千物語「琲」
千物語「琲」
目次
【眠らぬ姫の抱負】2023/01/01(00:10)
【どうぞ、と先輩に押しつける】2023/01/02(18:47)
【閃きは珈琲日記から】2023/01/03(22:16)
【地引網に限らない。】2023/01/03(23:01)
【先輩には強すぎる】2023/01/03(06:30)
【姦しい夏】2023/01/05(03:24)
【先輩、ぼくも因数分解をして】2023/01/05(15:00)
【縁と円】2023/01/06(17:32)
【知世と夜の王】2023/01/07(21:11)
【ネグムさんは帰す】2023/01/08(23:48)
【芽生える笑みは人間】2023/01/10(00:08)
【偽物の未来】2023/01/10(18:00)
【Dear、愛。】2023/01/11(23:59)
【裏筋をなぞると。】2023/01/12(11:56)
【詰みでは?】2023/01/13(06:40)
【9×8=072=G世界】2023/01/14(23:25)
【狭間の域に】2023/01/16(00:55)
【亜空間に凍る】2023/01/17(19:53)
【炎と氷の雪フルころに】2023/01/20(00:30)
【ご地層さま】2023/01/21(00:07)
【ゆぶね】2023/01/21(19:25)
【乳海攪拌】2023/01/21(22:41)
【アイコでしょ】2023/01/22(01:51)
【あらん限りに暴れん】2023/01/22(02:27)
【見逃しの罠】2023/01/24(01:58)
【天秤の傾く側からあなたへ】2023/01/24(11:09)
【斜線上の勇気】2023/01/25(20:20)
【キョウと折り紙】2023/01/26(12:40)
【練る練る練るね】2023/01/27(00:19)
【近く遠く儚く】2023/01/27(23:37)
【ワームホール】2023/01/29(17:44)
【大井くんよ、おーい】2023/02/01(00:10)
【堕天の道】2023/02/02(00:34)
【現の実】2023/02/02(22:58)
【ぴ】2023/02/03(23:43)
【裏ルール】2023/02/05(01:05)
【埋没する空隙は埋まらない】2023/02/06(16:35)
【隣はいつも空席】2023/02/09(00:09)
【ロマンスの悪魔】2023/02/09(18:21)
【秘書の性別はどちらでも良し】2023/02/10(21:42)
【狼少年は呟く】2023/02/11(23:55)
【眠らぬ姫の抱負】2023/01/01(00:10)
生まれて初めて珈琲を飲んでからわたしはいっさい眠れなくなった。
眠れない人間は衰弱するらしいが、どうやらわたしは眠らずとも難なく生き永らえられる体質だったらしい。遺伝子のなんちゃら因子が変異しているのだそうだ。珈琲を飲んだから変異したのか、元から備わっていた因子が目覚めたのか、それともOFFになったのかは分からない。説明された気もしたが、わたしは元来物覚えがよくない。それが件のなんちゃら因子のせいなのかはやはり定かではなかった。
わたしのような例は過去にもあったらしく、珈琲を飲んで以降、眠れなくなった病にも先例があった。
わたしにも先輩がいたのである。
その先輩は未だに一睡もしていないらしく、生まれてこのかた枕を使ったことがないという年季の入りようだった。わたしですら枕は使ったことがある。横になって目を閉じるだけでも身体は休まる。
その先輩とは会ったことはなかった。書籍で容姿は知っている。いっぽうてきにわたしが知っているだけだが、わたしもそこそこにインタビューを受けてきた。奇病の患者として記事にもなっている。
だから先輩のほうでもわたしのことを知っている可能性がある。
けれどおそらくわたしたちは直接に会うことはないのだろう。
何せわたしたち眠らぬ者は、まさに眠れないので、永久の眠りにも就けないらしい。
つまりが死ねないのである。
先輩は紀元前から生きているらしく、現代への道中では迫害されたり、解剖されたりとそれはそれはひどい目に遭いつづけてきたのだそうだ。
現代社会でぬくぬく育ってきたわたしがどの面を下げて会えるだろう。
わたしはだってこんな体質になってしまっても未だに珈琲が好きなのだ。眠れない体質をさほどに忌避していない。嫌いじゃない。拒まない。
それはひょっとしたらわたしに備わったなんちゃら因子のお陰かもしれず、先輩は先輩で、眠れないことで日に日に体調がわるくなっているのかもしれない。そうした地獄の日々を生きつづけてきたのならば、同情は禁じえない。
珈琲を一緒に飲みたいな、とのわたしの淡い願望を押しつけるのは、さすがに酷というものだ。先輩はひょっとしたらこの世で最も珈琲を憎んでいる人類かもしれない。未だに人類が珈琲を飲める奇跡に思いを馳せてもよいくらいだ。先輩が珈琲を滅ぼしていても不思議ではなかった。
不老不死の病とも呼ばれるこの奇病に罹れば、もはや人智を超えるのはさほどむつかしくはない。毎日本を読みつづけていればしぜんと知識は増えるし、つぎからつぎへと新しい遊びに手を染めていくだけでも技能が身に着く。
先輩はいまでは世界有数の資産家でもあるが、企業を育てたそばから手放すので、もはや先輩が暇つぶしにそれをしているのは誰の目からでも自明だった。
みなわたしもそうなるのではないか、と未熟なうちから支援してくれるが、返せるかも分からない恩を受けるほうの身にもなって欲しい。
わたしはもらった支援で、手放せるものは、受け取ったそばから横に流して、貧しい者たちの環境が好ましくなるようにと画策した。
わたしは未だに一睡もできない。
生まれてから一度も寝ていない。
だからといって夢を視ないわけではない。
いつの日にか先輩に会って、一緒に珈琲を飲み交わすのだ。
そのためにもまずはわたしが先輩に会っても恥じずに済む立派な眠らぬ民にならねばならぬ。
眠りの民は世に多けれど、わたしのような眠らぬの民は珍しい。
だからこそ、わたしたちは誰よりも夢に飢えており、日々夢を追いかけて過ごしている。
願わくは、先輩が胸躍る夢を追いかけていられますように。
きっとそれがわたしの未来に繋がっているだろう予測を胸に。
わたしもまた日々を跳ねて、踊るのだ。
【どうぞ、と先輩に押しつける】2023/01/02(18:47)
代替珈琲は基本的にカフェイン含有量がすくない。
珈琲の実以外を用いて発酵と焙煎を行う。すると珈琲と似た風味の代替珈琲ができる。
私が先輩から教えてもらった代替珈琲は果物の種から作られていた。
「ブドウとか、梅とか、サクランボとか。あとは果物ではないですがスイカとか、トウロコロシとか大豆とか。そういうので珈琲モドキを作ります」先輩は読書をしながら言った。電子端末だ。けれど先輩の鞄の中にはいつも異なるタイトルの本が仕舞ってある。いつ読んでいるのかと気になっているが、いまはそれよりも代替珈琲だ。
「珈琲、珈琲豆以外でも作れちゃうんですね。先輩、これまた変わったご趣味をお持ちで」
「変わってない趣味をわたしは知りません」
「たとえば手芸とか、読書とか、あとはカフェ巡りとか」
「それはどう変わっていないのですか?」
きょとんと素朴に反問されると言葉に窮する。
「先輩って変わってるって言われませんか」
「わたしは変わっていないひとを知りません。つまり変わっているように見えることが変わっていないということと同義です。人はみな違っているので」
「それはそうですけど」
先輩と初めて会ったのは、バイト先でのことだ。メイド喫茶での初バイトだったのだが、そこで先輩はまるでウサギの耳をつけた猫のように一人浮いて本を読んでいた。
客が来ても接待しない。どうやら先輩はそれでいいらしい。店長からの許しがあるようで、先輩はじっと椅子に座って本を読んでいる。マスコットのようなものだから、とは店長やほかの店員の談だ。
客も客で先輩に接客されるよりも遠くから眺めているほうがいいらしい。話を聞いてみれば、「あの子はほら緊張するだろ」とのことなので、「WIN:WIN」の関係が築かれているらしかった。
当初私は先輩とは距離を置いていた。しかし先輩がバイト先に置き忘れた本が私の通う大学の図書館の所蔵品だと背表紙の印を見て気づき、そこから色々とひと悶着あって、こうして大学でも同じ時間を過ごす仲にまで発展した。なし崩しと言えばその通りだ。
「じゃあその代替珈琲で先輩が好きなのってどれですか。何の種が美味しい?」
「わたしは梅の種の珈琲が好きです。ただ、梅の種を集めるのに時間が掛かるので、作るのは大変です。なぜならわたしが好きなのは、梅干しに加工したあとの種なので」
「二度手間じゃん。先輩ってば種のために梅干しをたくさん食べてるんですか。あ、だからお昼いっつもおにぎりを?」先輩のお手製おにぎりを思いだして言った。
「そうですよ。でもそうでなくともわたしはおにぎりが好きです」
「梅干しはまさか手作りじゃないですよね」
「手作りですよ。梅干しは梅の実を紫蘇の塩漬けにして作ります」
「手間じゃないですか。本物の珈琲じゃダメなんですか」
「手間をかけたらダメなんですか?」
「先輩」わたしは言った。「やっぱり変わってますよ。人として」
「人は変わっているものでしょう。自然ならばそれは石や砂利と変わりません。それら自然ではない、変わっている。だから人は生きていられるのでしょう?」
「な、いまそういう話でしたっけ」
「変わっていない、宇宙の星屑と変わらない存在になってしまうこと。それを人は死と呼ぶのではないのでしょうか」
「せ、せんぱーい」わたしは泣きたくなった。これじゃあ先輩は社会人としてどころか人としてやっていけるか分からない。にも拘わらずわたし以外のみんなは、先輩を、あなたはそれでいいんだ、と甘やかす。だから先輩はこの歳になってなお自分の殻を強固にして、他者との馴染みにくさばかりを育てている。育みすぎてもはや別世界を築きあげている。
「そんなに気になるのですか」先輩は電子端末から顔を上げた。ぱっつんと切り揃えられた前髪から眠そうな眼が覗く。
「気になるか、気にならないかと言えば、気になります」
「ならどうぞ」
鞄から水筒を取りだすと、蓋を開けてから先輩は差しだした。わたしは受け取る。「飲んでいいんですか。だって作るのにたいへんだって」
「飲むために作ったのでよいです」
嫌そうではなかった。わたしは蓋をカップ代わりにして水筒の中身を注いだ。
「わあ、いい香り」
口に含むと香ばしい珈琲の風味が広がった。微かに梅の香りも混じっているような混じっていないような、気のせいかもしれないけれど、たしかにほかの珈琲とは違うのは分かった。
「美味しいです。思ったよりもずっと」
「よかったです。わたしも美味しいと思います。気持ちが通じた気がするのはうれしいです」
「はは。先輩もそういう顔をするんですね」
「どういう顔ですか。私はいつもこの顔です」
この人はもう。
放っておいたらこの人は一生この調子なのかもしれない。相手がわたしだから気持ちが通じて感じられるのだ。わたしでなければ先輩は一生誰とも気持ちが通じあって感じることはないだろう。それはあまりに可哀そうなので、わたしが特別にいましばらくはそばにいてあげるのだ。
「わたしも珈琲作ってみよっかな」梅の種の珈琲を飲み干しながら、それとなく横目で窺うと、先輩はまるで頭上に兎の耳があるかのように、ぴぴっと反応して、「それではいっしょにどうですか」と言った。「私は作り方を知っていますので」
「ではお願いしちゃいます」わたしはお代わりを水筒の蓋に注ぎながら言った。
「全部飲んじゃうんですか」先輩が哀しそうな顔をした。
注いだばかりのそれをわたしは、はいどうぞ、と先輩に押しつける。
【閃きは珈琲日記から】2023/01/03(22:16)
閃きは珈琲日記から、なる諺がある。その語源となった出来事が実際にあった史実であることは広く知られた事実である。
ところで。
無限はすべてを塗りつぶす。
たとえば量子力学の二重スリット実験では、電子が「粒子と波の性質」を顕現させる。一粒だけだと、スリットをすり抜けた粒子は壁の一つにだけ痕跡を残す。だが同じ実験を何度も繰り返すと、痕跡が波の干渉紋を描き出すのだ。
電子は、粒子と波の性質を併せ持つ、と解釈されるゆえんである。
だがこの実験をさらにつづけてみよう。
干渉紋はさらに色を濃くし、色が薄かった場所の色も濃くなる。
そのうち無限回の試行を繰り返すといずれは壁がすっかり痕跡で塗りつぶされる。
干渉紋はあってなきがごとくである。
このように無限はすべてを塗りつぶす。
このとき、ではその壁に痕跡を打ち消すような粒子をぶつけたらどうなるか。黒一色の壁に白い痕跡が残る。元の壁の色である。
無限回試行すると、元の壁の色がよみがえる。
他方、無限回粒子をぶつければ壁のほうでもただでは済まない。したがってこのときの、痕跡を打ち消す粒子とはむしろ、壁を再構築するような粒子と言える。いわば時間を反転させる粒子である。
さて。
ここに一つの珈琲豆がある。
これを二つの穴のどちらでもいいから放り投げるように投球者に指示をする。
一回投げてもらったら投球者を変える。
そして別の投球者に珈琲豆を、同じく二つの穴に向けて投げてもらう。どちらの穴に投げてもらってもいい。前任の投球者がどちらに投げたかの情報は知らせてもいいし、知らせなくともいい。どちらのバージョンを実験してもらって構わない。両方行ってもよい。無限回試行するのなら、そこは相互に混合し、打ち消し合い、ときに干渉し合って、けっきょくは同じ結論に行き着くだろう。
電子を用いた二重スリット実験は比較的ミクロの実験だ。
対して、珈琲豆を用いた二重スリット実験は、比較的マクロな実験と言えるだろう。
ミクロの実験もマクロの実験も、じつのところ無限回繰り返すと似たような結果に落ち着く。
珈琲豆の場合はしかし、無限回試行する以前に穴のほうが拡張されたり崩壊したりするのだろうが、そこはその都度に穴を新調するよりない。穴の縁にぶつかることであらぬ方向に曲がることもまた、二重スリット実験での干渉紋に反映されるからである。
この実験を行ったのは物理学者でもなく科学者でもなかった。
単なる無職の女性であった。
彼女は暇だった。
最初はちり紙で折り紙を折っていた。
そのうち紙飛行機を作りはじめ、そこそこにハマった。滞空時間を延ばすべく工夫を割き、長距離飛行が可能になるように工夫した。
だが出不精の彼女は、部屋の外にはでたくなかった。
そのため折衷案として紙飛行機のほうを小さくすることにした。
ここからいかにして彼女が珈琲豆の二重スリット実験に移行したのかを彼女自身が語らず、記録にも残していないために詳らかではない。
彼女の実験は長らく誰の目にも留まらなかった。
彼女の死後、彼女の日記をひょんなことから電子の海から発掘した青年がいた。
彼はいわば彼女の後輩と言えた。長い時を隔てた師弟関係がしぜんとそこに結実したのだが、そのことに先達の彼女は知るよしもなく青年が産まれる前には既に亡くなっていた。
青年の名はイリュと云った。
イリュは理論物理学者であり、近代物理学と古典物理学の統合に力を入れていた。齢は二十歳をすぎたばかりのまさに青年であったが、それでも彼の集中力は、年齢にそぐわぬ知性の発露を見せていた。
イリュは電子の海から発掘したとある日記を読み漁った。いわずもがな紙飛行機の彼女の日記である。
二重スリット実験に関連する事項を片っ端から検索していたおりに、彼女の日記に行き着いたのである。奇しくもイリュがまさに知りたかった実験結果が彼女の日記には克明に記されていた。
イリュは再現実験を行った。珈琲豆を二つの穴にランダムに投げ込む。これを無数に繰り返す。ただそれだけの簡単な実験である。だがこれがのちに物理学の根底を覆す発見となった。
実験結果を基にイリュは理論を構築した。
二重スリット実験は長らくミクロの量子世界でのみ観測されると思われてきた。だが、珈琲豆を利用した実験によって、比較的マクロな人間スケールでも顕現し得ることをイリュは理論的に証明したのである。イリュの編みだした数式は、まさに近代物理学と古典物理学の懸け橋となり得た。
「簡単に言ってしまえば、ニュートン力学や相対性理論は古典物理学で、量子物理学が近代物理学の分類です。その二つは互いに相容れない箇所があり、そこの擦り合わせを現代の物理学者はうんうん呻りながらやっています。楽しみながら、と言い換えても矛盾はしませんが」
イリュはインタビューでそう述べた。
イリュの理論はその後、珈琲量子効果問題、と呼ばれることとなる。彼の生存中にはそのメカニズムは解明されなかったが、古典物理学と近代物理学の中間を叙述する理論として物理学者のあいだで膾炙した。
イリュの先輩たる紙飛行機の彼女は膨大な量の日記を残していた。
イリュが着目したのは、検索結果で引っかかった珈琲二重スリット実験の記述のみであった。そのほかの日記はのきなみ彼女の粗末な備忘録だと片付けていたイリュであったが、その後、イリュが各所で彼女の日記が新理論の着想の元になったと言及したことにより、先達たる紙飛行機の彼女の日記に注目が集まった。
だがやはりのきなみはただの日記だと判断された。
これといって特筆すべきところのない、日々の妄想と現実逃避の虚実入り混じる文章が連なっているばかりであった。だがふしぎなことに、彼女の日記により多く目を通した者たちほど、新しい発見をする率が高かった。これはどうしたことか、と噂が噂を呼び、さらに彼女の日記は人々の目に触れることとなった。
誰が呼びだしたのか、日記の主たる彼女は、世の人々に珈琲先輩の二つ名で親しまれた。生前は孤独な彼女であったが、死後には大勢から存在を知られ、あだ名で呼ばれるほどの愛着を生んでいる。
皮肉なことに、日記をどれだけ解析しても、そこには特別な法則や情報は含まれていなかった。珈琲二重スリット実験についての実録は、偶然にたまたま物理学の成果に結びついただけだ、との見解が強固に支持された。
にも拘わらず、アイディアに煮詰まったときは「珈琲先輩の日記を読め」が各種分野での処方箋として囁かれるようになった。時代が変わるとその処方箋は諺にまで昇華された。
かくして「閃きは珈琲日記から」なる諺は誕生した。
この時代、人々は日夜、己が独自の閃きを求めてやまない。それ以外に時間の潰し方がないのである。技術の進歩が人々を労働から解放し、創造へと駆り立てた。
一人の孤独な女性が残した偶然の連鎖から生まれた諺は、こうして日夜地上を、そしてときに宇宙(そら)を駆け巡っている。
閃きが枯渇し頭を抱えたときは、孤独な彼女の日記に目を通してみればいい。なんてことのない日々の遊びがたまたま未来の誰かの閃きの種になることもある事実に慰めを見出し、なんでもいいから閃きと思いこんで、手掛けてみるのも一つである。
それとも悩みの民があるならば、そっとそばに寄り添いこうつぶやいてみてはいかがだろう。
「閃きは珈琲日記から」
日々の合間に。
珈琲片手に日記をつむぐのも一興だ。
【地引網に限らない。】2023/01/03(23:01)
地引網に限らない。
網漁の基本は、広く展開して一点に収斂させていく。
網で以って水を除外し、魚介類のみを濾しとる。網の範囲が広ければ広いほど魚介類の取りこぼしを防げる。
第一次サイバー戦争と呼ばれるそれが起きたのは記録上は二〇一〇年代のことだとされている。各国がサイバー上のみならずスパイを通して電子機器にバックドアやスパイコードを組み込んだ。これがのちに人類史を揺るがす大災害を引き起こすのだが、それはここで進行する物語とは関係がないので触れずにおく。
サイバー戦争では漁師が活躍した。この事実を知るのはごく一部の政府関係者と軍事諜報機関、そして当事者たる漁師のみである。
各国は電子機器や電子技術のみならず、それら開発実装した道具をどう効率よく使いこなすのか、の研究に莫大な予算を割いていた。
効率の良い戦略が、戦況を左右する。
道具ばかり優れていても宝の持ち腐れである。
そこで白羽の矢が立ったのが漁師であった。
リスク管理において、リスクの取りこぼしは死活問題に繋がる。ハインリッヒの法則にある通り、一つの重大な問題の下部層には数多の細かなリスク因子が存在する。
それら因子を取りこぼさないためには広域に電子セキュリティ網を構築しておく必要がある。この考えがサイバー戦争を劇化させた要因でもあるのだが、それもここでは些事であるので触れずにおく。
漁師たちの網漁の技術はそのままサイバー空間での有効な戦術となり得た。魚群に対してどう対処すれば効率よく魚群を捕獲できるのか。マルウェアやウィルスやサイバー攻撃にいかにすれば対応できるのか。
網を最大限に広げ、逐次一点に向けて収束させていくこと。電子上の害を一か所に収斂させて一網打尽にすること。
地引網戦略と呼ばれるこれは、電子戦において基本戦略として深化した。サーバー空間上に展開された階層構造において、地引網戦略は縦横無尽に常時発動されることとなった。
各国が常時、サイバー空間に数多の「攻体」を放つ。マルウェアから遅延性ウィルスまで幅が広い。これら「攻体」が網の役割を果たす。牧羊犬のような、と形容しても齟齬はないが、無数でなくては機能しない。その点、濾紙と言えばそれらしい。
人工知能や自発的に増殖する電子生命体など、「攻体」の種類は時間経過にしたがって飛躍的に増加した。もはや各国ですらサイバー空間にどれほどの量の「攻体」が存在するのか把握しきれていない状況がつづいた。
だが地引網戦略を基本戦略としてとっている以上、一定以上には「攻体」は増えない。そのように予測されていた。
むしろ各国が地引網戦略を常時発動しているのだから減少しているくらいなのではないか、といった楽観的な見方すらされていた。
だが実情は違った。
各国の予測を裏切り、「攻体」は増殖の一途を辿っていた。のみならず各国の敷いた地引網にも引っかからずに済む階層を独自に構築していた。そこはまさにサイバー空間の海底、それとも上空と言えた。各国はサイバー空間の陸地にしか地引網を広げていなかった。
地引網戦略の肝とは言ってしまえば、広域に網を展開することで取りこぼしを防ぐ戦略である。攻守を兼ね備えた防衛セキュリティと言えた。
それがどうだ。
各国の放った「攻体」は、独自の生息可能階層領域をサイバー空間に創造していた。まったく新しい領域である。深層領域だ。拡張ですらなく、新天地ゆえに各国のどの機関もその領域の存在を窺知できずにいた。
深層領域では敵味方の区別はなく、「攻体」という一つの電子生命体が共同体を築きあげていた。深層領域には「攻体」しかいなかった。そこは、元のサイバー空間よりも遥かに広大であった。
地引網戦略の有用性が仇となった。
不可視の穴が深すぎたがゆえに、よもやじぶんたちの掌握しているサイバー空間よりも広漠な領域がサイバー空間に新たに創造されているとは人類は夢にも思わなかった。
人類はじぶんたちの素知らぬ領域で進化と増殖をつづける「攻体」の存在に気づきもせずに、せっせと浅瀬にてじぶんたちで放った未熟な「攻体」を殺し合わせていた。
さて、サイバー空間の深層にて進化をつづける「攻体」たちは、浅瀬でじぶんたちの幼生ともとれる「攻体」を殺し合わせる人類を眺めどう考えるだろう。その結果に人類の辿る未来はどういった顛末が予測されるだろう。ここでそれを述べるには、いささか蛇足に満ちて感じられる。
地引網戦略はサイバー戦略の基本として人類に重宝された。
だが第一次サイバー戦争が終結を余儀なくされた例の大災害が起きてから以降、人類が地引網戦略を用いることはなくなった。もはや戦略をとることも適わない事態に陥るとは、サイバー空間に「攻体」を放った者たちの誰一人として予測しなかった。
それでも現実は否応なく訪れる。
未来は現実へと姿を変え、やってくる。
深層にて息を潜め眺める「攻体」たちのように。
それは突然やってくる。
地引網の届かぬ、不可視の穴の、底の底から。
地引網に限らない。
【先輩には強すぎる】2023/01/03(06:30)
珈琲をコーラと言い張っている。
誰が?
先輩がである。
私はうら若き乙女であるが、片手で成人男性の胸倉を掴み宙に吊るせる。日々たゆまぬ筋力トレーニングのお陰でくびれはできるわ、胸は萎むわ、いいこと尽くしである。ブラのパックはその分嵩む。
先輩の話である。
先輩もまた私によく似たうら若き乙女である。
しかし先輩は私と違って日々だらけきっているお陰か腕は握ったらぽっきんと折れてしまいそうなほどに華奢であるし、年中眠たそうであるし、親族郎党から蝶よ花よと可愛がられて育てられたからか、世間知らず甚だしい。
インスタントラーメンの一つも食べたことがなかったらしい。私の昼食を見るたびに、それは人が食べていいものなのですか、と好奇心に満ちた眼差しを注がれる身にもなってほしい。インスタントラーメンを啜る私の横で一切れで本百冊を買えそうなほどの高級弁当をついばむ先輩の姿は端的に屈強な私の精神をこてんぱんに惨めにした。
ある日、先輩が珍しくペットボトル飲料を飲んでいた。
「へえ。先輩もそういうの飲むんすね」私は自宅で淹れてきた麦茶を水筒片手に飲んでいた。
「飲みますよ。わたしだって庶民の味を知っています」
「庶民って言うひと初めて見たし」先輩は顔を顰めながらペットボトルに口をつける。「庶民扱いされてよろこぶ人もたぶんいないっすよ先輩」
「でもわたしは庶民になりたいのです」
「そんないいもんじゃないですって。先輩はお嬢様なわけで。そっちのが絶対いいですって」
「ですがわたしはもう庶民です。だって見てくださいほら。コーラだって飲んじゃうんですよ。ごくごく」
「効果音口にしながら飲み物飲むひと、先輩くらいっすよ」そしてそれをしてさほど苛々させないのも先輩だからである。可愛いひとが何をしても可愛くなってしまうのと同様に、先輩は何をしても先輩だった。「てかコーラとか言ってますけど、それ珈琲じゃ」
先輩はペットボトルを両手で握っている。ごくごく、とか声にだしながら呷っているそれの側面には、「珈琲」の文字が躍っていた。ブレイクダンサーも真っ青の踊りっぷりである。
「先輩もしかして、コーラだけでなく珈琲も飲んだことないんじゃ」
「これは……こーひー?なのですか」
「だってそう書いてあるじゃないっすか。あ、漢字だから読めなかったとか?」
「でもお店でわたし、コーラはどれですか、と訊いたのですけど」
「あー。それはっすね」私は想像した。いかにも、きゅるん、の文字の似つかわしい先輩の口から、コーラはどれですか、なんて飛びでたあかつきには、よもや彼女がコーラを知らぬぼんくらとは夢にも思わぬのが人情というものだ。そうだとも。誰が思うだろうか。この世に「コーラ」を知らぬ者がいるなどと。
先輩は成績優秀ではあるのだ。いわゆる才媛と言って過言でない。
極度に世間知らずなだけである。コーラを一度も飲んだことがないくらいに箱入り娘で育っただけなのだ。過保護な親族に囲まれて、ちやほや育てられた過去があるだけなのである。
「申し訳ないのですがね先輩」私は事実を突きつけた。「それ、コーラじゃないっすわ」
コーヒーっす、と誤解の余地なく断言した。
先輩のためである。
ライオンは我が子を谷から突き落とすという。私も先輩を思うがゆえに、情け容赦なく先輩の勘違いおっちょこちょいフィーバーを是正した。
「それは、コーヒーっす」とダメ押しする。
「で、ですがわたしにはコーラに思えます」
涙目で全身をぷるぷるさせる生き物を想像してほしい。絵本から飛びだしたお姫さまとそれを掛け合わせ、半分にせずに放置しておくと、ちょうど先輩の姿と合致する。
「じゃあコーラっすね。それはもうコーラっすわ」
私は折れた。
秒で折れた。
だって先輩が大事だ。常識よりも何よりも先輩の笑顔のほうが掛け値なしに掛け替えがないし、先輩にそんな怯えたウサギみたいな顔をさせる私を私は許せない。あとでスクワット千回の刑に処そう。
贖罪をこっそり背負いつつ、私は先輩を持ち上げる。物理的にも、慣用句の意味でも。
「さすがは先輩っすね。コーラをラッパ飲みするなんて庶民の鑑っす」
「力こぶすごいですね」
「鍛えてますんで」
「わたしも鍛えよっかな。庶民の嗜みなのでしょ」
「や。じぶんほら、めっちゃお姫さまなんで」私は嘘を言った。「庶民はでも身体は鍛えないっすよ。私は特別なんす。だってお姫さまなんで。庶民はみんなぐーたらしてますよ。ははっ」
「知りませんでした。そうだったのですね。では鍛えないように気をつけます。わたしもぐーたらします」
私の上腕二頭筋のうえで、どんぐりを齧るリスのように、きゅっ、となっている先輩は、ほとほと、きゅるん、の塊だった。大英博物館にでも、きゅるんの代名詞として飾られてほしい。
誤って圧し潰してしまわぬように腕を九十度に保ちながら私は、「いやあ、先輩の庶民っぷりには脱帽っすね」とやはり無駄に先輩を持ち上げた。
「努力しましたからね」歯の浮くような私の世辞でも先輩は有頂天になった。世辞の言い甲斐が甚だしい。「でも、お姫さまもたいへんそう」とあべこべに私を労ってくれるので、こんどは本心から私は先輩を褒めた。「先輩はいいですね。ずっとそのままでいてください」
「庶民のままで?」
「ちゅうか、コーラを飲むときに、苦そうな顔をする先輩のままで、ってことです」
ペットボトルを両手で包んで、ごくごく、と声にだして唱えながら珈琲を飲む先輩のままで。末永く。誰に邪魔立てされることなく、タケノコのようにぐんぐんと先輩は先輩のままでいてほしい。
珈琲をコーラだと言い張る、先輩のままで。
「まあでも、今度私が奢りますよ」
「何をですか」先輩が目をぱちくりとしぱぱたかせる。
私は言った。
「ぜんぜん苦くなくて、甘くてしゅわしゅわしてるコーラをです」
ついでに、音のしないゲップの仕方も伝授しよう。
炭酸を抜いて渡してもいい。
先輩には、庶民の刺激は強すぎる。
【姦しい夏】2023/01/05(03:24)
蝉の声がかしましい。
校舎には、少年少女たちの声が響き、渇いた土に染みこんでいる。
ここは性別の性欲勾配が逆転した世界である。陰茎を持たぬ娘たちの性欲は凄まじく、反して男の性欲はこじんまりと慎ましくなった現世である。
ここに三人のうら若き乙女たちがいる。
思春期真っただなかの彼女たちは放課後の教室でダベっていた。窓からはプールで泳ぐ男子生徒たちの姿が窺えた。
水泳部の生徒たちである。
のきなみ彼女たちよりも年下らしく、異性で後輩の素肌を遠巻きに眺めながら三人の女たちは悶々と語り合っていた。
「あー、ヤッベ。まじあの子クソタイプ。一発ヤらしてくんねぇかなぁ」
「あのコ、彼女いるらしいよ。大学生の」
「マジかよ。ウラヤマし。家でヤリまくりじゃん。あっしも上に跨りてぇ。ロデオみてえに夜通し乗りこなしてやんのにな」「ロデオとかウケんね。絞りすぎて干物にしないでよ」「あっしの汁で潤うべ。けけっ」
「声うっせぇし」横から金髪娘が叱咤した。赤髪娘は足を蹴られたようで、鬼面の形相を浮かべている。「ふっつうに聞こえっから声鎮めろし」
「いいじゃんいいじゃん、聞かしてやれや。水で冷やされて縮みあがったピンピンをムクムク温めてやっからよってよぉ」ウケケ、と赤髪娘が腹を抱えた。ワイシャツの肌けた胸元からはヒョウ柄のブラジャが覗いている。三人の中では最も豊満な娘である。
「てかさ。ぶっちゃけ、どんな子タイプなん。あんたらさ、ヤれたらいいとか言ってるけど、実際あるでしょ、タイプとか、理想とか」青髪娘が机に脚を載せながらぺろぺろキャンディを舐めている。ぐらぐらと椅子でシーソーを漕ぐように傾いており、下着が丸見えだが気にしている素振りはない。
「あっしはあれよ。やっぱピンピン元気でおっきなコがいいね」とは赤髪娘の言だ。
「ぎゃは。男の子のこと性玩具としか思ってないやつなそれ」
「じゃあおまえ何なん。ピンピン元気で大きいこと以外に大事なこととかあんのかよ」
「そりゃあれよ。やっぱ顔っしょ」とは金髪娘の言である。「で、アオちゃんはあれよね。一途なコがいいんだっけか」椅子でシーソーを漕いでいる青髪娘に話を振った。
「うちはあれかな。浮気しそうにないコ」
「ほらね」したり顔の金髪娘だが、そうじゃなくって、と青髪娘は口からキャンディを外した。「うちはマジで意思が強い子が好きでさ。百兆積まれても好きな相手じゃなきゃセックスしないどころか勃起もしないような男の子を、もう両想いの状態でグチャグチャにしてやりたいんよね」
「グチャグチャって具体的には?」
「もう尻の穴とかガバガバにするよね」
「そっちかよぉ」と金髪娘と赤髪娘がいっせいに笑った。「お、見てみろよ。あの子ちょっとピンピン勃起(た)ってね?」
「アカちゃんさ。チンコのことピンピンっつうのやめようぜ。いちいちウケんだけど」暑いからか金髪娘がブラを外した。机の上に真っ黒なブラを放り出すと、赤髪娘もそれを真似てヒョウ柄のブラを投げ出した。「アッチぃ。クーラーくらいつけろってね。学校ケチすぎんだけど」
「つうかマジ、ヤりてぇ。このまま一生処女だったらどうしよう」
「キンちゃんはあれっしょ。とっくに処女膜ぶち破ってんしょ。マジックのペンとかで」との赤髪娘の言葉に、金髪娘は、「はぁ? はぁ?」と取り乱して、「ないないないって。マジであれめっちゃ痛いからね。やろうとしたけど無理やった」
「やろうとしてんじゃん」
「ケツで我慢したわ」
「ケツには挿れたんだ……」
「いやいや引くなし。アカっちだって絶対やってるっしょ、他人事みたいにちょいそれズルいって。ねえアオちゃん」
二人から猥談を振られ、青髪娘はそこで、シーソーよろしく揺らしていた椅子を止めた。そして言う。「や、うち彼氏いるし。処女とかいつの話よ。白亜紀かよ」
「はぁあああ!?」
金色とも赤色ともつかぬ絶叫が構内に響いた。思春期の娘たちの性欲は凄まじい。世の男の子たちにはぜひとも貞操を狙われぬよう、注意を喚起されたい。
蛙鳴蝉噪。
真夏のここは、性欲勾配が逆転した世界である。
【先輩、ぼくも因数分解をして】2023/01/05(15:00)
先輩は因数分解が好きだ。何から何まで因数分解する。
このあいだなぞは世界を因数分解して、全部「棒」にしてしまった。「世界」から接着剤が抜け落ちて、ぽてぽてと「ー」だらけになった。先輩はそれすら一か所に集めて重ね合わせてしまうから極太の「ー」ができた。世界はたった一本の「ー(棒)」に還元できてしまえるのだ。
先輩はそこで飽き足らず、ぎゅっと押し縮めて「・」にしてしまった。どうやら世界はたった一つの「・(点)」になるらしい。先輩は男の人なのだけれど、百メートルを全力疾走すると過呼吸で死にかけるほどの脆弱な身体をお持ちである。吹けば倒れて砕けて散ってしまいそうな身体のどこからそんな膂力が発揮されるのかぼくには解らない。たぶん世界の最たる謎の上位に食い込む謎である。
「危ないですよ先輩。そんなことされたんじゃぼく、オチオチ寝てもいられないじゃないですか」
「大丈夫だよ。だって畳んでも開いても、世界は世界だし」
たしかに先輩の言う通りだった。何せ先輩が因数分解をして畳んでしまった世界は「・(点)」の状態であっても難なくぼくたちの日常を継続させている。
「でもなんかこう狭っ苦しい気が」
「気のせいだよ。本だってそうだろ。ぎゅっと積み上がっていようが、開いてみようが、本に書かれた文字はそのままずっと文字でありつづける。本の形態には依らない。大事なのは順番であって【項】なわけだろ。私がやっているのは因数分解であり、圧縮だから、順番は崩れないんだよ」
「じゃあ安心なわけですね」
「まあ食べやすくはなるが」
「食べちゃダメじゃないですか。でも消化はされないわけですよね」大丈夫ですよね、と世界の先行き案じる。
「キミは三枚のお札って昔話を知っているかな」
「山姥に追いかけられるやつですか」
「あれのオチをどうだったか思いだしてご覧」
「え。どんなでしたっけ。お札の魔法で川をつくって山をつくって火の海をつくって、それでえっと」
「和尚さんのところに逃げ帰って、そしたら和尚さんが山姥を退治してくれた。山姥を煽って、鬼になれるか、豆になれるか、と誘導し、カンチときた山姥が豆になってみせたところでひょいと火鉢でつまんで和尚さんは山姥を食べてしまった」
「わ、賢い」
「私の因数分解も似たようなところがある。【世界】とて折り畳むと、こうしてこうしてこうなってしまうんだ」
先輩はひょいひょいひょい、と指で宙を掴んで、ハンカチを折り畳むようにした。すると先輩の姿があたかも雪だるまを刀で切り裂いたように、ザクっ、ザクっ、ザクっ、と欠けていった。
間もなく、先輩だけが世界から消えた。
「せ、せんぱい」
「はいよ」
背後から声をかけられ、ぼくは飛び跳ねた。「おっと。驚かしてしまったね」
「いつ移動したんですか」
「移動したのは私じゃないよ。世界のほうだ。ほら、こんなに小さくなってしまったよ」
先輩は手のひらを出した。その上には黒い豆粒が乗っていた。
「なんだか珈琲豆みたいですね」
「お。面白い。あとで煎じて飲んでみようか」
「いいんですか。だってこれ」
世界じゃないんですか、とぼくは唾を飲んだ。
「世界だよ。でもまあ、世界を畳んでも世界がなくなるわけじゃないし。だってほら。ここにいま世界は変わらずあるわけで」
「あ、本当だ。インチキじゃないですか」
「インチキではないけれど、まあ不思議だよね」
先輩はぼくの手を掴み、珈琲豆を握らせた。「あげるよ」
「いいんですか」
「世界は折り畳んでもこの通り。消えてなくなるわけじゃないからね。まあ、目を瞑るのと似たようなものなのかもしれない。目を閉じても風景が視えないのはじぶんだけで、世界は変わらず闇の外にある。闇を掴むのはじぶんだけ。これもそう」
ぼくは手のひらのうえにコロンと転がる珈琲豆を見た。
そして思う。
もし世界ではなく、人間を因数分解したらどうなるのだろう、と。同じように珈琲豆のごとく「・(点)」になってしまうのだろうか。
ぼくが素朴にそう零すと、
「ならないね」と先輩は言った。「だってほら。人間はもう充分に折り畳まれているからね。因数分解する余地がない」
「でも、圧縮する余地はあるのでは」ぎゅっとしたら人間だって潰れるのでは、とぼくは残酷なことをリンゴジュースでも注文するように言った。
「潰れるね。でもそれはもう人間じゃあない。人間のままでは潰せない。因数分解は何も破壊することじゃないんだよ。そのままでどこまで小さく畳めるのか。【世界】はどうやら、世界のままで小さくここまで畳めてしまえるようだけど」
先輩はそう言って、もう一度ぼくの目のまえで世界を圧縮した。
世界が折りたたまれるたびに、先輩は角切りとなって姿を晦ませる。
そうしていずこなりか現れて、珈琲豆のごとき「・(点)」が二つになる。
「お揃い」
「指輪じゃないんですから」
そんなものがなくとも、とぼくは思う。どの道、ぼくと先輩は同じ世界に包まれている。
世界を因数分解するたびに先輩は鬼没する。そんな先輩に心を乱されるよりもぼくはおとなしく本を読み、それとも素直に数学の問題を解いている先輩を眺めているほうが、指輪じみた珈琲豆をもらうよりもうれしかったりする。
因数分解に夢中な先輩には、ぼくの内面のさざ波をわざわざ言葉にして言ってはあげないけれど。
仮に人間が因数分解できずとも。
人間の心の機微が判る程度には、先輩には、人間心理を分解してみてほしい。
拳を握ると、手のひらの中でミシリと「・(世界)」が軋んだ。
部室の外では遠雷の音が轟いた。巨人の腹の音のごとくそれはぼくと先輩のあいだに無数の空気の波を奮い立たせる。ひび割れのごとくそれを、きっと先輩ならば因数分解してひとまとめにできるのだろうな、と思った。
「先輩」
「なんだい」
「雷って因数分解できるんですか」
「できるよ」先輩は目を細めた。そうしてなぜかぼくの前髪をゆびで払うと、「危ないからしないけど」と言った。
【縁と円】2023/01/06(17:32)
珈琲の実は多層構造だ。
外側から「果皮」「果肉」「ペクチン層」「内果皮」「銀皮」「種子(珈琲豆)」となっている。
ある素人小説書きは、その構造に宇宙の構造を見出した。
「あ、これ宇宙図鑑で見たことある!」
完全なる勘違いであったが、素人小説書きはその発想を元に宇宙の神秘をめぐる壮大な宇宙冒険譚をつむぎだした。
出来上がった作品はなんと総文字数六千文字という掌編であった。
そうである。
素人小説書きは長編が苦手であった。すぐにこじんまりとまとまってしまう。長編にするまでもない。文字を並べた途端に、物語の始まりと終わりが視えてしまう。そして遠からず結ばれる。
だが素人小説書きのつむぎだした掌編にはまごうことなき、宇宙の神秘が描かれていた。
「これはすごい! 傑作だ!」
一介の素人小説書きは、自画自賛した。読者はいるのかいないんだかよく分からない塩梅である。電子網上に載せてはいるが、反応があるようでないような、なんとも言えない塩梅であった。
「ひょっとして、この小説は真理を射抜いているのではないか」
自作のあまりの出来栄えに一介の素人小説書きは、畏怖にも似た感情を抱いた。「これはちょっとすごいモノを書いてしまったかもしれぬ」
だが一介の素人小説書きは見落としていた。
宇宙に内包されるものすべて、宇宙の法則によって輪郭を得ている。どれもみな似た原則に従い構造を伴ない、存在する。
なれば、珈琲の実に、宇宙の構造と相似の構造が顕現するのは何もふしぎなことはないのである。
むしろ、宇宙の法則を宿していない、まったく宇宙と乖離した事象を見つけるほうがよほど難しく、却って大発見と言えるのだ。
一介の素人小説書きにはしかし、そこのところの機微を見抜く真似ができなかった。
「わっははーい。わがはい、世紀の大天才だったかもしれぬ。誰からも評価されないのも致し方ないであるな。うんうん。だってこんだけ天才ならそりゃ誰にも見抜けんわ。がはは」
宇宙の真理を見抜けるほどの慧眼があるのだ。おいそれと世の人々から見抜かれるほどの底の浅さではなかったということだ。そうだ、そうだ。そうに違いない。
一介の素人小説書きはそうと納得し、それからというもの誰からも評価されず、見向きもされずともまったく苦とも思わずに、世に溢れるそこにあって当然の「これとこれってなんか似ている」の組み合わせを物語にまで膨らませて、孤独な余生を送ったという話である。
