局部怪奇譚~~人造乙女は心臓を止め~~

局部怪奇譚

  ~~人造乙女は心臓を止め~~


                           

目次

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第一章【信仰を求め野人どもの奴隷】

第二章【人形の声は「信じろ」と吠え】

第三章【真相を掴めば信徒と揉め】

第四章【陰謀の棘は人情を褒め】

第五章【淫蕩を問えば心境の尾根】

第終章【人造乙女は心臓を止め】




   ******


人形になりたい。

あなただけの人形に。


氷の皮膚に覆われて、

器の中身をカラにして、

うつろな私をカタチづくるの。

名前を決めて。

あなたが決めて。

踏んづけても、焼きつけても、ねじ切っても、裂いても、どうにでもして。

消えない傷をたくさんつけて。

あなたの名前を刻みこんで。

かわいがられて、

あやつられて、

ふりまわされて、

もてあそばれる。

存在理由はただひとつ、あなたに寄り添い慕うこと。

何をされてもただ笑みを浮かべて受け容れる。

無視されても、捨てられても、忘れられても。

ただあなたのために存在したい。


人形になりたい。

あなただけの人形に。





第一章【信仰を求め野人どもの奴隷】



 手を拾った。人形の一部だと判るちいさな手だ。丸めればペットボトルの蓋に詰めこめるほどの大きさで、弾力に富んでおり、赤子の手もこんなだろうかと想像する。

   ***

 あんた頭おかしんじゃないの。

 バイトの帰り道、B子が言った。彼女はぼくがバイトをはじめてからずっと甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた女性で、近くの大学に通っているという。ぼくはバイトの終わり、帰宅途中の彼女に声をかけ、日頃の感謝を口にした。家でもあなたのことを考え、寝るときも寝たあとも、トイレで尻の穴を拭くときだって、あなたの顔が頭から離れないのだという話をして聞かせた。

 ぼくの手には猫の死骸が握られている。彼女を店のそとで待っているあいだに見つけたものだ。車に轢かれたのか、身体が半分に削れている。水面から顔をだすワニを思わせる転がり方をしており、可哀そうに思ったので拾っておいた。

「なにそれ」B子の顔が歪んだ。

 猫の死骸のことだろうと思いぼくは、さっきそこで拾ったんだ、と答えた。

「あんた頭おかしんじゃないの」

 そう言ってB子は回れ右をして去っていった。彼女のアパートはそちらではないはずだ。いったいどこへ行くつもりだろう。こんな夜中にあぶない。アパートのまえで待っていてあげようかとも考えたが、手にぶらさげた猫の死骸が邪魔だったので、まずはさておきこれを始末しようと考えた。

 B子の通う大学の付近には林が広がっている。ぼくは歩きながら店のなかで店長と絡み合っていたB子の姿を思い起こし、生殖を望まない交尾について思いを馳せた。なぜかは解らないが手にぶらさげた猫の死骸を地面に叩きつけている。

 

 そのちいさな手は、猫の腹からコトリと落ちてきた。林に到着したときにはすでに猫の死骸は、猫の様相をなしておらず、尻尾のついたベチャベチャした何かに変貌していた。小学生のころに傘を振り回しすぎたせいで家に着くころにはボロボロになっていたことを思いだす。当初の目的どおりぼくはそれを埋めてあげようと試みたわけだが、手で穴を掘る作業に予想外にてこずり、なぜかぼくはふたたび尻尾のついたベチャベチャした何かを木の幹に叩きつけていた。猫の死骸はなかなかに頑丈で、いつまでもヌンチャクのようにしなり、千切れることはなかった。

 そこでコトリと地面に落ちたのが手だった。

 ぼくはそれを摘まみあげ、代わりにただの尻尾でしかなくなった猫の死骸だったものを投げ捨てた。

 大きさは猫の肉球ほどだ。

 まさしく赤子の手といった形状をしており、さては猫がかじった赤子の手だな、と考えた。

 手のひらのうえで転がるちいさな手は、手首からさきがなく、切断面を覗いてみてもそこにはただのっぺりと青白い皮膚がつづいているだけで、骨や肉は見えず、手触りもどこか作り物めいていて、シリコン製のドールを思わせた。

 なぁんだ。

 思ったがぼくはそれをポケットに仕舞った。

 ポケットのなかでちいさな手をこねくりまわす。しだいにじぶんの体温と同じになっていくそれのしっくりと馴染んでいく様にヨダレが分泌されるのを感じた。

 

 ちいさな手が人形のものだと考えれば、もう一つどこかに落ちているはずだ。翌日になってからぼくはそうと考え、昨夜猫の尻尾を捨てた林に歩を向けた。だがそこには猫の尻尾はおろか、そこらに飛散したはずのベチャベチャした何かまでなくなっていた。一晩で林に住まう生き物が分解吸収してしまったのだろうか。まるで誰かが痕跡を消したような不自然さがある。

 昨日のできごとがぼくの勘違い、妄想、夢であることを考えたが、木の幹にはたしかにぼくの叩きつけたベチャベチャした何かの残骸らしき物体が、カピカピに乾いて付着していた。

 誰かがここに来たのだ。

 ぼくはなぜか高揚した。

 バイトに行くと、店長からクビを宣告された。理由を尋ねると、仕事の覚えがわるく、態度もよろしくないので、雇うのに抵抗があるというものだった。ぼくは説得を試みた。ぼくが役に立たないのはきちんと仕事を教えてくれないB子さんのせいである。店長のあなたにはぼくを雇った責任がある。不当な理由で解雇するのは唾棄すべき行いである。正当な主張であったはずが、なぜだか店長は激昂した。逆切れのごとくぼくの胸ぐらを掴みあげ、

「二度とオレたちに近づくな」

 ひどく顔を歪めるのだった。

 

 ポケットのなかのちいさな手はふにふにしている。いじっているだけで心が安らぐ。

 ぼくはアパートには戻らず、街の中をふらふらした。信号機にさしかかる。ベビーカーを押している女性が隣に並ぶ。赤ちゃんがこちらを見て、イモムシみたいな手をアウアウ振った。ぼくはポケットのなかのちいさな手を握った。赤ちゃんはまだアウアウ云っている。ちいさな手はどれだけ本気でひねり潰しても壊れることがない。試しに千切ってみようかと爪を立てるが、なかなかにしぶとく、ぼくはそれを口に含み、奥歯を駆使してグニグニした。

 気づくと赤ちゃんを乗せたベビーカーは横断歩道を渡りきっており、信号機はふたたび赤い目でぼくを威嚇する。

 

 道のさきでは商店街の催し物だろうか、簡易ステージのうえで着ぐるみたちが踊っている。ステージを囲むように観客が群れ、それを迂回するように通行人たちが流れている。ぼくはその流れを塞いでやろうと思い、岩になったつもりで観客の群れに加わった。

 たいくつなショーだ。ショーと呼べるのかも疑わしい。

 ちいさな手を口に含む。ガムのようにモグモグ云わせると、勃然と口内に虫が湧いた。グネグネ動いている。イカの踊り食いを連想したが、実際にそれを食べてみた経験はない。

 指をつかって口のなかから摘まみだすと、手のひらのうえでちいさな手がぎゅぽぎゅぽ伸縮運動を繰りかえしていた。閉じては開き、閉じては開き、まるで何かを掴みたがっているかのような光景だ。

 目を凝らす。

 生きているのだろうか。

 通行人にぶつかられ、あやうくちいさな手を落としかけた。いったいどうしてそんな真似ができるのだろう。見遣ると、初老の女性が邪魔だよとぼくを威嚇した。ぼくはその場をあとにした。

 場所を移動しているあいだにちいさな手はふたたび動きを止め、おとなしくなった。

 公園では子どもたちがはしゃぎまわっている。遊具に集まっている集団もあり、彼らは彼ら自身の腕から生えるちいさな手を駆使し、よくできたおもちゃ、高価な電子機器を操作している。ぼくはベンチに腰掛け、昨夜拾ったちいさな手をもういちど口に含んだ。

 噛むと暴れる。

 痛いのだろうか。

 口からだし、手のひらに置く。ちいさな手はギュポギュポもがくように動き、やがて指をやわらかく開いた状態でおとなしくなる。ぼくはそれを指さきでつつくようにした。

 弾かれたように動く。こんどは固く丸まり、げんこつのカタチになる。まるでダンゴ虫だ。

 ぼくはひとしきりちいさな手に刺激を加えつづけた。

 解ったことが三つある。

 一つ、ちいさな手は刺激を受けると動く。

 二つ、しばらくすると動かなくなる。

 三つ、何もしない時間が空くと、かってに動きだすことがある。

 これらは昨日までは観測されなかった事項だ。ぼくが見逃していた可能性もあるが、だとすればこのちいさな手は昨晩のうちに自力でぼくの上着のポケットから脱し、行方を晦ませていただろう。

 五本の指を足と見立てることでちいさな手は移動した。それは奇妙な節足動物を思わせる姿で、そういった生き物であると見做したほうが幾分も正しいような気がした。

 ぼくはちいさな手を虫かごに入れて保管した。目を離しているあいだに逃げられてはたまったものではないし、虫かごこそムイのいるべき場所に思えた。

 ムイというのはだから、このちいさな手の名前だ。出かけるときもぼくは虫かごをリュックに詰めて歩いた。

 虫かごの蓋はガムテープで目張りをし塞いだ。開閉可能な覗き穴には百均で購入した南京錠を付けておく。目を離した隙にこっそり逃げだされるといった心配をこれでせずに済む。

 針、火、光、刃物、氷、磁石、水、熱湯……。さまざまな刺激を加え、ムイがどういった反応を示すかをぼくは試した。ムイの知覚機能はほとんど人間のそれにちかく、痛そうだなと思う刺激には過剰に反応し、心地よさそうだなと思う刺激には、穏やかな反応を示した。

 ムイの肌は傷つくことを知らず、かなづちを使って釘を打ちつけても、ムイの皮膚ごと板に食いこみ、釘を外せば元に戻った。優れた伸縮性、そして可塑性が観測された。

 焼けば焦げ目がつくが、それはほとんど煤のようなもので、水で洗い流せばまた元のしっとりモチモチ肌がよみがえる。

 ムイはやはり生き物かもしれないと考えをまとめたとき、ぼくはカラオケ店の裏手にいた。

 虫かごからムイを取りだし、手のひらに包むようにする。新しくはじめたバイトの休憩中で、なぜか社員がぼくに嫌がらせをしてくるので、こうしてムイを握りつぶさないことには、胸の奥に発生するトゲトゲが内臓を突き破ってぼくごと世界を串刺しにしてしまいそうになる。どうあってもぼくは助かるからよいとして、それだと周りのひとが可哀そうだからぼくはこうして休憩を挟むごとに、ムイのギュポギュポもがく躍動を、手のひらに感じなければならなかった。

「なにしてんだよ。サボってんじゃねぇよ」

 社員がタバコに火を点けながら、店のそとに出てくる。ぼくを押しのけるように立つと、こちらにかかるようにわざとらしく煙を吐いた。

 座っている場所を追われたぼくは、咳きこみながら店のなかに避難した。どうしてあんな非道な人間がのさばっているのだろう。ぼくはムイの綿棒のような指を一本一本ねじって折り、乱れた心を落ち着かせる。

 そのときだ。爆発音が轟いた。近くではない。店のそと、駅前のほうからだ。

 ムイが手のひらのなかでジタバタもがく。落としそうになったので慌てて虫かごに放りいれたがムイはなおももがきつづけた。その様は、殺虫剤をかけられ、のたうちまわる蜘蛛を思わせた。

 大きな音に驚いたのかもしれない。やはり生き物のように映る。そういえば実験の際に、音や匂いといった触感以外の感覚に訴えるものを試していなかった。ムイは手のカタチをなしてはいるが、ほかにも感覚器官が備わっているのかもしれなかった。

 なんという失態だろう。ぼくは落ちこんだ。

 ムイの実験をしなければならないので早退させてほしい。動かなくなったムイを手のひらに載せ見せると、店長はしかめ面で、「何考えてんだ、こんなたいへんなときに」とぼくを責めるような言葉を並べた。

 店のそとに出るとサイレンがうるさく、駅前には大きな煙が昇っていた。

 はやく帰んなきゃ。

 何から試そうかな。

 ムイの入った虫かごを胸に抱き、ぼくは雑踏を掻き分けるように家路に就いた。

 

 実験の結果、ムイに触覚以外の感覚はないようだと判った。臭い、味、音、光。これらにムイは反応を示さない。熱や物理的刺激の変化には反応を示したが、それらはすでに判っていたことなのでぼくは数日のあいだ悄然とした。

 ムイは食事を摂らなかった。呼吸器官もないようなので、新種の生き物という推測は外れているのだろうが、すくなくとも動き回ることができるので、動物なのは確かだ。ムイに機械のようなからくりは観測されない。

 虫かごの中にはムイのほかに、日替わりでいくつかの文房具を入れておいた。それらはムイと比べれば幾分か大きく、遊具のように映った。当初、ムイはそれら文房具を避けていたが、無害だと判断したのか、やがてまとわりつくようになり、間もなくボールペンや鉛筆を好んで弄びはじめた。ムイの手はちいさいので白いカブトムシがクヌギの枝に止まっているかのように映る。が、ムイのちからはカブトムシよりも強いので、鉛筆程度の棒きれであれば身体の一部のように軽々持ち上げ、虫かごの底を抉るようにゴリゴリ削った。

 油性マジックを虫かごに入れたのは単なるぼくの気まぐれだった。まさかムイがキャップを取りはずし、虫かごの底にいたずら書きをするとは思ってもいなかった。ムイは器用に油性マジックを操り、透明なアクリルの底にのた打ち回るミミズの群れを描いた。鉛筆やボールペンでも同じようにグリグリと虫かごの底を抉っていた。これはムイの習性であるらしかった。ぼくは近くのホームセンターから虫かごをもう一つ購入し、ムイから油性マジックを取りあげた。

 

 駅前の爆発騒ぎがあってから一週間ほどが経ったその日、ぼくは新しいアルバイトの面接を受けるため、出張っていた。

 大学の事務のバイトで、前にもやった経験がある。お茶を淹れたり、コピーをとったり、データをコンピュータに入力したりと、指示されたことを時間内にやるだけなのでぼくに向いていると言えた。前のときは頼まれた仕事をはやく終え、余った時間でアニメを観ていたらなぜかクビになった。不当性を主張したが、問答無用で解雇された。

 大学の構内を歩いていると、見知らぬ女に声をかけられた。

「ねぇねぇ、それ。何入ってんの」

 彼女はぼくの抱いていた虫かごを指差している。今まさにムイを取りだし、ムギュムギュしようとしていたところなので、ぼくはムイを手のひらに載せ、見せつけるようにした。

「うわ、マジで」

「触ってみる?」

「いいの?」

 てっきり嫌がられるかと思っていたので拍子抜けする。虫かごに興味を示し、こうして声をかけてくる者はこれまでにも幾人かいた。みなぼくの差しだしたムイを見て、鼻白む。触ってみるか、と善意で言ってあげても、顔を歪めて離れていく。

 だが目のまえの女は、こちらからムイを奪い取るようにし、

「うぎゃー、ありえん」

 ぼくよりも激しくムイを弄んだ。

「もういいでしょ」

「えぇ、もうちっといいじゃんか」

 ムイをもぎ取るようにしぼくは、彼女に背を向けバイバイと手を振り、面接会場であるところの事務室を目指した。

 面接自体は二十分もかからなかった。合否の連絡を後日すると告げられ、ぼくは事務室をあとにした。

「ねぇねぇ、さっきのもっかい見して」

 事務室のそとではさきほどの女が立っており、ぼくを待ち伏せていた。気分がわるい。なぜそんなことができるのだろう。見知らぬ異性につきまとわれるこちらの身にもなってほしい。神経を疑う。ぼくは彼女のまえを無言で通り抜けた。

「はぁ? ムカつく」

 尻を蹴られた。背後からの奇襲に思わずよろけると、壁に設置されている非常ベルに頭から突っ込んでしまい、盛大なベル音が大学中に鳴り響く。運わるくボタンを押してしまったようだ。周りの学生たちがいっせいにこちらを見た。

「ヤッば」

 女に手を引かれるようにし、ぼくは大学の敷地から脱する。

 

「お礼はここの代金でいいから」

 喫茶店に入るなり女は言った。傲慢な言い方にげんなりする。

「礼って何のですか」

「そりゃ助けてあげた礼でしょうよ」おどけた口調が癪に障る。

「ぼくはあなたに助けられたんですか」

「当然でしょ。だってそうじゃなきゃ今頃、警報機の誤作動を理由にたんまり慰謝料ふんだくられてたところだよ」

 言いたいことが二つある。一つ、警報機を誤作動させたのはぼくだが、そのきっかけをつくったのは彼女である。二つ、しょうじきに申しでても慰謝料を要求されることはない。厳重注意をされ、嫌味を言われ、そしてぼくのバイトの合否がややマイナス方面に傾いてしまうという損害があるだけだ。金銭的損失が大学側にないかぎりは慰謝料を寄越せなどと厚かましい真似はされないだろう。ぼくはそうした旨をなるべくていねいに説いた。

「ねぇ。それ今じゃダメ?」

 女は眉間にシワを寄せ、店員を呼んだ。コーヒーとケーキとパフェを頼む。「きみはさ、すこしというか、大いに人格的な問題を抱えてるね」

 あなたにだけは言われたくない。ぼくはそう思ったので、そう言った。「あなたにだけは言われたくない」

「ねぇ、さっきのもっかい見してよ」

 話を聞かない人間との会話は疲れる。ぼくは言葉を発するのをやめた。代わりにオレンジジュースを注文し、乾いた喉を潤すことにした。運ばれてきたそれを飲み干し、女が食べ終わる前にいとまを告げようと考える。彼女はこちらにたかる気満々のようだが、こちらが先に店を出てしまえば自腹を切らざるを得ないはずだ。

「ねぇねぇ、気ぃわるくしちゃった? ごめんね。うそだから。ここもお姉さんがおごってあげるし。ね? 機嫌なおしてよ」

 おや、と思う。ぼくは伏せていた顔をあげ、彼女をマジマジと観察した。なるほど。言われてみればたしかに彼女のほうが年上のようだ。幼い言動のせいで三割増しで若く感じたが、年下というわけではなさそうだ。大学で声をかけられたので無条件に彼女を大学生と思い込んでいた。

「なぜ大学に」ぼくは問うた。

「え、どういう意味?」

「学生でないのなら、どうして大学の構内にいたんですか」

「あれれ、なんで判っちゃったの? もう歳かなぁ」

 頬を両手で挟み、なぜバレたのかと訝しんでいる様子だ。隠すつもりがあったのかと、そちらのほうに驚く。

 年上の学生という可能性も考えたが、彼女を見ているとそれもちがうような気がした。肌にぴったりのTシャツに、細いデニムを穿き、イルカの皮膚を思わせる滑らかな加工の施されたヒールを履いている。大学生にしてはいくぶん大人びた格好だ。OLの私服やモデルの軽装と見たほうがしっくりくる。現に喫茶店内にいる男どもは入店してからこの方ずっとこちらをチラチラと、正確にはTシャツ越しに透けて見える彼女のブラを眺めている。

「じつは、なんていうかね。うーん」

 女はきょろきょろとせわしなく目玉を動かした。吸った息を止めたところで店員が注文の品を届けにくる。間がわるい。

 脳内でいかような化学反応が起こったのかは判然としなかったが、彼女が目のまえに置かれたパフェに目を留めて文字通り目の色を変え、直前までのど元まででかかった言葉を脳内まで逆流させたことだけはぼくにも判った。

「これ、うんまいわぁ」

 ほれ食べてみ、とスプーンを寄越してくる彼女の手を払いのけぼくは、

「要件があってぼくを探していたんですね」

 そうとしか考えられなかったのでそう言った。彼女は最初からぼくを探していた。だから学生でもないのに大学の構内におり、そしてムイを見ても嫌悪を顕わにしなかった。

「そこまで見破られちゃってるなら話がはやい」彼女は頬につけたホイップクリームをそのままに、「きみの持っているものが手だとしたら、ほかに腕や足や胴体があってもいいと思わない?」

「なにが言いたいんですか」

「わたしも持ってるんだよね」

「は?」

「手」

 口にスプーンをぶら下げたままで彼女はバッグの中に手を突っ込んだ。

 引き抜かれた拳が目のまえで開かれる。ムイと瓜二つのちいさな手が現れた。

 テーブルのうえでコロンと転がったそれは、五本の指を駆使し、器用にテーブルのうえを駆けまわる。

「ね?」

 ぼくはそれがムイと対になるべく存在するもう一つのムイであるのだと察した。

 

 念のため確かめてみると、虫かごのなかにムイはちゃんといた。

「盗んでないってば」

 心外だといわんばかりにサキは声を荒らげた。彼女は塾の講師で、ぼくの四つ歳上だという。

「どこでサキさんはこれを見つけたんですか」

「サキでいいよ。広場に落ちてたから拾った」

「いつ拾ったんですか」

「ひと月前くらいかな」

「サキはその間、ずっとムイを手元に?」慣れあうつもりはなかったが、ぼくは心を許したふうを装った。

「ムイ? あぁ、きみはこれに名前をつけてるのか」

 テーブルを駆けまわり、今にも端から落ちてしまいそうになっているもう一つのムイとも呼ぶべきちいさな手を彼女は摘まみあげた。「じゃあわたしもつけよっかな。名前」

 ムイと対になるそれは、サジュニアと命名された。「サキのジュニアだからサジュニア。長いからサジュでいっか」

 名づけておきながらサキは言いにくいのか、二言目には「サディ」と呼びはじめた。

「どうしてぼくのもとに?」ぼくは質問を重ねる。

「んー。それはわたしがきみを探していた理由? それともどうやって探し当てたのか、って手段を訊いてるのかな」

 両方だったが、まずは後者から知りたい。

「どうやってぼくがムイを持ってると判ったんですか」

 おそらく彼女はサディの片割れであるムイのことを探していた。理由は解らないが、とにかくムイの持ち主を探していたのだ。

「サディとムイちゃん、利き手なのはうちのサディなんだよね」

「はい?」いったい何の話か、と戸惑う。

「利き手の話。わたしは右利き。きみは?」

「その話が何なんですか」

「だから、うちのサディちゃんが利き手で、きみのムイちゃんはぶきっちょちゃんってことで」

 聞き捨てならない。まるでムイのほうが劣っているかのような発言だ。

「きみの様子からして、きみはまだムイちゃんとコミュニケーションをとれてないよね。だからまぁ、そこから察するにって感じで」

「結論から言うようにしてくれませんか」

「あ、怒ってる。いいよ。結論ね。えっと、だからわたしはサディとコミュニケーションがとれるってことで。彼女は――便宜上わたしはサディのことを同性と見做しているけれど――彼女たちには意思がある。わたしやきみのように、人格としての意思があるって意味ね。で、うちのサディはその意思をわたしに伝えることができる」

「どうやって?」

「ひとに物を尋ねるときにはそれなりの態度ってものがあるんじゃない?」

 ずっと言いたかったのか、彼女はそこで含みのある間を持たせた。

「サキさん、どうか教えてください」ぼくは頭を下げた。続けて、「この不肖な男にぜひご教授を」とまったく真面目な声音で補足する。

「うん。なら教えてあげる」サキは満足気に相好を崩した。頬杖をつき、「うちのサディは字が書ける」と告げる。「こちらの意思を伝えたいときは、サディの手のひらに鉛筆で文字をなぞってやると、短い文面なら解ってくれる」

 盲点だった。

「あ、その顔は心当たりあるって顔だ」

 虫かごの底に描かれたミミズの群れを思いだす。たしかにムイは筆記用具を操っていた。サキの言うようにムイは、端正な文字を書けない不器用な手であるらしい。

「どれくらい言葉が解るんですか」質問を重ねる。聞きたいことが多すぎて、質問の優先順位を立てられない。

「ふつうに話すくらいなら問題ないかな」

「たとえば?」

「だから、ほかの身体がどこにあるのかとか。だいたいの位置を訊けば、教えてもらえたりできるよ」

「ほかの身体?」

 だいたいの位置、というからには、サディはムイの位置を感じられるということか。

「そ。ほかの身体。ここにサディとムイちゃん、右手と左手がある以上、ほかに胴体や足、頭があってもおかしくはないよね」

「元々は一つの生き物だったと?」

「あ、きみはこれのこと生き物だって考えてるんだ?」

 彼女はそう考えていないのだろうか。こちらの考えを読んだようにサキは、

「生き物がバラバラになったあとで手だけで生きながらえるなんてことあり得ると思う?」と目を見開くようにした。

「ヒトデはでも」ぼくは反駁する。「取れた腕から本体が生えてきたり、真っ二つにして分身をつくったりしますよ。プラナリアという生き物はバラバラにした分だけ増殖しますし」

 冗談と見做したのかサキは笑った。

 新たに入ってきた客がこちらのそばを通った。テーブルに置かれたサディを見て二度見した。ぎょっとした様子だ。サキの背中を眺めていた幾人かの男たちも、こちらの会話に耳を欹てているのがアリアリと伝わった。背中にそそがれている視線を感じ取ったのか、サキは伝票を手にとり、立ち上がる。

「続きはそとでしよ。歩きながら」

 店を出ると夕陽が沈みかけていた。駅前に着くころには辺りはネオンに彩られ、サキは人混みを避けるように駅の裏手にひっそりと広がる公園に入っていった。ブランコに腰掛ける。植木の陰から猫がのそのそと抜けだしてきた。

「どうしてぼくだと判ったんですか」

 そろそろよさそうだと判断し、ぼくは口火を切った。猫が動きを止め、こちらを見た。

「さっき話したじゃん」

「そうじゃなくて」

 サディを駆使してムイを探し、その持ち主が大学に向かったと彼女が知ったのはよいとして、構内にはほかにも何百人と学生たちがいた。サディの探査能力がどの程度高いかは判然としないが、筆談でしか意思疎通の測れない彼女たちが移動していたぼくをズバリ特定するのはむつかしいように思う。だいいちぼくの実験結果からすれば、ムイたちに視覚器官は備わっていない。ムイの持ち主の外見的特徴をムイがサディに、そしてサディがサキに伝えることは実質不可能だ。

 じぶんの考えにやや興奮しながらぼくは説明した。

 よくわかんないけど。

 前置きし、顔を歪めてからサキは、

「かんたんなことだよ」

 地面に足をつけたままちいさくブランコを漕ぎだす。

「サディの言うところでは、ムイちゃんの持ち主は、四六時中自分を持ち歩いてるって言ってた。あ、この自分っていうのはだから、サディとムイちゃんを手とした全体、本体ってことね」彼女のつくる風が頬をなでる。甘く爽やかな匂いがした。「でもわたしの感覚ではふつう、こんな手だけで動く新種の蜘蛛みたいなの、気持ちわるがって触らないよね。百歩譲って捕まえたとして、持ち歩いたりなんかしない。でもどうやらムイちゃんは持ち主によって直に触れられたり、齧られたりしてるみたいだった。ふつうじゃないよね、それって」

「もしかしたら生物学者に捕獲されたのかもしれない」ぼくはじぶんの行った実験を振り返りながら言った。

「そうかもしんない。でもそれにしては扱いがおかしかった。ムイちゃんは当初、もっとほかの、劣悪な環境に押しこまれてたって言ってた。それこそ獣の腹のなかにいるようだって言ってたんだ。でもそれがここ数日で、人間の手のうちに移ったと判った。で、うちのサディを通して、その人間を見つけてほしいと願いでたわけ」

 どうやらサキは、サディやムイを本体の意思を反映する端末のようだと考えているようだ。

「だからどうしてその持ち主がぼくだと判ったんですか」だんだん苛々してきた。

「だってきみ、いかにもふつうじゃないんだもの」

 こちらの苛立ちを知ってか知らずか、サキは張りあうように唇をすぼめる。「あのね、大学の構内には、歩きながら突然リュックから虫かごを取りだすような輩は一人だっていないし、周囲の人間をまるで意に介さない、さも公園にいるハトの群れを眺めるような、林を散歩してる猫みたいな、飄々と雑踏を割って歩く自意識のすっぽ抜けた社会人不適合者なんかもいないわけ。そういった人種はそもそも大学になんて来ないんだから。でもきみはそこにいた。一人、集団から浮いて。ね? ちいさな手を愛でるような酔狂な人間としてはこれ以上ほかに適任はいないでしょ」

「それを言うならあなただってふつうではないということになる」心外だった。抗議の意味を籠めて口調を尖らせる。

「そうだね。わたしもふつうじゃない。でもわたしは自分がふつうではないと自覚しているし、それを隠すことだってできる。でもきみは本物だから、それができない。それができないことがすなわち、きみが本物であるってことの証」

 わかる?

 彼女は片眉を吊りあげるようにした。

「ひとを異常者扱いしないでください」そもそも本物とはなんのことだ。何にとっての本物だというのか。

「そこで怒るところがすごいよね。ふつうのひとはそこでちょっぴりうれしそうにするんだよ。ふつうのひとにとって、異常ってのは、特殊だってことで、特別だってことなんだから。それはある意味で優れているという反証であり、彼らにとっては誉れなわけ」

「この話はやめましょう」ぼくは意味もなく立ち上がり、彼女を見下ろした。「で、あなたの目的はなんですか」

 サディの頼みでムイを探した。それはすなわち、ムイがサディを探していたという裏返しでもある。サキの話を鵜呑みにすればそういうことになる。「ここに両手が揃った。それで? ぼくからムイを奪ってどうするつもりですか」

「べつに奪ったりはしないよ」漕いでいたブランコを止め、彼女はそこで狼狽えたように、或いは縋るようにこちらを見上げた。「待って、待って。お願い。そんなおっかない顔しないで。わたし、べつにきみと敵対するためにきたわけじゃないんだから」

 それを聞いてほっとした。ブランコに座りなおす。

「単刀直入に言えば」サキはふたたびブランコを漕ぎだすと、こんどは足を振ってそら高く舞い上がり、声を張るようにして、「協力してほしいの」と述べた。「サディのパーツ集め、手伝って」

 いつの間にか猫はいなくなっていた。

 

 家に帰って素うどんを食べた。一袋三玉入りで、缶ジュース一本よりも安い。懐にも胃にもやさしい食材だ。ぼくは一食で三玉すべてをたいらげる。これがぼくにとってできるせいいっぱいの贅沢だ。そろそろバイトをはじめないと素うどんすら食べられなくなる。倹約するため、あすからは一食一玉にしようと決める。

 貧困は嫌だ。心が荒むから。

 贅沢も人の心を惑わせるが、貧困による荒廃よりかはマシだろう。目のまえにはない何かを求めつづける貪欲さは前向きに生きるうえで必要だ。

 サキから渡された大学ノートを取りだす。別れ際、彼女はそれをこちらに手渡し、「帰ったら読んでみて」と言った。

 予想はしていたが、中身はサディの記したと思しき走り書きで、紙面を埋め尽くすように細やかな文字が並んでいる。達筆とは言えないが、大きさが均一で、なにかそういった書体のように思えてくる。

 ところどころページが破られており、サキが意図してそれを抹消したのだと判った。都合のわるいことが書かれていたのだろうか。想像を逞しくするが、現状、このノートにサキにとっての弱みとなり得る情報は記されていないということ以外を汲み取るのはむつかしかった。

 読み進めていくうちに、ぼくはいくつかムイへの分析結果を覆さなければならなくなった。

 たとえば均等に、並行に紡がれている文字たち。これらはサディにすくなからず、空間認識能力が備わっている事実を示している。触感だけに頼ったのでは、こうまで均等に文字を並べる真似はできない。また、紡がれている文章の平易かつ整った論理性。悪意や攻撃性のいっさいが排除された、静謐な筆致。なにより、そこに書かれている文章を読むだけで、サキがなんと質問したのか、彼女とどういった意思疎通を図ろうとしているのかが窺い知れた。書かれていない情景まで克明に浮かぶようなのだ。サディが意図してそれを実行しているのかは定かではないが、いずれにせよサディ――もとよりムイたちに宿る自我は、高い知能を有していると考えられる。

 むろん真実にこの文章がサディによって紡がれていたとしたらの話だ。サディではない別の誰かが紡いだ可能性もある。だが仮にそうであっても、サキにはこの文章を紡げるような人物との交流があるということで、或いはサキ自身がその特異な能力を有し、彼女がこれらの文章をねつ造したとも考えられるが、どちらの可能性も彼女を間近に見た身としては「考えにくい」の一言で片づけられる。よって、ここに記された文章がサディによって紡がれたと認めてもよさそうだ。

 判断し、では、と考える。

 サディに宿るその自我はいったい何を考えているのだろう、と。

 犬や猫にも自我はある。鏡を見せれば、そこに映るのが自分である旨を獣は理解することが可能だ。だがなぜ映るのか、と考える真似は彼らにはできない。知能が低いからだ。

 しかしサディには人間にちかしい知能があり、それも、思春期を脱し大学受験を控えた若者たちに匹敵する、或いはそれらを凌駕するほどの知能が備わっているように感じられてならない。畢竟するにぼくよりもサディおよびムイは聡明だ。

 虫かごを引き寄せ、ひざのうえに置く。糸の切れた人形のようにじっとしているムイをぼくは見つめる。視線に気づく素振りはない。虫かごのなかに手を差しこみ、つついてみる。反応はないが、中に入れておいた鉛筆を手に取り、突き刺すと、ようやくムイはうごうごと指を動かした。

 これまでにも幾度か、つよい刺激を加えないと反応しないことがあった。初めてムイが動いたときを思いだす。口に入れ、かみ砕こうとしたら身じろいだ。

 ムイにはどうやら、意識がない瞬間があるようだ。意識が離れていると言えば端的だ。サキの言うようにムイたちには元となる肉体があり、パズルのようにバラバラにされ、そして本体が自我を飛ばしていると考えてもよさそうだ。ムイやサディに自我が備わっているのではない。文字通り宿っているのだ。

 ならば自我を飛ばしている本体はどこにあるのだろう。

 サディの手記を読み解くかぎりにおいて、本体は自らの手足を探していると判る。しかしサキは本体の居場所を尋ねようとせず、本体のほうも自らを見つけてくれとは言いだしていない。筆談では主としてサディがサキに一方的に指示をだしているようだ。サキはそれをまったく訝しんでいない。当然のように、どうしたらあなたの役に立てるのか、と尋ね、意思決定権をサディに委ねてしまっている。

 ぼくには解った。サキは利用されている。サディが徹底的なまでに悪意を消し去り、サキを懐柔しようと言葉巧みに彼女の心につけこんでいるのだと、その不自然さをぼくはサディの手記を通して、見抜くことができた。

 ふいに隣の部屋から男女の絡みあう声が漏れだした。壁に染みだす雨水を思わせる一種悲鳴にも似た声音に、ぼくは考えるのをやめ、ただムイに鉛筆を突きたてることに専念した。

 ぼくはムイを、このちいさな手を、手放したくはない。

 

 連絡をとるつもりはなかったが、考えを変えた。ぼくは教えてもらったサキの連絡先に繋ぎ、会いたい旨を伝え、日時と場所を指定した。

 どう? 考えてくれた?

 三日後、サキはこのあいだとはまったくちがう装い、スーツ姿で現れた。場所は繁華街の駅まえで、先々週爆発騒動のあった近辺だ。

「ちょっと、なんで無視すんの」

 声をかけられてからもしばらく、ぼくの横に立つ女性がサキだとは思わなかった。「呼びだしたのそっちじゃん、ねえ、なんでそんな顔すんの」

 指摘されたからでもないが、眉間からちからを抜く。

「別人かと思った」言う必要も感じられなかったが釈明した。「このあいだと印象がちがう」

「あ、うん」サキは自分の身体を見下ろすようにした。上着の裾を掴み、「仕事帰りなんだ。へんかなぁ?」

 へんじゃない、と答える。「ちゃんとしたオトナに見える」

「ちゃんとしたオトナなんだけど」なぜかサキは笑った。「このあいだのはほら、ポテポテマヨスターの真似っていうか」とさいきん人気の女アーティストの名を口にし、「わたし、なんか似てるみたいで」とよく分からない弁解をした。

「べつに似てはないですよ」女アーティストの顔を思いだしながら言う。

「そうだよね。わたしんほうが美人だし」

「美人の意味知ってますか」

「ここじゃ話せないね。場所移そっか」

 駅前ということもあり人通りは多い。爆発騒動の名残か、立ち入り禁止のテープが張り巡らされている。テープの奥では地面を覆うブルーシートがたなびいている。死者が一名出たらしい。規模の割にしょぼい事故だ。

 駅ビルに入り、サキは誘導するように和食の食事処に入った。

「食べながらでいいでしょ。お腹すいちゃった」

 注文したソバが運ばれてきてからサキは、で? と水を向けた。「協力してくれるってことでいいんだよね? 連絡くれたってことはそういうことでしょ」

 ぼくが何も言わないからか、彼女は希望的観測を口にした。

「そうですね」

「よかったぁ」

「サディの身体を集めてどうしたいんですか、サキさんは」

「サキでいいってば」

「サキはどうしたいの」と言いなおす。

「わたしはべつに」ソバを口に運びながらサキは肩をすくめる。「というかもう、目的は達成されちゃった感あるし」

「どういう意味ですか」

「うーん、ほら」もういちど肩をすくめ、サキはかるく両手を広げた。空間を強調するような仕草だが、この空間にいったい何があるというのか。「答えになってないように思うんですけど」

「そう? まあうん。解られても困るってのはあるかな」

「たとえばの話ですけど」ぼくはソバの山を箸でつつきながら、「サディを手放すことになったらどうしますか」と話題を振った。「ノートを読みました。サディに宿る意思はサディも含めて足りないパーツを取り戻そうとしている。ということは本体を見つけたら、サキもサディを手放さなければならなくなる。違いますか」

「うん。それが?」

 素っ気ない口調にぼくはじぶんの謬見を認めた。無意識のうちからぼくは、サキもまたちいさな手に言いしれぬ愛着を覚えているものだとばかり考えていた。思い違いだったようだ。

「わたしは犬のおまわりさんなんだよ」サキは箸を止め、唇のしたにシワを浮かべた。「迷子の子猫ちゃんがいたら助けてあげたい。それだけ」

「ぼくもそう思っていると?」ぼくが彼女を誤解していたように彼女もまたぼくを誤解しているのではないか、自分の同族を見つけたと勘違いしているのではないか、と思った。

「いやいやちがうでしょ。きみはわたしとはちがう」サキの声が弾む。「このあいだも言ったけどきみは本物で、わたしは偽物。わたしはふつうにちかいけど、きみはまったくの別物。異物ですらある」

「要するにサキはサディに興味がないってことですね」ぼくは強引に話をまとめるようにした。

「ちがう、ちがう。興味はあるよ。わたしにとってサディは子猫に見えるし、愛おしく思ってもいる。だけどふつうのひとはそこでサディを子猫のように慈しんだりしないし、たぶん多くのひとは敵意にも似た感情を向けると思う。そういう意味でわたしはきみにもちかいわけ。だけどわたしはきみみたいにサディに依存しなくとも生きていける。手放したところでどうも思わない。またべつの対象に興味をそそげばいいだけ」

「ぼくはそうじゃないとでも言いたげですね」依存という言い方に苛立ちめいたものが湧いた。

「きみはサディに――あ、そっちのはムイちゃんだっけ?――まぁ、うん。依存してる。ないとダメ、生きていけない。そういう人間」

「拾う前から生きてましたよ」ムイを手に入れる前からぼくはぼくとして存在していた。ムイがいないから生きていけないということはない。

「いいや、生きてなかった。死んでなかっただけできみは間違いなく生きてなかったね」サキは断言する。まっすぐ向けられた目はカエルの卵みたいで、摘まんだらぬるりと滑り落ちそうだなと思う。「きみがいつどうやってムイちゃんを拾ったのかは知らないよ。どうして拾おうと思ったのかも分からない。だけどきみはムイちゃんを手にして、やっと息ができたんじゃないかな。今までずっと押し殺してきた感情を、きみはムイちゃんを通して発散できた」

「なんの話ですか」惚けたわけではない。

「ムイちゃんの感覚は本体を通じてうちのサディにも伝わる。だからきみがムイちゃんにやってきたことはだいたいわたしも知ってる」

 脳裡に、破られたページのことが浮かんだ。

「きみに悪意はない。たぶんそれは破壊衝動とか嗜虐性とか、そういったものとはまるっきり別ものの、ある種、愛情みたいなもので」

「かってに分析しないでください」ぼくはお願いした。

「ほら、それ」サキは両手を叩きあわせるようにした。「きみ、今怒ってないでしょ」

「怒ってますよ」

「ぜんぜんそんなふうに見えない。内心で、どうしてこんなことするんだろうとは思っていても、きみは怒らない。とっくに諦めてるから」

「諦めて?」

「他人と理解しあう、ってことをきみは諦めてる」

「はあ」

「ほらほら!」サキはなぜかはしゃいだ。「きみ今、理解する気を放棄した。反論する気すらない。わたし今、きみの根幹を揺るがすような発言してるのに、ふつうのひとはそこで絶対に自己防衛に走るのに、きみはただ理解することを放棄した。拒むでもなく、ああそうなのか、って雨が降って服が濡れてしまったみたいな受け入れ方をした」

「怒ってほしかったんですか?」

「そうじゃない、そうじゃないの」サキは興奮している。ぼくにもそれは判ったが、なぜ彼女がはしゃいでいるのかがさっぱりだ。「きみはたぶん、これまで生きてきたなかで誰かに理解されたことがないんだ。自分の意思を他人に反映できない。周りの人間はそんなきみを、できそこないみたいな扱いをした。きみは生まれながらにして――生まれてきてからこの方ずっと、意識しないうちから【自分は劣った存在なんだ】と思いつづけてきた。でも逆なんだよ。きみのほうが高みにいる。たぶんきみは本当は、周りの人間たちのことを誰よりも理解している。けれど無意識に染みついた【自分は劣った存在なんだ】という観念が、きみの思考を阻害する。きみにとって周りの人間は、【自分よりも優れている】から、【優れていなければならない】から。だからきみは、自分の考えるようなことはみんなも考えているだろうし、きっと自分には推し量れない高尚な考えでみんなは生きているのだろう、行動しているのだろう、と処理してしまう。本当は滑稽なほど陳腐で醜い考えで、いや、考えとも呼べない衝動で彼らが行動しているにも拘わらず! そのことにきみは本当は気づいているにも拘わらず!」

「声が大きいですよ」ぼくは宥めた。サキは深く息をし、呼吸を整えた。それからまったく気後れした様子もみせず、

「ずっと孤独だったんでしょ」

 ぼくにも判るような優しい顔をした。それはぼくをひどく混乱させた。「わたしには解る。わたしなら解ってあげられる」

「何が言いたいんですか」はやく食べないとソバがノビてしまう。試しに口に含んでみたが、ソバはとっくにノビていた。サキはそんなぼくに毒気のある憐みの目を向け、

「わたしがなったげる。きみの理解者に」

 とうてい理解できそうもない言葉をイキイキと語った。ぼくは居心地のわるさに吐き気を催した。

    ***

 むかしからだ。むかしからぼくは他人の悪意に敏感だった。

 悪意の匂いがぼくには解る。たいていそれは善意の皮を被っている。

 あなたのためだと言って思いどおりにさせたい母親、理路整然とした物言いで責任を逃れたいだけの父親、泣けば相手が悪者となると知っていて泣くクラスメイトや、自尊心を満たしたいがために集団から外れた者にやさしく接する人格者。彼らに悪意を抱いているという自覚はない。本気で自分の見繕った善意の皮を、善意の塊だと信じている。薄皮の下にアンコなどはなく、白子のようにどこまでもまっしろな甘味が詰まっていると思い込んでいる。

 恋愛感情から性欲を抜けば残るのは憧憬と友情と愛着だ。どれも聞こえは良いが、欲望であることに変わりはない。欲望を邪な感情として見做さずに済むようにと、きれいな言葉で着飾っているにすぎない。

 憧憬は誰かに崇めてほしいという承認欲求から派生しており、友情は欠けた能力を補おうとする利害関係から発生している。愛着は独り占めしたいという独占欲であり、そこにはすくなからず相手を損ないたいという嗜虐性が含まれる。

 誰もが他者を、世界を、思い通りにしたいと望んでいる。

 望みを叶えるためには、実際に思い通りにするよりないが、手間であるし、現実的ではない。世界は思い通りになどなりはしない。しかし思い通りにしたいという衝動は消えることなく残留し、やがて肥大化する。だから証明せずにはいられない。世界は思い通りにできるのだと。

 もっとも手っ取り早い証明の仕方がだから、対象を破壊し、損なうことである。

 壊すことができるならば、それはもう、思いどおりにできることと同義だ。支配したも同然だ。

 恋人を試す、親を試す、友情を試す、信じていいか試す。人はなぜか相手を傷つけ関係性が壊れないかを確かめようとする。だがそれは関係性の継続を望んでいるからではなく、相手よりも優位に立ちたいという支配欲からくる暴力だ。明確な敵意がそこにはあり、屈服させ、掌握し、より心地よい環境を整えようとする歪んだ自己愛からくる悪意にほかならない。

 相手にとことん尽くす者もいる。だがそれは無償の愛などではなく、そうすることでしか相手を繋ぎとめられないという強迫観念、打算でしかない。

 誰もが他者を必要とし、あらゆる手を尽くし、自分の支配下に置こうとする。

 相性というものがあるにしても、それは単に、相手の軍門に下ることが結果として相手を支配下におけるという錯誤を抱けるかどうかというだけの話であり、けっきょくは誰もが誰かの支配下にあり、誰かを支配しようともがきつづけている。

 それを愛などと呼んで崇めているのがこの社会だ。

 誰一人としてそれを認めようとしない。きっとぼくが間違っているのだ。ぼくがわるいのだ。狂っているのだ。

 長いこと思いださないようにと、考えないようにとしてきたことが、あの女のせいでよみがえった。

 みんなは本当は気づいていて、わざとそうしているのだと思ってきた。ぼくにはとてもではないが耐えられない悪意に満ちたこの世界のなかで、彼らは敢えてそれらを見ないようにし、美しい世界を思い描き、そこに共同体を築きあげようとしているのだと思おうとしてきた。

 世界を変えられないならば、じぶんを変えるしかない。醜い世界をうつくしいものだと思えるようにじぶんを変えるしかない。だからぼくは考えを変えた。じぶんを、変えた。

 みんなと同じ世界にいられるように、ぼくはじぶんを変え、世界を変えた。

 そこに孕む矛盾にさえぼくは目をつむった。

 悪意によって成立するこの世界で、ぼくは悪意のない世界を生きた。みんなの言うように、ぼくだけが狂っていて、壊れていて、悪意に満ちているのはぼくだけなのだと思うことにした。

 ぼくはうつくしい世界のなかでただ一つの汚点でありつづける。そうすることで世界はうつくしい姿を保ちつづける。

 だがぼくの認識は世界に影響を与えない。目を閉じても世界が消えるわけではない。ぼくの認識に拘わらず、世界は相も変わらず悪意に満ちている。

 理解者。

 ぼくはサキの言葉を思いだし、やはり吐き気を催さずにはいられなかった。

   ***

 ムイに筆を持たせ、紙のうえに置いた。黙っていてもムイはこちらの意図に気づいたようで、ぎこちなく筆を走らせる。

 ――なに。

 その一言でぼくはムイがこちらに対してあまりよい印象を抱いていないことを察する。それはこれまでの扱への憤りではなく、ぼくという人格に対しての反発、予防線のようなものかもしれなかった。

 ぼくはムイに、本体を探そう、と提案した。手足を揃えてからではなく、まずムイの魂の宿る部位を探すべきだと。仮に頭が本体であるとすれば、意思疎通だってもっとかんたんに行えるようになる。ぼくはそう推測し、短い文面にその意図をのせた。

 ――今はムリ。モンダイがある。

 ムイは的確にこちらの意図を汲んでくれた。サディと比べるとそっけない文体で、書体も乱れており幼児がいたずら書きしたような具合だが、必要最低限で最大限の情報が載せられていると判る。

 今は、ということはいずれ本体を取りに来てほしいとムイは望んでいるということで。

 問題があってダメだ、ということはどこに自分がいるのかをムイは把握していることを示唆する。

 また、文体の変化から、ムイがぼくを懐柔しようとする気はないようだ、むしろ欺くことはせず、最低限の情報を提供してうまいこと立ち回ってもらおう、と狡猾な考えを抱いているのだと判った。わざとそれを透けて見えるようにしていることもぼくには判った。

 ムイにとって現状もっとも厄介なのはぼくがサキの邪魔をすることだ。戦力になってもいいし、ならなくてもいい。ムイはぼくに期待などしていない。

 二日後、夕陽を背に、待ち合わせた駅からぼくはサキに手を引かれ、そこそこ立派なマンションのまえまで連れて行かれた。

「ここ」サキはあごをしゃくってマンションを示した。

「ここが何?」

「わたしん家」

「で?」

「作戦タイムしよ」

 わざわざ部屋に招き入れる必要があるのか、と思ったが、口にはださずサキに従った。ぼくはそこでサキに襲われるカタチで貞操を失った。

「拒まれるかと思った」

 ぼくのうえに馬乗りになったままでサキは、ぐったりしたぼくの顔を舐めた。どうやら彼女にとって「拒む」というのは相手の意識を奪うまで暴力を行使することを言うらしい。やめろ、と怒鳴り、ジタバタもがく程度では抵抗したと見做されないようだった。サキはぐったりしたぼくの生殖器を味わうように口に含み、意識とは無関係に反応するぼくの生殖器をふたたび体内にうずめた。

 きみのことを教えてほしい。

 サディにぼくたちは訊いた。サキのほうがうまく意思を伝えられたので、もっぱらぼくは質問を考える役に徹した。

 ――ごめんなさい。答えられないんです。ワタシのことは。

 手首を可視化させた透明人間を思わせる流暢さでサディはノートに文字を紡ぐ。

「なぜバラバラに?」どうして手首だけになったのか、とぼくは問い、ぼくの言葉をサキが伝える。

 ――ワタシがなぜこのような状態になったのか、その顛末をご説明することはできます。けれどサキに迷惑がかかる。言いたくないんです。

「ね? イイコでしょ」サキは娘を自慢する母親のような顔をした。

 仮にサディがイイコだとして、立派なのはサディであってサキではない。得意げになるのは筋違いだ。

「そうだね、イイコだ」ぼくはサキに同調するよう心掛けた。

 ぼくらはサディとムイを操っている本体にも名前をつけた。サディに名を訊いたが、名はないという。ならば付けてしまおうということになったのだが、

「えぇえ、ダディでいいじゃん。サディの親玉だからダディ。よくない?」

 名前なんてどうだってよかったが却下した。呼ぶ側のこちらがこんがらがりそうになる名前は嫌だった。「もっとべつの、解りやすいのにしてくれ」

「ねぇ、きみ。なんか生意気になってない。卒業した途端に調子に乗る男、わたし好きじゃない」

 言っている意味が解らなかったし、好かれる必要もなかったが、強いてぼくは猫を被りなおす。三匹くらい。

「サキ、ぼくはもっとちゃんとした名前がいい。子供の名前はちゃんとしたいんだ」

「ドルーチェにしよう。わたし、娘にはぜったいドルーチェって決めてたの」

 今にも襲い掛かってきそうな剣幕にぼくは怯んだ。ちょっと猫を被りすぎたかもしれない。ぼくは頭のなかで三匹のうち、二匹を放逐した。

 サディから得られた情報をまとめると以下のようになる。

 ドルーチェは今、手足を失くし動けない状態にある。こちらが助けに行くには状況がわるい。サディとムイは切り離された手であり、そこに宿るのはどちらもドルーチェである。

 さらにサディの口ぶりから察せられることをぼくは頭のなかでまとめた。

 自身がどういった存在であるのかをドルーチェは知っている。知らないと嘘を吐けたにも拘わらず、「言えない」と伝えたのは、そう示すことでサキからの信頼を勝ち取ると共に、正体を突き止めようとサキが躍起になるのを防ぐためだ。サキならばかってに大学の研究室に侵入し、生徒をたぶらかしてサディを分析器のなかにぶち込むような真似をしてもふしぎではない。

 世間にその存在が曝けだされるのはドルーチェにしても避けたい事項であるようだ。

 穏便に手足を回収し、復活の機会を窺い、いずれぼくたちに本体を回収させようとしている。

 いや、本体の陥っている状況が好転するまで、ぼくたちを手足の代わりにしたいだけかもしれない。手足の安全を確保させるための、ぼくたちはドルーチェにとっての道具だ。

 道具がぼくたちだけとも限らない。

 そうだとも。

 ドルーチェが現状、孤立しているとは限らないのだ。

 サキはサディを拾ったと言っていたが、ひょっとするとそれは偶然ではないのかもしれない。自分にとって都合のよい人間の手に渡るよう、ドルーチェが根回しをした可能性はゼロではない。

 だとするとドルーチェは多少なりともそとの情報を入手できる環境にいると考えられる。或いは、ドルーチェに情報を与え、ドルーチェに変わって行動する何者かがいるのかもしれない。

 考えすぎだろうか?

