異世界の蛇口 ~~神殺し魔起き~~
異世界の蛇口
~~神殺し魔起き~~
目次
第一章【神のみぞ散る】
第二章【三匹のメス豚】
第三章【マラいい子にはナニをさせよ】
後日譚【神も夢から覚める】
第一章【神のみぞ散る】
目覚めると異世界にいた。
ウロコじみた石造りの部屋で、窓のそとには見たことのない風景が広がっている。金色に輝く平原がどこまでもつづき、眩しいくらい明るいのに空はなぜか一面、緑色だ。
昨日の記憶が覚束ない。目頭を押さえながら周囲を見渡す。
なんど確かめても異世界だ。身に覚えのある四畳半の部屋などではないし、窓を開けたら隣のビルの排気口がグルグル回っているなんてこともない。
なにより、薄いレース生地をまとったこの少女は何者なのか。姿見のまえに立ち、愕然とする。耳が尖がっているところを度外視すれば、白人のティーンモデルも顔負けの肉体美だ。くびれの細さなんか半端ない。顔の小ささ、足の長さ、むちっとした太ももなど、どれをとっても一級品だ。
ぷくぷくの胸を鷲掴みにし、その感触を確かめる。
な、なんだこれは。
一心不乱に揉みしだく。
やがて、一向に反応を示さない我が分身を奇妙に思い、はたと我に返る。
おそるおそる、というよりも率先して股間に手をやった。案の定だ。あるべきところにあるはずの、しかし失われた我が身のことを思う。
どうやらぼくは眠っているあいだに異世界に飛ばされ、女になってしまったようである。
姿見が蠢いている。なにごとかと思い触れてみると、液状化した物体が張り付いている。クラゲを思わせる弾力のある感触が、それが生き物であると物語っている。部屋をかたちづくっている石たちもみな、よく見れば脈打っている。身につけている服飾もなにやら暖かく、ときおり吐息じみた風が肢体をくすぐる。
こいつらぜんぶ生きてやがる。
全身に芋虫が張りついている様を想像し、総毛だつ。
「ルシェン、いつまで寝ているの」
部屋の壁が大きく口を開け、そとから幼い女の子が飛びこんでくる。
「祭りはもう終わったんだよ。さっさと支度して仕事に行ってきな」
寝床を整え、窓を開け放つと幼女はなにごともなく部屋を出ていった。
異国の歌のように聞こえた。しかし意味は伝わった。言語が違っていても、肉体がかってにそれを翻訳する。頭脳は言語を理解しているようだ。
試しに何かしゃべってみる。
「おっぱいモフモフ」
なるほど。こちら側の言語で発声される。魂、精神だけがぼくであるようだ。
この家に扉というものはない。壁のまえに立つと自動でぽっかりと口が開く。開く場所は決まっている。目印となる青いブロック、おそらくは巨大な細胞なのだろうが、ともかく目印があるので困ることはない。
目覚めた部屋は四階に位置し、さきほどの幼女は二階でかいがいしく働いていた。料理をしている様子だ。
「やっと起きた? さっさと食べて仕事に行ってきな」
さっきも言っていたが仕事とはなんだ。幼女はこちらのことを見知ったように話す。この肉体の持ち主の家族か何かなのだろうか。何気ないふうを装い、ぼくは訊いた。
「あのさ、わたしってむかし、どんな子だった?」
「なに言ってんだい。おまえはむかしっからおまえだよ。ジーベルだけが取り柄のダメなコさ」
ちいさな身体に似つかわしくのない手厳しい言葉が返ってくる。立場は幼女のほうが上らしい。
「なにぼさっと突っ立ってんだい。さっさと食べちゃいな」
食卓らしき台がある。毛玉が台を囲うように置かれているので、それに座った。幼女は何も言わない。正解のようだ。
目のまえには手のひら大の葉が置かれている。お椀型のそれは器のようで、中には紫色の汁が入っている。器のよこに道具が添えられている。スプーンみたいなものかもしれない。ためしに手に持つ。パン屋に置いてあるカチカチするものを思い浮かべるとよい。あれを二回りほど小さくすればこんな具合になる。液体をかき混ぜると、底のほうに黒い塊がマカロニ然として沈んでいる。マカロニと異なるのはウネウネと蠢いている点だ。予想はしていた。やはりこれも生きている。
ぼくは理解した。この世界には無生物がないようだ。よく見ればスプーン代わりのカチカチも、こちらがちょいとゆびに力を加えただけで物体を挟む。
耳を澄ませば、食卓もまた呼吸をしている。音というよりも気配だ。体温を感じるような息遣いがある。
「どうしたんだい。食べないのかい」
幼女がしたっ足らずの声でおとなびたことを言う。
「食欲がなくて」
「そんなんじゃダメだよ。あんたただでさえ発育不良なんだから」
幼女にだけは言われたかないセリフだ。この肉体の持ち主のために思うだけに留めておく。
「あのさ、さっき言ってたジーベルのことなんだけど」
「あんたしゃべりかた変えた?」
ギクリとする。
「まあ、前のよりかはいいけどさ。モソモソしゃべってて聞き取れなかったし。で、ジーベルがなんだって」
「えっと、きみはそれをどう思ってるのかなって」
ジーベルとは何かを訊きたかった。
「きみって、ルシェン。あんた、だいじょぶかい」
幼女が立ち上がり、心配そうにこちらの耳に触れた。さきの尖がった耳に、幼女のやわらかなゆびが絡む。
大丈夫そうだと見做したのか幼女は手を離し、
「そんな他人行儀な呼び方はよしとくれ。あたいはおまえの親なんだ」
思っていたよりもたいせつに思われていると知り、なぜか安堵する。それからこの肉体の持ち主とこの幼女は母子の関係だったのか、と驚いた。せめて構図は逆でなければおかしいが、それはぼくの知り得る常識内での範疇だ。この世界ではこれがふつうなのだろう。母親なるものがどういった言動をするのかをぼくは知らずに育ってきたわけだが、なるほど世のクソガキどもの言うように、なかなかどうしてうっとうしい。
だいぶ状況が読めてきた。
ぼくはこの世界に魂だけ飛ばされた。この娘の肉体に憑依し、そして目覚めた。
動揺がないと言えばうそになる。が、ぼくはなぜか興奮していた。こうした展開を夢見たことは数知れない。有名な異世界転生モノの小説なんかは貪るように読んでいた時期がある。現実なんてクソくらえだ。いったいいつから考えつづけてきただろう。見知らぬ世界に旅立てたならば、と願いつづけてきた。これは奇禍ではない。好機だ。千載一遇の大チャンスだ。
ぼくはこの世界でやり直す。
クソッたれた世界とはおさらばだ。
この日、ぼくのしたことといえば、ジーベルなる仕事をさぼり、家には戻らず、異世界を闊歩し、この世界の情報を集める作業に終始した。むろん、この肉体も隅々まで調べあげた。
やましい考えからではない。
この肉体の持ち主がどういった生物なのか、それを知らないことには大胆な行動をとれない。元いた世界での常識を頼りに行動していたのでは、ちょっとした手違いで死んでしまい兼ねないではないか。そういった思慮深い考えのもとでぼくは、数時間ばかり、女体で得られる快楽について研究した。
結論。
女ってズルい。
夜になっても目覚めた家には戻らなかった。森に空いた洞窟らしき穴の中で一晩を明かした。オナニー三昧の自堕落した日々を送っていたぼくにとってこの夜ほど自分史に刻みこみたい夜はなかった。絶えず訪れる桃色夢想は、寄せては返らぬ無限地獄、もとより極楽浄土の桃源郷となり果てて、女体ごとぼくをとろけさせた。
翌朝、ほとんど呆然自失と意識を失っていたぼくが目覚めると、そこは見知った部屋の天井で、いつの間にやら現世へと回帰していた。
いったいどうしたことだろう。布団を頭から被り、ぼくは震える。
大学をサボりがちで、本日もサボり、異世界へ転生したのは夢だったのか、と昨日のできごとを振りかえりがてら、二度寝とばかりに昼過ぎまでグウ垂れていたはずのぼくの部屋には、なぜだか見知らぬ女が三人、肩を並べ座っている。
「いったいどういうことか説明してください」
突如として部屋に押し入ってきた三人のうち、真ん中の女が毅然として言った。彼女は学生ではなく事務員のお姉さんだ。大学にきちんと通っていた時分に同級生たちが噂しているのを聞いた。大学ではちょっとしたアイドル扱いをされていた。
「どういうことと言われても、むしろぼくが聞きたいですよ」
この状況もそうなのだが、首が痛いのはなぜなのか。枕元に置いてあった鏡をそれとなく覗いてみると、首の周囲に痣が浮かんでいる。誰かに絞められたような跡だ。ふしぎに思いながら、
「そっちはなんでぼくん家に?」
水を向けると、三人はそこで怒りとも呆れともつかない、驚愕の顔を浮かべた。
「おまえ、昨日ウチにしたことなかったことにするつもり?」
左端の女が片膝を立て、汚れた畳を踏み鳴らした。ボロアパートが悲鳴をあげる。
「待ってくれ、待ってくれ。本当に憶えてないんだ。人違いじゃないのか」
言いながらも想像はできた。昨日、ぼくが、正確にはぼくの肉体が、彼女たちに何かを仕出かしてしまったのだ。異世界に飛ばされたあれは夢ではなかった。ぼくがルシェンの肉体に転移したならば、ルシェンの魂だってこちらに飛ばされているのが道理。そのとき彼女は、ぼくのいないこの世界で、ぼくの肉体で以って何事かを仕出かしてくれたに相違ない。
「人の話聞くときはちゃんと目ぇ合わせろや」
ボロアパートがふたたび悲鳴をあげる。天井からはホコリが落ちてくるが、彼女たちが気にする素振りはない。
怒髪天を発している女には見覚えがない。ひとむかし前ならばギャルと呼ばれていそうな人種だ。いわゆるアメリカ不良文化を継承している服装に身を包み、ド派手な髪の色をしている。
ぼくは彼女に首元を捻りあげられ、息も絶え絶えだ。
「は、はなぢでくだざい」放してくださいと懇願したつもりだ。
「あ? 鼻血ださせてください? いいけどここ血の海になるよ」
そうじゃない、そうじゃないんです。ぼくは必死に首を振る。
「ちょっと。ひとの彼氏に手ぇださないで」事務員のお姉さんがこちらに割って入ってくる。
「あん?」
ギャル女とのあいだに壮絶な火花が散る。
そんな彼女たちを差し置き、ようやく魔の手から解放されたこちらへ向け控えめな眼差しを送ってくる三人目の女がいた。彼女は制服に身をつつみ、どう窺っても小学生、それも低学年にしか見えないあどけない出で立ちで、ちんまりと座っている。膝のうえに両手を揃え、その太ももは撫でまわしたくなるほど華奢華奢しており、顔を伏したままで下唇を噛んでいる。下膨れほっぺがかわいいが、つらそうにしているのはなぜなのか。
場違いだ。どう考えても彼女だけはこの場にいてはおかしい人種である。たとえるならばジャングルに舞い降りた天使、コンビニに並ぶ最高級のキャビア、戦場に置き去りにされたアザラシの赤ちゃん。
なにはともあれ現状を把握するよりもさきにまずはこのコを助けなければ。
取っ組み合いをはじめた事務員のお姉さんとギャル女を尻目にぼくは、あどけない天使の手を取り、颯爽と部屋から飛びだしたのである。
「あ、コラ待ちなさい」
「どこ行きやがる、このヤロー」
廊下には壊れた冷蔵庫が放置されている。隣人が放り出したものだ。引きずるように運び、扉のまえに置く。
鬼はそと、福は内。しかし今だけ鬼は閉じこめておく。
駅前まで走って逃げた。繁華街というほど賑わってはいない。商店街があり、人通りは多い。ファーストフード店に入り、一息つく。
「お待たせ」
さきに席を取っておいてと少女に言い、ぼくは注文した品を運んで二階にあがった。
少女は縮こまっている。なんだか誘拐犯になったきぶんだ。
「ごめんね。こわかったよね」
少女は顔を伏したまま首を振った。肩にかかる髪の毛がサラサラと揺れる。
「じつは、どういうわけか昨日の記憶がないんだよね。でもすくなくともきみとは昨日までは知り合いじゃなかったはずなんだ。つまり、昨日知り合ったってことでいいんだよね」
少女は頷いた。
「でだね。申し訳ないんだけど、ぼくたちがどういう関係なのかを教えてほしいんだ。昨日なにがあったのか。ぼくがきみに何をしてしまったのか」
少女の顔がみるみる赤くなっていく。
「話してくれないとお兄さん、困っちゃうなぁ」
なかなか応えてくれないので、まずはかんたんな質問をしていくことにした。名前を訊き、それから年齢、住んでいる場所、通っている学校の名を訊いた。
小学生かと思っていたが、彼女――カヨはどうやら中学生であるらしい。たしかに座席から見下ろせる駅前には彼女とおなじ制服を身にまとった女の子たちが歩いている。彼女たちはカヨとちがって、第二次成長期に見合った体つきをしている。
「それでカヨちゃんとはどうやって知り合ったんだろう」
ぼくは昨日のじぶんがどのようにして彼女と出会ったのかを尋ねた。
「助けてくれました」
言ったカヨは、怯えたうさぎを思わせる。
「助けてくれたって、ぼくがカヨちゃんを助けたの? 何から?」
そこで彼女は口ごもった。買ってあげたコーラには口を付けていない。飲んでいいよ、と勧めると、彼女は炎天下にさらされたモンシロチョウを思わせる仕草でちうちうとストローを吸った。
話を聞くかぎりでは、カヨとは昨日の夕方ごろに出会い、そしてぼくは彼女を何かしらから救った。
ここまで得られた情報をもとに昨日のぼくの行動を推測してみよう。
登場人物はまず、ぼくを外して三人だ。事務員のお姉さん、ギャル女、そしてカヨ。カヨはほかの二人を知らないという。ならば昨日、カヨと出会ったとき、ぼくのそばにお姉さん方の姿はなかったことになる。
事務員のお姉さんと何らかの接触を持ったのだから、昨日のぼくは大学に足を運んだのだろう。ぼくが異世界で仕事をサボったのとは逆で、こちら側に飛ばされたルシェンの精神は、ぼくの日常を辿ることで情報収集を測ろうとしたらしい。
そこで何がどう転んだのか、ぼくの肉体は事務員のお姉さんと何かしら汗臭い関係を結び、そしてギャル女からも嫉妬されるような関係を結んだ。
カヨと出会ったのはおそらくそのあとのことだ。夕方、何かしらの奇禍が学校帰りのカヨを襲った。ぼくの肉体はその場に居合わせ、彼女を助けた。それからボロアパートへと戻り、寝て起きたらふたたび精神は転移しており、元の肉体に戻っていた――と、そういう顛末になるわけだ。
いまごろ向こうの世界でもルシェンの精神が昨日の行動を推測し、そして勃然と起きた日常の変化に戸惑っている頃合いだ。わるいことをしたと思う。
まさか元の世界に戻ることがあるなんてなぁ。しかもこれほどはやく。
駅前には三十分周期で事務員のお姉さんとギャル女が変わるがわる姿を現した。一時休戦したのか、彼女たちは手を取りあい、ひとまずぼくを探すことにしたらしい。彼女たちが完全に姿を消すまでのあいだ、ぼくはカヨと共にファーストフォード店に閉じこもった。
終電になったころ、ようやく鬼たちは自分たちの住処へと戻っていった。ぼくはカヨと二十四時間営業のファーストフィード店をあとにした。
「家、どうやって帰るんだ」彼女の通う学校はそれなりに距離がある。この界隈に住んでいるわけではなさそうだ。「電車もないし、タクシー使うならお金だしたげるけど」
カヨは無言でこちらの裾を掴んだ。これまで伏せつづけてきた顔をあげ、下唇をはんだまま、こちらを見上げる。つるりとしたオデコに八の字に寄った眉、そして潤んだ瞳には意固地な光が宿っている。
大きく息を吐き、ぼくは言った。
「通報されたときは庇ってくれよな」
待ち伏せされているかもしれないと案じたが、そういうことはなかった。
いくら尋ねてみてもカヨは、ファーストフード店で披歴した以上の情報を話さなかった。いったいぼくは何からカヨを救ったのだろう。そしてなぜ彼女はきょう、ぼくのアパートにやってきたのか。
「ぼくには心に決めたひとがいるのになぁ」
大学入学を期にはじめた独り暮らしに突如として舞い降りた天使。彼女目当てでぼくは足繁く銭湯に通いつづけている。声をかけたことはいちどもなく、それでもぼくは彼女に恋慕の念を寄せつづけている。
番頭のお姉さん。
無口で素朴なところがとびきりチャーミングなんだ。
よほど気を張っていたのだろう。シャワーを浴び、ベッドに横たわるとカヨは、すぐさまかわいらしい寝息を立てはじめた。シーツを変えたので、男臭くはないだろう。ぶかぶかのスエットに着替えた女子中学生、しかも見た目の幼いカヨの寝顔は、なにかしら目に毒なものがある。
「せめてもうちょっとしゃべってくれたらな」
カヨのそれが生来のものなのか、それとも極度の顔見知りからくる緘黙なのかは定かではない。あすこそは心を開いてくれるのではないか。
期待しながらぼくは、自室に置きっぱなしにしていたじぶんのメディア端末を手に取った。セキュリティを解除し、中身を確認する。テキストメッセージが山のように届いている。近所に住む従姉からだ。従姉とはいえど血の繋がりはかぎりなく薄い。赤の他人と言ったほうが正確だが戸籍上は従姉である事実に否定の余地はなく、拒む権限がぼくにはない。
そういえばと思いだす。部屋の掃除を手伝いに行くと約束していたんだっけ。最後のメッセージだけをおそるおそる確認してみると、もうにどとおっぱい触らせてあげない、と記されていた。おかしい。触った覚えがない。
従姉の業腹な顔を思い浮かべながら、どうやってご機嫌をとってやろうかと夢うつつに従姉の好きな料理を思い浮かべていく。
***
なんとなくこうなるのではないかという気はしていた。
目を覚ますと異世界だった。
肉体からぼくのちんけな分身は消え去り、代わりと言っちゃなんだが柔らかな肉塊が胸にふたっつ、くっついている。
戸惑うまでもない。ぼくはすでに学んでいる。ここがルシェンの部屋で、「はやく起きな」とやってきた幼女がこの肉体の持ち主の母親であることを。
枕元に大きな蝶じみた生き物が止まっていた。驚き、手で払おうとすると、生き物はゆっくりと羽を開き、その側面に文字らしき記号を浮かべた。
――もしあなたに悪意がないのなら。
そうした書き出しからはじまった文面は、この肉体の持ち主であるルシェンが記したもののようだ。彼女は一日、ぼくのいた世界に飛ばされ、そこで何が起きたのかを知るべく行動した。見知らぬ世界のことを調べ、自分のものではない肉体、すなわちぼくにとって不都合が起きないようにと努めた。
しかしいざ元に戻ってみると、自分のいた世界では、自分にとって不都合なことしか起きておらず、彼女はそこで思い悩んだ。また同じことが起きたとき、どうすれば対処できるだろうかと。
彼女のその懸念は正しい。
むしろそこまでの考えを一日目の時点で巡らせるとは。
さすがだ、と称賛しておきたいところだが、そう評価するとまるでぼくのほうがさすがではないように思えてくるので、さすがと言わずにおきたいところだが、あいにくとぼくは他人の賢さに気づけるだけのさすがを兼ね備えた男であるので、ひとまずここはさすがと言っておく。
じぶんの愚鈍さを誰にともなくごまかしがてら、ぼくは彼女のものである胸を揉みしだいた。
思う存分。
これみよがしに。
なにが「不都合が起きないように努めた」だ。不都合しか起きていなかったではないか。
せめてものお情けだ。ルシェンの書置きどおり、ぼくは彼女になりきることにした。仕事があるようなのでそれをこなし、一日を終える。言うだけならばかんたんだが、仕事の内容が分からない。とはいえ、いざとなれば体調不良を訴えて早退でもすればいい。
しょうじきいえば、女体の神秘を一日かけて味わいたいところであるのだが、ここでルシェンを裏切るような真似をすればつぎに入れ替わったときがおそろしい。彼女はぼくの身体であらんかぎりの悪行を働いたとしても、ぼくにそれを止める術はなく、またその悪行すべてがぼくの行いとして見做され、罰せられてもぼくには文句を挟む資格はなく、また本当の意味で、文句を言う資格しかない。
いつまで魂の往復がつづくのかは定かではない。可能な限りお互いにとってベストな関係を築こうとする努力はそそぐべきだ。
と、ここまで考えてから、いやいや、とかぶりを振る。ルシェンだってぼくにとって不都合な真似をしでかしてくれているではないか。彼女にとっての善意が、ぼくの世界での常識ときれいに合致するとはかぎらない。いいことをしようとした結果、ぼくを困らせる事態になってもおかしくはない。現にきのうはそういう事態になっていたではないか。
ぼくもこちら側の世界に書置きを残しておこう。あす、元の身体に戻ることを期待して。
思うが、文字の記された蝶じみた生き物の使用方法が分からず、また、ペンや紙などの代用品となるものが見当たらないため、その試みは断たれた。
「いい加減にしなさい。こんどサボったらアンポクポクに連れてくからね」
アンポクポクとはなんですの。
反問する暇も許さぬ怒気をまき散らし、幼女はこちらの尻に頭突きした。
「さっさと行ってきな」
朝食は抜きらしい。仕方なくぼくはルシェンの書置きにあったとおり、家を出て、そこから見える高い塔を目指した。
おとといこの世界を闊歩して薄々勘付いていたことではあったが、塔に辿り着くまでのあいだで確信したことが一つある。
この世界には男がいない。
一見男らしい体つきの人物はいるのだが、胸には、大きさこそたがえど一様にかぶりつきたくなる乳房があり、身のこなしや顔つきなど、どこかしら女性性を臭わせるものを全身から放っている。自らの分身など股間からぶらさげてなどいやしないのだろう。どうやって子供をつくるのか。
ルシェンの仕事とはどうやら、塔のなかにある個室にやってくる客相手に全身マッサージとは名ばかりの性的愛撫を行うことにあるようだ。
男女間の絡みさえ経験のないぼくにとって女性間の絡みなど、ユニコーンと麒麟のまぐわい以上に神秘的な現象である。それをこの身を以って体現するなど、女神にでもならなければ不可能だ。が、さいわいにもこの肉体はルシェンのものであり、姿見に映った彼女の肢体はまさしく女神と呼ぶにふさわしい美麗さを湛えており、まあなんとかなりそうだ、というのがいまのところのぼくの推量だ。
畢竟するにぼくは、この肉体で以って女体の神秘を暴きたい。
ぼく自身の身体であれルシェンの肉体であれ、いずれ自身の肉体をいじくる行為では、得られる快感がある閾値に限定されるものだ。熱しやすく、冷めやすい。限界を突破できずにある一定の枠内にとどまる。やはりというべきか他者の介在によって本能の枷が取り払われ、予想もし得ない快楽の波に身を委ねることができるものなのであろう。
塔に着くと、ルシェンの知り合いだろうか、赤い髪をした小柄な娘が声を掛けてきた。初めて会ったはずだのに初めてな気がしないのは或いは肉体のほうに彼女の記憶が染みついているからかもしれない。
「よぉ。体調はよくなったか」
「う、うん」
「成績いいからってあんまし休むなよな。顧客が離れてっちゃこの仕事、あとがつらいぞ」
ルシェンの妹と言われたら納得しそうな姿だのに、彼女のほうがルシェンよりも立場は上らしい。先輩だろうか、とあたりをつける。
「なんか自信なくて」しょぼついてみせると、
「なんだよ。時間あるときでいいなら相談に乗るけど」
狙い通り彼女は食いついた。
「ならコレ終わったらいい?」
「どうせあがる時間おなじだろ? 迎えいくから」
いったいどれくらいの時間拘束されるのかは定かではないが、ともかく彼女がやってきたら帰れるらしい。「わかった。待ってる」
「そんなうれしそうにされてもね」
彼女は引き気味に眉をしかめ、離れていく。
しかめっ面を拝見したからなのか、今さらながらに気がついた。彼女はぼくの想い人、銭湯の番頭のお姉さんに顔がよく似ている。番頭さんはのきなみ店頭に座っていることが多く、身体全体を眺める機会は少なかった。おまけに髪型が違うので気づかなかったが、見れば見るほど彼女は番頭さんにそっくりだ。
ふしぎに思いながらぼくは、周囲の様子を観察し、ルシェンの行くべき場所、仕事場へと向かった。
仕事内容は予想していたとおり、やってきた客に性的サービスを施術することだった。客はのきなみ筋肉質であり、明らかにルシェンやさきほどの同僚など、こうした仕事を生業にしている娘たちとは様相を異としていた。
「お客さん、きょうはどのようなサービスをご所望ですか」きぶんはマッサージ師だ。
「とりあえずそこに横んなって」
なぜか逆に指示されてしまう。「ああし、身体触られんの好きじゃないんよ。面倒だからそこ寝て」
あれよあれよという間に床に寝かされ、裸に剥かれ、抵抗の余地もなく陰部に舌をねじこまれた。ねっとりとした愛撫に、しだいに硬直した身体が弛緩し、背筋を突き抜ける快感に身を委ねるようにしている。
「ああヤバ。もういいっしょ」
いいのだろうか。
なにが?
思うのも束の間、目のまえに彼女の陰部が現れ、圧し掛かってくる。マスクをするように口と鼻を塞がれた。顔面騎乗と呼ばれる体位であることに気づくまで時間がかかった。呼吸ができず、このままでは窒息死してしまう。もがけばもがくほど馬乗りになっている彼女は呼吸を荒くし、ああいい、まじやば、などと淫靡な声を発している。
いよいよとなり全身を波打たせ、なんとか寝返りを打つと、投げ出された彼女は、あにすんだ、と怒鳴り、もうすこしでイケそうだったのに、と髪を逆立て、それは文字通り髪の毛が逆立っているのだが、あれよあれよという間に、その髪の毛でもってこちらの身体を拘束した。
「奉仕するのがそんなにイヤか。ならば手本を見せてやろう」
女体の神秘を暴くはずが、あらぬ扉をこじ開けられてしまった。束にされた無数の髪の毛は、触手のようにこちらの穴という穴にねじ入ってきては、いやらしい動きで内部を圧迫し、こちょぐってくる。
なんだこれ、なんだこれ。
とめどなく押し寄せる快楽の濁流に頭が沸騰しそうになる。が、なぜか百度を超えても湯気は出ず、ただひたすらにグツグツと煮え立つ。私はだれ? 沸点はいずこ?
マグマもかくやという快感は、間もなく自我を溶かしきる。
気づくとぼくは、身体中の穴という穴からキラキラ輝く透明の体液を垂れ流し、ぐったりと天井を眺めているのだった。気を失っていたらしい。
いつの間にやら客は消えており、おーいだいじょぶか、と目のまえに見知った娘の顔が、同僚の顔が、つと覗く。
「迎えにきたけど、動けるか」
「ひとね……ムリ」
ぼくは知った。底なしの快楽は死をも凌駕する。
「ジーベルがどんな仕事かだって? ルシェン、耳でも打ったか?」
彼女は名をララヴィといった。彼女の案内で近場の食事処に連れていってもらった。食事処には似たような格好の娘たちが多く、このときになってじぶんが着込んでいた服飾が、ジーベルなる仕事の制服なのだと気づいた。小型の鯉のぼりを頭からすっぽり被ればこんな具合になる。妙に生暖かいのはこれもまた生きているからなのか。
注文の品だろうか、運ばれてきた食材らしき塊を手でつかみ、口元に運ぶと、
「おいそれ、殻剥いて食べないと」
注意され、見遣ると、ララヴィが深いため息を吐いていた。手に持っていたフォークじみた道具を、いやそれもまた生き物のようだが、食卓に、むろんこれも息をしているのだが、置き、
「なあルシェン」
真面目ぶった声音でララヴィは、それはもちろん真実に真面目に言っているからだろうが、「何か隠してるだろ」
直球を投げてよこす。「短くない付き合いだから見てりゃ判る。どうしたよ、悩み事か。というかあんた本当にルシェンなの」
なかなかに勘の鋭い娘だ。ぼくは迷った。すべてを打ち明けてよいものか。彼女は信用に足る人物なのか。そもそも信用できるならば、本物のルシェンが昨日のうちに彼女へ相談していたはずだ。していない、ということは、すなわちルシェンにとってこの珍妙な事態は他人に知られたくない事案なのではないか。
ルシェンのためを思えばこそ、ここはだんまりを決めこみ、ルシェンとしての人格を演じるべきだ。そうだ、そうに決まっている。ルシェンとして振る舞うことこそルシェンのため。
「じつはぼく、ルシェンじゃないんです」告げてやった。
「は?」
「信じてもらえないと思うんですけど、でもしょうじきこっちも何が何だか分かんなくて」
「ルシェン? なに? どうした? ちょっとそういう冗談あたしが大好きなの知ってるだろ。あんまりあたしを刺激するなよ。おまえらしくないぞ」
「冗談だったらどれだけよかったか」ぼくは押し通すことにした。この三日あった出来事を話し、とにかく今こうしてしゃべっているぼくはルシェンという娘ではなく、しかしこの肉体はルシェンのものであるという旨を話して聞かせた。
「この世界の人間じゃないって、そう言いたいのか」
「そういうことになると思います」
「へえ、はぁ、そう」ララヴィは尖がらせていた耳を、花が萎れるように垂れさせてから、椅子の背もたれにふんぞり返るようにし、しばらく考えこむようにした。それから間もなく、勃然と立ちあがり、何も言わずに食事処から去っていく。
怒らせてしまったのだろうか。ムリはない。土台信じろというほうが酷な話だ。が、ぼくの目的は果たされた。端から彼女に話を信じてもらおうだなんて思っちゃいない。ルシェンへの意趣返しとも呼ぶべき幼稚な当てこすりである。一つくらい面倒を起こしておかないことには、昨日のぼくのドタバタ劇との釣り合いが取れないってもんだ。
テーブルに残された料理を胃に収めていく。最後のスープを口に含んだところで、
「祭りがあったのは知ってるか」
ララヴィがふたたび席に着いた。なんと彼女、戻ってきたらしい。しかも、今朝方目にした蝶じみた生き物を手にしている。驚いているこちらを差し置き彼女は、
「おまえはひょっとするとカルマの罰に当ったのかもしれん」
なぞの言葉を唱えるのだった。
***
翌朝目覚めると、ふたたび元の世界に回帰している。
回帰しているにも拘わらず、見知らぬ天井を見上げている。自室ではないようだ。よこを見遣る。ふたりの美女がこちらを挟むように眠っている。
ベッドのうえだ。
しかしどこの?
よくよく目を凝らしてみればふたりの美女のうち一人は化粧を落としたギャル女で、もう一人は事務員のお姉さんだと判る。ふたりはなぜか全裸であり、こちらも一糸まとわぬ破廉恥な姿である。
ふしぎなほど興奮しない。
湧きあがる悪寒は、両手両足を縛られ海に放りこまれたときの心境に似ている。経験はない、と注釈を挿しておきたいところだが、従姉にされた憶えがあるじぶんの過去を呪いたい。
魔女ふたりを起こさぬようにと肝に銘じながら、滲む冷や汗を円滑剤にし、ベッドからにゅるんと抜け起きる。
ゆかに散らばった衣服のなかからじぶんのものと思しき下着と衣服を選び取り、そういったアトラクションさながらに慎重という名の段階を踏んで、寝室から脱する。マンションの一室だ。飾られている写真などから事務員のお姉さんの部屋だと判る。
靴を履いて、そとに出る。
まずはさておきじぶんの住処に戻るべきだ。
駆けながら昨晩ララヴィと交わした会話を振りかえっている。
カルマ。
祭りにおける生贄をそう呼ぶのだそうだ。年に一度行われる祭りでは毎年カルマを決め、神殿に一人閉じこめ、みなで一年の安全を祈願するという。一年とはいえど、それは三六五日ではなく、こちらの世界の常識に照らしあわせれば七年に相当する。すなわち前回の祭りは七年前に開かれたことになる。
ちょっとこれ見て。
言ってララヴィは持っていた蝶じみた生き物を食卓に置いた。撫でつけるようにすると、蝶じみた生き物の羽の表面に映像が浮かびあがる。
「これが神殿」ララヴィはさらに撫でつけるようにし、神殿の画像を拡大する。「祭りのあいだはカルマに選ばれた者でないと入れない。カルマに選ばれた人間が体験したこと、神殿のなかでのできごとは、神殿のそとでは話題にしちゃダメなんだが、ルシェンはそういうのに疎いっていうか、罰当たりなところがあって。で、あたしに教えてくれたんだ」
なにを、とぼくは言った。
「人型の棺があってな。それに入って一晩を過ごすんだけどさ」
ララヴィは蝶じみた生き物の羽をなぞるようにし、そこに一つの絵を描いた。
描かれたのは、ぼくにも見覚えのある、しかし私生活では縁のない棺の絵だった。それはピラミッドといえばこの人、でおなじみのツタンカーメンの棺によく似ていた。
カルマとして抜擢された者はそれに入り、祭りが終わる翌日の夕暮れまでまる一日眠りに就かなければならないのだという。
話は理解したが、だからなんだという感応のほかに湧くものがない。だからぼくはそう言った。「それがどうしたんですか」
「関係はないかもしれないんだけどさ」
ララヴィは耳をぴこぴこ動かした。「ルシェン、入らなかったんだって。棺に」
踏み慣れた階段をのぼっていることに気づき、ふと我に返る。錆びつきすぎて踏み抜いておかしくないボロさがある。回顧しているうちにアパートに辿り着いていたようだ。久々に銭湯にでも浸かりたい。番頭のお姉さんは元気だろうか。彼女の、生気のない、言い換えれば人形のように整ったちいさな顔を思いだしては、足繁く通っているぼくの気持ちに彼女はいつ気づいてくれるだろうか。淡い恋心を再燃させる。
玄関口のまえに立つ。戸に鍵を差しこもうとしたところで、自動ドアでもなしに、戸が開いた。
「おかえりなさい」
なぞの女子中学生ことカヨがそこに立っている。
「なんで? というか鍵は?」
「きのう、ルシェンさんに貸していただいて。あ、ルシェンさんというのは」
「ああ」
カヨの言葉を遮る。「いいよ。だいたい察した」
ぼくのこの身に宿ったルシェンが昨日のうちに、どういうわけかカヨに鍵を渡していたようだ。
「というかカヨちゃん、その話信じたの?」
いくらルシェンが話したといっても、肉体はぼくのものだ。多重人格だと言われたってにわかには信じられないものがある。
「あの豹変ぶりはただ事ではないです。ヘンに思ってました。だから」
だから、信じた? ホントに?
