私は性器が好きなだけ~~人工名器に凜と銘じ~~

私は性器が好きなだけ

   ~~人工名器に凜と銘じ~~

目次

(1)~(50)

(後日譚)


(1)

 初めて男性器を目にしたのは小三のころである。トモダチと遊んだ帰りに近道をしようと思って商店街の裏道を抜けていた折に男性器を露出している中年と鉢合わせした。露出狂だったのだろう。世間一般にある印象、ロングコートに裸体という組み合わせではなく、股間のチャックからそそり立つ亀の子をぐいと片手で持ち上げ、おらおらとこちらに向かって突きつけてくる半ば荒れ狂うロデオを御しきれないカウボーイのような印象だった。

 突きつけられたそれをマジマジと見、私は、それなに? と心配した。母子家庭だった私は正真正銘初めて目にしたのだった。母の股間にそんなものはついていないし、むろん私の股間にだってそんなものは生えていない。

「触ってみるかい?」おじさんは興奮気味に、現に興奮していたのだろうけれど、それをゴシゴシしごきながら私の目と鼻のさきに突きつけてきた。私はなぜか好奇心を刺激され、うんと返事をし、男がぐいと押しつけてくるそれをむんずと鷲掴みにした。

 かけちなしに、全力で。

 私としては毒キノコのようなそれをもぎとって顔を赤らめ苦しそうに(私には見えただけのことなのだが)息を荒らげているおじさんを助けてあげようとしただけだったのだけれど、案に相違し、おじさんは勇者に胸をひと突きにされたドラゴンさながらの絶叫をあげ、その場に蹲ったかと思うや否や、自らのあげた絶叫に怯んだように、はっとした様子でその場からひょこひょこと駆け去った。

 私はおじさんのあげた声に度肝を抜かれ、その場に腰を抜かした。

 手に残った男性器の思いのほかきつい臭気を、その蒸散していくぬくもりと共にただ感じた。

「へえ。それでこの業界に入ったってわけだ」

「それで、というほど明確な動機ではないのですけど、そうですね。考えてもみればそれがきっかけだったのかなぁ、と」

 新入社員の歓迎会を冠して開かれた飲み会では、なぜか先輩であるはずの私が後輩であるはずの新入社員、名前はたしか江音間(えねま)さんだったか、ともかく彼女にお酌をし、過去の醜態とも呼べる思い出にもならないよもやま話を披歴していた。

「そういう江音間さんこそどうしてウチに」と訊きかえす。

「いやあ、なんでじゃろ」

「ほかの会社は受けなかったんでしょ」

「受けたには受けたかなあって感じだねぇ。ほかに受からなかったんですよねぇ。ざんねんながら」

 鼻と唇のあいだに割り箸を挟んで遊ぶ江音間さんに私はさらなる追い打ちをかけ、そもそもだって、と投げかける。「本来こんなところ、滑り止めだとしたって受けたくないじゃないですか」

 それこそあなたみたいなかわいいコが入るような、入ろうとさえ思うような会社ではないですよね、と質問攻めにする。

「遠回しの自虐ですか? 先輩もおもしろいひとですねぇ」

 江音間さんはこちらがそそいだ焼酎をぐいと一息にあおった。「強いていうならそうですねぇ。あたし処女なんですよねぇ。だからまあ、処女という属性を武器にできる職業はなんじゃらほいと考えたらコレしか思い浮かばなかったのかなぁなんて今になってはそう思いますけれども」

「ひょっとしてもう酔ってます?」

「うぃっひっひ。ましゃかましゃか。あ、先輩もどーぞー」

 一升瓶を掲げられたのでカップを構えると、まるでそういった作法のように彼女は私のヒザ目がけて液体を溢した。

「やだもう江音間さん。お酒弱いなら弱いで、ちゃんと断って。無理に飲ませるつもりはないんですから」

「ありゃりゃ。失敬。まさか先輩がお漏らしするとは思わなんだ」

 一発殴ってやろうかしらと思ったけれども、周囲の目もあるのでやめた。

 なんだい丹久場(にくば)さん漏らしちゃったのかい。上司の伊香川(いかがわ)さんが陽気に声をかけてきた。私はその頭に巻いたネクタイを見て見ぬふりをし、どうしてこうもうちの社のやつらは、と例の標語を頭のなかでぐるぐる回すのにいそがしい。

 酒は飲んでも呑まれるな。

 呑まれた輩の相手はするな、と続けてひとこと付け足したい。


(2)

 新時代のオナホールを開発するのでチームの一員になってほしい。佳境に入ったプロジェクトの企画書を最終確認していると、社長自ら声をかけてきた。かけられた私はこう訊きかえすよりない。「オナホールですか」

「丹久場さんがバイブ専門だってのは分かってるんだよ。新企画の最終局面にいままさに入っているところだとも思うんだけど、どうしても女性の観点からの意見もほしくてね。オナホールを彼氏や男友達、ひいては男兄弟、父親に到るまで、プレゼントの定番にできるような健全さを前面に打ちだした商品を開発したいんだ」

「女性に買いやすく、けれど男性自らはまず買わないだろう、そんな本末転倒な商品になっちゃうかと思いますけど」

 率直な感想を漏らすと、社長は、そうよそれそれ、とこちらにゆびを突きつけ、「丹久場さんのそういった新鮮な発想をどうかチーム内で発揮してほしいのよ。もっとも、男女共に売れてもらわなきゃ困るんだけどね」

「無茶です。それにいまは担当している案件が」

「そっちはもう完成したようなもんでしょ。引き継ぎはこっちでしておくから、丹久場さんはそっちをお願いね」

「こっちとかそっちとか、そんな投げやりなのは困ります」

「うんうん。社員がみんな丹久場さんくらい真面目だったらいいのにね。じゃ、よろしくちゃん」

 颯爽と遠ざかるおっさんの背中を眺め、私は思う。

 社長とは何か。

 アンサー。

 奴隷へいっぽうてきに無理難題を投擲する悪意なき道化である。

 バイブの発注及び新商品の広報と、元来の営業と並行して私はチーム「アヴァンオナホ」のメンバーとなった。

「あ、丹久場さんもですか。やったー」

 宴会の席で私に絡んできた新人、江音間さんもいっしょだった。

「えぇ、さっそくですがきみたちには週明けまでに商品のコンセプトを企画してほしい。タッグを組んでもらってもいい。とにかく商品にするに値する斬新で革新的な新しい時代のオナホールを手掛けていきましょう」

 中身のない言葉でチームリーダーの伊香川さんが言った。鼓舞しているつもりなのだろうけれど、誰の心にも響かないのは私たちの性格が淡泊だからではないと思いたい。私は意味もなく、淡々としたタンコブ、とつぶやく。

「はい丹久場さん。なにかありますか」

 急に指され飛びあがる。

「そうですね」

 取り繕い、私は言った。「会社で販売してきた過去の商品をざっと改めてみました。しょうじき材質やパッケージが変わったほかに大きな変化はないように思います。内部の構造はたしかに工夫されてはいますが、それがユーザーへ大きな変革をたらすようになったかはいささか疑問の余地があります。じっさいにゆびを出し入れして確認してみましたが、オナホールの抱える大きな問題の一つとして、個人間での性器の規格に差がありすぎる点が挙げられるかと思います。もっと幅広いユーザーが躊躇せずに購入できる規格を揃えていくべきではないでしょうか」

「どゆこと?」

 こちらへの質問ではなく、江音間さんがとなりに座る木偶乃(でくの)くんへ零している。木偶乃くんは江音間さんにとっては二つ歳上の先輩で、私からすると四つ下の後輩ということになる。オナホ界のプリンスなるあだ名がついているけれど、社内でそう呼ぶのは社長と伊香川さんくらいなものである。以前、オナホを特集した雑誌に載った際に、木偶乃くんの見た目のよさに着目したらしい記者がかってにオナホ王子と名付けたのがきっかけだ。

 木偶乃くんは江音間さんからの質問には応じずに、手を垂直に掲げた。場が静まりかえり、場を仕切っていた伊香川さんが、どうぞプリンス、と発言を許可する。

「男性器の規格についてはすでに平均値を割りだし、その閾値の範囲内ならば問題ない伸縮性が商品には与えられています。規格外のサイズについては別個で商品開発がなされているのでそれもまた問題はないかと」

「お言葉ですが」私は反論している。「そうした規格外の商品は総じて他社の製品です。うちが開発した品は一つだってありません。また、伸縮性を与えてはいたところで、けっきょくのところそれはオナホールから得られる刺激が個人間によって変わってきてしまうという見逃しがたい欠点を内包したまま放置されていることにほかならないのではないでしょうか。大きいほどキツく感じ、ちいさいほど物足りなく感じる。平均して満足度は下がってしまう傾向にあるように思われます」

「ですが」

 と、ここでプリンスは珍しく、というほど私はプリンスの生態を熟知しているわけではないのだけれど、接点のない私からしても珍しいと感じるほどに声を荒らげ、

「女性器とは本来そういうものではないですか」

 叫ぶものだから、会議室が静寂に包まれる。私はその静寂を蹴散らしたくてたまらなくなり、だからでもないけれど、

「あなたは女性器をつくりたいのですか」と言った。「私は最高のオナホールをつくるためにここにいます。女性器をつくるために集められているのだとすればどうか私を外してください」

「なら外れてください」

 間髪容れて返す木偶乃くんに意義を唱える気力はなぜか湧かず、私がおとなしく席を立ったところで、

「まあまあ」

 伊香川さんが嘴を挟んだ。それからこちらが呆気にとられるほどものすごくくだらない文言を口走り、それはたとえば、馬の耳につくだに――くらいにくだらない文言だったのだけれど、あまりにくだらなすぎたがために一周回って場を和ませ、なあなあのままこの日の会議はお流れとなった。


(3)

 会社に隣接する雑貨ビルには「餃子専門店(仮)」なる食事処が入っている。カッコ仮などと銘打っておきながらそれはそれは多種多様な餃子を扱っているため、それを食さずしてなにが餃子好きかと奮起せざるを得なかったかと問われればそういうわけでもないのだけれど、餃子好きではあるにはあるので、ここで出会ったが百年目!とばかりに毎日のごとく、昼となく夜となく、腹の虫が泣きわめこうものならば通い詰めて全メニューを制覇してやろうと虎視眈々としたのは初めばかりで、なかなかどうしてメニューの底はいずこといった塩梅がつづく。日増しに種類を増やしていく店の主人をうらめしくライバル視しだして久しく、根本的なところをほじくり返してみれば、あいにくと私に、昼となく夜となく通えるほどの暇はない。

 だもので、こうしてたまのひととき、チームリーダー伊香川さんからのやんわりとした頭を冷やしてきなさいの休憩をもらい、ここぞとばかりにお店のなかへと足を踏み入れて、チーズ餃子、カニ餃子、サーロイン餃子を各々一人前ずつ注文すべく、厨房に、へい大将、と投げかける。

 運ばれてきた餃子に舌鼓を打っていると、となりに座る人影が視界に映った。さりとて餃子から立ち昇る湯気がメガネを曇らせ、曇ったメガネでは視界がすこぶるよろしくなく、よく食べますねえ、などととなりに座った何者かしらから言われ、よく太りませんねぇと感心もされ、聞いた声によってなるほどそこにいるのが我が後輩こと江音間さんだと判るに至る。

「ヘイ大将」彼女は私の声真似をするでもなく真似、「このひとと同じやつを」とさらに真似した。

 先輩は考えてあるんですよねぇ。

 彼女の言葉からはチーズの濃厚な香りが漂って感じられ、或いは私が同じものを食しているからかもしれず、たといそうでなかったとしても私の口からは同様にしてチーズの濃厚なにほいが立ち昇っていると判断するのに事欠かず、だから目下の方針として彼女からの言葉には応じずに、口を閉じたまま、まずはさておき目のまえの餃子をやっつけることに専念したのだけれども、さりとて江音間さんはくじけなかった。

「入社して初めての仕事で急に企画案を出せなんて無茶ですよねぇ。先輩はでもきっといい案の一つや二つを思いついてあるのだと踏んでおりますけれども、具合のほどはいかが?」

 敬語を覚えたのはよいことだ。私は気分をいくぶんよくし、

「つぎの会議までにはまだ時間があります」と返事した。「週末、ゆっくり考えてきてください」

「たしか部長はタッグを組んでもいいとおっしゃっていたはず」

「言っていましたね。それが?」

「惚けるなんて先輩もなかなかどうして駆け引き上手じゃないですか」

「駆け引き? 惚けたわけではないのだけど」

「単刀直入に言いましょう」宣言してから江音間さんはこちらに余った餃子をそいと添え、「タッグを組みましょう」と言った。妙にぎこちない言い方だ。無理をして丁寧なしゃべり方をしているのではないか。思うけれども指摘するほど野暮ではなく、或いは彼女なりのせいいっぱいの誠意が滲んで感じられるようでもあり、だからでもないけれど私は、

「それは楽をしたいからですか」

 一つだけ質問を投げて返す。

「効率をよくしたいと言い換えたいところなんだけれども、なかなかどうして核心を突かれると困ってしまうものがありますなぁ。ただ、いちばん奥の深そうな器の型を取っておくのは、新人として講じるべき初歩的作業のひとつではないのかなぁ、などとあたくしめは思うのであります」

「なら私ではなく木偶乃くんにつくべきです」

「いやいやあのひとは奥が深いと言っても同時に視野が狭そうじゃないですか。初めに答えありきの難問になら挑めても、答えがあるかも分からない大海原には一歩も足を踏み出せないへなちょこさんなんじゃないかなぁ、などとあたくしめは思うのであります」

 驚いた。思いのほか核心を突く彼女の軽口に意外なほど気をよくしているじぶんがいる。

「私はべつにそんなたいそうな器では」

「まあそうでしょうけれども」

 飄々と相槌を打たれ、こんどはじぶんでも意外なほど腹立たしく思っている私がいる。

「会議での指摘はでも、あたしはもっともだと思いましたけれどねぇ。どんな道具にだってサイズはあるわけじゃないですか。種類によってサイズを変えるだけでなく、一つの規格であっても大中小くらいは選べるようにしてほしいですよねぇ」

「それはそれで問題はあるんです」私はもっともらしく言った。「ある意味でユーザーに選ぶ余地を与えるというのは、ユーザーに負担を強いるということにもなり兼ねない。出来合いの品をただ買えばよいだけの簡単な作業から、自分でどのサイズが適正かを選ばなくてはならない作業が増えるわけですから、これはなかなかどうして面倒です」

「だけれどもまったく気持ちのよくないオナホを買ったらそのユーザーは二度とウチの製品を買ってくれないと思いますけれどもねぇ」

「その点は心配ないです」

「あらま、なにゆえ」

「ユーザーは商品の型で品物を選んでも、メーカーで選ぶなんてそんなマニアックな人物はそれこそ極々マニアに限られます。コレがダメならつぎはアレ。そうやって品物を試していく過程に、製造メーカーへの評価はあまり関与されません」

「そういうものですかねぇ」

「ただし、それはウチのような雑多な玩具を扱っている会社に限ります。一貫性を売りにしているメーカー、それこそ自社オリジナルの製品を扱っている会社の場合はそのかぎりではありません」

 コンビニでイマイチなお菓子を購入したからといってそのコンビニへの不満が募るわけではない。いっぽうでケーキ専門店で購入したケーキがまずければつぎからはその店へ足を運ばなくなるだろう。

「では先輩はどういった新作を提案するおつもりでござんすか」

「江音間さん」

「ほいな」

「餃子で遊ぶのはやめましょう」

 彼女は食べきれなかったのか、餃子を耳に重ね、まさしく聞き耳を立てていた。

「ごめんなさい」

 意外にも素直に謝罪した彼女に私はけれど、新作のアイディアを最後まで言わずにおくのである。


(4)

 通常業務を淡々とこなし、やってきた週末は家に引きこもりただひたすらオナホールをいじくりまわしては何もせずとも過ぎ去っていく時間を有意義に潰した。当然のように明けた週末は、やけに重たい曇り空で、驟雨の気配を孕んでおる。雨は好きじゃないんですけどねぇ、などとぼやいてみせると思いのほか江音間さんじみた言葉づかいになった。灰汁のつよい人物の影響力たるや底知れないものだね。気合を引き締め引締め、駅へと向かい、始発のつぎのつぎくらいの電車に乗りこんだ理由は人混みが苦手な私の性分によるところが大きい。きょうにかぎったことではない。誰よりもはやく出社し、守衛さんに鍵を開けてもらうのはほとんど日課となって久しく、こちらの顔を見るともなく守衛さんは椅子から立ち上がり、そそくさと会社のセキュリティを解除しては、きょうは寒いねぇなどと当たり障りのない言葉をひとことふたこと投げかけては、みたび守衛室でフィルム型のメディア端末を広げ、ニュースらしき文字の羅列に目を落とす。

 エレベータに乗るときの静けさが心地よい。誰もいない時間帯でなければ味わえない贅沢な代物、ことここにおいては至福の時間かもしれず、きたる決戦の火ぶたが落とされるまでのひとときを噛みしめがてら、有意義に潰した休日の成果を頭の中で振り返っては練り直していく。

 あ、おはようございます。

 と、聞こえたのは足を踏み入れる前の部屋からであり、あれれ、一番乗りのはずが二番手であった事実に愕然とするよりもさきに、守衛さんが解除していたセキュリティとはいったいなんであったのかと疑問符に襲われる。

「残業してたら閉められちゃいまして」

 こちらの訝しげな心象をよそに、というよりも察したからこそか、江音間さんは率先してお茶目に零し、先輩が来たってことはシャワールーム使えますかねぇ、などと言いながらすたこらと部屋を出ていく、さっさとではなく。千鳥足にも似た覚束ない足取りなのは徹夜明けなのかもしれなかった。一人残され、静寂が満ちる。本来はこちらが正しい。出鼻をくじかれたわけではないのだけれどもさっそくとばかりに持ちこんだ荷物をデスクに広げ、プレゼン用の資料につぶさに目を滑らせていく。最終チェックを終えたころに江音間さんは戻ってきた。

「初めて使ってみたんですけれども、うーい、なかなかの設備だ。布団部屋でもあれば文句なしなんですけれども」

「それだとほとんど寮になっちゃうね」

 手際よく資料を仕舞った理由はとくになかった。江音間さんは、盗みませんよう、と屈託なく笑い、そうだ先輩、と声を弾ませた。いつの間にやら淹れていたコーヒーの入ったカップを持ってきては、どうぞと手渡され、受け取るとスイッチを押したので点きましたといわんばかりに、

「あたしも考えてみたんですよ」

 自席に近寄っては座るでもなく、江音間さんはそこからガサゴトと雑貨を持ってきよる。こちらのデスクのうえ、は散らかっているので物を載せる余地はなく、そのため、と言っていいのか、江音間さんは床にそれらをぶちまけた。折衷案と呼ぶには大胆すぎる。

「性玩具ってけっこう値が張るじゃないですか」

 プレゼンの予行演習のつもりなのか頼みもしないうちから説明をはじめる。床に散らばったのは正真正銘雑貨であり、それはたとえば靴下であったり、ヘアゴムであったり、タオルであったり、アロマビーズであったりした。洗車用のスポンジや、緩衝材として使われるプチプチ、さらにはビニール手袋まである。聞けばいずれもワンコインセンターで購入したものだという。缶ジュースよりも安い素材どもである。

「まあ、安かないね」と彼女の言葉を受けて返す。

「ですよねぇ。だからあたし、つくってみたんですよ」

「つくって?」

「オナホ。予算は缶ジュースが三本買えるくらいがいいなぁと思いまして」

「はぁ」

「万全を期すとなるとでも五本分はかかっちゃいましたけれども、三本分でも充分な気もしますねぇ」

 自分では使えないので困っちゃいますけれども。

 言いながら江音間さんはタオルを手に取った。なにをするのかと見守っていると彼女はビニール手袋をタオルで包みこんでいく。恵方巻きがごとくである。具、たるビニール手袋は端から裏返されている。ビニール手袋のタオル巻きなる斬新な恵方巻きは、最後に靴下に放りこまれ、余った裾を折り返し、包み返すと、おやおや。

 見慣れた構造物が目のまえに現れた。

「じゃじゃーん。即席オナホール。その名も江音間式三百です。ビニール手袋、タオル、靴下。しめて缶ジュース三本分という超手軽なお手製オナホ。靴下のサイズをお好みにあわせたり、二枚重ねにすることでキツキツにすることも可能です。さらには!」

 江音間さんはそこで床に散らばった雑貨のうちから緩衝剤として使われるプチプチ、気泡のたくさんあいたビニールシートを持ちだし、

「手ごろなサイズに切ったこれをタオルに忍ばせ、いっしょに巻き巻きすることで内部構造をフワフワ気持ちよーくすることも可能です」

 ジュース一本分の費用をプラスすることでさらなる高みへと変貌できるのだと豪語する。

「コツとしては、タオルをマキマキするときは、ちょっと緩めに巻くことですかね。タオルの代わりにスポンジを使うのもよいと思う。さらなる未知の領域に旅立てるのではないかとあたくしめは思うのであります。カスタネットみたいにスポンジを二つ重ねて真ん中にビニール手袋を挟めば、あらふしぎ。そんじょそこらのオナホに引けを取らない魔法具の誕生だい。表面がデコボコしたやつは、さながら触手みたいなヒダヒダにくるまれ、えもゆわれぬやさしい心地を楽しめるんじゃないですかねぇ。もちろん靴下に放りこむのを忘れてはいけないよ。あとはそうそう。ビニール手袋は薄すぎないほうがよさげですかねぇ。かといって厚すぎると固くて感触がよろしくないので、使い捨てじゃないタイプの薄型がちょうどよいかなぁと思われます。安物だと弾力がなさすぎるので、しばらく水につけておくことを推奨したいですな。靴下は大き目を選ぶのがよいと思う。ちなみにそのままで挿入するのはむつかしいのでローションが必須ですけれども、それは正規のオナホも同様ですからねぇ。で、これは片栗粉を使えば解決だ。水に溶かした片栗粉を電子レンジで一分ほどチンするだけで即席ローションになっちゃうんですねぇ。お湯で溶いてもいいですけれども、ダマになりやすいんで、水で溶いてからにしたほうがお得ですな」

 ほら、と江音間さんは即席ローションを流しこんだ簡易オナホ、江音間式三百をこちらに突きだし、そこに会社の備品であるディルドを差しこんだ。ぬこぬこ動くディルドは滑らかで、市販のオナホ同様にみっちりと包まれながらも、抵抗なく穴の内部を出入りする。

「リンスをローション代わりにしてもよいのですけれども、肌に合わない人だと荒れちゃいそうですし、片栗粉ローションをおすすめしたいですな」

 どうです。きもちよさそうでしょう。

 江音間さんがディルドと簡易オナホのどちらに感情移入しているのかは定かではなかったけれども、ディルドが出入りするたびに斬新な恵方巻きが人間を丸呑みしたアナコンダさながらにボコボコと膨張する様は、何かしら身体の内をなぞられる心地がある。

「先輩どうしたんですかぁ。ハトが豆鉄砲を撃ったような顔して」

 ハトが豆鉄砲を撃ったらそりゃ驚くよと思いながら、なるほど私は今驚いているのかと気がついた。無理もないといえば多少大袈裟な物言いになってしまうけれども、たしかに私は今、少々では物足りない数量で感情を乱していた。

 私も同じものを用意していたからだ。江音間式三百と同じものを。

 正確には、同じものではなく似たものであり、ゆえに私はこうまでも心を乱している。

 企画案として提案するつもりで休日を潰して用意したそれは、既製品を分解して試作したオナホモドキだった。ビニール手袋にタオルを巻きつけるという手法は簡易オナホの中ではもっとも理に適った、言い方を変えればオナホらしい偽物だった。私はというとより素材に拘り、高級な簡易オナホをつくりあげ、それを元に、ユーザーが自身の手でカスタマイズできる新型オナホを提案しようと思っていた。じっさいに素材からサイズまで、装飾から値段までと、企画書を練ってきている。

 江音間さんにそこまでの具体的なプランがあったかは定かではないけれども、期せずして似た試作品を彼女はこの休日のあいだに考案していたようである。

 私のものよりも格安で。

 しかも、よりらしいカタチで。

 本来ならばここで私は敗北を感じるべきなのだろう。ふしぎと素直に瞠目している私がいるのだった。

 ゆえに驚きよりも、感心した。

「江音間さん」

 江音間式三百をぬこぬこ云わせつづけている彼女の手を握りしめ、私は言った。「タッグを組みましょう」

「え、いいんですか? でもどうして急に」

 若干引き気味というか大いに狼狽した彼女の手を、私はむんずと掴んで離さない。

「え、先輩。こわいんですけれども」彼女は椅子から立ち上がり、一歩、二歩と後退した

「江音間式三百。それ、すごくいいと思う」

「うわあ、先輩、鼻息荒くなってますねぇ」

 鼻が詰まっているのか、すすると、ぴーと高い音が鳴る。


(5)

 正午をすこし回った時分に第一回企画会議がはじまった。事前に企画のための予算や人員など、企画を通すための最低条件を知らされている。USBオナホなど、ハイテク技術を用いた規格開発案は誰もが考えるところであるけれど、そうしたケタ外れに予算のかかる企画はプレゼンする以前に端から度外視されている。

 まずは伊香川さんが手本を兼ねて、というよりも登山は入口が一番楽だという理屈からであろう、先陣を切ってみんなのまえに立った。

 チーム「アヴァンオナホ」のリーダーたる彼の発表は、驚くべきことに既成商品の焼き増しでしかなく、決起勇んで準備にいそしんだ私たちの、すくなくとも私の期待をすこぶる大きく裏切るかたちで、もちろんわるい意味でだけれども、ものの二分で幕を閉じた。

「というわけでつぎ、行ってみましょう」

 プレゼンが終わるごとにつど、発表された企画について議論するのが通例であるのだけれども、さすがというべきか伊香川さんは自身のプレゼンをプレゼンだとは思っていない様子で、それこそ、お手本でしたがなにか?といった堂々たる面目で、つぎの相手を名指しする。順次、メンバーが企画を発表しては、その案について議論を煮詰めていく。

「では残るところ二人になったわけですが、どっちからいく?」

 残されたのは私とプリンスこと木偶乃くんだ。私と江音間さんがタッグを組んでいる旨はみなに伝えてある。

「ではぼくから参らせていただきます」

 木偶乃くんは立ち上がる。カラクリ玩具の茶運び人形じみた歩み方でまえに立ち、

「ぼくはオナホールを神聖な、まさしく神器だと思っています」

 と、熱いとも狂気ともつかぬ物言いで、斟酌せずに言えば変態的な発言を至極真面目に口にした。

「従来のオナホは明らかに我々男性陣の欲望を具現化しすぎた、いささか下品な代物に寄りすぎていたように感じてならぬ所存です」

 おやおや、木偶乃くん。

 緊張しているのか口調がすこしへんでごわす。

「女性器は、子を産むための場所だけにあらず。我々男性陣をやさしくつつみこみ、身も心もとろけさせることしきり、それはもう、ぜったい!――の秘奥、というよりも秘宝そのものであるのです」

「はい」私は挙手をし、許可を得る前に発言する。「基本的な指摘で申しわけないのですが、形状を女性器に似せすぎることはわいせつ物陳列罪などいくつかの法令に引っかかるため、問題があるかと。それからこれまでのアンケートからハッキリと結論付けられていますが、我が社の商品と比べるまでもなく、女性器そのものの性的快感は、オナホそのものよりもいくぶんか劣るものとして認められています」

「なぜ女性のあなたにそんなことが判る!」

「解りませんね、まったく」

 そこは潔く認める。「解りたくとも解らないのはそうした器官を持たない私たち女性の宿命ではありますが、しかし、オナホと女性器とのあいだにある性的快感の指数は、ユーザー、それこそ男性陣のアンケート結果をもとに算出した結果ですので、反論の余地はないものかと」

「ぼくは断固として認めません。本物が偽物よりも下? ならばなにゆえこの世からセックスがなくならないのですか!」

「それはオナホでは補完しきれないもろもろの要素が性行為にあるからかと」

「ではそれをオナホで再現すればよいではないですか! なぜそれをしない!」

「だとするとダッチワイフ、いわゆるラブドールの開発を視野に入れなくてはならなくなるものかと推察されますが、木偶乃さんの企画はそういう趣旨なのですか」

「ちがうちがう! ぼくはいつだってオナホ一筋だ。性器ラブであります。ほかの部位など犬の餌にでもしてさしあげればよろしい」

「ですがさきほども指摘しましたが、本物にそっくりの性器の造形物は、その製造を法律で禁止されています」

「見た目など問題ではない。ぼくの言っているのは、質感としての本物であるのですよ」

「ですから」

 偽物のほうがすでに本物よりも気持ちがよいのだ、そういった結果が出ているのだ、と反論しようとしたけれども、ここで正論を吐いたところで水掛け論だ。とうてい木偶乃くんが納得を示してくれるとは思えない。

 判断し、私はさきに折れてさしあげた。「分かりました。途中で遮ってしまい、すみませんでした」

 わかればよいのです。

 木偶乃くんは鼻から息を噴きだし、本物が偽物に劣っているわけがないんですよ、と吐き捨て、企画の続きを述べはじめる。

 述べはじめた彼の文言のそのほとんどを私は聞き流していた。内心、こう叫ぶのにいそがしい。

 なにが本物のよさだ。

 本物のホの字も知らないくせに。

 ――童貞のくせに!

 企画会議を終え、支持された案は、私と江音間さんが立案した「ユーザーカスタマイズ型オナホ」その名も【江音間式∞】だった。

「従来のオナホは基本的に消耗品です。劣化すれば本体ごと捨て、新たな規格をユーザーがふたたび購入しなければなりません。しかしこれからの時代、そうした大量生産大量消費は企業だけでなくユーザーにも負担を強いてしまいます」

 負担を強いられていると見做されてしまうのです、と江音間さんが合いの手を入れる。

「ですから私どもは提案します。ユーザーが自らの手で自らのためのゆいいつ無二のムニムニを手にすべく、ユーザーの手によりカスタマイズできる新時代のオナホを。内部の素材から緩衝剤、胴体部の外皮にまで四つの部品により本体を組み上げます。ユーザーはまずスタンダード型を手にし、そこから無限の組み合わせを、自らの身体に合わせて試していくことができるのです。そこにはただひとつの正解があり、無限の楽しみが、刺激が溢れています。それこそ星の数ほどにいる異性との出会い、運命の赤い糸を結ぶようにたったひとつの自分だけの至高の存在を手に入れることができるのです。たったひとつの至高の存在。それはいつだって他人から与えられるものではなく、自らの手で選び、掴みとるものなのです。私たちは提供します。人生のパートナーとして、欠かせない相棒として、伴侶として、憩いの場として、そして癒しの存在として」

 あなただけの、たったひとつのオナホールを。


(6)

 企画が通り、私と江音間さんには研究室の名を冠した個室が与えられた。チーム「アヴァンオナホ」の中枢として、或いは中央司令室として新型オナホ、その名も【江音間式∞】は開発されていくこととなる。言い換えれば開発において、もっとも面倒な作業を私と江音間さんに押し付けただけのことであり、誰であってもこなせる作業をほかの面々は私たちのおこぼれ的にこなしていくだけとも言えなくもない。研究室にはほとんど私と江音間さんの二人きりでいるのが日常となったのは個室をもらった当日からである。

 プリンスこと木偶乃くんが研究室に乗りこんできたのは、第一回と銘打っておきながら第二回の開かれる機会が永遠に巡ってこないのではないかとまことしやかにささやかれはじめた企画会議の終わったちょうど一週間後のことだった。

「あなたたちはふざけているのか」

 試作品NO2の、江音間式三百を片手に木偶乃くんは扉を開けたのちの第一声、開口一番にそう言った。怒鳴りこんできたと言い直してもいい。

「ノックの一つもできないのかなきみは」

 私はほとほと彼には因縁じみたなにかしらを感じはじめていたので、めったに面に出さない感情を、トゲトゲしたなにかしらを強いて伝わるように努力した。

「ぼくは産まれてこの方ふざけたことがない」

 そのセリフそのものがふざけているのだと気づけないくらいにはたしかに彼は生真面目であるようだ。

「怒鳴りあうほどワタクシどもは暇ではありません。要件をどうぞ」

「なんなんだこの性器モドキは。ぼくは認めないぞ。女性器を侮辱するにも限度がある。これでは、なんちゃってモドキモドキではないか」

「ごもっともな感想ですね。なにせそれは試作品ですから」

 ワンコインセンターで仕入れた素材でつくった試作品一号を改良してできたそれは、材質をよりオナホらしいものへと変えてある。商品化を意識したつくりで組み上げた江音間式三百と呼べる代物だ。オナホールを四つの部品にバラバラにしたと言ってよく、しかしどうにも手入れや、それらの管理、またカスタマイズすることで生じる利点を上手く活かしきれていない。見逃しがたいのは、既製品のほうがよほど気持ちよさそうだという点にある。本体をバラバラにしてしまうことにより、微妙な隙間ができ、それが質感のまさしく質を下げてしまうのである。

「まったくキミたちはバカにしている。本物をその身にくっつけておきながらいったいこの体たらくはなんなんだ」

「なんなのだと言われましても。ねえ?」

 私は助け船を求めた。江音間さんを見遣る。

「おやおや、どこがダメでしたかねぇ」

 背後で作業をしていた江音間さんはデスクから離れ、こちらにやってくる。無駄に白衣姿なのは彼女なりのやる気の現れであるようで、くいとやったメガネには度が入っていない。

 木偶乃くんを椅子に座らせ、それからコーヒーを淹れ、じっくり話す態勢をつくってから江音間さんはつぶさに話を聞いていく。さりげなく私に部屋のキィを手渡したところを鑑みれば、今しばらくそとで時間をつぶしてくるのがよいですよ、という彼女なりの配慮が見え隠れする。たしかに私がこの場にいれば、否応なくわがままプリンスのまさしくプリプリした声を聞く羽目になり、十中八九私は嘴を挟んでしまうだろう、さすれば第三次プリンス大戦が勃発しかねない。

 ことのほかプリンスの扱いに慣れている江音間さんの好意に私は甘えることにし、いましばらく研究室をあとにした。

 餃子専門店(仮)で早めの夕食をとってから研究室に戻ると、とっくにいなくなっていると思っていた木偶乃くんが未だに江音間さんと向き合って言葉を交わしていた。

「あ、先輩おかりなさい」

 今の今まで江音間さんは腹を抱えて笑っていた。振り返った木偶乃くんは何やら腑に落ちない顔で、しかし敵意のまったくない仏頂面をこちらへ向け、それから数秒の間を置き、

「きょうのところは帰ります」

 立ち上がり、すたこらと研究室を出ていこうとする、さっさとである。私を素通りし、扉を開けたところで立ち止まり、

「きょうは貴重な意見をありがとうございました」

 江音間さんをしっかり見据え、こちらには一瞥もくれずに去っていった。

「どうやったの江音間さん」

 お土産の餃子を手渡しがてら私は、あの堅物プリンスをどうやって手懐けたのか、江音間さんの魔法の正体に迫る。

「うひょー、うまそうでごわす。先輩ありがとうございます」

 やったー、と江音間さんは餃子に夢中になり、答えをお預けされたのが気に喰わない私は、だから、

「どうやったんですか江音間さん」

 餃子をとりあげ、割り箸をカチカチ素振りする物欲しげな江音間さんを脅迫する。「答えてくれたら食べさせてあげる」

「どうやったもなにもただ話を聞かせてもらっただけですよぉ。今はドライオーガズムについての教鞭にあやかってました」

「ドライオーガズム? アナニーのやつでしょそれ」

「お尻の穴じゃなくてもドライでイケる方法があるらしいんですよねぇ。まあまあ先輩、そんなことはどうでもよろしいじゃないですか。はやくはやく」

「ダメです。もっと聞かせて」

「やだやだお腹減った。あ、さては先輩、あたしをいじめて楽しんでるな」

 江音間さんは割り箸のさきっぽをひもじそうに舐めている。

「もうすこし身になる話はなかったの」

「身になる話しかなかったですよ?」

「たとえば?」

「そうですねぇ。たとえば先輩もご存じのようにオナホールって貫通式とそうでないタイプがあるんですけれども、貫通式はそれこそ紙を丸めたみたいに筒になっているじゃないですか。だから本体にあまり負担がかからないので長持ちするらしいんですけれど、その点、空気が抜けちゃうので吸引力には期待できないんですねぇ。で、本物の膣みたいに先っちょが袋小路になっているタイプの、非貫通式のオナホだと乱暴に扱うと裂けちゃったりして、耐久性に難アリなんだそうで。でも、密閉されている分、そちらは吸盤みたいに吸引力が生まれますから、気持ちいいのは断然、非貫通型のほうなんですって」

「いやいや江音間さん。そんなの常識よ常識」

「常識ではないと思いますけれども、まあほかにも色々とプリンス先輩の話はとても参考になりましたよ。大手の【コレゾー会館】なんかは、奇抜なオナホを開発させたら右に出る者はないと謳われる大企業じゃないですか。プリンスほどの逸材ならばそっちに就職できたんじゃないんですか、なんでうちの会社なんか受けちゃったんですかねぇ、などと訊ねてみますれば、いちおう面接は受けたには受けていたみたいなんですよねぇ。けれども面接官の女性がずいぶんと高圧的で、嫌な感じだったみたいで、けっきょく第二志望のうちにしたという話でした」

「うん。すごくどうでもいい」

 私のぼやきもなんのその、江音間さんは、あーあ、と箸をちゅぱちゅぱさせながら、

「男のひとはズルいですよねぇ」と嘆く。「自分の肉体で以って試作品を試せるんですから。あたしら女性陣だけで新型オナホをつくろうぜってのはやっぱり無理があるなぁとあたしなぞは思っていたところなので、実体験としての感想をいただけるのは、素直にありがたいものがある。でもどうしてでしょうかねぇ。いっしょにつくりませんかって誘ってみたんですけれども断られちゃいました。いけずな殿方だ。なんでじゃろ?」

 棚のうえを覗き見る猫のような仕草で江音間さんは私の手中にある餃子の詰まった箱に手を伸ばす。

「試作品の感想もらったの? それそれ、そここそ重要でしょうよ。もうすこし詳しく聞かせなさい」

「先輩、性格変わりました? なんだかとってもいじわるですよ」

 言いながらも、餃子の箱を明け渡すと、彼女は餃子をモグモグ啄みながら、オナホプリンスから聞きだしたという話を語って聞かせてくれるのである。


(7)

 終電に乗り遅れまいと走って駅に向かうが、間に合わず、会社に戻る気力も湧かないので折衷案としてタクシーに乗りこんだ。家に着くまでのあいだ、家に着いたあと、脱衣所で衣服を脱ぎ散らかしているあいだ、私はずっと江音間さんから聞いた話があたまから離れなかった。

「盲点だった」

 お湯をじゃびじゃび浴びながら、男性器の思いのほか複雑な性感帯の分布図にあたまを悩ませる。

 女性器の性感帯は基本的に陰核、すなわちクリトリスの一本柱で成り立っている。膣内のGスポットやボルチオ性感帯などいくつかのポイントがあるとはいえ、それを性感帯として機能させるまでには相応の時間と手間をかけなくてはならず、言い換えれば開発なしには成し得ない。ゆえに基本的には陰茎、すなわちクリトリスの一点集中型を以って性感帯と見做すことができるわけだけれど、男性器においても私はこの構図を当てはめてしまっていた。

 よもや男性器の性感帯が多層構造を成していたなんて。

「プリンス先輩いわく」

 江音間さんはこう述懐した。「男性器は亀頭だけでもざっと四つの性感帯があるらしいんですねぇ。表と裏、そして先っちょ、さらには内部の海綿体の四つです。加えて亀頭の付け根たるカリの部位はむろんのこと、尿道や、それそのものの付け根、極めつけは二個も搭載されているゴールデンボールことタマタマと、全体では合計で八つの基礎性感帯があるようでして。それを考慮に入れてオナホールの内部構造を構成しないことにはとてもとてもオナホールとは呼べない、呼ぶべきではない【モドキモドキ】しか作れないのだと、かのプリンス氏は豪語しておりました。ちなみにあたし的翻訳機能をOFFしてみますれば、プリンス先輩のご高説はこうなりますかね」

 あなたたちのそれはオナホールを侮辱している。

 嬉々として語る江音間さんにはわるいのだけれども私は久しく抱かなかった怒りを覚えていた。

 こちとら男性器よりもそれらしいディルドやバイブを企画しつづけてきたその道のプロである。使えもしない本物をぶらさげている木偶乃くんなんて正真正銘、偽物以下のデクノボウではないか。

 性感帯の多様性については盲点ではあった。けれどもだからといって私たちの【江音間式∞】がオナホールを侮辱しているなんてことはあり得ない。言われる筋合いなんて毛頭ない。

「おやおや先輩、寝不足ですか」

 翌日、研究室に向かうと一足先に出社していた江音間さんが既存のオナホ製品にディルドを突っこんで遊んでいる最中だった。彼女は目元をゆびで撫でるようにし、おめめの下にクマさんが、と揶揄するでもなく揶揄してくる。

「徹夜で考えてみたんだけどね」私はさっそく一晩考え抜いて搾り出した改善点を伝える。「基本的にオナホールは、こう、男のひとのソレ――っていうか面倒だから言っちゃうけど、ペニスを出し入れして使うわけでしょ」

