通してラバーへの指示も出せない。弥寺に至っては、この通り、ライドの指示ですら容易に引き受けることはない。ならば、ライドは自分で指示を出さねばなるまい。

 うがー、とライドは吠えた。

「行けばよいのだろ!」

 弥寺くんのイジワルっ、と捨て台詞を吐いて壁際へ移動。青い足跡のうえに立つ。ライドはそのまま霞んでいった。

 静かだ。

 弥寺はつまらなそうに坦々と紙面に目を走らせている。

 サイカはクリアボックスのまえにまで歩む。

 濃い赤の液体。

「血肖液」に浸かっている少女。

 液体の色は、黒にちかい紅色だ。

 目線の高さに彼女のへそがあるはずだ。

 しかし彼女の身体は視えない。

 紅に塗れて。紅い黒に沈んで。

 彼女の枠美な。

 黒い髪の毛だけが。

 紅い黒に透けている。

 風に舞っているように。

 風に靡いているように。

 クリアボックスに浮かんで視えている。

 紅色の黒よりも彼女の髪の毛のほうが黒いから。

 ――オリア・リュコシ=シュガー。

 小春ひよりと名乗って、あいつと仲良くしてくれたひと。

 あいつにとって大切なひと。

 あいつが幸せになるために必要なひと。

 だから彼女はきっと私にとっても大切なひと。

 それでもこのひとが犠牲になってくれさえすればなにもかもが上手くいく。

 彼女さえここで死んでくれさえすれば。

 犠牲の連鎖はここで止まるはず。

 なのに――。

 なのに私は。

 彼女を殺せない。

 殺させない。

 絶対に。

 死なせはしない。

 彼女を生かすために。

 ――私は。

 眼を閉じる。

 短く深呼吸。

 眠ってしまいたい気持ちを振り払って。

 瞼を押しあげる。

 波紋を『沈下』させたまま。パーソナリティを発動させ。

 あとはこのまま。

 振り向かぬままで。

 標的を――。

 

「やめておけ」

 

 耳孔にひびく声がある。

 ぞくり、と突き刺すような悪寒が背中をゆっくりと這った。

「――お前じゃ俺を毀せない」

 紅色を透かしているクリアボックスの表面はなめらかで、鏡のようにこちらごと背後の様子を映しだしている。

 サイカのすぐ背後で弥寺が退屈そうに欠伸をしている。




 +++第十一章『転』+++

 【電光掲示板みたいなもんだ。実際にはただ一個の電球が点滅しているだけなのに、そういった電球がたくさん集まって、密集して、そうして俯瞰的にみるとなぜだか意図のある図形が流れているようにみえる。誰も流れていないにもかかわらず】

 

 

    タイム△スリップ{~基点からおよそ四カ月後~}


 ***イルカ***

 いま、イルカは誰かを殴りたくて仕様がない。

 ただし誰でも良いわけではない。

 できるなら、餓鬼か中年。

 もっと欲を出しても許されるのならば、そう、ウブカタを殴りたかった。

 苛立ちを、煙草の煙とともに吐きだしている最中である。

 つい今しがたライドから呼び出しがかかり、「至急こられたし」との指示を受けた。ウブカタも一緒に、との補足つきだ。

 だが当のウブカタがどこにもいない。連絡もつかない。

 どうやら野郎はバイブル通信を切っていやがるらしい。

 外見は中年であるが、中身は餓鬼のウブカタだ。

 イルカにとっては最悪の人物であることに異論はないが、ざんねんなことにその最悪の人物をイルカは愛している。

 愛の裏は憎しみとはよく言ったものであるが、だとすれば、憎しみの裏もまた愛になるのだろう。どちらの感情をさきに抱くかで、のちに生じる粘着質な感情のカラ―が決定するならば、最初に憎まれたほうがよいのかもしれない。いや、ことはそう単純なものではないだろう。

 中年ウブカタの戯言を例にあげるならば、「ラブの反対はブラだろ? ブラの裏に何があるか知ってるか? ふくよかな乳房だよ。ようするに、愛ってのはおっぱいのことなんだなこれが」だそうだ。

 マグマ煮えたぎる噴火口で男子自由形四百メートル泳ぎでもしてくればいいのに――とイルカはたばこの煙を吐き出す。

 ここだけの話であるが、イルカのブラジャーの裏にはふくよかな乳房などはない。そこにあるのは慎ましやかな乳房なのである。ともすればブラジャーそのものが不要なくらいに。それがまたイルカは気にいらない。せめてノドカさんくらいの張りがあればなぁ、とついついむかしの仲間を引きあいにだしてしまう。それからしばらく感傷に浸った。ノドカは言っていた。「イルカちゃんは人より、ちびっと成長が遅いだけなんだよ。まだまだ希望を捨ててはいけないよ。あたいはもうダメだけどさイシシ」と励ましてくれた。だが現実はときに残酷だ。

 ノドカは死に。

 イルカの胸は慎ましやかなままだ。

 巨乳の女など死に絶えればいいのに――とイルカは半ば本気で祈っている。

「それは困るなぁ」としわがれた声が届く。

 発生元はイルカのすぐ背後だ。

 中年ウブカタだと認識する。

 むかっ腹を立てる以前に、振り向きざまにイルカは腕を振るった。

 遠心力の加わった拳は、重さを増してウブカタの顔面にヒットする。

 回転しながら中年が宙を舞う。

 無条件かつ全力での裏拳だ。

 華麗に決まった。

 程良く満足する。

 静寂。

 数分後――。

「いい加減に起きてください、ウブカタさん」

 イルカは膝のうえにウブカタの頭を乗っけている。膝枕である。中年の額を撫でるようにひっぱたきながらイルカはもう一度言う。「起きてくださいってば」

「ん、う~ん」寝ぼけ眼を擦りながらウブカタは首を捻った。「あ、あれ? イルカちゃんじゃないの。久しぶり。うん? 久しぶり?」

「……お久しぶりです」

「ああ、ゆめか。よかった。オレさ、今な、すごくイヤな夢みちゃってたよ」

「……どんな夢ですか」

「あのな、外の社会にさ、歯医者っていんだろ? あそこで親知らず抜かれちまった夢」

「へぇ……。痛かったですか」

「そう。すっげーいてぇの。んでもってな、頬っぺたがよ、こう、ぐわーって腫れあがってな」

 寝ぼけた調子で言いながらウブカタが、自分の頬に触れる。触れる。触れる。

「おい……なんかおれの頬っぺた……おっぱいみたいじゃね?」

 イルカは無言でおっぱい星人の腹を殴った。

 反動で跳ね起きたおっぱい星人は痛さのあまりかただの中年に戻ったようだ。

「い、イルカちゃん……なにすんだよ」オレを殺す気か、と苦しそうに腹をおさえている。

 癪に障ったのでもう一度、今度は背中を殴ってやった。肝臓の位置にきれいに決まった。

 中年が見苦しくあえいでいるが、ホント、なんて大袈裟なのだろう、と呆れてしまう。呆れつつも、満足して立ち上がる。そうして、悶え苦しみ、芋虫のように転がっているウブカタを見下ろした。

「いつまで遊び腐ってる気ですか。ライドさんから召集かかってるんですから。ほら行きますよ」

 苦悶と戯れている中年をつまさきで小突くようにする。

「……おまえ、鬼かよ」

 ウブカタの湿った呟きが聞こえた気がしたが、気のせいだろう。

 ライドの指示はきちんと口頭で伝えた。ここにとどまる必要はない。

 ウブカタを置き去りにし、ライドのもとへいそぐ。



 ***ライド***

「――というわけで、侵入者がおるようなのでな。早急に対処をよろしく頼む」

 端的に説明しライドはイルカたちの返事を俟たずに、そそくさと暇を告げようとした。

「あの、待ってくださいライドさん」

 イルカに呼び止められる。「すみません、一つ確認を」

 ライドは振りむき、なんだ言ってみなさい、と視線で促す。

「あの……対処というのは『処分』ということでよろしいのですか?」

「うむ。それで頼む」

「承知しました。報告書のほうもわたしたちに任せてもらってよろしいのですね」

「そうであったな。うむ。ではこうしよう。『暴走者』の『処分』を諸君、二人が遂行した――とな」

「わかりました」

 では、とライドは踵を返す。数歩進んでから、なんとなく触れておいたほうが良い気がしたので、「ウブカタくん」と声をかける。

「はい」と中年のぶっきらぼうな声があがる。

「きみ、ちょいと太ったのではないかな? とくに顔が」

「……お気遣いどうも。ですがね、これ、腫れてるだけなんで」

 心配には及びません、とウブカタは釈明した。

「ふむ。ならば安心だな」

 ライドは今度こそバブルの塔へと帰還するために、踵を返した。



 ***イルカ***

「さてウブカタさん――どうしましょうか?」イルカは問う。

「とりあえず氷がほしい」

「さてウブカタさん」とイルカは繰り返す。「これからどうしましょうか?」

「……侵入者の討伐だろ。ちゃっちゃと片づけようや」

 

 ライドの話では、侵入者は無印エリアを、奥へ奥へと進んでいるらしい。

 ライドからの指令はつぎの通りである。

   ・指示された場所で侵入者を待ち伏せる。

   ・侵入者があらわれたら奇襲をかけて、処分。即ち抹殺。

 これで任務終了。単純な策戦だ。

 ただ、その指示された場所――無印エリアのさらに奥――にイルカは踏み入ったことがない。彼女はこれまでそこへの侵入を許可されていなかったからだ。

 どうやらウブカタは見知った場所のようで、「おら、さっさと行くぞ」と紫色に変色した頬をかばいながら号令してくる。

 指令が下されている以上は、現状イルカにも侵入の許可が下りていると考えるのが妥当であるが、この状況、少しおかしいような気がする、といった違和感が彼女の裡にふつふつと湧きはじめていた。

 なにがおかしいのかは未だ漠然としていて、五里霧中であるが、それでも何かひっかかりを感じるのである。きっとこれは通常ではない。

 異常な事態なのだ、とイルカは不安に思う。

 これまでにない変化――日常の崩壊――が訪れようとしているのではないか。

 嫌な予感が胸の奥に渦巻いている。



 ***ライド***

「たっは。ただいま!」ライドはバブルの塔へ帰還する。

 弥寺はソファで古臭い「紙本」などという代物をつまらなそうに、しかし確実に読みふけっている。

 いっぽうサイカくんは、とライドは部屋を見渡す。

 いた。部屋の隅にいた。壁に寄り掛かるようにして、膝をかかえ蹲っている。しかも、毛布に包まっている。とても暇そうだ。もしくは、眠たそうだ。というか寝ているのではないのか? そう思いライドは茶々をいれる。

「サイカくん、そんなところで眠るなんて、たっは。キミはゴキブリかね」

 塞ぎこむように彼女は、さらに膝を引き寄せ顔を埋めた。

「なんだい、なんだい。近頃は人を無視するのが流行りなのかい。いいよ、いいよ。ボクぁ、ひとりで実験をはじめちゃうからね。独りで楽しく世紀の偉業を成し遂げちゃうからね。サイカくんたちなんか、どうせ問題が発生したときにだけ必要なプロテクトに過ぎないんだ。実験そのものにはね、いらないんだもんね」

 むつけたように吐き捨てライドは髪を掻きむしる。

 どさくさに紛れ「サイカくんたち」と言って、ちゃっかり、弥寺に対しての愚痴もそれとなく溢してみたが、それでも応答は得られなかった。

 しゅんとして作業に取り掛かる。

 新たに開発した『言霊』を、深紅色に染まって見えるクリアボックスへと貼りつけていく。

 ぺたぺた。

 ぺたぺたぺた。

 パーソナリティを無効化されてしまうので地道な手作業を余儀なく強いられる。その『言霊』は、実験の際に発生するだろうメノフェノン混濁の影響を緩和させるために必要なセキュリティである。

 深紅に映えているクリアボックスには、オリア・リュコシ=シュガーが入っているはずだが、『血肖液』があまりに濃い深紅であるために、その姿は視認できない。

 【ゼンイキ】へと変貌するその瞬間を観測できないというのは、ライドとしてはかなり不満が残るが、致し方ないだろう。不満はあるが、それでも段々と恍惚としてくる。期待は高まる一方である。



 ***サイカ***

 ライドが帰還する二十分ほど前――バブルの塔内でのことだ。

 弥寺から発せられる、冷たい威圧がある。

 殺気ではない。

 そんな高尚で親切な気配などではなかった。

 明確な無関心が感じられる。

 他者がどこでいつどんな毀れ方をしようとも関係がない。

 目のまえに小石があったら蹴り飛ばす。

 服に埃が付いていたので払い除ける。

 その程度のささやかな干渉。

 邪魔だから消すのではない。

 そこにあったから消すのだ。

 ――気分しだいで。

 激しく脈動する滾った身体でサイカは、切っ先を喉元に当てられたような凍てついた存在感をひしひしと受けとめていた。受け流すことはできない。受け流しても流しきれない圧倒的な存在感がこの男にはある。

「俺が気付いていないとでも思ったのか」

 弥寺は言った。

「お前らは日頃から年月を気にしていないから『十年前』と言ってもピンと来ないかもしれないが、十年前のあの日だ――このチマチマとしたかったるい計画が始まったのは。ネーミングセンスの欠片もねえ、この『ゼンイキ・プロジェクト』なるものが発足するきっかけとなったあの日――あの日、お前は暴走者をしっかりと視ていたはずだ」

 なあサイカ、と呼びかけてくる。「お前、暴走者が誰だか知っていたにも拘わらず、虚偽の報告をしたな」

 サイカは答えない。

 答えたくないからであり、また、答えたくとも声を出せない状態に陥っているからでもある。

 このときサイカは、『沈下』した波紋を、不規則に移動させつづけていた。全力疾走で縦横無尽に駆け回っているような疲労が全身に巡っている。平静を装うのが精一杯であった。波紋を読まれるわけにはいかない。

「たしかにあの規模での『暴走』なら、暴走者へ施す対処は『処分』が妥当だっただろう。仮に暴走者が〝俺のときのように鎮静化していた〟としてもだ。だからお前は偽った。偽りの暴走者を仕立て上げて、真に暴走していた者をかばった。そうだろ?」

 肯定はしない。否定もしない。サイカは平静を装うこと、ただそれだけしかできない。それだけは何としてでも行わなければならなかった。二つの意味で装わなくてはならなかった。自分の疲弊を知られてはならない。そして、動揺を悟られてはならない。心情はなにも、「波紋」だけから悟られるものではない。平静を装うことが何よりも優先すべき事項だ。

「お前があの時点でどこまで邪推していたかは知らないが――というよりも知りたくもないが――総括部の奴らはすぐにこのプロジェクトを立ち上げた。お前は暴走者を目撃した唯一の生存者だったからな、色々しつこく聞かれたことだろう」

 弥寺はゆらりと揺れてこちらから距離を置くと、また無造作にソファへ腰をうずめた。頭に腕を回して、脚を組む。優雅なものである。毛ほども警戒していない。まったく意に介していない。こちらの存在を。パーソナリティを。

「そしてお前は知ったはずだ――奴らの波紋を通じて、このプロジェクトが発足したことを。その際にサイカ、お前がなにを考えたか当ててやろうか。波紋を読むまでもねえ、お前はこう考えたんだ。『このままではいずれ【あいつ】は実験に利用されてしまうかもしれない』そう考えたんだろ。だったらそうならないように自分が何とかしなくてはならない。『もしも』のときのことを考えれば考えるほどお前は、いまのままでは駄目なのだと思いはじめた。じっとしていられなくなった。そうして【あいつ】を守るためにまず、様々な事実を捻じ曲げることのできる地位が必要だと考えた。組織からの信用が必要だった。そうしてお前はアークティクス・ラバーになろうとした。だが成れなかった。お前はたしかにパーソナリティ値も高く、『波紋』の制御や講読も人並み以上にはできるようだが、〝戦闘には不向き〟だ。お前にはちからが足りなかった。ラバーになるために必要な『性質』――もっとも必要な『武力』がお前にはない。それでもお前は諦めなかった。どんなことをしてでも地位が欲しかった。総括部へ圧力をかけられるくらいの、指令を自分で捻じ曲げられるくらいの、『処分』を撤回できるくらいの、ライドの意向に対して異議を唱えられるくらいの、そんな権力が欲しかった。その何でもやるという気概は、ライドの目にとまり、そうしてお前はいまの任務を得たのだろ? 人を殺すことを生業とした『その地位』を」

「はっきり言って下さい」サイカは苦心惨憺とした口調を隠すことなく、「言いたいことがあるのなら、」

 ――言えばいいじゃないですか。

 と腹の底から言葉を捻りだした。

 弥寺はあごを上げて見下ろすようにこちらを見遣る。「侵入者ってのは【あいつ】だな?」

 サイカは沈黙を守る。

 無言はこの場合、肯定を示す。しかし、ここで否定したとしても、弥寺の機嫌を損ねるだけだということをサイカは理解している。この数年で学んでいる。弥寺がどのような人物であるのかを。

「行かなくていいのか」弥寺は眠そうに欠伸を挟む。おおかた、喋りすぎて酸欠にでもなったのだろう。「なあ、助けに行かなくてもいいのか? 大事なオトモダチなんだろ」

「……あいつには」

 と床へ言葉を溢す。

「あいつには、〝護衛〟がいますから」

 心配には及びません、と遠回しに白状した。

 もう何もかもが筒抜けなのだろう。どんなに取り繕ったところで。どうせこの弥寺という男は、すでに私の裡側を覗いているに違いない。

 サイカは思う。

 これまでだってきっと。そうやって私のことを嘲笑っていたに違いない。いや、嘲笑することもせず、ただただつまらなそうに、くだらねえ、とそうやって蔑んでいたに違いないのだ。

 なんて、いやな人。

 これほどまでに『能力』のある人間ならば、あいつを救ってやることだってできたはずだ。だのにこの男は、私たちの事情を察していながらも、なおも現状を放置した。傍観していた。関係ないのだろう。この男にとっては、私たちのことなど、微塵も関係ないのだろう。どうなろうと知ったことではないのだろう。

 それはそれで構わない。弥寺という男がこちらに無関心を貫き、さらに無干渉でいつづけてくれるならば、それはそれで甘受するに値する境涯だろう。

 にも拘らずこの男は、なぜ関わってくるのだ。今になって。どうして。

 ――どうして干渉してくるのだ。

 放っておいてくれればよいものを、どうしてここにきて干渉してくるのだ。やめて。やめてくれ。もうすでにあとのない私の、最期の願いなのだ。

 あと少し、あと少しだけ、なぜ待ってくれない。

 結末は同じだというのに、なぜ待ってくれない……。

「ほお。護衛か」ここにきて弥寺は初めて口元を歪めた。「ラバーにも引けをとらない保持者がいたとはにわかには信じられないが――切羽詰まったお前が言うのなら、そういうことになるのだろう。ウブカタたちをまえにしても、護衛になり得る人物なのだろう」

 歪んだ口元が持ち上がる。

 あれは、そう、笑っている。

「なかなかどうして面白いことをしてくれる」

 サイカ自身、その護衛が誰なのかは知らない。ついさきほど、遠めから一瞥しただけなのだ。そいつはあいつの側にいた。こちらが「浸透」していたにも拘わらず、その相手に存在を気取られた。相手もまた「浸透」していたようだった。だがそのこととは無関係に相手はサイカの気配に反応したのだ。ありえない。少なくともサイカは、彼らの死角にいた。波紋だって「沈下」させていたのに勘付かれた。その事実だけを鑑みても、あいつの側にいた人物が、相当のパーソナリティ値を有している保持者あることは容易に窺える。

 そしてまた、耳を欹てるようにして盗み聞いていたあいつの独り言から、二人が互いに信頼を置いている関係であることも想像できた。

 嫉妬がなかったと言えば嘘になるが、もうそんな感情に意味はない。あいつを支えてくれる者が一人でも多くいてくれたことが、素直に嬉しく思えた。

 恋愛感情――眷恋――そんなもの私には勿体ない。無くてよいのだ。

 これでいいんだ。これがいいんだ。

 そう言い聞かせて、納得もできた。

「弥寺さんは」と波紋の沈下を解いてサイカは尋ねた。この男のまえではすべてが無意味だ。「弥寺さんはなにがしたいんですか」

 なにが望みなんですか、と臆することなく問う。問いつつ敵意を向けた。隠すことなく。明確な殺気を。

「俺の望みを聞いてどうする?」弥寺はめずらしく声を弾ませた。

「返答次第で、私は――」

 ――全てを〝コイツ〟に委ねます。

 と内心で続けた。言葉を紡ぐというのは疲れるから。思うだけにした。

「コイツ? どいつだよ」

 弥寺の皮肉染みた質問を無視して、なにが望みだ、とさらに強く念じる。

 こちらが本気になればなるほど、必死になればなるほど、弥寺という男は欣快に反応する。

 案の定、「俺はな」と弥寺はすぐに答えた。「俺はな、お前の罪を清算したいんだよ」

 罪――?

 清算――?

 できるはずもない。私の罪はもう、償うことなど叶わない。

「その通りだ。解っているなら話がはやい」

 ソファにもたれかかっていた背を起こすと弥寺は、真っ直ぐと射るようにこちらに目を転じた。

「たとえお前がどんなに残酷で悲惨な死に様を晒したとしても、お前の罪は消えることはない。ならば、その残った罪を誰が担うことになるのか、お前は考えたことがあるか?」

 なにを言っているのだろう、この人は。

 私の罪は私だけのもの。誰にも引き継がれることなどはない。

「解らないのか? つくづく愚鈍だな。なら結論から言えば解りやすいか?」

 いつの間にか弥寺はこちらのすぐよこに立っていた。深紅に透けたクリアボックスを見詰めている。

 サイカは動けない。動かせない。首を捻ることも。眼球一つ動かせなかった。

 真横から伝わる威圧はサイカの緊張を呼び起こす。

 上気していたサイカの感情と思考は、あっという間に弥寺の存在によって凍てついた。

「お前が死ねば、お前の罪は、【あいつ】が背負うことになるぞ」

 ごくり、と。喉が鳴る。

 コロセが――?

 私の罪を――?

 なぜ。

 どうして。

 どうしてそうなる。

 視界の隅に弥寺の存在がくすぶっている。どんなに意識しても、真横にたたずむ彼へ視線を向けることができなかった。まるでそこだけ次元が違っているようだ。引力すらも歪んで感じられる。

「なぜって、お前」弥寺はまた声を弾ませた。愉快なのだろう、この状況が。「お前にとって【あいつ】が一番大切なモノだからだ」

 たしかに私にとって一番大切な者はあいつだ。でも、そのことと私の罪があいつに踏襲されてしまうこととは関係がない。説明になっていない。

「わからないのか」と呆れたように弥寺は、「自己破産したからって、破産するのは自己であって、罪までもが帳消しになるなんてことは起こりえないんだよ」と謳った。「お前が死ねば、お前の罪は誰かが肩代わりしなくてはならない。そうでなければ、死ぬというただ一つの行いで、これまでの罪がすべて消えることになるだろうが。いくらなんでもそりゃ割が合わないとは考えないのか。なあ、おい。死ねば許されるのか? たったひとつの屑みたいな命で支払えるような罪なのか? お前の卑小な命ひとつで代替のきくような罪なのか、それは? そうではないだろう。お前の背負うべき罪がそんな単純で薄いなんて、あってよいはずもない。俺は認めない。ゆえに俺は、お前の罪を、お前がもっとも慕っている者へ肩代わりさせてやる。無理矢理にでもな。理不尽だと思うか? 無茶苦茶だと思うか? だがな、実際――そうやって人類はより多くの罪を重ね、増やし、次世代へと受け継がせてきたのではないのか。先人達が残した偉大なる罪という名のツケを担わされているのではないのか。先人たちが生みだし、残し、伝承してくれた技術や文化を、恩恵として受け継いでおきながら、どうして罪だけを拒むことができる? 生者は死者の『恩』と共に『罪』をも受け継ぐべきだろう。さもなくば、どちらともを拒むかだ」

 なんだその屁理屈は。理屈にすらなっていない。

「理屈だのなんだとの、そんなことはどうだっていいんだよ」

 ――肝要なのはな、寛容であることなのさ。

 と弥寺は謳った。断片的に波紋を滲ませることで、言動では判別しにくい幼稚な言葉遊びまでこちらへ伝えてくる。

 ならどうすればよいというのか。どうすればこの弥寺という男は納得してくれるのか。私は私の罪をあいつへ背負わせたくなどはない。哀しみや苦しみをできるだけ背負わせたくないからこそ、いままで私はこうして罪を背負うことで、あいつの苦悩や悲哀を取り除いてきたのではなかったか。

「本当にそうなのか」弥寺が責めるように言う。「お前が余計なことをしてきたからこそ【あいつ】は苦しみ、哀しみ、それらから逃避しようと孤独になっているのではないのか」

 そんなことはない。そんなことはないのだと否定したいのに、そう口にすることができない。念じることさえできない。私はあいつを守ってきたつもりだった。そう、きっと「つもり」に過ぎなかったのだ。私はあいつを守るどころか、救うどころか。苦しみを与え、哀しみを増やし、そうしてあいつを孤独へ追いやっていただけなのだ。

 けど、でも、そうしなければあいつは、今日まで生きてこられなかったのではないのか。いずれこの『プロジェクト』に利用されていたのではなかったか。たしかに死ねば、苦しみや哀しみから解放されるだろう。だがそれは、私の望む解決ではない。私はあいつに生きていて欲しかった。私はあいつと共に生きてゆきたかった。

「それだ」と弥寺は声をあげる。「それだよ、それ。お前、【あいつ】のためだとかなんだとか、牽強付会に、危言な理由ばかりを並べているがな、結局はお前が【あいつ】を失いたくなかっただけだろうが。お前はお前のために、これまで散々様々な命を奪ってきたんだよ。お前はお前のために、自分勝手に、【あいつ】を傷つけてきただけではないのか。なあ、そうだろ?」

「ちがうッ」

 叫ぶ。咄嗟の否定を。喉を鳴らして叫んだ。

 そうじゃない。そんなはずはない。

「あんたになにが解る」

 低く唸る。震えた声で。発声の仕方すらぎこちなく。

「あいつを失うくらいなら私は、私は……」

 いっさいの所作を意識下に置けず、頭を抱えてその場に蹲る。

 ずっと考えていたことだ。弥寺に指摘されたことなど、こんな男に指摘されるずっと前から、ずっとずっと考えつづけてきたことだ。この瞬間にだって頭の隅でうじうじと未だに答えが出せずにいる。いや、答えは解っている。解り切っているのだ。それを受け入れたくなかった。私は私のためにクラスメイトたちを殺し、罪を被せ、嘘をつき、人を殺し、あいつにとっての大切な者すらをも裏切り、殺し、私にとって大切だった人をも殺して、そうして幾人もの人間たちを、老若男女問わず、殺して、殺して、殺し続けてきた。あいつを失いたくない、という私の自分勝手な我が儘で私は殺し続けてきた。


 ――あいつを傷つけ続けてきた。


 私さえいなければ。あいつはもっと幸せだったかもしれない。いや、確実にいまよりも幸せだったのではなかったか。もしかしたら、いまよりも多くの笑顔を周囲へ振りまいていたのではなかったか。たとえ私よりもはるかに短い人生だったのだとしても。

 私はあのとき――覚悟したはずだ。どんな結末になろうとも、どんな最期が訪れようとも、私は絶対に後悔しないのだと。どんな結果をも受け入れるのだと。そう覚悟したはずだ。自分に誓ったはずだった。

 それがどうだ。この様は。どうしたことだろう。どうしてだろう。どうしてこんなに私は後悔しているのだろう。あれが最善だったはずだ。これが最良の策だったはずだ。どこで間違えた。どこで履き違えた。

 最初から凡てが間違っていた気さえする。

 そうだとも。私が生まれてきたそれ自体。私の存在そのものが間違えなのだ。

 どうしようもない。

 もう、私には――選択肢がない。

 ――選択しない選択しか残っていない。

「それは違うな」

 弥寺がはっきりと否定した。「お前は間違いを犯した。その認識は正しい。だが、その間違いが最悪の選択だったかどうかは、現状定かではない。そもそも、お前ら非力な人間にある選択肢なんてものは、総じて『どの間違いを選ぶか』という程度の選択肢でしかない。どれを選んだところでことごとく間違いだ。それは奇しくもお前が思っているように、あとになってからその選択を納得できるか否か――それとも不満を抱くか否か――そういった思い込み。その差異くらいしかないんだよ。どんな選択にしろ、それが最善だったと思い込むこともできるし、もっとほかに最善な選択があったのではなかったか、と無駄な懊悩に苛みつづけることも可能だ。重要なことは、どれを選んだかではない――」

 ――今この瞬間に、お前がどうしたいかだ。

 まるで、諭すように。導くように。弥寺はささやいた。

 しかし一方で、弥寺の威圧からは明らかな無関心が感じ取れた。サイカの存在など歯牙にもかけていないのだと如実に判る。こんな奴は毀れてしまっても構わないのだと、弥寺はそう思うことすらしないのだ。いてもいなくてもどっちだってよいのだろう。弥寺という男の無関心さはこうして身体全体で感じとれるのに。どうしてだろう。肝心なことばかりが分からない。

 解らない。

 私は……あいつを。

 あいつの願いを叶えたい。

 あいつの幸せを願いたい。

 ただ、それだけなのに……。

「そう、ただそれだけのことが今のお前には贅沢過ぎる。お前には重ねつづけてきた罪がある。もちろん、俺にだって罪はある。誰にだって罪はある。しかし生きている限り、少なくとも俺はその罪を償おうと思っている。そしてまたお前も、生きている限りは償いつづけることができるのではないのか。【あいつ】へお前の罪を背負わせずに済ませられるのではないのか」

 そう……なのだろうか。私が生きることで、あいつは私の罪を背負わずに済むのだろうか。この弥寺という男はあいつへ、私の罪を背負わせずにいてくれるのだろうか。なんなのだ。なにが言いたいのだろう、この人は。これではまるで私に、「生きろ」と諭しているかのようではないか。

「無様に生きてでも罪は償うべきだ。『死』では到底償いきれないものだからだ。仮に死ぬことで償えるのだとすれば、それは罪人にとって僥倖でしかない。いずれ誰もが感受する『死』で罪が帳消しになるんだ、こんなに楽な償いがほかにあるか? まあ、償うことすらせずに生きつづける罪人は楽だろう。しかし、そういったモノは罪人にすらなれないケダモノだ。己の罪に気付けずに、罪だけを蓄えつづけるケダモノ。憐れだ。いずれ器から溢れんばかりに溜まった罪は、やがて身を滅ぼすだろうとも知らず。それこそ、ケダモノに対して、お前らはひどく無慈悲だからな」

 お前ら――と弥寺はいつもそう口にする。

 保持者を含めた人類と自分を差別化して形容する。自分が特別なのだと思いあがっている。いや、とサイカは心のなかで自分を殴る。私も同じではないか。

「そうさな」と弥寺はこちらの独白には反応せずに、口上を振りまく。「お前らの概念で言えばだ――動あるものはいずれ静まる。生きているものはいずれ死ぬ。例外はない。それは俺であろうと、《あの女》であろうと変わらない。いわばお前らの言う『死』とは、一つの真理ですらあるのだろう。そこで俺は考えた。罪人を『死』で償わせられないのだとすれば、そいつのもっとも大切なものを代わりに惨殺してやればいい。自己と同じように大切に思える他人の死を、いくつも突き付けてやればいい。単純なだけに、どうだ、いい考えだと思うだろ?」

 単純というよりも幼稚だ、と思う。

「定期的に殺してやるんだ。その罪人がだな、大切な者を得たその時々で――そいつの大切な者を――目のまえで――殺してやればいい」

 ひどい。素直にそう思う。殺されたほうは堪ったものではない。そんなことをすればそれこそ、罰するほうが罪人ではないか。罪人の罪は、その人の大切な者には関係がない。罪はその人のものだ。誰かに貸したり、課せたりなどはできない。してはいけないのだ、とサイカはそう思う。

 罪人だからといって傷つけてよい道理などはない。報復だとか復讐だとか、そういった大義ある暴力の行使は、大義があるというだけで、結局はやはり暴力に過ぎない。暴力はときに必要だろう。だから暴力がわるいことかどうかなんてサイカには判らないし、善悪で括れるものでもないとすら思っている。それでも、理由があれば許される暴力なんてものはない。それははっきりと断言できる。いや、断言しなければならない、とサイカはそう思う。

 人を傷つければ、それはもう、その忌むべき罪人と同等の存在になってしまうのだから。

 暴力はときに必要だが、無いほうがよいに決まっている。

 無くしたいのなら、まずは、自分がその意志を貫かなくてはならないだろう。

 罪人を忌むならば、決してその罪人と同じ罪は背負うべきではない。

 そうだとも。弥寺の施そうとしているその罰には、正当性など微塵もない。仮に正当化されるというのなら、それこそ罪人には罪がないのだと言ってしまうのと同じだ。仮に殺人が悪いというのなら、断固として殺人という罰を執行してはならないはずではないのか。

「お前のその主張は、まあ、正しいだろう。だがな、正しいことが必ずしも現実に求められている選択だとは限らねえんだよ。ときには間違っている選択も必要だ。さっきも言ったが、非力なお前たちにあるのは総じて『間違っている』選択肢のみだ。むしろ、正しさとは言ってみれば理想に過ぎない。淀みも歪みも影すらもない一切が静謐で潔白な世界にあるものこそが『正しさ』であり、『理想』だ。そんなもの、歪曲して薄汚れたこの現実世界になんぞ存在しねえんだよ」

 ――理想は理想であって、現実ではない。

 と弥寺は謳った。

「それからお前はひとつ勘違いをしている。なあ、サイカ。弱きことは罪ではない。非力と無力もまた違うものだ。しかし、何かを守ろうとした瞬間、非力であることは罪になる。だからお前は罪深い。ただ非力なだけでなく、何かを守ろうとして守れなかった弱き者として、その責任を負わなくてはならない。だがな、死んだ者は決して責任など負うことはできない。ゆえに、お前が守ろうとした者を介してお前の罪を清算せねばなるまい。たしかに罪は貸せるものでも課せられるものでもない。しかし、自己犠牲をも辞さないくらいに大切な者がいるならば、それはそいつにとっては自己と同一といえよう。お前の場合、それがつまり【あいつ】なのだろ? ならば俺は、お前の罪を清算するために【あいつ】を殺さなくてはならない。お前が死ぬ前に、より残酷で、より悲惨な死にざまを与えることでな。お前の罪はただひとつ――大切なモノを守り切れなかったことにある。さきほどのお前の主張でいえば、俺がお前を罰するために暴力を行使するのは、まったく構わないんだよ。〝お前の罪過は、暴力とは無縁なのだから〟」

 ごくり、と喉がなった。

 頭蓋にその音が響くことでサイカは裡へ沈んでいた意識を、なんとか表層へと浮上させることができた。

 弥寺というこの男は、いったい。

 なにを言っているのだろう。

 なにを言いたいのだろう。

 一向に分からない。

 思考が濁っている。

 それでもサイカに分かることが一つだけある。

 弥寺はこれからあいつを毀しに行くつもりだ。それだけが弥寺からは、はっきりと発せられていた。だからこそサイカは、はっきりと読みとった。波紋からでもなく、言葉からでもなく、弥寺から伝わってくる、その冷たく研ぎ澄まされた存在感によって。

 これがいわゆる、勘なのだろう。いや、勘などといった曖昧な概念ではない。サイカはすでに学んでいる。弥寺という男が、どういった人物なのかを。

「その通りだ」ようやく理解したな、と弥寺は抑揚のない口調で褒めた。それから、なあサイカ、と僅かに語気を弾ませる。「なあサイカ。ただでさえ【あいつ】は侵入者として『処分』を指示されている身だ。そこにお前の罪を加算せねばならない」

 【あいつ】が簡単に無に帰せると思うなよ――。

 サイカの耳元で弥寺は囁いた。

 めずらしく、優しい口調で、ささめいた。

 面白がっているのだろう。からかっているのだろう。

 しかし冗談ではないのだろう。

 なんて、いやな人。

「三分待ってやる」弥寺は言った。「強者に与えられた唯一の義務、それは弱者に対して情けをかけてやることだそうだ。ならば俺はお前に情けをかけてやらなくてはならない――ということになる。今からお前に三分間、自由に行動する権利をくれてやる」

 間髪を容れずに弥寺は、

 ようい、ドン――と手を打った。

「この権利を行使するも、しないも、むろんお前の自由だ。おっと、もうすでに残り二分五十四秒、三秒、二秒」

 一秒、と弥寺は秒読みをはじめた。

 行かなくてはならない。

 やるべきことは決まっている。

 にも拘わらずサイカは動けなかった。

 額に浮いた汗が、頬を伝ってしたたり落ちる。

 滴が床になじむ音が、

 ぽたん、ぽたん、とカウントダウンの合間に響く。

「残り、二分四十秒」

 ――残り時間。

 そう、残された時間は確実に目のまえに提示されている。

 弥寺が決めたのだから、それは明らかな決定事項だ。

 残された時間。

 残された選択。

 許された時間。

 許された選択。

 悪寒が全身を駆け巡る。

 したから這いあがるように、身体を駆動させるように。

 同時にサイカは踏み出している。ゆっくりと、ゆったりと。

 通常ならば行うべき、弥寺に対しての平身低頭も無視して。

 壁へ向けて、歩む。あゆむ。

 青い足跡のうえに立ち。

 位置座標を指定し。

 瞼をとじ、深く吸う息。

 抜ける。ぬける。脱力。

 ぬける。抜ける。離脱。

 瞼をひらき、深く息を吐く。

 うしろを振り返るが、弥寺の姿はない。

 サイカのいる空間はもう、あの空間ではない。

 バブルの塔ではない。

 まえを向く。

 通路がまっすぐと延びている。

 一歩、一歩、と足を出す。

 徐々に、徐々に、加速する。

 もう、迷わない。

 迷う必要がない。

 やるべきことは、もう、これしかないのだから。

 全身全霊。

 全速力で。

 サイカは走る。

 がむしゃらに。

 辿る。通路を。

 ひたむきに。

 辿る。波紋を。

 目指すべき場所へ。

 あいつのもとへ。

 コロセのもとへ。

 サイカは走った。



 ***コロセ***

 僕は進む。紅い足跡を追って進む。

 ただひたすらに進む。

 ほそい道は延々と同じような造りで、まるで自分が移動していないかのような印象を抱く。

 行きあたる壁と、ときおり交差する通路の十字路だけが、きちんとまえに進んでいるのだと教えてくれる。

「とまれッ!」

 突如としてカエデが叫んだ。

 条件反射のように立ち止まる。

 命令口調だと否が応でも身体が反応してしまう。きっとこれもあのバカ姉の影響だ。

 やっと口をひらいたかと思うとカエデは、「さきに行ってろ」と言って姿をあらわにした。

 十字路の手前。

 カエデは僕を置いて緩慢に歩を進めた。

 どうしたの、と口にしようと思った矢先――。

 ――カエデが爆発した。

 彼女は火炎に包まれる。

 おどろいて尻もちをつく僕。けれど視線はカエデから離れなかった。カエデは無事だった。いや、一見無事には見えないのだけれど(無事に見えなかったからこそ視線が外せなかったわけなのだけれど)、それでも無事に思えた。カエデの身体は炎に包まれている。なのに、カエデの服は燃えていないのだ。踊るようにゆらめく赤色の炎を挟んで、カエデの服装が透けて見えている。カエデ自体は燃えていないのだと知れた。

 ふと僕は気付く。

 炎上しているカエデからこんなにも近いのに、まったく熱くない。熱が伝わってこない。さらには、カエデからうしろ――僕のところにまでは炎がきていなかった。丁度、カエデが立っている場所に視えない壁があるみたいに。

「すぐに追いつく」

 さきに行け、とカエデは僕を見ずに繰り返した。

 尻を床につけたままで呆気にとられていた僕は、ただでさえお間抜けな面に、さらなる磨きをかけた素っ頓狂な表情を浮かべていることだろう。カエデはよこに向き直り、まっ直ぐと通路のさきを見据えている。そっちは僕が進む方向ではない。炎はそちらの方向――真横から襲ってきたようだった。

「はやく行けッ!」

 カエデが苛立った声を発した。

 命令口調だとどうしても考えるよりもさきに身体が動いてしまう。とくに思考が巡っていない状況だとなおのこと。僕は怒鳴られるが儘に、炎に包まれたカエデを置いて駆けだした。

 カエデの背を抜ける間際、僕はつぶやく。「すぐ来てよ」

 応答するようにカエデが微笑んで見えたのは、きっと僕の願望がみせた錯覚なのだろう。

 だってカエデは、姿を現したそのときからずっと、楽しそうに頬を緩めていたのだから。

 カエデはきっとすぐに追いかけてきてくれる。そんな根拠のない確信を僕は抱いていた。

 徐々に、徐々に、加速する。

 早歩きから小走りへ、それから疾走へと。

 僕は駆けだしていた。

 カエデはすぐに追いつくだろう。ならば、僕にできることは、カエデの足手まといにならないように、できるだけ進んでおくことだ。

 だから僕は、僕にだけ伝わる風を受けて、通路をただひたすらに駆け抜けていく。

 


 ***ウブカタ***

「どうなってやがる」ウブカタは舌打ちする。「誰だよアレ。あんな保持者、いたのかよ」

「なんで、なんでアイツがここにいるんですか」こちらを盾にするようにしてサイカが後退する。「き、聞いてないですよ」

「なんだよ、泣きごととは珍しいな。つーかイルカちゃん、知ってるのか、アレのこと」

「知ってるもなにも、」サイカは涙声で、「わたし、アイツにボコられましたもん」と言った。

 絶句する。

「……まさか、アレが、その」と粉塵の向こう側を指差しながら、「イルカちゃんをアレしちゃったアレなのか?」と息を呑む。

 小刻みにあごを引くイルカは心なしか震えているように見える。

 十数年前に、当時アークティクス・ラバーに成りたてだった幼きころのイルカへ、瀕死の重傷を与えた「ドール」――名はたしか「楓」と言ったはずだ。

 轟音が通路全体を揺るがせているなか、ウブカタは粉塵の向こう側へ呼びかける。

「待った! ちょっとタンマ! お願い、ほんと、ちびっとだけタンマ!」

 音がやむ。揺れもやんだ。

 応答はない。ウブカタは構わず交渉を試みる。

「オレたちはあんたと争う気はない。そんな指令は受けていない。オレたちが受けた指令は、『侵入者の排除』だ。それは多分、あんたのことじゃないと思う」

 とは言え当然、目のまえのアレが侵入者にほかならない。しかし、この際、違ったことにする。たとえアレの額に「私は侵入者です」と札が貼ってあったとしても、争う気なんてさらさらない。

「ようするに、勘違いだから。オレたちがわるかったから。その、なんだ、用事があるならさっさと済ませてお引き取り願いたい」

 通路の天井が、がじゃらがしゃん、と崩れ落ちる。

 無様にも身体が跳ねた。心臓もちからづよく踊った。

「あの、オレたちはほかの場所を探さなきゃなんで――侵入者を探してきますんで、その、とりあえず今から、ちいっとだけ移動しますが、それは敵対行動ではないので、攻撃はよして欲しい」

 しどろもどろにウブカタは訴えた。

 ――なら失せろ。

 ウブカタのうなじに声がぶつかる。

 いや、声ではない。これは波紋だ。

 ――次はない。

 みじかく要求と警告だけが伝わってきた。

 あとはどれだけ待っても、静寂だけが、しん、と唸っていた。

 

 

 ***ライド***

「ちょっと出てくる」「すぐ戻る」と弥寺が急に出ていってから、かれこれ十数分が経過していた。

 現在、バブルの塔には、二人しかいない。

「ねえ、やっぱしさ」とライドはくたびれたように、「サイカくんも手伝ってくれないか」と振り返った。

 視線の先には壁に寄りかかって項垂れている彼女がいる。毛布に包まり、膝を抱えて、顔を埋めている。

 またもや無視だ。

 いくらなんでもこの態度はないのではないか、とライドは不貞腐れる。

 仮にもこちらはサイカの上司だ。言い換えれば、彼女は部下だ。しかしこれではまるで、こちらが部下ではないか。

 こうして雑用のような作業をするのは、部下の努めではないのか? まあうん、努めではないよな、とひとり納得する。重要な雑用だってあるものだ。部下に任せられないような雑用だって少なくはない。とは言え、この作業はどうみたって誰が行っても構わない作業だ。用意した分の『言霊』をただクリアボックスに、ぺたぺた、ぺたぺた、と貼り付けるだけなのだから。

「いい加減にしないかサイカくん」ライドはためしに叱ってみた。「わしがこれほど頑張っているというのに、なぜキミがそうやってゴキブリのモノマネをして遊んでおるのだ」

 反応なし。

 寂しくなる。自然、声も小さくなった。

「半分は貼り終えたんだ。あたしと交代してくれたっていいじゃない」

「そいつに言っても無駄だぞ」

 唐突に弥寺が応えた。いつの間にかソファに座っている。

「その作業はライド、お前がやれ」とふたたび本を読みはじめる。

 ようやく帰還してきたと思えばこれだ。勝手に出ていき、いつの間にか戻ってきて、説教を挟みつつの読書。神様みたいに自由なやつだ。

 それでも無視されなかっただけ、うれしいようなこわいような、なんとも言えない気持ちでライドは不平を並べる。「無駄とはなんだい無駄とは。あのね弥寺くん。サイカくんはぼくの部下だぞ、命令してなにがわるいのさ」

「そうだな、サイカはお前の部下だ。ならばその文句はサイカに言え」

 だから彼女へ言ったではないか、とライドは唇を窄める。なにか弥寺くんは誤解しておるのではないか。ライドは指摘した。「さっきのは弥寺くんに言ったわけではないぞ、サイカくんに対して放った言葉だ」

「言われるまでもない」弥寺は紙面から視線だけを外し、「超天才というのは、随分とアホウの振りが上手いのな」と鼻で笑った。

 ぐむ。

「だとすれば――弥寺くんが誤解していなくて、なお且つ弥寺くんの言っていることに不当性がないのだとすれば――そこでゴキブリの真似ごとをしているのがサイカくんではないということになるぞ」

 揚げ足をとるつもりで口にしたその言葉に、ライドは、はっとした。

 ――サイカくんでは……ない?

 そういえば、そこにいる「サイカくん」は、随分と長い時間、波紋を「沈下」させている。不機嫌になるとサイカは度々そうして波紋を隠してしまうのだが、それにしては長すぎる。「糊塗」なら話はわかるが、「沈下」ともなれば無理があるだろう。こんな長時間の「沈下」など――絶対におかしい。

 いや、待て。

 これは、沈下か――?

 いまさらサイカの波紋を読んだところで面白くもないからと、とくに意識を向けていなかったライドであるが、それにしては完全に波紋の存在が消えているように感じられる。

 〈レクス〉と『プレクス』と《アークティクス》――どこに波紋を「沈下」させようとも、自分の〈レクス〉と波紋は切り離せない。身体から影を切り離せないのと同じようなものだ。

 どんなに深く「沈下」させたところで、当の本人が「浸透」せずに、こちらと同じ『プレクス』に留まっているのならば、波紋の気配はほんの僅かには感じられるものである。

 接点は残る。

 どんなに物質を細かく分断していったところで、決して「無」にはならないのと同じように、どんなに波紋だけを深く沈めたところで、波紋の余韻は残るものだ。それは丁度、水面に釣り針を垂らしても、釣り糸が水面に小さな波紋を生じさせてしまうのと同じようなものだ。

 ライドはサイカの波紋を探ろうと、自らの波紋を「沈下」させた。

 その瞬間、ライドは察し至った。

「沈下」などではない。

 これは――『波靡(はび)』だ。

 サイカがこんな高等な技術を身に着けているはずもない。

 そもそもそんな技巧があることすら――波紋を「沈下」させた上で「糊塗」できることすら――サイカは知らないはずだ。ならば、そこにいる「彼女」は、

 

 ――誰だ。

 

「だから言ったろうに」

 呟きながら弥寺は、視線を本の紙面へと戻した。

「文句を言うなら、サイカに言えよとな」

 ライドは見遣る。

 壁際の、毛布に包まって、蹲っている「ソレ」を。

 ――なぜ気付かなかった。

 サイカくんよりも体躯が一回り小さいではないか。

 つぎに、『言霊』で覆われた深紅のクリアボックスに視線を向けた。

 なにも視えない。ただただ濃い紅一色が器の中身を満たしている。

 もう一度、ライドは「ソレ」を見遣る。

 そこにいるのは……。

 まさか。

 ライドはようやく、理解した。

 自分の置かれている、危機的状況を。

 冷や汗が、じわり、と滲んだ。


 ***コロセ***

 見知った人影が屹立していた。

 人影は言う。

「わるい……コロセ」

 あれは、努樹――?

「努樹なの?」いったん立ち止まってから、ゆっくりと距離を縮める。「あとどれだけ進めばいいの。いつになればコヨリに逢えるのさ」おどけた調子で不平を唱えた。「進んでるのか迷ってるのか、もう、分かんないよ」

「彼女には逢えない」

 そう言った努樹の表情は険しかった。

「逢えないって……どうして? だって努樹、逢わせてくれるってさっきは、」

「前に」と努樹は僕の言葉を遮った。「前に言っただろ。約束は守るためにあるんじゃない、守らない者のためにあるんだって」

「またそんなこと言って」

 たしかその話は、「約束」ではなく「罰則」の話ではなかったか。

「もう、逢えないんだよ」努樹の声は冷めたい。「帰れよ、いますぐに」

 僕は立ち止まる。

 息が切れている。

 脈動が全身を渦巻いている。

「彼女は死んだ。だからもう、逢えない」

 努樹は瞳を震わせながら、

「私が、殺した」と口にした。

 汗が一気に噴き出るのを感じた。立ち止まったからだ。止まったから滞った体液が体外に排出されるのだ。流れつづけなくては崩れてしまうから。流れに抗うことはできないのだから。

「うそでしょ」頬が引き攣るのが判る。「僕、そういう冗談すきくない」

 おもしろくないよ、とかるく怒るが、「もう、いいんだ」と努樹はくたびれたように微笑んだ。

 それから一転、

「私の罪が守りたい者を守れないことだというのなら、私は何が何でも【そいつ】を『あんた』から守ってみせる――そうしたら、どうだろう。私のこの罪を、そいつに背負わせるのはやめてくれないか」

 ――それだけはやめてくれないか。

 努樹は眼光を鋭くし、冷めた眼差しに熱を籠らせた。

 むかしのような喋り方だった。肩肘張って、つよがって、本当は誰よりも自分が弱いのだとそう思い込んで、いやだ、いやだ、と震える自分を必死に抑え込んでいたころの努樹がそこには立っていた。

 僕へ言っているのか――誰と話しているのか――なにを話しているのか――どうして努樹がここにきて――どうしてあんなことを――コヨリを殺しただなんてそんなうそを――どうして口にするのだろう。

 ねえ。

 呼吸の合間を縫って僕は尋ねた。「どっち行けばいい。どこまで行けばコヨリに逢えるの」

 努樹はやさしい顔を浮かべた。

 しっかりと僕を見据えて儚げに微笑んでいた。

 ――ごめん。

 努樹の唇は、そう動いていた。

 僕は瞬きをする。

 瞼が僕の視界をふさぎ切る前に。

 視界から努樹の姿が消えていた。

 知覚できないくらいのみじかい暗影のなか――。

 空気の流れを肌に感じた。



 ***サイカ***

 三分――ここからでは到底不可能だ。

 到達する前に時間切れは目に見えている。

 コロセがこちらへ向かってきていることを考慮に入れても、五分はかかるだろう。

 無印エリア内での「浸透」は、距離を最短化しない。この空間自体がすでに浸透しているからだ。

 五分間の全力疾走。

 そのあとに――どこまで持ち堪えられるだろうか。

 どこまで戦えるだろうか。護り通せるだろうか。

 失いたくはない。

 私よりもさきに、失いたくはない。

 無理だからといって諦めるわけにはいかない。諦めたくはない。

 生きていてほしいから。

 私よりもより多くの幸せを感じて生きつづけてほしいから。

 そのチャンスを、機会を、期間を、失わせたくないから。

 だって、私は。

 あいつのことが。

 ずっとずっと。

 好きだから。

 これからだってずっと。

 好きでいたいから。

 好きでいつづけたいから。

   ***

 ごめん――とサイカは謝った。

 息が完全に切れている。声にならなかった。

 四分はとうに経過しているだろう。

 タイムリミットはすでに越えている。

 しかし、コロセはそこにいた。

 コロセはコロセのままで、目のまえに現れてくれた。

 なのに、どうして、

 ――どうしてあの凍てついた気配は、無関心な威圧は、私なんかよりもずっと前から、三分が過ぎたその瞬間からすでにコロセのうしろにあるのだろう。

 これだけ全力を尽くしても、あの人には到底、追い付けない。

 いくら必死に努力をつみ重ねて成長したとしても、圧倒的な力の生み出す重厚な差のまえでは、その努力で培った成長など、無きに等しい。

 凡ては相対的なはずなのに。

 あの人と比べたときのみが。

 凡てが絶対的な水準へと落ち込む。

 あの人と比べてしまえば。

 凡てが卑小で。

 凡てが無力なのだ。

 逃げ切ることすら、逃げようとする努力すら、端から無理だと決まってしまっている。あの人は、そうやって幾人もの限界値をいとも容易く追いぬいて、虚仮にして、奪っていくのだろう。大切なものを、奪っていくのだろう。

 その者にとって一番大切なモノを。

 大切な者を。

 その者の命を。

 その者にとって一番大切な、大切な者の命を。

 コロセのうしろで退屈そうにしている弥寺は、唇のみを動かした。

 コロセはあの男に気付いてはない。

 気付けるわけもない。

 サイカにはその弥寺の唇の動きが、「選べ」と言っているように聴こえた。

 もしかしたら、莫迦、かもしれないし、屑が、かもしれないし、ヒマだ、かもしれないし、ノロマ、かもしれないし、死ね、かもしれない。

 それでもサイカには、「選べ」と弥寺の声が、耳の奥、脳裡に直接響いて聴こえた。

 選ぶ必要などはない。

 その前に、サイカは一つだけ口にした。万が一の望みにかけて、口にした。

「私の罪が守りたい者を守れないことだというのなら、私は何が何でも」そいつを、と小さくあごを振ってコロセを示す。「そいつを、『あんた』から守ってみせる――そうしたら、どうだろう。私の罪をそいつに背負わせるのはやめてくれないか」

 額に手をやって弥寺は、その指の隙間から笑みを覗かせた。

 弥寺の手前でコロセが無防備に突っ立っている。

 そんなぽつねんとしているコロセへ、視軸を合わせる。

 なんて、間抜けた面なのだろう。

 サイカは微笑む。目元だけを緩めて。

 ――ごめんな。

 とつぶやいた。

 声に出さずに、つぶやいた。

 

 そのまま地球を砕き割る気概で、ずん、と身を屈める。

 腿の筋肉が硬直する。腹筋がちぢみ、背筋がのびた。

 重力が何倍にも感じられる。

 硬質タイルの床がひび割れ、そのしたの炭素コンクリートに足がめり込む。

 だがまだだ。

 まだ足りない。

 せっかく凝縮させた力がコンクリートに吸収されてしまっている。

 ギリギリまで踏ん張る。

 ぎりぎりと骨が、筋が、関節が、軋む。

 そして。

 めり込みが止まった、その瞬間――。

 床ごと地球を蹴り飛ばした。

 後方へ向けて地球が吹き飛ぶ。

 サイカのみを残して。

 ――主観的にはそう視えた。

 だが地球が吹き飛ぶわけもない。

 客観的には、サイカのほうが吹き飛んでいる。

 前方へ向けて。

 一直線にコロセのもとへ。

 ――無音。

 極度の集中によって、余計な感覚器官が閉ざされているのかもしれない。

 もしかしたら音を抜き去っているのかもしれない。

 音速を超えたのだろうか。

 だったら端から――五分前から――越えてろよ。

 緊張感の欠いた思考をサイカは巡らせている。

 視界に色がない。

 モノクロだ。

 ゆっくりと動いている。

 鈍い。

 とても鈍い。

 こんなんではやはり、間に合うわけがないのだ。

 そんな自家撞着な思考も巡っている。

 一方では、明確な殺意のみがサイカの表層を覆っている。

 まるでその奥にある浮き上がってきそうなほどにつよい感情を抑圧しているかのように。

 諦観か。

 畏怖か。

 はたまた生への執着か。

 いや、死への期待かもしれない。

 死と引き換えに得られるものへの期待。

 淡い、期待。

 

 コロセを抜き去る間際――。

 コロセの体温が感じられた。

 温かかった。

 そう感じるほどに、こちらが冷えているのかもしれない。

 一撃必殺しか勝機はない。

 勝機など端からない。

 端からないからこそ、

 勝機は創り出すよりなかった。

 一番創り出しやすい幻想として。

 一番創りやすい現象を用いて。

 全力を出し尽くすことで。

 最善の最悪を尽くすことで。

 創り出すしか――。

 コロセの温もりが、視界から消えた。

 弥寺の掌が、

 目前に迫っていた。



 ***コロセ***

 努樹が消えた――。

 なにか得体のしれない、おそろしく冷たいものが向かってくる。

 一瞬以下のかすかな時間に何かを感じた。

 避けなきゃ、と直感した。

 けれど条件反射を起こす前に、背後から発生した爆音によって僕は吹き飛んでいた。

 爆音は、空気を破裂させて、衝撃波を生む。

 いつぞやに間近で聞いたような、雷鳴のごとく、おもく分厚い、空気の破裂だ。

 床にしがみ付くようにし、なんとか転がる身体を止めた。体勢を整える。

 粉塵のせいで視界がわるく、足元くらいしか見えない。

 見ると、足元の床は陥没していた。小さなクレータみたいになっている。きっとその場所が、さきほどまで努樹が屹立していた地点だ。

 だとすれば今は僕の後方に――さっきまで僕が立っていた地点に――努樹がいるのだろう。

 突っ込んできたのだろうか。この狭い通路で僕に当たることなく。

 なんのために。

 なにが目的で。

 僕の邪魔をするため……なのだろうか。

 それならそれでいい。そうしなければならない理由が努樹にはあるのだろうから。自分の意思によって努樹は、絶対に後悔しないような選択を誰よりも賢明に進んできたに違いないのだから。

 大切な者を信じる――そんな言葉を僕は信じない。

 信じるという行為は、裏切られたときに、それでもよいと思える覚悟でしかない。

 でも僕は、どんなことがあっても、努樹の行動を裏切りとして看做さない。

 だってそれは、きっといつだって努樹にとっては最善の選択なのだから。

 最悪な選択などではないのだから。

 もしも僕を殺すという行為が、努樹にとってもっとも必要な行為だったならば、僕は甘んじてその行為を受け入れよう、とそう思っている。

 全力をもって努樹と向き合い、本気で努樹に抗ってやるのだ。

 否定をせずに。

 抗ってやるのだ。

 その結果、努樹に殺されたって構わない。本望だ。

 それが努樹に対する僕なりの、最大級の「応え」なのだから。

 だから――。

 疑問はこれ以上展開されない。

 努樹の安否も、努樹の目的も、努樹の本心も、なにひとつとして僕には解らない。

 解らないけれど、解らないからこそ、疑問を呼び起こせばそれこそすべてが疑問だった。

 疑問は疑問のままでいい――努樹に関しての不明瞭な事柄において、僕はそう思っている。

 僕と努樹のあいだに軋轢はなかった。ないように、軋轢とならないように、不和が生じないようにすることが最善なのだと、努樹がそうしてきたのだから。僕にとってもそれが心地よい距離だった。密接になれない代わりに僕らは、傷つけあわずにこられたのだ。

 努樹の言葉を思いだす。

「私がコロセを理解しようが拒もうが――またはコロセが私を理解しようが拒もうが――それは私たちの関係には一切影響を及ぼさない。なぜなら私は私で、コロセはコロセだからだ。どんなになっても、どんなことが起きても、それは永遠。私はそのままのコロセを許容する。コロセもそのままの、そのときどきの私を受け入れてくれればいい。理解が及ばなくても、拒みたい性質が現れても、私が私であることに変わりはないし、コロセがコロセであることも変わらない。むしろそれは、刻一刻と変遷しつづけている私たちが、それでも自我を維持しつづけているという意味で、やっぱり普遍なのだろうと思う。なあコロセ。仮に私がコロセを殺そうとした時、そのときはその『コロセを殺そうとした私』を受け入れて、その私を殺してくれ。逆にコロセが私を殺そうとしたのなら、そのコロセを私も受け入れるから」

「暴走したとき? そういう意味?」

「そう。そうだけど」

 ――そうじゃないよ。

 努樹は笑っていた。冗談のように笑っていた。

 今がそのときなのだろうか。

 ならば僕は、「そのままの」「有りの儘の」「今この瞬間の努樹」を受け入れようと思う。

 だって努樹がそれを望んでいるのだから。


 粉塵の立ち昇っている地点にある照明機器が破壊されたみたいだった。

 暗幕が垂れたようにその場所のみが暗い。

 その闇へ向かって僕は呼びかける。「ねえ、努樹……?」

 応答はない。

「ねえ……」だいじょうぶ、と続けて口にしようとしたけれど、粉塵に紛れて足元から流れてくる冷気に僕は気付いた。解けかけていた警戒をよりつよくする。

 見れば、見渡せる範囲、床一面、壁一面が、霜に覆われていて、白く濁っていた。空気が冷えている。冷えていく。研ぎ澄まされていく。明らかに粉塵の向こう側から発せられている冷気だ。

「よお、小僧」

 声が届いた。努樹の声ではない。

 低く、そして身体の芯に響く声。

 緊張が、一気に臨界点へ達する。

「久しぶりだな」

 粉塵が晴れていく。

「知っているか小僧。強者にとって、弱者に情けをかけるのは義務だそうだ。ならば俺はお前に、前以って告げておいてやろう」

 ――俺はお前を毀そうと思っている。

 こいつを消したあとでな、と弥寺さんはそうしずかに呻いた。


 弥寺さんの身体には、

 巨大な銀色の獣が絡みついていた。


 いや、弥寺さんがその巨大な獣の首を握っている。それに抵抗しようとして、銀色の獣が弥寺さんの身体に巻きついているのだ。まるで巨大なホースが暴れているみたいに。

 銀色の獣に巻きつかれているために、弥寺さんの顔は見えない。ただ、弥寺さんがその獣の存在をまったくと言っていいほど意に介していないのは、一目瞭然だった。その獣だけが、必死に弥寺さんから逃れようともがいているように見えている。

 胴が長い。しかし蛇ではない。その獣は毛並みが雪原のように銀色で、頭部は狐のような、狼のような、そんな獣独特の骨格をしている。体躯は大蛇みたいに長くて太い。そして尾の先が、巨大な鍵爪のような形で三つに尖っていた。腕はない。脚もない。まるで宙に浮かぶように軽々と、けれど重々しくうねりながら、弥寺さんの身体を絞めつけている。巨大な鍵爪じみたその尾だけが、弥寺さんの身体を刻もうと器用に捻転しているのだ。でもその尾が、弥寺さんの身体に届くことはない。弥寺さんがその獣の「首」と「尾」を握っているからだ。形状のすべてが規格外に大きいにも拘わらず。弥寺さんはその獣をものともしない。

 弥寺さんの身体に巻きついていながら獣は、その「とぐろ」だけでもゾウなみにでかいのだ。獣というよりも、むしろ怪物と呼んだほうがしっくりとくる。

 竜――ではない。

 麒麟――でもない。

 けれど、誰もがそれらを連想せざるを得ないほどに、奇態で神々しい獣だった。

 弥寺さんの身体が、腕から順に、次第に凍っていく。霜に包まれ、白くなっていくのが見てとれた。獣の首を握っているほうの腕はすでに、樹氷みたいになっていて、もこもこ、としている。

「冷たいな」

 つぶやいて弥寺さんは腕を壁に叩きつけた。

 通路が揺れる。

 壁が陥没した。

 叩きつけられた部位を中心に壁が、大きく十字に裂けた。

 天井にも床にも亀裂が走る。

 衝撃の中心たりうる場所には、洞窟と呼べるほどの横穴が空いていた。

 それほどの衝撃にも拘わらず、弥寺さんの身体にはまだ銀色の巨大な獣が絡まっている。もちろん、首を弥寺さんに掴まれている以上、その手が離れなければ獣自身が彼から解放されることはないのだろう。それでも、こうしてしばらくぼうっと眺めていると、銀色に光沢するその獣は、自ら向かって弥寺さんに絡まっているように見えてきた。もしかしたら弥寺さんが首を解放したところで、その獣は弥寺さんから離れることはないのかもしれない。僕にはこの状況がどんな場面なのか、皆目見当がつかなくなっていた。

 弥寺さんの腕の樹氷もまた、さきの衝撃によって粉々に粉砕されていた。けれどつぎの瞬間には高速再生するようにまた、もこもこ、と氷結していく。銀色の獣がその要因であることくらいは僕にもなんとか推し量れた。

「向こうの世界にはこういったビックリアニマルが生息しているらしい」弥寺さんが解説するように独白を口にしはじめた。「俺も初見だが、なんとなく存在は感じていた。生きている断層が違うのだから、まあ、視えなくて当然だろう。それこそお前らが、感じられなくて当然だ」

 身体が動かない。意識下におけない。制御できない。しかし本能によって僕はあとずさっている。逃げようとしている。駄目だ、と言い聞かせる。ここで背を向けてはいけない。立ち去ってはいけない。受け入れなくてはならない。なぜだか僕は、そうして必死に自分へ言い聞かせている。

「小僧、聞いているか。《アークティクス》にだって生物はいる――それこそ俺たちそのものが、《アークティクス》の一部に生きているのだから、《アークティクス》の深層に生息している〈こういった獣〉がいたってなにも不思議ではない。それこそ《アークティクス》は広大だからな。お前ら人類が形成している『プレクス』と比べれば、控えめに言ったとしても、地球と宇宙くらいの違いがあるのだろう。だから俺たちには通常〈こいつら〉は視えないし、触れることもできない。それでも〈こいつら〉はこちらに干渉できるらしい。さらに詳細に言えば、〈こいつら〉は俺たち『こっちの世界』の生物からエネルギィを補給する。蜂から蜂蜜を搾取している俺たちのようにな。だが実際、忌々しいだろ、そんなのよ。そういうのをなんと言うか知っているか、小僧?」

 搾取、と僕は無意識につぶやいていた。

「寄生だよ寄生」と言いながら弥寺さんは、今度は天井に向けて腕を振った。

 獣の頭部が叩きつけられる。

 晴れかけていた粉塵が、ふたたび舞った。

 天井が崩れる。底が抜けたように。

 落下する瓦礫を避けようと僕はさらに後退する。

 僕の意思とは無関係に、身体が反応してしまう。

 粉塵の向こう側に人影のみが浮かんで見えている。

 弥寺さんは間違いなくそこにいる。

 では、努樹はどこへ消えたのだろう。

 もしかして――彼の身体に巻きついているモノが――銀色の細長い、その巨大な獣が――まさか――努樹なのだろうか。

「でもな小僧」と弥寺さんは、独り言ちている。僕にも獣にも。なにものにも構わずに一方的に話す。「〈こいつら〉に憑かれていても通常は気付けない。それは、とり憑かれる対象が保持者であっても同じだ。あれなんか疲れやすいな、程度の体感だろう。だが、稀に〈こいつら〉と感覚をリンクする奴らが現れる。それがこの『サイカ』みたいな半端者どもだ。お前が知っている名で呼称すれば、この『城門努樹』という存在は、半端者なんだよ。保持者として未熟な奴らだ。パーソナリティ値は高くとも、半端でしかない。〈こいつら〉に寄生されていなけりゃ、パーソナリティを遣い熟せないのだからな。〈こいつら〉に寄生されていなくとも、薄らと〈この獣〉どもの気配を感じることができる奴らもいるにはいるようだが、そういった奴らは〈こいつら〉のことを守護霊だとか妖怪だとか、そうやってお門違いな解釈をこじつけて呼称しているらしい」