 いや、どこかで誰かに監視されていてもおかしくはない。

 なぜ今の今までその可能性に気づかなかったのか。ぼくはじぶんを叱咤する。

 ドルーチェがなぜバラバラになったのかを考える。

 手足のうちの一つが猫の腹のなかに、そしてサキの話を信じるならばもう一つが広場にぽつんと落ちていた。バラバラになったドルーチェを誰かが運んでいたのか、或いはバラバラになった弾みで飛び散ったのか。バラバラになりながらドルーチェが逃げたという線もあり得る。

 いずれにせよドルーチェには敵がいたと考えるべきではないのか?

「あ、きみ。今よからぬこと考えてるでしょ」

「これからのことを考えていたんだよ」

「ならいいけど」

「足の在り処はまだわからない?」

「ちょっと待って」

 サキがサディの手をなぞり、サディが紙面に文字をつづる。

 ――付近にはないようです。だいたい三キロ以上はなれてしまうと感知しにくくなるんです。

「足は動かせないの?」

 ――さいきんまでは動かせたのですけど。キョリがあるのと、切りはなされている時間が長いこともあわさって、モウロウとしています。

「ひょっとしてムイやサディもそのうち動かなくなる?」

 ぼくは訊いた。生物の場合、切断された腕は通常なにも処置を施さないと壊死するものだ。ドルーチェも例外ではないのかもしれない。本体と合流できなければいずれムイも死んでしまうのではないかと案じた。

 ――可能性はあります。ですが、私のもとに近づけばふたたび接続できるはずです。

 ドルーチェは自分の意思で、ムイを動かすことができる。しかし意識しなければ、そこにドルーチェの意思は反映されない。すなわちそのあいだドルーチェの意識はムイから離れている。スイッチを切り替えるようにドルーチェはムイたちを「端末」として扱っている。サキの解釈はあながち的外れではなかったようだ。

 サキとの話しあいの結果、ぼくが日中にサディを連れてまわり、足の在り処を探すことになった。その間サキは仕事である。ぼくも生活費を稼がなければならないのだがという旨を念のため伝えると、サキは当面こちらの生活を世話してあげるという案をしれっと呈し、ぼくはそれを受け入れた。

「ヒモみたいだ」ぼくは言った。

「首輪ハメたいくらいだよ」サキは冗談めかすでもなく言った。「ムイちゃんはわたしが預かっとくね。きみ、どっちも手に入れたらわたしのまえから姿消しちゃうでしょ」

 断言するサキはぼくの理解者を自称するだけあって解っている。

「信じられないならそれでいいよ」

「うぐぐ」

 ただ許可をだしただけなのに、サキはなぜか狼狽えた。「その手には乗らないぞ」

 ぼくの首にうでをまわすようにし、

「わたしはきみを信じない。きみが信じるに値しない人間だってこと、わたしが一番知ってるもの」

 まるで信じないことが誰よりもあなたを信じていることになると盲信しているかのような口ぶりでサキは言い、それから、もう何も言わないでと抗議の念を表明するかのようにぼくの口に舌をねじこんだ。暴れ回るサキの舌を感じながらぼくは、ムイの躍動感を思いだしている。

 

 ぼくはぼくのことを考えた。ぼくはたぶん、誰よりも他人のことを理解している。彼ら自身よりもぼくは彼らのことがよく解る。しかしぼくに解る「彼らの根幹」に彼ら自身が理解を示すことはない。いくら説明しても受け入れられることはないのだろう。大多数が「見えない」と主張すれば、そこには何もないのと同義である。ぼくのほうがおかしいのだと思って過ごしたほうが彼らにとって、そしてぼくにとっても都合がよかった。

 だがそろそろそれも限界かもしれない。

 ぼくは凡人だ。じぶんを騙しつづけられるほど強靱な精神力を持ちあわせてはいない。裏の裏の裏をかきつづけるだけの処理能力など備わっていない。

 その歪みが結果としてぼくにムイを拾わせた。

 ぼくはぼく以外の大多数の者たちから見て狂人でなければならなかった。彼らのことなど理解できず、落ちこぼれで、不器用で、スカスカだからこそ浮いてしまうような人間でなければならなかった。そうでなければぼくは、彼らの世界をぼくの視ている「本当の世界」に覆してしまうから。

 彼らは自らがどれだけ醜い存在であるのかを知ると、途端に崩れ去ってしまう繊細な精神の持ち主である。ガラス細工のように触れただけでポッキリと折れてしまう脆弱な存在だ。ぼくはそんな彼らを愛おしいと思い、同時にその繊細さを証明したくてしょうがなくなる。彼らがどれだけ脆い存在なのかをぼくはこの手で直に感じたい。

 ムイはそんなぼくの想いを否定してくれるただ一つの存在だ。

 どれだけぼくの悪意をぶつけてみてもムイは意に介さない。ぼくの悪意を悪意ではなくしてくれるただ一つの浄化器官。ぼくにとって悪意とは自覚し、呑みこまなければならないものである。善意の皮を被り、発散し、巧妙に相手へ呑みこませるような毒ではありえない。あってはならない。悪意は悪意として、内側で消化し、消化されることで善意としての輝きを帯びなければならない。

 そうでなければ邪な存在として悪意は悪意として、「本当の悪」を呼び覚まし、増幅させ、この世を浸食していくだろう。いや、すでにこの世は「本当の悪」で侵食しきっている。悪意ではない悪意、善意の皮を被った悪意がそこかしこに溢れている。彼らはそれを悪意と見抜けず、だからこそいくらでも吐きだし、呑みこませていく。

 善意の皮を被った悪意は消化されない。内側に蓄積されていく。やがて善意の皮は融け、溢れだした悪意が、そのうち他者を毒そのものに染めあげていく。

 悪意は悪意としてそこに存在しなければならない。悪意を偽ろうとしてはいけない。悪意は悪意として自ら呑みこまなければならない。

 だがどうしても呑みこめない悪意もでてくる。そこで人は悪意を他者に呑みこませるのではなく、人ではない何かにぶつけて処理しようとする。ストレス発散と言えばまさにそのとおりで、善意の皮を楯に、悪意という槍を思う存分に振りかざす。重要なのはここでも悪意を偽ろうとしてはいけないという点だ。なぜ自分はそんなことをしてしまうのか、といったことに無自覚であるかぎり、人はその処理の仕方に依存し、やがて行為を逸脱していく。

 悪意が毒となり、毒が個人を蝕んでいく。

 手段が目的となりやがて害と化す。

 悪意を自覚する以外に、悪意の肥大化を止める術はない。

 だからぼくは自覚しなければならない。目を覚まさなければならない。ムイを拾い、それに依存しはじめたいま、ぼくは現実逃避をやめ、ぼくのなかにある悪意と真っ向から向きあわなければならない。

 そうでなければぼくは、やがてこの悪意を――善意の皮を被った悪意を――もっとも脆弱な対象に呑ませようとするだろう。ぼくの生みだした悪意は毒となり、対象がいかに脆弱であるかを浮き彫りにさせるべく、対象をとことん破滅させる。

 弱者が弱者であることをぼくはあらゆる手段を講じて、証明する。

 この悪意は本来、世界を歪め、自らを偽ることを課したぼくが持ち得るはずのないものだった。ムイを手にしたことでぼくは、ないはずの悪意を呑みこみつづけ、消化できなくなったそれが溢れだしはじめたことに気づいてしまった。見えなかった悪意をぼくはムイをとおして間接的に突き付けられた。

 サキと出会い、彼女がぼくを分析してみせなければ、或いはその突き付けられた悪意に気づきさえしなかったかもしれない。サキはその一点でのみ、ぼくにとってかけがえのない人間になり得た。

 もういいだろう。彼女にとってそれだけでも充分なはずだ。

 ぼくはサディを握り潰しながら、やはりムイでなければダメなようだと、「初めて」に付属する価値に思いを馳せた。

 それから数日後のことである。

 サディとムイの二つがあらゆる刺激に対して反応しなくなったのは。

 

「どうしてだろう? 死んじゃったのかな」

 反応を示さなくなったサディを指でつつきながらサキが不安そうにしている。異変に気付いたのはぼくがサディを連れて街の近郊を散策していたときだ。こちらがどのように刺激してもサディはいっさい応じなくなった。サキが帰宅してからムイを見せるようにせっつくと、すでにムイも動かなくなっていた。サキの話では、職場を出るときにはまだ動いていたそうだ。

「本体――ドルーチェが死んだ可能性は否定できない」でも、とぼくはムイに釘を打ちつける。反応はない。「これは違うと思う」

「どうして?」

「ムイが動かなくなったのはサディが動かなくなってから一時間も経ってからだ。時間差がある」

 おそらく、とぼくは考えをまとめる。ムイとサディが本体から切り離されたとき、同時に失われたわけではないのだろう。さきに切り離されたサディから動かなくなった。この場合、そう考えるべきだ。

 要するに、と告げる。

「これは充電切れみたいなものだ。ドルーチェに接触できればまた復活するはず」

「ならよかった」

 サキは安堵した様子だ。ドルーチェが死んでいないことをよろこんでいるのではない。ぼくといっしょにいられる理由の喪失を恐れているのだ。

「でもどうしようね。これだとパーツ集めができないでしょ?」

 サディとムイの協力を望めない以上、ほかの切り離された部位を探し当てるのは困難だ。

 とりあえずぼくはサキからサディを拾った場所を教えてもらうことにした。

 サディが落ちていた場所はそう低くない確率で、サディが本体から切り離された場所であるはずだ。ムイのように猫に食われて移動していたわけではない。すくなくともその近辺に何かあるだろうとぼくは前々からにらんでいた。

 わたしもいっしょに行くと言ってきかないサキを宥めすかし、彼女が職場に行っているあいだに出し抜くかたちで、一人でその場所へ向かった。

 なぜサキはここにいたのだろう。

 教えてもらった住所に着き、まっさきに浮かんだのはそんなサキへの不可解さだった。

 山奥というわけではない。閑静な住宅街をすこし外れただけだが、辺りは一面、ススキに覆われている。長いあいだ車が通っていないのだろう、砂利の露出した道路までススキで埋まっている。

 廃校を思わせる敷地に、ぽつんと一台の車が乗り捨てられている。かなり古いもので、塗装は剥げ、ガラスも割れ、ボンネットの中身が剥き出しになっている。奥のほうに更地の領域があり、むかしは実際に校舎が建っていたのだろう、校舎のカタチに砂利が露出している。

 そういえば、と思いだす。

 ムイを拾った場所も鬱蒼と茂った林だった。

 あれはぼくが自主的に猫の死体を捨てに行ったのだから環境が似ているのは偶然なのだろうが、しかしどうなのだろう。嫌な想像が拭えない。

 ムイは猫の死体から落ちてきた。ぼくはそう考えていたが、そもそもムイは最初からあの場所にいたのではなかったか。

 考えすぎだ。

 ムイはそもそもあのときにはまだ動いていなかった。あの時点ではドルーチェはムイを見捨てていたのだ。感覚を遮断させ、サディやほかの部位に意識をそそいでいた。それをぼくが偶然拾ってしまった。やはりムイは猫に食べられていたと考えるべきだ。ドルーチェはムイの回収を後回しにしようとしていた。

 ふと林のほうから音がした。

 猫だろうか。林の奥は山に通じている。よくよく考えてみると、反対側のふもとには大学がある。ぼくが猫の死体を埋めに行った林に通じているのではないかと考える。

 ぼくはなぜか息を殺し、背の高いススキに隠れるように身を屈めた。乗り捨てられた車の影が真上からぼくを塗りつぶしている。

 誰かくる。

 何かではなく誰かと思ったのは、明確に砂利を踏みしめる音が聞こえたからだ。二足歩行だと判る。

 やがて林の奥から姿を現したのは野球帽をかぶった子どもだった。棒を手に、草木を掻き分け、斜面を下ってくる。

 一人なのが気になった。

 控えめに見てもこの場に漂う雰囲気は明るくない。不気味と言ってもいい。児童が一人で立ち入るには抵抗を覚えそうな場所だ。

 少年はブツブツと独り言をしゃべっている。聞き耳を立てるが、風の音が邪魔でよく聞こえない。

 廃車のある場所までやってきたところで少年が歩を止めた。

「なんか臭うな」

「そう?」

「ネズミがいそうな臭いがふんぷんしてやがる」

 ぎょっとした。聞こえてくる声が二つある。一つは少年のものだろうが、もう一つが野太く、少年のものと考えるにはいささか無理がある。

 腹話術だろうか。にしては声音が違いすぎる。少年はさらに会話をつづけた。

「ネズミくらいいいじゃん」

「そうじゃねぇよ。誰かに付けられたかもしれねぇってことだ」

「うっそ」

「気ぃ抜くなよ。見つけたら……解ってるな?」

「見られたって決まったわけじゃ」

「シッ。誰かいる」

 みじろぎしたつもりはなかったが、期せずして砂利を踏みしめてしまった。

 おそろしいくらいの静寂が辺りを満たした。風の音すらない。山に夕陽が消えていく。伸びた山の影が野原を覆うが、そらは朱色に輝いており、暗がりがやってくるまでにはまだ幾分かの猶予がある。

 少年が動いた気配はない。じっと息を潜め、何者かが飛び出てきやしないかと、こちらの機微を窺っている。

 そう、少年は明確にこちら側に意識を配っている。

 廃車を挟んだ、こちら側に。

 ピンと張りつめた緊張の糸が臨界点に達し、どちらからと言わずしていよいよ動きだそうとしたそのとき、

「ばあ!」

 廃車のうえに飛びだした影があった。

「じゃじゃーん。うちでしたー。あは。びっくりした?」

 それはペットボトル大の人形だった。少女型のドールだと判る。からくりを思わせない動きで、ボンネットのうえを飛び跳ねる。カポカポと軽快な足音を鳴らす。

「あ、怒った?」人形はスカートをヒラヒラとパラシュートのように広げ、少年に飛び移った。

「んだよ、シリコか」

「その呼び方やめてってば」

 少女型のドールと会話をしているのはそれもまた人形なのだろう。見たわけではないが、声の位置から二つとも少年の肩に乗っているようだと判る。

「お姉さんは?」少年はすでにこちらから意識を外している。

「ミーちゃん? さっきまでそこにいたんだけど」

「やっほー」抑揚のない声が後方斜めうしろのほうから聞こえてくる。女性のようだ。かかとの高い靴を履いている。ススキを掻き分け、こちらのすぐ脇を通り、少年たちのもとに合流した。「あんまし勝手に行動したらダメだよ。危ないでしょ」

「でも、吉蔵が」「ひとのせいにすんなよ」「だって本当のことだもん」

「喧嘩両成敗。自分の足でここまで来たんなら坊にも責任があるよ」

 場を諌めるような口吻に、どうやら主導権はこの女性が握っているようだと判る。

「オジジが招集かけてる。いったん戻るよ」

 彼女たちはしゃべりながら廃車を迂回し、こちらのすぐそばを通って、この場から去っていった。

 辺りが暗がりにまみれるまでぼくはじっとしていた。月明かりがススキの影を浮かべはじめたころ、ようやく立ち上がり、サキのマンションへと踵を返した。

 

「へぇ。何者なんだろうね、そいつら」

 サキにきょうあったことを話した。ドルーチェの仲間らしき者たちを見かけ、さらに彼らが組織的に動いているという見解を語って聞かせた。サキはまず、ぼくがかってに行動し、抜け駆けをしたことを責め、「あとでお仕置きだからね」と眼光を炯炯とさせてから、彼らがいったい何者なのか、といった疑問を呈した。「ドール遣いなのかなぁ。ほら、魔法使いみたいな感じでさ」

「さあ。ただ、ドールを使役しているという感じではなかった」

 対等な立場を彼らは築いていたように思う。

 想像してはいたが、実際に目のまえで人形が自在に動き回っている姿は、思いのほかふしぎな感じがした。非現実感はなく、やはりそういうことがあり得るのかといったある種の安堵にも似た感応を抱いた。

 サディとムイは相変わらず反応がない。サキとの話しあいの結果、ドルーチェはドール遣いたちにバラバラにされたという見解で一致した。

 ぼくたちにすべきことはなかった。偶然拾った「人形の手」ごときに危険を冒すのは愚かな所業である。ぼくにしたって、動かなくなったとはいえ、ムイが手元に残るならばそれをよしとするにやぶさかではない。むしろこの状況は享受すべき僥倖のように思えた。

 しかしサキは納得しなかった。

「えぇぇ。助けてあげようよ。かわいそうじゃん」

「かわいそう? ドルーチェが? 人形なのに?」

「でも生きてるでしょ」

「動いているだけだよ」

「意思あったでしょ。文字書いてたもん」

「人工知能が搭載された最新式の人形だったのかもしれない。機械はどれだけ進化しても生きてはいないよ」

「それは嘘だね」サキは儼乎とした口調で言った。「わたしたちだって有機的な機械と考えれば、人工知能に自我が芽生えてもふしぎじゃない。もし機械に自我が芽生えないというのなら、わたしたちのこの意識だって、単なる電気信号の総体でしかないってことになる」

 ぼくは面食らった。なんだ、そういう話もできるのか。多少彼女を見くびっていたかもしれない。

「そのとおりだ。見直したよ」ぼくはしょうじきに打ち明けた。

「そうでしょ、そうでしょ? わたしのことバカにしたらダメなんだから」

 機嫌をよくしたサキはもう、ドルーチェを救いだそうという話題を口にしなかった。忘れてしまったのだろう。ぼくは付け直したサキへの評価を元に戻した。

 ふたたびサキがドルーチェを助けてあげよう、と言いだしたのはそれから数日後、ぼくがいそいそと荷物の整理をはじめたときのことだった。

「ねぇ。なんとかしてあげようよ。まだ間にあうって」

「間にあうってなにが?」

「え? だから、ほら」サキは言葉を詰まらせ、考えを巡らせるように目を泳がせた。勢いに任せてしゃべっているだけで、彼女は本気でドルーチェを救いたいわけではない。本懐を隠すつもりはあるのだろうが、その真意がぼくに伝わってもよいと彼女は思っている。

「きみはただ、ぼくがここから出ていくのではないか、と疑い、それを阻止したいからそんなことを言っているだけだ」

「ちがうよ」サキは反射的とも呼べる速さで言い返した。ぼくがまっすぐに見つめると顔を逸らし、「それもあるけど」と白状する。「だって、せっかくトモダチになったのに放っておくなんてひどいじゃん」

「安心していいよ。ぼくはまだしばらくここにいる。もうすこしお世話になります」

 姿勢をただし、頭を下げると、

「いつまでだって居ていいのに」サキは機嫌をよくした。しかしこんどは誤魔化されなかったようで、「だから、それもあるけど、ちがうんだってば」と話の軌道を元に戻した。「ドルーチェ、本気で困ってた。困ってる人がいたら助けてあげる。それってダメなこと?」

 ドルーチェは人ではない、という反論が喉元まで出かかったが、呑みこんだ。「ダメじゃない。したければすればいい。ぼくは止めないよ」

「協力してくれないの」

「協力してほしいの?」

「だって一人じゃさみしいでしょ」

 ふざけているのか、真面目なのか、判断に困る。が、彼女がヘマをし、それが衆目の下に晒され、世間にドルーチェたちの存在が詳らかになるような事態はぼくとしても避けなければならない。政府にムイを献上しなければならなくなる未来が容易に想像つく。

「どうしてもって言うのなら手伝うけど」

「うわ、なまいき」

「どうするつもりなんですか」と言いなおす。

「さあてね。どうしよっか?」

 かんぜんにこちらを当てにしているようだ。それもそうだろう。彼女にしてみればぼくと行動を共にすることがもっとも大きな目的なのだから。

 さて、どうしたものか。

 まずは相手の正体を突き止めなければならない。こちらの存在を気取られずに弱みを握ることができれば文句なしだ。

 てっとりばやくネット上で呼びかけるというのはどうだろう。日時を指定し、そこで待っているという旨を記載しておけばよほどの暇人でないかぎり、ドール遣いたち以外は集まらないはずだ。翻って言えば、彼らは常にアンテナを張っていると考えてよいだろう。そうした前提で行動すべきだ。

 ドルーチェに関する情報を彼らは収集している。

 廃校跡地にいた彼らの会話から察するに、本来あの場には足を運んではいけなかったのだろう。手がかりを求め、業を煮やした少年が独断専行でやってきたといった様子だった。

 よほどドルーチェに執着しているとみえる。インターネットで検索するくらいの作業は日夜行っているはずだ。

 ネットの痕跡からこちらの居場所を割りだされるのは避けたい。インターネットカフェのメディア端末からメッセージを発信しようと考える。場所もこの街から離れたところが望ましい。

 ネット上に書き込むキーワードは「ちいさな手足」でいいだろう。敢えて「手」とは限定しない。日時と場所を指定するが、それはいまからひと月後だ。こちらのメッセージに相手がすぐに気づいてくれるとも限らない。猶予を持たせておく。

 サキがついてくると言ってきかず、反対するのも面倒なので同行させた。県外まで電車で移動し、適当な駅で降り、ネットカフェを探す。

「ラブホ行こうよラブホ。あっちにも端末くらいあるって」

 いったい何のためにはるばる隣の県まで来たと思っているのだろう。仮に足がついたとき、ホテルでは監視カメラの映像が一定の期間保管されるし、客も不特定多数と言うには限定的すぎる。だいたいにおいて、ホテルに入ったということはこちらが最低でも二人以上、しかも男女の組みあわせで行動していると相手に知らせることになる。大概のラボホテルは同性間、とくに男同士での利用を禁止している。こちらの情報はどんな些細な事項でも露呈してはならない。突破口を与えた瞬間、勝敗は自ずと決すると肝に銘じておくべきだ。

「サキはぼくの足をひっぱる気なの?」

「そんなことないよ」

「ぼくはぼくの邪魔するものが嫌いだ」

「知ってるよ」

「嫌いなものをじぶんのそばに置いておくほどぼくは寛容じゃない」

「うん」

「ネットカフェはどこだろう」

「ちょっと待ってね」サキはメディア端末を取りだし、地図を起動させた。「あっちにあるよ。あ、こっちにも」

 従順な犬を演じるサキに案内されるようにし、ぼくはその日、ネットカフェで目的を遂げ、従順な犬にご褒美を与えるべくホテルにも寄った。

 サキにとってぼくを繋ぎとめておくための小細工は飽くまで表向き鎖のカタチを成していてはいけない。反応を示さなくなったサディに優位性はなく、筆談の行えないサディをいつまでもムイの代わりにしておくことはぼくの反発を招くだけだといち早く察知したようで、サキはムイを返してくれた。

 サディを握り潰すことで満足した覚えはなく、それゆえぼくはふたたび手にしたムイの特異性、言い換えればぼくにとっての特別性を再認識した。

 ムイではなければならない。ほかの部位、ほかの代替物ではぼくは満足しないようである。

 しょうじきサキのドルーチェへの執着は面倒であり、掘り下げて言えば彼女のぼくへの愛着は邪魔である以上に害でしかない。早急にサキを生活圏から切り離すべきだと考えているじぶんがおり、同時に彼女には彼女なりに愛嬌があるように感じはじめているじぶんもいる。利用価値があると言えば端的だ。やはり生活を共にしていると情が移るものなのかもしれない。情とはすなわち個を個として形成するために必要な要素と化すという意味であり、サキがぼくにとって手放しがたい必需品となりつつあるというけったい極まりない事態を示唆している。

 財布として見做していようと、その財布に依存しはじめてしまえば、それを手放すことは容易ではなくなる。やがて使っていた立場から、使わせてもらっている立場へと転落する。おそらくサキは半ば自覚的にその機が熟すのを待っているのだろう。やはり早急にサキを生活圏から切り離すべきだと考える。

 ひと月のあいだぼくのすることはサキの監視に終始した。彼女が独断専行で行動しないように見張ることがぼくのすべきことであり、ほかにやるべきことはなく、やるべきではないとさえ思えた。彼女に尽くすのも、彼女を利用するのも、彼女に媚びるのも、彼女のご機嫌をとることさえぼくはすべきではなく、極力排するように心がけた。サキは何かを感じ取ったようで、初めこそ機嫌を損ねたが、事態が悪化するのを恐れるようにぼくを刺激するような言動を控えた。

「ねぇ、どうしてわたしの番号登録してくれてないの」

 風呂からあがると、サキはぼくのメディア端末を手に、眉間のあいだにシワを寄せていた。ぼくが彼女の番号および名前を登録していないことが気に障ったらしい。

「言いたいことが三つある。一つ、ぼくは誰の番号も登録していない。二つ、ぼくはきみを特別扱いしない。そして最後に」ぼくはそこで含みある間を持たせ、言った。「ひとの持ち物をかってに漁る人間をぼくは透明人間だと思うことにしている」

「ごめんなさい。怒んないで」サキはそそくさとメディア端末から手を離し、「あ、怒ってもいいんだけど、無視はヤダ、しないで」

 捨てられた子猫みたいにうなだれた。「ちゃんとわたし、お利口さんにするから。してるから。ごめんなさい」

 壁には今朝方マチ針で張りつけておいたムイがある。そこからマチ針を一本引き抜き、黙って彼女の小指の爪の生え際に突き刺した。サキは歯を食いしばったが、翌日ぼくがそれを引き抜くまで、小指からマチ針を生やしたままでいた。




  

第二章【人形の声は「信じろ」と吠え】



 ネット上に記載した期日がやってきた。ぼくは指定した場所へ約束の時刻の三時間前に向かった。ムイはマンションに置き去りだ。万が一にでも失くしたり、奪われたりしたらたいへんだ。

 サキは出勤日なので同行できない。指定した時刻が勤務時間帯と重なっているためで、職場を抜けだしてくるなんて真似もしないはずだ。サキがその事実に気づいたのは三日前のことで、そのときにはすでに休めない予定が職場で入れられていたらしく、

「はかったな!」

 これまで呑みこんでいた鬱憤を晴らすかのごとくこちらに罵詈雑言を浴びせ、悔しがった。

 人通りの多い駅前を選んだ。待ち合わせの定番の場所で、著名な彫刻家がつくったらしい巨大なペットボトルを模した銅像が建っている。

 昼下がり、学校帰りの学生たちが銅像の周りにはたむろしており、制服姿の男女や私服姿の大学生らしき若者たちが目立っている。彼らのなかにドール遣いがいるのだろうか。指定した時刻の五分前に現れたのはしかしいずれでもない初老の男だった。

 あいつだ、と直感した。

 駅ビルの喫茶店に入り、ぼくは広場を見下ろしている。メディア端末に市販の望遠レンズを装着し、何食わぬ顔で画面を覗きながら、現れた男を観察する。

 ネットの書き込みが真実に「生きた人形」を示しているかどうかといったところをぼくは曖昧に濁して記した。彼らにしてみれば藁をも掴む思いで足を運んだにちがいない。誰も来なければ、勘違いの一言で片づけるはずだ。

 男の仲間がどこからか目を光らせているかもしれない。ぼくは自然体を意識した。

 指定した時刻から三十分ほどが経過し、やがて男は銅像のまえから動いた。広場を去っていく。

 ぼくは充分に警戒し、周囲の目を気にしつつ何気ない調子を心がけて席を立った。

 いそぎ駅ビルを下り、広場から出ていく初老の男のあとを追う。

 初老の男は駅前を離れ、徒歩で繁華街を抜けていく。二重尾行の可能性を考慮し、ぼくはビルを挟んだ一つ横の道路から先回りする感覚で彼のあとを追った。四つ目の信号機を渡ったところで男の姿を見失った。先回りしているのだから、姿を現さないということは男がこちらに来るまでのあいだにどこかへ寄ったと考えられる。ぼくは男の歩いていた道をさかのぼるように進んだ。

 見失うまでの時間は短かった。おおよそ三十メートル圏内の建物に立ち入ったと考えていいだろう。広場から直接駅に入らなかったことから、地下鉄に下りたとは考えにくい。

 きょうのところはこのまま通り過ぎ、後日長期的な見張りを念頭にして出直そう。

 考えをまとめ、そのまま駅前のほうへ歩を進めようと緊張の糸を解きかけたとき、目のまえを一組の男女に遮られた。とっさに歩を止めたところで、背後から肩を掴まれる。

「兄ちゃん、ちょいと話を聞かせてもらおうか」

 うなじに落とされただみ声に、さきほど見失った初老の男の姿がよみがえる。

「なんなんですか、あなたたちは」

 毅然とした態度を心がけたが、裏目に出たかもしれない。目のまえの男女はこちらへ奇異な眼差しをそそぎ、迂回するようにこの場を去っていく。

「どうしておれに仲間がいると思った? あん?」

 どうやら男女はただの通行人だったようだ。男の指が肩に食いこむ。

 押しこまれるようにぼくは地下駐車場へつづく階段へ連れていかれる。


「立場をはっきりさせておこう。おれはおまえを、おまえの親族友人学友同僚、おまえの関わってきたあらゆる人間たちへ不幸をまき散らすことになんら心を痛めない男だ。おまえがただ一言しょうじきに【知っている】と答えてくれりゃおれはおれの使える破滅の呪文を唱えずに済む」

 肩に食いこんだ男の手が離れる。ろくろを回すようなぞんざいな所作で半回転させられ、ぼくは男と対峙する。目元のホクロにまず目がいった。

「で、おまえさん。リンネはどこだ」

 ひび割れた仮面を思わせる顔つきだ。彫刻で掘られたような深い皺が縦横無尽に走っている。

「リンネで通じねぇか? 人形だよ、人形。小人みてぇにかってに動く、ふしぎドール。おまえ、知ってんだろ」

「この国は法治国家だって知っていますか。脅迫や拉致は裁かれるに値する立派な犯罪なんですよ」

「犯罪なのに立派ってか? アホかてめぇ」正論を唱えただけで、どつかれた。駐車場の奥へとさらに歩かせられる。「白ァ切りてぇようだが無駄だぞ。おめぇがおれたち探ってんのは知ってんだ」

 いったい何を知られているのだろう。どこまでなら偽ってもよいものかとぼくは頭のなかで線引きする。なかなかにむつかしい作業だ。

「乗れ」

 男はぼくを白いワゴン車に押しこんだ。男も乗りこんでくる。運転席ではなく後部座席、ぼくのとなりだ。扉が閉まり、静けさが車内に満ちる。

「暴れるなよ」

 梱包用の縄で腕と足を縛られる。プラスチック製のそれは、ぼくの力では引きちぎることのできない強度がある。サキのマンションへ荷物を運ぶときに同じものを使った。これで人を縛ったらどうなるだろうかと興味があり、試しにサキに縛ってもらったが、ミノムシ状態になったぼくがその後サキにどうされたかは思いだすだけでもげんなりする。擦った里芋を局部に塗りたくられた人間の気持ちをぼくは理解した。かぶれた局部を掻けない苦しさと、ありったけの矜持をへし折られたうえで掻いてくださいと懇願する人間の心理は、じっさいにそれを経験した人間でないと想像できないだろう。死にたくないけど殺してくれとのた打ち回る心理に似た構造にあるように思う。

 辟易しているうちに男はぼくの自由をかんぜんに奪った。タバコを取りだし、なぜか車を降りる。車内は禁煙であるらしく、そとで煙をくゆらせはじめる。片手でメディア端末を操作し、電話をかけている。うまく聞き取れないが、かろうじて相手にこの状況を伝えているのだと判った。

 通話を終え、男が車内に戻ってくる。ぼくはアイマスクを被せられ、視界を塞がれた。運転席に移動したのか、男の声は前方から聞こえてくる。

「移動する。拷問がどういうもんか知りてぇみてぇだからな。命乞いの仕方でも考えとけ」

 車内が揺れ、車がしずかに走りだす。

 

「人違いじゃねぇだろうなぁ」

 自分で連れて来ておきながら男は言った。周囲にほかの人間の息遣いがある。ぼくはまだ目隠しをされておりじぶんがどこに立っているのかも覚束ない。

「ああ、そいつだ、そいつ。ノコノコと出てきたってわけか」

 聞き覚えのある声だ。野太く、渋い声。ぼくはふと生意気な人形を思いだした。少年と行動を共にしていたドールだ。

「な、言っただろ」生意気ドールが吐き捨てる。「やっぱりコイツ、関係あったんだ」

「関係ないとは言ってない」女性の声が応じた。「ただ、うちらの姿を見られてたかもしれない以上、慎重に行動したほうがいいと言っただけで」

「そうよ、そうよ」こんどは別の甲高い声がつづく。学校跡地で見かけたお姉さんと、その連れのドールといったところだろう。あの場にいたメンバーがここにいるようだ。少年の声はない。

「坊は?」男が言った。

「学校」お姉さんが応じる。「なんか委員会なんだってさ」

「生き物係だとよ」生意気ドールが補足する。

「これだからガキは」男が笑う。さほど嫌そうというほどでもない。「まぁ、きょうばかりはいないほうがよかったかもな」

「本当にやるの」お姉さんの声が尖る。「べつにふつうに訊ねれば教えてくれるんじゃ」

「教えてくれなかったからこそこうして連れてきたんだ」

 教えなかったわけではない。ぼくが何かを言う前に拘束し、有無を言わさず拉致したのは彼である。不当な扱いを訴えるべきではないかと思ったが、今は黙っておく。状況を把握するのが先決だ。雲行きは怪しいが、この場の全員が話の通じないコンコンチキだとは限らないようだ。

「ねぇ、きみ」とお姉さんの声が近づく。「このあいだ更地にいたわよね。私たち、あなたがあそこから出てくるのを見たの。偶然居合わせただけとも考えられるんだけど、実際どうなの?」

 どうやら廃校跡地から出ていくところを目撃されていたらしい。時間を空けたつもりだったが、別の場所から出るくらいしないとダメだったようだ。白を切りとおすこともできたが、ぼくはまず彼女からの信用を得るために嘘を吐くことをやめた。

「ぼく、探してたんです。へんな生き物を拾ってしまって、それが何か知りたくって」

「へんな生き物って?」

「新種のクモみたいな、ちいさな手みたいな」

「それ、どこで見つけたの」

「あの近辺です」廃校跡地周辺だと主張する。「拾った場所へ行けば何かあるのかなと思って。そしたら森から人が現れて、びっくりして、それで」

「隠れたんだ?」

「はい」

「なるほど」お姉さんはそこで黙した。

 嘘は吐いていない。ただ、こちらの発言を歪曲して解釈するのは彼女たちの勝手だ。

「彼、何も知らないみたいね」

「そんなわけねぇだろうが。だったらあの書き込みはなんだってんだよ」

「更地でこのコたちを見て、気づいたんでしょ」お姉さんはどうやら人形たちを示しているようだ。声量の変化から、お姉さんがどこを向いているのかが判る。「拾った手がドールのものだって気づいて、だから情報を集めようとした」

 でしょ、と声がこちらを向いたのでぼくは頷く。

「信用できねぇな」男が言った。「だいたい、その拾った手ってのはどこにあんだよ。持ってんのか」

「置いてきちゃいました」とぼくは言う。

「おまえ、拾ったの本当に手だけか」

「はい」

「どっかに届け出ようとは思わなかったのか」質問攻めに遭う。「だいたい、気持ちわりぃだろうが。なんだって未熟児の手みてぇなもんを拾うんだよ」

「クモだと思ったんです。新種の」

「なら余計に拾わねぇだろうが。毒蜘蛛だったらどうすんだよ」

「ぼく、生き物が好きで、とくに鋏角亜門には目がなくって」

「あ? キョウカク? なんだそれ」

「クモの分類です。生物学的に蜘蛛は節足動物で、そのなかでも鋏角亜門に属する動物なんです」

「はぁ、へえ。おまえ、ちょっと変わってんな」

 男はそこでぼくに対する認識を改めたようだ。不信感は消えていないが、声の変質具合から、こちらへの敵意が薄くなったのを感じた。足を運んだ更地で偶然見つけた蜘蛛じみた生き物を捕まえ、飼おうとした男として不自然ではないように映ったのかもしれない。

「とりあえず、彼の捕まえたっていう【手】を確保しに行きましょう」お姉さんが提案する。「それが先決だと思う」

 異論はあがらない。

 住所を訊かれたが、サキのマンションを言うわけにもいかず、引っ越す前に住んでいたアパートの住所を告げた。彼らはぼくに仲間がいないかと気にしているようだったが、メディア端末に誰一人登録されていないのを確認すると、友達のいない根暗な生物オタクとしての烙印を、ぼくがそう仕向ける前に押してくれた。

「わるかったな、乱暴にして」

 男は部屋を出ていくとき、ぼくの目隠しを外し、人懐っこい笑みを浮かべた。情にほだされる人種のようだ。ぼくは珍しい生き物を見た気分になった。

 生意気なドールも男に付いていった。部屋にはぼくと、質素な格好をしたお姉さん、そして少女型ドールが残された。

「自己紹介をしておきましょうか」お姉さんは言った。染めていない長髪をひっつめに結いながら、「私、空美田(そらみた)。みんなからはミーちゃんと呼ばれてるわ。そのコはシリコ」ミーさんはあごをしゃくり、机の端に座って頬杖をついているドールを示した。「本当は違う名前なんだけど、まぁ、愛称みたいなものね」

「シリコン製みたいだからだって。やんなっちゃう」ぼやくシリコだが、足をブランコのように律動よく揺らしている。

「さっきの強面のオヤジがオジジ。うちらもあの人のことはよく知らないのよ。むかし海外で古美術商をやってたとかなんとか聞いたけど、うさんくさいわよね。今は何をやってるのかもさっぱり。で、オジジといっしょに出てったドールが吉蔵」

 中世ヨーロッパのような服装に身を包ませ、頭にゴーグルを嵌めていた。ミーさんの説明によればスチームパンクと呼ばれるジャンルのファッションであるらしい。反して少女型ドールのシリコは、現代的なフリルのスカートに、仕立てのよさそうな皮のジャケットを羽織っている。

「そのコのは私の趣味」

 言いながらミーさんはぼくの拘束を外した。「助けるのはこれで二度目だよ」

 なんで、といった顔をしていたからか、ミーさんは、

「更地でもきみのこと、匿ってあげたんだけど」

 眉間にシワを寄せ、上手くいかなかったね、と口元を緩めた。

 なぜかあたまのなかに天秤が浮かんだ。サキとミーさんがそれぞれ両端の皿に載り、ミーさんのほうへ勢いよく傾き、反動でサキが夜空へと舞いあがり、頭から月に突っ込み、美しい花火を咲かせる様が思い描かれる。

「くわしい説明はあとでするけど、まずは逃げて」ミーさんはぼくの背を押すようにした。扉まえまで歩かせ、「なるべくそとは出歩かないで」と言った。「オジジたちが網を張ってる。夜なら多少はだいじょうぶだから」

 どうせさっきの住所もデタラメなんでしょ、と雑誌の切り抜きを手渡してくる。「一週間後。午後九時にその店で」

 あなたはだいじょうぶなんですか、こんな真似をして。

 ぼくが問う前に扉は閉じられた。

 

 駅前のほうへは向かわず、徒歩でサキのマンションまで戻った。

 残り一キロといったところで自転車に乗ったサキと出くわした。

「遅かったね。どうしたの」

「ちょっとね」

「なんかいいことあった? なんかニヤけてるよ」

 強引に自転車の荷台に乗り、ぼくは有無を言わさずペダルを漕ぐよう命じる。

 口ではそう言わなかったが、サキは心配でぼくを探しにきたのだろう。見立てどおりだ。仮にミーさんが助けてくれなかったら、こうして探しに来たサキがぼくをなんとかしてくれていたはずだ。メディア端末に登録してはいなかったものの、ぼくの端末はサキの端末とセットで買い与えられたものなので、機種探索機能を使えばぼくの現在地を把握するのに事欠くことはない。

「へぇ。じゃあ、そいつら敵じゃん」

 家に帰り、すでに用意されていたミートソースパスタをすすりながらぼくはきょう体験したことをサキに話して聞かせた。

「彼らはドルーチェを探してた。バラバラにしたのも彼らだろう。廃校跡地にいたのだからそういうことになる」

「でも、嘘の住所教えたんだよね? じゃあなんできみ、無事なわけ?」

「彼らの仲間に助けてもらった」それが女性だとは言わずにおく。

「ふうん。なんでそのひと助けてくれたんだろ」

「スパイなのかもしれない」

「ドルーチェの味方ってこと?」

「可能性としては」

「うーん。どうしよう。なんか思ってたよりも物騒な連中かも」

 まっとうな輩だと思っていたのか。楽観的という言葉がある。サキのためにある言葉だ。

「動く人形を使役するような連中だ。ふつうの神経じゃない」

「きみ、なんかきょうは一段と偉そうだね。ピンチから脱して興奮気味なのは解るけど」

 胸の裡を見透かすような眼差しを向けられる。雌に特有の嗅覚のよさを感じた。

「探しにきてくれてありがとう。うれしかった」ぼくはフォークを駆使し、残りのパスタを片づける。「ご飯も美味しくてぼくはなんてしあわせ者だろう」

「言葉だけのお礼でうれしがるのは尻の青い娘だけだよ。サキさんは態度で示してもらわないと」

 机の下を通すように足を伸ばしサキは、足の指でぼくの内腿をなぞるようにした。

 

 サキにはムイとサディを手放す気がないようだ。状況が理解できていないわけではないだろうが、

「危険が迫ってからでも捨てるのは遅くないでしょ」

 暢気な主張を真顔で言った。

 たしかにサキの主張にも一理ある。

 ドールの存在を知っているからといってこちらを無闇に殺したりはしないようだ、というのは実際にミーさんたちに会って確信した。いよいよとなったらムイとサディを譲り渡すだけで、こちらにさし迫った危険を払しょくできるだろうと思えた。が、それは現状からの分析でしかなく、今後、時間が経過すればするほど事態は悪化していくとみて対策を立てておくべきだろう。ドール遣いたちに温厚な手段を期待するのは賢くはない。

 ミーさんとの密会について、サキには黙っておいた。

 何か手段を講ずるにしても、暢気なサキを当てにするようでは先が見えている。まずは情報を仕入れ、そして可能であれば味方を増やしておくべきだろうと考えた。手駒同士が仲良くする必要はない。サキにはミーさんの存在を気取られないように注意しておく。

 ミーさんとの約束の日、ぼくは帰宅したサキと夕食を摂り、調べものをするといってマンションを出た。サキは眠たかったのか、録り溜めていた海外ドラマを消費しながらソファのうえで舟を漕いでいた。

「いってらっしゃい」

 かろうじてこちらの声は聞こえていたようで、とくに訝しむ様子なく送り出した。

 

 その喫茶店は中心街から三つ離れた駅の近くに民家に紛れるようにしてひっそりと建っていた。

 店内には客が数人おり、みな一人で席に座っている。ミーさんは奥のほうの席にいた。

「一人で来たの?」

 ぼくが席に着くと彼女は手を祈るように組み、そこにあごを乗せた。

「どういう意味ですか」

「きみ、仲間いるよね」

「手のことですか?」ムイのことかと反問する。むろん彼女の意図しているのはサキのことだが、ぼくは咄嗟にそら惚けることに成功した。

「いいね、その返答」ミーさんは見透かしたように微笑み、「見込みどおりってとこかな」とメニュー表を手に取る。店員を呼び、コーヒーと紅茶、それからチョコケーキを二つ注文した。

 すっかり注文し終わってから、

「あ、かってに頼んじゃったけどいいわよね」と確認してくる。

「なんでもかまいません」

「もちろん私のおごりだけど」

「ありがとうございます」

 しばらく無言がつづく。店員が注文の品を運んできて、さほどゆっくりしていってほしいというほどもでない言い方で、ごゆっくりどうぞ、と去っていった。

「どうして助けてくれたんですか」ぼくは口火を切る。なぜ彼女が仲間を裏切り、ぼくを助けてくれたのか。何か目的があるはずだ。

「まあ、うん」彼女はコーヒーに口を付けた。ちびりちびり啜りながら、「きみを助けたかったわけじゃないんだよね」と話しだす。「私は、ただリンネをどうにかしたいのよ」

「リンネ?」そういえばあの強面の男、彼女たちの言い方で言えばオジジだが、彼もそんな単語を使っていた。おそらくそれがドルーチェの本当の呼び名なのだろう。だがぼくは敢えて物分かりのわるい振りをする。「リンネとはなんですか」

「きみが拾ったちいさな手。それの持ち主」彼女はコーヒーのカップを置き、チョコケーキに手を伸ばす。据え置かれていたフォークを使わず、手掴みで豪快に頬張る。ハムスターのように頬を膨らませながら、「リンネはね」と深刻そうな顔つきでこう言った。「リンネは、私たちのドールにとっての命そのものなの」

 

 彼女から聞かされた話をまとめると、リンネとは人形に命を吹き込む精霊のような存在であるという。ミーさんたちは三体の人形を所持しており、一人一体ずつ所有しているそうだ。

「きょうは一緒じゃないんですか」ミーさんも少女型のドールを持っていたはずだ。

「いるよ。挨拶する?」彼女はポーチバッグを開き、中からペットボトル大の人形を覗かせた。「名前憶えてる?」

「いえ」憶えていたがそら惚けた。

 シリコ、とミーさんが呼びかけると人形は手を振った。店の中だからだろうか、ミーさんはそのままポーチバッグのチャックを閉じ、シリコを仕舞った。

「こういう言い方は好きじゃないんだけど」

 前置きしてからミーさんは言った。「このコたちは元々ただの人形なの。リンネが命を吹き込んでくれたから動いてるけど、もしリンネが【やーめた】って与えた命を取り上げちゃったらこのコたちはまた何の変哲もない、ただの人形に戻っちゃう」

「だからリンネを破壊したんですね。自分たちの人形を奪われたくなくて」

「最初はそうだった」ミーさんはそこで唇を噛みしめるようにした。「リンネも例外じゃないんだよね。人形は人間と対になる存在だからリンネにもそれを媒体とした人間がいたのよ」

 いた、という過去形の言い方が引っかかる。「それで?」

「もちろん彼は反対した。リンネはそんなことをしない、いちど与えた命をなぜ奪う必要があるのかって」

「もっともな意見に聞こえますけど」

「私たちだって本当はそんなことしたくなかったわよ」

「はぁ」

「でも、どう考えたって〝アレ〟は、〝アイツ〟は異常だった」

「アレっていうのは?」齟齬が生じては困るのでぼくは確認する。「リンネの存在がってことですか」

「そう。アレは存在しちゃいけない――目覚めさせちゃいけない人形だったのよ」

 陳腐な台詞をなんの臆面もなく口にできる女性というのは、割とぼくの好むところではあるのだが――サキは例外であるにせよ――いざ目の当たりにしてしまうと案外に当惑を禁じ得ない。

 リンネとはなんぞや、という話が深く展開される前にぼくはひとまず、確認しておきたいことを、なぜぼくの尾行がバレたのか、という点を尋ねる。看過しておくには大きすぎる問題だ。

「それは単純にきみの尾行が下手だったってだけで」

「誤魔化すのは構いませんけど、ぼくがここに本当に一人で来たとお思いですか。無事に帰りたかったら正直に話すべきです」

「ふうん。なかなかそそること言ってくれるわね」ミーさんは目を細めた。「お言葉だけどその言葉、そっくりそのままお返しするわ。私が一人で来るとでも? そもそも私はオジジたちを裏切ってなんかなくて、きみを信用させ、情報を聞きだすために一計を案じているとは思わないの」

「そういう揺さぶりをかけてくる時点で、あなたが仲間を裏切っているのは自明というものです」

 言いながらぼくは、彼女の真意を見抜けないでいるじぶんに新鮮なきもちを抱く。わざと自分の企みを吐露してもふしぎではないと思わせる危うい雰囲気が、彼女にはある。合理的な判断をくだす場面で、通常ならば取らない選択をなんの逡巡もなく選び取ってしまうような人種であると感じられてならない。ただ、ぼくの直感からすれば彼女こそぼくにちかしい人間であり、その直感に従うならば、彼女はこの場面でひどく合理的な回答をする。

 つまり、こちらの揺さぶりに対し、同様の揺さぶりをし返してくると。言い換えれば、彼女はぼくのハッタリをハッタリと見抜いており、さらに自らもハッタリで返したのだと。

「どっちにしても私がすることに変わりはないわ」ミーさんは端然とした態度で、同時に鷹揚とした口調でこう言った。「変わるのはきみの選択だけ。私を信じ味方になるか、私を敵にし自滅するか」

