息の根にうるおいを。

  息の根にうるおいを。 


目次

プロローグ『SHIT KING』

第一章『通り魔が流行ったらコレのせいです』

第二章『この邪心、ただものではない』

第三章『殺りマン、ハメられて悶える』

第四章『黒幕に張りあうな』

第五章『人殺しVSヒトデナシ』

第六章『正義は勝つ。邪心の敷いたレールのうえで』

エピローグ『13』

後日譚『要約できないただ一つの物語』





   プロローグ『SHIT(失) KING(禁)』



 やわらかい目玉を抉りさえすれば、人間なんて死んでしまうものだ。

 そんな考えを信じる以前に疑いもしていなかった私はそのころ、あまりにあどけない少女だった。

 人間という超精密有機構造体が案外にがんじょうで、しかも、しぶといと知った瞬間、私はあどけない少女ではなくなった。

 人を殺すというのは、かなり骨が折れる。

 それこそ、眼球にゆびを突っこみ、視神経ごと眼球をぐちゃぐちゃと掻き混ぜるだけで、私のか細いゆびはぽっきりと折れてしまった。ちょうどよく眼窩にフィットしてしまったのがわるいのか、それとも私の殺したかったそいつが阿鼻叫喚というにも憚るほど無様にもがいたせいかは定かではないにしろ、不幸にもテコの原理が働き、第二間接からぽっきりと折れてしまった。

 ちいさな私の手には、さらにちいさなゆびが生えており、そんな棒きれごときで眼球を抉ったのでは、とうてい人を殺すことなど叶わなかった。

 仕方なく私は、折れた感触を違和として覚えつつも眼窩からゆびを引き抜き、そいつが苦しんで動けないことを冷静に確認してから、庭へと出た。

 手頃な重石を見つけ、両手で抱えて部屋へと戻る。

 そいつは弱々しく七転八倒している。身体の自由が利かないらしい。痙攣しているみたいだ。脳髄が傷ついて上手く声がだせないようでもある。そいつが失禁していることに気づき、それまでなかった嫌悪が湧いた。

 さっさと片付けてしまおう。

 持っていた重石を頭上へと掲げ、勢いよく叩きつける。ふしぎと、三日前に割ってしまった湯呑を思いだす。重石は沈むようにバウンドし、畳みのうえを転がった。

 そいつの頭蓋を砕き潰した記念すべき瞬間だ。

 記念すべき、初めての殺人。

 あまりきれいな出来栄えではなかったけれど、初めてにしては中々に淀みのない流れだった、と当時のじぶんを褒めてやりたい。

 その日以降、私はよりきれいに人を殺すことを求めるようになった。偶然知り合った、とある精神科医は、私のことをこう診断した。

「きみの殺人衝動はおおむね、性欲にちかいね」

 なるほど。私は淫乱だったのか。

 道理で、と納得した。道理で年中、替えのパンツを手放せないわけだ、と。




   第一章『通り魔が流行ったらコレのせいです』



      (1)

 世のなかにはいろんな職業があるものだ。目のまえの男を見下ろし、感慨にふける。

 駅から私を尾行してきたそいつは、私がひと気のない路地に入った途端に、襲いかかってきた。昼下がり、まだ夕暮れまでは余裕のある時間帯だったが、それでも路地裏は薄暗い。もともと私のほうもそいつを殺そうと思っていたので、手間が省けた。背後から延々殺気を浴びているというのは、けっして気持ちの良いものではない。

 身の熟しからして素人とは思えなかったが、肩すかしも甚だしい。呆気ないほどかんたんに拘束できた。奇襲のつもりだったそいつに対して、こちらは身構えていたのだから当然だ。瓶の蓋を開けるのに栓抜きを持っているか持っていないか、くらいの差がある。

「おまえは何なんだ」

 後頭部にひざを置き、体重をかける。

 そいつは軽薄な笑みを浮かべるだけで、答えない。よく見ると、なかなかに色男だ。薄汚れたスーツに身を包ませてはいるが、肌の艶がよく、わりと若いのではないか、と思わせる。好感のある容姿をしていたため、私は情けをかけた。

「答えれば、痛くしない」言いながら男の腕をねじ折る。肘の関節を軸に捻ったので、ボッギンとすんなり折れてくれる。

 そいつは呻いたが、悲鳴はあげなかった。

 立派だ。が、利口ではない。

 今は悲鳴をあげるべきだった。人通りが皆無の裏路地であるとはいえ、悲鳴を聞きつけた誰かが助けに来るかもしれない。そうしたら、今よりは生き残る確率があがる。

 おそらくこの男は、自分がまだ死なないとでも思っているのだろう。自分の美学を重んじて、悲鳴を堪えているのだ。せっかくの私の情けを、とせつなくなる。

「つぎは、ゆびだ。爪を剥いでから、すべて折る」

「わかった。言う。言うから、すこし待て」

「よし」私はさっそく小指を握る。根元から手の甲へと折り曲げる。めきめき、と蟹の脚をもぐような感触が腕に伝わり、肩までのぼる。へし折ったそいつの小指を口に含み、第一関節から噛みちぎる。

 ひと息にここまでしてから、ようやくそいつは悲鳴した。

「言うッて、ッつッたじゃねぇか!」歯を食いしばりながらとぎれとぎれに不平を鳴らす。こちらの理不尽な扱いに憤ったようだ。しかしながら、拷問というのは理不尽なものだ。

「すこし待てって言うからさ。暇つぶしにね。いいかなって思って」

 ごめんダメだった? と私はちょっぴりやさしい女を演じる。噛みちぎったゆびを吐きだし、

「で、きみは何なの。どう、まだ時間かかりそう?」

 吐きだされたゆびはアスファルトのうえを転がった。「もうちょっと待ったほうがいいかな?」

「お、おれは代行屋だ」そいつは素直になった。ッつーイテェ、と短く息を吸う。「戦々虚(せんせんきょ) 右京(うきょう)、あんたを殺せと依頼された」

「だれに」

「それは」

 言えない、と口にしかけたそいつがふたたび悲鳴をあげる。私が中指に噛みついたからだ。こんどは噛みちぎっていない。歯をたて、ゆびの骨を削る。ごりごりと振動が頭蓋までひびく。

 わかッた、言う、言うからやめろッ、とそいつが喚く。自分の立場を理解できていないわけではないだろうが、ずいぶんと偉そうに指示をするものだ。私は愉快になる。

「依頼主は、横(よこ)島(しま)奈(な)心(ごころ)だ。言っただろ。噛むのをやめろッ」

「横島?」聞かない名だ。そもそも私の存在を知っていて生きている人間となると、あのキザな精神科医くらいなものだから、名前を言われたところでピンとこない。

「どこに住んでんだ、そいつ」

「いや、おれも知らないんだ」

「そっか」ならしょうがないね、とこんどは薬指を咥える。男は泡を食ったように、

「待て待てッ。ほんとうに知らないんだ」

 声を張りあげる。

 ゆびを放し、質問を重ねる。「なんでそいつは私を殺したいんだ」

 おれが知るか、といったような表情を男は浮かべたが、言葉のほうは呑みこんだようだ。換わりに、

「あんたもカタギの人間じゃないんだろ。だったら話は早い。おれたちは、金で動く。そうだろ?」あんたもおれと同じだろ、とでも言いたげに眉を上げ下げさせる。「あんたもおれに依頼すればいい。解放してくれれば、格安で請け負ってやる。おれのゆびを噛みちぎった分は、和解賃として請求させてもらうが、それだって、情報に対する対価としてはぜったいに安い。わるくない話だろ」

「つまりこういうことか」私は男の本懐を要約する。「きみは仕事に失敗し、身が危うくなったので依頼主を裏切ることにした――が、それだと体面もなにもあったもんじゃないから、形だけでも整えたいと考えた。より上級の仕事を請け負ったから、職務上やむなく、依頼主の情報を売った。そういう名分がほしいわけだ」

「すこしちがう」

「どこがちがう」

 こちらが冷たく唸ったからか、男は一瞬ひるんだようにどもり、

「おれはいつだって仕事は貫徹して熟す。が、それと、依頼主との信頼関係は別ものだ。依頼は十全に遂行するが、その過程でその依頼主を殺せとまた別に依頼を請け負うことだってあり得る。今がそのときらしい。なにもおれは従者じゃない。侍よりもむしろ忍者にちかい」

 男の口調はまるで思春期のガキだった。忍者に憧れるのは結構だが、どうせならもっとつよくなってほしいものだ。私も忍者は好きなのだ。

「つまりなにか。きみは依頼主を裏切ることはあるが、任務はぜったいに遂行すると。どうあっても私を殺すと、そういうことか」

「ん? なんでそうなる。あ、いや、そっか」男はばつのわるそうに笑った。「そうだった。おれの依頼は、あんたを殺すことだった」

 なにを惚けたことを、と愉快をとおりこして、心配してしまう。「きみね、頭、だいじょうぶ」

「今んところは」男が頭を撫でる。「あんたに噛まれてないし」

 抵抗しそうもなかったので、話の途中から男の拘束を解いていた。利き手のゆびを噛みちぎってあるので、ナイフだろうが拳銃だろうが、活殺自在には扱えないはずだ。

「解放してやったんだ。依頼主について教えろ」と迫る。

 こんな茶番はさっさと終わらせたい。やさしい女の演技ももう飽きた。

「交渉成立だな」

 男は無邪気に破顔し、

「教えるのはいいが、まずは料金が先だ」

 さも重要だといわんばかりに食指を立てる。「前払いで頼む。お金を戴いたら、そのあとで、依頼主の所有物件を教える」

 いくらだ、と尋ねると、まずは五十万でいいよ、と抜かすではないか。「まけてくれるんじゃなかったのか」

「治療費だ。おれ、保険に入ってないんだよ」

 健康保険のことを言っているのだろうが、すこしぼったくりな気もする。まあいい。私はふところからメディア端末を取りだし、男の指定した口座に五十万を振り込んでやった。残高がごっそり減ったことに想像以上のショックを受けている私がいる。

 男は約束どおり、依頼主だという「横島奈心」の所有ビルを教えてくれた。が、そこに本人がいるかどうかは保証しない、との話だった。神出鬼没な女なんだ、と男は弁解するように言った。

「住所はそこで間違いない。行ってみれば分かると思うが、おれは嘘を吐いてない。それだけは念を押しておく」

「わかった」

「じゃ、ま。そういうことで。今日はおいとまさせてもらうわ。ちょいとゆびが痛い」

 掲げられた男の手は血だらけだ。足元に視線を落とす。噛みちぎられたゆびの先端が転がっている。私が吐きだしたものだ。

 ゆびを拾わずに男はこちらに背をむけ、踵をかえした。

「忘れものだぞ」

 私は呼び止め、男に近寄る。

 振り向いた男の首元に、ナイフを突き刺す。

 抜かずにそのまま押し倒す。ナイフを回して、肉を抉ることも忘れない。

 痙攣する男の身体が、静かになるまで私はナイフの柄をめいいっぱいにつかんでいる。

 傷口から血がたぷんと溢れでる。融けたチョコレイトのようだ。ぷつぷつと黒い気泡が浮かびはじめる。

 いつ見てもふしぎだ。死んだ瞬間、人間はまるで人形のような静けさを宿す。当りまえだが、まるで生気がない。やはり、死んだら人は、人ではない何かになるらしい。

 声もなく私は性的快感の絶頂に達する。ぞわぞわと股の奥から這い上がってくる痺れが、全身へと広がり、脳髄まで伝播する。なぜだか今日はあまり濡れておらず、どこか中途半端な余韻が残った。へんなの、と思うが、下着を替えずに済むのでよしとする。

 もういいだろう。男の喉元からナイフを引きぬく。心臓の止まった屍からは、血が噴きだすこともない。

 動かなくなった男を見下ろし、私は思う。

 殺人代行業。

 世のなかにはいろんな職業があるものだ。


      (2)

 お金を稼げるわけではない。誰から依頼されるわけでもなく、私は人を殺す。

 理由は、ただ、殺したいからだ。

 なぜ多くの人間が人を殺さないかについて、頭を悩ませていた時期がある。初めての殺人から半年ほど経ったころの話だ。

 食事を貪るような感覚で私は、人を殺していた。それはいまも変わらないのだが、あのころの私はまだ殺人に不慣れで、手際がわるかった。殺すまでのあいだに、相手に逃げまどわれたり、もがかれたりしたものだった。

 そんなとき、私へ向けて命乞いとも説教とも判らない言葉を投げつけてくる者が稀にいた。

「なんでこんなことをするんだ」

 目を剥いてそう詰問してくる者たちは一様に、理解できないんですけどホントに、と私を蔑むような言い方をした。その都度私は、なぜ生きているのか、と根本的な命題を突きつけられたような戸惑いを覚えた。

「殺したくたって、普通は殺さないんだぞ。なにか理由があるんだろ」

 ないならオレを殺すのはよしてくれ、とでも言いたげな彼らの言葉に、私はずいぶんと衝撃を受けたものだった。

 なるほど。ふつうは殺したくても殺さないのか。なら私はふつうではないのかもしれない。そう考えたらすこし哀しくなった。

「じゃあ、ふつうじゃなくていいです」

 私はふつうであるよりも、じぶんに素直であることを選んだ。

 骨に当ててしまい刃零れしてしまったナイフを研ぎながら、それでも私はくよくよしたものだ。日増しに彼らの言葉は私の裡に、しこりのようなもどかしさを植えつけていった。

 なぜみんなは人を殺さないのか。私は答が欲しくなった。

「あなたたちは虫を殺すでしょ? でも人間はダメだって言う。どうして?」

 納得のいく答を返してくれる者がでるまで、私は、チョウチョが花から花へと飛び移るみたいに、人から人へと殺して歩いた。

 多くの者たちは、一様にそれらしい答を口にしてはくれたが、私を唸らせるほどのものではなかった。

 法律や社会秩序などを理由に、殺人はいけないことだと謳う者がわりと多かったが、それは私を納得させるに及ぶほど説得力のある答ではなかった。

 法律で殺人が許容されたなら、社会秩序が崩れなければ、人を殺してもよいのだろうか。

 答は、イエスだからだ。

 この国では死刑が認められている。つまり、例外的にであるにせよ、法律で殺人が許容されている。

 本質的に、殺人は絶対悪ではない。彼らの主張は、そういった結論になる。

 ならば私のしていることは、彼らの言葉で言えば、必要悪だ。

 それを否定したいというのなら、彼らもまた私を殺せばいい。

 自分たちの認める厳罰(必要悪)で、悪(私)を裁けばいい。

 私も私で、彼らに諭されてからというもの、認識を改めている。

 殺人は、基本的にいけないことだったのだ、とそのころ私は知ったのだ。社会のルールにそうと規定されている。それは私も納得だ。

 しかし、ルールとは護るためにあるのではない。破る者のためにあるのだ。

 破ったとき、ペナルティを科すために、ルールは設けられている。

 そこには、ルールを守る自由も、破る自由も認められている。

 ルールを破ったときに科せられる罰を受ける覚悟のある者は、ルールを破ってもよいのだ。

 おそらく私が捕まれば、とんとんびょうしで死刑判決が下されるだろう。もしかしたら、死刑判決のでる前に、誰かしらから殺されるかもしれない。それほど私の重ねてきた殺人は、その場まかせのきまぐれだ。老若男女分け隔てなく殺してきたし、女、子どもに至っては人形遊びの感覚だ。ヒステリックに泣き喚く女や、「イタイッ、イタイッ、イタイッ」としか叫ばなくなる子どもたちを、「だいじょうぶだよ。いいこいいこ。もうすぐ死ぬんだから痛くないよ。安心して」と宥めながら殺すのは、本当に気持ちがいい。

 もちろん、いまのところ私は死刑になってあげるつもりはないし、捕まる予定もない。そもそも、私の重ねてきた殺人が、連続殺人だと気づいている者がいるのかも疑わしい。遺体そのものが発見されておらず、殺人が起きていること自体が露呈していない可能性だってある。

 いずれにせよ、私の答としては、殺人は善いことでも悪いことでもない。しょせんは、自分たちの都合のいい暮らしをしたいがために、殺人はいけないことだ、とされているにすぎないのだ。

 自分たちの生命が脅かされれば、誰もが殺人を必要悪として許容するだろうし、現に許容している。

 私を許容しているし、必要悪を受容している。

 だが、殺人は殺人だ。行為そのものと、その過程や背景はあまり重要ではないのではないか、と私はふしぎでならない。

 命の尊さを説いた者もいたが、てんでお話にならない。いずれ消えると定められたものが尊いだなんて、そんなのは生きている者のエゴだ。自分もまた尊い存在だと誇示したいがための詭弁にすぎない。いずれ消え去るからこそ尊いという考え方もできなくはないが、だとすれば人間の命だけが尊いというのは、ちとおかしい。命は尊いわけではない。尊い、と思い込みたいだけだ。

 つまりはみな、「本当に殺したい者がいない」のだ。

 悪いことだからしないのではない。それほどしたいことではないのだ。

 殺人という行為が。

 なぜこんなことをするのだ、と私を咎める者は未だにあとを絶たない。

 ふつうは理由もなく殺さないんだぞ、と説教を垂れる者も、稀にではあるが、やはりいる。

 むかしとちがっていまは、そうした彼らに対し、殺してしまう前に私は面と向かってこう言うことに決めている。

「理由ならあるよ。だって、満たされるじゃない」


      (3)

 男の教えてくれた住所まで来てみた。繁華街の駅前だ。ネオンが目に痛く、多くの人で賑わっている。

 車道を挟んだ両側には、巨人みたいなビルが軒並みに連なっている。外壁に統一感がなく、色鮮やかなモザイクみたいだ。ここの一画に、レンガ造りのビルがある。瀟洒な外観で、住所はここの五階を示している。

 しかしこのビルに私を殺せとの依頼をした者がいるのだろうか。甚だ疑問だ。

 つよきこどもの家。

 看板にはそう文字が並んでいる。雰囲気から、孤児院だろう、と推察する。幼稚園や一時託児所である可能性もあるが、子どもの親、つまり客を出迎える、といった雰囲気がいっさいない。なんの考えもなくエレベータに乗りこみ、建物に足を踏み入れた私が抱いた所感はそのようなものだった。

 五階フロアのすべてが「つよきこどもの家」らしい。どこか、山の宿を彷彿とさせる内装だ。ゆかや壁に、丸太を敷き詰めたような造りである。

 受け付けはなく、出迎えの人間もない。呼び鈴さえなかった。これでは突然の来訪者にどうやって応対するもつもりなのか。端から応対するつもりがない、と捉えられてもこれでは仕方あるまい。

 子どもたちの声が、ちいさく聞こえている。壁越しでなければ相当にやかましいにちがいない、と判る程度に重複された声だ。十人以上はいそうだ。

 子どもたちの姿は見えない。

 フロントを見渡すが、ここにひと気はない。

 扉も一つだけ。きっと奥に、子どもたちがいるのだろう。

 かってに扉を開けて、覗いてみる。

 通路が一本、奥へとつづいている。両脇に扉がいくつも並んでおり、学校のような造りだな、と行ったこともないくせに小学校を連想する。映画で観たことくらいはある。

 各部屋から、それぞれに子どもたちのわいわいがやがやとした喧騒が漏れている。大河に合流する小川のように、通路に反響している。

 職員はなにをしているのやら。

 叱り声の一つもない。いっしょに騒いでいるならともかく、そういうわけでもないだろう。この騒ぎ具合は、自由奔放そのものだ。放置された子どもたちの国家が、部屋ごとに創立されている。そのうち戦争が勃発するのでは、と思わせる溌剌さがある。

 と、ふいに、

「おねぇちゃん、だぁれ」

 足元から声がした。

 ぞっ、と血の気が引く。遅れて、心臓が跳ねあがる。

 反射的に扉を閉め、大きく飛び退く。体温がカッと上昇する。

 声の主は、扉の向こうだ。

 腰を低く保ったまま、扉を睨み据える。

 背後にも意識を配る。エレベータが開く様子は今のところない。

 気配がなかった。声をかけられるまで、そばに人がいることに気づかなかった。

 私が気取れなかったというのは、それそのものがすでに異常だ。

 扉に隙間が空いていく。

 ゆっくりと開いていく。

 神経を研ぎ澄まし、対象を補足する。

 幼い女児だ。

 ドアノブにしがみつくような感じで背伸びをしている。

 おいしょ、と手を離し、扉を完全に開け放つ。こちらにまぁるい、おめんめを向けてくる。

 片手には、玩具だろうか――人形のようなものを握りしめている。

 あれはなんだろう、と目を凝らそうとすると、

「おねぇちゃん、だぁれ」

 女児がしゃべった。猿が口をきいたかのようなおどろきに見舞われる。が、そりゃしゃべれるよな、と抱いた驚愕を打ち消す。

 女児の声は、さきほど私の足元から勃然と聞こえてきた声と同じだ。緊張が解ける。

 私は腰をあげ、姿勢を楽にした。上から女児を見下ろす。彼女もこちらを見上げている。あごをつんとあげている様は、しょうじきかわいらしい。今すぐにでも、ぎゅうと抱きしめ、背骨ごと砕きたくなる。

「お嬢ちゃんは、ここの子かな」

 おねぇちゃん、だぁれ、という質問に対して反問する。

「ミウ? ミウはねえ」女児の名はミウというらしい。小首をかしげ、口元にゆびをあてがい、「ミウ、ここのコなのかなぁ」ときょとんとする。「よくわかあない。ママいないもん、ミウ」

 ははあん、なるほど。

 つよき子どもの家、ここはやはり孤児院か。託児所に比べ、子どもたちへの規律が緩いのもそのせいかもしれない。ここにあるのは職務としての責任ではない。親としての責任にちかしいものだ。いや、だからこそ責任はないのかもしれない。

「先生はどこかな。おねえさん、ちょっとお話ししたいんだけど」

 尋ねると、ミウは黙った。こてん、と首を曲げる。よくわかんない、といった表情。それからモジモジとゆびを絡ませはじめる。どうしていいのかわかんない、といった仕草だ。

「えっとお」私は屈み、ミウと視線の高さを揃える。覗きこむようにしながら、「大人のひとはいないのかな。呼んできてくれるかな? それともおねえさん、かってに入っちゃうけど、泣かないでね」

 なんだか泣かれそうな気配があったので、先手を打っておく。

「ミウ、なかあいよ?」

「そうだね。ミウちゃん、つよそうだもんね」

 褒めると、ぱっと笑顔になる。うん、と元気のよいお返事。

 ああ。保育士というのもいいな。

 人殺しより、よほど職業として誇れる。

 何かを誇りたいと思っているわけではないが、子どもたちに囲まれて日々をすごしていくじぶんの姿を想像してみると案外に、こういう未来もあり得たのかもな、とまんざらでもなく思え、しかしすぐに、いやいやあり得ないだろ、と否定する。

 目のまえに大好物が並んでいるのにそれを食さないでいられるほど、私の忍耐は強靭ではない。


      (4)

 幼児は無邪気だ。殺意という感情からもっとも遠い人間であるだろう。赤子もまた遠いと評価できるが、しかし赤子が人間と呼べるかというと、いささか疑問の余地が残る。

 声をかけられるまで接近者の気配を感じとれなかったのも、近づいてきた人物が人畜無害の女児だったからこそだ。言い訳がましく私はそうと考え、失態とも油断ともつかない致命的な「見逃し」――他者の接近――すなわちミウの存在に気づけなかったことを肯定的に受けとめる。

「おじゃましまーす」

 かってに扉をくぐり、通路へと足を踏み入れる。ミウも私のあとにテトテト付いてくる。こちらの裾を片手でつかんで離さない。もう一方の手には玩具らしきものが握られている。ちいさな模型のようだ。

 くっついて歩かれても邪魔というほどではないし、ミウはかわいらしいから、強いて振り払うことをせずにそのままにしておく。いざとなれば人質にもなるので、私に損はない。

 通路を進みながら、どの扉を開けようか、と目星をつける。

 悩んでいるうちに壁に突きあたる。通路はここで終わりだ。扉がある。ほかとは趣がちがっている。どこか無機質で、事務室然としている。

 ははあん。

 私は目ざとく察する。

 さてはここが院長室だな。つよき子どもの家の、大黒柱のおわす部屋だ。足元ではミウがこちらを興味深げに見上げている。私は口元に人差しゆびを当てがい、シィと鳴らす。ミウもまたこちらの真似をして、シィとやった。愉快気だ。

 今回は律義に扉をノックする。

 失礼します、の一言をつぶやき、扉を開ける。

 明かりが点いていた。書斎のようだ。まず目に飛びこんできたのが、豪勢なデスクだ。社長室にでもありそうな、無駄に仰々しいデカブツで、書類が積まれており、ぱっと見では散らかってみえる。

 視軸をずらし、部屋全体へと合わせると、本棚には書物が隙間なく収納されており、寸分の狂いもなく飾られた絵画が目に入った。絨毯や置物も、部屋に対してすべて納まりよく置かれている。ここの主はよほど几帳面だ、とひと目でわかるほどのきっちり具合だ。

 家具に比べて、部屋自体はそれほどひろくない。デスクの手前に客を迎えるソファがありそうなものだが、しかしそれを置いてしまうと窮屈になってしまう程度に、狭いとも言えた。

 人の姿はない。

 しかし、気配がある。息を押し殺しているような緊張感が伝わってくる。

 デスクの後ろだ。誰かいる。

 無造作に歩を進め、デスクの裏を覗きこむ。

 脅かすつもりはなかったが、デスクの角に足をぶつけてしまい、意図せずに大きな音が鳴った。

 すると途端に、

「ごめんなさい、ごめんなさい。悪気はないんです、なにもいじってません、ごめんなさい、ただ、捜してただけなんです、心配だっただけで、ああ……ほんとうにもうしわけございませんでした、もうかってに入ったりしませんので」

 赦してくださいおねがいします、と繰りかえす少女がそこにうずくまっていた。ひざに頭を埋め、身体を強張らせている。

「おい」

 声を掛け、肩に手を置く。

 少女は、大きく身体を弾ませ、さらに固く丸まった。

「おい。話を聞きたい。安心しろ。私は、おまえの〝何か〟じゃない。ぶったり、噛んだり、痛いことはしないよ」たぶん、まだ、と小声で付け足す。

 少女はゆっくりと頭をあげた。

 あどけなさの薄れつつある、まさしく少女だった。頬は紅潮し、目にはぷっくりと涙を湛えている。今にも溢れだしそうだな、と見詰めていると、つつーと頬に伝った。張りつめた緊張がほどけたらしい。少女の身体が弛緩していく。よほどこわがっていたようだ、と判る。同時に、私に対して警戒はしないのだな、と、どこか拍子抜けにも似た所感を覚えた。

 まあ、面倒はないほうがいい。楽なのは嫌いじゃない。


      (5)

 少女の名は、小(お)井内(いない)フローといった。

 歳は十五、六といったところだろう。

 名前に劣らず日本人離れした目鼻立ちをしている。どこの国との交配種(ハーフ)なのか、と好奇心に駆られたが、訊いてみたところで本人も知らない可能性のほうが高いと判断し、ここは触れずにおこう、とフローへの興味を心に留める。

「私は、あれだ。調査代理人だ」なんとなくそれっぽい肩書きを口にしてみる。「ここの運営者を調査している」部屋を見渡しつつ、「今日は逢えないのかな」と、経営者たる院長と面会できないだろうか、どうなのだろうか、とお伺いをたてる。

 少女は毅然としていた。先刻までゆかにちっこくなって怯えていたなんてうそのようだ。まるで別人のように、凛とした佇まいで、

「知らないんです」と言った。「二か月くらい前からです。院長先生、帰ってこられなくて」

「二か月って」随分と前じゃないか、と不審に思う。「帰ってこないってのは困るだろ。捜索願いとかは? 誰もださなかったのか」

「もともとあまりここでお過ごしになられない方でしたので……もしかしたらただの旅行かもって。わたしが変に騒いで、おおごとにしてしまったら、それこそお困りになられるのは院長先生ですし……でも、これだけ長期間留守にされるというのはさすがにおかしいなって。だから」

 だから、入るな、と言いつけられていた院長室に入り穿鑿してみた。そういう顛末なのだろう。

 ここは確かに孤児院であるらしいが、しかし私の想像していた、あたたかな空間というわけではなさそうだ。入るな、と言われていた部屋に入ったからといって、あれだけ怯えるというのは尋常ではない。禁止を守れない者には何かよほどおそろしい罰が与えられていたのだろう、と想像する。

 するとどうだろう。途端に胸糞わるくなった。子どもを虐待するなんてひどいやつめ、と義憤が湧いた。

 人殺しのくせに、とじぶんでも笑いたくなる。子どもだって殺すくせに、と。

「ほかの大人でもいいよ」私は話を逸らす。「いるでしょ、職員さん。連れて来てくれないかな」

「ここに職員さんはいません」

「いないわけないでしょうよ」うそを言ったらいけないよ、とおどけた調子で言う。「じゃあ、誰が世話をしているんだ。あの、」

 ガキどもの、と口を衝きそうになって、いそいで言い改める。「あの、子どもたちの」

 つまりが、きみたちの。

 フローは唇を噛みしめ、それから申しわけなさそうに、

「わたしです」と呟くのだった。

 聞こえていたが私は敢えて聞きかえす。

「ごめん。よく聞こえなかった」耳に手を当て、「なんだって?」

「わたしです。あのコたちのお世話はすべて、わたしがしています」

 少女はまっすぐとこちらを見据えた。どこか反抗的なその目には、わたしじゃいけないですか、わたしじゃダメですか、といった責任感が満ちていた。

「なるほど。えらいじゃないか」素直にそう思う。「つまりここは、違法孤児院なわけだ」

 零すと、フローがたじろいだ。痛いところを突かれながらも、やせ我慢をするような顔を浮かべる。すかさず彼女は、

「待ってください」と声を張りあげる。「いま営業禁止にされたら、ここにいるみんなはどうなるんですか。わたしたち、また家族を失くしちゃうんですか。バラバラにされちゃうんですか」

 お願いします、もう少し待ってください、と縋りついてくる。

 私は照れた。ものすごく。

「わかったわかった。ごめんごめん」彼女の背中をさすり、宥める。「すこし落ち着こう。そうだね。私も、ちょっと落ち着くから。いっしょに落ち着こう」

 ここに至って私は気づいた。フローの容姿は、実にわたし好みだ。

 端的に、フローの外見は端正だった。

 人形みたいに特徴のない顔をしていたので、今の今までピンとこなかったが、なるほど、よくよく見れば顔がちいさく、それでいておめめがぱっちりと大きい。瞳は大粒のブドウのようにつぶらだ。すじの通った鼻梁と、果実がごとく充血した唇は、定規で測ったかのようにバランスよく配置されている。どうやら人間の顔というやつは端正にすぎると逆に印象が薄くなってしまうものらしい。

 そういえば、と私はミウを思いだす。

 彼女もまたかわいらしい容貌をしている。院長室に入った途端に、チロチロと部屋を駆けまわり、デスクにぶつかって資料やら置物やらを散らばしていたそそっかしい幼子ではあるが、十年後にはフローと同じくらいの美少女になるだろうな、といった体が容易に窺えるかんばせをしていた。今は私の背中でおねんねしている。片手に握っていた玩具らしき物体も、今はなく、どこかに落としてしまったようだ。それもまたかわいらしい。

 めそめそと落ち込んでしまったフローの頭を撫で、よしよし、と宥めるフリをしながら私は、今すぐにもこのコたちをズタズタに引き裂いてやりたい衝動に駆られた。

 いやいやいかんよ私。

 まだ尚早だ、とうちなるじぶんと葛藤する。

 ここでフローを殺すのはかんたんだ。大人を殺すのさえおちゃのこさいさいの私にとって、小娘にもならない少女を殺傷するというのは、ホットケーキを焼くよりも手間がかからないうえに、ホットケーキを食すよりも私を満足させる。フローのおまけにミウを殺してもいい。デザートにデザートを食すような贅沢を楽しめるのだから、私にとって不足はない。

 しかし、ひとつ問題がある。

 目的達成が困難になるのだ。

 私自身、なぜにここへ来たのかを忘れかけていたが、本来の目的は、私を殺そうとした相手を八つ裂きにすることだ。

 つまりが、ここの運営者であるところの、横島奈心を私はこの手で殺したい。今ここでフローたちを殺せば、横島奈心の周囲には、警察がうろちょろすることになる。そうなれば当分のあいだは手がだしにくくなる。なりにくくなるだけで、殺そうと思えばできるだろう、という考えもできなくはないが、今は考えたくなかった。

 横島奈心が、ここの運営者である事実は、ミウの散らばした書類に目を通したことですでに確認している。元はデスクのうえに載せられていたもので、契約書なのか、請求書なのか、とにかくいくつかの書類に、横島奈心のサインと押印がされていた。ハンコ自体も、デスクのうえに置かれたままだ。ただ、ざんねんなことに部屋のどこにも彼女の姿を確認できそうな写真は飾られていなかった。

「このリモコンはなんだ?」ふと気になって、手に取る。デスクのうえにあったものだが、この部屋にリモコンで操作するような電子機器は見当たらない。

「あ、ダメです。かってに触らないでください」フローが取り乱し、私からリモコンを取り上げようとする。するり、するり、と避けながら私は、「なんだ。そんなに重要なものなのか」

 リモコンをよくよく観察してみる。たしかに一般的なリモコンよりも質素で、三つしかボタンが付いていない。これだけ単純なつくりであるとついつい押してしまいたくなる。

「あぁ、ダメですってばぁ」ついにフローが拗ねた。ように私にはみえた。地団太を踏むものだから、さすがの私も噴きださずにはいられない。

「どうして笑うんですか」心外です、と言いたげにフローは私からリモコンをふんだくる。私は無抵抗にそれを渡した。

 かってに室内のものをいじくりまわしてほしくないフローの気持ちは手に取るように察せられた。あとでこの部屋の主である院長――すなわち横島奈心に、部屋の異変を気取られて、「かってに入ったのは誰だぁ。わるい子はいねがぁ」と折檻されてしまうことを危惧しているのだ。かわいいじゃないか。私は今いちどフローへの評価をつけ直す。むろん、良いほうにだ。

 ふと見遣ると、こんどはデスクの置物に目がいった。サルの置物だ。気のせいだろうか、さっきまではなかったように思う。親指大の大きさで、ちいさな両手で頭を抱えるように耳を塞いでいる。見ざる、聞かざる、言わざる。三猿のうちの一匹だ。ほかの仲間はどこへ行った、と私はゆびで弾いて転がした。

 ふと思い立ち、

「ここの院長は、横島奈心だったよな」

 念のためフローにも確認する。

「はい。奈心さんが、ここの院長であり、わたしたちのお母さんです」

 棒読みもここまでくると不自然に聞こえないからふしぎだ。

 私は愉快に思い、他方ではすこし哀しくもあった。

 なぜ愉快に思ってしまうのか。

 家族に、母親に恵まれなかったこのコたちを見て、私はなぜにこんなにも……。

 そんなじぶんを、私は哀しく思った。


      (6)

 つよき子どもの家には、総勢で十九名の子どもたちがいるそうだ。

 三人ずつ部屋を割り当てられており、六つの部屋に十八人。そして、お世話役のフローにのみ、特別に個室が設けられているらしい。ざっと見て、部屋数にはもっと余裕がある。一人一部屋はムリだとしても、二人一部屋であれば充分に配分できるだろう。

 何気なくそのような疑問をフローへ呈すると、彼女は、「そうですね」と首肯した。

「部屋数はあるのですが……ただ」と、そこで遠い目をする。「ここにいる子どもたちの大半が、わたしよりも年下の子たちです。ミウくらいの子どもが、六人もいます。そうなると、どうしても年の大きな子が面倒を看なくてはならなくなります。ですから、一人の年長者に、二人の子を看てもらうように、部屋割りがされているんです」

 フローの説明は実に私を唸らせるものだった。なるほど。えらいな、と。

 しかし、私の感心をよそにフローは、

「でも、このまま私たちが成長したとして、それであのコたちが一人部屋を持てるようになるとは、とても……」

 思えないのだろう。あとに続くだろう言葉を私は脳裡で補った。

「そっか」私は敢えてそっけなく言った。フローもそこで言葉を重ねたりはしなかった。


      (7)

 横島奈心についての情報を私は求めていた。可能であれば、もっと院長室を調べたかった。ただ、フローたちの事情を鑑みれば、鬼の巣を荒らすような真似は避けたほうがよいように思え、私はさらなる部屋の穿鑿を遠慮した。

 遠慮しておきながら、こんなの私らしくない、とじぶんを訝しがったりもする。

 目的遂行のために必要な近道を自ら辞するなんて。

 しかも赤の他人のために、だ。

 通例であれば私はここで満足する分だけ子どもたちを殺していたはずだ。

 最初に殺すべきは、群れの長であるフロー。そのあとに、もっともか弱いモノ――ミウなどは手ごろだろう――を殺し、子ヒツジの群れに致命的な絶望を与える。これで子どもたちは、抗う意思を喪失する。せめて自分の番が回ってきませんように、と祈るだけの、犠牲者になりさがる。

 だが今回私は、今すぐに彼女たちを殺すことを放棄していた。

 考える余地もなく、「今はまだ様子を見よう」と消極的な私が意思決定の主導権を握っている。ただ、その消極的な私も、フローたちを庇護しようだなんて思っているわけではない。

 私はたぶん、フローたちに私自身を重ねみているだけなのだ。

 つよき子どもの家の、子どもたちに。

 かつての私を。

 あどけない少女だったころの私を。

 じぶんの面影を、私は子どもたちに重ねみている。

 ここでフローたちを殺すことはすなわち、過去の私を見殺しにするのと同じだった。

 私は〝わたし〟を否定するのか?

