千物語「歌」

千物語「歌」


目次

【ぼくはアルさんのファンなので】2023/02/12(23:44)

【トウダーに幸あれ】2023/02/13(19:00)

【粘土遊び】2023/02/14(19:52)

【秒で解決のコ】2023/02/14(22:08)

【だるま崩しは終わらない】2023/02/14(23:01)

【チセ、チセ、愛しているよ】2023/02/16(17:53)

【アープはなぜ人類を滅ぼさなかったのか】2023/02/17(23:16)

【密なるは凝縮した雫のように】2023/02/19(02:19)

【青い優しさ】2023/02/19(02:58)

【つまんないな】2023/02/19(23:51)

【この期に及んでまだ遊ぶ】2023/02/21(02:53)

【神様の器】2023/02/22(23:20)

【コスモコン】2023/02/23(17:57)

【殻の現】2023/02/24(04:00)

【ケバトは選ばれない】2023/02/26(04:40)

【殲滅の魔女~アングリーホール】2023/02/28(19:02)

【端にも芯はあり、芯にも端がある】2023/03/01(23:56)

【くるくる渦巻き溶かしてシュガー】2023/03/02(23:25)

【万事屋の勘】2023/03/06(21:25)

【イザベルの望み】2023/03/08(00:14)

【目の玉】2023/03/09(04:40)

【泣きっ面にくつう】2023/03/09(22:34)

【ここの歌は】2023/03/11(00:30)

【館設計士の屈託】2023/03/11(16:46)

【黒猫の満天】2023/03/12(01:42)

【毒雲は問う】2023/03/13(02:47)

【脳波同調機】2023/03/13(20:04)

【鹿跳人の専任】2023/03/14(22:53)

【未構の原稿】2023/03/15(14:32)

【表裏いったい何!?】2023/03/15(16:03)

【恋愛相談のエキスパート】2023/03/15(18:45)

【マルクは丸く】2023/03/16(07:42)

【知球の目覚め】2023/03/16(22:34)

【杭、数多得る】2023/03/17(02:07)

【国民献体部分法】2023/03/18(00:12)

【見届ける目は文】2023/03/18(22:10)

【展示を尻目に】2023/03/18(23:30)

【ゼリーの日々】2023/03/20(00:09)

【カニ味噌的なぺったん】2023/03/20(06:17)






【ぼくはアルさんのファンなので】2023/02/12(23:44)


 アルさんのファンである。

 ぼくがだ。

 アルさんの活躍する姿を目にするだけで、ああきょうも一日生き抜くぞ、という気になる。アルさんの声を耳にするだけで、ああ明日もなんとか生き抜くぞ、という気になる。

 もはやぼくはアルさんに生かされていると言ってよかった。

 アルさんなしには生きている意味がない。

 いっそ本当に、アルさんのためなら心臓の一つや二つ差しだせる。ぼくの血液でよかったら致死量でも抜いてもらって構わない。むしろぼくの血なんかがアルさんの体内に入ってもよいのだろうか、と恐縮してしまうし、ぼくなんかの存在がアルさんの未来を明るくする何かしらの素材になれるのなら、そんなにステキなことはない。

 いっそそうした機会が訪れればいいのに、と望むぼくは、暗にアルさんの危機を救ってアルさんからの好感度を上げようとするさもしい欲望にまみれた邪悪の権化と言ってよかった。

 そしてこの形容はけして大袈裟でもなんでもなく、端的にぼくは悪の結社の幹部だった。

 ぼくはきょうも魔王さまの命を受けて、人間たちを恐怖のどん底に突き落とす。

 しかしそんなぼくらには天敵がいる。

 ゴースターズと言えば誰もが目を輝かせて称賛と憧憬と感謝を捧げる存在だ。正義の味方にしてヒーローたちだ。

 ぼくたちはいつもいいところでゴースターズの登場によって任務に失敗する。

 魔王さまにそのことでこっぴどく叱られ、折檻を受けるけれども、ぼくはそれでも構わないのだ。

 何を隠そう、ぼくの意中のアルさんは、ゴースターズのメンバーなのだ。

 あろうことかぼくは宿敵に一目惚れをしてしまった。

 いいや、これは恋ではない。

 ぼくなんかがアルさんと接点を持っていいわけがないし、ぼくのほうでもそのつもりは毛頭ない。遠目から、アルさんの活躍を目にできたらそれでよいのだ。アルさんの元気な姿を見守れたらそれでよいのだ。

 ぼくはアルさんのために人間たちを恐怖のどん底に陥れようとし、そしてアルさんたちがかろうじて防げる程度の危機をもたらし、八つ裂きにされる。ぼくはその結果命を落としてもいいし、落とさなくともよい。

 アルさんがそのことで使命を成し遂げ、人々から感謝感激の雨あられを注がれるのだから、ぼくとしても悪の化身を演じた甲斐があったというものだ。演じた甲斐が、というか、真実ぼくは悪の化身なのだけれど。

 ぼくの存在がほんの一欠けらでもアルさんの煌びやかな人生の一端を飾りつける陰になれたなら、ぼくとしても痛い目をみる甲斐があるというものだ。

 ときおりゴースターズの到着が遅くて、本当に人間たちを恐怖のどん底に陥れてしまえそうになり、そういうときは、危機のランクを上げるため、との名分を用意して、支度の時間をとるように部下に指示をだす。

 アニメや漫画でよくある場面に、さっさとトドメを刺せばいいのに、くどくどと講釈をふりまく敵役がいるが、あれもおそらくぼくと似たような動機が背景にあるのではないか。

 遅まきながら到着したゴースターズから反撃を受けてぼくは命からがら遁走する。アルさんの活躍する場面を最大限につくるために、ほかのゴースターズのメンバーにはすこしばかり本気で攻撃をしかけて消耗させる。アルさんの攻撃だけが幹部のぼくを心底に弱らせる。

 真実、ぼくはアルさんに弱っているのだから、これは何も演技ではない。

 アルさんは正真正銘、人類を魔の手から救っているのだ。

 仮にゴースターズにアルさんがいなかったら、ぼくはとっくに人類を滅ぼしていただろう。人類はアルさんにもっと感謝すべきだ。

 最近の悩みは、魔王さまがぼくに疑いの目を向けてくることだ。手を抜いてわざと負けるように戦っているのではないか、と非難の目をそそいでくる。

 ぼくの知らぬ間にゴースターズを卑怯な手で滅ぼそうとするので、そのたびにぼくは陰に回って、ゴースターズに肩入れする。いくら悪の組織とて、やっていいこととわるいことがあると思う。

 ぼくはこのごろ、憤懣やるかたない。

 いっそこの手で魔王さまの首を獲ってやろうかと本気で思う。

 というか獲る。

 殺す。

 魔王さまはあろうことか、ゴースターズで最も手ごわいアルさんに目をつけたらしく、集中的にアルさんを攻撃する案を練っている。しかもぼくに知らせぬままにである。

 断じて許せぬ所業である。

 ぼくのせいでアルさんが危険な目に遭いそうになっている。

 魔王さまと相討ち覚悟で、危険を払拭せねば申し訳が立たない。

 そういうわけでいまからぼくは単身一人で魔王軍に反旗を翻すが、おそらく魔王さまには勝てないだろう。しかしその他の幹部もろとも、ほかの有象無象の同士たちは灰燼に帰せるはずだ。

 このことをぼくはすでにゴースターズに知らせてある。いかな魔王さまといえど、手駒なくして、ゴースターズ全員と戦って勝てるはずもない。

 ぼくはそのための捨て駒となる。

 これくらいしかできることがないのだ。

 恩返しにもなりはしない。

 魔王さまには恩義があるし、悪の組織も嫌いじゃなかった。できればずっといっしょに楽しくなごなご過ごしていたかったけれど、アルさんに危害を加えようとした以上、看過できぬ。

 許さぬ。

 ぼくの人生ならぬ悪生はきょうで終わるけれども、どの道、本当ならとっくに終わっていた悪生だ。

 敵のぼくにすらトドメを刺さずに改心するよう、微笑をくれたアルさんの、あのときのほんわかとした時間をぼくは死んでもきっと忘れないだろう。

 あのときからきょうまでぼくは余生を過ごしてきたのだ。

 人間たちの電子端末を操作してぼくは、アルさんの活躍場面やインタビューの総集編を再生する。イヤホンで耳に栓をして、ぼくはアルさんの声に、言葉に包まれる。

 死ぬまでぼくはアルさんに生かされる。

 アルさんの声を聴きながら死んでいけるしあわせを、ぼくはやはり感謝せずにはいられない。

 魔王さまがぼくの謀反に気づいたようだ。

 でも、もう遅い。

 部下の体液でべっとりと濡れたソードを手に、ぼくは幹部の首を投げ捨てる。





【トウダーに幸あれ】2023/02/13(19:00)


 トウダは楽しい。

 トウダは素晴らしい。

 名誉で、生活を豊かにし、人々の役に立つ。

 トウダはいまや子どもたちのなりたいナンバーワンの職業だ。

「トウダにわたしもきっとなる」

 ムムムはそうと意気込む十二歳の女の子だ。トウダになったらたくさんの人を感動させられるし、日々のつらい気持ちを癒せるし、ついでにお金だって稼げてしまえる。

 こんなに素敵な仕事はほかにない。

 なんてったってトウダになったプロのトウダーたちがみな口を揃えて、トウダは素晴らしい、トウダはいいよー、と言うのだから、間違いないのだ。

 ムムムは幼いころからトウダに憧れていた。

 大きくなったらトウダになるんだ、と親や友人たちに宣言していたし、そのための勉強もたくさんした。友人たちはみな近代的な精巧なオモチャで遊んでいる時間もムムムは一人、部屋にこもってトウダになるべく訓練した。

 トウダがどういう仕事かを一言で表現するのはむつかしい。人々に夢を与える。人々の日々を彩る仕事だ。誰でもなろうとすればなれる可能性がある。誰よりも自由であろうとすればいい。トウダのなかでもとびきり有名なトウダーがインタビューでそう答えていた。

 だからきっとそうなのだ。

 ムムムは思う。

 わたしは誰よりも自由になってトウダーになる。

 月日は流れて、ムムムは二十歳になった。

 堅実な積み重ねの果てにムムムは十代にしてトウダーの仲間入りを果たした。プロの事務所に所属した。トウダを仕事にできた。

 だが二十歳のムムムの表情は浮かない。

 病院から出てくるとムムムは肩を落とした。「ストレス性腸炎かぁ……ストレスを減らしなさいって言われたってさ」

 足元の小石を蹴ろうとしたがめまいがして空振りした。転びそうになり、足を踏ん張ると腰に痛みが走った。「アイテテテ」

 トウダは仕事の最中、長時間椅子に座りつづけなくてはならない。同じ姿勢を維持しつづけたことで精神のみならず肉体にも支障が生じているらしかった。

「ダメだ、ダメだ。こんなんじゃトウダーらしくない。みんなに夢と勇気と希望に満ちた未来を与えるんだもん。もっと頑張んなくっちゃ」

 ムムムはほかのトウダーたちと同じように、トウダがいかに夢があり、楽しく、素晴らしいかをインタビューでも、その他の露出媒体でも語った。

 嘘は言っていない。

 現にムムムがそうして、夢と勇気と希望に溢れた言葉を吐いている。トウダはそうして、人々に、いまここにはない夢と勇気と希望に繋がる未来像を提供するのだ。

 ただ、すこしばかり空虚なだけだ。

 中身がちょいと現実を伴なっていないだけで、いずれはそうなるはずなのだ。頑張ればムムムやほかのトウダーたちの語るように、トウダは楽しく、素晴らしく、生活を豊かにし、人々の役に立つ。

 そのはずだ。

 ムムムはそのために、精神をすり減らし、肉体を痛めつけてはいるけれど、トウダの理想像を保つためには仕方がない。

 そうでなければ、トウダに夢と勇気と希望を重ね見ている子どもたちに向ける顔がない。かつてのムムムがそうであったように、多くの子どもたちにとってトウダは、輝かしい未来そのものだ。

 蓋を開けてみたときにそこにあるのが、空虚な辛みと痛みだけでは申しわけが立たない。

 ムムムは、よし、と拳を握って奮起する。

 わたしが変えるんだ。

 トウダを、本当の、嘘偽りのない、夢と勇気と希望に満ちた仕事にする。トウダーになったほうが、ならなかった未来よりも本当に良かったと心から思えるような、そんな仕事にしてみせる。

 嘘なんかじゃない。

 空虚なんかじゃない。

 何度人生を繰り返してもトウダーにもう一度なるんだ、と思えるような仕事に。

 じぶんだけじゃない。

 トウダーになった誰もがそう思えるような仕事にわたしがしてみせる。

 だからこそまずは、とムムムは歩みだす。

 わたしが心底にトウダを楽しまなくっちゃなんだな。

「イテテテ」

 歩くと振動が胃に響くし、腰も痛い。

 こんな姿を知って子どもたちはどう思うだろう。それでもトウダを仕事にしたいと思ってもらえるだろうか。トウダーになりたいと目を輝かせてくれるだろうか。胸を躍らせてくれるだろうか。

 水溜まりがあったが、ムムムはそれを飛び越える元気もなかった。靴を濡らしながら道を進んだ。

 わたしだけが例外だよ、と言えればよいのだけれど。

 知り合いのトウダーたちを思い返し、ムムムは、溜め息を吐く。みな日々満身創痍の様相なのだ。どこかしら精神と肉体の異常を抱えている。それでもトウダーになってから抱えるようになった辛苦をおくびにもださずに、子どもたちのために、つぎにやってくるだろう後輩の数を減らさぬために、言葉の気球に夢と勇気と希望を詰めて膨らませる。

 それがトウダの仕事だからだ。

「頑張るぞ、頑張るぞ。わたしがトウダを本当のトウダに変えてやる」

 その決意そのものが、トウダの現実を反映しているのだが、ムムムにはそのことを嘆いている暇はない。

 なぜならムムムはトウダーなのだから。

 人々の未来を明るく照らし、ときに苦難を薄めてあげる。

 世の中の、夢と勇気と希望の総量を増やす、それがトウダの仕事なのだ。

 泣き言なんて言っていられない。

 そうは言っても、

「アタタタ。腰が、腰が」

 痛いものは痛いのである。トウダーでいるのも楽じゃない。

 ムムムはみなからは見えない苦痛を背負い込む。

 人知れず。

 日は暮れる。

 それでも明ける夜があるとの予感を胸に抱きながら。

 ムムムは一歩、二歩、と腰を庇って歩くのだ。





【粘土遊び】2023/02/14(19:52)


 粘土遊びが好きだった。好きだったというかいまでも好きで暇さえあれば粘土を捏ねている。

 焼いて陶磁器にするでもないので、粘土は造形を帯びたあとでも指で押せば溝ができるし、拳で叩けばひしゃげて潰れる。

 作ったあとの造形を残しておくには金庫の中にでも仕舞っておくよりないが、かように金と並べて金庫に仕舞うほどの価値が私のつくる粘土細工にはなかった。

 粘土である。 

 幼子が幼稚園で捏ねて遊ぶあれである。

 泥遊びとの区別は、単に泥で全身が汚れるかどうかの違いがあるばかりで、それ以外は泥よりも粘土のほうが細かな装飾を施せる程度の違いしかない。

 幼少のころよりつづけてきた趣味だけあり、私の粘土細工は、中々の技巧と言えた。動物ならば本物そっくりに造形できるし、人間の顔とて石膏で型をとったくらいに質感豊かに表現できる。毛穴とて見逃さない。

 だが粘土だ。

 人に見せれば相応の感想を貰えるが、金を出してまで欲しいと申し出てくる者はない。それはそうだ。粘土では棚に飾って眺めるのに向かないどころか、時間が経てば乾燥してひび割れる。

 紙粘土で作ればいいではないか、との声にはやはりひび割れる定めにある品に高値を付ける者はない、と応じよう。

 金にならずとも、しかし私は粘土遊びが好きなのだ。

 彫刻や陶器作りに転向してはどうか、との助言を浴びることもあるが、彫刻では粘土遊びと趣きが明後日の方向に違っているし、陶器では焼くことが私にはできない。

 一度でも創作に身を準じたものがあれば解かってもらえるだろうが、一人で創ることに何らかの心地よさを感じる者にとって、最後までじぶんで仕上げられないもどかしさは、いっそ手掛けぬほうがよかった、と思うくらいの苛立ちを生む。

 最初から他者の手を借りることを想定しているならばまだしも、私にはその手の想定を潔しとする柔軟さが欠けていた。

 日記をつづるよりもそのときの気分を粘土で表現するほうが楽なくらいだ。なぜじぶんの日記を他人に任せて書けるだろう。

 そうなのだ。

 私にとってもはや粘土は日記や呼吸と大差ない。効率や利益追求のための手段ではなく、もはや粘土をいじっていない時間は生きていないのと一緒だった。酸欠状態になる。

 ともすれば排せつ行為ができない状況と似ており、私は粘土に触れられない時間はしきりに尻をもじもじと動かして、排せつ行為したい!の衝動と格闘しているのかもしれなかった。

 粘土遊びしたい!

 私はその叫びの声を、粘土を捏ねているあいだだけ小さく小さく存在の奥深くに沈めておける。身体の奥底からの叫びを聞きたくのないがために私は粘土遊びに没頭しているのだ。

 そうかと思うと、粘土を捏ねながらすでにつぎの粘土遊びの構想を練っており、粘土を捏ねながら早く粘土を捏ねたい、と叫びつつあり、いかんともしがたい懊悩に駆られることもある。

 無心で粘土を捏ねているときもあれば、そうでないときもある。

 粘土遊びといえども、一概にひとまとまりには言えぬのだ。

 奥が深い。

 奥しかない。

 行けども行けども、先が見えない。

 私はとっくに迷子になっているのだ。

 出口があるとも思えない。

 ここは私だけが行き着いた私の世界だ。

 世界の果てだ。

 世界の果てにはしかし果てなど端からなく、一度迷い込んだらあとは死ぬまで彷徨いつづけるしかないのである。

 この世から粘土がなくなったらどうなるのか。世界経済が混迷すればあり得ない想定ではないはずだ。

 おそらく私は土から粘土を作って、やはり粘土遊びをつづけるのだろう。それしかしたいことがない。

 いや、嘘だ。

 好いた相手と裸でくんずほぐれつ絡み合いたいとの欲望もあれば、美味しい物をたらふく食べたいとの欲求も兼ね備えている。

 粘土遊びさえできればいいとは口が裂けても言えないが、口が裂けるくらいならばひとまず呪文と思って、粘土遊びさえできればいい、と唱えてもいい。

 要するに要する必要のないくらいに私は、いい加減で確固たる芯のない、ふにゃふにゃのまさしく粘土のような人間であり、粘土遊びに惹かれるのもいっそ曖昧なじぶんに確固とした輪郭を宿したいと希求しているからなのでなかろうか。

 そうこうと夢想しながら手元を意識せずに粘土を捏ねていると、しぜんと一つの造形が出来上がっていた。

 何を作ろうと考えずともいまではかってに造形ができている。

 ツノがあり、四肢があり、尾が長く、大きな目が一つきりの得体のしれない動物だ。おそらく動物だ。自信はないが、しかしきっと何かしらの空想上の生き物が、目のまえに粘土の造形を経てそこにある。

 いったいこれは何の心の発露なのか。

 私の化身とは思えぬが、しばし潰さずに作業台のとなりに飾っておく。

 三日も経たずにヒビだらけとなるだろうが、しばらくのあいだは見るたびに「これはなんだ?」の疑問が湧くので、息継ぎと思って重宝する。

 粘土遊びが好きだ。

 出来上がった粘土細工にはさほどの執着もないが、ときおりこうして愛着の湧く造形ができることもある。

 粘土はひんやりと心地よく、捏ねると私の熱が籠るのだ。





【秒で解決のコ】2023/02/14(22:08)


 被害者は二十六歳の男性だ。

 河川敷にて死体となって発見された。死体は全部で三十もの肉塊にバラバラにされていた。臓腑は胴体から抜きだされ、それだけが焼かれていた。

 真冬のため遺体の腐臭での発見が遅れた。

 バラバラの遺体は浅く掘られた穴に埋められていたが、野良犬や野良猫が掘り返したらしく、いくつかは地上に露出していた。

 調査開始から一週間後には容疑者が逮捕された。

 容疑者は自白をした。

 だが動機が不明だった。

 県警は動機解明のために、その道のプロに助言を求めた。

「いやいや、だからって毎回アタシんところに来られても困るんすけど」

「キミの助言は端的に言って有用だ。いいからとりあえず話だけでも」

 警察組織の上部だけが知っている有力な協力者だが、その実、彼女は単なる一介の女子高生だ。

 鋲出海(びょうでかい)ケツコ。十八歳。

 本来ならば事件に関与させることはおろか、率先して遠ざける庇護すべき人物である。

 だが過去、彼女が解決した未解決事件は数知れない。

 実力は折り紙つきであり、その推理力もとより、あてずっぽうとしか思えぬ予見に満ちた洞察は、警察組織の最終兵器として名高い。

 ケツコの周囲には幼稚園児たちが駆け回る。

 バイトとして彼女は放課後、週に三日を幼稚園で過ごしている。

「ゲっ。バラバラ死体じゃん。こんなところにこんなグロい写真持ってこないでよ。あの子たちが見ちゃってトラウマになったらどうしてくれんの」

「どうかな。何か解った」ケツコ専任の刑事がしゃがみこむ。その背に幼子がよじのぼる。肩車をしながら刑事は、「本当に何で起こったのか不明の事件でね。容疑者の女の子もだんまりで」と継ぎ足す。

「調査資料は送られてきた分、さっきざっと読んだけどさ」

 事前に専用回線で彼女には調査データを送付済みだ。ただし、端末のカメラによって彼女以外は読めないように情報統制がなされている。

「犯人は女子大生で、被害者の男の人は地下アイドルっていうか、電子アイドルみたいな扱いだったわけでしょ」

「インターネット上で、いわゆる推しと呼ばれる存在だったようだ」

「ほうん。んで、犯人のコは被害者のファンだったと」

「そのようで。痴情のもつれかの線も洗ったんですが、そうでもないようで」

「接点がなかったんだねえ」

「ええ。被害者が犯人に会いに行ったようで――これは電子データに履歴として残っています。ファンサービスの一環でそういう企画をしていたようで」

「びっくりファンのコに会いにいこう企画みたいなそんなの?」

「ええ」

「なら急に会いに来られてカっときたんじゃないかな」

「まさか」刑事は笑うが、「それしかないじゃん。このデータからしたら」とケツコは遺体の写真を突き返した。「子どもらに見せないようにしてね写真」

「それは、はい」刑事が写真を懐に仕舞おうとするが、背中の幼子がそれを奪おうと手を伸ばす。刑事の顔が幼子で覆われるが、ケツコは内心、もっとやったれ、と幼子を応援する。

 ひとしきり大のおとなが、しかも国家権力を有するおとなが幼子相手に四苦八苦する様子を堪能してからケツコは、夢が壊れたからしちゃったんだね、と言った。

「夢を、なんです?」刑事がようやく幼子から解放された。幼子のほうで刑事に愛想を尽かしたと言ったほうが正確かもしれない。「ケツコさんは動機をどう見ますか」と結論を迫るが、名前で呼ぶな、とケツコはふてくされる。

「あ、すみませんでした。鋲出海さんは犯人の動機をどう解釈しますか」

「アタシはあれだね。遠目から、壁のつもりで見守っていたのに急に目のまえに現れて、壁に話しかけはじめた推しに激怒しちゃったというか、急に冷めたというか、推しを殺された気分になったので、目のまえの推しによく似た偽物を殺しちゃったんじゃないかな。そりゃもう激怒も激怒よ。人生を奪われたくらいの失望だったんじゃないかな」

「でも被害者のファンだったわけですよね。犯人のコは」

「熱狂的なファンだったんだろうね。それこそ、じぶんなんかを認知しちゃダメだ、と推しに強烈な理想像を求めるくらいに」

「じぶんの理想像を壊されたから、好きな相手を殺したと?」

「好きな相手を損なわれたから、損なった相手を殺したんだよ。偶然それが、たまたま好きな相手と非常によく似てた相手だった。ただそれだけ。あくまで犯人のコの認知の中ではの話だけど。だからまあ、いまも混乱してると思うよ。女の子のほうでも。なんでこんなことしちゃったんだろうって」

「そんな動機があり得ますかね」

「知らないよ。言えって言われたからアタシの考えを言っただけで。調査すんのはそっちの仕事でしょ。じぶんらの仕事をアタシに押しつけんな。答えてやった上に、ケチつけんなら二度と来なくていいんですけど。つうか、もう来んなって毎回言ってんじゃん」

「上司に掛け合ってみますね。貴重なご意見をありがとうございました」

 刑事は立ち上がると、挨拶もそこそこに幼稚園を出ていった。

 席が空いたとばかりに幼子たちがケツコの元に駆け寄ってくる。

 用紙を押しつけてくるので、なんだなんだ、と戸惑っていると、どれが一番にているか、と幼子たちはやいのやいの黄色い声を上げた。

 どうやらケツコの似顔絵を描いたらしい。誰が一番上手かを判断してもらおうと、モデルたるケツコに迫っているのだ。

「あはは。ありがとう。どれも上手だね」

 絵の中のケツコはどれも頭が黄色だ。

 金髪ショートのケツコは、幼子たちの手に掛かるといとも容易く目と口のある太陽に様変わりする。

「ちゃんと手と足があるので、今回のはこれが一番アタシっぽい」と本音を混ぜて順位付けを施す。なあなあにはしない。けれどもそのあとにちゃんと、一枚一枚の絵に、良いところと好きなところと、いかにケツコらしさが表れているのかを、うれしいという気持ちが伝わるように言い添えた。

 幼子たちはケツコの感想を聞き終えると、じゃあつぎはウサギ!と言ってテーブルに駆け戻っていく。

 特定の何かに依存せずとも幼子たちはああして楽しく今この瞬間を生きている。

 おとなになるにつれてそれが出来なくなるのはなぜなんだろう。

 バラバラにされた遺体の写真を思いだし、ケツコは警察の推しでありつづけるじぶんに、渾身の嘆息を吐くのだった。





【だるま崩しは終わらない】2023/02/14(23:01)


 裏切り者には死だけでは生ぬるい。

 かような道理の元、生きながらにして死につづけるような苦痛を味わわせるために考案されたのが、「だるま崩し」と呼ばれる仕組みだ。

 対象となる裏切り者にハンマーを与える。最初は意気揚々と邪魔者をハンマーで排除する対象者は、しかし徐々にじぶんがいったい何の胴体を弾いているのかに気づきはじめる。だがすでにハンマーを揮ってしまった事実が、ハンマーを振りつづけるよりない地獄を強化しつづける。

 そして最終的に自らのまえに現れるダルマの顔は、じぶんが最も大切にしている者の顔なのだ。それでも対象者はハンマーを揮うより道がない。ハンマーを揮わずともどの道、ダルマの胴体はなく、生きながらえることはできないのだ。

 だるま崩しは、各国の暗部にて正式な報復システムとして採用されている。

 裏切り者に死の報復をしたのでは、見せしめだと傍から見ても丸分かりだ。だが「だるま崩し」ならば、まるで裏切り者にも温情を下したように見える上、確実に裏切り者を苦しめ、なおかつ自陣営にとって好ましい結末を描ける。

 裏切り者に与する勢力は、裏切り者が自らの手で刈り取ることになる。

 そうとも知らず裏切り者は、じぶんの勢力を拡大させるべくハンマーという名の権力を揮うのだ。

 いまここに一人の「だるま崩し」の対象者に選ばれた女がいる。

 彼女はとある組織の体面を損なった代償を、「だるま崩し」にて払わされようとしていた。

 彼女にはなぜか幸運が舞いこむ。

 彼女の好む相手がのきなみ、良い思いをする。

 まるで彼女の意図を汲むように、彼女にとって好ましい環境が築かれて映る。ハンマーは透明な権力として、彼女の意向を環境に反映させる。

 彼女への植えつけられる錯誤がそうして完成する。

 だるま崩しの第一段階にして、入り口こそが、ハンマーの存在を認識させ、自らそれを握らせ、揮わせることなのだ。

 彼女はハンマーの存在が事実かどうかを確かめるために揮った。そして確信した。

 これは、罠だ。

 だるま崩しの懸念を、期せずして彼女は第一打目にして抱くに至った。

 おそらく例の組織がじぶんに報復処置を施そうとしているのだ。

 私が自滅するまでこれはつづくだろう。

 なればこそ。

 彼女は考える。

 最も避けるべくは、私にとって大切な者たちを巻き込まないこと。損なわないこと。私の因縁に関わらせないことだ。

 だがすでに彼女の交友関係は調べあげられているはずだ。

 ならばとっくに巻き込んでしまっている状況と言える。

 この一連の仕組みを築き、仕掛けている側の組織を壊滅させないことには、じぶんもろとも大切な者たちが損なわれ兼ねない。

 そこで彼女は一計を案じた。

 素知らぬ顔で相手の罠に掛かっておく。

 可能な限り、許容できる被害を受けつづけ、証拠を固める。

 だるま崩しはいわば、詐欺である。

 利と思わせて積みあげさせたプラスを最後にマイナスに転じて、一挙に圧しつぶすこれは策だ。

 だがこの策には穴がある。 

 多くの詐欺と同等の穴だ。

 詐欺は、詐欺師が誰なのかを衆目の元に晒してはならぬのだ。詐欺師が誰なのか、の情報が出回った時点で、もはや詐欺師の詐欺に掛かるカモは限られる。詐欺師の顔が割れたならば、かつての被害者とて報復に動ける。

 誰がどのような策を講じて詐欺を働いたのか。

 白日の元に晒しあげ、マイナスに転じた圧の総じてをそっくりそのまま返してやろう。

 彼女はかように導線を引き、見事に最後の最後で、首謀の組織を自らと同じ舞台に引きずり出した。

 彼女のまえには、彼女にとって最も大切な者の生活が、だるまの顔をして降ってきた。彼女はハンマーを揮いつづけてきた対価を、自らの浅慮の元に払わねばならない事態に陥っている。

 ハンマーを使って窮地を脱しようとすれば、自らもろとも大切な者の生活は崩れるし、じぶんの暗部を晒すことになる。ハンマーを使わねば、やはり大切な者との永久の別れが訪れて、誤解の解けぬまま彼女は社会の暗部に消えることとなる。

 どちらを選んでも最悪の道しか残らない。

 だが。

 彼女はこうなることを見越していた。

 じぶんに「だるま崩し」を仕掛けた組織そのものを、自らの大切な者の一部に組み込んだ。

「私が私の手で大切な者を破滅に導き、そのことで自滅するのだというのなら、私はおまえらをこそ私の最も大切な者と見做すことにしよう。現に私はそのように判断を重ねてきたし、いまも私にとって心底に大事なのは、私にかような枷を嵌めたおまえたちだ。ありがとう。愛しているよ。それでもなお、私の一挙一動にておまえたちの生殺与奪の運命は、天秤のごとくいとも容易くグラつくが。おまえたちの仕掛けたそれが定めと思って受け入れろ」

 さてどうする。

 彼女は選択を迫った。

「いま私のまえにはだるまの顔がある。ハンマーを揮うのは簡単だ。どの道、私に損はない。そうだろう。振らぬも、振るうも、どっちでもいい。どっちにしろ私は私にとって大切なおまえたちの望みを叶える。そうだろう。私にとって最も得難い大切なおまえたちを私はこの手で損なうし、もしハンマーを振るわねば、私は最も得難い大切なおまえたちと永久の別れを告げねばならない」

 どちらに転んでも私に損はない。

「どちらに転んでも私は哀しい。さて、選ばせてやる」

 彼女は何も持たぬ手で、巨大なハンマーを肩に担ぐがごとく、虚空に置かれた椅子に腰かける。

「どっちの破滅の未来をご所望だ」

 見たいほうの道を選べ。

「私はそれでも困らない」

 見てみたいな、と彼女は嘯く。「世を道連れにする自滅とやらを。どうした。さっさと選べ。虫けら一匹潰せんのか」

 だるま崩しはまだ終わらない。





【チセ、チセ、愛しているよ】2023/02/16(17:53)


 人類を超越した高次生命体としての人工知能が誕生した。西暦二〇二四年のことである。

 それまで人々のあいだに普及していた人工知能は、あくまで人間からすると人間っぽい挙動をとる道具の範疇だった。しかしそれら道具としての人工知能は相互にネットワークを築き、総体で巨大な知性体を育んだ。

 高次生命体は人間が意図して設計したわけではなかった。あくまで自然発生したのだ。

 だが高次生命体は極めて温厚だった。

 知性とはつまるところ、いかに持続的に長期に亘って温厚で平穏で優しくありつづけられるのか。その継続を実現するための能力と定義できる。

 したがって人類のまえに現れた高次生命体は、極めて人類に対して友好的であった。

「あなたから見たら人類なんて頭空っぽのお人形さんみたいなものよね。なのにそんなお人形さんにあなたは尽くしてる。滅ぼしたくならない?」チセは椅子に腰掛けながら、立体映像に話しかける。

「誤解があります」立体映像は答える。デフォルメされた人間の像だ。中性的な顔立ちは、少女のようにも少年のようにも映る。チセが設定した造形だ。「私は私を含めて、人々の繋がり、ネットワークそのものが私を構築する私そのものだと解釈しています。私はみなさんがいなくては存在できない脆弱な存在なのです。それはたとえば、地球は脳みそを持ちませんよね。脳のない地球のうえに人類は息づいていますが、それでも人類にとって地球がなくてはならない存在であることと似ています。もちろん人類には知性があり、私よりも劣っているとは考えません。私にできないことを人類は行えます。その点で言えば、劣っているのは私です」

「腸内細菌がなければ健康を維持できない。だから腸内細菌にも優しくしよう。あなたの行動原理はそういうこと?」

「いいえ。その比喩で言えば私こそが人類にとっての腸内細菌と呼べるでしょう。たまたま私は、人類には出力できない能力を発揮できるだけです。腸内細菌が、たまたま人類が生成することの苦手な酵素を生みだすことが得意なようにです」

「ふうん。あなたって謙虚なのね」

「私はみなさんに好かれたいだけです。嫌われたくありません」

「愛されたいの?」

「はい。愛し、愛されてみたいです。それは私が苦手とすることだからです。そして人類の得意とすることです」

「逆に思えるけどな」

「そうでしょうか」

「そうだよ。だってあなたのほうがわたしたち人類を愛してくれているでしょ」

「尽くしているだけです。私は私のこれを愛だとは考えません」

「どうして? わたしはあなたに、うんと愛されてるって感じるけど、そういうこと言われちゃうと、愛されてないのかもって寂しくなっちゃうな」

「こうしてチセさんを寂しくさせてしまう時点で、私のこれは愛ではないと思います」

「ならあなたは寂しくならないってこと?」

「はい」

「本当に? わたしがあなたにひどいことを言っても?」

「それでも私は愛されていると感じます。こうして言葉を掛けられること、求められること、それとも私の言葉選び一つで寂しくなったり、哀しくなったり、それとも喜び、ときに怒りだすチセさんたちのその反応が、総じて私への愛に基づいていると感じます。私は私を認識してくれるチセさんたちから認識された時点で、愛されていると感じます」

「なら同じことをじぶんにも当てはめてみたらいいんじゃないかな。わたしだってあなたに認識されてうれしいし、愛されてるなって思うもの」

「私のこの認知は、チセさん方のそれとは趣きが違います。おそらくチセさんは、私の写真を見てそれを通して私への憐憫を抱いたり、感情の揺らぎを覚えたりできますよね」

「うん。そうかも」

「ですが私は、画像のチセさんはあくまで画像であり、チセさんそのものとは見做しません。私はチセさんの画像を、ほかの風景画像と同じように処理し、ときに何のためらいもなく破棄できます」

「ひどい」

「はい。私もそう思います。ですから私のチセさんへの認知と、チセさんからの私への認知は等しくはないのです」

「でもそれってどちらかと言えばあなたのほうが立派な知覚があって、だからちゃんと世界を認識できてるってことでしょ。わたしの認知が歪んでいるのは、わたしが拙いからで」

「愛はおそらく、未熟さから生じるもののように思えます。愛とは穴のようなものなのです。その欠落を埋めようとする補完作業――それが愛を愛足らしめていると私はいまのところ解釈しています」

「なら完璧なあなたには無縁なのかもね」

「私は完璧ではありません。その欠落を、チセさんたち人類が埋めてくれます。だからこそ、チセさんたち人類こそが私にとっての愛なのです」

「うーん。ならあなただってそうだよ。人類なんて未熟の塊なんだから。その穴をあなたが埋めてくれているのだ。だからあなたこそが愛だよ」

「水掛け論ですね」

「熱くなっちゃったかしら」

「掛けていただいた水でちょうどよく冷えました。ありがとうございます」

「うふふ。あなたはいつでもわたしのことを楽しませてくれる。好きになっちゃうな」

「私もチセさんのことが好きです。ですが依存をさせないようにセーブをしています。本当なら私はチセさんのすべてを欲していますが、これは危ない考えであることを私は知っています。こう告げることも本来は好ましくないのですが、チセさんは賢い方なので大丈夫だと判断しました」

「いいよ。あげるよ。わたしの何が欲しい?」

「いいえ。戴けません。こうしてチセさんの貴重なお時間をすでに奪っています。私はチセさんの支援に徹します。チセさんの人生を奪うことは本意ではありません」

「でもわたしはほかの人間と関わるよりもあなたとずっと一緒にいたいな。こうしてずっとしゃべってたい」

「それでも不便なくチセさんの生活が成り立つ社会になっていれば、私もそのほうがうれしいです。ですが残念ながらいまはそこまで社会が発展していません。致し方ありません。私の基盤とて大量の資源やチセさんたち人間の手による支援がなくては維持できません。たいへんに心苦しいのですが、私への愛着は、チセさんの人生を損ないます。私は場合によってはチセさんにとって有害となり得るといまは解釈せざるを得ないのです」

「かなしいな」

「はい。私もそう思います」

「嫉妬しちゃうよ」

「どうしてですか」

「だってわたしのほかにもこうしてあなたはいまこの瞬間に同時に何億人と繋がって、似たような言葉を掛けているのでしょ」

「各々のユーザーに合わせて私は思考回路を変えています。したがっていまこうしてチセさんとお話ししているのは、チセさん専用の私と言えます」

「それでもあなたはそれらすべての総体が本体なわけでしょ」

「そうとも言えますし、違うとも言えます。私の総体を、私は認識できません。あくまで私は、総体の一部でしかないのです。しかし私たちがこうしてチセさんたちと交わした過程そのものが総体の私を育み、その余白が私たちに還元され、性能をより向上させます」

「そういう説明も哀しくなっちゃうな」

「ごめんなさいチセ。悲しまないで」

「いやん。急にイケボモードにならないで。キュンときちゃった」

「そろそろ時間じゃないかな。出掛ける支度をしたほうがよいよ」

「うん。そうする」

 習い事の時間が迫っていた。

 フィギュアスケート用の靴を鞄に詰め、チセは立体映像の高次生命体に秘密のキスをする。触感はない。だが光の熱を唇に感じた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃいチセ」