 まっこと莫迦としか言いようがない――と弥寺さんはさらに腕を振った。

 空気が激しく押しのけられる。暴風と化す。

 密封された通路内は粉塵が撹拌されて、まるで泥水のなかにいるようだった。僕を取り巻く空気は、粘り気を帯びているみたいに僕の身体を撫でている。

 僕は戸惑う。

 弥寺さんはあの銀色の巨大な獣のことを『サイカ』と呼んだ。そしてそれが『努樹』だとも言った。

 あの獣が努樹なのか。

 努樹はこんな変身までできる、そんなとんでもない人物だったのか。

 泣き笑いのような表情を浮かべている自分に僕は気づく。

 すごい。

 すごいよ努樹。

 キミはそんなすごい特質を持っていたんだね。なにが「コロセのほうがすぐれている」だ。なにが「うらやましい」だ。僕のこんな益体なしのパーソナリティなんかよりも、よっぽどすごいパーソナリティじゃないか。

 なのにどうして。どうしてなのだろう。どうして努樹は、そんなに傷だらけなのだろう。どうして弥寺さんに苛められているのだろう。いくらすごいパーソナリティだからって、そんなことをしたら殺されてしまうじゃないか。ノドカもミタケンさんも――そうだよ、努樹だってそう言って僕に教えてくれたじゃないか。

 あの人だけには近づくなと。抗うなと。

 なのに……どうして。どうしてそんなに傷ついているんだ。

 そのままの努樹を受け入れる、それが友人として僕が努樹に行うべき選択だ。

 だとしても僕は今、本当にそれでよいのかを決めかねていた。どうすれば善いのかが解らなくなってしまっていた。あれだけ弥寺さんを畏れ、敬っていたあの努樹が――なぜ今こうしてその弥寺さんと戦っているのだろう。いや、これは戦いなんて呼べるものではない。一方的な暴力の行使。明らかな虐待だ。

 努樹は今、

 なにと戦っているのだろう。

 なにを守りたいのだろう。

 なにに抗っているのだろう。

 なにを成したいのだろう。

 努樹を止めるべきか、それとも見守るべきか、或いは努樹を置いてさきへ急ぐべきか――それらの判断がまったく付かなかった。ただただ、銀色の美しい獣となっている努樹が甚振られている様を、じっと眺めていることしかできなかった。

 なあ小僧、聞いているか――と弥寺さんは語気を強めた。

「こいつら半端者はだな、こうして〈獣〉の力を介してでしか特質を持ち得ない。要するに、〈こいつら〉を知覚して、なお且つ、〈こいつら〉と感覚を同調できる、それがこいつら半端者のパーソナリティと言っていいだろう。〈獣〉にゃ色々種類がいるみてえだが、〈こいつ〉はどうやら物自体を静止させる特質らしい」

 なあおい――と弥寺さんは腰を落として、床をすくいあげるように腕を振った。

 床がえぐれる。

 まるでプリンにデコピンを放ったがごとく。

 えぐれた床の破片が、壁にめり込んだ。

 小さな砂礫がまるで砲丸のごとく四方八方を破壊する。

 もはや通路の名残は跡かたもなく、またたく間にこの場は採掘場と化した。

 僕の佇んでいる場所が、「採掘場」と「通路」の境だった。

 ひび割れた、

 壁と床と天井と。

 えぐれた、

 壁と床と天井と。

 細かい粉塵に。小柄な瓦礫と。大きなブロックと。

 まるで爆心地に突っ立っているみたいだった。

「こいつら半端者どもはな、この〈獣〉どもを遣って対象を『特質化』させる。結果、現象として、対象が燃えだしたり凍ったり、水を操れたり物体を破壊したり――そういった作用が顕在化する。だがそれはまあ、特典みたいなもんだ。真実、こいつらが本領を発揮できるのは、こうして〈獣〉と『同一化』して、〈獣〉の特質をすべて自分のものとすること――自分の制御化に置くこと――〈獣〉を意識下に置くこと――自分の命をエネルギィと化してそれを対価に〈獣〉と契約を結ぶこと――〈獣〉の力をそっくりそのまま遣えること――それなんだよ。悪魔という存在を提唱する古文書や神話は概ねこういった〈獣〉の存在を曖昧に感知していた奴らが書き記した伝書なのだろうな。ファジィであるというのはどうしてこうも愚かしいのか。だがまあ、愚かしいからこそ滑稽であり、滑稽であるからこそ面白いのだがな」

 話の展開についていけない。

 ただひとつ確信できたことは、やはりあの獣が努樹だということだ。そしてたぶん、努樹は弥寺さんに挑んで、こうして殺されかけているということ。努樹は本気を出しているのだろう。必死になっているのだろう。なぜそんなに必死になっているのかは分からない。理由も目的も解らない。ただ、それでも、これだけ努樹が本気になっても「弥寺」というこの男にはとうてい敵わないのだ、というその残酷な現実は僕にも判った。やはりそれも一目瞭然というやつなのだろう。努樹は必死なのに、弥寺さんは汗ひとつ滲ませず、呼吸ひとつ乱さない。

「その通りだよ小僧」

 弥寺さんの声が、晴れかけの粉塵の向こうから届く。

「獣と『同一化』することでこの半端者どもは、俺のような純粋な保持者と同等のパーソナリティを己に宿せる。だがな、かと言って――俺のような純粋な保持者と同じになったからと言って、俺と同等の保持者になれるわけじゃねえ。だからこうして、俺の腕一本、皮膚一つ静止することもままならない。それこそ、制止させることすらな」

 弥寺さんは腕を振ってもてあそぶ。銀色の獣をまるでぬいぐるみのように。弥寺さんにとっては暴力にすら成り得ない、けれど確実に暴力以上の暴力として、その腕を振りかざしつづけている。

 粉砕される硬質タイル。

 紙吹雪のように舞う瓦礫。

 粉塵が霜をまとい、キラキラと宙に浮かぶ。

 またたく星となってきらきらと舞っている。

 泣いている。僕はひとりで泣いている。嗚咽を押し殺して。

 努樹はいったい何をしているのだろう。なぜ弥寺さんに敵対しているのだろう。なんで攻撃されているのだろう。どうしていたぶられているのだろう。

「有りの儘」を受け入れると言ったって――なら僕はどうすればいい――受け入れるってそもそも何だ――どうすれば受け入れたことになるのだろう――このまま努樹がいたぶられている様子をただ見届ければよいのだろうか――手を束ねてただ茫然と眺めていれば善いのだろうか――それが受け入れるということなのか――ここで僕が努樹を助けようと無謀にも弥寺さんに向かっていくことは――それは努樹の意志を蔑にすることになるのだろうか――努樹の邪魔をすることになるのだろうか――解らない――なんだよ――全然まったっくこれっぽっちも解らないじゃないか――受け入れるって何だよ――何をだよ――僕は何をどうすればいいんだよ――――――。

「いいか小僧。こいつは今、言葉を話せない。だからこいつに変わって俺が教えてやる」

 弥寺さんはこれまでのようなしずかで重い声ではなく、嬉々とした抑揚のある口調で、

「ノドカを殺したのはミタケンではない」

 と告げた。

 弥寺さんのその言葉に反応したように、銀色の獣はその大きな眼をみひらいて弥寺さんを睨んだ。

 そうしてより一層、激しく、見苦しく、暴れた。

 努樹が暴れている。もがき、悶えるように。

 その反応を弥寺さんはきっと楽しんでいるのだろう。獣のその太い首を片手で締めあげて、悠然と動きを制している。人間が子猫の首を乱暴に掴んでいるみたいに簡単にねじ伏せている。

「ノドカを殺したのは――――ジョウモンドキ、こいつだよ」

 弥寺さんはそう唸った。瓦礫で尖った床へ向けて獣を叩きつけながら、努樹をいたぶりながら、僕へ向けてそう告げた。

 どくん、と脈動がうねった。全身の血液が意思をもったみたいに。ずくん、ずくん、とうねっていた。

「俺は同じことを二度口にすることが好きではない。だが特別にもう一度だけ言ってやる」

 ――ノドカを殺したのは、こいつだよ。

 言って弥寺さんは獣の首から手をのける。代わりに足で踏みつけた。踏みつけて、クレータと化している凹凸だらけの床へ圧しつける。さらに床は陥没し、獣は埋もれた。空いた片手を、ざざざざざ、と首筋から胴体へと滑らせる弥寺さんは。そうして獣を、さらり、と撫でた。触れているようには見えなかった。毛並みにそって、ふわり、と軽く撫でているように見えた。なのに、僕の頭のなかでは、ざざざざざ、と効果音が響いていた。実際には聞こえていない音。けれど、そういった効果音が実によく似合っていた。なぜなら弥寺さんの手に添って、銀色の毛が、ダイヤモンドダストのように剥がれ落ちていくからだ。きらめきながらまるで空へ舞っていくように。

 雪が真逆に降り注いでいるかのように。

 針みたいに細くて、鋭い、きれいな毛を弥寺さんは削いでいく。

 獣はもう、暴れなかった。

 かすかに小さく震えている。

 黒い地肌が覗いている。

 僕の右腕の断面のように濁っている。

 けれどすぐに銀色の毛が生え揃う。

 毛が生え揃うにつれて獣の身体が縮んでいく。

 風船が萎んでいくように縮んでいく。人型へと徐々に。徐々に。

 洗われた泥団子が溶けいくように。内から小石が現れるように。

 手と腕と。

 足と腿と。

 顔と頸と。

 肩と尻と胸と胴。

 ふと気付けば僕の視界には。

 瓦礫しかない空間のまんなかに。

 ぽつねんと踏みつけられている努樹が。

 顔を伏せて。

 拳を握りしめて。

 ふるふると小刻みに震えていた。

 力んでいるのだろう。

 渾身のちからを振り絞って。

 きっと、懸命になにかを耐えているのだろう。

 弥寺さんの足から加わる圧撃だけではないのだと、そう思った。

 それ以外のなにかを努樹は、必死になって、惨めな姿で、耐えている。そのなにかが何であるのかは、バカでアホでノウタリンでもある僕にはさっぱりであるし、どれだけ頑張ったって、どれだけ時間をかけたって、理解しきれるものでもないのだとすら思う。特定の何かであるとも限らないし、思わない。けれど、伏せられたその努樹の見えない表情が、いったいどれだけ歪んでいるのか、どれだけ惨めな顔をしているのかは、案外に容易く想像することができた。

 だって、ノドカのつぎに多く見てきた顔なのだから。

 たくさん視てきた、顔なのだから。

 大好きな努樹の――顔なのだから。

 三年という時間を挟んでいたって、僕には努樹の表情は大体想像できる。泣いた顔も、笑った顔も、怒った顔も、むつけた顔も、仕方なく微笑んでくれる顔も、僕を安心させようと崩してくれる相好も、不貞腐れた表情も、だらしない寝顔も、寝惚けた面も、よだれを垂らした顔も、赤面した顔も、ヘンテコな顔も、はにかんだ顔も、気取った顔も、後悔に苛んでいた顔も、こうして必死になにかを堪えている苦悶の顔だって、僕はすべて知っている。努樹自身が知らない顔だって、僕はきっと知っている。

 だって、

 本当の自分の顔なんて、

 自分では視ることが叶わないのだから。

 

 努樹はつぶやいていた。

 壊れたCDラジカセみたいに。

 何度も何度も、繰り返し繰り返し、音が飛ぶように、同じ言葉をつぶやいていた。

 ごめん……、

 ごべん……、

 ほんどうに……、

 ほんとうに、ごめんなざい……、

 ごめ、ごめんなさい、ごめんなざい………………。

 努樹は謝っている。それはとてもとても無様で。とてもとても惨めで。とてもとてもみすぼらしい姿だった。

 努樹が謝っている。それはきっと、特定のなにかを謝っているわけではないのだろう。自分の存在がこうして存続している、その「生」を責めているのだろう。自分の全てを謝罪しているのだろう。自分の存在を責めているのだろう。許しを乞う自分が許せないのだろう。

 許してほしいではなくて。

 許されたくなどないけれど。

 許されてなどいけないのだけれど。

 どうしたって言わずにはいられない言葉。

 それが、きっと。

 ――ごめんなさい。

 ――ほんとうに。ごめんなさい。

 唱えつづける努樹を――無防備な努樹を――弥寺さんは足蹴にして、宙へ放った。

 ループする身体。

 ふわりと浮く努樹。

 僕はぼんやりと眺めていた。

 弥寺さんは。

 身体をひねり。

 硬く握った拳を。

 振りかぶっていた。

 振りおろすつもりなのだ。

 叩きつけるつもりなのだ。

 僕の大切な者を。

 あの男は、

 毀そうとしている。

 

 ――やめて。

 

 単純にそう思った。

 キーンと耳鳴りがなっているのに僕は気付く。

 圧縮された、高い音。

 幾重にも連なった、鋭い音

 左耳の奥を突き抜けて僕の鼓膜を突き刺した。

 まるで、幾人もの悲鳴が共鳴しているような、そんな音だ。

 白く点滅する視界。

 貧血のよう。

 立ち眩みにも似ている。

 全身の力が抜けていく。

 まるで、漂白されるかのごとく。

 透明で穏やかな澄んだながれに漂泊するみたいに。

 僕の身体は、かるくなる。

 僕の意識は、はるか舞う。

 空気が膨張したのが感じられた。

 張られた水面に、とてつもなく重い岩石が落とされたような。

 たっぽん、と粘性を帯びた空気。

 衝撃の反動。

 押しやられた空気は真空を生みだして、もとへ戻ろうと渦を巻く。

 その幾多もの渦が空気に形を与えている。肌触りを与えている。

 ――その中心に僕はいた。

 弥寺さんの拳が僕と努樹の身体を突き抜けている。

 ここにはもう、通路なんてものはなかった。

 見渡せる範囲。一面がまばゆいまでの白色。

 壁と床と天井の区別もない。

 ただ、見上げればそこは白くなく。淀んだ黒が夜空みたいにどこまでも広がっていた。

 地上と天上だけが白と黒に分断されている。なぜか地平線はない。白と黒のどちらとも、ただただまっすぐと平行している。広がっている。繋がっていく。交わることはないのかもしれない。だから一見すればすべてが白色だし、すべてが夜空のようでもある。

 その曖昧な白と黒のなかで、弥寺さんと努樹と僕の三人だけが浮きあがって視えていた。

 それはまるで、

 雪原に点在するごつごつとした無粋な岩のようで。

 三人だけが不自然に浮かび上がっていた。

「……小僧、お前」

 拳を引き抜く弥寺さんは視線を宙に彷徨わせている。

「暴走――ではないのだな」

「だれも。だれも傷つけたくないんです」

 僕はだれも、と努樹を抱きかかえる。

 意識したわけではない。けれど無意識でもない。

 ――僕は努樹をかばっていた。

 弥寺さんの拳のまえにこの身を晒した。

 努樹へ覆いかぶさり。僕は割って入っていた。

 僕の背を突き抜け、努樹をも突き抜けて弥寺さんの拳は、床に着弾し、瞬時に通路が霧散霧消した。

 水よりもやわらかな透明なのに鮮明な粒子へと。

 この通路はその姿を変えていた。

 ただ不思議なことに弥寺さんの拳は僕らを突き抜けてはいたのだけれど、貫いてはいなかった。存在している世界が違うように、弥寺さんの拳は僕らには触れずに僕らの身体を突き抜けていた。それはあたかも、立体映像に腕を突っ込んでいるような、そんな構図だった。

 耳が熱い。左の耳が滾っている。ピアスだ。ノドカのピアスが熱をもっている。熱とはエネルギィだ。エネルギィを発している。ピアスが熱い。僕もあつい。

 この身体の裡をめぐる異様な感覚。ドロドロと濃く、火のように痛いようで、それでいて陽射しのように温かで、かるい。

「………コロセ」

 努樹が僕を見上げている。それから目を伏せて、僕の胸元に顔を埋めた。

 ごめん、ごめんなさい、と嗚咽する。

 言葉になんてなっていなかった。それでも僕には努樹がなんと言っているのかが解っていた。

 だって、視えるのだから。

 だって、聴こえるのだから。

 だって、伝わってくるのだから。

 これが――波紋。

「なあ、小僧」と弥寺さんはつまらなそうに声を張る。「さっきの話、聞いてなかったのか」

「聞いてました」と僕は応える。弥寺さんに背を向け、「すべて、聞いていました」

「だったら、なぜ助ける。そいつを」

「なぜ、ですか? 助ける、ですか?」僕は疑問する。

 理由なんて解らない。いや、理由はある。それこそ、一生をかけても言い表せないくらいにたくさんの理由があるのだ。努樹とあれがしたい、努樹とここへ行きたい、努樹にあれをしたい、努樹にこれをされたい、もっといろいろ教えてもらいたい、努樹の話をもっといっぱい聴いていたい……そうやって沢山の理由があるのだ。

 それに僕は、

「助けることなんて……」

 これっぱかしも、できていない。

 ――だって泣いているじゃないですか。

 言いながら僕は、努樹の頭をていねいに撫でてみる。毀れないように。毀さないように。おっかなびっくりと撫でてみた。僕の右手は、うっすらとそこに視えている。形と存在を、中途半端にともなって。

「ノドカを殺した奴だぞ、そいつは」

 僕は振り返る。

「知っています」答えてから言い直した。「……知っていました」

「――らしいな」

 弥寺さんは口元を歪めた。そうしてまた、誰に向けてだか分からない独白を口にした。

「ノドカが傷を負っていたと知っているのは、本来なら一部のラバーのみだったはずだからな。傷のことを知っていながらそいつが、ノドカの死についての詳細を知らない振りをしていたとすれば、それはもう、何か隠しているとみて当然か。ラバーでもなく、また、傷の存在を知っていた人間――それはもう、ノドカを殺した奴しかいない、という結論になるわけか」

 まあ、筋は通っているが短絡的な推論だな、と弥寺はうっすらと嘲笑した。

 僕の波紋を読んでいるのだろう。いや、すでに読んでいたのかもしれない。

 努樹と僕が交わした会話をこの男はきっと知っていたのだ。

 弥寺さんの険難な眼光は、今はもう、しっかりと僕を捉えている。

 僕の姿が視えているということは、彼も僕と同等の『世界』にまで浸透してきたということになる。

 努樹を抱きかかえたままで僕は弥寺さんと対峙している。

 

 ノドカは自分の傷のことを隠していた。誰にも知られまいと頑なに隠そうとしていた。あんなにちかくで接していた僕ですら、まったく気づけなかった。こうしてノドカが死んでから三年ちかくも経って、ミタケンさんに教えてもらうまでは、これっぽっちも知らなかったのだ。

 ノドカのバカ。ウソつき。

 そうやって僕にも打ち明けなかった傷のことを努樹が知っているはずもない。ただの傷ではないというこの事実があったからこそ、さきほどの推論は真実味を増す。努樹がノドカを死にいたらしめたのだと、僕は確信するに至ったのだ。

「それを知っていながらお前、変わらずそいつに接していたのか」仲良し小好し貫いていたのか、と弥寺さんは鼻で笑った。努樹をあごで示すと、「そいつもかなり狂っちゃいるがな。小僧、お前は狂っている世界に身を置いていても狂わないほどの狂いっぷりだ」

 気にいった、と弥寺さんは言った。

「お前は俺が毀してやる」

 ――それまでは絶対に毀れんじゃねえぞ。

 そうつめたく嘯いた。



 ***ウブカタ***

「あーどうすっかなあ。あの化けモンのこと、ライド氏に報告したいんだけど、なあイルカちゃん。ライド氏の現在地ってわかる?」

 バイタル通信が繋がらない。

 いつものことであるが、ライドとの連絡をこちらからは取り繋げないことが多い。急を要する報告をするのにも、わざわざこちらから出向いて、ライドに直接告げなければならない。しかし緊急を要する重大な出来事など、アークティクス・サイドでは滅多におきない。重要な事項は大抵、報せられるものであって、告げるものではないのである。だが今は違った。

「まあ聞いてみただけだ。オレに分からないことをイルカちゃんが知ってるわけねーもんな」

「しッ!」と唇に人差し指を押し付けてイルカは、「静かにしてくださいよ、どこにアイツが潜んでいるやもしれないというのに」と早口で捲し立てる。

 さっきから怯えるようにきょろきょろと周囲を見渡している。

「大丈夫だって、仮にオレらを殺すつもりなら、あんときにやられてただろうに。手を出さなかったってことはだ、こっちから仕掛けさえしなけりゃ向こうもなにもしてこないってことだ」イルカを安心させようとウブカタは口にする。「アレからすればイルカちゃんを屠るなんて、雑草を引っこ抜く程度の労力だろうに、わざわざそうしなかったてことはだ、アレもなかなか人情味ある人物なんじゃねーの」

「そうですね」とイルカは棒読みで首肯した。白けたような表情で、「アイツからすればウブカタさんなんて、自分のニキビをつぶす程度の労力で宇宙の藻屑と化せますのにね。それでもわざわざアイツが自分のニキビをつぶして不潔な敏感肌をさらに傷めることもないわけでして、要するにこの宇宙をウブカタさんの小汚い――というよりも多いに汚らしい存在で穢すこともないだろう、という寛大な配慮をしてくださったわけですねアイツ。ホント、人情味溢れた方じゃないですか」

「なあイルカちゃん……そのふたり同時に蔑む皮肉って、どこで学んだの? オレにもちょっくら教えてほしいっつーか、テメェもいっぺん言われてみろよっつーか、よく息が持つなぁっていうか」

「ああもうッ」とイルカが鼻をつまんだ。「ウブカタさんの息クサイです、三日くらい呼吸を止めててくれません」

「ああごめん」と軽くながしつつ、「それだと息の根まで止まっちゃうんだけど――それでもか?」とやんわりと突っ込んだ。

 いくら中年といえども無呼吸で三日は生きていられない。

「枯れ果てればいいんです」イルカは鼻声のまま、「中年のくちゃい、くちゃい、息の根なんて朽ち果てればいいんです」

「心に突き刺さるんだが……」言いながら胸をおさえる。

「心臓ごと潰れてしまえばいいんです。オヤジの穢れたハートなんて、毛細血管ごと破裂してしまえばいいんです」

「……そうだね。なんかオレ、死んだほうがいい気がしてきた」

「火葬ならお安くしておきますよ」

「安くもなにも金とか必要ないから。基本タダだから。つーか火葬っていうより焼死させる気だよね。生きたまま燃やす気満々だよねイルカちゃん。こわいからね。イヤだからね」

「は?」

 ……彼女、なんだか機嫌がすこぶるわるそうなので、何でもいいからウブカタは褒めておくことにした。

「今日も可愛いね、イルカちゃん」

 黙れよ、とイルカがモノ凄い形相をした。

 お口チャックを地で真似る。

 

「おっとそうだ」ウブカタは話題を変えた。「そういやな、アレの側に餓鬼がいただろ」

「いつの話ですか」

「さっきの話」

「餓鬼ですか? いましたかそんなの? わたし、不遜な存在って視界に入らなんですよね。たとえば、餓鬼とか中年とかウブカタとか」

「うん知ってる。でな、」と軽くながして、「その餓鬼って、ノドカん所のあいつじゃなかったか」

 名前はえっとなんだっけ、とウブカタは髪を掻きむしる。

「クウキです」とイルカが簡単に答えた。それから怪訝な口調で、「ホントにあの子だったんですか」

「たぶんな」

 言いながらウブカタは感心していた。イルカが餓鬼の名前を覚えていて、なお且つ「餓鬼」ではなく「あの子」という言い方をしたことに対して素直に驚いた。

「どういうことでしょう。なぜあの子がアイツと一緒に」

「それよりも、なんであの餓鬼がここにいるんだよ」無印エリアに侵入しているんだよ、とぼやいてからぴたりとウブカタは歩を止めた。「なあ、侵入者ってあの餓鬼のことじゃねーのか」

 あのですねウブカタさん、とイルカは堪えかねたように、「あの子のことを『餓鬼、餓鬼』とウブカタさんは連呼しますけど、あの子は年齢的にはもう『餓鬼』ではなく立派な『青年』です」

「ああそう」心底どうでもいい、といったふうにウブカタは、「立派かどうかは分からないけどな」と指摘した。「どうすっかな、あの餓鬼だけなら処分は簡単だけどよ……アイツの連れだったら面倒くせーことになりそうだし」

「放っておけばいいんじゃないですか」

「無責任すぎんだろ」

「そうはおっしゃいますけどね、考えてもみてください。どうしても困った事態になれば、『処分』の指示は弥寺さんへ移りますよ。あとのことはわたしたちの知ったこっちゃありません」

 その通りだった。

 任務に支障が生じた場合、そのしわ寄せの一切合切は、弥寺の元へと向かい、そこで必ず途切れる。

「あいつ――弥寺のやつも」とウブカタは遠い目をして、「あれはあれで中々に大変なのかもな」と軽く同情する。

「そんなことはないですよ。弥寺さんの場合、やることは相手が誰でも、どんな問題であっても関係ないですもん」

「ああうん、まあな」

 いつだって弥寺のやることは、対象の破壊・殲滅・消失――なのだから。

「じゃあ、帰るか?」

「そうですね。報告書だけ入力すれば済みますし。だいたいですよ――『処分しろ』と言われたって、そもそもの相手がわるすぎたんです。ライドさんの認識のほうにこそ非がありましたから」

「まあな。でもよ、もしかしたらライド氏はライド氏で配慮してくれたのかもしれないぞ」

「どういう意味ですか」

「だってイルカちゃん、むかしっから『あの餓鬼、絶対わたしが処分してやる』って宣巻いていただろ。その機会を与えてくれたんじゃないのか」むっとした表情を浮かべたイルカを横目でうかがいながら、「でもなぁ、イルカちゃん、めっちゃビビってたし、かるくトラウマなんだろ? 強がっちゃってまあ、ホント、可愛いところもあるじゃねぇか」とからかってみた。

「ハッハー、オモチロいジョークデスネ」イルカは棒読みで言った。頬が引き攣っている。「ならお聞きしますが――ウブカタさんはビビっておられなかったのですか? ビビっておられなかったんですね? だったら今すぐにでも処分してきてください。わたしのために殺してきてください」

 わたしのために死んできてください、と足蹴にしてきた。

 痛い痛いって、と避ける。

「ビビったっていうかな、オレは驚いたんだよ」イルカちゃんとは違うんだ、と弁解してみるものの、「へえ。サスガデスネ。で、行くんですか? 行かないんですか?」死ぬんですか、死なないんですか、と処分続行の是非を問われた。

「行きません」つーか死に急ぎたくありません、と素直に答える。

「なら帰りましょう」

 そうだな、と首肯するとイルカが手を握ってきた。

「え、なに? 恋人ごっこ?」

 へなちょこな笑みを浮かべると足の甲を思いきり踏みつけられた。

「まさかわたしひとり残していなくなっちゃうつもりですか? さっきだって、『顔面が陥没しているー』だとかなんとか大袈裟なこと言って、わたし一人おいてどっか行っちゃいますし」

「イルカちゃんのせいだろ。治療にくらい行かせろ」ウブカタは堪らずモノ申す。

「なんでもいいですけど」と素っ気なく言って彼女は、「今日くらい送ってってくださいよ。いつも自分だけさっさといなくなって。もう、ずるいんですから」一人も二人も同じでしょ、と宣巻いた。

 いやいや、とウブカタは内心で首を振る。同じではない。だが、反駁するほどのことでもない。

 未だにイルカはウブカタのパーソナリティが瞬間移動のようなものだと認識しているようだ。見かけは同じようなものではあるが、厳密には瞬間移動とは異なる。

 一人を空間転位するのと、二人を空間転位させるのでは、単純に労力が四倍になる。イルカを空間転位させる場合、転位先の空間もまたこちら側に転位させなくてはならない。言うなればウブカタの特質は、「空間の取り換えっこ」である。

 転移させる空間がただ増えるだけならまだしも、加えてイルカは大抵、「ウブカタさんと一緒がいいです」と駄々を捏ねる。

 分割で行うのと、一括で行うのとでは、明らかに伴う労力に違いが発生する。ただ、これらの事情を説明してイルカに理解を求めようとする労力を鑑みれば、ここは黙って要求を呑むほうがはるかに倹約的というものだ。

 あいあい、と投げやりな相槌を打ちながらウブカタは転移先の空間を指定した。

 そのときである――。

 ウブカタは異変に気づく。

 気付いたとほぼ同時。

 パーソナリティを発動していた。

 イルカを引き連れたままでウブカタは、空間を転移していた。



 ***コロセ***

 一面が白銀の世界に変わった通路を僕は歩んだ。

 努樹を抱きかかえて指標すらないこの雪原のような空間を感じるままにただひたすらに歩んだ。

 このさきにいるコヨリへ逢いに。

 コヨリは必ずそこにいるとただそれだけを確信して僕は進んでいた。

 滾っていた身体の熱は失せている。

 ピアスもまた消えていた。

 僕の左耳にはピアスが一つ。

 ゆびで触って場所を確認する。

 残ったピアスは、より色の濃い、きれいなほうだった。

 

 僕に起った変化。

 気付いたことがみっつだけある。

 一つは、なぜかまったく疲れないということ。

 僕と同じくらいの(むしろ僕よりも大きいかもしれない)努樹を抱いて歩んでいるのに、疲労が蓄積しない。それどころか、努樹のおもさも、重いと感じられないのだ。力がみなぎっている。いや、みなぎらせる必要がないくらいに僕は今、身体がかるい。このままどこまででも飛んでいってしまえそうだった。それこそ、どこまでだって――宇宙の外側までだって行けてしまえそうな気さえする。もちろん気がするだけだけど。

 どうして僕がこんな状態になっているのかは、今のところ明確な説明はできそうもない。きっとこれからだってできないのだろう。でも、こうなったきっかけがさっきの弥寺さんの一撃――なのだというのは模糊してだけれど、なんとなく判る。でも、攻撃を受けたからじゃない。それも同じくらいなんとなく判っている。きっかけは弥寺さんだけれど、要因はそうではないのだろう。それが何なのかは、僕なんかにはとうてい解らないし、解らなくたっていい。そんなことはどうだってよいのだから。

 二つ目は、〈あの獣〉の姿がどこにも確認できないということ。

 弥寺さんが消し去ってしまった可能性もあるけれど、弥寺さんの話を信じるなら、〈あの獣〉は努樹と同一化していたらしい。なのに努樹はこうして生存している。むしろほとんど無傷ですらある。弥寺さんの配慮があったからなのかは定かではないけれど、それでも努樹だけが無傷で、〈あの獣〉が死んだということは考えにくい。これもまた、弥寺さんの話を信じればの臆測になるのだけれど、〈あの獣〉は努樹に寄生していたのだという。だとすれば、自分の身が危ぶまれたその瞬間に、遁走するのが筋な気もする。だから僕は〈あの獣〉はまだ生きていると思っている。というよりもまだ生きていて欲しいと望む。

 もしも〈あの獣〉が、僕の右腕と同じような存在だったとしたなら、僕のこの右腕と同様に、今はうっすらと視えていてもいいはずだ。けれど見渡せる範囲には、僕と努樹のほかにはなにも視えない。もちろん〈あの獣〉が僕の右腕とは違うというだけのことかもしれないし、僕たちが「浸透」できるように、〈あの獣〉も、僕がいるここよりももっと《アークティクス》に近い世界にまで「浸透」しているだけなのかもしれない。そもそも、弥寺さんの言葉を信じれば、〈あの獣〉はもともとが《アークティクス》に住んでいる生き物なのだという。だったら僕なんかが知覚できるはすもない。

 でも、とひとつ不思議に思うのだ。

 だったらどうしてあのとき、僕は触れられたのだろう。努樹の寝顔に悪戯書きをしようと邪知を働かせていたあのときのことだ。きっとあのあときに触れた生物は、〈あの獣〉だったに違いない。大きさは〈あの獣〉の数百分の一程度しかなかったけれど、それでも僕には分かる。きっとアレが〈あの獣〉だったのだと。

 でも、だから、だったらどうして、僕なんかに触れられることができたのだろうか。

 けれどこれもまた、僕になんか、とうてい解るはずもないことなのだろう。だって僕は、どうして磁石がお互いにくっつき合ったり、反発し合うのか、それすらもまともに説明できないくらいに無学なのだから。

 最後に、気付いたことの三つ目は――天上のこの「夜空のような黒面」について。

 これはきっと、僕の右腕にある断面みたいなもの。

 あの銀色の獣の地肌のようなもの。

 きっと『こっちの世界』と《あっちの世界》との境界なのだろう。

 そしてたぶん、僕は今、

 《アークティクス》と『プレクス』との狭間にいるのだろう。

 ただしそれでもきっとこの一面の白銀は、弥寺さんのパーソナリティがもたらした光景なのだ。

 鉄と思い違えてしてしまいそうなほどに、かたい踏み心地なのに、足でさっと払うとキラキラと舞い上がる透明な粒子。

 努樹を抱えたままで僕はしゃがんむ。

 地面に手を差し入れると、お湯に手を突っ込んだようかのように、すう、とあたかかく埋もれる。

 一方ではやはり、歩いている限り、この白銀の地面は鉄のように硬質なのだ。不思議。

 錯覚のように時折、白と黒が入れ替わる。反転する。白銀を歩いているかと思えば、いつの間にか僕は夜空を闊歩している。そのまま夜に落ちていってしまうのでは、と一瞬ひやりとしてしまう。ただつぎの瞬間にはやはり僕は白銀に足をつけて歩んでいる。どこを歩んでいるのか。どこに存在しているのか。どこが現実で、どこまでが錯覚なのか。もう僕には区別などつけることもできはしない。

 すこしこわくて。

 すこしうれしい。

 このまま努樹を抱いたままで、どこまでも歩みつつづける夢というのも、そう、わるくはない。コヨリのことだけが心残りだけれど、これが夢ならば、いずれコヨリも現れてくれるだろう、とそんな夢想で自分を落ち着かせる。

 

 ふと僕は思いだす。

 以前にもいちど、似たようなことをノドカへ質問したことがあった。

 Wバブル理論についてミタケンさんからきちんとした説明を受けた僕は、ある疑問を抱いたのだ。

 それは――、

「生き物の数と同じだけ〈世界(レクス)〉があるのだとして、この仮説の正当性を認めるのだとすれば、それはまた、このWバブル理論を元にしたこの《アークティクス》という世界そのものもまた、ある特定の誰かが生みだしている〈世界(レクス)〉である、という可能性を否定できないのではないか。それだけでなく、肯定し得ることになるのではないか?」

 というものだ。

 言ってみれば、僕の視ているこの世界が、果たして本当に僕が視ている世界なのだろうか、という疑問。

 ついては、本当にこれは現実なのだろうか、という疑心。

「Wダブル理論」というものは、大まかな解釈しかできていない僕のような者からすれば、『より多く《アークティクス》を感受している者が、より正しい世界を生きている』と論じているようにしか聞こえない。つまり、保持者たちが、ほかのパーソナリティを持たない者たちよりも優れているのだ、とそう謳っているようにしか聞こえないのだ。でも、本当にそうなのだろうか。もしかしたら僕たちのほうが間違っていて、頭がおかしいだけではないのか。それどころか、「僕たち」なんてものは存在していなくて、僕の頭がおかしいだけかもしれない。

 そんなことをふと思ってしまったのだ。

 それはまた僕だけでなく、ほかの人たちにも言えることだ。

 仮に、「Wバブル理論」が正しいとするのなら、この疑問はますます現実的な問題として昇華してくる。

 それぞれがそれぞれに世界を構築して持っているのだとすれば、それはやっぱり、僕がこうして辿っている人生というストーリィも、それは僕の世界での出来事であって、もしかしたらノドカなんて人物は存在していなくって、もしかしたら城門努樹という人物も、小春ひよりという人物も僕が勝手に創り出してしまっている人物なのかもしれないのだ。ただ、アークティクス・ラバーたちは、「浸透」することで、〈レクス〉や『プレクス』から逸脱し、より《本物とされる世界》を確かめることができるらしい。そして僕は今、その「浸透」を行っている。それでも、僕に抱かれている胸のなかの努樹は消えていないし、この白銀の世界も消えていない。それはつまり、この城門努樹という存在も、粒子にされた無印エリアも、真実にちかいかたちで存在しているということなのだろう。

 けれど、やっぱり僕はどうしても思ってしまうのだ。

 ――本当にそうなのだろうかと。

 だから僕はノドカへ問うたのだ。

 僕らのほうが狂っているかもしれないじゃないか――とそう言って問い詰めた。

 でも、ノドカはなんとも簡単に答えてくれた。

「それならそれで、いいんでない?」

 拍子抜けとはこのことだ、と僕は身に刻んだ覚えがある。

「この世界がどうのこうのなんてさ、あたい、実際どうもでいいんだよね。これが夢だろうと現実だろうとさ――架空だろうが錯覚だろうがさ――そんなのどれだって変わらないっしょ? あたいはここにいて、クウちゃんがここにいる。それがいちばん大切なことであってさ。それさえ変わらないのなら、あたいはこの世界が誰につくられてたって、誰のものだって構わないんだ」

 クウちゃんだってそう思うでしょ、と冗談みたいにノドカは笑った。

 そうだね。今ならそう思う。

 心の底からそう思えるよ。

 ただね、ノドカ。

 そうならないからこその――この世界なんだよ。

 もしもこんな世界を意図的につくりだしている者がいて、そしてその誰かのせいでノドカが死に、努樹が苛み、そしてコヨリが苦しんでいるのだとすれば、僕はそいつを絶対に許せない。赦したくても許せない。

 ただどうなのだろう。

 許せないからといって僕になにができるだろう。というよりも、僕にとって問題ではないことなんて、存在するのだろうか。どうすれば問題はなくなるのだろう。どうすれば僕は納得できるのだろう。

 解らないだなんて、もう、そんなことは言っていられない。

 答えがないのなら、それこそつくりだすよりほかにない。

 もう、うんざりなんだ。

 放棄してしまいたいのに。

 投げ出してしまいたいのに。

 逃げ出してしまいたいくらいなのに。

 なのに、それでも、諦められないんだ、どうしても。

 だったら僕は、この理不尽な世界を毀してでも――僕は――この世界を…………。

 とそう考えている僕がいる。

 でもそれは結局、僕が絶対に許せないと憤っている誰かさんと同じことを僕がするということで。

 だからこれは結局、僕が絶対に許せないと恨んでいる誰かさんと僕が入れ替わるというだけのことで。

 なんの解決にもならないのだと知っているのだけれど――それでも僕は――やっぱり――この僕にとって理不尽な世界を毀してでも――僕が望む世界を………………。

 とそう思ってしまうのだ。

 幸福を求めるすべてのものが、その幸福を、各々がそれぞれに手にいれられるような世界を――幸福を手に入れることでどこかで誰かが不幸にならない世界を――誰かが不幸になることでしか幸福になれないだなんてそんな哀しいながれの存在しない世界を――僕は――つくりたい。

 そのために必要だというのなら僕は――この世界を――僕は僕のために――この世界を……。

 でもそれではやっぱり駄目なのだと。

 記憶に浮かぶ。ノドカの笑顔が。

 僕を諌める。姉の姿が。

 僕を宥める。

 

 ――ねえクウちゃん。

 ――我が儘を言っちゃダメでしょ。

 ――クウちゃんの納得はクウちゃんのもの。

 ――みんなに押し付けてはいけないのだよ。

 

 だったらそのノドカの主張だって僕に押し付けちゃダメなのに。

 僕がそう反駁しても、僕の裡のノドカは。

 

 ――あたいはいいんだよ。

 ――コロセのお姉ちゃんなんだから。

 

 そう言って僕に笑いかけてくる。

 めちゃくちゃだよ。

 メチャクチャだけど、でも、その通りだね。

 その通り過ぎたんだ。

 僕にはそうやって主張を押し付けてくれるひとが必要だった。

 ノドカのように導いてくれるひとが必要だったんだ。

 だってさ、ノドカ。

 どこまでも僕は、我が儘なんだ。



 ***イルカ***

 イルカは目を見張る。知らない空間だ。

 かろうじて室内だと判る。

「ウブカタさん……これは」

 ――いったい。

 首をひねってウブカタを見遣るが、見当たらない。そのまま彼を探すのと並行して周囲を見渡した。

 イルカの思考は、ここがどこかよりもまず、これがどのような状況なのかをもっとも優先的に把握しようと巡っていた。

 視界はどんよりと重い。

 暗いのでもなく、覚束ないのでもなく、重い。

 虚空内と同じような感覚であると認識するのにそう時間はかからなかった。しかしそれでもアークティクス・ラバーであるイルカならば、瞬時にこれが虚空と同じような高濃度のメノフェノン混濁であると判断できたはずである。

 だができなかった。

 それには理由がみっつある。

 一つは、メノフェノン混濁にムラがあったこと。

 濃い場所と薄い場所があった。通常の虚空であれば、濃淡こそあれ、メノフェノン混濁は一定の濃さに連なっている。それは丁度、水に砂糖を混ぜたような具合である。しかしこの空間は、水に油を掻き混ぜたような、アンバランスな状態でメノフェノン混濁が感じられるのだ。

 それに加えてイルカは、この空間が、虚空よりももっと異質な空間であると直感していた。それが二つ目の理由である。喩えようのない本能的な違和感であるが、それでも強いて喩えるならば、それは「縫合」を終えたあとの空間――隔絶された世界――そんな感じがするのである。

 しかし、縫合された世界などとは比べ物にならないくらいにこの空間は異質である。隔絶されているのではなく、乖離している。そう、乖離しているのだ。その表現がしっくりとくる。

「隔絶」がほかの世界と区切ることならば、「乖離」は切り離すことだ。

 Wバブル理論でいえば、この世界は必ず《アークティクス》に内包されていることになっている。しかしこの空間からはその《アークティクス》の存在すら微塵も感じられない。ということはこの空間は、《アークティクス》からも離れて、まったくの個別にその世界を維持しているということになる。

 ――世界の創造。

 そんな荒唐無稽なパーソナリティ――聞いたこともない。

 そんなことが現実にできる存在がいるなんて信じられない――というよりも信じたくはない。

 言ってしまえばそれは、神の存在を肯定してしまうに等しいほどの絵空事なのだから。

 

 イルカは神など信じない。この世の創造主足り得るものの存在を頑なに否定するわけではない。ただ、人を救うような存在はいないのだ、とそう思っている。

 なにもしなければ誰も助けてなどくれない。

 漠然とした期待に縋っているようでは、誰も、助けてなどしてやくれないのだ。

 どんなに心のなかで祈っていたって。

 たすけて、と心のなかで叫んでいたって。

 誰も助けてなど――誰一人として助けてくれなど――してくれなかったのだから。

 イルカは思う。

 救われることはあるかもしれないけれど、助かることはないのだと。

 神がいるならどうして助けてくれない。どうしてこうもわたしに厳しい世界をつくったのか。だからイルカは信じない。神などはいない。いたとすればそれは神などではない――悪魔だ。だが、悪魔もまた存在しない。なぜならイルカは、少なくともいまは、以前よりも幸せだと思えるようになれたのだから。

 幸福を感じる時間を抱けるようになった――好きなひとをこの手で触れられるように――抱きしめられるように――なったのだから。

 だからきっとこれはわたしの勘違い。

 わたしの知らないような、高度な縫合技術で隔絶された世界なのだろう、ここは。

 すなわち、無印エリア内のより深層部――組織の極秘施設に違いない。

 イルカはそう沈思を結んだ。

 およそ瞬き六回分のあいだに完了したこの考察は、イルカをその場へ、十数秒のあいだ、足止めさせるに至らせた。おそらくそれはイルカにしてみれば僥倖であっただろう。

 なぜなら、その場から数歩でも進めば、彼女は「それ」に触れてしまっていたからである。

 ところで、

 イルカの状況判断を遅らせたみっつ目の理由――それは。

 彼女の視界の先に、ひときわ目を引く物体があったからである。

 その物体は――だらしなく壁に張り付いており、見るからに、「少女のような物体」であった。

 それがもはや人ではなく、ただの物体であるのだとイルカは一目で理解した。死んでいるのだと理解できた。なぜならその「少女のような物体」の胸には、ぽっかりと穴が空いており、そこから背後の壁が覗いているからである。生きていられるはずもない。

 髪の毛が長い。体躯も幼い。表情は俯いていてよく見えないが、きっと安らかとは程遠い顔をしているに違いない。イルカはぼんやりとその屍を眺めた。絵画を観賞するかのような、そんな自然な様で。

 やがてイルカは、はっとして、

「ウ、ウブカタさん……」

 どこですか、と意図もなく呼びかけた。

 彼も一緒にここへ来ているはずだ。というよりも彼がここにいなくてはわたしがここへ来られるはずもない――イルカはそう考えているが、実のところ〝それもまた〟正確ではない。

 ウブカタの特質は空間転位だ。

 イルカのみを別の場所へ転移させることも可能なのである。

 だがイルカはそのことを知らない。ウブカタの説明に対して聞く耳を持たないからであるし、ウブカタもまた深く説明していなかったからである。

 しかしそのこととは関係なく彼がこの場にいるのだとイルカは察していた。ウブカタの波紋がかすかに感じられているのである。

 だが実際、それが本当にこの場にいるウブカタから発せられている波紋なのか、それともこの濃いメノフェノン混濁によって過剰に強調されてしまっている、中年のメノフェノン鱗状痕の余韻なのかは、イルカには判別できなかった。通常であればメノフェノン鱗状痕など、機器なくして生身での知覚などできようはずもない。だからこそイルカはこれまでの経験則を元にした帰納的推論にのっとって、このかすかに感じられるウブカタの気配が、彼の波紋である、とそう何の迷いもなく結論付けていた。

 そして実際にウブカタはそこにいた。

 霧のようにいつの間にか顕在化し、

「イルカちゃん……これ、誰だ」と壁に張りついている屍を眺めていた。

「ああもう」イルカは安堵の溜息を吐く。「どうして浸透しているんですか! 脅かさないでください」

「おう、すまん……脅かすつもりはなかったんだが」

「というかですね、ここどこです? わたし、こんな素敵な場所へ送ってくれるようになんて頼んでいませんけど」

「うん、そうなんだよなぁ――ここ、どこだ?」

 イルカは彼の脇腹へフックを放った。かはッ、と中年がみじかく喘いだ。

「わたしがそれを聞いているんです」中年は黙って答えなさいよ、とあごを上げて見下ろした。

「オレにもわかんねーんだよ」

 横っ腹を押さえた格好でウブカタがしゃがみ込んでいる。「ちゃんとオレはイルカちゃんの部屋を指定したはずだ。こんな場所じゃなくてな。そもそもオレはここがどこなのかを知らない。知らない場所に転位することはできねーんだよ、オレのパーソナリティはな。オレが間違ったというよりも、オレがここへ引きつけられてしまった――そんな感じだ。こんなの初めてだ。なにがなんだか」

 最後のほうは苛立った口調となっていた。これ以上は責め立てずにおく。

 壁へ歩み寄る。

「これ、だれですかね」ウブカタと同じ疑問を口にする。

 胸に風穴を明けられた遺体――少女らしい容貌の屍。

 まるで臓器を摘出されたかのような様である。

 イルカは思う――なにかそう、不自然だ。

 遺体は壁に打ちつけられたみたいに貼りついていて、足が浮いている。足元には点々と血が今もなお滴っている。死後間もないのだろう。しかし、ならば、なおのこと不自然だ。

 流血が少なすぎる。

 致命傷がこの胸の風穴なのかどうかは現時点では判断つかない。死後に穴を空けられた可能性もある。ただ、だとしても、この屍は死後硬直すらはじまっていない。死後一時間どころの話ではなく、肌の血色や足元の血痕の乾き具合などからしてもやはり、ついさきほど死に至ったことは間違いないだろう。ならば流血がこの程度なのは不自然だ。まるで、心臓を含めた臓器をまるごと取り出して瞬時に片づけたような手際の良さを感じる。これがパーソナリティによって加工された遺体であるのは自明だろう。手作業ではこうはいかない。時間をかけず、なお且つ、床や遺体そのものを汚さずに済ますなど至難のわざだ。ならばこういった、人間の胴体に風穴を明けて殺傷できる保持者が犯人ということになる。

 いや、そもそもこんな暢気に現場検証ゴッコなどしていて良いものか――この遺体が死の直後であるならば、すぐ近くにこの遺体をつくりだしたその犯人とやらがいるやもしれないのだ。

 ここにきてイルカはようやく警戒心を抱いた。

「まあ、安心しろよ」ウブカタがよこにくる。一緒になって壁の遺体を見上げた。「これを殺した奴がそれなりの保持者なら、ここにはすでにいないだろうからな」

「読まないでくださいよ、波紋」イルカは酸っぱい顔をする。

「警戒すんのがおせぇんだ。読まれるほうがわるい」

 盗人猛々しい――これだから中年は、とイルカは軽蔑のまなざしを注ぐ。注ぎつつも、一方でその主張はたしかに一理あるなとも納得する。呆気にとられて、若干というにはいささか壮大すぎるくらいに無防備であった、それは事実である。

 そもそもここはどこなのだ。

 イルカはもう一度この異質な室内を見渡す。

 なにもない。

 床も壁も天井も白色。

 まっさらだ。

 それこそ、白紙にされたように小奇麗な部屋である。

 下手をすればここが室内ではなく、際限なくどこまでへも続く、白い平原にいるような錯覚に陥ってしまうほどだ。真っ白いカンバスに丸をひとつ描くだけで、そのカンバスには無限の空間を表現できる――それと似たような風景といえよう。ただし現実には、色のあるところにはかならず影も生じる。その影と、壁に張り付いているこの遺体のおかげで、ここが室内なのだとかろうじて認識できた。

「出ましょう」

 やがてイルカは呟いた。「ここにいても仕方がないです」

「それはまあ――そうな」

「どうしたんです。なにか気がかりでもありましたか」

「うん。ああいや、なんでもないんだが……」となんだか煮え切らない様子の中年だ。

「もう」とふくれっ面でイルカは、「どうでもいいので、とりあえずわたしだけでも帰してください。今日はもう散々で――。いやですよ、余計な任務ふえるなんて」

 こんなのに関わっていられません、とぞんざいに遺体へ指先を向ける。

「そうしてあげたいのは山々なんだがな――」

 とウブカタがやさしく背に手を添えてくる。

 なにが山々だ。山も海も空だって今はどうだっていい。

 はやく送りやがれ、と身体を捻ってその手を振り払う。

「うん、不機嫌なところ本当に申し訳ないんだが、その前に一ついいかな。ちょいとお尋ねさせていただきたいんですがねイルカちゃん」と中年があらたまって訊いてきた。

 イルカは煩わしそうに睥睨する。それでもウブカタは怯むことなく、むしろ縋るように見詰め返してくるのでしかたなく、なんです、と相槌を打った。

「気のせいだとは思うんだが――パーソナリティ、遣えなくないか? ここに来てから」

 はあ?

 ついにボケはじめたかこの中年は。

 イルカは怪訝に思いながらも、ならば物は試し、とウブカタの無精髭を燃やしてやろうと照準を定め、パーソナリティを発動――させたつもりだったのだが、発動しなかった。

 まるで指を動かそうとして動かせないようなもどかしさがある。

 いくどか試してみるものの、一向にウブカタは燃えない。

 加減をしているせいだ。そう思い、本気でウブカタを焼失させるつもりでパーソナリティを発動――させたつもりがやはり反応はなし。目のまえのウブカタは健在である。

 それはつまり、これからどんなにウブカタが煩わしく思えても、または疎ましく思っても、ここにいる限りはこの中年を燃やすことができない、ということか。

 そしてまた、ここから出られさえすれば、ふたたびパーソナリティが遣えるようになるとしても、その「ここから出る」ためには、ウブカタにパーソナリティを遣ってもらわねばならないのである。しかし、きっとイルカと同じように彼もまたパーソナリティを遣えないのだろう。

 ――ここから出られない。

 イルカはようやく事の重大さを痛感する。

 閉じ込められたのだろうか。

 嵌められたのだろうか。

 しかし。なぜ。誰が。何のために。

 もう一度、室内を見渡す。

 振り返った視界の先――室内の中心部には、これまでそこにはいなかったはずの人影が、局所的に訪れた夜のように、うっすらと浮かびはじめていた。



 ***ライド***

「弥寺くん……どういうことかね、これは」

 精一杯の虚勢を張ってライドは問い質す。

「見ての通りだ。ここにはあんたと俺と〝ソイツ〟がいる。ここにサイカはいない。そしてまあ、これからどうなるかについて、俺は関与するつもりはない。あんたら二人で勝手にやってくれ」

 弥寺はソファでくつろぐ格好で、こちらと〝彼女〟に視線を当ててくる。

 ライドも、壁際で蹲っている〝彼女〟へ視線を向ける。

 彼女はそう、サイカではない。

 ――オリア・リュコシ=シュガー。

 だがこうしてライドが異常事態を認識してからも彼女は動こうとしない。毛布に包まったまま壁を背にして膝を抱いている。しかし眠っているわけではないというのは視覚的に確認できる。たまにこちらを窺うようにちらりと伏せている顔をあげるからだ。

 状況的には窮鼠である。

 応援を呼ぼうにもこの「バブルの塔」内から外への連絡網など皆無だ。また、仮に応援を呼べたとしても、なにをトチ狂ったものか、弥寺がどうやらこちらの意向を無視して独自の思想をもとに行動を起こしているようだ。それともこれもいつものような気紛れなのだろうか。だが今回ばかりは気紛れで済ませられるものではない。仮にこの状況を《彼女》に炊き付けられて(などという危惧はここバブルの塔では無用であるがしかし相手が《彼女》であれば用心するに越したことはない。そんな《彼女》に)、オリア・リュコシ=シュガーを奪還されでもすれば、それは半世紀前に阻止したはずのカタストロフィの再来ならぬ、再開である。

 なにを考えておるのだ弥寺くん――ライドは憤りというよりも、縋る気持ちで弥寺をなじった。

 そのなじりは、波紋として弥寺へ伝わっているはずであるが、彼はまったく反応を示さない。無関心を貫いている。

 ライドは視線を彼女へと戻した。

 そうして警戒しつつ、どうすればこの窮地から脱することができるのかを沈思した。

 この状況、まさに風前の灯。今となっては敵対することで迎える終結など、終焉と同義である。そんな結末にするわけにいかない。なんとしてでも生き残らねばならない。死ぬわけにはいかないのだ。

 保持者たちの、より自由な世界をきり拓く使命が、私にはあるのだ。

 そうだとも。話せば解ってくれる。あたしの目指している――いや、切り拓こうとしているこのプロジェクとが如何に我々保持者にとって、ひいては人類にとって、どれほど尊厳な事項なのかを説けば――そうだとも――彼女らだって理解を示してくれるに違いない。いくらなんでも「個人の憎悪」と「人類の黎明」とを比べて、己のさもしい感情を優先する莫迦者など滅多におるはずもない。弥寺くんや彼女はそれこそ、人の域を超えた選ばれし者。人類を背負うに値する者たちなのだ。彼らが私利私欲に流されることなどあってはならないだろう。この状況も、きっと彼らにしてみれば、ちょっとした遊戯、退屈な日常を潤わせるに必要な刺激に過ぎないのだ。ならばわしがここで檄を飛ばし、彼らへ活をいれてやって、本来の使命を全うさせてやるのも、わしの重要な任務ではなかろうか。

 オリア・リュコシ=シュガー、彼女を用いて【ゼンイキ】を生みだすことはこの際諦めるしかないとしても、それでも彼女自身が我々のプロジェクトに加担してくれるのだとすれば、それはまた大きな進歩ではなかろうか。時間はある。なにも、ことを急ぐ必要はない。ここはひとつ、責任者として、また言語を操れる人類として、言葉でこの場を解決してみせようではないか。

 無益な血を流すことはない。

 それこそ、流すべき血は選ばなければならないのだから。

 貴重な血なのだ。

 流してしまうのならば、せめて、『血肖液』に遣わせてほしいものだがな。たっは。倹約。

 ライドの沈思は結びをみせる。そして口をひらいた。

「やあやあ、諸君。お待ちかねだったかね。いやはやお持たせしてしまって申し訳ないがしかし、諸君らにもまたその責任の一端があるわけなのだからこの際だ、痛み分けとしてこの時間の無駄の責任を押し付け合うのはよそうではないか。なあに、この台詞そのものが時間の無駄だというその主張は妥当であろう。だが、よいか諸君。いやいや、ここからは多少個人的な指摘にしておきたいのであるからして、ここは弥寺くん、としておこうか――さて弥寺くん、キミはいったい何を考えておるのだ? いやいや、何かしらの事情、および、顧慮があったからこその、このおもちろい状況なのだろうが――いやはやまったく、どうしてこうも君は退屈させないでくれるのだろうな。ホントおれってば部下にめぐまれてるよな。たっは。もういいんだ、こうなってしまってはあとの祭り、過ぎ去ったことをとやかく言って時間を浪費するものも莫迦らしい。それとも弥寺くんはそれが目当てだったのだろうか? だとすれば中々に巧妙で幼稚な破壊工作ではないか。たっは。なあに冗句だ、遠慮はいらん笑いたまえ。それでだ、これまでのことを私は指弾するつもりも君の弁解をきくつもりもない。また、これまで私がしてきたことを謝罪するつもりもない」

 ここでライドは弥寺から視線を外し、彼女へ当てる。

「謝罪はせぬぞ。だが、謝礼は尽くそう。こうして黙って君がぼくの説得に耳を傾けてくれていることに関してのみ言及しても、礼を尽くすに値するくらいであるが、もしも君がこれから我々のこの『ゼンイキ・プロジェクト』に助力を惜しまないと申し出てくれるならば、それはこちらとしても貴女の要望に応えるのもやぶさかではないのだよ。さて、いかがなものだろう、回答を今すぐよこせ、などと狭量なことをあちきは言わんさ。しかしできることなれば、互いに不遜な争いを起こして、不毛な損益だけを痛み分け合うなどと、そんな愚かしいことだけは避けたいではないか。それはそちらとしても同じではないのか? 貴女がどれほど私のことを知っているかどうかは問題ではないのです。であるからして、これはわしの親切心、そう思って聞いてくれたまえ。この空間であればぼくはだね、弥寺くんと殺し合ったって、そこそこ楽しめてしまえるくらいの武力は有しているんだよ。だからもしキミや弥寺くんがぼくのことを毀してしまおうだとか、消してしまおうだとかそんなおもちろいことを思っていたとして、多分それはきみたちほどのパーソナリティを以ってすれば実現できてしまうのだろうけれども、むしろ諸君はボクを消し去ることができると保障しよう。でもね、ボクが消えたとき、そのとき、きみたちが今のままの姿でいられるかどうかの保障まではできないんだよね。オレだって命は惜しいからな。たかがテメェらごときにくれてやる命だとは思ってねェのよ。だが残念なことにおれのパーソナリティにゃ、あんたら二人を相手どってこの場を切り抜けるまでの武力はない。この空間から逃げ出すことは、まあ、できるだろうが――おれがあんたらに抗えられんのは、ここ『バブルの塔』んなかにいるからであって、ここから逃げ出すっつーのは、それこそ無防備になっちまうわけで、たっは、そりゃ土台ムリってもんだ。それゆえにわたしは、ここであなたたちと殺し合った場合、私のこの命尽きるまであなたたちを相手に暴れてさしあげましょう、とそう決意しているのです。ねえ、どうかしら。私はお願いしているのです。できるなら穏便に済ませたいではありませんか。ねえ、とりあえず時間をあけませんか? 今日のところはお引き取り願えないかしら? たっは。諸君。どうだろか?」

 


 ***弥寺***

 弥寺はソファに腰を沈めている。

 体重は背もたれに預けており、完全にくつろいだ格好だ。

 退屈な弁説を息巻いているライドを無聊なさまで眺めている。眺めつつも弥寺は、室内に置かれた『血肖液』の溜まったクリアボックスの輪郭をなぞるように「縫合」してもいる。そうすることで、このさきの展開によっては訪れるかもしれない破壊に備えてもいた。

 仮にここで戦闘が繰り広げられたとすれば、クリアボックスは破壊され、中身である『血肖液』がこの室内に拡散してしまう。それだけは回避しなくてはならない。

 言わばそれは、一瞬にしてこの室内に「ティクス・ブレイク」を引き起こして兼ねないほどのメノフェノン混濁が生じてしまうに等しい災害である。

 未曾有とも呼べる大災害だ。

 はからずも、ここは「バブルの塔」の内部――閉鎖された空間である。

 それゆえに、外界への影響はさほど大きくなるとは思えないが、それでも、予測不可能である以上、「ティクス・ブレイク」が引き起きた場合に、この《世界》そのものがどうなるかなど、想像だにできない。

 ただひとつ確実に言えることは、この場に居合わせている弥寺を含めた、ライドとオリア・リュコシ=シュガーの三人の存在は、跡形も無くなっているだろうという「存在の消滅」である。

 そもそも「存在の消滅」とは、ある物自体がこの《世界》に存在していたという軌跡――それそのものが根源から綺麗さっぱり消え去ってしまうことだと呼べるのかも知れない。

 だとすれば、これまで「ティクス・ブレイク」が発生したことで、その存在をこの《世界》から抹消させられた生命の種がいたとして、彼らが存在したという痕跡もまた、一切が消え去ってしまっているということになる。

 これを真実であると仮定した場合――。

 たとえば過去、高度な文明があったとして、その存在を、現代の我々がどのように穿鑿したとしても知ることなど叶わなくなる。

 また仮に、ここで弥寺たちが「ティクス・ブレイク」に巻き込まれてしまったとしたならば、彼らは「この世に存在していなかった者」として、部分的に《世界》が再構築されてしまうのかもしれない。

 ゆえに、「ティクス・ブレイク」のあとに残る「もの」とは総じて――そこに発生しただろう「無」に巻き込まれなかったものたちのみ――「無」に触れなかったものたちのみ――であり、その後に訪れるだろう、あらたに再構築された《世界》を感受するのは、その無に触れなかった者たちのみとなる。ただし、部分的な再構築がなされた《世界》に適応できなくなってしまった種もまた、その姿を消しただろうことは、今さら論を俟たないだろう。

 絶滅か進化か――この二択に恐怖するものたちのほかに、その選択を示されることなく滅したものたちがいたのかもしれない、という話である。


 すなわち「ティクス・ブレイク」とは。

 ――「無」を起源とする、《世界》の部分的再構築にほかならないのだろう。

 たとえばそれは、肉体を構成している細胞たちの死滅と再生の輪廻のように、自己に組み込まれた、抗うことのできない、外部から齎されたサイクルのようなものなのかもしれない。

 観測できない以上は、これらの推測は観念的な邪推の域をでない。

 だが弥寺はそれをこのとき、超感覚的に確信していた。

 常日ごろから弥寺が「勘」と呼び、信用している、己の裡なるささめきであった。

 ライドと、《あの女》の娘――オリア・リュコシ=シュガー。

 このさき、二人がどのような顛末を辿るのかについて、弥寺は無干渉でいようと決めていた。だがそのいくつか想定できる展開のなかには、互いに破壊しあうというものも、そう低くない確率で存在している。

 ならば最低限――いや、最大限の注意を払って、「ティクス・ブレイク」が引き起きぬように、『血肖液』の詰まったあのクリアボックスを守護しなくてはなるまい。弥寺はそう努めようと構えていた。

 自分の無責任な趣味をまっとうするならば、この程度の配慮は当然だ、と弥寺は自分に言い聞かせている。

 


 ***ライド***

 返答は得られなかった。

 これだけ熱弁を注いでも、こだますら返ってこない。

 ただ、舌鋒を振るっているあいだにひとつ窺知できたことがあった。

 オリア・リュコシ=シュガーがとても大人しい――という事実。

 いや、これは精確ではない。

 正しくは、彼女の波紋が、とても大人しいということだ。「糊塗」も「沈下」もしていない。むろん、だから今は、「波靡(はび)」だって施されていない。施されていないのだと知れた。

 いつのまにか彼女の波紋はまっさらとなっていた。

 ただどうしてだか、彼女の波紋自体を講読することは叶わない。が、殺意や敵愾心がないことを知り、ひとまず胸をなでおろす。

 瞬きすらせぬようにとずっと見開いていた瞼を、ライドはようやく下ろした。

 すっかり乾いてしまっている。涙腺もこう長時間たるみっぱなしでは、さすがに枯渇してしまう。

 弥寺くんはどうやらもうこちらへは関心を示していないようだし――というよりも飽きているようであるが――ともかくとして、こちらへはとくに干渉してくる様子もない。

 なんとかこの場を凌げそうかもしれない。

 九死に一生を得るとはこのことか、と今度は意識的に溜息を吐きだす。

 そうして閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。

 ――おや?

 空間が逆転していた。

 弥寺が訝しげにこちらを睨んでいる。そんな彼は、いつの間にか天井に配置を移したソファから腰を浮かしている。

 壁際を見遣る。オリア・リュコシ=シュガー、彼女もまた、天井にお尻をくっつけて座っている。

 いや、とライドは理解した。

 逆転しているのは空間ではない、視界だ。

 すなわち、あちきが逆さになっているのだ。

 油断した、と己を戒める。

 パーソナリティなど発動していない。ならばこの状態は、弥寺くんか彼女のパーソナリティによるものだ。

 ライドは宙に浮かされている。

 捕獲されてしまっているのだろう。

 ――身体の自由が利かない。

 たっは。油断しちまった。たっは。たっは。不覚じゃわい。ごきん、とライドは最後の力を振り絞って首を鳴らした。鳴らしてから、ゆっくりと瞼をとじる。

 せめて「死」というものを全力で観測したい。

 視覚など邪魔だ。

 感覚を研ぎ澄まして、これから訪れるだろう「死」を見逃さぬように、とライドは目をつむった。

 それを待っていたかのように、乾いた爆音が耳に届く。

 室内が破壊されている。

 より正鵠を射る表現を心がければ、「バブルの塔」内に設置されている機器や設備――が破壊されている音だろう。

「バブルの塔」は特別な空間――床も壁も天井も、空間を仕切っている室内、それ自体が破壊されることはない。破壊することもできない。

 目を閉じたままでライドは沈思する。

 きっと弥寺くんが面白半分に、ダーツだとか射的だとかのゲームを模して、ボクに向かっていい加減に攻撃を放っているのだろう。どこまでも酔狂な男だ。そんなキミにこういったかたちで最期を看取ってもらえるというもの、中々どうして乙ではないか。なんだかんだ言っても、弥寺くんほど私の嗜好を理解しているものなどおらんしな。

 さあてと。

 死とはどんなものだろう。

 たっは。

 楽しみではないか。

 ふむふむ。

 ふむふむふむ。

 たっは。

 いやいや。

 ちょっとまて。

 たっは。

 莫迦め。

 わしの莫迦めっ。

 思っていた以上に。

 

 ――死ぬってこわッ!