 私は〝わたし〟を看過するのか?

 殺す順番を間違ってはいないか。

 私は〝わたし〟を殺してはいけない。フローたちは〝わたし〟だ。かつての、あどけない私なのだ。彼女たちから私の面影を――〝わたし〟を――消し去らなければ、私は彼女たちを殺すことも、放置することもできない。私は、〝わたし〟を見逃すことはできないのだから。

 やるべきことは決まっている。

 やはり、横島奈心は殺さねばならない。私は私のために、なんの呵責も躊躇もなくフローたちを殺すことのできるように、フローたちからかつての私を払拭すべく、私は横島奈心をこの手で八つ裂きにする。

 ――単純な女だね、きみは。

 キザな精神科医の声が聞こえた気がした。


      (8)

 つよき子どもの家から、六つばかり駅を越えた町に、その診療所はひっそりと建っている。壁には蔓が根を張っているし、見た目も、けっしてここに掛かりたいと思える外観ではない。だのに訪れる患者が少なくないのは、経営者たる精神科医が、なんぴとであろうとも診療するという、病的なまでの平等主義者であるためだ。

 精神科医のくせに、内科から外科、果ては歯科までと幅広く治療してくれるものだから、自然と私のようなアウトローが、顧客として定着する。

 だが良心的とは言い難い。

 治療費が法外なのだ。こちらの弱みに付け込むような値段設定にはしょうじき辟易する。誰だって文句のひとつも垂れたくなるだろうが、最終的にはみなおとなしく支払う。最後の生命線とも呼べる診療所を利用できなくなるのは、アウトローといえども避けたいと考えるのが自然な発想であるらしい。

 しかし、アウトローにはこうした合理的思考をはたらかせられない者も少なくない。目のまえの自利にしか目がいかないために、治療費を踏み倒そうと牙を剥く者たちが稀にでる。

 そうしたとき私は、バカどもの虫歯だらけの牙から、精神科医を護ってやるために、この肌荒れのないキレイな手を、思う存分に振るうのだ。料理をするわけでもないのに、ナイフを握って。

 治療費をツケにしてもらっている私は、そうして、キザな精神科医への借金をすこしずつ清算している。

 いわば診療所に湧いた害虫の駆除であり、診療所を護る番犬である。

 いつ主人の喉元に噛みついてやろうか、と私は日々悶々としている。


      (9)

「呼んだ覚えはないのだけれど、もしやしてまた治療が必要になっちゃった?」

 それともぼくに会いたくなっちゃったのかな、とヤツはこちらに背を向けたまま、減らず口を叩く。監視カメラの映像で確認していたのだろう、こちらが声をかける前から私の来院に気づいている様子だ。気配を殺していたというのに、おもしろくない。

 相手をするだけ時間の無駄なので、単刀直入に用件を言う。

「今日は情報が欲しくてな」

 扉を閉めないままで、壁に寄りかかる。

 眼鏡を外しながらヤツは椅子を回転させた。遠心力に沿ってふわりと白衣の裾が膨らむ。こちらに向きなおってからヤツは、

「お金あるの?」

 口元を斜めにする。家出少女に向かって、帰る場所はあるのかな、と質問するようないやらしい響きがある。「払えないようならツケておくこともできるけれど、前回の分がチャラになっちゃうよ」

「それでいい」安くはないが、害虫駆除一回分がタダ働きなら、こいつの提示する対価としてはお得だ。

「もちろん、情報によっては追加請求させてもらうけれど」

「そりゃムリだ。貧乏なの知ってんだろ」

「ん。ならツケとくよ」

「それはいいが」というかだな、と私は思いだしついでに、「いつまでおまえの番犬やってなきゃならんのだ」ここぞとばかりに不平を鳴らす。「そろそろ首輪が外れてもいいころあいだろ」法外な借金をしている身分とはいえ、こちらもそれ相応の働きをしてきたつもりだ。

 駆除対象の難易度によって額は変わるが、基本的には一人殺すごとに私の懐には百万円が入ってくる契約になっている。実際のところはヒャクマンエンなどという大金を目にしたことなど一度もない。得た額のほとんどが手元に入る前に、ツケの清算にまわされるためだ。

 害虫駆除はすでに両手で数えられないくらいに完遂している。害虫駆除は巣ごとが鉄則である。禍根を残さぬようにと根絶やしにするため、大抵の場合、一回につき数人単位での殺人を熟すことになる。借金に利子が付いたとしたって、全額返済にちかづいていてもおかしくはない。

「もしかしておまえ、担いでないか、私を」

「担ぐ? キョウちゃんを? ぼくがかい?」ないない、とヤツは両手をヒラヒラ泳がせる。いちいち反応が大袈裟だ。「ぼくは見たとおりにね、責任感のつよい人間だよ。口約束でだって、いちど交わした契約は反故にしたりしないもの。それはキョウちゃんだって知ってるでしょ」

「その呼び方やめろ。何度も言わすな」

 ヤツは肩を竦める。了解したのか、かるく流されたのか。いちいち仕草が鼻につく。デスクを漁りながらヤツは、

「うん。で? うっちゃんはなにを知りたいのかな」

「うっちゃんって言うな」

「キョウちゃんよりはよくない?」

 呼びやすいし、とメディア端末を手にとった。流行りのメディア端末で、別段珍しいものではない。が、見た目が平凡だからといって、中身までもが平凡であるとは限らない。どんな場合でも、外見と中身の相違については疑ってかかったほうが身のためだ。ご多聞に漏れず、ヤツのそれもまた、ただの情報端末ではないようだった。

 現に、

「横島奈心という人物について知りたい」

 要求を伝えると、

「えっと。ちょっと待ってね」

 メディア端末をいじりヤツは、しばしディスプレイとにらめっこをする。ややあってから、「へえ」と詠嘆を漏らし、「彼女がどうしたの?」とさも知り合いかのように訊きかえしてくる。

「教える謂れはない。おまえはただ情報をくれればいい。分かったんだろ。どこの誰なんだ、そいつ」

 ひざを抱え、椅子にちいさく縮こまるとヤツは、机を蹴って椅子ごとくるりと回転した。そうして情報の羅列を口にする。レコードを回したから音楽が流れるみたいな流暢な調子で、

「横島奈心、五十六歳。性別は女で、物理学専攻の研究者だ。ああいや、二〇年ほど前に遺伝子工学へ鞍替えしたみたいだね。これはまたずいぶんと思いきった路線変更をしたものだなあ。主に、自然治癒に関する研究っぽいんだけれど、うーん。見た感じじゃ、これといった成果をあげてはいないみたいだ。路線変更以前は、製薬会社に勤めて研究をしていたっぽい。あ、でも、これもまた二〇年前に辞しておられるね。ふんふん。で、それ以降は、独自に研究を進めているみたいなんだけれど、ん? ああ、なるほど。ぼくが知らなかったのも無理はないか。どうやら彼女、研究者としてはすでに廃業しているらしい。十二年前からは、親と暮らすことのできない子どもたちを集めて、孤児院を開いているそうだよ、立派じゃないか。ああ、なんだ。ここからもけっこう近いね、その孤児院」

 ヤツは地図のデータをこちらのメディア端末に飛ばした。が、それは別にいらない。私はそこから直接ここへ来たのだから。

 もっと情報はないのか、と非難するようにせがむ。

「ないようで、あるかなあ」ヤツは曖昧な言い方をした。「うん。いくつか、気になる噂があるね」

「噂? なにそれ」

 椅子の回転を止めるとヤツはディスプレイから顔をあげた。「ここからは、追加料金だよ。さて、どうする?」挑発的な顔だ。

「いいから言え」

「前々回分もチャラということで」ヤツはデスクを蹴り、ふたたび椅子を回転させる。「横島奈心。彼女はどうやら人体実験に手をだしていたようだね」ひゅー、と吹けもしない口笛を吹く。「医療の分野に目覚ましい貢献を期待された研究だったようだけれど、どうやら、やっていたことは非人道的なものだったらしい。末期がん患者を被験者として、人間相手に遺伝子組み換え――ゲノム編集の実験を行っていたようだよ。むろん、国の認可は得ていない。得ていたって問題だけれどね。学会のデータバンクに彼女の研究資料がなかったのも当然ってわけだ。発表できる内容どころか、学会が受理できる内容ですらなかったんだから。とはいっても、そもそもが安楽死を謳って被験者を募っていたみたいだから、横島奈心本人も端から公にするつもりはなかったんじゃないかなあ」

 よく解らない話だ。横島奈心の来歴はあとでデータを送ってもらって目を通すとして、今は要点だけを把握しておきたい。

「で、なんの研究だったんだ」と訊く。「横島奈心がやってたって研究は」

「さっきも言ったけれど、自然治癒に関する研究だよ。んー。ざっと資料を眺めてみるに、おそらく細胞活性と新陳代謝の加速――つまりが、老化せずに傷もすぐに塞がってしまうような身体の研究だね」

「それは、なんだ」まるで、「不老不死だな」

 言うと、ヤツは笑った。笑っておきながら、

「なるほど。言い得て妙だよ。さすがうっちゃんだね」

 褒めているのか、貶しているのか判らない言葉を発した。


      (10)

「実際には、不老不死というのは、現実問題、実現不可能な技術なんだ。新規に肉体を用意して、そっちに脳を移植する。そうする以外に、人間が不老不死を実現するなんてことは不可能でね。仮にこの方法が確立されたとしても、それはけっして完全な不老不死ではない。脳が傷付いたらお終いだからね。そもそも人間の遺伝子にはどうしたって、『個としての死』がシステムとして組み込まれている。細胞分裂の回数も、免疫系の生産効率もすべて、遺伝子という設計図に則って、ゆるやかに『死』へと近づいていく。これに抗うというのは、もう、人間ではなくなる以外に道はない。新たな生命をイチから造りあげるくらいに、不老不死というのは、人類にとって到達不可能な構造なんだよね。だから、横島奈心が行っていた研究というのは、おそらく、不老不死の研究というよりかは、画期的な延命措置としての人体改造、と捉えたほうが幾分も精確なんじゃないかな」

 延命処置、と反芻する。

「そ。延命処置」

 ヤツはメディア端末をいじり、

「さっきも言ったけれど」と続ける。「彼女が製薬会社を辞めたのが、二〇年前、つまりが三十六歳のときだ。そしてここにある情報によれば、彼女には娘がいたそうだ」

「いたそうだ? 死んだのか」

「らしいね。一一年前に夭逝しちゃったみたい。享年十五歳って書いてあるから、横島奈心が二十六のときの子供だね」

「十五で死んだのか」

「十五で死んだのだ」ランは鸚鵡返しにして言った。

 きつく睨むと、咳払いをし、

「うん。十五歳で死んだらしい」と言い直す。「娘ちゃんは、二一年前の交通事故で、つまり五歳のときに植物状態になったきり目覚めなかったって、病症録(カルテ)には書いてある。事故から一〇年も昏睡状態だったそうだね。ふむふむ。夫のほうも死んじゃってるなあ。ああ、娘と同じ事故で、こっちは即死だって。あらら。ヨッチーってば、両親も早くに亡くしていたようだし、生涯二度目の天涯孤独ってわけだ」

 見ず知らずの精神科医に「ヨッチー」呼ばわりされるとは、横島奈心もかわいそうだ。

「それは分かったが、けっきょくおまえは何が言いたい」コイツの思わせぶりな口上には毎度のことながらイライラさせられる。

 うん、とヤツは机を蹴り、さらに椅子を回転させる。自身もくるくる回りながら、

「ヨッチーってさ、いったい何が目的だったのかなってね」気になるのさ、と要約した。「なんだかヨッチーの思考経路が見えないなあ、って話だよ」

「どういう意味だ」

 横島奈心の目的は、だから、不老不死もどきの研究ではないのか、と指摘する。

「それは目的じゃないよね。目的のために行動したら、結果的にそういった手段を取らざるを得なくなっただけのことでさ。たとえばぼくなんかは、こんな商売をしているのは、こうしていることでぼくにとって何らかの利益があるからだ。今は話の便宜上、『精神的な快楽を得られるから』としよう」

 うっちゃんと同じだね、といらんことを抜かす。

「無駄口叩くな。いいから続き、はやくしろ」

「うん。でだ。ぼくは『精神的快楽』を得るためにこうして、ふだんは他人をゴミがごとくに殺してしまうような人間たちを治療して、『ああぼくってばなんて優しい人間なのだろう』と悦に浸っているわけだ」

「浸っているのか?」なんだか本当にそういう動機で診療所を開いているような気がしてくる。

「たとえばだって言ったじゃないか」ヤツは気をわるくしたようだ。拗ねたように眉根を寄せる。「でだね」と語気をつよめ、「でだ。研究者というのは概ね、三つに分類することができるわけ」

 と、お得意の講釈を振りまきはじめる。

「一つ目は、『知的好奇心』を満たすために研究をしている者。研究者になる者の多くが、当初こそ、こうした動機によって研究者を志したのだろうね。こうした人物はまず、自身の研究が社会にどういった貢献を齎すのかを二の次に考えている。そもそも考えたりしていないかもね。研究さえできればそれでいい人種。

 で、二つ目。社会貢献をしたい者。これは言ってしまえば、偉人になりたい者だ。権威が欲しかったり、名声がほしかったり、純粋に多くの人間に感謝されたかったり。たいてい、結果をだせずに、プライドばかりが先行してしまうため、厭な研究者の典型になる。

 そして最後が、金のために働く者。要するに、完全に職業として割りきっている者だ。これはまず問題を起こすことがない。極めて真面目であり、そつがなく、助手として使うには適材だろうね。半面、大きな成果をあげることは期待できない。一つ目と二つ目の成れの果て、残りカス。そうした者である確立もまた高い」

「だから、おまえは何が言いたい」いい加減しびれがきれた。「さっさとまとめろ」

「うん。でね。横島奈心。ヨッチーは果たして、この三つのうちのどれなのか、をぼくは推量できないんだよ」

 しょうじきどうでもいい話題だったし、どれでもいい問題だった。「いいだろそんなことは。もしかしたら全てかもしれない」

 知的好奇心でも権威でも金でも、そんな他人の目的なんてどうだっていい。私が知りたいのは、横島奈心が何者で、今現在どこにいるのかだ。

「ああ。現在の居場所が知りたいのか。それならそうと最初に言ってくれよ」

 ひとが下手に頼んでいるのをいいことにコイツときたら、むくれやがる。ゆびの一本でも折ってやろうか、と本気で思う。実行しない私は、とてもえらい。

 ヤツはデスクに足を引っ掛けて、椅子の回転を止めた。あぐらを掻き、手元のメディア端末のディスプレイを操作する。さきほどとはちがい、こんどはすこし時間がかかった。しばらくして、「これはちょっとなあ」とこめかみを掻く。

「なんだ。分からないのか?」

「いや分かったんだけれどね」

 だったら何を言い渋る必要がある。「さっさと教えろ」

「うーん」ヤツは唇を窄める。まあいっか、と呟き、紙に書いて渡してくる。

 紙には住所が記されている。

「ヨッチーはそこに潜伏しているようだよ」

 メモの住所は、繁華街だ。つよき子どもの家からツーブロック離れただけの区画で、こんな近くにいるのならどうして、と不可解に思う。どうして横島奈心は、つよき子どもの家に戻らないのだろう。二か月もいったい何をしているのか。

 今しがたコイツの口にした、潜伏、という言葉も気にかかる。

 こちらが疑問で頭をもたげていると、

「気を付けたほうがいいかもよ」とヤツは言った。

 なにがだ?

 視線を向けることで先を促す。

「本来なら、個人の居場所を特定することは、さほど難しいことではないんだよ。こと、これだけGPS機能付きメディア端末が普及していればね」

 この説明はすでにヤツから聞かされている。個人情報は、企業の手によりすでに蒐集されている。登録や契約書という名目で、だ。

 そのため、企業のデータベースに侵入し、対象の個人情報を抜きとることはさほど難易度の高い作業ではない。ハッキングした際に、バックドアでも仕込めれば次からは手ごろに入手できるようになる。

 それでなくたって、そもそも個人というのは、あらゆる場所で情報を記録されている。

 戸籍をはじめとする、学歴や通院歴、盗難登録や、購買契約、搭乗履歴に宿泊名簿……個人情報はそこら中に散在している。個人情報が欲しければ、めぼしい場所にハッキングを仕掛ければよいだけの話だ。

 こうした個人情報を専門に集積し、非流通ルートで売買している輩も多いと聞いている。

 個人情報の流出なんてものは実際問題、一般人たる私らが実感している以上に有り触れた事象なのだ。発覚して問題視されているのは氷山の一角にすぎない。

 おそらくコイツは、入手した個人情報をもとに、横島奈心のメディア端末を突きとめ、GPS機能で追跡したのだろう。

「かんたんに割りだせたんだろ。なにが問題なんだ」私はやや非難するように言った。「これまでどおり、なんの問題もないだろ」

「いや。割りだせなかったんだよ」

「ん?」

「偽名を使用しているっぽくてね。ヨッチーがだよ? メディア端末は所持しているようなんだけれども、それは架空の人物のものでね。だから今回は位置探索に、『声紋認証システム』を利用しました」

「なんだそれ」

 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりにヤツは、

「指紋と同じように、人間の声も、固有の特徴を伴っているってのは、うっちゃんも知っているよね」と、さも常識であるかのように解説する。「つまりが、人間の発する波長によって、個人を特定できちゃうわけ」

「それは分かるが」しかし横島奈心の声なんて私は知らないぞ、と思う。こちらの疑問を見透かしたようにヤツは述べた。「通話履歴には、実のところ、その端末を使用した者の声も記録されているんだよ。通話者の声紋が抽出されて、データ化されているのさ。声で遊ぶアプリゲームとかも、データの収集に利用されてたりするから、端末保持者の場合は、ほぼ百パーセント探索可能だね。公にはされていないけれど、これは二〇〇八年から政府の指示のもとに組み込まれた追跡システムでさ。使用条件が厳しくてめったに使われないんだけれども、まあ、特例として、犯罪捜査に使用されているのです」

 はあ、されているのですか、と相槌を打つほかに反応のしようがない。

「たとえばさ、時効が迫った途端に、指名手配犯が逮捕されましたってケース、近頃増えたでしょ? あれもこのシステムの成果でね」

「あ、うん」それはいいが、だから、「なんで使えるんだよ、おまえが」

「え、だって、ぼくはほら」ヤツはうなじを掻き、照れくさそうに、「オタクじゃない?」

 当然のことを聞かないでくれよ、といったふうな顔を浮かべた。

「ああ……オタクだから、ね」

 なるほど、と首肯を示しておく。政府が極秘裏に開発したシステムを自在に使えるのも、私たちがお寿司を格安でお腹いっぱい食べられるのも、便座がいつでもぬくぬくと温かいのも、この地球に生命が誕生したのだってぜんぶ、オタクどものおかげだ。


      (11)

 必要な情報は手に入れた。さっそく横島奈心を殺しに行こうとヤツの部屋を出かけたところで、おや、と歩を止める。何かが目に触れ、その瞬間に既視感が頭のなかにひろがった。よくよく部屋を見渡し、既視感の大本を探す。

「どったの」ヤツがゆびでペンを回している。ふと、そのペンのキャップの行方が気にった。視線で追う。すぐに見つける。キャップはデスクのうえにあった。猿の置物の上にちょこんと置かれている。シルクハットみたいだ。猿の置物は両目を塞いでいた。既視感の正体はおまえか、とすっきりする。見ざる言わざる聞かざる。三猿のうちの一体だ。だがこんどは、どこでそれを見たのかが思いだせない。

「おいこれ」

 言って猿の置物を手にとる。「どこで手に入れた」

「うん? ああ、それかい」ヤツは、ひょいとこちらからひったくると、「このあいだウチに来た客がね、置いていったんだよ」お手玉みたいに両手で転がす。

「置いていった?」

「いや、忘れものって意味でね」

「ああ」客の忘れものか。よくあることだ、と氷解し、興味が失せる。「ちゃんと連絡して返しとけよ。あとでイチャモンつけられたって知らないからな」

「そのときはうっちゃんの出番じゃないか。よろしくね」

 なにが、よろしくね、だ。かんたんに言ってくれやがる。返事をせずに私は部屋を後にした。

 

 玄関まで来ると、ヤツもうしろから付いてきた。用のないかぎりは診療室から一歩も出ないような偏屈なヤツであるので、これは珍しい。

「なんだ」失笑する。「なんで付いてくる。買いだしはこのあいだしといただろ。もうなくなったのか、食料」

「ちがうよ」ヤツはむくれた。「見送りだよ」

 ああそう、と呆れる。またぞろ映画の影響でも受けたのだろう。

 土足仕様の、不潔な診療所であるので、靴を履く手間がない。じゃあな、と私は出て行こうとする。扉のノブをつかんだところで、

「ひとつ疑問なことがある」

 ヤツの声が背中に届く。なんだ、と振りかえらないままで、いちおう要件を聞いておく。紺色の空には一番星が輝いている。

 ヤツは、うん、と一つ頷き、蛍光灯のスイッチをパチパチ鳴らす。そうして玄関の明かりを点けたり消したりしながら、

「横島奈心、彼女が人体実験を始めるようになったのは、製薬会社を辞した後だ。問題を起こす前に、ヨッチーは製薬会社を去っている。これがぼくはひっかかる」

 すました声で話しだす。が、私にはどこがひっかかるのかが分からない。

「結論をさきに言うようにしてくれ」と頼む。「おまえの説明はいつも迂遠でこまる」

「つまりだね。順序が逆なんじゃないのかなって、ぼくは思うんだよ。ふつうは、道を踏み外したから追われる身となるものでしょ? でもヨッチーの場合は、道を踏み外すために、敢えて製薬会社を飛びだしたような印象を受けるのさ。彼女のなかで何か大きな転換があったんだろうね」

「二〇年前の事故とかか?」娘と夫が死んだのだ、大きな転換を迎えるには充分だ。

「さあ。それが何かまでは分からないけれど、おそらくぼくらが認識できていないような何かを彼女は抱えている。表層の情報だけを見ていると今回ばかりはうっちゃんだって足を掬われるよ。まあうん。それだけを言いたくってね。これはだから、ぼくの備考だし、うん。追加料金はいらないよ」

 出血大サービスだ、とヤツは嘯き、スイッチから手を放した。ようやく明かりが安定する。

「そりゃどうも」

 出て行こうとすると、

「あ、それからさ」

 呼びとめられる。「この辺で通り魔殺人あったでしょ。十人くらい死んじゃったやつ。あれ、ホントにうっちゃんじゃないの?」

 二か月半くらい前に、この周辺でそういった事件があった。こいつに幾度も犯人呼ばわりされたので記憶に新しい。ムキになるつもりはないが、

「何度言わせる気だ。私じゃない」

 自然と語気がつよくなる。

「だよね。あの手口はうっちゃんの趣味じゃないもの」

「なら訊くな」

「気になって調べているんだけれども、犯人が解らなくってね」

「あ、そ」

 かってに調べてろ、と突き放す。

 こんどこそ診療所を後にした。

 夏の夜は、穏やかだ。だが私の心は憂鬱だ。

 ヤツが今日も下着のうえから白衣を羽織っていただけだったと知り、深く嘆息を漏らす。

 そんな格好で診察なんかするから、患者に甘くみられ、あまつさえ襲われたりするのだ。

 自分の外見が、男を挑発する耽美さを備えていることをアイツはもっと自覚すべきだ。

 ヤツからもらったメモを頼りに目的地へ歩を向けながらも、私は非常にもやもやした。

 まったくどうして学習しない女だな、と。

 今すぐにでも踵をかえし、彼女を殺してやりたい衝動に駆られたが、今日はほかで我慢しよう、となんとか湧いた殺意を呑みくだす。




   第二章『この邪心、ただものではない』



      (1)

 Q――殺し甲斐のある人間とは、どんな人物か。

 こうした問いに確固たる答など存在しない。食べ応えのある豆腐とはどんな豆腐かといった質問と同様に、こうした主観に与する問いかけは、各々の嗜好にかぎりなく作用される。ファジィ、ファンシィ、ファンタジィ。答は千差万別なんでもありだ。

 私にとっては単純に、より殺したいと思える人物でしかない。そこにどんな基準があるのかは定かではないし、鏡を覗いてみたところでじぶんの内面が見えるわけでもなしに、自己分析してみたって私の行動原理なんか解りはしない。

 しかし、あのキザな精神科医の診察によれば、私の殺人衝動は概ね、性欲にちかいらしく、つまりが、私にとって殺し甲斐のある人物とは、私が生殖行為に及びたい、と本能的に思ってしまう相手であるらしく、つまりがムラムラくる相手を私は無性に殺してやりたくなる。

 だが私の殺意は、老若男女分け隔てなく向けられている。男でも女でも構わない。

 人間であれば見境なしか。

 ヤツの診察を真に受けているわけでもないくせに、私は思う。

 淫乱だな。

 と。

 ラーメンを啜りながら、私はじぶんを卑下してちょっぴりくよくよするのである。


      (2)

 ヤツことキザな精神科医からもらったメモにある住所まで来てみた。変わり映えのしない、どこにでもあるビルだ。ここの五階、とメモにはある。念のためにビルを一回りして、出入り口を確認する。

 ここまでの道中で腹越しらえは済ませてきたし、体調は万全だ。

 さっそくビルに乗りこむ。

 建物に入ると、急にひっそりと静まりかえる。街に喧騒が溢れていたことを気づかせてくれるような音の遮断だ。耳を澄ませるが空調の音さえしない。静かすぎる。

 何か不穏な感じがする。

 私は警戒をつよめ、しかし無防備を装ったままエレベータに乗りこむ。階段を使う手もあったが、待ち伏せされていることを顧慮すれば、前方にのみ注意を限定できるエレベータのほうが、私としては気が楽だった。

 五階に到着し、扉が開く。

 男たちがずらっとこちらに向けて銃を構えていた。

 笑ってしまう。私は両手を上げる。

 予想を遥かに上回る、待ち伏せだ。すぐに発砲してこない様子から、まだ当分殺されることはないだろうな、と察することができる。こんなときでも冷静でいられるじぶんにうんざりする。


      (3)

 窓のない部屋に連れていかれた。椅子に座らせられ、うしろ手に縛られる。抵抗したわけではないが、ガタゴトと椅子が揺れ、ゆかを叩いた。椅子はゆかに固定されてはいないらしい。

 間もなく私は下着姿にさせられた。

 服や靴を脱がしたあとで私を椅子に固定すると、男たちは何をするでもなく荷作りを終えたから帰ろう、といった気軽さで部屋から出ていった。

 拘束した相手の服を脱がすという行為には、相手をそとへ逃げられないようにする効果がある。それだけでなく、人間というのは服飾を着こむことで、虚勢をも身に纏っている。脱衣という行為には、精神を庇護する鎧を脱がすのに似た効用がある。

 素人はふつう、拘束した相手にここまではしない。拷問慣れしているといった印象を覚える。

「あなた」と呼びかけられる。高圧的な口吻だ。「どうして我々を嗅ぎまわっているのかしら」

 簡易デスクに頬杖をついている女がいた。神経質そうにデスクをゆびで小刻みに叩いている。

 私がこの部屋に連れてこられたときから彼女はすでにそうして世の中のすべてが気に入らなそうな顔を浮かべていた。けして若くはないが、年齢を尋ねられたら当てるのはむつかしそうな艶がある。しゃべり方だって見た目以上に若々しく、声だけを聞けば私よりも若く聞こえる。

「べつに嗅ぎまわっちゃいないさ」本心から答えたつもりだったが、相手はそう捉えてはくれなかった。「うそを言っちゃいけないわ、戦々虚(せんせんきょ)右京(うきょう)さん」

 彼女は私の名前を口にした。

 なぜ知っている、と面食らう。

 私は、私を証明する品を何一つとして持っていない。愛用のメディア端末だって、キザな精神科医から譲ってもらった特注品を使っているくらいだ。たとえ紛失したり奪われたりしても、データが暗号化されているために中身を覗かれる心配がない。オタクが言うのだから本当だろう。

 仮に彼女が暗号データを解析できる術を持っているのだとしても、私がおとなしく捕まり、この部屋へ連れて来られてからまだ数分しか経っていない。彼女にそんな時間はなかったはずだ。

「あら。名前だけじゃないわよ」女はさらに私に関する情報を口にした。どうやら私が殺人狂であり、いまは用心棒の真似ごとをしていることまで筒抜けであるらしい。

「よく調べたな。すごいじゃないか」と褒めてやる。素直に感心した。

「あら。あなただって、よくここが分かったじゃない」

 まあな、と感心されておく。

「横島奈心さん、だっけ? 五十六歳にしては随分とおきれいで。若さを保つ秘訣とかってあるのか」私はカマをかけた。「できれば教えてほしいものだけど」

 見た目からすればあと数年で還暦を迎える女性には見えなかったが、彼女が横島奈心である確率はけっして低くはない、と判断した。

「あら、ありがとう。若さの秘訣はね、他人の人生について悩まないことよ。それに、年齢にしては、というのは褒め言葉ではないわ」それとも皮肉を言ったのかしら、と彼女は自身が横島奈心であることを認めるような旨を口にした。「お互い、知っていることを隠したってしょうがないじゃない? 時間の無駄は省きましょう」

「まあ、そうな」首肯しながらも、時間の無駄を省きたいというのなら今すぐにでも死ねばいい、と思う。本当の意味で無駄にする時間はなくなるのだ、そこの窓からでも飛び降りたらいい。言ってやりたかったが、なんだかこんな下着姿でしかも椅子に縛られたままで言うのも滑稽なので呑みこんだ。

「それにしても目的が見えないわね」彼女は立ちあがった。デスクを回ってこちらに歩み寄ってくる。「あなたいったい何がしたいの。突然侵入してきたかと思えば、何をするでもなくすぐに帰っちゃうし」

「は?」間抜けな声がでた。彼女の言っている意味が判らない。

 突然侵入してきた、というところまではいい。だが、何をするでもなくすぐに帰っちゃうし、とはどういう意味か。こうして拘束されているのでは帰ろうにも帰れない。

 こちらの困惑を察したのか、彼女は「ああ」と発し、「観てたのよ」と説明した。「あなたがウチのハウスに侵入したところをね」

「ハウス?」

「ああ。えっと、『つよき子どもの家』と言えば分かるかしら」

 つよき子どもの家。あそこに侵入したことを彼女は知っているのか。

「観てたって、どっから?」まさかあの場にいたとは考えにくい。それに、誰かに見られているような気配はなかったはずだ。

 ここで私は、はっとする。

 監視カメラか、と閃いた。

 間接的に観られていたのでは、いくら私だって気配の察知はむつかしい。

 ここにきて疑問が一つ氷解した。侵入してすぐであるにも拘わらずエレベータのまえで待ち伏せされていたのも、きっと監視カメラの映像で彼女たちが私の行動を監視していためだろう。道理で隙がなかったわけだ、と納得し、続けてじぶんを叱咤する。私のまぬけめ。

「で、あなた。何がしたくってウチへ忍び込んだのかしら。そもそもあなた、ちょっと普通じゃないわよね。どうやって侵入したの。セキュリティは? 解除方法は誰から教わったの」

「は?」きょとんとしてしまう。「えっとぉ、何の話?」

「惚けても無駄よ。拷問されてしゃべってしまうのと、何もされずにしゃべってしまうの。結末は同じなのだから、今ここでしゃべってしまいなさい」

「いやいや。そういうんじゃなくって」彼女の言っている意味がまたしても分からない。

 セキュリティ? 解除方法?