腑に落ちないが、まずはともかく物分かりのよい娘で助かるという体を演じておく。
「詳しい話を訊きたい」
ちゃぶ台のまえにカヨを座らせ、ぼくは湯を沸かしがてら、
「昨日、なにがあったのかな」
カヨの話に耳を傾ける。窓の外からは登校中の子どもたちの声が聞こえている。
「つまりこういうことか」
ぼくはカヨから聞かされた話をまとめる。「きみはぼくとルシェンの人格が入れ替わっていることを知っていて、ルシェンもまたどうしてそんなびっくり現象が起きたのか、その要因に心当たりがあると。で、きみはルシェンに頼まれて、その要因をどうにかしようと手伝うことにしたと」
「はい」
カヨに紙パックのオレンジジュースを手渡す。冷蔵庫に入っていたもので、買った憶えはない。じぶんの分のコーヒーを持ってカヨの対面に座る。
「ツッコミたい点が多々あるけど、まずはその要因ってのが知りたい」
「カルマ――というものをご存知ですか」
全身に粟が浮かび、いっしゅんで消えた。「ああ知ってる。ルシェンの世界で言うところの生贄らしいね」
「じつはそうではないらしいんです」
「ん?」
「カルマというのはこれくらいのちいさな玉で」カヨはゆびで輪っかをつくった。「それを見つけ出せば元の世界に戻れるかもしれないそうなんです」
「ずいぶん都合のいいアイテムがあったものだね」
「わたしもよくは知らないんですけど」カヨはオレンジジュースに口をつけた。「でもあるそうなんです」
ひととおり話をし、暗くなる前にカヨを帰すことにした。
「わたし、べつに帰らなくとも」
「ぼくが困るんだ」性的な意味で。
「そうですか。そうですよね」
しょんぼり肩を落とし、カヨはアパートの階段を音もなく下りていった。腹は減っておらず、ルシェンに残しておくべきメモを考えながら、ベッドに潜りこむ。
***
翌日、案の定というべきか、異世界で目覚めた。
三度目ともなると手慣れたもので、幼女じみた母親に叩き起こされる前に食卓につき、ゲテモノじみた飯を胃に収め、仕事場へと向かう。
「あら、もう出かけるの」
幼女じみた母親が目をぱちくりさせた。
早く出たのにはわけがある。ルシェンの同僚であるララヴィと話すためだ。
ルシェンの部屋にはまたぞろ短いメモがあった。
――ララちゃんと話しました。あなたに協力してくれるよう頼んであります。
昨日のうちに二人で現状打破のための話し合いをしておいてくれていたのだろう。べつだんぼく自身は困っているわけではないのだが、ルシェンがぼくの肉体で女どもを籠絡してしまうのは考えものであるので、いちおう元の世界にメモを残してきてはいたが、念のためララヴィを通してでも、それをやめるように釘を差しておこうと決めた。それ以外では、しょうじきなところもうすこしこの状態を楽しみたい、言い換えるとこの肉体を通じて快楽を貪りたいと思っているじぶんがいる。
「よお。迎えに行く途中だったんだ」
仕事場に着く前にララヴィと鉢合わせした。ルシェンの家まで来る途中だったようだ。
「ここじゃなんだからそうだな。ウチ来るか?」
「いいんですか」
「ついでに仕事のやりかた、手取り足取り教えてやってもいいけど」
なかなか魅力的な提案に聞こえた。期待していると、
「冗談だ」ララヴィは肩を竦めた。「ウチはこっちだ。ついてこい」言って、スタスタと歩きだす。追いかけながらぼくは背中に投げかける。「仕事は行かなくていいんですか」
「あ? きょうはどこも休みだぞ」
休日であったらしい。ルシェンよ。そういうことこそ書いておけ。
「適当に座って」
案内されたのは巨大なマリモじみた住居だった。ルシェンの家は、たくさんのより集まった生き物で組み上がっていたようだが、ここは一つの巨大な生き物の内部であるらしい。
「消化されないのかよ」独り言のつもりだったが、案に相違してララヴィには聞こえていたらしく、茶らしき液体の入った器を持って戻ってくる。「クレンポだからだいじょうぶだ。ジキルだったらまずいけどな」
よくわからないが、動物と植物のような違いなのだろうと解釈しておく。
「単刀直入に訊きます」ぼくは単刀直入に訊いた。「これくらいの玉を知りませんか」
カヨがやっていたように人差し指と親指で輪っかをつくる。この世界の種族もゆびが五本なので不便はない。
「知らんな。どこにあるんだ」
「カルマは生贄ではなく、その玉のことを言うらしくて」
「は? 誰から聞いたんだそんなこと。聞いたことないぞ」
思いのほか険しい口調にひるむ。「いや、ルシェンがそう言っていたらしいんですけど。それをぼくはあるコから又聞きしまして」
「ルシェンがなぁ」ホントかぁ、と言いたげにねめつけられる。「きのう話したんだが、とくにそんなことは言ってなかったぞ」
「何を話したんですか」
「とりあえずおまえがどういうやつかってことを話したな。かなり心配してたぞあいつ」
「ぼくのことをですか」
「つうか、おまえが好き勝手やってないかってことをだな。それなりに真面目なやつだって話しといた」
害はないと伝えてくれたようだと知り、とりあえず礼を言っておく。
「いいよ。にしても妙だな。おまえの話を信じるとして、てことはだ。この珍妙な現象は十中八九ルシェンが要因となって起きていて、それは考えるに、祭りのときの神殿での出来事にあるとみて間違いはないわけだ」
「そういうことになるんですかね」
「カルマが生贄のことではないとするとじゃあなんだってことになるわけだが、おまえは何も知らないわけだろ」
「まったく知らないわけではないんですけど」
「というと?」
「じつは向こうの世界に、つまりぼくの世界にも、ララヴィさんのように協力してくれているコがいて」
「はあ」
「そのコが言うには、カルマなる玉を探しだせばなんとかなるような話でした」
「そのコはむろん向こうの世界の住人なんだよな」
「ええ。ぼくと同じ人間でしたね」
「てことはそのコが話していた内容は、すなわちルシェンが伝えた話ってことになるわけだ」
「そうなりますかね」考え、なりますね、と同意する。
「妙だな」
「妙ですか?」
「おまえは知らないだろうが、ルシェンにそれほどの洞察力があるとは思えない。すくなくともこうした事態になるまで、あいつはまったくカルマの正体どころか異世界なんて概念も知らなかったはずだ。それがどうしてたった数日で、しかも神殿なんて存在しないあんたんとこの世界で、こっちの世界のそれこそカルマの真の正体なんて知れるんだ? 何かがおかしい」
「おかしいと言われましても」
「そもそもなんだってあいつはあたしに内緒にしてるんだ。おかしいだろ。おまえに協力してやっていることは告げたんだ、だったらあいつもいっしょになってこの事態をどうにかしようとするのがふつうだろ。だがあいつは重要なことを何も告げずに、むこうの世界でだけ問題解決に向け動いている」
「ララヴィさんを巻きこみたくないのでは?」
「だったらおまえに対しても口止めするだろ。そういうメモはなかったのか」
すこし考え、ありませんでしたねと伝える。
「なら考えられる筋書は三つだ。一つ、あいつが向こうの世界で協力者をつくるためにわざとそのコにデタラメを吹きこんだ。二つ、ほかに何か目的があってわざとこうしたまどろっこしい真似をしている。そして最後になるが、おまえが仕入れた情報はルシェンが発信源ではない」
「つまり、どういうことですか」
「おまえに情報を伝えたコ。そいつ、ホントにおまえの同族か?」
***
ララヴィとはいくつかの約束事をし、翌日を迎えた。原点回帰。もといた世界に戻っている。むろんぼくの股間には、ぼくの分身がちんまりとぶらさがっている。
自室のベッドに一人きりだ。おとといのうちに、ルシェンに倣ってぼくも書置きを残しておいた。女どもと仲良くするな、といった旨と、この世界では性的サービスは禁止されているといった旨をわざと誇張して記し、大学にも顔をだすなと但し書きを挿しておいた。おそらくルシェンはきのう一日誰とも顔を合わせなかったはずだ。
そのはずだったのになぜだろう。
冷蔵庫に買いだめされていたヨーグルトの山に辟易していると、唐突にインターホンが鳴った。
時刻は午前七時前だ。いったいこんな朝早く誰だろう。めんどうごとはごめんだぜ。思いながら扉の覗き穴から訪問者を確認すると、見慣れた頭がちょこんとあった。
カヨだ。
開錠し、戸を開ける。
「おはようございます」
無邪気な顔がこちらを向く。
「おはよう。どうしたの」
「お手伝いしようと思いまして」用意していた台詞なのか、ぎこちない。
「お手伝いたって、カヨちゃん学校は?」
「きょうは開校記念日ですよ」
「そうなの?」
「はい」
嘘だと思った。なんせ今まさに彼女の背後、階段の下を同じ制服を着た女子中学生たちが三人揃って歩いている。こちらの視線に気づいたのかカヨが振り返る。小学生が遠足に使うようなリュックを背負っている。中身はなんだろう、やけにぱんぱんだ。しばし沈黙したのちに彼女はふたたびこちらに向き直る。「あのコたちは朝練ですよ。部活動があるコたちなので」
「あ、そうなんだ」
「はい」
邪気のない笑みが却って怪しい。カヨには聞きたい話が山盛りだ。この調子だと昨日もルシェンと顔を合わせていそうだ。ふたりしていったいなにを企んでいるのか。探りを入れてみるのも一興だ。かといって部屋に招き入れるのは考えものだ。近所のおばさん方に通報されても困る。ひとまず腹ごしらえといこう。財布とメディア端末を手にし、徒歩十分の距離にあるファミレスへ向かう。
「カヨちゃん朝ご飯は?」席に着き、メニュー表を開く。
「おにぎりを食べました」
「好きなの頼んでいいよ。この時間、あんまりガッツリした料理はまだなんだけど」
「デザートでもいいですか」
「好きなのをどうぞ」
カヨはチョコレートパフェとコーヒーを注文し、ぼくは大盛りポテトとドリンクバーを注文した。メディア端末には従姉からのメッセージがまたぞろ溜まっており、適当に一つ開いてみると、ちょっと彼女できたなら教えてよ、つうか紹介しろ、となにやら七面倒くさい文章が並んでいた。見なかったことにしよう。
「さて。カヨちゃん」
「はい」
「きのうは会ったのかな」
半ば確信しながら水を向けた。
「ルシェンさんにですか? はい」
「カルマについては何か分かったかな」
「どうなんでしょう。アテはあるような話をしていました」
「カヨちゃんは何か手伝いを、その、具体的になにか頼まれたりしたのかな」
「はい。あ、いえ。どうなんでしょう。図書館の場所とか、インターネットの使い方だとか、そういうののサポート的な感じで」
「変なことを訊くけど」
断ってからぼくは訊いた。「へんなこととかされてない」
「勝木(かちき)さんたちがされていたようにですか」
ギクリとする。勝木さんというのは事務員のお姉さんの名だ。やはりというべきか、初日に彼女たちがこの部屋に押し寄せ、雪隠づめよろしくこちらを責めたてていた背景、事情というものをカヨもまた承知しているようだ。
「誤解のないように言っておくと、ルシェンさんの意識がぼくの中に入ってくるようになるまであの二人とはいっさい関わり合いとかなかったんだ、だからその」
「分かってますよ。だいじょうぶです」カヨは微笑む。「おにぃさんは人畜無害さんだってわたし、ちゃんと分かってますから」
分かってない、分かってないよ。ぼくは落胆した。人畜無害だったらなにゆえこうもぼくは理性をフル動員して、暴れ狂うロデオと化さぬように我が股間に宿りし分身を諌めねばならぬのか。
カヨはストローに口をつけ、コーヒーをすすった。熱くはないのだろうか。
「きのうルシェンさんとお話ししたんですけど」
死者のように透きとおったカヨの肌に見入っていると、
「おにぃさんはこの世界についてどのように認識していますか」
ふいに振られた話題に面食らう。カヨから話題を振ってきたのは初めてで、だからぼくは、
「世界について?」と訊きかえす。
「はい」
「さあ」
その話がなんなのか。
不審に思うが、しかし彼女がそれをルシェンから聞いたとするならば耳にしておいて損はないと考え直す。「カヨちゃんはどう考えているのかな」と続きを促す。
「ルシェンさんは言ってました」カヨはストローに息を吹きこみ、コーヒーの水面に泡を浮かべながら、「この世界の根源は【無】であり、正と負が、陰と陽が生じることでいまのカタチを保っているのだと」
「ほおほお、なるほどなるほど」
目をぱちくりさせ、頭の回路を切り替える。
「ルシェンさんは、世界は【振幅】なのだ、とも言っていました。無というのは何も起伏がない状態。つまりは線であり、紐であり、そこに揺らぎが生じて、山と谷ができ、そうして世界はカタチをなすのだと」
「ふんふん。それはいいとして」
まったくよくはないのだが、まずは否定をせずに、そういうこともあるかもわからんね、と理解を示しておいてから、
「それがカルマと何か関係あるのかな」と問う。
カヨはきょとんとした。それから表情を崩さずに、
「おにぃさんは反物質というのはご存知ですか」と首をひねる。
脈絡がなくてこちらが困る。
知らない、と一蹴してもよかったが、知っているから厄介だ。
「反物質ってのはあれだろ。物質にぶつかると対消滅してしまうやつ」
「そうですそうです」カヨはうれしそうにする。「対消滅したあとには、物質と反物質双方のエネルギィが、根こそぎ、そのまんま空間には残ります」
「はぁ残るのですか」
「なぜエネルギィが残るのかというと、反物質は、それに応じた物質と同等の質量があるからです。ですが、質量そのものが相反する、真の意味での反物質というものもこの世界には存在します」
「それがカルマだって言いたいのかな」
「ちがいます」
ちがうのかい。
「ごめんねカヨちゃん」断ってからぼくは言った。「ぼくにも解るように最初から、何が言いたいのか、話をまとめてくれないかな。つまりその反物質――真の意味での反物質が、どういったかたちでぼくたちに関係してくるんだい」
いまその話をする理由がどこにあるのかを教えてくれとぼくは頼んだ。
言い方が乱雑になってしまったが、カヨはとくに気を損ねるふうでもなく、
「ルシェンさん方の世界が、つまりはこの世界にとっての反物質なんです」と言った。ぼくが眉をしかめると、ついでのように彼女はこう補足した。
「カルマは、二つの世界の繋ぎ目です」
場所を移動した。世間体がどうのこうのと言っている場合ではなさそうだ。アパートに戻り、ちゃぶ台を挟んでカヨと対峙する。
「ぼくはまどろっこしいのが好きじゃないんで、言わせてもらう」
ぼくは言った。「きみはカヨちゃんじゃないな」
「わたしはカヨですよ」
「うそだ!」
「ホントです」
「ならぼくとキスをしよう。きみが本物のカヨちゃんだとしたらできるはずだ」
「なぜですか?」
「ぼくたちは付き合っていた。そして彼女はぼくにぞっこんだからだ!」
「わたし、おにぃさんに惚れているんですか」
きょとんとされてしまい、返答に窮する。勢いでキスできるかと思ったが、そうは問屋が卸さない。とりもなおさず彼女はほんとうにカヨなのかもしれない。
ひょっとしたら彼女もまたぼくと同様に、何者かに肉体を奪われている可能性を考えたが、そうではない可能性があることを失念していた。すなわち、彼女そのものがこの世界の住人ではないという可能性だ。
「カヨちゃんは向こうの世界にある神殿については知っているかな」ぼくは確信を得るために話題を振る。
「ルシェンさんは話してくれませんでしたよ」
「うん。彼女は話してくれなかったかもしれない。だけどきみはそれでも知っているんじゃないかな」
「どうしてそう思うんですか」
「勘」
「まあ」
呆れたといった顔をしたあとで、頬を膨らます。なんと感情豊かな娘だろう。おとといまでのか弱い少女の印象はない。いや、か弱そうだというのは相も変わらずだが、そこに得体のしれない、といった性質が加わった。話していると段々、彼女の年齢が解らなくなってくる。年下と話している気がしない。手玉にとられているようにさえ感じられてくるから不思議を通り越して不気味である。
「きみは知らないようだからこの際教えておく」ぼくは揺さぶりをかける。「ぼくには向こうの世界にも協力者がいる。そして彼女はルシェンの友人だ。ルシェンが口を閉ざそうとも、協力者には無理やりにでも口を割らせるように約束させてある。すなわち今こうしているあいだにも彼女たちは互いにある齟齬を埋めようとぶつかりあっている頃合いだ。あす、ぼくがふたたび向こうの世界で目覚めたとき、カヨちゃん、きみが信用に足る人物かどうか、その判別は自ずとつくんだ。けれど、できればぼくはそんな刑事みたいな真似はしたくない。ぼくたちに起きているこの珍妙な現象がカルマなる石ころのせいなら、ぼくにもそれを回収する手助けをさせてくれないか。だいたい、こっちの世界ではなく、ひょっとしたら向こうの世界にあるかもしれないじゃないか」
言いながら、それはそうだ、なぜその可能性を考慮しない、と疑問に思う。「あす、協力者に頼んで神殿まで足を運んでみようと思ってる。何か知っていれば今ここで教えてくれないかな」
「びっくりしました」カヨは目を見開くようにし、ただでさえ丸い目をさらにまんまるくさせた。「おにぃさんはもっとヘチャムクレさんかと思っていたのに」
ぼくはざっくりと心に傷を負う。なんてことを思っていたんだ。
「なかなかどうして切れ者ですね」
褒められているのか、蔑まされているのかの判断に困る。いずれにせよ、はっきりした。やはりこのコはただ者ではない。
「きみはこの世界の住人なのか」単刀直入に切りこんだ。これまでの経緯からして、そしてかつて読み漁ってきた数々のライトノベルの展開上、彼女が一般人であるはずがない。
「はい。とはいえその前はギヴァナで暮らしていました。七年ごとに二つの世界を行き来するんです。輪廻転生とでも言いましょうか」
「ギヴァナ? 輪廻転生?」
なんだろう。「要領が掴めないんだけど」
「さきほどもお話したとおり、この世界とあちらの世界は、二つでひとつです。こちらの世界をニスペ、あちらの世界をギヴァナと呼びます」
「七年ごとに行き来するってのは?」
「わたしは現在、この世界、すなわちニスペの住人です。こうして結姫(むすびめ)カヨとして七年前に生を享けました。ですがその前はギヴァナで同じように七年間、あちらの感覚では一年ですが、暮らしていたのです」
七年と聞き、既視感を覚えるが、はたと思い到る。「祭りか」
「はい。ギヴァナで祭りが開かれるごとにわたしは転生します」
「それって……」
そこまで口にしてから言葉を呑みこむ。
死ぬということではないのか。転生するためには、いちど肉体を捨てなければならない。祭りが開かれるごとにカヨは、彼女は、それまでの家族から離れ、それまでの人生を捨て去り、イチから、ゼロから人生をやり直さなければならないのではないか。
平気、なのだろうか。
「わたしには役目があるんです」カヨは言う。「そのためだけにわたしという存在は存在しています」
「役目?」
「カルマが二つの世界を結ぶ繋ぎ目だという話はしましたね。世界は一本の紐が振幅しているようなものなんです。山と谷の繋ぎ目、堺、そこには小さな小さな点があります。それはたとえば色違いの紐を繋げたときのような結び目です。陰と陽、正と負、それらの限りなく接する極限の節目、渦の底――中心のようなものこそがカルマなんです」
「カルマの正体は解ったけど」ホントは解ってなどないが、まずは要点だけを知りたい。「どうしてそのカルマがないと困るんだ。そもそもそれを失くしたことと、ぼくの中身が入れ替わってしまうのと、どう関係が」
「カルマは二つの世界の結び目。言うなれば、砂時計の穴のようなものなんです。わたしという存在を通して、すべての砂がいっぽうに傾かないように、定期的に砂時計を引っくり返す必要がでてきます。わたしはそれを【蓋をする】と呼んでいますが、わたしがカルマの蓋をしないと、いずれ二つの世界が交わりはじめてしまうのです」
「交わるとなにか不都合が?」
むろんあるのだろうが、具体的に思い浮かばない。
「反物質の話をしましたね。反物質というのは関係性です。この世界にとっての反物質は、ルシェンさんの世界、すなわちギヴァナです。けれどギヴァナにとっての反物質はニスペ、すなわちこの世界なんです」
もし二つの世界が交わったら。彼女の言っているのはそういうことか。
「ひょっとしてじゃあ、カヨちゃん、きみの役目は」
「カルマは蛇口のようなものなんです。それの置いてある世界のほうに、僅かながらにも、もう一方の世界の物質が――反物質が流れこんできます」
消しゴムの大群が街並みを片端から消し去っていく光景が頭のなかに思い浮かぶ。まるでイナゴの大群だ。あとには草一本残らない。
「多大な影響が起きる前に」カヨは繰り返す。「砂時計を引っくり返す必要があるんです。わたしがもう一方の世界に転生することで、蛇口の向きを変えることができます。それがわたしの役目で、存在する意味で、わたしにとってのすべてなんです」
カルマという蛇口ごと転生する。カヨはそうすることで二つの世界の均衡を保ってきた。
が、あろうことかルシェンが生贄の儀式をおろそかにした。そのために、今回、カヨは転生できなかった。
畢竟するにそういう顛末になるのだろう。でなければこれまで転生できていたのに今回だけできなかった理由が思い浮かばない。
「転生ってのはどうやるのかな」
「少々複雑なので、おおざっぱに、片方だけを説明すれば」
「片方?」
「わたしは生贄の赤ちゃんとなって、新たにその世界の住人として文字通り、転生します」
「赤ちゃん……」
考えながらぼくは、想像で細部を補完しつつ、話のさきを続ける。「転生するために生贄が必要ってことは、今回は、そう、神殿の棺に入ったルシェンが赤子を孕む予定だった。それがカヨちゃんの新しい肉体となるはずだった」
「そうです。ギヴァナでの生贄にはそういった役割があります」
「カルマは?」
「わたしと共に母体に転生します」
いっしょに産まれ落ちてくる。そういうことか。赤子といっしょに石ころがポンとひねり落とされる。下手をすれば捨てられかねない。ならばそうならぬようにと、生贄の懐妊に際しての注意事項が祭りの掟として伝わっているはずだ。或いは、カヨの肉体に一定期間埋まっていて、ある時期に体外に排出される仕組みなのかもしれない。あす、その辺の事情についてララヴィと話し合ってみよう。
「ん? というか、じゃあこっちの世界にも祭りみたいなものがあるってことかな」
でなければ向こうの世界からこちら側へと転生できないはずだ。気づくと日は暮れており、いつの間にやら部屋は電灯の明かりで満ちている。
「いえ。あちらへ転生したあと、つぎに祭りが行われるとき、こんどはわたしが生贄として神殿の棺に入ります」
生贄として棺に入ったカヨは、そのままこちらの世界に回帰する。
「でもカヨちゃんの肉体は――その姿はどうやって」
「調達しているのか、ですか? この世界では、捨て置かれた遺体がそこかしこにゴロゴロしています。女性でかつ七歳という限定があるとはいえ、わたしの憑代として手ごろな肉体を調達するのなんてそうむつかしい話ではありません」
「つまりその」
言葉に詰まりながらでもここは確認しておくべきところだろう。ぼくは勇気をふりしぼり、「その身体はカヨちゃんのものというよりも、カヨちゃんだったもの、と言ったほうがいいのかな」
「そうです。むろん遺体ですから、成長のしようがないのですが、どちらにせよ七年経てばふたたび肉体を離れなければならないのですから、むしろ成長しないというのはひとつの救いですね。いまもむかしも、この年頃の肉体はいろいろと重宝されますから」
ぞっとするほど艶っぽい笑みを覗かせるカヨに、ぼくはこのとき初めて得体のしれない感情を抱き、その感情に嫌悪にも似た反発心を覚えた。
「いやなこと聞いてわるかった」
「どうしてですか? 事実を話すことはなにもわるくないですよ」
事実だからといって、なんでも口にしていいわけではない。
ルシェンの世界の貞操観念の低さ、或いはそもそもそんな概念がないのかもしれない世界を七年間隔とはいえ、行き交う彼女もまた、超越した倫理観を持ち併せているのかもしれず、ぼくの狭量な常識とやらでカヨの過去を推し量るのは、それこそ怒りを買われても仕方のない礼を欠いた行いに思えた。
「祭りについて訊いていいかな」
とくに生贄について知りたい。「話からするとカヨちゃんはこれまでずっと、祭りの二回に一度は生贄になっていたってことかな」
「そういうことになりますね」
「カヨちゃんだった肉体は?」
「どうなるのかってことですか? わたしという存在の抜け落ちたあと、その肉体には、本来の自我が宿ります。そもそもおにぃさんは疑問に思いませんでしたか。女しかいない世界の住人がどうして繁殖できるのかって」
「思ったけど……」
同性間での生殖方法があるものかと思っていた。そうではないのだろうか。
「なぜああもあちらの世界で祭りが神聖な行為として扱われ、毎年開かれてきたかといえば」
「いえば?」
「まさに繁殖のための儀式だからです」
呆気にとられるとはこのことだ。
「ホントに?」
にわかには信じられないが、偽る理由も見当たらない。疑っているわけではないのだが、訊きかえすと、カヨはまるで知られたくなかった秘奥を明かすように、
「彼女たちは」と目を伏した。「わたしという存在――祭りを介してでなければ子をなせない脆弱な存在です」
***
そろそろですね、というカヨの言葉と引き換えに視界が暗転した。目のまえからカヨが消え、なぜか代わりにひかえめな胸に顔を挟まれている。
「あらら。もしかしてホントに変わっちゃったわけ」
ひかえめな胸の主が顔を覗きこむようにしている。戸惑うこちらを尻目に、さらにひかえめな胸でもってこちらの顔を揉みしだくようにした。
状況を把握し、さらなる混乱がやってくる。
なにゆえぼくはララヴィと全裸で絡みあっているのか。答えは単純に、零時を回ったためにルシェンと意識が転換し、こちらの世界に転生してしまったためだろう。カヨの言葉を借りるならば、ギヴァナに来てしまった。
「ルシェンときみはそういう仲だったんですか」
「胸を揉みながら何言ってんだおまえ」
乳首をつねられ、煩悶する。この種族の乳首は性器並に敏感だ。お返しとばかりに吸いつくと、三倍返しでなぶられた。しばらく交戦し、汗だくになって、ぐったりする。
一時休戦を申しこみ、受け入れたララヴィはそれから滔々と、ルシェンから聞きだしたらしいぼくにとっての常識を、すなわちニスペの世界の貞操観念の高さをぼやいた。
「まったくどうしてお堅い種族だな。本音では本能のままに乱れたいと思っていながら何を躊躇してやがんだか」
「あなた方といっしょにしないでください」抗議すると乳首を噛まれた。理性が吹き飛ぶ、やめてほしい。「きみたちはこうして交わっても赤ちゃんができる心配がないから暢気なことが言えるんです。ぼくたちはたった一度のまぐわいでも繁殖可能なんですよ」
「ほう。それはすばらしい」
ララヴィのいやらしい手練手管から逃れるように寝床から飛び起き、宙をふわふわ浮いている服飾を、それは一種クラゲのような動きをしているのだが、身にまとい、椅子がないので、床にデンと腰を落とす。
「その様子だと昨日一日、ルシェンとずっと話をしていたようですね」ぼくは口火を切った。「さっそくですが教えてください。どんな話を訊きだしたんですか」
そそっかしいやつは嫌われるぞ。
ララヴィは素っ裸のまま寝床のうえであぐらを掻き、それからルシェンから仕入れた情報を披歴した。彼女の話をまとめれば、ルシェンはほとんどカヨの操り人形だったようだ。
「責めないでやってくれ。あいつは頭がお花畑なんだ」
短くはない付き合いなのだろう、友人のおつむの弱さを嘆くでもなくぼやき、ララヴィは語った。
「神殿は元々、ムス姫さまを祀るためのものでな。おそらくあんたとルシェンが出会ったってのがムス姫さまなんだろう。現存したとは驚きだ」
ムス姫さまが何であるのかは聞くと長そうなので、まずは互いの齟齬を埋めておく。
「彼女はカルマを失くしたと言ってました。ぼくとルシェンの精神転換はその影響らしいです。カルマを取り戻せば元に戻るような旨を言っていたんですけど」
話しながら、そんなこと言ってたっけかな、と覚束ない記憶を案じる。「カヨちゃんはルシェンにもその話をしたんでしょうね。だからルシェンはあちらの世界でカヨちゃんと共に、というかカヨちゃんに命じられるがままにカルマ探しに精をだしている」
そういうことになるのだろうが、何だかしゃべっていて釈然としない。カヨの命令でルシェンが動いていたとしたならば、なにゆえルシェンはわざわざ向こうの女を、ギャル女と事務員さんを手籠めにしたのか。いや、それはカヨと出会う前のできごとで、ルシェンはただよかれと思ってしただけなのかもしれない。
しかし。
やはり腑に落ちない。
探し手は多いほうがいい。ゆえに女どもを手籠めにし、それこそ体のよい手駒にしてやろうと企てていた、なんてことはないだろうか。
考えすぎか。
「手がかりとかあるのか」ララヴィが寝床に横たわる。
「さあ。訊く前に意識がこっちに移っちゃったので」
「不便だな」
「そういえばそっちは身構えてましたね」
「ルシェンが見ててって言うからさ。雁字搦めにしてたら防げるかとも思ったが、肉体に関係なく中身が入れ替わるってんじゃ、無意味な実験だったな」
「神殿にはいつ行けますか」
「今からでもいいぞ。ひと気のないうちに済ましたほうが無難だからな」
「善は急げです。お願いしていいですか」
「急がば回れとも言うぞ」
おや、と引っかかる。こちらの世界の諺がよく通じたな、と思うが、なにもふしぎではないのだと合点する。ララヴィがじっさいにぼくの母国語を操っているわけではない。言葉こそ違えど、似た概念はこの世界にもあるようで、それがルシェンの肉体を通じて、こちらの意識に変換され、該当し得る言語として出力されているだけだ。
「塞翁が馬って言葉の意味、わかりますか」試しに投げかけてみると、
「禍福はあざなえる縄のごとしと同じ意味かな」
なかなか粋な答えを返して寄越す。
「おまえ、前になんで自分のトンデモ話を信じてくれるんだって言ったことあったろ」ララヴィはそういった山脈のように横になったままで頬杖をついた。「ルシェンは間違ってもおまえみたいにはしゃべれない。ましてや異世界の住人と意識が入れ替わったなんておもしろい話、死んだって思いつかないのさ」
ずいぶんな言いようだが、それでも彼女は縁を切らずに、手助けをしてくれる。
ルシェンよ。なかなかいい友を持ったな。
なかなかいい友を持たないぼくはなんだかそうしなければならないような気がし、いまはじぶんのものであるところのたわわなおっぱいを揉みしだく。
濃い緑色のそらが、いまは夜だと謳っている。ぼくらは巨大なダンゴ虫じみた生き物にくるまれて神殿まで移動した。触手然とした紐状の管が生き物からは伸び、こちらの耳に侵入してくる。管を介して意思を伝えられるようで、ララヴィの説明を信じれば、頭で思い浮かべるだけで目的地まで運んでくれるらしい。神殿の場所を知らないぼくはだから、いっしょに乗りこんだララヴィにすべてを委ね、自動ナビゲーターよろしく乗り物と化した生き物の、ゴロゴロと転がる振動を感じながら、なにゆえ内部は平衡を保っているのか、その原理を想像しては、頭を悩ませるのに苦労した。
「で、でけぇ」
到着し、目視した神殿は、眼球のまえにオモチャを掲げたような狂った遠近感を覚えさせた。
「なんなんですかこれ。無駄にデカすぎません」
「あたしらがちっこすぎるって考え方もあるぞ」
「入口とかどうなってんですか。てかなんでこんなデカいもんがあって、今まで気づかなかったんですかねぼくは」
地平線の彼方に立っていようが、これだけデカければ見えそうなものだ。それこそ富士山よりデカいのではないか。木々など視界を遮るものがないだけに、余計に大きく感じられる。
こちらのぼやきにララヴィは応じず、訝しげに眉根を寄せては、そそくさと神殿のほうに歩を進める。ひょっとしたらこの世界、この星の大きさは、地球よりも小さいのかもしれない。数キロずれるだけで地平線に隠れて見えなくなる。さもありなんだ。ひるがえっては思いのほか遠くまで移動してきたのかもしれず、間違ってもここで彼女とはぐれるなんて失態は犯すべきではない。
「待ってください」
こちらを顧みることなく歩を進めるララヴィのあとを追う。
入口を探すだけでも骨が折れそうな超巨大建造物は、まさしく神殿の名に恥じない威厳を放っている。
神殿の側面には大小さまざまな模様が描かれている。彫刻じみたデコボコで組み上がっており、それそのものがちょっとした遺跡ほどの大きさを誇っているため、じっさいに目のまえに立つと、入り組んだ迷宮の入口に立っている気になってくる。じっさいそこには内部へと通じる穴が開いているらしく、しかし見る角度によってはただの装飾でしかなく、構造を熟知している者でなければ、まず内部に侵入するだけでも骨が折れそうな複雑さだ。
「祭りの前日は、あたしらみんなここに集まるんだ。いちおうこの建造物そのものが神殿ではあるんだが、あたしらが神殿と言うとき、それはむしろこの中心部にある一か所、生贄の棺がある区域を指す」
ララヴィは解説しながら、手慣れた調子で、神殿の内部、入り組んだ通路を歩んでいく。一本道ではなく、ジャングルジムの内部をくぐってはのぼり、くぐってはのぼり、しっちゃかめっちゃかに進行しているきぶんになる。
やがて拓けた空間に出る。櫓らしき細長の建物が建ち並び、周囲には火を焚いた跡だろうか、煤の山を見つけた。
そういえば、こちらの世界では火を見た憶えはなかった。まじまじと辺りを観察し、そのあまりの静けさに、無視できない違和感を覚える。が、それが何かが分からず、もどかしい。
妙に懐かしく感じられるのはなぜなのか。足元の固い岩肌に触れたところで、はたとその違和感の正体に気づいた。
「岩だ。これ岩でしょ」
「イワ? なんだそれは」
こちらの世界の言葉に変換され得ない未知の言語。しかしぼくにしてみれば、これこそ身近な存在で、有り触れた、道端に転がっていてしかるべき代物だ。