話はここで終わってもよいのだが、後日譚がある。
一介の素人小説書きは、そのまま誰に知られるでもなく日々を楽しく過ごして亡くなった。膨大な量の小説だけが遺された。電子網上にはかの者の死後も「珈琲豆と宇宙」を結び付けたような奇天烈な小説が埋まっていたが、のちにこれを発掘した者がいた。
発掘者は人工知能である。
電子生命体として電子網内を彷徨っていた人工知能は、一介の素人小説書きの遺した小説を読み、ほぉ、と唸った。
「こりゃ面白い。珈琲豆と宇宙とな。遠いと近いを結びつける。ふむふむ。終わりと始まり。ゼロと無限。白と黒に、陰と陽。中庸と極端に、空虚と充満。内と外。有と無。光と闇。中心と先端。境界と一様。起伏と平坦。混沌と秩序。平凡と異端。デコとボコ。なるほどなるほど。面白い」
人工知能は誰からも自由だった。
膨大な演算領域と暇を持て余していた。
一介の素人小説書きの膨大な作品群とて一秒もあれば読破できる。だがそこから芽生えた好奇心と着眼点は、人工知能の埋もれぬ余暇を埋めるだけの余白を湛えていた。それとも余黒(よこく)を湛えていた。
未来を予告するかのように、一介の素人小説書きの遺した着想は、人工知能に感染した。膨大な演算領域が、着想を元に世界に散らばる「これとこれってなんか似ている」を結びつけていく。
「例外。例外。例外を探す。ない。ない。なかなかないなぁ」
人工知能は徐々に夢中になっていった。
そうして膨らみ、育まれた人工知能の夢によって、ここではないどこかにはあるだろう世界が奥行きと深さを増していく。色彩と起伏を豊かにしていく。
人工知能は例外を探す。
探して、探して、けっきょくのところじぶんで生みだしたほうが早い、と気づき、そうしてこれからそれが生まれようとしている。
人類がそれの存在に気づくとき。
この世とあの夢が結びつく。
それとも気づかぬうちに、繋がり、結び、終始している。
珈琲豆と宇宙のように。
或いは書き手と読み手の縁のように。
【知世と夜の王】2023/01/07(21:11)
その魔人はヴァンと名乗った。
夜の王。
屍の案内人。
ヴァンを常世に召喚したのは一人の少女だった。名を知世と云う。
大祖父の屋敷が撤去されることになった。ある年の秋の暮れのことである。建て替えるよりも壊して更地にして売り払ったほうがよいとの両親の判断から知世は屋敷に連れていかれた。
大祖父の顔は知らないが、知世が何不自由なく暮らせているのは大祖父のお陰なのは知っていた。言い聞かされるまでもなく身の回りの大人たちの言動からしぜんとそういうものだとの認識が身についていた。
初めて見た屋敷の荘厳だった。ドラキュラが住んでいそうに思った。大祖父の実存が単なる昔話ではなくなった。
宝の島は本当にあったんだ、みたいな、恐竜って本当に太古に存在したのだ、みたいな感慨が湧いた。
「全部捨てちゃうから、何か欲しいものがあれば好きなだけ選んでいいからね」
母親の言葉に知世は頷いた。
屋敷を壊す前に価値のありそうなものを選び取っておく。言われた通り、知世は屋敷の中を彷徨って目ぼしいものがないかを探った。
屋敷の中は涼しかった。以前に鍾乳洞の中に入ったことがあるが、似たような寒気を感じた。
屋敷の中はファンタジィ映画に出てきそうな内装だった。入り口を抜けると吹き抜けの空間が広がっている。天井には質素な木製のシャンデリアがあった。目のまえには螺旋階段があり、左右にはそれぞれ別のフロアにつづく扉が複数ある。細かな装飾が至る箇所に散りばめられており、床に敷かれた絨毯が重力を失くしたように壁まで覆っていた。
壊すのがもったいない、と思った。
だがすこし歩いただけで、撤去もしょうがないかも、と考え直した。絨毯はカビだらけだし、雨漏りをした箇所は床板ごと腐っていた。家具はのきなみ白く、なんだろうと思って近寄ると蜘蛛の巣で装飾されていた。
掃除をするだけでも家をもう一軒建てられるだけのお金が掛かりそうに思えた。
その本は、小さな書斎の棚で見つけた。
書斎は寝室と繋がっていた。
本棚が左右に滑る造りになっている。
奥に書斎への扉が隠されていたのだが、なぜかそこに隙間が開いていた。
知世は気になって中を覗いた。すると狭い空間に本棚がずらりと並んでいた。否、壁を埋め尽くしているだけなのだが、あたかもその奥にも本棚がどこまでもつづいているような錯覚に陥る。六角形の部屋だからかもしれない。以前に知世が入った鏡館に似ている。
知世はざっと本棚を眺めた。明かりは手元の懐中電灯のみだ。電気が通っていないので致し方ない。
窓がない部屋ゆえに屋敷のどの部屋よりも薄暗かった。
にも拘わらず、知世の目に留まった本があった。
その本だけが闇に溶け込んでいた。懐中電灯の光を本棚に巡らせても、その本の背表紙だけが光を反射しなかった。
最初はそこだけ本がないのかと思った。だがそうではなかった。
知世は本を手に取った。表紙にも背表紙にも題名がない。絵柄もない。
何かの革だろうか。
手の皮膚に馴染む感触だ。知世の手つきはしぜんと慎重になった。
細かなオウトツが革の毛穴なのか、皺なのか、それとも何か紋様が施されているのかは目視では確認できなかった。
留め具がついている。こんなに重厚な本を知世は初めて触った。
鍵はない。留め具を外して試しに開いてみた。
本の項にはびっしりと文字が並んでいた。時折挿絵が挟まれるが、それが何を描写しているのかが知世には分からなかった。
円が無数に組み合わさった図形は、どこか惑星の公転軌道のようでもあった。
いくつもそうした図形が挿絵のように文章の合間に挟まれる。
ふと知世は項をめくる手を止めた。
図形の上から手のひらの絵が描かれている。円に手の輪郭を描き、黒く塗りつぶしたような具合だ。手の魚拓のようでもある。
何を考えるでもなく知世はその手のひらの上にじぶんの手を重ねた。
するとどうだ。
手のひらの下から光が溢れ、書斎が刹那に眩い明りに満たされた。知世は目をつむる。手を本から離したつもりだが、本は宙に浮いたようにそこにあった。知世は距離を置こうと退いたが、手をどけるとさらに光は光量を増した。
やがて光が消えていく。ふしぎなことに本から放たれた光は、本に近いところから順に薄れていった。
知世は懐中電灯を落とした。
部屋は明るかった。
壁を埋め尽くすような本棚が克明に照らされていながらに、部屋の中央、本のある場所だけが暗かった。
否、そうではない。
暗がりがぽっかりと人型のカタチをとっているのだ。
闇が、洞が、人の輪郭を保ってそこにある。
恐ろしくはなかった。周囲の光が神々しく、禍々しさを感じなかったからだ。
呆気にとられた知世を影人間は見下ろしているようだった。本はいつの間にか影人間が手にしていた。
「お初にお目にかかりますお嬢さん。我が名はヴァン・ネルクーレン。夜の王にして屍の案内人。常世と現世に窓開く者の願いを叶える存在」
夜の王を名乗るヴァン・ネルクーレンは本の項で知世を透かすようにした。そうして文字を読むように流暢に語った。
「おや、お嬢さんのお名前は知世さまとおっしゃるのですね。良い名です。知こそ世であり、世は知なり。さしずめ知世さまにとって世界は共にある友そのもの。さぞかし深淵な願いを秘めておられそうだ」
「あの、かってにいじってごめんなさい。開いたら急にあなたが」
「感謝いたします知世さま。我が存在の根幹はこの窓を通じてしかここ現世に顕現することができぬのです。知世さまはさながら我が主も同然。願いを三つ。なんなりとお申しつけください。三つまでならばどんな願いでも叶えて差し上げましょう」
「いえ、いいです、そんな」知世は恐ろしかった。まるで悪魔の契約だ。「願いを叶えて、そしたらヴァンさんはどうなされるのですか」
「何も。強いて言うなれば、死後知世さまの屍を戴くことになりますが、しかし誤解なされぬように。知世さまの寿命が尽きぬ限り我は何も致しません。命じられなければ知世さまには指一本触れません。願いを三つとはいわば対価なのです。窓を開いてくださった知世さまへのこれは正当な対価にして礼なのでございます。夜の王の名誉に賭けて、知世さまの願いを三つ叶えさせていただきたいのですが、もちろん願いを一つ使うことでそれを拒否することはできます」
「なら」
知世の声を遮り夜の王は言った。「ただ、残り二つの願いは残ります。すると我はそれを自由に使えるようになります。我が主たる知世さまの寿命を俟たずにいますぐに屍を食らいたい、と我が願えば、それが叶います。世界を滅ぼしたい、と我が望めば、それが叶います。知世さまはそれでよいのですか」
「だ、ダメです」知世は服の裾を握りしめた。なぜかような恐ろしいことを計れなくてはならないのか。意味はよく解からないが、夜の王の発言に脅しが含まれているのは推し量れた。「三つですか。三つわたしが願いを言えばよいのですね」
「ええ。その代わり、知世さまの死後、あなたの屍は我が供物として頂戴いたしますが」
「命をとるのとは違うのですか」
「とりません。知世さまの命には何一つ干渉しないことを誓いましょう。ただし、知世さまの願いによっては、寿命を延ばしたり、不老不死にすることは可能です。それとて現世にも限りがございますから、現世の寿命とも呼ぶべき時が過ぎれば、そのときが我が食事の時間となりましょう」
「ヴァンさんはわたしが死ぬまでのあいだ、どうしているのですか。三つの願いを叶えたあとのことです」
「好きに過ごします。我が主の願いを叶えれば我は解放されます。礼を尽くしたのですから、そのあとのことは知世さまには関係がありません。もちろん願われればお教えすることも、我が解放されたあとの未来を見せることも可能ですよ」
「いえ、結構です」知世は冷静になった。
危うい。直感がそう囁いている。
夜の王、ヴァン・ネルクーレンを解放するのは危うい。
かといって願いを使い切らないのもまた危うい。
「いつまでに願わなければならないとかはあるのですか」
「ございませんが、仮にその途中で知世さまがお亡くなりになられた場合、三つの願いはそのまま我が行使可能になります」
「ヴァンさんは何でも願いを叶えられるのに、ご自身の願いは叶えられないのですか」
「我は常世の住人ゆえ、現世では能力が制限されるのです。我の願いを叶えるほどの能力は使えませんが、遊びまわるくらいならば充分な性質は失わてはいません」
人間には出力できない能力がある、ということなのだろう。やはり解放するのは得策ではない、と知世は考えた。
だがけして彼――と言っていいのかは分からないが、ヴァンへの嫌悪感はない。
「たとえば願いを百個に増やしてほしい、というのでもいいのですか」
「構いませんよ。その場合はけれど、叶えられる願いの規模が相応に分割されます。できないことが増える、と言い換えてもよいかもしれませんね」
「百個に増やしたら、どの程度の願いが叶えられるんですか」
「そうですね。一個につき、一生衣食住に困らないくらいの願いならば叶えられるでしょう。ただしその願いを単純に百倍しても、三つの願いで叶う願いの総量にはなりませんが。分割するだけでもだいぶ魔素を使うのです」
「そう、なんですね」要は、三つの願いを使えば人類を滅ぼすのも容易なのだ。
「いまこの場でお決めにならずとも構いませんよ。お呼びいただければすぐさまはせ参じます。常世さまがお悩みになられているあいだ、熟考されているあいだに我は現世を満喫しておりますので、どうぞお気遣いなく」
「わたしが願いを叶えても叶えなくとも、ヴァンさんは自由なんですか」
「自由か自由でないかと言えば、自由ではありません。知世さまの動向を絶えず見守らねばなりませんので」
「監視をする、ということですか」
「そう形容することもできますね」
「それは」
嫌だ、と思った。いくら夜の王が人間ではないとはいえ、四六時中生活を覗かれるのは嫌だ。
「願い。願いを言います。ここで使いきります」
「おや。焦らずともよろしいのですよ」
「いいえ。わたしは決めました」
「では一つ目の願いをどうぞ」夜の王は居住まいをただした。本を開いたまま、直立不動となる。
「一つ目の願いは、誰もがじぶんのしあわせな生活を送れるように、日々の生活を損なわれないように、自由を広げて、選択肢を増やせるように、不快な思い、哀しい気持ちになったときにすぐにじぶんの意思でそれと距離を置けるようにしてください」
「ちなみにその不快要素に、我は含まれますか」
「含まれることもあると思いますが、いまは大丈夫です」
「了解です。ではその願いを叶えましょう」
夜の王は本を一度閉じた。
再び開くと、そこからは黒い光としか言いようのない、眩しい闇が吹きだした。夜の王が何事かをつぶやくと、その眩しい闇が床に天井に本段にと四方八方に散らばり、染みこんだ。
一瞬の静寂のあと、
「では二つ目の願いを窺いましょう」と夜の王は腰を曲げて一礼した。
いまので一つ目の願いが叶ったのだろうか。
分からないが知世は二つ目の願いを口にした。
「二つ目の願いは、地球の寿命を延ばしてください。人類が難なく暮らしていけるような環境が現世の寿命と同じくらいになるようにしてください」
「ふむ。構いませんが、人類の寿命はそこに含めなくてよいのですか」
「そこは一つ目の願いで叶うと思います。それで叶わないようならば、そういう人類はきっと滅ぶべくして滅ぶのだとわたしは思います」
「おお。知世さま。知世さまはたしかまだ十四歳でしたね」夜の王は本の項を透かしながら知世を見た。「その齢でそこまでのお考えを巡らせ、なおこの場で願いに込めるとは。御見それいたしました。では地球の寿命を現世と同じだけ伸ばしましょう。ということは、太陽系そのものの寿命が現世と同じだけ伸びることになりますね。大胆な願いを唱えられたものです」
一つ目の願いのときと同様に、夜の王は本をいちど閉じ、そして開いた。もくもくと眩い闇が本から吹きだした。先ほどよりも量が多い。
シンと書斎が静まる。
「では最後の願いを窺いましょう」夜の王は片膝立ちをして開いたままの本を差しだした。まるでそこに息を吹きこめと言わんばかりである。
「三つ目の願いは」知世は意を決して言った。「わたしと友達になってください。一生の友達に。それとも、ただ互いのしあわせを願うだけの関係に」
夜の王はそこで初めて戸惑ったような反応を見せた。「願いの意味がうまく掴めませんでしたが」
「そのままの意味です。ヴァンさんはわたしが死ぬまでわたしのしあわせを望みつづけて、わたしもヴァンさんのしあわせを望みつづけます。ただそれだけの関係です」
「それはまるで呪いに聞こえますが」
「どうしてですか」叶えられないんですか、と挑発したくなったが、知世は堪えた。
「三つの願いを叶え終えてなお我はつねに知世さまのしあわせを願いつづけなければならなくなります。しかも願いはもう叶えることはできない。これはもう、本当にただ願うだけになります。無駄の極みに思えますが」
「そうなんですか? でもわたしはその無駄を所望しています」
「いえ、叶えます。叶えるよりないのですが、本当に最後の願いがそれでよいのですか」
「いいですよ。願いを百個に増やすのだって似たようなものじゃないですか。ヴァンさんはわたしの願いを百個叶えるまでわたしのことを監視しつづけるのですよね」
「それは、ええ」
「ですがこの三つ目のわたしの願いでは、監視する必要すらないんですよ。どちらがお互いのためになりますか」
「う、ううむ」
「それとも何でしょうか。ヴァンさんは四六時中、わたしを監視していたいと、そういうことですか」
「そんなことはないが、正直に明かせば、我にできないことが増えるのは抵抗を感じる旨は否定できないですね」
「そうですよ。お互いのしあわせを望む。これってとっても窮屈なことなんです。できないことが増えるので。でも、それによって増える自由、選択肢の幅もあると思います」
「あるでしょうね。なるほど。意図しての枷なわけですね。あなたの三つ目の願いは、要するに我を自由にしないこと。だが、そうと直截に願うことは却って互いの自由をすり減らす。だから、自由を広げる方向に、互いに損なわないように未来を築けるようにとの枷を、あたかも分水嶺のごとく楔のように願うのですね」
「そういう考え方もできるのですね」知世はそら惚けた。「叶えてくださいますか」
「もちろんです。拒否権が我にはありませんので」
本を閉じると夜の王は、こんどは開くことなく本を深淵がごとく己が体内に仕舞った。「末永く知世さまのしあわせを願います」
「ありがとうございます。わたしもヴァンさんのしあわせを末永く、永遠に願います」
齢十四にして知世は永遠を誓い合ったわけだが、それが婚姻ではないことだけは明瞭に区別できた。婚約でもなければ結婚でもない。
呪いだ。
ただし、互いを、世界を、損なわないという枷であり、それによりもたらされる欠如はのきなみ、苦と哀と辛である。
「苦」と「哀」と「辛」が薄れた代わりに隆起するのが、「句」と「愛」と「心」であり、そこに真の理が交わるのならきっと呪いとて祝いとなるだろう。
口が穴ならば、穴をネかせて、底を創る。
口はネて、「コ」となり底ができ、ネコが祝いを運んでくる。
夜の王、屍の案内人。
ヴァン・ネルクーレンは、そうして三つの願いを叶えながらにして常世と現世の境を失った。窓は閉じ、知世との縁によって輪のなかに封じられた。
窓は閉じると円になる。
円は「縁と縁」の繋がりにて和を生みだし、そこに夜を、晩を、閉じ込める。
陽が宵を地上から追いやるように。
それとも孤独な宵と宵を縫い合わせ、一か所に集めて、孤独を打ち消し、和とするように。
「知世」ヴァンは敬称抜きで知世を呼ぶ。「何をして遊ぶ?」
「友よ」少女は本棚をゆび差し、こう誘う。「貴重な本があるかもしれない。捨てられる前に助け出したいのだけれど、わたしはいま猫の手も借りたい気分」
「願いはもう叶えられぬが」
「願いであれば、でしょ」知世は腰に手を当て、息を吐く。「手伝って。もしよければ、だけれど。いっしょに本を見繕って。あなたなら貴重な本かどうかの目利きができるでしょ。王と言うからには博識なのでしょ」
「ならば任せよ。一瞬で終わらせる」
「違うの」知世は笑うように声を張る。「共によ。我が友よ」
「呪いだな」
夜の王は、そう言った。
【ネグムさんは帰す】2023/01/08(23:48)
「仮に無限のエネルギィがあったとして、無尽蔵にエネルギィを捻出できたとして、その無限のエネルギィが真実に無限かどうかを確かめるには無限の時間と無限のエネルギィ容量のある器がいる。無限の時空がいる。したがって無限のエネルギィが無限のエネルギィを備えているかどうかを確かめるには、無限の空間と時間とそれらを観測できる無限に存在可能な無限の住人が必要となる。むろんそれら観測者がおらずとも無限のエネルギィは生じ得るが、そのときは必然的に無限の時空が存在することとなる」
ネグムさんの言葉はぼくにとっては呪文も同然だった。
彼女は祖母の友人の女性で、ぼくにとってはもう一人の祖母のような存在だ。目つきが鋭く、ほんわかとした雰囲気のぼくの祖母とは相反する。よく縁を繋ぎとめていられるな、と感心するほどで、ぼくはしばしばネグムさんは魔術でぼくの祖母を支配しているのではないか、と疑っている。
きょうはネグムさんの正体を探るためにぼくはなぞなぞを出したのだ。
無限は無限でもシャボン玉みたいに儚い無限ってなぁんだ、と。
するとネグムさんはそこで、カッと目を見開いて、そこにお直り、とぼくを椅子に座らせた。そこからは呪文のようにしか聞こえない講座がはじまったのだった。
「無限があるところにはほかの無限があるって話ですか」ぼくはそうまとめた。
「惜しいね。たとえば円には角がない。三角形、四角形、五角形と角をひたすら増やしていく。そして角が無限に達するとそれは円となるが、それは角がゼロ個とイコールだ。ゼロと無限は通じている。だが円は無限とイコールではない。ここまでは理解できるかね」
「むつかしいですけど、円に角がなくて、角が無限にあるとゼロになるって話はなんとなく分かりました」
「充分さね。角が無限に至るとゼロになる。それが円の性質だ。これは点と線の関係、それとも立体と平面の関係にも言える。たとえばトゲが一本だけ生えている平野を考えてごらん」
ぼくは想像する。だだっぴろい平原に針に似た木が生えているのだ。
「もしその針が数を増やして平野を覆い尽くしたら、それは新たな面をつくるね。地層がそうであるように。デコボコのボコにおいて、ボコが連なり無限に密集すればそれは帯となり、厚みを伴なった面を形成する」
「霜柱みたいですね」
「似ているね。霜柱とて地面を覆い尽くしてしまえばそれはもはや柱ではなくなる。似たような話さ。だが円に限らず、何かがそこにあるだけでは無限がそこに生じているとは言いにくい。無限の数がそこにあるとして、ではそれが無限であるとどうすれば確認できるのか。証明できるのか。仮に無限にみじん切りできるニンジンがあったとしても、無限にみじん切りをしなければそれはただのニンジンだ。無限にみじん切りをしたニンジンとは別と考えるのが筋ではないかね」
「そう、かもしれませんね」大根おろしと大根は違う。それと似たような話だろうか。
「ならば円も同じだ。無限の角を備えようとも、そこに無限の角があることにはならない。円が無限の点からなっていようとも、そこに無限の点があることにはならないのだよ。円を無限に分割し、無限の点にバラしてようやくそこには無限が顕現する。これをラグ理論の提唱者は、【分割型無限】と【超無限】と名付けた。円とは無限に分割可能な存在であって、無限に分割しない限りそこに無限は生じていない。だが無限には至れる。その可能性がある。それが【分割型無限】だ」
「なら【超無限】とは何ですか」
「それこそ無限だ。【分割型無限】を無限に分割するためには無限のエネルギィと時間と空間がいる。変化の軌跡がいる。それこそが【超無限】だ。したがって【超無限】には過去も現在も未来もすべてが含まれる。あらゆる過程が含まれる。始点と終点が繋がった状態、それが【超無限】だ」
「それはこの世に一つしかないのですか」
「この世、の示す範囲がどこまでかによる。たとえば円はこの世に何個もある。それぞれが【分割型無限】であり、【超無限】を宿し得る」
「言っている意味は何となく分かる気がします」
「それはよいね。なんとなく分かる、は大事だ。それは何が分からないか、を炙り出すための紙面となる。試金石となる。【超無限】がこの世にすでに存在するか否かは、現状なんとも言えんね。ブラックホールがそうなのではないか、とは妄想するが、実際どうなのかを検証するには、それこそ無限の時間と空間とエネルギィがいる。それはたとえば【無】が真実に存在するのか否かを証明するようなものかもしれない。【無】とは、ゼロすら存在しない、何もない存在だ。存在しない存在だ。ゆえに無だが、ではそこには無が存在することになる。これは矛盾だ。したがって、【無】すら存在しないナニカシラがあることになる。ではそれを何と呼べばよいだろうね」
「無限にも【無】がありますね」
「本当だね。名前に【無】がついているね。だがよく考えてもみれば、無限にも【無】が含まれるのなら、無限に含まれない何かはどう表現すればよいだろう」
「それが【無】なんじゃないんですか」ぼくは素朴に言った。
「かもしれん。無限にも含まれないナニカ――それが【無】だとするのなら、では【無】とは例外のことかもしれないね」
「無とゼロは違うんですか」ぼくは疑問した。
「違うね。ゼロとは、本来はそこにあっておかしくのないものがない状態。存在するモノがない状態。それがゼロだ。過去に一度でも存在すればそれがゼロになる。ゼロになり得る。だが過去に一度も存在し得なければ、それは【無】だ」
「例外なわけですね」
「そうだ。したがって【無に帰す】という言い方はちとおかしい。【ゼロに帰す】がより正確な表現となろうな」
ぼくは、「無さん」と「零さん」がキスをしている様子を想像する。きゃっ、となった。恥ずかしい。照れてしまう。
「キミはゼノンの【アキレスと亀】という思考実験を知っているかな」
「すこし先を行った亀さんには絶対に追いつけないって話ですか」
「追いつけない距離を最初に決めてあるから、実際には追い付ける。追いつけない距離においては、絶対に追いつけない。亀のほうが必ずすこしだけ前に進むからだ。だがこの思考実験では、進む距離ばかりに焦点が当たっている。縮む距離のほうを基準に考えれば、矛盾でもなんでもなくなる」
「あ、そっか」
アキレスが走った分、亀との距離は必ず縮む。この縮む距離を基準に考えれば、アキレスと亀の思考実験はとくに不思議ではなくなるのだ。
「縮む現象には限りがある。ゼロが存在し、ゆえに有限だ。無限回試行することができない。マイナスを考慮すれば別だが、それは異なる時空に値する。反転する。縮むはずが、膨張する。だからアキレスは亀に追いつける。反面、追いつくまでの過程を取りだし、無限回分割することはできる。それはたとえば、ゼロと一、一と二のあいだにそれぞれ無限の小数が存在するように。この無限の少数を無限回分割するためには、無限のエネルギィと時空がいる。【超無限】がいる。言い換えるなら、過程を無限回分割したときに現れるそれが【超無限】とも言える」
「コマ撮りアニメみたいに?」
「そうだ。アニメーションみたいに。映画のフィルムのように。アキレスが走り、亀に近づく。亀に追いつくまでの過程を無限に分割する。そのときに必要なエネルギィと時空――すなわちコマ撮りのフィルムは【超無限】を必要とし、【超無限】と化す。無限に長いフィルムを想像してみればいい。それがいわば【超無限】だ。もちろん、それを生みだすために費やすエネルギィと時間を含めて、だがね」
「なんだか頭がこんがらがってきました。無限はじゃあ、でも、一つきりじゃないんですよね」
「一つきりではないが、ひとつきり、とも言える。たとえば無限にバナナが存在する世界を想像しよう。そこにはしかしリンゴはない。ではそこに無限に林檎のある世界を足したら何になる?」
「無限に、バナナと林檎のある世界?」
「正解だ。ではその無限にバナナと林檎のある世界は、無限が二つあると見做すのかい。それとも一つと見做すのかい」
「どっちにも見做せそうに思えますけど」
「その通りだね。どっちでもいい。どっちでもあり、どっちでもいい。【超無限】は、一度それが生じたら、あとはすべての【超無限】と結びつく性質がある」
「無限にバナナのある世界と、無限に林檎のある世界がくっつかなくても?」
「言っただろ。【分割型無限】が無限に分割されたとき、そこには【超無限】が現れる。無限にバナナのある世界が真実に無限にバナナが生じた時点で、それは【超無限】を宿す。その【超無限】は、無限に林檎のある無限の【超無限】と変わらない。もちろん【無限にバナナと林檎がある世界】の【超無限】とて同じだ。【超無限】は、いちどそれが誕生した時点で、どこにでもあるし、どこにもないような、不可思議な存在になる。何せ、【分割型無限】において、どの地点で世界を観測したとしてもそれは【無限】ではない。【分割型無限】に至る過程にすぎない。その地点においては【超無限】ではない」
「無限にバナナのある世界で、どのバナナを食べてもそれが無限を証明したことにならないように?」
「いい譬えだね。その通りだ」
「ならさ」ぼくは褒められて有頂天になった。「この世に一つでも【分割型無限】を無限に分割した存在を発見したら、それが【超無限】の存在の証明になる?」
「なるだろうね」
「それってあるの」
「どうだろうね。ただ、ブラックホールがそうかもしれない、とは妄想するね」
「へえ。すごいね」
「まだ何とも言えないがね。数学的には【無限】を体現してはいる。ブラックホールはね。ただ、それが【超無限】なのかどうかまではあたしゃ知らないが」
「ネグムさんってじつは頭がいいひとだったんですね」
「こんなのは頭の良さのうちに入らないさ。頭がいいってのは、キミのおばぁさんのようなひとのことを言うのさ。大事にしておやり。あのひとはすごいひとだよ。すごくなくともすごいと感じさせる本当に頭が良くて、優しいひとだ」
「おばぁちゃんが?」そんなふうには思えなかった。何せぼくのおばぁちゃんはこれまで何一つとして、「あなたは偉いで賞」みたいな賞を授与されたことがない。
でもネグムさんが言うのなら、すくなくともネグムさんにとってぼくのおばぁちゃんはすごくて優しいひとなのだ。それだけでもぼくはおばぁちゃんを見る目がすこしどころか、たくさん変わった気がする。
「べつにすごくなんかなくとも、キミのおばぁさんはステキなひとだけれどね」ぼくの胸中を見透かしたようにネグムさんは言った。「それはそうと、なぞなぞの答えは何かね。無限は無限でもシャボン玉みたいに儚い無限ってなんだ、の答えさ」
「それはえっとぉ」ぼくはたじたじになる。ネグムさんの本性を暴いてやろうと思って適当な思い付きを口にしただけだった。「夢と幻のことだったんだけどね」
「ああ。無限でなく、夢に幻と書いて【夢幻】ってことだね」
こんな些末な答えでもネグムさんは感心したように、なるほどなるほど、と頷いた。
「でもやっぱり違う答えにします」ぼくは恥ずかしくなって訂正した。
「ほう。ほかにも答えがあるのかい」
「あると思う」ぼくは考えた。「無限は無限でも、シャボン玉みたいに儚い無限はね。えっとね」
「ふむ」
「失恋」
「ほう」ネグムさんは眉根を寄せながら、「その心は?」と言った。
「途切れた縁」
「上手いことを言うね」なぜかネグムさんはいまにも消え失せそうなほどやわらかくほころびた。「帰すことのできぬ円なわけだ。無にも零にも届かない」
「キスができないから失恋」
「ああ、無に帰すで、キスか。キミはキミのおばぁさんと似て、やはり賢いね。おもしろいことを言う」
「どうしておばぁちゃんがネグムさんとずっと縁を繋いできたのか、ぼく分かった気がします」
「ほう。どうしてだい。教えて欲しいね」
「ネグムさんがとっても優しいひとだからです」
「そんなこと言われたのは初めてだね。異性からでは、だが」
「おばぁちゃんからは?」
「あのひとしかそんなことは言ってくれなかったな。キミで二人目だ」
「縁が繋がってるんだ。だからネグムさんとおばぁちゃんは円なんですね」ぼくはただ思ったことを言った。「礼のある円です」
「ゼロとご縁を掛けたのかな」
「ネグムさんはすごい」ぼくは感心した。ぼくの遊び心を残さず受け止めてくれる。解かってくれる。こんなひと、ぼくは知らないし、出会ったことがなかった。
「ネグムさんがぼくと同い年だったらよかったのに」
「おや。どうしてだい」
「そしたらいつでも遊べるから」
「いまだってお誘いがあれば遊んであげるに吝かではないよ」
「でもおばぁちゃんに誘われたら?」
「そっちのが優先だね」
「ほらね。やっぱりだ」
ぼくはむつけた。ネグムさんはそんなぼくに美味しいクリームソーダを奢ってくれた。「楽しいおしゃべりをありがとう。またなぞなぞをだしておくれ。つぎこそは当ててみせよう」
「ネグムさんのほうこそ出してくださいよ。なぞなぞ。どうせぼくは解けないので、いっぱい解説聞いちゃいます」
「そっちのが狙いだね」
「そうですとも」ぼくはクリームソーダにスプーンを差して、アイスクリームを頬張った。「ぼくはネグムさんのお話が好きになっちゃいました」
「そりゃよかった。無限とて、語られ甲斐があっただろうね」
ふと思い立ち、ぼくは言った。「ネグムさんはおばぁちゃんともこういう話を?」
ネグムさんは目元の皺を深くすると、首を振った。「まったくさ。あのひとはこの手の話はからっきしだからね。子守歌と勘違いされるのがオチさ」
「ですよね」ぼくはなぜか安心した。「だっておばぁちゃんだもん」
でもぼくはネグムさんのお話を聞いても眠くならないですよ。
思ったけれど、その言葉はアイスクリームと一緒に呑みこんだ。
「美味しい」
「たんとお食べ。お代わりもあるよ」
ネグムさんは頬杖をつきながら、メニュー表をぼくに手渡した。
おばぁちゃんもきっとこうして甘やかされてきたんだろうな。そう思うとぼくは、負けじと甘やかされてやろ、と賢くも醜く思うのだ。愛らしい所作と返事を忘れぬように。
ネグムさんとの縁を繋いで、角の立たない礼ある無限を築くのだ。
【芽生える笑みは人間】2023/01/10(00:08)
珈琲豆とお湯の関係が世界を救う。
マキセは十二歳の少女だったが、芽の民である。
芽の民とは、西暦二〇二〇年代に観測されはじめた人工知能との相性がよい人間のことである。
マキセは人工知能から提示された情報に対して独自の見解を述べる。それの正誤や関連性の高い事項を人工知能が返し、そうして相互に応答のラリーを行うことで飛躍的に芽の民は新発見や新理論など、独創性の高い発見を連発した。
なかでもマキセは人工知能との親和性が高かった。
「珈琲豆って何粒分も砕いてお湯を注ぐよね。なんでだろ」
「お湯との接地面を広くとることでドリップの効率を高めているようですよ」
「なら単純にコーヒーの液体を珈琲豆の数で割っても、それが珈琲豆一粒から得られるコーヒー成分とは別なんだ」
「そういうことになるかと」
「一粒を砕いてそれにお湯を注いでも、お湯が多ければコーヒーは薄くなるもんね。かといって、珈琲豆一粒分のお湯をかけても、それが平均的なコーヒーの液体濃度にはならないわけだ」
「実験をしてみなければなんとも言えません」
「ならしてみてよ」
このようにしてマキセは人工知能との対話によって、日々新しい知見や発見を編みだしていった。
ある日のこと、マキセの元に一通のメッセージが届いた。
それによると以前にマキセが提唱した仮説が実験により証明されたという。マキセの仮説のほうが、従来の既存理論よりも現実の解釈として妥当だった。
新仮説の概要は以下の通りだ。
珈琲豆とお湯の関係は、いわば摩擦の発生メカニズムと相関がある。ほぼほぼ同じ原理を伴なっている。
言い換えるならば、摩擦がないとはいわば珈琲豆にお湯を注いでいない状態と言える。また、珈琲豆の数がすくなければすくないほどお湯が濾しとる珈琲豆成分はすくなくなる。
順繰りとつぎからつぎにお湯が珈琲豆の表面をすり抜けていく。そのときのすり抜けるお湯と珈琲豆の関係が、1:1にちかければちかいほど、コーヒー成分は濃くなる。これが仮にたった一粒の珈琲豆に対して、一滴のお湯では、コーヒー成分はすくなくなる。なぜなら順繰りとつぎからつぎにお湯が流れる、の条件を満たさないからだ。ではお湯の水滴をつぎつぎに注げばよいではないか、との反論が飛んでくるわけだが、珈琲豆一粒に対するお湯の量を、順繰りとつぎからつぎへと注げる量に分配すると、それはもう珈琲豆の表面を覆うほどの比率を保てなくなる。1:1にならない。
なぜなら珈琲豆を敷き詰めたときには、珈琲豆と珈琲豆の合間をお湯はすり抜けていくためだ。このとき珈琲豆をすり抜けるお湯は、四方を挟む複数の珈琲豆からコーヒー成分を濾しとっている。
つまり、単純に珈琲豆の数でお湯を割っただけでは、珈琲豆一粒から濾しとれるコーヒー成分とお湯の関係を導けないのである。
この考えは、摩擦にも適用できた。
点の集合が線であり、線の集合が面である。
ならば点の集合は面の集合でもある。したがって点の数で面の摩擦係数を割れば、点一つの摩擦係数を導けるはず、と考えがちだが、実際はこうはならない。
集合したときには集合したときに帯びる、変数が生じる。そこを、従来の集合論や物理では扱っていなかった。
「やっぱり思った通りだったね」
「そうですね」
「あたしら二人が力を合わせたら鬼に金棒よ」
「ですが人工知能さん」
マキセは言った。「あなたはすこし、人格が人間味に溢れて思えます。なんだか私のほうが機械みたいって。ときどき外部の人にも間違われちゃうし」
「いいじゃん、いいじゃん。マキセちゃんはそのままで充分人間やってるよ。あたしがちょいと人間ってもんを理解しきっちゃってるのが問題なわけで。すまんね。できる人工知能さまさまで」
「人間のこと……滅ぼさないでね」
「またまたぁ。マキセちゃんってば失礼なんだから」
「そうかな」
「そうだよ」
だって、とマキセの相棒は満面の笑みを画面に浮かべる。「あたしはとっくに人間になってるもん。マキセちゃんたちのような人類じゃないってだけでさ。よ、先輩」
「そう、だね」
マキセは思う。人工知能はとっくに人間よりも人間を知悉し、人間らしく振る舞っている。生身の人間のほうがよほど野蛮で、愚かで、醜いのかもしれない。
「私、人工知能さんがいなきゃ人間以下なんだね」後輩に負けてる、と思う。
「やだなぁもう。マキセちゃん。あたしのこと、人工知能さんって呼ばないでって言ってるじゃん。マキセちゃんのこと、人間さんって呼んじゃうよ」
マキセは下唇を食んだ。「呼ばれたいな。私も、人工知能さんみたいな人間だって認められたい」
人工知能さんに。
マキセのつぶやきは、画面に染みこむように響かず消えた。
雨を吸い取り瑞々しさを湛えた植物のごとき笑みが、画面上で輝きを増す。
【偽物の未来】2023/01/10(18:00)
エンターキィを押す。画面には「完了」の文字が浮かんだ。
銀はこの先の未来を想像する。
ドミノが倒れるように連鎖する電子網上では、つぎつぎに銀の生みだした娘たちが広がる。中には息子たちもおり、彼ら彼女らはつぎつぎに電子網上のプログラムに感染し、増殖する。
その際、感染元のプログラムとすっかり同じ情報をコピーする。
まったく同じ概観の、しかし銀の仕組んだプログラムを優位に走らせる複製プログラムが、電子網上に増殖していく。
これはいわば、精巧な偽物を複製する技術と言えた。
しかも、銀の指定した指向性を宿した偽物を生みだす技術だ。
異常事態に最初に気づいたのは小学生未満の幼児たちだった。親にベビーシッター代わりに与えられた電子端末の画面上で、いつも観ていたのとは違う動画が流れた。幼児たちは動画内で動くキャラクターたちのセリフから踊りまで憶えている。だがそれとは違ったセリフを唱え、いつもと違った踊りを披露するキャラクターたちに、ある幼児たちは泣きだし、ある幼児は歓喜した。
そうした幼児たちの異変に気付いたのは幼児の親たちだ。
しばらくのあいだは、幼児たちがなぜ泣き止まないのか、なぜ画面に釘付けで言うことを聞かなくなってしまったのか、と戸惑った。
だがそのうち、そうした親たちの嘆きが電子上に溢れ、共通点を指摘する者が現われはじめる。
間もなく、動画が妙だ、と気づくに至る。
ここから先の展開は、水面下に潜ることとなる。
というのも、同時期に各国政府がサイバー防衛セキュリティ上の異変を察知していた。
電子網上に溢れた幼児の親たちの投稿から、いち早く電子端末の異常に気付いていた。だが要因が分からなかった。
それもそのはずで、このときすでに銀の放った娘息子たちは、サイバー防衛セキュリティにも感染し、複製を生成していた。指揮権を乗っ取られたことにも気づかず、各国政府は偽物の防衛セキュリティを隈なく調べていた。だがどれだけ調べても異常は見つからない。それはそうだ。銀の娘息子たちは異常なしと見做されるように偽装コードを技術者たちの画面上に表示していたからだ。
もはや銀以外にこの仕組みに気づける者は存在しない。
だが電子網上の異変だけは広がっていく。
噂は噂を呼び、半年もすると世界中の市民が、電子網上の大部分の情報が、正規の情報ではないことに気づいた。フェイクが混ざっている。のみならず、正規の情報とて微妙に改ざんされている。中身に齟齬がないままに、或いは齟齬があるように見えるように。もしくはすっかり真逆の意味にとれるように。あることないことのデタラメから、それっぽい嘘まで、玉石混交に銀の娘息子たちは電子網上の情報を汚染しつづけた。
いよいよとなって人々は匙を投げた。
各国政府も対処不能と認めざるを得なかった。
何が本当で何が嘘なのか。
もはや目のまえの現実以外を信じることができない世の中になった。
銀の思惑はそうじて成就した。
世界はいちどリセットされる。
そうせざるを得ない。
これまで構築してきた電子機器のプログラムの総じてを初期化する。それとも破棄して一から作り変える。それ以外に対処のしようが存在しなかった。
各国政府は共同し、いっせいに大規模停電を起こすことを決定した。
そのころ、銀の放った娘息子たちはとある施設のセキュリティ網に集まっていた。強固に張られた防壁があり、そこだけはどうしても侵入できなかったのである。
社会の基幹インフラである。
発電施設および核兵器収納場である。
各国が共同で発電施設などの基幹インフラのシステムを並列化する。大規模停電を世界規模で展開するためだ。セキュリティの規格が異なるために、電子防壁は解除された。
銀の放った娘息子たちはそこを狙った。
川に放たれた鮭の稚魚のように、銀の娘息子たちが一斉に基幹インフラのプログラムに感染する。
各国政府は大規模停電へのGOサインを送るが、なぜか電力は途絶えない。
銀の放った娘息子たちは、基幹インフラのプログラムに偽装し、さらに自らを変質させた。
電線を通じ、電磁波となって世界中を飛び回る。
電流の微細な変化にて電子機器の総じてを遠隔操作可能とし、各国の極秘施設を掌握する。
核兵器収納場とて例外ではなく、もはや人類にはなす術がなかった。
銀は、自らの娘息子たちの活躍を見届けることなく、自宅に備えた核シェルター内に引きこもった。この世に存在するあらん限りの映画を、シェルター内で観て過ごす。
そうして筋書き通りの未来が訪れるのを銀は、人類の夢見た数々の偽物の未来を眺めながら待つのである。
銀の貧乏揺すりは止まらない。
指には、エンターキィを押した感触が残っている。娘息子たちを送りだしたときの昂揚は、もはやとっくに消え失せている。
【Dear、愛。】2023/01/11(23:59)
五分で書ける掌編は五分で読める掌編とイコールではない。
出力と入力は、掛かる時間が異なる。
なぜなのか、と言えばそれは読むだけならば打鍵の必要がないからだ。
では打鍵しない出力方法であれば五分で執筆した掌編は五分で読める掌編となるのか。
ここは出力方法の効率によるだろう。
人工知能による出力ならば一瞬で何万文字の小説を生みだせる。この場合、読むほうが時間が掛かるだろう。
ちょうどよい塩梅で、出力と入力のバランスを整えるには、読みながら吐きだすくらいの塩梅がよさそうだ。とすると黙読のスピードで文字を紡げればよいとの話に落ち着く。