 セキュリティって何だ。どこにそんなものがあった。

「私はただ」と白状する。「ただエレベータに乗っただけだぞ」

「ここへは、でしょ」

「え、ああ。ここでもそうだったし、あっちでもそうだった。ただエレベータに乗って、五階のボタンを押しただけだ」

「そんなはずはないわ。あなたは知っていたはず。あのボタンには指紋認証システムだって付いているのよ。部外者がボタンを押しただけでは、あのフロアには到達しない。知らなかったとは言わせないわ」

 申しわけないが知らなかった。「でも、私はホントに」

「分かったわ。それもあとであなたの身体に訊くことにする」

「あ、うん」信じてもらえないのでは仕方がない。「そうしてくれ」

「じゃ、質問を変えるわ」

 思わず噴きだした。あとで身体に訊くのではなかったのか。

「笑っていられるのも今のうちよ」横島奈心は機嫌を損ねるでもなくこちらを見下ろした。二メートルほど離れた地点から、「哀(あい)緒(お)詩(し)ランという女性を知っているわよね」と断定口調で問うてくる。「彼女について、知っていることを教えてくれないかしら。そうしたらあなたには今いちどチャンスをあげる。拷問せずにいてあげる」

 哀緒詩ラン。

 今さらのようだが、これがあのキザな精神科医の名だ。

 なぜ横島奈心がヤツのことを知っているのだろう、と訝しむ。いや、ヤツを知っているだけならば何のふしぎもない。アウトローであれば、ヤツの噂はそこかしこで耳にできる。だが、ヤツについての情報を得るために私を尋問するというのは、ちとおかしくはないか。順序が逆だ。

 私はヤツにとっての切り札だ。私が用心棒をやっている、という情報をヤツが易々と流すとは思えない。現に私はそういった噂を耳にしたことがない。

 私が殺人狂であると知って生きている者は、私の知るかぎりではヤツ以外にいない。とりもなおさず、それというのは、私がヤツの用心棒もどきであると知った者はあまねく数時間以内に死ぬさだめに置かれる、ということでもある。ヤツと私のあいだにある関係性は、切っても切れない水がごとく透明なのだ。私の存在を知っておきながら、ヤツのことを知らない、というのは不自然だ。

 私はここで、何かが変だ、と警戒する。横島奈心への警戒ではない。人生という複雑怪奇な現象への警戒だ。今回の一連の流れは、滞りなく流れているようでいてその実、とてもチグハグな印象を抱かせる。

 違和感があるのだ。だがその違和感の正体に私はまだ気づけていないらしい。横島奈心との会話がどこか噛みあわないのも、その影響なのだろう。

 いいだろう、と許可する。「ヤツの何が知りたい」

 私は横島奈心の要求を呑むことにした。どうせ数時間後には彼女もまた生きてはいないのだから、ここで私がなにをしゃべろうと、すべては無かったことに等しい。

「あら。今回はずいぶんと素直なのね」

「私はいつだって素直だ」

 とくにじぶんには、と自負している。

「じゃあ、教えてもらおうかしら。哀緒詩ラン。彼女は何者で、いったい何が目的で情報屋なんて真似をしているのかしら」


      (4)

 哀緒詩ラン。

 漢字で書けば、哀緒詩蘭。

 うんざりするほど、がさつな女だ。

 本人は、「哀(あい)緒(お)詩(し)」が名字だ、と頑なに言い張っているが、聞いてもいないのに強調するところを鑑みると、おそらく「哀緒」だけで名字なのだろう。哀緒シラン。一風変わった名前であるので、本名かどうかは疑わしい。が、私も他人のことをとやかく言えるようなご立派な名前ではないので、無駄に詮索はしないことに決めている。

 ヤツと知り合ったのは、一年半ほど前のことだ。

 顛末を語ると長くなるので、短くまとめてしまうが、言ってしまえば、私はヤツに命を救われた。重要な点は、命を救われた、という点であり、私が救われたわけではないという点だ。

 その際にかかった治療費が、私には支払えなかった。そのため、借金返済の肩代わりに用心棒もどきをしている。そういう契約を結んだだけで、別段私たちは深い仲ではない。

 ヤツはただの精神科医だ。

 ただし、医学的知識と医療技術、この二つがすこしばかり正規の医者よりも上であることを抜きにすればの話で、さらに度の過ぎた機器(マシーン)オタクだってことを度外視すれば、思春期を未だに抜けだせない頭の可哀想な女でしかない。

 装いに頓着がないのか、ふだんから白衣を羽織っている。問題は、白衣のしたが下着いっちょうってことだ。何度注意しても服を着たがらない。

 ヤツはめったに外出をしない。部屋からだって出ない。トイレですら尿瓶にする始末だ。あいつはちょっと頭がおかしい。

 ただ、見掛けは相当なもんだ。

 こう見えて私はアイドルが好きだ。女を見る目は肥えていると自負している。ヤツは黙ってじっと着せ替え人形みたいにしていれば、その辺のアイドルよりか、ずっといい女だと保証する。ただ、中身がすべてを台無しにしているものだから、ヤツが診療所に引きこもっているのは正解だと思う。

 そうだともヤツはひきこもりだ。ただし、外出するのがイヤなのではなく、億劫なだけであるらしいから、目的のためならば殻から脱して出歩くことも辞さない。内弁慶なのか、そのときはなぜか多少なりとも幼児退行したような感じになるが、まあ、むしろそちらのほうが元々の気質なのだろう。偉そうなのは口調だけで、中身は幼稚そのものだ。

 年齢は知らない。ヤツはあまり進んで自分のことを話したがらないし、私も訊いたりしない。

 一見すればあどけない少女のようだが、いっぽうでは三十路すぎの女に特有の擦れた感じも漂わせているから、見た目から実際の年齢を推測するのはむつかしい。

 背はひくい。私も背が高いほうではないが、それでも並んで立てばヤツの頭が私の胸にくるほど小柄な体格だ。ただ、発育は良いほうらしく、胸はそれなりにある。いつも白衣越しに覗かせているブラジャーをうえから鷲掴みになりたくなるほどだ。

 ヤツを情報屋として利用する者が少なくないのは、私も知っている。だがヤツ本人が情報屋を名乗ったことは一度もない。

 いわく、

「ホントはタダで提供してもいいんだけれどね。でもそうしちゃうと情報を欲する輩が次から次へとのべつ幕なしにわさわさと群がってきちゃうでしょ? だから篩(ふるい)にかけるつもりも兼ねて、ある程度の値段を設定してるわけ」

 と、そういうことらしい。

 何度も言うようだが、ヤツの本業は、精神医学診療――つまりがだから最初に言ったようにヤツはしがない精神科医だ。

 客を選ばなくて、ちいとばかし治療費が高く、ちょいと情報通で、すごくオタクな、どこにいてもおかしくはない、ただし頭のおかしい女でしかない。


      (5)

 質問はあるか、と横島奈心に向けてあごをしゃくる。

「そうね。つまり哀緒詩ランは、何かしらの組織に属しているわけではない、ということね」

「バックに何かついているか、って話か? それはない。あいつは趣味で、裏稼業ゴッコをしているだけだ」

「信じられないわね」横島奈心は鼻で笑った。「趣味の領域を越えているわよ。凶悪犯どもの治療を施し、あらゆる情報媒体を掌握し、それでいて自らの敵は容赦なく葬る。そんな個人が野放しになっているなんて。仮にそれが真実だとすれば、この国は法治国家としてまったく機能していないことになるわ」

「なら、機能していないんじゃないのか」たぶん機能していないんだよ、と私は重ねて言う。「だって、私が野放しにされている時点で、この社会は殺人を許容しているようなものだろ。最大の禁忌を、飄々と犯すような私のような人間を、この世の中は肯定している」

「肯定してはいないわ。排除しきれていないだけで」

 ぴしゃりと返される。さすがは学者さま。何を言っても言いくるめられてしまいそうだ。

 ふとここで私は、彼女なら答えられるのではないか、という期待じみた感情を抱いた。

 殺人はなぜいけないことなのか、という問いについてだ。

「一ついいかな」

 断ってから私は、反応を待たずに訊いてみた。「どうして人を殺してはいけないんだ」

 あら、と彼女は口をぽかんと開けてから、瞬き二回分ほどの間を空けると、お腹を抱えて笑いだした。「あなたが訊くわけ、それを、ここで」

 むっとした。彼女から何かしらの返答が得られるまで、黙っていることにする。

 しばらく背を丸めて笑い転げていた彼女はやがて、あーおかしい、と目元をぬぐい、姿勢を正した。

「人を殺すのはなぜいけないのか」鼻で深呼吸してから彼女は述べた。「そうね。答があるとすれば、一つよね。人を殺すことはいけないことではない。ただし、それでも人を殺さない、という人間が大多数存在し得なければ、秩序ある社会は保たれない。多くの者は、人を殺すことよりも平穏に暮らすことを求めているのね。だから、この社会では、ルールとしてではなく、暗黙の了解として、無条件に、殺人は悪である、としているのよ。シンプルでしょ。殺人は悪くない。ただし、悪である必要がある。多くの者たちにとっては」

 ああ。

 私は世界にかかっていた靄が晴れたような感覚につつまれた。

 きっとキザな精神科医などは、「きみはほんとうに単純だなぁ」などと笑うかもしれない。大袈裟だなあ、と言うかもしれない。だが、感動というのはどの道、単純で大袈裟なものだ。

 そうだとも。

 私は彼女の答えに感激している。それ以上に、彼女の答えによって導かれた私の人生観の肯定に、言い知れぬ安堵を抱いていた。

 多くの者が自身の平穏を望むために殺人を悪としている。

 私も私で、私の平穏を望むために、より多くの人間を殺してきた。

 同じなのだ。

 私と彼らは、同じだったのだ。

 ああ、と詠嘆が漏れる。

 私は心のどこかではずっと、じぶんは異常なのだ、と思っていた。

 私に殺された彼らが口にしていたように、私はふつうではないのだ、とずっと胸にしこりを抱えて生きてきた。

 だが、何のことはない。私も彼らと一緒なのだ。彼らは私とおんなじなのだ。

 自分。自分。自分。

 彼らは、「自分たち」という鎧を纏うことで、己の平穏、という利己的な追及を肯定している。

 大多数の者が、同じ方向を見て、利己的な追及をしたけっか、私のようなマイノリティな存在が、「悪」とされているだけのことなのだ。

 なんだ。なんのことはない。

 大勢(強者)が個人(弱者)を虐げているだけではないか。

 私が弱者を殺しているように。

 彼らもまた、私を殺そうとしている。

 私の平穏を乱し、禁止し、殺そうとしている。

 ならばこれはもう、戦争しかないだろう。強者だけが生き残る。

 これからも、これまでも、ずっと同じ。変わらない。

「ありがとう」心の底から笑えた気がした。「横島さん。あなたはすごく、いいひとだ」

 こんな単純な言葉でしか感謝を言い表せないじぶんが、ひどくもどかしい。


      (6)

 なぜここへ来たの。目的はなに、という横島奈心の質問に私は正直に答えた。

「あんたを殺しに来たんだよ」せめてもの誠意だ。

「なぜ」

「なぜって」これにはまいってしまう。「それは私が聞きたいくらいだ。あんたこそなんで私を殺そうとした。じぶんを肯定したいわけじゃないけど、でも、私はあんたが雇った男に殺されそうになった。だから雇い主たるあんたを殺しに来たんだ」

 男は殺人代行者だと名乗っていたぞ、と私はすこし非難するように述べる。

 ここで横島奈心は、「ちょっと待って」と額に手をあてむつかしい顔をした。しばらくしてからむつかしい顔のままで、

「一つ確認させてちょうだい」と言った。「あなたを殺そうとした男、そいつはどうしたの?」

「殺したよ。だって危ないだろ」野放しにはしておけないだろ、とジョークを言ってみる。自虐的な笑いを誘おうと思ったのだが不発に終わったらしい。横島奈心はなおも柳眉を曇らせたまま、

「死んだところは確認したの」と意味深長なことを訊いてくる。

「確認するまでもない」私は肩を竦める。「気道と動脈をナイフで貫いた。あれで生きていたら私は奇跡の存在を信じてもいい」

「あいにくだけど、この世にはあなたの想像もつかないことが、そこかしこに平然と転がっているものよ」

 それにあなたが気づかないだけのことでね、と彼女は懐からメディア端末を取りだした。

 ディスプレイを操作しながらさらに、「その男に襲われた場所はどこ」と重ねて質問してくる。

「あそこだよ。駅前からちょっといったところ」私は具体的に場所を教えた。

「そこに放置したまま?」

 この質問は男の遺体のことを訊いているのだな、と解釈し、「そうだよ」と肯定する。「ひと気のない裏路地だから発見されてなけりゃ、そのままになっていると思う」

「わかったわ。ありがとう」

「どういたまして」

 なんだか良いことをした気分だ。感謝されるというのもわるくない。もっとも私のしたことといえば、殺人の告白と、死体遺棄現場の報告なのだけれど。

 

 部屋に男たちが入ってきた。さきほど私を拘束した者たちだ。横島奈心が呼んだらしい。彼女は彼らへ向けて、今しがた私の告げた位置座標を言い、

「そこに行って、死体があるか確認して来て」と指示をだした。「現場にいなかったら周辺に包囲網を敷きなさい」

 言いつけられた男たちは頷くこともせず、部屋から出ていった。機械的だ。

「なんだ。迷子の犬でも捜しているのか」

 彼女たちの様子から、何かを追っているようだ、という雰囲気を察する。私は冗談を言ったつもりだったのだが、意に反して彼女は気をわるくしたようだった。こちらを冷たく睨みつけ、

「あなたには感謝するわ。手掛かりを運んで来てくれてありがとう。でもあなた、本当に何も知らなかったようね。〝フシミ〟に騙されてノコノコとあたしを殺しにきちゃうなんて。それはそれであなたがとても柔順だということの証左なのかしら。皮肉だわ」

 私は首をひねる。何の話かがイマイチ伝わらない。

「でもね、きっかけが何であれ、動機がどうであれ、あたしを殺そうとしたことはいただけないわ」

 言いながら横島奈心は、デスクへと戻り、引き出しから注射器を取りだしてくる。透明な液体の入った瓶に、注射針を差す。中身を吸いあげながら彼女は、

「だからせめて」とこちらへ向けてこう言った。「楽に死なせてあげるわね」


      (7)

 当りまえすぎて説明する必要の生じないくらいに基本的な事象というのは、この世界にはわりと多く存在している。質量保存の法則など、多々ある物理法則を持ちだすまでもなく、常識と呼ばれるひどく漠然とした共通認識などがその最たるものだろう。

 たとえば、注射器を用いて薬剤を投与する際の前提条件。注射するにはまず対象に近づかなくてはならない。これは至極当然なことである。一般的な、ゆびで押しだすタイプの注射器であれば尚更だ。わざわざ特筆すべき事柄ではない。

 或いは、殺人狂にはけっして近づいてはならないという注意事項。自殺願望のある人物でなければこれもまた基本的な常識だと思うのだが、なぜだか世のなかにはこんな基本的な注意事項をコロッと忘れてしまう人間が少なくない。

 横島奈心はその少なくないほうの人間に属していたようだ。

 彼女はヒールをカツカツ云わせてこちらの背後に回った。慣れた手つきで首筋に触れてくる。なぜ彼女がそんな真似をしたのかは考えるまでもない。皮膚表層近くに通っている大静脈へ注射針を刺し、私に薬剤を投与するためだ。

 そこで私が首を捻り、彼女の右手首に噛みつき、そのまま肉ごと静脈血管を食いちぎったのは、彼女を殺すためだった、というのもわざわざ説明する必要はないだろう。

 多くの者には馴染みのない知識らしいのだが、人間の肉というのはほかの動物に比べれば実にやわらかくできている。やわらかいうえに弾力がなく、繊維が均一に整っていることもあり、切れ目を入れればするすると裂けていく。

 脂肪分が筋繊維同士の結合を妨げていることもまた要因の一つだね、とはキザな精神科医の言葉だ。

 噛みきった肉を、もぐもぐ、と口のなかで咀嚼し、ぺっと吐きだす。美味くはない。焼けば美味いかもしれない、と思えるくらいには美味とも言える。

 横島奈心の手から、どくどく、と血が洩れだすように溢れる。いつも思うが、融けたチョコレートみたいだ。破れたのは静脈であるので、噴きだすこともない。

「イタッ」と、一言だけ漏らし、横島奈心は傷口をもう一方の手で押さえた。注射器がゆかに落ちて割れる。

 何が起きたのかを把握できていないご様子だ。私から距離を置くことなく横島奈心は、しばし呆然と立ち尽くす。傷口と血と、私の吐きだした自身の肉片へ、順番に視線を当てている。

 そのあいだに私は、竹馬に乗って方向転換するみたいに、椅子の脚をガタゴト云わせる。椅子ごと身体を捻り、背後の彼女に向きなおる。

 彼女と目が合った。

 安心させるために微笑んでみせる。

「痛くしないから」

 そこで私は傷口を押さえている彼女のもう一方の手首目掛けて、食らいつく。ちょうど目線の高さにあったので、首をひょいと突きだすだけで、かんたんに届いた。

 こんどは噛みちぎることなく、ぐい、と引っぱる。それから彼女の身体をゆかへ叩きつけるつもりで顎を引く。

 彼女が、かっくん、と膝をつく。

 私と彼女の目線が揃う。

 もういちどだけ私は微笑んであげる。だってこんなにも怯えた顔をされたのでは、さすがの私も慈しみを覚えてしまう。

 だいじょうぶだよ。痛くしないから。

 念じながら私は口を大きく開き、彼女の首すじ目掛けてこうべを垂れる。

 口づけをするみたいに。身体をよじりながら。

「動物が感じることのできる快感のなかで最も激しい刺激って何か、キョウちゃんは知っているかい」

 またしてもキザな精神科医の言葉が蘇る。私はそのとき、知らない、と答えたと記憶している。するとヤツはからかうように「それはね」と宣巻いた。

「死を迎える瞬間だよ。絶望的な恐怖を経てからの死。だから肉食動物に狩られる草食動物っていうのは、おおむね、性的絶頂を迎えながら死んでいくのさ。生殖行為を終えたカマキリのオスがメスに喰われるために身を差しだすのも同じようなものなのだろうね」

 知った口を叩くものだ。

 あのときの私はそう一蹴したのだが、こうしてびくびくと痙攣している横島奈心をすぐそばに感じていると、ヤツのデマカセも案外に真実なのかもな、という気になってくる。

 下着姿で良かった、と思う。

 こうして死んでいく人間のぬくもりを直に感じられるから。

 蒸発していく血液は、すぐに乾いてしまう愛液のようにぬめぬめと私を潤してくれる。


      (8)

 人体において最も硬い部位はどこか。

 答は歯だ。

 エナメル質と象牙質からなる歯は、刃物として代等しうるほどの硬さを誇る。

 たとい厚さ一センチ程度のしめ縄であっても、時間をかけさえすれば噛みちぎることが可能だ。噛みちぎるだけの時間を相手が許してくれるかどうか、の問題があるだけのことで。

 さいわい私にはその時間が許されていた。

 手足の拘束を解き、遺体をそのままに部屋を出る。探してみても服がなかったので、横島奈心の服を拝借した。血に染まってはいたが、私の身体も鮮血に塗れていたので、仮に卸したての服を着たところでどの道汚れてしまうだろうから、とくに問題はない。

 あの部屋には監視カメラがなかったようだ。すぐに男たちが駆けこんでくるかとハラハラしていたものの、そういう事態にはならなかった。別室から監視されているかと思っていたが、杞憂で済んだ。

 廊下を歩く。いくつも扉が並んでいる。気に留めず通路を進む。出口を探しているわけではない。駆除は巣ごとが鉄則だ。女王アリを殺し、兵隊アリも殺す。禍根を残さないのが私の主義だ。

 間もなく通路先に突き当たる。そこにも扉があった。「つよき子どもの家」を思いだす。構造的にここはあそこと似ている。

 突きあたりの扉には「備品室」と札が掛かっているが、ただの備品室ではないことは何となく察しが付く。根拠はない。ただの勘だ。

 強いて言うなら、頭上に監視カメラが付いているから、ここはそれなりに重要な部屋なのだろうな、という想像ができただけ。さっきの拷問部屋にさえなかったカメラが、スズメの瞳みたいに、ちっこくハマっている。

 扉のまえに誰が立っているのかを確認するような設置角度だ。きっと扉もふつうの素材ではないはずだ、と触れてみて判った。

 ここは慎重に行動すべきところなのだろうが、私は逆に逡巡せずにドアノブを握った。たとえ鍵が掛かっていようともこじ開けるくらいのつもりで、ひと息に開け放つ。

 扉が開くと同時に、鳴り響く銃声。銃声。銃声。

 中からこちらへ向けての発砲だ。扉の陰に隠れるようにして開けたのは正解だった。

 通路に反響する破裂音は、機関銃のように重複した。

 ちゅんちゅん、とスズメのさえずりのようでもある。

 扉がゆっくりと閉じていく。私が手を放したからだ。

 扉に穴は空いていない。予想通り、防弾仕様だった。

 やがてふたたびゆっくりと扉が開いていく。扉一枚隔てた向こうにいる人物が開けているのだ。

 私は息を殺し、気配も消し、忍者みたいに壁にひっついている。監視カメラには映らない絶妙な位置だ。

 三、二、一。

 予想通り、中から男たちが飛びだしてくる。三人だ。

 扉の両サイドへ向けて彼らが、発砲する。

 だが残念。私は、そっちにはいない。扉の真上、監視カメラのある位置に張りついている。

 服に染みこんだ渇きかけの血で、カメラのレンズを塗りつぶす。これで中のやつらには外の様子が見えなくなったはずだ。

 レンズを塗りつぶす片手間で私は扉をそっと閉める。

 閉じきる前に、飛び降りる。

 真下にいた男の頚髄めがけて膝を打ちこむ。空き缶を蹴り潰したみたいに男が崩れる。

 そいつの手にしていた銃を奪い、すかさずよこにいた男を射殺する。

 眉間に一発ぶちこみつつ、流れるように回し蹴り。草が刈れるほどに低く、地面を這うような蹴りで、背後にいた最後の一人の足を払う。

 体勢を崩した男が地面に尻持ちをつく前に、胸へ一発、眉間に一発、撃ちこむ。

 ついでにすでに死んでいるだろうはずのほかの二名にも、一発ずつくれてやった。

 この間、およそ三秒。まあまあのスコアだ。

 銃を回収し、残弾を確認。ナイフも調達できた。

 あとでこの男たちの服を貰おう。そのためにわざわざ頭、胸、肝臓、と別々の部位を撃ち抜いてやったのだから。


      (9)

 残りの人数は、最低でも三名だ。私がここへ乗りこんだとき、エレベータのまえで待ち伏せしていた人数が、六名だった。

 向こうから出てくるのを待つ、という忍耐勝負の道もあったけれど、ほかに出入り口がないとも限らないし、だいたいにおいて私は早くシャワーを浴びたい気分なのだ。とっとと突入することにした。

 電灯が消してあるらしく、部屋のなかは薄暗い。いっぽうでこちら側は明るいため、向こうさんからは私の姿がまる見えだっただろう。迎え撃つにはうってつけの優位性が向こうさんにはあった。

 だのに私が攻撃を受けることはなかった。これは妙だ。

 おーい、どうしたのさあ、と声をかけたくなるほどだ。

「待ってくれ」

 闇の奥から声がした。「明かりを点けるが、攻撃をしないでくれ。いいな」

「わかった」と承諾する。「そっちがおとなしくしていれば、の話だがな」とも付け加える。

 間もなく部屋が明るくなる。

 機械だらけだ、というのが率直な感想だ。幾つものディスプレイが規則正しく並んでおり、その奥には、ラボらしき空間がひろがっている。仕切りはなく、けっこうに広い空間だ。空調が効いているのか、やや肌寒く、心なしか空気も、冬の空のように澄んでいる。

 壁際に男が五人固まっていた。五人のうち二名が白衣を纏っており、白衣の者たちを庇うようにスーツ姿の男が三名立っている。スーツ姿の三名は私を拘束した者たちと同じ装いで、今しがた殺した三人の仲間だろう。手には銃が握られているが、私が目を細めると、彼らは両手を上げたのちにしずかにゆかへ銃を置いた。その際に白衣の男のひとりが「武装解除」とちいさく唱えたのが聞こえた。


      (10)

「横島さんは、死んだのか」白衣の男の一人が淋しげに問うてくる。あんたが殺したのか、と責められているようで、なんだかちょっぴり照れてしまう。私は黙っていることで肯定を示す。

「そうか」男たちが肩を落としたふうにみえた。「ワタシらは投降する。あんたはどうやら尋常ならざる者らしい」白衣の男は自虐的に笑った。「皮肉だよ。よもやアレら以外に、こんなバケモノが存在するとはな」

 アレら、という言葉にひっかかりを覚える。窮地に立たせられていながらにこちらをバケモノ呼ばわりとは中々に愉快な男だな、とも思う。

「僕らも殺すのですか」と乞うような目で見られる。最初に発言した者ではない男だ。白衣の男のもう片方。痩身で、彼らのなかではもっとも老いている。

「殺すつもりだが、事によれば考え直さないでもない」正直に答えたつもりだったが、彼は顔面を蒼白にし、「そうですか」と絶望した者に特有の薄ら笑いを浮かべた。

 私は再度、部屋のなかを観察する。「これは何だ」と大量のディスプレイをゆび差し、解説を求める。

「監視映像です」

「見りゃ分かる」

 私が聞きたいのは監視の目的だ。このビルだけでなく、街中いたるところの映像がディスプレイには映しだされている。監視というよりも何かを追っているような、包囲網的な印象を覚える。

 そもそも、と私はゆびを差す代わりに彼らへ銃口を向け、「そもそもオタクら、何がしたいんだ。こんな場所にアジト構えて、盗撮だけしてますってことはないだろ」あっちに、と方角を示し、「あっちに『つよき子どもの家』ってあるだろ。すぐそこだ。あそこにだってなぜ戻らない。あんたらの運営している孤児院なんだろ」

 子どもたちだってあんたらの帰りを待っていたぞ、とフローのことを思いだしながら私は言った。

「アイツらが?」まさか、と白衣の男たちが顔を見合わせた。

 それはあたかも、美少女だってウンチをするんだ、とアイドルオタクどもに告げたときのような反応だった。しかしながら美少女だって生きているのだ、ウンチくらいするだろう。食べればさぞかし美味しいのだろうな、とわくわくしてこそ真のアイドルオタクであると私はつよく主張したい。

 ディスプレイの映像には、「つよき子どもの家」の映像もあった。そこに子どもたちを世話する、かいがいしいフローの姿があった。

「けなげじゃないか」私は言った。「大人がいなくたって彼女たちは、ああして自分たちだけでも生きていける。それでもさ、やっぱり子どもには大人が必要だ。私はそう思うわけ」

 おまえらはどう思う、と投げかける。

「殺人鬼にしては殊勝な意見だ」白衣の男が答えた。最初に発言した男だ。こいつはどうやら皮肉が好きらしい。隣の白衣が、「おい」と咎めている。自分の立場を弁えろ、と言いたいのだろう。それは私も同感だったが、しかし彼の場合は、自身の立場を弁えたうえで皮肉を口にしているのだろう、と思えた。中々にいい男じゃないか、と好意を寄せる。今すぐにでも殺してやりたい、と身体が火照った。

「子どもではないのです、あのコたちは」老いた男が言った。それは剣ではなくペンです、と訂正するようなどこか恐縮した指摘だった。「子どもでないどころか、人間ですらない。あのコらは、バケモノなのです」

「バケモノ?」

「あんたと同じさ」皮肉好きが嘴を挟む。

 おい。余計なことを言うな、と止める仲間を睥睨して、皮肉好きは、「いいじゃねえか」と粗暴な口調で、「どうせ殺されるんだ」と相好を崩す。「だったら最期くらい、好きなことをしゃべろうじゃないか」

「なにを言う。僕たちはまだ」

 老いた男がそこまで口にしてから、こちらをちらりと窺い、「まだ、死ぬと決まったわけでは」と弱々しく言い、言葉を止めた。

「死ぬと決まったわけでは?」私はイタズラっ娘みたいに反復する。それから、「申しわけないけれど、生きてしまった以上は、死ぬと決まっている。人間はね。早いか遅いか、ただそれだけの違いがあるだけだ」そうだろ、と思春期の子どもみたいな意見を主張する。

「当りまえの話だな」皮肉好きから皮肉を言われたので、私も返す。「真理というものはいつだって当りまえであるべきだ」

「だが人間の理解の及ぶ範囲は、せいぜいが自分の知っている極々狭い範囲のことでしかない。生まれてきても『死』を内包していない存在というのも、あんたが知らないだけで存在し得る」

「想像だけで物事語るんなら、なんだってありになっちゃうじゃん」

「なんだってありなんだよ」と皮肉好きは息巻いた。「この世はあんたが思っているよりも、あらゆる可能性に満ちている。想像という言い方が気に喰わないのであれば、原理と言い換えてもいい。原理的に、死なない存在は誕生し得る。あんたの想像力では残念ながら思いつかないらしいがな」

「ぐむ」言い淀んでしまう。想像するくらいなら私だってできるぞ、と思うが、それはそれで負け惜しみにしか聞こえなさそうなのでぐっと言葉を呑みこむ。喧嘩に負けた気分だ。「そこま言うならじゃあ」と悔しいので、「その死なない人間、連れて来てよ」と減らず口を叩く。減らず口を叩いてから、これではもう、死なない存在がいると認めているのと大差ないではないか、と思えてお腹のそこが、きゅぅん、と熱くなった。

「ワタシらは今ここで死ぬ。あんたに殺される。そうではなかったか? 連れて来たいのは山々だが、それはムリな相談だ」

 売り言葉に買い言葉。こいつ、思った以上にイヤな男だ。私は愉快になる。

「なら、あんたを殺すのは止めにする」癪だったがここは是が非でも、死なない存在を連れて来て貰わねば気が済まなくなった。「私を落胆させるなよ。落胆は嫌いだ。つまらないからな。つまらなくなったら人は面白いことをする。そうだろ?」

「いいさ。その時はワタシを殺せばいい」

 商談成立だな、と私はなんだか旅の仲間を得た気分だった。


      (11)

「でも、ほんとうに不老不死なんか連れて来られるのか」どうせムリなんだろうけど、と思いつつも、こいつらが言うなら本当かも、と思うくらいには期待している私がいる。

「おそらく可能だ。無理だったならワタシらはその時、あんたに殺されるよりも先に自決する。それくらい確信している」

「ほう」こいつのハッタリにはやはり期待させられる。

「だが、その前に一つ問題がある」さっそく雲行きが怪しくなった。「いや、あんたの介在を含めれば二つか」と皮肉を叩かれる。

「だから今はまだ殺さないって言ってるだろ。その問題ってなんだ。事と次第によっては、私は落胆するぞ」

「落胆しているのはワタシらのほうだ」皮肉好きは、ここで初めて忌々しげに首を振った。「死なない存在は誕生し得る。だが、死なない存在――つまりは不老不死を生みだすには、二つの因子が必要だった。それがなにか、あんた、分かるか」

 不老不死を生みだすための、二つの因子。

 さあ、と首を傾げてから、「不老と不死なんじゃないの」と適当に答える。

「そのとおりだ」

 正解をもらってしまう。やだなあ。すこしうれしいじぶんがいる。

 単純な話だよ、と皮肉好きは説明を続けた。「不老と不死、この二つを掛けあわせることで、不老不死は誕生する。そもそもアレらは偶然の産物だった。ワタシらは人間の自然治癒能力を極限まで高める研究をしていた。アレらは人体実験を行った際に副次的に誕生したもの――言ってしまえばバグだった。妊婦を利用したのが幸いしたと言ったら世間からは轟々と非難されるだろうがしかし、それによってワタシらは『不老体』と『不死体』という二つの、人類を超越した存在を誕生させることができた――ワタシらの求めた自然治癒能力の限界を遥かに越えた構造体をな。味をしめたわけではないが、それ以来ワタシらは数多くの妊婦を試験体として利用してきた」

「そんなに都合よく妊婦が協力してくれるものか」甚だ疑問だ。

「お嬢さん。この世にはね、望まれずに疎まれるだけの赤子が、望まれて産まれてくる赤子よりも多く存在しているのだよ。いや、存在はしたが、誕生できなかった赤子と言ったほうがより正鵠を射っているのだろうな」

 ああなるほど、と閃いた。「中絶か」

 堕胎したがっている妊婦に、堕胎を匂わせた話をもちかければたしかに試験体に事欠くことはないだろうな、と思われた。妊娠してから二十二週間経つと、それ以降の人工中絶は殺人として扱われる。言ってしまえば違法なのだが、たとえ違法であったとしても胎児を堕ろしたいと考えている妊婦は少なくないだろう。そうした妊婦たちに、「中絶させてあげるよ。しかも無償で」と言えば、食いつかないはずがない。

「ワタシらは、生誕を望まれない胎児を宿した妊婦たちを利用し、実験を繰りかえした。その結果、不老体と不死体――アレらのほかにも、様々な特異体質を持ったモノが多く生まれた。むしろ、不老体と不死体は、アレら以外には誕生しなかった。どういったプロセスで誕生するのか、アレらの誕生メカニズムがどうしても解らん。ワタシらはメカニズムを解明するために、アレらバケモノどもを処分せずに、管理し、育てることにした」

 何の話だ、と尋ねるも、「いいから聞け」と凄まれる。やだなあ。ちょっとキュンときた。

「横島さんは最初から反対されていた。不老不死の研究なんてどうせ無駄だ、とな。だがワタシらが、研究を続行したい、と言って譲らなかった。不老体と不死体、この二体を掛けあわせれば、『不老と不死』という二つの特質を備えた、ひとつの構造体を生みだせるとワタシらは主張した。ヒトゲノムの解析をした結果、『不老と不死』は優性遺伝するとワタシらは確信していたからだ。そのことを伝えると、横島さんは不承不承ながらも、安全面の徹底を条件に許可してくれた。だが本当は認めたくなかったはずだ。きっとワタシらの希求を却下したことでワタシらが離れて行くのを阻止したかったのだろう。いまになってはそう思う。彼女の目的はいつだって、自然治癒を極限に高める薬剤開発の完了にあったのだからな」

「だから、何の話だ」と、もういちど訴えてみるが、皮肉好きはもはや反応さえ返してくれない。こちらに構わず、かってに話を進めていく。


      (12)

「不老体と不死体、この二体の交配は遺伝子操作で済ますことも可能だとワタシらは考えたが、けっきょくそれではダメだった。ワタシらの技術では、どうしても人間としての領域を残すほかに、あらたな種を生みだすことができなかった。横島さんの言ったとおり、やはりイチからまったく新たな構造体を持つ生命を生みだすことは、ワタシらには難しかった。そこでワタシらは考えた。人工的に生みだすことが不可能であるならば、不老体と不死体による自然な交配によって、新たな種を生みだしてもらうほかに術がない、と」

「自然な交配って何だ」

 どことなく厭らしい感じがするぞ、と意見するも、皮肉好きは意に介さず、

「原理上、不老不死はどうあっても実現できない」と説明を続ける。「ワタシらが人間であり、ワタシらの生みだそうしているモノもまた人間であった以上は、どうあっても不老不死という、種族を超越した存在を生みだすことはできない、とワタシらは結論付けた」

 人間が人間である以上、不老不死はあり得ない。似た話を最近聞いたばかりな気がした。まあそういうものなのだろうな、と首肯しておく。そもそも不老不死なんかいるわけがない、というのが私の見解だ。信じていないからこそ、「いる」と嘯くこの男が愉快でたまらない。

「不老不死の創造は、常識的には不可能だがしかし、それはワタシら人類の常識の範疇での限界にすぎない。すでにその常識を超越した、不老体と不死体が、偶然という奇跡によってではあったが我々の目のまえには存在していた。ならばこれはもう、ワタシらの手による創造ではなく、アレらによる生殖行為によってのみ、不老と不死の融合体――すなわち不老不死の生命体を産みだしてもらうほかにあるまい、とワタシらは考えたわけだ」

「ははあん。子どもをつくってもらうってことだな」私はようやく察しがついた。

「不老と不死はセットだった。二つで一つ。アレらは互いに互いを尊重し、相愛し、相手を自身の半身として認め合っていた。そうした存在になるようにとワタシらが矯正したからだし、現にアレらはそうなった。これは枷だった。一方が一方をけっして裏切らないようにとワタシらがアレらに課した枷だ。それ以外にもワタシらはアレらに、幾つかの強力な枷を組み込んだ。よってアレらはワタシらにはけっして敵対しない」

 おや、とここで遅まきながら違和を抱く。なんだかいつの間にか話がすり替わっている気がするのだ。これではまるで人間の話をしているみたいじゃないか。「因子の話じゃなかったのか」と確認する。

 因子の話さ、と皮肉好きは忌々しそうに眉を顰めた。

「あらゆる可能性を考慮すれば、感情を持つモノに対しては物理的枷よりも精神的枷のほうが、より有効だ。遺伝的資質の操作――すなわち本能の意図的改竄による抑制には限界があるが、その点、精神的枷は応用の幅が広く、実に汎用性に優れている。人類が未だに、種族統率のための手段として『教育』という非効率的な手段に頼っているのも、けっきょくのところは、いちどに多くの群衆をまとめるには精神的枷がもっとも効果的だからだろう。社会が個人へ課す、道徳や良識、果ては常識と呼ばれる共通認識さえも、これは強力な枷と呼べる」