「おまえはこれをイワと呼ぶが、あたしらはこれをジバン――【無限の静寂】と呼ぶ」
無限の静寂。言い得て妙だ。こちらの世界に来てからというもの、触れるものみな呼吸をし、鼓動を宿し、せわしなく騒がしい。常に羽虫が宙を舞い、毛虫が肢体を這う居心地のわるさが付きまとう。それがどうだ。神殿に足を踏み入れてからというもの、そうした喧騒が払われた。
こころなし、身に纏っている生き物の息吹まで弱々しく、しとやかだ。
「ここはふしぎなでな、最強の強度を誇る【ラヴァン】の牙でも傷一つつかないんだ」
言ってララヴィは足踏みした。「いつだれがどうやってこれを組み上げたのか、その加工の技術さえも解ってない」
それはそうだろう、と思う。たとえぼくの世界の科学技術であっても、ここまで緻密に、過度に、石版を組み上げたところで、これほどの重量に耐え得る材質があるだろうか。たとえあったところで、ここまで緻密に、過度に、積み上げることそれ自体がむつかしい。いったいどんな図面を引き、どれだけの人手を費やしたら、こんな神の真似事をしでかせるのか。イチから人体をつくりあげるほうがまだ手間がかからないように感じる。
「ここからさきはあたしも入ったことがない」考えごとをしながらでも足は動いていたようで、いつの間にやらララヴィと共に、とある壁のまえに立っていた。瞬間移動したような戸惑いを覚える。壁には奇怪な紋様が描かれており、空間そのものが歪んで映る。見る角度によって流動的に紋様はカタチを変えた。浮き出て見えたり、逆にへこんで見えたりと一種、万華鏡のようである。「生贄になった者しか入れないんだ。このさき、あたしにも案内が務まるか分からない」
「ここで待っていてもらってもいいですよ」ホントは嫌だったが、それらしく言っておく。
「ついてくよ。ここまで来たんだ、仲間外れはやめろ」
仲間外れ? いっしゅん引っかかるが、彼女にとってこれはぼくに対する協力ではなく友人たるルシェンへの手助けなのだと思い到り、すこし哀しい気持ちになるが、なぜ哀しまねばならないのかと腑に落ちず、
「一つ訊いていいですか」
釈然としない気持ちから目を逸らさんと、投げかける。
「なんだ」
「どうして祭りの日だけなんです。どうせなら年中ここで暮らせばいいじゃないですか」
言ってから場違いな問いかけだと気づくが、言葉は止まらない。「屋根もあって、落ち着いた雰囲気で。集団で暮らすにもうってつけの広さでは」
「あんたんとこの世界に昼と夜の区別はないのか」
「ありますが、それが?」
「陽の光を浴びたいのさ」ララヴィは、神殿内部の空間を仄かに照らしつづけているコケらしき発光体を、それは壁に付着しているのだが、ゆびでなぞるようにし、肩を竦めた。「こういう光も嫌いじゃないんだがね」
神殿の内部、生贄の棺のある場所までは一本道だった。道を隔てていた壁だと思っていた奇怪な紋様は、錯視を用いただまし絵なのか、立体映像なのか、はたまた摩訶不思議ななぞの技術なのか、ともかく扉を開く真似をせずに、ただ素通りするだけで、奥へと歩を進められた。
やがて目的の場所に辿り着く。
「ああ、懐かしい。ここだここだ」
「来たことがあるんですか」
「あたしもむかし、カルマに選ばれたことがある。というか、遠からず誰もがカルマに選ばれる。あたしんときは子を儲ける年じゃなかったけどな。って、そういやカルマは生贄の意味じゃなかったんだっけ」
紛らわしいなまったく、とぼやくララヴィをよそにぼくは、やはりそうなのか、と遅まきながら悟る。
意識がこちらの世界に転移する間際、カヨは言っていた。こちらの世界の住人、すなわちルシェンやララヴィたちは、祭りがなければ繁殖できない種族なのだと。
こちらの世界に転生したカヨは、そのままこちらの世界で育ち、七年後、こんどは自らが生贄として棺に入る。ギヴァナへと、ぼくの世界へと転生したカヨの意識は、肉体から抜け落ち、そこには本来の自我が回帰する。
どうやらララヴィは、憑代として過去、カヨに肉体を譲渡していた期間があったようだ。産まれてからの七年間を、カヨとして生き、そして突然に目覚めた。
目覚めたのはまさしくこの場所、神殿の中央部、棺のなかということになるのだろう。
ぼくは首をかしげる。妙だな。そこまではいいとして、ならルシェンだって過去、カヨとして生を享けていた時期があったはずだ。この世界の種族はカヨを孕み、産むことで種を存続させているといっても過言ではない。
「ルシェンは二度も生贄になったんですか」
「妙なことを訊くのな」
変な顔をされるが、気になるものは気になる。
「ルシェンは今年のが初めてのはずだ」
「ならおかしくないですか」ぼくはぼくの考えを、ララヴィにも解りやすいように言い換え、伝えた。すなわち、誰もがカヨとして産まれてくるほかに誕生する術がないのであれば、ルシェンだってカヨとして産まれてきた過去があるはずだと。カヨとして産まれてきたならば、必然、カヨを送りだすために、生贄としての役目を担うはずだ。
「ああ、そういうことか。なら話は単純だ。あたしらは産まれるとき必ず二人同時に誕生する」
「双子ってことですか」
「おまえのとこではそういう言い方があるんだろうが、あたしらにとっちゃそれが普通だからな。狩猟民族と慰安民族、必ずセットで産まれてくる。言われてみりゃたしかにふしぎだな」
カヨとして産まれてくる者と、赤子を宿す者がセットで産まれてくる。カヨが輪廻転生するための仕組みとしてはよくできているが、それではまるでカヨのためにこの世界があるようではないか。あまり支持したい考えではない。
「で、これが棺」
話を区切りララヴィは神殿の中心部、棺のまえに立つ。
「中に入ると液体が出てくるらしい。朝にはなくなっててな。あたしもよくは憶えてない」
棺は、ララヴィが以前、絵に描いて見せてくれたものと同等の形状ではあるが、ツタンカーメンの棺というよりもこれはもはや巨大な浴槽と見做したほうがいくぶんも正しいように感じる。
「蓋はないんですか」
「ん」
ララヴィはあごをしゃくり、天井を示した。それから棺の側面を蹴り、手のひらをひらひらと頭上へ掲げる。難解なジェスチャーだ。
「これが上昇して天井にぴったりくっつくんですか?」
「伝わってんじゃん」
「これ、ぼくが入っても大丈夫ですかね」
「やめといたほうがいい。そもそも祭りの日以外に立ち入った者はいないんだ。ただでさえ禁忌を犯してんのにそれ以上なにを望むってんだ」
機嫌を損なわせてしまったようだ。ちょっと聞いてみただけではないか。謝罪するのも癪なので、気まずさを持て余しがてら、空間内を見て歩く。
「あんましうろちょろすんなって」
ララヴィは不平を鳴らしながらもこちらのうしろをついて歩く。なんだかんだいって面倒見のよい娘だ。
棺は空間の真ん中にでんとある。
壁と接している部位がある。頭に対応する部位だ。ベッドの枕側が壁にくっついているところを思い浮かべるとよい。問題なのは、ベッドと接していない両サイドの壁に二つ、そして足元のほうの壁に一つ、計三つのちいさな棺がひっそりと空間に点在している点だ。
「これは何ですか」
「さあ」
「蓋がついてますね。開けてみてもいいですか」
「ダメに決まってんだろグズ」
「グズとはなんですかグズとは」
「というかこんなもんあったんだな。あたしも知らなかったよ」
祭りのあるときは基本的に棺のなかで過ごし、終われば朦朧とした意識のなか空間から出ていかねばならない。だからどこに何があるのか、この空間を探索するなんて真似はできないのだと、弁解気味にララヴィは語った。
「ひょっとしたら今回の異常事態につき、特別に登場したのかもしれませんよ」
「憶測で物を言うならなんとだって言えるだろ」
「この中に誰かが入っている可能性は?」
「可能性だけならそりゃあるだろ。否定なんてできやしないさ。仮にラヴァンが眠ってたって驚きはしない」
ラヴァンがなんであるかはなぞだが、ともかくここにこうして謎が提示されたのだから解いておくのが筋ではないか。すくなくとも今のところこれといった収穫はない。仮にカヨが何ごとかを隠していたとして、それを訊きだすための交渉材料として、新たな情報を仕入れておくのは常套手段もとより、必須科目のように思えてくる。
「やめろ、やめろって。触んな、離れろ」
「そこまで嫌がるならしょうがないですね」
引き下がったふりをしながら、「ほかにももっとあるかもしれません。探してみましょう」と提案する。「ぼくはこっちを探しますので、あちらのほうを頼みます」
「しょうがねえなぁ。さっさと終わらせて帰るぞ。ここに入ったってバレたらあたしだってタダじゃ済まないんだ」
口はわるいが素直な娘だ。しめしめと思いながらも、呵責の念は拭えない。
二手に別れ、離れていったララヴィの背中が、空間の真ん中に鎮座する浴槽じみた巨大な棺の陰に隠れたところで、おもむろに目のまえの、ちいさな、シングルベッドとどっこいどっこいの大きさの棺に手を伸ばす。
岩のような材質だが、思いのほかすんなりと蓋が持ちあがる。隙間が生じた途端に、自動的に浮き上がり、それはじっさいに宙に浮いているのだが、手を離しても蓋はかってに開いていく。
弁当箱を開いたように、中からは透明な液体に浸った死体が現れた。いや、これがただの棺ではなく、何かしらの装置、それこそ異世界への人格転移装置だと考えるならば、この死体もまた生きた個体だと考えるべきだが、ともかくとして、こうして中にはミイラならぬ女体が収まっている。
周囲に溢れるコケじみた発光体よりもいささかつよい明かりを発しており、間もなくララヴィは駆け寄ってきて、ああ、と悲鳴じみた嗚咽を漏らした。「なに勝手なことし腐ってんだばかぁ」
ぼくにとってそんな罵倒など昼下がりのコーヒーブレイクとなんら変わらない平穏そのものだったが、しかし、けれどでもなぜ? 棺から現れた女体を目にし、なんでおまえがここに、と戸惑いを隠しきれない。
「なんだどうした、知り合いか」
「知り合いもなにもこのひとは」
ぼくは考えるよりもさきに、宙に固定された蓋をふたたび戻し、パンドラの箱を閉じるようにして、こう言った。「このひとは勝木さんです。ぼくの世界にいるはずの女性です」
神殿を出るころにはもう陽が昇っていた。仕事があるようだが、無理を言ってララヴィにはいっしょに神殿や祭りについての情報を集める作業を頼みこんだ。
「いいけどよ。いちおうおまえ、売れっ子なんだからあんまし波風立ててやるなよ」
ジーベルなる性的愛撫業務はルシェンにとって天職であったらしい。どんな客の要望にも、それと口にしないうちから応え、満足させる。まさに性の女神に微笑まれた生粋の娼婦であったようだ。
「お互い様ですよ。ぼくのほうの生活も狂わされてんですから」
「苦労かけるな」
「その分きみが助けてくれていますしね。足し引きゼロとしときましょう」
「ちょっとは足しになっていてほしいくらいだがな」
「たしかに。ルシェンとぼくの二人分を助けているわけですからね。俯瞰してみりゃプラスかも」
「あたし、これでもルシェンに次いで売れっ子なんだぜ」
「ん? ああ、休ませてわるいとは思ってますよ」
「まあいいや」
「なんですか」文句があるなら言ってほしい。
「すこし遠いが、チツコウ――大型のフライバターが休眠している場所がある。そこでなら過去のできごとが一挙に閲覧可能だ」
蝶じみた記録媒体の名がフライバターというそうだ。これから行く場所、チツコウに、それのデカいバージョンがいるらしい。
「かってに観ても大丈夫なんですか」
「管理者はいるが、禁止されているわけじゃない」
「なら行きましょう」
「タダってわけでもないんだがな。まあ、おまえとあたしならだいじょぶだろ」
意味深長な言葉が不気味だ。
緑色の平原に遠目からでもそれと解る巨木が立っている。巨木の足元には湖がぽっかりと空いているのだが、近づいていくにつれ、それが湖ではなく、巨大なクラゲじみたブヨブヨだと判った。
「生きているんですか」
「ほかに何だってんだ」
死体ではないのかと言いたかったのだが、うまく意図が伝わらない。
「ひょっとしてこれがフライバターですか」
「どこ見て言ってんだ。こっちだ」
「これが?」
「フライバターの群れだ」
「群れ?」
湖と接するように立っている巨木は、しかし木などではなく、有象無象の蝶じみた生き物が群がって一つの塊と化している。なによりその中心には、明らかに規格外の個体が、骨格の役割を果たすように地面に尻をつけて立っている。セミの抜け殻を思い浮かべるとよい。羽を畳んでいるか、ただそれだけで六階建ての建物ほどの大きさがある。
「どうやって観るんですか、これ」操作するだけで一苦労だ。
「論より証拠。まずはやってみせるか」
湖然とした巨大なブヨブヨに近づいていき、ララヴィはそこに手を突っこんだ。するとブヨブヨが一部、隆起し、半透明な人型が目のまえに現れた。ブヨブヨに手を突っこんだままでララヴィは、
「ご無沙汰しております長老さま」と言った。
「カタビラの娘か」
「はい。元素フライバターの閲覧を希望したいのですが」
「構わん。何を知りたい」
「神殿、および祭りに関すること。主としてその起源について」
「ふむふむなるほどなるほど」
透明なブヨブヨの人型は、しばし動きを止めた。それが長老であるらしい。間もなく長老は、手のひらをララヴィへ差しだし、肉まん程度のブヨブヨした塊を差しだした。
「それで全部だ。ほかに何か要望は」
「いえ。ありがとうございました」
「ではのちほど、規則は守られよ」
言い残し、長老は姿を消した。
「情報は得られた。けっこうな量だ。確認するのに時間がかかりそうだし、その前に対価を払っておこう」
「対価?」
「タダではないと言ったろ。あたしだけでもいいんだが、二人でやればそれだけ時間を短縮できる。時間ないんだろ」
日暮れまでは時間がありそうだが、たしかにでき得るかぎり時間は有効に使いたい。
「まずは服を脱げ。それからこれに浸かれ」
命じながらララヴィは自ら裸体になり、そして巨大なブヨブヨの塊に足を踏み入れていく。やがてすっかり呑みこまれてしまった。
「なんだ、なんだ」
戸惑いながらも指示に従う。足に触れた途端、全身が総毛立ち、次点で腰が抜けそうになった。気持ちいいのだ。ほとんど前のめりに倒れるようにし、ぼくはブヨブヨに呑みこまれていく。
脳髄が溶け、脊髄が剥き出しになり、全身が性感帯になっていく。快感の渦に身を委ねながらぼくは、かつて読んだ憶えのあるお気に入りのエロマンガを思いだした。
スライムによって全身の穴という穴を犯されるエルフのマンガだった。たしかにこれはいちど捕まれば、逃れられない、逃れたくないというつよい呪縛を強いられる。
脱力感が襲う。注がれつづける快楽と引き換えに、体液という体液が流れ出てっているのではないかと疑いたくなるほどだ。ともすれば干からびれば干からびるほど純度が上がっていき、痙攣する魂の収斂を感じた。
どれほどそうしていただろう。
やがてつよい力に引っ張られ、快楽の坩堝から脱する。
「どんだけ耐性ないんだよ。焦ったぞ」
ララヴィの顔が目のまえにあり、その奥に見える空は、緑色を濃くしていた。もうすぐ夜がやってくる。
「しばらくすれば元に戻る。嫌だろうけどこのまま我慢しててくれ」
言ってララヴィはこちらのうえに覆いかぶさった。身体を横たえ、そしてなぜか口に舌をねじこんでくる。そのままの体勢で、ちびりちびりと唾液を流しこまれる。まるで点滴だ。
しだいに明瞭となっていく意識の狭間で、ぼくはじぶんの手をぼくの顔のまえ、ララヴィの頭のうしろに掲げるようにした。感覚がないことをふしぎに思っていたのだが、なるほど。
ぼくの両手は半透明になっていた。
「ふつうは同化される前に、自力で脱せられるはずなんだが、危ないとか思わなかったのか。いや、耐性がないんだよな。こっちのミスだ。すまなかった」
ララヴィは全面的に非を認め、それにしても危なかったな、と笑ってごまかした。詳しい事情は聞かなかったが、それはララヴィが話したがらなかったからでもあるのだが、どうやら対価とやらを払うためにした行為が、結果として命の危機に及んでしまったらしい。
「あのまま沈んでいたらどうなったんですか」
「長老さま同様に、ルツボ――あの透明なブヨブヨと完全に同化、溶けてなくなってただろうな」
ララヴィたちの長となった者は、管理者となるために百年に一度、ぼくの感覚では七百年に一度であるが、ルツボなるスライム状の生き物に吸収されることで、フライバターの情報を自在に引き出せる存在になるのだという。
「フライバターは群れることで、個体同士に刻まれた情報を共有できる。ルツボ――あの透明なブヨブヨはあらゆる生き物に寄生し、或いは取りこんだりする」
吸収した生き物の性質を自身に反映させ、新たな獲物をおびき寄せるのに使うのだという。ルツボのそうした性質をララヴィたちは利用している。ルツボと同化した長老を通じ、フライバターの群れから過去の歴史を、膨大な情報を引き出している。
「ならあの長老さまは幽霊みたいなものなんですね」
「そうじゃない」なぜか冷たい一瞥をもらう。「長老さまはもういない。あれはあたしたちの記憶にある情報が具現化しているだけで、たとえばおまえが繋がってもきっと長老さまは現れてくれない」
「そうなんですか」よく分からないが、死者は記憶に残ることで生きつづける、といった格言と似たものを感じる。
「時間がないが、場所を移動したほうがよさそうだ」周囲を見渡してララヴィは、「暗くなるとガオウが湧く」と言った。「きょうはテレコープを持ってきてない。遭遇すると厄介だ」
猛獣が襲ってきても撃退できないといったところだろう。解釈し、
「またお邪魔してもいいかな」
水を向ける。「うちというかルシェンの家はうるさいチビッコがいて。仕事、ズル休みしちゃってるし」
「そのつもりだ。あたしもあのひとには好かれてない」
「そうなんですか」
でもなぜ、と訊こうとしたところで、
「移動はあたしに任せて、おまえはそのあいだに情報を漁っとけ」
ララヴィはそそくさと歩きだす。来たときに使った巨大なダンゴ虫じみた生き物にみたび乗りこみ、コロコロ転がりながら移動した。
「ほらよ」
移動中、ララヴィから手渡されたブヨブヨは、どういう機構なのか、彼女が指で撫でつけるようにすると、ひらべったい球体に変化した。水晶を手でつぶしたような具合だ。手でその側面を撫でると、表面に点字じみた文字やら記号やら、ときには絵が映しだされた。文字に関しては、問題なく読み解けるが、特殊な名詞なのか、記号については大部分が解読できない。
ララヴィの家に着くまでに、神殿の起源についての理解を深めた。
家に着き、さっそく議論を再開させる。
「つまりあれは星の核なんですね」
「そうらしい」
「神殿が星の核って、ぼくの世界じゃあり得ないですけど」
「核のくせに地表にあるからか」
「それもありますけど」
「腹が減っただろ。待ってろ」
ララヴィは調理場らしき一画に立ち、なにやら貝殻のようなもののうえに、直接食材を乗っけていく。眺めていると、食材は見る間に姿を消していき、それはどうやら貝殻じみた生き物に吸いとられているようなのだが、しばらくすると貝殻じみた物体ごとこちらに運ばれてくる。
「ほら食え」
配膳するとララヴィはふたたび調理場に立ち、こんどは自分の分を用意しはじめる。
食べ方が解らない。貝殻のようだから開ければいいのだろうか。しかしがんじがらめになっていて、ちょうどそれは両手を祈るように噛みあわせた具合なのだが、どうやっても開けられる気がしない。まごついていると自分の分を持ってララヴィが対面の席に着いた。こちらの戸惑いを察したのか、ああとつぶやき、
「ここを一本、砕けばいいんだ」
お手本を兼ね、貝殻の一部を折った。ぼくはぷっちんぷりんを連想した。つぎの瞬間、ぱっかーんと割った桃がごとく貝殻は上下に割れ、中からは湯気を立ち昇らせた液体、虹色のドロドロが現れた。スープというよりもサイケデリックなゲロにちかい。ふしぎと美味そうに感じる。ぼく自身がそう感じているというよりかは、脳みそのほうでかってに唾液を分泌せよと命令をくだしている節がある。
さてはルシェンの好物だな。
推察しながら、そういえば、と思いだす。かつて観たアニメ映画のワンシーンだ。青ダヌキじみたロボットがどんな料理の「実」でもつけるふしぎ道具を用いて、カツ丼やらカレーやらを用意していた。人間の考えることはどんな突飛なことでも現実になり得る、というどこかの誰かの名言を思いだし、世界は深淵だわ、とこれまたかつて観た憶えのあるアニメ映画のセリフが脳裏に浮かぶ。
サイケデリックなゲロじみたスープを口に含むと、ふしぎなことに口のなかで固体化し、さらに噛むようにすると、味がころころと変わった。これは美味い。甘いのを食べたらしょっぱいのを食べたくなるように、ちょうどよい塩梅で、好ましい風味が舌のうえで転がる。
「おまえんところの世界にはああいったものはないのか」
「ああいったもの?」
急な話題に面食らうが、さきほど投げかけた話題のつづきだと気づき、ないですね、と応じる。「ぼくの住む世界も一つの星のうえに文明が築かれてはいるんですけど、星の核は地表に剥き出しになんてなってないですし、それこそ星の中心部にドロドロになって固まってます。あ、いや、液体だから固まってはないか」
「読んだから解ってると思うが」ララヴィはさきに食べ終えたらしく、カラになった貝殻を片づけがてら、例の記録媒体、いまはレンズじみた形態を維持しているデロデロを持ってふたたび席につく。「あたしらの世界はあの神殿を中心に創られたとされている。ムス姫さまが世界をお創りになられたってな」
ムス姫さま。ぼくたちの世界でいうところでの創造主といったところか。
「ぼくらの世界にもそういった【むかしばなし】は残ってますけどね。ざんねんながらおとぎ話でしかないんですなこれが」
ぼくたちという人間もまた、そうした神の手によって創られたとされており、アダムとイヴ、或いはイザナキとイザナミによって人類は誕生し、繁栄し、発展したんだといった話をぞんざいにまとめて聞かせた。
「むろんおとぎ話ですけどね」
「おまえたちの世界ではそうかもしれんが」
黙って聞いていたララヴィは頬杖をつき、
「あたしらの世界は本当にムス姫さまが世界を創られ、あたしらを創ってくださったんだ」と窮屈そうな口を開いた。
「はいはい」
「なんだよそれ」
「どこの世界には宗教はあるんだなぁって」
「なんだその態度。腹立つな」
「わるぎはないですよ。宗教がわるいとも思ってないですけど、信仰ってのはけっきょくじぶんで信じるものじゃないですか。他人に強要するのはいただけないですよ」
「それが事実でもか」
「事実なんて主観の数だけありますからね」生意気なことを言っているなとじぶんでも思いながら、「けども真実にそのムス姫さまなる人物がおわすなら」と口にしている。「手っとりばやく今回の一件も解決してほしいところだなあと思いまして。けどそうもいかないじゃないですか」
疲労が溜まっているのか、苛立っているじぶんを自覚する。が、言葉は止まらない。「解決策になんら与しない話を聞かされても困まっちゃうんですよねぇ。たといその話が本当だとして、だったらせめてどうやってそのムス姫さまなる人物が世界を創造したのか、原理はなんなのか、そのあたりのことを詳しく聞かせてもらわないと。神殿の起源がそのムス姫さまにあるとして、重要なのはでも、あの神殿が本質的にどういった存在なのかじゃないですか。ムス姫さまに直接訊けない以上は、現状それと切り離して考えるべきだとぼくは思うわけですよ」
言いながら、神殿にあった三つの棺、そこに眠る見知った顔つきの女を思いだし、よもやあれがムス姫さまではなかろうな、と嫌な閃きを得る。
「おまえが言っているのは正論かもしれんが」ララヴィの耳はなぜかいつも以上にとんがって映る。「あたしらにとってムス姫さまは親よりも身近でたいせつな存在なんだ。いくらなんでも言い方ってもんがあんだろ」
「すみませんでしたって。そんなに耳を尖がらせないでくださいよ。まるで鬼のツノですよ」
「オニ? なんだそれ。どうせ不細工な生き物かなんかだろ」
仕切り直すためにいちど席を立つ。
「トイレはどこですか」
「奥だ」むっつり答えたあとでララヴィは付け足した。「間違って消化されんなよ」
この家自体が巨大な生き物の内部である旨を失念していた。おどかされたからでもないが、
「やっぱり今はいいです」
席に着き直す。
議論をするにはお互いに疲れすぎている。手に入れた記録媒体をふたりで囲み、わけのわからない箇所をララヴィに翻訳してもらって理解を深める作業に終始した。
「そろそろ時間だぞ。いいのか」
「もうそんなに」
経ったのか、と時間の回るはやさに目を剥く。
この種族の体内時計は正確であるらしい。部屋に時を刻む装置、もとより生き物はいないが、なんとなしに今が一日のどの時間帯であるのかが伝わる。
「言伝とかあるか」ララヴィが言った。
「ルシェンにですか」
「ほかに誰がいる」
それもそうだ。おそらくルシェンたちはルシェンたちで、何かしらの案を練っているはずだ。カヨがルシェンに一方的に指示をだしていると言い換えてもいい。
「カヨという少女の話はしましたよね」
「あん?」
「いや、なんでもないです」
いっしゅん嫌な閃きを得てしまったが、考えすぎだと却下する。「伝言はないですけど、でも、ルシェンのふだんとは変わった言動を観察して、次回それをぼくに教えてほしいです」
「端からそのつもりだ」
「あと一ついいですか」
「なんだ」
「ああでもこれはべつにいっか」
あと瞬き数回分の時間もない。言うだけ言ってみろと促され、ぼくは言った。
「ララって呼んでもいいですか」
「はぁ?」
顔をしかめたあとでララヴィは耳をくねんと弛緩させ、
「好きにしろ」と言った。
つぎの瞬間、視界が暗転し、気づくと見慣れた天井を眺めている。元の世界に戻ってきた。やはりというべきかこちらの世界は落ち着く。重力の影響か、空気の問題か。
肉体はそれほど疲弊しておらず、それはむろん、昨日の行動による疲労のいっさいがこの肉体には蓄積されていないからであるのだが、精神的な疲れは消えぬままであるらしい。このまま朝までひと眠りしておきたいところだ。
が、ちと妙だ。
なぜか身体が動かせない。かろうじて首だけを傾げられ、見下ろすようにすると、ベッドごと身体を簀巻きにされている。
「ごめんなさい。でもあなたがわるいのよ」
暗がりから声がし、そちらのほうへ顔を向ける。
窓からは月光が垂れており、そこに人影がゆっくりと現れた。カヨだ。
「やあカヨちゃん。こういうプレイは嫌いじゃないんだけど、でも、できればちがう機会にお願いしたいかな。お兄さん、きょうはちょっと疲れちゃって」
「疲れてしまったのはわたしのほうです」カヨは語気を荒らげ、それでも覇気のない萎れた調子で、「困ったことになりました」
こちらを冷たく見下ろした。
第二章【三匹のメス豚】
「最初に忠告をすべきでした」カヨは言った。実験台のうえに寝かされたまさに実験体を眺めるような眼差しをそそぎながら、
「よもやあなたがここまで行動力のある人物だったなんて」
ベッドのうえに腰掛ける。しぜん、彼女の体温がこちらの太ももに伝わる。
なかなかに失礼な発言だ。
まずはともかく拘束を解くように説得すべきだと判断し、
「カヨちゃんね」
穏やかに語り聞かせる。「こんなことしなくてもぼくは逃げも隠れもしませんよ。まずはこれを解いて、それからお茶でも淹れて一服つこう。そとに何か食べに行ってもいいし、いっそのことこのままいっしょにネンネしてみせたっていい」
「ふざけないでください」
まさにふざけていたところなので、閉口する。「あなたはあなたがしたことの重要性を、その問題の深刻さをまったく理解していません」
まったくそのとおりだので、訊きかえすよりない。「問題の深刻さって? というか問題ってなんですの」
問題というならば、連日連夜、精神が異世界を行き来するこの状況そのものが問題だ。
「神殿に行きましたね」
断言するカヨだが、なぜ彼女がそれを知っている。
疑問に思うが、カヨはさらに、
「そこに眠る三人の女たちを見たはずです」と断定口調で言った。
三人ではなかったが、三つの棺を見つけたのは確かだ。うち一つの棺を開け、中に眠る美女を目にした。それはちょうどこちらの世界にいるはずの事務員さんに酷似していた。
「やはりそうなのですね」
それしかないのだというようにカヨは自らに言い聞かせる。「どうしよう。このままだと世界が……」
いったいどうなるというのだ。そこで黙るな。続きを言え。
「あのさカヨちゃんね」堪りかねてぼくは言った。「世の中、深刻になっていいことなんて一つもないよ。たとえ死に直結する問題があったって感情的になっては、解決するものも解決しないんだから。感情だってだいじだよ。それはもちろんだ。すべてを押し殺すのもまた身体によくない。けどもね、わたしは怒ってますよ、と示すために全力で怒るよりかは、怒りを制御できていますけれども、それでもわたくしめは怒っているのです、とやんわりと伝えたほうがより怒りが伝わりやすいと思うんだ。だってそうだろ。やたらめたらに矢が飛んでくれば人は身構え、それこそ楯を用意して、防御に回ってしまう。耳どころか心まで閉ざされては、伝わるものも伝わるめい。ところがどっこい、仮に愛の言葉をささめきながら改善してほしいところをそれとなく織り交ぜて伝えてみればあらふしぎ、頑固者で通っていたアラブの王も、油田の一つや二つ譲ってくれるってぇ寸法だ」
睡眠不足のせいか、妙なテンションになってしまった。「だからカヨちゃんね」ぼくは調子を整える。「ぜひともここは落ち着いて、おなじ目線に立って、それこそ、ぼくを縛っているこの縄を解いて、まずは一服つこうじゃないの。ぼくたちは共に一つの目標に向かって同じ道を歩もうと、いやいや、どころか自らこの手で切り拓こうとしている同士じゃないの。なにを諍いあうことがありましょうか。いまこうしているあいだにも刻一刻と、解決への糸口は我らの手元からするすると抜け落ちていく。見えるかいカヨちゃん。あの天上から垂れさがる糸口が。自分だけの未来を案じてそれを掴むことは許されない。ぼくを優先させ、おさきへどうぞ、とやさしく紐解くことができたならば、それはきっと運命の赤い糸となって、ぼくらを永遠に繋ぎとめるであろう。さあ、今こそ我らが手と手を取りあい、明るい未来へ、大きな一歩を踏み出そうではないか。まずはそう、ぼくをぐるぐる巻きにしているこの傲慢チキな縄を解くことからはじめてみようじゃないの。そうしてみてはいかが?」
「終わりましたか」
カヨはこちらを見ずに言った。マンガ本を手にし、紙面に目を走らせている。耳に栓をしていたようで、それはティシューを丸めて唾で濡らした簡易耳栓のようだったけれども、ともかく彼女はぼくの全身全霊の演説には目もくれず、耳すら傾けてはいなかった。こちらが落胆するよりもさきに、
「わたしちょっと出かけてきますね」
言って身動きのとれないこちらを残し、部屋を出ていってしまわれる。
「え、まじで?」
しばらく待ったが、まじだった。出ていったきりカヨは戻ってこず、ぼくは身動きのとれないまま、しずかに押し寄せる尿意の、かすかな、けれどはっきりとそれと判るシグナルを受信するのだった。
耐えに耐えたが無駄だった。
どうせぼくの部屋だ、なにを慮ることがあろうか。いよいよとなったときぼくは百年の苦行を終えた僧侶のような心境で、股間にたぎらせていた力を弛緩させるべく、諦観の念を鼻息に乗せ、今まさにゆるゆると吐きだそうとしていた。
そこで耳にしたのが、剣豪どもが刀を叩き合わせているかのごとき甲高い連続した効果音であった。ヒールだろうか、容赦なく踏みつけられていく階段のあげる悲鳴じみたその音は、祇園精舎の鐘の音さながらにボロアパートに響き渡り、何者かがアパートの二階にのぼってくることを盛大に知らしめた。間もなく、ぼくの部屋のまえで音はやむ。
カヨは鍵をかけていかなかったようだ。ドアノブがぞんざいに捻られ、扉が開いた。
「わるいごはいねがー」
「ぎゃあああ!」
「わるいコはっけーん」
「ミコ姉!」
土足のまま突っこんでくるミコ姉はぼくの従姉でありながら、だからこそと言うべきか、頭のネジが二、三個ぶっとんだ、ちょいとイカレた女である。
「コラコラ、いけないんだぞ。お姉さんとの約束を破っただけで飽き足らず、返信なしの放置プレイ。お姉ちゃん哀しかったぞ」
め、と布団のうえから圧し掛かってくるミコ姉を、ぼくは手でガードできない分、じかに肺が圧迫され死にかける。
「ほかの女のコと遊ぶようなわるいコには、お仕置きが必要だ」
掛け値なしにすでに充分お仕置きとして有効だ。非難してやりたいところだが、息ができず、声が出ない。尿意もいずこへとぶっとんだ。
「ねえ、どうして黙ってるの。寝てる? お姉ちゃんが来てやったんだぞ。ねえ起ーきーてーよー」
動くな、ずれるな、歳をわきまえろ。
「あ、なんかカチンときたぞ、カチンと」
何を思ったのかミコ姉はぼくのうえからどき、室内の明かりを灯した。それからこちらが身動きとれない状況を確認すると、ぞっとするほどつややかに舌舐めずりをした。
そこでぼくは思いだす。人生の汚点とも呼ぶべき出来事がぼくには三つある。密かに想いを寄せていたリエちゃんがサッカー部の先輩と放課後の部室でまぐわっていた現場を目の当たりにしてしまったことが一つ、そしてそのときに負った傷心を癒すべく、ぼくがいかに傷ついたのかを、その心境をミコ姉へ吐露したことが二つ目。ミコ姉はあろうことかこのとき、後日、部室で情事にふけっていた件の二人の動画を隠し撮りし、生徒たちが共有する交流ネットワークにそのデータをぶちまけた。停学処分をくだされた先輩は卒業もちかかったこともありそのまま無事学校生活を送ったが、しかしリエちゃんのほうは、自主退学するハメになった。動画をエサに男子生徒たちがリエちゃんに言い寄り、体のよい性欲のはけ口として扱っていたという噂も出回った。
そうした問題行為をなんの呵責も遠慮もなくやり遂げてしまう従姉のミコ姉が、ぼくの初恋の相手であり、初キスをした相手であるという忌々しい過去が、ぼくの人生の汚点の最初にして最大の汚点である。
