群れなさぬ蟻

 【  群れなさぬ蟻  】 


目次

第一章【七人の孤人】

第二章【七つの大罪】

第三章【七人の侍】

第四章【七色の虹】

第五章【七つの子】

第ゼロ章【エピローグ】





第一章【七人の孤人】



   +薬尾夜神+

 高層ホテルで火災があったようだ。駅前のビルに嵌めこまれた巨大なディスプレイを眺めていると、そういったニュースが流れた。映像では実際にホテルの最上階から火柱があがり、濃い煙がもくもくと天高く昇っている。細長の建造物であるからか、火のついたマッチ棒のように見えなくもない。

「火事か」

 つぶやくと、

「火事だね」

 となりに座っていたニオ子が、だからどうしたの、と言いたげな目をしてこちらを見上げてくる。さきほどふらっといなくなったと思ったら、いつの間にか戻ってきていた。

「かってにいなくなるな」

「んー。ごめんなさあい」

 彼女の手には最新式のメディア端末が握られている。買い与えてやった憶えはない。使い方が分からないのかニオ子は、子どもがカブトムシを観察するような手つきで、いじくりまわしている。

「おまえ、それどうした」

「ん。買ってきた」

「そんな金がどこにある」

 うそを吐くな、と詰問すると、

「うそじゃないよ」

 ニオ子は甲高い声で反駁する。「あたいだって買い物くらいできるよ。お金なんてどこにでもあるもん」

「すくなくともおまえは持ってないよな」

「あたいは持っていなくとも、持っていないからこそ、あるところからもらっちゃえばいいんだ」

「念のために訊くが、あるところって、どこだ」

「んー。たとえば、さっきすれ違ったおじさんのお財布んなかとか」

「スッたのか?」咎めるように確認すると、

「スッたのだ」おうむがえしに肯定される。 

「またか」

「またなのだ」

「おまえなあ」

「おこっちゃヤーダよ」

 おどけて煙にまこうとしたって無駄だ。俺はニオ子の頬を片手でつまみ、

「前にも言ったはずだぞ」と叱る。「人間の社会にはやってはいけないことがあって、それをすれば人間という生き物は大騒ぎをする。そのうちおまえもとっ捕まって、動物園のサルみたいに見せ物にされるぞ」

「どうぶつ園、また行きたい」

「話を逸らすな!」

「だってぇ。あたいだって、こういうの欲しいもん」

「欲しいたって、なんに使う気だ。だいいち端末だけ持ってたって、契約しなけりゃ宝の持ち腐れだぞ」

「へ、そうなの?」だからかあ、とニオ子は合点したように、「どうりで、どじょうさん、元気ないわけだ」と感慨深げに唸った。

 メディア端末のディスプレイに表示されている三本のアンテナのことを言っているのだろう。いったいどこでそういった知識を得てくるのか、と毎度のように驚かされる。

「欲しいものがあれば、まずさいしょに俺に言え」

「え、買ってくれるの!?」

「必要だと判断すれば与えてやってもいい」

「うわあ、なんだか夢みたい!」

「必要だと判断すれば、と言ったんだ。だが、そうだな。俺もそろそろそういった道具を持っといたほうがいいなと思っていたところだ。おまえに持たせておくから、たまに貸せよ」

「うん!」

 こういうときばかり明朗な返事をする。現金なやつだ。思う半面、かわいいやつだ、とも思えてしまう。

 こいつと出会ってから、俺はずいぶんと甘くなった。

 甘さは弱さを引きつける。

 淋しいという気持ちや、逢いたいという気持ちが、ときどき抑えようのないほどに俺の胸を焦がしてくる。

 妻と娘はげんきにしているだろうか。

 娘はもう、年のころは小学生になる。

 ランドセルを背負う子どもたちを見ると、否応なく娘の姿を想像してしまう。

「どうしたの?」

 ニオ子がきょとんとした顔で、「ほら、善は急げだよ。ケイヤク、ケイヤク」と急かしてくる。

「ああ、そうだな」

 小柄な体躯のニオ子もまた、成長した娘の姿を誘起させるにはじゅうぶんな役割を果たす。

 こいつは娘ではないし、娘の代わりでもない。

 思ってはいても、俺のこのどうしようもないニオ子への甘さは、逢えない娘への憧憬から湧きあがってくる歪んだ愛着ではないのかと疑わずにはいられない。

 だが俺にはもう、こいつを突き放すことはできない。

「ねえ、ホントにどうしたの」

 さきを進んでいたニオ子が立ち止まり、

「こわいよ。げんき、ないよ?」

 足元までやってきて不安そうにこちらの顔を覗きこむ。

「なんでもない」

 一本しか生えていない、ちいさなツノを避けながら俺は、ニオ子の頭を撫でてやる。安心したのかニオ子は、「へんなの」と笑った。

 俺はもう、こいつを傷つけるような真似ができなくなった。

 だからこそ本当はいつだって突き放すべきなのだ。そうと解っていながら、まだいいだろう、とずるずるとここまできてしまった。

 ほとほとじぶんの甘さがいやになる。

 弱さは必ず、仇となる。




   △ニオ子△

 買ってもらっちゃった。

 あたいの足取りはいまやルンルンを超えて、ドュンドュン、だ。

 こうなってしまうのもしかたないね、おっとー以外からの初めてのプレゼントだもの。誰もがなっとくするだろう大義を掲げ、あたいは公園内をクルクルと駆けまわる。こんなにもうれしくなるものか、とじぶんでもおどろくほどだ。

「落とすなよ」

「落とさないよ」

「失くすなよ」

「失くさないってば」もううるさい、とあたいはヨガミを睨みつける。「子ども扱いしないで!」

「買ってやった途端にこれだもんな」何がおかしいのか彼は、くっくっ、と込みあげる陽気を堪えるように肩を弾ませた。

「あたいは今、うれしいきぶんを満喫中なの! じゃましないで」

「はいはい」

「やな感じ」

 あたいは、きちんと電波を受信している「よくできたおもちゃ」を片手に、ゆびで画面をコシコシ擦る。すると画面が、コロコロ、ひゅんひゅん、と際限なく変わるものだから、あたいの高揚はぜっさんうなぎの滝昇りだ。愉快すぎて、お腹の奥がムズムズする。まるで魔法のランプを手に入れたみたいな感覚だ。

   △△

 夕闇に沈んでいるみたいに辺りは暗い。陽がまだ照っているくせに、背ぇたかのっぽの建物に囲まれているからか、公園内には街灯が灯っている。イガイガした明かりは好きくないので、うんしょ、と木によじ登る。枝に腰掛け、小休止しつつ、あたいは「よくできたおもちゃ」に夢中になる。

 しばらくすると、

「薬尾さんですね」

 ベンチに腰掛けているヨガミを、数人の男たちが囲んでいた。

 手元に集中していて気づかなかった。街灯の明かりが闇に沈んだ遊具にカタチを与えている。

 あたいは息を潜め、彼らの様子を窺った。

「薬尾夜神だな?」なかなか返事をしないヨガミに業を煮やしたのか、ほかの男が威圧的に言った。男たちの物腰からして初対面ではあるけども、ヨガミについてしらないわけではなさそうだ。

「だったら何なんだ」

「そう殺気立たないでください」さいしょに発言した男が言った。男の顔には三本の傷痕がある。巨大なツメで引っ掻かれたような具合だ。「あなたが離反したことについては、すでに無罪放免のお達しがでています。ずいぶんと方々を逃げ回っているようですが、無駄な努力でしたね」

 イヤな言い方をするものだ。そんなやつらなんか、のしちまえ。あたいは声にださずに野次をとばす。

「争いにきたわけじゃないってんなら、何の用だ。おれはもう、おまえらとは縁を切ったんだ。そちらとしてもそういう扱いになっているはずだ」

「いかにもそのとおりです。我々としてもこうしてわざわざ、『死神モドキ』に会いにくるなんてのはごめんこうむりたいところだったのですが、当主直々の命とあらば、聞き入れないわけにはいかないものでして」

 ヨガミの顔色が変わったのが判った。これくらいの距離であっても、あたいの視力をもってすれば、容易に識別できる。

「当主からの命と申しましても、祓い屋としての職務とはべつです。当主が鬼頭(きとう)篠子(しのこ)から頼まれた、と言えばお分かりになられますでしょうか。彼女からあなたへの言伝を預かっておりまして」

「篠子に何かあったのか」

「先日――と申しましても、すでに二年ほど前のことになりますが。鬼頭篠子は、お亡くなりになられました」

 電灯が音もなく明滅する。

 風が吹きつけ、あたいの腰掛けている枝の葉をさわさわとざわつかせる。その音で、静寂が満ちていたのだ、と気づいたほどだ。

「……そうか」

「死因を知りたいですか?」

「いや、いい」

「そうですか」

「で、要件はなんだ」ヨガミが抑揚のなく言った。いっさいの感情の籠っていない声だ。「おまえらが篠子の頼みで来たとすれば、要件はべつにあるんだろ。訃報を知らせてほしいという頼みではなかったはずだ」

「いえ、要件はまさにそれです。実は鬼頭篠子は、死期がちかいことを悟ってらしたようで。お亡くなりになられる三日ほど前に、我ら鬼頭家当主のもとを訪れ、遺言を託されました。ほかにも、娘を祓い屋としては育てないようにと、直々に談判なされたりしたようですが、それはええ――妻子を捨てたあなたには蛇足でしたね。ただ、蛇足ついでにお伝えしますが、現状、鬼頭篠子の娘は我々の管理下にはおりません。こちらの社会の、極々一般的な養護施設で暮らしております」

「養護施設……。援助はどのくらい――」

「いいえ。我々はなにも。養育費や葬式、ほかすべて、鬼頭篠子が生前に蓄えられていた遺産から捻出されています。そう多くはないので、そろそろ底を突くころかと」

「なぜだ? おまえらは仲間を見捨てない。篠子だって仲間だろ。なら、娘にだって――」

「庇護をなぜ与えないのか、という糾弾ならば、妻子を捨てて逃げたあなたが言っていい台詞ではありませんよね。まあ、よろしいでしょう。篠子さん――いえ、鬼頭篠子からは口止めをされておりましたが、あなたがご所望とあらば、教えて差しあげなくもないですよ」

「頼む。教えてくれ」

「いいでしょう。あなたが妻と子をのこし、我々のもとを去った時点で、鬼頭篠子へのあらゆる援助は断ち切られています。離反した夫の処分を取り消すための、それが鬼頭篠子へ提示された条件だったからです」

 ヨガミは黙したまま反応を示さない。どうやらこれは、ヨガミの過去にまつわる話であるらしい。ヨガミは極力自分の過去について話したがらなかった。ヨガミという名前だって、あたいはさいきんになってしったくらいだ。

「解りませんか? では猿にも解るように、言いなおしましょう。あなたの妻は、あなたを護るために、鬼頭家から追放されることを望んだのです」

「俺が消えたときから……か」

「ええ。かれこれ七年になりますね」

「その間、保護がなかったってこと、だよな。ああ、そんな。じゃあ、篠子はずっとひとりで? だってあいつは――、あいつがただでさえ異形に憑かれやすい体質だってのは、おまえらだって――」

「ええ。重々承知しております。ですが、それを望んだのは鬼頭篠子であり、そうした選択を彼女に強いたのはほかでもない、あなたです。どの面下げて我々を非難しようというのですか」

 ヨガミの耳には男の誹謗は届いていないみたいだ。彼のこころは今、ここではないどこかへ行ってしまっている。ほかのことで埋まってしまっているみたいにもみえた。

「シミコは無事なのか」ぽつりとこぼしたヨガミの横顔はふだんにも増して虚ろだ。

「しみこ?」

「俺の娘だ」

「ああ、カイちゃん――あっと失礼、噛みました。カミツ・カイのことですね」

「カイ?」ヨガミが訝しげな声をあげる。

「鬼頭篠子とその娘は、祓い屋一族から追放された時点で、表向きの名に改名されています。姓を、『神津』と名乗っておりました。娘の名も、むろんご一緒に。ですから、そうですね――我々に知らされているのはそちらの改名後の名前となります。あなたが付けた名ではなく」

「偽名を使っているとは思っていたが、そうか。戸籍ごとか」

「はて。会おうとなさったのですか?」

「逆だ。知らず近づいてしまうのを避けるために、居場所だけは把握しておきたいと考えた。が、けっきょく分からずじまいだった」

「なんにせよ、あなたと懇意にあった時点で、おそかれはやかれこうなることは自明でしたよ」

 あなただってそれは解っていたはずだ、と男は語気をつよめた。溢れだしそうな感情を堪えるような、呻りにも似た発声に、あたいはしらず息を呑む。

「いまさら責めたところでどうにもなりませんがね」鼻から勢いよく息を漏らし男は、「鬼頭篠子は亡くなりました」とふたたび業務的な口調に戻る。「あとに遺ったのは、彼女の娘だけです。手順が乱れましたが、これは鬼頭篠子があなたにお伝えするようにと、当主へ頼まれたことの一つです――娘の名を、『神津(かみつ)戒(かい)』といいます。お元気のようですよ。いまのところは」

「そりゃ良かった」

「会いにいかれるおつもりですか」

「まさか。会うつもりなんざサラサラない」

「でしょうね。娘を不幸にしたくないというのが親心というものです。むろん我らが当主もまた、同じお気持ちだったでしょう。いえ、お嬢さまとのあたたかな思い出がある分、ことさらつよく願っていたはずです。お嬢さまのしあわせを」

 語る男の身体からは、もくもくと煙が立ち昇りはじめていた。鬼の性質を引き継ぐあたいにだけ視える、あれは人間の邪心だ。あの男はいま、内に秘める憎しみを増幅させている。

「娘の件。おしえてくれたこと、感謝する」ヨガミが言った。「だが、要件が終わったなら、さっさと消えてくれないか」

「ええ、そうさせていただきます。ですが、まだ一つ残っています。鬼頭篠子から、あなたへの遺言です」

 男がヨガミに、手紙らしきものを渡した。「どうぞ、今ここでお読みください。当主の命令でして、お読みなられたあと、回収するように申しつけられておりますゆえ」

 ヨガミが手紙に目をとおしている。みじかい文面のようで、ヨガミはすぐに紙面から目を離し、顔をあげた。

「おまえこれ、あの当主さまにも見せたのか」

「はい。あ、いえ。破り捨てられることを危惧し、その場で読ませていただきました」

「なんか言われたか?」

「無言で殴り飛ばされました」

「だろうな」

 ヨガミが手紙を返している。受けとると男は、「最後に」と声を潜めるようにして、

「これはワタクシからの質問です。アレは、あなたの使役している異形ですか?」

 振りかえり、こちらを射竦めた。

「ああ」いちどは肯定したヨガミだったけど、「いや、使役はしてない」と言いなおす。「まあ、無害だ。気になるにしても、今日のところは見逃してくれ」

「無害、ですか。そうはみえませんがね。とはいえ、ワタクシどもは祓い屋ゆえ、あなた方にとっての脅威にはとうてい、なり得ないでしょう。そうそう、脅威といえば、一つ、お耳に入れておきたいことが」

「なんだ」

 あたいもまた、なんだろう、と気になりつつ、額に滲んだ冷や汗を拭う。身体の緊張はまだほどけていない。

「京都のホテルで火災があったのはご存じですか」

「ああ。さっきニュースで観た。それがどうした」

「火災の起きる直前、あの場では、『外道(がいど)』の集会が開かれておりました。祓い屋と始末屋、双方ともに、実力者や幹部がこぞって参加していたという話です」

「鬼頭家は参加しなかったのか」

「ええ。ワタクシどもの当主の判断です。そしてその判断は、英断となられました。ホテルに居合わせた参加者のおよそ八割の行方がしれないのです。おそらくは、火災現場から遺体となって見つかるでしょう。何者かに襲撃され、殺されたとみられています」

「なぜ判る」

 そうだとも、なぜ襲撃されたと判るのだろう。あたいもヨガミと同様の疑問を抱く。

「生存者が一名、保護されました。その者の証言だそうです」

「だそうです、とはまたずいぶんと曖昧だな。集会をボイコットしたせいで、情報が回ってこないのか?」

 ヨガミが皮肉を口にした。あたいはしっている。こういったとき、ヨガミはおおよそ相手を許容している。

「それもあるでしょうが、むしろ本部も、不測の事態に蜂の巣を突いたような騒ぎになっているのでしょう。幹部がみな殺されたのですから、致し方ないとは思いますが」

「どうしてその話を?」

「なぜあなたにしたのか、ですか? 断っておきますが、好意からではありません。幹部抹殺の一件において鬼頭家は現状被害をこうむっておりませんが、それでも我らとて『外道』の一員――祓い屋であるからには、すでに渦中にいると考えるのが妥当でしょう。であれば、使えそうな駒がある以上、動かせるようにしておくのも、ワタクシどもの仕事のうちだというだけの話です」

 ヨガミを駒呼ばわりする男の言い草にあたいは腹を立てたが、当の本人がそうというほどでもなさそうで、

「ああ。助かったよ」

 しごく柔らかな調子で礼を述べた。

「では、ワタクシどもはこれにて」

 男たちは会釈もなく、踵をかえし、闇に溶けこむようにして去っていった。

   △△

「もう出てきていいぞ。わるかったな」

 あたいは木のうえから飛び降りる。スタスタとヨガミに駆け寄り、体当たりよろしく抱きついた。体格の差がおおきく、腰にしがみつくかたちになる。

「おいおい。どうした」

「なんなの、あいつら」

 あたいは何だか無性にむしゃくしゃした。でもなぜむしゃくしゃするのかが判らなくて、余計に胸がムカムカする。

「あいつらはまあ、俺の元同僚といったところだ」

「霊媒師の?」

「まあ、そんなところだな」

 ヨガミのお茶をにごすような言い方に、あたいはトゲトゲをまとった言葉を吐きだしそうになる。でも、きっと口にしたところでじぶんも傷付いてしまうと想像できてしまうから、あたいは喉元まで出かかったそのトゲトゲを呑みこんだ。胸が痛む。チクチクと。

「どうした。もういいだろ、離れろって。あいつらは帰った。もうだいじょうぶだ」

 引き離そうとしてくるヨガミにあたいは抗う。いっそうつよくしがみつきながら、

「いなくなったり、しない……?」

「俺がか? どうして」

 だって、とあたいはヨガミの腹に顔をうずめる。彼のおへそに声を注入するみたいにして言う。「だって、ヨガミってば別人みたいだったもん」

 まるで見たことのない顔だった。ただ暗いだけでなく、今にも消えてしまいそうなくらい儚い顔をしていた。

「まあ、いつかはいなくなるだろうが、今すぐにってこたあないさ。すくなくとも、いなくなるときはそう言う。おまえに黙っていなくなったりは――」

 彼はそこで言葉をきった。

「なったりは、なに?」胸がくるしくなる。ワサビを食べたときみたいに頭の奥がツーンとしびれる。目頭にまで昇ってきたそのしびれで涙が出てしまわないように眉間にちからを籠めながら、

「ねえ、なに?」

 言葉のつづきを催促する。

「ああ、そうだな。かってにいなくなったりはしない。約束する」

「ホントだよ」

「ああ。ぜったいだ」

 ヨガミはあたいに誓ってくれた。だからあたいも、

「うそだったら、ころしてやるんだから」

 ちょっぴりおおげさに誓ってやった。

 あたいたちは視線を絡ませ、声もなく笑った。

   △△

 緊張がとけたのか、途端に、おなかがグーとなる。「もう、おなか、ぺこぺこだよ」

「だな。俺も腹が減った。どうする? さきにここで喰らっておくか?」

「きょうはまだだいじょうぶ。あたいもヨガミとおんなじのが食べたい」

「ジャンクフードだぞ」

「いいよ。おいしいし」

 鬼の性質を受け継ぐあたいは、ヒトを喰らわない代わりに、ヒトの邪心で腹を満たす。ある時期までは定期的にヨガミ以外のニンゲンから邪心を奪っていたのだけど、ふとしたことがきっかけで、ヨガミから邪心を頂戴する習慣になった。おかしなことに、ヨガミの邪心は底なしだ。これほどの邪心を秘めていれば歴史に名を刻むほどの極悪人になっていてもふしぎではないのに、ヨガミにはその兆候がまったく見受けられない。ヨガミもヨガミで、自分の尋常ではない邪心の濃さに頭をひねっている。当初こそ邪心を提供することを渋っていたヨガミであったけど、滾々と湧いてでる邪心がいつ爆発するやもしれないと気が気ではなくなったらしく、いさぎよくあたいに喰わせてくれるようになった。

 ただ、あたいだって邪心以外の食事を摂りたい。腹が満ちても、舌がさびしければ満腹とはいいがたい。

 ヨガミに先導されるようにあたいたちは公園をあとにした。

「ねえ。手紙、なんて書いてあったの」

「ん。ああ、あれか」ヨガミは口ごもった。

「言いたくないの?」

「そういうわけではないが、まあ、なんだ。おまえが聞いてもおもしろいもんでもない」

「言いたくないんだ」

「だから、そういうことではなくてだな」

「いいよもう」

「いじけるなって」

 べつにいじけているわけではなかった。ただちょっぴりさびしいだけだ。あたいはまだ、ヨガミをしらない。過去とかそういうことではなくて、ヨガミという男を――その外殻さえあたいはしらない。

 しらなかったのだ、と今さらしって、かってにさびしさを覚えているだけだ。

 ふんだ。ヨガミがなんだ。こんな男。

 あたいは、あたいの頭を撫でてくる男の手を、一本しか生えていないちっこいツノで突ついてやった。

 見上げた夜空に星はなく、分厚い雲が覆っている。

 そこに街の明かりが反射して、あたかもそれで一つの巨大な邪心であるかのようだった。




   ><葦須炭兎><

 分厚い雲にどこまでも深く遠く沈んでいく。そんな夢を視た。

 夢だったのだと自覚し、目覚めた瞬間に、ほっとした。

 なんだ、生きているじゃないか、とほっとした。

 死んだと思い、諦観を抱いた間際の所感がまだ全身に残留している。次第に、一時停止した動画を再生するように、順々と、気を失う直前の記憶がよみがえってくる。

 ……槻茂さん。

 声にだしてつぶやくこともできたけども、じぶんの声を聞いた途端に、すべてが現実であったことを認めざるを得なくなるような漫然とした予感があったので、こころのなかでつぶやくだけに留めた。

 ……槻茂さん。槻茂さん。

 槻茂さん。槻茂さん。槻茂さん。槻茂さん。

 これではまるでおいらが槻茂さんに恋をしているみたいじゃないか。そう思ったら、こころのなかで呼び掛けるのもばからしくなった。

 槻茂さんに知られたらきっと、

「気色わりぃなあ。なにかってに呼んでんだよ、こっち見てんじゃねぇよ」

 とつっぱねられ、またぞろ腹を蹴られるのだろう。

 足癖のわるいひとだったなあ、と思いだし、そして思いだしたことで、もうすでにあのひとは過去のひとになってしまったのだなあ、と以外にも冷静に現状を把握しているじぶんの無意識に気づき、胸の奥が鉛を帯びたように重たくなる。

「死にたい」

 じぶんの声が頭蓋骨にひびき、つぶやいていたことに気づく。

 そうだ。おいらはあのとき死んでおくべきだった。槻茂さんたちのように、宙に吊るされ、首を刎ねられ、いっしょに殺されておくべきだったのだ。

   ><

 やけにしずかだな、と思う。

 部屋を見渡してみる。病室のようだが、病院ではないと判らせるのにじゅうぶんな異様さが漂って感じられる。

 見知らぬ場所だが、おそろしくはない。

 かなしくもない。

 あの一方的な殺戮の光景が夢でなかった事実を認めてもおいらはちっとも、かなしくはなかった。

 しずかなのは部屋のせいではなく、きっとおいらそのものが、シンとしずまりかえっているせいだ。

 からっぽのこころには何も響かない。まるでじぶんがじぶんでないみたいだ。

 立ちあがるべくベッドから足を投げだしたところで、扉が開け放たれる。スーツ姿の男たちが現れた。三人いる。

 一人は入り口を護るように立ち止まり、もう一人はこちらの枕もとに立ち、そして最後のひとりが、面と向かい合うようにおいらのまえに椅子を置き、腰掛けた。

「アシス・タントだな」

 挨拶もなしに男が問いかけてくる。おいらは黙ってあごを引く。

「かんたんな確認だけさせてほしい。あの場に現れた者のすがたを見たか」

 頷く。

「一人だったか」

 イエス。

「そいつは女だったな」

 これもイエスだ。

「なぜおまえだけが生き残れたのか、その理由に心当たりは?」

 おいらは首をかしげ、眉間にしわを寄せて考える。

 そうだ。なぜおいらは殺されなかったのだろう。

「承知した。詳しい聴取はまた機会を改めてさせてもらう。それまでにはしゃべれるようにしておけ。いいな」

「ま――」

 おいらは声をふりしぼる。「ま、って……くだ、さい」

 おいらはしゃべれます。ちからに、なれます。

「今はまだしゃべるな。統合のとれない情報は混乱を招く。次回、ワタシらが来るまでに記憶のほうを整理しておけ」

 おかしなことを言う。時間が経過すればするだけ記憶というものは歪んでいく。人間というのは、常に現実を歪め、記憶を都合のいいように編集する生き物だ。

 だからきっと。おいらは見抜く。このひとたちはもう二度とおいらを訪れてくることはないのだろう。重要な事項を確認しにきただけで、それ以上の情報をこちらから仕入れようなどとは思っていない。

 おいらに期待などしていない。

   ><

 気づくと男たちの姿はなく、おいらは放心したように足元を見つめていた。

 ――おまえの首は刎ねてやらん。

 彼女の声がよみがえる。まるでずいぶんむかしから知っているような、懐かしみを覚えてしまいそうなほどに鮮明な声だ。彼女はおいらの目のまえで、百人単位の人間を殺し、そしておいらの上司である槻茂さんまでをもその手にかけた。

 ――苦しみあがいて、寿命で死ね。

 これが、彼女がおいらに残した言葉だ。

「仲間の死を背負いながら……ね」

 ざんねんながら、おいらには背負いきれない。そんなものは重たすぎるのだ。

 人の命は尊いが重くはない、と言ったのは誰だったか。おいらはその言葉に反論しよう。人の命は尊くはないが、押しつぶされてしまいそうなほどに重い。

 とてつもなく重いのだ。

 背負えと言われたところでおいらには、こんな重荷を背負って生きていくことなどできそうもない。だからおいらは、返そうと思った。おいらの身体を今にも圧し潰してしまいそうなこのとてつもない重荷を、おいらに与えた彼女に、そっくりそのまま返そうと思った。

 この感情は、憎しみではない。そんなものは端からおいらの内側には存在しない。おいらの中にはなにもない。からっぽの、がらんどうこそが、おいらなのだ。だからこんなにも背中のコレが重いのだ。

「殺さなきゃ」

 彼女をではない。仲間の死を背負えとおいらにこの重荷を強いた彼女には、同様に同等の重荷を背負ってもらわなければならない。仲間の死を与え返さなければならない。

「返さなきゃ」

 ベッドから下りると、床が軋んだ。まるでおいらの重荷が物理的な質量を伴っているみたいに、ギィギィと歩くたびに音まで軋む。

 扉に鍵は掛かっていなかった。いや、掛かっていたかもしれない。いずれにせよ、おいらの掴んだドアノブは、紙コップみたいに造作もなくひしゃげ、扉もすこし押しただけで粘土のように変形した。

「へんなの」

 世界が歪んでいる。

 空間が歪んでいる。

 でもほんとうにいちばん歪んでいるのは、いまにも圧し潰されそうなおいらなのに。

 身体から立ち昇るモヤのような闇を掻き分け、おいらはただ、導かれるように歩を進める。すべてを逃がすことのないブラックホールみたいに、おいらにはもう、なにも見えない。




  

   〈estinto〉毒親寺ユヅ〈estinto〉

 視界が塞がれ、まえが見えない。

 ユっくんたすけて、とレナさんに呼びだされ、なにごとかとおっとり刀で駆けつけたところ、買い物に付きあわされた揚句、山のような荷物を持たされた。両手に冷蔵庫でも載せているかのような格好だ。

 じぶんの驚異的な平衡感覚に感心する。僕はもしかしたら雑技の才能があるかもしれない。思わぬ発見に顔がほころぶ。

「なにニヤニヤしてるの。ユっくんてばきもちわるいんだけど」

 レナさんに毒づかれる。こちらの顔は荷物で見えないはずなのに。僕はさいきんになって鋭さを増したレナさんの洞察力に戦慄を覚える。

「あ、そうだ。靴も買っておかなきゃ。ほらユっくん、こっち」

 こっちと言われても、どっちですか、と戸惑うほかにない。

 荷物がじゃまでまえが見えないのですが。一言物申したいところだけれど、あいにくと僕は声を発することのできない人間なので、レナさんにこの悶々とした胸中を伝えることができない。こと、こうして両手が塞がっていたのでは、メディア端末で文字を打つこともできない。

「なにやってんの、ユっくん。こっちだってば」

 背後から声が届き、なるほど、引き返すのですね、と方向転換する。

「あ、危ない!」

 レナさんの声に身体がビクンと緊張した矢先に、ひざに何かがぶつかった。僕はつんのめる。その拍子に絶妙な平衡感覚でもって積みあげられていた荷物が崩れ、ボドボドと僕を埋め尽くした。雪崩もかくやという勢いだ。

「イタタタ、タ」

 言ったのは僕ではない。荷物を潰してしまわないように気をつけながら立ちあがると、足元にできた荷物の山が蠢いていた。荷物に埋もれたのは僕だけではないようだと判り、狼狽える。

「だいじょうぶ!?」

 レナさんが駆け寄ってくる。僕もまた、だいじょうぶですか、だいじょうぶですよね、だいじょうぶであってくださいよ、と念じながら荷物の山に手を突っこむ。下敷きにされているひとを引き起こす。

 ことのほかうでにかかる負荷が軽かった。大根でも引っこ抜いているみたいだな、となんとなく不謹慎な想像をしてしまう。

 出てきたのは女の子だ。歳のころは十歳やそこらといったところで、小柄な容姿をしている。まだまだ成長の余地を過分に残したといった感じのする、かわいらしい女児だ。どことなくお雛様を連想してしまうのは、前髪をパッツンと切り揃えられた髪型のせいだけでなくきっと、彼女のホッペがまるく塗りつぶしたみたいに紅潮しているせいでもある。だいだい色のポンチョも、十二単を連想させるのに一役かっている。

 女の子は、コシコシと目元をこすっている。もういっぽうの手で身体の無事を確かめている。

「ったく。なにやってんだ、おまえ」

 レナさんのうしろから、男が一人近寄ってくる。僕は声が出せない代わりに、すみませんでした、と深々と頭を下げた。男の足音がどんどん大きくはっきりと聞こえてくる。うちの娘になにしくさってんだこのヤロウ、とどつかれるじぶんの姿を想像する。歯を食いしばる。

「うちの」と男の渋い声が聞こえ、ああやっぱり僕は殴られるんだ、でもそれも致し方あるまい、とお腹にちからを籠める。が、意に反して、「うちのバカが申しわけない」と親切な言葉が続いた。

 顔をあげると、男が女の子の頭をこづいていた。

「ほらみろ、言わんこっちゃない。うろちょろすんなって言ってるだろ」

「だってぇ」女の子は不服そうだ。

「いえ、こっちがわるいんです」レナさんがしゃがみこみ、女の子と目の高さを揃える。「だいじょうぶ? ケガ、ない?」

「いえ、こいつはケガくらいしたほうがいいんです。でなきゃ、覚えるもんも覚えないんで」

 男は気にするな、と言ってくれているようだ。

 と。

 ここで僕は、男の顔を見て、心臓が跳ねた。見覚えのある顔だ。

「あ!」

 レナさんも気づいたようだ。男の顔を見上げ、

「あーっ! あーっ!」

 ゆびを差して、うでをパタパタ上下に振っている。海馬の底をゆびでかき混ぜてなかなか出てこない名前を必死に呼び覚まそうとしているみたいだ。

「あんたは……」男もまたレナさんを見て、驚愕の表情を浮かべた。「あんた、舘尚さんの、妹さん、だよな」

「そうですそうです。兄ちゃんの、妹です。で、ほら」レナさんはまたぞろゆびを指揮棒のように振って、「薬尾さん、ですよね?」

 男の名を口にした。そうだ。この男は薬尾夜神だ。

 七年前、レナさんのお兄さんが亡くなったとき、レナさんはお兄さんの死の真相を探るべく彼のアパートを訪れていた。僕もまたアパートのまえまで付き添っていて、そのときに目にした彼の顔を一方的に憶えている。

「わあ、奇遇ですね。あ、そっか。じゃあこのコは、お嬢さんですか? かわいい」

 レナさんが女の子の頭を撫でようとする。すると女の子は身をよじって、レナさんの手を避けた。さらにそのぱっちりおめめに、明確な敵意の色を浮かべる。

「ああ、すまん。こいつ、頭を触られるのが苦手なんだ」

 それにしては、過剰な反応のように感じる。

 一人だけ会話に加われない僕は、レナさんと薬尾さん、二人の邂逅と、女の子の異様な雰囲気を、まるで冷めた目で劇を観賞する観客のように眺めているほかなかった。

 僕にはやはり七年経過したいまでも、薬尾夜神の心が覗けない。

 なによりも、女の子の心もまた覗けない事実が、僕の胸中をさめざめとざわつかせる。

   〈estinto〉

 レナさんは、七年前のお礼がしたい、と言い張って、薬尾さんたちを喫茶店に誘った。そこは彼女のオジが営んでいる喫茶店で、僕とレナさんのゆきつけの店でもある。

「なんでも注文していいよ。おねえさんがおごったげる」

 レナさんが気前よく言うと、

「いいの!?」

 女の子は目をキラキラさせてメニュー表を開き、そこに顔を突っこんだ。それはまさしく顔を突っこむと形容すべき光景で、さきほどまで敵意を剥きだしにしていた女の子のその豹変ぶりに、胸がほっこりするのを感じた。

「本当にいいのか。こいつ、めちゃくちゃ食うぞ」

「いいですよ。なんだったら、この店にある食材、ぜんぶ食べつくしてもらってもいいですから」

「ぜんぜん良くないからね!」マスターが飲み物を運んでくる。

 僕とレナさんには紅茶で、薬尾さんには珈琲、そして女の子にはオレンジジュースを、それぞれのまえに置いてくれた。

「まだ注文してないんだが」薬尾さんが遠慮がちにマスターを見遣る。

「いえいえ、これくらいのサービスはさせてください。レナちゃんはぼくの姪っ子でして。たまにこうして無理やりお客さんを連れてきちゃうんですよ。ご迷惑をおかけしてしまったことへの、ほんのお気持ちですから、どうぞ御遠慮なさらずに。ほかにもお口に合いそうなものがありましたら、ぜひ召しあがっていってくださいね。ただ、食材ぜんぶを食べられちゃうってのは、ぼくとしても困っちゃいますけど」

「お気遣い、ありがとうございます」薬尾さんはやわらかく述べた。

「じゃあ、あたい、これがいい!」女の子がさっそくケーキを注文した。まさかのホール丸ごと一個だ。誕生日用のそれはケーキで、本来は複数人で分けて食すものなのだけれど、彼女は運ばれてきたそれを、一人でぺろりと平らげた。「うんまーい! これ、すごくおいしい!」

「よろこんでもらえたなら、よかった」レナさんが和んだように破顔する。

 おどろくべきことに女の子はまだ物足りなさそうな顔をしており、メニュー表を開いては真剣な表情でにらめっこをしている。それはまさしくにらめっこと形容すべき光景で、僕は彼女のその夢中な様子にふたたび胸がほっこりする。

「これもおいしいよ」レナさんはチーズケーキを勧めた。「食べてみる?」

「うん!」

 店へ入るまでに張り巡らされていた女の子の警戒はどこへやら、ふたりはすっかり打ち解けている様子だ。

 チーズケーキはまたホールごと運ばれてきた。それをマスターは、僕たちの分も切り分けてくれた。四分の三ほど余ったケーキは、またぞろ驚異的なスピードで女の子の胃袋へと納まっていく。

 本来なら気を緩めるべきではないこの異常な状況にありながら僕は、見ていて清々しいほどの女の子の食べっぷりに、すっかり惚れ惚れ見入ってしまった。

   〈estinto〉

 フォークでケーキを掬って、口元へと運ぶ。咀嚼し、嚥下するあいだに、フォークはまたケーキを載せて口元へと戻ってくる。女の子は一連の動作を機械的に、一定の律動で繰りかえす。やがてラストスパートをかけたころ、レナさんもチーズケーキを食べ終えた。

 それを見計らったように、

「なにか話したいことがあったんじゃないのか」薬尾さんが口火を切った。「訊きたいことがあるなら何でも訊いてくれ。ただし、答えられるかどうかの保証はしないが」

 僕はレナさんの顔を窺う。言い渋るような表情でレナさんは唇を舐め、それから、「実は」と口にした。

「実は、前に戴いた『護符』のことなんですけど。あれ、もしよかったら、十枚ほどまた譲っていただけませんか。もちろん、タダでと言うつもりはありません。必要な費用は、もちろんお支払いします」

 らしくもないレナさんの慇懃な口調に僕は頭がまっしろになる。なぜそんなことを薬尾さんに要求するのか、その理由がまったく皆目見当もつかなかった。

 これだけ四六時中いっしょにいる僕にも内緒にしている事情がレナさんにもあったという事実が、僕の思考速度を著しく鈍化させる。

「金は不要だ。ただし、理由による。なぜあれが必要なんだ。問題があるというなら、まずはそれを教えてくれないか」

 そうだとも。なにかに困っていたというのなら、まずは僕に相談してくれてもよかったのに。僕は薬尾さんに嫉妬しつつ、レナさんに非難の目を向ける。

「問題、というほどでもないんですけど。実は、友人の様子がさいきんおかしくて」レナさんは沈んだ声で、さも深刻そうに、伏し目がちに語った。

 レナさんの話によれば、レナさんの友人が、ある日突然、性格の変わってしまったかのごとく、奇怪な言動をとるようになったのだという。友人のその異常な変貌具合は、七年前に亡くなったお兄さんの様子と共通点があるようにレナさんは感じた。むろん気のせいである可能性も高い。けれど手遅れになってからでは遅い。もしかしたら、七年前のように「護符」を持つだけで解決するかもしれない、と期待したが、手元にはすでにあの「護符」はなかった。

 どうしたものか、と頭を悩ませていたところに、今日、薬尾さんを見掛けた。

 と、こういう顛末であるらしい。

「なるほど」

 薬尾さんは首肯を示したが、僕は納得しかねるに余念がない。

 第一に、手元にないと言った「護符」の件だけれど、それはまだレナさんの手元に残っているはずだ。仮に僕の預かり知らぬところでレナさんが失くしてしまっていたとしても、七年前にレナさんは僕やマスターにも強引に「護符」を持たせ、それを僕たちは未だに所持している。貸して、と言われればいつだって差しだせる状態にあるのだ。

 第一を踏まえての第二となるが、レナさんが真実に「護符」を必要としていたならば、まず必要と感じた時点で、僕かマスターに、「前にあげた護符あるでしょ。あれ、やっぱり返して」と、七年越しの返却を迫るはずである。

 そして最後にこれがもっとも腑に落ちない点であるのだけれど、僕の知るかぎりにおいて、レナさんには、話にでてきたような精神異常を匂わせる友人はいない。というよりも、レナさんにはトモダチがいない。四六時中僕といっしょにいるレナさんが、僕以外のひとと交友関係を築けるわけがないのだ。同様の理由で、僕にもトモダチがいないわけなのだけれど、それは今、この話とは関係がないので触れずにおく。

「今すぐに欲しいってわけじゃないんですけど、できれば、はやいほうがいいなあと」

 レナさんに催促され、薬尾さんは考えこんだ。女の子はすでにチーズケーキを平らげており、フォークを舐めながら、ふたたびメニュー表に頭を突っこんでいる。

 ふと、女の子の頭に目が止まる。

 ツノのようなものが見えている。

 よくよく目を凝らそうとしたところで、薬尾さんの手が女の子の頭を鷲掴みにした。

「もういいだろ。食いすぎだ」

 言いつけるように言うと彼は女の子から視線を外し、レナさんに向きなおる。手は女の子の頭に置かれたままだ。撫でるように揺らしている。「事情は解った。話からすると、おそらく舘尚さんの思い過ごしだろう。奇怪な言動、ということは、その友人は視えてはならないものを視ている可能性が高いが、そういった場合は往々にして、当事者は他人に奇異な目で見られないようにと、細心の注意を払う。こと、成人したおとななら尚更だ。だが、舘尚さんの話では、そういった傾向がみられない。むしろだから、精神疾患のほうを疑ってかかるべきだろう。だが、まあ、心配なのも分かる。念のために舘尚さんの言うように、その友人には『護符』を持たせておいたほうがいい。七年前と同じタイプのもので充分だろうと思う。ストラップとかお守りだとか、何か身につけてもらえそうな物に入れて渡すといい」

 さきほどから薬尾さんは僕に顔を向けない。わざとそうしているのだと判る。

 レナさんが礼を述べると、薬尾さんは、ただ、と断りを入れた。

「ただ、あいにくと俺のほうも手持ちがなくてな。だから、なんだ。受け渡しは後日ということになるが、それでもいいか」

「それは、はい。もちろんです。ありがとうございます」

「礼はいい」

 ふてぶてしい言い方の薬尾さんではあるが、レナさんへ恐縮している様子は、言葉の端々から窺えた。レナさんのお兄さんの死について、今でも責任のようなものを感じているのかもしれない。薬尾さんがどの程度お兄さんの死に関わっていたのかは、僕もレナさんも知らないままなのだけれど。

   〈estinto〉

 帰宅ラッシュの時間帯を越えていたからか、喫茶店を出るころには人通りも落ち着いていた。薬尾さんとは会計のときにひと悶着あったけれど、レナさんがもちまえの頑固さを発揮して一歩も譲らず、横車を押しとおしたかたちで決着した。ここを奢る代わりに「護符」をタダにしろ、タダでなくとも奢らせろ、といった強引な交渉が展開されたわけだが、実際にはレナさんが財布をだすことはなく、喫茶店での飲食代はすべてマスターの負担となった。まいどのことで申しわけなく思いつつも、僕がこれまで財布の紐をゆるめたことはない。

「二、三日あれば用意できるだろう。『護符』が手に入りしだい、連絡する」薬尾さんは背中に隠すように女の子を立たせている。

「はい、かまいません。それでおねがいします」

 腰を折ったレナさんに倣って僕も頭を下げる。上体を起こしてレナさんは、で、と言った。

「で、その、連絡先は?」

 連絡先を交換していないのでは、連絡のしようもない。

「ああ、そうだったな」薬尾さんは、女の子の背を押し、「ほら。出番だぞ」となにごとかを促した。すると女の子は、はっとした様子で、メディア端末を取りだした。最新のフィルム型端末だった。運動会でもらったばかりのメダルを親に預けるような手つきで見せてくれる。

「すまん。さっき購入したばかりでな。使い方がよく分からん」

「あ、じゃあちょっといいですか」

 レナさんは女の子からメディア端末を受け取り、操作した。自分の番号を登録したうえで彼女は、連絡をとるのに便利なツールをダウンロードしてあげたり、使い方を丁寧に説明してあげたりする。薬尾さんのほうはチンプンカンプンの様子だったけれど、女の子のほうは呑みこみがはやく、降った雨が即座に染みこむ水はけのよい土壌のように、レナさんの教えを迅速に吸収した。

 練習がてらレナさんは自分の端末に電話をかけさせる。女の子は軽々と使いこなしてみせた。

「なにからなにまですまないな」

「いいえ。こちらこそ」レナさんは女の子に手を振って、「じゃあ、またね」と言った。それから思いだしたように、「そういえばお名前、訊いてなかったよね」と付け加える。「おねぇちゃん、レナイって言うの。呼びにくいから、レナでいいよ。お嬢ちゃんは?」

 困ったように言い渋る女の子の代わりに薬尾さんが応じた。「ニオ子ってんだ」

 ニオ子。

 逆から読むと、小鬼。

 なるほど言い得て妙な名だ。真実に鬼であるとは思わないけれど、それに準ずる能力を有しているのだろう。僕が心を覗けない、ということはそういうことになる。ニオ子ちゃんもまた能力者だ。

「すてきなお名前ね」レナさんが褒めるとニオ子ちゃんは、まんざらでもない様子ではにかんだ。「薬尾ニオ子ちゃん。うん、語呂もいい」

「いや、こいつは娘じゃないんだ」

「え、そうなんですか!?」

「まあ、でも、娘のようなもんか」

 薬尾さんが頭に手を置くも、ニオ子ちゃんはなにが気に障ったのか、思いきり振り払った。「あたいは、ヨガミの娘じゃない!」

 おまえはあたいのおっとーじゃないやい、と拗ねてしまう。

「あはは。そうだよねえ。だって薬尾ニオ子ちゃんじゃ、ちょっと語呂がわるいもんね。それに、どっちかって言ったら、恋人っぽいもんねえ。薬尾さんと、ニオ子ちゃん」

 レナさんがからかうと、ニオ子ちゃんはただでさえ赤い頬をさらに赤く染め、

「そんなんじゃないやい」

 そっぽを向いた。

 解りやすい子だなあ、と僕は懐かしい気持ちになる。まるでむかしのレナさんを見ているようだ。

   〈estinto〉

 帰る方向がいっしょだった。僕たちは商店街を闊歩した。ニオ子ちゃんに無視をされた薬尾さんは僕と並んで歩き、男ふたりで、前方を歩くレナさんとニオ子ちゃんの姉妹のような背中を眺める。

「きみもこちら側の人間か」あそこに咲いているのはアジサイか、と確認するような何気ない口ぶりで薬尾さんが話しかけてきた。「前にいちど会ってるよな、コンビニで。いや、ちがっていたらすまない。ただ、どことなくきみからは俺たちに似た匂いを感じてな」

 僕は、意味がわかりません、という顔をしてみせる。

「まあいい」追及はされなかった。まえを向いたまま薬尾さんは淡々と述べる。「いずれにせよ俺たちに干渉しようという気がきみにないのはよく判った。きみからすればむしろ俺は邪魔者にちかい。そうじゃないか? 関わりたくない、というよりも関わらせたくない、といったところが本音のはずだ。その点に関しては安心してほしい。俺はもう二度ときみたちのまえに現れるつもりはない。『護符』も、郵送で送るつもりだ」

 だから連絡先を訊かずに立ち去ろうとしたのか。おそまきながら薬尾さんの配慮に気づく。喫茶店宛てに送れば、マスターがレナさんに渡してくれるはずだ。

「俺がこんなことを言うのもおこがましい話だが、舘尚さんをこれからもよろしく頼む。たぶん、きみは――いや、これは野暮だな」

 こういうとき、しゃべれない、というのは便利だ。相手がかってにしゃべってくれるし、黙っていても不自然にならない。薬尾さんには僕がしゃべれない人間であることを説明していなかったけれど、この様子からすればおそらく察してくれているのだろう。

 薬尾さんはそれっきり口をつぐんだ。僕と同様に口元をほころばせて、レナさんとニオ子ちゃんの楽しげなうしろ姿を眺めている。

 駅前までいっしょに歩き、薬尾さんたちとはそこで別れた。

   〈estinto〉

 薬尾さんたちに見送られ、改札口をとおる。人込みに流されるように通路の奥へと歩を進める。振り返ってみると、薬尾さんたちの姿はもうなかった。

 僕らが入ってきたのは南口の改札口で、レナさんはそのまま通路を突き進み、なぜだかプラットホームには降りずに、反対側の北口まで来てしまった。彼女はためらうことなく改札口を抜ける。電車には乗らず、駅をただ縦断したかたちになる。

 戸惑いながらも、僕もあとを追って改札口をくぐる。いそいでレナさんのとなりに付く。顔を覗きこみ、どうしたんですか、と事情を訊ねる。

「ユっくんはさ、脛木さんのこと、どこまで知ってるの」

 脈絡のない問いかけには慣れっこであるとはいえ、質問の意図が推し量れずに僕は応答に窮する。どういう意味ですか、ともういちど顔を覗きこむことでレナさんの反応を窺う。

「憶えてる? 脛木さんがちょくちょくいなくなるようになったのって、兄ちゃんが死んだころなんだよね。で、あれ以来、私、脛木さんのことが心配で、実はこっそり調べてたんだ。脛木さんのことをだよ。もしかして、厄介なことに巻きこまれてるんじゃないか、とか考えちゃって。ユっくんはだいじょうぶだって言ってるけど、そんなの分からないじゃん。兄ちゃんのこととかもあるし。ね、心配でしょ。だから私、脛木さんのマンションにも調べに入ったりしてて」

 それはもちろん脛木さんの留守のあいだということですよね、と僕は確認したくなったけれど、今は話の腰を折る場面ではないな、と判断し、そうですね、と頷くことで肯定を示す。

 脛木さんという女性は、僕とレナさんの共通の友人で、僕にとっては恩人でもある。

 僕がレナさんと出会えたのも彼女のおかげだ。

 僕にとって脛木さんは家族のようなものだし、同時に、尊敬しているひとでもある。脛木さんのためなら僕はどんなことだってしてみせるし、逆にどんな事態になっても彼女に頼りさえすれば解決するだろうという確信じみた信頼を寄せてもいる。

 それはレナさんにとっても同じなようで、だから彼女にとって脛木さんは良きお姉さんであると共に、目標とする憧れの女性でもあるのだろう。

 脛木さんの放浪癖は、僕たちにしてみれば不安の種でしかない。脛木さんの身の心配というよりもむしろ、彼女のいないあいだじぶんたちがちゃんとやっていけるだろうか、といった不安のほうが大きい。まるで後ろ盾を失くしたスパイのように、脛木さんの不在は、僕たちを心細くさせる。