「枷がない人間は、なら、自由だな」

 私の意見には応えず、皮肉好きは、「二か月前だ」と言った。嘆くような倦怠感溢れる調子で、

「二か月前。不老体と不死体、二つのうちの一方が脱走した。想定し得ない状況だった。片方がもう一方を残して脱走したのだぞ、こんな事態は通常あり得ない」

「不老不死の話自体が、通常あり得ないんだけどね」

 茶々を入れるが、

「そもそも脱走する、ということ自体が想定外だった」とあっさり流される。「不老体と不死体には、けっしてワタシらに反抗しないような仕組みを埋めこんである。アレら以外の、バケモノどもにも同じように、暴走しないようなプロテクトが仕込んである。本能的にも精神的にも、だ。言ってしまえば躾けてあったのだ。ワタシらに決して逆らわないようにとな」

「でも、脱走しちゃったんだろ」

「そうだ。仮に脱走すれば、見つけ次第に即刻処刑。そのように言いつけてもいた。だからだろう、脱走したのは不死体のみ。不老体のほうはハウスに残されたままだった」

 なるほどな、と私は話の機微を推量する。

 脱走した何者かが仮に見つかったとしても、そいつが不死体であったならば殺されることはない。不死なのだからそういうことになる。ゆえに不死体は脱走した、という話なのだろう。

 また仮に、白衣の男たちに敵対した途端に、何かしらの不調が身体に起こるようにと躾けられていたとしても、これもまた不死体にとっては些事に相違ない。なぜなら不死体はどれだけ傷付いても死なないのだから。

 ただ、残されたほうが代わりに処刑されることもあり得るわけで、信頼関係にあった二人が相方を残して脱走するというのは、これはどうにも考えにくく、たしかに妙に思われる。

 しかしこれもまた、信頼関係なんてものがけっして錆びない鎖のようなものであると仮定すればの話だ。

 遠からず、いずれ崩れ去るものが絆という代物だ。相手を殺したかったからこそ自分一人だけで逃げた、という可能性もないわけではない。そうと考えていながらにして私は、

「薄情だな」と相槌を打つ。

 皮肉のつもりで、「自分だけ逃げたのか」と顔を顰めてみせる。

「そうだ。そこがどうにも腑に落ちん」皮肉好きは、話が通じてうれしいよ、とでも言いたげに、「アレらは互いに互いを必要としていた」と語気を荒らげてさらに続ける。「一人だけ逃げるなんてことは本来であればあり得ない。考えられるとすれば、一つだ。脱走した不死体は、不老体を護るために、一人だけで脱走した――こう考えれば筋は通る」

「動機が分かったところでさ」

 私は助言のつもりで、「目的が分からないんじゃ、意味がない」と言った。

「そのとおりだ。不死体が脱走したのは、不老体を護るため。ひいては自分たちのため。ここまでは想像できた。しかし、ワタシらの課した枷は、脱走した不死体にも組み込まれている。アレがどれだけ抗ったところで、ワタシらに危害を加えることはできない。だとすれば、アレは何のために脱走した? 謎は深まるばかりだったが、ひとまずワタシらは不測の事態に対応すべく、脱走した不死体の行方を追った」

「それでこんなにカメラが」

 部屋のなかを見渡す。そこで「おっ」と目に止まった映像があった。見慣れた景観だ。あのキザな精神科医の開いている診療所だった。こんなところにまでカメラが仕掛けられていたのか、と度肝を抜かれるのと同時に、「なるほどだからか」と合点もいった。

「あんたら、私を尾行したな。『つよき子どもの家』から、私の跡を追ったんだろ」だから私の名前やあのキザな精神科医について知っていたんだろ、と手品の種を見破った気分になる。

「尾行というほどのことでもない。カメラで追跡しただけだ。あんたが入っていくのを確認したからワタシらはあの診療所について、この者たちに詮索を命じただけにすぎん」

 言って皮肉好きは、あごをしゃくり、自分たちを庇護するように立っている背広姿の男たちを示した。

「こいつらは何なんだ?」武器を手放してはいるが、戦闘意欲まで阻喪しているわけではなさそうだ。刺し違えてでも白衣の二人を護ろうとする意気込み、言い換えれば私への殺気がスーツ姿の男たちからは、ずっと放たれている。

「これも成果でしてね。以前僕らの手掛けていた実験が、これなんですよ」こんどは白衣の男の片割れ、老いた男が口にした。「まだ横島さんと出会う前ですね、僕らは人間の理性を限定する術を編みだしまして。嬉々として学会に発表したのですが、危険すぎると弾劾されてしまい、終いには追放されてしまいまして」

 居場所を追われた彼らを拾った人物が横島奈心だったということか。私はぼんやりと彼らの過去を想像する。

「理性の操作ではなく限定、というところがミソだ」

 皮肉好きがふたたびしゃしゃり出てくる。しゃべるのが好きな男であるらしい。「多くの者たちは誤解をしているが、理性的であることと感情的であることは矛盾しない。だが合理的であることと感情的であることは矛盾する。理性と合理性はまったくの別物だ。人間は合理的であればあるほど冷徹になり、倫理観という不条理な常識から逸脱しやすくなる」

 頼んでもいないのに説明をはじめる。

「合理性は、結果を重要視する。想定した結果を得るための過程は、よりシンプルでなくてはならないと考えることが、つまりは合理的である、ということだ。逆に、理性とは、『なぜなのか』と考えることであり、言うなれば感情の一形態と呼べる。ゆえに理性的であることが必ずしも感情の欠如に結びつくわけではない。

 そしてワタシらは、理性が理性として成立する閾値を限定することに成功した。つまりが、理性をけっして揺るがぬものとして人間に与えることを可能としたのだ。この技術を応用すれば、精神疾患の治療は飛躍的に向上し、犯罪者の是正にも活用が期待できる」

「はぁ」気の抜けた相槌しか打てない。「頼むから日本語でしゃべってくれないか」

「解らないか。ではこう言おう。理性的でないために罪を犯す者たちには理性を与え、理性を以って罪を犯す者たちからは理性を奪う。たとえればそれは、ブレーキを持たない車であり、アクセルの壊れた車だ。前者にはブレーキを与え、後者からはアクセルを奪う。ワタシらはそういったことを可能とした」

 ますます以って解りづらい。こいつにとっての日本語は怪獣の鳴き声みたいにむつかしい。晦渋だけに怪獣だ。よし、うまいこと言ったぞ私。誰にともなく自慢する。

 まったく話についていけていない私を皮肉好きは見捨てることなく、「まだ解らんのか。じゃあ、こう言えばどうだ」とさらに話を掘り下げた。


      (13)

「たとえば、現代人の多くは殺人を悪として見做し、忌避している。これを人は理性的な判断による抑制として捉えているようだが、多くの者はけっして理性的な判断で殺人を忌避しているわけではない。遺伝子に組み込まれている原始的な生存本能――環境への適応が彼らにそうさせるのだ。

 人間の行動は、環境の変化によってその選択幅を変遷させる。極端な話が、住む場所が違えば、殺人を蛇蝎視してやまない人間も、人を殺し得るということだ。むろん、環境によってのみ行動が決定されるという話ではないし、社会によって人が洗脳されている、という意味でもない。

 まとめてしまえば、人間の場合、行動の決定権を握っているのが遺伝子に組み込まれたシステム、つまりが生存本能――とりわけその中でも危機回避因子と呼ばれる本能にある、という話だ。

 あんたにも分かるように言い直そう。

 人はみな単純に、損得勘定によって動いている。

 無意識であろうと意識的にであろうと、人はそうしたルールに則って生きている。これがつまり、合理性の発生要因だ」

「そういうものなのか」

「そういうものなのだ。実感がないようだが、この社会だってそうした人間の行動原理のうえに成立しているといっても過言ではない。リンゴを食せば殴られる。そうしたルールが公然と認められている社会では、多くの者はリンゴを食さなくなる。リンゴを食べることよりも、食べた後に待ち受ける損害のほうをより深刻に捉え、行動するためだ。どうしてリンゴを食べてはならないのか、そうした禁止の理由などさしたる問題ではない。食べたら殴られる。起因があり結果がある。行動の選択に必要な要素はそれだけで充分なのだ」

「まあ、そうな」押せば殺されると確定されているボタンに触れる者は稀だろう。そのボタンがどうして造られたのか、とそんな経緯は関係ない。

「これは未来を想像することのできる霊長類ならではの合理的な判断と評価できる。むろん我々がこうした合理的判断を下せるのは、さきにも述べたが、我々の遺伝子にそうしたシステムが組み込まれているからだ。それを我々は危機回避因子と呼んでいる。

 この危機回避因子は人類にのみ有されている本能(システム)ではない。哺乳類であればまず備わっている。ネズミが地震の前兆を窺知し、逃げだすなどという巷説の類があるが、それもおそらくはこうした危機回避因子の働きによるものだろう。

 人間の場合は、この危機回避因子の働きが、ほかの動物よりも鈍感だ。鈍感である代わりに未来を仮想する、想像力というものを人類は獲得した。想像力は、危機回避因子の進化とも呼べるだろう。我々は想像力を働かせずにはいられない。それは想像力を働かせることが本能からくる強制だからだ。

 ところで、想像と妄想の違いをあんたは答えられるかね。

 答は、現実までの距離感だ。

 近ければ想像、かけ離れていれば妄想となる。

 個人がこれまでの人生をとおして蓄積してきた体験や知識、そうした情報をもとに構築された『類推』の結果が、想像だ。しかしその体験や知識が乏しく、現実離れしてしまえば、それは妄想となる。ゆえに、すべての人類は先天的に想像力を持ってはいるが、想像力を働かせた先に広がる世界が、想像になるか妄想になるかは、その人物に記録されている過去の『質と量』に依存される。

 いずれにせよ、人類は危機回避因子の進化によって想像力を獲得し、そして想像力によって、合理性を手に入れた。この合理性は、危機回避のための道具であり、ほかの生物に類をみせない奇特な能力だ。人類に備わっている危機回避因子が鈍感であるにも拘わらず、ほかの動物よりも人類が危機回避に優れているのはこのためだ。

 人間は、未来を想像することができる。

 現在と未来を天秤に載せることが、人間にはできるのだ。これこそが合理性の特性だ。

 しかし合理性にできることは、現在と未来を天秤に載せることのみ。どの未来を載せるのか、またはどうして天秤がそちら側へ傾いたのか、とこうした疑問には答えられない。

 なぜなら合理性と理性は別物だからだ。

 なぜ、を考えることこそ理性の特質だ。

 話を戻そう。

 リンゴを食べることの禁止された社会において、合理的に判断すれば、リンゴは食べないほうがいい。食べれば痛い目に遭う。危機回避因子――想像力によればそうした結論が導きだされる。

 だがここでもし理性的に判断するのならば、まず初めにこう考えなければならない。

 リンゴを食してはならない理由が何であるのか、そしてその理由は罰則に足る理由なのか、を考える必要がある。

 しかし多くの者はそんなことを深く考えない。右に倣えの精神で、或いは事なかれ主義の精神で、リンゴを食さない道を選ぶ。

 なぜか。

 多くの者は、理性をきちんと働かせようとしないためだ。

 ここから判ることが何か答えられるか?

 つまり、合理性は本能であるが、理性は本能ではないということだ。

 だからこそ、後天的に干渉する余地がある。

 個人にとって重要なのは、過程であって、結果ではない。人生という過程であり、死という結果ではないのだ。

 だが、人類にとって重要なのは、結果であって、過程ではない。人類として繁栄することのみが最優先事項だ。我々の遺伝子にはそのように刻まれている。

 繰りかえすが理性は本能ではない。生活のゆとりが齎した娯楽の産物だ。

 死神と常に手を握りあう日々から解き放たれた人類が、死神に追いつかれまいと、安寧と便宜で身を固めていくうちに編みだされた習性。死神の囁きから解放された人類が、それでもなお想像力を止めることができずに収斂した、好奇心の塊。

 社会が個人に課した習性を足場に、社会が個人にゆるした好奇心を推進力に変えて、危機回避因子は我々へ、答への渇望を与える。これがすなわち、理性だ。

 死神に追いつかれ、ふたたび手を握られるまで、理性は我々に備わりつづける。それを使うのも、腐らせるのも個人の自由だ。人類はそんなものの行使を望んではいない」


      (14)

 人でありたければ、考えることだ。我々は、人類という個を形成するための細胞などではないのだよ。

 皮肉好きはここまでひと息に捲くしたてると、大きく息を吸って、ゆっくりと吐きだした。エンジンを全開にさせた車が静かに停まるような感覚がある。

 ようやく終わってくれたらしい。長ったらしい講釈だったなあ、と私が肩を揉んでいると、

「犯罪者は二つに分類できる。理性を働かせすぎる者と、理性を手放した者の二つだ」

 話がぐるりと一周して、また元の脈絡に戻った。まだ続くのか、と辟易する。

「前者は、『リンゴを食すな』との禁止にさしたる根拠がない、と判断した末にリンゴを食べてしまうタイプだ。後者は、食べたいから食べる、後のことは知らん、というタイプ――いわば野獣だ。ちなみに、おまえはおそらくこの両方だろう」

「あ、そう」

「あんたも知っているだろうが、理性には本能を律するちからがある。それは危機回避因子から派生した合理性に対しても例外ではない。つまり、理性を働かせすぎると、稀に合理的判断が下せなくなることがあるわけだが、この場合、ならば理性の働きを限定させれば、理性によって犯罪に走る者の是正は完了するだろう、とワタシらは考えたわけだ。また、野獣タイプには理性そのものを与えてやればよい。我ながらシンプルな話だ」

 呪文のようにしか聞こえない。「ごめん、なんだって」

「解らんか。たとえればだ、高い確率で露見しない犯罪の方法を偶然に見つけたとしよう。そしてその方法を試せば多くの利益が齎されるとする。話の便宜上、人を殺せば大金が手に入り、借金が返済できるとしよう。合理的に判断するならば、これは試すべきではない。その方法が犯罪であるかぎり、そして罰則の対象であるかぎり、損をすると決まっているからだ。むろん殺人が発覚しなければ損をすることはないが、『なぜ損をするのか』と考えるのは合理性の役割ではない。それは理性の役割だ。だからこそ、高い確率で発覚しない、この方法は成功する、と理性が判断すれば、その人物は殺人を犯す。この場合、理性的であればあるほど殺人を犯しやすくなる。狡猾な人間というのは得てして理性的だ。合理性を退けるだけの確かな論理を持っている」

 解らない話ではない。信号機が赤だからといって、車の来る気配のまったくない道路で歩を止めるというのは、あまり利口だとは思えない。杓子定規は合理的ではあるが、理性的ではないという話だろうか、と私は短絡に話をまとめる。

「ここまで理解できたならばあとは単純だ。理性的すぎるために、合理性を手放し、犯罪に手を染める者がいるならば、その働きすぎる理性を抑圧してやればいい。逆に、理性的とは程遠く、獣なみの合理性に従って生きている者たちには理性を与えてやればいい」

「どうやってだ」発想が単純だからといって工程までが単純であるとは限らない。「理性なんて代物、そうかんたんに扱えないだろ」

 訊いてから、失敗した、と顔を歪める。これではせっかく止まりかけた雪崩を誘発させるようなものだ。

 案の定、皮肉好きは、うむ、と唸り、

「理性は本能ではない。衣服や薬のように、いか様にもカスタマイズできる」と言った。「たとえば、半年後に人類が滅亡するとしよう。地球に隕石が衝突して、全世界の人間が息絶える。この事実が公にされた途端に、暴れだす者たちが各地で出現し、殺人や強姦がまかり通った社会になったとする」

 ここまではいいか、とめくばせされたので、問題ない、とあごをしゃくって首肯を示す。

「しかし暴徒の輩とて、人類滅亡のカウントダウンがされるまでは真面目にとはいかないまでも、道を踏み外すことなくまっとうに生きてきたはずだ。ではなぜ彼らは豹変したのか。理由は明快だ。『どうせ死ぬなら我慢など無駄だ』『やりたいことをやりたいだけやって死のう』こう考えたために彼らは、理性を手放し、合理性に身を委ねた。未来を無くした人間にとって、合理性とは欲望のままに暴走することと大差ない」

 なぜなら、と皮肉好きはまとめた。「未来を無くした人間が合理性の天秤に何を置いてみたところで、傾く方向は決まっているからだ」

 解らない話ではない。

「未来が空っぽなんだもんな」片側にどんな欲求を置いたって、天秤はそちら側に傾く。

「そうだ」正解をくれながらも皮肉好きは、「しかし、実際にはやや違う」と訂正した。「天秤に置かれた未来は空っぽだが、しかし未来そのものは空っぽではない」

「どういう意味だ」また解らないことを言いだしたぞ、とついていけない。だのについていけない話をしているこの男を面白がっているじぶんがいるのだから始末におけない。

「解らないか。ではこう言えばどうだ。どうせ死ぬというならば、人間は生まれたその瞬間から死ぬることが決まっている。これまでの日常と何がちがう? いち個人にある未来など、最初からあってなきがごとくだ。仮にある、というのなら、三十年先だろうが半年先だろうが、真実に死ぬ間際までは未来が残されていることに変わりはなかろう」

「お言葉だが、死ぬ日を先刻されたら、そりゃ自棄にもなるんじゃないのか」未来がどれだけ残されているのか、という問題よりもむしろ、唐突に先刻された余命までの期日のほうが人を狂わせるのではないか、と思った。

「それもあるだろう。また、残された未来が現在と比べてどれだけ明るいか、という問題もある。いずれにせよ、暴徒化した者たちは死ぬ日を先刻され、同時に明るい未来を奪われたと感じた。実際には、脅威はまだ目のまえに現れていないにも拘わらず、だ。彼らは言葉と、環境の変化――半年後に人類は滅亡すると信じ込んでいる社会――に、容易に流され、やすやすと理性を手放したわけだ。では逆に、彼らが理性を手放す前の段階で、『隕石は地球にぶつからずに済む』と公に報せた場合、彼らはどうしたと思うかね」

「今までどおりの生活だろ」単純な話だ。神さまに、さっき告げたキミの余命ね、あれちょっとした冗談だから、と言われたら、ふざけんな、と憤りはすれど自棄にはならないはずだ。

「そうだ。暴徒化せず、これまでどおり、理性と合理性を以って彼らは日々を過ごしただろう。人類滅亡の報せを耳にする前とほとんど変わらぬ生活だ。しかし真実には隕石は確実に衝突する。公に発表された『隕石回避』の報せは、嘘だった。かれらの余命は半年であることに変わりはない。さてキミは、この話からどんな教訓を得るかね」

「知らん。もったいぶるな」

 暗に、はやく終わらせろ、と迫ると、皮肉好きは、

「言葉と環境、この二つさえあれば、人間の理性などどうとでもできるのだよ」とまとめた。

 言葉と環境、と私も反芻する。

「うむ。言葉と環境だ。煎じつめれば、この二つというのは五感からの外部情報にすぎん。人間の頭脳が、そのように認識しさえすれば、微弱な電気信号でも構わない。ここまで言えばいくらキミといえども解るだろう。ワタシらの研究成果は、つまりがそういうことになる」

「いくら私でも解らんもんは解らん。いいから最後まで言え」

 ここまで長々と説明を聞かされたのだ、オチまで話すのが礼儀だろう。頭にくることに皮肉好きは、ほうそんなに聞きたいか、ならば話してしんぜよう、とでも言いたげに目を細めている。

「我々はな、試験体の頭脳にマイクロチップを埋めこんだ。チップは常に特定の電気信号を発信しつづける。試験体の理性を限定させるようにプログラムされた信号だ。

 言い換えれば、理性を制御できるわけだが、制御できるだけで、操作はできん。ゆえに一から十まで行動を決定付けることはできないが、このシステムを利用すれば、個人の行動をある程度誘導できるようになる。

 さんざん改良を重ねてようやく完成したのが今から十余年も前のことになる。これによってワタシらは学会を追放され、横島さんと出会い、今こうしてあんたに殺されそうになっているわけだが、こうしてあんたに説明した分だけ寿命が延びたと考えれば、中々どうして人生はおもしろい。撒いた種によって私の寿命は削られ、しかし同時に延命されてもいるのだからな。運命的だとは思わないか」

 ざんねんながら、思わなかった。


      (15)

 脱線もいいところだ。スーツ姿の男たちの正体を質問しただけなのに、三〇分も無駄にした。

 私の理解の及んだ話をまとめれば、皮肉好きたちは人間ラジコンを造ることに成功したってところだろう。当たらずとも遠からずって感じだ。

「かんたんに言や、こいつらはあんたらの実験台にされた挙句、生ける屍にされたってわけだ」

 敢えてカンに障る言い方をするも、「ちがうな」と失笑気味に否定される。

「こいつらは元々が自殺願望を募らせた、生きる屍だ。むしろワタシらは生きる目的を与えてやったのだ、感謝されはすれど恨まれる筋合いはない」皮肉好きは吐き捨てるように言い、「ましてや部外者のあんたにとやかく言われる筋合いだってない」と口元をゆがませる。

「まあね」かるく受け流す。

「こいつらは恭順だ。犬よりも忠誠に篤く、オートマトンよりも合理的に働く。ワタシらの命令は絶対でな。命を投げだすことも厭わない」

「あ、そう」

「不快かね」

「いんや。おもしろいと思うよ」率直な感応だ。生きながらにして自由意思を持たない人間を、果たして人間と呼べるのか。呼べないだろう。いや、しかし、と私はじぶんの答えに反論を思いつく。現代社会に溢れている「教育」というものもまた、こいつらのやっていることと五十歩百歩ではないのか。自由意思を限定し、社会が許容し得ない枝葉をバチバチと剪定して平均的な人間を量産するという意味では、この人間ラジコン兵士と、私の殺してきた者たちは同じではなかったか。では、私は人間を殺したのではなく、人間ラジコンを殺しただけではないのか。或いは、この人間ラジコン兵士もまた人間であるということなのか。

 思索に耽った私の思考は、ぐにゃぐにゃと非論理的な筋道を辿り、カラカル並の飛躍をみせ、ふいにイタズラ的な発想を得た。

「たとえばこいつらにさ」言いながら私は、スーツ姿の男どもをゆび差し、皮肉好きに向きなおる。「こいつらに、あんたがそっちのおっさんを殺すようにって命令したら、その場合、どうなんの? こいつら、あんたの命令で、そっちのおっさんを殺すわけ?」

 主君が複数名いれば、主君同士が敵対することもあり得るわけで、そこで「あっちの主君を殺せ」と命じられた兵士は、その「主君暗殺」の命を受けいれるのだろうか。そんなどこか矛盾然とした問題を私は閃いたのだ。

 どの主君にも従順な兵士は、どういった行動をとるのか、私は気になった。

「ほお。なかなか目の付けどころがいい。だがその程度の懸念はすでにワタシらも抱いていてな、問題は払拭してある」

「虚仮にするか、褒めるか、どっちかにしろ」

「こいつらはな、ワタシらの開発した『対象外バッジ』――言うなれば『盾』を持った人物には攻撃しない。そして我々は一人一個ずつそれを持っていた」

「へえ」そんなものを開発していたのか、便利だな、と感心してから、「持っていた?」

 皮肉好きの言葉にひっかかりを覚える。「持っていたって何だよ。今は持っていないみたいな言い方だな」

「ああ、持っていない。ワタシらは互いを信用している。保険は用意したが、それを常備するほど仲間内への不審感を募らせてはいない。それこそワタシらは三人で一つの共同体だ。わざわざ自分の手足をもぐほど酔狂な研究者(マッドサイエンティスト)ではない」

「他人の身体を実験材料にしている時点で充分マッドだよ」自覚なしとは恐れ入る。「というか、三人っておまえら二人だろ。もう一人いるのか。そいつはどこだ。逃げたのか」

 はん、と鼻で笑われる。「殺されたらしい。どっかの殺人鬼にな」

「ああ。あの女か」

 横島奈心のことだと気づき、「そいつぁ申しわけないことをした」とわりと本気で謝罪する。

 だが皮肉好きはそう捉えなかったようだ、

「ああ、まったくだ」芋虫を噛みつぶしたような面で、「まったくだ」と繰りかえし、そっぽを向いた。

 哀しむでもなく怒るでもなく、ただただ迷惑そうな男の様子に私は、ふつふつと湧きたつ陽気を隠しきれなかった。


      (16)

 拗ねたように緘黙した皮肉好きではあったが、こちらが水を向けるよりも先に、口を開いた。何事もなかったように彼は、

「おまえさんが訪れたあの診療所が、言わずと知れたアウトロー専門の診療所だというところまではすぐに判った」

 飄々とした調子で話の脈絡を正す。

 いかにして私の素情を知ったのか、といった顛末に話題が戻る。

「有名らしいな、あの診療所は。そんなところへ、患者でもないあんたが入っていき、すぐに出てきた。これはもう、あんたとあそこの医師はそういう関係なのだろう、と容易に推測できた」

 どういう関係に見えたのだろう、と想像しつつ、

「そういう関係ってほどでもないけどな」と否定しておく。

「アウトローを専門に扱う診療所。なにか得体の知れない不安を抱いたワタシらは、手っとり早く診療所のサーバへとアクセスし、それらしい情報を漁った。するとどうだ、とあるフォルダのみが隔離されていた。さも重要だ、といわんばかりにプロテクトまでかけられてあってな。開けてみるとそこには『戦々虚右京』とかいう女のデータが入っていた。データといっても、名前と性別、あとは短いメモが箇条書きで連なっているだけの、さして重要でもなさそうなテキストだ。カルテでさえなかった。しかしそこには同時に、『戦々虚右京』と思しき女性の写真がいくつも入っていた。まぎれもなくそれは、ハウスに侵入してきた女と同じだった。つまりが、あんただ」

 ハウス。「つよき子どもの家」のことだろう。横島奈心もあそこをそう呼んでいた。あそこへ立ち入った瞬間から私はこいつらから監視されていたようだ。

「データの箇条書きには、あんたが殺人鬼で、しかも尋常ではない資質を秘めているといった旨が記されていた。つまり、バケモノだとな」

「まさかそれを信じたわけじゃないだろうな」

「半信半疑ではあった」ここにきて皮肉好きは初めてまっすぐと私を見詰めた。「あんたはどう見てもそこいらにいる娘だ。なんら特別には見えない。だからといって、中身までもが平凡かといえば、それはちがうだろう」

「平凡ねえ」

「現にあんたは造作もなくハウスに侵入した。しかも無事に出てきただけでなく、番犬までをも手懐けていた」

「番犬?」

 話が見えなくなりました、と態度で示すと、皮肉好きは、「あのハウスには」と述懐した。「あのハウスには、エレベータの指紋認証システムのほかに、番犬がいる。エレベータのセキュリティを解除し、入口まで到達できたとしても、部外者はまずあそこで番犬に始末される」

「だからいなかったぞ、番犬なんて」

 何を言っている、と皮肉好きが笑い、よこの年老いた男も私がジョークを言ったみたいに薄ら笑った。私がだんまりを決めこみ、不機嫌を態度で示すと、白衣の男たちは、すぐに表情から笑みを引く。それから誤魔化すように年老いた男が、

「あなたはずっと背負っていたではありませんか」と声音を阿諛に染めた。

「背負っていた? 私がか? 何を? 番犬をか?」

 はい、と年老いた男が肯定し、ああ、と皮肉好きも素っ気なく頷く。

「私がおぶっていたのはだって」私はなんだかちょっと責められている気がして、だから怯みながらも、「だって」と繰りかえし、ちゃんと彼らへ指摘する。「だって私がおぶっていたのは、こんなにちいさな子どもだぞ」

 ミウだぞ、と言いながら私は、思いだしていた。

 気配なく私の間合いに侵入してきたあのミウの、人ならざる身の熟しに、私はたしかに人外のなにかを感じていたのだ、と。

 視界の端にふと視線を感じる。

 コンピュータの立ち並ぶデスクの一つに、口を塞いでいる猿の置物が置かれ、こちらをじっと見詰めている。




   第三章『殺りマン、ハメられて悶える』



      (1)

 そもそもの発端を考える。

 殺人代行を名乗る男に突然襲われた私は、そいつを組み伏せ尋問し、「横島奈心という女から殺人を依頼された」との情報を聞きだした。彼女の所有しているビルの住所もそいつから教えてもらう。

 情報を聞きだせばあとは用済みなので、私はそいつの首をかっ裂いた。そうして、さっそくとばかりに教えてもらった住所「つよき子どもの家」へと足を運び、そこでミウやフローと出会った。

 だが「つよき子どもの家」に横島奈心の姿はなかった。

 彼女についてのさらなる情報を求めようと私は、キザな精神科医のいる診療所へと向かい、そこで島奈心についての情報を仕入れた。

 彼女の居場所を特定できた私はその足で、横島奈心の潜伏先であるこのビルへと赴いた――まではよかったが、あっさり拘束されてしまった。私の動向があちら側には筒抜けだったらしい。

 しかし、横島奈心と話をしているうちに、いくつかおかしな点に気がついた。

 一つ、彼女たちは私について知らなかった。

 二つ、彼女たちは殺人依頼などしていない。

 三つ、彼女たちはナニモノかを追っていた。

 そのナニモノかについては、横島奈心を殺したあとで、彼女の仲間らしき白衣の男たちと話してみて分かった。

 横島奈心、彼女たちは不老体と不死体と呼ばれる「生き物」を飼っていた。

 そのうちの一匹が逃げだし、彼女たちはこのビルを拠点に監視の目を張り巡らせていた。街中いたる箇所に設置されている監視カメラをハッキングして。

 彼女たちは不死体と不老体のほかに、幾つかの「バケモノ」も飼っていた。

 それらを彼女たちは、孤児院という名の偽装を施した檻に閉じこめていた。

 そこへ私がやってきた。

 今回私が陥った一連の面倒事は、どうやらそういう顛末になるようだ。

「つよき子どもの家」が檻であるなどとはつゆ知らず、私は事情も何も知らずに足を踏み入れた。出迎えたのはちいさな女の子だ。それがつまりはミウであり、白衣の男たちの言葉でいうところの「番犬」であるようだ。

 そうだとも。ミウは単なる子どもではなかった。

 人殺しの間合いに、すんなり侵入してしまえる人ならざるモノ。

 バケモノに気取られることなく、バケモノを仕留めることの可能な、バケモノ。

「番犬は、相手が何者であろうと排除する」と皮肉好きは語った。「これもまたそのようにワタシらが躾けたからだ。ハウスの内側に侵入してきた異物に対しては、ことごとく敵対するようにと調教してある」

 ならどうして、と疑問に思う。「ならどうしてミウは私を殺さなかったんだ」

「それが解せんからワタシらもこうして頭を悩ませている」当りまえのことを訊くな、といったような顔をされてしまう。

 なにもおこらなくったって、と拗ねたくもなる。

 何もかもがちぐはぐだ。これが私の印象だった。絵柄はそれっぽいが、絵柄を構成するピースがどれもぴったり嵌っておらず、隙間が空いている。これではまるで虫食いだらけの絵画だ。

 しかしその虫食いの部分をよぉっく見てみると、それは偶然空いた孔ではなく、意図して空けられている孔なのだと判る。ただ背景が欠けているだけではなく、重要な何かが欠けているのだ。それはたとえば、煙突だ。

 空と陸を結ぶ、煙突。

 青い絵の具で塗りたくられた空に、もくもくと浮かんでいるのはてっきり雲だと思っていたのに、いざ欠けたピースを嵌めてみると、そこには煙突が現れる。これによって風景に描かれていたのは雲ではなく、煙突から立ち昇る煙だったと判るのだ。

 わたしが感じているのは、このような類のちぐはぐに相違ない。

 私はきっと錯覚している。いつから何を錯覚しているのかは未だ判然としないが、それでも私はきっと決定的な何かを見落とし、致命的な誤謬を抱いている。

 そうだとも。私はとてつもない勘違いをしている。

 その勘違いのせいで、私は無自覚に損をしている。

 損害。

 たとえばそれは単純に、金銭だ。

 私はここへ来るために、情報料として、「害虫駆除」二回分を棒にふっている。

 あのキザな精神科医に対して支払ったこれは対価だ。

 だが、こうして横島奈心を殺し、白衣の男たちと言葉を交わしてみればどうだ。そもそも私はあの診療所で横島奈心についての情報を穿鑿する必要などなかったらしい。なぜなら、横島奈心たちは、私が「つよき子どもの家」へ足を踏み入れた段階で、私に対して何かしらのアクションを起こそうとしていたのだから。現に彼女たちは街中に溢れる無数のカメラを総動員し、私の動向を見張っていた。

 つまりこれは、遠からず私は横島奈心を殺していただろうということを示唆している。

 横島奈心たちは私を見張っていた。たとい私が「つよき子どもの家」へ出向かずとも、どの道あのキザな精神科医のことも嗅ぎ回ったはずだ。そこで私が殺人狂だと知った彼女たちは自分たちの身を案じ、早急に何か手を打ったにちがいない。家の近くに人食いクマが出現したと知って、対策を講じないアホを、私はあいにくと知らない。

 だとすればやはり私は、いずれ横島奈心一派を鏖殺していたことになる。向こうからこちらに対し、何らかの干渉をしてきたならば――そしてそのことをあのキザな精神科医が察知したならば(きっとしたに相違ない)――私はキザな精神科医から「駆除」の依頼を受けて彼女たちを鏖殺するはめになっていただろう。横島奈奈心たちの出方次第では、その鏖殺が、私の自発的な返り討ちによるものになるかもしれないが、いずれにせよ、これにおいて私は損をしない。

 今回のようにこちらからすすんで横島奈心を詮索するような真似をしなければ、「横島奈心一味鏖殺」という結末が変わることなく、「害虫駆除」二回分を損することはなかったのだ。

 ここで私はふと、違和を感じた。

 そうなのだ。私はどうあっても、横島奈心を殺すはめになる。私が損をするか、しないかは別として、結末は変わらない。

 私はあまり、殺す人間を折衷することはない。殺せればそれでいい。男どもが白い欲望を発射できればそれで満足できてしまえるように、私もきっと内なる欲動を殺人という行為で発散できればそれでよいのだ。

 だから。

 私は、見知らぬ人間を殺すことに躊躇を抱いたりしない。いっぽうでは、わざわざ特定の個人に執着する類の殺人を私はこれまで数える程度にしかしてこなかった。むろん、キザな精神科医のあの女から依頼されれば、特定の個人を殺す。けれどそれは飽くまで仕事である。純粋に私が満腔の殺意を籠めて殺した相手となると、初めて殺したあいつだけになるだろう。

 そうだとも。

 横島奈心。私にとって彼女は、見も知らないだけでなく、真実見たこともない相手だった。それを私はどういうわけか、わざわざこちらから出向いてまで殺そうとした。

 私らしくない。

 あまりに自然に、「殺しておくか」と思ってしまったが、私が率先してこう思うこと自体がそもそも不自然なのだ。

 ことの発端は、やはり路地裏で襲いかかってきたあの男にある。

 あの男が、依頼主である横島奈心についての情報を私へ吹きこみ、横島奈心への殺意を私へ擦りこんだ。

 作為を感じる。得体の知れない、作為が。

 これは何者かの陰謀だ。

 私は沸々と湧きあがる憤りを、ムラムラとした殺意へと変える。

 操り人形と奴隷なら、こき使われていると自覚できる分、奴隷のほうがまだマシだ。私はわりと本気でそう思う。


      (2)

 白衣の男たちを見逃したわけではない。

 あの男は、「不老不死を見せてやる」と豪語した。私はそんなのは無理だと否定した。ここに一つの賭けが成立した。だからその結果がでるまでは殺したくとも殺せないだけだ。

 そうだそうだ、と私は誰にともなく言い訳をしながら、ネオンの燦然(さんぜん)と輝く繁華街へと歩を向ける。

「逃げるのは自由だけど、あまりおすすめはしないよ。探しだそうと思えばいつだって探しだせちゃうんだからさ」横島奈心のアジトを後にするとき、私は白衣の男たちにそう念を押した。「せっかく私が賭けにのってあげたんだから、不老不死の実験ちゃんと終わらせてからでも死ぬの、遅くないんじゃないか」

 言われるまでもない、と皮肉好きが偉そうに言い、お言葉に甘えさせてください、と初老の白衣が頭をさげた。

 寿命が尽きる前には終わらせてくれよ、と私は皮肉たっぷりに返した。

 いちど住処へと戻る。美着替えをするためだ。月額二万円の安アパートで、四畳半ほどの広さだが、「バス」「トイレ」完備なので不満はない。着替えを終えたらもんどりうって街中へと戻り、まずは何をおいても腹ごしらえだと考え、ファーストフード店に入った。腹が減っては戦もできぬし、人殺しだって捗らない。

 注文したハンバーガをガツガツ頬張る。つぎつぎに嚥下する。窓に映るじぶんの顔を眺めると、ほっぺたを膨らませたハムスターのような顔つきになっていた。へんな顔である。

 いくつか考えていることがあった。今回の一件についての考察だ。

 一見すれば、中心人物は横島奈心であるかのようにカモフラージュされているが、実のところこれはちがう、というのが私の率直な感応だ。

 どこかに真の首謀者がいるはずだ。

 だいいち横島奈心は私を殺そうとしていなかった。いや、私が「つよき子どもの家」に足を運び、それから診療所を経由して彼女のアジトへと出向いたころには、すっかり私は彼女にとっての要注意人物になっていたようだが、それでも私が「つよき子どもの家」を訪れなければ、彼女はきっと私という存在を歯牙にもかけていなかっただろう。それこそ、存在を知ることさえなかったはずだ。

 横島奈心、彼女と言葉を交わしてみて私はそれを確信した。

 彼女もまた、傀儡(くぐつ)だったのだ。

 では、裏で糸を操っているのは誰なのか。誰が傀儡で、誰が五本のゆびをわさわさと動かし、無数の糸をからめることなく傀儡を操っているというのか。

 私はそれらしき人物に当たりをつけてみる。すると全員が全員怪しく思えてきた。とりあえず挙げ連ねてみる。

 路地裏で私に襲いかかってきた男。「つよき子どもの家」の番犬と、彼女たちの面倒を看る少女。横島奈心一味と、一味のもとから脱走した〝不死体(ナニモノか)〟。そして、キザな精神科医。

 このなかにすべてを見通し、私を含めた複数の個を操っている人物がいる。

 ――ような気がする。

 完全な部外者による策略の可能性も高い確率であるわけだが、私の勘が言っている。

 犯人はこのなかにいる!