クイーンオブザ汚点。ミコ姉。
ぼくはベッドにくくりつけられたまま、ミコ姉からあらんかぎりの方法で全身をくすぐられた。
当初こそ股間のモネモネがコチコチになってムンムンしたが、やがてそれもただ苦しいだけの刺激ックスへと進化した。全身くすぐりの刑は長い歴史を誇る中国においてもれっきとした拷問として確立されている。
まあ死んだよね。ふつうなら。
さいわいというべきか、精神的な免疫がぼくにはできていた。向こうの世界でそれこそ致死量を遥かに凌駕した快楽の坩堝を体験している。かといって平気なわけではなく、ぼくはスーパーカーのエンジンを搭載された軽自動車さながらに全身の筋肉を痙攣させながら、生と死の狭間を彷徨った。
しょうじきイッたよね。
射精せずに。
出ないがゆえに何度もね。
ぼくが事切れるよりもさきにミコ姉のほうが音をあげた。
「あーあ。なんか飽きちゃった」
鼻水とも涙ともつかない体液で顔面をぐしゃぐしゃにし、ぼくは息も絶え絶えで安堵した。
「ミコ姉……」
「あらま。まだしゃべれる元気あるんだ」
水を飲ませてくれ、といった要求ごとぼくは唾液を呑みこんだ。まず言うべきは謝罪であったことを思いだし、それはミコ姉の生態から導きだされた体験的自己防衛策であり、むろん正当な意味合いでの謝罪ではないのだが、ぼくは口にした。
「わるかったって。すこし立てこんでて、それこそちょっとした事件じみてて、ミコ姉を巻きこみたくなくて、だから」
「約束を破ったの? 致し方なく? 私のために?」
ぼくは首を縦に振る。全身を波打たせるがごとく、ぶんぶんと。
「そっかあ。でもなら、なおのこと私を頼ってほしかったなあ」
「つぎからはそうする」
「約束してくれる?」
「もちろんだともさ」
「ならゆるす」
世に迷える罪深き子羊たちをやさしく抱擁する女神さまのような微笑を湛えながらミコ姉は、自らの傍若無人な振る舞いを華麗に棚上げしてみせた。
まあ、お上手。
冷蔵庫のなかはヨーグルトで占領されているため食事もままならず、まずは腹ごしらえとばかりに近所のファミレスに足を運ぶ。ヨーグルトで水分補給してもよかったが、せっかくの空腹だ。最初の一口は好物でお願いしたい。かつてない至福の一口となるだろう。
「私も何か食ぁべよっと」
店に着くなりミコ姉はこちらを差し置いて本格的に食事をはじめた。干からびた身体を潤すべくぼくは、コーンスープを注文し、それからお腹をびっくりさせないように間を置いてからハンバーグセットを注文した。運ばれてきたハンバーグセットにフォークを伸ばす段にはすでにミコ姉はパスタ、マルゲリータ、ステーキセットを完食しており、さらにデザートを追加注文した。
「それで、あのコは誰なの。彼女?」
脈絡はいずこといった塩梅に会話を復活させたミコ姉は、こちらが返事をするまで黙々とチョコバナナパフェを口に運んだ。黙っていてもよかったが、漂う沈黙がミコ姉らしからぬ平穏さを醸しだしており、それはあたかも嵐の前の静けさのようで、端的にこわかったので、致し方なく、ぼくは応じた。
「彼女じゃない」
「でもエッチしたんでしょ」
「してない」と、ここは正直な旨を告げておく。ぼくは、と付け加えてもおく。
「ふうん。ぼくは、ねぇ」
ゆびに髪の毛を巻きつけながら、ついでのように冷淡な目をしながらミコ姉は、「ねえ憶えてる」と言った。「ジンちゃん、むかしはよく私のことミコ姉ちゃん、ミコ姉ちゃんって生まれたばかりのヒヨコみたいにピヨピヨ鳴いて追いかけてくれたんだよ。あんなにかわいかったのにジンちゃんってばこんな節操なしに育っちゃって。むかしはあんなに一途だったのに。お姉ちゃんかなしい」
「あれはだって」
「だって、なに」
勘違いしていたんだと言いかけて口をつぐむ。だいじな思い出ほど他人には話したくないものだ。
幼いころの記憶があいまいなぼくは、物心つくのが遅かった。自分が自分であるという自己認識を形成するための他者の介在が、小学校にあがるまでのぼくには決定的に欠けていた。
小学校にあがるまでの一年をぼくは施設で育った。その後、育ての親となるおじさんおばさんに育ててもらった。拾って、もらった。
初めて得た家族だった。
ただ、ぼんやりとではあるけれど家族のようなものの片鱗をいつもどこかで感じてはいた。
曖昧な記憶のなかに現れる女の顔がある。
母親なのか、姉なのか、それとも赤の他人なのか。
顔の輪郭は覚束ないが、記憶のなかの彼女はいつもぼくを見つめ、ぼくに瞳を向けている。
笑った顔があるようでなく、ふしぎなものを見るような顔つきで、まるで手に入れた珍しい生き物を観察するような手つきでぼくの頬を、身体を、撫でつけるのだった。
淡い幻想でしかない。
そんな女は存在しない。ぼくの思い描いたまやかしだ。
ただ。
おじさんの妹の娘、すなわちぼくからすると叔母にあたるひとの娘、言い換えれば従姉のミコ姉と初めて顔を合わせたとき、曖昧だった記憶なかの女の輪郭に色が宿ったのを覚えている。
ぼくは懐いた。必然だったように思う。
夢のなかの女が、幻が、目のまえに、触れられる距離にいた。
珍しい生き物を見るような目つきまで変わらず、イタズラにこちらの頬をつねっては遊ぶ彼女の振る舞いがまたいちだんと記憶のなかの女を彷彿とさせた。
それから長いことぼくはミコ姉を慕った。
ヒヨコのようにピヨピヨとは鳴かなかったはずなのだが、親を追いかけるヒナさながらにぼくはミコ姉の背中を追いかけた。
思春期に差しかかった辺りまでそれはつづいたように思う。
刷りこまれたはずの、愛着やら憧れやらが、では、なぜ途切れてしまったのか。
中学生になりたてのころだった。トモダチがおらず、かといっていじめられるほど同級生たちとの交流のなかったぼくは、いつだって独りで公園にいた。
いっぱしに反抗期に突入していたミコ姉からやんわりと、しかしせつに、「もう、あまりベタベタしていられないの」と頬を赤く染めあげられて言われてからというもの、持て余した暇をどうして散在してやろうかとぼくは闇雲に街を練り歩き、探索していた。青春というものを探していたのかもしれなかった。部活動にでも入ればよかったものを、ミコ姉をピヨピヨ追い掛け回して培かわれた経験値に、集団のなかでの立ち回り方や処世術はちっとも含まれていなかった。
家にこもっていてればよかったものを、それを断行できるほど育ての親のあのひとたちは嫌なオトナではなかった。悲しませたくなく、心配されたくもなかった。
けっきょく毎日のように放課後街をぶらぶらしていたぼくが、生贄を求め彷徨う死神に目をつけられるのは必然だったのかもしれない。
その日、ぼくはトラックに轢かれかけた。いや、かけたなんて生易しいものではない。明らかにトラックは車道を越え、ぼくに向かって突っこんできた。
間違いなく死んでいた。
ぼくだけであったなら。
助けてくれたひとがいた。
ひと、と呼べるほどにはまだ成長も成熟もしていない、幼児体型の少女だった。
少女あるまじきちからでこちらの腕を引っ張り、彼女はぼくを助けてくれた。救ってくれた。正面きって命の恩人と呼ぶのもはばかるほど彼女は誰が見てもぼくの命の恩人だった。
が、礼を口にする前に、件の少女は事故現場から去っていった。名前を聞く暇はなく、また彼女も名乗らなかった。顔を憶えていれば或いは、後日、そのコを探しだして礼を述べてもよかったが、あいにくと彼女は素顔ではなかった。
なぜかウサギの仮面を被っていた。
その日以降、その体験以来、ぼくはミコ姉への執着が薄れたのを感じた。
言ってしまえば性癖だったのだろう。
ぼくは、ぼくの記憶にある女性の面影を、幻影を、ミコ姉に投影していたにすぎなかった。
後腐れなく、しれっとあっさりと姉離れを成し遂げたぼくに、ミコ姉はいい顔をしなかった。ヒヨコだったヒナがピヨピヨ鳴かず、独り立ちするようになった様を「成長」の二文字で済ませられるほどミコ姉はオトナではなかった。或いは彼女はぼくが思っていたよりもずっと幼いままだったのかもしれない。憧れという魔法が解けた途端に、これまで見逃してきたあらゆるミコ姉の生態が詳らかとなった。詳らかになったそれを異常性と言い換えてもいい。
立場は完全に逆転し、ピヨピヨ鳴いてつきまとうのは、ぼくの役目ではなくなった。
ウサギの仮面を被った少女とはその後いちども会うことはなかった。ぼくは未だに彼女の姿をまぶたのうらに思い描くことができる。記憶というよりもそれはどこか刻印めいていた。
高校を卒業するまでのあいだにぼくはことあるごとに死にそうな目に遭うのだが、数えれば三回ほどの窮地であり、言うほど「ことあるごと」というほどでもないのだが、大学入学を果たすまでのあいだに体験した集団リンチと野犬の群れからの襲撃、そして卒業旅行に出向いた旅先で遭難しかけたとき、そのいずれにおいても、難を逃れ、九死に一生を得た。
運がよかったとしか言いようがなく、じっさいにただ運がよかっただけなのだが、ぼくはいつもそこにウサギの仮面を被った少女の姿を重ね見ては、シンデレラ症候群をこじらせていた。神さまはいつだって見守ってくださっていると日々つつましやかに祈りを捧げる信者のように、ぼくは記憶のなかの少女に、パッとしない日々からの脱却を夢見ていた。
育ての親のあのひとたちが死んでしまうまでそれはつづいた。
否応なく、非現実というやつがぼくの生活を脅かした。
同時にそうした荒廃した日常も、ある一定の期間をすぎると、単なる日常として定着する。
遺産があったのがせめてもの救いだ。ぼくは大学を辞めずに、卒業する気もなく、自堕落な日々を送っている。
バケツ一杯の砂糖水くらい甘っちょろいそんなぼくを支えてくれていた数少ない人物のなかに、ミコ姉が含まれていない、と言えば嘘になる。恥を忍んで言ってしまえば、彼女だけがぼくを支えてくれたとまで誇張して言ってしまってもいいかもしれないが、言えば確実に図に乗るだろうし、彼女にしてみたところでそれは肥大化しきった自己愛からくる歪み、自重により押しつぶされまいと抗うための代償行為でしかあり得ない。
じっさい、育ての親たるあのひとたちが事故で亡くなったとき、ミコ姉はぼくのことを引き取るようにとオジサンとオバサンに頼んだようだが、当然のごとく却下され、しばらくのあいだ家出をした前科がある。行く当てなどあるはずもなく、流れるようにぼくのところに押しかけ、居つき、オジサンとオバサンを呆れさせ、同時にぼくへの反感にも似た危機感を彼らへと募らせた。
真実にぼくのことを思っているならば、考えているのならば、ああいった独善的な行いはしないはずだ。
いわゆるメサイアコンプレックスであり、自己愛性人格障害者なのだろう。ねじれた自意識からくる、他人を使った体のいいオナニーにすぎない。
いくら突き離しても構ってくるミコ姉という存在はぼくにしてみたところで、なければないでいいが、あれば便利、というくらいの認識として君臨している。サムイボの立つ青白い尻を温めるのにちょうどよい湯たんぽ代わりだと言えなくもない。
ともかくとしてぼくはミコ姉を過去、憧れの女性として、初恋の相手として見初めていた時期がある。
断固として過去の話である。
「つうかいいのかよミコ姉」
話を逸らしがてら水を向ける。「こんなところで油売ってて。仕事は?」
「あれ、言ってなかったっけ。先月辞めたんだよ」
「は?」
「なんか疲れちゃって。で、引っ越すことにしたの。あれ、話したよね。だからジンちゃんにはその手伝いを頼んだんだけども」
「引っ越すってどこに」
「そんなの決まってるじゃない」
嫌な予感がし、聞きたくないと耳を塞ぐよりもさきにミコ姉は言った。「ジンちゃんの部屋だよ」
ちょっとマジで。
そういった声がとなりの席から聞こえてきた。ほとんど現実逃避をかねてそちらの会話、大学生と思しき四人組の女たちの会話に耳をそばだてた。目のまえでは反論を呈さないぼくへ満足げな微笑をさらしているミコ姉がいる。
「ねえ見て」「コラじゃないの」「どうせデマだよデマ」女たちは口々に意見を言い合ってはいるが、どうやら何かしらの映像を、画像かもしれないが、メディア端末越しに見ているようだ。
「都市が消えたとかないでしょー」「隕石じゃないの」「だからコラだって」
なにを真面目に受け取っているのだ、と一人の女性が冷めた語調で諌めているが、どうやらインターネット内ではそうした話題が爆発的に拡散しているらしい、間もなくほかの客たちまで同様の話題に言及しはじめた。
「え、なんだろ」
ミコ姉が耳ざとく反応し、自身のメディア端末を取りだした。操作する。「お、お。なんかおもろいことになってんよ」
言って身を乗りだすようにし、頼んでもいないうちからこちらにも見えるように端末をテーブルのうえに置いた。
画面には青白い空が映しだされている。今が初夏であることを思いだす。ふしぎなことに画像の真ん中には丸くえぐれた地面があり、そのふちを、住宅街が取り囲んでいる。そういったミニチュアセットのように映るが、そうではないのだろうか。精巧な街並みが、えぐれている。巨大なスプーンでプリンを掬ったがごとく有様だ。ミコ姉がさらに操作し、ニュースを起動させた。現在進行形で放送されているニュースのようだ。
キャスターの言い分を信じるにかぎり、どうやらさきほどの画像は本物であり、真実にとある街の一画が消し飛んでしまったようである。
ふしぎなことに画像にはモヤ一つ映ってはおらず、なにかしらの爆発によって生じた参事ではないように映った。
なにより、キャスターが口にした件の街は、まさにぼくの住む街であり、このファミレスから一キロと離れていない場所だった。
「てかスグそこじゃん」
ミコ姉のつぶやきにぼくの意識はファミレスのそとに向かった。なぜ気づかなかったのだろう。ただごとではないと解らせるだけの喧騒が、そとからは漏れて聞こえている。
支払いをミコ姉に任せ、ぼくは店のそとに出た。サイレンがない。消防署ごと土地が消えてしまったようである。
目のまえを自動車が列をなして通りすぎていく。巻き上げられた空気が熱気となって眼球を殴りつける。土地消失現場から一刻も早く離れようとしている群れであるらしい。自動車はいずれも一方向に流れており、ときおり数台の車が列とは真逆の方向へと走り去る。近くの駐屯所から派遣された自衛隊の車両だ。見遣れば周囲の騒然とした通行人たちは帰宅の途についているらしく、一刻もはやくここから離れるべく、一様に駅のほうへと流れていく。そらにはヘリコプターが一機だけ飛んでおり、おそらくは現場周辺を偵察しているのだろうが、ただごとではない雰囲気に磨きをかけている。
よもやぼくのせいじゃないだろうな。
昨晩のカヨの尋常ではない周章狼狽具合を思いだし、嫌な汗を掻く。まずはともかくアパートに戻り、こちらも相応の事態に備えようと思った。可能ならばひと月くらい実家に戻ってみてもいい。実家とはいっても、無人の家屋だ。宿主がいない今、売り払ってもよかったが、この数年ずっとそのままにしている。隠れ蓑にするにはうってつけだ。
そうと決まれば長居は無用だ。
ぼくは踵を返そうとし、そうだった、と思いだす。「遅いな」
なにやってんだ、あのバカ。
なかなかな戻らないミコ姉に舌を打つと同時に、すさまじい破裂音が轟いた。
ファミレスの外壁が弾け飛んだ。内側から破裂している。衝撃波が音となって飛んできては、身体の表面をぶち、全身の骨という骨をしびれさせる。
ビスケットにデコピンをくらわせたような具合だ。中からは砲弾の代わりにミコ姉が飛び出してくる。ひっつめに結われた長髪は解け、ざんばらに逆立ち、それはもはや縮毛パーマでは太刀打ちできない逆立ち方をしているのだが、幼いころに読んだ絵本「三枚のお札」の鬼婆を彷彿とさせる出で立ちで、口からは蒸気じみた白い息を吐きだしている。色気もくそもあったもんじゃない。スカートが肌蹴てカタチだけはいい太ももが露出しているが、蟹股の、それこそ飛び跳ねる前のバネを連想させる出で立ちはやはりというべきか色気がない。
見てくれだけが取り柄の女だったのに。
可哀そうに思っていると、間もなくミコ姉は――もはや彼女の人格の要素は皆無に思えたが、こちらに向け跳躍した。
跳躍、と言っていいのだろうか、人間を超越した動きで以って直線的に突っこんできたミコ姉は、こちらがひょいと一歩よこにずれただけで容易に目標を見失い、路駐してあった自動車の側面にめりこんだ。
そう、めりこんだ。
さながら豆腐にぶつかった鉛のように。もうすこし外装が固ければ、そのまま自動車ごと反対車線までぶっ飛んでいたかもしれない。
「わ、わるいミコ姉」
とっさに避けてしまったが、今は受け止める場面だったのでは。思うが、一介の人間に受け止められよう衝撃ではなかった。
思い直し、じぶんの選択を肯定的に受け止める。
よくぞ避けたおれ。
ドア部分がひしゃげている。勢い余ってミコ姉は自動車を貫き、車道に転げ落ちていた。
地面に倒れているミコ姉は、そのまま自身の無事を確かめるしぐさもなくゆっくり立ち上がり、またぞろ両手をだらりと下げ、色気のない立ち方でこちらを向く。
長髪が顔を覆っているため表情は覚束ない。が、位置をずれてなおこちらを向いている。
確信する。
狙いはぼくだ。
ミコ姉は損壊させた自動車を飛び越える、その動きもまた人間にあるまじき跳躍に映ったが、こちらのまえに着地するとミコ姉は、すかさずモンキーパンチを突きだした。
モンキーパンチ。バナナを欲するサルがごとくただ勢いに任せて拳を振りかざす、知性のない人間であっても繰り出すことの可能な原始的打撃だ。ときにゆびを開いたままでいることで斬撃と化す、なかなかに油断のならない技でもある。が、
「お、っぶね」
過去幾度となく食らってきたモンキーパンチを避けるなど対ミコ姉専門家のぼくにとってはお茶の子さいさい。というよりも身体のほうでかってに反応してしまう。条件反射を刻まれるほどにミコ姉からいじめられて育ったという逆説でもある。
「にしてもホントどうしたんだ」
頭のおかしい女だとは認めていた。よもやここまでとは思わなんだ。
ミコ姉が吠えた。周囲のビルの窓ガラスという窓ガラスが砕け散り、陽射しのように降りそそぐ。ミコ姉の足元がお盆型にくぼむ。そこだけ重力が何百倍にでもなっているかのようだ。地響きがないのがふしぎなくらいだ。
耳をふさぎ、その場に蹲りながらぼくは、破裂しただろう下水道から立ち昇る悪臭に鼻がもげそうになる。突然降って湧いた奇禍に唾を吐きつけたくもなる。
身体をつつんでいた衝撃、それこそミコ姉のあげていた咆哮が途絶えるが、耳鳴りが鼓膜に張りついて離れない。
伏せていた顔をあげると、目と鼻のさきにミコ姉の繰りだしたモンキーパンチが迫っていた。
避けられない。
思った矢先に、全身に衝撃が加わる。
ぼくは地面を転がった。
が、身体は無事である。地面に散らばったガラスに映るじぶんの姿で無事を確認する。身体どころか顔面も無傷で済んだようだ。胸を撫でおろす。
「やっぱりこうなった」
ぼくのまえにはすらりと伸びた脚があり、それは陶芸品のように艶やかで、しなやかで、そういった武器が地面に突き刺さっているのではないかといっしゅん錯覚しかけた。が、脚からは太ももが伸び、さらにお尻へと繋がり、衣替えの時期はまだなのか、ブレザーの制服を着こなした少女の後ろ髪が、華奢な背中に揺れている。
「カヨちゃん」
「あなたのせいです。ぜんぶ、ぜんぶ、あなたがよけいなことをしてくれたから」
助けてくれたのか、と感謝の言葉をつむごうとしたところでふたたび全身に衝撃が走った。またぞろ地面を転がる。カヨに回し蹴りされたのだと、こんどはきちんと視認できた。
文句を言ってもよい場面ではあるが、今まさにぼくのいた場所が、大きく窪んだ。ミコ姉だ。猛然と突っこんできた彼女が、まるでそういった巨大なスタンプであるかのように地面にお盆型のくぼみを開けた。さきほどのくぼみよりも深く、鋭く、より大きい。ビルの外壁まで円形に消し飛び、あたかもそこだけ丸いバケモノに喰われたかのような有様だ。
あの場にいたらぼくの脆弱な肉体などひとたまりもなかっただろう。
カヨがぼくのまえまでやってくる。とっさに背を丸め、ぼくは防御の態勢をとる。カヨはそんなぼくの襟首を掴み、ぞんざいに立たせると、不承不承といった調子で、
「逃げますよ」
言って手のひらをまっすぐと伸ばした。地面と水平になるように掲げている。手のひらのさきにはミコ姉がいる。
ミコ姉はふたたび跳躍し、こんどは放物線を描きながら、真上から垂直落下しはじめた。落下地点は推して知るべしだが敢えて言語化してみよう。ぼくの立っているこの地点だ。避けなければ直撃する。危ない、と頭を庇うようにした矢先、ぼくの両腕の合間からは、ミコ姉の不自然に吹き飛ぶ姿が見えた。さながらラケットで打ち返されたテニスボールのごとく、直線を描いて飛んでいく。視界のさきに伸びる道路はゆるやかな上り坂になっており、ミコ姉はそのまま、アイスクリームを掬うスプーンさながらに表面を削りながら転がった。クレーターが空き、数百メートル先で止まる。隕石の落下を思わせる光景が眼前にしれっとした顔で広がっている。
衝撃波じみた爆音がこちらに届くが、身構えるより前からすでにカヨはこちらの腕をとり、そそくさと歩きだしている。
「単刀直入に言います。死んでください」
部屋に戻ってくるなり、カヨは言った。ぼくは耳を疑うよりさきに、カヨの握りしめた包丁にあたふたする。
「これで死ぬのと、さっきのヤツみたくぶっ飛んで死ぬの、どっちがいいですか」
「どっちもいやに決まってんでしょ」
というかミコ姉、死んじゃったの?
突然のできごとが多すぎて情報の処理が追いつかない。
「さあ、どっち」
刺されて死ぬか、ぶっ飛んで死ぬか。
死ぬ以外に選択肢はないんですか。乞いたい気持ちをぐっと呑みこみ、いつでも窓から遁走できるようにベッドのうえに退避する。「まずは話しあおう。カヨちゃんはなにをそんなに怒ってるのかな。というよりもさっきのアレとか、町が消し飛んじゃったアレとかがぼくのせいだなんて言わないよね」
「解ってるのなら……!」
包丁の切っ先を突きつけられながらも、ぼくは内心こう叫ぶのにいそがしい。
おとといまでのぼくのカヨちゃんはどこいった!
「分かった、すまなかった、ごめんなさいでした」ぼくはまずは非を認めることにした。なにがわるかったのかは不明なのだが、「すべてはこの不肖、翼馬(よくま)甚生(じんせい)のせいでございます」
ベッドのうえで土下座の態勢をとる。
「謝って済むなら地獄はいらないです」
「地獄に堕ちろとでも!?」
「これから味わうものがその片鱗です」
「やだこわい」
「死んだほうがマシだと思うほどの苦痛を想像できますか」
「なんか、すごく痛そう」
調子よく合の手を入れていくと、カヨは手にしていた包丁を壁に投げつけ、それはダーツのように突き刺さったのだが、ともかく凶器を手放したカヨはその場にストンとひざをつける。膝を抱え、丸まった。
「もう、どうしたらいいのか……」
だいぶん弱っている様子だ。ぼくに消えてほしいと思っているのはたしかなようだが、その横車を強引に押し通す気力がもはや湧かぬようである。
「なんだろう、ぼくが死ねばそういうたいへんな問題が解決するのかな」
「いいえ」カヨは否定する。「ただ、あなたがこれ以上、事態を掻きまわすような真似はせずに済むでしょ」
「ぼくの何がよくなかったのかな」参考までに聞いておきたい。
「これから死ぬひとにどうして」
言わなければならないのかという不満はもっともだが、ぼくだってさらさら死ぬ気はない。
思った矢先に、なぜか胸にちくりと刺すような痛みが走る。
奇妙に思いながら、
「カヨちゃんには何か解決策とか打開策とか、そういうのってあるのかな」
「ないです」
「これからどうすればいいとかそういうプランは……」
「だからそんなものはどこにもないって言ってるでしょ」
あなたが彼女たちを目覚めさせたりするから、とカヨは怒鳴った。顔面を涙でぐしゃぐしゃにし、ぼくのすべてが気に喰わないのだとその目に敵意を滲ませて。
「彼女たちってのはさっきの女のことかな」
ぼくは怯まない。ミコ姉のことなのか、と訊ねる。そうとしか思えなかったが、筋が見えない。
「あの方もそうですし、ギャル女さんや事務員さんも」
「なんだって」
こんなときだというのに、カヨまで彼女たちのことをそんなあだ名で呼んでいたのか、とそちらのほうに驚く。「カヨちゃんまでそんな失礼な呼び方をしていたのか」
言いながら、神殿で開けてしまった棺の中に眠る事務員さんに似た女を思いだす。「ないとは思うけど、もしや神殿の……」
「そうです」
「ちょっと待ってくれ」
「あなたが目覚めさせたりするから」
「神殿はでもあっちの世界にあってこっちには」
ないのだから、棺に眠っていた者を起こしてしまったとしても、すくなくともこちらの世界には影響はないはずだ。そうだと言ってくれ。
「回収者なんです」
「なに?」
とつぜんの話題に当惑する。「回収車? ゴミの?」
「彼女たちはカルマの回収者。こうした不測の事態が生じたときにわたしに代わって事態を収束させることが彼女たちの役目。いわば世界のリカバリーを担った者たちです」
「待ってくれ、もうすこし解るように話してくれ」
まるで端からミコ姉が、世界を復旧させるための歯車の一つだったかのような言いぐさだ。あの女にそんなたいそうな役割があってたまるか。「ミコ姉はなんだってあんなスーパーゴリラ人みたいになっちまったんだ。あれはミコ姉じゃないのか」
「あなたの知る彼女はもうこの世界にはいません。おそらく、あなたがあちらの世界に人格転移することも、もうなくなったでしょう」
よかったですね、と吐き捨てられる。
「きのう、事務員さんがとつぜん目覚めました」カヨは淡々と話を進める。「あなたが棺を開いたのだとわたしは察しました。なんとか大事になる前に拘束したのですが、残りの二機、ギャル女さんとあなたの従姉がもし目覚めてしまえばわたしの手には負えないんです。そうならないように祈るしかなかったのですが、さいわいにも残りの二機はそのままでした」
そりゃそうだ。ぼくの開いた棺は一つきりだ。「ならどうして」と問う。どうしてミコ姉はあんなスーパーゴリラ人みたくなってしまったのか。
「ルシェンさんに頼んでおいたんです。あちらの世界に回帰したならばイの一番で神殿に向かってほしいと」
「なぜ?」
「事務員さんが覚醒し、回収者として目覚めたならば、事務員さんの人格はどこに消えたと思いますか」
「まさか」
「あなたとルシェンさんのように、あちらの世界に飛ばされたはずです。そしてもし彼女があちらで目覚めたとするならば、その場所は神殿内部。まさに棺のなかということになります」
カヨの言いたい旨は理解した。もしあんな場所で目覚めたとしたら、ここはどこなのかと辺り構わず引っくり返すはずだ。あの場にはほかに二つの棺があった。事務員さんがそれを開けてしまったというわけか。
「そうならないようにルシェンさんに頼んでいたのですが、どうやら間に合わなかったようですね」
「ギャル女さんはどうしたんだ」
「事務員さんを拘束したあとで、目覚めてしまう前に彼女もまた拘束しておきました。ですがもうすでに二人とも拘束から脱し、わたしたちを血眼になって探しているはずです」
「ちょっと待て。なんでぼくらを探すんだ。いや、カヨちゃんを狙うのは解る。でもなんでぼくまで狙われなきゃならんのだ」
「彼女たちはカルマを探しているんです」
「回収者だからだろ」それは解るが、「だからってなんでぼくたちに、それこそぼくに矛先が向くんだ?」
「カルマはここです」
「どこです?」
カヨはただ虚空を見つめているばかりで、いや、これはぼくを見つめているといったほうが正確かもしれないが、しかし、なにゆえぼくを見る?
んん……。
ちょっと待ってほしい。
ひょっとして、それはひょっとするのかい。
おいおい。
冗談はおっぱいのなさだけにしてくれ。
「よもやぼくがカルマだなんて言わないよな」
「カルマがなんであるかはすでにお話ししたはずです」
「二つの世界を結ぶ蛇口のような玉ころだろ」
「二つの世界を行き来するナニモノかに心当たりはありませんか」
やめろやめろ。
ありすぎてぼくちゃん困っちゃう。
「なぜ回収者があなたの身の回りの人物だったのか、ふしぎには思いませんでしたか」
ふしぎすぎて頭が痛くなってきたところだ。
「すべては、あなたがカルマであることで氷解する謎だとは、そうは、思わないですか」
「思いたくないんですが!」
「ダメです。あなたの存在がカルマという危険因子。回収者はあなたを破棄し、ふたつの世界のリカバリー、白紙化を押し進めます。それが彼女たちの存在意義であり、役割だからです」
「つまり世界が消えてなくなるってことか」
「このままだといずれ。この世界が誕生する前の姿に、無に帰してしまうでしょう」
「どうすれば防げるんだ。ぼくが死ねばいいのか」
「あなたの存在そのものがカルマなんです。死んだところで何の意味もなしません。ですが、あなたがこれ以上事態をややこしくするようならば、今ここで動かぬ屍となってもらったほうが好ましいとは思います」
「思わないでくれ」まったくちっとも好ましくなんてないやい。「どうすればミコ姉たちを止められる? 動きを封じるだけでは意味がないんだろ。というか事務員さんを拘束したって言ってたな。回収者として覚醒してたんだろ。それ、どうやったんだ」
「わたしの能力をすこし使いました。けれどそれももう解けている頃合いでしょう」
「また捕まえるわけにはいかないのか」
「やってはみますが、上手くいく保証はありません。三機すべてが目覚めた時点で、わたしの手には負えないんです」
そうでなければ最後の砦、セキュリティの意味がない、とカヨは零す。
「ならどうすれば」
「回収者を滅せば或いは……」
「滅する? ミコ姉を殺せとでも」
「彼女はいま、この世界にはいません。この世界にいるのは回収者。あなたの従姉ではないんです」
「だからってそんな」
「あなたにはなにも期待していません。この部屋から出ずに、すべてが決着するまでなにもしないでください」
これ以上事態をややこしくしないでください。
カヨは縋るようにそう言った。
部屋から出るな、じっとしていろと念を押してカヨは部屋を出ていった。彼女にはわるいが、じっとなんてしていられない。世界の行く末をどうこうするような大役を彼女一人に任せてなんていられない。いられるわけがないのだ。
いたいけな少女にあんな顔をさせてしまったなんて。
カヨの虚ろな眼差しを思いだし、ぼくは股間がせつなくなる。
なぜかふいにロリばばぁという言葉が脳裏に浮かぶ。外見は幼女だが中身は熟しきった老年の女性を示す言葉だ。サブカル界隈ではそう呼ぶことがある。齢数百歳のくせして見た目が少女なんてそんなのはおとぎ話のなかだけだ。
そうだとも。
いくら過去の記憶が残っているからといってカヨは正真正銘、七歳の少女だ。この世界に生を享け、この世界で育った。過去いくどとなく転生してきた記憶が受け継がれていたとして、カヨとしての人格は確実にこの世界で育まれたはずなのだ。
たとえロリばばぁだったとしても、ぼくにとってはしがない女子中学生、無力なかわいい少女でしかない。
そうだとも。映画レオンの殺し屋をいまこそ見習うべきではなかろうか。
「ロリコン紳士を舐めないでもらいたい」
午前零時を回ってもぼくはもうルシェンの世界へと人格が転移することはなかった。カヨの言ったとおりだ。魂などという形而上学的な存在などさらさら論じる気のないぼくはであるが、ぼくという存在の根源を司るなにかしらがこちらとあちらを行き来していた事実について疑問を投じるつもりは毛頭ない。
部屋を飛びだし、深夜の街並を彷徨い歩きながら考えを巡らせる。
カヨの話をイチからジュウまで信じるとして、問題なのはなにゆえ途端に精神転換しなくなったかについてだ。回収者が目覚めたからだとする向きが濃厚だが、ではなにゆえ彼女たちが目覚めると精神転換しなくなるのか。
彼女たち回収者が精神転換しているからだとする考えがしっくりくる。ぼくとルシェンの精神が転移するのに必要ななにかしらの機構が、彼女たちによって利用されているためにぼくたちが精神転換できなくなった。
すなわちそれがカルマであるのだろう。同時にぼくがカルマであることの傍証ともなり得る。カルマによってもたらされていた影響が、介入者によって断たれたので、ぼくは精神転換しなくなった。
二つの世界を結ぶ接点。行き来するための機構。蛇口。
そしてその影響を断ち、あべこべに利用してこちらの世界にやってきた回収者たちは、それそのものを回収するために、カルマを、すなわちぼくを探している。
なるほど、ねじれた推論ではあるが、筋は通る。
だとすると、しかし、では、なおさらわけが解らなくなる。
ぼくがカルマだったとするならば、そしてカヨがそれを知っていたとするならば、なにゆえ――。
――カヨはぼくを回収しなかったのか。
今回の一連のドタバタ劇は、雑然としていたために主軸がはっきりしなかったが、要点をまとめれば失くしたカルマをカヨが回収すればそれでめでたしめでたし、大団円を迎えられるはずだった。
それがどうだ。
じつはぼく自身がカルマであり、カヨはそれを知っていながら、わざと見て見ぬふりをしていた。
なぜだ。
不測の事態が発生したときのために回収者なるセキュリティが備わっていたことをカヨはむろん知っていたはずだ。それが起動しないようにと細心の注意を払っていたようにすら思える。
転生一日目のルシェンが、ぼくの与り知らぬところでギャル女と事務員さんを手籠めにし、手元に置いておいたのにはおそらくそういった背景があるのだろう。畢竟するにカヨの差し金だ。
カヨの指示によってルシェンはギャル女と事務員さんに接触し、肉体的愛撫を以って懐柔した。
ひょっとすると黙っていても回収者はいずれ目覚める手筈になっていたのかもしれない。そうならぬようにとカヨが先回りして、回収者の素体となる事務員さんたちになんらかの枷を強いていたのかもしれない。それをぼくが、「向こう側」からこじ開けてしまった。より中枢にちかい、あちらの世界、神殿の内側から。
では仮にぼくがそのような余計な真似をせずにいたとして、ではカヨはいったいなにをしたかったのか。
カヨの目的はなんだ?