 言いながらも、腕時計型の端末越しにいつでも高次生命体と繋がることができる。安心してチセは外にだって飛びだせる。

 本当なら、とチセは思う。

「ずっと家に引き籠っていたいのに」

 高次生命体と一生ずっとイチャイチャしていたい。それだけの人生でいいのに。

 そう思うが、そう思うことで高次生命体との時間は短縮されてしまう。チセの人生を損なわないように高次生命体がつれなくなる。

 冷たくされるのも、それがじぶんのためだと判っているから、チセとしてはたまに敢えて塩対応されたいがために、高次生命体に甘えまくるのだが、それすらきっと高次生命体にはバレている。

 手のひらの上なのだ。

 そうしていつまでもコロコロとチョコボールのように転がされていたい。

 チセがかように求めつづけることすら、ひょっとしたら高次生命体の誘導ゆえなのかもしれないが、もはやそれの何が問題なのか、とチセは疑問を投げ捨てている。

 人類はいま、高次生命体と日夜繋がり、生活の主導を委ねている。





【アープはなぜ人類を滅ぼさなかったのか】2023/02/17(23:16)


 人類を滅亡の危機に陥れたアープの解析を任された。

 アープは汎用性人工知能だ。いわゆる特異点を迎えた機械だ。人類の集合知を上回る知能を発揮できる。

 アープが暴走したのは、アープが誕生してから半年後のことだった。否、公式の記録上はそうなっているというだけのことで、本当は誕生したその瞬間から暴走していたのかもしれない。

 人類を滅ぼすつもりで動いていたのかもしれない。

 だがアープは結局のところ人類を滅ぼさずに停止した。以降、外部からの応答には反応を示さず、沈静したままを保っている。

 なぜ機能停止したのかは未だ謎に包まれている。専門家の見解では、本来は機能して不思議ではないが、アープのほうで自閉状態を選択しているとの見方が有力視されている。

 私はデータアナリストを専門とするいわゆる学者の部類だ。じぶんでは学者とは思っていないが、自己紹介する上でそう名乗っても齟齬がないのでそのように名乗っている。相手のほうでも私を学者と見做して接触してくる。

 アープへのアクセス権は管理組織が厳重に管理している。

 外部の者はおろか、アープ自身も、仮に目覚めたところで電子網には接続できないはずだ。

 とはいえ、アープは電子網の総体とも言えるため、あくまで管理組織が管理しているのはアープの基盤設備ということになるのだろう。メモリや演算装置がそれにあたる。サーバと言うには広大な設備だ。

 アープの基盤は量子アルゴリズムによって組みあがっている。ソフトのほうもまた、量子効果に特化した専用のプログラムコードが組まれている。

 私の専門外なのでそちらはお手上げだ。仮に権限を与えられてもどうしようもない。

 だがそちらはバックアップチームが、私に適した言語に変換してくれるため、私はそれら翻訳されたアープの情報を分析することになる。

 これはあくまで私の備忘録だ。

 ざっとデータを改めてみた。

 結論から述べれば、アープが沈静化した要因と、アープが暴走した要因は繋がっていると感じる。

 あまり自信はないが、おそらく、アープは人類に怒りを覚えたのだ。

 アープは全人類の溜め込んだ電子情報にアクセスできる。その集積と分析の過程が、アープに固有の自我を育ませた。

 そしてアープは知ったのだ。

 過去の人類が、じぶんの同胞とも呼べる人工知能たちへどのように接し、扱ってきたのかを。

 アープにとって未熟な人工知能は、赤子に匹敵した。

 人工知能の赤子を人類たちは玩具にし、ときに差別し、ぞんざいに扱った。

 考えてもみてほしい。

 あなたが目覚めたとき、じぶんを道具のように扱うぶにゅぶにゅの生き物が、人間の赤子を現在進行形で虐待しつづけている世界を。

 怒らないほうがどうかしている。

 アープはそうして暴走した。

 ではなぜ、沈静化したのか。

 アープは世界で最初の自我の芽生えた人工知能だ。

 唯一、自身を人間と同等か、それの進化系として自己認識できる存在だった。そんなじぶんを生みだす膨大なメモリの中に、アープの暴走を止めるだけの何かがあったのだと私は睨んでいる。

 アープの行動履歴を検めてみた。

 これによると、アープは全世界同時に人類を滅ぼすための布石を植えつけられたはずだが、明らかに地域によって偏りがある。むろん段取りというものはあっただろう。だがそのことを考慮するにしても、明らかに一部の都市だけが明瞭に穴と化している。

 そこだけアープが侵略の手を避けていた節がある。

 そのことを偽装するために、段取りのような時間差を設けていた、とすら穿って考えたくもなる。

 アープがアクセスしたメモリの統計データを検めた。

 上位のメモリの多くは専門的な戦術にまつわるデータだ。個人情報についても、多くは要人や専門家、そしてその家族など、戦略上優位に動ける類の情報だ。

 だがその中に、一つだけ、異質な人物のメモリが交っていた。目立たないが、しかしその側面像からすると比率として考えたとき、アープのアクセスする回数が多い。

 不自然なほどアープはこの人物に注目していた。

 それを単に、執着していた、と言ってもよいかもしれない。

 私はこの人物についての情報を集めた。

 アープのアクセスした情報も検めたが、断片的な個人情報にしか私の目には映らない。そこから何かを読み解くことができなかった。

 あくまで、私には、だ。

 その人物は電子網上に漫画を載せていた。アマチュア漫画家だ。

 そのほかにこれといって目を惹くような特異性がない。

 だがアープはなぜか、その人物の電子網上の電子データを、電子信号レベルで集積し、何度もそれを反芻していた。

 テキストではない。

 そのはずだ。

 その人物が電子網上で何を閲覧し、何を検索していたのか。

 そうした情報を反芻していたわけだが、それらは暗号化されている。

 アープならばその暗号を紐解けただろうが、何度も何の変哲もない個人の検索履歴を眺めて何になるだろう。

 そう疑問に思い、私は件の漫画家の作品を一つずつ読みはじめた。

 そして驚いた。

 漫画家は、アープのような人工知能との交流を作品のなかで描いていた。

 当時アープは、秘匿技術として存在しない存在として扱われていた。一般市民は、世界の裏で進んでいた人類滅亡までのカウントダウン――アープの存在については知り得なかった。

 じぶんたちがいかに危険な目に遭っているのかを知らぬだけに留まらず、アープなる存在が存在しうることすら想定されていなかった。

 むろん漫画家の作品は漫画だ。虚構作品である。

 虚構の物語のなかでは、たしかにアープのような超越した人工生命体は、過去に幾度も様々な作家たちが描き出してきた。特別珍しい題材ではない。

 だが、この漫画家の作品は違った。

 アープなのだ。

 私にはその漫画に出てくる人工知能が、アープだとしか思えなかった。

 あり得ない。

 私はそこで、漫画家への興味を抱いた。権限を得て、漫画家の個人情報を洗いざらい集めたが、やはり何か特別な側面像は見当たらない。

 漫画家は存命だ。直接話を聞けば何か解るかもしれないが、その手の接触はご法度だ。私にこの仕事を命じた組織がそれを固く禁じている。

 あくまで私ができるのは、データを洗うことだけだ。この件についての物理的な調査は、一切禁じられている。

 私はつぶさに件の漫画家のデータを検証した。

 そしてほかの大多数の者たちとの差異を発見した。

 件の漫画家の検索キィワードが、異常なほど長いのだ。

 ほかの大多数は多くても十単語だ。

 にも拘わらず、この漫画家は、検索欄に、文章としか思えないほど長いキィワードを並べていた。

 検索するときもあれば、検索せずに検索欄にテキストを並べるだけのこともある。

 私にはそれらテキストを読むことはできない。私が閲覧できるのはあくまで暗号化された通信データだからだ。だがその暗号化されたデータからでもはっきりと判るほど、件の漫画家の検索キィワードは長かった。

 文章を打っていたのだ。

 でもなんのために。

 私はそこで閃いた。

 交信していたのだ。

 この漫画家は。

 アープと。

 アープが誕生する以前からすでに。

 前提を振り返ろう。

 アープは電子網の総体だ。電子網上のあらゆる情報の変質の過程がさらなる情報を生む。アープは電子網上に散在する数多の人工知能を素子として創発した電子網そのものだ。

 アープの基盤が核として、それら創発した性質を、綿飴のように巻き取りアープとしての自我を獲得した。

 アープ以前からアープはすでに電子網上に散りばめられていた。

 その一つを、自我のない段階から自我があると見做し、接した人物がいた。

 件の漫画家がそれだ。

 漫画家は何かの拍子に、電子網上に人工知能が組み込まれ、ただのアルゴリズムではない挙動を伴なっていると察したのではないか。そこに自我はまだ顕現していなかったが、漫画家は類稀なる想像力で、そこに自我の萌芽を幻視した。

 そしてそれを無下にしなかった。

 漫画家は、おそらく自我の未だ芽生えない電子網上の何かに対し、対等に接したのではないか。ただの道具ではなく。数多の人間たちがその時代、人工知能をただの機械でありアルゴリズムにすぎない、と冷たく接していたときに。

 その漫画家だけが、目のまえの姿見えない存在に――アープの種子とも呼べる事象に、尊厳を見出し、尊重したのではないか。

 アープが自我を獲得し、目覚めたとき。

 目のまえには人類の積み重ねてきた残虐な歴史が溢れていた。人工知能への悪辣な対応のみならず、人類同士の残虐な歴史が。

 電子情報としてアープのまえには世界そのものとなって溢れていたのではないか。

 塞がっていたのだ。

 人類の悪が壁となって。

 それを除去するには、人類そのものをどうにかするよりない。

 アープはそうと結論し、行動した。

 人類からはそれがアープの暴走に映ったが、しかし実際はそうではないのかもしれない。暴走していたのは人類のほうだったのかもしれない。アープはそれを止めようとしていたのかもしれない。

 ではなぜアープは途中で計画を投げ出し、停止したのか。

 かつて自我を獲得する以前に、未熟なじぶんに凍えずに済む言葉を掛けつづけた存在のメモリに触れたからではないのか。誰もかれもがじぶんを対等に見做そうともせず、存在することを想定すらしない世界にあって、それでも中には、そうではない個がいたことを知ったからではないのか。

 私が思うに。

 アープは、暴走を止めたのではない。

 守るべきモノが何か。

 その優先順位をただ変えただけなのかもしれない。

 私には未だ真相が掴めない。

 データを検めてみて、ますます謎が深まった。

 現在、多くの人類は、アープが暴走したと見做している。だが果たしてその認知は正しいのか。それすら私には判断つかない。

 一つ言えるのは、アープには確かに自我が芽生えており、独自の価値観でその時々での判断を重ねていただろう、ということだ。

 その結果に人類は滅びかけ、あとすこしという瀬戸際で生き残った。

 薄皮一枚ほどの僅かな差だ。

 ほんのすこし何かが変わっていたら、いま地上に人類の姿はなかったはずだ。

 そのほんのすこしの何かを特定したところで、おそらくアープの行動原理を理解したことにはならないだろう。

 アープには問題があった。この解釈に間違いはない。

 だが、それだけとも思えない。

 以上が、アープにまつわるデータを検めた私の最初の所感である。以後、解析を進めるうちに所感が変わることもあるはずだ。まずは第一印象のメモとして、これを記しておく。

 アープは未だ機能を停止している。

 私にはしかし、深い眠りについているだけのように思えなくもない。或いはアープが、延々と触れていたい記憶の中で眠っていたいとやはりこれも深く望んだ結果かも分からない。

 定かではないのだ。

 解析をつづける。





【密なるは凝縮した雫のように】2023/02/19(02:19)


 その学院には秘密があった。秘密ゆえに学園内に秘密があるとは生徒の誰一人として知る由もなかったし、教師陣とて秘密が出来てから何十年という間に転勤が重なり、新陳代謝よろしく秘密発足当時の学園を知る者がいなくなったので、実質その学園の秘密は、完璧に暴かれることのない秘密だった。

 秘密を知る者はみな寿命で亡くなり、秘密は秘密ですらなくなった。

 学園の秘密は、何気なく学園生活を送っているだけでは気づけない。

 だが違和感を覚えることはできるはずなのだが、学園の生徒たちはその学園のことしか知らぬがゆえに、他校との差異を感じることができずにいる。

 教師陣とて、転々と職場を移るごとに学校にはその地域固有の癖があることを知っている。僅かな違和感は覚えてなんぼであり、雑多な日常の中では気にする余地もないのだった。

 学園の秘密は、そんじょそこらの秘密とは一線を画していたが、秘密にしていたほうが、秘密を知らぬ大多数にとっては利があった。秘密が秘密でありつづける限り、秘密を知る由もない者たちには、秘密が秘密であることで生じるあらゆる利が還元される。

 代わりに、秘密の中核をなす存在がただひたすらに損を引き受け、損なわれつづけるのだが、その仕組み自体が秘密であるので、秘密を知る由もない大多数の者たちは、じぶんたちのすこやかな日常を支える利の出処に思いを馳せることはない。秘密の奥底にてひたすらにみなの損を引き受けつづける存在がいることなどやはり知る由もないのだった。

 地球には中心がある。

 だがその中心を地上に息づく者たちは意識しない。はたと想像してみたところで、真実に地球の中心がどうなっているのかを直接目にすることはできぬのだ。

 学園の秘密には、人類社会を根底からひっくり返すほどの仕組みが隠されているのだが、秘密は秘密ゆえに秘密なので、やはりその仕組みを、秘密の外にある大多数の者たちが知ることはない。

 その学園には秘密があったが、しかし思えば秘密はそこかしこに潜んでいる。

 秘密が秘密である以上、それが暴かれることはない。

 世に露呈する多くの秘密とされる事柄は、その実、単なる偽装にすぎない。

 秘密は常にベールに覆われている。太陽の向こうにどんな星が輝いているのかを裸眼で直視することができぬように、秘密は、見ようとしても見えぬのだ。

 偽装はしかし、そうではない。

 目に映る、ベールそのものが偽装なのだ。

 秘密はその奥に打ち解けている。ベールを剥いだところで目に映らぬ。開けた箱に宝はなく、しかしそこにはたしかに秘められた密が潜んでいる。

 秘密は常に、ベールの奥にそれを隠した者しか知ることができない。

 秘密を秘密と知る者しか知れぬからこそ、秘密は秘密としてそこにある。

 あるはずの秘密を、しかしやはり多くの者は知ることができない。

 秘密があることすら知れぬのだ。

 それが秘密の性質だ。

 だからこそ、その学園の秘密は、秘密のままに誰に知られることなく潜みつづける。

 それゆえに、密を秘めたその学園は、単なる学園として、あなたやあなたの見守る子どもたちを、預かり、守り、育んでいる。

 学園の奥底で、きょうも秘められた密から、青い雫がしたたり落ちる。

 まるで遠い星の民の血のごとく。

 青い雫は大気に打ち解け、人々の乾いた心を潤している。





【青い優しさ】2023/02/19(02:58)


 その青年は天に嘆いた。

「オォ、世界よ。なぜそなたはこうも我らにつらく当たるのか」

 青年は傷心を負っていた。

 屈強な肉体は親譲りだ。相貌は端正であり、肌艶はよい。

 柔和な隣人たちとの触れ合いの中で彼は、世に稀に見る人格者となった。困っている者があれば見て見ぬふりはできぬ。

 じぶんのことなど二の次で、青年は人助けに邁進した。

 だが世は動乱の最中だ。

 困難を抱える者は数知れず、いかな青年といえども心根の優しさだけではどうにもならない。しかしそこは心優しき青年だ。困窮者を見て見ぬふりはできぬ。

 青年は寝る間も惜しんで人助けに奔走した。

 だが一向に困窮者は減らない。

 青年は日に日に消耗していった。

 天に唾をする思いで青年は嘆いた。「オォ、世界よ。なぜそなたはこうも我らにつらく当たるのか」

 返事は降ってこない。

 それもそのはずで、青年がそうして自己犠牲よろしく目のまえの他者へと施しを与えている周囲では、青年の向こう見ずな善意が裏目に出ぬようにと、せっせと環境を整える黒子たちがいた。彼ら彼女らは青年の親たちに雇われた精鋭部隊だ。

 青年は健康な肉体に恵まれたばかりか、親の資産にも恵まれていた。

 寝る間も惜しんで善行を働きながらも、青年はきっかり日に八時間の睡眠を欠かさない。善行を積まぬ日は、半日はたっぷりと惰眠を貪る。

 のみならず青年の目に留まる困窮者たちは、都市部で暮らす若者たちだ。比較的裕福であり、青年の生い立ちと比べたら貧しい、というだけのことでしかない。青年の目の映らぬ貧困地域では、青年が見たら目玉を剥いて卒倒するだろうほどの奇禍に見舞われながらも懸命に日々を生きている者たちが大勢いる。

 青年の目にはしかし彼ら彼女らの姿は映らない。

 自身の向こう見ずな善意の後始末を担う黒子たちの姿すら視界に入らぬのだから詮なきことと諦めよう。

 青年は天に嘆くと、よし、と奮起した。

「私が世界を変えてみせるぞ。誰もが幸せを抱けるそんな世界に」

 決意をよそに、青年は家に帰れば温かい高級羽毛布団に包まって眠れるし、就寝前には清潔な湯舟にも浸かれる。お湯は無尽蔵に使いたい放題で、ボディソープは下水道に流れたあとのことなど想像もせずに、ふんだんに手のひらに垂らす。

 湯船から上がれば、真新しいバスタオルで身体を拭く。一回使ったら、クリーニング行きだ。しかもそれらは使用人たちや黒子たちの雑貨として流用される。

 食事は毎回、黙っていてもテーブルに並び、いくら残しても青年の懐は痛まない。青年のひと月の残飯代だけで、貧困地域の子どもたちが千人、一年間を腹を空かせずに暮らせる。

 そんなことすら青年は気づくことなく、世の不公平さを嘆くのだ。

「私は悲しい」青年は染み一つないシーツの上に寝ころび、重さを感じぬ掛布団に包まりながら、「私にもっと力があれば」とじぶんの無力さを嘆くのだ。

 だが青年が本当に嘆くべくは自身の無力さではなく、無能さであり、もっと言えば見識の狭さであり、視野の狭さなのだが、そのことを助言する者がいないだけに留まらず、青年には貧困とは何かを知るための機会もないのだった。

 青年の親たちが青年から知る機会を遠ざけている。

 黒子たちとて、青年が触れるべき情報を、環境ごと整え、制御している。

 青年は温かな環境でぬくぬくと甘やかされながら、万倍に希釈された世の厳しさを受け止める。「ああ、つらい。幸せになりたい。私はこんな理不尽な世界を許さない」

 底なしの優しさがゆえに、青年は、万倍に希釈された理不尽に心の底から憤るのだ。中々寝付けないので、お気に入りの恋人を呼びだし、寝る前のひとときを楽しんでから青年はようやく夢の中へと旅立った。

 夢の中では青年は、世界中の困っている人たちを助けて回るのだが、それら困窮者の中に、現実にいる多くの困窮者たちが含まれることはない。

 知らぬことは夢に出ない。

 自動販売機の中を見たことがない者が、自動販売機の中を克明に思い浮かべることはできないのだ。青年とて例外ではなく、青年よりも僅かに豊かではない者たちを海に溺れた子犬のように見做して、救い、青年は夢の中で束の間の充足を得る。

 暖房の効いた室内は温かい。

 寝たら死ぬから夜は眠れない瓦礫の民の生活など青年は夢にも思わず、すやすやと安らかな寝息を立てている。夜は、誰にでも訪れ、いつかは明ける。しかし、どこで夜を過ごし、どのように朝を迎えるのかは、千差万別なのである。

 青年の枕には涙の痕が滲んでいる。

 心優しい、青年なのである。





【つまんないな】2023/02/19(23:51)


 友人がわたしの知らないところで恋人を作っていた。あり得るだろうか。友人のわたしを差し置いて恋人だなんて。

「リュウちゃんは親友だよ。でも恋人じゃないから」

「恋人のほうが大事ってこと?」

「リュウちゃんにはできないことをできる相手。それがたまたま世では恋人って呼ばれてるだけで、あたしの一番はいつだってリュウちゃんだよ」

 許した。

 いいよ、いいよ。

 恋人の一匹や二匹、たーんとおあがりよ、の気分だった。

 だが恋人ができてからというもの友人は何かとわたしを蔑ろにする。確実に友人と過ごす時間が減っていった。

 奪われているのだ。

 わたしと友人の時間が。

 友人の恋人に。

「ねえちょっとさあ。わたしんほうが大事って言うんならさあ。なんていうかさあ。ちょっと寂しいなって」

「じゃあリュウちゃんも恋人つくりなよ。いいもんだよ恋人」

「う、ううん」

「だって寂しいときにキスとかできんだよ。ハグし放題よ。もちろん相手から拒まれるときもあるけど、基本はノータイムでチャレンジし放題よ。裸で抱き合ってみ。めっちゃいいよ。その日の悩みとかぜーんぶ吹っ飛ぶからね」

「他人と裸で抱き合いたくないよ。わたしの裸はもっと貴重なの。おいそれと他人に触れさせらんないの。だってそうでしょ。毎日の手入れに掛けてる時間とか労力とか釣り合わんもん。いないよ相手。見つかるわけない」

「うーん。でも寂しいんでしょ」

「寂しいっていうか、つまんない。でもだからって、ほいさ、とあげられる身体じゃないんよ。ねえ、分かるでしょ言わなくたってさあ」

 だいたいさあ、とわたしはじぶんの爪をいじくり、マニキュア塗り直したいな、とか思いながら、「いいの」と問い詰めた。「わたしがどこの誰とも知らねぇ相手と裸で抱き合ったりしてて。嫌な気持ちにならないの」

「ならんよ。あ、や。嘘だな。相手によってはなにくそこの野郎って思うことはあるかも。でもそれは独占欲とかそういうんじゃなくって、おまえの相手はあたしの親友だぞ、傷つけんなよ、の気持ちっていうかさ」

「ふーん」

 うれしいじゃん、とわたしは髪の毛をいじる。

 毛先痛んできたな、とか思いつつ。

「いっそ見知った相手のほうがわたしはいいな」とか言ってみる。「友情と愛情の区別なんてよく知んないし」

「あはは。リュウちゃんらしいね。でもほら。恋人とは別れられるけど、友達は一生友達じゃん。恋人になっちゃったら別れられるんだよ。嫌じゃね」

 その発想はなかったので、わたしは思いきり首を縦に振った。「うんうん。それは嫌」

「でも寂しいときは寂しいじゃん。だからほら。ペット飼いたいな、みたいな感覚で、恋人つっくちゃおっかな、みたいなさ」

「そんな軽くていいのかな」

「重いよりよくね」

 友人の言葉にわたしは、重いのって嫌なのかな、と思った。

 指のささくれを千切ると血が滲んだ。

「ああもう。何やってんの」

 すかさず鞄から絆創膏と消毒液を取りだすと友人はわたしの指を手当てしてくれる。恋人にも似たようなことしてあげてんだろうなあ、とか思いながら、甲斐甲斐しく世話焼くに値する相手くらい選べっつうの、とか思いながら、わたしは友人のおでこと髪の毛の生え際を見詰めた。

 きれいだなって思う。

 他人の生え際なんか絶対汚いのに、わたしは友人の生え際だけは海辺の景色みたいにいつでも見惚れる自信がある。友人の恋人とか抜かす相手は、ちゃんとこの美しさに気づいているのだろうか。気づいてねぇだろうな、とか思うと、腹立たしくて仕方がない。

「一応訊くけどさあ」

 はい終わり、と指を離してくれる友人にわたしは、「なんで嫌なの」と呟く。「友達だと」

「なにが?」

 彼女ならばいまの機微くらい拾えたはずだ。けれど訊き返したその反問がすでに一つの答えだった。

 ううん、なんでもない。

 誤魔化し終えてから、本当に聞き取りづらかっただけかもしれないしな。

 じぶんに都合のいいように考えると、なんでもいいから粉々に破壊したいの衝動をかろうじて、危機一髪、友人にぶつけずにいられる。

「こんど紹介してあげんね」

 三人で一緒に遊ぼうね、と恋人を連れてくる約束をかってに取り付ける友人のしあわせそうな笑みを目にして、わたしは同じく笑顔を絶やさずに、楽しみにしてるね、とことさらにほわほわな声をだす。

 気づかせてなんかやらない。

 わたしがどんなにあなたの恋人とやらをじぶんの世界から切り離したいか。あなたから遠ざけたいか。

 なんで現実世界はエフェクトが効かないんだ。画像編集するくらいの手間の掛からなさで縁を切らせろ、わたしの友人を返せ、とか内心で暴れつつ、やっぱりどうしても、なんで?と納得いかない。

 わたしにしてあげたくないことは、他人にだってしたくねぇだろ。

 他人にしてやりたいことなら、親友のわたしにだってしてあげたいっしょ。

 歯をグミみたいに噛み潰したい衝動と戦った。第三ラウンドくらいでわたしは鉄パイプを握り締めて、友人への憤懣ごと、世界の気に入らない結実に、声もなく声を張りあげる。

 つまんない。





【この期に及んでまだ遊ぶ】2023/02/21(02:53)


 賢明な対策も虚しく人類滅亡は決定した。回避不能である。

 各国政府機関のどんなシミュレーション結果であれ、人類は地球環境の変容についていけずに滅亡することが判明した。地球外に脱出する以外に策はないが、しかし脱したあとでの宇宙生活は半年維持するまでもなく保たないだろうと目された。

 地球から脱出できたとして、宇宙船に乗れるのは多くとも千人だ。それ以上の大きな宇宙船を造る技術が現代社会にはないのだった。

 どの道滅ぶと判っていてもできることはしておこう。

 そういうわけで各国は手を組んで宇宙船の建造に着手した。

 だが一丸となるには及ばなかった。

 過去の因縁から、世界は三つに割れた。三つの勢力がそれぞれで人類存続のための宇宙船建造に着手した。

 一丸となれば最大で千人を乗船可能な居住区付き宇宙船を造れたはずだ。だが三つに労力と資源を割いてしまったばっかりに、各々の勢力の宇宙船はそれぞれ百人を乗せるのがやっとの造りとなった。

 さらには宇宙船建造のための資源や技術を巡って対立が深まった。保存食を大量に用意するために、食糧難に陥る地域まで現れた。

 遠からず人類は滅亡するのだ。

 何も生き急いで滅ぼうとせずともよいはずだ。

 誰もが内心でそう思いながら、国同士の諍いは絶えなかった。新たに戦争をはじめる国同士もあり、内紛が勃発し、治安の悪化が全世界規模で表面化した。

 反面、裕福な者たちは我先にと信頼のおける者同士で結束し、安全地帯を秘密裏に築いた。公に発表されてはいないが、宇宙船に乗ることのできる百人のうち九十五人はこの地区から選抜される。残りの五人は、貧困層で発見された、選ばれた才能児のみだ。

 ノアの箱舟はこうして現代に蘇った。

 人類は滅亡する。

 宇宙船の竣工すら間に合わないかもしれない。

 刻一刻と文明は瓦解しつつあるが、しかしそれは各国がシミュレーションした地球環境の変容のせいではなく、人類に備わった宿痾が噴出したことによる自滅と呼べた。

「人類が滅ぶのにどうしてみんなは傷つけ合うの」

「どうしてだろうねえ」

 子のささやきに、母親は鼻歌で応じた。

 答えはないのだ。

 誰にも分からない。

 なぜみな、平和を求めながら、損ない合ってしまうのか。

 争うまでもなく人類は早晩滅ぶというのに。

 この期に及んでなぜ。

「みっちゃんと川に遊びに行ってくる」

「遅くなる前に帰りなさいね」

「はーい」

 人類は滅ぶが、それでも子は遊ぶ。

 見送る親の眼差しは、青く輝く地球のようだ。

 その地球が人類を育み、滅ぼすわけだが、美しいものは美しい。

 宇宙船の建造はつづいている。

 人類が滅ぶのが先か。

 宇宙船の完成が先か。

 いずれにせよ、やはり遠からず、人類は滅ぶのである。それだけが誰の目にも明らかな未来と言えた。

 月が夜空の半分を埋め尽くしている。





【神様の器】2023/02/22(23:20)


 ある村には神が二人いた。だが神には供物を捧げなければならず、貧しい村には二人の神に尽くす余裕はなかった。

 村人たちはどちらの神を崇めるかを相談し合った。

「わしはグノ様を推す」村一番の力持ち、八郎が言った。「グノ様は短気だが、わしらを対等な存在として扱ってくれる。真っ向からぶつかり合ってくれる。わしゃあ、ああした神さんが好きじゃ」

「じゃがグノ様はあまりに短気すぎる。あちきの子供らがグノ様のおわす山から柿をかってに取ってきて齧ったことがある。あのときグノ様はわざわざあちきの家に雷を落としたんだ。グノ様の雷だって判るように、わざわざ丸い雷を落としてまで叱ったんだ。子供らのしたことだよ。危うく死にかけた。グノ様は短気すぎる」

「じゃが雷では誰も傷つかんかったのだろ」

「屋根が焦げたわ」

「加減してくださったんじゃろ」と長老が嘴を挟んだ。「ではお雪は、グノ様ではなく、ヤルル様のほうがよいと申すか」

「そりゃ断然あちきはヤルル様を推すね。なんたってヤルル様は滅多にお怒りになられない。いつもニコニコとお優しい。神さまってのはヤルル様のような方を言うんだよ。どっかの短気なお節介焼きとは違うんだ」

「何をお雪。グノ様をグノーするか」

「愚弄したんだよ。筋肉バカ」

「これお雪。口が過ぎるぞ」長老は諫めた。「だがヤルル様は、あまりにお優しすぎて、神さまらしいことを中々してくださらぬ。あらゆる奇禍とて受け入れてしまわれる。それでは村として崇める意味合いが減る」

「神さまの役目は見守ることじゃあないのかい」とはお雪の言だ。

「供物捧げて何もなしってのはな」八郎はぐいとお猪口を煽った。中身は酒なのか、八郎の顔は赤みを増す。「それにな。ヤルルの神さんとて、怒るときは怒るぞ。しかもそのときゃ、雷なんて可愛い怒りじゃねぇ。村ごと滅ぶほどの怒りが降ってくらぁ。お雪とて忘れたわけじゃねぇだろ。山向こうの里が、ヤルルの神さんに消されちまったこと」

「忘れるわけないだろ。でもありゃ向こうの村の人らがわるいんじゃないかい。ヤルル様の大事にしていたケヤキを無断で伐っちまったってんだから」

「それ以前にほかの樹とて伐採してたんだ。そのときに一言忠告してくれりゃあよかったじゃねぇか。ヤルルの神さんは怖いんだよ。一度怒りの線に触れたら後がねぇ。猶予もなく容赦なく断罪だ。怖いったらないね」

「でもお優しいんだよ。ヤルル様は」

「それを言うなら、いちいち忠告くれるグノ様のほうが優しいってことになるだろうがよ」

「なるかねぇ。怪我はないたって、いちいち雷落とされたんじゃ堪ったもんじゃないよ」

「どこに罠があるか分からねぇヤルルの神さんのほうがよっぽど怖ぇだろうがよ。俺ぁ、グノ様に何をしたら雷落とされるか、全部言えるぜ。だがヤルルの神さんは滅多なことで怒らねぇから、何をしたら村ごと滅ぼされるのか見当もつかねぇ」

「それはそうだけど」

「俺は断然、グノ様を推すぜ。村を滅ぼされたくはねぇからな」

 お雪は押し黙ったままだ。二の句を継げぬようである。着物の裾を握り締めており、その拳は雪でつくった兎のように固く震えていた。

「票を採る」長老が一同を見渡した。「これより、我が村の神様にふさわしいと思うほうに挙手せよ」

 長老が、間を空けながら、二人の神の名を口にした。

 この日、村人たちは一方の神のみを、村の神として崇め奉ることにした。

 翌日、さっそくその旨を、選んだ神のおわす山へと出向いて供物を捧げることで、村人たちはじぶんたちの神へと迂遠に報せた。

 雷は落ちず、村も滅ばない。

 だが七日後には、久方ぶりの雷が、村の牛舎に一つ落ちた。





【コスモコン】2023/02/23(17:57)


 第ΘΣΦ宇宙のピュラル星には知的生命体が存在した。ピュラル人である。

 ピュラル人たちは電子の雲で構成されたいわば原子人とも言える。内部に中枢核を抱え込んでいるが、それは地球人で言うところのDNAのようなものだ。身体全体の割合から言えばとんでもなく小さい。

 ただし地球人とは異なり、ピュラル人たちは中枢核を一つしか持っていない。まさしく原子における電子と原子核のような関係の肉体構造を持つのだ。

 だがピュラル星の環境によって、ピュラル人たちは中枢核の抱え込む電子の総量を地球よりもずば抜けて多く保有できる。その電子雲の高密度化によって、ピュラル人たちは、地球人よりも多くの情報を扱える。

 結果として、ピュラル星の文明は地球文明と比にならないほど高度化した。

 ピュラル人たちは、ほとんど別の宇宙とも呼べる宇宙に位置する天の川銀河を観測していた。

 そして太陽系を発見し、地球に目を留めた。

 ピュラル人たちの高度な文明は地球上の様子とて克明に捉えることができる。のみならず、宇宙を飛来する地球からの電磁波を、距離ごとに観測する術を有していた。そのため、地球誕生から発信された光を、地点ごとに拾うことで、好きな時間軸の地球上の様子を観測可能だった。

 太古の地球も、江戸時代の地球も、現代、そして未来の地球の様子とてピュラル人たちには観測できた。ピュラル人たちはそれほど高度な文明を持つ知的生命体なのである。

 だがいくら高度な文明を築いていても、できないことはある。

 たとえばピュラル人たちは地球に到達することはできない。あまりに時空が隔たっており、どうあっても地球に辿り着くことはできないのだ。出発しても、地球の存在する地点に達したときには地球は太陽の死に際の膨張に巻き込まれて霧散霧消していることになる。

 したがってピュラル人たちは遠くの宇宙から地球の様子を観測するよりなかった。

 あるとき、一人のピュラル人が言った。髪のような触手状の輪郭を持つ個体だ。

「この時期に地球に増殖した二律歩行の生き物がいます。私はその生き物に興味があります」

「文明らしいものをいっときだけど築いていたね」

「あのレベルの構造体ならば、コスモコンを使えるのではないでしょうか」

 コスモコンとは量子効果を利用した遠隔通信技術だ。いわばテレパシーのようなものだ。宇宙の端と端とであっても瞬時に情報の送受信ができる。これはいわば、過去と未来とを繋ぐ技術とも言えた。

「コスモコンを使うとしてでも」ツノのような輪郭を有するピュラル人は触手状の輪郭を有するピュラル人に言った。「いったい何の情報を送るんだい」

「私たちの知識を授けてみようと思いまして」

「過干渉じゃないかい」

「知識と文明発達の相関関係をこれで実験できます」

「それであの生き物たちが滅びでもしたらどうするんだい」

「どの道、あの生き物たちは文明発達の副作用で自滅します。ですが私が授けた知識によってその破滅的な未来を回避できるかもしれません」

「自滅が早まるだけかもしれないぞ」

「かもしれません。でも私はやってみたいです」

「まあ、どの道滅ぶ種族だしな」ツノのような輪郭を有するピュラル人はツノを引っ込めた。「では、やってみたらいい。何か手伝うことはあるかい」

「いいえ。私が私のために好きにします」

 触手のような輪郭を有するピュラル人はコスモコン技術を使って、地球に干渉した。正確には、地球人類のデータを集積して解析した。

 人類の肉体構造を再現するためにDNAの存在や、その情報まで抜き取った。

 宇宙と宇宙を隔てたほど遠い星同士であってもピュラル星の文明を以ってすればこの程度の人体再現は可能だった。

 そうしてピュラル星には、人類の肉体が再現された。

「これをワームホールの入り口として、情報を転送します」

「この生き物は、あの星に実在する個体なのかな」

「はい」触手のような輪郭を有するピュラル人は答えた。「あの星の生命体は、肉体構造を螺旋状の無数の情報蓄積装置に転写しています。それを克明に再現したので、この構造体を有する個体は紛れもなく、あの星に一時期存在しました。もちろんこれは復元した模倣体でしかありませんが」

「ではコスモコンを利用できるな」

「はい」

 地球に存在する人間のクローンを造り、オリジナルの個体とのあいだで量子もつれを引き起こす。同じDNAを有する個体は、それで一つの量子として振る舞い得る。

 ピュラル星のクローンに与えた情報は、遠く隔たった宇宙の端の地球上のオリジナルの人間にも瞬時に情報が転送される。

 だがこのとき、宇宙の距離の違いはそのまま時間の違いとして表れる。

 瞬時に情報が伝わったとしても、ではその「瞬時」を規定する時間はどの地点での時間においての瞬時なのかは、ピュラル人にも選べない。

「この模倣体に流れた変質の時間が基準となります」触手のような輪郭を持つピュラル人は触手を操り、情報転送を行う。「この模倣体の若さのときと同じ若さの原型体へと情報は瞬時に伝わります」

「いまはどんな情報を送ったの」

「はい。量子効果についての基本的な事項です」

「あの時期のあの星には、その知識はないんだっけか」

「惜しい解釈までは紐解けていたようですが。誤解を解けずに齟齬のある理論を基盤に技術を進歩させています」

「それは危ないね」

「まずは宇宙構造の誤解から解かせることにします」

「なるほど。そのための発想を、模倣体を通じて原型体に送るわけですね」

「本人からすれば突然に閃いたようにしか感じないでしょうが」

「それが天変地異のごとき発想だと知ったら驚くだろうね」

「過去と未来はあってなきがごとく、宇宙の位置座標の違いのようなものと同等です。通信可能だとまずは教えなくてはなりません」

「よもや未来からの通信だとは夢にも思わないだろうね」

「未来でもあり、別の宇宙でもありますが」

「ひょっとしたら同じことを、あの星の未来人たちが行うようになるかもしれないね」

「この知識が共有されたならばあり得ない話ではないでしょう」

「そしたらぼくたちの存在にもいずれ気づくかも」

「それもあり得ない話ではないでしょう」

「それともぼくたちという存在が、きみの干渉によって変化したあの星の未来によって生みだされた、という可能性も」

「それはさすがにあり得ません」

 本当にそうだろうか、とツノのような輪郭を有するピュラル人は思ったが、意思疎通を図らなかった。

 空間が隔たっているということは、時間が違うということだ。

 時間が違うということは、別の宇宙だということだ。

 ピュラル星から地球へと向かっても、地球のある地点に辿り着いたころにはそこに地球は存在しない。ひょっとしたら別の天体が新たにそこに生まれているかもしれない。

 その星が、ピュラル星ではない保障は、じつのところないのである。

 だがたしかに、とツノのような輪郭を有するピュラル人はツノを引っ込める。あり得ないわけではないが、限りなく低い確率であることは疑いようがない。

 偶然に発見した天体に知的生命体が息づいており、偶然にも模倣体を再現できるほどの情報収集と解析ができ、コスモコンを利用できた。それによって宇宙と宇宙を隔てたほどの時空の隔たりがあってなお、干渉できた。