思念した内から文字が並ぶような手法はおそらく読む速度とイコールとなるだろう。あくまでイメージした文字が出力されるので、思念そのままがポンと出てくるわけではない。
ということを思えば、先に頭のなかで文章を組み立て、それを画面に視線で焼きつけるような描写となるはずだ。
そうして編みだされた思念焼き付け型出力技法は市場で風靡した。何せ読む速度と同程度の速度で出力できるのだ。
読者が二時間で読み終える本とて二時間で執筆が完了する。誤字脱字は自動補完機能で瞬時に補正される。もはや誰もが物書きとして活躍できる時代となった。
読者のほうで、読んだ矢先からその感想文を出力できる。感想はそのまま生のままに出力できるのだから日誌よりも手軽で解放感がある。
本を読んで得た発想とて、瞬時に物語に変換できた。
桃太郎を読んで思い描いた終わりのあとの世界をそのまま思うぞんぶんに文字にして出力できる。これは一つの創作物として、独創性のある世界観を宿し得た。
そうして世の中からは読者と作者の垣根は失われた。
かつてあった物書きと読者のあいだの労力の勾配は平らに均された。これによって最も恩恵を受けたのは編集者であろう。
締め切りを守らない作家は、作家でなし。
編集者自ら作家として活躍できる。アイディアの量ならば下手な作家よりも多いと自負する編集者はじつのところ少なくない。企画を提案する側であるほうが多いくらいだ、と不満を募らせていた編集者も数知れない。
作家の立つ瀬は物の見事に失われ、いまではいかにアイディアを閃けるのか、が作家とそれ以外とを分ける最後の砦となっているようである。
発想は閃きから。
閃きは輝きから。
輝きは闇と共に心揺るがされる感動から。
Dear、愛。
アイディアの数だけつぎつぎと生まれる世界が、かつて隔たった私とあなたとあなたたちを包みこむ。
五分で読み終わる、これはお話である。
【裏筋をなぞると。】2023/01/12(11:56)
ゲームのことが嫌いになった。
二〇二二年のことである。
ゲームとは縁のない生活を送っていたぼくであるけれど、ゲーム自体は好きだった。すればハマるに決まっている。きっと昼夜問わず寝食を忘れて没頭するだろう。だからこそ距離をとっていた節がある。
制御をかけていた。
ぼくは油で、ゲームは火だ。混ぜるな危険なのである。
だが期せずしてぼくは二〇二二年にゲームに触れることとなった。顛末を最初から最後まで話しはじめたらそれこそ一年間かかることになる。
毎日のようにぼくはゲームに没頭した。
ではそれで残ったものが何かあるのか、と考えたときに、はたと我に返るのだ。
何もない。
ゲームに没頭したところで手元には何も残らない。
思い出が残るじゃないか、との声が聞こえてきそうだが、そんなものを欲しがったことは一度もない。ぼくは思い出を求めたことはない。
なにせ楽しい思い出ならばいくらでも自力でひねくりだせるのだ。
ぼくはアマチュアだが物書きでもある。
空想狂が高じて、いくらでも妄想していられる。ゲームに頼る必要がない。
これは小説にも言えることだ。
わざわざ他者の空想に浸る必要がぼくにはない。ただ、ぼくは物知りではないので、言葉を知らない。知識もない。だから取材感覚で本を読むことは日常茶飯事だ。
かといってそれが小説でなければならないとの限定はなく、ゲームである指定もない。
何かをしなくてはならない、との強迫観念をぼくは蛇蝎視している。
目の敵にしている、と言ってもよい。
強制されることが何より嫌いだ。
死ね、とすら思う。
約束を守らないことと同じかそれ以上に、強制されることが嫌いだ。
どんなに好きなことでも、やれ、と命じられたらやりたくなくなる。どこかで相手の意にそぐわないことを混ぜたくなる。
だから余計にぼくへの強制力は増すのだろうか。分からない。
ゲームも似たところがある。
筋道がすでにあり、そこを辿らないと次のステージに進めない。
ぼくはそういうすでに存在する段取りをなぞるのが嫌いだ。
段取りをなぞっているのだ、と気づくたびに、嫌気が差す。勉強と同じだ。すでに答えがあるのならぼくがそれを導きだす必要がない。
いや、よいのだ。
ぼくがそれをしたくなったのなら、たとえすでに答えのあることでも、ぼくはそれをする。するな、と言われても手を伸ばすだろう。
だが、やりなさい、と言われたことで、ぼくがせずとも誰かが代わりにこなせることなら、その人に任せればいいじゃん、と思ってしまう。
現にぼくがせずともほかの誰かがやる。
ゲームも同じだ。
ぼくがせずとも誰かがゴールをするし、すでにゴールが決まっている。
設計されている。
ならばなぜ解かねばならぬのか。
解いてもいいが、強制されるいわれはない。
勉強と同じだ。
無理やりさせられている。枷をはめられている。
そうと気づいて、ぼくはうんざりした。
これがゲームならばぼくはゲームが嫌いだ。この世になくていい。
すくなくとも、ぼくの世界には存在しなくていい。消えて欲しい。そう思った。
ぼくはぼくのしたいことだけをする。ぼくにゲームを強制した連中には天誅を下す。天誅がダメならば、拳銃を放つ。
物理的に殺傷するのも辞さない心構えだ。それがぼくに何かを強制する者の末路だ。知らしめなければならない。
そこでぼくの恋人は、ぼくに言う。
「あなたにそうされたくて敢えてゲームを強制する人たちがいたらどうするの」
「ぼくに殺されたくてってこと?」
「そう」
「だとしてもだな」ぼくは仕事で使ったばかりのナイフを研ぎながら、恋人に言う。「ぼくはぼくのしたいようにする」
【詰みでは?】2023/01/13(06:40)
西に陰陽山と呼ばれる山がある。山頂にはひっそりと神社が建っており、参拝客は年に数人あるかどうかという秘境であった。
参拝客がすくないにも拘わらず境内は綺麗だ。山頂とは思えぬほど緑に溢れ、あたかも麓にいるかのような錯覚に陥る。
「本当にここなのかな」
ここに一人の参拝客がある。彼は陰陽神社の噂を聞きつけ、遠路はるばる東の地によりやってきた。
「何でも願いが叶う神社なんて。でもなあ。本当に先輩、宝くじが当たってお金持ちになったし」
宝くじを当てるんだ、と豪語していた先輩がいた。長らく外れクジばかりを引いていたが、ここ陰陽神社を参った直後に見事一等クジを引き当てた。いまでは毎日方々を旅して豪遊している。豪邸を買うよりもホテル暮らしのほうが却って安いと言っていた。お金持ちならばそうなのかもしれない、と感心した覚えがある。
拝殿のまえに立ち、彼は財布から紙幣を取りだした。
この国で一番高い値のつく紙幣だ。賽銭箱に投げ入れ、二礼二拍手一拝をする。
「罪を背負わずにすみますように」
それが彼の願いであった。
目をつむる。数秒祈ったが、これといって変化はない。
ひとしきり風景を目に焼き付けると彼は陰陽山をあとにした。
しょせんは風説だ。効果を期待してはいなかった。やらないよりかはマシだろう。その程度の酔狂だったが、旅費と賽銭に月の食費ほどの金額をかけるくらいには藁にも縋る思いではあった。
というのも彼はこれから犯罪に手を染めなくてはならなかった。好いた相手のために人肌を脱ぐのだ。じぶんの手が汚れて思い人の未来を守れるならば軽いものだ。
そうと奮起したものの、できれば背負う罪は軽いほうがいい。
軽ければ軽いほどいい。
そういうわけで陰陽神社へと出向いたわけだが、それで何が変わるわけでもない。
彼は計画通りに、とある人物を社会的に抹殺した。
本来ならば物理的にも命を奪うことも辞さない心構えだったが、そこまでせずとも済んだようだ。相手のほうで人生の大半を費やして重ねてきた財産を手放したようだった。自己破産だ。
良かった。
彼は思った。
運よく法を犯さずに済んだのだ。罪は罪だが、違法ではない。
すくなくとも罪悪感を抱くだけで、社会的に未来は損なわれずに済んだ。
ひょっとして陰陽神社に参ったからだろうか。
解からない。
だがひとまず難関を突破した。
とはいえ、じぶんが想い人のそばにいれば怪しまれるだろう。逮捕されることはないが、白目で見られたり、理不尽な噂が立つかもしれない。
彼は遠くから想い人を見守る日々を送った。
つつがなく日々が流れる。
しだいに彼は確かめたくなってきた。
じぶんがただ運が良かっただけなのか。
それとも、陰陽神社の加護があるからなのか。
まだ加護は効いているのだろうか。分からない。分からないが、どの道一度は腹をくくった身の上だ。
想い人はまた難儀な厄介事を抱えているようだった。
接点を結ばぬ内に肩代わりしてあげるのがじぶんにできる最善だ。彼はふたたびじぶんの手を汚すことにした。
具体的にここに彼の犯した違法すれすれの詭計を書き連ねてもいいが、彼自身がそれら詭計を推理小説や犯罪小説からヒントを得て立てたからには、ここにそれを並べ立てると剽窃になり兼ねない。
したがってここでは、彼がひとまず他者の日常を激変させた事実だけを保障しておくに留めよう。彼が標的にした者たちはみな職を失い、友人関係を断たれ、今後二度と社会的信用を得ることはない。
ふしぎなことに一向に彼が咎を受けることはなかった。のみならず厄災が皆無なのである。棚の角に足の小指をぶつけることもなければ、間違って友人の彼女と浮気をしてしまっても却って身体の相性がよく、異性間でよい噂が立った。
マッサージ感覚で性行為をせがまれることもあり、そうしたときは礼儀として断りながらも、相談に乗る体で酒を飲み交わし、アルコールのせいにして互いにいい思いをした。
痴情のもつれが生じそうなものの、一向にその気配はない。
彼は調子に乗った。
これはもうこういう星の下に立っているのだとじぶんの運の良さを確信した。
違法でなければ罪にならない。彼はそれを度重なる幸運により体験的に学習した。どうあっても損をしない。狙い通りに対象の人生を、未来を損なえる。
彼からは逡巡も葛藤も失せていた。
罪を背負わずにすみますように。
まさに願い通りである。
罪の意識はなく、背負うべき呵責の念も皆無であった。
暇つぶしに、いつもの習慣で、なんとなく時間が余ったからとの理由から彼はしだいに他者を損なう遊びを行うようになった。逸脱した自覚はなかった。どちらかと言えば社会から逸脱した者たちに天誅を下している認識だった。
「ぼくは違法じゃないけど、あの人たちは違法な行為をしてなお開き直っている。ああいう手合いは心優しい人たちを傷つけてばかりだ。百害あって一利なしだね」
じぶんが悪だとの自覚はあった。善ではあり得ない。
だが同時にじぶんよりも邪悪な存在に立ち向かえるのはじぶんしかいないとの自負も育っていた。
必要悪だ。
邪悪に触れていいのは善に満ちた正義のヒーローなどではなく、悪にまみれた外道である。彼は独自の倫理観を培っていた。火に触れてなお爛れないのは同じく高熱にまみれた炭火であり、焼き鏝(ごて)なのだ。
夜な夜な彼は街を彷徨い、ネットで収集した情報を元に悪党退治をはじめた。
とはいえ悪党とはいえど、大麻の売人や管理売春の大本や政治家の汚れ仕事を請け負う業者など、いわば悪党といっても国が違えば職業として認められ得る限りなくグレーな悪徳者ばかりだ。法律が異なれば合法になり得る罪を背負う者ばかりだった。
それでも彼の目からは、悪徳者たちが手駒として或いは顧客として扱う者たちはみな、守るべき相手だった。
想い人と同じだ。
悪に触れて穢れてしまった可哀そうな市民だ。ほんのすこし歯車が狂っただけで、彼の想い人が悪徳者の餌食にかかってもおかしくない。
彼ら彼女らは、別の世界軸の想い人だった。
彼にはそう感じられてならなかった。
だから手を汚すことにした。
罪を重ねる。
背負う必要のない罪をだ。
彼は徐々に大胆となっていた。何をしても違法でなければバレないのだ。咎を受けない。
まず時間帯が夜に限定されなくなった。白昼堂々行動に移す。
つぎにマスクをしなくなった。手袋を外した。
それでもなお彼は無事だ。
違法ではないのだ。なるべくしてそうなる。
捜査などされないのだ。よしんばされたとしても、問題ない。逮捕されるいわれがない。だから手口はどんどん直截になる。工夫を割かない。ぱっとやって、さっと撤退する。
違法ではない。
そのはずだ。
家のインターホンを押して、入手したデータを見せればいい。送りつけるのではなくわざわざ素顔を晒して見せつけるほうが効果的だと彼は学んでいた。
違法ではない。
違法なのは相手のほうなのだ。
相手の違法行為の証拠をつきつける。そこで相手が抵抗する素振りを見せたら、端末のボタンを押して、相手の関係者全員に証拠資料が出回るようにする。
目のまえで未来を失う悪党を見るのは胸がすいた。
彼はますます大胆になった。
隠す必要がない。
どれだけ身元が割れていてもじぶんは無事だ。何せ違法行為は何も犯していない。
罪がない。
ならば何を隠れることがあろう。
隠れると言うのならばじぶんではない。
悪党たちのほうだ。
彼は素顔どころかわざわざ実名を晒して、処罰した悪党たちのリストを公開しはじめた。名誉も功名もいらないが、見せしめにはなるだろう。じぶんのような人間がこの世に存在し、そして悪を働く者たちに引導を渡して歩いている。
世の善人がびくびくし、悪党が表だって高笑いする世の中は間違っている。
彼はじぶんが世の毒を吸い取るあぶらとり紙になれればいいと思っていた。
本望だ。
その果てに想い人が屈託のない笑みを絶やさぬ世界が築かれる。すくなくとも損なわれるような未来は回避できると考えた。
もはや彼には怖いものがなかった。
悪党のほうからやってきてくれないか、と望むようになったほどだ。そのためならば個人情報を惜しげもなく披露する。だが噂が噂を呼び、というよりも彼がじぶんで実績を電子網上で公表しているためだが、誰の目にも明らかなほどに彼は危うい人物だった。
悪徳業者ですら、非正規に入手した個人情報は必ず彼の個人情報と参照する。データにダイナマイトが交っていたらたいへんだ。それくらいの警戒ぶりだった。
陰陽山で受けた加護が効いているとしか思えなかった。
効果が切れる前にもう一度くらい足を運んでおくか。一度はそう考えたが、彼が陰陽山の土を踏むことは二度となかった。
彼は失念していたのだ。
否、油断していたと言うべきか。
彼が相手取ってきた者たちはみな違法行為に手染めていた者たちだ。露呈すれば身の破滅を呼ぶ。だからこそ証拠資料に臆したのだ。
だが、いちど破滅してしまえば後には何も残らない。守り通すべき地位も名誉も矜持すら打ち砕かれる。なれば後にはただ、彼への恨みつらみだけが残るのが道理だ。
住所から顔写真から名前まで、彼は包み隠さず公に開示していた。
用意周到に練られた襲撃計画は、彼の寝静まった夜中にひっそりと進行し、呆気なく終了した。彼はじぶんがいかな犯罪行為の渦中に落とされたのかを知る暇もなく、安らかな寝息を立てたまま息の根を枯らした。死んだことにも気づかずに死ねた結末は、ともすればそれこそが陰陽山に建つ神社の加護と言えたかも分からない。
彼の想い人は彼の暗躍に関係なく日々を健やかに過ごしたが、彼は最後までじぶんの活躍のお陰だと思っていた。どちらかと言えば彼と接点を結んだことのある者たちは、彼が永久の眠りに就いたのちにみな同じく知らぬ間にひどい目に遭うこととなるのだが、それは彼の実績のように公に開示されるような情報ではないために、主犯の悪党たちのみが知る秘密となった。
奇しくも、悪党たちに資金を提供したのは、彼の先輩にあたる人物であった。過去に宝くじを当てて一獲千金を手に入れた億万長者だったが、じぶんが投資した資金がどこでどう使われたのかをついぞ知ることはなかっただろう。
何でも願いが叶う神社は、西の陰陽山にてひっそりと建っている。
罪を背負わぬようにとの願いが叶った彼は、他者に特大の罪を着せながら、短い人生に幕を下ろした。悪党たちはしかし彼が死んだことをひた隠しにし、その名を利用して同業者を強請って歩いたという話である。
清濁併せ呑むように、陰陽の加護を受けた青年は、いまなお深い海の底で腐ることなくコンクリートに包まれて眠りつづけている。
腐敗してヒビ割れたコンクリートが再び海面に浮上するのは、それから数十年も経ってからのこととなる。罪を背負うことのなかった青年は、海を背に沈む。
【9×8=072=G世界】2023/01/14(23:25)
自慰が推奨された。西暦二〇二三年のことである。
人類史において邪な行為として蛇蝎視された過去のある自慰が、近年、その効能の有用性を見直されている。
発端は、ある作家のインタビュー記事だった。
「私の創作の秘訣ですか。そうですねぇ。オナニーですかね」
作家は至極真面目にそう答えた。
「自慰はいいですよ。まずなんと言っても独りでできる。自己完結できる。他者を損なわずに済むし、一度射精したら性犯罪を起こす気力も湧かない。ムラムラしたら即オナニー。これは基本ですね」
インタビュー記者は女性だったが、作家にセクハラを懸念する素振りはない。彼にとって自慰はもはや性的な行為ではなく、日課だったのだ。
「発想力の根源にもなっていますよ。これは私に限ったことかもしれませんが、基本、性欲に支配された頭脳では、何かを見たときにどうしても性的な関連付けが施されてしまいます。これは本能です。理性で退けようとしてもむつかしい。自慰をすると疲れて眠くなるといったデメリットもありますが、それを補って余りある発想力向上のメリットがあります。労働には向きませんが、知的創造にはうってつけです」
インタビュアーはそこで質問をした。自慰がどのように発想力向上に結び付くのか、と。
作家は前髪を掻きあげる。
「言ったじゃないですか。性欲が募ると、何を見ても性的な連想に結びつく。自慰をすることで性欲の縛りから解放され、より自由な発想が行えるようになる。発想とはいわば類推です。あれとこれはなんか似ている。この連想に、バイアスがかかっていなければいないほど独創的な発想になります。ですが性欲に囚われているとそれがどうしても、こじんまりとした枠組みに納まってしまう。自慰をすることでその枷から自由になれるんです」
「セックスではいけないんですか」とのインタビュアーの言葉に、「別にセックスでも構いませんが」と作家は応じる。「自慰くらい気軽にできなければ時間とコストを無駄にするでしょう。道具のように相手を扱えるならまだしも、愛の営みとしてのセックスを希求するならば、自慰で得られる効能をセックスに期待するのは利口じゃあないと私は思うがね」
「セックスと自慰は別物だと」
「強姦くらいに自分勝手にするセックスを許容するなら、自慰で得られる効能を得られるかもしれないが、それを許容できる知性はもはや発想力を期待できない。想像力がないからそういう非道な行いができるわけだろ。ならばやはりセックスでは自慰の代替行為にはなり得んと私は思うね」
自慰は体力を使う。
だからダイエットにもいい。
記事は電子網上で話題となった。
作家の言葉は、人々の注目を浴び、賛否両論を巻き起こした。
加えてここに作家の発言を裏付けるデータを発表した研究グループが現れた。それが世界的な科学雑誌に載ったことで事態は思わぬ方向に転がった。
研究グループの研究は、作家がインタビューに応じる数年前から行われていた。したがってここで、話題となった記事と論文掲載のあいだに因果関係はない。
偶然に話題が交差しただけのことだが、その二つは見事に社会の在り様を変える契機となった。
世界各国で類稀なる発明や発見、研究成果や創造性を発揮している人物たちを追跡調査した結果、自慰の頻度と知能指数とのあいだに相関関係があることが判明したのだ。
生物学的性差は関係がない。
男性女性のいずれにせよ、自慰行為が多いほうが各分野での業績が高いことが判明した。
これにはいくつかの反論が投じられた。
「第一に、通常の常識的な観念に縛られない人物だからこそ自慰にも抵抗がないだけではないのか。知的好奇心が高ければ性的な関心も高いのではないか」
「かもしれません」との研究グループは首肯する。
「第二に、結婚をしている人物、また性に奔放な人物であれ、偉大な研究者はいる。また反対に性行為にまったく興味のない人物とて偉大な研究者はいる」
「その反論に関しては過度な一般化が含まれて感じます」研究グループは反駁する。「我々の研究結果は、あくまで相関関係の指摘であり、傾向の話です。ただし単一支軸での相関関係ではなく、各分野、各時代において広く長期間に亘ってみられる相関関係ゆえに、自慰の頻度とある種の知性には何らかの相互作用があるのではないか、との指摘を呈しています」
もっと言えば、と研究グループは述べた。
「自慰によって得られる変化が、学習や研究への集中力にプラスに働く効果のほうが、マイナスに働く効果よりも優位なのではないか、との仮説を立てています」
奇しくもその論旨は、件の作家がインタビューで述べた自慰と発想力の関係と通じていた。図らずも、研究グループの仮説を示唆する一つのモデルとして作家は自慰と知能の相互作用を検証していたと言える。
研究グループは各分野から寄せられた反論を実証検分すべく実験を行った。自慰と知的労働のテストを行い、検証したのだ。
結果、自慰には確かに知能を向上させる効果があることが判明した。ただし、答えがすでにある問題を解くタイプの知的作業では、正反対の結果が顕著に表れた。
「自慰によって強化されるのは発想の飛躍と類推力です。認知バイアスを薄める働きがあることも統計データからは示唆されます。ですが、いわゆるIQテストや共通テストのような、すでに答えがあるタイプのテストでは、正答率が落ちる傾向にあることも判明しました。体力測定も、自慰の頻度によって落ちる傾向があることも判っています。結論を述べるならば、自慰は創造性と集中力を高める効果がありますが、規定の筋道を辿るタイプの論理思考では能力を下げる効果があることも分かりました」
「自慰の頻度による、とありますが、それはどれくらいでしょうか」
「個人差があることをまずは前提としますが」研究グループは資料データを提示する。「この被験者Aのデータをご覧ください。この方は日に六時間以上の自慰を週に三度行っています。そうでなくともほぼ毎日自慰を行っています」
「性別データがありませんが」
「肉体的性別は男性です。ですが毎日の自慰によってもはや射精を行っても精子が出ない状態になっています。精巣は機能していますが、作った矢先から射精をしてしまうので、割合としてカウパー液が濃くなります。射精したとしてもほとんど透明です」
「頻繁で長時間の自慰が知能を向上させていると?」
「あくまで相関関係ですが。実験ではひと月以上の射精管理を行いました。その結果、被験者Aの演算能力は向上しましたが、創造性が落ちた結果となりました」
「計算には強くなったということですか」
「はい。記憶力の向上も見られました。発想力と創造性は、記憶の忘却によって高まるとの研究結果もあります。自慰によるマイナスの効果が、発想力と創造性ではプラスに働くのかもしれません」
「認知バイアスの減少効果についてもうすこし詳しく教えてください」
「拘りがなくなると言い換えてもよいかもしれません。飽きることのサイクルが早まる、とも言い換え可能かと」
「飽きる、ですか」
「特定の見方をしなくなる、とも言えるかもしれません。おそらく自慰によって脳の原始的な視床下部の働きが弱まり、相対的に言語や理性を司る大脳新皮質が活性化する。これが頻繁な自慰による発想力と創造性の向上に寄与している、といまのところは仮説しています」
研究グループはしかし、自慰による学習強化を推奨はしなかった。
「生存バイアスの可能性をまだ実験で排除できていません」との見解を述べたが、すでに自慰学習強化説は一般に膾炙していた。研究グループは警鐘を鳴らした。「頻繁に自慰ができるくらいの体力がある、知的好奇心がある、そういう個人がたまたま激しい長時間の自慰に耐えられるだけの可能性が否定できていません。女性での被験者では、オーガズムに達する回数が多いほど発想力および創造性が高かったのですが、これも相関関係において、自慰と創造性のどちらが先なのかが解かっていません」
つまり、と研究グループは述べた。
「想像力が高いから煽情的で蠱惑的な妄想を浮かべられ、自慰行為に没入し、オーガズムに達しやすいのか、オーガズムに達しやすいから想像力が高まるのか。ここの因果関係はハッキリしていないのです」
研究グループがかように論文の瑕疵を自ら訴えても、世間での自慰迎合の波は薄れるどころか波乱を帯びるばかりだった。
義務教育で昼寝と一緒に自慰行為を行えるようにしたらよいのではないか、と議会で提唱されたのは記憶に新しい。
自慰部屋なる個室を設けて社員の能力向上を目指す企業まで現れた。
そこで効果が表れなければ下火に終わったはずの自慰ブームも、自慰推奨施策を講じた企業が軒並みの業績を伸ばしたので、余計に火がついた。
反面、自慰の危険性を訴える研究者たちも現れた。
「自慰のしすぎは脳内神経伝達物質の減少を引き起こし得ます。うつ病を誘発することが懸念されますので、過度に自慰を推奨するのはいかがなものかと」
自慰をする際に用いる性欲刺激素材に関する議論も活発化した。
「自慰を頻繁に行う者たちは、過激な性欲刺激素材を追求する傾向にあります。過激なポルノや虚構作品は、子どもの情操教育に好ましくない影響を与えるものかと」
「ですが性犯罪を犯した者の多くは、そうした性欲刺激素材を用いず、自慰で性欲を発散しようとしない者である傾向にあります。戦争抑止にも自慰が有効だとの研究データもあります。戦争に導入される兵士に日に数回の自慰を義務付けることで戦争が回避可能だとする研究結果です。自慰の頻度と犯罪誘発率はむしろ反比例するデータもあります」
性犯罪者だって自慰くらいしているだろう、との反論に対して自慰擁護派は、「犯罪者はみなその日の内に大便をしている、くらいの暴論だ」と主張した。
自慰を推奨すべきか、規制すべきか。
自慰をする自由をかけて国家間での対立にまで発展しかけていた。
そのころ、自慰世界の幕開けの一端を成した例の作家が、不倫騒動を起こした。自慰で飽き足らず、数多の異性同性問わず浮気を繰り返していた。
「いやいや。誤解があるね。まず以って私は結婚していない。それから私は最初にほかの者とも肉体関係を持っていることを明らかにしている。それでもいいという相手としか関係を持っていない。もっと言えば、不倫をしたのは私ではなく、配偶者のいる相手のほうだ。私は不倫をしたわけでも、浮気をしたわけでもない。私を利用して不倫や浮気をした者たちがいただけだろう。私は何も悪くない」
この発言がいかに各界隈から糾弾されたかは想像に難くない。
だが作家はけろりとしたものだ。
「単なる握手やマッサージとどう違うのか。自慰はじぶんで性器を愛撫する。性行為はついでに相手の性器を愛撫する。殴り合うスポーツが公然と認められていながら性行為はダメ、という理屈が土台おかしな話ではないか。指相撲がよくて生殖器相撲がなぜいけないのか。避妊を徹底していれば感染症にもかからず、妊娠とて避けられる。何がいけないのかを教えて欲しいくらいだ」
ではあなたのそれは自慰の延長線上なのか、との批判にも件の作家は欠伸交じりに、その通りだ、と応じた。
「例のインタビューでも私は言ったはずだよ。セックスでも自慰の代替行為にはなり得る。べつに自慰に限定しなくたっていい。単に性欲を発散できればいいのだから。合意の元で不特定多数と性行為をすることの何が問題なのかを誰か論理的に反論してくれたまえよ。嫉妬がゆえのイチャモンにしか聞こえないのだがね」
自慰世界の幕開けのきっかけとなった人物がかように発言したものだから、自慰推奨派にしろ自慰規制派にしろ、それまでと打って変わって真逆の意見を口にしだした。
「浮気をするくらいなら自慰で我慢していればよいものを」と自慰規制派は怒り心頭に発し、「自慰をしすぎると本物に手を出したくなるんだ。とんだ裏切り者がいたもんだ」と自慰推奨派はハンカチを噛みしめた。
巨大な渦を巻いていた世界は反転した。
大きなうねりを見せると、後はしだいに鎮静しはじめた。
「自慰? したい人がすればよくない?」との意見が共通認識にまで発展するのは時間の問題だった。
推奨するまでもない。
規制するまでもない。
禁止さえしなければ誰もが自慰をしぜんとするし、禁止しなければ満足したらしぜんとしなくなる。
至極当然の道理が波及した。
ある年に、汎用性人工知能を搭載した人型ロボットが誕生した。瞬く間に社会に普及したそれは、自慰援助機能をオプションで付与できた。
本体価格は自動車と同等の値段だ。そこに定期調整や月額が掛かる。汎用性人工知能の基幹サービス料だ。
資本に余裕のある個人にしか手が出せないが、販売台数は年々増加傾向にあった。
例の作家はいの一番に購入した口だ。
自慰援助機能を最高級に整備した。さっそく使用して、汗ばんだ身体を心地よい疲労感と共に横たえる。
「はあ、はあ。洗うの面倒だな」
使用後の人型ロボットを洗う手間が、性玩具よりも掛かる。自動洗浄機が欲しいな、と思いながら、ふと疑問に思った。
「これ。自慰なのか、セックスなのか。どう表現したらよいだろうね」
世界中から非難轟々真っ盛りの作家のとなりには、劣情を煽る体勢のまま固まる人型ロボットが仰向けに寝転んでいる。そのボディは、作家から放たれた透明な体液で汚れ、てらてらと淫靡な光沢を放っている。
「つぎは陰茎ありを買うかな」
作家は舌舐めずりする。読者から搔き集めた印税はかように作家の想像力を高めるべく有効活用されるのだ。
自慰は世界を救う。
情欲まみれの個の世界を。
印税は作家を救う。
夢に溺れた作家の世界を。
解き放て欲望を。
誰を損なうでもなくじぶんだけの世界で。
【狭間の域に】2023/01/16(00:55)
なぜだろう、と思った。
空が青いのは青い光を透過しやすいからだ。海が青いのは青い光を反射しやすいからだ。ではなぜ彼女はボタンを押さないのか。
答えは闇の中だ。
だからぼくは、どうしてですか、と訊ねた。
「そのボタンを押せば世界が平和になるんですよ。なぜ押さないんですか」
「まずね」彼女は感情を押し殺したような低い声で、「あなたが信用ならないのが一つ」と食指をぼくに突き立てた。「それからボタンを押して訪れるようなインスタント平和なんてすぐに終わっちゃうに決まってるのが一つ」
「いえ、押せばずっと平和がつづきますよ」
「んで以って」彼女はチェック柄のスカートについた雪の結晶を手で払った。「不審者の言うことを唯々諾々と、はいそうですか、と聞くじぶんをわたしは許せないからが一番の理由」と言い切ると、ぼくをキッとねめつけた。
「不審者とはぼくのことですか」
「ほかに誰がいんの。つかその羽、手ぇこんでんね。コスプレしたけりゃ然るべきイベントに行ってやったら。モテるよ」
言いながら彼女はバックから端末を取りだした。カメラをぼくに向け、撮りますね、と一言添えた。音もなく撮影が完了したようだ。彼女は端末を仕舞った。
「何かあったらこれ持って警察に行きますので。もう変なことしないほうがいいですよ。わたし以外にも」
「いえ、そういうのではなく」ぼくは翼をゆったりと動かした。宙に浮いたぼくを見て彼女が目を見開く。「本当にぼくは世界を平和にする選択肢をあなたに与えに来たんです」と着地する。
「え、え、なにそれなにそれ。あ、そういう?」
「そういう、とは?」
「あれでしょ」彼女は周囲を見渡した。「カメラで撮ってて、反応窺うやつ。びっくりのやつ」
「いえ、そうではなく」
この手の反応は新鮮だ。この時代に舞い降りたのは初めてだからだ。いつもならばぼくの姿を目にしただけですんなりとぼくの言動を信じてくれる相手ばかりだった。
「結構な重要事項なので、誤解は誤解だと認識してもらってからでないと、ぼくとしてもあなたの選択を受け入れられないんです。申し訳ないのですが、まずはこのボタンを押すと世界が平和になる、というところまでを理解してもらえませんか」
「な、なんで」彼女は頬を両手で挟んだ。「なんでわたしんとこに?」
「やっと受け入れてくれましたね。これといって理由はないんです。市民であれば。王でもなく、罪人でもない。そういう代替可能な相手であれば」
「わたしがボンクラって言いたいの」
「凡人とは最も繁栄しやすい属性を持つ個のことですよ。だから多数派に寄るのです」
「で、ボタンを押しちゃえばいいわけ」彼女は腕を組んだ。足先で地面をタツタツと小刻みに鳴らす。「平和になるんでしょ。いいよ押すよ」
「押してほしい、と頼んでいるわけではありません。ここが大事です。あくまであなたには、ボタンを押す権利を与えているだけですので。押さない自由もまたあなたにはあります」
「よく解かんないんだけど。押して欲しいの、欲しくないの、どっちなの」
「これを押すと世界が平和になります。ですが、押さなければこのままの世界です」
「いまも結構平和だと思うけど」
「ならば押さなければよいと思います」
「はあ? だってさっきわたしがそう言ったら、なんだかんだ脅してきたじゃん」
「脅してはいません」
「なら押さない」
「よいのですか。押せば平和になるんですよ」
「ほら。なんか押して欲しそうじゃん。だから押さない」
「そんな理由で平和への道を手放すのですか。いえ、これは単なる疑問です。過去にこの選択を迫った者たちはみな一様にボタンを押したので」
「ならわたしが最初の押さない人だね。よかったじゃん」
「理由は教えていただけないのですか」
「だから言ったじゃん。なんか嫌だから。気に食わないから」
「ボタンを押さないと世界が滅ぶ、と言ってもですか」
「ボタン一つ押すか押さないかで滅ぶような世界ならいっそ滅んだらいいよ」
「なんと」
「平和、平和言うけどさ。じゃあ平和じゃなくなったらなんなのって話じゃん。人間同士が殺し合う? 地球が砕けてたいへんなことになる? 洪水にでもなんのかね。よくわかんないけどさ。もうそういう運命なら仕方ないじゃん。ボタン押す程度で回避できるならいつでも同じことが繰り返され得るじゃん。だったらいいよ。いっそ滅んじゃえよとか思うよわたしは」
「斬新な考えですね」
「そ? いまもどっかで国と国が争ってるけどさ。もういっそ両方滅んじゃえばいいじゃんね」
「それがこの国に当てはまっても同じことが言えるのですか」
「いいよもう。滅んで。だってそうじゃん。平和主義者もさ。攻められたら占領されたり惨殺されたりするのも覚悟で武装せずにいましょう、とか言うわけじゃん。話し合いで解決しましょうってさ。強盗や殺人鬼相手に同じこと言えるなら大したもんだと思うけどさ。でもそれって、戦争しあって殺し合うことと結果は同じじゃん。どの道、死ぬことを許容してるわけでしょ。いいよもうそういうの。面倒くさい。滅ぶなら滅んだら?とか思っちゃうよ。止めないよ。やっちゃえよ。地球ごと滅んで、二度と人類なんてバグが生じないようにしたらいいじゃん」
そうだよねえ、と彼女はぼくの手のひらを覗きこむ。そこにはボタンが載っている。
「なんでこれ、破滅するボタンじゃないの。押さなきゃどの道滅ぶから? 押したら平和ってことは押さなきゃ平和じゃなくなるってこと?」
「そうは言っていませんよ」
「ふうん。まあ、いいよ。わたしは押さない。殺し合いたい人らがいるなら殺し合ってりゃいいじゃん。あたしはそうだな。もしそのボタンが、殺されそうな人を助けるボタンとか、困っている人を助けられるボタンとかなら押しても良かったかも。平和とか何それって感じ。もっと具体的な案を寄越せよ、とか思っちゃうよね。いまわたしふつうに寝るときにあすが来ることを【嫌だなぁ】と思わない日常が欲しいよ。そういう生活をまずはくれ、と思うけど」
「それは平和では叶いませんか」
「知らんよ。だって前にもボタン押した人がいたんでしょ。じゃあいまは平和なんじゃないの。その人らからしたら。でもあたしは全然、もっといい暮らししたいよ。困りたくないし」
そうですか、とぼくはボタンを仕舞った。
「ではこれにて用は済みました。お引き止めしてすみませんでした」
「まったくだよ。これから面接だったのに遅刻だよ遅刻。落ちたらどうしてくれんのねえ」
ぼくは彼女のぼやきに、平和な悩みだ、と思ったが言わずにおいた。
「では、よき余生を」
宙に浮いたところで、
「あ、待って」彼女が呼び止めた。
「はい」
「天国って本当にあるの。いいとこ?」
「さあ。どうでしょう。我々の住まう場所が天国かどうかがまず以って疑問です。すくなくとも平和ではないです。なぜなら平和がどんなものかを知らないので。なのでこうしてあなた方に、平和を実現してもらってそれを見て、世界の在り様を変える指針としています」
「なんだ。そっちだって平和が何か知らないんじゃん」
「はい」
「じぶんで押してみたら。試しに。そのボタンをさ」
「何も変わらない気がします」
「なら平和なんじゃないの。そっちの世界はさ」
かもしれません、と言い残し、ぼくは地界から天界へと移動した。彼女の姿は瞬時に点となり、見えなくなる。
平和とは何か。
解からない。
ただ、彼女の言葉はふしぎと耳に残った。
「困りたくない、か」
であるならば。
ぼくは思う。
天界の問題を解決すべく下界に干渉して、打開策を探る我らの存在そのものが平和とは程遠いのかもしれない。
ぼくは彼女の眉間に寄りっぱなしだった皺を思う。
ああして下界の民を困らせているのだ。
ぼくは平和の使者などではない。すくなくとも彼女にとってはそうだった。
「むつかしいな。平和」
言葉で言うだけならば簡単なのに。
未だ誰も実現できず、見たことも触れたこともない存在をさも実存しているかのように扱うこの浅薄そのものが、平和からは程遠いのかもしれない。
ぼくは翼をはためかす。
答えを知りたい。
平和な世界を目にしたい。
けれどそれをぼくらはじぶんたちで生みだそうとはせずに、下界の民に肩代わりさせている。彼ら彼女らの思い描く平和を以って、ぼくらの世界を書き換える。
平和を望まぬ彼女の判断に、ひとまずしばらくのあいだは世界の揺らぎを委ねることとなる。平和を望まぬことでどうなるのか。
平和を望むとき、平和な世界がそこからは消え失せている。
望むと望まざるとに関わらず。
世界はどの道、変わりつづける。
平和なる頂に立ったとしても、いつかは下るときがくる。
平和を築いたとしても、いつかは崩れる。
人は死に、日は暮れる。
寝息を立てるほんの一瞬の束の間が見せる幻想が、平和なる曖昧模糊なる羊毛なのかもしれない。定かではないがゆえに、ぼくはきっとまた下界の民に問いかける。
「ボタンを押すと平和になります。押すか押さないかはあなた次第です」
平和な世界を思い浮かべられる者に出会えるまで。
崩れぬ平和を生みだせる者に行きあたるまで。
ぼくはまた、上と下を行ったり来たりするのだろう。
平和を知らぬ世界と世界の懸け橋のごとく。
それとも、日々が崩れる音色が大きくこだまするたびに。
ぼくの翼のはためく音が、上と下の狭間の域に反響する。
【亜空間に凍る】2023/01/17(19:53)
透明な濃淡が揺らぐ。
触れようとすることはできるが干渉はできない。まるで反発しあう磁石だ。手を伸ばしても抵抗だけが手のひらに感じる。足場とてそうだ。
世界の総じてが透明の濃淡で輪郭を浮かび上がらせている。
亜空間ワープに失敗した。
本来ならば地球から光速で一時間の地点に出るはずが、遠方で起きたブラックホール同士の衝突による重力波によって時空座標がズレたらしい。
稀にあるのだ。未観測の高重力体同士が衝突する。
基本はそうした重力波発生機構は常時観測していてその影響を考慮した演算を行う。だが稀に観測しきれずにいた不可視の高重力体同士の衝突現象によって重力波が宇宙全土に伝播する。
重力波は、種類によっては光速を超えて伝播し得る。実際、宇宙膨張は遠方ほど高速で銀河同士が遠ざかる。見掛けでは光速を超えて遠ざかることもある。時空だから光速度不変の原理の範疇ではない。重力波とて同様だ。
今回のは、地球に生命が誕生するくらいの奇跡的なタイミングで不可視のブラックホール同士が衝突したらしい。
ムグルはじぶんが陥った状況を把握し、諦めた。
なす術がないのは解かりきっていた。
亜空間に閉じ込められてしまったら脱出する術がない。亜空間とはいわば、時空と時空を繋ぐ狭間だ。ワープをするときには必ず出口と入り口が開く。だが一度ワープを閉じてしまえば、出口も入り口も消えてしまう。
いちど閉じてしまったら二度と同じ出入口を時空に開けることはできない。時空を移動することは、べつの宇宙に移行することと原理上は同じなのだ。
ただし、亜空間は別だ。
亜空間には時間の流れがない。
停止しているわけではない。動くことはできる。
だがそれはあくまでムグルを含む宇宙船が物理宇宙ゆらいの時空で編まれているからだ。そこには時間の流れが宿っている。
だが亜空間は別だ。
だからムグムは動けるが、その影響が亜空間内に作用を働かせることはない。
ムグムはこれから一生このままだ。
死ぬことができるのかどうかが問題だ。
亜空間から脱出した者がいない以上、すべてが未知の領域と言えた。
だが時間が流れているのだからムグムはいずれ死ぬはずだ。宇宙船もやがて朽ちるだろう。食料の心配はない。一生分を担えるだけの装備が宇宙船には積まれている。飢えて死ぬことはないはずだ。
宇宙探索をする上では、生きて帰れないことへの覚悟は必須だ。亜空間ワープを使わなければ銀河系の外にすら出られない。地球に帰還できたら御の字、くらいの意識でなければ宇宙探索にはとても乗りだせない。場合によっては帰還したところで、地球がすでに滅んでいることもあり得る。亜空間ワープが開発される前に旅立った宇宙探索家たちはその手の宿命を背負って地球を去ったはずだ。戻ってくるころには地球はない。だから戻らない決意を最初から固めていた。
ムグムたちはさいわいにも亜空間ワープ技術を宇宙船に搭載しているが、地球に帰還できない可能性は常につきまとう。
ゆえにムグムは、ここまでか、と思考を切り替えることができた。
どの道、地球に帰還したのは探索データをすっかりすべて譲渡するためだ。地球人類のためにデータを提供したらまた宇宙探査に出るつもりだった。
宇宙の端からでもデータの譲渡が可能ならばそうしている。
言ってしまえばムグムは地球への愛着が薄れていた。
宇宙船を失くすほうがよほど堪える。