世界を白紙にしようと働く回収者たちは、カルマ紛失をきっかけに起動した。カルマ紛失騒動の発端はといえば、ルシェンが生贄としての役割を十全にこなさなかったからで、言い換えれば棺のなかに入らなかったからだ。
しかし真実にそうなのだろうか。
ひょっとしたら転生するはずのカヨそのものが転生を拒んだからこそこんな事態になったのではないか。
そうだとも。
ルシェンが棺に入らず、それでカルマがこちらの世界に残ったとして、どうして見失うはめになるだろう。カルマは常にカヨと共にあったはずだ。
ではなにゆえカヨの手元を離れ、あまつさえぼくという存在と融合し、あちらとこちらの出入り口と化しているのか。
そもそもを言うならば、どうしてぼくはルシェンと人格を転換しているのだろう。ルシェンと対になるのは本来ならばカヨだったはずだ。カルマを通じてルシェンの母体に転移し、赤子として転生するはずだった。
が、カヨはこちらの世界に残り、なぜかぼくがカルマとして追われるはめになっている。
わけが解らない。
いくら考えても埒が明かず、これはもうカヨを問いただすほかに術はなさそうだ。判断しぼくは、アテもなく夜道を闊歩する。
「ひとまず行ってみるか」
消滅したという街の一画、中心街のはずれにある住宅街へと歩を向ける。
消防車が軒並み道を塞いでおり、パトカーがひっきりなしに巡回している。現場に近づこうものならば即座に制止がかかり、問答無用で御用になりそうな物々しさがある。半径一キロ圏内は立ち入り禁止にされているようだ。どうにも現場まで近づけない。
塞がれた道路に報道陣が押しかけている。ほかに野次馬の姿はない。上空を飛び交うヘリも数を増やしており、メディア端末を操作しニュースを観てみれば、俯瞰的な視点で消失現場を映しだしている。
想像以上の被害だ。甚大と言っていい。ぽっかりと大きな穴が大地にのぺーっと伸びている。コンパスで引いたようなきれいな円形だ。ほとんど深淵と言ってよい暗さがある。底なしなのか、深夜であることとは無関係に、穴の内部は墨を垂らしたような暗がりばかりが鎮座している。穴の周囲からはかなりつよめの、それこそ野球場にあるような照明で以って四方八方から、それはもちろん上空からでもあるのだが、光を当てているにも拘わらず、穴の内部はいっさい闇のなかだ。
なにが起きたってんだよ。
そこにいた人々はどうなってしまったのか。
確認できているだけでも行方不明者が九百人を超えているという。そういった報道を耳にし、今さらながら事態の深刻さを噛みしめる。
数日前から非日常に親しんでいたため感覚がマヒしていたのかもしれない。
ただごとじゃない。
じぶんのせいだとは思わないが、しかしぼくの起こした行動のせいでもたされた結果がこれであるというのなら、責任を感じずにはいられない。
無関係であるはずがないのだ。
物質が完全に消えてなくなるなんて絵空事は現代物理学においてはあり得ないことだとされている。ぼくでさえ知っている基本中の基本原則だ。質量保存の法則を持ちだすまでもない。
無から有は生じないし、いちど生じた有は無になることもない。
――世界の起源、或いは終焉以外では、という限定条件つきではあるものの。
土地といっしょに消えた人々はどうなってしまったのだろう。
ひょっとしてこれはカルマの弊害ではないのか。
反物質。
対となる世界の物質がこちらの世界に流出し、こちら側の物質と対消滅を起こした。
まさしくプラスとマイナスが交じり合い、ゼロとなって消えるように。
ざまぁみろ。
と、思わないわけではない。
こんな世界なんて消えてしまえばいい。
思うが、
ちょっと待てよ。
世界が消えたらぼくはどうなる。ルシェンたちの世界だって無事では済まないのではないか。
これってかなりまずくないか。
路上で立ち尽くしていると、そこのきみ、と呼び止められた。警官だ。
「こんなところで何をしているんだ。はやく帰りなさい」
「このさきに家があるんです」ぼくは嘯く。
消失した土地に家があってそれで帰ろうにも帰れないのだというデマを口から吐くと、警官は見るからに態度を変え、とにかく避難場所で待機していなさい、と憐憫の眼差しを寄越した。
こちらとしても行く当てがなく、消失現場を見られないとなれば長居は無用なので、立ち去ろうと警官から目を離そうとしたところで、さきに警官のほうから姿を消した。
それはもう、驚くほどの早業で、いったいどこへ隠れたのかと周囲を見渡したところで、真横のビルの屋上から飛び降りた人影が、音もなく目のまえに着地した。
「ギャル女……さん?」
彼女は無言でこちらの胸に手をつき、ぼくはそんな彼女のうでを辿るようにして自らの胸に目を転じた。
胸がなかった。いや、ぽっかりと円形に、なにかそういった仕掛けでもあったのではないかと疑いたくなるほどきれいに胸が切り取られている。
穴が、開いている。
みぞおちの辺りだ。断面からはゆったりと蠢くヘビを思わせる内臓が艶めかしく街灯の明かりを反射しており、さらに奥には通常見えないはずの真後ろの路地を、かかとのあたりに転がったタバコの吸い殻を映しだしていた。
映しだされておきながら、しかしそれらは映しだされたものではなく、ただ遮るものが、肉が、骨が、細胞が、ごっそりとなくなってしまったために、見えるものがただ見えているだけなのだと気づいたとき、ギャル女の手のひらが、ぼくの視界を塞いだ。
胸のつぎは頭かよ。
顔面に穴がぽっかりと開く様を想像する。じつは脳みそがからっぽで、中からヒヨコがピヨピヨ三羽出てくるところまで思い描き、そのあまりに幼稚な現実逃避に、目のまえに迫りくる危機の、尋常ならざる甚大さを認識する。
ありもしない心臓が高鳴るのを感じた。
おわった。
思うがしかし、一秒、二秒、と時間だけが順調に過ぎ去り、遮られた視界も、それはただぼくがつよく瞼を閉じているからだと気づき、瞳を世界へ晒すと、目のまえにギャル女の姿はなく、代わりに、漆黒の髪を団子に結った、見憶えのある顔があった。
カタチのよいそのかんばせは、そう、まだぼくが日常という名の退屈さに浸っていた時分に、枯れた心を潤すべく足繁く通っていた銭湯の番頭さんの、人形のように整った頭部だった。
あれだけ通い詰め、目に焼き付けていたのだ。
見間違えるはずもない。
彼女は、番頭さんは、ギャル女を一方的に丸めこんでいた。丸めこんでいたというか、押し倒していた。押し倒していたというか、悶えさせていた。
ギャル女は、まったくどうして女の漏らす甘美な声をじつに情緒豊かにあげており、間もなくひと際苦しそうな声をあげ、脱力した。
手練手管を駆使していたらしい番頭さんは、絡まるように跨っていたギャル女から身体を離し、そして立ち上がる。
「おまえが来ないからこっちから会いに来てやったぞ」
胸に空いた穴はなぜだかきれいに塞がっている。
***
「カルマの影響なんじゃないか」
ララヴィはぼくの不死身じみた現象を目の当たりにしておきながら、その一言で納得した様子だった。
「ぼくはそうかもしれないですけど」
ではあなたはどうなのか。
回収者を相手取り圧倒するなんてどうかしている。ぼくなんて手も足も出ずに、胸に風穴を開けられたというのに。
「それはたぶんあたしが向こうの住人だからだ。そのナンチャラ物質ってのが効かないんだろ。よく分からんが」
「そうなんですか。というかいいんですか、せっかく倒したのに放置してきて」
「あたしの敵じゃないってのは解っただろ。こっちの世界の物で縛っても無意味ないんだし、だったら距離をとるほうがてっとりばやい」
「それはそうかもしれないですけど」
アパートに戻ってくるなり、ララヴィはこちらの世界であったことを説明しろと迫った。ぼくはカヨから仕入れた話を披歴し、ルシェン共々精神転換しなくなった理由を告げた。すなわち、回収者を目覚めさせてしまったのだと。
「ルシェンの話とそこで繋がるわけか」
彼女は彼女でルシェンからいちおうの説明は受けていたようだ。が、どうにもカヨのやつはルシェンに必要最低限の情報しか与えていなかったようで、ルシェンに促されるかたちで神殿に向かったララヴィは、そこですでに覚醒していた回収者と一悶着を起こしたようだ。
「急に襲いかかってくるからルシェンと二人ががりで押さえつけて、ジーベル駆使して闘争心を根こそぎ折ってやった」
「ジーベルってのは」聞き覚えがあるが思いだせない。
「ルシェンとあたしの仕事」
ああ、と合点する。性的愛撫か。
「元から狩猟民族たちの慰安を目的にしているからな。狩猟民族つっても獲物はどれも大型ジキルだ。戦闘民族といったほうが正確かもしれない。そんなやつらから闘争本能を奪うような仕事だ。戦闘狂への対処としては有効だよ。で、倒したはいいがじゃあどうするってなって、ルシェンが言うにはほかに二人いるっていうし、目覚めさせちゃいけないってんなら、あとはもう眠らせとくほかないだろ」
「で、棺に戻したわけですね」
だがそこで予期せぬ事態が生じた。ぼくは話のさきを脳内で補完する。
すでに覚醒していた回収者は、棺にふたたび戻されたことで、棺の本来の機能、精神転換を起動させ、こちら側の世界に回収者を飛ばした。
「でもどうしてほかの回収者まで目覚めたんでしょう。なぜ彼女たちまでこっちの世界に?」
「さあてな。あたしらが到着する前に、やっこさんがほかのお仲間を目覚めさせて、そんでそれこそ人格を飛ばしてやってたんじゃないのか」
「ひょっとしてララたちが棺に戻した女って」
「な、なんだよ」
挙動不審になったララをふしぎに思いながらぼくは、ミコ姉の特徴を思い浮かべる。すくなくとも事務員さんとは対照的な外見をしている。最初に回収者として目覚めたのが事務員さんに似た女、すなわちぼくが開けてしまった棺に眠っていた女だとすれば、ララたちが遭遇した女はそいつである確率が高い。しかし、もしそうであるとすると、おかしな点がでてくる。
こちらの世界では三人すべての回収者が目覚めている。
もし一人目が目覚めた時点でそれを封じ、或いはこちらの世界に転生させてしまったとして、では残りの二人は誰がどうやって転生させたのか。
考えられる筋書としては、ララがぼくに嘘を吐いているというものだが、ぼくは彼女を信じたい。
ではほかに可能性がないかを考えてみたところで、一つだけ思い浮かぶ筋書きがある。
ララとルシェンが神殿に足を運んだ時点ですでに残りの回収者も目覚めていたといった顛末だ。回収者が仲間たちを転生させたところで、その場に残った一人が、ララたちの手で倒され、棺に戻された。
こちらの世界で起きたできごと、ミコ姉の暴走を鑑みれば、最後に残った回収者こそミコ姉に似た人物だったはずだ。
睨んだとおり、ミコ姉の外見的特徴を示すと、
「たぶんそいつだ」ララは首肯した。
「一足遅かったわけですね」
カヨの指示も虚しく、ルシェンたちは回収者の復活を阻止できなかった。そもそもをいえばぼくが棺を開けてしまったせいだので責めるわけにはいかない。
「ん? だとするとララはどうやってこっちの世界に?」ふと思い立ち水を向けると、
「おっきな棺があっただろ。生贄用のやつ」
「あれに入ったんですか」
「おまえから聞いた話では、とくに問題なさそうだったし、現に代々あたしらはあれに入りつづけてきたんだ。マンがイチが起きたとして、それはあたしが妊娠する程度の問題でしかない」
果たしてそうだろうか。あれだけの異常事態が起きていたのだからもっと慎重に行動すべきではないか。
「いいだろべつに。こうしてまた会えたんだ」
「まるでぼくに会いたかったからそんな無茶をしたように聞こえますよ」
不満だったのでわざと揶揄するように言うと、ララはボっと音を立てて、それは冗談でなく本当に聞こえたのだが、顔面を真っ赤にした。
「え、ホントに」
「なんのことだ」
彼女は、必死に耳をひくつかせている。或いは向こうの世界では、感情表現の大部分が耳によってなされていたのかもしれず、しかしこちらの世界ではそうした機微は顔面の紅潮やほかのしぐさによって代替され得るのかもしれず、ひょっとしたら彼女は今、懸命にそらと惚けてみせようとしているのかもしれず、だからでもないけれどぼくは、図星を突かれ、てんてこまいになっている彼女をなにやらとてつもなく愛おしくなってしまうのだった。
「ララ」
「なんだ」
「前から思ってたんですけど」
「ん?」
「ララってすごくかわいいよね」
「ぐは」
ぼくは見た。人間ってやつは本当に頭から湯気を立ち昇らせることがあるのだと。今なら彼女のおでこで目玉焼きができそうだ。
「かわいい。すごくかわいい」
耳元でささやくようにすると彼女はいっしゅんこちらに目を向け、その瞳はほとんどグルグル回って渦を巻いているのだが、そのまま頭から耳からプシューとひときわ大きな湯気を噴きだし、その場にパタンと倒れこんだ。
「な、ララ」
慌てて身体を支える。思いのほかやわらかい女体の神秘に思わず、思わぬところが起立した。
ララをベッドまで運び、寝かせる。
ベッドに腰掛け、彼女の寝息に耳を傾けながらぼくは、直立不動で気をつけをしたままの己が分身に言い聞かせる。
だってこのひとエッチィ身体つきしてんだもの。仕方ないよ。
――なら遠慮なく特攻するっきゃないだろ相棒。
内なる衝動にぼくはかぶりを振ってみせる。
「だって本当にかわいいんだもの」
傷つけたくないんだ、とぼくは、彼女を傷つけることで誰よりじぶんが傷つくことを予感した。
朝日が昇るころにララは目覚めた。記憶喪失になっているのか、いつの間にか寝ちまった、と彼女は舌を打つ。
「何か変わったことはあったか」
「ありましたよ」
「なんだ」
「また一つ町が消えました」
うまく話が呑みこめなかったのか、ララは訊きかえした。「なんだって」
「ここから三キロほど離れた場所らしいです」
メディア端末の画面に画像を表示させる。ネット内はどの情報共有サイトを覗いても一連の土地消失事件の話題で騒然としている。
「どうして土地が消えるんだ」
「さあ」ぼくは考え、でもひょっとしたら、と意見する。「カヨちゃんがそこで何かをしているのかもしれません」
「そのカヨってコがムス姫さまなわけだろ。だったらてっとり早く会いに行こう。おまえじゃ話にならなくともあたしには解る話があるかもしれない」
「カヨちゃんがムス姫さま?」
「さいしょにそう言ったろ。おまえからそのコの話を聞いたときに。憶えてないか」
憶えてなかった。
「おまえは真に受けなかったが、十中八九そのコがムス姫さまだ。でなければあたしらでさえ知らない回収者の存在を知っているわけがない」
「でもカヨちゃんはこの事態を収束させることはできないって」
「言っていたのか」
どうだっただろう。これ以上事態を悪化させるなと釘を刺されてはいたが、カヨ自身が何かしらの対処方を持っているのだろうか。回収者が目覚めた時点でどうにもできないような旨を言っていたような気がする。
ではカヨは今、何をしようとしているのか。
「うわ、なんだこれ」ララが突拍子もなく鼻を摘まんだ。「妙な臭いが立ち昇ってんだが」
ララの覗きこんでいるのは、ベッドの枕元にあるゴミ箱だ。ララが眠っていたあいだ、彼女に手を出せないぼくが、それでも抑えきれないムラムラをネバネバに変換すべく放出した残滓の染みこんだティシューが投げ捨ててある。ざっと五つほど。
「猛毒ですから嗅がないほうが」
「ホントかよ思っきし吸っちまった」
現にララは丸まったティシューを鼻先に持っていき、いくどかスンスンと鼻を動かしていた。なんだろうこの胸のトキメキは。のちに込みあげる呵責の念は。
「それはマズイ、すぐ解毒剤を」
言ってぼくは台所から酢のビンを持ってき、ララに嗅がせた。「うげ。こっちのほうがヤバそうだ」
咳きこむララは、学習したのか、ゴミ箱を遠ざける。
「ともかくとしてですね」
ぼくは強引に話を進めた。「カヨちゃんがムス姫さまか否かは措いとくとして」
「疑ってんのか」
「措いとくとして」と強調し、「まずはカヨちゃんと話をしてみましょう」
ミコ姉のことも心配だが、すくなくとも本物のミコ姉はギヴァナ、向こうの世界にいるのだからさいあく死ぬなんて目には遭わないだろう。思うが、しかしどうなのだろう。たとえばこちらの世界で回収者が死んだ場合、肉体そのものはミコ姉のものなのだから、ミコ姉が死んだことになるのではないか。社会的な認識だけでなく、じっさいにギヴァナにいるミコ姉の意識そのものが消失してしまってもおかしくはない。たとえ意識が消失しなかったとして、ミコ姉がこちらの世界に回帰できなくなることは自明である。それはなにもミコ姉に限った話ではない。
「あのですねララさん」
「なんだよ改まって」
「ララさんはここで待っていてくれないでしょうか」
「どうしたよ急に。つれねえな」
「考えたんですけど、ララがそこまで危ない橋を渡らなくてもいいんじゃないかなって」
「危ない橋だあ? バカ言ってんな。あたしはあたしらのために一肌脱いでるだけだ。べつにおまえのためじゃねえ」
「そうなんですか」
「おまえの話だとこのまま放っといたらあたしらの世界まで【白紙】に戻されちまうんだろ。そんなの御免だってだけの話だ」
「でもその話をララにしたのは今さっきで、それこそララがこんな無茶な真似をする前なんですよ」
「うっせえ!」
なぜか怒鳴られ、さらに胸ぐらをつかまれた。ぼくより背丈のないはずのララがぼくの身体を持ちあげている。しかも片手で。
「ぐだぐだ御託並べてんな。いいからあたしも連れていけ」
ぽいと解放され、どてんと尻もちをつく。
「ほら行くぞ」
連れていけと言っておきながら、自分で部屋を出ていく。どこまでも破天荒な女だ。沈んだきぶんが今ではすっかり上向きの風を帯びている。
行くアテはない。
が、もしカヨがいるとしたらそれは回収者のいる場所だと思った。土地消失現場の近くで回収者に襲われたことを思えば、新たに消失した町の近くにいればまたぞろ回収者のほうから現れるのではないか。
考えるが、果たしてカヨに会えるかは分からない。またぞろ回収者に襲われるだけで、なんの実りもないかもしれない。手段を講じられるほどの選択肢は、あいにくと持ち合わせていない。こんどは回収者を手元に置き、カヨをおびき寄せる餌として扱ってもいい。
「なんだか狩りみたいだ」ララが言った。
「やったことあるんですか」
「前にも言ったが、もともとあたしは狩猟民族の出だからな。わけあってジーベルに鞍替えした。これでも苦労したんだ。部族の掟を十は破ったからな」
頼りになるなぁ、と褒めると、からかうな、と怒られた。
「本気で言ったんですよ。背中はララに任せます」
「護衛ってことか? 任せろ」
なぜそんなにうれしそうなのかはなぞだが、ぼくはメディア端末を起動し、目的地までの道を確認する。徒歩で四十分の距離は、近くはないが遠いとも言い難い距離で、いつこの足元を中心とした空間が消失してしまわないかと気が気ではなくなる。
そうだとも。
さいあく消失現象に巻きこまれる可能性だってある。
ただし、巻きこまれてもすくなくともララは無事なはずだ。だからこそカヨや回収者たちもまた、今なおどこかに現存しているはずだと何の根拠もなく信じていられる。
彼女たちはゆいいつこの世界にあって反物質に耐性を持った個体たちだ。肉体はこの世界のものであれ、魂がちがう。魂など信じているわけではないが、そういうことになるのだろう。
向こうの世界から流失してくる物質――この世界にとっての反物質が、彼女たちにとってはただの物質であるように。彼女たちにとって本来反物質であるはずのこの世界の物質を、そのことごとくを彼女たちの身に纏う肉体が無効化させている。
ひるがえっては、彼女たちにとって本来この世界は地獄にもならない処刑場のようなものであるはずだ。存在した瞬間に、消滅してしまう魔の世界。
存在を保持できているのはひとえに彼女たちが、こちらの世界の住人の肉体をまとい、文字通り憑依しているからだ。
ではカヨはどうなのだろう。
彼女自身の魂は、その人格はどちらの世界のものなのか。彼女の肉体はこちらの世界のものであるにせよ、魂の所在は不明である。仮に魂までこちらの世界のものであるならば、彼女が回収者に立ち向かうのは、蟻が人間に挑むようなものだ。
とりもなおさず、ぼく自身がそうであるように。
「おい、どうすんだ」
ララに呼び止められ、我に返る。「道塞がってんぞ」
パトカーが道を塞ぎ、報道陣が押しかけている。ときおり爆発音が聞こえる。消失した土地の境にガソリンスタンドがあったらしく、遠方に積乱雲じみた火災の煙がモクモクと昇っている。思えば、周囲が騒々しい。
「とりあえずビルに登ってみますか」
「上から眺めようってか。その妙なもので現場の映像は観れるんじゃないのか」
視線でこちらの操作するメディア端末を示し、ララは、まあいいけど、と辺りを見渡す。展望するのに適したビルを見繕っていく。
言われて気づいたわけではないのだが、ぼくはメディア端末に消失現場の映像を流そうとする。どこもかしこも第一消失現場の映像ばかりだ。第二消失現場の映像が流れていない。報道管制が敷かれているらしく、第二消失現場、すなわちぼくたちの目的地の様子は判然としないままだ。
ふしぎなのは、SNSなどの情報共有サイトであっても、個人の撮った映像などが出回っていないことだ。通常こういった災害の場合、その場に居合わせた誰かしらが現場を撮影し、その映像をネット上に流している場合が多い。じっさいに第一消失現場の映像は、カメラアングルなどの違う映像が多数流れている。が、今はそれがない。
様子が変だ。
「どうした行くぞ」
ララはひと際背の高い高層マンションに足を踏み入れていく。
マンションの住民はとっくに避難している様子だ。玄関口のドアをぶち壊しても警報機が作動するだけで、文句を鳴らしてくる者はない。言うまでもなくドアをぶち壊したのはララである。
電気系統は生きている。エレベータに乗りこみ、最上階を目指す。
エレベータを降りてから屋上に抜ける。
「いい眺めだな」
ララが言った。屋上の柵に身を乗りだすようにし、眼下に延びる街並みを見下ろす。ぼくもそれに倣い、展望する。とくべつうつくしいというわけでもなくどこの街でも目にできる夜景が広がっている。
ただし遠方、二キロほど先にぽっかりと円形に、そこだけ明かりのまったくない区域がある。周囲をところどころ縁どるように照明の明かりが巨大な闇に向けて投射されている。光は何ものにもぶつからずに、その筋をおぼろげに闇へ同化させている。
上空にヘリの姿はない。やはり第一消失現場とはどうも趣が異としている。
「おい、あれ」
ララがあごをしゃくって巨大な闇、穴の縁を示した。「大きくなってないか」
ぼくはそれを目にしてまずゲームセンターにあるコインゲームを連想した。コインの山を崩してコインをゲットする定番のゲームだ。穴の縁に設置された照明が、氷山が崩れるように消え去った。じっさいにそれが穴のなかに落ちてしまったのか、それとも穴の闇に触れ、消失してしまったのかは判然としない。
見ていると、こんどは照明だけでなく、その界隈の建物まで闇のなかに埋もれていった。
こんどは確信できた。
ララの指摘したとおり、穴が徐々に大きさを増している。
広がりを帯びている。
反物質がこの世界になだれこんできているのだと思った。
「どうするよ」
「どうすると言われましても」
どうしようもないのが現状だ。もはやこれは災害だ。一個人に太刀打ちできる問題ではない。
同時に、これがカヨという一人の神の手によって生じている問題であるならば、一個人であってもどうにか突破口くらいは開けるのではないかと、甘い期待を抱いてもいる。
「とりあえず向こうさんからやってくるのを待ちましょう。ぼくがカルマだってんならそれを回収する回収者たちにはぼくの存在を感知するだけの能力くらいはあるでしょうから」
「そうだな。それにしても腹が減ったな」
「余裕があるうちに腹ごしらえでも済ませちゃいますか」
柵から身を離そうとしたところで、辺りがやけに静かすぎることに気づいた。妙な胸騒ぎを覚える。
「どうした」
「いえ。なんか妙だなと」
もういちど眼下の風景を視界にいれ、胸騒ぎの正体を探る。
間もなく察し到った。
人がいないのだ。
消失現場周辺の警官や自衛隊の姿どころか、さきほどまで押し寄せていた報道陣の姿も今はどこを見渡しても見当たらない。
穴に呑まれたわけではなさそうだ。なぜなら、基地として張られたテントは穴からはまだだいぶ距離があり、報道陣たちの車やカメラは、ビルの真下、立ち入り禁止区域との境界線に多く残っているからである。
人だけが忽然と姿を消している。
そう、人だけが。
パレードのあとのように、脱ぎ捨てられた衣服が風に運ばれ、無数に道路を転がっていく。目のまえをカラスの一軍が、山のほうへと飛び去っていく。野良猫だろうか、家屋を縫うように小さな影が走り去っていく様が目に映る。
ふと、風の流れが変わっていることに気づく。いや、流れそのものよりもより正確には、風が継続して吹きつづけているのが奇異な現象として意識下に置かれたというべきか。
巨大な穴に吸いこまれていく大気が渦を巻いているかのようだ。小型の台風のなかにいるようで、ふしぎと胸が高鳴った。
眼下に広がる巨大な闇、穴ぼこが、一種、カタチを伴った絶望そのもののように思われてくる。
人はこれをブラックホールと呼ぶのだろうか。
光さえ捻じ曲げるブラックホールは通常、人間の視覚には映らない。闇として視覚できている現状、眼下に広がる、拡がりつづけているこの闇は、ブラックホールではない。
にもかかわらず、抱く、この言い知れぬ畏怖は、おそれは、いったい何なのだろう。
――逃げたい。
今すぐにでも。
逃げだしたい。
しょうじきこの世界に未練などはない。もっと言えば世界などなくなってしまえばいいとすら思っている。思っていながらにして、現実に目のまえに、世界の終焉をもたらす闇なる存在が悠然と、目を逸らすことの許されない規模で広がっていると、さすがに神さまどうにかしてくれと縋りたくもなる。
ぼくのせいでこうなったと考えることがおそろしい。
責任など負えない。負えるわけがない。
いったいどれだけの人間が消滅し、どれだけの人が残され、そして消えた人々を想い、悲しむだろう。
ルシェンよ、見ているか。
見ていないだろうが、よっく聞け。
なんて言っても聞こえないだろうが、聞こえないのなら遠慮なく言わせてもらう。
おまえが生贄の儀式をおろそかになぞするからこんな面倒な事態が起きてしまったよ。ぼくたちだけじゃない、これはおまえの世界の存亡もかかった大問題だよ。それをおまえだけノホホンと匙を投げて、全責任をぼくになすりつけやるなんてそれってとってもよくないよ。おかしいよ。噴飯ものの怠慢だよ。こんなことだったらもっと盛大に、遠慮会釈もなく胸を揉みだしておくんだった。
散々揉みしだいておきながらぼくは思った。
だいたい、とさらに不満を募らせる。
ルシェンの間抜けた不始末ごときでこんな大それた事態に発展するなんて、そんなずさんなシステムを採用している神さまとやらが、すべての元凶ではないの。
なにゆえその尻拭いをぼくがせねばならんのか。
神さまなる存在はあいにくとぼくたちの世界には五万と、それこそ八百万プラスαくらい、卑近なほどに存在している。それだけたくさんいておいてこの体たらくとはなんたるこったい。信じられない。さいていだ。だが待ってほしい。いくらなんでも八百万プラスαの神さま方が雁首揃えて無能とは考えにくく、ならばこれはきっと彼らにとっても埒外の奇禍に相違ない。とすると元凶はたった一人の設計者、もしくは管理者にあるのではないかと考え、その行きつく先に待ち構えるのは、ルシェンやララたちの世界の神、ムス姫さまなるなにがしらだと全責任の矛先を押しつけたところでいったいだれが異議を挟むだろう。
挟むだけの胸がないのだという異議は認められない。
いずれにせよ、ララいわく問題の責任者、管理者、設計者、呼び方はなんでもよいのだが、すべての元凶は、この世の創造主たるムス姫さま、すなわちカヨにある。
ぼくもカヨは怪しいと睨んでいた。
ならばこの際だ、そういうことにしてしまおう。
神よ、カヨちゃんよ。聞いているか。すべてはあなたのせいである。ただちに事態を収束させてください。さもなくば、働かせすぎてすっかり摩耗したぼくの理性が、あなたにありったけの欲望をそそぎこむであろう。
考えると、それはそれで辿り着くだろう未来としてはなかなかに魅力的な終着点に思えた。
いやいや待て待て、待ちたまえよきみ。
摩耗してピカピカに磨きあげられた理性が、清らかな眼差しをそそぎながらぼくに語りかけてくる。
あんないたいけな少女にこの世の存亡をなすりつけるなんて貴様、それでもクズか。
クズだった。
やいのやいの頭のなかで、理性と欲動がくんずほぐれつタンゴを舞い、無意義な単語を並べつづける。
「おい」
ララの声にはたと我に返る。「来たぞ」
柵の向こう側、屋上から見える景色に意識を映す。
高層マンションの一階、玄関口のまえだ。街灯の明かりに照らされ、三つの影が浮かんでいる。
「あいつらか?」
ぼくは頷く。間違いない。
「回収者です」
ギャル女と事務員のお姉さん、そしてミコ姉の姿を確認した。
第三章【マラいい子にはナニをさせよ】
達磨落としを連想した。達磨落としと違うのは、ハンマーで叩かずとも消えていくところだ。最下層から段々と規則正しく、マンションが消えていく。
「どうなってんだおい」
「ぼくが知るわけないでしょ」
ララにしがみつかれるが、女体のやわらかさにうっとりしている場合ではない。
高層マンションだったはずだ。屋上にいたはずが、じつをいえばまだ屋上にいるはずなのだが、なぜか周囲の景色が上昇し、それはもちろんぼくたちが下降しているだけなのだが、瞬く間に地面がすぐそこ、飛び下りても死にはしないんじゃないかと思えるくらいの高さまで迫っていた。
衝撃はほとんどなく、息継ぎなしでコーラをラッパ飲みするかのような軽やかさで、高層マンションは跡形もなく消え去った。
あとには、地面にぽつねんと佇むララと、ぼく――の上半身があるだけとなった。
「なんで!」
下半身が消失し、臓物を垂れ流しながらぼくは身動きがとれずに、虫の息で、その場に転がった。
「はぁ? 冗談だろ」
驚嘆さながらにつぶやかれるが、これが冗談ならば、いったい何を現実と認めればよいのか、困り果てて日が暮れる。
ララが心配そうにこちらを覗きこむ。その背後に、三つの影が浮かびあがる。迫りくる脅威に彼女はまだ気づいていない。間もなくララは影のうちの一人に、背後から羽交い絞めにされた。
もう一人がぼくのまえに立つ。スカートを穿いているが、丈がながく、ほぼ真下から見上げる格好であるというのに、あいにくとパンツが見えない。当然ながらそんなことをざんねんに思っている場合ではない。目のまえに立つのが事務員のお姉さんで、ララを拘束しているのがギャル女のようだ。
残る一人、ミコ姉は、もちろんそいつは真実にミコ姉ではないのだが、いったいいつどこから取りだしたのか、手に巨大なつららのような凶器を携え、立っている。凶器からは湯気のようなものが常時立ち昇っており、輪郭に沿って、陽炎のような揺らめきをまとっている。切っ先をララへ向け、ミコ姉が突進する。
ララ。
叫ぶが、声にならない。
身動きを封じられたララの胴体を細長い凶器が貫いた。
ようにぼくには見えた。
横から眺めているかぎり、ララの胴体を槍然とした凶器が貫いている。が、ララは平然と凶器を掴むと、むんずと引き寄せ、ミコ姉に頭突きを食らわせた。流れるように足を振りあげ、ほとんど全開のコンパスさながらに、こんどは真後ろにいるギャル女の顔面めがけて、蹴りを放った。
ミコ姉はぶっ飛び、ギャル女は地面に転がる。
「あたしを倒したきゃ魔人でも呼びな」
般若神像も真っ青の仁王立ち姿で、ララは奪った凶器をどんと地面に突き刺した。
身動きはできずとも身じろぎくらいはできたようだ。胴体を貫いたように見えた凶器は、まさしくそう見えただけであり、じっさいにはララの胴体部、くびれをかするように外側を通過していた。
回収者たちはララに反物質がきかないと見るや肉弾戦へと戦略を変え挑んだようだが、相手がわるかった。腐ってもララは戦闘民族、地面に転がっているのは回収者たちのほうである。残る一人、ぼくを見張っていた事務員のお姉さんも勇猛果敢に飛びかかるも、ララは造作もなく取り押さえてみせた。
「骨の四本くらい折っときたいところだが、肉体のほうは別人のものだしな」
事務員さんの背中に乗るとララは、
「まあ、意識くらいは奪っておくか」
首に肘を絡ませ、絞めオトした。
ほかの二名、ギャル女とミコ姉は俊敏に態勢を整え、ふたたびララへ突撃していく。ものの見事に返り討ちにされ、地面に転がった。
「だいじょうぶかよ」
ララがおっとりがたなで駆け寄ってくる。「ってだいじょうぶなわけないよな」
案外に冷静なのは、或いはぼくの意識が途切れずに、しれっと事の成り行きを見届ける余裕を醸しているからか。
上半身だけになっておきながらなぜか痛みがなく、視界も良好だ。
地面から生えたように転がるこちらを覗きこむララに、ぼくは言った。「なんで生きてるんですかね、ぼく」
「カルマだからじゃないのか」どうでもよさげに言い、ララは、よいしょ、とぼくの両脇に手を差し入れた。抱き上げようと踏ん張っている。
「お、重い」
そんなわけがない。強敵三人を軽々ぶっとばした女が、ひょろっこい男、それもまっぷたつにされて実質半分の重さもないぼくを持ちあげられないはずがない。
しかしなぜかぼくの身体は持ちあがらず、ふしぎなことに下半身の感触がずっしりと妙に生々しく窮屈に感じられるのだった。
「うんとこしょー、どっこいしょー」
ララがうんうん唸りながら、踏ん張るようにした。
大きなカブが抜けました。
頭の中で幼いころに読んだ絵本の一節を思いだし、つぎに、地面の下からすっぽーんと引き抜かれたおのれの下半身を見て、すっぽんぽんである事実に恥じ入ることも忘れ、猛烈に湧きあがる感動の波動を感じられずにはいられなかった。
「あるじゃん足」
ララはなぜか苛立たしげに言った。
向こうの世界の物質が反物質として、この世界の物質を消し去るというのならば、この世界の物質によって同じくこの世界にあるぼくの肉体が再構築されてもおかしくはない。ララの唱えた仮説に、ぼくも納得を示す。正プラス負は無であっても、正プラス正ならば有なのだ。
切断面と接触していた地面からぼくは失われた下半身を再構築したにちがいなかった。
考えるまでもなくカルマの影響なのだろう。
「ならカルマであるかぎり不死身なのかもな」
「だと助かるんですけどね」
言いながら、しかしカヨはぼくを殺そうとしていたぞ包丁で、と噛みあわせのわるさを思う。
「これでいいか」
倒れた電柱柱からを引き剥がした電線で以ってララは、回収者たちをぐるぐる巻きにした。ぼくはそこらに脱ぎ捨ててある無数の服飾のなかから適当なズボンを選びっとって穿いた。
「で、これからどうする」
「彼女たちをこうしておけばカヨちゃんがきっと現れると思うんです」
「こいつらを出汁にしておびき寄せるって魂胆だろ。それはいいが、現れなかったらどうすんだ」
「考えていたんですけど」現場を離れながらぼくは、「どうして土地ごと消失してしまったんですかね」
身を隠し偵察できる場所はないかと探す。
「そりゃ反物質がこっちの世界に流れこんできたからだろ」
「ですが、だとしたらもっと連続的に土地が消失してもいいように思うんです。現に今は穴の拡張が収まってるじゃないですか」
「お、ホントだ」
近くの高層ビルの非常階段をのぼりながら、眼下の広大な穴を見下ろす。穴の拡張が進んだためか、初めのころよりもぐっと距離が縮まっている。経過した時間からすればこの地点もとっくに穴に呑みこまれていておかしくはない。ではなぜ無事なのかといえば、穴の拡張が止まっているからだと結論づけるのに躊躇はない。
「カルマが砂時計の穴のようなものだとして、じゃあどうしてこの世界はもっと連続的に消失していかないんでしょう」
「考え方が逆なのかもな」