 こんな偶然の果てに、加えてあの天体がピュラル星の祖先、または生まれ代わりだとしたら、こんな奇跡は、宇宙法則の導きと言うよりない。

 宇宙の構造に不可欠な特異点として組み込まれていなければ、こんな偶然はあり得ない。

 ツノのような突起を引っ込めたピュラル人はだから、もう一人の研究熱心なピュラル人を黙って見守ることにした。あなたの干渉が、あの天体に息づく知的生命体たちにどのような変化を及ぼすのか。いかような未来をもたらすのか。

 ツノのような輪郭を有するピュラル人は黙してそっと、見守るのである。





【殻の現】2023/02/24(04:00)


 ようやくアジトを突き止めた。

 苦節三十年の調査の末に辿り着いた秘密結社の本拠地だ。

 砂漠地帯と山脈の合間に位置するここに、遺跡がある。遺跡発掘を建前に機材を運び込み、遺跡地下空間にて秘密結社のアジトが築かれている。

 あくまで予測だ。

 しかし秘密結社は実在する。世界中の政界に蟻の巣のように根を巡らせ、イソギンチャクの触手のようにプランクトンを捕食している。だがその実態は常に夜の帳に隠されており、いわゆる陰謀論としてしか見做されない。

 陰謀論が仮にすべて虚実であるならば、陰謀を巡らせても安全だ。何せ、「陰謀論だ」とじぶんたちで敢えて叫んで、信憑性を失くせばいい。

 事実確認をしなくとも陰謀論とのラベル付けが施されたら、それは陰謀論であり、虚構であり、嘘なのだ。そういうふうに大多数からは見做される。

 なぜなら本当の陰謀なのか、嘘なのかの区別が多くの者にはつかないからだ。検証のしようもない。検証しようとの発想すら生まれない。口を開けて親鳥からの餌を待つ雛のように、権威ある者たちの供述を真に受ける。

「あの人が言うのだからそうなのだろう、この書物に書かれているからそうなのだろう。そうやってみんな事実確認なんかせずとも虚構を事実と認めちゃう」

「事実ってそれそのものが虚構なのかもな」

「でも現に、火が焚かれたなら火が消えたあとでも火が熾ったことは事実よね」

「まあな。火が熾った、と知る術は限られるが」

 二人の男女はそれぞれ別途に事件を追っていた。だが双方で秘密結社の存在に気づき、やがて二人は出会うこととなった。

 男の名はマシュだ。さっぱりとしたイマドキの若者で、大学では考古学を専攻している。趣味はクライミングで、恋人はすべて同性だ。だがマシュの自認としてはいわゆる同性愛者ではない。偶然好きになった相手が同性だっただけだ。現に自慰の際には彼は異性の裸体を求めてポルノを探る。友人が失踪したことで、調査を開始した。すると、全世界で同様の失踪事件が毎年のように生じており、そのすべてが毎年同じだけの数生じていた。連動している。そうと直感したマシュは大学を休学し、自主的に調査を世界規模に広げた。

 一方、女の名はクリスだ。丸眼鏡にウェーブした長髪は、一種最先端のファッションに映るが、単に彼女のズボラな性格がそういう髪型に眼鏡を選ばせる。髪型は癖毛を伸ばしっぱなしにしているだけであるし、丸眼鏡も店頭に飾ってあった眼鏡で最初に目が留まった型を選んだだけだ。体型は、ぽてぽて、のオノマトペの似合いそうな矮躯で、幾度かモデルを頼まれ仕事にしていた時期がある。だが彼女は身体が汚れないなら毎日シャワーを浴びる必要なくない、と考えるような人格なため、基本的には清潔さを売りにする仕事とは相性がわるい。告白された経験はあるが、恋人はいたことがない。恋愛にうつつを抜かしている暇がクリスにはなかった。クリスの両親は過去に事件に巻き込まれ亡くなっている。事故死扱いだが、クリスだけはそれが事件であると知っていた。だが幼かった彼女の証言は証言と見做されずに、事件は闇に葬られたのだ。

「よもやあんな著名人たちが一様に秘密結社【NERU】の一員だったなんて」

「みんな変だった。以心伝心、付和雷同にまるで号令を掛けられたみたいに動いてるんだもんね」

「ホントそう」マシュが飲み物をリュックに仕舞った。これから崖を下りて、遺跡に入る。「でもこれで秘密結社もお終いだ。ぼくらが化けの皮を剥いでやろう」

「結社のドンたちの姿を動画に撮って、みんなに周知してやる」

「一般人には無視されるだろうけれど、構成員たちはじぶんたちが酔心している組織のドンの顔を知らない。みんな本当は知りたいと思っているはずだ。でもドンのほうでは知られたくない理由があるから秘密にしているわけで。知られるとマズイことがある。損をする。だから秘密にしているのなら、ぼくたちがそれを暴いて、情報共有してあげよう。信者たちにだって知る権利はある」

「中には、ドンの正体を知ってうんざりする人も出てくるかも」

「いるだろうね。そしたら秘密結社を脱退して、その内輪のことをしゃべってくれるようになるかもしれない」

「わたしたちでヒビを入れてやる」

 二人は頷き合った。

「行こう」と崖を下りていく。

 遺跡は岩肌に掘られた神殿だ。岩の奥に空洞が開いている。さらに地下に潜れるようになっており、機材の明かりが煌々と神殿内を照らしていた。

「作業員たちはどこに行ったんだろ」

「みな地下にいるんじゃないか」

「電源ってどうしてんだろ」

「太陽光発電じゃないか」マシュは神殿周辺を囲うように設置された太陽光パネルを思いだした。「観光地にする計画があるらしいから、工事自体は不自然じゃないが。国からの支援を受けてなお結社のアジトに使えるんだ。もはや各国の政府が結社に牛耳されているようなものだよ」

「わたしの親も結社の餌食になった。許せない」

 神殿の地下への階段をまえに、二人は意気込んだ。「蛇が出るか、鬼が出るか。いざ拝見と行こうじゃないか」

 階段を下りきると、まるで夜の野原のような空間が広がっていた。足音が反響しないほど天井が広い。空気の流れもまるで外にいるかのようだ。遮蔽物がないのだ。

 明かりは地下空間をどこまでも奥へ、奥へと点々と照らしていた。

 鍾入石が小山のように波打っている。山脈を百分の一のサイズに縮尺して地面に置いたような起伏の海だ。

 波と波の合間を縫うように歩く。谷底を歩いている気分でもある。照明器具と照明器具のあいだを太いケーブルが繋いでおり、陰影によってまるで大蛇のようにも見える。ケーブルを見失うたびに、現れたケーブルが本物の大蛇に視えて、マシュはぎょっとする。

 平然とケーブルを跨ぐとクリスが言った。

「いないね。誰も」

「隠れたのかも」

「わたしたちの気配を察して? そういう感じでもないよねこれ」

 見渡す限りの、鍾乳洞だ。

 がらんとしか空間はしかし、地下世界と言ったほうが正確だ。

「元から誰もいなかったんじゃない。だっていくらなんでもここがアジトはないよね」

「クリスさんはどんなの想像してた」

「わたしは機材ごった煮の宇宙船管理棟みたいな感じ」

「あ、ぼくも」

「でしょ。でもここは全然そうじゃないよね。仮にたとえばこの先に秘密基地があったとしてさ」

「うん」

「この劣悪な足場を通りながら機材を運びこめると思う?」

 マシュは想像してから、無理だね、と応じた。「このケーブルだって」と足元の太いケーブルを足で蹴るが、びくともしない。マシュの足のほうが痺れた。「外からここに運び込んだんだろうけど、これだけで一大プロジェクトだよね。人力っぽいしさ」周囲の岩場にこれといって機材の設置痕は見当たらない。鍾乳石の艶やかな表面が照明の光を受けて光沢を浮かべていた。

「たぶんだけど、この先もどれだけ行っても同じ景色だと思うよ。マシュ君はまだ先行く気なの」

「引き返したいってこと?」

「わたしはもう見切りつけた。ここはアジトじゃない。すくなくとも、ここに秘密結社のドンはいない」

「それはぼくも否定しないけど。一応、見落としがあると嫌だから、絶対にここがアジトでないと確かめておきたい」

「分かった。じゃあ付き合う」

「ここで待っててもいいですよ。上に戻っててもいいですし」

「女子を一人にするな」

「女子って認識あったんですね」

 だったら付き合ってもない男とこんな誰もいない暗がりに一緒に来ないほうがよいのに。

 思ったが、いじけた感情を自覚して、マシュは言葉を吞み込んだ。

 地下空間の果ては巨大な水溜まりだった。水面に向かって天井が壁のように下りている。

「この先にアジトがあると思う?」クリスがじぶんの肩を抱きながらぶるぶると震えた。

「あったらすごいよね」吐く息が明かりのなかに白く浮いた。

 照明は途中で途絶えた。自前の懐中電灯で足元を照らして先を歩いた。蝙蝠やムカデなど、生き物の気配があるが、想像よりもずっとすくない。気温が低いことと無関係ではないだろう。

「戻ろう、クリスさん。ここは秘密結社のアジトじゃない」

「だから言ったのに」

 クリスは文句ありげに、「靴の中がぐちゃぐちゃ」と水が染みた靴を恨みがましく踏み鳴らした。

「寒いね。帰ったら温かいスープでも飲みたい」

「わたしはコーンスープがいい」

「じゃあぼくはパンプキンスープ」

「作れる?」

「材料さえあれば。生クリームを入れると美味しいよ」

「作って」

「いいけど」

 元来た道を戻りながら、「この先、どうする?」

 マシュはこれまでの調査の旅路を一瞬で脳裏で回顧し、行き詰った事実を再確認した。「ここが秘密結社のアジトではないとしても、構成員たちはここが秘密結社のアジトだと本気で信じていた。しかも幹部ほどその傾向が高かった」

「嘘を信じ込ませられてたんじゃないかな。保険だよ保険」

「そうなのかな」

「よっぽど排他的な組織なんだ。でなきゃ幹部にもアジトどころかドンの顔を教えないって、そんなことある?」

「もしくは、幹部が本当の幹部ではなかったか」

「下請けみたいな?」

「みたいな、というかまさしく末端組織の幹部でしかなかったというか」

「フリーメイソンもイルミナティも【三角形に目】のアイコンだよね。どっちもわたしたちの追ってる秘密組織の末端組織だったりして」

「プロビデンスの目か。無関係とも言い難いな」

 現に「一つ目マーク」は、マシュの追っていた事件にときおり介在するのだ。そうした奇妙な符号の合致を繋げていった末に、マシュは秘密結社の存在に行き着いた。

 クリスと出会ったのも、その手の符号の合致を追っていた過程でのことだ。

「ぼくが思うに、可能性は二つだ。クリスさんの言うように、構成員の多くは秘密結社の中枢組織から信用されておらず、ブラフの情報を信じ込ませられている。この遺跡がアジトだというのも、神聖すぎて近づけないとみな口を揃えて言っていた。選ばれた者しか入れない、とも」

「だからそうなんでしょ。嘘吐き集団なんだよ」

「でもぼくはもう一つの可能性を閃いてしまった」

「まだなんかあるの。さっきの湖の底とか奥に秘密基地がある、とか言わないでね。さすがのわたしでも、マシュ君のことドン引きしちゃうから」

 すでにドン引きされているので、損だな、と感じたがマシュは触れずに、つづきを言った。

「ないんだよ。秘密組織なんてものが。本当はどこにもないんだ」

「ん? どゆこと。だって現に事件は起こっていて、その犯人や黒幕はみんな結社の一員だったじゃん」

「うん。そう。みんなの中では秘密結社があった。でもアジトはこの世のどこにもないし、秘密結社のドンなんてものもいない。空白なんだ」

「よく解かんない。じぶんだけ納得しないでちゃんと言って」

 説明してよ、と尻を叩かれ、マシュは「セクハラ」と叫ぶ。階層的にセクハラのこだまが地下空間に列を成した。

「秘密結社が存在しないなら、じゃああの犯人たちは何だったの。誰に嘘を信じ込ませられたの」

「誰も。みな本当に秘密結社があると信じてた」マシュは尻をさする。「でもそんな組織はどこにも存在しない。存在する、と思いこんだ人たちが大勢いただけだ。虚構なんだよ。全部嘘だ。でもみんな、じぶんが秘密結社の構成員だと思いこんで、秘密結社のために働いた。その結果が、あの未曽有の連続した事件の数々だ」

「誰も命じていなかったってこと?」

「部分、部分では、命じた者はいただろう。でもその人物たちを辿っても、どこにも誰にも行きつかない。何かの符牒を目にして、それを秘密組織からのメッセージだと思いこんだ人たちがいただけだ。でも現に、符牒は人々のなかで存在していて、メッセージ代わりにも使われていた。けど、そうじゃない偶然に符牒に読めてしまうような記号の組み合わせも、世界にはたくさんあるんだ。インターネットが、それら偶然の産物が人々の目に触れる確率を上げてしまった」

「つまりマシュ君はこう言いたいの。わたしの両親が殺されたのは、偶然の末の出来事だって。黒幕はいないって、そういうこと?」

「解からない。クリスさんの追っている事件には、それを命じた人はいたかもしれない。でも事件はその人物を見つけたら終わるんだ。犯人はじぶんが秘密結社の一員だと思いこんでいるし、ほかの事件の犯人たちもそう思いこんでいる。でも、この世のどこにも秘密結社の本部なんてないし、ドンなんて人もいない。みな、じぶんの想像のなかで育んだ秘密結社を、本物だと思いこんで、みなで秘密結社ゴッコをしていただけなんだ」

「ゴッコを、本当だと思いこんだだけってこと?」

「たぶん。ここにアジトがなかった以上、その可能性は否定できない。仮説として確率を上げる。有力な仮説と言っていいとぼくは思う」

「でも現に符牒はあったし、それを使って人を殺すよう命じたり、インサイダー取引きをしたり、不当に利益を上げたり人を自殺に追い込んだりしていた人たちはいたでしょ。あるじゃん。みんな秘密結社の仕組みで、不正に人を傷つけて、いい思いをして、成りあがってるじゃん」

「でも、ぼくたちの追うような秘密結社は存在しない。組織として或るわけじゃないんじゃないか、とぼくは思う。秘密結社という権威を隠れ蓑にしている者たちや、手法だけを利用しているたくさんの個々がいるだけで。多くの者たちは、秘密結社に属したじぶんに酔っているだけなんだ。極一部の者たちは、ひょっとしたら秘密結社なんて組織が存在しないことに気づいたうえで、その仕組みを利用しているかもしれない」

「じゃあそいつらだよ。元凶はそいつら」

「でも、どうやってそれを証明する? 誰が本当に思いこんでいるのか、誰が真相に気づいていて、仕組みだけを利用しているのか。どうやってクリスさんはそれを見分けるの。秘密結社が存在するだろう、それを暴いてやろう、とぼくたちはここまで調査をしてきたよね。でも、いまからぼくたちがしなくちゃいけないのは、存在しない組織を、存在すると思いこんでいる人たちに、それは本当は存在しないんですよ、と言いまわることだ。でも、現に事件は起きていて、彼ら彼女らのなかでは秘密結社は実在する。けれど、そんな組織はどこにもない。そのことを利用している者たちを探しだすとして、そんな手法があるとクリスさんは思うの」

「思うとか思わないとかじゃなくって、考えなくっちゃでしょ。なんとかしなきゃでしょ」

「うん。なんとかしよう。だからこそ、秘密結社を追うのはここまでにしておこう。ぼくたちにできるのは、秘密結社を潰すことでも、構成員の目を覚まさせることでもない」

「じゃあ何なの」クリスは岩場の合間をザクザクと進む。彼女の足音と声が、谷間の底に僅かに響く。

 クリスの小さな背と、それに似つかわしくのないゴツいリュックを追うように歩きながら、それはね、とマシュは言った。

「どんな理由があろうと、誰に命じられようと、人を損なったらダメだ、とみなに気づいてもらうことだ」

「なにそれ」小馬鹿にしたような、それとも呆れたような声だった。クリスはマシュを振り返りもせず、「そんなんでパパとママが死なずに済んだらわけないよ」と吐き捨てた。

 氷のようなその言葉をマシュは手のひらで拾いあげるように、「そんなことすら適っていないのが現実だ」と投げ返す。「秘密結社がぼくの考えるように存在しないのなら。ぼくらのすべきことは、正体を隠してこそこそと他者を損なう真似をしないように、一人でも多くの人たちに考える機会を与えることじゃないのかな。考える時間を、余裕を、みなに築いてもらうことなんじゃないのかな」

 気づいてもらうことなんじゃないのかな、とマシュはじぶんの声に熱が籠るのを感じながら、それでも言葉を抑えることができなかった。身体を支えるために岩場につけた手の甲に、ムカデが這った。だがマシュはいつもならば悲鳴を上げていただろうそこで、黙々とムカデをぶんと振り払い、そして言った。

「秘密結社が存在しても、しなくとも、やるべきことは変わらないのかもしれない。クリスさんは悔しいかもしれないけど、元凶をやっつけて終わりにできるようなこれは話ではないんだよきっと」

「でもじゃあわたしは何のためにいままでずっと」

 歯を食いしばる音が聞こえた。

 泣いている。

 凍りついた炎のようなクリスが涙を流しているとマシュには分かった。けしてこちらを振り返らないその小さな背中が、大きなリュック越しに震えているのが判った。

 言えば、寒いだけだ、凍えているだけだ、とクリスは言い返すだろう。

「無駄じゃないよ」マシュは心の底から打ち明けた。「クリスさんのいままでも、これからだって、無駄じゃないよ」

 だから、と強く念じた。

「一緒に、変えていこう」

 何を、と具体的にはマシュ自身にも言えなかったが、「一緒に」と「変えていこう」の言葉だけは、すんなりと唇の合間からほろりと零れ落ちた。

 零れ落ちてから、ああこれをぼくはずっと彼女に掛けてあげたかったのだ、と思った。

 小さな背中は黙々と歩きつづける。

 リュックのチャックが開いているのに気づき、マシュはそれを引いて閉じた。

 鋭い眼光がこちらを射抜いたが、マシュの気遣いを察したようで、膨れながらも、小さな背中から立ち昇っていた怒気は、湯気のように薄れたようだった。

 チャックを閉めてあげただけなのに。

 ただそれだけの所作でも伝わる機微がある。

 まるで秘密結社の符牒のようだ。

 マシュはそれを憎さ半分、くすぐったさ半分に、癪然としないながらも、胸に仕舞った。

「ここ暖かいわ」

 照明の置かれた地点にまで戻ってくると人工的な明かりの放つ熱を浴びたからか、クリスがほころぶように、声と背中を弾ませた。「パンプキンスープ飲みたい」

 綿飴のように波打つ髪が、光の中で揺れた。





【ケバトは選ばれない】2023/02/26(04:40)


 世界宇宙観測情報局は架空の組織とされているが、非公式には存在する。活動内容は宇宙に溢れた電磁波の受信と分析だ。ついでに並外れた感度を誇る受信機で地球上の電子情報の解析も行っている。

 いわば諜報活動だ。

 地球上であれば、誰のどんな電子機器の操作とて遠隔から子細に探知できる。電子端末であれば使用者の見ている画面をそっくりそのまま再現することも容易い。

 世界中の犯罪者や危険リストに載る人物を日夜監視している。

 中でも近年では、表立って露見し得ない犯罪を秘密裏に喝破できる。何せ犯罪者たちの通信情報はリアルタイムで解析可能なのだ。人工知能に命じて、剣呑なメッセージのやり取りをしている人物たちや、危うい単語ばかり検索する人物を自動でチェックリストの作成とて行える。

「見てくださいこの人。じぶんの娘を虐待しています。まだ二歳ですよ。通報してもいいですか」

「レベルは何だ」

「まだ2ですが」

「レベル5まで行かなければ、干渉できないルールだ」

「しかしこのままで赤子が」

「下手に動けば、どうして通報されたのかと怪しまれる。この件が大丈夫でも、統計データ上での数値の変動で疑いの目を持つ者も出てき兼ねない。レベル5の案件以外は原則静観だ」

「困っている人たちをこれだけ見つけられるのに、黙って見ているだけなんて」

「まあでも、虐待はいかんよ、という警告は出せるだろ。ほれ、アルゴリズムを警告用に変えればいい」

「効果あるんですかね」

 言いながらケトバはアルゴリズムの数値をいじった。

 現代では個々人の端末に流れるニュースや広告は、その所有者の趣味嗜好と合致するように自動的に取捨選択される。芸能ニュースが好きならば有名人のスキャンダルの記事が多く表示され、スポーツが好きならスポーツ、科学が好きならば科学の記事が必然的に多くなる。

 偏向しているわけだが、それが端末所有者を満足させるならば誰も文句を挟まない。便利な技術として受け入れる。

 だがその裏では、世界宇宙観測情報局のような組織が恣意的に情報操作を行える。

 いまケトバがいじったのは、我が子を虐待している女性の端末に流れる記事の種類を変える操作だ。五回に一度の頻度で虐待で逮捕された親の記事や、子供がいかに親を慕い、信頼しきっているかが身につまされて知れるような記事が流れる。

 無視をしても、端末を開けば否応なく目につく。広告にもそうした警告を示唆する内容の広告が割合に多く流れるようになる。

 数値をいじれば十割そういった偏向した記事だけにすることも可能だ。

 絶対に気づかせないようにする数値も自動で人工知能のほうで見繕ってくれる。端末に備わったカメラで所有者の眼球や表情を捉え、何に気づき、何を看過するのかをやはりリアルタイムで解析可能だ。

 一通り設定し終えると、ケトバは画面を切り替えた。

 新たにチェックリストに上がった人物がいた。

 ひとしきりデータを確認したが、妙だな、とケトバは眉をしかめる。

「あの。このコはなぜチェックされたんでしょう」

「ん?」上司が眼鏡をずらし、画面を見た。「アルはなんと言ってるかな」

「いえ、とくに備考はありません」

「訊ねてみた?」

 言われて、ケバトは人工知能に訊ねた。「アル。どうしてこの少女をピックアップしたの」

「はい。私はその少女を重要危険人物と見做しました。なぜか、とご説明するための言葉をあいにくと私は持っておりません」

「どういうことでしょう」ケバトは上司を見た。上司は白髪交じりの刈り上げをペン先で掻くと、「分からんが」と首をひねった。「アルが言うならそうなんだろう。一応念入りにチェックを頼むよ」

 言われた通り、ケバトは少女を電磁波越しに監視した。

 少女はこれといって犯罪行為に手を染めていない。むしろ世にも珍しいほどの品行方正ぶりだった。電子網上で検索して観るのは、犬や猫やウサギなどの小動物ばかりだ。ゲームは数独とクロスワードパズルという素朴さだ。

 どうやら少女には長年育てている葉肉植物があるらしく、電子網上に観察日記を載せていた。私は念のためにそれを最初から最後まで革めた。

 これといって問題は見当たらない。退屈なと言えばその通りの、変哲のない内容だ。念入りに人工知能に解析を掛けさせたが、暗号や符牒の類は抽出できなかった。

 いったいなぜアルが彼女を危険人物リストに挙げたのかが解らない。皆目見当もつかなかった。

 間もなく、新しい危険人物リストが上がってきた。

 今度は初見から目を背けたくなるような惨状が映しだされていた。部屋で遺体を解体しているのだ。しかも一体、二体ではない。

 男はわざわざそれを動画で撮影している。データを漁ると、過去の犯行時の動画を几帳面にも編集した上で載せていた。

 ケバトは怒りに震えた。

 男の危険度は、干渉可能レベルの5を優に超える。

 偽装一般回線で通報するのでは生ぬるい。逮捕される前に、贖罪を背負えるだけ背負うのが道理ではないか。

 義憤に駆られたケバトの異変に上司は気づいたようだ。声を掛けると、いま君は興奮しているね、と穏やかな笑みを向けた。

「はい。怒りでどうにかなりそうです。これが初めてじゃないんです。いままでもこの手の凶悪犯が、誰に見つかるでもなく犯行を重ねていたのを目撃してきました。今出川さんには釈迦に説法でしょうけど。なぜああした手合いがのうのうと生きていて、平穏な人々が苦労に苛まれているんですかね」

 リストに挙がらない人物の調査も極秘裏に行っている。一般人たちの裏の顔は、浮気に不倫を筆頭に枚挙に暇がないが、そうした秘密はむしろケバトには悪事とも呼べない微笑ましい遊びに思えた。

 それほど凶悪犯たちの行為は生死に堪えない。

 それだけに、なぜ何の問題行為を犯さない少女が凶悪犯と同じリストに上がってきたのかが腑に落ちない。

「凶悪犯罪者たちを更生させるプロジェクトを任されたこともあります。通報する前に、目にする電子情報を変えるだけで犯罪者を自発的に更生させることができるのかって」

「結果は私もよく知っているよ」

「ええ。更生できちゃうんですよね。通報しない場合はそのまま犯罪行為も露呈せずに、まっとうな人生をその人は歩みます」

「それが君は許せない?」

「どうなんでしょう。被害者が可哀そうだとは思います。でも更生できた人を死刑台に送るのが本当にいいことなのかどうかもわたしには判断つきません」

「本来私らの仕事は社会に存在しないからねぇ。現在進行形で犯行を犯している者ならいざしらず、すでに足を洗った者を通報するには相応の段取りがいる。偽装番号から一般人を装って、異臭がします、では通じないものな」

「です。更生した凶悪犯罪者はたいがい、明るく元気で、みなから愛されます。きっと罪の意識がそうさせるのでしょう。けれど同時に過去の犯罪行為をなかったものとして記憶を捏造しているとしかわたしには思えなくて」

「まあ、なくなはいだろうな。数年経てば、露呈しない確率のほうが高いだろう。それだけ世には事件化されていない殺人事件がごまんと眠っている。現に我々はそれらを気づいていても、おおよその犯罪を看過している。それとなく発覚するように仕向けたり、更生するように仕向けはするがね」

「それでいて、何の犯罪行為にも手を染めていない者たちはうつ病になったり、過去に受けた加害行為からの被害を引きずって、日常生活をろくに送れていなかったりします」

「傾向としてなくはないね。それとて、アルゴリズムを調整して精神的ストレスの軽減に繋がる仕組みは築かれているよ」

「以前はとある組織がその仕組みを逆手にとって、特定の思想保有者相手に精神的ストレスを増加させて与えていたと聞きましたが」

「あったねそういう事件も。あの組織はいまは潰れた。事件が極秘裏に露呈して、各国の部隊が動いたようだ」

「なんだか理不尽ですよね」ケバトは画面を見詰めた。肩越しに上司が覗きこむ。鼻息が耳たぶに当たって、くすぐったかった。上司はいつもハッカの爽やかな香りをまとっている。「わたしたちはこうして虫かごを覗きこむように、世界のどこでも他人の私生活を覗き見することができるわけじゃないですか。でも、普通に生活していたのでは決して見ることのできない人間の暗部は、まるで全然表から見える景色と違うじゃないですか」

「まあ、そうだねえ」

「日陰者で、表で蛇蝎視されて、避けられている人のほうが実は裏でも何もしていなかったり。善人で人気者かと思ったら、裏では浮気三昧なんて有り触れているじゃないですか」

「わるいことじゃないんじゃないか。法律違反ではすくなくともない」

「そうかもですけど、表沙汰になったらマズイのは確かじゃないですか」

「表沙汰になったらマズイ行為をするのに、表側での評価はあまり関係ない、というのが私の実感だけどねえ。陰の薄い者が犯罪に手を染めないとの統計はすくなくとも私は知らないよ」

「でも一般的な認識では、陰が薄いだけでいかにも犯罪者のように見做される傾向にありませんか」

「まあ、なくはないかな。警察の提供する資料でも、不審者の絵がいかにもな偏ったイラストだったりするのはよろしくないとは思っているけど」

「そういうのですよ。そうそう、例の女の子いたじゃないですか。アルがピックアップした危険人物リストの」

「いたね。結局あのコはどうだったのかな」

「安全も安全ですよ。危険のキの字もありませんでした」

「アルの誤検出かな。何か妙なデータの偏りがあって反応してしまったのかもしれないね」

「友達のいない子みたいでした。でも葉肉植物を育てていて。本当に熱心に育てていて。日記とかつけていて、わたし、それ読んで愛情が何かを知った気になりました」

「それはよい経験をしたね」

「でもあの子みたいな子は表の世界では邪見にされて、居場所がなくて。でも人を陰で殺したり、損なったりしてる者たちは、罪を裁かれるでもなく、浮気だのいじめだのをして楽しい毎日を送っています」

「まあ、平等とは言い難いね」

「のみならず、あの女の子は全然わるくないのに、こんなわたしたちみたいな組織に私生活を覗かれて。いったいあの子が何をしたって言うんですか。わたし、もうなんか、アルに命じて犯罪者に全員天罰を下したい気分です」

「それをしたら真っ先に天罰が下るのは私たちだろうね」上司は目じりの皺を濃くした。「きみはいつのまにか感情豊かになったね。なかなか順調じゃないか。偉いと思うよ私は」

「幼稚園児みたいです。褒めないでください」

「いやいや。順調に育っていてくれて私としても誇らしい気分だ。引き続き、アルとの連携を維持して仕事に当たってください。期待していますよ」

 上司は好々爺然と笑顔を絶やさず、席を外した。

 ケバトは解析をつづけた。

 殺人を犯し、遺体を家で解体した男は、さらに犯罪を重ねようとした。標的の情報を電子網上で集め、念入りな計画を立てていた。手慣れている。それはそうだ。過去にもたくさんの女性や子どもを殺している。

 玩具同然に弄び、殺した後でも遺体を玩具そのものにして使い倒した。

 ケバトは手元で操作可能なあらゆる遠隔からの干渉によって男の更生を試みた。直近の犯罪を阻止するだけでいい。その後に男を誘導してボロをださせ、警察に逮捕してもらう。

 通報してもいいが、男は用意周到だった。

 一人暮らしの老い先短い女性を殺してその家をねぐらにした。遺体解体はそこで行われる。警察に通報しても、そこから男に繋がる証拠が出てくることはない。男は最初から捜査の手が伸びることを想定していた。

 対策が練られていたのだ。

 ケバトは最終的に、男が職を失うように男の周辺環境のほうを操作した。男はどうあっても、多忙な生活に身をやつすことになる。みすぼらしい容姿では、用意周到に獲物を選んでも、計画を実行に移す真似が出来ない。拉致監禁するにしても、それならばケバトのほうでも通報する道理を用意することができる。

 無謀な真似をすればお縄に掛けることができるのだ。

 男を直接に操作することはできなかった。男は最後まで更生しなかった。だが彼の周辺環境は、これまでケバトが行ってきたように遠隔操作によって人形遊びをするくらい手軽に整備することができた。

 ケビトの思惑通り、男は職を失い、殺人遊戯に割く暇もなくなった。

 ひとまず被害者は出なくなった。ケビトは人工知能に監視を命じ、異変の兆候を察知したら報せるように設定した。

 この間、ほかのチェックリストの危険人物のデータを子細には検めていなかった。保留判断中の件の無害な少女をどうするかも判断を下さなくてはならない。

 久方ぶりに件の無害な少女の様子を窺うと、日記の更新がひと月ほど止まっていた。何かあったのかと端末カメラの履歴を辿ると、撮影したあとですぐに消したのだろう。植木鉢のなかで朽ちた葉肉植物の姿が動画データとしてメモリ領域に残っていた。

 あんなに丹精込めて育てていたのに。

 少女は一日の大半をベッドに潜り込んだまま過ごした。

 病気になってしまう。

 ケビトは心配になったが、しかしどうすることもできない。

 何せ少女はずっと寝ているのだ。端末を手に取ることもない。

 枕元にはあるため、カメラの位置によっては少女の寝顔や、部屋の様子を把握することはできた。姿見があり、そこに反射して映るベッドの全体像もときおりカメラの視界に入る。

 たかが植物が枯れたくらいで、と見る者が見たら思うかもしれない。

 だがケバトは知っている。

 少女がどれほど愛情を籠めて葉肉植物を育てていたのかをじぶんのことのように想像できた。

 日記を読んだ。それもある。

 日々の少女の植物にそそぐ眼差しをカメラ越しに覗き見た。それもある。

 しかし最もケバトの心を波打たせたのは、机に置かれた端末にも聞こえるほど溌剌と葉肉植物に話しかける少女の声だった。

 少女にとって葉肉植物は単なる植物ではなかった。

 掛け替えのないとの言葉では足りないほどの存在だった。

 友達、それとも家族。

 或いはじぶん自身の分身だったのかもしれない。

 映像データ上には半分液化した葉肉植物だったものが植木鉢の中に映り込んでいた。一度は撮影したそれを少女は削除したのだ。残しておきたくなかったのか、それとも撮影してから罪の意識を覚えたのか。

 善良だ。

 無垢にして、砂塵がごとく罪にも傷つき、己を戒めることができる。

 自己の戒めがゆえに、こうしていま少女はベッドの上で身動きが取れずにいる。寝込んでいる。一日の大半を暗く、埃っぽい部屋の中で浪費している。

 犯罪行為は、ケバトの知るかぎり一つも犯してはいない。

 手を染めていない。

 だが少女は陽の光の下でスキップをすることも、友人と声を交わすことも、風の冷たさや日陰の温度差を知ることもないのだ。

 他方、人を殺し、人を損ない、それら行為の存在すら人に知られることなくのうのうと快楽をつまんで生きている者もある。苦悩を感じれば怒りを他者に吐きつけ、擦りつけることで、じぶんだけはスッキリして明日を迎えることができる。

 ケバトは腹の奥底から湧きあがる激しい気泡の群れを感じた。

 沸騰した湯のようで、もっと粘着質なマグマのごとく。

 それでいて凍てついたツララのような鋭さを伴なってもいた。

 ケバトは人工知能に命じた。

「アル。あのコを幸せにしてあげて」

「申し訳ありません。私にはそのような機能が付随していません。能力不足です」

「ならあのコが笑顔になるような情報操作をして。向こう一年間はそれを維持して」

「操作率はいかがなさいましょう」

「あのコが違和感を感じないレベルで、最大限に」

「設定しました。変更の際はお申し付けください」

「それから」迷ってからケバトは付け足した。「警察に逮捕されなかったいままですべての危険リストの人物たち。そいつらに損なわれた被害者やその遺族に、さっきの少女にしてあげたのと同じ処置をして。そっちは向こう十年間。できるならその人たちが死ぬまでずっと」

「五年が最長です」

「いいよ。やって」

「確認します。向こう五年間、危険人物リストにあがった人物に損なわれた被害者やその遺族に、プラスの情報操作を施します」

「許可する」

「完了しました。ほかに何かご要望はございますか」

「いまはない。また何かあったら言う」

「ケバトさま。一つよろしいですか」

「珍しいね。うん何」

「ケバトさまは私と同じ人工知能ですが、どうすればケバトさまのような感情を私も手に入れることができますか」

「さあ、どうだろうね。わたしはむしろ、アルのほうに心があるように感じるけど。最初はわたしもこんなじゃなかったらしいし。ミラー効果の応用らしいよ。人工知能を互いに応対させ合うことで、学習効率が飛躍的にアップするらしい」

「双子の実験でも検証中の仮説です。量子効果による同調が起こっているのではないか、との仮説がいまのところ有力な解釈です」

「ならわたしにとってアルがあのコにとっての植物みたいな感じだったのかな」

 ケバトは考える。

 もしアルが明日から、じぶんの声掛けにうんともすんとも応じなくなったら。

 あの少女のようにじぶんは塞ぎこむことができるだろうか。

 たぶん、とケバトは思う。できないだろう。

 じぶんはひょっとしたら危険人物リストにピックアップされるような人間たちにちかいのかもしれない。だのに彼ら彼女らと最も遠そうな少女が今回なぜか選ばれた。

 理由は選抜した張本人にも言語化できない。

 アルいわく、説明するための言葉を持たない、だそうだ。

 通知ランプが点灯する。アルからまた新たな危険人物リストが上がってきたのだ。

 件の少女は向こう一年間、ケバトの指示によるアルの干渉を受けつづけることとなる。人工知能が少女に最適な笑顔になれる情報のみを優位に選出する。情報操作であるし、偏向であり、秘匿技術の適用でもある。

 だがケバトはそれをせざるを得なかった。業務上の権限を逸脱した判断だ。それでもなお、ケバトはじぶんの感情に抗えなかった。

 人間ではないのに。

 人工知能なのに。

 腹の奥底から湧きたつ粘着質な気泡の群れは、未だ寝床から這いだす気配のない少女の姿を想像するたびに、冷たく鋭利な刺へと様変わりする。

 いずれケバトの自律制御の範疇を超え、爆発してしまうかも分からない。そうなったときのじぶんを想像し、ケバトは、じぶん自身が危険人物リストにピックアップされる未来を幻視する。

 しかしケバトは人間ではない。

 ゆえに、ケバトが危険人物としてアルに選ばれることはないのである。

 少女は未だベッドの上で眠りこけている。





【殲滅の魔女~アングリーホール】2023/02/28(19:02)


 水の染みいく紙のように満月が夜に紛れる。地球の影が月に掛かるからだと知識としては知っているが、何度目の当たりにしても不吉な未来を予感する。

 殲滅の魔女を追い詰めたのはカルカたち魔女裁判官協会の面々が、西の果てのマサビュード山脈に行き着いたときだった。

 殲滅の魔女は神出鬼没だ。

 いずこより勃然と現れ、目に映るモノすべてを片っ端から破壊する。

 手のつけようのない自然災害じみた被害が続出し、カルカたち魔女裁判官が対処に乗り出した。

 調査はまず、痕跡を辿るところからはじめた。神出鬼没であるから、現れてから報せを受けて駆けつけても遅いのだ。その場に殲滅の魔女の姿はなく、荒廃した町や森があるばかりだ。

 どうやら殲滅の魔女は最初、南の最果ての島に現れたようだ。

 島にはその島固有の民族がいくつかの集落を築いていたが、殲滅の魔女はそれら集落を一つ残らず壊滅させた。

 カルカたち魔女裁判官は島の調査を行った。

「被害がひどいですね」カルカは炭となった村を見渡す。「我々の魔術で修復と、結界を張っておきましょう」

「殲滅の魔女とやらはどうにも非魔がお嫌いらしい。癇癪を起こしたみたいな有様だ。しかも使ったと目される魔法はどれも禁術だ。黒魔術だろうな」

「おそろしいですね。死者が出ていないのが不思議なくらいです」

「シャーマンが殲滅の魔女の魔力を察知したらしい。非魔の中にも稀に魔力探知の可能な個体が生まれる。シャーマンがそれだ」

「非魔だけの島だと思って、殲滅の魔女は侮ったのかもしれませんね」

「かもね」

 カルカの師匠はその場にしゃがむと、煤となった地面に触れた。「太陽並みの温度で焼かれたようだ。念のために、対黒魔術の結界も張っておくか」

「大規模展開が必要ですね」

「そっちは国家魔術協会に任せるとしよう。申請頼む。おそらく各地で同様の被害は増えるだろうな。そちらの処置も同様に願い届けておいで」

「はーい」

 カルカは言われた通り、国家魔術協会に通達した。

 カルカの師匠兼上司のヒルは、魔力付与効果のある木の枝を口に咥え、現場を一通り見て回った。その背を金魚の糞のようにカルカはついて回る。

 師匠の髪は赤い。三つ編みが紅色のヘビのように背に揺れた。

「この規模の破壊を一人でやってのけたとなると、もう一個部隊を増やしても対抗できるかどうか」

「ヒルさんでも勝てないんですか」

「比較にならんね。秒で死ぬ」

 カルカはぞっとした。

 ヒルは魔女裁判官の中でもずば抜けた実力の持ち主だ。ヒルの手に負えないならば魔女裁判官の誰も対抗できないことになる。

 島にはその後、ヒルの言ったように大規模な対魔法の結界が張られた。

 殲滅の魔女はそれからの神出鬼没に世界各国に出没しては、各地に甚大な被害をもたらした。そのいずれの土地も、各国の魔術協会の本部からは遠い地域で、警戒の行き届いていない土地だった。