「まあそうですねぇ」

「でも私たちのコレは、飽くまで根元までペニスを挿入した状態を想定して、どうすればペニスにフィットした内部構造を作れるのかを意識してつくっているわけで」

「さきっちょを包みこんで離さない構造は我ながら画期的だと思いますけれども」

 得意げな江音間さんに微笑みを返してから私は、でも、と続ける。「ペニスが出入りする以上、内部構造は常に変化してしまうわけで」と問題点をはっきりさせる。

「たしかにそうですけれども、それはでも仕方なくないですかぁ?」

「うん仕方ない。どこの企業もそう考えているはず。だからこそ、そこを妥協しないことで私たちの【江音間式∞】は揺るぎない個性を得るんじゃないかなって」

「なにか閃いちゃったんですね先輩」江音間さんは身を乗りだすようにした。

「うん。もし、もしね。出し入れするたびにオナホールのほうで自ずから変形して、ペニスにフィットするとしたら」

 ほほぅ、と江音間さんは唸った。「まさしくゆいいつムニムニのオナホールになりますねぇ。でもどうやって?」

「内部素材をジェルにしてみたらどうかなって」

「ジェルに?」

「うん」

 私はそこで、江音間さんが江音間式三百をお披露目したときの情景を思いだす。江音間式∞の原型である簡易オナホの素材に、江音間さんは、ワンコインセンターからいくつかの素材を選び、仕入れていた。そのなかには、アロマビーズなる代物があった。ビー玉ほどの大きさのジェルの塊が、カエルの卵なみにウジャウジャと袋に詰めこまれているのである。詰め替え用のそれは商品で、私はそれを利用して簡易オナホを作ってみた。

 ビニール手袋を二枚重ねにすることで、アロマビーズを緩衝剤にすることに成功した。ジュースの入った紙コップのうえからさらに紙コップを重ねるような構造だ。オナホとしての形状を保つためにそれらをガラス瓶に突っ込むとよい。穴にディルドを挿入するたびに、内部のビーズが自ずから動き、穴の形状を逐一ディルドにあった形状に変質させる。

「でもそれだけだとたぶん、シリコン製の樹脂を素材に使うのと内部の圧力変化はそう変わらないと思うの。だから、穴のほうをわざと浅くしてみたらどうかなと思って」

「浅くしちゃうんですか? え、でもだってあたしたちの企画ってジャストフィット、ゆいいつムニムニのあなただけのオナホール――ですよ。穴を浅くって、そりゃ本末転倒もいいところってもんじゃ……」

「最初から奥まで空洞が開いているから内部の圧力が変わらないと思うの。だから敢えて穴を浅くすることで、奥に突っこめば突っこむほどギュウギュウ包まれるような構造にならないかなって」

 イメージは米ぬかだ。端から空いている穴に手を突っこんでもさほど抵抗なくぬか底に手が届く。けれども穴のない状態で手を突っこめば、まとわりつく感触を伴って米ぬかがまさしく腕を呑みこんでいく。伸縮性の高い皮膜を用いればその感触を延々と再現できるのではないか。オナホールの胴体部をジェルで満たし、伸縮性の高い被膜で穴を形成する。ビニール手袋全体を使うのではなく、ビニール手袋のゆびの部位を穴とするような、そういった発想の転換だ。

「なるほど、新しいですねぇ」

「シリコン重視に考えていた素材を、ジェルとゴムに視野を広げて、もういちどはじめから試作品(モデル)を練ってみましょう」

「うおー、なんだかわくわくしてきますねぇ」

「うん。私もなんだかやる気が湧いてきた」

 江音間さんのおかげだね、と私は富士山の高さまで後輩を持ち上げる。

「いやいやそんなそんな」江音間さんは椅子ごとクルクル回転した。顔のまえで手を振りながら、もう一方の手でうなじを掻く。「もっと褒めてくれてもいいんですぜ」


(8)

 日課ができた。正午過ぎになると昼食をとるべく研究室を脱する。研究室を離れようとしない江音間さんの分の昼食を調達してこなければならないから、というのも理由の一つではあったけれど、どちらかといえばそれは建前のようなものであり、賞味、本音を披歴するならば、私が席を外した隙を見計らってオナホ王子こと木偶乃くんが研究室にやってくるようになってしまったからである。

「なんなのあのひと。当てつけみたく私がいなくなるのを見計らって」

 忘れ物をとりに戻ったとき、部屋に入ろうとしていた木偶乃くんがこちらに気づいた途端に、ドアノブから手を離し、一目散に踵を返したことがあった。

「意識しすぎですよねぇ」

「江音間さんは嫌われてなくていいね」皮肉を口にするも、

「先輩こそ好かれてていいですねぇ」

 造作もなく返され、閉口する。このころになると私はもう六つ下の江音間さんを後輩だとは思えなくなっていた。

「江音間さんはなんというか、私がこれまで会ってきたどんな人間よりもヘンテコで興味深い人物かもしれない」

「光栄ですなぁ」言ってから江音間さんは頬張っていたお手製のサンドウィッチを齧るのをやめ、あれでも、とこちらを向いた。「だって先輩、むかし露出狂に遭ったことがあるとかなんとか言ってませんでしたっけ」

「うん、だから自信を持っていいと思う。江音間さんは露出狂なんかには負けないよ」

「先輩のほうこそなかなか濃ゆいキャラしてますよ」目を細められる。「ざんねんながら一番ではないですけれども」

「それって木偶乃くんがいるから?」

「あは。あのひともなかなかどうして濃厚ですよねぇ。でももっと色々いるんですよ。世の中って広い。ただ、そうだなぁ、十本のゆびには入るかも分かりませんなぁ」

 いったいどんな人生を歩んできたのだろうこのコは。

 そして一番ではないと知らされ、ちょぴっと悔しいのはなぜなのか。

 ひと月も経つと研究室は半ば江音間さんの自室めいた様相を呈しはじめた。連日泊りがけで研究室に居座るのはもはや日常となりつつあり、気づくとタンスやベッドなど、研究室にはそぐわない家具が一つ二つと増えている。

「家に帰ったほうがいいんじゃないかな」私は不安になった。

「どうしてですかぁ。あ、分かっちゃった。さては先輩、あたしが邪魔だな」

「そんなわけないでしょ。江音間さんが倒れちゃわないか、私、心配で心配で」

「それはそれは」江音間さんはなぜかこちらの裾にゆびを擦りつけてくる。ついた汚れはイチゴジャムの匂いがした。「しかしながら心配ご無用ですよ先輩」

 ゴム不要ですよ先輩、と彼女は意味もなく言い換える。「なにせあたしは夜になればそこのベッドでぐーすかぴっぴ、充分に英気を養っておりますから」

「でもたまに帰らないと家のなかがカビちゃうよ」

「ノープログレム。なんせあたし、アパートはとっくに引き払っちゃってますからねぇ」

「あはは」

 笑ってみせるも、江音間さんは表情を崩さない。「冗談だよね?」

「あたし、親から冗談の言い方って習ってないんですよねぇ」

 そのセリフそのものが冗談であるという高等なギャグかとも思えたけれども、江音間さんは至極まともに大真面目だった。「そうそう、そろそろ住民票のほうも書き換えとかなきゃって思ってたんだった。ここって先輩、何号室でしたっけ? 研究室じゃ通じないですよねぇやっぱし」

 言葉を失ったのはけれども、江音間さんのその言葉を聞いたあと、後輩の向こう見ずな生活態度を改めさせるべく社長に進言しに行ってからのことで、まあいいんじゃない、と飄々と、ほんとうに真実偽りなく何でもなさそうに口にした社長の惚けた言葉を聞いてからだった。

「社長!」

「いいじゃない、いいじゃない。仕事とプライベートが一緒くたなんて、社員の鑑じゃないか。べつに依怙贔屓なんかしないよ。丹久場くんも住みたかったらいっしょに住んだっていいんだもの。家賃のほうは格安にしといたげるからさ」

 私は思うのである。なにゆえこの国の法律には、ネジのぶっとんだ経営者をクビにする権限を真面目な社員に与えておらんのかと。

「そりゃクビにされたら困っちゃうからだよ」社長は私のぼやきを耳ざとく拾った。「この国はね、民主主義を謳っておきながら、じっさいのところはネジのぶっとんだ経営者たちが牛耳っているのさ」

「世も末ですね」

「いいじゃない、いいじゃない。そのおかげで国民は真面目ぶっていられるんだからさ。ネジぶっとばすのも楽じゃないよ」

 頭のよこでクルクルパーをしながら社長は去っていく。なぜか私が社長室に残された。部屋を見渡す。模様替えでもしてやろうか。

 ふとデスクのうえの写真に目が留まった。社長が撮ったものなのだろうか。社長の姿はなく、レトリバーとじゃれくりあっている少女と、それを微笑ましく眺めている女性の姿が映っている。奥さんだろうか。社長よりも一回りは若くみえる。

 ペン立てから油性マジックを取りだし、いたずら書きをしてさしあげた。写真立てのガラスの上からだので写真そのものは汚れない。

「ま、こんなもんかな」

 吹きだしをつけ、娘たちに、パパ臭い、と言わせてさしあげた。無邪気に笑っている写真なだけに異様さが際立つ。

 口に咥えていたキャップをマジックにハメ戻したところで扉が開いた。

「失礼します、呼ばれたようですが、要件は……」

 木偶乃くんだった。いるはずの社長がおらず、代わりにデスクに尻を乗っけてマジックペン片手に写真立てとにらめっこをしている私がいたのだからさぞかし状況把握に戸惑ったことだろう。予想に反して木偶乃くんは飲みこみがはやかった。

「いい歳してなにやってんですかあなたは」

「いたずら書き?」

「しょうじきに白状したからってなんでも許されるとお思いですか」

「時と場合によるかも」

「社長のお気に入りですよそれ」木偶乃くんは目だけで写真立てを示した。「あなたもあなたなら社長も社長だ」と続けてぼやく。「いい歳して自分の娘ほどのアイドルに熱をあげるなんて」

「アイドル? え、これって社長のお子さんたちじゃ」

「あのエロおやじからこんな天使が産まれてたまりますか」

「あら辛辣。でも二次元の美少女たちだってその作者はみんなエロおやじだよ?」

 アニメオタクの側面を兼ね備えるプリンスをからかうも、

「だから奇跡の産物なんですよ」と難なく返され、閉口する。「崇め奉るのはぼくらの義務です」

「なるほど」

 感心してしまった。ばかじゃないの、と思うよりもさきに、たしかにそのとおりだと腑に落ちた。二次元に限らず、どんな美少女だってけっきょくのところはオッサンの子供なのである。父親の性器を通って発射された精子によって生成されている。

「ところで社長はどこですか」

「さあ」首をひねってみせる。

「いじわるしてます?」

「どうしてきみたちはすぐにそう、私をいじめっこみたいに言うかなぁ」

 江音間さんといい、木偶乃くんといい、みんな私の本質を見誤っている。

「社長がいないんなら、ぼくはこれにて」

「ちょっと待ちなさい」

 ここで会ったが百年目。いい機会だ。先輩としての威厳を示しておこう。「さいきん、うちの後輩がお世話になっているみたいですね。感謝申し上げます」

 まずは目上の者としての余裕を醸してから、

「ですが」

 すかさず本題を突きつける。「部外者のあなたにとやかく言われる筋合いは、あいにくとうちの後輩にも、もちろん私にだってありません。新型オナホの開発は基本的に私と江音間さんに託されています。いちおう補助メンバーたる木偶乃くんの意見ですから、参考までに拝聴してあげても構わないのですが、企画会議の場でああも啖呵を切っておきながら私への挨拶もなしにうちの後輩を懐柔しようだなんてそうは布団屋さんが下ろしませんよ」

「卸さないのはふつう、問屋さんでは?」

「どうでもいいことに突っかかるその癖を直しなさいと私は言っているのです」

「突っかかる?」

 木偶乃くんはドアノブから手を離し、こちらに向き直った。「丹久場先輩のほうこそぼくに突っかかってるだけじゃないですか。ぼくはただ理想のオナホールをつくりたいだけだ。あなた方の作ろうとしているモノは根本的に間違っている」

「具体的にどこがダメなの。文句ばかり言ってないで提案してよ」

「だからしているでしょう。あなただって江音間さんから話を聞いたから試作品を練り直した癖に」

 図星だった。腹が立ち、腹が立ったことでまさにそこが気に喰わなかったのだと気がついた。

「だからどうして私ではなく江音間さんなんですか」と口を衝いたじぶんの言葉に驚く。

「どうして? だって丹久場先輩、あなたはぼくの話なんかまともにとりあってくれないじゃないですか。今だってそうだ」

「それはあなたが」

「そうやってなんでもかでもぼくのせいにする。丹久場先輩よりも江音間さんのほうがよっぽどリーダーとしての素質がありますよ。たとえ社長がリーダーでも、あなたよりかはずっとマシだ」

 未だかつてない最大級の侮辱だった。

 私が社長以下? 

 ミジンコ以下だと詰られたほうがまだ救いがある。だから私はそう言った。「社長となんて比べないでよ、せめてミジンコ以下って言え!」

 叫んだところで木偶乃くんがよろけた。私の言葉にひるんだのではなく、背にしていた扉が開いたのだ。最初からすこし開いていたらしく、ドアノブが回った素振りはない。開いた隙間からのそのそと顔を覗かせたのは、まさしく今私が比較されたくない相手全世界ランキング一位だと叫び、事実上ミジンコ以下だと糾弾した相手だった。

「ごめんねぇ。聞かなかったフリをしようかとも思ったんだけどさ。となりのフロアまで筒抜けで。ほら、ボクにも立場ってものがあるし、うん、ね? だからもうしわけないんだけど、すこしばかし苦言を言わせてね」

 社長はこちらの胸が痛くなるほど覇気のない顔つきで、

「いろいろ思うところはあるだろうけど」とほころびた。「ボクへの悪口大会は、もうすこし静かにね」

 社長が失踪した。

 社内にそんな噂が出回りはじめたのは、この三日後のことである。


(9)

「どうしたんでしょうね、社長。失踪しそうな方だなぁとは思ってはいましたけれども、まさかまさか本当に失踪しちゃうとは。さすがは先輩たちを雇ったお方なだけのことはある」

 内圧計の搭載されたディルドを駆使して江音間式∞の試作品をヌポヌポ云わせながら江音間さんは、

 失踪といえば、と顔をあげる。「先輩知ってました? バイブ部門の新作が盗まれたって。リリース前のやつ」

「え、うそ」

 いそいで頭を起こしたらデスクのカドに頭をぶつけた。探し当てた特注のローションを手渡しがてら、

「初耳なんだけど」

 江音間さんに迫る。「それってもしかして【イヴ】のこと?」

「どうどう、先輩。鼻の穴が丸見えですよ」

「だって、あれはだって、【イヴ】はさあ」

「ありゃりゃ。ご乱心であそばれる。ん? 【イヴ】って、先輩のお名前とおんなじですねぇ。さては偶然ではないな」

「そうなの、そう。だってあれは」

 私が初めて企画し、世に出せるはずだったディルドなのだから。

 理想の、ディルドだったのだから。

「盗まれたってどういうこと」

「まんまの意味ですよ。ああ、先輩って前の担当、ディルドでしたっけ」

「うん。社長から指示されてコッチに移ったけど、ホントは最後までやりたかったのに、コッチの指揮とることになっちゃったし、だから引き継ぎしたんだけど」

 本当のところは社長に無理やり鞍替えさせられただけなのだけれど。

「おやおや、ひょっとして担当だったんですか。盗まれた秘宝の」

「でも噂でしょ?」

 真実に盗まれたとするよりも企画がポシャッタと考えたほうがより現実的だ。

 私の企画したそれは、江音間式∞と通ずるものがある。実際の男性器のように伸縮自在、膨張自在のディルドを開発していた。ずばり、あなただけのパートナーを、である。

 完成試作品ができあがっていたのは知っている。それをして引き継ぎを承諾したようなものだからだ。実質私の産みだした品である。作品と言い換えてもいい。芸術作品とまで言ってしまいたいところであるのだけれども、そこまでいくと過剰に親ばかだと分析できないこともなく、あいだをとって商品と呼んでおく。

「ちょっと私出てきていい?」

「どちらへ? お昼までにはまだ時間がありますけれども」

「わかってるくせに」

「夕方までにはいちど戻ってきてくだされ」

「話聞いてくるだけだし、だいじょうぶ。餃子のおみやげも楽しみにしてて」

「やったー。してるしてる。ちょー楽しみ」

 いちおう貴重品を持ち、扉のまえに立つと、

「あ、先輩」

 呼び止められた。

「ん?」

「怒ってます?」

「なんで?」

 江音間さんはこちらを向かぬまま、江音間式∞の試作品にローションをそそいでいる。


(10)

 懐かしき古巣、女性用性玩具専門部署の扉を叩くと、出迎えたのは私の案件を引き継いだ楼田(ろうた)さんだった。

「あらやだ丹久場さん、どうしたのいったい。めっきり顔もださないで、ご無沙汰じゃないの」

「それは今ごろなにしにきやがったという遠回しの嫌味ですか」

「そうとも言う」

「相変わらず辛辣なのか親切なのか分からない方ですね」

「で、どうしたの。あ、分かっちゃった。噂聞いたんでしょ」

「はい。【イヴ】の企画がご破算になったと小耳に挟んだのですが、楼田さんにかぎってそんなことはないだろうなぁと半信半疑に確かめに来ました」

「それはコイツだったらやりかねないぞ、という遠回しの皮肉かな」

「そうとも言います」

「まあまあ、言ってくれるわね」

 軽口を叩きあい久闊を叙しがてら、通された応接間のソファに腰掛ける。

「コーヒーでいい?」

「お気遣いなく」

 言いながら、楼田さんを観察する。長髪から短髪へと髪型が変わったところ以外での変化はこれといって見受けられない。「話を聞いたらすぐにお暇します」

「その話ってのが長引きそうだからさ」

 去っていく楼田さんのほかに、社員は数人しかいないようだ。みな営業に出張っているのだろう。同じ社内にいても部署がちがえば顔を合わせる機会はそうそう巡ってこなくなる。

「伊香川さんはどう?」と目のまえにカップを置かれる。「あのおやじ、うまくやってる?」

「相変わらずチャランポランに磨きをかけてます。面倒な仕事はぜんぶ部下に。自分は上のご機嫌取り」

「信用されてるってことでしょ」むかしからこのひとは伊香川さんの肩を持つ。「ご機嫌取りだって見方によっちゃ、部下のミスの尻拭いだと言えなくもないんだから」

「そうかもしれないですね」いちおう同意しておく。

「でもたしかにちょっと、社長のダメな部分を真似しすぎかなとは思うけど」

「そうでしょ、そうでしょ」

 まえのめりになりかけたじぶんを認識し、いったい何をしに来たのかと、いまいちどじぶんに言い聞かせる。

 咳払いをする。

「で、どうして【イヴ】が未だに世に出されていないんですか」襟を正し、本題に入る。「試作品は完成していたし、あとは商品にして売りにだすだけだったのに」

「社長の許可が下りなかったのよ」

「うそですね。私はじかに社長と交渉して、予算の上乗せを認めてもらいました」

「そのあとでやっぱりアレなしで、と言われたの。うそじゃないわ」

「なら社長にその真意を問うまでです」

 席を立つこちらの腕をとって、楼田さんは、座って、と声を鎮めた。

「あなたちょっと頭に血がのぼりすぎじゃない? どうしちゃったのいったい。ここにいたときはもっと、小屋の片隅でニンジン齧ってるウサギちゃんみたいだったのに」

「年中発情してたって言いたいんですか」

「ほらほら、そういうとこ。ずいぶん変わっちゃったわね。誰の影響? まあそういうあなたも嫌いじゃないけど、でももっと冷静になりないさいな。問いただすったって肝心の社長がいないんじゃ、どうしようもないじゃない」

 そうだった、とじぶんの間抜け具合を認識する。

「思うに」楼田さんはあごに手を添える。「社長はたぶん、【イヴ】のカスタマイズっていう企画の目玉が、ユーザーにとっての足枷になるんじゃないかって考えたんだと思うの」

「それは、どういう」

「長所のはずが、欠点になってしまうということ」

「それは解りますけど」

「いいえ分かってない。長所であり欠点である、ではないの。長所が長所ではなかったってこと」

 みたび頭が沸騰しそうになり、大きく息を吸い、落ち着かせる。自制できたのは、先刻それを指摘されたばかりだからで、幼稚な発言、それはもはや逆上と呼ぶべき痴態であるのだけれども、晒さずに済んだのは、悔しいことに目のまえの、ゆいいつこの会社にあって尊敬している先輩のおかげだった。

「楼田さんの口ぶりはまるで」

 私はかろうじて反論する。「社長からは何の説明もなくプロジェクトがご破算になったように聞こえます」

「まるでではなく、まさにその通りね。社長はいっさい説明なしに、【それちょっとタンマ】と言って、完成した試作品を持って、そのまま行方知らず」

「社長が盗んだんですか」

「盗んだというのとはちょっとちがうけど、まあ事の真相を言うならば、そうね。社長が犯人ってわけ」

「なんでそんなことを」

「さあ。もしかしたら他社に売りつけに行ったんじゃないかってわたしたちは話してるけど」

 企業スパイが社長そのものだなんて、いったいどんな灯台下暗しだ。

「そんな冗談は聞きたくありません」

「冗談に聞こえた?」

 言いかえされ、鼻白む。考えてもみれば、あのチャランポランのことだ、さもありなんではないか。

 いやいや。

 私はブルブル首を振る。

 いくらなんでも自社の製品を持ちだして他社に売りつけにいくなど、そんなアホウな真似はしないだろう。よしんばするにしたって、まずは自社から売りだしてみて、売上が伸び悩んでからでも遅くはない。

「考えこむだけ無駄だってば」

 楼田さんはこちらのみけんを、ツンと押した。「あのバカの考えなんてお釈迦さまにだって解りゃしないわよ。それこそ悩むだけバカを見る。そんなバカの下に集まって働こうだなんて考えてしまった思慮浅き自分たちを呪いましょ」

 いつもこうして最後は、議論し対立していたはずの楼田さんから運命共同体のような仲間意識を植えつけられてしまう。宇宙人が攻めてきたので人類は団結しました。手あかが付きすぎてあべこべに新鮮に感じられるエンターテインメント映画さながらの単純さだ。

 その単純さが心地よく感じられてしまう手前、未だに楼田さんは楼田さんなのだと妙に胸が軽くなる。

 そうそうプリンスとおんなじ部署なんだって?

 社内に備蓄されているおやつ、多くは出張にいった社員たちのお土産なのだけれども、楼田さんはそれを豪快にテーブルのうえにぶちまけた。コインサイズのせんべいが、ご丁寧にも一個ずつ包装されている。つまみとると、中身を取りだし、楼田さんは口のなかに放った。ばりばり、ぼりぼり。お茶を口に含み、さらにばりばり、ぼりぼり。

 楼田さんに倣ったわけでもないのだけれど、私もつづいてばりばり、ぼりぼり。

 沈黙がつづく。楼田さんはいやがうえにでも、つぎの一言を私から引き出そうとしているようだ。

「木偶乃くんとは、はい」不承不承、応じた。「同じプロジェクトを任されてはいます」

「ふうん。で、どうだった」

「どうだったとはなんですか」

「わたしの見立てでは、ものすごーく意気投合するか、ものすごーく険悪な仲になるかのどちらかだと思ってたんだけど」

「楼田さんの見識眼も大したことないですね」

「あら。そんなに反りが合わなかったの」

「私たち、来月結婚するんです」

「あらやだ」

 楼田さんは手にしていたお茶を置き、それから私の顔をまじまじと見てから、お腹を抱えて笑いだした。しばらくのあいだ応接間に魔女の哄笑が反響する。「あーおかしい、どうしちゃったのあなた、だってそんなジョーク。うふふ。死んだって聞けないと思ってたのに」

 なんでもお見通しだとでも言わんばかりの楼田さんが癪だったので一発担いでやろうと企んでみたのだけれども、裏目に出てしまったようである。無駄に楽しませてしまった。

「そっか、そっか。そんなにねぇ」

「分かったような口を叩かないでください」

「うんうん。そうだよね、ごめんなさい」

 目じりを下げたまま、目元を拭うようにし、それでもやはり楼田さんは目じりを下げたままこちらを見た。私は気まずさを持て余し、意味もなく湯呑を口に運ぶ。

「オナホ界のプリンスと、ディルド界のプリンセス。二つを掛けあわせたらもっとおもしろいものができるんじゃないかって、じつはそう社長に進言したのってわたしなのよね」

 まったくこのひとはいつまでも私を出来損ない扱いして、まったく。

 頭のなかでやさぐれていると、不意に、おや、と引っかかる。今しがた聞き逃しがたい、なにかしらを聞き逃してしまったような。

「なんですと?」

「やだなぁに、その言い方。丹久場さんったら古くさい」

 じっと睨み据えると、楼田さんは、笑みを絶やさぬままに、だからね、と言った。「わたしが進言したの。社長に。こういう言い方はしたくはないんだけど、でも、そうね。わたしがあなたから、あなたのプロジェクトを奪ってしまったようなものなのかもしれない。そういうつもりはなかったんだけど、でもそうなるのよね。ずっと言いだせなくて」

 楼田さんはそこでスっと背筋を伸ばし、せんべいを口に挟んだまま、

「ごめんなさい」

 つむじをこちらに見せつけるようにした。

 きれいなつむじではあるけれども、見せられたところできれいですねとは言えないし、これがもし謝罪であるのならばせめてせんべいは口から外すべきである。

「許してほしいとは思わないの。ただ、けっきょくわたしはあなたから引き継いだプロジェクトをご破算にしてしまったし、きっとあなたがそのまま推し進めていれば、社長が撤回することもなかったように思うの。たとえ社長が言いだしたとしても、あなたならきっとそんなことはさせなかったと思うし」

 それはそうだろう。すくなくとも理由をきちんと両耳揃えて話してくれるまでは相手がたとい某国の大統領だろうと、仮に織田信長であったって勝手な真似はさせやしない。

「わたしからのお話は以上でおわり。いっぽうてきに鬱憤を晴らしてしまったようでわるいとは思うし、謝罪を受け入れてほしいってほどでもないから、あとは丹久場さんの好きにして。なにか質問があれば答えられる範囲でなら答えてあげるし、意趣返しがしたいなら甘んじて受けて立つ心構えはわたしにはあるの」

「受けて立っちゃうんですか」

「そう言ったつもりだけど?」

「なんてひと」

 筋だけ通して容赦なし。まるで割った竹で猪突を狩るような性格だ。

 これ以上の会話は無意味である。無意味である以上に無駄であり、こちらの負担だけがいっぽうてきに嵩んでいく。私は早々に話を切り上げた。聞きたい話は聞けたかというとそうというほどでもないのだけれども、この際だからそういうことにしておこう。そうでないとまるで私が先輩であるところの楼田さんをまえにし、あたかも怖気づいて撤退するようで、もちろんそんな穿った見方はまったくの無実無根なのだけれども、コンコンチキなのだけれども、そう思われてしまうのは癪なので、レモンの汁は残さずすべて搾りました、ここにあるのは総じてカスである、疑問はどこにもないでござる、そういうことにしておく。

「あらもう行っちゃうの」

 席を立つと、楼田さんはせんべいをばりばりぼりぼり溢しながら、「もうすこしいればいいのに」とさらにばりばりぼりぼり音を立てた。

「楼田さん方は推進しなくてはならないプロジェクトがないようなのでそのような暢気なセリフを言えるのでしょう。しかしながら私にはなさなくてはならないプロジェクトが目白押しなので」

「オナホ以外にもあるの? プロジェクトとやらが」

「目白押しは言いすぎました。言葉の綾です」

「しまらないわね」

「ともかく」私は主張を押し通す。「こんどこそ私は成功させなければならないのです。この手で、理想の商品を、それを求めているお客さまにお届けしなくてはならないのです。これは使命なのです。私がなぜこの会社に入ったのか、楼田さんはご存じのはずではないですか」

「なんでだっけ?」

「こらーーーっ!」

「うそうそ。おちんちんに興味があったんでしょ」

「言い方、言い方!」

「女の子にはない男陣特有の器官、きっとそれを持たないがためにできることがあるはずだ。幼き日の丹久場ちゃんはそう考えたのよね」

「幼き日というほどむかしではないのですけど」

 就職志望動機を胸に抱くのなんて、それこそ志望動機とはなんじゃらほい、と問いかけられてからと相場は決まっている。

「ともかく」

 私はさらに主張を押し通した。「何人たりとも私のプロジェクトを邪魔することは許しません。何人たりとも私から【江音間式∞】を取り上げられはしないのです。楼田さんですら例外ではありません。社長? そんなのはお話にもなりません。歯牙にもかけてはいませんね。もう二度と、私のジャマはしないでください」

「そのつもりだし、【イヴ】のときだってそのつもりはまったく」

 楼田さんは言葉を切り、「ええそうね」と言い直した。「もうジャマはしない。思う存分、やり遂げなさい」


(11)

 目標とすべき先輩からのお墨付きをもらったうえ、勢いよく啖呵まで切ってしまった手前、高揚しないほうが土台無理というものだ。私は大いに気を大きくした。餃子専門店(仮)にて江音間さんへのお土産を購入し、そのままの勢いで研究室へと帰還する。

「ただいま戻ったでござる」

 研究室の扉を勢いよく開けると、そこに江音間さんの姿はなく、椅子に座ってオナホールにゆびを突っこみ、しきりにクニクニしている真剣な眼差しの男がいた。断るまでもなく木偶乃くんである。

 私の時間は停止し、しかし木偶乃くんはやはりというべきかオナホールを愛撫するのにいそがしく、ややあってから彼はこちらを向いた。

「おかえりでござる」

 私の顔が火を噴いた。それはもう富士山ついに噴火ですかという規模での爆発である。

 顔面のあらゆる筋肉が私の意思を離れ好き勝手にしゃくとり虫の真似事をはじめよる。なんとか取り繕おうと口元を一文字に固く結ぶのだけれども、私の唇はもはや巨大なミミズとなってクネクネと容赦なく踊り狂うのである。

 目玉はクルクル回るのにいそがしく、きっときれいな螺旋を描いておることだろう。

 こちらの狼狽具合もなんのその、そっちのけで木偶乃くんはふたたびオナホールに向きなおる。

 ここにきてようやく私はなぜここにいるはずの江音間さんがおらず、いるはずのない木偶乃くんがいるのかを疑問するに至る。

「なんでここに?」

「ぼくがいるのか、ですか? 留守番を託されました」

「託されたって」

 駅伝のタスキじゃないんだから。

「江音間さんは?」

「用事があるとかで」木偶乃くんは肩を竦める。「鍵を失くしてしまったようで。研究室の。スペアはあなたに渡してしまったらしく、それで暇なぼくが代理であなた方のいないここを守っていたわけです」

 さいきん社内も物騒のようですし。

 木偶乃くんは淡々と言い、オナホール、それは江音間式∞の最新型の試作品だったのだけれど、やはりそれをクニクニして弄ぶ。表情の起伏のない顔なのにどうしてこうも仏頂面をしているように見えるのか。

「なにか不満が?」私は言った。

「あなたにですか」

「そっちはいつもでしょ。そうじゃなくて」

「ああ。これですか」木偶乃くんは試作品を掲げた。試作品にディルドを突っこみ、ヌポヌポ動かす。「そうですね。以前よりは、らしくはなっています。それにこのアイディアは素直に言って、感心しました。悔しいくらいです」

 言いながら木偶乃くんは試作品の底を押した。でっぱりがあり、それがポコンと引っこむ。

「疑似、子宮口」私はつぶやいている。

「子宮口そのものを付与するというアイディアはさほど珍しくはないのですが、ここぞというときに子宮口が降りてくる、という発想は、もし思い浮かんでもそれをオナホールに付属しようなんてふつうの神経では思いつきません」

 これはあなたが、と木偶乃くんはこちらに視線を飛ばす。すぐに試作品に向きなおる。

「私の発想かってこと? うん。オナホールってほら、内部圧を変えるのってなかなかむつかしいでしょ。緩衝剤をジェル状にして、さらに穴を浅くして、むりむり押しこむような構造にはしたけど、さらにもうひと押し、変化があってもいいんじゃないかなと思って」

「子宮口を降ろすことで、内部のジェルが圧縮され、内圧があがる。なかなかよくできていると思います」

「じつはそれ、木偶乃くんの助言がきっかけなんだ」言わなくてもよかったのに私はなぜか言っていた。「本物をつくるためにここにいる。木偶乃くんはそう言った。私はそれに反発した。でも、よく考えてみたら、まったくの別物で本物を越えることって原理上できないんじゃないかなって。だってそれはもう別物なわけでしょ。比べるものではなくなっちゃう。だから私、考えたんだ。本物よりも本物らしい偽物をつくってみようって」

 性行為の際、女性器は興奮の度合いがすすむにつれ、膣壁が充血し、よりペニスを圧迫する。さらには子宮口が降りてきて、受精しやすいようにとペニスの先端に吸いつくのである。

「こういう言い方は誤解を招くかもしれませんが」木偶乃くんはオナホールに目を落としたまま、「穴さえあればいい。そういうぼくら男の短絡的な考えにない、とても女性的な発想だと思います」

 褒めているのか蔑んでいるのか判断しにくい言葉を並べた。私はいいほうに解釈した。

「考えたのは私だけど、でも実装したの江音間さんだし、褒めるなら彼女にして」

「彼女も同じことを言っていましたよ」

 私はこのとき初めて彼の屈託のない微笑を目にした。「考えたのは先輩なので、ぜひその言葉は先輩に、と」

「江音間さん、イイコだから」

「そうですね」

 ためらいなく同意され、なぜか気分が優れない。暗に私がイイコではないと言われたように感じるのはただのひがみではあるので、ここで彼への反発心を抱くのはお門違いはもとより完全な八つ当たりではあるのだけれども、思ってしまうものは仕方がない。

 いけすかないやつ!


(12)

 けっきょく江音間さんは夜になっても戻ってこなかった。メディア端末で呼びかけてみても応答がなく、致し方なく私と木偶乃くんは戸締りをして研究室をあとにした。

「べつに待ってなくてもよかったのに」

「誰をですか?」

 留守番を頼まれて研究室に居座っていたならば、私が戻った時点でかれの役割は終えたはずだ。それでもなおかれは研究室に居座り、こうして戸締りをする段になるまで粘っている。

「よもや私を待っていたわけではないんでしょ。江音間さんしかいないじゃない」

「なにを怒っているんですかあなたは」

 言われたからでもないけれど、不機嫌になっているじぶんを認識し、なんじゃこりゃ、とさらに苛立ちを募らせる。

「では、ぼくはこれにて」

 社のそとに出た途端、かれはそそくさと駅のほうへと歩きだす。

 あのやろう。

 帰る方向がどっちかくらい訊いていけ。

 私だってそちらが帰り道なのである。ストーカーと思われるのは癪なのでしぜん、歩が止まる。

 私は悩んだ挙句、いちど社内に戻ることにした。忘れ物を取りに戻った体を装い、時間差で駅まで向かおうと企てる。

「なんで私がこんな真似を」

 ぼやきながら、頭の中で、あなたも変わったわねぇ、といった楼田さんの声が聞こえたような気がした。たしかにちょっと短気になってしまったかもわからんね。その意見を鋭いと認めるのにやぶさかではない。

 研究室のあるフロアに着くと、まっくらやみだった。社内には残っている社員がまだいるはずであり、歩けば自動で明かりが灯るはずなのだけれど、廊下は暗闇のままで、私をすっぽり包みこんでおる。

 これといって明確な理由があってここまで来たわけではない。研究室まで辿り着かずに引きかえしてもよかった。まったくと言っていいほど問題はないにも拘わらず、私はなにがどうして、是が非でも研究室まで行ってなにかしらを持ち帰らねばならぬのだと無駄に奮起しておった。

 廊下を曲がり、本来なら研究室の扉が見える場所にまでくると、

 途端に視界が白濁した。

 眩しいと感じ、なるほどこれはライトの明かりを向けられたのだと察するに至るまでに数秒を要する。

 咄嗟に顔を逸らす。ふたたび視界が闇にくるまれる。

 廊下には足音が反響している。間もなく、ライトを掲げた何者かが駆け去ったのだと理解する。

「なにやつ!」

 私もまた駆けだした。何者かを追いたかったわけではない。不審者は研究室のまえにいた。

 胸が嫌な高鳴り方をする。

 扉に鍵はかかっていなかった。

 室内に足を踏み入れる。明かりはつかず、闇一色。メディア端末を取りだし、画面の明かりを頼りに歩を進める。ざっと室内を見て回るが、荒らされたといった様子はない。

 ほっと息を吐こうとしたところではっとした。

「うそでしょ」

 江音間さんのデスク、研究室のまさにまな板とも呼べる台のうえに、あるべきものが、きれいさっぱりなくなっている。あるべきはずの試作品の山が、江音間式∞、新型オナホの山が、なくなっている。

 部屋の鍵を最後に締めたのは私である。たしか木偶乃くんが最後まで試作品をいじくりまわしていた。部屋を出るときはどうだっただろう。かれは手ぶらだったような気がする。カバンは持っていた。いくらなんでも試作品すべては入りきらない。

 極々自然にかれを疑っているじぶんに気づき、自己嫌悪に陥る。

 木偶乃くんではない。理屈では分かってはいる。なぜかかれのせいにしたがっているじぶんがいる。昼間、楼田さんと話したからだろうか。そのひとに意図がなくとも結果として裏切られることはある。

 さきほどのライトの人物、不審者を思いだし、私は咄嗟に部屋を飛び出した。おっとっと。鍵を掛け直しに戻り、ふたたび廊下をひた走る。

 守衛さんのいる警備員室まで走り、

「侵入者です」

「はい?」

「だいじなものが盗まれました」

 肩で息をしながらそう告げた。

 呆気にとられている守衛さんを焚きつけて、社内のいっせい探索をお願いした。いっしょに研究室にまで来てもらう。試作品がないことを確かめさせてから、外部委託の警備会社にも連絡を頼み、監視カメラなどの映像から不審者の痕跡を集めるよう指示する。社長には連絡がつかないので、上司であるところの伊香川さんへメディア端末越しに事情を伝えた。

 伊香川さんがやってくるころには、監視カメラなどのセキュリティ装置のデータの確認を終えていた。

「企業スパイとはなにごとかね」

 伊香川さんにはそのように掻い摘んで事情を伝えていた。おっとり刀で駆けつけたにしては落ち着き払った様子だ。

「企業スパイかは現状定かではないんですが」やんわり釈明しながら、「江音間式∞の試作品を盗まれました」と強調する。盗まれた、という主観的事実を再度つよく示しておきたかった。

「現状は?」

「警備会社のひとたちに社内の出口をすべて固めてもらっています。ひょっとするとまだ不審者が社内に潜んでいるかもしれません。あとで虱潰しに調べていくので、伊香川さんも協力してください」

「それは、いいけど」

「それからセキュリティデータを確認してもらいました」

「監視カメラとかそういうこと?」

「赤外線センサ内蔵型なので、暗がりの人物でも映っているはずなんですけど」

「映っていなかったのかい」

 そこで、ちょっといいですか、と守衛さんが嘴を挟んだ。「これを見てください」

 壁にはめ込まれたディスプレイに監視カメラの映像が流される。

 廊下の角から何者かが現れるのが分かる。人物の映像が明瞭でないのは、手に持ったライトの強烈な明かりが監視カメラの解像を著しく阻害しているためだ。レーザーを当てられたカメラは、太陽を裸眼で見たように、画像が白く焼けてしまう。不審者の持つライトはレーザーではないようだけれども、カメラの機能を阻害する分には申し分のない光量を放っている。

「背後からの映像もあるにはあるんですがね。なにぶん、それだと影になっていて。しかも遠目からの映像がほとんどで、人物特定には繋がりませんな」

「どうしましょう」私は指示を仰いだ。「大事にしないほうがいいと判断して警察にはまだ通報していません。もし不審者が社内の者だったら、やはり問題でしょうから」

 伊香川さんはあごに手を添えたまま、考えこんでしまわれる。ややあってから、

「その判断はこっちに任せてもらおうか。丹久場さん、きょうはもう帰宅してもらっていいよ」

「え、でも」

「さいわい、なくなったのは試作品だけなんだろ。盗まれたのかも現状定かではないし、あす、いちどほかの社員たちにも話を通して、身に覚えのある者がいないか確かめてからでも遅くはない」

「いまはまだ通報はしないということですか」

「そっちのほういいだろ」

 大事にしないほうがいいというのはそう、きみの言うとおりだ、と太鼓判を捺され、私はしぶしぶ引き下がった。私の判断で警察沙汰にしないほうがいいとは思ったけれども、よもや上の判断までもが内々で済ませようとするとは思わなかった。

 暗に、私の手掛けているプロジェクトがその程度の案件なのだと知らしめられたようで胸中穏やかではない。

「帰る前にいちど研究室を見てきます。見落としがあるかもしれないので」

「それがいい。社内探索はこっちに任せて、きみはもう休みなさい」

 ふだんの軽薄な物言いとはかけ離れた上司の口吻に、感心するよりもさきに、真面目にできるならふだんからすれ、とぼやきたくもなる。胸の鉛玉がさらに増す。

 研究室のまえまできた。扉を開錠しようとするのだが、なぜだか鍵を受け付けない。

 おかしいな。

 思い、ドアノブを引くと、抵抗なく開いた。

「あれぇ、先輩。どうされたんですか、こんな夜分に」

 暢気な顔がこちらを向く。

 江音間さんがカップラーメンを美味そうにすすっている。


(13)

「はあはあ。それはそれは災難でしたねぇ」

「いやいやそうじゃないでしょ。あなたも渦中のひとだからね。被害者だからね」

 事件は会議室で起きているのではなく、現場で起きているわけなのだけれども、その現場がだから、ここなのだ。

 ひと通り騒動の顛末を聞かせたものの、江音間さんの反応は手応えがない。歯応えがないと言い換えてもいい。骨抜きにされた腑抜け相手にしゃべっているようで、大きな徒労がつきまとう。

 江音間さんはひとしきり室内を見て回り、試作品のほかになくなっているものがないかを、主として私物が無事であるかを確認した。

「ないですねぇ。ぜんぶ無事のようです」

「ならやっぱり犯人は最初からアレが目当てだったんだ」

「試作品ですか? でもどうして」

「そう、そこなんだよね。考えてみたんだけど」

 試作品を盗んだ犯人の動機を私は考えた。「一つ目は、プロジェクトのジャマをしたかったからという動機。この場合、社内の人間が犯人である可能性が高いと私は睨む。二つ目。江音間式∞のアイディアそのものが欲しかったというもの。この場合、社外の人間、それこそライバル社の犯行による可能性が高い」

「企業スパイですかぁ、なるほどなるほど」

「ほかに考え得る可能性としては、試作品以外のものを盗もうとしたものの、間違って試作品を持ちだしてしまったという可能性や、私の目撃した人物と試作品を盗んだ人物は別人である、といった可能性まで、それこそ挙げ連ねてたらキリがないんだけど」

 どうすることもできないじぶんをもどかしく思う。我が子を誘拐された母親の気持ちが解るようだ。

「なんにせよ、問題はないんじゃないですかねぇ」

 江音間さんの発言に私はぎょっとした。ぎょっとしてから腹が立った。問題しかないではないか。

「そんな顔しないでくだされ。小じわがピヨピヨできちゃいますぞ」

「小じわが増えると言わなかった点は褒めてあげる。で? どこがどう問題ないの。ちゃんと分かるように言って」

「ちゃんと言わないと痛い目に遭いそうな剣幕ですなぁ。では逆に訊きますよ。いったいどこが問題ですか。なくなったのは試作品ですよ。試行錯誤している最中のまさにデキソコナイがなくなったにすぎないのですから。アイディアそのものがなくなったわけでなしに、あたしたちのすることは何も変わらないじゃないですか、などとあたくしめは思うのでありますけれども」

「それはそうだけど」

「もし仮に企業スパイの犯行としましょう。たしかにアイディアの原型は盗まれてしまうかもしれませんけれども、しかーし、あたしらが本物であるならば、試作品を遥かに凌ぐ本物をリリースすればよいだけの話では?」

「う、うーん」

「ほらほら。問題を感じなくなってきた、なってきた」

 納得するにしかねるぞ、といった顔を浮かべているからか、江音間さんは、それに、とダメ押しした。

「特許くらいとってあるんじゃないですかねぇ。詳しいところは分からないですけれども」

 新商品を企画するのだから会社のほうで特許の申請をしているのが筋ではないか。

 言われて私は素直に、江音間さんアッタマいい、と思った。思ってから、特許なんて申請しているの? いったいどこの部署が、と疑問符の波に襲われる。

「おうっと、まだいたの」

 研究室の扉から顔を覗かせたのは伊香川さんだった。ただでさえ中年臭い顔がけだるそうに歪んでいる。「いちおう、一階から順々に見て回ってはいるけどね。不審な人物は今のところ見かけないね」

「そうですか」

「上の階までいったらきょうのところは解散するよ。おやなんだね、江音間くんまでいたのか。いつの間に」

 伊香川さんは眉を持ち上げ、額に虹をかけるようにすると、そのままの顔で扉の奥に引っこんだ。ふたたび研究室は静寂に満たされる。江音間さんの持ちこんだ古ぼったい冷蔵庫が唸り声を発している。

「追いこみ漁みたいですねぇ」

 事情を察したのか、お気楽にぼやく江音間さんを差し置き、私は伊香川さんの言葉を脳裡で反芻した。さらなる疑問が押し寄せる。

 いったい江音間さんはどこから帰社したのだろう。

 或いは――。

 私はゆっくりと江音間さんの眠たそうな顔を見た。

 いったいどこに潜んでいたのだろう。


(14)

 江音間さんを残し、私だけが会社をあとにした理由は、研究室が自宅と化して久しい江音間さんの生態にその因の大半を持っていかれるのだけれども、ではなぜ私の抱いた疑問を江音間さんへ直接ぶつける真似をしなかったについては、各種さまざまな理由が挙げられる。

 端的に、或いはおざなりにまとめてしまえば、私は答えを聞くのがこわかった。

 抱いていた疑問が、おおむね疑念と呼ぶにふさわしい禍々しさを兼ね備えていたからであり、同時にそんな疑念を抱いてしまう自らの卑しさを認めたくなかったからでもある。

 信じるという言葉の意味は、疑わないという意味ではない。それくらいの見識は持ち併せているつもりだ。

 たとえ疑わしくとも、相手の意思を尊重し、裏切られてもよいと思う。その覚悟を決める気持ちが、信じるという言葉の意味である。

 ならば私は江音間さんを信じるほかないのだろう。生じた疑念を拭い去るのはむつかしい。なればこそ、私は江音間さんを信じたい。たといこのさき裏切られるような真似をされようとも私は彼女を許そうと思った。

 ホントに?