 だから僕は、脛木さんのマンションに侵入したというレナさんの告白にはべつだん驚かなかった。僕にも黙ってそんなことをしていたのか、という戸惑いはあったにせよ、レナさんならそれくらいのことをしてもおかしくはない、という腑に落ちた感のほうがつよかった。

 僕だって脛木さんがどこで何をしているのかをすべて教えられているわけではないし、実際のところ脛木さんは僕にも多くのことを内緒にしている。それは、脛木さんが僕たちを置いていくだけでなく、目的地も告げずに旅立ってしまうことを引き合いにだすまでもなく、僕とレナさんは毎度のように脛木さんの不明瞭な人物像にさびしさを覚えている。

 僕たちは脛木鯉沙という人物について、なにも知らない。あまりに知らなすぎるのだ。

「脛木さんの部屋にもね、同じものがあったの」

 言ってレナさんは懐から、「護符」を取りだした。それはまさしく、さきほど喫茶店で薬尾さんに、「手元にないから譲ってください」と要求した代物そのものだった。

 やっぱり持ってたんじゃないですか、と非難の目を向ける。どうしてあんな嘘を吐いたのか、と目を細めることで重ねて責める。

 おそらくは、友人がおかしい、という話も口からでまかせなのだろう。

 レナさんは僕の心中を汲んだかのように、

「うん。薬尾さんに話して聞かせたアレ、ぜんぶウソだよ」

 もちろん私の作り話、と白状した。「あんなトモダチ、私にいない。むしろ私にトモダチなんて、ユっくんしかいないし」

 レナさんはちゃめっ気たっぷりに右の頬に笑窪をあけた。

 うれしいことを言ってくれるが、そんなおためごかしに動じる僕ではありませんよ。ねめつけてみせるものの、しきりに緩みたがる頬に僕は抗えなかった。

「怒らないで聞いて。私、脛木さんの部屋で、コレと同じものを見つけたの。もちろん、私があげたものじゃない。脛木さんがコレを持っているってことは、脛木さんがコレを手に入れることのできる人物だってことでしょ? 言ってる意味、解るよね?」

 僕は頷く。レナさんはこう言いたいのだ。脛木さんは、薬尾さんと同じような怪しげな人物であると。そしてその予想が当たっていることを僕は知っている。

「ユっくんに訊いても、どうせ教えてくれないし、だったら私、自分で調べようと思った。だってホントはユっくん、脛木さんが何者か知ってるんでしょ?」

 僕は反応を返せない。知らない、と白を切ることはできるけれど、きっとレナさんは納得してくれない。僕はもう、彼女に嘘を吐きとおすことができない。たとえがんばって嘘を吐いたとしても、レナさんには通用しない。喝破されてしまう。いや、もうすでに彼女は、ずいぶん前から見抜いているのだ。

「祓い屋、って何だろうねユっくん。七年前、薬尾さん、祓い屋からコレをもらったって言ってた。たぶん、いっしょにいた女の人がそれだったんだよ。で、今回も薬尾さんはその女の人からコレをもらうつもりなんだ」

 レナさんは「護符」を握りしめ、話しながらも足早に歩きつづける。人込みが多く、追いかけるのもひと苦労だ。やがて南口が見えてくる。駅をぐるっと回ってきたかたちになる。

「どっちに行ったと思う?」

 レナさんが薬尾さんを追いかけようとしている意図は理解しているつもりだ。ただ、どっちと言われても僕には判らない。

「ううんそんなことない。ユっくんなら分かるでしょ。みんなの記憶を読んでみて。だいじょうぶ。ユっくんならできるよ」

 通行人の記憶を探り、薬尾さんの足跡を辿れという意味だと判るのに、しばらくかかった。無責任なことを言うものだ。

 そんなのはムリだ、と訴えようとしたけれど、レナさんの意固持な目に見つめられ、僕は潔く屈した。

 わかりました、と言う代わりに、目を瞑り、意識を研ぎ澄ます。

 僕の能力は読心術。これが能力であり、術である以上は、僕が意識しなければ発動されない。逆に言えば、僕の意識の度合いによって、読心できる範囲や、読み解ける心の深度が上下するということでもある。

 僕の限度は、同時に読めても三十人が良いところだ。それも、人数が増えるにつれ、読める心の深度も浅くなる。その時その人が考えていることを読むのは割とかんたんで、記憶を読むとなるとかなりの集中力を要する。そして今回、レナさんが僕に要望しているのは、もっともむつかしい類の読心だった。

 この場にいる大勢の記憶を読む。

 前後五分程度、という縛りつきで。

 でも、僕にはできる気がした。根拠なんてものはない。ただ、レナさんができると言ってくれたその事実だけで、僕には充分だった。




   STP舘尚レナイPTS

 ユっくんがゆびを差した方向は、奇しくも私がそうじゃないかな、と思っていた方向と合致していた。

 薬尾夜神はそちらの道を進んだに相違ない。

「ユっくん、道案内、おねがい」彼の手を掴み、引っ張りながら私は薬尾夜神を追った。

 ユっくんは黙ってついてきてくれる。いつだってそうだ。彼は私のそばにいてくれる。

   STP

 脛木鯉沙という女性について興味が芽生えたのは、たぶん、ユっくんと仲良くなるもっと前からだったと記憶している。彼女たちと出会った当初――オジに付いていったあの公園で、脛木さんとヒジを絡ませ合ったあの瞬間から私は彼女に惹かれていた。むしろ脛木鯉沙という女性にちかづきたくて私はユっくんと親しくなろうとしていたくらいだ。そうだとも。私は当初、ユっくんを懐柔し、彼をダシにして脛木さんとの交流を深めようと企んでいた。

 それがどこでどうまちがったのか、いつの間にか手段と目的が逆転し、いまではすっかり私はユっくんと運命共同体の関係を築きあげてしまっている。

 私たちは共にあるがゆえに孤立し、孤立するがゆえに離れられない、延々と燃えつづける火と油のような存在だ。社会に馴染むにはまず互いに距離を置かなければならないのに、それを深く理解していながらに私たちは共に互いの手を離せずにいる。

 依存と呼べばそれにちかいし、共存と呼んでも差し支えない。

 いずれにせよ、私にとって毒親寺ユヅという青年は、友人でも恋人でもない、きょうだいと呼べばちかいような気もするけどそれもちがう、強いて言うなれば分身のような存在だ。

 ドッペルゲンガーに出遭った者はあまねく不幸に至る、と聞き及ぶ。

 だが、鏡に映ったじぶんを見て不幸になった、という話は寡聞にして聞いたことがない。であれば私にとってユっくんは、分身にもならない鏡の向こうの私なのだろう。

 そんな想像を巡らせるのは、おそらく彼が私にとって、とても都合のよい存在だからだ。

 口ごたえせず、常に柔順であり、なによりもすぐそばにいてくれる。鏡よりもあたたかく、そして私よりも私のことを把握してくれている。

 私にとって彼は、脛木鯉沙という憧憬に値する人物よりも今ではすっかり手放せない存在となっている。

 手の届かない憧れよりも、手に入れてしまった拠り所のほうが、人は重宝するものだ。

 私も私で、じぶんのことを把握している。じぶんのこのどうしようもない卑劣さを受け容れてしまっている。

 なぜなら彼もまたこんな醜い私ごと受け容れてくれているのだから、変わろうと思うほうがまちがっている。

 私はそう、縋りついているだけなのだ。

 毒親寺ユヅというやさしい青年に。

 そして、脛木鯉沙という憧れの女性に。

 ただ、それでも、彼女たちを失いたくないと願うこの想いだけは、歪んでもひねくれてもいない、まっとうな真心なのだと信じている。

 兄ちゃんが亡くなって以来、私はひどく脆くなった。涙もろくなり、情にもろくなった。

 どんな境遇の相手だろうと、どんなに冷酷な悪人だろうと、私が接点を持った相手であるならば、私はその人にいなくなってほしくない。幸不幸を語れるほど私は卓見ではないし聡明でもないから、相手のしあわせを願うだけでけっして行動には起こせないけど、それでももしその相手が明確に危険に晒されていたのなら、私はどんなことがあっても助けになってあげたいと望んでいる。

 足手まといになるだけかもしれない。邪魔になるだけかもしれない。

 余計なおせっかいと拒まれようが、それでも私はじっとなんてしていられない。

 相手のことなんてどうだっていい。

 どう思われたって知ったこっちゃない。

 私はもう、兄ちゃんのときのような惨めな思いをしたくないのだ。

 だから私は、脛木さんを探しだして、ちゃんと面と向かって言ってやりたい。

「いなくなるのはかってだけど、心配させないで。言えないことがあるのなら、言えないことがあるって、ちゃんとそう言って。あなたには私たちを安心させる義務があるんだから」

 もちろんそんな義務など彼女にはない。でも、こうでも言わないとあのひとはきっと私たちに何も相談してくれない。一人でぜんぶ背負いこんで、それでまた一人で姿を消してしまう。彼女もまたユヅくんと同じくやさしいひとだから。

 先刻、薬尾さんと再会したとき、私は刹那にかなしい気持ちが蘇った。焦りにも似たその悲愴さは、七年前に兄ちゃんの遺体を荼毘に付したときに抱いた感応と類似している。

 この機を逃したらもう二度と彼女に思いのたけをぶつけることができなくなりそうな予感がした。

 手遅れになってからでは遅いのだ。行動に起こすなら今しかないと直感的に判断し、そして私は今、ユっくんの手を借り、薬尾夜神を追いかけている。彼を辿ればきっと脛木さんに繋がるはずだ。

 根拠はない。あるのは、言い知れぬ不安と、無視できない予感だけである。

 成人してからというもの私の勘は外れたことがない。焦燥感は募るばかりだ。

   STP

 薬尾さんたちは徒歩で移動していた。乗り物に乗られていたら厄介だな、と危惧していたのでこれはさいわいだ。

 ユっくんが私の手を引き、呼び止める。どうしたの、と訊くと、彼は身ぶり手ぶりで、「歩く速度を落とすように」と忠告してくれる。この距離だと薬尾さんに気取られかねない、と言いたいようだ。その手ぶりが一般的に手話と呼ばれているものなのかは知らないけど、私はいつだって彼の言わんとすることがなんとなしに分かる。

 ユっくんはやっぱり知っているのだ。薬尾夜神というあの男が、ただ者ではないことを。そしてユっくんはきっと「祓い屋」についても知っている。私はずっと気づいていないフリをしてきたが、ユっくんは「護符」について知っている様子だった。知っていることを彼は私に黙っている。

 こういうことは度々あった。彼は私に嘘を吐く。たいていそれは私の身を慮ってくれての嘘だと判るから、私は内心で憤りを感じながらも、その不満を直截にぶつける真似はしなかった。

 脛木さんが謎の多い女性であったのと同じだけ、ユっくんもまた謎の多い少年だった。ただ、知り合った当時はまだ私はユっくんにさほどの興味を抱いていなかった。彼が少年から青年へと変貌を遂げたころにはもう、謎の多い少年は毒親寺ユヅという青年として私の裡にみごとに定着していた。謎の多いというその要素そのものが彼のアイデンティティ足り得ていた。彼の過去を暴こうとは思わなかった。現在の彼を理解していればそれで充分だったからだし、現在の彼を理解できているのは私と脛木さんの二人だけだという自負が心地よかったからでもある。

 でも、そろそろ、見て見ぬふりはできなくなってきた。

 ユっくんの過去は、すなわち脛木さんの過去でもある。

 私の知らない脛木さんをユっくんは知っている。彼女たちは私の知らないところで何をし、何を共有してきたのか。

 きっと訊いてみたところでユっくんは答えてくれない。でも、彼も彼で、限界を感じてきているはずだ。

 これまでは黙っていることで私を危険から遠ざけることができた。だがいまはもう、知らないことのほうが危険になりつつある。

 突き放すにしても、私たちは多くの時間を共有しすぎた。今さら手放せるはずもない。手放せばそれこそ半身をもがれるような辛苦が今生延々と付き纏うだろうことが確定的である、と私たちは如実に想像できてしまう。

   STP

 薬尾さんがニオ子ちゃんを連れて、とある雑貨ビルへと入っていった。どの階の窓にもテナント募集中の文字が張られており、ほぼ無人のビルと言ってもよさそうな景観だ。間もなく、三階の部屋の窓に明かりが灯る。

「入るのはまずいよね」

 ユっくんに意見を仰ぐと、彼は二回うなずいた。大いにそのとおりです、の仕草だ。

「考えたんだけど」私は考えながら話す。「薬尾さんの家がここってことはないと思うんだよね。入るときにニオ子ちゃんが、『ここに入るの!?』みたいな感じで渋ってたから」

 そうですね、とユっくんも同意してくれる。

「てことはだよ。薬尾さんはあのビルに、なんらかの用があるってことで、つまりこれは私たちからすれば要調査対象ってことになると思うんだけど、ここまではいいでしょ?」

 まあ、そうですね、と肯定をいただく。

「でだよ。その用というのが、私のお願いした『護符』に関係あるかは現状分からないわけで、ここで薬尾さんの出てきたあとに、薬尾さんの追跡を断念してビル探索に移行するっていうのは、ちょっと理に適ってないと思うわけ」

 尾行をやめてビルを調査したとしても、何も掴めない可能性だってある。ビルの調査の是非に拘わらず、薬尾さんの尾行は続行すべきだ。

 ユっくんはここでちょっと考えこみ、そして私の言いたいことを先回りして読んだのか眉をひそめ、それは賛同し兼ねます、という顔をした。

「おねがいユっくん。私、このビル調べるから、薬尾さんの尾行して」

 二手に分かれて仕事を分担しよう、という提案を持ちかけるものの、ユっくんはなかなか首を縦に振らない。

「これだけ頼んでるのに、どうして!」さすがにちょっと頭にきた。「ユっくんはさ、いっつもそうだよね。なんか都合わるいことあるとすぐそうやって駄々を捏ねてさ。いっつも私が折れるのを待ってるだけ。きょうくらい聞いてくれたっていいでしょ。ユっくんは、脛木さんがどうなってもいいって言うの? それともユっくんは脛木さんがだいじょうぶだって確信があるの? だったら教えて。教えられないならそれでもいいから、だいじょうぶだって、私の目を見てきちんと言って。それができないんだったら、私のやること手伝ってよ。脛木さんを捜しだして、面と向かって話を聞くの。私はただ、むかしみたいにユっくんと脛木さんと三人で――そこにオジさんもまぜてあげてもいいけど――また、ふざけた毎日を過ごしたいの。ほのぼののほほんって、ぬくぬくしたいの。ただそれだけなのに、どうしてユっくんは手伝ってくれないの」

 ユっくんはこころのそこから哀しそうな顔を浮かべた。それを目にして私はますます胸がくるしくなる。

「そんな顔しないでよ。ずるいよ」

 私ばっかり、ばかみたい。

 ユっくんが目を逸らした。気まずいからではなく、彼の視線のさきにはビルから出てきた薬尾さんとニオ子ちゃんの姿があった。様子がすこし変だ。薬尾さんがピリピリしている。険しいと言えばまさにそれで、ただならぬ警戒心が、薬尾さんの、ニオ子ちゃんを庇護するように抱きかかえている様子から窺えた。

 私たちの尾行が気取られたわけではないようだ。彼らは駅前のほうへと踵を返すように移動していく。そちらは来るときとはちがう道で、雑踏渦巻く表通りにつづいている。人込みにまじって移動したい、という心理からの行動だろうと推測できる。

「ユっくん」

 私は見詰めることで彼に意思を伝える。これで伝わらなければ何を言っても無駄だ。

 ユっくんは、聞こえるか聞こえないかくらいの弱々しさで鼻から息を漏らし、不承不承といった感じでメディア端末を取りだした。

 ――二十分ごとに連絡をください。メールがいいです。

「ありがとう」

 私はユっくんに抱きつく。「そういうユっくんの、私に甘いところ、すごく好き」

 あやうく口づけをしそうになって、寸前で思いとどまる。一線を越えてはいけない。越えたら最後、きっとユっくんは私のまえから姿を消す。いつのころからか、彼のことを見下ろすのではなく見上げるようになってから、私はそんな予感を覚えるようになった。脅迫観念のように、それは私の胸の奥にしこりのように固くわだかまったまま、どこにも吸収されることなく残留しつづけている。

 ユっくんの姿が表通りにつづく道に消えたのを見届けてから私は、

「さてと、いっちょ行きますか」

 薬尾さんの出入りしたビルへと、足を踏み入れた。

   STP

 薬尾さんがどの階のどの部屋へと上がったのかは判っていた。そとから部屋の明かりが点くのが見えたからだ。エレベータも三階に止まったままだったし、一階の上昇ボタンにニオ子ちゃんと思しきちいさな指紋もうっすら残っている。

 なんとなくエレベータは使わずに階段で三階までのぼる。エレベータの昇降口のすぐ脇にでる。この階には二つのテナントがあり、一つは空家で、残りは「霊能探偵事務局」なるいかにもあやしい事務所だった。位置的に明かりはこの部屋から漏れていた。

「すみませーん」

 無人であることを願いながら事務所の扉を開ける。顔だけを差しいれて覗きこむ。

 ひと気はない。室内を塗りつぶすような煙草の臭いに、思わず顔をしかめる。煙が立ちこめているわけではない。たんじゅんに臭いが部屋に染みこんでいるのだ。この部屋の主が度の越えた喫煙家である様子が窺える。

 部屋には鍵がかかっていなかった。初めから施錠されていなかったのか、それとも薬尾さんが解錠したのかは判然としない。

 ただ、この部屋の主が数日のあいだ帰宅していないことは、扉のしたに重なるように落ちている新聞の山を見れば判断ついた。旅行にでも出かけているのかもしれない。

 デスクを漁る。

 散らかった卓上には触れずに、引き出しを探った。名刺入れを見つける。中身はすべて同じ名だ。この部屋の主のものっぽい。

「槻茂雄敏、か」

 霊能探偵事務局、とも書かれている。そういえば表の看板にもそのようにあった。考えてもみれば、ふつうではない。こんなふざけた社名で仕事を依頼しに訪れる者がいるのだろうか。

 三段目の引き出しを探ると、給料袋を見つけた。開けてみると、ひと月をなんとか過ごせそうな金額と、給料明細書が入っていた。いまどき振りこみではなく現金支給というのも珍しい。氏名欄には、「葦須炭兎」とあり、よくよく見てみると、給料日はふた月も前のものだった。どうやらこれは支払われなかった分らしい。とすると、中身がすくないのは、或いは雇い主が使いこんだのやもしれない。

 なんてやつだ、と雇用主であるこの部屋の主に、憤りを抱く。

 と同時に、こんなことをしている場合ではないよ、と冷静なじぶんが注意を喚起する。

 そうでした、そうでした、といちばんしたの引きだしを開けたところで、

「すみません。どなたかいらっしゃいませんか」

 扉のほうから声がした。

 咄嗟にデスクの陰に隠れたけども、掛け声から察するに部屋の主ではない。客だろうか。

 私はさもここの従業員であるかのような顔つきで、ゆっくりと立ちあがる。

「はいはい、いらっしゃいませ。どうされましたか」落としたコンタクトを探していたんですよ、といった体を装い、目を擦りながら近づいていく。

「あの、ここに槻茂さんという方はいらっしゃいますか」

 子ども連れの女性だった。

「槻茂ですか?」名刺の名前を思いだしながら応答する。「槻茂はいま、留守にしておりまして」

「そうですか。では、いつごろお帰りになられるか、判りますか?」 

「さあ」首を大きく捻って、ごまかす。ほんとうに知らないのだから致し方あるまい。

 彼女の背に隠れるようにして、子どもが立っている。女性はそのコの頭に手を添えながら、

「わたしたち、どうしても槻茂さんに伺いたいことがありまして。それでここ数日、お伺いしていたのですが」

 ずっと留守だったので期待していなかったが、来てみると玄関が開いており部屋には私がいた、ということらしい。

「伺いたいこととはどんな要件ですか?」いちおう、それらしい対応をとってみる。

「実は先週、わたしたち槻茂さんとお会いしておりまして、問題が起きた際にはこちらに連絡をするように言っていただいて」

 口調は丁寧だが、槻茂雄敏なるこの部屋の主に、あまり良い印象を抱いてなさそうだ。彼女の固い表情がそれをみごとに物語っている。

「ここを訪れたということは、なにか問題が?」

 槻茂雄敏なる男については、私よりも彼女たちのほうが詳しそうだ。話を聞いてみて損はない、と瞬時に損得勘定を量り、私は目のまえに現れたネギ持参のカモを逃さぬように、

「立ち話もなんですから、どうぞ」

 部屋に招き入れる。彼女たちをソファに座らせる。お茶を淹れるのにてこずってはさすがに不審がられると危惧し、ものは試しと開けてみた冷蔵庫のなかに入っていたペットボトル飲料を、コップに移して運んだ。もはやここで働く助手一号と自称しても誰からも非難されないのではないか。

「ありがとうございます」カップを受けとり言ったのは女性ではなく、子どものほうだった。のどが渇いていたのかさっそくカップに口をつけようとする。が、じゃまなのか、その前に野球帽を取る。目のくりくりした利発そうな少女のかんばせが露われた。少年だと思っていたが、勘違いだったようだ。歳のころはニオ子ちゃんよりもすこし下といったところか。

「もしよろしければ言伝をおねがいしたいのですが」

 女性からの申し入れを引き受け、私がこの部屋の主に代わって話を窺うことにする。

   STP

 話の概要はこうだ。

 少女には〝ナニカ〟が憑いており、少女にはそれが一人の女に視えているらしい。霊能探偵なる職業を自称する槻茂雄敏いわく、少女にとり憑く〝ナニカ〟は「憑き物」というらしく、悪霊や妖怪の類であるそうだ。

 だが、少女にとって憑き物は家族のようなものであり、祓ってやるという槻茂雄敏の申し出を、彼女たちは断った。

 ところがさいきん、その憑き物自身が、祓われたいと言いだしたのだという。さいしょは耳を貸さなかった少女だったが、間もなく憑き物が「要件を呑まなければヒトを殺す」と、たいそう物騒なことを言いだしたので、これはたまらん、と少女は事情を知っている女性に相談した。それがいま私の目のまえにいるイノバさんだった。しかし彼女の手に負えない案件であるために、彼女たちはこの事務所の主、槻茂雄敏を訪れたという顛末であるらしい。

 実にウンコクサイ話である。

 私の訝しげな心象が顔にでてしまっていたのか、途中からイノバさんの語調は重くなり、やがて、「へんな話しですが」と畏まってしまわれた。

「そうですね。へんな話です」

 思わず否定するのを忘れて首肯してしまう。するとイノバさんは戸惑ったように、ですが、と釈明口調で言った。「ですが、カイちゃんに『憑き物』が憑いていると言ったのは槻茂さんなんですよ?」

 言ったのはあなたたちなのにそれはちょっと無責任ではないか、と憤っていらっしゃるご様子だ。

 そうだった。

 忘れていたが、私はいま、槻茂雄敏なる男の部下なのだ。

「いえ、ですから」と取り繕う。「ヘンテコな問題を扱うのが私どもの仕事なのですから、ヘンな話をされるのがここでは自然なのですよ。つまり、ヘンな話なので、ヘンではないのです」

「はあ」

 じぶんでもおかしなことを言っているな、と頭がこんがらがる。「お話は承知しました」話を逸らしついでに、話をまとめる。「つまり、うちの槻茂にそのコの『憑き物』を祓ってほしいというご依頼ですね?」視線で少女を示し、確認する。

「あの、実はちがうんです」

「え、ちがうんですか」

 話のながれからすればそこはお祓いを依頼してくる場面でしょうが、と噛みつきそうになる。

「えっと、話にはまだつづきがありまして」

 イノバさんはそこで少女を見た。少女の名はカイちゃんと言うようだ。さきほどイノバさんが口にしていた。カイちゃんは申し合わせていたようにイノバさんに代わって説明する。

「ぼくたちが槻茂さんに助けを求めているのではないのです。おねぇさんが、あの男に相談しろって。会いに行けって。そう言ってきかなくて」

「おねぇさん?」私はイノバさんを見たが、彼女は、わたしじゃないんです、という顔をする。

「あの、おねぇさんというのは、ぼくに憑いている、その、『憑き物』のことで」カイちゃんは声をおしころして説明する。すぐそばにいるともだちのわるくちを言うかのような小声だ。

「ああ、『憑き物』のことね。それ、今はいないの?」

「今は視えません。ぼくが泣きそうになったら出てくるのです」

 それはまたイヤなやつだね、と率直な感想を漏らすと、「ちがうのです。やさしいのです」とともだちを庇うようにカイちゃんは言った。「ぼくが泣かないように、いつもお節介を焼いてくれるのです」

 言い方がおかしかった。「お節介を焼いてくれる、ね」

「それで、おねぇさんが言うのです。もうすぐ多くの人間が死ぬことになる。わたしがいるときみはまた泣くハメになるだろうって。そうならずにすむように、あの男に会えって。会って祓ってもらえって」

 自分で自分を祓えとはまた酔狂なことをぬかすものだ。

「その『おねぇさん』は、自分では離れられないんだ、きみから?」

「そうみたいです。おかぁさんとの、契約みたいで」

「お母さんとの? どんな契約なの」

「あ、なんでもないのです。これは、関係のなかったお話です」

「うーん」虫食いパズルを組み立てているきぶんだ。「つまりきみはその『おねぇさん』を祓ってほしくてここへ来たってことでいいのかな?」

 話を要約してみせるものの、イノバさんとカイちゃんはふたりして浮かない顔を見合わせるだけで返事が得られず、釈然としない。待っていると、ややあってからイノバさんが、

「わたしはカイちゃんの『おねぇさん』の言うことはあまり信じていないんです」と言った。「というよりも、そもそも存在しているのかさえ疑わしい、とわたしは思っているくらいで。ただ、カイちゃんにはわたしたちに視えない〝ナニカ〟がたしかに視えているってことだけは判るんです」

 存在せずとも幻聴は聞こえるし、幻だって視える。カイちゃんは嘘を吐いていない、ということをイノバさんは主張したいようだ。

「槻茂さんが真実に霊能力者のようなちからを持っているのかは判りませんし、聞いたところでわたしは信じないでしょうが、ただ、槻茂さんがカイちゃんとカイちゃんの『おねぇさん』を引き離すことのできるひとだというのもまた、なんとなくですけど、信じられるんです」

「まあ、たぶん、できるでしょうね」身内のふりをしているから言うのではなく、私もまたなんとなしにそんな気がした。この事務所の主は、そういった奇怪な現象を治療することの可能な人物なのだと。

 槻茂雄敏なる人物は、あの日の薬尾さんのように「護符」一つで問題を解決してしまうような知識と術を、おそらく持っている。

「私は、カイちゃんの『おねぇさん』の言うことは信じるつもりはありません。でも、その『おねぇさん』の言葉は信用できるとカイちゃんが言っている以上、そのカイちゃんの言葉はわたし、信じたいんです」

「えっとつまり」なんだかややこしい話だ。「カイちゃんの言葉っていうのは、『おねぇさん』の言葉ってことでいいんですよね?」いまいちど確認する。

「はい」カイちゃんが応じた。「おねぇさんがああ言ったなら、きっとそれはちかいうちに起こるのだと思います」

「ちかいうちに多くの人が死ぬ、ってこと?」

「はい」

「その『おねぇさん』っていうのは、未来予知ができるのかな?」突拍子のない話であっても、それなりの根拠はほしい。ただ信じたいから信じる、では話を鵜呑みにすることもできない。

「未来予知ではないのです。でも、人の死についての話なら、おねぇさんの言葉はほかのだれの言葉よりも信じられるのです」

 なぜなら、とカイちゃんは言った。ともだちの秘密を漏らしてしまう呵責に耐えるかのようなくるしげな表情で、

「おねぇさんは、死神なのです」

 ぽつりと告げるのだった。

   STP

 カイちゃんに憑いている「憑き物」はなんと「死神」であるという。

 死神の言うことならば、「ちかいうちに多くの人間が死ぬ」という言葉も無視できない。テロリストが同じことを言うよりも説得力があるかもしれない。むろん、真実に死神が存在すればの話だ。

「なるほど」

 私はようやく彼女たちがなぜ槻茂雄敏のもとを訪れたのかを理解した。

「大勢が死ぬことになる災厄を、うちの槻茂に防いでほしいと、そういうことですね」

 アシスタントのふりもすっかり板についてきた。なんだか私は元々この「霊能探偵事務局」で働いていたかのようにさえ思えてくるほどだ。

「そうです。カイちゃんの話では、その災厄は、死神さんのせいではないそうなんです。なので、死神さんをお祓いしたところで、災厄を防ぐことはできないだろう、とわたしたちは考えています」

「ですが、死神自身は、お祓いされたいと望んでいるんですよね。つまり、カイちゃんから離れ、災厄を止めようとしている、ということでは?」

「そうかもです」

 そうかも、しれないです、と口の重くなったカイちゃんの暗い顔を、せつなそうな表情で見守るイノバさんを見て私はふたりのマトリョーシカのような想いを汲むことができた。カイちゃんは死神と別れたくない。そしてそんなカイちゃんをイノバさんはかなしませたくない。そのためならイノバさんはじぶんの想いを犠牲にすることも厭わないと思っている。

 私はなんだか、じぶんと脛木さんとユっくんの三人の関係を、客観的に眺めているきぶんに陥った。

「要件は承知しました。槻茂にはこちらから申し伝えておきます」

 他人事ではないように感じた。ちからになってあげたいと本心から思えた。

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

 イノバさんにつづくように、カイちゃんも腰を折って、ふかぶかと頭をさげた。

 ふたりはこのあとどうするのだろうか。気になったので訊いてみると、

「できるかぎりのことをしようと思っています。わたしたちも」イノバさんがカイちゃんの手を握りながら、宣誓するように述べた。カイちゃんもカイちゃんで、

「たぶん、ぼくが泣くということは、ぼくの身近なひとがぽっくりいってしまうのだと思います」

 イノバさんの手を握りかえし、言った。「そんなことにはなってほしくないのです」

「そうだね。私もそう思う」

 私はふたりの連絡先を教えてもらい、それから事務所の玄関でふたりを見送った。

   STP

 部屋はふたたび煙草の煙の残り香に占領される。窓のそとから、タイヤが道路を舐める音が近づいてきては遠のいていく。寄せては返すさざ波のような静けさに、私はぽつんと淋しさを覚えた。

 メディア端末が振動する。マナーモードにしていたので気づかなかった。とりだし、確認してみると、履歴がすべて「ユっくん」で埋まっている。

 時計を見遣る。ユっくんと別れてからかれこれ一時間半ほどが経過していた。

 かんぜんに忘れていた。二十分に一度、定期連絡をするという約束だったのに。

「どうしよう、ユっくんに怒られる」

 こちらの胸倉をつかみあげて罵声を浴びせてくるユっくんの姿を想像しようと試みたが、なかなかにむつかしく、私は肩を落とす。

「どうしよう、怒られてみたいのに」

 せっかくウキウキしたのに、どうしてくれよう。出会い頭にユっくんのほっぺを平手打ちして、「どうして怒ってくれないの」と叱責の手本でもみせてあげようか、と考える。

 はやくユっくんに会いたいな。

 思いながら私は、槻茂雄敏なる人物のデスク漁りを再開させる。

 開けかけだったいちばん下の引き出しを覗くとたくさんのファイルが詰まっており、一冊引き抜いてなかを改めると、無数の「護符」があたかも切手のコレクションのように納まっていた。

「ビンゴ!」

 おもわず拳を突きだし、勝利の正拳突きを炸裂させる。

 一つずつファイルを確認していくと、三冊目で、見覚えのある「護符」を見つけた。以前、薬尾さんから頂戴したあの「護符」だった。前後数ページが空っぽになっている。

 おそらく薬尾さんがさきほどここを訪れた折に、このファイルから私のための「護符」をいくつか抜きとったのだ。

「こそドロじゃん」

 私のためにこんなことを平気でするひとなんだ。考えると、なんだか堅物そうな薬尾さんが急におちゃめに思えてきた。

 ふと、目についた護符があった。ファイルとは別に、引きだしの底に隠されていたものだ。なにげなく底を漁ったら、蓋のように取れた。これには見覚えがある。脛木さんのマンションにあった護符と同じ紋様をしている。私は一枚を懐に忍ばせ、それから事務所を後にした。

 夕陽が今まさにビルの合間に沈もうとしている。

 途中、何度か電話をかけてみたものの、ユっくんはなぜか出てくれなかった。




  

   3Λ07伊乃葉衣子

 チカに電話をかけてみたけれど繋がらなかった。京都旅行の途中でカナコとはぐれたらしく、「カナちん、そっちに帰ってきていない?」と電話をかけてきたのが昨日の夕方のことになる。

 見てないよ、と応じたきり、チカとも連絡がつかなくなった。

 彼女たちがわたしをからかっているだけかもしれない。いちどはそう考えたものの、京都で起こったホテルの火災事故が、ちょうどチカたちの宿泊先の近くであることを知り、不安になった。

 ふたりは無事だろうか。単なるイタズラであってほしい。わたしに心配してほしいだけなら、そんなのとっくに成功している。はやくわたしのまえに現れ、わたしに怒らせてほしい。

「だいじょうぶですか。顔色、わるいです」

 カイちゃんが歩きながら不安そうに覗きこんでくる。友人を心配するわたしを心配してくれるカイちゃん。誰もがみな、誰かを想い、心配している。

 この世はまるで心配でできているみたいだ。

 心配だから不安になるんじゃないよ、と言ったのはカナコだった。たしかあのときは、わたしが彼女たちの素行のわるさを嘆いて、「あなたたちの将来が不安かも」すごく不安、といじわるく詰った。するとカナコは、「どうせなら心配してほしい」と酔っ払いの言葉とは思えないほど明朗に謳った。

「赤ちゃんだって不安にはなれるんだ。でも心配できるのは未来を想像できる理性ある者だけ。だからイコには心配してほしい。不安にはならなくていいよ」

 かってなことを言うものだ、とむしろ感心したのを覚えている。

「なんでもないの」私は不安げなカイちゃんの頭を撫で、微笑んでみせる。「カイちゃん、まだ時間だいじょうぶ? ちょっと、かるく食べてかない?」

 入ってみたいインドカレーのお店屋さんがあった。嫌味に聞こえないように気をつけながら、「外食くらいでおこられたりはしないよね」と確認する。

 カイちゃんは養護施設で暮らしている。門限まではまだ時間があるものの、帰ればカイちゃんの分まで夕食は用意されている。お腹いっぱいになって帰宅し、夕食を残すようなことになれば叱られるかも、とわたしは心配した。

「おこられたりはしないのです。でも、いつもごちそうにしてもらって、わるいのです」

「わるくないよ。わたしがいっしょに食べたいだけだから」

「でも」

「じゃあ、こうしよう。おとなになったらカイちゃんがわたしに奢ってくれるの。その分をわたしがご馳走してるだけ。ね、これならわるくないでしょ」

 屁理屈を捏ねると、カイちゃんはわたしの言葉を咀嚼するようにしばらく視線を宙に漂わせ、やがて、くすぐったそうに笑った。

「どうしたの」

「なんでもないのです」

「では、おいしいカレーを食べに行きましょう」

「はい。おとなになったら、ぼくがイノバさんに、たくさんごちそうします」

「うん。楽しみにしてる」

「それまで、よろしくおねがいします」

 ごちそうになります、という意味だろうと解釈し、「任せて」と胸を張る。カイちゃんは下唇を噛んで、なぜだか照れくさそうに下を向いてほころんでいる。

   3Λ07

 バターカレーが美味しかった。ビッグフッドの足跡のような特大のナンにつけて食すスタイルで、表面の香ばしく焼けたナンは見た目に反して中身がモチモチしており、カレーとの相性が格別で、久々に当たりくじを引いたと思えるお店だった。

 美味しい食事は会話が弾む。カイちゃんから、学校で告白された、という話を聞きだし、それをカイちゃんが丁重にお断りしたという顛末を聞いてほっとした。それから、級友の女の子のほとんどはすでにファーストキスを体験しており、色恋沙汰に興味のもてないカイちゃんはそんなみんなから漏れなく「遅れている」という評価を得ていることについて相談された。

 さいきんの小学生はおとなびているなあ、と感じながらも、「キスはほんとうに好きなひととするべきです、そうでないと握手と変わらなくなっちゃいます」というカイちゃんの意見を受けて、やはりさいきんの小学生はおとなびているなあ、と感心した。

「カイちゃんは間違ってないよ。そのとおりだとわたしも思うもの。ただ、ほかの子たちが間違っているってわけでもないんだよね」

「どちらもきっと、ふつうではないのです」自信なさげな口調ではあるものの、そう言ったカイちゃんの顔つきは、ちょっぴり得意げにみえた。

「どっちもふつうなんだよ」わたしは敢えて間逆の意見を呈する。「どっちも正解。間違ってないよ。だからカイちゃんはカイちゃんの道を進めばいいよ。わたしはそんなカイちゃんを応援してるから」

 だから悩むことではないよ、と慰めとも肯定ともつかない言葉でわたしはお茶を濁す。恋愛ごとで助言できるほど経験があるわけではない。ややもすればさいきんの小学生のほうがそういう意味ではおとななのかもしれない。

 いまさら、おとなになりたい、と思えるほどもう、若くはないけれど。

 食後のデザートは、タピオカ入りプリンを注文した。それぞれ味の違うものを頼み、スプーンで掬いあって味比べをした。

「おいしいね」

 所感を漏らすと、ひなたぼっこする猫みたいな表情でカイちゃんはスプーンに付着したプリンを唇でこそげとるようにした。たいへん満足げな様子にわたしも自然とうれしくなる。

 プリンをちびちび口元へ運んでは、プリンの融けたあとで残るタピオカの一粒一粒の感触を、まるで嫌いなものを口に入れているみたいにいつまでも舌さきで転がし、味わった。

 ゆっくり食べることで、このぬくぬくとした時間がゆっくりと流れてくれることを期待しているじぶんに気づき、おかしくなる。カイちゃんもまた同じ期待を抱いているのかもしれない。わたしたちはしばらく無言で、おいしいね、と微笑みあった。

   3Λ07

 ずっとむかしからの友人であるかのように感じられてしまうけれど、実のところわたしとカイちゃんは、出会ってからまだ日が浅い。

 こうして面と向かって食事をしたのだって片手のゆびで数えられるほどだ。というよりも出会ってまだ一週間だ。長期休暇をとったのが先々週のことで、そのあいだにカイちゃんと出会い、槻茂雄敏なる不審者じみた男とひと悶着あって、それから昨日までカイちゃんと毎日のように顔を合わせている。

 休暇ものこりわずか、という昨日になってカイちゃんが急に、槻茂雄敏に会わせてほしいと言いだした。

 話を聞いてみても、なかなかどうして要領を得ない話で、なんとか呑みくだした内容も、にわかには信じがたいものだった。

「信じられないのが自然なことです」カイちゃんは、あなたはそれでいいのです、とでも言うかのように、わたしの反発心ごとわたしを認めてくれた。疑っていたつもりはないのに、あなたはこちら側ではないですから、と明確に線引きされたような寂しさが湧いた。

「信じるよ」わたしはムキになって言った。「話が真実かどうかは、わたし、あんまり興味ないの。どうでもいいとさえ思ってたりする。でも、カイちゃんにとってその話は、現実なんでしょ? だったらわたし、ちからになりたい」

 カイちゃんにはわたしたちに視えない〝ナニカ〟が視えている。〝ナニカ〟は自身を「死神」だと名乗っている。槻茂雄敏に会わせろ、と希求しているのは死神で、理由はカイちゃんと離れたいから、つまり祓われたいのだという。ちかいうちに大勢の者が死にいく運命にあり、それを阻止するために、どうしてもカイちゃんから離れなければならないのだそうだ。

 まったくどうして頭のどうにかなりそうな話だと思う。カイちゃんの頭がどうにかなっている可能性もあるし、そんなカイちゃんがいとおしくて堪らないわたしの頭がどうにかなってしまっている可能性も否めない。

 いずれにせよわたしは決めたのだ。死神の言葉を信じるのではなく、カイちゃんの言葉を信じようと。

 大勢が死ぬか否かは問題ではない。それを阻止したいとカイちゃんは望んでいて、同時にそのために死神と離別することもまた避けたいと望んでいる。

 槻茂雄敏に会いに行きたいとカイちゃんが言ったとき、わたしは彼女の行動を肯定も否定もせずに、ただ応援してあげようと思った。

 わたしはカイちゃんを見守りたい。ただ、それだけなのだ。

   3Λ07

「おねぇさんが言っていたのですけど」

 何気ない口振りでカイちゃんが口を開いた。いつの間にかプリンを食べ終えていた。ぼやけた視界が鮮明になったことで、今の今まで宙を見詰めていたのだと気づく。

「ぼくたち、ほかのみんなとはちがうみたいなのです」

「ぼくたちって、カイちゃんと、だれ?」

「イノバさんです」

「わたし?」

「ぼくとイノバさんは」カイちゃんは言いなおし、「ほかのみんなとはちがくて、さらにイノバさんはぼくよりももっと『大きい家』なのだって、おねぇさんは言っていました」

「大きい家? わたしが?」

 突然の話題に面食らう。意味が分からない。ただ、カイちゃんに視えている〝ナニカ〟がそう言ったならば、カイちゃん自身も解ってはいないのだろう。

「どういう意味なんだろうね」

「どういう意味なのでしょう」

 案の定、カイちゃんも不可解そうに唇のしたにしわを刻んだ。

「ぼくは思うのですけど」

「うん」

「これまでおねぇさんが、ぼくのためにぼく以外のひとのきもちを変えたりしたことはなかったのです」

「でも、わたしはカイちゃんを好きになった。きっかけは、きみの〝おねぇさん〟がわたしのきもちに干渉したから」

「はい」

「でも今はそうじゃないでしょ?」わたしはちょっぴり意固持になって、今の、きみを想うこの気持ちは誰に干渉されたものでもないわたしの無垢な気持ちだよ、と訴える。

「知っていますよ」カイちゃんは微笑んだ。やわらかな眼差しがわたしを包みこむ。「ぼくが言いたいのは」とカイちゃんは生じた齟齬を修正するように、「イノバさんだけがとくべつだったということです」

「誰にとって?」言ってから拗ねているじぶんに気づいて顔が熱くなる。

「ぼくにとってはもちろんのこと、おねぇさんにとっても、です」

「よくわからないかも」

「おねぇさんにとって、イノバさんはそばにいてほしいひとだったのだと思います。もしかしたらぼくも、ほんとうはおねぇさんにとって、都合のよい物件だったのかもしれません」

「物件?」とんと話が見えなくなった。

 カイちゃんは頭のなかを整理するみたいに、考えながら話した。

「おねぇさんはぼくたちのことを『家』だと言っていました。ぼくのことは上質な家だと言って、イノバさんについては大きな家なのだと言っていました」

 家は住むためにある。ならば〝憑き物〟にとってカイちゃんという存在は、この世に定住するために必要な寄生先――宿主なのかもしれない。さながらヤドカリのように。

 カイちゃんに憑いている〝ナニカ〟は、より上質な『家』を常に探している?