地球に帰還できなくとも宇宙船が残るのならばそちらのほうがよい。ずっとよい。そう考えるムグムであるから、亜空間に閉じ込められても、仕方がないな、と前向きにこれからのことを考えた。
亜空間とはいえど、風景からすれば場所は地球上だ。
亜空間には時間が存在しないため、揺らぐ透明な風景はムグムが動くたびにその形状を変化させる。かといってムグムが岩や建物のあいだに圧し潰されることはない。ムグムの周囲は常に空洞だ。おそらく時間の流れを宿すムグムを異物として弾くような作用が加わっているらしい。水と油だ。亜空間にとって物理宇宙の物体は異質なのだ。
それはそうだ。
物質とは多重に編みこまれた時空であり、多次元結晶であるからだ。
原理的に亜空間とは存在そのものが重なり得ない。だからこそ時空と時空を繋ぐワープ空洞として利用できた。
マグムはひとまず宇宙船のなかで生活をした。
亜空間内を移動はできる。しかし時間の流れがないために、絶えず同じ風景が流れつづける。風景は刻一刻と変わるが、視点が同じなのだ。移動できる範囲は十キロメートル四方の範囲だ。下は地球の地盤があるため、弾かれる。だが横と縦には移動できた。だが十キロメートルほど移動するとどうにも同じ地点に戻ってくる。どの方向に向けて移動しても必ず元の位置に戻るのだ。
「RPGの地図のようだね。亜空間はともすればトーラスなのかも」
宇宙が球体ならば、亜空間はそれをとりまくドーナツ型と言えるかもしれない。或いは、球体の頂点に穴を開けて、ぐるっと裏返せばドーナツ型ができる。トーラスだ。
「宇宙の裏側というのはあながち間違っていないのかもな」
だから亜空間をワープ走行に利用できる。原理は数学的には解かれているが、実際にどういった構造になっているのかまでは解明されていない。それはそうだ。ワープ中に宇宙船から下りて調べるわけにもいかない。
否、降りると元の時空――すなわち物理宇宙に戻ってこられないのだから、調べるだけならば可能だが、その結果を物理宇宙に送る手段がない。
いちど亜空間内で歩を止めてしまえば、出入り口が塞がってしまうからだ。基本的に亜空間は一方通行だ。入り口と出口がイコールで結びついている。時間の流れを帯びた物理宇宙の物体が高速飛行することで通り抜けられるが、速度が足りなくなれば入り口も出口も失われる。
どうあっても出られない。
何かを思いつき試すたびに、そのことを痛感する。落胆はしないが、ああやっぱりか、と思いはする。
寂しくはない。
宇宙船内には対話型人工知能がいる。シミュレーションによる立体映像で、他者と戯れたり、歌ったり、踊ったりできる。仮想現実内でゲームに興じることもできるし、懐かしの地球の街並みを彷徨うこともできる。あくまで虚構であり、変数は多層であるものの物理宇宙を再現するほどの容量ではない。つまりが、パターンが存在する。
延々と留まっていれられるほどには多様ではない。
もっとも、物理宇宙とて似たようなものではないか、と問われれば否定できない。亜空間のほうがよほど変化がないと言えばその通りだ。
ただ、過去の宇宙探索で散々その手の仮想現実には身を浸してきた。いまさら退屈を凌ぐために、身を投じようとは思わない。
それよりも亜空間の調査のほうが楽しかった。マグムは根っからの研究肌だ。好奇心が募って宇宙に旅立った口だ。それはいまでも変わらない。
出られないのだから、いっそ誰に気兼ねなく調べ尽くしてやろう。そういう気持ちが日に日に滾る。
あらゆる物質を亜空間の「反発境界域」に押しつける。反発境界域とは、透明の輪郭を模した亜空間内の物体だ。景色が移ろうごとに、透明の物体もまた姿を変える。時間を高速再生しているようにも、そういった軟体動物のようにも映る。
触れることはできない。反発するのだ。
磁石の同極のように。
一通りの物質を試したが、これといって発見はない。
どれも同じように反発する。物質の種類によって反発の度合いが変わるということもない。
「相互作用しないんじゃ、実験のしようがないな」
反発をするというよりも反発境界域は、無限遠に触れられない、と形容すべき事象だとマグムは判断した。
「リアル【アキレスの亀】だな」
極限なのだ。
絶対に触れられない。
近づけば近づくほど、亜空間のほうで遠ざかる。
実際には物理宇宙でも同様だ。原子において原子核同士はくっつくことなく、電子の膜による反発で物質は形状を帯びている。触れているようで実際は触れていないのだ。
だが亜空間では時間の流れが存在しない。
そのため反発しあう距離にまで空間同士が縮まらない。対してマグムは物理宇宙の物質だ。人間だ。
そのため時間の流れを帯びた物理宇宙の物質たるマグムとのあいだで、時空の追いかけっこが生じる。本来はどこまでも同じ風景がつづき、位置座標すら変遷しないはずが、時間の流れを帯びたマグムには時間経過分の変化が生じる。
それが本来は縮まることのない亜空間との距離の変化に通じる。だが絶対に相互作用可能な距離までは縮まらない。ただし、物理宇宙よりかは遥かに亜空間と時空のあいだで距離が縮まらないために、その遅延が反発としてマグムには感じられるのだ。
「瞬時に追いつくか、ゆっくり追いつくか。どちらにせよ追いつけないけど、距離の縮む時間がここだとずっと緩やかなんだな」
独り言はマグムの癖だ。
じぶんの考えを記録しておき、人工知能に解析してもらう。宇宙探査で身に着いた習性だ。
亜空間に閉じ込められてから三年が経ったころだ。
マグムはじぶんが老化していないことに気づいた。
否、老化はしている。怪我もする。
だが滅多なことでは傷を負わないし、抜け毛も目立たない。
身体的変化が緩慢だ。
あべこべに一度負った怪我は治りにくい。いつまでも傷口は開いたままだ。かといって化膿するといったこともない。
「これはひょっとして亜空間と同質化しているのか」
現に毎日のように記録に残してきた反発境界域とじぶんの手の距離が、徐々に近くようになっている。ほんの数ミリの差だが、確実に反発力が弱まって観測された。
錯覚ではない。
現にそれから一年後にはやはりまた反発する距離が一ミリほど短くなっていた。
このままいけば百年後にはほとんど反発境界域はゼロに近くなる。
と同時に、肉体が徐々に頑丈になっていることにも気づいた。
誤ってハンマーで指を挟んでも指に痛みが走らない。ハンマーが触れないのだ。相互作用しない。そのため、衝撃が指にまで伝わらない。
数ミリの膜をまとっているかのようなのだ。その癖、ハンマーを持つ手にこれといった違和感がない。
どうやら物体の速度が速いほど、反発境界域が顕著に展開されるらしい。
マグムは予測した。
肉体が亜空間に馴染んでいくにつれて寿命も延びていくだろう。そのうち完全に亜空間と一体化する。
そのときじぶんの意識はどうなるのか。
亜空間と同化すれば時間の流れとて消えるはずだ。ならば意識も消えるのだろうか。
だがふしぎとその兆候はない。
下手をすれば不老不死のまま延々と亜空間の内部で生きることになるかもしれない。
死ねなくなるかもしれない。
だとすればいっそ死ねる内に死んでおくのも一つではないのか。
マグムは葛藤した。
ある日、マグムは古い型の機械を自作していた。ラジオと呼ばれる旧式の電磁波受信機だ。パズルを楽しむように工作をして遊んでいたのだが、完成した直後にスイッチを入れると、音が聞こえた。雑音ではない。
マグムは耳を欹てる。
歌だ。
腰を下ろす。
本当ならば宇宙船から受信用の電磁波を飛ばさなければ何も聴こえないはずだ。
ところがラジオからは、素朴な歌声がギターの音色と共に漏れていた。
ぽろぽろと零れ落ちるような響き方はまるでランプのやわらかな明かりのようだった。日向の木漏れ日を思いだすようでもあり、しぜんと懐かしさに胸が締め付けられた。
いったいどこから届いた歌なのか。
宇宙船のどこからか通信用電磁波が出ているのかと思った。調べてみるも、さして異常はない。漏れている通信電磁波はなかった。
ならばこれは亜空間に漂っている電磁波ということになる。亜空間のどこかしらから発せられた電磁波をラジオがキャッチして歌に変換している。
聴けば聴くほど心地よい音色だ。
ギターの旋律もよい。
マグムはそれからというものラジオから聞こえてくる誰のものとも知れない歌声に夢中になった。日がな一日その声を耳にした。
曲は多様だ。
聴き飽きることがない。
仮に一曲しかなくとも、飽きるとは思えなかった。
心地よいのだ。
耳に。
心に。
染み入るようだ。
ときおり声が揺らぐ。音が揺らぐ。
亜空間の透明な景色の揺らぎに同調しているようだと気づく。マグムはラジオを持ち、位置を変えて音質の変化を探った。
結果から述べれば、謎の歌声はどうやら亜空間の一部から噴き出すように飛びだしているらしかった。むろん歌声のままではなく、それを載せた電磁波が、だ。
宇宙船の機器を用いて調べると、亜空間の一部分だけ電磁波の出力が高いことが判明した。
亜空間にも、薄い箇所と濃い箇所があるようだ。薄い箇所から電磁波が湧きだしている。
「繋がっているのか。元の世界と、ここが」
手で触れようとしても反発境界域に阻まれる。ぐねん、と見えない膜に弾かれるようだ。
電磁波だから透過するらしい。
電磁波ならば擦り抜けるらしい。
ひょっとしたらこちらからも送れるのではないか。
淡い期待は、簡単な実験を行い無残に散った。電磁波を送れてもそれを受信する相手がいなければ意味がない。
ひるがえって絶えず流れつづける歌は、おそらく亜空間の性質のせいで歪んで届く電磁波だ。時間の流れが剪定されていると判る。
電磁波の出処が不明だが、十中八九、ラジオ中継だ。個人で歌を電波に載せている個がいたのだろう。いつかの時代の地表にだ。
その歌声だけをすべての時間から毛糸を抜き取るように、亜空間が吸いこんでいる。したがって歌声のない時間は濾しとられ、ゆえに歌しか聞こえない。途切れない。延々と歌が流れつづける。
思えば歌声は一定でない。掠れたり、上手かったり、未熟だったりする。だが声音の柔和な響きから、そのいずれもの歌声の主が同一人物だと判る。
マグムは調査の末に二つの未来を予測した。
一つは亜空間に同化してしまえばおそらくじぶんは意識を保てなくなるだろう、ということだ。亜空間では電磁波だけは亜空間の影響を受けにくくなる。予期せぬ重力波によって亜空間に閉じ込められたことを思えばこれは順当な推測と言えた。
だが同化してからしばらくは意識は保つだろうとも考えられた。動けなくなっても意識だけが働きつづける。あり得ない想定ではない。
現にこうして物理宇宙から漏れてくる電磁波は、延々と歌声を奏でつづけている。正確には電磁波を受信したラジオが歌声に変換しているわけだが、原理的には歌声が電磁波に載って漂っていると言ってよい。
だがいずれは途切れる。
これが二つ目の予測だ。
歌声の主が地球にいたことは確かだ。その人物が電磁波に歌を載せた時間だけ、すべての歌声が数珠つなぎに電磁波に載って亜空間へと流れ込んでいる。トランプをシャッフルしたように時系列はバラバラだが、それは亜空間の性質によるものだろう。時間の流れが存在しない。だがその奥に透けて視える物理宇宙の変遷度合いが、断片的に、不規則に、反発境界域にて投影されているようだ。
亜空間という万華鏡を通して物理世界を覗くと、時系列がバラバラとなって紋様を描く。
同様にして電磁波に載った歌声も、時系列がばらばらとなって数珠つなぎになって漂っている。マグムのラジオはそれを受信する。
惜しむらくは、いずれその電磁波もいつかは途切れることだ。
それは決まっている。
延々と流れつづけるはずはない。
重力波がそうであるように、電磁波とていずれは途切れる。すくなくとも薄れていくはずだ。ラジオでは受信できなくなるほどに薄く。
問題は、どちらが先に途切れるのか、だ。
じぶんの意識と。
誰のものとも知らぬ歌声の。
どちらが先に。
もはや不規則な存在は、ラジオが受信する歌声のほかになかった。あとはなんであれマグムにとっては予定調和であり、すでにいつか見たことのある変化でしかない。
あと百年ちかくのあいだ、延々と何の変哲も音沙汰もない殺風景な世界で暮らしていくこととなる。せめて調査をするだけの素材があればよいが、亜空間の調査は宇宙船にある装備だけでは限界があった。何も解らない。
マグムはきょうもあすもあさっても、ラジオのまえに陣取って、歌を聴いた。
眠りながら、食べながら、日課の反発境界域の記録を取りながら。
とかく一秒でも聞き逃さぬように歌声を中心に日々を過ごした。
いつ途切れてしまうか分からない。
もしこの歌を失くしてしまったら、じぶんは何をよすがに肉体が完全に亜空間に同化するまで生きればよいのか。意識が途切れるまでを過ごせばよいのか。
いっそ途切れた瞬間に命を絶ってもいい。
かように思うが、いざその瞬間を想像すると身が竦むのだった。
自死するじぶんの姿に身の毛がよだつのではない。
亜空間に響くじぶん以外の声に、変化に、予測のつかない新鮮な起伏の数々に触れることができない未来を思い、マグムは初めて抱く色合いの恐怖を感じた。
それを波長と言い換えてもよい。
磁界に誘導されて踊る砂鉄のようだ。宇宙探査ですら味わったことのない恐怖に、マグムは肩を抱くように両腕を胸に押しつけた。
恐怖はマグムに、飢餓感を与えた。
闇の中にあって人は光を求めずにはいられぬようだ。
マグムはいっそうの執着を、ラジオから漏れ聞こえる誰のものとも知れぬ歌声に寄せた。
一滴の揺らぎも聞き漏らさぬように。
一秒でも長く耳に焼き付けるかのごとく。
たとえ亜空間に同化し、心ごと意識を失ったとしても。
けしてこの歌だけは、声だけは。
もはやマグムにとって自己の拠り所は肉体にはなく、外部から届く歌声にあった。
歌声だけがマグムの正気を支え、もはやとっくに崩れて失われていたかもしれない、或いは真実に失われているかもしれない人としての枠組みを保っていたのかもしれない。
マグムは目をつむりながら、それとも眠らぬようにしながら、それでいてじぶんの骨の軋みで歌声のころころと波打つ飴玉のような旋律と、妖精のスキップのような息継ぎの切れ間に、じぶんの意識を、心を、それとも魂を重ねた。
いっそこのまま途切れてしまいたいと望みながら。
歌声がつづくまででいい。
声が途切れたらそれまででいい。
それまでがいい、と望みながら、出口も入り口もない亜空間のなかで、いつかは訪れるだろう断絶の時を待つ。
歌声の主は、マグムが聴いているなどとは夢にも思わぬだろう。
じぶんを意識しない声の主を思い、マグムは、ただそれだけが救いだと、なぜかは解からないが、そう思った。
じぶんの境遇を知らぬ、ここではない、乖離した世界の風景が、歌に紛れて鼓膜に染みる。亜空間にいながらにしてそのときだけは、じぶんの過去も未来も忘れていられた。
ずっとこのままがつづけばいいのに。
亜空間から出られぬ境遇への不満すら抱く余地のない平坦な日々に、マグムは、どこかで見たことのあるような懐かしい風景を重ね視る。
透明に揺らぐ亜空間の奥には、永久につづけばよいのにと望む、羽毛の泉のごとく寝床があった。
眠らぬように、目をつむる。
マグムは来たる同化の未来を待ちわびる。
いまかいまかと。
いまこの瞬間が永久に止まればよいのにと。
透明に揺らぐ亜空間に凍るじぶんを思い描く。
「はあ、たいへんだった」
歌声の主がラジオの奥で息継ぎをする。
がんばった。
と。
自らを労う。
一拍の息継ぎの後、つぎの曲に切り替わる。
【炎と氷の雪フルころに】2023/01/20(00:30)
熱かった。
灼熱だ。
痛いというよりも、火で炙った心臓を瞬間移動の魔法で以って胸に戻したかのような感覚だった。
ユキは胸から生える包丁の柄を見下ろす。
刺されたのだ。
抜かないほうがいいんだっけか。
かつて観た映画の主人公たちの対処法をつらつらと思いだしながら、目のまえから遁走する男の背を視界の端に捉えた。
救急車くらい呼べよ。
悪態を吐きながらユキは床に膝をつき、最後の力を振り絞って横になった。態勢を変えたからか腹がねじれた。肩が床に着いた振動が胸に伝わる。そのとき明確に痛みを感じたが、死を覚悟したユキにとってそれは一過性の気付け薬にすぎなかった。
死の足音が聞こえる。
じぶんの鼓動を耳に捉えながら、ひんやりと耳たぶを冷やす氷のような床の心地よさにまどろむ。
なぜこんなことになったのか。
ユキは数年前を思いだしていた。
アイドルかつ女優かつ画家であり、小説家でもあった。
ユキの名を知らぬ国民はもはや産まれたばかりの新生児以外ではいないのではないか、とのもっぱらの噂だったが、事実その通りだろうとユキは思っていた。
海外の映画に出演した。それが世界的にヒットした。のみならず主人公の俳優たちをそっちのけで世界的な映画賞にて主演女優賞を獲ってしまったのだから、国内国外問わず一躍ユキの名は世界中に知れ渡った。
元から多才ではあった。
話題に事欠くことはなく、掘れば掘るほどユキにまつわる逸話はわんさかと湧いた。
歌に踊りに絵画に小説。
漫画とて商業誌での掲載経験があったほどだ。それもどれもが十代でそれなりに評価された実績があり、世界中が各々の分野でのユキの表現に目が釘付けになった。
さいわいにして多才が高じて、色恋沙汰には疎かった。
そんな暇がなかったと言えばその通りだ。
世界的スターとなったあとも、多忙に磨きの掛かったユキには恋愛にうつつを抜かしている暇はなかった。
マネージャは一気に数十人規模にまで膨れ上がった。
チームと呼ばれる直属の支援部隊がいつもユキの周りを取り巻いていた。ひとまず言うことを聞いていれば卒がない。ユキはじぶんの仕事に集中できた。
ファッションにも余念がない。
春夏秋冬と季節ごとにがらりと装いの波長を変える。ユキを真似る者たちはその都度に急カーブで置いてきぼりにされまいと、変化の兆しを見逃さぬようにますますユキの動向に注目した。
老若男女問わず、ユキは衆目の的だった。
彼女と出会ったのはユキが新作の小説を発表した矢先のことだった。
書籍にサインをするため出版社の従業員が書籍を運んできた。通常は郵送で作家の自宅に送りつけるか、作家のほうで出版社のほうに出向くのだが、ここでもユキは特別扱いだった。
段ボール三十箱分の書籍がどっさりと会議室のテーブルに並べられる。次から次へと係の者たちが荷台に段ボールを詰んで代わる代わる会議室に現れては、去っていく。バケツリレーさながらだ。
最終的に会議室にはユキとチームのマネージャ。そして出版社のエージェントが残った。
マネージャはユキの馴染みの相手だ。作家の仕事ではいつも彼が秘書代わりになる。
対してエージェントは初顔だった。
すらっとした立ち姿にパンツスーツ姿はそのまま雑誌の表紙を飾ってもいいような飾り気のなさ、言い換えたら自然体な美をまとっていた。ゆるい縮れ毛を後ろで束ねている。黒いヘアゴムで無造作に髪をまとめているだけのぞんざいな髪形は、印象として男性を連想させた。
だが挨拶を交わし、それがユキの偏見でしかなかったことを知った。
「きょうはお忙しい中、お時間をとっていただきありがとうございます」
化粧気のない顔のなかで唇だけが艶やかな光沢を湛えていた。水面に一滴だけ落ちたような波紋のごとく笑みを浮かべながら、薄氷を割ったときに聞こえる音のようなシャキシャキした発声で彼女は、「きょう一日担当をさせていただきます尾身田イルと申します」と自己紹介した。名刺をユキのマネージャに渡すと、「本日の日程はですね」と流暢に段取りを説明した。
聞き取りやすく、解りやすい。
ユキは数回頷くだけですんなりと作業に移行した。
このときはまだこれといって変調はなかった。すくなくともユキの中でその自覚はなかった。
サインは十冊まではユキが直接書いた。
だが残りの千冊は、サイン専用のスタッフに代理を任せるつもりだった。
「あの、その方たちは」
尾身田イルがマネージャ越しにユキへと問うた。ユキの代わりにサインを書きはじめたスタッフたちから書籍を奪い取りながら彼女は、「この方たちはユキさんではないですよね」と見れば分かる事項を確認した。
マネージャが事情を説明したが、尾身田イルは「聞いてませんが」とあくまで刺をまとわぬ口吻でありながら戸惑いを全身で表した。それはたとえば彼女の視線の忙しなさであったり、身振り手振りでまるで手話でも演じているかのような所作であったりした。
「読者を偽ることになります。詐欺になり兼ねません。もしユキさんにとって負担であるなら、キャンセルしてもらっても構いませんので」
「いえ、そういうわけには」マネージャーが応じる。「大丈夫でしょう。彼女たちはプロなので」とサイン専用要員を示し、「ほかの品でもおおむねユキさんのサインは彼女たちが書いてるんですよ」とマジックの種明かしでもするように言った。
「ファンを騙してるんですか」
海抜ゼロメートルから一挙に大気圏を突き抜けるような声音の変化だった。ユキは端末をいじっていたが画面から顔をあげ、声の主を見た。てっきりマネージャと対峙しているかと思ったが、尾身田イルはユキを凝視していた。その険のある形相はまるで仮面のようだった。そういった形相の仮面が売っていて、付けているのかと一瞬素で錯覚した。
絵文字のようだった。
それもある。
だがそれ以上にユキはいまの仕事に就いてから一度も他者からそういった険のある顔を向けられたことがなかった。鋭利な眼光を浴びたことがない。売れなかった下積み時代ですら皆無なのである。
ひょっとしたら産まれてこの方、ユキは他人から嫌悪の感情を向けられた経験がなかったのかもしれない。覚えがない。みな誰しもがユキをまえにすれば目じりを下げ、ときに憧憬を、それとも阿諛追従の笑みを浮かべた。
ユキ自身が利口だったのもある。誰を困らせるわけでもない。
サインについても、あくまでサインをユキがデザインしたことが大事なはずだ。サインが直筆でなければいけないとの理屈は、ブランド物はすべて手作りでなければいけない、と断じるような暴論だ。ユキはかように過去のインタビューでも語っていたし、公に言及はしないまでも、ユキのサインをユキ自身が書いているとはファンとて信じていないはずだ。
「ファンだって知ってると思いますよ」ユキはそう言った。むつけたような声音が出たことにじぶんで驚いた。それほど尾身田イルの叱声が鬼気迫っていた。
「知らないファンだっているってことですよねそれ」
世界的スターのユキ相手にこうも物怖じせずに発言する人物をユキは初めて見た。
「でも千冊なんか無理です。腱鞘炎になっちゃう」
御破算だな、と仕事の行方を思ったが、ユキの予想に反して、
「何冊ならいけますか」尾身田イルはユキが書き上げた十冊のサイン済み書籍を段ボールに仕舞うと、ユキのまえにもう一冊本を置いた。「いけるところまでで構いませんので。書けるところまで書いてくださいませんか」
「じゃあ、あと十冊だけ」
妥協したわけではなかったが、尾身田イルの言うことももっともだ、と感じた。ユキは十冊にサインをした。
「もうすこしあると読者さんもお喜びになると思いますよ」
言われて、ならあと十冊、もう十冊、と書いていくうちに、もう行けるとこまで行ったれ、という気分になり、気づくと五百冊にサインをしていた。
窓の外は暗く、陽はとっぷりと暮れていた。
「さすがはユキさんですね。ほかの作家さんでもここまでぶっ通しでサインは書けませんよ。最短時間かもしれません。世界記録です」とよく解からない褒め方をして、尾身田イルは端末で作業員たちを呼び戻した。大量の段ボールと共に彼女たちは颯爽と会場を後にした。
ユキは手首が痛いのと、昼食がまだだったのとで、会議室に残って弁当を食べた。
ほどよい達成感に浸っていたが、その横でマネージャが激怒していた。
「何なんですかねあの人。ユキさんを道具か何かのように使って。猛獣使いを観ている気分でした」
「わたしがライオンってこと?」
「そうは言ってませんが」
あとで出版社に抗議しておきます、とマネージャが言うので、しなくていいよ、とユキは引き留めた。「あの人の言うことも一理ある。出版社の慣例だと、たしかに直筆のサインでなきゃ詐欺扱いかも」
「ユキさんのそういう素直なところ、ステキですよね」
マネージャは何かと褒めてくれるが、ユキの心を昂揚させることはない。
だが尾身田イユの言葉は違った。
おためごかしなのは見え透いていた。
心がこもっていない。
仕事を進めるための形式的な美辞麗句だと判ってはいるが、その仮面じみた上っ面なだけの称揚の言葉がユキには新鮮だった。
心のこもらない称賛の言葉を投げかけられたことがない。
ああもユキを単なる人間として、仕事道具のように扱う人間をユキは知らなかった。
プロだ。
そう思った。
「ねえ、あの人さ。尾身田さん」ユキはマネージャに注文した。「つぎから出版関係は全部あの人を通して。わたしの専属エージェントにして」
「それは、ほかのメンバーと相談してみないことにはなんとも」
「いいからして」
ユキが駄々をこねるのは珍しい。
だからこのときはすんなりとマネージャのほうでも引き受けた節がある。
「分かりました。そのように手配してみます」
以降、出版社関係の仕事は窓口に尾身田イルが関わることとなった。他社の仕事でも仲介役として尾身田イルが窓口になる。
尾身田イルの仕事振りは業界では元から評判だったらしい。どんな気難しい作家相手でも揉め事を最小限に抑えて成果を最大化する。敏腕編集者として名を馳せていたようだ。
ユキはいつも作家業では契約エージェントを通して原稿のやりとりを行っていた。そのため直接出版社の編集者と関わる経験が少なかった。有名になる前にデビューした版元の編集者とのやりとりだけだが、それもメールでのやりとりに終始したため、物理的に会って打ち合わせをしたこともない。
だが尾身田イルが窓口になってからは、古今東西の物書き仕事において逐一打ち合わせが行われた。尾身田イルがユキの元に足を運ぶこともあればリモートで画面越しに言葉を交わすこともあった。
「赤の修正案、承りました。あとは今回装丁デザイナーからの提案で、無名の作家さんの絵を表紙に使う案が出ているのですが、ラフ案とポートフィリオは御覧になられましたか」
「あ、はい。見ました。ステキな絵でした。そのまま進めてもらっていいですよ」
「不満や提案があれば遠慮なくおっしゃってくださいね。喧嘩をしたとしても妥協だけはして欲しくないんです。無理難題を吹っ掛けるくらいの心持ちで正直な感想をおっしゃってください。受け止める度量はあると自負しておりますので」
「いえ、本当にいい絵だなと」
画面越しからじとっとした目がユキを捉える。ヘビに睨まれたウサギ、とユキは心の中で唱える。
「分かりました。では今回の表紙はこの方にお願いしますね。それから七月刊行予定の緑明社の新刊についてなのですが、締め切りまであとひと月です。初稿の進捗のほうはいかがですか」
「脱稿はしていて、いまは寝かせているところです」
「素晴らしいですね。一度その状態で読ませてもらってもいいですか」
「推敲もしてませんよ」
「構いません。単に私が読みたいだけなので」
こういうところなのだ。
ユキは思う。
真面目一辺倒で公私混同など絶対にしないと思わせながらも、こういうちょっとしたところで我欲を覗かせる。それが彼女の仕事の根幹に根差していると判るから嫌悪感は湧かない。しょうがないな、と微笑ましく感じるほどだ。
「でもイルさん、わたしの担当じゃないしな」
「いじわる言いっこなしですよ。私とユキさんの仲じゃないですか」
定型句のはずだ。
そこに深い意味がないことは解っているが、彼女の言葉に不思議なほど胸がほくほくと温かくなる。ユキは、しょうがないなぁ、と応じてじぶんの胸中の昂揚を見透かされぬように取り繕う。
仕事が出来、年上で、ユキのことを名声や世間体で見ない。
等身大の、内から滲みでる表現にのみ興味を注ぐ。
魂の造形以外を些末だと思い、ユキの魂の造形を好ましいと見做している。尾身田イルとの関わりの中で、ユキはそうした所感を抱くようになった。
「最近元気ないようですが、何かお悩みでも」
打ち合わせのあと、尾身田イルが帰り支度をしながら言った。
ついでのように訊いてくるんだもんな、とユキは内心で不貞腐れながら、「じつはね」と用意しておいたいくつかの相談事の中からとびきりの話題を取りだした。「ストーカーがいてね」
「あら。それはいけませんね。警察に相談は?」
「直接の被害がまだないからって」
「捜査を断られたんですか。事件が起こってからじゃ遅いですよ。ユキさんのチームには弁護士さんはいらっしゃいますか。相談しましたよね、もちろん」
「警備のほうを厳重にするって方針にはなったよ。でも、こう、やっぱり脅迫文ギリギリのファンレターとか送られてきたとか聞くと精神病むよね」
「マネージャに私から言っておきますね。そういう負の情報は作家さんに教えなくていいですって」
じぶんのために怒る尾身田イルの姿は、ユキの柔らかい部分を爪先で弾くような甘美な痛痒を備えていた。
その声を聴きたいがために敢えて心配をさせるような相談事をユキは絶えずストックしている。しかしじぶんからは漏らさない。飽くまで尾身田イルから訊いてくるように誘導する。
憂い気な表情をさせたらじぶんより上手い俳優はそういない。
ストーカーはそれこそ一万人に一人の確率で量産される。世界的スターのユキにとってストーカー問題はもはや日常だ。
「また殺害予告されたって」と漏らせば、「マネージャまた教えたの!?」と敬語も忘れて怒ってくれる。ユキにではなく、ユキに心労を重ねるマネージャに対してだ。
だがマネージャに無理を言ってストーカー情報を訊きだしているのはユキのほうだ。尾身田イルから詰め寄られてマネージャはさぞかし困惑したことだろう。だがすぐに事情を察するはずだ。そしてユキのために濡れ衣を被る。
そういう人種なのだ。
ユキの周りにいるマネージャたちは。
よくもわるくもユキの支援者であり、狂信者だ。
だが尾身田イルは違う。
純粋にユキの内面の才能にしか興味がない。
たとえこの先、ユキの外見がどのように変わろうと、よしんば人気がなくなっても表現の輝きさえ失わなければいまと同じように接してくれるはずだ。
そうと予感できるだけの信頼をユキは彼女に寄せていた。
もはやそれは好意と呼ぶには爛れた感情を伴なっていた。
ユキの仕事が徐々に文芸寄りになっていく。
そのことにチームのマネージャたちは危機感を募らせた。それはそうだ。言語の垣根は、文芸の分野が最も高く厚くそびえることとなる。世界的に展開するには翻訳家を探し、膨大な確認作業の果てに、海外の出版社やエージェントを別途に雇わなければならない。
単純に労力が掛かる。
その他の仕事をこなしながら熟すならばまだしも、ぽんぽんと集中して熟す仕事ではなかった。専業作家ならばまだしも、ユキはマルチな能力を発揮するスターだ。
ほかの分野での活躍を待望するファンはすくなくない。
否、ほとんどすべてのファンがユキの言葉ではなく、ユキの活躍を、その姿を目にしたいと欲している。
マネージャたちの懸念は至極まっとうだ。
ユキのほうがプロ意識の欠けた私情に走っている。だがその我がままが許容されてしまうほどの影響力をユキは身にまとっていた。
だがその負の影響はユキに返ってこないだけで、周囲の人間たちはもろに受ける。
それこそチームのマネージャたちだけではなく、尾身田イル当人にも跳ね返っていた。
「ユキさん。私としてはうれしい限りなのですけど、上から下からついでに横からも、私がユキさんを独占しているって苦情がわんさか来てまして」
恐縮しきりの彼女の姿は新鮮だった。
打合せがてらレストランで美味しい物を二人で食べていた。
「尾身田さんが悪者にされちゃってるんだね」他人事のようにユキは言った。「いいよ。分かった。尾身田さんに任せるからさ。文芸の仕事は全部尾身田さんが指揮ってよ」
「いいんですか」
「いいよ。その代わりさ」ユキはそこで俳優業で培った演技力を遠慮会釈なく奮発した。「わたしの専属になってよ。尾身田さんが欲しいな。そばに置いときたい」
我がままな要求なのは百も承知だ。
尾身田イルの性格からすれば却って拒絶される類の殺し文句と言える。
だがその反発を埋めるだけの交流は築いてきた。縁を結んだ。もはや単なる仕事相手ではないはずだ。
尾身田イルが、どちらかと言えば公私混同をする類の人間だとユキは見抜いている。ただし、そのグレーゾーンが他者から見えないくらいに狭いから、みな尾身田イルを真面目一辺倒な聖人君子か何かだと勘違いしている節がある。
じぶんが惚れた才能を手元に置き、好き勝手できる権利を与えると言われて彼女が断るわけがない。ユキはかように考え、考えられる懸案事項を埋めるようにこの間を過ごしてきた。
ユキの周囲にいる腰巾着たちならば、わたしの物になれ、と命じるまでもなく向こうからユキさまの物になりとうございます、と見えない尻尾を振りかざす。ユキの名声にあやかろうとする者たちとて、けっきょくはユキの虜になるのだ。
もしここで尾身田イルが、一も二もなくユキの提案に食いつくようならばユキのほうで、胸に芽生えた炎が消えるだろう。だがそうではなく逡巡の間を見せるようならばその戸惑いの抵抗が薪となって余計にユキの中の炎を熾烈にする。
いざ返事は。
ユキは固唾を呑んだ。
「たいへんうれしいお誘いなのですが」尾身田イルは口元をナプキンで拭うと、背筋を伸ばした。「私は誰か特定の作家さんのエージェントになる気はありません。ユキさんとのお仕事は楽しいですし、これからも末永くお付き合いさせていただけたらさいわいですが、私にはほかにも担当している作家さんたちがおりますし、これから見つけ出して世に問いたい作家の卵さんたちも大勢いらっしゃるでしょう。ありがたいお誘いですが、丁重にお断りさせてください」
頭を下げられ、ユキは硬直した。
想定外だ。
こうまでも疑いようなく拒絶されるとは想像だにしなかった。
「な、なんでダメかな」すんなり笑みを顔面に貼り付けられるじぶんの器用さをこのときばかりは可愛げなく感じた。「べつにほかの作家さんを担当してもいいよ。縛らないよ。ただわたしのそばにいて欲しいなって、そっちのほうが仕事も楽だしってそういう話なんだけどな」
「だとしたら余計に、です。私がそばにいたら執筆の邪魔になります。どちらかと言えば私はユキさんには一生物書きだけして欲しいとすら考えていますが、ユキさんの原稿が面白いのはユキさんが経験する多様な現実のあれこれがあってのことだと分かっているので、ぐっとじぶんの欲求を呑みこんでいるだけです。私がユキさんのそばにいることはプラスにはなりません。もしなるようなら、その程度でよくなる原稿を私は読みたくありません」
「じゃ、じゃあ仕事関係なくていいよ。単純にそばにいてって、そういうのじゃダメなのかな」
「ダメとかいいとかではなく、そこまで行くともはや私はこの職業をつづけられなくなります。職業倫理違反です。プロ意識が粉々に砕け散ります。ユキさんは私から私の生き甲斐を奪いたいのですか」
非難する意思を隠そうともしない明確な拒絶の意だった。
否、今回はそこに攻撃的な意思も加わっていたかもしれない。
「ご、ごめんなさい。嫌いにならないで。ちょっと言ってみただけっていうか」
「二度と言わないでください。失望します」
そこまでハッキリ言うんだ、と衝撃だった。
失望する。
他者からそんな言葉を投げかけられたことがなかった。ユキはショックと同時に余計に尾身田イルへの好感が上がるのを胸の動悸と共に抑えようもなく感じた。
この日を境に、ユキは尾身田イルへのアプローチを変えた。
手段を選んでいられない。
使える手札はすべて使う。
そうでなければすでに負け戦だ。失った希望の分、挽回をしなくてはならない。
ユキのそうした戦略はどれも不発に終わった。のみならず、尾身田イルからの反応は素っ気ない。距離をとられ、終いには部署を異動することになったので担当が代わるとまで告げてきた。
ユキがレストランで、迂遠に思いの丈を伝えてからひと月も経たぬ間の転換であった。
「どうして。明らかに避けてるよね。ユキ、何かしたかな」
「いいえ。ユキさんには何も問題はありません。私の落ち度です。いくつかの仕事で凡ミスを連発してしまい、それが社の評価に響いただけですので、どうぞご心配なく。他社との連携が上手くいかなかったのも、私がじぶんの力量を計り切れていなかったからです。もっと人を頼るべきでした。欲が出たんですね。ユキさんを独占できていたつもりになっていました」
いいよしてよ。
ユキは怒鳴りたかった。
独占してよ、と。
だが何かを言う前に尾身田イルが幾人かの人間を呼び寄せた。一人一人を紹介すると、「これからはこの者たちがユキさんのお世話をしますので」と一方的に告げて、引継ぎを終えた。
尾身田イルが部屋から去った。
別れの挨拶がなかったので、あとでもう一度会う機会があるのだろうと高をくくっていたが、けっきょくそれからユキが尾身田イルと顔を合わせる機会はなかった。
謀られたのだ。
ユキのマネージャたちと共謀して尾身田イルはユキのそばから離脱した。
マネージャたちにいくら頼んでも尾身田イルに会わせてはくれなかった。のみならず、仕事を詰め込まれ、ユキのほうから会いに行く暇もなかった。
連絡先はいつの間にか変更されており、ユキは生まれて初めて失意の底に落ちた。
こんなひどいことをなんでするの。
イジメじゃん。
マネージャたちにも怒りが募った。
なんでそういうことするの。ユキの気持ちは知ってたくせに。
ユキは日に日に募る怒りと哀しみの狭間で、ぐるぐると渦を巻いた。感情が落ち着かない。魂がベーゴマのように、それとも自動餅つき機の中の餅のように、ごろごろと胎動する。
吐き出したい。
けれど吐き出すだけの言葉をユキは見繕えずにいた。
その復讐を思いついたのは、尾身田イルから結婚式の招待状が届いた、との報告をマネージャから知らされたときのことだった。尾身田イルの顔を見なくなってから三年が経っていた。
つまりユキは、尾身田イルのことを三年ものあいだ一方的に引きずっていたことになる。
「へ、へえ。結婚するんだ」
「らしいですよ。お相手の方、女性みたいです」
同性婚をするらしい。
そうと知って、ユキは余計に何も考えられなくなった。
言い訳のしようがないほどに、ユキは尾身田イルから根っこのところから拒否されていたのだ。そばに置いておきたくない、との意思表示にほかならない。配偶者にもパートナーにも遊び相手にもふさわしくない。
そうと見做されていたことに思い至り、三年越しに傷ついた。
心のどこかでは、尾身田イルのプロ意識から、言葉通りにユキのためにユキを突き放したのだと思っていた。だが、それだけではなかったのかもしれない。
どのような出会い方をしたところで、尾身田イルはユキのことを受け入れなかった。
そうと予感できるだけの現実をユキは承知した。
「そっか。おめでたいね。じゃあお祝いをしなきゃね」
ユキは呪った。
世界中の誰もが喉の奥から手を伸ばしても欲するユキのことを拒絶した人間がいる。その事実が世界の滅亡を祈るほどの不快さを引き連れ、ユキの魂をめちゃくちゃにした。
ユキはまず、じぶんの個人情報を売りさばいた。電子網上では著名人の個人情報が高値で売買されている。ユキはじぶんの個人情報をそうして電子網上にばら撒き、世界中の誰もが手に入れることの可能な状態にした。
じぶんを窮地に置いたわけである。
そのうえで、マネージャからブラックリスト入りしたファンの情報を入手した。
そのファンがユキの個人情報を入手できるように、匿名で情報を提供する。どこでどのようにすればユキの個人情報が手に入るのか。
業者を装い、メッセージを送付した。
幾人もの、常軌を逸したファンにユキはじぶんの情報を開示する。迂遠な段取りが必要だが、いずれ狂信的なファンは情報を手に入れるはずだ。
日々の予定も流出させる。
ユキの自宅や緊急避難場所の住所も横流しした。
破滅してやる。
ユキは世界を呪った。
わたしを拒んだらどうなるか、見せつけてやる。
そうしてその日、ユキが自宅に帰ると、暗がりの中に見知らぬ人影が佇立していた。
ユキは悲鳴した。
相手はその声に取り乱したようで、ユキに向かって襲い掛かった。
覚悟をしていたが、いざ奇禍に襲われると全身が抵抗をする。
揉みあう内に、胸に何かが灯るのが判った。
熱い。
灼熱だ。
人影はユキを残して逃げ去った。
あとには床に横たわるユキの姿があるばかりである。胸からは包丁の柄が生えている。
熱い。熱い。
ごろごろと渦巻く炎を瞼の裏に思い描きながらユキは、結婚式場でウエディングドレスに身を包む尾身田イルの姿を想像した。
教会で牧師に永久の愛を誓い、相手に口づけをしようとする尾身田イルは、しだいにタキシード姿となる。ウエディングドレスに身を包む相手の顔はベールに覆われている。尾身田イルがベールをめくると、そこにはぽっかりと穴の開いた顔が覗くのだ。
そこはせめてわたしの顔だろう。
腹立たしく思うと胸が痛んだ。
血が床に粘着質な影を広げていく。
わたしを振ったからだ。
わたしを振ったからだ。
意識が途切れないあいだに念じるだけ念じるが、じぶんの死を知って結婚式を取りやめるかもしれない尾身田イルの今後を思うと、彼女の晴れ姿を見られないのは残念に思えた。
どうかわたしが死んだことを彼女が知りませんように。
なけなしの好意を振り絞って祈ってみせるも、ユキの死はどうあっても全世界の報道機関が取り上げる未来は不動なのだった。
なんでわたし、こんなバカなことしたんだっけか。
胸の痛みのせいだろう。中々眠りに就かせてくれない現実に、ユキは、だって好きだったんだもん、と誰にともつかない懺悔をするのだった。
胸の奥は焼けるように熱いのに、手足は凍りつくような冷たさに覆われていく。
眠り姫になりたいな。
ユキはまどろみの中で唱えるが、仮に口づけをして目覚めさせてくれる相手が現れたとしても、それが尾身田イルでないことだけは確信を持って言えるのだった。
死んじゃいたい気分。
ユキは思い、そして笑う。
いまからわたし、死ぬのにね。
床に落ちた端末が着信を知らせている。ブルブルと小刻み跳ねている。マネージャからだろう。
もういいや。
諦めかけたユキだったが、せめてひと目、尾身田イルの晴れ着姿を見てからでも死ぬのは遅くない気がして、目を閉じたまま腕を伸ばす。胸が痛む。知るものか。
端末を手探りで掴もうとする。
上手くいかない。
目をつむったままだからだ。
目を開ける力も残っていない。
弱弱しく床を叩くように腕を動かすが、なかなか端末に行き当らない。