 さあ、どっち。

 問われるまでもない。ぼくは彼女の味方となり、彼女をぼくの駒とする。

 説明されてしまえばどうということもなく、ミーさんたちはIPアドレスからコメントの発信元を探り、該当した端末からアクセスしたと思しき人物を監視映像から割りだしたのだという。正確には、膨大な監視映像から犯人の映像など割り出せるはずもなく、念のためにと確認してみたところ、ネットカフェから盗み得た映像には見覚えのある青年が映っており、それがぼくであったというだけの話である。廃校跡地で彼女たちはぼくの姿を確認している。監視カメラの映像は大方ドールたちにでも盗ませたのだろう。

 サキも一緒に映っていたようで、ぼくに仲間がいたと疑われていてもおかしくはない。実際ミーさんたちはそう考えていたようだ。

「仲間が奪い返しにきたってことにしといたから。オジジ、きみたちのこと血眼になって探してるわ」

 どうやら彼女、自分の裏切り行為をサキになすりつけたらしい。

「教えてくれればサキにも忠告できたのに」

「名前言っちゃってるけど、いいの?」ミーさんは涼しげな調子で揚げ足をとる。「サキちゃんって言うんだ、きみの仲間。でも、その程度の関心しかないならべつに彼女がどうなろうときみは痛くも痒くもないんでしょ」

 そのとおりだったが、現状サキに捕まられるのはぼくとしても避けたい展開だ。だからぼくはそう言った。「今彼女が捕まるのはぼくとしても困りものです」

「それは私も同感かな。手足、きみは持ってきてないんでしょ」

「ええ」

 返事をしながらぼくは、ミーさんはまだぼくらがいったいどのパーツを持っているのかを知らないのだろうと思った。オジジ一同、ぼくの発言を根っこから疑ってかかっているようだ。

「こんど会うときに持ってきて。希望的観測にすぎないけど、きみの相棒が捕まることは当分ないと思うから。監視カメラの映像、画質わるかったし」

「でもぼくは見つかっちゃいましたよ」尾行を気づかれた旨を指摘する。

「きみの場合は画像から割り当てたんじゃないもの。飛んで火に入るなんとやらね。向こうからやってこないことにはこちらは手も足もでない。画像からきみの相棒――サキちゃんだっけ? 彼女を特定するのはムリだと思うわ」

 識別はできるが探索はできないといったところか。ぼくは首肯し、

「これからどうしますか」と尋ねる。暗に、あなたたちのことを教えてくださいと迫る。

「リンネの身体を集める」

 ミーさんは指についたチョコクリームを舐めとりながら、

「オジジたちに気づかれないように」と言った。

 

 マンションに戻ると玄関口でサキが仁王立ちしていた。

「どこ行ってたの」

 手にはメディア端末が握られている。電源を切っていたので、なるほど連絡がつかなくて機嫌を損ねているわけか、と察する。

「言ったよね。調べ物をしにネットカフェだよ」

「そとを出歩いたら捕まるんじゃなかったの?」

「夜なら心配ないと言われている」これは本当だ。

「ふうん」

 納得しかねるに余念がない様子でサキはうでを組んだまま、こちらを見下ろすようにした。「で? なにを調べてきたの」

「動くドールについての情報を収集しにね」ぼくは靴を脱ぎ、寝室へ向かう。

「ふうん。で、どうだった」うしろからサキが付いてくる。

「何が」

「成果」

「うん」ぼくは寝間着に着替えながら、「まったく参考にならなかった」と言った。「怪談じみた話ばかりヒットして、学術的な記録はいっさいなかった。いや、どこかにはあるのかもしれないけど、あまりに情報が多すぎる。虱潰しにチェックしていくには時間がかかる」

「ふうん。で? これからちょくちょく出かけるようになりますって、そういうわけだ?」

「まあ、うん」

「なんか、きみ。帰ってきてから口調がすこし淡泊だけど、何か心境の変化でもあったんじゃない」

「元からぼくはこんな話し方だよ」

「あ、直った」

 やれやれ。ぼくは彼女に向きなおり、彼女の肩を掴み、それから彼女をベッドに押し倒す。

「現状、ぼくの味方はサキ、きみだけだ。このさきも、ぼくの理解者はきみだけだと思ってる」

「そんなセリフ、きみは言わない」

「そう、ぼくはこんなセリフをきみ以外にはけっして言わない」

「無駄だよ。わたし、そんなんに騙されないんだから」

「だいじょうぶ。きみがぼくをそうして疑いつづけるかぎり、ぼくはきみを裏切ったりしないから」

 八の字に寄った眉がようやく弛緩し、

「いっつも言ってるよね」

 サキはぼくの耳に舌をねじ込むようにした。「言葉じゃなくて態度で示してもらわなきゃイヤだって」

 ベッドのうえで漏れるサキの苦しそうな吐息を煩わしく思いながらぼくは、喫茶店のなかで交わしたミーさんとの会話、リンネと彼女たちにまつわる話を思いだしている。

 事の発端は一人の青年がインターネットオークションで、とあるドールを購入したところからはじまる。彼は大学を中退したばかりの不正規雇用労働者でしかなかったが、実家住まいの一人身としては金の使いどころを悩むくらいには懐に余裕があった。どうして散財してやろうかと悩んでいるあいだに二年が経ち、使用可能な金額が新車を一台買えるまでに膨れあがっていた。彼はそこで何を考えたのか、たいして嗜好していなかったドールに目を留めた。なぜそこで彼がドールに興味を抱いたのかについてはミーさんほか、その後彼の同志となる面々にもついぞ分からずじまいであったそうだが、いずれにせよ、彼がインターネットを駆使して掘りだし、引き当てたさきに待ち構えていたのが、アンティークドールの「リンネ」であった。

「青月くんはそうとは言わなかったけど、私たちには判った。リンネは自分自身の意思で自らをオークションに出品し、そして手足となる媒体を探してたんだって」

 ミーさんの言うところの青月くんというのがだから、ぼくらの言うところのドルーチェを手にした青年で、リンネの所持者だった。

 そう。

 だったのだ。

 これは過去形で語られるべき物語であり、青月なる青年はもはやリンネの所有者ではなく、ましてや言葉を交わすこともできない。

「青月くんは死んだ。リンネのやつがそう仕向けたのよ」

 私には解る。

 ミーさんはつよく唇を噛みしめるようにし、さらに語った。

 遡ることふた月前。ぼくがまだサキと出会っておらず、バイトに明け暮れていた時期。青月青年はリンネと共に郊外を逃げ回っていた。

「リンネを処分しようとした私たちの動きがバレたのよ。青月くんに知られないように動いていたはずが、なぜだかリンネに気取られたみたいでね」

 ミーさんの口調からはリンネへの憎悪も、青月青年への敵愾心も感じられない。防衛手段だったのだろう。自分たちのドールを奪われたくない。ただそれだけを祈って強行に打ってでた。ならばリンネにしたって防衛手段に走るのは正当な行為である。非難しようもない。

「誤解してほしくないんだけど、私たちは何も青月くんに危害を加えるつもりはなかったの。私たちはそもそもドール愛好家の集まりでね。それも、おおっぴらには愛好家だと打ち明けられないでいる卑屈な人間の集まりでしかなくて。言ってしまえば私たちは仲間だった。ゆいいつじぶんのたいせつな場所を曝け出せる、傷をなめ合える、そんな仲間だったのよ」

 信頼関係ではない。そこにあるのは共依存だ。互いに社会から断絶した空間をつくりだす壁となり合うことで、長年張りつけつづけてきた仮面を脱ぐことのできる憩いの場を形成し、提供しあうという共同体。それが彼らの口にする「仲間」の意味だ。欠ければ補えばいい。利用しあうことでしか絆を繋ぎとめられない欠陥者の集まりだ。

「何度か青月くんを追い詰めてリンネを手渡すように説得したの。青月くんは最後までリンネはそんなことしないの一点張りだった。でもリンネは明らかに私たちを利用し、私たちのたいせつなドールから生気を奪っていた」

「生気?」

「ドールは単独では活動できないの。エネルギー保存の法則ってあるでしょ。無から有は生まれないってやつ。彼ら未知の生命体にもその法則は有効みたいでね。必ず対となる人間が必要なのよ」

 動力源となるエネルギーの補給がこのコたちにも必要ってこと。

 言ってミーさんはポーチバッグを撫でるようにした。中にはドールであるシリコが隠れている。

「ミーさんは本当に彼らが生きていると?」

「そうじゃなきゃ説明できないでしょ。生きていないなら、じゃあ何なの?」

 動き、しゃべり、思考する。生物か否かはべつとして、彼らドールは生きている。生命体であることは疑いようがない。が、敢えてぼくは、「ロボットかもしれません」と口にしている。「超高性能の。どこかの企業が秘密裏に開発した」

「ざんねんだけどこのコたちにそういったカラクリはないのよね」

 さほど残念というほどでもない言い方でミーさんは、「私たちの仲間に少年がいたでしょ」と言った。「あなたが廃校跡地で見かけたコ。あのコのドール――吉蔵って言うんだけど、それを坊がいちど解体しちゃってね」

 将来有望だ、とぼくは思った。

「ドールの中身は、それこそほかの動かないドールたちと同様に空っぽだった。空洞だったんだって。身体を動かす機構なんて組み込まれていなかったのよ」

 もちろんこのコの中にもね。

 ミーさんはもういちど、我が子を撫でるような愛しみに溢れた手つきでポーチバックを撫でた。

 ムイを含め、動くドールたちが未知の生命体であるというのは、これまでのぼくの認識とさほど変わらない。特筆して有益な情報ではなく、それよりもなぜリンネがバラバラになったのか、その経緯を知りたかった。

「うん」一つ頷きミーさんは続けた。「私たち人間は親なの。子であるドールたちに生気を提供し、子であるドールたちは親である私たちに愛嬌を振りまく。契約は単純にそれだけで成立するし、逆に言うと、それをしないだけで契約は反故になる」

「どうやって人形たちは生気を奪うのですか」

「奪うという言い方は正しくないわね」

「ですがさきほど、リンネに生気を奪われるって」

「あ、そうじゃなくてね。私たちは契約しているドールに対しては無条件で生命エネルギーとでも言うのかな。それらを与えているらしくてね。リンネ曰く胎児と母体の関係で。でもそれは一方的な関係性ではなく、シリコたちと接することで私たちが得た感動やら愛情やら高揚やら、とにかくプラス向きの感情の高ぶり――言うなれば【魂の躍動】を取りこむらしいの。言ってしまえば、プラマイ〇の関係で。でも、リンネはその【魂の躍動】を、ほかのドールから――すなわち私たちから横取りしていたの」

「なぜ横取りされたと判ったんですか」

「みんな弱っていったからだよね」ミーさんはポーチバッグに手をやる。「このコたちが弱っていったの」

「弱って?」

「そ。原因不明。私たちはすぐにリンネに助けを求めた。でもアレはしらばっくれてばかりで。演技がうまいのよ。まるで私たちがアレを困らせているみたいで。青月くんはだんだんと私たちから距離を置くようになった」

 状況証拠というやつね。

 ミーさんは語った。

 弱っていく一方のシリコたちに対し、リンネだけが精力を漲らせ、そのちからを増幅させていった。当時、ミーさんたちのほかにもドール遣いはいたそうだ。彼ら同好会はリンネを崇める青月派とミーさんたちに別れたようだが、間もなく青月派のドールたちがこぞって活動を停止した。

「それまで動いていた人形たちが動かなくなったの。いわゆる【死】よね」

 ドールの死を目の当たりにしたミーさんたちは、そこで重大な事実に直面した。

「ドールと契約していた人間まで死ぬなんて、そんなことリンネは一言も言わなかった。そりゃそうよね。知っていたらそんな命を掴まれるような真似、誰もしやしないもの」

 私たちはみんなアレに騙されたのよ。

 人形と一心同体、運命共同体になることを強いられると知れば、たしかに多くの者は人形と契約することに尻込みするだろう。たとえそれが、お気に入りの人形に命を与えられる代償だとしても。

 ミーさんたちはすぐにリンネの腹蔵を見抜いたが、青月派は聞く耳を持たなかった。

「リンネは人間の弱みに付けこむのがうまいのよ。リンネを疑うどころかむしろ彼らは私たちのせいだと言ってこちらに牙を剥いた。いちどリンネに心を許したが最後、主導権を握られ、無自覚にリンネの手足にされてしまうの」

 なぜミーさんたちがリンネの手中に落ちなかったのか。尋ねると彼女は困ったふうに微笑み、

「私たちは疑り深いのよ」と自虐的に述べた。「生まれてきてこの方、誰も信用したことがない。卑屈な人間なの。だからかな。人形偏愛症なんてこじらせちゃうんだ」

 本当は誰かを信じてみたいんだけどね。

 つぶやいたミーさんの顔には艶っぽい陰が浮かんだ。

「人形に命を吹き込む以外に、リンネには何ができるんですか」

 ちからを増幅させたリンネには、その増幅させたちからで何か特別なことができたのではないか。ミーさんの口ぶりではリンネには、人形に命を吹き込むことのほかに何か別の能力が備わっているふうに聞こえた。

「リンネはね」

 そこでミーさんは含みのある間をつくり、コーヒーを一息に飲み干してからこう言った。

「アレは、命無きモノに寄生する」

 

 日中行動できないのはぼくとしても考えもので、だからサキのマンションを出ることにした。こちらの顔は割れているのだから一つどころに留まるのは利口ではない。理路整然とした言い方で移転する旨を伝えると、サキまで引っ越しの準備をはじめた。

「三日待って。三日でなんとかするから」

 マンションの契約がどうなっているのかは判然としないが、サキは有言実行し、四日目には業者のトラックに荷物を詰めこみ、馴染みの部屋をあとにした。

 サキがどこまで本気かは知らなかったが、ぼくはその三日間で不動産屋に通いつめ、二人で暮らせるだけの広さのあるアパートを見繕っていた。サキのマンションと比べたらよほどみすぼらしい外観と内装ではあるが、追われている身の人間が韜晦するには体のよい立地条件のアパートだった。

「荷物、入るかなぁ」

 アパートを目にしたサキの第一声はかようなものであり、不満げだったが、九畳一間の3LDKは、同居人の体温や息遣いを感じるにはうってつけの窮屈さがあり、いちど住みはじめてしまえば却ってサキはよろこんだ。

「仕事はどうしたんだ」

 前の街からは二十キロも離れている。通勤するには億劫な距離だ。

「辞めてきたからいいの」

 予想外の返答だったが、サキの性格からすればさもありなんだ。深く追求はしなかった。

 サキが再就職と称して家庭教師をはじめだすまでのあいだに、ぼくは二度ミーさんと逢った。

「あなたはこういうことに興味がない人かと思っていました」

「興味ないよ。どうでもいいと思ってるからかんたんにできるの」

 二度目に逢ったとき、ぼくらはどちらが言いだすともなくラブホテルへと赴き、身体を重ねた。

「ただ、どうでもいい割に、信頼関係を築くにはそれなりに有意義な行為であるとは思ってるの。だからかな。きみに信用してもらうために一肌脱いだってわけ」

「脱いだのは服ですけどね」我ながらつまらないことを口走ってしまったと思う。ミーさんはそんなぼくの心中を察してか、時間差で微笑んだ。

 基本的にぼくは、サキとの行為では受け身だ。弄ばれているとしか形容できない攻めに遭い、そこには一方的な愛の押しつけのみが横たわり、愛しあうという共同作業は介在し得ない。

 反してミーさんとの行為ではぼくが積極的に絡みついた。貪ったと言ってもいい。

「女性の性器はこうなっているんですね」ミーさんの太ももに手を置き、股を大きくこじ開ける。顔を突っ込み、指や舌を駆使してよくよく目を凝らすようにした。じぶんの手で女性器に触れるのも、明かりの下で女性器を見るのも初めての体験だ。サキは豪快な性分のくせして妙なところで恥ずかしがりで、ぼくにいじられることも、明かりを点けることも頑なに拒否した。

「見たことなかったの? 初めてじゃないんでしょ?」

 いつも暗かったので、と曖昧に答える。

「見ようと思えばネットにだって無修正の画像くらいいくらでも転がってるでしょうに」

「さして興味がなかったので」

「ああ」

 気抜けした調子でミーさんは唸った。「私はさ。行為自体にはさほどの愛着もないんだけど、男のコの性器はきらいじゃないのよね」

「意外ですね」

「ちょんぎったらどうなるんだろうって。口に含むたびにムズムズするよね」

 見た目にそぐわず嗜虐的な性癖をお持ちのようだ。女王様というよりもむしろミーさんは深窓の佳人といった雰囲気をまとっており、林のなかにひっそりと佇む図書館がお似合いだ。

「ひとは見た目によらないですね」

「見た目どおりだと思うけどな。似たような衝動、誰だって持ちあわせているものじゃない? それを人に見せるか見せないかの違いがあるだけで」

 そのとおりだと思う。

「きみだってほら」ミーさんはぼくの小人を口に含み、「嫌いじゃないみたい」と歯を立てるようにした。

 条件反射なのだろうか。すでに果てたあとだというのに、ふしぎとぼくのそれはムクムクと膨れた。

 

 密会三度目ともなるとミーさんから引き出せる情報は底を突いた。ミーさんにしてみても逢って話すことはとくにないと断じているようで、だからこそ身体での会話を求めたのだろうが、あいにくとぼくにとってその行為は信頼を結ぶような触媒にはなり得ず、むしろ往々にして相手を利用するための常套手段でしかないのだが、ふしぎとミーさんとのそれは心地よく、なぜかと考えたところ導きだされた答えにぼくは満足した。ミーさんはぼくを利用するために性交渉を迫り、同時にそれはミーさんにとってその行為がその程度の道具でしかなく、とりもなおさずその思想というのはぼくの所有している合理と合致しており、ゆえに行為を通して副次的な精神の共有をぼくらは――すくなくともぼくは果たしていた。相手を騙そうとするその手段により、誰よりも相手と心を通じさせる。ぼくたちにしかできない高等なコミュニケーションであり、図らずもそれは誰よりも世界との断絶を感じているぼくにとって、たしかなぬくもりを感じさせる聖母の抱擁に等しい安寧を感じさせた。

 ミーさんがそのことを意図していたとすれば、これはもう骨抜きにされても文句は挟めない。せめてその半分の知性でよいのでサキにも高等なコミュニケーションを期待したいところだが、無駄な祈りだと切り捨てるにやぶさかではなく、ぼくはいささかの逡巡も挟まない。

 朝食を食べ終え、図書館に足を運ぶ。

 引っ越しを期に日中の行動を制限しなくて済むようになったので、ネットでは調べられない古い人形の記録を虱潰しに調査していた。サキにもその成果を報告することで嘘でなく本当に図書館に通っているのだと示せるから、サキからの不信感を緩和するのにも一役買った。

 人形の歴史を調べるとともにぼくは、寄生虫についても調べていた。

 ミーさんは言っていた。

 リンネは命無きモノに寄生すると。

 無生物に寄生するような生命体など聞いたことがなく、むしろそれは無生物を体内に取り入れ、分解し、養分とする「細菌」を思わせる性質だったが、しかしリンネは取りこむのではなく、取りこまれることでその能力を発揮するらしく、言うなればウィルスと共通しているように思わないわけではなかった。

 生物学的な論争を抜きにすれば、現在ウィルスは生物ではないとされている。生物であるための条件は大まかに、【自己複製能力】【エネルギィ変換能力】【循環系維持能力】【細胞の保持】の四つとなる。ウィルスは細胞を持たないため、生物とは見做されない。むろん人形にも細胞はないわけで、ますます二つの類似傾向に磨きがかかる。

 無生物に寄生するという言い方の意味するところをぼくはミーさんの話でしか確認しておらず、また耳にした話も鵜呑みにするにはいささか躊躇するにたわいない荒唐無稽さがある。しかしそれを言うならば、人形が生きているように動き回り、思考しているかのように意思疎通を図る様など、まさに高等な滑稽さがあると言ってよく、この際、その誇大妄想ともとれる内容には目を瞑ることにする。

 青月青年はリンネによって殺された。比喩的表現ではなく、文字通りリンネはその意思と能力を以って青月青年を殺したのだ。

 ミーさんの話によればドール愛好会は、会員たちの死を期に二分化し、ミーさんたちリンネ懐疑派と、青月青年率いるリンネ信仰派に完全に分離した。リンネは自らと距離をとった懐疑派には手出しできないようで、身近な信仰派をつぎつぎに食い物にしていった。

「アレは人間を人間だと思ってない。目のまえに摘まめるものがあったから摘まんだだけ。その程度の感覚なのよ」

 リンネの毒牙にかかった信仰派は間もなく青月青年一人きりとなり、餌がなくなった獣がその後どういった行動をとるのかをミーさんたち懐疑派は容易に想像を逞しくすることができた。いよいよとなれば、リンネはこちらに対して毒牙を向けるにちがいない。瀬戸際に立たされていることを彼女たちは悟った。

「やるかやられるかだよ」

 ミーさんたちは動いた。

「青月くんにはわるいと思ったけど、これ以上リンネに好き勝手させるわけにもいかないでしょ。それにリンネは青月くんにとってさほど思い入れのあるドールじゃなかったし。私たちとは明らかにちがう。彼だけが人形に依存しないで生きていける人間だった」

 容赦をかける必要性を感じなかった。青月青年はけっきょくのところ、呪いの人形に魅入られたかわいそうな羊にすぎないのだと、ミーさんたちは独断し、一人の青年を解放するという大義を得て反撃にでた。

「反撃とは言っても、別段私たちが具体的な被害をこうむったわけではなかったし、客観的に見たらリンネに非はないのよね。悪者は私たちのほう。物理的にアレが私たちに対して何かをしたことはないし、現に人形といっしょに死んだ奴らだって、偶然病死しただけかもしれない。私たちの仮説の正しさを証明するものはなに一つだってない。なぜリンネがああいった能力を有しているのか、なぜ存在しているのか。そうしたことが解らないのと同等のレヴェルでね」

 解っていながらミーさんたちは、思い描いた最悪の展開を頭から振り払うことができなかった。

「仕方ないでしょ。じっとなんてしていられなかったのよ」

 なぜなら、なぜそうなるのかの証明をする必要のないほどの超現実が彼女たちの目のまえには悠然と存在したからだ。生きているはずのない人形が生きて目のまえにいる。

 生きた人形はミーさんたちにとって護るべき家族であり、分身であり、かけがえのない世界そのものだ。そんなかけがえのない存在の生殺与奪の権をリンネは握っている。ただでさえリンネの存在は脅威に映った。ミーさんは自らを戒めるように述懐した。

「自分勝手なのは解ってる。リンネがなぜそうした理不尽を働くのかは解らないけど、そうした存在なのだと割り切ってしまえば、アレを一概に悪だと断ずることはできない。むしろアレの恩恵を得て、いっときであれこのコと」とミーさんはシリコを胸に抱く。「言葉を交わしたり、喧嘩したり、笑ったり、泣いたり、騒いだり。動かなかったときのこのコたちとはぜったいにできない体験を与えられたというのなら、感謝こそすれど怨む筋合いなんてないのかもしれない。端からこのコたちと一心同体、運命共同体になると知らされていても、私たちは――すくなくとも私はアレと契約したわ。それに対してなにか対価を払えと言われたら、たしかにこの身を差しだすほかに釣合いなんてとれそうにないもの。でも私たちは抗った。ぜんぶ自分かわいさのための保身。そこに大義なんて本当はないのかもしれない」

 そもそも大義なんてそんなものはないんですよ。

 言いたかったけれど、そんなことは百も承知だろうし、たとい大義があったところでミーさんは自家撞着の狭間で揺れ動き、自分を責めつづけるのだろう。良心と呼べるのかは疑わしい彼女のその葛藤よろしく自責の念は、青月青年の死から発生しているのだとぼくは睨んでおり、そしてミーさん自身がそのことに無自覚な事実が、より一層ぼくの推測に磨きをかけ、なるほど彼女と青月青年は或いはそういった関係だったのか、といったある種の邪推に、一定の信憑性を与えた。

「なぜ青月さんは死ぬことに」

 ぼくがそう訊いたとき、彼女は下着を身につけておらず、華奢な肢体に不釣りあいなたわわな乳房をこちらの腕に押しつけるようにし、ベッドの上に横になっていた。

「私たちは青月くんを追い詰めた。それからリンネを拘束し、キャリーバッグに押し込んでそのまま海底深く沈めてやろうとしたの。リンネを破壊すれば青月くんも死ぬ。アレをそのままのカタチで封じるにはそれが一番いいだろうとオジジたちと話し合って決めたのよ」

「それで」

「海までは電車で向かうことにしたの。青月くんがどうしてもって言うから彼も連れて行くことにした。駅前に立ったとき、彼、オジジからキャリーバッグを奪い取って、逃げようとしたの」

 キャリーバッグを抱えて走る青年と、片や初老の中年。追いかけっこをすればいい勝負のように思える。実際のところどうなったかと言えば、駅構内からそとへ脱したところで青月青年はオジジによって取り押さえられた。

「三十メートルくらいの呆気ない逃走劇。でも、青月くんはそのあいだに土産屋さんの脇に置いてあった消火器を掴みがてら、片手間にキャリーバッグからリンネを取りだしていて」

 リンネは青月青年の手から落ち、なぜか素のままの姿で地面に降りたった。

 針金で手足を拘束していたはずなのに。

 ミーさんは納得のいかなそうな顔つきでそう零した。

「キャリーバッグに鍵は?」

「もちろんしてあったわよ。ただ、リンネ本体の自由を奪っている気でいたから、バッグに付属してた南京錠を一つだけ。カバンを乱暴に扱えさえすればかんたんにとれちゃうようなちゃっちいやつ」

 青月青年の手に掴まれていた消火器に気づいたオジジはすぐさま青月青年から消火器を奪い取ろうとした。揉みあううちに消火器は青月青年の手から弾き飛ばされ、地面を転がるようにし、まるで子どもに襲いかかるバケモノのように、リンネを直撃した。

「直撃した。誰もがそう思ったわ。いっしゅんヒヤッとしたけど、潰されたのはあのリンネだもの。焦るやつはその場に一人もいなかった」

 そう。

 一人もいなかったのだ。

 焦るべきであるはずの青月青年までそのとき、ある種の笑みを浮かべ、勢いの消えぬままに回転するねずみ花火を思わせる消火器の軌跡を眺めていた。

「私たちはこのコたちを大事にしすぎていたのかもしれない。命を得たこのコたちの強度が、元の人形のままであるのだと無条件に思い込んでいた。でもよく考えたらそんなわけがないのよ。こんなに自在に動き回って、手足がただで済むわけがない。だのにこのコたちは何事もないかのように、それこそ私たち人間みたいに元気なままで。元の強度のままだったなら手足なんて数日で関節の付け根から抜け落ちてるはずだのに」

 人形たちはミーさんたちの想像以上に頑丈にできていた。人形たちに命を与えたリンネもご多分に漏れず頑丈であり、消火器の体当たりを受けてもそれをあべこべに受け止めるだけの膂力まで持ち併せていた。

「消火器の回転が不自然に止まったの。ゆっくりと持ちあがったとき、それを支えているリンネの姿が見えたわ」

 つぎの瞬間、消火器はふたたび地面に落ちた。リンネの姿が消えた。消火器に押しつぶされたのかとミーさんは思ったそうだ。それくらいのすっぽ抜け具合で、達磨落としを彷彿とさせる抜け落ち方だったという。

「ふしぎと緊張感が増したの。その場にいたメンバーの全員が、何か不吉なことが起きるんじゃないかって。何か得体の知れないスイッチを押してしまったんじゃないかって。前触れっていうのかな。よくないことの予兆が感じられたのよ」

 現にその後起きたできごとは、ミーさんたちリンネを中心にいがみ合っていたドール愛好家たちだけでなく、周囲に溢れた通行人――遠巻きにミーさんたちを眺めていた有象無象の赤の他人にまでをも巻き込み、無視するにはいささか大きすぎる影響を彼らに与えた。

「消火器が爆発したのかと思ったの。最初はね。でも、あとになってからそうじゃないって判った。きみもニュースは見てたでしょ。駅前の爆破事故」

 ニュースどころかそのときぼくはバイト先のカラオケ店におり、爆発により巻き上げられた粉塵が空にモクモクと昇っている様を目撃している。

「老朽化した下水管が何らかの化学変化を経て爆発を引き起こしたとかなんとかニュースでは言ってたけど」

 水素と酸素に分解された下水が爆発事故の要因だという推察を熱弁さながらに滔々と語っていたキャスターの姿がよみがえる。

「爆発のあった地点は、足場のブロックが内側から破裂するみたいに抉れてたそうよ。爆風なのかな。私たちは気を失ってしまっていて、目覚めたら病院だった。大勢が怪我をしたけれど死者は一名。奇跡的な事故なのだとどのメディアも大袈裟に息巻いてたけど」

 実際には奇跡でも何でもなく、そう仕向けられた殺人だったのだと彼女は言いたいようだ。

「その亡くなった一人が、つまり?」

「そう。青月くん」

 身体は木端微塵に吹き飛んでおり、かろうじて原型を保っていたのが手首だけだったそうだ。「リンネはわざと彼を亡き者にした。そうとしか考えられないわ」

 ぼくはリンネの気持ちになり考える。ミーさんの言うようにリンネが物体を操る術を有していたとして、それまでなぜ行動を起こさなかったのか。なぜ青月青年を犠牲にしておきながら、みすみすミーさんたちを取り逃がすような真似をしたのか。

 理屈をこじつけるだけならばどうとでも考えられる。たとえば初めからリンネがエネルギィ供給源であるところの青月青年を消去したかったと考えていたとすれば筋は通る。ミーさんの思い描くリンネという魔物の抱く動機としても、それがもっともちかいように思われる。

 つまるところリンネの行動原理は寄生虫と同じなのだ。当初こそ体のいい宿り木であったが、ドール愛好家との交流を深めていくにつれ、精神的に追い詰められていった青月青年の精神状態を鑑みれば、リンネたち生きた人形の栄養源であるところの【魂の躍動】を充分に確保できていたとは考えにくく、リンネとしてみれば宿替えをしたいと欲するのが寄生主としてまっとうな判断ではなかったか。

 ただ、リンネが初めにネットオークションを通じて青月青年に寄生したことを考慮すれば、リンネは単体での行動を制限されていると考えるべきで、爆発現場から姿を消したことを思えば、考えられる筋書は三通りある。

 一つ、リンネは爆発と共に吹き飛んだ。

 二つ、リンネは今もなお爆発現場にいる。

 三つ、青月青年以外のほかの人間に寄生し、現場を脱した。

 ムイの耐久性を思えば、人間一人を粉々に粉砕するほどの爆発に巻き込まれたとしてもリンネならば四肢をもがれる程度の損害で済んでいたとして、なんらふしぎはない。だが飛散した手足をサキが学校跡地で見つけたことを思うと、可能性としては低いと考えざるを得ない。現場から数キロ離れた地点まで人形の手足が吹き飛ばされることは通常まずあり得ない。

 あとに残るのは二つ目と三つ目だが、駅前を何度も通っていたにも拘わらず、ムイやサディが活動を停止したことを思えば、現場に今もなおリンネがいるというのは考えにくく、可能性として濃厚なのは三つ目となる。

 やや飛躍したこの推察をぼくはミーさんに語って聞かせた。

「ほかの誰かに寄生して?」

「それ以外に考えられる筋書がありますか」

 ミーさんはあごに指を添え、考え込む。

「その前に一つ確認しておきたいのですが」ぼくはミーさんの指の美しさを思いながら、「なぜ貴方たちはリンネがいまもなお活動しているという前提で動いていたのですか」と訊いた。ぼくとサキはムイたちを通してドルーチェ、すなわち本体であるところのリンネの現存を知り得ていたが、ミーさんたちはちがう。

 爆発により青月青年が死んだのだ。寄生主であるリンネも共に消えたと考えるのが筋ではないだろうか。こちらの疑念を見透かしたようにミーさんは、

「このコたちがまだ動いているからよ」

 愛しみに溢れた手つきでシリコの頭を撫でた。シリコは難しい話に興味がないのか、さきほどからずっと絵本を読んでいる。頭に触れられたからか見上げるものの、何でもないと判断したのかすぐに顔を伏せ、ふたたび身体全体で絵本をめくっていく。

「前にも話したけど、私はいま、オジジたちとは違った目的で動いている。というよりもオジジたちが方針を変えたのよ」

 それは最初に逢ったときにも聞いていたが、あまり深いところを聞いていなかった。

「あの爆発以来、オジジはリンネを完全に葬り去ろうと躍起になっててね。あんな悪魔を野放しにしておけるかって。どうしてだろうね、自分の考えが一番正しいって年寄ってなんで頑固なんだろう。リンネを消せばこのコたちも消える。またただのドールに戻っちゃう。死んじゃうんだよ」

「オジジたちの人形はなんて?」死ぬことが解っていて協力するとは思えない。

「なにも。ざんねんだけどこのコたちに生死の価値観はないの。眠ることのないこのコたちにとって活動の停止はある意味で、私たちにとっての眠りのようなものなのかもしれない。眠ることのなにがいけないの? そんなことをこのコたちはまったく邪気のない目でまっすぐに問い返してくる」

 そういえばぼくはまだオジジの人形を見ていない。

「オジジも人形と契約を?」

「もちろん」

「どんな人形なんですか」知っておく必要があるように思われた。

「心配しなくても、オジジのドールが不安要素になることはないよ。あの人のはあまり人前に連れだせないから。目立ってしょうがないのよ」

 聞けばオジジのドールはラブドールだという。等身大の人形だので、たしかにそとを一緒になって歩くのには不向きだ。

「不気味の谷現象って知ってる?」

「それは、はい」

 人形については調べている。不気味の谷現象とは、人形に対する人間の精神的働きを示す言葉の一つだ。人間の容姿に近づくほど、人はその造形物に親近感を覚える。しかしある一定の近似を超えると、こんどは途端に嫌悪感を抱くのだという。不気味の谷を越えるには人間にそっくりな人形でないと、それこそ遺体よりも人間らしい人形でないと自然と愛着は湧かないそうだ。

「オジジのドールはその不気味の谷を越えてない。十年前に買ったらしいから、それも当然なんだけどね」

 さいきんのは本当によくできてるわ。

 ミーさんはそう言ってメディア端末に保存してある画像を羅列しはじめる。

「たしかによくできてますね」

「でしょ? でもこれってぜんぶラブドールなのよ。性器のある場所にはただ穴が開いてるだけ」

「なぜですか?」ラブドールが性的欲求を満たすためのものと考えるならば、もっとも大事なところが手抜きだということになる。

「性器までそっくりだと猥褻物として摘発されちゃうのよね。AVにモザイク入ってるのとだいたい同じ理由。別売りのオナホを穴に嵌めてスコスコやるらしいわよ」

「オナホはいいんですか?」実物を見たことはないが割と精巧につくられているのではないか、と思った。ミーさんの話を真に受けるならば、それこそ猥褻物として摘発されそうなものだ。

「あれはジョークグッズだからいいらしいんだけど、よく分からない基準よね。それにたぶん、そこまで精巧ってほどでもないんじゃないかしら」

「なるほど」

「さいきんだとわざわざモデル募って、実在の人物そっくりにつくったりもしているらしくてね」ミーさんはメディア端末を操作し、ふたたびラブドールの画像を並べた。「なかなかいい収入になるって、落ち目のアイドルやら女優やら、お金に困った女の子たちが応募しているらしいのよ。信じられないわよね。じぶんの姿かたちをした人形相手に、どこの馬の骨とも判らない男どもが腰振ってるわけじゃない? でもまあ実際に身体売るよりかは健全かもしれないけど」

 きみの人形なら私も一つくらいは欲しいかな。ミーさんは目を細め、いたずらっぽくぼくを見た。

 瞳孔が開いている。ミーさんの琴線に触れてしまったようだ。こうなってからの話が長いのは経験上すでに学んでいる。話を中断させるとへそを曲げかねられないので、辟易しながらもぼくはミーさんの見せてくる人間にそっくりな美形のラブドールを冷ややかに拝んでいく。

 

 リンネは用心深い性分であるらしく、ミーさんたちに自身の写真や映像を撮らせなかったようだ。リンネの姿を確認できずにひと月ばかりが過ぎた。ミーさんが念願のリンネの画像を手に入れてきたのは、ぼくの図書館通いも半ば習慣化しはじめてきたころである。メディア端末に画像データを入れてきたようで、見せてくれる。こちらの端末にもデータを飛ばしてもらうよう頼んだが、そのうちね、とはぐらかされた。

「どうしたんですか、これ」

「遺品が撤去される前にちょっとね」

 察するに、青月青年のアパートから据え置き型のメディア端末を盗んでいたのだろう。ひと月かけて中身を解析(サルベージ)したといったところか。さすがのリンネも、宿主からの撮影は拒みきれなかったようだ。

「これがリンネ」

 日本人形と呼ぶべきなのか。そこにはのっぺりとした顔の、飽くまで人形としての造形を強調された無表情な黒髪の傀儡が映っていた。着物を召しており、ざらついた布地に描かれた紋様はドクロを思わせる不吉な柄だ。全身が黒色に包まれ、顔と手だけが浮きあがるように白い。

「で、こっちが青月くん」

 鏡を通して自画撮りしたようだ。リンネと思われる人形を膝に載せ、穏やかそうに微笑んでいる。端正な顔だというのがぼくの抱いた第一印象である。中性的な顔つきは異性の目を引きそうだ。

「彼、女装癖があってね。まあ、なんだろう。きれいなものが好きだったんじゃないかしら」

 なぜそれまで興味のなかった人形に手を出したのかといった青月青年の動機をミーさんはそう分析しているようだ。現に女装した青月青年のものとみられる画像も見せられたが、ほとんど別人と思えるほど美麗な女性の姿が映っている。どことなくリンネと思しき日本人形を思わせる。

「ナルシストだったんですかね」

「それ、きみが言うと説得力が違うよね」

 どういう意味だろう。よく分からないといった顔を浮かべてみせるが、ミーさんは補足することなく、「これで少しはリンネについて調べやすくなったでしょ」と小声で続けた。「たぶんそう古くない人形だと思う。衣服も元から身につけていたものだそうだから、そうだなあ。百年以内に海外でつくられて昭和ごろに日本に入ってきた人形。それに絞って調べてみてくれないかしら」

「よいですけど」

 でも。

「それだけですか?」

「もちろんこっちでも調べてみるつもり。だけど時間はきみのほうがぜいたくに使えるでしょ」

「そういう意味ではなくて」

 ミーさんたちだって調べていたはずだ。リンネと直に接し、言葉を交わし、いがみ合っていたのだ。現状、ぼくよりもリンネに詳しいはずのミーさんたちからもたらされる情報としては圧倒的に不足である。

 不満そうな心情が伝わったのか、

「しょうじき私たちには解らなかったのよ」ミーさんは肩をすくめた。「早々に匙を投げたの。どうしてだと思う?」

「さあ」

「リンネの口から、調べても分かりませんよ、と前以って聞いていたから。不信感を募らせたときはさすがに調べたけど、けっきょく画像だとか名前だとか適当なキーワードで検索して見つからなかったから諦めちゃったのよね。無駄な作業に時間をとられるほど私たちに余裕がなかったってのもあるんだけど」

 けっきょく調べても無駄だったの。

 ミーさんはそう言って、周囲に目を遣った。数人の図書館利用者たちが冷ややかにこちらを眺めている。

「じゃ、また来るから」

 図書館の職員さんたちから注意される前にミーさんは去っていった。

 彼女の背中を見届けながらぼくは、見せてもらったばかりのリンネと思しき人形の画像を思いだす。どうしてもぼくにはあれがリンネとは思えないのだった。

 

 図書館では本のデジタル化が滞っており、言い換えれば半分ほどのデータはすでにデジタル処理されている。画像の検索をかければ、リンネに関する書物があるのかを調べることは容易だ。しかしそこで見つからなければ、もう半分のデジタル化されていない書物から、リンネにまつわる情報の有無を確かめなければならず、それは人形に関する書籍に限定してみたところで一筋縄ではいかない分量があった。

 ひと通りすべての書籍に目を通すだけでも最低でひと月、全容を把握してから関連性のありそうな別分野の書物を当たるのにさらにひと月を要しそうだ。

 もともと本を読む習慣のなかったぼくにしては、わりと早い段階で順応できたと言ってよく、効率よく一日で本棚四つ分の分量を消化していった。一つの本棚によくて二冊ほど人形にまつわる書物があり、中身を改めるのにおよそ二時間。途中で休憩を挟みつつで、合計で八時間、朝から夕方の閉館までのあいだ、延々と紙面に目を走らせる作業をつづけている。

 司書さんを利用すればいいのに。

 ぼくの図書館での段取りを説明するとサキはそう言った。なるほど司書にはそんな利点があったのかと初めてサキの助言に感心し、それからというものぼくは人形に関する書物を司書さんを通して集めることにした。けっか、著しい時間短縮を可能とし、ぼくにとって大幅な労力の削減に成功した。

 朝から晩まで図書館に缶詰めにならずに済み、余った時間でぼくは青月青年についても調べはじめた。

 すでに死亡している人間の調査というのは思いのほか楽だった。それが事故などで亡くなった人物であればなおのことで、事故について調べている体を装い、堂々と調べ回ることができた。

 ぼくとしてはなぜ彼がリンネに選ばれたのか。それを知ることがリンネの正体を突き止めるうえでかかせない事項に思われてならなかった。

 ミーさんの話では、そもそも人形に興味を抱く人間というのは人間関係に問題を抱えている場合が多く、表向き社交的ではあるが、精神的な苦痛を日常的に耐えている傾向にあるという。

 そんなのはどの分野でも一定数の割合で存在する傾向――言い換えれば、誰にでも当てはまるバーナム効果に類似した抽象的傾向に思われたが、確かにミーさんたちを見ていると人形に熱をあげそうな人種には見えず、傍目から推し量れないその人物の闇が、人形というカタチをとって彼らを惹きつけているのではないか、と妄想せずにはいられなかった。

 青月青年もそうだったのだろうか。

 女装癖をこじらせた青年の人生に思いを馳せるが、屈折した性癖を思いのほか持て余すことなく、十二分に娯楽へと昇華させた一人の人間の姿が思い浮かぶだけで、そこから何か特別な傾向、心の闇だとか異常性を見出すことはできなかった。

 限られた時間のなかではあったがぼくの調べあげた青月青年の来歴と照らしあわせてみたところで、そこからはさほどの狂いを見出せない。

 誰でもよかったのだろうか。

 寄生する側にしてみれば、寄生する対象は慎重に見極めたいところだろう。ひるがえって言えば、エネルギィ供給さえ可能ならば誰でもよかったということになるのではないか。

 ぼくたちがどの肉も同じく肉でしかなく、味覚的な変化があるにせよ、どの肉もけっきょくのところは身体を構成する養分でしかないという認識を持ち併せているように、味覚さえあるか定かではないリンネたちからすれば、宿主たる人間などどれも似たり寄ったりの【餌】にしか見えなかったとしていかほどの違和感が生じるだろうか。

 人間性のようなものを持ち併せているかのように振る舞ってはいるが、むしろリンネたち生きる人形を、人間と同等の行動様式で動いていると考えるほうが土台おかしな話ではなかったか。

 昆虫はほかの動植物に擬態することで捕食行為をしやすくしたり、逆に捕食されにくくしたりする。同様にリンネたちは精神的擬態を駆使してぼくたち人間を欺いているだけではないのか。

 彼らに人間としての慈悲や愛憎を期待するのはむしろお門違いではなかったか。

 そもそもリンネから派生したシリコたちを無条件に信用してよいのだろうか。リンネがそうであるように彼女たちもまた活動していくうえで宿主の【魂の躍動】を必要としている以上、そこには多少なりとも独善的な欲動が芽生えていると考えるべきではないのか。

 いや、そうではない。

 ミーさんの話では、シリコたち第二世代と呼ぶべき人形たちに「死」という概念はなく、彼らが活動できなくなる未来を危惧することはないという。だとすればミーさんの言うように、危険視すべきはリンネだけとなる。

 しかしなぜだろう。

 しっくりこない。

 親であるリンネに死への恐怖、或いはそれに類する死を忌避する行動原理があるとして、なぜそれが子であるはずのシリコたちに受け継がれていないのか。

 やはりこれも彼らを動物として見做しているからこそ生じる謬見なのだろう。彼ら人形に、親子の関係性などはなく、あるのは本物と偽物、上位的な存在と下位的な存在、完成形と欠陥品の違いだけなのではないか。ならばシリコたちがリンネに反旗を翻そうとしないのも頷ける。シリコたちからすればリンネは神であり親ではない。神の采配によって命を奪われたところで、それはシリコたちにとっての寿命でしかなく、彼女たちにとってもっとも優先すべき事項は、親たるミーさんたちと今ある時間を共有することなのだ。

 ここまで考えてからぼくはようやく抱いた違和感を頭のなかから拭い去った。

 慎重になりすぎては進めるものも進めない。

 オジジたちがリンネを葬ろうと躍起になっているならば、ぼくの手元にムイだけを残しておくとは考えづらい。むしろリンネへ近づくための糸口として奪還する機会を窺っている頃合いではなかろうか。

 リンネにしたところで同じだろう。失った手足を取り戻そうと足掻いているはずだ。

 敵はオジジだけではない。さいわいにもオジジとリンネは互いに敵対しているようだ。そこに第三勢力としてのぼくが交じわれば三つ巴となる。そしてぼくにはミーさんがおり、リンネにとっては人質ともとれる「手」が――「ムイとサディ」が――こちらには揃っている。現状優位に立っているのはぼくであり、だからこそ双方から狙われる可能性がもっとも高い標的もまたぼくであると推察できる。

 オジジたちからすれば、リンネの手がかりを持った都合のよい鴨に映るだろうし、リンネにしてみても音信不通となった、しかし現段階で持ち主のはっきりしている【局部】の保有者であるのだから、接触すべきはオジジたちではなく、まずはぼくと考えるはずだ。

 オジジたちにしても、リンネにしてみても、二点を結ぶゆいいつの交点がぼくであるのだから、しのぎを削ってこちらの探索に力を入れている頃合いだろう。

 引っ越したとはいえ、ここも安全ではない。いい加減こちらも行動に移す必要がある。

 リンネの調査を続行しつつ、空いた暇でこれから訪れるだろう奇襲に備えておこうと決める。

 ミーさんには内緒だ。

 信用しないのは当然として、それ以上にミーさんの裏切りがオジジたちにバレたときのことを考えれば、こちらの動向を、それに伴う切り札を教えるわけにはいかない。

 あまり気乗りしないが、こればかりはサキに協力を仰ぐことにする。

 働いていないぼくにはどうしても資金の提供者が必要だ。金を得るには相応の説明が不可欠であり、変なところで勘の鋭いサキには下手な嘘は通じない。ならばいっそのこと計画の協力者として取り込んでしまうほうが都合がいいというものだ。

 ぼくはこれからの日々を思い、サキと過ごす時間が増える様を思い描き、なぜか地面に唾を吐く。


 新しい職場に慣れたのか、サキは家に帰ってきてもすぐに寝たりはせず、ぼくの帰りを待ち、いっしょに夕飯を食べるようになった。基本的にはサキが夕飯を作るのだが、まれに甘えてみたいのか勃然とぼくに夕飯の支度を命じることがあった。ぼく自身サキの味付けは濃すぎると感じていたのでそうしたときはむしろ率先して台所に立った。

「調子はどうなの」

「調子?」カレーを作ったがカラすぎたかもしれない。ぼくは水で舌を冷やしながら、「調子って何の?」とスプーンを置く。

「ドルーチェの正体。そろそろ何か掴めたんじゃないのかなって」

「何か解ったならイの一番に知らせているよ」

「そうかなぁ」

「きみに嘘は吐かない」

「でも知っていることを言わないのは嘘にはならない。きみはそう考えるような人間でしょ」

「否定はしない」

「だからわたしとしては不安なんだよね」

 見透かした気になっているサキの己顔が気に食わない。だからでもないが、

「解ったというほどでもないけど、興味深い記事は見つけたよ」

 言ってぼくは新聞のコピーをポケットから取りだす。あとでゆっくり読もうと思っていた。

「どうしたのそれ」

「図書館でちょっとね」

 書籍以外でも人形にまつわるデータはあるのだと司書さんが教えてくれた。過去の新聞記事だ。十年以内の記事がデータ化されており、検索すれば一発だという。試しに「人形」で検索してみると十万件ちかいヒットが出た。そりゃそうだ。ひな人形というキーワードだけでも二千件、人形劇だけでも九百件を超える。データ化されている新聞は日本全国二十社で、そこから一社のみを選択して検索することも可能だったが、検索結果は二十分の一どころか半分にも減らない。どうやら重複した記事は最初から関連記事としてまとめられているらしい。ヒットした件数がすなわち、目を通すべき記事の数となる。

 これではインターネットと変わらない。

 念のため司書さんに、ある特定の人形について調べている旨を伝えたが、具体的なキィワードがなければ紹介のしようがないと迂遠に手伝いを断られた。

 詮もない。

 リンネについては現状、ぼくがその第一人者と言ってよく、ほかの大多数の者たちにリンネの正体を尋ねるというのは、宇宙物理学者がずぶの素人に暗黒物質の正体を尋ねるような本末転倒具合があり、河童が人間に泳ぎ方を乞うような滑稽さがある。

 図書館の書物を調べていくのと並行して、最新の記事から虱潰しに目を通していくことにした。

「そこで見つけたのがこれってわけだ?」

「うん」

 サキに手渡した紙には、【世界最古のビーナス盗まれる】といった見出しが載っている。三年前の三面記事だ。

 件のビーナスは現時点で世界最古の人形と見做されている土偶で、別名【死者の祈り】と呼ばれている。発見された当時はそれなりにこの国でも話題になったという。サキも知った調子で、

「ああアレね」と記憶を探るような仕草をみせた。

【死者の祈り】が発掘されたのは五年前のことで、最新式の時代測定器を使ったところ、これまでに発見されていた世界最古とされる人形よりも二倍以上も昔に作られたものだと判明した。当時、世界最古とされていた人形は、マンモスの牙を削ってつくられた女性(ビーナス)像で、四万年ほど前のものであるらしい。その二倍以上というのだから、およそ十万年前ということになる。

 発見されてから二年後、つまりいまから三年前に、【死者の祈り】はウィーン自然史博物館に収蔵される予定だったが、その過程で何者かに盗まれたのだという。

「興味深い記事ではあるけど、これがなに?」

 サキはさして興味深いというふうでもなく、記事の載ったコピー用紙をこちらへ返す。

「三年前というのがなんとなく気になってね」ぼくはじぶんでつくっておきながら辛すぎるカレーを食べる手を止め、「その前に、ぼくの調べたことをしゃべらせてほしいんだけど」と前置きの許可を仰ぐ。