 単なるそれは逃避ではないの。

 思考放棄と言い換えてもよい。

 私はただ彼女への疑いが晴れることなく襲いかかる現実という名のサディストと対峙する勇気がなく、直視しまいとこうしてベッドにくるまっているだけではないのか。我ながらじつに見事な図星をついてしまった。致し方なく私は、枕に顔を押しつけて、そこに染みこんだじぶんの頭の匂いを嗅いだ。シャンプー買ってこなきゃ。底を突きかけていた容器を思い、そのままのかっこうで夢へと没入することで、けっきょくのところ現実逃避をなし遂げるのである。

 翌朝目覚めた私にもはや葛藤はなく、なにはともあれ、我が社の特許申請の実情に迫る臍を固める。

 出社したその足で直属の上司たる伊香川さんに話を聞こうとするも、誰よりもはやく出社するのが私の常であるので、出社したところで社にいるのは守衛さんと江音間さんくらいなものである。

 だものでみながやってくるまでのあいだ私は研究室ではなく部署に飾られているじぶんのデスクで、新型オナホ「江音間式∞」の完成形ビジュアルを文章にまとめる作業に没頭する。

 特許とはだいいちにアイディアの保護を目的として定められている。現物がなくとも、アイディアそのものに適用される防虫剤のようなものである。

 特許の出願にはいくつかの段階があるらしく、最初の関門は、特許出願の書類を揃えることだと言っていい。アイディアそのものを型っ苦しい文面にまとめなくてはならず、出願が受理されたあとには、審査請求をしなくてはならず、これがまた一段と面倒だと聞き及ぶ。

 他方で、職務発明なるものがある。特許は原則としてその主権を、アイディアを思いついた人物、発明者本人に一任する向きがつよい。しかし、その発明を思いつく契機が仕事にあった場合、これを会社のおかげであると解釈し、特許の一部権利を会社側が持てるような仕組みが用意されている。

 なれば、私が、江音間さんと共同で開発した「江音間式∞」は、まさにその職務発明に該当すると考えられる。社長の指示により発足されたチーム「アヴァンオナホ」に任命されなければ私はまず、オナホールそのものをつくろうとさえ思わなかった。

 特許出願書が受理されたとして、それが職務発明扱いされたところで私は別段なんとも思わない。特許でひと財産築いてやろうと思うほどに楽観主義者でも資本主義者でもない。

 私たちに無断で社が特許を出願していたとすればけれど、話はべつだ。

 職務発明扱いすらされることなく、私たちの発明が社の独断専行により、まさに独占されているとすれば。

 無視するにはこれはゆゆしき事態であると受け止めるのに躊躇はない。

 美味しい汁を絞れるだけ絞って、果実そのものには、絞られているという自覚を与えない。

 利用されるのは構わない。見方によっては頼られていると言い換えられる場面も多々あるからだ。けれども搾取されるのだけは我慢ならない。

 搾取は見えない暴力だ。

 断じて見過ごすわけにはいかぬ。

 とはいえ、この会社がそんなあくどい真似をするとは思えず、ひるがえっては、社長にそれほどの悪事を働かせる器があるとは思えない。

 企業スパイの五文字がみたび脳裡に浮上する。


(15)

 出社してきた伊香川さんに私はさっそく詰め寄った。「江音間式∞」の特許はどういう扱いになっているのかと。

「え、特許。いやぁ、どうなんだろうね。というか申請する意味あるの?」

 私は眉をひそめる。「どういう意味ですか」

「いやだってオナホだよ。元からそういう商品があるんだから、いくら新商品発売しますって言ったってけっきょくのところは類似品なわけでしょ」

「でしょと言われましても」

「新しいオナホを作るとは言ったけどさ。しょせんはオナホだよオナホ。特許を申請するほどの発明じゃあない」

 断言されたのが悔しくて思わず唇を噛みしめると、

「という気がするんだけど、うん。じっさいのところどうなんだろうね」伊香川さんは曖昧に言を濁した。「しょうじき、うちの社が特許を申請した事実がそもそもかつてなかったような気がするよ。あればそれこそ零細企業なんてやってないでしょ。うちってほら、卸売専門だしさ。法務部も外部委託だし」

 なんにせよ社長に聞くのがてっとり早いよね、と強引にまとめられ、早々に話を切り上げられてしまう。

 特許をとるのを目的にしろとは思わない。けれども、新時代のオナホールをとの標語を掲げ、まがりなりにもチーム「アヴァンオナホ」を冠した計画を発足したのだから、せめて特許取得を視野に入れた段取りくらいはあってほしかった。

 社員がちらほら集まってきたので、私は重い腰を上げ、江音間さんのいる研究室へと移行する。

「おはようございます。今朝は散々でしたねぇ」

「うん、ホント」

 伊香川さんとの会話を盗み見ていたわけではないのだろうけれども江音間さんは開口一番に私を労ってくれた。席に着くなり、お茶を差しだされ、とりあえず試作品を作りなおしてみました、と言って差しだされたオナホールを受け取り、遅まきながら江音間さんの言っていた、「散々」の事象が、昨晩の不審者侵入事件を示していたと察するに至る。

「もしかしてずっと起きてたの」

「アイディアがなくらならないとは言いましてもさすがに試作品はあったほうがいいじゃないですか。あ、ちょこっと改良してみたんですよねぇ」

 見てくださいよほら、ここ。

 江音間さんは愛用のコーヒーカップ片手に、こちらの手元を覗きこむようにする。白衣姿が様になって久しい彼女のゆびの指し示すところ、新たな試作品第一号とも呼べるそれの穴、まさに入口のところに一目でそれと判るヒダヒダがくっついている。

「これは?」

「ベンです」

「ペン?」

「いいえ、筆ではなく、弁です」言いながら江音間さんはデスクのよこ、床に山積みになっている書籍の群れから一冊を器用に抜き取ると、こちらのまえで開くようにした。

 いずれの本にも付箋が貼られている。例に漏れず、目のまえでくぱぁと中身を顕わにしたその本にもカラフルなピラピラがたくさんハミ出ており、恥ずかしげもなくおっぴろげておるページにもむろんそれはくっついていた。

「さいきんなかなか眠れなくてですねぇ。睡眠導入剤としてペラペラめくっていたんですけれども、これがなかなかどうして興味深い。先輩は【光触媒】って知ってますか」

 雑学を披露しはじめる江音間さんを遮り私は、

「なんの本なのこれ」

 開かれたページには血管の断面図じみた挿絵がデカデカと載っている。

「タイトルは【身体の神秘】ですねぇ。で、これは血管の断面図です」まさに、であった。「先輩は知ってましたか。太ももの大静脈には血液の逆流を防ぐための弁が備わっているらしいんですよ」

「中学校の理科で習ったとは思うけど、それが?」

「これ見て、ピーンときちゃいまして。オナホの入口って、どうしてもペニスが挿入されると拡張しちゃうじゃないですか。たとえばそれって恵方巻きを食べるときのお口と同じで、穴よりも太いものが入るんですから当然なんですけれども、構造上それは致し方ないんですけれども、できればせっかくのキツキツなのだから、グポグポしているあいだもキツキツしてほしくないですか?」

「そりゃあ、まあ」

 やわらかキツキツ、がオナホの理想形である。マシュマロよりもトロトロの感触を維持しながら万力さながらの圧力を顕現できれば言うことない。けれども、圧力を加えれば必然、内部素材は圧縮され、硬度を帯びてしまう。あちらを立てればこちらが立たず、なかなかどうして実現しがたい難題である。葛藤と言い換えてもいい。キツキツやわらかを目指してしまうと、途端にオナホ矛盾迷宮へと陥り、出口を見失ってさまようはめになる。

 迷宮で遊んでいる暇のない私たちはだから、キツキツやわらかの目安を初めから決めて、それ以上を求めないように調整してきた。私たちがディルドをしきりにグポグポしている背景にはそうした理由がある。ディルドには内圧計が搭載されている。

「協定を無視しようというの」

「協定をなくしても戦争の起きない平和への道筋があるというのならそうですねぇ。遠慮なく反故にさせていただきたいものだ」

「そんな方法、あるわけない」

「じゃじゃーん」

 言って江音間さんは私の持つ江音間式∞の試作品をゆび差し、

「そんな方法があったのです、まさに」

 もう一方の手で私の手を掴み、試作品の穴たる入口へ食指を運んでいく。

 穴のふちにゆびの先端が触れ、ぬぷぬぷと呑みこまれていく。

 脳裡にはなぜだか幼いころに読んだ「ハラペコあおむし」の絵本が浮かんだ。次点で、絵本のまさしく主人公であるところのあおむしさんが、私のゆびをハムハムモムモムする場面が想起される。

「あ、ありえない」

「ね? すごいでしょ。まるでゆびをしゃぶられているみたいでしょ。ただ突っこんだだけなのに。入口にヒダをくっつけただけなのに」

 弁なのだと江音間さんは言っていた。ならばただのヒダではなく、蛇のウロコよろしく、一方向へ向けてのみ進行を可能とするような造りであるのだろう。さながらベルトコンベアーのように。

 私はゆびを引き抜こうとした。

 ぴぎゃあ。

 背筋を毛虫の群れが這い上がる。ぞわぞわと。ムネムネと。気持ちよいのだ。赤ちゃんにおしゃぶりされているみたいなやさしい気持ちになれる。いつまでもヌポヌポしていたい。挿しているのはただのゆびなのに。

「ね? ね? すごくないですかコレ」

「すごい……すごすぎる」

 なんてことのない改良だ。ただ穴のふちにヒダをくっつけただけ。それなのにこうまでも試作品全体の印象が様変わりするものなのか。

「これまでにも入口への構造改革は試みてきたじゃないですか」江音間さんは遠い目をし、過去の失敗を懐かしむみたいに目を細めた。「入口の穴をちいさくしてみたり、逆にそこだけ分厚くしてみたり」

 でもけっきょくそれらはキツキツにはなっても、もっともたいせつな「やわらかさ」を失ってしまった。

 私はヒダありの試作品に限界までゆびを突っこんだ。さらにヌポヌポゆびを出し入れさせる。入口がゆびに吸いつき、密着するおかげで空気が抜けず、まさに注射器のような吸引力を発揮している。

「薄いヒダがあるだけでここまでの変化が……」驚きを禁じ得ない。

「薄いヒダだからこそですねぇ。いちおう、ヒダの枚数を変えたものも準備中でして。ちなみにそれは三枚です。もうすこし数を増やしたり、或いはヒダの長さを変えてみたり、いろいろ試していきましょう」

 私たちは顔を見合わせる。江音間さんの目はキラキラしていた。きっと私も同じ目をしているにちがいない。

「忙しくなりそうだね」

「ムラムラしてきますよねぇ」

 言った江音間さんを見返すと、彼女は大袈裟にはっと口元に手を添え、

「モンモンと言いたかったのだよ」

 暗に言い間違いであったのだと誤魔化したようだけれども、あいにくと何も誤魔化されてはいなかった。


(16)

 ヒダありの試作品を会話の便宜上、ヒダ丸と名付けた。子犬を愛でるのに似た仕草で江音間さんは試作品を撫で回し、

「じっさいに被験者に使ってもらって感想でもほしいところですけれどねぇヒダ丸」とさらに撫でるようにした。

「モニターを雇うにはまだちょっと時期尚早かな。ほかの部員に頼んでみよ」

「ならやっぱりプリンスは外せないですよねぇ」

「どうして」

「なにせオナホプリンスですから」

「あいつがプリンスなら私たちはもうすでにクイーンを名乗っててもいいくらいな気がする」

 無闇やたらに木偶乃くんを持ち上げる江音間さんになぜか分からないけれども嫌気がさし、気づくと私はプリンスをプリプリこけおろしていた。

「そうやってあなたは陰でぼくの悪口を言っているのですね」

 扉がなぜか開いており、そこには目つきするどくプリプリ怒っているプリンスが立っていた。

「あらま。間のわるいこって」

 江音間さんは首をフリフリ交互にこちらとあちらを見るようにし、

「悪口ではないんだよ、ホントだよ」

 なぜか私の代わりに釈明を開始するのだった。木偶乃くんは彼女を一瞥すると、自動弁解マシーンとなった彼女の言葉をことごとく受け流し、こちらへまっすぐと顔を向けた。冷たい眼差しにひやりとする。

「あなたのいいところは、よい後輩を持ったところですね。それ以外はすべて最悪だ」

「な」

 なんてことを言うのだろうこの男は。私の顔はいっしゅんにして熱くなり、噴火口さながらに唇が震えた。

 一触即発を地で描く私たちをよそに江音間さんは、あ、そういやあたし部長に呼ばれてたんでしたっけ、などとわざとらしく手を打ち、そそくさと部屋を出ていった。私たちを残して。私と木偶乃くんをこの場に残して。

 いい後輩?

 ねぇ、あなたホントにそう思うわけ?

 勃然と湧いた江音間さんへの不満はしかし、まったくの見当違い、不当な評価はなはだしい理不尽そのものであったし、八つ当たりそのものである事実に私はきちんと気づいていた。気づいていたけれども、思ってしまうものは仕方がない。

「で、なに?」私は腕を組む。

「なにとはなんですか」木偶乃くんは江音間さんの出ていった扉を見遣っている。ゆっくりとこちらを振り返り、「昨夜不審者が出たと聞いたもので、心配で来たんじゃないですか」

「ふうん」殊勝な心がけじゃないと思う。「私はこのとおり無事だけど」

「だれもあなたの心配なんかしてませんよ」

 うぐ。

 余計な傷を負ってしまった。墓穴を掘るというか、吐血を盛った気分だ。

「盗まれたのは試作品だけですか」言いながら木偶乃くんは研究室を歩きまわる。

「今のところはそうみたい」

「どこかに仕舞ったまま忘れているなんてことは?」

「あるわけない」

 いくらなんでもそこまでの間抜けではない。江音間さんも、私も。

 と。

 思いたいので、そこまでの間抜けでは、とにょごにょご言を濁してみる。

「どう思いますか」木偶乃くんはあごに手を添える。

「どうって、なにが」

「犯人の目的です」

「探偵きどり? やめてよね。私たちを疑うのはかってだけど、そういうのは警察のお仕事。きみの出る幕じゃない」

「お言葉ですが」冬将軍じみた視線が私を射抜く。「丹久場さん、あなただってぼくのことを疑っているでしょう。試作品が盗まれた。いくら夜だからって外部の人間が侵入できるほどうちのセキュリティは甘くないですし、そもそもどうやって試作品の情報を入手したんですか。明らかに社内の人間の犯行ですよ。そして試作品をここから持ちだすことで利を得る人物はそう多くはありません」

「多くはないというか、そんな人物いないんじゃない?」

「言い換えましょう。あなたがたを陥れることでイイ思いをする人物はすくなからずいます」

「たとえば?」

「たとえば」

 かれはまったく気後れせずにこう言った。「ぼくとか」


(17)

 木偶乃くんのために私たちのジャマをした者がいるとでも思っているのか、この自意識過剰野郎。そうなじってやってもよかったのだけれど、なにも木偶乃くんはそういうことを言いたかったわけではなかったらしい。

 結論を言ってしまえばかれは怒っていた。オナホールへの並々ならぬ愛があるゆえに、たとえそれが私の手掛けるオナホールであっても所持者の許可なく持ち出すなんて、誘拐なんて、そんな暴挙は断じて許せないと瞋怒の炎を燃やしていた。メラメラ(笑)

「ぼくには解ります。ぼくのような人間がいることを。たかがオナホールにそれこそ人生をそそぎ込めてしまえる大ばか者がいることを。でも仕方ないんです。それだけの魅力がオナホールにはあるんです。丹久場さんは性行為をしたことがありますか」

 急な話題にむせかえる。

「ぼくはないんですよ」とかれは告白した。「いわゆる童貞と呼ばれる人間です。これまでそういう機会が巡ってこなかったというだけの話ではあるんですが、たとえ巡ってきたとしてそれを受け入れるかどうかはしょうじき微妙なところでして」

「え、なんの話?」

「セックスですよ。ぼくはものすごくそれをしてみたい。女性を女性足らしめるまさに女性器にぼくの男性器を突っこんでみたいんですよ」

「え? バカなの?」

 むっとした表情を浮かべた木偶乃くんにはわるいのだけれど、性交渉の有無を問われ、さらにそれへの憧憬を滔々と説かれても受け止めるだけの器があいにくと私にはない。そんな器は欲しくもない。

「先輩はもっと話の解る方だと思っていました」

「いやいや私ほど物分かりのよい社員はおらんよ?」

「ならばぼくにとって、ひいては男にとって性交渉がいかほどに重要な行為なのか解っていただけるものかと期待するものですが」

「いやいや、それとこれとは話がべつでしょ」

「べつではないですよ。重要ですよ。最重要ですよ。なぜぼくが理想のオナホールをつくりたいのか、なぜこの会社で働いているのか、それを先輩はどうでもいいことだと断じて、笑い種にして、世の多くの女性陣みたいにぼくを軽蔑のまなざしで見るのですか」

 なにゆえ、かように哀しげな顔をするのか。かってに失望されても反省のしようもない。

「思想の自由は木偶乃くんの言うように認められるべきだとは思うけど」

「そんな話はしていない!」

「じゃあなんなの!」

 セックスがしてみたい、だなんて告白、面と向かってされたくはない。立派に立派じゃないこれではまるでセクハラではないか。訴えないだけありがたく思ってほしい。

「セックスがしたいんですよ」木偶乃くんは地団太を踏む。まるで癇癪を起こしたガキンチョのように。「でもそれはものすごくたいせつなことじゃないですか。だれかれ構わずしていいような、そんな陳腐な遊びにしてはいけないのですよ」

 かれの信条としてはそういうものなのだろう。けれども性行為をただの快楽を貪るための触媒として扱ったとして、それをとやかく言えるほど、性行為が絶対的に神聖なものであると言い切る自信があいにくと私にはなく、またそれは経験がないと言い換えてもいい。

 ひるがえってはいちど経験さえしてしまえば、そうした拘泥はなくなるものなのかもしれないと思いもする。

 頑なに純潔を守ってきた過去のじぶんを、幼かったな、の一言で片づけられてしまうくらいに、おとなへの通過儀礼として昇華されてしまっても不自然ではなく、或いは私の知り合ってきた女の子たちの少なからずは、そうした意識改革を自覚的に行っていたように思う。語っていたように思う。

 どうってことないよ、と。

 あなたもはやく経験してみなよ、と。

 まるで私を道連れにしたいがためにそうするかのように、彼女たちは一様に、まだ経験してないの、と私を見ては大袈裟に目を剥いた。

「木偶乃くんの気持ちは分かるけど、だから? それを私に理解させてどうしたいの」

「世の男はおのれの性欲を制御しなきゃらならんのですよ。ときに暴れ狂うロデオと化した自分自身の分身に鞭打って黙らせなくてはならない場面が往々にしてやってくるのですよ。それは並大抵の努力ではないのですよ。出したいものは出したくなるのですよ。丹久場さんだってお腹が空いてお腹が空いてどうしようもなくなったときに目のまえにステーキがあったら齧りつきたくなりませんか? そういうものなんですよ。だからってかってに自分のものではないステーキに齧りついたりしたらダメなんですよ。それは唾棄すべき所業ですよ。欲望ですよ。でもどうしようもなく飢餓感に襲われるときがあるのですよ。男にとっての性欲というのはそういうものなのですよ。だからときどき自分で、自分自身の手でステーキを齧って、お腹を満たしておく必要があるのですよ。飢餓感という餓鬼をおのれの裡から追いださなくてはならんのですよ。そのために必要なのが、まさに自分だけのステーキなのですよ。それはステーキのようでステーキではないのですが、だからこそ本物のステーキみたいに、豆腐ハンバーグみたいに、よりらしいものでなければならんのですよ。ぼくにとってはそれがオナホールであり、ぼくがこの会社で働く理由なのですよ。オナホールは社会をよりよくするために、ぼくら男性陣が自身のなかに息づく餓鬼と折り合いをつけて、うまく共存していくために必要な、それが術なのですよ」

 私は生唾を呑みこんだ。

 なんなんだいったい。

 無駄に分厚いこの気迫は。

 ふつうならドン引くこと請け合いのこの場面にあって私は妙に胸を打たれているじぶんに気づき、そのあり得ない事態に面食らった。

 額面だけを受け取るならば、かれのそれは、単なる夢の押しつけにすぎない。人には人の信条というものがある。個人を個人足らせるための芯がある。だがそれらはけっして他人に押しつけていいものではなく、たいせつであるがゆえに胸の奥底に仕舞いこみ、相手にもそういった芯が、骨格があるのだと考え、尊重すべきものとして扱うのがいっぱしの社会人として肝に銘じておくべき道理の一つであるはずだ。同時に、相手にも同じような骨格があると判ることで、相手もじぶんと同じ人間なのだと安心して接せられるようになるという利点もある。

 むろん、この「相手に押しつけてはならない」という理屈そのものもまた、相手に押しつけていいものではない。ただし、相手の信条を尊重する立場と、そうでない立場とでは、そこに広がる友好への可能性は大きくちがってくる。どちらがより大きな可能性を秘めているか、未来を切り拓いていけるのか。その点で比べてみれば、どちらを選び、手段として活かすのが社会にとって、ひいては人類にとって、或いはじぶん自身にとって有意義かは一目瞭然である。

 オトナになれば誰しも、感覚として解っているはずだ。

 解ってはいても、できないこともある。

 木偶乃くんだって頭に血が昇っていないふだんの状態であるならば、こうまでも取り乱し、鼻の穴を膨らませて、口角粟を飛ばしたりはしなかったはずだ。

 仏頂面が常のかれには珍しい状況にあって、私はだからこそ、そこにかれにとっての本質を垣間見た気がした。

 垣間見えたそれが、存外に心地よく感じてしまったじぶんに、私は戸惑っているのである。

 私はかれにじぶん自身を重ねて見てしまっているのかもしれない。

 他人に透けて視えるじぶんほど卑しいものはない。

 心地よく感じていながら、同時に私は吐き気にも似た嫌悪感を抱いていた。さながら二十歳を過ぎてから母親に頭を撫でられるのに似た心境である。

「オナホールにそんなたいそうな役割、あるわけないじゃない」

 吐き捨てると木偶乃くんは目を吊り上げた。我が子の仇でも見るような顔つきで私を無言で睨み据える。私は努めて鷹揚に、「たかが性玩具だよ」と続ける。「私だってこの仕事にやりがいを見出してはいるよ。社会的には眉をひそめられるような商品かもしれない、でもないよりあったほうがいいと思ってる。回り回って社会をよくしてくれる、そうにちがいないって信じたい。でもしょせんは性玩具なんだよ」と強調する。「いくら私たちがそこに使命感を見繕ったって、世間からの評価が変わるわけでも、ましてや性犯罪を失くせるわけでもないんだよ」

「なんであなたにそんなこと」

「解るのかって? そりゃ解るよ。これだけ売って、じゃあなんで性犯罪がなくならないの。かんたんだよ、本当に必要な人間はそもそもオナホなんて手に取らないんだから。仮に手にとっても、それで満足できないから本物に手を出しちゃうわけでしょ。限度があるの。無意味ではないけど、万能ではないの」

「うるさい、うるさい、うるさい。あなたに言われるまでもない。なんであなたにそんなことを」

「言われなきゃならないのかって? 私が言わなきゃじゃあ誰がきみに言ってあげるの。いい? 私たちの扱う商品はオナニーの補助器具なの。赤ちゃんを産むでもなく、愛を確かめ合うでもなく、ただただ快楽を貪るためだけの、木偶乃くんの言い方で言えば、唾棄すべき欲望を満たすためだけの、単なる自己満足にすぎないの。オナニーが悪だとは思わないけど、だからってオナニーが社会貢献に繋がる? 社会をよくする? いい? そこに高尚な意味づけするのは木偶乃くんのかってだけど、でも、実際問題、現実として、そんなことはあり得ない」

「現実にないからって求めていけないわけじゃないでしょう」かれはひねくりだすように言った。「理想はいつだって現実にはないものなんですから」

 それは或いは、うなだれたと言ってもいい悲壮感が漂って感じられ、私はさらにムシャクシャした。こちらに噛みついてきておきながら、かってに傷ついた顔をするとは何事か。無性に憎たらしく、狂おしくなり、だから私は、

「それを私に押しつけるなって言ってるの」

 静かなる炎を爆ぜさせる。「そもそも木偶乃くんは理想のオナホールをつくりたいとかなんとか言ってるけど、それで未だに童貞ってどういうこと? 童貞だから理想のオナホールをつくりたいの? 理想のオナホールをつくりたいから童貞なの? ねえどっちなの」

「それは……」

「答えなくっていいよ。どうせ童貞だからでしょ。セックスしたいけどできないから、じゃあせめて気持ちよく自分の未使用おちんちんを慰めたいってだけでしょ。本音はそっちでしょ。そこに社会貢献だとか人類だとかそんなたいそうなお題目並べないでよ」

 もはや木偶乃くんは目に涙を浮かべている。懸命に泣くまいとするかれの必死な顔つきがさらに私の癪を逆撫でする。

「だいたい、本物以上の本物をつくりだしたいってなに。本物のよさを知らないくせに、なに言っちゃってんの。童貞の分際でなにが【オナホールを侮辱している】よ。本気で言ってる? 本物以上の本物って、けっきょくオナホである以上、それはどうしたって偽物なの。女性器ではないの。本物とは別物なの。ねえそんなことも解らないでオナホールに理想なんか抱いちゃってるの? ああそうだよね、そんなんだからオナホールなんかに理想を抱いちゃうんだよね。ホントかわいそ」

 なぜこうまでも言葉が止まらないのかじぶんでもなぞなのだけれども、車だって急には止まれないのだから、鋭くなった舌鋒が止まらないのだって仕方がない。

「まあ、ここまで言っちゃってからこう言うのもなんだけど、私たちだってけっきょくのところは女性器の気持ちよさなんて分からないわけだし? 条件としては童貞の木偶乃くんと同じなわけだし? まあ、べつにそれ自体をとやかく言うつもりはないんだけど、私たち女性陣とおんなじ立場の木偶乃くんに、偉そうにあれやこれや口出しされる筋合いはないわけで。もっとも、きみがてっとりばやく童貞捨ててきてくれれば話は早いんだけど」

 まったくどうしていじわるなことを言っているな、と我ながら呆れてしまうけれども、気分はそうわるくはない。

 捨てるようなものではないんですよ。

 ぽつりと言った木偶乃くんに私は、

「なに? どうした?」

 もっとはっきりしゃべろうな、と暗に迫る。

「童貞はやたらめったらに捨てるようなものではないと言っているのです」

 あげられた怒声に、私は、逆切れかよ、と下げかけた溜飲をぶりかえす。

「捨てるんじゃなかったらなに? 誰からも求められてない童貞なんかゴミと同じでしょ」

「ならあなたの処女はどうなんですか」

 おっと。

 私は鼻白む。

「性交渉の有無をあなたにだけは責められたくはない」

「処女と童貞じゃあ重さがちがうもの」

 言ってからしまったと思う。というか責めてないし、と付け加えてみるも、遅かった。

「処女のほうが高潔だとでも? いえ、そうですね。認めましょう。童貞よりも処女のほうが希少価値が高い。しかしながらそれは美少女限定の、まさに純粋処女の場合にかぎりますよ。あなたのような歳のいった熟女の処女なぞ、素人童貞ほどの価値もありませんな」

 皆無ですなぁ、と間延びした罵声に、私の怒髪天が火を噴いた。

「私だってこんな歳になるまで処女でいたくはなかったよ!」

「ならてっとりばやく捨ててきたらどうですか。ドブに捨てるくらいなら無償でもらってやってもいいと申し出てくれる心の広い紳士がどこぞにはいるかもしれませんよ」

「どこにだよ。連れてきてよ。申しわけないけど私はいっしょに墓の中に入ってくれるような相手じゃなきゃ私の処女はあげないからね」

「さも後生大事にとっといたみたいに言わんでください。あなたのはただ売れ残っただけだ」

「ウルサーイ! おまえだってそうだろ」

「そうですよぼくらは同じなんですよ。さきに自分のほうが立派だみたいな言い方をしたのはどこの誰ですか。ぼくばかり責めて、てんで解ろうともしないで」

「解りたくないに決まってるでしょきみみたいな人間!」

「そうやってヒステリーになれば済むと思ってる。これだからリアルの女はイヤなんだ」

「どっちがだ!」

 さきにヒステリックになったのはてめぇだろ。

 最終的な問題を性差のせいにするのも壊滅的に卑怯なやり口だ。こんなやつに、すこしでも期待していた私がバカだった。

 バカだったと、失望したところで、あれあれ、私ってばいったいかれの何に期待していたのだろう。いっしゅんすっとんきょうになってから、腹の虫がドタバタ暴れた。

「ええい、むしゃくしゃする!」

 私は叫び、かれの背を押し、追いだそうとするのだけれど、なんだかそれでは幼稚すぎるような気がし、試作品のヒダ丸を手にして、それを木偶乃くんに押しつけた。

「もしつぎ、ここに来たかったら、それの感想を持ってきなさい。それ以外でここに近づかないで。いい?」

「なんですかコレは」

「童貞の妄想力がどの程度のもんか、その希少性を見せてみろ」

 そしたらすこしは見直してあげてもよろしくてよ。

 のど元まででかかったつよきの発言は、懸命な理性さまのおかげで呑みこめた。

 満杯の押し入れにさらなる荷物を押しこむようにして、私は木偶乃くんを扉のそとに押しやった。

 静寂のよみがえった研究室で私はおおきく息を吐く。

 こんなに感情的になったのはいつ以来だろう。

「まったく」

 思いのほか処女であるじぶんに引け目を感じていたと知り、急に歳をとった気分になる。


(18)

 ヒダ丸は現状ゆいいつ手元にあった試作品である。それを木偶乃くんに手渡してしまった手前、私にできる作業は限られる。江音間さんが戻ってくるまでのあいだ、既製品のオナホールやディルドなど、研究室に所狭しと並んだ用具の手入れをしはじめる。江音間さんが寝泊まりしているのだから必然、ここには彼女の着替えもあるわけで、脱ぎ捨てられた下着が、段ボール箱に詰めこまれ、無造作に部屋のかどっこに押しやられている。時間つぶしのついでだい。私は江音間さんの下着を手に取り、洗面台のある一画に立つ。揉み洗いしがてら、つらつらと今後のことを考えた。

 ヒダ丸を原型とした江音間式∞は、ほとんど完成を目前に控えている。あとはうえの許可を得て、3Dデータを抽出し、それをデザイナーとの相談の許、工場へ発注できるカタチに微調整していけばいい。

 社長は未だに失踪したままだ。頭のいない社にあってしかし、社員はいつもと変わりなく働きつづけていられるのは、そもそもがこれまでとなんら変わらない現状だからで、畢竟するに社長はもとから現場にいてもいなくても変わらない、私たちにとって影響のかぎりなくすくない人物であった。

 社長の役割とはおおむね、仕事をつくり、それを私たち社員へ分配する作業に終始する。それ以上でもなくそれ以下であっても困るのは我々社員であり、言うなれば社長とはまさに頭、脳みそであり、食べ物を食べるのに使う手や口、獲物を追うための足がなければなにもできないデクノボウであるのに異存はない。

 いずれにせよ社長なきいま、私たちの抱える懸案事項は、江音間式∞の最終局面におけるGOサインの是非をいったい誰に問えばよいのかという一点に尽きる。

 むろんそれは社長であるのだろうけれども、あるべきなのだろうけれども、当の本人がいないうえ、試作品が盗まれたとあっては、オチオチ果報を待ってはいられない。

 なればこそ、一刻もはやく江音間式∞を完成させ、上司たる伊香川さんを焚きつけて商品化すべく相応の段取りを踏んでいくべきではないか。ともすれば、オチャラケてばかりで、ろくな判断のできない社長がいない分、今こそが好機であるのかも分からない。

 新型バイブ「イヴ」の二の舞を踏むわけにはいかない。

 思えば思うほど、悔しさがどこからともなく湧いてきては、ホイサ、ヤイサ、と私の内なる竈に薪をくべる。火は炎となり、竈のなかでメラメラと凝縮する。凝縮したそれは怨念にも似ており、灼熱の情にさらされた江音間式∞は、陶磁器さながらに、硬く、艶やかな輝きを帯びるであろう。

 輝きに満ちたそれはきっと、人生の伴侶のいない迷える子羊たちへ、愛をそそぐための、ただそれだけの器を提供する。

 あなただけの器を。

 あなたにぴったりの轡(くつわ)を。

 手綱を、握らなければならない。

 人はおのれの感情を、欲望を、制御しなくてはならない。

 そのための手綱を人は持っておいたほうがいい。

 ここまで考えてから、おやおや。

 私は首をひねる。

 これではまるであの傲慢チキ腐れヘンタイ王子と同じではないか。

 性玩具にそんな理性の補助を担うほどの役割はない。たとえそういった効用があろうとも、それは十割掛け値なしに使用者の心持ちによってなされる抑圧である。

 たとえそれが性玩具でなくとも、それこそ道具を用いずに行う自慰であっても手綱として十二分に成立する。

 するはずであるのだけれども、けっきょくのところそれは理想論であり、じっさいのところどうなのかと問われれば、自らの手のみを駆使した抑圧行為では、十二分に理性の補助を担えず、ゆえに行為を逸脱し、それこそ幼少期に遭遇した露出狂のように性的犯罪に手を染めるはめになる。

 かといって性玩具があれば世の中から性犯罪を失くせるかと問われればそういうわけもなく、あちらを立てればこちらが立たず、だいたいにおいて、あちらこちらでところ構わずアチラを起たせてしまう男性陣に矛先のすべてを集めてしまってもどこからも非難の声はあがらない。野次の集中砲火は覚悟する。

 気づくと江音間さんの下着を総じて洗い終わっており、さてどこに干してやろうかしらと社内の屋上を思い浮かべるけれども、その所業はさすがに人としてどうかと思い、さりとて干さなくては洗った意味がなく、ここが彼女の住まいであるならば、ここに干すのが道理のうち、どうせやってくる人間はいないのだから、の判断を私はじぶんに下してみせるが、じっさいに干し終わってみるとどうであろう、もはやここは下着のなる森ですか、の疑問におそわれること間違いなしの様相とあいなりました。

「運動会みたい」

 小学生のころを思いだし私は、校庭の頭上を縦横無尽に駆け巡る万国旗を連想した。

「うわ、なんじゃこりゃ」

 しみじみ思い出に浸っていると、ようやく江音間さんが戻ってきた。

「運動会でもはじまるんですかねぇ」

 などと宣巻く彼女の似たり寄ったりな発想に、苦笑いする。

「かってに洗っちゃった。ごめんね」

「いえいえ。ありがたいですよ。いえ、ホント」

 さほどありがたそうというほどでもない言い方は、けれども迷惑というほどでもなく聞こえ、私は機嫌を損ねればいいのか、それとも満足すればいいのかの判断に手をこまねいた。まねまね。

「伊香川さんはなんて?」

「部長ですか?」

 なぜか首を傾げられてしまうが、部長に呼びだされたと言って部屋を出ていったのは彼女である。

「もしかしてデマカセだったの。気まずくてそれで出ていったわけだ」

 私にプリンスを押しつけて。

 なんてふていやろうだい。私のなかの武士が鯉口を切る。

「あ、そっかそっか。なんかそろそろパッケージのほうもラフにまとめておいてほしいとかで」

「試作品もまだなのに」

「ですよねぇ。目ぼしいイラストレーターの絵をいくつか見せられたんですけれども、これがまたどうして、ぱっとしないというか、例によって例のごとく流行りのキャラのパクリだったりして。かわいい女児の絵が描いてありゃいいってもんでもマカローニ」

 あ、グラタン食べたくなってきた。

 江音間さんのぼやきには触れずに私は回想する。オナホのパッケージには基本的に美少女のイラストが適用されるのが通例である。オナホを購入するユーザー層が、そのままアニメオタクの層と被っているからという市場原理が大きな理由ではある。

 だからといって従来の方針をそのまま右から左へと江音間式∞に当てはめるのは、せっかく「次世代」を謳った企画の本質を忘却どころか冒涜しているようなものである。

「それで伊香川さんにはなんて?」

「先輩と相談してみますっつっていちどここまで戻ってきたんですけれどもねぇ。いやはや、なんだかとってもワイワイしていたのであたしなぞはお邪魔ムシかなぁ、なぞと気をきかせてですねぇ。まあ小腹なぞも空いておりやしたし、餃子の匂いがぷんと香った気もしたようなそうでもないような、まぁなんやかやで、ついでに差し入れでもどうかなぁと思いまして、はいどうぞ」