 ともあれ、どいつもこいつも犯罪者顔負けのアウトローであり、私にいたっては生粋の人殺しだ。ある意味では、どいつもこいつもなにかしらの犯人であるわけなのだが。

 いずれにせよ私を含めた犯罪者どもは、背中から伸びる無数の糸に気づかず、いいように立ちまわっている。その糸を辿れば、辿りつくはずだ。基盤で独楽を回すように私たちを互いにぶつけさせ、散った火花を見てほくそ笑んでいる人物が。

 さぞかし楽しいだろう。私は至極とってもうらやましい。

 できるなら私もそちら側にいきたい。

 じぶんの思いどおりに他者を動かし、カブトムシ同士で相撲をとらせるみたいに、互いで互いを戦わせる。こんなに愉快なことがあるだろうか。もしかしたらそれは、じぶんの手で他者の命を摘むよりも高揚できる秘めごとかもしれない。

 そうだとも。私は他者の命を奪いはするけれど、弄んだ真似はいちどだってした憶えはない。いつだって私のしてきたことは命の破壊であり、命を使ってのお遊戯ではなかった。

 嫉妬。

 なのだろう。

 うごうごと渦巻くこの言い知れぬ感情はもしかしたら、こんなおもちろそうな遊戯を思いつき、あまつさえ実行している誰かさんへの嫉妬かもしれなかった。

「いいなぁ」

 羨望とも憧憬ともつかない所感が胸いっぱいに膨らんで、私をひどくムラムラさせる。

 ぼやけていた視界が鮮明になる。窓のそと、眼下には通行人が右往左往と行きかっている。

 ポテトを摘もうと手を伸ばすものの、摘むべきポテトは一本もなく、すでに胃に収めていたことに気づく。飲み物も空っぽだ。

 さて、と。

 席を立って私は店を後にする。


      (3)

 つよき子どもの家。

 私はふたたびこのビルのまえまで足を運んでいた。とくにこれといった考えがあったわけではないが、まずは、人ならざる子どもたちに、もういちど会っておこうと思い立った。その場任せの閃きにはちがいない。

 ビル内部は相も変わらずひと気が感じられず、エレベータも一階に止まったままだ。エレベータに乗りこんで私は、昼間に来たときと同じように、ただ五階のボタンを押した。

 到着し、扉が開き、ゆっくりと降りる。

「こんばんは。きっとまた来てくださると思ってました」

 出迎えてくれたのは番犬たる幼子のミウではなく、麗しの少女「フロー」だった。

 私はロビーをぐるりと見まわして、監視カメラを探す。ひぃ、ふぅ、みぃ。なるほどよくよく目を凝らしてみれば、いたる箇所から超極小カメラがこちらを覗いている。

「カメラですか? 気にしないでもだいじょぶです。昨日の映像と切り替えてありますので」

 つまり細工が施してあるので現在こちらの姿はカメラには映っていないということか。

「立ち話もなんだし。さあどうぞ。こちらへ」

 一個しかない扉を開き、フローが通路先へ手を差し向ける。

 どうすべきかな、と私が逡巡していると、

「こわいですか?」

 まるで幼子へ語りかけるみたいにフローが甘い声をだした。

「あ? なにがだ」

 私がこわがっているとはなかなかどうしておもしろいことを言うじゃないか。ここにきて私は、フローへの評価を、弱々しい美少女から、裏表のある魔性の女へと、つけ直した。フローのよこを抜け、扉をくぐる。飄々とした態度を心がけながら通路の奥へと歩を進める。「で。どの部屋に入ればいいんだ」

「一番奥へ」ささやくように言ったフローは、私の背後でしずかに扉を閉めていた。

 通路の一番奥にあるのは院長室だ。

 私がフローと出会った部屋である。


      (4)

「さて。説明してもらおうか」院長室に入ってから私はさっそく口火を切った。無駄に豪勢な椅子に腰を下ろし、ふんぞりかえって、

「キミが仕組んだことなんだろ。これはさ」と足を組む。

 フローはこちらに背を向けたまま扉に鍵を掛けている。ゆっくりとこちらを振りかえり、こてん、と小首をかしげるその仕草は、しょうじき可愛らしいと絶賛してやるにさぶさかではない。が、私は、やわらかな微笑を湛えているこの少女をまえにして警戒を緩めることができないでいた。

 ふたたび会ってみて確信した。首謀者はこの娘、フローだ。

 昼間会ったときにはなかった剣呑さとしたたかさが彼女からは感じられている。無垢な少女にあるまじき怪しくも禍々しいオーラが、花弁から匂いたつ色気のように、彼女の華奢な肉体から滲みでているのだ。

 さいさきが良い。どれにしようかな、神さまはいじわるだ、と掛け声を添えながら適当にゆび差した獲物が、かねてより追っていた獲物だった、くらいの運の良さだ。

 それにしてもあなどれない娘だな、と私はフローを評価し直す。

 まるで別人みたいだ。昼間のあの弱々しい、いかにも護ってあげたくなるようなけなげなキャラは仮初だったのか。なかなかの演技派じゃないか、と私を出し抜いたフローの演技を褒めてやりたくなる。と共に、彼女の偽りの仮面を見破れなかったじぶんの眼に、腑抜けだなぁ、と呆れたりもする。

 いっこうに言葉を返さないフローへ向けて私は、

「フローちゃんが仕組んだことなんだろ、ぜんぶ」同じ質問を重ねて問う。

「なんのお話ですか」フローはやっと声をだした。どこまでも柔和に、「わたしが仕組んだこと? それってもしかして、あなたがあのひと――横島奈心を殺すように仕向けたのがわたし、というお話ですか」

 白を切っているのか、それとも墓穴を掘っているのか、判らない台詞だ。頭がくらくらした。

「つまり、えっと、なに」

 やっぱりキミが仕組んだことなの、と確認する。

 横島奈心を殺したという話を私はまだ、フローに聞かせていない。にも拘らず彼女の口振りはそれを前提にしている物言いだ。すべてを見透かしているみたいな余裕も感じられる。

「さあ。どうでしょう。信じてもらえるかは解りませんが、でもわたし、ずっとここにいたんですよ。仮にわたしが仕組んだことだとして、ならわたしはどうやって実行したのでしょう? ふしぎですね」

「ふしぎなのか?」

「だってわたしたちはここから出て行けないんですよ」フローは私をからかうように言った。

 彼女たちはここから出て行けない。この「つよき子どもの家」からは出られない。

 ああそうだった、と私は白衣の男たちの存在を思いだす。

「ここ、監視されてるんだもんなぁ」周囲に目をやって監視カメラを探す。しかしすぐに、いやいや、と自分の鈍臭さにつっこみを入れる。私はなにをバカ正直に彼女の言葉を真に受けているのだ。ついさっき彼女は監視カメラの監視能力を無効化していたではないか。そう思い至り、「そんな言葉、信じられるか」と突っぱねる。

「信じる信じないはさほど重要ではありません。私たちが監視されていることも、それほど重要ではないんです。だってわたしたちはここから出られないわけじゃないんですから」

「どういう意味だ」さっき自分で『出て行けない』と言ったばかりじゃないか。彼女の自家撞着な台詞に閉口する。

「出られないのではなく、出て行けないんです」

 同じじゃないか、と膨れる。

「同じじゃないんです。わたしたちはけっして閉じこめられているわけではないんですから。この『つよき子どもの家』はたしかに厳重に警護されてはいます。でもそれは飽くまで外部からの侵入を阻止するためのもので、内部から外部への出入りは基本的には自由なんです。それはあなたもごぞんじのはずですよ」

「まあな」

 たしかに昼間、ここを去るとき、私は来るときと同じくただそのままエレベータに乗り、なんら手を煩わされることなくそとへと出た。しかし、だとすれば、

「なら、おまえもそうすればいいじゃないか」

 ここが牢屋でないというならば、出たいときにそとへ出ればいい。

「それができれば苦労しません」あなたは何も解っていない、と憂(うれ)え顔に目を細められてしまう。「わたしたちはここから出て行けないんです。なぜかは解りません。人類という生物種が、なぜこの地球上で生まれ、そして現在こうして繁栄しているのか。それが解らないのと同じように、或いは、それが当然であることと同等のレベルで、わたしたちはこの『つよき子どもの家』からそとへ出て行けないんです。それはきっと横島奈心――あのひとがわたしたちへ課した呪いのようなものなんだと思います」

「呪いねえ」あの女が死ねば出ていけるようになるとでも本気で思ったのだろうか。アホくさい。しかし、この小娘は本気でそう信じたのだ。だから実行した。

「あのひとがこの世に存在しているかぎり、わたしたちはここから出て行けない。でも、わたしが言っている『出て行けない』というのはむしろ、その呪いを度外視したところで発生する、わたしの葛藤なんです」

「葛藤ねえ。話がいちいち分かりづらい」この要領を得ない説明の仕方は、どこかあのキザな精神科医を思わせる。わたしは耳のあなをほじくりながら、

「で? その葛藤ってなに」

 話を促す。こんな茶番はさっさと終わらせたかった。聞いてやるから手短に話せ、と態度で示す。フローは頷き、たとえば、と言った。

「たとえばわたしが逃げたら、ほかの子の面倒は誰が看てくれますか? あのコたちを誰が護ってくれますか?」

「いや、知らんがな」私に訊かれても、とこめかみを掻く。「そこまで言うなら、いっしょに逃げてやればいいだろ」

 返答が投げやりなのは、この話への興味がことのほか薄いからだ。

「いっしょに逃げる……かんたんに言ってくれますね」私の物言いが気に障ったのか、フローはここで初めて反抗的な目つきをした。「それができれば誰もこんなまどろっこしい真似なんかしないです。わたしはたしかにここから出たい。でも、それはわたしの自由意思であって、あのコたちの意思ではないんです。わたしの勝手で、あのコたちに迷惑はかけられません。わたしの都合で負担を強いたくはないんです」

 話は理解できた。たぶんこういうことだろう。

 家出をしたいが、すれば妹たちに迷惑がかかる。いっしょに出ていこうにも、そのさきに待っているのは、安全からはほど遠い生活だ。そんな不自由な暮らしを妹たちに強いるのは酷に思われてならない。ならば妹たちの人格が成熟するまで待ち、そのうえで「そとで暮らしてみたい」と望むようであればいっしょに暮らす。それまではじっと現状に耐え、機が熟すのをただひたすらに待つのみ。

 ならば、それまでがまんすればいいだけの話だろ、と口を衝きそうになったが、がまんできなかったからこそ、こうして彼女は葛藤し、まどろっこしい真似をしたのだろう。

 横島奈心を葬り去り、解放を手にする。

 自分たちはそとに出て不自由な生活をし、かたやいっぽうで、妹たちを庇護する。横島奈心の保持していた資産――「つよき子どもの家」を利用して。

 だがそれは一筋縄ではいかない伸るか反るかの、でたとこ勝負だ。本来であれば実行を見送るべき未熟な策であるはずだ。

 それでもフローは行動に起こした。

「わたしたちは命を賭けています。こんなこと、あなたに言っても笑われるだけだと思いますけど、でも、わたしたちはそれこそ生きる意味そのものを喪う覚悟を背負って、こうしてイチかバチかの立ちまわりをしています」

「つまり、私に殺される覚悟があるってことか」むろんその覚悟はあるのだろう。人殺したる私を利用したのだ。その程度の臍は固めてもらっていなければ、利用された私の面目が立たない。

「ざんねんですが、あなたに殺される覚悟はしていません。だってわたしたち、あなたに殺されるほど甘くないですから。これでもバケモノなんですよ、わたしたち」自虐的に嘯きつつもフローは、「でも」と下唇を噛みしめ、「あなたに殺されてしまったほうが楽になる――そんな結末なら覚悟しています」

 見詰め合うことで、彼女が固い決意を抱いていたことが判った。

 が、

「なんだかなあ」私が期待していた筋書きとだいぶんちがっている。どれだけ目を皿にしてみてもフローの表情からは「愉快」の二文字が見当たらない。じぶんの抱いていた推測が的を外していた事実に、私はしょうじきがっくりきた。コメディ映画を借りてきたはずが恋愛映画だった、くらいの拍子抜け具合だ。

 今回の一連の私の行動はすべて、私がこの手で横島奈心を殺すようにと仕組まれたものだ。

 仕組んだのはフローであり、黒幕もまた彼女であるのだろう。

 ここまでは半ば私が予想していたとおりだし、確からしいのだが、しかし彼女はなにも愉快だからといってこんなおもしちろそうな傀儡師の真似ごとをしているわけではなかったのだ。

 ではなぜこんな七面倒なことを、と嘆きたくなるが、実のところ答はすでに導かれている。

「自由になりたかったのか」

 白衣の男たちとの会話から推し量るに、そういう有り触れた動機にちがいない。そうだそうだ、と私は決めつける。

「自由?」フローは私の言葉にきょとんとして、「そんなものいらないです」と否定した。その姿はまるで、こいつのサインでは不服です、○○様のじゃなきゃイヤなんです、と頑固一徹ばりに駄々を捏ねるアイドルオタクのようだ。

「わたしたちが欲しいのは自由なんかじゃありません。わたしたちはただ、不自由にもなれないこの窮屈な世界のそとに出てみたかっただけ。わたしたちが閉じこめられているこの、なに不自由なく、なんの苦労もない安全な世界――『つよき子どもの家』のそとで暮らしてみたかっただけなんです」

 なんだ。やはりそんなことか。

 私は落胆とも失望ともつかない空虚な感覚に襲われる。欠伸を噛みしめつつ、

「横島奈心には言ったのか」あの女には相談しなかったのか、と責めるでもなく確認する。

「しましたよ」フローは目を伏せた。「でも、あのひとは許してくれませんでした。いえ。ちがいますね。言葉では許可をしてくださいました。でも、けっきょくはそれも場所が変わるだけ。わたしたちはまたあのひとの目の届く範囲――なに不自由なく、なんの苦労もない、安全な世界に閉じこめられるだけだと悟りました。動物園の檻のなかはたしかに安全で、管理の行き届いた空間なのだと思います。でも、檻のなかで一生を過ごすことよりも私は、危険の跋扈しているそとの世界で生きてみたいんです。わたしたちはだから、決めたんです。あのひとからの庇護を徹底的に拒絶してみようと――あのひとを葬り去ろうと……。安全も自由もいりません。必要になったら自分で手に入れます。不便でも危険でも構いません。便利はときに退屈です。わたしたちはだから、ただ、不自由にもなれる世界に身を置いてみたいだけなんです」

 ひといきに捲くしたてると、彼女は最後にこう零した。「わたしたちはあのひとたちからたいせつにされすぎたんです」

「ぜいたくな願いだな」本心からの言葉だ。「なにをすき好んで、不自由な世界に身を置きたがるんだか。私にはとんと理解できんね」

「理解なんて求めていません」ぴしゃりと跳ねのけられる。「それに、あなたにだけは言われたくないですよ。アウトローのなかでさえアウトローな存在になってしまう、あなたみたいなひとにだけは」

 ふふ、とフローは屈託なく笑った。

 彼女のその破顔からは、私に対する侮蔑の念は微塵も感じられなかった。


      (5)

 フローから聞かされた顛末をまとめれば、今回の一件は実に単純明快な話であるようだ。横島奈心からの干渉を断ち切りたかったフローたちは、そのために横島奈心をこの世から葬り去ろうと考えた。この一文に要約できる。

 自分にとって邪魔な者を目のまえから排除する。

 殺人を犯す動機としては、これほど卑近なものはないのではないか、と嘆息の乱れ撃ちを禁じ得ない。これまでこの世にのさばった殺人者どもの過半数が抱いていたと言ってもいいくらいに有り触れた動機にちがいないのだ。

 だがフローは、自らの手で横島奈心を葬り去ろうとは考えなかった。なぜかは詳らかではない。フローは、「呪い」だとか「呵責」だとか言っていたが、あまり深く考えるべき事項ではないだろう。なにゆえ斯様な殺し方をしたのかといった「手段の考察」は、概要を把握するうえでは瑣末な事柄だ。

 いずれにせよフローは考えたのだ。

 自分たちで殺すのではなく、まったく無関係の第三者に横島奈心を殺してもらおう、と。

「なんとも幼稚な発想だなあ」

 私はのほほんと呆れたが、その第三者に選ばれたのが私であるという事実に気づき、なんだかこれはおもしろくないぞ、と危うくじぶんに失望しかける。

「話は分かった。キミは私を使ったし、私も私で、きっかけが何であれ、じぶんの意思で横島奈心を殺した。だからキミを責めたりしないし、むしろ尊敬する。偶然にしろ、意図的にしろ、他人を意のままに操ったんだから。でも、そのあとのことはどこまで考えていたのかな? まさか私がキミたちを殺しにふたたびここを訪れる可能性を考慮していなかったわけではないだろ」ああ楽しみだ、と私は大きく目を見開いて、

「さあ、見せてみて。どうやってこの状況を打破するのかを」

 演技がかった口調で言ってみせる。

「わたしを殺すのですか」

「当然そのつもりだけど」部屋を見渡してみるも、とくに何かしらの仕掛けが施されている様子はない。私とフローの距離は五メートルほどで、机を挟んではいるが、間合いを詰めるのに一秒も掛からない。しかもフローは、ここへ入ったあとで扉に鍵を掛けていた。解錠するまでには数秒を要するはずだ。どうあっても私との接触は避けられまい。であれば、私が動かないうちに私の自由を限定する枷を発動させるか、或いはすでに私に対抗し得る手段を講じているか、このいずれかがなければフローに訪れるのは死あるのみ。むろんそうならぬようにとフローは保険を用意しているはずだ。そうでなくては私が困る。張り合いがなさすぎて。

「失望させないでな。これでもキミには期待しているんだから」

「そうなんですか? わあ、光栄です。どこの、どんな時代でも生粋の殺人鬼として孤独な道を歩むしかないあなたのような方に期待されるなんて。わあ、ほんとうに光栄です」

 小馬鹿にしているのではと疑いたくなるほどの仰々しさであるが、やはりフローからはこちらを侮蔑する意味合いの感情は感じられない。と同時に、それを物語るほどの緊迫感のなさがある。きみはすこし純粋に無垢すぎるぞ、と思いきり抱きしめて、背骨をボキボキへし折りたくなる。だから私は素直にそうすることにした。こちらにはもう我慢する筋合いはない。

「そいじゃ」

 たくさん楽しませておくれ、と悪者じみた言葉を紡ごうとしたところで、

「ではお言葉に甘えて」

 フローの言葉に遮られる。

 虚を衝かれたわけでもないのに、机に足を乗っけた状態で私が一時停止してしまったのは、たぶん、フローへの期待からくる逡巡だろう。このまま殺してしまうのはもったいない、これくらいは待ってやってもよいのではないか、という甘い考えがあるいっぽうで、そんな情けを掛けずともこの娘ならば私から逃れることなど造作もないはずでは、というより純粋な期待が私の思考を淀ませる。

 思考が淀みつつも私は、ゆっくりと机を乗り越える。これは私の意思というよりかは、「車は急に止まれない状態」だと判断するのが適切だ。予期しない思考を巡らせるだけで人は、緩慢な肉体の動き――身体の流動性を損なう。瞬間的に間合いを詰めようとしていた私からは、この時点ですでに、「瞬間的」の三文字が失われていた。

 私がやっとこさ机を乗り越え、ゆかに着地したとき、フローは懐から取りだしたリモコンを操作していた。

 そのリモコンには見覚えがある。昼間この部屋へ入ったときに机のうえに置かれていたものだ。あのとき、私がリモコンを操作しようとしたらフローがやけに機敏に反応して、こちらの手を抑止しようとしていたのが印象的だった。

 この至近距離であれば、リモコンを取り上げようとすればできたかもしれない。

 それくらいフローは隙だらけだったし、現に私はフローの、白くしなやかな腕、卵の先端のようなつるつるの肘、絹のようにキメやかな首筋、不慣れなリモコンの操作に集中するつぶらな瞳――フローの肢体から幼い所作まで、すべてを余すことなく視界に捉えていた。冷静だ、とじぶんを評価できる。

 と、

 ふいに視界が揺らぐ。

 重力変化が足元から頭上へ這い上がってくる。

 部屋が動いているのだ、と理解する。一瞬の緊張が走る。

 すぐに、部屋ではなくゆかが大きく振動しているのだと認識しなおす。

 状況を把握しようと部屋を見渡すと、背後の机が大きく移動していた。それまで机が置かれていた位置に、ぽっかりと穴が空いていく。やがて振動が収まると、そこにはおとなが一人入れる程度の階段が現れた。

 視線を外していたあいだにフローは私のよこをすり抜け、ひょいひょい、とその穴へ逃げ込もうとする。

 しまった。

 目を離した途端にこれだ。

 こういう事態を期待していたくせに、いざ陥ってみるとあまり気分のよいものではないな、とやるせなく思う。

「こら、待て」

 うでを伸ばし、フローを捕まえようとするも、するりと交わされて、穴へ飛び込まれてしまう。ゆびのあいだを抜けていく水みたいだ。

「なんだよ、動けるじゃん!」思いのほか軽快なフローの身の熟しに、自然と笑みが零れる。ゆかに空いた穴ぼこを見遣って、

「くっそう。わくわくするなあ、もう」

 首を鳴らして私は、フローを追うため、ゆったりとした足どりで階段を下りていく。


      (6)

 階段を下りることおよそ九階分。地上五階部分を差し引けば、実質、地下四階分の深さになるはずだ。階段を下りきると、扉があった。

 ドアノブが見当たらない。ゆびをひっかける溝もない。どうやって開ければよいのだろう。いっそ蹴り破ってやろうか、とあごに手を添えて考えていると、自動ドアよろしく扉がひとりでにスライドした。

 眩しい。

 反射的に目を閉じる。

 階段(こちら)側には明かりがなく真っ暗なのに比べ、扉の向こうは煌々と光が満ちて感じられる。

 間もなく視界が安定する。どうやら、突然の光に、目がびっくりしただけのようだ。光源はそれほどつよいものではなく、月光みたいにやわらかな明かりだ。

 目のまえに開けた空間は、フットサルでもできそうな広さがある。天井も高い。

 どこを向いても白く、何も置かれていないがらんどうの部屋だ。目が痛く感じたのはきっとこの白さの影響もある。

 部屋は明るいものの、見渡しても光源が見当たらない。壁それ自体が淡く発光しているふうにも見受けられる。

「どうも。また会いましたね」

 男が一人立っていた。こちらを出迎えるにしては、いささか距離が離れすぎてはいまいか。睥睨ついでに目を凝らす。どこかで見た顔だなぁ、と考えること三秒。

「あ、おまえ」

「やは。どうも。このたびはお世話になっております」

 こちらから視線を外すことなく低頭するその男は、路地裏で私に襲いかかってきた男と同じ外見をしていた。だがおかしい。あの男は、私がきちんとこの手で殺したはずだ。

「双子か?」

 あの男とこいつが双子である可能性を考える。仮にあの男が致命傷を免れ、生きていたとしても、目のまえに佇むこの男と同一人物であると考えるにはいささか無理があるように思われる。この男の見た目があまりにきれいすぎるためだ。首筋に傷跡の一つもない。噛み切ったはずのゆびも元通りちゃんと揃っている。ならばやはり別人と考えるのがこの場合は妥当だろう。

「双子ですかあ。まあ、何も知らなければそう見えちゃうのかもしれないですけどね。でも、右京さんは何も知らないわけじゃあ、ないじゃないですか。それで『双子なのか?』って質問は、しょうじき普通すぎますよ」

「ふつうすぎる?」

「そうですよ。普通すぎます。殺人鬼のくせに普通だなんてお笑い草ですよ」男は真実おかしそうに言った。カチンとくる。「はぁん。へえ、そう。じゃあ、ふつうじゃない異常がお望みなんだ? きみは?」

「あ、そうそう。そんな感じで殺気ムンムンさせていたほうが殺人鬼っぽいですよ。ただまあ、いかにも殺人鬼っぽいってのも言っちゃえば――」

 普通ですよ、と口にしかけたそいつの口は、首と切り離されて、声帯を震わせることもできずに無様に地面へ落下する。

 ごぢん、と鈍い音をたてて、男の頭部がゆかに転がる。

 返り血を浴びないように私は、男の背後へ駆け抜けてからそのまま振りかえらずに距離を置く。

 うでを振って刃に付いた血を飛沫させ、懐にナイフを仕舞う。

「これでどう。殺人鬼っぽいでしょ。しかも、尋常じゃないほうの殺人鬼」

 おまえもこれで満足だろ、と私はすこし冷徹に吐き捨て、振りかえる。すると思わぬ光景が目に飛び込んできて、息を呑む。目を瞠る。

「もうもう、何なんですか。会話はちゃんとしましょうよ。どこの世界に、しゃべりかけてる相手の首を刎ねる殺人鬼がいますか。相手の話は最後まで聞きましょうよ。殺されるほうにしてみれば最期の言葉なんですよ、これじゃあ、死んでも死にきれないでしょうに。あなたに殺された人たちはみんなこうなんですか? おれ、同情しちゃうなぁ。そういえばあなた、今朝も不意打ちでしたよね。油断させておいて、背後からグサリ。これはもう通り魔ですよ、通り魔。卑怯じゃないですか。殺せればそれでいいんですか? あなたには信念(ポリシィ)はないんですか、殺人鬼としての? まあ、ないならないでいいんですけどね、できればこんどからは『今から殺しますよー』って予告していただけるとうれしいですよ」

 これでもおれ、痛いんですから、とゆかに転がった頭部を拾いあげた胴体にはもちろん首はなく、その首なき胴体は、そのまま頭部を首にぐりぐりと押しつけはじめた。落としたキャップを拾って嵌めるがごとくだ。

「は? へ? それで繋がんの?」うそでしょ、と未だ半身半疑の私だったが、

「いやあ、すみません。これで繋がっちゃうんですよ」

 すっかり元通りの男が、斬り落としたはずの首をごきんごきんと鳴らせているのを見れば、さすがの私も信じずにはいられない。

「おまえ、不死身か?」

「やは。よくご存じで」男ははにかみ、「おれ、伏見(ふしみ)富士(ふじ)です。あ、名前です。呼び捨てはさすがにイヤなので、『伏見くん』と君付けでおねがいしますよ。以後、お見知りおきを」

 動揺しきりの私を尻目に、男は余裕綽々と自己紹介をした。


      (7)

 不死身。不死。

 死なない人間は、言い換えれば、殺されることのない人間だ。

 殺せない人間がいる?

 ほんとかよ。うそくせぇ。

 人殺しとしての信念も矜持も持たないと自負している怠惰な私であるけれど、さすがに殺せない人間がいるなどというのは、いかんせんにわかには認めがたい。

 すでに不死身にちかい男がこうして目のまえに現れている以上は、その存在を信じることに抵抗がないわけではないが、信じることと認めることのあいだには浅いようで深い溝が、空と宇宙の境目ほどに――或いは海と陸の境目ほどに――茫洋と二つを隔てている。ちょっぴり詩的な言葉をうじうじと舌で転がしてみてはいるものの、とどのつまりが、何が気に障るのか私は、目のまえの男を殺せない事実をどうあっても認めたくないらしい。

「そいつ、ほんとうに死なないのか?」

 声を張って投げかける。不死身然とした男「伏見」へではない。

「いいえ。人はいずれ死ぬものです」

 案の定、伏見の背後からフローが姿を現した。「人はいずれ死ぬ。それはわたしたちも例外ではありません。ほかの多くの人たちより、細胞が特殊だというだけの話で、けっきょくはわたしも、伏見くんも、いずれ死にます」ただし、と強調して彼女は、「あなたの手でだけはけっして死なないですけどね」

 と、まるで「殺せるものなら殺してみそ漬け」と私を小馬鹿にするような台詞を吐いた。が、それはフローの虚勢だろうと私は見抜いている。フローは言葉を吐く片手間にずっと伏見の裾を握りつづけている。それは、人見知りの子どもが母親の陰に身を隠すような、そういった臆病さを窺わせている。つよがるならつよがるで徹底したらいいのに、かわいいなぁ、もう、と私の目にはフローがさらにかわいく映り、はやく殺してやりたい衝動が胸のうちでぷつぷつと膨らんでいく。

「安心していいよ。安い挑発には乗らないから」今すぐには殺さないから安心して、と私は頬をゆるめる。「じっくりコトコト、焦らしに焦らして、殺してあげる」

「それは楽しみです」フローは、伏見の裾をぎゅうとつよく握りなおし、でも、と言った。「でも、ここで敵対すれば、あなたが死ぬまでのあいだ、わたしたちはあなたにとっての不倶戴天の敵になっちゃいますよ。それで構わないのなら、どうぞ敵対してください。ただ、さっきも言ったかもですけど、あなたにわたしたちは殺せないですよ」

「ずいぶんな自信だな。殺せないってんなら別にそれでもいいんだけどさ。これまで私が試してきた分の殺し方数百通りと、試してみたかった殺し方数百通り、合わせて千通りくらいの殺し方を、きみたちに体験させてあげられるって考えれば、それはそれで心躍っちゃうわけだし。私としてはさ、まあ、こう言ったら言葉がわるくなっちゃうけど、殺せない存在なんて、使い放題のオナホールみたいなもんなわけよ。あ、オナホールって知ってる?」

 男どもが使う性欲発散のためのオモチャでさ、と説明しようとすると、すかさず伏見に、

「チャンスをあげる、と言っているんですよ」と遮られてしまう。「彼女は、あなたを殺したくないんです。やさしいんですよ。どこかの変態な女とちがってね」

「はぁ?」腰に手を当て、じぶんを見下ろし、「私くらいやさしい女なんてそうそうお目にかかれないぞ」と不平を鳴らす。変態だというご指摘のほうは、褒め言葉としてもらっておく。

「わたしたちはあなたを利用しました。それを知って、あなたが憤られるのも無理はないとは思っているんです。ただ、できればわたしたちは、せっかく得た不自由な世界への切符を使ってみたい。ここであなたと因縁を残すのはできれば避けたいんです」

「二つ言いたいことがある。一つ、私は別に、利用されたことを不満に思っちゃいない。二つ、きみらはすでに不自由への切符を使っている。だからこうして、自分たちの思いどおりにいかない相手と対峙している。ちがう?」

 フローはそこではっとした表情を浮かべた。伏見を見上げ、つかんでいた袖を離して、

「そのとおりですね」

 さわやかな破顔をそのちいさな顔に湛えた。「分かりました。では、最後の確認をさせてください。あなたはやはり、どうあってもわたしたちを殺すのですね」

「殺すね。きみら二人を殺したあとで」うえにいる、と天井をゆび差し、「うえにいるミウたちも殺す。全員殺す。一人残さず殺す。しかも、ただ殺すだけじゃない。徹底的に絶望を見せつけ、苦痛を植えつけ、『はやく殺してください』って懇願させてから、望みどおりに殺してやる。だから私は人殺しだけど、今日に限ってはむしろ、救済者にちかいね」

「悪魔が神さまの真似ごとをしても、そんなの悲劇なだけなのに」

 このとき初めて私は、フローの微笑から私への否定的な感情を――憐れみの眼差しを――読みとった。

「悲劇こそ、喜劇さ。どっかの誰かが言っていたぞ」

 そんな目で、私を見るな。

 だって、感じちゃうだろ。

 私は地面を蹴り、身体で空を切って、バケモノどもへと突っこんだ。


      (8)

 死なない、というのは厄介だ。どれくらい厄介かと言えば、包丁で滝を裁断するくらいに厄介だ。いちど凍らせてから斬ればいいじゃないの、とひねくれた答を捻りだす輩もいるだろうが、実際問題、凍った滝を裁断するのだって骨が折れるだろう。つまりがやはり、厄介なのだ。

 伏見の動きは、フローよりかは断然ノロい。いや、ノロいというほどでもないから、むしろフローが素早すぎるのだ。

 伏見を八つ裂きにし、動けなくしてからフローの悲鳴を聞いてやろう、と追っかけまわすわけなのだが、そのたびに彼女は私の手を、するりするりと掻いくぐる。そうして追いかけっこをしているあいだに伏見が復活し、押っ取り刀で襲いかかってくるものだから、私としては消化不良ここに極まれりだ。

「なんで逃げる!」伏見の臓物を引きずりだしつつ私は、両手で顔を覆いながらもおっかなびっくり、ゆびの合間からこちらを眺めているフローを叱責する。

「だってわたし、不死身じゃないもん」彼女はまるで、なぜ海へ入らないのか、といった質問に、だってわたし泳げないもん、と答えるみたいな軽々しさで答えた。

「はぁ? 不死身じゃない?」そんな話は聞いてないぞ、と憤懣を抱く。憂さ晴らしついでにぶちぶちと臓物を引きちぎると、伏見は、「うわっ、クサいですって、汚いですって」と処女のように痛がった。

「これでも不死身じゃないって?」これだけして死なないのにそれはないんじゃないの、と思う。だからそう言った。「いまさらそりゃないんじゃないの」

 手が血でベタベタだ。服で拭うものの、伏見が治癒していくにつれて衣服からは汚れが消えていく。ひきちぎった臓物も、大きな塊のものは伏見が手を伸ばしそれに触れると、スポンジに水が触れたみたいに癒着し、体内へと吸収されていく。それにしたがい、伏見の身体の損傷が塞がっていく。また、細かい肉片や、飛び散った血液などは、伏見が触れずとも、いつの間にか消えている。さも蒸発したかのような消失だ。

 細胞の一個一個が独立した生命体なのかもしれない。意思を持たない昆虫たちがそれでも巣(コロニー)を中心として一つの秩序を形成するかのように、伏見の肉体もまた細胞の一つ一つが乖離可能であり、かつ全体が個として機能している。それこそ、巣から離れても必ず帰還する蟻がごとく。

「なにが、『わたしたちも人間です』だ。澄ました顔して言いやがって、笑わせるなよ。正真正銘のバケモノのくせに」私は悪態を吐く。「殺しても死なない。死なないから殺せない。そんなの困るだろ」私は歯ぎしり交じりに嬉々とする。

 なんべんでも性的快感の絶頂に達するというのは、思っていた以上に苦しいものだ。苦しいのに、その苦しいのも含めて気持ちいいから始末がわるい。ただ、消化不良にも似たモヤモヤが晴れない。

「ああ、もう。困っちゃうなあ。私さ、もうがまんできそうにもないのよね。だからさ、ね? いいでしょ。きみも殺させて。さきっちょだけだから。ナイフのさきっちょで、ちょこっと肉を裂くだけだから。痛くしないから、サクッと殺すだけだから。それでもきみは死なないんだし、ね? これくらいわけないでしょ」

 伏見を殺すことに飽いてきた私は、なかなか捕まえられないフローを追うことを諦め、本気で口説く方向へ、方針を変えた。

「ダメです。不死身なのは伏見くんで、わたし、斬られたら死んじゃうもん。だから、ダメです」

 お預けを喰らい、私は肩を落とす。が、

「へ?」ちょっと待て、と思う。「死んじゃうの?」

 きみはだって不死身じゃないの、と急激に興奮が醒めやいでいく。

「はい。死んじゃいます」不死身じゃないのです、と肯定されてしまう。「さっきからそう言っているじゃないですか、なんども」

 でもでも、それはちょっと話がちがうじゃないの、と私は居た堪れない気持ちになる。

 想像してしまったのだ。フローをこの手で切り刻み、今か今か、とつぎの殺害方法を考えながら、ズタズタの彼女の復活を待ちわびている私が、しかしいつまで待ってもズタズタのままの少女を見下ろし、目のまえのそれがすでに死体になりさがっていることを悟り落胆する姿を。

 私は想像し、そしてとても哀しくなった。

「そっか死んじゃうのか」

 殺すことは楽しい。それは嘘偽りのない本心だ。

 だが、殺せると思っていた相手が、意にそぐわない形で死ぬことは、楽しくない。

 楽しくないのだなぁ、と漠然と感じてしまった。

 それが仮に、私の手による殺傷であっても、同じことだ。

 誰かが死ぬことをこれだけ鬱屈に思うのは初めての体験で、私はそんなじぶんに戸惑った。

 死なれたら、哀しい。

 楽しくないからだ。

 でも、なんで?