 わたしはカイちゃんにわたしの推理を披歴した。するとカイちゃんは、そうかもしれないです、と合点した。「イノバさんは、おねぇさんにとって、ちかくにいてほしい存在だったのです。たぶん、ぼくのためというよりも、そっちの理由のほうが大きかったように思います」

「それはどうだろう。カイちゃんのために、その〝おねぇさん〟はわたしの気持ちに干渉したのかもしれないよ」

 わたしのことを、母親のようだ、とカイちゃんが言ったくらいなのだ、親のいないカイちゃんのために、母親代わりの女をあてがおうと考えたという可能性は考えすぎというほどのものではないだろう。やんわりそう主張するものの、

「それは、考えにくいのです」カイちゃんは自虐的に笑った。「イノバさんは知らないかもですけど、おねぇさんは嫉妬ぶかいのです。ぼくのためとはいえ、ほかの女のひとにぼくを任せるような真似はしないと思うのです」

 まるで〝おねぇさん〟がカイちゃんに恋をしているかのような物言いにわたしはそっと噴きだした。噴きだしつつもカイちゃんがそのことをまるで自然に受け容れていると考え至り、溢れだした陽気がそっと消えた。

 じぶんのさもしい気持ちを直視してしまわないうちにわたしは、

「んー。でも」

 カイちゃんの意見に異を唱える。「でも、いまはカイちゃんと離れたいって望んでるんでしょ、〝おねぇさん〟は? だったらその準備だったのかもしれないよ。自分がいなくても、カイちゃんが淋しくならないようにって」

「それも考えたのですけど」なんだか腑に落ちない様子だ。「先週まではおねぇさん、ぼくと離れるなんて考えてなかったと思うのです」

「どうしてそう思うの?」

「勘です」

「勘かあ。なら無視できないね」わたしは真面目に言ったつもりなのに、カイちゃんはちょっぴりいじけたように、「からかわないでください」と口を尖らせた。

「でも、おねぇさんの様子が変わったのはほんとうにさいきんのことなのです。それこそおとといくらいで」

「おととい」反芻しながらわたしは記憶を探る。ここ数日でなにか心境の変化を及ぼすに値する出来事はあっただろうか。じぶんの話題ではないはずなのに、わたしはなぜだかじぶんの心境が暗く沈んだ契機であるところの京都の火災事故を思いだしていた。高層ホテルからもくもくと昇る煙。チカとカナコは無事だろうか。カイちゃんの相談に乗っているというのに、頭のなかではほかの友人のことも心配している。いつからこんなに欲張りになったのだろう、と思う。思ったのも束の間、カイちゃんと出会ったつい先日からではないか、と思い至り、なんとも単純な女なのだろうと呆れにも似た心情が湧いた。

「直接訊くのはダメなの?」わたしには話しかけることも視ることも叶わない〝おねぇさん〟ではあるけれど、カイちゃんは視ることも話すこともできるのだ。「わたしが大きい家ってどういう意味なの。どうして急に離れたいなんて言いだしたの。もっと詳しい話、教えてって質問できない?」

「質問はできても、おねぇさんは教えてくれないのです。ぼくは知らなくていいことだって。でも、さいきんのおねぇさんはすこしヘンなのです。やっぱり何かを隠しています。そしてたぶん、それは――」

「それは?」

「ぼくのためなのです」

 カイちゃんのために〝おねぇさん〟は離れようとしている。巻きこまないようにするためか、もしくは危険を払拭するための離別なのか。

 カイちゃんは以前、自身と〝おねぇさん〟との関係を、「契約なのだ」と話してくれたことがある。お母さんとの死に関わっている話らしく、それ以上、深く事情を聞くことをためらってしまったけれど、カイちゃんと〝おねぇさん〟のふたりには、どうにもがんじがらめに絡まった縁があり、ちょっとやそっとでは離れられない間柄のようだ。カイちゃんを庇護する存在であるらしいという一点においてのみ、わたしは〝おねぇさん〟の存在を肯定的に受けとめている。

  3Λ07

 カイちゃんとは駅前で別れた。明日もまた会う約束をした。

 改札口の奥に消えるカイちゃんのうしろ姿を見送りながらわたしは、こんなに深刻に考える必要はないはずなのに、とじぶんの頭がついに弾けたのを確信した。

 客観的にみれば、子どもの戯言の域をでない話を、わたしは鵜呑みにしようと頑張っている。全身が拒否反応を示すくらいには常識というものを兼ねそなえているわたしなのだけれど、どうにもカイちゃんが絡むと理性を押し退けて、悶々とした気持ちが台頭してくる。

 帰宅し、シャワーを浴びる。身体の表面をお湯が流れるにしたがい、きょう一日の記憶がつらつらと蘇る。

 槻茂雄敏には直接会うことは叶わなかった。でもその助手と思しき女性にはこちらの事情を伝えることができた。大きな前進だ。カイちゃんもどことなく昨日よりもさっぱりした顔つきだった。

 逆に言えば、それだけ心の負担になっていたということだ。

 どうにかしてあげたい。

 でも、どうすればよいのかが分からない。

 そもそもわたしにできることなんて、カイちゃんの言葉を信じようと努力することだけ。

 なにもできない。

 信じることもできていない。

 役立たず以下だ、とじぶんを責める。

 ある意味でわたしは、カイちゃんのことを病人だと見做している。カイちゃんにはわたしたちに視えない〝ナニカ〟が視えており、しかしそれはこの世に存在するものではなく、カイちゃんにしか視えていない、幻覚や幻聴の類なのだと思っている。カイちゃんにとってはそれが現実であったとしても、わたしにとっては非現実的な妄言にしか映らない。だからわたしはカイちゃんの話す言葉を信じようとすること以外に、できることがないのだ。

 信じる以前に懐疑の目が生じてしまう。わたしのまえに壁のように立ちはだかる懐疑の目が、わたしもろともカイちゃんをじろりと見下ろしている。

 わたしはその懐疑の目を毀そうとも、乗り越えようともしない。ある意味でそれは、カイちゃんを護るためには必要な防護壁でもあるからだ。

 〝ナニカ〟に囚われてはいけない。わたしもカイちゃんといっしょになって、〝ソレ〟を現実であると見做してはいけない。わたしはこちらとあちらのかけ橋になって、いずれカイちゃんをこちらの世界に誘わなければならないのだから。

 皮肉なものだ、と思う。

 槻茂雄敏がカイちゃんにしようとしていたことと、これは同じなのだ。いちどわたしが阻止したことそのものなのだ。

 槻茂雄敏はそのことを「祓う」と言いあらわし、わたしはそれを「幻惑からの解放だ」と信じて疑わない。きっとカイちゃんは哀しむだろう。〝ナニカ〟はカイちゃんにとって良き家族となっているようだ。

 カイちゃんは〝ソレ〟のことを「おねぇさん」と呼んでいる。

 胸が疼くのを感じた。

 カイちゃんが「おねぇさん」と口にするたびに、わたしはひそかにこの胸の疼きに、言い知れぬ痛みを覚えている。

 もどかしくも身を焦がすような、こそばゆい痛みだ。

 嫉妬、なのかもしれない。

 湯船に浸かり、顔を沈める。息が苦しくなるまで潜ってみる。

 わたしは卑怯だ、と思う。

 いくら体のいい言い訳を繕ったところで、わたしはただカイちゃんと〝彼女〟を引き離したいと望んでいるだけなのだ。嫉妬ならばまだ可愛げがある。わたしのこの感情はもはや嫉妬と呼べる域を越えている。

「幻想相手に、嫉妬もクソもないよ」

 わざと乱暴な言葉づかいをしてみる。シャンプーで泡だてた髪の毛で、鬼のツノをつくってみる。わたしのこころは醜く歪んでいる。

 哀しむと解っているのに、カイちゃんからたいせつなものを奪おうと考え、のみならず行動に移してしまっている。名分をいくらこしらえ、偽装してみたところでじぶんを欺くことはできない。鏡に映るじぶんとジャンケンをし、負けようとしてみたところで、土台無理な話だろう、と思う。

 ましてや、こころの歪みに気づけないほどわたしはまだ狂えていない。

「いっそ狂ってしまいたい」

 こう思うのは、いけないことなのだろうか。いけないことなのだろう。それでもやっぱり思ってしまう。この情動に身を任せることができたなら、どれだけ楽だろうか、と。

 でも。

「できないんだよなあ、わたし」

 鬼のツノに見立てた髪の毛は、いつの間にかふにゃふにゃと垂れていた。





  

   ○~神津戒

 たんじょうびおめでとう、と描かれた垂れ幕が、ふにゃふにゃと垂れている。きちんと壁に貼られていないのだ。ぼくはそれをガムテープで止め直す。垂れ幕をしゃんとさせてから、「ただいま帰りました」とみんなに帰宅の報告をする。

 この施設では月に一度の頻度で、誕生日会がひらかれる。たくさんいる児童の誕生日をそのつど祝っていては、毎日誕生日をひらいてしまいかねないので、けっして裕福とは言いがたいこの施設では、その月に生まれたコたちの誕生日を、毎月十六日に祝うことになっている。

 そしてきょうがその誕生日会の日だった。帰るとぼく以外のコたちはみんな部屋の飾り付けや料理の盛り付けなどを手伝っている。ぼくの姿を見つけると、カイちゃんもはやくはやく、と手招きして呼んでくれる。

「いったいどこをほっつき歩いてたんだ」

 何食わぬ顔で作業に加わったぼくの頭を小突いて、キムラさんが言った。咎めるような口調ではあるものの、表情はやわらかい。「主役がいなくちゃ話にならんでしょうに」

「ごめんなさい」

「まあいい。手を洗ってきて」こんどは頭を撫でるようにしてキムラさんは、「ほら、あんたたちも主役に手伝わせてどうすんの。ちゃっちゃと用意する」

 手を叩きながら、ほかのコたちを叱咤する。みんなは、「はーい」とすなおに返事をしつつも、キムラさんの背後をこっそり駆け抜けては、彼女の背中に折り紙でつくった「星」をくっつけていく。

 ぼくたちはいつもそうやって、ぼくたちの世話をしてくれる職員さんたちにささやかな反抗をする。キムラさんをはじめとする職員のひとたちはことのほかこの犯行声明ならぬ反抗証明を気にいっている節があり、ぼくらにつけてもらう星の数を競いあっているみたいに、ぼくたちを叱りまわっては、あたたかな眼差しを注いでくれる。

 誕生日会のときはなぜかきまってお寿司がでる。ぼくはそれほどお寿司がすきというほどでもなく、きらいというほどでもなかった。けれど施設で暮らすようになってからというもの、どっちつかずのご馳走が、いつの間にか楽しみになっていた。

 ぼくはいつも好んでワサビ入りの握りを手にする。するときまって彼女が姿を現す。

「ダメダメ。泣いちゃったらどうするの。ワサビなんて劇薬、わたしが抜いてしんぜよう」

「いつもふしぎに思うのですけど」

「なに」

「おねぇさんは、ぼくのことをシロクジチュウ監視しているのですか」ふだんから見計らったように出てくるものだから常々ふしぎに思っていた。

「シロクジチュウは監視してないよ」ぼくの口真似をしておねぇさんは言った。おおげさなくらいに拙い口調だ。「ただ、カイちゃんが泣きそうだなあ、ってときはなんとく分かってしまうのだよ。なぜだかね」

「なぜだか、ですか」

「契約だもん。そういうもんなのさ」

 そういうものなのですか、と引きさがっておく。なぜだか分からないけれど、おねぇさんには分かるのだ。ぼくが泣きそうになる気配が。それとおなじように、死神であるおねぇさんにはきっと、ひとの死にそうな気配も察知できるにちがいない、とぼくはにらむものだ。

   ○~

 姿を現していないとき、おねぇさんはぼくを監視しているわけではない。ということは、昼間に施設のそとで繰りひろげているイノバさんとぼくの探偵じみた行動を、おねぇさんは知らないということになる。ここしばらく、ぼくはおねぇさんを見かけなかった。

 施設のみんなが誕生日の歌を合唱してくれている。今月中に歳を一個とるひとは、ぼく以外に四人もいる。じつは職員のキムラさんもそのうちの一人で、口パクで誤魔化しているコをめざとく見つけては、「こらぁ、ちゃんと歌え!」と檄を飛ばしている。

 いつもの風景だ。どこか殺伐していながら、ぬくぬくとあたたかくもある。

 ここがじぶんの家だとはまだ思えないけれど、帰る場所なのだと思えるくらいには、ここにはぼくの居場所がちゃんとある。

   ○~

「カイちゃんさ、鬼のツノって知ってる?」

 おねぇさんが急に水を向けてきた。

「ツノ、ですか。知っていますよ。あたまから生える突起物のことです」

 鼻たかだかに答えると、

「それはただのツノでしょ」

 ひとさしゆびを立てられ、話はちゃんと聞きましょう、と指揮棒のように振られてしまう。「わたしが訊いたのは、鬼のツノだよ」

 ぼくの食べるぶんのお寿司だけで飽き足らずおねぇさんは、すべてのお寿司からワサビを抜きはじめた。ワサビ抜き職人となったおねぇさんはぼくの向かいの席に座るマイちゃんのよこから身を乗りだし、

「鬼っていうのはさ」

 頼んでもいないのに話しだす。「わたしらに仇を成すことのできるゆいいつの同族だったんだ」

 ぼくは、またはじまったぞ、とゆかいなきもち半分、食傷気味なきもち半分でおねぇさんの声に耳をそばだてる。急にふられる話題についていけないのはいつものことだ。おねぇさんはときどきこうして脈絡なく講釈をたれてくれる。内容はとりとめのないもので、たいてい「異形」についての話だ。ぼくの認識で言ったら異形というのは妖怪のことだ。今回は鬼にまつわる講釈であるようだ。

「わたしらってほら、言ってしまえば神さまのような存在でしょ。そんじょそこらの異形には手も足もでない高嶺の花ってやつなわけ」

「幾らくらいですか?」

「ノンノン。高値じゃなくて、高嶺だよ。手も足もでないって意味じゃ、おんなじかもしんないけどね」

 おねぇさんには手も足もでない、と口のなかで言葉をころがす。

 マイちゃんと目があった。彼女にはおねぇさんの姿は視えていない。お寿司からワサビが抜かれる様子なども目にとまっている様子はない。

 マイちゃんから、おめでとう、と言われたので、ありがとう、とかえす。ぼくがマイちゃんの笑顔に照れているあいだにも、おねぇさんは構わずに話をつづけている。

「そんなわたしら神にも、まあ、宿敵というか強敵というか、天敵って呼べるほどいがみ合ってはいないものの、できれば関わりたくない相手っていうのがいてね」

「それが鬼なのですか」おねぇさんへ投げかける言葉もまたふしぎなことにマイちゃんには聞こえていない。ほかのひとたちにもだ。おねぇさんとの会話中は、だれにも気づかれないぼくたちだけの世界ができあがる。

「そう。それが、鬼なのです」おねぇさんはまたしてもぼくの口真似をした。ぼくはむっとして、

「たしかこれは、鬼の話ではなく、鬼のツノの話でしたよ」すこしつよめに指摘する。

「うん。こっからが本番さ」茶々をいれないでほしいですねえ、とおねぇさんはおどけた。

 前置きが長いのもいつものことだ。ぼくは黙ってデザートのフルーツポンチを器によそう。金魚すくいみたいだ。色とりどりのフルーツのうち、どれから食べようかな、と目星をつける。パインアップルから制覇していこうと決める。ぼくは機械的にスプーンを口元へ運び、器のなかからつぎつぎと黄色の台形を減らしていく。

   ○~

「鬼っていうのは人を喰らうでしょ。異形であるわたしらを喰らうわけじゃないのよ」

「共食いはしないということですか」ぼくはてきとうに相槌をうつ。「いいことだと思います」とも言ってみる。

「生きるための殺生に善も悪もないよ。喰われる側と喰う側がいるだけだもの。で、共食いは龍の専売特許なわけ」

 異形を喰らう異形は龍しかいないのですね、とぼくが要約してみせるとおねぇさんは、そうそう、とうなずいた。

「龍ちゃんとはちがって鬼たちは食べるためにわたしたちを襲ったりしないから、わたしらの脅威にはならない。だったらどうして、ってカイちゃんは思うでしょ。どうしてそこまで鬼を疎んじるのだろう。鬼を高く評価するんだろうって」

「思わないですよ」

「思ってよ」おねぇさんはくちびるをとんがらす。「鬼にはさ、ほら、ツノがあるでしょ。あれが厄介でね、とくに赤鬼のツノときたらその切れ味たるや龍の牙の比じゃないんだから」

「龍の牙?」

「龍の牙ってのは、あれさ。龍ちゃんの口から生える、鋭い歯のことで」

「それは、わかります。どれくらいの切れ味なのですか」

「空間をも切り裂くほどの切れ味だね」

「空間を、ですか」

 いまいちピンとこない。でも、もしほんとうに空間を斬り裂くことができるのだとするなら、それはすごい。どこかで売っていないだろうか、とぼくは思うしだいだ。施設でのおこづかい半年分くらいで買えるなら、一も二もなく、これください、と言えてしまえる。

「そ、空間を切り裂く。龍の牙はね。その点、鬼のツノはというと空間だけじゃなく、次元までも切り裂くことができるわけ。それがまた厄介な代物でねえ」

「はぁ。厄介なシロモノなのですか」

 おねぇさんは、お寿司のわさびをすっかり抜きおえ、ぼくの背なかに回りこんでくる。両足でぼくを挟みこむように座ると、うしろ手に体重を支えた。

「むかしさあ、龍ちゃんはわたしら異形のなかでもそりゃあ一目置かれててね。食物連鎖の頂点に君臨しておきながら、食す対象は自分と同等の異形か、或いは神さんたちだけ――神殺し、なんて二つ名で呼ばれていたくらいでね。人間に危害を加えないどころか、物理的肉体とは無縁の有象無象どもにも手をださないっていう、偏屈なやつでさ。それがまた、わたしらの目からみるとカッコよく映るわけなのよ。わたしは今でこそ死神として『神』の称号を得てはいるけど、生粋の神さんってわけじゃないでしょ? 当時はまだ龍ちゃんの餌として見染められるほどの異形でもなかったわけ」

 ぼくはたまげた。おねぇさんは最初から「死神」ではなかったのだそうだ。そういえば、と思いだす。おねぇさんと出遭ったあの夜のこと、おねぇさんは言っていた。天使も悪魔も神さまだってぼくたち人間たちがそう呼んでいるだけであって、どれもおねぇさんを示す呼称なのだと。おねぇさんはすごくあやふやな、壁の素材によってからだの色を変えるヤモリみたいだ。

「龍ちゃんは当時から神になれる逸材だって誰もが思ってて、でも、龍ちゃんにはその気はなくて。異形を統べる者として担ぎだされてたわけ。当然、それを快く思わない連中もいるところにはいるもんで、そいつらは龍ちゃんを討伐しようと動きだしたのさ」

「わかりました。それが、鬼さんなのですね」

「当たり」陽気な声で正解をもらう。「鬼たちの動機も解らないではないんだよ。だって、あのころの龍ちゃんに匹敵するくらいの異形なんて、数えても鬼族か天狗一味かって感じだったもの。自分たちの天敵に服従するなんて死んでも賛同できなかったんだろうね」

 賛同できないですよ。ぼくは鬼さんたちに感情移入する。どうあっても食べられる運命にあるのに、それに抗うことさえゆるされなくなる未来なんて御免ですよ、とぼくだって考えてしまうほどだ。

「個々の戦力からいったら、龍ちゃんに適う異形なんていない。神さんたちですら龍ちゃんと一対一でぶつかりあったらタダじゃ済まなかったと思うし、こっそり喰われてた神さんだっていたんじゃないかな。実際、九尾のやつなんか、九体の同位体のうち五尾まで喰われて、神さんの称号剥奪されたくらいだもん。それくらい龍ちゃんはすごかったんだ。でも、鬼族って集団の持つ、圧倒的な物量のまえでは、さすがの龍ちゃんも太刀打ちできなかった。龍ちゃんは鬼族に拘束されちゃって、そんな龍ちゃんを鬼たちは、鬼のツノで斬り裂いてつくった次元の狭間に突き落とした。ひどいことするよね。龍ちゃんは次元の狭間に閉じこめられちゃって、それ以来、龍ちゃんの姿を見たモノはいない」

「出られないのですか?」斬って開けたからには、入口はそのまま出口となるはずです、とぼくは意見する。次元の狭間からは出ようとすれば出られるのでは、と。

「次元の亀裂は不安定だから、すぐに塞がっちゃったんだって。わたしが鬼族と龍ちゃんの抗争を知ったときにはもうすべてが手遅れだった。次元の狭間に落ちたしゅんかんから龍ちゃんの存在は、姿もろとも、こちらの世界から消えちゃってた」

「存在が?」消えちゃったのですか、とおどろく。

「そう。姿も存在も、消えてなくなっちゃった」びっくりだよね、とおねぇさんはまさにヒトゴトといった調子でおおげさに目をみひらいてみせた。

「一ついいですか」

「なに」

「ぜんぶの龍さんが、消えちゃったのですか」おねぇさんの話では、龍という異形はとてもつよいのだそうだ。だとすると鬼たちによってすべての龍が駆逐されたとは考えにくい、とぼくは推理するものだ。

「ぜんぶと言ったら、ぜんぶかな」おねぇさんは曖昧に肯定する。「龍ちゃんの個体数って実は十体もいなくてね。というよりも、龍っていうのは、種族の呼称じゃなくて、ある特定の異形の俗称でね。だからその十体も、言ってみたら同位体ってやつでさ。かくいうわたしも、〈わたし〉っていう無数の同位体のうちの一つにすぎないんだけど、まあわたしに比べたら龍ちゃんは分身苦手みたいだったし、だから同じ時間軸上では十体にしか分裂できないわけ。で、龍ちゃんは鬼族との抗争で、いちど本気を出したみたいで、分身していた同位体をすべて集めて、完全体になった。そこを鬼族たちは狙ったみたいだね」

 作戦勝ちですね、とぼくが言うと、おねぇさんは、「龍ちゃんが間抜けだっただけさ」と肩をすくめた。

「ところでこれは何のお話ですか」

「だから、鬼のツノの話だよぅ」

「それはわかります。どうしてその話をぼくにしてくれたのですか?」

「どうしてだろう。うーん。なんとなくだよね。なんとなく、むかしのことを思いだしちゃったのさ」

 ぼくは顔だけで振りかえって、おねぇさんの顔を見つめる。おねぇさんは、「ん?」と小首をかしげて、くちびるのしたにハンコめいたしわを浮かべた。「なに?」

「おねぇさんは、いらないことばかりを教えてくれます。ぼくのしりたいことではなくて」

「ふへへ。知りたいことが必ずしも必要なこととはかぎらないんだぞ」

「なるほど。かぎらないのですか」おねぇさんはむつかしいことを言ってぼくを言いくるめるがとてもじょうずだ、とぼくは見なすものだ。「でも、ぼくはしりたいのです」と食いさがる。「どうしておねぇさんが、ぼくと離れたがっているのか。どうしてたくさんのひとが死んでしまうのか」

「それはねえ」

 おねぇさんは焦らすように間をあけてから、

「言えないんだなあ、これが」

 イシシ。

 いじわるそうに笑うのだった。

 マイちゃんが、「ほら、カイちゃんの分だよ」とショートケーキを切り分けてくれる。ぼくはホイップクリームのついたイチゴをゆびでつまんで持ちあげる。すこし考えてから、お皿のうえに戻した。ぼくがケーキをやっつけているあいだにおねぇさんはいつの間にか姿を消していた。

「カイちゃんは、好きなものをさきに食べるタイプなんだね」

 マイちゃんがぼくの手元を覗きこんで言った。とっておいたはずのイチゴがお皿のうえからなくなっている。ぼくはゆびについたホイップクリームを舐めとって、マイちゃんの言葉ににっこりうなずいた。

   ○~

 二段ベッドのうえがぼくの寝床である。消灯されてからずいぶん経つのにぼくはまだ、呼吸音が反響して聞こえるくらいにちかい天井を見つめたまま、眠れない夜をすごしている。電灯がぼんやりと光の余韻をのこしている。しばらくは天井との距離感のつかめるていどには明るかった。そのうち明かりの余韻も闇に溶けきった。

 まばたきがてらに目をぎゅっとつむってみる。視界は変わらない。変わらず暗がりが満ちている。

 ぼくの認識に関係なく闇はそこにある。同時に、ぼくに見えなくとも目のまえには天井が存在している。

 手を伸ばしてみる。ぼくの手は暗がりに同化して見えない。

 ぼくが目をつむっているからだと思いだし、瞼をたたむものの、やっぱり伸ばしているはずの手は見えないままだ。

 でもそこに手はある。見えなくともぼくはここにいる。ぼくの認識に関係なく世界は存在しているし、ぼくの認識に関係なく闇はつねにそこにある。

 とてもちいさな世界では、認識されることによって世界の在り方が変わるのだという仮説をぼくは前に本で読んだことがある。ほんとうだろうか。だとすれば、ぼくは誰かの認識によってぼくとして存在していられるのだろうか。こんなに真っ暗な部屋のなかにいても、誰かがぼくのことを見ているのだろうか。

 仮に見ているとすれば、おねぇさん以外にいないと思った。

 おねぇさんは否定していたけれど、でも、ぼくは〈おねぇさん〉がずっとぼくのことを見守ってくれているように感じている。

 きっと、ぼくがそう感じているかぎり、おねぇさんもまた〈おねぇさん〉として存在していられるのだ。

 誰にも視えなくとも、誰からも認識されずとも、ぼくさえ知っていればおねぇさんはたしかにそこに存在している。

 どうしてこんなことを考えるのだろう。ぼくはじぶんのむねに手をそえる。鼓動の振動がてのひらに伝わる。ぼくは生きている。

 存在することと生きることのちがいはなんだろう。ぼくが死んだら、ぼくは存在しなくなってしまうのだろうか。もしぼくが死んでも、誰かがぼくという存在を感じてくれてさえいれば、ぼくはそこに存在していることになるのだろうか。なるのかもしれないし、ならないのかもしれない。ぼくには解らない。

 ためしにさっき食べそこなったイチゴのことを考えてみる。

 ぼくが頭のなかでイチゴのことを考えてみても、イチゴがぽんと生まれてくるわけではない。イチゴを食べたら、それはもうイチゴのカタチをなしていないので、イチゴではなくなる。ぼくが死んでもおんなじことが言えるはずだ。

 存在しているものが初めにある。それらを認識する観測者がいる。存在しているものは、観測者に認識されることによって存在のふり幅を固定される。さも多重分身しているようにみえる振り子をゆびでつまんで固定してしまうような働きを、観測者は、あらゆる存在に対して作用させている。

 ということは。

 ぼくはおねぇさんについてふたたび考えを巡らせる。おねぇさんはぼくにしか視えない。でも、ぼくがいくら認識していたとしても、おねぇさんが存在していなかったら、これはさっきのイチゴとおんなじようにぼくのなかでの妄想とかわらない。

 でも、おねぇさんはお寿司のワサビを抜いたり、人をぽっくりいかせたりできる。これは、ぼくの妄想と考えるにはちょっとややこしすぎるできごとだと思うしだいだ。

 ならば、とぼくは興奮気味に考えをまとめる。

 おねぇさんはちゃんと存在していて、ぼくに認識されることによって、一つのおねぇさんという状態に固定されている、ということになる。

「と、ぼくはにらむものだ」

 興奮のあまりさいごは口にでてしまう。ベッドのしたからマイちゃんの寝言じみた「むにゃむにゃ」が聞こえた。

 ぼくが認識しなくとも、マイちゃんはそこに、ちゃんと存在している。

 きっとおねぇさんもおんなじなのだ。ぼくがいなくともおねぇさんはちゃんと存在していられる。

 すこし淋しい気もしたけれど、ふしぎとこころがおちついた。

「おやすみなさい」

 だれにもとなく声をかけて、ぼくはようやく眠ることができた。

 

 

 

第二章【七つの大罪】



   +薬尾夜神+ 

 ようやく眠ってくれたようだ。ニオ子の頬を突っつき、反応がないことを確かめてから俺は捕虜と向きあう。彼は椅子に縛りつけてある。

「もういちど訊くが、なぜ俺たちを尾行る」

 応えはない。が、それも致し方ないと言える。彼は口がきけない性分であるらしく、意思疎通にはもっぱらメディア端末を使用していた。外部との連絡のとれる端末を持たせるわけにはいかないので、応答を得るには筆談が好ましい。筆談をするにはいちど拘束を解かなければならないが、全身を自由にするにはまだ早計だろう。

「片手だけ自由にしてやる」

 あまり利口な選択ではないが背に腹は代えられない。「ヘンな気をおこすなよ」

 彼は頷いた。見た目からしておとなしい青年だ。

 思い起こしてもみれば、尾行されていることに気づいた俺が取り押さえるときも、彼は抵抗せずにすんなり捕まった。

 人目もあるのでとりあえず近場の隠れ家に連れてきたわけだが、しかし、椅子に座らせ、束縛したまではよかったものの、ニオ子のやつがすっかり彼に懐いてしまい、相槌しか打てない相手に散々しゃべり散らしたあとで間もなく、こくりこくりと舟を漕ぎだした。ニオ子が寝潰れてしまうまで俺は、彼に尋問もできなかった。

 彼のメディア端末が振動する。着信のようだ。おそらくまたレナイさんからだろう。ディスプレイを確認すると案の定だ。彼を拘束してから十回は鳴っている。

「このことをレナイさんは知っているのか?」

 俺たちを尾行したことについて彼女となにか関係があるのか、と問う。彼は即座に首を振った。間髪容れないその仕草から、それが彼女を護るために吐いた咄嗟の嘘であることが推して知れた。

「きみはきみが思っている以上に分かりやすい人間だ。この状況で答えを偽ることの危険性をもうすこし慎重に考えるべきだ」

 助言のつもりで口にしただけだったが、なにをどう勘違いしたのか彼の瞳には怯えの色が浮かんだ。脅迫したように映ったのかもしれないと気づき、「安心しろ」と宥める。

「レナイさんを傷つけるような真似はしない。むしろ俺は彼女を護りたい。それだけの貸しが彼女にはある。いや、貸しではないな」

 返しきれるものではないのだ、と思いだし、胸が苦しくなる。

「ところできみは離反者か?」

 どこの組織にも属していないようだ。一般人というわけでもないだろう。「外道」についての見識を持った人物であることは、夕方に交わした会話から、それとなくであるにせよ、確認できている。

 考えられるのは彼がつい最近「外道」から勧誘されたばかりの能力者か、或いは組織から抜けだした離反者か、のいずれかだ。

 どちらだ、と問うと彼は紙に、後者です、と書いた。端正な字だ。

「なるほど。離反者か。なら、境遇はちがえど、俺と同類だ。レナイさんとのこともある。お互い、仲良くしよう」

 彼の肩に手を置く。異論がないことを確認し、身体を縛っていた縄を解く。彼を自由にする。彼に敵意がないことは初見から分かっていた。夕刻に鬼頭家からの使者が俺のまえに現れたばかりだったこともあり、多少なりとも警戒しすぎていたかもしれん。じぶんの行きすぎた対応を反省する。

「事情を話してくれないか。もしかしたら俺はすでにきみたちを巻きこんでしまっているかもしれない。手遅れにならないうちに対策を講じたい」

 俺は親しくなった者を不幸にしてしまうという忌むべき性質を持っている。ニオ子などのヒトならざるモノたちに対してはふしぎと影響を及ぼさないものの、俺と交友をもって無事に生きている人間となると、あいにくと思い浮かべることができない。

 俺はそう。

 けっきょくのところ、最愛のひとも護れなかった男だ。のみならず死なせてしまった厄病神でもある。

 青年はその幼い顔をきょとんとさせたまま、俺の話がどこまで深刻に捉えるべき話なのか、を判断できずにいる様子だ。

「言葉の意味が分からないか? なら教えてやる。レナイさんのお兄さんが死んだのは俺のせいだ。直接的な原因は異形の仕業にあるようだが、本質的な要因は俺そのものにある」

 青年の顔色は変わらなかった。或いはすでにそういった想像を働かせていたからこそ、俺を尾行しようと思い立ったのかもしれない。

「どこから話したものかな」

 俺は彼に、俺の忌まわしい過去を伝えた。俺はこれまでに身内を含め、大勢に多くの不幸を巻き散らしてきたのだ、と具体的な例を並び立ててみせる。

「レナイさんとは二度も会ってしまっている。或いはすでに彼女にも危険が」

 ここまで考えてからはっとした。

 レナイさんから頼まれた「護符」を入手しに、槻茂の事務所へ足を踏み入れたときのことだ。槻茂は不在だったが、かってに「護符」を頂戴しようとし部屋を漁り、俺は偶然、あれを見つけた。

 虎豹一族鏖殺事件の犯人とその共犯についての調査資料。

 俺が鬼頭家の一員として過ごした一年間のあいだに起きたその事件は、七年経過した現在でも風化することなく俺の海馬に刻まれている。

   +++

 当時、犯人と目される被疑者は、自身の一族を老若男女関係なく無差別に殺し、逃走した。動機は不明だったが、事件の数週間前に被疑者の両親が任務中に殉死していたことから、なんらかの報復ではないか、というのが大筋の見解だった。

 根絶やしにされた虎豹一族は始末屋の家系だった。いっぽう、俺の所属していた鬼頭家は祓い屋の家系で、始末屋の連中ほど直接の被害を受けなかったとはいえ、身内の反逆とも呼べる件の事件は、鬼頭家にもそれなりの衝撃を与えた。

 内部犯であったこともあり、調査の手は「外道」の組織すべてに巡らされた。鬼頭家もまた例外ではなく、調査の一環として男が一人、「外道」の支部から派遣されてきた。その男が槻茂であり、彼にあてがわれた案内役こそが俺だった。

 潔白の鬼頭家が疑われたことに対する遺憾の意を表明するためか、槻茂に対する対応は、冷遇を極めていた。ほとんど部外者と言っていい俺が屋敷を案内するというのもおかしな話で、俺は、鬼頭家の屋敷を見て回る槻茂に付き添い、

「同情するよ」

 と労いの言葉をかけた。すると槻茂は、

「あんたもたいへんだな」

 妙に親しみの籠った口調で労いかえしてくれた。「新入りだろ、おまえ? 案内役どころか監視役に務まるかも怪しいもんだ。冷遇というならあんただろうよ。あまりいい扱いを受けてねえみてえだが」

 返す言葉もなかった。

「まあ、気にするな。おれだってあんたらが事件と無関係だってことくらい判る。ここを漁ったところで何もでてきやしねえよ」

 なぜかは分からないが、その言葉に俺は救われたような気持ちになった。

「なに気の抜けた面ぁしてやがる。安心するのは早ぇぞ。ここだけの話、手掛かりなんざ見こめない場所にまで調査員を派遣するってことはだ」

 引っかかる物言いだ。「ということは?」

「ほかに目的があるってことだ。そうだろ」

「目的ですか? どんな」

「おれも上の指示だからこうして派遣されてきたわけだが、どうにも上の連中はこの機会に組織の一斉是正調査を進めようとしているようだ」

「一斉是正調査?」初耳の単語だ。

「そもそも今回の事件、皆殺しにされたのが虎豹一族だってのが最大のネックでな。知ってるか? 虎豹一族って」

「はい。あ、いえ。始末屋のなかでは最古参の一族だっていうことしか、まだ」

「それだけ知ってりゃ充分だ。というよりも、虎豹一族は謎が多い。知らなくて当然だ。血筋にうるさいので有名な連中でな。身内の情報をそとにださねえんだよ。始末屋でありながら、独自の調査権限を持ってやがって、加えて極端な排他主義ときてる。最古参って名目でこれまでは上も自由にやらせてきたみてえだが、その結果がこの大惨事だろ。上も懲りたようで、ようやく重い腰をあげたってわけだ」

「つまり、どういうことですか」

 推量はついていたが、お門違いな答えを言うのも恥ずかしいので、物分かりのわるいフリをした。槻茂は、つまりだ、と要約した。

「つまり、把握しきれていなかった組織の全貌をこの機会に掴んでおこうって魂胆だ。システムとして機能していた『外道』という組織の構造を把握し、主要器官である一族から、フリーランスに活動する末端の構成員までのすべてを、完全な管理化に置きたいって腹だろうな」

 徹頭徹尾明朗な口吻ではあったが、彼の口振りからはどうにも、「迷惑なことを考えてくれたもんだ」といった否定的なニュアンスが窺えた。

「弱みを握りたい、ということでしょうか」

 俺が質問すると、

「それも含めての調査だろうな」

 彼は苦虫を噛み潰したような面を浮かべた。俺はそれだけで彼を同志のように感じ、同時にこれはマズいと彼を心配した。俺に親しみを抱かれた相手は高い確率で不幸になる。

 俺は自身の忌むべき性質を彼に伝えた。すると彼は、

「なんだよ。じゃあ、おまえが歓迎されないのも当然じゃねえか」と笑い飛ばし、その笑みが引くか引かないかというあいだに俺を殴り飛ばした。

 華奢な体つきのわりに繰りだされた拳は俺をゆうに五メートルはぶっとばした。痛みよりもさきに怒りが思考を支配する。体勢を整える。軽薄な笑みを湛えたままこちらを見下ろす彼に俺は飛びかかる。

「おう。それでいい」

 片腕を捻りあげられ、俺は造作もなく取り押さえられた。

「その感情、忘れるなよ」彼は片眉をあげ、煙草を取りだし、火を点けた。「おまえがおれに笑顔をみせたら、そのたびにおれはおまえを殴りとばす。せいぜいおれのことを憎めよ、新入り。そうすりゃおれたちは同志でいられる」

 彼の言葉を咀嚼する。笑みが零れそうになり、寸前で堪える。

「離しやがれ」と悪態を吐いてみせる。なんとか怒りを呼び覚まそうとして俺は彼の煙草に着目し、そして言った。

「おい槻茂。ここは禁煙だ。屋敷内では二度と吸うな」

「呼び捨てとは生意気じゃねえか。新人りのくせによ」

 槻茂は鬼頭家の屋敷をひととおり見て回り、構成員の数と素性を調べてから去っていった。だが彼との縁は、俺が鬼頭家から夜逃げし、組織から離反してからも途切れることなく、現在までつづいている。

 俺にとって槻茂という男は、利用するに値する良きカモでしかない。ちょくちょくかってにやつの事務所に忍びこんでは、必要なものを頂戴してきた。まるで俺に与えるために蓄えているのでは、と思えるほど品ぞろえがいいが、感謝をしてやったことはいちどもない。

 槻茂などどうなろうと構わない。頂戴する品物にまいどのように、「ばーか」だの「うんこ」だのとガキじみた悪口が書かれている。

 あんなやつなど死んでしまえばいい。

 初期のころなど、いつの間に撮ったのか、妻の着替えの盗撮写真が付属されていたこともあった。本気で殺してやろうかと思ったものだ。

 ふしぎとやつへの怒りを抱きつづけているこの八年は、槻茂が死んだ、という話を聞かずに済んでいる。

 これだけ怒りという感情のみを募らせることのできる相手というのも珍しい。ある意味で槻茂は俺にとってかけがえのない人物だ。こう考えるくらいは許されるのではないか。最近ではこう思いはじめているじぶんがいる。

 だからこそ、槻茂の事務所で見つけた虎豹一族鏖殺事件の犯人が京都に現れた、という資料を見て俺は戦慄した。

 これまで頑として姿を晦ましつづけていた相手が、まるで期を見計らったかのように出現した。

 『外道』の幹部連中は組織全体に招集をかけたのだろう。槻茂も当然そこへ出向いたはずだ。

 招集された構成員たちの集まった『箱』が、火災事故のあった高層ホテルだという情報はすでに鬼頭家からの使者から知らされている。会場へ赴いた者たちのおよそ八割が死亡しただろう、という話も聞かされた。

 胸騒ぎを覚えるには充分すぎる状況が整っている。

 危ういのは槻茂だけではない。

 俺は宙に漂わせていた視線を戻し、青年へと当てる。急に押し黙った俺を彼は不安そうな眼差しでぽかんと見つめており、メモを差しだしてくる。見遣ると端正な文字で、「どうかされましたか」と書かれてある。

 それくらい言葉で言えよ、と思わず指摘したくなったが、そういえば彼は口がきけないのだったな、と思いだし、「どうもしないさ」とひとまず言い繕っておく。

 彼にとってレナイさんがたいせつな人物であるのと同様に、レナイさんにとっても彼は代替不可能な存在であるようだ。

 亡くなった彼女の兄、舘尚さんもまたレナイさんにとってはかけがえのない存在であっただろう。俺に親しくしてくれたがために舘尚さんは死んでしまった。あのころのことを思いだすたびに胸がズキズキと物理的な痛みを伴う。

 同じ過ちを繰りかえそうとしているのではないのか。

 愚鈍にもいまごろになってようやく思い至った。俺はレナイさんをも、底の見えない奇禍に巻きこんでしまっているかもしれないのだ。

「事情を話している暇はない」

 背中を押し、俺は彼を扉のまえまで連れて行く。「おまえはすぐにレナイさんのもとへ戻れ」

 俺の代わりに彼女を護ってくれ。

 縋るように手を握る。弱々しく掠れた声は、悲鳴にも似ていた。

 離反したとはいえど、いちどは組織に身を置いた人物であるなら、彼にも人ならざる異能が備わっているはずだ。俺はじぶんのこの忌まわしい性質を能力として制御することもままならない。だが通常、能力者は自身の異能を「術」として使用できる。

 彼の異能がどのような性質を帯びているかは定かではないが、きっと彼の異能はレナイさんの助けになってくれるだろう。それこそ彼そのものが彼女を支えているように。

「急いでくれ」彼にメディア端末をかえす。「いまの俺にとってはきみだけが頼りだ。どうかレナイさんを護ってやってくれ」

 返事も俟たずにドアのぶを回し、扉を開いた。すると、

「あ、やば」

 フードを被った女性が、今まさに扉に耳を当てていたかのような格好で立っていた。レナイさんだった。

「あはは。どうも」

 彼女はとぼけたように笑い、それから身体を斜めにして俺の背後を覗きこむようにする。

 振り返ってみると青年が鼻を押さえている。急に立ちどまった俺の背中に顔をぶつけたらしい。彼の手首についた縄の跡を見つけたのかレナイさんは、

「やっぱりなあ。捕まっちゃってたかあ」

 できのわるい部下をぼやくように言った。

 彼女のその、イタズラが不発に終わっただけのような、いかにも軽い発言に俺はなんだか興が削がれ、さきほどまで事態を深刻に捉えていたじぶんが滑稽に思えた。

「薬尾さん、ごめんなさい」と頭を下げられる。「うちのバカが探偵の物真似なんかして」

「物真似?」

 さながら、うちのペットが逃げだしてしまって、と言い訳をする主婦のようにレナイさんは言った。彼はあなたに指示されて俺を尾行ていたのではないのか、と混乱する。そもそも彼女はどうやってこの隠れ家までやってきたのか。初めから場所を知っていたならもっとはやくに乗りこんできていたはずだ。

 どうしてここが、と問う。

「どうやってって。だって、ほら」レナイさんは手に持っていたメディア端末の画面をこちらに突きつけ、「赤いの点滅してますよね。で、それがこの場所なんです」とその場で足踏みしてみせた。

 聞けばなにやらGPS機能というものであるらしく、登録している端末の位置を検索できるのだそうだ。

「まるで魔法だな」

 驚嘆半ばに、

「で、彼の端末を検索して、ここを突きとめたというわけか」

 推量してみせると、

「え、ちがいますよ?」意に反して否定された。「この赤いのはニオ子ちゃんの端末です。夕方、ニオ子ちゃんに借りたときに設定しておいたんです」

 こともなげに言ってレナイさんはちゃめっ気たっぷりに緩めた口元から白い歯を覗かせた。

 俺も驚いたが、青年のほうはもっと驚いていた。縄文杉が見たいと言われたので屋久島まで連れて行ったが、図鑑で見ても同じでしょ、と言われたような、だったらどうして、といった理不尽そうな顔を浮かべている。或いは、月の石を採取しに宇宙へ飛びだした飛行士が、月面に到着したところで、やっぱりその石、地球にもあったわ、と告げられたような愕然とした表情でもあった。

「抜け目ないな」

 どことなくニオ子と彼女は似ているな、と感じた。ちゃっかりしているところなどが特に似ている。





  

   △ニオ子△

 自分のことをあまり語りたがらないところがとくに似ている。あたいは常々そう感じていた。主に過去にまつわる話になると、とんと口をつぐむところなど、ヨガミはおっとーとそっくりだ。

 おっとーの話してくれたむかし話なんて、あたいらのご先祖さまがかつて人間どもに戦国時代を拓かせた「一角戦鬼」だった、って話くらいだ。

 おっとーもヨガミも、ただ話すのが億劫なのではなく、傷口に触れられたかのような身構えかたをみせるのであたいもあまりしつこく訊きだそうとはしなかった。でも、それにしたってふたりとも、「そういえばさいきん、調子はどうだ?」とかいかにもヘタクソなお茶のにごし方をするものだからさすがのあたいだって気をきかせるのもバカらしくなってしまう。これは道理というものだ。

 ……もういちど訊くが、なぜ俺たちを尾行る。

 夢心地にヨガミの声が聞こえてくる。聞こえたことで、なるほどあたいはいま眠っていたのだな、と気づいた。

 いつの間に寝てしまったのだろう。記憶をさぐる。

 たしか、駅前でレナたちと別れたあとのことだ。野暮用があるといってヨガミが寄り道をした。誰も住んでいなさそうなぼろっちいビルに入り、なにやら部屋を物色しはじめた。日ごろことあるごとにあたいへは、人さまの物をかってにとってはいけない、と偉そうに薫陶を垂れるくせに自分ではこそドロの真似ごとをする。これだからニンゲンは、とあたいは憤懣やるかたない。

 入用のものを手に入れたのか「終わったぞ」とヨガミが言ったときのことだ。手持ち豚さんになっていたあたいは、はやくかえろうよブーブーと不平を鳴らす片手間に戸棚からいくつかのフアイルを取りだし、眺めていた。

「散らかすな」自分のことを差しおいてヨガミが怒鳴る。

「だってぇ、ひまだったんだもん」

「暇だろうがなんだろうが、人さまのものはかってにいじるな」

「ヨガミばっかりずるい」

「あいにくだが俺はこの部屋の主を知らないわけではない。が、おまえにとっちゃ他人さまだろ」

 ぐぅの音もでない。

「そもそもおまえ、字、読めないだろうが」こんなの見たってつまらんだろ、とでも言いたげにヨガミはあたいからファイルを奪って、中身にざっと目をとおした。ヨガミの顔色が変わったのはたしかこのときだ。

「どうしたの」固まってしまったヨガミに声をかける。

「ニオ子」

「ど、どうしたの」

 ヨガミがあたいの名を呼んでくれるとは珍しい。名前呼びされるときはたいがいあたいが良くないことを仕出かしたときなので、なかば条件反射で緊張する。うでをぴんと伸ばしてあたいもまた固まった。

「逃げるぞ」

「どこへ?」意味がわからない。なんとなく部屋を見回してみる。とくに危険が差しせまっている感じはしない。「だから、どうしたの」ともういちど訊ねる。

 ヨガミはファイルに視線を落としたきり、顔をあげない。やがてファイルをもとあった戸棚にもどし、荷物を持ち去るような手早さで、あたいを担ぎあげた。

「なにすんのっ!?」

「いいから黙ってろ」

 いきなり抱きあげられて、あたいの胸は今にも噴火しそうなくらいに高鳴った。ぺったんおむねのくせになまいきだ。

△ △

 ヨガミは部屋をあとにし、ビルを出た。そのまま三日前から根城としてつかっている潰れたホテルのまえまでやってきた。

「ねえ、ヨガミ」

「なんだ」

 あたいは彼の肩にくちびるを押しつけるようにして、

「だれか付いてくるよ」と告げた。抱きかかえられていたために、ヨガミの後方があたいからは丸見えだった。

 返事がない。意味が伝わらなかったのかと思い、「あたいたちのこと、だれかツケてる」と言いなおす。

 背後を確認することなくヨガミは何気ない調子でホテルにつづく道を外れた。人通りのすくない小径にはいっていく。角を曲がったところで、「人数は分かるか」と声量をしぼり、質問してくる。

「んっと」

 目を凝らして注意ぶかく観察する。ヨガミはあたいをだっこしたまま道をすすむ。人影が一つ、道を曲がってくるのが見えた。さきほどあたいが気づいたのとおんなじヤツだ。念のため、小径の両側を塞ぐように屹立しているビルを見上げて、屋根伝いにツケられていないかを確認する。

「たぶん、一人だけ」

「わかった」

 ヨガミがふたたび道を曲がった。こんどは道をすすむことなく壁に隠れる。追手を待ち伏せするつもりなのだと判った。あたいたちを追って人影も曲がってくる。ヨガミは流れるような動きで人影をちょちょいのちょいと捕まえてみせた。

「おまえは……」

 ヨガミが拘束したのはなんとレナといっしょにいた優男だった。一時間ほど前に駅で別れてから、ずっとあたいらを尾行していたらしい。

 とりあえず事情を訊ねるべく彼を根城に連れていった。念のためなのか、ヨガミはわざわざ椅子に縛りつけて拘束した。ヨガミのこうした手際の良さは、おっとーにはなかったものだ。すなおに感心する。

 鬼の性質を引き継ぐあたいにはニンゲンの邪心を視ることができる。ヨガミに言われるまでもなくあたいは優男に視軸を合わせた。するとおどろくべきことに、彼からはなにも立ち昇っていなかった。邪心のまったくない人間を見たことのなかったあたいは、興味を引かれた。

 もしかして、ニンゲンではないのかもしれない。

 疑ってみたりもした。けどヨガミは彼のことをニンゲン扱いしているし、レナだってまるでかぞくのように接していた。ならば彼はニンゲンなのだろう。あたいはふかく考えないことにした。

 なにを話しても優男は朗らかに相槌を打って耳を傾けてくれるだけで、返答がない。反応のうすい相手をまえにし、あたいはなるほど、ふだんの就寝時間をすぎていたこともあり、こうしていつの間にやら浅い眠りに落ちてしまったわけである。

   △△

 なにやらヨガミが、抜け目ないな、と零している。あたいへの小言のようにも聞こえたけども、気のせいだろうか。気づけばレナらしき声まで聞こえている。優男を追ってここまで来たのかもしれない。

 コシコシと目元をこすり、あたいは上体を起こす。

「今なんじ」

 呼びかけると、

「起きたか」

 ヨガミの声が届く。あたいへの応答とも、レナへの報告ともつかない抑揚のない声音だ。

「なんじ?」と繰りかえす。

「もうすぐ日付が変わる。目覚めたならちょうどいい」ヨガミが玄関口からやってくる。あたいのまえでしゃがみ、覗きこむように顔をちかづける。「おまえに頼みがある」

 視線がそろう。ヨガミのひとみは出会ったころから変わらない。底のぬけた孔ぼこのように暗い。見ているといつだって吸いこまれそうになる。

「しばらくレナイさんたちといっしょに行動してくれないか。わけあって俺はレナイさんたちのそばにいることができない。電波を介した接触も極力避けたい。そこでおまえの出番だ。俺がレナイさんたちと連絡を取りたいとき、おまえがレナイさんの代わりに電話口にでて、俺の言葉を伝えてくれ」

「んー?」寝起きにしてはややこしい話だ。「よくわかんない」

「とりあえず顔洗ってこい。それまでにレナイさんに事情を説明しておく。解らないことがあったら彼女に訊け。いいな。荷物もまとめとけよ」

 ほら行ってこい、とおしりをはたかれ、あたいはムっとする。文句を言いたくなったけど、それはそれでガキみたいだと思い、出かかった不平を呑みこむ。洗い場へと向かう。なにもレナの見てるまえで、と腹立たしくなる。

「おっとーにもぶたれたことないのに」

   △△

 水で顔を濡らすとさっぱりした。ついでにツノも磨いておく。ヨガミと出会ってからというもの、ちょぴっとずつであるにせよあたいのツノは、にょもん、と成長を遂げている。これまではなかったシマシマの紋様も浮きでてきて、ようやくおっとーのツノに似てきた。でもやっぱりまだまだちっこいツノだし、一本しか生えていない。

「なんでだろ」

 かつては、ひもじぃ思いをしていたから生えそろわないんだ、と考えていたけども、そういうわけではなかったのかもしれない。現在のあたいはヨガミから邪心を分けてもらっているし、ニンゲンの食べ物だってお腹に詰めこんでいる。

 ひもじぃ思いをしなくなったところで、あたいのツノはほとんど変わらないままだ。

「おっぱいもなぁ」胸に手を添える。「揉むほどないんだもんなあ、あたい」

 せめてレナくらいあったらよかったのに。

「言ったら分けてくれるかなあ」

 よこを向いて、ポーズをとってみる。胸を張ってみたところで「ぽっこりお腹」が目立つだけだ。よせるべき肉もあげるべき重量もない。ああでもない、こうでもない、と体勢を変え、趣向をこらし、揉むのにも苦労するおむねをクリクリいじくり回していると、ふしぎなことにあれま、おっぱいのさきっぽが、ちょこんとでっぱった。

「おー、おっきくなった」

 大発見だ。おっぱいをいじくると、おっぱいのさきっちょがぷっくり脹れる。触るとしかもコリコリしている。

「なにやってんだおまえ」

「んー?」

 振りかえってみると、扉の隙間からヨガミが覗いていた。「準備はできたのか」

 あたいは背筋をぴんとのばしておむねを強調し、

「ほら。おっぱいおっきくなった。さきっぽだけだけど」

 みせびらかす。布地のうえからボタンじみたちっこい突起がふたっつ並んでいる。

「バカやってないで早くしろ。ツノごと乳首もちょんぎるぞ」

「だってぇ、おっぱいがぁ」

「レナイさんたちも待たせてんだ。ぐずぐずするな」

「はーい」

 ちぇ。いっつもこうだ。ヨガミはあたいのおっぱいに関心がない。

   △△

 部屋に干してあった着替えをリュックに詰めこみ、荷作りを済ませる。準備万端でレナのもとにいそぐ。

 現れたあたいを見つけて、レナは、

「ねむくない?」

 からかうように心配する。

「だいじょぶ。いっぱい寝たから」

「よろしい。寝る子は育つんだよ」彼女はあたいからリュックをそっと奪うように、持ってくれた。「しばらくいっしょなんだって。たくさんおしゃべりしようね」

「うん」

 どういう理由からかはよく分からないけれど、あたいはヨガミと一時的に離れ、しばらくレナたちと行動を共にするという話らしい。ちょっとした旅行みたいで、わくわくする。

 挨拶を済ませたレナたちのあとにつづいてあたいも部屋をでる。

「じゃ、いってきまーす」

「ああ」

 ヨガミは部屋からでることなく、扉のまえであたいたちを見送った。「頼んだぞ」

 レナへかけた言葉なのか、こちらへ投げた言葉なのかは、またしても判然としなかったけどもあたいは、

「まかせとけい」

 おむねにこぶしを打ちつけて応じる。小気味よい音が、ぽん、と鳴った。どんとこいやあ、と意気込みすぎたかもしれない。

「あはは。ニオ子ちゃん、たぬきみたい」

 おどろいたようにレナが言った。

 せめて太鼓と言ってほしい。あたいはぽっこりおなかをさすりつつ、

「ちぇ。たぬきだって」

 悪気がないとしりつつも、レナの言葉にこっそり傷ついた。




   ><葦須炭兎><

 いきなり発砲されておいらは傷ついた。肉体的に深手を負い、精神的にも負傷した。

 ほんとうだろうか。

 発砲されたのは事実だ。けどもおいらの肉体は傷ついてなどいないし、そもそもおいらに精神なんて高尚な代物が備わっていると考えるほうがどうかしているように感じる。だから発砲されたところまでが正しく、ほかの認識はことごとく的を外していると捉えるほうが現実的というものかもしれない。

 あの女の情報がほしくて足を運んだだけなのに、彼らはおいらを侵入者だと騒ぎたて、追いかえせないとみるや、いっせいに発砲してきた。

 たしかこの国ではどんな状況であろうと、基本的には発砲を許可されてはいないのではなかったか。おいらは彼らの対応を不審がる。

 駅前に聳える高層ビル群の地下にこの施設は拡がっている。この場所については以前、槻茂さんから世間話として聞かされたことがあった。槻茂さんに仕事を斡旋していた機関の所有する物件の一つであるそうだ。

 自分たちの足元に、地上のビル群とほぼ同規模の建造物が樹の根がごとくに張り巡されていることなど、駅前を雑然とゆきかう人々は知る由もない。病室までおいらのことを訪ねてやってきたあの三人組も、おそらくこの施設から派遣されてきたのだろう。いわば機関の拠点であるようだ。槻茂さんとおいらがこれまでに請け負ってきた幾多の仕事も、その成果や報告書ごと、この施設に集積されていると聞き及ぶ。