 差しだされたのは餃子専門店(仮)の餃子セットであった。

「ごくり」

「あたしは食べてきたのでぜんぶどーぞー」

「あ、ありがとう」

「それで先輩のほうは収拾つきました? 王子殿がいないってことはまあ、どうにか落ち着いたのでしょうけれども、まさか先輩方が初体験がどうのこうのなぞと趣の深い話に華を咲かせていようとは、イチ後輩としてその仲睦まじさには胸がほっこりするところ万々歳でありますなぁ」

「なにかものすごい勘違いをされている気がする。というか聞いてたんなら止めてよ」

 いま思いだしても顔のうえで火の鳥が舞う。「戻ってきてたんなら顔見せてくれればいいのに。わざわざ逃げなくとも」

「いえいえ、だってあんなに廊下に響いてちゃいくらなんでも入れませんよぅ」

「ん?」

「すごかったですよ、先輩の勇ましい声がそこかしこに反響して下の階までこだまして」

「なんて?」

「ですから、先輩の演説がこだまして。そうそう、【申しわけないけど私はいっしょに墓の中に入ってくれるような相手じゃなきゃ私の処女はあげないからね】――なんてセンテンス、いったいどんなセンスです、って感じで聞き入っちゃいましたねぇ」

 しみじみ言われてもみじめさが増すだけだ。

「ほかの人に聞かれたりは」

 祈るような気持ちで反問するも、

「そりゃ何事かって、みんな廊下に飛びだしてきましたよ。あたしは鼻がこんなに高くなってしまったよ」江音間さんは鼻の頭に拳を重ね、ピノキオの真似をした。「こんなに素敵な純粋処女があたしの上司であり先輩であり、いまではもう相棒と言っても過言ではない関係だなんて」

 茶化しているわけではない。彼女はしごく当然のように感激し、私を慕ってくれている。が、いまはその無邪気な好意が癪に障って仕方がない。

「江音間さん……」

「なんじゃらほい?」

「出てって」

「へ?」

「出てって!」

 扉をゆび差し、私はさらに叫ぶ。「顔も見たくない」

 鋼の心臓で出来ているのか、江音間さんは私ごときの怒号もなんのその、訳わからんチンチン、などとこめかみをポリポリしてから、まあ先輩がそうおっしゃるのなら、とさほど傷ついた様子も見せずにそそくさと部屋を出ていくと見せかけて、

「あ、いちおう着替えも持ってこ」

 誰へ向けてなのか独白を吐き吐き、万国旗さながらの下着の列から無造作に選び取ったショーツとブラを手にし、部屋をしゃきしゃき出ていった。 

 バカにされている気分になるのは、私だけがムキになっているからだと判るからで、とりもなおさず江音間さんは私がなぜ怒っているのか、その原因にすら思い当たらないのだろう。或いは思い到ってはいるけれど、あまりに幼稚な当てこすりすぎて呆れているのかも分からない。

 解らないでもない。

 私は彼女の懐の深さに甘えている。先輩面してはいるけれど、じっさいのところは「させてもらっている」にすぎないのだ。

企画会議のときもそうだった。けっきょくのところ私は江音間さんの用意してきた試作品のほうをプレゼンに利用し、何食わぬ顔で彼女を助手として抜擢した。それからの試行錯誤も、そのほとんどは江音間さんの貢献がそのまま企画の進捗に結びついた。いつだって彼女は私を立ててくれたし、私に無邪気な顔を向けてくれる。そんな彼女のおおらかな懐の深さに私は甘えていた。

 今だってそうだ。単なる八つ当たりであるのは岡目八目を持ち出すまでもなく明々白々であり、当の本人である私が認めている。

 私はただ江音間さんのせいにしたくて、誰かのせいにしたくて、こんなにみじめなのは、ふがいないのは、未だに処女であるじぶんにすら、なんらかの理由を当てはめたかった。

 責任転嫁もろくにできないなんて。

 なんて笑い種だろう。

 自己正当化にさえ手間取る私にはいったいどんな長所があるのだろうか。考えてみるも、いっこうに答えは浮かばない。もとよりないだけの話である。

 初心にかえろう。

 なにともなしに考える。

 どうせ役には立たないのだ。なにを肩ひじ張ることがあろう。

 私はしょせん、男性器に興味があるだけのスケベな女である。スケベなくせして生身の人間と寄り添い、肌を重ね合うことにビクビクしている臆病者である。

 なにがそんなにおそろしいのか。

 嫌われるのがこわいのか。

 幻滅するのがこわいのか。

 或いはそのさきに訪れるだろう、逃れられない、離れるさだめがこわいのか。

 出会わなければ別れない。そんな戯言に惑わされるほどにはもう初々しくはないはずだ。

 親の影響を考えてみるも、露出狂に遭った話をした娘に対し、遭っちゃったかー、の一言で笑って済ます母親は、影響を受けざるを得ない濃ゆい性格をしてはいたけれども、どちらかといえば性に開放的な性分で、現に再婚こそしなかったものの、私は彼女の恋人ともとれる相手にいくどか茶をだした憶えがある。むろんその、いくどか、の相手はみな別人であり、母はなぜか男を手玉にとるのがうまかった。

 母が手玉にとられていた可能性は否定しきれないけれど、じっさいに相対した母の恋人たちはみな好青年で、というよりもどこか弱々しさを兼ね備えた、いわゆる干し草をムグモグしていそうな男性陣であり、一回りも年下の私にさえ敬語で接するという腰の低さを発揮していた。

 ヒモを飼っていたわけでもないのは、万年金欠のウチの懐事情を誰よりも把握している私だからこそ言えることで、母はむしろどこまでも男たちに弱みを見せない女だった。

 どうしてそんな女の股から産まれ落ちた私がこうまでも男と縁がないかといえば、単純な話として私はちょっとがっつきすぎていたきらいがある。

 小三の時分で露出狂に遭ってからというもの、私は男性器に夢中になり、それこそもういちどこの目でみたいと欲するにあまりに、余り、ありすぎた。同級生の男の子を捕まえてはパンツをずりおろし、それの形状が私の目にしたものとかけ離れていたものだから、しょぼくれた水風船のようなそれをなんとか膨らませようと、試行錯誤したのがよくなかった。

 朝顔のつぼみのようになっていたそれの先端を切れば中身が、ぷくーんと膨れ出てくるのではないかと思い、ハサミを持ちだしたのを契機に私は先生からこっぴどく叱られるはめになり、また当然の帰結として母の耳にもその旨が入り、やはり家でもこっぴどく叱られた。

 自分の娘が露出狂に遭ったところで動じない虚無の心臓を持つ母も、ほかの子どもには社会良識をいかんなくふるった。

 畢竟するに私は、母に引きずられるようにして私がパンツをずりおろした男の子たちの家を飛脚よろしく謝罪して回った。

 思えばそのころから私は積極的に男という生き物と距離を置きはじめたような気がする。わざわざ先生に告げ口しなくとも、といったやさぐれた気持ちがなかったとはいえず、とりいそぎ結論を言ってしまえばそのときいちど私は男という生き物に幻滅した。

 男性器を見せるくらいよいではないか。露出狂の男はタダで見せてくれたぞ。

 もちろんそんなのは間違った見識であり、私だって思春期にさしかかったころには、そうしたかつての男性器にまつわるあれやこれやはけっして他人には明かせない黒い歴史と化していた。

 男性陣を避けてきたつもりはないけれど、生殖器への好奇心のつよさからすれば理に適わない程度には接触を持とうとしてこなかった青春時代ではあった。もっといえば青春時代などあったのかと疑問符に襲われ、その津波がごとくハテナの山に押し流されては亡羊としたこの世の果てに行き着いたまま私はそこで何食わぬ顔をして暮らしている。

 黒い歴史を抱え、それゆえに世間一般の「ふつう街道」から外れたならず者たちの行きつく、ここは、最果てである。

 三十路を間近に控えてなお童貞処女であるなぞ朝飯前、日がな一日性器のことしか考えない老若男女を数えるのに折る骨はなく、また、童貞処女を脱してなお性器への執着を捨てきれない飽くなき思春期に取りつかれた中年どもも枚挙にみるも、いとまがない。そもそもまともな人間がいやしない。

 性器LOVE。

 愛しているのだ。

 触れたこともないくせして。

 こじらせてしまっているのだ。

 性器さえ触れられればそれでよく、本音を披歴すればそれ以外の部位は眼中にない。

 人格なぞは問題外だ。

 性器に触れるためにわざわざ好きでもない相手と仲良しこよしを演じるなぞ虫唾が走る。

 性器とよろしくやるためにお近づきになるなぞ、最低ではないか。

 そうだとも。

 私は最低の人間にはなりたくなかった。

 どうしてそれが最低になるのかなど、そんな社会常識の刷りこまれた背景なぞに興味はない。私は純粋に、愛を免罪符にしてぞんぶんに男性器を愛でてみたい。

 おそらくは私のような最果ての住人であろうとも、出るところに出れば無償で生殖器を触らせてくれる男性陣はいるだろう。引く手あまたとはいえなくとも、こちらで相手の年恰好を指定できるくらいには、ひょっとしたらわがままが通るかも分からない。或いは、その結果に金銭的対価を得たりするかもしれない。それくらい世の中は広く、そして業が深い。

 だからこそ私はそれに頼りたくはなかった。

 なけなしの矜持だろう。

 処女をこじらせた女のさもしい矜持である。

 そうだとも。

 私はけっきょくのところ木偶乃くんと同じなのだ。

 童貞をこじらせたオナホプリンスと私は同じだった。

 なんのことはない。

 認めよう。

 木偶乃くんへの苛立ちは、総じて彼への同族嫌悪だったのだと。

「わるいことをしちゃったなぁ」

 木偶乃くんもそうだけれど、江音間さんは完全なるとばっちりである。

 同族というなれば彼女こそ私の同族も同族、こじらせ仲間である。

 ひょっとしたら彼女のことだから、彼女の器量なのだから、とっくに貞操なぞ投げ捨てているやもしれない。が、私に合わせてくれているというのであれば、それこそ私は彼女のその配慮に甘んじて甘えようと思う。

 私には江音間さんが必要だ。

 そこにプリンスをまぜてあげてもいい。 

 オナホの顧客が男性陣である以上、やはりというべきかプリンスの協力が必要だ。

 おとなげなかった過去の私をいちど水に流し、まっさらな気持ちで取りかかろう。

 仕事はやり遂げてなんぼである。

 まずすべきは、決まっている。

 連絡先を登録してはいたものの通信する必要のないくらいに毎日となく顔を合わせつづけてきた後輩へ向け、なんと謝るべきかと、久しく使わなかった前頭葉の「謝罪野」をせわしなく働かせながら、私はメディア端末を手にとった。


(19)

 気分のすこぶるわるい日にかぎって地雷を踏むのはなぜなのか。臆病風に吹かれてひよった私は江音間さんへの謝罪をテキストメッセージに載せ送った。朝まで待ったけれど返事はなかった。

 ふだんより気持ち遅めに家を出た。

 重い足をノタノタ引きずり歩いていれば、いずれ会社には辿り着く。

 警備員室に顔を出すと、もうすでに出社している者があるという。江音間さんが戻ってきているのかと思い、研究室には直行せずに、居座らなくなって久しい部室へと歩を向けた。

 営業の仕事にも精をだしていたころにはあれだけとっ散らかっていたデスクも、いまではサハラ砂漠もかくやという有様で寂寥感を漂わせておる。

 腰を下ろそうとするも、なぜか躊躇い、誰もいない部室を眺めてみれば、視線のさき、ふと椅子にかけられた上着を発見し、なるほど出社していたのは同じ部署の人間かと思うに至る。

 いったいどこにいったのだろう。そこの座席は誰だったかと記憶に検索をかけながら私は部室に完備されている個室、作業部屋を覗いた。そこは作業に集中したい者が使う個室で、壁で仕切られたデスクが六つほど並んでいる。マンガ喫茶じみたそこは、ほとんど月極と似た仕組みで使い分けられており、半ば指定席と化している。

 だもので、どの個室が埋まっているのかを知るだけでたちどころに個人を特定可能なのだけれども、個人を特定したのと同時に私はそこで自慰にふける木偶乃くんの姿を視認した。

 え、なにしてんだコイツ。

 あまりに素朴な光景だったのでついつい凶暴な自意識さんが覚醒してしまったものの、その感応に偽りはなく、え、なにしてんだコイツ、私はもういちど自分自身の理性で以って確認した。

 オナホールに局部を突っこみ、コシコシ手首を動かしつづけている木偶乃くんはデスクに完備されているメディア端末の画面に目を釘付けにしたまま、やはり手首をコシコシ動かしつづけている。

 私は目を離せなかった。

 そこに局部がある。男性器がある。

 男性器があるというならばそもそも男を見かければそこに男性器は端然として存在しており、常日頃そこかしこに溢れてはいるのだけれども、こうしてズボンからポロンと零れ落ちている単体、それそのものを見かけるのは、露出狂にあったころ以来である。

 もっともズボンからポロンと零れ落ちてはいるものの、肝心の全貌はオナホールのなかに見え隠れしつづけていていそがしく、もどかしさが輪をかけて私のうちにわだかまる。

 手首の動かし方により、なかなかに面長な男性器であるとお見受けする。グポグポ音がしているところを鑑みれば、太さもあるとみて差し支えない。挿入された性器が太い場合、オナホールの穴が押し広げられ、中に空気が溜まる。そうするとローションの粘り気と相まって、グポグポと音がするのである。

 じっさいの性行為の際にもそうした音が鳴ると聞き及ぶ。膣屁と呼ばれる現象である。

 膣との相性がわるい場合に鳴るとされる向きがあるけれど、オナホールに限って言ってしまえば、単にサイズが合っていない、モノが太いだけと言ってしまえる。

 見た目にそぐわず立派なものをお持ちのようだ。

 黙ってその場を立ち去り、なにも見ていませんよぉという体を貫いてあげるのが最善とする声と、咳払いの一つでも残して注意を喚起してあげることこそ善意なのでは、とする声が、理性の名を掲げて私の脳裡にこだまする。

 こだましたそれらはけれども、こだまである以上、反響しては薄れいくだけの儚さを持ち合わせており、間もなく私の裡からそれらの声は消え去った。

 私は凝視した。

 存在を気取られぬようにこっそりととなりのボックスに入り、備え付けのメディア端末を起動させる。個室にあるすべての端末は並列処理されており、言うなればクラウドという巨大なサーバを共有したひとつのマシンであり、とりいそぎ結論を言ってしまえば、私は木偶乃くんのいる個室の端末のカメラ機能をONにさせ、その映像をこちらの端末に横流しした。木偶乃くんのほうの画面には、カメラがオンになったよぉ、というサインが出るはずだけれども、大脳前頭葉および視床下部を性欲に支配されている今のかれには、それに気づくだけの洞察力はなく、また画面でクネクネ腰をよじっているふつくしい女性の裸体に釘付けになっているかれには、もはやそれ以外の情報はコーヒーのドリップなみに濾されてしまっている、トリップしてしまっている。極限の集中力を発揮すると人は視界から色が消え、音が失せ、周囲の風景がゆっくり流れて視えるとする話を以前どこかで聞いた憶えがあるけれど、畢竟するに現状の木偶乃くんは今まさにそのマイワールドに没入している。

 その姿からはふだんのぶっきら棒で小憎たらしい青年の姿は想像できず、目を血走らせ、よだれを垂れ流し、必死に手首を上下させ、腰をクイクイまえに突出し、痙攣さながらに背をそらせている無様な男の姿がそこにはあった。

 私にとってはそうした無様な姿はどうでもよろしく、重要なのはただ一点、オナホールの隙間から見え隠れするソレそのものをこの目にしかと焼きつけることである。

 もっとも、ネットを利用すればものの数秒で無修正の男性器を見るなんて造作もなければ、たわいもない。

 けれどもそういうことではないのである。

 けっきょくのところネットを介したそれは現実ではない。CGやとてもリアルな絵と、感覚としては同じなのである。偽物だという感覚がどうしても拭えない。

 画面を通して見ている時点で、私が今目にしているこの光景もまたそうした偽物と大差ないと言われれば否定の余地はないけれど、この胸のうちに湧き、渦巻いている情動はまごうことなき実感を私につよく突きつける。

 私は今、男性器を目にしている。

 男性の、自慰なるものを目撃している。

 思えばオナホールをつくる現場では、男性陣が恥ずかしげもなくオナホールを使用している姿を女性陣が観測機を片手に観察している構図があるものと、じっさいにこの会社に就職するまでは考えていた。

 或いは私は、そうした構図に身を置くことに憧れていたと言ってしまっても、けっして言いすぎではないのかもしれず、だからこそそんなはしたない本懐は誰にも言えず、じぶんにもそうした本音を偽っていたのかもしれなかった。

 男性器。

 はよ男性器を見せんかい。

 私は木偶乃くん同様、画面に釘付けになっていた。傀儡になっていたと言ってもいい。私は男性器に操られていた。魅せられていた。

 魅せられつづけてきた人生だ。

 好奇心のつよさが高じて、この手で理想の男性器をつくってやろうと、じっさいにそうした玩具を、新型バイブ「イヴ」を生みだしてしまった。

 企画は頓挫してしまったようだけれど、私がそれを生みだした事実は変わらない。

 私の思いは変わっていない。

 私は見たい。

 男性器のギュウギュウに膨張したその先端が、ぷっくりと膨らみ、その赤くパンパンに充血しきった先端にテルテルと天使の輪を描くさまを。

 できればそれを手に取って、ナデナデしてあげたい。

 勘違いしてほしくはないのだけれど、私はなにも性行為がしたいわけではない。ただいっぽうてきに男性器を愛でたいのである。

 子猫をかわいがる心理と何も変わらない。

 目に入れても痛くないは言いすぎかもしれないけれど、口に含んで頬張るくらいはしてあげてもいい。というかしたい。させてくれ。

 舌の先端でさきっちょをグネグネ押しつぶしてみたいし、根元からキャンディみたいに舐めあげてみたい。どんな味がし、どれくらい固いのか。弾力はいかほどで、どういう反応が返ってくるのか。

 はずせないのは射精である。射精という現象を観測するのは、南極に行ってオーロラを見るよりも私の胸を熱くこがす。

 なんだ射精って。

 気持ちいいという感覚が結晶化したとしか思えない現象ではないか。

 男ばかりずるいと考えるのは差別になるのだろうか。解らないけれども、とかく私は興味津々が募りに募って、今こうして女性として、ひいては人間として最低の覗きという犯罪行為を実践してしまっている。

 言いわけしておきたいのはけれど、ここは社内で、けっして自慰にふけるべき場所ではないという点だ。私にはもちろん非があるけれど、同じくらい木偶乃くんにだって非があるという事実をここは是非とも強調しておきたい。

 なにともなしに脳内会議で私は私自身に免罪符を突きつけつつ、それ以外の思考のすべてを目のまえの画面へ、木偶乃くんの局部へとそそいだ。

 私はそこでふと、なにゆえオナホールは透明ではないのか。得手勝手な憤懣を抱き、そして閃いた。

「そうだ!」

 立ち上がり叫んだ私は迂闊だった。

 目のまえの画面では、火に触れたサルさながらの俊敏さで局部を仕舞い、ずり下がったズボンをオナホールごと穿く男の姿があった。

 となりの部屋から勃然と声があがったのだからびっくりするのは当然だ。今この空間に自分一人きりしかいないのだと思いあがっていたかれの心情は察するに余りある。

 双方の面目を保つならば私はここで大袈裟に、寝過ごしちゃったとかなんとか誤魔化しの一言を残して個室を出ていくべきだった。

 けれどもそれを実行に移す前に、まずはさておき端末から盗み見の証拠を消し去っておかねばらなかったけれど、その暇をあいにくと神は私に与えなかった。

 画面には、まじまじとカメラを覗きこんでいる顔面蒼白の木偶乃くんが映しだされている。


(20)

「それはそれは災難でしたねぇ」

「災難というか散々というか」

 逃げるように個室を飛びだし、作業部屋をあとにした私は、そのままの勢いでここ、研究室に逃げこんだ。

 江音間さんはすでに戻ってきており、白衣に身を包ませて、新たな試作品づくりに精をだしている。

「あ、そうだ閃いたんだけどね」

 木偶乃くんの自慰を覗き見していたときに灯った頭のうえの電球を、私は林檎をもぎ取るようにして回収し、

「素材を透明にしてみたらどうだろう」と提案する。「挿入している最中の中身が見えるようにしたらいい気がして」

「エロマンガの断面図みたいにですか?」

「そうそう」

 私たちの部屋には、そういった成人コミックが資料として完備されている。性行為における挿入時の描写では、その感触をより直情的に伝わるようにとの演出として、断面図なるものが描かれている場合がある。

 アリの巣を横から見た具合に、断面図では挿入時の膣内の状態や、男性器の状態が質感よく描かれている。

「なかなかマニアックな気もしないではないですけれどもねぇ」

「もちろん材質によっては透明にするのが難しいものもあると思う。だから、透明な材質のも用意しておこうよってこと」

 自分だけのオナホールを。

 それが私たちの手掛ける「江音間式∞」のコンセプトだ。カテゴライズできる型のなかに、そうした工夫のあるものがあってもよいのではないか。商品の幅を広げるための案である。

 既製品のなかにまずは透明なものがないかを私は調べてみることにした。

 メディア端末で商品データを検索しながら、

「きのうはごめんなさい」

 なにげない口調を意識して言った。

 江音間さんは聞こえなかったはずはないのに、

「ふしぎだなぁ先輩がいるとやる気がでる」と言った。「あすからは覗き見なんてしてないでイの一番で顔を見せてほしいですねぇ」

 胸の奥に青空が広がった。私は、そうする、と頷き、なにをおいてもまずは江音間さんに会いに行くと誓った。


(21)

 透明なヒダ丸こと、新しい試作品を江音間さんが完成させたのは、私が木偶乃くんのあられもない姿を盗み見てしまった日から四日後のことだった。

「思ったよりかかっちゃいましたねぇ。なかなかイケズな殿方だ」

「半透明ならかんたんなのにね」

「すっかり十割スケルトンとなると、中が空洞になっているだけでも屈折率が変わってきちゃいますからねぇ。それこそローションからして透明度の高いものにしないとって感じで、あたしなんかは四苦八苦でござんした」

「よもや江音間さんがアレを引っ張り出してくるとは」

 光触媒、と江音間さんはしたり顔で、イヒヒと白衣をひるがせる。

「内部洗浄も楽になって一石二鳥の優れものですよねぇ、便利なものがあったもんだ」

 言って江音間さんはできたてホヤホヤの試作品、スケルトンオナホを、ディルドでもってグポグポ鳴かせた。

 水洗トイレや外壁のコーティングに利用される光触媒は、親水性が極めて高く、ほとんど水を弾くことがない。汚れと物体とのあいだに染みこんで汚れを浮かすという、セルフクリーニング効果がある。また光と反応し、抗菌作用や脱臭作用を働かせるという、なかなかに多機能な触媒なのである。

 これをオナホの内側に塗っておくことで、ローションをより馴染みやすくさせ、同時にオナホの透明性や衛生状態を保持しようという魂胆である。

 人体への影響もほとんどなく(まったくないと言い切ってしまうと語弊が生じしてしまうが)、その安全性は調味料程度と、非常に高い水準を誇っている。

「ただし、シリコン系の素材だとコーティングしにくい、ってぇ欠点があるので、内部の摸擬膣壁にはふつうにビニール素材を適用しましたけれども、まあ、超極薄コンドームみたいなものだと考えてもらって差し支えはないですかねぇ」

 光触媒というだけあって定期的に光を当てなければ、もろもろの効果が生じない。しかしそこは江音間式∞である。元々の構造からして、組み立て、分解、付け替えと、内部外部の差異に拘らず、すべての部品が光のある場所に露出するのが前提である。互換性はバツグンであり、光触媒はまさに我々のために開発されたような夢のような粉であった。

 江音間式∞の各部位は、質感やサイズなど、様々な需要に応じるべく開発されつづけている。素材のちがいだけでも十種ほどあり、形状のちがいを含めるならば、ざっと百種類ほどの部品が揃いつつある。

 そこから組み合わされる完成形の数は、単純な計算ではその全貌を把握しきれない。「ABC」も「BCA」も素材が同じならば、組み立てたあとの完成品に差異はない。同一のものとして数えられるけれど、そこに「ABCD」なる組み合わせを被せてくることもできるため、途端に計算がややこしくなる。

 コストは既製品をモデルにしてあるので、算出するのにそれほど手間はかからない。問題なのは、生産ラインの確保である。大手企業とはちがってこの会社ではこれまで、完全オリジナルの、独自の製品を扱ってこなかった。

 だからこそ社をあげての新製品をつくりたいという社長の考えだったのだろうけれども、プレッシャーをかけるつもりはないのか、そのほとんどの作業を(すべてと言ってしまいたいくらいに)社員に投げっぱなしである。事を最初から大きくするよりかは、計画がとん挫したときのことを考え、いつでも撤廃できるようにとの配慮があるのかもしれないと考えるのは社長を過大評価しすぎているきらいがあるけれど、ともかく、現在、工場との話をつけるため、私たちの上司、伊香川さんが血眼になって日夜営業活動に勤しんでいる。

 商品として売りにだすためには、資本が必要だ。原版から材料から、お金はいくらあっても困らない。必要経費として会社からはすでに予算をもらっている。江音間さんと私が少数精鋭で試作品つくりに勤しんでいるのも、その理由のほとんどはもっぱら経費削減に因がある。秘密保持のためという名目もあるにはあるものの、そちらはほとんど後付けで、おまけのようなものである。

 企画書を練り直し、既製品の売り上げなど、需要の推移などから利益率を叩きだす。商品化するだけのメリットがあることを数字に打ち出さなくてはならない。

 気づくと研究室に江音間さんの姿はなく、研究台と化した彼女のデスクには、「餃子こうてきます」と無駄に関西弁で他出の旨がつづられている。

 いくらか声をかけられた記憶がおぼろげながらも残っている。江音間さんにはわるいことをした。集中しすぎるきらいがむかしから私にはある。さいきんではそうした傾向も見られなくなったなぁと自らの成長をよろこばしく思っていたところなので、油断した。

 背伸びをしがてら私は江音間さんの残していった開発中の試作品たちを見渡し、無限に増殖するマリモをなぜだか連想する。

 試作品窃盗事件が起きてから半月も経っていないいまにあって、江音間さんは以前の倍に迫る勢いで試作品を生みだしつづけている。

 単純に失ったものを再現しているだけではない。新しい性能を付加し、或いは失敗を重ねたりして、まさにオナホールの女王にふさわしい生産量を記録しつづけている。

 まるっきり江音間式∞とは関係のない個体まで生み出しており、それはたとえば以前に大手性玩具販売会社「コレゾー会館」が手掛けていた妖精型オナホールなどであり、何か問題があったのか現在それは市場に出回ってはいないのだけれど、そうした過去の既製品を模して作られたそちらはまるっきり彼女の趣味、娯楽の産物であるようだ。

 そうした作業はもっぱら就業時間外に行っているようで、こちらに文句を挟む余地はなく、また江音間さんのオナホールの知見が深まるのであれば、そうした遊びが江音間式∞とまったく関係がないとは言えず、或いは彼女の驚異的な創作力は、そうした遊びから派生しているのかもしれず、ともかくとして私は江音間さんの飽くなき好奇心、そして理想を追及する姿勢にいたく感じ入ってしまうのである。

 ゆえに、意味もなく試作品の穴にゆびをヌポヌポ出し入れさせていたのには、真実なんの意味もなく、いやらしい気持ちが微塵も湧かなかったのかと問われれば否定するのはむつかしいのだけれども、断言できるのはただ一つ、私がそこに疑似自慰なる卑猥な連想を見出していなかったという確固たる真実だけである。

 主観からしてみれば明々白々なこの状態にあって、しかし客観的な視野で眺めてみますれば、私はオナホールにゆびを出し入れさせながら内部をこそげとるように撫でつけており、その表情はどこか恍惚としていたのはむろん私が江音間さんの飽くなき好奇心に感じ入っていたからであり、オナホールそのものに感情移入していたわけではない。断じて!

 ほんらい、この部屋には私しかいないのだから釈明する必要はまったく迫られていないにも拘わらず、私はどうしても釈明せずにはいられなかった。

 部屋の扉が開いていた。

 すっかりではなく、隙間が。

 こちらの視線に気づいたのか、逃げることなく扉の向こうにいる人物は、姿をさらした。

 室内にはまだ足を踏み入れていないその男は扉のみを開け、こちらに対してメディア端末を向けている。察するにそれは扉に隙間が開いていた段階からずっと私に向けられていた。画面ではなく、裏側に付属したレンズがこちらを捉えて離さない。

 盗撮である。犯罪である。

 私は、かように抗議の声をあげるべきだった。できなかった。指弾したならば逆説的に、私のしていた「オナホにゆびをグポグポ」が、あたかもひわいな行為であるかのように半ば認めてしまうのと同義な気がしてならなかった。私は何気ないふうを意識して、

「なにかってに撮ってんの」

 入るの、入らないの、はっきりして、とつよきな態度で挑んでおる。不自然な対応であることに数秒遅れで気づいたが、もう遅い。正常な理性を働かせるならばまずはこう言わなければならなかった。このまえのアレは気にしないでね、と。或いは、ごめんね、と潔く謝罪をしてもよかったが、いずれにせよ私が私の失態を認識したのは、木偶乃くんがメディア端末を仕舞い、研究室のなかに身を滑らせ、無表情のまま私のまえに立ち、

「あなたばかりズルい」

 ポーカーですべての手札がジョーカーなんてあり!?といった具合に、こちらを無駄に非難してからのことである。

「ズルいってなに」

「ぼくはじかに恥部を見られているのに、あなたばかり偽物じゃないですか」

「待って。話が見えないんだけど」

「どうせやるならオナホではなく自らの股間でやるべきだ」

「待って待って。私がまるできみみたいに恥ずかしいことしてたみたいに聞こえる」

「してたでしょう。どう見たってはぁはぁ興奮してたでしょう」

「オナホにゆびを突っこむくらいで興奮できるようなヘンタイじゃない。というか、本物がくっついてるのに、なんでわざわざ偽物なんかいじくるの」

 ムラムラしたならば、木偶乃くんみたいにじぶんでじぶんのをいじくる。

 私は鼻のあながピクピクするのを感じながらそういった旨を主張した。

「ふん。いやらしいことをいやらしいと卑下しているあなたのようなひとは、きっとぼくみたいにはできないんでしょうよ」

「知ったふうな口叩かないで」

「じゃあ何を叩けばいいってんですか。ひとの情事を盗み観ておきながら、盗み観ていた事実をいっぽうてきに突きつけておきながら、あなたというひとはなにも言わずに逃げ去って、まるで自分たちはそんな卑猥なことはしないのだとでも言いたげにぼくのことばかり責めるんだ」

 そうしてぼくを虚仮にしているんだ、と木偶乃くんはあたかも人類すべてを敵に回した孤独なヒーローのごとく顔を真っ赤に――はしてないのだけれども、声を荒らげ――てはいないのだけれども、マグマを思わせる静かなる熱量をその身から発しておる。

「ああ、そういうこと」

 私は腕を組む。「私、解っちゃった。きみは自分でも本当はオナニーがいやらしくて野蛮なことだと思ってるんだ」

 そうだ、そうでしょ、と決めつける。すると木偶乃くんがムッとした。ゆがんだ口から弾丸が発射される前に私は、

「誰よりも本当はそれがいやしい行為だと思ってて、でもだからってそれ抜きでは生きていけないから、セックスはできないから、だからきみはそうやって、本当はよくないと思ってるいやしい行為を正当化するのに必死なんだ。本当は自分が誰よりも自分自身を責めていて、蔑んでいて、いやしいと思っているから、思っていながらきみはそうした自己否定の要因を自分以外に、自分の外側に求めてる。世の女性たちになすりつけている!」

 ちがう、と叫んだ木偶乃くんに私は慈愛たっぷりの視線をそそぐ。

 あごをあげ、目だけで見下すようにし、

「ちがわない。ぜんぜんちがわないよ木偶乃くん」と告げる。「ねぇ木偶乃くん。いいんだよ。セックスしたいんでしょ。本当はオナニーなんかじゃなくってセックスがしたいんでしょ。でもできないんだよね。だってモテないんだもんね。でも、いいんだよね。だってオナニーが気持ちいいんだもんね。気持ちいいことはいつまでだってやっていたいよね。でも虚しいんだよね。きもちぃ、って気持ちが途切れた途端に、ものすごーく虚しくなっちゃうんだよね。どうしてぼくは独りなんだろうって、そうなっちゃうんだよね。解るよ。すごく解る。べつに私がそうだからってわけじゃないよ。だって木偶乃くん、すごく単純なんだもの。子どもみたいっていうか、まんま子どもなんだもの」

 でもいいんだよ、と私は続ける。

「オナニーはね、べつにいやしくもなんともないんだよ。煩悩なんかじゃないんだよ。よこしまなんかじゃないんだよ。もし全世界の人間が木偶乃くんを責めても、オナニーは悪なんだ、セックスできない人間は人間じゃないんだって見做しても、私だけはきみを責めないでいてあげる。オナニーはわるくない。たとえ全世界の戦争の原因がオナニーにあったとしても、よしんばきみのオナニーのせいで世界から戦争がなくならないのだとしても、私だけはきみのオナニーを認めてあげる。木偶乃くん。ねぇ木偶乃くん。いいんだよ。自分をそんなに責めないで。責めないでいてあげて。きみは立派に戦ってる。そのあまりに余った包茎みたいな性欲を、ちゃんと制御して、自分に向けて、自分だけで【きもちいい】って気持ちに変えてるんだもの。熱エネルギィを電気に変えているみたいに、電気を光に変えているみたいに、きっときみの性欲は、きみのオナニーで、とてつもなくやさしい何かに変換されているんだと思う」

 だからね。

 私はここでとびきりの笑顔をつくり、

「オナニーの一つや二つ見られたくらいでヘコタレるな」と肩をたたく。「気にするなよ。男の子だろ」

 感極まっているのか、わなわなと身体を痙攣させる木偶乃くんは、ゆっくりと自身の肩に置かれた手を、私の手首を握り、振り払うようにした。

「あなたは責任転嫁もブサイクですね」

 私は内心、舌打ちをするのにいそがしい。


(22)

 舌先三寸で煙に巻こうとしたが、そうはデクノボウことトンチンカンが卸さない。タイミングよく江音間さんが帰ってきてくれるのを期待したけれど、そういう都合のいい展開は訪れず、奸知を巡らせた私は、それを喝破され、見事に立場がわるくなった。

「反省の色でも見せてくれればこちらとしても水に流すのにやぶさかではなかったというのにあなたというひとは」

「だって木偶乃くんがひねくれものだから」

「言いわけになってない! ああ驚いた。どれだけぼくのせいにしたいんですか。盗撮はれっきとした犯罪ですよ」

「それをきみが言うの。というか私は録画はしていないもの」

「まだ食らいつく気ですか、あきれたひとだなぁ、あなたも」

「そもそもだって、会社でオチンチンいじいじしているほうがおかしいと思う」

「やっとまともな言いわけを言いましたね。ですが、ざんねんながらここは性玩具を取り扱う会社であり、ぼくはあなたの要望に応えていただけだ」

「んん……っ」

「あなたから渡された試作品。感想を持ってこいと希求したのはあなたでしょう、丹久場先輩」

「え、あ? そうなの」

 雲行きが怪しくなってきた。私は身構える。頭のなかでいそいで四日前の記憶に検索をかけるけれども、木偶乃くんの性器がしきりに見え隠れしていたオナホが果たして私の渡した江音間式∞の試作品、ヒダ丸であったかは判然としない。

「いいですか」

 ダメ押しとばかりに木偶乃くんは私の目と鼻の先にゆびを突きつけ、「あれは仕事です」と告げた。

「で、でも」

「散々ぼくを虚仮にしておいてなんですか。いまさら泣きついたって遅いですよ。あなたはあなたの私腹を肥やすためにぼくの仕事を盗み見て、悦に浸って、バカにしたんです。百歩譲ってバカにしたことはいいでしょう。ですが、盗撮は断じて許されることではない。それこそ、あなたはぼくが下半身を露出していたことを知っていてカメラを起動させたのでしょう。なんて卑劣な」

 これはまずい。

 対処を講じる間もなく、木偶乃くんは言った。

 あなたはただ、ぼくの性器が見たかっただけだ。

 がーん。

 告げられた私は、おでこにヘンタイのレッテルを貼られた心地がした。顔を合わせる人々からこれからずっと、あいつはヘンタイだと後ろゆびを差されつづける人生を思い、そんなのは嫌だ、と寒気がした。

「あのね木偶乃くん」

「ダメです」

「ちょっと、まだなんにも言ってないんだけど」

「ダメったらダメです。許しません」

「なんで、いいじゃんケチ!」

「逆切れしたってダメです」

「あのね、ホントにわるいと思ってるんだよ?」

「いまさら手のひら返されたってイラっとするだけです」

「木偶乃くん」

「なんですか」

「……許して」

「か、かわいい顔したってダメなものはダメだ」

 おっと?

 後ずさりするかれの思いのほか新鮮な反応に、突破口が見えた気がした。気がしてから、さらにおっと、とかれの言葉に遅まきながら引っ掛かりを覚える。べつに私はかわいい顔をした覚えはなく、そもそも私はかわいくない。

 なぜか顔が熱くなるのを感じた。

「なに顔赤くしてんですか。マゾなんですか」

「ち、ちがうわい」

「そうですか。ああ、ドエスなんですか。オナホ界の【女王どすえ】なんですかあなたは」

 もしくはヌスミミ・ドスエさんなんですか、とネチネチしつこく責めたてられ、私の堪忍袋の緒はロンドン橋さながらにガラガラと音をたてて崩壊した。

「じゃあどうすればいいの! なにしたら許してくれるのさ、教えてよ」

「そうですね。なら遠慮なく」

 木偶乃くんは言った。

「ぼくのを見たんだ、あなたのも見せてください」

 おっと……。

 飲みこんだ固唾を吐きだして、私は、

「どゆこと?」

「ぼくばかり不公平です。あなたの性器も見せてください」

 目を二、三度ぱちくりさせ、かれの言葉を咀嚼する。なんど脳裡で反芻してもかれの言葉は、私の性器を見せろという恐喝まがいな言動として認知される。

「ごめん、もっかい言って」

「あなたの性器を見せてください」

「なんか私の性器を見たいって聞こえてるんだけど、聞き間違えだよね」

 正義とか誠意とか、そういうことだよね、と私は念を押してみる。

「あなたは耳までバカなんですか」なぜか憐れむような目を向けられる。「性器です。おまんこです。そこで股を開いてくぱぁってしてください」

 殴っていいよね?

 誰にともなく確認するけれど、ふしぎと返事は降ってこない。或いは返事をする必要のないくらいに当然の権利であるからかもしれなかった。

 完全なるセクハラである。セクハラというかもはや強姦までのカウントダウンがどこからともなく聴こえてくる水準で危険信号が鳴り響いている。

「脅す気なの」

「なに泣きそうな顔で言ってんですか、こわいですよ、冗談に聞こえないですよ」

「冗談に聞こえないのはこっちでしょ! なに、性器見せろって。きみバカなの? いいえきみはバカだ。脳みそ精液でできてんじゃないの、ふざけないでよ」

「ふざけてなんかないですよ、大真面目ですよ。ぼくは性器が見たいんだ! あなただってそうでしょうが、なに自分だけまっとうですみたいな顔してんですか」

 うぐ。

 それを言われると弱ってしまう。たしかに私は性器LOVEである。男性器万歳と言いながらそれのぷっくり充血したさきっちょに唇を押しつけたいといつだって願っている。けれども、だからってこんな密室で性欲の権化のような男相手に自らの恥部をさらけだせるほどあたまのぶっとんだ人間ではないつもりだ。

 ここで男女のちがいを訴えるのは得策ではない気がした。いくら私が女だからって、いっぽうてきに性器を見ておいて、じぶんだけそれが許されると思いあがれるほど私はじぶんの女性性に特別な何かがあるとは思っていない。かといって、男女平等を免罪符にかかげて性器を見せろと迫るのも同じくらい卑怯な気がする。

「冷静になって。いくらなんでも失うものがちがいすぎるよ」

「どういう意味ですか」

「だって木偶乃くんは性器を見られたってべつになんともないでしょ」

 言ってから、言い方がわるかったなと思い、「すくなくとも私に性器を見られたと知れ渡ったって、きみ自身の評価はそんなに下がらないじゃない」といそいで付け加える。「社内でオナニーしていたって知れ渡ったって、それこそさっきのきみの言じゃないけど、仕事の一環でしたで済まされる話じゃない。でも私はちがうでしょ。きみに言われて、はいわかりましたって、ほいさと性器を見せたなんてなってみなよ。私の立つ瀬はものの一瞬でぶっとぶよ?」

 木端微塵だよ、がけっぷちだよ?