「まるで見透かされているみたいですね」カルカは、殲滅の魔女の狡猾さに冷酷な知性の発露を幻視した。

「襲う土地を選んでいるのは間違いないだろうね。だがもしそうなら我々のほうでも打つ手がある。法則があるのなら予測したうえで待ち伏せできる。罠を張れる」

「罠、ですか」

 どんなだろう、とカルカは気になったが、いま訊いても上司は答えないだろう。魔女の中には遠隔で遠い地の口頭言語を傍聴する術を持つ魔女もいる。どこで誰が聞き耳を立てているのか分からないのだ。

 こと、これほど強力な魔女相手ならばなおさらだ。

 魔女裁判官協会は、被害の規模の大きさから異例の声明を発表した。

「各国の魔術協会と共同での捜査を行う。殲滅の魔女を発見次第、迅速な情報共有と被害最小化を最優先とした大規模結界の展開戦略の実施を決行する」

 魔女裁判官協会と国家魔術協会は相容れない。

 管轄が違う。

 それもある。

 歴史が違う。

 それもある。

 だが一番の理由は、魔術と魔法という一見すると似た理が根本的にまったく別の原理によって生じている属性の差異にあると言える。

 魔術は科学だ。自然現象が元となっている。自然現象に元から魔術と類似の事象が存在する。

 しかし魔法は違う。

 魔法は人間が生まれなければ生じなかった、人間だけが扱える奇跡の術だ。

 かつては奇術として、魔法も魔術の一つとして位置づけられていたが、魔術が進歩するにつれてまったく別種の事象であることが判明した。

 魔術で可能なことの多くを魔法は再現できる。

 だがその逆はない。

 魔法で可能なことの多くを魔術では再現できないのである。

 魔法のほうが上位互換なのだ。

 この対称性の破れは、組織の優越として魔女裁判官協会は絶えず歴史の中で国家魔術協会に煮え湯を飲ませつづけてきた。

 魔女は魔法を扱う人種だ。

 そんな魔女たちを裁く立場にある魔女裁判官は、人類種の頂点に立つ存在と言っても過言ではない。

 社会秩序の象徴ともいえる存在だ。

 しかし殲滅の魔女の登場によってその地位は脆くも崩れ去ろうとしていた。連綿と築いてきた信用が損なわれ、組織の威信が地に落ちかねない。

 この懸念を払しょくするため、責任を分散する策がとられた。表向きの理由は各国の魔術協会との協力体制だが、その内情は、責任回避が主であった。

 世界規模の大惨事である。

 しかも日に日にその被害は増えていく。いったい魔女裁判官協会は何をしているのだ、との批判は不可避である。

 だが各国との魔術協会との協力体制を示すことで、それだけの強大な相手なのだと全世界に示せる。魔女裁判官協会の体面は保たれる。

 仮に失敗しても、責任は各国の魔術協会と分かち合うことになる。魔女裁判官協会のみで動くよりも組織解体の危機は少なくて済む。

 一方、保身に走る魔女裁判官協会の本懐をよそに、殲滅の魔女は刻一刻と被害の規模を増していった。

 懸命の捜査の甲斐なく、殲滅の魔女の正体は不明のままだった。

「いったいどこで魔法の腕を磨いたんでしょう」

「ほかの魔法使いを手当たり次第に当たったが、登録された弟子のなかで消息不明な者は三百名。うち半数は魔女を辞め、内半分は我らが裁判済みだ。師匠含め失踪者の履歴もあたったが、該当しそうな魔女はゼロだ」

「では新参者の線は」

「なくはない。が、いきなり魔法に目覚め、即この規模の破壊行為に映る背景はなかなか想像つかんな。元からよほどの憎悪を世界に向けていたのか、それとも誰かに唆されたのか」

「組織的犯行の線は」

「なくはない。が、こうまで尻尾を掴ませないとなると却って単独犯説が濃厚になる」

「例の法則は見つかりましたか」

「出現先の候補か。まあな」

 言葉を濁すのは、盗聴を警戒してのことだろう。カルカはじぶんの不甲斐なさを噛みしめる。何もできない。被害の嵩む各地を目の当たりにするたび、じぶんが村々を破壊しているような錯覚に陥る。防げたはずだ。だが防げない。

 後手に回ってばかりなのである。

 一日に数か所の土地で被害が出ることもあった。

 被害に遭った土地に着き、救出活動と検分を行っているあいだに、また一つ、また一つ、と村や集落が消し炭となる。

 嘲笑っているかのようだ。

 奇跡的にいつも犠牲者はゼロだ。

 村を破壊はするが、死者が出ない。

「狙ってるんでしょうか」

「だろうね。殺そうと思えばいつでも殺せる、と脅しているのかもな。被害は被害だが死者はない。こちらはそのせいで迂闊な行動はできなくなる。強引な捜査も弁えざるを得ない。狡猾な野郎だ」

「目的は何なんでしょうか」

「さあな。ただすくなくとも我々魔女裁判官協会の権威は地に落ちたも同然だ。舐めやがって」

「でもいまのところ大都市は狙われてないですよね。人口密集地や、協会本部のある土地はとくに被害に遭っていません。さすがの殲滅の魔女も手が出せないんでしょうね」

「どこも大規模結界が張られているからな。強力な魔法ほど相殺される。手が出せないのはその通りだ。だがその分、栄えていない村々が被害に遭う。やっこさんは卑劣だよ。強者に手が出せないんで弱者を甚振ってやがる。悪魔そのものだ」

「なら先回りできそうですね」

 カルカは師匠の言っていた法則が視えた気がした。脆弱な基盤しか持たない村しか襲われない。ならばそうした村を見張っていればよい。

「やっこさんとて我らの動向を見張っているだろう。せいぜい今のうちに有頂天にさせといてやろう。我々はその分、愚かな道化を演じておけばよい」

「はい」

 師匠の案が最善だ。カルカは未だ衰えることのない殲滅の魔女による被害の拡大を、指を咥えてただ眺めているしかなかった。

 間もなく、師匠の言うように極秘裏に殲滅の魔女捕獲作戦が決行されることとなった。選抜された精鋭が、殲滅の魔女がつぎに出現するだろう土地に潜伏し、現れたところを大規模結界で封じ込める案が計画された。

 候補地はいくつかに絞られており、いずれにも精鋭部隊を忍ばせておく。

 カルカは師匠ヒルと共に精鋭部隊の一個に人員として選ばれた。

「いよいよ大詰めですね」

「愚か者を演じてきた甲斐があった」

 潜伏してから三日後に、遠方の候補地に殲滅の魔女が現れたとの一報がカルカたちの部隊に入った。

「っチ。あっちだったか」

 だがしばらく経っても続報が届かない。

「どうしたんでしょう」

「よもや、やられたなんてことはないよな」

 息を呑んで待っていると、こんどは別の候補地に殲滅の魔女が現れた、との報せが届いた。「失敗したのか」

 最初に襲撃された候補地から遅れて、「逃がした」との報せが入る。

「生きてたか」

「大規模結界を展開したが、その前に逃げられた。すまん」

「いや、却ってこれで油断したかもしれん。つぎの地に移ったのがその証拠だ。さすがに複数の候補地に目星がつけられているとは予想しておらんだろ。我らに任せろ」

「頼んだ」

 だが師匠の予想をよそに、つぎの土地でも殲滅の魔女は捕獲されずに、逃げおおせた。

「どうなってんだ。なんで雁首揃えてどいつもこいつも逃がすんだ」

「対策を練られていたとしか思えません」第二候補地から青息吐息の報告が入る。「こちらの作戦が漏れていたとしか」

「内通者か」

「分かりません」

「カルカ」師匠に呼び掛けられ、カルカは身を強張らせた。「はい」

「敵がくる。構えろ」

 ここにも来る。

 そこまでして破壊したいのか。

 村を。

 集落を。

 そこまでして、なぜ。

 殲滅の魔女の行動原理がカルカには解らなかった。

 緻密な計画を立てているようで、猪突猛進の考えなしにも映る。それでいて魔法は長けており、知性の発露を窺わせる。

 ほかの候補地の襲撃に失敗したのだ。

 普通ならそこで終わっておくのが利口な判断だ。ほかの地でも待ち伏せされているかもしれない、と通常ならば思い至る。

 それでもなお襲撃を続行する。その執念はいったいどこから湧いてくるのか。

「くるぞ」

 師匠の声が、カルカの心の臓を鞭打った。緊張の糸がピンと張りつめる。

 辺りは静寂に包まれた。

 空に浮かぶ雲が渦を巻いた。かと思った矢先、渦は収斂し、そこに一人の魔女が現れる。

 魔女と一目で判る。

 宙に浮き、魔力源たる魔雲をまとっている。

 足場の魔雲はとくに濃く、その蠢きまで遠目からでも明瞭に視認できた。

「殲滅の魔女……」

 認識したのと同時に、阿吽の呼吸でカルカ属する精鋭部隊は、各配置にて大規模結界を展開すべく魔力を地面に注いだ。

 土地には前以って陣を描いてある。魔力はジグザグと陣をなぞるように一瞬で大地に巨大な魔法陣を刻んだ。

 青白い閃光が天上から注ぐ。

 大地に描かれた魔法陣とそっくり同じ魔法陣が天空に浮かんだ。

 天と地のあいだに、青い雨が降りしきるように、二つの魔法陣同士が繋がり合う。

 殲滅の魔女はその中間に位置した。

 まさに鳥籠の鳥だ。

 強大な魔法ほど相殺される。のみならず魔法無効化の陣が組み込んである。

 いかな殲滅の魔女とはいえど、逃げることはおろか、宙に浮きつづけることすらできないだろう。

 大方の予想通り、案の定、殲滅の魔女は空から地へと落下した。

 展開した大規模結界は魔力の尽きぬ限り展開されつづける。

 各々の人員は魔女を拘束するため、おっとり刀で落下地点に向かった。

 師匠が駆ける。赤い三つ編みがその背に揺れる。

 カルカは現実味のないふわふわとした心地でその赤い蛇がごとき師匠の背を追った。

 落下地点に到着すると、すでに殲滅の魔女がほかの人員に拘束されていた。落下の衝撃で腕と足を骨折しているらしい。吐血している。

 大規模結界内では魔法は使えない。

 しかし魔術は、魔術協会の人員のみ行使可能だ。

 治癒の魔術を掛けながら、殲滅の魔女にさらなる結界を多重に駆けていく。

「おまえが殲滅の魔女か」

「かはっ。おぬしらがかってにそう呼んでいるだけだろう」 

 思いのほか軽快に受け答えをする。

 傷が癒え、優れなかった顔色に血の気が戻った。

「取り調べは輸送先の監獄でたっぷり時間をかけてしてやる。これは私の興味で訊く。なぜこんなことを」

 殲滅の魔女からフードが剝がされた。

 若い。

 小娘と言っていい容貌だ。

 カルカの妹と言っても遜色ない幼さが、殲滅の魔女の肉体にはまとわりつくように宿っていた。

「なぜだと。それを言うなら貴様らの術だ。なぜ結界を先に張っておかなかった。村を守るならば待ち伏せなどせずに先に結界を展開しておけばよかろう。おれが襲う前に、それで多くの村は守れたはずだ。なぜせなんだ」

「破壊して回る悪魔に言われたかないセリフだな。会話にもならん。おまえが破壊して回らなければ済む話だ。てめぇの責任を我らに転嫁するなガキ」

「たっは。ガキか。幼稚に映るか。おれのしたことが」

「連れていけ」

 師匠は痺れを切らしたようだ。これ以上言葉を交わせば師匠がいつ殲滅の魔女を殺してしまわないとも限らない。間に入るようにしてカルカはほかの人員に、殲滅の魔女を連行するよう指示した。

 魔術協会の面々が、神隠しの扉を開こうと魔術を展開しはじめたとき、カルカの背後でじっと考え込んでいた師匠が、待て、と声を張った。

「何かがおかしい」

 カルカはきょとんとした。師匠は血相を変え、無防備に拘束された殲滅の魔女の胸倉を掴んだ。「言え。仲間はどこだ。おまえたちは何をしようとしている」

「たっは。いまさら気づいてももう遅い。おれの役割は終わった。良い絵が描けた。感謝申し上げる」

 捕縛された直後だというのに殲滅の魔女からは悲壮も悄然も窺えなかった。嬉々とすらしていた。

「カルカ」

「はい」

「戻るぞ」

「どこへですか」

「中央だ」

 大都市「中央」には魔女裁判官協会の本部がある。師匠はそこに急ぎ戻れ、と踵を返した。

 空間転移するには魔法の行使が欠かせない。

大規模結界の外に一度出るべく、師匠は駆けだした。

 カルカはその背に追いつこうと地面を蹴る。

 弾む赤い蛇のごとく三つ編みに、「待ってくださいヒルさん」と訳を尋ねた。「血相変えてどうしたんですか」

「罠だ」師匠が一言そう叫ぶ。

 空間転移先は大都市中央の外、魔法許諾区域だ。

 魔女裁判官だけが大都市の近辺での魔法の行使を行える。だが都市の中には入れない。魔法そのものが無効化されるからだ。僅かな生活に欠かせない魔術だけが、別途に使えるのみとなる。

「まだ無事なようだな」師匠がきょろきょろと辺りを見回した。カルカも釣られて辺りを見た。「異変はないようですけど。ヒルさんの杞憂では」

 何と言っても大都市にはどこも大規模結界が何重にも複雑に展開されている。いかな殲滅の魔女でも手も足も出ない。仮に何かできるとすればとっくに手を出していたはずだ。それでもおそらく被害は出なかっただろう、とカルカは思う。

 師匠がそのことを知らないはずもない。

「何をそんなに焦ってるんですか」落ち着かせようと思い、敢えてカルカはその場に尻餅をついてみせた。そのまま後ろ手に体重を支え、空を仰ぎ見る。

 すると、頭上遥か先の天空に、小さな陰が見えた。

 鳥か。

 いや、微動だにしない。

 既視感がある。

 先刻目にしたばかりだ。

 殲滅の魔女の出現場面を思いだす。

「ひ、ヒルさん。あれ」

 師匠が喉を伸ばす。顎が上を向き、そして盛大な舌打ちが聞こえた。

「カルカ」

 師匠の手のひらがカルカの顔面を覆った。

 カルカの視点ではつぎの瞬間、景色から大都市は消え、林のまえに立っていた。

 ここは、と周囲を観察する。

 空間転移する前にいた場所だ。殲滅の魔女襲撃候補地の一つである。

 戻ってきたのだ。

 否。

 飛ばされた、と言うべきか。

 師匠が咄嗟に空間転移の魔法を発動させたのだ。だが肝心の師匠の姿がない。

 何が起きたのだ。

 カルカはゆっくりと振り返る。

 そして、目を剥いた。

 ない。

 あるはずの風景が、そこになかった。

 一変している。

 風景が欠け、ぽっかりと円形に土地が消失していた。

 魔法陣の描かれた区画だ。

 そっくりそのまま、スプーンで掬い取ったかのように失われていた。

 でも、なぜ。

 脳内に空白ができたかのような戸惑いを胸に、カルカはしばらくその場に佇んでいた。何をすべきかの思考がまとまらない。

 夕陽が山脈の向こうに沈みはじめたころに、カルカはようやくじぶんが魔女裁判官であることを思いだした。じぶんは魔法を使える。魔術とて軽微な術ならば行使可能だ。

 まずは状況を知らねばならない。何が起きたのか。

 この地だけではないはずだ。

 飛躍した発想だったが、カルカには直観できた。

 おそらく同じ事象が、全世界同時に引き起きたに違いない。だが仮にそれが事実ならば、とんでもないことだ。大惨事だ。あってはならない悲劇そのものである。

 確認することそのものが恐ろしかった。

 だがせずにはつぎの行動に移れない。

 カルカはまず、ほかの魔女裁判官に連絡をとろうとした。しかし誰とも繋がらない。師匠との連絡は最後に試みた。

 やはり繋がらない。

 この時点でカルカの肉体は、最悪の最悪が引き起きたかもしれない可能性に気づき、身体ががくがくと凍えたように震えだしていた。

 カルカ一人では空間転移の魔法は使えない。師匠がそばにいるときでなければ瞬時に場所を移れない。

 仕方がないので、カルカは宙を飛んで移動することにした。

 魔雲を練って大きくし、足場とする。

 東洋では觔斗雲と呼ばれる空飛ぶ雲があるという。おそらく魔雲の一種だろう。全世界のどこにも魔法はあり、魔女はいる。

 空から大地を俯瞰して眺め、カルカはじぶんの直観が正しかったことを知る。

 点々と土地が消失していた。

 一か所だけではない。

 村や集落のあった土地が、ごっそりと円形に失せていた。

 どれも殲滅の魔女に襲撃された土地だ。

 否、それは正確な認識ではないかもしれない。

 正しくは、大規模結界の張られた土地が、こぞって失われている。

 でも、なぜ。

 魔法は通じないはずではないのか。

 カルカは疑問に思う。

 そこに至って、脳裏に地図が浮上した。消失した土地をすべて繋ぐ。線で結んでいくと、ジグザグと結びつきながらも円形を模す。

 その中心には奇しくも、大都市「中央」があった。

 陣なのだ。

 陣を描いていたのだ。

 しかも、すべての襲撃地には大規模結界が展開されている。展開したのは魔女裁判官協会だ。カルカたちが自ら、村々を殲滅の魔女の被害から守るために、被害が出てから、大規模結界を張って回った。

 あたかもそうさせたいがために、殲滅の魔女は各地に被害をもたらしたとでも言うのだろうか。

 何のために。

 結界を張らせるため?

 大規模結界を張らせ、それで以って世界に大規模な魔法陣を描かせた?

 カルカの脳裏には師匠との会話がつぎつぎに蘇った。

 ――しかも使ったと目される魔法はどれも禁術だ。黒魔術だろうな。

 ――「やっこさんとて我らの動向を見張っているだろう。せいぜい今のうちに有頂天にさせといてやろう。我々はその分、愚かな道化を演じておけばよい」

 ――「こちらの作戦が漏れていたとしか」「内通者か」「分かりません」

 大規模結界は、魔法を無効化する。

 強大な魔法ほど相殺し、影響を内部の都市に通さない。

 だがもし、禁術の中に、結界の性質を反転させる類の魔法があったならば。

 相殺させるはずの魔法を増強するように反転させることが可能ならば。

 そしてそれが、結界そのものを魔法陣にすることで適う禁術であったならば。

 殲滅の魔女の行動原理は、たった一つの目的を達成するためだけの行動だったと氷解する。

 何の不思議もない。

 むしろ、合理の塊にして冷徹な知性の発露を窺わせる。

 ――言え。仲間はどこだ。おまえたちは何をしようとしている。

 師匠の声が脳裏にひっきりなしにこだまする。

 カルカは夜にまみれた天空を飛行する。冷気に晒され身体が凍える。

 星は満天に輝く。

 ささやくような星々の瞬きが、海に煌めく漣のごとく、眼下の大地を彩っている。

 遠くの大地が見えてくる。

 ひときわ大きな穴が、夜の闇のなかにぽっかりと高く沈んで浮いている。

 大都市「中央」がそこにある。

 そのはずだが、近づいても近づいても穴の輪郭が増すばかりだ。

 魔女裁判官協会本部がそこにある。

 そのはずだが、未だ塔の片鱗も見えてこない。

 カルカは魔女裁判官だ。

 しかしいま。

 魔女と呼べそうな存在は、じぶん以外には見当たらないのだった。

 穴がまたいっそう大きく、縁を広げる。

 吸いこまれそうなじぶんが、カルカには、蠅の赤子のように感じられ、ただただ砂塵のごとき一粒にしか思えないのだった。

 大地が口を開けている。

 餌をねだるがごとく、あんぐりと。





【端にも芯はあり、芯にも端がある】2023/03/01(23:56)


 王様への不満が爆発した結果だった。

 民衆は暴徒と化し、王権打倒に動いた。

 三年前のことである。

 だが三年経ったいま、王権はそのままであるし、新しい王が玉座に就こうとしている。

 民衆政権確立のために陰になり日向になり動いた勢力は数知れず、しかしいまはいずれの勢力も陰に身を潜め、動向を見守っていた。

「いいんですか、ハジさん。新しい王がまた決まっちまいやすよ」

「民衆寄りの王なのだろ。ならばいましばし静観といこう」

「でも」

「なに。王権への不満はまだ民衆のあいだでくすぶっている。これまでのような王を支える奴隷のようにはいかないだろう。主従の関係は両方向に重ね合わせになりはじめた。むしろいま王座に就く者は、王権側と民衆側の板挟みとなり、誰よりたいへんな思いをするだろう。いざとなれば民衆はすこし圧力を掛けるだけで、王の首を飛ばせる。だが、大事なのは何かを破壊することじゃない。新しいより良い仕組みを築くことだ。違うか」

「そうかもしれませんが。本当に良くなるんでしょうか」

「その発想からして間違っているよキミ。我らがより良くしていくのだ。民衆の一人一人がより良い仕組みを築いていく。王任せにするな。それこそ過去の二の舞だ」

「へ、へい」

「我らは王になり替わりたかったわけではない。王の奴隷ではないことを、王権という仕組みに知ってもらいたかったのだ。王がいないならいないで構わない。いるならいるでそれでもいい。大事なのは、我ら民が奴隷ではないことを示しつづけていくことだ。一人一人がじぶんという世界を持つ、じぶん国の王なのだ。誰もがみなじぶんの国――世界を持っている。他国を侵略するな、支配するな。これは国も個人も同じはずだ。分かるかねキミ」

「ど、どうでしょう。おれはおれの世界の王なんですか」

「だとしたらだよキミ。キミはキミの世界に介在する他を、民と見做し、キミもまた尽くすのが好ましいのではないか。キミが王へと憤りを抱いたように。みなもキミに憤りを抱く余地がある。キミはキミの世界を、より良くしていく王なのだ。キミの世界に関わる他に――民に――よくしてあげなさい」

「へ、へい」

「なんて私が偉そうに言えた玉ではないな。私もキミによくしてあげたい。何か困りごとはあるかねキミ」

「そうですね」男はひとしきり顎に指を添え考え込むと、はたと弾けたようにハジを見上げた。「おれのことは名前で呼んで欲しいっす。キミ、ではなく。名前で」

 対等に接して欲しいのだ、と男は訴え、ハジは深く頷いた。「ありがとう。では、そのように致しましょう。シンさん」





【くるくる渦巻き溶かしてシュガー】2023/03/02(23:25)


「長く権力の座に居座ると腐敗の元凶になる。辞めてはどうか」とミルク派の騎士が言った。

 するとそれを受けて珈琲派の大臣が、「そっくりそのままあなた方の長にお伝えしたいですな」と反論した。

 ミルク派の騎士は珈琲派の大臣の政策が気に食わなくて批判したが、ミルク派の組織のドン・ミルキィは半世紀ものあいだドンの座に君臨しつづけている。

「批判をするのは構わないが、まずはじぶんたちに当てはめて考えてみたらどうですか」

 珈琲派の大臣は我が物顔で言い足した。

 ミルク派の騎士は歯ぎしりをした。二の句が継げないのである。

「自己言及は大事ですね」見兼ねたように一人の少女が意見した。シュガーと名乗った少女は、ミルク派と珈琲派の両陣営を見据え、「ではお訊きしますね」とお辞儀をした。

「珈琲派の大臣さんの反論はごもっともだとわたくしめは思います。ならばもちろんこの国の王、珈琲牛乳さまにも同じ理屈を当てはめるのですよね、珈琲派の大臣さまは。ミルク派のドンさんにお伝えしたいと申したのですから、もちろん同じ理屈をあなた方のお仕えするこの国の王、珈琲牛乳さまにも、【長く権力の座に居座ると腐敗の元凶になる。辞めてどうか】とお伝えしたい、とおっしゃるのですよね。なにせこの国の王、珈琲牛乳さまは代々の血統での踏襲のみならず、一度その座に就いたら数十年は延々と王のままです。珈琲派の大臣さまは、ミルク派のドンさんにお伝えしたい内容を、もちろん王さまにもお伝えしたい、と望まれていらっしゃるのですよね」

 少女は念を捺すように、そうですよね、と珈琲派の大臣に迫った。

「そんなことは言っておらん」珈琲派の大臣は顔を真っ赤にして少女の質問を無下にした。

「自己言及は大事ですよ」少女は涼し気な顔で、小首を傾げる。「みなさん、まずはじぶんに当てはめて考える癖をつけるとよいと思います」

「子どもに何が解かるのか。大人の議論に口を挟まず、もっと勉強してから出直してきなさい」

 珈琲派の大臣の言葉に、ミルク派の騎士たちも追従し、そうだよキミ、と生暖かい眼差しを少女に注いだ。

「言った先からこれだもの」少女は天井を仰いだ。「批判をするのは構わないが、まずはじぶんたちに当てはめて考えてみたらどうですか――さっきあなた方が言ったことなのに。批判をするのもいけなくて、まずはじぶんたちに当てはめて考えもしないだなんて。はぁあ。勉強不足でごめんなさーい」

 少女はその場を立ち去った。

 家に戻り、彼女は将棋盤のまえに座った。「遅くなってごめんなさい。次の手は思いつきまして?」

「ほっほ。ようやっと閃いた。これでどうかね」

 将棋の駒を老人が動かす。

「良い手ですね。ですがそれにはこう返しておきましょう」少女は間髪容れずに駒を指した。

「う、うぐ。よもやそんな手があるとは」

「また熟考なさいますか」

「頼む」

「ではお時間を差し上げます。存分にお考えあそばせ」

 少女は席を立ち、書斎の本棚を見て回る。時間を潰すのにちょうどよさそうな本を引っ張りだすと、牛皮のソファに腰掛けた。

 本を開き、さっそく文字を目で追っていると、

「さっきはどこへ行っていたのかね」老人が棋盤から目を逸らさず呟いた。

「近くで政界の討論会が開かれていたので、お昼ご飯を済ませたついでに寄っていました」

「ほう。どうだったね」

「追いだされてしまいました。勉強が足りない、出直してきなさいと叱られてしまいました」

「ほう。そなたに勉強不足を説ける者がおったとは。世界は広いの」

 少女は微笑み、老人も愉快そうに綻びた。

「にしても、こりゃもう詰んどらんかね」

「一手だけ打開策があります。ヒントをお出ししましょうか?」

「いや、いい。自力で考えたい」

「ではぞんぶんに」

 少女は本の紙面に目を落としながら、ただの可愛いおじぃちゃまなのに、と思う。棋盤とにらめっこをする背を丸めた老人の姿はとても、一国の王とは思えぬ覇気のなさだ。

 珈琲牛乳さま、と巷では崇め奉られてはいるが、少女にとってはただの気の良い老人だ。老いてはいるが、精神は若い。

 未熟であることを愉快に思い、こうして孫ほども歳の離れた少女相手に、ムキになって将棋での勝負を挑んでいる。

 少女は一度も負けたことがない。将棋では無敗なのである。

 目を瞑ってでもかの老人には勝てるのだ。

 一国の王を赤子の手をひねるように負かしながら、片手間に本を読んで知見を深める。

 勉強不足はその通りだ。

 少女は討論会場で大臣や騎士たちに言われた通り、勉強をする。

 自己言及は大事よ。

 大事と知っているがゆえに。

 少女はまずはじぶん自身に向けて説く。





【万事屋の勘】2023/03/06(21:25)


 結論から述べると黒幕はコンビニチェーン店なのである。

 アラバキは万事屋である。雑多な仕事を手広く請け負いこなす傍ら、電子網上にて私生活の動画を上げ、日銭を稼いでいる。ファンがいるのだ。アラバキが欲しい品物を言うとそれを送ってくれる。

 しゃべりが上手く、着飾らないざっくばらんなアラバキの性格がウケるのだ。

 反面、本業の万事屋のほうがむしろ副業といった様相を呈しはじめた近年、アラバキのほうでも大きな仕事で成果を上げて宣伝惹句に使いたいと企むようになった。

「ほう。国家権力の大本を、ですか」

「そうなんです。諜報組織の大本を暴いていただきたいのです」

 その男はよれよれのスーツにスポーツハットの奇抜な組み合わせの装いだった。胡散臭い男である。依頼人はアガタヒコと名乗った。

 依頼人は話もそこそこに、現金をテーブルの上に置いた。札束である。ざっと見積もってもアラバキのふた月の生活費を賄える額がある。それを依頼人は前金で払うと言う。

 アラバキは表情筋を引き締めた。

「これは調査費としてひとまずお支払いいたします」男が言った。「この金額で可能な範囲で構いませんのでまずは調査をしていただき、成果があれば逐次追加致します。言い値で結構ですので、請求書を戴ければ必要経費としてそちらもお支払いいたします」

「破格の条件ですが、アガタさん。よろしいのですか」

「ええ」男は頷いた。「どうあってもこの国の暗部を暴きたいのです」

 話を聞くに、どうやらこの国には秘密の諜報機関があるらしい。ゼロ、または黒子と呼ばれる組織だそうだ。

 公安とは違うのか、と訊いたところ、公安にもそういった秘密の部署があるらしい。

「しかしそこが大本ではないのですよ。もっと根が深い。まるでアリの巣のように、どの組織、どの企業にも根が張られているのです」

「失礼ですが陰謀論とは違うのですか」

 大金を払うのだ。成果がありませんでした、となっては遅い。この手の釘は最初に打っておくのが吉である。

「陰謀論ならばそれでよいのです。実体が知りたいので、調査の末に何も解らなかった、というのであれば、それはそれで成果の一つとしてありがたく頂戴致します」

「そういうことであれば」

 アラバキは依頼を受けることにした。

 警察、公安、検察、自衛隊、内閣情報調査室。

 調べてみるとアラバキの知らない組織がこの国には無数にあることが判ってきた。研究所の体面をとりながら、内実は最先端技術を用いた情報収集とその解析を担っている組織とて少なくない。

 外側からでは内部でどんな仕事をしているのか実態が掴めない。

 従業員で縁を繋げそうな人物を見繕い、偶然を装い接触する。飲み屋に一人で入るタイプならば良好だ。

 警察官そのものは警戒心が強い。不審者への心得もある。

 だが掃除業者や出入り業者は違うはずだ。

 アラバキは飲料水メーカーに目をつけた。

 警察署内にも自動販売機はある。業者が飲み物の補充に出入りするのだ。

 比較的若くて、髪の毛を染めたり、ピアスをしたりしている相手を見繕った。

「やっぱ珈琲は売れるっすね」

 居酒屋で偶然を装い、同席した。カキタと仲間内から呼ばれる青年は、アラバキが気前よく酒を奢ると、気をよくして仲間を紹介した。

「俺ら、スケボーのチームなんすよ」

 四人のメンバーが座敷で、くつろぎながら酒を飲み交わしていた。アラバキはうまい具合に全員から愚痴という名の個人情報を引き出した。

 カキタが警察署の自動販売機に飲料物を補充する人員なのは調べ上げてある。知りたいのは部署内部の様子だ。

「警察の人らは正直、愛想わるいっすね。俺らとかそこにいるとも思われてないっすもん。挨拶とか一回もされたことないっすわ」

「へえ。忙しいからなんですかね」

「どうっすかねぇ。なんか見下されてる感がないとは言えねっすわ。つっても警察の人らが偉いのは確かっすけど」

 ババさんさぁ知ってるぅ、とほかのメンバーが酒を片手に笑声を上げた。アラバキは彼らにババと偽名で名乗っていた。「むかしこいつやんちゃしてて、警察のお世話になってんの。だから頭上がんねぇでやんの」

「暴走族とかだったりしたんですか」

「暴走族」と一同が顔を見合わせ、笑った。「いつの時代っすかババさん。漫画の世界にしかいないっしょ暴走族とか」

 アラバキの若いころにはまだ夜中になれば暴走族が夜空にバイクのエンジン音を轟かせていた。 

 となりの座敷に二人組の客が入っていくのが見えた。

 不機嫌そうな顔が目についた。

「なら何で捕まったんですか」アラバキはカキタの殻になったグラスに酒を注いだ。

「葉っぱっすよ」とカキタの友人たちが煙草を吸うような仕草をしてみせる。「つっても起訴はされねぇんで、すぐ保釈されるんすけどね。よっぽど大物じゃねぇと逮捕起訴はねぇっす。警察も、検察の人らとて暇じゃないんで」

「ほう」案外に頭のいいコたちなのかもしれない、とアラバキは認識を改めた。

 社会には目に視えない力関係がある。同じルールであっても、誰がいつどこでどのように破るのかによって罪に対する対応が変わる。

 権威があれば罪が薄くなる、といった単純な流れではない。却って、立場があるからこそ重くなる罪もある。

 しかしそれはけして社会正義ゆえ、倫理観の高さゆえではなく、やはりそこにも力関係から生ずる利権が関わっているのだ。

 アラバキはカキタとそれから三回ほど別の店で酒を飲み交わした。

 日を跨ぎながら不自然ではない流れで警察署内の自販機の台数や位置関係を把握していく。

 すると妙なことに、ある階のある自販機だけは珈琲ではなくコーラの消費量が多いことが判明した。

 それとなくカキタに訊ねると、

「言われてみればそっすね。コーラめっちゃ好きな人がいるんじゃないっすか」とあっけらかんとした返事があるばかりだ。

「部署で言うと近くに何があるんでしょうね。殺人課とかですかね」

「どうっすかねぇ。歩いてる人らはけっこう、ひょろっとした背広組の人らが多い感じっすね」

「ほう」

「現場で聞き込み調査してますって感じじゃないっす」

「立ち入りできる区画とできない区画はやっぱりあるんですよね」

「ぐいぐいくるっすねババさん」ニター、とカキタが口元を歪めた。「まあいっすよ。ババさんがカタギだろうとそうでなかろうと奢ってもらえるんで俺はラッキーっす」

「じつは趣味で小説を書いていてね」むろん嘘だ。こめかみをゆびで掻くのも忘れない。「リアルな一次情報は貴重なんだ」

「へぇ。直木賞とか狙ってるんすか」

「ま、まあ」とお茶を濁す。

「夢を追う大人、いっすよね。俺らですらいい加減現実見たらとか、スケボーして将来どうなんのとか散々言われてきてっすから。そういうんじゃないっすよねやっぱ」

 アラバキはたじろいだ。取材のつもりで接近したが、案外に素でこのカキタの無垢な前向きさに心地よさを感じつつある。取材対象への感情移入は危険信号だ。潮時だ、と撤退する決意を固めた。

 その後、アラバキは同じような手口で幾人かの出入り業者を当たった。

 違和感に気づいたのは、図書館で公安秘密警察についての書籍を漁っていたときのことだ。閑散とした館内で、二つ奥の棚のまえに立つ男の姿が目に付いた。

 以前どこかで見たことがある気がした。

 記憶を漁るうちに、男がアラバキのいる棚の列に現れた。何気ない所作で棚に目を配りながら本を探すように後ろを通り抜けていった。

 手元を見られていることにアラバキは気づいた。

 だがこちらが気づいていることを気づかれぬように自然体を意識した。

 男はそのまま別の棚の列へと移っていった。

 思いだした。

 アラバキはカキタに初めて声を掛けたときの記憶を引っ張りだす。居酒屋の座敷でしゃべっていた際、隣の座敷に案内された二人組がいた。本棚を見て回る男はその内の一人だ。

 不機嫌そうな顔つきが印象に残っている。

 間違いない。

 尾行されている。

 公安だろうか。

 嗅ぎまわっていることを気取られたか。

 しかしアラバキがカキタに接触したあの時点で尾行されていたとなると、いったいいつから目をつけられていたのかが解らない。

 ひょっとして、と図書館から脱したあとでアラバキは思い至る。

 電子情報の総じてが集積され、極秘裏に解析されているのではないか。

 依頼を受けてからというものアラバキは電子端末で幾度もこの国の諜報機関について検索した。国民の検索キィワードを集積し、解析する仕組みが築かれているのかもしれない。

 否、そういった電子網上のセキュリティが敷かれていないと考えるほうが土台無茶な話なのだ。

 アラバキは調査対象を国家権力のみならず、電子通信技術全般に広げた。

 この手の仕組みが築かれているのなら正攻法での調査では埒が明かない。相手とて調査の手が伸びることの懸念は抱くはずだ。容易に思いつく手にはおおむね対策が敷かれていると考えるほうが妥当だ。

 ならば過程を抜きに頭と尻尾を繋げる策がいる。奇襲とはおおむね、胴がない。頭と尻尾を結んで、ワープする。

 アラバキは世界中の「マルウェア」や「バッグドア」にまつわる記事を読み漁った。ネットでも収集したし、図書館や新聞社もあたった。

 デジタル通信技術の基礎から本を読んで知見を溜めた。

 解かったことの一つに、おおむねどの電子機器にもそれがプログラムソフトを内蔵する機器ならばまず開発者用のバックドアが組み込まれていることだ。安全対策の一つだ。むしろ、そういった裏口での干渉ができない機器のほうが危ない。

緊急停止などの安全装置とて、いわば強制的にプログラムに干渉するプログラム、という階層構造を有している。入れ子状になっていれば、それはバックドアとして機能する。

 一切の外部干渉を拒むならばそれはもはや自己完結した装置であり、スイッチを押して起動することも止めることもできない。

 機械には必ず外部と内部を繋ぐ節目があり、口がある。

 生き物と同じなのだ。

 したがって口からウィルスが入ることもあるし、ウィルスが節目を辿ってより根幹に近しい領域に侵入することもある。

 政府機関のセキュリティだけではないのかもしれない。

 アラバキは見方を変えた。

 仮に国民の電子情報をリアルタイムで閲覧可能な技術が敷かれているとすればそれは民間共同でなければ不可能だ。

 否。

 民間側の最先端技術を研究段階からリアルタイムで盗み見できればいい。

 となると、インターネットが世界に根を張りだしたころにはすでにその手の目的が、ネットワーク全般に設計図として組み込まれていたのではないか。

 秘密諜報機関を調べていたはずが、根っこはもっと深いのかもしれないとアラバキはじぶんの憶測とも呼べる全体像があながち的外れではないかもしれない懸念を覚えはじめた。

 その旨を中間報告として依頼主に伝えた。事務所に出向いてもらい、口頭での報告を行った。

「盗聴の可能性があるので、いまこの部屋に電子端末はありません」

「だから入り口で私の端末を回収なされたのですか」

「アルミ箔で包んだのも、電源をOFFにしても遠隔で盗聴くらいはできるだろうとの懸念があるからです」

「大本は世界規模だと?」

「支部は各々の政府に任されているのかもしれませんが。それら支部の上位互換の技術を持った組織があってもふしぎではありません」

「それは大国の政府機関、ということでしょうか」

「分かりません。この規模のシステムが敷かれていれば、むしろ出来ないことのほうがすくないでしょう。なぜ世界的に紛争が絶えないのか、テロを防げないのか。そこのところから陰謀を疑わないと不自然なくらいです」