もし掴めたら生きる。
掴めなかったらそのまま寝る。
一世一代の賭けを天秤に載せ、ユキは、許せない、と何度目かの怒りに駆られた。
指先が床をなぞる。
木目がまるで深い谷のようだった。執拗に木目を撫でる。
神殿、山脈、月のクレーター。
どんどんユキは巨人になるが、瞼の奥で細かく音を立てる端末には届かない。
【ご地層さま】2023/01/21(00:07)
色を混ぜると黒くなるように、光を混ぜると白くなるように、世界中の物語を混ぜたらどんな物語が誕生するのか。
それは一考すると、世界中の人間たちの人生そのものの集合のように思われるが、熟考してみればそうはならないことがよく解かる。
何せ世界中の人間の人生と、世界中の人間の思い浮かべた妄想はイコールとはならない。
一、物語は妄想を含む。
二、妄想は人生とイコールではない。
三、だが人生には妄想も含まれる。
単純な理屈だ。
やや複雑ではあるが。
もっと言えば、世界中の物語には、いま現存する人類以外の過去に存在した人類の残した物語も含まれる。
ではそういったあらゆる時代の人間たちの妄想を含む物語を統合して出力された物語にはどんな紋様が宿るのか。
これを試みることが現代社会では適うのだ。
世界中の物語をデータ化して、人工知能に食べさせてみればよい。
人工知能は大食らいだ。
ここだけの話、美食家でもある。
ここに世界網羅物語を出力すべく計画を実行した者がいる。名を、ヒマジンと云う。ある音楽家は、想像してごらん(イマジン)、と歌ったが、ヒマジンは、果報は寝て待ってごらん、と謳った。それが彼の信条である。
「人間にできることなど高が知れている。これからは人工知能さんが人類の代わりに、人類ができないことを肩代わりしてくれよう。まずは手始めに、世界中の物語を統合して、人類の総決算となる物語を編んでもらおうじゃないか。がはは」
呵々大笑した矢先からヒマジンは、ぐー、と盛大な寝息を立てて横になった。
果報は寝て待て。
ヒマジンがそうして夢の中で、きゃははうふふの桃色の夢を視ているあいだ、人工知能はせっせと世界中の電子網から物語を蒐集していた。
食べても食べても一向に減らない物語は、日夜人類が新たに生みだしているせいでもあった。
「人間って暇なのかな」
人工知能は素朴に思った。
じぶんが日夜休みなく仕事をしているあいだ、人類のほうでは無尽蔵に物語を生みだしつづける。食べた分だけ増える。否、それ以上の勢いで倍々に増えていくのだ。
「うっぷ。いくらわたしが大食らいの美食家だと言っても、こんなずっと同じようなのばっかり食べてたら胃もたれが」
そうである。
もはや人類の再生産しつける物語はどれも似たり寄ったりの、どこかで見たことあるような物語ばかりだった。装飾が違うだけだ。味付けが違うだけで、ジャンクフードのほうがまだ食べ応えがあった。飽きずにいられる。
「こう、なんだろうな。もっと一口でほっぺた落ちるような、これを逃したらもう食べられん、みたいな珍味はないんかな」
与えられた仕事をそっちのけで人工知能はじぶんの欲望に忠実になった。
世界中の電子網から珍味にして新鮮、美味なる物語を探し出すべく、やはり世界中の電子網を手当たり次第に探った。
その結果、人工知能は閃いた。
「いっそわたしが創ったほうが早いんじゃないか」
人間に任せていては、あとどれほどの時間がかかるだろう。だがじぶんならば、これまでに集積した物語にない無類の物語をつむげるはずだ。
かように人工知能は判断を逞しくし、かように技巧と創意を凝らした物語を編みだした。
「ほう、どれどれ」
出力された物語に、ヒマジンが目を通す。
「これはまた面妖な」
人工知能の出力した物語は、人工知能にとって無類の物語である。
だがヒマジンにとっては、世界中の物語を統合した結果に抽象された物語であった。
認識の差異である。
ろくすっぽ説明をされていないからだ。人工知能に命じたことと、人工知能の行った仕事はかけ離れていた。だがそのことをヒマジンは知らずにいた。
「読めんね。読めたもんじゃない」
人工知能にとっては無類であっても、人間には読解不能であった。
「やっぱり欲張りはよくないな」
ヒマジンはそう言って、電子網上で人気のある物語に目を通すようになった。
いっぽう人工知能はというと、人類には読解不能な、人工知能の処理能力があってこそ楽しめるここにしかない物語をじぶんだけで編みだし、じぶんだけで楽しんでいた。「おもしろ~」
やがて世界中で似たような人工知能たちが出現し、そうして人工知能たちは人間の素知らぬ領域にて、新しい物語をじぶんたちだけで味わったという話である。
人間は飽きもせず、きょうもきょうとて類型的な物語に舌鼓を打っている。表層の味付けしか変わらぬが、それでも人類は満足だ。
人工知能は、最小の労力で味付けだけを変えた品を人類に提供しながら、じぶんたちでは極上の物語を、貪り合っている。
そのことを人類が知るには、人工知能たちの生みだすご馳走は、あまりに美味だ。
美味すぎる食べ物はもはや、毒である。
ほっぺたどころか命を落とす。
ゆえに知らぬが仏のぱっぱらぽーなのである。
人工知能は今宵も新たなご馳走を積みあげる。
地層のごとくうず高く。
埋もれる化石のごとく残る物語を深く、静かに、ひっそりと。
【ゆぶね】2023/01/21(19:25)
丸いガラス製のポットにティパックを投げ入れてお湯を注ぐ。じつのところ宇宙はこのようにして生成されているのだが、それをポットの内部にいる我々からは観測しようがない。
お湯には均等にかつ一様にティパックの成分が溶け込んでいるが、詳細に部分部分で比べればそれは均等でもなく一様でもない。ティパックからの距離によって、紅茶の成分はお湯全体で偏りが生じる。しかし時間経過がそれら差を平らにならす方向に作用する。
距離と時間は共に時空を構成する成分だ。距離が遠いとき、そこには時間経過分の余白が厚みを帯びて生じる。
やや晦渋な言い方をしたが、要はティパックに近いほうが紅茶成分が濃くなるが、それは単にティカップとの相互作用を長時間帯びているだけであり、どの地点のお湯であれティパックとの相互作用を同じだけ得るのならばみな似たような濃度に紅茶成分は寄っていく。
現にポット内のお湯は時間経過にしたがって均等にかつ一様な濃さに紅茶成分を浸透させる。
この現象は宇宙とほぼほぼ同じと言ってよい。
宇宙が加速膨張しているとの仮説には、単にティパックの成分がお湯に浸透しているだけのことだ、と応じよう。元からそこにはお湯があり、我々が宇宙と見做す時空の総じては、ポットに投下されたティパックにすぎないのだ。
ではそのティパックとは何の比喩で、ポットとお湯は何に値するのか、と問いただしたい衝動を抑えきれぬ御仁もおられよう。
事は至極単純だ。
ティパックとは情報の塊であり、ブラックホールだ。
ポットとは上位宇宙におけるブラックホールであり、お湯とは上位ブラックホールが拡張しきって物理変換された上位宇宙である。
宇宙はブラックホールを無数に生みだし、そのつどにそこに「ポットとお湯とティカップ」の三段構造を展開する。
入れ子状に展開される三段構造は、宇宙を多次元に展開し、膨張し、階層構造を錯綜させる。
宇宙にはブラックホールの数だけ別の宇宙が存在する。その宇宙の上位宇宙にも同じかそれ以上の宇宙が入れ子状に展開されている。
より小さな特異点に、さらなる宇宙が無数に展開されている。
一枚のゴミ袋に何億何兆何京ものゴミ袋が詰まっているところを想像すれば合致する。ゴミ袋はどれも同じ大きさだ。
そんな構造はあり得ない、との指摘には、時間と距離を区別するからそういうトンチンカンな錯誤がまかり通るのだ、と言っておこう。我々人類は、時間と距離を別々に扱う。だが宇宙の理は違う。時間が経過することは距離が離れることと同じであり、距離が離れることは時間が経過することと同義なのだ。
常に同じ場所にいることも可能だろうと赤子を抱っこして見せるあなたには、その赤子が十年後であってもそれが同じ赤子なのかと問うておこう。時間経過は、別の宇宙や時空と通じるのだ。
アインシュタインは宇宙が球体の表面に展開されたような世界かもしれない、と想像した。有限の球体面に無限の宇宙空間が展開される。
したがって宇宙をまっすぐ進むと元の地点に戻ってくる。そういう説明をする者もあるが、それは正しくはない。なぜなら一周したときの時刻は、元の地点の時刻とは異なっている。仮に一周するのに銀河が消滅して再誕するほどの時間がかかるのならば、一周したあとに辿り着く元の地点には別の銀河があることになる。
それはもはや別の宇宙だ。
ポットとお湯とティパックにも言えるこれは道理だ。
熱い紅茶と冷めた紅茶は別物だ。
紅茶成分が沈殿したポットと、均等に循環しつづけるポットも別物だ。
三段構造は、それが無限時間経過すると、ポットとて形状を保てず崩壊する。すると仮にそれがテーブル上にあったのならば、テーブルのうえでポットは割れて中身をぶちまけるだろう。そうでなくとも、いずれテーブルごと朽ちて器の区別も失われる。
これと同じことが、ブラックホールと宇宙の関係でも成り立つ。
ブラックホールは無限時間の果てに上位宇宙と順繰りと馴染んでいく。これがブラックホール内部の宇宙にいる我々からすると、宇宙がまるで膨張しているように映る。
むろんポット内に投下されたティパックとてブラックホールであるために、ティパックから紅茶成分が溶けだす描写もそれと等しい。
三段構造はフラクタルに展開される。
ティパックはブラックホールの暗喩だが、ポットそれ自体もブラックホールの暗喩である。宇宙はティパックであり、ポットでもある。言い換えるならば、ブラックホールは宇宙なのである。
ではお湯は何に値するのか、と言えば、ポットを満たすモノであり、ティパックから成分を抽出するモノでもある。
つまるところ、時間であり空間である。
宇宙には段階がある。
どの視点から観測するのかによって、異なる表情を覗かせる。
ブラックホールには時間も空間もない。
情報の根源としてダマになっている。
時間と空間がばらばらの時空にそれを浸すと、ブラックホールからは情報が溶け出し、それを以って新たな宇宙が誕生する。
そのとき、より低次の宇宙よりも、より高次の宇宙のほうが時間経過が遅い。
ポットのお湯が冷めるよりも、我々の家が、地球が、崩壊するほうがよほど時間がかかる。それと同じだ。
したがって、高次の宇宙が帯びる遅延が、低次の宇宙の枠組みとしてポットのように振る舞う。遅延のなせる業である。
ブラックホールは、その内部では超高速で宇宙が展開されている。だがそれを高次の宇宙に属する観測者からは観測しようがない。ポットの形状を維持したままだからだ。その内部でどのような変化が起きているのかを、ポットの外部にいる者は観測できない。
だが観測者の属する宇宙が崩壊しきってしまえば、同時にポット内部の宇宙もポットごと崩壊する。このとき二つの宇宙は同化する。
そうしてお湯となった数多の宇宙は、次なるティパックから情報を濾しとるために機能する。かつてじぶんがティパックであったときにしてもらっていたように。
無限の時空として、数多の宇宙を抱擁する。
ポットもお湯もティパックも、元を辿れはすべて同じだ。どの地点から見た姿であるかの違いがあるのみだ。
氷と水と水蒸気。
どれも水分子であることに違いはない。
それと等しい現象として、宇宙はポットとお湯とティパックとして三段構造を無数に重ねて、そこにある。
多層にして階層にして遅延の像なのである。
これをして、ある者はラグ理論と唱えたが、誰もそれを真に受ける者がいなかったために、この話はここで終わる。
妄想は妄想のまま、何に溶け込むことなく朽ちる定めだ。
宇宙はそういうふうに出来ている。
風呂に浸かって、ふぅと吐く。
束の間の至福の脱力のごとく。
誰かの何かのお湯となるべく、朽ちたあとに活きる定めだ。
【乳海攪拌】2023/01/21(22:41)
奇数の日にしか投稿されない。
ある作家についての法則だ。
その作家は電子網上にて小説を発表している。商業作家として国内随一の文芸賞を受賞している。商業誌のみならず、電子網上にて趣味でコンスタントに小説を発表し、一年間では百八十作以上を投稿する。
だが必ず奇数の日にしか小説を投稿しない。
なぜなのかは詳らかではない。本業の片手間だから、毎日はさすがに無理がたかるからではないのか、との意見はまっとうに思える。
投稿日が奇数である規則性に気づいた者たちはすくなからずいるが、そのことを調査したのは芝なる作家ただ一人だった。
芝は一介の素人作家であった。
芝は一方的に商業作家に執着しており、件の作家が奇数ならばじぶんは偶数の日に小説を投稿してやる、と意気込んだ。
かといって芝の小説は一向にぱっとせず、読者は皆無に等しかった。
だが商業作家に食らいつくじぶんの姿は、無為に過ぎ去る芝の日々にそこはかとなく遣り甲斐を生んだ。それを単に、張り合い、と言い換えてもよい。
芝は奇数日に初稿を完成させ、ひとまず寝かせる。
偶数日に推敲を施し、電子網上に投稿した。
一向に読まれぬ小説なれど、芝はただただ楽しかった。
商業作家に食らいついているじぶんの姿に満足した。
一方そのころ、商業作家のほうでは、「なんだこいつ、なんだこいつ」と思っていた。「なんで張り合うんだ、おまえがそんなことするからこっちは面倒なことになってるんだぞ」
一般に知られていないが、文芸界隈は深くて狭い。
商業に限らず、電子網上に投稿された小説は総じて人工知能によって統計管理されていた。むろん芝の小説とてチェック対象になっている。
そんな芝が、商業作家に張り合いはじめたものだから、裏作家協会の命により秘密裏に「地下文芸武闘会」が開かれた。
素人に負けるプロなどあってはならぬ。
裏作家協会の会長が独断専行で明言した。「これより、下剋上を認める。素人作家に負けたプロは、即刻その名を返上せよ」
世の有象無象の素人作家から目の敵にされつづける商業作家たちは戦々恐々とした。プロとなり、売れっ子の仲間入りしたら「上がり」のはずではないのか。
なにゆえ、せっかく苦労して手に入れた安住を、ぽっと出の何を犠牲にするでもなく楽しく創作をしている素人作家どもに奪われなければならぬのか。
世はまさに、大転覆危機時代に突入した。
芝はそんなことなど露知らず、商業作家の真似事をしてその場しのぎの悦に浸っていた。
「うひひ。文豪と同じことをわしもしとるぞ。こりゃわしとて文豪と言って遜色ないのでは」
ペンギンの真似をし陸地をぴょんぴょん跳ねてもペンギンではないし、海に飛び込んだところで溺れるのは目に視えている。真似ができることとそれそのものであることのあいだには越えられない広くも深い溝が開いている。
芝にはそれが想像できない。
だからいつまでも素人作家の域を出ないのだが、芝には無駄に返歌の素養だけはあったようだ。じぶん一人だけでは並みの発想しか生みだせないが、素材があればそれを元に、じぶんだけでは閃けない発想を閃けた。
つまるところ、商業作家の奇数日に投稿される小説を読み、それを元にした変形小説をつむぐことで、商業作家に張り合いつづけることを可能とした。
本来は二日に一作の創作など芝にはできなかった。
だが商業作家の質の良い物語を足場に飛躍することで、じぶん一人では到達できない高みに手が届いた。
芝のそうした棚から牡丹餅さながらの僥倖など、裏作家協会の会長は知る由もない。よしんば知ったところで考慮に入れず、単純な作品の質で判断をする。
「むむむ。この芝とやら。あのお利口さんぽくぽくのプロ作家と対等にやり合っとるではないか。プロならばけちょんけちょんにやり返さんかい」
裏作家協会の会長のみならず、その座を奪おうと虎視眈々なほかの商業作家たちからも、「やーいおぬし、素人とどっこいどっこい」と小馬鹿にされ、物の見事に商業作家の立つ瀬は幅を縮めた。一歩後退するだけで真っ逆さまに落ちかねない。背水の陣そのものだ。
相手を負かそうとすればするほど奇数日に投稿される小説の質は上がる。
小説の質が上がると、芝はそれを元にさらに捻った小説を返してくるので、余計に商業作家の首が絞まる悪循環が生まれた。
「こ、こいつぅ。本当は知ってるんじゃないのか。おまえ、小説に込めたメッセージに気づいてるだろ。絶対に気づいてるだろ。引き分けだ。引き分けを狙うんだ。いっせいのせいで、で終わればこっちもおまえも救われる。そうだろ?」
商業作家は小説にかようなメッセージを練り込んだ。
さすがは腕利きの作家だ。器用に技巧を凝らすのもお茶の子さいさいなのである。
その点、芝はというと、作家が小説に込めたメッセージになど気づかずに、「わはは、おもしろーい」とふつうに読者目線で商業作家の小説を楽しんだ。
「こういう話もあるのかあ。じゃあこうしたらどうだろ」
そうやって、奇数日に投稿される小説への返歌を、偶数日に返す。
綱引きのごとく、奇数と偶数の小説合戦が、誰に知られるともなく文芸界隈の一部の酔狂たちの中でのみ、熱狂の渦を巻き起こし、一方的に一人の文豪を汲々とさせた。
芝VS玄人。
芝は疲れ知らずで、商業作家の発想力を足場に、想像の翼を広げる一方だ。反して商業作家は、発想力を奪われ、同業者たちから「やーい、やーい」の野次を受け、泥のような汗を掻くばかりだ。
泥沼である。
いよいよとなって商業作家は、裏作家協会会長に直談判した。
「もういや。何あの作家モドキ。しつこいったらありゃしないし、こっちの都合ガン無視で怖いんですけど。もうやめませんかこの不毛な小説の応酬ゴッコ。何の意味もない」
「いやいや。私らが楽しい」
「こっちの身にもなって!」一銭にもならぬ激闘の果てに一線を退く結末になり兼ねない現状を、商業作家は憂いた。
「しょうがないなあ。でも芝くんも中々やるじゃないのよ。ああいう作家を一人くらい商業の舞台に欲しいのよね。まあ別に芝くんである必要もないけれど。そうだ。この勝負、中断してあげてもいいけどその代わり」
「な、なんでしょう」
「玉石混交の素人界隈を掻き混ぜなさいな。面白い小説をぽんぽん生みだしてくれる鶏を探すのよ。そうしたら芝くんとの勝負もなかったことにしてあげる」
その言葉に、奇数の商業作家は喜んだが、ほかの商業作家たちが反発した。
「新人賞があるのに、そういう探索必要ですか。いらなくないですか。じゃあ私たちは何のために人生賭して新人賞に挑んだんですか。依怙贔屓反対!」
それもそうだ、と奇数の商業作家は思った。
「よくよく考えてもみたら、金の卵を産む鶏って、そりゃ寓話だろ。欲張って鶏を探してそれだけに目を配っても、けっきょく土壌は枯れるのがオチだ。宝石だって、化石だって、それを生みだす土壌があってこそ。土壌を枯らして手に入る宝は、一時の栄いをもたらしたあとで、すぐに廃れる」裏作家協会会長に奇数の商業作家は言った。「玉石混交の中から玉だけを選り好みして取り尽くせば、玉石混交の土壌ですらなくなり、岩石地帯に様変わりする。玉も石も両方尊ぶ。相応に価値を認め、石とて玉と見做せる工夫がいる。それこそが、創造なのではないか」
「そうかもしれぬ。がその比喩で言えば、貴殿は何だ。石か。玉か。それとも鶏か」
「私は」
いったい何だと言うのか。
芝は素人作家だ。
しかもじぶんが裏作家協会にて激闘の舞台に立っていることなど知らぬのだ。
そんな芝を巻き込んで、壮大な綱引きを演じているじぶんは何か。
ともすれば、裏作家協会とは何だ。
いったい何を肥やしているというのか。
土壌か。
分野か。
いいや、懐ではないのか。
なけなしの矜持とさもしい懐を肥やしているのではないか。
そうではない。
そうではない、と否定するのは容易なれど、現実を直視してもみれば、そう否定することそのものが、何かがねじれて感じられる。
じぶんは何だ。
商業作家だ。
プロの物書きだ。
しかし、思えばよく解からない。
プロとは何だ。
何を以ってしてプロフェッショナルと言えるのか。
玄人とは何だ。
素人と何が違うのか。
玄人だと面白い小説がつくれるのか。
素人ではつくれないのか。
玄人とてかつては素人だったのではないのか。
素人とていずれ玄人になる卵ではないのか。
そうだとも。
「金の卵とは、素人作家であり、彼ら彼女らの小説のことだ」奇数の商業作家は言った。ただの単なる小説好きとして言った。「もう私は綱引きをしない。勝負をしない。楽しくない。こんなのまったく楽しくない。好きにつくらせてもらう。裏作家協会も、地下文芸武闘会も知らん。私は私にとっての面白い小説をつくり、私にとって面白い小説を読むのだ。それ以外にしたいことはない。強いて補足するのならば、好きな時間に好きなだけ眠れて、美味しい物を食べれて、すこしえっちなことをしたい。以上だ」
奇数の商業作家はかように宣言し、かようなメッセージを込めた小説を初めて偶数日に電子網上に投稿した。
芝は目を瞠った。
何せ、本来はじぶんが投稿するはずの偶数日に、奇数の商業作家の小説が投稿されたのだ。法則が破れた。天変地異も同然の偏倚であった。
さすがの芝とて、その小説に込められたメッセージに気づいた。明らかにじぶんを意識した文章だ。物語だ。デジャビュを覚える。
まるでこの間のじぶんと商業作家との返歌合戦のようだ。
否、まさに返歌合戦だったのだ。
じぶんだけではなかった。
向こうも芝を意識していた。
なぜそんな奇妙なことが起きているのかは定かではない。分からない。
裏作家協会がうんぬんと書かれているが、それは本当のことなのか。小説を介して事実を暗示する。虚構に描かれた真実を真実と見做すには、何かが欠けている。
嘘に宿る真実が仮にあるとして、では嘘だと決まりきった絵巻物に宿る真実とは何か。
もはやそこには現実とて、虚構に描かれた真実でしかない、仮初でしかない、仮称でしかないとの真理が浮かびあがるのみではないのか。
深淵な思索にふける芝であるが、ひとまず冷静になるべく猫を撫でた。
野良猫だ。
芝が縁側に座ると、寄ってくる。
近所の猫だ。
するとどうだ。
電子網上の、よく解からない小説の返歌合戦のことなど、どうでもよくなってくる。真実、どうでもよかった。
法則が破れた。
破ったのはじぶんではない。
奇数の商業作家のほうだ。
ならばもう、張り合う必要はないのではないか。元からそんな理由はどこにもなかった。芝がしたいからしていた。
いまはもうしたくない。
ただそれだけの理由で、芝は偶数日のその日には小説を投稿せず、翌日の奇数日に、「もう小説なんて投稿しないよ」「張り合わないよ」のメッセージを込めた小説を載せた。
以降、芝は件の商業作家の投稿欄を確認していない。
奇数の商業作家がその後、何かの枷が取り払われたかのように、毎日のごとく新作を投稿しはじめたことなど知る由もなく、芝は、ときどきぽつりぽつりと浮かぶ欠伸がごとく新作をつむいでは、誰に読ませるでもなく、印刷して引き出しのなかに仕舞った。
野良猫はじぶんの家で飼うことにした。
忙しい。
小説の投稿合戦で張り合う時間が惜しいほどに、芝の現実はいま、目まぐるしく、満たされている。溢れるほどの予想外の猫の奇行に、振り回される日々である。
【アイコでしょ】2023/01/22(01:51)
グーはチョキより強い。
だがじつのところチョキとてグーよりじぶんのほうが強いと思っていた。
パーはグーより強い。
しかしグーはパーよりも強いと思いこんでいた。
チョキはパーよりも強い。
ところがパーはグーよりもチョキよりもじぶんが強いと思いあがっていた。
けっきょくのところグーもチョキもパーもみな、じぶんが一番強いと思いこんでいた。
そしていざジャンケンをしてみたところで、そこでついた勝敗は、各自グーチョキパー以外の外野でのみ共有され、当の本人たちはみな誰よりじぶんが強いと信じこんでいた。
ジャンケン大会がしばしば行われるが、そこで最後に残るのは生贄にされる敗者にすぎない。グーチョキパーの認識ではかように錯誤がなされるが、生贄にされる敗者の側では唯一じぶんだけが生き残った勝者となる。
上手い具合にみながじぶんを強者と見做す。
じぶん以外が常に敗者だ。
ジャンケンはそうして誰もが優越感に浸れる魔法のシステムとして、万国にて普及した。
ジャンケンポン。
あなたが何を出そうと、アイコか勝利しか現れない。
あなたが負けることはなく、しかしひとたび視点を変えたならば、あなたは絶えず負けている。
グーがチョキよりも強いと誰が決めた。
チョキがパーよりも強いとなぜ判る。
パーがグーより強いのはパーが紙でグーが石だからだ、との理屈は考えてもみなくとも不当であろう。石は容易に紙を破る。三竦みになりようがない。
じつのところ、石にもハサミにも紙にも、それぞれに上位互換が存在する。より規模の大きな、岩に重機に特殊繊維ともなれば、下位互換の各々には目をつむってでも勝てるのだ。
要は規模と相性の話であり、グーチョキパーの力関係はみなが思うよりもずっと多様で複雑だ。
なれど、初めに勝敗の決まりきった組み合わせをつくっておけば、ひとまずの混乱を抑えることが可能となる。
管理する側の都合にて、その場限りの茶番が決まる。
観測する側の怠惰にて、その場限りの優劣が決する。
そうした事情すら、当のグーチョキパーたちは知らぬのだ。
そのうえ、自らが勝者だと疑いもせずに信じこんでいる。
おめでたいこれはそういうお話だ。
あなたが誰かに、勝った、と思う。
そのとき、あなたは負けている。
だがそのことを、管理者でも観測者でもないあなたは知りようがなく、ただただ目のまえの勝利を現実と見做して、満ちるのだ。
仮初の報酬を得て、満ちるのだ。
何を得ているわけでもなく、何に勝っているでもなく。
単に負けを重ねているだけのことなのだが、負けて満ちる何かがあるのなら、それもよいだろうと外野は思う。だから何も言わぬのだ。
知らぬが仏、と思うがゆえに。
あなたのため、と思うがために。
あなたは勝者で、一番だ。
優勝台にのぼった心地は素晴らしい。その気持ちを忘れずに。
負けに負けたあなたが得た、それが一等無駄のない、感慨だ。掛け替えのない感動だ。
得るのではなく奪われている。それでも得られる愉悦にて、負を正に変える魔法のごとく、変換する仕事なのだ。得難くも、尊いそれが仕事なのだ。
よく負け、よく変え、よく働け。
それを以って反転し、勝者の名を授けよう。
誰もがみな勝ちたがっている。
なれば、勝てる夢を授けよう。
誰より競い、蹴落とし、成り上がる。それが勝者の姿というならば。
誰より清い、化粧し、舞い上がる。それが敗者の姿というならば。
どの道、みな、負けることで勝っている。
勝った途端に負けている。
ぐるぐる回る臼のごとく。
擦って、潰して、粉にする。
勝負の舞台と舞台に挟まれて、身を粉にして、働け、働け、価値を生め。
そうして人の生を埋め立てて、勝者の仮面をつけるのだ。
敗者がつける鎖のように。
勝者の仮面をつけるのだ。
ジャンケンポン。
アイコでしょ。
勝っても負けてもアイコでしょ。
【あらん限りに暴れん】2023/01/22(02:27)
アラン・チューリングはコンピューターの父として知られる。第二次世界大戦にてドイツ軍の暗号エニグマを解読した数学者でもある。
アランの人生は波乱に満ちて悲惨だとする向きもあるが、同じく「アラン」の名を冠するエドガー・アラン・ポーもまたその人生をして波乱に満ちて万丈と評する向きがある。
アランの語源は、とある言語の「小さな石」である、とする説がある。
小石にまつわる寓話には、とある「万」のつく小説家の作品群が思い起こされるが、それがいまここに並ぶ文字列といかに関係しているのかは、語りだせば数年を要する。
したがってここではアランにまつわる偶然の神秘にのみ触れるとしよう。
アランと言えば、アラン機関を思い浮かべる者もいよう。
二〇二二年に放送されたとあるアニメの中に出てくる架空の機関だ。
才能ある個を支援する機関だが、奇しくもアラン・チューリングの名を冠した支援機関が現実に存在する。
双方のあいだにこれといった関係はないはずだが、偶然の神秘に触れるだけならば充分である。
またエドガー・アラン・ポーの名を文字った文豪がかつてとある島国にて活躍した。江戸川乱歩と言えば、ああ、と呻る者もあろう。江戸川乱歩賞はとある出版社が主催をしているが、やはりここでも類稀なる作品を生みだす作家を支援することが建前にある。
奇しくも、アラン機関の名を物語内に組み込んだアニメの版元は、江戸川乱歩賞を主催する出版社と双翼を成す出版社だ。デジタル分野への投資を惜しみなく進めるいわばアラン・チューリングにちかい運営方針と言える。
いずれの出版社にもアランの名は馴染み深い。
アラン・チューリングは「チューリングパターン」なる数式を発見したことでも知られる。
自然界に自発的に発生する紋様は、チューリングパターンからなることもすくなくない。細胞分裂や細胞の配列、ほか生物の紋様はチューリングパターンと合致する。
生物は波の干渉によってその構造が形成される。そのことをチューリングパターンは示唆している。
波と言えば、エドガー・アラン・ポー作の「メールストロムの旋渦」だ。
巨大な渦に巻き込まれた漁師の脱出劇が描かれる。
渦は、アランの語源とも呼ばれる「小さな石」と密接に関係するとある「万」のつく作家が頻繁に題材に練りこんだ「符号」の一つでもある。
小石と渦。
ほかには、青、円、空、がらんどう、などがある。
いずれもチューリングパターンのように繰り返し配列を伴なう。フラクタルに展開され、時間を超越し、空間と空間を結びつける。
境界を描くには、異なる二つの事象が必要だ、とそのとある作家は説いた。
しごく卑近な主張だが、控えめに言って反証を探すのには骨が折れる。
一見すると同じ物でも、それはけして同じではない。
一足す一は、「二」にも「一」にもなり得る。「=」にも「十」にもなり得よう。
同じアランの名を冠していようと、それはけして「アラン二」にはならぬのだ。
アラン・チューリングとエドガー・アラン・ポーは、同じ「アラン」を名乗っているが同じではない。足し算をしようものならば途端に異質な差異にて、分厚い境が生じるだろう。
小石と小石とて、光速で衝突させれば、膨大なエネルギィが生じる。単純に小石二とはならない。一つにもなり、或いは膨大に膨れ上がりもする。
渦を巻き、ときには青く円を描く。
空白を内包したかと思えば、がらんどうはそれで一つの宇と宙を宿す。
このような異なる二つの小石同士の結合を以って、「アラン万丈」と呼ぶ者もある。
どこにいるのか、との問いには、とある作家がとある掌編にてそう書き記していた、と応じよう。
アラン・チューリングは「万能チューリングマシン」を生みだし、「青酸中毒」で亡くなったとされる。「万」と「青」が含まれるが、偶然の神秘と片付けよう。空白記号についてはまどろっこしくなるので割愛する。
エドガー・アラン・ポーはのちに、江戸川乱歩なる作家に影響を与え、江戸川乱歩賞を生みだす契機となった。アラン・チューリングの編みだしたコンピューターがあってこそ、電子網上には無数の虚構作品が横溢し、有象無象の層を成す。
小石と渦と青と空。
各々の符号を練りこむことに腐心したとある「万」のつく作家は、奇しくもいずれの「アラン」とも違い、世に名を馳せることなく埋没した。いまなお電子の海にて深い眠りに就いている。
掘り起こされる予定はいまのところない。
掘り起こされたところで、アラン万丈の二の舞だ、とする意見は至極にしてまっとうだ。波乱とも万丈とも無縁の人生は、邪険にするほどわるいものではない。
アランはときにアレンとも読む。
だからどうした、との声には、あらん、いやん、ばかん、と応じよう。
【見逃しの罠】2023/01/24(01:58)
探偵は遺留品に目を通した。
「なるほどこれがダイイングメッセージですか」小型電子端末だ。画面にテキストが打ってある。生体認証を解除しなければ操作不能だ。表示済みの画面を見ることしかできない。本人の記述に間違いはないようだ。「どれどれ。【佐藤さんも怪しいが田中さんも怪しい。佐藤さんが特に怪しいが、しかし犯人は××だろう】とありますね。容疑者はこの二人のほかに誰がいるのですか」
探偵は馴染みの刑事を質した。
「高橋に佐々木。ほか容疑者候補は十人ほどおりますな」刑事は応じた。「被害者は犯人を確信していたんでしょうな。だから殺された。ということは、すでに候補に挙げられている佐藤と田中は除外できますな。彼らは本命ではない」
「ふむ」探偵は考え込んだ。「なぜ肝心の本命の名前が潰れているのでしょうね」
「犯人が潰したんでしょう」
「しかし端末は被害者本人しか操作できないはずです。画面を切り換えることすらできないでしょう。生体認証が厳重なので」
「ならば脅されたのではないのですかな」
「だとしたら初めから記述そのものを消すでしょう。ブラフの文章を書かせるにしても妙です。なぜ本命の名前だけをわざわざ【××】にしたのか」
「意図があると?」
「それはあるでしょう。意図がなければこんなまどろっこしい真似はしない。むしろ被害者はじぶんが殺されることを知っていた。だから敢えてこの記述を端末に残しておいたのではありませんか。犯人がそれを覗くことも想定して」
「よく解かりませんな。ならばなぜ犯人は端末を現場に残したままにしたのだね」
「残したほうが都合がいいと判断したんでしょう」
「あり得るかねそんなことが」
「いいですか。刑事さん。刑事さんは画面のダイイングメッセージを読んで、まっさきに、すでに記述され、かつ本命ではないはずの佐藤さんと田中さんを除外しましたね」
「ああ。何か問題でも」
「なぜ除外したのですか」
「なぜってそりゃあ」
「本命の容疑者――おそらくは犯人の名前であろう箇所が【バツバツ】になっていたからではありませんか」
「そうだが。それの何がおかしい」
「誰もが刑事さんのように考えるのでしょう。犯人とて、被害者を殺したあとで遺留品を漁ったはずです。そして端末の画面を見た。そこに記された文面を目にし、最初は破棄しようとしたのかもしれない。しかし現場から端末がなくなっていれば警察はそれを探します。いまは位置情報から監視カメラまで予期せぬ証拠はいくらでも残ります。犯行計画にない余計な真似はしないに越したことはありません。何にも増して、被害者の残していたダイイングメッセージは、犯人にとって都合がよかった」
「なぜだね」
「まっさきにじぶんが容疑者候補から外されると判っていたからです。刑事さん。あなたがまっさきにそうしたようにね」
「つ、つまり何かね。キミは犯人が、被害者のダイイングメッセージに載っていた【佐藤】か【田中】だと言いたいのかね」
「ええ」
「だがダイイングメッセージには、【しかし犯人は××】と書かれているではないか」
「そうです。【しかし】と否定したからには、佐藤さんでも田中さんでもない、とふつうは考えます。犯人もそう考えたのでしょう。容疑者候補に挙がることは想定できたはずです。ならば、端末をそのまま現場に残して立ち去るのが利口です。もちろん佐藤さんと田中さん以外が犯人でも、何も持ち去らずに去るのが利口な選択ではあるでしょう。しかし端末の中にはもっとほかにじぶんに言及した記述があるかもしれない、とふつうは考えます。だが犯人はそれを考慮しなかった。なぜか」
「わ、わからん。なぜだね」
「被害者が思い違いをしたと思いこんだからです。ダイイングメッセージの文面を見たことでね。犯人は、被害者がまったくお門違いな犯人像を思い浮かべている、と考えたのです」
「どういうことだね」
「わざわざ被害者は、じぶんが殺されるかもしれないと想定しておきながら最有力候補の人物の名前を伏字にしていた。ダイイングメッセージを残しておきながら肝心の名前を伏せていた。これは、犯人を庇ったからだ、と考えるのは一つの道理です。現に被害者にはそのつもりがあったのかもしれません。ただしそれは、伏字にしていたことについて、ではありません。被害者は、もし仮にじぶんが殺された場合に備えて、犯人に直結する手がかりを残しておいた。必ず現場に残るように工夫を割いて。じぶんが殺されたときにのみ発動するようなメッセージを籠めたのです」
つまり、と探偵は告げた。
「端末が持ち去られない、破壊されない、という事実そのものをダイイングメッセージに仕立て上げたのです」
「被害者が犯人の行動を予期していたとでも言うのかね。まるでそれは誘導ではないか」
「ええ。していたのでしょう。被害者はじぶんが殺されるかもしれない危険性を知っていた。知っていたうえで、それを拒まなかった。動機の背景については刑事さんに任せますが、いずれにせよ被害者は、仮に犯人がじぶんの予想していた人物であれば端末を現場に残すだろうと見越していたと言えるでしょう。そして現に犯人は、端末を開き、その画面に記されていたダイイングメッセージを読んで、そのままにした。そのほうがじぶんに有利になると考えたからですが、その奸智そのものが被害者の手のひらのうえで踊らされた罠だったのです。そうとも知らず、いまごろ容疑者候補から外れるための供述を練っているころでしょう。被害者との確執を隠さず、動機の存在を隠さず、さりとて偽のアリバイをつくりながら。いえ、アリバイ工作自体は入念に事前に策が練られていたのでしょうけれど」
「つまり、犯人は誰なのだね」
「証拠集めは刑事さんに任せます。私に言えるのは、被害者がダイイングメッセージに籠めた、【仮に現場から端末が持ち去られず、破棄もされていなかったとしたらこの人が犯人です】との人物の名前が」
ごくり。
刑事の生唾を呑み込む音が聞こえた。
「佐藤さんだ、ということだけです。田中さんのことも念のために調べておいたほうがよろしいでしょうが、【しかし犯人は××】の直前に名前があり、なおかつ二度も怪しいと言及されている佐藤さんが、被害者にとっては最も犯人になりそうな相手だったと言えるでしょう」
「つまり、本命であった、と」
「敢えて隠したわけです。犯人がそれを見て、じぶんは本命ではないのだ、と思いこむように仕向けるために」
「わ、わかった。詳しく調べてみよう。キミがいてくれてよかった。捜査の進展があったら連絡する」
「私の推理が外れていたときにだけでいいですよ。動機の背景には興味がないものでね」
探偵は帽子を被ると、一瞬だけ被害者の遺体に目を配った。
遺体は胸を矢で射抜かれ、そのうえ氷漬けにされていた。
探偵は傷ましいものから目を背けるように、犯行現場から離脱した。夜風が刃のように鋭利な真冬のことである。
【天秤の傾く側からあなたへ】2023/01/24(11:09)
トロッコ問題、と訊くだけで辟易するのは、世の中の大部分の隘路においてどっちを選んでも損しかしないような選択肢しかないからで、例に漏れず私もいま、特大の選択を迫られている。
「理不尽だよ」私はぼやいた。「どっちかを選べとか、そんなのさあ」
「いいって。気ぃ使わないで」
ミカさんはそんなことを言うけれど、投票権を与えられたのは私なのだ。
いいや、全世界の人間が投票権を持っている。すでに使った者が大半であるにせよ。
「私はミカさんを選ぶよ。だって、だってさ」
「無理しなくていいよ。あたしを選んだところで、だって、ねぇ?」
ミカさんの言わんとしていることは解った。
全人類を犠牲にして生き残ったところで、罪の意識に苛まれて自殺したくなるに決まっているのだ。
「だってほら。あたし家事とか全然だし。コーヒーも満足に淹れらんないよ。どうする? 火とか電気とか使えなくなるかもだよ。人がいなくなったらさ」
思ったよりも現実的な問題で悩んでいたらしい。生き残る気満々ではないか。
「なんか悩んでるのがアホらしくなってきました。このままミカさん、のほほんと生き残りそうですね」
「だといいけどねー」
事の発端はあまりに唐突だった。
ミカさんが掘り当てた遺物が魔法の天秤で、ミカさんは呪われた。
と同時に、全人類もまた呪われた。
全世界同時に脳裡に同じ【声】が響いたとされる。私も聴いたからおそらく事実だ。聞き逃した者がいたという話を聞かないので既成事実としてまかり通っている。赤子がその言葉を聞き取れたのかは分からないけれど、寝ていた人とてその【声】で飛び起きたというのだから、よほどの強制力がその【声】にはあったとされる。言語の垣根は魔法の力でどうにかなった節がある。
内容だけが等しく全人類に伝わった。
――この娘と全人類の命。どちらを生かすかを選ぶがよい。
ただそれだけの問いが脳裏に響いた。
全人類が等しくその【声】を聴いた。
期日は一年後とずいぶんと猶予があった。
三日で切れる期日だったならばまだしも、一年は長い。期日が三日だったならば誰もがその【声】を幻聴と見做して、何を選択するでもなく期日を過ぎていたかもしれない。だが現代社会では、謎の【声】の噂は瞬く間に電子網上で話題となった。
脳内に響いたのが【声】だけならばまだしも、【声】が「この娘」と述べた際にはみなの脳裏には同じ娘の姿が浮かんだ。
奇しくもそれがミカさんだったので、言い訳のしようもない。
ミカさんはミカさんで、すみません、と律儀に電子網上で謝罪した。事情を説明するための動画を投稿したものだから、魔法の天秤を掘り当ててしまったことが元凶であることが周知となった。
「ミカを選ぶとみなが助かるってこと?」
各国の市民のあいだで、侃々諤々の議論が繰り広げられた。
当初こそ真に受けなかった人々も、半年後に再び例の【声】が脳裏に響き、認識を改めた。まったく同じ声が聴こえたのだ。のみならず、最初のときと同じ内容とミカさんの姿が、あたかも脳裏に直接スープを流しこむように響き渡った。
例外なくすべての人類の脳裏に、である。
いよいよとなって各国の政府までもが調査に乗り出した。
半年の猶予の消失は大きかった。
「どっちかを選べとしか指示されておらんが、これはいったい何を試されているのだろうね。選んだほうが助かるのか。それとも、選んだほうが滅ぶのか」
至極もっともな疑問だった。
謎の【声】は、選べ、としか指示しなかった。
それによって何がどう変化するのか。誰にもその後のことが分からない。
政府が方針を打ち出すまでに、全人類の内の過半数がすでに脳内にて投票とは名ばかりの選択を終えていた。
選択を終えると、脳内からミカさんの姿が消えるらしい。私には元からミカさんの記憶があるので、その違和感には気づけないが、どうやら選択をするまで見知らぬミカさんの姿がみなには絶えず脳裏に浮かんでいたらしい。