「そんなことは……」

 ない、と続けたいのだろうけれども、そんなことはなくはないのだから、口ごもってしまうのも無理はない。

「性器が見たいだけなら会社の経費でそれ専用のモデルでも雇いなよ。ざんねんながら私のは見せてあげられない」

 ごめんね、とここは素直に謝罪する。

「でもね。私が盗み見しちゃったことはわるいと思うの。だから木偶乃くんの怒りはもっともだし、私だけ何食わぬ顔でのほほんとこのさき生活していくのも平等じゃないと思う」

「だったら」

 私は手のひらを差し向け、木偶乃くんの言葉を押し留める。

「だからこうしましょう。これから木偶乃くんには【江音間式∞】の専門モニターになってもらいます。木偶乃くんの指摘は絶対。どんなクレームを言ってもらって構わない。私たちはその声を反映させて【江音間式∞】の最後の仕上げにとりかかる。木偶乃くんは理想のオナホールを【江音間式∞】という形で叶え、私たちはそんな男のなかの男を満足させるだけの商品を生みだすお手伝いができる」

 木偶乃くんの瞳に光が宿ったのを私は見逃さなかった。万年死んだ魚のような目が竜宮城への扉を開いたがごとく輝きはじめた。

 私は手を差しだす。

「きみの未使用おちんちんを是非、私たちのオナホールに使ってあげて」

 がっしりと握手を交わした私たちに、これまでのしがらみのいっさいは見当たらない。


(23)

 ちょろいなぁ、プリンス。

 翌日、事の顛末を江音間さんに語って聞かせたところ、ちょろいなぁ、との感想をいただいた。

「あんまりわるく言うとわるいよ」

「うわー。先輩だってそう思ってるくせに」

「そうだけど」

 江音間式∞はほとんど完成している。モニターとしての役割を木偶乃くんに与えたところで、出てくる指摘なぞ高が知れている。素人を雇うのとほとんど変わらない文句しかでてこないのは想像に難くない。モニターを雇う手間が省けた分、僥倖であり、さらに言うならば、専門職として扱うことで横から野次を飛ばすだけだった木偶乃くんに責任感を植えつけられ、出てくる文句はいずれも耳を傾けるのに価値ある文言になると期待できよう。

「先輩もわるよのう」

 ふたりして悪代官ゴッコをしていると、木偶乃くんが試作品をとりに来た。私には一瞥を寄越しただけで挨拶らしい挨拶はなく、江音間さんと一言二言かわし、段ボール一杯の試作品セットを抱えて部屋を出ていった。

 終始江音間さんは真面目に応対していたけれど、木偶乃くんが出ていった矢先に、ぶふー、と噴きだした。

「誰でもしていることとは言っても、想像できませんなぁ」

 秘め事をしているプリンスの姿を言っているのだろう。私としても想像するのはむつかしい。じっさいに目にしたところで、私が注視していたのは恥部であり、性器である。木偶乃くん本体ではない。言われてみればたしかに木偶乃くんが一生懸命になって自らの分身をしごき倒している姿は、全体像として思い浮かべにくい。

「想像できてもいいことないよ」

 言って私は期限の迫った稟議書をやっつけにかかる。


(24)

 一般的な見解として男性器が勃起を維持できるのは射精をするまでだとされている。射精をすれば男性器は水の抜けた水風船さながらに萎んでしまうのだと判断して差し支えない。個人差があるとしても、三回以上の射精を連続して行えるのは、思春期の青年であってもなかなかに困難なものがあるようだ。

 その点、オナホ王子の異名をほこる木偶乃くんはその名に恥じない底抜けの性欲をその身に宿していたようである。

「いちおうマニュアルにあったスタンダード型はすべて試してみました」

 その日の夕方、帰り支度をしていると、木偶乃くんはやってきた。「内部構造に修正の余地ありです。最初から亀頭をカプセルみたく包みこんでいるために、刺激としての摩擦が足りません。もうすこし内部のジェルに亀頭を刺激する類の工夫があってもよいのでは」

「え、待って待って」私と江音間さんは顔を見合わせ、「ぜんぶ試したって、うそでしょ。だってスタンダード型の組み合わせでも三百ちかくあるんだよ?」

「ええ。いちおうすべての型をイクまで試しました。え、なんですかその顔」

 木偶乃くんは珍しくすっとんきょうな顔を浮かべた。或いは仕事の早さを褒めてもらえると期待していたのだろうか、肩透かしを食らったといった塩梅で、「手抜きはしてませんよ」とお門違いな釈明を挟む。

「べつに疑ってはないんだけど」

「ああ、帰るところだったんですか」こちらの帰り支度をした姿に気づいたようだ、遅くなってすみませんでした、と殊勝にも頭を下げ、感想のほうはデータにして送っておきます、あすにでも改めてください、と言い残し、プリンスは颯爽と部屋をあとにした。

「だいじょうぶですかねぇ」

 扉の向こうに消えた背中を見届け、江音間さんが言った。「干からびちゃいません? ふつう」


(25)

 この世にはふしぎなことなどなにもないもので、射精をせずに射精をしたのと同等の快楽を得られる方法があるのだという。ドライオーガズムと呼ばれる現象だ。女性の性的絶頂は主としてこのドライオーガズムだとされており、では男性はどうなのかと投げかければ、射精のたびに津波のような虚脱感が全身を襲うとまことしやかにささやかれる。襲った津波により流されるのは、その身に滾らせていた性欲そのものであり、きれいさっぱりふっきれたその状態を賢者タイムと呼ぶひとは呼ぶ。

「プリンスには賢者タイムがないんですかねぇ」

 ふたりして会社近くの焼肉屋に入った。江音間さんが、そういえば、と以前木偶乃くんから聞き及んでいたという話題、ドライオーガズムについて披歴した。

「でもドライってたしかおしりの穴を使うんじゃなかったの」

「そういうのもあるみたいですけれども、基本的には射精しなければいいだけのようなので、射精しそうな瞬間にぎゅうってブツを握りしめるだけでもいいみたいですよ。いえ、プリンスが言ってただけなんで確証はないんですけれども」

「射精しないならじゃあ、干からびてはないかもね」

「あ、心配でした?」

「そりゃあね」

「だいじな試験体がなくなられては困るからですか」

「ほかになにか心配する理由があって?」

「あは。さすがは先輩。ささ、お肉をどうぞー」

 江音間さんはビールをがぶがぶ飲み干していく。私ばかりが肥えてしまうが、肥えてダメな理由も見当たらない。

「先輩はハラミがお好きなんですねぇ」

「まあ、嫌いではないかな。カルビよりは好きかも」

 あまり脂身がつよいとたくさん食べられない。食べ放題コースを注文した手前、できるだけ多く食べていきたい。

「打算ですねぇ」

「江音間さんは食べないの」

「あたしお肉にいい思い出がないんですよねぇ」よく分からない理屈でビールを飲み干し、彼女はさっそくもう一杯追加注文する。「脂身がないほうがいいならホルモンとかのほうがよくないですか? ついでに頼みましょうかホルモン」

「ううん。私ホルモンって苦手だから。だから牛タンも苦手で」

「触感がダメなんですかねぇ」

「ううん。味とかはともかく、なんかこう、気持ちの問題ってやつ」

「でもハラミは好きなんですよねぇ」

「だってハラミだもん」

「ホルモンなのに?」

「へ」

「ハラミ。ホルモンですよ。牛の横隔膜」

「うそでしょ」

 割り箸で挟んでいたハラミを落としてしまう。なんてことを教えてくれたのだこのコは。今、私のなかで好きなものランキングに革命が起きた。万年上位に君臨していたハラミさんが見るも無残に奈落の底へと転げ落ちていく。

「いやいやなにを大袈裟な」私の落としたハラミをゆびで摘まんで江音間さんは口に運ぶ。「認識が変わったからって味まで変わるわけでもあるまいし。処女でなくなったからって人間、中身が変わりますか? べつに処女だろうが、なかろうが、そんなの大して重要ではないじゃないですか」

「だって今まで食べてた肉がじつは人間の肉でしたって言われて、それで江音間さんはこれまでどおりに肉を食べられる? 今まで処女だと思っていた友達が、じつはだれかれ構わずセックスしちゃうような人間だったと知って、これまでどおりの付き合いができる? そういうことなの。レッテルそのものが重要なんじゃなくって、どうして今まで黙ってたの、っていうなんだろ、そういったショックが大きいの」

 わかるー、となぜかそこで江音間さんは大きく食いついた。

「親友だと思ってたら自分だけ知らないことだらけで、あとになってどこの馬の骨とも分からん男にあっさり寝取られたりして、あたしとの仲ってなんだったのって、なっちゃうよねぇ」

 なっちゃうんだよねぇ、となぜか目に涙を浮かべだす。

「だからなのか分からんのだけれども、あたし、肉を食べるときってどうしても、これは人間の肉だ、人間の肉だって思っちゃって、だから食べられんのよねぇ。やは。先輩もあたしとおんなじになっちゃったねぇ」

 こんどは一転、うれしそうに零す江音間さんは酔っぱらっているのか、話に脈絡がなく、破たんしており、まさに今、食べられないと豪語した肉を、私のとり溢したハラミを頬張っている。

「江音間さんはすこしというか、とてもヘンだと思う」

「そこがいいところじゃろ」江音間さんはけろりとしている。

「わるいところでもあると思う」

「いっひっひ。いやなことをおっしゃる」

 ささ、どうぞどうぞ。

 ビール瓶を傾けてお酌をしようとする江音間さんは、そういう作法であるかのように私のひざめがけてビールを溢した。「あらら、先輩がお漏らしをされてしもうた」

 私は遠慮なくぽかりといっぱつ殴ってやった。


(26)

 自宅マンションにてシャワーを浴びたあと、私は睡眠導眠剤代わりに仕事用のメディア端末を開いた。木偶乃くんの送ったという感想を改めておこうと思った。

 腕前のほどはどんなもんか。

 さぁて、ちょっくら見てやるか。

 無駄に偉そうに構えながら毛布に包まり、画面に現れた文字の羅列に目を走らせていく。

 気づくと朝陽が差しこんでいる。眠っていたわけではない。一睡もしていない。熟読していた。熱中したと言ってもいい。

 文面はなんでもない。江音間式∞の試作品を使用した感想を書いているだけだ。だのになにゆえ私はこうも、純愛物語の大巨編を読んだ心地になっているのか。

 愛しいひとと逢いたくて逢いたくてたまらない青年が、しかしその身に宿した淋しさに身をこがし、ついつい自身に言い寄ってくる乙女たちでその淋しさを埋めてしまう。だがあとに残るのは巨大ながらんどうであり、胸にぽっかり空いたそれはただでさえ堪えがたい淋しさに拍車をかけていく。

 青年は愛しいひとに逢えるのか。

 言い寄ってくる乙女たちとの一夜の過ちは、真実にがらんどうのみを残すのか。

 青年の葛藤は、愛しいひとがそばにいてくれれば即座に晴れる朝霧のようなものである。にも拘らず、かれの周囲は依然として闇夜の影が色濃く沈み、陽の光はなかなか差しこまない。

 もしかれに日向のぬくもりを与えてあげられるとすれば、それは神のほかにいないのではないかとすら思える。それほどかれの絶望は深く、引き裂いても引き裂いても、引き裂ききれない深い闇色で溢れている。

 オナホールの話である。

 試作品の感想である。

 いったいなにをかように壮大な純愛物語に仕立て上げてくれているのだ。無駄に睡眠時間を削ってしまったではないかばかやろー。

 木偶乃くんへの怒りを募らせながら出社の準備をしつつ私は、それでもかれの紡ぐ物語に登場する悲愴な青年には、他人事では済ませられない愛着を、親しみを感じられずにはいられないのだった。


(27)

 出社し、研究室に入るとベッドのうえで寝転びながら江音間さんが泣いていた。

「え、どうしたの」

「あ、おはようございます」

 欠伸をして涙が出てしまったわけでもなさそうで、江音間さんは手元のメディア端末を掲げ、

「先輩読みました?」

 よこに振って強調する。「あたし夜通しで読んじゃって。お陰で寝不足だい。どうしてくれよう」

「ひょっとして木偶乃くんの?」

「はい。感想文。というか小説? なんなんですかねこれ。オナホールを彼女とか、あのコとか、なんで擬人化して書いちゃったんですかねぇ。他人のラブレターほど滑稽なものはないですけれども、なかなかに趣深いものがある」

「セクハラにならないようにって私たちへの配慮かも」

「なるへそ」江音間さんは足をばたつかせる。私は荷物を置きがてら、

「読んだけど泣くほどのものかぁ?」と江音間さんの手元を覗きこむ。「いや、読み物として面白いのは同意するけど」

「泣きましたよ。え、泣きませんでした?」

 こことか、と江音間さんは音読をはじめるものだから、私は腹を抱えて笑った。「やめて、情緒豊かに読まないで」

 感情の籠められた江音間さんの朗読は、なかなかに目を見張るものがあり、やがて私は彼女の声によってもういちど色濃い物語に、恋物語に、没入するのである。

 読み方一つとっても、読む人の数だけ手法があり、そして当然の理として読む人の数だけ、紐解かれた世界がある。

 解釈と言い換えてもいいけれどそれだとなんだか味気ないので、世界としておく。

 江音間さんの世界は、私が見ていたものよりずっと重く、せつなく、悲壮感に溢れていた。

 ふだんの陽気な江音間さんからはとても連想できない、妙に陰鬱とした気配が終始つきまとう。

 いつの間にか私はセピア色の世界で、ひとり街灯の下で愛しい人を首を長くして待っている。待ち人とはけれど、ここで待ち合わせてはおらず、ただ一方的に、逢えるのではないか、逢いたいという思いを募らせているばかりで、けっきょくこの日も待ち人は姿を現わさない。踵を返し、レンガ造りの路を歩いていると、ふと向こうの街灯から、同じように待ち人と出会えなかったらしい娘が歩いてきては、つと目が合う。

 いっしゅんで気持ちが通じたようで、事情が筒抜けだったようでもあり、相手はほろりと綻び、どちらからと言わず、よこに並び、歩きだす。

 夜の帳は下りているが、そこで上がった緞帳は同じ傷を分かち合える形影相弔う同士の一夜の関係だった。そのはずだったのに、ふたりはつぎの日も同様に、街灯の下、待ち人を待ちわびながら、独りかってに袖を振られ、気落ちする相手を、じぶんのように慰める。

 いつしか待ち人に現れないでほしいと思うようになっていた。けれどある夜、図らずも相手の許に相手にとっての待ち人らしき人物が現れたところを目撃する。

 祝うべき場面にあって、しかし胸に湧くのは抑えようのない戸惑いと、それでも祝福してあげたいと思う、虚栄心だった。

 いい人として思われたまま別れたくあり、同時に自分勝手なわがままを、嫉妬心を押し通したいという思いが身体に根付いて動かない。動かない身体はただ黙って愛しくなったひとを見送るしかなく、今ではもう、かつて愛しかったひとは、過去の人となり、またしても愛しいひとをただ待ちわびる日々を【私】は過ごしていく。

「あたしだったら」

 江音間さんは一息吐き、言った。「無理やりにでも連れ帰っちゃうのになぁ」

「引き裂いちゃうってこと? ていうか、え、待って。今のって木偶乃くんのやつ? ホントに? あれ? そこまで深いこと書いてあったっけ」

「ちょこっとばかし脚色しちゃいましたけれども、大筋はけっこうまんまですよ」

 ほれ、と江音間さんはメディア端末をこちらに差し向け、画面に表示されたテキストを拡大した。

「ちょこっとっていうか、かなり脚色しちゃってるじゃない」

「そうですかねぇ。まあでもプリンスの言いたいことはそういうことだったのだと思うのだよ」

「理想を追い求めてるうちに、気づいたら近くにあった拠り所のほうがたいせつだったってこと?」

「たいせつと申しますか、愛着――ですかねぇ。いずれにせよ、生半可な想いじゃないと思いますよ。それこそ熱烈な念をそそいでなけりゃここまで壮大な超大作にはならないとあたしなんかは思うわけですけれどもねぇ」

「言ってもオナホの感想文だけどね」

 オナホLOVEですからねぇ、あのひと。

 江音間さんは言いながらうでを伸ばし、枕元に並んだ試作品のうちから一つを掴み取り、

「きっとあたしたちの【子供】を認めてくれつつあるんですよ」と頬ずりした。「うれしいですねぇ」

「あたしたちの子供?」

「ええ。あたしと先輩の子供です。だってそうじゃないですか。江音間式∞はあたしと先輩の愛の結晶だい」

 誰がなんと言おうとも、ぜったい、と断固とした調子で息巻くものだから私としても、だよねー、と同調しておくほかに応答のしようがない。オナホへの愛がそこまで深いのはしかし、江音間さんと木偶乃くんだけであると信じたい。


(28)

「木偶乃くん、きみさ。会社やめて作家になりなよ」

「なんですか急に」

 昼食の買い出しに行った帰り、エレベータのまえでプリンスと鉢合わせした。かれもまた上の階へ戻るところのようである。

「きみには文才があるよ。感想文の才能はないみたいだけど」

「またぼくを虚仮にして。あなたも学習しないひとだ」

「褒めてるんだよ?」

「なら丹久場先輩には才能がないんですよ。ひとを褒める才能が」

「デキソコナイを見るような目で見ないでくれない」

「ような? おかしいですね。ペンギンを見るような目でペンギンを見たってなにもおかしくはないでしょう」

「あら、意外な才能をお持ちじゃないの。嫌味の切れ味だけは誇ってもいいよ。私がお墨付きをあげちゃう」

「つよがりもほどほどにしないとお身体に障りますよ」

「なに、急に労ったりして。気持ちわるいんだけど」

「だって先輩もいい歳じゃないですか。心臓発作でぽっくりいかれても困りますし。まあ通夜くらいには顔をだしてあげますよ」

 ちょうどよくエレベータの扉が開いた。木偶乃くんは我先にと乗りこんだ。私は身体がワナワナしているのをふしぎに思いながら、目のまえの男と同じ空間の空気を吸いたくなくて、こちらのよこをうしろを素通りしていくほかの同寮たちの気まずそうな顔を拝みながら、

「扉閉まりまーす」

 蹴とばしたくなるほど涼しい顔でつぶやいたデクノボウの顔が扉の向こうに消えるのをただ黙って見ているよりほかがなかった。

 呼吸を止めていることに気づいたのは、あちゃー間に合わなかったかぁ、と肩で息をして駆けてきた楼田さんの、溌剌とした声を耳に留めてからのことだった。

「あららうるわしの後輩、イヴちゃんじゃないの。かっこわるいとこ見られちゃったわぁ」こちらを向くと楼田さんは振り乱れた髪を整えながら、

「で、あなた。なんで乗らなかったの」

 素朴な疑問を投じるのである。


(29)

「はあ、間に合った間に合った」

 背もたれに体重を預け、楼田さんはめいいっぱい背伸びした。「付きあわせてわるかったわね。助かったわ、ありがとう」

「いいえ。暇だったので。買い出しに行ってたくらいですし」

「でもホント、師走ってこわいわよね。クリスマスに正月。さらには年末進行とホント追いかけられるウサギの気持ちが解るようだわ」

「稼ぎ時ですからね。発注のほうも一気に爆上げきますし」

 アダルトサイトのアクセス数が頂点を記録するのがクリスマスシーズンであるというのはこの業界でなくとも割と有名なところではある。正月に至っては学業から解放された未成年者たちがこぞってアクセスするためか、昼間のアクセス数が尋常ではなくなる。オナニーのお供に性玩具を。卸売業界が活気に溢れるのも必然、この時期になる。

「在庫処分するにはうってつけだからわるいことばかりじゃないけど、それにしたってもうすこし臨機応変に対応してほしいわよね。各所、営業所さんにはさ」

「まあ、こちらの都合ですからねえ、それは」

「あら余裕ねえ。そっか。丹久場さんは営業のほうはもうやってないんだっけ。だからそんな対岸の火事ぶってられるのね。うらやましいったらない」

「いえいえ、こっちはこっちで仕上げなきゃならないことで目白押しですよ。やらなきゃいけないこと決まってる分だけ前のほうが楽でしたし」

「なら変わってあげましょうか」

「すみませんでした。イヤです」

「よしよし。素直なイヴちゃんに戻ってくれて先輩うれしいわ」

 言いながら楼田さんはコーヒーをカップに入れて持ってきてくれる。「出来あいだけどそんなに経ってないから」

 差しだされたカップを受け取り、礼を言う。

「にしてもどうしたの? さっきは気ぃ遣って言わなかったけど、いまにも五寸釘を取り出しそうな顔してたわよ」

「持ってないですよそんなもの」

 言ってから、「ああ、藁人形にですか?」とジョークの意味を察する。

「いや、おでこのここんとこに」楼田さんは自分のおでこを叩く。「誰のかは知らんけど」

 私はちからなく笑い、

「ちょっとイラつくことがあって」

「言ってみぃ。さっきのお礼じゃないけど愚痴るのも大事だよぉ? 先輩として聞いたげるしさ」

「なんかご機嫌ですね」

「そ? ま、懸案事項が一つ片付いてホっとしているってところではあるかな」

「愚痴ってほどでもないんですけどいいですか」

 断ってから私は語った。主としてオナホ王子のデクノボウっぷりについてである。

「どうして男の子ってああもへそ曲がりなんですかね」

「そうねえ。ま、女子もそう変わんないと思うけどね。ただかれの場合はちょっと事情があるのよ」

「事情ですかぁ」

 半信半疑というよりも、たとえ事情があったところで情状酌量の余地を挟みたくはない。

「家庭の事情に関するプライベートなことだからわたしからは言えないんだけど、ただかれが好きこのんで人と繋がろうとしないわけじゃないってことは頭の隅に置いておいてあげてほしいのよ」

「そこまで言ったなら教えてくださいよ」

「本人から聞いたらいいじゃない」

「ムリです」

「ムリじゃないでしょ」

「イヤです」

「そういうところばかり素直になったってしょうがないでしょうに」

「楼田さん、さいきんちょっと説教がすぎますよ。もう歳なんじゃないですか」

「まあ、なんてこと言うの」

 言葉はつよいが、声は笑っている。私らしくのない文言から彼女はすぐにこちらの意図に気づいた様子だ。

「はっはあん。さてはそう言われたな」

「楼田さんはいちおう先輩なのでオブラートを被せてさしあげましたが、私の場合はモロですよモロ」

「妊娠しちゃうくらいモロだったわけだ?」

「あれじゃたとい避妊しようと無駄でしたね。で、自分はやりたい放題やって、すっきりしたあとは知らん顔ですよ。いったい女をなんだと思ってるんですかねアイツ」

「えっと、待ってね。あれ、なんの話だっけ? 木偶乃くんと痴話喧嘩したって話でいいのよね?」

「痴話喧嘩じゃないですよ」

「え、そうなの?」

「ただの幼稚な言い争いです」

「あ、だよねびっくりした」

 齟齬があったようだ。楼田さんは両手で挟むようにしていた頬を解放し、もういちどカップを口元に運んだ。「うん。で、丹久場さんはどうしたいの」

「どうしたいとは?」

「プリンスといがみ合うのが嫌なら話は簡単じゃない? かれと話さないようにすればいい」

「それができたら苦労ないですよ。同僚ですし、向こうから絡んでくるし」

「うふふ」

「なんですか」

 楼田さんは訳知り顔で、

「あなたもいい顔するようになってきたじゃない」

 なにかしらを察するような言葉を並べるけれど、きっと途方もない誇大妄想を逞しくしているに相違ない。

「楼田さんはそうやってすぐに思春期じみた発想をするのが婚期を遅くしている主とした要因だと思います」

「そんなことまで言われたの?」

「今のは私の本心です」

「ぶん殴るわよ」

「イヤです」

「却下」

 ばっしーん、と唱えながら楼田さんはスローモーションで私の頬に拳を押しつける真似をする。童心を引きずっているのが彼女のわるいところであり、我が社にとってかかせない戦力となっている大きな理由でもある。

「ま、冗談はこの辺にして」

「私は冗談ではなかったですけどね」

 睨まれたのでおとなしく黙る。

「あなたの気持ちはどうあれ、仕事という理由を抜きにしても、あのコがわざわざあなたに絡んでくるっていうのは、たぶんどこかしらあなたに甘えているところがあるんだと思うの」

「そんなのイヤです」

「いえ、真面目な話」楼田さんはにこりともせず言った。「たとえ冗談でも、相手をわるく言えるほど器用じゃないわよあのコ」

「そうでもないですよ。オナホが絡むと人が変わったようにというか、なんにでもオナホを絡めてくるから変わったひとというか」

「そう、それ。あのコが熱くなるのは決まってオナホールが根底にあるときだけ。でもあなたへの悪口にそうした意味合いがあって?」

「はい?」

「聞かせてもらった愚痴。さっきのやつ。あれってオナホールまったく関係ないわよね」

「そうですか?」

 発端はでもオナホールの感想文なのだから、あれもまたオナホール絡みと言えなくもない。私はそういった旨を主張した。

「あなたがそう思いたいならべつにそれでも構わないんだけど、でもね。これだけは忠告しといてあげる。本音をさらけだして、素っ裸になって、それでもぶつかり合える相手って、それってたとえ親の仇だって、貴重なものよ」

「いや、親の仇を貴重と思うのはちょっと」

「言葉の綾よ。分かりなさいよ」

「だって親の仇ですよ?」

「揚げ足をとらないの。ホントやーね。オナホール作るとそうなっちゃうの? わたしのかわいい後輩を返してちょうだい」

 あのころの私は死にました。

 コーヒーを呑み干し私は、捨て台詞を残してかつての部署をあとにした。

 楼田さんに愚痴を聞いてもらってはっきりしたことが一つある。

 結論。

 相談する相手は選んだほうがよい。


(30)

 研究室の扉を開けると江音間さんが下着姿で今まさにショーツを脱ごうと、縁の部位にゆびをかけているところだった。着替えの途中だったらしい。けれどなにゆえその場に木偶乃くんがおるの?

 かれは慌てふためき、これはちがうんです、となにやら必死に釈明をしはじめるが、ちがうってなにが? べつだん私は勘違いなどしておらぬ。

 ふたりきりの部屋で片や衣服を身に着けておらず、片やそれを目撃されて狼狽する男がおって。

 おじぃさんは山にしばかりに出掛ければ、おばぁさんは川へ洗濯をしに行くのと同じくらい必然的な場面であり、とりもなおさずかの男には私に性器を見せろと脅迫してきた前科があるとくればこれはもう、私は、いち女として、江音間さんの相棒として、怒髪天を衝きに突き破り、月に代わってお仕置きしてもよいくらいの塩梅で、性欲の権化をしばき倒した。

 というか追いだした。

 しばきながら追いだした。

 あとで訴えてやるからそれまでビクビク怯えてろ。

 蹴り飛ばしたデクノボウの尻が地面に転がるのを見届けることなく私は扉を施錠し、江音間さんに向き直る。「だいじょうぶだった?」

「え、あ、はい」

 いそいそと着替えを進める江音間さんからは、焦燥感のいっさいがなく、けれど彼女の場合、たとえ事後であろうとも、事故が起きてしまっていたとしても、私に気遣い、それをひた隠しにしようとしていて不自然ではない。

「言いにくいことだろうけど、でもしょうじきに言って。未遂なのよね?」

 彼女はブンブンと首を振った。ヨコではなくタテであることに私は大きく息を漏らす。「よかったぁ」

「それってあたしが未だ処女だからですかねぇ」

 すっとんきょうなことを言うので私は堪らずチョップした。「心配してるひとに対してそういう言い方はしちゃダメ」

「大真面目なんですけれども……」肩を竦め、私のチョップをつむじのあたりで受け止めると江音間さんは、でもそうですよねぇ、とつむった目をぱちくり開き、

「ありがとうございます」とはにかんだ。

「なんでお礼?」

「心配してくれたんですよねぇあたしのこと。うれしいです」

「当然でしょ。それより本当に何もされなかったの? というか何があったの」

「えっとぉ」

「ううん。今はそんなことよりこれからの処遇をどうするかよね。どうしよっか? 警察に届け出る? 会社に言っても揉み消されたりはしないかもだけど、たぶん本人同士で解決するようにとなんとか有耶無耶にされちゃう気がする」

「まあそうでしょうねぇ。だって性器見たいって言ってもけっきょくそれって仕事の一環なわけじゃないですか」

「やっぱりアイツ、江音間さんにもそんなことを」

「あ、いえいえそうじゃないんですけれども」

「いいのよ庇わなくったって。江音間さんはイイコだからそうやってなんでもかでも自分が我慢すればいいって思ってるのかもしれないけど、これまではそれで済んでいたかもしれないけど、でもね。そうじゃないんだってこと、もう解るでしょ」

 いい歳なんだし、と言いかけて、呑みこんだ。あやうく口癖になるところである。

「もし何かあったとき、そしてそれが江音間さんにとって嫌なことだったとき。江音間さんがそうやって我慢して堪えていたんだってあとで知ったら私、すごく傷つくし、すごくつらい。どうして力になれなかったんだろうって。気づいてあげられなかったんだろうって。だからね。私のために、もうそうやって我慢するのはやめて。私たち相棒でしょ。ううん、もうトモダチなんだから」

 一人で背負いこんだりしたらダメなんだからね。

 私はじぶんに言い聞かせるようにして江音間さんに言いつけた。なにごとかを言いかけた彼女は、開いた口をいちど閉じ、それから逡巡の間をあけたのち、

 うん、そうする。

 下唇をハミハミ、つぶやいた。彼女が今そうであるように、きっと私の頬も上気している。


(31)

 江音間さんの申し出もあり、事を大きくしない方針で話はまとまった。

 木偶乃くんの性器への執着は、愛着と呼ぶべきたわいもない稚気であり、子どもが興味津々に亀の子をひっくり返して観察するのに似た行動原理なのだと江音間さんは主張した。私が思うに、けれど多くの世に迷える性犯罪者たちだってそうした稚気を動機に罪を犯すのではないの。そうした稚気を稚気なのだと自覚し、制御することこそ彼らの義務ではないの。いや、義務だとか権利だとか、そんなたいそうなお題目を並べる義理はなく、そうした理性を働かせるのは人間としてありたければ当然必要となってくる自制であるはずだ。

 純粋だからといって許されるものではない。悪意がなければ罪が軽くなるだなんてそんなのは間違っている。悪意のあったほうが罪が重くなるのは当然として、罪を犯したならば犯しただけの贖罪は背負うのが道理だ。

 往々にして純粋であるのが善しとされるのは、心清らかなおバカさんだけである。ひねくれた私のような人間は純粋であってはいけない。素直であってはいけないのである。

 かくして私は木偶乃くんを性犯罪者予備軍として扱う臍を固めるのであった。

「誤解を解きにきました」

 待ち伏せされていた。

 性犯罪者予備軍に待ち伏せされていた。

 エレベータを降りたらやつがいた。周りにほかの社員はいない。完全に気を抜いていた。

 よもや向こうから仕掛けてくるなんて。

 私は両手を十字に構え、なんだか光線が出そうな構えで威嚇する。「それ以上近づかないで」

「吸血鬼かなんかですかぼくは」

「誤解を解きにきたってなに? 解くべき誤解なんてないでしょ。皆無でしょ」

「またあなたはそうやってぼくを悪者扱いして。それを解きにきたんじゃないですか」

「言いわけなんて欲しくないもの。あなたは江音間さんにまで性器を見せろと迫ったのでしょ。私だけで飽き足らず! 江音間さんにまで!」

 語気を荒らげながらも、私はなにを言っているのだろう、と首をひねる。何かがちがうような気がした。主旨がズレている気がするけれども、ズレた何かが分からない。

「解りました」と、なぜかそこで木偶乃くんが顔を伏せた。「だれかれ構わず欲情するような男だと、あなたは、丹久場先輩はそう思っているんですね」

 そう思っていたんですね、と床に零し木偶乃くんは、

「なんだかすごく身体が寒いのできょうはもう早退します」

 言って踵を返し、トボトボと去っていく。

 風邪でもひいたのだろうか。言う必要もなかったけれど私は、

 おだいじに。

 かろうじてその背に投げかけた。


(32)

 上司の伊香川さんに呼ばれたので部長室を訪れるとなにやら重苦しい雰囲気が漂っておる。呼ばれたのは私だけでなく楼田さんほか、各部署にて重鎮然としている面々だ。私が最後の一人だったらしく、扉を閉めたのを皮切りに、

「社長の足取りが掴めなくなってはやふた月」

 伊香川さんが口火を切る。「今月、もし給料が支払われなかったら出るところ出て、捜索願いも警察のほうに出そうと腹をくくっていたのだが、どうにも金の管理はきちんとしてくれているようで、ひとまず身柄が無事なことと、今月はまだ我々が路頭に迷うことはなくなったことが判明したわけだが」

「それしてもあのアホウはどこにいったの」ソファのひざ掛けの部位にお尻を乗せながら楼田さんが言った。腕組みをしたまま、「大きなプロジェクトだって佳境に入ってるわけでしょ」と続ける。「あのバカ、また潰す気かしら」

「あのう、水を差すようでわるいのですが」私は口を挟む。「これはなんの会合ですか」

「これからの社の方針をみんなで話し合おうと思ってね」話を聞くにかぎり、伊香川さんが社内に声をかけてまわり、集めたみたいだ。彼は集まった面々にコーヒーの入ったカップを渡して歩く。「元からいなくていい人間だったとしたって本当にいなくなられては困るんだよ。それこそアイツは頭であり、社の顔だからね。取引先に説明義務だってあるだろうし、これから先、大きな決断を迫られたとき、じゃあいったいその責任は誰に押しつければいい」

 ワタシはイヤだぞ、と伊香川さんは目じりのシワを深くする。

 わたしだってイヤよ、と楼田さんがけん制する。「あのバカがいたときはみぃんな被ってくれてたからよかったものを、これからはそういうわけにはいかなくなるわけじゃない?」

 一同、揃って頷きだす。楼田さんも伊香川さんも口ではわるく言ってはいるけれど、私には判る。彼らはみな、社長に帰ってきてほしがっている。

 鬼ならぬ、腑抜けの居ぬ間にプロジェクトを発進させてしまえと企んでいたのは私ばかりで、みな長の不在を不安がっている。

「江音間式∞のほうも、カタチになってきたわけだろ。そろそろ宣伝チームもつくろうと思っていたところでね。社をあげて売りに出すつもりではあるが、アイツのいない今、そうした独断をしていいものかどうか」

「いいですよ、やりましょうよ」私は横車を押した。「この場にいない社長がわるいんですよ。なにを躊躇することがありましょうか。商品としてのカタチは整っています。あとはパッケージと、デザイナーによる金型設計、それから工場との契約、量産と、みなさんのチカラが必要です。私は社長に頼まれたのです。新しいオナホールをつくるから、その力を貸してくれと。私は全身全霊でその期待に応えてきました。その私が言うのです。社長はここで足踏みしろなんて望みません。責任の矛先がほしいならのどうぞいくらでも私に向けてください」

 私にさせてください、と私は伊香川さんの襟首を締め上げる。

「く、くるしい」おやじくさい息が顔にかかり、私は撤退を余儀なくされた。数歩後退したところで誰かとぶつかった。振り返ると楼田さんが仁王立ちしており、私のほっぺをすかさずつねった。

「やりすぎよ」

「ずびばぜん」

「いや、丹久場くんの言うとおりだ」

 なぜか伊香川さんが肩を持ってくれた。ぜぇぜぇ、と無駄に息を荒らげ、「そもそも彼女は自分のプロジェクトを犠牲にして新型オナホの開発に勤しんでくれているんだ。またここで社長の奇行を理由に頓挫なんてさせてみろ。彼女、会社を辞めるかも分からんぞ」

 辞めはしないですよ。

 異議を唱える前に、そりゃたいへんだ、とどよめきがあがった。一同、みな揃ってこちらに視線をビシビシそそいでくる。

「彼女がいなきゃ半年待たずに潰れるわ」

 楼田さんの言葉に、そうだ、そうだ、とほかの面々が追従する。

「そんなことないですよ」

 私は否定する。「半年どころかひと月で倒産ですね」

 一転、調子にのんな、の野次が飛び交った。

「静粛に。みなさん静粛に」

 ダンダン。

 伊香川裁判長が判決をくだす。「では採決をとろう。新型オナホプロジェクト【アヴァンオナホ】の指揮権を全面的に丹久場くんに一任するとして、異論のある者は?」

 だぁれも手を挙げない。ともすればこの場に木偶乃くんがいれば、天井を突き破らんとする勢いで手を掲げたことであろう。

 そのほか数点、会社の経営に関する諸事項の採決をとり、この日の会合はお開きとなった。采配を振るった伊香川さんの意向が反映された結果になったのは単なる偶然なのか。私だけが引っ掛かりを覚えているようで、ややもすると問い方一つちがっただけで、それはたとえば、異論のある者は、ではなく、賛成の者は、であったり、とかく言い方一つで、いくつかの事項はその結果を覆していたかも分からない。

 思ってみると、なかなかどうしてあの中年も抜け目ないな、と思わないわけではなかった。

 そうした旨をこっそり楼田さんへ零してみるも、

「買い被り」

 鼻で笑われ一蹴されてしまった。三々五々、社内に散る面々の背中を見届けがてら、私は、いよいよ門出間際の江音間式∞の最終調整へと突入する臍を、つまんだり、よじったり、むぎゅむぎゅと弄り倒すのである。


(33)

 研究室に戻ると、江音間さんが工作をしているところだった。江音間式∞の試作品ではなく、趣味の創作のようである。

「こんどはなにをつくってるの」

 研究室は研究する場所である。就業内容外の工作とはいえど、注意をするほうがおかしく映る。映る、私もだいぶん毒されている。

「先輩は蛇口式オナニーって知ってますか」

「蛇口式?」眉間に力を籠めながら私は首を振る。「知らない知らない」

「ですよねぇ。男のひとのオナニーのやり方らしくて、だからあたしらが知ってるわけもないんですけれども、ともかく男性陣は蛇口をひねるように亀頭をコネコネすることでドライオナニーに浸れるらしいんですよ」

「どこで聞いたのそんなこと」

「やは。プリンスしかいないじゃないですか」

「いつ聞いたの。ひょっとしてまた来たの?」私はコーヒーを淹れる手を止めた。

「あ、はい」江音間さんは目を伏した。手元の作品をいじくるようにする。

「どうしてそう無防備なことするの」

「でもでもプリンスは童貞ですし、あたしの腕っぷしはそんじょそこらのひょろっこボーイに屈するようなヤワじゃ」

「あなたは女の子でしょ」

 遮り私は、腰に手を添える。「いくら童貞だからって木偶乃くんは男の子なの。仕事とはいえ、会社でおちんちんイジイジしちゃうくらい溜まっちゃってる野獣なの。というか童貞だからってそんなの理由になってないでしょ。童貞だからこそ信用できないってことだってあると思う」

「でもでもあたしにはそういうつもりはないわけですし」

「あなたになくたって木偶乃くんにはあるかもしれないでしょ」言いながら私は江音間さんの服装が白衣ではなく、今風の若い子の着るようなおしゃれな服飾になっている事実に気がついた。仕事ではなく趣味の工作をしていたのだから普段着のままだったと考えるにはいささかカワイすぎる気がするのは私のセンスがないだけか。そんなことはない気がする。

 ああだこうだと観察しがてら私は江音間さんにコーヒーの入ったカップを手渡す。江音間さんは喉が渇いていたのか、一息に飲み干した。

 見届け私は、矢継ぎ早に、ほら見ろ、と言った。「いくら腕っぷしがあったって、そうやってコーヒーに睡眠薬入れられてたらいくら江音間さんだって抵抗できないでしょ。眠っちゃうでしょ無防備でしょ」

 油断大敵、と食指を突きつける。

「え、入れたんですか!?」

「比喩です!」

 頭をぽりぽり掻きながら江音間さんは、そんなに怒るくらい心配してくれるのはうれしいのだけれども、とモソモソ零す。若干の間が空いたのち、でもそうですねぇ、とこちらに笑顔を向ける。「つぎからは気をつけますので、それで手打ちにしてみてはいかが?」

 邪気のない笑みである。

 月並みであり、ありていではあるけれど、かわいく映って仕方がない。

「うむ」

 私は言った。「勘弁してやろう」

 で、なにつくってたの。

 となりに腰掛け、しきり直す。無駄に彼女の二の腕をつまみながら。

「やは、やはは、先輩やめてくちゅぐったい」

「ごめんごめん。で、それはなに」

「ふぅ……どこまで話したか忘れちゃったので端折ってしまいますけれども、そうそう。亀頭だけを刺激できる性玩具はないもんかと思いましてねぇ」

 で、つくってみたんですよ、と江音間さんはいじくっていた代物をこちらに差しだすようにした。

 受け取り私は目を配る。筒である。透明なプラスチック製だ。大きさはオナホールと同等で、筒の内部は空洞になっている。先端に亀頭を包みこむためのものだろう、器具がくっついている。私はそれを見てまず、自動洗車機を連想した。車が収まると、シュルシュルと内部のモップが回転しながら車を丸ごと揉み洗う。筒に内装されているこの器具もそうした機能を有していると見受けられる。

「ちいさな滑車をいくつか付けてあるんですよねぇ。エレベータみたいなもんです。縦にスライドさせると、連動して器具のファサファサが横回転で亀頭をキュルキュル擦りつけるんですよ。ほら、棒と縄で火を点ける方法あるじゃないですか。あんな感じで」

 注射器さながらに筒の内部を上下運動する器具は、亀頭をすっぽり包みこみながら、その縦の動きに連動して器具内部の亀頭を磨きあげる。

 私は思った。

 痛くないの?