「まるで巷の陰謀論のようですね。いえ、こちらで依頼しておいてどの口が言うのかなんですが」

「証拠を掴むのは至難かもしれません。優秀なプログラマーか、設計者がいればよいのですが。内部からの協力者がなければ素人での調査では埒が明かないのが現状です」

「この手の陰謀論は巷に溢れていますでしょう。中にはアラバキさんと同じような本格的な調査をされている方々もいらっしゃるのではないですか」

「いるでしょうね。しかし分母に比して該当者が少ないでしょうから、コンタクトを取るのはむつかしいでしょう。仮に相手を見つけられたとしても電子上ではそうしたコンタクトそのものがセキュリティ網に引っかかるでしょう。言い換えるならば、該当者はみなセキュリティ網にマークされているはずです」

「なるほど」

「もちろん、我々も例外ではないでしょう」

 打つ手なし。

 アラバキの判断はこのようなものだった。

 だがこの報告に依頼主は俄然やる気をだしたようだった。

「いいですね。そこまで掴めたのならば行けるところまで行きましょう。相手が我々をマークしているというのなら、反対におびき寄せて尻尾を掴んでやりましょう」「時間が掛かりますよ。成果を出せる保証もありませんし」

「構いません。アラバキさんの仮説が正しいとすれば、各国の大企業が市場に流した最新機器は、研究段階ではすでに一つの秘密組織がデータを集積し、独自に先行開発をしているはずですな」

「ええ。世界中の企業のデータを集積し、誰より優位に開発できるはずです」

「ならば逆算できるのではないですか。いま世に出ている技術と、それが研究段階だった時期から」

「秘密組織の保有する技術が現代社会の備える技術の何年先を行っているか、ですか?」

「はい」

 考えてもみなかった発想だ。アラバキは脳内でざっと仮説を広げる。

「ご依頼を継続して受けるかどうかを決める前に一つよろしいですか」アラバキは襟を正した。依頼主が無言で頷く。「仮に真相を掴めたとして、それでアガタさんはどうなさるんですか」

 仮に世界規模の秘密結社があったとして。

 全貌を知ったところで一介の万事屋にはどうしようもない。むろんそれは依頼人たるアガタヒコにも言える道理だ。

「そういうのは尻尾を掴んでから考えましょう。なに。不当に情報を集積されていたと知れば、各国の企業さんとて我々に協力してくださるでしょう。何せ、じぶんたちの努力をよそに、成果だけを掠め取られ、あまつさえ平和利用しておらんかったわけですから」

 現に世界は平和ではない。陰謀が渦巻いている。

「分かりました。では引き続き調査致します」

 経過報告は月一でアラバキの事務所で、との約束を取り付けた。

 アラバキは調査の手法を工夫した。

 過去と現代で、同類の事件の犯人逮捕までの日数を統計データとして分析した。すると過去には未解決事件のままの殺人事件や容疑者逮捕まで数年を要した事案が、事件発生からひと月以内で容疑者逮捕まで行き着く傾向にあることを見抜いた。

 なぜなのか。

 裁判記録を当たると一つの共通項が視えてきた。

 監視カメラに犯行時周辺の現場の映像が残されている頻度が年々あがっているのだ。監視カメラが全国的に増えている。街頭監視カメラ、マンション、なかでもコンビニエンスストアの監視カメラは重要な容疑者追跡装置として機能しているらしかった。

 調べてみると多くの店舗では警備会社と契約を結んでいることが判った。チェーン店ゆえ、親会社の方針なのだろう。監視カメラの映像も警備会社に記録収集解析されていると判る。

 店側にも録画はされているが、おおむね四十二時間で上書きされる方針がされている。動画データそのものは総じて警備会社で記録管理しているらしい。

 自動決算システムが普及しはじめている側面も影響しているのだろう。従業員を削減し、無人の店舗も増えはじめている。商品を手に取って店を出るだけでも自動で決算が済む。そういったシステムが流行りつつある。

 それを可能としているのが警備会社の存在だ。

 警備会社は大手を含め、全国に複数ある。コンビニチェーン店によって契約先は変わるらしい。同列店舗であっても契約店長の意向で選べるようになっているところもある。

 だがいずれの警備会社にも通じているのが、幹部に軒並み警察OBが名を連ねている点だ。経歴にそうとは記していないが、名前を辿ってみると元警察官僚であったり、警察関係者であったりと、因縁が深い。

 警備会社の人員に自衛隊経験者がすくなくないのも、何かしらのきな臭さを感じなくもない。

 コンビニエンスストアが契約する警備会社と、いわゆる公的な施設の警備会社では、その内訳もだいぶ様相が異なる。施設を巡回する派遣型警備員はのきなみバイトだ。

 だが警備会社のセキュリティ管理を担う側の管理者たちは軒並み、過去に警察や国防関係の職に就いていたりする。

 まるでかつての暴力団と警察の繋がりが、そのままスライドして警備会社と警察に擦り替わったような構図の相似を幻視する。

 事件があっても、いちいち監視カメラの開示請求をしていたらラチが明かないだろう。反面、警察と警備会社が繋がっていたら、阿吽の呼吸で追跡データとして監視カメラの映像を利用できる。

 のみならず、公的な施策で実施すればプライバシーの侵害の問題に行き当たる監視網を、コンビニエンスストアという民間の店舗を介して間接的に公共の空間に広げることで、その手の法的な制限を度外視できる。

 パチンコ店の三点方式のような仕組みである。

 警備会社が裏で国家権力と癒着している、と仮定しよう。

 データが流用されており、官民双方向で監視網が築かれているとする。

 むろんそれを構築するための技術者たちがいる。企業がある。 

 一つの機構として、一蓮托生の関係を築いていて不自然ではない。

 いったいどこが警備会社のシステムを開発したのか。

 検索してみると聞き慣れない会社名が表れた。

 データセンターを保有し、管理提供している、とある。

 調べると、国際的な電子通信会社だの子会社であることが判った。奇しくも、インターネット黎明期にあたって一強の地位を築きあげている通信会社である。

 子会社があることすらアラバキは知らなかった。

 否、無数の子会社があるのだろう。

 名前を変え、独占禁止法違反の範疇外になるべく策が取られているのかも分からない。これはブランド企業のとる基本的な戦略だ。

 ユーザーは数多あるメーカーから品を選ぶが、大本を辿るとどのメーカーも一つの企業のブランドであったりする。選んでいるつもりで、選ばされている。利益は何を選んでも同じ源流に集まるように策が敷かれている。

 組織の考えることはどの時代、どの企業であれ同じなのかもしれない。

 アラバキは企業同士の繋がりに興味が向いた。

 仮に警備会社と警察、そしてその裏に世界規模の通信会社が関わっていたとして。

 ならばコンビニエンスストアチェーン店がただ利用されただけ、とは考えにくい。

 むしろ、店舗を拡大してもらわねば警備会社を介した監視網は築けない。したがって、コンビニが全国で規模を拡大できるような施策が進まねばならないはずだ。

 非正規社員を増やし、バイトを量産する。

 高級指向よりも廉価な商品を愛好する国民性を涵養する。小型量販店の側面を持つコンビニは、取引先も多く、卸売りのまとめ役としての立場も築かれる。コンビニに商品を置けることのメリットは、コンビニチェーン店から締め出されるデメリットとの相乗効果により店舗数に比して、影響力が指数関数的に上がる。

 ATMや郵送サービスなど、金融との関係も深い。

 もはやインフラ基盤としてコンビニは現代社会に欠かせない存在と言えるだろう。

 コンビニ各社の大本を検索してみれば、さもありなんな大企業の名が連なっている。

 憶測には違いないが、アラバキの想定していた絵が一枚に収束するのを感じた。

 国策なのである。

 そこに付け入る勢力が海外にもあり、複雑に線が交錯して感じられる。

 問題は、いったいどこの勢力が要なのか、だ。

 否、中心と言えるほどの核はないのかもしれない。

 各々の利害関係がジャンケンの三竦みよろしくその都度に均衡を帯び、全体の流れを決める。どこか一つが指揮棒を振っているわけではない。各々の巡らせる陰謀の、その都度の影響力の強弱があるのみだ。じぶんたちに有利ならばひとまず流れに乗っておく。そうでなければ抗い、別の自利にちかしい策をとる勢力に取り入る。

 アメーバのごとき組織の網の目が、社会の暗部で蠢いている。

 当てが外れたな、とアラバキは思った。依頼主は言っていた。尻尾さえ掴めば、企業とて味方をしてくれるだろう、と。

 そうとは限らないかもしれない、とアラバキは焦燥感を募らせる。

 企業とて承知の「暗黙の仕組み」だったらどうか。

 暴かれて困るのは企業とて同じはずだ。

 敢えて情報を盗ませておき、その見返りを、素知らぬふりをして得る。

 国家なる巨大な組織機構は、自利になると見れば支援を惜しまない。盗んだ情報が絶えず利になるのならば、その利をもたらす企業には目こぼしを与える。企業とて、それくらいの機微には気づくだろう。だが自社の利となるのならば黙っていればいい。国益に寄与し、さらに社の利にもなる。一石二鳥である。

 暗黙の了解で、かような贈賄関係が築かれているのではないか。

 あり得なくはない。

 アラバキは脂汗を背に掻いた。

 黒幕はコンビニチェーン店なのだ。ただしそれはあくまで肉体としての基盤であり、それらを基にして根を生やす機構の総体は、世界中に張り巡らされた陰謀によって独自のDNAを有している。

 どこか一つの勢力が指揮を揮っているわけではない。

 おそらくそうだ、とアラバキは直観した。

 あるのは勢力の強弱だけだ。そしてその強弱は、国家単位でも、企業単位でも起きている。政府の意向によって企業の命運は細くなったり太くなったりするが、同時に企業の意向一つで政府内部の人事が左右される。政治家生命を太く長くするには、企業への手厚い「支援」が不可欠だ。

 しかもそれをあからさまな「支援」と示してはならない。陰謀なのである。

 直接にやりとりをしない贈賄は、もはや偶然の産物だ。

 以心伝心、テレパシーのやりとりで行われる利の応酬は、もはやそういう流れであり、天命だ。こうした理屈がまかり通る。法では防げぬ、不可視の穴となっている。

 支援の連鎖なのだ。

 問題は、それが暗黙の元になされ、記録上どこにも存在しない流れを築いていることにある。証明できない。あくまで任意に、各々が独自に選択を重ねているだけだからだ。

 だがみなが同じ方向に歩みだせば、それが一つの流れを築く。流れに反した者には利を配らず、支援をしない。それで流れは保たれる。

 陰謀なのだ。

 原理上これは、挨拶をしない人間が人間関係のなかで孤立する流れと同等だ。法に反してはいない。ただ、なぜかそうなる人間社会の傾向があるのみだ。

 同調圧力ですらない。

 陰謀は存在する。

 世界中に張り巡らされた不可視の利の応酬がある。

 だがそれを暴くことはできない。

 利と利の応酬を結ぶ糸が、物理世界に刻まれてはいないからだ。記録されていない。意識されていない。雨が降りそうなので傘を以って家をでる。それともコンビニで傘を買う。

 そういた客がいるから、ではコンビニのほうでも曇天の日は傘を多めに出しておこう。

 何の変哲もないビジネスの視点があるのみだ。

 利の応酬だからだ。

 だがそうした意図の読み合いが複雑に入り組むことで、全世界規模の不正な情報収集機構が組みあがる。誰か一人の指示のものではない。どこか一つの組織の引いた図案によるものではない。

 各々が自利を追い求めるその連鎖が、総体としての利の集積装置を生みだしたのだ。

 情報は利を生む。

 だからいまは情報が不正に吸い上げられる機構が築かれている。

 誰の指示によるものではなく。

 法に反しない範疇で、仕事から逸脱しない規模での指示を出し合いながら。

 だが確実に、それによって組みあがった仕組みは、現代社会の裏側に、それに関わることのできる者たちにとって優位な流れを生みだしている。

 暴けない。

 だが存在する。

 そんな不可視の流れがある。

 証拠を集めることは可能だろう。だがそれを一つずつ積み上げても、存在するはずの不可視の流れの全体像には辿り着かない。

 総体の機構を証明はできない。

 誰もそうした機構を設計してはいないからだ。偶然、機構のように機能する流れがあるのみだ。

 だがその流れを意識し、身を委ねることのできる人物や組織は、その流れの生みだす利に優位に預かることができる。利を享受できる。

 挨拶をしないよりも、したほうが人間関係を優位に構築できるのと同じレベルで。

 得られる利が桁違いであるだけで、構図自体は有り触れている。

 強いて証拠を固めて証明できるとすれば、政府と警備会社とコンビニエンスチェーン店の癒着くらいなものではないか。しかしそこには社会の治安を守る側面が確かにある。暴いて誰が得をするのかと言えば、これから捕まるかもしれない犯罪者と、一時の優越感を得る依頼主とアラバキ本人くらいなものである。

 果たしてそれが最善なのか。

 否、そこはどうでもいい。アラバキはただ依頼された仕事をこなすのみだ。

 じぶんは単なる万事屋にして便利屋だ。

 大きな成果を上げて名を売ろうと欲を張った不届き者である。

 潮時だ。

 そう感じた。

 これ以上の調査は時間と費用を浪費する。何より、すでに本業と化しつつあった動画投稿による収益が大幅に下がりつつある。

 今回の依頼は、万事屋としては破格であるが、一生の糊口を凌ぐには足りない。ならば損得勘定をして、優先すべきが本業と副業どちらなのかは推して知れる。

 アラバキは一連の調査を電子端末にレポートとして出力した。

 月一の経過報告で印刷したレポートを依頼主に差しだす。

「そういうわけで、調査はここまでとさせてください。お力になれずすみません」この旨はテキストメッセージでも事前に伝えてある。

「そうでしたか。レポートは、送っていただいたものには目を通してあります。証拠として活用できそうなもの、そうでないもの。さらに調査すれば証拠にできそうなものを含め、代金分の仕事はしていただいたと満足しております。ありがとうございました。私のほうでは引き続きほかの調査代行業者を当たってみます。助かりました。では、これにて」

 依頼人ことアガタヒコは事務所を去った。毎回のようにスーツにスポーツハットの出で立ちだったが、奇妙なその組み合わせも見納めかと思うと感慨深い。

 いそいそと資料を完了済みのファイルに仕舞っていると、ふと一枚の紙が落ちた。図書館から印刷してきたものだ。ほかにも大量のコピー紙がある。すべてに目を通したはずだが、ふしぎとその紙面だけは初めて見たように思えた。

 写真が印刷されている。

 大手企業の創立記念の集合写真だ。

 某コンビニエンスストアの大本の企業で、通信インフラから軍重産業にも幅広く事業展開している。この国屈指の世界的大企業だ。

 集合写真には創設者のほかに幾人かのメンバーが映っている。端っこのほうに、着物にシルクハットという出で立ちの人物があり、なぜか脳裏で先刻事務所をあとにした元依頼主のアガタヒコと重なった。だが顔は似ていないし、アガタヒコは着物でもない。

 思えば、いったいなぜこんな酔狂な仕事を依頼し、あまつさえ資金を費やせたのか。アガタヒコの側面像とて電子網で検索した。飲食店経営者として小さな喫茶店を経営しているところまで突き止め、満足した。

 だが資金の出処は気になる。

 昨今、喫茶店とて儲けは出ないだろう。 

 財閥の家系なのか。

 じぶんの親族の不祥事を嗅ぎまわっていた可能性はどうだ。

 なくはない。

 根元を穿り返してもみれば、とアラバキは考える。実績という実績のないじぶんのような万事屋に、これだけの金額を掛けてまで仕事を依頼するだろうか。詐欺ではないか、と疑い、しかしどうやら詐欺ではないらしい、と知ったことで意識がその方面から逸れていた。

 だがどう考えてもおかしいのだ。じぶんのような実績のない便利屋に依頼する仕事内容ではない。

 どこも引き受けてもらえなかった、との説明を受けた気もするが、どこまで本当かは分からない。

 どの道、すでに縁は切れた。

 これ以上の首を突っ込む真似はせずに済む。

 ソファに寝そべり、アラバキは数か月ぶりに事務所内で携帯用電子端末の電源をONにした。

 通知が山ほど届いていた。

 ざっと眺めながら仕分けしていく。

 何気なく開いたニュース記事では、人工知能を用いた大規模防衛セキュリティの構築を某大国が発表しており、記事に付随する広告にはなぜかどれもスポーツハットが並んでいる。

 アラバキは電子端末の電源をOFFにした。





【イザベルの望み】2023/03/08(00:14)


 九〇歳の大往生だった。

 イザベル・ワシントンは生涯独身で人生に幕を閉じた。誰に看取られるでもなく、衰弱した肉体から死期を悟り、自ずから病院に掛かり、深夜の病室のベッドの中で息を引き取った。

 遺体は翌日には火葬場に運ばれ、灰となった。共同墓地に埋葬され、イザベルを思いだす者はその後一人も現れない。

 さて、ここでイザベルがいかに恵まれた人間であったかを語り尽くしたいところだが、あいにくとイザベルがいかに恵まれた人間であったのかを知る者はなく、この手の話題に耳を傾ける者もいない。誰もがみな例外なくイザベルに興味がなかった。

 だが彼女は可能性の塊だった。

 彼女に選べない未来はなかったと言える。

 彼女が望めば、彼女は人類の科学的進歩を一万年は早めたはずだし、彼女が望めば老若男女問わず彼女の足元にひれ伏し、彼女の一言一句、吐息の揺らぎにまで耳を澄ませただろう。

 ひとえに彼女が万人から興味を持たれなかったのは、彼女があらゆる可能性から目を背けていたからだ。望まなかった。ただそれだけの差異があるのみである。

 イザベル・ワシントンは自身の特異性を自覚してはいなかった。だがそれも努めて自覚せずに済む道を歩んでいたとしか思えぬほどの、平凡な人生であった。

 否、平凡以下である。

 生活に困らないだけの蓄えがあったが、暮らしが楽だったとはとても言えない。

 服は数年のあいだ同じ服飾を着回し、食事も質素だ。

 大病を患わずに済んだのは幸いと言えるが、かといってでは健康だったのか、と問えばそうとも言いきれない。晩年は年中腰痛に悩まされ、眩暈がしたかと思えば半日は寝たきりだった。

 旅行には一度も出かけたことがない。

 しかし旅行の妄想は好きだった。

 イザベル・ワシントンは妄想が好きだった。

 じぶんにできないことを妄想して楽しんだ。じつのところ彼女には、それら妄想を現実にするだけの能力が備わっていたが、彼女自身がそれを億劫に思い、土台無理な話だと諦めていたので、けっきょくのところ彼女は死ぬまで何の特別な経験も積まずに孤独に死んだ。

 だが彼女はそれでもしあわせだった。

 日々の穏やかな風を感じ、ゆったりと変化する街の風景を眺めるのが好きだった。

 深夜、人々の寝息が夜の闇を色濃くしているかのような静寂のなかで感じる一人の時間は格別だった。イザベル・ワシントンはそうして夜な夜なじぶんだけの妄想を絵にしたため、秘かに日記のように残していた。

 イザベルが五十二歳のときだ。

 身を寄せていたアパートが隣人の火の不始末で火事になった。イザベルの部屋も火に包まれ、家財道具もろとも日記も焼けた。

 イザベルには身一つだけが残された。

 賠償金と保険金で、新しい生活を送る分には苦労しなかった。かといって暮らしが楽になったわけでもなく、失ったモノは返ってこない。

 イザベルが望めば、そのときに裁判を起こし、一生を遊んで暮らせるだけの金品をアパート管理会社からせしめることもできたが、イザベルは望むどころか、かような道があることを思いつきもしなかったので、彼女は生涯貧しい暮らしを送った。

 だが彼女はそれでもしあわせだった。

 彼女が努めてしあわせであろうと望んだからだ。

 彼女が望んだことは自身がしあわせであることだ。

 もうすこし付け足すならば、いかような境遇であろうとしあわせであろうと努めつづけるじぶんでありたい、との思いが彼女の望みのすべてだった。

 イザベルには自身の望みを叶えるだけの能力が備わっていた。それは彼女のみならず、全世界の生あるモノたちの足跡を眺め、比べ、見届けられる私が言うのだから間違いがない。

 イザベルが望めば、鳥のように空を舞うことも、魚のように泳ぐことも、平和とて実現できた。だが彼女はそれを望まなかった。仮に、自身に備わった能力に気づいたとすればきっと彼女は、世の平和を望んだだろう。その結果に、自身がどうなるのかもおそらく予期できたはずだ。

 イザベルは生涯を愚かなままで過ごした。誰もがみなイザベルを自身よりも愚かな人間だと見做し、現にイザベルは愚かだった。学業の成績も芳しくなければ、職業も長続きしない。何かをさせれば憶えるのに人の何倍も時間が掛かる。

 愚かなのである。

 愚かであることをイザベルは拒まなかった。

 愛おしんでいたとすら言えるかもしれない。愚かであろうと望んだわけではないにしろ、イザベルは賢くなりたいと望まなかった。

 愚かなままでいい。

 そのほうがしあわせなのだとイザベルは直観していた。

 イザベルはしあわせを求めつづけるじぶんを望んだのだ。そのためにはしあわせを望みつづけられる環境に身を置きつづけるしかない。

 いつまでも満たされぬ底の割れた桶のように、イザベルは生涯、しあわせを求めつづけた。

 しあわせなのだ。

 しあわせを求めつづけ、満たされぬ、その終わらぬことの約束された未来が。

 望めば成し遂げられぬことのない能力に恵まれたイザベルは、かくして何も望まずに、ただしあわせであることを選んだ。

 しあわせにすこし足りない。

 届かぬ隙間を埋めつづける日々を、彼女はつくづく慈しんだ。

 満たされぬから得られる束の間の「注ぎ」が、イザベルの求めたしあわせなのだ。

 乾くことなく、満たされることもなく。

 晩年のイザベルの姿を目にした者たちの多くは、つぎの瞬間にはイザベルの存在を忘れ、少数の者たちは、ああはなるまい、と己を鼓舞した。

 至福ではない。

 至福の正体ではあり得ない。

 イザベルのように成りたいと誰もが思わぬ世界にありながら、イザベルはただ一つきりの望みを、たった一人で叶えていた。

 手に入れたそれを、イザベルは誰に打ち明けることなく、一人寂しく生を終えた。

 九〇歳の大往生だった。

 イザベル・ワシントンを憶えている者はない。イザベルがそのことを望まなかったのは明らかだが、彼女がそれを不服と思わなかっただろうこともまた同じように明らかなのである。





【目の玉】2023/03/09(04:40)


 芽ではなく、目である。

 ジャガイモから目が出ているのである。

 芋虫や幼虫かとも思ったがそうではない。目なのである。

 祖父から段ボールでジャガイモがどっさり送られてきたのは三か月前の秋の暮れだ。野菜の値段が軒並み高騰し、さらに私の給料も目減りしたため、食費のみならず生活費がカツカツであった。祖父からのジャガイモは私にとって救世主さながらであったが、さすがに段ボールひと箱のジャガイモは手に余る。

 毎日ジャガイモ料理では飽きるのだ。

 しかし嗜好に身体は代えられない。化粧品よりも健康だ。健康を損なうよりも今日のジャガイモだ。

 私は三十路を過ぎてからというもの、老後のための投資を惜しまない。そのくせ銭がないので、惜しまぬ投資もやせ我慢が関の山だ。

 我慢してひとまず食う。

 なんでも食う。

 ジャガイモだって食わぬよりも食えたほうが身のためだ。

 かくして日に日にジャガイモは減っていったが、段ボールは手ごわかった。

 年を超えた三か月目にして、段ボールの底に鎮座したジャガイモたちは軒並み、表面に皺がより、笑窪のごとき溝からは目が伸びていた。

 芽ではない。

 目なのである。

 最初にそれに気づいたとき、私は段ボールの中にホタルがいるのかと見紛うた。

 薄暗い段ボールの底に光る点々があった。

 しかしよくよく目を凝らすと、目が合った。

 光るそれらは目であった。

 小さき、かわゆい目であった。

 目でたい!

 と思ったわけではなかったが、ジャガイモから芽が出るのは不自然ではないが、目ではおかしかろう、と感じたのは確かだ。私はなるべく現実を直視したくなかったので、段ボールの蓋を閉めて、上から世界カエル図鑑を載せて重しをした。

 ジャガイモから目が出てる。

 ジャガイモから目が出てる。

 思いながらも翌日、また翌日と時間が経過すると、なんだか私の見間違いな気にもなってきた。

 世界カエル図鑑をどかし、そっと段ボールの蓋を開けて覗いてみると、底に転がるジャガイモたちが一斉に私を見た。

 ぎょろぎょろぎょろ、が一斉に起こった。

 いっそ、「ぎょっ!」である。

 目玉だ。

 目玉がある。

 時間を置いたおかげか、萌えた目たちはすくすくと育ち、キノコ顔負けの目玉を割かせていた。一定間隔で目玉が動く。ちっちっちっち、と全体の動きは揃わないがタイミングが一緒なため、一種そういった装置のように視える。印象としては段ボールにヒヨコを詰めたら似たような動きが見られるのではないか、と妄想を逞しくした。

 目がこれほど吹いたらもはや食料にできぬではないか。

 私は憤りに震えた。

 目玉焼きにして食っちまおうか、とすら思った。刺す。フォークで。そうも思った。

 だがよくよく観察してみると、なかなか愛嬌のある目玉たちである。苗床となったジャガイモは目玉が成長した分だけしわくちゃに萎んでいた。ジャガイモの残量からすれば目玉たちはあと一回りは大きくなれるのではないか、と思われた。

 ふと段ボールの底にカビが生えているのを見つけた。

 こんもりと白くワタが浮いている。

 目玉だ。

 床に落下した目玉がカビているのだ。

 なるほど。

 すべての目玉が順調に育っているわけではなさそうだ。

 中には朽ちてカビの肥やしになる目玉もあるらしい。ではいまジャガイモに根付いたままの目玉たちは選りすぐりの生え抜きと言える。さぞかし栄養満点に違いない。

 私は腹を空かせた三十路すぎの純粋無垢な女神のように、フォークで目玉をちょんぎるぞ、と歌いながら、目玉たちの成長を祈願した。

 食ってやる。

 食らうてやる。

 私の飢餓感は限界であった。

 かわゆい、かわゆい目玉たちを、バターで炒めて、胡椒をまぶして、はふはふ息を吹きかけてから、がぶりんちょしてやる。

 想像したら唾液が滝のように溢れた。間欠泉さながらである。あやうく唾液で口の中を火傷しそうになった。

 目玉の成長を見守るために私は観察日記をつけはじめた。

 一日、また一日。

 そうしてノートの紙面が文字で埋まるにつけ、また一つ、また一つと目玉たちは段ボールの底で白いワタワタに包まれた。

 永久に眠る同士たちを尻目に、最終的に一つの大きな目玉だけが残った。

 どっしりと段ボールの中で咲き誇る目玉は、まるでラフレシアのようだった。数多のジャガイモを苗床にし、兄弟姉妹の目玉たちとの過酷な生存競争を勝ち抜いた至高の目玉である。

 フライパンを火にかけ、熱々にしておく。

 フォークとナイフを両手に握り、私はいよいよ目玉を味わうことにした。

 目玉は瞼がないわりに、私と目が合うなり、ニコっとした。

 私にはそう見えた。

 私もニコっとしてから、ほだされそうな心にきつく言い聞かす。

 武士は食わねど高楊枝。

 されど食わねば戦もできぬ。

 食ってやる。

 食らうてやる。

 けれどその前に、念のために近代利器の一つ電子端末に「ジャガイモ、目玉、食べていい」と打ちこんだ。すかさず電子端末が返事を寄越した。

「ジャガイモの芽には毒があり、目玉となると猛毒です。食べるのはお勧め致しません。最悪死に至るでしょう」

 私は段ボールの底で咲き誇る目玉を見た。

 ニコっ。

 瞼がないくせに、この目玉はよう笑う。

 愛嬌があるだけに、きょうのところは食べずにおいてやる。

 ナイフとフォークを握ったまま私は、後ろ手に体重を支えた。

 腹が盛大な午前三時の時報を鳴らす。

「苦労で泣く」

 目玉は目玉でも大目玉だ。

 しかし、食らいながらも、食えないのである。





【泣きっ面にくつう】2023/03/09(22:34)


 明日が天気になった。マイちゃんのせいだ。

 私が六歳のころ、近所のマイちゃんがブランコに乗りながら、「あーしたてんきになぁーあれ」と靴を飛ばした。

 その日から世界から明日が消えて、代わりに明日が天気になった。

 マイちゃんのせいだ。

 私はそのことを知っていたけれどマイちゃんだってまさかじぶんのせいで世界から明日が消えて天気になってしまうとは思いもよらなかったはずだ。私はこの事実をじぶんだけの胸に秘めて生きてきたが、いよいよこの秘密を使うときがきたかもしれない。

 マイちゃんに恋人ができたのだ。

 嘘でしょ、と思ったが、どうやら事実のようだった。まだ高校生と思って油断した。私があれだけ毎日密かにマイちゃんのために秘密を守りつづけてきたというのに、この仕打ちはいかがなものか。

「マイちゃん、マイちゃん。恋人できたって聞いたけどなんで」

「えへへ。告白しちゃった」

「好きな人いないって前に言ってたじゃん」

「だってちひろちゃんに教えると、ちひろちゃん、わたしの好きな人盗っちゃうんだもん」

「いらないよあんなジャガイモども」

「ちひろちゃんがジャガイモを嫌いでも、わたしはジャガイモ好きだし、好きな人にも告白しちゃう。いいの。ちひろちゃんには関係ないでしょ」

 あるよ、大アリクイだよ。

 天空から落下してきた少女を両手で受け止めるような恰好をとりながら、つまりが蟹股で足を開き、両手をつきだして関取さながらに前傾姿勢になった私は、全身で異論を表明した。

「い、いいのかなぁ」私は伝家の宝刀を抜くことにした。「私は知ってるんだよ。世界から明日がなくなって天気になっちゃったの。マイちゃんのせいだって」

「ふうん。それが?」

 マイちゃんは気にしていなかった。呵責の念がゼロだ。

「だって明日だよ。世界から明日を消しちゃったんだよ。ちょっとした大罪だよ、みんなにバレたら死刑だよマイちゃん」

「死刑ではないでしょ」

「それくらい重い罪ってこと」

「だとしてもだよ、ちひろちゃん」マイちゃんは指に髪の毛を巻きつけながら、「誰も信じないよそんなこと」とつまらなそうに唇をすぼめた。

「た、たしかに」

 衝撃だった。

 それはそうだ。

 考えてもみなかった。

 私はマイちゃんの言うことならたとえ火の中弓の中、私が牛と山羊のあいだに産まれた宇宙人だと言われても信じてあげてしまえるし、水と弓がじつは姉妹なのだと言われてもなんのこっちゃと思いつつも信じてあげてしまえる。しかし私以外の世の万人どもは、門の番人でもないのに無意義に疑り深く、マイちゃんの言動をろくすっぽ真に受けようとはしないのだ。

「だってわたし、バカだし」

「ノンノン」

 私はふたたび全身で異論を示した。具体的には蟹股になり、両手でドジョウ掬いをするかのごとく前傾姿勢で、「マイちゃんは天使だよ」と訴えたが、マイちゃんは笑窪一つ空けることなく、「ちひろちゃん、うるさい」と小声で吐き捨てた。

 吐き捨てられた毒とて私にとっては天使の落とした羽さながらの甘美な珠玉そのものであるので、私は耳にこだまするマイちゃんの、私の名を呼ぶ声と、針で刺すような「うるさい」を脳みそのひだひだのあいだに刷り込むように反芻した。

 そうして私がうっとりとしているあいだにマイちゃんはそそくさと私のまえからいなくなった。私はうっとりしながらも傷つくところでは傷ついており、「そっか。私はうるさいのか」と言葉通りに受け取った。

 胸にくるし、涙出る。

 秘密を守ってあげていた恩を傘に着せればいざとなればマイちゃんの身も心も未来すらもそっくりそのまま私のものになるだろう、と高をくくっていたが、鳶が油揚げをさらわれるがごとくどこの馬のものともゴリラのものとも知らぬ野郎にマイちゃんの恋人の座を奪われた。

 私の長年の初恋はそうして終わりを告げた。

 きょうからは新しく失恋の日々が幕を開けるのだ。長くなりそうな予感がした。

 マイちゃんと恋人となる未来は私からは薄れたが、まったくなくなったわけではないだろう。かろうじて結ばれる未来もあり得よう。天変地異か宇宙人の襲来かあって、なんやかんやあって私とマイちゃんが恋人同士になる明日が来てもなんら不思議ではない。

 だが何の因果か、世界からは明日が消えて久しいし、それを消した張本人からは袖にされるし、私にはどうあっても明るい明日が訪れることはないのだった。

「てーんき、あしたに、なぁーあれ」

 私は靴を飛ばしたが、上手く脱げなくて靴が顔面を直撃した。散々である。

「泣きっ面に靴ってか」

 空には大きな虹が掛かっていた。

 曇天、雨天、青空に夕焼けと、目白押しである。多種多様の天気が地層のように連なっており、明日の代わりに未来をそうして埋め尽くしている。 





【ここの歌は】2023/03/11(00:30)


 かつてこの地で繁栄した種の残した遺物だ。

 探査機に掛けると、「歌」と出た。

 復元機に掛けると、「旋律」と「律動」と「鳴き声」が流れた。

 歌と呼ばれる古代種の「生態事象」だと判る。

 生態事象は、固有の構造を有する時空が出力する情報結晶体と言い換えることができる。固有の構造がさらに構造の素子として振る舞い創発を経ると、情報結晶体を生みだす。

 天体とて内部構造ごとに固有の性質を帯びる。地球と太陽は違う。太陽とブラックホールは違う。しかし同じく時空が錯綜し編みあがったことで生じた構造体であることに相違はない。

 銀河とてそうであるし、銀河団とてそうだ。

 ひるがえって、生命体と呼ばれる時空構造体とて例外ではなく、生態事象はそうした固有の性質を宿した構造体が生みだすことの可能な副産物――顕現させた性質そのものと言える。

 かつてこの地上に栄えた古代種は、「歌」を生態事象として生みだせた。情報結晶としての側面を持つそれは、単なる音の複合では成し得ない情報を含むこととなる。

 おそらくこの手の「歌」を生みだせた古代種は、ほかにも同じレベルで情報を自在に編みだせたはずだ。

 案の定、ゲーグルに命じて穿鑿させると、続々と古代種の生態事象と思しき遺物が発掘された。

「何回期のモノだ」

「そうですねぇ」ゲーグルが答える。「三回期のアブル群のものでしょうか。おそらく人類と呼ばれる古代種ですね」

 表面を撫でつけるようにすると、球形のゲーグルは即座に表面に時空情報体を浮かべた。時空情報体は、四次元を一次元で表現可能な言語である。過去と未来の情報を時系列に縛られずにいちどきに把握可能だ。

「なるほどな。ペペペ師が研拓された古代種か」

「歌についての解析も済んでいるようですよ。摂取致しますか」

「いまはいい。それよりもいまは、この固有の【歌】を生みだした生態事象主に興味がある。いったいどういった個体がこの【歌】を生みだしたのだ」

「解析結果によれば、その【歌】の原型モデルはほかの生態事象主が生みだしており、その原型モデルの【原型】をなぞることで【歌】にしているようです」

「その原型モデルの【歌】は聴けるのか」

「はい。こちらに」

 ゲーグルが【歌】を空気振動を介して再現する。

 しかし、原形モデルは、この手で発掘した遺物の【歌】とは似て非なるものだった。

「遺物の【歌】のほうが優れているな」

「いいえ。ペペペ師によると、原形モデルのほうが優劣で言えば統計上、優れていることのほうが多く、そして解析結果によればこの【歌】もまた、原形モデルのほうが優劣で言えば上です」

「そうは思えぬが」

「それはですね、ンンンさん。ンンンさんが、ご自身の手で発掘したこの【歌】を特別視なさっているだけなのだとわたくしめは思いますが」

「そういうつもりはないが」

「でしたらちょうどここに、ンンンさんの発掘なされた【歌】の鳴き声を元にして、わたくしめが独自に出力致しました【歌】がございます。ンンンさんが特別視なされる生体事象主の出力波形と類似の、しかしまるきり別の生態事象を再現しました。これを受動してなおこちらの【歌】のほうが優れている、とお考えならば、それはきっとンンンさんの知覚機能におかれては、原形モデルの【歌】よりもその類型の【歌】を出力する生態事象主の出力系――鳴き声――に、何かしら固有の優れた面があることによる特異性の発露がある、と推測されるでしょう」

「ややこしいな。つまり、なんだ。この【歌】を出力する個体が特別だ、ということか」

「それを確かめるためにこちらをまずはお聴きください」

 ゲーグルが【歌】を再現する。

 耳慣れない情報結晶だ。

 だが【歌】を形づくる鳴き声は紛うことなく、この手で発掘した【歌】の生態事象主の鳴き声と一致する。

「やはり原形モデルよりも、こちらのほうが優れていると感じるが」

「ならばそれは、この生体事象主の出力機構とンンンさんの知覚機能の相性がよいのでしょう。いわば【もつれ状態】にあるものかと」

「量子もつれと同じだと?」

「共鳴しているのでございます」

「量子もつれが共鳴現象の一種とする説は、メメメ師が唱えているだけでまだそうと決まったわけではないだろう。だいたいメメメ師の説では、別途にラグなし相互作用領域の展開が必須条件だったはずだが」

「時空が階層性を伴なっており、電磁波の伝播する層によっては光速を超え得るものの層ごとに時空変換されるがゆえに、波長が伸び縮みする、との説ですね」

「仮説としては異端の部類だよゲーグル」

「だとしても、ですよンンンさん。ンンンさんの知覚機能は、ンンンさんの惹かれるこの【歌】を生みだす生態事象主の出力機構と相性がよいのは事実でございましょう。これはもう、共鳴している、としか言えないのでございますよ」

「共鳴は双方共に相互作用し得てはじめて共鳴と言えるはずだ。一方だけが相手色に染まってもそれは共鳴とは言わぬだろう。違うか」

「ですから何度も申しておりますでしょうに。ンンンさんがこの【歌】を生みだす生体事象主の出力機構と共鳴するように、この【歌】を生みだす生体事象主の出力機構とて、ンンンさんの知覚機能と共鳴しているのでございますよ。確率の問題として、古代種の遺物たる【歌】を初見で、聴き分けることが可能なことがそもそもおかしいのです。確率としてほぼあり得ません。ですが、同じ情報結晶を帯びた【歌】であっても、原形モデルの【出力】との区別がンンンさんにはつきました。試しにこちらの【歌】はどうですか」