「どうぞ」

 ぼくは語った。

 当時、【死者の祈り】が収蔵されるはずだったウィーン自然史博物館にはほかにも【ヴィレンドルフのヴィーナス】と呼ばれる古代の人形があり、これは元世界最古であるところのドイツのビーナス【マンモスの牙の像】に次いで古いものであり、ほぼ同時期につくられたそうだ。二つは奇しくも同じ形状をしており、たとえるなら日本の妖怪の「ぬっぺふほふ」を思い起こすとよい。全身たるんだ脂肪でできた手足の短いムチムチ。かろうじてヒト型と判断できるできそこないの土偶にちかい。土偶とのちがいは、土を練ってつくられたものではなく、いずれも牙や石灰石を彫刻してつくられた点にある。真ん中にあるのが乳房だかたるんだ瞼なのかの区別も怪しい。人形というよりも膨れたモチを思わせる、そんな風貌だ。

 おもしろいのは、その二つはドイツとオーストリア、似た風土であれ、離れた土地で発見されたという点にあり、さらに目を惹くのは、それら二つの最古の人形よりも遥かに古いはずの【死者の祈り】が、それら二つの人形よりもずっと人形らしい形状をしていたという点にある。

 畢竟するに、【死者の祈り】は、誰もが一目で人間だと判るほど鮮明につくられた人形だったのだ。

 オーパーツふたたび。

 そんな惹句がでかでかと書かれた雑誌があったのを今さらのように思いだす。

「まあ、興味深いよね」

 サキはすでに二度台所へ立っており、ビールとカレーのお代わりを口に運んでいる。

「で、それが?」

「うん」

 ここからさきを話すべきか迷った。合理的な損得勘定の結果による逡巡ではない。さほど興味をそそがない女にこちらの真意を伝えるのは、しょうじき辟易する。

「青月青年がリンネと接触を持ったのも三年前だ。ちょうどこのビーナス強盗事件があったひと月後にあたる」

「へえ」

「ピンとこない?」

「なにが?」

「こないならいい。話はおしまい」

「え、ちょっと。なに怒ってんの」

「怒ってはない」

「うそだぁ。だってそれじゃあ、え? なにが言いたかったの?」

「何も」ため息まじりにぼくは告げる。「さっきも言ったけど、何かが解ったわけじゃない。ちょっと興味深い記事を見つけたってだけで。これからさき、何かの役に立つかも分からない。ただ、すこしは前進したように見せかけないと、サキだって不安だろ」

「まあね」

 ビールを飲み干すと彼女は、ただ、と涼しげな顔のまま、

「前進したように見せかけるのならさ」

 口の周りについたビールの泡を舌でこそげとるようにした。「最後までやり通してよ」




 

第三章【真相を掴めば信徒と揉め】



【死者の祈り】強盗事件が未解決のままであるという海外の記事をぼくはインターネットのとあるサイトで見つけた。英語は読めないが、これを使うといいよ、とサキから便利な翻訳機能アプリを教えてもらっていたので不便はない。世の中、ぼくの知らないところであらゆる技能が補完可能となっていく。

 美術館に運び入れられる前の段階で強奪されたらしく、輸送の際の警備が薄すぎたのではないか、と非難の声があがっているそうだ。問題はそこにはないように思う。問題は、なぜ犯人たちが【死者の祈り】を強奪したのか、のほうにある。

 美術館には、かつて世界最古とされていた【ヴィレンドルフのヴィーナス】が置かれている。だがそちらへは食指を伸ばさず、強盗犯たちはなぜだか【死者の祈り】のほうに狙いをつけた。

 考古学的観点、美術的観点からしても価値があるのは【死者の祈り】のほうなのだから、【死者の祈り】を強奪しようとした動機は汲めるし、美術館のセキュリティが厳重そうなことを顧慮すれば何のふしぎもないように映る。

 しかし、たとえ手に入れてもそれを欲しがる者は限られるだろう。

 どんなに高額な品でも客がつかなければ道端の石ころと同じだ。盗品市場での相場は実際の価値よりも低いと考えるべきだ。ならば、ほかの美術品などが海外へ出張展示される機会を待ったほうが低リスクのうえよほど成果が見込めたはずだ。

【死者の祈り】はとくべつな予告なしに輸送された。前以って微に入り細を穿つ計画を立てられない以上、リスクはそれなりに高いと言わざるを得ない。それを実行した犯人たちを思えば、端から【死者の祈り】を売りとばすつもりがなく、彼らはそれそのものを手に入れることが目的だったと考えるべきではないか。

 或いは、端から顧客がおり、相応の見返りが保障されていたか、だ。

 いずれにせよ、【死者の祈り】を喉から手が出るほど欲していた人間がいたことになる。

 マニアなのだろうか。

 だがその人物は、【死者の祈り】だけに目を留めていた。ほかのビーナスには目もくれていない。

 いったい何が目的なのだろう。

 と、

 ここまで考えてからぼくは、メディア端末から視軸を逸らし背伸びをする。すこし飛躍しすぎたかもしれない。考えるべきはまず目下にある事案だ。リンネの正体をすこしでも掴んでおかなければならない。

 空調の効いた図書館内を歩き、ラスト十台になった本棚から目当ての書物を取る。

 十二冊と今回はすくないが、一冊一冊が分厚く、かなりの重量で、きょうのうちに読破するのはむつかしいだろうというのがぼくの見立てだ。相互の関連性を把握しながら読むと次回から作業が楽になるので、まとめて運ぶ。

 本で視界が塞がれる。よろめきながら通路を進むと、対面から誰かが歩んでくる気配がした。

「しばらく逢えないと思う」

 すれ違いざまにささやかれる。ぷんと香ったシャンプーの匂いで、それがミーさんなのだと判った。振り返り、身体を傾けるようにして本のよこから顔を覗かせたときにはすでにミーさんの姿はなかった。

 閉館の時間まで粘ってみたが、ミーさんはそのまま姿を現さなかった。

 

 翌日、図書館での作業を終え、アパートに帰ろうとしていたときにその少年は現れた。

 宅配物が届くので陽の高いうちに帰宅する予定で、図書館の玄関口を出たところで、あの、と呼び止められた。階段を下りたさき、柱の影に紛れるようにして野球帽をかぶった少年が一人立っている。

「なに」

「もうしわけないのですが、あの」と拙い口調で、「すこしお時間ありますか」と言う。

「時間ならたくさんあるけど、その時間をきみに割くかどうかは、きみの要件次第だね」

「お話がしたくて、あの、ボク」そこで彼は背負っていたランドセルを地面に下ろし、中から人形を取りだした。ゴーグルにカーゴパンツ、職人を思わせるジャケットを着せられた人形だ。

 見覚えがあり、そこでぼくは目のまえの少年がミーさんたちの仲間の一人、以前、学校跡地で遭遇した少年なのだと察した。

 警戒する。

 周囲を見渡し、逃走経路を確保しつつ、ほかに敵視すべき人物がいないかを探る。不穏な気配は今のところ見当たらない。

 こちらが落ち着きを取り戻し、もういちど視線を向けるまで少年はきょとんとしてこちらを見上げていた。スチームパンクファッションの人形――たしか吉蔵といったか――をふたたびランドセルに仕舞いなおすと少年は戸惑いがちに階段を上ってくる。

「あの、お話がしたくて、ボク」

 おどおどした様子とは裏腹に、まっすぐとそそがれる眼差しからは悪意や邪気といったものは感じられない。

「場所を移そう」

 ここじゃ目立ちすぎる。

 少年の手を取り、図書館の裏へと連れていく。林がある。林の中にはちいさな公園があり、奥につづく小道は住宅街に繋がっているようだ。逃走するときの段取りをあたまのなかで思い描きながら、少年をベンチに座らせる。

「一人で来たのかな」

「そうです」

「びくびくしなくていいよ。ぼくはきみを傷つけたりしないから」

「はい」

「今はまだ、ね」

「へ?」

「うそうそ」

 微笑みかけると、そこで少年の眉間に寄っていたシワが伸び、頬に笑窪があいた。陶磁器のようにしっとりとした頬だ。

「どうしてぼくに?」

 なぜ会いに来たのかと問う。

「ミー姉のあとをつけたら、図書館でお兄さんと会っているところを見かけて」

「それで?」

「それで」と一呼吸開く。少年はうつむきながら、「お兄さんを逃がしたのはやっぱりミー姉なんだって思って」と地面に零すように言った。

 やっぱり、というからには、ミーさんは仲間内から疑われているのだろう。

「なぜきみはミーさんをつけようと? 誰かから指示されたの?」ぼくとミーさんが通じていることをオジジに話したのか、と探りを入れる。

「誰からも」少年は首を振った。「じつはボク、あのときホントは部屋にいたのです」

「あのときって、どのとき?」予想はついた。

 案の定、少年は、

「お兄さんがオジジに捕まって、アジトに連れてこられたときにです」と言った。

 たしかあのとき、学校の用事があって少年はこられないのだと、そういった旨をミーさんが言っていた。いや、ミーさんはそれを少年の人形であるところの吉蔵から聞いていたのだろう。吉蔵を通じて少年が嘘を吐いたということか。

「どうしてそんな真似を?」なぜ隠れたりなどしたのか、と問う。

「だってオジジたち、わるいことしようとしてたから。ボク、心配になって、だから」

 だから、隠れながら一部始終を目撃し、オジジたちが一線を越えそうになったら警察に通報しようと思っていた。誰かを傷つけるような真似をするようならば、少年は仲間を裏切り、警察に突きだそうとしていた。

 いや、仲間だから、か。

「勇気があるんだね」ぼくは褒めた。

 少年はまんざらでもなさそうに頬を赤く染め、それから涙ぐんだ。苔の生い茂る岩肌から湧水が染みだすようなしずけさがある。

「誰にも言えずにつらかったよね。よく耐えたね。がんばったね。でもこれからは一人で抱え込まなくたっていいんだよ」

 ぼくがちからになってあげるから。

 よくもまあクサい台詞を臆面もなく吐けるものだと我ながら感心する。

「坊。気をつけろ。コイツ、なんだかヤバい匂いがする」

 隙間から覗いていたのだろう、ランドセルの中から声がする。

「吉蔵くん、だったかな」ぼくはしゃがみこむようにし、ランドセルの隙間に目線を揃える。「きみの坊くんへの想いは解るけれど、あまり波風立てるようなことは言わないほうがいいよ。ぼくだからいいけど、本当にヤバい相手だったら、この瞬間に坊くんへの接し方が変わるかもしれない。そういう忠告はせめて相手がいなくなってから言うといい」

「うるせぇな。猫被りやがって。坊、おまえにだって判るだろ。コイツ、このあいだとキャラ違いすぎだ。信用すんじゃねぇぞ」

 忠告を受けたからか少年は身体をよじり、こちらからランドセル遠ざけるようにした。

「そのとおりだね」ぼくは笑みを維持する。「初対面の人間をかんたんに信用したらダメ。これはだいじなことだ。でも、きみは何かぼくに頼みごとがあって、それで会いに来たんじゃないのかな。だのにこちらを悪者扱いするというのはどうだろう。ぼくとしてはちょっと悲しいものがあるよ」

「悪者扱いはしていないのです」

「そう? ならまずは仲良くしよう。すぐにはムリでも、仲良くしようとする努力はしたほうがいいと思うんだ。それは、相手を信用しなくともできることだよね」

「おい、坊。惑わされんなよ」

 吉蔵の声が聞こえなかったわけではないのだろうが少年はそこで考え込むようにした。それからこちらを控えめに見上げ、「わかりました」と舌足らずな口吻でこう言った。「お兄さん、おねがいします。ミー姉たちを止めてください」

 

 アパートに戻ると再配達を促すカードがポストに入っていた。なぜこうも予定通りに事が運ばないのか。起伏のすくない平坦な人生のはずだのに。現に、ここひと月余りはほとんど毎日同じサイクルを過ごしている。やはりというべきか、日々は同じことの繰り返しではない。同じようで同じではない。或いは、まったく様変わりしていることに気づいていないだけなのだろうか。半年前のじぶんを思い、たしかにあのときといまとではまったくと言っていいほど環境がちがっているな、と平坦に思えた日常の、それでもウゴウゴと蠕動する、ミミズの進行にも似た変遷に思いを馳せる。

 再配達してもらい、品物を手にしたときにはすでにサキも帰宅していた。お腹が空いたというのでオムライスを作ってやると、ことのほかサキはよろこんだ。「おいしい」

「舌までお子様なんだね」

「までって何、までって」

 食事をしながらサキに、坊少年がぼくを訪ねてきたことを話した。面倒だったので掻い摘んで説明したが、坊少年からもたらされた話をまとめると【仲間割れしそうだからなんとかしてくれ】といった要望に還元される。

「ねえ、なんで仲間割れしそうなの? というかそのコ、なんできみのところに来たわけ? むしろこんなに優雅に食事してていいの? きみの居場所がバレてたってことはここも危ないってことじゃないの?」

 サキにしては珍しいほどの正論だ。だが心配には及ばない旨をぼくは主張し、当然のごとく納得を示さないサキに掘り下げて説明する。

 少年こと「坊」はドール遣いとしては新人であるらしく、リンネが最後に命を与えた人形が彼の相棒であるところの吉蔵になるという話で、青月青年が死した場面には居合わせなかったらしいが、親交のあった人間の死に心を痛めている様子だった。

 現状ドール遣いは、坊少年を含め四人いる――と、一人増しに偽ってサキに話す。ぼくを助けてくれたひとを架空の人物に仕立て上げることで、ミーさんについての情報をサキにも話しておくことにした。

「つまり、そのミーさんとオジジの仲をとりもってくれってこと? なんで?」

「オジジはリンネを壊そうとしている。でもミーさんはそれを阻止したい。じぶんたちの人形まで活動停止してしまうのではないか、と危惧しているからだ」

「よく分かんないけど、人形が活動を停止したらじぶんたちまで死んじゃうんじゃないの? なんでオジジってひとはそんな危ない橋を渡ろうとしてるの」

 それはぼくも考えた。言葉にはしなかったが、ミーさんがリンネを破壊することをあそこまで頑なに拒絶する背景にはそうした自己保身からくる動機もあったのではないのかと。

「オジジの言葉を借りるなら」ぼくはミーさんから又聞きしたオジジの言葉を口にする。「そうならないことを祈るよ」

「で、きみはどうする気なの」

「ぼくはどうもしないさ」

「坊くんの頼み、無視するんだ?」

「どうしようもないってだけだよ」

「助けてあげないの?」

 出たよ、とぼくはうんざりする。サキのその無駄に過剰な博愛主義はいったい、どういった精神構造から派生しているのだろう。サキの性格を鑑みるならば、他人を蹴落としてでも自分の利益を優先しそうなものだのに。他人のことを慮るならば、ぼくたちのような人間は早急に死ぬべきだ。ぼくの理解者を自称するだけあって、彼女もまた不安定で極端な自己矛盾を抱えているようだ。

「助けるなにも、あの少年のことを本当に思うならば生きた人形なんてないほうがいい。これだけ周囲には生きた人間がいるんだ。わざわざ血の通っていない人形に固執する理由なんかないんじゃないかな」

「でもそのコにとっては生きた人間よりもお人形さんのほうがたいせつなんでしょ」

「たいせつなものが本当にその人物にとって必要なものだとは限らないんじゃないかな」

 面食らったようにサキは閉口し、それから、そうかもしれないけど、と下唇を噛むようにした。

「そもそもきみはドルーチェを――リンネを助けたいんじゃなかったの」

「そ、そうだよ」

「だったら彼らは総じて敵だ。情けをかけたらそれこそリンネは永遠に孤独の闇に閉じ込められる」

「きみはたまに詩人だよね」なぜかそこでサキは吹っ切れたように笑窪を空け、「わかった」と言った。「わたしはドルーチェを――リンネちゃんを助けてあげたい。たぶんほかの人たちは勘違いしてるだけなんだよ。リンネは人を傷つけたりしない。そんなコじゃない」

 わたしは知ってるもの。

 恍惚としたサキの顔は、自分の正義感に酔いしれているというよりも、神に祈るような、そうした無垢な少女を彷彿とさせる危うさが見てとれた。

 誰も救われたりなんてしないよ。

 リンネも。

 ほかの人間も。

 だれ一人として。

 ぼくはサキにぼくの本懐を包み隠したままでいる。

 

 坊少年から仕入れた情報によれば、ぼくが拘束され連れて行かれたあの部屋はすでに空き部屋として貸し出されているらしく、アジトはほかの場所に移されているようだ。ぼくにはサキがいるからいいとして、なぜ彼らはそうも身軽なのか。

 問うと、坊少年もそこはふしぎに思っているのか、

「オジジが用意してくれるから」とやや怪訝な面持ちで答えた。

 現在のアジトについては、吉蔵の邪魔が入って聞きだすことは叶わなかったが、三日に一度の周期で定期的に集まっているのだそうだ。

「オジジがミー姉を疑ってて」

 シリコを人質にとり、ミーさんを尋問したのだという。坊少年のまえで繰り広げられた尋問は、幼いかれのこころを著しく傷つけた。

「こわかったです。オジジもミー姉も。あのときのミー姉の顔。オジジから解放されて、シリコちゃんを抱きしめながらオジジのこと睨んでた、あのときのミー姉の顔が、ボク、あたまから離れなくて」

 心底他者を憎んだときの人間の気迫というのは、たしかに目の当たりにしたくないものがある。抑えようのない激情に振り回されることを予感させ、否応なく神経を逆撫でられる。坊少年はそこで完全に引き、自分の居場所を疑った。ここにいていいのだろうかと。このままでいいのだろうかと。

 よくないと判断し、挙句ぼくのもとを訪れた。

 愚かと言うにはあまりにけなげだ。なぜだろう。そうしたものほど壊したくなる。

 坊少年との会話を振りかえっていると、

「ところでそれって何なの」

 部屋の片隅に置きっぱなしだった配達物を示してサキが言った。尋ねてもいいのか迷った末の問いかけだと判る。ぼく自身、サキには知られたくないからこそこっそり注文しておいたのだ。かといって知られて困るようなものでもない。

「メディア端末だよ」

「持ってるでしょ?」

「端末だけ新しいのを用意したくて。盗聴用にね。坊少年にでも持たせるよ」

 ホントはムカイさんに持たせようと思っていたんだけど、とぼくはミーさんの身代わりである架空の人物の名を口にする。

「ふうん。契約は?」

「してない。だから通話もできない」

「ならだいじょうぶだね」

 万がイチ見つかってもこちらの情報が漏れる心配はない。端末の録音機能を起動させたまま坊少年に持たせ、仲間たちの会話を盗ってきてもらう。仲間割れしそうだという坊少年の懸念が果たしてどこまで信憑性のある話なのかを確かめておくべきだと考えた。

 本当はミーさんの荷物に忍ばせておこうと思ったのだが期せずして坊少年が現れたので予定を変更した。彼の協力を仰げば、ミーさんに内緒で彼女の仲間内での言動を、ぼくに見せない裏の顔を――いやこの場合は表の顔と言うべきかもしれないが、いずれにせよぼくの知らない彼女たちの姿をより鮮明に捉えることができる。

「あ、もしかして」そこでサキは眉根を寄せながらうれしそうに発声する。「わたしにもこっそり持たせようとしてたでしょ。わたしがそとで何をしているのか、怪しい動きをしていないか。それを確かめるために」

「きみにしては中々の洞察力だ」

「図星でしょ」

「ざんねんだけどきみの場合はすでに実行済みだ」

「え?」

「ぼくのメディア端末を忍ばせてみたことがあったけど、目新しい発見はなかった」

「うそでしょ?」

「さあ。どっちだと思う?」

 考え込むようにしてからサキはぼくの顔をまっすぐと見て、それから、「からかうのはよして」と膨れ面をした。笑っていたつもりはないが、心情が顔に出てしまったようだ。彼女の動揺ぶりがおかしかった。

「ぼくはきみにさして興味はないから、よそでほかの男を囲っていても怒らないよ」

「ねえ。なんだと思ってるの、わたしのこと」

 さらに膨れるサキを見ながらぼくは、こんどはちゃんとした機構の盗聴器を購入しておこう、と決意する。

 

 坊少年とはつぎに会う約束を取り交わした。こちらから会いに行くと提案したが、吉蔵が頑なに拒むので、坊少年のほうから会いにくる手筈となった。

 時間を空けてから会うほうがいいように思い、一週間後を指定した。

 その間にぼくは考えをまとめておかなければならない。今後の方針というやつだ。

 現状、ぼくには手駒が三つある。サキ、ミーさん、坊少年。しかし同時にそれらがぼくを縛る桎梏にもなり得る。

 彼らを手駒として扱うには、表面上、彼らの目的に沿うような提案と行動をとらなければならない。サキはリンネを救いたいし、ミーさんはリンネを破壊せずに封じたい。坊少年は、今の生活が崩れずに済むように、事態を収束させたいと望んでいる。

 もっとも欲張りなのが坊少年なのは言うまでもないが、それは彼がまだ子どもだからだ。何が問題でどうすればよいのか、現実を把握しきれていないために、さきの未来を見通せない。騙すのは容易だろう。となると問題はサキとミーさんだ。図式化すれば彼女たちは対立関係にあるのだが、同時に目的を満たそうとするからそうなるのであって、さきにサキを満足させ、つぎにミーさんの要望を叶えれば、丸く収まるように思えた。

 リンネの本体を集め、それから封じる。

 サキに封印のことを話す必要はない。醜いアヒルの子がハクチョウとなり飛び立ったあとでどうなったかなんて、読者は知る必要がないのと同じだ。めでたしめでたしで終わるべきだし、サキ自身がそれを求めている。

 ミーさんはぼくのこの考えを解ってくれるだろうし、支持してくれるだろう。

 問題は、ぼくの目的が叶わない点だ。これだとムイを手放すことになる。ぼくだけ丸損だ。骨折り損どころの話ではない。また前提条件として、リンネの本体を集めるためにはオジジからの横槍をいなさなければならない。

 オジジからの横槍をいなしつつ、坊少年を目として扱い、サキを手足に、ミーさんを出し抜く。

 ミーさんのことだからぼくがムイを持ちつづけることを許しはしないだろう。彼女はムイに目を瞑ることはない。ムイという謎の物質が世間に知れ渡ったとき、悪夢はふたたびミーさんの背後に影を生む。ミーさんの望みが、シリコと過ごす日常の継続にある以上、リンネはどうあっても復活させるわけにはいかないし、復活の可能性を一つでも多く潰すためには、取り残しは許されない。

 ミーさんを納得させるにはリンネを実際に封印するよりなく、ぼくがムイをこの手にするには、封印したリンネからムイだけを奪還するほか術がない。偽物の手を用意するのも一つだが、リンネが意思ある人形である以上、偽物の手を黙っていてくれるとは思えず、成功する見込みはすくないだろう。

 そうなのだ。敵はなにも人間だけではない。

 リンネそのものにも警戒の目をそそがなければならない。

 今のところムイたちが活動を再開した様子はなく、そこから推測されるのはぼくの生活圏にムイの本体――すなわちリンネが存在しないということだ。

 いや。

 じつはすでにリンネのそばを通っており、ムイがリンネの意思を宿している可能性は否定できない。感覚の戻ったムイたちがそれでも静観を決め込んでおり、こちらから密かに情報を仕入れている可能性はゼロではないのだ。

 が、それを確かめる術をあいにくとぼくは持ち併せていない。念のためムイはしばらく虫かごのなかに仕舞ったままにしておく。

 ひとまず。

 ぼくのすべきことは、オジジからの横槍対策だ。

 そろそろリンネの調査も佳境に入る。収穫はないままで終わるかもしれないが、図書館通いとはおさばらだ。自由になった時間で、こんどはミーさんのことを調べよう。弱みの一つでも握れればこちらのものだ。

 おそらくミーさんも今ごろぼくのことを調べている頃あいだ。その一点で、ひょっとすると彼女はオジジを頼っているかもしれない。過去の来歴は現状、ぼくの脅威とはなり得ない。現住所だって、知っているのはサキだけだ。図書館に通わなくなれば、ミーさんも坊少年も、ぼくと接触するのは事実上困難となる。

 だからミーさんからすればそれはぼくへの敵対行為ではなく、ぼくとの関係性が露見しないようにとの隠蔽工作のようなものなのだ。敢えて追い詰めるような真似をし、ぼくを敵視しているとオジジに印象付けようとしている。オジジとのあいだに入った亀裂をいちど修復し、いずれやってくるだろう縁を切る機会を窺うために。

 ぼくを護るために彼女は飄々とぼくを裏切る。

 

 坊少年がふたたび図書館にやってきた。ひと気のない例の公園まで連れて行き、そこで電波の受信しないメディア端末を手渡した。

「これを持っていればいいんですか?」

 邪気とは無縁の青みがかった瞳がこちらを向く。ひと通り操作の仕方を教える。

「きみは持ってないの」

「こういうのですか?」

「親に持たされたりしない?」

「必要ないので」

 零す坊少年はそれが当然であるかのような佇まいで、なぜそんなことを訊かれるのかと疑問にさえ思っていそうな素朴な調子でそう言った。何かの記事で読んだことがあるが、いまの小学生のメディア端末保持率は九割を超えている。そんな中でそれを持たない者たちのことを思うとなぜか胸が満たされる心地がした。なんとなくだが、吉蔵もまた親に買い与えられたモノではないように思えた。

 あさってにさっそく定期集会があるそうだ。

 三日に一度の周期で集るようだから、一週間後に会う約束をとりつければ、二回分の集会記録が手に入る算段になる。

「もし端末が見つかったら、拾ったと話すんだ。交番に届けようと思って持っていたって説明するといい」

「坊、いいのか」ランドセルの中から吉蔵の声が届く。「仲間を売るってことだぞ」

 坊少年はこちらを見上げる。そうなんですか、と真意のありどころを問うような淋しげな眼差しだ。

「ある意味そうだ」

 誤魔化すこともできたが敢えてそう答える。「仲間を本当に救いたいのなら、彼らを欺くことも必要になってくる。ケンカをやめてと言ったところで聞く耳を持ってくれないような相手なんだろ。言葉での説得は無理だ。そこで何もせずにただ指を咥えているか、それともどうにかしようと行動するか。きみが選ぶ道は二つに一つしかない」

 本当は三つ目の選択肢、仲間から距離を置く、というのもあるが、これは黙っておく。坊少年にとってもっとも顧慮すべき選択肢でもあるからこそ、今ここでその道があることを知られるわけにはいかない。

「解りました」坊少年は覚悟を決めたようで、メディア端末をランドセルに仕舞った。

「気に食わねぇ」吉蔵が吐き捨てるように言い、ランドセルのなかでジタバタと暴れた。

 

 坊少年と別れてから三日後にぼくの図書館通いは終わりを迎えた。読むべき本が底を突いたのだ。中盤を過ぎたころからほとんど惰性でつづけていたので、収穫がゼロであっても落胆はない。むしろ迷路から脱したような清々しさがある。

 リンネにまつわる書物はなかった。逆説的にそれは、リンネと見られるあの人形が、それほど著名な人形ではなかったことを示唆している。

 オカルトなのだろう。名もない人形師のつくった人形がなんらかの因果を受けて命を持った。これはそういう物語なのだろう。ぼくはじぶんをアニメの主人公のように考え、それからリンネの生みの親たる人形師を思った。いったいどんな人間なのだろう。どんな人間なら生きて動く人形を、それも、ほかの人形にまで命を吹き込めるような人形をつくれただろう。どのように想像を逞しくしてみたところで、一介の人間などに生きた人形などつくれようはずもない。ぼくの壮大な絵空事はアニメの域を出ることはなく、ラストの展開では手のひらから波動を放出して周りの人間ごとリンネを吹き飛ばし、ぼくはようやく囚われの姫、ムイと結ばれた。タダで貸し出されても観ないだろうクソッタレたシナリオだ。

 家に戻ると奇しくもサキが、「いっしょに映画観よ」と言いだした。勝手に観れば、と突き放したものの、観よーよ観よーよとしつこくまとわりつかれ、それを拒むだけの気力が湧かず、観たくもないアニメ映画を鑑賞することになった。右手に宿った呪いを解くために青年が旅にで、神のいる森へと辿り着き、そこで野生の美少女と恋仲になるといった有名な映画だったが、サキは観たことがないらしく、だからでもないがぼくは彼女に、「奪われた首を取り戻すべく神がさいごに大立ち回りするんだ」と盛大なネタバレをしてやった。サキは、もう、と言ってぼくの首を絞めた。

 夕飯を済ませ、ぼくはリンネの調査報告をまとめる作業にとりかかる。サキに見せるための報告書だ。A4コピー用紙十枚ほどの分量で、思ったより実りがあるように映るが、実際のところ解ったことと言えば、リンネの正体は不明であり、いつどこの誰がつくったのかといった製作者を含めたありとあらゆる詳細が分からないといった、不明、不明、オンザ不明という現状だけである。動く人形とみられるモノも、そのほとんどが髪の毛が伸びたり、知らぬ間に置き場所が変わったりと、生きていると形容できるものは少数で、からくりの機構を組み込まれた人形は数あれど、そうした機構を持たない人形で自在に動きまわるといった事例は、どの書物にも記されていなかった。

 ふしぎなのは、フィクションの世界でも、その存在がけっして多く描かれていないという点だ。ホラーなどでは呪いの人形として割合に多くモチーフにされているが、それらはたいがい人間の魂が宿っていたり、人間の怨念などにより動いたりする。人間が魔法によって人形にされてしまうといった形式も多い。くるみ割り人形などはその典型だ。人形それそのものが命を得る、というのはフィクションの世界であっても稀有である。生きた人形を扱っている文芸作品もあることにはあるが、どれもそういった現象に対する明確な答えというのは示されておらず、けっきょくのところ「そうだからそうなのだ」と強引に解釈を押しつけられている。鳥が飛ぶのは鳥だからだ、人形が動くのはそういう人形だからだ。

 純粋に人形が命を帯びる話となると、オズの魔法使いに出てくるブリキ男やピノキオなどが筆頭にあがる。だがピノキオは最終的に人間になってしまうし、単独でも活動可能だ。ブリキ男も同様に、リンネとの相違点が多い。

 アンデルセン物語では、「しっかり者のスズの兵隊」という題目で、片足の兵隊人形が主人公として描かれているものがある。片足の兵隊は紙でかたどられた踊り子の人形に恋をし、最終的に共に燃えてなくなってしまう。せつない話だ。アンデルセンが初めて無機物を主人公にした作品であるというが、それが魂を持った人形を扱った最古の物語というわけではないようだ。

 マンガ大国と呼ばれるこの国では、有名なところでは「ローゼンメイデン」というマンガがある。命を持った人形たちが、真の人形となるべく闘いあうというもので、これなどはリンネとちかい世界観がある。人形が人間と契約しエネルギィを確保する設定や、人形たちがそれぞれに固有の能力を有しているところなど、リンネと重なるところも多い。

 しかし完全オリジナルな作品であるらしく、元ネタとなる先行作品は存在しない。原典がないならば、偶然の一致とみるよりほかはないだろう。

 視点を変えて考えてみる。

 無条件にぼくたちはリンネを人形であると前提していたが、そもそもリンネは人形なのだろうか。たとえば小型でヒト型という条件を取りだせば、妖精やら小鬼やら、該当しそうな対象はいくつか挙がる。どれも真実に存在しているとは思えない空想上の生物だが、現実に目のまえにシリコや吉蔵など、目を疑うような現象がヒト型のカタチをとって跋扈しているのだから、「空想」の二文字で片づけてよい話ではないだろう。

 妖精ともなればその存在は神話にまで遡らなければならない。あいにくと人形に関する書物で手いっぱいで教典には手を伸ばしきれていないのが現状だ。

 そもそもぼくは当初からムイがそういった生き物であるのではないか考えていた。サキと出会うまで「人形が命を持っている」などという夢物語など考えにさえ及ばなかった。

 サキやミーさんたちはなぜリンネを人形と見做しているのか。正体不明であるはずのリンネをなぜ。

 答えは単純に、リンネがそう彼女たちに説明したからだ。

 わたしは人形です。

 と、自己紹介をした。

 自己紹介されたからサキもミーさんたちも、その言葉を前提にリンネが人形なのだと思い込んでいる。

 善良なのだろう。人を信じられないと言ったミーさんまで、人形の言うことは信じたのだ。疑いの目をそそぐことになった現在においても、信じていられたころに刷り込まれた情報が未だに前提条件として機能している。

 やはりリンネは人間を利用して何か企んでいたと考えるべきではないのか。

 いずれにせよもっとも信用ならないのはリンネである。

 仮に青月青年よりも前に誰かほかの人間がリンネと契約していたとすれば、その人物のことも警戒しておく必要がある。

 物事には支点というものはない。あらゆる流れが影響しあい、一つの事象を形づくる。しかし何かが起きるとき、そこには必ずきっかけがあるものだ。たくさんのドミノが手順を踏み、無数の要因となりながら一つの流れを形成する。それでもドミノを倒すきっかけは外部からの一押しにある。

 その一押しがなんであるのかが解れば、リンネにまつわる今回の一件は全貌を現すだろうと思われた。

 リンネと直接話す必要性があるようだ。ぼくは方針を固めた。

 

 三日後、坊少年からメディア端末を返してもらい、ほとんど言葉を交わさずに、詳しい話をするのは次回ということにした。まずは彼らの集会内容を把握しておくのが先決だ。

 アパートに戻ると珍しくサキが帰ってきており、

「早番だったの」とこちらが尋ねる前に言った。

 手にはぼくの作成した報告書があり、眠気と格闘しながら目を通していたようだ。

「で、どうだったの」紙面から目を離さずにサキは言った。「うまくいった?」

「録音はしてきたみたいだね。どんな内容が入っているかはこれから確かめる」

「聞かせて、聞かせて」

 サキは報告書を投げ捨てるようにし、ゴールデンレトリバーを思わせる勢いでこちらに飛んでくる。「わくわくするよね、こういうの」

 念のため電源を切っておいた。起動させてからすぐにGPS機能など、居場所を特定するのに役立つアプリがダウンロードされていないかを確かめる。

 初期化状態が保たれていると判り、ひとまず警戒心をほどく。とくべつ電波を受信しているといった様子もない。

「どうしたの? 操作の仕方わからない? 貸して」

 強引に奪い取るようにすると、サキは録音されているデータを再生させた。

 およそ二時間分のデータが入っていた。

 定期集会の分が一時間半と、それから三十分は吉蔵からの「坊を裏切ったらタダじゃ済まない」といった脅し文句だ。坊少年が寝ているときに録音したのか、吉蔵の語彙力が尽きるまで、こちらへの悪口雑言にも似た脅しはつづいた。

「なんなの、これ。怒ってるのにかわいんだけど」

「それも人形だよ」

「坊ちゃんの? わたしも会ってみたいんだけど」

 ここでダメと言うこともできたが、

「もうすこし待って。準備が整うまで、サキにはじっとしていてほしい」

「足手まといだから?」

「きみのことが心配だからさ」

「うふふ。ウソでもうれしい」

 そこでサキは薬局のビニール袋をガサゴソ云わせ、コンドームをごっそり取りだした。

「え、なにそれ」今まで避妊なんて気にしていなかったのに。「まさかその量、きょうで使い切るつもりじゃないよね」

「そのまさかだよ」莞爾として笑いサキは、あとで洗うの面倒なんだもん、と気恥ずかしそうに言った。

 録音データには、主としてオジジとミーさんのピリピリした雰囲気が収まっていた。言い争いというほどではないが、互いに相手の意見が気に食わず、黙殺することで拒絶の意を醸していると判るに充分な陰険さが漂って感じられる。

「感じわるいね」サキにも分かるほどだ、よほど険悪な仲なのだろう。

 坊少年はほとんど会話に加わっていない。ときおり同意を仰ぐようにミーさんが、坊もそう思うよね、と水を向ける。それに対してすぐさまオジジが、「言いたいことはハッキリ言っとけよ坊」と暗に同意するんじゃねぇぞ、と圧力をかける。坊少年としては口を開きたくとも開けない状態だ。

 声だけを聴いていると判ってくることがいくつかある。

 たとえば人形たちの立ち位置だ。

 オジジの人形と思しき声はなく、その場にあるのはシリコと吉蔵の声だ。シリコは言うまでもなくミーさんの味方だが、吉蔵はというと、以外にもオジジに協力的だった。坊少年の意思を汲んで、というわけでもなさそうで、ミーさんに加勢するシリコに噛みつくような感覚で言い返す吉蔵の様子が多く収録されている。

「どう思う?」

 サキに感想を尋ねるも、

「どのひとがムカイさん?」

 彼女は懸命に声を聞きわけようとするのに必死で、そこにある違和感に気づけていない様子だ。

 そう、違和感がある。

 まるでどちらか一方が優勢にならないようにと、天秤の釣りあいを測るような作為的なちからが働いているように感じられるのである。

 あくまで意見がまとまらないように。

 二項対立がつづくように。

 演技ではないというのは、聴いていればわかる。というよりも、これを偽ることにメリットはない。

 仮に仲間割れを演じ、その裏では固い絆で結ばれていたとして、ぼくがミーさんを、そして坊少年を信頼する可能性はゼロに等しい。そのことをミーさんが理解していないはずもなく、また吉蔵にしたところでぼくをそのような人物像としては見做していないはずだ。ぼくからの信用を勝ち取るために、仲間割れを装うのに意味はない。

 或いはほかに何か目的があって仲間割れを装っていたとして、或いはぼくに何か錯誤を抱かせようと、誤った認識を植えつけようとしていたとして、それによってぼくが具体的に何か行動を起こすことはない。

 ともすれば、こちらの思惑など知る由もない彼女たちが、無意味な作戦を決行していたとしてもふしぎではない。

 だが録音されていた内容から察するに、これはれっきとした盗聴であり、坊少年にぼくを裏切る意図などはなく正確に仕事をこなしてくれたということで、言い換えればぼくの抱いている違和感というものは、ミーさんたちドール遣いが醸しだしているものではない。合間合間に差しこまれる人形たちの相の手が、どうにも牧羊犬を連想させ、羊を誘導するのにも似た作為的な立ち回りを感じさせるのである。

 ぼくの勘違い、考え過ぎということもある。誰かほかの第三者に確認したいところだが、適切な人物が見当たらない。サキなどは論外だ。

 ミーさんになら確認してみてもよい気がするが、そばにシリコがいる状態でどうやって切りだすべきか迷う。

 人形たちは得体が知れない。そんなことはミーさんたちだって百も承知のくせに、そのじつ、自分の人形に対してはなみなみならぬ信頼を寄せている。

 そこを人形たちが、ひいてはリンネが利用していないとは限らない。

 そうだとも。

 なぜ彼ら人形が総じて独立していると思い込んでいたのだろう。ムイやサディがリンネの端末となり得たように、シリコや吉蔵、その他リンネによって命を得ていた人形たちがリンネと繋がっていないとどうして言い切れようか。

「そうだ、そうだったじゃないか」

 かつてサキから譲り受けたサディとの筆談が記されたノートをひっぱりだし、そこに記されたサディの人格と、ムイがぼくにみせた素っ気ない態度、冷ややかな対応を思いだす。

 思いだし、ぼくは閃いた。

 リンネには無数の人格があるのではないか。それも一つきりではなく、無数でありながら並列化された人格があるのではないか。

 確かめる術はあるだろうか。

 考えを巡らせるが、人形たちがボロを出してくれるのを待つより術はないように思われた。

 

 メディア端末を回収するとき、ぼくは坊少年にこう言った。

「ミーさんにはぼくとの関係を打ち明けてもいいよ。ただし盗聴の件は内緒で。できれば盗聴が完了したあとに」

 いまごろ坊少年から話を聞かされてミーさんは泡を食っている頃あいだ。

 自分が尾行されていたこともそうだろうし、坊少年にそんな危ない真似をさせてしまったという呵責の念もあるだろう。或いは、端から坊少年にそのような行動をとらせようとミーさんがわざと坊少年に尾行させたという可能性もないわけじゃない。いずれにせよ坊少年から話を聞いたミーさんは、彼の協力を経てどうにかぼくとふたたび話を交わそうと行動を起こすに相違ない。

 案の定、三日と立たずして図書館から連絡が入った。ぼくの忘れ物らしい財布が届けられたので、取りに来てほしいというものだ。

 詳しく話を聞いてみると、「いつもあそこで座って作業している青年が落としていったものです」と仔細な情報と共に財布を職員に預けていった女性がいたそうだ。

 十中八九ミーさんだ。

 ご丁寧にも財布のなかにはぼくの顔写真が入っていた。すっかり顔なじみとなった司書さんの確認のもと、図書カードの情報からぼくのもとに連絡が入ったという寸法だ。

 どうせならデタラメな番号を記載しておくんだった。几帳面なじぶんの性格を呪う。

 間違いなくぼくの財布です。

 連絡のあった翌日に図書館に行き、心にもないことを言って財布を引き取った。財布には安くない金額が入っていた、図書館をあとにしようとすると、階段のところでミーさんが、やあやあ、と柱に背をあずけるように立っていた。「財布は返してもらうわね。中身はどれどれ。うん、減ってない」

「テンション高いですね」

「そう?」

 何も言わずに歩きだすので、その背を追いかける。

「坊から話は聞いたわ。きみのことだから何かしらの情報収集を坊に頼んでいたんだろうけど、どう? なにか解った?」

「貴女たちの仲が思った以上にわるいということ以外は、なにも」

「なかなかの成果じゃない」皮肉だと判る。「なら私の言ったことが嘘じゃないって解ったでしょ」

「ええ。ただ、それと貴方を全面的に信頼するかどうかは別問題です」

「部分的になら信頼してくれるとでも?」

「そういう言い方ができないわけではないですね」

「よし」ミーさんはそこでガッツポーズを決めた。

「テンション高いですね」

「そう?」

 わざと、なのだろうか。彦星に逢えた乙姫を思わせるはしゃぎ具合だ。ミーさんらしくない。

「あ、私らしくない、とか考えたでしょ今」

「そこは伝わるんですね」

「きみはちょっと誤解しているようだけど、私は私であって、きみにどう映っていようが私なんだよ」

 サキみたいなことを言わないでほしい。

「あ、今きみ、ほかの女と比べたでしょ私のこと」

 ますます以ってサキみたいだ。

「きみはたぶん、女性にある女性性というものを履き違えているわよね」

「そうですか?」そもそも女性性とは何かが解らない。

「どんな女だって、好きな男ができたら浮かれるわよ。それをきみは、おかしなやつ、でひとくくりにしちゃう。そりゃモテないわなあ」

 後ろ手に手を組み、そらを見上げるようにしてくるりと半転し、彼女はうしろ歩きをしながら、

「私んところに来なよ」と言った。

「どういう意味ですか」

「どうもこうもない。そのまんまの意味。いまの女なんて使い捨ての財布みたいなもんなんでしょ? 私が養ってあげるからさ」

 文字通り鞍替えしろという意味らしい。

「もちろん無理強いはしないわ。ただ、さいきんオジジも私への関心を薄めてきたし、そろそろ手元に置いておきたいのよね」

「もうすこし歯に衣着せたほうがいいんじゃないですか」

「オブラートに包むとほら、きみの場合、深読みされちゃってうまく伝わらないでしょ」

「たぶん、サキは許可しないと思いますよ」

 口にしてからはっとした。

「許可が必要なの?」案の定、ミーさんは口をあんぐりとさせ、「きみ、だいじょうぶ?」とこちらを案じ、それから小馬鹿にしたふうに顔をしかめた。「調教されすぎじゃない?」

「冗談ですよ」取り繕い、ぼくは言う。「ただ、現状リンネの部位を管理しているのはサキなんです。サキに疑われずに部位を持ちだすのは中々に至難で」

「構わないわ」

「へ?」

「部位はあとで奪えばいい。私はただ、きみがほかの女にいいように扱われているのが気に食わないだけ」

「よく解らないんですが」

「ああもう」ミーさんはじれったそうにうしろ歩きをやめ、こちらまで歩み寄ってくると、

「私はきみが欲しいの。ただ、それだけ」

 肩に手を置き、引き寄せるようにしてぼくの唇を、その赤く充血しきった唇で塞いだ。サキみたいに強引に舌をねじこんでくることはない。唇と唇を溶接するようなつよさで、彼女はぼくの下唇を食んだ。

「優柔不断な男って嫌いなの」

 解放してからミーさんはぼくの肩に手を回したまま、

「で、どうする?」

 真っ向からぼくのひとみを覗きこむようにした。

 

 結論から言えば、ぼくはミーさんの提案を受け入れつつ、かつ、従いもしなかった。

 いったんアパートに戻ることを条件に、ミーさんのもとで暮らす話を前向きに検討すると応じた。

 ぼくにはどうしたってムイを手放してまでミーさんの世話になる気にはなれなかった。

 ミーさんにはああ言ったが、じつのところサキからムイとサディを奪い取るのはそう難しくはない。サディとムイはサキが管理するどころか、虫かごに入れられ、畳の上に放置されている。部屋さえ判明すれば、そこらの空き巣にだって奪還可能だ。

 が、仮にぼくがいなくなったと判れば、サキは対処を講じるだろう。半日で部屋をあとにし、行方を晦ませることくらいするはずだ。ひょっとするとぼくを探すために、ドール遣いのアジトに乗り込もうとさえするかもしれない。

 面倒なことは避けたい。

 別れも告げずに一方的に姿を晦ますのは利口ではない。相手の懐に入ってみるとサキには説明し、同意を得てから去ったほうが、あとあとごたつかずに済む。

「ムカイさんから提案があってね。しばらく一緒に暮らしてみないかって」

「こんどは何の冗談?」

「情報の共有を徹底させてみないかって。わるい話じゃないと思う」

「つまり、え? きみ、この家出てくってこと?」

「一時的にね」

「でもだって、それって、え? わたしは?」

「帰る場所がなくなったらぼくも困る。サキにはしばらくここにいてもらいたい。ぼくを待っていてくれないか。何かあったら助けてほしいし」

「そりゃ助けるよ。助けますよともさ」

「ムイは連れて行くけど、いいよね。もし嫌ならサディでもいいけど」

「え、え、なにそれなにそれ」

 本格的にぼくが荷造りをはじめたのでサキは玄関のまえで陣取るように正座し、

「急すぎるよ。ちょっと話しあいしよ。落ち着こうよ、ね?」

 なんとか止める手立てはないのか、と頭を目まぐるしく回転させている様子だ。そのうち目まで回すのではないか。

「ぼくの目的は一つ。ムカイさんがどうしても教えてくれないドール遣いたちのアジトをつきとめること。一緒に住むことを条件に教えてくれる手筈になってる。たぶん、ムイを手土産にぼくを仲間に引き入れるつもりなんだ。そのための前段階として、裏切ることはないという保証のようなものが必要なんだと思う」

「いっしょに住むことがぁ? 必要かぁ?」

「サディたちを手土産に持っていくこともその一つだよ」

「でも、ならせめてその人ん家の住所くらい教えてってよ」

「ムカイさんがどこに住んでいるのか、ぼくもいまはまだ知らないんだ」

「どこに行くのか教えてくれないってこと?」

 不満そうなのは声だけでも判る。

 カバンに衣服を詰め込みながらぼくは、

「メディア端末の電源は点けておくから」と言った。

 むろんメディア端末は途中で投げ捨てていく予定だ。どこぞのマンションのベランダにでも投げ入れておけば、しばらくの時間稼ぎにはなるだろう。そこにぼくが住んでいるとサキが思い込んでいるあいだに、ぼくはこっそりこのアパートに戻ってきて、ムイでもサディでも残していったほうの部位を手に入れる。

 あとはもうサキの出番はない。用済みというやつだ。

 思わぬ展開だが、新しいパトロンができた。相手がミーさんだというのだから願ってもないことだ。

 鉄くずと金を交換したようなお得感がある。少々浮かれていたかもしれない、

「なんでそんなにうれしそうなの」サキから疑いの目をそそがれる。「あやしい」

「ちょっとした旅行気分だからね」

「旅行に行きたかったならいくらでも連れてってあげるのに」サキは諦めきれないのか、「ねぇ、どうしても行くの。もうすこし待てない? わたしにもほら、いろいろ準備あるし」と引き留める気満々でぼくの邪魔をしはじめる。

 下着を隠されたり、お気に入りのジーンズを洗濯機に放り込まれたりと幼稚な抵抗に遭う。

 物ともしないぼくに業を煮やしたようでついにサキは、

「どっちも持ってっちゃダメなんだから」

 ムイとサディの入った二つの虫かごを胸に抱いた。我が子を守ろうとする母ザルを思わせる形相でこちらを威嚇する。

「無理にとは言わないけど、できれば貸してほしい。信頼を勝ち取るためにあると便利なんだ」

 考えこむようにしサキは、

「サディでもいいの」と言った。

「できればムイのほうがいいけどサキに頼んでいるのはぼくだ。サキにはそれを拒む権利がある。拒まれてもぼくはそれをどうこう言える立場にない」

 サキは悩ましげに腕に抱いた二つの虫かごを交互に見遣った。

「じゃあ……サディで」

「心配しなくても」ぼくはわざと噴きだすようにし、「こんなことできみへの評価は下がったりしないよ」と口元を緩めてみせる。「ムイのこと、頼んだよ」

「ぜったい裏があるって解ってるのにぃ」

 我が子を人食い鬼へ差しだすような手つきでサキはそれでもぼくに虫かごごとサディを手渡した。

 

 一階にドラッグストアの入っている高層マンションにミーさんは暮らしていた。聞けば大学の事務職をやっているそうだ。過去にアルバイトをしたことのある身としては、大学の事務職は正規雇用であればそれなりに高給取りだという偏見がある。生徒たちの起こした問題の事後処理や、気ままな教授たちの寄越す書類に追われさえしなければ、定時に上がれる日も少なくない。まずまずの職場と言える。

「うちの先生方はみんな引きこもりだから」

 仕事が偏っていて楽なのだといった旨をミーさんは話した。

 仕事のできる人なのだろう。ぼくはミーさんへの評価を一段高く付けなおす。

 セキュリティのしっかりしているマンションらしく、一階の共同玄関口でぼくはまずミーさんから入室するための暗証番号を教えてもらった。

「きみ以外に知ってる人はいないから、空き巣が入ったらまっさきにきみを疑うからね」

 冗談半分といった調子でミーさんは言った。

 部屋に入ってから最初に、衣食住にかかる費用はすべてミーさんが負担するという話をされた。

 月の小遣いなどはサキのときの二倍に設定された。サキのときは小遣いから衣食分を賄わなければならなかったから自由にできる金額は実質三倍になったと言える。

「そんなにもらっていいんですか」

「いいわよ。でもそういうことはもうすこし恐縮しながら言いなさいね。まったく心が籠ってない。やりなおし」

 機嫌がよいのはいいことだ。ぼくまで愉快になる。

「それよりもちゃんと持ってきてくれたのよね」ミーさんは待ちかねた様子で催促する。「さっそくでわるいんだけど、見せてもらえない」

「はい。動かないですけど、偽物ではないので」リュックからサディの入った虫かごを取りだし、さらに中からサディを取りだす。「見てもらえれば判ると思いますけど」

 死んだ蜘蛛を思わせる静けさで手のひらのうえを転がる。

 何かを言いたげなミーさんを制し、ぼくはサディをテーブルのうえに置く。それからフォークを持ってきて、サディめがけて突き刺した。フォークの先がテーブルを抉る。だがフォークを引き抜いてもそこには元のままの姿のサディが転がり、テーブルにはフォークの跡が残っている。