 

 ライドの意識はそこで途切れた。




 +++第十一・五章『私はリンクする』+++

 【干渉されていることに無自覚であるというのは、関係していることに無自覚であるということだ。だが現実では、干渉していることに無自覚であり、なお且つ関係されていることに無自覚であることの方が圧倒的に多い】

 

 

   タイム○スキップ{~時系列の基点をここに再配置する~}


 ***◎***

 ――なぜ、この空間で。

 弥寺は疑問する。

 ライドの乱発する雷撃からクリアボックスを防衛しつつ、疑問した。

 ――なぜ、ライドが暴走する?

 ――この空間に身を置いているにも拘わらず――なぜ?

 不規則に飛んでくる雷撃によって、弥寺自身の身体は次々と破壊されていく。破壊された部位は即座に塞がる。大気中に漂う分子の結合を解き、さらに単体にされた原子をも分解して、そこから抽出したエネルギィを肉体へと取り込む。そうして損傷と再生を繰り返していた。

 雷撃を防ぐ必要はない。

 苦痛を避ける必要もない。

 この程度の痛みから、傷から、逃避するなど、弥寺の信条に反する。


 戒厳はそのままで、注意をライドから離し、この空間そのものへ向けた。

 はたと気付く。

 空間が歪んでいる。四面体に区切られたこの特異な空間が、あらぬ方向へと歪んでいる。往々にして歪みは立体へ隙間を生じさせる。その隙間が、閉鎖されている「この空間」と「外の世界」を結んでしまっている。繋がってしまっている。

 不可侵であったはずのこの空間が、ゆらいでいる。

 さきほどここの外で――無印エリアの通路で――弥寺が放った一撃。手加減していたはずが、予想以上の損傷をこのバブルの塔にも与えてしまっていたようである。偶因の多くは、弥寺が自覚し得ないほどに自身の能力が向上していたことと、弥寺がここ「バブルの塔」に唯一無償で干渉できる数少ないうちの一人だったことに起因する。

 

「バブルの塔」は閉鎖的な空間であり、本来、「魔害者」であるはずのライドを安定させていた。

 ところがその「バブルの塔」に亀裂が生じたことに加え、ライド自身がこれまでにない異常な感情の混乱を抱いたために、「魔害者」であったはずのライドが『完全なる暴走』を誘起されてしまったようである。

 さらに、空間の歪みへ追い打ちをかけるように、ライドがパーソナリティを乱発させてしまっているために、「バブルの塔」の歪みがより広がりを帯びていく。外からの干渉は完全にちかいかたちで遮断できるはずの「バブルの塔」であるが、内側からの膨大なエネルギィ投射には適応しきれない。

 不可侵であったはずの「バブルの塔」に、重大な亀裂がはいった。

 その亀裂をかいくぐって、「バブルの塔」へ侵入してきた者がいた。


 カエデである。


 弥寺によって無印エリアが白銀の粒子にされてしまってから、カエデはセキュリティも壁もなにもかもが消失した、そのまっさらな世界を歩んでいた。コロセの波紋もなぜか感じられなくなっている。そのとき、異常に振幅を高めていく波紋の余波を感知。誰かが暴走していると察知した。『棘紋(きょくもん)』と化したその禍々しい波紋を頼りに伝ってゆくと、ここへ辿り着いたのである。

 カエデは状況をすばやく把握した。

 ――三人の保持者。

 そのうち一人はニボシ化している。ただのニボシではないと直感する。下手をすればこちらが抹消されてもおかしくないほどのパーソナリティであると、間近でこの者の「棘紋(きょくもん)」に触れて推知した。

 さらにもう一人は、あの男。

 『暁』や『雫』などの、カエデよりも先につくられていたドールたちから、「決して近づいてはならない」「遭遇すらしてはならないのだ」と直々に忠告されていた――鬼神:弥寺。

 さらに見れば、彼のよこにはあの子もいるではないか。一目で判った。オリア・リュコシ=シュガー。アイツが小春ひよりだと想い、コヨリと呼んでいる少女――しかしその存在は――《あの人》が唯一真に恐れている存在――《彼女》が心の底から欲している存在――《リザ・セパレン=シュガー》が手に入れたいと渇望している唯一――なのに手に入れられないただひとつ。

 この空間にいるのは――。

 異質な暴走者と。

 忌避すべき蛇滑な男と。

 そして彼らの中心にいる、自由への鍵。

 カエデにとっては、そこにいるだれもが敵でも味方でもなく、己の運命を握る存在――仮想の《彼女》であった。

 ただひとつ明白であるのは、このさきどのような可能性と選択を考慮したとしても、まず排除すべきは、人でも化け者でもなくなったただのケダモノ――言葉も解釈も意味もなさない暴走者――ライドの始末であるということのみ。

 奇しくも、カエデと弥寺は暗黙のうちに同じ結論を導き出していた。互いにそう考えるだろう、という楽観的な推測すらも互いに巡らせるに至っている。阿吽の呼吸。二人はほぼ同時に、同じ方向へパーソナリティの矛先を定めた。ライドを消し去るために。ライドを殺すために。ライドという存在を毀すために。

 そのときである――カエデと同様に、「バブルの塔」の亀裂から侵入してきたひとつの影。

 否、ふたつの影があった。


 コロセと努樹である。


 コロセは解らなかった。身体に感じるこの躍動の正体が。右腕があつく滾ったそのワケが。

 身体がさきを急かす。まるで吸い込まれるように。いや、引きつけられるように。偶然にもそれはこれまでコロセが意識的に向かおうとしていたさきと同じ方向であった。ただし、今は意識的にではなく、反射的とも呼べるくらい自然に――いや不自然に――身体が動いていた。

 そして辿りついたさきがこの空間。

 初めに視界にはいった人物――あの男――弥寺。

 つぎにカエデがそこにいて。

 二人ともがパーソナリティの照準を向けているさきに、若い容姿の、けれど禍々しい波紋をまとった見知らぬ者がいた。

 そして最後に――コヨリがいた。

 視界の端にコヨリがくすぶっている。

 くすぶっている存在がコヨリなのだと確信していた。

 確信していたがために。

 視軸を合わせることをしなかった。

 こわかった。

 弥寺がいるこの空間になぜコヨリがいるのか。

 カエデが敵視しているあれは誰なのか。

 なによりも――コヨリはなぜ――そんなにも成長しているのか。

 もうなにがなんだか解らなかった。

 そこにいるコヨリが本当にコロセの知る小春ひよりなのか――コヨリであると確信していながらに、その確信を疑ってしまう。カエデと似てはいるけれど、カエデよりも大人びている。凛々しい顔つき。沈魚落雁。羞花閉月。直視するのも憚ってしまう。なのにそれでもずっと見詰めていたい。そんな自家撞着。吸い込まれるように。コヨリの周囲だけが。歪んで感じる。

 コロセはただ間抜けに突っ立っている。努樹をお姫様だっこしたままで。突っ立っている。

「そこにいろ。手を出すな」

 弥寺がコロセに向かって言い放つ。

 もっとも、弥寺の眼光はコロセを射ることなく、まっ直ぐとあの、少女とも少年とも呼べる若者へと向かっている。その一挙手一投足を捉えて離さそうとしない。

 正気の沙汰ではない禍々しい波紋を纏っているあの若者。

 コロセもまた――コヨリではなく――カエデでもなく――弥寺すらもそこにいないかのように――その異形のモノを見詰めていた。

 ただひとつ言えることは、コロセはその若者が誰であるのかも、現在どのような状態であるのかも――ただ正常ではないのだとくらいにしか知らないのに――知らないはずなのに――なのにコロセは――弥寺よりも――カエデよりも――コヨリよりも――その正常ではない異常な保持者に惹き付けられていた。意識的にではなく。無意識的でもなく。本能的にコロセは。コロセの意識は。その異常者へと――。

「うごくなッ!」カエデもまた弥寺と同様にコロセを見ないまま制した。「よせッ! ちかよるな、そいつにッ!」

 コロセは虚ろな思考で弁解する。

 けれど、だから、もう何度も言うように、僕を離れて、僕の意思は、その若者へと向かってしまうんだ。

「コロ……セ?」努樹がこちらを見上げている。

 腕に抱かれて。縋るように。努樹がこちらを見上げている。

 それでもコロセは答えない。応えられない。

 一歩一歩と。その名も知らぬ誰かさんへ。歩み寄る。

「駄目だって! どうしたんだよ、コロセってば」

 努樹が揺さぶってくる。しがみ付くようにこちらへ抱きついて、揺さぶってくる。

 コロセはふと思った。

 ああ、どうしよう。

 努樹が……。

 ………………邪魔だ。

 あんなに手放したくないと思っていたはずの努樹を――コロセは――乱暴に――地面へ――放った。

「あぶないんだって! アレは暴走してるッ」

 聞いてよコロセッ、と努樹が叫んでいる。

 さっきまであんなに謝っていたのに。こんどは一転して説教か。

 自分勝手な奴。

 うるさい。

 そう、うるさいのだ。煩わしいのだ。

 どいつもこいつも命令ばかり。

 あれをしなくてはならない。

 あれはしてはならない。

 したほうがよいことも。

 しないほうがよいことも。

 そんな選択――どうでもいい。

 命令するな。指示するな。促すな。邪魔するな。

 止めたいなら止めればいい。助けたいのなら助ければいい。殺したいのなら殺せばいい。その行為に対して、認めることも責めることも咎めることも諭すことも善を付加することも悪を付加することも、何ものにもそれらをする自由はあるけれど、他者へそれを押し付けることなどできはしない。なん人もしてはならない。

 いや、それもまたできるならばすればいいだけの話だ。

 押し付けられるものなら、押しつければいい。

 ただ、コロセはそれにとことん抗う。全てを拒むわけではないけれど、他者から学ぶこともあるけれど、それはコロセが勝手に学んだだけのことであって、その他者がコロセへ学ばせたわけではない。

 もしもコロセのような者にでも何かを学ばせることができるのだと豪語する者がいるのだというのなら、その者はきっと、虫にでも、草にでも、石にでも、なにかを教えることができるのだろう。意思を持たない無機物にだって学ばせることができるのだろう。

 学びたい意思を持たない他者にも学ばせることができると言うのだから――ならば意思を持たないモノにだって学ばせることもできるはずだ。たとえできたとしても、コロセはそれを教育などと呼びたくはないと思っている。そんなものは洗脳にすぎないのだから。

 学んでいるのか。

 強いられているのか。

 歩んでいるのか。

 引きずられているのか。

 僕の意思は僕だけのもののはずなのに。それでもなぜだろう。僕の意思が。僕から外れたところで動かされているように思えてしまうのは。僕の意思が。僕のつくりだしたものではなく。僕をとりまく世界によって形成されているように思えてならないのは。なぜだろう。この不安は。いったいどこから生じる不調和なのだろう。

 僕の身体は、僕の意思は、僕とは無関係にすすむ。惹きつけられる。

 弥寺が怒鳴っている。

 カエデが叱咤している。

 努樹が喚いている。

「……カエセ」

 とつぶやく声が。前方から聞こえる。

「……ヲ……カエセ」

 ――話せるのか。

 コロセは感心する。

 喋られるのか。こんな異常な波紋を纏っていて。言語を発することができるのか。でも驚くことはない。言葉を発声できるからといって、意思の疎通がはかれるとは限らない。それこそ、オウムだって、人形だって、スピーカだって言葉くらい発せられるのだから。

 コロセは「それ」のまえに立つ。

 少女でも少年でもなく。禍々しい波紋を尖らせてコロセを欲する名も知らぬ誰かさん。

 コロセは呼びかける。声に出さずに。

 きみが僕を欲しているように、僕の裡のなにかもまたきみを欲している。

 惹かれあうものどうし奪いあうのも一興ではあるけれど、またそのあいだへ歩み寄ってひとつと成るのも妙案だろう。さて、名も知らぬ誰かさん。言葉の通じぬ誰かさん。きみは僕をどうしたい。きみは僕とどうしたい。結果はたぶん、同じだろう。争いあうのも。傷つけあうのも。歩み寄るのも。同じだろう。僕ときみはひとつと成る。ならばどうだろう。時間をかけるのはやめにしないか。結果が同じだというのなら。どうだろう。いっそのこと。てっとりばやく。迎えてしまわないか。結末へ。歩みよろうとは思わないか。終末という名の――原点へ。

 コロセは無言で語りかける。

 波紋とはとても便利だ。この名も知らぬ誰かさんの刺々しい波紋の片鱗を掴み、絡みとっていく。それだけでコロセの意思が言葉も通じぬ目のまえの「誰かさん」へ届いてしまうのだから。

 波紋――。

 ふとコロセは回顧する。マスターの言っていた言葉。

 遠いむかしの記憶をコロセは浮上させた。

 これまですっかり沈殿していた記憶を、浮上させることができた。

 波紋――それはパーソナリティを有している者がより顕著に発するものなのだとマスターは言っていた。ということは、パーソナリティを有していない者も僅かばかりではあるけれど、波紋を発しているということなのだろう。さらには、パーソナリティを有していない『者』だけではなく、パーソナリティを有していない『物』もまた、波紋を発しているのかもしれない。コロセにはまだ感じられないけれど、それでもこの名も知らぬ誰かさんとひとつに成れたあかつきには、もしかしたら《世界》そのものの波紋を感受できるようになるのかもしれない。どうだろう。そんな気がしてならない。

 コロセのこの期待はなぜか確信じみていた。

 その期待に応えるように、

 名も知らぬ誰かさんは、

 コロセの波紋に

 その毬のような波紋を絡めてくる。

 まるで身をゆだねるように。

 コロセをしずかに覆ってゆくのだった。


 

 ***◎***

 コロセの動きが止まり。

 それに連動して、

 ライドが放っていた棘紋(きょくもん)の振幅がやわらいだ。

 その好機を逃しまいと、まず弥寺が動いた。

 血肖液の溜まったクリアボックスをさらにつよく「縫合」し、これから及ぼす破壊の余波にも堪えられる防衛をほどこす。

 そうして、ライドの肉体だけを分解しようと座標を指定。

 即座にパーソナリティを発動。

 あの小僧があいだに立っていて邪魔であるが、座標を視認できてさえいれば支障はない。そのはずだった。しかしこのときばかりは勝手が違った。そもそも、通路であの小僧とサイカを相手どって立ち回った際に気付くべきだったのだ。最小限の威嚇で済ますはずだった。だのにあのとき、弥寺のパーソナリティは通路をことごとく粒子化させてしまっていた。

 あのとき弥寺は、予想をはるかに凌駕したコロセのパーソナリティに素直に瞳目してしまい、すっかり己の失態を忘却してしまっていた。

 そうだ、なぜ気が回らなかった、と弥寺は己の愚鈍さを責める。

 あの区画がちょうどセキュリティの厳重な無印エリア内だったからこそ、その被害は一区画で済んだものの――そうでなかったらと考えると弥寺は自分の無能さを責めずにはいられない。

 パーソナリティが向上している。

 それも格段に。

 制御しきれないほどに。

 それは考えるまでもなく、《あの女》との一戦を境に生じた変化である。だが、到底これでは「強くなった」といえるはずもない。

 ――力に振り回されている。

 それは弥寺にとって、「己以外のなにもの」かに操られているに等しい屈辱であった。

 だがその一瞬の悔恨は、発動しかけのパーソナリティを一時停止させるには及ばなかった。

 弥寺の意図とは無関係に弥寺のパーソナリティは――あの通路で生じた広域にわたる粒子化と同じように――「バブルの塔」の内部におけるあらゆる物質を粒子化させた。

 だがそのとき、弥寺とほぼ同時に動いている者があった。

 

 カエデである。

 

 コロセの異常な精神状態。それは一目瞭然であった。素直だけが取り柄と言ってもよい捻くれ者のあいつがこちらの呼びかけにも応えず、友人であろうジョウモンドキの金切り声にも反応せず、あまつさえすぐそばにしゃがみ込んでいるオリア・リュコシ=シュガー、あいつがコヨリと呼んで再会を渇望していた彼女にも見向きもしないなど――これが異常でなくて、なにが異常であろうか。

 弥寺というこの男はどうやらこちらよりもまずはあの暴走者を始末することを目的にしたようだ。こちらもそのはずであったが、この弥寺という男がそれを行うならば、こちらはとりあえず、この場からコロセとコヨリを連れだしてしまおうと詭計を巡らせた。

 コロセに借りをつくっておくものいい。だからジョウモンドキというあの青年――うん? 女ではないか。コロセのやつ、勘違いしているのか? つくづく愚昧な野郎だ。どこまでもおもしろいやつ。ともかく、この際、性別なんてどちらでもいいが、彼女も連れていってやろう。あとでコロセの野郎に感謝されてやるのもおもしろい。

 そんなことをつらつらと考えながらカエデは動いていた。

 この状況下でずいぶんと余裕綽綽な思考を巡らせているものだ、と呆れたくもなるが、それでも「余裕がない」と自覚するというのは、やはり余裕のある思考があってからこそ齎される自覚であろう。

「浸透」し、まずは退路を確保しておこうと、カエデは侵入してきた亀裂をさがす。

 だが見つからない。

 なるほど、とカエデは合点する。

 ここへ侵入してから抱きつづけていた違和感を拭った。

 ――ここは『最境』に類似した、特殊な空間だ。

 『最境』……そうだとも、あの男が籠城している喫茶店――あの空間で抱く嫌悪感とここで抱く違和感は似ている。だが、あの男のほかにもこの『最境』を創りだせる者がいたのか。

 違和感を拭った代わりに、カエデは不審を抱いた。

 ちょうどこのとき、カエデとは異なる旨ではあるが、この状況下で不審を抱いていた人物がいた。

 

 サイカこと、城門努樹である。

 

 努樹は思った。

 コロセがこちらの呼びかけにも応えず、暴走したライドへと歩を進めていく。弥寺ですら声を荒らげてコロセとライドとの接触を抑止しようとしているというのに、その傍らでどうして彼女は――オリア・リュコシ=シュガーは――ただ呆然とコロセの威風堂々とした行進を眺めているのだろう。

 そもそも彼女は本当にあのオリア・リュコシ=シュガーなのだろうか。それどころか、コロセが数カ月間、穏やかでありながらも有意義な時間を共に過ごしていたという、その少女なのだろうか。そうだとも、なぜこれまで疑問に思わなかった。

 コロセの座るあのベンチのよこで『浸透』したまま佇んでいたオリア・リュコシ=シュガー。彼女をあの場で発見した私は、コロセの言葉をもとにして、「彼女」と、「コロセがコヨリと呼んでいた少女」を同一人物として結びつけていたものの、しかしそれは私が勝手にそう結論付けていただけであって、「オリア・リュコシ=シュガー」と「小春ひより」という少女が同一人物であるかどうかを直接的に確認したわけではない。先日、オリア・リュコシ=シュガーへ、コロセに近づくなと釘をさし、「あなたはコロセを傷つけているだけだ」と非難した。しかしそれも一方的に私が、彼女へ、言い放っただけに過ぎない。

 そういえばあのとき――と記憶を呼び起こす。

 あのとき彼女は終始、押し黙っていた。それは私の言葉に傷ついていたからだと思っていたが、実際には彼女には私の息巻いている言葉に心当たりがなくて戸惑っていただけだったのかもしれない。そうだとも。どれも私が勝手にそう推測していただけではなかったか。こうして私はコヨリだと思っていた人物――オリア・リュコシ=シュガーは、真実にコロセが恋慕の情を注いでいた少女ではなかったということか。いや、まだ疑問はある。オリア・リュコシ=シュガーの容姿が成長している。それはきっと『血肖液』の効用であるだろうことは想像に難くない。とはいえ、彼女が成長している、というその事実だけを鑑みれば、コロセが彼女をコヨリとして認識できないとしても不思議ではない。どうなのだろう。コロセが想い人をその容貌の変化だけで見間違うとは思えない。いや、これは私の希望的観測だ。その可能性だって大いにあり得る。

 私の波紋を読んだであろうコロセは、私のこれら誤解を真実だと思い――すなわちコロセは、オリア・リュコシ=シュガーをコヨリという少女だと考えてこの事態に局面した――だがここにはコヨリはいなかった――そのせいでコロセが自暴自棄になってしまっている――そう考えることもできる。

 けれど現状はきっと違う。

 もっと異質で、異常な事態なのだ。

 論理的に推測できる事態などではない。

 完全にイレギュラーで、予測できない事態なのだろう。

 ライドの波紋だけが際立っている。

 コロセの波紋はその余韻すら感じられない。ともすれば、コロセの存在自体が消え去っているかのように思われてならない。

 それが努樹にはおそろしかった。

 おそろしい――この感情に身体の自由を奪われている人物がほかにもいた。

 

 オリア・リュコシ=シュガー。その人である。

 

 彼女はこわかった。

 弥寺との戦闘――その記憶は覚束ないまでも、〝生死をかけて彼と殺し合っていた〟という記憶はたしかにある。

 だが、目のまえで繰り広げられている会話。

 それから、急にニボシ化した保持者。

 そしてあとから現れた三人の保持者。

 誰もかれもが記憶にない者たち。

 唯一その存在の情報を知っているのが、弥寺という男についてだけであった。

 客観的にみればそれは僥倖であっただろう。この場でただ一人だけ誰かの情報を与えてもらえるのだとすれば、それは選ぶまでもなく弥寺という男の情報だからだ。「知性」と「自己保存の本能」を有していれば、誰もがそう考え至るだろう模範的回答である。

 喩えるならばそれは、五つに分かれた分岐点――五つの道先にはそれぞれ、ウサギ、子ネコ、子イヌ、子グマ、子トラ、そして体長三十メートルのアナコンダが待ち受けている。アナコンダは腹が減れば餌を求めて穴から抜けだし、次々と動物たちを捕食していく。この状況下で、あなたが助かる術は一つしかないとする。それは、アナコンダのいる巣を、あなたが持っている爆薬で爆破して塞ぐことである。この局面であなたは、どの動物がどの道のさきにいるかを一つだけ知ることができる。その際にあなたが選ぶだろう動物は、アナコンダであろう。もし仮にそのほかの動物を選んでいたとすれば、あなたはいずれそのか弱い動物とともにアナコンダに捕食されるか、または四面楚歌となって、八方ふさがりの状態で爆薬を遣い、同じくか弱い動物とともに洞穴へ閉じ込められるしかない。この比喩の場合、断る必要もなく、アナコンダは弥寺である。その弥寺の情報だけがオリア・リュコシ=シュガーの記憶には完全とは程遠いながらも残っていたのである。まさに僥倖。

 ただし、僥倖なのは弥寺という男の記憶が残っていたことについてであり、これまでの記憶の一切が思い出せなくなってしまったことは、とても僥倖とは評価し難い。

 彼女にとって現在のこの状況というものは、さきの比喩でいえば、わかれ道の奥の一つにアナコンダがいると知っているのみ、というとても不明瞭なものである。もしかしたらほかの四つの道先にもアナコンダがいるかもしれないし、または、もっと身の毛もよだつような化け物が潜んでいるのかもしれない。そのような疑心暗鬼に彼女は陥っていた。

 ただし、オリア・リュコシ=シュガー、彼女ほどの能力と資質を持ってさえすれば、誰がどの程度のパーソナリティ値を有しているのかを把握するのに、それほど労力はかからないだろう。しかしこのとき彼女は、自身がどれほど秀でた保持者なのか、ということすらも覚束なかったのである。

 ――己の可能性を認識できない者はまた、その可能性を試すこともできない。

 それゆえにオリア・リュコシ=シュガーはそのとき、ただ軟弱なひとりの娘と化していた。

 とは言え、パーソナリティが本能と密接にかかわっているとされている以上、そしてそのような観測が過去いくどとなく確認され、その正当性が認められている以上は、彼女が危機的状況に陥った際に、彼女がその裡に秘めたパーソナリティを無自覚に発動し、自己防衛をはかるという可能性は、非常に高いと言わざるを得ない。それは、さきほどの比喩を用いれば、手元にある爆薬を、壁にではなく、アナコンダそのものへ仕掛けることを咄嗟に思いつくような、そんな当たり前の発想と同等のレベルで当たり前に想定される事項なのかも知れない。

 そんな当たり前とされる事項を想定できるようにまた、「バブルの塔」の内部がいずれこのような状況になるだろうことを予期していた者がいた。

 

 その者の名は――ダイチ・レンド。

 喫茶店「Ding an sick」のマスターである。




 +++第十二章『差異化することの罪過』+++

 【問題が一切ない、完璧だ、とされる理論や手段は、それ自体がすでに問題なんだよ。盲目であることは何にも増して問題だ。ただし、その問題を認識しないからこその盲目であるのだから、盲目である限り、問題は生じない。だからこそ、盲目であり続けるというのは一つの完璧なのかもしれない。きみはどう思う?】

 

 

   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ三年半前~}


 ***城門努樹a.k.aサイカ***

 人には絶対的な死角というものがある。

 瞳孔のなかにある網膜に存在する盲斑。

 その盲斑に像が投影されている限り、人はその映像を認識できない。他者には視えていても、自分には視えていない風景――そこにあるのに視えない世界――まるでWバブル理論のような構造が、人間には元来的に備わっている。

 背後などの元から視ることの叶わない死角は、本当の意味での死角とはなりにくい。人は、「視えないけれど存在しているだろう」という不明瞭なものに対してはとても臆病だから。背後などのあからさまな死角は、ある種の臆病さを身に着けている者ならば常に警戒しているくらいで、逆につよく意識が向けられてしまっている。

 ――見ているのに視えていない。

 そういった油断のなかにある盲斑のような死角のほうが、より奇襲をかけやすい。

 私はその盲斑を利用して暗殺を行う。暗殺対象の盲斑に、私が入ってさえすれば、わざわざ『浸透』せずとも、対象に気付かれることなく殺傷することが可能だ。ただし最低限、波紋を「糊塗」しなくてはならないことは今さら断りを俟つまでもない。

 私のパーソナリティは、ある程度離れた場所からも攻撃できる。とは言っても、やはり確実に仕留めるとなれば、できるだけ対象に近づいたほうがよい。言ってしまえば、私のやっていることなど、狙撃のようなものだ。こそこそと相手の虚をついて、影から対象の足をすくう。いや、私の場合はきっと、足もとごと丸々すくい上げて、相手を死の淵へと突き落すようなものだ。土ごとシャベルで花を根こそぎもぎ取るように。

 卑劣極まりない愚行だ。

 でも、仕方がないのだ。

 ときには愚かなことを選ばなくてはならないときだってある。

 ううん違う。きっと人間として生きるというのは、そういった愚かなことを繰り返すことなのだ。こうして意味もなく思索に耽っていることこそ、愚かなことに相違ない。

 死角は案外に狭い。

 盲班となる範囲が限られているからだ。さらには眼球がふたつあることで、互いに互いの死角を補ってもいる。

 ただし、対象から距離が空けばあくほど、盲斑の範囲は広がる。対象から離れた場所にいれさえずれば、それほど窮屈ではない。それは例えば、交錯するふたつの直線――それらの接点から離れれば離れるほど、ふたつの直線は永遠に離れつづける。または、どんなに小さな穴でも近寄って覗きこんでさえみれば、そこから望める「遠くの景色」は広大になる。そんな感じ。

 いつだって私は暗殺なんて卑劣なことはしたくなかった。暗殺が卑劣なんじゃない。人を傷つけるというその行為そのものが卑劣なのだ。あまつさえ、誰かの命を奪ってしまう……そんなの。

 ――そんなのしたくなどなかった。

 私はしたくなどないのに。

 でも、仕方がないのだ。

 ときにはやりたくないことを行わなければならない時だってある。

 ううん違う。きっと人間として生きるというのは、そういった抑圧を繰り返し強いられることなのだ。こうしていつか死ぬと決まっている人生を勝手に与えられていることこそ、最も強制的な抑圧にほかならない。


 その日も私は、イヤでイヤで仕方のない任務を成し遂げようと出張っていた。

 ――人を殺す。

 それも、できるだけ隠密に。穏便に。

 今回の対象は――アークティクス・ラバー。

 名を、ノドカさんという。

 すごくやさしくて、とても親切な人。

 その人を私は殺さなくてはならない。

 いやだよ。

 いやなのに。

 でも、どうしようもない。仕方がないんだ。

 だって、ノドカさんに死んでもらわなければ私は、私の大切なものを失くしてしまうのだから。

 大切なものを失くした私は、死んだも同然だ。

 ノドカさんが死ななければ、「大切なもの」と「私」の二つを失ってしまう。


 ――「ノドカさん」という一つの存在と。

 ――「大切なもの」と「私」という二つの存在。


 二つと一つなら、二つを残すべきだろう。

 一つの犠牲で、二つの存在を守れるのなら――それは論理的に考えれば当たり前に導かれる結論――一つを犠牲にして二つを守るべきだろう。

 仮に、一つの命で人類すべてが救われる――そんな状況ならば、迷わずに一つの命を捨てるべきだ。ならばそれが、「一人」対「人類すべて」ではなく、「一人」対「大陸」、「国」、「民族」、「町民」、「家族」……そうやって人数を減らしていけば、最終的に「一人」対「二人」でも、二人を生かすべきだろうとなる。多くの命を救うことを優先するならばそうなるはずだ。人の命が平等ならば、なおのことで。

 私は当たり前の選択をしているだけにすぎない。

 すぎないはずだのに……。

 もちろん私だって、どちらともを救えるならば――三人ともに救われる道があるならば――そちらを選びたい。でも、ないんだ。どれだけ考えたってないんだ。ううん。そうじゃないのかもしれない。本当はあるのかもしれない。でも、いまの私にはなにもかもが圧倒的に足りない。時間が足りない。力が足りない。考える知恵も、戸惑う余裕すらないんだ。私が逡巡すればするだけ、私は大切なものを失ってしまう。この手からこぼれ落ちていく。すり抜けていく。そうしていずれ私は凡てを失ってしまうのだろう。そんなの、いやだ。

 いやなんだ。

 選ばなければならない。

 だから選んだまでの話で。

 どちらがより大切なのかを――私は選んだだけの話なのだ。

 あいつと私とノドカさん。

 誰を一番守りたいのか。

 誰を一番残したいのか。

 誰が一番汚れても良いのか。

 私はあいつを残したい。生かしたい。守りたい。傷つけたくない。穢したくない。そのためになら私は、どんな汚れでもかぶってみせる。そうしてみせようと抗った。

 この道を選んだ。自ら選んだ。暗殺という職務を得て、殺人を犯すことを正当化されて、許されて、信用と、権威と、匿名性を得て、組織の総括部へと身を置いた。あいつを守るために。あいつを「ラビット」になんかさせはしない。私が守るしかないんだ。私しかいないんだ。誰も守ってくれなどしないのだから。あいつのことも、私のことも。いつだって社会は個人を守ってくれなどしてやくれないのだから。


 死角からの奇襲。

 どんな人間であっても、気が緩む瞬間はある。必ずある。どんなに意識していたって、人は、自分の呼吸ですら意識下に置きつづけることもできないのだから。

 無意識と意識。

 何かを意識しつづけること。警戒しつづけること。そんなこと、人間にはできない。

 人には必ず隙がある。隙があく。

 その隙を、私は死角から突く。

 ノドカさんの盲斑の延長線上に私はいた。様子をみながら、馴染むのを待つ。

 いきなり熱湯に入れられたカエルは、熱さに驚き、抵抗するように暴れる。しかし、最初から水に浸けておいて、徐々に沸騰させていくと、カエルはそのまま熱湯のなかでしずかに茹で死ぬそうだ。生物は、僅かな変化には疎く、また、慣れることで危機感が麻痺するらしい。それと同様に、盲班に潜む何ものかの異質な気配――つまり私の気配に慣れさせてから、実行に移すのが定石であった。

 一撃必殺。

 二度目はない。

 戦闘へ持ち込まれた瞬間、私の負けは決定する。私のこのパーソナリティは、相手との距離や運動量、その他もろもろの計測をなるべく正確に行わなければならない。それは一瞬で完了する計測ではあるのだが、戦闘において、その一瞬が命取りなのは言うまでもない。戦闘中は、瞬き一つしてはならない。瞬きをしてしまったのなら、その瞬間に死を覚悟すべきだ。

 一瞬の――躊躇・油断・逡巡・躓き・減速・倦怠・停滞――それらすべて、直結して死を招く。

 戦闘とは「相手をいかに破壊するか」という流れへ、どれだけ身を委ねられるのか、どれだけ無意識に動けるのか、そういった死線と踊り舞う、ダンスなのだ。

 死線から手を離してしまっても、ステップから外れてしまっても、それだけでダンスは終了する。その舞踏会のなかで、最後まで踊りつづけられたものだけが残る。踊りはじめてしまった時点で、人は死へ一歩、踏み出している。あとはどれだけ死線と手を繋いでいられるか、踊っていられるのか、縋りついていられるのか――その惨めな執着しか残っていない。

 生への執着。

 なんて無様なのだろう。

 私は、踊ることができない。

 生への執着。

 そんなもの、私にはないのだから。

 

 ノドカさんは最後まで気付かなかった。

 私の気配に慣れたせいだろう。

 私が盲班から背後の死角へ回ったことにも。

 私がパーソナリティを発動させたことにも。

 ノドカさんは気付かなかった。

 発動からの照準。

 そう、このときだった。

 殺傷しようと私が意識した瞬間。

 視界からノドカさんの姿が消えた。

 瞬きなんかしていない。

 にも拘らず、

 ノドカさんの背中が、

 私の視界から、

 目のまえから、

 消えた。

 しかし、物質が消失するなんてことはありえない。

 波紋もまだ残留している。『浸透』したわけでもなさそうだ。

 ならば、

 そう、単純にノドカさんが、伏せただけのこと。仰向けに寝転がるようにして。

 ノドカさんはその場に仰臥していた。

 殺気とも呼べない私のかすかな意識の片鱗にノドカさんは反応したのだ。

 ――ありえない。

 波紋が露呈しないようにと、断層深く「沈下」させていた。

 私が到達可能な限界ちかく――より《アークティクス》付近へと。

 波紋を感知されたなんてことはありえない。

 ならば、なぜ――?

 そんな疑問を私が抱いたのは、ずっとあとになってからのことだ。

 そのときは、空気を切り裂きながら迫ってくるノドカさんの足を避けるのに、全身全霊で集中していた。

 ドリルのようだった。

 頭を下にして。

 両足を捩じるように組んで。

 身体をまっ直ぐと伸ばしつつ。

 回転しながら迫ってくる。

 ノドカさんの足底。

 後転片手倒立と飛び跳ね起きの要領で――反動と。加速と。回転と。体重。それらがのせられた一撃。

 感じられる風圧が威力の凄まじさを物語っていた。

 紙一重。

 なんとか私はソレを避けた。しかし、紙きれ一枚分を挟んで避けたくらいでは、ソレの破壊力を防ぐにはあまりにも距離が足りない。

 私の額の皮膚は、刃物で切りつけられたかのような切創を刻み込まれた。まるでカマイタチにでも遭ったかのように。

 背筋を収縮させて、反っていた私の身体は、うしろへ崩れる。

 上へ上へと視界が逸れていくなか――。

 ノドカさんの脚だけが、綺麗な直線を保って、回転していた。

 倒れた私が体勢を整えようと、即座に身体を起こした際に、まず目にした光景は、竜巻きのようにまっ直ぐだったノドカさんの身体が、両脚を広げて、真横に捻じれながら、プロペラのように回転の形が変遷していく様子だった。

 まるで傘が開かれたような一瞬の変形だ。

 ノドカさんのソレは、明らかにつぎの攻撃へ移行するための初動で、さらなる遠心力が加重されるための緩慢な流動だった。

 左足を支点に振りあげられたノドカさんの右脚は、振り子の原理で身体ごと宙へ高く浮き上がる。即座に閉じられた両脚は、捻じれの力を「身体を縦に貫く軸」へと収束させる。地面と平行に伸びたノドカさんの身体はふたたび空中で高速回転した。

 さながら、コインを弾き飛ばしたような加速的な回転だ。

 それが正にいま、私のうえへ落ちてこようとしている。さらに言えば、敵意あるドリルと化したノドカさんは明らかに、直撃の寸前で脚を開き、その超絶に加重された力を「踵」の一点へと収斂させる気満々であった。

 喰らえば、身体を両断されてもおかしくない一撃だ。

 人間の身体が生じさせ得る限りの力と重さを付加された、かかと落とし。

 目前に迫っていた。

 色も音も思考も感情も、なにもかもが私の裡から蒸散していく。まるで、浄化されていくみたいに。

 最後まで残っていたのは、毀してしまいたいくらいに愛おしいあいつの無邪気な笑顔だった。

 空気が膨張したのが肌に感じられた。

 ノドカさんの足が着弾したのだろう。

 音はない。

 痛みもない。

 色が戻ってくる。

 真空のように澄んだ空間は濁っていた。埃が舞いあがったのだろう。

 しばらくなにも視えなかった。なにも聴こえなかった。なにも感じなかった。

「うっわー、ごめん」

 拍子抜けするほどのんきな声が届いた。

 ノドカさんは、私を跨ぐように悠然と立っていた。覗き込むように見下ろしてくる。

「もしかしてもしかすると、モンドちゃん?」

 無意識に安堵のため息が出た。

 情けないことに私は震えていた。

 身体は無傷のようだ。

 私が無様に転がっている床は炭素加工された硬質タイルだ。にも拘らずノドカさんの両足はそこに埋もれていた。

 陥没した床は、放射状にヒビを走らせている。まるで蜘蛛の巣がふたつ張っているみたいだった。

 

 ノドカさんは私の顔を確認すると途端に取り乱してしまった。私の額から、トロトロと血が垂れ流れていたせいだろう。

 ノドカさんの竜巻きのような蹴りは、その風圧だけで私の額を割っていた。

 ノドカさんは今にも泣きだしそうな顔をして、「ごめん、ごめんね、本当にごめんなさい」と幾度も謝罪を繰り返した。ノドカさんはYシャツを脱いで、血を拭い、止血してくれた。下着や素肌を隠す素振りもなく一心に私を気遣ってくれるノドカさんに私はなぜこの人を殺さなければならないのだろう、とくじけそうになった。ノドカさんの背には私が彼女を殺さなくてはならない根本的な要因――問題の傷が見えていた。

 その傷は、淡く、青く、発光して視えた。

 

 血だらけの私を大袈裟に介抱してくれたためにノドカさんまで私の血で汚れてしまった。

「あの、大丈夫です。私のほうこそ驚かそうとしてすみませんでした」

 言い繕うと私は、ノドカさんを私の新しい住居へと誘った。「ビックリさせようとして悪戯しようとした私がわるいんです、それに、服まで汚してしまって……お詫びもしたいですし、それにそのままの姿では帰せません。せめてウチで着替えていってください」

 ノドカさんは、下着にジャケットという、あられもない姿だった。私のせいだ。

「お詫びだなんていいよ。一方的にあたいがわるいんだ。本当にごめんよ」ノドカさんはその場に土下座しそうな勢いで謝りつづけるものの、それでもやはり、私の身体を気遣って寄り添い、労わってくれる。

 保身のための謝罪ではないのだと感じられた。

 大丈夫です、と何度断ってもノドカさんは、「いいから、いいから」と涙声で私のことを「おいしょ」と背負い、そのまま私の案内のもと、無印エリアの奥地へと運んだ。スーツの上着越しに、ノドカさんの香りと、体温と、拍動と、そして息づかいが伝わる。ノドカさんの背中は熱く、滾っていた。


 ノドカさんに背負われているあいだ。私は一言も喋らなかった。道案内のために、ときおり私が指差して「こっちです」と説明するくらいだ。私はノドカさんの背中で、彼女の優しさと穏やかさと強さを、ひしひしと、ぬくぬくと、ただただ穏やかな心持ちで感じていた。このまま眠ってしまいたいくらいに気持ち良かった。自然と、ノドカさんの肩にまわしていた手に力がこもった。

 身も心もこのまま凡てをノドカさんへ預けてしまいたい――とそう思えた。

 

「へえ、うちとは段違いだあ」

 ノドカさんは部屋を見渡し終えると、感嘆の声をあげた。「最近の設備すごいね」

「ノドカさんのステップが特別なんですよ」私はお客さん用のカップを棚から取り出して、珈琲メーカへセットする。「知ってますか、あのステップ、『ガラクタ』って呼ばれてるんですよ」

 きゃはは、とノドカさんは膝を抱えて笑った。彼女はソファに座っている。「ガラクタかぁ、言い得て妙だなこりゃ」

「コロセが言ってましたよ。どうして骨董とは呼ばれないんだろうって」

「そりゃあ、価値があるかないかの違いだよね」

 ということは、あのステップには価値がないとノドカさんも認めているということだろうか。

「ならどうしてノドカさんは、そんな価値のないステップに住んでるんです?」

 そもそもあの零一六号棟は、ステップとしてすら機能していない。ただデカイだけのビルディングだ。

「う~ん、そうだなぁ……」と沈思の間が空く。やがてノドカさんは、「価値がないことに価値があるからかな」と疑問形で答えた。

「難しいことを言いますね」

「わけの解らないこと言って、お茶にごしてるだけだけどね」天井を見上げて、いしし、と破顔する。「それにしても良かったー。モンドちゃん、もう血、止まったんだよね?」

「はい、お陰さまで。というよりも、傷自体も塞がりましたよ」ほら、とキッチンから額を覗かせてみせる。「これくらいの傷は、いまはもう、自宅の医療システムで、ぱぱっと完治できちゃうんですよ」と嘘を吐いた。「知らなかったんですか、ノドカさん」

 本当は絆創膏を貼っているだけだ。でも、この嘘はバレないだろうと、ある程度の確信を持っていた。ノドカさんは、アークティクス・サイドの絆創膏が人工皮膚型であることも知らないくらいにこっち方面の話題には疎いのだ。

「へえ、知らなかったなぁ。あたいさ、あんまし機械だとか設備だとかに感心ないからさ」思案顔でノドカさんは、「そっかあ、いまはそんな便利なシステムまでねー、ふうん、設置されてるのかぁ。自宅で治療できるのは、うん、いいな。うちにもつけてくんないかな」

「申請すれば多分、つけてくれますよ」

「よし。帰ったらさっそくコロセに相談してみよう」

 言ってから一転、口調をかたくしてノドカさんは、「コロセのことだけどさ」と切り出した。

 なぜかドギマギとした。早口で弁解する。

「ノドカさんには色々と気を遣わせてしまって、感謝しているんです。折角つくっていただいた機会もうまく活かせずに……すみませんでした」

「そんな、いいんだよ。あれはもう終わったことだし。あたいもなんか余計なことしちゃっただけなのかもしれないし」あたふたとノドカさんは両手を振った。「そうじゃなくってね、あたいが言いたいのはこれからからのこと。モンドちゃん、無印エリアからしばらく出られないんでしょ?」

「……はい。サイドエリアとの交信も――バイタル通信も制限されています。コロセと逢えないどころか、連絡すらとれません」

 そっか、とノドカさんの暗澹とした調子で落胆した。

 本気で同情してくれているみたいだった。

 それとも、本気でノドカさん自身が哀しいのかもしれない。

「でもさ」と表情を明るくしてノドカさんは顔をあげた。「だったらあたいがモンドちゃんとコロセを繋ぐメディアになるよ。手紙とかさ、ビデオレターみたいなさ、そういうのをお互いに準備してさ、んでもってあたいがあいだに立って、それを届けるよ」

 それぞれの言葉を届けるよ、と提案してくれた。

「……いい、考えですね」

 表情を見られないように私は背を向けた。しばらくそのままで、とっくに抽出し終わっている珈琲をかき混ぜていた。嬉しさと苦しさともどかしさと――自分が非力であることの恨めしさ。いまさら心が揺れたって、どうしようもない。ノドカさんの、このやさしさは、正直きつい。今の私には、厳しすぎる。

 私の淹れた珈琲の味はどうだっただろう。

 少し、苦すぎたかもしれない。

 

「モンドちゃんはさ、いつから?」ノドカさんは私が淹れたコーヒーを一口で半分ほど一気に飲む。カップをそっとテーブルへ置いて、「いつからコロセと付き合ってるの」と口にした。

 その質問に私は閉口する。「付き合ってるって言いますか……」

 言いつつノドカさんの対面のソファに座る。

「あっとごめん。言い方、ちびっとわるかったかな」えへへ、と彼女は髪の毛を梳かすように撫でた。まるで黒いシルクのような髪だ。「えっとね、あたいは、モンドちゃんとコロセが仲良くなったきっかけを聞きたかったんだ。あっと、もちろん言いたくなかったら言わないでもいいよ」

 無理に聞きたいわけでもないし、とノドカさんは唇の合間から白い歯をのぞかせた。

 私がゆずった着替えの服は、ノドカさんには少し大きかったようだ。あまった裾が、丈の短いワンピースみたくなってしまっている。

 膝を抱えてダルマさんのように丸まっているノドカさんは、身体を横にちいさく揺さぶっている。盗み見るようにして私はノドカさんを観察した。

 女性にしてはやや肩幅が広いように見えるが、やはり線はほそい。そう、身体の絞まっているノドカさんは、強靭さを漂わせておきながら、弱々しさも同時に兼ね備えている。どこか艶めかしい。大人の女性の持つ妖艶な雰囲気だ。思春期の私たちのような男子には刺激的だ。

 煩悩を振り払うようにして私は口火を切る。

「……あの、ノドカさん」

「うん?」

「相談なんですけど」

「なんだい改まっちゃって」

「コロセは私のこと、なにか言ってませんでしたか……?」

「うん?」

 どういうことだい、とノドカさんはやさしく相槌を打ってくれた。言ってごらん、と促すように。

「コロセは私のことを、その、ノドカさんにはなんと説明しているのかと……思いまして」

 なんだそんなことか、とノドカさんは、「親友かな」と朗らかに教えてくれた。「もちろんあの恥ずかしがりやなクウちゃんは、そんな単語を使ってはいなかったけど、でも、ニュアンス的には『ドキは俺の親友だから、悪戯とかしないでね』みたいなことをさ、あたいはしつこく忠告されていたのだよ」

 それは嬉しい情報ではあった。

 でも、私が聞きたいのはそれではなかった。

 決意の唾液を呑み込んで、私は尋ねる。

「ノドカさんは私の性別……どう思ってますか」

「性別?」

 怪訝そうにノドカさんは、「う~ん」と唇を結んで悩むと、しばらく緘黙した。やがて、気をわるくしないでね、と断わってから、「女の子?」と探るような口調で答えてくれた。

「ですよね」無理に笑みを浮かべながら、「男なんですよ。私は」と告げた。

「え、でもさ……」

 私の身体へ控えめに視線を巡らすようにしノドカさんは言った。「モンドちゃん、女の子でしょ?」

 そう、私の身体は――女性のそれである。

 けど、性別は――男なのだ。

 深刻な口調にならないように気を払いながら尋ねた。「ノドカさんは、『GRC』って知ってますか」

「じぃ、あーる、しぃ?」考えるようにしてノドカさんは、「ごめん知らないなぁ」と答えた。眉を顰めながらも頬を緩めている。申しわけなさを表現するのが上手なひとだ。

「『Gender Reverse Combination』の略称です」書類を読むように私は口にした。「一般的には『性反転症』と呼ばれています」

 ノドカさんの視線が揺れたのが判った。

 そうだよな、と私は逆に安心する。これが普通の反応だ。誰だって急にこんなことを打ち明けられたら戸惑うだろう。やはり、あいつが例外なのだ。

「身体の性と、心の性が一致しない状態――私は身体が女の子なのに、心は男なんです」

「そうだったんだ」ノドカさんはすぐに戸惑いを仕舞いこんだ。

 ともすれば、仕舞いこんだのではなく、本当はきれいさっぱりと霧散したのかもしれない。

 このひともあいつとおなじなのだろうか。

 私の心は淡くゆれる。

「で、なにかそのことでモンドちゃん、困ってるの? あたいにできることがあるなら、なんでも言ってよね。あたいたちはもう、友達なんだから」

 トモダチなんだから――と脳裡にこだまする。胸に染みる。

 苦しい。

 そう感じた。

 屈託のないノドカさんのその表情も口調も、本来なら気持ちあたたかく、うれしいはずなのに。

 私はこのとき――とても苦しかった。

「ノドカさんは、驚かないんですね」口にするようなことではないのに言ってしまう。「私のこと、気持ちわるがらないんですか」

「きもちわるがる?」そのときに初めてノドカさんは驚いたように目を見開いた。それからすぐに哀しそうな顔をする。「モンドちゃん、もしかして誰かに厭なこと言われてるの?」

 ああ、このひともあいつと同じなんだ。

 私はゆっくりと瞬きをする。

 やさしさでもなく、あわれみでもなく、人を心配することがただただ当たり前のことなのだと、それを疑うことすらない純粋なひと。

 私の障害を「障害」ではなく、「個性」でもなく、なんの努力もなく初めから「普通」として見做してくれるひと。

 駄目だった。私はこのとき。涙を抑えきれなかった。堪えたかったのに、抑えつけようとすればするほど感情が涙へと変質する。濡れ雑巾を必死につかんでいるような、つよく握れば握るほど身体に染み込んだ液体が滴り落ちる。

「だいじょうぶだよ」ノドカさんは言ってくれた。「泣かないで。あたいがやっつけてやるから。モンドちゃんを泣かすような奴は、たとえクウちゃんだってあたいが懲らしめてやるんだから」

 あたいはなにがあったって味方だよ――とノドカさんは誓ってくれた。

 そうじゃないんです。そうじゃないんです。私は何度もそう念じた。

 声に出したかったのに、声にならない。

 横隔膜の痙攣が治まるまで、ノドカさんじっと待ってくれていた。

 見詰めるでもなく。背けるでもなく。適度な眼差しをずっと注ぎつづけてくれていた。

「ごめんなさい」涙を拭いながら、「大丈夫なんです。誰にもイジメられてません。違うんです。相談したいことっていうのは」

 このことじゃないんです、と無理に口元を持ちあげてみせた。

「そっか」ノドカさんはただ頷いてくれた。微笑んだままで私のことを受け入れてくれた。「で、相談ごとってなにかな? オネイさんに打ち明けてごらんなさい」

「はい。あの、実は……その……好きなひとがいるんです」

「モンドちゃんに?」

「です……私にです」

「ほお」とノドカさんは感心するように呟く。続いて、ちょい待ち、と手を突きだした。「ちょっと待ってくれないかな。あたいにもさ、その……心の準備を」

 スーハー、と深呼吸しだす。

 はてな。なんの準備だろう。私は小首を傾げる。

 すこし考えてから、私は噴き出す。

「ちがいますよ、ノドカさんのことは好きですけど、でも、私が一番大切なひとっていうか――その、ちがうんです」

「え、モンドちゃん、これからあたいに愛の告白じゃないの?」

 久しぶりに心から笑った。警戒を解いて、軽快に笑った。

「それはそれでおもしろいですけど」

 言いながら私は涙を拭う。人は泣くことでも、笑うことでも、呼吸困難に陥るのだと私は学んだ。

 なんだぁ、とつまらなそうにノドカさんは両手を後頭部へ回した。「ちぇ。だってモンドちゃん、男の子なんでしょ? でさ、こんな真剣な雰囲気で、『好きなひとがいるんです』とか言われたら誰だって告白だと思っちゃうって」歯に衣着せぬ物言いで彼女は弁解した。

「すみません」

「ホントだよーまったく。あたいのトキメキ、返して欲しいくらいだ」脚をたかく組み直すとノドカさんはソファにふんぞり返った。「あたいじゃなかったら誰なの、モンドちゃんの好きなひとって。あたいよりも素的なコじゃなかったら許さないかんね」

 苦笑するよりない。

 それから唇を湿らせて私は、「好きなひとっていうのは……」と告白した。

「ていうのは?」

「……コロセなんです」

「そっかそっか、コロセかぁ」と陽気な声で言ってからノドカさんは、「なゃ?」と固まった。

 沈黙が漂う。

 こうなるだろうとは思っていた。だからこそ今の今まで誰にも相談できなかったのだ。

 室内に流れるメローなミュージックが、静寂とはなにか、を教えてくれる。

 ノドカさんが口をひらくまで私は待った。

 俯いたままで。

 自分の手のひらを見詰めた。

 やがて「あのさ」とノドカさんの声が届く。戸惑いが滲んだ声だった。「ごめんね。わるいんだけど、もういっかい確認してもいいかな」

「はい」

「モンドちゃんは、身体が女の子で、でも心が男の子。要するに言ってしまえばさ、モンドちゃんは男の子、ってことでいいんだよね?」

「……はい」

「で、その男の子であるモンドちゃんが好きなのは、うちのクウちゃん――ってことでいいのかな?」

「…………はい」

「えっとぉ、ごめんね。あたい頭がわるいのかな、うんとさ。えっと、あれ? ちびっとややこしくないか、これ」苦々しく言ってノドカさんは頭を掻く。「モンドちゃんは男の子だけど、好きなひとは女の子じゃなくて、男の子ってことで――つまりその、どういうこと?」

「ですよね。私も自分が解らないんです。さっきも言いましたけど、私は性反転症です。そのうえで、同性愛者の気があるってことになるんでしょうか……コロセが好きってことは、そうなるんですよね」

「まってまって。あれさ、もし気をわるくしたらごめんよ。でも言わせてもらうけど――これ、モンドちゃんが性反転症――だっけか? そのこと抜きにしたら、傍目からはひとりの女の子が男の子に恋してるってだけでしょ? 別になんの問題もないんじゃないかな。相手が誰だって関係ないよ」

 好きなら告っちゃえばいいじゃん――とノドカさんは不思議そうに言った。

 どうしてこんなことで悩んでいるのかが解らない、といったふうに私には映った。

「でも私は女の子じゃないんです」抑えたつもりでも口調が尖ってしまった。「それに、問題は、私が性反転症だってことをコロセが知っているってことなんです」

 咀嚼するようにノドカさんが、えっとぉ、と呟いているので言い直した。「私が男だってことをコロセは知っています」

「ああ」ノドカさんは納得の声をあげる。それから哀しそうに、「あのバカ、あたいには何も教えてくれなかった」と嘆いた。

「コロセにとっては、わざわざ言うことでもなかったのだと思います」

 相手が男か女なのか。コロセにとってはそんな差異、大した違いではないのだろう。男だからとか、女だからとか、そういった区別をコロセは重要視しない。きっと、ノドカさんの影響も大きかったのかもしれない。ノドカさんがそういった人だから、コロセもそういう人間になったのだろうか。それはよく解らない。それでもコロセは、私が男だということを、すんなりと受け入れてくれた。本当に呆気なく、私がこの性差にどれだけ悩んでいたかもまったく顧みずに、あのときのコロセは、「なんだそんなことか」と言いたげな様子だった。

 私はノドカさんに、コロセとの出会いを話して聞かせた。それは、最初にノドカさんから投げ掛けられた質問に対する答えでもある。コロセとの出会いを聞かせるには、私が性反転症だということを知ってもらわなければならなかった。

 

   ***

 私はこの通り、見た目が女の子です。

 なのに、好きになる子は大抵、むかしから女の子でした。

 今が特別なんです。

 コロセだけが例外なんです。

 私、本当は女の子、大好きですもん。エッチな映像だって、女の子のほうにしか反応しませんし。

 あの、ノドカさん……どうして離れるんですか。なんでしょう、その目は。

 別にノドカさんをどうこうしようとは思ってないので。というよりも思ったことがないので安心してください。

 あ、いえ、少しくらいは、いいな、とは思ったことありますから、その……むつけないでください。

 コロセが言っていたとおりですね。難しい人です、ノドカさんは。

 ああいえ、こっちの話です。

 

 むかしの私は、どこから見ても女の子でした。服装もいまと違って女の子のそれだったから。

 可愛らしい女の子の服装を身に付けていたんです。

 着たい服だって、むかしからスカートじゃなくてズボンのほうがよかったのに。なぜって、スカートで走り回ると、大人たちが注意するんですよ、「はしたない」と言って。だったらズボンのほうが良いのに。なのに女の子だからと言われてスカートだとか、フリルだとか、そういった妙に凝った装飾の可愛らしい服を渡される。

 ノドカさんは知らないかもしれませんけど、赤ん坊のときからここにいるんです。私ですよ。アークティクス・サイドで暮らしているんです。ここで生まれたかどうかは判りません。ここには親の墓もないですし、きっと私が産まれた場所はサイドの外なんだと、なんとなしにそう思っていますけど――親が誰かすら私は知らないんです。

 捨てられていたそうです。メモと一緒に。

 いまどき珍しいですよね、紙媒体のメモだったそうです。見せてもらったことはないんですけど……。

 ああそうだ。

 親がいない代わりに、私には吉田歌田というおじいちゃん教官がいます。

 あ、ノドカさんは知ってるんですよね、ヨシジイのこと。

 私の本名が「ナイフ・レンド」だと知っていたってことは、ノドカさん、ヨシジイから話を聞いたんですよね?

 ああやっぱり。そうでしたか。

 そうです。

 そのメモに書かれていたそうです、この子の名前は「ナイフ・レンド」だと。ヘンテコな名前ですよね。結局はサイドネイムを付けられちゃったわけですけど、でも、今のサイドネイムのほうがよっぽど名前らしくて気にいっています。

 

 そうですね、ヨシジイが私の面倒をみてくれています。

 親代わりです――というよりも、ヨシじいが私にとっての親なんです。

 説教癖がひどいんですけど、でも――そう、とても善い人で。

 それで、そのヨシジイは、いつも女の子の服を持ってくるんです。子どものころの私は、あまり服装なんて気にしなかったんですけど、それでも、もっと動きやすい服がいいな、くらいには思ってました。

 性反転症なのだと知ったのは、多分、コロセと出逢う一年くらい前だと思います。実際に、いつ判明したことかは覚えてないんですけど。 

 ここでは暦を確認するという習慣がありませんしね。

 

 定期的にパーソナリティ値の通達があるじゃないですか。それに記されていました。あれって健康診断だとか検診も兼ねているじゃないですか。

 そこにただ一言。

 ――性反転症。

 そう記されていたんです。

 子どもの私には何のことかさっぱりでした。そもそも、ほかのパーソナリティ値の記述やグラフだって、私たち子どもたちにとっては暗号のようなものです。ですから私たちは、ヨシジイやほかの教官へ訊きに行くんですけど――ノドカさんもそうしませんでした? ああそうでしたか――ノドカさんは努力家ですね。ひとりで調べ上げようだなんて、考えもしませんでした。

 解らない大抵の疑問は、バイタルで調べれば済むことですけど、自分についての情報に限ってはそうはいきませんから。私は不安な気持ちのままに、ヨシジイへ定期通達の中身をみせました。

 そこからはあっという間です。

 ヨシジイからは、「前々から変だと思っておったのだ」などとおどけた調子で言われてしまい、数時間の説明を受けました。まるで講義でしたけど、でも、自分のこととなると子どもでも必死に理解しようと努めるみたいで――私は真摯にヨシジイの説明に耳を傾けて、性反転症についての理解を深めました。

 最初こそ私は安心していたんです。私がずっとひとりで抱いていた違和感にちゃんとした理由があったんだって。みんなにも説明できるんだって。理解してもらえるんだって、安心したんです。

 でも、そうはなりませんでした。

 

 ノドカさんに訊きますけど――。

 ノドカさんは同性愛者と性反転症をもつ人との違いが判りますか?

 レズビアンやゲイとの違いをノドカさんは説明できますか?