 ならばあの女の情報もまたここにあるのだろう、と睨み、やってきたわけだけれども、教えてください、と言ってみたところで、はいどうぞ、というわけにはいかないようだ。おいらは銃撃され、銃口から飛びだした無数の銃弾がおいらの肉体を貫いた。

 でもおいらは傷つかない。肉体を貫いたはずの無数の銃弾は、なぜだかおいらの足元に散らばっており、さながら雹がとつぜん降ってきた、といった具合になっている。

「バケモノ……!」

 おいらを傷つけようとしておきながら彼らはおいらの無事を目の当たりにすると、即座に踵を返し遁走の構えをみせた。

「どうして逃げるんですか。おいらまだ、聞きたいことも訊けてないのに」

 致し方ないので、いちばん手前にいた人の背中を追いかけ、捕まえる。ちょっと見惚れてしまうくらいにスタイルのいい女性だった。暴れないように壁に押しつけて質問する。

「ホテルでたくさん人が死んだじゃないですか。あれの犯人の情報を知りたいんですけど、あなた、知ってますか?」

 ちょっと見惚れてしまうくらいにスタイルのいい女性は、おいらの質問には答えてくれなかった。ただ、ガクガクと震えているばかりで意思の疎通を図ることもむつかしそうだ。蒼白だった顔面も次第にどす黒く変色していく。つよく圧しつけすぎて呼吸困難に陥っているのでは、と思い至る。腕に籠めていたちからを弛める。女性ははげしく咳こみ、それから、ふぅ、とおおきく息を吐いた。

 もういちど同じ質問をしようと口をひらきかけたとき、おいらは背中に痛いくらいの熱を感じた。

 炎だと判った。

 視界がふやけたようになり、遅れてゆらめく深紅が、轟音と共にひろがった。

 壁に押さえつけていた女性が大声をあげた。悲鳴というよりもむしろ呻き声にちかかった。獣のようだな、とおいらは全身をゆらめく深紅に彩られ、しだいに黒く畏縮していく人型を眺めながら思った。

 おいらにも燃え移ったはずだのにいつの間にか、ゆらめく深紅は消えていた。

「死んじゃったじゃないですか。どうしてそういうことをするんですか。仲間じゃないんですか」

 ひざを抱えたようにまぁるく蹲ったかたちでころんと床に転がる、ちょっと見惚れるくらいにスタイルのよかった女性だったものを見下ろしながらおいらは言った。「死んだセミみたいになっちゃって。かわいそうに」

 すくなくとも彼女はおいらにとって敵ではなかった。この施設が槻茂さんにとって司令塔みたいなものだったとしたなら、むしろ彼女はおいらにとって、上司の上司にあたる存在だったのかもしれないのだ。

「むごいことをするんですね。あなたたちも」

 重火器をこちらへ向けて微動だにしない彼らは、さきほどおいらに発砲してきた人たちとはちがって、全身を重層な装備で覆っていた。露出している部位がなく、仮にここでゴジラとウルトラマンがくんずほぐれつ戦いだしても、彼らはけろりとしていそうな佇まいをしている。いや、ゴジラとウルトラマンは言いすぎた。

 じっとしていると、どこからともなく人員が増えていく。餌に群がるハトのようだ。おいらはぐるりと囲まれる。

「そのまま動くな」

「どうしてですか」

 あなたはおいらの上司じゃないのに。

 どうしておいらに指示するの、と疑問を呈する。

「殺しにくい」

「ああ、ですよね」

 納得の理由だ。一斉放射の準備はすでに済んでいるらしく、おいらに指示した重装備の人型が片手をあげた。ぜんいんが引き金にゆびを添えたのが判った。気持ちのいいくらいに統率のとれた動きだ。あとは上げた手が下ろされるだけで、ここは太陽もかくやという惨状に見舞われる。

「そのまえに一つ、訊いてもいいですか」返事を得る前においらは続ける。「ホテルでの殺戮、あれをやった女のひとって、どこに行ったら逢えますか?」

 言いながらおいらは、槻茂さんを吊るしあげ、首を刎ね落としたあの女の言葉を思いだしていた。

 ――あたしはきょうここへは、『外道』の幹部らを皆殺しにするために来たわけで。

 言った彼女は、会場にいたおいら以外の人たちを皆殺しにした。それが彼女の目的だったからだ。でも、それだけで終わりだとも思えない。あれはきっと序章にすぎなかったのではないか。

 だったら、とおいらは閃いた。だとしたら、彼女の目的をおいらが彼女の代わりに遂行してしまえばいい。目的を横どりされた彼女はきっとおいらのまえにそちらから現れてくれるはずだ。

「ここにいる人たちで足りるかなあ」

 この施設がどれだけ広いのかは槻茂さんから聞いた話でしか知らないけれど、地上をのほほんと歩んでいる有象無象ほどは多くはないだろうと思われる。

「ついでに上のも消しちゃおっかなあ」

 騒動は大きければ大きいほど、はやく彼女の耳にも入るはずだ。

 手始めにおいらはまず、目のまえの重装備軍団を片付けてしまおうと思った。

 一歩足を踏みだすと、リーダーらしき重装備の人型は上げていた手を躊躇なく振り下ろした。

 いっしゅんの時間差のあと、

 ゆらめく深紅が渦を巻く。




   〈estinto〉毒親寺ユヅ〈estinto〉

 ニオ子ちゃんのつむじが渦を巻いている。頭のちょうどてっぺんにあるつむじのとなりには、明らかに頭蓋から直接生えていると思しき物体が、生えかけのタケノコみたいに顔を覗かせている。

 ツノだろうか。

 ツノにしてはちいさすぎる気もする。

 レナさんも気づいているようで、気になっているのかさきほどからじっと見つめている。

「――でね、ヨガミってばあたいにこう言ったの。『青鬼は手紙なんて残すべきじゃなかったんだ』って。なにも言わずに消えるべきだったって、そう言ったんだよ」

 童話の「泣いた赤鬼」についての話題であることは僕にも分かった。たしかあれは、人間と仲良くなりたかった赤鬼のために、友人の青鬼くんが一肌脱いだ、といった話だったはずだ。自分を犠牲にして人間と赤鬼の仲をとりもった青鬼くんだったが、当の赤鬼ときたらその恩などしれっと忘れて、人間たちと楽しくやっていた。青鬼くんはそんな赤鬼に、「ぼくがいては、いつか人間たちにきみとぼくの仲がばれてしまうだろう」と手紙を書き残し、旅に出てしまった。手紙を読み、ゆいいつの友人を失くした赤鬼は、泣いて悔やんだというところで話は終わる。

 これを受けて薬尾さんは以前、ニオ子ちゃんに、「青鬼は手紙を残すべきではなかった」と言ったそうだ。

 どういった経緯でニオ子ちゃんがその話を僕たちにしてくれているのかは、彼女の話にずっと耳を傾けていた僕にも分からない。とくに意図はないのかもしれない。薬尾さんの部屋をでて、三人で深夜の街を徘徊しはじめてから、かれこれ一時間は経過している。

「きっと青鬼くんは思いだしてほしかったんだよ」レナさんが言った。レナさんもまたニオ子ちゃんの話の意図を理解しているとは思えなかったけれど、それでも、「ひょっとしたら」と自分の意見を口にした。

「ひょっとしたら青鬼くんは復讐したかったのかもしれないよ。青鬼くんにそのつもりがなかったとしても、残された赤鬼くんのこころには一生消えない傷が残った。だから薬尾さんは、『黙って消えるべきだった』って言ったんじゃないのかな。ほんとうにトモダチのことを想っていたのなら、そのまま忘れ去られるべきなんだって。手紙なんて残さずに、傷つけることなく」

「そうなのかなあ」

「どうなんだろうねえ」

 二人の会話に入れない僕は自然と出遅れ、ふたりの背中を視界に入れられる距離を保って、金魚の糞よろしく歩いていた。

「ということはさあ」くぐもった声でニオ子ちゃんが言った。

「うん?」

「ヨガミ、黙って消えちゃうのかなあ」

 何気ない口調を意識されて紡がれてはいるものの、その言葉にはニオ子ちゃんの不安が凝縮されているように感じた。蛇行運転をするように話を二転三転させながらもニオ子ちゃんはずっと、切り株の周りをぐるぐると回るみたいにして、直截触れずして切り株がどんな状態なのかを確かめようとしていたのだ。

 僕は理解した。

 ニオ子ちゃんは不安なのだ。このまま薬尾さんと逢えなくなるのではないか、と。たとえそれが漠然とした不安であったにせよ、それを無視していられるほどニオ子ちゃんはきっと薬尾さんのことをまだよく知らないままのだ。

「青鬼が消えちゃったみたいに」とニオ子ちゃんは繰りかえした。「ヨガミも消えちゃうのかなあ」

「しかも黙って?」レナさんが相槌を打つ。

「うん。だまって消えちゃうの」

「さあて、それはどうかな」

 ニオ子ちゃんの心中を知ってか知らずかレナさんは、

「薬尾さんはほら」と言った。「青鬼じゃないし」

「あー。それもそっか」

 まるで死を怖がる思春期の子どもに、死ぬまでは死なないんだから安心なさい、と言って聞かせるのに似たハチャメチャな理屈だった。ただニオ子ちゃんにはそれで充分だったようだ。

 まるで同い年のトモダチのようにレナさんとニオ子ちゃんはまっすぐとまえを向いたまま、視線を交わすこともなく、自然と会話を成立させている。

 僕はそんな二人の背中を一歩引いたところから眺めている。

   〈estinto〉

 薬尾さんってどんなひとなの、とレナさんが言った。とくに投げかけるといった感じではなく、ふと生じた疑問をただ口にしただけの様子だった。

「どんなって、どんなだろ」ニオ子ちゃんはチーズケーキを口に運ぶ手をとめ、「んー」と考えこんだ。間もなく、止めていた手を動かして、「よくわかんない」と言った。

「ヨガミはヨガミだし」

 時刻は午前一時を回っており、僕らは始発がでるまで駅前のカフェに入って時間を潰した。

 ニオ子ちゃんが薬尾さんの娘でないことは、すでに薬尾さんの口から聞き及んでいる。ただ、ふたりの関係が具体的にどういったものなのかの説明は受けていなかった。

 それとなくニオ子ちゃんに水を向けようと僕はメディア端末で文字を打って、「薬尾さんとはどうやって知り合ったの」と訊いてみた。

 ところがニオ子ちゃんはまだ文字が読めないらしく、「なんて?」と首を捻られてしまう。

「薬尾さんとはどうやって知り合ったの、だって」レナさんが代わりに訊いてくれる。

「どうして?」

 ニオ子ちゃんは下唇を突きだす。警戒したふうな仕草だ。どうしてそんなことを訊くのか、と訝しがっている。

 なんと答えたものか。

 考えあぐねているあいだに、レナさんが、「だって知りたいじゃない?」と答えてくれた。「どうやってあの堅物そうな薬尾さんをニオ子ちゃんは射とめたんだろうって」

 射とめた、という言葉の真意はさておき、レナさんのそれは本心から知りたがっているときの言い方だった。ニオ子ちゃんはレナさんのその聞き方が気に入ったようで、薬尾さんとの出会いを僕たちに語って聞かせてくれた。

「えっとつまり」

 レナさんがニオ子ちゃんの話をまとめた。「ニオ子ちゃんはむかしスリを働いていて、それを薬尾さんに見つかってしまったと?」

「うん。で、ヨガミってばなんかおもしろそうな性格してたから、付きまとっているうちにこんなんなっちゃった」

 彼女の言う「こんなん」がどんなであるのかが僕にはとんと見えなかった。ただレナさんには伝わっているらしく、「なるほどねえ」と感慨深げに唸っている。

    〈estinto〉

 机が振動した。レナさんのメディア端末が薬尾さんからの着信を伝えている。ディスプレイには「ニオ子ちゃん」と表示されているが、かけて寄こしているのは薬尾さんだ。

「ニオ子ちゃん、出てくれる?」レナさんが端末を手にとり、通話ボタンを押した。はい、と手渡す。受けとったニオ子ちゃんは、どうしていいのか分からない様子で、端末とにらめっこをしている。

「えっとぅ」

「こうやって、もしもしって」

 レナさんの見よう見まねでニオ子ちゃんは端末を耳元にあてがい、「もしもし?」とちっちゃな声で言った。

 ニオ子か。

 薬尾さんの声がうっすらと聞こえた。僕とレナさんは敢えてその声を聞かずに済むようにと、互いの顔を見合わせて意識を散漫にさせる。一方的に用件のみを伝えてくるのか、ニオ子ちゃんは受け答えに専念している様子だ。

 うん、うん、いるよ。

 だいじょうぶ。でんしゃに乗って、それでユっくんの家に行くんだって。

 あー、うん。そこでひとまず作戦タイムだって言ってた。

 時折ニオ子ちゃんは、僕やレナさんに視線を送ってくる。僕はじぶんのメディア端末を使って、「僕たちに何か協力できることはありませんか?」と文字を打った。見やすいように掲げて、ディスプレイをニオ子ちゃんへ向ける。

「なんて?」

 そうだった。ニオ子ちゃんは文字を読めないのだった。

「私たちに何かしてほしいことはありませんかって」レナさんが代弁してくれる。「薬尾さんに訊いてみて」

「何かしてほしいことはないかって、レナが言ってる。うん、うん。え、何それ? えー、あたい聞いてないよ。あーそうなの。うん分かった。そう言えば分かるんでしょ。うんうん。あい。わがままなんて言ってないよ。もういいでしょ。ヨガミしつこい。あい。ばいばい」

 通話を終えたみたいだ。端末をレナさんに返してニオ子ちゃんはぼやいた。「ヨガミってば、あたいがわがまま言ってレナたち困らせてるって決めつけるんだよ。あたいもう、おこちゃまじゃないのに」

 その言い草があまりに幼いころのレナさんに似ていたので僕は思わず噴きだした。

「なに」睨みつけられてしまう。「言いたいことがあるならちゃんと言って。ユっくんてばしずかすぎるよ」

 レナさんの影響なのか、ニオ子ちゃんもまた僕のことを「ユっくん」と呼んだ。拒否する謂われはないけれど、はがゆいのはなぜだろう。

「ねえニオ子ちゃん」レナさんが呼びかける。「薬尾さん、なんて言ってたの」

「ちゃんとイイこにしているかって」ニオ子ちゃんは唇を窄めた。「あと、ちゃんとはぐれないでレナたちと一緒にいるかって。それから、周囲にフオンな気配はないかって」

「あとは」

「あと? ないよ」

「ほら、私たちに何かしてほしいことはって、あれ」

「あ、そっか。なんかね、レナたちにはたいせつなものを預けてあるから、それ頼むって言ってた。言えば分かるって。何かは知らないけど。あー、そうだよ、ねえ何なの? ヨガミのたいせつなものって。あたいにも見せて」

 もちろん僕たちは薬尾さんからそんな代物を預かった覚えはない。ただ、薬尾さんの意図は理解できた。理解できただけに余計に腹立たしかった。なにが頼むだ。本当にたいせつだと思っているのなら、死んででもじぶんの手で護りとおすべきだ。

 じぶんの怯懦な性格を差し措いて僕は心のなかで糾弾する。薬尾さん、あなたは卑怯だ。じぶんだけ傷付かずに、きれいなままで終わらせようとしている。

 同族嫌悪なのだろう。分かっている。僕はそれを認めたうえで、やはり薬尾さんを許せそうになかった。ぜったいに文句を言ってやろう、と決意する。と同時に、

 ――じぶんにできないことを他人に求めるな。

 脛木さんの声が聞こえた気がした。いつか聞いたことのあるような言葉だった。僕の歪んだ義憤を脛木さんはひと目で見透かして、またぞろ説教の一つでも垂れるのだろう。

 ――批判するのはかってだが、それでおまえに何が残る。

 皮肉なものだ。他人になにかを求めることのできる完璧超人みたいな脛木さんが、けっきょくのところいちばん他人に何も求めていないのだから。

 いったいどこで何をしているのですか。

 求めてほしいと思っている僕やレナさんにも黙って、あなたは。

 こうして僕はどうしよもなく、脛木さんに求められたいと求めている。求めているだけでは何も手には入らないというのに。じぶんではなにもしようとはしない僕には他人に何かを求める資格なんてない。こんな僕が求めたところで、脛木さんが僕を頼ってくれるはずもない。

 レナさんとニオ子ちゃんの横顔を視界に入れつつ僕は手元の珈琲をひと口に呷った。

 僕は変わりたかった。変わろうと思った。いつだって思うだけだった。けれどもう、思うだけ、はやめにすることにする。

 まずは目前の課題を片付けることからはじめよう。手始めに、薬尾さんにニオ子ちゃんを突き返して、「ロリコン野郎!」と描いた段幕を街中で振ってやろうと考えた。レナさんがそれくらいの奇行をしでかしたところで薬尾さんはさほど動揺しないだろうが、それをするのが僕であったなら、あたふたするくらいはしてくれるかもしれない。

 感情の起伏をまったく感じさせない沈着冷静な薬尾さんが取り乱すところを想像してみると、案外にちゃめっ気のある父親の像が浮かんだ。我ながらこれはよい考えだ。なんだか溜飲のさがる思いがする。ここ最近、下降の一途を辿っていた気分がすこし上向きになった。

「ほら見てニオ子ちゃん。ユっくんが私たち見てニヤニヤしてる」

「ほんとだ。子猿みたい」

 キモチわるいね、とレナさんが僕をゆび差して笑った。 




   STP舘尚レナイPTS

 赤く点滅している矢印をゆび差して私は言った。「これが薬尾さんの現在地。すごいスピードで移動してるでしょ。線路から外れてるっぽいし、きっと飛行機に乗ったんだね」

 画面から目を離してユっくんがこちらを見た。ニオ子ちゃんは食い入るようにディスプレイを見詰めている。

 行先は分かりますか、とユっくんの瞳が訴えてくる。

「これだけだと関西方面ってことしか分からないよね。海外ってことはなさそうだけど。薬尾さん、どこ行くつもりなんだろ」

 駅構内では始発を待つ人がちらほらいた。空はすでに薄ぼんやりと明るい。仰ぎみていると天井の吹き抜けからにわかに差しこんできた朝陽に、目がくらくらした。眠気のせいもあるかもしれない。長い一日だった、と急に疲労を覚える。

「ヨガミ、置いてったんだ。あたいのこと」

 恨み言をつぶやくでもなくニオ子ちゃんがぽつりと零した。彼女のそれは半分正しく、半分間違っている。でもいまはそれを訂正してもあまり意味がないように思えた。

 財布を振ってユっくんに、切符を買ってきて、と暗に伝える。頷いたあとで彼は、付け加えるように眉根を寄せて小首を傾げた。行き先はどこにしますか、という意思表示だ。

 そうだった、と考える。どこへ行こう。

 なにげなく周囲を見渡す。柱に埋めこまれた液晶画面に目がとまり、私はそれをゆび差して、「あそこで」と小声で指示した。ユっくんは頷いて歩いていく。

 さてと。

 遠ざかるユっくんの背中を見送ってから私は、

「ニオ子ちゃん」と呼びかける。

 反応はない。

 もういちど呼びかけ、俯いているニオ子ちゃんのしもぶくれたほっぺたを両手で挟んで、「元気だしなよ」と顔をあげさせる。「これからは私たちと一緒だよ。おいしいものだってたくさん食べられるよ。わがままだっていっぱい言ってくれていいからね。だからさ、あんなクラーイ男のことなんて忘れちゃいなよ」

「へ……」ニオ子ちゃんの顔から表情が消えた。私はやさしく微笑みながら、

「ニオ子ちゃんはね」

 畳みかけるように、ひどい言葉を口にする。「置いていかれたんじゃないよ。捨てられたんだよ」

「う……うそだぁ」

「うそじゃないよ――って、言ったらどうする?」

 きょとんとして彼女は、すぐに顔を歪めた。

「やだぉ。あたい、そんなのやだぁ」

「イヤなの?」

「あたい、ヨガミがいい。レナはトモダチ。家族じゃないもん」

「でも薬尾さんはここにいないんだよ」

 貸してあげたメディア端末を持ちあげてニオ子ちゃんは、ディスプレイに表示された赤い点をゆびで示した。

「ここ。ここにヨガミいるんでしょ。あたい、会ってくる。会って、ヨガミにちゃんとイイコにしますからって、おねがいしてくる」

「おねがいするだけじゃ、たぶんダメだと思うなあ」

「じゃあどうしたらいいの」

 縋るような瞳で見上げてくるニオ子ちゃん。私はしゃがみ、目線を合わせてから、

「怒らないと」

 微笑み、やさしく教える。「一発殴りとばすくらいしなきゃダメ」

 切符を購入し終わったのか、視界の端にユっくんの姿が映った。到着するのを待ち、

「ちょうど良かった」

 彼から切符を二枚受け取って、そのうちの一枚をニオ子ちゃんに差しだす。

「怒りに行こう。今から追いかけたらきっと追いつけるよ」

「どこに?」

「京都」

「きょーと? ヨガミ、そこに向かってるの?」

 確証などない。飛行機で移動中の薬尾さんの現在地からして、着陸先は関西国際空港で間違いないだろう。現状出揃っている情報では、そこから薬尾さんがどこへ向かうのかなんて推測できるはずもない。行き先が京都なのは単なる私のあてずっぽうだ。

 でも。

「いるよ。京都に」確証なんてない。あるのはただ、彼がそこに向かっているという確信だけだ。「解っちゃうんだよね。なんとなく。勘だけど」

 訝しげな表情でニオ子ちゃんが切符をゆびさきでもてあそんでいる。私は彼女の答えを待つ。

 こちらのやり取りを黙って見守っていたユっくんがおもむろにメディア端末を取りだした。文字を打っている。打った文章をいちどニオ子ちゃんに見せるものの、彼女が字を読めないことを思いだしたのか、苦笑を浮かべながら端末を仕舞った。

 するとこんどはなにを思ったのかユっくんは自動販売機で缶ジュースを購入した。三本だ。こちらに手渡す前に彼は自分の分を飲み干し、ニオ子ちゃんの肩を叩いて、見てて、と目で訴えた。

 いちど空き缶をゆび差したユっくんは、そのゆびを私に向け、それからふたたび空き缶に戻し、そのまま小突くように頭に空き缶をぶつけた。一回、二回、三回、と何度も。

 実に分かりにくいジェスチャーだが、私には解った。ユっくんはニオ子ちゃんにこう言いたいのだ。

 彼女の、缶は、よく当たる。

 私だから解るようなものを、それをニオ子ちゃんに理解しろというのはちょいと無理がある。私の失笑をよそにユっくんは、だからだいじょうぶですよ、とニオ子ちゃんをあやすように目を細める。

「ねえ、レナ」素朴な調子でニオ子ちゃんが言った。

「ん?」

「ユっくんが、こわれた」

 戸惑った表情を浮かべてニオ子ちゃんは、目のまえのユっくんをゆび差した。動物園で見たこともない生き物を目の当たりにした子どもが、おとうさんあれなに、とおっかなびっくり訊ねるのに似た雰囲気がある。

「そうだね。こわれちゃったね」笑いを堪えつつ、私は同意する。「でも、さいしょからだよ。ユっくんがこわれてるのは」

 見遣るとユっくんがお預けを喰らった子犬みたいな顔をしている。一丁前に傷付いた顔をみせたユっくんがおかしくって、私はこんどこそ声をあげて笑った。

   STP

 ユっくんの購入してくれた切符は新幹線ではなく、リニアモーターカーの搭乗券だった。

「大阪まで四十分だって。すごいね」

 これなら下手をすると薬尾さんよりもはやく京都に到着するかもしれない。

 窓際の席に座ったニオ子ちゃんは、落ち着きがない。きょろきょろと首を回して、せわしなく車両内を見渡している。どこか赤べこを連想させ、かわいらしい。出発してからしばらくはトンネルがつづき、窓のそとには、高速で遠ざかっていく電灯が、あたかも点滅しているみたいにパラパラと映っていた。

「薬尾さんてさ、なにしてるひとなの?」

 ふと思いつき、訊いてみた。またぞろ電子書籍でも読んでいたのかユっくんはメディア端末から顔をあげ、それからニオ子ちゃんに顔を向ける。彼女は持ち運んだ駅弁を無心で啄んでいる最中だった。

「なにって?」

「お仕事とか」私は具体的に言いなおす。

「しごとー? なんだろ」箸の手をとめずにニオ子ちゃんは、「してないと思うよヨガミ」とユっくんからもらった缶ジュースを手にとって、口元に運ぶ。こくこく、とおいしそうにのどを鳴らす。

「じゃあどうやって食べてるの」

「んー?」

「たとえば端末とか、どうやって月々の契約料とか支払ってるの」

「お金のこと?」ニオ子ちゃんは口に入れた箸を、名残惜しそうに引き抜く。

「そ。お金とか」

「お金かあ」手を止めて箸をひざのうえに置く。「ないなあ」

「ないの?」

 たしかにお金持ちにはみえないが、無一文にみえるほど貧しそうでもない。ふふ、とよくわからない陽気が鼻から漏れる。そんなばかな、という気持ち半分と、薬尾さんならありえそうだ、という気持ちが半分で構成されたおかしさだ。

「ホントにないの」と訊きかえす。

「うんないよ。でもさ、ないならあるところからもらっちゃえばいいんだ」

 持っていなければ、持っている人から貰えばいい。なるほど。いっしゅん納得したかけたじぶんがいたが、待て待て、これはお金の話だ。遠足で弁当を忘れたときの話とはわけがちがう。

「それって、泥棒さんってこと?」

 咎めるような口調になってしまったからか、ニオ子ちゃんの表情が固くなった。ギクりと効果音が聞こえてきそうな具合だ。

「あ、まちがった。そうじゃなくってぇ」

 目玉をぐるりと回すと彼女は、

「あ、そうそう」

 思いだしたふうに言った。「たまに霊媒師の真似ごとしてるよ、ヨガミ」

「霊媒師?」

「うん。あたいもお手伝いとかあ――」

「してるの? うそ吐いちゃダメだよ」

「あ、まちがった。あたいはその、ジャマにならないように」

「見てるだけだ?」

「見てるだけかも」

「それはお手伝いとは言わないんだよ、ニオ子ちゃん」

「だってぇ」

 むかしスリを働いていたという話を聞いたばかりだ。更生しているとは言いがたい現状であるらしい。

 メディア端末を開いて、薬尾さんの現在地を確認する。空港を出たのか、薬尾さんを示す赤い点の移動速度が急激に落ちていた。移動していることにちがいはなく、線路伝いに流れていることから、どうやら私の読みどおり京都方面の電車に乗りこんでいるらしいと判る。

「あ、そうだ」こんどは本心から思いだしたようにニオ子ちゃんが言った。「ヨガミ、なんか探し物してるって言ってた」

「探し物? なんだろ、どういうの?」

「なんか、なんでも切れる……包丁、だっけ?」

「だっけって、訊かれてもねえ」

「よくわかんない。だってヨガミ、自分のことしゃべんないんだもん」

「ユっくんより?」

「んー。どっちもどっちだよねえ」

「あはは。だってよユっくん」

 投げかけると、ユっくんはやさしい目のまま顔をしかめ、ゆびでほっぺたをぽりぽり掻いた。さしずめ、心外ですねえ、とでも言いたいのだろう。

 あーだこーだ、とニオ子ちゃんとおしゃべりしているあいだに車両は大阪の「リニモステーション」へと滑りこんだ。

   STP

 大阪へ来たのは初めてだ。旅行気分というほどではないにせよ、見慣れぬ土地に降り立ち、知れず胸が高まっている。

 近未来をコンセプトにしているのか、駅の構内は、宇宙ステーションを彷彿とさせるつくりになっている。高い吹き抜けの天井は、一見すればガラス張りのようで晴れやかな空が覗いているが、その実、ここは地下であり、頭上のそれは巨大なディスプレイに投影された映像でしかない。刻々と変遷する幻想的な雲がうねりだし、あたかも標高三千メートル級の山の頂にいるような錯覚を抱かせる。

「ヨガミ、ここにいたら会える?」

 改札口を振りかえってニオ子ちゃんが、流れるように出てくる乗客を眺めていた。そこから今にも薬尾さんが現れるのではないか、と期待半分、不安半分に身構えている様子だ。

「会えるよ」肯定してから私は言った。「でも、ここじゃないんじゃないかなあ。薬尾さんはたぶん、もっと賑やかなところにいると思う」

 私の勘が囁いている。薬尾さんは京都の中心街に向かっているのだ、と。

「それも、カン?」

 見透かされているようだ。ニオ子ちゃんは不満そうに唇をすぼめている。目が笑っているので、そこまで不服というほどでもなさそうだ。どこか仕方がないと諦観しているふうでもある。

「私の勘はよく当たるらしいよ。ユっくんのお墨付きだもの」

 言って私は背後にいるだろうユっくんに振り向いてみせるものの、そこに彼の姿はなかった。

「ありゃ?」

 周囲を見渡してみる。見つけられない。「あっれぇ……どこ行ったのさあ、もう」

「あそこ」ニオ子ちゃんが裾を引っ張って、教えてくれる。

「え、どこ」

 ニオ子ちゃんのゆび差した方向を視線で辿る。距離にしてざっと三十メートルほどの地点に、売店がある。

「ホントだ。あんなとこにいた」

 目を凝らしてもよく見えない。言われてやっとそこにユっくんがいる、と判る程度だ。

「それにしてもニオ子ちゃん、よく見つけたね。目、いいんだ?」

 感心してみせるとニオ子ちゃんはよく分からないといった調子で、

「んー?」

 首をひねった。

   STP

 ユっくんは一人ではなかった。中肉中背の、どこにでもいそうな特徴のない男と、口論になっている。といってもユっくんはしゃべれないので、一方的に捲くし立てられているだけだ。

「どうしたの」

「なんだおまえ。こいつのツレか」

 間近で見ると、男は案外に粗暴そうな面だった。

 高圧的な口調は、興奮しているからというよりもどちらかといえば生来のものに思えた。獲物をまえにした蛇が舌をだし、シャーと威嚇するような迫力がある。が、脛木さんほどではない。

「まあツレですね」と認める。「なにか御迷惑をおかけしましたか。うちのツレが」

 こちらを見遣ってユっくんが、ツレツレ連呼しないでください、と目でたしなめてくる。

 じっと見詰めかえしてから、見なかったことにする。

「ご迷惑どころの話じゃねえよ。急に文句ありげな面で絡んできやがってよ。かといって何か言うわけでもなしに、何なんだこいつ」

 こういうことは稀にではあるがこれまでにも幾度かあった。ユっくんは他人の心が読める。警戒心のつよいユっくんは人通りの多い場所に身をおくとき、たいがいその能力を行使する。通りすがりの人の心を読み、そこに心の読めない人物がいないかを確認する。つまり、能力者がその場にいないことを確かめようとする。

 だがときにユっくんの意に反して、心の読めてしまった人物の心象に、引っかかりを覚えるキィワードが昇っていることがある。たとえば、殺してやる、といった殺意などは割りと強烈に伝わってくるそうだ。

「ユっくん、どうしたの。この人がなに?」

 またぞろ彼は他者の心を覗き、そこに看過できないキィワードを見つけてしまったのだろう。以前、ユっくんは指名手配された凶悪犯を見つけ、ちょっとした騒動に私を巻きこんだ前科がある。

「あ? もしかしてしゃべれねえのかよこいつ」

 男が眉を曇らせる。忌々しそうな顔だが、おそらく男にユっくんを蔑む意図はない。ペンギンを見てもこの男なら同じ表情で、なんだよ飛べねぇのかよ、と吐き捨てそうだ。なんだかわいいじゃねえかよ、と。

「そうなんです。彼、しゃべれないんです」

 言いながら私は男に背を向ける。ユっくんと向き合い、もういちど、どうしたの、とこんどは声にださずに問い質す。

 ――彼、脛木さんを知っています。

 メディア端末をいじってユっくんが教えてくれた。こちらの動作が不穏に映ったのか、すかさず男が、「なんだって?」と背後から首をつっこんでくる。

 ピッチャー返しよろしくその首を捻りあげるように胸倉を掴みあげて私は、

「あんた、脛木さんを知ってんの!?」

 可能なかぎり穏やかに訊ねた。

 ぎょっとした様子でユっくんが止めに入ってくる。どうどう。興奮した馬の胴を撫でて宥めるのにも似たその仕草に私は、瞬間的にカチンときた。

「ちょっとユっくん、邪魔しないでよ」

 怒鳴ると、子猿のような顔で畏縮する。かわいい顔してずるい。指弾したくなるが今は我慢だ。ぐっと呑みこんだ毬栗のような感情を、代わりに男へ向けて吐きだした。

「脛木鯉沙っていうの。知ってるんでしょ、教えて。いまあのひと、どこにいるの」

「はぁ?」

「しらばっくれてもいいことなんてないからね。白状なさいよ。でないとあんたの家族がどうなっても知らないんだから」

「おいおい、嬢ちゃん。威勢がいいのは結構だが、なにか勘違いしてないか」

「うるさい黙って。あんたがしゃべっていいのは脛木さんについての情報だけ。それ以外の発言はすべて私への暴言と見做す」

「ああそうかい。なら言わせてもらうが、嬢ちゃんな」

 そこで男の顔から表情が消えた。

「ふざけんじゃねえぞ」

 凄むでもなく凄むその言い方が私のよく知る脛木さんのものとそっくりだったので、私はあっけにとられた。面食らったこちらの心情などお構いなしに男は、おれはな、と続ける。

「おれはな、これから急ぎ、やらなきゃならねえことがあんだよ。人の命に関わることだ。しかも一人二人なんてケチくせえ、ちぃせぇ話じゃねえ。それこそ、この国の未来に関わってくる重大な案件だ。それをどこの馬の骨とも知らねえおめえらに足止めされて、ことの成り行きが左右されるなんてぇのはな、言ってみりゃ像が蟻んこに行く手を阻まれるくらいにあっちゃならねえことなんだよ。解るか、嬢ちゃん。おまえさんは今な、あっちゃならねえことをしでかしてくれてんだよ。奇跡みたいなもんだよなあ。たまげたなあおい。たまげすぎてびっくらこいちゃったじゃねえかバカやろう」

 途中で何を言いたかったのかを忘れてしまったのか男は、最後のほうになると噴きだすような口吻で言いきった。

「バカやろうっていうほうがバカなんだ」

 なんとも締まらない口論に、知れず私も噴きだしていた。




  

   3Λ07伊乃葉衣子

 さよならかもしんない、と電波越しに告げられ、私は思わず噴きだしていた。

「ちょっと待ってチカ。急に掛けてきたかと思えばなに。いったいなんなの」

 時刻は深夜を回っている。眠っていたところを非通知での着信に起こされた。ふだんなら無視しているところだったけれど、気になって出てみたところ案の定、チカからだった。

「ねえ、カナコもそこにいるの? 無事なの? ねえ、どうしてもっと早く連絡してくれなかったの。一昨日だって急にかけてきたかと思ったら電話、途中で切れちゃうし。心配したんだよ」

「ごめん。でも、なんかこっちもバタバタしちゃってて」

「火事でしょ? ニュースで観たよ。チカたちの泊まってるホテルの近くだって聞いて、ホントに心配したんだから」

「そっか、火事ってことになってるんだ」

「火事じゃないの?」

「いや、火事だよ、火事。ごめん、ニュース観てなくって」

「どうして? 巻きこまれたわけじゃないんでしょ」暗に、だいじょうぶなんでしょ、と訊いたつもりだ。

「時間なくて」とチカは言った。はにかんだ顔が目に浮かぶ。

「どうしたの。元気ないみたいだけど」

「うん、ちょっとね。カナコのやつが」

「カナちゃん? カナちゃんがどうしたの」

 そうだよ、無事なの? 「ねえ、チカ今どこにいるの? わたし、迎いに行こうか?」

「いい、いい! 来なくていいから。というより、イッコはしばらくそこにいて。旅行とかもしばらく行っちゃダメだから。あと、ないと思うけど、うちらのこと捜そうとか、そういうこと、ぜったいにしないで」

「しないよ。だって帰ってくるんでしょ?」

「うちらはだいじょうぶだから。だから、おねがい」

「ねえ、さっきからなんの話?」わたしはちょっぴり険のある声をだす。「からかってるなら、怒るよ。何度も言うけど、ほんとうに心配してたんだから」

「ごめん。解ってる。ああちがうかも、解ってなかったかもしんない。だから、イッコがそんなに本気で、怒るくらい心配してくれてて、うち、うれしいもん」

「どうしたのチカ。なんかヘンだよ」

「だいじょうぶ、なんでもない。というより、うちがヘンなのは元からでしょ」

 チカのそのジョークにわたしはちょっぴりホッとした。「そうかも」

「とにかく、しばらくそっちに戻れそうになくて。連絡も、たぶんできなくなると思う。だから、その」

 チカはそこで言葉を切った。「その、なに?」せっかく緩んだ気が、ふたたび張りつめる。

「うん。さよならかもしんないって、それだけ言いたくて」

 こんどは笑えなかった。

「そういう冗談、わたし、好きじゃない」

「ごめん」

「むしろ、嫌いかも」

「ホントに、ごめん」

「ねえ。泣いてるの」

 鼻をすする音が聞こえている。

「ちがう。花粉症」

「季節はずれだよ」

「じゃあ、アレルギー」

「じゃあ、ってなに」

 笑うとチカも笑ってくれた。「実はうち、ネコアレルギーなんだ」

 笑いながらチカがしゃくりをあげている。チカが落ちつくのを待って、わたしは言った。

「なにがあったのかは知らないけど、わたし、待ってるから」

 いったん区切り、ちょっと迷ってから、

「チカたちの、お土産」と付け加える。「八つ橋の、あんこないやつ」

「お土産かよ」

「お土産だよ」

「……イッコさあ」

「なあに」

「それ、ひどい」

 そうだろうか。「理由も言わないでさよなら言うひとに言われたくないかも」

「ごめん」

「謝罪なんてほしくないんだよ、わたし」

「うん。だね。さよならはやめた。やっぱりさっきのうそだから」

「だと思った」

「任せて。だいじょうぶ。カナコはうちが止めるから。イッコはそこで待っててよ」

「なにを?」

「八つ橋を」

「あんこないやつだよ」

「わかってるって。皮だけのやつね」

 楽しみにしてて、と言い残してチカはかけてきたときと同じように、一方的に、通話を切った。

 部屋のなかの静寂が耳に痛い。シンと静まりかえった暗闇が、わたしはいま独りなのだ、という実感を浮き彫りにさせる。

 さびしいな、と思う。

 見計らったように冷蔵庫がぶぅんと唸り声をあげた。励ましてくれているつもりなのだろうか。あいにくと静寂が強調されただけだった。中古品にしては長持ちしている冷蔵庫だ。つぎに戻ってきたら、買い換えちゃおっかな、といじわるく思う。

「さてと」

 のそのそとベッドから抜けだす。ひとつおおきく伸びをしてからわたしはさっそく京都へ行く身支度をはじめる。

 カーテンを開ける。まだ陽の昇らない夜空が、それでも全体的にぼんやりと発光してみえた。眼下には、天地がひっくり返っているみたいに、眠らない街の煌々とした明かりが、まるで満天の星空のように輝いている。




  

   ○~神津戒

 まるで、夜中の信号機みたいにおねぇさんがぼぉと明るくかがやいている。蛍みたいにポワポワしながら、それでも時間が経つごとにその光の濃さをつよくしていく。

「どうしちゃったんですか」

 見るからにただ事ではないおねぇさんの様子にぼくはただオロオロするばかりで、なにもしてあげることができずにいる。

「カイちゃん、どうしよう。こりゃ思ってたよりもマズい事態になっちゃってるよ」

 遠くを眺めるような目つきでおねぇさんが、虚空を見つめている。あたかもそこに被災地の映像が流れていて、それを見ながら、どうすることもできずにただゆびを咥えて、たいへんだ、たいへんだ、と事態だけを重く受けとめているみたいなもどかしさが見てとれた。

「おねぇさん、爆発したりしないですよね」

「えぇえ! わたし! 爆発しちゃうの!?」

 どうやらそうならないようなので、ぼくはホッと息を吐く。ひとまずさいあくの展開にはならずにすみそうだと、むねを撫でおろすしだいだ。

 数分前のことだ。

 すやすやと心地よく眠っていたところ、まぶしさを感じた。不快感を覚えたので目を覚ましてみると、全身を発光させたおねぇさんが、こちらを覗きこむようにぼくの枕もとに、ペタンとお尻をつけて座っていた。

 ベッドから降りずにぼくは身体を起こす。ひざを抱えておねぇさんと対面になるように座る。肌寒かったので毛布を頭から被り、おねぇさんに何が起きたのかを訊ねてみた。

 するとおねぇさんは、「カイちゃん、マズいことになっちゃってるよ」と要領の得ない返答でぼくを困らせた。全身を発光させながら、良くないことになっちゃってるよ、なんて言われたら、ぼくだって取り乱すのに大わらわになるのも致し方ない、とぼくは見なすものだ。でも、爆発するようなことはないようなので、ひと安心だ。

   ○~

「マズいことって、なんですか」

「マズいことは、マズいことだよ。わたし、アイツだけならなんとかできると思ってたんだ。でも、なんか、わけわからんヤツがいろいろ引っ掻きまわしてて、そっちのほうが今はマズいかもしんなくて」

「アイツって誰のことですか」

「ああ、クソぉ! 全滅しやがった! せっかく上質な〝家〟だったのに!」

「話がぜんぜんみえないのです」説明を要求します、とぼくはパジャマの襟をただす。

「ああ、どうしようカイちゃん。わたし、今すぐにでも飛んでいきたいのに」

「飛べるのですか?」

「シクったなあ。カイちゃんがちょっとわたし好みのかわいいかんばせしてたからって、なにも〝わたし〟が入ることもなかったんだよなあ。欲張ったあ!」

「おねぇさん。ぼくにも解るようにしゃべってくれませんか」

「もう、カイちゃんってばうるさい」おねぇさんがぼくのほっぺをゆびでつまんでくる。つきたてのアツアツのおもちに触れるみたいな慎重な手つきで、

「こんなかわいいかんばせしといてさ」

 むぎゅむぎゅとゆびに力を入れたり弛めたりする。「そのくせとっても小憎たらしい性格してて、こんなんだったら〝あっちのわたしのどれか〟に任せときゃよかったよ――って、話! どうだ、わかったか!」

「ふぁかりふぁせん」

 分かりません、とぼくは言ったつもりである。なんとかおねぇさんを説得しようと、

「おふぃふいてふがさい(おちついてください)」

 おねぇさんがほっぺたを離してくれるまでぼくは、ふがふが、と子ブタさんみたいに鳴きつづけるのだった。

   ○~

 夜中に施設を抜けだすことは、ぼくたちにとって、やってはいけないことリストの第三位にかがやく重罪である。ちなみに第二位は仲間を哀しませることで、どうどうの第一位はみんなだいすきキムラさんの、杏仁豆腐を冷蔵庫からとりだして、かってに食べてしまうことだ。

 ぼくはこのやってはいけないことリストを一つも破ったことがない。だので一度くらいは破ってみても大目にみてくれるのでは、とあわい期待を寄せている。ただ、どうころんでもキムラさんは大目にみてくれないこと山のごとしなので、これまでは行動に起こしてこなかった。

「京都でよいのですか?」

「いいよ」

「でもどうやって行きましょう」

「駅までの行き方、分かる?」

「わかりますよ」

 わたしを京都へ連れていけ、とおねぇさんが言いだしたのは、おねぇさんの光る身体が、その光を増すことなく一定の明るさに保たれてからのことだった。

 どうして京都へ行きたいのか、なぜおねぇさんはそんなにもまぶしいのか。ぼくは次から次へとポコポコ弾けでてくるポップコーンみたいな疑問をおねぇさんへ一つずつ、数珠つなぎにぶつけた。するとおねぇさんは、

「なぜ京都かって? そりゃカイちゃん、わたしがそこに行きたいからだね」

 と、答えになっていない答えを言ってぼくを困らせ、

「どうしてわたしがこんなにまぶしいのかって。そりゃカイちゃん、ちみがわたしに惚れているからだね」

 と、おかどちがいな答えでぼくを呆れさせた。

「とりあえず、京都へ行きたいのですね」

「カイちゃんがわたしをはやく祓ってくれないから」

 まるでぼくのせいでこんなことになったのだ、といわんばかりにおねぇさんはアマガエルみたいにぷくぅとふくれた。じつに堂に入ったふくれ具合である。おねぇさんは拗ねるのがとてもじょうずだ、とぼくは高く評価するものだ。

   ○~

 施設の職員さんであるキムラさんを怒らせるとこわい。でもぼくは、こわい目に遭うことを覚悟で施設を抜けだした。

 目指すは京都である。

 まずはそこへ辿りつくために、駅へと歩を向ける。

 地下鉄の駅なら施設から歩いて十五分の距離にある。ぼくの通う小学校よりもちかいくらいだ。ただ、地下鉄で京都まで行けるのだろうか。なんだかあやしい気もする。

「ところでカイちゃん」ぼくの不安などお見通しのようでおねぇさんは、「駅といっても地下鉄のじゃないからね」と言った。「新幹線――いや、リニアのほうがいいかも分からんね」

「なるほど、リニアモーターカーでしたか」

 やっぱりな、とぼくは足をとめて、

 イチ、ニ、サン。

 くるり、とリズムよく回れ右をする。

   ○~

 深夜にそとを出歩くなんて、ぼくには初めての体験である。

 シンとしずまったよるの街並は、昼間に歩くときとはおおちがいで、まるでべつの街にみえた。迷子にならないように気をひきしめて歩くのがよいぞ、とぼくは考えるしだいだ。

「カイちゃんさあ。もしかして歩いて行くつもり?」

「駅までですか? そうですよ。ざんねんながらぼくはまだ、じてんしゃには乗れません」

「あのさあ」おねぇさんがひときわ大きく息を吐く。「きみの向かおうとしている駅は、ここから三十キロちかく離れているわけね。で、きみはただでさえちいちゃな身体に、ただでさえちんまりあんよを生やした、いわば歩くキノコちゃんなわけだ。そんなキノコちゃんが三十キロを歩くとなると、さて、辿り着くまでにどれだけの時間がかかるでショーか」

「クイズですか?」

 ぼくは想像してみる。水玉模様のキノコちゃんがとおい道のりを、テトテト歩いている姿を。

「ざんねんながら」ぼくは言った。「キノコちゃんは途中で干からびてしまって、辿り着けませんでした」

「ほらね」ぼくの答えに丸つけもせずにおねぇさんは、「言わんこっちゃない」と我が意を得たりとばかりにぼくの鼻をつまんだ。「歩いて向かうなんてキノコちゃんには無理なんだ」

 顔をふって、おねぇさんのゆびから脱する。「ぼくはキノコちゃんではありません」

「カイちゃんもキノコちゃんもおんなじだよ。きみは干からびるね。ぜったいに干からびる。しかもお湯に浸けても、もとには戻らない。こりゃたいへんだ」

 ふうせんを針先で突っついて、今にも割れそうなところを見せつけて、ハラハラさせるようなイジワルな言い方だった。いたずら小僧に塩を投げつけられたナメクジさんのきもちはこんなかもしれない。ぼくのゆいいつ苦手な生き物であるところのナメクジさんではあるけれど、今なら握手を交わして仲良くなれそうな気がする。

「なら、どうすればよいのですか」じてんしゃに乗れないぼくは、もちろん、じどうしゃにだって乗れない。「走るのはよいですけど」と、ぼくは思いついた最終手段を受け容れるつもりで、でもそれに問題があることを前もって断っておく。「ぼくはおねぇさんが思っているよりもよわいですよ。走れても、二キロがやっとこさです」

「そりゃあ、よわっちいねえ」

「ぼくは、よわっちいのです」

 おねぇさんは気をわるくしたふうでもなく、イシシ、とおかしそうに笑った。マズい事態が解決したわけではなさそうだけれど、解決するために行動を起こせていることにおねぇさんはひとまず安心している様子だ。

「わたしはべつにカイちゃんの体力には期待していないよ。だいじょうぶ。こういうときはね、タクシーという都合のいい籠に乗っちゃえばいいのさ」

「タクシーですか」

 すごくよい考えに思えた。でもすぐに、お金を持っていないことに思い至る。お母さんのつくってくれた革の財布をぼくは肌身はなさず持ち歩いているので、小銭くらいはあるのだけれども、買えても缶ジュース三本くらいが、やっとこさである。

「だいじょうぶ。わたしに任しといて」

 おねぇさんはやわらかそうなふくらみを湛えたおむねをドンと叩いて、大船に乗ったきもちでいるといいよ、と言った。

   ○~

 リニアモーターカーの駅は、「リニモステーション」というのだそうだ。ぼくはそれをタクシーの運転手さんから教えてもらった。

 おねぇさんの案で、まずは地下鉄の駅まで行った。バスターミナルのわきにタクシー乗り場がある。

「お金、ぼく、ほんとうに持ってないですよ」

「だいじょうぶ。お金も心配もいらないから、さっさと乗りこんじゃお」

 ノリノリのおねぇさんに反してぼくは、いまさらながら、だまって施設を抜けだしてきたことへの罪の意識に苛なまれていた。そもそもおとなではないぼくがこんな真っ暗な時間帯にそとを出歩くこと自体が、おおきな罪のように思えてくる。

 物怖じするぼくにおねぇさんは業を煮やしたようで、「なぁにやってるかなあ」とぼくのうでを引っ張った。引きずるようにして止まっているタクシーまで連れていく。

 ちかづくと、タクシーのドアが開いた。乗りこまずに、ぼくはオロオロする。気づくとおねぇさんの姿は消えていた。

「お嬢ちゃん、一人かい?」

 運転席から身を乗りだして運転手さんがこちらを確認する。身体をよこに倒して、死角にぼく以外の乗客がいないのかを確かめている様子だ。運転手さんは、ぼくが一人きりだと判ると、意味ありげに、うぅむ、と唸る。もういちどこちらに視線をやってから、