      (9)

「どうされました。油断させようとしているなら無駄ですよ。ふっちゃん、集中力だけは並はずれてますから」彼女、疲労するってことを知らないんですよ、と伏見が自慢するように言った。「持久戦であれば、あなたに負けることはまずあり得ないでしょう。それとも、もしかして降参ですか?」

 ろっ骨を折る手を私が止めたので、伏見が野次を飛ばしてきた。かれとしても冗談を口にしただけのつもりだったのだろうが、

「もう飽きた。降参でいいよ、降参で」

 はいコーサーン、と私がその場に大の字に寝そべり、マグロよろしく無防備になると、フローと伏見はふたりして顔を見合わせた。「じょうだんですよね?」

「じょうだんじゃないさ」ほんと、じょうだんじゃないよ、と私は繰りかえす。「もうね、やめたよ、やめた。無駄じゃん、こんなの。やってらんないよ、まったく。きみらを殺すのは諦める。というより、なんだろうな。私が思ってたのとなんかちがう。だってこんなの、茶番にもならないだろ。楽しくないし、満たされないし、きみらを殺したところで骨折り損のくたびれもうけじゃん」

「あなたに殺されるほど甘くはないですけどね、おれたちも」伏見が憎まれ口を叩く。

 売り言葉に買い言葉というわけではないが、

「おまえらに殺されるほど、私も甘くはないよ」と返しておく。

 腕を頭にまわして枕代わりにする。ひざを組んで天井を仰ぐ。

 どこから話したものかなぁ、と思案する。

 話す必要があるとも思われなかったが、私自身、じぶんの気持ちが判然としないので、言語化ついでにじぶんの気持ちを見詰め直そうと試みる。

「おまえ、私のこと本気で殺そうとしてただろ」目だけで、伏見を一瞥する。「今もだし、今朝がたの路地裏でもそうだった。おおかた、素人の自分に殺されるような殺人鬼なら端から利用価値なんてない、ってな考えだろ。そんで、仮に私がおまえらの悪巧みに気づいて、牙を剥いたときには、おまえがそのコの盾に」とあごをしゃくってフローを示し、「そのコの盾になろうって決めてたんだろ? 私はおまえを殺せないし、そしておまえは私を殺せない。でも私はそのコなら殺せる。だからおまえは必死になって、そのコを護るために、私を殺そうとする。でも、おまえは私を殺せないし、私も私で、不死身のおまえを殺せない。なんだかなあ。言ってて、頭がくらくらしてきた」

「面倒くさいから諦めるのですか。それで諦めるほど、あなたが普通の感性を持ち合わせているとは思えませんけどね」

「納得しないのか」これで腑に落ちないのか、と伏見へ訊き返す。私自身、じぶんで言っていて、これはこれで物足りない、と感じている。彼女たちを殺さずにいる理由としてはまちがってはいないが、このもやもやとしたやるせなさの起因としてはまだ足りない。

 そもそも、殺すのが面倒だから殺さない、というのは私の行動原理からすれば矛盾している。これまで私は、殺しにくい相手ほど好んで殺してきたはずだ。

「じゃあ、なんだろうなぁ」よくよく考えてみるが、やはり明瞭な像は結ばれない。「だってさあ」言い訳がましく、「殺したくないんだもん」

 天井から視軸をずらし、こてん、と首を傾げて、フローを見詰める。ズタズタに引き裂きすぎてほとんどパンツ一丁の伏見のよこで、彼女はこちらを不可解そうに眺めている。

「殺したいんだけどさあ。でも、殺したくないんだよ」

「なんですか、それ。子どもじゃないんですから」と呆れられる。「目のまえの大好物を食べたいけど、食べてしまったら無くなってしまうから食べられない。まるでお子さまですよ」

 お子さまではないんだがね、と反駁しつつも、言い得て妙だ、と伏見の比喩にはっとする。なるほど。私は、フローを一度しか殺せない事実にショックを受けていたのか。

 殺したい。でも、殺したらもう、殺せなくなる。そんなのはイヤだ。たしかにこれでは、駄々を捏ねているオコチャマみたいだ。

「べつに好きってほどでもないんだけどなぁ」

 独り言ちた私に、フローも伏見も怪訝な視線を送ってくる。ふたりの佇まいからは警戒心がすっかり抜けてみえた。

 今なら殺せる。

 伏見の喉を噛みちぎり、流れるようにフローの首にゆびを回して、へし折る。私ならできる。それだけふたりは隙だらけだ。

 でも、ふたりがこれだけ隙だらけであるということは、それと同じだけ私も隙だらけであるということで、動こうとする意思も、敵意も、殺気も、何も抱けていない、という私の様相が、この弛緩しきった全身から窺い知れているということなのだろう。

「なんで襲ってこないの。今なら殺せるよ、私のこと」

 尋ねると、伏見は、

「こっちが先にそれを訊いているんですけど」と噴きだした。

「うわ、キタな。唾、飛ばすなよ」

「いやいや、なにを今さら」

 あれだけぼくの体液に塗れておきながら、と伏見は言いたげだった。

「なあ。なんでおまえらさ」

 ふと思いついて私は話題を変える。「あの女を殺したかったんだ?」

 脈絡ないですね、とここでも笑われてしまう。「それはもう、ふっちゃんから説明済みですよね」

「不自由になりたいからだろ? 私の言葉で訳せば、自分の足で人生を歩みたいってことだ。理由の一つとしては理解したけど、でもなあ。あれだけとも思えないし。いいじゃん。話ちゃえよ」

 聞いてやるからさ、と私は寝がえりを打って、お釈迦さまみたいに肘で頭を支える。

「聞きたいだけじゃないですか、あなたが」

 言い渋るように伏見からそう突っぱねられたところで、

「あのひとは、」フローが口を開いた。「あのひとは、私たちに交配を望んでいました」

「コウハイ?」

「ふっちゃん」伏見が咎めるように叫んだ。眉間にしわが寄り、不満そうな面だ。「言っちゃうの?」

「いいんじゃない? 言うだけならタダだよ」

 そうだそうだ、と私も便乗する。「聞いてやるだけならタダだぞ」

「あんたはむしろおれたちに支払ってくださいよ」

「対価なら払っただろ。ちゃんと振りこんでやっただろうに」昼間に支払った五十万円という大金のことを思いだし、「あとで返せよ、この詐欺師め」と指弾する。

「ふっちゃん、こんなケチん坊に話すことないよ。こいつはもうおれたちに関わる気はないらしい。もう終わったんだ、さっさとこんなところ出よう。ね? そうしよ」

「でも」

「コウハイってなに。やっぱり私に話してくれた以外にも何か理由があったんだ」

 不自由になる自由を手に入れるために、横島奈心の監視下から脱するべく、横島奈心を葬り去ることにしたフローたち。だが、これが動機のすべてだとすれば、もっと早くにそうしていたはずだ。それに彼女たちは、私の存在を知ってから行動したのではない。私のような利用可能な人殺しがこの世にいることを期待して、半ばその場任せのでたとこ勝負で、奮起した。

 だとすれば、なぜいまになって、と疑問が残る。

 きっかけがあったはずなのだ。

 いま行動を起こさなければならなくなった、決定的なきっかけが。

「わたしたちは兄妹です。伏見くんはわたしの兄で、不死の身体で――妹のわたしはというと、兄とはちがって、不老の身体です。ただ、伏見くんは不死身でこそあれ、寿命が来れば死にますし、寿命のないわたしは致命傷を負えば死んでしまいます。だからわたしたちは、不老不死ではないんです。でも、あのひとたちは不老不死を生みだしたがっていました。そこであのひとたちは考えたんです。わたしたちが子供を儲ければ、その子供はきっと不老と不死という二つの性質を兼ね備えた身体を以って生まれてくるはずだ、と。だからあのひとは……わたしと伏見くんに」

 フローはそこで、言葉を区切った。

「わたしと伏見くんに、なに?」きみの耳が真っ赤なのはなぜ?

 見遣ると、伏見もなぜか顔を赤らめ、フローとは逆の方向を眺めている。

 やがてフローは意を決したみたいに、

「あのひとは、わたしと伏見くんに」と声を震わせた。「男女の契りを求めたんです」

 おいしょ、と私は上体を起こす。ひざを抱えて、じっと耳を傾ける。


      (10)

 訥々と語ってくれたフローの話は、私の内面に顕著な変化を及ぼすには至らなかった。

 悲劇でも喜劇でもなく、それでいて短絡でも浅薄でもない。この世のどこにでも有り触れていそうなレベルの、けれど命のやり取りをするにはいささか危機的要素の足りない、どうでもよくはないもののどうにでもなりそうな悩みごとにしか聞こえなかった。

 横島奈心は、フローと伏見に交尾をさせようとした。不老体と不死体の自然な交配によって、不老不死を生みだそうと試みたのだ。

 つまりが、横島奈心は、フローたちに性行為(セックス)を期待した。

 それにフローたちは抵抗した。

 ことの発端は、こんなにも単純だ。

 こんなにも単純で、おもちろくない。

 自然な交配、とは言ったものの横島奈心からすれば無理強いしても構わなかったはずだ。体外受精や、遺伝子工学による染色体の掛け合わせなど、そういった人工交配でなく、男と女による性の営み――膣内射精と体内受精における生命の誕生――であれば、そこに至る過程は、ほとんど問題にならない。

 伏見に媚薬を盛るというのも一つの手だ。フローと二人きりにさせ、理性を失った伏見にフローを襲わせる。そういった案も視野に入れていただろうことは、人体実験の素人の私であっても容易に想像できる。

 フローたちはそうなる前に、計画を立てた。

 横島奈心の、間接的殺害計画を試みたのだ。

「わたしたちは、あのひとたちに歯向かえません。言動で逆らうことはできても、歯向かうことはできないんです」フローは自身の手のひらを見詰め、苦々しそうに語った。「頭にチップを埋めこまれているんです。それがあるかぎりわたしたちはあのひとたちに危害を加えることができないんです。ただでさえミウたちを人質に取られているようなものなのに」

 頭に埋めこまれたチップ。どこかで聞いた話だな、と思いだす。ラジコン兵士たちだ。あいつらにもマイクロチップが埋めこまれているらしい。微弱な電波で、理性をコントロールする、と皮肉好きが語っていた。ともすればフローたちに埋めこまれているチップも同様の仕組みであるやもしれない。

 白衣の男たちはこうも言っていた。「ワタシらはアレらに、幾つかの強力な枷を組み込んだ。よってアレらはワタシらにはけっして敵対しない」

 幾つかの、ということは、もしかしたらフローたちに組み込まれているのはチップだけでない可能性もある。たとえばそれは、遺伝子レベルで組み込まれている、本能にちかい性質とかだ。人は高所を恐れるし、獣は火を忌避する。フローたちバケモノは、育ての親に逆らえない。

「わたしたちはでも、どうしても今回だけは拒みたかったんです。だから、考えました。どうしたら良いのかを」

 そして考えついたのが、自分たち以外の者の手によって、横島奈心を殺害してもらう、という間接的殺害計画だった。

「でも、頭のチップはどうしたんだ?」それがあるかぎり、「つよき子どもの家」からは出られないのではないのか、と疑問を呈する。

「取りだしたんです。もちろん、そんなことをすれば無傷では済みません。仮にわたしであれば死んでしまってもおかしくないほど危険な行為です。でも、伏見くんなら、それが可能でした」

 不死身だからだ。頭をかち割って、チップを取りだす。蘇生した伏見はその足で、「つよき子どもの家」を飛びだした。

「わたしたちのどちらか一方が逃亡すれば、残された一方が、拷問されます。逃げたほうは見つけ次第、即刻処分。そのようにわたしたちはずっと言いつけられてきました。現にいちど、わたしがミウたちとかくれんぼをしたとき、それをわたしたちが脱走したと勘違いしたようで、伏見くんがあのひとたちにひどいことをされました」

「でも、逃げたんだろ?」こいつが、と私は伏見に視線を向ける。かれはずっと目を伏せたままだ。口を挟むこともしない。

「はい。ただ、伏見くんであれば仮に見つかっても、あのひとたちに殺されることはありません」

 これもまた不死身だからだ。

「でも、きみは拷問を受けた」話の流れからすればそういうことになる。

「それはもう痛かったですよ」フローはにっこりと目を細めた。「ただ、殺されることはない、と確信してましたので」

 確かに殺されはしなかっただろう、と思う。

 長年続けてきた研究の重要な試験体を二体も失うのは、横島奈心たちからしても本意ではなかったはずだ。だが、それにしても、と思わざるを得ない。

「なんでそこまでして」なぜそこまでして交配を拒むのか、と疑問だった。

 フローは微笑むだけで、この質問には応えない。

「思っていたよりもはやく解放されました。かなり焦っていたらしくって、わたしに構っていられなかったんだと思います。まさか伏見くんがわたしを置いて一人で逃げだすなんて考えてもいなかったみたいで。それこそ、なんで今さら、って感じで苛立たしげでした。ひと通りわたしを拷問したあと、あのひとたちはここに来なくなりました。もちろん、それは罠です。誰もいなくなったここへ、伏見くんが戻ってくるのを期待していたんだと思います。でも、伏見くんはそのころ、この街を出て、この世のどこかにいるはずの生粋の殺人鬼や、わたしたちのお願いを聞いてくれそうな酔狂な暗殺者を探していました」

「そこで見つけたのが、私ってか?」

 フローは顎を上げて、伏見と視線を交わした。

「あなたの話は、とある情報筋から仕入れました」バトンを受け取ったみたいに伏見が話しだす。「あなたは、あなたが思っている以上に有名でして、まあ、知る人ぞ知るって感じです。アウトローの世界では、って限定つきではありますが。ふっちゃんとちがっておれは長期戦を覚悟していたんですよ。それでも二か月という短期間で見つけられたという点では、あなたの存在は僥倖でした。よもやこんな近所に殺人鬼が潜んでいたなんて」

「近所ってほどでもないだろ。それに、有名人ってのはどうなんだ。それはちょいと、よろこばしくない話なんだが」私は耳の穴をかっぽじる。「訊いてもどうせ教えてくれないだろうけど、いちおう訊いておく。その『とある情報筋』ってのは何なんだ?」

「言えるわけないじゃないですか。ただでさえ無一文だったおれが、大枚まで叩いたんですから」

「ということは、情報屋に聞いたんだ? データバンクにハッキング仕掛けたとか、そういうことでなく?」

 墓穴を掘った、とでも言いたげに、伏見は眉根を寄せた。

「ここで教えてくれたら、今朝がたの五十万、チャラにしてあげてもいいけど」

 ちゃらんぽらんな提案で交渉してみるが、

「笑える冗談ですね」と一蹴されてしまう。「情報屋を売ることの重大さが解らないほど、おれらもカタギの人間じゃないもので」

 人間ですらないのに何を言う、とついつい皮肉が口を衝く。

「あなただって充分人間ではないですよ、おれらが人間でないというのなら」人間ではなくバケモノですよ、と伏見がしれっと返してくる。侮蔑の籠められていないさわやかな物言いだ。

「言いたくないならまあいいさ」こちらの知り合いにも情報屋がいる。そいつにでも訊いてみれば、害虫駆除一回分くらいの対価で、私の情報を売りやがったどこぞの情報屋が、どこに住んでいるのかくらい教えてもらえるだろう。うまくいけば、ほとんどタダ同然で情報を入手できるかもしれない。あのキザな精神科医だって、私の噂が一人歩きしていると聞いて、いい気分はしないはずだ。

 そうと決まれば、こんなところに用はない。

 おいしょ、と腰を浮かして立ちあがる。んー、と背伸びをしてから私は、

「さてと。じゃあ、まあ、そういうことで」

 ふたりに暇を告げる。

 私が立ちあがったことで警戒したのだろう、伏見がフローを庇うようにまえに出た。「帰るんですか、このまま?」

 本当にこのまま私がフローたちを殺さずに、見逃すかのごとく踵をかえすことを、伏見はどうやら訝しがっているらしい。私の本懐がどこにあるのかを見定めようとするみたいな、内面を抉りだそうとする険難さが伏見からは窺えた。

「なにが?」

 私はそら惚ける。「私さ、もうこれ以上、無駄なことをしたくないんだよね。おまえらと遊ぶのはつまらんのよ。やるならもっと楽しいことをしたいわけ。こうみえても私って、おまえらよりは脆弱なんだ。一度きりの人生なんだ、せっかくだもの楽しみたいでしょ」

 だからもう金輪際、おまえらも私に関わるなよ、と釘を刺しておく。

 返事を待たず背を向ける。ばいばい、と手を振りそうになった。でも、振らなかった。

 べつに名残惜しいわけじゃないから。また会いたいとか、そんなこと思ってないから。

 あーあ。無性に殺したくなってくる。

 でも、殺せない。殺したいけど、殺せない。

 なんでだろ?

 ぐるぐる、と同じ疑問で頭が回る。CDみたいに音楽でも流れればいいのに。

 溜息がでそうになった。寸前で呑みこむ。

 思いっきり人を殺したい。できれば見ず知らずの、一度きりで充分な相手を。かるく百人くらい。

「きみは単純でいいね」

 キザな精神科医の声が脳裡にひびく。いつか言われた気のする台詞だ。

 ああそうさ、と肯定してやる。

 私はとても、単純な女だ。




   第四章『黒幕に張りあうな』



      (1)

 まだあどけない少女だったころ、私は地下室がこわかった。

 閉じこめられるだけでもおそろしかったというのに、その場には私を閉じこめた張本人までもがご親切にもいっしょに閉じこもっていた。扉の鍵はそいつが持っている。そとへ出るには、そいつがそとに出たいと思うようになるまで、私がじっとおとなしくしているほかになかった。なされるがままに、じっとしずかに。じぶんを殺して、息を殺して。

 あれから何年が経過しただろう。そいつの目玉を抉り、頭蓋を叩き潰したあの瞬間、あの日以降、あどけない少女でなくなった私は、地下室をおそろしいと思う機会をめっきりなくした。むしろ、あの日々を思いだすことさえなかったかもしれない。

 しかし今、私は漠然とであるにせよ、あのころの冷たい狂気を思いだしている。

 思いだしたくない記憶であることに異存はなく、だから私は、「それにしても」と思考を曲げるべく、発言する。

「にしても、なんでほかに出口がないんだ。バカなのか。え? バカなのか?」

「おれに言われても困りますって」伏見が苦笑まじりに、「ここ造ったのって、あいつらですから」と言った。

 あいつら――横島奈心と白衣の男たち。

 そして、私たちをここへ閉じこめた男。

 遡ること数分前のことだ。

 地下室からおさらばしようと扉へ向かった私は、扉が開いていることに気づき、歩を止めた。扉まではざっと十数メートル離れている。扉の向こう側は暗がりでよく見えなかったが、何者かがそこに立っている様子くらいは確認できた。

「誰だ」

 呼びかけると間もなく応答があった。渋い、男の声だ。

「要件だけを言う」声はこちらへではなく、フローと伏見に向かっていた。「おまえらはここで交配しろ。子を産んだら出してやる」

 扉の奥、暗がりから現れたのは白衣をまとった男だった。皮肉好きのあの男だ。

「知っているだろうが、ここは、この部屋も含め、すべてワタシらの監視下にある。おまえがシステムに干渉し、監視カメラの映像を歪曲させていたことくらい、とうのむかしに承知している。問責せずにおいたのは、何のためにおまえがそんな小細工を、と解せなかったからだ。直接問うたところでおまえは口を割らんだろう、おまえは少々強情に過ぎるからな。どういう意図があるのかと様子見していたわけだが、おまえを泳がせておいたのは失敗だった。おまえらの詭計は功を奏し、横島さんは亡くなった。が、そこまでだ。この先、おまえらの思いどおりにはならない。いや、不自由になりたかったのなら、むしろこれで目的は達成されることになるわけだ。よかったな」

「なんでおまえがここにいるんだよ。さては尾行(ツケ)てきたな」油断も隙もない、と私は腰に手を当てる。皮肉好きは、こちらを一顧だにせず話を続ける。

「衛生上のことを考え、二年後にまた来てやる。それまでここは密室だ。換気だけはしてやるから、窒息の心配はしないでいい。それから、上にいる試験体どもの世話は、おまえに代わってワタシらが継続する。安心しろ。あいつらには、おまえらが揃って逃げだした、と説明しておく。おまえらに捨てられたように思うだろうが、それはあいつらの勝手だ。弁解したくばここから出るしかあるまい。繰りかえすが、つぎにこの扉が開くのは二年後だ。そのときそとに出られるよう、よくよく考えて日々を過ごせよ」

 そんでおまえは、と皮肉好きはようやくこちらへと向きなおり、

「ここでクタバレ」

 冷たく言い放ち、扉を閉めた。言葉を挟む余地もない。

「……なんだ、あれ」

 背後から伏見が駆けてくる。かと思えばこちらを素通りし、扉のまえまで直行する。

「やられた……閉じこめられた」扉を思いきり蹴りあげている。

「はぁ?」閉じこめられたって、「なんで?」

 聞こえない距離ではないはずなのに伏見は応えない。

 なんだあいつ、と唇をすぼめていると、私のよこにフローが立った。扉を眺めながら彼女は、

「交配をさせるためです」

 素朴につぶやいた。なんのことやら、と悩む。フローはちいさく息を漏らしてからこう言った。「わたしたちを逃がさず、言うことを聞かせるために。そして、あなたを殺すために、あのひとはわたしたちをここへ閉じこめたんだと思います」

「いやいやいや」そんな冷静な顔で言われても、と現実味が湧かない。「閉じこめられちゃったって、だってそれ」ぼりぼり、とこめかみを掻く。「えぇ……だって困るだろ、そんなの。映画とか観たくなったらどうすんだ。ほかに出口はないのか」

 それから私は、扉が本当に開かないことを確かめたのちに、この無駄にだだっ広い空間を探索した。


      (2)

「なんでほかに出口がないんだ」

 ぼやく私は、うろたえている。ゆいいつの出入り口は、皮肉好きが施錠したこの扉だけだった。どうにか開かないものか、と扉をどつくものの、びくともしない。「こりゃ、扉ってより、金庫だろ」

「銀行の金庫よりも強固らしいですよ。核シェルターとしても利用可能らしいので」

 飄々と受け答えする伏見をさらに問い質す。「出らんないのか? じょうだんでなく?」

「諦めるしかないですね。ここって、元々おれらを閉じこめるための部屋なんで。言うことを聞かなかったり、みせしめのために、聞き分けのない子どもをここに放りこむんですよ。だからそとから施錠されてしまったら、中からじゃ絶対に開きません」

 出られない、というこの逼迫した状況にあっても伏見やフローはお気楽なものだった。

「なんでそんなに悠長に構えてられる」

「なんでって、だって」フローと顔を見合わせてから伏見は、「だっておれら、実質、困らないですし」

 そう言って滔々と、その余裕の根拠を解説してくれる。

 話を聞けばなるほど、それも当然の感覚だと思われた。

 かれらは死ぬ不安を持たない。不老体のフローは、寿命を有さず、致命傷を負わなければまず死ぬことはない。そこには成長も老化もなく、健全な肉体が常に保持される。伏見に至っては、寿命が来るまではどんな損傷を受けても必ず治癒する、正に不死身なのだ。おそらくは、その寿命とやらも平均寿命よりは長いのだろう。

 ふたり揃って、食事を摂る必要がない。ゆえに排泄もせずにいられる。

 また、これまで「つよき子どもの家」という箱のなかに幽閉されていたフローたちにとって、この状況は、場所がちがうというだけで、日常の継続でしかない。白無垢の空間で二年を過ごすことなど有益ではないというだけで、損益とはなり得ないのだ。

 彼女たちはそれでよいだろう。だが、しかし。

 私はどうなのだ、と考えたとき、しょうじきこの禁固状態はぞっとしない。

 私はただの人間だ。二年もの期間こんなところに幽閉されていて、正常を保っていられるほど私の精神力は強靭ではない。私はこう見えてもか弱いのだ。ふつうなのだ。

 食料は? 娯楽は? 殺人は?

 最低限確保されて然るべき自由までもが奪われて、落ち着いていられるわけがない。

 息が詰まるとかそんな次元ではないのだ、これは。

 はやくも私は、身が圧し潰されそうな閉塞感に辟易していた。

 なんとか出られないものか、とその場をぐるぐる歩きまわる。ふと、

「リモコンは?」と閃いた。「フローちゃんさ、ここに入るときに使ってたでしょ。あれ、今、持ってないの」院長室の入り口を開くのに使ったリモコンを、フローはここへ一緒に持ちこんでいるはずだ。

「ありますけど、でも」と煮え切らないお返事だ。

「でも、なんだ」

「あるんですけど、無駄だと思います」

「なんで」

「だってここ、放射線だって遮断できちゃう空間ですよ。電波だって完全に遮断されちゃっていると思います。きっとリモコンなんて役に立たないですよ」

 述懐しつつ彼女がリモコンを操作する。

 扉はぴくりとも反応を示さない。彼女の懸念したとおりだった。念のため、貸して、とリモコンを受けとり、じぶんでも操作してみるがやはり扉に変化は見られない。

「だめか」がっくりと肩を落とす。壁に背を預け、ずりさがりながらその場にしゃがみこむ。ひざに顔を埋めて、深い嘆息を漏らす。

 見兼ねたようにフローが、

「そんなに落ちこまないでください」と慰めてくる。「なにも今スグに死ぬと決まったわけでは」

「死ぬのがイヤなんじゃないの。こんなところに閉じこめられた事実が気に喰わないの」駄々を捏ねる子どもみたいな語調に、じぶんでもびっくりする。鼻から息を漏らす。それから、きみらはいいよ、と力なく愚痴を零す。「お互いがそばにいれば、ひとまずそれで満足なんだろ? それに比べて私はどうよ。こんなところじゃ、人も殺せない」

「じゃあ、おれが殺されてあげますよ」

「おまえじゃ満足できないんだって」私は不平を鳴らす。「手応えがなさすぎる。やっぱりさ、人殺しってのは新鮮で神聖な行為なんだ」わかるだろ、とじぶんでもよく解らない理論を展開する。「死にたくないとか、なんで殺されなくちゃならないんだとか、数分前まではまさか自分が死ぬなんて考えてもいない奴らを殺すのが面白いんだよ。ぜったい自分が死ぬわけない、と思っている相手。そんな相手じゃなきゃ、殺す意味がない」

「異論はないんですが、ただ――」

「ただ?」

「だったらおれはまさにうってつけじゃないですか」

「え? ああ。そうな」たしかにこいつほど死に対して鈍感な生き物はいないだろう。「うん。でも、おまえはほら、殺したって死なないじゃん。死んでくれなきゃ面白くないんだよ。私はなにも拷問がしたいわけじゃないんだからさ」すこし考えてから、「ぜったいに自分は死なないと思っている相手が、最期の瞬間に、『あぁ、私、死んじゃうんだなぁ』って受けいれる。あの瞬間があってこその人殺しなんだよ。だろ?」

 そこんところは是非とも解っていただきたいものですなあ、と欠伸をする。かれこれ四十時間くらい起きている。

「はぁ。そういうものですか」

「ならどうしてわたしはダメなんですか?」とフローが嘴を挟んできた。

「きみは特別。単純に、死んでほしくない」

「でも、今もまだ本心では殺したいと思っている。あなたは、ふっちゃんを。そうなんでしょ」

 伏見の指摘にどきりとする。図星だった。

「なんで解る」

「なんでもなにも殺気ムンムンじゃないですか」

「え、殺気って臭うの」

「ふんぷんしてますよ」

 フローにまで言われてしまっては、立つ瀬もない。

「そんなにかぁ。バレバレだったなら仕方がない」ああそうさ殺したくって堪らないね、と開き直る。「私ってさ、今までも、殺したくても殺してない人種ってのがいてね。それは何かって言うと、アイドルなんだよね」

「アイドル?」

「そ。アイドル。私の場合は美少女限定だけど。知らない? 民衆から羨望と憧憬と性的な目で見られる、圧倒的美少女たちがいてね。そんな彼女たちが私はだいすきで。それこそ羨望と憧憬と性的な目で見てて、言ってしまえばだから殺したいんだよね」

「では、殺さないのはなぜですか?」興味が引かれたのか、フローの顔が近い。

「理由は二つかな。一つは、単純に距離のちがい。私の身近にはアイドルがいないし、わざわざこっちから出向いて殺してやるほど、私はまだ飢えてない。もう一つは、失望したくないからかな」

「失望、ですか」

「うん。失望。前にいちどだけ私、アイドルに会いに行ったことがあるんだよね。もちろん、殺そうと思ってだよ。でもさ、いざ目のまえにしたら、なんだかちょっとちがうんだ。『あれ、このコがあのアイドルなの?』みたいなね。なんだろうな。アイドルってきっとさ、ディスプレイ越しに観てはじめて存在できる幻みたいな存在なんだろうね。コンサートとかも、舞台のうえと客席と、物理的距離を明確に置いて、立っている場所を明確に区切って、境界線が強調されてはじめてアイドルはアイドルとして存在できる。たぶん、あのとき私が会ったあのコは、アイドルじゃなかったんだ。私はすこし哀しくなっちゃって、そのままそのコにキスだけして、代わりに街中で二、三人適当に殺して憂さ晴らして帰った」

「あ、人殺しはしたんですね、けっきょく」よかった美談かと思いました、とよこから伏見に安堵される。

「なにが言いたかったかって言うとさ、だから、フローちゃんは私にとってはアイドルなわけ。だからこうして面と向かっているときには殺せない。端的に、私ってば、魅力的な女の子は殺せないっぽい」

 口にでるままにそう説明すると、

「なんだか取ってつけたような理由ですね」

 嫌みなく伏見に笑われる。

 うるせぇな、と睨みつけ、「取ってつけた理由だよ」と肯定する。

 いつだってそうだ。本当の理由なんて、考えたところで定まりはしない。


      (3)

 何時間経過しただろうか。ふだんから時計を身につけていないことを後悔する。メディア端末も横島奈心のアジトで奪われて、そのまま置いてきてしまった。

「今、何時だろ。お昼くらいかな」

 返事を期待したわけではなかったが、

「だいたいお昼の三時くらいですよ」フローがわりと具体的な時刻を口にした。体内時計が正確らしい。「ああ……ミウたちにおやつあげなきゃ。阿(あ)田(だ)さん、ちゃんとお世話してくれてるかなぁ」

「アダさんって、あの皮肉好きやろうのことか」

「焼き肉好き?」

 仇名で呼んでも伝わらなかった。「だから、私らをここへ閉じこめたあの男が、アダさんなのか」

「あ、はい。その阿田さんです」

 本名は、阿(あ)田(だ)鬱蔵(うつぞう)というそうだ。いかにも鬱陶しそうな名だ。

「あのひと、口はわるいんですけど、ほかの人たちと比べたら一番わたしたちに良くしてくださって。きっとここへ閉じこめたのも、阿田さんなりの配慮なんだと思います」

 フローの述懐にいっしゅん言葉を失う。それから、

「いやいや、その考えはどうなのよ」と、ふざけんな、の怒気が口を衝く。「お嬢ちゃんね。ここは恨み事のひとつでも吐いておく場面だよ。それを言うに事欠いて、『わたしたちのためにしたことです』って、お嬢ちゃんね。そいつあぁちょいと人が良すぎるって話だよ」

「でも、現にわたしたち、とくに被害をこうむっているわけじゃないですし……最初の暮らしに戻ったようなものなんですよ。それに、きっとあのひとが生きていたら、拷問くらいはされていたと思うんです」

 フローの言う、あのひと――つまりはあの女、横島奈心に比べたら、皮肉好きの下した処罰は、それほど重いものではなかったらしい。だがしかし、と私は思う。

「なんできみらの処罰に私まで巻きこまれなきゃならんのよ。部外者だぞ、私は」

 それは、と伏見が食指を立てた。「あなたにくたばってほしかったんですよ。ここで。鬱蔵さんもそう言っていたじゃありませんか」

 言われてみればそんなことを言っていた気もする。考えてもみれば、私はあいつら横島奈心一味を殺そうとしていたわけで、そんな暗殺者の私なんて、あの男からすれば目のうえのたんこぶどころの話ではなかっただろう。いつまた命を狙われるかも分からないのだ、目障りな野犬を鎖で繋げる機会があったなら、それを利用しない手はない。