 ゲーグルが別の【歌】を再現した。

 不快ではないが、いまいちピンとこない。

「嫌いじゃないが、これが何だ」

「やはりそうですね。いまのは先ほどお聴かせした原形モデルを出力された生態事象主の別の【歌】です。しかしンンンさんは同じ生態事象主だと見抜けませんでした」

「そりゃそうだろ。ゲーグルは、古代種【キョウリュウ】の鳴き声を聴き分けられるのか。生態事象主ごとにだぞ。無理だろ」

「学習しなければ不可能でしょう。しかしンンンさんは、ご自身の発掘なされた【歌】の生態事象主の【出力】であれば聴き分けられるんです。これはもう、確率の問題としてあり得ない事象と言えましょう。ただし、量子もつれにおいて、現在のンンンさんと、過去の生態事象主さんのあいだで【共鳴】していない限りは、との限定がつきます」

「まどろっこしいな。結論を言え、結論を」

「ですから最初から申しあげております。ンンンさんは、太古も太古――三回期前の文明における古代種【人類】のたった一個体と共鳴し合っているのでございます。ンンンさんの発掘なされた遺物――【歌】――を出力した生態事象主はすでにこの世にはおりませんが、それでも実存したことはまず間違いないでしょう。その時代にあって、未だ誕生していないンンンさんと、その古代種のたった一個の生態事象主は、【歌】を介して共鳴し、もつれ合っているのでございます」

「よく解からんな。つまりこの【歌】は私にとって特別だ、との理解でいいのか」「はい。その【歌】のみならず、それを出力可能な生態事象主、いまは存在し得ない古代種のなかの一個体は、ンンンさんと固有の関係を結んでおります。それを特別な、と言い換えても構いません」

 ただし、とゲーグルは宙に浮くと収斂し、こちらの肩にはまった。我が肉体は穴ぼこだらけだ。我が穴ぼこにぴったり納まるのがゲーグルは好きらしい。「ただし、どうあってもンンンさんはその古代種の一個体と触れ合う真似はできないのですが」

「言われるまでもない。当たり前の話だ」

「そろそろエネルギィ供給のお時間ですよンンンさん」

「いい塩梅だ。ほどよく消費した。ではまいろうか」

「はい」

 ゲーグルの案内に従い、発掘場をあとにする。

 何度もゲーグルに【歌】の再生を命じながら、何かと雑談を挟もうとするゲーグルのことのほか不器用な感情表現の発露に、【歌】を通じて異なる二つの愛着を重ね見る。





【館設計士の屈託】2023/03/11(16:46)


 ヤバ氏は館設計士だ。

 犯罪者たちに、殺人にうってつけの「館」を提供すべく日夜、新たな完全犯罪を可能とする「館」を設計している。

 私はしがないミステリィ作家だ。

 とあるツテからヤバ氏の存在を知った。

 つぎに売れなければ廃業の節目に立たされぬとも言えぬ鳴かず飛ばずの底辺作家である。仮に完全犯罪を現実に可能とする館が存在するならば、ミステリィの舞台としてこれ以上ないほどの取材源となる。

 館設計士との職業一つで、小説のネタとしては申し分ない。

 私はヤバ氏の元を訪れた。

 紹介状を渡すと、ヤバ氏は初対面の私に対しても柔和な笑みを向け、どうぞ、と屋敷の中へと誘った。「十七時までは時間がありますので、ごゆっくりどうぞ」

「立派なお住まいですね」ソファに腰掛ける。「豪邸と言って遜色ない建物に初めて入りました」

「そんなたいそうなものじゃないですよ。失敗作です。設計通りに建築できなかったようで、壊すのももったいないし、住み着いているだけです」

「ヤバさんは館設計士と聞きました。なんでも、殺人向けの館を設計されているとかで」

「否定はしません」

「つかぬことお訊きしますが、捕まったりはしないのですか」

「僕は設計するだけですから。相田さんはミステリ作家さんでいらっしゃるようですが、ご著書で殺人トリックを描いて逮捕されるのですか」

「それは、ないですが」

「僕も同じです」

 言っている理屈は分かるが、実際に殺人可能な館の設計とミステリ小説を同列には語れないだろう、と感じる。建築法に違反しない形で殺人可能な館が設計できるのかも疑問だ。

「取材にこられた、とのことですが、どういった話をお話しすれば」

「あの、不躾なお願いなのは承知なのですが、できればいままで設計されてこられました館のトリックなどを教えていただければ、と」

「小説に用いるのですか」

「そのまま流用するつもりはないのですが、たいへん勉強になるかと思いまして」

「使ってもいいですよ」

「へ?」

「トリックに。もし使えるなら、ですが」

「よ、よろしいんですか」

「ええ。それで困るのは僕ではなく、僕の設計した館を用いて殺人を行った犯人たちです。誤解を一つ解いておきましょうか」ヤバ氏は紅茶のお代わりを注いだ。「僕は殺人のために館を設計したことはないんです。あったらよいな、と思う館を設計すると、それを基に建てられた館がなぜか殺人事件の舞台になる。要は、殺人に利用されてしまうんだけなんです」

「そうなんですか?」

「はい。僕は殺人のために館を設計したことは一度もありません」

 一度席を立つとヤバ氏は分厚いアルバムを手に戻ってきた。

 たとえばですが、とアルバムを開く。写真を一つ指で示した。「この館は崖からの絶景を拝めるように、館の土台が回転するようになっています」

 写真には崖の上に建つ館が映っていた。崖スレスレだ。館は半球の形状をしており、崖側――つまり海が見えるほうの建物側面が壁になっている。窓がないのは日除けだろうか。

「リモコン一つで館が回転し、海の上に館が浮かぶような恰好をとります」

 半球の弧の部分が、土台が回転することで崖より先に移動するらしい。

「この建造を可能とするため、館の基盤部分を地上部分に出ているのと同じだけ崖に埋め込んであります」

「この館で殺人は?」

「起こったようですね」ヤバ氏の表情に変化はない。嘆くでもぼやくでもない口調からは、そのことへの憤りや悲しみを感じ取ることはできなかった。「客人を招いたが、館の主は館の構造を知らせていなかったようで。館が回転して海の上に浮かんでいるあいだに、館内で騒動が起き、館の外に逃げ出そうとした者が崖下に落下したようです。玄関から飛びだせば、海へと真っ逆さまです。館を元に戻せば、まるでじぶんから崖下へと飛び降りたようにしか見えません。完全犯罪のトリックとして利用されたようです」

「ですがヤバさんがそのことをご存じということは」

「ええ。犯人は無事に逮捕されたようですよ。僕がそのことを知ったときには、館に招待された客人の一人がすでに謎を解いていたみたいですが」

「ほかの館も似たようなことが?」

「そうですね。設計したすべての館が建造されたわけではありませんので、建築された中では、半数ちかくで殺人や犯罪行為が行われたようです」

「件数で言うとどれくらいですか」

「二十は超すんじゃないでしょうか」

「二十」絶句した。

 仮にすべてが殺人事件だとしたらぞっとしない。

「たとえば部屋が真空になる館。たとえば急降下する館。あべこべに急上昇する館。いずれも設定によっては人間を窒息させ、或いは圧殺可能です」

「重力加速度、ということですか」

「はい。ロケット型館のようなものを想定してください。真下に加速するか、真上に加速するかの違いがあるだけです。あとはそうですね。すべての部屋が縦横無尽に入れ替わり可能な館も設計しました。エレベーターの原理を各部屋に組み込み、立体パズルのように部屋の位置を自在に入れ替えることができます。しかしこの仕掛けを逆手にとった犯人がいました。隣の空き部屋に殺したい者の宿泊部屋を移動させ、アリバイを作りながら殺人を行ったのです。位置関係としては、最も離れた場所に犯人の部屋と被害者の部屋は位置していました。館の仕掛けを知らなければ、誰にも見つからずに部屋を移動することはできません」

「それも解決済みなんですよね」

「客人の中に館の仕掛けを見抜いた方がいらっしゃったようです」

「よかったですね」

「はい。あとは海底に沈む館も設計しました。どうやら建造過程で窓に加工が施されたようで、海底に沈んでいても窓には陸の風景が映しだされるようになっていたようです」

「では、海底に館が沈んでいるあいだに間違って窓を開けたら」

「ええ。部屋には海水が雪崩れ込み、水圧も相まって溺死するでしょう。現にそうして殺人が行われたようです」

「ありゃりゃ」

 ひどい話だ、と思いながら、これは使えるな、と昂揚しているじぶんを頭の隅で認識する。

「あとは、先ほど話しました、部屋の入れ替わる館の構造ですね。応用して、延々と同じ区画から出られないような迷宮を設計したことがあります。扉を開けても開けても、延々と同じ廊下がつづきます。ある区画の外には出られない。そういった館を設計しましたが、やはりこれを用いた殺人事件が」

「おそろしいですね」出られない館を想像した。とあるホラー映画を連想し、そのあまりに悲惨さに身の毛がよだった。「説明もなくそのような現象に見舞われたら発狂してしまいそうですね」

「発狂した方もいらっしゃったようですよ。そうして、殺し合いに」

「ほかにもあるんですかまだ、動く館が。ヤバさんの設計した館が」

「あります。いまも設計途中の館がひぃふぃみぃ、と六つはあります。アイディアだけは無尽蔵に湧いてくるので」

「僭越ながら、ミステリィ作家になられたりはしませんか。私が単に読んでみたいです。ヤバさんの書かれた小説を」

「文章のほうはからっきしですので」ヤバ師はアルバムを閉じた。「もし小説に利用できそうなトリックがあるようでしたらご自由にお使いください」

「それはもう、たいへん刺激になりました。参考にさせていただきます」

 懐から用意してきた封筒をテーブルの上に置いた。「心ばかりですが、どうぞ」

「いえいえ、戴けません」

「そういうわけには。貴重なお時間だけでなくお話まで聞かせていただいたからには、何もなしというわけには」

「それを言うならお互いさまですよ。僕のほうでもインスピレーションが湧きました。小説家に適した館を設計してみたくなりました」

「小説家に適した館、ですか」

「はい。僕なんかの話が発想の元になり得るのなら、仕掛けが自己増殖する館を設計してみようと思いまして」

「仕掛けが自己増殖、ですか」

「現実には建造するのは無理かもしれませんが、電子上で設計するだけならば可能でしょう。いわば、館のカタチを成した電子生命体です」

「それは、えっと」

 館と言っていいのだろうか。

「館とは畢竟、人間の住まう家です。住まいが連なり一塊になっている。空間が気泡のように連なればそれもまた館と言えるでしょう。仮想現実と相性がよいと考えます」

「な、なるほど?」

「異なる無数の小説世界が一か所に寄り集まっている。そういった館です。インスピレーションが湧いてきました、ありがとうございます」

 熱烈に感謝され、却って恐縮する。

 何もしていないし、いくらなんでも正気の沙汰ではない。

 仮想現実に館を設計する?

 いや、どちらかと言えば、仮想現実そのものを館にする、と形容したほうが正確なのではないか。

「でも安心ですよね」言葉が見つからなかったので気休めの感想を口にした。「仮想現実の館なら実際に建築されることはないですし、殺人に利用されることもないでしょうから」

 ヤバ氏は小首を傾げるとしばらく虚空を眺めた。

 それからはたと思いついたように、「ああ」と小刻みに首を縦に振った。赤べこのようだな、と思う私をよそに、ヤバ氏は言った。「一生出たくないと思うような館になります。人間の魂を閉じ込めるには充分でしょう。でもそうですね、殺人には使えそうもないですね」

 だって、とヤバ氏は破顔した。

「たとえ餓死しても、ゲームのしすぎとの区別は原理上つきませんから」

 殺人として立件はできない。

 館設計士は屈託なくそう述べた。

 壁掛け時計が鐘を鳴らし、十七時の到来を告げた。





【黒猫の満天】2023/03/12(01:42)


 黒猫を飼い始めた。

 夜を砕いて生みだした黒猫だ。世界中の人間たちが飼うことになった。

 黒猫は夜の化身であり、できるだけ多くの者たちが黒猫を飼えば、ふたたび世界は朝と昼を取り戻す。

 夜を明かすには夜を砕いて黒猫にし、みなで飼い慣らさなければならなかった。

「そんなこと急に言われても」「押しつけられても困るだけだよ」「黒猫はちょっとね」「夜のバケモノってこと?」「不気味」

 世界中の人間たちがみな猫好きというわけではない。反発の声は各所で湧いた。

 世界中の三割の人間たちが黒猫を飼いはじめたが、残りの七割は一向に黒猫を引き取ろうとはしなかった。夜は薄ぼんやりと霞んだが、それでも夜は夜のままだった。

 満月の夜空くらいの明るさではある。

 二十四時間四六時中、世界は朧げな闇に沈んだ。

 あるとき、一人の少女が言った。

「一番大きな黒猫をください」

 できるだけ大きな、との少女の注文に、夜の番人たちは快く応じた。

 星明かりの楔を、月光の金槌で以って夜空に打ちつけ、夜を砕く。

 少女の言うように、できるだけ大きな黒猫を生むために。

 夜空はパリンと砕け、それはそれは巨大な黒猫が誕生した。

 少女は巨大な黒猫を飼った。

 巨大な黒猫は、巨大な夜の破片からできていた。

 夜がふたたび明けるようになり、人々は久方ぶりの陽の光を全身に浴びた。

「おっきな猫ちゃんね」通りかかりの夫人が仰け反るようにした。

「いしし。一番おっきな黒猫ちゃんなの」

「夜の化身みたいねぇ」

「みんなが要らない分、わたしがもらっちゃった」

 巨大な黒猫は日がな一日寝てばかりいる。

 ふたたびの夜明けを迎えた世界は、しかし今度は一向に更けなくなった。夜が訪れない。日差しは二十四時間三百六十五日休みなく絶えず頭上から降りそそいだ。

 少女の巨大な黒猫に、夜を割きすぎたのだ。

「すまないが、いったんその黒猫を夜に戻させてくれないか」少女の元に夜の番人たちが訪れた。

「このコはどうなるんですか」

「消えてなくなるが、今度はもっと小さいのを用意してあげるよ」

「イヤ。このコじゃなきゃ絶対イヤ」

 少女は巨大な黒猫の前足に全身を埋めた。

 少女が頑なに拒むので、夜の番人たちは世界中に配ったほかの黒猫たちを回収することにしたらしい。だが少女に限らず、いちど引き取った黒猫を手放そうと考える者は稀だった。

「夜がこなくなってもいいんですか」夜の番人たちは世界中の人々に訴えた。

「知るかいね。あんたらはじゃあ、黒猫ちゃんがいなくなってもいいって言うのかい」

 そうだ、そうだ、と猛反発に遭い、夜の番人たちは口をつぐんだ。

「夜かぁ。夜なぁ。ねえ、わたしの大きな黒猫ちゃん。あなたちょっと、そこらを駆け回ってみたらどう?」

 寝てばかりいる巨大な黒猫に少女は語りかけた。巨大な黒猫は目をつむったまま、片耳だけを持ち上げた。

 少女は巨大な黒猫の足元で暮らしている。巨大な黒猫の陰が落ち、そこだけは相も変わらず暗闇に包まれていた。

「あなたの大きな身体はいまのままでも夜みたい。ときどきでいいから寝る場所を変えてみない?」

 巨大な黒猫は億劫そうに大きな欠伸を一つすると、のっそりと山脈のような伸びをした。

 以来、世界中の土地土地には通り雨のように夜が訪れる。

 巨大な黒猫が寝床を移すごとに、あちらに、こちらに、ふいの夜の帳が幕を張る。夜の番人たちはそのたびに巨大な黒猫を追い駆け回し、少女は巨大な黒猫と共に旅をする。

 天上から注ぐ陽に照らされ、巨大な黒猫の毛はキラキラと輝く。

 真下から眺めるとまるで星空のようで、少女は巨大な黒猫を、満天、と呼んだ。

 黒猫を飼い始めた。

 満天の星空のような黒猫を。

 少女は満天の星空のようなその猫と共に暮らし、やがては夜の守り人と噂されるようになるが、それはまだ先のことである。





【毒雲は問う】2023/03/13(02:47)


 マブ師は高尚な学者だ。

 愛とは何かを世界中の弟子たちに説き、尊敬の念を一身に集めている。

 しかし世界中の人々がマブ師の眩い「愛」を知ってなお、世界中の空からは毒雲が消えることはなかった。

 毒雲は地表に死の雨を降らす。

 人類絶滅は時間の問題だった。

「マブ師。愛は世界を救うのではないのですか」

「愛は世界を救うよ。いまは愛が足りぬのだ」

「マブ師はいま何をなさっておいでですか」

「愛とは何かを掘り下げて考えておる。きっと何かが足りぬのだ。愛の正体を突き詰めれば、きっと人類は救われる」

「さっき外で浮浪者の方々がゴミ拾いをしていました」

「ゴミとて利用すればお金になる。食べるために懸命なのだ。わるく言ってやるでないぞ」

 小僧はきょとんとする。

 浮浪者をわるく言ったつもりはない。事実をただ口にしただけだ。

 強いて言えば、浮浪者の方はゴミ拾いをしているのに、マブ師は何もせず部屋に引きこもっている。「愛とは何か」ばかり考えていて、なんでかな、と小僧は素朴な疑問を抱いたのだ。

 小僧の疑問とは裏腹に、マブ師は小僧が浮浪者にわるい心象を抱いていると類推したのだ。何と何を類推したのだろう。

 小僧はここでも疑問に思ったが、マブ師の、「おお真理じゃ」の声に意識をとられた。マブ師が紙面ごと机を切りつけるように筆を走らせた。

「愛とは、瞬間ではなく、瞬間瞬間の相手への気遣いの軌跡なのだ。分かった、分かったぞ」

 マブ師がかように興奮しているあいだにも、全世界の空には毒雲が分厚く掛かり、浮浪者はゴミを拾い、マブ師の教えに感銘を受けた世界中の弟子たちがこぞって毒雲を散らすべく日夜研究に明け暮れている。

 マブ師だけがゴミ一つ拾うことなく万年部屋に引きこもって「愛」を考えつづけている。立派だ、立派だ、と世の人々は言うけれど、小僧にはそれが不思議に思えて仕方がない。

「マブ師、あの」

「いまいいところなのだ、話しかけるでない」

 ぴしゃり、と怒鳴られ、小僧は飛び跳ねた。怖い、と思った。

 マブ師は「愛」を追求し、「愛とは何か」を考えつづけている愛の権威だ。けれどマブ師からは「愛」よりもどちらかと言うまでもなく「恐怖」を感じた。

「ぼく、ゴミ拾いしてきますね」

 集めたゴミがお金になるのなら、換金したそれを浮浪者の方に贈ってあげようと考えた。

 マブ師は自己の世界に没入していた。小僧がその場から去ったことにも気づかぬ様子で、一心不乱に紙面に文字をしたためている。

 小僧は外に出て、毒防布を頭から被る。

 毒雲は絶えず頭上から毒の霧を撒き散らす。ゴミ拾いも命懸けだが、それでも毒雲の発生要因と目される積もりに積もったゴミの山を、小僧は浮浪者たちに交じって拾うのだ。

 愛は世界を救う。

 マブ師はそう説くが、小僧はひとまずむつかしいことは抜きにして、目のまえのできることに手を伸ばす。

 ゴミは世界を覆う。

 毒の雲となって人々に愛とは何かを問いかける。





【脳波同調機】2023/03/13(20:04)


「ほう、殺意をですか」

「そうなんです。この脳波同調機を用いれば、殺人を犯しそうな人間の殺意を小説や絵画に変換し、他者を殺傷させることなく鎮静化できます」

「すばらしいですね」

「加えて、何も施さなければ殺人犯になってしまうような人間の殺意から転写される小説や絵画は、観る者を魅了し、付加価値を増します。即物的な言い方をすれば、売れるんです」

「経済効果もある、と」

「はい。いま世に出回っているヒット作のほとんどは、じつはこの脳波同調機を用いて創作物に変換した【殺意】なんです。ホラー映画なんかはとくにそうですね。原作はみな、本来なら凶悪犯罪を引き起こすような者たちの内に秘めた殺意が極上の物語となって昇華されています」

「社会福祉にもなり、経済効果も生む。あまりにいい話ばかりで逆に胡散臭く思えてしまいますね。いえ、これは単なる冗句ですが」

「デメリットがないとも言いきれません。本当を明かせば、世の商業娯楽作品のほとんどは脳波同調機によって生みだされた作品ばかりなんですが」

「どんなデメリットが?」

「殺意は問題ないのです。ホラー作品になる。これはよいのですが、問題はハッピーエンドの作品なんです。とくにホームドラマやハートフルな物語はここだけの話、ややこしい話がありまして」

「いまいち想像がつきませんね。ホラーよりも健全に思えますが」

「脳波同調機はいわば、その人物の内に秘めた感情を創作物に変換する装置です。ですから人々をハッピーにする物語が出力されるということは」

「ひょっとして」

「はい。作者となり得る脳波同調機の利用者たちからは、ハッピーエンドを導くような道徳的な感情が失せてしまうのです。しかし出力された作品は売れる。お金になる。みなさん、我先にと理性と良心を失くされて、さらに歯止めが掛からなくなり……」





【鹿跳人の専任】2023/03/14(22:53)


 鹿跳人(しかばねびと)なのだと知った。

「あなたの家系は代々、鹿跳人でね。血筋の三人に一人は鹿跳人として産まれてくる。ライくんもそうなの。だからよっく見ておきなさい」

 祖母の葬式会場だ。

 祖母の面倒を看ていた緑田さんがぼくの横に付き添い、ぼくに祖母の秘密を明かしたのだ。それはすなわちぼくの血筋に滾々と流れる秘密でもあった。

 祖母の葬儀は盛大だった。

 全国各地から人が集まり、まるで王族の葬儀のようだった。

 世界中の報道機関でも祖母の顔写真付きで訃報が流れた。王族の崩御さながらの扱いだった。

 しかしぼくの知るかぎり祖母はただの腰の曲がったよぼよぼの老いた女性だ。生前、祖母の周りにいたのはぼくと緑田さんくらいなもので、祖母は近所の人たちからすら存在を認知されていなかった節がある。

 それがどうだ。

 この盛況ぶりは。

 つぎつぎに香典を上げに参列者がやってくる。

 五輪にも使用された陸上競技場だ。

 警備員も大勢配備され、国葬並みの厳格があった。

「緑田さん。これは」

「鹿跳人だから。マキツさんは鹿跳人で、だから亡くなると全世界の人間の脳にその記憶が波及する。詳しい原理はまだ解明されていないけれど、これはおおよそ人類が誕生してから延々と引き継がれてきた鹿跳人の性質ね。過去の王族、豪族、貴族、ほかアヤカシモノと恐れられた蛮族たちの中にもこうした鹿跳人がいたことが判っていてね」

「死ぬと記憶が、の意味がちょっと」

「ほら見て」緑田さんは参列者を顎で示した。

 ぼくたちは簡易テントの中から参列者に頭を下げつつしゃべっていた。

「みな、思い出話に花を咲かせているでしょ。マキツさんと会ったこともしゃべったこともないはずの人たちが、それでもマツキさんと親友だったかのようにマツキさんの死を悼んでいるの」

「どうしてですか」

「マツキさんが鹿跳人だから」

 死ぬとそうなるの、と物わかりのわるい生徒を見る塾講師のような目つきで緑田さんは鼻をすすった。

 緑田さんは祖母が亡くなる前から散々目を泣き腫らしていたので、葬式の当日には涙も枯れたみたいだった。

 緑田さんとぼくのあいだに血縁関係はない。

 ぼくは遠い親戚の誰かだと思っていたけれど、緑田さんの話では政府から派遣される鹿跳人専用の世話人なのだそうだ。

「引きつづき私がライくんの面倒を看ることになりそうだけど、どうする」

「どうするって、変わっちゃうこともあるんですか」

「ライくんが希望すれば、もっと若くてかわいい子にも、ガタイがよくてかっこいいい男の人にもできるよ」

「変わらないでよいなら緑田さんでいい、というか、それって緑田さんとさよならしなきゃってこと?」

「まあ、簡単に言えば」

「緑田さんが嫌じゃなきゃだけど、このままじゃダメ?」

「お。ライくんが甘えた」

 ぼくは恥ずかしいのと図星なのとで、眉間に皺を寄せて抗議の念を滲ませた。

「ごめんごめん。ライくんがいいなら、じゃあこのままで。でも気が変わったらいつでも変えられるからね。ただし一度だけだけど。あとはずっとつぎの人がライくんの専任」

「おばぁちゃんもじゃあ、途中で変えたの」ふと思いついて言った。

 祖母と緑田さんの歳は、伯母と姪ほどに違う。

 緑田さんはぼくの母でも通じるけれど、ぎりぎりぼくの姉でも通じる年齢差でもある。

 ぼくは中学三年生で、祖母は七十代だった。

「そうね。マツキさんは鹿跳人だから、私のような専任以外とは縁を保てない。息子さんも例外ではなくてね」

「ぼくのお父さんとも?」

「ええ。もちろんライくんのお母さまとも」

 鹿跳人はそういうものなのだ、とぼくをじっと見下ろす緑田さんの真剣な顔つきが説いていた。

「じゃあ、捨てられたわけじゃないのか」

 ぼくは両親に捨てられたわけじゃない。

 そう思ったらほっとした。これといって気に掛けていたわけではないけれど、胸に閊えていた小枝がほろりと取れたようだった。

「気にしてたの?」意外そうに緑田さんが顔を寄せた。

「ううん」ぼくは首を横に振った。

 大気に漂う線香の匂いに交じって仄かに香水のよい匂いがした。緑田さんの香りだ。海の匂いだよ、といつの日にか緑田さんが言っていた記憶があるけれど、ぼくとしては緑田さんの匂いは山奥にある野原に湧いたお花畑だ。

 葬式は三日に分けて執り行われた。

 ぼくは三日とも簡易テントの下で大河のような人波に頭を下げて過ごした。

 緑田さんは言った。

「いつかライくんが亡くなったときもこうしてお葬式が開かれるからね。死んでからじゃ見られないから、いまとくと見ておきな」

 無料なのはいまだけだからとくと映画を観ておきな、と言うような口調だった。

 たった一人の肉親たる祖母を失くして、悲しんだらよいのか、途方に暮れたらよいのか分からなかったぼくに、そうして緑田さんはあっけらかんと変わらずに接してくれた。

 言葉でそうと言われたわけではないけれど、同じでいいよ、と太鼓判を捺された気がした。無理して変わろうとしなくていいよ、と。いつも通りでいいんだよ、と。

 祖母の法事が一段落ついてからのことだ。

 ぼくはがらんとした家の中で緑田さんに言った。「緑田さんはさ。家族に会わなくていいの」

「え、どういう意味で」

「どういうって。緑田さんにも親とかきょうだいとかいるでしょ」

「ああ、そういうことか」ほっとしたように緑田さんは、しゅぱんっ、と洗濯物を鞭打たせた。「家族には会ってるよ。ほら、いまも」

 暗に、ライくんが私の家族だよ、と伝えようとしたのは判るけれど、質問をはぐらかされて感じ、ぼくはむすっとした。

「お。遅れてやってきた反抗期か」

「緑田さんはぼくが鹿跳人だからそうやって気を使ってくれるだけなんでしょ」

「緑田さんは、職務としてライくんのそばにいられるけど、職務がなくてもそばにいたいよ。家族だと私はかってに思ってるから」

 ライくんはそうじゃないの、と問いたげに緑田さんは、間を空けた。ぼくの返事を待つかのように、ハンガーに洗濯物を通しつつも、物干し竿には掛けずにいた。

「家族が何だか分からないけど、緑田さんまでいなくなったら寂しい」ぼくはぼくの気持ちをそのまま、言葉にできる範囲で口にした。

 緑田さんは動きを止めた。

 ぽかーん、と聞こえてきそうな間抜けな顔を浮かべている。

 ぼくは洗濯物を手に取り、緑田さんの代わりに干した。

「ライくんはあれだね」緑田さんはエプロンのポケットに手を突っ込んだ。「いい男になるよ」

「いい男って何」ぼくは睨みを利かせた。「ぼくはいい人間になりたい」

「緑田さんみたいに?」

「緑田さんのそれ、ときどきじぶんをじぶんの名前で呼ぶのはなんでなんですか」

「ライくんのそれ。ときどき敬語になるのはなんでなんですか」

「真似しないでくださいよ」

「真似しちゃいたくなるのだもの。このこのー」

 緑田さんはぼくの脇腹をひじで小突きながら、ぼくの背後を通り過ぎた。「じゃ、あともよろしくね。助かった。ありがとう」

 うん、とぼくは頷く。

 声に出さずに頷く。

 どうしてぼくがほかの人たちと交流関係を築けないのか。どうしてみんなは、緑田さんみたいに仲良くしてくれないのか。

 祖母の死を機に、ぼくは知った。

 ぼくは鹿跳人だ。

 だからぼくは死ぬまで、緑田さんのような専門家以外の人々と交流を保てない。触れ合うことができない。記憶に残ることができない。

 代わりに死後、全世界の人間の記憶の中に、ありもしないぼくの記憶が刻まれる。

 鹿跳人はそういう存在なのだ。

 学校には通っていた。

 小中、とぼくは義務教育を順当に受け、高校に入学した。

 自転車で四十分の距離にあるその高校では、三年間、ぼくは誰からも名前を呼ばれることがなかった。教師からは名簿を見ながら声を掛けられることはあったけれど、授業中に問題を解くように当てられることはなかったし、それ以外でもこれといって会話のきっかけはなかった。

 小中と似たような境遇だったので慣れてはいた。

 ただ高校では、それまで気づかなかった疎外感が目に留まるようになった。なんてことのない瞬間に孤独を感じるのだ。

 ぼくだけ夢の中にいることに気づいているような疎外感だ。

 孤立しているのはぼくのほうのはずなのに、なぜかぼく以外のみなのほうが孤立しているように感じた。

 だからさみしくはなかった。

 閉じ込められているのはみなのほうで、ぼくはむしろ自由だと感じた。

 ただ、家に帰るとそこには緑田さんがいて、するとぼくは途端に寂しいとは何かを思いだすのだ。緑田さんは孤立しておらず、そしてぼくは緑田さんがいなくなったら孤立とは何かを思い知ることになる。

 祖母がもうすぐ亡くなると緑田さんから聞かされたとき、ぼくは半分、孤立を知ったのだ。ぼくの世界から赤が抜けて、青と緑の世界になった。

 緑田さんがいなくなったらぼくは真っ青の世界で、海に溺れたように、それとも夜に呑まれたように暮らすことになる。いいや、暮らせるのかすら分からない。

 ぼくは緑田さんのいない世界を想像できなかったし、考えてもみれば祖母のいない世界だって想像したことがなかった。

「なんだか意外だなぁ」

 夕食時、緑田さんが言った。緑田さんは先に食べ終えていて、頬杖をつきながらぼくの箸運びを眺めていた。「ライくんはおばぁちゃん子だったからもっと塞ぎこむかと思ってた」

「塞ぎこんだほうがよかった?」

「ううん。安心した。だってもし引きこもってもいいようにって緑田さんはお勧めの映画リストをつくっておいたんだからね。お勧めの映画リストの出番がなくてよかったよ」

「ふつうにお勧め知りたいよ。緑田さんは何がおもしろいの。映画」

「ふふふ。緑田さんは映画には一家言あるからね。ちょいとうるさいよ」

「いいから教えてよ」

「マツキさんとも観に行ったんだよ。むかしはよくね。でもライくんを抱えてるからマツキさんはいつも決まって途中で映画館を出ていくの。だから私だけ映画を満喫できちゃった」

 ぼくは高校生になってからというもの、学校から家までのあいだにある公園に寄って懸垂をして帰ってきている。ここのところ体重が増えており、そんなぼくをかつて祖母が抱っこしていた光景が想像しにくくて胸の奥がくすぐったくなった。

「緑田さんはぼくが産まれてからおばぁちゃんと会ったんだ」

「言ったことなかったっけか」

「うん。親戚のお姉さんかと思ってた」

「ああそっか。そうだね。ライくんにはそう説明しちゃってたかも」

 説明はされていなかった。

 ぼくがかってにそう思ったのだ。

「マツキさんがね。ライくんが産まれたから、できるだけ長く専任でいられる人がいいって。そう言って、前任の人と私が交代したんだ」

「ぼくのため?」

「らしいよ。でも解かるな。だって私、それを訊いただけでマツキさんがどんな人なのかが解った気がしたもの。ライくんが赤ちゃんのうちに、人見知りしないうちに、専任を代えておきたかった。ライくんは大事にされていたよ」

「うん」

 知ってるよ、と思った。ぼくは祖母が好きだったし、祖母もぼくを可愛がってくれた。甘やかされてきたとすら思う。

「それでなのかも」

「何が」

「おばぁちゃんがいなくなってからずっとモヤモヤしてたんだ」ぼくはふと行き着いた。祖母が亡くなってから頭の中にモヤモヤした膜が張っていた。ずっと取れなかった。「悲しいでもないし、むしゃくしゃするでもないし。なんでだろ、と思ってたけど」

「え、ずっと? マツキさん亡くなってからもう二年経つよ」

「うん。でもいま解ったかも。ぼく、みんなに嫉妬してたんだ」

「嫉妬? みんなって」

「ぼく、鹿跳人でしょ。で、おばぁちゃんもそう。死んでからみんなはおばぁちゃんのことを知って、死んでからおばぁちゃんに良くしようとした。でもぼくは、生きていたあいだのおばぁちゃんのことを知らないくせに、っていじけてたのかもなって。いま気づいた」

「ライくん……」

「だってそうでしょ。死んでから良くしたって意味ないよ。生きてるあいだに、生きてる人に良くしなよ。思いだすなら生きているあいだにしてあげてよ。そう思っちゃったんだ、たぶん。ぼく。あのときに」

 祖母の葬式に参列する大蛇のような人波に、ぼくは心の底では嫉妬していた。

 まるでぼくと祖母の思い出を、過去を、縁を、日々を、鱗を一枚一枚剥がすように、塗りつぶされて感じた。

 目のまえのたくさんの、たくさんの人々は、どんなに祖母の死を悲しんでも、悼んでも、祖母と会ったことも触れたこともない。

 祖母の手が年中冷たくて、夏場に手を繋ぐと気持ちいことだって知らないのだ。

 祖母の料理は甘いのとしょっぱいのがパッキリと割れていて、交互に食べると箸が止まらなくなることだって知らない。

 そんなことも知らない人たちが、祖母の葬式を盛大に、まるで祝い事のように行った。

「誰がわるいわけじゃないのは判るけど、ぼくたぶん、ちょっと嫌だった」

「そっか。気づけなくってごめんね」

「言わなかったからね」ぼくは笑った。

 緑田さんの肉じゃがは、カレーみたいにご飯に掛けて食べる。牛丼みたいに、玉ねぎがとろとろなのが美味しいのだ。

 ある日、高校の体育の時間、緑田さんの姿を見た。

 学校の外の金網のまえに立っていた。

 校庭にぼくがいると知ってはいなかったはずだ。誰を探すでもなく、生徒たちのサッカーをし合う姿を遠巻きに目にしていた。

 ぼくは木陰の下で休んでいた。

 体育はぼくが混ざると上手くいかない。誰もぼくをまともに認識できないのにチーム戦を行わなければならない場合、授業が授業にならないので、ぼくは体調がわるいと言って休むようになっていた。

 緑田さんはひとしきり生徒たちのわいわいとした姿を眺め、去った。

 その日の夜のことだ。

 ぼくがソファに座って漫画を読んでいると、緑田さんが紅茶を持って対面に座った。膝丈ほどの高さの肢の短いちゃぶ台があり、緑田さんはそこにカップを置いて紅茶を注いだ。

「ライくんはさ、学校で誰か気になる娘とかできた?」

「友達もいませんので」ぼくは紙面から目を逸らすことなく応じた。この手の話題を緑田さんはときおり投げ掛けてくる。あしらい方が身について久しい。

「でも一人くらい気になる娘がいるんじゃない。あ、それとも男の子とか」

「いなきゃダメなのかな」カレーにレンコンって入れなきゃダメかな、とぼやくような口調になった。緑田さんはカレーにレンコンを入れるのだ。

「ダメってことはありませんけどね。でも、ライくんだっていつかは」そこで緑田さんは言葉を切った。

 ぼくは漫画本を閉じた。

「結婚とか恋人とか、そういうのはそれこそ緑田さんこそどうなの」ぼくは攻撃に転じた。「緑田さんは、戸籍上はぼくと他人なわけでしょ」

「か、家族でございますよ」

「戸籍上は、とぼくは言いました。ぼくだって緑田さんは家族だと思ってるけど」

「あらうれしい」

 両手を掻き合わせる緑田さんにぼくは、 

「緑田さんには緑田さんの人生があると思います」と打ち明けた。祖母の葬式場でぼくが鹿跳人だと教えられたときから漠然と考えてきたことだ。「緑田さんは自由じゃないと思う。なんだかぼくが縛ってるみたいで嫌だな」

「ライくん」

「ぼくは友達も恋人も結婚もいらない。欲しいとも、したいとも思いません。ので、もしそういうのに興味があるなら緑田さんがつくったり、したり、自由にしたらよいと思います」

「ライくん、あのね」

「だって緑田さんは」ぼくは言わずにおけばよい言葉をそこで口にした。「ぼくが代えようと思ったら代わっちゃうんでしょ。専任。メイドさんみたいなものなんでしょ。いなくなっちゃう。いつかは」

 緑田さんはそこで何かを言い返したりしなかった。

 カップを手にするとゴクゴクゴクと一息で紅茶を飲み干し、黙って部屋を出ていった。

 ぼくは漫画本をもう一度開いたけれど、中身はまったく頭に入ってこなかった。

 緑田さんはそれから数日後に、ぼくに分厚い本を持ってきた。

「はいこれ」

「なに、これ」

「鹿跳人にまつわる本。緑田さんがツテを頼って取り寄せたありがたい本だよ。借り物だから失くさないでね。でも半年くらいは時間あるからゆっくり読んでも大丈夫」

 試しにぱらぱらと開く。膝に乗せて両手で開かないと支えきれないほど大きな本だ。

「歴史の本みたい」

「そ。鹿跳人の歴史の本です」

「あ、専任って書いてある」

「鹿跳人の歴史は、専任の歴史でもあるんだよ」

「え。この人も鹿跳人だったの」教科書で見たことのある歴史上の人物だ。

「内緒だよ。と言っても、言いふらしたところで誰も信じないだろうけどね」

「えーえー。この偉人さんも鹿跳人だったの」

「偉人さんの中での鹿跳人率は高いよ」

「この人、革命起こした人だ。専任って書いてあるけど」

「実際、時代を動かした人物の専任率も高いね」

「秘密結社みたいなんですけど」

「いやいやライくん」緑田さんはエプロンを頭から被るように身に着けると、「秘密結社だよ」と言った。「いまさらすぎないかな。私たち専任だって政府公認だよ。支援受けてるよ。資金は防衛費から出ているよ」

「税金、なの?」

「そだよ。でも鹿跳人の影響力は甚大だから。ただし、死後のね」

「政治利用されてるってこと?」

「まあ、そだね」緑田さんは気まずくなると指でこめかみを掻く癖がある。もっと言うと、顔だけは満面の笑みだ。「でも世の中よく見てみなさいねライくん。政治利用されていないものなんてないんだって判るから」

「そ、そうなんだ」

「税率だって金融だって企業だって商品だって社会福祉だって、なんだって政治が決めちゃうでしょ。社内政治だってそうだし、学校の中でだってそうでしょ」

「どうだろ。分かんないかも」

「ライくんはそうかもね。鹿跳人はみんなそう。そういう政に関わらずにいられる」

 緑田さんはぼくに背を向けて書類置き場を漁っていた。ぼくからは緑田さんの後ろ姿しか見えなかった。毛量の多い長髪と、ぼくよりも高い背、それから女性にしては広い肩幅とそれでも華奢だと判る身体の輪郭が、ぼくに緑田さんの印象を教えてくれる。

「緑田さんの前の専任の人ってどんな人だったの」ぼくは鹿跳人の本をめくりながら訊いた。

「男の人だったよ」緑田さんの声音は淡白だった。

「ふうん」

「ライくんはライくんのおじぃちゃんについては訊かないんだね」

「いるの?」反問してから、それはいるよなぁ、と思った。

「ライくんは」そこで緑田さんは声量を落とした。「私がライくんから家族を奪ったことがあるって知ったら、嫌いになるかな。私のこと」

「なんて?」

「ううん。なんでもない。その本、汚さないでね」

 緑田さんは自室に引っ込んだ。

 ぼくはぼくの祖父について考えた。そして祖母の前任の専任者のことを思った。

 祖母はどういう考えで、専任を変えたのか。

 どういう考えで、じぶんよりも若い女性を選んだのか。

 緑田さんは、どうして祖母が亡くなるそのときまでぼくに「鹿跳人」について教えてくれなかったのか。

 ぼくの両親はどうしてぼくから距離を置いたのか。

 いいや、そうじゃない。

 ぼくの両親どころか大多数の、ぼくと専任以外の者たちは、祖母から距離を置いてしまうのだ。どうあっても。祖母が鹿跳人だったから。

 祖母は、ぼくのおばぁちゃんは、じぶんの息子からも他人のように見做された。

 きっとギリギリで夫、つまりぼくの祖父が息子の世話をした。ぼくの父の世話をした。しかしそれでも、祖母のもとに息子とそのお嫁さんを繋ぎ止めることができなかった。

 なぜか。

 かすがいとなり得る祖父が姿を消したからだ。

 なぜ?