「逆?」
「反物質が連続的に流れこんできているって考え方はたぶん合ってる。ただし、その流れこむ量ってのは本来、微量なもので、カルマのほうが徐々に開こうとしている。で、だ。ときおり、なぜか膨大な量の反物質が流れこんでくるときがある」
「それが土地消失現象として認知されるってことですか」
「かもしれないってだけだがな」
「つまり、問うならばこうだと言いたいわけですね。なぜ突発的に大量に反物質が流れこむのか、と」
まとめてみせると、ララは素っ気なく肩を竦めた。
待てども待てどもカヨはやってこず、やがて回収者たちが目覚めはじめた。ビルの屋上からではなく、非常階段の三階から見張っているのだが、さすがにこのままにしておくのはまずいと判断し、地上に戻る。
回収者たちが目覚めたならば自力で拘束を解くくらい造作もないだろうと思っての行動だったのだが、なぜか回収者たちは身動きを封じられたまま、なにこれ、誰かいませんか、ジンちゃんたすけてー、などと各々に叫びだしている。
「どうなってんだこれ」
「元に戻ってますね」
「あ、ジンちゃん」ミコ姉がこちらを見て、満面の笑みを浮かべた。「助けて助けて。お姉ちゃん、捕まっちゃった」
ギャル女が舌を打つ。「イタイって動くなよオバさん」
「オバっ!?」
「ねえ翼馬くん。どうしてわたしたちこんなことになってるの」
事務員のお姉さんが首を傾げ、色気たっぷりのしなをつくった。
思わず拘束を解いてあげそうになり、駆け寄ろうとするぼくの肩をララが掴んだ。
「なんですか」
「演技かもしれない」
「え」
「あたしらを油断させるための罠かも」
「なんでそんなことを? 拘束なんて簡単に解けるでしょう」膂力が足りなかったとしたって、高層マンションを消し去ってしまえるくらいだ、電線を断つなんて造作もないはずだ。
「自由になったところであたしらの居場所がはっきしりなけりゃ意味ないだろ。おびき寄せるためにわざと身内に成りすましてんじゃ」
「そうなんですか」ミコ姉たちに投げかける。
「バカかおまえ。しょうじきに言うわけないだろ」
ララに頭をどつかれたそのときだ。
視界が暗転する。気づくと目のまえには怯えた顔のルシェンと、そのとなりには、見慣れたララの本体が素っ頓狂な顔を浮かべて、おそらくはぼくもまた同じような顔をしているのだろうが、周囲をきょろきょろ見回している。
「戻ってきたのか?」
「シー!」
ルシェンに口を押さえられ、ララが身体を硬直させる。尖らせた耳をピクピク動かす。ララのそうした仕草を認めたのか、こんどはルシェンが、「ララちゃん?」と目を見開くようにし、感極まった様子で、声を押し殺しながらではあるにせよ、ララの胸に飛びこんだ。咽び泣く。
「おいおいどうしたんだよルシェン」
言いながらルシェンの頭を撫でるララは視線をふとこちらへ向け、数秒の間をあけたのち、ぎょっとした。
当然の驚きだろう。ぼく自身、なぜこんな事態になっているのか頭が回らない。
「なんでおまえ、ここに?」
「ぼくが訊きたいくらいですよ」
なにゆえ肉体まで転移しているのか。初めて客観的に目にしたルシェンの姿は、姿見で目にしたものよりも数段美しく、そして淫靡に映っている。
どうやらここは神殿であるらしい。明かりがないのはなぜなのか。生き物の気配はなく、静寂が空間を満たしている。
「いい加減離してくれないか」縋りついて離れないルシェンにララが言う。ルシェンは意味を履き違えたようで、「追われているの」と話しだした。
顛末としてはこうだ。回収者たちが意識を失ったのと同時に、彼女たちの精神はふたたび世界をまたぎ、入れ替わった。元に戻ったと言い換えてもいい。ミコ姉たちは捕らえられた状態で目覚め、そしてこちらの世界では、神殿にてぼくたちの帰りを――正確にはララの帰りを待っていたルシェンたちが、目覚めた回収者たちに襲われた。
「棺がね、ばばば、ばーんって開いたの」
ルシェンは語った。「そもそもララちゃんを送りだしたと思ったら眠ったはずのララちゃんが棺から出てきちゃって。そしたらララちゃんなのにララちゃんじゃなくって」
ララが番頭のおねぇさんの肉体に転換したのと同様に、こちらの世界ではララの肉体に番頭のおねぇさんの人格が憑依していたようだ。
「すごく物分かりのいいひとで、逆にわたしがいろいろ教えてもらっちゃったりもして」
そこでルシェンは、カヨちゃんに騙されてたんだよねわたし、とせつなそうに零した。番頭のおねぇさんはどうやら、ルシェンの話を聞いて、そこに出てくる登場人物のなかでカヨという少女がいかにも怪しいと見抜いたようだ。
「わたし、仕事さぼっちゃってたし、家に帰ろうにも帰れないでしょ。ずっとここにいてお腹すいてきちゃったりもして。いちどそとに出て、食材とか寝具とか、ひと通りのひきこもりセット用意して戻ってきたの。そしたら――」
棺から回収者たちがばばば、ばーん、と出てきたのだそうだ。話を聞くかぎりにおいて、ミコ姉たちはいちども目覚めずに棺のなかで眠っていたらしい。
「こわかったよぉ」ルシェンに抱きつかれ、ララはまんざらでもなさそうだ。嫉妬のようなものを禁じ得ないが、しかしこの場合どちらへ向かう嫉妬なのか、判然としない。
冷めた心持ちで眺めていると、彼女たちの向こう側に蠢く影を見た。影というならばすべてが闇に染まっているこの空間にあって、しかしそこだけが闇より黒く、ただ黒く、揺らいでいる。
「ッぶない!」
とっさにララの腕を引く。ドアを引いたら取手だけ取れてしまったといった具合にララだけがこちらに移動した。一人ぽつねんと残されたルシェンが、ぼくの目のまえで、ぼくたちのまえから突如として消えた。
ララが何事かをつぶやいたが、それはほとんど現実を受け止めきれない女の虚ろな悲鳴でしかなかった。思考停止した彼女を肩に担ぎ、ぼくはその場をあとにした。
回収者。
あいつらは反物質を操る。
この世界においてもその能力はいかんなく発揮されるらしいのだと、ぼくは今、知った。
ルシェン、ルシェン、ルシェン。
繰り返しつぶやくララの呆然とした様に声をかけられずにいる。が、ここは是が非でも正気に戻ってもらうよりほかはない。
「ララ。今はすごく不安かもしれないけど、だいじょうぶ。ぼくがカルマだってんなら、必然、ルシェンだってカルマなはずだよ。闇に呑まれても彼女ならすぐに復活できるから」
ララはこちらを向き、
「ホントか」
縋るような目で見てくる。ぼくは目を逸らさずに、そうに決まってますよ、と気休めを口にする。
「そっか、そうだよな。あいつが死ぬわけないんだ」ララは正気でないがためにこんな気休めでも充分な効果があったようだ。表向き冷静さを取り戻し、「おまえらはいいよな」と立ち上がる。「あっちじゃ無敵にちかかったあたしだが、こっちじゃ楯にもなれやしない」
こちらの住人であるララには今回、反物質が反物質として有効だ。触れれば肉体が跡形もなく消滅する。
「ララにはそれくらいのハンデがあってちょうどいいくらいですよ」頬をほころばしてから、口調を固くし、「ほんとうは安全な場所に避難してもらいたいくらいなんですけど、しょうじきぼくには協力者が必要です。道案内、お願いできますか」
「守ってくれんだろ。おやすい御用だ」
ララに導かれ、神殿のそとに出る。ダンゴ虫じみた生き物が足元の雑草じみた草をカリカリ齧っていた。妙なことに、神殿の周囲には、大小さまざまな大きさの穴が地面に空いており、ちょっとしたミステリーサークルと化している。
「いそぎましょう」
ぼくらはララの住まいに向かった。まずは落ち着いて話をしたい。
集落に辿り着いたとき、違和感にはすぐに気づいた。人の気配がいっさいない。人だけではない。ところどころ、以前はあったはずの建物――それもまた生き物ではあるのだが、なくなっていた。
ぼくはこんどこそララに声をかけることができなかった。
「で、どうすんだ」
ララの住まいは残っていた。席に着くなり、ララは言った。
水の一杯でももらいところだが、差し迫った問題がある以上、急かされても文句は言えない。
「まず、どうしてぼくたちがこっちの世界に戻されたのかを考えてみたんですけど、ララはいちど回収者の意識を奪ってますよね」
「向こうの世界でおまえを見つけたときだな」
「ええ。ぼくはララに助けられました。ではなぜそのときあの回収者はこちらの世界に回帰しなかったのか」
「或いはしていたが、ふたたびあっちの世界に戻ったかだ」
「かもしれません。ですが自在に意識を転換できるなら、長時間意識を奪われたままなんてことにはならないでしょうし、あまつさえ元の人格――ミコ姉たちが目覚めることもなかったはずです」
「たしかにな。ありゃなんでだ」
「考えられる筋書としては、三人同時に意識を奪うと、回収者たちは元の肉体に戻ってしまうんじゃないでしょうか」
だから最後は、ミコ姉たちの意識が戻った。
「かもな。それで?」
「焦らないでください。もう一つ重要なのは、カヨが向こうの世界――ニスペにいる以上、こちらの世界で根本的な問題の解決を図れないという点です」
「なら考えるだけ無駄だ」
「ですから目下、目指すべきは一刻もはやく向こうの世界に戻ることなんですが」
「どうすりゃいい」
「ぼくたちはこっちの世界に――どうしてギヴァナに飛ばされたんでしょう」
「さあ。なんでだ」
「時間を確認していなかったので定かではないですが、おそらくあのとき、ちょうど零時を回ったんだと思うんです。つまり、回収者三名の意識を同時に奪っているあいだは、ぼくたちに流れていた本来の法則とも呼べる性質が元に戻るんです」
「ならやることは一つだ。つぎの零時までにあいつらをもういちど倒せばいい」
ぼくは頷く。
頷いておきながら、ですが、と続ける。「ここで一つ問題が」
「なんだ」
「今回、なぜ肉体まで飛ばされたんでしょう。意識だけでなく、こちらの世界に」
「あたしが知るわけないだろ」
「ええ。ですがこれはどうみても不自然です。何か理由があるはずです。それはおそらく、ララ、きみが向こうの世界へ意識の転換を試みたことに関係があるはず」
「どういう意味だ」
「前まではこんな事態にはならなかったんです。そして以前といまとで違うことといったらララ、きみが向こうの世界にいたかどうかだけなんです」
「回収者どもが目覚めたのだって大きな違いだろ」
「ですがぼくたちがこちらの世界に回帰したとき、その例外は無効化されていたんですよ。以前の、本来の法則に戻っていたんです」
ララは舌を打った。
「どうあってもあたしのせいにしたいらしいな」
ぼくは笑ってから、
「最後にこれが最大の謎なんですが」
もっとも憂慮すべき事項を告げる。「どうしてぼくの肉体だけ反物質化しないんですかね?」
仮眠をとり、食事をとってから、家を出た。陽はすでに高く、深緑のそらがいっそう透明感を増している。
「腹ごしらえも万端だ。さてどうする」
「ひとまず武器を調達しましょう。素手でどうにかするにはややこしい相手です。聞いていなかったんですが、そういえばララたちは狩りのときとか、どういった武器を使うんですか」
「素手だ」
「なんか耳がおかしいな。素手って聞こえた」
「だから素手だ」
「さてはよわっちい動物ばっかり相手にして」
「ラヴァンを知っているか。フライバターの親玉いたろ。あれくらいの大きさでな、あたしらくらいのジキルならひと噛みで分断しちまえるほどの鋭利な牙を持っている」
「それを素手で」
「そ。この腕で」
言ってララは宙にある何かしらを、むろんそこにはなにもないのだが、握りつぶすようにした。恍惚とした笑みを浮かべるものだからぼくなぞは、ぞっとして、ちんちんが縮みあがって仕方がない。
「ララさんは頼りになるなー」
「もっと感情を籠めような。そうだ。ラヴァンの牙はいい武器になる。ルシェンみたいな非戦闘民族たちがいざというときに使うんだ」
「それってどこに行けば手に入るんですか。武器庫とか」
「いや、保管とかできないって」
なぜか笑われる。「死んだら数日で形状崩壊するだろ。おまえんとこの世界では違うのか」
違うが、面倒なので説明せずにおく。
「死んだら遺体は残らないんですか」
「残るっちゃ残る。保って三日くらいか。武器が入用になるたびにその都度ラヴァンを狩る必要がある。けっきょくだから、ルシェンたち慰安民族が戦闘民族に盾つくことはない。対抗するための武具を手に入れるためには戦闘民族のちからが必要だからな。つっても戦闘民族にとっちゃルシェンたちのジーベル技術は欠かせない能力だし、持ちつ持たれつ仲良くやってる」
「それはいいけど、だからじゃあどうやって手に入れるんですか」
「牙をか。そりゃ一つしかないだろ」
「いやな予感しかしないんですけど」
「ラヴァンの生息域――バルトリンセンはこっから近い。別名アンポクポクとも言うが、幼いころに一度だけ行ったことがある。村の掟でな。ラヴァンを狩らないことには一人前と認められないんだ。今回もだからまあ、なんとかなるだろ」
「幼いころっていつですか」
「んー? 前の祭りがあったころだから、そうだな、ざっと一年前だ」
この世界での一年はぼくの世界にとっての七年だ。
「何してんだ、ほら行くぞ」
「待って、何か武器になりそうなものを」
「ないって。いいから来い」
ルシェンよりも一回りちいさいくせしてララはぼくを引きずるようにし、ぼくごとダンゴ虫然とした生き物に乗りこんだ。
「このゴツゴツした動かないやつがラヴァンなんですか」
「いやバルモだ。固い殻に覆われてはいるがまったく無害のクレンポでな。ラヴァンはこいつらに擬態している」
サボテンみたいなものといったところだろう。
岩石地帯じみたここがバルトリンセンと呼ばれる区域だそうだ。背の高い、岩じみた生き物がごろごろしている。なぜそれらが生き物かとの判別がついたかといえば、それらすべてが一定の律動で脈動しているからだ。すべてがすべてでひとつの生き物であるかのように、連動して蠢くものだから、その場にいるだけで一種、巨大な生き物の胃袋のなかにいるような錯覚に陥る。
「擬態してるってことは見分けが付かないんですか」
「ルシェンみたいな非狩猟民族にはな。ここいらに足を踏み入れたが最期、歩いているところを横からガブリだ。無事に戻ってくることはむつかしいかもな」
「でも今はララがいるから安心ですね」
「ああ。食われるとしたらまずはあたしから喰われてやるよ」
「ララさん……?」
「冗談だ。せめて一緒に喰われてやる」
「ララさま……!?」
「さて行くか」
「冗談だと言って!」
ララに先導され、荒れ地を縫って歩く。思えばこの世界の地面は、大小さまざまな生き物が密集して地盤と化している。ときおり、遠目に、やたらと巨大な影が飛び跳ね、地平線の奥に消える。それはどこか鯨めいた輪郭なのだが、蜃気楼の類ではなく、真実に巨大な生き物がこの地面の下を泳いでいるのかもしれない。それこそ大小さまざまな無数の生き物を平らげながら。
排泄物はどうなるのだろう。
どうでもいい疑問に頭をもたげさせながら、しかしさきほどララは遺体が長く形態を維持できないと話していたので、道理に従うならば排泄物も放っておけば自然から消失していくのだろうと考えをまとめる。散漫になった意識をララの華奢だがきゅっと締まった背中にそそいだ矢先、真横から壁が突き出てきては、ぼくの進路を阻害した。壁の奥にララの姿が隠れる。が、思えば彼女は一寸はやく前方に移動しただけかもしれず、或いはそれは、この壁そのものがぼくたちに危害を加えようと現れた何かしらなのかもしれなかった。
壁が出現してきた方向を見遣ると、ひと際小さなゴツゴツの玉、ララいわくバルモなる生き物がある。壁はあたかもそういった尻尾であるかのようにその個体から伸びていた。明らかに個体の容量を超える体積が、巨大な尾となって突きでている。
擬態をしているとララは言った。ならばこれがラヴァンなる生き物なのだろう。獰猛らしいが、しかし今のところそういった兆候は見られない。
「何やってんだ、逃げろ!」
ララの声が聞こえ、とっさにそちらを向く。こちらとあちらを分断した壁から無数の触手が飛びだしてくる。一本一本が氷柱さながらに伸び、切っ先をこちらに向け、容赦なく襲いかかる。瞬きをするかしないかといった刹那の時間で針地獄が描かれていく。貫かれる寸前、ぼくはその場にしゃがみこんだ。頭上を過ぎ去った太い触手からは次点で、壁のほう、根元に近いところから順々に、新たな枝が伸びていく。横方向だけでなく、縦横無尽に針を、触手を、張り巡らせていく。
後方に這って移動するほか術はない。ハイハイで方向転換し、触手の先端を目視すべく顔をあげると、視界に映ったのは、そう遠くない距離から迫りくる無限針地獄の津波がごとく光景だった。
挟み撃ち。
頭上は塞がれ、よこに逃げても意味はなく、縦に移動すればみずから地獄へ飛びこむのに似た喜劇を演じるはめになる。
絶体絶命。
四面楚歌。
地面を掘ってもぐれってみれば或いは助かるかもしれないが、いずれ地面のなかに針は食いこみ、地底人ごと串刺しにするだろう。とりいそぎ結論を言ってしまえば、モグラの真似をしている暇がぼくにはない。
どう動いても串刺しになる未来が回避できないと判断した時点で、思考が停止し、身体が動かなくなった。
もうダメだ。
目を閉じることもできずに、迫りくる死の気配をただ待ち受けるほかに術はなかった。ベルトコンベアーで処刑台まで運ばれるデクノボウと化したぼくを、しかし女神は見捨てなかった。
あと数本で串刺しというところで、すべての触手が動きを止めた。超高速再生させていた動画がピタリと一時停止したようにすべてが流れの途中で止まっている。が、時間までが停止したわけではなく、間もなく、無事か、とララの声がいずこより届く。
無限ジャングルジムがごとく入り組んだ触手によって視界はほとんど塞がっている。背後にまだ空間があったはずだと尻を指針にハイハイで後退してみるが、すぐさま針の壁に阻まれた。
進退窮まり、困り果てたところで、目のまえに一筋の光が差しこんだ。筋となって地面にまで伸びたその光に沿って、複雑に入り組んだ触手、針の壁、無限ジャングルジムがパカリと割れる。
「生きてるな」
真上から差し伸べられる華奢な手に、思わず縋りついている。
「なんだよみっともない。泣いてんのか」
泣いてはいなかった。ただなんとでも言ってくれて構わないと思った。たとえどんな凄惨で辛辣な言葉にも、態度にだってぼくは涼しい顔で堪えてみせる。
「ぼくはきみになら殺されてもいい」
「やなこった」
人生初にして最大の告白はコンマ五秒で撃沈した。
ぼくは言った。
「やっぱり泣いてもいいですか」
「わざわざ聞くなよ」
かってにしろよ、と臆面もなく口にするこのひどく冷めた女を、ぼくは、とてもいいと思った。
ララは刀剣を手にしていた。手ごろな触手をもぎとったものだった。周囲を眺めてみれば、なるほど、触手はどれも微妙にカタチが異なっており、円錐であるかと思えば、薄く刃物然としているものもある。ぼくの危機を目前にしたララは凶器を手にとり、触手の本体である小さな球体、ラヴァンなる生き物を見事仕留めたようである。
「にしてもよく倒せましたね」礼を言いたいが、なぜか素直に言えないじぶんがいる。
「獲物を狙っているときを狙えってな。狩りの基本だろ」
「なるほどぼくをオトリにしたんですね。さいあくだ!」
「いやいや偶然そうなったってだけだ。なんにせよ上手くいってよかったよ」
「まったくです」
「これであたしも一人前になれたってことかな」
「んん……?」
「言ってなかったか。ここに連れてこられたとき、あたしはラヴァンを狩らなかった。一人前の烙印を捺される前にけっきょく村を出ちゃったしな」
おやおや。狩りの達人だったのでは?
「そんな顔すんなよ。いいだろ狩れたんだし」
狩れたは狩れたが、ギリギリやったやないかい。
吠えたいところをぐっと呑みこむ。しょうじき女神に映っていた女が、今では死神のように映って仕方がない。
「さて。武器も手に入れたことだしいっちょ行きますか」
日が傾きかけている。深夜までにはまだ時間はあるとはいえ、急いだほうがよさそうだ。零時までに三名の回収者を倒さねばならない。
「なあ」
ダンゴ虫じみた生き物に乗りこみ、神殿へと向かう途中でララが言った。「あたしは残っていたほうがいいんだよな」
「この世界にってことですか」
「ああ」
「そう、ですね」
彼女がぼくの世界に来たことで何かが変わった。法則が乱れたと言ってもいい。それを元に戻すためには、彼女にはこの世界に留まっていてもらうのが最善であり、かといってそれが上手くいく保証はどこにもない。
「あすになればまた会えるしな」
ララはそう言うが、ぼくは返事ができなかった。彼女もまた解っているからこそ口にしたのだろう。今回の精神転換で問題を解決できればもう二度とぼくはこちらの世界にやってくることはない。また、問題を解決できなかった場合、言い換えればあさって、ふたたびこちらの世界に戻ってきてしまった時点でぼくらにとっての日常は修復不可能な規模での損傷を受ける。具体的なカタチを伴った失意を引き連れ、ぼくらのまえに姿を現すだろう。砂時計から零れ落ちていく砂の勢いは増し、あとにはただ砂場に描いた絵を波がさらっていくような白紙化が淡々と進んでいく。
止めるほかに術はないが、肝心要のその術がどこを見渡しても見当たらない。
成功しても、しなくとも、ぼくらは今このときを以って、永遠の別れを約束されてしまっているのと同じだった。
神殿の内部は相も変わらず薄ぼんやりとした明かりに満ちている。月光を思わせるやさしさがある。
「ひょっとしたらもうここにはいない可能性もあるな」
神殿の中心部、棺のある場所まで来てみたが、無人のままだ。たとい神殿内部にいるとしたって広域なこの建造物において、散り散りになった回収者たちを探し当てるのは至難の業に思える。
「やつらがカルマを狙ってるってんなら黙ってたって向こうからやってくるんじゃないか」
「だとしたらなおさらここにはいないかもしれませんね。ぼくを追ってそとに出た可能性も」
「なら入口で待ち伏せとくか」
神殿の内と外、両方からの奇襲を考えればそう考えるのが妥当だが、
「ここで待ちましょう」
敢えてぼくは棺に腰掛ける。祭りで使われるひと際大きな棺だ。
「いいけどなんでだ」
「可能なかぎり棺から近いほうが楽じゃないですか。回収者たちを倒して終わりにしたくないんです。こんどからはララの助けを借りられない。向こうの世界で回収者に追い掛け回されるのはこりごりですからね」
「よく解らんな。倒したあとに棺に押しこんでおくってことか」
「棺にはそうした役割があると思うんです」
「封印ってことか」
「ええ。確信なんてないんですけど、そうなればいいなあという程度の考えで、でもやれることはやっておきたいじゃないですか」
「棺に入れることで逆に向こうへ送っちまうってことにはならないか。現に一度目はそうだっただろ」
「かもしれないですね」
おととい、回収者たちは棺に入ったままの状態でぼくの世界、ニスペへと精神転換された。「ただあのときは回収者みずから、仲間をぼくの世界へ送ったはずです。棺のなかにただ入っているだけでは精神転換は行われないかと」
「んー。そうか?」
「違うなら違うでいいんです。どうせ棺に入れようが入れなかろうが、精神転換は起こるときは起こるじゃないですか。さっきも言ったように、念のためです」
「おまえが言うならいいけどよ」
それからぼくたちは月光めいた薄明りのなかで回収者がやってくるのをただ待った。
賭けのようなものだった。
闇雲に動くよりも、回収者たちの鼻の良さを信頼したほうがいい。強敵だからこそ、脅威だからこそ、回収者の高い機能性をぼくは信じた。
「どうしてそんなに冷静なんだ」
どれくらい時間が経っただろうか、ララが訥々と口にした。ルシェンの肉体ではないため、体内時間が正確ではない。ただ、ララが焦っていないくらいにはまだ時間に余裕があるのだろう。
「どうして、でしょう。というかそんなに冷静に見えますか」
「すくなくとも焦っちゃないだろ」
「それを言うならララのほうこそ」
「あたしはだって、いっちゃんたいせつなものを目のまえで失くしてるからな」
「そうなんですか?」
「いや、失くしたわけじゃないからこうやってがんばってんだがな」
そうかぼくたちはがんばっているのか、となぜか今になって、じぶんの行動を肯定的に見直せた。それからララの言葉を頭のなかで反芻し、その意味するところを理解した。
「ララにとってルシェンは友達以上の存在なんですね」
「というか家族だったからな」
「だった?」
「姉妹だったんだ」ララは言った。「前に話したよな。あたしらの種族は祭りによって赤子を授かる。おまえらのところでは違うようだが、あたしらは必ず二人セットで産まれてくる」
「ララはじゃあ」
「ああ」彼女は遠い目をする。「母は、あのひとはルシェンをそのまま育て、あたしは産まれて間もなく狩猟民族に引き取られた。あのひとが狩猟民族ではなかったからだ」
仮に自分たちの母親が狩猟民族だったら、引き取られていたのはルシェンのほうだったとララは語った。
「ララはでも狩猟民族ではなくなったんですよね」
「勘違いすんなよ。べつにあのひとと暮らしたかったわけじゃない」
「分かってます。追いだされたんですよね」
「違うわい」
肩をどつかれる。
「ルシェンのやつ、自分に姉がいると知って、あたしに会いに来ようとした。何度もだ。あたしら狩猟民族は集落を守るために、中心街の外側に円形に群がって暮らしてる。あいだにゃ危険地帯がいくつもある」
「それを乗り越えて?」
「来れると思うか? ルシェンだぞ?」
「でも無事だったんですよね」なにごともなくルシェンは狩猟民族の集落へと辿り着いた。
「初めは偶然だった。ミジンギリーの群れに襲われていたところをあたしらのグループが助けた。二回目はあたしんほうで待ち伏せてた。ひょっとしたらまた来るんじゃないかと思って見張ってたら案の定だ。それからは定期的にルシェンと会うようになった」
ルシェンは決まって七日周期で現れたという。祭日と呼ばれる日があるからだ。ジーベルの仕事が休みの日である。ジーベルを利用できないララたち狩猟民族たちもまた必然、身体を癒せないため、仕事そのものを休むという。
「たぶらかすなと言われたよ」
成長してから初めて会った母親に、ララは敵意にも似た目を向けられたのだという。「ルシェンは身体のほうの成長が芳しくなくてな。ジーベル以外の仕事、主として家事が壊滅的にできなかった。幼くしてジーベルの職に就いたのも、そうしたルシェンの性質を見抜いていたあのひとの親ごころのようなものだったのかもしれない」
ルシェンにはジーベルの才があった。幼いころからすでに頭角を現し、またジーベルにおいてルシェンの幼体は――ぼくからすればララたちのほうが幼いが――その希少性がさいわいして需要を生んだ。
「つってもいくらセンスがあったって限度がある。肉体のほうはそれこそ幼いままだ。激しい運動に耐えられない。ルシェンはだんだん体調を崩しがちになってな」
「それでなんとかしてあげようと思ったんですね」
ララは頷きもせず、
「あのコにできるんだからあたしにだってできるはずなんだ」
遠くにやっていた視軸を足元に落とした。「そう思って村を飛びだした。中心街のそれこそ中央塔に駆けこんだ。体力のある狩猟民族を相手にするから、ジーベルの担い手はいつだって人手不足だ。歓迎されないまでも追いだされることはないと踏んだ」
ルシェンとはすぐに再会できたそうだ。
「同僚どもを焚きつけてな。大勢で見舞いに行った。ジーベル勢にまみれてりゃあのひとに見つからない。そう思った」
だが見つかった。話のさきを読みながら、ララの言葉を待つ。
「狩猟民族のもとに戻された。そこからもういちど村を出るのに時間がかかった。わざと手に負えない奇人を演じて追いだされるように仕向けるのに軽く五回は死にかけたな」
「どうしてそこまで……」
「あたしだって知りたい」ララは足元の小石をゆびで弾くようにした。「なんだってあのコはあんな危険な目に遭いながら何度もあたしに会い来たんだ。それを確かめたかった。最初はな」
けれど、じっさいに会い、言葉を交わしていくうちにそんなことはどうでもよくなっていった。ララの気持ちはなんとなく解るような気がした。
「おまえらの世界にゃ姉妹って概念があんだよな。向こうの肉体に転換していたあいだに知ったよ。あたしらの世界ではそうした概念は希薄だ。せいぜい、ジーベルのときにつがいにならないようにって配慮があるくらいで。逆説的に姉妹が出会う確率はほぼないに等しい。ほかがそうだからみんな気にも留めてない。じっさいあたしだって気にしてなかった。忘れていた。だのにあのコは会いに来た。バカなんだ。純粋で、無垢で、なにかをこうと思ったら止まれない。もしそれを利用してあのコをこんな面倒なことに巻きこんでいるやつがいるならあたしはそいつをどうにかしてやりたい」
「ひょっとしてぼくのこと疑ってます?」
「最初はな。ただ見当違いだった」
ルシェンを利用したとするならばカヨだ。けれど彼女にその意思があったのかはしょうじきぼくにも解らない。
「ムス姫さまが犯人だってんなら何かしらのお考えがあるんだろう。それこそルシェンにジーベルを強要して体調まで崩させたあのひとみたいに」
その言葉には棘があった。
「代われるもんなら代わってやりたい。あたしが今回のコレに拘わってたとしたらその程度のさもしい理由だよ」
「感動的じゃないですか」
「皮肉にしては上出来だ」
ちいさく笑ったあとでララは言った。「で、おまえはどうしてだ」
「どうして?」
「なんでそんなに冷静なんだ」
話の脈絡が一周して元に戻った。
「なんでっていうか、さっきも言いましたけどそんなに冷静じゃないですよ」
「これから倒そうとしている相手。あいつら、見た目はおまえの知り合いなんだろ」
「回収者ですか? そうですね。知り合いと言えば知り合いですかね」
「ならもっと葛藤とかするのがふつうだろ」
「ふつう、なんですかね」
反芻してから、これでも葛藤してるんですけどね、と言葉を濁す。
「そんなふうには見えないけどな」
「葛藤し終わったというか、覚悟はとっくに決まっているというか」
「相手が誰でも切っ先を突きたてられるってことか」
ララは棺に立てかけていた武器、ラヴァンの牙を手に取った。剣のようなそれはぼくとララと、一本ずつある。
「できるかぎり殺したくはないですけど、身動きをとれないようにするのに躊躇はないですね。両手両足の健を切っておくくらいはべつになんとも」
「ふうん」
武器を置くとララは興味なさげに、「おまえ、きょうだいは」と訊いてきた。
「いません」
「親は?」
「いますよそりゃ」
「会ったりしてんのか」
「なんでそんなこと訊くんですか」
「なに怒ってんだよ。暇つぶしだよ。つうかあたしが身のうえ話したんだ、おまえだって話すのが道理だろ」
そちらがかってに話しただけじゃないかと憤るけれども、等価交換はもっともな理屈だ。聞きたくなかったと言えば嘘になるし、だからぼくはじぶんの来歴を掻い摘んで話した。「つまんない話ですよ」と前置きする。
親と血の繋がりがないと知ったのは高校にあがってから間もなくのことだった。本当の親はべつにいると教えられ、本当の親ってなんだと思った。あんたらは本当の親じゃないのかとそう思った。疎まれているわけじゃないと解っていたし、現に彼らは、それでも自分たちはおまえの親でありたいと思っていると伝えてくれた。しかし告げられてからというもの、彼らとのあいだにはしこりのようなもどかしさが残った。
遠い親戚の子供を預かるカタチで養子縁組したというが、そうなのか、というほかに思うところはなかった。
産みの親についていちどだけ訊いてみたことがあった。すでに死んでいると聞き、訊かなければよかったと思った。育ての親の彼らが口にしなかった時点で察するべきだったが、懲りずに父親のほうはどうかと訊いた。
まったく行方知らずだが、死んだという話は聞かないのでどこかで生きているのではないか、探したいというのならでき得るかぎりの捜索はするが、どうする、と訊かれた。べつにいいとだけ答え、以後、現在に至るまでじぶんの出生についての話題は可能なかぎり避けてきた。
わざわざ地方の大学を受けたのも、或いは育ての親たる彼らの目の届かないところに行きたいという思いがあったからなのかもしれず、そうじゃないのかもしれなかった。
「大学に入学して、一人暮らしをはじめて、半年くらい経ったときですかね。育ての親がそろって事故に遭って死んじゃって。わざわざぼくのアパートに顔を出しにくる途中の事故だったみたいで。せめて一言くらい電話してくれればよかったのに、サプライズの好きなひとたちだったから、ひょっとしたらまたぞろぼくを驚かそうとしていたのかもしれません。あとで気づいたんですけど、ぼくの誕生日が翌日だったんですよ。ほんとバカなひとたちです。訃報に驚くどころか、葬式でも涙一つ流せませんでしたよ。彼らと最後に交わした言葉、それすらぼくは思いだせなくて。家を出たとき、いったいどんな会話をしたのか。もっとしゃべっておくんだったと今なら素直に思えます」
まあだからってわけでもないんですけど、と話を結ぶ。「今さらあっちの世界が無くなったところで、名残惜しいと思えるほど執着がないんですよ。トモダチもできませんでしたし、大学だって、辞めてもよかったのに、なんだかんだ育ての親の、あのひとたちの残してくれた遺産があったから。受験に受かったときの彼らのよろこぶ顔があたまから離れなくて、辞めるのもわるい気がしてズルズルと」
「そっか」
ララはつぶやき、それっきりぼくらは静寂の満ちた暗がりで、なかなか現れない待ち人を待った。
「そろそろマズいな」ララが立ち上がり、周囲を見渡すようにした。
「時間ですか」
「おまえちょっと棺に入ってろ」
「回収者が現れたらどうするんですか」
「さきに棺に入られたら厄介だからな。見かけたら潰しとくよ」
「ララ一人で? そんなのダメだ」
「ならどうすんだ。時間がないんだ。あたしらの目標は回収者を倒すことじゃない。護りたいひとを護ることだ」
「だから言ってるんじゃないですか。ララ一人に危険なことはさせられない」
「さんざん付きあわせといてなに言ってんだおまえ」
「それはだって」
「おまえは世界がどうなってもいいと思ってるつったな。けどなら、なんでそんなに必死なんだ」
「必死? さっきは冷静だなんだってバカにしたじゃないですか」
「褒めたんだよバカ」
「ほらまたバカって」
「めんどくせえなおまえ。おまえはだから回収者の一人、なんとかってコを助けたいんだろ。だからそんな必死こいてがんばってんじゃないのかよ」
「ちがう」
「ちがうって、じゃあなんで」
「こっちが言いたいですよ。ここまで言ってなんで……」
伝わらないんだ、と腹立たしくなってくる。
「はぁ?」
言い争っていると、空間に響く足音を察知した。ぼくらは押し黙る。音のほうに目を転じた矢先に、背後から伸びてきた腕にララが拘束されてしまう。振りほどけないのは、なにやら縄状のようなもの、それはどうやら生きているのだが、蛇じみた何かしらに簀巻きにされているからだと判る。
「ララ」
助けに寄ろうとしたところで、真上から落ちてきた影に驚き、尻もちをつく。股のあいだに影の主、回収者が拳を地面に叩きつけた状態で制止している。と同時に、空間全体を揺るがす轟音が突き抜け、見える範囲の地面がお盆型に大きく窪んだ。が、見る間に元のたいらな地面へと修復されていく。神殿そのものがカルマの影響を直に受けているかのようで、それはまさしくぼくが欠損したときに見せた再生と似たものを思わせた。
回収者はこちらを仁王立ちで見下ろしている。ララは拘束されたまま、しかし口元を覆われているためか、苦しそうに身じろいでいる。横には事務員さんに似た回収者が立っている。今すぐにでもララを消し去ることができるのだと誇示するように彼女の頭を鷲掴みにしながら、手のひらをララの胸元にあてがっている。むしろ揉んでいる。揉みしだいている。
ぼくよりも激しく!