 できないですよね。

 私だってきっと、性反転症でなかったら、知らなかったことだと思います。感心ないですし、どちらかと言えば、ホモセクシャルとかそういうのって、なんだか、いやらしい感じだというか、やっぱり異質な感じがするじゃないですか。そういった共通概念が未だに根強く社会には漂っているんですよね。

 一言で言ってしまえば、同性愛と性反転症との違いは、染色体に異常があるか否か――その有無だとされています。

 身体の設計図である遺伝子のなかの染色体。

 その中にある性別を決める染色体の組合せ――性反転症はそうした染色体の組合せと身体の構造が一致していないために引き起こる、先天的な疾患だと言われています。

 染色体が、

「XX」の組み合わせなら「女性」に、

「XY」の組み合わせだと「男性」になります。

 でも稀に、「XY」なのに「女性」の身体で生まれてきてしまう「男性」がいるのです。

 ええ、それが私なんですけど――でも、だからこそ性反転症は、「XY」の染色体をもつ男性にしか起きないんです。「XX」では、男性の身体を創りだすための「Y染色体」がないですからね。女性なのに身体が男、という現象は原理的に引き起きないんです。

 より精確には、「Y染色体」にある「SRY」と呼ばれるたんぱく質の有無が、肉体的性別を決定しているようで、「SRY」があれば男性へ、なければ女性へと肉体は構成されていくようなんです。私の場合、その「SRY」が「Y染色体」から「X染色体」へと転座してしまって、正常に機能しなかったらしいんです。

 ですから、そう、これは、一般的に呼ばれているような「性同一性障害」とは異なった疾患です。似てはいますが、別物なのだそうです。

 一方で、同性愛者についてですが。

 性反転症が先天的な疾患であるのに対して、

 同性愛は、後天的に養われていく、愛の形です。

 その愛のかたちが社会に認められるかどうかという問題があるだけなんです。同性愛は病気ではないですし、むしろとても人間らしい、普遍的な愛のかたちだとすら私は思っています。

 好きなひとを好きになる。

 愛するひとと愛し合う。

 そこに性別も種族も与されない。平等に誰にでも愛を与えることのできる、とても人間らしい一つの愛のカタチ。それが同性愛なのだと思います。

 ……などと考えているのは、きっと今の私が、同性愛者みたいなものだからかもですね。

 同性愛を否定しまっては、それこそ、私は好きなひとに恋することができなくなるんですから。

 いまこうして話している言葉すべて、結局は、自分勝手な自己弁護なんです。

 すみません、愚痴を溢したいわけじゃないんですけど。

 はい。

 ありがとうございます……。

 ノドカさんはやっぱりあいつのお姉さんですね。

 コロセとノドカさんは似てますよ。

 正直、羨ましいです。


 繰り返しますが、性反転症と同性愛。この二つは違います。

 ただ、一般的にはその差異を認識できる人は多くありません。

 というよりも、傍目から見れば、それこそ同じものに映るのだと思います。

 ですが、別にそのこと自体はとりたてて騒ぎ立てるような問題ではないのだと思います。問題なのは、同性愛を忌むべきものとして認識している私たちの認識にあるんです。

 いえ、もちろん、性反転症がもたらす懊悩と、同性愛者が抱く懊悩は同じではありませんし、どちらの懊悩がより深刻かなんて比べられるものではないとも思います。

 ただし、それはどちらにしても、その人が背負わなくてはならない懊悩です。他者がどうこうできるものではないと私は思っています。自分で決着をつけなくてはならないことなのだと、私はそう思うんです。障害を個性だと看做すならば、必然的にそうなるじゃないですか。

 ただ、それでも、その疾患や愛情について、社会が偏見をもっているならば、そしてその偏見によって苦しみに耐えている人たちがいるならば、それはその人自身でどうこうできる問題ではなくなるんです。自分でけりをつけられないんです。割り切れないんですよ。

 言ってみればそれは、

「裡にある問題」と「外にある問題」。

「背負いつづける問題」と「背負わされる問題」。

 そういった違いなのだと思います。

 どちらの問題も、根本的には自分ではどうしようもできないんです。どう処理するか、という割り切り方があるだけ。

 個性などの、裡から湧く問題は、それこそ自分が要因です。その問題そのものが自分と言っても過言ではありません。

 一方で、外から飛んでくる差別や謬見などの問題は、それこそ避け切れない「雨のように降り注ぐ矢」のようなものです。誰が射っているのかは分かりませんけど、でも、その誰かが射らなければ、解決する単純な問題なんです。

 社会に漂う偏見さえなくなれば、それで解決する問題なんです。

 自分ではどうしようもないという意味ではどちらも同じなんですけど、ただ、周りの人たちの認識ひとつで解決するという大きな差異がここにはあるんです。解決できないのだと判っているならまだ諦めもつきますが、解決できるのにそうならないというやり切れない思いが、この場合はいつまでも付き纏うんです。

 どうして、どうして、と。

 いえ、これも愚痴に過ぎませんね。

 すみません、こんなことが言いたいわけじゃないんです。

 前置きが長くなってしまって、すみません。


 私、独りでした。いえ、性反転症とは関係ありません。もとから孤立していたんです。こんな性格ですから、我を通してしまうんですよね。「やんちゃ」と言えばいくぶんか可愛げよく聞こえるかもしれませんけど、そうじゃないんです。やんちゃな子どもはほかにも沢山いました。それこそ、「餓鬼大将」だなんて呼ばれるような、子どもたちから一目置かれる存在は、私のほかにきちんといたんです。

 私は、その餓鬼大将グル―プにも入らずに、杓子定規のような独善を掲げて、勧善懲悪のように「善いやつ」と「悪いやつ」に分けてみんなと接していました。

 悪いやつには徹底的に厳しく当たったりしていて――こう見えて私、けっこう腕っ節はつよかったんです。ヨシジイに色々な武道を叩きこまれていましたから。

 それで、私が善いやつだと思った相手には、とても親切に接していたんですよね。その善いやつらが、ただ私を怖がってへつらっていただけなのだとも知らずに。

 結局、

 私にとっての善悪なんてものは、私にとって都合が善いか悪いか、その程度の、質の低い、二元論だったんです。

 それもこれも、急に波紋が読めるようになって判ったことでした。どうしてかは未だに分からないんですけど、そのころから、急激にパーソナリティ値が高まっていったんです。パーソナリティの持続時間や適応範囲、ほかにも威力だとか波紋の「講読」や「糊塗」――特別な努力なしに急に。ええ、向上したんです。それも、暴走の予兆もなく、順調に遣い熟せるようになりました。

 なぜかは分かりませんけど、でも、そうですね……いま思えば、きっかけはありました。

 母の形見だと渡されて持っていた数珠があったんですね。きっとそれも私と一緒に捨てられていたのだと思います。ブレスレッドみたいに腕に付けていたんですけど、それを毀してしまったんです。もう随分とむかしのことなので、あまり覚えていないんですけど――毀したというよりも、自然に千切れてしまった、といった感じだったのだと思います。あのころは毎日を粗暴に過ごしていましたから。数珠も疲弊していたんでしょうね。母の形見なのに。まったく私は本当にどうしてこうも大切なものを毀してしまうのか。ほんと、呆れてしまいます。


 その形見の数珠ですが――それを身に着けなくなってから、私のパーソナリティ値は上昇したように思います。

 いえ、ただの数珠ですよ。その数珠が毀れたこととパーソナリティが向上したことには、直接的な関係はないと思います。ただ、そのころからだったなぁ、と時系列の指標にしているだけなので。

 自分の成長具合なんて中々自覚できるものではないですよね。ですからその当時も私、波紋がいつもよりも多く伝わってくるな、という程度にしか感じていませんでした。まさかあれほどパーソナリティ値が上昇していたなんてまったく思い至らなかったんです。

 私のパーソナリティが急激に上昇したことも、定期的な通達に記されていたから判ったことでした。

 その通達もヨシジイには見せましたよ。驚いていたようですが、ヨシジイは素直に褒めてくれました。そのときの私は、もうすでに充分、「応用クラス」へ昇級しても良いくらいのパーソナリティ値だったらしいのですが、ヨシジイはまだ自分で私のことを教育したかったみたいで、私はそのまま「素養クラス」に残ったんです。コロセと同じクラスのままです。

 

 波紋をことさら深く読めるようになった私は、そのころ、誰とも話したくありませんでした。どいつもこいつも本音と建前が見事にぐちゃぐちゃに歪んでいて――近寄るだけで気分がわるくなりました。斟酌せずに言えば、吐き気がしました。人間って醜いな、って。

 

 コロセのことは以前から知っていました。変なやつだな、くらいには思っていましたけど、話したこともあまりなくて。

 その当時はまだ友好的じゃなかったんです。コロセに対して私も。

 そうですね、きっと、ほかのみんなと同じように私も、コロセのことを疎んでいたのだと思います。

 ノドカさんも解っているとは思いますけど、コロセの波紋って、駄々漏れ過ぎるんです。ただでさえパーソナリティ値の低い「素養クラス」の子たちですら読めてしまえるくらいに駄々漏れなんです。しかもコロセは、そのことに気付いていない。いえ、ある程度は気付いていたみたいですけど、それでもあいつ、全然気にしてないんですよ。ただ単純に傷ついていた。それだけが私たちに波紋として伝わってくるんです。近寄れないですよ。触れたら毀してしまいそうなワレモノみたいなんですもん。

 一方ではやっぱり、コロセが何を考えていて、どんなことで落ち込んでいるのか――そこまで詳細には当時の私たちでは分かりませんでした。ただ、コロセの暗澹とした感情は、如実に伝わってくるんです。誰だって、そんなネガティブな人間とお近づきにはなりたくなんてないですよ。ああでも……ちょっかい出すやつらはいたんですど。

 

 ある日、私は気付いたんです。

 以前よりも格段に波紋を読めるようになった私には分かりました。

 コロセはただひどく純粋なだけだったのだと――私には解ったんです。あいつのクライ波紋の要因が、あいつにはないってことに、私は気が付けました。

 コロセは本当に素直なやつです。

 いえ、実直なんですね、きっと。

 あいつ、誰かに冷たく接せられると、連動して、態度や波紋まで悲哀に染まるんです。他方で、やさしく楽しげに接すると、一転して態度も波紋も陽気に様変わりする――そこに虚栄がないんですよ。うれしかったら嬉しがるし、かなしかったら哀しむ。何よりあいつは、どんなに冷たく接せられても、誰のことも責めないんです。怒らないし恨まない。

 そのうえ、自分がわるいのではないか、と反省までする始末で。

 あんなの見ていられないですよ。

 見ていられなかったのに、私はずっと見ていたんです。

 声も掛けずに、ただ遠くから、じっと観察していました。

 そんなときです。いつも独りだった私に、コロセが話しかけてきたのは。

「うでのあれ、もう付けないの?」

 コロセはそう訊いてきました。

 私が大切に――とは言っても結局は毀してしまったんですけど――手首に嵌めていた数珠を、それをしてこなくなったことをコロセは心配してくれたんです。どうして一度も話したことのない私のような相手を気にかけるのか。それ以上に、どうして数珠のことを知っているのか。

 私、咄嗟に思いました。

「ああこいつ、私を女だと思って惚れてるな。間抜けなやつめ」

 そんなふうに心のなかで嘲笑しました。

 でも違ったんです。からかい半分にコロセと会話して分かりました。というよりも、大体は、コロセの間近で波紋を深く読めたから解ったことなんですけど――あいつって誰よりもみんなのことを観察していたんですよね。ううん、違いますね。きっとコロセは、誰よりも他人のことを気にかけていたんです。みんなが幸せになりますように。仲良くできますように。そんなふうにいつもいつも祈るように、自分に言い聞かせて、ずっとつよく思いつづけていたんです。

 正直こわかったです。

 こいつ気味がわるいって、そう思っちゃいました。

 ほかのやつらを快く思わなかった私でも、コロセよりも、周囲のやつらのほうが健全に思えたんですから。それって要するに、私がほかのやつらと同じだからなんですよね。結局、私が人と関わらないようにしていたのは同属嫌悪だったんです。相手に見え隠れする自分の醜いところ。それを視たくなかった――だからきっとむしろ自己嫌悪にちかかったのかもしれないですね。相手を嫌いになりたくなかった。それ以上に、自分を嫌いになりたくなかった。

 ――自分を理由に、相手を嫌いになりたくなかった。

 ただそれだけだったんです。

 自分可愛さのために私は、ほかの人間と関わらないようにしていた。

 それに比べてコロセは、まったくの逆でした。

 孤立していたのは私と同じなのに、あいつは、みんなを拒んでいない。

 いつだって遠くから見守るように受け入れていたんです。許容していたんですよ。

 いかれてる――そう思いました。

 そう思っていたのに私はあいつの側から離れられませんでした。居心地がいんですよね。コロセは誰も拒まない。誰も傷つけないし、誰も区別しない。ああいえ、区別はしていますね。ノドカさんだけは、いまもむかしも、あいつにとっては特別みたいですから。それでもあいつは、誰のことも卑下しません。侮蔑を知らないんですよ。誰かが圧倒的にわるくても、あいつは自分を責めるんです。どうして僕は救ってあげられないんだろうって。自分の非力さを責める。いつだってあいつは傷つきながら、強くなろうとしていたんです。

 

 いつからでしょうかね。そうですね、きっとそれほど時間は必要なかったと思います。私はあいつを慕うようになっていました。私にはあいつが必要だったんです。

 私の凡てを受け入れてくれる、もうひとりの私が、私は欲しかった。

 ヨシジイでは駄目なんです。私が欲しかったのは、保護してくれる人ではないから。

 私と同じ土台で、同じ世界で、同じ視線で、同等に平等な存在として分かち合える相手――受け入れてくれる相手――認めてくれる相手――私はそれが欲しかった。

 私にとってはそれがコロセだったんです。

 わかってます。

 すごく自分勝手で、ひどくやましい考えなのだと、解っていますし、当時もきちんと自覚していました。

 そんな卑しい私ごと、コロセは受け入れてくれるんですから。弱い人間の私なんかが、そんな甘い誘惑に抗えるわけがないんです。コロセに甘えましたよ。とことん甘えました。私がコロセと仲良くすればするほど、コロセが多く傷つくと知っていながら。私の分の傷もいっしょにコロセが背負ってしまうと知っていながら。いえ、背負ってくれると知っていたからこそ私はコロセの側から離れられなかった。

 酷い人間です、私。

 醜い人間です、私。

 それでも、甘えながらも私は――コロセを利用していながら――寄生していながらも私は――コロセに惹かれていったんです。

 あいつのその純粋さに。

 その強さに。

 

 私はコロセへ隠しごとなんてしたくなかった。だって、私の凡てを受け入れて欲しいんですから。私が求めていたのは、そういったゴミ箱のように便利な、そんな私の分身なんですから。


「――それを性反転症って言うんだ。つまり、私は男なんだよ」

 説明し終わると、コロセは感心したように言ったんです。

「ふうん。なんだかすごく、めずらしいね」

 こうも言っていました。

「努樹は特別なんだ、いいなあ」

 背筋が痺れた気がしました。悪寒なのか、感激なのか、嫌悪なのか――なんなんでしょうね、普通ならぶっ飛ばしたいほど、他人なんかに言われたくない台詞なのに、コロセに言われるのは、本当に嬉しかったんですから。

 ――そのときにはもう、コロセに惚れていたのかもしれませんね。

 ――毀れていたのかもしれません。

 性反転症のことを告げてもコロセの態度は何ひとつとして変わりませんでした。もとからコロセは、私のことを女の子として見ていなかったんですよきっと。ひとりの人間として接してくれていたんです。もちろん、性の区別はつけるべきだと思いますし、分相応の配慮も、性別によって違って然るべきだと思います。でも、コロセは、女性にすべきことではないことは男性にもしないし、そうやって最大公約数的な接し方を誰に対してもしていたんです。

 ええ、ノドカさんの言われるように、もしかしたら、区別するのが面倒だっただけなのかもしれません。それでも私は救われました。どれだけコロセの存在が私を安定させていたか。そして、どれだけ心地よく不安定にさせてくれていたか。


 そんなときですよ。

 アレが起こったのは。

 

 ノドカさんも知っていますよね、以前、アークティクス・サイド内で数百名以上の犠牲者が出た「保持者の暴走」――あの場に私とコロセがいたこと、知ってますよね。

 そのときの暴走者は判明しませんでした。

 それはそうですよ。数百名の犠牲者のほとんどが、生体反応はあるのに、波紋をぐちゃぐちゃにされていたんですから。

 生きた屍となった者たちが大勢いたんです。

 登録されている波紋認証では、暴走者を割り出すことができませんでした。

 でも、私……本当はだれが暴走したのか、

 ――知ってるんです。

   ***

 

「もういいよ」

 ノドカさんは、凛、とした口調で制止した。

 私の言葉は静止した。

 いつもの、おどけたノドカさんではなかった。

 雰囲気が違っている。纏っている空気が、違っている。

「つらかったよね。いままで誰に言えずに、ずっと守ってくれていたんだね」

 ――ありがとう。

 深々と頭をさげた。ノドカさんの長髪は滝のように床へ垂れている。ゆっくりと面をあげて私をまっ直ぐと射ぬくようにしながら包みこむように見据えている。私は見詰め返す。ノドカさんの澄んだ瞳を。

「もう大丈夫。あたいは何も聞かなかったけど、モンドちゃんの想いは、ちゃんとここに――あたいのココとココに響いたよ」

 こめかみを指で、続けて胸を拳で、二回ずつ小突いたノドカさんは、

「だからだいじょうぶだよ」

 だいじょうぶだから、と繰り返す。

 どうしてだろう。

 ひとの瞳を、両方同時に見詰めることができないのは。

 私はじっと。

 しんしんと。

 ノドカさんの左目だけを。

 吸い込まれるように。

 覗いていた。

 光の揺れる瞳の奥を。

 眺めていた。

 伝うシズクと。

 伝わるリズムと。

 なんて、いい人。

 私のために泣いてくれて。

 彼女の涙で、私の視界も滲んでいる。霞んでいる。

 歪んで視えている世界は。

 嬉しくてもひとは泣けるのだと。

 この日まで知らなかった私は。

 温かい涙を教えてくれた彼女を――私は。

 どうしてだろう。

 はやく殺さなくちゃ。

 殺さなくちゃならないのだろう。

「コロセはあたいが守るから」

 誰よりもちからづよく、ノドカさんは、そう口にした。

 私よりもつよく。

 私よりもあつく。

 私よりもちかく。

 あいつのちかくへと手を伸ばせるひとなのだと。

 私はそう思った。

 あごが軋むほどどぎつく噛み締める。歯を。私は。

 ぎりぎりと無意識に歯を。食い縛った――私は。

「ありがとうございます」

 ようやく絞り出した言葉は自分でも驚くほど冷めきった声だった。

   ***

 まだ時間ありますか、という私の問いにノドカさんは、「明日の午後までは余裕あるよ」と応えた。

 午後からは任務があるに違いない。寝る間を惜しまずに私に付き合ってくれるつもりなのだろう。「時間がある」ではなく「余裕がある」という彼女の言い方にますます好感を抱く。とても気遣ってくれているのだと察する。

「どーなっつ……ドーナッツのつくり方を、教えてください」私は控えめにお願いした。「できればでいいんですけど、今からご教授ねがえますか?」

「ドーナツ? ああ、クウちゃんの好物だから? うんいいよ」

 まかしとけい、とノドカさんは足を振りあげてソファから跳び下りた。さっそく髪の毛を団子に束ねながら、「材料はあるかな」と微笑むようにする。

 いい人。

「料理とかしたことないので、その、すみません……材料も何もないんです」

 それがここでは普通なのに、なぜか恥ずかしく思った。

「すぐに取り寄せます。なにがあればいいですか?」

「う~ん。というかね、なにが足りないんだろう?」ノドカさんはキッチンに入って見渡した。「材料だけじゃなくって、調理器具とかも――うん、そうだね、入り用かも」

 すぐさまノドカさんは必要な材料および調理器具をリストアップした。

 調理器具はバイタル注文で取り寄せることにした。材料はこの部屋に備え付けられている自動フード調理機から、原材料のみを指定し、完成された料理ではなく材料として調達した。

 

 バイタル注文した品物は、中央棟の「在庫フロア」にさえあれば、専用の「送受信チューブ」を用いて数秒で転送してくれる。荷物を装填かつ品物を受信する、チューブ専用の部屋が私のこの住居には備わっている。(というよりも、ノドカさんところの『ガラクタ』が異例なだけで、どこの住居にもこういった設備が付加されているのが常である)

 私が知る限り、これまで一度だって、バイタル注文を利用した際に、在庫が切れていた品などあった例がない。そう教えると、ノドカさんはとても瞳目した。

 噂では、ゾウやキリンやワニの肉まで届くそうだ。むしろ生きたまま届くとかなんとか。悪戯にそんなものを取寄せようなんて輩は滅多にいないので、真偽のほどは判らないし、解らないままでよいくらいだ。いつだって、解らないほうが楽しい。そこには想像する余裕があるのだから。


 数分で、「ドーナッツづくり」の準備は整った。

 ついでに取寄せたエプロンを身に着けようとしたが、私はずいぶんとてこずった。どうして背中に結び目がくるようなデザインなのだろう。明らかに設計ミスだ。道化のような私の背後へノドカさんは黙って回ってくると、優しくエプロンの紐を結んでくれた。

「さてモンドちゃん」と私の背中を、ちょん、とはたいて彼女は、「まずは誤謬を正しておこうか」と言った。

「ごびゅう、ですか?」

「そう、誤謬」ノドカさんは立ち上がって、「何事も最初は、正しい知識からはいりましょうね」と教官のような口調で続けた。「ではいいですかモンドちゃん。今からあたいらが作ろうとしている料理――さてそれはなんでしょーか?」と私のホッペを、むぎゅ、と優しくつねるようにした。

 こちょばゆい。

 彼女の手を振り払うことなく私は答えた。

「どーふぁっふ、でふ」

「そう、モンドちゃんはドーナッツと言っていますが、それは間違いです。正しくは、『ドーナツ』です。ちいちゃい『つ』はいりません」

 ついつい笑ってしまう。

 ほとほと、どうでもいい。

 敢えて私は「ドーナッツ」で貫いた。


 それから数時間、私はノドカさんの指導のもと、ドーナッツづくりに勤しんだ。

 率直な感想としては、調理ってどうしてあんなに難しいのだろう、という賛嘆にちかい。

 まるで実験のようだった。「科学は台所から生まれた」という逸話もあながち間違ってはいないだろうな、ふむふむ、と感心してしまったくらいだ。

 実験となると、冒険してみたくなるのがむかしからの私のわるい癖だった。応用というのは、基本を身に着けてから実地すべき探究である、と頭では解ってはいるものの、それでもふつふつと湧きたつ好奇心を抑えきれない。結果、いつも予期せぬ事態を引き起こして、気息奄々となりながら収拾を付けざるを得なくなる。ここで私の失敗の例をいくつかあげるのは、さほど難しいことではないのだが、わざわざ自分の汚名をつらつらと自虐的にまたは自慢気に話すのも気が引ける。

 結論から言えば私は、ドーナッツの生地へ、重曹と共に「リトル・ウィング」の粉末を混入させた。

 リトル・ウィング――別称「天使の鱗毛」

 原子や分子が電子を失い、陰イオン化するように、「リトル・ウィング」は物質と反応し、メノフェノンを一時的に減少させることで、物質の性質を変化させる触媒である。

 通常、一般的に出回っている「リトル・ウィング」は原液ではなく、塩化ナトリウムの結晶一,六トンに対して〇,三ミリグラムの割合で配合されている純度の低い粉末だ。それを食品へまぶすと、味が七変化することから、「レインボー・スパイス」とも呼ばれている。私はそれをドーナッツの生地へと混ぜたのだ。まさかその生地を油で揚げるなんて、想像だにしなかった……知っていればいくら好奇心の権化である私だって、ほかのもので代替していた。

「リトル・ウィング」は加熱してはならない。

 実際には、二七四℃以上にならなければ、大丈夫である。しかしそれ以上の加熱は、メノフェノンが不足して不安定になっている物質の場合、急激に変質し出してしまうのだ。加熱とは、エネルギィを一方的に、無理矢に、注ぎ込むことに等しい。


 ところで――。

 《世界》を構成している「ちから」の九割を占めていると言われている成分――それが「メノフェノン」である。

 Wバブル理論では、物質は「ちから」の均衡によって形を得ているとされている。ひと昔前までは「ゲージ理論」と呼ばれる素粒子論が一般的だったらしく、その「ちから」はゲージ粒子というものによって触媒されていると考えられていたようだ。現在では、それに代わり、『Wバブル理論』が基本的な法則とされている。

 粒子と波の双方の性質を兼ね備えた、いまだ多くのなぞに包まれている「光」。その光もまた、メノフェノンを媒体として波動する、と現状ではそう規定されている。

 物質と現象の双方を構成している「ちから」――その「ちから」の源である、特定の質量も性質も持たない触媒――それこそがメノフェノンであるという。過去には「ダークマター」や「ダークエネルギー」などと呼ばれていたらしい。

 《世界》を構成している成分。

 そのメノフェノンが不足した物質は、存在としての「形」と「性質」を保てない。不安定になる。そこへ加熱によってエネルギィが無理矢理に注がれた場合――物資は安定を求めて激動してしまう。

 周囲の物質(たとえば空気中に漂う幾多の分子など)から、不足した分のメノフェノンを過剰に奪おうとして、自らの「ちから」を激しく振幅させる。さもアメーバが獲物を得ようと蠕動するかのごとく。そうしてメノフェノンを奪われた周囲の物質は、今度は同じようにして周囲からメノフェノンを奪おうと躍動する。

 このようにして「リトル・ウィング」と反応した物質は、加熱されることによって、ドミノを倒すように、周囲へとその不安定な「ちから」の崩壊を連鎖的に引き起こす。それも、瞬間的に。

 それは一般的に、爆発、と呼ばれる現象として観測される。

 中性子の照射による原子核内における「エネルギィのゆらぎ」としての爆発、それが「原子核分裂」であるならば――『メノフェノンのゆらぎ』による爆発が、『ティクス・ブレイク』となるだろう。

 

 ――ティクス・ブレイク。

 あらゆる「ちから」の均衡を崩し、

 無秩序と混沌を生みだし、

「無」を創造する現象。

 

 どんな強大な「ちから」であれ、均衡あっての「形」であり「性質」であり、すなわち『能力』である。

「ティクス・ブレイク」は、正と負を、陰と陽を、マイナスとプラスを、全てを一つへと練り直し、「無」へと帰す。その「無」から新たになにが生じるのかは、誰にも予想できない。私たちは「無」を認識することすらできないのだから。気付いたら大変な事態になっている――あとからその事態を観測するだけ。そのときはすでに手遅れになっているのだろう。私たちはいつだって、この身に訪れる現象を、ただ甘受するしかない。

 いったん「無」が訪れたその【世界】は、どんな生物に対しても平等に均等に――不規則かつ理不尽に干渉する。無生物ですら例外ではない。それゆえに、この《世界》そのものに対して一方的な干渉を強いる――そう言っても過言ではないだろう。

 〈レクス〉に対しても、『プレクス』に対しても、《アークティクス》に対しても例外ではない現象。

「無」は例外なく、どの【世界】にも干渉する。

 どの【世界】で生じてしまったとしても――。

 原子爆弾が放射能によってあらゆる細胞を傷つけるように、ティクス・ブレイクは「無」によってあらゆる《存在》を歪める。光やメノフェノンも含めた全ての《存在》をだ。

 だからこそ、ティクス・ブレイクはどんなことがあっても引き起こすわけにはいかない。

 リトル・ウィングによって生じる「小規模のティクス・ブレイク」は、小型のブラックホールのようなものだ。《存在》を歪めるまでの作用はない。その代わり、「空間」を歪める。

 一方で、虚空のような特殊な環境においては、「大規模なティクス・ブレイク」が自然発生することが稀にある。それを食い止めるために、アークティクス・ラバーは必要不可欠な存在だ。

 『R2L』機関という組織がいつごろから活動しているのかは定かではないが、人類史がこれまで途絶えずに発展してこられたのは、アークティクス・ラバーの活躍があってこそだ。大言壮語ではなく、真面目な話。


 過去、幾度となく周期的に絶滅と進化を遂げてきた生物たち。

 それらの分岐に発生していたのが、虚空が引き起こした大規模な「ティクス・ブレイク」である、とすら言われている。

 ある生物は絶滅し、ある生物はさらなる進化を遂げた。それもまた、平等に均等に――不規則かつ理不尽に干渉した結果だ。もちろん、ティクス・ブレイクの発生元であるその虚空は、この《世界》から完全に消失しただろうことは想像に難くない。なぜなら、そこは一度「無」に帰したのだから。

 もしつぎにティクス・ブレイクが発生してしまったら、人類は滅びるのか、それとも黎明期として語り継がれる偉大な生物史となるのか――その決定権など、私たち人類には一切ない。選ぶことはできないのだ。微塵も関与できずに、ただ茫然と在るが儘、なるようになった世界を甘受するしかない。

 一か八かに期待して望み臨む発展など、自暴自棄としか言いようがない。

 虚空を核とした人類史上未曾有のスペクトル。断固としてそのような「ティクス・ブレイク」は阻止しなければならない。


 いっとき、組織内では、《彼女》を抹消する計画において、「ティクス・ブレイク」を利用しようという案があがったらしい。

 私が調べたところによると――『エア・レコード』に記載されていたデータによれば、その『リザ・セパレン=シュガー抹殺計画』の梗概というのは――高濃度のメノフェノン混濁を生じさせた虚空内に《彼女》を取り込み、その虚空を《彼女》ごと縫合して、『アークティクス』付近において「ティクス・ブレイク」を引き起こす――というものであった。いかに《彼女》といえども、「無」には抗えない。

 あらゆる《存在》を紐解き、練り直し、統合して、「無」に帰す――。

 そこに例外はない。この計画は、《彼女》を抹殺するに充分な「手段」を含んでいた。

 ただし、「手段」があるからと言って、必ずしも実行に移せるわけではない。むしろ、大抵のことは手段を用いるまでのあいだに生じる様々な弊害によってその有効性を失う。

 結局この計画は、廃案となった。

 理由は、簡素に述べれば、能力不足だ。

 もう少し突っ込んで言えば――虚空の規模を制御しつつ、「メノフェノン混濁」をも調整する高度な技術を組織は持ち合わせていないから。言うなればこの案件は、台風の規模を小さくしつつも、勢力のみを高めようとする荒唐無稽なものである。または、ある街の一角のみにマグニチュード九,〇の地震を引き起こすようなものだ。天変地異を手中に収めるような、そんな突出した、それこそ神がかり的な「技術」と「ちから」――すなわち『能力』がなくてはならない。誰がそんな突拍子もない『能力』を持ちえているというのか。弥寺さんですら、「侃々諤々とは言ったがな、誰がてめえらの夢をブリーフィングしろと言ったよ」と呆れたくらいに砂上の楼閣な計画だったという。(ウブカタさんから聞いた話だから、どれほど潤色されているかは分からない)

 

 閑話休題。

 

 そうこうしている内に、「リトル・ウィング」の粉末入り生地をノドカさんが捏ねて、丸めて、油のなかへと放りこんでしまった。私はといえばそのとき情けないことに、それまでの工程をノロイちゃん(私が愛用している機器)へ入力中であった。波紋を通じて記録していたのだ。

「――ッぶない!」

 みじかくノドカさんが叫んだ。

 振り向く前に私はノドカさんに突き飛ばされていた。

 つんざくような耳鳴りが全身を駆け巡る。

 音ではなかった。

 音ではないのだと判った。

 空気が揺れているのではない。

 伝播しているのは振動ではなく。

 伝播してきたのは空間の歪みであった。

 その空間にはもちろん私やノドカさんが含まれている。

 ただし、空間が歪んでいることはどれだけ目を凝らしても知覚できない。認識できない。

 耳鳴り以外の情報では微塵も――。

 刺々しく、重々しく、荒々しく、痛々しい、その耳鳴りの正体は、、『沈下』させていた「私の波紋」が、断層に挟まれたかのようにして引き千切れようとしていたその「存在の軋み」であった。

 言うなればこのときの私は――風船に描かれたピクチャ人間。

 どこまでも風船を膨らまそうとも、逆に萎ませようとも、風船に描かれている以上、そのピクチャ人間は自らの歪みには気付けない。風船の外から客観的に視ているからこそ私たちは風船の歪みを認識できるのであって、風船上のピクチャ人間にはその歪みを感知することは叶わない。

 たとえばそれは、自分が歩くスピードに合わせて風景もまた同じ方向へと移ろった場合に、進んでいるのかどうかが判らないのと同じような感覚だろう。

 一方で、仮にピクチャ人間の「顔」だけが風船から飛び出していた場合――風船の伸縮にその「顔」は連動しない。風船が拡張したことでピクチャ人間が膨らんでも、外の「顔」の大きさだけは変化しない。その差異があって初めて、ピクチャ人間は、自分の身体が存在しているその空間が、膨らんでいるのだと知れる。それは自分が身を置いている世界を俯瞰的に視ることが叶ったからこそ判ることでもある。二次元を三次元から見下ろしているのだから、一目瞭然だろう。

 また、風船から飛び出しているのが「顔」ではなく、「腕」だった場合。風船上に顔があるので、ピクチャ人間は、風船の世界から、「外の腕」を視ることになる。彼はこのとき、俯瞰的に自分の世界を視ることはできない。この状態で風船が膨らめば、ピクチャ人間からは、「外にある腕」のほうが小さくなって視えることだろう。逆に風船が萎めば、彼からしてみれば、「腕」が大きくなって視えるのだ。大きさとは常に相対的なものなのだ。

 そうしてピクチャ人間にとっては、風船が拡張したことによって「世界から逸脱している腕」が歪んで視えている。しかしそれはそう視えているだけではなく、実際に歪んでいるのだ――相対的に。

 一方が歪んでいれば、また一方も歪んでいる。

 言ってみれば、水に腕を突っ込んで、水に浸かっている部位だけがいきなり萎んだり巨大化したりするようなもので、水面はそのまま境界と言えるだろう。水面を境に、いきなり腕が萎むとすれば、たちどころに腕は千切れてしまうだろう。それこそ、掘削機に腕を突っ込んだようなものである。 

 そのことと同じくして、私の波紋は、『プレクス』から離脱させていたために、目のまえにひろがる『プレクス』と《アークティクス》との「限りなく鋭利な狭間」によって分断されそうになっていた。


 存在の軋み――。


 痛みはない。

 嫌悪の塊のような耳障りな耳鳴りだけが、私へじんじんと伝わっていた。

 でも、それで充分だった。それだけで。

 ――毀れてしまう。

 このままでは毀れてしまうのだと。

 そう知れた。

 私は咄嗟に「沈下」を解いて、波紋を引きもどす。

 反射的な所作だったのだと思う。

 熱いものに触れて脊髄反射によって手を引っ込めるような所作。

 考えて行ったわけではない。本能によって、そうしてしまったのだ。

 いまさら毀れることに何の躊躇いがあるというのか。

 私の意思とは無関係に、私は本能によって生かされてしまった。

 耳鳴りは止んだ。

 この空間へ完全に内包されている私にはもう、空間の歪みは感知できない。

 目のまえには、

 倒れたノドカさんと、

 天井へ吸い込まれるように昇っていく、

 竜巻きのごとくむらさき色に揺らめく炎の、

 幻想的な構図が、そこにはあった。

 息を呑んだ。

 ごくり、と音が耳の奥でなる。

 はっとして、意識が鮮明になる。

「の……のどかさん」

 よたよたと這い寄る。

 ゆさぶった彼女の身体は、とても重かった。

「……起きてください」

 起きてくださいよ、とだみ声で幾度も揺さぶる。

 無造作に揺さぶっていたために、ノドカさんのお腹に私の手がめり込んだ。

 ぷすぅ、とガスの抜けるような音がした。

 続いてにおう、淡い硫黄のかおり。

「あうち……」ノドカさんは目を覚ました。よこになったままで額に手をやり、「モンドちゃんごめんよぉ」と顔を隠すようにした。

 そうして恥じらうようにノドカさんは告白した。

「……あたい今、プウしちゃった」

 かわいい告白だった。

 キッチンから立ち昇っている異色の炎をちらりと見遣ると彼女はさらに続けて、ぼそりと呟いた。

 ――引火しちったら、ごめんよ。

 う、と込み上げた笑いをぐっとこらえる。喉まで出かかったが、そのまま呑みこんだ。ここで笑ったらなんだか悔しい気がした。何がというわけではないが、強いて言うなら泣きじゃくってまで心配した自分がアホらしい。

 鼻水をすすりながら涙をぬぐって私は、「引火したら、ゆるしません」とノドカさんを上目に睨んだ。

 肌に伸びたこの涙がどんな涙なのか、私にはもう判らなかった。

 

   ***

 ドーナッツ作りは失敗に終わった。失敗どころか自分が食材になってしまいそうな勢いの大失敗だった。失敗の対価は高くついた。後始末がほとほと大変であった。手作業での掃除というものを私は初めて体験した。手で擦らなくてはならないほどの汚れなど、ついぞお目にかかったことがない。

 壁や床へ飛び散ったススは頑固にこびり付いている。これらの汚れはまるで、壁や床の材質そのものをススにしてしまったようなありさまだ。クレンザーをただ用いただけでは落とせない。それこそ剥ぎ取るように擦らなくては落ちなかった。

 掃除って大変だ。

 部屋が綺麗になるのと比例して、私とノドカさんの身体が汚れていった。服なんてもうまっ黒だ。そのまま黒衣として人形劇でもはじめられそうな態だった。

 掃除が完了したのはそれから数時間後のことだ。時刻はすでに明け方だった。


 ノドカさんはとても掃除が上手だった。コロセから聞いていた話と随分と違う。ぶつくさと不平を並べて、毎日のようにノドカさんの愚痴を溢していた。でもそれはコロセの誤解だったのだと私は思う。コロセはことごとくノドカさんのことを、人格異常者で怠惰でずぼらな傲慢チキなケチンボなのだと宣巻いていたけど、でも、こんなに頼りになって可愛くって優しくって楽しいお姉さんなんて、ほかにいないのではないか。もっとはやく仲良くなっていたかった。

 ――いや。

 と私は頭を振る。

 やっぱり。これでよかったのかもしれない。

 深入りしないほうが。よかったのかもしれない。

 私はとてもゆれていた。

 でもその揺れはいつだって、固定されているつり橋のように、同じ周波数で振幅を刻んでいる。

 

   ******

「あっとさ」

 遠慮がちにノドカさんは、「ちっとばかしシャワー借りてもいいかな」と鼻の頭を掻いた。黒くすすけている。

「シャワーですか? あ、そうですね。すみません気がきかなくって」

 謝りつつノドカさんをシャワールームへ案内する。

「使い方、分かりますよね?」いちおう確認しておく。使い方もなにも、ただ室内に入って洗浄のイメージを浮かべるだけでいいのだが、「なにか操作しなくてはいけない」という固定概念があると、そのイメージを浮かべるまで行きつけないらしい。

「ああうん、えっとさ、ごめん」申し訳なさそうにノドカさんは、「できたらでいいんだけど、お湯のシャワーってある? あたい、そっちがあれば、そっちのほうがよさげかも」

 よさげ、とは一体どんな毛なのだろう、と想像しつつ、「ええ、どちらもご利用できますよ」と教えた。

「へえ、便利だね」

 言ってノドカさんはその場で脱ぎ出した。あっという間に下着姿だ。

 脱ぐのはやっ。

 焦って背を向ける。突っ込む余裕もなかった。顔が熱い。

「おっとすまないね」わるびれる様子もなくノドカさんは、「いつもの癖で、つい」とちゃめっけたっぷりに弁解した。そのまま、てへ、と付け加えられてもイラっとこないほどに自然な物言いだ。本当にいつもの癖なのだろう。

 脱いだ服をノドカさんが拾っている気配がする。そのまま脱衣所兼シャワールームへと入っていくようだ。

 シャワールームではお湯をながしても水滴が跳ねない。また、湯気も立ち込めない。お湯の温度から、室内の気温と湿度までもが自動的に調整される。脱いだ服が濡れることがないので、そのままシャワールームのなかで着替えが可能だった。

 

 シャワーが控えめな雨音を奏でている。しずくが跳ねないので、どこか儚げな音だ。水たまりに砂をまき散らしたような、しゃんしゃん、とかるい、小気味よい音。

 シャワールームに背を向けていた私は、壁に寄りかかった。

 すぐよこにはシャワールームの扉がある。

 壁一枚を隔てた向こう側にいるノドカさんへ話しかけている。

「すみません。あの、コロセのことなんですけど」

「え、なに? ごめん、よく聞こえないかも」すぐにノドカさんの声が返ってくる。「ちびっと待ってて」

 するとシャワールームからは、シャカシャカ、パシャパシャ、と急いで頭を洗っている音がにぎやかに聞こえてきた。なんともはや、豪快な洗いっぷりである。

 長髪を水で洗うというのは中々に骨が折れる。はっきり言って面倒だ。だから私は絶対にお湯のシャワーなんて浴びたくない。でも、こうも磊落な洗髪の音を聞かされると、なんだか気持ちが良さそうに思えてくるからほんとうに不思議だ。

 洗髪の音がやむのとほぼ同時に、ぷふぅ、とノドカさんの深い溜息が聞こえてくる。

「おっけし。まだ身体洗ってないから、洗いながらで失礼しちゃうけど――で、モンドちゃん、なに?」

「急かしてしまってすみません」苦笑してから、「コロセのことなんですけど」と繰り返した。

「うん。クウちゃんがどったの?」

「あの、ノドカさんは、ライドさんに勝てますか?」

「え、クウちゃんの話だよね?」ノドカさんは戸惑ったように笑う。「う~ん、どうだろう。勝つっていうのは、やっぱり戦闘でってことだよね?」

 はい、とみじかく返事をする。

「要するに、ライドさんを殺せるかってこと?」

 そうです、と間を置かずに首肯する。

 その間の薄さで、私の話したいことがただの世間話でないことを察知したのだろう、ノドカさんは身体を洗う手をとめた。とめたのだと、音で判った。

「たぶん、殺せる」ノドカさんは感情なく言った。「でも、殺したくない。できるなら、殺さないで済むように――殺すことにならないようにあたいは努力する」

 なら、と意地わるだと判っていながら私は訊いた。「なら、ライドさんを殺さなくては、コロセが死んでしまうという状況なら、ノドカさんはどうしますか?」

「……ライドさんを殺せばコロセは助かるの?」

「それは分かりません。ただ、少なくとも、ライドさんが生きている限り、コロセは死にます」

 沈思の間が空く。シャワーの音が静寂に染みていく。

「ごめんモンドちゃん――いたずらにモンドちゃんがこんなひどい質問をしているわけじゃないってことも――真剣に答えなきゃいけない質問だってこともね、あたい、解ってはいるんだけど――でも、今は答えられないよ。ううん、あたいは答えたくない。というか、今この時点で答えは出せないよ」

「……ですよね」

 そう答えるだろうとは想定していた。でも、どうしてもこれだけはノドカさんの口から答えて欲しかった。

「なら、質問を変えていいですか」

 うん、とノドカさんは気が進まないといったように頷いた。

「コロセを助けるためなら、どんなことでもしますか? ノドカさんは、どんな犠牲を払ってでもコロセを守ってくれますか?」

「そりゃ守ろうとはするけど……どんなことでもって……たとえば?」

「たとえば」と押し殺すような声で、「私のことを殺さなきゃならないとか」

 シャワーの音が消える。

「あのね」と真剣な口調でノドカさんは、「あのねモンドちゃん。さっきからどうして人を殺すことが前提なの? なんで誰かを犠牲にしなきゃダメなの? クウちゃんを救うことと、誰かの命を犠牲にすることは必ずしも直結しないとあたいは思うんだけど。もしかしてクウちゃんがいま、そういった状況下に置かれていたりするの? 誰かを殺さなくては救われないような、そんな理不尽な環境にあの子は身を置いているの? だからモンドちゃんはそんなに悩んでいるのかな? だったらあたいはクウちゃんをその環境から逃がしてあげるよ。モンドちゃんごとクウちゃんをその理不尽なしがらみから逃がしてあげるよ。誰かを犠牲にするんじゃなくってね。わざわざそんな理不尽な環境に身を置きつづける必要なんてないんだから。挑む必要なんてないんだよ」

 ならばどうすればよいというのだ。教えてほしい。是非とも教えてほしい。理想を掲げるのは簡単だ。夢を語るのも簡単だ。けど、理想も夢も手元にはないものばかりじゃないか。私が望むのは綺麗ごとではないんだ。汚くても歪んでいても悪辣であっても、ただあいつを守ることのできる、そんな手段なのに――。

 ノドカさんは続けた。

 私の内心の独白に反応することなく。真剣に説いていく。

「あたいはねモンドちゃん――クウちゃんのためだったら、あたいはあの子と離ればなれになったっていいと思ってる。本当はいやだけど、でも、クウちゃんの幸せを考えたら、そういった選択も必要なんだとあたいは納得できる。モンドちゃんがあの子の側にいてくれるなら、それもまた心強いしね。このアークティクス・サイドにいる限り危険が付き纏うというのなら、あたいはあの子をここから逃がしてあげるし、もしこの地球上にいる限り幸せになれないのだというのなら、あたいはあの子を宇宙へだって逃がしてあげるよ。それこそ、誰も到達できない《アークティクス》にだって行かせてやる。どうやればいいかなんて今はまだ分からないけど、でも、絶対になんとかしてみせるよ」

 根拠のない励ましなんていらない。

 想像力の足りない慰めはときに狂気だ。

「それにね、誰かを犠牲にした幸せなんて、クウちゃんはきっと望んでない。そういう子だからさ。モンドちゃんだってそれは解ってるでしょ? だからきっとクウちゃんは――あの子は――コロセはね、誰かを犠牲にするくらいならまず自分を犠牲にすることを考えちゃうんだ。そうすることがコロセにとって一番納得できる選択なんだろうね。だったらあたいにできることはさ、あの子が、あの子の全てを犠牲にしてしまわないように、あの子が背負うだろう代償をあたいが半分背負ってやるくらいなものなんだよ。そのためならあたいは、『あの子とこれから一生逢えなくなって離ればなれになる』っていう、すっごい嫌な代償だって受け入れてみせるよ」

 それは、とてもノドカさんらしくて、とても共感できる考え方で……でも、私が欲しいのは共感ではない。仲間でもない。あいつを救ってくれるような、絶対に有効な、そんな手段なのに。

「あたい思うんだよね――誰かと一生逢えなくなるっていうのは、それは相手が死んでしまったのと同じことなんだよなって。自分の裡から相手がいなくなるんだからね。『逢えなくたってどこか生きている』と言ったってさ、時間が経てば経つほど本当に生きているかなんて分からないでしょ? 一生逢えないってことは、連絡もとれないってことなんだから」

 ああ。ノドカさんは私を慰めてくれているのだ。精一杯に言葉を尽くして、だいじょうぶだよ、となんの根拠もない激励を投げかけてくれている。うれしい。うれしいのだけど、でも、私がほしいのはそれじゃない。ちがうんです。

 ――違うんですよノドカさん。

 私の祈りは通じない。塞がれているのだから。気遣ってくれているノドカさんは私の波紋を読まずにいてくれる。それによって祈るだけでは届かない。ノドカさんの心には決して届かない。なのに私は声に出すことをしなかった。もう、いいんだ。そう諦めていた。期待するというのは、頼るということだ。頼るというのは、待つということだ。待つというのは、止まるということだ。止まっていては駄目なんだ。選択しつづけなくては駄目なんだ。動きつづけなくては、流れつづけなくては、私は失ってしまう。大切なものを次々と失ってしまうのだ。もう、待ってなんていられない。頼ってなんていられない。期待なんてしちゃいけないんだ。

 ――私がやらなければ。

 ――この手で私が。

 ――やらなければならない。

 哀しそうな声でノドカさんは、ぽつり、ぽつり、と丁寧に言葉を溢してくれる。訴いかけてくれる。子守り歌のようにやさしい告白のように、あつい言葉たちをノドカさんは。

「いったん離ればなれになってしまったら、相手が幸せかどうか、健康かどうか、元気にやっているのかどうか――生きているのか死んでいるのかすらも判らないんだ。だって、知りようがないんだもん。もしかしたら相手は死んでいるかもしれないんだ。別れたその直後にだってもしかしたら死んでしまっているのかもしれないんだ。それでも、この世のどこかで生きていると信じることもできるけど、だとすれば、それってやっぱり『一生逢えないこと』と『死に別れること』のあいだに明確な差なんてあたいはないんだと思うんだよね。だから、あたいにとって一生逢えないこと――大切なひとと離ればなれになるってことは、それだけで自分と相手を半分ずつ殺すことになるんだ。あたいの世界から大切なひとが消えて、相手の世界からもあたいがいなくなる。お互いにお互いを半分ずつ殺し合うんだ。それでも、それを代償にコロセを救うことができるのなら、あたいはそういった手段をとるよ。あの子を全力で危険から遠ざける。物理的にね。誰かを犠牲にするんではなくて、あたいは、守りたい相手と、あたい自身を犠牲にする。でもね、まずはそうならないように努力するよ。全力でそうならないように努力する。それが一番だとあたいは思ってるから」

 ――この答えじゃ、ダメかな。

 と壁を挟んで届く。ノドカさんのくぐもった声。きっと彼女は俯いているのだろう。

 シャワーのやわらかな音がふたたび鳴りだした。

「ノドカさんらしいです」

 私は言った。

「コロセのこと、よく解っていますね」

 ありがとうございました、と礼を述べる。

 それから、

 ごめんなさい――と謝った。

 私は私のために謝った。

 許して欲しかったから。

 解って欲しかったから。

 パリパリと冷気にあてられて、霜が割れる音が背中越しに伝わる。

 空気が薄くなる。

 温度も湿度も零を通り越して。

 負へと。

 マイナスへと。

 埃がキラキラと瞬きだす。

 シャワーの音は聞こえない。

 カランカランと小石がタイルに転がる。そんな音がしばらく続いた。

 つららから氷の滴が剥がれ落ちている、そんな映像を思い浮かべた。

 やがて――。

 耳に痛い静寂だけが。

 私という存在をつんざくように。

 張りつめた弦のごとく。

 キ―ンと鳴っていた。耳鳴り。

 

 ごめんなさい。

 でも、それじゃ駄目なんです。

 犠牲のない安息なんてあり得ない。

 犠牲のない救いなんて幻相です。

 だから、半分なんて言わずに、どうかあいつのために、あなたの全てを犠牲にしてください。

 犠牲になってやってください。

 きっとあなたでは、このさきあいつを救うことはできないから。

 あなたの代わりに、

 私はあいつを守ります。

 私があいつを守ります。

 なにを犠牲にしてでも守ってみせますから。

 だから、

 だからどうぞ安らかに。

 やすらかに、

 死んでやってください。

 あなたの意志は受け継ぎます。

 あなたの遺志として残します。

 もしもあなたがそんなやさしいことを言わず、誰を犠牲にしてでもあいつを守ってくれるのだと言ってくれてさえしたのなら、私はあなたに託したのに。なのにあなたはやさし過ぎた。

 そう、やさしすぎるんです。

 でもそれじゃ、駄目なんです。

 

 ありがとうございます。

 あいつのことを想ってくれて、

 案じてくれて、

 犠牲になってくれて、

 本当にありがとうございます。

 でも、やっぱり、

 

 ――ごめんなさい。


 シャワールームから、石像の倒れたような振動が、部屋いっぱいに響いた。氷塊は砕けた。

 集中する。

 循環をとどめる。

 振り子の揺れを抑えるように。

 パーソナリティを最大にして、砕けた「対象」をさらに静止させる。

 扉の隙間から床を滑るように染みてくる冷気。白いもくもく。

 そこから流れでてくる、細やかな氷の粉は。

 砂時計のようにさらさらと。

 氷なのに白くない。

 土のように。

 ――濁っている。

 波紋はない。私の波紋も穏やかだ。冷静だ。

 そうでなくてはパーソナリティなんて遣い熟せない。

 私はどうしようもなく冷静だった。

 さらさらとした珈琲じみたその粉末を見ないように。私はそっと背を向けて。一面が白く霞んだこの部屋を後にした。逃げるように。後にした。


 人はみな平等なのだという。

 例外なく死にいたるのだという。

 

 死ぬまではしぶとく。

 また、

 死ぬ瞬間はあっけない。

 

 そう、

 あっけない。

 

 いつもとおなじ。

 誰を殺そうが。

 誰を毀そうが。

 ここにあるのは。

 罪悪感。

 などではなく。

 こころにあるものは。

 この瞬間だけはいつも。

 

 むなしさだけが。

 私を満たし。

 かるくしていく。



 ***ウブカタ***

 薄暗い部屋だ。

 仄かに煙草の匂いが漂っている。イルカちゃんが吸っている銘柄と同じだからきっと――そんなことを考えて、ここがオレの部屋であることを推測しているのだろうなこいつは、とウブカタはノドカのことを分析した。

「あの」と間延びした口調でノドカが、「説明願えるんでしょうね」とタオルを身体に巻きつけた。素肌が隠れる。

 まあ、当然の質問だ。

 どっしりとテーブルに腰掛けてウブカタは説明した。

「まずはそうだな、見ての通りだ。オレはノドカちゃんをここに連れてきた。ここはオレの部屋だ。ノドカちゃんのことだから察してはいるだろうが、あのジョウモンドキって娘は、つい今しがたを含めて二度、おまえを殺そうとした」

 タオルしか纏っていないノドカへさらに服飾一式を放り投げる。胸元を抑えながらノドカは受け取った。垂れた髪の毛からは、ぽたり、ぽたり、と大粒のしずくが点滴して、床に小さな水たまりをつくっている。

 どっしりと構えたままでウブカタは続けた。

「閉鎖された室内であの娘のパーソナリティは最適だ。ノドカちゃんはたしか、パーソナリティを遣うときは対象を目で捉えてからでないとうまくいかないんだったよな?」

 ノドカは小さくあごを引いた。

「おう。でだ、そうやって目測で座標指定するノドカちゃんにとって、あの娘のように遠隔で座標指定できる相手は中々に厄介だろ。ああやって壁越しにパーソナリティを向けられてしまっては対応もできない。事実ノドカちゃん、二度目は気付けてなかったろ? あの娘がノドカちゃんにパーソナリティを向けようとしていたことにすらよ。あの娘がパーソナリティを発動する前にオレは不躾ながらもこうしてノドカちゃんをあのシャワールームから助けだしてあげたってことになるわけだが――まあ、裸の女子がいる室内に無断で侵入するってのは、なんつーか、褒められた行ないではないにしろ、大事のまえの小事だと思って、まあなんだ、お咎めなしってことにしてくれや」

 言い終わるころにはノドカは着衣を完了していた。ノドカがいつも纏っているスーツである。サイズはぴったりだ。ノドカの怪訝な表情を窺う限り、彼女はどうやらそのスーツが自身の部屋から持ち出されたものではないかと疑っているようだ。

「怒るなって、裸の一つや二つ見られたからって減るもんじゃなしに」と敢えて的外れなことを口にする。「安心しろよ、誰が欲情するかって。そんな貧相な身体に興味はねーよ」

「減らないかもですけど、穢されちったよぉ」と憎まれ口を叩かれる。

「間違ってもイルカの前では言うなよその冗句」

「どの冗句ですか?」

 睨みつけるようにすると、

「でも、そうですね」とようやくというべきかノドカは、「助けてくれてありがとうございました」とぎこちなく礼を述べた。

 素直に礼を述べなかった理由はおそらくはこちらがあの小娘のことをわるく形容したためだろう。どこまでお人好しなんだ。

 ノドカほどの保持者ならば、壁越しに向けられた殺意にくらい気が付けていただろう。波紋ではなく、気配として察していたはずだ。あの娘に殺されかけたのだときちんと知っているはずなのだ。だのにこのノドカという女は、それでもあの小娘の肩を持つ。味方であろうとしている。馬鹿なのだろう。とことん愚かなのだろう。

 まあ、嫌いではない。

「で、どうすんだ」念のために問う。「あの小娘、おまえを殺したと完全に思い込んでるはずだぞ」

「ですね」ノドカは首肯しながら髪をタオルで拭っている。「きっとモンドちゃんのことだから、確認しなかったと思いますし」

 あたいの遺体があるかどうか、と寂しそうに呟いた。

 だがそれは違う。確認したはずだ。

 あの娘は絶対に、視認したはずだ。

 暗殺任務は、対象の亡骸を確認するまでは完了しない。

 あの娘は、そう教え込まれている。遺体を確認しないはずがない。

 ただし、あの娘が見たであろう残骸は、ノドカの遺体ではなく、豚の死骸なのだが。ノドカを連れてシャワールームから空間転位した際に置いてきた豚の肉塊――あの娘は、その氷結粉砕された豚を見たはずだ。

 おまえの代わりはブタさんでした、と言ってノドカをからかうのも面白そうではあるが、残念ながら今はそういった場面ではない。

「あれはきっと組織の意向なんですよね。あたいを殺すようにって、モンドちゃん、命令されていたんですよね。かわいそうに……」

 あんなツライことさせやがって、あたいの友達に、とノドカは肩を怒らせた。

「任務を言い付かったからって殺していい謂われはねーぞ。他人に指示されてトモダチ殺すかよ? あの娘には自分なりの考えがあって、ノドカちゃんを殺そうとしたんだ。自分の意志でおまえを殺そうとしたんだよ」

「だったらもっと可哀想じゃないですか」

「なんでそうなんだ?」呆れたように口にする。「あの娘にとっておまえなんぞ、トモダチでもなんでもなかったってことなんだぞ」

「だからなんです?」ノドカは淡々と言った。「モンドちゃんにとってあたいが友達でなくたって、あたいにとってモンドちゃんは掛替えのない友達なんですよ。あたいの大切なひとを想ってくれてる、そんなやさしい子なんですよ」

 これ以上あたいのまえでモンドちゃんのことわるく言わないでください、と敵意をむき出しにしてノドカは呻いた。

「おまえがそれでいいならオレはもう、なんも言わねーよ」

 はーあ、とわざと聞こえるように溜息を吐く。「で、これからどうすんだ。ノドカちゃんが考えている通り、きっとおまえは組織からお払い箱にされたんだろうよ。で、このままいけば死んだことになるだろうさ。データ上では、だけどな」

「そう……なりますよね」

 どうやらノドカも解っているようだ。ノドカの思考は断片的に読みとれる波紋を通して推測できる。

 ことを荒立てぬようにと望むならば、このまま死んだことにし、アークティクス・サイドから離脱するのがもっとも利口な選択だ。

 ただ、そう。やはり気がかりは残るだろう。

 あのクウキという少年。本名をノロイコロセというようだが、この選択は事実上、彼と死別しろと言っているに等しい。奇しくもノドカはさきほど、同じようなことをあの娘に説いていたようだが。


 ノドカは迷っている。

 しかし、迷う余裕などはない。

 組織から暗殺の指令が勧告されているという事実――それはそのままノドカの存在が、ノドカの大切な者たちにとって脅威になるということを示唆している。仮にこのままアークティクス・サイドに留まれば確実にノドカが生きていると知れるだろう。暗殺が失敗していたのだと知れるはずだ。そうなればつぎはどんな手段も選ばず、もっとも効率的かつ効果的な方法論をもって、組織はノドカの処分を強行してくる。それこそ、人質という手段は有効だ。見せしめにノドカと交友のあった者を殺すというのは定石ですらある。そうすればノドカみたいな人間は勝手に挑んでくるからだ、泣き寝入りなどはしないと組織側は知っている。クウキという、ノドカにとって大切な者が残っている限り、ノドカのほうから姿をあらわすことになる。こうしていったん生きていると知れれば、ノドカは死ぬまで組織に束縛されることになる。なぜなら組織はノドカにとって大切な者を初めに、より直接的に拘束してしまうからだ。

 精神的な枷――。

 物理的な枷をものともしないノドカのような保持者。彼らに対しての扱いを組織はよく弁えている。そうでなくてはここまで組織を維持し続けられるはずもない。自然淘汰の原理に忠実であれば、屈強な人員で構成されている既存の組織にはまた、堅固な彼らを繋ぎとめておけるだけの「ちから」があるということになる。それが具体的にどんなものなのかはウブカタにもよく解らないが、それでも物理的な枷ではないことだけは確かである。

 愛だとか正義だとか善意や好意に同情心・常識や良識・恩義や忠義――それらはすべて精神的な枷だ。

 それらがどのような仕組みで自己の裡に生じるのか、宿るのか、科せられるのか、それは決して自覚できない。いつの間にか組み込まれている。仕込まれている。仕掛けられている。先天的なのかそれとも後天的なのか、それすらも詳らかではない。ただひとつ言えることは、いまのところウブカタには「それが見当たらない」ということである。それはまた、この時点では、というだけの話ではあるし、まだ目にすることが叶っていない、というだけのことかもしれない。

 

 ですね、とノドカは自分へ言いきかすように頷いた。

「あの、ウブカタさん」と彼女は表情をかたくしたままで頭を下げた。「離脱のためのチューブ、開いてください」

 まあ、そうなるだろう。結論はそれ以外にない。

 理性的であるならばそうしなければならないのだから。

「ノドカちゃんに頼まれたんじゃ仕方ねぇ。なんとかしてやるよ」

 おどけてみせるものの、やはりノドカの波紋は疑心に揺蕩っている。信用されてはいない。それもまた当然といえば当然か。ノドカは疑問を抱いている。なぜ処分の指令が(しかも暗殺といった形で)自身に出されているのか――ということよりもどちらかといえば、なぜウブカタがそのことを事前に知っていて、そして助けてくれたのか、といった点だろう。一方で、なぜジョウモンドキというあの娘が、仮にも弥寺に次ぐ戦闘力を誇ると謳われるノドカの暗殺を任されていたのか。それもまた解せないはずだ。

 暴走したアークティクス・ラバーを一人処分する場合、ただでさえ同等のパーソナリティ値をもつラバーが最低でも三人は必要だというのに、今回、ノドカの暗殺にはたった一人――しかもミドルクラスに編入したばかりの娘が充てられていた。あのジョウモンドキという娘が一人で担っていたのだ。「処分」と「暗殺」が本質的に違うとはいえ、ノドカにとっては解せないだろう。

 だが――、

 ウブカタは知っている。それらノドカの疑問すべてに答えられる。だが、敢えてそのことを教えようとは思わない。教えたところでノドカの決心を悪戯に揺らがせるだけだ。揺らいだところで結末は変わらない。ならばいっそ余計な心労はさけてやるのが情というものではなかろうか。そんな身勝手な心遣いで、ウブカタは自己満足する。

「離脱の手伝いはしてやるが、その前にいいか」

 礼を述べてからノドカは、なんですか、と腕を組んだ。

「おまえが死んだっつう信憑性を高めるために、なにか遺品があるといい」

「遺品……」

「あれなんかどうだ。ほら、ノドカちゃん、ピアスしてたろ」

「いまはしてないんですよ」ほら、と髪の毛を掻き上げてノドカは耳を見せた。

 以前はボブカットだったノドカ。そのためにこれまでは耳に飾られていたピアスをふとした瞬間に垣間見ることができていたが、長髪になってからはピアスの有無は視認できなくなった。それでもある時期からノドカがピアスをつけてこなくなっていたのは知っていた。それでも知らなかったかのように装ってウブカタは言った。

「大丈夫だって。オレらからすればあのピアス=ノドカちゃんだったもん」

「へえ。さいですか」

 それにさ、と気遣うふうに付け足す。「クウキって言ったっけ、ノドカちゃんの弟? あの少年にも形見みたいなものを用意してあげるくらいしてもいいんじゃないのか? むしろ本当にノドカちゃんは死んだんだって思ってもらったほうが善いだろうし。お互いにさ」

「……ですね」

「いやな、オレなんかが本来は口を挟むようなことじゃねーとは判っちゃいるんだけどよ、でもな、ここは言わせてもらうぞ」ウブカタは熱弁をふるった。「生半可な情報しか与えずにどこかで姉が生きていると思って、このさきの人生を歩んでいくのとな、姉は死んでしまったんだってしっかり認識して生きていくのとじゃ、背負っているものがまったく別ものになるんだとオレなんかは、そう思うのよ。どっちがあの少年のためになるか、だなんてそんなことは他人であるオレなんかにゃ推し量れないことだけどな、でもよ、どっかでノドカちゃんが生きているんじゃないか、と疑って余計な詮索なんてされてみろよ、それこそ本末転倒だろ? ノドカちゃんの配慮がまったく意味を失くしちまう。だったらこの際だ、しっかりノドカちゃんを死んだことにしてやったほうがいいとオレは思うんだが」

 呼吸の音まで押し黙らせるようにノドカは沈思している。

 やがて口をひらいた。

「ピアスで、大丈夫ですかね」

「むしろそれ以外じゃ駄目だろうな。で、どこにあるんだ?」

「ウチにあります」

「ああ、ガラクタにか」

 なら行くか、とウブカタはテーブルから飛び降りるように立ち上がった。その動作が自分でもすこし格好いいと思った。

 頼りになる中年、それがオレだ。

「でもその前に、」とノドカが険のある口調で、「いい加減、パンツくらい穿いてください」とタオルを放った。

 会話中、ウブカタはずっと素っ裸であった。

「ああ……すまん」

 ウブカタはいそいそとタオルを腰に巻きつけた。

 

「ちょいとお待ちを」

 手を伸ばして制止するとノドカは、部屋へと入っていった。扉には「クウキ」の文字。あの少年の部屋なのだろう。別れの挨拶でもしているのかもしれない。ともあれ、時刻は明け方、どうせあの少年はまだ就寝しているだろうから、一方的な別れであることに変わりはない。

 ウブカタはジーンズにワイシャツといったいつもの出で立ちで、ついさきほどノドカを連れ、ここガラクタへと空間転位した。ウブカタの場合、咄嗟でさえなければ(時間をかけて力加減を考慮できれば)自身を空間転位させても裸体になることはない。

 そういう意味では、ウブカタのパーソナリティが一概に、戦闘には向いていないとは言い切れない。裸体にさえなってよければ、戦闘中に自らを空間転位させることは別段、難しくないのだから。

 とは言え、やはり裸体になるのは避けたいのがウブカタの真意である。なにせ、一糸まとわぬあられもない姿で攻防を繰り広げなくてはならないのだから。ニボシと見間違えられて同業のアークティクス・ラバーから攻撃されてもおかしくはない。おかしくはないからして、まったく笑えない状況である。

 しばらくするとノドカが、ぬっ、と出てきた。クマのぬいぐるみを抱いている。

「なんだよそれ」怪訝に尋ねると、赤子をあやすようにノドカはそのクマさんを揺さぶった。「ボクの名前はマイルドだよ、よろしくね」

「ふざけてる場合かよ」

「へっへ。いやね、これ、あたいのお気に入りなんですけど、あたいがラバーの任務で家を空けてるあいだ、あの子が寂しがらないようにって、いつもあたいの代わりに置いてきてるクマさんなんですわ」

「へえ。そいつぁ、まあ、弟想いなこって」つっけんどんに言ってからノドカを睨む。「で、ピアスは?」

「ですから、ここに」とノドカはクマを押し付けてきた。受け取りたくなかったので半歩後退する。後退しつつも、クマの両耳にそれぞれ一つずつ、黒い石がくっついているのが目に入った。クマの毛が邪魔で見えにくくなってはいるものの、ノドカのあのピアスに間違いはなかった。

「こんな場所に隠しやがって」思わず口を衝く。

「隠していたっていうか、仕舞っているよりは飾っておきたいと思うのが乙女心でして。普段はあたいの部屋でちょこんと可愛らしくおわしているこのマイルドちゃんですけど、あたいが留守のあいだだけ、あの子のベッドに置いて、あたいの代わりにあいつが寂しくないようにって――」

 ノドカの言葉を遮ってウブカタは、「それはもう聞いたよ」と乱暴に髭を撫でつけた。クマを奪い取るように受け取る。ピアスを取り外そうとするものの、「ん? おい、これどうやって外すんだ」

「ああちょっと、中年! 乱暴にすんなよバカッ」

 取れちったらどうすんだお耳、とノドカが慌ててクマを抱きかかえた。分捕るような仕草である。

 乱暴なのはどっちだ、と抗議してやりたかった。

 ぶつくさと不平を鳴らしつつノドカは、労わりの言葉をクマへ投げかけている。「だいじょうぶ? いたくなかった? こわかったよね? 臭かったよね? ごめんね?」と呪文のように唱えつつ、ピアスを取り外した。そうしてピアスを右手に握るとこちらに向きなおした。

 手を差しだしてきたのでウブカタも手を伸ばすと、ふいにノドカが言った。「マイルドちゃんに謝ってください」

 ……めんどくせェ。

 ぬいぐるみに謝るって、どうしてこいつはそんな非合理的で非科学的なことを抜かすかなあ。髪を掻きむしりつつウブカタは、「ごめんなさい」と謝った。ぬいぐるみへではなく、十割ノドカに対しての謝罪である。いつだって人は自分のために謝ってほしいのだ。

 ノドカは破顔して手を開いた。

 ころん、ころん、とピアスがふたつ、ウブカタの手のひらに転がる。

 摘まんで目のまえに持ちあげる。神妙に頷いてから、「たしかに預かった」と視線をノドカへ当てた。

 ノドカはこちらを見てはいなかった。「クウキ」と描かれた扉を見詰めている。いや、その奥を見据えているのだろう。そこで寝ているあの少年のことを。

 簡単には吹っ切れないのだろう。割り切れないのだろう。

 同情はしよう。

 だが、断ち切らねばなるまい。

「いくぞ」みじかく声をかける。

「はい」ノドカは、から元気に返事をしてこちらを向いた。

 いつもの笑みを張りつけたノドカらしい表情だった。

 

 ありがとうございます、とノドカは頭を下げた。引っ詰めの長い髪が垂れる。

 部屋に戻ってきてからのことだ。ノドカがすぐに懇願してきた。あの少年のことをお願いします、とそう頼まれた。

 生活の面倒までみて頂く必要はありません。でも、あの子がなにか困っていたり、悩んでいたり、苦しんでいたりしたなら、どうか力になってやって下さい、とそう必死にお願いされた。

 ウブカタは二つ返事で請け負った。「ノドカちゃんたっての頼みとくりゃ、断れねーよ。それこそ、ノドカちゃん最期の頼みになるわけだしな」

「ほんとうにありがとうございます」

「いいって、いいって。あの少年が立派に育ってくれりゃ、オレは何もしないで済むわけだし。ノドカちゃんの弟ともなれば、オレの力を借りるような事態になんてそうそう陥らねーだろうしよ」

「ですね」と寂しそうに、それでもどこか誇らしげにノドカは言った。「あいつはもう、あたいなんて居なくても立派に生きていけますもん」

 ウブカタはうなじを掻きあげる。

 それから、おっしゃ、と腿をたたいて立ち上がった。「陽が昇る前に離脱しちまおう」

「ですね。あ、そうだ」ノドカが上着を漁って、小さなカプセルを取り出した。「これ、何かの役に立つかもしれないんで、特別にプレゼントです」

「なんだ?」

 いいからいいから、とノドカがウブカタの手を掴んで、手のひらにカプセルを振りつけた。じゃらじゃらと音が鳴っている。

 コロン、と小さい玉が一粒ころがる。

「それ、あげます」ノドカはカプセルを上着に仕舞った。

「……一粒だけかよ」

「不満ですか?」

「いや。ありがたく頂戴しておく。要するに餞別ってことだろ?」

「ですね」満足気にノドカは笑窪を空けた。「遣い方、分かります?」

「遣い方とかあんのかよ。これに」つまんで目のまえに掲げてみる。

 ビー玉より一回り小さな鳶色の玉である。

 こちらの様子を愉快そうに眺めながらノドカは言った。「それ、爆弾なんで扱いには気を付けてくださいね」

「へえ。バクダンねぇ」そんな冗句にひっかかるほどノドカとの付き合いはみじかくない。

 コインを弾くように宙へ放ってキャッチした。

「あ、バカッ」叫びながらノドカが伏せた。頭を抱えている。「あたいを殺す気かッ!」

 尋常ではないリアクションだ。

「バクダンって……冗談でなく?」

「あたいが爆弾っつったら爆弾なんだよぉ! もうッ」

「ああ……わるかった」謝罪したものの、餞別に爆弾を寄越されるとはつゆほども思わなかった。「で、これ、どうなったら起爆するんだ?」

 重要なことだから是非とも訊いておきたい。

 教えてもらえないのならこんなもの、はっきり言ってゴミにすらならない。

「それはですね」と得意げな口調でノドカは謳った。「波紋をそれに同調させながら、『ブラックホール・ボマー!』って叫ぶんです」

「は、なんて?」思わず聞き返す。やや考えてから、ああそっか、と合点する「わるいノドカちゃん、タイミング逃した。つぎはちゃんとツッコむから」

「ボケじゃない!」ノドカの鉄拳が飛んでくる。「失礼な中年めっ」

「なにも殴らなくたって……」

「『ブラックホール・ボマー!』って叫べってあたいが言ってんだから叫ぶのッ! そうすればそれ、爆発するから」

 そんもんいらねぇよ、と突き返そうと思ったが、遣えそうといえば遣えそうなので、一応、貰っておく。「あんがと」

 いえいえ、とご満悦のノドカはそれから表情を一転させ、曇らせた。

 ノドカからの餞別を収納ボックスに仕舞うと、「じゃ、行くか」と声をかけた。

 はい、とノドカの明るい返事。それでも彼女の表情に覇気はない。

 近寄ってノドカの肩に手を置いた。最期くらい元気なノドカでいて欲しかった。

「ウブカタさん……」ノドカが震えた声を出す。

「いいってことよ、これくらい」

 最後くらい格好つけたかったのでウブカタは精一杯に格好をつけて口にした。「哀しんでいる若者を慰めるのはおじさんたちの使命だからよ、気にすんな」

「ウブカタさん……」と繰り返すノドカ。「その手、離してください」

 加齢臭がうつります、とやんわりとひどいことを言われた。

 手を離しながらウブカタは、ああノドカちゃんってば、イルカちゃんに比べれば幾分もやさしい娘じゃないか、と感動した。

 イルカの場合、無言のままで、ウブカタを八つ裂きにしようと、無情な武力行使を放ってくるのであるから、今さらながら、ノドカを失うのは惜しい気がした。

 じゃあ行くぞ、と断わってからノドカと共にウブカタは空間転位した。




 +++第十三章『ウサギは耳でとぶ』+++

 【飛ぶ(フライン)為には前に進み続けなくてはならず、跳ぶ(ホッピン)為には伸縮という名の後退をしなくてはならない。けれどウサギは前進しつつ、伸縮を繰り返す。それを人は翔(かけ)ると呼ぶ】

 

 

   タイム△スキップ{~基点からおよそ十五分後~}


 ***クウキ***

 涙は頬を伝うことなく蒸散する。

 あつい。

 身体があつい。

 氷のようにあつい。

 瞳に張っている濁った涙もまた乾いていく。

 かすんでいた視界が晴れていく。

 まっさらな室内に佇む人影がある。見覚えのある輪郭だ。

 ノドカの同僚だと言っていたあの女性――イルカがそこにいた。

 厳戒態勢でこちらを窺っている。彼女の背後には、なぜかあの名も知らぬ誰かさん――今はそれがライドという名の保持者であるのだと知れているけれど――そのライドの凄惨な遺体が壁に張り付いている。胸に大穴をあけて。静止している。きっと生きてはいないのだろう。