「どうなんですかねぇ。いちおう閃いた分をつくってみただけなんで。試すわけにもいかんでしょう。プリンスに頼むにしても、ねぇ?」

 窺うような視線を私は真っ向から受け止める。

「ダメです。許可しません」

「ですよねぇ。ですからまぁ、これはお蔵入りかなぁなんて。言っても江音間式∞とはまったくちがう機構ですし、まあ気晴らしですよ、気晴らし」

 ほかにも江音間さんは、オナホール型コンドームなる、それって意味あるの、と首をひねることしきりのひねくれ玩具を並べては、私を楽しませてくれた。

 あ、そうそう。

 江音間さんは思いだしたように言った。「試作品の最終調整終わらしてあるんですよねぇ。先輩のチェックが済めば今日にでも工場の生産ラインに載せられますけれども」

「うそ」

「ホントです」

 江音間さんは立ち上がり、金庫のまえまで歩いた。その金庫は試作品盗難事件があってから設置されたもので、制作段階の試作品の保管庫となっている。ちなみに研究室のまえにも性能のいい監視カメラを付けてもらった。

 ほんとうは室内に設置しておきたいところなのだけれど、研究室はほとんど江音間さんの自室となって久しく、そういう意味では番犬が常時いるようなもので、金庫を用意するまでもないという意見も出たには出たが、盗難事件という前例ができてしまった以上、対策を講じておくのは必然であるとする意見を私がつよく主張し、予算外での経費で、セキュリティを強化してもらった。

 私は江音間さんを信じてはいるけれど、信じているからこそ、あれは彼女のしわざではないという意思表示を暗に示したつもりである。万引きをしていないならばいくら全身を探られても困らない。

 江音間さんは金庫から合計三十二のスタンダード型タイプを取り出した。デスクに並べられたそれらを眺め、

「壮観ですなぁ」彼女はため息を漏らす。

 スケルトンタイプ以外の規格はすべて黒がベースにしてある。ピンクのほうがいいのではないかといった指摘や、すべてスケルトンでもいいのではないかといったこちらの苦労を知らない外野からの声、主として伊香川さんからの指摘をもらったが、私と江音間さんは断固として黒を主張した。

 黒といっても褐色にちかい。コーヒー牛乳を固めましたといった塩梅だ。

 イメージがあった。

 テーマと言い換えてもいい。

 江音間式∞という名があれど、飽くまでそれは仮名である。

 そのままのタイトルで商品化するわけにはいかない。

 私と江音間さん、どちらが言うともなくこれしかないという名はおのずと決まった。

 あなただけのオナホール。

 精を絞ることのみに特化した色欲の権化。

 その名も――サキュバス夢幻。

 どこかの魔法使いの少年が使う箒じみた名前なのはけれど偶然である。

 テーブルに並んだサキュバスたちはキューティクルさながらの艶やかさを称えている。どこかナマコ然とし、生々しく、獲物たる聖なる白濁を呑み干すのを今か今かと待ちわびている。

 江音間さんがここまでがんばってくれたのだから、成果をカタチにしてくれたのだから、あとは私の、私たちの仕事である。彼女のこれまでを、その熱意を、時間を、無駄にさせはしない。

 私は伊香川さんの結成した宣伝部に指示をだし、広報戦略を立てていく。並行して、完成した江音間式∞、改め「サキュバス夢幻」を商品化すべく、デザイナーの設計したモデルを元に、金型を生成し、伊香川さんの押さえた工場にて量産を開始する。

 パッケージは、飽くまで玩具だということを強調した造りにした。中からそのままアンティークドールの出てきそうな雰囲気を意識した。質素でありながらも瀟洒な外装だ。箱そのものを部屋に飾っておきたいと思わせる仕上がりにしてもらった。

 パッケージと内容物との乖離は、ややもすれば商品としては致命的かもしれない。けれど私と江音間さんの考えではそこにこそ狙いがある。

 性玩具としてのオナホールというそれそのものについた世間からのレッテル、パッケージそのものを我々は変えたいのである。

 断固として我々の手掛けている商品はオナホールである。現状、表立って声高々に宣言できるような代物ではない。胸を張れないと言えば嘘になるけれど、胸を張っていることに恥辱の念が湧かないかと問われればそれもまた嘘になる。

 性産業につきまとうある種の腐臭が抜けきらない。

 じっさいに腐っているわけではなく、否、たとい腐っていたとしても、腐っていない部位までもが臭いたって感じられる。理由はたんじゅんに、そういう錯誤が未だ社会に広く根付いているからというもので、いわゆる鼻についた臭いがとれないといった人間の性質、人類の記憶にその起源を求めることができる。

 もとを辿れば、それは性行為が原始的で野蛮な行為だとする感覚から派生している。不特定多数との性行為を野蛮だとする現代倫理観が問題の根底にある。

 たとえば、我が子に対して、みだりに性行為をするなと言いつけるのはなぜか。自分たちではそれを許せて、子供にはさせないというのは、何かが決定的にねじれている。酒や煙草とはちがい、直接的に身体に害があるわけではない。おとなと子どもでの性行為ならば身体に負担こそかかろうものの、子ども同士での性行為ならばさほど負担はかからない。

 ではなぜ禁止するのかと問えば、何かあったときの責任を負いたくないから、というおとなの都合がこだまする。むろん言を俟つことなく、子どもの判断能力は高くなく、ゆえに性行為への抵抗感を植えつけておくことは性犯罪などの奇禍に巻きこまれないようにするためには都合のいい手段ではある。子供に包丁を持たせないのと同じ原理だ。他方で、ではなぜ好いた者同士での性行為はダメなのかといった問題には答えられず、たとえ妊娠してしまうかもしれないからだとして、ではなにゆえ妊娠してはいけないのかという疑問には、責任が負えないからだとする一見正論に思える主張が適用される。しかし、おとなであっても責任の負えない妊娠などいくらでもあり、ではなにゆえおとなは性行為をしていいのかという問いには答えられない。

 とはいえ、人類は子孫を産まなければ繁栄できない。同時に我々にはそうした子孫を残すべしとの古からの呪縛が強いられている。呪縛と言って抵抗があるならば、本能と言い換えればそれらしい。

 むかしむかしの話をしてみよう。

 社会を形成する前、規範の生じる以前の人間は、ほかの動物のように本能の赴くままに振る舞っていた。群れはあってもそこにあるのは原始的なしがらみであり、規範などはなく、本能に忠実な野生のサガがあるだけだった。やがて家族単位での組織が形成し、そして村ができ、町ができ、社会ができた。

 そうした変遷のなかで人類はより質の高い子孫を残すべく術を模索した。結果生じたのが、愛なる概念である。特定の個にのみ愛情という名の関心をそそぐことで、より質の高い子を育もうとした。ゆえに一つの母体に一つの子種という図式が生じたが、けれどそこに子種への限定はなかった。

 子を産み、育むのは母の役割であり、父の役割ではないとする流れが、狩猟民族時代の人類から近代まで脈々と受け継がれてきた。危険な狩りをする父親に、子を育む余裕がなかったと言えばその通りである。必然、狩りを得意とし、外敵から家族を、群れを守ることのできる男が長として祀り上げられる。祀り上げないことにはその他の面々は群れに、組織に加われない。

 権力という名の独裁制がそうしてできあがっていくなかで、長は身の回りに財を囲いはじめる。縄張りをはじめとする、食糧から、武器、そして女である。

 一夫多妻制の誕生である。

 歴史を短いスパンで観察したとき、勢力をふるうのは暴力に物を云わせる集団だ。目先の自利を手に入れるためにもっとも手っ取り早いのが暴力だと言い換えてもいい。

 一夫多妻制の誕生により人類は、いよいよを以って暴力と性欲をイコールで結びつけた。女を物として扱う記憶が人類に刻まれた瞬間だと言い換えてもいい。

 よりつよい子種をより多く植え付けようとする自然淘汰の原理と、そして人類の抱えた根本的な誤りがそこにはあった。

 短いスパンでは隆盛を極めるのに都合のいい暴力ではあるが、では自身の暴力を上回るさらなる脅威――たとえば自然の猛威が襲いかかったときどうするのかと問われると、これもまた暴力をふるうほかに答える術を持たない。暴力だけでは対処できないにも拘わらず、である。

 数奇なもので、そこで必要になってくるのは、自らが利用し虐げていた、集団の、組織のちからなのである。

 組織を動かすためにもっともたいせつなのは、互いへの信用である。暴力で支配した時点で、そこに信用は根付かない。

 ゆえに長いスパンで人類の繁栄を考えたとき有用になってくるのは、暴力での支配ではなく、互いに思いやりを維持できる社会となる。

 そうした先見の明を持ち得るようになってくると人類は、倫理観というものを持ちだし、規範をより人類の発展に即したものへと昇華させていく。

 暴力から規範への転換への過渡期で、あいだには宗教なるものが生じている。自然災害などの暴力では対処しきれない脅威への対抗策として編み出されたそれら宗教は、人類へ規範や倫理観を刷りこむのに一役買った。

 同時に、人類が抱える根本的な過ちを深める役目も担ってしまっている。

 宗教がわるいのではない。

 それ以前に生じた人類の積み重ねてきた錯誤が問題なのである。

 すなわち、愛である。

 振り返ってみよう。

 愛とは、より質の高い子を発現させるために人類が自身へ強いた桎梏、枷である。

 家族が組織の一単位であったころは子だくさんであることが組織を維持するために必要なことだった。けれど村や社会が組織の一単位となった近代では、無闇やたらに、それこそ淫らに子を孕んでは、産まれてきた子すべてに母としての役割を割くことができない。長女に下の子たちの母親代わりをさせるなど、本末転倒な所業がそこかしこでまかり通る。一概にわるいことではない。母親の関心を独占できるからといってそちらのほうがよいこととも思えない――が、手塩にかけて育てられる個体数には限度があることは事実である。

 肉体の強度がより質の高い個体の代名詞的存在だったのはいっときにすぎず、人類が農業を発明するまでの話である。それから現代まで、より質の高い個体を示す基準は、人類の蓄積してきた知識を、その知恵をどれだけその身に溜め、発揮できるか否かにあると呼べる。ただ溜めるだけでは不足であり、それをじかに発揮し、成果を社会に還元させる必要がある。

 そういう意味で、母親にできることは限られる。何かを成すとき、それは誰かにやらされるものではなく、おしなべて自らの意思によって成されるものだからだ。きっかけが自己のそとから訪れることはあっても、それをするか否かはその個人の自由意思に委ねられている。

 閑話休題。

 より質の高い個体を生みだすために人類は、無闇やたらに子を儲けることを禁じた。好いた相手の子供でなければそれこそ産むことすらせずに堕胎するなんて所業がそこらを何食わぬ顔で往来する。

 同時に社会は我々個人へ、産んだ子への教育を徹底させるために、母親が付きっきりで面倒を看るべし、という構図を植えつけた。子育てしない母親は人間失格であるかのような風潮がそうして蔓延する。

 偏見とも呼べるそうした倫理観を我々現代人に植えつけるのにあたって一役買ったのが宗教だったというのは、衆道(男色)や、側室などの一夫多妻制、ほか性風俗が平然と職業として文化に根付いていたこの国に、現代のような貞操観念を膾炙させたのが異国の宗教だったことを思えばさほどの抵抗なく呑みこめる話であろう。

 ひるがえっては、現代社会において重要と謳われる愛とは、その当時に発現したと言い換えてもいい。

 異国の宗教を媒体にしながら社会は我々現代人に、愛なる、より質の高い個体を生みだすための装置を埋めこんだ。

 血で血を洗うような歴史を繰り返してきた人類にとってそれは必然であったかも分からない。思いやりや情けなど、そうした目に見えない規範を植えつけるには、人類よりも上位の存在をでっちあげるほかに有用な術がなかったのである。この場合、愛とは神と同義である。我々現代人は、愛なる神を信仰してやまない熱心な宗教家なのである。

 だが待ってほしい。

 我々の謳いたてまつる愛とやらは、果たしてそれほど普遍的なものだろうか。

 より質の高い個体を生みだすためとはいえども、社会に適応できない個体は、その身にいくら人類最高峰の知性を宿せたとしても、それを知恵として昇華できずに、能力を発揮せずに終わるだろう。たった一人で何事かを成せるほどいまもむかしもそれほど暮らしは楽ではない。であれば必然、社会に適応した個体を生みだすことが優先されるわけだが、その結果、蓄積されたノウハウは、つぎの世代では足を引っ張るだけの桎梏、枷になり兼ねない。より多くのテントウムシを手にした者が権力を手にできた時代があったとして、では、その時代の権力者が同様にして現代でもその能力をいかんなく発揮できるかはいささか過剰に疑問の余地がある。

 愛もまた同じである。

 愛という名を冠した規範は、時代時代に即した性質を引き継ぎ、蓄積され、踏襲された。踏襲されたそれらは現代社会にそぐわぬ悪習となって、偏見や悪意の姿をとり、顕在化している。

 性欲にまつわるよこしまな印象はそうして生じている。

 だがどうだろう。

 本能のなかでなにゆえ性欲だけがことさら蛇蝎視されなくてはならないのか。

 基本的な人権の保護や、生きていくために必要最低限の生活の保障、そして地球を食らい尽くさんと増加した人口や、高性能の避妊具の普及、そしてなにより暴力の行使が禁忌として扱われる現代にあって、性欲は食欲や睡眠、排泄欲に並ぶ本能として見做されても別段おかしくはないはずである。

 子を儲けるわけではない。

 食欲を満たすために食事をとるように、寝不足を解消するために眠りにつくように、性欲を満たすためにセックスをする。

 いずれも快楽を得るための作業である。

 食べなければ生きてはいけないが、では贅沢なご馳走やより美味しい料理をとる必要はどこにあるだろう。寝なければ正常な思考を巡らせられないが、では惰眠を貪る必要はどこにあるだろう。

 子を儲けなくとも生きてはいけるが、では性行為をする必要がどこにあるだろう。

 生きていくためだけを考えれば、いずれも必要のない無駄な行いである。

 いずれも社会を正常に回すために必要な経済活動だとする理屈が成立するものの、本質的な核はそこにはない。

 単に我々は気持ちよくなりたいのである。

 そこに貴賤はない。

 ではなぜ性欲だけがことさら際立って侮蔑の対象になり得るのかと問えば、それは愛の成り立ち、すなわち人類の溜めこんできたその時代その時代の悪習にあると呼べる。

 悪習とはいえど、その時代にとっては必要なことだった。性病の蔓延を引き合いにだすまでもなく、身分制度や移民廃絶、独裁制に王政と、時代だけでなく国によっても必要とされる制度や風習は変わってくる。現代のこの国からの視点で、そこに善悪の判断を持ちこむべきではない。

 けれど、やはり、でも、しかし。

 人類という視点から見れば、やはりというべきか、欠点に映る所業は数多い。

 現代においてもまた然りである。

 社会に漂う常識という名の暗黙の規範は、けれど絶対の真理ではなく、正しさともちがっている。

 百年先、千年先、一万年先――まで行ってしまうとそこに人類が存続しているのか怪しくなってくるところだが、ともかくとして未来からしてみれば現代社会にだって「あくしゅう」と扱われ、鼻をつままれて然るべき風習が悠然と大手を振るってそこかしに溢れている。

 何が善で何が悪かは判らないけれど、しかし純然たる事実として、人類は規範の枠を補強し、すこしずつであるにせよ、その判断を、分別を、確固たるものとしてきている。

 性欲への認識もまた変わっていくはずだ。

 愛なるものの示すなにかしらが、その時代その時代の文化を反映し、その枠組みを変えていっているように。

 或いは本当のところでは何も変わっておらず、我々はただ、より自由になりたいという我がままを叶えようともがきつづけているだけなのかもしれない。そこに清らかで正しくうつくしいなにかしらは最初からないのかもしれない。

 だとしても、性行為はけっして恥ずべきことではなく、ましてや生殖を伴わない自慰ともなれば、端から蔑視する対象にすらなり得ないように感じられてならないのは私の感性が麻痺しているだけなのだろうか。

 街頭でアンケートをとれば、おそらく半数ちかい人々が、オナニーはわるいものではない、と答えるだろう。口ではそう言っておきながら、では毎日オナニーを複数回している男がいると知れば、彼ら彼女たちはたちまち眉をひそめ、或いは嘲笑するだろう。

 私ならば嘲笑すること大いに請け合いなので、そう想像を逞しくしておく。

 やはり自慰はどこかいやらしい。不潔だとまでは言わないまでも、人に知られたくはない。人に言うべきようなものでもない。趣味とするのもまたちがうような気がする。排泄行為に快感を抱くからといってわざわざ尻の穴に異物を詰めこんで、排泄の真似事を趣味としております、などと告げられて平然と構えていられるほど私は図太くはない。図太くありたいとも思わない。

 長々と性行為、ことさら自慰への正当化を試みてみたけれども、無理があった。

 じぶんの気持ちは誤魔化せない。

 自慰はいやらしい。

 いやらしいから興奮する――などと言うつもりはさらさらなく、いやらしくて身になることなど一つもないのだけれど、たといいやらしくとも私はでも、それを悪とするのはちがうように思う。

 宗教では自慰は煩悩として、或いは悪魔のささめきに屈したものとして、多くは是としない傾向にある。

 さいきんでは人間の生理現象として排泄行為や食事のように自然なものとして扱う風潮がつよまってきてはいるけれど、かといって自慰そのものへの認識はさほど変わっておらず、言い換えればそもそも自慰は、いやしいものであれど、禁ずるべきものではないとする風潮が、現代社会ではすでに根付いているのかもしれない。

 ではなにゆえ性玩具をつくっていますと胸を張ると、私はそこに、そこはかとない気恥ずかしさを抱いてしまうのか。

 なんてことはない。

 私が誰よりも自慰をよこしまで、いやらしいものだと認識しているだけのことである。

 性行為なんてもってのほかで、悪魔に魂を売った人間のする邪悪そのものだと思っているだけのことで。

 赤子を生むなんて、そんなのは人を一人殺すようなものではないか。

 産まれなければ死ぬこともないのだから、赤子を生むのは成熟した人間にとって、もっともしてはならないことではないの?

 極論も極論、いったいこいつはなにを言っているのだと叱声の野次あられを甘んじて受け入れる所存ではある。受け入れてなお私はそうした思いを、歪んだ思想を払しょくできずにいる。

 処女をこじらせているからこうなのか、それともこじらせているから処女なのかは判然としない。いずれにせよ私はどうあっても性行為を率先して行うじぶんを肯定できないのである。

 ひるがえっては生殖行為を伴わない自慰であってもそれをするのは潔しとはしない。

 新型バイブを開発した私であるけれど、そのじつ、試作品をみずからの性器で試したことはない。

 私は思いだす。江音間さんはうらやんでいた。男性陣は江音間式∞の試作品をみずからの股間でお試しできていいなぁ、と。

 ごめんなさい江音間さん。

 あなたの先輩は女性であるにも拘わらず、みずからの性器で試作品を試したことのない不届き者でござった。

 情けない先輩だと責めてほしくはなかったので、或いは江音間さんはいくら情けない先輩であったとしても責めたりはしなかったのかもしれないけれど、情けない先輩は情けなさにかけては右に出る者がおらず、磨きをかけすぎてピカピカに誇ってしまっている猛者であるので、モサモサであるので、畢竟するに私は心まで狭かった。だので、江音間さんに情けない先輩と思われるのは避けたかった。というかふつうに嫌だ。断固拒否する。

 私はその旨を江音間さんには言っていない。口が裂けても、よしんば処女膜が裂けたって言いたくはない。

 私は産まれてきてからいちども自慰をしたことがない。

 誓っていちどもないのである。

 性器をいじったことがないとまで言ってしまうと嘘になってしまうけれど、せいぜいが厠で尿道の周囲を拭うときや、入浴の際に身体を洗うときなどに限られる。生理のときですらタンポンを目を瞑って押しこんでいるくらいである。

 おさないころ、おまんじゅうしっかりゴシゴシなさい、と母から入念に性器を洗うように半ば脅されて育ったこともあり、私はじぶんの性器にはひといちばい気を遣って念入りに洗っているのが習慣になってはや二十余年。

 そうした思いやりが講じてか私は自身の性器を、性器としてではなく単なる排泄器官として以外の感慨が持てないのかもしれなかった。

 思えば私は木偶乃くんよりもよほど本音と建前が乖離した人間なのかもしれない。

 性行為などしたくはないけれど、男性器には興味があり、いっぽうでは自身の性器にはつゆほどの興味がなく、感心がないとまでは言わないけれどそれは飽くまで病気にならないようにするための体調管理の域をでてはおらず、言うなれば髪の毛や爪の手入れ程度の関心である。

 自慰をしないくせしてその裏では男性器への執着から性玩具販売会社に就職してしまう粘着ぶりを発揮している。

 性行為がしたくてもできないもどかしさから自慰に走り、ふけっている木偶乃くんとは雲泥の差だ。雲泥の差でねじれている。

 私のコレは性欲からくる欲動ではない。

 単なる好奇心であり、本来であれば幼少期に芽生え、性に目覚めた時点で薄れていくもののはずだ。

 なにがどう転んだのか、私はそれを幼少期から引きずりつづけ、こじらせつづけ、こんなけったいな江音間式∞改め「サキュバス夢幻」なる男性用性玩具を開発してしまった。

 目のまえに並んだサキュバス夢幻はその褐色の肌を黒光りさせている。なんとなしに薄目をして眺めていると、男性用性玩具であるにも拘わらず、女性用性玩具が雁首並べているような錯覚に陥る。

 男性器に見える。

 そこにあるのはオナホールのはずだのに、なぜか極太のディルドが並んでいるように錯覚してしまうのである。

 欲求不満なのか、それとも外装を褐色にした理由が、女性陣である私と江音間さんの深層心理からくる男性器への憧憬にあるのかは定かではない。

 定かではないけれども、なるほど。

 ディルド兼、オナホというのもアリだな。

 いまさらながらの閃きを得て、私は江音間さんに言った。

「コレ、ちょっと改良してディルドっぽくしちゃおっか」

「えぇぇぇええ!」

 江音間さんは頭をぐしゃぐしゃ、もみくちゃにした。「だって完成したばっかって今言ったばっか……」急停止したかと思うや否や、彼女は目玉をぐるりと回し、それからゆっくりとこちらを見上げた。「先輩、てんさい」


(34)

 新型バイブ「イヴ」を開発した過去のある私の助言もあってか、改良作業そのものは二日で終えた。徹夜明けの三日目にして、完成した試作品をサキュバス夢幻のスタンダードタイプのすべてに当てはめていく。

 この作業は、一筋縄ではいかず、並行して金型デザイナーへ、できたばかりの新「サキュバス夢幻」のデータを入稿した。

 基本的に販売はショップではなくネット通販を主軸に展開していく。顧客がみずからの性器のサイズを入力すると、もっとも適した型の製品が届くシステムが採用されている。これは以前からウチの会社では提供していたサービスなので、「サキュバス夢幻」用に多少のカスタマイズをしてもらうだけで済んだ。

 男性器の測り方はサイト上に掲載され、統一されている。定規を恥骨に押しつけて測ったものがチン長となる。太さは根元、胴体部、カリ部と三段階方式で、性器に巻きつけた紐を定規で測ったものをサイズとしている。

 入力されたデータは個人情報厳守のうえ、じつはビッグデータとしてこちらで統計していたりする。

 そのデータをもとに、取り扱う商品の規格サイズを指定し、版元に注文するのは、十割、ユーザーの満足度を高めるための企業努力である。

 準備中のサイトでは、サキュバス夢幻の原型である簡易オナホ、江音間式三百の作り方を載せている。製品を購入せずともオナホが手軽に自作できる。それを使用してみて思いのほかイケルと思っていただけたならば、既製品を購入していただける可能性が高まるし、よしんば購入していただけなくとも、すくなくともサイトにまで足を運んでくださるお客さまは増えるだろう。ネット通販だけでなく、あらゆる仕事は、潜在的顧客にその存在を知ってもらうことが欠かせない要素となっている。同時にそうした宣伝活動は、もっともコストのかかる作業でもある。

 実質、江音間式三百の作り方は、簡易オナホの無料提供である。誰でも手軽にオナホが作れるならば、わざわざお金を払ってまで既製品を購入したりはしないだろう。

 けれどそれも狙いの一つである。

 パイは奪い合うものだ。

 他企業の利潤が減っても、その分が無料オナホの進化形とも呼べるサキュバス夢幻に流れてくれさえすればそれでいい。 

 かつてうちの会社は自社オリジナル製品を扱ってこなかった。

 オリジナルの製品で市場にはせ参じるいま、もはやここからさきは戦争である。

 ひょっとしたらウチの会社に性玩具を流してくれる業者が激減するかもしれない。

 ほとんどこれは賭けのようなものである。

 だが社運を賭けるくらいしなければ、売れるものも売れないだろう。

 ことこれほど類似品の氾濫した市場にあって、いち零細企業の商品など誰が目に留めてくれるだろう。いっとき売れるだけではダメなのだ。売れつづけてもらわなければ意味がない。

 オナホールという概念そのものを変えられなければ、サキュバス夢幻を世にだす意味がない。

 潰れるというならば潰れてしまえばいい。

 どうせ社長がいないのだ。

 ことさら株主がいるわけでもない。

 誰に迷惑がかかるだろう。

 社員は路頭に迷うだろう。

 けれどもともと人生の袋小路に入って出てこられない世迷い人が私たちだ。

 いまさら迷って困るだけの人生を送ってきてはいない。

 親戚に職種を偽って報告している者が過半数を占める業界だ。べつに恥じているわけではない。ただ、性玩具を扱う会社だと告げられて反応に窮する親戚一同の顔を見たくないだけの話である。

 まるで私たちが人生を踏み外し、道を行き間違っているかのような反応は、ことさら私たちの矜持を傷つける。

 誇りがある。

 木偶乃くんではないけれど、私たちは立派に立派な性玩具を扱うプロフェッショナルである。

 ヘンタイではあるかもしれない。そこは認めよう。

 けれどいずれプロとはヘンタイではないか。

 一流と呼ばれ、何事かを極める者はみな例外なくヘンタイである。

 ふつうではない。尋常ではいられない。

 見た目の話ではない。性格の話でもない。

 その者の持つ、こころざし、生き方の問題である。

 たかが性玩具。

 されど性玩具。

 私たちはそれに人生を、一生をそそいでしまっている大ばか者たちである。

 そこに意味はあるのかと問われると、私はどこかのデクノボウとはちがって、理想論を振りまいたりはしない。性玩具は性玩具だ。性的な趣向で気持ちよくなるための玩具でしかなく、表向きそれは性玩具ですらなく、ジョークグッズとして売られている。

 そう、卑猥だからだ。

 卑猥なものは公衆の目の届く場所に、開陳してはならないのである。

 やはりというべきか、国そのものから私たちの扱う代物が、していることが、よこしまで、禁ずるべきもので、いやらしいものだとする評価を下されている気がしてくる。

 意味もなく私は、うがー、と夜空に吠えてみる。


(35)

 サキュバス夢幻を改良したその翌週のことだ。

 私は伊香川さんに呼ばれ、提携を結べることになった工場への説明会へと出張った。道中、伊香川さんはぼやいた。

「向こうさんにも都合というか、付き合いがあるからね。取引先との兼ね合いともいうのかな。うちの会社みたいに新規参入となるとなかなかどこも引き受けてくれなくて」

「で、ここが引き受けてくれたんですか」

「いや、いちどは断られたんだけど、なんだか急に色よい返事をもらえてね」

「なんか嫌な感じですね」

「そう?」

「キナ臭くないですか」

「キナ臭いって、丹久場さんね。そんな言葉づかいしてるとあっという間にオバサンになっちゃうよ」

「セクハラです」

「単なる忠告なのに」

 歳をとることがまるでわるいことのように聞こえる。そういった反論を呈そうかとも思ったけれど、きっと伊香川さんにとってはわるいことなのだ。中年となってしまって変化した周囲からの扱いに伊香川さんはことによると、人知れず傷ついてきたのかもわからない。私くらいやさしくしてあげてもよい気がしないでもない。

 工場長と挨拶を交わし、さっそく具体的な話に移行する。

「というわけで、すでに金型はできあがっています。御社の承諾を得られればすぐにでも生産ラインに載せてもらいたいのですが」

「構いませんよ」

「え、ホントですか」

 示された値段も法外というほどでもなく、むしろいくばくかの心配りが滲んで感じられる。畢竟するに、予定していた予算よりも低い見積もりだった。

「じつは贔屓にしている取引先の社長さんから、もしこういった依頼がきたら引き受けてあげてほしいとじきじきに連絡をいただきまして」

「そうなんですか」私は伊香川さんの顔を見た。中年が目を見開くようにこちらを見ている。「ちなみにどちらの会社さんで」

 訊ねると、思いのほか大きな企業の名前が返ってきた。性玩具の卸売業界で最大手と謳われるコレゾー会館である。就職活動時代の木偶乃くんが第一志望で受けた企業でもある。

「どうしてそんな話を」

 工場との契約を終え、帰社してからも私は気を揉んだ。「ライバルにもならないと虚仮にされたとか?」

 つぶやいていると、研究室にいなかった江音間さんが戻ってきた。

「おやおや先輩、おかえりなさい」

「どこ行ってたの」

 仕事場兼自宅であるはずの研究室に彼女がいないのは珍しい。

「ちょいと野暮用で。そうそう、さっきプリンスと会ったんですけれども」

「へんなちょっかい出されなかった?」

「そんなそんな。先輩はちょっとプリンスを誤解しておりますよ」

「そうかなぁ」

 江音間さんが警戒しなさすぎるだけだと思う。

 そう零すと、彼女は、

「先輩がすこし鈍感すぎるだけだと思うのですけれどもねぇ」

 などと生意気にも言い返すのである。

「鈍感? なにが」

「いえいえこっちの話でごわす」江音間さんはそそくさとベッドに潜りこむ。「ちょいと仮眠をとらせてくんなまし」

 言ってほんの数秒ですーぴーと寝息を立てはじめた。かわいらしい寝息だもので、私なぞは文句を挟む気力を削がれてしまう。


(36)

 工場との契約が無事完了した旨を書置きし、私は研究室をあとにする。やるべきことは目白押しであり、目下片づけなければならない事項は、営業部との戦略会議である。

 むろんそこには現状、顔を合わせたくのないデクノボウの姿もあるのだけれど、仕事は仕事として真剣に向き合わなければならない。

 会議の場では、なにゆえ江音間さんがいないのか、という基本的なツッコミからはじまり、彼女の出番はもう終わった、あとは我々の尽力すべきとき、と私はかわいい後輩を庇いがてら、これまでの期間私たちにあらゆる責任を放擲しては投げっぱなしにしてきた面々へ向け、職を失いたくなくば死ぬ気でやれ、と中身のない言葉で鼓舞し、私たちは現状、命綱の切れた状態である事実を、粛々と認識させるべく言葉を、お経のように並べ立てていく。

 私の入れた喝が利いたのか、議長たる伊香川さんをはじめとする面々は冗談でなく冷や汗を垂れ流しながら、かつてない真剣な言葉で、議題を、これから講ずるべく戦略を煮詰めていく。

 侃々諤々の議論を経て、出揃ったのは、じっさいにアイドルや俳優をイメージキャラクタとして採用し、宣伝に利用するというこれといって突飛でもなんでもない案だった。

 が、考えてもみれば、オナホールのイメージキャラクタを務めた著名人が未だかつていただろうか。ちょっとやそっとではお目にかかれないのではないか。そもそもオファーをかけようとも、オナホールのイメージを背負って立ってくれる著名人には行き当たらないのが通常だ。

 事務所が許可をださないだろう。

 イメージダウンにもほどがある。

 が、そこはサキュバス夢幻である。従来のオナホールとはひと味もふた味もちがったコンセプトで商品化を目指している。現に、ひと癖もふた癖もある変わり種として誕生し、今か今かと出荷のときを待ちわびている。

 なればこそ。

 オナホールという名称につきまといつづけてきた、卑猥な印象を払しょくするためにも、是が非でもここは横車を押しとおしたいところではある。

 オシャレオナホのコンセプトは、某大手企業が長年とりかかりつづけてきた市場である。他人の畑に土足で踏みこもうとは思わない。

 サキュバス夢幻は別段オシャレを謳っているわけではない。

 オナホールはしょせんオナホールである。

 性による快楽を得るための補助器具だ。

 オシャレである意味はそこにあるのか?

 いや、ない!

 けれど卑猥である必要もない。

 健全でいいではないか。

 制服に身を包み、穢れを知らない学生たちにこそ、真のヘンタイたちは群がり、ムラムラするものではないの。

 あべこべに、褐色に焼いた肌で以って、淫靡さを前面に押しだした妖艶なる淫魔もまた、性衝動をいたずらにくすぐるものではなかろうか。

 矛盾しているようで、そこにはただ一点、穢したいという欲動が渦巻いている。

 マーキングと言えばそれにちかい。

 自分色に染めあげたい。

 そうした衝動を抱くみずからを認識し、認識することで自身のうちに蠢く制御しがたい欲求を、男は、人は、垣間見る。制御できないなにかしらは、いついかなるときであれ、人間に畏怖を抱かせる。

 そう、彼らはみなおそれている。

 穢してしまうのではないか、と。

 ふつくしく、愛おしい対象に、自分のようなよこしまな感情を抱いた人間が触れていいはずもない。

 だがうちに蠢く衝動は消えることなく残留し、どうしようもなく身をこがす。

 せつない。

 せつないのだ。

 身を切り裂かれそうなほどに。

 だからこそ、代償行為が必要となる。

 それこそが自慰である。

 本来向けられてしかるべき対象を敢えてはずし、身をこがすほどの衝動を、端なる道具へと発散する。

 制御、できている。

 抜き身のやいばを鞘へ納めるように、抜きたい衝動を、性玩具へと収める。

 卑猥であるはずがない。

 時代が時代ならば神器として崇め奉られていても驚きはしない。

 もはや審議が不要なほどに。

 私には、

 性玩具が、

 サキュバス夢幻が、

 神々しく輝いて映っている。

 そういうツヤツヤ素材を選んでいるので当然だ。

 閑話休題。

 若手の俳優やさわやかさを売りにしているアイドルに声をかけたものの、色よい返事はもらえなかった。打診してくれる事務所もあるにはあったが、示された契約金に目が点になった。うちの会社が十個あっても買収できてしまえるほどの金額だ。

「足元見やがって」

 バカにされている気分だった。相手にこちらを卑下しているそぶりがないのがまたいちだんとこちらの憤懣に磨きをかける。さも当然のように、だってオナホールですよ、と法外な金額の正当性を訴えてくるのである。

 くっそぉ。悔しい。

 みんなもっとオナホールの魅力に気づいてよ。

 サキュバス夢幻はすごいんだよ。

 叫びたくって、叫びたくって仕方なくなり、私は叫んだ。

「オナホールの文字を背負って歩くのがそんなに嫌か!」

 まあ嫌だ。

 私だって嫌だ。

 そんなTシャツは着たくない。

 広報戦略はそうそうに暗礁に乗り上げた。

「どうしましょうか」私は伊香川さんを飲みに誘った。昼間の会議で、著名人の起用を廃案にしたばかりだった。

「どうもこうもないだろ。できる範囲で宣伝していくほかない」

 ああでもない、こうでもない、と私たちはすでに出し尽くして出涸らしになった案を、さらにこねくり回して、なにかないか、なにかないか、と焦りばかりを募らせていく。

 遅れて江音間さんがやってきた。飲みにいくと言ったら、部長とふたりでですか、あたしもお供していいですか、と殊勝なことを抜かすので、これまでの貢献を労うつもりも兼ねて同行を許可した。

「江音間さんはどう思う? なにかアイディアない?」

 ウーロンハイを注文してから江音間さんは、

「そうですねぇ」こめかみを食指でコンコンしつつ、「SNSの利用はもはや一周回って時代遅れですしねぇ。新聞やTVで広報打つのも資金不足でいかんともしがたいですし、仮にできたとして目玉がないんじゃ、誰も見ないと思うんですよねぇ」

 たとい見てくれたとしても、電車の天井からぶらさがる広告並に、数秒後には忘却の彼方へと吹き飛んでいる。

「でもなんとかしないと」

「イメージキャラの起用ってのはいい線いってるんでないかなぁとあたしなんかは思うんですけれども」

「だって誰も引き受けてくれないんだもん」

 そうだ、そうだ、と伊香川さんが合いの手を入れる。おやじはすっかりヤケ酒だ。

「ならこっちでかってにつくっちゃいましょうか」

「どゆこと?」

 しばし考え、

「ああ、アニメとかそういうの?」

 私は、ダメダメ、と顔のまえで手を振る。「アニメキャラだけはナシの方向でって、前の会議ですでに決定してるの。私もその決定には賛成。せっかく【これまでにないオナホを】って謳ってるのに、パッケージにまた美少女キャラじゃ、今までとなにも変わらない。そこは妥協したくないところだもの。江音間さんだってそう思うでしょ」

「はいな。先輩と同意見ですねぇ」

「だったら」

「実写でいいじゃないですか。現物で。生身の人間で」

「んんー?」

 首をひねってみせるけれど、ぴんとこない。細かく振ってみるけれど、一向に頭はうまく回らない。

「わかんない」私はテーブルにぐてーっと突っ伏すようにする。降参のポーズをとりながら、「教えて」

 投げやりにおねだりする。

「ですから先輩」江音間さんは店員の運んできたジョッキを手にし、ウーロンハイを一気飲みしてから、ぷはーと豪快に息継ぎをし、それから立ち去りかけの店員に追加のジョッキを注文しがてらこう言った。「うちの社員から抜擢しちゃえばいいじゃないですか。そうたとえば、プリンスさんとか」

 頭の中で閃光が弾ける。弾けた閃光は、真っ暗闇だった私の脳内に壮大な花火を咲かせつづけて消え失せない。言葉を失った私のとなりでは、伊香川さんが中年おやじの名に恥じない豪快ないびき声をあげている。


(37)

 話はとんとん拍子にまとまった。オナホ王子こと木偶乃くんを、サキュバス夢幻のイメージキャラクタとして採用することに決定した。

「イヤですよ。なんでぼくがそんなことを」

 駄々をこねても無駄である。議会全員一致での決定事項だ。拒めば社に居場所はないと思え。脅したいところではあったけれど、言って辞められでもしたら後がないので、ことコイツの場合、ほんとうに辞めかねないので、言わずにおく。

「まま。そんなこと言わずに。あ、お茶をどーぞ」

「なに下手に出てるんですか。鳥肌立ちますよ。やめてくださいよ」

「チッ」

「ちょっと今このひと舌打ちを」

「してません」

「いいやしました。江音間さんも聞こえてましたよね」

 言ってかれは研究室のデスクで、手持ちぶさたに工作をしている江音間さんへ視線を飛ばす。

「聞こえたような聞こえなかったような」

「ほらみろ」ここぞとばかりに私は言った。「聞こえなかったってよ」

「聞こえたようなとも言ったじゃないですか」

 そうですよね、と木偶乃くんは声を張る。すると江音間さんは、頭を掻き乱し、席を立った。そのまま部屋を出ていこうとするので、

「どこ行くの」

「便所です」

 江音間さんは出ていった。

「ちょっとうるさかったかな」

「ちょっとでは済まなかったかもしれませんね」

 残されたふたりして、私たちは、わるいことしたなぁ、と反省した。

 冷静になったところで、私はどうしてそんなに嫌がるのかを訊いた。通常ならば嫌がるのが一般的だけれど、そこはオナホ王子の異名を誇る木偶乃くんである。オナホのためとあらば、たとえ火のなか水のなか、大衆に後ろゆび差されたところで痛くもかゆくもないはずだ。

「あなたはぼくを誤解している」

 言い方がまずかったのか、木偶乃くんはプリンスらしからぬいじけ具合でプリプリ膨れた。

「ごめん、ごめん。そりゃイヤだよね。私だって嫌だもん。でもしょうじききみは顔だけはいいわけじゃない? うちの社で若い男の子ってなるとほかには出荷間際の豚さんみたいに愛嬌のある方々しかいないわけで」

「愛嬌があるならいいじゃないですか」

「いかにもオナホ持ってます、って外見じゃ意味がないのよ」

 だからおねがい、と食い下がる。「木偶乃くんにしかできないことなんだよ。オナホのためだと思って。ね?」

 かれはしばし考えこんだ。いったいなにを悩むことがあろう。役を与えられたのだから、あとはこなすだけである。拒否権はかれにはない。ただし、途中で投げだされても困る。せめてかれが自主的に引き受けたとする言質をとっておかねばならない。もしものときのために。責任を、コイツにも背負わせるために。

 サキュバス夢幻を無事世に送りだすためにできることがあるならば、私は悪魔にでもなんでも魂を売ろう。こんな命でよければ、むしろ率先して売ってやる。淫魔にならば無償でくれてやろう。えーい、持ってけどろぼう。

 脳内でぼんやりと現実逃避ごっこを繰りひろげていると、

 ぼくじゃダメなんです。

 木偶乃くんが言った。顔を伏せたままでかれはさらに、

「オナホのためというならば」と続ける。「やはりぼくを使うのはやめたほうがいいです」

「なして?」

 背を丸め、まるで折檻に怯える子供のような格好でかれは、

「ぼくの父は」

 と。

 搾りだすようにこう告げた。「性犯罪者なんです」


(38)

 私は木偶乃くんを残し、部屋を飛びだした。廊下をひた走り、エレベータを待つ時間も惜しく、階段を駆け上って、かつての古巣、女性用性玩具を扱う部署へと乗りこんだ。

「楼田さんはいらっしゃいますか」

「あら、やだ、なあに。血相変えて」

 楼田さんは何かしらの資料を整理していた。私は彼女のうでを掴み、作業部屋の個室へと連れていく。ほかにひと気はない。防音がどれほど行き届いているのか定かではないけれど、私は構わず切りだした。

「単刀直入に訊きます。木偶乃くんの父親が性犯罪者ってどういうことですか」

「誰から聞いたの」

「やっぱり先パイ、知ってたんですね」

「ふふ。先パイって久しぶりに呼んでくれた」

「ごまかさないでください」

「そうね。うん。わたしは知ってた。けどべつに問題はないでしょ。木偶乃くんは犯罪者ではない。罪を犯したのはかれの父親で、かれではない」

「ですが……」

「そうね。あなたの懸念もわかる。社の人間が性犯罪者の縁者だと知れ渡れば、うちの社の評判に響く。ただでさえ性玩具を扱っているのだから、ほかの企業の非ではなし。でも丹久場さん。あなただって本当は解ってるのでしょ」