「燃やしてみせてもいいですが、どうですか。たぶん、これがリンネの左手だと思うんですけど」

「そんなはずない」

 思っていたとおりの反応が返ってくる。そうなのだ。以前、ミーさんから見せられたリンネの画像。そこに映るリンネと思しき人形の手は、どう見てもムイやサディよりも二回りほど大きかった。どれだけ丸めてみたところでペットボトルのキャップには入らない。幼児の手のひらとほぼ同程度の大きさがあるように映った。

「前から思ってたんですけど」ぼくはここで一つの仮説を披歴する。「貴女たちがリンネだと思っていた人形もまた、リンネによって命を与えられていた人形だったという可能性はないですか」

「考えたことはあるけど、でも、だったらリンネはどこに――」

 どこに今リンネがいるのかは問題ではない。現状、在り処が分からないのだから同じことだ。考えるべきはなぜリンネがそのような工作を行ったかについてだ。これまでと図式がどう変わるかが問題になってくる。

「思ったんですけど、リンネの目的って何なんだと思いますか」

「目的?」

「存在意義でもいいんですけど。たとえば一般的に生物と呼ばれるものは、意識的無意識的にかかわらず、種の繁栄を目的に行動しますよね」

「本能に従うならそうなるわね」

「ならリンネはどうなんでしょう。種の繁栄というなら、ひたすら人間と人形を契約させつづければいい。だのにリンネは途中で、増やしたはずの人形たちを食い物にしてしまっている。これってリンネの目的が種の繁栄ではないってことになりませんか」

「言われてみればそうね」

「じゃあリンネは何がしたかったんでしょう。ぱっと見、思い浮かぶのは力の増幅ですよね。エネルギィタンクとしての人形を人間たちに与え、充分に実ってから収穫する」

「人間の命ごと?」

「というよりもリンネにとって人間は餌そのものなんじゃないでしょうか」

 ぼくはここで隣の部屋の様子を窺う。ミーさんにお願いしてシリコは今、鍵付きカバンのなかに仕舞われ隣の部屋でおとなしくしている。シリコには聞かせたくない話だ。こちらの真意は伝えず、余計な情報を聞かせて人質としての価値を高める必要はないと言って、ぼくはミーさんと二人きりの空間をつくった。

「ミーさんは考えたことないですか。リンネに命を与えられた人形たちが本当に独立した意識を持っているのかって」

「どういう意味」

「シリコちゃんたちにその自覚があるのかは分かりません。ただ、生物が本能によってその行動をある一定の枠組みで限定されているように、シリコちゃんたちもリンネにとって都合のいいように操られているんじゃないのかなって」

「シリコがスパイだとでも?」ミーさんがここでようやくというべきか、憤りを顕わにさせた。

「言い方がわるかったなら謝ります。ですが現状、疑わしきものは疑ってかかったほうが身のためです」盗聴から感じとれたぼくの違和感について話そうかとも思ったがやめた。ぼくはミーさんから顔を逸らし、彼女の声だけに集中する。人間の感情は顔よりもむしろ声にでる。ミーさんを刺激しないように言葉を斟酌しながら、「シリコちゃんたちにとってリンネという存在は」と口にする。「ぼくたちで言うところの本能にちかいものがあるように思うんです。シリコちゃんにはリンネという強制的な力が働いている。ぼくにはどうしてもそう思えてならなくて。ただ不安だっていうだけのことなんですけど、どうしてもそこのところの真偽をはっきりさせておきたいんです。ミーさんにはそれを否定するだけの論理がありますか」

「そんなの必要ない。シリコは私のために存在するし、私はあのコを信じているもの」

 べつにシリコを悪者にしようとしているわけではないのだが、どうしてもシリコが関わるとミーさんは平静を保てないらしい。シリコを出汁に使ったのがまずかったと判断し、

「吉蔵くんについてはどう思いますか」と問う。「たとえば定期集会のとき、不自然な言動をとったりしていませんか。というよりも坊くんから仕入れた情報によれば、吉蔵はあなた方にやや反抗的だと聞いていますが」

「そういう一面もなくはないわね」

「でしたらそれはなぜでしょう。なぜ吉蔵くんはあなたたちに非協力的なのか」

「逆よ。私たちに反抗的なんじゃなく、オジジに協力的なだけ。坊はね、まあなんだろう。家庭の事情が少々ややこしくて、言ったらかわいそうなコなの。それをオジジが面倒看てあげてるっていうか。もちろん坊の親御さんはそんなこと知る由もないんだろうけどね」

 吉蔵という人形もそもそもはオジジの所有物だったのだそうだ。それを坊少年が譲り受けた。いや、預けているだけという可能性もある。契約者は坊少年だが、吉蔵の持ち主は未だオジジだという言い方もできなくはない。

「まあ、そういうことになるのかな」こちらの推察を話すとミーさんは曖昧に首肯した。「前にも言ったけど、私たちもオジジのことはよく知らないのよ。自分のことをあまり話さないっていうのもあるんだけど、どうにも聞く話聞く話、ことごとくがうさん臭くてね。海外で古美術商を営んでいたとか、若いころは世界を駆け回るトレジャーハンターだったとか。それってどうなのって思うでしょ」

「オジジはどこに住んでいるんですか」

「今? さあ。ただ、調べようとすれば何とかなるかも。これってどうしても必要な情報?」

「できれば知っておきたいです」

「うーん。たとえばいま私たちがアジトにしているテナントの契約者を調べれば何とかなるかもしれないけど」

「オジジもそれくらいは予想して何か手を打っているんじゃ」

「可能性はあるわね。まあどちらがうわ手か腕比べといきましょ」

「調べてくれるんですか」

「その代わりきみは、私たちがリンネだと思っていたアレが何だったのか。本当のリンネはどこにいるのか。徹底的に調べてちょうだい。オジジにはまだ会わせられないけど、きみのことは話しておく。動きまわっても問題ないようにしておくから。何も解りませんでしたなんて言わないでちょうだいね」

 話はまとまった。

 ミーさんはオジジについて調べ、ぼくはより具体的にリンネについての調査を開始する。リンネの活動していた街に寄りつけなかったいままでとちがって、これからはより念入りな調査が可能となる。ぼくたちへの捜査網が解かれた今なら、サキを切り捨てずに済むかもしれない。サキにもこちらの街に入ってもらい、調査の手伝いをさせようとぼくは考えた。




第四章【陰謀の棘は人情を褒め】



 駅前に爆発事故の面影はない。青月青年への献花すら見当たらないが、ここでは確かに爆発があり、それはリンネによって引き起こされた。

 実際、調べてみて不自然な事故だという印象をつよく覚えた。爆発したと思しき下水管は、老朽化どころかここ五年以内に引かれた比較的新しいもので、しかもそのすぐ近くにはガス管も通っていた。不自然なのはこのガス管がまったくの無傷だったことだ。爆発の影響をまったく受けなかったとは考えにくく、だからこそ奇跡的だと呼べるのだが、仮に爆発によってガス管が傷つき、二次的にガス爆発が引き起きたとしたならば、その被害は甚大だったと言わざるを得えず、するとミーさんたちがぼくのまえに現れることもなかったはずだ。

 あの場でリンネとドール遣いたちの因縁が終わりを告げていてもおかしくはなかった。

 しかし現実には途切れぬまま、線香の煙のような細々しさではあるものの、今もなお因縁は導火線のようにつづいている。

「オジジの居場所が分かったわよ」

 ミーさんと同居しはじめてしばらく経ったころに、念願の情報が手に入った。

 地図を広げミーさんは、

「このマンションのオーナーがオジジだった」

 中心街に建つ高層マンションを示した。「道理で金持ってるわけよね。黙ってたってお金が入ってくるもの」

「雇われオーナーではないんですか」

「ううん」ミーさんは古い新聞記事のコピーを引っ張りだし、「これ見て」と広げる。「オジジの言ってた話、半分は嘘じゃなかったの。海外で古美術商やってたって話」

【掘り出し物で一攫千金】との見出しで記事が載っている。海外で活躍している個人事業主が著名な画家の未発表作を掘りだしたという内容だ。

 二十年以上前の記事で、おそらく図書館でもデータ化されていない古いものだ。

「この写真のひとがオジジですか」

「髭がないし、今よりずっと若く見えるからあれだけど、面影はあるし間違いないと思う」

 記事にはオジジと思しき人物を中心に幾人かが絵画を囲んで映っている写真が載っている。それぞれの人物に該当するように名前が並んでいる。記事の内容から察するにどうやらオジジと思しき人物の周りにいるのが、鑑定を買ってでた美術館の職員であるようだ。

「このときの掘り出し物でオジジは一躍億万長者。それから独自に事業を拡大したらしいんだけど」

 こんどはちがう記事、こちらは海外のものだ。翻訳してあるようで、メディア端末のメモを見ながらミーさんは読みあげる。概要としては、遺跡発掘現場から発掘途中の遺跡三千点あまりが一晩で盗まれるといった話だ。

「発掘作業を進めていたのがオジジのグループだったみたいでね。絵画を売ったお金で遺跡調査をはじめたってことでしょうね。すでに発見されていた遺跡は国の管理下に置かれていることがほとんどだからオジジはゼロから発掘に着手したみたい」

 自分の手で切り拓いた畑からスイカをまるごと全部かっさらわれた。オジジの境遇をスイカ泥棒の被害に遭った農家に見立てて想像する。滑稽だ。

「その後オジジはグループの会長を下りて、そのあとの足跡はさっぱり」

「どうやって調べたんですか」

「ん? 私?」

「仕事をしながらよく調べられましたね」

「興信所の人間に知り合いがいてね」そこでミーさんは一瞬口ごもった。「お金で片付くことならわざわざ時間とか手間とか、かけたくないじゃない?」何かを誤魔化すように息を吐く。「さて。きょうはこのくらいにして、ご飯にしよっか。私、お腹ぺこぺこ」

 台所ではシリコが夕飯の支度をしている。身につけているのはミーさん手作りのエプロンだ。オール電化のマンションであるらしく、火を扱わないためかシリコに料理をさせることにミーさんはとくべつ気を揉んでいない様子だ。

「味とか判るの」

 暮らしはじめた当初にシリコに訊ねてみたことがある。彼女はそこで、「解らないけど」とすまし顔で、「レシピ通りにつくったらミーちゃんよろこんでくれるし、問題ないデショ」とやや突っぱねた態度で応じた。

 あれから半月あまりが経つ。

 今宵の食卓にはフランス料理風の品が並んだ。鴨肉が主役でワインで下ごしらえしてあるのかやわらかく、舌に載せるだけで肉が融けるようだ。

「きょうも美味しい」ミーさんが頬に手を当てる。

「シリコちゃんは本当に料理がじょうずだね」とぼくは褒める。

「レシピ通りだもん。誰がつくってもおんなじデショ」

「照れてる照れてる」

 ミーさんがからかうとシリコは膨れ、

「ミーちゃんってばキラい」

 テーブルから飛び降り、ソファにあるクッションのしたに隠れる。見慣れた光景だが、何度でも浸かりたいと思えるほのぼのとした空気がある。

 後片付けをミーさんに任せ、自室に引っ込む。

 タンスの隙間に隠しておいたメディア端末を引っ張りだす。ミーさんから支給されたメディア端末ではなく、坊少年から回収した盗聴するのに利用したときの端末だ。こっそり契約してサキと連絡をとるのに利用している。

 端末を起動させるとサキから連絡が入っていた。

 ――あす、いつもの店でいつもの時間に。

 話したいことがあるのかもしれない。

 ミーさんと暮らしはじめてからサキとは大型百貨店の食事処で三回ほど密会している。事情を説明し、いっしょにミーさんたちを利用しようと持ちかけた。捨てられるのではないかと気が気ではなかったらしく、サキは二つ返事で承諾した。

 サキの家からムイを強奪する計画は、単独のほうがやりやすいと主張し、けっかぼくに一任された。実際に引っ越した二日後にはリンネの両手、すなわちサディとムイを耳を揃えてミーさんに献上した。とはいえ、さすがに両方持たせておくわけにはいかないので、サディをミーさんに、ムイはぼくが預かっておくことにした。

 が、これにはちょっとした狙いがある。

 ムイを手に入れるために実際にサキの家に忍び込んだわけだが、それはサキにも了解を得ての決行だ。客観的に叙述するならば、単に忘れ物を取りに戻った元住人という域をでないわけで、すなわちぼくはミーさんたちの目を欺いたことになる。

 ミーさんのマンションの住所、言い換えればぼくの居場所と引き換えにサキには一時的にムイを手放してもらった。ぼくがミーさんから信用を勝ち取るために立ち回っているあいだにサキがムイの偽物を用意し、その後、ぼくと本物を交換する。

 サキにはそれが本物のムイかどうかを見定めるだけの鑑識眼があり、ミーさんにはそれがない。ムイの偽物は常にぼくと共にあるので、ぼくの持つムイが偽物であると確かめるだけの機会をミーさんは持てない。ましてやドール愛好家の彼女がそれを本物と確かめるために、焼いたり、突き刺したり、潰したり、といった嗜虐的行為を働くことはないと言ってよく、本物のムイを見せたときでさえ彼女は指でつねる程度のことしかしなかった。偽物であっても十分に彼女の目を欺けたと思われる。

 ミーさんは今、サディを餌にオジジと交渉中だ。ぼくを仲間に入れるかどうかという話しあいをまとめている最中で、ぼくがこの街で自由に出歩く許可はすでに取りつけてあるという。

「オジジが拉致しようと動く可能性はゼロじゃないの。警戒だけは怠らないでね」

 ミーさんの真剣な様子から、交渉は難航しているようだと察する。

 オジジとしてはドールと契約していない者を仲間には入れたくないのだろう。解らないではない。自分たちは命を賭け、それこそ命を失うリスクを背負っている。対岸から火事を眺めて悦に浸っている部外者はときに異物以上に汚物に映る。

 逼迫した現状を分かち合えないのだ。どうあっても仲間とは呼べないし、呼びたくはないだろう。

 ミーさんにしたところでぼくを仲間というくくりでは扱っていない。

 けっきょくのところぼくは部外者であるし、どれだけ真摯に寄り添ってみせたところで協力者の域を出ることはない。いざとなればムイを手放し、彼らとの縁を完全に断つことなど造作もない。

 ぼくの本懐を知らないオジジからすれば、信用しろというほうが土台無理な話であるし、そもそもなぜミーさんがそれほどぼくを必要としているのかのほうが不可解に思われる。が、あいにくと彼女は現状ゆいいつといっていいぼくにとっての共鳴者であるのだから、こちらの本懐――すなわちぼくのムイへの並々ならぬ執着、言い換えればぼくの変人具合を理解しているとすればすとんと疑問は氷解する。彼女はすべてを見透かしており、ぼくに利用されることで利用し返しているのではないか。

 いや、いくらなんでも考えすぎか。ぼくはさいきになって冷静にミーさんを評価できないでいるじぶんに気づきはじめた。

 

 大型量販店は平日でも混雑している。駅前にあるここは人通りが途切れることはなく、かつミーさんの職場である大学とも数駅ほど離れている。鉢合わせする可能性は極めて低い。

「でもアジトの場所はまだ分からないままなんでしょ」サキはパフェを口に運ぶ手を止めずに言う。いっしょに住むことを条件に教えてもらうはずだったアジトの場所は、まだミーさんの口から教えてもらっていない。契約違反だと訴えてみたこともあったがミーさんの口は重く、こっそりシリコに訊ねてみても結果は同じだった。「ひょっとしたらこの近辺にあって、ほかのドール遣いたちに見られちゃうかも」

「偶然この店に入ってくるとでも?」店内を見渡し、「可能性は否定できないけど」とぼくはメニュー表を閉じ、店員を呼ぶべく備え付けのボタンを押す。「木を隠すなら森って言うだろ。密会するなら人通りの多いところで。ここが地理的にもイチバン安全なんだよ」

「ならいいんだけさ」サキは最後の一口を頬張りながら、ぼくが閉じたばかりのメニュー表を開き、新たに品定めをはじめる。

「まだ食べるの」

「おなか空いちゃって」

「よくそれで太らないよね」

「それってわたしのスタイルがいいってことを遠まわしに褒めちゃってくれてる?」

 店員がやってきたのでハンバーグセットを注文し、サキはチョコバナナパフェを追加注文した。

「ところで話したいことって何?」店員が去るのを待ってから口火を切った。「頼んでいたことで進展があったのかな」

「話したいこと? たくさんありすぎて何から話したらいいだろう。そうだ、このあいだうちの職場でね」

 火を吐きはじめたサキの口を指で塞ぐようにし、

「そういう話はいらない」

 きっぱりと告げる。

「だってさあ」サキはむくれた。「わたしだってきみとおしゃべりしたいよ。どうせムカイさんだって女なんでしょ」

「何度も言わせないでほしい。ムカイさんは男だ」何度もそう説明してきたが、やはり無理があるか。案の定、

「オーナーさんに電話で訊いてみたら女性が住んでるって」

「なに?」

「教えてもらった住所」

 舌打ちしそうになったが寸前で堪える。店員が注文の品を運んできたので会話が一時中断する。

 ぼくは考える。

 ムイを借りる条件としてミーさんの部屋の住所をサキに教えた。わざわざオーナーに電話してそこに住む住人の性別を確かめたということか。ハッタリの可能性を信じたいところだが、どうだろう。

 やましいことがあるとサキは鼻を摘まむように掻く癖がある。今はそれがない。

「なんでそうぼくの足を引っ張るようなことばかり」

「これくらいだいじょうぶだよ」

 店員が去ったのを見届けてから口にすると、サキはしれっと嘯いた。「妹だって嘘吐いたし、オーナーさんもすんなり教えてくれたし」

 個人情報保護法が騒がれている昨今に、なんてお気楽なオーナーがいたものだろう。たとえ親族にだって教えるべきではない。

「ムカイさんに連絡がいったらどうしてくれる。疑われるのはぼくなんだぞ」

「オーナーさんから? ないない。そもそも端から信用なんてされてないでしょきみ。もしムカイさんって人がきみを信じるような甘ちゃんなら、それこそ、この程度のことで疑いの目なんか向けたりしないよ」

「わかった。白状する。ムカイさんは女だ」

「名前もちがうんじゃないの」

「知ってて言ってるな」

「そりゃあね。調べたからね」

 姉の名前を知らない妹などいない。知らなければ妹を騙ってオーナーに電話することなどできはしない。だが、なぜそんな真似をするのだろう。

「ふざけてるのか?」

「いじけてるんだよ」

 サキは上目づかいにこちらを見つめる。「わかってよ」

 彼女の精神年齢の低さを失念していた。少々、酷使しすぎていたかもしれない。どんな道具も油をささないことには見る間に錆びつきガタがくる。本格的に足を引っ張られる前に定期的に整備する必要がある。

「ぼくがわるかった」

 ここは妥協するところだろうと判断する。「好機が舞い込んできたからって、焦っていたかもしれない。もうすこしきみのことを考えるべきだった。でもサキが言いだしたんだよ。ドルーチェを救いたいって。ぼくはサキのために尽力していると言っても過言ではないんだから、それを忘れてもらっては困る」

「わかってる、わかってるってば。怒らないで」

 ハチミツみたいに粘っこい視線が、見捨てないで、とぼくの脳裏に文字を書く。

「怒ってないよ」

 言うと、彼女は満足げに下唇を噛んだ。

 ぼくはときおり幼子を相手に一人相撲をしている気分になる。なぜこんな幼稚な相手にここまで心労を背負わなければならないのか。

 こちらの辟易した心情などおかまいなしに、サキはご機嫌に職場の話をしはじめる。ぼくは相槌を打ちながら、冷めかけのハンバーグセットを胃に納めていく。

 ほかのことを考える。

 オジジたちのアジトが解らないのではこちらも動きようがない。リンネの手がかりもないのだから出し抜こうにも、どの道をすすめばいいのか、抜けるべき道さえ見当たらない。

 虎穴に入らずんば虎児を得ずとはいうが、虎穴に入ったまま半月以上も何も進展がないままだ。ムイをサキに預けておくのもそろそろ限界だ。こうして密会するときにしかムイを嗜虐することができず、ぼくの悪意は行き場を失くし、いまにも胃から逆流しそうだ。

 サキのおしゃべりを聞き流しつつぼくは、久々のムイの感触をぞんぶんに味わった。どれだけ力を籠めて握りつぶそうが、どれだけ爪を立てようが、ムイはそんなぼくの悪意を丸ごと受け入れてくれる。壊れもせず、欠けもせず、ぼくを傷つけもしない。それでいて水や空気にはない確かな手ごたえを感じさせてくれるのだからその奇特性たるや人命の非ではない。


 夜の帳が下りる前にサキとは駅前で別れた。彼女が改札口をくぐったのを確認してから家路につく。

 ミーさんはすでに帰宅しており、ぼくの顔を見るなり、

「きょうは外食にしましょう」

 笑顔でぼくをそとに連れだした。

「シリコは?」

「連れてったってあのコは食べられないもの」

 部屋に置いてきたということか。いつもより小さめのカバンをミーさんは持った。

 タクシーを拾い、乗り込む。

 とくに反対する理由もないので黙って従ったが、しょうじきさきほどハンバーグセットを食べたばかりだったので胃が重い。店についてから食事を済ませてきた旨を打ち明け、デザートだけ注文しようと決める。

 国道に入り、トンネルを抜ける。車を持たないぼくからすれば、どこへ向かっているのか推量するのはむずかしい。街から離れていっていることだけは判った。

「どこへ向かってるんですか」

「山奥にいいところがあるの」

 こちらを見ないで受け答えするミーさんの涼しげな様子にさすがのぼくも、これは妙だなと察した。

 なるほど。

 よく見れば運転席にいるのは知った顔ではないか。

 バックミラー越しにオジジの鋭い眼光がこちらを向いた。

 

 タクシーは山奥をすすみ、とある山小屋のまえで停車した。麓を抜けてからここまで来るまでのあいだに民家はなかった。助けを呼ぶには不利な立地だ。

「降りて」

 逃げても無駄だと彼女たちも知っているのだろう。とくに拘束するでもなくミーさんはタクシーを降りた。オジジはすでにそとでタバコを吹かしている。

「さき入ってろ」

 指示され、ミーさんはぼくの背を押すように歩かせる。山小屋のなかはホコリ臭く、積み上げられた時間が相応の汚れとなって蓄積している。

 電気は通っているらしく、電源を入れると明かりが灯った。

「ようやくぼくも仲間入りですか」

「黙ってて」

 椅子に座らせられ、服をまさぐられる。ミーさんからもらったメディア端末を没収された。

「冷えてきたな。秋も終わりだ」襟もとを掻きあわせるようにしオジジが背を丸め入ってくる。ミーさんからメディア端末をひったくるように取るとその場で壁に投げつけ、破壊した。ぼくのまえまでやってくるとしゃがみ込むようにし、覗き込むように目線を合わせてくる。「よお。久しぶりだな」

「タクシーの運転手さんに知り合いはいないんですけど」

 憎まれ口を叩いたからか、脛のよこを殴られる。表情に顕わさないように努めたが、痛いものは痛い。

「あの、これどういう状況ですか」ミーさんに状況の説明を求める。

「聞きたいのはこっちだよ。きみ、私を裏切ったわよね。どうして?」

「なんのことですか」

「きょうの午後だ。どこで何してやがった」オジジが割って入る。「言え」

「午後は調べものをして、それからデパートでハンバーグセットを食べましたけど」

「一人で?」

 なるほど。ごまかしても無駄だと思い、

「いえ、二人です」と告げる。

「それは誰?」

「知り合いですけど、べつに貴方たちの厄介になるような相手ではないですよ」

「嘘を吐かないようにしゃべる努力は認めるけど」ミーさんはそこで声から感情の起伏を消した。「きみが私たちに対して真摯にあろうとしない態度には少々、というか大いに腹が立つものがある」

「ひょっとしてバレてます?」

「興信所に知り合いがいるって話したわよね」

「ああ、はい」オジジの経歴を探るのにミーさんは知り合いの探偵を頼った。「それが何か」

「察しのわるいフリはしないで。こちらの怒りを買うだけよ」

「ごめんなさい。解りました。白状します。ぼくはあなた方を出し抜こうと、元同居人と共同して独自にリンネを探しだそうとしていました」

「そうよね。でもなぜそんなことを?」

 オジジはさきほどからだんまりを決めこみ、こちらの顔をじっと覗き込むようにしている。いざとなったらこの椅子を投げつけてやろうと椅子のへりを掴みながらぼくは、

「リンネを奪うことができたらおもしろいかなって」

 ミーさんの顔を見上げる。

「おもしろい? それだけ?」

「まあ、一言で言うなれば」

「私たちが命懸けだってのは知っているわよね」

「それは、ええ」

 だからおもしろいんじゃないですか、というのは言いすぎだと判断し、口にせずにおく。

 しばしにらめっこの状態がつづく。

「手だせや」オジジが静寂を破った。言われたとおり手を出すが、「おめぇのじゃねぇよ」とまたぞろ脛を殴られる。「リンネの片手だ。もう一個持ってんだろ。出せ」

「出しなさい」ミーさんまでぼくを威嚇する。

「どうぞ」

 抵抗したところで意味がなく、おとなしく差しだした。ミーさんに手渡したつもりが、オジジに横取りされる。ダイヤの値踏みをする鑑定士のような手つきでムイの偽物をつぶさにいじくる。

「本物はどこだ」

 ムイの偽物を壁に投げつけ、オジジはぼくの襟元をひねりあげた。

「元同居人に預けてますけど」視界の端では、ミーさんが転がったムイの偽物を拾いあげている。「もしぼくに何かあればすぐさまトイレに流すよう言ってあります」

「おめぇに何かあったと知られる前に取り返す。居場所は割れてんだ。相方もろともてめぇを魚の餌にしたっていいんだぞ」

「したければすればいいんじゃないですか。リンネの手がかりはすでに一つ、あなたたちだって持っているんでしょう。二つ揃える必要はないはずだ」

 半ば自棄になって言い放った言葉だったが、案に相違しミーさんたちは閉口した。

「もしかして二つ揃わないと不都合なことが?」

「黙れ」

 太腿を殴られる。さきほどまでの暴力とは趣がちがう。感情的になっていると判る。

「図星ですか」ぼくはそこでわざとらしく声を立てて笑った。「まあいいじゃないですか」と涙を拭うふりをする。「ぼくとしてみればほんの暇つぶしだったんです。こちらの動きがバレてしまったいま、あなた方に協力しない理由はない。ゲームは終わりました。ぼくの負けです。楽しませてもらったお礼と言ってはなんですが、力にならせてください」

「どう思うよ琴香(ことか)」オジジがこちらから目を離さずに言う。

「信用できるわけないでしょ」ミーさんが応じる。「かと言ってここで縁切りされても困るし」

「ひとまず拘束して相方のほうに揺さぶりかけてみっか」

「まあそれが妥当でしょうね」

「三日くらいなら水だけでも死なねぇよな」

「私に聞かないでよ」

 どうやらここに置き去りにされるらしい。ただでさえ肌寒い山のなかだ。秋も更けてきているいま、こんなところに暖房もなしに閉じ込められたのでは、ぼくの体力では二日保つかも分からない。

 オジジは腰を上げ、壁際まで歩いた。壁と一体化している収納棚を開け、中から登山用ロープを取りだした。

「動くなよ」

 椅子ごとこちらの身体に巻きはじめる。間もなくぼくは両手両足を拘束され、椅子と一体化する。身動きがとれない。

「一つ訊いてもいいですか」

 オジジには無視されるが、ミーさんがあごをしゃくった。聞くだけ聞いてあげるという意思表示だ。時間稼ぎも兼ねてぼくは問う。

「リンネの写真を見ました。でも、ぼくの拾った手があの人形のものとは思えないんです」

 サディを手渡したとき、ミーさんも同じ所感を漏らした。シリコたち第二世代とも呼ぶべき生きた人形がリンネによって操られているのではないか、といった議題が思いのほか白熱してしまい、あのときはうやむやなままで終わってしまった。

 ムイの偽物は偽物として喝破しておきながら、ミーさんたちはぼくの提供したサディに対しては偽物としての評価を与えていない。これはすこし妙に思う。ミーさんたちは本物のリンネを知っている。ならばムイやサディと写真にあった人形とのあいだにある差異に気づかないはずがない。

「あの写真はリンネじゃなかったということですか」

 偽物の写真を掴ませたのかと責めたつもりが、案に相違し、私たちも知らなかったのよ、とミーさんは釈明口調で零した。反射的に口にしてしまった言葉らしく、オジジからの責めるような視線を受けてすぐさま口をつぐむ。

「知らなかった? どういうことですか。やっぱりあれはリンネじゃなく、あれもまたリンネに命を吹き込まれた人形だったということですか。なんですか、どういうことですか。じゃああなたたちは、誰一人そうと知らず、本物のリンネを見たこともないと、そういうことですか」

「黙れや」

 初めて顔面を殴られた。興奮状態のためか痛みはない。なおもぼくは噛みついた。「黙ってる場合じゃないですよ。何なんですか。あなたたちは見たこともない魔物を相手に無駄な追跡劇を演じていたってことですか。ぼくはその絵に描いた餅を探す手伝いをずっとさせられていたって、そういうことですか。アホじゃないですか。タヌキもびっくりのお間抜けさんですよ。大間抜けですよ。マどころかフまで抜けてますよ。大腑抜け野郎ですよ。いっぺん死んでみたらどうですか。地獄への観光旅行などいかがですか。一泊二日で不束者をご招待いたしますよ、閻魔さまですらあなた方には敬意を表しますよ。鬼畜中の鬼畜、キングオブキリングですよ。いったいぼくは何が言いたいんですか。ぜんぶあなたたちがわるいんじゃないですか。ふざけてる場合じゃねぇですよ。この落としまえいったいどうやってつけてくれるつもりなんですか、あの落し物はいったい何なんですか。ぼくはいったい何がしたかったんですか何を拾ったっていうんですか。何がウソで何がトゥルーなのかどうかお願いしますからハッキリしてくださいよ」

 一息に捲し立ててから、大きく息を吐き、目が点になっているミーさんを差し置きぼくは咳払いをする。

「失敬。とりみだしました」

 茫然と立ち尽くすミーさんの肩に手を置き、オジジは言った。「用は済んだ。行くぞ」

「ぼくの疑問には答えてくれないんですか」

 ミーさんは名残惜しそうにその場を動かない。

「琴香。いい加減にしろ」

「ひょっとしてあなたたちも知らないんじゃないんですか。だから答えたくても答えられない。違いますか」

「そうじゃないのよ」ミーさんが口を開くと、オジジはそこで強引に彼女を引っ張り、小屋のそとへ連れ出した。開いた扉が風に煽られ、勢いよく閉じ、大きな音が鳴った。あとにはただ絹を裂くような静寂だけが満ちる。

 僅かに車が砂利を踏みしめる音が聞こえ、ミーさんたちがこの土地を離れたのだと察する。

「まさかなぁ」

 本当に一人取り残されるとは思ってもいなかった。が、思い描いていたいくつかの展開、たとえば拷問されるといった展開にならずに済んでよかったとも思う。

「さてと」

 懐にはメディア端末が入っている。オジジに破壊されたものではない。サキとの連絡用に使っている端末だ。マンションを出るとき、念のために持ちだしていた。

 身体検査をしたミーさんがこの端末に気づかなかったはずもない。おそらく彼女はぼくのためにわざと残してくれたのだ。彼女はまだぼくとの縁を切らずにいたいと欲している。これはそういう迂遠な意思表示なのだと思うことにしておく。

 ぼくにできることは椅子に縛られたままのかっこうで、サキが端末のGPS機能を使って助けにきてくれるのを待つだけだ。

 じつのところぼくはサキに日課として、ぼくの居場所を把握するように言いつけてある。ミーさんが興信所の人間を使ってぼくのことを調べさせるだろうというのは予期していたので、だからぼくは敢えて目立つ場所でサキと密会していた。案の定ミーさんはぼくのことを調べ、そしてサキとの関係性が未だ継続していることを見抜いた。ここまではぼくの計算通りだ。あとは山奥に移動したきり動かないぼくを不審がってサキがここまで探しにきてくれるのを待てばいい。オジジたちにサディを奪われたのはぼくとしても痛手だが、その代償としてミーさんからオジジの来歴を仕入れることができた。彼は怪しい。ミーさんたちがリンネだと思い込んでいた人形がリンネではなかった以上、前提は崩れ去る。おそらくリンネと最初に接触したのは青月青年ではない。

 オジジは何かミーさんたちの知らなかった情報を握っていたはずだ。リンネを頑なに消し去ろうとしている意固地な姿勢からも、ミーさん含めほかのドール遣いたちとは一線を画した何かがあるように思われてならない。サキと合流し、交渉の餌としてのムイを確保しつつ、オジジとリンネの繋がりを探ろうと決める。

 気長に待とう。一日くらいなら飲まず食わずでもなんとかなるはずだ。

 手足が冷たくなってきた。放っておいてもだいじょうぶだろうか。脆弱な身としては毛布を一枚くらいかけてくれてもよかったものをと思わないでもない。低体温症になったらどうしてくれよう。オジジたちを呪うだけの気力はまだ残っている。

 気長に待とう。

 おなじことをつぶやいてから一分も経たぬ間に繰り返している。じぶんへ言い聞かすように。

 気長に。

 気長に待つんだ。

 まだ待つだけの余力はある。

 さいわいにもオジジたちは部屋の電気を点けっぱなしにして出ていった。そとから見て、ひと目でなかに人がいるかもしれないと判らせるだけの明かりがある。サキが付近までやってきてさえくれればこの窮地からは脱せられる。

 気長に。

 気長に待つんだ。

 言い聞かせるものの、朝陽が昇り、ふたたび沈むころには、もうほとんどぼくの意識は崩壊寸前だった。

 気長になんて待てるわけがない。

 いい加減にしろ。

 いったいいつまで待たせる気だ。

 理不尽な怒りが喉の渇きにさらなる磨きをかけ、尿意はとっくに限界を突破し、体内の水分不足を補うべく引っ込んでいる。脱水症状なのか頭痛がひどい。寒さは感じず、身動きの取れないこの状態がただただ苦痛でしかたがない。

 そとの空気が吸いたい。

 のどが渇いた。

 お腹が空いた。

 死んでしまう。

 椅子はゆかに固定されていないため、全身を揺らせば僅かに移動することはできるが、間違って転べば、そこから体勢を立てなおすのは至難だ。無理に移動するのはもろ刃の剣、躊躇われる。

 が、その葛藤も、二度目の朝を迎えた時分に襲いかかった猛烈な便意に打ち砕かれた。

 漏れる。

 というか、漏らすという以外の選択肢がない。

 椅子をガタゴト云わし、せめて部屋の隅へ移動してから、と考える。

 が、危惧していたことが起こった。

 床板の節目に椅子の脚を引っ掛け、転んでしまう。椅子に縛られたままの体勢で、側頭部をしたたかゆかに打ちつけた。衝撃で肛門括約筋が緩む。隙を見逃さんとばかりに、便意が押し寄せ、内側から臓腑を刺激していたあらんかぎりの排泄物がぼくのおしりと椅子の合間にクッションのような厚みを連ねていく。

 モリモリモリ。

 さんざん耐えてきたぼくの葛藤はあっけなく崩壊した。ぼくは泣いた。サキがあれだけ特別な人間だと評価したぼくという人間は、たかだか一日半の監禁に屈し、糞を垂れ流し、泣きべそをかいている。

 そう、ぼくは泣いている。

 情けなく、惨めで、どうしようもなく無様なじぶんがゆるせなくて泣いている。

 いや嘘だ。

 単純に悲しいのだ。つらいのだ。

 なぜぼくがこんな目に、といじめられてへこたれている小学生とまるで変わらない。

 これがぼくか。

 これがぼくだ。

 はなはだ理想とかけ離れたじぶんの姿にぼくは失望し、これでは助けも呼べないではないか、いまさら誰にも助けになんてきてほしくないやい、とむつけた。

 この涙はそうした、どうしようもなくつまらない人間の流している、糞のようなものである。

 脱糞と同時にぼくの矜持は地に落ちた。さんざんかっこうをつけ、被っていた仮面が、たかだか一日半の監禁でひっぺがされた。

 が、時間にすれば一日半でしかないが、そもそもこの拘束はいったいいつまでつづくのか。拷問の基本は、その苦痛がいったいいつ終わるのかと思わせることにある。

 終わりの見えない地獄にこそ人は挫折し、屈服する。想像力のある人間ほど挫折までの時間は短い。

 だとすればこうしてぼくが糞を垂れ流し、せっかく麻痺していた尿意までをも解放して、部屋のなかを異臭で満たしてしまったのも致し方ないと言えよう。

 サキの助けを心待ちにしながら、同時にぼくはいっそのこと誰もここを訪れず、ミーさんたちにも忘れ去られ、このまま屍になってしまいたいと望んでいる。

 こんな醜態晒すくらいならいっそ死んでしまいたい。

 思う一方でやはりというべきか、その前にお腹いっぱいチーズバーガーを食べたいし、シャワーを浴びたい。メロンソーダで血を補い、あたたかい布団にくるまりたい。

 気絶なのか睡眠なのかの区別も判然としないまま、ぼくはいったいどれほどそうしていただろう。

 瞼を開けたとき、そこは小屋のなかではなく、見慣れた天井を正面に、窓から差しこむ爽やかな感光を受けて、ぼくは清潔なベッドのうえにいた。


「ミーちゃん、起きたよぉ」

 聞き覚えのある声がし、そちらへ顔を向けると目と鼻のさきにナース服姿の人形があった。シリコだ。

「ああよかった」ミーさんがエプロン姿でやってくる。こちらの頬を撫でるように触れ、「一時はどうなるかと思った」とつぶやく。「きょう目覚めなかったらお医者さんに連れて行こうかと思ってたんだけど、もうだいじょうぶそうね」

 ミーさんの部屋に寝かされている。寝間着に着替えさせられているが、ぼくのものではない。新品のようだ。

 異臭とは無縁のやさしい香りにつつまれている。

 あれはひょっとすると夢だったのだろうか。

 悪夢と願望を天秤にかけ、なんとか悪夢を押しのけようと試みるが、もちろんそんな都合のいいことなど起こるべくもない。夢うつつにそらの鮮やかさを車窓の奥に見た気がした。ぼくはどうやらあらん限りの醜態を晒したままでミーさんに救われたらしい。というよりも、ぼくをあんな目に遭わせたのは彼女なのだから感謝するのは筋違いなのかもしれないが、それでもぼくは、あんな醜態を見ておきながら見ぬふりをしてくれているミーさんに身を切り裂かれそうなせつなさを抱いている。ぼくはそのせつなさをどうにか埋めたくて、部屋から出ていこうとするミーさんの手を握る。

「待ってて、すぐ戻ってくるから。いまお粥つくってるのよ」

 それでもぼくが手を離さずにいると、

「食べてから。ね?」

 ミーさんはぼくのおでこに口づけをし、まるで幼子をあやすみたいに微笑んだ。ぼくは脱力し、そしてなぜか目頭が異様に熱くなっていく様を視界の歪みと共にただ感じた。

 

 お粥のあまりの美味さにぼくは、世界が一変したような感動に包まれた。ミーさんお手製のアップルジュースを口に含むと、喉を通るにつれ、身体の細胞という細胞に染みわたる様が如実に感じられた。生きている実感がキラキラと音を立てて聞こえてくるようだ。

 涙ぐむ。世界はなんとうつくしかったのだろう。

 添い寝をしてもらいながらぼくは、ぼくが糞を垂れ流し、そして気絶しているあいだに起こった出来事を聞かせてもらった。カーテン越しに、鮮やかな夕陽の色が差しこんでいる。

 ミーさんいわく、オジジが姿を消したのだという。

 サディを持ち逃げされたのよ、とミーさんは語った。こっそり設定しておいた端末追跡サービスを利用してオジジの居場所を割り出そうとしたものの、いざ辿り着いたさきには、オジジの車が乗り捨ててあり、車内にはメディア端末が残されていたという。

「駐車場だったんだけどね。たぶんそこでほかの車に乗り換えたんだと思う」

 完全にオジジを見失った。

 そこでミーさんはぼくのことを思いだし、ひょっとしたらという思いで足を向けたそうだ。

「まさかまだいるとは思わなかったもの。とっくにお仲間に助けだされているものだとばかり」

 わるいことをしちゃったわよね、ごめんなさい。

 ミーさんは足で挟むようにしてぼくを抱きしめた。

 オジジの行方が杳として知れず、なおかつぼくがサキに救出されないまま糞を垂れ流していた。この二つを結ぶと見えてくる筋書きが二つある。

 一つは、オジジとサキが通じており、端からぼくを嵌めようとしていたというもの。もう一つが、オジジがムイを奪還しようとミーさんを出し抜き、独断専行でサキへの奇襲を決行したというものだ。

 オジジに奇襲をしかけられ、その対応に追われたサキはぼくのもとへ駆けつけることができなかった。こう考えれば筋は通るし、ぼくのサキへの怒りも理不尽なものから、役立たずだなぁもう、といった愛玩動物の粗相を嘆くかわいげのあるものへと昇華され得る。

「たぶん二つ目だと思う」ミーさんもまたぼくと同じ考え方を示した。「あなたの相棒はオジジに襲われて、それで駆けつけることができなかったんじゃないかしら。二人が通じていたっていうのはちょっと飛躍しすぎかも」

「そうですよね」サキのあの性分からしてぼくを放置するとは思えない。何かあったと考えるほうが自然だ。ぼくはミーさんのぬくもりに包まれたままメディア端末を操作する。

「きみが寝ていたあいだにいじってみたんだけど暗証番号が分からなくて」

 だから中身を見られなかったわ、ちぇ、と言いたげだ。

「別に見てもいいですよ」ぼくはサキに無事である旨を確認するメッセージを発信し、それからミーさんに端末を手渡し、暗証番号を教えた。「好きなだけ見てもらっていいですよ。もしなんなら、ミーさんの端末からでも位置探索できるように設定してもらってもいいですし」

「あらあら、うふふ。どうしちゃったの。どういう風の吹き回し?」

「これくらいの譲歩は当然です」ぼくは彼女の鎖骨をくちびるでハムハムする。「もうすこしこのままでいいですか」

「お腹鳴っちゃいそうだから、あと五分ね」

 ぼくの看病に専念するあまりミーさんは食事もろくにとっていなかった様子だ。頭があがらない。

 ふたりしてベッドのうえで動くともなく戯れていると、

 ミーちゃーん。お客さんだよー。

 シリコの呼ぶ声が居間のほうから聞こえた。

「え、誰だろ」顔を見合わせるようにするとミーさんは、「だれー?」とシリコに大声で訊ねた。

「んー、わかんなーい。頭しか見えないんだもん」

 こちらの部屋へ駆けてくるとシリコはメディア端末を手渡した。携帯用端末ではなく、マンションのセキュリティや家電を操作するのに使う子機だ。ちいさなディスプレイにはマンション一階にあるカメラからの映像が流されている。

「えぇ、誰だろ」シリコの言うように、画面には頭部の拡大画像が映しだされている。わざと顔を映さないようにしているようにも見えるし、そうでないようにも見える。

「セールスマンとかじゃないんですか」

「ううん。ここはそういうのに厳しいから滅多にこないし、そもそもなんでウチの番号知ってるんだろ」

 そうだった。ミーさんは友人を家に招くことはないし、家族を呼んだりもしないため、ぼく以外にこの部屋へのアクセス番号を知っている者はいない。たとえミーさんがここに住んでいると知っていても、一階玄関口からこの部屋への呼び鈴を鳴らす真似はできない。

「オジジとか?」

「わざわざ変装して?」

 頭部のフサフサ加減はたしかにオジジとは言いがたいものがある。

「というかオジジにも教えてないもの」

 言ってからミーさんはいっしゅん、誰かの顔を思い浮かべたような間を空けた。それから脳裏に浮かんだその顔を振り払うかのように、ちいさく、かぶりを振る。

「心当たりがあるんじゃないんですか」詰問するような鋭い語調にならないように気をつけながら言った。

「ううん。だってあり得ないもの」

 言いながらも、その口調からはどことなく現実を越えた何かを期待するような動揺が読み取れた。あり得ないけれど起こってほしい。そういった奇跡を願う祈りを思わせる。

 画面のなかの人物が痺れを切らしたように一階玄関口から離れていく。その際に頭部を掻いた彼の腕には、手首から先がなかった。

 いっしゅん映った来訪者のうしろ姿を確認するや否や、ミーさんがベッドから飛び降りた。こちらが声をかける間もなく部屋を飛びだしていく。

「どうしたんだろ」

 ぽかんと玄関のほうを眺めているシリコに投げかける。

「さあ」

「なんか訪問者に心当たりがあったようだけど」

「そうなの?」

「シリコちゃんはないかな? 見覚えとか」

「だってよく見えなかったし」

「心当たりは?」

「うーん」

「たとえばここ半年、ぼく以外にこの部屋に入った人とか」

「あ、それならいるかも」

 そこでシリコは、ぼくの半ば予想していた、けれど耳にしたくなかった名前を口にした。

「青月のお兄ちゃん。もういなくなっちゃったけど、よく来てたよウチに」

 寝間着姿のままでぼくはミーさんのあとを追った。そとに出ると、すでにミーさんの姿はなく、マンションの影が国道を斜めに分断し、どこまでも黒く塗りつぶしていた。

 

 メディア端末でミーさんに連絡をとるも繋がらない。勘を頼りに道を進んでみるが、完全に姿を見失った。

 いちどマンションへ戻り、私服に着替える。

「どうしたの? ミーちゃんは?」

「ぼくが知りたい。あの男を追いかけていったっぽいんだけど」

「ふうん。そのうち戻ってくるんじゃない? どうしよっか。ご飯つくっちゃったんだけど、さき食べる?」

 事態の深刻さを理解していないのか、シリコはぼくのために食事の準備をしはじめる。

「いや、まだいい」食べている場合ではない。が、シリコの善意を無下にはしたくなかったので、「ミーさんといっしょに食べたいから」と付け加える。

「ふうん」シリコは両手でかかげた皿をテーブルに置きなおし、それから何かを考えこむように腕組みをすると、「ミーちゃんのこと、好きなの?」

 首を傾げ、まったく予期せぬ言葉を吐き、ぼくの喉を詰まらせた。「なんだい、急に」とかろうじて応じる。

「だってべつにミーちゃんがいなくたって食事くらいできるでしょ」

「そうだけど」

「ミーちゃんといっしょに食べたいってことは、ミーちゃんといっしょにいたいってことでしょ?」

「そりゃいっしょにはいたいけど」

「食事ってあなたたち人間にとってはすごくすごくたいせつなことなんだよね。それで、そのたいせつなことを一人じゃなくって、ミーちゃんといっしょにしたいと思ったわけでしょ」

「まあ、そういう言い方もできなくはないけど」

「たいせつなことをいっしょにしたいってことは、じゃあ、あなたにとってミーちゃんがとくべつなひとで、たいせつなひとで、すごくすごく好きだってことになるんじゃないのかなぁ」

「なるんでしょうかねえ」ぼくは曖昧に相槌を打ち、そんなことより、と話題の転換を試みるも、即座に、

「そんなことってなに!?」

 シリコの声にかき消された。「あなたにとって、ミーちゃんへの想いを確認することって、そんなにつまらないことなの。ミーちゃんへの想いってそんなものなの。信じらんなーい!」

 どうでもよくはないが、現状、よこに措いておきたい話題であることに異存はなく、そのことをそれとなくシリコに伝えてみると、さらなる剣幕で噛みつかれた。物理的に親指の付け根をかぷかぷと。

 陽がすっかり沈んでから、シリコを引き連れマンションを出た。いちおう、書置きをしてきたのですれ違いでミーさんが帰宅してもだいじょうぶだ。帰宅すればこちらに連絡を寄越してきてくれるはずで、それまではシリコと共に彼女を捜索する。

 夜道を当てもなく歩きながら、なんだろう、と漠然と思う。

 嫌な予感が拭えない。

 オジジの失踪もそうだが、期を見計らったかのような青月青年らしき人物の登場に、周囲を取り囲む壁という壁が、それこそこちらの身を庇護するための防壁が、音を立ててひび割れていくのを感じる。

 サキにしてみてもそうだ。一向に返信がないところを鑑みれば、彼女もまた異常事態に見舞われていると考えるべきで、なんだか排水溝に吸い込まれていく水が、最後の最後で渦を巻き、勢いを増して吸い込まれていく様が連想される。

 かぶりを振る。

 悲観的になるな。

 監禁されてからというもの、どうも思考がよろしくない。卑屈になっている。自覚するものの、どうにも以前のような、無鉄砲を地でいく考えを巡らせることができない。

 駅前までやってくるが、人通りの多さにめまいがする。

「ミーさんの行きそうな場所、解らないかな」

 上着の内ポケットへささやきかける。

「んー。たくさんあるよ。ミーちゃん、いろんな場所に行くから」

「たとえばむかし青月くんと二人だけで会っていた場所とか」

「うちのマンションがそうだったよ」

「ほかには?」

「んー。ほかでも会ってたのかなぁ」

 二人きりというならば、それこそシリコをマンションに置き去りにして会っていた可能性もあるわけで、ならば逢瀬の場所をシリコに訊ねるのは不合理だ。

「無理を承知でお願いするけれど」ぼくは以前に投げかけ、断られたことのある質問をする。「きみたちのアジトの場所、教えてくれないかな。もう使ってなくてもいい」

 何か手がかりがあるかもしれない、と訴える。

「なんか変わったねー」

「変わった?」

「うん。前とぜんぜんちがう。おんなじ頼みごとなのに、なんでだろ。今はとっても教えてあげたい気分だもん」

 言い方の問題だろうか。状況がちがうというのもある。

 ひょっとしたら坊ちんも来てるかもと言って、シリコは道案内をしながら吉蔵への悪態を並べていく。

 アジトは繁華街の駅からふた駅ほど離れた路地裏にひっそりと佇んでいた。雑貨屋だ。時間帯も時間帯なだけに閉店しているのか入口は開いていない。

 シリコの助言を受け、花瓶の下から鍵をとりだし、扉を開けて入る。手袋をしているので指紋は残らない。

 ホコリの匂いが鼻を突く。人の気配はなく、無人のようだと判断する。

 店内を見渡す。

 古美術商、いわゆる骨董屋に見えなくもないが、置いてある品はどれも美術品とはかけ離れたガラクタばかりで、しかも新品のものが見当たらず、雑貨屋としても骨董屋としても機能しているとは思えない。子どもが趣味ではじめたってもうすこしマシな品ぞろえになりそうなものだ。わざと客足を遠のかせようとする作為が感じられる。