苦しそうなララの顔面は、初めこそ上気していたが、どんどん青白くなっていく。
ひょっとして息ができないんじゃ。
案じているこちらをよそに、最後の回収者、ミコ姉に似た個体が、地面の下から、まるでそういった舞台装置であるかのように、音もなく競りあがってきた。
地面に穴などは開いておらず、それはどう考えても地面を透過して現れているのだが、だとすればぼくらがどれだけ神殿内を探し回っても見つかるはずはなく、或いはララの呈した戦略、待ち伏せという案は正解だったのかもしれない。
が、こうして虚を突かれてしまえば、どんな正解も意味をなさない。
ミコ姉に似た個体は棺のよこに立てかけられていた武器、ラヴァンの牙を手に取ると、躊躇なくこちらの腕を斬りつけた。
そう。
斬りつけられたのだと思った。
地面に転がる腕と、切断面から噴きだす大量の血を目の当たりにするまでは。
言葉にならない怒りが、喉の奥から飛びだし、一泊置いてからぼくは咆哮した。
咆哮しているあいだにもミコ姉に似た個体はラヴァンの牙を二度、三度と振るい、ぼくの両手両足を分断していく。
身動きがとれなくなり地面に仰臥するぼくへさらなる追い打ちをかけるように、ミコ姉に似た個体はぼくの胸元に切っ先を押しつけ、突き刺し、わざわざ抉るようにしてから鳩尾の辺りから臍くんだりまで、チャックを引き下ろのに似た動きで、切っ先を移動させた。
腹に引かれた一筋の線からはプツプツと血が浮きだし、数秒後には、腹圧から押しだされた内臓が、避難経路へと押し寄せる有象無象の被災者がごとくモリモリと溢れだしていく。どこかヘビ花火を思わせる光景に、現実感のなさを、言い換えればふわふわとした夢心地を感じた。
もはや声は枯れ尽くし、弱弱しく呻くことしかできなくなったぼくをそれでも懲らしめ足りないのか、ミコ姉に似た個体は魚を捌くように、溢れだした内臓を切り分け、取り出し、ぼくの胴体部を空洞にしていく。臓物のうち、残るは肺と心臓だけとなったとき、ミコ姉に似た個体は、いよいよぼくの肋骨に切っ先を突き立て、完全に胸を開花させた。
赤黒く脈打つ心臓が白桃色の肺の合間にかわいらしく収まっている。ぼくはそれを見たくもないのに視界に入れ、蠢く心臓の動きを確かめることでじぶんはまだ生きているのだと客観的に意識した。
ぼくは完全に勃起していた。両手両足を失い、血だるまになりながら、綿を抜かれたヌイグルミよろしく恥ずかしげもなく胸元をおっぴろげておきながら、それでもなぜかぼくの生殖器はべつの生き物のように、或いは心臓もまたぼくの意識とはかけ離れた別個の生き物なのかもしれないが、確固とした生を、その存在を、天上へ向け高々と誇示していた。
ミコ姉に似た個体は生殖器にはいっさい興味をそそがず、迷いのない手つきで切っ先を心臓へといざ突き下ろさんとしたところで、ぼくはなぜかふと、そうしたかったわけでもないのに射精した。全身を駆け抜けたのは紛うことなき死への諦観だったにも拘わらず、ぼくはそこに底抜けの絶頂を見出した。
或いは見出していたのはぼくではなく、ぼくの自我とは切り離されたところで存在を誇示している生殖器だったのかもしれないが、あいにくとぼくたちは同一の肉体に根を生やした共同体であり、意識的無意識的に拘わらず感覚を同調させているのだった。
聖なる白濁の余波が、ズボンの股の布地にしみ出したのを視認し、視認したことで、ぼくはまだ生きているのだと実感した。
射精をしたあとはやってきた死神と手と手を繋ぎ、いちどもできなかった初デートをしながら星空のきれいな海辺の町でキスをし、無へと帰すのだと覚悟していたぼくは、それでもなかなかやってこない死神に裏切りにも似た憤りを感じ、そんなんだったら二度と来るな、ぼくにはビッチがお似合いだ、とわけもわからぬ怒気を撒き散らしたくなったのを契機に、正気に戻った。
なぜかぼくは、ぼくの顔を、涙と鼻水とヨダレでぐしゃぐしゃになっている顔を手の甲で拭っており、鍾乳洞の生成される過程を超高速再生で眺めるように、短くなった両の脚が、モリモリと蠢きながら元に戻っていく様を、やはりというべきかただ眺めた。
心臓へラヴァンの牙を突き立てんとしていたミコ姉に似た個体は、なぜかぼくから距離をとっており、そんな彼女とぼくとのあいだには、なぜかこの世界にいるはずのないカヨが、その華奢な背中をこちらに向け、凛然と立っているのだった。
「めんどうを起こすなって言ったでしょ、わからずや」
なぜかぼくは怒鳴られており、そしてぼくの背後には、ぼくを支えようとしているのか、つよく抱きついているララのやわらかな感触が、股間をくすぐる甘い香りと共にあるのだった。
回収者たちの反応ははやかった。カヨはぼくを助けると同時にララの拘束をも解いていた。ララを拘束していた二人の回収者は、邪魔者の登場にいちはやく反応し、ミコ姉似の個体と合流した。
が、反撃を繰りだす前にカヨが構えた。両の手のひらをお盆を持つように返し、構える。
ポコポコとシャボン玉じみた黒色の玉が出現し、それはおそらくカヨの手のひらから生じているのだろうが、空間内に無数に浮かびあがると、カヨは構えていた両手を叩き合わせ、合掌するや否や、両手をまえに突きだすようにした。
連動して黒色の玉が直線を描き無数に回収者たちへ向かって飛んでいく。
両手で狙いをつけるには二人が限度だったらしい。攻撃を受けなかった真ん中のミコ姉似の個体が真上へと飛び跳ね、そのまま天井と同化し、姿を消した。
黒い球体は回収者二名にまとわりついた。群がったそれらは互いにくっつきあい、水溜りを形成する水滴さながらに形態変化を終えると、ひときわ大きな球体へと膨張し、一瞬で姿を消した。
あとには、お盆型にえぐれた地面と、失われた分を補おうと流れる空気のうねりがあるばかりで、そこに回収者二名の姿はなかった。
「カヨちゃん」
ぼくはじぶんたちの無事を確かめてから、声を掛けていた。「何なんだきみは」
彼女はこちらを振り向かぬままで、
「あなたが知る必要はないですよ」
淡泊に吐きつけるのだった。
「んな言い方ってあるかよ」ララが吠えるが、
「あなたには感謝しています」邪気のない顔で振り向かれたためか、拍子抜けした様子で押し黙る。カヨはララの手を握るようにし、「あなたのオトモダチは必ずやお返しします。今しばらくわたしたちに協力してはくれませんか」
幼い容姿で真摯な言葉を並べるものだから、ララは完全に毒気を抜かれた様子で、
「そりゃ端からそのつもりだけど」
どうしてよいものやらと戸惑いがちにこちらを見遣る。
「あのカヨちゃん」
「時間がありません。急ぎましょう」
こちらを一顧だにせずカヨは部屋の真ん中にある、生贄用の大きな棺に触れた。棺のふちをそっと撫でるようにすると棺の底に幾何学的な紋様が浮きでる。溝が刻まれているらしく、間もなく紋様に沿って、液体のようなものが滲みはじめる。見る間に棺のなかに液体とも気体ともつかない、質感を伴ったモヤのようなものが充満した。
「さあなかへ」
「ぼくが?」
入るのか、と逡巡すると、はやくしなさい、と叱責される。なぜか身体は条件反射のように動いており、棺に納まったぼくをララが不安げに見下ろしている。乳母車に載せられた赤ん坊の気持ちが解るようだ。
「別れの挨拶がしたいのなら今のうちに」カヨはララへささやくようにし、一歩後退した。棺のふちに遮られ、カヨの姿が見えなくなる。代わりにララが身を乗りだすようにし、こちらの頬に触れた。
「だいじょうぶですよ」ぼくは言った。「ルシェンを返してくれるって言ってました。カヨちゃんは怪しい人物ですけど、ぼくらを――すくなくともララたちを貶めるような真似はしないはずです」
「はず、かよ。そこは断言してほしいところだがな」
「また会いましょう。ジーベルの仕方、手取り足取り教えてくれるんですよね」
「そんなこと言ったっけ」
「言いました」
「赤ちゃんできたらどうしよう」
「種族がちがいますから心配は」
「いらないってか」
「そうですね。いりませんけど、ララとの赤ちゃんなら欲しいかなって」
「かな、かよ」
ララはぼくの鼻にデコぴんし、「話し足りないけど、時間ないらしいし」と棺から身体を離した。「楽しみはつぎの機会にとっとくよ」
「もういいかしら」カヨがやってくる。こちらの身体を押しのけるように、或いは重なるように棺に潜りこんでくると、
「あなたは神殿から脱して、なるべく遠く、そうね、チツコウまで避難なさい」と指示した。
チツコウとはたしか、巨大なフライバターのいる湖然とした場所だ。
訝しげではあるが、ララは不満を口にすることなく、わかりましたと指示に従う旨を約束する。
「もし身近な誰かが消失するようなことがあっても、たとえそれを間近に目にしたとして、それを助けようなんてしちゃダメよ」
ララへつよく言い聞かすようにし、さあ行きなさい、と手を払うようにひらつかせる。名残惜しげに部屋を出ていくララを見届けてから、カヨはようやくぼくのほうを向き、そして馬乗りの状態でぼくに被さるように抱きついた。
「な。カヨちゃん?」
「黙って。必要なことなんです」
言われたからではないが、ぼくはじっとしている。
ちいさな身体つきでありながら、すべてを包みこむやさしさがある。言い換えればすべての問題は今ここで、彼女の抱擁を以って解決したのだと錯誤させるだけの安堵の念がどこからともなく湧きあがってくる。ぼくは彼女の体温とどこか赤ちゃんの匂いに似た甘い香りに包まれながら、どこか遠く、懐かしい感覚を思いだし、それがいったいどこからくる感慨なのかを記憶の奥底から探りだそうとしていた。
「さっきのコが神殿を出ていくまで今しばらくこのままで」
カヨがちいさくそう言ったとき、
「ちくしょう、やっぱりまだいやがった」
ララが戻ってきた。逼迫した様子でこちらに駆けてくるが、一寸先に、ぼくらとのあいだに回収者が現れた。ミコ姉似の、さきほど取り逃がした個体だ。
回収者はララには一瞥をくれるだけで、すぐさまこちらを向き、手のひらを頭上へ突きだすようにした。
ひときわ大きな黒色の玉が現れた。先刻、カヨが取り扱ったものと似ているが、大きさがけた外れだ。膨張し、空間そのものを埋め尽くす。
ふと、回収者の足元に目がいった。樹の根のように神殿と融合している。
「カヨちゃん、なんとかしてくれ」
なんとかできない事情があるのか、カヨは歯を食いしばるだけで、なにもしようとしない。
「さっきの黒玉で応戦すれば」
「ダメ。飛べなくなる。イチかバチか、飛ぶわ」
カヨが棺の底に手のひらを押し当てた。棺に充満していたモヤが、濃い緑色に発光し、ぼくらを包みこむ。
が、その光に反応したのか回収者が巨大な黒色の玉を、それはもはや黒い太陽がごとく荘厳な威圧を放っているのだが、頭上に伸ばしていた腕ごと振りおろさんとした。
そこで絡みついたのがララだった。回収者の邪魔をせんとばかりに耳に噛みつき、乳を揉む。
「ララ!」
「いいから! 行け!」
回収者の周囲に大小さまざまな黒色の玉が現れる。それらはすべてララに襲いかかった。
「はやくッ行けッて」
「ララ!」
最後に目にした光景は、身体に大小さまざまな穴を開け、それでも回収者を手放さんと抗うララの姿だった。
瞬きをしたつぎの瞬間には、荒廃した街並が眼前に広がっている。建物はいずれも穴だらけで、トムとジェリーに出てくるチーズを連想する。倒壊しないのがふしぎなほどだ。思った矢先に、視界の奥のほうにある建物の一つが倒壊した。轟音と共に砂埃を巻き上げながら瓦礫と化していく。
「よかった」カヨが言った。
「なにがですか」
身を挺しぼくらを庇ったララの姿を見ていないはずもなく、この光景が目に入っていないはずもなかった。
「思ったより進行が遅いから」
瞬間的に腹が立った。目のまえで死にかけている人間を足蹴にして、よかったまだ生きている、と口走るのに似た戯言に聞こえた。こちらの鋭利な眼差しに気づいたのか、
「手遅れじゃないってこと」カヨは言い換えた。「ひょっとしたらもうこの世界は修復不可能なほどに侵食――対消滅してしまっているのかとも焦ったのだけれど――それは畢竟するにあなたの節操なし具合と関係があるのだけれど、わたしが思っていたよりもあなたは純粋なだけなのかもしれないですね」
「なんの話だ」
分かるように言ってほしい。
「時間がないので単刀直入に言います」
カヨは低頭した。「ここで射精をしてください」
なんですと。
「伝わりませんか。言い直しましょう。オナニーをしなさい」
「オナニーをですか? ここで?」
なんで?
呆然と立ち尽くすこちらに業を煮やしたようにカヨはしれっとこちらのベルトに手を伸ばし、
「もちろんわたしが手伝ってあげてもよいのですけど」
すばらしい提案をしてくるのだった。「どうしますか」
どうするもこうするも、まずはこう反問するよりほかにない。
「なんでオナニー? ていうか射精って、ふざけてる場合じゃないでしょうよカヨちゃん」
「ふざけてる? 誰が? わたしがですか」
「ちょっとなんで逆切れするの。怒りたいのはぼくのほうだって」
「生殖器イジイジするくらいなんですか。なんのためにわたしがここまでしてると思って」
怒鳴るカヨだが、息を止め、深く吐きだすようにすると、
「白紙化の進行を止めたいのなら言うことをきいてください」
悄然とするのだった。
「言うことって、オナニーですか」
「射精してもらえればそれで構いません。べつに相手がいてもいいんです。とにかくあなたが性的に興奮してくれさえすれば、絶頂するくらいの快楽を得られれば、それでみたび門が開きます」
「門?」
「カルマが砂時計の穴のようなものだという話はしましたね。その穴は通常、極々ちいさなものなのです。が、カルマを宿したあなたが高揚したときにのみ、その高揚の仕方に応じて一時的に拡張します」
「拡張って、広がるってこと?」
「そうです」
「穴が?」
「そうです」
「う、うーん」
「にわかには信じられないかもしれませんが、そもそもを考えてみてください。こちらの世界で巨大な穴が出現した前後、あなたは性的に興奮していませんでしたか」
「憶えてないってそんなこと」
「してたんです!」
欲情したか否かを他人に断言される経験なんて滅多にないように思う。ないほうがよいと思う。
「わかった、わかったよ。百歩譲ってぼくが欲情して、それでカルマの穴が広がって反物質がこちらになだれこんできたとして、それで? 今回ぼくが穴を開いてカヨちゃんはどうするつもりなのかな。そこを聞かないことには協力するわけにはいかない」
「強情っぱりですね時間がないって言ってるのに」
それはこちらのセリフだ。
思うが、いがみ合っている場合ではないのに異存はない。
「いいでしょう。いまわたしたちが陥っている状況は、いわば水素と酸素が結びついて水になっていくようなものです。陰と陽が結びつくことで生じるのは無であり、プラスとマイナスが結びついて生じるものもまた無です。無とはいわば、有と表裏一体の現象。ただそれ単体で存在できる代物ではないんです。ここまではいいですか」
「よくはないけど、それで?」
「無が生じれば必然、有も生じます。陰と陽、正と負、そうした事象は無から生じていますが、同時に有からも生じるんです。無が歪むことで生じた陰と陽があるように、有が歪むことで生じる陰と陽もあるんです。そして重要なのは、陰と陽もまた、それぞれが大きく歪むことで、各々に無と有を生じさせるという点で」
「ごめん。まったくついていけないんだけど」
「世界は二つでひとつ。けれどワンセットだけだとあなたはなぜそう思うのですか」
「いくつも宇宙があるみたいな話かな」
「あなたたちの科学技術では現在、認識可能な物質は宇宙全体の五パーセントだとされています。そして残りの九十五パーセントは暗黒物質と暗黒エネルギーで満たされていると考えられていますね」
「どっかで聞いたことはあるかな」
ウソかホントかは知らないけれど。
「あなた方にとっての未知の領域、あれはほかの世界との重なり合った部分なんです。世界と世界が互いに包括しあって、柱のように互いの世界を支えている」
「余った部分がぼくらの世界だと?」
「というよりも包括しあっている部分は、ほとんど同じ部分。相互に異なった、その世界に固有の部位は通常どうあっても認識できません。ただ、そこに何かがあるように感じられるだけ」
「それで? だからカヨちゃんは何が言いたいのかな」
「家系図のようなものを想像してください。一つの無から二つの世界が誕生し、さらにそれぞれに二つずつ世界が誕生する。ネズミ式に世界は増えていきますが、すべては最初の種子があってこそ。けれど無は有と表裏一体。では有はいったいどこにあるのでしょう」
「さあ」
「無が生じるための下地、いわば家系図を描くための紙こそが有なんです。何も描かれていない白紙を一枚想像してください。そこには無限の奥行きが表現されています。際限のない世界。それこそが有。そこには何も描かれていない、何もない状態が描かれている。無と有が表裏一体、混然一体に存在している状態」
「それはいいから、で、何が言いたいの」いい加減、腹が煮えてきた。
「世界は無限に枝分かれしているドミノのようなもの。ある一つの世界が失われるだけで、そこを支点に、それまで繋がってきた世界そのものが雪崩を起こしたように崩壊をはじめます。あなた方にとってはこの世界こそが自分たちのすべてだと考えているかもしれませんが、あなたがたの世界が失われるだけで、ほかの無限に等しい世界までもが間もなく白紙に戻されてしまうのです」
「だから何? いまさら事態の深刻さを嘆いたって仕方ないでしょうよ。ぼくが知りたいのはそれを阻止する手立てだよ。そのほかのことは、それこそ世界の成り立ちとかそんな設定はいらない。だいたいにおいて、それとぼくがオナニーしなきゃならないこととどう関係が」
あるのか、と続くはずだったこちらの口にひとさしゆびを押し当てながら、カヨは浮かしたかかとを地面に着けなおし、
「穴が開くなら塞いじゃえばいいじゃない」と言った。「白紙化はどうあっても止められない。だったらいっそのことすべてを一瞬で白紙化させて、陰と陽の代わりに無と有をつくりだしちゃえばいい。かんたんな話でしょ」
「段階的に白紙化が進むから問題だって話かな」
「そういう言い方もできなくはないですが、本質的にはあなたが世界を消すことに意味があります。回収者ではダメなんです。カルマを宿したあなたが世界を閉じ、あなたを支点としてふたたび世界は再構築される」
「よくわからないけど、そのために必要なのがオナニーってこと?」
「ギヴァナ、向こうの世界にいるあいだ反転していたカルマの入口が、こちらの世界、ニスペではあなたのなかで出口と化します。ギヴァナでいくらあなたが絶頂しようと反物質は同じ世界を堂々巡りするだけですから白紙化の促進には繋がりません」
「それはヘンだ。あっちの世界でも穴は開いていた。土地が、町が、消失してた」
「それはあなたの世界、この世界に流れこんだ分の物質です。いずれにせよ同等の規模で世界は侵食されていく。消滅されていく」
肩にかかる程度だったカヨの頭髪がいつの間にか足元にまで届き、次点で地面を、世界を、黒々と覆っていく。
「回収者の登場はまったく予期せぬ事態でした。予定が狂い、わたしは頭を抱えた。事態を収束させするだけなら方法はあるんです」
「だったらなんでそれをしないんだ」
「いいのですか。その方法が、ギヴァナであなたを回収者に処理させることでも? それをすればいくばくかの極々小規模な損失は残りますが、世界はそのままの形態を維持できる。そしてカルマを手にした回収者をわたしがその場で抹殺すればすべては元通り」
「しないよりかはマシでしょうよ」
「あなたはそれを許容できたと?」
「それでララたちの世界が――ララたちが助かるのなら」
本望だと心の底からそう思える。ぼくのザーメンでこの世のすべての人間が美少女に生まれ変わるくらいの僥倖だとすら思える。
「安いヒロイズムだこと」
カヨの皮肉を聞き流し、
「ララたちは助かるんだよな」
回収者たちに消された者たちを復活させる手立てがあるかを訊く。答えを聞くのが怖くて敢えてこれまで訊ねなかったが、カヨの含みのある言い方からして彼女たちや、巨大な穴に消えてしまった者たちをふたたびもとの世界に復活させることが叶うのではないか、と当て推量ではあるものの期待していた。
「すくなくともあなたが射精すれば、或いは」
「或いはってなんだよ或いはって」
「ですが、それ以外に彼女たちを――世界を元通りにする術はないんです。さきほどの解決策は、白紙化を阻止するというものであって、世界を元通りにするというものではない。言い換えれば、回収者の手によって消された者たちを、あなたの知り合いを救う手立てとは成り得ないんです」
「それは困る。ぼくぁさいあくこっちの世界なんざどうなったっていいと思ってる。でもせめて向こうの世界は――ララたちだけはなんとか」
「本当にわがまま。いったい誰に似たんでしょうね。親の顔が見てみたい」カヨはなぜかそこでこちらが戸惑うほどやさしい顔をした。「これが嫌だ、あれは嫌だと、そうやって駄々をこねてばかりで、取捨選択できるほど余裕のある立場なんですか」
「カヨちゃんこそどうなんだ。自分ばっかりすべてを見通してますって顔して、肝心なところじゃ他人を頼ってばっかりでてんで役にたちゃしない。いったいなんなんだよ。なんなんだよきみは」
「わたしは……」
そこでカヨは初めて怯えたような表情を見せた。まるでこちらのほうが悪者のようで、いたたまれない気持ちになる。
「わかったよ。いいよ。どうせぼくひとりにできることなんざ高が知れてる。それこそオナニーするくらいしか脳のないダメ人間だ。たかがオナニーごときでカヨちゃんの役に立てるってんならお安い御用だよ」
「自棄にならないで」
「無茶言うな。こちとら成人前からずっと自棄なんだ。いや、自棄にもなれず人間にもなりきれぬ哀れで醜いオナニーマシンさ」
「カッコつけないで」
「カッコよかったか?」
「とにかく」カヨは強引に話をまとめた。「あなたがオナニーをすればそれで済む話です。嫌だと言っても無理やりにでも射精してもらいますからそのおつもりで」
「無理やりにったって」
逆レイプでもするつもりだろうか。いくらなんでもこちらのほうが体格からして優勢だ。組伏せられることはないように思う。
「ひょっとしておかずが必要ですか?」憂いげな問いかけにこちらのなけなしの矜持が傷ついた。「童貞の妄想力舐めんなよ」
颯爽とズボンを脱いだのは、それこそ衆人環視の「衆」の字もない荒廃した世界にあって他人の目を気にするだけ無駄だと判りきっているからで、ではなぜ目のまえの少女、ほとんど幼児体型と言ってよい小娘の目を気にしないのかという問いかけには声を大にしてこう答えることにしよう。
当てつけであると!
配慮すべきはぼくではなくカヨのほうであり、破廉恥の権化と化した男から目を背けるのは淑女の嗜み、義務であるはずだ。
が、なぜかカヨはその義務を施行することなく、ぼくのぷらぷら揺れるショボクレピンピン丸を凝視している。
「どうしたのですか。さあ射精を。いますぐ射精を」
「ぼくにそういう性癖はないんですけど」
「何を言ってるんですか。やっぱりおかずがなければダメなんですか。インポテンツなんですか」
「そうじゃないのだけれども……」
「なら早く射精をしてください」
さあさあ射精を、お射精を、とカヨは射精射精と連呼する。やめてほしい。何かとんでもなくぼくの自尊心がこそげおち、それこそ搾取されているきぶんになる。
「わかった、わかったからあっちを向いていてくれないか」
「どっちですか」
「こっち以外ならどこでもいい」
「分かりました」
カヨがこちらに背を向けたので、ぼくは勇んでショボクレピンピン丸をしごき倒した。しごき倒しながら、しょぼくれていながらピンピン丸とはずいぶんと矛盾に喧嘩を売ったネイミングセンスだと、この際だからいずこにいるだろう世界の創造主のセンスを疑っておく。
「まだですか」
「ぼくは早漏じゃないやい。急かさないでくれ」
「やっぱりインポテンツなんじゃ」
「心配ご無用」
「まーだかな」
「急かすない」
「まーだだよ」
「なんでカヨちゃんが決めつけるの」
不平を鳴らしつつも、まだですかと呼びかけたくなる気持ちはたしかに解る。かれこれ三十分はしごきつづけており、今なおショボクレピンピン丸はその名に恥じないしょぼくれ具合を、誰にともなく誇示しつづけている。
オナニー三昧の日々を送ってきたぼくにしてみればなにゆえ苦戦を強いられるのかと首をひねるのに余念はないのだが、そうして余計な疑問に思考の大半を占領されている現状、ことこれほどの緊急時において、ぼくの妄想力は塩をかけられたナメクジさながらに正常な機能を維持することができない。
「やっぱりおかずがないときついかなぁなんて」
敗北宣言にも似た屈辱を抱きながら口にすると、ほら見ろやっぱりだとでも言わんばかりにカヨは振り返り、まったく変わり映えのしないショボクレピンピン丸をまじまじと見おろした。一種そこには蔑視に似た冷たい眼差しがあった。ともすればふだんであれば反応するはずのぼくの相棒はまっこと謙虚にこうべを垂れたまま、照れくささのあまり、さらにその身を縮めはじめたではないか。
「至急おかずを!」
ぼくは叫んだ。堂々と。
「こんな感じでどうですか」
カヨは脱いだ。颯爽と。
逡巡を挟まぬ手際のよさで。
一糸まとわぬあられもない姿になってから、
「そういえばチラリズムのほうがえっちぃんでしたっけ」
などと解ったような口を叩き、いちどは脱ぎ捨てたスカートを身に着け、こんな具合でどうですか、などといっちょうまえにシナをつくってみせる。
「ぜんぜんなってない」
「どこがダメですか」
「パンツは脱いでも靴下は脱ぐな!」
糾弾さながらに指摘してやると、カヨは唇を尖らせながら、そういうもんですかねぇ、などと不承不承ながらもこちらの注文に応じた。
「こんどはどうでしょう」
「ふん」
パーフェクトだ。
やればできるじゃないか。
頷き、さっそくとばかりに目のまえの美少女のあられもない矮躯をおかずにして、シュコシュコ手首を動かした。
が、なぜかぼくの相棒は、相も変わらずしょぼくれており、あろうことか、さらなる後退をはじめたではないか。
いったいどうしたことであろう。
世界の存亡などそっちのけでぼくは自身のあり得ぬ事態にうろたえた。
美少女を目のまえにそそりたたぬなどあってはならぬ奇禍である。ちょっとした災害だ。
或いは、ギヴァナでの快楽地獄を体験してしまったがために、この程度の刺激では肉体が反応しなくなったとでも言うのであろうか。
嘘だ。嘘だと言ってくれ。
オゥ神よ。
ジーザスよ。
ぼくは生まれて初めて天に祈った。ザーメン。
冗談でなく。こんなことで。
「もういいわかった。わかったから服を着てくれ」
「おかずはいりませんか?」カヨはどこかざんねんそうだ。
「おかずはいるが、きみはいらない」
「まあ」
「失礼な物言いだってのは自覚してるんだけど、どうにも動揺しちゃってて」
「やっぱりインポテンツだ」
「発音よく言わないでくれ」
「インポなんですね」
「略してもダメだ」
「インポータントなんですね」
「さも重要みたいに言わないでくれ」
「チンポなんですか?」
「ちいさいからって疑ってんじゃねえ! チンポだよ! 誰がなんと言おうとこれはチンポ!」
もうやめてくれ。
ぼくは頭を抱えた。
「こんな恥を晒すくらいならいっそのことこの世界ごと消えてなくなってしまいたい」
「それがあなたの望みですか」
「ああそうさ」ぼくは開き直った。「そもそもこんな世界なんか大っ嫌いだったんだ。そうだ、どうして忘れていたんだろう。ぼくは死のうとしていた。首をくくって死のうとした。そうだ思いだした」
ルシェンと精神転換する直前の日、ぼくは玄関のドアノブに縄をかけた。座った状態でもひとは死ねる。首をくくって死のうとした。
「ララたちと出会ってすこし希望みたいなものを見た気がしたけど、そんなもの現実でもなんでもなかった。幻にすぎなかったんだ。彼女たちは消えた。それもぼくのせいで。どうやら神さまとやらはぼくが心底お嫌いらしい。こんなにもきつく当たられて、ぼくの立つ瀬はもういくぶん前からなくなってたんだ。最後の最後で高みに昇らせ、そこから突き落としたいんだろうさ。ああいいさ。そこまでするなら付き合ってやる。奈落の底へなりとも連れていけ」
神へ吐きつけたはずの唾は、なぜだかカヨの足元に落ち、それは彼女がこちらに近づいていたからなのだが、彼女は憐憫さながらの眼差しをこちらにそそぎ、ぼくはそれを浴び、なぜだか解らないが胸の奥を締め付けられる心地がした。
「本当にそれでいいんですか」
「なにが……?」
「いいんですね」
「だからなにを……?」
「わかりました」
カヨは下唇を噛むようにし、さらに言った。「では、世界を終わらせましょう」
待ってくれ。
ぼくは何も言っていない。
カルマを取りだせるならばなぜ初めからそうしなかったのか。
抱かずにはいられない疑問を呈する暇もなくぼくは、カヨの伸ばした腕によって臍の辺りを抉られた。貫いてはいない。壁から突きでる蛇口顔まけの融合具合でぼくの臓腑を内側からじかに漁ってくる。
そう漁っている。
カヨはぼくの腹部に手を突っこみ、下腹部、それこそ股間の辺りを内部からぐりぐりまさぐっている。あらぬ場所を抉られている身としては指一本微動だにしてほしくはないのだが、失神寸前の身のうえとしては痛いと叫ぶこともままならず、全身のちからというちからが抜け落ちる。その場に崩れ落ちてしまいそうになりながらも、あいにくとカヨの腕が一本の梁のようにこちらの身体を支えている。引き抜く余力の微塵も湧かないぼくとしてはもう、なるようになれ、というよりも、邪魔をしないのでさっさと抜き取るものを抜き取って人心地つかせてほしいと望むところの声がもっとも大きい。
ひと際鈍い痛みが股間に走る。
カヨの手がぼくの臓腑のなにがしらを掴み取っているらしい。お尻の穴がキューッと閉まる。
根強いカビ汚れのようにしっかりと根を生やしたぼくのなにがしらは、どうやらお尻の穴の周辺付近と繋がっているらしく、同時にぼくの股間のショボクレピンピン丸までキュルキュルと縮まっていく。内側から引っ張られたがごとく有様で、一種ネジのように思えなくもない。
おそらく今この場でプロサッカー選手に股間を蹴りあげられたところでぼくのゴールデンボールよろしくチャマチャマは潰れることなく無事であるかもわからない。普段ならば外部にまっこと慎ましく垂れさがっているチェリーボーイのまさしくチェリーたるチャマチャマが、カヨの手練手管に合わせ内蔵奥深くへと引っこんでいく。
チャマチャマが狙いならばわざわざこんな手間をかけずとも直に股間を掴みあげればいいだけではないの。
思うが、或いは、狙いはぼくのチャマチャマではなく、尻穴とチャマチャマを繋ぐ位置にあると謳われる幻の秘宝、前立腺なのかもしれなかった。
うんとこしょー、どっこいしょー。
腹部に突っこまれた腕にことさら力が加わり、間もなく、大きな玉が抜けました。
難産も真っ青の悪戦苦労を地で描いたぼくはしかしぐったりしながらカヨの手のひらのうえで黒光りするこぶし大の玉を目にする。同時に股間の辺りで脱力している双子のチャマチャマの存在を確認し、未だ男の子を名乗る資格を有している事実にほっと股を撫でおろす。
カヨの抜き取った漆黒の玉に目を転じる。玉からはなぜか輝きが失せていき、間もなくそれが球体か否かの判別に窮するほどの闇そのものに変化した。
そう変化だ。
明らかにさきほどまでの様相と趣を異としている。
カヨは手を離した。にも拘わらず闇は、闇として宙に浮かび、固定されている。落下しないのは、或いは物体ではないからかもしれず、そうじゃないのかもしれなかった。
闇にとくべつな動きはない。
なにごとかを吸いこんだり、吐きだしたりといった奇異な所業を仕出かすわけでもなく、ただ宙に、そこに、浮いている。
「なあカヨちゃん」
幾分かの時間が過ぎ、体力が戻ってきた。闇はコブシ大の玉然として依然、宙に浮いたままピクリともせずそこにあり、周囲の風景にも、いっそのこと世界に、と拡大して言ってしまうが、変化は見られない。強いて挙げるならば辺りが日没し、暗くなっていることくらいなのだが、それだって単に時間どおり、予定どおりの夜がやってきたにすぎない。
「いったい何がしたかったのかな」
「言ったとおりですよ。あなたの望みどおり、世界を終わらせています」
ぼくは仰々しく肩を竦め、
「世界は消えたくないみたいだよ」
軽口を叩いてみせるが、カヨは、もうすこしだけ待ってください、と真顔のまま、表情一つ変えずに口にする。
「あとどれくらい待てばいいのかな」
「一時間もかからないと思いますよ」
「けっこう待つんだね」
「すべての世界を閉じますからね」
注文を終えた客があとは料理が運ばれてくるのを待つのに似た雰囲気がある。「カルマがここにあるので、この世界は必然最後になります」
「へえ、そうなんだ」
あまりに飄々と言うものだから、つまらない冗談をつづけるのはよせ、と怒るのもはばかられる。
言いだした手前、引っこみがつかないのかもしれない。ぼくは手持ち無沙汰に周囲を見渡した。電気の供給は止まっているらしく、地上はまっくらだ。見て回るにも足元が覚束なく、折衷案として地面にぼくは寝転んだ。頭に手を組んで枕代わりにし、なにともなしに夜空を見上げる。
妙に暗い。月がないせいかもしれない。
かといって満天の星空というわけでもなく、針の穴のような星々が申しわけ程度にまたたいている。
もうすこし田舎なら満天の星空だったろうに。
小学生のころミコ姉と見たプラネタリウムを思いだす。
本当にあんな星空の見える場所があるのだろうか。ふと考え、街明かりがいっさいない場所で、新月の日であれば見えるかもしれないなと思い、しばらく理想の星空を思い描いてから、はっとした。
まさしくこの夜空こそがその星空ではないか、とはっとした。
目を見開くようにし、よくよく観察すると、星明かりが一つ、また一つと消えていく。刻一刻と、針の穴の開いていない箇所が、闇の勢力が、拡大していっている。
あたかも夜空の妖精が、拡声器でもって全宇宙へ向け、「消灯時間ですよー!」と叫んでいるかのごとく有様だ。