「行きたいところがあるんでしょ。さあ、乗って」

 まえを向いて、ハンドルを握った。ぼくはおずおずと乗りこむ。

 目的地を告げると、運転手さんは、

「あー、リニモか。たしかに徒歩じゃキツいわな」と笑った。「始発までは時間もあるし、バスもまだ出ないしなあ。うん。タクシーを選んで正解だったと思うよ、おじさんも」

 やさしそうなひとだな、と思った。ぼくは身体に入っていたちからが抜けるのを感じた。

 タクシーに乗るのも、これまた初めての体験だ。車内は嗅ぎ慣れない匂いに包まれている。タバコの匂いのようで、タバコの匂いほどイガイガしていない。なんだかつよくて暖かいものに護られているみたいなふしぎな空気がある。ぜんぜんちがう匂いなのに、ぼくは、ぼくのだいすきなお母さんの匂いを思いだした。或いは、キムラさんのエプロンから仄かに香る、コーヒーとひなたの匂いにも似ている。

 もしかすると、とぼくは想像してみる。

 これがいわゆる、お父さんの匂いというものかもしれないぞ、と。

 もちろんこの運転手さんはぼくのお父さんではない。運転席と助手席のあいだにぶらさがっている鏡越しに運転手さんの顔をよくよく観察してみての、これは結論である。たぶん、ぼくのお父さんはこんなに髪の毛が薄くはないはずだ、とぼくは望むものだ。

   ○~

 しばらくタクシーは道なりにすすんだ。

 一本目の信号機を難なくとおりすぎて、二本目、三本目と順調につきすすむ。六本目にさしかかると、信号機は接近するぼくたちに気づいたのか、夜に空いた青空のような目を閉じて、いっしゅんだけ考えこむみたいにひまわりの目でまばたきしてから、充血しきった禁断の赤い目をカッと開いた。タクシーは、怯えたようにゆるゆると速度を落とす。信号機の真下まできて、止まった。いざ尋常に勝負だ。

「それにしてもお嬢ちゃん」

 運転手さんが声をかけてくる。「こんな夜更けに一人歩きってのは、どうなんです。親御さんとか心配しそうなもんですけど」

 咎めるふうではなく、運転手さんは、たんじゅんに興味本位で話をふってきている感じだった。口調も、お客さん用になっている。ぼくは魔王の住むお城へと向かう勇者になりきっていたので、すこし恥ずかしくなる。

「事情があるのです」ぼくはぼそぼそと答える。

「そうでしょうねえ。そうでなけりゃワタシが困ります」

「こまるのですか」

「そりゃ、困りますよ」

「ごめんなさい」

 謝ると、その言葉にこそ困ったように運転手さんは頭を掻いた。毛が二、三本、落ちたのが見えた。ふむふむ、ひとはこうして禿げていくのか、とぼくはひとつ賢くなる。

「いえね、子どもを乗せるな、って禁止はないんですよ」信号機がふたたび赤い目を閉じる。窓のそとの風景が動きだす。「ただね、やっぱりお嬢ちゃんくらいの年頃の子どもが深夜に一人で出歩いているってなると、これはちょっと問題になっちゃうかもしれない」

 責められているわけではない、と判っているけれど、ぼくはコウベを垂れる。運転手さんは、うん、とにこやかに頷いた。それからまた、ただね、と続ける。

「ただ、こうみえて我々タクシーの運ちゃんは、日ごろいろいろなお客さんを乗せているでしょう。だからかな、お客さんの考えていることとか、そういうのがね、なにとなしに分かるもんなんですよ」

「ぼくはなにを考えていますか」占い師さんに訊ねるきぶんでぼくは訊いた。

「一所懸命、でしょうね。自分のことに、ではなくて、誰かのために。だからかなあ、お嬢ちゃんを見たとき、すぐに思ったんだよ。ここで断ったら一生後悔するだろうなあって」

「ぼくがですか?」

「いや、ワタシがです」

 運転手さんの声はあたたかい。なんだかむねの奥が、ひょっとするとお腹の奥かもしれないけれど、とにかく身体の内側のほうがこちょばゆくて、くすぐったくなる。ネコのあごを撫でているとき、きもちよさそうなネコさんを眺めてぼくは、どんなきもちなのかな、とよくよく思ったものだ。たぶん、今ぼくの抱いているこのくすぐったくて心地よいきぶんと似ているのだとぼくは推測するしだいだ。

   ○~

 子どもが生まれるには、お母さんとお父さんの二人がいなくてはならない。

 小学校にあがってから学んだ知識でなにがもっとも衝撃的だったかといえば、ぼくにとってはこの、赤ちゃんが生まれるために必要な基本的な知識だった。

 ぼくにはお母さんがいた。だいすきなお母さんとぼくは、ずっとふたりきりで暮らしてきた。

 でもお母さんがいなくなって、ぼくは独りになった。施設のみんなと暮らしはじめて、また帰る場所ができたけれども、施設のみんなを家族と呼ぶにはまだ抵抗がある。小恥ずかしくも、重苦しい、すなおに「ぼくたちは家族です」と口にできない反発心だ。

 お父さんについて考えたことがないと言えばウソになる。たぶん、施設のみんなと比べるまでもなく、ぼくにとってお父さんという存在は、異物でしかない。

 授業参観で、ぼくはクラスメイトの「お父さん」をたくさん目にした。ぼくにもああいった存在がいるのだと考えると、ふしぎな心地がした。まるでぼくとパンダさんが家族である、と考えるのに似たモヤモヤがむねを満たした。

 言い換えればそれは、ぼくのだいすきなお母さんとパンダさんが家族である、と考えるのに等しい絵空事で、そんなことはありえないことである。

「たしかにねえ、パンダが父親というのは、考えたくない」

 ぼくの話を聞いて運転手さんは感心したように唸った。

「ちがうのです。いやなわけではなくて、パンダさんがおとうさんだったら、どんなにステキかな、と思ったのです。でも、そんなステキなことは、ありえないので」

 言うと、運転手は意表を突かれたように笑った。「お嬢ちゃんはパンダが好きなんだねえ」

「パンダさんは、カンフー遣いなので、とてもつよいのです」トモダチを自慢するみたいにぼくは説明する。

 たしかにつよそうだ、とうなずいて運転手さんは満足げにほほ笑んだ。

 包みこんでくれるようなそのおだやかな笑みを見てぼくは、ひょっとすると、とひらめいた。運転手さんがこんなにも親切なのはひょっとすると、イノバさんと初めて出会ったときみたく、おねぇさんのしわざなのかもしれないぞ、と。きっとそうにちがいない。ぼくはむねがチクリと痛むのを感じた。

   ○~

 マクが張ったみたいにエンジン音が耳にこびりつく。ツバを飲むと、マクがすこしうすれた感じがする。

 運転席にあるマイクみたいなものから、ピーガシャガシャ、と雑音がした。人の声のようなものが聞こえてくる。運転手さんはそれを手にして、了解、とみじかく応じた。マイクめいたものを元の位置に戻すと運転手さんは、

「お嬢ちゃんは嫌がるかもしれないけど」

 前置きしてから、こう告げた。「駅まで送り届けたらワタシはそのまま、お嬢ちゃんの施設に連絡するよ。そちらのお子さんが脱走していますよ、とね」

 声はあたたかいままだ。そこに悪気や、申しわけない、といった引け目は感じられなかった。

「ぼくにキョヒ権はないように思うのです」

「そうだね。ヤダ、と言われてもワタシはそうするつもりだよ。ただ、お嬢ちゃんのチカラになりたい、と思っているのは変わらない。だから、ワタシはさっきからお嬢ちゃんをお客さんとしてではなく、一人の冒険者として――そう、応援してあげたいと思っていてね」

 言われてみて気づいた。いつの間にか運転手さんは、お客さん用のしゃべり方ではなく、キムラさんがぼくたちに向けてしゃべるような、親しみのこもった話し方に変わっている。

「だから、施設のほうへは、お嬢ちゃんをリニモのさきにあるショッピングモールへ送り届けた、ということにしておくよ。ただその換わりと言ったら変かもしれないけど、お嬢ちゃんがリニアに乗ってどこへ行こうとしているのか、目的地だけ、おじさんに教えてくれないかな」

 京都です、と告げる。

「ほぅ、これはまた。思っていた以上に遠いね。近場だったら、新幹線のほうがいいよ、と提案しようかと思っていたけど、いらない心配だったね。でもどうして京都に?」

 そう、どうしてだろう。ぼくだって知りたいくらいなのだ。おねぇさんの姿がいまはないので、訊くこともできないし、そもそも訊いてみたところでおねぇさんがしょうじきに教えてくれるとも思えない。

「問題を解決するために、です」

 すこし考えてからぼくはそう答えた。

「問題を解決するためのコツを知っているかい」

「コツですか? おしえてほしいです」

「ダメだと思ったら、他人を頼ること。相談すること。じぶんにできないことが、他人ならできる、ということのほうが世の中、多いからね。だから一つ、約束してほしい」

「なんですか」

「なにかあったら、ここへ連絡しなさい。ここへかければワタシに通じる。お嬢ちゃんに何人くらい頼れるひとがいるのかは敢えて聞かないけどね、すくなくともワタシはお嬢ちゃんのチカラになりたいと思っているから」

 名刺を受けとって、ぼくはそれをお財布のなかにしまった。お礼を言うタイミングをうっかり見失ってしまったのは、名刺を受けとる際に、運転手さんの耳の付け根が、うっすらと浮いているのを見つけてしまったからだ。うす皮一枚へだてたしたには、黒々としたつややかな髪の毛がのぞいている。

 どう見てもカツラである。

 一般的にカツラというのは、髪の毛のうすくなった頭を隠すためにかぶるもので、わざわざ髪の毛のうすいカツラをかぶるのは、おかしいようにぼくは思うしだいだ。

   ○~

 夜明け前だというのにリニモステーションは、ピカピカとかがやき、その明かりが目に痛かった。おねぇさんの身体のかがやきは、あんがいにやさしい光だったのだな、とぼくはおねぇさんへの評価をつけなおすものだ。

 タクシーを降りる際に、運転手さんは、「お代はいらないよ」と言ってくれた。「それから、これ」と逆に、お金を渡してくれもした。ざっと、施設のみんなのお小遣い三カ月分はありそうだった。ちょっと見たことのない大金だ。

「リニアは、切符が高いから。それに、京都でなにをするのかは知らないけど、お金はあって困ることはないはずだよ」

 ぼくはだまってそれを受けとった。ぺこりとおじぎをしてから、足早にその場を去る。すこし離れてから振り返ってみると、運転手さんがタクシーから降りて、まっすぐこちらを凝視している。

 光の加減のせいかもしれないけれど、老けたおじさんの顔に、さきほどまではなかった痛々しい傷跡が浮かんで見えた。気のせいではない。大きなツメでざっくりと付けられたような、三つの線が、タテに並んで見えている。

 ぼくはこわくなって、駅の構内へと駆けこんだ。

   ○~

「カイちゃん?」

 声をかけられて、ぼくはびっくりした。振りかえって、声の主を確認するともっとびっくりした。

「イノバさん?」

 きのうのよるに別れたばかりのイノバさんが、旅行カバンを重たそうに手に携えて立っていた。街中でペンギンを見つけたみたいな、どこか信じきれない顔で、控えめに駆け寄ってくる。

 ぼくもまたこれがおねぇさんの仕掛けたドッキリである可能性を考えて、身構える。周囲を見渡して、柱のかげからおねぇさんがこちらの様子を盗み見ていないかを探る。

「どうしてカイちゃんがここに? もしかして、〝おねぇさん〟の指示? 〝彼女〟、ここにいるの?」

「いないみたいです」見える範囲におねぇさんの姿はなかった。

「ああ、どうしよう。いや、これは運がよかったのかも。そうだよね、うん。わたし、運がいい」

 イノバさんは泡を食うのにおおいそがしだ。自分のことを褒めて、おちつこうとしている。「そうですね、イノバさんは運がいいです」ぼくもよくわからないけれど、褒めておく。

 イノバさんは、ぼくを抱きかかえ、ベンチのあるところまで運ぶ。ぼくのからだにうしろから両手をまわして、腰をおろした。ぼくはイノバさんのひざのうえに乗るかたちになる。飼い主から逃げた子犬みたいにぼくはがっしり固定される。

「カイちゃん、確認です」

「はい」尋問タイムのようです、とぼくは背筋を伸ばす。

「なぜここへ?」

「京都へ行くためです」

「京都っ!? 何しに?」

「訊いてもおねぇさんは教えてくれないのです」

「その〝おねぇさん〟は今はどこに?」

「タクシーに乗る前まではいたのですけど……」

「ふうむ。これは妙だぞ」

 言い方がかわゆく聞こえたので、

「ふうむ。これは妙だぞ」

 ぼくも口にしてみる。

 ポカリ。無言で頭を小突かれる。

「実は、わたしも京都へ行こうとしていたの」

 何事もなかったかのようにイノバさんは続けた。「偶然にしてはできすぎだと思わない? ここで偶然カイちゃんを見かけて、そのカイちゃんも偶然京都へ行こうとしていた」

「偶然がおおいですね」

「カイちゃん、もうすこし詳しく事情を聞かせてくれない? どうして〝おねぇさん〟は京都へ行きたいって言いだしたの」

 ぼくはイノバさんに、おねぇさんの身体が発光していたことや、おねぇさんがなにやら「マズい」事態を察知してあたふたしていたこと、そしてこちらの質問には応じずにただ、京都へ行こう、と言いだしたことなどを伝えた。

 ひととおり話を聞きおえたイノバさんは、まじめな声で、

「わたし、思うんだけどね」と話しだす。

「はい」ぼくは丸まりはじめた背筋をいまいちどただす。

「カイちゃんの〝おねえさん〟は、すこし頭が弱い気がする」

「はあ」

「カイちゃんも負けず劣らずって感じかも」

 ぼくは首をひねって、背後のイノバさんの顔を見あげる。「それは、だいじなお話ですか」今言わなければならないことですか、とすこしおこってみせる。

「大事だよ。だってカイちゃん、〝おねぇさん〟の言うことならなんでも聞いちゃうんだもん。いい機会だから言っておいたほうがいいかなって。わたし、思っちゃったの」ちゃめっ気たっぷりにイノバさんは片っぽのほっぺに笑窪をあけた。「おこった?」

「いいえ。思っちゃったのならしかたがないのです」

「あ、やっぱりおこってる。ごめんね」

 イノバさんは子犬の頭を撫でるようにあやしてくる。振り払うほど不快ではないけれども、これはどうみてもオコチャマ扱いをされているので恥ずかしく、ぼくはすこしでも抵抗しようと身体を縮める。イヌに襲われたカメさんみたいだ。

「ちっちゃくなっちゃった。どうしたの」

 ひざのうえに乗っているからか、音や振動から、イノバさんの仕草がうかがえる。今は顔をあげて、周囲を見渡しているようだ。「そっか、人前じゃ恥ずかしいもんね」

 そうやすやすとこちらのきもちを見抜かないでほしいものだなあ、とぼくは憤懣やるかたなく思うしだいだ。

   ○~

 スペースシャトルみたいです。ぼくはむねのトキメキを抑えきれない。

 乗りこんだリニアモーターカーはちょうど、ぼくのイメージしていたスペースシャトルの内部ととても似ていた。宇宙飛行士になったつもりでぼくは、通路をふわふわ歩く。

 イノバさんに導かれて、座席に着く。窓際の席だ。

 動きだした車両のまどには、風景などなにも映っていない。トンネルに特有の青白いライトが、スピードが増していくにつれて徐々に線へと結ばれていく。

「わたしはね、ともだちに逢い行くの」

 イノバさんの説明はそれでおしまいだった。もっとくわしい事情を訊く権利がぼくにはあったように思ったけれども、それ以上を訊ねる真似はしなかった。イノバさんはペットボトルのお茶を口にふくんで、ふぅ、と息を吐く。ゆびを折りながら、

「まずはカイちゃんのお手伝いをするでしょ」とかぞえだす。「〝おねぇさん〟のいうところのマズい事態を解決して、それからついでに〝おねぇさん〟にはきちんとわけを説明してもらうの」

「てつだってくれるのですか」

「もちろん」

 おともだちは放っておいてもよいのですか、とぼくは心配になる。

「でね、それが終わったらカイちゃん、わたしに付き合ってね」

 ぼくはてっきり、イノバさんは「カイちゃんは施設に帰りましょう」と言うものかと思っていた。

「イノバさんはぼくのホゴシャみたいです」

「わたしはカイちゃんのオトモダチだよぅ」

 いじわるそうにイノバさんは笑った。

 ほとんど夜中といってよいくらいの時間帯に目を覚ましてしまったからか、ぼくはしだいにまどみ、間もなく夢へと突入し、気づいたときにはイノバさんに抱っこされて、見知らぬ空間をふわふわ進んでいた。

「ここ、ろこれすか」

「大阪だよ。まだステーションのなかだから、寝てていいよ」

「おやすみな……むにゃむにゃ」

 イノバさんの体温はぬくぬくと心地よい。だいすきなお母さんの匂いにも似ている。あたたかく、やさしい匂いにつつまれてぼくは、ふたたびふわふわとととろけていく。シチューをコトコト煮込むみたいに、ウトウトしはじめた意識の片すみでぼくは、がやがやとにぎやかな喧騒のなかから、バカやろうって言うほうがバカなんだ、とどこかで聞いた憶えのある声を耳にとめていた。




  

第三章【七人の侍】



   +薬尾夜神+

 ラジオから、繁華街で大規模な事故があったとのニュースが流れ、耳を止める。

 事態はすでに大きく動きだしているとみるべきだろう。

 主要幹部の皆殺し。

 あれだけの宣戦布告をされたのだ、「外道」側も黙ってはいるまい。異形と「外道」との全面戦争が勃発していてもおかしくはない。

 手遅れになってなければいいが。焦りのみが募る。

 飛行場から電車に乗り換えたのが、一時間ほど前のことだ。あまり公共の場に身を晒しておきたくないと考え、京都府に入ってからタクシーを拾った。今は市内へと向かっている。ラジオからだけではなく、運転席に備えつけられている無線からも、「駅前で事故あり、渋滞につき迂回せよ、どうぞ」と同様の連絡事項が聞こえてきた。

「あちゃー、こっちもダメだ。交通規制かかってますわお客さん。どうします?」

 無線の連絡を受け迂回してみたが、事故のあった中心街へは近づけないようだ。

「ここでいい」

 運賃を支払い、タクシーを降りる。

 空を見あげると、分厚い雲に覆われていた。渦を巻いているようでもある。不気味な天気だ。

 気持ちが沈んでいることを自覚し、深く息を吸う。

 懐かしい匂いがした。

 匂いだけではなく、俺はかつてこの街に根を下ろしていたのではないか、と思わせる、帰郷にも似た感慨が湧く。

 気のせいだろう。

 京都へ足を運ぶのは初めてのことだ。おおかたどこぞのパンフレットなどで、この街並を目にし、それを憶えているだけのことだ。

 言い聞かせてみるが果たしてそうだろうか、疑念は拭えない。

 珍しくはあれど、こういうことはこれまでにも幾度かあった。

 初めて目にする風景、初めて降り立った土地、初めて口にした野兎の味や、初めて出遭う未知の結界。どれも新鮮に感じるはずの知覚であるのに、かつてそれらに触れていると判らせるのに充分な懐古の念が生じる。

 デジャビュと呼ぶには鮮明すぎる、記憶の逆流まで引き起こる。ぱんぱんに張った水風船に針を刺してちいさな穴をあけ、そこからちょろちょろと水が漏れるように、俺の持ち得ない記憶が、断片的かつ連続的に、頭のなかへとにわかに広がる。さながら、ジグソーパズルのピースを縦に積みあげ、パラパラ漫画よろしく順々に見せられるかのような、釈然としない記憶のシャワーだ。

 思えば、ニオ子のときもそうだった。

 鬼を目にしたのは初めてのはずだのに、俺にはあのコが鬼であるのだとひと目で判断ついた。

 けっかとしてニオ子は純粋な鬼ではなかったが、今にして思えばこれもまた妙なことである。

 全国を放浪していた俺がこの街にだけ立ちよらなかった理由は明快だ。「外道」の本部がこの街にあるからだ。

 離反者の俺がこの地へ舞い降りるというのはそれこそ、腹を空かせた猛獣の檻に羽をむしり取られた猛禽類を放つようなものだ。

 だが、あいにくと俺はもとから空を飛ぶことなどできず、羽がなくとも構わない。それこそペンギンやダチョウのように、水中を自在に泳ぎ、地上を颯爽と駆けるくらいの度量はあるつもりだ。

 無意味に猛獣の檻へと飛びこむつもりはない。が、飛びこんだところで致命傷を負うとも思わない。

 まだ決まったわけではないが、俺のせいで槻茂やレナイさんたちを奇禍に巻きこんでしまっている可能性がある。起こってしまってからでは遅いのだ。俺は、その奇禍ごと祓ってみせようと思った。

 猛獣の檻に入ることがあるやもしれない以上、ニオ子を連れて来るわけにはいかない。ニオ子は空を飛ぶことのできる鷹だ。しかしまだ雛だ。誰かが空の飛び方を見せてやらなければならない。

 それは俺でなくたっていい。

 俺はもう二度と、あんな惨めで苦しい呵責を背負いたくない。




  

   △ニオ子△

 余計な荷物は背負いたくない、とねがうあたいのきもちをレナもユっくんも汲んでくれない。

 リニモすてーしょんで謎の男と意気投合したレナたちは、ろくすっぽあたいに説明もしないで謎の男の運転する車に乗りこんだ。

 渋るあたいにレナは、「ほらニオ子ちゃんもはやく乗って」とお荷物に話しかけるみたいに言ってくる。

「あたいは『鬼持つ』であって、『お荷物』じゃないのに」

「そうだね。はやく乗って」

 レナがつめたい。かなしさで胸がつまるよりもさきに腹が煮えて噴きこぼれる。噴きこぼれた分、あたいの腹が減り、ぐぅと鳴る。そういえば、と思いだす。ヨガミから邪心を分けてもらうのを忘れていた。

「脛木鯉沙の知り合いとはな」謎の男はハンドルを握ったまま、タバコを吹かす。煙をくゆらせながら、「しかも、能力者ときてる」と鏡ごしに、あたいのとなりのユっくんに視線を当てた。「さてはおまえら、脛木鯉沙に唆されて離反したガキどもだろ」

「スネゲ濃いさ、ってダレさん?」あたいも話にいれてくれろ、とおうかがいを立てるものの、レナも謎の男も応答せず。すっかり蚊帳のそとだ。ちぇ。にべもない。

 車は間もなくバイパスに乗った。雲のうえを走っているみたいに、見晴らしがいい。すっかり顔をだしたお陽さまが、あたいのおでこをじんわり暖める。窓ガラスに押しつけ、おでこを冷やす。

 じつのところあたいは車に乗るのが初めてだ。

 あたいは窓のそとを眺め、過ぎ去ってはまた現れる電信柱に目を回しそうになる。聞けば、あたいたちが乗って来たあのでっかくて細長い乗り物は、これよりももっと速く動いていたのだという。窓のそとが見えていたらどうなっていたことやら。窓から見える風景が真っ暗だったのもうなずけるというものだ。

「どこへ向かっているんですか」助手席に座ったレナが、素朴な調子で訊いた。

「本部、と言ったらどうする?」

「私、走行中に思いきりハンドルきったらどうなるか、ってすごい興味があるんですよね。今ならわりと試してもいい気がしてる」

「本部方面ではあるが、本部ではないからその、『今なら試してもいい気』を鎮めてくれ。頼むから」

「了解」

 冗談を言うような人間ではないレナは、冗談みたいなことを本気でしでかす危うさをつねにその身に漂わせている。謎の男もなかなかどうして人を視る目があるようで、レナの口にしている言葉が脅しではなく、本気の宣言であることをきちんと見抜けているようだ。

 あたいはよこを見遣って、ユっくんの顔をうかがう。ユっくんがしゃべらないのではなく、しゃべれないのだ、というのは、ステーション構内でのかれらのやりとりを見ていて判った。

 しゃべりたくともしゃべれないとは、不便そうだ。

 どんなきもちでユっくんはレナと謎の男の会話を眺めているのだろう。

 あたいはユっくんのわき腹をゆびで突っつき、反応よくエビ反りになったユっくんを笑ってから、かれの耳元に顔を近づける。

「ユっくんにだけ、あたいの秘密、おしえてあげる」

 こしょこしょ声で打ち明ける。「あたいのおっとーってね、鬼だったの。だからあたいも鬼とおんなじことができる。だからね、しんじてほしいんだけど」

 そこであたいは、こっそりゆびで運転席を示して、「こいつ、わるいヤツじゃないよ。だから、今はまだ安心しててもだいじょうぶだよ」

 励ますつもりで言った。

 怯えているともとれる情けない表情を浮かべていたユっくんは、びっくらこいた、とでも言いたげに目をまんまるく見開いて、くちをパクパクさせる。

「おまえら、龍を見たことはあるか」

 謎の男がだしぬけにそんなことを言いだした。

 突然の話題に、あたいとレナはきょとんとする。ユっくんもまた死にかけの金魚のまねをやめて、ぽかーんと口をだらしなくひらきっぱなしにした。

「見たことないよ」

 だれも何も言わないからあたいが代表して言ってやる。「だっていないもん。龍なんて」

 謎の男はまっすぐと道路のさきを見据えたまま、

「おれはある。トモダチだったんだ」

 冗談めかすわけでもなく、咥えていたタバコの火を消し、話しはじめる。




   

   ><葦須炭兎><

 研究者らしき男が話しはじめる。「妖怪の類は存在する。我々はそれを異形と呼ぶが、きみもその類なのではないのかね」

 身動きのとれないおいらは、訊きかえす。「どうなのでしょう」

 深紅の炎を放射する紅蓮隊(おいらが名付けた)をコテンパンにやっつけたおいらは、かたっぱしから施設をまわり、ここにいる人間という人間を相手どって、殺戮ゴッコを繰りひろげた。

 逃げまどう者、挑んでくる者、おいらを閉じこめようとしたり進路を邪魔しようとする者。さまざまいたけども、おいらは十把一絡げに捻り潰してあげた。

 あの女の目的を横取りし、大騒ぎを起こして、当人をおびき寄せんとするおいらの策略は、いまのところ順調にすすんでいる。

 研究ラボ区画に足を踏み入れたおいらはそこで研究員をつぎつぎに八つ裂きにした。

 だが逃げることも挑むこともしない、初老の男に、おいらは動きを封じられた。男は自らを、「呪符師」と名乗った。白衣をまとっているその見た目は、呪符師というよりもやはりというべきか第一印象のとおり、研究者と形容したほうがお似合いの装いだ。

 目的はなんだ、と問われる。おいらはしょうじきに答える。

 あの女に会うためにあなたたちをミナゴロしにする。

 応じたついでに、

「あの女について、なにか知ってたら教えてくれませんか」とていねいに訊ねてみる。身体はふしぎと動かない。

「外道(ガイド)幹部襲撃の犯人についてか?」

 そうだ。あのスペースシャトル然とした超高層高級ホテルの最上階で、おいらの上司もろとも数百人を虐殺したあの女のことだ。

「正確なことはなにも解っとらんよ。ただ異形であることは確かだ。しかも規格外のな」

 無知を責めても仕方がないとはいえ、なにも解っていない、と断言されると、そんなのはおまえたちが怠惰なだけではないか、と糾弾したくもなる。

「現場付近に潜伏していたふたりの女性、いたじゃないですか。あなたたちがマークしていた、二人組の」

「二人組の女? 虎豹一族鏖殺事件の首謀者のことかね」

「実はそのうちの一人があの女なんですよ」

「つまり、どういうことかね。襲撃犯は、虎豹一族鏖事件の主犯と同一人物であると?」

「二人組のうちの一人だけです。どっちがどっちなのか、おいらは知りませんけども」

「有力な情報だ。それが事実だとすればありがたいが、なぜきみが知っているのかね」

 なんてことはない。「現場にいましたから」

「きみがか? ははあ。そうかそうか、きみが例の生き残りか」男は得心がいったというふうに頷き、落ちかけていた眼鏡をくいと掛け直す。「あの二名の異形は、特一級と評価されておったはずだが、しかしな。事態の重さからすれば、その見方は楽観にすぎた、と言わざるを得んな。だがふしぎなのは、どうしてきみだけが殺されずに済んだのか。きみにそれほどのチカラがあるにしろ、あの幹部連中を片付けた相手だぞ。あの場にいて、あまつさえ襲撃犯を目撃しておきながら、無傷というのは考えにくい」

 どうにも、あの女の仲間ではないのか、と勘繰られている感じだ。

「槻茂雄敏、という人物をご存じですか」

「ツキモ? はて、憶えのない名だが、それが?」

「おいらの上司でした。あの女に殺されました」

「意趣返し、ということかね」

「返すという意味では、そうかもしれません。ただ、おいらの返すものは、意趣ではなくて」

 あの女がおいらに背負わせた、この、重荷だ。

 あの女のせいでおいらはからっぽになった。虚ろになった。だからおいらはあの女に、今にもひしゃげてしまいそうなこの身体のうちに広がる底なしのがらんどうを、底なしのがらんどうを生みだす重荷ごと返さなくてはならないのだ。

 全身にちからを籠めてみるものの、びくともしない。足元には、おいらを中心として、半径三メートル四方に、ミミズが何万匹も、のたうち回っているような紋様が描かれている。

 見覚えがある。

 逃げだした外国産の巨大ペットを捕まえる際に、槻茂さんがこれと似た紋様のお札を遣っていた。

「動けんだろう。これはまだ認可の下りていない、ワシの傑作でな。対八百万の神用に構成した呪符だ。生身の人間にも効き目がある点を指摘され、お蔵入り寸前になっていたのだが、きみがきてくれて良かった。これで認可される可能性がでてきた。せっかくの傑作が無駄にならずに済む」

「ならお返しに、あの女について知っていることがあったら、おいら教えてほしいんですけど」

「余裕綽々なところすまないが、きみにはここで死んでもらうよ」

「なら教えてくれてたっていいじゃないですか」

「ワシは無駄が嫌いなのだがね。まあいい。借りをつくるというのもワシの道理に反する」

 研究者然とした呪符師は、つらつらと件の指名手配犯について説明してくれた。内容は、殺戮の繰りひろげられたあの会場で、司会者らしきひとが語っていた話以上のものではなかった。

「満足いく情報ではなかったかな」

 こちらの心情が顔に滲み出てしまっていたのか、呪符師はやや申しわけなさそうに、「まあ、これできみへの借りはかえしたことにしてもらいたいものだがね」

 懐から一枚の呪符と、拳銃をとりだした。

「これかね。これはただの拳銃だ。きみを死に至らしめるには少々物足りない武具だが、この呪符をきみに起動させれば、きみは一時的にほとんど生身の人間並の脆弱さを備えることになる」

 つまりおいらを無防備にし、そこへ銃弾を打ちこんで殺そうとの魂胆か。

 最後のとどめが拳銃とはね。

 呪符師と名乗っておきながら、聞いて呆れる。

 おいらは足元を見遣る。

 この紋様、じゃまだなあ。

 さめざめ思うと、おいらのうちに広がるがらんどうの希薄さが増し、連動してそのからっぽの領域まで拡がった。あたかもブラックホールが収斂し、重力を増して、逆にそのチカラの及ぶ範囲が拡大するかのような、或いは、宇宙そのものが膨張するかのような、そうした印象を覚える。

 おいらの背負う重荷が嵩んでいく。おいらは歪む。地面も歪む。足元が軋む。

「ッ地震かッ!?」

「ちがいますよ」

 床はひび割れ、走った亀裂は、複雑な紋様をだいなしにする。身体の自由が利きはじめるにしたがい、おいらの足は床に沈み、陥没した足元は、容赦なく紋様をバラバラのジグソーパズルにする。

「バカな!? 対神用の呪符だぞ。能力の行使はおろか、外部干渉だって……」

「そんなの知りませんよ。だっておいら」

 神さまじゃないですもん。

 呪符師は、そのしわくちゃの顔を恐怖の色に染めた。




   〈estinto〉毒親寺ユヅ〈estinto〉

 暁色に染まった空が、きょうという日のはじまりを告げている。寄せた波が引いていくように藍色がうすくうすく引いていく。並行して、京の町並が、しだいに色めきだし、種々相なカタチを取り戻していく。夜のあいだに溜めこんだ活気を解き放っているみたいで、夜というサナギから孵った、モンシロチョウを思わせる。

「で、龍さんはどうなったの」レナさんが固唾を呑んだ調子でさきを促す。八尾尾さんのむかし話にすっかり夢中になっている。

「それっきりだ。鬼族に閉じこめられ、それっきり。問題は、龍のやろうを慕っていた者がこちら側に残されたことにある」

「それって八尾尾さんのことですか」

 レナさんの声音に弾むような陽気が交ざって聞こえ、僕は窓から視線をはずす。目を向けるとレナさんは目じりを下げ、ニマニマしていた。

 リニモステーションで出遭った男は、「八尾(やお)尾(び)國男(くにお)」と名乗った。八尾尾さんは、手配していた車に僕たちを乗せてくれた。有料のバイパスを経由し、京都市内へと向かう。

 車を走らせながら八尾尾さんは、僕たちにむかし話を語ってくれた。語ってくれた話の中身は、まさしくむかし話と形容すべきもので、登場人物は主として「龍」と「鬼」、そして何をしても死なない女「八百比丘尼の女」だった。

 まるで見てきたかのように話す八尾尾さんではあるものの、語り部たる彼の存在は、ふしぎと話に出てこない。

「おれは龍のトモダチではあったが、アイツを慕っていたわけじゃない。アイツはどこにも属さねえやろうでな。一匹狼みてぇに孤高を気取るキザなやろうだった。どちらかと言やあ、おれはアイツを疎んでいたくらいでな。アイツはおれと違って、妙に色んな奴らから慕われていた。虎の威を借るキツネみてえな奴らもいないことはなかったから、龍のやろうは、自分を慕ってる奴らにも、そりゃあ冷てえ態度をとってやがった。おれはまあ、そういうところも気に喰わなかったわけなんだが、まあ、それは措いといてだ。

 アイツがひと睨みして、『うせろ』の一言でも言やあ、たいがいの奴らは尻尾を巻いて逃げだした。慕ってはいたが、親しくできるとはとうてい思えなかったんだろうさ。なんせ、『神殺し』なんて通り名で呼ばれていたくらいだ。おれだってアイツと親しくしていたつもりはねえしな。

 腐れ縁だったんだ。

 それでもまあ、アイツの冷厳な態度に挫けることなく――おれから言わせりゃ性懲りもなくって感じだったんだが――いつまでもアイツに付き纏って、周囲をうろちょろしていたヤツがいた。おれの知るかぎり、龍のやろうが鬼族に因縁ふっかけられてからもアイツのそばを離れようとしなかったのは、あとにも先にもソイツだけだ」

「そのひとは、あの女のひととはちがうんですか」

「ちがう」

 レナさんの言う「あの女のひと」というのは、もう一人の登場人物である「八百比丘尼の女」のことで、彼女はなにかと龍さんに知恵を貸したりしていた、いわばお姉さんのような存在だった。八尾尾さんは彼女のことをビクニと呼んだ。

「龍のやろうが鬼族とギッタンバッタンやってたころ、ビクニは人間どもに捕まっていてな。これはあとになって知ったことなんだが、どうやら鬼族と人間は手を組んでいたらしい。つまり、龍のやろうはビクニを人質に取られていたようなものだったんだ」

「八尾尾さんは何もしなかったんですか? 龍さんの味方とか、ビクニさんの救出とか」

「おれか?」

 それは僕も思っていたことだ。レナさんの言うように、八尾尾さんはそのころ何をしていたのだろう。たとえこれが八尾尾さんの創作だったとしても、語り部として語っている以上は、登場人物としてそれ相応の活躍があって然るべきなような気がする。

「おれはビクニを助けたかったさ。いくら死なねえとはいえど、死なないからこそ常人より遥かにひどい扱いをされることが目に見えていたからな。だが、あいにくとそのころのおれはまだガキだった。一人で殴りこみにいって城を落とせると思いあがれるほどアホでもなかったしな。だからまあ、龍のやろうに助けを求めたわけだが、やろうときたら耳を貸さねえ。おれは怒って、てめぇなんざ負けちまえ、と野次を飛ばしてそれっきり。すべてを知ったのは、時代が変わった後のことだった」

「つまり、八尾尾さんはオコチャマだったんですね」

 たぶんレナさんは八尾尾さんの話を信じている。鬼や龍などは、八尾尾さんの演出による偽名で、まるで戦国時代のような時代背景も、脚色されているだけでレナさんは現代の話だと思っているに相違ない。

 ただ、僕には判る。八尾尾さんのそれは実話だ。現に八尾尾さんの心象には、実際に目にしたと思われる当時の光景が、ふるい映画のように不鮮明ではあるものの、刻々と展開されている。

 このひとはいったい何者なのだろう。

 僕はよこを伺う。すっかり静かになったニオ子ちゃんは、息を殺したように運転席の背もたれを凝視している。

 さきほど僕はニオ子ちゃんから、八尾尾さんはわるい人ではない、と聞いたばかりだった。だがこの警戒心に身をこわばらせているニオ子ちゃんを見ていると、ほんとうにそうなのだろうか、と頭をひねりたくなる。

「話を戻そう」八尾尾さんが続ける。「龍のやろうを慕っていたヤツがいたって言ったよな。そいつがまあ、問題でな」

「龍さんとはどういう関係なんですか、そのひと?」

「ああ。まずはそっからか。そいつは名を『ぬあり』といってな。当時、おれよりもガキで、そうだな、うしろに乗ってるニオちゃんだっけ? そのコと同じくらいに幼かった」

「ニオ子ちゃんです」

 名前をまちがえるなんて失礼ですよ、と咎めるようにレナさんが言った。幼い、と形容したことについてもやんわりと非難している響きがある。

「龍のやろうが同族を喰い物にしていたって話はしたよな」

「ちょいワルだったんですよね」

 龍さんの武勇伝を聞いておいてちょいワルで済ますレナさんがこわい。誇張がふくまれているとはいえど、腹が減ったという理由で荒くれ者どものひしめく城へと出向き、そこに居合わせた猛者たちから淡々と腸をひきずりだした話など、常軌を逸していると評価せざるを得ない。

「龍のやろうが喰らった相手が、ちょうどぬありを襲っている最中でな。結果としてアイツがぬありを救ったカタチになった」

「ぬありちゃんはおんなのコですか?」

「女だな。いちおう」

「はあはあ。そこでそのコはリュウさんに恋をしちゃったと」

 野暮ったい想像をするレナさんだったが、意に反して八尾尾さんは肯定した。「らしいな。ぬありのヤツは龍に惚れていた。初恋だったと言っていたよ」

 せつなそうとも苦々しそうともちがうその言い方に僕は、八尾尾さんがそのコのことをほんとうにたいせつに想っていたのだ、と感じとることができた。見遣るとレナさんもニマニマしている。

 レナさんの緩んだ笑みに気づいたのか八尾尾さんは咳払いをし、

「過去の話はこれくらいにして」と急にはしょって、話をまとめにはいった。「龍がいなくなってからかなりの時間が経ったころだ。ずっと塞ぎこんでいたぬありだったが、とつぜん性格が変わったように活発に動きだした。立ち直ったとか、そういったことではなかった。安易な話だが、鬼族のしたことを知り、同時に人間どもの企みを知って、ぬありのヤツは復讐の道に走りやがった」

「それで、どうなっちゃったんですか」

「人間どもが鬼族を裏切り、逆に滅ぼした。それを扇動したのがぬありだった。そしていま、ヤツの矛先は人間に向かっている」

 かつて手を組んでいた者同士で潰し合いをさせ、より強力なほうをさきに滅ぼし、あとで弱体化した組織を消しさる。

 復讐としては手の込んだ作戦だ。大胆な手だ、と言ってもいい。成功する確率はそう高くはないはずだ。

「おれがぬありの思惑を知ったのは最近のことだ。とある探偵がおれのもとを訪ねてきてな、ぬありのヤツがおれのことを探しているっていうじゃねえか。その探偵を介しておれはほんとうに久しぶりにぬありと顔を合わせた」

 ここで八尾尾さんは一拍おいた。どこまで話したものかといちまいちど吟味しているようだ。

「恥ずかしい話だが」声量を落とし、八尾尾さんは述懐を再開させる。「それまでずっとおれは、鬼族への復讐を終えたヤツが安寧な日々をすごしているものかと思っていた。だがちがった。ヤツは人間にも復讐をする気だ。事実、すでに行動に移している」

 僕はそこではっとする。八尾尾さんの心象に、一人の少女の姿が現れた。きっとそのコがぬありちゃんだ。彼女は笑っている。いじらしい笑窪のあいた、ひまわりのような笑みだ。つぎの場面、すらっとした体系の、長髪の女性が、うしろ姿で立っている。血だろうか。小奇麗な彼女の周囲は、赤黒く変色してみえる。彼女の目のまえには細身の少年が立っており、苦しそうにもがいている。そこで映像は途切れた。

「おれはヤツを止めたい。そのためにここへ来た」

 確固たる決意を秘めた声音には、後悔の念もまじって聞こえた。

 これ以上、覗くのは失礼だと思い、僕は八尾尾さんの心象から離脱しようとする。そのとき、

 ――おれが招いたばっかりに。

 ふいに心の叫びに触れてしまった。

 八尾尾さんが女性と対面し、何事かを相談している場面が視え、つぎに、女性からの申し出を快く引き受けた八尾尾さんのあたたかな気持ちが伝わってくる。

 そこまで読みとって、僕はかんぜんに八尾尾さんの心象から脱する。

 部外者であるぬありさんを八尾尾さんは、なにか重要な会議の場へと招待した。それは、正規の手続きを経ての招待ではなかった。

 そのとき八尾尾さんはまだ、彼女の本懐に気づいてはいなかったのだろう。その後、八尾尾さんの招いた事態がどういった顛末を迎えたのか、僕には分からない。ただ、八尾尾さんが深く臍を噛んでいることだけは痛いほど感じられた。

「聞かせてくれてありがとうございます」レナさんがやわらかく述べる。「こう言ったらなんですけど、おもしろかったです。せつなくて、やさしく、どうしようもなくねじれちゃってる感じとか、すごく私好みでした」

「そうかい。そりゃ良かったよ」

「で」

 レナさんが語調を変えぬまま、

「そのことと脛木さんは、どう関係してくるんですか?」

 まったくおだやかな雰囲気で棘のある言い方をした。僕はぎょっとする。レナさんはずっと八尾尾さんの話が、脛木さんと関係のあるものとの前提で聞いていたらしい。

 これは脛木さんとは無関係の、八尾尾さんのむかし話ですよ。

 慌ててメディア端末を取りだし、僕はそう打った。

 打った文章をレナさんへ見せる前に、八尾尾さんが、

「関係もなにも」とさらっと告げた。「おれの止めたいヤツってのがだから、脛木鯉沙なんだよ」

 むかしは「ぬあり」って名だったんだがなあ、と暗に脛木鯉沙が偽名である旨を明かす。

 車内にいっしゅんの沈黙が満ちる。満ちた静寂を破るように、

「ああ、それで」

 何を承知したのか、レナさんがつぶやいた。目のやり場に困っているみたいに目玉をぐるぐると泳がせている。かぶりついたステーキが思いのほかでかく、呑みこめずに、どうしようどうしよう、と動揺しているふうにもみえる。レナさんはたぶん何も解ってはいない。僕だってなにも解っちゃいない。




  

   STP舘尚レナイPTS

 何も解ってなどいない。脛木さんをむかしから知っているみたいな言い方をして、この八尾尾とかいう男、気に食わない。

 ほんとうは脛木さんのことなど知らないくせに、こんなホラで私をからかって。

 脛木鯉沙が偽名? 本名は「ぬあり」?