「ここの二階だよ」

 言ってシリコが二階へ至る階段を指さす。すこし考えてから土足であがる。電気のスイッチがどこか判らなかったので、暗がりのなかを手探りで進む。

 階段を上りきると襖は一つしかなく、シリコいわくそこがアジトとして使われていた部屋だという。

 襖の奥に誰もいないという保証はないが、溝にゆびを引っ掛け、豪快に開け放つ。閑散とした部屋で、タンス以外の家具はない。窓から差しこむ街灯の明かりを受け、日焼けしたタタミがまだら模様に青白く浮かんでいる。

 裸電球がぶら下がっている。

 紐を引っ張り明かりを灯す。

「ここはオジジの店なのかな」

「どうだろ」

「ミーさんから聞いてない?」

「知らないよ。てかうちに聞かれても困るよぅ」

「店主はどんなひと?」

「知らないってば。いっつもいないし誰も」

 坊少年がいるかもしれないとシリコは言っていたが、しかし時刻は零時に迫っている。小学生が一人で出歩くには遅すぎる。

 行方を晦ませたオジジが、ミーさんたちにも知られている場所に身を隠すとはとうてい思えず、じっさい畳にはホコリが溜まりはじめている。

「ここ、いつから使ってないのかな」

「うーんと、ミーちゃんがあなたを連れて来たころからだからぁ」

 考え込むようにし、シリコはしばらく押し黙った。

 ぼくはそのあいだ部屋を物色する。タンスはすべて引き出しの造りで、合計で七段あった。手当たり次第に開けていくが中身はカラだ。変色している箇所があり、さいきんまで何かしらの道具が入っていたのだと推察する。

 中身を知っているかもと思い訊ねてみるが、シリコは何かを計算するように指折り数えており、ちょっと黙ってて、と怒鳴り散らす。ぼくはムっとする。

 もういちどタンスを探る。すべての段に手を突っ込んだりして隅々まで穿鑿してみたところ、いちばんしたの段に一つだけ何かが残っていた。紙製の四角い箱で、缶ジュースほどの大きさだ。側面には鮮やかな色彩でデフォルメされた幼女が描かれており、煽り文には【わたしの初めて、あなたにあげる】と幼い書体で書かれている。成人男性用の性玩具、いわゆるオナホールだと判った。だがなぜこんなところにあるのだろうと疑問に思うが、推して知るべしオジジが自身のさもしい生殖器を慰めるために使っていたのだろう。なんだか途端にけがらわしいものを持っている気分になり、ぼくはふたたびそれをタンスに戻した。

 とくに目ぼしいものはなく、肩を落とす。ミーさんもここには来ていない様子だ。

「帰ろう」

 灯りを消し、部屋を出ていこうとしたところで、水の滴る音を聞いた。

 歩を止め、耳を澄ます。

 何も聞こえず、気のせいだったかなと踵を返そうとしたところで、

 ぴちゃん。

 粘着質な音がした。

 どこかで水が漏れているのだろうか。暗がりのため聴覚が冴えている。しばらく待つと、ふたたび鳴った。

 部屋に戻り、明かりを点ける。音の正体を突き止めようと耳を澄ます。

 どうやら天井裏で鳴っているようだ。天井に、不自然に広がる褐色のシミを見つける。

 嫌な予感と、なぜかこのときになって急激に意識されはじめた異臭を結びつける。

 屋根裏へ上がるための入口を探すが、見当たらない。

 ひとまず天井を調べてみようと、台になるものを探す。部屋にはタンスしかないが、そこでふと閃いた。すべての引き出しを段違いに開ければ、ちょうどよい塩梅の階段になるのではないか。

 試しにやってみる。

 どんぴしゃだ。

 天井には、顔を近づけてようやく判る程度の隙間が空いている。押してみるもびくともせず、ならばと指を引っ掛け、よこに引くと障子を開けるような抵抗のなさで、するりと開いた。

 口を開けた闇のなかからは、思わず顔を背けるほどの悪臭が噴きだした。

 夏場の台所に放置した魚の末路を思い起こさせ、嫌な予感が的中したことを察する。

 ぽっかり空いた穴にあたまを突っ込むと、下の部屋と同様に、屋根裏には窓が一つ空いていた。窓から差しこむ仄かな明かりが、屋根裏に物体のカタチを与えている。大きく太い梁がある。なぜか梁からは巨大なコオモリを思わせる影が垂れており、風もないのにちいさく揺れている。

 水滴はその影から落ちているようで、影の真下には水溜りができている。月明かりを受け、てるてると光って見えた。

「わかった、わかったよー」

 とつぜん胸元でシリコが暴れた。心臓にわるい。「えっと、ここを使わなくなってからだいたい三十日だよ」

 ずっとそれを数えていたのだろうか。シリコが自慢げに告げ、それからこちらが返事をしないことを不審に思ったのか、内ポケットから顔をだした。

「うわ、なにあれ。オジジ? うわー、なにやってんの、そんなところで」

 むろん、ぶらさがった影はみじろぎ一つせず、歪んだ相好を覗かせている。





  

第五章【淫蕩を問えば心境の尾根】



 メディア端末で現場の写真をとり、骨董屋然としたアジトをあとにした。鼻に残った悪臭がなかなかとれない。マンションまで戻り、即行でシャワーを浴びた。

「ミーちゃん、まだ帰ってきてない」

 ソファのしたに潜り、シリコがしょんぼりしている。今さらながらミーさんの失踪を深刻に捉えはじめたようだ。適当に慰め、シリコの用意してくれた料理を胃に収める。

 自殺なのだろうか。

 自室に引っ込み、ベッドに横になりながらメディア端末を起動させる。撮ってきた画像を一つ一つ丹念に確認していく。

 床に溜まった汚物の乾き具合からして死後二、三日といった具合だ。遺体には死斑があらわれており、首も通常の二倍ほど伸びている。もうすこし腐敗がすすめば、千切れ落ちていただろう。ムシが湧いていないのは、季節柄か、或いは屋根裏の防虫素材のおかげかもしれない。

 足元には排泄物が水溜り然として広がっており、悪臭の大本は、遺体よりもこちらのほうが大きかったようだ。

 遺体は本当にオジジなのだろうか。

 メディア端末のライトを起動して撮ったので、遺体の顔もばっちり映っている。

 オジジのように思う。

 別人だと言われればそういう気にもなってくるが、シリコに確認してみると、やはりオジジだという。

「だって目のとこにホクロあるし、あたまの毛薄いし」

 頭の毛が薄い男はすべてオジジだとでも言う気だろうか。シリコならば、カエルを見せても尻尾がないので人間です、と断言しそうな塩梅がある。が、他人の空似にしては似すぎているのも事実だ。断言しないに越したことはないが、背格好からしてもおそらくこれはオジジだろうと思われる。

 と、ここでふと気づく。

 踏み台がない。

 首を吊るならば、足場となる踏み台があるべきだ。しかし見当たらない。足元からゆかまでは三十センチほどあり、首が伸びていることを思えば、自力で首をくくるには骨が折れる高さだ。

 自殺ではないということか。

 仮にこれを殺人と見做すと、犯人はオジジを首つり自殺にみせかけようとしたことになる。偽装工作にしては詰めが甘いが、動揺しただろう犯人の心情を鑑みれば、さもありなんだ。

 オジジは殺された。

 犯人は誰か、と考えることにさしたる意味はない。

 考えるべきは、こちらにもその魔の手が向けられているのではないか、という自己保身だ。

 ミーさんを案じるきもちに拍車がかかる。

 同時に、オジジが二、三日前に死んでいたならば、こちらを山小屋に監禁したそのすぐあとに殺されたという事実を示唆しており、それはつまり、オジジにサキを襲う時間はなく、だとするとサキと連絡がとれない理由が解らなくなる。

 オジジに襲われたサキが返り討ちにしたという考え方もできるが、どうだろう。アジトにまで連れてこられたサキが、そのときになってオジジを拘束し、あまつさえ自殺に見せかけて殺せるだろうか。たといサキにそれが可能であったとしても、そこまで器用に殺せるならば、そもそも襲われたときにでも撃退すればよい話だ。わざわざアジトまでついて行き、あまつさえ殺す必要はない。

 犯人は明確な意思をもってオジジを殺している。計画的に殺人を犯した人物が果たして踏み台を用意し忘れるだろうか。あれはむしろ、誰かに対するメッセージではないのか。

 自殺したように殺すなんてかんたんだ。

 つぎはおまえらの番だ。

 犯人はそう言いたいのではないか。

 ぼくはかぶりを振る。

 飛躍しすぎている。かってな憶測だ。根拠がない。

 ミーさんの失踪とからめて考えるからこんな突飛な発想をしてしまうのだ。

 突如現れた青月青年と思しき人物が頭から離れず、その妄想はどうしてもぼくを不安定な土台に載せたがる。

 青月青年がもし生きていたとすれば、自分から人形を奪い、腕を失くすようなはめに陥れたオジジたちに怨讐を抱いていてもふしぎではない。ぼくはそう思いたいだけだ。

 仮に青月青年がオジジを殺し、ミーさんにまで毒牙を向けようとしているならば、ぼくはさながらヒーローのように青月青年を成敗し、ミーさんを劇的に救うことができる。

 そうした未来を期待しているだけではないのか。

 本当はミーさんが青月青年をいまでも想っており、意趣返しもかねてリンネに報復しようとしていたとしたってふしぎではない。死んだはずの青月青年が現れ、報復をする理由がなくなり、ふたたび青月青年に寄り添おうと決め、こちらを捨てたと考えるのはそれほど突飛な発想ではないはずだ。彼女が青月青年に鞍替えしたところでぼくにはそれを阻む権利はなく、ましてやぼくがどうこうしたところでミーさんの想いを変えることはできない。してはいけない。

 なにもかもが定かではない。

 定かではないから不安になり、被害妄想を肥大化させ、かってに疑心暗鬼になっている。

 そうだとも。

 ミーさんがぼくを捨てることはあっても、シリコまで置いていくわけがない。

 もっと慎重になれ。

 冷静さを取り戻すんだ。

 思うものの、うまくいかない。

 事実だけを見て考えようとするが、現状、断言できることは思いのほかすくない。

 生きている人形がおり、それら人形と相互依存を成り立たせている人間たちがおり、彼らのうち一人がきょう遺体となって発見された。

 彼らの口にするリンネなる一連の騒動の元凶と見られる素体の存在さえ怪しい。死んだとされている青月青年に似た人物まで出てきて、こちらとしてはあらゆる前提を疑わなければならない状況に追い込まれている。

 他人からの又聞きや、もたらされた情報は鵜呑みにするには危険すぎる。

 危惧するいっぽうで、ぼく自身はそう肩を張らずによいのではないか、と楽観的に構えているじぶんがいる。

 ぼくは人形と契約していない。このままとんずらを決め込んだところで死んでしまうわけではない。ミーさんたちとは立っている土台そのものがちがうのだ。

 しかし、ムイを手放したままなのはしょうじき、口惜しい。

 せめてサキを見つけ、ムイを返してもらうまでは、このリンネを巡る一連の輪のなかから出ていくことは避けたいというのが本音である。

 ふと、だいじなことを思いだす。

 オジジはサディを持っていたのだろうか。

 なるべく現場を荒らさないようにとオジジの遺体には触れていない。

 しかしオジジはサディを――リンネの右手を持って行方を晦ませたのだから、彼が持ったままでいる可能性は高い。

 確かめるべきだった。

 いや、いまからでも遅くはないのではないか。

 ぼくは時計を確認し、日の出まで四時間ほど時間があることを計算してから部屋をでる。

「ちょっと出かけてくる。ミーさんが帰ってくるかもしれないから留守番、頼むよ」

 ソファの下にいるだろうシリコに声をかけ、返事をまたずにマンションをあとにする。

 

 結論から言えば、オジジの遺体はサディを持っていなかった。懐を漁ったが見当たらず、汚物にまみれたズボンも探ってみたが見つからなかった。オジジはサディどころか煙草やメディア端末さえ持っていなかった。

 おそらく犯人が持ち去ったのだろう。オジジの持ち物はすべて犯人が握っている。アジトにあったタンスの中身が消失していたのも、或いは犯人が持ち去ったからかもしれない。

 ひょっとすると犯人はそもそもサディを探しており、それを隠したオジジを拷問することで在り処を聞きだそうとしたのではないか。拷問の果てに死なせてしまった、或いは聞きたい情報を聞きだせたので始末したと考えれば、踏み台のない遺体も腑に落ちる。

 いずれにせよ、サディの行方は知れない。

 サキが無事かどうかは現状定かではないが、ムイまで奪われるわけにはいかない。ミーさんの捜索はいったん打ち切り、まずは手遅れになる前にサキを探そうと思った。

 いったんマンションに戻る。

 メディア端末を起動させ、サキの端末の位置座標を探索する。座標はサキのアパートを示している。家にいるのだろうか。端末だけそこにある可能性もある。いずれにせよ向かうことにする。

「ごめん、また出かけてくるけど留守番を――」

 部屋にいるはずのシリコに声をかけるが、ふと返事がないことを妙に思う。

「シリコ?」

 ソファのしたを覗くが、いない。ひととおり部屋を見て回るが、姿が見えない。

 ミーさんがシリコをとりに戻ったのだろうか。にしてはミーさんの荷物はそのままだ。まるで端からシリコなどいなかったかのように、どの部屋もひっそりと静まり返っている。モヤに包まれたような胸中をそのままにぼくはふたたび夜の街へと飛びだしている。

 

 窓から明かりが漏れている。人がいるのだろうか。サキの部屋はアパートの二階に位置するので車道からではなかが見えない。階段を昇り、台所のすりガラス越しになかを覗くようにし、インターホンを押す。人の動く気配がある。間もなく戸が開き、はいはーい、とご機嫌なサキの顔が覗いた。

 目が合うや否やサキは餌に飛びつくカマキリのようにこちらの胸に飛びかかった。手すりに背中をぶつけ、なんとか受け止める。危うく落とされるところだった。

「もう! 心配したんだからね!」

 なるほど、襲いかかったわけではなかったのか。割と本気で殺されるかと思った。

 心配していたということはこちらが音信不通になったことをサキは知っていたということになる。

 ではなぜ助けに来なかった。

 責めるでもなくわけを尋ねようとサキごと部屋に押し込むようにすると、

「おじゃましてます」

 居間のほうから声があがった。九畳一間の部屋なので、玄関からでもその人物を視界に入れることはできた。

「なぜきみがここに?」

「吉蔵が……」と坊少年がコタツに入っていた。コタツから足を抜き、正座の体勢になおる。「吉蔵が、ミー姉に会ったほうがいいって言うので、それで、ボク」

 彼の説明を聞き流し、サキに向きなおる。「なぜきみが坊くんといっしょにいる」

「いやだってきみがいなくなっちゃったから、心配で」

「なんで連絡しなかった」

「したよ、何度も。でも、電源が入ってないか電波の届かないところにいるって」

 どうやら山小屋は圏外だったようだ。よもやこの時代に圏外の場所があるなんて。

「どれだけ連絡しても連絡つかないし、だから行ってみたんだよ、わたし」

「行ってみた? どこへ」

「きみの同棲相手んとこ」

 つまり、ミーさんのマンションへか。

「でも、セキュリティが厳重でなかに入れそうにないし、かといってそのまま放っておくこともできないし」

 そこで右往左往しているところに、同じくミーさんに会いにきた坊少年を見つけた。

「さいしょはドール遣いだなんてわかんなくて。適当な理由つけて、マンションのなかに入れてもらおうと思ったんだよ」

 ところが坊少年はマンションの住人などではなく、よく見れば、西洋人形を連れているではないか。

「もしや、ってピンときたよね」

 得意げなサキをよそに、

「カマをかけられたのです」坊少年が嘴を入れた。「サキさんがミー姉の知り合いで、吉蔵たちのことも知っていると言うので」とやや非難する気色で報告する。

 サキに視線を向けると、

「ウソじゃないもの」責めているわけでもないのにあたふた取り乱す。「会ったことはないけど、でもそのミーさんって人とはお互いに存在を知り合っている仲ではあるんだから、ウソを吐いたことにはならないでしょ……」

 これ以上、意味のない意地の張り合いを展開するのは避けたかったので、単刀直入に、ムイはどこにある、と切りだす。

「仕舞ってあるよ」

「見せてほしい」

「無事だってば」

 言いながらサキはタンスのうえに仕舞うように置かれた虫かごを手に取り、

「ちゃんとこのなかに」

 覗き込むようにし、それからなぜかこちらから遠ざけるようにした。

「どうした」

「待ってね。えっと、あっれぇ、おかしいなぁ。これじゃなかったかなぁ」

 虫かごを手放さないままで、サキは部屋を引っ掻き回していく。

「ないのか?」

「んみゃ、んみゃ。そんなわけがないでしょ」

「なら見せてくれ」

「ちょっと待ってね」

 じれったくなり、

「寄越せ」

 揉みあうようにし、抵抗するサキのひたいに頭突きを食らわせることで、なんとか虫かごをひったくった。やはりというべきか、中身はカラだ。

「どこにやった」

「んー。怒らないで聞いてほしいんだけど」

「なんだ」

「わたしが聞きたいくらいなんだよね。どこいったんだろ、ムイちゃん」

 かつてこれほどまでに女を殴りたいと思ったことはない。がまんする必要がないことをよくよく吟味し、サキのひたいに頭突きを食らわせる。

「イタイ!」

「ぼくだって痛い。痛み分けだ」

「え、じゃあこれでチャラ?」

 ぼくは思った。なぜこの国の法律は殺人を禁止しているのだろう。せめて例外的にサキという名の女は殺していいように改正すべきだ。

「あ、あの」

「なんだ」

 怒鳴ったつもりはなかったが、思いがけず大きな声になり、坊少年がただでさえ小さな身体をさらに縮ませるようにした。

「おとりこみ中もうしわけないのですけど」

「もうしわけないと思うなら口を閉じていてくれないか」

 今は構っている余裕がない。ぼくは台所からタバスコをとってきてサキに口を開けるよう命じる。

「やらなきゃダメ?」

「いいから開けろよ」

 餌を欲しがる鯉のように上を向き、口を開けたサキの目玉に狙いをつけぼくはタバスコをぶちまける。

 一瞬、きょとんとしたサキだったが、自分の置かれた状況を理解したのだろう、遅れてやってきた激痛に悶えるようにして床を転がった。

「こんなもので済むと思うなよ」

 言いながら、おそろしいものを見たような顔つきで凍りついている坊少年へ向きなおる。

「で、きみはいったいなぜここに」

「ボ、ボクは、サキさんに連れてこられて」

「ミーさんのマンションにはどうやって? 彼女、誰にも住所を教えてないって言ってたけど」

「ですから吉蔵が会いに行けって。そこにミーさんがいるからって教えてくれて」

 シリコから聞いていたのだろうか。

「彼はいまどこに?」

「あの、さっきまで居たんですけど」

「今はいない?」

「はい」

「なぜ彼はミーさんに会うように指示したのかな」

「それは……」

 顔面蒼白になった坊少年の周章狼狽具合を見ればおおよその察しはついた。

「坊くんも見たんだね」

 オジジの、と口にしたところで坊少年は今にも泣きだしそうな顔になった。答えを聞くまでもない。見たのだろう、オジジの遺体を。

 未だにゴロゴロと床で七転八倒しているサキを強引に洗面所へ引きずっていき、洗面台に溜めた水に頭を突っ込んだ。ジタバタするサキを押さえつけ、ゆっくりと三秒数える。引きあげ、咳き込む彼女にこう告げる。

「挽回のチャンスをやる。失敗したら死ね」

「なんかきみ、キャラ変わった?」

 もういちど洗面台に沈めてやろうと頭を鷲掴みにすると、

「するする。いくらでも挽回しちゃう」

 怯えるでもなく尻尾を振る子犬を思わせる溌剌とした様子でサキは忠誠を誓った。

 

 正直なところ人形たちは信用すべきではない。リンネはもとより、シリコや吉蔵たちも例外ではない。

 なぜミーさんのマンションの住所を吉蔵が知り得ていたのかは詳らかではないが、最悪シリコと吉蔵が繋がっており、こちらの動向が吉蔵を通してリンネにまで筒抜けだった可能性は否定できない。

 だいたいにおいてサキの部屋からムイがなくなったのだって、吉蔵が盗みだしたのではないのか。

 こちらの敵愾心を見抜かれないようにしながら坊少年には、吉蔵が戻ってきたら聞きたいことがあるので勝手に出歩かないように拘束しておくように頼んだ。

 サキにはサキでやってもらいたいことがある。

 オジジを殺害した犯人が誰かは判然としないが、青月青年と無関係だとは思えない。仮に無関係だったとしても、何かしらの繋がりがあるとみて考えるべきだ。

 ぼくが見て気づいたくらいだ、オジジの遺体を発見した警察が事故扱いで済ますわけがない。警察が動けば、アジトに誰が出入りしていたかくらいは突きとめるだろう。ミーさんの行方も探すはずだ。そこで探し人が失踪していると知れば、捜査の手を伸ばしてくれるにちがいない。

 青月青年にしてみたところで、爆発事故で死んだはずの青年が生きているとなれば、警察だって疑いの目を向けるだろうし、よしんば青月青年の生存が明らかにされなくとも、オジジと青月青年とのあいだに繋がりがあったと知れば、駅前の爆発事故が単なる事故だったとはさすがに考えないはずだ。

 真相を掴んでもらおうなどとは思わない。

 ただ、警察が動いていると知れば、死んだことになっている青月青年だって目立った行動はとれないだろうし、仮にミーさんのもとを訪れた男が青月青年でなかったとしても、行方を晦ませたミーさんを警察は探し出してくれるはずだ。

 現場に足を運んだぼくが通報するわけにはいかないので、サキに第一発見者の役柄を命じた。異臭がしたので立ち入ってみたら人が死んでいたと偶然を装えば、なんとかなるだろう。オジジとサキに直接の関係性はない。

 なぜ現場近くにいたのかといった細かな言い訳はサキに任せるとして、ひとまず弄した策を実行させる。

 実際に警察が現場に踏み込んだのを確認してからぼくは、サキを現場に残したまま、サキのアパートへと踵を返した。

 おなかが空いただろうと思い、坊少年に牛丼を買っていく。

「おいしい……」

 まるで初めて食したかのような反応を示し、坊少年は貪るように牛丼を胃に収めた。

「吉蔵くんはまだ帰ってこない?」

「はい。すみません」

「きみが謝る必要はないよ」

 サキに灸を据えた場面を見せてしまったのがよくなかったのか、坊少年は完全にこちらに対して心を閉ざしてしまった様子だ。厚い壁を感じる。

「そうだ。坊くんは吉蔵くんとはいつからの付き合いなのかな」

 世間話を通じて彼らの過去を詮索しようと思った。

「オジジにもらったんです。トモダチがいないって言ったら、オジジが吉蔵をくれるって言って」

 それはミーさんからも聞いている。

「オジジとはどこで? 親戚ではないよね」

「人形展があったのです。子どもは入場無料って書いてあって、ホントはダメだったのですけど、寄り道して」

 二週間ほど人形展は開かれていたそうだ。毎日のように足繁く通っていた坊少年に声をかけてきた人物がいた。主催者と名乗るその男は、人形展が終わってからも観たければ来るといいと言って、坊少年に街外れにある貸しコンテナの場所を教えた。

「その男がオジジ?」

「はい」

 貸しコンテナは、コンテナというよりもコテージを思わせる内装で、人形たちも箱に仕舞われることなくパーティの客人のように椅子やソファに飾られていたという。

「人形が好きだったのかい」

「いいえ」

「ならどうして人形展に通ったりなんか」

「興味があったのです」

「人形に?」

「いいえ」

 そこで坊少年がモジモジとしながら、まるで好きな子の名を口にするときのような口ぶりで、

「ボク、遺体に興味があったのです」と言った。

 

 死体性愛、ネクロフィリア。

 死んだ人間の身体に魅力を感じ、ときに性行為にも及ぶという古くからある偏向性愛の一つだ。

 遺体の代替物として人形を嗜好するという選択は解らないではないし、現に人形の起源の一つは、生贄の代わりとまで言われている。死体の代わりに愛好するのはさほど間違った使い道ではないようにさえ思える。

「オジジはボクに吉蔵をくれました。コンテナに仕舞った人形も、よそへ移してしまうからって。とても高価なものみたいだしボク、さいしょは断ったのですけど」

 半ば押しつけられるように吉蔵を受け取ったのが、三年前のことで坊少年は小学校に上がったばかりのことだった。たしか青月青年がリンネと契約したのもちょうどそのころだったはずだ。偶然かもしれないが、海外で【死者の祈り】が盗まれたのもそのころだ。

 オジジが人形展を開いていたという話は聞いていない。おそらくオジジ自身もほかの人形愛好家たちには言っていなかったのだろう。現に坊少年はそれから二年ものあいだ何事もなく過ごし、オジジとも音信不通だったのだそうだ。

「吉蔵はいつごろ動きはじめたのかな。リンネとはいつどうして契約を?」

「オジジがいなくってからボク、探してみたのです」

 坊少年は語った。

 具体的に何を探していたということはなく、漠然とじぶんと同じような閉塞感を抱きながら、人形を手にしたことで満たされない何かを多少なりとも満たせる者たちを、すなわち仲間を探してみたのだという。小学生に考えられることと言えばせいぜいが誰かに訊ねるか、やはりというべきかインターネットを駆使する程度のことしかなかった。

「そしたら見つけたのです」

 人形愛好家というのは広いようでその実、狭い世界であり、実際に人形を手にし愛好している者となると、その繋がりは蟻の巣のように一つのコミュニティに還元できるという。実際その手のサイトにはぼくもいくつかアクセスしたことがある。たしかそのときは、どれだけ探ってみてもリンネに結びつきそうな記述はなかったはずだ。

 しかし坊少年がアクセスしたさきにはリンネが待ち受けており、そのサイトを介して出会ったのが青月青年だったそうだ。

「そのときにはもうミー姉たちがシリコちゃんを連れていました」

「オジジもそこにいたの?」

「よく分からないのです。気づいたらいつの間にかいました」

「青月くんとオジジは知り合いだったのかな」

「解らないですけど、たぶんそうなのだと思います。オジジ、青月さんとよくいっしょにいました」

「きみが愛好会にいたことについては何も?」

「オジジですか? とくには。でも、さいしょはボク、いないコ扱いされちゃっていたのです」

 オジジから無視されていた坊少年だったが、リンネと契約し、吉蔵が動きだしたのを契機にオジジはふたたび声をかけてきたのだという。

「具体的にはどういうことを?」

「なにかしろとか、そういうことはなかったのです。ただ、それまでぜんぜん話しかけてくれなかったのに、吉蔵が生まれてからはよくボクのそばにいてくれました」

 なにかにつけ世話を焼いてくれたのだという。

 なるほど。

 合点しながらぼくは考える。

 おそらくオジジは坊少年を巻き込みたくはなかったのだろう。だが無理に追いだせば、のちのち疑いの目をそそがれかねないと危惧し、そっけない態度をとるに留めた。逆説的にオジジは、リンネと契約することに付属する危険性を前以って知っていたことになる。

 沈思黙考していると痺れを切らしたように、或いは耐えかねたように坊少年は、ボク……、と誰にともなく零した。

「ボク、まちがっていたのです。もっとはやくに、青月さんのときに気づくべきでした」

「なにをだい」

「思っていたのとぜんぜんちがったのです。やっぱり人が死ぬのはよくないことだって」

「ああ」

 間抜けな相槌を打ってしまったのも無理からぬことだ。ぼくはてっきり彼はそんじょそこらのマセガキとはちがった、ある種高尚な精神を有する少年だと評価していたのだが、じつのところ彼もまたやはりというべきかしょせんは少年であり、その精神は発展途上がために多分に柔軟性を帯びているため、資質を開花させることなく卑近な精神へと帰着してしまうのも無理からぬ話ではあるのだ。

「オジジの遺体を見て、そう思ったんだね」

「はい。ほんとうはボク、ミー姉の遺体が見たかったのですけど、でもオジジのを見たら、どうでもよくなってしまって」

「こわくはない?」

「こわく? はい、こわくはないんだと思います。ただ、思っていたのとぜんぜんちがくて、きたなくて、くさくて、とてもではないですけど、生きた人間よりもいいとは思えなかったのです」

 生きているほうがいいととてもつよく思ったのです、と坊少年は唇を噛みしめるようにした。「ボクがまちがっていたのです。もう、終わりにしたいのです。お兄さんは、吉蔵たちのことをどう思いますか? お兄さんは人形を持っていないのですよね」

「まあ、そうだね」ムイのことは黙っておく。それから真摯な口調を心がけながら、「吉蔵くんやシリコちゃんたちについては、彼らが生きているというのなら人間と同様に、彼らにもしあわせになってほしいと思っているんだ」と口からでまかせを吐く。「ただ、優先したいのはやっぱり人間というか、ぼくにとってはミーさんやきみの安全がだいいちで、もし吉蔵くんたちを犠牲にしなければきみたちを救えないというのなら、本当にかわいそうだし、申しわけないとは思うんだけど、吉蔵くんたちを犠牲にしてもきみたちを助けようとしてしまうと思う」

「よかったです。お兄さんにはそうしてほしいとボク、頼みたいと思っていたのです」坊少年はそこで肩の力が抜けたように顔をほころばせた。

 無垢な破顔を目の当たりにし、ひょっとして、と思う。彼は知らないのだろうか。人形が犠牲になれば契約者たる人間もまた死んでしまうのだと。オジジの過保護ぶりを聞いたばかりなのでさもありなんだと投げやりに思う。いつの世もおとなのしわ寄せは子どもにいきつく。

 自身の陥っている立場をことこまかに教えてあげようかとも思ったが、窓のそとを眺め、家出した猫の帰りを待ちわびるような眼差しをそそぐ坊少年の、ちいさくふぅと吐いた息を聞き、そのあまりにおだやかな音色にぼくの善意は鳴りを潜めた。

 

 サキが帰ってくるまでに吉蔵が戻ってくることを半ば期待したが、往々にして期待通りにはならないのが現実というもので、ドタドタとアパートのそとにある階段を踏み鳴らしながらサキが玄関口を乱暴に開け放し、入ってきた。

「あームカつくっ!」

「ドアが壊れる」

 半ば命令調で宥めたが、サキは室内を真空にせんとばかりに力任せに扉を閉めた。「あいつら何回おんなじこと説明させたら気が済むわけ? 信じらんない」

 坊少年がいるのもお構いなしに彼女は服を脱ぎだした。両手両足を駆使し、上着とデニムを同時に脱衣していく。器用なものだ。

 台所と居間を区切る戸を閉め、ぼくはサキの裸体を隠すようにした。配慮も虚しく、すりガラス越しにサキがブラジャーを外したのが見えた。

 間もなくシャワーの音がしはじめる。

「あらしようなひとですね」

 たしかに荒々しい女ではある。が、それでは言い表し足りない厄介さというか、物事を荒立たせずにはいられない災害じみた気性がある。「悪魔のようなおんなだよ」

 シャワーの音にまじってサキの鼻歌が聞こえだす。

 坊少年は上気した頬を隠すようにうつむき、それからせわしなく部屋を見渡したかと思うと、「つけていいですか」と備え付けのメディア端末を示した。電源を点けてあげると彼はチャンネルを合わせニュースを観はじめたが、とくに観たかったというわけでもなさそうで、物理の公式を憶えようとする受験生のような眼差しでメディア端末の画面に集中しようと努めている。なんとなしに眺めていると、ポテポテマヨスターさんはひと月前から行方が知れず事務所のほうでも、などとキャスターが喚き散らしている。「へんてこな名前ですね」と坊少年が初めて耳にしたように言い、「サキさんのほうが美人さんですよね」と同意を求めるようにつぶやいたので、きみはいちど眼科にいくべきだ、と小学生のような応酬をして遊んだ。

 やがてシャワーの音がやむ。脱衣所がないので、洗面所からあがるとサキはさきほど同様、すりガラス越しに裸体を滲ませながら着替えをし、冷蔵庫から飲み物を取りだしたのか、喉を鳴らしながら飲み干していく。腰に手を当てている様が視え、滑稽に思う。

 濡れた髪を拭きながらサキがようやくこちらの部屋へ入ってきたとき、窓から吉蔵が飛びこんできた。

「どうなってんだ、姐御はいねぇし、シリコまで消えてんぞ」

 マンションを見てきたのだろう、泡を食った様子で転がり込んでくる。坊少年はこちらがそう頼んだからか、目のまえにあらわれた相棒を鷲掴みにした。拘束した矢先に、こちらが頼んでもいないのに吉蔵の両手両足をもいでいく。

「は? は? なにやってんだおまえ」

 痛覚がないのだろう、呆気にとられた様子で驚嘆半ばに吉蔵はしばらくなされるがままに四肢をもがれている。間もなく尋常ではない坊少年の様相に気づいたようで、ふざけんな、と悪態を吐きながら制止を命じる。坊少年は意に介さず、黙々と吉蔵を解体しつづける。もはや吉蔵は一糸まとわぬあられもない姿で、口から飛び出る言葉には、懇願にも似た音色がまじりはじめた。

「やめてくれよ坊、うそだろ? 冗談だよな?」

「前に解体したときのこと、憶えてる?」坊少年は赤子に語りかけるように言った。「あのとき吉蔵、死んじゃうからやめてくれって、股関節の球体には触らないでほしいってお願いしてきたよね」

 ばつのわるそうにいっしゅん吉蔵がこちらを見遣ったのが判った。人形は死を畏れたりしないとはミーさんの言葉だったが、吉蔵は死ぬことを理解し、そしてそれを恐れたという。坊少年を欺くための演技だったとしても死を理解していなくてはそうした言動はとれないはずだ。

 人形たちにも死を理解することができる。

 すなわち死とはなんぞやと疑問を呈したシリコは、ミーさんのまえで演技をしていたことになる。いや、人形たちが人間同様に学習するとするならば、幾分か幼い性格のシリコが死を理解できなかったとしても矛盾はない。

 だがどうだろう。

 もし人形たちが死を畏れているとするならば、命の源であるリンネの消失を歯牙にもかけていないという人形たちの前提が崩れることになる。

 彼らはリンネにいなくなってもらっては困るのだ。同時に、エネルギィ供給源である契約者にも消えてもらっては困ると考えている。

 いや、それもまた人形たちがリンネから独立して動いているとの前提があって初めて成り立つ等式だ。

 彼らがもしリンネと精神的な部分で繋がっているとするならば、ムイとリンネの関係性のように、端末としてこちらの情報をリンネに伝えていた可能性は否定できない。とすると吉蔵たちは意識的無意識的に拘わらず、リンネにとって優位になるように立ち回っていた可能性がでてくる。

 以前にも似た考えを巡らせていたがいよいよ現実味が増してきた。

 そもそも吉蔵がたった今見せた失言を気にする素振りは、人形たちは死を理解していないとこちらが知っていると前以って知っていなければできない仕草だ。なぜ吉蔵は自分の発した失言を失言だと気づけただろう。

 吉蔵たち生きる人形は、リンネにとっての触手だったのではないか。触手の先には口がついており、人間にかぶりついてはその生気をちゅーちゅー吸いとる。触手を辿れば本体が舌なめずりをし、暗闇から眼光を炯炯とさせこちらを見据えている。

 坊少年が何をせんとしているのかは現状定かではないが、吉蔵の焦り具合から、何かおもしろいことがはじまるのではないかという期待じみた熱が胸のうちにじんわりと広がるのを感じた。

 静観を決め込んでいると、サキがこちらの腕をとり、かわいそうだよ、とつぶやいた。止めてほしそうにしているが自分から止めようとは思わないらしい。或いはこちらの抱いている期待を邪魔しないようにしているのかもしれないが、やはりというべきかサキは人形を愛玩動物と同類と見做しているがために、見て見ぬふりだけはできないようだ。

「彼は坊くんの所有物だから、坊くんがどうしようとぼくたちが口を出すことではないよ」

「でも、あんなに嫌がってるし」

「そうだね。嫌がってる。なんでだろう」

 反駁しかけたサキだったが、思うところがあるのだろう、開きかけた口をつぐんだ。

 坊少年の手により解体された吉蔵の部位は、胴体から外されても、グネグネと水を求めさまようミミズのように動きつづけた。

 間もなく吉蔵の胴体から首が外され、喚き声がなくなる。幾分かそれで気が楽になったのだろう、坊少年は一つ息を吐き、それから球体関節部分――右足の付け根にある球形の部位を外した。するとそれまで胴体から外れてもウネウネ動いていた局部たちがいっせいに動きを止めた。完全に止まったわけではなく、乗っていた子どもが飛び下りて慣性の法則で動きつづけるブランコのように、或いは投げ出されたボールのように、世界の流れにただ揺蕩う物質と化した。

 視えない糸が途切れたような、そうした断線を思わせる淋しさがある。

 手にした球体関節の、まさしく関節たる部位を手にしながら坊少年はこちらを向き、これ、と差しだす。

「なんだい」

「これが吉蔵をうごかしているのです」

 告げてから彼は、いたのです、と言いなおした。「前に解体したとき、オジジに怒られてしまったのでもうしないと約束したのですけど」

 受け取ろうとすると遠ざけられた。見せたかっただけのようだ。餌をお預けされたアザラシのようにわざとらしくうなだれてみせると、坊少年はすこし笑い、それから誰にともなく説明するように淡々とこう言った。「ボクのことはどうでもいいので、海とか山にでも捨ててください。そうだ、お兄さんがボクたちのことを盗み見ていた原っぱとかがいいと思うのです。あすこなら誰にも見つからないかもしれないですし」

「なんのことだい」

「ボク、ホントはもっと前にこうしたかったのです。でもミー姉たちといるのが楽しくって、つい」

「坊くん?」

「でも、もういいのです。こういうの、なんて言うのでしたっけ。そうそう、フンギリがついたのです。どうしてうんちを切るのでしょう? おかしいですね」

 なんだか様子が変だ。思っているうちに坊少年は手のひらで弄ぶようにしていた吉蔵の魂とも呼ぶべき間接球体をゆかに置き、それからなんでもない調子で、おせわになりました、とおじぎした。こちらが面食らっているのを差し置き、かれはゆかのうえに置かれた吉蔵の魂を、まるで空き缶を踏みつぶすかのようなぞんざいな所作で、えいやと体重を載せたカカトで以って踏み砕いてみせた。

 止める暇もなかった。となりでサキが息を呑んだのが判った。

 あやつり人形の糸が切れたように、坊少年は支えを失くし、かくりとその場に倒れ込んだ。ちゃぶ台の角に頭部が当たり、カラになった牛丼の器が盛大にひっくり返った。大きな音が鳴ったが、その反動とも言うべきか、あとにはただ笑いたくなるほどの静寂がシンシンと満ちた。

 動かなくなった坊少年の身体をサキが労わるように揺すっているが、ぼくとしては無意味な行為だと半ば解っていたので、止めはしなかったが興味もそそがなかった。

 ゆかには、砕けた間接球体の残骸が大きく三つほどに割れており、中身が零れている。落とした卵を思わせる様相で、白い液状の物体が球体関節の欠片を浮かしている。まるで悶え苦しむかのように表層には細かな起伏が波打っており、やがて破片を押しのけるようにしながら液体は密集しだし、間もなく一つの塊と化した。 

 指先でつつき、問題ないと判断してから拾ってみる。どこからどう見ても人形の足先であり、しかしどれだけつねっても破損することのない頑丈さと、愛くるしい弾力は図らずもムイを思わせた。

 

 サキの手配したタクシーに乗って彼女と共にミーさんのマンションまで行った。背中には坊少年の遺体を背負っている。腐臭のしてくる前にアパートから移動させておくべきだと考えた。バラバラにするのは骨が折れるし、凍らせるにしてもアパートの冷蔵庫では小さすぎる。その点、ミーさんの部屋の冷蔵庫であれば子ども一人分くらいならば入りそうな容量がある。

「お子さん、死んだように眠っておりますな」

 メディア端末で代金を精算しようとすると穏やかな口調でタクシーの運転手が言った。

 いびきをかかないのは妻に似たようですとごまかし、タクシーを降りる。

 予想はしていたが部屋には誰もいない。荷物を取りにきたという様子もなく、果たして吉蔵は本当にここへ様子見に来たのだろうかと疑念がまた一つ増える。

 冷凍庫の中身をカラにし、坊少年の死後硬直しはじめた身体を旅行鞄に衣服をぎゅうぎゅう詰めにするような感覚で押しこんだ。人間の身体はどうしてこんなにも関節が少ないのだろうと嫌気が差し、途中で作業をサキに委ねたが、彼女は十全にそれをこなしてくれたようだ。坊少年の死後、サキは途端に口数が少なくなり、気も漫ろな様子でしかし淡々とこちらの命じたことだけはこなす。ソファに腰掛け、吉蔵の球体関節から零れ落ちたムイと同系統のちいさな足先を指さきで弄んでいると、サキは無言でとなりに腰掛け、こちらにあたまを預け、縋りつくようにした。

「どうしたの」

「なんだかこわくなっちゃった」

「いまさらだよね」

「そうじゃないの。あのコみたいにきみまで壊れちゃうんじゃないかって」

「ぼくは死なないよ」

「そうじゃないの」

 そうじゃなくって、とサキはつぶやいたきり、いつまでも経っても続きを口にしなかった。追及するほどでもないと思い、ぼくは意識を手元に移す。

 ムイに似たちいさな足先は、ムイがリンネの一部であることを思えば、これもまたリンネの一部なのだと考えられる。

 ぼくは考える。リンネは人形に命を与えるとミーさんは言っていたが、実際のところは自身の一部を組み込むことで人形を動かしていただけではないのか。そう考えれば、いくつかの疑問が氷解する。

 そもそもリンネがウィルスのように媒体を拡散する術があったならば、今頃もっと大規模な範囲で甚大な被害が出ていたはずだ。しかし現状そうはなっていない。なぜならリンネの能力には限度があるからだ。人形と契約させた人間たちを定期的に廃棄することで、リンネは新鮮なエネルギィ供給源を確保しようとしていた。いちどに捕食できる人間の数には限度があったと考えるのが筋ではないか。

 吉蔵やシリコたちに独立した意思はあったのだろうか。いや、それはあまり重要視すべき点ではない。

 重要なのは、彼らに自我があろうがなかろうが、リンネに情報が筒抜けになっていたか否かにある。

 なっていることを前提に動いてはいたが、実際そうなってくると思っていた以上に、リンネの優位性が高いことに戸惑いを禁じ得ない。

 青月青年がリンネと共にいるならば、彼らはこちらにまったく気づかれないように、あたかも茂みに隠れたライオンのような一方的な立ち振る舞いをみせることが可能だ。

 わざわざ青月青年を動かし、姿を晒すような真似をしたのはなぜだろう。隠れていれば、まずこちらが青月青年の関与を疑うことはない。

 よほどの勝算があるのだろうか。

 現にこちらはムイとサディを奪われた。坊少年の勇気ある行動――犠牲によって新たなリンネの局部を手に入れたが、形勢は劣性のままだ。

 思わず口のなかにリンネの足先を放り入れ、ガムを噛むようにした。口に放り込む様を見られたようでサキがあんぐりと口をあけている。

「おいしいの?」

「おちつくんだ」

「うそばっかり」

「ほんとうだよ」

「む。どれどれ」

 サキはこちらの首に手を回し、口に舌をねじ入れるようにした。口内をこれでもかとこねくり回され、挙句、リンネの足先を奪われる。サキは数回咀嚼するようにすると苦虫を噛み潰したような顔をし、ウベ、と吐きだした。

「やっぱりきみ、ヘンだよ」

「試すサキもサキだと思う」

 言うほど不満そうというほどでもなく、サキはむしろ元気を補充したようにコロコロと表情を変えた。思えば二人きりの時間というのは久しぶりだ。甘えたかったのかもしれない。

 ミーさんの話を思いだす。これまでにも幾人かのドール遣いたちが坊少年のように人形たちの活動停止と共に息を引き取ったと言っていた。遺体は道路にでも放置したのだろう。外傷はなく、検死解剖されたところで突然死との見解に一定の信憑性を与えるだけだから、思えば坊少年の遺体もわざわざ隠す必要はなかったのかもしれない。ただ、警察だってバカじゃない。いや、或いはバカなのかもしれないけれど、過去のドール遣いたちの不自然な死を調査している人間がいないとも言いきれないし、たといそうでなくとも未成年者の遺体が発見されたとなれば、それなりの時間と労力を捜査に費やしたに相違ない。するとこちらは目立った動きができなくなる。

 今はできるだけ行動を制限させたくないというのが本音であり、やはりというべきか今はまだ坊少年には冷凍庫のなかで眠っていてもらわねばならない。

 どうしてこうも遺体の処理というのは手間がかかるのだろう。

 考え、ぼくはそこで一つの可能性を閃いた。

 が、すぐに却下する。可能性としてはあり得るが、しかしそれを現状確かめるためわけにはいかない。現状確かめることが思いのほか容易なことが、よりぼくを慎重にさせる。人形と契約する意思がぼくにないこともまた腰を重くさせる要因の一つだ。

「どうしたの。こわい顔して」

 サキにまで気取られるとは。

 相当にまいっているなとじぶんの精神状態を把握する。なんでもないんだと言って聞かせる。こうも立てつづけに人の死に接するとさすがのぼくも気が滅入ってしまってね。心配させてしまって申し訳ない。でもきみが気にすることではないよ、ありがとう。ぼくが言うと、つよがらなくてもいいのにとサキはこちらの身体に身を寄せ、

「本当はなんとも思ってないくせに」と言った。「なんとも思わない自分が嫌なんでしょ」

 見透かしたようなことを言わないでほしい。べつに嫌だなんて思わないし、なんとも思っていないわけではない。人間というのはやはり死ぬのだなとすこしばかり感心したし、人が死んでも世のなかは何も変わらないのだということがぼくの背中を後押しさえする。

「大したことではないということが解って安心しているのさ。そう思うじぶんをべつに卑下しようとは思わないし誇らしいとも思わない」

 なぜ口にしたのかは分からなかったがぼくはサキにぼくの考えを伝え、サキもサキでとくに食い下がることなく、そっかと言って納得を示した。なんだかその妙に物分かりのよい態度が、まるでぼく自身も気づいていないぼくの内面を喝破していると彼女自身が思い込み、悦に浸っているようで癪だった。が、ここで苛立ちを顕わにするのもまた癪だったので、黙って甘えるふりをする。

 

 ミーさんのメディア端末からぼくあてにテキストメッセージが送られていることに気づいたのは、サキがトイレに立った矢先のことだった。ぼくはいつの間にか眠っていたわけだけれど、ソファからこっそり立ち上がったサキの動きで目が覚めた。

 時刻を確認しようとメディア端末を見ると、テキストメッセージを受信していた。

「ごめんね、起こしちゃった?」

 トイレから戻ってきたサキにメッセージを見せる。

「誰から?」

「ミーさん。ぼくがきみにムカイさんだって言って偽っていた同居人――ここの部屋の主だよ」

「いなくなった人ってこと? 【会って話したい】ってこれ、どう見ても怪しいでしょ」

「ぼくもそう思う」

「だったら」

「まずは待ち合わせ場所を指定して、会うという方向で話を進めようと思う」

「でも」

「もちろん行くつもりはないよ。警察に通報しちゃおうと思って」

「え?」

「ぼくだってバカじゃない。わざわざ危険を冒してまで彼女の無事を確かめようなんて思わない。仮に本物の彼女が待っていたとしても警察に身柄を拘束してもらったほうが彼女のためでもある」

「ほんとうにそう思ってるの?」

「たしかめる必要があるのかい」

「うわぁ。やっぱりきみって薄情なやつだぁ」サキはうれしそうにした。

 会うという旨を伝えると相手は場所を指定してきた。とある山の名前と共に地図が送られてくる。聞けばその場所は、ぼくが監禁され、糞をまき散らした忌まわしき山小屋だという。

 声を聴きたいといって通話での意思疎通を図ろうとするも、盗聴の可能性があるから今はできないと拒まれ、一方的に掛けてみると着信拒否設定にされていた。

「会わせたい人がいるって誰だろ?」横からサキが画面を覗きこむようにしながら言った。最新のメッセージには、会わせたい人がいるのでできれば一人で来てほしいといった旨が記されている。

「青月さんかもしれない」

「リンネの持ち主だったひと? 死んじゃったんじゃなかったの」

 そこから説明しなくてはならないのかとうんざりしたが、共有しておくべき情報にちがいはなく、ぼくの仮説を話して聞かせた。

「えぇ。ならリンネはぜんぜん身動き取れない状態じゃないってことじゃん」

 そういうことになる。おそらく爆発事故のあったとき、青月青年はうでを吹き飛ばされながらも欠損したリンネを抱え、その場を脱していたのだ。その後、バラバラになったリンネの本体の指示に従い、飛び散った局部を回収しようとしていた。

 ほかのドール遣いたちに気取られないようにしながら、なおかつ、自由に動きまわれない自分たちに代わってサキやぼくに局部回収の作業を担わせつつ。

 ではなぜミーさんに接触してきたのかを考えることにさしたる意味はないように思う。

 青月青年には何かしらの考えがあり、そしてミーさんを通じ、こうしてぼくに連絡を寄越している。そもそもを言えば、このテキストメッセージを打っているのだってミーさんではなく彼かもしれない。

 要件があるのなら概要だけでも教えてほしいと送るが、直接会って話すの一点張りでラチが明かない。最終的には一方的に日時を指定され、通信は途絶えた。

「きょうの二時って、あと三時間もないじゃん」

「なにを焦っているんだろうね」

 手のひらのちいさな足先を弄びながらぼくは、メディア端末の一と一と〇を押した。

 

 最初に気づいたのはサキだった。

 ぼくはメディア端末で映画を観ていたので、乱暴に身体を揺すってきたサキを苛立たしげに睨みつけたが、彼女はこちらを見ていない。

「どうしよう、逃げなきゃ」

 サキの視線を辿って窓のそとを見遣ると、眼下にはパトカーの赤色灯がマンションの外壁を赤く染めあげていた。一瞬で現状を把握し、ぼくは冷凍庫に目をやってから、逡巡することなくそのままの状態で部屋をあとにすることを決めた。

 エレベータで一階まで降り、平然と玄関を抜けていく。パトカーは一台だけではなく、数人の警官とすれ違った。マンションを出てから二人組の警官に呼び止められた。ミーさんの部屋の番号を言われ、住人について知っているかと訊ねられたが、知らないと答え、ほかの階に住む友人に会いに来たのだと応じ、何かあったのですかと付け足すように反問すると、いやちょっとね、とはぐらかされ、こんどは一転、追い払われるように解放された。