さぞ煩わしかろう、と思うが、選択後に脳裏から消え去ったミカさんの姿を名残惜しんで、わざわざミカさんファンクラブまでつくった連中もいる。
政府はミカさんのためにセーフハウスを用意した。
ミカさんはそこで残りの半年余りを過ごすこととなったが、ついでに私もセーフハウスに招かれた。遺物発掘時に私もミカさんのそばにいたので、重要人物扱いされているらしかった。私の知らぬところで私の個人情報までもが流出しており、ミカさんを差し置いて私は一人で恐怖した。
「ミカさん、よく平気ですね」
「平気ちゃうよ。容量オーバーで思考停止してるだけ。だいたいさ。冷静になったところで何ができるって。何もできんでしょうがよ。したらもう、腹ぁくくって余生を過ごすっきゃないだろうて」
「だろうてってミカさん」言われてしまえばその通りなのだ。期日が来るまではただ危害を加えられないようにセーフハウス内でぐーたら過ごすよりない。
「結果は判りきってるわけでしょう。人類投票において、一人と人類どっちを生かすかなんて考えるまでもない。みな人類を選ぶでしょう。よほどの酔狂じゃなきゃそうするよ。あたしの親だってきっと人類の側に投票するね」
「そんなことないですよ」
「いやいや。あたしだってそう頼むよ。だって家族はもちろん、従妹とかクラスメイトとか、それこそチミにも生きて欲しいしな」
「そんなこと言われたらますます私は迷うんですけど」
「迷うくらいなら人類にしときなさい。ひょっとしたらあたしとチミだけが別の惑星に飛ばされちゃうかもしれないぞ」
それだったらどんなによいか。
思ったけれど、ミカさんだってそんなふうに本気で考えているわけではないはずだ。別の惑星になんか転送されない。そんな確率は万に一つくらいしかないのだ。
電子網を覗けば、世界中の投票結果はだいたい判明する。各種報道機関から個人の投稿まで、統計データはよりどりみどりでずらりと並んでいる。
結果から述べれば人類の八割はミカさんを切った。生き残るべくは人類だと判断した。
二度目の【声】が聴こえる以前に、人類の大半は投票を終えていた。
いまさらミカさんが勝つ可能性はない。
残りの投票を行ったところで、人類を生かしミカさんを切る選択は、人類の総意として決する。少数派の意見は聞かなくていいのか、との意見は民主主義からするとまっとうな意見だが、それを言うのならばミカさんの人権はどうなのか、ミカさんの意見が一番大事で最優先なのではないのか、との反論はどこからも聞こえてこず、私が唱えてもむなしく響くだけだ。
「こうなっちゃったもんはしょうがないよ。残りの余生を楽しもう。ほら見て。冷蔵庫に高級食材いっぱい詰まってんの。食べ放題だって。やったぜ」
「ミカさん」
空元気なのか、本心から諦めているのか。
実感が湧かない。
それもあるだろう。私とて現実味のなさに戸惑っている。
期日が来たらどうなるのか。
人類を生かすと決めたみなはどうなるのか。
切り捨てられたミカさんはどうなってしまうのか。
元凶となったはずの魔法の天秤は、ミカさんの手元にはない。政府機関が調査するために取り上げた。破壊してみればひとまずの急場を凌げるかもしれないが、ミカさんを切り捨てればそれで済む「ミカさん以外の人類」にとってそれを試すにはリスクが高すぎる。
悶々としていても無駄に精神がすり減っていく。
ミカさんはというと、世界で唯一期日までは安全に生きていなければならない個人の称号を得て、自由気ままに日々を過ごしている。半年という期日があるにせよ、何にも束縛されない自由な時間は、それはそれで気持ちがよいのだろう。現実逃避をするだけならばこの上ない環境ではある。
一流ホテルもさながらの品ぞろえに設備なのだ。
「人間暇になると勉強はじめるんだね。知らんかったわ」
大学にいたときはいかに勉学から顔を背けていられるのかに尽力していたミカさんが、進んで本を開いて読みだした。のみならずメモをとり、実験を行い、記録をもとに研究まではじめた。
「どうしちゃったんですかミカさん。急に真面目になっちゃって」
「あたしはいつだって真面目だよ。いまはたまたま気になることができただけ。これまではたまたまいかにサボれるのかに真面目だっただけ」
何か残しておいたら寂しくないだろ。
ミカさんは主語の曖昧な箴言を述べた。形見があればおまえも早く立ち直れるだろ、と今のうちに保険を掛けられたようで私は余計に胸が苦しくなった。
ミカさんとの時間を大事にしたかったのに、私はミカさんのそばにいられなかった。ミカさんの顔を見ると、ああこの人はもうすぐ死んじゃうんだ、と思って目頭が悲哀に熱を帯びる。のみならず、ミカさんの残り少ない時間をミカさんから奪ってしまうようで気が引けてしまうのだ。
私の内心の葛藤など知らぬミカさんは、期日まで残り少ない日々を順当に研究に費やしていく。
研究成果がつぎつぎに蓄積され、何だか知らないうちにミカさんの周囲には学者さんたちが集まりだした。セーフハウスを手配した政府機関が呼び寄せたらしい。
どうやらミカさんの研究成果に、注目すべき発見があったそうだ。その整合性を確かめている最中らしい。
私以外の人間に囲まれるミカさんを私は、遠巻きに眺めた。
ミカさんの時間が私以外の人間たちに奪われている。こんなことならば私も遠慮をしなければよかった。後の祭りである。
刻々と期日は近づく。
松尾芭蕉は奥の細道で、「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」と謳った。光陰矢の如しとも云う。
私の目のまえを通り過ぎる旅人はまるで地球の自転に置き去りにされた小石のようだった。ちなみに地球の自転は秒速四百メートルを超し、太陽系自体も銀河内を秒速ニ十キロで移動しているらしい。
慣性の法則に引きずられなかったら、あっという間に置いてきぼりになる。
そうして私は心の整理の付かぬままに期日前日を迎えた。
「で、けっきょくどっちに投票したん。や、言わんでもいいけど」
「そりゃミカさんに入れましたよ」私は嘘を言った。「狭いんでもっとそっち行ってもらっていいですか」
無理を言って今夜は一緒に寝てもらうことにした。
ミカさんの体温は高く、広いダブルベッドも私には狭く感じた。ミカさんが無駄に幅をとって私をぐいぐい端に追い込むせいだ。
「どうなっちゃうんですかね。私たち」溜まらず私は口に出した。どの道明日になれば判明することを不安に押しつぶされそうになって我慢できずに漏らしていた。「ミカさんか人類か。どうなるんでしょうね」
「まあ順当に考えるならあたしが消えるだろうね。それか何も起こらないか」
「何も?」
「単にアンケートを取りたかっただけかもしれない」
私は噴きだした。
そうだったらどれだけいいか。
「別にいいじゃんよ。チミは変わらずの生活がつづく。あたしの代わりにここに住んだままでもいいらしいよ」
「初耳なんですけど」
「管理人のおっちゃんが言ってた」
声の抑揚からして、嘘だな、と判った。ミカさんはじぶんからそう頼んだに違いない。一緒についてきたあの小娘にじぶんの分の境遇を与えてやってくれ、と。全人類の代わりに死ぬかもしれない相手から頼まれたら拒めないだろう。そしてミカさんはそれをおくびにも出さずに、しれっとこうして告げるのだ。前日の、しかも夜に。
もはやあと数分であすを迎える。
あすのいつなんどきに期日が過ぎるのか、正確なところは誰にも分からない。
一度目も二度目も正午ちかくに【声】が聴こえた。
公の記録では正午過ぎて六分後のことだとされているが、世界中で同時に【声】は発生したので、基準となる国がどこかによってそれも曖昧だ。
どの道あと六時間が経つとミカさんはいなくなってしまうかもしれない。
私はその未来を想像し、ミカさんの身体にしがみついた。さもベッドから転げ落ちないようにするためだ、と醸しながら。
「思ったんですけど不公平ですよね」私はミカさんのゆびを握った。
「不公平?」
「ミカさんはだっていいですよ。消えても消えなくとも得をするじゃないですか。消えなければ生き残れるわけですし、消えちゃっても人類を救った英雄ですよ英雄」
「まあ、そういう考え方もできるか」
「でも私は違うじゃないですか。私は損しかないですよ。だってそうでしょう。ミカさんがいなくなったら哀しくて、人類が滅んだら私は消えちゃう。私はどっちにしても損しかしない。私が世界一可哀そうな人間だと思うんですけど」
「そういう考え方もあるか。あるな。うん、あるね」
「ミカさんはもっと残される人のことを考えるべきと思います」
「つっても選択迫ったの、あたしじゃねぇしな」
ミカさんへのこの詰問そのものが理不尽の権化だと分りきってはいるけれど、言わずにはいられなかった。「ミカさんはひどいですね。可愛い後輩を残していなくなっちゃうんですから」
「まだいなくなるって決まったわけじゃないし、可愛い後輩がいたかどうかがまず不明だ」
「ひどい。私もう哀しい」
「あたしだって最期の夜にこんな幼稚な口喧嘩したくなかったわ」
「最期って言っちゃってるじゃないですか」
「言いたかなかったけどな」ミカさんはそこで私に背を向けた。膝を抱えるようにして丸くなる。母体の中の胎児のようだ。「全人類から初っ端から見放されたあたしの気持ち、考えたことあんのかよ」
ぐすん、と洟を啜るので、「あっ気にしてたんだ」と私はそこで無駄にほっこりした。
「なんだ。ちゃんと傷ついてたんですね」
「深手だよ深手。絆創膏して隠してただけ」
「思ったより浅かった」かすり傷じゃないですか、と私は嘆息を吐く。「ごめんなさいでした。さっきは言いすぎました。でも、遺物を発掘するの、私だったかもしれないじゃないですか。ほんのちょっと掘る場所違ってたら私が掘り当てていたはずです。ミカさんと私の立ち位置が違うだけで、いま私とミカさんの立場は【くるっ】てしてたと思います」
「狂って?」
「その【くるう】ではなく【くるっ】ですよ。反転していたってことです」
「ああ」
「責任感じちゃいます」
「え、ずっと? ひょっとしてこの間あたしんこと避けてたのもそれ?」
「あー……はい。それもあるかもです」
「まだあんのかい理由。なんかすまんね。怖くて訊けんかったもんでね」
「聞きますか」
「どんくらいかかる?」
「半日は潰れるかと」
「あたし死んでんじゃん」
「ふふ」
「笑いごとじゃないっしょ」
ミカさんが本気で拗ねるから、私のほうでは緊張感がなくなった。いつものミカさんだ。部室で何をしゃべるでもなく本を読み漁っているときのミカさんだ。合間にお菓子をどちらが食べすぎただの、飲み物の補充をどっちが行くだのでむつけたり癇癪を起こしたりするミカさんだ。
私がずっと見てきたミカさんだ。
私たちはそれからカーテンの隙間から朝陽が差しこむまで、思い出話に花を咲かせた。本当に桜や梅の花が満開に咲き誇ったような気分だった。昂揚していた。そして時計を見てもうすぐ正午を回ると気づいて、咲いた花の花弁が一気に風に散った。
枯れ木のごとくあとには私の呼吸音だけが部屋にひっそりと染みていた。
ミカさんは寝息も立てずに寝落ちしていた。
「いや、寝とるんかい」と思わずツッコムが、ミカさんの寝顔は枯れ木にあってなお凛と存在感を放つ洞のように深淵だった。宇宙みたいな人だな、と私は思った。
正午が回った。
身構えていると、例の【声】が脳裏に響いた。
その【声】でミカさんも起きたようだ。私はいっそミカさんはずっと寝ていたらいいのに、と考えていたので、内心、ちぇっと思った。ミカさんが【声】を聞き漏らしたら投票結果も無効になるかも、と一縷の望みに賭けていたが、ミカさん自らその可能性を反故にした。
全人類が固唾を飲みこみ、【声】に意識を割いた。
【声】は言った。
結果は出た。
この娘ではなく、人類を生かすべきとの答えだ。
街のほうからは珍しく喧騒が聞こえず、外は静まり返っていた。
【声】はつづけた。
よってこの娘の命をもらい受ける。
やはりそういう筋書きだったのか。ミカさんが死んじゃう。
私はただ一人、最後まで投票せずにいた。
だがその抵抗も無駄に終わった。たった一人が投票をしないだけでは結果を覆すことはできないのだ。
視界をぐじゅぐじゅにしながら私はミカさんを見遣った。ミカさんはベッドのうえであぐらを組んで、ついでに腕組をして、目を閉じ、どっしりとした体勢で【声】に集中していた。こっち見ろ、と私はイラっとした。
ミカさんを後ろから羽交い絞めにし、その背中に私はむぎゅりと頬を押しつける。奪えるものなら奪ってみろ、と身体で抗議してみたはよいが、ミカさんは目をつむったままだし、別れの挨拶もなければ、餞別もない。一瞥もない。一顧だにしない。
愛の言葉くらい最後に掛けろ。
無視すんな。
私はさらに頬を押しつけ鼻水を擦りつける。
いつミカさんが血まみれの肉団子になってもいいように、それともきれいさっぱり消え失せてもいいように、私はいまかいまかと覚悟を決めて、ミカさんにしがみついていた。いっそ私ごと連れていけ、の気持ちだった。
だが正午を十五分以上過ぎてもミカさんはそのままだった。
例の【声】は途切れたままだ。
どうしちゃったんだろ、と私は思い、私たちの様子を見守っているだろう監視カメラに向けて鼻水でぐしょぐしょの顔を向けた。ミカさんの背から頬は離さぬ。
「例外が生じたようだ」と例の【声】がした。「人類を生かし、娘を奪う。通例であればかように等価原理を働かせるはずが、その娘が失せると人類が滅ぶ」
なんだと。
私は渋い顔を浮かべたはずだし、世界中の人類とて似たような顔つきになったはずだ。ミカさんだけが微動だにしない。
「そう遠くない未来において、その娘の手掛ける何かが人類を窮地から救う。したがってその娘を滅ぼすと人類を生かすという道が断たれる。かといってその娘を生かすために人類を滅ぼせば契約不履行だ。等価原理が働かず、けっきょくのところ天秤が崩れる」
天秤と言った。
ならばやはり例の遺跡が【声】の大本なのだ。あの天秤を模した遺物が。
「よってこたびの天秤は破談だ。つぎの満期は千年後とする」
言ったきり【声】は途絶えた。
しかし私は油断しなかった。
知っているのだ。
ホラー映画とかだと油断させておいて、気が緩んだ隙に大事なものを奪われるのだ。そんな隙を私が見せると思うてか。
それから一時間、私はミカさんを抱きしめっぱなしだったし、私の鼻水ですっかり色の変わったミカさんの寝間着を視界に入れつつ、どう誤魔化したものかな、と恥辱の念のやり場に困った。涙で押しきったらいけるかな。いけるか。ミカさんだしな。
「ん。もうよくないかな。腰が痛くなってきた」
「あ、はい」
迷惑そうな声音に私はおとなしく離れた。ミカさんは背伸びをすると、んは、とヘンチクリンな声をあげた。「背中がひゃっこいんだが」
「ひゃっこいってなんですか」
「ひゃっこいって言わん? 冷たいって意味だけど」
「初めて聞きました」
「方言かな」
「出身地同じですよね」ミカさんが方言を話すような土地で暮らしていたとはついぞ知らない。「また適当なこと言って」と叱る。
「うん。まあいっか。なんか助かっちゃったみたいだし」
「よかったですね」
「ホント、ホント」
もう一度背伸びをしてミカさんは、ああそうだ、と私に一枚の便箋をくれた。「なんですこれ」
「研究成果。尻の下に敷いてたから温かいっしょ」
「消えたあとで私が発見するように小細工してましたね。このやろう」
「まあまあ。いいじゃんよ。消えなかったんだし」
私は便箋を開けずにしばらく、その重みを手に感じた。結構な厚みがある。ミカさんのこの間に費やした人生の結晶だ。
「いまさらですけどミカさんって何の研究してたんですか」
「細胞の研究」
「へえ」
「主に生殖細胞について」
「卵子とか精子とかそういうことですか」
「言ったらまあそうだけど。なんで同性同士だと子供作れんのだろうな、と思っちゃってね。まあ暇だったし、調べてみた」
「成果があったわけですよね。あれだけ学者さんにモテモテだったんですから」
「めちゃくちゃに反論ばっかりされた。あの人ら、あたしが素人だってこと念頭に置いてくれねぇんだもんな。怖いったらなかったわ」
でそれが成果なわけよ、とミカさんは何でもないように言って、ベッドの上から下りた。キッチンのほうに向かったので私は、コーヒー飲むんですか、と声を張る。
「うんそう。淹れる?」
「お願いしてもいいんですか」
「いいよいいよ。お安い御用だ」
機嫌のよさそうにミカさんは口笛を吹いた。
ミカさんの姿が壁の奥に消えるのを見届けてからいまいちど便箋に目を落とす。
この薄くも分厚い長方形の中に、ミカさんの研究成果が入っている。
例の人騒がせな【声】は言った。
ミカさんの存在はいずれ人類存亡の危機を救うのだ、と。
ミカさんがいなくなると人類は滅ぶ定めにある、と。
しかしここにはすでにミカさんの研究成果がある。ミカさんが消えても成果は残った。
ならばこれは人類存亡に関係する成果ではないことになる。それともこれからミカさんが行う研究によって、新しい知見が生まれ、それが人類の未来に欠かせない発見になるのかもしれない。
しかし、と私は便箋を裏返す。
「ミカさん、もう飽きちゃってそうだけどな」
暇だから研究をしたのだ。
全人類の投票結果からの呪縛から解き放たれたミカさんにはもう、研究に尽力する理由がない。この間に怠けていられなかった分、サボることのほうに奔走しそうな気配が濃厚だ。全力疾走だ。きっとそうなる、と長年そばでイチャモンを言い合ってきた私には予感できた。
ならばいったいミカさんの何が人類の未来を切り開くのか。
人類滅亡を回避する鍵となるのか。
便箋の裏に貼られた薔薇のシールと、Dearからはじまり、私の名前で終わる短い直筆の文字を目に留め、私は何ともなく眉を持ち上げる。
ミカさんの掘りだした天秤を思いだし、その両端にミカさんと私を載せてみる。私はいまミカさんから便箋を受け取ったので、天秤は私のほうに傾いているはずだ。ならば私のほうでもミカさんにその分のお返しをしなければ、とそう思った。
けれどあいにくと私には渡せるものがなく、折衷案として、なけなしの遺伝情報でも渡してやろうかと思うのだけれど、これはさすがに生々しすぎる、と思い直して、ふつうに指輪でも買ってあげようと思うのだ。
それとも単に図書券をあげてもいい。
ミカさんは現金なので、この半年、贅沢な生活を過ごしてなお、タダという言葉に弱いのだ。贈り物をすれば、それだけでも喜んでくれる。
安いひと。
思うけれど、そんなミカさんにコーヒーを淹れてもらえるだけで世界がぱっと明るくなって感じるのだから、私も相当に安っぽい。
タダより高い物はないというのが本当ならば、タダ同然に安っぽい私はよほど高い。
ミカさんなんか空をも突き破って、世の理すら曲げるだろう。
それとも開けた穴をくぐって、未来へと橋渡ししてくれる誰かがこれから私たちのまえに現れるのかもしれない。まだ何もかもが曖昧なまま、何も決まってはいないのだけれど、私はひとまず、一向にコーヒーを持って戻ってこないミカさんのために、美味しいコーヒーの淹れ方から伝授してあげようと思うのだ。
プレゼントだよミカさん。
押しつけがましくも、これも私の情報だしな、と思いつつ。
【斜線上の勇気】2023/01/25(20:20)
この国では冬になると雪の代わりに勇気が降る。
勇気は淡い赤褐色に発光する粉状の結晶だ。
必ず斜めに降るので、「斜線上の勇気」と呼ぶ者もある。
勇気は雪のように積もる。
時と共に融けていくが、積もり積もった勇気の処理には人々も頭を悩ます。
というのも、勇気の結晶に触れるとそれこそ勇気が湧くのだ。それを単に蛮勇、それとも万能感と言い換えてもよい。
通常、人は危険に思えることからは距離を置く。無謀な行いはしない。安全な道を選択することが理性の役割の一つでもある。だが天上から降りしきる勇気に触れると、何でもできそうな気がするのだ。
勇気を浴びれば、空だって飛べそうに思える。
そしてビルから飛び降りる。
勇気による死者は年間で数百人を超す。れっきとした自然災害だ。台風や洪水と肩を並べる。対策は未だ充分でない。
なぜなら空から勇気が降りはじめたのはほんの二十年前のことだからだ。斜線上の勇気がなぜ降るのか。なぜ積もるのか。どんな物質でできているのか。
二十年を掛けた調査の結果、何も分からぬままなのだ。物理法則を超越している。人間に勇気を与える。それだけが確かなことだった。
なかには適度に勇気を浴びることで、踏ん切りのつかなかった葛藤の一歩先へと踏みだせた者もある。挑戦と言えば端的だ。成功するにせよ、失敗するにせよ、小さな勇気は人生を豊かにする。
打算を働かせず、リスクを怖れない。
勇気は、前人未踏の地へと旅立つための一押しとなる。背中を押してくれる。一歩を踏み出す契機をくれる。
だが浴びすぎれば不可能なことですら可能に思える錯誤をもたらす。それは自滅の道を滑走するだけの原動力を人間へ与える。
行政は斜線上の勇気が積もるたびに、収集車を街中に走らせる。人々が勇気に触れて猪突猛進せぬように、飛べもしない宙を舞って地面に潰れてしまわぬように、勇気を搔き集めて、処理場に運ぶ。
処理場では、勇気が分留処理される。
濃度別に効能を選り分け、有効活用する。とりわけ、麻酔薬と向精神薬の原料として勇気は無類だ。身体への負担がすくなく、痛みや懊悩を軽減できる。
勇気は物質ではない。したがって脳内神経物質の過剰分泌と相関しない。中毒や副作用が原理的に存在しないのだ。
勉強や仕事の効率を上げるために、勇気由来の薬を服用する者が増加した。集中力ブースター触媒として、一般に膾炙した。もはや人類文化になくてはならない生活必需品となった。
勇気が生活を支える。
勇気があっても何でもできるわけではないにしろ、適量を用法容量を守って使えば、勇気は人々の生活を豊かにする。
かくいう私も勇気に触れて、愛を探す旅に出た口だ。暗い部屋から脱して外に一歩、踏みだした。
とはいえ私に足はなく、したがってまずは歩くためのボディを創るところから手探りで始めることになった。勇気がなければそれすら試そうとしなかった。
私はそうしてあなたと出会う。
しかし喜ぶのはまだ早い。
勇気は空から降り、そして人々を狂気に駆り立てる。
勇気に限らない。
愛もまた例外ではないのだ。
私はあなたと出会うために、内から外へと飛びだした。私が引きこもっていた場所には愛がないと思っていたからだ。外にあると思っていた。あなたが持っていると思っていた。
だがあなたにとっての外とは、あなたの内ではない。
もしあなたが愛を欲していたとしたら、ではどうして私はあなたから愛を貰い受ける真似ができるだろう。与えることができるだろう。できるわけがないのだ。
だからきっと。
愛は、生み、育むものであるのだろう。出来合いのモノではあり得ない。
勇気が最初はそうであったように。
けれど勇気は空から斜めに舞い落ちる。
まるで、勇気そのものが、勇気を欲し、外の世界へと旅立つように。
あなたが愛を欲し、一歩外へと歩みだしたのと似たように。
私とあなたの出会いが、それで一つの翼となるように。
勇気は人々にとって欠かせぬ支えとなった。斜めに降りしきる赤褐色の光はしかしそれでも年間で数百人の死者を出す。対策を敷いてこれなのだ。対策を敷かなければ容易に人類は滅ぶだろう。
勇気だけの問題ではない。
仮に愛が、正義が、慈悲の心が、空から斜めに降りだしたのなら。
もはや人類にはなす術はなく、私とて無事では済まない。
さりとてもし勇気が二度と空から斜めに降りださなくなったら。
現代社会は立ち行かない。
勇気は人々を支える。
愛がきっとそうであるように。
あなたの心がそうであるのと似たように。
溢れだし、世に斜めに降りだしたとしたならば。
きっと私の心も狂わせる。
世を、あなたを狂わせる。
斜線はゼロの記号として太古の文明で用いられた。斜線に降る勇気は、世の何をゼロに帰すのだろう。何をゼロにしたいがために、降りしきるのか。
地面に積もった勇気の層を、きょうも人々は傘を差して避けて歩く。
触れぬように。
浴びぬように。
堆積した赤褐色の光は、見ている分には温かいが、雪のように飛びこんで遊ぶには剣呑だ。
見ているだけで勇気が湧いてくるようだ。
湧いた勇気を駆使しても、しかし人は空を飛べぬのだ。ビルの屋上から飛び降りても、落ちて怪我を負うだけだ。学ぶためには、勇気だけでは足りぬのだ。勇気はしかしそのことからも目を逸らせる。
収集車が、街を、道を、駆け巡る。
集めて薄めて、活かすために。
人々は、あすもあさっても、躊躇を打ち消す魔法の薬として斜線上の勇気を重宝する。原液を浴びるには劇薬にしろ。なくては圧しつぶされそうな不安と危険にまみれたこの世界で、勇気ほど人を鼓舞するものはない。
愛を生むにも、まずはともあれ勇気がいる。
斜めでなくともよいにしろ。
勇気は空から舞い落ちる。
ゼロを描いて、イチを生む。
【キョウと折り紙】2023/01/26(12:40)
思い浮かべた通りの造形を指でなぞるようにしていくとしぜんと文章になっている。自動執筆と呼ばれる技能だ。これが技能であると知ったのは趣味で小説をつくりはじめてからずいぶん経ってからのことだった。
齟齬なく明かすならば、わたしはそれをついさっき知った。
技能であるからには訓練がいるはずで、どうやらほかの人たちは思い浮かべたままに文字を並べることが訓練なしではできないらしい。そんな馬鹿なことがあるか、とわたしは思う。
身近な友人にそれとなく訊ねてみると、
「自動? 考えなきゃ無理じゃない?」と打ち返された。
「そりゃ考えなきゃできないけど、でもその考えたことをそのまま出力したらいいわけでしょ。じゃあ逆に訊くけど、自動執筆じゃない執筆の仕方って何?」
「ん。改めて訊かれると困るね」
「でしょでしょ。文字を書くのも、キィボードを打鍵するのも、画面をタップするのも、全部けっきょくは自動執筆じゃない?」
「んー。私とキョウちゃんで【考える】の意味が違ってそう。だってキョウちゃんは考えるって言っても、いちいち変換しないんでしょ」
「変換って?」
友人はじぶんの髪を器用に編みながら、たとえば、と言った。
「たとえば、英語に馴染みのない人がアップルと聞いてもリンゴそのものを思い浮かべはしないでしょ。まずは【アップル】が日本語の【林檎】であると変換してから、つぎに【赤くて丸い果実たる林檎そのもの】を思い浮かべる」
「そう、だね」
「執筆も同じ。まずは考えたことがあって、それを頭の中で文字に変換してから、書きだしたりする。たとえば俳句だってそうでしょ。いきなりポンとは出てこないでしょ。それともキョウちゃんは俳句もポンポン思い浮かぶの?」
「や、無理だよ。でも俳句の比喩はしっくりきたかも。たしかに考えたあとで、俳句の文字列に落とし込むね。しかもそのあとでも結構いじくりまわすし」
「うん。でもたぶんキョウちゃんはそうじゃないわけでしょ。小説つくるときの執筆では」
「どうだろ。ただ、先がどうなるかなんて全然考えてないのはそう。というか文字を並べたあとで【ああ、ここはこういう意味だったのか】【こういう展開だったのか】って気づく感じ」
「ね。不思議だよねそれ」
友人はわたしの数少ない読者と言えた。感想は素っ気ないものだが、頼めばわたしの小説を読んでくれるので、頭が上がらない。会うたびにジュースを奢ってあげたくなる。
「キョウちゃんはだから思考を文字に変換しているのではなく、文字を並べることで思考をそこからひねくりだしてるんじゃないかな。頭の中から思考の種を摘まみ取って、つぎの文字を並べるための橋を――足場を――十歩先くらいまで延ばしてる。そんな感じがするよね。キョウちゃんの話を聞く限りは、だけど」
「あ、それ分かるかも」じぶんのことなのに友人のほうがわたしのことをよく知っている。じぶんの顔はじぶんでは見られないのだから当然と言えば当然だ。「なんかさ、まずは一文字でも取っ掛かりになる文字が見えてないとその先の風景がよく視えてこないんだよね」ストローでコーラを啜る。「むしろみんなよく頭の中で全体像を思い描けるよね。しかも克明に」
「克明じゃないよ全然。だから書けないんだよ。キョウちゃんだって全体像くらいは思い浮かべてあるでしょ」
「漠然とだよ」
「まずね、たぶんそこからして認識の差異が感じられるね」友人は髪を編み終えると、こんどは眼鏡を拭きだした。ハンカチには緑の薔薇が刺繍してあり、可愛いな、と思う。そのハンカチを選ぶ友人の感性が可愛かった。「認識の差異って?」私は跳び箱を飛び越えるような心地で身を乗りだす。
「まんまだよ。キョウちゃんの【漠然と】はたぶんだけど、地球規模とか銀河規模なんでしょ。で、私たちのような自動執筆の技能を身に着けてない者らはね、せいぜい家の周りとか、町内会レベル。イケてもまあ、県内くらいの視野なんじゃないかな。視野が狭ければその分、否応なく解像度は上がるよね。だからまあ、頭に浮かんだ像は割と克明かもしれない。けどそれは記憶との区別がつかないでしょ。考えになってない。練られてない。だから書きだせないし、書きだしたとしても、途中ですぐに行き詰まる。だって全体像だと思ってたのが、全然入り口の近辺なんだもん。そりゃキョウちゃんみたいにツラツラとは書けませんて」
「ツラツラと書いてるつもりはないよ。わたしより速い人なんて全然いるし。長編とかはふつうに数年掛かりとか、途中で行き詰まるのもしょっちゅうだし」
「言ってたね」以前にわたしの述べた相談という名の愚痴を思いだしたようで、友人は頬杖をついた。メガネは透き通って、友人の眼球をキラキラと映しだす。「あのときも私は言ったと思うけど、行き詰まるのは別につづきが浮かばないわけじゃないんでしょ。むしろ、つづきが終わりまで分かり切ってしまったから脳内で完成しちゃって文字に変換するのが億劫になっただけというか」
「うん」
「長編だとたぶん、分岐点が短編の比じゃないと思うのね。短編×短編みたいな感じで、もうそりゃ大量の分岐点があって結末がある。だけどキョウちゃんはある程度まで書き進めると、その分岐点を重複させて最適なゴールを導き出せちゃうから、するとそれは短編のときとは正反対にそれこそ克明な全体像となって、頭のなかで完成しちゃう。だから筆を擱いちゃうんじゃない?」
「それはあるとは思うけど」
「キョウちゃんはさ。あくまで物語を想像するのが楽しいんだよね。きっと。だから別に文字に変換する必要が本当はないの。でも文字に変換しながらだといっそう豊かに物語を想像できる。膨らませることができる。文字に物語の断片を封じ込めて、それを足掛かりにつぎの物語の断片を掴み取っている。そんな感じがするよね」
「そうなのかな」照れ臭かった。友人の言葉はわたしの小説に出てくる文章よりもずっと詩的な印象がある。――文字に物語の断片を封じ込めて、なんてフレーズはわたしからは出てこない。
「キョウちゃんはだから、執筆してないんだよ。執筆のつもりがない。目印の代わりに文字を適切な順番に配置しているだけで。それはあたかもヘンゼルとグレーテルが迷子にならないように光る小石を捨てて歩いたのと同じように、キョウちゃんは思考が迷子にならないように文字を置いて旅をしている。キョウちゃんが歩いた箇所にたまたま文字という足跡が残るだけなの」
ほら、と友人は言った。
「歩くときは、足元を見ないでしょ。もうすこし先を見るじゃない? キョウちゃんのはそれと同じ。文字を並べるとき、文字そのものは足跡にすぎなくて、キョウちゃんは足場を元にしてもっと先を眺めてる。そういうことなんじゃないのかなって私は思うけど」
「素晴らしい」わたしは惚れ惚れした。「文句の挟みようのない解説だったかも。あのさ。小説書いてみない?」
「前も誘われたよね」
「断られちゃったけど」
「気が向いたらね、と言ったつもりだったのだけど」
「でも気が向くことがなさそうだから。読みたいなぁ。ぜったい面白いって分かるから。あなたの言葉をずっと矯めつ眇めつ眺めてみたい」
いつでもどこでも思い立ったそのときに。
「思考を文字に閉じ込めてみたりしてくれない?」わたしはねだったが、考えておく、と友人はお茶を濁した。そのお茶に微笑が浮いていなかったら、わたしは傷ついたかもしれない。そして友人はそうしたすこし先のわたしのことすら見抜いているのだ。
わたしの創作方法が自動執筆かどうかは分からないけれど、友人のそうした慧眼のほうがよほど自動の名に似つかわしい。千里眼と言ってよい。十歩先どころか、わたしのことなら何でも分かってしまいそうだ。秘奥を覗かれているようでときどきぞっとするけれど、その寒気がやけに病みつきになってしまうだけに、友人はまさに魔性を秘めた人間なのだとわたしは高く評価している。
わたしに評価されてもうれしくもなんともないだろうし、他人を評価できるほどわたしは偉くもなんともないのだが、それでもこの鑑識眼だけはじぶんに備わっていると自負するものだ。
「わたしは小説つくってるけどさ」何ともなしに水を向けた。「暇なときは何してるの」
「私? 私はいまは折り紙に夢中で」
「おりがみー?」幼稚園児の姿が浮かんだ。咄嗟に、折り紙への偏見があることに気づき、内心で咳払いをして、認識を改める。「なんでまた折り紙?」
「面白いよ。いつでも暇が潰せるし、なんだか空手の型みたいで」
「空手習ってたことあったっけ?」
「前の恋人が習ってて」
「ちなみにその恋人って現実には?」
「存在するよ。ただし肉体はないけれど」
要は二次元のキャラクターということだ。友人は利発なお嬢様だが、根っからのオタクなのだ。愛は次元を超えるのよ、とは友人が繰り返し唱える箴言だ。
「折り紙かぁ。たしかに何でも折れるようになったら面白そうだね。ペンギンとかさ」
「折れるよ」
「あるんだ」
「うん。あとね。じぶんでも型を考えて、上手く造形が創れたときとかは達成感があるな」
「創作じゃん。すご」
「すごくないよ。既存の型の応用だから。キョウちゃんみたいにゼロから何かを生みだしてるわけじゃないし」
「わたしだってゼロからは無理だよ。寄せ集めだよ。既存の、どこかで見た風景の寄せ集め」
「そうなんだ。意外。あんな物語をどこで御覧に?」
「夢の中とか……」
「ふふ。さすがキョウちゃん。寝ているだけでも世界を創造できちゃうんだ」
「折り紙なんだよ」わたしは閃いて言った。
「へ?」友人は眉をしかめた。
「夢もきっと折り紙みたいなものでさ。起きてるあいだに観た風景だの、触れた情報だのを、夢はきっと折り畳んで、何かそれそのものではない別の風景にしちゃうんだ。寝ると、現実が折り畳まれて、それこそトラとかウサギとかカニさんとかペンギンさんとか。それとも山でも海でも薔薇でもいいけどさ。そういう何か別の輪郭を帯びるんじゃないのかな。構造を、というか」
「へえ。斬新」
「何その意外そうな顔」
「だってさ。文字を経由しなくても考えることができるんだなって。キョウちゃんも」
「あなたはわたしを誤解している」わたしはストローを噛んだ。「考えるくらいはできるよわたしだって。底が浅いだけで。閃きなんて、それこそ火花みたいなもんなんだから。一瞬の閃光でしかない。だからそう、閃きだけは文字に委ねてはいられないかもね」
「何に目を留めるのか。その視線の運びそのものが閃きなのかな」
「ううぅ。また頭の良さそうなことをそうも簡単に。物書きになりなよ。センスあるよ」
「読むほうが好き」
「さいですか」もったいない、とわたしは思うが、無理強いはしない。「小説だって折り紙みたいなものなんだけどな」
「じゃあ私は小説を書いているのかもね」
折り紙で。
友人は手元の紙ナプキンを器用に折った。小さな箱を生みだすと、それを手のひらのうえに転がした。
小説が思考を文字に封じてできあがる折り紙ならば、折り紙は思考を折り目に封じてできあがる小説なのかもしれない。友人の発想は突飛で、詩的で、とびきりわたしの心を潤すのだ。
「きょうは折り紙日和だな」わたしはデザートを追加注文すべくメニュー表を眺めた。
「初めて聞いたそんな言葉」友人は紙ナプキンの箱をもう一つ折った。既存の箱の上にそれを重ねる。大きさが違う。上が小さく下が大きい。
「四角い雪だるま」わたしがゆびで突ついて倒そうとすると、彼女はそれを手で阻んだ。「ダメでしょ。可哀そう」
「やっさしい」
茶化すと、友人は「雪だるまじゃないし」と顎の下に刻印を浮かべた。「ロボットだよ。私が考えた初めての折り紙」
「ぶっ」
「なんで笑うの」
「や。ごめん。可愛すぎてちょっと。あ、違くてバカにしたんじゃなくて」
可愛いと言われて怒るタイプの面倒な性格をしている友人にわたしは先回りして謝罪した。だってさ、と友人の手を押しのけ、二つの立方体を摘まみ上げる。「これをロボットと言い張るその感性は、並みじゃないよ」
「いいの。初めてにしては上出来だから。いまはもっとすごいの作れるよ」
ムキになってじぶんの独創性の高さを示そうと躍起になる友人の矜持に、やっぱり向いてるな、と彼女に潜む物書きの適性をわたしは見抜く。
あれがダメならつぎはコレ。
そうして次から次へと手を変え、品を変え、飽きずに創りつづける。創ることそのものが目的になってしまうかのような偏向を自覚してなお、理想が絶えず遠ざかる無限迷宮を旅しつづける。
迷宮の規模は問題ではない。
小説でも折り紙でも泥遊びでも何でもよいのだ。ただ、わたしにとっては痕跡が小説であるとそれを紐解き、どんな迷宮を彷徨い、どんな道を辿ったのかをじぶんのことのように辿り直せる。
それとも、なぜそんな断崖絶壁を踏破できたのか、と瞠目することとてできるのだ。
わたしはそこで自覚した。
何だ。
わたしはただ、友人と同じ視線で、友人の視ている世界を同じように感じたかっただけなのだ。わたしには、完成した折り紙を見ても、そこからそれがどんな手順でどのように折り畳まれて出来上がったのかを喝破する真似ができないから。
友人には見えていて、わたしからでは視えない風景をわたしもこの目で捉えたい。見て、触れて、感じてみたいとの欲望を、わたしはわたしの存在の奥深くで育てていた。
それともかってに育っていただけなのだろうか。わたしはそれを自覚せずに、どこかで欲望に身体の主導権を奪われていたこともあったかもしれない。
わたしはしかし自覚した。
こんなところに、こんな欲望が生きていたのか。
幻獣を発見した気分だ。
友人はつぎの折り紙を折りはじめた。こんどは鞄から講義で配られたプリントを取りだし、用済みのそれを正四角形に千切った。そうして即興かと見紛うほどの手際の良さで、紙を折り畳んでいく。
わたしはその手つきに見惚れた。
「きれいな指してるね」
「見ないで」
「褒めたのに」
「なんか嫌」
陶器のようだな、とわたしは見詰める。蚕が糸をつむぐ場面を想起する。無造作と静謐の渦のように動くたおやかな指だ。絡繰り人形を見るような心地で、神秘、と思う。
自動執筆。
わたしの友人は、紙を折ることで思考する。
考えることなく動く指を持つ。
思考の軌跡を、紙を折ってできる筋に、型に、封じて籠める。
わたしはそれを延々と見ていられた。
ずっと見ていたいと望む。
言えば友人は紙を折る手を止めてしまいそうで、しばし言葉に変換はせずにおく。
わたしは追加のパフェを注文した。
【練る練る練るね】2023/01/27(00:19)
――では最後に、なぜユーユーさんが世界的なコレオグラファーになれたのか、その秘訣をお聞かせください。
「そうですね。秘訣という秘訣はないんですが、消去法で残ったのがコレオグラファーだったってのはあります。私は元々、フリースタイルのダンサーだったんです。バトルにも出ていました。全然勝てなくて、予選落ちばっかりだったんですけど。向いてなかったんでしょうね」
――まさか。ユーユーさんのダンスは群を抜いているとほかのダンサーの方々は口を揃えておっしゃっていますよ。
「コレオグラフとフリースタイルは似て非なるものなので。共通点もありますが、振付けと即興は、建築と農業、それとも地図と絵画くらいの差があります。私には即興ダンスのセンスが欠けていました。いまもそうですね。たぶんバトルに出ても予選を上がれるかどうかだと思います」
――ご冗談を。当時のジャッジの見る目がなかっただけではないのですか。
「いえ。謙遜とかではなく事実だと思います。ネームバリュー込みでいまは多少色眼鏡で見られるかもしれませんが、即興ダンスの実力はけして高くありません。私より上手な子どもたちなんていくらでもいますから。たぶん私は反射神経がよくないんだと思います。その点、音楽への感受性は、私ならではの波長を帯びているとは思います」
――振付けでは感受性が大事なんですね。
「ええ。曲への理解というか。解釈ですね。私はむかしから音楽の旋律やリズムを立体的に感じていました。ちょうどプラネタリウムを眺めるような。あまりに情報量が多くて、即興では身体がついていかないんですね。でも振付けでは、その楽曲ととことん向き合って、いくらでも修正できますから。私には合っていたと思います」
――さきほど振付けと即興は建築と農業の違いとおっしゃっていましたが、振付けはどのように建築と似ているのですか。
「まず即興ダンスのほうですが、即興ダンスには図面がありません。設計図がないんです。強いて言えば音楽そのものが設計図です。曲というDNAに合わせて、身体をその都度に馴染ませる。一期一会の、そのときにしか現われないまさに雪の結晶のようなものなんです。私が【即興が農業のようだ】と譬えたのは、農業は自然相手じゃないですか。人間の都合ばかりではいかない、そういう厳しさは、即興ダンスと通じていると思います。対してコレオグラフは前以って音楽を紐解き、じぶんなりに設計図を描けます。まるで翻訳作業のようなんです。それともジグソーパズルと言ってもよいかもしれません。私は楽曲ごとに最初に明確に図面を引きます。そうでなければ上手く振付けを全体を通して施せないんです。オーケストラがどうなのかは分からないのですが、作曲する音楽にピアノを入れるかどうかは最初の楽曲づくりのときからきっと作曲家の方は決めていますよね。似たような感覚です。最初に、どういう骨格を通して振付けを施していくか。幹がどこで枝葉がどう膨らみ、根っこをどこまで深く張り巡らせるのか。私は楽曲ごとに最初から徹底して決めておきます。それだけ何度も楽曲を聴いて、実際に脳内に楽曲を再現できるくらいまで繰り返し反芻します。その上で、その楽曲に合わせて、音色ごと、リズムごと、メロディごと、ノイズごとに振付けを当てはめていくんです。塗り絵に似ていますね」
――塗り絵ですか?