 あー、あほくさ。

 聞いてられっかよ。

 思いつつも、頭のなかが真っ白になる。なにも思い浮かばないのではなく、たくさんの考え事が脳裡に広がって、混線してしまっている。

 しばらく口を開かずに、考えがまとまるのを待つことにする。そうでないと今スグにでも八尾尾さんの首根っこを絞めあげてしまいそうだ。

 静かだな、と感じる。

 車はなおもバイパスを走っており、ときおり頭上を通りすぎる掲示板には、京都まで残り十五キロと出ている。ユっくんが静かなのは当然のこととして、ニオ子ちゃんまで静かなのはどうしてだろう。意識が後部座席へと向かう。

 寝ているのでは? との私の勘は珍しく外れ、ニオ子ちゃんは起きていた。

「だいじょうぶ? 眠くない?」

「だいじょぶ。眠くない」

「トイレは? いきたくなったらはやめに言ってね」

「うん。天気、すごくわるいね」

 言われて窓のそとを眺める。手前には田園風景が広がっている。奥のほうには、地平線を覆うみたいに都会のビル群が、並べたドミノを横から見た具合に連なっている。朝陽に照らされ、透明なはずの空気にまで色がついているみたいだ。

「いい天気だよ」

「んー? あんなにモクモクしてるのに?」

 ニオ子ちゃんの視線に釣られるようにして風景に目をやるも、ニオ子ちゃんの言う、モクモクは見当たらない。今にも消えそうな白い雲が、レースみたいに浮かんでいるだけだ。あれのことではないだろう。

 意思疎通のうまく図れない私たちは、お互いに、へんなの、と顔を見合わせる。

「ん。何かあったのか」

 八尾尾さんが車の速度を落とす。こちらへの呼びかけかと思ったがそうではなく、渋滞だった。

「事故ですかね」ラジオを点けると案の定、繁華街で大規模な事故があった模様、との速報が流れている。どうやら私たちの降りるはずの出口が封鎖されているらしい。

 ニュースを聞いた八尾尾さんの顔に緊張の色が差したのを、私は見逃さなかった。

   STP

 一本前のインターチェンジで私たちを乗せた車は国道へと降りた。十二キロ手前だが、問題はない。予定どおり京都市内の中心街へと向かう。

「降りるんならいまだぞ」八尾尾さんが何気なく、「おまえらは知らんのかもしれんが」と注意を喚起する。「駅前にゃ機関本部がある。お尋ね者がひょこひょこ出向くような場所じゃない」

「お尋ね者って誰のことですか? 言っている意味が解りませんけど」ユっくんがなにか言いたそうに身を乗りだしかけたので、私は横睨みし、黙らせる。「私たちの目的地は京都で、偶然にも八尾尾さんの行き先も京都。あいにくと降りる理由が見当たらないんですよね、これが」

「忠告はしたぞ」

 八尾尾さんは口を噤んだ。

 車窓に映るじぶんの顔を眺める。

 ぶちゃいくな顔でちゅねえ。にらめっこをして遊ぶ。

 間もなく、へんてこな顔をするのも、見るのにも飽きる。

 窓の向こう、刻々とかたちを変える雲を見遣る。擦り切れたデニム生地みたいに、まだらに浮いた白い雲が青い空を掠めている。時間という漠然とした概念が、そこに顕現しているかのようにも感じられる。時間の流れや、その変遷そのものが、雲という容をとって、空に集積しているのでは、と妄想する。雲を分析できれば、この世界のどこでなにがあったのかを、データを再生させるかのごとくに観られるのではないか、過去をそのまま映像化できるのではないか。私の妄想は壮大な物語を構築する。一分もしないうちに妄想するのにも飽き、

 奇妙なものだな。

 私は感慨に耽る。

 脛木さんを連れ戻すために私たちは、薬尾さんの跡を追い掛けてきた。ニオ子ちゃんとも仲良くなって、ひと悶着あって、なんだかんだとふたたび薬尾さんを追うことにした。期せずしてリニモステーションで八尾尾國雄なる、脛木さんに繋がる人物と出会い、今はこうして八尾尾さんの運転する車に乗っている。

 なんだか得体の知れないチカラに引き寄せられているのでは、と疑いたくもなる。不可視の引力が感じられてならない。

 もしかしたら私たちはとんでもない渦中に巻きこまれており、その渦の中心、一点へと呑みこまれつつあるのではないか。

 漠然とした予感であるにせよ、この勘はどうにも外れてくれる気がしない。

 ただ、それが奇禍であるとは限らないのではないか、と私は案外に楽観的に構えている。

   STP

「そういえばさ」

 ふと気になって、ユっくんに確認する。「能力者同士では能力が遣えないっていうのは、本当なの?」

 とくに意味のある質問ではなかったけど、ユっくんが八尾尾さんのこころを覗けたということは、八尾尾さんは能力者ではない、という結論になる。でも、だとすると八尾尾さんはただの一般人ということになるわけで、それはそれでちょっとおかしいな、と違和感にも似た引っかかりを覚える。それはたとえば、フランス料理店のメニューにうどんが交ざっているような、わるくはないが似合わない、といった引っかかりだ。

『遣えませんよ。能力者同士では』

 ユっくんがうでを伸ばし、メディア端末を見せてくる。ディスプレイにはそう書かれている。

「間違ってはないが、正しくはねえな」

 ユっくんの示した答えを見たわけではないだろうが、八尾尾さんが異議を挟んでくる。私の質問へのこれは意見だろう。「能力者同士で能力が使用不可ってんなら、どうやって異形に立ち向かうんだよ。やつらも広義の意味では能力者だろうが」

「異形ってなんですか?」

「異形は異形だよ。動物ではなく、神でもない、物理世界とはべつの法則に沿ってこの世に息衝いてる、まあ言ったら妖怪みたいなもんだ」

「……妖怪」

「なんだ。嬢ちゃんは能力者について知ってんのに、異形についてはからっきしか」

「それって脛木さんと関係ある話ですか」

「関係ないって言うほうがむずかしいな」

『お腹すきませんか、みなさん。そろそろお昼時です』お陽さまが顔をだしたばかりの時間帯になにを言いだすものやら、ユっくんが喙を容れてくる。私は差しだされたメディア端末をじっと見詰めかえしてから、見なかったふりをする。

「イギョウ、でしたっけ。それ、何なんですか?」

「だから妖怪みてえなもんだよ」

「悪霊とか、そういうの?」

「まあ、そうな。一般人には視えないのもいるし、一般人に視えるモノもいる。厄介なのはたいがい物理的な肉体を持っていて、物理的にも精神的にもおれたち動物に干渉してくる。そういった異形の被害から多くの人間を護るための組織ってのがあって、それが『外道(ガイド)』と呼ばれる、脛木鯉沙ふくめ、おれの所属していた機関だ」

「なんか、子どもの好きそうなお話ですね」

「信じねえのかよ」

「信じませんよ。ただ、否定もしませんけど」

 ちらっと首だけで振りかえって、ユっくんの様子を窺う。落ち着きなく、静かだ。いたずらのバレた子猿がボス猿からの懲罰に怯えているみたい。ここまで考えてから、だれがボス猿か、とじぶんの分析にイラっとする。決めた、ユっくんは無視だ。

「もしかして」視線を運転席へと戻し、私は説明を乞う。「能力者って、異形に対しては能力が遣えるんですか」

 お化け退治ができるのか、と問う。

「可能だ。能力者は、その異能を用いて異形を祓ったり、始末したりする」

「ごふっ!」私はとっさに叫んでいた。

「おう。ビビらせんな、急にどうした」

「護符ってあるじゃないですか。ほら、これ」

 きのうのよるに薬尾さんから譲り受けた数枚の護符を財布から取りだし、私は八尾尾さんにも見える位置に掲げる。

「危ねえな。まえ見えねえよ、それ、どけろ」

「これ、この護符って、その機関で発行してるものなんでしょ」そうなんでしょ、そうなんだよ、と私は興奮する。脛木さんは、機関の一員だったのだ。だからこの護符と似たものを所有していた。

 運転手の肩を殴りつけながら私は、なんだ、あんたの話、あながちホラってわけでもないんじゃない、そうならそうとはやくいってよ、となんだか急におもしろくなってくる。

「イテえな、おい。殴んな!」

「説明、はやくしてよ。もっとなにかあるんでしょ。能力者の話。能力の使える条件とか」

「考え方が逆なんだよ」

「は?」

「行使可能なのは当然なんだよ。鳥だって空を飛べるのが普通だろうが。魚だって泳げるのが普通だろ。だったら能力者だって、能力を遣えるのが普通なんだ」

「つまり、遣えない条件が、同族同士だってこと?」

「そうだ。あと、じぶんよりも格上の能力者には、遣えない、ってのも一つだ」

「たとえば?」

「神とかな」

「神さま?」

 バっカじゃないの、という目を向けると、敏感に感じ取ったのか八尾尾さんは、「おまえさっきから失礼だぞ」とむせるように言った。

   STP

「神も分類上は、異形なんだがな。ただ、格がちがいすぎるいわば規格外中の規格外ってところだ。存在自体が卑怯って感じの輩だよ。天変地異を引き起こすなんざ朝飯前で、興味本位で一国を滅ぼすなんてかんたんにできちまう。だが、神ってのも一夕一丁で成れるもんでもないらしくてな。まあ、たいがいの神ってのは長生きの、じいさんばあさんだ。中身も成熟しきって、そこらの政治家よりかはよほどこの世のバランスってもんに過敏だよ。めったに悪果を振り巻いたりはしねえし、人類って種族を軽視したりもしねえ。むしろそれなりに評価してくれてんじゃねえのかな」

「例外的存在には、異能は通じないってことですね」

「いいまとめだな。そのとおりだ」

「ほかには?」

「ほかにか。たとえばそうだな、異形にもランクがあるのと同様に、能力者同士にもランクってのがあってだな」

「ほうほう」

「純粋に能力を有している、いわばミュータント、新人類みたいなやつらがもっとも優位に立っている能力者で、ほかの格下の能力者はこいつらに対して能力を行使できない」

「なるほど」

「で、格下の能力者ってのがまた分類がむずかしいんだが、大まかにまとめるとだ」

「まとめると」

「異形との契約で後天的に能力を獲得したやつと、その子孫ってところだな」

「ん?」

「解らんか。ならこう言えばどうだ。一般人も能力者になれる。異形と契約すれば」

「子孫というのは?」

「つまりだな、契約が破棄されなきゃ、契約を交わした者の子供にまで、その能力が引き継がれる。カエルの子はカエル理論だよ」

「念のために言っておきますけど、理論ではないですよ、それ」

「で、この親子間だと、能力の行使ができない」私の指摘は流された。「むろん純粋な能力者に対しても、こいつら契約型は、その異能を行使できない。ただ、人間と契約できる異形ってのはおおむね神並に突出した異形だ。いくら純粋な能力者といえど、チカラ負けすることもある。本来なら格下の相手のはずなんだけどな」

「そういうのって、機関に属したことのある人なら誰でも知ってることなんですか」

「誰でもってことはねえな。知ってどうなるって類の知識でもねえし、わざわざ学ばせる意味もない。まあ、とくに秘密にしているわけじゃねえし、知ってるやつは知ってるんじゃねえのか。神との契約なんて、知ってなけりゃできねえことだし」

「そうなんですか」私は後部座席を振りかえる。こんどはしっかり、身体ごと。ユっくんをまっすぐと射ぬきながら、「へえ、そうなんですか」

 もういちど発声よく言った。

『そうなのです』

 うやうやしくメディア端末を向けてくるユっくんは、阿るようにはにかんだ。

 子猿のような顔が仔猫なみにかわゆく映り、「なに笑ってんの。死ぬの?」と怒るのも忘れ私はまえに向きなおる。

「その顔、禁止」

 なぜなら、ずるいから。

   STP

 車が止まる。またしても渋滞だ。八尾尾さんが首を伸ばし、寿司詰めになった道路のさきを確認する。

「交通規制だってよ。こっからさき、通行禁止。歩行者も立ち入り禁止だと。ただごとじゃねえな」

「あ、じゃあ私たちはここで。乗せてくださって、ありがとうございました」

 ユっくんとニオ子ちゃんに降りるよう指示する。

「おいおい、おれだけ置いてけぼりかよ。ぬありに――脛木鯉沙に会いたくはねえのかよ」

「あなたに付いて行ったら会えるんですか?」この商品を買ったらほんとうに三割引きになるんですか、といやな目つきで迫る主婦みたいに言ってみる。

「すくなくとも、おまえらだけでうろつくよりかは、確率はあがるだろうよ」

「その自信、ちょっとムカつく」まるで脛木さんとの縁が私たちよりも深いみたいに聞こえる。「ずっと疎遠だったくせに、てやんでぇ」

「嬢ちゃんな。そういう口の利き方はよろしくねえぞ」

「じゃあなんて言ったらいいんですか」

「そういうときはな、ファッ・キューと言うといい」

「ファッ・キュー……」

 つぶやく。遅れて息が詰まった。不意に打たれた楔で、胸が苦しくなる。

「意味は知らねえけど、クールな言葉らしいぜ。アイツが言ってた」

 この胸の苦しみは、と思う。不意に打たれたわけではない。ずっとむかし、私がまだ世界でいちばんしあわせだと信じていられた時期に、胸に打たれた楔が、彼の言葉に共鳴しただけだ。

「それ、英語圏のひとに言ったら殺されますよ。本気で」

「ホントかよ」

 八尾尾さんにその言葉の意味を教え、

「金輪際、口にしないほうがいいです」と釘をさす。

「嬢ちゃん、やさしいなあ」

「いえいえ、とんでもない」

 つぎに口にしたようもんならおまえの舌ぁ、引っこぬいて、てめぇでてめぇの尻のアナぁ、舐めさせちゃる。

 私は今、猛烈に嫉妬している。




  

   3Λ07伊乃葉衣子

「SHITッ!」

 カナコが電波のむこうで叫んだ。足の小指を箪笥のかどにぶつけたみたいな呻き声にも聞こえる。

「わ、なに、どうしたの」

「京都だと!? おまえ今、京都にいんのか!?」

「えっと、そうだよ。京都にいるよ」

 正確には京都市内まであと二十キロほどのところだ。ただし、線路沿いに望める風景はすでに京の町並みで、京都にいると言っても支障はない。

 リニモステーションを出て、タクシーに乗りこみ、京都市内行きの電車に乗り継いだのがいまから十分ほど前のことになる。着信があったので端末を確認すると、カナコからだった。わたしは迷いなく通話ボタンを押した。窓枠には、かわいらしい絵柄の女の子が、「車内での通話はご遠慮してくりゃれ」と呼びかけているステッカーが貼られている。眺めながらわたしは、「今だけかんべんしてね。音信不通の友人からなの」と胸中で釈明する。

 まずは無事であることを確かめ、どこにいるのかを問い質し、のらりくらりと答えをかわすカナコから、その場にチカがいないところまでを聞きだした。

 興奮しているつもりはなかったのだけれど、

「イコ、ちょっと落ちつけよ」

 カナコからたしなめられ、落ちついているわよ、と言いかえしてから、お腹の位置にあるカイちゃんの心配そうな顔と目があい、

「落ちつきます」

 鼻息が荒くなっていたことをいさぎよく認める。

   3Λ07

 チカから連絡があったことを手短に話した。様子がおかしかったことや、なにやらカナコについて思い詰めていたことなどを伝える。

「アタシを止めるって言ってたのか」

「言ってたよ。でも、最後にはちゃんと、お土産持って帰るって言ってくれた」

「そっか」

「あんこのない、八ツ橋だよ」

「アタシにまでねだる気かよ」

「そうだよ。いやだったら、今どこにいるのか教えて」

 カナコは声を立てずに、息を漏らして笑った。「教えたらどうなる」

「逢いに行って、いっしょにあんこのない八ツ橋を買って、それから」

「それから?」

「帰る」

「ダメだ」

「どうして」

「アタシはもう戻れない。それを言いたくて連絡したんだ。チカは必ずそっちに帰らせる。だからイコ、あいつのこと――」

「なにそれ」遮り、冷たく吐き捨てる。「ねえカナちゃん。カッコつけてるつもりなのかもしれないけど、さむいよ。すごく、さむい」

「詳しい話は、チカから聞いてくれ。話を聞いたらイコはもしかしたら、あいつのことを嫌いになるかもしれない。そのときは容赦なく見捨ててやってくれ。生半可なやさしさは、アタシらからしたら毒にしかならない」

「なにか悪いことしてたの?」その言い草は、どう聞いても無法者のセリフだ。

「善も悪もないさ。あいつの場合はただ、まっとうに生きたかっただけなんだから。アタシとはちがってな」

 じゃあな、と通話を終えようとするカナコにわたしは、「京都でしょ」とカマをかける。

「カナちゃん、今、京都にいるんでしょ」

 返事はない。けれど通話を切られることもなかった。

「わたし、今、京都にいるの。チカとカナちゃんを迎いに来たんだよ」

「は?」

「だから、いるの。京都に。カナちゃんもいるんでしょ? いっしょに八ツ橋、買いにいこ」

 電波の受信がわるいのか、声が聞こえなくなる。

「カナちゃん? もしもーし、聞こえてる?」

「SHITッ!」

「わ、なに、どうしたの」

「京都だと!? おまえ今、京都にいんのか!?」

「えっと、そうだよ。京都にいるよ」

「ウソだ」

「ホントだよ」

「だって今ここ、立ち入り禁止になってるはずじゃ――」

 やっぱり京都市内にいるのだ、カナコは。

「なんか事故があったって、みんな騒いでる。どんな事故かカナちゃん、知ってる?」周囲を見渡して、さもその場にいるような雰囲気を醸しだす。

 電車内でのアナウンスでも、市内で事故があり、もとよりの駅には停車せずに通過いたします、との旨の謝罪がさきほどあったばかりだ。

「交通規制だってされてるし、避難勧告だって出てるはずだぞ。なんだってまだ残ってんだよ」

 避難勧告まで出ているというのは初耳だ。わたしが知らないだけで、ニュースになっているのかもしれない。ひょっとするとまだ表向きには発表されていない秘匿の情報である可能性もある。そもそも起きたといわれている事故だって、ほんとうに事故なのか怪しいものだ。なにかしらの緘口令が敷かれているのかも、と想像する。

「逃げ遅れちゃったみたい」わたしはウソを吐く。だから未だ京都市内にいるのだ、と説明する。

「どの辺にいるんだ。まさか駅前になんかいないよな」

 なるほどカナコは駅前にいるのか。

「駅前だよ。ここにいたらダメなの?」

「いったん切るぞ。GPSで現在地確認する。ウソじゃないと判ったら、こっちから出向くから、イコはどこか安全そうな場所にじっとしていてくれ」

 電波が届かなくなることを危惧しているのか、カナコは、「地下にはいくなよ」と念を押した。

「わかった。じっとしてる」

 通話を終え、メディア端末を仕舞う。事情を聞きたそうにしているカイちゃんにわたしは微笑んでみせる。ほころびるだけのわたしに、カイちゃんは上目遣いに苦虫を噛みつぶしたような顔を向けた。

   3Λ07

 間もなく、京都市内の、封鎖されていない駅に着く。天気が良く、澄みわたった青空がひろがっている。ここから事故のあったとされる中心街までは、三駅ほど離れている。徒歩で向かうしかない。

 カイちゃんを連れていくのは危険だと思い、近場のホテルで待っているようにそれとなく説得してみた。なかなか首をたてに振ってくれない。カイちゃんの向かいたい先もまた中心街であるらしく、いっしょに行きます、と言ってきかないのだ。

 どうやらわたしがカナコと通話しているあいだに、例の〝おねぇさん〟が現れていたらしい。「中心街の駅前へ行け」と目的地を具体的に指定したとの話だ。まるでわたしとカナコとの会話を盗み聞きして決めたかのようなタイミングだ。

 嫌な予感がする。

 カナコについて考える。

 GPS検索をかけたカナコはすぐにわたしが京都市内にいないことを知るだろう。それでいい。同時に、わたしがそこへ向かっていることも詳らかになる。

 駅前で待っていれば、カナコはそこに現れる。きっとわたしに逢いにきてくれる。

 ずるいなあ、わたし。

 カナコの性格を利用している。カイちゃんにも事情を説明することなく、じぶんだけ問題を背負いこもうとしている。カイちゃんはわたしを頼ってくれているのに、わたしはカイちゃんを頼ったりしない。

 ううん、ちがうよね。私は首を振る。カイちゃんだってわたしを頼ろうとはしなかった。

 偶然リニモステーションで見かけたから良かったものの、そうでなかったらカイちゃんは今ごろ一人で京都へ向かっていたのだ。

 カイちゃんのそれは親切心だ。わたしを極力巻きこまないようにとの配慮だと判る。でも、そんなのわたしは望んでいない。

 頼ってほしい。信じてほしい。

 けれどわたしに、カイちゃんの助けになってあげられるほどのちからがないこともまた事実だ。

 なにか専門的な知識があるわけでもなし、金銭的な援助をしてあげられるほど資金が潤沢なわけでもない。

 せいぜいがこうして、旅のお供についてあげるくらいが関の山だ。

 こころから信じてあげることもできず、金魚のフンほどの役目しか負えない益体ナシのわたしを、信じ、頼れ、というほうが土台ムリな話というものだ。

 ならば、と考える。

 求められなくとも構わない。

 わたしはわたしのために、カイちゃんを〝おねぇさん〟の呪縛から解放し、カナコもチカもとり戻す。

 だいじょうぶ。

 これまでが無欲すぎたのだ。

 これくらいの欲を張ったって、だれも責めはしないもの。

 じぶんに言い聞かせてみるけれど、さきほど頭によぎった嫌な予感を拭い去ることはできなかった。




   ○~神津戒

 イヤな匂いをぬぐい去ることはできなかった。

 さいしょは虫だと思っていた。でもちがった。羽の生えたムカデみたいな生き物で、ぼくのおやゆびのつめくらいの大きさだ。羽は、トンボのものに似ていて、でも、鳥の翼みたいに折りたたみ可能なのだ。

 こんな生き物、見たことない。

 ぼくはもういちど、この虫を捕まえた場面をくわしく思いだしてみることにするしだいだ。

   ○~

 電車に乗るときには、もうあんまり眠たくはなかった。でも目はまだしゅぱしゅぱしている。ぼくは座席に身体をあずけて、からだを楽にする。イノバさんはぼくのまえに立ち、吊革につかまっている。

 電車の座席はふかふかのソファみたいで、おしりを載せると、ぼくの体重であっても、プリンにスプーンを押しつけたみたいに、むぎゅんと沈む。

 電車のなかは空いていた。いちどだけぼくのとなりに、女のひとが座った。たぶん、女のひとだと思う。マネキン人形みたいに整った顔だちをしていて、すごくきれいな男のひとだと言われたらそうかもしれないとも思えるのだけれども、読みだした本のタイトルが、「浮気をゆるせない男の心理」というものだったので、女のひとだと結論づけたしだいだ。

 つぎの駅で女のひとは、電車のそとに去っていった。そのひとが座席から腰をあげるときに、おしりのしたから例の虫みたいな生き物が、ぽっこん、と飛びでてきたのだった。さながらトランポリンで跳ねるピエロみたいに。

 虫みたいな生き物は、あらたなひずみを求めて、コロコロととぼくのもとまでころがってくる。

 ブラックホールというのは、こういう原理で重力場をゆがめ、周囲のホシボシを吸いこむのだ。ぼくは学校の図書館から借りた本をたくさん読んでいるのでそういった知識をもうこの年で習得している。

 ぼくは今、ちいさなブラックホールになっているのだ!

 ウキウキするいっぽうで、でもぼくはブラックホールではないので、虫さんを吸いこむ資格はないのです、と思いなおす。おしりのしたに吸いこまれる寸前で、コロコロころがってくるなぞの生き物をゆびでつまんだ。助けだす。

 てのひらにころがし、よくよく観察してみる。

 もともとの造形はほそながく、今はメジャーを丸めたみたいに、とぐろを巻いている。刺激を受けてまぁるくなるなんてまるでダンゴムシだ。

 とぐろを巻いたその生き物は、しばらくじっとしていた。

 イノバさんは、メディア端末でだれかとお話をしている最中で、話しかけることができない。

「どうしよう、これ」

 とっさにゆびで捕まえてしまったぼくは、虫のようで虫ではない、なぞの生き物をまえに困惑する。

 なぞの生き物がもぞもぞと蠢きだす。ぼくはびっくりして、とぐろが解かれるまえに振り払おうとする。

 ところが、急にうごきだした大地におどろいた獣が踏ん張るみたいに、なぞの生き物がぼくの手に、その無数の脚を突きたてるものだから、ぼくは取り乱すのにおおわらわになって、おもわず両手をバチンと閉じた。

 血の気がひく。やってしまったですよ!

 頭のなかでは、有名なアニメ映画のワンシーンが再生されていた。丸いフサフサしたまっくろい物体を女の子が両手で捕まえ、「とった! おねぇちゃーん」と自分の姉を呼ぶシーンだ。

 その映画では、女の子が両手をひらくとそこに捕まえたはずの物体はなく、手はただ黒くすすけているだけだった。

 あるいはぼくもそうなっているのでは、と淡い期待をいだいて、おっかなびっくり、くっつけた手のひらを離してみる。空いた隙間から、ぽろり、と無残にもひしゃげたなぞの生き物がこぼれ落ちた。ゆかにころがる。

 ただ眺めているぶんには、バキバキに折れたつまようじにみえなくもない。

 せっかく助けてあげたのに。

 手には、つぶしたときの感触と、ひしゃげたソレから流れでたと思われる、液体がのこっていた。付着した液体を嗅いでみる。くちゃい! あまりの強烈な臭いに顔をゆがめずにはいられなかった。

   ○~

「それ、虫じゃないよ」

 ぼくのとなりに、いつの間にかおねぇさんが座っていた。イノバさんはまだお話し中で、おねぇさんの登場には気づいていない様子だ。イノバさんにはふしぎと、おねぇさんへの呼びかけが聞こえてしまう。本来なら、おねぇさんに関するぼくの行動や発言はいっさいほかのひとには意識されないはずだのに、なぜだかイノバさんには、おねぇさんへ向けたぼくの声が聞こえてしまうのだ。

「虫でないのなら、なんなのですか?」

 正体を知っているなら明かすべきです。ぼくはこしょこしょ声で、要求する。なぜならぼくがよろこぶからです、とも付け加える。

「それも異形の一種だよ」つまらなそうにおねぇさんは言った。「広義にはわたしとおんなじ存在」

「おねぇさんとおんなじ?」もしこれらの生き物がおねぇさんといっしょだというのなら、ぼくとパンダさんだっておんなじだ、と言えてしまえるかもしれない。

「あーあ、もうどうでもよくなってきちゃった。カイちゃん、今からいっしょに逃げちゃわない?」

「どこへですか」

「うーん。地の果てとか?」

「問題は解決できたのですか」

「解決しなくてもいいかなあ、とか思っちゃったよ。だって、めんどっちーんだもん」

「ちーんだもん」と口真似をする。おねぇさんは両腕をのばして、背もたれに、ぐてー、と寄りかかった。天井を見あげ、

「わたしさあ、べつに人間なんてどうだっていいんだよね」ぶつくさと仕事の不満をこぼすキムラさんみたいに言った。「死のうが生きようが、滅びようが栄えようが、どっちだっていいのよ」

 話の意図がみえなくて、ぼくは押しだまる。あれだけまぶしく発光していたおねぇさんの身体は、いまはだいぶんその輝きも治まって、消したあとの蛍光灯くらいの明るさだ。

「でもね、わたしだって一人で生きてるわけじゃなくて、ある意味じゃ、人間に生かされているとも言えるわけだ。人間が家畜によってお腹を満たして生きているみたいにね」

「ぼくはブタさんといっしょですか?」

「ちがうとも言えるし、いっしょだとも言える。重要なのは、わたしにとってきみがもう、ただの人間ではなくなっちゃったってところだね」

「よくわかんないのです」

「死んでほしくないってこと。哀しんでほしくないってこと。できれば笑顔をみせてほしいってこと。笑顔のカイちゃんをずっと見ていたいと思っちゃってるよってこと。どう、わかった?」

 ぼくは、いー、と歯をむき出しにして満面の笑みをつくってみせる。これくらい、いつだってみせてあげるのに。ぼくは内心でふしぎに思う。

 ぼくはおねぇさんに、ほっぺたをつままれ、もみくちゃにされる。

「はぁ。やっぱり逃げるのはナシ。カイちゃんはこのまま市内の中心街に行って」

「ちゅうふぃんがいふぇふか?」中心街ですか、とぼくは言ったつもりである。

 おねぇさんは駅のなまえを口にした。中心街にある、いちばん大きな駅なのだそうだ。「そこにわたしを連れてって。したらあとはわたしがなんとかするから。カイちゃんは、イノッチから離れずに」とおねぇさんはあごをしゃくってイノバさんを示して、「どこかビルのなかとかに隠れてるんだよ」

「わかりました」ほんとうは解っていないのだけれどぼくは解ったふりをする。

「あと、地下はあぶないから、ダメだからね」

「なるほど」

「さてはきみ、わかってないな」

「ぼくはイノバさんといっしょにいればいいのです」そしたらイノバさんがなんとかしてくれるのです。ぼくはこずるい考えを抱いて、むねを張る。

「まあ、それでヨシとしよう」

 あんがいおねぇさんもそれがいちばんいいように思ったのかもしれない。おとなしく許しをだして、ふたたび姿を消した。

 ぼくはあくびを一つする。手で口元をおおうようにすると、鼻の奥がツンとした。頭のなかにまでそのツンが昇ってくる。謎の生き物の体液が手についていたことを、ぼくはすっかり忘れていた。

「わかった。じっとしてる」

 イノバさんが通話を終えて、メディア端末をしまった。

 鼻がまがりそうになっているぼくを見下ろして、イノバさんは何かをごまかすようにほころびるのだった。

   ○~

 虫みたいな謎の生き物は一匹だけではなかった。

 目的地へとちかづくにしたがって、電車内でちらほらと見かけるようになっていく。どうやら乗りこんでくる乗客にくっついているみたいだ。壁やゆかをゆっくり、それでもたくさんの脚をせかせか動かして這いまわっている。かと思えば、電車を降りるために乗客がおおきく動くといっせいに、わさっ、と舞いあがり、すいーすいー、と宙をおよぐ。

 羽アリの新種かなあ、とぼくは推測してみたりする。ただ、足の本数からすれば昆虫ではないと判るので、では羽アリとはまったくべつの生き物だ、という結論がみちびかれる。

 アリに似ていて、アリではない。

 となると、たとえばアリグモなどが挙げられる。

 アリグモは、ハエトリグモ科アリグモ属のクモで、なまえのとおり、見た目がアリに似ている。

 ふしぎな性質だけれど、これは擬態と呼ばれるものだ。

 アリに似ているのは、アリにちかづき、アリを食べるためだ、とも、天敵の目をあざむくためだ、ともいわれている。でもアリは視覚よりも嗅覚(フェロモン)でなかま同士を判別するので、アリグモは、アリを食べるためではなく、獲物や天敵の目をごまかすために擬態しているのだな、とぼくは推理するものだ。

 ただ、ダーウィンさんの唱えた進化論では、動物の進化は、意図されたものではなく、偶然の産物だとする結論なので、もしかするととくに理由はないのかもしれない。

 たとえば、青色のリンゴが売れて、藍色のナシが売れた。この場合に、なぜ二つが売れたのか、と考えるとすると、注目すべき因子はまず色にある。リンゴとナシが似ているからではなく、青色と藍色という色に秘密があると考えてみるとよい。この考えを適用すると、クモがアリに似たのではなく、互いにそういうカタチだったからこそ生き残った、とも考えられるのだ。

 おもしろいぞ、とぼくはワクワクしてくる。はやく図書館にいって、アリグモについて調べたいな、と思った。

 ぼくは、ほかの学者さんの研究セイカをいまのうちからたくさん見ておかなければならない。なぜならぼくは、いつか必ず、生物学者になるからだ。

 そして、まだ発見されていない生き物や、解明されていない動物の生態を研究して、本とかをだして、ぼくみたいに雨の降らない日のカタツムリになってしまったコたちに、それでもカタツムリは雨が降るまでじっとしんぼうづよく殻にこもって、雨が降るまで耐えて、いつの日にかまた、のそのそと動きだすんだよ、と教えてあげるのだ。

「むしなんて好きなの? おんなのコなのに」

 そうからかわれるのがいやなので、イノバさんにもこれはまだナイショなのである。イノバさんは、ゆびに乗るくらいにちいさな生き物がにがてなのだ。

   ○~

 電車を降りからは歩いて目的地までいくことになった。イノバさんと手をにぎる。歩幅を合わそうとしてもどうしても、ぼくのほうがせかせか急ぎ足になってしまう。ぼくは虫ではないのに。足のみじかさがいやになる。

「短足に、嘆息」ぼくはつぶやく。「胴長ってどうなん」

「ん? ドーナツ? あ、そっか、お腹すいちゃったよね」

「……ちがいます」

「じゃあ、なに?」

「なんでもにゃいのです」

 顔が熱くなる。思いつきでしゃべると、とても恥ずかしい。

 気をつけなくてはならないぞ、とぼくはつよく学ぶものだ。

   ○~

 三駅分を歩くと聞いていたのでぼくは、すごく疲れることを覚悟していた。

 ぼくのお世話になっている施設のある街だと、駅と駅との間隔が、十キロ以上離れている。でもここでは、ぼくの暮らしている街でいうところの、バス停とおんなじくらいの間隔で駅が置かれているみたいなのだ。

 着物姿の女のひとたちがカランコロンと楽しげにげたを鳴らして散歩している。タイムスリップでもしたかのような、むかしの町並をとおりぬける。とちゅうでクレープを買って、食べ終わるころにはほとんど、「目的地周辺に到着しました」だった。これはカーナビの真似である。

 おねぇさんの指示した駅前に着いた。ぼくはそらを見あげる。

 そらを縁取るみたいに、背高ノッポの建物がぐるりとぼくらを囲んでいる。足元が崩れたみたいな感覚になって、ぼくはクラクラした。

 澄んだあおぞらが広がっているのに、ふしぎと地上はうす暗い。信号機から、歩行者用の音が、カッコーカッコー、と小鳥のさえずりみたいにさびしくひびいている。

「だぁれもいませんよ」

「みんな避難しちゃったんだね」

「ヒナン?」

「ここ、今は入っちゃダメな区域なの」

「なんと!」

「あはは。なんと、だって」

 笑っている場合ではないのです。ぼくはイノバさんの陽気な発言に、「のんきだなあ!」とちょっぴりむくれる。

 駅からのびる立体歩道橋のうえにイノバさんは立った。古い建物とあたらしいビルの入り混じる、チグハグな景観を眺めて、「それにしても」とこぼす。「事故って何があったんだろうね」

「事故なんてあったのですか?」

「ニュースだとあったみたいなことを言ってるんだけど、うーん、おかしいよね」

 ぼくもてすりにしがみつくようにして、街並みを見下ろす。イノバさんの言うように、たしかに事故らしい事故があったというふうにはみえない。パトカーも消防車も見える範囲には止まっていないし、そもそもそういった救急隊員みたいな人たちが活動している気配さえない。ここから見えないところで事故があったとしても、もうすこしガヤガヤとしていてよさそうなものである。

 それにしてもしずかだ、とぼくは疑問に思うものだ。

 イノバさんはここでオトモダチを待つのだ、と言っていたけれども、果たしてこんなところに来るのだろうか。待ち合わせならもっとにぎやかで、それこそ、いましがたとおってきた、タイムスリップしたかのような場所のほうが、ぼくたちみたいな現代人は目立ってよいのではないか、とぼくは考えるしだいだ。

   ○~

「ねえ、カイちゃん。〝おねぇさん〟はまだ消えたままなの?」

 水を向けられて、ぼくは思いだす。そうだった、おねぇさんはここへ来たがっていたのだ。到着した以上、なにかしらの要求がまたあってもいいはずである。

「おかしいですね。いないのです」

「呼んでみたらどうかな? 着きましたよー、って」

「おねぇーさーん」ぼくは声を張って呼びかけてみる。山のうえでもないのに、ぼくの声がこだました。

「だめ?」

「みたいです」

 ぼくの声がまだ、聞こえる。ここまでたどり着くまでに残してきた魂のかけらが、ぼくの呼び声に共鳴して、順々に応じてくれているみたいだ。ぼくは想像する。童話のヘンゼルとグレーテルみたいに、ぼくは迷子にならないようにと、すこしずつ魂を削ってここまでやってきたのだ。

「魂なんて存在しないよ」

 とつぜん声がした。ぼくのこころなかを盗み聞きしていたみたいに、声は続ける。

「あるのは記憶と、その情報を記録し、再生し、構築し、ふたたび記録する――その循環系があるだけだからね。仮にそれを魂と呼ぶなら、魂は存在するものではなく、現象として生じるもの、と考えるべきなわけ。つまり、風に舞う木の葉や、雨のつくる水溜りとおんなじだってこと。言っている意味、わかる?」

 おねぇさんがてすりのうえに立っていた。風もないのに、髪の毛を逆立てている。静電気を溜めこんでいるみたいにみえるし、そこだけ重力がなくなっているふうにもみえる。おねぇさんの髪は、水みたいにつややかで、束にならないと黒くみえないくらいに、ほそい。天使の羽みたいにきれいなのだ、とぼくはとてもたかく評価するものだ。

   ○~

「おねぇさんはどうして――」

 ぼくのおねぇさんへの呼びかけを耳にとめて、イノバさんがこちらを向いた。おねぇさんは、ぼくとイノバさんのあいだにいて、てすりのうえからぼくの頭をテシテシ踏む。踏まれながらぼくは、

「どうして、ここへ来たがっていたのですか?」

 この質問はあいまいだな、と思いなおして、解決したい問題ってなんなのですか、と質問を重ねる。

「わたしはきみのママんに死を与えた。つまり、殺しちゃったんだよね」

 殺した、という言葉にぼくは胸が苦しくなる。心臓を手でぎゅうとされたみたいで、血液まで流れなくなったみたいだ。身体が寒くなる。

「質問に答えてほしいのです」ぼくは言葉に棘をまとわせて言う。そんな話は聞きたくないのです。

 おねぇさんは歯を見せずに、目だけをほそめて微笑んだ。

「で、きみのママを殺した代わりに、わたしはきみのママんのおねがいを聞くことになった。つまり、きみを泣かせないで、って契約だね」

「知ってます」その説明は前にもいちど聞いている。「質問に答えてほしいのです」

「わたしにとって、いちばんたいせつなことって、契約を守ることだったんだよね。それが死神であるわたしの存在理由で、だからカイちゃんが死ぬまでの残りの時間――契約が切れるまでの時間は、わたし、なにがあってもカイちゃんを泣かせないでいようと思った。でも、気づいたらそうじゃなくなってた。わたしにとっていちばんたいせつなのって、今はもう、契約じゃないんだ」

「なんなのですか?」なら、おねぇさんにとってたいせつなものってなんなのですか。

「なんなんだろうね。べつにこんな小憎たらしいコなんてどうなったっていいはずなのに」

「ぼくは小憎たらしいですか?」

「そういうふうに、訊きかえしちゃうところなんか、ほんとうに小憎たらしいと思うね」

 おねぇさんはそう言って、イシシ、と笑った。こんどは、白くて整った、かわいらしい歯を、グレープフルーツみたいにぷりぷりの唇の合間から覗かせている。てすりからこちら側に飛び降りて、ぼくのほっぺたをむんずとつまむと、おねぇさんは、うりゃうりゃ、といつものごとくこねくり回すのだった。

「なんなんでふゅか」

 なんなんですかいったい、とぼくはおこったつもりである。ぼくのその反応もふくめておねぇさんは楽しんでいるみたいだった。

   ○~

「えっと、初めまして。わたし、伊乃葉衣子といいます。カイちゃんのオトモダチです」

 ぼくの独り言にもみえるおねぇさんとの会話を見守ってくれていたイノバさんが、どうしてだかこちらに向かって自己紹介をした。リニモステーションでぼくを見つけ、声をかけてきたときよりも、もっとおどろいた顔を浮かべている。どれくらいおどろいた顔かと言うと、街中でばったりドードーを見かけてしまった、といったくらいのおどろきようだ。ドードーは三百年以上も前に絶滅してしまった動物である。おどおどしているイノバさんは、ウサギさんみたいだ。ぼくはイノバさんを「とてもかわいいひと」認定する。

「ぼくは神津戒です」

 どうしたものか、と迷ってからぼくは、イノバさんに向きなおって、

「イノバさんのオトモダチです」

 ちょっぴり照れつつ自己紹介をかえす。

 イノバさんは、「え?」というふうに目をみひらいて、純度百パーセントの困った顔で、口元だけをゆるめた。視線を辿るとイノバさんは、びみょうにぼくからずれたところを見ている。どうやらさっきのは、ぼくへ向けてではなく、おねぇさんへ向けての自己紹介だったようだ。

 と、ここまで考えてから、あれれ、ちょっとおかしいぞ、と違和を感じる。八百屋さんでサンマを買ってきちゃった、みたいな違和感である。

「どうして?」ぼくは口にする。どうしておねぇさんの姿が、イノバさんにも視えているのですか? イノバさんへとも、おねぇさんへともつかない、矛先の定まらない問いかけだ。

「ほかの〝わたし〟が戻ったからだね」おねぇさんが答えてくれた。「夜明け前かなあ、カイちゃん以外の〝家〟がみんな消えちゃってさあ。で、分散していた〝わたしたち〟が、わたしのもとに戻ってきたわけ。だからわたしの存在が、より色濃いものになって、イノッチにも視えるようになったんじゃないかな? よく分かんないけど」

 言われてみれば、おねぇさんの身体からは今や、すっかり輝きが消えている。そのかわり、どうにも言いようのない威圧感とも存在感とも分からない、引力めいたものが、おねぇさんの周囲には感じられる。まるでそこに目に映らない分厚いマクが張られているみたいだし、おねぇさんのいる場所だけ、水中へとつづいてみるみたいに、こちらとはべつの世界に通じているようでもある。目のまえにいるのは間違いなくおねぇさんなのに、ぼくの知っているおねぇさんではないような不安がぼくに、いやな予感を覚えさせる。

「あの、わたし」イノバさんが一歩踏みだして、こちらにちかづく。なにかを弁明したそうにみえる。

「いい、いい、解ってるから」おねぇさんは手を伸ばして、イノバさんを制した。「ずっと見てたんだ。カイちゃんのちかくでね。イノッチのことだって見てたんだもの、いまさら謝る必要はないし、なにも言言う必要もないよ。イノッチが知っていることならたいがいわたしも知ってるし、イノッチの知らないことだってわたしは知ってる。それともなに? なんか訊きたいことでもあるのかな?」

 訊きたいことならやまほどあった。でもぼくの質問に、おねぇさんがすなおに答えてくれるとは思えない。ひらきかけた口を閉じる。ここはイノバさんに任せよう。

 視線をはずす。

 なにげなく、てすりのあいだからしたを覗くと、人影を発見した。

 男のひとのようにみえる。こちらを見あげている。じっと見つめていると、目が合ってしまう。

 男のひとの顔は、暗かった。あたかもそこだけぽっかりと深い孔があいているみたいなのである。

 どうして動かないのだろう。あちらからこちらは見えているのだろうか。

 目を凝らしていると、ちょうど男のひとの背後に、もうひとつ、影が現れた。

 そちらは女性みたいだ。とても焦っているのか、ビルの影から飛びだしてきたところだった。男のひとの姿に気づき、歩を止める。

 男のひとも女性の気配を感じとったようで、振り向きながら、よこに移動した。

 ふたりは対峙する。

 とても緊迫感のある、まるで西部劇のいち場面みたいだった。

 ぼくは固唾を飲んで見守る。

「カナコ!」

 おねぇさんとなにごとかを話していたイノバさんが、とつぜんてすりに身を乗りだして、そう叫んだ。

 女性がこちらに、顔を向けた。




  

第四章【七色の虹】



  +薬尾夜神+

 歩行者回廊(ペデストリアンデッキ)のうえに人影があるのを見つけ、俺はそちらに顔を向ける。

 ひぃふぅみぃ、と三人いる。

 一人は子どもで、欄干に隠れるくらいの背丈だ。欄干の隙間からかろうじて姿を確認できる。

 もう一人は女性で、こちらも小柄な体つきをしている。服装や佇まいから、成人であると見受けられる。子どもの母親というほど老けてはおらず、姉というほど容姿も似ていない。

 凝望していると、腹が鳴った。

 空腹を感じるとは珍しい。血の騒ぐような妙な飢餓感だ。虫の知らせというやつかもしれない。ふと、ニオ子の顔が思い浮かび、時点で、邪心を喰わせてくるのを失念していたことを思いだす。

 ささやかな失敗に対する臍を噛み締めつつ俺は、最後の一人へと視軸を合わせる。

 瞬間、全身が総毛立つ。

 アレは、マズい。

 毛羽立つその音さえ、聞こえてきそうなほどに、毛穴という毛穴がいっせいに閉じた。

 厭な汗までもが、噴き出してくる。

 もっとも目立つはずのその女になぜ、いの一番に注視しなかったのか。その女は欄干のうえにのぼり、ほかの二人よりも数段高いところからこちらを見下ろしている。

 とにかく危うい存在である、というのは、考えるよりもさきに直感で理解した。

 サバンナでライオンを見かければ、仮にライオンという存在すら知らずとも、その圧倒的優位性、百獣の王としての貫禄に、ヒトは否応なく畏縮するだろう。それと同じことが今、俺の身に起こっている。

 じぶんの現状を分析しつつ俺は、物陰に身を潜めたままでいたことを正解に思う。

 あちらからこちらが見えているとはとうてい思えないが、予断は禁物だ。すでに見つかっていると想定して動くべきだろう。

 俺はいちどビルのなかへと身を引っこめる。三十階建ての高層ビルで、ここはその三階に位置する。カバンに詰めていた「護符」や「呪具」をすべてベッドのうえへ出し、必要なものだけを懐に忍ばせる。ほかの荷物はその場に放置し、万全を期して、戦闘態勢をとった。ビルの一階まで降り、ふたたび物陰から三名の不審者を視界に捉える。この間、およそ一分だ。

 子どもと童顔の女は人間であったとして、問題はあの、規格外の女だ。異形にしては邪気が感じられず、人間にしては険難すぎる。

 人間があれだけ規格外の存在になるには、たとえば、この空を覆う重厚な雲並に、邪心に冒されなければならない。だがそんなことは考えにくい。それだけの邪心を受けとめる器が、いち個人にあるとは思えない。

 とすれば、アレは人間ではなく、規格外の異形と考えるべきだろう。

 しかし。

 ほかの二人はどうにもアレと言葉を交わしているようにみえる。アレは欄干のうえから降り、今はほかの二名と同じ高さで向きあっている。敵同士ではないのだろう。子どもと女性の二人は、一見して、アレを使役している能力者ではないと判る。では逆に、アレが二人にとり憑いているのか?

 いや、考えるのはよそう。理屈と膏薬はどこへでも付く。推測するだけ時間の無駄だ。

 まずは近づき、具体的な情報を探ろう。

 アレらが機関側の者なのか、それとも宣戦布告を仕掛けた側のモノなのか。どちらでもない可能性もある。

   +++

 アレの意識がこちらへ向いていないことを注意深く見極める。安全だと判ってから、素早く道路へと躍りでる。ベンチや歩行者回廊の階段の陰などに隠れながら、すこしずつ距離を縮めていく。歩行者回廊の高さは目測で、地上から一〇メートルほどある。

「初めまして。わたし、伊乃葉衣子といいます」

 なんとか会話の聞こえる地点まできたようだ。それでも距離は、直線で結んで、ざっと三〇メートルはある。

 自慢ではないが俺の聴覚は、常人のそれとは精度がちがう。聴覚だけでなく、視覚をはじめとする五感はもとより、膂力までもが、一般的な成人男性の平均を大きく上回る数値を叩きだす。じぶんの身体能力がずば抜けていることに気づいたのは、間抜けなことに、篠子と結ばれたあと、常人ならざる者たちの集う鬼頭家に属してからのことだった。

 人は人であると知っているからこそ、言葉を話せる。じぶんを狼と思っている人間は、人にはなれない。

 空を飛べないことが当りまえの世界では、たとえ空を飛べる能力があったとしても、その能力に自覚的になるには、それなりの運が必要となる。幼少期、青年期ともに、俺にはその運がなかった。

 久しぶりに役立った自身の能力に、まるでじぶんの存在価値が高まったかのような錯誤を覚えていると、

「ぼくはカミツカイです」

 どこかで聞いた単語を耳にする。

 思考の流れに、巨大な岩を投じられたかのような引っかかりを覚え、カミツカイ、神遣い、と舌で転がす。単語の意味を模索する。なぜか動機が乱れ、しばらくその場から動けなくなる。

 間もなく、神津戒、と最適な漢字に変換された答が導きだされる。

 奇しくもそれは、俺の娘の名と同じものだった。

 まさかな、と思いつつも、確認せずにはいられない。

 だが待てよ、と思いとどまる。

 俺は生まれてきた娘の姿をこの目で拝むことなく、単身旅にでた男だ。百歩譲って、あそこにいる子どもが俺の娘だったとして、この目で確認したところで、それが我が子であると判るものか。

 頭ではそう結論付けていても、俺の身体は、俺の意思とは無関係に動いていた。いや、それこそが本心であるかのように、俺の意思決定権の九割を保有する理性を押し退けて、身体が動く。

 低めていた腰をあげ、三名がいた場所を仰視する。すると、目をやったさきには、歩行者回廊の欄干に空いた間隙から覗き見える、少女のあどけない横顔があった。

 いつの日にか目にした、あの、最愛のひとのあどけない顔つきと寸分違わず、そのコの横顔は、俺の胸を熱く焦がす。鬼頭篠子の少女時代、俺たちがまだ中学生だったころ、それよりも多少ばかり幼い、それでも利発そうな娘の顔が、そこにはあった。

 時間が止まる。

 いつまでも見ていたいと望む。

 こちらを向いてほしい、と願い、見つけないでほしいとも祈る。

 今、俺の視線のさきにいるのは、俺が現在、もっとも出会ってはならない相手、最愛のひとの最愛にほかならない。

 離れるべきだ。

 見つかる前に。

 はやく、この場を。

 思っていても、思うように身体が動いてくれない。

 動きたくないのだ。

 離れなければならないのに、それを全身が拒む。本心が抗う。

 やっと会えた。

 ようやく、ようやく、この手に触れることができる。

 そんなこと、たとえできたとしても、死んでもしてはならぬはずだのに。

 我が子に触れずに済むようにと、そのために俺は、旅にでたというのに。

 本当はいつだってこの手に娘を抱き、最愛のひとと喜びあいたかった。

 そのために俺は、あの刀を探し求め、全国を津々浦々と放浪していたのだから。

 かの伝説の異形、一角戦鬼の揮った妖刀。

 ――炎(えん)命(めい)。

   +++

 炎命――。

 その刀身は、燃え盛る炎のごとく深い紅色をし、斬れぬ物はなく、主の意思により斬らぬ物を折衷する、と巻物には記されていた。その巻物は、俺がまだ鬼頭家にいたころ、蔵の掃除を言いつけられ、偶然掘り当てたものだった。

 一角戦鬼の伝記からはじまり、それにまつわる機関の、対応と奔走そして鬼族に翻弄される情けない様相が詳細に、水墨画と共に描かれていた。

 むろん俺に、達筆な古文など読めるはずもなく、俺は妻である篠子に内容を教えてもらった。

「これ、人間が書いたものじゃないよ。たぶん、鬼族の自伝みたいなものだと思う」

 ひと通り中身を改めたあとで、篠子はそう言った。真実に鬼が存在したかのような口振りがおかしく、俺が失笑すると、篠子は気分を害した素ぶりもみせずに、

「いたんだよ。むかしは」

 薬尾くんは知らないかもだけど。

 鬼族についての話を聞かせてくれた。

 武力の高さこそが強者の証であった時代、鬼族は人間界においても隆盛を極めていたという。異形の王たる鬼族にも、王たるモノがおり、それは人間が鬼族の存在を記録に残しはじめた時分から、一角戦鬼と呼ばれる一匹の鬼であったそうだ。

 鬼族による人間界への侵攻を防げなかったこの国は、やがて戦国時代に突入した。鬼族に支配された武将たちがこの国に、暴力による暴力のための、荒廃した時代を切り拓いていった。

 機関が設立されたのはちょうどそのころみたいだよ、と篠子は語った。

 始末屋と祓い屋、大別すればこの二つの組織からなる機関は、自らを「外道」と名乗り、鬼族を筆頭とした異形と呼ばれる脅威に対して、猛然と立ち向かった。

 異形との抗争は長きにわたって繰り広げられ、その損害の規模を縮小させたとはいえ、現在もなお、その戦いはつづいている。

 話題を鬼族との抗争に絞って言及するならば、何度目かの停戦協定が反故にされたあと、機関が一角戦鬼の封印に成功したことで、情勢は一気に機関側へと傾いた。

 そして現在から二十余年前、機関はついに鬼族を滅ぼした。

 篠子の語った鬼族との抗争は、概ねこのような顛末だった。

 一角戦鬼の封印には、機関を設立した当初の幹部、つまり鬼頭家や虎豹一族など、由緒ある祓い屋や始末屋の一族が結託して挑んだのだそうだ。

「だからこれもうちにあったんじゃないのかな」

 戦利品を譲り受けるに値した一族であったために、鬼頭家の蔵に鬼族の巻物が仕舞われていた。筋は通っている。だが仮にそれが真実だとして、この巻物に記されている内容は、どこまで事実に基づいて書かれているのか。

 俺がそう問うと篠子は、「わからないけど」と前置きしたうえで、

「わたしの知ってる史実とほとんど差異はないみたいだし、だから書いてる内容もそれなりに正しい気はするよ」

 迂遠にではあるが、中身に偽りはない、と言った。

 巻物には主として、一角戦鬼の活躍が描かれていた。よもや当人が書いていたとは思えないが、巻物の終わりは、一角戦鬼が「龍」と呼ばれる異形を倒したところまでで、一角戦鬼の封印には触れられていなかった。

 だからかもしれない。

 俺は幼稚にも、巻物に記された、妖刀「炎命」の実在を信じた。

 中身に偽りはないと言った篠子の言葉を信じたかった。

 時空をも斬り裂くことのできる刀。

 主の意思を汲み、斬らぬ物を識別する刀。

 そんなものが果たして真実に存在するならば、俺に宿るこの忌まわしき性質――不幸媒体体質も、斬り捨てられるのではないか。

 当時の俺に縋れるものがそれくらいしかなかったというのもある。

 一縷の望みであっても、それに賭けてみたかった。

 そうでなければ俺は、じぶんの選んだ孤独に耐えられそうにもなかったのだ。

 死ねば楽になる。

 幾度その考えを抱き、妻とまだ見ぬ子の姿を想い描いて、打ち消してきたことか。

 救いがあると思えればこそ、人はさきの見えぬ暗がりを歩んでいける。道のさきには、光がある。あたかもその光に向かって歩いているのだ、と思えなければ、どうして進めるだろうか。

 歩いても歩かずとも、暗がりはつづき、延々とその暗がりを彷徨いつづけるのだ、といちどでも判ってしまえば、道を進むことにどんな意味があるだろう、と歩むことを辞め、その場に居つづけることにも厭になり、やがて存在することさえ擲つのは、そんなにいけないことなのか。