 ぼくはサキを連れ、そのまま駅前のほうへと歩いていく。

「焦ったね」ファーストフード店に入り、ポテトを摘まみながらサキがはしゃいだ。

「油断は禁物だよ」

 冷凍庫の中身が発見されるのは時間の問題だ。すでに見つかっていると思って行動したほうがいいだろう。部屋を見れば同居人がいたことはすぐにバレるだろうし、監視カメラの映像を確かめられれば、それがさきほど玄関口を通った二人組のかたわれ、すなわちぼくであると喝破される。

 人混みに紛れたところで、警察機構が本気を出せば一介の市民たるぼくなどに彼らの捜査網を掻い潜るだけの術はなく、呆気なくお縄に頂戴されるに決まっている。

 動くならば今だ。

 考えながら、しかしなぜ警察がミーさんのマンションへやってきたのか、とそのことに意識がいく。警察への通報を逆探知されたのだろうか。非通知で掛けても警察には筒抜けだよという真偽の定かではないサキの助言に従って、ミーさんの部屋に備え付けられているメディア端末を使ったのが裏目に出てしまったのかもしれない。

 果たしてこんなにはやく警察が動くだろうか。ただ事ではなさそうな物々しさがあった。行方不明者を見つけたかもしれないというただそれだけの情報提供で警察があそこまで派手に動くとは思えない。ひょっとしたらオジジとミーさんたちの関係が思いのほかはやく結びつけられたのかもしれない。

 しかしそれにしても、という思いがどうしても拭えない。

 ああでもない、こうでもないと思索に耽っているとサキがぎょっとした様子で窓のそとを見遣っている。ビルの三階に位置するファーストフード店からは、駅ビルにはめ込まれている巨大な液晶ディスプレイを目にすることができた。そこには新作の映画やアニメの予告の合間にニュースが流れている。今は、速報なのか、ついさきほど入ってきた報せによると、などとキャスターが口上を逞しくしている。

 山の麓らしき映像が流される。嫌な予感がした。警官たちに封鎖された山道が映され、そのさきの小屋のなかから男女の遺体が発見されたといった字幕が右から左へと流れていく。

「ねぇ、あれって……」

 サキはそこで言い淀み、それからこちらの顔を窺うようにしてから「物騒だね」とどうでもいい所感を口にした。

「物騒どころの話じゃない」

 目が血走るのがじぶんでも判った。何がなんだか解らない。遺体として発見された男女のうちの一人、女のほうの身元が判明したらしく、キャスターが名を読みあげている。名を空美田(そらみた)琴香(ことか)と言い、奇しくもそれはミーさんの本名と合致していた。

 

 偽名を使ってビジネスホテルに泊まってから四日目になる。何か具体的な行動を起こすことなく漫然と時間だけが過ぎていく。サキは職場へ行くことなく、無断欠勤をつづけている。貯蓄があるようで、しばらくは生活の心配はないよ、とこちらを気遣うようなことを言った。パトロンとしての価値はまだあるようだと判り、事実上無職になったサキに対しても今しばらくは「不用」の評価を下さずにおく。

 新聞社の配信アプリから記事を購入した。空美田琴香ことミーさんが真実に死亡したという旨を確かめるためだったが、紛れもなく掲載されている女性の顔写真はミーさんだった。

 新聞のほうでは男の身元について触れられていなかったが、遺体発見のニュースが流れてから三日後、すなわち昨日発売された週刊誌によれば、男は数か月前にすでに死亡していることになっている区内在住の青年という話で、ぼくにはそれがどうしたって青月青年にしか思えなかった。

 持っていたメディア端末は解約し、今あるこれは新規に購入したものだ。ミーさんの遺体が回収されたなら端末も押収されただろうし、逆探知される可能性を考えれば彼女との接点は極力排しておく必要がある。ミーさんから譲り受けたほうの端末はすでに山小屋に監禁されたときにオジジの手により破壊されている。解約したのは盗聴用にと坊少年に預け、その後サキとの連絡用に契約した、ぼく名義の端末だ。ミーさんに助けだされてから、彼女と番号を交換してしまっているので、ぼくのデータがミーさんの端末には残っているし、死ぬ直前までぼくたちは連絡のやり取りをしていたのだから、警察が目をつけないわけがない。

 よもやこんなことになるとはつゆほども思わず、本名で契約してしまっている。いくら契約を切ったところで調べられればぼくの存在は明るみにでる。

 奸計が裏目に出たとしか言いようがない。

 警察になど通報せずに素直にミーさんに会いに行くべきだった。

 ぼくの身柄が拘束されるのも時間の問題だ。

 追い詰めたはずが逆に窮地に追い込まれてしまった。おそらくリンネはまだ活動している。ムイとサディを手にしたいま、あとは足を奪還すればぼくも用済みとしての烙印を押されるはめになる。

 逃げるべきではないのか。

 いまさらムイをどうこう言っている場合ではないのではないか。

 保身と矜持が入り乱れる。

 新しい端末はサキ名義で契約してもらった。いちどは偽名で契約しようとしたのだが、思いのほか身元確認が厳重なため断念した。

 報道管制が敷かれているのか、五日目にしてようやくというべきか、マンションの一室から少年の遺体が発見されたという記事が出回った。遺体の発見現場が山小屋で亡くなっていた女性の住居ということもあり、大々的に報道されている。

 なんてことをしてくれたんだという思いがある。誰へ向かう怒りかはじぶんでもよく分からない。

 リンネにしてみたっていい思いはしないはずだ。

 こっそり人間に寄生していればよかったところを、ここにきて人間たちから追われるかもしれない危険性を孕みはじめている。いくら超自然現象じみているとはいえ、人間を死に至らしめる人形が実存するなどと判明すれば、黙ってはいられないのが人間という生き物だ。警察機構どころかあらゆる人間たちが人形に向け鋭利な敵意をむき出しにする。リンネとしてはそれだけはなんとしても避けたいと希求するだろうし、その危険性を顧みれないほど愚かな存在ではないはずだ。

 なにか狙いがあるのだろうか。

 或いは危険を冒してでも身体をすべて集めることを優先すべき事態に見舞われているのかもしれない。身体さえ元に戻ればそれでいいと考えている可能性も否めない。

 ぼくはかぶりを振る。まただ。

 可能性を挙げ連ねることに意味はない。解っているはずだのに、ああでもないこうでもないとまとまらない考えばかりが膨れていく。

 買い物に行っていたサキが戻ってくる。なにやら小首を傾げながら手にした封筒を眺めている。買い物袋を備え付けのちいさな冷蔵庫のよこに投げだし、ベッドに腰掛けていたこちらの許にやってくる。

「どうしたんだ」

「なんかね、ロビーで女のひとからもらったんだけど」

「なに?」

「部屋で開けてくださいって」

「受け取ったのか?」

「だって無理やり渡してくるから」

 咄嗟に盗聴器や発信機の可能性を考えたが、その女がすでにホテルのロビーにいたことを思えば、そんな手の込んだことをせずともこちらの部屋を突き止められたはずだ。警察機構の人間だったならばホテルの者に訊くほうが早い。

「どんな人だった」言いながら封を切り、中身を取りだす。手紙が一枚入っていた。

「帽子かぶってたからよく見えなかったけど」

 つばのひろいこんなやつ、と手で帽子の大きさをかたどるようにしながらサキは、

「けっこうきれいめなひとだったよ」と言った。

 メディア端末に新聞記事を表示させぼくは、そこからミーさんの顔写真を拡大してサキに見せた。「このひとに似てたか」

「んー? あ、そうそう。こんな感じ」

 写真の下には、死亡した空美田さんは、などと文章が連なっており、それを目にしたサキは、「死んでるじゃんこのひと」と肩を抱き、身をすくめるようにした。

 きっと人違いだよ、このひとなわけないじゃん。幽霊に怯える幼子のように言い聞かせてくるサキを足蹴にして追い払い、ぼくは封筒から取りだした手紙に目を通した。そこにはただ、日時と場所が記されている。

 

 サキには待っているように言いつけた。日時も場所も告げずに、しばらく別行動をしたほうがいいと提案したが、なかなか首を縦に振らず、付いてくると言って聞かない。

「せめて行先だけ教えてよ」

「解ってほしい。きみを危険に晒したくないんだ」

「そういうのいいよ。どうせもう用済みなんでしょわたし」

「ちがうよ」

「本当のこと言って」

 部屋の扉を塞ぐように立ち、サキはぐずぐずと食い下がった。

「もしものときには助けにきてほしいと思っている」ぼくは本心を言った。「だけど、それ以外はしょうじき邪魔だ」

「だけど」

「ならこうしよう。きみにはコレを預けておく」言って持っていたリンネの局部と思しきちいさな足を手渡した。「きみにはそれを失くさないように持っていてほしい。誰にも渡しちゃいけないし、奪われてもいけない」

 ムイのときみたいなことにはならないでくれ、とぼくは遠まわしに吉蔵にムイを奪われたサキの過失を責めた。

「解ったけど、でも」

「しつこいんだけど」いい加減にしてほしいと冷淡に吐きつけると、サキは押されたので押しかえしましたと言わんばかりに反抗的な目をし、

「あなたにとってわたしってなんなの」と言った。だからぼくは答えた。「始末に困らないオナホ」

「え?」思っていた以上にサキがうろたえたのでぼくはここぞとばかりに畳みかける。「でも今は始末に困るオナホかな」

 サキの顔が歪んでいくのが判った。

 乱暴に押しのけるようにし、ぼくは部屋をあとにする。

 

 ぼくは荒野に立っている。夜の帳の下りはじめた時分で、ビジネスホテルでサキと別れてから三日が経つ。

 三か月前まではここには湖を思わせる密度でススキが群れていた。ぼくはそのとき初めてここで坊少年たちを見かけたわけだが、あれから老人介護施設が建設される予定が立ったらしく、砂利の露出していた校舎跡には、新たな基礎が組まれ、そばには鉄骨が無造作に積まれている。ぼくが身を隠した地点には未だに乗り捨てられた車があり、そこだけ時間が停止したように変化がない。

 手紙の指示にあった場所がここだった。

 ということは、少なからずぼくがかつてこの場に足を踏み入れたことがあると知っている人物が手紙の送り主ということになる。偶然とは考えにくい。可能性としてあり得るのは、ミーさん、オジジ、坊少年、或いは彼らが使役していた人形たちのうちの誰かだ。しかし現状、彼らのなかに生きている者はいない。ゆいいつシリコの存命が定かではないが、宿主を失った寄生虫に生きながらえる術はない。ミーさんが死んだという世間の認識からすれば、シリコもまた活動を停止しているとみるべきだ。

 だが十中八九ミーさんは生きているとぼくは考えている。というよりも現状、オジジの死体も坊少年の遺体も、ぼくはこの目でじかに見ている。可能性として考えられるのが彼女しかいないというだけの話だ。ミーさんの死だけが直接に確認できていない。

 同時に、警察機構を誤魔化すだけの仮死状態を彼女がつくれるとも思えない。ミーさんが死んだことになっているのならば、やはり医師の死亡診断を受けたということになる。ミーさんの死はある意味でぼくがじかに確かめるよりもたしかな診断を受けたことになる。とりもなおさず、オジジや坊少年もまた死んだという評価を世間から受けている。

 だとすればどういうことになる。

 ひとつの仮説がぼくのなかにはある。確かめる術もあったが、実行に移すだけの覚悟がなかった。仮説の信憑性が高ければ高いほど、それを確かめたぼくの身も危ぶまれるからだ。

「やっと会えたわね」

 山のほうから人影が現れた。指定された時刻通りだ。視界を遮るものがないため、沈みかけた夕陽が彼女のよこ顔を照らす。

「無事だったんですね」

「死んだことになっちゃったことが無事であると言えるのならね」

 軽口を叩けるのならだいじょうぶそうですね、と言うと、知らないの、死んでたって軽口くらい叩けるのよ、と彼女はやはり軽口を叩いた。

 ミーさんだ。

 思うが、湧いた感動を呑みくだす。

「一人? サキちゃんは?」辺りを見渡しながら彼女が歩み寄ってくる。「それともまた保険? 困ったときに助けに来てくれるようにって」

「置いてきましたよ。足手まといなだけなので」

「あら冷たい」

 鈴を転がしたように彼女は笑い、「どうせ陰では私のこともそんなふうに言ってるんでしょ」とこちらのまえで歩を止める。蛇を思わせる緩慢さでこちらの首に両腕を回すと、

「でもいいわ」と言った。「きみにならなんと思われても」

 想われないよりマシだもの。

 抱き寄せられ、ぼくは彼女のぬくもりに触れる。あたたかいと思った。いちどは呑みくだした感情が吐しゃ物のように喉を競りあがってくるのを感じた。身じろぐようにして彼女を突き離そうと試みるが、

「もうだいじょうぶ。ぜんぶ終わったの」

 しがみつくように接吻してくる彼女をぼくは押しのけられずにいる。舌を吸われ、ぞくぞくと悪寒のような痺れが股間に収斂していくのを感じ、

「なにがあったんですか」

 強引に彼女を引き剥がすようにし、ようやくというべきか水を向けた。

 彼女はむすっとし、

「きみが警察なんて呼ぶからたいへんだったのよ」

 冗談めかしぼくを詰ってから訥々と語った。

 マンションを訪れたのはやはり青月青年だったという。追いかけたあと、いちど見失ってから人通りの多い場所で腕を引っ張られ、そのまま地下鉄駅構内まで連れて行かれたのだそうだ。

「バーみたいなお店でね。改装中みたいでなかには誰もいなかったわ」

 オジジの所有するいくつかの店の一つなのだと彼は説明したそうだ。駅前の爆破騒動以来、そこに身を寄せていたという。

「オジジは知っていたんですか」

「青月くんと共謀してたかってこと? そうね。彼は関係ないと言っていたけど、でも無関係と思うほうがどうかしてる」

「なぜ彼はあなたに接触を?」

「リンネの腕を回収するために力を貸してほしいって。彼、最期までリンネは無害だと信じていたわ」

「さいごまで?」

「ニュース観たでしょ? 彼、死んだの」

「なぜ」

「なぜって、おかしい。だって私はそもそもリンネを封じるためにあれやこれや汗水垂らしてがんばってたのに、なぜってなに? それともきみ、ひょっとして私が彼のこと好いていたとでも?」

 思っていた、と正直に応じると彼女はふて腐れたように、まあ、と言った。腰に手を当て、あごを引き、こちらを上目遣いに威嚇する。ぼくはその抗議の眼差しには気づかないふりをし、

「リンネはどうしたんですか」と周囲に目を遣った。青月青年がどこかに潜んでいるのではないかと警戒したわけだが、こちらの不信感を敏感に感じとったのか彼女は、信用されてないわね、と淋しそうに笑った。

「封じたわよ。破壊してもよかったんだけどね。でも、それだとほら、シリコまで死んじゃうでしょ」

「シリコちゃんは?」

「いるわよ。でもきょうは置いてきたの。ほら、あのコ、真面目な話とか苦手じゃない?」

「リンネを封じたから青月さんは死んだと?」

「本当は死なせずに済むならそうしたかったんだけど、やっぱりダメだったみたい」

 イチかバチかに賭けてみたらバチのほうに当たってしまったといわんばかりに彼女は肩をすくめる。

「あまり悲しそうではないですね」

「まあ、想定していないわけじゃなかったからね」

「良心は痛まないんですか」

「きみがそれを言うわけ?」

 噴きだすようにしたミーさんは真実、心の底からおかしそうにしている。演技には見えない。

 ぼくは考える。ミーさんにとって最優先すべき事項はシリコを失わないことだった。だからリンネを破棄するのではなく封じることで事態の収拾を図った。理解はできるが腑に落ちない。彼女がそう考えるようになったそもそもの発端はむしろ青月青年を助けようとしたからではなかったか。彼女と彼は親しい間柄にあり、リンネの裏の顔を察知したミーさんが仲間を募り、青月青年からリンネを引き剥がそうとした。しかしミーさんたちの努力もむなしく彼はリンネの手により爆死し、この世から姿を消した。あとには負の遺産であるところのリンネだけが残り、ミーさんたちは青月青年への弔いも兼ねてリンネを封じることにいっそうの信念を燃やした。

 ぼくの思い描いていたミーさんたちの物語はこのようなものだった。むろんぼくの想像でしかない以上、ミーさんと青月青年に実際のところ深い繋がりがなかったとしても別段おかしくはない。

 にも拘わらずぼくは今、目のまえにいるミーさんのカタチをした女の言動を素直に受け止められないでいる。というよりも、あまりにもぼくの思い描いているミーさんという人物像にちかすぎるように思うのだ。

 違和感がある。ミーさんはぼくに対して、こんなあけすけな感覚で素の感情を、思考を、淀みを、曝けだしたりしなかった。飽くまで間接的にぼくとの共通点を測ろうとする迂遠なカタチでもって、通常まず見抜けないだろう心理的防壁を用い、それを坊壁だと見抜ける相手を彼女は求めていた。

 私に触れたいならまずは私を理解して。

 わざと突き離すことで相手の愛を確かめるような幼稚な試練を彼女はいつだって周囲の人間に、それこそ繋がりたいと欲する相手に対して向けていた。

 本質的なところでぼくたちは似通っており、しかしその一点でのみぼくとミーさんは別種の存在だったと言える。ぼくはわざわざそんな面倒なことをしないし、誰かに理解してもらいたいなどとは思わない。

 ただ、同じような世界を視ている人間と出会うことはうれしいし、理解しあえたならよろこびも湧く。だがけっきょくのところ人間というものはどうあっても完全に理解しあうことなどできはしない。

 完全に同化し、一つになることなどできないのだから。

 ぼくはそれを知っているから、理解しあえる相手を求めるなんてばかばかしい真似をしようとは思わない。けれどミーさんはそこに希望を持てるひとだった。

 だから。

 ぼくに対してこんなふうに本懐を晒したりなどしないはずだった。

 すべての事態を終息させたために気が緩んでいるとも考えられる。人はいつだって同じではいられない。お酒を飲めば、ふだん胸の奥底に忍ばせている醜い顔を見せたりもするだろう。ぼくがたった二日間監禁されただけでじぶんでも判るような顕著な変化を精神に及ぼされたように。

「足は持ってきた?」

「念のためべつの場所に置いてきました」

「きみらしいわね」

「両手はどうしたんですか」

「両手? リンネの?」

「そうです」

 この返答によってぼくのとるべき道が決まると言ってよい。サキの部屋から紛失したムイは十中八九吉蔵が盗みだした。しかしその後戻ってきた吉蔵はムイを持っていなかった。ならば吉蔵は坊少年以外の何者かにムイを渡したと言ってよく、言ってしまえば吉蔵は坊少年以外の何者かの命令を聞いていたことになる。むろん吉蔵がどこかに隠してきたという線も考えられるが、隠し場所を胸に秘めたまま活動停止するとは思えず、或いはあの場で活動停止しても第三者の手にムイが渡るような仕組みができあがっていたのかもしれない。いずれにせよ人形たちは契約者以外からの命令も受けつけると考えてよさそうだ。

 首謀者としてもっとも有力なのはリンネだが、それ以外に人形たちを操れる人物がいたとしても今さらおどろきはしない。或いは、最初からすべての人形は一人の人間と契約しており、オジジや坊少年たちはただの餌だったと考えることもできるのではないか。

「リンネの本体、足先だけがなかったの。ほかの部位は揃ってた。たぶん青月くんが集めたんでしょうね。だからきみの持っていたっていう両手も青月くんがなんらかのかたちで奪ったんだと思う」

「オジジは誰が殺したんですか。それも青月さんが?」

「そういうことになるんじゃないかしら」と彼女はオジジの死を知っている前提で話した。ニュースにもなっているので別段不自然ではない。「彼、自分が何をしていたのかとか、そういうことはいっさい教えてくれなかったけど、でも何も言わないってことは逆にそういうことだったんじゃないのかなって私は思うけど」

「警察に包囲されたとき、あなたはどうやって脱出を? 世間が認識しているあなたの死体はなんなんですか」

「もういいじゃない。私はこうして無事なんだし」ミーさんは目を逸らした。疾しいことをしたのだと示すような渋面を浮かべ、いろいろあったのよ、と暗に聞かないでほしいとせつなそうに零す。

 ミーさんらしくあり、だからこそ紙一重でらしくない。その紙一重がぼくの思い描くミーさんという人物像にとって、もっとも重要な要素と言ってよい。

 そもそも青月青年が死んだことの根拠をニュースに求めるというのなら、同じく死んだと報道された彼女が生きているのはおかしい。ぼくはようやく確信する。ミーさんは死んだ。目のまえにいるのはまさしく彼女の皮を着た悪魔だと。

「一つ訊いてもいいですか」

「またぁ?」彼女は嫌そうな顔をし、「どうして私、きみに尋問されてるのかな」とおどけたように指弾する。突きつけられた指を避けるようにしてぼくは、これで最後なので、と食い下がる。

「しょうがないなぁ。本当に最後だからね」

「はい」ぼくは言った。「それで、リンネはどこに、どうやって封じたんですか」

「どこで、と、どうやって、の二つなんだけど」

 黙って返事を待っていると彼女はじれったそうに身をくねらせ、

「海に沈めたわ」と短く息を吐いた。「ペット用の墓石があって、それに入れて沈めたの。中身もセメントで固めたし、人間と違って腐敗したりしないでしょ? 浮かんでくる心配もないから、本当にもう終わったのよ」

「ぼくの持っている足も同じように?」

「そうね。セメントで固めてポイするのがいいと思う」

「本体を沈めたならぼくが持っていても大丈夫なのでは」

「コラコラ。最後の質問は終わったんじゃないの」

「ひょっとして」ぼくは茶番を終わらせたくなくて続ける。「あなたは知っているんじゃないですか」

「知っている? なにを?」

「人形たちがどうやって命を得ていたのか」

「そりゃあね。だからリンネを封じたんだもの」

「言い換えます。リンネがどうやって人形たちに命を与えていたのか。あなたは知っているんじゃないですか」

「知らないわよ。なんかふしぎなチカラでもってエイヤーって籠めたんじゃないの」

 命みたいなやつをさ、と彼女は興味なさげに答える。「ねえ、さっきからなんなの。言いたいことがあるなら言ってくれていいんだよ」

「リンネは人形に命なんて吹きこんでなかったと言ったらどうしますか」

「どういうこと?」

「リンネは自身の局部を人形に組み込むことで、遠隔操作していただけだとしたら」

「だったら何なの? だとしてもそれでシリコが動いているのならなおのこと本体を封じて、あのコだけを守るわよ」

「シリコちゃんがリンネを復活させようとしても?」

「そんなこと、私がさせない」

「今こうしてシリコちゃんと別行動して自由にさせているのに?」

「無責任なのは謝る。でもつぎからはもう目を離したりしない。というか、本当に何なの? 文句があるならもっとハッキリ言ってくれていいんだよ」

「もう演技しなくていいですよ。本当にミーさんとしゃべっているみたいでぼく、すこし悲しいです」

「待って。本当にどうしちゃったの。きみ、ヘンだよ」

「ええ。ぼくもじぶんがどうにかなっちゃったんじゃないかって思います。まさかこんなに悲しく思うなんて。まあ、ミーさんたちがどうしてあれほど人形に執着していたのか、今ならすこしだけ解る気がします」

 もはや彼女は応答しなかった。腕を組み、呆れた様子でこちらを見遣っている。これも演技にちがいない。ぼくは言った。

「リンネにはもともと特殊な能力は一つしかなかったんですよ。無生物に寄生するというただそれだけの能力です。ただし、本体から切り離された局部にも本体の意思が反映されるという通常、生物には見られない性質もリンネには備わっていた。ここで重要なのは、リンネが無機物ではなく、無生物に寄生するという点です。つまり、過去に生きていたモノ、しかし今は生きていないモノであってもリンネは寄生することができる」

 言い換えればですね、とぼくは目のまえのミーさんの姿をした、けれどミーさんではない人影へ向け、ハッキリとこう告げる。「遺体であっても寄生できるんですよ。今のあなたみたいにね」

 

 青月青年らしき人物がミーさんのマンションを訪れたときにぼくは気づくべきだった。

 リンネは無生物に寄生する。

 ならば遺体にも寄生できるのだと。

 実際のところ青月青年は駅前で起きた爆発に巻き込まれ死んでしまったのだろう。しかし、遺体の損壊は思いのほか激しいものではなかったと考えれば、どうやって現場からリンネが脱したのかの答えは自ずと導かれるというものだ。

 青月青年の遺体に寄生し、青月青年として堂々と現場を離れた。こう考えるよりないだろう。

 しかしエネルギィ供給装置としての宿主を失くしたリンネは、思ったほど動きまわることができなかった。やはりそこで協力者が必要となってくる。おそらくそれはオジジだろうとぼくは睨んでいるのだが、当の本人がすでに死んでいる以上、確かめる術はない。

 ――当事者たるリンネに訊ねる以外には。

「もういいんです。あなたの演技力の高さは充分に分かりました。ひるがえっては、ここまで他人に成り済ませることができるという時点で、吉蔵やシリコたちもまた、そういうキャラクターを演じていただけと考えてよさそうですね。彼らはあなたからは独立していなかった。こちらの動向は筒抜けだったというわけです」

 首だけを下げ、うつむいた姿勢のまま彼女は動かない。

「山小屋で警察に囲まれたあなたは、そのとき青月さんの遺体に入り、青月さんに成りきっていた。ミーさんを殺したのはそうですね、やはりぼくに接触するにはそちらの素体のほうが都合がよいと考えたからですか。ミーさんを殺し、そしてヤドカリが宿を変えるように、ミーさんの遺体に乗り変えたあなたは、自身もまた遺体に成りすましたままで、難なく殺人現場を、被害者として脱した。遺体安置所へと運ばれたところで、何食わぬ顔でおもてへと出た。まさか死亡診断を下された遺体が歩き回るなんて誰も思わないでしょうから、建物のそとへ抜けだすなんて造作もなかったでしょう。シリコを動かしていたのは右足ですか、それともほかの部位ですか? 吉蔵を動かしていた局部が左足だったことを鑑みればきっと右足なのでしょうね。右足は回収済みですか? あなたのなかに――そこにあるんですか? そうそう、思えばこうしてじかに相見えるのは初めてですね。挨拶が遅れてすみません」

 ぼくは名乗った。

「初めましてリンネさん。とつぜんで申しわけないんですけど、ぼくのムイを返してください」

 言ってぼくはなんの応答も示さない彼女の身体めがけて隠し持っていたナイフを突きたてた。肋骨に当たってしまったのか、鈍い感触が腕を伝って肘にまで響く。押し倒すようにし、チャックを下ろすような感覚で力任せに傷口を広げていく。なんとなく胸のあたりに入り込んでいるのではないか、といったぼくの予感は当たっており、リンネらしき球体はまるでそういう器官であるかのように胃袋にぴったりと収まっていた。密着よりも癒着を思わせる窮屈さだ。心臓に似た動きでしきりに白い表面を脈打たせている。

 胃袋ごと切り離し、地面に転がす。

 ぼくはその白い球体にナイフをこれでもかと幾度も幾度も突き刺していく。玉ねぎをみじん切りにする要領で、細かく寸断していく。

 吉蔵の球体間接がそうであったように、目のまえに転がった無数の破片も、融けたチョコレイトのように液状に拡がりはじめ、やがて互いにくっつきあい、いくつかの塊を形成していく。

 足や手や腿など、それらは関節ごとに区切ることの可能な局部として、末端から順々に再生していく。

 まさしく再生と呼ぶべき変化であり、ぼくはすべてが再生し、人形としてのカタチをよみがえらせる前に、ぼくのムイを、すなわちリンネの左手を拾いあげた。

 手のひらのうえで転がすようにすると、本体から離れたそれはいち早く固体としての性質を帯び、コロコロと白玉のように安定した。半開きのちいさな手は、死んだダンゴ虫を思わせる。

 しょうじきほかの局部には関心がなく、捨て置いてもよかったが、面倒なのはご免なので、どうにか処分できないだろうか、と辺りを見渡す。ミーさんの遺体にも傷をつけてしまった。ここに建てられる予定の介護施設がどんなものであるにせよ当分は解体されることはないだろう。ぼくはミーさんの遺体をすでにできあがっている基礎部分にこっそり埋めてしまおうと考えた。

 いい考えに思え、視線を戻すと、そこにはミーさんの遺体だけが転がっており、彼女は胸元を赤黒くおっぴろげている。コートの下の裸体を見せびらかす露出狂を思わせ、そこはかとなくエロスを感じたが、ぼくには坊少年のようなネクロフィリアの気はないので、なんでもないように凝視し、幾度かナイフを突きたてた。いなくなったリンネが遺体に潜り直した可能性を考えての行動だったが、杞憂だったらしい。ミーさんの遺体は冷たくナイフを受け入れた。

 焦りはない。

 失態を快く思わない単純な痛痒があるだけだ。

 ムイを手に入れた今、ぼくはこの街を離れ一生涯リンネと接点を持たないように暮らせばそれで事足りる。今ある繋がりのことごとくを切り離し、姿を晦ませれば、リンネの呪縛から逃れることができるのだ。

 ならば最低限の後始末をしてさっさと引き上げるに越したことはない。

 とっととミーさんの遺体を片づけてしまおう。

 ぼくは鼻歌を奏でながらミーさんの遺体を、校舎跡に築かれた基礎部分まで引きずっていく。建設予定の老人介護施設は校舎と同等の規模で組み上げられるらしく、そばに積み重ねられている鉄骨などは、ゆうにぼくの背丈の倍以上もある。迷路を抜けるようにしながらぼくは手ごろな場所までミーさんを運んだ。

 基礎部分に流し込まれたコンクリートはすでに固まっており、そばにはいくつかの機材がビニールシートを被せられた状態で放置されている。ぼくはそこに立てかけられていたシャベルを手に取り、基礎の内部に足を踏み入れ、地面の露出した場所に穴を掘っていく。

 どれくらい掘ればいいだろうか。すでにひと一人分を埋められるだけの穴を掘ったが、念には念を入れてもうすこし掘り下げておこうと思い、にわかに痛みだした腰に鞭打ち、シャベルで土を掻きだしていく。

 反響する土の抉れる音に交じって、ビニールシートの風にたなびく音が交じっている。さんがつみっかのもちつきに、ぺったんこ、ぺったんこ。うろ覚えのわらべ歌を頭のなかでころがす。延々と繰り返し流れるそれが、なにともなしに耳に届く土と風の音に同化しはじめたころ、ひときわつよくビニールシートのはためく音を聞いた。ふしぎなことに風はそれほどつよく吹いていない。

 月が雲間に隠れたのか、辺りが一段と暗くなる。

 穴のなかに立つぼくは、太もものあたりに穴と地面の境目を目にしていたが、辺りを覆った暗がりのそのあまりの深さに、まるでぼくの身体が縮み、穴にすっぽり埋もれてしまったような感覚に襲われた。

 影という影が一つの闇に同化し、ぼくはただその闇に沈んでいる。

 ビニールシートが風に運ばれ、どこへともなく遠のいていく様が、徐々に小さくなっていくはためきから窺えた。

 ギシギシと嫌な音が暗がりに満ちる。巨大なザリガニが、夜空という夜空にぎっちり隙間なく押しあいへしあいしている光景が瞼の裏に浮かんだ。浮かんだことでぼくは、いつの間に目を閉じていたのだろうと瞬きをするが、しかし視界は依然として塞がれており、なるほどいっさいの光を遮るほど深い闇がぼくを包みこんでいるのだと思った。

 意味がないと判っていてもぼくは周囲に目を遣った。上を見、よこを見、そして両手を突きだして暗中模索、手探りで進む。穴は腿の高さまで掘ってあり、間もなく穴の縁にぶつかった。つんのめり、腹這いに地面につっぷしたとき、ぼくを覆っていた闇に無数の亀裂が入るのを見た。

 月明かりの眩さに感銘を受けた。すべての知覚がふだんの倍以上に鋭くなっているように感じた。ぼくは咄嗟にこれは、手のひらに握られた虫の感覚だと思った。瞬時に思った。なぜそう思ったのかと考えを巡らせ、なるほどぼくは今、かつてないほどじぶんをちっぽけな存在だと見做しているのだと閃いたとき、同時に目のまえには、まさに五本の指としか思えない柵が、熊手を地面に付きたてたような形で、しかしショベルカーを丸ごとひねりつぶせそうな破格の大きさで、ぼくの頭上から圧し掛かるように伸びていた。斉天大聖がお釈迦様の手のひらのうえで弄ばれたように、今まさに巨大な手によってぼくは閉じ込められているが、閉じ込めていたほうの手が、にわかに指と指の合間を拡げていく。巨大な指はそれこそ一本一本がショベルカーを三台まとめたような太さを見せており、現に、月明かりに照らされたそれは無機質な光沢を帯び、周囲に積まれていたはずの無数の鉄骨で組みあがっているのだと判った。

 半端に塞がれた視界には、巨大な五本の指と、そして背後を振りかえると、さらに太く縒りあわせた鉄骨が手首と化して、その奥に傲然と佇むおそろしく大きな影を、そのデカさと危うさを遠近法で以って滑稽なほど痛烈に示していた。

 圧倒されぼくは思わず、うっそぉん、と間抜けな詠嘆を漏らしている。

 

 しょうじきなところぼくはぼくが死ぬ光景を、その現実を毎日のように考えてきた。夜寝るときなどはこのままぼくは死ぬんだというある種の覚悟を胸に抱きながら眠りに就き、目覚めたときなどは昨日までのぼくは死に、きょうを生きるじぶんは別人なのだと、まるでクローンによって人格だけを連綿と引き継ぐ人生のように日々を送ってきた。

 だからこそ解ることがある。

 人は死をおそれるのではない。

 死に至るまでの苦痛をおそれているのだと。

 楽に死ねるならば、眠ることのように人はその死を甘んじて受け入れるだろう。これまで積み上げてきた過去という名の記憶の破棄、今という自我の消失、そしてもう二度と未来が巡ってこないことへの不安など、負の感情はどうしても付きまとうだろうが、それは明日訪れるかもしれない苦痛を思い、打ちひしがれるよりかはいくぶんも健全な気持ちにちがいない。

 苦痛の有無と、ふたたびの復活が約束されているか否かという二点でのみ、死と眠りは別個の現象として認識される。

 痛みという苦しみを延々と味わいながら眠りつづけることのおそろしさは、単純な比較で言えば死よりもはるかに上質な狂気を孕んでいると言えるのではないか。

 そして今、こちらをはるか頭上高くから見下ろし、今まさにぼくを捻りつぶさんとしている鉄骨のバケモノは、ぼくの言うところの上質な狂気をぞんぶんに味あわせてやるのだと、言葉を用いずになぜかぼくへ、命乞いをする暇もなく、齟齬を抱く余地もなく、かんぺきに理解させるに至らせた。

 言い換えればぼくは、完膚なきまでに絶望した。

 まず穴に浸かっていた腿から下を、鉄骨のバケモノは、ぼくの頭上にある手ではないほうの食指で以って軽々と、ほんとうに軽々と押しつぶしてみせた。

 何が起きたのかを理解するのに時間が掛かったのは致し方ないと言える。穴に突きたてられた鉄の塊は、それこそ泥沼を思わせる穴を、穴ごと埋めたてるように、或いは押し広げるように、あたかも地面に頭を突っ込んだモグラのようにめりこんだ。

 どこぞの遺跡の石柱を思い起こさせる。

 細長いというには太すぎる鉄の塊が、ぼくの足元から巨木のように生えている。雲のうえまで突き抜けたジャックの豆の木のように、あたかもぼくの両足が成長してそうなったかのようにも映った。もちろんそんなことはなく、ぼくの両足は腿から下を消しゴムで消したように、或いは墨で塗りつぶされたように跡形もなく消え失せた。

 せっかく苦労して掘ったのに。

 じぶんの足よりもなぜかミーさんを埋めようと掘っていた穴が消えたことを口惜しく思った。

 寒さを感じ、全身から汗がビードロのように噴きだしたのを実感すると、そこでようやくぼくは絶叫し、喉が裂けんばかりに声をあげた。とてもではないが黙っていられなかった。熱かった。痛かった。なによりも逃げようともがいたぼくには逃げるための足がなく、ただその場でジタバタともがきながら短くなった足から抜けていくぬくもりのぬめりけを感じた。あがけばあがくほど、ぼくからはぬくもりが抜けていき、そしてぼくを極寒の彼方へといざなっていく。

 忍び寄る絶望の足音をぼくはこの耳でしかと聴いた。

 風を切るようなその音は、金属のこすれあう音をまき散らしながら、こんどはぼくの右腕を地面の奥深くへとねじ込んだ。巨大な断ちばさみで挟まれたように、ぼくの右腕は、肩から先を失った。むかしどこかの県でエレベータの扉に首を挟まれて死亡した児童がいたことを思いだしたが、或いはこれも同じような感覚かもしれないと意味もなく思った。

 ずれた断層にまたがって寝ていたら人間などひとたまりもないだろう、とどうでもいいことを考え、列車に轢かれた人間というのも悲惨だなあと他人事のように考えているあいだに、ぼくの左腕もまた地中深く、それこそ闇の奥底へと消え失せた。

 人間の声とは思えないじぶんの絶叫とも呻き声ともつかない咆哮を聞きながら、こんなはずじゃなかったんだけどなぁ、と自我と切り離されたところで傍観している冷めたじぶんを認識する。

 かれは言う。

 だっておかしいじゃないか。

 リンネがこれほどの威力で【無生物に寄生する】という能力を行使できるのなら、駅前で青月青年たちが追い詰められたとき、いや、その前の段階でいくらでもミーさんたちを振り払えたはずだ。

 そのときはまだこれだけの規模で活動するためのエネルギィを蓄えていなかったとも考えられるが、現状、ぼく一人を懲らしめるためにいくらなんでもこれはやりすぎではないの。

 両手両足をもがれ、瀕死のぼくはしかし思いのほかすくない出血のせいで、ともすればさいわいというべきか意識を失うまでには至っていない。

 死んでもおかしくはない状態であることにちがいはなく、しかし死ねずにぼくはのた打ち回ることもできずに、引っくり返されたダンゴ虫のように、ゆりかご然として揺れている。

 寒いのに熱く。

 熱いから痛い。

 ふつう寒かったらしだいに痛覚は麻痺していくものではないのか。

 あべこべに今はだんだんと感覚が冴えていき、痛みが増していく。

 増した痛みは身を切り裂くような熱となり内側からぼくを焦がし、爛れさせていく。

 爛れた臓物がつららのように鋭く垂れ、内側からぼくを貫き、無数の穴を開けさせる。

 穴だらけのぼくはぬくもりを根こそぎ奪われていき、だからこんなにも凍えている。

 こんなことになるのなら、と思わずにはいられない。

 あんなちいさな手ごときに執着するんじゃなかった。ぼくはいったい何をそんなに意地を張っていたのだろう。じぶんの両手両足を比べるまでもなく、指先をちょこっと削られただけでもぼくはあんな何の益にも薬にもならない、毒でしかない人形の手なんか手放してしまうのに。いったいぼくはなぜあんなものを後生大事に手元に置いておこうと思ったのか。バカじゃなかろうか。そうだバカだ。ぼくはバカだ。盛大に自虐してみせるものの、期待に反して時間は巻戻らないし、手足も生えない。

 両手両足、四つの切断面から湧き出るぬくもりに浸かりながらぼくはいい湯だなと思い、同時にそれを上回る速度で凍えていくじぶんの身体をふしぎに思った。

 思いながらも痛みだけは途切れることなく、身体のうちにつぎつぎと沈殿していく。沈殿した矢先に破裂する。

 痛いと口にするから痛いのだ。ぼくは歯を食いしばり、内側からしきりに飛びだしたがる何かを抑えつけようとするものの、痛いものは痛いし、熱いものは熱い。いくら盛大に焚火をしたところで南極では意味がないんだよとよく分からない理屈を唱え、やはりぼくは咆哮した。

 ダルマにされてからどれくらい経っただろう。何時間もこうして無為な時間を過ごしている気がするいっぽうで、そのじつ一分も経っていないのではないかと思えるほど周囲に変化はなく、暗がりを縫うように月明かりが相も変わらずそこにある。

 と、ここでぼくは頭上、というよりも地面を背にしたぼくからすれば目のまえに屹立する鉄骨のバケモノが、微動だにしていないことにふと気づく。夜空を覆い尽くさんと、或いはぼくを握りつぶさんと、傘のように広げられた手のひらは、熊手よろしく穹窿のカタチを保ったままで五本の足――もとより指で身体を支えるように止まっている。

 そう、止まっている。

 両手両足ときたのだから、次は頭か胴体だ。覚悟してはいなかったが予想はしていた。予想に反して追撃がない。じらして恐怖をあおっているのかと案じたがそういうことでもなさそうで、どうやら危険は去ったようだと安堵した。しかし絶望は拭い去ることのできない規模でぼくの身体にはなお刻み込まれている。

 目を逸らすことも許されない。

 今さら助かったところでどうしようもない。

 自棄になっているじぶんがおり、そのすぐとなりでは、どうあっても死にたくない、苦しみたくない、もういやだ、と泣き言ばかりがのべつ幕なしに几帳面にも列を成していく。

 初売りの開店を待ちわびる暇人どものように泣き言たちは、希望の光が差しこむのを今か今かと首を長くして待ちわびているようだが、自棄になっているぼくだけが知っている。

 希望とはどうあっても裏切られるためにあるのだという、どうしようもない現実を。

 或いは法則と言い換えてもいい。希望は絶望をもたらすための余興であり、前置きだ。しかし法則には例外がつきもので、奇しくもこの場合その例外には名前がついている。ぼくはその名を口にした。

 奇跡。

 図らずも、さんざん喚き散らかしたぼくの声帯はボロボロに弱りきっており、仮に正常に震わせることができたとしても、心肺機能のほうが正常に空気を送りだすことができず、かろうじて口から零れ落ちたのは、それこそ奇跡のように口にしたくはない音の羅列だった。

 ……サ……キ。

 天に奇跡を乞うこともできないなんて。

 笑いたくなったが、呼吸もままならない。虫の息にも劣るが、なぜか意識だけは一向に衰えを見せず、ただ苦痛だけが嵩んでいく。

 瞼が重く、やがてぼくは闇に包まれる。

 闇のなかでぼくは苦しみつづけた。痛みというただそれだけの苦しみだ。熱さも寒さも、ただ一点、痛みを途絶えさせないために回りつづける歯車のようだった。永久機関が存在しないなんて誰が言ったのだろう。こんなところにあったじゃないかと自棄っぱちのぼくが叫び、自我と切り離されたところで傍観している冷めたじぶんが、それのどこが永久機関なんだ、と茶々を入れた。彼らの周囲には、出口を求めさまよう無数の泣き言たちが、無限に生まれつづけるヒヨコのように、ぎゅうぎゅうと米をにぎっておむすびをつくるような感覚で、よりいっそう深い闇を形成していく。

 圧縮された闇は固く、固く、より固く押しつぶされ、やがて膜のように延びたそれは、ぼくの輪郭をかたどるように膨らみ、間もなく、なぜか縦横無尽にヒビを走らせた。

 髪の毛なみに細い亀裂ではあったが、ヒビをヒビだと判らせるだけの光が、その亀裂からは漏れていた。

 眩しいなこの野郎と思い、苛立ちに後押しされるかたちでぼくはあれだけ重かった瞼を持ちあげた。

 そこには、神のつぎに目にしたくないサキの顔が、キングオブ役立たずが立っており、心配そうにこちらを覗きこんでいる。




  

第終章【人造乙女は心臓を止め】



 むかしぼくは、他人がいないと生きていけない世界について考えてみたことがあった。義務教育が終わろうとしていた時分だ。というよりもたとえば目のまえにある筆記用具一つとったところで、それをぼくがイチからジュウまで、素材からつくり方まで、すべてをじぶんの手で用意し、完成させるまでには、このさきに歩むことになるだろう人生すべての時間を捧げても足りないくらいにむずかしいことのように思えた。身につけている服飾にしたってそうだし、昨日読んだ本や、食べた料理、学校まで通うための道路、バスや地下鉄などの乗り物や、交通機関という仕組みそのもの。どれ一つとってもぼくにはとうてい自力でつくりあげることの叶わないものばかりで、言い換えればぼくにとって世界とはぼく以外のものでできあがっていると断言できた。

 巨大な船にぼくは乗っていて、そしてその船はぼくを乗せるためにあるのではなく、またぼくにしてみてもその船にしてやれることなどなにもなく、ゆえにぼくはその場にいてもいなくてもいい、どうでもいい、しかし船がなくては海に落ち、溺れるだけのおんぶにだっこにもならない一方通行の関係性があるだけだった。片思いに似ているなとどこか上の空でそんなことを思ったのを昨日のことのように、しかし今になって思いだす。

 どうでもいい記憶ほど、些末なことで浮上する。

 ぼくは病室のベッドで夜明けのそらを、閉められたカーテン越しに見るともなしに眺めている。夜が明けはじめたときに猛烈な尿意を感じ、目覚めた。両手両足のない身のぼくとしては自力でトイレに行くこともままならず、しかしこんな事態は病院に担ぎ込まれ、手術を経、包帯でグルグル巻きにされ、なし崩し的に入院を余儀なくされたひと月前から想定されており、ぼくの股間にはオムツが嵌められている。オムツを嵌めるというのはなんだか違和感のある言い方になってしまうが、穿くというのはどうにも足のある人間に使うべき言葉のように思え、同時にぼくには足がないんだという逃れられない現実が、ぼくに、そういった迂遠な表現をさせたがる。

 漏らせば済むことだし、漏らす以外に内側から幾度となく突きあげてくるこの尿意を黙らせる術はないのだけれど、漏らしたところで誰も責めはしないのだけれど、ぼくにはどうしてもじぶんの意思で膀胱の力を抜くことができないのだった。

 入院してからのひと月のあいだ、ぼくはこうして膀胱が破裂するような痛みを堪え、しかしいずれ来たる決壊のときを待ちわびながら、世界へペコペコとこうべを垂れるように、数時間をかけて段階的に粗相する。

 屈辱ではない。ぼくは認めたくないだけだった。こうして我慢して我慢して、身体を酷使すればいつか、しょうがねぇなぁとため息を吐き手足がひょっこり生えてきてくれるのではないかと諦観半ばに自棄になり、それでも本気で期待していたりする。

 後頭部のうえにぼくが、手足のないぼくを、ダルマのぼくを、見下ろしている。見下ろしているぼくのほうが本物で、ダルマのほうはぼくではない。本物が見る白昼夢、或いは悪夢である可能性を信じたかったが、どれだけ待ってみてもぼくは目覚めることはなく、朝が来て、夜が来て、そしてふたたび朝が来て、ぼくは毎日膀胱の痛みを堪えながら、ちびちびと酒を煽る酔っ払いみたいにしょんべんを垂れ流し、汚れたオムツを目のまえで、ぼくと同年代らしき若い看護師に替えられる。

 いちどベッドのうえから落ちてみたことがある。三日前のことだ。腕の切断面から落ち、痛かった。泣きたくなったのはしかし痛みのせいだけではなかった。ぼくはそう、じぶん一人で死ぬことさえできなくなっていた。

 毎日のように見舞いに来るサキに、なぜぼくを病院に運んだ、なぜ死なせてくれなかった、とどこかで観た憶えのある映画の主人公のように泣き喚いてみせたこともあったが、サキは整った眉を八の字に寄せ微笑みながら、ごめんなさいと言い、そして乱れた毛布をまるでクレープの皮を扱うように慎重に掛けなおすのだった。

 物理的に突き離せない以上、ぼくはあらゆる悪態をサキに並べ傷つけようとしたが、彼女はまるで意に介さず、むしろ僅かに傷ついた顔をしてみせる余裕まで見せつけ、いつまでもぼくを看護した。幼子をあやすような扱いを責めれば、淡々とほかの看護師たちのようにぼくの身の回りの世話をし、他人にやさしくする自分が好きなだけだろと糾弾し、ぼくを慰みものにするなと突きつければ、そうだよね、そっちも溜まっちゃうよね、とこちらが手も足もでないのをいいことに嵌められたオムツを脱がしにかかり、強引にぼくの局部を口に含んだ。手を使わず、唇だけで味わうようにしごき、片手間に舌でさきっちょを押しつぶすようにする。

 個室ではないからとなりには盲腸の手術をした小学五年生の女のコが寝ており、反対側には厳ついおっさんが今まさに母親らしき人物の見舞いを受けている。ベッドを区切っているのは薄いカーテンだけで、どれだけ締め切ったところで会話は筒抜けだ。

 瑞々しい音をわざとらしく立て、サキはぼくからぼくの子種を吸いとった。

「相変わらずおいしい」

 ぐったりともうんざりともつかない様で、出てけ、とちいさく吐き捨てるようにつぶやくと、聞こえていたのかいないのか、サキは満足げに、またくるね、と言って、勢いよくカーテンを開け、となりにいる小学五年生の女のコに、このひとはわたしのだからイタズラしないでね、と本気ともわからない真面目ぶった口調で言い添え、病室から出ていった。

 翌日から悪態を吐くたびにサキはぼくから、こってりともねっとりともつかないやり方で、精液を絞りとった。

 やがてぼくは何も言えなくなった。何か反抗的な言葉を口にした途端に、たとえばそれが看護師さんへの正当なお願いであったとしても、耳聡く聞きつけたサキから性的虐待を受けた。文字通り、それはもはや虐待でしかなく、いよいよとなったときぼくは看護師さんたちへ、いつも見舞いにやってくる女性はぼくにとってたいへんよろしくない人物なのでこれからは部屋に入れないでくださいとやんわりとしかしせつにお願いしたのだが、それすらサキには筒抜けであり、翌日には病院食のすべてを口移しで食べさせるという凶行にでられた。

 ぼくの見舞いにきているゆいいつと言っていいサキを邪見にすることが看護師さんたちにはできない様子で、ひょっとするとぼくが嘘を吐いて不当にサキを排除しようとしているふうに映ったのかもしれなかった。

 サキはサキでそれを弁えているからか、看護師さんたちのまえでは面倒見のよい身内のフリをそつなくこなしている。

 校舎跡地の建設現場――一夜にしてなぞの巨大オブジェが。

 いちどだけそんな話題をTVだかほかの患者たちの会話だかで耳にしたが、現場から女性の遺体が見つかったり、動く人形が発見されたりといった目新しい情報は終ぞ聞くことはなかった。

 リハビリがはじまったと同時に、医師から退院の日時を知らされた。鏡越しに初めて目にした四肢のない身体は、ふしぎなほど愛嬌に富んで映った。手足のないラブドールのことをトルソー型と呼ぶんだよと以前にミーさんが言っていた。買うならトルソー型だよね、となぜか彼女の言葉ばかりがよみがえり、或いは彼女なら今のぼくであっても愛でてくれたかもしれないとあり得ない未来に思いを馳せたりもした。

 未だじぶんで移動することもままならないというのに、退院は一週間後とされた。病院側はぼくの陣取っているベッドをほかの患者に譲り渡したいのかもしれなかった。いつの間にかサキがぼくの身元引受人となっていた。退院後も彼女が面倒を看るということで病院側も退院を許可した節がある。嫌だ嫌だと駄々を捏ねるほどぼくはまだ立って歩けた時分に持っていた矜持をかなぐり捨てることができずにおり、迂遠な言い方で以って、もうすこしいまの身体に慣れてから、言い換えればリハビリを終えてから退院したほうがいいような気がする、むしろぼくはそうしたいのだ、といった旨を伝えてみたのだが、しょうじきなところあなたは新しい生活に身を置きながらあなたに合った生活方式を憶えていくほうがためになるのだという話をされ、終いには、退院してからでもリハビリに通うことはできますし、と退院することが前提であるかのような、けっして覆ることのない決定事項なのだと突き離されたような気分を味あわされた。

 宣告通りにぼくは一週間後に、病院を離れることになった。クリスマスの日におもちゃ屋さんで高級なプレゼントを買ってもらった子どものようにサキは、車椅子に乗せられたぼくを病院から新居まで浮足立った様子で運んだ。

「バリアフリーのとこ探すの苦労したんだから」

 さもぼくのためだと言わんばかりにサキは言い、新しい住まいを紹介した。ミーさんのマンションを彷彿とさせる造りで、なぜかぼくはあのころのことを遠いむかしを思いだすように懐かしく思った。

 それからぼくは籠に入れられたインコのようにサキをよろこばす以外に生きている意味がないような生活を幾日も送った。サキはぼくが癇癪を起こすたびに赤子をあやす母親のような穏やかな表情でぼくを甘やかした。サキからされるそれらの行為を甘やかされているのだと刷り込まれるくらいにぼくは毎日のようにサキからありったけの精液と自尊心を搾り取られていった。擦った里芋を尻の穴にそそがれ、棒でかき回される人間の心理は、案外に心地よいのだと知らされたし、同時に陰部を責められると失神同然によく眠れるのだということも知った。

 実際に赤子のかっこうをさせられたりもしたが、常時オムツを嵌めているぼくにしてみればそれはもはや屈辱よりも、そうしたかっこうのほうがぼくには合っているのではないか、といった諦観を抱かせた。オムツが汚れるたびにサキはウェットシートでぼくの肛門を拭った。かろうじて残っている恥辱の念がぼくの頬を熱くさせたが、サキはそれを見たいがためにそうするかのようにゆっくりと時間をかけ、念入りに尻を拭った。

 ぼくが退院してからサキはずっと仕事に行っておらず、とくに気に留めてはなかったものの彼女はぼくに、まとまったお金が入ったから当分は一緒にいられるよ、と天使のような微笑で悪魔のようにささやいた。

 性的行為の際、一方的でありながらもサキはきちんとぼくにも反応させたがった。玩具とは言いにくい扱いを受けた。が、なぜかぼくは一度で果てることができず、サキが満足するまで痛みしか感じない腫れぼった生殖器を口に含まれ、舌で鞭打たれ、手で握りつぶされ、踏まれ、叩かれ、縛られたりした。

 痛み止めや化膿止めといった名目でぼくは毎日決まった時間、だいたい食前にいくつかの錠剤を飲まされていたが、ぼくにそれを拒む権利はないようだった。

 そしていつも最後には必ずサキは馬乗りの状態でぼくの生殖器を体内に埋め、こちらにしがみつくようにして何度も何度も耳元で、好き好き大好き、と連呼し、絶頂を迎えていた。

 ぼくは彼女の唾液とも汗ともつかない体液で顔をまんべんなく濡らし、ぐったりしながら、それでもサキがはやく済ませてくれるようにいつしか喘ぐようになり、ヒルのように吸いついて離れない彼女の耳元で、もっと、もっと、と応じるようになっていった。

 ぼくは日がな一日ベッドのうえで過ごし、サキの声で目覚め、サキの手で着替え、サキの用意した料理を食べ、そして求められれば昼になる前からサキを満足させるべく汗だくになり、サキ専用の愛そそぎマシーンとなった。

 病院へリハビリに通うことはなく、指示されていた定期健診にも行かなかった。

 三日に一度の周期でサキは買い物にでかけ、それ以外では本当にぼくのそばにおり、監視するかのように視界のなかに居つづけた。

 当初こそ話しかけられても無視していたぼくであったが、手足を失ってから過ぎ去っていく時間は否応なくぼくにその現実を受け止めさせ、或いはこの姿が新しいじぶんの個性なのではないか、と前向きに見当しはじめた時分には、すっかりぼくにとってサキはなくてはならない生活の一部として取り込まれていた。ぼくはサキなしには生きていけない身体となっており、現にぼくは彼女がいない生活を思い起こすことができなかった。

「そとに出てみたい」

 漫然と降りそそぐ雨音を聞いているとふと思い立ち、今が夜であることなどお構いなしに、思ったつぎの瞬間には口から零れ落ちていた。

「そとに? なんで? ここにいるだけじゃ不満?」

 わたしがそばにいるだけじゃ不満、とサキは読んでいた本を閉じ、ベッドに仰向けに転がった巨大なコケシのようなぼくを覗きこむようにした。

「ちがう、そうじゃなくて」早口で弁明を試みようとするぼくを宥めるようにサキは、いいよ、と言った。

「いいよべつに。こんど一緒に散歩行こ。あしたは雨らしいから、あさってとか。雨が降ってなくて、天気のいい日に。そうだ、お弁当とかつくってさ。公園で食べてみよっか」

 サキの機嫌を損ねなくてよかったと胸を撫で下ろしながらぼくは、具体的にこの籠のそとに出ることを思い、そのあまりの心許なさに衝撃を受けた。

 そとに出る?