 でも、どうして、誰が、なぜ……。

 彼女が殺したのか。

 処分したのか。

「あなたがやったのか」コロセは問う。

 怒ってはいない。悲しくもない。名も知らなかった誰かさんが死んだところで、その誰かへ与えられるほどの慈しみなど、今のコロセには露ほども残っていない。ややもすれば、コロセの裡には溢れんばかりの悲哀が圧縮されているのかもしれなかった。コロセの記憶の大半を占めていた者を失ったことに対する、自責と悔悟と寂寥がひしめいている。そのために、名も知らぬ誰かの死などを悼んでいる余裕などなかったのかもしれない。

 また一方でそれら懊悩の大本である「ついさきほど目の当たりにした現実」を受け入れまいとする拒否が、表面的な無慈悲や無情、すなわち虚無感を齎していたのかもしれない。

 ともかくとしてコロセはこのとき、完全な虚無〈ニヒル〉と化していた。



 ***イルカ***

 イルカは動揺を禁じえない。

 パーソナリティを遣えない今、仮に相手が基礎クラスのクズのような拙い保持者だったとしても、争えば致命傷は避けられない。なぜか波紋すら読めなくなっている。生身の状態で対抗できるはずもない。これまで様々なニボシや魔害物を相手どって殲滅を繰りひろげてきたイルカには身に染みている。

 どんなにパーソナリティ値の低いニボシであっても、そこに生身の人間が立ち向かえば、そこに待ちうける展開は「死」以外にない。何度も目にしてきた光景である。家族を守るため、恋人を守るため、友を守るため、見ず知らずの子どもを助けるため――そうして「虚空」に呑まれた街ではいくつもの勇敢な弱者たちが無残に命を落としていく。

 イルカはいつも不思議でならなかった。なぜ合理的に判断できないのだろう。

 一目で判るはずだ、ニボシ化した生物が自分たちよりも強者であることを。自分たちがどんなに抗ったところで、命を鷲掴みにされるだけの側なのだと、直感的に判るはずだ。たとえそれが波紋の読めない人間であっても――。だのに虚空内では度々、イルカには理解し得ない行動をとって、無駄に死んでいく者たちがあとを絶たなかった。

 争うべきではない。抗うべきではない。

 己よりも大きなちからに、触れてはならない。

 イルカはこの非力な状態で、最優先すべきはまず自己保存である、と定める。

 そうしてもっとも合理的な選択を進もうとしていた。

 なぜなら――。

 目のまえに現れたノドカの弟は、

 その手に、

 アイツの首を持っていた。

 ――カエデと呼ばれる、《あの人》のドール。

 イルカがもっとも唾棄している宿敵であり、同時に、どうしても敵わなかった畏怖の対象。

 それが今は、目をつむった状態で、まるで眠っているかのように死んでいる。

 そう、死んでいる。

 壁の遺体と同様、一目瞭然だ。

 首からした、胴体がない。生きていられるはずもない。

 だがその表情はいたって安らかだ。

 血色もよく、どこかほがらかで、おだやかで――そう、さわやかですらある。

 だが、

 ――死んでいる。

 波紋は読めないが、ノドカさんの弟はきっと尋常じゃない。

 イルカは内心で、彼を第一級危険人物と規定した。

 近寄ってはならない。反抗してもならない。

 隙を見せず。弱みも気取らせず。けれど従順に。機嫌を損ねぬように。

 

「もう……いいよ」

 

 彼はそう呟いた。

 誰へ向けてでもなく。

 ただただ空虚でさびしい。

 そんなあきらめの独白に聞こえた。

 そう、彼の表情が、存在が、虚ろだ。

 目的のない狂人ほど厄介なものはない。

 なにも欲せず、なにも拒まず、しかし本能はそこにある。

 先天的に備わった防衛。

 意識外からのプログラム。

 生きようと反応する身体。

 自我が拒んでもそれは機能する。

 近寄っただけでこちらが排除されてもおかしくはない。殺されてもおかしくはない。

 だのに相手は。

 反射的に人を傷つけても。

 なにも思わない。感じない。動じない。

 そんな人間は、

 ――あやうい。

 サイカは息を呑む。

 乾いた喉は潤うことなく余計に張りついた。切迫している。

 ウブカタさん――と無言で呼びかける。

 この窮地なんとかしてください、と助けを求めるが、届くはずもない。

 イルカがパーソナリティを遣えず、波紋を読めないのと同様に、かの中年もまた非力な状態なのだろうから。

 これだから中年は、と嘆く。

 ホント、役立たず。

 泣きごとを声に出すこともできずにイルカは、一歩二歩と後退する。うしろにいるだろうウブカタを見遣りたいのだが、あの青年から視線を外して振り返るのは利口ではない。というよりも恐ろしくて視線を彼から外せない。このままあとずさりしていけばいずれ視界に中年が現れるだろう。そう思っていたが、どん、と背中に衝撃が伝わる。なにかと衝突したようだ。青年から視線を外すことなく、よこを窺う。そこには細いふとももがぶら下がっている。あの遺体の脚だ。壁に張り付いている遺体がすぐよこにある。

 早急にイルカは壁にぶちあたってしまったのだ。

 にも拘らず、ウブカタの姿は依然として確認できないでいる。

 イルカは独り、化け者と対峙している。



   タイム▽スキップ{~基点からおよそ十分後~}


 ***コロセ***

「誰だと思ってやがる。俺を誰だと」

 それでも彼の姿は僕の瞳には映らない。

 いや、彼がどういった状態なのか、それはこれ以上ないくらいに視えている。

 捉えることができている。

 はっきりと。

 この眼に。

 彼が――。

 弥寺さんが――。

 無数の〝蟲〟に埋もれ、喰いつかれている――その様が。

「行けよ、小僧」

 彼が快活に謳う。「ここは愉快だ。俺がいかに非力かをよく知れる」

 だがな、非力だからといって、無力なわけではない。

 しばらくここで過ごす。

 ここにいる限り俺は、

 ――人でいられる。

 


   タイム○スキップ{~基点から±零~)}


 ***◎***

 コロセ。

 弥寺。

 カエデ。

 城門努樹。

 オリア・リュコシ=シュガー。

 そして、暴走したライドの六名が一堂に会している。

 歪んだ空間。亀裂のはいった「バブルの塔」。

 ――それは一瞬であった。

 瞬きすら許されないほどの「時」の断片――それは起こった。

 自失したコロセは暴走したライドに接触し。

 それを防ごうと弥寺がパーソナリティを発動。

 カエデはこの空間の亀裂をさぐろうと浸透している。

 城門努樹もまたパーソナリティを発動しようとするもなぜか不発する。

 ここで努樹は確信したはずである。

 これまでパーソナリティを寄与してくれていた〈獣〉が自分のもとから失せてしまったのだと。努樹に生みだせる現象はこのとき、非力な人間のそれだけでしかなかった。

 一方で、弥寺に匹敵するほどの絶大なパーソナリティを有しているオリア・リュコシ=シュガーもまた、その過剰とも呼べる「力」を裡側へ仕舞いこんだままで、ただただ非力な少女としてそこに怯えていた。

 期せずして彼ら六名はこのあと、それぞれが抱えた隘路から脱するための活路を見出すことになる。

 その終焉への切符を一同へ与えるきっかけとなった一手――それをこのとき放った人物――それもまた弥寺であった。

 弥寺の放ったパーソナリティ――それは弥寺の意思とはかけ離れた破壊をこの室内へもたらした。このとき彼の発露させた現象は、ライドの消滅ではなく、この空間に点在する、物体と充満している空気――すなわち「バブルの塔」に内包されているすべての物質の分解であった。言うなればそれは、粒子化でもなければ融解でもなく、物質を構成している「ちから」の綻びである。

 さらには、すでに弥寺の手によって「縫合」されていたクリアボックスは、弥寺のパーソナリティ発動とともに、それに共振するかのごとく、もっともはやくその形を失った。弥寺の意思とは無関係に、弥寺の力によって、クリアボックスは物質ではなくなった。

 『血肖液』は世界へとその身を晒す。

 理論上では、いかに『血肖液』といえども、弥寺のパーソナリティの特質上、干渉を及ぼされれば、『血肖液』を構成している分子および原子は俄かに「かたち」を失い、エネルギィへと紐解かれるはずである。しかしこのとき、そうはならなかった。

 ところで――。

 かたちという輪郭を失った物質は、エネルギィの安定を求めて反発と融合を繰り返す。急激に。急速に。繰り返す。それは我々人類からすればいわゆる「爆発」に似た現象を引き起こす。

 そうして「バブルの塔」は吹き飛んだ――かのように思われたがそうはならなかった。

 零れた『結晶液』は、弥寺の放ったその急激で急速なエネルギィの振幅に対して、オートマティックに同調し、浸食とも呼べる勢いで、次々と分解されては増殖していくエネルギィを喰らった。そう、喰らった。まるで自我をもつ生物のように。『結晶液』というその液体が一つの個であるかのごとく。「バブルの塔」内で奔騰するエネルギィを取り込んだ。

 それは我々人類からすれば「爆発の吸収」とも呼べる現象なのかもしれない。

 そうして爆発の代わりにそこに生じた現象は、

「バブルの塔」の破壊でも瓦解でもなく、

 ――六名の保持者の消失であった。



 ***コロセ***

 ここはどこだ。

 おもむろに瞼をひらく。

 けれど瞼はとっくに持ちあがっていた。

 なのに視界は閉ざされている。

 ここはどこだ、と見渡す。

 僕はどこだ、と見渡す。

「コロちゃん……」とささやく声がする。

「コヨリ?」僕は呼びかける。

 呼びかけることで僕がここにいるのだと僕は知れた。知れたことで僕は安堵する。

 ――僕はここにいる。

「うん。ここにいます」とコヨリの声がする。「私はずっと」

 ――ここにいます。

 コヨリの声がそう響く。鈴の音を転がしたような。やさしい音色。

 でも、コヨリの笑顔のみえない世界で聴くその声はどこか寂しげなのだと僕は知った。それからコヨリの名前がオリア・リュコシ=シュガーなのだと僕はこのときそれを知った。けれど同時に彼女はそれを否定した。

「私は小春ひよりです。私が私としてコロちゃんに名乗った名前です。それが私の名前でなくって」

 ――なにが私ですか?

 コヨリはいじけた。いや、いじけたように聞こえただけのことであって、僕にはコヨリの感情を知ることなどできないのだけれど、それでもきっとコヨリはいじけている。

「いじけてません」

 と即答する彼女のすこしきつい口調が微笑ましい。

 そうだね、いじけていないよね。ごめんなさい。コヨリ。

「はい」

 ――私はコヨリです。

 ――コロちゃんだけの、コヨリです。

 照れくさそうな口調でつぶやいた。きっと姿が見えたら、涼しい微笑の浮かんだ澄まし顔なのだろう。普段からポーカフェイスでいるというのは、その仮面が見えなければ逆に感情を際立たせてしまうものなのかもしれない。僕も気をつけなきゃ、と気を引き締めると、「杞憂です。必要ありません、コロちゃんには」ときびしいお言葉をいただいた。これまたむつけた口調が微笑ましい。自然とおだやかな心持ちになる。

「いじわるはきらいです」

 言ったきりコヨリは緘黙してしまった。

 僕は僕で、久しぶりなのに、ぜんぜん久しぶりな感じのしないこのコヨリとの念願の邂逅に、ひとり、思いを馳せていた。

 コヨリの笑顔がみたかった、はずなのに。

 彼女に触れたかった、はずなのに。

 それ以上に、身近に感じられているこのコヨリの存在が。

 僕にはとても、いとおしかった。

 


 ***カエデ***

 ああ、懐かしい。そんな気がした。ずっと前にボクはここを訪れたことがある。そう直感した。ボクが生まれるずっと以前に――などと格好をつけて言ったところでボクはまだ生まれてすらいないのに……とすこし自虐するボクは今、卑屈に笑っているのだろうか。

 視えない。

 ここがどこなのか、ボクがどこにいるのかが感じられない。

 自虐はあいつの専売特許なのに、とさらに自虐する。

「ボクは生きていない」――それを思いだすたびに沈んだ気持ちになる。死んでしまった気持ちになる。生きてすらいない癖に。死んでしまった気分に陥って、暗澹な気持ちを抱いてしまう。それでもボクは――それだからボクは――このクライ気持ちがそんなに嫌いではなかった。嫌いではなかったのだと今、知れた。

 だって。

 ――だって、アカツキが言っていたのだもの。

「生きているというのは、苦しみを抱けるということなのだよ」と。「むろん、楽しめるということでもあるのだがな」そんな陳腐なことを自慢げに謳ってからアカツキはこう続けた。「かといって私たちが楽しめないかといったら違うであろう? カエデの言うように、仮に私たちが生きていないのだとしてだ――それのどこが不満だ? 苦しめずに楽しめる。それのどこが不満なのだ?」

 そう。アカツキのその主張はきっと正しい。

 考えてもみれば、これといって重大な不満などはない。

 そのことにようやく思い至れた。

 そう、だって、考えてもみれば、《彼女》はボクたちにそれなりの人生を用意してくれていたように思う。どのドールの要望にもでき得る限り応えていたのだと、今になって気が付いた。

 それはボクらが直接彼女へ要求をして、《彼女》から直々に寄与されるような仕組みではないから、そう見えるだけのことかもしれないのだけど、それでも結果的には《彼女》はボクたちの望みを叶えてくれていたのだとそう思える。

 家族を欲する者には家族を用意し、自由を満喫したいものには旅をさせ、達成感を欲したものには、そのドールの適性にあわせて仕事を与えた。

 もっと言えば、定期的な『同期』は必須であるが、それでも「生きている人間」たちと比べれば、さらに多くの自由と娯楽がボクたちには約束されている。そうした《彼女》の配慮が、どんな境遇の者にでも至極当たり前のように与えられている条件なのだと思っていたボクには、ボクの感受しているこの環境がいかに在り難い環境であるのかを肯定的に捉えることができずにいた。

 ――卑下することしかできなかった。

 五体が満足であるのが当たり前のことなのだと思い込んでいる人間がけっして少なくないように――「正常」という指標がいったい何を基準に規定されているのかが明確に決まってなどいないにも拘らず、暗黙のうちにそれが曖昧に決定されてしまっているこの社会のように――ボクは自分勝手に己のこの境遇がとても不幸なことなのだと思いあがっていたのではなかったか。

 幼稚な勘違いをしていただけではなかったか。

 だいいち、ボクらの老化がはじまるのだって、実際には「生きている人間」たちよりも多くの齢を重ねてからだ。ボクらドールには不老の傾向がある。むろん不老ではないし、いずれ老化をする。老化しはじめればやがて《彼女》に「解放」されるのだが、それでも「生きている人間」たちよりも多くの時間を感受できる。それこそ「解放」してもらわなければ、もしかすると、うんざりするほどの時間を受容してしまうのかもしれない。死にたくなるような現実と共に。

 選択肢と。

 時間と。

 死。

 それらの事項が《彼女》の意思によって決定されている。

 言い換えれば、保障されている。

 それらについて何の不満があるのかと問われれば、究極的には《彼女》からの干渉を拒めないということと、いずれ「解放」されて物質に還元されてしまうという当たり前の現象についてだ。どんな物体もいずれ毀れる。ボクらに限ったことではない。

 ――我が儘なのだろう。

 アイツと出会ってから。ノロイコロセと出会ってからたった数時間でボクは――自分をそう思うようになった。

 《彼女》から自由になりたくて、《彼女》に抗いたくて、だからボクは行動してきた。選択してきた。《彼女》からどうすれば脱することができるのかと。

 ――その結果がこれだ。

 《彼女》を殺そうと無益な実験を「虚空」で繰りかえし。いらない犠牲をだして。取り返しのつかないことをしてしまって。後戻りができなくなって。引き返せなくなって。万策尽きたと自棄になってからはムキになって。そうして《彼女》から自由になることだけを目的としてきた。そこに正当な理由も動機などもなかったのだろうと思う。ただそうすることでしかボクはボクを許せなかった。ただそれだけだった。そうすることでしか肯定できなかった。

 認めたくなかったのだ。

 ボクのせいでアカツキが死んでしまったのだと。生きてすらいないはずのボクらは死ぬこともないのに。なのにどうしてだろう。こんなにもボクは後悔している。どうして、どうして、とあのときを思いだすたびにボクはあのときのじぶんを殺してやりたくなる。アカツキのやさしさを利用しようと――アカツキを困らせてやろうと――そんな浅薄な思慮を抱いてしまったあのときのボクを――アカツキを巻き込んでしまった愚かなボクを――ボクは消してしまいたい。

 辛かったんだ。

 そうだとも。ボクはいつだって自分を苦しめたくなくって。そうやって苦痛から逃げてきた。目を背けてきた。傷つくことを避けていただけだった。だからボクは自分のしてきた選択を正当化することで自己弁護した。

 ――ボクはわるくない。

 ――全部彼女がわるいのだと。

 いつしかボクは自分だけではなく、「ドール」たちを、真の意味で解放するという大義を掲げた。そうして《彼女》からもうすぐ「解放」されてしまいそうなドールがいると知ってからは。奮起したつもりになって。彼女たちのためにと、こうして自ら行動した。本当はすべて自分のためなのに。なのにボクは。理由を。動機を。大義を。自分以外へ求めた。自分のための贖罪をボクはどうにかして背負いたくって。赦されたくって。自分を許したくって。そうしてボクは自ら行動することを選んだのだ。《あの人》の娘をさらいにここへ、アークティクス・サイドへ無謀な侵入をしてまで。

 そして――こんなことになってしまった。

 ボクには解る。

 ここは《世界》だ。

 此処こそが《世界》だ。

 《アークティクス》――。

 視覚に頼って視える風景などではない。

 物体の放つ波紋――。

 微々たるメノフェノンのゆらぎ――。

 それらを微かに感じるしかないのだろう。

 そのゆらぎこそが《世界》のあるべき姿なのだろう。

 ここに差異はない。

 色も音も味も香りも感触も感性も悟性も理性も知覚も自我も無意識も無自覚ですら、全ては同一だ。

 同じものを示し、同じものから発せられている。この《世界》から発せられている。

 なら、発しているものとはなんだ?

 世界という水面をゆらしているものとはなんだ?

 それが、存在という個々の世界なのだろうか。〈レクス〉なのだろうか。

 〈レクス〉があるから、物質は存在し、形を得るのだろうか。そうして『世界』を構成するのだろうか。

 ならば無機物にも、または命なきものにも〈レクス〉があるということか。

 命とは、自我のあるなしでも、意識のあるなしでも、または知能の有無でもなく、〈レクス〉を有しているか否かなのだろうか。ならば〈レクス〉と〈レクス〉が形作る『プレクス』とは、それもまた命で形作られたひとつの『生命』の在り方なのだろうか。

 世界は世界を内包している。

 それはまた、命が命を形成しているという連鎖なのだろう。

 では最後にたどりつく命とはなんだ。

 最初にある単体の命とはなんだ。

 たぶん、そこにあるのは双方共におんなじものだろう。

 一は全を生み。

 全は一を生む。

 世界は世界のために細分化し、再構築を繰り返すことでより高等な「なにか」へ辿りつこうとしている。

 ――変貌を遂げようとしている。

 その「なにか」をあえて言語化するならば、それはきっと、未だかつて現実に存在することのなかった――「理想」という名の「完全」なのかもしれない。

 そのための犠牲がきっと。

 今を存在する。

 ボクたち。

 


 ***弥寺***

 ついにきちまった。

 愚痴のひとつも吐きたくなるってもんだ。

 《あの女》が消えたいま、ここで成そうと思っていた目的も失われた。

 なにが、「《アークティクス》は深遠だ」だ。

 ライドのやろう、いい加減なことばかり宣巻きやがって。

 深遠もなにも、ここに深さも広さも形すらねえだろうが。

 無ではない。

 有でもない。

 ここにはただ単に存在が存在しているだけだ。

 無という存在も、または有という存在も、同一に、平等に、この《世界》へ存在として存在している。

 言葉遊びにしてはまあまあ面白いが、あいにく俺は詩人ではない。この感じられる《世界》を――〈俺のレクス〉と同調しているこの《世界》を――曖昧な言葉などで表そうとなどと酔狂にはなれない。そうだとも。言葉なんぞクソの役にも立ちやしねえ。

 ああ、まったく。

 これだからライド、てめえの言葉は信用ならねえんだ。言葉どころかお前そのものを信用できなくなるんだ。

 《あの女》を屠った事実も、ライド、お前さえしっかりしてりゃ、教えてやっても良かったものを――告げたところでお前は、オリアなんとかいう《あの女》の娘を素材にしたのだろうな。それどころか《あの女》がいなくなったことで嬉々として実験を継続していたのだろうな。まあ、それもお前らしい。

 だがな、面白くねえんだよそれじゃあ。

 そう。

 面白くないと言えば――今さらながら思いだしちまった。

 考えてもみれば、ノドカを処分せずに生かしておいたのも俺の娯楽だった。

 あれは、そう……、

 ティクス・ブレイク寸前の虚空だった。

 到着したときにはもう町が消えていた。建物も人もニボシも――奇麗さっぱり消えていた。

 空間に一人寝っ転んでいやがったのが――ノドカだった。

 状況は自明も自明だ。暴走したノドカが町を消した。それも、一撃で。メノフェノン鱗状痕が俺だけでなくミタケンにも知覚できたほどのパーソナリティだった。それは虚空そのものが極度のメノフェノン混濁を引き起こしていたという要因もむろんあっただろうが、それだけでなく、そうだとも、あれだけ広域な地区で、たったひとつの小さな玉を俺はみつけた。

 虚空の中心にむかって窪んでいた地面――あの巨大なクレータ――の中心に落ちていた一つの黒い玉。あれが町なのだと俺には解った。その鯛の目玉ほどの大きさの玉に――町ごと――人間たちごと――圧縮されているのだと知れた。その小さな玉からは、メノフェノン鱗状痕が噴き出しているかのごとく纏わりついていたからだ。その玉そのものが高濃度の「虚空」なのだと知れた。

 ノドカをアークティクス・サイドへ誘導した俺は、あいつが暴走した事実を、町ひとつ消し去った事実ごと隠蔽した。動機は単純だ。

 ――面白そうだったからだ。

 暴走した者が自我を取り戻して、なお且つパーソナリティを維持している事例など、俺以外になかった。

 だがノドカは復帰した。

 暴走から自力で復帰した。しかもあいつは、俺と拮抗しうるパーソナリティ値を有していながらに、俺とは系統の異なる特質だった。そんな逸材を熟すまで待たずして毀すなど、ありえねえだろうが。

 ノドカ――あいつは、延々と時間を消費しつづけるだけの俺にとってこのうえない玩具だった。そう、玩具になるはずだった。だのにあのやろう、弟ができたとか抜かしやがってからに、途端に腑抜けになりやがった。せっかく抱かせてやったミタケンへの怒りも薄れたように思われた。あのままあいつが調べつづけていれば、いずれ俺へと辿りついただろうに。

 俺の思惑としてはこうだ。

 真実を突き詰めようと穿鑿するノドカ。穿鑿するあいだに生じる焦燥はそのまま憤りへと変換されていき、蓄積した怒りは俺へと放たれるはずだった。だが、期待はずれも甚だしい。あの女は、一度は失った家族をふたたび得て、蓄積した怒りや憤懣を、あの小僧への関心へと変えていきやがった。

 ああ、まったく。無駄な事をした。

 だが、それもまたよしとする。

 なあ、ライド。

 お前が嘯いていた言葉をひとつだけ信用してやるよ。

 無駄なことって、どうしてだろうな。

 お前が言い張っていたように。

 なかなかどうして。

 おもしろい。

 


 ***コロセ***

 カエデの思考と。

 弥寺の思考と。

 僕の思考と。

 そうして紐を編むように、捻じれ、絡みあっていく――思考たち。

 思いとは脳内で生じる微小な変化なのだと聞き及ぶ。要するに物質の変遷なのだろう。その変遷する物質は《世界》に生じる波紋であり。思考とはとどのつまりが、《世界》そのものなのだろう。

 世界と世界と世界と世界……そうして「思考」はできあがっていく。

 思考と思考と思考と思考……そうして《世界》は組みあがっていく。

 なにを生むがために。

 どこへゆくがために。

 変遷はさらなる変遷をつづける。

 ながれ続けることで、これまでの変遷を知覚するような世界を形成し、変遷を「沿革」へと昇華していく。変遷を「沿革」へと昇華していくことで、沿革という名の「過去」を知覚する存在を生みだす。そうしてあらたな変遷はより含みを持った「変遷」となるのだろう。だからきっと、《世界》の成分である僕たちには――僕たちの遺伝子には――それと似たようなシステムが備わっているのだと僕は悟った。

 もう、とんでもなく一途で。

 とんでもなく単純なシステム。

 それがながれか。

 大きなながれなのだろうか。

 抗いたい。

 僕はそれに抗いたい。

 だってなんだか。

 おもしろそうじゃないか。


 ***主観は失われ、客観こそが主格となる***

 世界は安定を求めている。水が高いところから低いところへ流れるように、零れた水が器へ戻ることのないように。世界は安定を求めて変遷をつづける。しかしそれは精確ではない。

 世界が求めているのは安定ではない。

 世界が求めているのは完全系である。

 ただひとつの在るべきすがた。在るべきかたち。在るべきつながり。真理と呼ばれるただひとつ。

 逆説的にだから真理は現時点においてまだ存在していないことになる。もっとも、「現時点で」ということは、いずれ真理と呼ばれるものが生じるのかもしれないという可能性を示唆し、もしかすると真理と呼ばれるものが崩れたことでこれほどまでに不完全な人類という種が生じているのかもしれない。

 弥寺は言った――人類はバクなのだと。

 それはある意味で正鵠を射ているし、またある意味ではやはり正しくはない。人類はファジィであるが、そのファジィが形作ろうとしているモノこそが真理である。むろん人類に限ったことではない。あらゆる存在がその曖昧さ、希薄さ、卑小さ、をともなっている不完全な代物であることは敢えて言を俟つこともないだろう。

 真に《完全な存在》であるならば、変遷など生じない。

 だからこそ、ながれが生じている現段階ではやはり、真に《完全な存在》はまだなのだ。

 ゆらぎが生じてしまっているようでは――まだなのである。

 そうして存在がひとつ所にとどまることができぬように、《アークティクス》へ触れた保持者たちは、その不完全さが幸いして、『プレクス』付近の断層まで浮上することとなる。

 密度の薄い〈世界〉は、密度の濃い《世界》に内包されている限り、そこにとどまり続けることはできない。

 それは丁度、水に沈めた気泡がその場にとどまることができぬように。

 

 しかし――このとき。

 《アークティクス》そのものに触れた彼ら保持者は、大きな変化を目の当たりにする。

 まず確認できる大きな変化とは、視覚的に捉える限り、そこにいるのがコロセ・弥寺・カエデ・の三名のみであること。

 つぎに確認できる変化は、コロセの身体が半透明であること。

 そして最後に、彼らの周囲には、大小様々な「蟲」が蠢いていることであった。


   タイム▽スキップ{~基点からおよそ三〇秒後~}


 ***城門努樹a.k.aサイカ***

 どこだろう……ここは。

 わけがわからない。

 サイカは混乱と焦燥と安堵をいちどきに抱いた。

 コロセはどうなった――?

 私はどうしてここにいる――?

 私が今の今までいた場所だとはとうてい思えない。

 だってここは――。

「そう、オレの部屋だよ」

 中年のしぶい声がした。

 なつかしい、声がした。

 サイカの元上司――ウブカタがそこにいた。



   タイム▽スキップ{~基点からおよそ十秒後~}


 ***ライド***

 まっさらな室内。

 弥寺の手によって漂白された「バブルの塔」だ。

 これまでライドを取り巻いていた保持者たちはその場から姿を消し、替わりにそこにいたのはライドの部下であるウブカタであった。

「だいじょうぶかよ」中年は腕を組んだままで、くい、とあごをしゃくった。「つっても言葉が通じる状態じゃねーよな」

 ライドは動かない。

 いや、動けない。

 耳にはウブカタの声が聞こえているのに、まるで身体が自分のものではないように意識が伝わらない。身体に意識が巡らない。思考も大分にぶっている。ふわふわと空気に溶け込んでいくような。かたちを失った気体のように。まるで譫妄している。

「なあ、ライド氏。時間もないんで、単刀直入にお願いするが――」

 ウブカタの声が断続的に脳裡で反響している。

 こだまする彼の声は、音として認識できるものの、言葉としては用をなさなかった。

「お願いなんで、ここいらで死んでもらえねーかな」

 あんたの役目はもう終わったんだ、と言いながらウブカタが歩み寄ってくる。

 今、彼はなんと言った?

 というか彼はどうして裸ん坊なのだ?

 ライドは身体を動かせない。だが視線はウブカタを捉えている。

 目のまえまでくると、組んでいた腕を彼は解いた。

 ライドの胸に、ウブカタの手が押し付けられる。

 亡羊とした意識のなか、ライドは訥々と口にした。

「しに、たく、な……」

「ああ、すまん。そいつぁー無理だ」

 彼の声が脳裡に響くのを最後に――ライドの身体は軽くなった。


 

   タイム△スキップ{~基点からおよそ一分後~}


 ***コロセ***

 同一化――。

 弥寺さんと。カエデと。小春ひより。

 《アークティクス》へ到達していたあいだ僕は。

 彼女たちと「同一化」していた。

 弥寺さんの思考と。

 カエデの思考と。

 コヨリの声と。

 彼らの。

 主観的な沿革と。

 客観的な来歴と。

 そうして彼らの裡側を僕は覗いていた。

 

 でも今はもう。

 切り離されてしまっていて。

 僕はもう。

 ただの僕でしかなかった。

 

 よこにはカエデが立っている。

 すこし離れた場所に弥寺さんもいる。

 視界はひらけている。

 けれど風景は塞がっていた。

「なんだ……これ」カエデがそう溢している。

 ――蟲。

 たとえばこれまで見たこともない形状の生物を目の当たりしたとして、それが動物であるのか、植物であるのか、はたまた昆虫であるのか、それらを分類することは可能だと思う。なぜなら僕はこのとき、なんの疑いももたずにそれらが「蟲」であるのだと直感できていたのだから。

 大きいのと。

 小さいのと。

 飛んでいるのと。

 蠢いているのと。

 百万か、いや、億はいるだろう。

 数億匹の――蟲。

 ぎっしりと。みっしりと。風景を塗りつぶすみたいに世界を脅かすほどの圧倒的数量でぎしぎしともぞもぞとうねうねと蠢き、しゃかしゃかとぞわぞわとわさわさと這えずって、ぶんぶんとごうごうと飛び交い、磊磊落落と蔓延っている。

 もしかしたら目に見えないほど微小な蟲もいるのかもしれない。そのなかで僕らの周囲だけが、まるでドームの内側にいるみたいに蟲が寄りついていなかった。

 蟲でできた「世界」にぽっかりと空いた隙間に僕らは佇んでいた。視れば地面が褐色に濁っている。それもまた僕の右手の断面のようだった。かといって今の僕にはもうその断面を右手に視てとれないのだけれど。

 その代わり――右手が視えるようになった代わりに――僕の身体は……。


「うごくなよ」弥寺さんが呻いた。

 それにつられてカエデが僕に視線を向けてくる。「そこにいろ。つぎ無視したら殺すぞ。オマエは勝手にうごくな」

 なんて幼稚な恫喝なのだろう。僕は頷く。「うごかないよ」

 というよりも今は動けないのだ。

 なぜだか身体を動かせないのだった。

 僕の独白には触れずにカエデは、「それ、なんだ」と問いかけてきた。

 周囲の蟲よりも、僕のこの身体が気になるらしい。

 僕だって知りたい。どうして僕の身体は。

 ――半透明なのだろう。

 どうして僕自身から視ても半透明なのだろう。仮に「浸透」しているだけなら僕の身体は僕から見れば普通に視えているはずなのに。

「おい、娘。お前もうごくな」弥寺さんが声を張った。

 カエデが身体を硬直させる。

 つづけて、「なんであんたが」「えらそうに」「こいつと一緒にするな」「なんだよ」「どうして睨むんだ」「怖い顔したって怖くないからな」「まだ動いてないだろ」「怒られる筋合いはない」とぶつくさ溢している。カエデにこんな一面もあったのか、と僕は微笑ましく思った。

「なに?」とカエデが睨んでくる。「なにか言いたげだ」

 僕はかぶりを振る。

「オマエ、調子にのってないか? 言いたいことがあるならはっきり言え」

「いや、可愛いなと思って」と素直に答えた。「むつけたカエデってなんか、可愛い」

 むっとしてカエデはそっぽを向いた。

「……ぜんぜんうれしくない」

「おこった?」尋ねるとカエデは、「ッるさい! なぐるぞっ」と眼光鋭くして僕を黙らせた。

 カエデにしてはずいぶんとおしとやかな恫喝だった。かといって、殺す気がないのに「殺すぞ」と恫喝するよりかは幾分も効果的だとは思うのだけれど、でも、本当に殺意があるときはそういった警告じみた恫喝はしないものだ。本当に殺したいのなら、殺したい相手に微笑みながら近づいていって無言で殺傷するのがもっとも合理的だと僕は思う。

 僕が黙考していたのでカエデは、「無視するなッ!」と僕の肩をどついた。

 さっきうるさいって……舌の根の乾かぬうちにこれだ。理不尽すぎる。

 カエデは結構な力で殴ったようだった。

 だのにその衝撃は、僕の身体の表層に伝播するだけで内部まで響いてはこなかった。僕はよろけることもなく、またほとんど痛みを感じることもなく、むしろカエデのほうがこぶしを撫でつけて怪訝な表情で僕のことを眺めていた。

「なあ、オマエ、やっぱりそれ、変じゃ……」

 とカエデが口にした、そのとき。

「動くンじゃねえよッ」と弥寺さんが堪えかねたように吠えた。

 カエデは再度身体を硬直させた。

 僕もまた、動けないままで弥寺さんのほうを見遣った。

「一歩でもそこを動くな。暢気に構えやがって莫迦どもが、解らねえのか、この状況がよッ」

 言われて僕は気づいた。

 そう、この状況は異様なのだ。

 空間を覆う闇みたいに、蟲の群れが蠢いていることや、今いるこの場所が通常の世界ではないのだということは、初見から分かっていたけれど、それらについて僕はとくに危機感を抱いてはいなかった。だって蟲たちは僕らを取り囲んでいるだけで、一向に近寄ってこないし、僕とカエデと弥寺さんは損傷もなく生存しつづけているのだから。

 けれど僕は気が付いた。

 あの弥寺さんが額に汗をかいている。

 それの意味するところを僕はようやく察し至った。

 この安全域は弥寺さんがつくりだしてくれているのだ。

 弥寺さんが額に汗をかくほどの労力を費やして保持されている安全なのだ。

 そうだとも。

 よくよく目を凝らしてみれば、僕らのいるこの安全域の境では蟲たちが次々と消えていっている。破壊され、紐解かれ、形をなくしていっている。そしてその空いた隙間に後方の蟲が押し寄せてはまた消えて――とまさに怒涛の勢いで繰り返されている。それがまるで蠢いて見えるのだ。いや、実際に蠢いているのだろう。押し寄せているのだろう。それでも弥寺さんが相殺させてくれているのだ。

 さらに僕は気が付いた。

 安全域が徐々に狭まってきている。蟲たちが僕らへ近づいてきている。萎んでいく風船のように前後左右と頭上から、蟲たちが綺麗な半球の境界を保ったままでじりじりとにじり寄るように、けれど確実にその収斂の速度をあげながら近づいてきている。

 そしてたぶん――。

 この安全域は、長くもたないのだろう。

 カエデもまたそのことに気付いたようだった。表情が曇っている。

 くっく、と弥寺さんが喉を鳴らした。

 愉快そうなのに、でも、どこか卑屈な笑いだった。

「娘、お前のその推測は概ね正しい。だがひとつ訂正しておこう」

 ――長くもたないんじゃない。

 ――もう、もたねーんだよ。

 くっく、とまた喉を鳴らしてから弥寺さんは。

「わりいな」と謝罪した。

 生まれて初めて口にしただろうその謝罪が、はたしてカエデと僕に向けられた謝罪であるのかは、このさき、一生かけたとしても僕にはわかりそうにもなかった。

 きれいなアーチを描いていた半球の安全域が、底の抜けた夜空のように崩壊した。

 僕らは蟲に、覆われた。



 ***血肖液***

 血肖液がクリアボックスからの密閉から解放されたことで、『ティクス・ブレイク』が発生したかどうかは、現状、定かではなかった。

 ただひとつ言えることは、その場にいた保持者たちの存在が消滅しなかったということだ。

 『プレクス』付近の断層になぜこのような「蟲の群」が潜んでいるのかもまた現状詳らかではない。

 この日初めて「浸透」を体験したコロセがその蟲の群について知るよしもなく、またカエデもそれらの蟲たちが何なのかを推測することすらままならなかった。

 しかしこのなかでただひとり、弥寺だけがこの蟲の群がいかような存在であるのかについての解答を得ていた。

 弥寺はその蟲のような「それ」を見たことがあった。

 いや、その「蟲」に似た機器を見たことがあった――がより正確だろう。

 血肖液の原液を保持者から抽出して、『血肖液』として錬成する際にライドが用いていた機器である。それが今は目のまえで生きている。そう、生きているのだと判る。波紋を発しているからだ。それは一匹一匹から発せられているというよりも、蟲の群がひと纏まりで、ひとつの巨大な個となって波紋を発しているように感じられる。

 それはまるで、蟲の一匹一匹が、自由意思をもった細胞であるかのように。

 もしかすると、この「世界」は、その複合された強大な蟲の〈レクス〉なのかもしれない。

 弥寺はふと、そんなことを思った。



 ***コロセ***

 弥寺さんのつくりだしてくれていた安全域が崩壊するその直前――僕は目にしていた。

 ぎしぎし、とどこまでもぶ厚く、ぎゅうぎゅう詰めになっているだろうこの蟲の群れの向こう側――そこへうっすらと女性が立っているのが透けて視えていた。視えていたとは言っても、それが蟲の群れの向こう側に視えている風景なのか、それとも蟲の群れに重なって視えている像なのかは判断つかなかった。

 その女性はこちらにはまるで気づいていないようだった。僕には彼女の姿が視えているのに、彼女からは僕らのこの状況が視えていないらしい。

 瞬間的に僕は察した。

 それは僕らが「浸透」しているからなのだと。

 マジックミラーのようなものなのかもしれない。または、どちらがどちらの世界を内包しているのかという差異が、この偏った一方的な視覚を僕に与えているのかもしれない。二次元に描かれたキャラクタたちが、三次元の僕らを認識できないように。あちら側にいる彼女はこちら側にいる僕には気づかない。ああでも、二次元に描かれているのならばそれは想像上の産物であって、気付くも気付かないも、そもそもが絵に描かれたキャラクタたちに自我などはないのだ。

 だから、いまの比喩は不適切なのかもしれないな――などと悠長にも僕はそんな考察を巡らせていた。

 蟲の群れはあっという間に僕らを包みこんでいく。

 びっしりと蟲たちが身体に張りついていく。



 ***カエデ***

 コロセは隣にいるはずなのにもうなにも視えない。

 波紋だって。

 より大きな波紋に呑みこまれて。

 もみ消されて。

 これっぱかしも感知できやしない。

 いや、とカエデは記憶を探る。こうなる前からコロセの波紋は感じられなかった。そこにコロセ自身が存在しないかのごとく。微塵も感じられなかった。

 変化が著しい。

 まるである地点へと急速に収斂していくような。

 乱雑に波打っていた流れが整えられて渦を巻いているような。

 ひとりだけでそれに抗おうとしてもまるで歯が立たない。

 たったひとりだけが抗えたところで意味をなさない。

 むしろ、どこかで誰かがその「ながれ」に抗っていたならば、その者を助けるという意味で、足をすくってやるべきなのかもしれない。一緒に流されてやるべきなのかもしれない。

 カエデはふと、そんなことを思った。

 


 ***弥寺***

 喰われている。

 ――蟲。

 こいつらはあの〈獣〉と同種なのだと弥寺には知れた。

 演繹的にでもなく、または帰納的にでもなく、直感としてそうなのだと知れた。

 肉体を蝕まれるわけではない。

 こいつらは、

 ――存在を蝕むのだ。

 すなわち、〈レクス〉を侵すのだろう。

 成す術がないわけではない。

 全力でパーソナリティを解放すれば、弥寺の〈レクス〉が蝕まれることはなくなるはずである。

 ただしそれでも蟲どもは、弥寺のパーソナリティをも臆することなく、〈弥寺〉を喰らおうとなおも押し寄せてくるだろう。

 こいつら蟲が引くことはない。

 ならば弥寺が息絶えるか、または蟲が殲滅するか。

 どちらがさきにくたばるか。その我慢比べといったところか。

 それでも我慢比べをするだけの時間は稼げるのである。そして弥寺が本気を出し続けることができれば、いずれ蟲は殲滅するだろう。

 だが問題がひとつあった。

 全力でのパーソナリティの解放は、弥寺にしてみれば暴走するのと同じようなことだ。《リザ・セパレン=シュガー》との一戦以降、パーソナリティの制御ができなくなってきている。

 それは一方で、常にパーソナリティを発動しながらも、力を抑えていた弥寺にとっては、全力を出しても自分が死に至ることはなくなったという僥倖でもあった。

 これまで弥寺は全力を出すことができなかった。すべてのパーソナリティを解放すれば途端に己が死に至ってしまうのだと直感していたからだ。だが、なぜか今、その超感覚的な不安は払拭されていた。

 現に弥寺は《彼女》を葬った際に、一度、全力を出している。

 暴走状態から自力で自我を取り戻したことのある弥寺にとって暴走してしまうこと自体は(無視するにはいささか大きすぎる不安であるとはいえ)とりたてて問題視する必要のある危惧ではなかった。

 だから弥寺にとってもっとも気がかりな問題とは現状、コロセとカエデの安否についてであった。

 仮に弥寺が本気でパーソナリティを発動させたとすれば、蟲が殲滅する前に彼らは姿を消すだろう。それは文字通り、その姿を維持できずに、霧散霧消するのである。

 とは言っても、どこでコロセが死のうと、いつカエデが毀れようとも、それは弥寺にとってどうでもよい瑣末なこと。カエデにいたっては、仮にも《あの女》のドールなのだ。安否を気遣う義理などつゆの欠片ほどもない。

 だが一方で弥寺はこうも考えている。

 いったん生かそうと決めた小僧を、自分の命いとおしさに殺すなど、俺の道理に反する。俺は「俺が俺であるため」に俺が決めたことを覆すつもりはない。否、決定事項の方針を途中で切り替えることはあるだろう。だがその方針の変更を自己保身のためにするなど断じて拒否する。

 俺は俺のために小僧を殺すわけにはいかない――と弥寺はそう考えている。

 だがその理屈では、彼がどうしてカエデの安否まで省みているのかの答えにはなっていない。そもそもなぜ、処分を指示されていたコロセを放置し、あまつさえ離反者に該当する城門努樹(サイカ)をも放任しようとしたのか、それらについての論理的な回答を弥寺は持ち合わせていない。そこに潜む自家撞着に弥寺は気が付くことはなった。いや、気付いているのかもしれない。だからこそ、目を逸らし、素知らぬ振りをしているのだろうか。

 それはまた、「他人のためだ」と言い張って、自己利益を追求している者たちと同じような、恣意的な盲目なのかもしれない。

 


 ***コロセ***

 ――だいじょうぶ。

 とコヨリが言った。

 ――だいじょうぶだから。

 蟲が視界を覆っている。いや、視界が闇なのは、たんに僕がかたく目をつむっているからなのだけれど、それでもそうしなくてはならない状況をつくっているのは蟲なのだから、結果的には蟲が僕の視界を覆っていると言ってもそう大きな齟齬はないだろう。齟齬があってもこの際だから目をつむろう。

 そうだとも、今は目をつむることしか僕にはできない。

 小さな蟲が僕にある穴という穴に侵入してこようとしている。いや、蟲が自発的にそうしているのか、それともおしくらまんじゅうの要領で、入りたくもない僕の鼻や口や耳や目に、押しやられているだけのことなのか、僕には判断つかなかった。どちらにせよ、僕は目をつむり、両手で耳を塞いで、あいた両手の親ゆびで挟むように鼻をつまみ、蟲の侵入を阻んでいる。そうして姑息にこの場をやり過ごすのをただ待つように、じい、と堪えるしかなかった。もちろんおしりの穴だって僕は力一杯に塞いでいる。屈むと肛門が開いてしまうので立ったままの姿勢を維持していた。そうだとも、むしろ、無数の蟲に襲いかかられて咄嗟にしゃがまなかった僕の神経を褒めてあげたいくらいだ。こうやって無力な自分を慰めるくらいには僕は冷静だった。

 そんな状況で聴こえてきたコヨリの声がある。

 ――だいじょうぶだから。

 いやいや、大丈夫なものか、とさすがの僕も苦笑せざるを得ない。

 他人ごとだと思ってコヨリってばなんてセンスのいい冗句だろう、と素直に称賛したくもなる。

 そもそも僕は身体を動かせないのだ。この場から一歩だって移動できない。両手で、顔にある穴という穴を塞ぐのが精いっぱいの僕なんかに、この状況を打破できる術はない。だのにコヨリは繰り返す。

 だいじょうぶだから――と。

 どうしてそんなことが言えるのか。疑うわけではないけれど、不思議に思うくらいには僕も自分の置かれているこの状況が異常であることは認識している。

 ――ごめんなさい、よくわからないの。

 でも、

 ――だいじょうぶだから。

 とコヨリは繰り返す。

 そこまで言われてしまっては、もう、僕は認めるしかない。

 きっと大丈夫なのだと。

 まかせていいのだろうか。

 すべてをながれにゆだねてしまって。

 そしたら僕はどうなってしまうのだろうか。

 僕はどうしたいのだろうか。どうなりたいのだろうか。

 おや、と僕は気付く。

 ――思いだせない。

 僕はいったいなにを望み、なにをどうしたかったのだろう。

 僕はどうなりたかったのだろう。

 ああそうだ、と思いだす。

 ずっとむかしに抱いていた憧憬。

 僕は、ヒーローに成りたかった。

 けれど、成れなかった。

 成れないのだと、知ってしまったから。

 それからえっと……そうだ、トモダチが欲しくって。みんなと仲良くなりたくって。みんなが仲良くなれればいいなと思って。僕みたいに寂しい思いをして欲しくなくって。この世界から悲しい気持ちだとか、寂しい気持ちだとか、そういった楽しくない気持ちが無くなればいいなって。そしたら僕も寂しくなくって。哀しくもならないのだと思っていて。でもそうじゃなかった。それじゃダメだった。無くなるべきは気持ちじゃないのだと知った。無くならないのは気持ちじゃなくって。人でもなくって。そういった現象なのだと知って。なら僕になにができるのかと考えて。何もできやしないのだと知って。僕は。そうだ。あきらめたんだ。

 

 ――あきらめてしまったのだ。

 

 でも、僕は、なら僕は、どうしたいのだろう。

 触れられる世界で。触れられるひとたちを。僕はせめて。彼らの世界からくらいは。そういった現象を取り除いてあげられないだろうか。そう考えていたような気がする。

 ――そのひとたちってだれ?

コヨリの声がした。

そう、誰だっけ……。

コヨリと、それからえっと、思いだせない。

 ――忘れてしまったの?

そうじゃない、そうじゃないんだ。

大切なひとなら、本当に大切だったなら。

忘れるはずはないんだ。

 ――でも、忘れてしまっていますよ。

ちがうんだ、待って、もうちょっとで思いだせそうだから。

 ――ちがくないです。

え?

 ――思いだせる、ということは、忘れているということですよ。

どこかで聞いたことのある言葉だ。

 ――これはアナタが思っていたことです。アナタの言葉です。

なら僕は、そう。

僕にとって大切なひとのことを。

忘れてしまっているということになる?

 ――もしくは、その方がアナタにとって大切ではなかったかです。

大切じゃ……ない。

 ――困らせるようなことを言って、ごめんなさい。

いや、でも、そうなのかもしれない。

大切なら忘れないよね。

 ――大切なことでも忘れてしまうときって、でも、ありますよ。

コヨリ、言ってること、さっきとちがう。

 ――ごめんなさい……すこし、イジワルしたくなっちゃって。

別にいいよ。コヨリにイジワルされるのは、なんだろう、イヤじゃない。むしろすこし楽しい。きっと僕が忘れているなにかも、そんなふうなものの気がする。寂しいけれど愛しくて、悲しいけれど心地よくって、切ないけれど温かくて、辛いけれど手放したくない、そんな捻じれたものだった気がする。そうだ、なら、なおのこと思いださなくっちゃ。忘れてしまっているのなら、思いだしてあげなくちゃ。

 ――思いだしたいですか?

うん。思いだしたい。

とても大切なことのような気がするから。

とても大切な人だって気がするから。

 ――コロちゃんがそう言うのなら。

コヨリ、知ってるの?

 ――うん。

教えてくれるの?

 ――うん。

なら、僕が忘れている大切なことって。

大切なひとって……だれ?

 

 相槌を打つような軽い口調でコヨリはつぶやいた。

 

 ――じょうもん、どき。 

 

 そのコヨリのささめきは重量をともなってさざ波のように。

 僕の脳裡に響き、満たし、揺るがした。

 とてもとても大切なものを忘れていた。

 そうだ、努樹は……どこ?

 


   タイム▽スキップ{~基点からおよそ一分後~}


 ***ウブカタ***

「どうしてウブカタさんが?」

 どうしてここにおられるのです、とサイカが狼狽している。それも致し方ないことだろう。サイカにしてみれば、急に死線から遠ざけられたも同然の状況だ。むしろその程度しか動揺を表面にださないところを褒めてやってもよいくらいだった。だがウブカタは指摘を返した。

「その質問は不適切だ。問うならこうだろ? 『どうして私がここに連れてこられたのでしょうか?』もしくは、『どうしてあなたが私に干渉されているのですか』だ」

 サイカは目を伏せて考え込んでいる。やがて、「どうしてウブカタさんは暗殺部をお辞めになられたのですか?」と問いを変えた。

「そうくるかよ?」ウブカタはうなじを掻く。「まあいいや。その質問に対する答えはだな、『忙しくなったから』だ」 

「いそがしく……ですか」

「ああ。あの時期にちょっとな。個人的な厄介事だ。おまえが気にすることじゃねぇよ」

「そんな理由でよく承諾してくれましたね、ライドさんが」

「いいだろうがよ、んなことは。大事のまえの小事ってやつだ」

「ですが、どうして現在こうして極秘裏に動かれているのですか? 暗殺部を辞任されたはずのウブカタさんが」

「どうしてそう思う?」

 極秘裏に動いているなどと、どうしてそう思うのだ、とウブカタは疑問する。

「ライドさんはウブカタさんたちに侵入者の処分を命じていたはずです。ですが、侵入者であるところの『あの二人』が無事にそろってあの場に到着しました。その一方でウブカタさんもあの場におられたということは、ライドさんの指示のほかにもうひとつの任務があり、そのために独断で動かれていたということではないのですか? それは多分ですが、ライドさんよりもより組織の骨子に関わられている方から仰せつかっている任務――違いますか?」

「侵入者があの場にいたってことは、オレがあいつらを追って辿りついたとは思わねぇのか?」

「それはないでしょう」サイカは疲れたように微笑む。「でしたらイルカさんも一緒にくるはずです。ですがウブカタさんはお一人です」

「あいつはお荷物だからな。置いてきた」

「ええまあ」そういうことにしておきましょう、と生意気にもサイカは嘯いた。

 だがその心中は動揺を必死に抑えようとしている混乱で埋まっている。サイカが冷静とは程遠い精神状態であることは波紋を読まずとも、サイカの異常な発汗具合をみれば、ウブカタにも容易に察し至れた。

「まあ、感動の再会はこの辺にして――本題だ」

 表情をかたくしてサイカが頷く。

「さきの状況はもう、説明はいらんだろう。ライドが暴走し、侵入者二名のうち一人がライドと『同一化』しようとした。それを弥寺が阻止。その結果、あの室内は消失した」

 ウブカタは多少歪曲して説明した。実際には弥寺は阻止しきれていなかった。

「まさか……えっ、消失……したんですか? あの場にいた者たちは、その、無事なんでしょうか?」

 サイカが驚愕しているが、ウブカタは無視して話を続ける。「もう一方の侵入者は、《リザ・セパレン=シュガー》のドールだ。オレたちが対抗できる相手じゃねぇ」

 それはサイカも重々承知のようで。神妙に頷いている。

「そしてあの場にいたあの娘――オリア・リュコシ=シュガーのことはとくに言及せずともいいだろ? オレよりもサイカ、おまえのほうが詳しいだろうからな」

「はい」とサイカは首肯した。

 きっとこれでサイカはおおよその推測はついただろう。ウブカタが『ゼンイキ・プロジェクト』のことまでも知っているような、組織にとって特別な人間であることを。だがそれもまた正しくはない。しかしウブカタにとっては都合のよい誤謬である。あえて正そうとは思わなかった。

「でだ。単刀直入に言うがな――」

 ウブカタはサイカのまえに立つ。「おまえは邪魔だ。すぐにでもここを去れ」

 今すぐにだ、と強調する。

 瞬きを数回、サイカは素早くした。「はい?」

「めんどくせーな。一回で聞けっての。チューブは開いといた。すぐにアークティクス・サイドから離脱しろ。んでもって二度と戻ってくんな」

「ど、どうして!」敬語も忘れてサイカが怒鳴った。

「言っただろ。おまえは邪魔なんだよ」

「なっ、なんの邪魔になるとッ!? 私は今、それどころじゃ、」言葉を遮ってウブカタは、サイカの胸倉を掴みあげた。「オレの邪魔をすンなっつッてんだよ」

 ごくり、とサイカの喉が鳴った。

「いい子だ」サイカから手を離す。「時間はない。これからおまえだけを転移させる。さきにも言ったようにチューブは開いておいた。あとは勝手に離脱しろ。んでもって自由に生きろ。ここにだけは戻ってくんな」

「でも、コロセは……クウキがまだ!」

「あいつは死なねーよ」

「どうしてッ、どうしてウブカタさんがそんなことを、」と今一度サイカの言葉を遮ってウブカタは答えた。「そうなるようようにそう決められてっからだよ。だがおまえの存在がその決定事項を揺るがしかねねえ。あの餓鬼のことを思うなら、さっさとここから失せろ。おまえは邪魔なんだよ」

「なんの話ですかッ!」

「うるせーな」ウブカタはうなじを掻きあげて、「時間もねえ。離脱するのかしねーのか。ちゃっちゃと決めろや」と選択を迫った。

「いきません」サイカの選択は即答だった。

 その間のみじかさから、決心のかたさが窺えた。

 それでもウブカタはもう一度だけ説得を試みた。「このさき死ぬかもしれねーぞ。それでもいいんだな?」

 サイカは、こくり、と頷いた。

「わかったよ」と嘆息を吐く。ウブカタは諦めた。「オレの好意を蔑にしたおまえがわるい」

「すみません……でした。でも、こうするしか」

「謝るな。オレもまた、こうするしかねぇんだからよ」

「はい? あの、おっしゃっられてる意味が……よく」

 ウブカタはサイカに片手を差しだした。

 手のひらを向けるようにしてから。

 盆を持つように手首を返す。

 とちゃ、と手に落ちる肉塊。

 その手には、紅い肉塊。

 拍動する肉塊。

 どろく、と垂れる粘着質な液体。

 ぱくぱく、とサイカの唇が金魚みたいに開閉している。

「安心しろよ。あの餓鬼は死なねーさ」

 言って、ぐじゅり、と握りつぶす。心臓を。サイカの心臓を。握りつぶす。

 弾力なその感触はいつになっても慣れることはない。いつまでも新鮮だ。

 サイカは膝を崩し、どさり、とその場に倒れた。

 つぶした心臓をサイカの体内へ戻しておく。

 取り出したときと同様に空間を転位する。

 勢いよく鼻から息をもらす。

 ――あっけない。

 ウブカタはサイカを見下ろした。

 眼光を宿したまま。

 サイカは。

 目を見開いたままで。

 城門努樹は。

 涙を浮かべたままで。

 そいつは。

 

 ――微笑み、死んでいる。


   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ三年半前~}


 ***ノドカ***

   ***

「あのウブカタさん……」ボケたんですか、とノドカが冷ややかな視線を送ってくる。

「ボケてねーよ」

「だってここ、シャワールームじゃん!」

 しかもモンドちゃん家の、とノドカが狭い室内を見渡した。つられてウブカタも視線を向ける。

 天井からは細長いつららが床へと伸びている。ウブカタたちが立っている場所だけが鍾乳洞のように隙間が空いていた。きっと今頃ウブカタの部屋にはこの分のつららが散らばっているはずだ。あごを引いて足元を見た。土色の氷で床が覆われている。まるで雪が積もったようにふわふわとしている。発泡スチロールのビーズが無数に散らばっているようにすら感じる。踏み心地が柔らかい。所詮は濁った氷なのに。

 ブタさんのくせに、と足踏みした。

 視線を上げる。

 まだどこも溶けていない。

 むしろ壁に生えた霜がより分厚さを増していた。

「もしかしてウブカタさん、洗髪のお時間ですか? お出かけ前には髪の毛のケアですか? ああもう、こんなときになんて悠長なっ! あのだね、中年、よく聞きな。ハゲるのがさきかボケるのがさきかで悩むお年ごろだとは思いますし、毛を失くしまいと健気なのも認めますけどね――あたい、できれば早めに離脱したいんですよ」

 決心が揺らがないうちに、とノドカは息巻いた。

「いいんだよここで」と足で床を掃く。押しのけられた堆積物が山をつくった。「まあ、なんだ。一分くらいオレの話に付き合ってくれ。別れの挨拶だとでも思ってよ」

 探るような目つきを隠すことなくノドカは、仕方ねぇな、の溜息を吐いた。「どうぞ」

「オレのパーソナリティってよ、空間転位って言えばまあ、一言で説明できちまう単純な特質なわけだが――」言いながらウブカタは床に手を翳した。「――こうしてオレが指定した空間を、」と語尾を強めると一瞬で床が綺麗になった。「まあ、オレが指定した空間をだな、こうして、もう一つ指定しておいたほうの空間と入れ替えることができるわけだ」

「ええまあ、すごいですよね」便利ですし、とノドカは淡泊に褒めた。

 何度も見ているのだ、今さらノドカが驚くわけもない。

「で、だ。オレの場合、このもう一つの座標の指定、というのが難しい。だから、オレ自身を転移させたりだとか、遠くの場所の空間と転位しあったりだとかはかなり集中力がいるし、発動から始動までに時間がかかる。だから、瞬間移動としてはかなり質がわるいわけよ。あまり知らない場所だと転位そのものが困難だし」

「自己紹介とか、今さら過ぎますけど」

「いいじゃねーか。最期くらい」ウブカタは背を向ける。「でだな、ノドカちゃんってオレがニボシをどうやって屠っているか見たことねぇだろ?」

「ええ。知りませんね。大抵は弥寺さんが処分してくれますし、そうでなくとも大概はあたいひとりでこと足りますからね。大体、ウブカタさん、手伝ってくれないじゃないですか」

「そうそれよ。その誤解を解いておきたかったんだよオレはさ」

 どの誤解ですか、とノドカが首を傾げたのが声の変質で判った。

 背を向けたままでウブカタは、「オレはきちんと手伝ってたよ」と片手を持ち上げた。「ノドカちゃんたちがニボシをまとめて処分できるようにって、オレはこうしてニボシどもの心臓を取り出してたんだからな」

 感謝しろよ、とウブカタは振り返った。

 顔面蒼白のノドカ。

 彼女の視線はまっすぐとこちらの手を捉えている。

 ウブカタの手には。

 痙攣するように弱々しく脈動している。

 ――心臓。

 伸縮するたびに赤と黒の血が、どろく、と垂れる。

 動脈血と静脈血が、どろく、と垂れる。

 ノドカの視線がウブカタの手から離れ、ウブカタの顔へと向かった。

 焦点を失っているノドカの瞳は、まどろんでいる。

 懸命に夢へと入らぬように抗っているかのようだ。

 本体から離れてもまだ動きつづける心臓を片手に、ウブカタは、無精ひげを撫でた。

「まあよ、ごくろうさん」

 ぐしゃり、と膝から崩れ落ちるノドカ。

 それでも心臓だけはまだ動いている。

 ぐにゃり、と握って。

 しぼる心臓は。

 温かい。

 とくとく、としたたる血はそのままで。

 もとの場所へと戻しておいた。

 ノドカの胸へと送っておいた。

 けれど手のひらは。

 黒く。

 塗れたままだった。

 赤く。

 濁ったままだった。

 


   ***長閑な死***

 なにが起こったのかはすぐにわかった。

 だって心臓が。

 あたいの心臓が――。

 ああ、どうしてこうなるかなぁ。

 まあ、いいんだ。

 あたいはどうせ死んだようなものだもん。

 外に出たって、誰もいないし。

 あたいを知っている人も、

 あたいが知っている人も、

 あたいを待っている人も、

 あたいが待っていたい人も、

 誰もいない。

 ああ、なんだろうな。

 約束、守ってくれるのかな。

 あの子のこと。助けてくれるって約束したのに。

 この中年はもう。どうしてこうもひとを小バカにしたように。

 波紋、読んでたつもりなのに。フェイクかよぉ。なにがイルカちゃんに頼まれただ。なにが恩返しだ。らしくはないとは思っていたけどいかにもあり得なさそうな感じがまたさ、現実的だったんだもん。

 あ、なんだろう。なにか言ってる。

 もう、なんにもきこえないのに。

 こわいくらいにしずかなんだ。

 骨の軋みも、肉の伸縮も、血の脈動も、なにもかも。

 さむくはない。あつくもない。

 からっぽなんだ。

 希薄なんだ。

 どんどんあたいの裡から消えて無くなっていく。

 最後に残るのはなんだろう。

 最期まで残っているのはなんだろう。

 クウちゃんとの思い出かな。クウちゃんとの記憶だったらいいな。

 あたいは一緒に持っていけるんだから。

 持っていくってどこへかな。

 どこへも持って行けやしないのにね。

 わらっちゃうよね。

 ねえ、クウちゃん。

 わらっちゃうよね。

 ないてんじゃないぞ。このやろう。

 なあ、クソ餓鬼。

 あのさ。クウちゃん。

 

 ねえ、わらって


   タイム△△△スキップ{~基点からおよそ六分後~}


 ***コロセ***

 蟲に囲まれて、覆われて、包まれて。

 目と耳と鼻と口を塞いでいる僕は、呼吸すらしていない。

 けれど呼吸は必要なかった。今の僕には、必要なかった。

 だって、苦しくないのだもの。

 身体がそれを欲していないのだもの。

 努樹を胸に抱いて歩んでいたときにも、僕の肉体は疲労しなかった。

 それもまた、僕の身体が――僕という存在が――疲労を欲しなかったからなのだろう。疲弊を必要としなかったからなのだろう。

 拒んだからなのだろう。

 僕はいつの間にか、普通じゃなくなっていた。これまでと著しく変わっていた。

 けれどそれは異常なのではなく、または、過剰なのでもなく、これが自然体なのだとそう知れた。

 ならばこれこそが普通なのだと僕にとってはこの状態こそが自然なのだとそう思った。

 蟲たちは、僕の身体を取り巻いて、包み込んでいて、そうして僕の「なにか」を蝕んでいく。

 けれど僕にはその浸食がまるで心地よく感じられた。お風呂に浸かって垢をおとすような、余分な要素を研磨していくような爽快さがあった。

 僕はシンプルへと向かっている。

 けれどそれは単純なのであって、簡単なのではないのだろう。

 ――原点回帰。

 僕は、僕以前の、僕になる前の「何か」へとなろうとしている。

 そんな予感があった。

 もっとも、それは予感であって、決して現実ではないのだということも重々承知していた。理解できていた。言ってみればそれは、そういった予感を抱いてしまうくらいに僕が蟲によって浸食されていっているということなのかもしれない。危機感を麻痺されてしまうくらいに「生きようとする本能」を侵されているということなのかもしれない。そのことに僕はまだ思い至れた。自分を客観視できていた。いや、これもまた、僕が僕を離れてしまっているという点で、十二分に危うい状況なのだろうとすら思う。なのに僕は抗おうとは思わなかった。だって、コヨリが言っているのだから。だいじょうぶなのだと。彼女が僕に、そうささめきかけている。

 

 努樹について考える。

 あの場に努樹はいなかった。

 弥寺さんとカエデと僕がいたのにこの場に努樹はいなかった。

 それはそういうことなのだろうと理解した。

 いないということは。

 そういう事なのだと。

 感慨は湧かない。寂寥も。悲哀も。狂気も。憤怒も。なにも湧かない。

 ただただ虚しいだけだった。

 ――人は死ぬ。

 誰しもがそうであるように、努樹もまたそうであっただけなのだ。

 ただどうなのだろう。

 はやすぎる気もする。

 唐突すぎる気がする。

 いや、でも、死はいつだって僕らの裡にあって、唐突もなにも、僕らそのものが死なのだから、ならばこれは受け入れるしかない、ただただ有り触れた現実に過ぎない――だとして、どうしてこうも空虚なのだろう。

 努樹は死んだ。

 きっと死んでしまった。

 消えてしまったのだと知れた。

 これは僕の予感でしかない。この眼でみたわけではない。

 にも拘わらず、ノドカのときと同じように僕にはそれが唯一の真実であるのだと判っていた。

 だって、こうまでも感じられる世界がちがうのだから。

 色褪せているわけではない。物足りないわけでもない。

 ただ、

 なにかが変わってしまっている。

 それはこの《世界》が変わったというよりも――僕の〈世界〉が――僕の〈レクス〉が――変わってしまったのだと、そう言うべきなのかもしれない。

 胸にぽっかりと穴があく、だとか言うけれど、そうじゃないんだ。

 季節が変わるように、風景の色が変わるように、僕の〈レクス〉が変わっている。

 なにかを失ったわけじゃない。

 なのに失ったと錯誤してしまう。

 なにかを得ていたわけでもないのに。

 なにかを失ってしまったと嘆きたくなる。

 その嘆きたくなる、不満が、生じている。

 それこそが大きな変化なのかもしれない。

 失ったのではない。生じてしまったのだ。

 僕はそれを取り除きたかった。

 この世界から無くしたかった。

 ああ、ようやく思いだせたよ。

 そういった存在に、僕はなりたかったんだ。

 


 ***弥寺***

 なにが起こったのかを理解するのには数秒を要した。

 視界がひらけている。蟲が退避していた。

 なぜ――?