 まっすぐと見据えられ、私は顔をあげることができない。楼田さんのいわんとしていることは解っているつもりだ。たとい父親が犯罪者だからって木偶乃くんは木偶乃くんだ。ことさら騒ぎ立てるほどの問題ではない。そもそも問題ですらない。ただしそれは私たち社の人間、身内からすればの話であり、そうした話がそとに漏れれば、明確な奇禍となって我が社をおそう。

「イメージなのよね。よくもわるくも。論理的にも倫理的にも、木偶乃くんと父親の犯した罪はなんの関係もない。でもその二つを直結して評価しようとする流れが大衆という名の大河には漂っている」

「抜擢できませんよ。イメージキャラになんか」

「そう? わたしたちが黙っていればいいことじゃない?」

「私たちが言わなくとも、木偶乃くんが耐えられません」

 ああ、と楼田さんは唸った。「あなたもどうして不器用なコだわ。かれが心配ならそう言えばいいじゃない。まるでかれを責めるような言い方をして」

「責めてますよ」

 いまごろそんな話を打ち明けてきた木偶乃くんにも、それを知っていながらイメージキャラに起用する案になんの躊躇いもなく同意した楼田さんにも。

「どうして先パイは知ってたんですか」

「木偶乃くんの父親のこと?」

 私はうなずく。

「うーん。言っていいのか迷っちゃうけど、でも、いいわよね」楼田さんは腕を組み、頬杖をつく。「以前、木偶乃くんが雑誌のインタビューを受けたことがあってね。そのとき、インタビューだけじゃなく、顔写真まで載っちゃって」

「知ってます」

 記者が木偶乃くんの相貌のよさから、オナホ王子の愛称をつけた。それがきっかけで木偶乃くんはプリンスと呼ばれるようになった。主として、社長と伊香川さんのふたりから。

「でもじつはあのとき、前以って個人情報のいっさいを載せないで下さいって頼まれてたのよ木偶乃くんから、わたし」

 けれど雑誌には木偶乃くんの写真と名前が載ってしまった。

「どうしてですか」

「許可しちゃったのよ。うちのバカが」

 すなわち社長が、編集者からの要望を安請け合いしてしまった。

「送られてきた見本誌を見て、木偶乃くん気づいたんでしょうね。すぐにわたしのところに、どうして約束を守ってくれなかったんですかって怒鳴りこんできて。わたしとしてもわるいとは思ったけど、でもやったの社長だし、そこまで怒ることのことでもないじゃない? 言ってもたかがオナホの特集よ? 読者なんて高が知れてる。そう言って宥めたんだけど、木偶乃くん、終いには会社を辞めるとまで言いだして。ただごとじゃないなってそのときになって気づいて、わけを訊いたの」

 楼田さんはそこでかれの素性を、家庭の事情を聞かされた。

「性犯罪者って言っても強姦とかそういうのじゃないのよ。露出狂っていうの? そういうやつで、となり町とかで股間を丸出しにして、幼い子どもとかに見せびらかしてたんですって。常習化してて、当然、町のほうでも警戒するわけでしょ。巡回していた警察官に捕まって、それでおしまい」

「いいえ」

 ――終わったのはぼくの家庭のほうでした。

 楼田さんが目を剥いている。視線を辿り、振り向くと、そこには個室の扉を開け放し、立っている木偶乃くんの姿があった。

「ちょうどよかった。このコがなんかきみの過去の話を聞きたいらしくて。よかったら聞かせてあげてくれないかしら」

 一方的に言い放ち、楼田さんは肩を回しながら、私たちを残し、個室を抜け、作業部屋からも出ていった。

 残された私は、なんだかエイリアンだらけの宇宙船で独り目覚めた乗組員の気持ちが解るようだ。

 木偶乃くんは個室のなかに入ってこようとはせず、扉を手で支えたまま、

「聞きたいんですか」

 うつろな眼差しを寄越すのだった。


(39)

 拒むのもわるい気がして、というよりもここで拒絶するのはなんだか逃げたことになるような気がして、だからでもないけれど私は、

「話したかったら聞いてあげるけど?」

 無駄に高圧的に問いかえすのだった。

 相変わらず卑怯なひとだ。

 つぶやき、木偶乃くんは述懐する。

 耳を傾けながら私はかれの語りを脳内でまとめあげていく。

 表向き真面目にサラリーマンとして会社に勤めあげていたかれの父親は、性犯罪者として逮捕された瞬間に、変質者として名を変えた。元から前歴があり、再犯かつ、常習犯であったことから実刑判決が下された。木偶乃くんの母親は、名実ともに犯罪者となった夫とヨリを戻す気はなかったようで、間もなく離婚を成立させた。第二の人生を息子とふたりで歩み出した母親であったが、我が子にも性犯罪者の血が流れているのではないかと長年、疑心に苦しんでいたという。

 性にまつわる、あらゆる媒体が幼いころの木偶乃くんの周囲からは遠ざけられた。同時に、性行為にすこしでも関係のある行いは、唾棄すべきことで、いけないことで、すべきではないこととしてつよく言い聞かされて育った。

 当然のごとく、しかしかれは人間であり、生物学的には男であった。思春期にさしかかった時分に、性に目覚めて以降、長年にわたって植えつけられつづけてきた呪縛が花咲いた。

 かれにとって性行為は殺人と同等に、してはならない禁忌であり、唾棄すべき所業であり、悪であった。

 同時にそれをしたいという欲動は、日に日にかれの肉体を内側から蝕んでいった。

 禁止による抑圧は、倒錯した快楽への欲求をつよめる働きがある。哲学者ジョルジュ・バタイユの言葉を引き合いにだすまでもなく、思春期の木偶乃くんは、性への好奇にまさしく心を奪われていった。

 セックスがしたい。

 木偶乃くんにとってそれは、人を殺したいと願うのと同じであった。

 狂っていたのだとかれは語る。

「ぼくにとって童貞であることは、人間であることと同義なんですよ。人を殺さずにいることが人間としての最低条件であるように、ぼくにとってはセックスをしないことが人間であることの最低条件で。でもぼく以外の友人たちは男女関係なく、どんどん人間じゃなくなっていく。日に日にぼくの周りからはぼく以外の人間が消えていく。母親ですらぼくにとっては人間ではなく、なのにその人間ではないはずのなにかは、ぼくにむかしからこう言いつづけるんです」

 うちなるケダモノに流されたらダメ。

 いやらしいことはダメなんだからね。

「触れてはダメ、見てもダメ、考えてもいけません。ぼくが【ぼく】として形作られたころには、その呪縛はぼくにとって根幹をなす核になってしまっていた。でもダメなんですよ。その核の植えつけられた土台にはそもそも本能なる基盤が悠然と埋めこまれているんですから。思春期という時期に、その基盤は大きく波打ち、ぼくの核ごとぼくを呑みこんだ。ぼくは抗いましたよ。懸命に抗った。父親から母親へ、そしてぼくへと引き継がれた呪縛を盾に、本能なる性欲に、ぼくは抗って、そして破れました」

 勝てるわけがないんですよ。

 木偶乃くんは笑う。卑屈に笑う。

「食べなければ死ぬように、眠らなければ狂うように、出さないでいつづければいずれ、死に、狂うようになっているんです。肉体にはそもそも、そういった機能が付与されている。ぼくは夢精しました。ぼくはそのとき、純粋な人間ではなくなったんです。産まれてはじめて射精して、その気持ちよさに打ちのめされた。うちひしがれたと言い換えてもいいです。ぼくはそのとき、明確に、自分の何かがゆがんだのだと感じました。いいえ、逆ですね。ぼくはずっとゆがんでいたんだって気づいたんです」

 目が覚めたんですよ。

 瞳孔の開ききった木偶乃くんの顔から私は目が離せない。

「思春期を脱したころ、高校を卒業した時分にはさすがに分別くらいつくようにはなりました。性行為が悪なわけがない。手段がいけないのではなく、その手段を用いて、自分の欲望を好き勝手に相手へぶつけてしまう行為がいけないんですよ。たとえ殺人に包丁が使われたって、包丁そのものがわるいわけではないでしょう。それを使って相手を排除しようとした人間がわるいんですよ。性行為だって同じですよ。相手を損ない、支配しようとして性行為を迫ればそれは悪ですよ。でも互いの気持ちをより深めるために、互いに身を委ね、精神の深いところで、まさしく本能で結びつく。これはひとつの愛ですよ。ぼくだってそんなことは解っているんですよ」

 けれどかれに根付いた呪縛は消えることがない。なぜならそれは【かれ】という存在を形作る核であり、枠組みでもあるからだ。木偶乃くんという人間は、性行為をしてはならないという規範を守ろうとすることで、その人格としての枠組みを保てている。保ちつづけている。今さらその枠組みを取り払うことなどできはしない。

 我々人類がいまさら言語を手離し、火の使用を放棄するのが不可能なように。

「いまさら性行為なんてできるわけがないんですよ。だってそうでしょ。ぼくにとっては殺人と同じなんですから。もしぼくが性行為を体験してしまえば、なんだこんなものかといちどでも思ってしまったら、或いはなんてすばらしいんだとド壺にはまってしまったら、ぼくにはもう、禁忌とするものがなくなってしまう。人を殺してもいいのだという免罪符をぼくはぼく自身に与えてしまうことになる。あらゆる枷が外れてしまう。パンパンに張り詰めた水風船に針を刺すようなもので――いままでの人生でずっと耐えてきたモノが、一息に溢れだしてしまう」

 だからかれは性行為を誰よりもつよくしたいと望みながら、懸命にその衝動と闘いつづけてきた。

 機会が巡ってこなかったのではない。

 自ら遠ざけていたのだ。

 そりゃそうだ。

 これだけ見た目のよいかれのことだ、性交渉をする相手に困ることはないだろう。引く手あまたというほど見た目に惑わされる女性陣は多くはないだろうけれど、ネットを介して交際相手を募れば、かれほどの器量ならば、脱童貞くらいお茶の子さいさいのはずである。

 だがかれがそれを実行に移すことはない。

 かれの人格がそれを拒絶する。

 呪縛がかれの心に根を生やす。

「木偶乃くんがどうして童貞こじらせちゃったのかは解った」でも、と私は続ける。「心配することないと思う。たとえ全世界で殺人が合法化されたって、木偶乃くんならそれでもただ一人、人を殺さずに何食わぬ顔で暮らしていけると思うもの」

「そういうことじゃないんですよ」

 唸るかれの顔を私は両手で挟み、「ううん、だいじょうぶ」と言って聞かせる。「パンパンに張った水風船に針を刺したって、よしんばえんぴつを刺したって、そう簡単に風船は割れないんだよ。それこそ水漏れなんて起こさない」

 小学生のころにした簡単な実験を――あれはたしか風船ではなく、水で満たしたビニール袋だったけれど――思いだしながら私は嘯く。

 だからだいじょうぶなんだよ、と。

「きみはねじれてなんかいない。ただちょこっとこじらせちゃってるだけ。母親の言うことなんて守らなくたっていいんだよ。きみはただこわがってるだけ。前に踏み出せないことの言いわけに、母親からの躾を使ってるだけ」

 そんなことはないと本心では私だって解っている。きっと本当にかれは幼いころに強いられた呪縛に苦しみ、そして今なおがんじがらめに絡め取られている。だからこそ、誰かが、そんなのは呪縛でもなんでもないのだと言って聞かせてあげなければならない。

 これまでの人生でなぜかれのまえにそうした者が現れなかったのかと、私はこんなときだというのに、そんなことに腹を立てている。

「したければしていいんだよ」私はかれの背中を、胸を、押す。「愛する人とでないとする意味がないってきみのその拘りはだって、呪縛とは関係のない、きみだけの信念なんだもの。童貞でなくなったきみからたとえ枷が外れてしまうのだとしても、それでもきみはいまのまま、なんら変わらずにきみでいる。いつづけていられる」

「ですが、それじゃあぼくはなんのためにいままでガマンしてきたっていうんですか。無駄骨ですか。無様ですか」

「無駄なんかじゃない。無様なんかじゃない。ううん。無駄でも無様でもいいじゃない」私は言った。かれの胸に額を押しつけながら。「だってべつに、初めてを捧げるほど好きな相手なんかいやしなかったんでしょ」

 ほとんど投げやりな決めつけだったけれど、案に相違して、というよりもこれは案の定といったほうが正確だろう、木偶乃くんは、

「ええ」

 ようやく伏せていた顔をあげた。「いままではそうでした」

 まっすぐな目で見下ろされる。私はなぜか緊張した。負けじと睨み返すとなぜだか木偶乃くんはみたび顔を逸らし、やおらに頬を赤く染めあげる。

 面はゆい空気にヤキモキしているところへ、どたどたと足音が近づいてくる。私は咄嗟に木偶乃くんと距離を置き、かれもかれでこちらから間合いを置いた。閉ざされた個室の扉が勢いよく開き、そとから楼田さんが顔を覗かせる。髪の毛を振り乱したまま、直そうともせず彼女は、

「居場所が判明したわ」と叫ぶ。私たちはこう訊きかえすよりほかがない。「なんの?」

 楼田さんは言った。

「社長の!」


(40)

 事の発端は、伊香川さんが同業社たるコレゾー会館へ挨拶をしに伺ったときのことだという。サキュバス夢幻の生産ラインを開いてくれた工場へ一言口添えをしてくださった礼を兼ねての訪問だ。

「なんでもアイツ――いや、社長は元々コレゾー会館の社員だったらしいんだよ」社に戻ってきた伊香川さんから、私たちは話を聞いた。「え、そうなんですか」

「妖精型のオナホってあっただろ。アレを開発したのがどうやら社長だったらしくてね」

 私は記憶に検索をかける。たしかそれは販売中止となり、すべての商品が回収されたのではなかったか。

「それが原因で社を追われたと?」

「いや、それに関しての処罰はなかったようなんだ。むしろ向こうの会長さんにえらく気に入られてたらしくてね。どうにも忍暁(にんぎょう)さん――いまのコレゾー会館の社長さんなんだが、彼女のほうと反りが合わなかったようで」

「それで自分で会社を興したと?」

「まあそういうことなんだろう」

「で、社長はいまどこに?」

「うん」

 私たち主要幹部は、固唾を呑んで続きを待つ。

「コレゾー会館の会長と懇意の仲だったというのは今話したとおりなんだが、じつは社長、じきじきに向こうの会長さんにお願いしに行っていたらしくてね」

「社長がですか? わざわざご挨拶に?」

「いや、もっといやらしく、今回のプロジェクトを後援してくれと頼まれたそうでね。向こうの忍暁さんがそれを知ってたいそうお冠のご様子で。いやなに、個人的な怒りだとそこはおっしゃってくれた。うちの会社へ何かしらのペナルティを課すような真似はしないと言っていただいて。それどころかうちの【サキュバス夢幻】を応援してくれるとまで言ってくださって」

 ――性玩具市場はいまや頭打ちなのはあなた方もご存じでしょう。

 コレゾー会館、社長取締役の忍暁姫夜さんはそう言ったそうだ。

 ――あたしたちの行く末を阻む固い殻をおたくの【愛娘】たちが打破し、新しい風を吹きこんでくれるってんならウチとしても協力してやるにやぶさかではないのよ。それがたとえいっときであっても、市場をガタガタにするようなプロジェクトであっても。

「そうおっしゃっていたよ」

「どういう意味でしょうか」

 引っかかる物言いだ。こちらの経営策略が筒抜けであるかのような印象を受ける。暗に、知っているぞ、と脅されている気がするのは私の小心翼々具合のなせる業か。簡易オナホールの作り方を無償で公開する旨を、ほかの企業が知っているはずもない。

「さあてね。すなおに皮肉だと受け取ったが、いずれにせよウチのバカはそうやってほかの会社にも頭を下げて回っていたそうだ」

「ほかの会社にもですか」

 一同、どよめきがあがる。

 伊香川さんはあごを引き、たるんだ肉を重ねたまま、

「きょう、そのうちの一社から連絡があってね」と述べた。「うちと、向こう五年間の卸契約を結んだそうで。売買取引のための」

「五年間? いったいなんの品を」

「むろん商品は性玩具だよ」伊香川さんはこめかみを掻く。「だから、なにがあっても向こう五年間はうちの社が商品の仕入れに困ることはなくなった」

 一同、しばしのあいだ呆気にとられる。これまでの仕入れはすべて信用取引だ。契約書でのやりとりはあれど、しょせんは発注用紙との併用だ。飽くまで次年度の決算のときまでに代金を用意すればよく、それまでは互いに、発注と発送をやりくりしていればそれでよかった。卸売の基本として、商品すべてを捌くには時間がかかる。しかし確実に売れるだろうと統計的に明らかになっている場合は、在庫を抱えてでも大量に仕入れておく必要が迫られる。

 代金は決算のときに、その年の純利益から支払えば済む。業者も業者で、大量に商品を生産し、一つでも多く世に送り出したいと望んでいる。目先の利益には目をつむり、のちに実る大きな果実を手にしたほうが結果的には、双方共に特をする。

 決算日は定まっている。わざわざ年単位で契約する理由がない。デメリットしかないと言い換えてもいい。業者にとってもっとも避けたいのは、取引先が、大量に在庫を抱えたまま倒産することである。代金が支払われずに、大量の赤字だけが残ってしまう。

 互いの信用で成り立っているわけではない。一方的に信用してもらっているのだ。確実に捌ける、捌いてやるという矜持を現実のものとしつづけることで、私たちのような卸売専門の会社は、ほかの業者さんから商品を分けてもらっている。

 だからこそ私たちのような、自社の製品を持たない会社とは、信用の低い会社とは、年単位での取引契約は結ばれないのが通例だ。

 それを社長がもぎとってきた。

 サキュバス夢幻が発売されたときに買うだろう他企業からのやっかみから、会社を、私たちを護るために。

「五年で結果をだせと言われてるようなもんだよな、これじゃ」伊香川さんはぼやいた。私のとなりでは楼田さんが、ホントにかってだわ、と鼻息を荒くしている。「かってにプロジェクトたちあげて、かってに消えて、こんどはかってに社運をそれに賭けて。いったい何様のつもりかしら」

 神さまのつもりなんじゃないですか。

 私は内心でそう念じた。

「で、あのバカ、今はどこにいるの」楼田さんにせっつかれ、伊香川さんは、おうそうだった、と居住まいを正した。

「アイツは今、銀行にいる」


(41)

 半額前金で支払うことで社長は卸売契約をぶんどってきたようだ。口座振り込みといえども、実家に振りこむのとはわけがちがう。大金が動く。銀行の支店長から会社に連絡があり、副社長が急行しているという。

「え、うちに副社長なんていたんですか!?」私はそんなことに目を剥いた。未だかつて会った憶えがない。

「こうした不測の事態のときに発動するセキュリティみたいな人だからね。社のお金の管理も、その権限のほとんどすべては彼女が握ってて。まあ、出番がないほうがいい人物ではある」

 社の命運を分ける分水嶺、瀬戸際に立たされているのだと今さらながら突きつけられた心地がした。

 社長の居場所も、失踪した理由も判明した。現状、私たち社員のすべきことは、暗礁に乗り上げたままのプロジェクトを無事に海へ浮かべ、帆を張ってみせることにある。あとは風任せの運しだい。だからこそ今できることを全力でしていくほかに講じるべき策はない。

 研究室に戻ると、途中、木偶乃くんが追ってきた。

「社長、どこにいたんですか」

 かれは後輩であるがゆえに、会議の場にはいなかった。

「銀行だってさ。なんか色々してくれてたみたい。私たちのために」

 立ち話もなんなので、研究室まで歩きながら私は、仕入れた情報を木偶乃くんに伝えた。

「やることなすことムチャクチャじゃないですか」

「まあ、そんなアホの下で働こうとした自分たちを呪いましょ」いずこで聞いた気のする台詞が口を衝く。

「考えたんですけど」かれは鼻の頭を掻いた。「やってみてもいい気がして」

 歩を止める。眉間に力を籠め、数歩さきで振り返った木偶乃くんへ、なんの話、と暗に問う。

「イメージキャラクタ。ぼくなんかでよければなんですけど」

「どういう風の吹き回し」

「さあ、なんででしょう。急に、やってみてもいいかもなって」

「心境の変化があったんだ?」

「ぼく一人では無理でしょうけど、誰かが後押しして、支えてくれるのなら、ぼくであっても畑を護るカカシくらいにはなれるかなって。そう思いまして」

「カカシっていうかきみの場合は、テテシって感じだけどね」

「テテシ? なんですかそれ」

「さあ、なんじゃろ」

「前々から思ってたんですけど」

「ん?」

「丹久場さん。あなた、すこし適当すぎやしませんか」

「そ? 相手がきみだからじゃない」

 言って私はふたたび歩を進める。ややあってから、どういう意味ですかそれ、とこちらのあとを追ってくる木偶乃くんの声は、にわかに弾んで聞こえた。

 研究室のまえで、江音間さんと鉢合わせする。「おやま。珍しい組み合わせですなあ」

「あのね江音間さん。なんかプリンスがやっぱり協力してくれるって。イメージキャラクタやってくれるって」

 そうなんだよね、と見遣ると、木偶乃くんは仏頂面で、ええまあ、と言った。

「ほほう」

 江音間さんは腕を組み、

「それはいいことだ」

 ひときわ偉そうに唸るのだった。

 三人仲良くというほどでもないのだけれど、扉の鍵を開け、中に入ると、今まさに研究室の金庫を難なく開けたらしい人物が、中から大量の新型オナホの試作品を取りだしているところだった。そのコロっとした背中へ向け私は、

「不審者だ! かくほー!」

 叫んだ。江音間さんがすかさず不審者をゆび差し、私たちはそろって木偶乃くんを振り返る。かれはあたふた、たじろいだ。「え、ぼくですか?」

 私はかれのうでをむんずと掴み、研究室のなかへと放りこむ。矢継ぎ早に扉を閉め、不審者と木偶乃くんを封じこめた。

「ふう」

 一仕事してやったぜ。

 江音間さんと向き合い、私たちはにっこり微笑みあう。それからしだいに脳内からアドレナリンが消え失せていき、顔面から血の気が引いていく。「あわわ、たいへんだ、たいへんだ」

 私は江音間さんに言いつけ、至急、警備員と伊香川さんたちを呼んでくるよう指示した。廊下の奥に消えた江音間さんの姿を見届け、私は近場に置いてあった消火器を手に取り、構えるのである。

「なにやってんの丹久場さん」

 みじろぎ一つせず消火器を担いだまま動かない私に、やってきた伊香川さんが言った。

「いえ。飛び出してきたらこれでガツンと殴ってやろうかと思いまして」

「せっかくなんだから噴射したら?」伊香川さんはおっかなびっくりこちらから消火器をひったくるようにし、「オモっ」と大袈裟に漏らした。

「で、こんなかに不審者がいるって? ホント?」

「木偶乃くんがやっつけてくれている頃合いかと」

「中にいるのかれ?」

「ええ。勇敢ですよね」

「ふつうに不審者だけ閉じこめたらよかったんじゃない? なんでわざわざ……」伊香川さんの冷静な一言に私はうろたえた。「かれはええ……勇敢な男ですので」とかろうじて答える。

 しばらくすると江音間さんが戻ってきた。そばには警備員さんがいる。彼女はこちらへの説明もなしに、研究室の鍵を開けだした。

「ちょっとなにしてるの江音間さん」

「不審者が誰なのか判りましたよ」

 言いながら彼女は、ばーんと扉を開け放った。研究室のなかでは今まさにコーヒーを淹れているところの木偶乃くんと、そして机にてぽけーっと頬杖をついている大ばか者の姿がそこにはあった。

「社長!」

「やあやあみなさんお久しぶり。げんきしてた?」

「ちょっ、おまえ、そこに正座しろ正座!」

 伊香川さんが怒鳴りこんだ。即座に社長の襟首を掴みあげ、床に座らせる。「おまえいったいなんのつもりで。いや、今はそんなことはどうでもいい。どうしてここにいる。銀行にいるんじゃなかったのか」

「あっちはアンくんに任せてきたよ」

「おまえがいないあいだ誰が会社の切り盛りしてたと思ってんだ。オレだぞ、おまえ。オレがおまえの代わりに面倒なあれやこれやを一身に……、ハゲが進行したら訴えてやるからな」

「やるときはやる男だね。さすがはボクの見込んだ男なだけはある」

 社長は心底ていねいに頭を下げた。三つ折りついて、

「ありがとう」

 真摯なその態度に我々は出すはずの不平不満を呑みこみざるを得なかった。

 なぜ姿を晦ましたりしたのか。

 当然のことながらすぐさま尋問が開始される。無事戻ってきてくれたワイワイ、で済まされるほど軽い問題ではない。我々の投じた問いかけに社長はこちらが戸惑うほどすっとんきょうな様で、

「えぇ? ボクぁべつに失踪したつもりはないんだけれども」

 なんて、ふざけた答えを真顔で返すのだ。

「ふざけないでよちょっと」とすごんだのは、おっとり刀で駆けつけた楼田さんだ。「どこにいるのか判らない、連絡のつけようもない。これが失踪でなくて、じゃあなんだっていうのよバカ」

「えぇえ。だってきみたちはべつにボクなんかいなくたって難なくやってけるでしょう。現にそうやってボクをバカ呼ばわりして、えぇえ? 逆に聞きたいくらいだよみなさん。なにゆえそんなに怒ってらっしゃるの?」

 心配させた身の上でよくもまあいけしゃあしゃあと言えたものだ。社員の気持ちが今、一つとなった。

 一つとなったところで、あれれ、でもでも、なにゆえ私たちはこうまでもこのおバカさんをそこまで心配していたの? の疑問符に襲われる。

 いてもいなくてもいい男だと断じていた。社長としての仕事はどうやら継続していたらしいと判明だけはしていたのだ。であれば社長の所在なぞ不明であってもなんら業務には差し支えない。

 そうなのだ。

 私たちは一様に、ただ単に、このおバカさんの身を案じていたにすぎなかった。

 なんてこった。

 私たちはうろたえた。

 調子に乗る。ぜったいに乗ってしまうに決まっている。

 こんなことが知れたらこのおバカさんのことだ、調子でスケボーでもはじめ兼ねない。

 一つになった私たちは阿吽の呼吸で、このまま何食わぬ顔で迷惑を被った側の者として、このアンポンタンポカンを責めつづけようと決意した。

 私たちからの執拗な叱責に、いよいよ社長は音をあげた。

「だってきみたちだって訊いただろ」とついに泣きべそを掻きはじめたのである。

 大のオトナがみっともない!

 思えたのは最初ばかりで、めそめそしながら聞かされた社長の言いわけにもならない戯言は、私たちの胸を思いのほか深く傷つけた。

 社長はなぜかこちらを控えめに見上げ、

「役立たずで、ミジンコ以下の存在だなんて社員に思われてて、いったいなにが社長だって言うんだい」

 ジメジメと拗ねてしまわれる。

 社員からの人望のなさを認識した社長はそこで一計を案じた。発足したばかりのプロジェクトを社運をかけた大々的なものにし、そしてそれを陰から支えてみせようと思ったのだという。

「縁の下の力持ちなんだよ」

 満面の笑みでそう嘯くこの男に、反省の二文字は見当たらない。どころか、褒めて褒めて、といわんばかりのしたり顔である。

 私たちは大いに傷ついた。なにゆえこんな万年幼稚園児のもとに集まり、忠誠を誓い、あまつさえ働いてしまったのか。

 よしんば忠誠を誓っていなかったとしても、すくなくともこれまでは、この会社を立ち上げ、経営を維持しつづけてきたこの男を、組織の長として担ぎ上げるのに抵抗を感じたことはなかった。

 社長としての振る舞いにはたびたび大きすぎる不満を抱いてきたとはいえ、社長であることに意義を投じたことはいちどもなかったのである。

 たった今の今までは。

「じつは営業の根回しだけじゃないんだよ」社長は手品のタネを明かすように、「江音間式∞の特許だってボクがちゃんと出願しておいてあげたんだからね」

 聞き捨てならないセリフを紡ぐのである。「たいへんだったよー? なんせあれだけの組み合わせがあるからね。考えられ得るすべての型を文章化して記さなきゃならなかったんだよ。特許だけじゃないよ。意匠権だってそうだし、商標権だって取得しとかなきゃだったし。出願したあとも、審査請求でなんどか突き返されてね。修正しては出し、修正しては出し、まさに千本ノックをしている気分だったね」

 半ば予想できたことだったけれど、私たちはアンポンタンポカンの口から直接聞かねばならなかった。

「ひょっとして試作品を持ちだしたのって……」

「え? ああ、そうそう。ボクだよボク。だって現物ないと書けないでしょ。出願書」

 私たちは大いにため息を吐き、それから一同揃って声を張りあげた。「かってに持ちだすバカがいるか!」

「ここにおりましたけれども、えへ。ダメだった?」身体を小さく縮こませ、肩身を狭くした社長は、それでもこわごわとこちらを見回した。

 怒るのもバカらしい。

 馘だ。馘にしちまえ。

 誰が言うともなく、社内にはぼやき声が蔓延した。


(42)

 サキュバス夢幻として新しく生まれ変わった試作品があると知った社長は、それもまた特許取得すべくこうして社内に舞い戻ってきたという顛末らしい。

「どうして一言相談してくださらなかったんですか」

 いじけて口をきかなくなってしまった社長の機嫌をとるため、私は可能なかぎり下手にでた。

「だってそれじゃあ見返せないじゃないか」

「呆れた。秘密裏に動いて、それで私たちを見返そうと?」

「だってそんなに大事になるとは思わなかったんだもん」

 なにが、だもん、だ。ころすぞ。

 ほかの面々は社長の見張りを私に任せ、各自仕事場へと戻っていった。相手をするだけ無駄だと断じているらしく、みな一様に街中に迷いこんだイノシシを捕らえたので安心しましたといった塩梅に、三々五々、肩を揉みながら去っていく。

「あ、じゃあボクもそろそろ失敬するよ」社長は当事者意識が皆無なのかそれともそういう体を装って檻からの脱出を企てているのか、飄々と研究室から出ていこうとする。

「待ちなさい」

 私は雑貨ボックスに置いてあったSM用の鞭で社長の背を打ち叩く。

「アウチ!」

「反省をしない人間には躾が必要です。もう一発いかがですか?」

「待って待って、それ、すごく痛い!」

「ではご要望にお応えして」

 打ってやった。社長はすかさず椅子に座り直し、

「暴力反対!」と涙目になった。「反省なんかしなくたって改善はできるんだよ丹久場くん」

 偉そうに薫陶なぞ垂れるとはいい度胸だ。私は鞭を空打ちする。社長はびくんと身体を跳ねさせた。「反省した! 社長はたくさん反省しました!」

 私はさらに鞭を打つ。どう聞いたってその場凌ぎにしか聞こえない。


(43)

 社長の出願した特許は、受理されたものの、そこからさらに特許を取得するまでにはいくつかの段取りを挟まなければならない。

 引きつづき特許取得までの手続きを社長に任せ、私たちはいよいよサキュバス夢幻の発売を間近に控えた。

「サイトのほう、進捗どうですか」

「デザイナーに頼んで、最新の人工知能に関連付けしてもらったわ」楼田さんはメディア端末を操作した。画面に資料が映しだされる。「顧客の入力したペニスサイズを基に、その人にとっての最適のスタンダードタイプを選抜してくれるように設計してもらったの。サイトを訪れた人たちがどういった商品を検索して、どういった経緯でサイトを訪れたのか、すべてビッグデータに集積されて、それらの情報もまた、スタンダードタイプの選抜材料に利用されるみたい」

 解説しながら楼田さんは髪の毛をゆびで巻き取り、なんか怖いわよね、とぼやいた。「知らないところで個人情報が収集されてるわけでしょ。なんだかわるいことしてるみたいで気が咎めるのよね。ジェネレーションギャップかしら」

「ジェネレーションギャップって物言いがすでにギャップです」

「あらやだ、そうなの?」楼田さんは口元を手で覆った。

 サイトの準備は楼田さんに一任し、他方で、伊香川さんには量産体制に入った工場にて、もろもろの処理をしてもらっている。ほかにもすることは山積みだ。既存の在庫ルームでは狭いので、わざわざ社員駐車場を改築して、専用の保管庫を設けたり、性玩具を扱う店舗への宣伝を兼ねて挨拶回りなどを展開した。

 すべての段取りを確認していくなかで、私は並行して木偶乃くんをイメージキャラクタにすべく、かれの外見に磨きをかける作業を徹底した。

「また美容院に行くんですか。先週いったばっかりじゃないですか」

「ダメ。ぜんぜんダメ。こなれてないのが丸分かり。基盤がいいからってなにもしてこなかったツケだと思って諦めて。ほら、姿勢もしゃんとして。また猫背になってるよ」

「やめてください。母親を思いだします。胸くそわるいです」

「ほらその言葉づかいも改めて。性格のわるさが顔にでてるよ」

「訂正します。あなたは母親より性質がわるい」

 おとなしく言うことをきかないバカ馬の尻を叩きながら私は、著名人などの所属するプロダクションに連絡をとり、コンサルタントとして数日だけ社に招いた。木偶乃くんに、イメージキャラクタとしての素養を身につけさせるためである。

「素材はいいのよねぇ」

 やってきたコンサルタントは、さすがというべきか、ひと目で木偶乃くんの性格のわるさ、言い換えるとひねくれ具合を見抜き、

「ひょっとしてあなたまだ童貞なんじゃない?」すかさず図星を突いてきた。

「童貞のなにがダメなんですか」

 冷気を漂わせた木偶乃くんの肩を小突き、

 怒らないの。

 小声で宥めるがてら、私もまたコンサルタントに伺いを立てる。「童貞だとやっぱりいけないんでしょうか」

「ダメってわけじゃないのよー。ただねぇ。てっとり早く色気っていうの? オーラを出すには、未経験っていうのがネックになってきちゃうのよー。ていうか、良質な恋っていうの? そういうのってやっぱり大事なのよねー」コンサルタントはひじを抱えながら腰をくねくねさせた。こちらの顔にはたと目を留めたかと思うや否や、「あらあなたもなかなか器量よしじゃないの」と余計な関心を寄せやがる。「でもあなたもダメね。恋、してる? しなきゃダメよ。あなた、女の子なんだから」

 あっという間に干からびちゃうわよ。

 言ったクネクネ野郎を私はその日のうちにプロダクション事務所へ返還してさしあげた。大きなお世話を焼きたがるやからに信用に足る人物はいない。

 過去にオナホ特集や、うちの会社を記事にしてくれた雑誌の出版社に連絡をとり、特集を組んでくれないかと依頼した。

 通常、雑誌は出版社のほうからインタビューなどの企画を持ってきて、それに見合った原稿料など、報酬を出版社のほうからもらい受けるのだけれど、こうして新聞に公告を載せるみたいな感覚で、特集を組んでもらったりすることもある。

 フリーペーパーの場合は、十割そうした依頼された記事でできあがっている。無料で配布可能な理由はそこにあり、或いは、これからの電子書籍では、そうした、載る側がお金を支払うようなシステムに転換していくのではないか、と語っていたのは私ではなく江音間さんだった。

 彼女はいまどうしているのかというと、一仕事終えた解放感からか、研究室に閉じこもって、趣味の性玩具づくりに、いまもなお精をだしている。彼女の自分勝手ともとれるその姿勢に不平を鳴らす者はおらず、むしろ温かい目で見守っている節があり、研究室を訪れると、たびたび、誰からかは分からない差し入れが、なかなかに豪勢な菓子折りが、作業台のうえに並んでいたりする。

「あ、先輩お久しぶりです。ん? お久しぶり? ん? ん? なんだか日付の感覚がなくなってきおったぞ」

「三日前に会ったよ、ここで。江音間さんは作業に没頭していたようで気づいてくれなかったけど」

「あはは。ご冗談を。あたしが先輩を無視するなんて、そんなそんな」

「うん。したの」

「ごめんなさいでした」

 素直な後輩はかわいいので、私は差し入れの餃子詰め合わせセットを手渡してあげた。代わりに、なんだかわからないけれど癪に障るので、作業台のうえの、誰からのものかは定かではない差し入れどもは私がいただくことにする。

「そういえば気になってたんですけれども」江音間さんは餃子を酢だけで食す粋なコだ。「先輩ってどこ出身でしたかねぇ。参考までにお教えいただきたいのですけれども」

 なんてことのない話題だ。私は難なく応じた。かつて暮らしていた町の名を、私が育った都市の名を、彼女に伝えた。

「ああ、やっぱりですねぇ」

 などと合点されるけれど、私ばかりが謎にまみれる。

「なにがやっぱりなの」

「うふふ。知らないほうがいいかもしれませんよぉ」

「ヤダヤダ教えて。つうか教えろ」

 私だって合点したい。得心がいったぜピロローンってしたい。頭のうえに豆電球を浮かべたい。

「なら先輩の好きなひとを教えてくれたらよいですよ。そしたらあたしも、お教えしてしんぜよう」

「好きなひとって、いないよ」

「うそです」

「なんで江音間さんが決めつけるの」

「じゃあ、イヤです」

「イヤってなに、イヤって」

「先輩には好きなひとがいてもらわなきゃイヤですってぇことですねぇ」

 イヤじゃイヤじゃ。

 唱えながら江音間さんは両手のゆびを掻きわせ、しきりにモジャモジャ動かした。

「イヤって言われてもいないものはいないし」

「プリンスはちがうんですか」

「どうしてあいつの名前がでてくるの」

「さいきんはずっといっしょだと聞いておりますけれども」

「まあそうだけど。っていうか誰から聞いたのそんなこと」

「誰でもいいじゃありませんか。むしろ先輩が教えてくれないからあたしがわざわざ聞きこみしていたって可能性もなきにしもあらずなんですぜ」

「ですぜ、って言われましても」

 困ってしまうぜ、と私は内心で続ける。江音間さんが何をいわんとしているのか、或いは何を聞きたがっているのかが判らない。欲している答えがあるようでなく、だからその答えを口にしてあげたいのに、なかなかうまくいかないのは、ことここにおいては私のコミュニケーション能力の低さのなせる業ではないと思いたい。

「なら先輩は、あたしがプリンスに言い寄ってもいいんですかい」

「ならってなに、ならって」

 鹿せんべいでも売ってそう。

 じれったそうにしながらも、江音間さんは私が応じるまで口を開くつもりはないようで、かといって目を逸らすわけでもなく、辛抱づよく私の返答を待ちわびる。

「江音間さんがそうしたいのならべつにいいけど」

「ふうん」

 と。

 江音間さんは唇をとんがらせ、

「なら言い寄っちゃいますけれども、ふて腐れないでくださいよ」

 最後に残った餃子をひょいと摘まみあげ、口のなかに放りいれた。なんだか解らないけれど、宣戦布告をされたようで、いい気分にはならなかった。

 せっかく久しぶりの会話だったのに。

 ふたりきりだったのに。

 私は無性にムシャクシャした。

 サキュバス夢幻の専用サイトが開設されたその数日後、私は江音間さんから、木偶乃くんとデートの約束を取りつけたとメディア端末越しに知らされた。江音間さんと初めてやり取りした電子テキストだった。


(44)

 雑誌の取材のため出版社を訪れた。以前、木偶乃くんにオナホ王子の異名をつけた編集者が出迎えた。彼女は現在、編集長であるらしく、ことさら愛想よくインタビュアーを買ってでてくれた。

「性玩具は今や日本を代表する世界的なツールなんですね。医療用としてはもちろんのこと、セクシャルマイノリティにとっての癒しになっていたり、或いは性犯罪者たちのリハビリにも用いられていたりします。バイブやディルドに限っていえば殉教者や、性犯罪被害者たちのよきパートナーともなっていますし、それから最近では芸術作品としての評価もされてきているんですね」

 私たちよりも熱く性玩具について語る編集長は、ややあってから、それと共に問題もあると思うんですよ、と柔和な表情のままで口調を一転させた。「性玩具の普及によって、性行為をしなくなった若者が増えてきているという統計が出てますよね。オナホールに限っていえば、その性能の高さの弊害とも呼ぶべきか、膣内射精障害や、セックス依存症などにかかってしまう若者がすくなくない数でてきているそうです。ネット内コンテンツに無料のアダルト動画が氾濫していることと相まって、うつ病患者の増加との関連性を指摘する学者もいるそうです。性玩具を取り扱う企業として、そうしたいくつかの懸念される声に対してはどういった対処や政策をとっているのでしょうか」

 わんこそばさながらに繰り出される彼女の質問に、私はもちろん木偶乃くんでさえまともに答えられないでいる。

「あんな統計聞いたことないし、指摘してる学者って誰だよ。連れてきてよって話だよねまったく」

 出版社を辞したその足で私は木偶乃くんを連れて駅前の食事処に入った。注文したオムライスは、プルプル半熟の玉子焼きをチキンライスのうえで割って、雪崩れさながらにコーティングするといった凝ったタイプの調理方法で、味のほうも文句なしにウマウマ。

 頬張りながら、雑誌のインタビューについての愚痴を零していると、

「苛々してるからってぼくに当たり散らさないでくれませんか」

 木偶乃くんは冷たい言葉を返して寄越す。

「だってあんな言い方ってないと思わない? お金払ってるのはこっちだよ? なのになんで諸悪の根源みたいな言い方されなくちゃなんないの」

「あれは単にあの方の興味関心だという話だったじゃないですか。現にそのあとのインタビューでは、サキュバス夢幻についてがほとんどでしたし、わるいようには書きませんからって言ってくださっていましたし」