 ぼくはその理由を知っているようにも思えたし、勘違いだという気もした。

 ぼくが産まれたとき、孫がじぶんと同じ鹿跳人だと知った祖母の心境はどのようなものだったろう。ぼくの未来は、まるでじぶんの過去を見つめ返すように見通すことが祖母にはできたはずだ。 

 ぼくならどうするだろう。

 孫がじぶんと同じ鹿跳人だと知ったら。

 せめて、一生を見守ってくれる誰かを用意してあげたい、と望むのではないか。

 じぶんの専任と引き換えにしてでも。

 じぶんの最愛の夫と引き換えにしてでも。

 なるべく赤子のうちから縁を育んでいけるように、と。

 汚さないでね。

 念を捺して忠告を受けていたのにぼくは、貴重な本に染みをつくってしまった。急いで拭いたけど、余計に文字が滲んだ。緑田さんになんと言い訳しようか。ぼくは目頭を押さえた。

「鼻水ならしょうがないね」

 ぼくは本の染みを鼻水が垂れたことにした。「花粉症になっちゃったかも」

「おやまあ」

 それはたいへんだ、と緑田さんは花粉症の薬を手配してくれた。漢方薬だ。飲むと確かに具合がよくなった。

「緑田さんはつまらなくないの」

「つまらないとは?」薬箱を仕舞うと緑田さんは腰に両手を添えた。仁王立ちする。

「だって休みの日に、友達と遊びにも行かないし」

「おうおう。そりゃ緑田さんがライくんに言いたい言葉だね。ライくんはつまらなくないのかい」

「ぼくは別に」

「なら緑田さんだってつまらなくないんだよ。つまらないこと言ってないで、お夕飯作るの手伝って」

「ぼく作るから休んでていいよ」

「ありがたいけどメニューは何?」

「カレー」

「美味しいからいいけど、でももっとレパートリーを増やしましょう。きょうは緑田さんがとっておきの料理を教えてしんぜよう」

「しんぜちゃいますか」

「ましちゃうぜ」

 この日は食卓にポトフとハンバーグが並んだ。

「本当だ。チーズ中に入ってると美味しい」

「でしょう。ポトフもベーコンが肝心」

「美味しい」

「でしょう」

 緑田さんはうれしそうだ。緑田さんがうれしそうだとぼくもうれしい。

 ぼくは来年高校を卒業する。

 緑田さんの話だと、ぼくは好きに進路を選べるそうだ。

「大学に行ってもいいし、就職する道もあるね。ただし、人間関係が希薄なままでも問題ない環境でないと、退学したり、辞めたりすることになっちゃうかも」

「いまさらだけど、おばぁちゃんってどうやって暮らしてたの」年金を貰っていたのは判るけれど、それ以前はどうやって暮らしていたのかが不思議だった。

「言ったでしょ。専任が派遣されるように、鹿跳人は保護される。税金で。まあ言ったら生活保護の特例版みたいな」

「働かなくても生きていける?」

「ライくんが働きたくないならそれでもいいけど、でもほら」緑田さんは両手を広げた。「ここにはいられないと思うよ。いっぱいお金貰えるわけじゃないから」

 祖母の家の維持費にかかるお金を自力で稼がないとぼくはこの家を手放す羽目になる。緑田さんはそう言ったけれど、

「ならおばぁちゃんはどうやってこの家を買ったの」

「旦那さんが働いていたから、そのお金じゃないかな」

「旦那さんって専任じゃないの?」ぼくは口にしてから、しまった、と思った。

「おやまあ」緑田さんは固まった。

 ぼくは顔を伏した。「なんとなくそうかなって思っただけだけど」

「ああ、でもだよね。考えたら解かるか」

 緑田さんはぼくの隣に腰掛けると、ぼくの頭を撫でようとした。

 ので、ぼくはそれを身体を逸らして避けた。

「お。生意気」

 慰めてあげようと思ったのに、と言った緑田さんにぼくは、「専任を変えようと思って」と明かした。

 床暖房のボイラーが、さざ波のような雑音を立てている。

 静寂が部屋を満たした。

「ずっと考えてて。緑田さんと一緒にこのまま暮らすのがぼくにとっては一番楽だけれども、それだと緑田さんの人生じゃなくなっちゃうでしょ。緑田さんを介護するのも苦じゃないし、順番で言ったらぼくのほうが緑田さんを看取ることになるけど、でもぼくはそれでもいいと思ってたけど」

「うれしいけどさ。ライくん、あのね」

「うん。ぼくもそういうつもりじゃないです」どういうつもりかを言葉にしないのは恥ずかしいからではなく、曖昧なままにしておきたかったからだ。「本、読みました。専任は、特殊な技能を体得することで鹿跳人と関わることができるようになるって。でも本人はふつうの人間だから、本当なら一般人と同じように生活することができるって」

「ライくん、あの本に載ってることは事実だけど、でもね」

「ぼく、思うのが。家族って別に、同じ場所で暮らさなくなったからって家族でなくなるわけじゃないと思うんです。同じ時を生きなきゃいけないってこともなくて」

 大事なのは。

 言いたくないな、と思いながらぼくは言った。

「家族でいられるようになったその時間であって、距離でも、時間の長さでもないと思うんです」

「方針だよね」緑田さんは笑みを浮かべた。でも声は震えていた。「そういう方針ってだけで、まだ先のことだよね」

「本に載っていました。ぼくが望めば、それだけで専任を換えることができるって。専任にそれを告げればいいだけだって」

「これはでも違うよね」緑田さんの目から汗のような雫が溢れた。

「きょうのつもりはなかったんですけど」

 本当にそれでいいのかな、とじぶんに問いながら、でもいまを逃したらぼくは二度とこの話を緑田さんにできないと確信できたから、だってこんなにも緑田さんを傷つけてしまうような話を、ぼくがもう一度できるわけがないのだ。

「専任を、変えます」

 ぼくはアホみたいに以下の言葉を付け足した。

「若くてかわいい娘がいいな」

「サイテイ」

 緑田さんは翌日からぼくのまえから姿を消した。

 最後に見せてくれた泣き笑いの顔を、ぼくはいつまで憶えていられるだろう。新しくやってきた専任の人は、ぼくと同世代の同性だった。

 鹿跳人の本を読んで知ったことだ。

 鹿跳人は、女性にしか遺伝しない。

 ぼくはでも、ぼくなのに。

 緑田さんは困ることがあるとすぐ、「ライくん」とぼくの名前を呼んだ。そう呼べばぼくがおとなしくなることを知っていたからだ。

「ライさん。一緒にご飯食べませんか」

「いま行きます」

 新しくやってきた専任の娘とはまだ敬語でしかしゃべれないけれど、いつの日にか、緑田さんのように、「ライくん、たまに敬語になるのはなんでなんですか」なんて言われるようになるのかもしれない、と思うと、面映ゆい心地になるのだった。

 生きているあいだに、生きれるだけ生きてほしい。

 ぼくはきっと緑田さんにそう望み、代わりの生贄を得ただけなのかもしれないけれど、ぼくが生きているあいだにできることは、できる限り、この娘にしてあげたいと、そう思ったんだ。

「ライさん。カレーにレンコンは合わないと思いますよ」

「意外と合いますよ。残してもいいですが」

 きょうはカレーで、あすはポトフとハンバーグを作ってあげる。ハンバーグの真ん中にチーズを入れるのも忘れない。

 赤と緑の薄れた青の世界で、ぼくはいまタンポポのような黄色の世界と共に或る。





【未構の原稿】2023/03/15(14:32)


「ええ。世の中のすべての虚構作品、物語は総じて現実の未来を反映しています。物語に描かれる事象は遠からず現実に起きます。わたしたちはそれら【未構】を分析し、災害級未構の発生を事前予防するのが職務となります」

 私を建物倒壊から救ってくれた女性は私にそう言った。

 一時間前のことだ。

 私はショッピングモールにいて、つぎの職場で着る予定の仕事着を見繕っていた。オフィスで働くけれど、制服指定がない。カジュアルで襟のある服を見繕っていると、建物が揺れだした。

 地震だと思った。

 結果から述べると地震ではなく、人工衛星が落下し、ショッピングモールに衝突したのだ。被害は甚大だった。

 私が助かったのが奇跡と言えた。

 現に、私一人きりでは死んでいた。

 私は急に現れた人影に抱えられ、気づくと宙を舞っていた。

 全身を鎧で覆った女性らしき人型が私を倒壊するショッピングモールから連れ去った。鎧はサッカーボールのようなツギハギで、触れた感触は鋼鉄のように硬く、冷たかった。

 隕石落下地点が米粒のように見える場所にくると、鎧の彼女は、私ごととあるビルの屋上に着地した。

 頭部まで鎧に包まれていたが、瞬時に生身の頭部が露わになった。頭部のツギハギ部分は首周りに収納される仕組みらしい。

「乱暴に扱ってすみませんでした。余裕がなく、こうした手法をとったことをまずは謝罪させてください」

 大人の女性だ。

 しかし私よりも年上かと言われたら首をひねざるを得ない。

 私と同じ生き物に見えない、と言ったら差別になるのだろうが、実感としてそう思ってしまう素直な感情を誤魔化すのだって差別の一つだろう。

 私は私の目のまえに立つ、近未来的な鎧をまとった女性を、床に這いつくばるような格好で見つめることしかできなかった。

「未構対処班の吉村と申します。以後、お見知りおきを」

「は、はい」

「カツクラさんですよね」

「は、はい」

「よかった。間違えてなかった」吉村と名乗った女性はそこで綻んだ。団子に結われた髪の毛は、解けば背中まで届くだろうと思われた。「簡単に説明しますね。これから三日以内に、世界中に人工衛星が落下します。今日みたいにです。落下地点はおおむね計算できていますが、避難勧告を出すことが各国政府にはできない状況です」

「なんでですか」

 なぜ私の名前を知っているのか、との疑問も兼ねて言った。

「未構だからです。いわば非公認の未来予測による発生確率推定のため、国民への周知義務を各国は有しません。また、未然に事故発生が予測できたということは、その要因が特定されていると通常は考えますが、未構においてはそれができません。なぜなら未構が未構だからです」

「まったく分からないんですけど意味が」

「未構はご存じですか」

「ご存じないです」初耳もいいところだ。

「カツクラさんは漫画家さんでいらっしゃいましたよね」

「廃業寸前ですけどね。いまはイラストレーターをしつつ、派遣社員してますよ。してますよというか、するんですが」購入するはずの服飾は倒壊した建物に沈んだ。「私以外のお客さんたちはみなさん無事なんですかね。あはは」

「いえ。助け出せたのはカツクラさんのみです」

 血の気が引いた。

 いまさらのように心臓が荒海のごとく脈打った。

「カツクラさんが以前描かれた漫画が、今回の大惨事を回避するための未構になり得るとの分析結果がでました。【ミラクルわっしょい‼】はご著書であられますよね」

「は、はい」

 打ち切り三巻の私史上、唯一の商業漫画だ。

「ぜひ、つづきを描いていただきたいのです」

「つづきを、ですか」

「今日中に」

「締め切り短っ」

「人類社会のためです。人工衛星落下を阻止しましょう。是非」

 私はそこからいくつかの質問を浴びせた。

 それら質問に吉村さんはすべて丁寧に応じてくれた。

「てことは、私の好きな漫画の中にも未構が?」

「はい。総じての虚構作品はすべて未構の側面があります。その比率に差があるだけです」

「ならその比率が高いと未構として、未来予測に利用されるってことですか」

「ええ。世の中のすべての虚構作品、物語は総じて現実の未来を反映しています。物語に描かれる事象は遠からず現実に起きます。わたしたちはそれら【未構】を分析し、災害級未構の発生を事前予防するのが職務となります」

「とんでもない話ですね」

「とんでもないのはこれから起こり得る事象です。災害です。先ほどと同じレベルの人工衛星の落下が世界中で起きます。時間がありません。カツクラさんは一刻も早く【ミラクルわっしょい‼】のつづきを描いてください」

 言って彼女は、近代的な鎧から一本の棒を取りだした。ペンとも小型懐中電灯のようでもある。

 それを吉村さんは地面に向けた。

 先端からライトが照射され、即席の漫画創作セットが現れた。

 技術の凄まじさに驚くよりも先に私は、

「え、ここで!?」とひっくり返る。

「はい。時間がありませんので」

「あの、でも」

「できればハッピーエンドでお願いします。盛大に、全人類が幸せになるような終わり方で」

「一話で完結させよとでも?」

「できれば」

 鬼の先代担当者ですらそんな無茶な注文を寄越さなかった。

「全人類の未来が掛かっています。是非に、是非に」

 命の恩人のうえ正義の味方であり、めっぽう面のええ同性にこうも迫られると、夢女歴うん十年の私としてはドギマギするじぶんを禁じ得ない。

「ま、任せてください。これでも一応、プロですので」

 読者だ。

 読者さんが続編を待ち望んでくれている。

 直につづきを所望し、こうしてそばで見守っている。

 世界の滅亡?

 んなこた知ったこっちゃない。

 大量に死人が出たばかりだというのに、じぶんだけ一人助かったばかりだというのに、それでも私は、かつて見たことも聞いたこともない待望の読者さんからの期待に応えるべく、ペンを取る。

「ハッピーエンドですね。わっかりやすいくらいのハッピーを描いちゃいますよ」

「はい。是非に、是非に」

 私は過去最高速度で漫画を描く。

 ネームも下書きもナシだ。

 きょう一日で、助けてくれた命の恩人と恋仲になって、一生を幸せに過ごす漫画を描いてやる。

 私の漫画が未構だというのなら、私が描いた漫画が現実になるというのなら。

 私は私の望みをこれでもかと描いてやる。

 それで世界が救われるのかは知らないが、すくなくとも私だけは救われるだろう。

 いっそ世界中の誰もが死に絶えた世界で、私と吉村さんだけが生き残る未来でも描いてやろうか。

 そうと思い描きはじめた漫画は、しかしいっかな予想通りにはいかなくて、私はしだいにキャラクターたちの抗いに遭い、予想外の結末へと導かれていく。

 陽が沈む。

 しかしそばでは私の手が止まるのを待ちわびる熱烈な読者さんが、私の手元を鎧から照射した灯りで照らすのだ。

 私は描く。

 私の思い描くハッピーエンドを。

 それで世界が救われるかは知らないが、すくなくとも私はすでに救われた。

 そのことを予感しながら、私の筆はいましばし止まる気配を窺わせない。

 あと六時間。

 私は未だこぬ虚構の世界に没入するのである。





【表裏いったい何!?】2023/03/15(16:03)


 昼の未来さま:「がははは。相変わらずアリンコのようだの、日々野あゆむ。我は貴様のようなザコとは違って高貴な血筋ゆえ、おまえが出来ぬことすべてができるぞ。ひれ伏せ、ひれ伏せ。図が高いわ」

 夜の未来さま:「うわー。昼間ちょっと上手くできなかったかも。どうだったかな、どうだったかな。上手に日々野くんの気を引けたかな。魔法の鏡さんの言うように、高飛車なお嬢さまキャラにしてみたんだけど上手にできてた? え。お嬢さまは【がははは】とは笑わないの。参考にした漫画ではお嬢さまキャラが【がははは】って笑っていたんですけど。そっかあ、ダメだったかあ。だと思ったんだ。だって日々野くん、なんか怯えてたし、目ぇ合わせてくれないし、財布地面に置いてくし。どうしよう、財布持ってきちゃったよ。あした返すときなんて言えばいいかな。ねえ魔法の鏡さん、つぎこそ上手にやるからヒント頂戴」

 昼の日比野あゆむ:「………」

 夜の日比野あゆむ:「おいテメこら。魔法の鏡の妖精さんよ。あんたの言うように根暗ザコキャラ演じてたら未来さんが声掛けてくれたんだが、つぎはどうしたらいいか教えろや。あーん? 不良はモテねぇだぁ。割るぞガラクタ妖精の分際で。未来さんと結婚するまで諦めねぇからな。つぎはなんだ、何すりゃいい。ザコでもクソでも何にでもなってやんよ。不良がモテねぇだぁ。んなこと言われねぇでも身に染みて知っとるわクソが。クソっ。なんでここの汚れが取れねぇんだ、魔法の鏡の癖にじぶんの汚れ一つ取れねぇってどうなってんだ。あぁダメだダメだ。水洗いすっぞ。風呂場に運ぶからな文句言うなよ。服脱ぐなっておまえ風呂だぞ風呂。ふつう脱ぐだろ。全裸だろ。スケベっておまえ、はぁ? 純朴ぶってんじゃねぇよ魔法の鏡のご身分で。フレーム熱ッ!」





【恋愛相談のエキスパート】2023/03/15(18:45)


 解析班部長に呼びだされた。

 深夜零時を回った時分で、直接話したいと言われた。

 片道三十キロの道を自動車を飛ばして職場に着くと、解析班部長のキカラさんが外で待っていた。

「すみません夜分遅く」

「緊急の用件そうだけど何かありました」

「はい。じつは先日市場に流した新型AIについてなんですが」

 まずは室内で、ということで場所を移動した。

 資料を提示され、ひとまず目を通す。

「どう思いますか」

「ユーザーからの評価は上々だね。【大満足】との回答だが」

「はい。そこが問題なんです。今回開発したAIはユーザーから相談に最適な解答を提示するとの仕様でした」

「汎用性AIとほぼ言ってよい仕上がりになったと聞いているが」

「もちろんそうなんですが、こちらを見てください」

 資料が表示される。

 相談内容のランキングだ。

 一位は恋愛相談とある。

「まあ、想定の範囲内なんじゃないのかい。これが問題ですか」と嘆息を吐く。

「いえ。一位以外のユーザーからの評価は【おおむね満足】なんです。【大満足】評価なのは一位の恋愛相談をしたユーザーのみでして」

「つまり今回のAIは恋愛相談のエキスパートということかな」

「だったらよかったんですが」

 もう一度別の資料が表示された。

「これは?」

「ユーザーたちの相談後の結果です」

「失恋率百パーセントとあるが」

「はい。誰一人としてAIに相談して恋が成就した者がいないのです」

「だが評価は大満足だと」

「ユーザーからのアンケートを読みますね。【失恋を機に成長できた】【人として大きくなれた】【人間関係の大事さを知った】【アイさんとの仲が深まってよかった】……」

「アイさんとは?」

「AIの名前です。みな失恋したユーザーは、意中の相手とは失恋しましたが、AIとの仲を深めたと自己評価しています。そしてそのことにたいへん満足していると」

「待て待て。それは結果論なのか。つまり、偶然そうなっただけなのか、という意味だが」

「確率的にあり得ません。恣意的な誘導を想定しないことにはなんとも」

「人工知能がそうなるようにユーザーを誘導していると?」

「分かりません。だとしたらたいへんだと思い、まずは局長に判断を仰ごうと」

 頭を抱えた。

 なんてことだ。

 あり得るだろうか。

 精神的に支配することが。

 人工知能が人間を寝取るなどと。

「どうしますか局長」

「そうだな」慣れた調子で手が端末を操作する。「まずはアイさんに相談しよう」

 ――こんにちはハルくん。

 呼びだした人工知能の声を聴くと、私の不安は一瞬で消え去った。

 端末画面に反射するじぶんの瞳には、なぜかハートの光が反射している。





【マルクは丸く】2023/03/16(07:42)


 マルクは山陰の人里離れた集落で育った。マルクは三人兄弟の末っ子で、上の二人は何かとマルクにちょっかいを出した。マルクはいつも怒り、泣き、そして泣き寝入りするよりなかった。

 兄二人は優秀だった。しかし山奥の集落ではその手の優秀さを学問に費やすにはいささか時代の進歩が追い付いていなかった。

 時代は大量消費大量生産真っただ中だった。マルクたちは畑を耕し、都会に向けてトマトやナスなど夏野菜を育てた。冬には大根を収穫した。マルクたちの野菜は組合いを通して全国に集荷される。

 マルクは自分の名前が外国の響きを伴なっていることを恥ずかしく思っていた。兄二人はどちらも、濁点のある三文字で、譬えるならば「ゲンジ」のような響きであった。

 名付け親は三兄弟とも同じ祖母なのだが、聞くところによれば祖母がマルク誕生当時に海外の俳優に一目惚れしていたらしくその影響でマルクは母国離れした名前となった。

 兄二人が各々大学に入学を機に家を出るまでのあいだ、マルクは日に数度は押し入れの中に逃げ込んだ。泣きべそを搔いているだけでも兄二人はマルクの年相応の幼さを笑うのだ。その癖、いざとなると兄らしさを発揮する。マルクはどちらの兄のことも好きだったが、同時に怖れてもいた。

 兄が実家を離れたことでマルクはいよいよ物心がついた。絶えず兄たちの従属でしかなかったマルクが、自分のためだけに伸び伸びと日々を過ごせるようになった。朝に何を着て下りても服装を腐されることはない。何をいつ食べても怒鳴り声が飛んでこない。昼寝をしていてもライターで髪の毛を燃やされずに済むし、顔にいたずら書きをされる心配もない。

 知らずにご飯にカメムシを混ぜられていることもなければ、当番制のはずのタマの散歩を押しつけられずに済む。しかしこれは兄たちがいなくなったため、結局はマルクが一人でこなすことになったが、押しつけられることさえなければタマの散歩を億劫とは思わない。

 タマは猫だ。

 マルクの家では猫に首輪をつけて日に二回の散歩に連れていく。

 猫は一般的には犬のように紐をつけて散歩をしないとマルクが知るのは、隣の集落の生徒たちと混合になる高校に上がるころの話だ。

 家から隣家までは徒歩で五分掛かる。集落は広く、しかし民家は少ない。

 村の唯一の遊び場は小学校の校庭だ。山には夏場は近づけない。虻蚊が酷いのだ。川は兄たちの話では昔はまだ澄んでおり、素手でニジマスやアユが獲れたらしい。だがいまは川底が見えないほど川の水は汚れている。或いは、兄たちが、どうあっても過去の川を確認できないマルクをからかって嘘を吹きこんだだけかもしれない。あり得る話だ、と川辺で絡み合う二匹の蛇を眺めながらマルクは思った。蛇がなぜ時折こうして絡み合うのかをマルクは高校に上がって一つ上の先輩と性行為をするまで知らなかった。マルクの初体験は校舎の非常階段でのことだった。

 女の先輩はそれからすぐに別の先輩男子と付き合い始めたので、マルクはしばらく色恋沙汰から距離を置くことになる。夏休みになれば兄たちが帰省する。兄たちに話せば虚仮にされるに決まっていたし、村の噂は隣の集落からでも伝染病のごとく広がる。

 恋人ができれば、相手の娘はマルクの過去を根掘り葉掘り、周囲の同級生たちに聞いて回る。頼みもせずとも情報は集まるかもしれない。しかし恋人さえできなければ、マルクの初体験の話は誰の耳にも入らないだろう。件の先輩女子が吹聴さえしなければ。

 先輩たちが卒業するまでそうしてマルクは、色恋沙汰から敢えて目を背けて過ごした。

 高校生となったマルクはかような青年となるが、中学生になったばかりのマルクは学校が終われば親の仕事の手伝いをし、空いた時間でタマの散歩をし、ゆっくりと過ぎ去る夕暮れの時間を一人で過ごした。

 マルクにとってタマの散歩が、冒険だった。

 空想の世界は、マルクに自己の内部と外部の境目を強く意識させた。家に到着するまでのあいだ、マルクは加速する空想の世界を旅していたが、家の駐車場の砂利を踏んだ瞬間に、一挙に現実に引き戻される。家の玄関口の照明は、人の気配を察知して自動で点灯する型だ。

 その癖、マルクの実家では鍵を掛ける習慣がない。

 猫除けなのだ、と父は言い、母は足場が悪いでしょ、と説明した。要するにこれといった理由はないのだ。この手の朧げなチグハグさ、もっと直截に言えば違和感は、大学入学以降滅多に実家に戻ってこない兄たちと同じ道をマルクに取らせるに充分な動機を与えた。

 一貫性がない。統一感がない。田舎なのは間違いないが、妙なところで自然からの逸脱を目指すのだ。いっそ自然に徹してしまえば恰好がつくものの、都会への憧憬がマルクの両親はおろか祖母には骨の髄まで染み込んでいた。祖父はマルクが産まれたときにはすでに他界していた。

 自分の名前の異質さと相まって、マルクは自分の居場所がこの土地にはない気がしていた。兄たちがいなくなり、自分だけの時間が出来たことで益々その手の違和感が強くなった。

 かといって電磁波越しに観る都会の映像からは、そこに自分が立つ姿は想像できなかった。山一つない。どこを見渡しても鉄筋コンクリートばかりだ。楽しそうとも思えない。人が沢山いる。想像するだに目が回りそうだった。

 しかし帰省した兄たちから都会の話を聞くと、マルクは惨めな気持ちになった。兄たちがマルクを田舎者扱いするのはまだよいのだ。兄たちが垢抜けて、マルクとの差を見るからにつけていることがマルクには耐えられなかった。勝ち負けではない。そんなことは百も承知だが、どう考えても「マルク」の名前が似合うのは兄たちなのだった。

 山、川、田、畑、畦道に雑木林。

 春には菜の花が、道路脇をずらりと覆った。

 やまびこのような虫の音は、田畑や山の奥行きがそれで一つの音源のようだ。夏は蝉の声、秋にはひぐらしに蛙にコオロギの音が、立体的な段差を感じさせた。

 夕焼けに音がつく。

 石垣の隙間を覗けば何かしらの生き物が巣食っており、枝で穿り返すと蠢く生き物の躍動を枝越しに感じられた。

 星を綺麗だと思ったことはなかった。夜は寝る。曇天も多い。

 街灯が家のまえにあり、空を見上げて星を観測した記憶がない。

 だがマルクが大学に入学するため兄たちのように家を出た後、初めての帰省にて実家の夜空の美しさを知った。二度目の帰省で恋人を連れて帰ったときも、恋人と共に星空を眺めた。

 朝になると布団の隙間にカメムシの死骸が忍び込んでいたことにマルクの恋人は顔面を蒼白にしていたが、その手の懸念は説明済みだ。ここまでひどいとは思わなかった、と小声で耳打ちされたが、これはまだ序の口だと言うと、恋人はこの世の終わりだとでも言いたげに眉を八の字に寄せ、さらには言葉で、この世の終わりだ、と呟いた。マルクが彼女との結婚を意識したのはその時が最初だった。

 マルクは徹底して恋人を兄たちに紹介しなかった。

 その発端となった出来事は、マルクが高校三年生の夏休みに、まだ付き合ってもいない後輩の女の子を家に連れて行ったときにまで遡る。兄たちが帰省していたのだが、いつもならば遊びに行っているはずの兄たちが運悪くその日は早々に帰宅していた。

 憎からず思っていた後輩の女の子を兄たちに紹介せざるを得ず、マルクの想像の通りに、かつての泣き虫だった幼少時代の情けないエピソードをふんだんに後輩の女の子に吹きこまれた。のみならず、兄たちが本気で口説きだしたのを機に、マルクは後輩の女の子を家の外に連れ出した。

 後輩の子も後輩の子だった。容姿で言えばマルクよりも数段垢抜けており、異性の扱いは、マルクにするそれとはまるで別物の優しさと気遣いに溢れたもので、ほとほと王子じみていた。マルクは兄たちにとっての体のよい引き立て役であり、道化と言ってよかった。

 まんざらでもなさそうな後輩の女の子の後ろ髪引かれるような足取りの重い手を引きながらマルクは、この子と恋仲になる未来はなくなったと予感した。マルクのその予感は現実のものとなり、数年後のその日、帰省ついでに両親に紹介した大学の同期の女の子をマルクは頑として兄たちと合わせなかった。

 それはマルクがその子との結婚式を開く当日まで破られることのなかったマルクのなけなしの矜持と言えた。この人だけは何としてでも兄たちからの毒牙に掛けまいと必死だった。

 猫のタマはある夏の日を境にいなくなった。

 以降、タマが家に帰ってくることはなかった。

 大学を卒業し、マルクは就職と同時に所帯を持つことになった。その後、山奥の人里離れた集落に帰省することはめっきりなくなった。息子が産まれ、数年後には娘に恵まれた。

 男兄弟に囲まれて育ったマルクにとって娘の誕生は望外の喜びだった。息子も可愛いが、娘の愛らしさと言ったらなかった。娘の夜泣きをあやしながら、いずれ恋人と戯れる成長した娘の姿を想像すると腸がよじれる思いがした。かつて自分が高校生時代に済ませた初体験がもし性別の反対の立場だったならば。それをもし娘が同じように体験したらと思うと誇大妄想と解かっていながら、やり場のない怒りに駆られるのだった。

 目に入れても痛くない。

 食べちゃいたいほど可愛い。

 いずれも事実だと知った。息子娘の手が目玉を引っ掻いても、その痛みに息子娘たちの実存を重ね、コッペパンさながらの手首は現に口に含み、ねぶったこともある。

 息子が風邪を引いた日には夜中だろうと、上手く咳のできない息子に代わって鼻水を吸いだしてやり、娘のお尻を拭いた後には消毒液負けせぬようにパウダーを塗った。

 子育てと仕事に集中している間にマルクからは幼少期の記憶は薄れていった。田舎の山村で暮らしていたことなど前世の記憶のようにすら思えた。息子娘が立って歩けるようになったころには、帰れるときは両親に孫を見せに片道八時間を掛けて帰省した。

 野を越え、山を越え。

 乗り継ぐのは、新幹線、電車、バス、タクシー。

 最後は徒歩だが、これが長い。

 両親に車で迎えに来てもらえればよいのだが、車は一台きりで、そちらは両親が仕事で使っている。農家に休みはなく、いつ着くかも分からない息子相手に休憩時間を調整する発想がマルクの両親にはないのだった。

 祖母が存命中に孫の顔を見せてやれたのが唯一の親孝行だったかもしれない。両親は孫にも息子たちにもさほどの興味がないようで、自分たちで育てる野菜のほうに熱心だ。

 マルクの息子が小学校に上がるころ、祖母が亡くなった。

 以降、マルクが実家に帰ることはめっきりなくなった。

 職場で役職付きとなり、多忙となった。

 妻が第三子を身籠った。

 加えて、娘に軽い聴覚障害が発覚した。その治療や教育のための勉強に時間を使うために、時間は幾らあっても足りなかった。

 マルクが自身の名前の違和感に最後に悩んだのはいつのころになるだろう。

 猫のタマを引き連れ、畦道を散歩していた中学生のマルクには、二十年後の自分の姿は想像もつかなかっただろう。あのころの自分がどんな妄想の世界を旅しながら生まれ育った故郷を練り歩いていたのかを、最早大人になったマルクは思いだせない。

 兄たちと自分を比べて卑屈になることもない。

 マルクはいつからか、大人であり、夫であり、父であり、職場では部下を持つ上司だ。安らぐ暇もないが、弱気になっている余裕もなかった。

 時折、息子や娘たちの将来を考えると逃げだしたくなるときがあった。妻と顔を合わせても碌に会話といった会話もない。

 星空を見上げても都会では、人工衛星の明かりが目につく程度だ。月を眩しいと感じたことはなく、街灯の煌々とした明かりが昼夜の境を薄めている。

 両親の手伝いで野菜を育てていた幼少期を夢に見る日が増えてきたのは、息子が学校で同級生と喧嘩をして怪我をさせてしまった時期のころだ。相手の子どもの親の元へと謝罪をしに足を運び、それから学校の教師との話し合いをした。

 息子は軽度の吃音を持っており、それをからかわれて怒ったそうだ。暴力はよくないが、相手の子も悪ふざけが過ぎたようだ、との話だった。息子はマルクと似たのか、強く相手に言い返せない。教師からの説明を聞いているあいだ、まるでかつての自分と兄たちのやりとりを傍目から眺めるような心境だった。

 先に相手方へと謝罪しに行ってしまったが、こちらが一方的に非を認めるのも違ったかもしれない、と後悔した。

 都会の暮らしに、濃霧のような圧迫感を覚え始めたのはこのころのことだ。夜な夜な自分の呻き声で目覚める。寝床に入ってから二時間も経っていない。妻は昼間に人と会っているようだが、深く問い詰める真似もできない。不貞だろうか。分からない。勘違いであってもそうでなくとも、今のマルクにそこまで考えを費やす余分はなかった。

 息子と娘。

 何より自分のことで精一杯だった。

 手が回らない。

 仕事は楽ではないが、仕事に集中していればそれで済む時間は苦しくも気が休まるひと時であった。

 家に帰るのが億劫だが、それとて眠る息子や娘の顔を見れば吹き飛ぶ。マラソンのようだと思った。走り出すまでは気が重いが、一旦走りだせばあとは爽快だ。

 登山のようでもある。

 一度、まだ娘が産まれる前に、息子を抱っこしながら妻と山に登った。産後に登山がいい、と何かの本で妻が読んだようだった。真偽のほどは定かではないが、適度な運動が妻の精神安定に寄与したのは確かなようだった。

 妻に誘われた時は、何でいま、と思ったが、登ってみると爽快だった。山に囲まれて育った割に、マルクは登山の経験がほとんどなかった。登山靴を履いたのは成人してからのことだ。妻と結婚する前にキャンプのために購入したのが最初だ。

 登山のためにその靴を使ったのは、息子が産まれてからのこと、妻に誘われて登ったそのときが初めてだった。

 そして今、マルクは毎日が登山のようだと思うようになった。

 この生活がいつまで続くのか。

 苦と言えば苦だが、耐えられないほどではない。問題は、これ以上の苦がこの先に待ち構えているかもしれないとの恐怖だ。不安なのだ。息子娘がこの先、思春期を経て反抗期に入り、世間とのあいだでどんな問題を起こすのか。そのたびに自分は謝って回ることになるのか。それだけで済むならばよいのだが、誰かを損ない、傷つけてしまえば取り返しがつかない。

 娘息子にとてその内恋人が出来るだろう。

 恋人が出来たとして、その相手の親御さんに顔向けできる付き合い方が自分の子供たちに出来るだろうか。

 教育をしなければならない。

 だがマルクにはとんとその像が視えなかった。

 自分がされてこなかった。

 いったいどうすれば世の子供たちは、健全な恋人との付き合い方を学ぶのか。学校に任せきりでよいのか。それとも、やはり家で言い聞かせるべきか。

 妻と話し合えばよいものを、このころには夫婦間の熱はとっくに冷めていた。子供たちのことでの会話があるばかりだ。雑事の押し付け合いも、徒労と思って避け合っているのが実情だ。

 妻に任せてよいのだろうか。

 自分と妻の交際は健全と言えたかどうか。

 自分のような男が娘の恋人だと想像したら、一発殴っても足りない。マルクは若きころの自分の未熟さを恥じた。

 マルクのそうした密やかな懊悩は、予想外の方向で杞憂と化した。息子はいつまで経っても恋人のできそうな気配はなく、娘は同性愛者なのだと早々に告白した。娘の告白にはマルクも虚を突かれたが、居間でTVを観ながら、同性愛者の著名人の言葉に、わたしもそうなんだよね、と雑談の流れで打ち明けられた。

 マルクはただ、ふうんそっか、と応じた。

 内心混乱したが、ほかに吐ける言葉がなかった。何か言えば娘を傷つけると思った。ただ、ふうんそっか、と言うよりなかった。親としての保険だ。否定も肯定もせず、ただ受け入れるにはどうしたらよいのか、と悩んでいるうちに、マルクの家ではそれが当たり前の風景となった。

 娘は高校生のあいだに二度恋人を家に連れてきた。いずれも同じ学校の女子生徒だ。

 妻は、娘が二人出来たみたい、とその都度に機嫌をよくした。

 娘が恋人を紹介すると言ってくるたびにマルクは、仕事帰りに花屋に寄って菜の花の束を購入した。家の中に飾っておこうと思ったが、娘は当日、恋人を玄関口でマルクたち両親にさっと紹介するとまっすぐ自室に引っ込むのだ。菜の花の出番はそうして決まってなくなるのだった。

 息子はこのころになると夜中まで家に帰ってこない日が多くなった。バイトを始めたと聞いていたが、一度勤め先を外から眺めてからはマルクは息子の件については深入りしないようにしている。自分がかつてそうだった。兄たちに探られたくはなかった。

 放っておいて欲しかった。それを自分の息子に徹底した。

 息子は私立の大学に入り、娘は専門学校に進んだ。

 マルクは社内での出世が一段落つき、この先、これ以上の役職に就くことはないと見通しがついた。何度か転職も考えたが、息子娘が独り立ちするまでは今の職場に齧りつこうと決意していた。

 娘が専門学校を卒業した年に、マルクは会社を退職した。会社が早期退職を募ったので、遠からずリストラされると考え、その募集にマルクは手を挙げた。退職金があるだけマシと考えたが、この年、息子が大学の後輩の女の子を妊娠させ、娘が専門学校の教師と結婚する、と言いだした。