 このかっこうのままで?

 手足を失くし、ダルマとなったぼくは初めて鮮明にそとの世界を想像し、そとの世界にいるぼくを見る雑多な人間たちの視線を想像した。

 競りあがる悪心と共に、漠然とした恐怖を感じた。そのあまりのおそろしさに思わず、こわい、と口にしている。

「なに?」

 天井からそそぐやわらかな照明を遮るようにサキの顔が目のまえに現れ、こちらを覗きこむようにする。ぼくは言った。「こわいんだ」

「だから、なにが?」

「そとに、出るのが」

 やっとの思いで告げると、サキは、ならなおのこと出てみなくちゃ、と正論を吐いて、ぼくに逃げ場のない恐怖を与えた。

 いったいなにがおそろしいのだろう。サキからのしつこい愛撫を受け流しながら、しかし愛の言葉をささやくことを忘れずに、ぼくは考えた。いったいなにがそんなにおそろしいのだろう。

 そとに出るのはきっかけにすぎない。そとに出るとなったとき、そしてそこで負うだろう傷を思い、ぼくはおそろしいと感じているが、傷つくだけならば今さらどれほど傷を負ったところでどうってことないと思うだけの傷をぼくはすでに負っており、だから本質的な恐怖はそこにはないように思えた。

 雨は五日間降りつづけ、雨のあがった翌日にぼくは数か月ぶりのそとの光を全身に浴び、たくさんの匂いの混じった、けれど濃縮還元されたような新鮮な空気を味わった。

「せっかく買ったのに無駄になっちゃった」

 サキの用意していたベビーカーはぼくの身体には小さすぎた。不承不承の体でサキは病院から運ぶために使った車椅子にぼくを乗せた。

「どう? 楽しい?」

 ぼくは返事をすることができずにいた。余裕がなかった。世の中はこれほどまでに音に溢れ、騒がしく、目まぐるしく、ぼくを不安にさせるようなものだったろうか。思っていた以上に陽射しは暖かく、そして冷たい風が肌を削ぐ。

 公園に着くまでぼくはほとんど目を瞑っていた。瞼の裏からでも光は滲んだ。周囲に溢れる喧騒から槍のように視線が飛んでくるのが判った。被害妄想かもしれないと思っていても確かめる気にはなれなかった。

「さあ着いたよ」

 瞼を持ち上げると目のまえには一面に、青い芝に覆われた野原が広がっていた。すぐ隣には背の高い街灯が立っており、サキは歩道からすこし外れた場所に車椅子ごと、すなわちぼくごと下りて立っていた。サキのうしろをジョギング中と思しき男女が通りすぎた。女性のほうと目があった気がしたが、サングラスをしていたので合わなかったのかもしれなかった。ぼくは瞬間的に目を逸らし、遅れて顔に嫌な汗が噴きだすのを感じた。その汗をさらうように風が吹き、そとは寒いと改めて思った。

「ほら見て。あっちに噴水がある。行ってみよっか」

 返事をする前にサキは車椅子を押し、近道をしようと思ったのか横車を押し通すように芝生を抜けて行こうとしたが、連日つづいた雨のせいなのか芝生のうえはぬかるんでおり、車椅子は中々まえに進まなかった。

 サキが舌打ちしたのでぼくはひやりとしたが、杞憂だったようで彼女はぼくに当たり散らすことなくやや乱暴に歩道に折り返すとそそくさと道を進みはじめた。

「ああほら。なんか涼しい」

 噴水の近くまで来ると、水しぶきを含んでいるのか風が徐々に湿っぽくなっていった。通行人と目が合わないようにぼくはなるべく目を閉じるようにしていた。

「あ、寝てる」

「寝てないよ」慌てて目をぱちくりさせる。

「なに? つまんない?」

「そんなことない。楽しい。すごく楽しいです」首を振りすぎて取れそうだ。

「ふうん。そんなになんだ」

「それはもう、すばらしいくらいに」

「へえ、そう。ならずっとここにいたら」

 命綱を切り放すような冷めた語調に、ぼくは顔面から血の気が引く音をほんとうに耳の奥で聞いた。

 下手を打ったと臍を噛む暇もなく、サキは噴水を眺めるために空いたスペースにぼくを置き去りにし、今来た道を引き返しはじめた。呼び止めようと思ったが、そばにあるベンチには子ども連れの女性がおり、弁当を開いて子どもに食べさせているところだった。なぜかここでサキに追い縋るような真似をするのは情けないような気がし、情けない気がしたことでそう思えるほどぼくにはまだ自尊心が残っていたのかと知り、傷ついた。

 やはりというべきかぼくはいまのじぶんを快く思っておらず、他人に見られることを恥じている。にも拘らず、内心では現状に適応しつつあるじぶんがおり、そしてそのじぶんは以前のぼくを他人のように思い、蛇蝎視している。

 ぼくはぼくが許せない。

 手足のないぼくは、手足のあったころの傲慢なぼくをゆるせないのだった。

 他人の悪意ばかりに敏感で、他人からの善意にはこれっぱかしも気づこうとせず、いつだってじぶんを中心に考え、そしてその外側にいる者たちのことを考えようとする以前に、じぶん以外の世界があることにさえ考え及ばなかった。

 なんてちいさな人間だったのだろう。だからこそこんな目に遭ってしまったのではないのか。当然ではないか。自業自得以外のなにものでもない。ほんのちょっとでも他人のために行動できていればこんな顛末にはならなかったのではないかと臍を噛まずにはいられない。

 周囲を見渡すと、弁当を食べていた親子の姿がベンチにはなく、離れた場所から遠巻きにこちらを見ていた。困っているのですか、と声をかけようか迷っている様がアリアリと伝わり、同時に彼女たちがぼくの姿を見て戸惑っている様も如実に感じられた。ぼくはわざと睨めつけるようにし、ただでさえ近づきがたい雰囲気に磨きをかけるようにした。すると親子連れはそこで敏感に何かを感じとった様子でまるで端からぼくのことなど眼中になかったような自然な佇まいでいずこへと消えた。

 噴水が定期的に噴きあげ、ただでさえ肌寒かったぼくの皮膚という皮膚からぬくもりを奪っていく。手足を失ったときの情景がなぜだかよみがえり、ぼくは震えた。

 幾人かが置き去りにされたぼくに気づき声をかけてきたが、返事の代わりに睨み返すと彼らはまったく同じ反応を示し、いずこへと消えた。

 暖かかった陽射しも徐々にただの明かりへと変遷していく。

 しばらくすると、街灯の心許ない光が周囲を点々と照らしているだけとなった。

 両手両足を縛られ、海に独り放り出されたような抵抗の余地のない恐怖が、身体の内側に溜まっていき、やがてぼくはその恐怖に溺れた。

 溺れても溺れてもぼくは死ぬことができず、薄ぼんやりとした暗がりのなかでただ怯えた。

 身体は凍え、あごがしきりに震える。ガチガチと歯と歯のぶつかる音がし、カスタネットのようだなと噛みあわせのよさを思った。

 いつしかぼくは満天の星空の下で、いつ止まったかも覚束ない噴水のある池を眺めていた。

 見飽きたわけではなかったが、ぼくは方向転換をしてみようと車椅子を操ろうとしたが、手足のないぼくは荷台に載せられたでくの坊でしかなく、スイカやカボチャのほうがまだ何かしらの方法で移動手段を持ち得ているのではないかと卑屈になり、そしてこんなナリでどうやってここまできたのだろうと思いを馳せ、ようやくというべきかここでぼくはぼくを置き去りにしたサキのことを思った。

 気づくと、噛みあわせのよかったはずの顎は開いたままとなり、段ボールでつくった空気砲のようにぼくはただサキの名を呼んだ。幾度も呼んだ。叫び声は閑散とした公園によく響き、ぼくは何かしらの危険を報せるサイレンか何かになった気がした。

 凍えた身体があたたまり、汗を掻き、喉がつぶれ、ふたたび身体が冷えだしたころ、ぼくはほとんど喘息のようになりながらそれでも叫びつづけており、なぜこんな目に遭っているのか、としきりに溢れる涙や汗を止めることができずにいた。

 獣じみた叫び声を聞きつけ誰かが駆けつけてくれるのではないかと期待したりもしたが、夜中に聞こえてくる気が狂ったとしか思えない叫喚の正体を突き止めようと思う者がいるとは思えず、ましてやいつまでも鳴り止まない叫び声のために警察を呼ぶこともないように思えた。

 やがてぼくの脳裡には、あたたかいベッドと見慣れた天井と、そしてそこでぼくを甘やかすサキの姿があるだけとなった。籠のなかで育てられたインコが野生で生きていくことができないのと同様に、数か月ぶりにそとに出たぼくがたった一日でもまともにそとで生きながらえるなんてできるはずもないのだった。

 命の危機を感じはじめたころ、ぼくはいよいよとなり、身体を大きく揺さぶって車椅子ごと倒れるようにした。地面に頭をしたたかぶつけたが、寒さで痛覚は麻痺していた。

 這ってでもサキのところへ戻ろうと思った。ほとんど朦朧とした思考で、やはりというべきか、ぼくの帰る場所はあそこ以外にはないのだと思い知ったぼくは、なんとなしにではあるが、そう知らしめるためにサキはわざとぼくを置き去りにしたのではないか、そとに連れだしたのではないか、とふと思った。

 サキを責めようなどとは思えず、だいたいにおいてぼくがわるいのであり、責めるなんてもってのほかだった。サキはぼくのゆいいつの拠り所であり、理解者だ。すこしでも彼女を邪険に思い、扱い、あまつさえそっけない態度をとりつづけたぼくはこんな姿になって当然だし、こんな姿になってもぼくの居場所はまだほかにもあるのではないか、と心の底で思いつづけていたぼくには、こうして痛い目をみるくらいしたほうがよく、よい薬になるのだと思った。もういちどサキの許で暮らすためには、これは受け入れなければならない試練で、乗り越えなくてはならない罰だった。

 手がないために這うこともままならず、よこに転がって移動しようと試みたが、まっすぐ進めないため、楕円に縁どられた噴水を眺めるための空間から出ることも容易ではなかった。

 いよいよぼくは人間ではなく動物以下のイモムシになったのだと思った。お似合いだと思い、けれどゆるされるならばサキの腕に包まれ、帰るべき場所に帰りたいと思った。

 声にならない声でぼくはサキを呼んだ。サキ、サキ、サキ、サキ。ぼくの女神、ぼくの主、ぼくの生きる意味、ぼくのすべて。ぼくは彼女のために存在し、彼女のために生きつづける。彼女のそばで、彼女の手によって、彼女のために生きつづけたい。サキ、サキ、サキ、サキ。ぼくは生まれて初めてじぶん以外のことを思い、そしてじぶん以外の世界を認めた。

 ごめんなさいと謝りたかった。全世界の人間のまえでぼくはサキへ向かって謝りたかった。気づくのが遅れてごめんなさいと、ただそれだけを伝えたいと思った。薄れゆく視界の端に、こちらに近づいてくる影が見えた。足音はなく、痛いほどの静寂は耳鳴りのせいかもしれなかった。

 ぼくをすっぽり包みこむような距離にまで来ると影はそこで歩みを止めた。

 死んだように身体が軽くなる。

 まるで天に昇るような浮遊感と共に、ぼくは意識を失った。

 

 目覚めるとそこに見慣れた天井はなく、明かりもなく、色もなく、ただ暗がりばかりが広がっている。けれど背中に伝わる弾力は、ベッドに寝かされているのだとの判断をぼくに与え、そして漂っている匂いからそばにサキがいることも窺い知れた。

「起きた?」

 ジタバタしていたからだろう、目と鼻のさきから彼女の声が聞こえた。

「どうして暗いんだ」

「そう? 明るいよ」

「でも、なにも見えない」

「そりゃそうだよぉ」サキは何がおかしいのか噴きだすようにした。サキの息が顔にかかり、じぶんにある目や鼻や唇のデコボコが意識された。サキは続けてタンポポの綿毛を飛ばすようにぼくの目元に息を吹きかけるようにし、「だって、きみ」と告げた。「目ん玉がないんだもの」

 本来、当たるはずのない箇所に、空気のやわらかな感触を感じた。まさかと思った。レンズを外されたカメラを連想する。瞬きをするが、視界のいっさいに変化がなく、鉛でも詰めこまれているかのような鈍痛が目の奥にあった。

 なぜこんなことをするんだと一瞬湧きかけた怒りをぼくは呑みこんだ。

 しょうがないのだ。

 ぼくは彼女を裏切った。これくらいの罰は受け入れて当然だ。見捨てられなかっただけマシであり、こうしてふたたびサキの許で暮らせることを思えば、感謝こそすれど恨む筋合いなどないのだった。

 ありがとう、とぼくは言った。拾ってくれてありがとう。戻ってきてくれてありがとう。見捨てずにいてくれてありがとう。許してくれてありがとう。目玉はなくなってしまったけれど涙を流すことはできた。眼窩には止血用の綿だろうか、何かが詰まっているらしく瞼を閉じるたびに涙が押しだされ、鼻の脇を、谷をなぞる川のように流れた。

「ううん。こっちこそごめんね。でももう置き去りになんてしない。約束する」

 ずっとそばにいる。

 あれほど心細かったのが嘘のように、胸の内にあたたかいものが満ちていくのを感じた。

 もうすこしおやすみ、とサキがぼくの頬を撫でるようにし、まるで催眠術にでもかかったようにぼくはふたたびまどろみ、やがて深い眠りに落ちた。

 

 失ったものが多いはずだのにぼくには以前のじぶんに戻りたいと思う欲求はなかった。夢だか現実だか曖昧な毎日だけれど、夢にも現実にもいつだってぼくのそばにはサキがおり、ぼくはサキのために飯を食い、排泄物を垂れ流し、そしてサキの手を煩わせることでサキから受けるあらゆる愛撫を、その代償として受け入れられた。

 ぼくはサキのために存在し、サキはサキであらゆる欲動のはけ口としてぼくを扱った。ぼくはサキの必需品であり、糧となった。

 相互依存ではなく、そこには道具を使用するという一方的な関係性があるだけだった。けれどぼくにとってそれこそがすなわち存在意義であり、その優位性こそがサキを満たすのだと徐々に解るようになっていった。

 光のある世界を失ってからのぼくは、手足を失ったときに比べてはるかに陽気になった。あらゆるすべての知覚に対して寛容になり、感動にも似たありがたみを抱くようになった。

 サキの声はそのなかであっても格段にぼくの胸のうちを掻きみだし、リンゴや桃やパインアップルのミックスジュースのように甘味豊かな感情をもたらした。同時にサキのぬくもりは、ぼくという存在を包みこむいっさいの暗がりを一掃し、反転し、輝きに満ちた世界に変えた。

 サキからの愛撫のない時間、ぼくは暗がりに取り残され、孤独な世界をどこまでもどこまでも旅した。出口のないその旅からサキという存在だけがぼくを救いだしてくれる。

 いつからだろうぼくはサキに連れだされるようにして外出するようになった。部屋のなかにいるときには感じられない空気のうねりや耳を塞ぎたくなるような喧騒が、見えないはずの景色をぼくの脳裡に再現させる。

 そとを出歩いているとき、いつもサキはしゃべらなかった。或いはサキの雇った誰かしらがぼくを連れだしているのかとも考えたりしたが、それを確かめる勇気はなく、また確かめる必要性も感じなかった。

 ぼくのそばにいるのは、それが誰であってもぼくにとってはサキ以外の何者でもなかった。

 帰宅し、玄関口をくぐるとサキは何事かを口にし、きょうは早めにお風呂に入っちゃおっかと言って、いつもぼくを浴室に連れていった。そこでぼくはようやく緊張の糸を、サキに伝わらないように緩めるのだった。

「もうずいぶんと働いていないようだけど、だいじょうぶなの」ベッドのうえに寝かされてから、ぼくは言った。

「きみがそんな心配する必要はないんだよ」

「家賃だってバカにならないだろうし、それこそぼくの世話だって」

「きみを養っていくくらいの蓄えはあるから気にしないでよもう」

「ひょっとして身体を売ったりなんてしていないだろうね」

「わたしがそんなことすると思う?」

 思えるからこわいんだと言うと、わたしが身体を許すのはきみだけだよ、と言ってサキはぼくを抱き枕のように股のあいだに挟み、ぼくのつむじに唇を押しつけるようにした。ぼくは笑った。

「くすぐったい?」

「ううん。うれしいんだ」

「きみがうれしいと、わたしもうれしい」

 サキはそう言って服を脱ぎだした。いつもよりはやいけれどぼくはサキのためにたくさん感じ、たくさん喘ぎ、そしてなるべく苦しそうに甘えた。

 目を失ってからというものぼくもサキも、表面上は平等な立場が築かれているように振る舞った。サキがそれを望んでいるとなんとなしに伝わってくるからだし、たといぼくがどれほど偉ぶったところでけっきょくのところサキがいなければ生きていけない現実が揺らぐことはないとぼくだけでなくサキもまた十二分に承知しているからだった。

 以前のじぶんをほとんど思いださなくなったころ、サキはなぜかあの日の夜のことを語った。リンネという生きた人形の記憶はほとんど白昼夢と同じようなもので、かつて気の狂っていたぼくが見ていた幻覚ではないのかとさえ思いはじめていたのだが、サキはその幻覚がたしかに現実であったのだとぼくに思いださせるかのように、「あのときはホントにびっくりしたんだから」とむかしの失敗談を話すみたいに語った。

 使用済みのオナホと同じだと指弾され、突き離されたサキは、それでもクズのようなぼくのことを放っておくことができず、学校跡地へ向かったぼくを、メディア端末の追跡機能を使ってこっそりつけたのだという。メディア端末の電源を切っておかなかったのは、やはりというべきかぼくもまた或いは危機的状況に陥るかもしれないと覚悟していたからで、言うなれば保険だったのだけれど、見当違いというべきかサキはほとんど逡巡する間を置くことなくぼくのあとを追っていた。

 ミーさんの肉体から取り除かれたリンネが巨大な鉄骨を操り、ぼくの四肢をもいだころにはすでにサキはあの現場にいたらしく、乗り捨てられた車の陰からぼくの悲鳴とも慟哭ともつかない呻き声をしばらくのあいだ耳にしていたという。

「だってどうすればいいのかなんて分からないでしょ」

 まんざらでもなさそうな物言いでサキは釈明し、でもよくよく考えたらさ、と続けた。「なんでリンネがあんなに怒ってるんだろうって考えたら、ひょっとしてって閃いちゃって」

「閃いて?」

「ほら、いっしょに観たことあるでしょ。足りないパーツを追い求めて右往左往するバケモノの映画」

 そんな内容ではなかったが、たしかに終盤にそういった場面のあるアニメ映画を二人で観た憶えがあった。

「リンネもそうなのかなって思って。ポケットに手を突っ込んだら案の定」

 餞別代りでもないけれどぼくが渡していたリンネのものと思しきちいさな足先が、うねうねと蠢いていたのだという。

「これはもうどんぽしゃだなと思って」

「どんぴしゃね」

「わたしはもう、ゴンギツネの槍を持った勇者みたいに投げつけたよね、それを」

「ロンギヌスの槍ね」

「もうさっきからうるさい」サキはぼくの唇をつまみあげるようにし、蛇口をひねって水を止めたので安心しましたといった調子で、「そしたらさ」と声を弾ませた。「鉄のバケモノは動かなくなったのでした。めでたし、めでたし」

「ぼくはこんなになっちゃったけどね」

「ごめんね。もうすこしはやく助けてあげられたらよかったんだけど」

「いえいえ」

 おどけてみせるものの、サキはそうは捉えなかったようで、本当にごめんね、と目玉のないぼくの眼孔を瞼のうえから撫でつけるようにした。ぼくとしては本当になんでもないことだったし、むしろ助けてもらっただけでなく、こうして新しいじぶんに生まれ変われたことを感謝しているのだけれど、サキはぼくに対する呵責の念があるようで、それはおそらくぼくから光のある世界を奪ってしまった呵責でもあるのだろうけれど、ときおりこうして不気味なほどしおらしくなるのだった。

「けっきょくリンネはなにがしたかったんだろうね」話題を逸らすことも兼ねてぼくは言った。「パーツを集めたいだけだったなら、そもそも手っ取り早く吉蔵やシリコに埋め込んでいたパーツを回収すればよかっただけの話で。彼らを【触手】代わりにしたかったのだとしたって、けっきょくそれで何がしたかったんだろう」

「よくわかんないけど」と断ってからサキは、「シリコちゃんたちみたいな子は必要だったんじゃないの」と言った。「でもって、最終的にはすべてのパーツを回収したかった。きみの言葉で言えば、エネルギィ供給するために【触手】を放ち、満足したので回収した。そういうことなんじゃないのかなぁ」

「なるほど」

 すなおに感心した。エネルギィ補給のために【触手】としての子分をつくらざるを得なかったリンネはしかし、活動するに充分なエネルギィを充填し終わったあと、すべての局部を回収しようとしていた。きれいすぎるほど筋が通っている。なんでも複雑に考えてしまうぼくからするとサキのようにひねくれたりせずに素直に考えられるというのは、それで一つの才能だ。言い換えれば、物事を単純化し、本質を見抜く目がサキにはあるように思える。

「オジジもけっきょくのところリンネに利用された可哀そうな餌でしかなかったわけだ」

 ひょっとしたらオジジはリンネと裏で繋がっていたのではないかと思っていたけれど、そういうわけでもなかったのかもしれない。

「あ、そのことなんだけどね」サキは思いだしたように言った。「オジジがたぶん発掘したんだと思う」

「ん?」

「リンネ。発掘したの、たぶんだけどオジジ」

「ん、ん?」

 意味が解らないのだけれど、と目が見えないので餌を欲しがるヒナのように首をくいくい捻ってみせる。

「きみに言うの忘れてたんだけど、警察のひとが教えてくれたんだけどね」

 そこでサキは警察から聞かされたという情報を披歴した。どうやらオジジの遺体の第一発見者として幾度か事情聴取を受けていたようだ。

 要点としてはオジジには海外で違法に古美術品を売り捌いていていたという容疑がかかっており、この国でも密輸入の嫌疑がかかっていたという話だ。

「警察の人の話だと、オジジって人には仲間がいたらしくて――あ、この仲間っていうのはわたしたちの知るドール遣いとはまた別の人たちで――でも、その人たちがみんな突然死しているらしくてね。しかも同時期になんだって。ゆいいつオジジだけが生き残っているらしくて、だから密かに殺人罪の嫌疑もかかっていたらしいよ」

「それで?」それがリンネの話とどう繋がってくるのか。

「うん。で、その死んだオジジのお仲間っていうのがあんましガラのよくない人たちらしくってね」

 聞けば、亡くなった彼らはみな犯罪歴があり、複数件の強盗などで検挙された過去があるという。

「で、これはすごい偶然なんだけど」

 前置きし、サキは興奮気味に語った。「前にきみが見せてくれた海外の記事、あったでしょ」

【死者の祈り】強盗事件のことだと察する。

「あれの手口って、その死んだオジジの仲間たちの手口とすごく似てるんだって」

「オジジが【死者の祈り】を盗んだと?」

「じゃないのかなぁ。で、ここからが肝心なんだけど」サキは改まった調子で、「その亡くなった人たちの遺体のそばには、一体ずつ人形が転がっていたんだって」

「本当に?」

「いや、知らないよ。他人から聞いただけだもん。でも、だから警察はオジジと彼らを結びつけて考えてて、それでこっちで起きたドール遣いたちの不審死にも繋がりがあるんじゃないかって睨んでいる感じだった」

 そういえばサキは人形を嗜好するような人物ではなかった。ギリギリのところで繋がりが浮き彫りにならずに済んだようだと胸を撫で下ろす。

「きみの写真も見せられて、知っているかって聞かれたけど、知らないって言っといたから」

「つぎからはよくある顔ですねって言うといいよ」

 ぼくは軽口を叩いた。

 

 寝るとき、いつもサキはぼくとは違うベッドで寝た。寝相がわるいからだと彼女は説明し、現に彼女は寝相がわるく、枕ほどの大きさしかないぼくなどがとなりに寝ていたのでは、毎晩のようにゆかに叩き落され、痛い目をみていたことだろう。だからしてぼくはサキとの濃厚なぬくもりのやりとりのあとはいつも静かなひとときを過ごした。

 昼なのか夜なのかも定かではない暗がりのなかでぼくはサキの聞かせてくれたオジジの話をもういちど頭のなかで整理した。なるほど、以前にぼくは似た考えを巡らせており、当たらずとも遠からずといった顛末だったようだと腑に落ちた。

 リンネは【死者の祈り】の中に封じられており、オジジたちはそれを何かの拍子で解放してしまった。

 オジジがなぜ一人だけ生き残ったかと言えば、リンネの本体と契約していたからだろう。オジジは偶然助かったと呼べる。そしてリンネの正体を知り、半ば恫喝されるかたちでリンネの意向を叶えるため、より自由に動きまわれる本土へと海を越え、やってきた。

 養分を得たリンネは分散していた局部を回収し、完全体となったのを機に姿を晦ませた。いったいどこへ消えたのだろう。サキに聞いたところで知る由もないだろうし、仮に未だ人間を必要としていたならばあのときあの場でぼくの四肢をもぐことなく借り宿として寄生していたはずだ。

 おそらくリンネがぼくのまえに現れることは二度とないだろうし、仮に現れたところでぼくにはそれがリンネであると判らない。確かめる術もない。

 気晴らしに流していた報道番組では、グラビアアイドルの遺体が見つかった、といった事件の概要をキャスターが述べている。殺人事件を視野に入れて警察が捜査しているらしく、今年に入って二人目です、とまるで出産を終えたばかりの母親のようにキャスターの鼻息は荒かった。


 そとに出るとき、サキはぼくに眼鏡をかけさせた。とくに訊いたわけではないけれどおそらくはサングラスなのだろう。退院してからはいっさい医者に罹っていないので、目の治療はサキの独学だし、義眼も作ることはなかった。眼窩には何かしら綿のようなものが詰められており、四肢の包帯を取り換えるときにサキはそれらもいっしょに新しいものと交換した。

 生まれ変わったじぶんを実感してからというものぼくは他人の視線を気にしなくなった。サキにしてみたらぼくの内面の変化など知る由もなく、或いは解っているけれど放っておけない性質なのかもしれず、いずれにせよ彼女はぼくのために人目を気にし、サングラスをかけさせているのだと思った。

 買い物する店はいつも同じで、何度か行き来すると頭のなかに地図ができた。黒い板に彫刻刀で溝をつくっていくような感覚で、ぼくはその溝を転がるビー玉となって、サキらしき人物に運ばれるように喧騒に満ちた肌寒い街並みをくぐっていく。サキはいつも決まった店に立ち寄る。ぼくはいつも店のそとで待たされた。散歩に連れて歩かされる犬のように、車椅子ごと街灯らしき柱にリードで繋がれる。一見して待ち人だと判るからなのか親切な人が声をかけてくることもなかった。

 が、その日はなぜか声をかけてきた女性がいた。

「ひょっとして曽乙女(ぞおとめ)くん?」

 彼女はぼくの名を知っており、そしてぼくもその声には聞き覚えがあった。

 あんた頭おかしんじゃないの。

 かつてバイト先でいろいろ親切にしてくれたB子の声が鼓膜の奥によみがえる。水面に触れたように、店長と絡み合っていた彼女の姿が脳裏に浮かび、そして親切だった彼女の顔を思いだそうとしたがなぜか失敗し、なるほどぼくは案外に彼女のことをよく憶えてはいないのだと知り、安堵にも似たきもちが湧いた。

 声の聞こえたほうにゆっくりと顎を向けると、声をかけてきた人物、ぼくはそれをB子だと断定しているのだけれどもこちらの姿を認識したのか、彼女がいまさらのように息を呑んだ様子が伝わった。

「ちょっと事故に巻き込まれちゃってね」言葉を失くしたまましかし立ち去る素振りを見せないB子にぼくは続けて言った。「手足だけじゃなく目も見えなくて。でも声だけでも判りましたよ」

 ぼくはB子の名前を口にし、それから逡巡したのちに、以前不躾な真似をしてこわがらせてしまったことを詫びた。

「ううん。ぜんぜん気にしてない。でも、なんだろう、ほら、うん。元気そうでよかった」

 微笑んでいるのだろうが声が笑っていない。目が見えないだけでこれほど感情が筒抜けになるものなのかとびっくりした。思えばサキの場合、何かを取り繕うといった機微を感じさせることがなく、或いは彼女の場合は純粋にぼくに対して何かを偽ろうとしていないだけかもしれなかった。

「付添いの人待ち?」

「そうなんです」

「えっとぉ。ひょっとしてこのお店?」

 押し黙ったからだろう、察したように彼女は、「あ、見えないよね」と恐縮そうに言った。

「どんなお店なんですか」

「知らないんだ?」

「ぼくですか? はい」

 B子はなぜかそこで口ごもり、しばらく押し黙った。何かしら口にしがたい店なのだと判ったが、サキがどこのどんな店を利用していたとして、今さらどうも思わない。

 ムリに言わなくてもいいですよ、と断りを入れると、

「うーん。まあ、でも、そっか。必要だよね、こういうの」

 独りよがりに合点しB子は、「うちもここの店に用があって」と言った。「モデルみたいなの募集しててさ」

「バイトはもう辞めたんですか」

「バイト? ああ、ないない。アイツ、店長。ホント糞野郎でさあ」詳しい話をしたくはなさそうでB子は言を濁したが、愚痴は零したかったようで矢継ぎ早に店長への辛辣な言葉を並べたてた。聞き流しながらぼくははやくサキが戻ってこないだろうか、しかしこの現場を目撃されへんな誤解を受けるのは嫌だなと思った。

「まあ言ってもけっきょくあんなやつと付き合ったうちがわるいんだけど。って、こんな話聞かされても困っちゃうじゃんね」

「いいえ。おもしろいですよ」

「なんか曽乙女くんってこんな感じだったんだ。誤解してたかも。だったらもっとちゃんと話しとけばよかった」

 どんな感じだと思っていたのだろう。思ったが聞く必要も感じられなかったので黙っていた。するとB子は、あのときはごめんね、となぜか神妙に言った。「なんかほら、曽乙女くんって何考えてるか分からなくて。夜中だったし、ちょっと不気味で」

 最後に会ったときのことを言っているのだろうと思った。直後にぼくはムイを、あのちいさな手を拾った。言ってしまえばあそこが分水嶺だった。リンネと関わるきっかけだったとも呼べる。

「いいえ感謝していますよ」ぼくは言った。きっと彼女には伝わらないお礼の言葉だ。案の定B子は、えへ、なに? と陽気に声を弾ませ、ようやくというべきかこちらに対しての不信感を、言い換えれば戸惑いを取り払った様子だ。彼女がぼくを誤解していたと語ったのと同様に、ぼくもまた彼女のことをよく知らなかったようだ。ことのほか彼女には他人を蔑視する傾向はないらしい。いや、この一年半でぼくが大きく変わったように、彼女もまた変わっただけなのかもしれない。

「わたしの連れに何か用かな」

 和やかな雰囲気にヒビを入れるような硬質な声が届いた。わざとらしく足音を、ヒールだろうか、鳴らし声の主はこちらに近寄ってくる。

「いえ、あの、え? あれ?」

 よもや連れが女性だとは思っていなかったのか、或いはぼくのご主人さまの存在感に気圧されてしまったのか、B子はぼくの聞いたことのない阿諛に染まった声音で、「むかしの知り合いで、あの、あたし」

 おろおろと釈明をはじめた。

「ふうん。で? なに? まだ用があるわけ?」

「いえ、もう済みました」せめてもの対抗心なのかB子は謝罪を口にすることなく、「じゃあねジンくん」とこちらを苗字ではなく名前で呼び、朗らかな調子で離れていった。大方、サキの出てきた店に入っていったのだろう。ぼくはサキに言った。

「知り合いなんだ、彼女」

「言い訳しなくたっていいよ。片思いの相手だものね、そりゃうれしいよね」サキは吐き捨てるように言い、「色目使いやがって」とぼくへなのかB子へなのか判断つきかねる悪態を零した。ぼくの背後にまわり、車椅子を押しはじめる。ぼくらは帰宅する道を順当に進んでいく。

「あの店」ぼくは口にせずともよかった疑問を口にしていた。「よく来るけどなにが売ってるんだろ」

「聞いてどうするの」

「どうもしないけど」

 ただ、サキがそこへ何かしらの用があって通っているのは知っている。隠す必要もないからぼくを同行させているのだろうとも解っているつもりだ。加えて店から出てきたサキが何かしらの物品を購入している素振りもないため、ちょっとした好奇心があった――と、ぼくはそう言ってごまかした。

「前にきみ、わたしがどうやってお金稼いでるか気にしてたでしょ」

「うん」

「割のいいバイト先があそこ」

「何のお店?」

「そんなに知りたいの?」

「身体を売ってるわけじゃないんだよね」

「ひょっとしてだけど、嫉妬してる?」

「ちょっぴり」

「うれしい」サキはそこで本気でうれしがるように言い、「モデルを募っててね」とB子と同じことを言った。「顔とか身体の3Dデータ取らせるだけでけっこうな額を稼げるの。最低でもふた月くらいなら過ごせるかな」

「そんなに?」たったそれだけのことで、と驚いた。サキが店に入っている時間は長く見積もっても三十分もない。

「そのデータで等身大の人形をつくるんだって。隠しててもしょうがないから言っちゃうけど、あれだよ。ラブドールのモデル。わたし、ほら。自分で言うのもなんだけど顔とか身体はいいほうでしょ」

 生身の実在するモデルのラブドールを作り販売する店なのだそうだ。そういえば、と思いだす。ミーさんが以前、そんな仕事があるとかなんとか話していた気がする。

「何体の人形を作っていいのかって選択する欄があってね。その数によって収入が増えるって寸法なわけ」

 聞けば、すぐにお金をもらえるわけではなく、一定期間、顔写真がホームページ上に掲載され、人気の有無によって報酬額が決定されるシステムらしい。

「基本料金はでも、一体につき十万は保障されてるから、世間体に拘らないコなら本当に割のいいバイトなんだよ」

 サキと同じ顔、同じ身体をした人形を弄ぶ男どもの姿を想像すると、思いのほか憎悪とも嫉妬ともつかないマグマのような渦を胸の奥に感じた。

「きみが嫌だっていうならやめるけど」敏感に感じ取ったのかサキは言った。「でも、本当に割のいいバイトだから、できればね」

 つづけたいのだろう。サキほどの器量ならば需要が途切れることはないように思えた。

「サキが嫌じゃなかったらぼくにそれを拒む理由はないよ」

「ならよかった」

 本当はやめて欲しかったけれど、ぼくとの生活を維持するための術だと考えると、たんじゅんな嫌悪感からそれを拒否するのは、サキのぼくへの想いを踏みにじるように思え、気が引けた。何にも増して、サキのぼくへの想いが間接的に感じられるようで案外にわるい気のしないじぶんもおり、或いはだからぼくはそんな卑しいじぶんに激しい嫌悪感を抱いているのかもしれなかった。

「あの、すみません。ポテポテマヨスターさんですか?」

 きょうはよく声をかけられる日だ。マンションまであとすこしというところで知らない声に呼び止められた。サキが歩を止め、「違いますけど」と言った。朗らかに、それでいて突き離すような物言いだ。

「あ、すみませんでした。よく似てらっしゃったので」

 若い女の声だったが、愛想よく謝罪し、去っていった。サキがふたたび歩きだす。

 ぼくは首をひねるようにした。女の口にした名前には聞き覚えがあり、どこで耳にしたのだったかと記憶に検索をかけると、以前耳にしたニュース、ここ数か月間行方不明になっているという女アーティストの話を思いだした。しかしサキとは似ても似つかない人物だ。

「髪型が似てるからかな」

 こちらが疑問を口に出さないうちから、サキは誰にともなく釈明し、マンションの玄関をくぐった。

 部屋に着くと、「疲れたでしょ、きょうはもうお休み」とベッドに寝かされ、珍しく独りにされた。しばらく別室から聞こえてくるサキの立てる物音に耳を欹てる。

 なんだか考えないほうがよいことのように思えたけれど、考えたところで何が変わるわけでもないと思い、ぼくは考えた。

 なぜサキは、B子がぼくの片思いのひとだと思ったのだろう。B子とぼくの縁が切れたのは、サキと出会う前のことだ。

 リンネのちいさな手を、以前のぼくがムイと呼んでいたあれを拾った翌日、林にはそこにあるはずの猫の残骸がきれいさっぱり消えていた。片づけた者がいたとして、なぜその人物は猫の残骸を片づけたのだろう。ぼくは考える。そしてふと閃いた。

 明るい場所で見たときに、猫の死骸が予想外に損傷を受けておらず、明らかに死骸として頑丈なつくりだったのだと見抜かれることを危惧した何者かが片づけたのではなかったか。

 あのときはさほど不可解とも思わなかったが、こうして考えてもみれば、アスファルトに叩きつけながら歩き、その後木にも叩きつけた猫の死骸が血だるまになったにせよ千切れずに、死骸としての形態を保っていたことは多少なりとも妙に思われる。車に轢かれたことで半身が削られていたのだ、死ぬまでは生物としての脆弱性を有していたことはっきりしている。そもそも猫の死骸にムイが入っていたのだから、リンネはそれを借り宿として動きまわることができたはずだ。契約者がおらずエネルギィ供給が不十分だった関係で動かせなかったのだとしても、すくなくともちいさな手としてのムイはその後、誰とも契約せずに動きまわれていた。だとすればリンネがわざと動きまわらないようにしていたと考えるのが筋ではないのか。

 だいたいにおいて、ぼくがムイを拾ったのは駅前での爆発事故が起きる前だ。爆発で破損したリンネの腕がムイであるという前提で考えていたが、そもそもこの考えは破たんしている。いや、爆発したのは、日本人形じみた偽のリンネだったのだから不自然ではない。しかしだとすればなおさら、ムイやサディがぼくのまえに現れた説明がつかなくなる。偶然にしてはできすぎている。

 ならばどういうことになる。

 リンネは端からぼくに接触しようとしていたのではないのか。

 そう考えるとさざなみのような悪寒を引き連れ、不安がふつふつと湧いた。ぼくを包みこむ闇に鳥肌に似た気泡が浮かんでいく。

 ぼくはミーさんとの性行為を思いだし、つぎにサキからもたらされる性的愛撫とそれに伴う強制的な快感を想起した。思い入れの差はあれど、今のぼくも以前のぼくも、サキから及ぼされる性的愛撫のほうにより大きな快感を抱いている。

 なぜかふと首を吊っているオジジの姿が思い起こされた。つぎの瞬間には、あの部屋に置かれていたタンスの中から発見した性玩具の箱が脳裏に浮かぶ。ひょっとしたらあのタンスの中には本来、性玩具の予備が大量に収まっていたのではなかったか。ではなぜそんなものが失われていたのか。推して知るべし、オジジを殺した犯人が奪っていったからに相違ない。ではなぜ犯人はそんなものを奪ったのか。日々、それを大量に消費するために予備の性玩具が必要だったからではないのか。ではなぜ犯人はそんなものを大量に消費する必要があったのか。

 ぼくはそこで、ラブドールの股間にはただ穴が開いているだけだというどうでもいい知識を思いだした。

 けっきょくぼくはオジジのラブドールを見ることはなかった。宿主たるオジジが死んだので、人形のほうも活動を停止しているだろうと無条件に考え、気にも留めていなかった。リンネはちゃんと回収したのだろうか。そこに組み込まれた自身の局部を。ひょっとして最初から本体はそこに組み込まれていたのではなかったか。人形ならば首だけをすげ替えることは容易だろうし、そもそもリンネならばほかの人形に鞍替えするだけで済む話だ。

 だいたいにおいてオジジの来歴を警察から聞かされたというのもおかしな話だ。ぼくらはミーさんのマンションに出入りしていた人物として重要人物のはずであり、サキに至ってはオジジの遺体第一発見者でもある。警察がそのことを結びつけて考えていないはずもなく、ならばなぜぼくらはこうしていまもなお何食わぬ顔で生活しつづけていられるのか。何かが決定的に歪んでいる。不協和音がそこかしこから聞こえてくるようだ。

 じぶんの閃きを振り払うようにぼくは首を振った。いったいぼくはどんな結論を思い描きたくてこんなけったいな、サキへの冒涜ともとれる推論を展開しているのだろう。誇大妄想甚だしい。被害妄想と言い換えたっていい。よほどじぶんを悲劇のヒロインにしたいようだ。寝返りを打つべく、腹筋に力を籠めたところで、

「眠れないの?」

 勃然と耳元で声がし、ぞっとした。サキ以外にいるわけがなく、現にそれはサキの声だったが、意思に反して鼓動が激しく鳴りつづける。

「あ、ああ。ちょっと昼間のことを思いだしちゃって」

「リンネのことを、ではなくて」

 口のなかの生唾をどうしても呑みこみたくなった。音を立てずに呑みこむ自信がなく、またなぜ音を立ててはいけないのか、なぜそう考えるのかを、ぼくは冷静に考えられず、途端にじぶんを見失った。

「どうしたの。なにを考えていたの」

「サキはその、どんな子どもだったのかなと思って」口から出まかせばかりでる。

「わたし?」

「そう。こんなぼくを相手にしてくれて、見捨てずにいてくれて。いったいどんな境遇に置かれたらこんなすばらしい女性になるのだろうって。考えだしたら止まらなくなって」

「昼間のことを考えていたんじゃないの」

「そ、そう。そうなんだ」そこでぼくはB子の名前を口にし、「あのコに会って、はっきりと判った。サキは特別なんだ。世界中のどんな女性よりも、ううん。どんな人間より慈悲ぶかくて偉大なんだって」

「褒めすぎ」声は笑っているのに、ぼくには見えないはずだのに、能面のように冷めた顔のサキが見えるようだ。眼球がないのだからする必要もないのにぼくが瞬きをするとその顔はつぎの瞬間には行方不明とされている女性アーティストの顔にすげ代わる。

「ねえ、触って」堪らずにぼくは言った。明かりは点いているのかもしれず、点いていないのかもしれなかった。ぼくは依然として暗がりに浮かんでおり、孤独をまぎらわせるためにぬくもりをねだる。

「いつも触ってるじゃない」サキはぼくの胸に手を置いた。鼓動がゆっくりと高鳴る。彼女に触れられながらぼくは初めてサキの生い立ちを聞いた。が、それはどこか断片的で、均等に切りそろえられた野菜や肉を思わせ、そこから紡ぎだされる物語は、市販のカレーやシチュー用のルーのパッケージに載っているレシピのように、口当たりはよいけれどつぎの日には忘れてしまいそうな、特徴はあるけれども誰がつくっても同じ味になるとしか思えない、大衆映画のあらすじを聞かされている気分にさせられた。

 やがてサキは子守唄を歌いだした。ねんねんころり、おころりよ。坊やよい子だ寝んねしな。ぼくの胸を律動よく叩き、拍子をとりはじめる。おためごかしにすぎるだろ。思ったが、案に相違して心地よく、ぼくは赤子のようにサキのぬくもりに身を委ねている。

 サキがどこの誰で何者であろうともそんなことはどうだっていいと思った。

 彼女がいなくては存在できず、存在する意味もない。彼女のために生きることがぼくのすべてであり、ぼくをぼくとして生かしつづけるのだと思った。

「リンネは何がしたかったんだろう」

 夢うつつにぼくはつぶやいた。サキはぼくを抱き枕のように股に挟んだ。こちらの顔をへそに押しつけるようにしながら、しかし拍子はとりつづけ、分からないけど、と言った。「自分だけの人形が欲しかったんじゃないかな」

 ぼくがムイを手放したくなかったようにリンネもまた手放しがたい何かを欲していた。リンネの求めたそれは、器の中身がからっぽで、だからこそ如何様にも詰めこむことの可能な、人型の殻を持つ、しかし人間ではないものだったのかもしれなかった。

 人形によってもたらされた刺激で波打つ宿主の感情。その揺らぎそのものがリンネをリンネとして形作り、満たし、模るのかもしれず、模られたリンネという存在は、宿主を常に揺るがせ、ときに満たし、ふたたびの振幅の余地を与え、そしていつまでも拭いきれない不安定さを――不安の種を抱かせることで、完全な【わたしだけの人形】を完成させようとしていたのかもしれなかった。

 ねんねんころり、おころりよ。サキはふたたび歌いだす。

 胸の鼓動がサキのとる拍子に同調していく。ぼくはその律動に合わせて舟を漕ぐ。

 隠し通すこともできたはずだ。リンネは、彼女は、いっさいを気づかせることなくぼくを欺きつづけることができたはずだ。だが真相を仄めかされたことでぼくはただ彼女を崇拝するだけでなく、依存するだけでなく、いつ見捨てられるかも分からない悪夢を植えつけられ、同時に彼女の底知れぬ執着を、愛を、垣間見ることとなった。

 考えすぎかもしれないけれど、確かめる術はないのだけれど、だからこそぼくはそう、すべてを委ね、捧げるよりほかはないのだった。

 ねんねんころり、おころりよ。坊やよい子だ寝んねしな。

 頬に伝わるぬくもりの奥には、宵闇に浮かぶ海のような静けさばかりがこだましている。静けさの合間を縫うようにじぶんの鼓動が揺れて聞こえる。

 ぼくは声に出すともなくつぶやいている。

 

 人形になりたい。

 あなただけの人形に。



      【局部怪奇譚~~人造乙女は心臓を止め~~】END

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