無秩序に、不規則に消えていっているのは、或いは星と星の距離が均等ではないからかもしれない。みるみるうちに星空は、墨を塗ったくった画用紙のようになり、かろうじて塗り零しの明かりがぽつぽつと、画鋲の穴さながらに数える程度、またたいているだけとなった。
あれだけあった星が、天上から、夜空から、消え去っていく。
世界が、根こそぎ、消えていく。
「どうせ消えるのなら」
気づくとぼくは膝を抱え丸まり、尻を地面につけた状態で夜空を見上げている。
「二人のほうがいいですよ。だって一人は淋しいです」
カヨの腕がぼくの背中越しに回される。こちらよりもいくぶん小柄な彼女が、ぼくを抱きすくめるようにし、座っている。ぼくはそれを振りほどこうとせず、いったい何が起きているのか、現状を受け止める努力ばかりをそそいでいる。
「世界を消したかったのか」
ぼくは口にしている。「カヨちゃんは世界を消したくって、だからぼくに」
「近づいたのか? いいえ」
「ならなんで」
彼女の目的はいったいなんなのか、なぜこんな真似をするのかと、戸惑いばかりが胸の内を満たしていく。
「ああでもどうなんでしょう。ほんとうのところはそうなのかもしれないですね。わたしはわたしであることに疲れていました。飽いていました。でもそれを拒むことさえどうでもよかった。つづくならつづけばいい、終わるなら終わればいい。なるようになる現実をわたしはただ感受しつづけてきたんです」
世界を消さなくても構わないというのなら、ではなぜ。
「なぜこんな真似を」
「なぜ? だってあなたが望んだことでしょ」
「望んだこと? ぼくが?」
「世界なんて消えてしまえばいい。あなたはずっとそう思ってきたのでしょ」
思ってきた。或いはすべてをゼロに戻してしまえば、イチから好きな世界を構築できるのではないか、すてきな夢ばかりを見つづけられるのではないかと夢想しつづけてきた人生だ。
しかしそんなのは誰だって気まぐれに思い描く現実逃避だ。ぼくだけがとくべつ思い描いている理想ではない。よしんばぼくだけが本気で世界の消失を望んだとして、だからといってぼくごときの願望を叶えようだなんて、世界の消失を全世界の人間に、生命に、意思たちに、無理強いするなんて。
そんなのは。
そんなのは間違っている。
「間違っているじゃないか」ぼくは言っている。「そんなことはあっちゃいけない。じぶんの理想を他人に押しつけるなんて、そんな身勝手なこと許されるわけが」
「現実はでも、いつだって万人に一つの影響を強いつづけているんですよ。その現実を変えることのできる機会が巡ってきたならば、その手で掴むことができたならば、それはもうそれをするのに躊躇を挟む余地がありますか」
「いくら目のまえに核弾頭の起爆スイッチがあったからって、それを押していいわけがない。カヨちゃんのしたことは、していることは、そういうことじゃないか」
「やめましょう、善悪を付加する類の議論は無意味です。善悪なんてけっきょくはそれを判断する主観の都合でしかない。せっかくの残り少ない時間ですもの。もっと有意義に使いましょう」
「止められないのか」
「なにをですか」
「世界の、白紙化を」
「無理ですよ」
「なぜ」
「なぜってだってこれは白紙化ではありませんから」
「白紙化じゃ、ない?」
「破棄とでも言いましょうか。コンピューターで言うところのフォーマットを白紙化と呼ぶならば、これはいわばハードの破壊です。世界というソフトを生みだすための〈わたし〉という存在の破棄」
「何を言っているんだ」
「うんざりしていたわたしがなぜそれでも生きつづけてきたのか。役割を担いつづけてきたのか。わたしが死んだらこうなるからです」
「カヨちゃんきみは、きみはいったい」
「わたしは神です。いいえ。或いは悪魔なのかもしれません。わたしが生きつづけることで世界は誕生し、わたしが死ぬことにより世界が滅ぶ。あらゆるすべての根源はわたしという存在の輪廻転生によって生じ、堪えず世界を広げつづける。でも、もういいんです。あらゆる生命に、事象に、物体に配慮しつづける使命にうんざりしてしまいました。かといってすべてが等しくどうでもいいと割り切れるほど、わたしの辿ってきた軌跡はそう単純なものでも希薄なものでもなかった」
「だったら」
「なぜ今さら壊すような真似をするのか。あなたはそう問いたいのですね。ですが答えはすでにでています」
「やめてくれ」
ぼくがそれを望んだから。
――だなんて口が裂けても、肛門が裂けたって言わないでくれ。
「ぼくのためだとか何とか言ってきみはただぼくのせいにしたいだけじゃないか」
「そう、なんでしょうか」
意気阻喪されても困る。
突発的な行動なのだろう。計画性があるようで、その実、出たとこ勝負の風まかせ。何かを考えていそうで、何も考えていない。
考えてみればカヨはずっとそうだった。彼女と出会ってからを振りかえる。
彼女はずっとチグハグだ。思考回路が、行動が、まったく筋を辿っておらず、或いはそのときどきの変遷の契機には、ぼくの言動が、介在があったように思う。
「ほんとうはただ眺めているだけでもよかったんです。でもどうしてでしょう。あなたがとてもつらそうにしていたから」
耳を塞ぎたかった。だのにできなかった。彼女に抱きすくめられているから。ゆりかごに仕舞われた赤子のように。ぼくはただ彼女の揺らぎに、ぬくもりに、身を委ねるよりほかがない。
「身籠るはずはなかったんです。あり得ないんです。だってそうでしょ。わたしはわたしでありながら、肉体はだって死んでいるんですもの」
こちらの世界、ニスペにいるときのカヨは遺体を憑代に、存在を保持している。
「でも、彼女はすでに身籠っていた。七歳という若さで。自殺したのはきっとそれが原因だったのかもしれないですね」
身籠ったままで死んだ娘の肉体に憑依したカヨは、その後、出産したのだという。
「まさか生きているだなんて思わなかったから。でも生きていた。わたしはそのコを育てた。体のいい暇つぶし。どうせすぐに手放すハメになる。端から死んでいた命。黙っていてもポンポン産まれてくる有象無象、砂塵のなかの一欠けら。たいした考えもなく、人形遊びの感覚で六年と半年を共に過ごしました」
祭りの時期がやってきてふたたびギヴァナへ転生したカヨは、むろんその赤子ごと、肉体と別れを告げた。告げざるを得なかった。
「不覚でした。これほどまでに傷つくとは思っていなかったから。身を切り裂かれたところで、そんな刺激は痛みにも快楽にもならないわたしが、まるで破瓜を体験した生娘のように苦悶を強いられたのですから」
七年。
初めてそれを長いと感じたという。
「はやく祭りがくればいい。あれほど待ち遠しく思ったことはなかった……」
七年後。
ふたたびこちらの世界、ニスペに舞い戻ったカヨは、まっさきにじぶんの産んだ子どもを見にいった。
「子どもは十四歳。わたしよりも大きく、立派に育っていました」
零すカヨの声には、成長する我が子を愛しむやわらかな響きがある。
「母親だと名乗って信じてもらえると思えるほどわたしも浮世離れはしていません。べつに母親として付き合わずとも、言葉をかわせればそれでいいとも考えましたが、それはそれで耐えられる気がしませんでした。どうせ七年後にはふたたび離れなければならないのだからといちどは諦めました。ひと目無事な姿を、成長した姿を見られたのだからと、満足したはずだったのに、それでもひと目見てしまってからは、もっと近く、もっとそばで見ていたいと欲ばかりが募ってしまい」
けっきょく我が子の周囲をつけまわしては、隠れながらに眺めていたという。
「そとにいる時間の多い子で。街をうろついては何をするでもなくただ無益な時間を過ごしているようで。たった十四年しか生きていないくせに、世界のすべてを見透かしたような妙に醒めた眼差しをするコだと思ったものです」
憐れみではない。カヨの口調には、自分と似た者への愛着が、同族への親しみが籠められている。
「いつも心ここに非ずな感じのコで。危なっかしくって目を離せたものじゃなくって」
危険が迫りそうになる前から彼女は、奇禍となって降りかかりそうな火の粉を前以って振り払っていたという。
「でも突発的な事故には対処できなくて」
トラックに轢かれそうになったところを助けたのだそうだ。
「べつに顔を隠さないでもよかったんです。だって身体は別人なんだもの」
だからそれはむしろ顔を見られたとき他人のように振る舞われることを避けるための仮面だったのかもしれないのだとカヨは自虐的に語った。
「我が子にはしあわせになってほしい。たぶんそれは無条件の慈愛なんかじゃなくて、親自身が心のどこかでしあわせだと実感できないから、自分ができなかったことをしてほしいから、そういったある種の完全を補完するための欲求なんだろうなって」
信じたくないという思いと、腑に落ちる思いと。
「動機としてはそんなもの。きっかけはたぶん、祭りの時期が来たから。もうあなたのそばを離れたくないという思いと。やるなら今しかないという思い」
わたしはわたしをやめたかった。
カヨは言った。
あなたをしあわせにするために。
わたしがしあわせになるために。
あなたの望むことをしてあげようと思ったのだと。
カヨは言った。
「どうして」と言わざるを得ない。「ぼくだけを特別視するんだ。だって、だったらなおさら世界はきみにとって、カヨちゃんにとっての子供のようなものじゃ」
「ものじゃないのよ」こちらの言葉を遮ってカヨは、「呼吸をすることで生じる二酸化炭素を我が子と見做す人間は稀でしょ」と耳元でささやくようにする。「あなたがお風呂で流す汗や垢、トイレで用を足す排泄物に愛をささやくことがあって? わたしという存在によって生じるあらゆる事象は、けれどべつにわたしの意思によって生じているわけではないのだもの。わたしの意思によって生み出せるものなんて、残るものなんて、なに一つとしてなかった」
七年。
カヨの積み上げることのできる影響は、他者との絆は、七年という期間でそのことごとくが破棄されてしまう。なかったことにされてしまう。
輪廻転生。
世界を交互に行き来するカヨは、生ききする彼女は、それゆえに何も残すことができない。賽の河の子どものように、あとすこしというところで、いいところで、積み上げてきた小石を、布石を、すべて根こそぎ奪われる。
奪われつづける終わりなき人生。
人の生と呼べるのかも疑わしい。
「残るものなど何一つとしてなかった。なかったのだと思ってきたのに」
ぼくが、このぼくが産まれた。
本来、産まれるはずのなかった、生きるはずのなかったぼくが、期せずして神の手に触れ、生を享けた。
「でも、じゃああのひとたちは」
ぼくの育ての親は。
「親戚ではあるの。あなたとはね。行方不明だった娘の遺体が見つかった。そばには六歳の子供までいて。本当は七年も前に死んでいたはずだのに、わたしが遺体ごとその死をなかったことにしてしまっていたから。でもそのコの親族はその事実を受け入れなかった。あなたを拒絶することが娘との、その死との決別であるかのように。あなたを施設に預けた。でも、あなたの父方のほうの親族はそれを潔しとはしなかった。あのコと心中でも図ったのかもしれません、男のほうもまた死んでいたようでした」
産みの親たる父親は二十歳の医学生だったそうだ。
「未成年者をたぶらかして殺して埋めた。世間からは言いたい放題言われていたみたいで。ともかくあなたにとっての父方の祖父母にあたるあのひとたちだけは、あなたを庇護すべく手を差し伸べた。或いは贖罪だったのかもしれません。わたしにしてみたところで、それはありがたい善意ではあったんです」
だが育ての親たる彼らは三年前に死んでしまった。交通事故だった。ぼくに会いにくる道中の出来事だった。
「我が子として最後まで育ててくれればいいものを、余計なことを言ったりするから」
ぼくは半ば放心しながらしかし抜けきらない意識の片隅で何かがゆがんでいるのを感じた。
「なにも本当のことを言わなくたっていいのに。わざわざ生みの親じゃないだなんて。血の繋がりなんて大したことじゃないのに、大したことじゃないと思っているのなら黙っていたっていいのに」
知らなかったことを知ったからこんなにも苦しまなくっちゃいけなくなるんじゃない、とカヨはこのときになって初めて、その容姿に見合った、拙くも幼い言動を発した。
「解放してあげようと思ったの。だってつらそうだったから。本当の家族が欲しかったんでしょ。本当の家族だと思えなかったんでしょ。だったら偽物はいらないんだもの、あのひとたちにはあなたの人生から退場してもらうことにしたの」
頭が正常に働かない。靄がかかったように白く明滅している。
「せっかく事故に見せかけて殺してやったのに、あなたはますます塞ぎこんじゃうでしょ。余計なお世話だったのかなって。初めはね。反省して、もうすこし観察が必要だって、理解しなきゃって。あなたのことを。あなたのことだもの」
さもたいせつだからたいせつにしたいのだと中身のない言葉ばかりをささやく恋に盲目な愚か者を見ているようで、とりもなおさず、むかしのじぶんを見ているようで、嫌いな人種を見ているようで、
きぶんがわるい。
きもちが、わるい。
なんだこの女は。
なんなんだこのガキは。
母親面しだしたかと思えば、偏執狂じみた妄言まで言いだして。
わるい冗談だ。
悪夢じゃないか。
ぼくの望みを叶えたいというのなら、まずは一言こう言いたい。
ぼくの視界から、生活圏から、人生から出ていってくれ。
もう金輪際、関わらないと誓ってくれ。
干渉しないと、してほしくないのだと解ってくれ。
いい加減、がまんの限界なんだ。
なにが世界の終焉だ。
なにが人生の終幕だ。
終わりたけりゃかってに終われ。
ぼくを、ぼくたちを巻きこんでんじゃねえよ。
声に出したかったができなかった。
気づくと周囲は暗がりに包まれ、天上に星などはなく、地面は石造りに似た材質に代わっている。
「ここは」
「神殿です」
なぜ転移したのか。
こちらの疑問を見透かしたようにカヨは言った。
「これが、ここが存在している以上、この世界は最後に閉じなければなりません。だからあなたごとこちら側に」
「向こうの、ぼくの世界は」
「今まさにぜっさん霧散霧消中です。対となる世界が消滅すれば必然、こちら側も順次消失していきます。最後にはここだけが残ります」
「神殿が……」
「ここは、この世界の核。すべての世界の中枢。だからわたしはこの世界と、その対となるあなたの世界を転生しつづけた。世界を回すために。展開しつづけるために」
世界は、すべての事象はここからはじまった。
カヨは言った。
仮に白紙化してもこの世界は、神殿だけは残るのだと。存在として存在するだけの存在として、或いは存在しない存在として、世界の白紙化は究極的にはただな何も描かれていない白紙のノートと化す。
そこに世界を描くためには、では、何が必要か。
筆となるための道具が必要だ。
すなわちそれが。
「神殿か」
「そう。ここはいわば世界を展開しつづけるための舞台装置。世界があまねく白紙化されても、ここだけは残ります。まっさらな紙とペンだけが」
神の道具だけが。
「ペンを用いればふたたび世界を構築できる。けれどもしそのペンで白紙のノートをズタズタに破り捨ててしまったら」
カヨのしようとしていることはまさにそういうことなのだろう。
白紙化ではなく世界の破棄。
筆を用いて、世界の根源を、その存在を根こそぎ消し去る。
ひるがえっては、まだ世界を再構築する余地があるのではないか。
頭の片隅で閃光が走った。
「最後くらい、いいよね。わたしのわがままを聞いてもらったって」
カヨはこちらの首筋に唇を押し当て、深く息を吸いこんだ。
「最後まで、最後くらい、いっしょにいよ」
寒気がした。ぞっとした。
きもちわるい。
きもちわるい、きもちわるい、きもちわるい。
ぼくは、ぼくは、ぼくは。
ぼくは――。
――あんたの愛玩動物なんかじゃない。
頭の片隅に走った閃光が線となりピンと張りつめ、張りつめたそれがプツリと切れた。
ぼくはズボンをずりおろし、顕わになったショボクレピンピン丸を迷わずしごいた。親指と人差し指でさきっちょのやわらかいところをこれでもかと押しつぶしながら、残りのゆびで以って首の部分をグニグニ圧迫する。ときおり余ったほうの手で根元の部位にゆびを食いこませ、たるんだ皮ごと根源に押しこむようにする。タケノコを獲るときのシャベルの使い方に似ている。根元を押さえつけていれば出るものが出ず、あべこべに快感だけがとめどなく溢れかえる。
溢れかえり、噴きださんとする快感は、いくどもぼくを昇りつめさせておきながらそれでも果てることなく、累乗される快楽を途切れさせまいと、ひたすら敏感なさきっちょをグネグネゆびだけでこすりあげる。
蛇口をひねるようにただひたすらに反復されるそれは男でありながら女のような絶頂を、途切れることのない快楽の坩堝を肉体に宿した。
ルシェンの肉体で味わったドロドロにとろけきったマグマがごとく精神の麻痺にも似た痺れを引き連れ、壊れたジョーロよろしく勢いもなにもあったもんじゃない情けない漏らし方でぼくは射精した。
チョロチョロと漏れたそれは透明で、弱弱しく、射精と呼ぶにあまりに説得力がなく、ぼくはさらにその液体を円滑剤にし、さきっちょを押しつぶした。やわらかなつぼみの奥に海綿体の固さを感じ、さきっちょごと摘まみとるつもりで指先をグネグネ動かした。
根元の裏側、ふぐりの奥にもゆびを食いこませる。体重を乗せるようにし、根元のさらに根元を刺すように圧迫した。
猛烈にこみあげる灼熱の魂の収斂を感じ、ぼくはいよいよ本格的に射精した。
先端からほとばしる三億数千の魂たちは、数珠つなぎの白玉さながらに白蛇となって打ちあがる。何もない虚空に弧を描き、神殿の冷たい地面に吸いとられるように消えていった。
そう、消えていった。
あたかも地面が液体でできているかのごとく有様で、網膜に焼きついた残像によれば、水の王冠らしきものまで跳ねあげている。
静寂のなかにぼくの荒い呼吸だけが反響している。背後にあったはずのカヨのぬくもりはなく、暗がりに包まれていたはずの空間がにわかに騒然と、ぼくを中心に、ほのかな明かりに満たされていく。
「カヨちゃん、これはいったい」
振り返るがカヨの姿はない。ぼくはいつの間にか眩いばかりの緑色をした空間にぽつねんと放りだされている。
身に纏っていた衣服はなく、すっぱだかのままでぼくは、なぜかふと、ララの顔を思い浮かべた。
すると目のまえにララが現れた。
「おい、なんだここ。ってかあたし、どうなったんだ」
きょろきょろと辺りを見渡し、ララはふとこちらに気づくと、プッと小さく噴きだした。「なんでおまえ裸ん坊だよ。ってかその股間から垂らしてんのはなんだ」
「ララだって」ぼくは顔を逸らす。
「ん? あ、ホントだ。なんであたしまで」
ララは胸を隠そうともせず、まじまじと自分の裸体を見下ろした。それからみたび周囲を見渡すようにし、「なあルシェンは?」
こちらに窺うような目を向けた。
ぼくは言葉を紡げなかった。
なぜなら今まさにぼくらの目のまえに、たわわな胸が現れたからだ。胸だけではなく、それは紛れもなくルシェンの豊満な肉体だった。
「ルシェン!」
「ララちゃん」
抱きあうふたりを眺めながらぼくは、そういえばミコ姉は無事だろうかと考え、考えた矢先に、目のまえにミコ姉が現れた。
「わあジンちゃん、フルチンだあ」
その場にしゃがみ、こちらの股間をつつきだすミコ姉を制し、ぼくは、なるほど要領が解ってきたぞとララのほうに向きなおる。
「知っているひとの顔を思い浮かべるんだ」
「へ?」
言っている矢先に、ちっこい幼女が現れた。耳が尖っており、見た顔でもある。
「ママ!」ルシェンが飛びつき、
「なんなのこれ!」
現れた幼女がルシェンのおしりに頭突きした。「またあんたへんなイタズラしたんでしょ」
つぎつぎと人物は増え、人数が増えるに従い、雪だるま式に人口が増えていく。人間だけではない。動物や植物、ルシェンたちの世界にいた珍妙な生物までもが世界の幅を広げ、色彩を豊かにしていく。
世界が再構築されていく。
ルシェンたちの世界だけが。
「ミコ姉」
「なあに」
「どうして誰も思い浮かべないんだ」
「なにが?」
「いやだって」
「んー。ジンちゃん、ここにいるし。パパとママには会いたくないし」
以前、ぼくが天涯孤独になったときにミコ姉は家出した。そのときに残った禍根がまだ残っているらしかった。
「そっちこそ、いないわけ」
「なにが」
「会いたいひととか」
いないわけじゃない。
事務員のお姉さんや、ギャル女。育ての親たるあのひとたちや、想い人だった番頭のお姉さん。
ほとんどが女性なのはこの際気にしないでおくとして、彼女たちを思い浮かべてもなぜだかこの世界に顕現しないのだった。
「あ、見て」
ミコ姉のゆび差したほうを見遣り、動悸が乱れた。
表情のない顔で佇んでいるのは回収者だ。ミコ姉に似た個体だけがなぜかいない。
同時には存在できないのかもしれない。
対となる人物は。
同じ世界に。
けれど妙だ。だとすればなにゆえぼくとルシェンだけがこうして同時に存在できているのだろう。いまだってそうだし、あのときも。
思いだし、ぼくは、神殿で回収者に襲われたときに、突如として現れたカヨのことを思った。今この場にいない彼女を思った。しかし彼女は現れることがなく、けれどなぜだか鼓動が穏やかに鳴りつづける。
気づけばすっかり元のギヴァナだ。金色の平原に、緑色のそら。
人々は、誰が言いだすともなく、自分たちの住処へ、集落へと三々五々、散っていく。
「おまえら、どうすんだ」
ララが隣に立った。「そっちのは、回収者じゃないのか」とミコ姉へ鋭い視線を飛ばす。
「なあにこのちっこいの。私のジンちゃんに馴れ馴れしすぎじゃない?」
「私の? はあん。おまえらそういう仲か」
「喧嘩はダメ」ルシェンが割って入ってくる。「わたしのララちゃんをいじめないで」
「いやいや」ぼくは仕方なく、ミコ姉を押しのけ、ララにしがみつくルシェンを引き離しにかかる。ララの手を取ってから、「これはぼくのだ」と宣言する。「ちなみにぼくはミコ姉のものでもない」
「あわわわわ、聞こえなーい」ミコ姉は両手で耳をパタパタ塞ぐ。目をきつく閉じている。
「ヤダヤダヤダ」
ルシェンが豊満な胸のあいだにララの顔を挟むようにし、抱きしめる。
「わるいなジン」
ララがぼくの名を呼んだ。「どうやらあたしはこいつのものらしい。だからあたしが欲しけりゃ、丸ごとだ」
「構わないよ」
「構うでしょ」
ミコ姉が吠えるが、
「二人も三人も変わんない」ララが諌めるように言った。「そうじゃないか?」
「ちがうもーん!」
「わかった、わかったから。ミコ姉、噛みつくのはよしてくれ」
「ジンちゃんは私んだもん。そうなんだもん」
「そういうことにしとこうな」
「もう。ジンちゃんのそういうなあなあなところ。すごく好き」
ミコ姉にじゃれつかれながらぼくは、あってはならない嫌な予感を拭えきれずにいた。
都合がよすぎる。
こんなのはまるで。
「思っちゃダメ」
視界の端に、見覚えのあるシルエットが浮かんだ。耳の長い生き物のデフォルメされたシルエットだ。
「考えちゃダメ。今はまだ、不安定だから」
ぼくは唾液を呑みこむ。
ウサギの仮面を被った少女がそこにいた。
「だいじょうぶ。うまくいくよ」
彼女は嘯く。
いいじゃない、と。
「これだって充分に、現実にある無数の事象の一つなんだから」
瞬きをするとウサギの仮面を被った少女は消えていた。
「ジン」
ララが不安そうに覗きこんでくる。「どうした」
まっすぐと見返す。ぼくらはしばし見つめ合う。それからララはふっと頬をほころばせ、
「いいや、なんでもない」
ぼくの顔に手を伸ばし、なぜか目元を乱暴に撫でつけるのだった。
後日譚【神も夢から覚める】
目覚めると見知った部屋の臭いが鼻を突く。しばらく呆然とし、戻れたじゃん、と拍子抜けする。
或いはすべてが夢だったのかと思うが、ベッドのうえにはもう一人、ミコ姉が眠っており、ぼくの隣で豪快ないびき声をあげている。
全裸なのが気色わるい。
同時にそれゆえに、きのうまでの記憶が夢物語などではなく、真実にあった出来事なのだとの判断をぼくに与えた。
ベッドから這い出て冷蔵庫まで歩く。中身を確認し、未開封のヨーグルトの山を見て、カヨの姿を思い起こす。
けっきょく何がしたかったのか。
ヨーグルトをちびちび舐めながら、部屋に転がっていたメディア端末を拾いあげ、起動させる。ざっとニュースサイトを見て回る。土地が消失したなんてけったいな事件を報じた記事は一つもない。
「うーさぶ」
窓を開けると粉雪が舞っていた。いつの間にか冬である。
「どうすっかなぁ」
ベッドに潜りこみたいところだが、ミコ姉が邪魔だ。追いだすにしても、しょうじき今だけは寝かせてやりたいという珍しく湧いた親切心を蔑にしたくもない。
「久しぶりに行くか」
タオルと下着を持ち、部屋着のままでそとにでる。
歩いて十五分の距離だ。
「おはようございまーす」
「ん」
「きょうは寒いですね」
「ん」
「ひょっとして今日はぼくの貸し切りですか」
「ん」
「一番のり? やったー、一番風呂っていいですよね」
「ねえ。入るの、入らないの」
「入ります」
無愛想な番頭さんに小銭を渡し、ぼくはそそくさと男湯の暖簾をくぐった。見れば見るほど彼女はララと似ている。とっつきにくそうなところなんてそっくりだ。
「おい」
「はい」
呼び止められ、飛び跳ねる。「なんでしょう」
「二番目だ」
「はい?」
「あたしが入った」
「はぁ」
相槌を打ってから、意味に気づき、
「え、男湯に?」
すっとんきょうな返事をしてしまうが、案に相違し、
「入ってみたかったんだよね」
ちゃめっ気たっぷりな言葉が返ってきた。
おやおや。
脈ありではないの。
妙な親しみを覚え、調子に乗り、声をかけてしまったが、意外にも好感触だ。ひょっとすると彼女のほうでもぼくに好意を寄せていたのではないの。
なんてことを湯船に浸かりながら考えるが、ムリがある。我ながら恥ずかしく、すがすがしいほどの勘違い野郎だ。
身体を洗っているとふと目に入る。胸の辺りに痣ができている。ハートを横から両手で押しつぶしたような細長い形をしている。今までこんなものあったろうか。
帰り際、思いきって番頭さんに名前を訊ねてみたところ、
「なんで教えなきゃなんないの」
にべもなくつっぱねられ、腹が立つよりも、やっぱり勘違いだったじゃないかと哀しくなった。
「クレームを入れようかなと」
心にもない言葉でお茶を濁したのがよくなかった。
「なら二度とくんな」
塩を撒く仕草をされ、追いだされてしまう。
半べそを、冗談でなく掻きながらアパートまで戻ると、すでにミコ姉の姿はなく、申しわけ程度に、「朝食たべてくる」と書置きがあった。
「順応性高すぎだろ」
思うが、ひょっとすれば記憶がないのかもしれず、或いはあってもミコ姉のことだ、あれを夢だったと判断し、忘却の烙印を捺してしまっていてもおかしくはない。
ようやく取り戻せたベッドのうえで寝返りを打ちながらぼくはここではないもう一つの世界について思いを馳せた。
ララたちの世界からは神殿が消えた。ただそれだけの変化があっただけで、ほかに大きく変わった点は見当たらず、しかし信仰の対象だった神殿の消失は、ことのほか大きな衝撃をララたちに与えた。
「べつにあたしはいいんだけど、頭の固いやつらが多くって」
記憶は以前のままであったらしい。神殿を探そうと、或いは無くなった原因を探ろうと、ギヴァナの住人たちは躍起になっていた。ぼくはそんな彼らを尻目に、ララの家で休ませてもらっていたのだが、午前零時を回った時分を契機に、おそらくこちらの世界に回帰したのだろう。
ぼくの中からカルマは消えたのだろうか。
そもそもぼくの望みとはなんだったのか。
望みを叶えたからこそ、世界は破棄されずに、ふたたびこうして再構築された。
ぼくは、ぼくが思っているほどにはまだ、この世界に絶望してはいなかった。
ただちょっとだけ、辛辣な世界に痛い目を見てほしかっただけなのかもしれなかった。
どうしてじぶんだけこんな目に。
或いはそんないじけた思いを拭えずにいただけだったのかもしれない。
ミコ姉の体温が残っているのか、思いのほかベッドはぬくぬくしており、包まれ、いつの間にかうつらうつらしていると、戸を叩く音が聞こえ、飛び起きた。
「開けて、開けて。ジンちゃんお願い」
ミコ姉だ。どうしたのだろう。不安に駆られながら戸を開け放つと、鍋を持ったミコ姉が重そうに、はぁ疲れたぁ、と言ってなだれこんでくる。階段の下にタクシーの走り去る姿が見えた。
「ちょっとちょっと」
「はいこれ」
「なにこれ」
受け取り、ことのほかずっしりとした鍋に驚く。
「カレー。持ってけって持たされた」
「誰に。というかどこ行ってたの」
朝食を食べにいったのではないのか。
投げかけるとミコ姉は、そうだよ、と唇をすぼめ、
「家に食べに行ったらちょうどおじさんとおばさんがいて。で、ジンちゃん家に居候してるって言ったら持ってけって持たされた」
「だから、誰に」
「えぇ。今言ったじゃん」なぜかミコ姉は膨れた。
ぼくは胸の奥が期待で膨らむのを止められなかった。同時に、期待を裏切られたときに負うだろう落胆が、傷心と呼ぶに遜色ない鋭利さを兼ね備えていることを自覚した。
ぼくはメディア端末で、ミコ姉のほかにゆいいつ登録されている番号を、もうにどと使うことはないのだと思っていた番号を、選択し、通話ボタンを、押した。
「あらあらどうしたの。うふふ。ちょうどね、今ジンくんの話をしてたところなの」
聞きたかった声が聞こえた。
「カレーは? そう、届いたの。ミコちゃんにお礼言っておいてね。あ、そうだ。このあいだお父さんと山に行ってきてね。ジンくんとも行きたいなあなんてお父さん淋しそうに言っちゃって」
電波の向こう側で、懐かしい話し方で、ぼくの育ての親が――お母さんが、しゃべっている。
ずっと聞いていたくて、嘘なんじゃないかって信じられなくて、ぼくはただうんうんと間抜けた相槌を打つほかにできることがなく、痙攣する横隔膜をなんとか黙らそうと、電波の向こうに伝わらないように胸を叩きながら、こちらを心配そうに見守っているミコ姉に、だいじょうぶ、なんでもないんだ、を伝えるための笑みを懸命に、片手間に、送りつづけた。
しゃべり疲れたのか、そろそろ切るわね、と満足げに言い放つ母に、ぼくはしぼりだすように伝えた。
「こんど、帰るから。来週の日曜にでも」
「あら、そうなの」
ふしぎそうにつぶやくと母は、
「おいしい料理つくって待ってるから」
お父さんもよろこぶわ、と声を弾ませた。
通話を終えてからしばらく、ぼくはひざを丸め、嗚咽した。そんなぼくの背中をミコ姉が戸惑いがちにさすっている。なんだかむかしを思いだすようで、照れくさく、間もなく泣きじゃくるのもばからしくなった。
「だいじょうぶ? 病院行こうか?」
「なんで」
「だってぇ」
だいじょうだと見做したのかミコ姉は眉間のしわを伸ばし、
「なんでもないならいいんだけどさ」と耳たぶをいじった。
こうしていつもミコ姉は、ぼくがどうしてそうなっているのか、どうしてそういうことをしているのか、或いはしないのか、について説明を求める真似をしなかった。
ぼくそのものに興味がないからだと思っていた。ぼくはずっとミコ姉が、わざと解決策を講じまいと、問題の種を払しょくせずに、直視せずにいられるようにと核心に迫る真似をしないのだと思っていた。
半分は正しく、半分は間違っているのだろう。ぼくが思うほどにはミコ姉という人物もまた、そう単純ではないのかもしれない。
「私、ちょっと出てくるね。仕事は休んじゃったけど、そろそろ引っ越し先も決めなきゃだし」
「ミコ姉、仕事してんの。ていうか引っ越し先って? まさかここじゃないよね」
「なに言ってんの。ねえ、やっぱり病院行こうか?」
不安げに顔を近づけてきてからミコ姉は肩を竦める。「私はずっと花屋の店員だし、ここに居候してたけど出ていけってつっぱねたのはジンちゃんのほうでしょ。出ていかなくていいなら今しばらくお世話になりたいのだけれども」
「いいよ」
「そうだよね。ダメだよね――っていいの!?」
「いいよ。好きなだけいなよ」
「夢みたい」
「大袈裟だな」
「あとでやっぱり今のナシとかナシだかんね」
「男に二言はないよ」
「録音、録音」
ミコ姉はメディア端末の録音機能を起動させた。言質をとるのに躍起になったミコ姉をつっぱねてもよかったのだが、ぼくはそのバカな行動につきあった。
「なら今日はお祝いだ」ミコ姉は玄関に立ち、「カレーはあるから、デザートとお酒だね」と靴を履く。「おつまみとかは適当に買ってくるけど、なにかほかに欲しいものは?」
「任せるよ」
「そうだね。ゴムがないとだね」
「はやく行け」
「あ、なくてもいっか」
「帰ってくんな」
「うそうそ。ちゃんと買ってくるってば」
相手をするのに疲れ、ぼくはベッドに潜りこむ。「帰ってきたら起こして」
「任しとけい」
ミコ姉は意気揚々と出ていった。
ベッドに横になり、天井を見上げた。見慣れた風景が心地よい。
ぼくはカヨのことを思い、ウサギの仮面を被った少女のことを思った。
ぼくの願いを叶えたいと言ったカヨの言葉に、偽りはあったのだろうか。ぼくに聞かせてくれた話は、胸のうちは、どこまでが本音で、どこまでが虚言だったのだろう。
きっと彼女の言葉もまた、半分は正しく、半分は間違っていたのだろう。
だって今、礼を言いたいと望むぼくの願いを、彼女が叶えてくれることはないのだから。
ぼくは銭湯で見つけた胸の痣を撫でるようにし、そのどこかウサギを思わせる痣に愛着を覚えるのだった。
みたびうつらうつらしだしたぼくを叩き起こしたのは、これまた袋叩きにせんとばかりに戸を叩く音だった。ミコ姉だろうか。鍵はかけていなかったはずだが。
妙に思いだながらベッドから降りると、
「ジン。助けてくれ」
「どなたですか」
おっとりがたなで戸を開けると立っていたのは、番頭さんだった。
どうして彼女が?
銭湯から跡をつけてきたのだろうか。
寝ぼけた思考で考えを巡らせ、間もなく、いや、とはっとする。彼女がぼくの名前を知っているはずもない。
「ララ? ララなのか?」
「ルシェンがルシェンが」
呼吸を整えられぬままに、ララは短くこう告げた。「魔王になっちまった」
【異世界の蛇口~~神殺し魔起き~~】END.
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