 弥寺は極々原始的な疑問を生じさせる。疑問の解は、視界のさきにあった。

 ――カエデ。

 彼女がパーソナリティを解放したままで遠ざかっていく。

 ここにきて弥寺は遅ればせながら合点した。

 光へ集まる虫のように、この蟲たちはより強く発せられている波紋へと集まってくるのだ。

 冷静に観察すれば解ったことではないか、と己の愚鈍さを責める。

 あの小娘は今、パーソナリティを用いて自身を守りながら、激しく振幅する波紋をまったく糊塗していない。弥寺もまた、パーソナリティを用いて己を取り巻く蟲を駆除していたが、(半ば習性になってしまっているためか)それでも波紋は複雑に糊塗していた。

 蟲はカエデを追ってどんどんと退いていく。

 まるで漆黒の竜が飛翔しているような風景である。

 小僧を見遣ると、その場にぽつねんと佇み、呆けている。

「そこにいろ」

 そうとだけ言いつけ、弥寺はカエデの跡を追った。

 ――莫迦が。

 俺があんな小娘に助けられるだと――?

 そんな莫迦なことはあっちゃならねえ。

 弥寺は波紋を意図的に大きく振幅させる。それだけしかできなかった。パーソナリティの制御の利かない現段階で、カエデよりも強大なパーソナリティを放つ気にはなれなかった。それこそ、暴走してしまい兼ねない。

 見たところカエデのパーソナリティは物質の構築であるようだった。

 この空間には弥寺が紐解いた物質の「ちから」が満ちている。原子や分子から物質を構成するよりも、いくぶんも制限なくカエデは物質を構築できるだろう。

 弥寺は思う。この状況下であれば、錬金術もまた不可能ではないかもしれないと。水素を紐解いた「ちから」から、ゴールドやプラチナをつくりだすこともまた不可能ではない気がした。ただ、それには繊密なパーソナリティの制御能力が必要である。破壊を主とする弥寺には不可能である。仮にもパーソナリティの制御すら覚束ない状況ではなおのことだ。

 カエデは自身の周囲に様々な防壁をつくっては、「蟲の群」の、うねる竜巻き然とした追撃から免れている。だがその障壁も蟲が触れたその直後にボロボロと崩れ去る。個人が咄嗟につくりだす薄い壁ごときでは、圧倒的な物量をほこる「蟲の群」が放つその体当たりを、防ぎきれるはずもなかった。それとも蟲が有する「特質」がそうさせるのかもしれない。

 カエデの疲労は目に見えるほどに顕著であった。

 糊塗されていないまっさらな波紋を読むまでもなく。

 

 ――カエデの肉体は蒸散しだしていた。

 

 過剰なパーソナリティの乱発。

 負荷に対する代償だ。

 弥寺は変則的に移動するカエデを追いながら、時間がないことを悟る。

 瞬間瞬間におけるパーソナリティの発動だ、あの小娘が計算しきれているはずもない。

 弥寺は焦った。

 物質の構築には、元となる素材が必要である。「質量保存の法則」や「エネルギィ保存の法則」などの物理原則は、その対象が「ちから」においても変わらない。

 この空間には弥寺の分解した「ちから」が満ちている。しかしそれを素材として遣うと同時に、カエデは自身の肉体までも同時に素材として遣ってしまっているのである。

 もっとも身近にある物質――肉体を。

 反射的であればあるほど、また、連続的であればあるほど、カエデの肉体は欠けていく。

 気付いていないわけではあるまい。

 たしかにあの娘の「特質」であれば、破損した肉体を再構築することもできるだろう。むしろ現状、彼女は、失われていく肉体を再構築しながら遁走しているに違いない。

 だが、このままいけば治癒できる範囲を大きく逸脱するのは目に見えている。

 ――俺とあの娘は違う。

 弥寺は細胞の活性化がもたらす細胞の増殖であるが、カエデの場合は肉体の再構築――失われた範囲が広ければ広いほど――そして失われた部位が複雑な臓器であればあるほど――再構築は難しくなっていく。

 ――莫迦やろうが。

 弥寺は速度を増すが、なかなかカエデに近付けずにいた。

 帯となった「蟲の群」の尾が進路の邪魔をする。

 また、カエデが四方八方とはちゃめちゃに移動するために、最短ルートで向かうことができない。

 なぜこんなにも必死になっているのか。

 弥寺はどこかで納得していた。

 糊塗の施されていないまっさらなカエデの波紋。

 ――あの《女》は俺が処分した、もうお前が苦しむ必要なんてねえんだぞ!

 そう言ってやりたかっただけなのかもしれない。

 ――莫迦やろうがッ!

 カエデはようやく動きを止めた。

 彼女の四肢はすでに、原形を留めてはいなかった。

 


 ***カエデ***

 どうしてだろう。

 なにもかもどうでもよくって、でも、なにもかもが嬉しくって。

 こんなに幸せな気持ちって、これまで一度もなかった。

 ひとのために何かを必死になったことってなかったから。

 いつも自分のことばかりで。

 でも、それが自分のためだなんて思ってもいなくて。

 そう、これがはじめて。

 ねえ、アカツキ。

 ボクは生きているのかな。

 それとも死んでいただけなのかな。

 生きようとしていなかっただけなのかな。

 痛くはない。

 神経も一緒に欠けていく。

 浄化されていくみたいに気持ちがいい。不安はない。強がりじゃない。

 死ぬというのは、こんなに気持ちが安らかになれるものなんだ。

 ボクはやっと死ねるみたい。

 自分の意思で動いて、自分の意思で選んで、本気で生きようとしてみたんだ。

 そしたらさ。

 ほら、 

 ――死ねたよ。

 死ねるってことは、生きていたってことだよね。

 だからボクは、生きるために死ねるんだ。

 死ぬことで生きられるのなら、ボクは、生きるために死を選ぶ。

 なんて傲慢な選択だろう。

 なんて贅沢な人生だろう。

 うれしい。すべての存在にありがとう、って伝えたい。

 それでも、どうだろう。たったひとりのために「ありがとう」と言うのは許されるのかな。

 別にかまわないはずだ。

 ボクにとってそのひとりが特別だってだけのことだから。

 だから勝手に言わせてもらう。

 逢えてよかった。

 ありがとう。

 コロセ。

 ああ。なんだろう、ホント。

 素直になれたときに限って、声に出せないのだから。

 でも今は、すごくうれしい。

 ほら、もう、肉体が蝕まれることがなくなった。

 ボクはもう、死ぬしかなくなった。

 アカツキ。あなたも最期はこうして死ねたのかな。

 それを知れないことが、そう、すこし……心のこり。

 


 ***弥寺***

 けたたましい叫びが空間を微振させた。

 それが人間の叫びであると弥寺が知れたのは、響いてきたその咆哮と同時に、これまで消えていた波紋が突如として発現したからである。

 否、発現した波紋そのものが叫びであった。

 弥寺は直感した。

 

 ――生まれた。

 

 あらたな生命の発現。

 それが何なのかは定かではないにしろ、その波紋の発信源にいるのがあの小僧であることは容易に察し至れた。だが弥寺の足は踵を返すことなくカエデのもとへと向かっていた。

 新たな波紋の発現に蟲の群が進路を曲げた。

 標的を変えたのだろう、あの小僧へと。

 弥寺は振り返ることなく状況を把握した。

 

 カエデが地に伏している。

 息はない。息をする肺がないのだから仕方がない。

 だがまだ生きている。

 生きている、と弥寺は判断した。

「なにかあるか?」

 遺しておきたい言葉はあるか、と弥寺は訊いた。

 話せないにしろ、波紋を通して遺志を聞くことくらいはできるだろう。

 ――ありがとう。

 彼女は一言そう告げた。

 カエデの波紋は線になり。やがて点となり。そうしてどこかへと沈んでいった。

 死に際の言葉が感謝だと。

 ――ふざけた娘だ。

 弥寺は笑った。

 喉を鳴らして笑った。

 妹のことを思いだしていた。

 つぎに小僧のことを思いだし、決意をあらたに立ち上がる。

 カエデの頭部はそこに残った。彼女の波紋はすでにない。

 それでもこのままにしておくわけにはいかなかった。論理的な理由などどこにもない。ただ弥寺がそのままにしておきたくなかっただけのことで。弥寺はカエデの頭部を腕に抱えてこの空間を二分している波紋の境へと向かった。

 ――蟲と小僧。

 蟲どもを殲滅し、小僧を生かすには。

 弥寺にはもう、そうするしかなかった。

 そうすることしか、できなかった。

 


 ***コロセ***

 厭だと思った矢先にこれだ。

 失いたくないと思った矢先に――。

 抱きたくないと思った矢先に――。

 世界は僕に対してどこまでも厳しい。

 ――やさしさを僕から奪っていく。

 僕に優しくあるひとと。

 僕が優しくできるひと。

 僕の裡にある穏やかな感情と……そうやって僕からやさしさを奪っていく。

 いらない。

 もういらない。

 こんな世界、毀れてしまえばいい。

 頭を抱え、

 耳と目を閉じ、

 口を噤んで僕は、

 ――うずくまっている。

 

 小僧、と呼ぶ声がする。コヨリの声ではない。

「小僧、お前はここを出ろ」

 出られるものならとっくに出ているのに。

 それができないからこそのこの状況なのに。

「いいや。俺が引き受ける。この蟲どもを」

 弥寺さんは僕の独白に応えた。

「いいか小僧、蟲どもがお前から離れたらそれと同時にこの空間を縫合する。そのあいだに浮上しろ。お前が離脱したらそのままこの空間を沈める」

 どういうことだろう。そんなに捲し立てるように言われても、わからない。

 でも、分かったところで仕方がない。だって僕は今、動けないのだ。

 抜かしやがる、と弥寺さんは唸った。

「動けないのか、動かないのか――その区別もつかないようで、お前はいったいなにを成すつもりだ」

 なにもしたくないのだと僕は念じた。口を噤んでいるから声を出せない。だから念じた。

 なにも成さずに済むようにと――そうした世界をつくりたいのだと。

 弥寺さんが笑っている。視えなくとも、聴こえなくとも、笑っているのだと感じられた。

「だったらこっから脱してみせろよ」

 抗ってみせろよ、と弥寺さんは僕の頭に手を置いた。

 はじめて出会ったときのように、弥寺さんは僕の頭を、くしゃくしゃ、と撫でるようにした。

 それから弥寺さんは緘黙した。

 彼は僕になにかを握らせようとする。

 耳を押さえていた片手が、頭から引きはがされる。

 抵抗も虚しく、僕は強引にソレを握らされてしまう。

 弥寺さんはまだそこにいる。

 やがてそのままなにも言わずに、僕からしずかに離れていった。

 弥寺さんが背を向けて遠ざかっていく。

 僕はまだ目をつむったままで、けれど視えなくても、聴こえなくても、感じられる弥寺さんその背中はとてもあたたかくって、とても格好よかった。

 そう、

 まるで、

 ヒーローみたいに。

 


 ***弥寺***

 死ぬわけではない。

 死なないために俺は――俺が俺であるために俺は――この選択をすすむ。

 この蟲どもは増殖している。数が減らないどころか、こちらの存在を浸食した分――あの小娘の〈レクス〉を浸食した分――数を増やしてやがる。

 だが、それももうすぐ山を越えるだろう。

 弥寺が本気を出すことでそれは終焉へ向かう。

 ただし、緩やかに向かえる終焉となるだろう。

 蟲どもとの我慢比べがいつ終わるのかは予想もつかない。

 蟲の群は増えることはなくなる。

 だが増殖が止まるわけではない。

 これまで弥寺が己の細胞を滅し続けてきたように、これからは蟲を滅し続けるのだ。

 増殖しつづけるこの蟲の群れを弥寺は滅し続ける。

 どちらかが力尽きるまでそれは延々と続く。

 この空間を縫合し、沈めた段階で、この空間からはなん人も脱することができなくなる。それはこの蟲どもも、また弥寺自身も例外ではなかった。

 だが、それでいい。

 弥寺は愉快だった。

 己のこの酔狂が愉快でたまらなかった。

 これだから人生は、やめられない。

 パーソナリティを最小限に抑えたままで弥寺は、波紋を激しく振幅させる。

 蟲の群れが帯となってうねっている。

 もはや弥寺にはそれが、空を舞う竜にしか視えなかった。そう錯覚することで、人は、愉快になれるものなのかもしれない。それとも、愉快だからこそ、そう視えるのだろうか。

 それはまた、恐怖が幻覚をみせるのと同様の原理なのかもしれない。弥寺は、ふと、そんなことを考えた。



 ***コロセ***

 手をのけて、息ができる。

 指を抜いて、音が聞こえる。

 瞼をひらいて、視界が晴れる。

 意識を身体に巡らせ、足が動く。

 僕は一面を見渡せる。

 弥寺さんがどこにいるのかは判るのに、弥寺さんの姿が視えなかった。

 蟲と。

 蟲の塊と。

 塊の群れと。

 そして、群れの帯。

 蟲という蟲が僕の視界を覆っている。風景を塗りつぶしている。

 いや、この「世界」そのものが〈蟲〉なのだ。

 その蟲へ向けて僕は呼びかける。

「弥寺さん!」

 蟲の羽音や行進の音が耳触りのよい音を奏でているなか。

 ――誰だと思ってやがる。

 弥寺さんはそう唸った。

 ――俺を誰だと。

 突き放すように、冗句を言うみたいな口振りで。

 ――行けよ、小僧。

 彼は快活に謳うのだった。

 ――ここは愉快だ。俺がいかに非力かをよく知れる。

 ――非力だからといって、無力なわけではない。

 ――しばらくここで過ごす。

 ――ここにいる限り俺は。

 ――人でいられる。

 

 見ると僕の右手のゆびには、カエデのやわらかな髪の毛が絡まっていた。

 いつの間にか僕は、カエデの頭部を握っていた。

 そこにあるカエデはなぜだかとても。

 ――うつくしかった。


  

 ***ウブカタ***

 なんとか間に合った。

 ウブカタは安堵する。しかしすぐに気を引き締めた。

 辻褄を合せるというのは狩りに似ている。タイミングを見計らい、生じた隙間を埋める作業だ。シューティングゲームにも似ている気がする。ふと、ウブカタはそんなことを考えた。

 

 頬の腫れを治療すると言って、イルカを通路へ残し「バブルの塔」へ侵入したあとのこと――ウブカタはその場に「浸透」して身をひそめた。弥寺たち六名の保持者が揃っていた。

 緊迫したあの場面ではあらたな侵入者に気付く者はいなかった。ウブカタは、誰にも気付かれずにその場に潜んでいられた。弥寺たちの動向を窺っていられた。

 それもまた当然と言えよう。

 あの空間には前代未聞の『棘紋(きょくもん)』で溢れかえっていた。ライドの乱れた波紋で、ウブカタの波紋の余韻など、きれいさっぱりと掻き消されていた。

 そして弥寺がパーソナリティを発動するその瞬間を見計らってウブカタは、サイカとライドをあの場から空間転位させた。

 いったんライドを無印エリアの通路へと転移させ、一方でサイカを自分の部屋へと転移させる。自分も一緒に転移したせいで、ウブカタはまたしても裸体となった。サイカを部屋に残したままで、ライドをふたたび「バブルの塔」内へと戻す。ウブカタも「バブルの塔」へ転移した。裸体のままで。

 そうして彼は、弥寺たちの消えた「バブルの塔」内において、ライドを処分した。

 その間に要した時間は、一分もかからなかった。

 ライドを処分したその足で、サイカのいる自室へともんどりを打つ。着衣したのちに、サイカへ離反するように交渉するも、あえなく決裂。時間もなく、またこのさきにやらなくてはならないことを考えると、サイカの存在は邪魔である以上に、面倒な障害となり兼ねなかった。

 仕方がないのでウブカタは不承不承(とは言え、処分を決断するのに要した時間は瞬き二回分もなかったわけであるが、)サイカをその場で処分した。

 これらライドとサイカの処分に浪費した時間はおよそ六分だ。

 まずまずの仕事ぶりと言えよう。ウブカタは満足する。

 それからイルカのもとへと戻り、「侵入者処分」の任務を放棄して帰宅するはずであった。

 しかし直後に想定外の問題が発生した。

「バブルの塔」内に、高濃度のメノフェノン混濁が生じたまま、鎮静化しない。

 ――聞いていた話とちがう。

 このまま放っておくわけにはいかない。ウブカタは戸惑った。

 アークティクス・サイドの中枢部で「虚空」が生じてしまっているのだ。それも、「ティクス・ブレイク」を誘発させるやもしれない規模での不安定な「虚空」である。なんとかして「縫合」しなくてはならない。

 さすがにひとりで虚空を縫合するには骨が折れると判断した。ゆえにイルカを連れていかねばならなかった。

 そうしてウブカタは偶然を装って、この異常な空間へとイルカと共に転移した。

 だが問題はそれだけではなかった。

 念のために初めから「浸透」していたウブカタには、そこで何が起こっているのかを知ることができた。

 僅かながらにも感じることができていた。

 あれは……蟲か?

 いや、それよりも、なんだここは?

 ウブカタの知っているさきほどまでの「バブルの塔」ではない。

 亀裂が塞がっている。

 だとすれば、たといここで「ティクス・ブレイク」が引き起きても、この空間なら、外界への影響は起こりえない。ここは世界と乖離している。

 これは……、とウブカタは断定した。

 ――これは、「最境」だ。

 これを仕掛けた人物が誰であるのかをウブカタには類推することができた。

 ――ダイチ・レンド。

 《彼女》からだけでなく、すでに故人であるライドからも話には聞いていた。

 『組織』と《彼女》との均衡を保っている支点が彼なのだと――。

 ノドカと同じ、「最境」を創りだせる保持者なのだと――。

 そう聞いていた。

 ウブカタは一度だけ彼に逢ったことがある。

 《彼女》が指定した喫茶店で以前、目にした。とことん無害な老いた紳士といった印象だった。二十年ちかくもむかしのことである。

 ――彼がここにきているのか?

 こんな展開は聞いていない。

 どう修正すればいいってんだよ。

 ウブカタは警戒する。そうしていったんイルカと同等の『プレクス』まで浮上した。会話を交わしながら、隙をみて、イルカの背中に「言霊」を貼り付けた。その「言霊」は、ライドのポケットに入っていたものである。その「言霊」によってイルカは一時的にパーソナリティを封じられた。

 この状況をイルカに知られるわけにはいかなかった。

 いや、ウブカタは彼女に知られたくはなかったのだ。

 知られたが最後、ウブカタは彼女を処分しなくてはならなくなる。

 ただ、ここへイルカを連れてきた理由が、この空間の「縫合」であった以上、その必要がなくなった今、ともあれ早急に彼女をここから離脱させようとした――その矢先、あれが現れた。

 ――ノロイ・コロセ。

 いや、今はもう、

 ライドの「軸」と「器」を奪い、得て、

 さらに《オリア・リュコシ=シュガー》と同一化した、

 ――人ならざる者。

 言葉は通じるのか……。

 手に持ってやがるあの首はなんだ。

 ウブカタは「浸透」したまま様子を窺った。状況をまったく理解していないイルカであっても、目のまえに悠然とあらわれたアレの危険性は直感できているだろう。少なくとも今はパーソナリティを遣えない身だ。波紋を感じられないことで逆に冷静になれているのかもしれない。

 相手の強大さを理解できないというのは、一種の強みでもある。

 イルカがゆっくりと後ずさりしている。そのまま壁にぶつかり、絶望の表情を浮かべた。

 このままでは追いつめられたイルカがなにを仕出かすかわかったものではない。

 とにかく――とウブカタはここからイルカを連れて離脱することを最優先事項とした。

 

 

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 ***コロセ***

 涙は頬を伝うことなく蒸散する。

 あつい。

 身体があつい。

 氷のようにあつい。

 瞳に張っている濁った涙もまた乾いていく。

 僕は泣いている。

 けれど悲しくない。

 僕は泣いている。

 なのに苦しくない。

 嬉しくもないのに。

 乾いてもないのに。

 瞳はあつく滾っている。

 身体があつく漲っている。

 それでも涼しげな声が聴こえてくる。

 まるで風鈴みたいに。

 ――だいじょうぶ。

 コヨリのささめきが聴こえる。

 いつかいっしょに浴びた、あたたかな陽だまり。

 あのとき共にいられた、日向のなかで。

 僕は思っていたことがある。

 あれ以来、独りぼんやりと想っていた望み。

 ここにきてただひとつ残っている、おそれ。

 

   失いたくない

 

 僕はコヨリを失いたくない。

 その想いがここにきて結晶化したみたいに僕の裡に沈んでいる。

 でも、とコヨリがさびしそうにささやく。

 ――でも、いずれは必ず失ってしまいます。

 ――私とアナタが他人である限り。

 けれど、失えるということは、得ているということなのだから、それは現時点の僕にとっては、このうえない至福の言葉だ。きっと以前の僕なら、こういじけていたはずだ。

「いずれ失ってしまうのなら、最初から得なければいい」

 それはそうなのだと思う。

 失うことで傷つくのなら、最初から得なければよいのだ。

 傷つきたくないのであれば、最初から求めなければよいのだ。望まなければよいのだ。

 ただし僕は、傷ついたっていいと思えるようになった。

 できることなら傷つきたくなどないけれど、傷つく覚悟がなければコヨリを失うことすらできないのだと、得ることができないのだと、僕は初めてそれを知った。僕が傷つこうが、閉じ籠ろうが、僕の存在などに関係なく、いずれコヨリは姿を消す。だったら僕は、傷ついてもいいから、でき得るかぎり、望めるかぎり、叶うかぎり、コヨリの側にいつづけたい。

 触れられなくたっていい。

 コヨリのそのつぶらな瞳を、小さなおハナを、果実のような唇を、コヨリの日向のような笑顔を視られるのなら――コヨリの吐息が、声が、ぬくもりが、感じられるのなら――僕はそれだけでいい。

 ――でも、失いたくはないんですよね?

 そう、失いたくはない。でも、いずれ失うときはくる。

 別れはいつだってそこにある。出会ってしまったそのときに、その場所で、その時々に、別れは常に僕の裡に生じてしまっている。

 生きてしまったその時点で、死がそこにあるように。

 別れはそこにあるのだから。

 ひとつだけ、とコヨリがささやいた。

 ――ひとつだけ、失わずに済む方法があります。

 どうすればよいのだろう。僕がコヨリを疑うことはない。コヨリがあると言うのだから、あるのだろう。僕がコヨリを失わずに済む方法。コヨリが僕を、失わずに済む方法。

 ――ひとつになれば、一緒です。

 ――最期まで、一緒でいられます。

 ああ、そうだね。その通りだ。

 僕とコヨリがひとつとなれば、互いに互いを失うことはなくなる。

 僕が死ぬときは、コヨリが死ぬときで。

 コヨリが死ぬときは、僕が死ぬときで。

 いつまでもいっしょで。

 どこまでもひとつで。

 

 ――同一化ではダメ。

 コヨリは言った。

 ――同化がいいの。

 

 僕の裡で。

 なにかが弾けた。

 そう、なら同化しよう。

 コヨリと僕はひとつとなる。

 それがきっと、僕のさいごの望みだから。

 僕は僕を捨てて、コヨリはコヨリを捨てて、その果てに――僕たちは【僕ら】となれる。

 それがいいんだ。

 それでいいんだ。

「もう……いいよ」

 零れた言葉は、カタチを伴ない、僕の頬を撫でていく。

 

    ――ねえ わらって――

 

 僕の外で、なにかが弾けた。

 声がきこえた。懐かしい声だ。懐かしいと瞬時に思えた声だった。聴こえたのは一瞬で。ほんの一瞬で。だからもうそれは過去のできごとで。ほんとうに聴こえたのかどうかすら、僕にはもう、分からない。だってすでに、なにも、聞こえないのだから。それでも僕は応えていた。

 

「……ノドカ」

 

 それはまた、コヨリ以外を求めた結果なのかもしれない。

 コヨリを拒んだわけではないけれど、僕はきっと、コヨリのほかにも望んでしまった。僕はきっと、コヨリだけでは満足できないのだ。僕は僕のために、コヨリと僕だけの幸せを掴むことを拒んでしまった。

 だって、

 この結末では――コヨリとひとつとなるだけでは――僕はきっと。

 満足できない。納得できない。我慢できない。

 そう、我が儘なんだ。

 いつまで経っても僕は、我が儘なんだよ。

 

 

 ***ウブカタ***

 イルカの背に触れて「言霊」を外す。

 そのまま彼女を連れて転移する間際――ウブカタは耳にした。

 

「……ノドカ」

 

 彼がそう溢していた。

 ――瞬間。

 アレが――ノドカのピアスが――割れ、砕け、圧縮されていただろう中身が一気に飛び散った。

 ――間一髪。

 反射的につぶってしまった瞼をおそるおそる持ち上げると、そこは見慣れた一室だった。

 どうなりやがった――?

 空間転位は完了している。

 ここはもう「バブルの塔」ではない。

 脅威は去った。危険も去った。

 あとに残るは、自由への切符だけである。

 ウブカタにはもう、担うべき束縛はない。

 ――やっと終わった。

 長かった。ほんとうに、長かった。

 これまでに積み重ねてきた記憶。

 擲ってきた喜怒哀楽と情。

 封じてきた様々な感情は、そのままのかたちで化石となってしまっている。それらはウブカタの脳裡のどこかに埋もれてしまってはいるものの、それでも消えているわけではない。忘れてしまっているわけではないのだ。

 いつだってその化石の断片は埋もれることなく、脳裡の表層に浮かびあがっている。

 風化するたびに余計にその断片は剥きだしになっていく。

 このまま、死んでしまうその瞬間まで、忘れることなどできはしない。

 それどころか、忘れてはならないのだ、とそう思っている。

 だからこそ、化石になってしまうような克明な記憶として、感触として、知覚として、ウブカタは己に課してきたのだから。その手に刻みこんできたのだから。あつく滾った体液ごと。その手に。

 ――人の死を。

 それでもやっと、なにもかもが終わった。

 もう縛られる必要はなくなった。刻みこむ必要もなくなった。

 なのにどうしてだ。どうしてこうも不安が拭えない。

 必ず約束は守る、と聞いている。

 ウブカタとしては信用するしか術がない。

 弱みを握られている身のうえ――。

 《あの女》と交わした契約を従順に信じるしかない。

 

「もう、ウブカタさんってば、聞いてますか!」

 さきほどからイルカがぷりぷり怒っている。

 極度の緊張から解放された直後であるからか、イルカは興奮状態のようである。

「自分だけ浸透して、ずるいですよ。わたしがどれだけ心細かったか、想像つきますか」

「いや、すまない」いつものように謝罪を述べてから、「だがなんだ、でもよ、イルカちゃんは、ほら、パーソナリティが思うように遣えなくなってただろ?」ああするほかなかったんだよ、と弁解する。

「それだって、どうしてわたしが遣えなくって、ウブカタさんが遣えたんですか」

「それはだな……ほら、あれだ、あの小僧があらわれたときにはきっとパーソナリティが遣えるようになったんだろうよ。でなけりゃ、あの小僧もあんなふうにはあらわれないだろ? んでもって一方のイルカちゃんは気が動転しちゃってて、パーソナリティが遣えるようになったことにすら気が付かなかったんだ。きっとそれだ」

「そう……なんですか?」いまひとつ納得いかないといった様子のイルカだ。

「まあ、なんにせよ、ひと段落だ。あとは総括部の奴らに報告して、事後処理は任せちまおう」

「ですね」イルカも簡単に引き下がった。「疲れちゃいました」

 くたくたです、と欠伸をしてからイルカはウブカタのベッドに突っ伏した。そのまま靴も脱がずに死んだように眠りにつく。

 すぴー、すぴー、という寝息がウブカタを和ませてくれる。

「終わったん……だよな」

 呟いてみるが、ふしぎと実感は湧かない。



 ***コロセ***

 僕は視た。

 たしかに視ていた。

 四方八方に流れ、伝う波紋。

 世界を取り巻き、広がる波紋。

 世界を呑み込み、染みいく波紋。

 津波に似た躍動、覆っていく波紋。

 けれど波紋のしたに透けて視えている世界は――地球は――地表は。

 平然としているままで、点々と瞬く光を僕はみていた。

 いや、あれは光などではない。

 光にあいた闇に似た。

 色にあいた影に似た。

 ――小さな黒が瞬いている。

 夜に浮かぶ星に似て。

 昼に浮かぶ影に似て。

 ――ひとつふたつと数えきれない。

 たくさんのそれらは。

 波紋にそって、斑にしきりに伝播していく。

 波紋にのって、世界に霏々と拡散していく。

 ――あれはなんだろう。

 僕は俯瞰的に見下ろしている。

 いや、見上げていたのかもしれないし、または、遠くを眺めていただけかもしれない。

 あのベンチで、荘厳な壁を眺めていたときみたく。

 僕はひとりでそれをみていた。

 

 目が疲れたので瞬きをした。僕はもといた場所にいた。

「バブルの塔」とライドが呼んでいた空間だ。

 視ていた景色はどこにもなかった。

 ライドの遺体もここにはなかった。

 カエデの首も、イルカという女性も、ウブカタというあの中年もいなかった。

 ウブカタ――。

 ちくり、と腹に湧きたつものがある。

 彼の波紋を感じていた僕は、彼のしてきた所業を知った。

 ノドカを殺し。

 努樹までをも殺し。

 そうしてこのさき、あの男は自由になれるのだ。

 そんな勝手が許されるだろうか。

 僕はそれを許すのだろうか。

 コヨリはそれをどう思うだろうか。

 僕があの中年を許さないことについて。

 または、許さないから報復するというその行為に対して。

 コヨリはいったいどう思うだろう。

 コヨリの声がしないことに僕は気づく。

 呼びかけてみるものの、応答がない。

 

 バチッ、と音がした。

 

 電気が弾けたような音だった。遅れてコヨリが姿を現す。

 なぜか彼女は瀕死の状態だった。

 それでもやがてコヨリの身体は治癒していく。薄まって、濃くなって、そうしてコヨリは元通りになっていく。それこそ、成長していたはずの彼女の姿が、体躯の小さなコヨリへと戻っていく。

 僕の知るコヨリの姿だ。

「……コロちゃんっ」

 視線が交わるなりコヨリは僕に抱きついてきた。

 彼女の頭に手を乗せて、毀してしまわないように、そっと抱き寄せる。

「どこに行っていたの?」まるでコヨリがどこかへ行っていたことを知っているような口ぶりで僕は言った。

 コヨリは首をいやいやするように振った。

「コロちゃん……」

 縋る表情でコヨリは僕を見上げる。

「…………私は、だれですか?」

「小春ひよりだよ」僕は即答する。

 髪を梳くようにして彼女のオデコをやさしく撫でながら、僕は言い直した。

「コヨリ」やわらかな頬にゆびをそえて、「きみは僕のコヨリだよ」

 コヨリは僕の太ももに顔を埋めた。「…………こわいの」

「どうして?」なにがこわいの、と訊き返す。

「……わからなくて、わからないことが、とてもこわい」

「なにが分からないの?」

「どうして私……コロちゃんのこと」

 うん、とさきを促す。僕がなに、と。

 コヨリは顔をあげて、僕を見据えた。

「どうして私…………殺そうとしていたの?」

 コロちゃんのこと、どうして――告げた彼女は泣いていた。

 ぽろぽろと勿体ないくらいに奇麗なナミダをこぼしている。

 それでも僕は彼女に対して、なにもできなかった。

 なにもしてあげられなかった。

 彼女の口にしたその言葉が、僕に対して、あまりにも鋭利すぎたから。

 その言葉に、僕の心臓は、串刺しにされた。

 どれだけの時間、彼女を抱き寄せたままで惚けていただろう。

 離れていた意識が舞い戻ってから僕は、ようやくあごを引いて、彼女を見遣った。コヨリはまだ、僕の太ももにしがみ付いている。

 そう、彼女はずっと、しずかに泣いていた。

 やがて僕を見上げると、

 拭っても拭っても、拭いきれないナミダを、

 それでも拭ってからコヨリは、

 ――いってらっしゃい。

 と破顔した。

 

 どこへ、と間抜けた問いを発した僕の手元に。

 コヨリの姿はすでになく。

 空からは。

 暗澹とした夜が僕を照らしていた。

 見上げると、巨大で壮大な中央棟が聳えている。

 僕はアークティクス・サイドの地表にただひとり、佇んでいた。

 しばらく待っていた。

 風が冷たくて気持ちがよい。どんどんぬくもりが奪われていく。

 僕の身体はもう、滾ってはいない。

 心地よかったはずの風を、「寒い」と疎ましく感じはじめたころ、僕はその場からようやく立ち去った。

 どれだけ待ってもコヨリはもう、あらわれないと僕はなぜか知っていた。




 +++第十三・五章『断罪断』+++

 【それは、さばかれるに値する罪か? さばくことが可能な、そんな小さな罪なのか? さばかれるべきではあるだろう、しかし、果たしてさばくことなどできるものか?】

 

 

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 ***ウブカタ***

 眠れなかった。

 嫌な予感がした。

 これでほんとうに終わったのだろうか。

 《あいつ》から指示された修正――。

 《彼女》の引いた図面から外れそうになったら、その都度ウブカタは規定通りの顛末が訪れるようにと現在の補正を行ってきた。ウブカタに知らされていた規定済みの図面とやらは、断片的なものであったにせよ、いくつかの図面それぞれが、さらに大きな図面を構成するピースであったことは模糊としながらも推し量れた。ただ、その大きな図面が示す、完成形がどのようなものであるのかは詳らかではなかった。しかしウブカタにとってはどうでもよかった。知る必要などはなく、知りたくもなかった。そもそも興味すらない。むしろ拒絶してしまいたいとすら思っている。

 従う義理などなかった。

 だが従うほかに術がなかった。

 ウブカタは《彼女》から大切なものを奪われていた。いや、単純に奪われてしまっていただけならウブカタは逆にどんなことをしてでも《彼女》に抗っていたことだろう。だが《彼女》はウブカタから大切なものを遠ざけるのみにとどめていた。

 《彼女》の主張を鵜呑みにすれば、奪うのではなく、「保護した」のだという。

 それはウブカタからしてみれば、人質として隔離されている、という意味でしかなく、無言の恫喝でしかなかった。

 ウブカタは自覚している。

 オレはオレのために、《あいつ》の脅迫に屈したのだ、と。

 失いたくはなかった。そうするよりほかがなかった。だがそこに大義があるとは思っていない。オレはオレのためにこの手を血に塗れさせてきた、それは事実だ。弁明などできはしない。

 オレはさもしい暗殺者だ。

 いや、極刑に処させるべき殺戮者だ。

 だがその一方でウブカタは、自分が被害者であるのだとも心のどこかではそう思っている。自己弁護する気などさらさらないが、どうしても《彼女》への敵愾心だけは拭えない。

 オレはしたくてそうしてきたわけではない。望んでこの道を選んだわけではないのだ。選ばざるを得なかっただけだ。

 と叫びたくて仕方がない。

 助けを求めたかった。

 しかしウブカタには助けを求める相手などいなかった。

 ウブカタには一か零か、そのふたつの選択肢しかなかった。

 そんな理不尽、とうてい納得できるものではない。

 ウブカタは思いだす。

 弥寺は言っていた――人は誰もが自分が納得した選択を進んでいるのだと。その選択を進んだ結果に訪れるに結末に満足できるか否か、それでしかないのだと。

 だがそんなのはあいつのように我が儘な自由を手にしている奴だからこそ宣巻ける戯言だ。我が儘をつらぬけないオレのような人間にとっては、端から納得できないと判っている選択を進まなくてはならない。そしてきっと弥寺のような者たちにとってはこちらの抱くそうした諦観と納得が同義に映るのだろう。

 オレは決して非力ではない。だが無能だった。

 オレは決して無力ではない。だが脆弱だった。

 抗うことができなかった。我が儘をつらぬけなかった。守りたいものをこの手で守ることすらできなかった。《彼女》のもとから奪い返すことができなかった。

 回顧は悔恨を引き連れて、どこまでも不毛につづく。

 眠れない夜というものは感傷的になりやすいものらしい。ウブカタは目をつむって、瞼のうらにつらつらと浮かび上がる抽象的な幾何学模様をただ眺めていく。

 

 音がした。

 イルカかと思った。

 首をひねってベッドを見遣る。彼女はまだそこで眠っている。

 いや、そのベッドのよこに人影が立っていた。

 身体にあつい悪寒が走る。

 まずい。

 直感した。この状況はウブカタが忌避していた状況そのものだった。

「うごくな」

 と波紋に直接たたきこまれる。

「今のあんたの懺悔。どこまでが事実だ」

 どこまでが都合のいい自己弁護だ、と声は続いた。

 今の、とはさきほどまで巡らせていた妄念のことだろうか。ウブカタがそう疑問すると、「そうだ」と強制的に彼の波紋が伝わってくる。こちらがつよく糊塗しているにも拘らず、こちらの波紋を読み解かれている。

 それはつまり、コイツには、こちらのこれまでにしてきたことが看破されてしまっているということなのだろう。「バブルの塔」で遭遇してしまったあのときには、すでにきっと。

 ウブカタは声に出さず唱えた。

 ――弁解はしねえ。好きにしろ。

 彼はなにも言ってこなかった。ウブカタは付け足す。

 ――その代わりと言っちゃなんだが、そこでネンネしてるムスメは見逃してやってくれないか。そいつは何もしちゃいねぇし、何も知らない。別にそいつはオレにとっちゃ死んだって構わねーどうでもいい奴ではあるが、オレのせいで誰かが死ぬのはもう我慢ならねーんだよ。これ以上はもう。

「我が儘だな」

 声が響く。それは空気を伝播して聴こえたように思われた。

 だがもうウブカタには、波紋と空気とのあいだに、明確な差異を感じ取ることができなかった。

 ここは真っ暗だ。重たく、そしてクライ。

 まるで深海である。それとも夜空のさきに広がる世界もまたこういった場所に似ているのかもしれない。希薄でありながらも、やはり、重い。ウブカタには判った。この重さはきっと、苦しみだ。

 彼の〈レクス〉に引き込まれているのだと思った。

 ――強制的な同一化。

 いや、彼の波紋は感じられない。ここが彼の〈レクス〉でありながら、ウブカタには彼を感じることができなかった。暗闇に独り、ウブカタは浮かんでいる。だからこれは、取り込まれた、と言うほうが正しいのかもしれない。

 ――捕食。

 もしくは、

 取り込まれたのではなく、浸食されているだけかもしれない。

 ウブカタの〈レクス〉に、彼が――一方的な干渉を強いている。

 いずれにせよそれは、彼がウブカタよりも遥かに強大な存在であるという何よりの証左であった。

 ここでもまた抗うことが許されないのか。

 もっとも、ウブカタにとって、彼と《彼女》は明らかにちがう。

 彼に殺されるならば、それは仕方がないことだと覚悟している。むしろ、心のどこかでは、それを望んでいたようにすら思える。けっして赦されないはずの自分が、報復という名の贖罪を得て、僅かながらにも罪を拭うことができるような気がする。自分で自分を許せるような気がする。そんな甘い考えがどこかにはあった。

「ふざけるな」

 と彼の声がしずかに響く。「あなたが自分を許したとしても、僕はあんたを許さない。一生、許さない。このさきあなたがどんな苦痛を背負ったとしても、どんな幸福を得たとしても、僕はあなたを許さない。だからと言って、僕はあなたの幸せを奪うことはしない。毀すこともしない。それでも僕はあんたを許さない」

 だから、と声は続けた。

「だから、あなたは、僕に恨まれ続けるために、死なないでください。絶対に。死なないでください」

 生きろ、ではなく、死ぬな……と彼はそう言っている。 

 冷めた口調のままで声は、「あなたは罪を償う必要なんてない」と言った。

 ――あなたに償えるような罪なんてないのだから。

 とはっきりと言った。

 ウブカタには分かった。それの意味することが、自分に罪がないという慈悲ではないのだと。

 ウブカタには罪がある。だがその罪は、決して償いきれる罪などではない。だからこそ彼は、償うなと言っている。ウブカタがこれまでにしてきた自虐や、これからしていくだろう数限りない謝罪や贖罪も、どんなものもすべて償いには成りえないのだと、彼はそう言っている。償いだと思って行動するなと。死ぬことで償えるなどと思いあがるなと。どんな苦しみも、どんな仕打ちも、どんな代償も、それは償いにはなり得ないのだと、彼はそう言っている。

 ――きみはきびしいな。

 素直にそう思った。

 ――きみはやさしいな。

 こうも思った。

 ――つよいな、きみは。

 最後にそう羨んだ。

「許しません。僕はあんたを絶対に」

 そう言い残して彼は気配を断った。

 ウブカタは自室のまんなかで膝を崩す。知らず、しゃがみ込んでいた。

 空気が感じられる。イルカの小さな吐息だけが、鼓膜を撫でている。

 椅子に座って目を閉じる。

 これではっきりとした。

 もう、一緒にはいられない。

 もうおなじ轍を踏むのはこりごりだ。

 大切だからこそ、大切にしたいからこそ、断ち切らなくてはならないものがある。それはとても自分勝手な理屈であるし、究極的には弥寺が言っていたように、自分可愛さのための保身なのだろう。だが、それでいいとウブカタは思った。

 ――オレにつらぬける我が儘なんぞ、これくらいしかねぇんだよ。

 イルカが寝返りを打った。

 ベッドへ歩み寄って、覗きこむ。

 彼女の寝顔は、苛めたくなるくらいに愛おしかった。

 彼女の頬をすこし乱暴に撫でつける。撫でつけながら告げた。

「オレはお前が大嫌いだ。正直かなりむかついていた。殺してやりたいくらいにな。それでも利用できる駒は必要だったんだ。だが、そんな駒はもう必要ない」

 これでやっとせいせいすらあ、と彼女の頬から手を離す。「さよならだ」

 ――たっしゃでな。

 イルカを独りのこし、部屋を去る。

 

 アークティクス・サイドの夜が明けていく。

 風が冷たい。

 ウブカタは目を閉じる。

 ちくしょう、と舌を打つ。

 すっかり脳裡に焼きついちまった。

 イルカの頬に伝う一筋の涙。

 それはまるで消えない流れ星のように、つややかにきらめいていた。



   タイム△スキップ{~基点からおよそ十二時間後~}


 ***イルカ***

 昼になって召集をかけられるまでイルカは起きなかった。いや、起きられなかった。起きたくなどなかった。寝た振りなどではなかった。夢だと思った。あれは夢の中での出来事で、夢の中での会話で、ただの悪夢なのだとそう信じたかった。それでも身体を起こしてみればそこに中年の姿はなく、波紋も感じられない。ここは彼の部屋だというのに、なぜ主がいないのか。

「……死んじゃえ、ばか」

 呟いてみたものの、すぐに訂正する。

「……ころすぞ、はげ」

 いつかこの手で必ずころしてやる。

 だから、それまではどうか生きていて欲しいと願う。

 悲しいのではない。寂しいのでもない。

 イルカは今、切なかった。

 敬語を使う相手はもういなくなってしまった。

 ノドカも、ミタケンも、弥寺も、ライドも、そしてウブカタも……。

 〝彼〟は教えてくれた。

 あの空間でなにがあったのかを。

 この部屋へなにをしに来たのかを、波紋を通じて瞬時に教えてくれた。

 それから、寝ているイルカへ選択を迫った。

 提示した条件を呑むか、拒むかを。

 イルカは拒まなかった。それがイルカにとって、現時点においてもっとも優先すべき事項だったからだ。

 ――〝彼〟に抗うことだけはしてはいけない。

 だがイルカは〝彼〟の条件を呑んでおきながら、〝彼〟へ抗っていた。いや、抗いたいと思っていた。それは、そんなことを思ってすらいけない、と考えるよりもさきに、つよい願望として波紋に現れた。普段は誰にも伝わることのない内心の叫びがこのとき、〝彼〟には伝わってしまった。読まれてしまった。

 イルカは無意識に叫んでいた。祈っていた。

 ――そのひとを殺さないで!

 ――おねがい、代わりにわたしが殺されるから。

 ――わたしがあなたに毀されるから!

 ――だから、おねがい。

 ――そのひとをわたしから…………奪わないで。

 〝彼〟は結局、ウブカタを殺さずに去った。

 こちらの願いを聞き入れてくれたからなのかは分からない。それでもイルカは〝彼〟に感謝した。

 

 アークティクス・サイドの日常は普段通りに巡ってきた。

 ステップとステップを繋ぐ通路が一本だけ崩れたようだが、そのほかは別段大きな被害はないとされた。

 三名のアークティクス・ラバーが――死去・または消失・および離反――したことは内々で処理された。サイドエリアの住民たちがそのことを知ることはない。

 サイカという保持者については、その死そのものが無いものとされた。サイカがいたという来歴、ともすれば存在そのものが葬られた。サイカという保持者を覚えている者はもはや誰もいないだろう。イルカはそう思うが、はたと気付く。わたしは知っているではないかと。直に逢ったことはないが、サイカという保持者が存在していたと、わたしはたしかに知っている。そしてその保持者が城門努樹という青年であったこと。その友人がクウキという名の、冴えない保持者であったこと。さらにその保持者の本名が、「ノロイ・コロセ」で、その「彼」の姉がノドカさんだということも知っている。それもこれも〝彼〟が教えてくれたことだった。

 イルカは思う。

 〝彼〟はもう、何者でもなくなってしまったのだと。

 そう思うことがただの負け惜しみに過ぎないこともイルカは重々承知だった。じぶんが蹂躙する側でなく、支配される側になってしまったことについての負け惜しみだ。

 でも、とイルカは思考のベクトルを意識的に変える。

 ――でも、それは今もむかしも変わらない。

 誰もが組織という枠におさまり、国というシステムに依存し、自然という循環に抗うことすら思い付かない。そうやって人は支配され続ける存在なのだろう。

 ――支配されてしまう運命なのだろう。

 あの「バブルの塔」という空間がどうなったかにおいてもまた、不明であった。「バブルの塔」についての情報は一切、どこにも載っていなかった。まるでそんなものなどはじめから存在していなかったのだ、と暗に言われているみたいで、腹がたった。しかし、そのことに憤りを抱けている自分に、イルカは安堵する。わたしはまだ、「バブルの塔」が現実にあった空間なのだと信じている。信じることができている。今はそれだけ判れば充分であった。夢ではなかったのだと痛感できる、ただそれだけで。

 アークティクス・ラバーの補充はなかった。イルカのほかに現存しているラバーは七名。それでこと足りると総括部は判断したらしい。

 暢気なものだ、とイルカは思う。

 この日も「虚空」は出現し、その「修理」に彼女は向かった。チューブを通り抜けてアークティクス・サイドを離脱する。いつも通りの日常だ。なにも変わりない。何もかもが変わらずに変わり続けている。

 いつもと違うのはこの日、雪が舞ったことである。




 +++第十四章『パリティ』+++

 【偶奇性において、観測された現象は空間反転させられても通常の物理法則を維持する。天と地が逆さまになっても、雪は空から降るし、地上に積もる。しかし例外的に必ずしも物理法則が維持されない場合もある。相互作用における弱いちからは、空間反転させて観測した場合に、物理法則が覆るようなはたらきを見せることが稀にあるのだ。そして問題なのは、強い弱い、大きい小さい、それらが相対的であり、普遍的でないということである。塵も積もれば山となる。その山は小さいのか大きいのか。一言で答えられる者はいるだろうか】

 

 

   タイム▽スキップ{~基点からおよそ一時間半後~}


 ***ウブカタ***

 ステップのそとに出る。

 肌寒いが、頭を冷やすには丁度いい。

 指にはまだ、イルカの頬の弾力と温もりが残っている。

 見上げれば、ステップから伸びる通路が、縦横無尽に張り巡っている。アークティクス・サイドからの勝手な離脱を防ぐためのセキュリティ。牢獄の檻のようなものだ。

 通路の一つにウブカタは転移した。

 手のひらには鳶色の玉。ノドカからもらった餞別である。

 周囲を見渡して、誰もないことを確認し、早々に実践する。

 床へそっと転がしてから、通路の端っこまで移動し、玉から距離を置く。

 念のために、爆発の影響がないと思われる断層まで浸透しておく。

 浸透しつつも、玉に波紋を同調させる。

 大きく深呼吸し、照れを隠しきれないままでウブカタは唱えた。 

「ブラックホール・ボマー!」

 叫んで咄嗟に身構えるが、変化なし。

 おや…………?

 静寂だけが、きーん、と通路を満たしている。

「……爆発しねぇのかよ」

 騙された、と舌打ちをしたそのときである。

 目のまえにあったはずの通路が、風船の割れるがごとく、ぱっ、と一瞬で消え去った。

 その場が真空になったかのように感じられた。

 すさまじい爆音が続いて耳をつんざく。

 ウブカタの周囲の壁や床が、見る間に剥がされていく。

 まずい、と直感し、ウブカタは素早く空間転移した。

 ステップのそと、中央棟を挟んだ反対側まで瞬間的に飛んだ。

 風が冷たい。咄嗟のパーソナリティ発動だ。またもや裸体になってしまった。

 遠く、滝つぼのような音がちいさく反響していることにふと気づく。

「威力の規模くらい教えとけっての」

 もしも浸透していなかったら、と考えると身の毛がよだつ。

 抜け目のないノドカのことだから、もしかしたら意趣返しを仕組んでいたのかもしれないな、と我田引水に考えた。そうして、「そうであったらどれだけ……」と思ってしまう自分に気付き、ああ、オレはもう随分とひどく落ちぶれてしまったのだな、と知れてウブカタは苦笑した。

 一生背負おうと覚悟していたそれらが、今さらながらとても重たく感じられた。

 


    タイム△スキップ{~基点からおよそ十二時間後~}


 ***ウブカタ***

 濡れたアスファルトが街の温度を奪っていく。

 吐き出される息は白く、まるで空白のままの「吹き出し」のようだ。

 しばらく歩いた。すれちがう人々はどこか上の空で、仮面みたいに惚けた顔をしている。きっと自分もそういった顔をしているのだろう、とウブカタはショーウィンドに映る自分の姿を眺めた。そこにはくたびれた中年が寂しそうに映っている。「ばーか」と口をあけて言ってやった。誰かに「ばーか」と言われた気分になった。

 

 喫茶店「Ding an sick」。

 それはむかしのままそこにあった。

 ウブカタは扉をくぐる。相変わらずだだっ広い店だ、とつばを吐きたくもなる。

「お疲れ様でございました」

 あの老紳士が出迎えた。むかしのままの姿に少々おどろく。もしかして、『最境』で過ごしている影響なのだろうか、と推量する。とは言え、当て推量には違いない。

「《リザ》様は奥にいらっしゃいますが、どういたしましょうか? こちらへお呼びになられますか?」

 ウブカタは頷く。

「承知いたしました」

 少々お待ちください、と断りを入れて踵を返す彼の背へウブカタは投げ掛けた。「……どうしてあんたは」

「はい?」彼が歩を止めて振り返る。

 言いかけた言葉を呑みこんでウブカタは、「いや、なんでもない。呼んできてくれ《彼女》を」と手を振った。彼へ訊いたところで意味はない。

 相好を崩したまま低頭すると彼は、店の奥へと消えていった。

 ウブカタは足元を見詰めて、混沌とした心を鎮めた。

 

「ご苦労さまでした」と彼女が現れた。

 ――リザ・セパレン=シュガー。

 ウブカタは腹に湧き立つ滾る感情を抑えた。

 彼女のその言葉が果たしてこちらへ向けての労いの言葉なのか、それとも呼びに来てくれた老紳士への礼なのかは判断つかなかった。

 彼女はそのまま店を出た。ウブカタもあとにつづく。ふと背中に気配を感じた。扉をくぐるまえに振り返ってみると、老紳士が頭を下げていた。礼儀正しいというよりかは、まるで何者をも受け付けないといった拒絶に感じられる。ただ、きっとこれもまたオレの思い込みなのだろう、とウブカタは自らを戒めた。オレが無償で相手に礼儀正しくできないから、彼のような真摯な者に対してそう思ってしまうのだ、と。

 ウブカタは距離を空けて彼女のうしろを歩く。しずかな足取りだ。歩行に合わせてバケツがゆれる。すれちがった人々の視線が背後から感じられる。目立ち過ぎだ、とウブカタは彼女との距離を空けた。連れだと思われたくなかった。

 やがて彼女は古風な風貌のカフェへと入っていく。客はいない。店員も見当たらなかった。彼女はまっすぐと店の奥へと進んでいき、席に着いた。テーブルの上にはすでにカップとチョコレートパフェが置かれていた。カップからは湯気がのぼっており、淹れたてだと判る。

「どうぞお座りになって」

 手を差し向けられたのでウブカタは警戒しつつも椅子に腰をおろす。

 さきほどから彼女の波紋が感じられない。波紋の余韻すら皆無だ。それだけ力の差があるということなのだろう。

 彼女はカップを手にとって口に付けた。カップを戻しながら、「お久しぶりですね」とどうでもいい挨拶をしてくる。

 ああ、とウブカタは素っ気なく首肯した。それから、ずっと気になっていたことが口を衝く。「あいつにもオレみたいな枷を背負わせているのか?」

「マスターのことですか?」

「そうだ。あの男、話しに聞く限り、相当の保持者らしいじゃねぇか」

「ええ。とても素晴らしい保持者でした」

 でした――?

 過去形に深い意味はあるのか。

 ウブカタは怪訝に腕を組んで、背もたれに体重を預けるようにする。「よく利用できたな。そんな保持者を」

「自信家な方ほど利用しやすいものですよ」彼女はいけしゃあしゃあと口にした。「その自信が自惚れであるのならなおのことです」

「その理屈で言えば、この世で一番利用しやすいのはあんたということになる」

「そうかもしれませんね。けれど、実力の高さと自惚れの深さは違うものです」

「そう考えていながらに肯定している時点で、あんたが誰よりも自信家だと示しているよ」

「ええ。自惚れと自信もまた違うものですから」

 ややこしい。ウブカタは隠すことなく渋面を浮かべた。生きてきた時間そのものが圧倒的にちがうのだ、討論しても無駄である。

「実を言えばあの方は」彼女はカップに口を付けて中身を啜った。「あの方は、あなたとは違うのです。あの方は、ご自身の意思で私に協力を申し出てくださっています。自ら私に力を与えてくれたのです、あまりその辺は誤解なさらないでほしいですね」

 はん、と鼻で笑ってやった。それが仮に本当だったとしても、きっとあの男もまた、この女にいいように操られているだけなのだ。同病相哀れむではないが、惨めなものだ。

 

「実際あんたの計算はことごとく外れたぞ」ウブカタはさっそく本題に入った。

 彼女がきょとんとしている。意味が分かりませんが、といった様子だ。口で言え、と罵倒したくなる。

「あんたはあのときこう言った。『修正するだけだからアナタなら簡単だ』とな。だが実際キツすぎだ」はっきり言ってこれは詐欺だ、と皮肉を口にする。虚勢であるが、言わずにはいられない。

「そうでしたか」すみませんでした、と彼女は眉を顰めた。「ですが、当てにならないだろう、と計算していたからこそのアナタだったのですよ。それに、期待通りにアナタは修正をつつがなく完了されたようにお見受けしますけれど。そうではないのですか? それはつまり、私の思慮いたしました案件通りに事が進んだ、ということではありませんか?」

「つくづく詭弁だな」

「ええ、そうなりますね」艶笑を浮かべて彼女は、「理屈と膏薬はどこへでも付くものです」と謳った。

「付いたところで、意味を成すかはまた別問題だがな」

「それもまた理屈です。そのなかでも屁理屈と呼ばれる類ですね」

「はん。楽しいおしゃべりはこのくらいにしてもらいたいもんだがな」組んでいた腕を解いて、まえのめりに頬杖を付く。「で、どうなんだ。オレの役割はもう終わったっつーことでいいのかよ」

「ええ。たいへん望ましい結末へと導いてくれたようです」

 ありがとうございました、と彼女はふかぶかと頭を下げた。

 よく落ちないな、バケツ――と感心する。

「やめろ。その言い方じゃ、オレが企てたみてーじゃねぇか」ウブカタは早くもさきほどの虚勢を撤回する。「認めたくはねえが、大体があんたの計算どおりに事は進んだよ。オレがやったことといや、流れの詰まったドミノのつづきを押してやったみてーなもんだ」

「それはなによりです」

「馬鹿言ってんじゃねぇよ」

 実際にウブカタが請け負った修正は、微調整のようなものではあったが、しかし往々にして作業というものは、細かくなればなるほど厄介になる傾向が高い。ウブカタが行った微調整――それはたとえば、コロセがアークティクス・サイドを訪れた初日、なんとか弥寺と顔合わせさせるために、弥寺が中央棟へ出向かないことも考えて、わざわざ虚空から魔害物の亀を探してきたのちに中央棟のショップ内に紛れこませておいたり、弥寺討伐のサークルを募って、けしかけたりと、いろいろと骨が折れたことに変わりはない。あのとき、なぜあの「アヤシが暴走した」のかは定かではない。弥寺を襲撃する前に、仲間共々、自滅した。それを弥寺が処理した形となった。予定外のことだった。肝を冷やした。それでもあの小僧と弥寺の顔合わせは成功した。死なぬはずだったあの青年たちが死んでしまったことには、正直、胸が締めつけられたが、苦しいことをするのが仕事なのだと割り切っている。今さらそのことについて文句を垂れようとは思わない。思わないがしかし、それでも――と思う気持ちはある。

「仕事が楽だったからって、この十数年が苦しくなかったわけじゃねぇぞ。オレはあんたに任された仕事はきちんと熟なしたんだ――約束だ、息子と逢わせてくれ」

 頼むから返してくれ、と祈る。

「奥様の安否は訊かないのですね」と彼女は不思議そうに首をかしげた。

「ヨリ子は――」言葉を切って、感情を遮断する。「あいつぁ、死んだんだろ。知ってるよ。火事だったんだってな」

 どこへどんな家に引っ越したかも知らなかったが、隣家の火が飛び火して逃げ遅れたらしい。出火もとでもあるその隣家に住んでいた男は焼死したという。ヨリ子もまた、煙にまかれて死んだと聞いた。死因は一酸化炭素中毒だ。

 死に様までノロマだなんて、泣くにも泣けやしねえよ。なあ、ヨリ子。

 ウブカタは鼻をすすって声を整える。

「オレだってこの期間、何もしてなかったわけじゃない。今さら隠したってしょうがねぇし、どうせあんたは知ってんだろ、オレがミタケンつかって調べさせてたってのもよ」

「まあ。初耳です」

 つくづく人を小馬鹿にした女だ。知らないはずがない。

「あんたから解放されるってんだ、もう私怨だろうが八つ当たりだろうが、そんなもんをここで撒き散らすつもりはない。だからあんたもよ、余計なおしゃべりだとかはこの辺にしてくれないか。さっさと息子を返してくれ」

「そういえば」と思い付いたように彼女は言った。「出産にも立ち会っていなくて、どうしてお子さんの性別が男の子だと知っているのですか? この〈契約〉をアナタへ持ちかけたときにも、私は『アナタの初子』という言い方をしていたはずですが」

 なにが契約だ。人質とっておいてどの口が言いやがる。完全に脅迫だったじゃねぇか馬鹿やろう。

「だからさっき言っただろうが。ミタケンに調べさせたんだよ」

「そうでしたね。ああ、そうそう、その前にひとつお尋ねしてもよろしいですか?」

「……んだよ」

「城門努樹さんはお元気でしょうか?」

「は?」

「サイカさん、とおっしゃればお分かりになられますか?」

「いや、それはわかるが……」

 サイカがサイドネイムをふたつ持っていて、なお且つそのうちのひとつが「城門努樹」だったというのは知っている。そもそも暗殺部で特務を請け負っていたウブカタの後継人こそがサイカであり、当時の城門努樹に「サイカ」という名を与えたのだってウブカタだ。

 あの時期――ウブカタは急に忙しくなった。

 《この女》から知らされていた「クウキ」という餓鬼がやってきたり、『ゼンイキ・プロジェクト』が発動したりと――《彼女》から託された使命と、ラバーと暗殺の兼務の両立がきつくなっていた。

 ウブカタはうなじを掻きあげる。

 それだってノドカがわざわざ「ガラクタ」なんぞに住みつかなけりゃもっと余裕を保てたんだ。だのにノドカときたら、「設備のお粗末なおウチのほうがいいだろ。組織の干渉を得られずに済むじゃない」とかなんやかんや言って余計な警戒を巡らせてくれちゃってからに――オレはいらない手間をとらざるを得なくなったんだ。

 だから渋るライドに無理を頼んで、特務である暗殺の後継人を捜してもらった。それがサイカだった。いま思えばああやってサイカがあの餓鬼と親しくなっていたというのも、随分と都合のいい展開だったと怪訝に思うが、それはそれで《この女》の手回しがあったに違いない。

 だが、それがどうした?

 どうしてサイカのことを訊くのだろうか。ウブカタは急におそろしくなった。

 得体のしれない不安がどこからともなく押し寄せてくる。

 あの娘がいったい何だというのだ。

「それで」と彼女がコーヒーを啜る。「それで、彼はお元気ですか?」

「いや、元気もなにも」

 ……サイカは殺してしまった。

「って、おい。あんた今、なんつった?」

「ですから、彼は現在、お元気でいらっしゃいますか、とお尋ねしましたが。どうかされましたか?」

 ………………彼……だと?

 おそるおそるウブカタは指摘する。

「あいつは…………おんな……だろ?」

「いえ、彼は男性ですよ。ただし、生理学的には、そうですね、外的要因のみを鑑みますと女性にちかいのかもしれませんが――あら、お気づきになられなかったのですか?」

 ウブカタは戦慄する。

 全身の血という血が引いた。

 血の気ではなく、血そのものが引いた。冷えきった。

 みなまで言われなくとも察しは付いた。

 ふざけるな……。

 ふざけるなよ……。

 あっちゃならねェ……そんなこと。

 冷え切った血がミミズのように拍動する。

 全身を這いずる悪寒は身体をわななかせ、脈拍の増加とともに、熱を帯びていく。

 アークティクス・サイドの習慣がすっかり時間の感覚を狂わせているためか、精確な月日を思いだせない。だが、《この女》に魅入られて、強請られて、そうして『R2L』機関の傘下に入ったのが十数年前だということは記憶している。

 《この女》の暗躍があったのかどうかは知らないが、ウブカタは最初からアークティクス・ラバーとしての地位が確立されていた。それが十数年前だ。もしかしたら二十年ちかくも前になるかもしれない。だとすればオレの息子も二十歳にちかい。

 そして、とウブカタは思いだす。

 サイカの容貌を。脳裡へと想い描く。サイカの年格好を――シルエットを――輪郭を――人物を――サイカの齢は――よわいは――まてまてまて――まてよ――そんな。そんなの。そんな、オレは、じゃあオレが殺したのは――オレの右手にあったのは――掴んでいたのは――握っていたものは――あの血肉は――心臓は――サイカ――お前は――お前が――オレの――――。

 ウブカタはその場で嘔吐をもよおす。

 ガマガエルのようにむせぶが一向になにも吐き出されない。

 気持ちがわるい。ただ単純に気持ちがわるかった。

「どうかされましたか」

 平然と彼女は声をかけてくる。「あれ以来、アナタとは一度も会することがなかったので、ちっとも私という人格を知っていただく機会がなかったわけですけれど――私ってこう見えて、けっこうに優しいのですよ。アナタが思っておられる以上に。ええ、もちろん十九年前のことについて憤りを抱かれるのは、そう、已むを得ないものだとは重々承知しておりますし、当然だと思います。私にはきちんと恨まれる覚悟だってあるのです。アナタに殺されても仕方がない、とそう思えるくらいの覚悟が。もちろんただで殺されて差し上げることはできませんが、それでもアナタの意趣返しに付き合いつづけるくらいの心持ちではあるのです」

 彼女が満足気に独白を口にしている。こちらの心情など気にもせず――こちらを慮っているような口振りで――宣巻いていやがる。だがウブカタにはそれらの言葉を正常に聞きとることなどできなかった。脳がとろけている。世界がゆらいでいる。現実と幻相の境を打ち毀そうと、ウブカタの混沌とした問答はあふれ、せめぎ合い、膨張しつづけている。

 そんなウブカタの険しい表情を、あたかも憤りの顕れとでも誤解したような口振りで彼女は、「そうですよね」と続けた。

「アナタからすれば私のあの交渉も、一種の脅迫のようにお感じになられたかもしれませんが、けれど、よいでしょうか。そんな非人道的なこと、私がアナタにするなんて、ありえません。たといアナタが私の同士や同胞ではなくとも、私にとってアナタは掛け替えのない味方なのですから」

 味方――。その言葉がまるで悪意そのものであるかのように聞こえる。

 ふたたびウブカタは嘔吐する。しかしなにも吐き出されない。吐き出せない。吐き出したいものが胃にあるものではないのだと判っていながら、それでも身体は嘔吐をもよおすのだ。

「それからアナタは誤謬を抱いています」と彼女は淡々と言葉を紡ぐ。「最後でしょうし、私のためにも、アナタのためにも――今後アナタが余計なものを背負うことのないように――この際です、その誤謬を正しておきましょう。アナタの寵児は、私が連れ去らずとも遅かれ早かれ、『学び舎』で暮らすはめになっていました。アナタのお子さんは生まれながらに保持者だったのですから。ただそうですね、アナタの奥様にはとても酷だったとは思います。けれど、経済的にも体力的にもあの方に子供を育てていく余裕はなかったものとの配慮があったことは、ええ、さきにも申し上げたように、私とアナタのために補足しておきましょう」

 口元を拭ってウブカタは眼光炯炯と彼女を射ぬく。

 毅然とした態度を崩すことなく彼女は控えめに微笑んだ。

「ですが、そうなると、サイカさんの性別をご存じなかったという時点で――アナタへ用意して差し上げていた最大の配慮にアナタが気付かなかったということは、そうですね、この場合は残念ながら自明となってしまうのでしょうか。ですが、どうでしたか? こうして思い返してみれば、アナタがこれまでずっと願っていたように――実際にはアナタのその願いというものはずっと叶っていたわけですけれど――アナタのお子さんはこの十数年間ずっとアナタの側に、」

「――ッざけんな!」

 叫びつつウブカタは拳を振りあげる。テーブルを力いっぱいに叩きつけた。

 卓上にあったカップや、調味料の容器が弾け飛ぶ。騒がしい音を立てて床へ散らばった。

 すっと惚けたことをぬかしてんじゃねーぞ! 

 《テメェ》が知らねーはずがねェだろうがッ!