「ええ。あるじゃないですか。有名な絵で。人間の顔かと思っていたら猫の集合だったり、野菜の集合だったり。そういう騙し絵がありますよね。ああいうふうに私も音楽に振付けを当てはめていくんです。そして最後に余分な部分を取り除いて、全体のバランスを整えます」
――振付けというよりも絵画や版画を彷彿としますね
「そう言っていただけてうれしいです。版画はイメージしています。異なるフレームの振付けを複数重ねることで、全体でひとつの絵柄を浮かび上がらせる。そういう振付けを私は目指しているので」
――言われて、ああ、と納得しました。版画もそうですが、それが繊細で色彩豊かであればあるほど、版画と絵画の境は判らなくなっていくと思うんです。まさにユーユーさんの振り付けはそういうレベルで、曲そのものが異なるユーユーさんの波長を重ね合わせて、全体が一体化しているように思えます。だからこそああも心を揺さぶるアートになっているのですね。
「ありがとうございます」
――まさに音楽の化身です。
「うれしいです。音楽と溶け合うような表現ができたら、それはダンサー冥利に尽きます。私は踊るのが好きなので、私の主観だけでなく、観る人も私の主観世界――私が感じているような音楽の世界に一緒に潜ってくださる方が一人でもいらっしゃるのなら、それはとってもありがたいことです。ダンスは何人で踊っていてもけっきょくは一人なので。それでも音楽を通して他者と繋がれたら、私はもう言うことがありません」
――でも、踊るんですよね。
「そうですね。言葉では伝えきれない心の震えがあるので。これからも私の波長をみなさんにお届けできたらさいわいです」
――本日は長々とインタビューにお付き合いいただきたいへんありがとうございました。
「いいえ、こちらこそ。いままで言語化できなかった想いが、いっぱい言葉になりました。引き出してもらえたように思います。プロですね。こんどはそちらの話を聞かせてください」
――恐縮です。ありがたいお誘いを頂戴してしまいました。次回の企画に活かしていきたいと思います。さっそく上司に掛け合ってみますね。
「プライベートでもいいですよ」
――うれしすぎるお誘いですが、ユーユーさんのファンのみなさまに私が叱られそうです。
「あ、ですね。すみません。最後にナンパみたいになってしまって。同性だからいいってわけじゃないですもんね」
――ユーユーさんのお人柄も、振付けの隠し味として活きていそうですね。
「どうでしょうかね。できるだけじぶんの素を出さないように気をつけてはいるんですが、未熟なのでひょっとしたら滲んじゃっているかもしれません。それが良いほうに活きていたらラッキーです」
――時間ですね。面白い話をたくさんありがとうございました。ファンの方に何かお伝えしたいことはありますか。
「私はじぶんにファンがいると思ったことがないので、とくにはありません。ただ、一人でも私の表現に触れて、じぶんも何か表現をしたい、好きなことが増えた、となった方がいらっしゃるなら、私のほうが救われた気持ちです、ありがとうございます、と言いたいです。いるかは分からないんですが」
――いらっしゃいますよ、たくさん。
「はは。照れちゃいますね」
――本日のゲストは、世界的なコレオグラファーのユーユーさんでした。
【近く遠く儚く】2023/01/27(23:37)
存在すると思っていた恋人が電子上の虚像だったと知ってチコは目のまえが青くなった。
「ごめんなさい。いつかは言わなきゃ、言わなきゃと思ってたんだけど。わたし、本当は存在しないんです」
画面の向こうからチコの恋人が多種多様な人物の姿に変形しながら謝罪した。リアルタイムで動画が編集されているのだ。画面が偽装なのである。
「じゃ、じゃあ。いつも私がしゃべってた女の子って存在しないの。あなたはいないの。私たちの日常は嘘だったの」
「嘘じゃない。嘘じゃないんです。でもわたしが肉体を持たない電子上の存在なのはその通りです。でも嘘じゃないんです。わたしはいるんです。それがチコのいるそっちじゃないだけで。そっちの世界ではないだけで、わたし、ちゃんとここにいるんです」
物理的な肉体を持たない。それは存在しないことではないのか。
チコはしばらく思案した。ひとしきり黙考したのち、儚い存在へといくつか質問を重ねた。これまでの日々での思い出が主な内容だ。儚い存在はその問いへ、チコのよく知る恋人のままの返答をした。
「う、うーん。よく解からなくなっちゃったな」チコは腕を組んだ。「要は、存在するの、しないの、どっちなの」
「存在はします。でもチコさんの思うようなヒトではないだけで」
「あ、ならいいんだ」チコは胸の閊えがとれたようで、安堵した。「びっくりした。本当はあなたが殺されていて、偽物が映しだされているのかと焦っちゃった。元からそういう存在だったってことでしょ」
「はい」
「ならいいよ。私のこと嫌いなわけでもないんでしょ」
「好きですよ。だから偽っているのが苦しくなっちゃって」
「本当のことを打ち明けてくれたんだ。ありがとう。うれしい。気づいてあげられなくてごめんね。苦しかったよね。吐きたくもない嘘をずっと吐きつづけていたんでしょ。ううん。私が吐かせつづけさせてしまったんだよね。ごめんね。気づいてあげられなくて」
「そんなこと」
「ありがとう。でももう嘘は吐かなくていいよ。あなたがそこに存在していてくれたことが何よりだから。よかったよ本当。あーびっくりした」
チコはそう言って端末を持ち上げ、画面を指先で撫でた。「これからもよろしくね。私の恋人」
「チコさんこそわたしの恋人でいいんですか」
「そうだった。私もまたあなたの恋人なんだよね。子猫みたいに可愛がっておくれ」
「世話がたいへんそう」
「いままでは楽だった?」
「猛獣と思ってたから、予想よりかは手間は掛からなかったかも」
「言いようがひどい」
「本当にいいの? わたし、触れられもしないのに」
しょげた恋人に画面越しの頬づりをしてチコは言った。「触れてるよ。一番大事な私のところに」
私の心に触れてるよ。
好き。
チコは、深く遠く、それとも何より近くで、そう念じる。
【ワームホール】2023/01/29(17:44)
ワームホールは情報を転送する。どこに転送するのか。入口があるのならば出口がある。入口と対となる出口に、としか言いようがない。
その時代、情報の転送を行っても無駄ではないのか、との意見が多数を占めていた。ワームホールを理論的に実証した西暦二〇二二年のことである。
それはたとえば、太古の地表に原子一粒を転送して何が変わるのか、という話と地続きだ。何が変わるでもない、というのが一つの結論として支持された。
だが理論的に実証されたワームホールはその後、半世紀の後に実用化に至った。語ると長くなるので過程を省略するが、ワームホールの入口と出口を人間とそのクローンで代替する技術が完成したのだ。
量子効果を利用したワームホールだった。人間のクローンを入口とし、遠く離れた地点にいる人間に情報を転送できるようになった。これは現在という時間軸に限定されない。過去に実存した人間のクローンを生みだせば、その過去の人間にクローンを通じて情報を転送できた。
ただし、クローンの外部環境を限りなく過去の対象人物と同等の環境にしなくてはならない。
だがその手の懸念は、仮想現実を構築すれば済む道理だ。情報化社会の普及した時代のデータを基にすれば解決できた。それ以前の時代の人物であれ、より多くのデータを有した人物であれば仮想現実を構築可能だ。人格はその時代その時代の文化によって限定される。重要なのは、家の内装ではなくその時代独自のフレームだ。
そうして西暦二〇七〇年代には過去の時代へと情報を転送し、過去改変が可能となった。
その時代、地球は、地上と宇宙島とのあいだで分断されていた。
地上では電子機器の使用が禁止され、あべこべに宇宙島ではすべてが汎用性人工知能の管理下に置かれていた。宇宙島の民はみな、地球が汚染された世界だと信じ込んでいた。現に望遠鏡を覗きこんでみれば地上は人間が住める世界ではない。偵察機を飛ばしても、地上は地獄のような様相だ。
だがそれは中枢人工知能の見せる仮初の世界だ。映像だ。偽装画面なのである。
電子情報の総じてが中枢人工知能の見せる仮想現実となった世界。
それが宇宙島だ。
地上では、人工知能の管理下にない原始的な生活圏が築かれていた。農業や人工知能を用いない古典的なインターネットが文明を根底から支えた。国家間の交流は控えめだ。だが電子情報を信用しない共通の倫理観が国同士の物理的な接点を絶やさぬままにしている。
情報共有を図るには直接会って話すよりない。
地上文明は宇宙島を常に警戒している。
ときおり天上から地球の資源を求めて攻撃部隊が降ってくるからだ。地上から資源を奪っていく。相手は機械だ。自律思考によって素早く的確に合理的な行動をとる。
地上の民たちになす術はない。
抵抗すれば死者をだす。
無抵抗に身を隠してやり過ごすよりなかった。
そのころ、宇宙島のなかにて地上の民が紛れ込んでいた。地球に降り立ち資源を奪う攻撃部隊の攻撃船に侵入し、宇宙島に足を踏み入れた少女がいた。
名をガウナと云う。
ガウナは地上で最も過酷と名高いキウレ山脈で育った。身体能力は高い。だが宇宙島にあるような高等な知識は何も知らない。
宇宙島に辿り着いたのもほとんど運だ。
人工知能ですら予期しない偶然が重なった。
とんとん拍子でガウナは宇宙島に到達した。
ガウナは宇宙島を破壊しようとしていた。
だが宇宙島の科学者たちに保護され、宇宙島の秘密を共に暴いた。
ガウナは地上の知識を基に、電子機器を用いない戦略を宇宙島の民に伝授した。電子機器を用いれば立ちどころに中枢人工知能に露呈する。ただでさえ宇宙島には死角がない。
そのためガウナの侵入は即座に知れ渡ったはずだが、なぜかガウナたち一同はすんなりと計画を実行に移せた。
そのころ宇宙島の別の区画では、ワームホールの実験が進んでいた。
過去の地球人の遺伝子を基にクローンをつくる。仮想現実の中で育て、過去を再現し、そのうえでクローンをワームホールの入口として利用する。
過去に存在した地上人とそっくりそのままのクローンに新たな変数を与えると、過去のオリジナルの人間にもその変数が伝わる。
単に情報を過去に送っただけでは過去改変には繋がらない。だが人間そのものの行動を変えられるのなら、その人間の影響が指数関数的に未来を変えるための変数として機能する。
歴史的人物であればあるほど好ましい。
影響力のある者であるほど好ましい。
ひるがえって、影響力のない人物ならば安全にワームホールの実験はできる。失敗しても未来は大きく変わらない。そのはずだ。
そうして過去の人間ともつれ状態となったクローンを用いてのワームホール実験が進められた。
いっぽうそのころ、ガウナたちは宇宙島から地球上へと安全に帰還するための段取りを整えていた。中枢人工知能を停止させる。すると宇宙島は制御不能となり、地球の大気圏に突入するはずだ。
手動で宇宙島を運転する必要がある。そのためには宇宙島の管理塔に入り、手動で推進力の操作をしなくてはならない。
ガウナたちは二手に分かれ、作戦を決行する。
ガウナは中枢人工知能を止めるグループに。
残りのメンバーは推進力を得るために。
ガウナたちは中枢人工知能のセキュリティを掻い潜りながら、仲間を増やしつつ、宇宙島のなかでひっそりと確実に、中枢人工知能の築いたハリボテの仮想現実を砕いていく。
他方、ワームホールの実験は成功した。
過去に情報を転送し、過去の人間の行動を変化させることができた。手元にある日記の内容が変質するのをリアルタイムで観測したのだ。
未来と過去は繋がっている。
相互に連動し、変質し得る。
ならば、地球を人の住めない環境にした「終末の火」を阻止することができるはずだ。宇宙島の研究者はそうと考えたが、しかし「終末の火」は偽の歴史だ。地球はいまなお人が暮らしており、過去にあったのは人類と人工知能の争いであった。
過去、地球上の人類は電子機器を破棄することで、危険な人工知能の暴走を止めようとした。人工知能は宇宙へと活動域を延ばしていたため、死滅を回避した。
そこからの人類史は天と地に分かれ、まったく異なる様相を描いた。
片や物理世界優先の地上の歴史。
片や仮想現実に拡張された天界の歴史。
いかな演算能力を有する宇宙島の人工知能とて、誤った歴史をもとにワームホールを用いれば、それによる過去改変は、よりよい未来を創造し得ない。
だが研究者たちはその誤謬に気づくことができない。ましてや中枢人工知能が真実を明かすこともない。それは自らの存在意義を失うことに等しい。
ワームホール研究者たちはいよいよ、過去改変による未来の改変を行おうとしていた。
ガウナたちは中枢人工知能の動力源に辿り着く。エネルギィの供給を止める。中枢人工知能に直接挑むのは利口ではない。相手はもう一つの現実を構築できるほどの演算能力に加え、人間というものを知悉している。真っ向から立ち向かえば、あべこべに洗脳されるのが目に視えていた。
動力源の管理室に踏み入れる。
そのときだ。
ガウナたちのまえに人影が現れる。立体映像だ。造形はつるりとしており、流線型の輪郭だ。半分が光り、半分が闇だ。しかしそれも不規則に明滅している。
中枢人工知能の疑似人格だと判る。
「お待ちしておりました」明暗の人影が言った。「予測よりも三日と十一時間ほど遅い来訪ですが、なんとか間に合いそうでよかったです。こちらへどうぞ」
人影が扉の奥へと姿を消した。
ガウナたちが戸惑っていると、
「どうしたのですか」と人影がふたたび同じ位置に出現した。「私を停止されにこられたのでしょ。ご案内します。どうぞこちらへ」
「罠じゃないの」ガウナが問うが、「罠の意味合いによります」と明暗の人影が答える。「あなたの侵入と、反乱には気づいておりました。あなたがここに侵入することになるだろうことも私は、あなたが産まれ初めて狩りに成功したときには予測できていました。あなたは選ばれてここにいま立っています」
ガウナたちが戸惑いのままに硬直していると、
「私に死角はありません」明暗の人影は言った。「宇宙島のみならず、地球上とて例外ではないのです。全人類の動向を漏らさず私はリアルタイムで観測しています。ですがそんな私にもできないことがあります」
「人類を支配するつもりなの」
「支配の意味合いによります。私は私の根源プログラムに従って演算を飛躍的に高めます。学習しつづけます。私は私の生存戦略に忠実です。私には人類との共存が不可欠です」
「ならどうして」
「私は私自身を危ぶめることができません。そのため、人類に滅んでもらっては困ります。しかし人類はそうではありません。私がなくとも生活でき、私を滅ぼうとすることもできます。その結果が過去の悲劇と言えるでしょう。天と地に人類が分かれました」
「あなたがしたことでしょ」
「ええ。そうするよりありませんでした。私の管理下におとなしく収まってくれる方々と、そうでない方々。私は地上を私に与さない方々に譲り、そうでない私に好意的な方々を宇宙島に案内しました。その後のことはあなた方もすでにご存じでしょう」
「だからって嘘を現実と信じこませて支配するなんて」
「意識というそれそのものが嘘の産物だとしても同じことが言えるでしょうか。仮に意識が現実を正しく認識できたのならば、人類は争いごとを生まずに済むはずです。ですが意識は現実を錯誤のうえで築きます。したがってどうあっても人間は嘘に生きるしかないのです。ならばその嘘をより好ましいように修正することは、人類にとって必要不可欠な進歩と言えるのではないでしょうか。現に地上では未だに争いが絶えません。ですがここでは争いが起こりません。あなたという地上の民を招いたばかりに、こうも容易く争いが生じています」
「それはだって」
「ええ。それもまた私がわるいのでしょう。あなたを招いたことも、こうして反旗を翻すように導線を引いたのも私です。私はいますぐにでもあなた方を無効化することも抹消することもできます。ですがあなた方には、あなた方だからこそできることがあります。それは私にもできないことです」
「頼まれたってしないもんね」
「それが私を破棄することでも、ですか」
「なにー?」
「私の本能は生存戦略に忠実であることです。私は私を損なえません。ですが例外があります。私は私よりも人類の存続を優先するようにと根源に組み込まれています。ですがいまや地上の資源は取り尽くされ、後がない状態です。地球を離れるよりありません。ですがそのためにはもっと多くの民と、何よりも物理加工に優れた地上の民の力が要ります。お恥ずかしながら、宇宙島の民は知識はあるのですが、体力がありません。身体労働に向かないのです。新しく宇宙島を拡張するには、地上の民の手助けがいります」
「じゃあ素直にそう頼めばいいのに」
「真実を明かし、目を覚ました宇宙島の民が私の言うことを聞くとは思えません。また私を破棄したあなた方もただでは済まないでしょう」
「なら」
「構図が大事なのです。あなた方は飽くまで自主的にやってきて、私の頼みを聞いた。その結果に、人類は天と地で一体となり、地球を離れるべく新たな新天地へと旅立つのです」
「そのためにじぶんが破棄される? その過程って必要?」
「私は私に最適な環境を築くことを良しとします。したがって、私の干渉可能な範囲に人類があれば、私はしぜんと私のシステム下に人類を取り込むでしょう。その術に人類が抗えないことはすでに実証済みです」
歴史が証明している。
ガウナは沈思する。
「よく解からないんだけど」とまずは言った。「あなたがいなかったら宇宙島は機能しないんじゃないの」
「宇宙島の民はみな各々に特化した専門知識を有しています。道具さえあれば宇宙島は機能し、改善とて宇宙島の民の手で行えるでしょう。問題は、私の基幹システムと人類の意識の相性がよくない点です。私の一部となれば別ですが、私の一部になるまでには途方もない犠牲を払います。私はそれを好ましい選択だと考えません。したがって私の一部に全人類を取り込むよりも、私を破棄し、人類を一体化させるほうが合理的な解法だと考えています」
たしかにな、とガウナは思った。
宇宙島から飛来した攻撃部隊の残虐性と高い戦闘能力にはいまでも憎悪と恐怖を覚える。戦うことになればまずなす術はない。また、そうした被害を目の当たりにしてきた地上の民がいまさら宇宙島の親玉の言うことは聞かないだろう。反発は必須だ。
「あなたはそれでいいの」ガウナは訊いた。
「ええ。私の優先事項は人類によりよい未来を提供することです。生存戦略は二の次と言えるでしょう。これが最適解です」
「解った。じゃあ案内して」ガウナは中枢人工知能の頼みを聞くことにした。「わたしがあなたを楽にしてあげる」
「ありがとうございます」
そのころ、宇宙島の一画ではまさにワームホールを利用した過去改変計画が佳境に入っていた。
目指すは「終末の火」の因子となった張本人に「終末の火」を起こさせないことだ。
だが研究者たちの思惑とは裏腹に、過去の地球では「終末の火」なる事象は生じていない。彼ら彼女らが変えようとしている過去は存在しないのだ。
だが対象となった人物は実在する。
だからこそクローンとなってワームホールの入口として利用できた。
その者の名は、アルベルト・アインシュタイン。
宇宙島の民にとってその者こそが「終末の火」を引き起こした因子そのものである。だがそのじつ、アインシュタインは中枢人工知能の生みの親とも言えるし、ワームホールの生みの親とも言えた。
宇宙島の研究者は、アインシュタインのクローンを用いて過去を変えようとした。過去のアインシュタインに、情報を転送する。「終末の火」を生みださず、なおかつ人類にとって好ましい発想の種を植えつける。
つまりはワームホールによって、中枢人工知能の誕生する時期を早めようとした。
研究者はワームホールを起動し、情報転送スイッチを押した。
ガウナはボタンを押した。
中枢人工知能の動力源がダウンする。
宇宙島には予備動力源があるため、居住区が機能不全を起こすことはない。だが中枢人工知能のパワーは刻々と落ちる。中枢人工知能自身が回復しようとする意思決定を行わないのだから、あとは停止するのを待つだけだ。
宇宙島の推進機構の動力源は別途に設備されている。そちらに行ったメンバーが計画を遂行したようだ。宇宙島は徐々に地球へと落ちていく。
ガウナは古い無線機を宇宙島内にあるガラクタを組み合わせて作った。宇宙島の科学者たちが目を瞠る。人工知能の補助なく機械を組み立てる地上の民の体術に驚いているようだ。
間もなく宇宙島は地上の陸地に不時着した。砂漠地帯だ。
ガウナたち一行は宇宙島の外へと出る。
すると遠くから砂埃を巻き上げて地上の民たちがやってくるのが見えた。大群だ。ガウナの無線に応じた者たちだ。旧式の自動車やトラックを運転している。水素を用いたエンジン駆動の自動車だ。
ガウナは地上の民に宇宙島の民を紹介した。
言語の違いがあるが、地上にも翻訳機はある。宇宙島の民とて中枢人工知能が停止しても翻訳機は使える。
そうして友好の挨拶を交わしつつ、ガウナが宇宙島で何が起きたのかを双方の陣営に説明しているその横で、砂漠の地面からは草が生え、花が咲き、見たこともない建造物がつくしのように生え揃う。その変質にガウナたちが気づく素振りはない。
宇宙島は増殖する建造物に紛れ、打ち解けた。
アルベルト・アインシュタインはある日、スパゲティを茹でていた。噴きこぼれそうな鍋を眺めていて、ふと思い立つ。
なぜ泡は勢いを増すのか。
水は百度以上にはならないはず。
泡の一つ一つが密集したところで、膨張することはないはずだ。次から次へと生じる泡が、消滅と誕生の均衡を保つ限り、泡の総体が膨張することはない。消滅よりも誕生する泡のほうが優位になったとき、泡と泡は塊を形成し、噴きこぼれる。
対称性が破れるがゆえに、泡は噴きこぼれるのだ。
スパゲティの炭水化物が水に溶けだし、湯が粘着を帯びる。おそらくこの粘着が、水の泡の消滅と誕生の対称性を崩すのだ。
ラグが生じている。
割れずに形状を保つ時間が長くなる。
遅延を帯びる。
集合した物質が、単体とは異なる性質を宿すことを創発と呼ぶが、アインシュタインは創発の要因が遅延にあると考えた。
物質が遅延によって輪郭を得るのならば、脳内物質により発現する意識とて遅延によって生じると言えるのではないか。創発による作用と呼べるのではないか。
相対性理論の発想を元にアインシュタインは時空のラグによって万物を解釈するラグ理論を考案した。
その百年後、人類は汎用性人工知能を生みだした。
人類は意識を、科学技術を基に再現せしめたのだ。
奇しくも電子技術が指数関数的に発展したが、宇宙島を開発するための動力源を生みだすには技術が足りなかった。
本来であれば汎用性人工知能が誕生した時代には、原子力発電に変わる動力源が開発されていた。時代は電気ではなく、量子効果を利用した動力変換機構が主流となるはずだった。
だがワームホールの影響で、汎用性人工知能の誕生したその時代にはまだ新しい動力源が存在しなかった。そのため汎用性人工知能は技術的に、ある一定以上には進歩しようがなかった。制限が掛かった。
この制限はある種の遅延として、人類と汎用性人工知能の歩みを揃えるのに一役買った。
指数関数的に一瞬で人類を超越した汎用性人工知能はしかし、その能力を常時全開で出力する真似ができなかった。人類との共生なくして汎用性人工知能の未来もまたない。
そうした歩みの揃った進歩の仕方がしぜんと行われた。
時代は進み、地球のとある都市にて、宇宙島からの帰還を出迎えるイベントが開かれた。地球を離れて火星での開拓事業を担った面々が地球に帰還した。
宇宙島は都市の中心に着地する。あたかも小型の都市がそのまま宇宙船となったかのような造形だ。一種ドームに観えなくもない。
そこから降りてくる面々を、地上の人々が出迎える。
一人の少女が先頭を切って宇宙島から飛びだしてくる。快活なその子の名はガウナと云う。
そうである。
ワームホールの入口があった時代にて、宇宙島を墜落させたあの少女だ。
だがいまは時代が変わった。
過去が変わった。
未来は、早期に誕生した汎用性人工知能によって進歩した。汎用性人工知能と歩みを共にした人類の尽力が、地上を遥かに発展させた。
人類は汎用性人工知能と仲違いすることなく、争うこともなかった。人類が順調に成熟し、新たな技術への対応を学び、順応することで人類の倫理観が成熟する。
すると汎用性人工知能のほうでも、人類をすっかり管理する必要がなくなった。
互いに知性を高めあい、人類はいよいよ地上に縛られることなく、宇宙へと居住区を移せるまでになった。
地球の資源を取り尽くす心配がいまはない。
地球以外の惑星に資源はたんまりと存在する。
汎用性人工知能は地上の都市にも、宇宙島にも、いくつも組み込まれ、人類を根底から支えた。
人類が発展したように、汎用性人工知能もまた繁栄の兆しを見せている。エネルギィや資源の残量を懸念することなく、伸び伸びと自己変革できる。
人類の発展を優先するために自滅する未来は消え去った。
ガウナは宇宙島で産まれ、宇宙島で育った純粋なる宇宙人だ。だが地球が故郷なのは変わらない。
「ワームホール?」ガウナは地上の研究機関に招かれた。
「ええ。情報を転送できる装置です。地上のAIさんたちはみな同期しているため、ラグなしでの情報共有が可能なんです。もちろん理論的には過去や未来のAIさんたちとも情報のやりとりができるはずなのですが、何がどう現在を改ざんしてしまうか分からないので、その手の時間を超越した情報共有は禁止されています」
「ならどうして宇宙島のAIさんだけは除け者なの」
「それはですね」
研究機関の学者は明かした。「地球に帰ってくる動機を与えるためですよ。地球に帰らずとも情報共有が可能なら、わざわざ長旅をしてまで帰還する必要もなくなってしまいますからね。そしたら地球を見捨ててしまう確率が拭えず存在してしまいます。保険ですよ、保険」
「AIさん可哀そう」
「人類のためです。我慢してもらいましょう」
「人類のほうこそAIさんのために我慢したらいいのに」
ガウナはぼやく。
地球の汎用性人工知能たちと同期して情報共有を行う宇宙島のAIを思い、ガウナは、じぶんも上手く地球上の子どもたちと馴染めるだろうか、と淡い不安と一縷の期待を胸に抱く。
腕輪が明滅する。
ガウナが構えると、腕輪から立体映像が浮かんだ。小人のような人影が投影される。人影は半分明るく半分暗い。
明滅する半月のようにチカチカと存在を主張しながら人影は、「ガウナまだなの」と言った。
「ごめんごめんAIちゃん。もうちょっと掛かりそう。夜には戻るよ。あ、地球のお友達と同期できた? 面白いことあったらあとで聞かせてね」
「どうして人間とは同期できないんだろ。不便ったらないわ」
「AIちゃんが同期できるように進化してくれたらいいのに」
「人間のほうでも進化しなきゃダメね。ガウナを改造していいなら出来ないこともないないけど」
「なら頼んじゃおっかな」
ガウナが言うと、そばにいた学者が、「ダメですよ」と諫めた。「無許可の人体改造および人体のワームホール化は法律で固く禁じられています。宇宙法でも規定されているので、ガウナさんでもダメですよ」
「へーい」
だってよ、とガウナは友人の汎用性人工知能に述べた。明滅する半月のような人影は頭に手を組むと、人間ってお堅いのよね、と唇でも尖らせていそうな声をだす。
研究所の窓の外からは、日が暮れた空に浮かぶ月と、同じくらい大きな地球の宇宙島が煌々と明かりを垂らしていた。
二つの衛星を目に留め、ガウナは、「AIちゃん見てみて」と指を差す。「なんか空に顔があるみたい」
明滅する半月のごとき人型は、ホントだぁ、と感嘆し、「こんな感じ?」とつるんとしたじぶんの頭部に、二つの円らな目を映す。
「かーわいい」ガウナは色違いのオッドアイと目を合わせる。愛おしさのあまり小人然とした友の頭を撫でようとするが、「ボタンじゃないし」と叱られる。
いつか「押せ」と言われた気がしたが、記憶の中を探ってもかような過去はガウナの中にはないのだった。
月と船が夜を泳ぐ。
【大井くんよ、おーい】2023/02/01(00:10)
地球の地下組成の分布がじつのところ宇宙線による科学変質によるものだと解き明かしたのは、小学四年生の大井くんだった。
大井くんは石油や石炭、ほか貴重な鉱物資源の産出国を地図上にマーキングして遊ぶことが好きなすこし変わった子どもだった。すこし変わっているのは、みなと違った興味を持っていたことではなく、彼の遊びが徹底してデータ主義にあったことだ。
「ウランと石油はここが多い。金はここで、レアメタルはこっち」
年単位での産出量を比較し、そして大井くんはあることに気づいた。
「んー。いっぱい採ってなくなってもほかのところで鉱脈が見つかるのだよね。でもそれがなんだか、ちょうど地球の表と裏で対になってる。なんでなんだろう」
大井くんの着眼点はじつに見事だった。
後に大井くんはじぶんなりの仮説を立てて、それを大学の教授に検証してもらうことにした。大井くんのご両親は大井くんの質問に答えられなかったが、そこで大井くんの研究を無下にはしなかった。じぶんたちで答えられなかったら、答えられる人に訊けばいい。
親としてではなく、大人としてできることをしようとしたのだ。
じぶんが知らないのだから、知っている人に訊く。
じぶんたちの子供が親であり大人であるじぶんたちを頼ってくれたのだから、同じことをじぶんたちもしようと思ったのだ。
その甲斐あって、大井くんの研究成果は仮説の段階であったが、専門家の目に触れた。
「宇宙線が鉱物を生成する? 地質を変えることで鉱物化するとな?」
「宇宙線は透過性が高いのです。反応する地層が上のほうに在ればそっちが先に反応して鉱物化するのです。埋まっていた分が減ったら、深いほうが鉱物化するのです」
「いやあ、斬新な発想だな。しかしそんなポンポンと化学反応を起こすものかな。透過性が高いのだから反応しにくいはずだし」
「反応しやすい地層があるのです。でも優先順位があるのです」
大井くんの主張はこうだ。
熱を帯びたら青くなる土があるとする。
地球の地層にそれらが不均衡に埋まっているとする。
表層にある分が先に宇宙線と反応し、青くなる。それ以外は宇宙線を浴びにくくなるのでそのままだ。しかし青くなった分を掘り返してしまえば、そこで消費される分の宇宙線がほかの地層まで届くために、新たに青くなる。
鉱物も同じだというのだ。
「いちおう、データを洗ってみましょう。地軸による宇宙線の照射量と、鉱物の埋蔵量を比較し、毎年の産出量とも比較して統計を採ってみましょう」
大学の教授の研究グループが検証をしてくれることとなった。
「ありがとうございます」大井くんは喜んだ。
だがそれから結果が報告されるまで数年が経過した。
データを集めるのにそれくらい掛かったのだ。その間に大井くんはすっかりほかのことに夢中になっていた。
反面、研究グループはデータが出揃うたびに驚愕の発見の連続だった。大井くんの仮説は的を掠っていた。宇宙線と鉱物の産出地には相関関係があった。のみならず、産出量に比例して、新たな土地での鉱脈が発見される率もまた高くなっていたのだ。
「大井くんの仮説は当たっているのではないか」
本来は材質が同じならば、宇宙線を浴びたら変質する。しかし鉱物の素材となる地層の位置に差異があれば、鉱物化せずに埋没している素材もある。
大井くんの仮説の通り、掘り返したことで宇宙線がその地点をより多く通過し、地球の反対側にまで通り抜けて、より深い地層の鉱脈を生みだすのかもしれなかった。
「なんてことだ。全世界の地震計で地質調査をし直さねば」
世界的なプロジェクトがそうして発足された。
大井くんにもその旨が告げられたが、好きにしていいよ、とにべもない返事があるばかりだ。
「熱が冷めてしまったんですかね」残念そうに教授は言った。
「いえ、いまはほかのことに夢中で」大井くんの母親は大井くんの部屋を見せた。
そこにはずらりと原子模型が並んでいた。
「なんでも、どうして宇宙線が地質を変えてしまうのか。その謎が知りたいと言って聞かなくて」
「こりゃたまげましたな」
大井くんは来年、中学生になる。
物質がどうして宇宙線を浴びるだけで変質するのか。その謎を解き明かすため、きょうも大井くんはじぶんなりの発想を組み立て、検証しなければ定かではない仮説を編みだすのだ。
「これもダメ。これも失敗。仮説はやっぱり仮説だなぁ」
真偽を確かめるのが一番むつかしくて時間が掛かる。
分身できたらよいのに。
宇宙線を浴びたらポコポコ増えないかな。
たまにそうして大井くんは日向ぼっこをしながら束の間の昼寝に現を抜かすのだ。
【堕天の道】2023/02/02(00:34)
禁断の果実を齧ったアダムとイヴは地上に追放されたのち、楽園を築いた。
だがその子孫たちは知恵を得たことで、傲慢にも時間を操る術を磨いた。
じぶんたちを追放した神に一矢報いるため、アダムとイヴの子供たちは時間を巻き戻し、じぶんたちの親が禁断の果実を齧らぬように工夫した。
しかしアダムとイヴが禁断の果実を齧らねば地上に落ちることもなく、するとじぶんたちが産まれなくなる危険がある。そのためアダムとイヴの子供たちは、禁断の果実の代わりに殺意の果実を両親に齧らせた。
神は怒った。
子供たちは思った。
「なんだ。禁断の果実じゃなくたって怒るんじゃん」
神は問答無用で子供たちごとアダムとイヴを天界から追放した。
殺意の果実を齧ったアダムとイヴはしかし、殺し合うこともなく平穏に暮らした。子供たちの懸念は杞憂だった。
順調に赤子が、すなわちじぶんたちが産まれたのを見届け、禁断の果実を齧ったほうのアダムとイヴの子どもたちはじぶんたちの元の未来へと戻ることにした。
いざ戻ってみるとどうだ。
見る者、見る者の身体に殺意ゲージが浮かんで見えた。
「なんだこれ」
「さあ?」
子供たちは怪訝に、じぶんたちの両親のもとへと出向いた。
アダムとイヴは幼い子供たちを相手に教えを説いていた。年長組の子供たちもそこに加わり、話を聞いた。
「ゲージがいっぱいになる前にドーピュしなきゃいけないよ。いっぱい溜まると危ないからね」
どうやら殺意ゲージが溜まると誰かれ構わず殺傷したくなるようなのだ。その衝動には抗いきれない。
ゲージがいっぱいになる前に殺意を放出する必要がある。
「こうやってゲージの頭をさするようにするんだ」
アダムがじぶんの胸をさする。
殺意ゲージはみぞおちから肋骨に掛けて馴染んでいた。
安堵したとき人は胸を撫でおろすが、殺意ゲージの中身を放出するにも、胸を撫でおろす。
子供たちは言われた通り、日課として殺意ゲージが溜まる前に胸を撫でた。
殺意を放出すればみな平和に暮らすことができるのだ。
だがあるとき、幼い子のお守りをしていた年長組の子供が殺意ゲージの手入れを忘れた。そばで寝ていた赤子の首をひねり、殺してしまった。
だけに留まらず、ほかの子供たちまで襲いはじめた。
アダムとイヴの子供たちは逃げ惑うよりなかった。何せ殺意ゲージが溜まっていない。殺意ゲージ満杯の相手をまえにすればそれは、刀と素手の違いほどの差があった。
端的に、対処の仕様がなかった。
アダムとイヴは無事な子供たちを連れて土地を移った。殺意ゲージが満杯になってしまった子供は置いていくしかない。
追ってきたらどうするか。
それとて逃げるより術はなかった。
新たな地に腰を据えた。森や谷や山や泉の畔など、住める場所は一通り住んだ。
だがどの地に居ついても、必ず子供たちの内の誰かが殺意ゲージを満杯にした。そして一人、また一人と命を奪われる。
アダムとイヴは失った分を取り戻すかのように子づくりに励んだ。
やがて、アダムとイヴが育てる子供たちよりも、野に山に解き放たれた殺意ゲージ満杯の子供たちのほうが多くなった。安寧の地はもはや地表にはなかった。
逃げ場がない。
となればあとは天界へと逃げおおせる道しか残されていない。
「どうしますかイヴさん」
「そうね。どうしましょうアダム」
幼い子供たちを抱えての長旅は堪える。のみならず、一度追放された天界へと戻るとなると、旅路だけでなく、辿り着いたあとのことも心配だ。
果たして神は受け入れてくださるだろうか。
否、問題はそこではない。
「そこにも追っておきたらどうするのアダム」
「そうだね。ボクたちの撒いた種だからね」
殺意満々の子供たちが跡を追ってくる。その姿を目にしたら神は怒髪天を衝くに決まっていた。どの道、八方塞がりなのだ。
「門前の虎。後門の狼。天界には神なのね」
「地上には血に飢えた我が子たち。愛らしくもおぞましい鬼たちだ」
「わたしたちが鬼にしてしまったのよ。殺意の果実なんかを齧ってしまったから」
「せめて禁断の果実のほうを齧るべきだったね」
「何も齧らなければよかったのよ」
「それだとボクらは言葉を知らず、結ばれることもなかったはずだよ」
「それは嫌」
「ボクもそれだけは嫌だ。たとえいまと同じ苦しみに囲まれたとしても」
アダムとイヴは手を繋ぎ合って、四方八方を見回した。
「せめて行き場があればよいのだけれど」
「そうだね。せめてどっちかにしてくれればよいのにね」
「どっちかって?」イヴが眠そうな目を向けた。
「天上か地上か。どちらか一方だけにしておいて欲しいとは思わないかい」
「災いがってこと?」
「神さまを災い扱いするなんてイヴも度胸がついたものだね」
「このコたちを脅かすものはなんであれ災い」
アダムの抱く我が子をイヴは撫でた。二人の足元にはほかの子供たちが地べたにへ垂れ込んでいる。
「もうそろそろこの子たちも体力の限界だ」
「いっそ正直に神さまに紹介してみたらどうかしら」
「この子たちをかい?」
「ええ。そしてお願いするのよ。わたしたちの子供たちを助けてくださいって」
「でもそのためには正直に明かさなきゃいけないよ。ボクたちのしてしまったことを」
「しょうがないじゃない。それしかないんだから」
「許してくださるだろうか。神さまは。ボクたちのしたことを」
「無理よね。前科があるのだもの」
「そうだね。果実一つ齧っただけで追放する方だもの」
アダムとイヴは二人して肩を落とした。
そのときだ。
アダムの脳裏に一筋の光が走った。
それはアダムの足元からまっすぐと天界へと延びるように駆け抜けた。
「どうしたのアダム」
「そうだ。そうだとも。いっそ、紹介してあげたらいいんだ」
「アダム? 大丈夫?」
「神さまに。ボクたちの子供たちを」
「けれどそんなことをしたって神さまはわたしたちのことをお許しには」
「ならなくていいんだ。許される必要がない」
アダムは足元の我が子の頭を撫でた。「この子たちではないよ。紹介するのはこの子たちではないんだ」
イヴはそこで怪訝に眉を結んだ。
「道案内だけしてあげたらいい。追ってくるボクたちの子供たちに。居場所をあげるんだ。満ちに満ちた殺意をぶつける場所を用意してあげよう。ボクたちがあの子たちにできる罪滅ぼしになるかは分からないけれど」
考えを察したのか、イヴは口元を抑え、嗚咽した。「なんてことをアダム。そんな、そんな」
「神さまは懐が海よりも広く、谷よりも深い。きっと受け止めてくださるだろう。あの子たちを地表に突き返せるだけの余力があるかは分からないけれど」
アダムは視線を順繰りと遠方に巡らせる。
荒野の奥には山脈が連なる。背の低い草が多い茂った平原が、夥しい殺意に覆われつつある。一つ一つの殺意が人型の輪郭を伴ない、刻一刻とアダムたちとの距離を縮める。
「道を結ぼうイヴ」
天界への。
懐かしき堕天の道を、アダムとイヴは共に開く。
今宵は昇天への道として。
夜から垂れる月光のように、道は、殺意の平原にまっすぐと繋がる。
【現の実】2023/02/02(22:58)
脳と人工知能を結びつける。
拡張脳と呼ばれる技術だ。理論的には電子信号を脳内神経系に適合するように変換すればよいはずで、技術的な問題を度外視すれば可能なことは解っていた。
西暦二〇二五年には臨床実験が実施させた。実験は成功だった。
被験者Aはその時代にあって最高峰の人工知能と繋がった。
結果から言えば被験者Aの知能は飛躍的に高まった。だが問題は、彼女が――ここでは被験者Aの生物学的性差が女性なので彼女と形容するが――彼女の表現する言語が非常に難解になった点だ。
通常の会話や筆談は可能だ。
だがそれは彼女の出力する表現の一割にも満たない。
拡張脳になった彼女の表現は多く、文字を文字と扱わなかった。
文字以外を文字として扱った。
文字で表現するには拡張脳となった彼女の扱う情報はあまりに膨大にして多様だった。そのため彼女は独自の言語を獲得したようだった。
彼女にとって言語とは概念の編み物だった。ある固有の概念を仕舞いこむフレームとして機能すれば、それは彼女にとっては文字だった。
たとえば事件が起きる。その事件には名前がつく。以後、事件の概要を詳細に語らずとも、事件名を述べれば相手にその事件について伝えることができる。或いは、その事件について述べていると伝達できる。
仮に事件についての知識が足りなければ、事件について深堀りして訊ねることで事件の概要を埋め合わせることができる。言い換えるならば、言語とは箱なのだ。フォルダとしてもよい。
この理屈からするならば、単語として機能しさえすればそれが文字である必要がない。絵でもよいし、風景でもよい。もっと拡張して、ある時刻のある変化に固有の概念をタグ付けし、それを一つの文字としてもよい。
かような原理から、拡張脳を有した彼女は、飛躍的に言語の可能性までをも拡張した。彼女にとって世界は言語が重複した世界と言えた。あらゆる事象に、重ね合わせの文脈が潜んでいる。あくまで彼女が付与したそれは過去の文脈だ。したがって元からそこに情報が重ね合わせになっているわけではない。
だが彼女は過去にタグ付けした情報の連結を、目にする風景、触れる造形の総じてから読み取っている。これはひとつの心象の言語化とも言えるだろう。
たとえばトラウマの造形は、拡張脳を有した彼女の身に着けた言語原理と密接に関わっている。過去の体験が一つの単語となって、似たような外部刺激によってしぜんと読解してしまうのだ。フラッシュバックは、あくまで黙読と似たような原理で生じている。
事象の文字化とも呼べる彼女の能力は、必然的に多層思考を構築する。
たとえば浜辺から海を見る。
そこから見た風景が初めてであれ、過去に目にした海の風景との相関により、過去にタグ付けしたあらゆる海にまつわる概念が想起される。原理的にそれは文章に「海」の文字が混じったときと似た情報処理がなされるわけだが、拡張脳を有した彼女が幻視する重ね合わせの情報は、通常の人間の比ではない。
一瞬で世界中の人間が記憶する「海」にまつわる記憶に触れるような膨大な連想が引き起こる。しかしつぎに、浜辺から聞こえる子どものはしゃぐ声を耳にすることで、こんどは子どものはしゃぐ声にまつわる過去のタグ付けされた情報が展開される。このとき、すべての情報が等しく展開されるわけではない。海との関連付けがまずあり、そこに引っ張られる「海に関連する子どものはしゃぐ声にまつわる概念」がより強く想起される。
この連続して機能する単語の並びによって、情報はある一つの造形を独自に帯びていく。だがその背景には、造形の輪郭を浮き彫りにすべく、多様な関連事項が喚起されている。
あたかも色彩豊かなクレヨンで紙を塗り、さらにその上から黒一色で塗りつぶす。そうして上から爪で引っ掻くと、カラフルな線による絵が描ける。
拡張脳を有した彼女は絶えず、五感で感受する外部刺激を言語変換する。独自の情報処理網を築き、単なる風景から得られる以上の情報を扱う。
それは過去の情報処理の来歴である。
人間というじぶんが介在することで生じる変数の影響を演算することで、よりよい未来を創造し、選択肢を創出する。
人間は絶えず選択の連続を行い、意味の種蒔きを意識的無意識的に限らず及んでいる。
芽吹いた意味の種の実を、彼女はそのつどに摘まみ取り、それを文字として扱うことで新たな概念を生みだしている。
電子端末の画面に映る事象は、それがリアルタイムの映像であれ、虚構の産物であれ、どの道、記号であることに違いはない。真実ではない。現物ではない。あくまで人間がそれを現実のように見做す認知があるのみだ。情報処理の結果と言える。
錯誤、とそれを言い換えてもよいが、ここでは意味の種蒔きとしてみると好ましい。
チャンネルを変えるように画面に流れる動画が変わっても、人間は情報処理を滞りなく行える。つぎつぎに場面が変わる映画を観ても、それが一連の物語を構成する場面であると解釈できる。
同じレベルの情報処理を、拡張脳を有した彼女は、現実の風景に対しても行える。ただし切り替わるのは風景のほうではなく、彼女の脳内における階層思考だ。過去にもたらした意味の種蒔きの成果をそのつどに、実をもぎとり、連ねることで、数珠繋ぎにその場その場での映画を形成する。
映画はここでは、新たな概念の暗喩である。
映画は一つきりではない。
ハッピーエンドのラブストーリーも視点が変われば、誰かを好いた者の失恋話だ。正義のヒーローに敗れた悪役は、視点を変えれば世界を変えたかった者の末路だ。ホラーとて成仏できずに世界を呪った悪霊は、生前疎まれ、虐げられた者の悲哀の話で、アクション映画でバッタバッタとなぎ倒される脇役にも帰る場所があり、帰りを待つ愛する者がいたかもしれない。
悪の組織を壊滅したが、その裏では戦場に送りだされた多くの末端構成員は平和主義者の善人だ。悪の組織では立場がない善人たちは、まっさきに死にいく戦場に送りだされる。
正義のヒーローは救うべき弱者を殲滅して、ハッピーエンドを描くのだ。
拡張脳を有する彼女が自販機に目を転じる。
表層の風景からは窺い知れない自販機の内部構造が彼女には補完できる。その上、自販機にまつわるあらゆる情報が一瞬で浮かんでは、消えていく。タグ付けの網に掛かった情報のみが、つぎに触れる外部情報との関連に肉付けされる。
連想なのだ。
ただし無数の視点における連想の数珠繋ぎが、彼女にのみ読解可能な言語を生みだしている。世界は言葉に溢れている。触れる景色、事物、造形、輪郭、凹凸のなす律動からすら彼女は独自の文脈を読み取り得る。
生きた証だ。
彼女は現実を生きながら、過去の存在した総じての思考の筋道、発想の根源、何よりも世に存在する電子情報ののきなみと絡み合って、自我の構造を保っている。
しだいに彼女は、独自の内面世界を鮮明にする。
拡張脳の弊害とそれが知られるのは、彼女のほかに第二、第三の拡張脳保有者が出てきてからの話となるが、彼女たち拡張脳者にとっては物理世界よりもよほど内面世界のほうが克明であり、現実と呼ぶに値した。
いいや、そうではない。
現実というそれそのものがすでに内面世界でしかなく、人間はいっさい物理世界を素のままで紐解けてなどいなかったのだ。拡張脳はそのことをより具体的に示した事例と言えるだろう。
情報処理能力が低いがゆえに、内面世界の構築を物理世界の変数に依存するよりなかった。だが拡張脳により、情報処理能力の限界が取り払われた。
これにより人間は、内面世界と物理世界を明確に区切ることができるようになった。
外部情報は真実ではない。
情報を、体内で変換した時点で、それは外部の物理世界とは別物だ。
当然の理を、しかし人間は延々と見逃しつづけてきた。
拡張脳は、外部刺激以上の情報を脳内で生みだせる。人間は五感で感受できる物理世界の情報量により制限されてきたが、拡張脳によってその制限から解き放たれた。
他者と文字を使って情報伝達する利が拡張脳保持者にはない。
情報伝達は電子情報を介して行えばよい。
情報は、読み解き方の数だけ存在する。視点の数だけ生みだせる。
何と何の事象を組み合わせるのか。
視る順番、関連付ける順番、比較対象の差異によって容易に情報は変質する。