 だがそれにしても。

「なんだよ、ちぇっ」私はちょっぴり哀しくなる。「約束したのにさ」

 不老不死を見せてくれるって、約束したのに。

「こんなんだったら殺してやればよかった。いっそ、あのとき」

 アジトで殺してやればよかったのだ。

「後悔先に立たずですよ」

 フローにやさしく慰められるものの、元はといえば、ぜんぶおまえのせいじゃないか、と拗ねたくもなる。

「そもそもなんでおまえら、そんなに冷静なんだ。言っちゃったら、これって大失敗だろ? 頓挫だろ? 窮地とまでは言えないとしてもさ、おまえらの企みは完全に途切れたわけじゃん? だったらもっと悔しがったりしたらどうなんよ」

 散々他人を巻きこんでおいて、当の本人たちはけろりとしている。そんなのは構図としておかしいではないか、と私は糾弾する。

 そもそも、と頭に血が昇りはじめた私は語調を尖らせて、根本的な疑問を口にした。「そもそもおまえら、何でそんなに交配したくないんだ。好きあってんだろ? 愛しあっちゃってんだろ?」

 だったら、と声が裏返る。「子どもの一人や二人、こさえちまえばいいだろうが」

 ミウたちの世話を日常的にしてきたフローだ。今さら育児の負担が増えたところでそれほど苦になるようには思えない。

 どうなんだ、と回答を迫ると、フローと伏見のふたりは困ったふうに顔を見合わせ、それから、言ってもいいよね、と確認しあうように頷きあった。

「なんでこんなまどっろこしい真似までして――。右京さん、そうおっしゃいましたよね。なんで今さらこんなことを、って」

「言ったかもしれないけど、だから?」

 どうして今さらこんな回りくどい真似をしてまで横島奈心を殺さなくてはならなかったのか。ひいては、なぜそとの世界に出たかったのか。院長室でそう問うたとき、私はフローにお茶を濁された。

「交配を迫られたからなんです。阿田さんたちにです。赤ちゃんを生むようにって」フローはこんどはちゃんと答えてくれた。「それに抗いたかったんです、伏見くんとわたし」

「うーん。そこんところがイマイチよく解らんのよ」私は突きだすように唇をすぼめる。「フローちゃんの本心はどうなの。赤ちゃん、欲しくないの」あごをしゃくって伏見を示し、「交配したくないわけ、こいつと」

 世間一般では、好きな相手とのセックスは、愛情を確かめあううえで欠かせないものであり、同時に愛を育むにも欠かせない行為とされている。私にはいかんせん実感の湧かない常識であるが、それでもどうやらそれが現代社会の男女において(或いは、性別に頓着せず愛しあう同性愛者たちにおいて)、求められている共通の愛情表現であるらしい。

 愛しあう者たちはセックスを求めあう。

 では、彼女たちはどうなのだろう、と私は質問を繰りかえす。「フローちゃんだって、ほんとうはしたいんじゃないの。こいつが欲しくないの。嫌いなの?」

 伏見のほうは顔を赤らめ、俯いてしまったので、必然、私の矛先はフローへと集中する。ねえねえ、どうなの。ねえねえ。

 我ながらしつこいかも、と心配になる私の追及に気をわるくするふうでもなくフローは、

「すきですよ。だいすきです」

 わたしは伏見くんがだいすきです、と照れもせずに言いきった。「伏見くんのためなら、なんでもしますし、なんだってしたいと思っていますよ。でも、それと同じだけ、伏見くんがイヤなことはしたくないんです」

 その言い方だとまるで伏見のほうが交配を拒んでいるふうに聞こえる。どうやら理由はフローではなく、伏見にあるようだ。

「おい、おまえ。ホントはホモなのか?」

 伏見に投げかけると、かれは勢いよく噴きだした。咽てもいる。

 問いかけが唐突すぎたのか、それとも飛躍しすぎていたのか。私はちょっと考え直してから、

「わかった。インポなんだ?」

「やめてくださいよ。ちがいますよ」手をわさわさ振って伏見は、「右京さんはちょっと発言が軽率すぎますよ。下品ですよ、短絡すぎですよ」

 非難してくるので、

「なにを言うか。そうそうお目にかかれないぞ」私ほど思慮深い女は、と慎ましく反論しておく。それから、

「じゃあ、なんで拒むんだ」と睨めつける。「同性愛者でもなく勃起不全でもないんなら、じゃあなんだってんだ」

 理由を言え理由を。ただし私が納得できる理由を。

「拒んでいるつもりはないんですが」伏見は困り果てたふうに顔を顰め、ちらりとよこを窺った。かれのよこではフローがきょとんとしている。

 私も彼女を見遣る。じっと見詰めていると、「どうされたんですか?」などと小首をかしげるものだから、ああこれはフリなのだな、と察した。話についていけていない体を彼女は醸している。

 おっとりしているようで実のところ彼女は、私や伏見よりも思慮深い。か弱そうな少女の皮を一枚隔てた下には、いつだって毅然としている誇り高き女がいるのだ。愛のためならば心を押し殺せる冷徹さを兼ね備えた女が。

「聞きたくないのか」私はちょっぴり責めるようにフローへ迫る。「こいつが何で交配を拒んでいるのか。知りたくないのか」

 うぅん、と彼女はあごにゆびを当てて考えこむ。悩ましげな表情のまま、

「理由なんてどうでもいいんです。わたしとの交配に抵抗がある。だいじなのはそれだけなので」伏見くんの本心だけがたいせつなので、と彼女はそう言って眉根を寄せる。

「どうでもよくなんかないって」私は怒鳴っていた。「だって気になるじゃん!」

「それは右京さんの感情で、わたしたちには――」

 関係がない、と続いただろうフローの言葉を私は、「うるさい」の一言で黙らせる。

 振りかえりつつ、油断しきっていた伏見のほっぺたをむぎゅりとつまんで私は、

「口答えしたら殺すから」と前置きする。「なんでおまえ、こんなイイ娘とのセックスがイヤなんだ」

 問い質すと、伏見の顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。ゆでダコ状態だ。

 質問が直截的すぎたのか。いやそんなことはない。単に伏見が見た目にそぐわず純情な青年であるだけの話だろう、この童貞野郎が。

「べつにおれはイヤだなんて思ってないですよ」

「じゃあなんでさ」と威圧する。「なんで拒むよ」

 おまえはなぜにこんなにも麗しい女の子をまえにして拒めるのだ。

 据え膳食わねば男の恥じ、などと言うつもりはさらさないが、しかし、女の子にこんなせつなそうな顔をさせるのは、いかにもそれは男の恥じだ、と言いたくもなる。

 伏見の返答次第じゃ、私も黙ってはいられないぞ、と胸中がうごうご渦巻いた。この場でフローを八つ裂きにするのも一興だ、と半ば本気で考える。

 いらない、というのなら私がもらってやる。フローと愛しあってやる。殺し合いという名のセックスで満たされてやるのだ。

 一方的に殺すだけならオナニーだが、それでもフローはやさしい娘であるから、こんどは逃げ回ったりせずに私を殺そうとしてくれるはずだ。私たちがこうして監禁されてしまった以上、私の想いを酌んでくれるはず。

 ビッチ。色情魔。

 キザな精神科医に私はたびたびそう蔑まされる。冷蔵庫のアイスをかってに食べたの、食べないので発展するささいな口論だが、それでもアイツの口から吐き出される揶揄には、実のところちょっぴり傷付いている。

「きみの殺人衝動はおおむね、性欲にちかいね」

 はじめてアイツに診断されたときにもらった言葉がこれだ。あのとき私は、道理で、と納得したと同時に、淫乱はイヤだな、と漠然と思ったのを憶えている。もしかしたら私はまだ、純情な少女のままでいたかったのかもしれない。あどけない少女のまま、あどけないおとなになりたかったのかもしれない。

 そんなふうに考えるたびに、私はじぶんを嘲り嗤う。

 人殺しのくせに、と。

 淫乱のくせに、と。

 だから。

 憧れとも夢ともつかない、理想の少女にちかしい存在であるフローが私はたいせつでたいせつで仕方がないのだろう。たぶん、きっと。キラキラと清らかすぎる存在を、私はだから、穢したい。

 交配したいと望んでいるなら、すればいいだろ。

 純粋でも、純情でもなく、処女でも生娘でもなく。

 ただそこらに溢れている卑近な女どもと同じようになってしまえばいい。

 私はフローになりたかった。けれどフローは私ではない。ならば毀れてしまえばいい。そう考えている醜い私がいて、同時に、私でないからこその理想形ではないか、と彼女を失うことへの抵抗が根強く、私の胸中にはわだかまっている。

 私の瞳が虚ろになっていることにも気づかず伏見は、あぐらを掻いたまま靴の裏をゆび先で叩いていた。

「おれたち、愛しあっています。でも、兄妹なんですよ。子供は、生んじゃダメじゃないですか。そういうものだって本に書いてありました」

 兄妹だから交配してはいけない。

 禁忌だから。近親相姦だから。子どもを生む行為をしてはいけない。

 常識や良識として禁止されている行為だから、どうしてもできなかった。それは動機として解らなくもないがしかし、と疑問は禁じ得ない。

 だったらなぜ、抗うための手段に殺人を選んだのか。

「書いてなかったのか、その本には」呆気に取られつつ私は、「人は殺しちゃいけないんだぞ」

 じぶんのことを棚にあげて言う。

「愛のためなら、仕方がない。そう書いてありましたけど、やっぱりダメなんですかね」

 いったい何の本を参考にしたのだろう。これだから世間知らずは、と笑うほかない。「いや、ダメじゃない。愛のためなら、人を殺したっていいんだ。ゆるされないけど」

 殺人狂の口にする台詞ではなかったが、そう注釈を挿れたあとで私は、「同じように」と続ける。

「愛のためなら禁忌だって犯していいんだ。それを多くの者に見つかれば咎められるだけだって話でね。でも、見つからなければいい。かんたんな話だろ。そもそもおまえら、そとでコソコソ生きていくのが目的だったんだろ? ちょうどいいじゃん。コソコソついでに、ガキでもなんでもつくればいい。なにを悩む必要がある。したいようにすればいいんだ。世間の目を気にして一生、日陰で暮らせばいい。それともやっぱり、本気でイヤなのか?」

 身体を交えあいたくないのであれば、無理をしてまでセックスをする必要はない。

 行為それ自体がイヤなわけじゃないんです、と伏見がこうべを垂れる。

「おれは、ふっちゃんがイヤがることをしたくないんです。おれの都合でふっちゃんに痛い思いをしてほしくない。生殖行為って、言ったらメスの身体にオスが侵入するってことじゃないですか。ふっちゃんの身体に、おれの下半身が入るわけじゃないですか」

「下半身っていうか、まあ、うん」多少なりとも大袈裟だが、間違ってはいない。「そうな」

「そんなの絶対に痛いじゃないですか。それくらいおれだって判りますよ。何度も体験してますからね。身体に異物がめり込むってのは痛んですよ。めり込む側が気持ちいいからって、そんなのは自分勝手すぎるでしょう」

 拷問のことを言っているのだろうか。或いは人体実験のことを言っているのかもしれない。伏見がいったいどんな情報を以って処女喪失の痛みを類推したのかはいまいち判然としなかったが、話の腰を折るのは野暮だろうと思い、私は聞き手に徹する。

「あなたには理解できない感情かもしれません。これはむしろおれらに難があるんでしょう。おれらが世間知らずなのはこれでも重々承知しているつもりです。この二カ月、そとで暮らしてみてハッキリと痛感しましたし。ただ、好きなコを苦しめてまでおれは、じぶんの欲望を満たしたくなくて……ふっちゃんを傷つけてまで快楽を求めたくはないんですよ。この考えはべつに、異常なことでも、恥ずべきことでもないでしょう?」

「まあな」私は頷く。そっけなく。「ただ、おまえのその気持ちは伝わっているのか? 独り善がりに思い詰めて、暴走しちゃってるだけじゃないのか」

 くだらないよまったく、と思いつつも私は説教を垂れてやる。どの時代、どこの世界であっても、恋に盲目となって突っ走ってしまうのが人間というヤツらしい。

 フローを見遣ると、彼女は表情を変えずに伏見のことを見詰めている。やさしい眼差しだ。

「伏見くん。わたしはずっと思っているんですよ」

 じっと伏見の話を聞いていた彼女が口を開いた。「伏見くんといっしょになれたらどれだけしあわせだろうな、って。伏見くんと離れてたこの二カ月のあいだだって、わたし、ずっと淋しかったんですよ。でも、それが伏見くんの望みだって思ってたから、淋しくってもがまんしようって、くじけなかったの。けどね、もしそれが伏見くんの本心じゃなくって、ホントはこんなことなんてしたくなくって、わたしをたいせつにしようとしてくれてて、だから自分の気持ちを押し殺していて、それでこんな無謀な計画を立てたのなら、わたし、もうがまんしたくない。淋しいのはイヤ。伏見くんがそばにいてくれるだけでいいの。痛いのなんてへっちゃらだよ。伏見くんは知らないかもだけど、わたし、好きなひとにちょっと乱暴にされたいって思ってる、ヘンタイさんなんだよ?」

 最後はちょっぴり頬を赤く染めながらフローはそう告白した。

「わたし、伏見くんの赤ちゃんがほしい。痛いのなんてへっちゃらだもん。それに、苦しいのなんて当たり前だもん。赤ちゃんを産むっていうのはね、かんたんなことじゃないの。それくらい知ってるよ、わたし。とってもたいへんで、すんごく特別なことなんだもん。だから、苦しいのなんてへっちゃらなの。だって辛いわけじゃないから。痛いのも、苦しいのも、ぜんぶひっくるめて、伏見くんの赤ちゃんは、きっとわたしのしあわせだから」

「……ふっちゃん」

「うわあ。どうしよう」フローは下唇を噛んで、「なんか今、すっごく恥ずかしいかも」

 両手をほっぺに添えて顔を覆った。まったくどうして見ていられない。

「恥ずかしいなら言わなきゃいいのに」私はあぐらを解き、のどを伸ばして天井を仰ぐ。そのまま後ろに倒れて大の字になった。「とんだ茶番だぜ」


      (4)

 世間知らずのご令嬢と、その執事の淡い恋物語。

 私はぼんやりと、フローと伏見のふたりを架空の人物に見立て、脳内変換し、ちんけな恋愛沙汰を、壮大なラブコメとして妄想した。

 そうするほかに時間の潰し方がなかったのだ。

 惰眠を貪るという手もあったが、無駄に閑なこの空間において、ただ寝て過ごすというのも肩がこる。すでに閉じ込められてから二十四時間は経過しただろう。いい加減にうんざりだ。

 フローと伏見は、互いの気持ちを確かめあったのを機に、もとからぶ厚かった信頼を確固とした愛情へと昇華したらしく、私のとなりでイチャイチャしている。まるで私なんてこの場にいないかのようなアツアツっぶりで、このまま発情して生殖行為でもおっぱじめるのでは、とヒヤヒヤするほどだ。

「盛るんなら私が死んでからにしてくれ」

 あいにくと他人の情事を見る趣味はない。私の遺体がよこにあってはムードもクソもないだろうが、しかし現状、私がよこにいるのにこうしてイチャコラしていられる彼女たちであるから、私の遺体で気を揉むなんてこともなく、オブジェの一つとして見做してくれるに相違ない。

「私が死んだらさ。ぶちゃいくなミイラになる前に、細切れにして始末してくれ」

 死後のことを考えた私がそう注文すると、

「なんて弱気なことを吐くんですか」

 なぜかフローに叱られた。

「右京さんらしくありませんね。どうされたんですか」と伏見にまで心配される始末だ。

「だってさあ。出らんないんだろ、こっから。だったらせめてキレイなままで死にたいじゃじゃん」

 美しいままで滅びたいじゃん、と願望を唱えると、

「自分でキレイって言っちゃった」と伏見に虚仮にされてしまう。なにくそこのやろう、と憤るものの、

「右京さん、お気をたしかに」とフローが真剣に励ましてくるものだから、よけいに惨めになって、私はだから、

「もういいよ。ふんだ」

 いじけるほかになかった。

 お腹が減った。考えないようにしようとすればするほど空腹が身にしみる。

「餓死する前に自決しようかなぁ」

「弱気ですね」伏見がつぶやき、

「右京さんらしくありません」とフローが励ます。

「おまえらなぁ」段々と腹が煮えてきた。「おまえら、いったい私のなにを知ってるってんだ」知ったような口を叩かないでもらいたい。「私らしくない? おまえらにとっての私ってなに」

「とってもつよいお姉さん」とフロー。

「バケモノじみた殺人鬼」と伏見。

「かわいくない……。それってめちゃくちゃかわいくない。私だってな、乙女なんだ。つよいとかバケモノとか、そんなこと言われたら傷つくんだぞ」

 だいたいさ、と私はこれまで口にださずにおいた鬱憤を吐きだす。「だいたい、私がこんな目に遭ってるのはおまえらのせいだろ。自分らのしたことを棚上げして、なんだよその言い草」

「殺人鬼が言っていい台詞ではありませんよ、それ」伏見の苦笑いが癪に障る。「棚上げしているのは右京さんのほうじゃありませんか」

「うるせえ、うがー! 殺すぞ!」

「本性丸出しじゃないですか。何なんですか。気でも狂いましたか」伏見がフローを抱き抱え、ひらりひらりと私の攻撃を避ける。空腹で力が入らないからか、私の攻撃はかすりもしない。

「今のあなたならおれでも倒せますよ。止めてくれないんでしたら、こっちも黙っちゃいられませんよ」

「伏見くん、やめて」フローが、臨戦態勢に入った伏見を制した。「右京さん、かわいそう。きっとお腹が減ってイライラしてるだけ。だから、今は多めにみてあげて。お願い」

「うがーっ!」私は吠えた。何たる羞恥、何たる醜態。

 喰らうべき仔猫に慈悲をかけられた野犬がごときこの屈辱は、私の空腹に満ちた身体によく染みる。傷口に塩を塗りたくられた気分だ。

 ムカムカともムラムラともつかない破壊衝動が、今やすっかり阻喪している。

「人を殺したら碌な死に方しないっていうけど、あれホントだな」私はめそめそする。「もういっそ殺して。今ここで死なせてくれ。フローちゃんの手で私の息の根とめてくれよ」

「またそんなこと言って」フローが頬を膨らます。

「死ぬのは勝手ですが、ふっちゃんを巻きこまないでくれませんか」

「伏見くん、つめたい」

「いや、だってふっちゃん。このひと、殺人鬼だよ。本当なら死んだほうがいい人間だよ」

「伏見くん、やめて。そういうこと言うの。見損なっちゃうよ」

「ごめん」伏見がしょげた。やおらにこちらを向くと、「じゃあ、そういうことなので、生きてください」

 適当なことを抜かすではないか。

「どうやって?」鼻で笑うほかなかった。この状態でどうやって生きていけというのだ。食べ物だってないではないか。

 ふくれた私の胸中を察したのか伏見は、ほら、と言った。

「それは、ほら。おれの肉、すこしくらいなら食べさせてあげてもいいですし」

「カニバリズムの気はないの!」それに伏見の場合、食べたところでお腹に溜まる前に肉片が消えてなくなるではないか。食べた食べた詐欺とでも呼んでやろうか、このスットコドッコイ。怒鳴る気力もなく私はその場に、だらんと横たわる。「もういいよ。放っといて」

 フローと伏見は小声で何かを囁きあっている。


      (5)

 頭のなかでカチコチと時計の針の音がする。実際に聞こえている音ではない。私の記憶のなかの幻聴がコダマしているだけだ。

 自覚しつつも私はじぶんに言い聞かす。これは現実ではない。

 まだあどけない少女だったころ、私はよくこうして時計の針の、暗闇にこだまする音に耳を欹てていた。その音以外に意識を傾けると、途端に私は生きていることへの気持ちわるさに押しつぶされそうになってしまうから、だからいっさいの知覚を遮断して、それでも微かに伝わってくる外部情報を、時計の針の音で塗りつぶすことで、かろうじて「私」としての外殻を保っていた。

 そうでなければ、私は「私」ではなくなってしまいそうだったから。

 カチコチ。カチコチ。

 魔物が私の中に入ってくる。暗がりに同化した魔物が私の外殻を押し破って。

「だいじょうぶですか。うなされてますよ」

 瞼を持ち上げると、目のまえにフローの顔があった。視界が明るいことに安堵し、私は起こした上体をふたたびぐったりさせる。額に手を置き、ふかい溜息を漏らす。

「わるい夢でも見てたんですか?」

 フローが頭を撫でてくれている。髪を梳くようなやわらかな手つきに、私は知らず身を委ねる。他人に身体をいじくられているというのに、こんなにも心が安らぐのはなぜだろう。頭のなかに響いていたはずの時計の音はもう、どこにも聞こえない。

「伏見のやつは?」

「あっちで、壁を殴ってます」

「壁を? なんで」

「涓滴(けんてき)岩を穿つ、と言ってですね、笹の葉の朝露も、同じ場所に落ちつづければ岩に穴を空けるのです。なので、ああして壁を殴っていれば、いつの日にか孔が空くかもわかりません。そしたらそこから脱出しましょう」

 耳を澄ますと、遠く、濡れ雑巾がゆかに叩きつけられているみたいな音が、ぺちんぺちん、と反響して聞こえる。

「無駄なことを」と口を衝く。

「無駄かどうかはやってみなければわかりませんよ」

「無駄だよ。だっておまえらはこっから出られなくても構わないんだ。そうだろ? だったらそんな無益なことしなくたっていいのに」

 言いながら私は、皮肉めいたじぶんの口調から幼稚な気持ちを感じとる。そうか私は、フローたちと仲間はずれみたいだから拗ねていたのか、と。

「わたしたちはそうですけど、それだと右京さんがかわいそうじゃないですか。出たくないんですか、そとに」

「そりゃ出たいよ」

 そとに出て、またたくさん人を殺したい。

「じゃあ、出ましょうよ。伏見くんがきっと突破口を開いてくれます。それまで、いっしょにがんばりましょう」

 当然のように私を励まし、同情してくれるフローがしょうじき私には疎ましく、それでいて眩しかった。

「フローちゃんさ。きみ、やっぱり人間じゃないよ」

「またそんなひどいこと言って。泣いちゃいますよ、わたし」

「人間じゃなくって、天使だ」

「やだもう。寝ぼけてるんですか」

 照れ隠しなのかフローは私のひたいを、ぺちり、と叩いた。それから、ごめんね、と謝るみたいに、やさしくゆびで撫でてくれる。

 痛いの痛いの、飛んでいけ。私は無言で唱えている。目を閉じて、フローのあまぁい匂いにおいに身を委ねる。瞼越しでも、フローが私を覗きこんでくれていると判る。そんな体勢で首が疲れないのだろうか、と心配したところでふと、ひざ枕をされていることに気がついた。道理で気持ちいいわけだ。

「眠っちゃいました?」

「いんや。起きてるよ」

「やっぱりまだ、死にたいですか?」

 いや、死にたくはない。死にたいと思ったことなど、いちどだってなかった。

 ただ、このままこんなところに閉じ込められているのであれば、いっそのこと死んだほうがマシだ、と思わずにはいられなかっただけのことで。

「どうだろ」と言葉を濁す。それから、「もうすこしこのままでもいいかな……」と言って口をつぐむ。

「いいですよォ、ずっとこのままでも。時間はたっぷりありますから。右京さんがもういいって言うまで、ずっとこのままでいましょうねぇ」

 幼子に言ってきかせるみたいにフローの声音はやわらかい。

 やがて、「よちよち、いいコいいコ」などと言いはじめたのでぎょっとしたが、それも最初だけで、あとは私も恥を捨てて、赤子のように丸まった。


      (6)

 このまま死んでしまうのもいいかもしれない。

 赤子のように丸まって、ただこうしてフローに見守られながら息の根の枯れるのを待つ。

 ぜいたくな最期じゃないか。殺人狂にあるまじき潤沢な死だ。

 極限の状態にあって私はすでに、正常な理性を働かせられなくなっている。それでも今はこうして何も考えず、ただしずかに深い眠りに就き、そのまま二度と目覚めずに眠りつづけたいと思えた。

「あらら。死んじゃってないよね。うっちゃん?」

 ウトウトしはじめていた私の鼓膜に、聞き慣れた声が届く。

「まったく意外だよ。よもやうっちゃがこんな甘えん坊さんだったなんてね。せっかく助けに来たけれど、余計なお節介だったかなあ」

 まさか、と思い、つぎの瞬間には客観的にじぶんのとっている体勢を理解し、そしてそれをアイツに見られている事実に思い至り、全身が、カァと熱くなる。

「どちら様ですか」突然の訪問者に驚いたのだろう、フローが私を庇うように抱きよせてくれる。うれしいのだが、しかしそんなにつよく抱きしめられたのでは身動きがとれない。

「ぼくかい? ぼくはしがない精神科医さ。何でもない、ただの凡人だから、警戒するには値しないよ」言葉とは裏腹に態度がやたらと大きいその尊大な女は、何を隠そう、私の雇い主たるキザな精神科医こと、哀緒(あいお)詩蘭(しらん)だ。

「なんでおまえがここに」それ以前にこの部屋へはどうやって入ってきたのだ。視線を扉へ向けると、なんと扉が、

「開いている!」

「そりゃいくらぼくだってテレポーテーションはできないからね。扉をくぐらなきゃ部屋には入れない」

「あ、あなたは」背後から伏見の声が近づいてくる。「先日はどうも。でもどうしてあなたがここにいらっしゃるんですか」

「ん? なんだなんだ。おまえら知り合いなのか」まるでランと伏見が顔見知りであるかのような雰囲気だ。

「知り合いってほどでもないよね。ちょっと前にかれとは会っていてね。ウチを訪ねてきて、情報を売ってほしいって言うから、売ってあげただけの関係。安心した?」

「待て待て、話が見えない」私は、ちょっとごめんよ、とフローのうでを解き、立ちあがる。ヘラヘラともケラケラともつかない薄ら笑いを浮かべているランを見下ろし、

「まずはハッキリさせておく。おまえ、私をハメたのか」

「えぇぇ。その言い草はないんじゃないかな、わざわざこうして助けにきてあげたぼくに対して、ひどくない、それってさぁ。心外だよ、SHIN―GAI!」

「質問に答えろ」

「うわあ、うわあ、本気で疑ってる! あり得ないでしょ、うっちゃん。ぼくがうっちゃんをハメるなんて、そんなのどこが面白いの? うっちゃんなんて黙ってたって誰かに利用されちゃうような、年中、お花畑ヘッドの殺人鬼じゃないか。ぼくがうでを揮うまでもないのになんで疑うの?」

「そりゃ疑うだろ。このタイミング、この唐突さ。どう考えても怪しすぎる」

「そんなこと言ったら、ヒーローなんてみんな怪しいじゃないか」ヤツは地団太を踏んだ。上目遣いに睨めつけてくる。「まったくどうして困ったちゃんのくせに、そのうえ助けにきてくれた上司にアリガトウも言えない礼儀知らずなのかい! イチ雇い主としてぼかぁ恥ずかしいね、まったく!」まったく恥ずかしいね、とランは両手で白衣をぎゅうと握りしめている。

「泣かなくてもいいだろ」

「泣いてないもんねっ!」

 だったらその目元からぽろぽろ零れているシズクはなんなのか、と小一時間問い詰めたいところだが今は見逃しておく。話がややこしくなりそうだ。

「うっちゃんが危機っぽいからこうして駆けつけてあげたっていうのに、いざ蓋を開けてみたら、うっちゃんってばまんざらでもないご様子だし? そのうえ、ぼくにそんな敵意まで向けちゃってさ。百歩譲って殺意はいいよ。それって、うっちゃんにとっては愛情表現なわけじゃない? だのにそんな突き放すみたいな敵意! ホントこんな扱いされるくらいなら助けにこなきゃよかった。ぼくってばキミらの救世主だよ、恩人だよ? だったらもっと持て囃してくれなきゃ困るんだけれど」

「もういい。分かった」ランの頭をぽんと叩く。「黙ってろ」

 フローに向きなおる。

「とりあえず扉が開いてるうちにここを出よう」

 提案すると彼女も頷き、こちらのあとにつづいた。

 扉をくぐると、なんとそこにはミウがいた。「つよき子どもの家」の番犬たる女児だ。

 こちらの様子を窺うように柱のうしろに隠れているが、その無垢な姿にそぐわない気配なき気配が、私の五感を刺激する。警戒して歩を止めると、

「ミウ!」背後からフローが駆けだした。ミウを抱きしめ、「だいじょうぶだった? ごめんね。みんなは無事?」ミウの顔や身体を捏ねくりまわす。

「ミウ、なかなかったよ」誇らしげに笑みを湛えるミウに比べ、フローのほうが泣きだしそうな面だった。「そう……泣かなかったの。ミウってばえらいね」

 まるで母親じゃないか、と思い、すぐに、いや、と否定する。

 すでに彼女は母親なのだ。

「おいヤブ医者。見てみろよ」私はランの白衣をつまんで引き寄せる。「あれが泣いてないってことだ。おまえのはちがう」

「さわんないで!」

 思いきり振りほどかれる。へそ曲げやがって。ミウの脳みそでも煎じて飲ませてやりたい。

「ありがとうございました」伏見がとなりに立った。こちらへではなくランに頭をさげている。「助かりました。ここにあと二年間も足止めされるのは、おれらからしたって、潔しとしない災難でして。このコたちのこともあるじゃないですか」そう言って伏見はミウに視線を飛ばす。「おれとふっちゃんは、体質的なことから、時間や環境に対してそれほどシビアに考えてはいないんですけど、ただ、このコたちはそうはいかないじゃないですか。見てのとおり、ミウなんてまだこんなに幼い。基礎体力だけは、大人の非ではないとはいえ、誰かが支えになってあげて、お手本になってあげなきゃ――だから、このコたちにはふっちゃんが必要なんです。ですから、二年間も離れ離れになんかさせておけないと気を揉んでいたところに、哀緒詩さん、あなたが来てくださいました」

 ほんとうになんとお礼を言ったらいいのか、とふたたび低頭する伏見の誠意を受けて、ランのやつときたら、

「うっちゃんも、ほら。かれを見習って土下座くらいしてみたらどうなんだい」

 眉を上げ下げし、憎たらしい顔を浮かべている。

 じっと見詰めてから、見なかったフリをした。

「とにかく、ここを出ましょう」伏見が脱出を促す。「対策も講じないと。鬱蔵さんたちも見ているでしょうし、こんどは何をされるか」

「監視カメラについてなら心配いらないよ。ここの管理システムはすでに掌握済みだからね」ふふん、としたり顔なのはランだ。たしかにこいつのことだから、保身だけは完璧にしてあるはずだ。わざわざこうして診療所から出向いてきたのも、ここが安全だと判断したからだろう。

 だが伏見の意見にも賛成だ。ここに長居は無用だ。脱水症状で尿意も引っ込んでしまっている現状、今は、なにはともあれ空腹を満たしたい。

 

 私たちは階段をあがり、「つよき子どもの家」のフロアへと舞い戻る。院長室は静まりかえっており、ひと気はない。廊下へ出ると、我先にとフローが駆けだした。手当たり次第に扉を開け放っていく。

 やがて、

「ミウ、みんなはどこ」

 こちらを振りかえるフローの表情からは、逼迫した様子が窺えた。伏見に抱かれたミウへ問うているが、当のミウは訊かれたくなかった質問のようで、唇を突きだすようにしもぶくれの頬を垂らし、口を閉ざしている。

「ミウ! おねがい、知っているなら教えて」

「みんな、いっちゃったの」

「どこへ?」

「さがしにいったの」

「捜しに? なにを?」

 フローに見据えられたからか、ミウは、叱責を免れようとしている子猿のようにちぢこまった。伏見にしがみつく。そうして伏見の胸元に顔をうずめながら、ゆっくりと手を伸ばし、お団子のように丸めたぷくぷくのおててのうちから、ぴんと食指だけを立てた。

 そのゆびが指し示す方向には、フローがいる。

「へ? わたし?」

 ぎゅう、と伏見にひっついたままでミウは、伏見の胸に顔を擦りつけるようにして、こくこく、と二回ちいさく頷いた。

 子どもたちはフローを捜しに、逃げだした。


      (7)

 子どもたちがどこへ消えたのか。そんな問題は私の知る由もない事項だし、関与するべくもない些事だ。放っておくに越したことはない。

「まあなんだ。がんばれ」

 フローたちをその場にのこし私は、そそくさと「つよき子どもの家」を後にした。

 まず足を運ぶべきは、食事処だ。

 腹が減っては戦もできぬ。食わねば殺しも捗らぬ。

 いちど駅前の焼き肉チェーン店で足を止めたが、せっかく絶好の調味料であるところの空腹を携えているのだから、ここは是が非でも頬のとろけるような肉で腹を満たすべきだ、とあざとく考え、表通りからちょっと離れた場所に立つ、老舗へと行先を変えた。

「ねぇ、どこ行くのさあ」ランのやつもちゃっかり付いてきている。「なんだ。栄養補給か」

 入るなり私は、迷いなくカルビ五人まえを注文する。これで鳴きっぱなしの腹の虫もおとなしくなってくれるだろう。

「経費で落ちるよな、これくらい」たらふく焼き肉を頬張り、ぺっちゃんこの胃をハグハグ膨らませていく。「金持ってないからさ。ここの支払い、頼むね」

「うっちゃんさ。ぼくに言うことないの? ねえ、本気で忘れてるよね? ぼく、うっちゃんのこと助けてあげたんだよ? 救世主だよ、ヒーローだよ?」

「女だからヒロインだろ」

「あのさあ、なんでお礼のひとつもないのかな。なしてぼくがうっちゃんのお財布代わりにならなきゃならんのだろうなあ」

「あ、すいませーん。カルビ三人まえ、おかわりで」

「ねえ、聞いてる?」

「聞いてる聞いてる。ありがとね。感謝してる。このとおり」

「かるすぎ!」

「そんなことはな……」ぐびぐび、とグラスをあおり、「ぷはぁ。すいませーん。ウーロン茶おかわりで」

「否定するなら最後まで言って!」

「あ、どーも」新しく運ばれてきたウーロン茶とカルビを受けとり、「で、なんの話だっけ」

 なぜか眉を蝶結びにしているランに向き直る。

「ちゃんと聞いてってば」

 ヒステリックに叫ばれる。「ああもう、なんだってぼくってばこんなアンポンタンのためにこんなとこまで来ちゃったんだろうなあ。かぁあ」

 ぼくってばホントお豆さんっ、と嘆く彼女はおそらく自分がまめな人間である旨を主張したいのだろう。「そうな。おまえはお豆さんだ」と肯定してやる。

「うっわー。腹立つなあ」なぜかどやされる。「うっちゃんいいかな、ここはぼくの奢りでいいからさ、ぼくの話をよっく聞いて。そのうえでぼくを崇めて、敬って」

 つまりが褒めそやしてほしいのだろう。ふむふむ。たまに雇い主のご機嫌をとっておくのも処世のためには必要だ。「わかった。聞いてやるからとっとと話せ。手短にな」

 嬉々として語りだしたランを尻目に私はカルビを炙りながら、今ごろフローたちは何をしているのだろう、とたぶんもう二度と会うことのない私のアイドルに想いを馳せる。先刻までは目のまえの焼き肉にしか目がいかなかったというのに。

 この自家撞着な心境の変化はきっと、居所のわるかった腹の虫が、焼き肉にぎゅうぎゅう包まれて、収まるべきところに収まった結果だろう。

 へたな自己分析をしながら私は、BGMの代わりとして、すこしばかりランの話にも耳を傾けてやる。


      (8)