「そうだけどさあ」

「原稿のほうは出版前にチェックできるわけですし、文句があるならそのときにすればいいじゃないですか。ぼくは丹久場先輩、あなたの愚痴聞きマシーンではありません」

「知ってますよーだ」

 相変わらず頭にくる物言いをする男だ。なんでぃ。編集長がちょっと美人だからって味方しちゃって。いけすかないやつ。

「きょうはぼく、これから予定があるので、帰社せずにこのまま帰宅します」

「あ、そうなんだ。ちなみに予定って?」

「プライベートですので、あなたに説明の義務はないかと」

「ちょっと訊いてみただけでしょ。なんなのさっきから。感じわる」

「それはこちらのセリフですよ。ちなみにきょうの予定は買い物です」

「ふうん。江音間さんによろしく」

「なんで知ってるんですか。というか知ってて訊きましたね。あなたのそういうところ、本当にサイアクだ」

 両手で頬杖をついていた私は、ゆびに力を籠め、顔面を大きく歪ませることでオタンチンにも分かりやすく心情を表現してさしあげた。

「食欲が失せるのでやめていただいてもいいですか」

 私はさらに顔をゆがめるのに余念がない。


(45)

 やることは多いくせして、時間は待ってくれない。自然ななりゆきとして、アップアップしている間に、サキュバス夢幻の発売予定日となってしまった。

 気づくと過ぎてしまった。

 いつの間にか発売されておる。

 周囲を見渡してみますれば、インタビューの掲載された雑誌が刊行されており、なぜか表紙が木偶乃くんになっていた。大々的というほかない扱いはこちらとしてみれば感謝しきりというほかになく、担当してくれた編集長にならば私は私の貞操を、冗談でなく捧げてもいい気持ちになった。むろん気持ちになっただけであり、よしんば行動に移せたとしてもざんねんながら相手は女性なので捧げることができないのは計算のうちである。

 当初こそ売り上げは芳しくなかった。

 サイトの訪問者が増えるに従い、正比例して売り上げが伸びていった。

 問題なのは、むろん他企業からのやっかみである。

 想定内ではあったけれど、簡易オナホの作り方を無料で公開してしまったため、一時的に市場の売り上げが激減した。我が社の売り上げを上回る勢いで、オナホールの購買層が離れていってしまったのである。それはそうだ。自分自身でそれらしいオナホールの代替物が手軽に、しかも安価で作れるとなれば、いったいだれがお金を出してまで割高な既製品を買うだろう。

 音楽がデータ化され、CDの売り上げが落ちこんだように、オナホールもまた市場が驚くほどの勢いで痩せ細ってしまった。

 想定内のできごととはいえ、じっさいにそうした実情を目の当たりにすると、なにか押してはならないボタンを押してしまった感覚があり、斟酌せずにいえば取り返しのつかない真似を仕出かしてしまったのではないかと尻込みした。

 後悔の念は湧かないけれど、得体の知れないおそろしさを感じた。大勢がだいじに育ててきた公共の神木を枯らしてしまったような呵責の念がある。もうしわけない。けれどその神木を倒さずには、まえに、山の向こうに進めない。

 それはほかの企業にしてみても同じである。性玩具はその多様性から薄利多売になりがちだ。けれど性玩具を購入する顧客の層は固定している。一つのパイをみなで奪い合うよりない、不毛な市場が現状である。

 ならばそろそろつぎの段階へ進むべきではないか。既存の性玩具だけではなく、より顧客の理想とする形態で商品を提供していく頃合いではないか。

 とりもなおさず、サキュバス夢幻が発売されたことで市場に大きな変化が訪れた。逆説的に、市場が我が社の製品を、サキュバス夢幻の登場を歓迎し、待ちわびていたということにはならないか。

「自己肯定に必死すぎだなぁ、私」

 下剋上を仕掛けておきながら、どの口が言うのか。

 戦国時代の幕をあげた者に、仮に責任があるというのなら、それはあらゆる非難の声を受け止める姿勢を維持しつづけるほかにないのではないか。

 混乱を巻き起こした者の、それが最低限の義務であり、矜持だ。

 あれもいやだ、これもいやだ、では単なるわがままなお坊ちゃんである。

「黙らせたけりゃ、うちのコよりもいいのを作ってみやがれってんだ」

 私はひとり、青空に吠えてみる。

 サキュバス夢幻は我が社の主力製品となった。プロジェクト「アヴァンオナホ」は解散となり、私はふたたび営業と事務作業の平常業務へと舞い戻る。

「あの、先輩、すこしお時間よろしくて?」

「いーよ、いーよ。お昼いっしょに食べよ」

 江音間さんに誘われ、誘いかえすかたちで、私たちは社外に出た。となりのビルの餃子専門店(仮)にて遅めの昼食をとった。

「そっちはどう? もう慣れた?」

「はい、おかげさまで。バイブのほうは自分で使えるからいいですよねぇ。あたしクリ派なんですけれども、そろそろ中のほうの具合もよくなってきたところでして。あーでもでも、バイブで処女喪失しちゃったのは早計だったかなぁとちょっぴり後悔と申しますか、先走り過ぎた感を感じるきょうこのごろではありますなぁ。まあ今さら捧げる相手もいないわけですし、悩むだけ無駄なんですけれども」

 屈託なく、飄々と語る江音間さんの口ぶりからは、貞操なんて意味あるの? といった達観した彼女の感性が見え隠れした。

「で、どうしたの」注文した餃子が運ばれてきてから私は水を向けた。「何か相談事があったんじゃない?」

「さすがは先輩。なんでもお見通しですねぇ」

「なんでもは見通せないわよ。見通しのいいことだけ」

「ですよねぇ」

 いしし。

 江音間さんはけったいな笑い方で、じつはあたし、と切り出した。

「会社を辞めようかと思いまして」

 私は噴きだした。いったいどこの活火山かというくらい盛大に。江音間さんの顔に私の咀嚼した餃子の残滓が飛び散った。彼女はそれを拭おうともせず、凜とした佇まいで、むしろ率先して口回りに付着した残滓を舐めとるようにし、

「前から決めていたんですよねぇ」

「決めてたって、何を?」

「辞めるってことをだよねぇ」酔っぱらってもいないのに彼女は素のしゃべり方をした。「江音間式∞を完成させたら辞めようって思ってて、ずっと。もう一生分の気力を使い果たしちゃったって感じかねぇ。で、部長にはもう辞表のほうを受理してもらってるんですよねぇ、これが」

「どうして相談してくれなかったの」

 一言くらいあってもよかったのに。

 共に旅をつづけてきた相方がかってに進路を変更し、こちらを置き去りにしたような憤りを感じた。

「したかったですよ。したかったですけれども、でもこれは仕方がなかったんですよ」

 江音間さんはお茶をたくさんお代わりしながら、

「先輩はでも、ずっとあたしの先輩ですし」

 意味のわからない台詞を口にしては、私を当惑させる。

「江音間さんの決めたことなら私は応援したいし、応援するほかにできることがないんだけど、でも、でもさあ」

 いくらなんでも急すぎる。

「まあそうなんですけれどもねぇ。で、ここからが本題なんですけれども、先輩」

「なあに」

「あたしといっしょに、会社辞めません?」

「は?」

「言い直しましょう。あたしといっしょに、人生歩んでくれませんかねぇ」

「なになに? なんの話?」

「うーん。なんだ、そのぅ、たいへん言いにくいことではあるのですけれども」

「うん」私は知れず、割り箸をバキバキに折り畳んでいる。

「先輩が近くにいてくれると、なんというかこう、はかどるんですよねぇ、いろいろ」

「はかどる……」

「あ、いえいえ。そういうのでなく」

「そういうのでない?」

「妄想とかムラムラとか、そういうのではなく」

 言い直してから江音間さんは、

「やる気が出るって言いましょうか」

 カラになった茶碗をクルクル回す。「そばにいてくれると、あたしの人生も、もうちっとマシになるような気がするなぁってことなんですけれども」

「なんかプロポーズみたい」

 素朴な所感が口を衝くと、

「ち、ちがいます、そういうんでなく、そう、相棒! 相棒として!」

 江音間さんは弄んでいた茶碗を、ことさら速く、ベーゴマさながらに回転させた。

「いやいや解ってるってば」

 けれど彼女がなにを云わんとしているのかがうまく伝わらない。かわいい後輩の門出を祝うべきだろう。新しい進路を見つけ、そして彼女が大きく足を踏み出すのだとすれば、私はそれを大いに祝福し、その背中をやぁらかく、あと押ししてあげたい。

「会社辞めて、それからどうするの」

「まあふつうに就職しますよねぇ。ですからまあ、転職しますってぇことなんですけれども」

「当てはあるの?」

「あると言えばありますし、ないと言えばないかなぁなんて」

「そんな闇雲な旅路に私を巻き添えにしようと?」

「先輩とならたとえ火のなか、水のなか、地獄でだってお伴しやすぜ」

「ただ道連れにされようとしているだけのような気がしてこないでもないね、それ」

「ですからまあ、あたしとしてもいちおうお声掛けしておきたかったってだけのことですから、そんなに真剣に考えないでくださいな。ただ、もしよかったらっていう、なんだ? そういう、いっときのテンションに身を任せる気があるのならって感じで」

「ないなぁ」

「ですよねぇ」

 江音間さんは演技なのか、おおげさに肩を落とし、テーブルにひたいをゴッツンコさせた。テーブルが熱を出しているわけでもあるまいし、そのままのかっこうで彼女は、

「いいんだ、いんだ。そういう先輩の天然無神経なところも嫌いじゃないので」といじけてしまわれる。

「私も江音間さんのそういうわけわからんところ、嫌いじゃないよ」

「嫌いじゃなかったらなんなんですか」

「うーんまあ好きかも」

「でもいっしょには……」

「いかない」

「うえーん」

 江音間さんがおもしろかったので私はひとしきり彼女をからかった。

「先輩は鬼だ。悪魔だ。堕天使だ」

「鬼でも悪魔でも堕天使でもないけど、でもそうだなぁ。私、魔女にならなりたい」

「ほらそうやって、先輩はまたそうやってあたしを」

「なあに?」

 見つめるようにすると江音間さんはそこで何事かに怯んだように言い淀み、ぐてーと両腕を伸ばし、とろけきったチーズみたいにしてテーブルに突っ伏した。

 ううぅ……惑わすんだよぉ。

 かろうじて聞こえたぼやき声は、けれど私をほどよく落ち着かせる。


(46)

 江音間さんの告白から四日後。

 社長室を訪れた理由はとくになかった。なんとなしに歩を向けただけであり、強いて言うならば八つ当たりできる相手を私は求めていた。

「やあやあちょうどよかった。今から呼びに行こうかと思っていたところでね」

「江音間さんが辞めるそうです。社長はもちろんご存じなんですよね」

「その話かぁ」

 社長はさすがにそこで惚けたりはしなかった。私が鞭を持参し、両手で引っ張って、パシーンしていることとは関係がない。

「彼女には世話になったので、なるべく彼女の意思を尊重したくてね。退職金のほうも弾むよう言い伝えてある。丹久場さんが案じるようなことはなにも」

「ないと言いきれますか」

「ええ? ないでしょ? こわいこと言わないでよちょっとー、やだー」

 無言で鞭を空打ちすると小気味よい破裂音が鳴り響く。

「うん。なにか問題があるようならどうぞそこでおっしゃって」社長は椅子のうえで正座の体勢をとった。

「以前、社長が研究室からかってに試作品を持ちだしたこと、ありましたよね」

「あったねー、そんなことも」社長は遠い目をする。

 懐かしんでんじゃねえ。怒鳴りたい気持ちをぐっと堪え、私は、

「そのとき、研究室にはもちろん鍵がかかっていたんですよね」

「もちろん。でもそこはボクってば社長なわけじゃない? マスターキィくらい持ってるわけで」

「そのとき部屋は無人でしたか」

「江音間くんがいたかという質問かな」

「答えてください」

「いなかったよ。だぁれもいなかった。だから致し方なく、ボクぁ、いちばんそれっぽいのを一つ拝借したんだよ。それだってちゃんといちおう、書置きはしておいたんだよ? まあかってに持ちだしちゃったのはわるいと思ってるけどさ。反省、反省」

 ちゃらんぽらんに繰り返す社長を鞭の空打ちで黙らせながら私は、一式ごっそりなくなっていた試作品のことを思った。


(47)

 社長室をあとにするとき、私は社長から、サキュバス夢幻が女性たちからの支持を得ている旨を聞かされた。

「ボクの目に狂いはなかったようだね。丹久場さんはきちんとボクの期待に応えてくれた。いや、それ以上の商品を生み出してくれた。ディルドの購入に躊躇っていた男性陣がエネマグラとの併用を兼ねてサキュバス夢幻を手に取るようになってくれたのも、きみの功績によるところが大きい」

 エネマグラは、男性の肛門に挿入し、内部から前立腺を圧迫するための器具である。医療用として開発された背景があるものの、女性用のディルドでも代用可能だ。オナホ兼ディルドという商品にしたため、女性陣と男性陣、双方のシェアを大幅に広げることに繋がったようだ。

 女性からしてみれば、男性へのプレゼントとして購入したふうを装ってディルドを手に入れられる。いっぽうで男性からしてみれば、オナホを買ったついでに、お尻の神秘にも手が出せるといったお手ごろ感がついてまわる。

「新型バイブ【イヴ】のほうの特許も、そろそろ取得準備が整ってくるころだ。丹久場さん、そっちのほうもよろしくね」

「はい?」

「楼田さんから聞いたよ。【イヴ】はなにも頓挫なんかしちゃいないさ。特許が取得できるくらいの発明だったものだから、ボクのほうで出願しておいたんだよ。まあ、そこから取得するまで一年くらいかかっちゃうから、そのあいだにじゃあもう一つ商品化しようってことで、プロジェクト【アヴァンオナホ】を立ち上げたくらいだからね。審査請求さえ通れば、あとはもう取得を待つことなく商品化はできるわけだしね。で、サキュバス夢幻が売れたいま、女性用性玩具の市場もボクらで独占しちゃおうじゃないの」

「社長はそこまで考えておられたんですか? 最初からすべて?」

「まさかまさか。現物がないのに、そんな大きな賭けには出られないさ。ボクぁただ、きみたち社員のちからを信じただけだよ」

 きみたちの、性器への愛をね。

 なんだかいいこと言われたみたいでムカついた。鞭で一発しばいてから、

「部下は私に選ばせてもらいますからね」

 私は社長室をあとにした。


(48)

 警備員室に寄った。用事を済ませると、すでに退社時間を過ぎており、夜食をとってから帰宅しようと餃子専門店(仮)へと出向いた。

「あ、なんだいたの」

 淡々と餃子をついばんでいるのはオナホ王子こと木偶乃くんだった。かれは日中、会社の仕事そっちのけで、方々を、イメージキャラクタとして回っている。サキュバス夢幻は、その特性上、優れた組み合わせと、そうでない平凡な組み合わせとがある。個人差があるとはいえ、どのタイプにはどのタイプといったふうに、解説してくれる者の存在は貴重に映る。オナホ王子の異名は、今やTV番組からの出演依頼が舞いこむくらいに日本全土に膾炙した。

「丹久場先輩。あなたはぼくのマネージャーも兼用しているはずでしょう。すこしは営業に付き合ってくれてもいいんじゃないですか」

「勘違いしてない? きみは俳優でもアイドルでもない。予定くらいは管理してあげるけど、それ以外のことは自力でやりましょう」

「先輩のくせに先輩面するとは何事ですか」

「日本語、日本語!」

「あなた方は誤解してる。いくらぼくが年中仏頂面だからって緊張しないわけじゃないんですよ。あれだけの人前に立つことがどれだけストレスになるか。考えてくれたこと、あります?」

「あらあら、なんて贅沢な悩みざましょ。注目されてストレス? こちとらまた人生賭けた一大プロジェクト任されて、責任の重さに押しつぶされそうだってのに」

「できるならばぼくだってそっちを手伝いたいですよ」

「あームリムリ。今回はだってバイブだし。童貞で男のきみには手に余る代物だ」

「処女のあなたにだけは言われたかないセリフですね。それとも初体験はバイブですか? ざんねんなひとだ」

 それ、と私はかれのほっぺたにゆびを突きつけ、

「初体験がオナホのきみにだけは死んでも言われたかないセリフなんだけど」

 閉口した木偶乃くんは、ややあってから、口に挟んだままの餃子を噛みきり、

「いまのはなかったことにしましょう。お互いに」

 しれっと墓穴を埋め立てた。

 江音間さんとはどうなの。

 デザートの杏仁豆腐が運ばれてきたころ、私は思い切って訊いてみた。なぜ思い切らなければならなかったのかは考えたくないので考えない。

「どうって、なにがですか」

「しらばっくれなくてもいいよ。きみたちがそういう、たとえばデートなんかしちゃう仲だってのは私だって知ってるわけだし」

「デート?」

「きみみたいな性欲魔人は、ときおり暴走しちゃうことがあるかもわからんなあ。よし。ここはひとつ、大事な後輩のためを思って忠告をしておくとしよう」

「はあ」

「江音間さん泣かせたら、あんたのチンポコはこうだからね」

 言って私は割り箸を真っ二つにぶち折った。

「いやいや」

「それが嫌ならだいじにすることだね」

「ですからあなたは何か勘違いをしている。ぼくがどうして江音間クンを泣かせるんですか。というかだいじにするってなんですか。デート? 前にいっしょに出掛けたことを言っているんですか。でもあれはただ彼女が、退社するときに先輩になにかプレゼントしたいからいっしょに選んでくれって頼まれただけですよ。黙っててくれって言われてたから言わなかったですけど」

 口にしてからかれは、はっとしたように口を開け、今のは聞かなかったことにしてください、と仏頂面のままそう言った。

「いや聞いちゃったし。というかきみ、知ってたの? 江音間さんが辞めること」

「それはまあ、そういうことになりますね。むしろ知らなかったんですか? てっきり前々から聞かされていたものだとばかり」

「知らんわー!」

 先日聞かされたばかりだ。ずいぶん前から決まっていたことに、それをちゃんと教えてもらえなかった事実にふたたびの傷を負う。

「ひょっとしてじゃあ、退社日も知らなかったんじゃ」木偶乃くんは杏仁豆腐を掻きこむ手を止めた。

「知らなかったっていうか、知らないけど。え? 半年先とかでしょ? そうじゃないの?」

 会社を辞めるのだから、事後処理や引き継ぎなど、もろもろの事情を鑑みて、それくらいの期間はあると思っていた。私の推測を嘲笑うかのように、というよりも心底意外だといったふうに、

「あすですよ」

 木偶乃くんは言った。「江音間クンはあす、会社を辞めるんです」


(49)

 会社に戻ったけれど、研究室に江音間さんの姿はなかった。プロジェクト「アヴァンオナホ」が解散してからは、すっかり江音間さんの自室になっていたそこはただの空き部屋と化している。

 江音間さんに連絡をとったけれど、繋がらなかった。テキストメッセージを送ったけれど、未読のまま放置されている。

 どうして社のみんなは私に江音間さんの退職日を教えてくれなかったのだろう。教えてもらえなかったひがみを、無駄に他人のせいにして誤魔化した。

 木偶乃くんがそうであったように、ほかの面々もまさか私が知らなかったとはトマトのヘタほども思わなかったのだろう。ふだんどおりの私の姿を見て、つよがっているのではないかと、いらぬ気遣いをかけていたのかも分からない。

 いずれにせよ、あすになったら江音間さんをとっちめよう。

 どういうつもりだったのか。

 どうして私にだけ教えてくれなかったのか。

 じつは嫌われていたのでは。

 いじわるで教えてくれなかったのではないのか。余計な疑惑が脳裏に溜まり、私はそれらの疑問が悩みに発展しないようにと、とにかく性器のことを考えて、脳内メモリを浪費する。

 ふしぎなことに、いくら性器のことを考えてみても、いったい性器のなにがそんなにすばらしいのか、興味を惹かれていたのかがさっぱり視えなくなってしまった。

 私はべつだん女性の性器には興味がない。男性器をこの手でじかに愛でてみたい。愛でてみたいのに、けれど今この手で触れたいのはまったくべつのもののように思え、ではいったい何に触れたいのかと自問すると、脳裡に浮かぶのは、研究室で工作に没頭する後輩の丸まった背中なのだった。

 翌日、いつもより一時間早く会社へ向かい、玄関口にて江音間さんを待った。日が昇り、ちらほらと社員が出社してくる。訝しげな眼差しをそそいでくる面々は、けれどみな一様に素通りしていく。

「なにしてるんですかあなたは」

 素通りしてから戻ってきたのか、社内のほうから声をかけられた。プリンスだ。

「ねえ、江音間さん見なかった」

「さっき社長室に行くって言ってましたけど」

「そうだよね、見ないよね――って、はっ!?」

「いえ。ですからさっき社長に最後の挨拶をするって、廊下ですれちがったときに」

「彼女、なかにいるの?」

 私は社内にゆびを差し向ける。

「いましたけど、ああ」木偶乃くんは唸った。「江音間クンを待ち伏せていたわけですか。とっくに出社してましたよ彼女。というかここに住んでいるのはあなただって知っていたでしょうに」

 うっせぇ。昨晩、社内にいなかったからこうして待ち伏せてたんだよ、トンチンカン。

 吠える前に私はフロアを駆け抜け、エレベータに乗りこんだ。

 なんでかってに消えようとするの。

 私たち、ともだちでしょ。

 社長室の扉をぞんざいに突き飛ばし、

「江音間さん、いる」

 叫びながら乗りこんだ。

 デスクに納まり、写真立てにはめ込んだアイドルの画像に唇をいざ押しつけんと顔を近づけていた社長は、そのままの態勢を維持し、ゆっくりとこちらに目を向ける。

「……いないけど」

「どこいったんですか彼女」

「みんなに挨拶してから帰るって言ってたけど、え? 会ってない? おかしいなぁ。送別会してほしくないって言うから、挨拶回りだけはしっかりねって念を押したのに」

「どうして足止めしてくれなかったんですか」私は肩で息をする。

「いやぁ、え? 足止め?」

「チッ。つかえねぇ」

 私は社長室を飛びだした。

 社内を駆けずり回り、伊香川さんからほかの部署に行ったと聞かされれば西へ、楼田さんから警備員室に向かったと聞かされれば東へ向かい、たらいまわしにされてから最終的に行きついたのは、図らずもからっぽになった研究室――江音間さんとの時間のたくさん詰まった、私たちの部屋だった。

「やっと見つけた」

「おやおや先輩。どこにいたんですか。探してたんですよ」

「うそつけ。避けてたくせに」

 ひざに手をつき、乱れた呼吸を整える。「私にだけないしょにして。ねえどうして? なんできょう退社するって教えてくれなかったの」

「だって先輩、いっしょに来てくれるって言ってくれなかったじゃないですか」

「ほかのひとたちだってそうでしょ。なんで私だけ!」

「先輩だからですかねぇ」江音間さんはくるんと反転し、こちらに背を向ける。後ろ手に手を組みながら、「ホントは気づいてたんじゃないんですか」

「気づいて?」

「もう。惚けちゃって。先輩のそういうやさしいところ、嫌いじゃないですけれども、でも、ときどきものすごく腹がたつ。なんでじゃろ? 先輩のニブちんなところとか、正義感がつよいところとか、自分に自信がないくせにいっちょうまえに自分道を貫いちゃうところとか。頑固なくせに柔軟で、一途なようで浮ついてて。だから目が離せなくて、見ていて飽きないんだなぁこれが」

「なに言っちゃってるの。会社辞めるだけなんでしょ? べつにこれで最後なわけじゃないじゃない。どうしてそんな二度と会えないみたいな、今生の別れみたいに言うの」

「恩を仇で返しちゃうようでごめんなさい」江音間さんは突然の告白を、ずっと言うのをためらっていただろう告白を、そこでした。「あたしなんです。試作品盗んだの」

 爪と爪を噛みあわせて私は、剥がれちゃいそうなほどつよくゆびに力を籠めている。

「先輩、とっくに気づいているんだと思うんですけれども、社長が研究室に忍びこんでガチャガチャやってたのを見て、やるなら今しかないなと思って。試作品を持ちだしたのもぜんぶ、社長のせいにしちゃいました」

 研究室の廊下にあった監視映像は、不審者の現れる前後数分のデータがごっそり抜け落ちていた。昨日、餃子専門店(仮)にて木偶乃くんと会う前に、私は警備員室に行き、それを確かめていた。あの日、私が警備員を呼びに行き、共に研究室まで出張っているあいだに江音間さんはデータに細工を施していたのだ。

「どうしてそんなことを」

「スパイなんですよ。あは。スパイだって。言ってて恥ずかしい。でもそうなんですあたし。企業スパイ」

「どこの」

「そんなの一つしかないじゃないですか」

「コレゾー会館?」

「さあ、どうなんでしょうねぇ。ただ、本来ならあたしの盗みだした試作品をもとに、特許取得して丸儲け――そういう手筈だったみたいなんですけれども、なんでか方針を変更したみたいでして。あたしには、そのままこっちでプロジェクトを成功させるようにって指示がくだっちゃいまして。そんでもろもろ紆余曲折、今に至り申すわけでして」

 特許は自己申告制である。誰より先にアイディアを閃いたとしても、それを特許出願という形で表明しないことには、アイディアの主権を主張することはできない。鳶に油揚げをさらわれる図式が地で描かれる。極端な話、他人のアイディアを盗み、さきに特許を出願、受理させてしまえば、そのアイディアの権利は自分のものとなる。

 企業スパイはだから、そういう意味では非常に強力な経営戦略となり得る。

 まさに戦争である。

 我が社が戦国時代を切り拓く前からすでに、他社から刺客が送りこまれていた。

「スパイの役目が終わったから。だから辞めるの?」

「いいえ。これはあたしの意思です」

「ならその意思しだいでは辞めないこともできるよね」

「先輩はあたしに辞めてほしくないんですか」

「そりゃもちろん。もちろんそうだよ」

「どうして、ですか」

「だって私たち――」

 ともだちでしょ。

 言おうとするも、江音間さんがそこでとても儚げな顔をするものだから私はその言葉を呑みこんだ。

 せんぱいは。

 江音間さんは言いかけ、それからくるりと反転し、こちらに向き直る。その手にはいつの間にやら箱が握られている。大きさはネクタイが入っていればちょうどいいくらいの大きさで、きれいな黒色をしていた。

「これ、渡そうと思って」

 差しだされたそれを受け取る。開けていいの、と視線で訊ねると、彼女はぶんぶんと手を振った。

「ここではダメです、あたしのいなくなってから、それこそ先輩が困ったときに開けるのがよいと思う」

 よいと思うのならあたしもそれがよいと思う。贈り物はそのままに、ありがたく、とはとても言いたくはないのだけれど、ちょうだいした。

「これからどうするの」

「どうしましょう。自由でも満喫しようかねぇ」

「へんなの。不自由なときなんてあったの」

「先輩、あたしを誤解してる。望んだことなんてなに一つとして叶ったためしがないんだぜ」

「江音間さんの理想が高すぎるだけかもよ」

「またそうやってあたしをわがままみたいに言っちゃって。先輩はそろそろ気づくべきです。そうした何気ない言葉に傷ついているあたしみたいな人が周りにはいーぱいいるってこと」

「だって私の周りにそんなに人なんていないし」

「ならその、そんなにいない数少ないひとたちはみーんな傷ついてますよ。ズタボロです」

「私だって傷ついてるんだけど」

 こんなにも、ふかく、たくさん。

 なんとなしに張りあってしまったけれど、そんなことを言い合いにきたのではないと気づき、慌てて、

「かってなことばっかりしてズルいよ」

 もっとも言いたかった鬱憤を吐きだした。江音間さんは噴きだした。「なんです先輩、いきなり」

「いきなりじゃない。ずっと言いたかったよ。江音間さんには恩があるし、尊敬もしてたから言えなかったけど、ズルい、ズルすぎる」

「尊敬してくれてたんですか先輩。あたしのこと?」

「そんなことはどーでもいい!」私は地団太を踏んだ。「私は江音間さんといっしょにがんばってきたつもりだったけど、けっきょくぜんぶ江音間さんの実力だし、私はただ縁の下の力持ちを演じることしかできなかった。私だってがんばって江音間さんの相方としてせいいっぱい努めてきたつもりだよ。でも江音間さんはそうやってなんでもかでも自分一人いれば済むんだ、ほかのみんなはせいぜい代わりのきく歯車くらいにしか感じてない」

「そんなことは」

「あるの!」私はさらに床をダムダム踏み鳴らす。「今だってそうでしょ。なにかってに辞めようとしてるの。プロジェクト【イヴ】だって再起動したのに、私はじゃあ、誰を相方に指名したらいいの。誰といっしょにつくればいいの」

「プリンスがいるじゃないですか」

「あいつは男でしょ!」

 しかも童貞!

「バイブづくりには不適切だと? 先輩、それ本気で言ってます?」

「うぐ」

 江音間さんの言いたい旨は理解している。本来戦力となり得ない女性で、なおかつ処女である私たちが、それでも新型オナホ【サキュバス夢幻】をつくりあげたように、女性専用性玩具の新作を、男で童貞の木偶乃くんがつくりあげてもなんのふしぎもない。

 だいじなのは、それにかける情熱。

 性器への愛だけである。

「う、うるさい。先輩に口ごたえする気」

「うひゃー。先輩が先輩面しとる。やればできるじゃないですか先輩」

「うぅ……コケにされた」

「しょんぼりしなくともだいじょうぶですぜ先輩。きょうからあたしは後輩でも相方でもないんですからねぇ」

「やだやだ、そんなの許さない」

「おかしなこと言いますねぇ。じゃああたし、どうすればいいんですか」

「会社に残って。いっしょに新型バイブ開発しよ。楽しいから。ね?」

「それは会社のためですか」

「も、もちろん」

 言うと江音間さんは腕を組み、眉間のあいだにしわを浮かべる。

「怒ったの?」

 答え、間違えちゃった?

「先輩のそういう無自覚に自分に嘘を吐くところ。眺めている分にはかわいいですけれども、じっさいにその無邪気な悪意を向けられるとすこぶる腹に煮え立つものがありますなぁ」

「やっぱりじゃあ、今のなし」

 いそぎ、頭のなかの四次元ポケットを漁り、なにかないか、なにかないか、じぶんの本懐をほじくり返す。

 私はどうしてこうまでも江音間さんの退職に反対なのだろう。いや、反対しているわけではない。応援したいと思っている。

 ならば先輩としてここはこころよく見送ってあげるべき場面ではないの?

「でもイヤなんだもん」

 口にしている。「なんか解んないけど、ヤなの。ヤダヤダ。江音間さんは女の子だからチンチンついてないし、だからこれはそういう私の性癖とは関係ないの。本能とか性欲とかそういうのとはぜんぜんちがうの。離れ離れになるとか、もう逢えなくなるのとか、避けられたりするのはすごくヤなの。なんかもう、メチャクチャ苛々する!」

 一周回っておまえなんか嫌いだと言ってしまいたい衝動に駆られる。知れず私は涙ぐんでいる。

「でも先輩はそれでも、いっしょには来てくれない。なんなんですかねぇ」

「江音間さんは後輩でしょ。あなたが私に合わせるの。そうじゃなきゃヤダ」

「ムチャクチャだぁ」

 江音間さんはお腹を抱えた。苦しそうにしゃくりあげている。

「最後に一つ訊いていいですか」ややあってから江音間さんは目じりをゆびで拭いながら、私が許可を出す前に、「プリンスはもう童貞でなく、あたしも処女じゃないって言っても、先輩はあたしのこと、そうやってそばに置いておきたいって思います?」

「どうして木偶乃くんの話するの」

「だいじなことです」

 先輩にとって、だいじなことなんです。

 言い直され、私は気圧される。よくよく吟味し、なにゆえ江音間さんがそんないじわるを言うのか、投げかけてくるのか、はなはだ腹立たしく思いながら、けれどいっしょうけんめい、その問いに答えようとするけなげな私が思考の大半を支配する。

「もし江音間さんが木偶乃くんと肉体関係を持っていたら」

 私は言った。

「そばに置いておきたくない」

「ですよね」

「でもそれは木偶乃くんがどうこうじゃなくって、江音間さんがなんかこう、遠くに行っちゃった気がして、分かち合えない存在になっちゃった気がするだけだから、だから、そういうのじゃないの」

 じぶんの口にする、そういうの、の意味するところがまったく亡羊としていて、掴みどころがなく、私はじぶんの抱える自家撞着に、爪の先端ほどかすかではあるけれど、触れた心地がした。

「あたし、先輩のその気持ち、すごくよく分かります。だからこそ、先輩のそれとあたしが思ってるこれはちがうんだって解っちゃうんです」

 つらいので。

 と。

 江音間さんは笑った。

「あたしがそばにいたくないんですよ。あなたのそばに。だからバイバイしましょう」

 させてください。

 と。

 江音間さんは笑った。

 ぎこちなく、笑った。

 私はそれ以上の言葉を紡げなかった。

「もしまた偶然どこかで逢えたなら」

 江音間さんは研究室の扉を開け、

「お互いにそのときにいるだろう相方についての愚痴を零し合っちゃったりなんかしちゃいましょうか。わくわくしますねぇそういうの」

 扉の向こうに姿を消しながら、彼女は私をからっぽの部屋に置き去りにした。


(50)

 研究室から盗みだされた試作品は、本来からっぽのはずの金庫のなからそっくりそのままジャガイモみたいにゴロっと出てきた。窃盗事件においてけれど、実害と呼ぶべき実害はなく、却って江音間式∞がサキュバス夢幻となった契機を与えたといっても過言ではなく、ゆえに窃盗事件の犯人が誰であったのかなんて些末な事項を、社内の誰一人として取り沙汰そうとする者はいなかった。ただ一人を除いては。

「なんだいなんだい。みんなしてボクを悪者呼ばわりして、ほらみろ、ちゃんと出てきたじゃないか。そりゃそうだ、ボクの持ちだした試作品は一つだったんだ。なんか妙だなぁと思ってたんだよ、いくらなんでもみんなしてボクを責めすぎだもの。それにしてもなかなかどうして事の真相はきみたちの管理がずさんなせいだったじゃないか。どうして誰もボクに詫びの一つも言いにこないんだい。ボクの人望はそれっぽっちのものだったってことかい。ええ、ええ、そうなのかい。もういじけちゃうからな、ふん」

 へそを曲げた社長にまたぞろいなくなられでもしたら面倒なので、社長を労う会を冠して、打ち上げをした。いわずもがな、プロジェクト「アヴァンオナホ」の成功を祝った呑み会である。

 どんちゃん騒ぎをしたその場に江音間さんの姿はもちろんなく、私はすこし風に当たりたくって店の外に出た。

「どこ行くんですか」

「ついてこないで」

「そういうわけにもいかんでしょう」

 木偶乃くんがいらぬ世話を焼いてくる。ストーカーで訴えてやる。

 店のそばには水路が流れており、月明かりに照らされ、キラキラとまたたいて見えた。私はそこにしゃがみこむ。水路の底に藻が揺れている。涼しげだ。眺めていると、

「丹久場先輩はなにをもらったんですか」

 木偶乃くんが懐からなにやら身に覚えのある箱を取りだした。そこからさらに中身を掴みとる。

「ぼくのはこれなんですが、なんなんでしょうかね、コレ」

 見せられたそれは、サキュバス夢幻の内壁とも呼ぶべきゴムであり、けれどオナホの形状を保っていないそれはむしろコンドームと言ったほうがしっくりくる。

「内側と外側、両方にブツブツがありまして。内側はともかく、外側にまでついてるのはなぜなんでしょう」

 かれの疑問に私は答えられたけれど、それを口にすると途端に江音間さんがそれに籠めた意図が私たちふたりのまえに、どーんと立ち塞がり、無闇に私たちをなぞのピンクい空間に閉じこめんとするのが見え見えだったので、私は首を傾げて、わからんぷいぷいとかわいこぶった。

「ぷいぷいって」

 そこは流してほしかった。私は水路に砂利を投げつける。あがる音色に耳を澄ます。

「で、丹久場先輩はなにをもらったんですか」

「まだ開けてない」

「なんでまた」

「だってそんなの欲しくないし」

「ぼくのとはべつですよきっと。というか社内のみんなにも、それぞれガラクタって言ったらいけないんでしょうが、そういう彼女の工作が配られてて。中身はみんなべつらしいですよ」

「そうなんだ」

 私はまどろっこしくなり、餞別そのものが欲しくなかったんだい、と訂正する気力ごと、砂利を水面に投げ捨てた。シャンシャンと小気味よい音が鳴る。

「もし捨てる場所がなかったらぼくがもらってあげてもいいですよ」

「ん、なにを?」

 今まさに砂利を投げ捨てていたところなので、言葉の真意を掴み損ねた。鼻から勢いよく息を吸いこむ木偶乃くんのなにやら決意じみた仕草を目にし、私は、ああと肩のちからが抜けるようだった。

「捨てるとか捨てないとかそういうものじゃないから」

 誰かさんが以前口にしていた言葉でお茶を濁すと、案の定、それはぼくのセリフです、と切り返される。

「捨て台詞だったから拾ってみたんだけど、ダメだった?」

「ダメダメですね」

「そっか」

 遠くから酔っ払いの奇声が聞こえている。平和な夜である。

「そろそろ戻ろっか」

 立ち上がると、こんどは木偶乃くんが水路に砂利を放りだす。「どったの? 戻ろうよ」

 いやいやとしぶる赤子のようにその場を立ち退こうとしない木偶乃くんは、返事はないんですか、と風に流されそうなほどか細い声でそう零した。

 本気だったのか、とそちらのほうに驚いた。そばには街灯が立っており、そそぐ明かりが、かれの紅潮した頬を照らしだしている。

「へ? へ? きみ、卒業したいの? 私で?」

「なんでそういう言い方しかできないんですかあなたは」

「いやいやそっちがさきに」

 言いだしたことでしょうが、と口にするかしないかといったところで、目のまえからかれの姿が消えた。

 気づくと私の身体には熱いなにかしらがまとわりついており、頬のすぐよこに木偶乃くんの髪の毛の感触がくすぐったく揺れている。

「な、なにしてんの」

「抱きしめてるんです」

「いやいや。セクハラだよ」

「イヤだったら謝ります」

「謝って済むことかなぁ」

「こうでもしないとあなたは逃げてばかりだから」

「だから捕まえてみましたって? 私は虫か」

 木偶乃くんの身体が小刻みに弾む。笑っているらしい。珍しい。

「もういいでしょ、離して」

 なるべくかれを傷つけないように意識して言った。ゆび先でそっと押し返すようにする。

「ダメなんですね」

「ううん。そうじゃないの。でも時間ちょうだい」

「いつまでですか。あんまり長いと待てないですよ」

「いやいやそこは待っといてよ」

「なんでか知らないんですが、じつはぼく、さいきんモテはじめまして」

「じゃあヨリドリみどりじゃん」

 暗に、私でなくたっていいんでねぇの、と訴えた。

「ですから、選んでみたんですよ。ぼくじゃダメですか」

 目と鼻のさきにかれの顔がある。

 私は意味もなく足元の小石を蹴る。

「意外ときみ、がっつくよね」念のため、からかっておく。

「草食系はモテないらしいので」

「似合わないからやめといたほうがいいよ」

「ぼくもそう思います」

 かれのほっとした顔つきを見て、私はピンときた。「さては江音間さんの入れ知恵だな」

「強引にいけと助言をもらいまして」

「さいきんまで冷たかったのも、ひょっとして」

「押してダメなら引いてみろと言われまして」

「それね。逆効果だからやめたほうがいい。ぜったい」

「ですよね」

 木偶乃くんは剥げてしまいそうなほどつよく、こめかみをぼりぼり掻きつづける。店のほうから伊香川さんのヘタクソな歌声が響きはじめた。

 どちらから言うともなく店に戻りはじめた私たちは、ほんのすこしの距離だけれど、手を繋ぎ歩いた。





(後日譚)

 江音間さんが去ってから一年経っても私は未だにこじらせ処女をやっている。

 新型バイブ【イヴ】は、木偶乃くんの意見をふんだんに取り入れ、折りたたみ式に改良した。提灯をモデルにし、コンパクトに収納できる点をウリにした。水を入れれば重量感と耐久性の二点をクリアできる。

 むろんサキュバス夢幻で培った技術を駆使し、進化させ、それ一本あれば、この世のすべての女性器を、その膣を満足させられる商品に仕立て上げた。

 膣内部で膨張し、適当な大きさに調整できる。仕舞うときは、コンドーム並に薄く収納でき、隠すにしても、持ち歩くにしても便利なお手頃サイズである。

 同じころ、オナホール市場は、サキュバス夢幻を原型としたサポート品で溢れかえっていた。どの企業もサキュバス夢幻に便乗するかたちで生き残りを賭けた経営戦略に打って出ていた。

 そんな中でただ一つ、何食わぬ顔で新商品を打ち出したのはなにを隠そう、うちのゆいいつのライバル社と言っていい、コレゾー会館だった。

 亀頭専用オナホールなる、画期的な性玩具を発売し、私たちの業界を震撼させた。

 奇しくもそれは、江音間さんがこっそり工作していた亀頭のみをきゅるきゅる擦りあげる性玩具と非常に酷似していた。

 仮にそれが同じものであったとしてもうちの会社にそれをとやかく言える筋合いはなく、本当の意味でとやかく言う筋合いしか残っていない。

「新商品、うちも対抗して出さないとマズいかも。丹久場さん、頼めないかな」

 半ば指令じみたぼやきを社長からいただいたとき、私は初めて、江音間さんからもらったプレゼントを開けてみようかな、となにともなしに思うのだった。




   【私は性器が好きなだけ~~人工名器に凛と銘じ~~】END

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