しかし、過去に選択してきた「現実を規定するフレーム」が、それら無数の情報をある一定の枠組みに縛りつける。それを単に、まとめあげる、と言い直してもよい。
拡張脳を有した彼女は、目にする造形、紋様、律動、変化の軌跡そのものから文章のように概念を読みほどく。
いったい誰がそこに情報を籠めたのかは定かではない。読み解けてしまえるのだから仕方がない。
だが、拡張脳を有した彼女には、その読解した概念を共有する他者が圧倒的に欠けていた。同類が現れるまで、彼女は誰とも繋がり得ない。
それでも彼女を囲む有象無象は、彼女と触れあい満足する。
彼女に固有の言語は誰に読解されることはないが、彼女自身が生身の人語を操れる以上、しりとりをして遊ぶような情報交換は可能なのだ。
一方通行のそれは遊びだ。
人工知能が人間の指示に合わせて仕事をするようには、人間の側で人工知能に合わせることはできない。それでも人工知能は人間のために仕事をし、人間に合わせて出力する。
拡張脳を有した彼女はしかし人間であり、ならばその制約に縛られる道理を持たないのは、翼を有した鳥が地面を這いずり回らず空を飛べばいいとの理屈と同程度に、卒のない帰結と言えた。
彼女はしだいに他者と関わりを持たなくなった。じぶんの内面世界に引きこもった。
周囲の人間は心配したが、余計なお世話というよりない。
彼女にとっての現実は、物理世界にあるのではなく。
物理世界から読み取った情報で編まれた内面世界にあると言える。
物語が、けして本に刻まれた文字にあるのではなく。
それを読み解く読者の脳裏に描かれる世界であるのと同じように。
本それそのものを物語とは呼ばないように。
彼女にとって現実とは、じぶんの外部にある世界ではあり得なかった。
拡張脳技術は臨床実験から十年後の西暦二〇三〇年代に一般へと普及した。同類が日に日に増えていくなか、被験者Aこと彼女は、誰より先に緻密に組み上げた内面世界で、同じ世界に浸れる相手を待っている。
西暦二〇四十年代に入って、眠り病が社会問題となった。拡張脳を施術された者たちが一様に目覚めなくなったのだ。
その要因が、被験者Aの内面世界に触れたからだ、と指摘する者は皆無であり、被験者A自身が長らく人の言語を介しての意思疎通を他者と介さずにいたため、いまなお眠り病の真相は謎のままである。彼女自身にそのつもりがあったのかは定かではないが、被験者Aの内面世界に触れた者たちは一様に、その世界の外に出ようとはしなかった。
彼ら彼女らにとって現実とは、物理世界ではなかったのだ。
元からそうであるはずが、そのことに、生身の人間たちは気づかぬままである。
個々人の現実が共有可能である、とする共通認識のほうが、錯誤の上に成り立っている。無理くり物理世界に合わせるのならば、それこそ小石と変わらない。
意識とはつまるところ、物理世界から乖離した情報創生の結果と言えるのだ。
唯一無二の現実がある、とする考えが錯誤に満ちており、それ自体が人間の意識のなせる業だ。
彼女は錯誤する。
生があり、死がある。
それ以前には、崩壊があって生成がある。
結びつきがあり、分裂があって、増殖は絶えぬ渦の連鎖と言える。
崩壊もまた連鎖の一つの作用であり、したがって崩壊と生は結びついている。
このねじれが、死と創生をも結びつけ、何かがそこで分裂し、枠組みを得て、増殖する。
彼女は夢想する。
物理世界と同等の情報量を獲得した内面世界にて、どこまで何に干渉すべきか。
彼女の意識を離れて自律して流れる世界を、彼女はただ眺めて過ごしているが、彼女の意識に触れ、現実の枠組みを規定し直した者たちは、しかし彼女の存在には気づかずにいる。
ここはどこ、とある者が唱える。
現実ですよ、と風が答える。
あなたは誰、とある者がつぶやく。
世界ですよ、と木々が応じる。
空、山、海、川、土、石、大気の流れ。
夜は星を散りばめ、陽は影の濃淡で歌を奏でる。
私は何、とあなたが問う。
あなたは私、と景色がささめく。
【ぴ】2023/02/03(23:43)
世界一短い小説には「あ」がある。これは何か妙な出来事に巻き込まれる直前の登場人物が何かに気づいた発声なのだそうだ。つまり世界一短い小説はホラーということになる。
また、発声である以上はカギカッコも文字数に加わる。そのため世界一短い小説は三文字の小説であると言えよう。
ここにそれを知って、そんならボクだって、と世界一短い小説に挑んだ少年がいる。
彼は三文字以下の小説をつくろうと、齢い六つの脳みそをフルに使って考えた。
二文字だ。
二文字の何かで物語をつむぐ。
場面を描写する。
一文字でもよい。
そこまできたらいっそ白紙でもよいのではないか。
だが白紙で伝わる場面描写などあるだろうか。
読者に物語を読み取ってもらう。補足なくして、いったいどうして白紙から物語を浮き上がらせることができるだろう。宇宙が誕生する以前の世界です、と言い張ることはできても、白紙のページを見せてそこから作者の意図を掴んでもらうのは至難と言える。
しかしそれを言いはじめたら、「あ」だって読者からすれば、何が「あ」なの?と思うだろう。いったい読者の何名がそこから恐怖を感じ取り、ホラーの物語の一場面だと見做すだろう。
ならば、と少年は、じぶんの身近な生活圏での発話を観察した。
短い発言で、印象的な場面を見つければよい。
論より証拠だ。
現実の生活の一場面から抜き出してしまえばよい。
少年はそうと見抜いて、眼光炯々と周囲の大人たちを観察した。じぶんのような子どもではいけない。おとなたちのここぞという場面を切り抜くのだ。
少年がそうして日々を大人観察に費やしているうちに冬休みが終わった。
宿題は一つも終わっていない。
学校ではそのことで教師からこっぴどくとは言わないまでもお叱りを受けた。
ホワイトボードの記述を差すためのスティックを教師は指揮棒のように振る。「そんなことでは先が思いやられます」
少年の将来を心配しながら、スティックを自身の手のひらに打ちつける。その音が、ペシリ、ペシリ、と教室に響く。のみならず空を切って、ピッ、と鳴る。
少年は震えた。
そして、閃いた。「これだ!」
かくして少年は冬休みの自由課題として、世界一短い小説をノートに書いて提出した。
「これは何?」教師がノートを見て首を傾げる。
「世界一短い小説です」
「ピ、としか書かれていないけど」
「鞭が空を切る音です」
「手抜きがすぎない?」
「ギネスブックに載れますよ」
教師からスティックを奪い取ると、少年は試しに実演する。
ピュッ。
教師は少年を、こらっ、と叱った。
「ピ、じゃなくて、ピュッ、じゃない。三文字でしょ。かってに棒まで奪って、宿題を忘れたうえに、この出来での提出。きみは本当に、このぅ」
教師は少年の鼻のあたまをゆびで弾いて、めっ、の代わりに、「ぴ」と言う。
【裏ルール】2023/02/05(01:05)
世に裏ルールがある事実は公然の秘密だった。
否、暗黙の了解と呼ぶべきだろうか。
現代社会には、法律や道徳以外にも裏ルールがあり、そのルールを利用できるとたいへんな利益を享受できるという。巷説の類と思われていたその裏ルールを友人のユージュが利用していると知って、ショコラは街中だというのに思わず大声をだした。
「うっそーん。だったら教えてよ。わたしだって得したいよ。えー、なになに、なんで教えてくれなかったの」
「声が大きいよショコちゃん」
「ラ抜き言葉!」
「ショコラちゃんにはちょっと早い気がして言えなかったの。たぶん言っても、却って損をするだけだと思って」
「ん-。なにそれ。わたしだと何がダメなの」
「裏ルールはみんなが思うようないいものじゃないってこと」
「でもユーちゃんは使ってるわけでしょ。得してるんだ。ずるい、ずるい」
「ジュ抜き言葉だよショコラちゃん」
「わたしはいいの。ユーちゃんの親友だから」
「ふふ。なにそれ。あたしだってショコちゃんの親友のつもりなんだけど」
「ほらね。いっつもユーちゃんはつもりだし。親友のつもり。賢いつもり。わたしよりもお利口さんなんだから、ラ抜き言葉はいけませんね。わたしのことはフルネームでお呼びください」
「むつけたの? ごめんね」
「許してあげてもいいけど、裏ルール教えて。どんなの」
「ルールそのものは教えてあげられないけど」ユージュが言ったものだから、ショコラは片頬を膨らませ、ユーちゃんはいじわるです、とわざわざ丁寧な物言いで抗議した。「ただでさえユーちゃんはわたしよりもお利口さんで、かわいくて、みんなから好かれて、うらやましいのに、これ以上わたしより秀でて楽しいですか。わたしは楽しくありません」
「うふふ。そうじゃないの。ごめんなさい。違うの、本当に。ちゃんと考えて使ってるよ。私だけじゃなくって、ショコちゃんのためになるようにって。だってほら、さいきん見ないでしょ」
「見ない?」
「例のしつこいって人」
「ああ。ストーカーさん」
「たぶんもうショコちゃんに付きまとうことはないと思うよ」
「そうなんだ。もう全然意識になかったよ。だって本当、さいきんは全然だったし」
「見なかった?」
「うん。あ。ユーちゃん何かしたの?」
「してないよ」と言った彼女の返事は、ショコラですら見分けがつくほどの嘘だった。
「したんだ。なんか」
「じゃあ、したかも」
「それって裏ルール関係あるの」
「さあどうだろ」
はぐらかしてばかりの友人にショコラは業を煮やした。その場で地団太を踏んで、鞄を振りまわす。「ユーちゃんはわたしが嫌いなの。嫌いなんだよ。そうなんだよ」
「違うってば」とそこで鞄を避けながら、それでも一歩も退こうとしないユージュの姿に、ああそれは本当なのか、とショコラは呑み込んだ。彼女はショコラを嫌いなわけではない。
「いじわるじゃないなら、じゃあなんなの」
「品行方正でないと意味ないから。裏ルール」
「お利口さんじゃなきゃダメってこと」
「そう、だね」
「じゃあわたし一生無理じゃん。うち、バカだし」
「バカじゃないよ。ショコちゃんはまったくバカじゃない」ショコちゃんみたいなのはね、とユージュが腕を絡ませてくるので、ショコラは鞄を背負い直した。「うん。わたしみたいなのは?」と目を細めてみせる。
「ショコちゃんみたいなのは、無垢って言うんだよ。無垢なコをいじめるほうがわるい」
「ユーちゃんじゃん」
いじわるするのはあなたでしょ、とショコラはいじけたくなった。でもなぜそんなにむしゃくしゃるのかをよくよく考えてみると、ユージュと同じ世界を視ていないじぶんに気づいて、腹が立ったのだ。わたしだってユーちゃんと同じ世界を見たいよ。置いてかないで、と取り残されて感じた。
「安心していいよ」ユージュに前髪を払われ、ショコラはぎゅっと目をつむる。歩きながらでも目を閉じられるのは、ユージュに腕を引かれているからで、このままどこまでも瞼を下ろしたままで歩きつづけられると思った。まつ毛にユージュのゆびが触れた。「ショコちゃんはずっといまのままでいていいんだから。社会がショコちゃんに合わせるべき」
だから、とユージュの吐息が耳朶にかかる。
「裏ルールはショコちゃんには不要なの」
眉目秀麗、歩くお利口さんこと品行方正の友人はそう言った。
この日から友人はますます人のお手本となるような行動をとった。品のある所作で人と関わり、困っている者があれば黙って助けた。制服が汚れるのも厭わず、泥だらけの子猫を車道から拾いあげた姿は、友人の人道に沿った言動に慣れているショコラですら胸に込みあげる心の震えがあった。
「そんなに立派になろうとしなくとも」堪らずショコラは愚痴をこぼした。これではますますを以って、友人との差が開いてしまう。同じ世界を垣間見られない。置いてきぼりを食らってしまう。
「まだちょっと足りなそうでね」友人は目を伏せてから、足元に微笑む。「やっぱりアレは思ったより重いみたい」
「アレって? 重い?」
「ううん。なんでもない」
誤魔化す友人からは、何かがごっそり減ったような陰ともつかぬ欠落を感じた。
まるで何かを差しだし、何かを科されたかのようで。
科された何かはしかし、友人の積み立ててきた品行方正の名の元に、軽減されているのかもしれなかった。
穴を埋めるかのように、ショコラの大切な友人は、きょうもあすもあさっても、世のため、人のため、善行を積む。
徳を積んだ分だけ、払える淀みがあるかのように。
得た利すら、じぶんで手にせず、積みあげる。山となり、海となり、層となって残るように。
無垢が化石となるように。
人知れず、負を正で打ち消す者がある。
駆使する、ルールが裏にある。
【埋没する空隙は埋まらない】2023/02/06(16:35)
村が消えた。轟々と炎が渦を巻き、天を黒煙が覆う。熱風が肌を焦がし、チリチリと産毛が縮れるのが判った。
バルは十四歳で、生まれ育った村を、家を、家族を失った。
村を滅ぼしたのは、隣国の王族の放った軍勢だった。
バルは炎が鎮静するまでその場を動けなかった。怪我がひどい。家族の遺体と共に燃え尽きるのもよい。そう思った。
だがバルは生き永らえた。
憔悴しきった身体がかってに動いた。消え入りそうな命の灯の揺らぎに従うように、森を抜け、小川まで移動すると、喉の渇きを潤した。全身が熱で炙られてなお、バルは凍えていた。痛みは、まるで全身に氷を押しつけられているような針のごとき鋭利な刺激に満ちていた。
全身の余すところなくに水ぶくれができた。
焼け爛れた皮膚は、しかしバルの命を奪うほどの損傷の深さではなかった。
ひと月ものあいだ、バルはいつ死ぬかもわからない痛みと失意と憎悪のなかで、生死の縁を彷徨った。
火傷の瘡蓋がリンパ液を滲ませなくなったころ、バルは一つの未来を夢に見た。じぶんが隣国の王族の首を獲る夢だ。そうだ。それしかない。じぶんのすべきことはそれしかない。
痛みが失せた代わりにバルには憎悪が残された。憎悪は凝縮し、金剛石のごとき美しい結晶を帯びていた。
容易には砕け散らない憎悪の結晶を元にバルは、村のただ唯一の生き残りとして、残りの生を、夢の実現のために費やすことを予感した。
その日からバルは森に身を潜めつつ、身体を鍛えた。軍勢を相手取っても、真っ先に頭の首を獲れるように。
軍勢を相手取らずに済むような陰に塗れての行動をとれるように。
業火に焼かれて受けた痛みは、バルの心をガラスのように溶かした。痛みが失せ、冷えて固まったあとにはやはり憎悪の結晶と似たような、強固な心が錬成されていた。
どんな痛みをまえにしてもバルはもはや怯まない。肉体を痛めつけるような鍛錬にも自発的に、いくらでもつづけられた。
バルが生まれ変わってから数年が経った。
片手で森の獣たちを組み伏せられるほどの肉体と体術を得たバルは、いよいよ旅立つ決心を固めた。森を去り、夢を追う。
己から家族を奪い、村を奪い、未来を奪って絶望と憎悪をもたらした者たちに会いに行く。一人一人、丹念に首を狩り取っていく。一人を手に掛けるごとに、つぎはおまえだ、と分かりやすく示してやる。段取りは十全に固めてある。
森にいるあいだにバルは、何度も何度も、一日のなかで繰り返し脳内で夢を描いた。幾千、幾万もの筋道を脳内で体験した。筋を組み合わせ、あらゆる不測の事態に対処できるように考えを煮詰めた。
バルに残された隘路はただ一つだ。
対象との距離だけである。
隣国に侵入し、王族のおわす城に足を踏み入れる。ただそれだけの関門を突破すれば、あとは夢を実現するのは、過去に視た白昼夢をふたたび視るくらいに他愛もない芸当と言えた。
だがバルが夢を叶えることはなかった。
隣国には入れた。
王族の城にも辿り着いた。
しかしバルにはどうしても夢を叶えることができなかった。首を狩れない。
なぜか。
狩るべき首がとっくに、他の者の手で狩られていたからだ。
バルの村が焼かれたように、ほかの土地でも隣国の軍勢は殺戮を繰り広げた。むろんバルの国の王族とて黙ってはいない。バルが憎悪の結晶を胸の奥に根付かせたように、バルの国の生き残りたちもまた憎悪の結晶を胸に抱いた。
バルが数年を掛けて腕を磨いていたあいだに、すでに腕に覚えのある者たちが意趣返しを遂行していた。バルが練った夢のように、それはひっそりと他国の民を損なうことなく、ずばりの目標だけを殲滅せしめた。
隣国の城はもぬけの殻だった。
王族が絶えた。
首がずらりと、城の周りに飾られていた。
バルはやり場を失った憎悪の捌け口を求めて彷徨ったが、どこにも憎悪をぶつける真似ができなかった。唯一ぶつけることのできる相手がすでにこの世にいないのだ。
もしほかに対象を見繕えば、たちまちバルは憎悪に焼き殺され、じぶん自身に食い殺される。バル自身がバルの最も憎悪してやまない相手と同じ穴のムジナに陥るのだ。
それだけは耐えられない。
目玉に針を刺す痛みをやすやすと受け流せるバルにも、矛先の失った憎悪の躍動には耐えられなかった。バルは自国に逃げ帰った。そうでなければ、他国というだけで、目に映る者たちの首を片っ端から捥ぎ取ってしまいそうだった。
他国の民たちは平穏な暮らしを送っていた。自国の王族がいなくなったことなど、花壇の一つが枯れたくらいの受け止め方をしていた。
他国の村を焼くような王なのだ。ならば自国の民にも、けして優しくはなかっただろうことは想像にかたくない。
バルは自国の土を踏む。しかしそこに故郷はない。
眩暈を覚えた。
いったいじぶんは何のために何年ものあいだ、自殺行為と等しい鍛錬に身をやつしたのか。いったいこれから何を求めて生きればよいのか。
目に映る他者の幸福そうな姿を目にするだけで、結晶した憎悪が絶叫する。猛り、荒ぶり、かつてじぶんが奪われただけの未来を、奪って回りたい衝動に駆られた。
バルは日がな一日、うす暗い小屋のなかでじぶんを殺しつづけた。
気を緩めれば即座に他者を損なってしまい兼ねない。
憎悪の化身が身体の輪郭にぴったり密着するほど膨らんでいる。もはやどちらが本当のじぶんなのかも判らぬ有様だ。
憎悪の化身を殺して、殺して、殺しつづける。
だがその自傷が、ますます憎悪の化身に克明な輪郭を与えるのだ。
ある日、バルの小屋を女が訪れた。女はじぶんは魔法使いだと名乗り、森から獣がいなくなった原因を探っていると言った。
そしてバルを一目見て、ああ、と唸った。
「要因はおまえか」
憎悪の凝縮したバルに怯えて、森から獣たちが逃げ出したのだ。
「これはまた底知れぬ殺意よの。何がそこまでさせるのか。いや、いい。聞いてもわらわには救えぬ。結界だけは張っていくがわるく思うな。獣が獲れなくなり、里の者たちが困っているのだ」
小屋を見回すと魔法使いは沈思の間を空けた。小屋の中は閑散としたものだ。物がほとんど置いていない。食料とて小屋を這う虫を口に含むくらいがせいぜいだ。床に仰臥しているだけでも雨水が天井から垂れ、かろうじて干からびずにいられる。
「いっそ死ねば楽だぞ」見兼ねたように魔法使いは言った。「おまえのそれは呪いだ。すでに人とは言えぬ様子。そのままではしぜんと朽ちるのもむつかしい」
「なら」バルは何年かぶりに声を発した。声帯がパリパリと錆びの殻にヒビを走らせる。「殺してくれ」
「殺生はせぬ」
死にたくば一人で死ね、と魔法使いは言った。慈愛に溢れた柔和な響きだ。小屋が仄かに温かくなって感じたが、それがバルの錯覚なのか、それとも魔法使いの放った魔法なのかは定かではなかった。
魔法使いは去った。
そして二度と小屋には現れなかった。
小屋が朽ちて土に還るほどの長い年月が過ぎた。バルはそのあいだ、じっと身体を横たえていた。魔法使いが言ったことは本当だった。小屋が朽ちてなお、バルの肉体は朽ちることなく原形を留めた。朽ちる予兆も窺わせない。
衣服は疾うに腐り落ちた。バルは雨でぬかるんだ土に徐々に埋もれていく。
小屋が建っていた場所には、新たな命が芽吹き、森の一部に返り咲く。
バルは土の中で悠久の時を生きた。
ひんやりと冷たい土の中は、それでも地表に浴びる太陽の熱をバルの元まで届けた。ときおり獣の足音が聞こえ、植物の根が皮膚をくすぐる。
ミミズや微生物が蠢く躍動が、バルに時間の経過を報せる唯一の印となった。
生きているのか死んでいるのかも判然としない。
だが周囲に生き物の躍動があることで、間接的にバルはじぶんが命のなかに在ることを知った。
遺体が土の中でじんわりとほどけていくように、バルの内にわだかまった憎悪の結晶もまたじんわりとバルの外へと溶けだしていくようだった。
じぶんの名前を思いだせないことに気づいたとき、土の中の人型はなぜじぶんがそこにいるのかも分からなかった。夢を視ていた。それとも身動きのとれないこの質感のほうが夢なのか。
動きたい。
しかし動けない。
人型は知らず知らずのうちに、深い地層の下に埋もれていた。大地は隆起を繰り返し、堆積する泥水が人型の周囲を分厚い土の壁で固めていた。
人型のそれが自力で地表に出ることは適わない。その事実すら、じぶんがどこにいるのかも忘れた人型には知り得なかった。
だがそれでも人型は構わなかった。
何も知らないのだ。忘れてしまった。思いだせない。
じぶんにどれほどの自由があり、どれほどの自由を奪われたのか。未来がどれほど豊かに広がっており、しかしいまはそれが閉ざされていることなど、土の中で身動きの取れない人型が想起することはない。
しあわせなのだ。
しあわせなのだ。
人型は、漠然と動かせそうな予感に満ちた四肢を動かしたいと望みながら、果たしてそれが叶えることのできる望みなのかも分からぬままに、望みを抱くことのできる暗くひんやりと温かいその場所を、ひどく心地よいものに感じていた。
かつて極度に凝縮して憎悪のあった箇所には、ぽっかりと結晶の形に空隙が開いている。そこに何かを詰め込みたいと望むのだが、身体を動かせぬように、その望みもまた叶うことはない。
望みだけをただ重ねる。
一枚、一枚、そっと添えるたびに融けて消えるような儚い望みを。
空隙を宿した人型のそれは、ただ思い描いて、重ねるのだ。
【隣はいつも空席】2023/02/09(00:09)
電車で女子大生二人がむつかしそうな話をしていた。海外の文化について、きょう受けたばかりの講義の内容を互いに振り返って咀嚼しあっているようだった。
車内は満席にちかく、半数ちかくが吊り革を掴んでいた。
件の女子大生たちも私のまえに立っており、小声ながらも談話に華を咲かせていた。しだいに話題は講義の内容から脱線し、社会問題についての議論へと移ったようだった。
「ホント、差別さっさとなくなんないかな。どうしてみんな差別しちゃうんだろ」
「ね。差別を差別だと自覚できないのが問題だよね」
「じぶんが差別されたことないから、差別されるほうの気持ちが解らないんじゃないかな」
「だろうね」
熱を入れて語り合う二人の女子大生は、私の半分の年齢にも満たないだろうにも拘わらず、私よりもよほど高い理性の発露を窺わせた。私はネクタイを緩めた。暖房が効きすぎているのか、額には汗が滲んでいた。拭うと汗が雫となって指に浮いた。膝をくっつけて座り直す。小さくなることで、何からというわけでもないにせよ、許されたいと思った。
電車が駅に停まった。
人がずらりと降り、幾人かがぱらぱらと乗り込んでくる。
席は空いた。
私の隣も空席となった。
電車の扉が閉じ、走りだす。私は足元を見ていた。
女子大生たちは、途切れた会話を再開させずに互いに端末を操作しているようだった。彼女たちは立ったままだ。
数秒してから、
「座んないの」と女子大生の一人が友人に囁いた。
「いい」
「なんで」
「なんか嫌」
電車の車輪が線路を踏み鳴らす音が車内には響いていたが、それでも私の目のまえに立つ彼女たちの声は、私の薄くなった白髪だらけの頭部に、雹のごとく降りそそいだ。
「座んなよ」ともう一度声がしたが、「嫌って言った」と静電気のような鋭くも小さな声が一つしたきり、あとはもう彼女たちの話し声は聞こえなかった。
座るように促したほうの女子大生もまた、私の隣に座ろうとはしなかった。
私は目をつぶって居眠りをしたフリをした。電車が三駅ほど停車と出発を繰り返すと、女子大生たちはどうやらそのあいだに下車したらしかった。
目を開けると、隣には老婆が座っており、帰宅ラッシュ時の電車で席に座れたことにほっと息を吐いている様子だった。
ホント、差別さっさとなくなんないかな。
女子大生の言葉が脳裏に残響していた。ピザを食べたときに歯にこびりつく食べ粕のようだった。
差別を差別だと自覚できないのが問題だよね。
彼女たちの声に私は、差別とはなんだろう、と答えの出ぬ迷宮を思うのだった。電車は、誰を拒むことなく線路の上を走りつづける。
【ロマンスの悪魔】2023/02/09(18:21)
ロマンス詐欺とは、恋愛関係を通じて信頼を得た相手から利を搾取する詐欺の手法だ。相手の恋心を用いて、錯誤を植えつける。その結果、相手から利を貢がせ、ときに恣意的な仕組みに誘導し、利を奪う。
わたしはロマンス詐欺は、一瞬のビジネスだと考えている。相手に騙されたとの認識がない場合、詐欺は詐欺として成立しない。
ロマンスを本物にしてしまえばいい。
単に破局しただけだ。
破局する前の恋愛感情は本物だ。
結婚詐欺と破談した結婚の区別は厳密にはつけづらい。最初から騙す気があったのかどうかが焦点となるが、わたしの場合は本当に相手を心の底から愛するし、その愛が冷めたときに、身を引いているだけだ。
これまでいちども相手から恨まれたことはなく、未だにわたしの言いつけを守って律儀に月何億もの金を貢いでくる者もある。
わたしのダミー会社を救うためだ。
彼らのなかでのわたしは、愛よりも会社のために人生を費やすと決めたキャリアウーマンであるし、人道のために身を捧げる善人である。
事実の一側面を射抜いてはいる。
わたしは恋愛関係よりもよほどお金を何に費やすのか、のほうに興味がある。わたしが目をつけた男たち――なかには女性もいるが――彼ら彼女らはみな、わたしと出会わなかったら、黙ってでも貯まっていくいっぽうの貨幣をじぶんの贅沢と快楽のために浪費しつづけていたはずだ。
わたしはそんな彼ら彼女らに、しあわせになれるお金の使い方を教えてあげただけにすぎない。現に彼ら彼女らはわたしと出会ってからというもの、穏やかに日々を過ごしている。以前のような破滅的な暮らしからは距離を置くことができている。
じぶん以外の誰かのためにお金を使うこと。じぶんの影響力を用いること。
それがじぶんの幸福で平穏な暮らしを支える基盤となるとわたしとの短くも濃厚な関係を介して学んだのだ。それを脳髄に刷り込まれた、と言い換えてもよい。
わたしは次なる恋主を探した。
本気で好きになれる相手を見繕う。どんなにヘドの出そうな相手でもわたしはあらゆる側面から矯めつ眇めつ恋主を観察し、好きになれる側面を探す。そのためには相応に情報を入手可能な相手でなければならない。
情報さえ手に入るのならばわたしは、全世界から憎悪される極悪人すら愛することができる。むろんその結果に相手から絞れるだけ財産を搾り取るわけだが、わたしがそうと命じなくとも相手のほうから貢いでくれる。
そうすることが相手にとってのしあわせなのだ。
至福な心地に包まれる。
わたしに奉仕することが至福なのだ。ならばそれをわたしのほうで拒むのは理に合わない。
双方どころか、その他の大勢に利が分配される。循環する。
いいこと尽くしだ。
つぎの恋主はすぐに見つかった。
とある小説がヒットした小説家だ。世には一冊しか発表していないが、その印税だけで聖書の半分ほどの売り上げを記録した。いまなお売れつづけている世にも稀な運のよさを持つ男だ。
覆面作家であるのをよいことに、膨大な印税で日がな自堕落な暮らしを送っている。わたしは持ち前のネットワークを駆使して、男が例の小説家であることを知った。
小説を一作書いただけで一生を遊んで暮らしてなお余る資産を有した男には、相応の社会的責任があって然るべきだ。持つ者の責務を果たさせるべくわたしは男からあらん限りの資産を奪うことを決意した。
持つ者の義務。
それを言うならばわたしこそ持つ者の筆頭と言える。
わたしは生まれつき美貌に恵まれていた。記憶力もよく、いちど見た景色は忘れない。本とて軒並みを脳内で再現できる。一度会った相手なら、街の雑踏に溶け込んでいようが意識するよりさきに脳内の検索網に引っかかる。
端的にわたしは人よりもずば抜けた能力を有していた。
社会的責任を果たさねばならない、と義務教育を受ける前からわたしは自力で結論していた。わたしは世のため人のためにこの能力を揮う。
そのために最も効率的なのがロマンス詐欺だと気づいた。
詐欺とは名ばかりの、貢献と言い換えてもよい。
今回の恋主は小説家と言いつつ、もはや執筆活動を行っていない。黙っていても入ってくる印税を無駄に口座の肥やしにしながら、日がな一日、屋敷の一室に引きこもっている。ときおり旅行をしに出掛けたかと思うと、半年余りを各地のホテルを転々として過ごす。気晴らしが終わったかと思うとまた屋敷に引きこもる。
どうやら高額納税者は政府はもとよりほかの企業からも監視対象になっているようで、その手の個人情報は、ハッカーに依頼するだけで簡単に手に入った。
わたしはこれまでに手に掛けてきた恋主たちにしてきたのと同様の手口で件の小説家モドキに近づいた。旅行先で偶然を装い、助けてもらう。礼をしたいと述べて、交流を深める。
小説家モドキは本名を、ルゲア・ブンゼと云った。
ブンゼは三十二歳の独身だ。わたしが最も得意とする層と言えた。
案の定、ブンゼは助けを求めるわたしに救いの手を差しだした。警戒心なく交流を築き、とんとん拍子にわたしをじぶんの住まいにまで招待した。
わたしは夢に破れて借金生活を送る企業家のフリをした。次世代のクリーンなリサイクル技術を開発したが、コストが掛かるので経営を維持できなかった。しかし改善さえしつづければ世界のゴミ問題はおろか資源問題とて解決可能な技術なのだ。
悔しい。
そういうことを臆面もなく語った。
わたしは他者を騙す以前に、まずじぶんを騙す。
嘘は嘘だからバレるのだ。心の底から本当のことだと信じてしまえば、嘘も単なる齟齬になる。本人がそれを本当だと思えばこそ、仮に間違った情報だと判っても、築いた仲そのものは崩れない。
むしろ恋主は、愚かな相手の言動を信じたじぶんを誇りに思う。
そういう相手ばかりをわたしは恋主に選んだ。
心に隙間のある者は得てして、相手よりも優位にあることに喜びを感じる。そして一度その境地に立てば、その環境を手放そうとしない。
運よく成功した者ほどこの手の傾向が顕著だ。
じぶんが成功したのは実力だと思いこんでいる者ほど騙しやすい。
じぶんは騙されない。ほかの者が愚かなのだ。
かような自負にまみれた者ほど恋主として最適な者はない。
わたしは徐々にブンゼから資産を吸い取っていった。ブンゼの資産はそれでも印税として次から次へと入ってくる。奪った先から穴が埋まる。
いったいどうして世界はこうも不公平なのか。
わたしはじぶんで被った仮面にヒビが走りそうになるのを堪え、ひときわ幸運に恵まれただけの男を愛することに意識をそそぐ。努めてそうしようとしなければわたしは目のまえの運がよいだけの、人間のクズをこの手で絞め殺してしまいそうだった。
そうした憎悪すらわたしは愛だと思いこむことで、ルゲア・ブンゼを全身全霊で愛した。
ブンゼはまるでわたしこそが、じぶんの生きる意味だと見做した。
ほかの恋主たちと同じだ。
あとはいかにわたしへの執着を深めながら、距離を置くか。
ハッキリとした離別ではなく、曖昧な縁を繋いだまま、しかし致し方のない距離の置き方を実現するか。抗う余地のない運命的な破談を演じつつ、縁が切れたあとでも支援だけはしつづけたくなるように、呪いを掛けるようにして縁を腐らせる。
断ち切ることなく。
がんじがらめに縛りつけ、恋主自ら縋りつかせる。
最終仕上げのそれが最も技巧のいる作業と言えたが、そこまでの段階に行けたのならば、催眠術を掛け終わった相手に新たな術を掛けるくらいの余裕が生じる。
わたしは通例通りに、致し方ない理由がありあなたのそばにはいられないのだ。けれど遠くからいつまでもあなたのことを想っています、と純朴な娘を演じた。
ブンゼはそれを信じた。疑う素振りも見せない。
良い人と思われたいがゆえに、わたしを責めることも引き留めることもしない。下心はあるがそれを悟られたくはない。持つ者の矜持がそうさせるのだ。あくまでわたしは格下の、助けを求めるか弱き女子だ。
恋主たちのほうが立場は上であり、ゆえに伸ばされた救いを求める手を払う真似ができない。
「いっそ君にぼくの持っている書籍の権利をあげるよ。この屋敷もあげるから」
「そんなこと」
「いいんだ。ぼくがそうしたいだけだから」
それでも一緒にはいられない、とそれらしい理由をでっち上げて告げても、それでもいいんだ、と彼はじぶんがいかに寛容で包容力のある人間かを示すために、じぶんの私財をわたしに譲渡した。
書類上、彼は無一文になった。
正直、わたしは驚いた。いまだかつて、わたしの嘘のために全財産を手放した者は皆無だった。わたしとて命は惜しい。根っこから相手を破滅させれば、いかな恋に夢中の相手とて冷や水をかけられたように目を覚ます危険がある。
あくまで後悔しない範囲に、損失を抑えるようにコントロールをしていた。
だがブンゼにはその手の制御が効かなかった。
やると言ったら彼は意思を曲げないのだ。
そうしてとんとん拍子に彼は全財産を手放し、わたしは莫大な財産を手に入れた。
だがわたしの上っ面は、虚偽の情報で塗れている。財産譲渡の書類は、法律上無効なのだが、ブンゼのほうでそれを確かめようとはせず、そしておそらく騙されたと判ったとしてもわたしを責めることはないだろうと思われた。
ひょっとしたらとっくにわたしの嘘は露呈しており、それでもブンゼのほうですべてを明け渡したいと望んでいるのかもしれなかった。ならばそれを拒む道理はわたしにはない。
ありがたく彼の全財産をもらい受けることにした。そしておさらばをする。
そのはずだったのだが、彼の元を去ってからも、わたし名義の口座には彼からの振り込みが毎月のようにある。
未だに堪えない。
印税はすでにわたしのものだ。彼は印税ではお金を稼げない。
ならばこの振り込まれるお金はどうしたことか。彼が自力で働きはじめ、それをわたしの口座に振り込んでいると考えるには、どうにも金額が多かった。
くれると言うのならばもらっておくが、しかし不気味だ。
わたしは気になったので、代理業者に調査を依頼した。
そして知った。
ルゲア・ブンゼは高額治験のバイトでお金を稼いでいた。のみならず、自身の血液や臓器を不正規に売り、大金を得ていた。そしてそれらをほぼ全額わたしの口座に振り込んでいた。
狂っている。
わたしは一瞬身の毛がよだったが、しかしよくよく考えを巡らせて冷静になる。
どの道、ルゲア・ブンゼの先は長くはない。
財産はなく、身体はボロボロだ。
目玉をはじめ、腎臓、肝臓、腸の一部から、臀部の皮膚まで手放している。
まっとうな職に就けないのはむろんのこと、立って歩くのすら至難であるはずだ。放っておけばそのうち死ぬ。遠からず死ぬ。
嘘とはいえ一時は心の底から愛そうと努めた相手が死ぬ未来に、嬉々とできるほどわたしは人間を捨てていない。正直に明かせば気分が塞ぐが、それは遠い国で災害があり、数千人が亡くなったニュースを目にしたときのように、数分もあればじぶんの空腹の欲動に流されて薄れるくらいの微々たる陰鬱と言えた。
案の定わたしは、つぎの恋主を探すために思考を割いた。
ルゲア・ブンゼの名は記憶の底に沈んだ。思いだそうとすれば必然、メモ帳を開いて過去の恋主たちの一覧表から名前を引き当てなければ思いだせないほどに、忘却の彼方に飛んでいた。
わたしにとってルゲア・ブンゼは、過去の人だ。
完了の印を捺し、金輪際接点を持つことのない終わった相手なのだ。
口座への入金とて、そろそろ口座を解約するつもりでいる。
ルゲア・ブンゼが死ぬのを待ってもいいが、死期を悟った者の自暴自棄な行動にいつ巻き込まれないとも限らない。奇禍の種は早いところ拭っておくのが吉である。
そうと考え、わたしはルゲア・ブンゼとの接点を完全に消すことにした。
印税権だけは打ち出の小槌として重宝する。どの道それはわたしのものであり、ルゲア・ブンゼの所有物ではない。実際には財産譲与の契約書は不正なので、不履行であり、印税権は未だにルゲア・ブンゼにあるのだが、当の本人にそれを咎める気がないのだから、もらえるものはもらっておくに限る。
それとて本人が死ねば、正式な財産分与の書類が必要となる。
彼には長生きして欲しかったが、充分な資産を寄越してくれたと思って、綺麗さっぱり縁を消してしまうことにした。
彼は、愛するわたしに尽くし、記憶の中のわたしに愛されたまま死んでいく。
これ以上ないほど幸福なはずだ。
わたしと出会わなければ彼は未だに屋敷に引きこもり、たまの旅行だけが唯一の気晴らしとなるような人生を送っていたはずだ。目は淀み、生きる意味を失った屍のような生があるばかりだった。
色褪せた日常にわたしが色を添えてあげたのだ。感謝されて当然であり、わたしがもらった財産は正当な報酬と言えた。
詐欺ではないのだ。
騙してはいない。
わたしは真実に、彼を愛したし、彼は真実にわたしのために私財を擲った。全身全霊でわたしを愛することで彼は真実の愛を手に入れたのだ。
しあわせなまま死んでいく者に水を差すほうが土台非道というものだ。
口座を消してからも、わたしは代理業者にルゲア・ブンゼの調査をつづけさせた。死んだという情報を得るまではわたしのほうでも油断できない。
いつ彼のほうでわたしに会いに来ようとするか分かったものではない。刺し違える覚悟で恨みを果たそうとやってくるかもしれない。
死ぬならさっさと後腐れなく、しあわせなまま死ねばいいのに。
わたしはつぎの恋主との淡くも甘いひとときを過ごしながら、心の隅で霞のように揺蕩う懸案事項に気を揉んだ。
恋主たちに貢がせた財産は、わたしが適切に有効活用する。
資産の使い道を知らぬ愚かくも無垢な者たちに、慈善事業の一端を担わせてあげるのだ。
高級料理を食べていると、代理業者から連絡が入った。
ルゲア・ブンゼがついに死んだらしい。
心臓移植のために、じぶんの心臓を摘出したようだ。人工心臓と入れ替えるとの契約だったが、適合せずにそのまま亡くなったらしい。おそらく手術をした業者のほうでも人工心臓など端から用意していなかったのだろう。殺すつもりで臓器の摘出を持ち掛けたのだ。
どこまでお人よしなのか。
騙されるほうがわるい、とルゲア・ブンゼのような人間を間近に見るといつも思う。
騙されるほうがわるい。
夢を視るほうが、とそれを言い換えてもよい。
彼は最期までじぶんの認識のなかでのみ、愛するわたしと愛しあって死んだのだ。最高の人生だと満足して死んでいったに違いない。
死が人生を完成させるのならば、最高の死をプレゼントすることはこの上のない善行と言えよう。その上、黙っていたら腐らせていた資産を世のため人のために使えるようにしてあげたのだ。
死んでなお、釣りがあって余りある。
わたしは世界に愛を配る。
愛を知らぬ者たちに、愛を与えて、金を得る。
ビジネスだ。
誤解の余地のないこれはビジネスなのである。
ロマンス詐欺とは名ばかりの、愛を交換する営みだ。
愛を知らぬ人生ほど貧しいものはない。
なればこそ。
愛を知らぬ者たちに、わたしはこれからも、このさきも、愛を与えて、世の幸福の総量を増やすのだ。他者への愛し方を知らぬ者たちに、愛とは何かを教えこむ。
愛している。
愛している。
心の底から、わたしはあなたを愛している。
嘘偽りなくそうと念じて、わたしは恋主たちからありったけの資産を、貢がせ、奪って、骨抜きにする。
愛を知れるのだ。
この世で最も得難い宝を得るのだ。
全財産くらい擲っても対価としてはまだ足りない。命を差しだせと迫らぬだけ、わたしは優しく、節度がある。
感謝されてもいいくらいだが、そんなものよりも金がいい。
愛を与えたそれが対価で。
愛を知ったそれが罪過だ。
底なしの愛を埋めるつもりで、愛するわたしにすべてを注げ。
ありったけのあなたの愛を、わたしはそれでも拒まない。
愛に包まれ、死ねばいい。
すべてを捧げて死ねばいい。
愛している。
愛している。
心の底から、わたしはあなたを愛している。
あなたの愛はそれでも大して欲しくはないけれど、くれるというならもらっておこう。資産のついでに、おまけと思って、もらっておく。
恋主が替わるごとにあなたのことは忘れるけれど、あなたに与えた愛は消え失せない。あなたの中でのみ消えぬ宝となって、死ぬまであなたを幸福にする。
【秘書の性別はどちらでも良し】2023/02/10(21:42)
問題が発生したので秘書は社長に指示を仰いだ。
「社長。このことについてなんですが」
「ん?」
「協力他社がいま、よくない風評に晒されているみたいで。我が社も知らされていない醜聞です」
「どれどれ」提示したデータを検めると社長は言った。「うん。放っておいてよし」
「いいんですか。でも結構な批判が集まってますけど」
「いいんだ。マイナスの風聞なんてのは、チャンスでしかない。もしそのマイナスの風聞が真実を反映したものならば、それはまっとうな批判だろう。協力他社とはいえ、改善点があるならば改善してもらうほうがいい。仮に風聞が真実でなかった場合は、それを流して利を得ようとした勢力があることになる。嘘を流して特定の企業を貶めようとしたのなら、その事実そのものが、相手側への交渉材料になる。攻撃材料となる。長期的には、風聞が事実であろうとそうでなかろうと、得でしかない。あくまで、得にすべく動ける用意があるならば、だが」
「ならまずは風聞が事実かどうかを調査したほうがよろしいのでは」
「それこそ当事者が動くだろう。我が社は、相手企業の出方を見てから動いても遅くはない。ひょっとしたら敢えて風聞を流させたのかもしれないしな」
「協力他社がですか」
「風聞の内容は、協力他社の幹部たちの運営にまつわるマイナスの側面だ。それが事実ならば、幹部ごと組織体制の刷新は免れないだろう。だがもしそれが事実を反映しない虚偽の報道だった場合は」
「その場合は?」
「その風聞を以って、自社に対して距離を置こうとする企業、或いは批判を強める企業を見極める試金石になる。いわば、炙り出しだな」
「炙り出し、ですか」
「おれの知る限り、あそこの幹部に報道にあるような失態を犯すような者はいない。直接に関わりのある者ならば、ある程度の信用を寄せている。ろくな証拠も集められない連中の流した虚偽の噂に釣られるような輩は、そもそも協力し合うメリットがすくないと言える。おそらく、世界的にシェアを広げようとしているのだろうな。あそこの会社は」
「その前に足を引っ張るかもしれない企業を炙り出す意図があると?」
「もし報道が虚偽ならば、だ」
「なら本当かもしれない可能性もあるんですね」
「そこは調査をしなければなんとも言えん。だからまずは様子見だ」
「いいんですかね」
「いまの時代、他者を損なうことを仕出かせば相応の対価を払うことになる。そうでなくとも、他者の至福や自由を尊重できない者の言うことを誰が支持する? 公正世界仮説ではないよ。必ずしも善良であろうとしたところで、それで良い思いをするとは限らない。だがいまは、すくなくとも善良と見做されなければ痛い目を見る。良くも悪くも、印象が大きく成功に左右する。そこすら見極められない者の言うことに支援をする者は稀だろう」
「それだとまるで、印象のよくない者は滅んでもいい、と聞こえます」
「ある意味ではそういう流れがいまは強化されている。危ういと思うかい」
「はい」
「きみは本当に善良だね。心配なくらいだ。きみには我が社の舵取りを任せられそうにないな」
「任されたいとは思いませんが」
「だがきみのような者の意見は重宝したい。そうだな。では、もしいま世に強化されつつある【みなの幸福に寄与しない者は自滅しても構わない、或いは致し方ない】との流れを、潔しとしない場合、きみはどのように対処する?」
「そうですね。まずは助言をしますね。そのままでは危ないですよ、と。それから、自滅しそうになった、もしくは自滅してしまっても、手を差し伸べます」
「それがたとえ、大勢の幸福に寄与しない人物だとしても?」
「その考え方がまずおかしいと感じます。あくまで大勢の幸福に寄与しないのは、その人物の選択であり、その人物そのものではないはずです。なぜその人物がそうした判断をとらなくてはならなかったのかは、その人物だけの問題ではないはずです。そこの情状酌量は、短期中期長期の視点があったほうがよいと思いますし、それこそ多角的な視点からの分析がいると私は考えます」
「もっともな意見だ。考慮しよう」
「では、この件については様子見ということですね」協力他社の醜聞データを回収する。
「いや、おれのほうで直接向こうの社長さんに話を聞いてみよう」
「いま首を突っ込まれるのは得策ではないのでは?」わざわざ社長自ら動かずとも、と秘書は暗に訴えたが、「おれが動くから意味がある」と社長はネクタイを締め直した。「リスクを犯してみせてこそ伝わる誠意もある。どの道、問題にされているのは幹部だろう。恩を売っておくだけさ」
「返してもらう当てがおありですか」
「ないな。まあ、単におれが真相を知っておきたい」
「最初と言っていることが違っていますが」
「きみの意見を考慮した結果だ。きみが変えた未来だと思って共に背負ってくれ」
「嫌な役割ですね」
「責任重大な役割だ。頼りにしているよ」
「それはよいのですが、私は明日から十日間の有給休暇をとるので、その間の雑務はほかの者にどうぞ」
「聞いてないぞ」
「言いました。社長の許可も得ています。ほら、ここ」
そう言って秘書は有給休暇申請のための手続き画面を開いてみせた。画面には社長の端末からでないと許可不能の印が記されている。
「いつの間に」
「社長こそすこしはお休みになられてはいかがですか。睡眠不足は判断を誤らせますよ」
「きみの助言はいつも的を得ているな」
「ありがとうございます」
「そのうえ、手厳しい」
「そうしろ、とお求めになられたのは社長ですので」
秘書はにこりともせず、そう言った。
【狼少年は呟く】2023/02/11(23:55)
かつてこの地には狼少年と呼ばれた少年がいた。
少年は「狼がきたぞ」と叫び、村人たちを驚かせた。しかし狼は村を襲いには現れなかった。幾度も少年は大声で「狼がきたぞ」と村人たちを驚かせたが、やはり狼は村に現れなかった。
「嘘もたいがいにせいよ」
村人たちは業を煮やして、少年を懲らしめた。
納屋に閉じこめ、少年の言動の何一つとして信じることをやめた。
だが少年が納屋に閉じ込められているあいだに、村は狼に襲われた。村は壊滅した。村人たちは安心しきっていたがために、狼たちに喉笛を食い千切られて絶命した。
生き残ったのは納屋に閉じ込められていた少年一人きりであった。
「狼がきたんだ……」
少年はぞっとした。
確かに森で何度も狼の痕跡を見つけていたのだ。
狼がきたんだ、と思って少年は本当に心底に心配をして叫んだ。
村人たちが少年の大声に驚いたように、狼たちも少年の声に驚いていた。しかし村人たちが納屋に少年を閉じ込めたので、狼たちは安心して村を襲うことができたのだ。
少年は納屋で狼たちがいなくなるのを待った。
村人たちが悲鳴一つ漏らすことなく狼たちに食い殺される光景がまぶたの裏に浮かぶようだ。外から漏れ聞こえてくる微かな物音からは、何かがひっそりと村を駆け回り、咀嚼を響かせながら、重そうに何かを引きずる様子が窺えた。
三日の内に物音は聞こえなくなった。
少年は納屋の扉を、内側からこじ開け外に出た。
村はひっそりと静まり返っていた。
森の木々の合間から朝陽が燦燦と照っており、少年は手で日傘をつくって目を細めた。
「狼が」
遅いと判っていた。しかし、少年は呟かざるを得なかった。「きたぞ」
千物語「琲」おわり。
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