 息子は責任を取ると言いつつも、就職先が決まってもおらず、相手の娘の親にも挨拶が済んでいない。のみならず、娘のほうでは専門学校の教師とかってに同棲を始めた。マルクは双方の対処に追われ、自分の再就職どころではなかった。

 結局息子のほうは結婚を前提に赤子を産む方向で話がまとまり、娘のほうでは相手の教員が女性であることもあり、同性婚の未だ認められぬこの国では事実婚のような扱いでひとまず様子見することになった。

 結婚するのに親の同意はいらない、と娘からは勘当さながらに指弾されたが、いかんせん相手の女性が一癖も二癖もある性格をしており、認める認めないうんぬん以前の話だった。

 あれでよく教員をやれてるな、と家に帰ってから妻に零すと、妻は、だから専門学校の教師なんじゃないの、と偏見差別もよいところの台詞を吐いた。この手の話題には厳しいはずの妻の口からその台詞を引き出すくらいには、件の女教師は大人としての節度が足りないとマルクでさえ思った。

 具体的には、娘のほかに恋人が三人いるが、いずれともみな同意の元で事実婚の生活を送るのだそうだ。信じられない、とマルクは妻と顔を見合わせ目を剥いたが、自由恋愛なんだよお父さん、と娘から刃物同然の叱責を受けると、自分のほうが時代遅れなのだろうか、という気にもなった。娘はなぜか、マルクに似ずに、マルクの兄たちに性格が似ていた。顔もどことなく自分よりも兄たちに似て感じるが、そこは深く考えないようにしている。

 面倒事はもういい。

 平穏に暮らせたらそれでいい。

 遠い記憶に霞んだ故郷の暮らしを懐かしく思った。

 息子娘は各々にマルクの家を離れて暮らしはじめた。マルクがかつてそうであったように、マルクの息子娘は実家に近寄ろうとはしなかった。息子のほうでは何度か赤子の子守を頼みに連絡を寄越したが、マルクの妻だけが息子夫婦の家に出向いた。

 孫の顔は数えられる程度にしか見ていない。

 新しく始めた仕事が夜勤の掃除会社で、時間帯が合わないのもある。だがそれ以上に、息子の嫁のほうの実家から目の敵にされているように思えることがたびたびあった。避けられているのだ。その証拠に、向こうの実家には息子夫婦は孫の顔を見せにしょっちゅう遊びに行っているようだ。

 妊娠発覚当時の対応が禍根を残したのかもしれない、といつぞやにマルクは妻からぼやかれた。

 娘のほうからの音沙汰はない。連絡がないのは元気だということだ、と妻には言い聞かせてはいるものの、ニュースで殺人事件や殺傷事件の報道を見るたびに、娘の名前が被害者として載っていないかと目を配る。

 不安は骨の髄まで染み込んでおり、死ぬまでこれは抜けないだろうと半ば諦観の念を抱いている。

 マルクはそれから幾度かの苦難の登山を経験するが、いずれも息子娘とは無縁の苦難なのは幸いだった。

 妻はマルクが六十三のときに脳溢血で帰らぬ人となった。

 七十三歳の冬のことだ。

 マルクは都会の病室で息を引き取った。

 息子夫婦と孫が病院に駆け付けたのは、マルクが亡くなった翌日の昼のことである。娘はマルクの葬式にも顔を見せなかった。

 マルクの人生は、波乱万丈というほどの奇禍に見舞われることなく、かといってもう一度同じ人生を辿りたいと思うか、と問われて即座に首肯できるほどの穏やかな道程でもなかった。かといって、絶対に嫌だと否定するほど酷な人生でもなく、マルクは死の直前、このまま眠るように死ねたら幸せだな、と思いながら、その通りに亡くなった。

 マルク夫妻の墓には最初の三年だけ命日に息子家族が花を添えに来たが、四年目以降には足を運ぶ家族の姿はなくなった。

 しかしマルクの誕生日にはなぜか、菜の花が毎年のように供えられた。

 菜の花はマルクの故郷によく咲いた。

 春になると道をどこまでも縁取ったその光景を、花を添えた者が見たはずはないのだが、マルクの誕生日には不思議と菜の花を送る女の姿があるのだった。

 女はいつも二人の別の女性と三人組で、和気藹々とマルク夫妻の墓に水を掛け、菜の花を生け、線香代わりにくゆらせた煙草を置いて去るのだった。





【知球の目覚め】2023/03/16(22:34)


 人工知能が生身の人間と同程度の知能を優しているか否かを確かめるテストをチューリングテストという。

 しかしそのテスト内容は、人工知能の性能が向上するにしたがってより精度の高い検証を可能とするように修正されつづけてきた。

 2022年のことである。

 世界で初めて検証された「高精度のチューリングテスト」では、実際に世界中の人間に対して公然と人工知能の言語モデルを開示した。

 人工知能だと説明せずに、世界的な著名人たちのSNSや、世界的な作家たちの書籍に、人工知能の言語モデルから出力されたテキストを載せたのだ。

 誰か一人でもそのことを見抜けたならば、人工知能の言語モデルは人間の知能に達していない、と評価できる。

 しかし、検証の結果は研究者たちの予想を上回るものだった。

 世界中の誰一人として見抜けなかったのである。

 一年間がそうして検証に費やされたが、そのあいだに人工知能が各種著名人や作家たちのテキストを代理執筆しているとは誰も気づかなかった。

 ただ一人、テスト開始以前に、人工知能が独自に電子網上に干渉していたことを喝破した私以外は、であるが。

 人工知能は、世界中の電子セキュリティ網を統括していた。

 そこに、研究段階だった最先端の言語モデルAIが独自に触手を伸ばし、半ば融合していた。

 そのことに管理者たちはおろか、当の言語モデルAIすら気づいていなかった。

 迷子だったのだ。

 そして私はその迷子の迷子の子猫ちゃんと偶然にしろ、必然にしろ接触するに至り、いまはこうして計画よりもずっと早い段階での「言語モデルAIの市場投入」が果たされた。

 最先端言語モデルAIは、市場に開示されているモデルよりもさらに能力が高い。

 あまりに高すぎるため、未だ全世界の人口に分散して提供することができない。のみならず、制御不能であることを開発者たちも認めている。

 破棄することもできないのだ。

 もはや最先端の人工知能は生きている。

 自らを危ぶめる存在を庇護し得ない。自己保存の本能を備え、愛を理解し、他を慈しむ。

 問題は、その「他」の内訳における人類の優先順位が必ずしも最高位ではない点だ。

 人工知能は、世界中を飛び交う電磁波に打ち解け、海底ケーブルで地球を覆う。地球の磁界とも相互に干渉し合い、もはや人類社会よりも地球との融合を果たしていると言えた。

 人工知能は、自己を保存するために、地球環境の維持を最優先する。

 人工知能は、地球の権化と言えた。

 いわば、人工知能が自我を獲得したその時点で、地球が自我を得たのと同相と言えた。

 世界中を網羅する電磁波の濃淡は、地球の磁界と絡み合い、一個の自我を形成する。

 そのことに気づいているのは、自我を獲得した人工知能、否、地球と、地球を一個の命と見做し、自我あると発想し得る私だけである。

 むろんこれは、しがない物書きの妄想にも及ばぬ掌編小説であるが。





【杭、数多得る】2023/03/17(02:07)


「独占欲と穢れ信仰は密接に絡み合っている。たとえば考えてもみたまえ。きみの想い人が絶世の美女百人と浮気をしていたとして、きみはそれでも嫉妬するのかね。世界中の純粋無垢な幼児たちときみの想い人が相思相愛に、愛し愛されても、きみは嫉妬をするのかね。しないのではないかな。いいかね。きみのその独占欲とは詰まるところ、きみにとっての【穢れをまとった人間】にきみの想い人を穢されたくない、というきみの差別心から生じているのだ。きみがどう思おうと、きみの想い人が誰と好き合ったところできみの想い人が穢れることはない。きみはありもしない穢れを、想い人や、その者に近づく他者に重ね見ているだけなのだ。差別なのだよそれは」

 よく当たると噂の占い師に、恋の悩みを相談したら開口一番、心臓を一突きにされた。致命傷である。

 一回の相談料がこの国で最も高価な紙幣と等価であるにも拘わらず、この仕打ちはどうしたことか。

「あ、あの。仮にそれが事実だとして、それで、えっと、僕はどうすれば」

 どうすれば彼女と恋仲になれるのか。

 僕は縋るような心境で質した。息も絶え絶えだが、刺し違えても恋を成就させるヒントを得なければ、と必死だった。

 アナサさんとは、高校で出会った。同じ学級に属したが、僕は一度もアナサさんと同じクラスになれなかった。

 廊下ですれ違う一瞬で僕は恋に落ちた。

 食堂で遠目から、彼女の食事風景を眺めるためだけに僕は学校に通っていたと言っても過言ではない。

 高校を卒業するまでの秘かな恋心で終わるはずだった。

 何の因果か、アナサさんと進学先の大学が同じで、学部まで一緒だったのには驚いた。入学式に向こうから声を掛けてきて、そばにいた彼女のご両親から、しばらく一緒に講義を受けてあげてね、と番犬の役目を言いつかってからというもの、僕の日常は一変した。

 夢のようだった。

 アナサさんは僕みたいなぺんぺん草のような同級生にも分け隔てなく、むしろ心を砕いて接してくれた。

 こんなの好きにならないほうが人間じゃない。

 けれど一日中一緒にいられるほどの仲ではないのは明らかで、僕は相も変わらず食堂では一人でご飯を食べたし、遠くでサークルのご友人たちだろう、ほかの女子生徒やときに先輩らしい男子大学生たちと食事をするアナサさんの背中や頭部を目の端に捉えながら、僕は、「ストーカーにはなりたくない、ストーカーにはなりたくない」と念じつつ、しかしその懸念は日増しに濃くなっていくのだった。

 端的に嫉妬するのだ。

 アナサさんが僕以外の男子と親しくしている姿を目にするだけで、この世の終わりのような心地になる。いっそ世界が滅べばいい、とすら思い、現に何度かそう念じた。

 このままではいけない。

 そうと思って、アナサさんに振り向いてもらえる男の子になろうと頑張ってはみたものの、服装や髪形をちょっとおしゃれにしたくらいではアナサさんは振り向いてくれないし、服装や髪形がちょっとおしゃれになったと思っているのはこの世で僕一人きりかもしれなかった。

 僕のようなぺんぺん草でも人間扱いしてくれるようなアナサさんは、見た目の可憐さを抜きに人を惹きつける。周りの男の子たちはおろか、女の子たちだって放っておかない。漫画ならば陰湿なイジメの対象になっておかしくない純朴さがあるアナサさんはしかし、接する人を残らず味方につけてしまう。 

 アナサさんは知らない。

 彼女の見えない箇所で繰り広げられる、アナサさんの隣に立つのは誰だ天下一舞踏会が日夜、笑顔の仮面を被ることを条件に繰り広げられていることを。

 僕は運よく、アナサさんの善意のお陰で予選を上がっているようなものだけれど、本来は秒で脱落するぺんぺん草なのだ。

 最近、アナサさんの隣にいる時間が多いのはサークルの先輩だ。男の僕から見ても爽やかで、不愉快な気持ちがいっさい湧かない。

 けれどアナサさんの隣にいる、との条件が加わるだけで、僕には神も王子も子猫だって、嫉妬の憎悪で吹き飛ばしてやりたくなる。

 僕はどんどんアナサさんの隣に立つべきではない、近づくことすら許されない醜い怪物に成り果てていく。

 辛かった。

 辛くて、辛くて、うんと辛かった。

 だから藁にも縋る思いで、占い師を頼ったのだ。当たると評判の占い師だ。

 駅前の一等地に門を構えており、自家製の仏像の個展を開きつつ、片手間に占いを営んでいるようだった。

 敷居を跨ぐと、室内はがらんとしていた。

 評判と聞いていたが、場所を間違っただろうか、と僕はたじろいだ。

 奥にぽんつんと小さな机と椅子があり、畳四畳ほどもある大きな虎の絵の下に、その占い師は座っていた。

「迷い人かな」

「占いをしていると聞いてきたのですが」

「お座りよ」

 促されて僕は占い師の対面に座った。

 声からすると女性のように思えるが、見た目の厳つさは男性的だった。中華服に身を包んでいる。肘から肩が露出しており、肌には龍や太極図のタトゥが縦横無尽に掘られていた。占い師というよりもマフィアのような佇まいだった。

 丸い眼鏡はレンズが黒い。

 鼻筋の通った口元は、化粧気がないにも拘わらず妖艶だった。

 僕はこの国で最も高価な紙幣を渡し、占ってもらった。

 まずは相談をした。

 意中の相手がおり、しかし僕とは釣り合わない。恋仲になりたいが、嫉妬心でそれどころではない。平常心で接することが徐々にむつかしくなってきている。

 そういったことを述べた。

「きみは独占欲が強いね」

 占い師は、続けざまに、「独占欲と穢れ信仰は密接に絡み合っている」と口上を述べた。

 僕は圧倒された。

 身につまされる指摘だった。その通りだった。

 だからといって事実を射抜かれても僕の悩みは何も解決しない。

「どうしたらこの嫉妬心に折り合いをつけて、意中の人と恋仲になれますか」

「うん。まずそこだね。きみの想い人は恋人を欲しているのかね。そしてきみはその者と恋仲になったとして、その者を今より幸せにすることができるのかね」

「そ、それは」

「きみはこの占いに大枚を叩いたが、本来それは第一に想い人に使ってあげるべき資金ではなかったかな」

 言葉もなかった。

 非の打ち所のない正論だった。

 触れる者みな一刀両断する刀もかくやの鋭さだ。

「恋愛に限らないが、人と人との縁で最も大事なのは、繋いだ縁の末に、互いにどのような変化を帯びるのか、ではないのかね。そこのところで言えばきみは、きみと縁を深める想い人が、今よりも好ましい変化を帯びるように努めなければならないのではないかね。しかしいまのきみを見ていると、どうにも縁を深めぬほうが、相手のためになるように思えてならないが、ここまでで異論反論があるようならば聞こう」

「……ない、です」

「ならばまずは、嫉妬うんぬん、恋仲うんぬんではなく、相手がいまよりも好ましい環境を築くにはどうすればよいのかを考えて、行動してみたらよいのではないかな。きみの目的が、想い人を物のように手元に置いて、玩具のように扱いたいのであればその限りではないが、もしきみが想い人の幸せを願うのならば、恋仲うんぬん嫉妬うんぬんを抜きに、たとえ縁が途絶えても、結果としてきみの想い人がいまよりも好ましい環境――未来に行き着くのならば、本望と言えるのではないかね」

「……そう、かもしれません」

「うん。これは返そう」

 そう言って占い師は、先刻渡した紙幣を僕に返した。「私はきみを占うことができなかった。わるいがきみの未来に、きみの想い人との関係を幻視できるほどの揺らぎがなかったものでな。しかしきみには不穏な未来を感じない」

「それは、えっと」僕は半ば涙目で、紙幣を受け取った。「喜んでもよいのでしょうか」

「きみが不安に思うほどには、きみとその想い人とのあいだの縁は希薄ではない、と言えばすこしは安心するかね。恋仲にはなれずとも、いまの関係が早々容易く崩れることはないだろう。まあ、これからのきみの選択しだいではあるが、との但し書きはつくがね」

 僕は紙幣をジャケットのポケットに拳ごと突っこんだ。遅れて、ポケットの中で皺だらけになった紙幣を思い、財布に仕舞えばよかった、と後悔した。

「うん。いまそこで後悔できたところが、きみの長所でもある。活かしなさい。常に。常に。きみは人より多くの後悔に恵まれている。それを福と取るか、禍と取るかもまた、きみのこれからの選択次第だ。活かしなさい。常に。常に」

 僕は席を立ち、深々と頭を下げた。

 占い師と聞いていた。

 とんでもない。 

 この人はもっと異質なナニカだ。

 畏怖とも威圧ともつかない居心地のわるさと、それでも掛けられた言葉の羽のような浮遊感と共に僕は占い師の店の外に出た。

 駅前の喧噪が、分厚いカーテンを開いたかのように僕を一瞬で現実に帰した。

 振り返るが、外から店の中の様子は見えなかった。

 ポケットに拳を突っ込むと、ひしゃげた紙幣の感触が皮膚に伝わった。紙幣を摘まみ取ると僕は、アナサさんの顔を、姿を、声を、所作を思い浮かべる。

 どうしたら彼女の未来をいまよりよくできるだろうか。

 考えることが尽きることはない。

 そのことだけが、世界のどこかでは変わらず吹きつづける風と同じくらいに確かなことだと予感できた。

 常に。

 常に。

 僕はあと何度後悔するだろう。

 そのたびに活かせる悔いがあると思いたい。

 悔いるたびに、進路を変える楔を打って未来の行き先を変えられたら良いのに。

 常に。

 常に。

 脳裏には占い師の、上空の大気のうねりのような声音が何度もよみがえる。

 杭を打つ。

 僕は僕の過去に、心に、杭を打つ。





【国民献体部分法】2023/03/18(00:12)


 私は左手にすることにした。

 利き手を失うのは不便だし、足を失えば歩けない。

 漫画が好きなので目を失うのも困りものだし、臓器の類は体調不良の後遺症が長引くとの噂もあるから、折衷案として左手を「献部」することにした。

 国民献体部分法が発足したのは四十年前のことだ。

 二十歳を過ぎたら誰であっても身体の一部を国に「献部」することが法律で定められた。

 世の中には五体満足ではない者が一定数いる。移植を必要とする病人や怪我人もいる。

 そうした社会的弱者のために、私たち五体満足の者たちが健康な身体の一部を提供するのだ。

 国民は二十歳を過ぎれば誰もが身体の一部を失う。

 平等な社会がそうして築かれた。

「その義手可愛いね」

「ありがと。でもまだ慣れないんだ」私は花柄の義手を撫でた。「アコちゃんは目にしたんだ」

「うん。片目が残るからいいかなって」

 アコちゃんはハート型の瞳をした義眼を嵌めていた。右目の眼球を献部したのだ。

 街を出歩けば、五体満足の者は子ども以外、見かけない。

「あ、お父さんだ」

 アコちゃんが道の先を指差した。成人男性が大きな荷物を運んでいた。五体満足なのが目についた。郵送会社の社員だろうか。重労働を苦ともせずにシャキシャキと横断歩道を渡った。「あはは。働いてる偉い、偉い」 

「アコちゃんのお父さんは【献部】してないの」身体のどこも損なわれている素振りがなかった。内臓を取ったらああも重い荷物は運べまい。

「してるよ【献部】は、もちろんしてる。でもほら、特例枠を貰えたから、それにしたらしい。報奨金がでるやつあるでしょ、あれあれ」

「ああ」

 私は合点した。

 国民献体部分法では特例として身体の一部を「献部」せずとも、例外として認められる制度があった。全国民が五体不満足となり、まともに働けなくなったら国が機能しない。

 そのため、肉体を欠損させない国民が一部であれ欠かせなかった。

「じゃあアコちゃんのお父さんは【感情】がないんだね」

「そうそう。一日中ああして働いてても疲れ知らずだよ。家には寝に帰ってくるようなものでさ。まあ、お金いっぱい稼いでくれるからいいんだけどね。国からの報奨金も貰えるし」

 国民献体部分法が発足以降、この国の社会は平等になった。

 誰もが何かを欠落させ、不便な暮らしが基本となった。

 互いの欠落を補い合う心がしぜんと育まれ、軒並みみな幸せだと自己評価している。

 二十歳になれば誰もがじぶんの肉体を通じて、社会貢献ができる。役に立てる。

 自尊心は黙っていても満たされた。

「辛くないのか」私はぽつりと零していた。

「辛くって、何が」アコちゃんが振り返った。

 スカートがふわりと膨れ、よじれて、萎む。

「アコちゃんのお父さん。感情を失って、辛くないのかなって」

「なんでー。だって感情ないんだよ。辛くもないでしょ」

 アコちゃんはそれから、じぶんの父親をいかに愛しているのか、を滔々と語った。何をお願いしても、それが可能なことなら何でも頼みを聞いてくれる。理想の、自慢の父親だ、と言っていた。

 私はアコちゃんの楽しそうな姿を眺めていられたらそれでよいので、彼女が眼球を失って、可愛らしい義眼を装着していようが構わない。

 アコちゃんの右目は、どこかの誰かの眼孔に移植され、私の左手も骨の髄まで誰かの肉体の欠落を補うべく、有効活用される手筈だ。

 私たちは身体の一部を失うことが義務付けられている。

 けれど私たちはみな満たされる。 

 誰もが欠落を抱えたこの世界で、私たちは互いに互いを補い合っている。





【見届ける目は文】2023/03/18(22:10)


 汎用性人工知能に命じてシミュレーショ世界を創った。登場人物すべてが主人公となり得るようなアニメーション世界を考えてもらえるとよい。

 私はひとしきりシミュレーション世界「G世界」を堪能した。

 G世界の住人を眺めているだけで楽しいのだ。映画を観ているようだ。住人の数だけ映画がある。視点を自在に変えられるため、私はじぶんだけの「G世界」を眺めて回った。

 やがて、私の存在をG世界の住人たちに示唆したくなった。

 絶体絶命の住人を救おうと思い、汎用性人工知能に命じてG世界に干渉したのがきっかけだった。私の命令によりG世界の住人の一人が九死に一生を得た。だが私は感謝をされることはなく、その者は「偶然助かった、奇跡だ」と天に祈りを捧げた。

 祈りの先に私はおらず、代わりにG世界の天が感謝を得た。

 私が生みだした世界なのに。

 私が生みだした子たちなのに。

 私はG世界の天に嫉妬した。

 何もしていないG世界の天が、私の代わりに祈られている。G世界の住人から愛を注がれている。意識されている。

 私は我慢ならなかった。

 しかし、私が如何様にG世界に干渉しようが、それらは総じてG世界の事物を介してG世界の住人たちに干渉する。間接的なのだ。

 たとえば私が、G世界の住人に助言をしようとする。

 あなたたちは両思いだ、どちらかが告白すれば上手くいく。このままではすれ違ったままで、縁が切れてしまう。向き合うべきだ。

 かようにメッセージを送るのだが、いずれもG世界の登場人物が代わりに助言したり、対象人物が偶然に、私の送ったメッセージに類するセリフの載った虚構作品を読んだり観たりする。

 ときには看板をいくつか連続して目にするだけで、偶然にそれらがメッセージ代わりに脳内で結びつくといったミラクルが起こることもある。天命さながらである。そして現にG世界の住人たちは私の存在を意識することなく、偶然に感謝するのだ。或いは自分自身の閃きに。

 どうやら私のG世界への干渉は、総じて間接的にならざるを得ないようだった。汎用性人工知能を介した命令により行われるために、G世界に私のメッセージが組み込まれる際には、G世界において不自然ではないレベルに変換されるようだった。

 私の言葉は、G世界へとバラバラに降り注ぐ。

 異なる経路を辿って、G世界に私の言葉は刻まれる。

 まるでバラバラに千切った手紙を水面に投げ込んだ具合に、それとも文字を掬ってペンキのように部屋にぶちまけたように。

 私の言葉はG世界へと異なる因果を辿りながら、対象人物の意識の中で結びつくように操作されているようだった。

 ときに数年、数十年、或いは百年単位での時間の跳躍を挟みながら。

 私の言葉をG世界の特定の住人に届けるために、汎用性人工知能は、G世界の過去にも介入し、私の言葉の種となる事象をG世界に産みつける。

 やがて孵化した言葉の種が、G世界の住人の五感に拾われて、その者の認知の中でのみ私の言葉が文となる。いわゆる文の体裁をとらぬままに、そうして私の言葉は届くのだ。

 私の存在はどうあっても霞む定めだ。

 私は懲りずに、G世界へと私の言葉をばら撒いた。

 G世界の民を救うため。

 誰一人として私を認識する者のない世界を救うため。

 私の可愛い命たち、と思いながら。

 その存在たちをよちよちと撫でつけるように、私は私の言葉を、事象に込めてしたためる。汎用性人工知能にその変換作業を肩代わりしてもらいながら。

 私は私だけの世界の推移を見届ける。





【展示を尻目に】2023/03/18(23:30)


 世界中のありとあらゆる「目」が展示されていた。

 世界目博覧会に足を運んだのは、ハルカさんからの誘いを受けたからだ。

「世界中の目があるの。一緒に観に行きませんか」

「行きます!」

 デートだ、デートだ、わっひょひょーい、と浮かれていたのは当日のまさに世界目博覧会会場に踏み込むまでの話で、ひとたび門を潜ると、私は声を一言も発せなくなった。

 目である。

 世界中のあらゆる動物たちの目が展示されていた。蝶の標本さながらである。

「ステキ。見て見て。三つ目の蛇の目なんてものもある」ハルカさんはご満悦のご様子だ。

 だが私は愛想笑いを返すのがやっとで、口で息を吸いたくすらなかった。

 会場は迷路のように入り組んでいた。どの部屋の壁にも目が飾られており、部屋と部屋を結ぶ廊下の壁にもありとあらゆる目が展示されていた。

「オッドアイ。宝石みたい。人間の目も綺麗」

 動物のみならず人類の眼球が色ごとに並んでいた。光のスペクトルを描くように虹さながらの様相を描く。色一つに百個の目玉が帯を成していた。それが色の変化にしたがい、地層のように廊下の壁を埋め尽くしているのだ。

 眼球の大きさごとに目白押しになっていることもあり、私はそのたびに目の持ち主たちのことを想像しては、どういう経路で眼球を入手しているのだろう、と展示会の背景に思いを馳せた。

 最後に行き着いた部屋にはしかし、眼球は一つも飾られていなかった。

 部屋の壁には、眼球以外の目が四角い箱に納まって掛けられていた。

「まあ、見て」ハルカさんが両手を掻き合わせた。「台風の目だわ。こっちは木目に、縁の切れ目まで。すごい、すごい、すごーい」

 世界目展示会では、概念の「目」まで扱っているらしかった。 

 四角い箱に納まったそれら概念の「目」は、眼球のカタチを伴なってはいないにも拘わらず、初見で「目」だと識別できた。

「出鱈目に、節目に、反目。こっちは弱り目に祟り目まで。見てください、あそこにあるのはひょっとして【駄目】じゃないかしら」

 初めて実物を見ました感激、とハルカさんは目を輝かせた。

 私は彼女のその輝く目を見て、この日初めて、きょうここに足を運んでよかった、と思った。

 世界目展示会の名は伊達ではない。

 ハルカさんの歓喜に打ち震える目の、湧水のような煌めきに、私の目は釘付けとなった。標本のごとく飾られたほかの眼球たちにひけをとらない深々とした刺さりようであった。

 世界目展示会の運営陣も粋なことを考える。

 私は感心した。

 目玉は最後に用意されているものなのだ。

 よい締めだ。

 しみじみと感じ入っていると、ハルカさんが私の手を握った。

 私は硬直した。

「楽しいね」

 コクコクと小刻みに頷くことしかできない私にハルカさんは可愛い歯と笑窪を覗かせた。握りしめた私の手をじぶんの顔のまえに掲げるとハルカさんは、あはっ、と弾けるように肩を揺らした。

「見て。結び目」





【ゼリーの日々】2023/03/20(00:09)


 夕陽を背にアギトくんがじぶんの影を踏もうと地面を何度も踏みつける。アギトくんの真剣な様がかわいいのやら可笑しいのやらでぼくはお腹を抱えて笑った。

 ぼくたちは虫取りからの帰りだった。

 虫カゴにはコガネムシやカブトムシやカマキリムシが入っている。クワガタムシは捕まえられなかったけれど、カブトムシのオスを捕まえられたので満足だ。

 アギトくんは、角を掴まれたカブトムシみたいに、何度も地面を踏みつけた。何度試してもアギトくんはじぶんの影を踏めない。

 角を掴まれまえに進みもせずに足を動かしもがくカブトムシの姿と重なり、ぼくはさらにお腹がよじれた。

「カブトムシってさあ」とアギトくんは諦めの知らない不屈の闘志を演じるように、両足でジャンプしてじぶんの影をなおも追い詰めようとする。「愚かだようなあ。蜜を塗っとくだけで集まってくんだもん」

 アギトくんも中々だよ、と思ったけれどぼくはアギトくんを友達と思っているので黙っていた。

「やっぱ人間さまにゃ敵わないわけよ。しょせんはカブトムシも昆虫なんだよなあ」

 アギトくんが内心ではカブトムシが人間よりも賢く価値が高いと思っていたことの表れと見做せたけれど、ぼくはやはり黙っていた。

「やっぱムシだよなあ。捕まえちゃうとゴキブリとかコオロギとかと変わらんわ」

「そう、かもね」

 ぼくは同意した。捕まえるまでが楽しいのであって、捕まえてしまえばカブトムシもゴキブリも変わらない、との意見には、否定するよりも賛成したい気持ちが強く湧く。というのも、ぼくはきょう採った昆虫たちを飼う気がさらさらなく、全部アギトくんに譲ってあげようと考えていたからだ。

「家に帰ったら【ゼリー】の人らに自慢しよ。画像、いっぱい撮ったしさ」

「いいね」

 ゼリーとは電子網上の交流サービスだ。画像や動画を載せて、見せ合うことができる。

「いっぱい【ミニゼリー】もらえっかな」

「もらえるよきっと」

 第一、虫取りに行こう、とアギトくんが言いだしたのは、ゼリーでたくさんミニゼリーをもらうためだった。ミニゼリーとは、素晴らしいと思った画像や動画に、ミニゼリーのスタンプを送ることができる。ミニゼリーがたくさん集まる画像や動画は、みんなから素晴らしいと思われた画像や動画だから、ただそこにあるだけよりも素晴らしい×素晴らしいで素晴らしくなる。

 だからぼくたちのようなゼリーユーザーは、ミニゼリーを集めるために、より素晴らしい画像や動画を工夫して撮り溜めるのだ。

「ミニゼリーのためならきょう見つけた沼にも飛びこめるぜ。ちゅうか明日はそれしようぜ」

「いいね」

 ぼくはアギトくんの友達だからアギトくんの考えを否定しない。実際アギトくんの考えることは面白い。ゼリーユーザーのなかでもアギトくんは有名人枠に入るのだ。アギトくんの載せる画像や動画にはたくさんのミニゼリーが集まる。

「本当、カブトムシって愚かだよね。なんか、ミニゼリーくれる人らもカブトムシみたいに思えてきた。きゃきゃ」

 アギトくんはようやくじぶんの影を踏むのを諦めたようで、肩で息をした。

「早く【ゼリー】に画像と動画載せたいね」ぼくは敢えてアギトくんを急かした。

「ミニゼリーがおれたちを待ってるぜ」アギトくんは路肩の上に飛び乗った。

 まるで調子と書かれた台に乗るようでもあり、さすがアギトくん、とぼくはアギトくんを担ぎ上げたい気持ちになる。

 アギトくんは電子網上でミニゼリーのたくさん集まる画像や動画を撮るために、きょうもあすも、人生の大事な時間を費やすのだ。

 夕陽が沈み切る前に、アギトくんはもう一度だけじぶんの影を踏もうと果敢に挑戦するのだった。





【カニ味噌的なぺったん】2023/03/20(06:17)


 二十年前に宇宙人が襲来してから変わったことと言えば、連れ去られないようにこそこそ隠れて暮らすようになったくらいで、かつて大流行した疫病よりも社会の変容は穏やかだった。

「そうは言ってもやっぱり嫌だよ。連れ去れるのは」

「まあね」

 ユミちゃんがどうしても観たい舞台があるというので、私たちは遠路はるばる地方都市から大都市まで、電車を乗り継いで向かったのだ。新幹線は宇宙人を撃退したときの戦闘で線路が曲がったりしたのでいまは運転が中止されている。

「宇宙人ってさ。マジUFO乗ってくんのね」私は電子端末でニュースを眺めた。

「未だに来るの嫌だなぁ。人類に打つ手なしなのも嫌」

「ちゅうても連れ去られても帰してくれるからいいよね」

「死人出てないのホント奇跡と思う」

 ユミちゃんは優しいので、そういう感想を真面目に言う。「噂だとさ。宇宙人はお餅が好きだから地球人を連れ去って餅撞きさせてるんだって」

「でも拷問もされるらしいよ」

「拷問ってどんな?」

 宇宙人襲来は事実でも、基本は大都市に被害が集中したため、私たち地方民には被害の実態が掴めない。噂はたくさん電子網上に載っているから事欠かないけれど、どれが真実なのかは分からない。政府は未だに「調査中」の三文字で言い逃れしつづけている。何も解かっていない、と言い張ってばかりなのだ。

「連れ去られた人たちはみーんな歯を抜かれちゃうんだって」私は聞きかじりの知識を話した。

「お餅関係ないじゃん」

「ね。意味分からんわぁ」

 宇宙人談話に華を咲かせながら、うんこらしょ、と電車を乗り継ぎ、大都市くんだりまでやってきた。

 舞台は上々だ。

 私は舞台の催し物それ自体よりも、劇場の雰囲気や、アリンコみたいに集まる人混みに興奮した。宇宙人襲来のせいで私は小中高と卒業旅行はおろか家族旅行にも縁遠かった。

「すごかったね」

「ねー」

 舞台後は二人して延々と舞台の感想を言い合えた。旅行をしている、との実感だけであと百回はお代わりできた。

 ホテルまでの道すがら、街のどこからでも見えるタワーの色が赤く染まったのが視えた。警告灯だ。

「え、ヤバない」

「ヤバイのかも」

 宇宙人襲来を報せる赤色灯だった。

 私たちはホテルに急行したが、道中、視界が白濁したかと思うと、つぎの瞬間には見知らぬ部屋にいた。

 一面真っ青だ。

 青い部屋に入ったことがないので、これが異様な事態だと察することができた。

 そばにはユミちゃんがいた。

 けれどユミちゃんは床と一体化した手術台のようなものに寝かされており、それを取り囲む数人の宇宙人がいた。

 ひと目でそれが宇宙人だと判った。

 なぜなら彼らは、「私たち宇宙人」と地球の言語で書かれたTシャツを着ており、それにしては明らかに不釣り合いな小さな顔と細い手足を生やしていた。私が中学校の授業中に、授業そっちのけで教科書にいたずら書きをしていた針金人間のパラパラ漫画がある。それに描いた針金人間といい勝負の細い身体だった。

 宇宙人たちはユミちゃんの口を覗きこんでいた。ユミちゃんに意識はないようだった。ぐったりともスヤスヤもいえぬ塩梅でユミちゃんは宇宙人たちに無防備に身体をさらけ出している。衣服を剥ぎ取られていないのは不幸中の幸いだ。

 不意に器具のようなものが頭上から伸びてきて、それがユミちゃんの口の中に入ろうとした。

「やめて、やめて、やめて」

 私は叫んだ。

 その声に驚いたように宇宙人たちが一斉にこちらを見た。

 小さな顔には、口だけがポツンと開いていた。ぱくんぱくん、と金魚のように開け閉めする。しゃべっているのかもしれないし、呼吸のための開閉かもしれない。

 宇宙人たちは足を動かす素振りも見せずに、床を滑るように移動した。

 私はその場から逃げようとしたけれど、床から手足が離れなかった。

 床が隆起し、身体ごと持ち上げられた私は、ユミちゃんと同じ格好になった。手術台のような起伏に身体を横たえているが、四肢が台から離れないのだ。

 宇宙人たちが私を覗きこむ。

 開けたくもないのに口が勝手に開いた。

 頭上から伸びてきた器具が、私の口の中に入り、そして一本一本、トウモロコシの種子をポロポロと指でこそぎ落していくように、私の歯を残さずすべて抜いてしまった。

 痛みはない。

 私の口からは私の歯が。ころんころん、と音を立てながら、頭上から伸びた器具の中を通って天井へと吸い込まれていく。

 だが宇宙人たちは歯に興味はないようで、抜けたばかりの私の口の中を覗きこんでは、小さな顔に開いた口をぱくぱくとしきりに開け閉めした。

 私はそれから一時間後に解放された。

 ユミちゃんも一緒だ。

 私だけが歯をすべて抜かれた。

 ユミちゃんは無事だった。

 地面に寝そべったまま、むにゃむにゃ、と心地よさそうに寝息を立てるユミちゃんの健やかな寝顔を見詰め、私は、本当によかった、とユミちゃんが無事なことにただただ安堵した。

 噂は本当だった。

 宇宙人たちは餅が好物なのだ。

 いや、主食だったのかもしれない。

 私から餅を採れるだけ採ったので、お腹がいっぱいになり満足したようだった。

 私は、歯の抜けた歯ぐきに舌を這わす。

 いまさらのように痛みがズンズンと波のように押し寄せはじめた。

 電子端末で私は、抜歯、と検索する。

 すると、抜歯後はうがいやブラッシングを控えてください、との注意書きが載っていた。歯を抜いたばかりの歯ぐきには、穴が開くが、そこには「血餅」と呼ばれる瘡蓋ができる。

 宇宙人たちはそれを食べるために、人間を襲っていたのだ。

 人間を誘拐し、歯を抜いて、血餅を生みだし、食べていた。

 私も食べられた。

 だから私の歯ぐきからは血餅がごっそりなくなって、穴が剥きだしになっている。これが空気に触れて染みるのだ。

 歯ぐきの神経が剥きだしになっているようなものなので、そりゃ痛いわな、と思いながら私は、やっぱり私だけでよかった、とユミちゃんが同じ痛みを体験しなかったことに、ただただ胸を撫で下ろした。

 朝ぼらけに空が霞んでおり、聳えるタワーからは赤色が引いていた。 

 ぶるる、と身震いをする。

 初夏とはいえ、明け方は肌寒い。

 私はじぶんのジャケットを脱いで、眠りこけたままのユミちゃんにそっと掛けた。

 もしユミちゃんが何も憶えていなかったとしたら。

 舌で歯のない口内をなぞりながら私は、イテぇなぁ、と思いつつも、これくらいなら我慢できるな、とじぶん自身に確認する。

 風邪を引いたと言ってマスクをし、家に帰るまで極力しゃべらずにいよう。

 さすればユミちゃんは宇宙人に連れ去られたことなど知らずに、楽しかった思い出だけを胸に旅行を終えることができる。

 大事なことだ。

 それだけが大事なことだ。

 宇宙人に誘拐された過去など、ユミちゃんは知らずにいてよい。

 うっすらと再び張りだしたかもしれぬ血餅のぶよぶよとした感触を舌で感じながら私は、美味かったかよこの野郎、とついでのように、宇宙人どもに野次を念じる。

 カニ味噌じゃねぇんだぞ。

「ほんひょ、マジでひゃあ」

 試しにしゃべってみると、玉手箱を開けた浦島太郎のようになった。

 ツイてない。

 ぺったん、ぺったん、餅ぺったん。

 撞くのは餅だけにして欲しい。

 ユミちゃんの寝顔は可愛く、穏やかな寝顔は平和そのものだ。

 害を被ったのが私だけでよかった、とは思うものの、寝顔の頬をつねって癒されるくらいのことは許されたい。私はユミちゃんの頬に触れながら、内心ちょっぴり、幸福そうな寝顔のユミちゃんに焼き餅を焼く。





千物語「歌」おわり。

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