 たしかに、たしかにあれは――サイカの処分は――オレの独断専行だった。《この女》から指示された修正にはなかった事項だ。必須とされていた修正ではなかった。どころか必要すらなかった修正だったのかもしれない。だが、しかし、それでも、あの状況ならああすることがもっとも合理的な選択だったのではないか。切羽詰まっていた。時間がなかった。あと少しで《こいつ》から解放されるというのに、最後の最後で予定が大きく狂っていた。修正が滞ってしまっていた。焦っていたのだ。これまでオレがそうしてきたように、《この女》から指示されてきたことを反復してきたオレにとって、あのとき、ああすることが自然だったのではないのか。

 そもそもノドカのときだって、本来は殺す予定ではなかった。あのまま離脱させて、こっちの社会でノドカは暮らしているはずだった。殺さずに済むはずだった。しかしノドカは傷を負っていた。暴走を誘発しかねないあんな傷を負った保持者をこちらの社会へ放つことなどできはしない。だがそれでもノドカにはどうしても、死んだ者として姿を消してもらわねばならなかった。予定を狂わすわけにはいかなかった。あの状況、殺すしかなかった。殺したくなどはなかった。だが、すでにもう、十数年の期間、様々な血でこの手を染めあげてきたオレが、身勝手に摘み取ってきたそれらの命を擲って、「ただ殺したくない」というオレの我が儘で、ノドカだけを特別視するなんてことはできなかった。許されなかった。これまでの犠牲をオレは捨てられなかった。オレはなんとしてでも成し遂げなくてはならなかった。だってそうだろ。でなければ、オレはなんのために彼らを殺し、彼らはなんのために殺された。無意味になどさせはしない。無意味などにできはしない。だからオレはノドカを殺した。これまで殺してきた者たちと同じように、この手をあいつの血で染めた。オレはすでに止まることなど許されなくなっていた。

 そんなオレがだぞ。

 最後の最後だぞ。

 最後の最後で予定が狂いそうだったんだ。あの子の存在が……サイカの存在が………邪魔だった。だったらオレはあの子を殺すしかなかっただろ。ああすることが自然だっただろ。

 知っていたはずだ、《この女》は――オレがああするはずだと、そうなるように《この女》は仕組んでいやがったに違いねェ――すべて《この悪魔》が仕掛けたことではないのか。

 そうであってほしい。

 そうでなければオレは、オレは――――――。

 ウブカタは気が狂いそうな自分を必死に押し込める。彼のその精神抑圧は、むしろ「正常に狂いそうな己」を殺すことで、狂人である己を主たるものとして君臨させようとしている行為に等しい自虐であった。ウブカタが狂いそうになる理由は、呵責の念に堪えているからであり、その狂いそうな己を排除して、平常な己を維持しようなどというのは、それこそ我が子を殺しても平然としていられる狂人と化そうとしているに相違ない暴挙なのである。だが彼は狂ってでも、「正常に狂いそうな己」を自分の裡から追いやりたかった。己の裡から排除したかった。どうしても耐えられないのだ。

 ――我が子をその手で殺したという事実を。

 ――我が子の心臓をその手で握りつぶしたというその悪夢を。

 ウブカタは否定したかった。到底受け入れることなどできなかった。

 逃げ出したい。

 無かったことにしたい。

 サイカが……オレの息子だなんて。

 ならオレはいったい――息子になにをしてきた――なにをしてしまった――――あいつに――サイカに――人の殺し方を――暗殺の仕方を教え――そうしてこの手で、虫のように……殺した。ゴミのようにぞんざいに潰した。あいつの心臓をこの手で。

 それもこれも息子のためだった。

 息子のためを思って――この世のどこかで幸せとは言えずとも、平穏な世で「生」を感受しているだろう息子のためを思って――だからこそオレは――大切にしたいと思うオレの同僚たちを殺して――彼らを裏切ったとしても裏切ったことにすらならないようにと――仲間を仲間と思わないようにと――彼らを排他しつづけて――ただひとつ――息子の幸せだけを祈りつづけて――この手でいくつもの命を――大切にしたかった彼らを――仲間を――葬ってきたのだ――――この手で――この手に刻むように――彼らの血を――生を――せめて決して忘れぬようにと――そう思って――この手で――仲間の――心臓を――握りつぶし――殺してきたのだ。

 それがどうだ。オレはオレの一番大切な息子をこの手で殺しただけでなく――この手で息子の心臓を握りつぶしただけでなく――この手でオレは――息子に人殺しを強いてきた――誰よりも息子の幸せを祈ってきたこのオレが――その息子へ――苛酷な罪を――残虐な日常を――与えてしまっていた。

 信じられるはずもない。

 受け入れられるはずもない。

「どうなさいましたか?」

 清らかな表情で彼女がそう囁いている。

 気遣っているような声色を発している。

 知らないはずもない。あれだけ他人の、人生と人生と人生と人生と――そうやって幾つもの人生をパズルのように組み合わせ、思い通りの筋書きに仕立て上げてきた《彼女》が、このことを知らないはずがない。

 ――嵌められた。

 最初からオレは、十数年前のあの日からすでにオレは、この手でまだ見ぬ息子の心臓をこの手にとって掴み、トマトを握るように潰してしまうのだと、あのときからすでに決まっていたのだ。

「顔色が悪いようですが大丈夫ですか?」

 くっく、と笑みが零れる。

 大丈夫ですか――だと? 

 大丈夫だと思っているのか。

 正常でいられると思っているのか。

 自制していられるような状態なのだと、そう視えているのか。

 そう視えているのか《この女》には、オレのこの波紋が。

 くっくっく、と肩を揺らす。

 頭を抱え込む。

 頭蓋に指がくい込むほどつよく、つよく抱え込む。

 かっは、とみじかく息を吸う。横隔膜が痙攣している。

 だが、けっして泣いているわけではない。

 くっくっく。

 くっくっくっくっく。

 溢れだす笑いで身体が弾む。

 グじゅ、と歯ぐきが潰れた。つよく食い縛っていたために、奥歯が歪み、血が口内にあふれる。

 ぐびり、ぐびり、とその血を呑みこみながら、ウブカタはパーソナリティを発動する。

 このまま《この女》ごと死ぬのもわるくない。

 だがそれは道連れではない。

 連れていく道などどこにもない。

 ウブカタは空間を転位した。

 座標は、彼女の心臓と。

 己の右手。

 醜悪の右手。

 これまで握りつぶしてきた者たちの血に塗れた。

 右の手首からさきを。

 彼女の心臓と。

 ――入れ替えた。

 テメェの臓物など、握りつぶしてやるものか。

 テメェの死を覚えてやる義理はない。

 だが、テメェは、

 オレのその手に染み込んだ、

 血だまりごと、

 死だまりごと、

 胸にいだきながら、

 

 ――――死ね。

 

 空間転位は完了した。

 手首から噴き出す血。

 そこへ現れる心臓。

 血の滝に流される桃のようにひとつとなって、それは床へ落ちていく。

 どちゃ、と濡れ雑巾を叩きつけたような音が鳴った。

 床から視線をあげる。ウブカタは視た。

 平然とカップを口へ付けて、憫笑を浮かべている彼女の様を。

「……なんで」

 ウブカタは自身の胸がやけに重いことに気づく。

 喉が詰まるような圧迫感がある。

 呼吸もまともにできやしない。

 上半身を維持できずにテーブルに突っ伏す。

 それから彼が動くことはなかった。

 テーブルに突っ伏したウブカタの背中には、小さな「呪符」のようなものが貼りついている。

 それは丁度、子どもが握りしめられるくらいに小さな、四角い、「言霊」であった。


 

    タイム△スキップ{~基点からおよそ十二時間後~}


 ***マスター***

 よもや彼が《彼女》に危害を加えられるとは思えないが、念のためにマスターは、目のまえの背中に「それ」を貼り付けた。

 彼は振り向いたが、「それ」に気付くことはなかった。

 ――言霊。

 十二年前に、あの子が握っていたもの。

 そしてあの子から《彼女》が取り上げたもの。

 さらに、《彼女》からマスターが預かっていたもの。

 パーソナリティを逆転させ、個の外側へとその影響が及ばないようにするための特別な代物だ。

 本日、ウブカタという男が訪ねてきた。

 役目が終わったのだろう。

 つくづく申しわけないと思う。

 だからこそマスターは、彼の波紋を読むことをしなかった。せめてもの誠意である。

 マスターは《彼女》とウブカタを見送った。

 これで彼も自由になるのだろう。

 同病相憐むではないが、なんだか他人のようには思えなかった。

 

 先祖代々、引き継がれてきた使命。ともすれば、氏名。

「レンド」という名は、長きにわたって連綿と踏襲されてきた。

 ――その名に含まれる役目と共に。

 マスターはしかし、その使命に疑問を抱いていた。

 なぜ産まれながらにして生きる意義を持たされなくてはならぬのか。

 だからといって先代たちがその人生を費やして、守りつづけてきたその意義を、自分の都合で投げ出す気にもなれなかった。

 また、どうしてもあの【傲慢な男】にだけはこの「名」を踏襲させたくはなかった。話し合いで解決できればと希求してみたものの、【あの男】は決闘などという古臭い手段を望んだ。結果、【あの男】は死に、マスターが名を継いだ。それもこれも、この忌まわしい「名」のせいである。

 どうすればこの不毛な連鎖を断ち切れるだろう。

 マスターは考えた。

 そうして導き出された答えは、使命の放棄ではなく、自分の代で終わらせようという破棄であった。

 もしも自分に子孫ができたとして、彼らにはこんな束縛を強いることだけはしたくなかった。だからマスターは、「レンド」という名を引き継いでおきながらも、捨てた。

 名を捨てておきながらもなお、その使命だけは受け継いだ。

 この我が人生を、「レンド一族の追悼」に費やすと決めたのだ。

「レンド」の初代は、有名な画家であり、科学者であり、発明家であり、哲学者であったという。

「レオナルド」という名を、初代が、「レンド」として子孫へ名付けたのが開闢だと聞いていた。真偽のほどは定かではない。それでも《彼女》がそう言うのだから、疑うことはしない。《彼女》に仕え、従うことが「レンド」の使命であったからだ。

「レンド」の名を完全に捨てたきっかけは、あの世界的争乱――「リザの断裂」である。

 ダイチ・レンドの与り知らぬうちに、いつしか《彼女》は娘をもうけていた。それだけでなく《彼女》は、その子の幸せをつよく望むようになっていた。

 《彼女》はレンドだけに嘆いた。

「こんな荒んだ世界で生きて欲しくはないのです――この子には」

 そういった我が子への寵愛から《彼女》は、世界の再構築を企てていた。そうと知ったダイチ・レンドは、どう善処すべきか、と多岐亡羊とした。

 一方で、《彼女》に芽生えたその愛情に深く心打たれてもいた。

 誰にでも優しかったあの《彼女》が、特定の個人を愛している。

 ダイチ・レンドにはそれが喜ばしかった。

 そうして自らの裡にも同様の想いがあることに気付いた。

 これまでダイチ・レンドは、差別を忌避し、平等を重んじていた。しかし、特定の個人を特別視することは差別ではないのだと、そう知れた。そのほかの者たちに対して侮蔑の念がない限り、差別にはならない。そんな単純なことに彼はこのとき気付いたのだった。もう少しはやくに気が付けていたのなら、レンドは「リザの断裂」に関わってはいなかったかもしれない。

 それからというもの、ダイチ・レンドは孤軍奮闘、粉骨砕身、奔走した。

 破滅しか道がないと思われた「リザの断裂」を、自身を犠牲にすることで、『R2L』機関と《彼女》の双方の存続を可能とした。

「リザの断裂」は終結した。

 もっとも、それで解決したなどと満足してはいなかった。

 《彼女》と「娘」は離ればなれのまま。

 レンドの願いは《彼女》と「その娘」が幸せになることである。

 親子ならば、逢いたいときに逢える、それくらいの自由はあって然るべきだ。レンドはいずれ必ず、二人を、組織の束縛から解放してやろう、と考えた。

 守るべき存在(むすめ)がいる以上、《彼女》も同じ過ちは犯しまい、とそう信じた。


「リザの断裂」から四十年あまりが過ぎたある日のこと。

 《彼女》が助力を求めてきた。

「オリアが危ないの。組織はあの子を物として扱っています、いずれ実験材料にされてしまいます」

 そうして《彼女》は兼ねてから進めていた「オリア・リュコシ=シュガー奪還計画」を教えてくれた。

 数十年単位の計画であったが、微に入り細をうがつ《彼女》の深謀は、上手くいくと確信できた。

 なによりも、《彼女》のその計画では被害をこうむる者がほとんどいなかった。

 ただ、二人だけ、この計画のために騙すようなことをしなくてはならないのだ、と《彼女》は辛そうに溢した。

 ダイチ・レンドは言った。「彼らへの償いはわたくしが代わりに致しましょう」

 《彼女》が娘を救出すれば、事実上、それでレンドの使命は半分達成されるようなものだ。それだけで彼女たちが幸せになれるとは限らないが、少なくともレンドが《彼女》の側にいる必要はなくなるだろう。助力がまた必要となれば、いつでもこの身を捧げるつもりであった。それまでは残りの人生の大部分を、その騙すことになる二人への贖罪に捧げようと思った。

 その二人のうちの一人は、名を「ウブカタ」といった。

 

 それから間もなくして――《彼女》が危惧していたように、『R2L』機関は、オリア・リュコシ=シュガーを「ラビット」として利用するとの視野をも考慮した『ゼンイキ・プロジェクト』に着手した。

 ダイチ・レンドはその時点で、「組織への疑心」を失望へと変え、見限っていたのかもしれない。だからこそ、ライドという【あの傲慢な男】の忘れ形見から、『軸』を奪うことにも心痛めることはなかったのかもしれない。

 『R2L』機関がゼンイキ・プロジェクトを発足する、およそ二年前。ライドから乖離した『軸』は、物質が安定を求めるように、また、我々が安息を求めるように、新たな適合者を求めて、《世界》を漂浪した。やがて『軸』は新たな宿主を見つけた。

 適切な「器」を有した者を。

 選ばれし者を。

 それが――まだ物心もつかない幼い少年――ノロイ・コロセであった。

 

 かくして月日は巡り、もうすぐ《彼女》の念願が現実のものとなる。

 ダイチ・レンドはそのために、自身の大切な「核」と、時間と、自由を失った。

 過ぎ去った時間は戻らない。だが、オリア・リュコシ=シュガーが《彼女》のもとに戻ってくれば、「核」は返してもらえる。そうすればこんな『最境』にこもっていなくともよくなる。今よりも自由になれる。

 そうしたらまずは、逢いに行こう、とレンドは考えていた。

 半世紀以上も前に生き別れた――愛娘。

 ダイチ・レンドには妻とそのあいだに産まれた娘がいた。

 だが急に訪れた現実はレンドに苛酷な選択を迫った。

 ――「リザの断裂」。

 苦心惨憺としながらもレンドは、妻とまだ幼かった娘を捨てて『R2L』機関の職務を選んだ。《彼女》に仕えるという使命を優先した。このころはまだ、レンドにとっては、私情を優先するなどという選択は、唾棄すべき我が儘でしかなかった。

 だがそれももう終わる。

 六十年あまりの時が経った――妻は生きてはいないだろう。娘もまた、仮に生きていたとしても見た目はレンドよりも老けているに相違ない。ただ、ある保持者から、レンドのひ孫にあたる者が「アークティクス・サイドにいる」という情報を聞かされていた。

 この喫茶店を模した「最境」から出られないためレンドは以前、比較的自由に動けるアークティクス・ラバーに、娘の捜索を依頼していた。

 できれば《彼女》にも、『R2L』機関にも内密に穿鑿したかった。そのために、秘匿にしつつ独自にことを進めていた。自分の娘にはこちらの社会とは関わって欲しくなかったからだ。しかし娘の所在は知っておきたい。そんな自家撞着がレンドに輾転反側とさせる日々を強いていた。

 そんな悶々としていた時期に出逢った、一人のアークティクス・ラバー。

 彼は静謐な男であった。名をミタケンと言った。ダイチ・レンドは彼に、娘の来歴を調べるように依頼した。

 一年としない内にミタケンは娘の足跡について調べ上げてくれた。娘もまた、妻と同様、すでに死去していた。娘は女の子をひとり、授かっていたという。レンドの孫にあたるその女性もまたすでに生きていないという。ただ、息子がひとり、いたという。レンドにとってはひ孫にあたる。貧しい生活ではなかったものの、どうやら娘たちは、幸せとは呼べない生涯だったそうだ。

 ――自分の所為だ。

 レンドは暗澹と沈む。

 そんなレンドへ向けて、思いもよらない情報をミタケンは齎してくれた。

 なにやら彼は、レンドにとって、ひ孫にあたる男が、自分の同僚だと言っていた。「内部情報ですので」と、それ以上の情報を教えては貰えなかったが、「世界は狭いですね」と彼は笑っていた。「あと三十年もすればあなたの孫もあなたのように立派な髭を蓄えますよ。いまは無精ひげですけどね」

 それを聞けただけで充分だった。

 ――いずれ逢いに行こう。

 ――ひ孫には是非とも幸せになってもらいたい。

 レンドは自身にそう言い聞かせた。

 幼しき日ころのノロイ・コロセが、たったひとりで喫茶店「Ding an sick」を訪れる、一年ほど前のことである。


  

   タイム▽スキップ{~基点からおよそ十時間後~}


 ***コロセ***

 僕は知った。

 カエデの思考を通して。

 弥寺さんの記憶を通して。

 また、ウブカタさんの懊悩を通して。

 僕は窺知するに至った。そして僕は逢いに行った。

 喫茶店「Ding an sick」。

 扉には「CLOSE」の看板がかかっている。

 休業中らしいけれど構わずに引くと、扉は簡単に開いた。

 店内は記憶にあるよりも随分とこぢんまりとしていて、閉塞感がある。それだけ僕の身体が大きくなったということか。それだけの期間、僕はアークティクス・サイドで過ごしていたということか。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

 カウンターから出てくると、マスターが頭を下げた。「お久しゅうございます」

 僕はなにも返さなかった。

「リザ様はお見えになられておいでです」

 言ってマスターは店の奥へ手を差し向けた。そこは以前、僕が座ったことのある席だ。

 バケツ娘との会話を思いだそうとする。けれど何を話したかなんて、微塵も思いだせなかった。

 バケツ娘はそこにいた。

 彼女がバケツを被っていなければ僕は、思わず駆け寄って彼女を抱きしめてしまっていたかもしれない。彼女もまた背が伸びていた。カエデとまったく同じ容姿をしている。けれどもカエデとは違って僕のまえにいるバケツ娘は、とても柔和に微笑んでいる。

 席には着かずに僕は彼女を見下ろしながら単刀直入に口にした。

「なんでこんなことを。あなたは。どうして」

 こんなこととは――どんなことですか?

 彼女は敢えて口には出さずに、そう唱えた。僕には彼女のその声が聴こえていた。

 全てだ、と言いたかったけれど、それを言ってしまっては話にならない。僕はここへ話を聞きに来ただけなのだから。だから、ウブカタさんのことや、弥寺さんとのあの死闘についてだとかを詳細に訊き出そうとは思わない。それは彼らの問題であって、僕がどうこうすべき問題ではないのだから。結局のところ彼女はこうして生きているわけであるし、重要なのはやはり今こうして対峙している彼女と僕とのあいだにある現実だけなのだ。

 ――殊勝な心がけだと思います。

 彼女は僕の独白にそう応じる。この程度の糊塗では彼女には通用しないらしい。

「カエデはスケープゴートだった」僕はそう言って、口火を切った。「あなたがそう定めたから、だからカエデは……」

 娘の居場所を知るための犠牲。そして、保険。

 バケツ娘は、《彼女》は、そうやってカエデを利用した。

 組織とのいざこざのために、《彼女》は自分で娘を奪還することが許されなかった。一方で、『ドール』が謀反を企て、勝手に引き起こした不始末ならば、それは飽くまでも『ドール』の独断専行であり、《彼女》に課せられる罪は統率不行き届き――むしろ《彼女》は被害者でもある――との詭計。

 《彼女》の意思によって齎された犠牲。

 《彼女》の我が儘によって生じた犠牲。

 それがカエデだ。

 あなたは、と僕は弾劾した。「――あなたは人じゃない。化け物ですらない。あなたは長く生きすぎた……だから人の痛みが分からない」

「そんなことはないわ」と彼女は朗々とした口調で、「私は人です。いえ、私こそが人です」

 怒鳴りたい気持ちを制して僕はちいさく問い返す。「だったらどうして、どうしてカエデをあんな目に……どうしてカエデを殺したりしたんですか」

「あの子、殺されちゃったんですか?」意外そうに彼女はちいさく目を剥いた。

 説明する気にはなれなかった。だから端的に僕は告げた。「カエデは僕のために死にました」

「そう」と安心したように彼女はつぶやく。「ならあの子は、自分で選んで、死ねたのね」

「それでもあんた人のつもりか」僕は堪えかねて叫んでいた。「カエデはあなたのせいで……!」

「ええそうよ」彼女の優しい眼差しが僕の神経を逆撫でる。「私は人です。その人である私の一部がカエデです。あの子が傷つくことはすなわち私が傷つくこと。けれどね、いいかしら――生きている限り人は傷つくものです。成すべき目的があるならば、負わねばならない傷もあるのです。避けられる傷なら避けましょう。けれど避けることがどうしても叶わない、そんな負うべき傷もあるのです。あなたにあの子の代わりが勤まりましたか? あの子以外のドールに目的が果たせましたか? あなたはあの子以外のドールに親しみを感じられましたか? 仮に私が正直に、あなたへ娘の居場所を訪ねたとしましょう。そのときあなたが娘の居場所を知っていたとして、あなたは私に娘の居場所を教えてくれましたか? 今回のようにあなたが居場所を知らなかったとしてあの子と同じように、私のために捜してくれましたか? あの子のように私があなたへ娘を捜している目的を正直に話したとして――我が娘を統合してしまおうとするこの私の本懐を聞いて――あなたは私と娘を逢わせてくれようとしましたか? 私がこの世界へ及ぼそうとしているものが、破壊ありきの再構築なのだということを知って、それでもあなたは私に協力してくれましたか?」

 自分の弱みだからコヨリと自分を統合する――それが彼女の目的だったのか?

 気にいらない世界だから、この世界を再構築する――それが彼女の目的なのか?

 そんなことのためにあれだけの犠牲を出させたのかッ。

「当たり前だ!」僕は拳を握る。「言ってくれれば僕はあんたにだって協力した!」

 なにもカエデを犠牲にする必要なんてなかったんだぞ、と悔しくなった。コヨリだって消さずに済む方法だっていくらでもあるだろ、と情けなくなった。

「それは嘘です。いえ、現在のあなたがそう思っていたとしても、実際にそのときになれば、あなたは私に娘の居場所を教えないでしょうし、それどころか、逢わせぬようにと策を講ずるはずです」

「なぜ」そんなことはしない、と僕は語気を荒らげる。

「そう。ならば訊きますけれど。ずっと幼いころから己が母を殺したのだと、己は親殺しなのだと、そう教え込まれていた娘が、それらを偽りだと知ったときの胸中があなたに少しでも量れますか? 暴走した私の娘をあなたは止められるのですか? 守れるのですか? いえ、実際にはすでに娘はその事実を知っていたようです。でもね、ならなおのことあなたは、私に娘の居場所を教えてくれなかったでしょうし、あなたが娘に逢ったとしても、私が逢いに来ていることを娘には隠そうとしたはずです。娘は、私が生きていると知り、きっと逢いたがっていたことでしょう。それは母子の愛というよりも、現状を把握するための適切な情報の統合が目的だったのだと思いますけれど――だからこそあの子は私に逢いたいと思っていたはずです。一方で私も娘と逢いたかった。その理由は、あなたの言い方をさせて頂ければ、娘を消したかったからです。そのことを知っても、あなたは私と娘を逢わせてくれましたか? そのような努力をかけてくれましたか?」

 ――もう少し考えてからものを言いなさい。

 と彼女は海よりも静かに口にした。

「あなたはカエデ、あの子だからこそ娘と逢わせたのです。あの子以外に、娘の居場所を突き止められるお人形さんなんて――娘との対面を果たせるドールなんて――私の裡にはいなかった。わるいことをしたと思います。けれどあの子が私の一部である限り、あの子がああして滅んだことが、あの子の本当の意思だったのです。それがあの子の存在意義だったのですから」

「ちがうッ」僕は身体の底から否定する。「あいつは、カエデはな、それが嫌だったんだぞ。端から自分の存在意義が定められていることが、どうしようもなく嫌で嫌で仕方がなかったんだぞ。こわがっていた。自分の全てが自分じゃない者によって決定されてしまっているその運命に、あいつはどうしようもなく怯えていたんだぞ」

 こちらから視線を外すと彼女は口元へカップを運んだ。

 そのままカップを手に持って、愛おしそうに撫でている。

「あなたも人だというのなら解るだろ?」僕は思いの丈を吐きつける。「普通は人間っていうのは、ある日突然に自分の存在意義が解らなくなって、自分を取り巻く世界がどうしようもなく不確かなものだと、気付いてしまうんだ。そんな認めたくない現実にぶち当たって、自分がいかに曖昧で希薄で忌小な存在かって、そういった当たり前の事実に気付いて不安になるもんなんだ。そうやって己の裡の世界と、外に広がる世界と、他者の内にあるもう一つの世界との隔たりをまえにして、どうにかこうにか折り合いをつけようと必死こいて悩むんだよ。悩むことを途中で諦める人もいる、悩みつづけていずれかの世界ひとつに閉じこもろうとする者もいる、無理矢理に他者の世界に自己を捩じ込もうとがむしゃらになるやつもいる――けどな、どんな人間も、自分が自分であることだけは止められないんだ。自分は自分なんだと、心のどこかでは気付くんだよ! この曖昧で希薄で卑小な存在こそが己なのだと気付くからこそ、そう思えるからこそ、自我は自我たり得るし、自我は個として揺るぎない確固たる器を得るんだ。形を得るんだよ。それこそ漠然とした形の器をだ。それでも自分でつくりあげた、自分だけの器だ」

 もう僕の言葉は止まらない。

 思うが儘に。

 僕の裡に在るが儘の思いを。

 そのままの気持ちを僕はぶちまけた。

「なのにあいつは、カエデは、最初から器の形が決まっていた。それも鮮明なまでにきちんとした形としてだぞ。気に入らなかったんだ。あいつはその形がひどく気に入らなかったんだよ。漠然と曖昧な形なら、自分でいくらでも好きな形に思い込むことができるのに、カエデにはそれすらもできなかった。許されなかったんだ。誰が許さないか分かるか? あんただよ。あんたが許さなかったんだッ。人間として絶対的に許されるべき、己が己であり得るための確認作業、自己の形成をあんたはあいつから奪っていたんだ。あんたさえあいつに意味を植え付けなければ、存在意義を押しつけたりなんてしなければ、カエデは人になれたんだ。

 存在意義なんて僕たちには無いんだよ、元々そんなのないんだよ、無くて当たり前なんだよ。意味とか意義とか価値とかそんなもん、僕たち人間がいなけりゃ、ただそこにあるものでしかないだろ。石ころも金もダイヤも糞も太陽も、全ては平等に無価値だ。

 だからこそ逆に、僕たちこそが意味や意義や価値そのものなんだ。

 全ては僕たちが生み出しているに過ぎないただの解釈だろ。そうじゃないのかよ。

 だからあいつを人間にするなんて簡単なことだったろ。キミは無意味だ、僕たちと等しく同等に無意味なちっぽけな存在なのだと、そう認めてやるだけでよかったんだ。それをなんだよ、聞いていれば牽強付会にあんたの目的のためだ、コヨリのためだ、世界のためだ、と責任転嫁ばかり言いやがって。

 自分の一部ひとつ救えないで、なにが世界だバカ野郎!

 いいか、あんたがなんと言おうとカエデはあんたの思惑通りになんか死んじゃいない。あいつは――カエデは、自分の考えに従って、自分の意志に従って、ときには自分の意思に抗って――そうして選択した行為の跡に残るだろう後悔のすべてを受け止める覚悟を抱いたうえで――そのうえで、自分勝手に、自分のために、そうして人間らしく『カエデ』として死んでいったんだ。あいつの死に顔は安らかだった。安らかに微笑んだままで死んでいたんだぞ。

 人として死ねたのだと笑って死んできやがったんだ! バカ野郎だ、本当にバカ野郎だッ……。死んだら意味ないだろって……死ななくたって意味なんてないんだ、自分で創りだす意味しかないんだってのに、死んだら意味は生まれないだろ……創れないだろ…………。だからやっぱりあいつは人だったんだ。誰がなんと言おうとも、無意味で無意義で無価値な、バカバカしいまでに人間らしい人間だったんだ」

「感情を制御なさい」

 彼女は飽くまでも穏やかな声で、

「あなた、自分で言っていることをご自分で理解なさっていますか? それが論理破綻を前提とした、飛躍と自家撞着のツギハギで構築されている、浅薄な愚考そのものなのだと自覚なさっていますか?

 あなたは私に、自分の一部も守れないようで、とおっしゃりましたが、あなたはご自身の肉体を構成している細胞の一つ一つに気を掛けているとでもおっしゃるの?

 自分を守ることと、自分の一部を守ることのあいだには、『超えるべきではない溝』と『超えようとしても越えられない絶対的な隔たり』の二つがあるのですよ。自分を守るためには犠牲にしなくてはならない部位が生じてくることもあるでしょう。そうね、病に侵された四肢や内臓などは分かりやすい例です。

 また、肉体を構成する細胞の一つ一つは死滅と分裂をくりかえすことで肉体をより正常に機能させるのです。代謝なくして正常な肉体はあり得ない。細胞が滅ぶのは、肉体が肉体としてあるためには必要な滅びなのです。あの子は私にとってそういった存在でした。

 私が私であるために必要な、自己の一部の滅び、だったのです。

 仮にあなたがご自身の肉体から剥がれ落ちる細胞の一つ一つに気を配り、拾い集め、培養しつづける偉業を成し遂げられたならば、私も私の一部たちへもっと対人的に接することもやぶさかではないのです。

 ですが、

 あなたにそれができますか?

 ――望むことは勝手です。

 ――思うことと同様にして自由です。

 けれど、

 できもしないことを他者に求めるのはおやめなさい。

 見苦しいだけですよ。

 

 彼女はいつの間にか言葉ではなく、波紋を通じて語りかけていた。

 言葉と波紋がスイッチする境を、僕はものの見事に見失っていた。彼女の語りに聞き入ってしまっていた。

 彼女の口にしたその言葉は、僕の信じている思想そのものだった。僕が心の拠り所にしている理屈、言い訳、弁解と自慰のためのそれだった。

 僕は彼女を通して僕を視ていた。

 彼女の言っていることは正しい。彼女の行っていることも、きっと正しいのだろう。人のために行動することが――多くの者が幸福を感じられる環境を生みだすための行為が――善だとするならば、彼女の言動も、行動も、あまねく正しいのだろう。

 僕はただ、僕ひとりだけで、独り善がりに納得していないだけなのだ。

 そして今、僕は僕自身を否定しようとしている。彼女を否定することは――彼女のその言動と行動を否定することは――そのまま僕自身を否定することだ。

 それは、脆弱で不安定だった僕を支えていた唯一の信仰を、自ら打ち壊してしまうのと同義なのだ。

 自殺――に等しい行為なのだろう。

 死にたいわけじゃないけれど、

 死にたくないわけでもない。

 死んだって別に構わない。僕はそう思っている。本気でそう思っていないことを自覚できているくらいには冷静に、「死んでもいい」とそう思っている。

 だけど僕は死ぬときに、きちんと僕として死にたい。

 僕は自分を崩したくはない、殺したくはない。

 自分を殺すくらいなら僕は、生きるために死を選びたい。

 カエデもそう望んでいた。僕には解る。痛いくらいに。充分すぎるほどに。言葉で語るには物足りないくらいに。言い尽くせないほどに。解っていた。

 そう、

 ならば、

 あれこそが、

 あの結末こそが、

 あのカエデの死こそが、

 カエデの意志であり――つまり、

 それが、《彼女》の意志であり、真意だったのだろう。

 カエデは満足だったのだろうか。いや、死なずに済む道だってあったはずだ。

 カエデは死にたかったわけじゃない。決して死にたかったわけではなかった。

 ただ自由が欲しかっただけなんだ。カエデは自由になりたかっただけなんだ。

 自由に悩んで、自由に苦しんで、自由に後悔して、自由に縛られたかっただけなのだ。

 限定される対象を、キミは自分で選びたかったんだろ……。

 《彼女》という限定ではなく、『カエデ』という自分で、自分を縛りたかったんだろ……。

 どこまでいっても、

 いつまでたっても、

 キミの背後には、

 キミの骨子には、

 キミの内側には、

 キミの中心には、

 ――《彼女》がいた。

 いつもすぐ側にいた。

 すぐ側にいるのに、こちらからは触れることの一切が許されない絶望。

 耐えられるわけもない。絶えかねるしかない。

 死ぬことでそれらが断ち切れるのだとすれば。

 死ぬことが唯一の許された自由だったのだとするならば。

 ならばやはり、

 ――死ぬしかないのだろうか。

 死ぬしかないのだろう、と僕は哀しくカエデの最期を思い浮かべた。

 あの駄々漏れたカエデらしからぬ波紋を。僕は思いだしていた。

 いや、ちょっと待て――と額に手を当てる。

 そのまま額を握り潰すようにして頭を抱えた。

 カエデを縛っていたのが《彼女》だというのなら、《彼女》にはカエデを救うことができたはずだ。カエデにちがった結末を進ませることだってできたはずなのだ。作者がキャラクタを殺さずに物語を紡ぐことのできるように。

 死ぬことが唯一の選択に負い込んでいたのは、ほかでもない、《彼女》だ。

 いやいや――この解釈では駄目だ。それではカエデの死が、カエデが自ら死を選んだことそれ自体が無意味になる。カエデは自分の意志で死んだのだ。それが最良の選択だと信じて。

 だがそのカエデの選択を僕は納得できそうもない。

 カエデは死ななくても良かったんだ。

 ――死ぬ必要なんてこれっぽっちもなかったんだ。

 いやいやいや、これこそ僕の独善的な解釈ではないのか。

 唯一カエデが持ち得た自分らしさを僕が否定してどうする。

 だけど、でも、なら、どうすれば――。

 どうすればよいのだろう。

 たぶん僕は、どうすれば良いのかを知っている。今までそうしてきたように、カエデの選択を、カエデのそのままを受け入れればいいだけの話だ。カエデの死ごと、カエデの全てを。

 自分のこととして考えれば、考えるほどに、それ以外に道はないような気がした。僕がカエデの立場なら、たぶん、僕も死を選んだだろう。痛いほどによく解る。

 ただ、でも、ならばなぜ僕はこんなにもカエデの選択を、カエデの死を、受け入れることができないのだろう。

 結局、

 他人ごとなのだろう。

 善くもわるくも他人ごとなのだろう。僕は生きていて、カエデは死んだ。こうして考えるのも、悩むのも、納得できないのも、ひとりでうじうじと苛んでいるのも、生きている僕の問題で、カエデは関係ない。一切の関係がない。

 だってカエデは、

 ――死んだのだから。

 僕は、「僕」に悩んでいるのだ。どうすれば僕に都合のよい結末になるのだろうか――と。ただそれだけなのだ。いつだって僕は僕のことしか考えていない。人のためだと考えるのも、結局はそう考えることが自分にとって一番良い思考なのだとそう判断しているからだ。自己犠牲を重んじた行動をするのも、人道的な支援をするのも、無償で愛を注ぎつづけるのも、結局は自分がそうすることで一番納得できるからにほかならない。

 人はいつだって、

 自分にとってもっとも都合のよい選択を、

 自分にとってもっとも適切な形で行いたいだけなのだ。

 いや、実際にそうしているに違いない。

 あるのは、そのあとに生じる理想と現実との差異――訪れた結果に対して抱く、ささやかな不満だけ。

 なんだか全てがバカバカしい。


「いまなら娘を救いだせます」

 彼女――リザは言った。

「娘はまだアークティクス・サイドにいるようですが、あそこにはもう、私に対抗する戦力はありません」

 穏やかな口調なのに、無機質な冷たさを纏っているように感じられる。

 それは彼女の感情が変化したからではなく、きっと僕の内面が変化したからだろう。

 人はいつだって同じではいられない。

 そのことが、自分が自分であることをたしかにするのだとカエデは恨めしそうに言っていた。よくよく考えてもみれば、カエデのほうが羨ましい気がする。いつだって、自分に――自分という存在に――役割があるのだと、如実に実感できるのだから。世界のなかでの存在意義を実感できたのだから。

 カエデ。

 キミは生きている限り、世界から必要とされていると保障された存在だったんだ。

 それに比べてどうだろう。僕なんて、そこらに生えている雑草と変わらない。いや、雑草は自然の循環に大いに加担している。なのに僕は、こうして自然からも社会からも剥離して、ふらふらとその境界を彷徨っている。

 死んではやく循環に加わるべきなのだろうか。それとも生きて社会に貢献すべきなのか。どちらにしろ、それこそ生かされていることにほかならない。僕という自我はそこに介入していない。

 何かのために生きるなど、自分を捨てて生きるに等しい。

 なんだ、カエデ。

 僕とキミは同じじゃないか。

 僕とキミは同じようにモラトリアムだったんだ。

 ――自己を確立できない、半端者。

 なら、どうしてキミは死んだんだ。

 僕が生きているというのに、どうしてキミは死に急いだ。

 自分が誰かなんてどうでもいいじゃないか。自分の存在意義が曖昧だろうが、虚無だろうが、確立されていようが、そんなことはどうだって良かったんだ。

 ただ単純にこの世界に存在していられたのなら、それで良かったんじゃないのかな。

 どうしてそれで満足できなかったのだろう。どうしてそれで満足しようと努めなかったのだろう。

 そうか、無欲であることはきっと許されないのだ。

 世界は何もしないことを許さない、何も引き起こさないことを許さない。

 なにもしないでいようと世界に抗うことは、死ぬということなのだ。

 なにもしないで生きようと望むのは、死を以って償うに等しい罪悪なのだ。

 死ぬ以外に何もしないだなんてことは不可能なのだから。

 不可能なことは、してはいけないこと以上に、してはいけないことなのだ。

 あってはならぬことなのだ。

 だからカエデは死んだのか。世界に抗い死んだのか。

 そんな世界、僕はいやだ。

 ――毀れてしまえばいい。

 僕は小さくささやいた。世界に向けてささやいた。

 風に乗ったそのささめきは、僕の鼓膜にぶつかり消え失せた。

 荒々しく波打っていた僕の裡の〈なにか〉は、今、とても森閑としている。

 ゆっくりとした脈動だけが、煩わしかった。


「あなたはあなたで、やりたいことを、やりたいようになさい。何もせずとも責任は生じます。ならば、何かを成すことで責任を負いなさい。あなたがあなたであるならば、あなたにしか負えない責任があるのです。『カエデ』は私の一部です。『カエデ』の責任は私が負うことができます。けれどあなたはあなたなのだから――」

 ――あなたが自分で背負いなさい。

 言ってリザは俯いたまま、「これから人と逢うの。あなたはもう、お帰りになって」

 告げたのを最後に、にどとこちらを向かなかった。

 

 気付くと僕は、雪の舞う街中を歩んでいた。

 空を仰ぐ。曇天は明るかった。

 僕は世界へ向けて叫んでいる。

「バーーーーーーかッッ」

 独り、僕は残された。


   タイム△スキップ{~基点からおよそ~三十六時間後}


 ***ダブル・ドール***

 なぜあの男が自殺したのかは判然としなかった。

 だが〈彼女〉は考えない。

 ウブカタとの会話は予定されていた通りの展開で進んだ。奇しくも、結末だけが大きく変わってしまった。

 本来ならばウブカタは、嬉々としてこちらと和解の意を示してくれるはずだった。そうなる予定であった。

 意に反してあの男は自ら命を絶った。

 こちらの目のまえで――。

 なぜだかは解らない。

 だが〈彼女〉にとってはそれでもよかった。

 いつだって人は死ぬ。それが自ら選んだ死であるならば、外野がとやかく評価すべきではないだろう。

 ウブカタは自らすすんで死に急いだ。それがあの男にとっての幸福だったのだろう。〈彼女〉はそう考える。

 

   ***

 

「いつお迎えにいかれるのですか。オリア様を」

 彼がそう尋ねてきた。

「そうね」と〈彼女〉は沈思する。やがて、「もう少し待ちましょう」と言った。

 それ以上は口にしなかった。彼もまたそれ以上尋ねてくる真似をしなかった。

 

 〈彼女〉は目的を果たした――。

 《世界》に対して非力だった《あの方》は力を欲しておられた。そのためには、さらなる力が必要だった。

 ダイチ・レンド、彼にはその力があった。

 幼年期においては彼のパーソナリティを推し量ることができなかった。しかし彼が青年となってからは、目に見えるほど顕著に『素質』があることが窺い知れた。

 彼の『特質』は次元をも揺るがせる。

 彼のその「ちから」を手に入れられれば――と《あの方》はそうお望みになられた。

 彼はこれまでの「レンド」とは異なっていた。個性的と評すれば聞こえが良いものの、彼は随分とあおい。「正義感」と「善意」の区別すら彼には付けられないだろうと思われた。そんな彼に《あの方》が目指す「理想」を説いたところで、反発は必須。ましてや彼と争うことは利口ではない。これまでの「レンド」のなかでも彼は、抜きん出て初代にちかい『素質』をもっていた。

 竜虎相搏つ――争えば双方共に満身創痍になるのもまた明らかであった。

 教育するにも彼は成長し過ぎていた。

 《あの方》は思案なされた。やがて論を結ばれた。

 ならば、彼が自ら力を与えてくれるように仕向ければいい――単純な発想であった。

 それには長い時間がかかるだろうと思われた。だがこの機会を逃す手はなかった。

 実際に費やした月日は一世紀にちかい。

 それでも〈彼女〉はやり遂げた――。

 《あの方》へ力を与えるために。《あの方》から命じられた、《あの方》の役を演じつづけた。

 弥寺と死闘を演じた〝あの彼女〟もまた、役目を無事に終えてくれた。名を『雫』といった。『雫』もまた、《あの方》のドールだ。そうして『雫』は解放された。半世紀前の激闘と、つい先日の死闘。どちらも『雫』に与えられた重要な使命だった。そうして『雫』は消えていった。

 弥寺に殺されることを唯一の結末と定められて。

 消される寸前に、弥寺へ強いていた枷を外してから。

 ――半世紀前に強いた枷。

 記憶を奪う代わりに、弥寺へ与えた枷。

 『彼女』はよくやった。そして、解放された。

 《あの方》の意思のもとに、弥寺の手によって。

 あとは《あの方》の記憶が戻ることを、〈現在ここに残る彼女〉が待つだけであった。

 〈彼女〉が《あの方》を演じているようにまた、《あの方》は《リザ・セパレン=シュガー》という存在を辞め、新たな人物となっていた。そうしてダイチ・レンドから与えられた「核」を取り込んだまま、全てが滞りなく完了するまでアークティクス・サイドに閉じ籠っている手筈である。

 あとは《あの方》が記憶を取り戻し、《あの方》が《あの方》として復活するのを待っていれば良い。

 そうすれば〈彼女〉は全ての役目を終えて、解放される。

 〈彼女〉は待ちわびていた。

 解放されることを。この世界から消えることを。

 ほかの〝彼女たち〟が次々と解放されていく様を見届けながら、羨望していた。

「……主さま」

 カップの水面に小さく呟く。

 吐息が褐色の水面を揺るがした。

 波紋は水面に映る像をも揺るがせる。

 〈彼女〉は、存在することに飽きていた。

 〈彼女〉は、存在することに呆れていた。

 では、

 ――《彼女》はどうなのだろう。

 解放される前にいちど、〈彼女〉は是非とも尋ねてみたかった。


   タイム△△スキップ{~基点からおよそ十六日後~}


 ***ミタケン***

 見覚えのあるうしろ姿だった。

 声を掛けようかどうかと逡巡する。そのあいだに彼が足を止めたので、ミタケンは仕方なく声をかけた。

「やあ、元気かい」

「……ミタケンさん」振り返ることなく彼は言った。「生きていたんですね」

「ああ、申しわけない」何となく謝ってしまう。「見間違えたよ。何があったんだい?」

「さっきは見覚えがあるって」彼が振り向き、うすく笑った。「でも、そうですね、こうして波紋を読めるようになってしまうと、ミタケンさんの言っていたことがよく解ります」

 どんなことを言ったっけ、と考える。

 だが彼はこの疑問には応えなかった。

 肩を並べて歩む。

「弥寺くんは元気かな?」口に出して尋ねてみる。「ぼくは弥寺くんに救われてね。もう一度きちんとお礼を言っておきたいんだ」

「あのひとは……」と彼が口を噤む。

「弥寺くんと何かあったのかい?」

 あの屈強な男に何か危険が迫ったとは思えない。だからきっと、彼と弥寺くんとのあいだに衝突があったのだと想像した。

 だがそれは、彼が波紋を漏らしてくれたことで否定された。

「――そういった状況です。だから弥寺さんは……」そう言って彼は緘黙した。

 彼は意図的に波紋を読ませてくれたらしい。随分と器用なことができるようになったのだな、と素直に感心した。

「生きているかな……」

「たぶん、まだ」

 あのひとなら、と彼は足元に浮かぶ影を見詰めていた。

 

 彼とはそこで別れた。

 お互いに逢わなかったことにした。言葉で交わした密約ではない。暗黙の了解というやつだ。

 きっと彼もまた、ぼくと似たような境遇なのだろう、とひとり納得した。

「弥寺くんが縫合しちゃったんじゃなあ……」

 救いたくとも手が出せない。だがミタケンは決意していた。

 ――必ず助け出してみせよう。弥寺くんを。

 目的のある人生というのは、それだけで「今」という現実から目を背けられる。

 駅前のビルにかかる巨大なディスプレイにはアニメ映画のコマーシャルが映し出されていた。

 四十五秒間のそのコマーシャルを眺めていた限り、そのアニメの骨子は、「困っている者をヒーローが助ける」というものであり、ありきたり過ぎて逆に、昨今とんと目にしなくなったような物語である。勧善懲悪ではないようだ。

 そのアニメの変わっているところというのが、たとい困っている者が悪人だったとしても、どうやらそのヒーローは助けてしまうらしい、ということ。そうして悪人を助けてしまうことで、新たに困ってしまう人が出てきてしまう。そのためにヒーローはいつまでも人助けをしてしまう、といったなんとも締りのないオチのようだ。コマーシャルでオチまで披露するだなんて、随分と変わっている映画である。

「……ヒーローかぁ」

 ミタケンはひとり、空へ呟く。

「それも、いいかな」


   タイム△△スキップ{~基点からおよそ~二十日後}


 ***コロセ***

「きゃはは。こちらミっちゃん、対象をみつけたんだよ!」

 蜘蛛の巣が肌に引っかかるように、彼らの波紋が断片的に伝わってくる。

「応援が到着するまで各自待機しろ」

「ええー、なんでーっ? 見失っちゃうよっ?」

「処分の決行は人数が揃ってからだ」

「そうだぞ、ミっちゃん。『独断専行は直結して死だと思え』だ」

 現状確認できるアークティクス・ラバーは四名。まだほかに集結するらしいことを鑑みると、アークティクス・サイド以外の「学び舎」から派遣されたラバーたちなのだろう。知らない波紋ばかりだ。

 彼らは浸透している。けれど僕は浸透しないままで、人で賑わっている商店街を突き進む。

 油断を装うというのは警戒するよりも集中力を要する。

 人波を掻きわけて歩みつつ僕は、万が一に備えて、道端に落ちている石ころをさり気なく拾っておく。

 

「気取られるな。対象はまだこちらに勘付いていない。『浸透』されたら厄介だ」

 彼らが僕を取り囲みはじめたからだろうか、波紋が随分と読みやすくなった。

「でもでも社長! 通行人がジャマなんだよっ!」

「ミっちゃん、あんまし近寄るなって」

「ノリたんはしゃべらないでっ!」

「うっわ、ひっでえ! 社長、なんか言ってやって下さいよ」

「いいか、ミツキ。奇襲はこれ一回きりだと思ってくれ」

「そうだぞ、ミっちゃん。つぎからが厄介になっちまうんだから、この機を逃さないようにしねーとな」

「でも、だって、こうひとが多いとっ! 処分するにもたいへんなんだよっ!」

「被害が出るのは致し方ない。処分は必ず決行する」

「だったら社長、『縫合』してしまったほうが手っ取り早いのでは? 五百メートル四方くらいを」

「ふざけんなよ、アラキ! おれらまで巻き込む気かよ!」

「被害が出るのは致し方ない。ちがうのか?」

「おれらが死ぬのは被害じゃねえ! 悲劇だ!」

「きゃはは、ノリたんが死ぬのは喜劇だよー?」

「……ミっちゃん、そのジョーク笑えない」

 緊張感の欠けた奴らだ、とついついこちらも気を緩めてしまう。

 彼らを突破するのは簡単だ。だとしても、彼らに危害を加えるのはなんだか忍びない。どうにか誰も傷つけずに済ます方法はないものか、と頭を捻るものの、時間だけが無駄に過ぎていく。


「総勢、指定の位置に付け。アークティクス・サイドの奴らが到着したその瞬間に『処分』を決行する。合図はない。これだけ保持者が集まれば、さすがに対象にも気取られる。繰り返す、アークティクス・サイドのラバーが到着次第、一斉に『処分』を決行。犠牲者は気にするな。ここで逃がせば犠牲はその何倍にも増えると心しろ」

「きゃはは。ミっちゃんたちってば鬼だよね! これだけラバーが、がん首そろえて集中攻撃って――しかも街のどまんなかだよー? たくさん死んじゃうんじゃないかなっ! きゃはは。ねえねえ、最高記録更新しちゃうよきっと! すごいねっ!」

「ミツキ、不謹慎だ」

「つってもだなアラキ。民間人ごと『処分』しようとしているのは事実っしょ、ミっちゃが言うようにさ。さながらおれたちゃ蟻の行列に混じったゴキブリを、蟻ごと踏みつぶす人間様ってところだろうな」

「ノリたん、ひっどーい! ふッきんしーん!」

「ミっちゃん……そのジョーク、ムカつく」

 きゃはは、とミツキと呼称されているラバーの波紋が振幅した。浸透しているからといって、随分と幼稚な「糊塗」だ――と、かつて波紋が駄々漏れであった僕は彼女たちに同情してしまう。

 アークティクス・サイドのラバーたちと比べると、どうやら彼女たちは幾分もパーソナリティ値が低いように感じられる。いや、というよりも、アークティクス・サイドのラバーたちが、みな一様に、突出していただけなのだろう。

 

 ミタケンさんと別れたあと、僕はしばらくこちらの社会を浮浪していた。妹や両親のことが気になっていたけれど、逢いに行くのは利口ではないと思って、だから様子見といった感じで十二年振りの街並みを懐古しながら歩き回った。

 ところがだ、

 サポータという存在は僕が思っていた以上に、こちらの社会には多く潜伏しているようだった。

 僕のパーソナリティは常に発動しているので、すぐに居場所が割れてしまう。だから僕は波紋をつよく糊塗しつづけなくてはならなかった。また、いっそのこと「浸透」してしまえ、と「浸透」していたのに、むしろ「浸透」しているときのほうがなぜかすぐに探知されてしまい、アークティクス・ラバーが僕のもとへと向かってくるのだった。これでは何もできやしない。かと言って、「浸透」もせずにこうやって街中を闊歩すると、途端にこの始末なのだから僕は気軽に外出することもままならない。

 自由になれたと思っていたわけではないけれど、まさかアークティクス・サイドにいたときよりも盛大に不自由になるとは思ってもいなかった。むしろ、アークティクス・サイドこそが僕にとっての自由だったのかもしれないとすら思えるから困ったものだ。

 離反者に対して『R2L』機関はどこまでも厳酷であるらしい。これまでに撒いてきたラバーたちの波紋を盗み読んでいた限り、ラバー総員に告げられている僕への対処は、ことごとく「処分」であった。

 そうしてアークティクス・サイドから逃亡してはやくも三週間が経過した。

 僕は現在、アークティクス・ラバー、総勢三十八名に取り囲まれている。

 取り囲まれている、とは言っても、僕はそれに気付いていない体を装っているし、向こう側も慎重に(とは言えない気もするけれど)任務を遂行しようとしているようだ。どうやらこのラバーたちに加えてさらに、アークティクス・サイドのラバーたちが助勢にやってくるらしい。まったくもってぞっとしない。

 ただ、アークティクス・サイドのラバーが来るならば、僕にも、手だてがまったくないわけではない。死者を出さずにこの窮地を脱する方法が思い浮かんだ。賭けのようなものだけれど、賭けないよりかは増しだろう。

 僕はその場で「浸透」する。

「おい、気取られたんじゃッ」

 動揺するラバーたちを尻目に僕は、彼らが構成している『プレクス』からも外れて、より深い断層へと沈んでいく。

 俯瞰的に彼らを視る。

 いや、したから見上げている感じにも似ている。

 俯瞰的視点も、ラッコ的視点も、どちらも精確ではないし、どちらも似ているのだけれど、ともかく僕は彼らを一方的に視認した。向こうからは僕が視えていない。

「各自撤退ッ!」

 社長、と呼ばれていたリーダー格のラバーがそう通達した。

 迅速な判断だ、と評すべきだろう。

 僕を取り囲んでいたラバーたちがその場から離脱し、なおかつ「浸透」を深めた。

 そのとき、彼女の波紋を僕は感知する。

 遅れて新たに集結したラバーたちが、この場に馳せ参じた。

 アークティクス・サイドのラバーたち。

 六名のラバー。

 そのなかに彼女の姿を確認する。

 どうやら賭けは勝ったようだ。

 僕は密かに彼女へ「波紋」を同調させた。

 ――一時撤退の指示が出ている。

 ――このまま仲間たちから距離を置いてくれ。

 ――僕はキミの気配に紛れてこの場から退散する。

 そのような主旨を一瞬で伝えた。言語ではない。概念として伝えた。

 彼女は無言で波紋を一つ振幅させた。

 

   ***

 

「しばらくは活動を控えて」

 彼女は臆することなくそう口にした。どこか威圧的ですらある。けれど彼女の波紋はびくびくと痙攣している。虚勢なのだと知れた。

「助かりました」と頭を下げる。

「いいの。気にしないで。あのとき――きみはわたしのお願いを聞いてくれた。そうでしょ?」

「そんなつもりはありません」と正直に打ち明ける。「あの人を殺すことは何の解決にもならなかった――ただそれだけです」

「それでも、きみはあの人を見逃してくれた。そうでしょ?」

「許したつもりもありません」と否定する。「でも、イルカさんはあのとき、僕の条件を呑んでくれました。だから僕は、あなたを殺すことを思いとどまった。ただそれだけのことです」

 頬を緩めると彼女は、

「わたしが死んでも、あいつは悲しまないよ」とこちらから視線を外した。「この部屋は勝手につかって。というか、しばらくはここに籠ってて」

 外には出ないでね、と念を押される。

「ありがとうございます」頷くかわりに頭を下げた。

「礼はいらない。わたしは脅されてこうしているだけなんだから。そうでしょ?」

「はい」そうでした、と頬を掻きつつ部屋を見渡す。

 四方がコンクリートで固められている質素な内装だ。冷たい印象なのに、どこか温かい。家具は最低限のものしかなく、まるでガラクタのようだ。

「夜間なら散歩くらいしても大丈夫だとは思うけど……周辺に民家とかはいないから」でも、と彼女は言い淀んで、「やっぱりしばらくは外出しないほうが――」としつこく助言してくる。

 きっと僕がのらりくらりと素直に承諾しないからだ。

 仕方なく僕は、そうします、と首肯した。

「あとは、そうね」と安心したように彼女は言った。「食料は定期的にわたしが調達してくるから、心配しないで」

「至れり尽くせりですね」苦笑するほかない。「ありがとうございます」

「だから礼はいらないってば」彼女が俯く。「ノドカさんなら……このくらいのことはしてたはずだし」

 ノドカはたしかにお節介だったけれど、お世辞にも気が利いていたとは言えなかった。けれどイルカさんのなかで美化されているノドカを、わざわざ歪める必要もないので黙っておいた。

 僕には解る。

 イルカさんは、彼の代わりに償おうとしている。

 償えるはずなどないのだと誰よりも信じている僕だったけれど、それでも僕は彼女のそれを拒まなかった。

「入り用の物があったらそこにメモしておいて。言うまでもないとは思うけど、波紋は厳重に『糊塗』しておくこと。あとは、そうね、パーソナリティも遣っちゃダメ。意識して遣うのと、そうでないのとじゃ、その場に残る痕跡とかが全然違うから。できるなら他人の波紋も読まないようにしたほうがいいと思う――って言ってもここにはわたししか来ないだろうから、きみのための用心っていうよりも、半分はわたしの保身なんだけどね」

「いえ、そうします」彼女の波紋を遮断する。

「素直な子、好きよ」

 言って彼女は微笑んだ。

 その笑みと言動が果たして虚勢であったのかどうかは、僕にはもう、判らなかった。

 一週間後にまた来るから、と言い残してイルカさんは部屋から出ていった。

 彼女に聞こえないように僕はつぶやく。

「すみません、素直じゃなくって」

 

 しばらく間を置いてから外に出た。

 明るい。

 空と山と森と平野と街並みと遠くには海も一望できた。

 ここの山には幼いころ、家族で一度だけ登った記憶がある。あのときもたしか冬だった。

 一面に雪が積もっている。

 展望できる下界はまだ、白に覆われてはいない。

 もうすぐあの街も灰色にちかい白に化粧されるはずだ。

 きっと冬とは山からこぼれ落ちてくるものなのだろう。

 小さく息を吐く。

 吐息もまた白い。

 ただ、街中の息よりは白くない。きっと空気が澄んでいるからだ。

 木々もまた雪を身にまとっている。

 雪なんてそんな冷たい服を身につけて、彼らは寒くないのだろうか。それとも温かいのだろうか。尋ねてみたい気もする。尋ねてみたところで樹木は話さないのに。こんな可愛らしいことを考えるなんてどうしたのだろう、僕らしくもない。

 なんだか僕は、ふしぎと穏やかな心持ちだった。

 それでも僕が成したいと思っていることは、穏やかなものなどではない。それは自覚していた。

 けれど、だからこそ僕は、その成したいと思っていることを行動に起こそうとは思わない。

 その葛藤が僕を不安定にしている。淀ませている。

 にも拘らず僕の心中はずっと、この透き抜けるような空そのものだった。

 ほんとうに不思議だ。

 澄んだ空のしたに湖が広がっている。

 水面に波紋はない。

 シンとしずかな線となっている。

 底にはなにが沈んでいるのだろうか、と顔をちかづけてみる。

 僕の間抜けな顔が邪魔で、覗くことができない。

 透明なのに。

 透明だから。

 鮮明になって。

 かがみのように、僕を映す。

 振り返ると、足跡が点々と並んでいた。

 ゆるやかな曲線を描いて小屋からまっすぐと僕のもとまで連なっている。

 黒ずんで見えるその足跡はまるで、僕の背後に順々と立ち並ぶ、幾人もの影のようだった。

 

 

 タイム△△スキップ{~基点からおよそ五カ月後~}


   ***

 冬が終わり、日向の合間をやわらかな風が縫いはじめたころ――。

 弥寺さんの妹を見に行った。

 もしも妹さんが困っていたら、僕が手を貸してあげようとそう思った。

 せめてもの恩返しのつもりだった。

 自分勝手な恩返し。

 僕が納得したいだけのこと。

 これで貸し借りはなしなのだと。

 僕は彼を助けてあげられないから……。

 

 妹さんは元気そうだった。

 

 そこで僕はアレを目にした。

 保持者ではない。

 なのに、ヒトでもない。

 それが何なのかは分からないままで僕は、アレと接触した。

 それが何なのかが分からなかったからこそ僕は、かれに接触した。

 

 かれはこまっていた。

 かれはこもっていた。

 出口なんてものはないのに。

 縛るものなんてないというのに。

 かれには、なんだってできるというのに。

 

 僕はかれに教えてあげようと思った。

 耳と、目と、口と、僅かばかりの自由を。

 自由という名の――不安定を。

 僕は、かれに、教えてあげた。

 

 時はながれ。

 季節はあらたな冬を迎える。




   ○○○【開花】○○○

 天井の重曹なシャンデリアが、部屋に内包されているものたちへ、仄かにカタチを与えている。前方には白く巨大なスクリーンがあり、そこに意味もなく文字やグラフが流されていく。

 周りには見栄えよく着飾っている人間たちが、丸いテーブルを囲むようにして座っている。幼児が描いた花びらにも見える。そうした花びらがこの部屋にはいくつも点在している。

 一つ一つのテーブルが、まるで集落、コロニーのようだ。一つのコロニーの内では、ほかのコロニーと対抗しあうために、個々が身を寄せ合い、団結しようとしている、が士気などの欠片もない。あるとすれば、保身のための虚栄心だけだろう。また、それら個別のコロニーをひとまとめとして、この集会という一つのシステムが成り立っている。

 室内のテーブルをいっぺんに視界に入れつつ若者は、遠巻きにスクリーンを眺めていた。

 萎びたこの人間どもはこの意味を理解しているのだろうか。グラフや文字の意味ではない。この会合の意味をだ。この会合が社会にどういった利益と傲慢と盲目をもたらしているのかを――。そもそも自分たちが社会に内包されている理由を理解しているのか、社会の存在意義を考えたことがあるのか、自分の生を存続させることによってもたらされている理不尽な搾取から目を逸らさずにいるのか。それを理解していながらこの会合に参加しているのだろうか。少なくとも主催者側は理解しているのだろう。その証拠に、自分たちの不利益を考慮した計画をなに一つ思案していない。利己追求的な計画ばかりだ。人類という種を個とした利己追求ではない、人間一人を単位とした個人の利己追及だ。それをいかにも全体利益のためだなどと豪語してやがる。滑稽だが笑えない、まったくもって無様で目障りな存在だ、不愉快極まりない。

 

 小学校の体育館ほどの空間だ。煌びやかな装飾を施されている。ホテルのパーティ会場や式場のようでもある。

 出入り口は二つしかない。

 会場のなかではさきほどから、数百人ちかい貴婦人や紳士に向けて、偽善的な笑顔を振りまく男が、演説を唱えていた。頭のなかでなにを考えているかは別として、どの人間も大人しく椅子に座っている。たまに作法良くテーブルのうえのワインに口をつけながら、真剣に男の話へ耳を傾けているように見受けられる。

 ――よくもまあ、我慢できるものだなこいつらは。

 青年は演説など一切聞かずに、そんなことを考えていた。

 密封された部屋のおかげで、貴婦人のつけている香水や、紳士のつけているコロンが入り混じり、余計に不愉快な臭いをつくり出している。

 香水ってものはだな、元々は自分の体臭を隠すものだろうが。だとしてだ、だったらこいつらどれだけもとの体臭が強烈なんだ? 体臭ごまかすどころか、とんだ悪臭になっちまってやがる。そんでもって、こうやって混合しながら強烈になっていく刺激臭に慣れちまうもんだから、つぎはもっとドギツイ臭いを自分に付着させちまうんだろうな。まったくもって悪循環だと気がついていない。まあ、そりゃそうだろうな、こいつらにとっては悪臭でもないし、自分を着飾る高貴な装飾品と同じだってんだから。しかもその価値の解らない者のほうがクズだと思い込んでやがる。自分が世界の中心だと勘違いしちまってるその傲慢こそ、こいつらが唯一誇れる人間らしさだよ。

 世界平和? 社会秩序? 地球環境保護? くだらねぇ。滑稽ですらある。本気でそう思ってんだったら、まずは自分の生活をいまの社会から切り離して見せろってんだよ。社会の堕落した便利さを手放す覚悟もなく、さらなる便利さと贅沢を求めながら、なにが自然だバカ野郎。

 青年は叫びだしたくて堪らなかった。

 だがまだ時間ではない。もうしばらくの辛抱だ。

 青年は自分にそう言い聞かせながら、葛藤を繰り返していく。

 あと残り、十二分。時間がおとずれれば、駅前で騒ぎが起こる。警察などの国家権力を振りかざす行政機関や、テロ対策本部だとかの国防も、そちら側に目が行くだろう。そのときが決行のときだ。

 青年の冷静な理性はそう判断していたが、彼は立ち上がり、叫んでいた。右手にはガスマスクの入ったカバンを手にして。

 会場はざわめきを帯び、どよめきに変わりはじめていた。

   ○○○+*+○○○





 +++第十五章『百花繚乱』+++

 【ぼくは気付いたんだ。彼らのそれは、認められたいという希求ではなく、崇められたいという欲動だったのだと。或いはぼくもまた、そうであったように】

 

 

   タイム△△△スキップ{~基点からおよそ二年後~}


 ***独立私念***

 新宿駅に仕掛けた爆弾は設定した時間どおりに起動したようだった。つまりは予定どおりに新宿駅を爆破した。僕はその光景を後日、田舎の定食屋さんのテレビに映し出されていたニュースで確認した。

「おそろしいねえ」

 食堂で作業をしていた初老の女性が柔和に微笑んだままで言った。完全に他人ごとだった。目のまえにいる男がそのおそろしい犯人で、まさか今から自分が、食事一回分の勘定が払えないという理由で殺されるとは、夢にも思っていない表情だった。

 いったい彼女は死の瞬間、どんな表情をするのだろう。僕は想像してみたけれど、真っ白でのっぺらぼうの彼女の顔しか、思い浮かべることができなかった。

 新宿駅で爆発が起きた結果、僕の目論みどおりに、人々の注意は新宿駅へと向かい、国家権力の警戒も一時的に臨界状態となり、対応も反応も魯鈍なまでに滞った。

 順当に事は運んだ。

 僕は僕ひとりを唯一の生存者として、誰の目に触れることもなくホテルを後にした。

 新宿駅の方角から聞こえるサイレンの音と、風に交じった砂塵が、僕をかすめていた。

 

 報復という名の虐殺を僕はおこなった。

 この国の大手企業の重役たちと政治家たちが集ったホテルでのパーティで数百人を同時に殺した。

 一方的殺戮。

 一時的暗殺。

 それからの僕は、あらかじめ決めていた逃走経路で日本中を旅するみたいに巡回した。

 マスメディアはこぞってテロという言葉を使い、僕のしでかした出来事を報道していた。

 けれど僕は誰に追われることもなければ、誰からも嫌疑をかけられることはなかった。なぜだろう。不思議なくらい。むしろ不気味なくらいに。僕はまるで透明人間にでもなった気分だった。

 報道された内容は総じて、他国の反政府組織による同時テロとして処理されていたし、街中を歩いていても田舎町へと足を運んでみても、誰ひとり、僕という人間に、興味も憎悪も警戒心すら、向けてくる者はいなかった。

 誰も追ってこないという現実が、僕を余計に行くあてのない浮浪者へと形成させていった。

 浮浪者。バガボンド。アウトロー。

 そういった者へと僕はなっていた。

 僕という存在を社会が認識してくれなくては、僕がなぜそんなことをしたのかを誰も理解できない。それどころか、僕の意思の存在すら誰も知ることができない。犯行声明でも出せばよかったのかもしれないが、それでは意味がない。

 教えられるのではなく、個々人がそれぞれで気付かなくてはならない。それぞれが危機感を持たなくてはならない。

 社会に対して、「これで良いのだろうか」と。

 そのためには声明文など不要だった。

 けれど、一向に僕の思惑どおりの展開にはならなかった。

 社会はあの出来事を、「祭りごとの花火」程度のものとして徐々に昇華していった。打ち上げられた花火は儚く散る。花火の余韻が途切れれば、群集は空を見上げることはない。祭りの終焉はそうして迎えるものらしい。

 計画を根底から大きく狂わされてしまった僕には、もう成すべきことがなくなってしまった。

 ――目的の喪失。

 無味乾燥とした思いが僕を、ただ呼吸をしているだけの生物へと導いていたのだ、と今になって僕は、当時の僕をそう分析している。

 無意味。

 無意義。

 無価値。

 そして、虚無。

 僕は戦うことを求めていたのに、この世界に溢れる理不尽を見逃すわけにはいかないと、蔓延る不条理から、か弱きものたちを解放させようと、そうして僕は意気込んでいたのに、僕のやり遂げた弱者への救援処置は、ただの破壊であって、それ以降なにも変わることがなかった。