 いけないことだと、俺は思いたかった。

 そう思っていられることが、ゆいいつ俺を人として容づくり、愛する者を愛することのできる人間として、保たせているように感じたからだ。

 妻を愛する夫でいたいと俺は願い、子のしあわせを至福と感じる父としてありたいと、日々祈った。

 目的が必要だった。

 孤独な旅に耐えられるだけの救いが。

 俺にとってそれが、一角戦鬼の封印と共にこの世から姿を消した、しかし実在したとされる妖刀「炎命」の収得だった。

   +++

 どれだけの時間、意識を裡に仕舞いこんでいただろう。数分かもしれないし、瞬き一回程度のみじかい時間だったやもしれない。気づくと頭上、欄干の隙間から、カイが――娘が、こちらに目を注いでいた。

 目が合った。

 気がしただけかもしれない。だがもう、娘を失うことへの恐怖や、焦りは、きれいさっぱり消えていた。

 我が愛娘をひと目できた。

 思い残すことなどあるだろうか。

 ここからはまたいつもどおり、俺は孤独な道を歩みつづける。いつの日にかこの腕におまえを抱き寄せ、すこし汗くさい頭のにおいを嗅いでやろう。夜になったら髪を洗ってやるのもいい。

 いっしょに入りたくない、と拒まれる年齢におまえが育ってしまう前に、この旅を終わらせてみせるから。

 どうかそれまで。

 無事でいてくれ。

 そばにいる異形らしき女が娘とどういった関係であるのかは定かではないが、敵ではないと判ればそれでいい。きっと彼女はカイのちからになってくれる。憑き物はおおよそ〝宿〟に対してはのきなみ無害だ。あれだけの異形ならば、むしろ有益にさえなり得る。カイが篠子の血を引いている以上、異形に魅いられやすい体質であるのは、致し方ないことだ。であればアレの存在は、よき盾として有効であるだけでなく、よき護符として、わるい虫が寄りつかないようにもしてくれるはずだ。

 もっとも有害なのは、俺という存在だ。天秤に載せるまでもない。

 ならばこのまま去るのが正解だ。

 俺はゆっくりと視軸を娘から離し、集中させていた意識をも外した。

 視界がひろがりを帯びるのを感じ、次点で、背後に突如として現れたもう一つの気配に、全神経が絡めとられるように向かう。さながら餌をまえにしたアメーバだ。

 背後を振りかえりつつ、襲撃に備え、よこに飛び退く。

 対象を捕捉する。

 こちらもまた女だった。どこかで見た憶えのある面構えだ。

 記憶に検索をかけると共に、相手もまた臨戦態勢をとったことから、最初から敵意を抱いていたわけではないことを悟る。

 相手もまた俺と同様に、急な遭遇に緊迫しただけのようだ。しかし、そこからはじまる戦闘というものもある。いちど向けた刃を引くのはむずかしい。不可避の戦闘よりもむしろ、回避可能な、双方ともに得るものの何もない戦いのほうが、自然界にはありふれている。

 かくいう俺も、こちらから臨戦態勢を解くつもりはない。

 徐々に退きつつ、安全な場所まで移動する。そうして敵意がないことを示すことが、俺にできる最善であり、譲歩できるギリギリのラインだ。

 俺は現れた女だけでなく、背後にも気を配らなければならない。歩行者回廊にいる娘はもちろんのこと、こちらの緊迫した空気は、あの異形にも届いていると考えるべきだろう。だとすれば俺のこの状況は、猛獣に挟み撃ちにされていると考えても、そう悲観的とはならないくらいの窮地だ。

 そう。

 勃然と飛びだしてきたあの女も、かなりの大物――油断をすれば即座に死を与えられてしまうくらいに、危うい人物だ。

 祓い屋として未熟だった俺がなぜ、一年という短期間であるにせよ、生き永らえることができたかと言えば、ひとえにこの危機察知能力が秀でていたことに起因している。突出した身体能力はおまけのようなものだ。

 俺はひと目で、相手の度量を見分けることができる。

 ニオ子の正体を見抜いたときも、或いはこの能力のお陰かとも思ったが、やはりあれだけは異質な例だ。俺の慧眼は飽くまでも相手の度量を見抜くもので、種族を看破するような、粒子測定機のような機能は付与されていない。

 いずれにせよ、どうやらこの封鎖された区域にはやはり何かあるらしい、と分かる。こうも抜きんでた規格外の輩が集結するのだ、妖怪大戦争が勃発しても俺はもはや驚かない自信がある。

 角度的に、あとすこしで背後からの死角に入る、というところで、

「カナコ!」

 突如、後方斜めうえから叫び声がした。

 条件反射で反応したのか、目のまえの女が視線を逸らす。

 その隙に俺は後方へ大きく飛び退き、歩行者回廊の真下へと滑りこむ。これで真上にいる娘たちの視界からはかんぜんに外れた。

 現れた女をいまいちど観察する。

 彼女はすでに俺への興味を失くしたのか、声がした方向、娘たちのほうへと目を向けている。

 あごを上げた彼女の顔には、やはり見覚えがあり、したからうえを覗きこむような構図は、とある写真に映っていた異形の面と重なった。

 槻茂雄敏を主とする霊能探偵事務局で見つけた、虎豹一族鏖殺事件に関する資料、そのなかに、彼女の顔写真が紛れていた。

 写真と共に付与されていたメモには、槻茂の筆跡で、「相方?」「なぜ?」と、彼女が事件に一枚噛んでいることを匂わせる文章が、箇条書きで記されていた。おそらくその写真は、機関から配られたものではなく、槻茂が独自に調査し、入手した写真であるとみられる。

 槻茂の推測を信じるならば、彼女は、虎豹一族鏖殺事件の主犯――その相方であるらしい。

 特一級に指定された、彼女もまた規格外の異形、正真正銘のバケモノだ。

 彼女は娘たちのほうを仰視し、固まっている。すでに彼女の意識から俺の存在は消えているようだ。おそらく、そこにいるもう一匹のバケモノを目の当たりにして、動揺しているのだろう。なぜおまえがそんなところに、とでも言いたげな顔で、力でも籠めているのか、全身を強張らせている。

 バケモノが二匹。

 対峙して勝てる相手とは思えない。

 だが、逃げるという選択肢は端からなかった。どちらにつくかは決まっている。生かすべきは、娘にとっての助力となるほう、真上にいるバケモノだ。

 俺はすこしでも娘たちの盾になれるよう、息を潜めて、前方にいる異形の女の出方を待つ。




   △ニオ子△

 薬尾さんの出方を待とう、とレナが言った。

 そんなのいやだ。待ってなんていられない。

 

 GPS機能でヨガミの現在地を探索すると、すでに中心街の駅前にいると判った。レナの話では、そこは現在、入っちゃだめだよ、ということになっている区域で、どうやって入ろうか、とあたいたちは頭を悩ませた。

「おれに任せな」ヤオビっちが言った。「侵入するだけなら、地上より地下のほうが楽だ」

 ヤオビっちというのは、レナとユっくんがリニモすてーしょんでつかまえてきたうさんくさい男のことだ。あたいたちはヤオビっちの案内で地下をとおり、難なく中心街までやってきた。

 地下のとおり道は、なにやら秘密のぬけ道のようで、キカンの一員でないと入れないらしい。ということはヤオビっちはキカンの一員ということになるのだろう。そう思い、訊いてみると、どうやらいまはちがうらしい。

 ちぇ。よくわかんないの。

 あたいの「よくできたおもちゃ」には、地図が表示されていて、赤いピコピコが、まさにピコピコしている。そこにヨガミがいる。あたいたちは、赤いピコピコの真下までくると、えれべーたをつかって地上まで昇った。ヤオビっちは、シセツの様子がおかしい、と言って一人だけ地下にのこった。

 えれべーたの出口は、噴水のしたとか、オブジェの土台とか、街路樹のぶっとい幹とか、そういった秘密兵器がでてきそうなところではなく、いたってまじめに、ビルのえれべーたと繋がっていた。

 そとに出るとあたいはまず、街全体にただよう美味しそうな匂いに胸がときめいた。レナにおごってもらったチーズケーキみたいに濃厚な味が、なぜか口のなかいっぱいにひろがる。でもふしぎなことに、鼻をスンスンさせても、とくに変化はない。

「ねえ、これ、なんの匂い?」

「匂い?」レナも鼻をスンスンさせる。「しないよ」

 そんなはずはない。

 はなくそでつまってんじゃないの?

 言いたいきもちをぐっと堪える。レナにはうんと恩があるので、責めないでおいてあげる。レナがこわいとか、さからえないとか、そういうことではもちろんない。

 人間たちの姿はほとんどない。入っちゃだめだよ、ということになっているだけあるなあ、とあたいはまわりを見渡す。ときおり視界に、カスツバミがよこぎる。すいー、すいー、と宙をおよぐ姿は、けっこうにきれいなものだけど、こいつらが湧いているということは、このあたりで異形が死んだか、もしくはちかぢかここいらで異形が死ぬか、そのどちらかだということになる。カスツバミは、なまえのとおり、異形の死んだあとにでる、燃えカスみたいな粒子をついばむ。こいつらもまた異形のひとつだ。

 視えていないのかレナは、肩にとまったカスツバミを払ったりしない。ユっくんがそれを払ってあげているのを見て、ユっくんのほうが異形にくわしいのだな、とあたいはふたりの奇妙なちから関係を見抜く。

 目の凝らし方をしらなければ、視えるものも視えない、とはヨガミのお言葉である。

「こっちだね。薬尾さん、もう移動してないみたい」

 駅のほうへとあゆんでいくレナのあとに、あたいもテトテトついていく。なんか桃太郎にしたがうイヌみたいだ。子猿もいるしね、とあたいはほくそ笑む。盗み見たユっくんの横顔は、あたいの込みあげた陽気をひっこめるくらいに、緊張した面持ちだった。

   △△

 立体歩道橋のしたにヨガミはいた。

 頭隠して尻隠さず。かくれんぼでもしているみたいに息をころしている。でも、うしろからだと丸見えだ。

 薬尾さんの出方を待とう。

 とレナは言った。

 なにか様子がへんだというのはあたいにだって分かったけど、あたいはその提案を却下する。押さえつけようとするレナのうでを、するんと抜けでて、あたいは駆けだす。かくれんぼの得意なあたいは、なるたけ足音をたてずに近寄って、

「おいしょ」

 ヨガミの背中にとびのった。首筋に顔をうずめて、「ねえ、なにやってんの」と耳のなかに声を吹きこむ。

 寝耳に水を垂らされたみたいにヨガミは、身体を大きく仰け反らした。あたいを振りほどくいきおいで体勢をくずし、らしくもなく地面に尻もちをつく。腰をぬかしたのでは、と心配になるほどだ。

「あはは。ヨガミってば、おくびょう。桃太郎じゃないよ。あたいだよ」

「べつに桃太郎はおそろしくはない」

 目を回したみたいに目玉をきょろきょろ動かして、危険ではないことをよくよく確かめてからヨガミは、まるでおっとーみたいなことを言った。おちゃめさんだ。なにごともなかったかのようにとりすましているけど、動揺しているのは明らかだ。自分でも今の発言がおかしく聞こえたのかヨガミはちいさく咳払いをし、

「なぜここにいる。なんで追ってきた」

 おこったふうに語気を荒らげる。

「リニアモナカで来たんだよ」

「リニアモーターカーでしょ」うしろからレナに訂正される。「それに、そういう意味じゃないと思うよ」

「こいつを頼んだと言ったはずだ」

「だから来たんですよ。ニオ子ちゃんを頼んだって言われたから」

 ヨガミはレナにもこわい顔を向けている。ものともせずにレナは、

「薬尾さんはそんなにニオ子ちゃんを不幸にしたいんですか」

 あたいの首筋に手を添えてくる。くすぐったい。

「不幸に?」聞き捨てならないと抗議したそうにヨガミは眼光を鋭くさせた。あたいのことをゆび差して、おれはこいつを、と唸り声にも似た声をだす。「俺はこいつを不幸にさせたくないからこそあんたに――」

「不幸ではないからってしあわせにはなれないんですよ」ぴしゃりと遮ってレナは言った。「それに、どうして薬尾さんがかってにニオ子ちゃんの不幸を決めつけるんですか。ほんとうに解らないんですか? ニオ子ちゃんにとって、なにがいちばん哀しいのか、どうなってしまうことがいちばんイヤで、怯えているのか」

「それは……」

 ヨガミが見つめてくる。

 気恥かしくってあたいはレナのうでに絡みつき、顔をかくす。

「解ってほしい。死んでしまっては元も子もないんだ」

「そんなに危ないことに首を突っこんでいるんですか」

「レナイさんも能力者のはしくれなら、あれを見れば判るはずだ」

 ヨガミは歯を食いしばり、悔しそうな顔であごをしゃくった。示されたさきには、すらっとした細身の女が、そらを見あげるようにして佇んでいる。長髪はひっつめに結われ、その立ち姿からは、彼女が歴戦の戦士かなにかのような印象を受けた。

「脛木……さん」

 レナがそうこぼしたのをあたいは聞き漏らさなかった。




   ><葦須炭兎><

 とどめを差そうとした間際、「神の怒りを知れ」とつぶやかれたのをおいらは聞き漏らさなかった。

 頭髪をちょんまげに結った、時代錯誤な青年で、おいらは斬りつけられながらも、彼から刀をとりあげ、こうして片手で首を絞めあげている。

 苦しそうだったので、おいらはゆびのちからを弛めて、

「神? そんなの信じてるの、きみ?」

 わざと癪に障る言い方をして、言葉の真意をさぐる。

 この施設にいた人間をおいらはたくさん八つ裂きにしたけれども、命乞いをする者はいても、こうして最期まで威勢よく悪態を吐いたのは、彼が初めてだった。

「神はいる。神の怒りに触れたぬしは、その手で殺してきた者たちをうらやむほどに、想像を絶する苦痛を知ることとなるだろう」

「預言者きどりですか? 神さまなんていませんよ。いたとして、どうしてあなたを助けないんですか?」

「助ける義理などないからだ。神にとってあっしらは、掃いて捨てるほどに有り触れた卑近そのもの。あっしら人間とて、いち家畜の断末魔を耳にしたところで、助けようとはせぬ。それと同じこと」

 神は人を助けない。その意見に異論はないけれど、

「なら余計におかしいじゃないですか。どうして神の怒りを知れ、などと?」

 人が人を殺そうが、神さまにとってはどうでもいいことのはずだ。怒る理由がない。

 解らぬか、と侍風情はうそぶいた。

「養豚場のブタは死ぬさだめにある。死ぬることで肉となり、あっしら人間の糧となる。しかし、糧となる前に殺されては、たまったものではない。養豚場を営む人間だけにとどまらず、肉となった家畜を必要とするすべての人間にとって、無意義な殺生は、怒りを生む」

「その譬えだと、まるできみたちが養豚場のブタさんみたいに聞こえますよ」

「いかにもあっしらは神々にとっての供物――家畜と変わらぬ存在にすぎん」

「うーん、よく解らない話ですけど、でも」

 言っておいらは彼のちょんまげに手を移し、

「神さまがほんとうにいたらの話でしょ?」

 ちょんまげをハンマー投げのワイヤーに見立てて、彼の肢体を振りまわす。

 細身ではあるけどもずっしりと身の詰まったいい身体をしている。このまま壁に叩きつけたら、どんな破裂音が轟くだろう。子どものころおいらは、近所のガキ大将に連れられて、赤子の頭部ほどもあるヒキガエルを、十二階建てのマンションの屋上から投げ捨てたことがある。あのときの小気味よくも耳に残った惨酷な音が、脳裡によみがえるようだった。

   ><

 施設に侵入してからかなりの時間が経つ。虱潰しに部屋という部屋へ分け入ってはいるものの、どうにもすでに逃げてしまっているようで、ほとんど人と出遭わない。或いはおいらがぜんぶ片付けてしまったのかもしれない。

 さっきので最後だったのかなあ。

 おいらのうちに広がるがらんどうは、さらなる広がりを帯び、希薄さに磨きをかけている。

 どう進めば出口へと辿りつくのだろう、と考える。道なんて解らないけれども、これはさしたる問題ではない。いざとなったら、上へ上へと天井を破って進めばいい。

 非常事態宣言とでもいうのだろうか、ただでさえ迷路のような通路が、至る場所で袋小路になっている。ほんとうなら突き進めるはずの道に防壁が下りて、通せん坊をしているのだ。

 じゃまだなあ。

 おいらが思うと空間が歪み、壁という壁がぐにゃんと曲がる。灼熱にさらされたロウソクみたいだ。即席の扉が口をあける。ちょっと油断すると、天井やゆかまで抜けるので、注意が必要だ。

「さてと」

 そろそろ地上へ戻ろうか。

 おいらは、ゆらゆら、歩を進める。




   〈estinto〉毒親寺ユヅ〈estinto〉

 青空のした、視線のさきに脛木さんの姿を捉え、知れず歩を進める。僕もレナさんも、砂漠でオアシスを見つけた旅人がそれでも目のまえの光景を信じきれず、幻ではないことを祈るような足どりで、よろよろと数歩踏み出してから、立ち止まる。

 追えば逃げる。

 僕たちは本能的に理解している。脛木さんはそういう人物だ。顔を合わせたくなければ、どんな状況であっても頑として接触を拒み、逆にこちらがどんなに突き放しても、用があれば会いにくる。

 服装がふだんとちがっていることに歪さを覚える。質素な装いを好む脛木さんならけっして着ないような、派手ではないけれど、一見しておしゃれだと判る格好だ。

 遠目から見て、その立ち振る舞いや雰囲気から、そこにいるのが脛木さんだと判断したけれど、果たして目のまえの女性が、ほんとうに脛木さんなのだろうか、と遅れて疑惑の念が押し寄せる。

 いまいちど目を凝らす。

 いや、と認識を改める。

 明らかに人ではない。

 格好がどうだとか、そんなことは些事だ。

 そこに佇む彼女は明らかに、僕たちの知る脛木鯉沙ではない。

 レナさんもそう思ったのか、

「脛木さん!」

 こんどは声を張ってはっきりと名前を呼んだ。

 もし彼女がこちらに気づき、間髪容れずに逃げ去るようなことがあれば、それは間違いなく僕たちの想定している脛木さんの対応で、彼女が脛木鯉沙であると半ば確信できてしまう。

 だが、彼女が脛木さんなわけがない。

 あれほど禍々しい邪気を放っているはずなど、ないのだから。

 脛木さんは人間だ。

 異形ではない。

 僕はずっと、そう思っていた。信じる以前に、疑う必要性を感じなかったからだ。

 機関は正しいことをしている。けっして悪ではないのだ、と離反をためらう僕に向かって、脛木さんはそう言った。

「きみの所属している機関は、正しいことをするために、世界の汚れを一身に請け負ってしまっている」

 それに付き合うか否かを選ぶ権利が、きみたちにはあるのだ、とそう言って僕のせなかを押してくれた。

 僕には脛木さんの心が読めない。それはつまり脛木さんもまた能力者で、異形ではなく、人間であることを示している重要な証左だった。

 証左だと、僕は思いたかった。

 能力者は異形に対して、その異能を行使することができる。しかし、例外もある。じぶんよりも遥かに突出した異形――神に匹敵するほどの異形に対しては、その能力が無効化される。

 僕のように純粋でない能力者であれば、この例外は、相手が神でなくとも成立してしまう致命的な瑕疵となる。だから僕は、

 思いたかったのだ。

 脛木さんが疑いようもなく人間であるのだと。

 脛木さんが異形である可能性を、考えたくなかったから。

 それでもほんとうはいつもどこかで予感していた。脛木さんはいつかそう遠くない未来、僕たちのもとから姿を消すのではないのかと、いつだって僕は覚悟していた。そうならずにすむようにと願いながらも、必ずその日がやってくることを見据えて。

 異形だろうと人間だろうと、そんなことはたいして重要ではなかったはずだ。ただ、どうでもいいと投げだせるほど軽くもなかった。ひとたびどうでもいいと投げだせば、機関との繋がりを明確な敵対関係へと発展させることも辞さない、という心構えを僕は背負わなければならなくなるからだ。

 ライオンに遭遇せずにすめばよかっただけのシマウマが、ライオンをはじめとするあらゆる肉食獣に対して、持ってもいない牙をむき出しにするような、無謀な日々が、覚悟のさきには待ちうけている。

 僕はその日常へ飛びこむ度胸も、覚悟も、持ち合わせてはいなかった。

 だから、考えることをやめて、しゃべれないことを不便にも思わず、あたかもこのしゃべれない境遇を免罪符にして、これまでずっと現状の維持のみをひっそりと望んできた。もっとはやく打ち明けていれば、レナさんだけでも巻きこまずにすんだかもしれないのに。

 脛木さんの思慮にさえ僕は応えてあげることもできずに、恩を仇で返すみたいに、こうしてノコノコと戦場へとだいじなひとを連れてきてしまった。

 そうだとも、ここは戦場だ。

 脛木さんが僕たちを避け、欺いてまで、一人で挑みたかった、ここは戦場なのだ。

 ぬあり、という名の過去を持ち、脛木鯉沙という人影として現代を生き、そして彼女は今、なにを成そうとしているのか。

 目のまえの女性が、レナさんの呼び声に反応し、ゆっくりとこちらを見る。目が合うか合わないか、という瞬きにも満たないみじかいあいだに、彼女の姿は忽然と、僕の視界から消え去った。

 八尾尾さんの言葉が思いおこされる。

 ――ヤツは人間にも復讐をする気だ。

 水面にひろがる波紋のように、その言葉は、おだやかに僕へと絶望を知らせる。





   STP舘尚レナイPTS

 三十メートルほどの距離に佇立するチグハグな印象の女性が、私の追い求めた理想の女性、脛木鯉沙であると突きつけられ、すべての景色から色が消えるように、廃頽する世界が私に絶望を知らせる。

 私に入りこめる余地などさいしょからなかったのだ。

 彼女は私の呼び声に反応しておきながら、即座に姿を晦ました。

 どこへ消えたのだろう。

 おそらく瞬間的に移動したのだ。彼女の消えたさきは、私の頭上、この立体歩道橋のうえである。

 走りだした私を薬尾さんが呼び止める。

「どこへ行く気だ」

「うッさい黙ッて」

 ただの当てつけだと判っていても胸のムカつきを抑えられない。理由もなく泣きたくなる。

「行くよユっくん」

 うでを掴まれたユっくんは抵抗することなく私に付いてきてくれる。

   STP

 階段をのぼりきると、視界がひらけた。右手のずっと奥のほうに横長の駅がでんと構えている。左手には欄干が連なり、断崖のふちに立つガードレールと化して行き止まりを主張している。ひとたび欄干を越えれば、地上へまっさかさまだ。

 前方には、脛木さんの背中があり、さらに向こう側には脛木さんと対峙する、三名の影があった。ふたりの女性と、子どもが一人、一か所に固まっている。

「脛木さん!」

 気づいていないはずはないのに、脛木さんはこちらに背を向けたまま、しらんぷりを決めこんでいる。

 ふざけやがって。

 飽くまで顔を合わせないつもりなのだ。親指を握る。固く握った拳が戦慄いている。ユっくんが手を添えて、今にも爆発しそうなげんこつを包みこんでくれる。

「イコ、こっちにこい」脛木さんが投げかけた。こちらではなく、奥の三名へ向けてだ。有無をいわさぬ儼乎な響きがある。「チカに会わせる。あいつといっしょに家へ帰れ」

「やだよ」

「ダメだ」

「帰らないよ。だってカナちゃん、いっしょじゃないんでしょ? そんなのやだもん」

「ふざけんな。わがまま言うなって」

「どうして?」

「殺さなきゃならなくなる。というか、つぎ断ったら」

 殺すぞ、と脛木さんは唸った。建物という建物、物質という物質が、その声に怯えたみたいに震えた。

「聞き捨てならないねえ。おまえさん、いったい誰の〝物件〟に手ぇだそうとしてるのさ」三名のうちの一人が一歩まえに踏みだした。彼女の周囲だけ、空気の層が何十倍にも圧縮されているような、ふしぎな引力を感じる。

「誰だおまえ。そのコはあたしの〝宿〟だ。かってに手ぇだしてんじゃねえよ」

「言うねえ。でもさ、イノッチは、わたしの〝宿〟のお気に入りなんだよね。へんな虫がたかってちゃ、安心して遊ばせることもできやしないでしょ。わるいけどほかを当たってくれないかなあ。なんだったらほかの〝宿〟を当てがってやってもいいけど。だから、このコからは手を引いて」

 かんぜんに蚊帳のそとだ。脛木さんだけでなく、向こうのひとたちまで私とユっくんを虚仮にする。しかも、脛木さんのことをカナコと呼び、なにやら向こうの女性をかけて、対決しそうな勢いだ。

 まるでヤンキー同士が女を巡って争うような滑稽な状況ではないか。

 さきほどまで抱いていた身を切り裂かれるのにも似た哀しさがうそのように引き、今ではちょっぴりの嫉妬と、アホ臭さが私の胸中を満たしている。




   3Λ07伊乃葉衣子

 得体のしれない虚ろさが、わたしの胸中を満たしていく。

 殺意、という言葉は知っていたけれど、実際に目にしたことはなかったし、それを向けられた経験もなかった。大学生時代に武術サークルに参加していたからか、殴りあいや蹴りあいなど、互いに殺気立つ光景は慣れているつもりだった。でもそれは闘志のようなもので、あいてを尊敬するこころがあって、はじめて注ぎあえる類の、言ってしまえば好意とそう変わらない感情だった。

 拒絶ではありえなかった殺気とちがい、カナコが今わたしへ向けた殺意は、ほんものだった。

 本気でわたしを殺すことに戸惑いを持っていなかった。あとすこしでもカナコがアクセルを踏みこんでいれば、わたしは今ごろこうして思考を巡らせることもできなくなっていたと思う。

 このわたしという人格から、あらゆる尊厳を奪い、踏みにじり、消しさることにカナコはもう、ためらいを持たないのだと、はっきりと実感できてしまった。

 ある意味で、それが伝わったということは、カナコにもまだ僅かなりに、わたしへの愛着のようなものがあったのだと考えることもできる。殺気が放つものであるならば、殺意は秘めるものだからだ。

 カイちゃんにそでを引かれ、はっと我にかえる。呼吸をとめていたことに気づき、おおきく息を吸う。

「だいじょうぶですか」

「だいじょうぶだよ?」

 こんなちいさなコにまで心配させるなんて、わたしはどこまで情けないのだろう、と思う。

   3Λ07

「おまえだろ、ホテルで騒ぎ起こしたってヤツは」

「だとしたらどうなんだ。意趣返しでもしようってか」〝おねぇさん〟の問いかけに、カナコが反問する。

 話についていけない。わたしはだまって会話を見守ることにする。

「あれで終わりにしときなよ、ってことさ。ここでなにをおっぱじめようとしてるのかは知らないけど、おまえが手を下す前に、ここはもう壊滅しちゃったんだしさ。おまえさんの目的はもう、達成されちゃってるわけ」

「壊滅?」

「そ、壊滅。あとの祭り。この下に残ってる能力者なんてもう、一人もいないよ」

 なんの話だろう。この下とは、地上のことではないよね、と思う。地下になにかあるのだろうか。

「どういうことだ。あんたがやったのか」

 カナコもよくは分かっていないみたいだ。

「わたしじゃないさ。やったのは、そう、あんたの生みだした影みたいなやつでね」カイちゃんの〝おねぇさん〟は地団太を踏むみたいに、足踏みをし、「いまもほら」と言った。「この下にいる」

 つられてカナコが足元を見るや否や、〝おねぇさん〟の姿がいっしゅん霞んだ。ふたたび現れたときにはカナコの目と鼻のさき、シルエットが重なるような位置に立っていた。

「あ。ちゅーされちゃう」

 カイちゃんがつぶやいた。〝おねぇさん〟はカイちゃんの言ったとおり、カナコに口づけをしているふうに映った。

「おねぇさんにちゅーされると、ぽっくりいっちゃうのです」カイちゃんが教えてくれる。「でも、ほんとうはちゅーをしなくてもおねぇさんはぽっくりいかせることができるみたいなので、あれはたぶん、おねぇさんのしゅみだと思うのです」

 カイちゃんの言う、ぽっくり、というのは人が死ぬことだ、というのは、この短い付き合いのなかで理解した数すくないカイちゃん語録だ。

 カナコが死んでしまう。冷静に考えたら、そんなわけあるはずがない。口づけをしただけで相手をころしてしまうなんて、そんなのはまるで、そう、死神みたいじゃない、と思う。

 思った矢先に、カイちゃんの〝おねぇさん〟はまさにその死神なんじゃない、と思いだし、わたしは、そんなことってあるの、え、ほんとうにあるの、と頭のなかで、しっちゃかめっちゃかにタコ踊りをする。

 わたしの心配をよそにカナコは無事だった。あべこべにカイちゃんの〝おねぇさん〟のほうが、その場から勢いよく吹き飛んだ。釣り堀にいる魚が、ひょいと釣りあげられたみたいに、欄干を越えて、宙に投げだされる。地面に落ちることなく、空中で静止している。まるでそこに見えない膜が張ってあって、絡まっているみたいにもみえる。

「あれ、おかしいなあ。なんで生きてんのさ、おまえ」

「わるいな。アタシの肌は水蜘蛛仕様でね。どんな液体も弾きかえすぜ」

「いや、液体ではないんだけどなあ」

「あ、くそッ。融けてきやがった!」

 カナコが全身を掻きむしりだす。引っかかった蜘蛛の巣を取り払うような仕草だ。服を脱がずに、服を脱ぐような動作を繰りかえす。

「もしかしてあんた、神か?」

 ようやく落ち着きをとりもどしたカナコから水を向けられ、カイちゃんの〝おねぇさん〟は、「いかにも」とうなずき、身動きがとれないにも拘わらず、

「わたし、死神なんだ」

 この場の空気に似つかわしくのない、からっとした声で返事をした。

 依然として宙に固定されている状態で、なんとか脱しようともぞもぞともがきながらの、そのちゃめっ気のある笑みには、わたしも思わず、「やっぱり神さまだったんですね」と納得させられてしまいそうな、ある種の神々しさ、絶対他者たる神々の余裕を感じた。

「イノバさん」

「なに、カイちゃん」

「おねぇさん、すごくカッコわるいのです」

「そう、だね」

 前言撤回だ。

 カイちゃんの〝おねぇさん〟は、どう見ても死神にはみえない。強いて言うまでもなく、わたしには彼女がカイちゃんと同じく、天使のように愛おしく映っている。




   ○~神津戒

 どうみてもおねぇさんがピンチのように、ぼくの目には映っている。

 神さまもぽっくりいったりするのだろうか。ぼくはよくない考えを巡らせてしまい、あわててアリグモのことを考えて、うち消すしだいだ。

 アリグモはどうしてアリのふりをするのだろう?

「イノバさん」

「なあに、カイちゃん」

「アリグモはどうしてアリのふりをしているのですか?」

「あ、どうしよう。あのひと、〝おねぇさん〟に何かする気じゃない?」

 イノバさんに「殺すぞ」とおそろしい言葉を吐いた女のひとが、てすりを越えて、宙をあるいている。おねぇさんのもとへと近寄っていくその姿からは、なにか冷たい風がしゅるしゅるとほそく、ながく、立ち昇っているみたいにみえる。

 アリグモのことなんて考えている場合ではなかったのですよ。ぼくはぼくに抗議するものだ。きみはちょっぴりのんびりすぎるよと。

「あんたら神のせいでセイちゃんは……」

「んー、なんのこと? へんな言いがかりはよしなって」

 まわりから音が消えているせいか、おねぇさんと女のひとの声は、びっくりするほどよくひびきわたる。ぼくはなぜだか、真冬のよるのしずけさを思いだす。

「忘れたなんて言わせない。四百年前、あんたら神は、人間どもに青龍の退治を命じたはずだ。自分たちの脅威になる個体の存在をあんたらは許せなかった。だからあんたらは鬼族までけしかけて、よってたかってセイちゃんを……」

「セイリュウ? え、なに? タイジ? あかちゃんのこと?」

 胎児ではなく、退治ですよ。

 おねぇさんの語彙力をきたえてあげたいと思うこと山のごとしだ。

「天変地異を起こせるって点を度外視すりゃ、あんたらも所詮は異形にすぎない。それを、神だと名乗り、人間どもに崇められ、それをいいことに、人間どもに、巨大なえさ場をつくらせた。それも、いたる箇所にだ」

「えさ場ってなんのこと?」

 おねぇさんとおなじく、ぼくも女のひとの言っていることが、いまいちピンとこない。

 えさ場はえさ場だろうが、と唸った女のひとの肌が、黒く色を変えていく。黄色い線が、ジグザクとはしり、見るからに毒々しい紋様を浮かびあがらせていく。「定期的に人間どもの集まる体のいい、てめぇらのつくらせた箱庭のことだ」

「うーん。寺とか神社のことかなあ」

「とぼけんなッ。『願い』を携えて集まってきた人間どもから確実に、大量の『邪心』をむさぼって、そうやってきさまら神はその強大なちからを保持しつづけていやがる。あたしはぜんぶ知ってんだ。その見返りに、あんたらは異形に対抗するための術を与えていやがる。機関の構成員として加わった人間たちへな」

「まあたしかに」おねぇさんは認めた。いまやおねぇさんの身体には、銀色の光沢を浮かべた帯のようなものが巻きついてみえる。いまもなおその厚さは増していっている。それなのにおねぇさんの態度はお気楽そのもので、「たしかにいくつかの人間に異能を与えてはいるけどさ」と飄々とうけ答えする。「わたしが神になったのってほんの二十年前のことでね。おまえさんの意趣返しに付き合う資格が、あいにくと、わたしにはないみたいなんだよね、これがさ」

「黙れ、外道。どうだっていいんだよ。あんたがあの当時、ただのゴミみたいな異形だったとして、そんなことはどうだっていい」

「そうだよね。だっておまえさんもまた、その当時、ただのゴミみたいな異形だったんだもんね。だからたいせつなモノを護ることもできずに、こうして何百年も経ってから、その腹いせみたいなことをしでかしちゃってるんだもんね」

 おねぇさんが蹴られた。まるでサッカーボールをつまさきで蹴り飛ばすみたいな軌道で、おねぇさんの顔面はえぐられた。ぼくは思わず目をそらす。イシシ、とおねぇさんの笑い声が聞こえたのでぼくはこわごわ視線をもどす。おねぇさんは鼻から血を流していた。

「イッタいんだけど、これ、なに?」

「神にも血が流れているらしいな」

「いやいや、そんなわけないでしょ。わたしに何したのさ」

「対八百万の神用につくられた護符の存在を知っているか」

「紙用? たいてい護符って紙でつくられてるんじゃないの?」

 おねぇさん、ここはまじめに聞く場面ですよ、と教えてあげたくなったけれども、おねぇさんはたぶん、大まじめだ。

「あんたが知らないのも無理はない。認可の下りていない試作品でな。神にも効用を発揮するかなり強力な護符だ。人間にも作用しちまうって欠点があって、お蔵入りになっていた代物だ。人間のふりをするには便利でな、あたしも愛用していた。だから判るが、効果のほどは保証する」

「どんな効果があんのさ」

「神のちからを無効化し、一時的にほとんどゴミみたいな人間並に脆弱な存在へと変質させる作用がある」

「うっそだあ」

 言うや否や、おねぇさんはまた顔面を蹴られた。トマトをしぼったみたいに鼻血が噴きだす。無言で、あんなに痛そうな真似をするあの女のひとは、まるで悪魔だ、とぼくはきらうものだ。

「これでもまだ嘘だと思うか」

「反則でしょ、こんなのっ!?」

「あんた、言ったよな。ここはもう壊滅した、あたしの目的はもう終わったんだって」

「言ったような、気もするけど、それがなに」

「機関を滅ぼし、神を根絶やしにする。それがあたしの目的だ。まだなにも終わっちゃいない。あんたを殺し、ここからはじまるんだ。神殺し、聞いただけでわくわくするだろ?」

「ねえ、ほんきじゃないよね?」

 おねぇさんがみたび鼻血を噴きだす。こんどは蛇口をひねったみたいな勢いだ。勢いあまっておねぇさんは吹き飛び、ふたたび立体歩道橋のうえへころがった。

「タンマ! ほんとにちょっとタンマ!」

 不謹慎なのだけれどぼくは、ジタバタするおねぇさんを眺めて、

 なんか新鮮ですね。

 現実逃避もかねて、ほのぼの思うのだった。





 

第五章【七つの子】



   +薬尾夜神+

 因果なものだ、としみじみ思う。

 妻と娘を不幸にしたくない。男としてなんら変哲のないまっさらな想いから俺は、彼女たちのもとを離れたというのに、それがどうだ。こうして娘と邂逅した途端に、娘が窮地に立たされ、娘の盾となり得るはずの異形が、今まさに始末されそうになっている。

 不幸媒体体質に生まれついたこれがさだめであるというならば俺はやはり、もっとはやくに自身を厄病神と認め、この世から粛々と退出しておくべきだったのだ。

 レナイさんたちの使った階段とは反対側にエスカレーターがある。そちらへと回りこみ、うえにいる彼女たちに存在を気取られぬようにと慎重にのぼった。偵察してみれば事態は俺の危惧していたものよりも数段わるい展開になっている。

 ああも赤子の手を捻られるようにやられるとは。

 生殺与奪の権を握っているほうの異形は、虎豹一族鏖殺事件で指名手配されていた異形のうちの一匹だ。仲間を呼ばれでもしたら、もう、この場を打開する手立てはなくなる。

 だが、ここで何の策もなく飛びだしていくのは、無鉄砲というほかにない。踏みだしかけた足を戻し、辛抱強く息を潜める。

 二匹の異形は、歩行者回廊から外れ、欄干の外側、何もない空中に浮いているようにみえる。が、あれはただ、目に映らないほど細い糸が、ビルとビルの合間に張り巡らされているだけだ。

 単純な度量でいえば、娘の盾となり得る異形のほうが、一枚ほど上手だ。俺の慧眼からすると、そうした結果が導かれる。おそらくアレは神の域にちかしいものだ。或いは神として機関が囲っている、最上級指定異形やもしれない。

 だとすれば尚更、タダで負けるはずもない。

 だが目のまえでは、神が負けている。しかも、一方的にだ。

 手足の自由を奪われた神は、簀巻きにされ、イモムシのように身体をくねらせている。神の威厳などまるで感じられない。慧眼を通して視ていなければ、その力関係が間逆に覆ってみえていたことだろう。

 いや、現に覆っている。

 いつの間にやら、神がただの小娘になりさがっている。おかしい。不自然だ。なにが起こったのか、立場が完全に逆転している。

 優位に立っていながらも手を抜くことなく、神を拘束しているほうの異形は、その姿を黒色へと変質させ、見るからに人ではない様相をみせはじめている。

 もしや、名だたる異形の末裔なのでは?

 厭な閃きが脳裡をよぎり、背筋にざわざわと肌触りのわるい悪寒が這いあがる。

 糸を操る異形で有名なものといえば、女郎蜘蛛などが、その筆頭に挙がるだろう。文献によればその昔、女郎蜘蛛の一派は九尾の狐に喰らいつくされ、滅びた、とあったが、しかし、現代までひっそりと生き延びていた個体があっても、おどろきはしない。

 そうこう思案している間に、神が情けなくも、命乞いをはじめた。

   +++

「ちょいとタンマ、タンマだって。ちょっきしお話し、しよ? ね、いいでしょ? なにごとも焦っちゃいけないよ。やった後悔より、やらなかった後悔。しちゃったことは消せないけど、しなかったことは後からでもできるんだからさ。復讐とかなんとか言っちゃってるけど、でもね、べつに龍ちゃんは死んじゃったわけじゃないじゃん? ただ封じられちゃってるだけでさ、会いたいなら、次元の狭間を開けちゃえばよくない? ね、ね? おまえさんだって会いたいでしょ? 会いたいんでしょ? だったら協力しちゃうよ、わたし。ひと肌脱いじゃうよ、わたし! ね、ね、だからさ、ちょっきし考え直してさ、いっしょにさ、龍ちゃんを復活させようじゃないの。ね、ね? だからほらこれ解いて解いて。蹴ったことも今ならデコピン三発で赦してあげるからさ」

「口を閉じろゴミ。きれいな断末魔が聴けないだろ」

「うわー、うわーっ! このコ本気でわたしのこと消そうとしてる! カイちゃん助けて、あ、イノッチでもいいよ!」

「安心しろ。あんたを消したら、全部まとめて送ってやる」

「ぎゃー! オニ! アクマ! ヒトデナシ!」

「死神ふぜいがどの口叩く」

「うわー、なんでさあ! だってかんたんなことでしょう! 龍ちゃん閉じこめた張本人にもっかい次元の狭間を、ちょちょいのちょいって開けてもらえばいいじゃんか! したら龍ちゃんだってこっちに戻ってこられて、みんなめでたしハッピーエンドじゃないかあ」

「一角戦鬼のことを言っているつもりだろうが、片腹痛いぞゴミ。あたしだってこの四百年、何もしてこなかったわけじゃない。だがセイちゃんを助けだす方法は見つからなかった。なんせおまえら神が、封印しちまったんだからな。次元を切り裂く妖刀ごと、あの異形の王――一角戦鬼を」

「だから、その封印を解けばいいじゃんって話でさ」

「どこに封じられたのかが分からん。分かったところで封印は神にしか解けん。鼻血で面を汚したゴミ一匹のために、わざわざ神が協力するとも思えんしな」

「まって、まって! わたし、神さん」

「あ?」

「いちおう、だけど」

「お……おう」

「封印された場所は知らないけど、どういう封印かは知ってるよ」

「どんなだ?」

「生贄を用意して、そいつの肉体を器にして、一角戦鬼を押しこめたって」

「餃子じゃないんだぞ」

「ほんとだってば」

「生贄ってのは、異形か?」

「人間だって聞いたけど」

「はぁ? どれくらい前のことだと思ってんだ。とっくに朽ち果てて、封じた鬼ごと死滅してるだろ」

「それが、そうでもないんだって。龍ちゃんはたしかにあのころの神々からしたら厄介な異形だったかもしれないよ。でも、だったらどうして封印なんてまどろっこしい真似をしたの? 身体の自由を奪ったなら、そのまま始末しちゃえばよくない?」

「殺せなかったんじゃないのか……」

「ちがうね。殺せなかったんじゃない、殺したくなかったんだよ。なぜなら龍ちゃんは、つよいから」

「はぁ?」

「解らない? あのころの神はね、元々鬼族を滅ぼすつもりだったんだよ。それが人間たちと交わした契約だったから。考えてもみてよ。異形の王がいなくなったあと、もしまた厄介な異形が現れたとき、そのとき、どうやって対抗するの? 言っちゃわるいけど、いまもむかしも、神さんなんて、じぶんさえよければそれでいいような、絵にかいたような怠け者だよ? 自然界のバランスを保つためにぃ、とかなんとかスローガン掲げてはいるけど、そんなの体のいい言い訳でしょ。自分たちと同等のちからを持った脅威に対して、わたしたち神が立ち向かうことはない。傷付くのがいやだからね。だからこそ、そうなったときのための保険として、あの当時の神々は、龍ちゃんを始末せずに、次元の狭間という名のパンドラの箱に封じこめた。一角戦鬼という、鍵を遣ってね。これで神々はふたたび怠惰な日々を送れるって寸法だよ」

「つまり、箱を開けるための鍵は、いまもまだどこかに存在していると? 生贄にされた人間が生きていると、あんた、そう言いたいのか」

「さあ、そこまでは知らないけど。不死身の人間でも生贄にしたんじゃない?」

 わかんないけど、と鼻血にまみれた神は言った。

   +++

 耳を欹てていると、かつてその肉体に鬼を封じられた者がいたという話が聞こえてきた。

 生贄という単語が飛びかっている。生贄。供物。人柱。そのむかし、自分の意思とは関係なく、尊重されるべき人権を蔑にされるようなかたちで、無理やりに大役を与えられた者のことを思う。

 動機が大きく乱れるのを感じる。めまいにも似た感覚に、あやうく吐きそうになる。額に滲んだ汗を、冷たい風が拭い去る。

 不死身の人間、などとお門違いな推測を立てて、会話が弾みだしているが、俺はその仮説が間違っていることを本能的に知っている。

 生贄は、たしかにただの人間だった。

 父方の祖母についての話を俺は、誰からも、母からすら聞かされたことがなかった。ほかの身うちはことごとく無残な最期を遂げているというのに、父方の祖母の話題だけは、不自然なほどに俎上にのぼらなかった。

 物心ついたころに母から、この忌まわしい性質を告げられてからというもの、俺は、父方の祖母もまた、ほかのみんなと同じようにすでにこの世にはいないのだろうと、漠然とではあるにせよ理解していた。

 或いは、俺の生まれる前から亡くなっていた可能性もある。しかし、だとすれば頑なに祖母の話題をださなかった母の心理はどこから生じたものなのか、と腑に落ちないものが残る。

 ならば、こうは考えられないか。

 祖母は、俺のように家族との距離をおき、あてもない旅に身を置いていた。祖母もまた、俺と同じく忌むべき性質を有していた。

 ――不幸媒体体質を。

 この性質は遺伝する。

 いや。

 正しくは、引き継がれると言うべきか。俺が生まれたと同時に祖母は亡くなったのだ。きっとそうだ、と確証のない確信を抱く。六の次は七だ、その次には八がつづく、と確かめるまでもなく直感できるこの世の真理を垣間見たかのような揺るぎなさを覚える。

 俺が生まれたからこそ、祖母は死んだ。たとえ順序が逆であっとしても、意味は変わらない。祖母は役目を終え、俺にその役目が引き継がれた。

 呪い、という二文字がよぎる。

 俺に宿るこの不幸媒体体質は、ほかのもっと大きな異質なモノの片鱗でしかなかったのだ。穢れにまみれた異質を取りこみ、押さえつけ、それでも抑えきれなかった邪気が、目に映らない触手のように、俺の周囲の者たちにからみつき、しあわせを奪っていた。

 それとも、周囲の不幸を目の当たりにした俺や、母の、どうしようもなく暗い感情を、赤子がゆびをしゃぶるように、ちゅぱちゅぱと下品な音を立てて喰らっていただけなのだろうか。

 ――俺のなかの鬼が。

 俺のものではない記憶の断片が、つぎつぎに垣間見えてくる。水底にうでを突っこみ泥を掻きあげたかのように、濁った情景が、目の奥のほうでいっぱいになって拡がっていく。

 一角戦鬼と呼ばれる、かつてこの世を震撼させた異形の王が、俺のなかには眠っている。





  

   △ニオ子△

 眠っているのでは?