 迫害されていく小さな命たちや、人間優位なこの腐った空気。

 それらが取り巻く世界そのもの。

 そして僕自身も。

 なにも変わらなかった。

 変わっていないと、そう思っていた。

 報復のあと、つぎにすべきことは逃走であり、国という巨大な組織との闘争だと思っていた僕は、この間の抜けた平和と平穏のなかで、当初予定していた逃走経路をオートマチックに辿りながら、自分の非力さと矮小さと薄さに、延々と途切れることのない永遠へとつづくかのように感じられるこの時間のなかで、独り、思いを馳せていた。

 ――誰もいないところへ行きたい。

 ――誰の干渉も得られないところに行きたい。

 いつしか僕はそれだけを求めて、この地球上にある矮小なこの島国の陸路を、蟻のように取留めもなく歩んでいた。

 田舎の山にでも籠ればその孤独を達成されることができるかもしれないと考えて、西から東へ山脈を沿って歩んでみたけれど、この時代のこの国には、自由を許された自然などは存在していなかった。管理という名目のもとに、どの森も山も、法律と人間本位な秩序の干渉を強いられていた。無断で立ち入ることすら許されず、住みつくことなど以ての外だった。僕は言語に絶す思いを抱くよりほかなかった。

 ――世界を毀したい。

 僕が抱いていたもっとも純粋で、もっとも根源的な感情がふたたび浮上しはじめたころ――僕は田舎を離れ、見知った都会へと舞い戻ってきていた。

 人のいる場所に生まれるのが秩序である以上、秩序が崩れるところもまた人のいる場所なのだ、と遅まきながら悟ったのだ。

 そうして行き着いた場所がここだった。

 無秩序が唯一のルール。そんな場所だった。こんな無法地帯がこの厳格なまでに平和主義のこの国に存在していただなんて、と僕は素直に驚いた。世界を毀すならばまずはここからだろうなとそうも思った。

 それからの僕はインコのように、所有者がいるかもあやしい、無人の建物の部屋に籠り、廃れたソファでよこになって、僕が僕であることを、記憶を辿ることで確認した。僕が僕であることは明確であるのにも拘らず、僕は僕であることを実感できなくなっていた。それはこの数カ月間、ずっと続いていたものだった。

 僕から独立してはいるものの乖離はしていない思考。

 僕が、そんな思考形態を有していることに気が付いたのは、手繰り寄せていた記憶が一年前からつい最近までの出来事へ差しかかったころだった。

 一年前のフユキとの出会いから、数か月前に体験したホテル内での企業パーティのこと、それから今日まで衣食住を賄うために、金品を搾取する目的で通り魔のように人間たちを殺してきた日々。一日一日を鮮明に思いだしながら順序よく、そのときどう考え、なぜあんなことをしたのか、どうして僕は喜怒哀楽の起伏を失くしたようにそれらに対して何も思わないのか。そして、僕が抱いた動機というのは、僕の犯した行為に釣り合うに相応しい感情だったのか。そのことを客観的に分析していた。

 結果、どうやら僕は、以前の僕とは異なった人格へ変貌してしまった、という結論に達した。

 人格は誰もが日々変化している。それはしかし、身体の細胞が日々変化し、入れ換わっていることと同じように、ある限界で収束し束縛されている。遺伝子のような先天的な力によって、極端な変遷を制限されているのかもしれない。一方で僕は、突然変異のように、思考形態に急激な変化をきたしていたのである。

 自分のことなのに気が付かなかった。

 いや、自分のことだからこそ気が付けなかったのかもしれない。

 僕が僕でないような感覚。

 それはその急激な変化の兆候であり、その副作用、または後遺症なのかもしれない。

 むかしの僕――と言ってもつい半年前くらいの僕であるが――その過去の自分を僕は「ハルキ」と名前で呼んで思いだし、その思い出を見ているあいだは、まったくの別人の記憶を覗いている気分だった。

 むかしを懐かしむというよりも、本当にこれが僕だったのだろうか、とそのことを疑うほうが圧倒的に多かった。いや、ほとんどの感想はその疑心だと言ってしまっていい。

 例外があるとすればそれは、フユキと出会ってからの僕の記憶に限定されていた。フユキと会話をするようになった僕の記憶は、今の僕にどことなく似ているのだった。

 

   ***

 僕は久しぶりに散歩をした。外を歩んだ。

 空に身を晒した。

 世界を横切った。

 混沌を闊歩した。

 薄暗い路地は、汚れた街灯の仄かな明かりに照らされている。ひどく幻想的に見えた。幻想的に見えてはいたけれど、しかし実はそれがいつも通りの風景で、今が夜ではなく昼だという可能性もある。僕には一瞬でその判断を付けることができなかった。

 路地を抜けた。

 見上げると建物と建物のあいだには光が満ちていた。太陽の光よりも煌びやかに人工的な光が帯となってふりそそぐ。

 表世界の明かりは眩し過ぎる。それに比べればここの毒々しいネオンたちはまだ幾分もやさしい光なのだ、と僕は懐かしみを覚えるまでになった表社会の風景を思い浮かべていた。

 過去を振り返るようにして。

 過去から現在を辿るようにして。

 やがて僕は歩きながら、最近になって頻繁に考えるようになっていた疑問を、意識の表層へと浮上させた。

 思考を巡らせる。

 今日と昨日の境界はどこにあるのだろうか――といった疑問。ささやかな疑問。

 空に太陽が昇って沈み、また昇ったら今日が明日になるのだろうか。僕はそんなことでは決まらないと思う。現に僕は、昼と夜の変化では今日と昨日を明確に区別することができないのだから。それはこの裏町の性質によるものではなく、僕自身の、僕という個に限定された主観の問題だった。

 むろん日付を見れば、今日が今日であり、昨日が昨日だったことを理解することはできるのだけれど、理解したからといって実感できているとは限らない。例えば、包丁で腕を切られた人が痛がっていたとして、痛がっている事実は理解できるものの、その人の痛みは実感できない。そういったことと同じで、僕は今日と昨日の境を実感することができないでいた。多分それは、僕が眠ることのできない体質になっていることに関係があるのだ、と睨んでいる。いや、身体の活動を休止させて、肉体を眠らせることはできるのだけれど、意識はいつまでも覚醒している。不眠不休ではなく、不眠有休。

 ところで、夢を視ているとき、それを夢だと認識して夢のなかで好き放題に活動できる人間は少なからず存在する。僕もその内のひとりだ。僕が小さかったころ、つまり僕がまだハルキだったころにも僕はときどき夢を夢だと認識して、自由に操ることができた。それは夢を操ることであり、また自分を操っていることと同義だった。

 しかし今では夢を視られないくらいに僕は、睡眠中も自我を保ち続けてしまう。それは例えば、目を瞑って考えていることに似ているのだけれど、その思考自体はとても独立的で客観的なものだった。

 僕を四人に分離させて、会話をしている感覚。

 そう、感覚だ。

 ――感覚が研ぎ澄まされている感覚。

 この重複した感覚の連鎖が身体を眠らせているあいだ、僕の内で鮮明に繰り広げられている。時間の概念もその四等分した僕との会話も明確に認識されていながら、記憶も記録されつづけているのだから、それはつまり二十四時間年中無休で僕が起動しつづけていることと大差なかった。

 僕はコンビニみたいな存在なのか、という議論もつい先日したくらいである。その議論のむすびは、「コンビニという比喩は安直だったよね」という議題への批判で締めくくられた。

 

   ******

「光があれば、必然的に影もできる。けれど、世界は元々が闇なんだ。解るだろ? 宇宙を考えれば手っ取りばやい。闇のなかで星が微かに光を放っているだけなのさ。なのに光は、闇の居場所を奪い、限定し、隔離する。光の持つ力ってのは、そういった闇の拘束なんだ。闇を影として収束させておく力。それが光なのさ。もっと言えば、光は闇を蹂躙しているに過ぎない。そういった圧倒的な暴力を持っている存在こそが光なのさ」

「まあ、そういう見方もできるよね」

「見方の問題じゃない。これは事実だ。光が当たることで、表と裏の区別が生まれる。大抵、光が当たっているほうが『表』と呼ばれる。この優劣、または優越の差はなんだ? 単純なことだ。力のあるなしだ」

 僕は繰り広げられる議論へ客観的に耳を欹てているだけ。

 口は挟まない。

 愚痴も溢さない。

 批判もしなければ、感心も抱かず、関心も湧かない。

 けれど、耳は欹てる。

 監視しつづけなくては、不安だから。

「人の心にも光の当たっている場所がありますよね。表の人格というか、心の表層。そこはいつだって光に照らされているけど、でもそれが心のすべてではなくって、飽くまで心の一断片なんです。けれど一方で、そうでない場所、何が在るのかを認識することのできない場所も、心には多く存在しています。言うなれば、無意識と呼ばれている領域ですね。光に照らされて生まれた心の影や裏側がそこには存在しています。そういった認識できない心の影は普段、光の当たっている場所までは出てこられません。闇がないからです。けれどね、いったん光が消えて、心のすべてが闇に覆われた瞬間――その何かは、縦横無尽に心を駆け巡るのです。それこそこれまで抑圧されていた分を取り戻そうとするかのように。束縛されていた復讐を果たすかのように」

 異論はあるけれど反論する意思がない。

 僕は緘黙を貫く。

「えっとさ、いいかな? 誤解してもらいたくないから言っておくけども、影が悪いわけではないんだよ。もちろん光が悪いわけでもない。今の議題は、善悪という比較ではないんだから。要するに、壁を押せば、壁から押し返させられる。そのことと同じなんだよ。何かに力を加えて作用を働かせれば、その力の真逆の方向にも、反作用が引き起こる。バネを縮めて、手を離せば、力の解放されたバネは、跳んでいく。そういった現象。物理世界に働く巨大なながれが、心にも介在しているということ。それだけの話だろ?」

「まあ、そういうことだな。光によって歪まされていた心の世界がもとに戻ったというだけの話。光が急に消えたから、抑えつけられていた何かが弾けるように暴走しているだけなんだよな。解ってもらえるかなあ。それらはだね、光が抑圧していたと同じだけの力を放出するまで止まらないんだよ。放出し切っても、心には空気みたいな障害物がないから、どこまでも暴走し続けるかもしれない。もしくは、障害物があれば止まるかもしれないし、またどこか別の方向へと弾け飛んでいくかもしれない」

 つまりこれはさ、

 ――そういうことなんだよ。


   タイム▽▽スイッチ{~基点からおよそ一年後~}


   ○○○【媒介者】○○○

 帰宅すると誰もいるはずのない部屋から声がした。

「おかえりなさい」

 声のしたほうを見遣ると、闇に赤い点が浮かんで見えた。煙が見え、煙草の火だと判った。

 壁のスイッチを押して、明かりを灯す。女が煙をくゆらせ、立っていた。

 机に置かれた空き缶には、押し潰された煙草の残骸が何本もたまっている。

 どれだけ待っていたのだろう。

 動揺のなか、ふと、そんなことを考えた。

「おひさしぶりです」

 警戒しつつ、彼女を中心にして弧を描き、ドアから離れる。彼女と対面になるように部屋のまんなかへと素早く移動した。ドアと窓際は危険だと判断したためだ。

「素直じゃない子、嫌いだよ」

 おどけたふうに叱られる。

「すみません」とおよそ一年おくれで謝罪する。「でも、じっとしていられなかったんです」

「じっとしているつもりがあったの? すこしでも?」

 首を傾げなら大袈裟に言って彼女は煙を吐いた。うしろで束ねられている髪が揺れる。

 懐かしい感情が湧きあがった。それを瞬時に自覚して、遮断する。彼女はイルカさんであって、ノドカでもなければ、努樹でもないし、カエデでもない。懐かしさを感じるなんて、どうかしている。

「元気そうでなによりです」言いつつ、彼女の波紋を読む。「何か飲みますか?」

「オトモダチのお守りはもう終わったんだ?」彼女は僕の問いには答えなかった。

「ええ。終わりましたよ」と正直に答える。

「そう。よかった」

 どこまでばれているのだろうか。

 彼女の波紋が読めないことも不可解だ。

 一息で煙をしこたま吸うと彼女は、まだ燃え尽きていない煙草を灰皿に押し付けて潰した。煙を吹き出しながら思いだしたように、「あ、そうだ。わたしの波紋、読めないでしょ?」と唇のあいだから白い歯をのぞかせた。イジワルそうな顔だ。「ほら、これ」とこぶしをひらいて中身をみせてくれる。

 『言霊』だ。

 道理で、と合点する。

「ごめんね。読まれたくなくって。でも、わたしもきみのを読めないし、パーソナリティだって遣えない」弁解気味に口にすると彼女は、「と言っても、元々わたしじゃ、きみの波紋を読むなんてできないんだけどね」と自虐的に付け足した。

 モーションをとるべきかを考えた。と同時に、彼女が『言霊』を握っている背景を鑑みると、彼女に対してできるだけ真摯に対応したかった。彼女は半ば捨て身で、「わたしを信用してくれ」と訴えている。警戒を強めるだけにとどめた。

「ごめんなさい」と彼女は頭を下げた。束ねた髪がしなる。

「どうして謝るんですか」

「たぶん、これで最後になると思うの」頭を下げたままで、「きみにはもう、協力できそうもない」

 彼女はどうやら以前に交わした「契約」のことを言っているらしい。

 ――無償の援助。

 いわばそれは、彼女に組織を裏切れと迫ったに等しい。

「最後もなにも」と彼女は申し訳なさそうに、「まだ一回しか役にたってあげられてないけど」と声を落とした。そうして下げっぱなしにしていた頭をようやく起こす。

「いえ、あれで充分です」

 一年ほど前――。

 僕は数十名のアークティクス・ラバーに囲まれたところを、彼女の助力を得て、無傷で脱出することができた。負傷者も出さずにである。それだけで充分だ。実際、彼女に契約を迫った理由は、彼女の本気の願いがどこまで本当なのかを知りたかったからだ。組織を裏切っていながらに組織に属しつづけているという行為は、そのまま死刑宣告を待つ死刑囚のような心境であるはずだ。けれど意に反して彼女はあっさりと契約を結んだ。それだけ知れればよかった。僕は彼女を殺すことをやめた。

 彼女はそれでも大切なひとを失い、傷つく。

 そうなるだろうことも僕には分かっていた。

 実際にあの男は彼女のもとから去った。彼女が悲しみ、傷つくと知っていながら、あの男は彼女のもとから姿を消した。あの男にとってもそれはつらい選択であり、きっと彼自身に消えない傷を残したことだろう。

 そんな傷で罪が償えるはずもないが。

 それでも僕の目のまえにいるこの彼女にはもう、強いる必要のある制約などはない。だからこそ、一年前に、僕はすぐさま行方をくらませたのだ。暗に、もう協力は必要ないのだと伝えたかったがために。

 単刀直入に僕は尋ねた。

「要件はなんですか」

 まさかここへ、「もうあなたの助けにはなれません」と謝罪をしに来ただけではあるまい。

 最近、と彼女は口火を切った。「最近になって、世界中から人が消える事態が発生しているの。いたる国で。かなりの人数」

 それはまあ、そうだろう。

 世界の人口はすでに九十億人に達する。失踪者など珍しくもない。最近でなくとも失踪者は年間数千万人に及ぶだろう。だが彼女の言いたいことがそんなことではないことぐらい、僕にも想像がついた。

「それと僕がどう関係あるんですか?」結論を促すと彼女は、「一年前のあの日」と語った。

「あの日、きみが引き起こした何かは、我々人類になんらかの影響を与えた。それはサポータや保持者、一般人と、見境なく、全人類へときみは干渉したの」

「なんの話です?」

「我々ときみの話」

 我々とは、組織ということだろうか、人類ということだろうか。

 どちらにしろ、と思う。僕はまた、ひとりだけ省かれてしまった。

「三万人――たった一日で三万人の人間が失踪したの」と彼女は嘆く。

 七十億人のうちの三万人。

 あまり多いとは思わないけれど、一日で三万人が突如として行方知らずというのはやはり異常なのだろうか。

「でも、だから、それが僕とどう関係が――」

 遮るようにして彼女は、「誰も気づかないの」と語気を鎮めた。

「気付かない?」

 どういうことだろう。現に彼女はその事実を知っているわけだし、『R2L』機関という組織もまた知っているということなのだから、矛盾している。

「保持者やサポータには分かるのよ。普通は感じるその違和が」

 彼女は語った。ことのいきさつを。

「――親しい者からの連絡が途絶えたり、連絡が付かなくなったり、逢えなくなったり、そうしたら普通は思うじゃない? 何かあったんじゃないのか、って。でも、誰もそう思わないの。感じないのよ。見知った者が失踪したことについての違和感を……誰も。それどころか、その失踪した者がこの世にいたかどうかすらも関心を示さない」

 たしかにそれは穏やかではない。

「ことの発端はあるサポータからの調査要請。知人が失踪したのに、誰に訊いても『そんな人物は知らない』の一点張り。住民票や写真を見せても、首を傾げて、『そんな人いたの?』と知らぬ存ぜぬ。失踪者の存在を否定することはなくとも、自分たちと関わりがあったことについては誰も肯定しない。いえ、ちがうわね。誰も覚えていないの。その失踪者のことを」

 記録はあるのに、記憶がない。

「それは、家族であってもですか?」

 彼女は頷く。「家族であっても」

 ますますもって穏やかではない。

「組織のほうは」と僕は問うた。「どういった見解を?」

 これまでの話を鑑みれば、彼女はそれらの失踪が僕のせいで引き起きたと言っている。

 不本意だ、と不服を唱えるくらい誰も責めないだろう。

「そうね。『機関』の見解は、人類は進化した――いえ、進化しようとしている。今はその分水嶺だ、とする主張がもっとも支持されているかな」

 僕は黙って彼女の言葉を待った。要領を得ない説明には慣れているとは言っても、まずは話の骨子が解らなければ理解の仕様がない。今はどんな話をしていて、どこへ向かっているのか。僕はまだそれすら彼女から聞かされていない。

 彼女は煙草を一本取り出すと、先端にゆびをあてがった。

 すぅ、と彼女が吸いこむのに併せて煙草のさきが、じりじり、と赤く後退する。

 溜息のように吐き出される煙がまるで「吹き出し」のように広がる。

 もう一度煙をしこたま吸い込み、吐き出すと共に彼女は言葉を紡いだ。

「この異例の事態に組織は、重要参考人としてあなたの保護を勧告したわ」

 え、と思わず口をつく。「保護?」

「組織はあなたの『処分』を撤回したの」

 おめでとう、と彼女は言った。

 おめでたいのかなぁ、と無意識に僕は鼻のあたまを撫でている。

「おめでたいよ。当面、殺されることはなくなったんだから。でも、だからといって、むざむざ組織の傘下に戻るなんてこと、きみはしないんでしょ? そうよね、組織のほうだって、きみを保護したあとに何をするかは分からないし」彼女は柳眉をしかめて、でも、と嘆いた。「このことを知らなかったからって、いくらなんでも〝あれ〟はやり過ぎだと思う」

 〝あれ〟とは考えるまでもなく、あの事なのだろう。

「一般人を巻き込むなんて、きみらしくなかったよね」

「でもあれは――」と弁解するつもりもなく弁解した。「あれは、彼が勝手にしたことで、僕が指示したことでもなければ、僕が計画したことでもないですよ」

 ただし、あの青年がそういったことをしようとしていたことは知っていた。僕はわざわざそれを止めることをしなかった。理由はたぶん、僕がしたかったことを僕の代わりにいつか彼がしてくれるだろうと期待したからだ。いや、どうだろう。それもまた後付けの解釈にすぎないのかもしれない。ただ確実に言えることは、僕は彼を止めなかったというその事実だけだ。

 納得し兼ねるといった様子で彼女は、「でも、きみがあの子に何かしたんでしょ?」と詰問するように迫った。随分と強気だ。なんかノドカみたい。なにともなしにそう思ってしまう。

 雑念を振り払うように僕は首を振る。ちがいます、と彼女の言葉を否定した。「僕はただ、彼に耳の澄ましかたを教えて、彼の影に口をつけてあげただけです」

「……それって、きみのパーソナリティがそういった特質ってこと?」

「ただの比喩です。小説の言葉を引用してみただけです」

「小説?」

「知り合いに教えてもらった小説なんですけど」続けて小説の題名と小説家の名を口にした。

「へえ」と彼女は口元をもごもごとさせた。

 きみにも知り合いがいたんだ、と言いたげな素振りだ。

 カエデの顔が脳裡をよぎる。それに気付いてすぐに遮断する。

 どうもさきほどから調子が狂う。

 以前のように今の僕が、波紋を読めない状況下にあるからだろうか。それとも単純にノドカや努樹やカエデの面影を、彼女に視ているだけなのだろうか。いや、どうでもいい。

 それで、と僕は彼女に尋ねた。

「それで、僕は処分される心配がなくなって、けれど捜索自体は継続されていて――ですがその事項だけを鑑みれば、今までとそう変わらないですよね」

 うん、と簡単に彼女は肯定した。

「それで、ならイルカさんは」とさらに問う。「ここへ何をしに来たんですか」

 すこしきつい物言いになってしまうのは致し方ない。

 けれど彼女は言い淀むことなく答えてくれた。

「アークティクス・サイドが襲撃されたの」

 誰に、と問わずとも推し量れた。

 それでも彼女は補足した。「《彼女》がね、あの子を攫っていった」

 あの子――オリア・リュコシ=シュガー。

 僕のコヨリが攫われた。

「いつ?」とそれだけ訊いた。

「先月」

 なるほど。重ねて僕は問う。

「それで、現状はどうなってるんですか」

 彼女はここにきてようやく表情を曇らせた。核心はここか、と僕は察する。

「組織はもう、てんてこ舞い」彼女は持っていた煙草を空き缶に投下した。「いつもみたいに、メノフェノン混濁地――えっと、虚空っていうんだけど」

 知っています、と相槌を打つ。

 あそうだよね、といった表情を浮かべつつ彼女は、「で、その日もわたしたちはそこを災害に見せかけて――物自体を変質させて――そうやって虚空を鎮静化させていたわけなんだけど――ちなみにそれを『修理』と呼ぶんだけど」

 知っています、と指摘するよりもさきに彼女が渋面を浮かべたので、口にせず。

「その虚空にね、《彼女》が現れて、『ティクス・ブレイク』を引き起こしかねないほどのメノフェノン混濁を生じさせてくれちゃって――それで、その収拾に東部のラバーが総動員されちゃったわけ。でもね――それはそれで、仕方なかったんだよ。弥寺さんがいなくなっちゃったんだから」

 責めていないのに弁解するところが幼い。なんだかいじらしくもあり、可愛らしい。彼女、年上だけど。ああいや、と僕は思いだしほころびる。ノドカもカエデも努樹だって、年齢だけで言えば、僕よりも年上だったのだ。懐かしく思う。

「で、その隙を突くように、アークティクス・サイドからあの子がさらわれたちゃったの。ごめんなさい。完全にわたしたちの能力不足。危機感はあったんだけど、でもね、あの状況じゃ、どうしたって手薄になっちゃうんだ」

 いや、責めてないですよ、と微笑みで示す。けれど彼女、俯いていてこちらを見てくれない。

「だって丁度そのころ」とぼそぼそと述懐する。「誰かさんが不穏な動きを見せているって情報も入っていたし」とちらりとこちらを窺う。目が合うまえに視線を外されてしまう。「もうね、総括部の面々もいっそのこと《彼女》に全面降伏してしまおうか、なんて冗談が飛び交うくらい――そのくらいにまいっちゃってるの」

「ですから、僕にどうしろと?」

 なるべくやわらかな口調を意識した。それでもすこし尖ってしまった。

 彼女は言葉を濁す。

 それから斟酌するようにして、

「組織に協力してとは言わない、でも、《彼女》を止める手助けをして欲しいの」

 お願い、《彼女》を止めて――と頭を下げた。

「それは、イルカさんの意向? それとも組織の意向?」

 言い淀んでから、「……どっちも」

 ごめんなさい、と彼女は項垂れる。

「オリア・リュコシ=シュガーはまだ無事なんですか?」

「ごめんなさい。それも分からないの」

「それ、先月の話ですよね? それから動いてないんですか、《あの人》は」

「視える範囲では……まだ。なにを仕出かすかも……全然」

 要するに、なにも知れていないのだろう。

「こまりましたね」

「そう、困っているの」

「よわりましたね」

「そう、弱っちゃったの」

「一ついいですか」

「なんなりと」彼女はあごを引き、上目でこちらを見据えた。

「オリア・リュコシ=シュガー、彼女、本当にアークティクス・サイドにいたんですか」

 うん? とイルカさんは首を傾げた。「どういうこと?」

 口にしてみたものの、僕にもよく解らない質問だった。

 ただ、どういったわけか、僕にはコヨリを案じる心象が浮かばなかった。コヨリは安全なのだと、そう何の疑いもなく思えてしまうのだ。

「アークティクス・サイドから《彼女》が立ち去ったとき、《彼女》の側にオリア・リュコシ=シュガーはいたんでしょうか」

「どうだろう……」イルカさんは沈思の間を空けてから、「ごめんなさい、総括部のほうに問い合わせてみないと分からない」

「なら、質問を変えます」

 はい、と彼女。

「この一年間、オリア・リュコシ=シュガーがアークティクス・サイドにいた痕跡というのは、ありますか」

 彼女は唇にゆびを当て、沈思する。

 僕は待った。

 ほどなくして彼女は口をひらいた。

「……ない。ないわ」

「ですよね」

 僕は確信する。

 コヨリは組織側にとっては内密にしておく必要のある存在だったはずだ。その彼女の痕跡を見える形で残しておくとは思えない。少なくとも、コヨリを監視することはおろか、幽閉すらしていなかったはずだ。アークティクス・サイド、そこから彼女が出られないという事実さえあれば、それだけで良かったのだろう。これはコヨリの記憶を覗いた僕だから知っていることだ。彼女は基本的に束縛されていなかった。

 今になってその理由が分かる。

 『組織』と《彼女》とのあいだで交わされていた条約そのものが、それを促していたのだから。コヨリの自由と平穏を保障していたのだから。

「コヨリはアークティクス・サイドにはすでにいなかった」僕はつぶやいている。僕の無意識が、言語化することで思考を単純化し、アウトプットすることで整理しようとしている。「それを知らない《彼女》は、アークティクス・サイドへと乗り込んだ。コヨリを奪還するために」

 コヨリって誰――とイルカさんの独白が聞こえたが、無視する。

「けれどアークティクス・サイドにコヨリはいなかった。だから《彼女》はすぐに離脱し、それからずっとコヨリの行方を詮索している」

「だとしたら、もう見つかっちゃってるかも、《彼女》に」イルカさんは不安げにつぶやく。

「それはないです」と僕は唱える。

 なぜ、と彼女が首を傾げている。

「もしコヨリが」とそこまで口にして言い直す。「もしもオリア・リュコシ=シュガーが、すでにアークティクス・サイドを離脱していて、あそこにいなかったとしたら――また、《彼女》や『機関』がそのことに気付いていなかったとしたら――それはそういうことであって、そう容易く見つかる場所にオリア・リュコシ=シュガーが潜伏していない、ということになるのでは?」

 多少なりとも迂遠な物言いになってしまったのは、僕もまたそれなりに動揺しているからだろう。僕はとんでもない仮説を閃き、そして今になって思い到ったその閃きに言い知れぬよろこびを感じた。

 こちらの心中など知る由もないイルカさんは、ゆびをあごにあてがって、一理あるかも、と頷いている。

「ならまだ間に合います。《彼女》がオリア・リュコシ=シュガーと接触する前に、あなた方がオリア・リュコシ=シュガーの身を保護すれば済む話です」

 保護などできるわけがないと知っていながら僕は言った。

「あなた方って……やっぱり手伝ってはくれないの?」

「なにか誤解していませんか」冷たい口調で突き放す。「僕はあなた方に大切なものを奪われた。《リザ・セパレン=シュガー》、彼女にも僕は嫌な借りがあります。そんな双方のくだらない軋轢にどうして僕が首を挟まなきゃならないんですか」

「くだらないって……世界の秩序がかかっているのに」

「世界? 秩序?」

 本気で言っているんですか、と僕はわざとらしく噴きだした。

「これまで『R2L』機関――あなたがたの組織が担ってきたのは、現状の維持であって、世界秩序でもなければ世界平和の実現でもありませんよ。どれだけの犠牲が出たとしても、現状が維持されてさえすれば満足なんです。自分たちが害をこうむらないようにと、そうして必死に防衛しているに過ぎないんですよ。平和や秩序を生みだそうなんて、そんな考えではないんです。一方で《彼女》は、現状を打破して、《彼女》の理想とする平和と秩序を生みだそうとしている。《彼女》が理想とするシステムを現状に甘んじている人たちの犠牲のうえで構築しようとしている。けれどそれもまた、平和や秩序を維持するためのものでもなければ、人類のためでも、ましてや世界のためでもない。《彼女》の我が儘に過ぎないんですよ。どちらにもそれ相応の、理由と目的と大義があります。でも、どちらも誰かの犠牲のうえに成り立つ、ただ傲慢なだけの強行に過ぎない。押しつけるだけの力がある、それだけのためにそれらが許容されてしまう。力が強いから、権力があるから、だから『普通』という流れを社会に生みだせる。ほかの人たちだって同じだ。口では平和だとか秩序だとかを盾にしていますけど、求めているのは自分の利得じゃないですか。自分が害をこうむりそうになってはじめて必死になる。むろんそうじゃない人もいるかもしれません。でも、多くの人はそうじゃない。そうじゃないようにこの世界はそうなっているんですから。この社会のシステムがそうなってしまっているんですから。でも僕はそんなのは嫌なんです。誰かが犠牲になって、多くの者が救われる。けれどそれで僕らが本当に幸せになれると、イルカさんは本気で思っていますか? もし思っているのなら、まずはあなたが犠牲になるべきだ。それがいやなら、犠牲を払うことを根底としている彼らの思想を真に受けちゃダメです」

「だったら」と彼女ははち切れんばかりに叫んだ。「だったらどうすればいいのよ。何もしなくても犠牲はかさむ一方じゃない。だったらその犠牲を少なくしつつ、そのうえで、犠牲のない平和だとか秩序だとか、そういった理想に向けて現状を向上させていくしかないでしょ。きみが言っているのは正論だとは思うよ、でもね、だったらどうすればいいの。なんの犠牲も払わずに、なんの犠牲も出ない世界なんて、そんな無茶なこと言ってさ。だったら教えてよ。どうしたらいいの。どうしたらわたしはあの人を救えるの。どうしたらあの人は救われるの」

 おしえてよ、と彼女は叫んだ。

「知りません」僕は応える。ひどく淡泊に。「ですから、僕はどうだっていいんです。この社会がどうなろうが、この世界がどうなろうが。知ったこっちゃありません。僕は世界に関わらない。だからといって世界が僕に関わるなというのには無理がある。だから僕は甘受しますよ。このさきに何が起ころうとも、その現実を。ですが、その現実を曲げようとするのは僕のこの意志に反します。イルカさんの言っているのはそういうことなんですよ。現実を意図的に曲げてくれと、僕にそう言っているんです」

 あごを引いたままで彼女は眼光を鋭くさせている。僕を射ぬきつつ、「……逃げてるだけじゃない」と言った。

「逃げる? 逃げられるものならとっくに逃げていますよ」苦笑するよりない。逃げられないからこその現実なのに。「僕はこのさきに訪れるだろう現実を受け入れます。それがたとえ、『リザの断裂』の再来でも」

「そこまで知っていてどうして……」

「だいじょうぶですよ。そうはなりません」安心してください、と彼女を宥める。「分かるんです、僕には」

 なにを、と彼女が無言で促している。

「捕まりません、オリア・リュコシ=シュガーは」

 どうして、と彼女が無言で睨んでくる。

「だって彼女は」

 そこまで口にして押し黙った。答えを聞かせるわけにはいかない。もう誰にも邪魔はさせない。

 だってコヨリは――。

 ――ここにいる。

 

    ○○○+*+○○○





 +++エピローグ『ひょうはくアウトロー』+++

 【世のなか狂っとるよ。狂ってないモンを狂っとると思っちまうんだからな】

 

 

   タイム△△スイッチ{~基点からおよそ二年半後~}


 ***せんざい***

 お腹がすく。別に食べたくなどないのに僕の意思とは関係なくお腹が減る。

 だから僕はお腹を満たすために、食欲を満たすために、食べ物を得らなくてはならない。

 物理的な満腹と。

 精神的な満足と。

 それは最終的に、お金が必要だという結論に結び付く。

 お金がなくては食事もままならない。なんて不自由な世界だろう。

 だから僕はお金を得るために、(食欲を満たすために、)お金を得らなくてはならない。

 僕のような人物にとってそれは最終的に、人を殺さなくてはならない、という結論に結び付く。

 お金を得るには、他人から奪わなくてはならない。搾取しなくてはならない。

 だけど人からお金を奪うと、そのあとが面倒だ。だから僕はお金だけでなく、その人から、僕のような男にお金を盗られた、という記憶そのものも奪わなくてはならなくなる。けれど記憶だけ奪うだなんてそんな器用なこと、僕にはできない。だから奪うのではなく毀すしかない。その人を人として成り立たせているシステムごと、記憶ごと、機能ごと、毀さなくてはならない。

 それを一言で形容すると、「殺す」になる。

 だから僕は、食欲が湧きたつたびに、人を殺した。

 悪いことだなんて思わない。

 善いことだとも思わない。

 悪いことだと否定することもできるし、また、善いことだと肯定することもできる。

 その程度の小事なのだ。

 重要なことは、「いつだって僕の身体が勝手にお腹をすかせてしまうということ」と、「この社会には、僕のような思考を巡らしていながらに、僕のように行動している者が少ない」というなんとも慎ましやかな社会であるという現実だけだ。

 僕のように考えている者はけっして少なくはないと思う。さっきの話ではないけれど、僕のように考えることは誰にだってできる。それでもその通りに行動しないだけなのだ。僕はそれを行動に起こしているに過ぎない。そこに大差などはない。あるのはささやかな差異と誤謬だけだ。

 ささやかな差異を、重大な差異だと錯覚してしまっている誤謬。

 それでしかない。

 それしかない。

 まあ、いい。

 要するに俺は、生きるために人を殺す。

 今日もまた腹は減るのだ。仕方あるまい。

 使えばお金はなくなるものだ。これもまた致し方ない。

 ところで――。

 昨今、物質的な紙幣を持ち合わせている者はとんと少なくなった。

 データ上で会計を済ますのだ。実際に動く金は存在しない。浮遊霊のように付加価値という概念のみが亡羊と社会を彷徨う。それも、いつの間にやら周囲の陰湿な影を吸収して肥大しながら。もともと希薄であった経済システムが、より希薄になってしまった――ような気がする。

 俺にそんなややこしい情勢が分かるはずもない。

 肝要なことは、奪う金を持ち歩いている者が少なくなってしまったというこの世知辛い現実だ。

 皮肉にも、困窮している輩のほうが物理的な紙幣を持ち合わせている確率が高い。データ上で金を流通させるメディアを、俺と同様に、貧困者どもが所持していないから、といった理由も勿論あるが、それ以上に、ここいらに住む餓鬼どもにとっては、そういった規制の厳しい「データ上」では、やり取りできないような稼ぎが収入源なのだろう。

 強いて言うなれば、強盗や強請り、ほかにも詐欺や窃盗品の売買、そういった「現金」を介したほうがやりやすい犯罪が彼らの生活を支えている。

 誰が悪いではないのだろう。

 社会の歪みはいつだって下層にそのツケが溜まってしまうもののようだ。

 だからと言って、社会が悪いわけでもあるまい。

 強いて言うなれば、運が悪いだけなのだ。

 そう、そうして今日も俺のまえへ、奪われるだけの金と不運と命を引っさげて現れてくれたのが、近頃ニュースで騒がれている「人攫い」のご一行さまだった。人身売買もまた、彼らの重要な収入源なのだろう。

 対面するのは初めてだったが、俺には奴らが人攫いであると知れた。

 まさに今、目のまえで小娘が攫われようとしているからだ。

 こんなまっ昼間からようやりやがる。強姦ではあるまい。

 まあ、小娘という種は、こんな廃れた街中には、昼間にだって滅多に現れたりなどしねえから、やつらにとっては時と場所を考慮している暇はないのかもしれない。絶好の獲物が手の届く範囲に転がっていやがるんだ、誰だって手を伸ばしくなるってもんだ。この場合、どちらかといえば、あの小娘のほうにこそ非があると言える。

 ピラニアのいる沼にわざわざ血を流して浸かっているようなものだ。

 まあ、オレにとっちゃどうでもいいことだけどよ。

 人攫いってのはどうなんだろうな、儲かるもんなのかね?

 服装をみる限りじゃ、結構ましなもん着てんじゃねーの?

 ひい、ふう、みい、四人か。

 いや、見張りもいるはずだから――おっといたいた。

 うえを見遣ると、ビルの非常階段に男がいた。無線のような機器を耳に当てて辺りを見渡している。

 合計で、六人。

 見張りは後廻しでいいだろう。

 

 笑顔でオレは近づいていく。

「やあやあ、ご苦労さん」倒れている小娘のあいだに割って入った。「いいお天気ですね」

 男たちが視線で合図し合っている。

「どうするよ」「やっちまうか」「ああ」「おれに任せろ」と、こんな具合だろう。

 だがオレから視線を外すなんざ情けねえ。こいつら、まるでなっちゃいない。隙を突く必要すらない。

 オレは近くにいた男の胸へと手を突きだす。つぎに背後の男の首元めがけて腕を振り、屈んだ状態で前方へ一歩大きく飛びこんで最後に、そこに並んで立っている二人の米神へ、それぞれ拳を叩きつけた。

 右手にはナイフ。

 左手には針金。フェンスからはみ出ていた針金を千切って握っておいた。

 ナイフだけを引き抜いて、返り血を浴びないように斜め後方へ飛び退く。

 遅れて三人から同時に、血が溢れだす。

 切ったのは静脈だ、それほど血は噴き出さない。

 針金をぶっ刺された野郎は痙攣している。

 見ればほかの男どもも痙攣していた。俺は虫の息の男どもを尻目に、金を奪う。

 こいつら、ポケットに小銭やら紙幣やらをそのまま入れてやがった。財布も持っていやがらねえのかよ。

 大まかに数えて、大体、えっと……六万といったところ。なかなかの収穫だ。

 死体はこのままで問題はないだろう。

 犯罪者の死体などに構っていられる国家情勢などではない。国家権力の矛先は現在、もっと別のものへと向いている。だからこそこのような無法地帯が生じてしまっているのだ。

「あの……」と声がした。

 すっかり忘れていた。見れば小娘がこちらを見上げている。腰が抜けているのだろうか、立ち上がろうとする素振りがみられない。表情は虚ろではあるが、どこか冷静さが感じられた。ああそうか、とオレは気付く。この小娘、泣いていないのだ。

「あの……」ともういちど彼女が唱えた。

 なんだ、と応えると、「ありがとうございました」と頭を垂れた。なぜ礼を言われたのかが分からず、怪訝に睨むと、「助かりました、どうもありがとうございます」と小娘は言い直した。

 思わず噴きだしちまうオレさま。

 バカな女だ、オレが助けに現れたのだと勘違いしてやがる。

 オレが殺そうと思っていたのは、お前を含めた六人だっつーの。

 笑いすぎて呼吸が苦しい。

 そんなオレを気遣うように小娘はカバンからハンカチを取りだして、こちらに差しだす。避けきれなかった血が俺の顔に付いていたのだろう。折角だから受け取り、顔を拭った。そのあいだに小娘はカバンを再度あさって、写真を取り出した。

「このひと、見かけたこと――ありませんか?」

「知らない」と即答する。

「きちんと見てください」むっとして彼女が写真を突きつけてくる。「知りませんか、このひと? どこかで会ったこととか――ありませんか?」

 しつこい女だ 破り捨ててやろうと、いったん写真を受け取る。

 その際に見えた写真に俺はまた笑ってしまった。

 この小娘が探している人物なのだろうが――これでは見つかるはずもない。

「オマエの弟か?」笑いを堪えて俺は訊いた。

「……兄です」小娘はようやく立ち上がる。「それは十二年前のものです」

 道理で古くさい。スキャンしてメディアにでも入れておけばいいものを。そう思いながら写真を裏返すと、そこには文字が並んでいた。一目で幼い子どもが書いた文字だと判る。


 ――ぼくの考えたことなんてきっと、

 ――すでに誰かが考えたことのあることなんだ。

 ――それでもぼくは行動しようと思う。

 ――それが現在、禁じられていると知っていても。


 精一杯に背伸びをして書きました、といった印象を受けた。

「オマエが書いたのか?」そう訊くと小娘は、「兄です」とみじかく答えた。

 足元に血が流れてきたので、場所を移動した。歩みだすと、小娘もよこに付いてくる。

 バカな女だ。これから殺されるとも知らずに。

「兄は十二年前に失そうしてしまいました。それからはいくら探しても見つかりません。でも、兄は死んだわけではないんです、いまもまだどこかで――」

「死んだよ」俺は断定した。「オマエの兄貴は死んだ」

 写真を俺から分捕るようにすると小娘は、「兄のこと、なにか知ってるんですか?」と険を含んだ声を発した。

「なにも知りはしない。オマエと同じだ、俺はそいつのことを何も知らない」

 一緒にしないでほしい、といった表情を小娘は浮かべている。けれど言葉にしないところがなかなかどうしてお利口さんだ。人から話を聞きだすのに慣れているようだ。

 いいか、と断わってから俺は説いた。

「オマエが知っているのは、十二年前の、オマエの記憶のなかにいる兄貴に過ぎない。そして仮に現在もその失そうしたオマエの兄貴が生存していたとしてもだ、それはオマエの知っている兄貴ではない。オマエの知っている兄貴とやらは、十二年前にオマエのもとから姿を消した時点で、すでに死人だ。オマエは、オマエのなかにいる亡者に兄貴とやらを投影して視ている過ぎない」

「だったら何なんですか」涙を浮かべて小娘が唇をかみしめている。

 男四人組に襲われても涙ひと粒こぼさなかった女が、十二年も逢っていない兄の生死を、牽強付会――デタラメに断定されたくらいでべそをかいている。

 俺は笑った。

「いや、すまん」謝罪してからハンカチを差しだす。さっき貸してもらったやつだ。返す気などさらさらなかったが、その涙は拭ってもらわねば気が済まなかった。この小娘はどうも俺の調子を狂わせる。狂いついでに俺は言った。

「撤回する。オマエの兄貴は生きてるよ」

「あなたに言われても……」呟いてから小娘は唇を一文字に結んで、わざわざ柔和に言い直した。「……ありがとうございます。そうですね、兄は生きています」

「捜しだしてどうする気だ?」興味本位で訊いてみた。「いまさら妹のことなんざ気にしてはいないだろ」

 なにせ、十二年も音沙汰なしだ。それも幼いころに別れたのだ、愛着も薄れているだろう。

「殴ってやります」

「え、なぐっちゃうの?」

 またもやおれは噴き出した。まるで壊れた噴水になった気分だ。

「はい、殴ってやるんです。そのためにわたし、空手まで習ってるんですよ」

 言って彼女はジャブを放った。小気味よい風切り音が鳴る。

「それ、ボクシングだけど」

「なんだっていいんです」殴れれば、と彼女は破顔した。

 照れも屈託もない彼女のその笑顔は、おれの裡にあったなにかを満たしてくれた。

 だから今日はもう、人を殺さないでよくなった。

「お兄さんに逢ったら、礼も言っておくといいよ」

「どうしてですか?」

「お兄さんのお陰で、きみは今日を生きられる」

 言ってその場をあとにした。

 彼女が僕に付いてくることはなかった。

 今日はもう、食欲を満たすために人を殺さずに済む。

 だけれど僕は、僕自身のために、僕の意思にのっとって、面倒事が起きないようにと始末しなくてはならない。どこいった、と周囲を見渡す。

 見張り役の男を殺しに向かった。

 僕はたぶん今、笑っている。

 

   ***

 僕は気付いたんだ。

 命が儚いんじゃない。

 僕らが拙いんだ。

 例えば、何かを守ろうとしたとき、同時にそこには沢山の問題がたちはだかっている。でもそれは、何かを守ろうとしたから蔓延りだす問題であって、その「何か」から関心を失くしてしまえば、途端にそれらの問題は僕のもとから立ち去るのだ。

 その「なにか」は人によって異なるし、時によっても異なる。

 物だったり、人だったり、

 約束だったり、信用だったり、

 ルールだったり、誇りだったり。

 そうやって物質的なものや、概念的なものも含めて、守ろうとした瞬間に人は自分の拙さを実感するはずだ。もちろん人によっては「自分は拙い」「自分は非力だ」とその拙さを認める人たちもいるだろうし、そういった漠然と付き付けられる拙さから目を背けて、「ぼくには可能性がある」「わたしには才能がある」と虚栄で着飾る人たちも少なくないとも思う。または自分が拙いのではなくて、自分以外にその要因を求める人もいるかもしれない。責任転嫁というやつだ。

 もっとも、それらが悪いことだなんて僕は思わない。

 そもそも悪いだとか善いだとか、そんな評価に固執するような人間は、その時点で自分が拙いと認めているようなものだ。そうだとも。そもそも、こんなに複雑に入り組んでいる問題たちを、たったふたつに分類できるだなんて、彼らは本気で思っているのだろうか。なんとなく僕は彼らが冗談でそう言っているような気さえする。非力な僕をみんなはきっとからかっているのだ。

 でも僕はもう騙されない。だって、気付いたんだ。

 大抵の問題はほかの多くの問題と密接に、複雑に、絡み合っている。繋がっている。連なっている。

 どれかを解決しても、そのさきにはまだまだ視点の異なる問題が重なっていて、そうして一つ一つ解決していっても、振り返ってみれば、解決しきれていない問題がまだまだ山盛りになっている。それどころか進めば進むほど問題はどんどん増えていく。嵩んでいく。

 解決していたと思う問題たちも実は、その「解決策」に都合の良いように、周囲の問題をよこにどかしていっていただけのことであって、実際には、その解決はたった一つの道筋でしかない。だからもしも僕がつくったその道筋通りに歩まない人がいれば、その人はたちどころに僕が押しのけていた問題に押しつぶされてしまう。そんなのは解決とは呼ばないだろう。

 でも、それは僕が拙いからなんだ。

 拙くなければ、すべての問題を取り除くことができるはずなのに、それができない。

 僕に能力がないから、すべての問題を一まとめにして解決できないんだ。

 でもね、実を言えば、ひと纏まりに解決する必要もないんだよね。

 この場合はこう、その場合はこう、ってそうやって場合分けすればいいんだけど、それでもそれを、よりよい解決にしようとすればするほど、どんどんこまかく規定していかなければならなくなる。そうすると、それはそれでとても大変だ。無能な僕は、記憶だって拙いから、とてもとても細分化されたそれらの「場合わけ」を覚えることなんてできない。その都度考えるという手もあるけれど、それは僕だけが考えたところで仕方がないことなんだ。だって、みんながみんな、その場合分けに納得してくれなければ、それはそれで違う問題が生じてしまうのだから。

 そうなんだ。

 みんなが納得しなければ、問題は次々と生まれてしまう。

 かといって、拙い僕なんかは、すごく画期的な論理を教えてもらったところで、それを理解して納得することはできない。だから、僕のように拙い人間が混ざっているようでは、この世界からは一向に問題はなくならない。

 なら僕が利口になればそれで済む話なのだけれど、それもまた難しい。だって、利口になるようにと教育されてきたはずの僕が、こんなん何だもの。今からでは、どうしたって、利口にはならない。今よりも拙くない、というだけの違いが生じるだけで、僕は死ぬまで拙いんだ。

 じゃあどうすれば解決するのかというと、最初に言ったように、守ろうとしている「何か」を守ろうと思わなければいいんだ。何も求めず、何も拒まずに、そうして寛容になればいいのだ。

 そうすれば、なにも問題はなくなる。

 でも、僕だけがそう思っていたって仕方がない。

 それでは僕の裡側から問題が無くなるだけなのだから。

 そしてまた一方では、僕がすべてにおいて無関心かつ寛容になってしまうことで、周りの人たちにとっては僕そのものが問題となってしまう可能性がある。その人たちの問題を、僕は問題だと思わなくなるんだもの。〝共感できない人間〟は排他される傾向にある。

 僕は問題を解決したいのに。

 この世界から問題を無くしたいのに。

 僕そのものが問題になってしまう。

 本末転倒もここに極まれりだ。

 ならどうすればよいのかと僕は考えた。そしたらなんと解ってしまった。思考に費やした時間はなんと三分。カップラーメンが食べられて、ウルトラマンも星に帰ってしまえるほどの時間を費やして、苦心惨憺と僕は答えを出したのだった。

 それは、物理的に問題を取り除くというもの。

 ようするに、この世界から、問題に苛んでいる人たちを消してしまえばいいというもの。

 問題なんて、僕たち人間が感じることであって、僕たちがいなければこの世に問題なんて存在しないんだ。

 言うなれば僕らは、問題感知センサなんだ。

 どっかの難しそうな本で僕は知ったことなのだけれど、観測者がいることで粒子の運動が決定づけられるらしい。つまり、観測さえされなければ、そこには何も無くて、ただ可能性だけが無数に存在している。

 僕たちが問題感知センサである以上は、僕らが感知したものはあまねくして問題となってしまう。僕らがそれを問題だと思わなければ、もしかしたらそれはとても意義のあることなのかもしれないのに。かといって、誰にとっての意義か、という問題がここでも発生するのだけれど――だから、とどのつまりが、こうした問題を問題だと認識してしまうような拙い人間たちのほうを消してしまえばよいのだ。

 問題を消すのではなく。

 問題を生みだすものを消す。

 なんて単純。

 なんと合理的。

 この回答の場合、拙い僕は最後に消えればいいことになる。だって、こう考えた人はごまんといるかもしれないけれど、それを実行しようだなんて思っている人間はきっと、今のところ、僕ひとりだ。

 だって、問題感知センサであるところの僕が、消えていないのだから。こうして生きているのだから。

 そう、だからこれは、僕がこの世から消えてしまうまでは有効でありつづける回答なのだ。

 それもこれもあの子のお陰。

 あの子のお兄さんのお陰。

 ああ、ほんとうに殺さなくってよかった。でも、あの子もどこか悩ましげで、問題に苛まれている様子だった。だったらいずれ消さなくてはならないのだけれど、それはそれで、お楽しみではないか。たっは。ではまずは何をなそうか。

 そう、まずは準備をしよう。

 そのためには、探さなくては。

 

 ――人を消し去る、方法を。



【END】





 +++アフタービート+++

 【自分が解らなくなるときってありますよね。むしろ、解らないことが常かしら。偽っていることすらも偽ってしまっていると、いつしか、自分の本意が解らなくなってしまうの。私が私へ問いかけてもその答えは見つからないのよ。だったら私は、偽りを持たない自分に訊いてみたいわ。偽りを持たない自分を、私から切り離すことでね。或いはそれは、偽りだけが私に残るということになるのかしら。あら――ということはですよ、本意を尋ねる私という存在は、本意を尋ねている時点で、すでに偽りの私ということになってしまうのかしら。それってすごく、残念だわ】

 


   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ七年前~}


 ***アカツキ***

「いーやーだっ!」

 私は断固拒否した。駄々を捏ねているつもりはない。

 だが、このじゃじゃ馬娘は聞きいれてくれなかった。

「ダメだって言ってるだろッ。《あいつ》だって捨てて来いって言ってた。あんただって聞いてたろ」

「言っておらんかったぞ、《主様》は」そんなふうには、と異を唱える。「捨ててこいではなく、飼えない、とおっしゃられたんだ」

「結局おなじことだろ。いいからほら、捨てるんだよ」

 こんなときばかり《主様》の言葉に素直なのだから、反抗期というのはまことに面倒である。どうせなら命一杯に反抗してほしいものだ。そのまま独立してしまうくらいに。

「いいから、手、離せッ」

「いやだったら!」

「駄々捏ねるなら、あんたごと、ここで始末しちゃうぞッ」

 どうしてこうもおそろしいことを真顔で言えるのだろうか。なんて非情なのだろう。我が妹とあろうものが。私は悲嘆する。「ひどいっ」

「ッるさいっ」いい加減に諦めろ、とカエデに段ボールを取り上げられてしまう。

 そっと手を添えていたのが仇となった。あんまり力いっぱいに抱えると段ボールが潰れてしまい兼ねないからだ。乱暴な動作で奪いとるものだから、段ボールの中のミャーミャーたちが、それこそ、「みゃーみゃー」と悲鳴した。

「ひどいっ」私はさらに悲嘆した。

 

 私がその子たちを拾ったのは偶然である。その日も私はカエデに誘われるままに見知らぬ場所へと辿りついた。

 そこにこの子たちがよちよちと這っておった。

 運のわるいことに、そこは『虚空』内であった。

 その子たちの親と思しきミャーミャーは、ニボシ化寸前であった。いわゆる、『魔害物』となっていた。このままではいずれこの子たちが死に絶えてしまうのは目に見えていた。あまつさえ、自らの親に屠られてしまい兼ねない状況であったのだ。だとすれば私が取るべき選択など、たったひとつしかないであろう。

 そういうわけで私は、その子たちをその場から連れ去った。だが期せずしてカエデに見つかり、シズク姉さまに告げ口されてしまった。シズク姉さまときたら、「《主様》に判断を仰ごう」と言って私の切なお願いを聞いて下さらなかった。

 《主様》は《主様》で、

「愛護の念は大切だわ。でもね、今の私たちにその子たちを養う余裕なんてないの。昨日とった夕飯を思いだしてみて。どう? これ以上ひもじい思いはしたくないでしょ? 本当にかわいそうだと思います。けれど、でも、仕方ないの。だいじょうぶ、その子たちはつよいわ。私たちなんかよりもよっぽどね」そうおっしゃられて哀しそうな顔をされるものだから、私なんかはもう、居た堪れなくなってその場から逃げ帰ってしまった。

 ミャーミャーたちの入った段ボールをもって、とぼとぼ、と歩んでいると背後から声をかけられた。カエデであった。追いかけて来てくれたのだろうか、とほんのり嬉しく思ったのも束の間、このじゃじゃ馬娘ときたら、「捨てにいくんでしょ? 手伝ってあげる」といらぬ世話を焼く。

 大方、是が非でも飯が質素にならぬように仕立て上げようとの魂胆なのだろう。成長期の娘らしい食欲であるから、私は、カエデのその気持ちを蔑ろにはできなかった。

 

カエデいわく――。

「アークティクス・ラバーってね、虚空内にいる生物は、片っぱしから『処分』する決まりになってるんだって。本来ならその子猫らだって、今ごろは生きてなかったはずだよ。ニボシ化してようが、してなかろうがそんなのは関係ないんだ。『処分』するのが決まりなんだから。だから延命できただけ増しだろ。ボクたちにできるのはここまで。殺すわけじゃないんだ、我慢しな」

 そう言ってミャーミャーたちをカエデは捨てようとする。

 だが待ってほしい。こんなにもさびしい林に置き去りになんてしたら、こんなにちいちゃなミャーミャーたちなど、すぐにでも息絶えてしまうではないか。

 意気地になって私はそう主張した。するとカエデはとてもこわい顔をして、「ボクの話、ちゃんと聞いてた?」と私の脚を蹴ってくる。いたい。私は哀しい顔をした。

「いい? こいつらは本来なら死んでた運命なの。でもあんたの気紛れで延命できたわけ。だからこのさきいつ死んだって、こいつらにしてみれば、それは長生きできたことになるの。それってすんごい贅沢なことなんだよ。奇跡なんだ。そんな奇跡をあんたはこいつらに与えたわけ。それで充分だろ?」

 ――あんたの役目は終わったの。

 言ってカエデは、ミャーミャーたちごと段ボールを放った。ぞんざいに、ぽい、とゴミを捨てるかのごとく。慈悲の欠片もない。

「ひどいっ」私は抗議した。

 あのねえ、と呆れたふうにカエデは腕組みした。威圧的な視線でこちらを見上げる。「あんたがネコ好きなのは分かったから。でも、飼えないものは飼えないの。それにね、今回はボクたちのほうがさきに現場にいたから救えたものの、つぎからはそうはいかないんだぞ」

「そんなの知らん」

「じゃあどうするの? 虚空内にいるネコ、ぜんぶ救う気?」

 そう……カエデから聞かされた事実は衝撃的であった。まさか組織がそんな非道な所業を繰り広げていたなどと、これまで私は寡聞にして知らなんだ。こんな幼いミャーミャーたちまでもが殺されていたなど、言語道断。それも、虚空内に偶然いた、というただそれだけの境涯で殺されてしまうなどそんなことはあってはならぬことではないか。

 私は息巻いた。

「救えるものなら救うにきまっとるではないか」

 するとカエデが押し黙った。思案気味に眉間へシワを寄せている。

 やがて問いを発した。

「いいの? それだと、ラバーたちと敵対することになっちゃうけど?」

「構わん」

「組織に逆らうことになっても?」

「関係ない」

「人の命とネコの命、どっちが大切?」

「比べる必要があるのか?」

 なぜかカエデは微笑んだ。不敵な笑みだった。「じゃあ、しょうがない。ボクが手伝ってあげる」

「どういう意味だ?」

「虚空ができたら、ラバーが来る前にあんたに教えてあげる」

 それは助かる。

 私が礼を述べると、「そのかわり」とカエデが口調をかたくした。「あんたはボクを手伝うこと」

「今だって手伝っておるではないか」と嘆くと、「今よりももっとだよ」とじゃじゃ馬娘は付け足した。「絶対服従」

 絶対服従とは穏やかではない。「なにをすればよい?」

「こんど説明する」

 いつ、と問うと、「まだわからない」とカエデは目を逸らした。

「ボクから連絡する。そのときは、またいっしょに付いて来て」

「うむ。いいだろう」

 言って私は排水溝に挟まった段ボールを拾おうとするも、「ダメだって言ってるだろ」とお尻を蹴られてしまう。「虚空から助けだしてあげただけで充分だろ。あとはこいつらが勝手に生きていくって」

 無責任だと抗議すると、うっさい、とみたびお尻を蹴られた。私は哀しい顔をした。「ひどいっ」

「うッさい! それは捨ててくのッここに」

 でも、と口走るもカエデが眼光を鋭くさせたので呑み込んだ。

 ここで反駁すればきっともう、このじゃじゃ馬娘は私に協力してはくれなくなるのだろう。私は不承不承……いや、唯々諾々とせっかく出逢えたミャーミャーたちに暇を告げて、その場を去った。

 このとき、私はその子たちに誓ったのだ。

 

 ――きっとキミたちの仲間は救ってみせよう。

 ――この肉体、尽き果てるまで。


    タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ十一年以上前~}


 ***ミサキ***

 ドールが子を孕むことはない。

 それが私の知る知識であり、常識であった。

 だが奇しくも私は子を産んだ。あの人との子だ。

 ――私の娘。

 だがこれは本来、あるべき事象ではない。あってはならぬことなのだ。私が《あの方》のドールで在る以上は、私はこの子を無かったものとして扱わねばならぬ。

 ――殺さねばならぬ。

 しかしできなかった。私にはこの子を殺すことなどできなかった。毀すことができなかった。なぜだかは解らない。どうしてだか、殺したくなかった。殺せなかった。生きて欲しいと望んでしまった。私の望みというのは、きっと《あの方》の望みでもあるのだろう。私は我田引水にそう言い聞かせた。私は私へ言い聞かせた。

 

 子どもを育てる――そういった筋道がすでにあった。

 私とあの人、ふたりの子として育てる。

 そのために用意された赤子を私はすでに育てていた。他人の子であった。その赤子は難病に罹っている。いや、いずれ患うと決まっている。そういう赤子を《あの方》が見繕ったのだから。

 私は私の娘を捨てた。山のなかへと置き去りにした。

 殺すことができない以上――、

 無かったものとして扱わねばならぬ以上――。

 私には、娘を捨てること以外に道はなかった。

 

 あの人がアークティクス・サイドへと旅立ってから三年の月日が経っていた。

 私の胸には三歳になる娘が抱かれている。私が産んだ子ではない。しかしこの子もまた、私の娘である。

 久々に会いに来てくれたあの人は驚いていた。喜んでくれた。それが私は嬉しかった。

 

 筋書き通りに事は進んだ。この子は発病した。私はどこかで予定が狂うことを望んでいた。だが娘は重い心臓病を患った。予定通りだった。

 金が必要だった。

 必死になって金を稼いだ。

 予定のなかでもそういった役柄だった。私はすっかりはまっていた。いつしか本気になっていた。演じてなどいなかった。私は娘を救いたかった。もしかしたら、これが、予定を大きく狂わせる布石となってしまっていたのかもしれない。今になってはそう思う。

 

 組織からの振り込みはなかった。

 あの少年を仲介所へと導いたはずだなのに。

 だが、なぜか金は、数カ月遅れで振り込まれた。

 娘が死んだあとである。

 今さら金などいらなかった。

 手術を受けさせることができなかった。

 私は、絶望した。

 私は、失望した。

 世界に失望し、《あの方》にも失望した。

 予定ではなかった。

 娘は死ぬ予定ではなかった。死なないはずであった。死なずに済むはずであった。

 金が振り込まれ、救われるはずであったのに。

 

「死ぬはずの運命を大きく変えてあげるの」

 

 私へ《あの方》はそうおっしゃってくれていた。なのになぜ、なぜこの子は死んでしまったのか。

 どこで歯車が狂ってしまったのか。

 だれが歯車を狂わせたのか。

 私はもう、演じることに疲れ果ててしまった。演じることなどできなかった。

 私は私だけの哀しみを知ってしまった。覚えてしまった。忘れることができないのだ。どうしてもできないのだ。だがそれは、私が《あの方》のドールではなく、私が私として存在してしまっているという存在意義の消失を示している。

 そうだとも、私は存在意義を失った。

 我が子を捨て、

 あの子が死に、

 私は私として存在してしまったがために、

 私はもう、存在してはならぬ存在へと変質してしまった。

 あの人にはそう、とてもわるいことをしてしまったと思っている。

 しかしなぜだろう。

 告げたい想いが。

 謝罪の言葉ではなく。

 伝えたい台詞が。

 感謝の言葉ばかりなのは。

 私にはついぞ、知ることは叶わなかった。

 

 私は今、ゆれている。

 この子が死んだというのなら。

 私もこの子に付いていきたい。

 連れ添ってあげたい。

 きっと死のむこうには。

 どうせなにもありはしないのだから。

 迷わぬように私はこの子のそばにいたい。

 だいじょうぶ。

 私にはそれができる。

 あの人やこの子とはちがって。

 私は。

 生きることも、

 死ぬることも、

 できはしないのだから。


   タイム▽▽▽スキップ{~基点からおよそ数年前~}


 ***ライド***

 私の親の顔が見てみたい? どういう意味だねそれは。

 たっはー。なんだいサイカちゃん、私に興味があるのかい?

 なんのなんの、遠慮はいらんよ。さあ、掛けたまえ。

 おっと。なにを怒ってらっしゃるのかしら? わたしにはさっぱりです。まあいいわ。どんな動機にしろ、私に興味をもって頂けたのなら、この際です、お互いにもっと親密な関係になろうではないか。たっは。なあに、遠慮はいらん、聞きたまえ。

 おれの知る家族ってのは、なんだ、そりゃあ、素っ気ない野郎だったよ。これっぽっちも構ってくれた覚えなどはないね。だからというわけじゃあないが、おれは、おれひとりの力で育ったって言っちまっても、ええそうね、この際は問題ないと思います。

 母親の顔は知らん。私の記憶力をもってしても覚えていないのだから、きっと産まれたその瞬間からすでに私を見捨てたのであろう。

 まあ、恨んじゃあいない。

 たっは。とは言え、強いて苦言を申し立てても許されるというのなら、せめて山のなかにでも捨てて頂きたかったってことだろうな。

 あの男のもとにぼくだけを置いて逃げた、っていうその事実だけはそうだね、どうにも苛立たしい。捨てるなら捨てるで、きちんと捨てて欲しいものだがな。たっは。まあ、文句は言うまい。

 うむ。あの男というのは、父上のことだ。むろん私のだ。

 父上は、それはそれは無口な男でね。なにも語ってやしてくれなかった。それこそ、私の齢が六つになるときまで、父上とは一言も話さなかったくらいだ。

 たっは。そうそう、わしが六つのころであったな。

「わたしは出て行きます。さようなら」

 自立しようと思い立ち、父上にそう告げた。

「かぜ、ひかないように」

 あの男はそれだけしか返してくれなかった。まあ応えてくれたことが、うれしかったことに変わりがないのだがな。たっは。これ、弥寺くんには内緒だぞ?

 それまでの僕は書物からしか知識を得ていなかった。それこそ人と会話をするというも、一切したことがなかったのだから、いざお父さんのもとを離れ、社会へと旅立ったはいいものの、あたしはすぐに途方に暮れたよ。

 いやあ、びっくりしたね。

 人間ってこんなに騒がしいものだったのか、ってね。たっは。あたしゃおどろいたよ。なんだ、あの男が異常なほどに寡黙なだけだったのかとね。

 まあ、三日だ。私は三日目にして挫折した。たっは。仕方あるまい。いかに天才といえど、人の子に変わりはない。

 言ってみれば私は六つにして初めてそとの社会に触れたのだ。まるでジャングルに放り出されたペットのごとく気分だったわい。たっは。腹が減るは、スケベな大人に襲われそうになるはで、結局わたしはあの男のもとへ戻りました。ほかに頼れる者がいなかったのです。思い付かなかっただけでなく、ほんとうにわたしにはいなかったの。

 あの男はなにごともなかったようにオレを受け入れてくれたさ。風呂に浸からせ、食事を用意し、清潔で温かなベッドで眠らせてくれた。いままで通りだった。そうだとも。あたしはそのとき知ったんだ。あの男が――あたしに対してしてくれていたそれらのことってのが、普通じゃなかったんだなってな。つくづく思ったよ。

 まあよ、だからなんだっつーの、って話なんだけどな。

 たっは。私にある親の記憶なんてこんなものだ。

 ん?

 うむ。あの男は死におった。柄にもなく決闘などと時代錯誤なことに挑んでな。呆気なく殺されてやんの。最後の最期まで意味の分からねェ男だったよ。たっは。天才の私にしても実に不可解な男であった。ただまあ、あの男が死んだことで今度こそ私は自由になったわけだがな。いや、自由にならざるを得なかった、と表すべきかもしれん。

 まあ、いずれにせよ、あの男の影響であることに疑いようはないのだがな。この――、

 ――私の解体癖は。

 齢三つのころまで私が世界の全てだと思っていたあの部屋。

 あの男の住処には、いつだって肉塊が溢れておった。むろん、人間のそれだ。たっは。私が天才として君臨できたのも、そういった身近に鮮度のいい素材が溢れていたことに起因するのだろうな。その点に関してだけ言えば、まあ、感謝してやるにやぶさかではないのだがな。たっは。

 おうん? どうされましたか?

 ちょっとちょっと、おまちなさいよって。

 おーい、サイカさん? どこへいかれるのかしら?

 話はまだ終わってなどないのだぞ?

 おーい。

 なっ……離脱しおった。信じらんほど失礼なやつだ。

 まったくどうして。

 親の顔がみてみたいものだな。

 

 

 

       【R2L機関】END

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