 ヨガミの顔を覗きこみ、あたいは顔のまえで手を振ってみる。反応がない。まるで石像だ。

「どうしちゃったの。ねえ、ヨガミってば」

 身体をゆさぶると、ヨガミはゆっくりと目をくれる。遊びに飽きたネコみたいな動きだ。

「……ニオ子」

「う、うん」

 あたいはニオ子だけど、だいじょうぶだろうか。「目、死んでない?」

「おまえは……鬼の子」

「なに、どうしちゃったの。そうだよ、だってあたい、おっとーの娘だもん」

 鬼ではないけど、鬼であるおっとーの娘だ。正真正銘、鬼の子だ。

「赤鬼にはツノが二本ある」

「そうだね、二本あるね」

 だからなんなのか、と苛立ちを覚える。あたいにはまだ、ちっこいツノしか生えていない。しかも一本だけだ。あたいをからかっているのだろうか。触れられたくない話題に触れられ、ふつふつと煮え立つものを感じる。

「一角戦鬼も赤鬼だった。ツノもちゃんと二本あった」

「一本だけでごめんなさい!」

「裡に秘めたツノを刃に、邪心をむさぼり刃を刀に」

「ツノを、え、なに? むさぼれや、いなば? ウサギがほしいの?」

 唄、なのかもしれない。ヨガミは視軸の定まらない虚ろな目で、おなじ言葉を二度三度と繰りかえした。

「どうしよう、レナぁ。ヨガミ、こわれちゃった」

 あたいはずっと向こう側にいるレナに助けを求める。もちろんこんなちいさな声では聞こえるものも聞こえない。

 視界のさき、なにやら動きがあった。注意してよく目を凝らす。ユっくんが勇ましく駆けだしているところだった。

   △△

 なにを思ったのか、単身躍りでたユっくんは、黒に黄色の紋様を浮かべた異形らしき女に飛びかかった。そこからは怒涛の展開で、くんずほぐれつ、それぞれがそれぞれに目まぐるしい動きをみせている。餌にまとわりつくアリみたいで、目で追いきれない。

 ふと、雲が渦をまいていることに気づく。竜巻かなあ、と注意がそちらに引き寄せられる。地上の一点へと吸いこまれていくみたいに、尻つぼみに伸びていく黒いヒモ状の雲は、天へとつづく道のようにも思えた。

 見ていると、お腹が、ぎゅるるるる、とものすごい音を立てる。おならじゃないよ、とヨガミに言おうとするも、放心したままだ。聞いちゃいない。

 ほそまった雲の道のさきには、誰かが立っていた。黒い雲は、急須から流れおちるお茶みたいにそいつへ向かって落ちていく。しゅるしゅると音でも聞こえてきそうなほど、いきおいよく流れこんでいると判る。

 ああなんだ。

 あたいはようやく理解した。

 これ、雲じゃなかったんだ。

 そらを覆い尽くさんとするこの分厚い黒いモクモクは、雲などではなく、これで一つの巨大な邪心だった。

「ちょっとくらいならいいかなあ」

 すっかりはらぺこのお腹をさすり、あたいはヨダレをじゅるりとすする。





  

   ><葦須炭兎<>

 口のなかに滲んだ血を、舌で舐めとり、ちゅるちゅると啜る。

 施設を脱すると、そこは駅の構内だった。窓の向こうにつづく広場に、あの女の姿を捉える。

 思わず歯を食いしばると、舌を噛み切ってしまった。血の味は、錆びた鉄の味がする。

 いち、に、さん、し。

 途中で数えるのをやめ、全員殺せばいいか、と駅のそとへでる。

 いい天気である。絶好の殺戮日和だ。空気をおもいきり吸いこむと、それだけでつむじ風が吹いたみたいに、木の葉がひらひらと舞った。あまったるい、死臭の匂いがした。

「やっぱり殺しは、お日さまのしたでやらなきゃだなあ」

 そうでないと気持ちよくない。

 おいらはもういちど、息を吸う。血のぬくもりに似た生温かい風が、おいらをやさしく包みこむ。この世のすべてを呑みこむくらいに、また大きく息を吸いこむと、この世のすべてを呑みこめるくらいのチカラが湧いてくるようだった。





  

   〈estinto〉毒親寺ユヅ〈estinto〉

 勇気が湧いてくるようだった。

 役立たずだと思っていた。僕はこの場では、なんの異能も持たない、ただの人間――いや、それ以下の足手まといのゴミクズだと諦めていた。

 桁はずれな異形と、能力者しかいないこの空間では、僕の読心は機能しない。のみならず、たといこころを読めたところで、目のまえの誰かの自由を封じたり、突破口を拓いたり、となにかこの場を打破できるような役割を担えるとも思えなかった。

 でも、ものは試しと読心を発動させてみると、一人だけ生身の人間がいた。

 伊乃葉衣子さん。

 カイちゃんという少女を引きつれ、わざわざ京都へやってきた女性だ。僕たちと同じように脛木さんを止めようとしてくれている。伊乃葉さんたちにはカナコと名乗っていたようだけれど、脛木さんは、彼女たちとも、深い絆を築いていたらしい。

 伊乃葉さんと脛木さんの出会いは、僕よりは短くて、彼女がまだ大学生だったころのことになるようだ。アルバイトをしていた喫茶店に、脛木さんが常連として通いだしたところから、彼女たちの交友ははじまった。

 彼女の記憶のなかには、僕の見たことのない脛木さんの姿がたくさんあった。けれど、それをふくめて、やはりそこにいるのは、僕のよく知る脛木さんだった。

 伊乃葉さんは今、脛木さんを止めようと考えている。

 死のうなんて考えてはいないけれど、死んでも止めてみせる、という気概に満ちている。外見は、触れるだけで折れてしまいそうなくらいに華奢にみえる女性なのに、その実、内面では、僕なんかと比べるのもおこがましいくらいの、熱い闘志を燃やしている。本人は自分のことを冷めた性格だと思っているようだけれど、それはちがいますよ、と教えてあげたい。

 カブトムシに果敢に挑むアリのような彼女の闘志に触れ、とうのむかしに枯渇した勇気が湧いてくるようだった。

   〈estinto〉

 伊乃葉さんの記憶に触れて確信したことが一つある。

 脛木さんはやはり、脛木さんなのだ。

 僕たちの知らない過去を引きずっていたとしても、けっきょく脛木さんは僕たちを自分のわがままに付き合わせようとはしなかった。

 むしろ、ことごとくが逆なのだ。

 いずれ機関を滅ぼすと決めていた脛木さんは、それでも極力、理不尽な暴力を振るわないようにと心がけていた。始末屋の養成所へと忍びこんでは、僕のように機関になじめない子どもたちを攫っていたのも、敵に回したくのない人間を選び、離反させることで、将来その手で殺さずに済むようにとの配慮だったに違いない。

 最後の鬼を見届ける、と言ったときだってそうだ。八尾尾さんの話からすると、脛木さんは鬼族を心底恨んでいたそうだ。殲滅の指揮まで執ったというのは、ぼくも本人から聞き及んでいる。でも、脛木さんは、鬼族の生き残りを殺さなかった。殺せなかったのではなく、殺したくなかったのだ。ひょっとするとその鬼は、鬼でありながら、すでに鬼ではなくなっていたのかもしれない。それは分からない。けれど、そのあとでレナさんのお兄さんの墓参りに現れた脛木さんの表情は、けっして晴れ晴れとしたものではなかった。

 彼女が僕たちを利用しなかったといったら嘘になる。ただ、そもそも僕は脛木さんの役に立てるほどの能力者ではないし、非力な僕だからこそ――能力者として未熟な僕だったからこそ、脛木さんは僕を離反させてくれたのではなかったか。やっぱり僕からすれば、脛木さんのしてくれたことは救いだったのだと今ならば、はっきりと断言できる。

「ユっくん。あれ、見える?」

 レナさんに声をかけられ、僕はさまよわせていた意識を呼び戻す。

「ほら、あそこ。ぐるぐる巻きにされてる女のひとの、胸のところ」

 伊乃葉さんはの記憶によれば、彼女は死神だそうだ。

「護符にみえない? しかも、あれ、私の持ってるのと同じじゃない?」

 懐から取りだした護符を見せられる。

 これは? と目で訊くと、レナさんは、霊能探偵事務局にあったやつ、としれっと答えた。「脛木さんの部屋にあったのと似てたから、持ってきちゃった」

 レナさんの持っているそれは、僕の知識にある護符とだいぶん仕様がちがっている。見たことがない、と言えばまさにそのとおりで、だから、レナさんの示すさき、死神の胸に浮かびあがってみえる紋様とそれが似通っているのだと、ひと目で判断ついた。アリの群れにバッタが紛れこんでいてもひと目で、どれがバッタなのかを見分けられるのと、同じ原理だ。

「私、いいこと思いついちゃったかもしんない」

 レナさんが言うのだから、いいことに違いない。

「これさ、もしかして脛木さんに貼ったら、元に戻るんじゃない?」

 レナさんは、なにか勘違いをしている。脛木さんの変質した姿をみて、悪霊か何かにとり憑かれているのでは、と誤解しているようだ。

「ねえどうなの? 元に戻る?」

 すでに身を乗りだしているレナさんは、ねえ使っていい、いいでしょ、と否定を挟む余地を許さない剣幕で捲くし立てている。GOサインを出せばその途端に走り去ってしまいそうな勢いだ。ねえねえご主人さま、あの骨食べていい? いいでしょねえ、としっぽを振る犬にも似ている。

 僕は犬の頭を撫でるような手つきで、レナさんから護符を奪う。

 これは、僕に任せてください。

 レナさんにはほかに役目があるじゃないですか。

 伝わったのかは怪しいけれど、

「え、なに?」

 レナさんは食い下がることなく、僕の目を見詰めかえした。

 脛木さんに引き合せるまでが僕の役目だとすれば、そのあとに彼女を殴りとばすのがレナさんの役目だ。ねえそうでしょ。僕はどさくさにまぎれてレナさんを抱きよせる。虚を衝かれて全身を硬くしたレナさんをその場に残し、

 よーいどん。

 心のなかで唱え、僕は駆けだした。 

   STP舘尚レナイPTS

 ユっくんが駆けだした。運動会のかけっこみたいに、嬉々とした走りだしだ。

 まさかあのユっくんが挑んでくるとは夢にも思わなかったのか、脛木さんは防御を忘れ、タックルするユっくんを全身で受けとめた。ふたりは倒れ、もみくちゃになる。

 やだユっくんてば、大胆。

 私は口元を手で押さえ、息を呑む。ユっくんが脛木さんというゴールへ辿りついたのを皮切りに、向こうにいた女性も飛びだしてきた。よく見ると彼女は、霊能探偵事務局で会った、イノバさんと似ていた。というよりも、本人では? イノバさんのあとを追うように駆けだしたちびっこにも見覚えがあり、これまた霊能探偵事務局で言葉を交わした女の子、カイちゃんだった。

 なんだ、なんだ。ほんとうに運動会みたいだな。

 のほほんと思う私も呼吸を止め、全力で地面を蹴っている。

 ユっくんの下敷きになった脛木さんの身体からは、禍々しく浮き出ていた黄色の紋様が、抜けるように消えていく。色を変えたカメレオンがもとの色に戻るような具合だ。代わりに、頬のあたりに、あたらしく紋様が浮かびあがる。こちらは、ゆびの跡に沿って黒く染まったバナナのような、局所的な変化だ。ユっくんに持たせた護符と同じ紋様だった。

「クッソ、なんでユっくんが持ってんだ!」

「それ、私のです」霊能探偵事務所から盗ってきたものだとは言えず、「脛木さんの部屋にあったやつを、ちょいとね」と誤魔化す。「盗んだらおこって、会いにきてくれるかなあ、と思って」

「ふざけんな、離せ!」

「離すわけないでしょ」ふわふわした印象の女性が脛木さんに縋りつく。やっぱり彼女はイノバさんだ。こちらには気づいていない様子だ。

「おねぇさん!」簀巻きにされている女のほうへ駆け寄っていくちびっこもやはりカイちゃんだった。地面に倒れている女性は、顔面を鼻血で彩ってはいるものの、瀕死というわけではなさそうだ。

 起死回生。ユっくんが取り押さえ、そのうえからイノバさんが覆いかぶさって、脛木さんの身動きを封じている。私はそれを、乱れた呼吸を整えながら見守った。

「これで終わればいいんだけどなあ」

 辺りを見渡すと、駅のほうから、不気味な影が近づいてきていた。





  

   3Λ07伊乃葉衣子

 不気味な影が近づいてきていた。古武術をやっていたからかどうなのかは分からないのだけれど、アレが漠然とした殺意、言い換えれば「なんとなく殺そうかなと思って」といったかるい気持ちでわたしたちに今まさに襲いかかろうとしている、というのが、ひと目見ただけで察知できた。

 おそらくアレは、わたしたちが手と手を取りあって反撃したところで、容易く覆されてしまうほどの人物だ、ということもわたしには理解できた。

 見抜くとか、分析するとか、そういった次元の話ではなく、見ただけで判るものというのが、この世界にはたしかにある。

 雷や台風、竜巻や地震、津波や寒波、そういった自然の猛威と等しいレヴェルで、アレは、わたしたちにその圧倒的な破壊の手を向けようとしている。

 足元が揺らいだ。めまいのようなだな、と思う。地震かな、とも思った。

 タイル張りの足場に亀裂が走り、これはまずくないかな、とひやっとした矢先に、足場が崩れ落ちる。

 身体に鋭い衝撃が走った。

 猛々しい音が、轟々と身体を包みこむ。

 わたしたちはカナコの張った、透明な膜に救われた。すでにボロボロなのか、至る場所に穴が空いている。

 手探りで、カイちゃんのもとまで進む。

「よかった、無事で」轟音にかき消されないように、大声をだす。

「イノバさんも、よかったです」

「こわくなかった?」

「おねぇさんに蹴られて、いたかったです」

「蹴られたの? だいじょうぶ?」

「ぼくをこっちまで突き飛ばしてくれたのです」

 言われて気づく。わたしもまた、こちら側まで突き飛ばされた感触があった。そうか、あれは〝おねぇさん〟のしわざか。

 当の〝おねぇさん〟がいなくなっていることに気づき、カイちゃんはきょろきょろする。捻っては戻り、捻っては戻り、首の動きが轆轤みたい、とかわいらしく思う。

「がれきのしたかもです」

「だいじょうぶだよきっと。神さまなんでしょ? 死んだりしないよ、きっと」

「きっとじゃダメなのです」

「困ったなあ」わたしはでも、本気で〝彼女〟ならだいじょうぶだと信じている。なぜなら〝彼女〟はカイちゃんを哀しませるような真似を、ぜったいにしないからだ。

 わたしには解る。

 〝おねぇさん〟は無事だ。

 駅を中心とした建物がつぎつぎに崩れていく。いっせいに爆破解体をしたような有様だ。砂埃が舞い、視界がわるくなる。地上からそれなりに高い地点にいるからか、瓦礫の雨は降らなかった。

 やがてわたしたちを載せた透明な膜も、徐々に地面へと降下していく。周囲の建物が崩壊しはじめたので、ダルマ落としの要領で、高度を落としているのかもしれない。

 残り三メートルといったところで、膜が裂けた。ちぎれた音を耳にしたときには、ターザンよろしく、わたしたちは三々五々、引きずられるように着地していた。金魚すくいの掬いあみが破れたように、底が抜けても膜の一部が命綱となって、最後までわたしたちを支えてくれた。

「みんな、無事ですか」

 呼びかけると、

「ちょっとユっくん、おっぱい、おっぱい!」

「レナ、どけ、重い。つうか、ユっくんがどけろ、はやく!」

 風に流されつつある砂塵の奥から、聞こえてきた。

 カナコが押しつぶされている様子が目に浮かぶ。

 崩壊の余波がすっかり治まったころ、そういえば、と思いだし、アレはどうなっただろう、といまさらながら警戒する。

 何者かが襲ってくるような気配は今のところ感じられない。快晴だったそらには、うっすらと夕暮れのはじまりの色、鮮やかな朱色が滲んでいた。

「ちょっとニオ子ちゃん、それ、なに?」

「えぇ、わかんない」

 さきほど、おっぱい、おっぱい、と騒いでいたのと同じ声の女性がおどろきの声をあげていた。どこかで見覚えのある女性だ。どこで見かけたのだろう。思いだせない。

 目をやると、ちいさな女の子が、その身にそぐわない立派な太刀を携えて、立っている。太刀を納める鞘がなく、刀身がむき出しになっている。

「なんか、お腹いっぱいになったら出てきちゃった」

「出てきちゃったって、どっから?」

「レナぁ、みんな見てる。はずかしい」

 恥ずかしい場所から出てきたのだろうか。想像し、それをちゃんと恥ずかしがる女の子のかわいらしさにわたしは思わず面白くなってしまい、ぷっ、と噴きだす。

「ほらあ、笑われた。レナのせいだ」

「あれ、薬尾さんは?」

「ヨガミ? あっちで寝てるよ。もう一人といっしょに」

「もう一人?」

 おっぱいの女性には思い当たらない人物であるらしい。もしやさきほどの、あの者ではないのか、と考える。どういった経緯でそうなったのかは定かではないけれど、あの圧倒的な脅威を秘めた者は今、眠っているのだそうだ。そう考えた途端にわたしは、全身のちからがどっと抜け落ちてしまった。その場に大の字になり、仰向けによこになる。

「なんだろう。すごく、あほらしい気がする」うふふ。わたしは声を立てて笑った。ホットケーキをつくるためにわざわざブルドーザーを設計しちゃったような徒労感がある。やはり、あほらしい。

 滲んだ涙をゆびで拭い、際限のないそらと向きあう。

 まっすぐ突き抜けるようなそらには、一番星が浮かんでいる。




   ○~神津戒

 そらを見あげると、針の穴みたいな光がもれている。くつくつと、堪えきれない笑みをそれでも堪えるみたいな笑い方でイノバさんが笑っている。

「ニオ子ちゃん。それ、私にも触らせて」

「やだ。レナってば、こわしそうだもん」

 刀を持ってあらわれた女の子は、名前をニオ子ちゃんというみたいだ。そばにいる女のひとを「レナ」と呼んでいる。レナさんはなんとなしに、霊能探偵事務局にいた、槻茂さんの助手のひとに似ていた。でもたぶん気のせいだ、とぼくは見なすものだ。

 ニオ子ちゃんとレナさんの会話をぼくは、イノバさんの胸に頭を載せて、聞いていた。イノバさんはぼくの頭を撫でている。きもちいい。

「おまえ、それ、どこで手に入れた!?」

「えぇ?」

 会話の途中で、おねぇさんをいじめていた女のひとがしゃしゃり出てきた。ぼくはあのひとがきらいである。考えたくないことに、イノバさんはあのひとのことをカナちゃんと親しみをこめて呼んでいた。やっぱりぼくは、あのひとがきらいである。

 ニオ子ちゃんもぼくとおなじで、そのひとが苦手なのか、

「これぇ? これはだから、なんか」

 ごにょごにょと風にながされてしまいそうな声で、「お腹いっぱいになったら出てきたの」と言った。

「おまえ、鬼の子か?」

「そ、そだよ」

「でも、ツノがないだろ」

「なっ!? あるよ!」

 しっけいだ、とおこった様子だ。ニオ子ちゃんはこれみよがしに頭をさしだすと、「ほら、これ」とお辞儀のかっこうを保った。そこにツノがあるのかもしれないけれども、ぼくからはちょっと確認できない。うそなんじゃないの、とぼくはいじわるく思うものだ。

「その刀、あたしに貸してくれないか」

「や、やだよぉ」

「頼む、後生だ」土下座の姿勢をとられると、ニオ子ちゃんはひるんだ。ぼくもひるんだ。まさかいじめっこがこんなにかんたんに頭をさげるなんて、と衝撃だった。そこまでして貸してほしいものか、とぼくは呆れる。でも、あんなにかっこいい刀を見せられたら、いやでも振りたくなるものだ。ぼくもあとで頭をさげて持たせてもらおう、とまえむきに検討するしだいだ。

「脛木さん」レナさんがあいだに入った。「いくらなんでも、武器は持たせられないよ。あぶないもん」

「そうだよ、カナちゃん。あぶないもん」身体を起こして、イノバさんも支援する。ぼくはというと、ここでダメだと言ったらぼくも、「あぶないもん」の一言で貸してもらえなくなりそうだったので、黙ってことの経過を見守ることにするしだいだ。これはひきょうとは言わない。

「力づくでも奪いとるぞ」

「やってみなよ。止めてみせるから」レナさんが言い、「いいよ、やっても」とイノバさんもあとに続いた。「止めちゃうから」

 ああだ、こうだ、と言い合いになった三人のおとなを尻目にぼくは、

「ねえ、ニオ子ちゃん。それ、ぼくにも触らせてほしいのです」刀を貸してくれるよう、おねだりする。

「えぇ……いいけどぉ」

 あまりよさそうではない顔で、ニオ子ちゃんは、しぶしぶ貸してくれた。

 ぼくがすっかり受け取ってから、ニオ子ちゃんは、「その代わり」と交換条件を提示してくる。「あたいと、トモダチになってくれる?」

 そんなことなら。

 ぼくは意気揚々と、

「おやすいごようです」と言った。

 ニオ子ちゃんの刀は、見た目よりもずっとかるくて、刃が濃い赤色をしている。揺らめく炎を連想させ、じっさいにぽぉっと芯まであたたまるような熱が感じられた。

   ○~

「ほんとうだ。なんでも斬れそうな気がするのです」構えると、この世でいちばんつよくなったような思いに駆られる。

「でしょぉ?」ニオ子ちゃんは得意げだ。それ、あたいのだからね、と念を押しているふうにも聞こえる。

「振ってみてもいいですか?」

「こっちに向けないでね。こわいから」

「おねぇさんが言っていたのですけど」ぼくは刀を振りかぶりながら、話す。「むかしは、次元だって斬れちゃう刀があったみたいなのです。ほんとうだと思いますか?」

「わかんない。ためしてみたら?」きゃはは、とニオ子ちゃんは笑った。ぼくも笑いかえして、それはいい考えです、と同意する。

 次元、次元。

 ぼくは目を閉じる。

 それがどんなものなのかは想像できないのだけれど、この世界そのものを斬りさくイメージで、えいやっ、と刀を振りおろす。

 手応えがあった。

 なにか、巨大なチャックを両手であけているような、妙に重たい感触だ。でも、手をとめず、なんとか地面まで引きおろす。

「ふぅ」

 ひと息吐いてから、目を開ける。

 目のまえには少年の顔があった。切れ目を入れた豆腐のパックから、豆腐がにゅるんと出てくるような、そういった出現だった。少年は痩せこけていて、あとすこしでも水分が抜けたらミイラになっちゃいそうなふんいきがある。

「ちょっと、なにしてんの!」

「カイちゃん!」

 おとなたちが、ぼくのしちゃったことに気づいて、こわい顔で迫ってくる。

 でも、ぼくのきらいなあのひとだけは怒鳴らずに、ただまっすぐとぼくの支えている少年を抱きかかえに走ってくれた。じつはいいひとなのかもしれないぞ、とぼくは評価をつけなおすものだ。

 少年がちいさく目をひらき、

 

「むれなさ」

 つぶやいた。

 

 ぼくの苦手なあのひとは一つうなずき、抱きよせた。声も立てず、泣くこともせず、ただただちからいっぱいに、枯れ枝みたいな少年の身体をつつみこんでいる。

 ニオ子ちゃんはぼくのとなりで、「やったのはこのコだから。あたいじゃないよ」と言いたげに、あさってのほうを向いてしらんぷりをきめこんでいる。ぼくはレナさんとイノバさんにガミガミとどやされながら、

 世のなかってせちがらい。

 またひとつ、おりこうさんになるのだった。




  

第ゼロ章【エピローグ】



   +薬尾夜神+

 気づくと病室にいた。朦朧とした意識が徐々にはっきりしてくる。個室らしく、ほかにベッドはない。穏やかな陽射しが窓辺から射しこみ、あたたかなひなたを、腹のうえにつくっている。

 ひなたに当てられて眠くなったのか、ニオ子が寝潰れていた。

「ああ、起きましたか」俺と同年代らしき男が部屋に入ってくる。

「誰だあんた」

「レナちゃんの叔父です。いちど、喫茶店でお会いしましたけど、憶えていらっしゃいませんか?」

 思いだした。彼にはケーキをご馳走になった恩がある。

「レナちゃんがたいへんご迷惑をおかけしてしまったようで」と彼は頭を下げた。

 そうだった。気を失う寸前の光景、駅前での記憶がよみがえる。「レナイさんたちは無事か?」

「お陰さまで。いまはべつの部屋で休んでいるんですが、はやく帰らせろとうるさくて。あとで見舞いにこさせますね」

「ここはあんたの病院か?」

「ああえっと、それがちがんですよ。なんと説明したものか。知りあいが経営しておりまして、というかあなたをここまで搬送したのも、その知りあいでして」

 誰だ? 鬼頭家の人間だろうか。

「ああいえ、たぶん薬尾さんとは面識がないと思いますよ。まあ、一般の病院よりもワケありの病人を世話してくれる場所ですし、ここでは誰も薬尾さんに危害を加えようとする人はいませんから、安心して療養なさってください。もちろん、そこのお嬢さんもごいっしょにね」

「なぜそこまでしてくれる」

「言ったじゃないですか。ぼくはレナちゃんの叔父ですよ。うちの姪っこがとてもお世話になっておいて、それでタダで返すってわけにはいきませんでしょう。ええですから、その、ほんのお礼です。こんなことしかできませんけれど」

「かるく脅しに聞こえるな」

「そうですか?」

「いや、わるい。助かったよ」

「いえいえ。では、なにかありましたら、そこのボタンを押してください。きょういっぱいは、ぼくもここに残っておりますので」

「ああ」

 ありがとう、と言い終る前に、レナイさんの叔父は部屋のそとへと出ていった。

 鎮静剤を打たれているのか、頭がうまく回らない。

 ニオ子の頭を撫でていると、ふと、ふだんならあるはずのない感触を手のひらに感じた。なんだ? 髪を掻き分け覗いてみると、なんとツノが生えていた。二本目のツノだ。元々生えていたツノは小さいままだというのに、新たなツノは、かなりでかい。

 しかし、これはツノなのだろうか。妙に四角い。ツノというのは一般的に、さきが尖っているものだろう。だのにこのツノは、湯呑の底のようにさきっちょが平らだ。

 ためしに引っ張ってみると、ずるりと抜けた。

「しまった」

 慌てて元に戻すが、ニオ子に痛がっている様子はみられない。気持ちのよさそうに眠ったままだ。

 これはひょっとして。

 もういちど引き抜く。こんどは容赦なく、ちからまかせに。

「やはり、刀か」

 深紅の刀身をした、見事な日本刀だ。ニオ子の頭部から生えていたのは、この柄だったようだ。

「抜いたと知れたら、殺されるな」

 鬼のツノ、か。

 刀身に映るじぶんの顔を眺めていると、しだいに、今ここで試さなければ、という思いに駆られてくる。この機会を逃したらもうにどとこの刀を手にできなくなるような予感さえした。

「まあ、死んで当然の人間だ」

 躊躇うのも許されない気がした。

 ニオ子の頬に手のひらをあてがい、最期となるかもしれない挨拶を考える。が、途中で考えるのをやめた。かぶりを振る。

 ばからしい。

 ちょっと腹を斬るくらいなんでもない。

 だが斬るべきは腹ではなく、鬼。

 俺のなかに眠る鬼だけだ。

 よくよくじぶんに言い聞かせてから、思いきって刀身を腹に押し当てる。ほとんど抵抗なく刀は俺を貫いた。

「入ってんだよな、これ」

 あっけないほどの感触のなさに、思わず確かめる。前後左右に刀を揺らし、水面に突っこんだゆびをぐりぐり回すような感覚で、最後には身体を盾に割くようにし、引き抜く。

「ナマクラか?」

 試しに、ベッドのよこにある、折り重なった簡易椅子に刃を当ててみると、抵抗なく、しかしこんどは包丁でキャベツを切ったかのように椅子が、二枚に下ろされていく。

 こんな鋭利なものを俺はじぶんの身体に差しこんだのか?

 思いだすだけでもぞっとする。

 おとなしく返そう。

 ニオ子の頭へ押しこもうとするが、肝心の刀身が見えなくなっている。透明になっただけかとも思ったがそうではなく、ロウソクの火がふっと吹き消されたかのように、紅蓮の日本刀は柄だけを残して、きれいさっぱり消え失せていた。

「泣くよな、これ」

 ニオ子が知ったらきっと泣く。

 ベッドのしたを覗きこむが、そんなところにはもちろんない。

 なくなってしまったものは仕方がない。開きなおり、ニオ子の頭に、柄だけを押しこみ、返却しようとする。が、ニオ子の頭は、頑なに柄だけの刀(すでに刀としての様相をなしていないが)を受け容れようとしない。

「よし」俺は臍を固めた。

 緩慢な動作でベッドに潜りこみ、さもなにごともなかった、紅蓮の刀なんてしろものには手も触れていないし、気づきもしなかった、という素知らぬ体で、ふたたび眠りに就くことにする。

 寝て起きたら夢だった、とはならないだろうか。

 冗談半分に思い、同時に、夢なら覚めないでほしい、ともつよく願った。




  

   △ニオ子△

 目覚めのよい朝である。寝て起きると、頭がすっきりしている。

 背伸びがてらに、頭を掻く。

 やけにすっきりしすぎている気もする。

 まさか取れちゃったんじゃ……。

 鏡で確認すると、そこにはきちんとツノがあった。ちっこいツノが一本。いつもどおりだ。

 いつもどおり?

「あっれぇぇえ?」

「どうした。騒々しい」

「あ、ヨガミ、目覚ましたんだ。おはよう。じゃなくって、ヨガミ、たいへんたいへん。あたいのツノ、なくなちゃってる」

「どれ、見せてみろ」

「ほら。ね、ないでしょ」

「あるぞ。ちゃんと、ほれ」触れられたのは、ちっこい歴「十余年」を誇る古参のツノのほうだ。

「それは元々あるやつ!」

 あってあたりまえだ。

 それまでなくなっていたらあたいはいまごろ窓から飛び降りて死んでいる。

「あれ、ヨガミそれ、なに持ってんの」

「あ、これか?」

 言いながらヨガミはベッドのなかに手をしまった。あやしい。

「見せて」

「ダメだ」

「どうして?」

「おまえに渡すと危ないからな」

「触んないから、見るだけだよ。もしかしたらあたいのツノかもしれないもん」

「おまえのツノではない」

「どうしてそっぽ向くの」

 ヨガミは窓のそとに目をやりながら、

「いい天気だ」

 ほのぼの言った。

「あやしすぎる!」

 あたいはヨガミの身ぐるみをはがすべく、ベッドに飛び乗り、じゃれついた。

「わたさないとこうだ!」飛びかかるものの、「ふざけんな!」ヨガミの容赦ない抵抗にあい、あっさりつかまる。流れ作業で、おしりペンペンの刑に処される。

「イタイ、イタイ!」

「もうしないと言え」

「もうしない、もうしないよぉ。ごめんなさあい」

 あれだけ邪心にまみれていたヨガミも、今では邪心をちょっぴりしか立ち昇らせていない。

 やっぱりこんな男でもちょっぴりの邪心くらいは、その胸に秘めているのだな。あたいはそれをしって安心する。ほかの人間から邪心を喰らうのは、好きではないのだ。

 あたいの胸をあたたかさでいっぱいにしてくれるこの男は、名を、薬尾夜神という。いつの日にか、あたたかさでいっぱいになったあたいのおむねは、おっぱい、という名にふさわしい風格を宿す。

 だから、そう。

 ツノの一本ぐらい、おやすいごようだ。




   ><葦須炭兎><

 あれは夢だ、と言われた。きみの見ていた夢なのだよ、とそのひとは常時うえから目線で説いてくる。

「夢だったのですか?」

「そうだ。だが、きみは夢を見ながら迷惑な行為もしでかしてしまった。夢遊病というやつだ」

「はあ。なにをしてしまったんでしょう」

「具体的な話は知らないでおくのがきみのためだ。しかし、そのせいできみはとある組織に目をつけられてしまった」

「はあ」

「それを我が匿ってやろう、と申しでているわけだがよもや、断る、なんて言うつもりではあるまい?」

「ありがたいことだとは思いますけど、ご迷惑ではありませんか」

「タダで、というわけにはもちろんいかない。きみにはそれなりの対価を支払ってもらう」

「対価ですか。それはどんな?」

「我らの実験に協力してもらいたい。なに、そうむずかしい話ではない。あまり気負わずに、ここではただ、ハイ、と言っておけばいい」

「はあ。わかりました」

「返事は、ハイだ」

「ハイ」

「よし、では契約成立だ」

「あの、あなたは?」

「我か? なに、名乗るほどの者ではない」

「あの、もう一ついいですか」

「言うだけならタダだ。なんでも言いたまえ」

「あるひとのお墓参りに行きたいんですけど」

「構わんよ。そとを出歩けるのも今のうちだろう、行ってくるがいい」

 男性か女性か、その判断に悩んでしまう端正な顔立ちの人物の許可を得て、おいらは槻茂さんのお墓へ向かった。お墓といっても、集団墓地のようなところだという。これは、おいらの暴れたあの施設で仕入れた情報だった。

 でもあれはおいらの夢だったのだ。

 槻茂さんの死がショックで見てしまった、巨大な組織への殴りこみからはじまり、小鬼にかぶりつかれて終わる、そんなへんてこな夢だったのだ。

 だから。

 夢のなかで手に入れた地図を頼っても、槻茂さんのお墓に辿りつくはずもない。

 でも、デタラメな地図であったとしても、どこかには着くはずだ。おいらがこの世にいるかぎり、歩いていればどこかには辿り着く。

 夢のなかで手に入れた地図の記憶を頼りに、道を進む。海沿いの町にでた。そこでタクシーを拾い、住所を告げる。連れていかれた場所は、偶然にも墓地だった。

「このなかにあるのかなあ。槻茂さんの……」

 無名仏の墓地だった。墓石と呼べるものはすくなく、そのほとんどはただの石だ。おいらは石を踏んでしまわないように、慎重に歩いた。

「来るのが遅ぇんだよ。バイトの分際で」

 離れた場所に大木が立っている。その太い幹に寄りかかるようにして、男がうでを組んでいた。大木は、そろそろ落葉の季節なのに、新緑の葉を、重たそうに茂らせている。

「やってくれたよなあ、おまえ。全滅だってよ。聞いたか? 能力者から能力が奪われる。やったのは誰だ? どこもかしこもこの話題で一色だ。駅前の被害もひでぇもんだってんで、表も裏も大騒ぎになってやがる。まあ、奇跡的に死者がでなかったってんで、騒ぎ、つっても、お祭り騒ぎのほうだけどな。しかしまあ、息の根があることを確かめて、そっから施設のやろうども全員をおぶって運んだってなると、さすがのおれも筋肉痛だよ。おまえ、あとで肩揉めよ」

 おいらは大木に近づくことをせずに、弧を描くように歩いて、影になっている男の顔を覗きこもうとする。

「なんだ、どうしたよ。燃えつき症候群か? これからがたいへんだってのに、ふざけんなよ、この――」

 マグロ・イヤダーめ。

 そのひと言で埋まったわけではないのだろうけど、おいらのうちに広がっていたはずのがらんどうはもうどこにも見当たらなくなっていた。ぬかるんだ道には、大木へとつづく足跡だけが点々とつづいている。




  

   〈estinto〉毒親寺ユヅ〈estinto〉

 扉を開けると、レナさんが荷作りをしているところだった。

「もういいの? ユっくんてば準備はやいんだけど」

 僕は笑う。レナさんの荷物が多すぎるのだ。オジさんに頼んで、じぶんの部屋にあるものを八割がた運ばせておいて、こんどはそれを持ち帰るというのだから、一人で作業したのでは日が暮れてしまう。

 手伝いにきたんですよ、と告げる。もちろんしゃべれないので、メディア端末を使う。

「あ、そうなの。じゃあ、そっちの散らかってるやつ、お願い。ぜんぶ段ボールに詰めて。あとで郵送するから」

 ぎょっとする。指示された場所に散らかっていたのは、下着だ。これを僕に触れ、というのはこれまでになかった類のいやがらせだ。手袋をしたほうがよいのだろうか。したらしたで、「そんなに私がばっちぃか!」と蹴飛ばされたうえで、便器に頭を突っこまれてしまいそうだ。かといって平然を装い作業しようものなら、「ユっくんのエッチ!」とからかうに決まっている。しかもこのさき数カ月にわたって言いつづけ、僕をこき使うためのネタとして使う気なのだ。

「なにボサっとしてんの。はやく終わらせて帰ろうよ」

 意を決して取りかかると、拍子抜けなことに、なにごともなく梱包作業を終える。

「じゃあ、こんどはそっちね」

 淡々と作業はすすんだ。

 このままでは、マズい。せっかく懐に忍ばせたレナさんのパンツが発見されることなく、ほんとうに僕のものになってしまう。

 レナさんの赤面した顔が見たくて仕掛けたイタズラだったのに。

 不発に終わってしまうというのに、ちょっぴりうれしいじぶんがいる。恥ずかしい。

「なに顔赤くしてんの。パンツの一枚くらいあげるから、ちゃっちゃと手、動かして」

 しかもバレてた。

 レナさんはするどい。こんな基本的な事項を僕はまたぞろ失念していた。

「あ、そうだ。ユっくんの住所って、そこに書いてあるので合ってるかな? 間違ってたら直しといて。私、ちょっとオジさんとしゃべってくるから。サボらないでちゃんとやっててよ」

 ひと息に捲くし立てて、レナさんは部屋を出ていった。残されたのは、大量の荷物と、段ボールと役立たずな僕。そして荷物を郵送するための送り状にはなぜか僕の住むアパートの住所が、レナさんの筆跡で書かれている。




   STP舘尚レナイPTS

 火照っているのか、顔が熱い。小走りに駆けて、生じた風で頬を冷ます。

 ユっくんはどう思うだろう。

 許可を仰いだらぜったいに反対されるから、こうして迂遠なかたちで伝えてみたものの、読心術に頼った生き方をしてきたせいか、ユっくんはときどき、尋常ではないにぶさを発揮する。

 まあいいさ。

 単なるホームシェアだし。

 深い意味はないんだし。

 お互い、それほど金銭的に余裕のある暮らしをしているわけではないから、家賃が浮くという点で、同棲というのは理に適っている選択だ。

 友人としての同棲なんて、いまどきそんなに珍しくない。

 私の友達だって――。

 と、ユっくんへの言い訳を予行演習してみるものの、そもそも私に友人などいない。

 まあいいさ。

 反対されても、こちらにはいい具合に強請れるネタができたんだし。これでユっくんはまたしばらく私に逆らえないだろうし。

 もともとイチャモンをふっかけようとは思っていたけど、まさかユっくんがなあ。

 パンツを盗られるとは思っていなかっただけに、あれにはしょうじき驚いた。動揺したと白状してもいい。イチャモンをふっかけるタイミングをうっかり見失ってしまったくらいだ。ユっくんも中々どうして男だな。

「もっとガツガツすりゃいいのに。根性なし」

 毒づいてみせるが、まるまるじぶんに返ってきて、人のことは言えないな、と落ちこむ。

「やあ、レナちゃん。準備はできたのかな」オジは待合室にいた。

「薬尾さん、まだ見つからない?」言いながらとなりに腰をおろす。

「探してもらってはいるんだけどね、ちょっとこっちでも人捜ししてて、あんまり人員を割けないんだ。ごめんよ。あ、コーヒー飲む?」

「ん、いらない。見つかってないなら、それでいいの」

 薬尾さんがこの病棟を抜けだしたのは、先週のことになる。

 脛木さんを起因としたあの一件以来、私たちはここに缶詰で、ひと月経ったいま、ようやく退院の許可がおりた。薬尾さんたちはこの日まで待てなかったらしく、病室の窓から脱走した。もちろんその窓は、開かないつくりになっていたし、ガラスも特注品だ。ちょっとやそっとじゃこわれない。

 監視カメラには、ニオ子ちゃんをおぶった薬尾さんが、日本刀を片手に、堅固な窓を斬り裂いている姿が映っていたそうだ。

 日本刀なんてどこに隠し持っていたのだろう。今さらながらふしぎな人たちだったなあ、と私はしみじみ思い出に浸る。

 脛木さんを起因とした一連の事件は、私たちにいまもなお、暗い影を落としたままだ。脛木さんは、なぞの少年を連れて姿を晦ました。残された私たちは、なにも解決されずにただ時間だけを無駄に重ねている。事実をただ呑みくだし、過去のものとする以外にまえを向く術はないのだろうか。

 私たちはあの日、なぞの集団に回収され、そのままこの病棟へと運びこまれた。

 瓦礫に囲まれたなか、夕陽を背中に受けて立つ無数の人影のなかに、オジの姿があった。

「この病院もだけどさ」

 いちどは断ったコーヒーを飲みながら、私は核心に迫る。「これってなんの団体なの? オジさん、喫茶店のマスターじゃん」

「んー。シークレットな組織でね。まだ設立されて間もないってことくらいしか話せないなあ」

「勧誘はしないんだ?」

「あのねレナちゃん。オジちゃんがこれまでにレナちゃんを誘ったことがあったかい」

 冗談めかすでもなくオジは、真顔で言いきった。駅前で、いくら呼びかけても一顧だにしなかった脛木さんの姿と重なる。目頭が熱くなり、眉間を揉む。

 私は考える。むかし、あれだけしつこく勧誘してきたオジが、私に声をかけなくなったのはいつのころからだったろう。オジもまた、兄ちゃんの死んだあとに変わったような気がする。

「安心していいよ。レナちゃんはまた元通りの日常だから。オジちゃんが約束する」

 私が黙ってしまったからか、オジはそう言って私の背中を叩いた。

「うん」

 いつもなら殴りかえすところだけど、私は出そうになった拳をしまった。いつでも殴りかえしにいけるように、今はまだ堪えておく。

 じぶんの病室へと戻るあいだにオジとの会話を、あたまのなかで反芻する。考えれば考えるほど、腹が煮えてくる。

 どいつもこいつも、じぶんかってだ。

 やになるなあ、もう!

 脛木さんから教えてもらったあの言葉が口を衝きそうになったけど、これもまだ、口にしないでおく。




   3Λ07伊乃葉衣子

 見るからに由緒あるお屋敷だった。大きいだけでなく、積み重ねてきた歴史を感じさせる、趣深さがある。

「ここって、カイちゃんの実家なの?」

「来たことはないのです。でも、おかぁさんがちいさいころに暮らしていた場所だって」

「誰から聞いたの?」

「ぼくたちをここに連れてきたひとです。あの、顔にキズのある、こわい顔をした」

「ああ、あのひと」思いだしながらわたしは言う。「やさしそうにみえたけどなあ」

「イノバさんはひとを見る目がないのです」

「ほら見て、満月。きれいだね」

「ぼくは疑問に思うのですけど、イノバさんはいつもそんなにのんきなのですか?」

「だってきれいでしょ?」

「でもここは、ロウゴクです」

「停電のときに役に立つやつ」

「それは、ロウソクです」

「あはは。カイちゃん、つっこみ上手になったね」

「ぼくたち、どうなっちゃうのでしょう。やっぱり、入ってはいけない場所には入ったらダメだったのです」

「それは関係ないと思うなあ、あんまり」

 怪しい集団に拘束されたわたしとカイちゃんは、その後、なぜか京都から、地元の町にあるお屋敷、鬼頭家まで連れてこられた。

 カイちゃんの話によればここは、亡くなったお母さんのご実家なのだそうだ。客観的に見たらたしかにわたしたちは、駅前を崩壊させたテロリストに見えたかもしれないけれど、それにしては、この扱いはひどすぎないかなあ、と思う。

 投獄されたうえ、手足をしばられている。尿意を催してきてしまったらどうしてくれよう。おもらしをする少女なら絵になるとしても、三十路まぎわの女が漏らしたところで、ただでさえ縁のない婚期がさらに遠ざかるだけではないか。

 救いがあると言えば、カイちゃんと同じ監房に入れられているということと、鉄格子から見える満月がすごくきれいだってことだけだ。

「誰か、助けてくれないかなあ」わたしは言った。

「そう、ですね」

「〝おねぇさん〟、やっぱり出てきてくれない?」本当はこれが聞きたかった。

「まだ、がれきのしたかもしれないのです」

「そっか」

「……イノバさんは」

「ん?」

「イノバさんは、おねぇさんのこと、きらいだったですか」

「どうして?」うまく言えない気がして喉まででかかった、そんなことはないよ、を呑みくだす。

「イノバさんは、ぼくとおねぇさんを、引き離しがっていたように思うのです」

「……どうして?」

「べつに責めているわけではないのです。イノバさんはやさしいひとなので、ぼくのためにそう考えてくれていたって、ぼく、ちゃんと分かっています。でも――」

 それでも信じてほしかった。もっとはやくに。ぼくの言葉を。

 あとに続くだろう思いの丈を、わたしは脳内で補完した。ここでごめんなさいと言うのは卑怯な気がして、だから、

 ばかだなあ、わたし。

 じぶんを責めることですこしでもカイちゃんの気持ちにちかづけるようにする。わたしのすることは、いつも決まって、この程度のさもしい自虐だけだ。

 ばかだなあ、わたし。

 もういちど、こんどは満月に向かってつぶやいた。

 

「あ、いたよヨガミ。こっち、こっち」

「大きい声を出すな。見つかったらどうすんだ」

「だってぇ」

 聞き覚えのある声に目を覚ます。満月の消えた鉄格子には、闇よりさらに暗い影が、「Q」を逆さにしたようなかたちで浮かびあがっている。

「ニオ子ちゃん?」

「そうだよ、あたいだよぉ」

「なあ、あんた」もうひとつ影が増える。こちらは大人の男性だ。「子どもが一人、投獄されてないか。こいつと同じくらいの背丈で、こいつよりも聡明そうな女の子でな」

 カイちゃんを探しているにしても、その言い草はないんじゃないかなあ、と思っていると、

「ヨガミってばひどい!」

 案の定、ニオ子ちゃんが噛みついた。文字どおり、男性のうでに歯を立てている。慣れているのか男性は物ともせず、

「なあ、頼む。俺の娘なんだ」

 さくっととんでもないことを言いだした。

「え、カイちゃんのお父さま!?」

「なんだあんた、カイのこと知ってるのか」

「知ってるもなにも、ここにいますよ、カイちゃん」壁に寄りかかるようにして眠っているからか、そとからはカイちゃんが見えないらしい。「あ、起こしましょうか?」

「いや、寝てるならいい。そうか、ここか」

「ね、言ったでしょ。いたって」ニオコちゃんが、ふふん、と鼻を高くした。 


 壁際は危ないからどいていろ、と言われたものの、手足を縛られているのでカイちゃんを運ぶことができない。その旨を伝えると、折衷案としてわたしがカイちゃんのまえに立ち、居場所を知らせる旗の役割を果たすことになった。さいわいにもちょうど鉄格子のある場所にカイちゃんは横たわっているので、あちらからはわたしの頭がよく見えるはずだ。

「なにをするんですか?」

「すこしのあいだでいい、じっとしていてくれ。カイにも寝がえりを打たせるなよ」

 なんだか偉そうなひとだなあ。あまり嫌な感じはしない。

 とくになにか音が聞こえたとか、火花が散ったとか、そういったことはなかった。にも拘わらず、背にしていた壁に、穴が空いた。ひと一人ゆうに通れるくらいの穴だ。くり抜かれたとか、切り取られたとか、そう表現したほうが適切かもしれない。わたしの立っていた場所のとなりに、即席の出口がつくられた。

「カイは無事か」

 しれっと危ないことをしておいて、わたしへの心配はないんですか。そうですか。ちょっとまちがったらまっぷたつだったじゃないですか。わたしの抗議の目はうまく伝わらなかったようで、

「あんたか? カイのオトモダチってのは」

 手足の縄を解かれ、熱心な感じに手を握られる。

「オトモダチというか、はい。だったらいいなあ、とは思ってます」

 もう嫌われてしまったかも、とは言わない。

「すぐ追手がつく。とにかく今は逃げるぞ」

 カイちゃんの縄は解かずに抱きかかえると、彼はわたしをこの場に残し、一目散に駆けだした。草原を渡る風のようなその俊足に、わたしはただただ呆れるばかりだ。

 取り残されたのはわたしだけではなかった。

「ねえ、ニオ子ちゃん」

「なに」

「ちょっぴりだけど、悔しくない?」

「べつに。だってあたい、ヨガミの娘じゃないもん」

「そっか。そうだね」

 父親は娘がだいすきなものだもの。それに妬くのは器の小さな女だね。

 でもねニオ子ちゃん。

 父親の、娘への愛に対抗できてこそ証明できる愛だってあるんじゃない?

 たぶん、きっと。

 だといいなあ、と思う程度には、ちがう気もするけれど。




  

   ○~神津戒

 雨の降らない日のカタツムリみたくなったぼくをみんなは心配してくれる。

 イノバさんも、ニオ子ちゃんも、ヨガミさんも、みんなやさしい。むりにしゃべらせようとはしないし、むりにこちらの世界に入ってきたりしない。

 ぼくとイノバさんを助けてくれたのはヨガミさんで、このひとはぼくのお父さんだという。じぶんではそう名乗らなかったのだけれども、陰でニオ子ちゃんがこっそり教えてくれた。それは親切心というよりもむしろ、喝のようなものだったとぼくは見なすものだ。せっかく助かったのにいつまでもウジウジといじけているぼくにニオ子ちゃんは、しゃべるきっかけを与えようとしてくれたのだと思う。

 ただ、ぼくにとっては、ヨガミさんはまだヨガミさんのままだし、イノバさんもイノバさんのままだ。

 お父さんとか、オトモダチとか、そういうのとはすこしちがう。というよりも、ぜんぜん、ちがう。

 ニオ子ちゃんは、ぼくに飾りっけなく接してくれる。なんでしゃべらないの、とか、ちゃんと食べないと元気でないよ、とか、まるでお節介焼きだったおねぇさんの姿とかぶって映ることもある。

 だからぼくはニオ子ちゃんがにがてである。きらいなのではなくて、いまはあまり、見ていたくない。

 おねぇさんが消えてから、三か月が経とうとしている。

 待てども、待てども、おねぇさんはあらわれてくれない。

 契約違反で、うったえてやるのです。

 一時間にいっかいは、こころのなかでそう唱えるようにしている。あざとく聞きつけたおねぇさんが、「そりゃないんじゃないの、カイちゃん」とやってくるのを、ぼくは今か今か、と待ちわびている。

 ある日の夜のことだ。

 外道が解体され、新しく国の主導で設立された組織に合併された、という話をヨガミさんとイノバさんがしていた。ぼくはひととしゃべらないぶん、たくさん本を呼んで、毎日ちょっとずつではあるけれど、着実に知識を蓄えている。でも、ぼくはもう、おりこうさんではない。

 たぶん、これもおねぇさんのせいだ。

 ぼくはさいきん、おねぇさんが憎くてたまらなくなるしゅんかんがある。

 こんなにぼくが呼びかけているのに、哀しんでいるのに、つらいのに、会いたいのに、おねぇさんはちっともあらわれてくれない。

 思わず泣きそうになって、ぼくはなんとか堪える。うでに噛みついて、痛さで、つらさをまぎらわせる。

 泣いたらそれでおしまいだ。

 おねぇさんとの縁が、途切れてしまう。

 死んだって泣いてやるものか。ぼくはムキになっている。

 ただ、ムキになればなるほど、じぶんが情けなくなって、きらいになって、せつなくて、目頭がカァとあつくなる。

 死んだら泣いてもいいのかな?

 答えてくれるひとは、いない。

 

 ぼくはきょうも、雨の降らない日のカタツムリをやっている。

 ニオ子ちゃんに連れられて湖までやってきた。さいきんぼくたちは、森のなかにある廃墟で暮らしている。水面に映るじぶんの顔を眺めながらぼくは、お母さんがぽっくりいった日につぶやいた言葉を、こぼしていた。

 ――ぼくもぽっくりいきたかったです。

 歯に詰まった食べ物のカスみたいに、ぽろりとこぼれおちていた。

 おねぇさんも、ぽっくりいってしまったのだろうか。ずっと考えないようにしてきたことが、ここで堰をきったように、あふれだした。

 おねぇさん。

 この湖には、とうめいなアメンボさんがたくさんいるのです。

 なにも見えないのに、波紋がたくさんできているのです。

 ぼくは水面をなぐって、とうめいなアメンボの足跡を消す。

 胸も叩いて、けいれんする横隔膜に、やめろ、やめろ、と怒鳴りつける。

 これ以上ぼくから、

 おねぇさんとの絆をうばわないで。

 離れていたニオ子ちゃんが悲鳴のようなぼくの情けない声を聞きつけて、おどろいて飛んできたのかもしれない。足音がうしろまでやってきて、止まった。

「とうめいなアメンボ?」

 ちがうんじゃない。

 とおくからニオ子ちゃんの声が、どーしたのぉ、とちかづいてくる。ぼくのうしろのひとは、雲ひとつないそらへと、ツバを吐きつけるようにイシシと笑ってこう言った。

「とおり雨かもしれないよ」

 カタツムリのぼくの手に、また一つ、おおきな雨つぶがあたった。






      【群れなさぬ蟻】おわり。

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