 映画では往々にして主人公は死なない。死にそうな目に遭いながらも、どうにかこうにか窮地を脱して生きながらえると、相場は決まっている。

 これは絶対に死んだだろ、と思うような場面であっても、勃然と現れた仲間に救われたり、または予想外の事態が起きてけっきょく主人公は命拾いしたりするのだ。(たとえば数時間前に主人公が救った老人がマフィアのボスで、恩を返すために敵であるギャング団をとっちめてくれたり)

 だがそこにはきちんと脈絡がある。観客に対して結末に至る理由がフエアに提示されているものだ。

 その結末に至る理由がたとい偶然であったとしても、現実に起こり得るかもしれないという現実味を帯びているものである。それを仮に説得力と言い換えてもいい。

 仮想世界であってもそれくらいの整合性が用意されている。

 ところが今回、私の窮地に現れた――或いは駆けつけた――ランの登場は、すこしばかり説得力に欠いている。

 大きな疑問としては主に二つだ。

 なぜ部外者であるはずのランが「つよき子どもの家」の隠し部屋へと辿りつけたのか。

 さらには、なぜ私の窮地を窺知できたのか。

 今回ランは当事者ではなかった。完全に蚊帳の外にいたはずなのだ。それがどうにもすべてを見透かしているかのような立ち振る舞いをみせている。

 ランへの不信感を募らせるには充分すぎる不自然さだ。

「――で、ぼくを困らせてばっかりでさ。うっちゃんてば向こう水で、いままでだってそうだったじゃないか。初めて会ったときだってうっちゃんはさ」

 と、部下に小言を垂れ流す上司みたいに過去のことを掘りかえしはじめたランを片手で制して私は、

「おまえ、なんであの場に来られた」

「つよき子どもの家」で一時中断させていた詰問を再開させる。ランの不自然な登場について、「あそこに私が閉じ込められていると知っていたのは、なんでだ」と問い質す。「おかしいだろ、だって。本来なら、私が閉じ込められていることさえ知り得ないだろうに、私の窮地だけじゃなく、その場所まで知っていた。もしかしておまえ、今回の一件に一枚噛んでないか」

 そもそも、と私はランと伏見の会話を思いだす。空腹で頭が回っていなかったからかあのときは深く追求することをしなかったが、今こうして落ち着いて考えてもみればやはり、伏見とランが知り合いだったというのはちぃとばかしキナ臭い話だ。敵の忍者とこちらの殿様が内通していた、くらいの衝撃ではないか。時代が違えば、私はじぶんの殿様の首を手土産に敵さんへ寝返っていてもおかしくはない。ランの返答次第では本当にランの首を刎ねなければならなくなる。

「あらら。もしかしてうっちゃん、まだ疑ってる、ぼくのこと?」

 ランから感情が抜けていく。哀しそうというよりむしろ、これは呆れている感じだ。

「ああ、うたぐってる」正直に答える。「伏見のヤロウと知り合いだったことも含め、おまえは今回、私の知らないところで知らない動きをとりすぎだ。疑うなというほうが無理だろ。やましいことがないなら、今ここで話せ。話せないというなら、そういうことだと私は見做す。おまえは私に対して、やましいことをしていた、とな」

「逆に訊くけど、やましくないことってなに? 自慢じゃないけれど、ぼかぁね、生まれてこのかた、やましいことしか、してこなかった人間だよ」

「御託はいい」最後のカルビを口へ運ぶ。「話せないならそれまでだ」

「話せるよ。だって相手がうっちゃんだもの。やましいことをやましいことだって知らないうっちゃん相手なら、ぼくはなんだって話せちゃうよ。だってホントなら話しちゃいけないことでも、うっちゃんなら笑って済ましてくれるから」

 ね、そうでしょ、と訴えるような上目遣いがキラキラ眩しい。だが私は敢えて表情を崩さず、

「私にだって笑って済ませられないことはある」と嘯く。

「そ? それはそれで面白そうだけれど」ランは握っていた割り箸を置いた。講釈の片手間に彼女はずっとそれを指揮者のように振っていた。「うっちゃんが何をそんなに憤慨しているのかぼくにはさっぱりチンチンなのだけれど、でも、うっちゃんは聞きたいんでしょ、ぼくの話を? だったら何だって話しちゃうよ。今日は無礼講だい、無料で何でも話してあげちゃう」

「なら遠慮なく」ひとつ息を吐く。「おまえ、伏見とはどこで知り合った。いつからの付き合いだ」

「二か月前だね」ランはさくさく応じた。「かれが訪ねて来たのさ。もちろんウチにだよ。情報を売ってほしいってね。ぼくのことはまあ、誰かから聞いたんでしょ。ちょっと怪しいお店にいけば噂くらい流れているだろうし」

 どんな情報を売った、とあごをしゃくって催促する。ランは相好を崩したまま、

「どんな人間でも殺しちゃうような暗殺者はいないか、って依頼だったよ。でも、そんな暗殺者はいない。それはうっちゃんもよく知っているよね」

 いっしゅんひるむ。どんな人間でも殺してしまうような暗殺者は、たしかにかつては存在したが、そんな暗殺者はもうどこにもいない。

「それでおまえはどうしたんだ」無いものを売ることはできない。だが、ランはそこでほかの情報を提供したはずだ。

「うん。暗殺者はいないけれど、それにちかしい人物がいることを教えてあげた。そしたらかれ、そっちでいいって言うじゃない。だからそっちの情報を売ってあげたってわけ」

 つまり、私の情報をランは、伏見に売ったのだ。

「らしくないな。いつからそんなお人好しになった」私は動揺していた。ランが私の情報を売ったことはこれまで一度だってなかった。だが今回はちがった。そのことに傷付いているじぶんに気づき、私は動揺している。

 こうして自己分析できるくらいにはまだ冷静を保てているようだ、と自覚し、

「おまえが私を売るとはな。けっこうショックだ」

 余裕を醸して、取り繕う。

「うっちゃんを売ったわけじゃないよ。うっちゃんの情報を売ったんだよ。そこは是非とも勘違いしてほしくないなあ。ぜんぜんちがうもの」

 ちがくない、と私は噛みつきたかった。貧乏ゆすりが止まらなくなっている。

「それに、お人好しっていうならぼくはいつだって、生まれたときから、お人好しだよ。それはうっちゃんだって知っているでしょ」

「知らない」ぜんぜん知らない、と手元の割り箸をゆびに挟んでへし折る。「で? 伏見に情報を売ったおまえは、そこからどうした。何もしてませんでした、ってことはないよな。今日おまえがあの場に現れたのだって、ホントはずっと前からこうなることを知っていたからじゃないのか」

「ん? なんで怒ってんの、しょうじきに話してるのに。それになんか誤解しっぱなしみたいだけれど、ぼくってば今日の今日までうっちゃんの情報を売ったことなんてすっかり忘れてたもんね」

 それはそれで問題だろうが、とどつきたい衝動をかろうじて堪える。

「もしかして、今日の行動が腑に落ちない? 聞けばたいしたことないよ。ぼくってば、あそこのセキュリティ通して、うっちゃんたちの行動を観てただけだもの。うっちゃんの危機に、颯爽と登場したってべつにおかしくはないでしょ」

 筋は通るが、おかしいことに変わりはない。

 話を偽ろうとしていないランの姿勢は感じられるし、何かを隠し通そうとしているようにも見えない。が、ランの言っていることを信じるとすれば、こいつは以前から横島奈心一味となんらかの関係を維持していたことになる。そうでなければどうしてあの施設のセキュリティを半日足らずで網羅できるだろう。相手は腐っても学者だ。街中の監視カメラを一斉にハックするくらいの技術をもっている。一朝一夕でどうにかなるはずもない。

「おまえ、知ってたんだろ。ずっと前からあいつらのこと。横島奈心たちが不老不死の研究をしていたことも、試験体に逃げられたことも」

 もしかしたら診療所を訪ねてきた男が横島一味のもとから脱走してきた不死身のバケモノだってことも、こいつは最初から知っていたのではないか。滔々と湧きだした疑惑が私の頭をもたげていく。

「おまえホントは知ってたんだろ」

 摂氏零度以下の言葉を吐くも、ランはいっさい動じなかった。

「知っていたわけじゃないよ」と、南国にいるみたいに陽気な様で、「昨日、うっちゃんに聞かれて、探ってみて、初めて彼女たちのことを知ったんだもん。でも、そうだなあ。気づいていたっていうなら、監視カメラがハッキングされていることには気づいていたよ。それこそ二か月くらい前からね」

「どういう意味だ。解るように話せ」

「かんたんなことなのに」ランはぼやくように唇をすぼめた。それから彼女はアイスクリームを二つ注文した。運ばれてきた品を、ひと皿こちらへ滑らせる。

 頭を冷やせとでも言いたいのだろうか。腹が立つ。スプーンでアイスをすくってチビチビ舐めていると、

「かれがウチに来るすこし前かなあ」ランがふたたび話しはじめる。伏見が診療所を訪れるよりもすこし前のことだという。「ウチのセキュリティの一部が外部干渉を受けていてね。意図しないプログラム――要するにウイルスに感染してて。ハッキングとまではいかないんだけれど、どうも監視映像がよそへ流れているらしいと判った。ほら、ウチにもあるじゃない? 監視カメラ」

 診療所の内部には合計で五つの監視カメラがある。ほかにも診療所を囲うようにして、いくつかのカメラが設置されていることには私も気づいていた。

「あれらのカメラ映像がどうにも部外者に拾われているらしくって、そんなの気持ちわるいでしょ? だからカメラのほうは遮断して、それからウイルスのほうは駆逐せずにそのままにしておいたんだよね。強制的に情報を外部へ転送するタイプのウイルスだったから、ちょっと辿れば大本のサーバを特定できるかなって思って。ただまあ、言ってもそこまで悪質なウイルスじゃないし、映像ジャックなんて有り触れた話でしょ。現に、あのウイルスってば、そこら中にばら撒かれてたみたいだし。ウチがターゲットってわけじゃなさそうだったから、まあ、しばらくそのままにしておいたんだけれど」

 映像ジャック。遠隔操作によって強制的にカメラを起動させ、映像を転送することにより情報を盗むこと。現代人の多くは一人につき一台以上のメディア端末を保有し、それには必ずと言っていいほどカメラが付属している。それを通して、何者かが常に他者の生活を盗み観ている。そのことに気づいている者は、映像ジャックをしている側のみ。現代社会では、もはや被害者は被害者たりえない。

「で、二ヶ月間そのままで放置していたわけなんだけれど、ほら、ぼくんところもさ、いつまでも監視カメラなしってわけにはいかないじゃない。ほかのカメラ設置するのは面倒だし、設置したところでどうせすぐにウイルス感染しちゃうわけだから。そんなんうざったいし、じゃあ、そろそろウイルスのほうを駆除しちゃおっかなって思って。で、遮断してたカメラ作動させて、ちょちょいのちょいって解析したみたわけ。ついでにどこのどいつが映像ジャックなんてしているんだろう、って探ったりもして」

「それで」と相槌を打つ。ここまではとくにひっかかりなく呑みこめる。

「したらさ、解析結果がでる前に、うっちゃんがウチにきて、そんでヨッチーこと横島奈心についての情報をせびってくるじゃない」

「せびってはいない」苦情を挟むも、うん、の一言で流される。「で、うっちゃんが出てったあとね、ウイルスの解析結果がでたわけなんだけれど、これがまたびっくりしたよね。ウイルスの送信元がうっちゃんに教えてあげた住所と重なるんだもん。ぼくってばこんがらがっちゃったよね。うっちゃんってば、またどんなおもちろいことに首を突っこんでいるんだろうって」

「またってなんだ、またって」

「こりゃどういうことなんだろうって気になるでしょ、ふつう。だからぼくってばウイルスの転送プログラムを、ちょこっといじくってみたわけ。で、向こうさんのサーバに潜ったの。したらやっこさん、うっちゃんのこと追っかけてて、その映像がこれまたおもちろいことになってるじゃない。そうこうしているうちに、うっちゃんってば横島奈心のアジトで捕まっちゃうし、かと思ったら、ヨッチーを殺しちゃうし。それで終わりかな、つまらんなあ、と思っていたら、こんどは一転、うっちゃんってば白衣の男どもを殺さずに、逆にあいつらの一人に閉じ込められちゃうでしょ。ほんっと、観ていて飽きなかったなあ」

「けっきょくおまえ、ぜんぶ観てたのか」

「うん。さっきもそう言ったでしょ。ぜんぶ観てたよ。だから徹夜でもう、くったくた。どうしてくれんのさ、もう」

 電波越しに他人の情事を盗み観てにやにやしている男どものように、ランの崩れた相好は不愉快だ。徹夜はいつものことだろ、と揶揄するのも面倒だ。

「つまりおまえは、だ。私が窮地に陥って、弱り果てていく過程をおもしろおかしく笑いながら観ていたわけだ。そんで、いよいよ私が限界にちかづいたところを見計らって、わざわざ助けに来てくれたってわけだ」

「そういう言い方もできなくはないね。だからまあ、アリガトウって言ってくれても構わないよ」

 ふざけんな、と怒鳴り散らす。香ばしい焼き肉のにおいの充満した店内に留まらず、道路のほうまでシンと静まりかえった。周囲の視線が集まったが、意に介さず私は怒気をまき散らす。

「なんですぐに助けなかッた」

 それが上司のやることか。

 これが部下に対するおまえの処遇なのか。

 観ていたのならすぐに助けにきてくれてもよかったものを。

 傷付きそうな予感と共に、私の胸の奥では得も言われぬ解放感が広がっていく。恩を返そうと従う者へのこれがおまえの応えであるならば、私はもう、この感情を堪える真似をせずに済む。

 こちらに目を向けるともなくランは、顔を伏せたまま、わるびれる様子もなくこう言った。

「ヒーローはだって、窮地に現れるものじゃない?」

 彼女の言葉は、だってヒーローになりたかったんだもん、と拗ねた子どもの戯言のように聞こえ、こちらをひどく脱力させた。なんだってこいつはまったく、いつまでもガキみたいなことを、と怒るのもバカバカしくなる。ほぐれかかっていた私の胸中は、すぐさま熱を籠らせ、固く固く私の殺意を凝縮させた。

「知らないようだから教えといてやる」私は折れた割り箸を握り直し、「救うばかりで、救われない。それがヒーローだ」

 で、おまえはヒーローなんだっけ、と割り箸の先端を、目と鼻の先に突きつける。

 ごくり、とのどを鳴らすとランは、

「ヒーローも魅力的なんだけれども」

 組んでいた足をほどいて、正座の体勢をとり、

「今はヒロインでいいかもしれない」

 腹立たしいことに、ちんまりと下唇を噛むのだった。




  

   第五章『人殺しVSヒトデナシ』



      (1)

 虫や鳥や獣にも帰る場所があるように、人殺しにだって帰る場所はある。

 焼き肉の会計をランに任せているあいだに私はそそくさと店を後にした。ランを置き去りにし、ひとり、帰路につく。

 今日はもう誰とも顔を合わせたくないし、この憔悴しきった顔を晒していたくもない。三六五日、ほぼ毎日欠かさず人を殺してきた私も、今日はこのまま住処に戻って床に就きたい気分だった。

 だいぶんまいっているじぶんに気づき、歳はとりたくないものだな、と苦笑する。卑屈な感慨も湧いた。むかしに比べたら私もずいぶんと軟弱になったものだな、と。

 駅前はどこもかしこもネオンで眩しく、いまが夜であることにしばらく気づかなかった。中心街に溢れる絢爛なネオンから離れ、住処へと近づくにつれて暗雲立ち込めたかのように、世界が暗くなっていく。空を見上げ、星がでているのを確認し、そこまでしてようやく今宵は月のない夜なのだな、と思い至った。

 閑静な住宅街を抜け、雑木林に隣接した地域に出る。ここまで来ると、ひと気はほとんどない。

 アパートのまえに到着する。築五十余年と年季の入ったアパートだ。剥がれかけのかやぶき屋根が、風に煽られて音をたてている。ケタケタと魔女が高笑いしているみたいで、いつ聞いてもこの音は精神を逆なでる。いっそのこと吹き飛んでくれればよいものを、と思わずにはいられない。

 自室の扉を開け、嗅ぎ慣れた空気に触れる。ふしぎと、心が穏やかになる。ただ寝て過ごすだけの空間だというのに、一歩足を踏み入れれば、顔に張り付いていた仮面が外れたような開放感が私をにわかに包みこむ。

 荒んでいた海がいっしゅんにして晴れ渡り、空には積乱雲がもくもくと昇り、その合間から太陽がさんさんと陽射しをまき散らす。そうして私は田舎のおばあちゃんの家の軒下でそよそよと吹きこむ風に涼みながらスイカをかじって眠くなる。映画で観たワンシーンにはちがいないが、そうした安らぎを私は瞬間的に覚えるのだ。

 安心したのか、どっと肩が重くなる。

 足を擦り合わせて靴を脱ぐ。手も洗わずに私は、帰ってきたぞぅ、とつぶやきながらベッドにつっぷす。

 長い一日だった。いや、閉じ込められていたあいだに実質どれほど時間が経過していたのかが判然としない。二日かもしれないし、三日かもしれない。私はそのあいだずっと、人を殺すことをしなかった。

 それどころではなかったと言えばそうだろうが、これはちと、私らしくない。人殺しが人を殺さずして何とする。

 やはりこの数日間は異常だったのだと、再認識する。

 フローという少女に振りまわされたこの期間、私は「非日常」に身を置いていた。なにが不死身だ。なにが不老だ。こちとらただの人殺しだぞ。おまえらの常識に巻きこむな。

 ふつうではなかった。私も、世界も、何もかも。

 うとうととしているあいだに私は今日も、夢と現(うつつ)の境界線をしらず踏み越えている。


      (2)

 犬が苦手だった。私の背丈がまだ現在の半分ほどしかなかったころの話だ。あのころは、犬もトラもライオンも、みな等しく同じ獣にみえていた。獣はおそろしい。言葉が通じないだけでなく、力も及ばないのだから。私はいつだって蹂躙される側だと思い知らされる。

 獣はこわい、こわい、こわい生き物なのだと、私はあのころから知っていた。

 だがいまはもう、犬ころも――トラやライオンだって、おそろしくはない。

 猛獣は猛獣だ。人に牙を剥けば駆除されるだけの獣にすぎない。

 そう。獣にすぎないのだ。

 言葉が通じず、力の及ばない相手はケダモノで、駆除される側で、そして私は駆除する側の、人間だ。しつけの及ばない獣どもは駆除するのが道理である。

 弱者が蹂躙から逃れる術は、従順であることを抜いてほかにない。従順であることはしかし、蹂躙され得るということだ。

 媚びへつらい、阿諛追従し、それでも立場はなにも変わらない。

 立場を変えられる術があるとすれば、それはこちらが蹂躙する側になるほかにない。

 しかしこちらが蹂躙される側なのは、力がないためで、力のない者は、ケダモノを蹂躙することなど叶わない。

 だから人は人を殺すのだ。全力を以って立場を逆転させようとすると、それはどうあがいても――全力であがくがために――相手の命を奪うことでしか成立しなくなる。力のない者の、これが宿命(さだめ)だ。

 極端な排斥方法しかとれない弱者。それが私という人間だ。

 ケダモノに怯える、人間。

 私は、殺すことでしか他者と平等に接することができない。

 私は、対等になるために人を殺す。

 同意も賛同もいらない。

 同情も欲情もしてくれなくていい。

 ただ、私のことを理解して。

 理解してほしくって、私は人を殺すのだ。

 私に殺された瞬間、ケダモノは私と同等の人となる。

 それとも、私がケダモノの側に落ちているだけかもしれない。

 どちらでもよい。

 私が誰で、何者なのか。

 相手が誰で、何者なのか。

 そんなことはどうだってよい。

 私はただ、理解しあいたいだけなのに。


      (3)

 目覚めのよかった朝などあったためしがない。ふと夜に目覚めるときはわりと気持ちが安らぐというのに、朝だけはこのまま消えてなくなってしまいたくなる。

 脱皮するみたいに毛布から抜けでる。台所に立ち、珈琲を淹れた。

 世間の動向を探ろうと思いメディア端末を開こうとするが、横島奈心のアジトに忘れてきたことを思いだし、鬱屈とした目覚めがさらにけだるいものとなる。いいんだ、いいんだ。どうせ私は世間から取り残された女なのだから。わけもなく、いじけたくなる。

 シャワーを浴び、着がえ、そとに出る。いつもの習慣だが、今日はふだんよりも家のなかで過ごしたくなかった。地下室に閉じ込められた記憶が、ことのほか深く私の脳裡に刻まれているのかもしれんね。なにともなしにじぶんを分析し、分析した結果をうちなるじぶんに報告する。うむうむ、ごくろう。

 街の駅前へと着くころには陰々滅々としていた気分もだいぶん晴れた。青空が爽やかな影響かもしれぬ。

 立体歩道橋のうえから駅前を見下ろす。眼下では、人々が蟻の大群みたいに右往左往と行き交っている。

 会社へ通う者、学校へ向かう者、帰る者、帰るアテのない者。

 みな、目的地はちがえど、なにかしらの目的があってこの場所に集っている。

 では、私はどうなのだろう。なぜここへ来たのだろう。いつもそうだ。目的があるわけではないのに、駅前へと足を運んでいる。

 落ち着くからだろうか。人の群れのなかに身を置いていると、なぜだか心が安らぐ。

 精神の安定した私はそこで、腹が減れば食べて、閑になれば映画を観、そしてムラムラしてくれば人を殺す。

 お金は、殺した相手から頂戴することもあれば、日雇いのアルバイトをして稼ぐこともある。

 自由すぎる日々を生きていると人はたまに、不自由な生活を欲するようだ。

 誰かに自由を縛られたい。ほかの多くの者たちと同様に、私も人生を束縛されたい。

 ただし、イヤになればすぐに脱し、また奔放そのものの生活に戻ることができる。この余裕がなければ、真に自由な暮らしとは言いがたい。

 アトラクションと同じなのだ。私にとっては、殺人もアルバイトも大差ない。人生を有意義に過ごすためのいちファクタ。

 

 映画館で最新の映画を二つほどハシゴした。そのあとで館内のファミレスで腹を満たす。朝食、昼食、と抜いていたのでがっつり食べてやった。

 フォーク片手に私は物思いに耽る。このハンバーグには実は人体の神経系を自在に制御できるナノマシーンが混入されている。二つ目に観たSF映画が印象的で、その余韻に私はどっぷり浸っていた。映画の世界から抜けだせないままでファミレスを後にする。

 映画館のそとに出る。いたるところでネオンが煌々と輝いている。

 もう夜がやってきたのだ。私が空想世界に身をやつしているあいだに、勤勉にも世界のほうはその色合いを一変させている。

 きらきらと装飾された街並みを眺める。

 昼間と同じ場所なのに、まったく別の世界に身を置いているような感覚になる。

 たぶん、映画の感動が、麻薬みたいにきいているからだ。

 もしくはこの街に溢れる大勢が、いっときの自由を感じているからだろう。大勢の抱いている解放感が、世界の印象をがらりと変えている。

 人は夜に自由になる。

 だから私もこうして高揚するのだろう。

 感化されている。

 街に氾濫した解放感に私もまた共鳴している。

 私のまえを行き交う者たちは今、人の皮を脱ぎ捨てることへの抵抗感を薄め、きっかけさえあればすぐにでも獣に還るほどの自由を予感している。

 それは確かな予感ではあるが、まだ実を結ぶほどの体感にはなっていない。

 血が騒いでいるだけで、肉はまだ動いていない。

 そんな彼らを眺めて、私の血も騒ぎはじめている。

 身体が汗ばんでいる。全身が火照って仕方がない。

「どうしよっかなあ」

 誰でもいいというわけではない。私にだって好みはある。男よりも女だし、ヨボヨボよりはピチピチがいい。欲を言えば、子どもと大人の中間、つまりは少女であると好ましい。

 この時間帯に、一人歩きしている少女を見つけるのはなかなかに至難だ。仮に見つけたとして、その場で殺して「はい、お終い」ではつまらない。できればじっくり楽しみたい。であれば、その場から連れ去らなければならないわけだが、しかしいくら私が彼女たちと同姓の女だからといって、ひょこひょこと私についてきてくれる少女というのは、あいにくとこの過保護な時代にはあまりお目にかかれない。

 目星しい少女を見つけられずにいると、周囲がざわついていることに、ふと気づく。

 遠く、サイレンの音が聞こえている。

 事故でもあったのだろうか。私のよこを抜けていく者たちが一様に手元のメディア端末を覗いている。

 メディア端末を持ち合わせていない私は、のどを伸ばし、ビルを見上げる。壁面に嵌めこまれている巨大な液晶画面へと目を向けた。デジタルアイドルの歌姫の新曲PVが映しだされている。その上部にちょうど、緊急ニュース速報のテロップが流れているところだった。

「通り魔かあ」

 どうやら事故ではなく事件だったようだ。

「へえ、死傷者百人超えてんのか。はは。そりゃほとんどテロの域だろ」

 しかも事件のあった現場は、この繁華街の周辺だ。いつのまにかサイレンの音が、さきほどよりも大きく響きわたっている。けたたましく感じられるほどだ。

「そりゃ、騒然ともなるか」

 二か月半ほど前にも、この近辺で通り魔が跋扈した。十人ちかくの死者がでた事件だ。あのときもまたこうしてサイレンの音が鳴りやまなかった。

 人々は足早に駅前をすぎ去っていく。周囲の人間たちはサイレンの鳴り響く方向を眺めながらも歩を止めることはない。みなかんぜんに他人事のようだ。

 私も同じだ。関心はあるが、興味を引くほどもでもない。どこで誰が何人殺そうが、どこで誰が何人殺されようが、私の知ったことではない。

 ただ、妙な胸騒ぎがあった。

 通り魔と断定しているニュース。その割に、多すぎる被害者の数。

 このちぐはぐな印象は、そのまま私に、異形の者たちの存在を意識させた。

「まさかな」

 否定しようとするも、脳裡からあのコらの顔が離れなくなる。

 巨大な液晶画面はもう、さきほどまで映されていたデジタルアイドルではなく、特番としての臨時ニュース番組へと切り替わっていた。さらにLIVE映像として、ここから一キロも離れていない地域が映しだされる。

 記者らしき男が、現場から状況を伝えている。

 話をまとめるに、突如として現れた集団が通行人に襲いかかり、百人を超える死傷者をだした模様とのことだ。単独犯ではないらしい。

 犯人と思しき集団は、現場から逃走し、現在姿を晦ませている。生存者の証言によれば、小柄な子どものような容姿をした集団で、野獣のように人間に襲いかかっていたという。また、集団が走り去ったあとで、集団のあとを追いかけるなぞの二人組が目撃されているとの情報もあるそうだ。それを聞いたコメンテーターの一人が、「よほどおそろしい目に合ったのでしょう。錯乱していらっしゃるようだ」と生存者たちの証言をまっこうから否定するような旨を口にした。

 ふむふむ。なかなかに信憑性の欠けるニュースである。

 が、私には判ってしまった。

「フローちゃん、何してくれてんのよ」

 深い溜息を吐いてから私は、もたれかかっていた欄干から背を離す。液晶画面に背を向け、ゆっくりと歩きだす。


      (4)

 診療所のまえに到着したころには、だいぶん夜も更けていた。

 玄関口に立つ。廃業しているのか、開業しているのか判らない景観だ。

 腐っていそうな柱に、白いペンキの剥げた壁。赤信号を水で薄めたような明かりが玄関先を照らしている。カーテンが閉めきられているため、どの窓も真っ暗で、中に人がいるのかどうか外からでは判らない。

「お化け屋敷みたいだな」

 いまさらのような所感だが、こうして改めて眺めてみると、実に不気味な佇まいではないか。一般患者の足が遠ざかるのも納得だ。診療所のくせに、どうにも医療とはほどとおい、不潔さと不穏さを醸しだしている。

「おーい、いるか。私が来てやったぞ」

 かってに玄関を開け、足を踏み入れる。外観だけに留まらず、この診療所は内装も不健全だ。実はここは廃屋でしてね、と説明したら十人が十人、「でしょうね」と答えるに相違ない。

 診療室のまえに着く。扉をノックし、

「入るぞ」

 断ってからドアのぶを回す。煌々とした明かりがいっしゅんだけ視界を占領した。

 目が痛い。細めた目を戻すころには、ランの姿と、彼女と向かいあうようにして椅子に腰かけている少女の姿を視認する。

「なんだ……来てたのか」

「すみません。おじゃましてます」

 不老の少女、フローが委縮したように低頭した。昨日別れたばかりだというのに、顔を合わせていたのがもう何年も前のことのように感じられる。

「やあやあ、遅かったじゃないか」椅子をくるりと回転させて、ランがこちらを向く。開口一番、「うっちゃんてば、どこで道草食ってんだろうね、って噂をしていたところだよ。もしかしてお腹でも壊しちゃったのかなって」

 腹の立つことを抜かすではないか。コイツのことはとことん無視だ。

「ここにフローちゃんがいるってことは、街のアレはやっぱり?」

 確認するとフローは、

「はい。あのコたち、はじめてそとに出たものだから、気が動顛してしまったみたいで」

 恐縮しきった様子で説明してくれた。「いまは伏見くんが跡を追ってくれているんですけど、でも、あのコたち、わたしが声をかける前にバラバラに逃げてしまって。そろそろ伏見くんも追跡を断念して、ここへやってくるころかと思います」

「なにはともあれ、うっちゃんが来てくれてよかったよ。連絡がとれないんで、どうしよっか、って相談していたところでね」

「道草うんぬん噂してたんじゃなかったのか」

「そうなんだけれどね、うん」私の皮肉は流された。「単刀直入に用件だけ伝えるよ。うっちゃんさ、さっそくでわるいんだけれど、お仕事だい。ちょっくら行って、彼女のきょうだい、とっちめてきてよ」

「ガキどもを? 私がか?」

「そ。今回のはやりがいあると思うよ。なんたって、バケモノらしいじゃない。このコも含めて、横島一味の研究成果はさ」

「研究成果って言うなよ」本人のまえだぞ、と諫める。「フローちゃんも怒っていいんだぞ。歩く無礼とはコイツのことだ」

「いえ、いいんです。ほんとうのことですから」フローは柔和に言うと、こんどは一転、恭しく姿勢を正し、「それよりも右京さん、お願いします」と格式ばった。「どうかあのコたちを止めてください」

「え、あ……うん」

「お願いします、右京さんじゃないとダメなんです」

「いや、でもさ、止めるたって私はだって、人殺しだよ?」真摯なフローの眼差しを受けとめきれずに私は、「殺す以外に止め方なんて知らないんだけど」とおろおろする。

「それで構わないよ。むしろ殺す気でいくべきだ」とはランの言葉だ。「ね?」とフローへ向けて偉そうにめくばせする。

「はい。殺す気で止めてくださって構いません。それでもわたし、あのコたちは無事に戻ってくると信じていますから」

 要するに、私にはガキどもを殺せないってことか。甘くみられたものだ。反射的に頭にきたが、甘くみられていることを自覚した瞬間、なんだか猛烈に哀しくなった。「だといいね。殺しちゃったらごめんね」と心にもないことを言う。

「心配にはおよびません。私を殺せない右京さんじゃ、殺せないですもん、あのコたちのこと。だから、わたし、安心して頼めるんです。右京さんに」

 こんどは明確に、殺せない、と断言されてしまう。邪気のない笑顔が眩しい。その無垢な心遣いが余計に私を傷つける。「……なら、いいんだけどね」

 人殺しとしての矜持があるわけではないと思いつづけてきた私であるが、しょうじきなところ、ぜったいに殺せない、と豪語されると対抗心が芽生える。これもやはり人を殺しつづけてきた私がしらず培ってきた矜持なのだろうか。思わぬところで負った傷心を誤魔化すように私は、でもさ、と意見する。

「でも、伏見がいるなら、あいつのほうが適任じゃないのか。なんであいつじゃダメなんだ」

 死なぬ存在である伏見であれば、狂犬どもの生け捕りにはうってつけだろう、と思う。

「伏見くんじゃダメなんです。あのコたちに近づくことはできても、止めることはできないので」

 言われてみれば、と思いだす。伏見は、戦闘のほうはてんで素人だ。

「ってことは、フローちゃんでもダメってことか」

「はい。わたしの数段素早いですから、あのコたち。鬼ごっこではいつもわたしがいちばん初めに捕まっちゃうくらいですし」

「へえ、そんなにか」

「はい。ですからこんなこと、右京さんにしか頼めないんです。どうかお願いします。あのコたちを止めてあげてください」

 フローは腰を折った。

 しょうじき、わるい気はしない。

 たしかに私であれば可能だろう。防戦一方のフローに比べ、通り魔と化した子どもたちはこちらへ襲いかかってくるのだ。最初から逃げの一手の相手では私も追うことしかできずに骨を折る破目になるが、こちらへ手を出してくる相手であるならば、戦闘として成立する。それこそ殺し合いへ発展させられる。

 ここ数日のあいだ人を殺めていなかった私は、じぶんで思っていた以上に飢えていたようだ。

「フローちゃんにそこまで頼まれたら仕方ない」

 しぶしぶといった体を醸しつつ、内心では、是が非でも殺してやろう、と意気込む私がいるのだった。


      (5)

 不死身の青年、伏見が診療所にやってきたのは、私がランと二人きりでの会話を終えた直後のことだった。

「まあそういうわけで、うっちゃんは〝コレ〟を持っていったほうがいいとぼくは考えているわけ」

 片手を差しだしてくるランへ向けて私は、

「なんでおまえは、ったく、なんでおまえは!」

 語気を荒らげる。ランの突飛な説明にはこれまでも、ずいぶんと寛容に接してきたつもりだ。しかし、なぜにこいつは毎度毎度こうも私を担ぐようなことを平然と提案するのだろう。その無軌道な姿勢にはしょうじきついていけない。私がまいっていると、

「お話し中にすみません」

 フローが扉を開けて、顔を覗かせた。「あの、伏見くんが来られたので、ご報告を、と思いまして、その、今だいじょうぶでしたか」

「あ、いいよ。あがってもらって。ちょうど作戦会議も終わったところだから」

「まてまて、まだ終わっちゃいないだろ」

「終わったでしょ。うっちゃんはこれから〝ソレ〟を持ってお仕事に行く。で、ぼくは彼女たちとお茶をしながら、うっちゃんの帰りを待つ。かんたんな話じゃないか。今日はウチで夜通し、ぱーちぃだからね、うっちゃんも早めに帰ってきてね」

 軽々しく言ってくれやがる。ふざけんな、とつっぱねようかとも思ったが、フローが不安そうにこちらを見詰めてくるものだから、駄々を捏ねるのも大人げないかと思い、不承不承ながらも承諾する。私に頼んだ以上は、私の流儀に文句を挟まないという意味だ。あとでごちゃごちゃ抜かすなよ、と内心で不平を鳴らす。

 私は乱暴にランの手から〝キィアイテム〟をぶんどって、仕事は了解したがその代わり、と凄んでみせる。「そんかし、私が誰をどれだけ殺そうが文句は言いっこなしだ。いいな」

 脅しともつかない言葉を残して私は部屋を出ていく。肩で空を切って歩く。

 すれちがいざまにフローが、お気をつけて、と穏やかにささやいてくれた。

 やめてほしい。まるで私が癇癪をおこしたガキみたいだ。

 

 診療所のそとへ出る。玄関先に伏見が立っていた。

 無愛想な会釈をしてやると、「あ、先日はどうも」などと取引先のサラリーマンみたいな挨拶をする。ちょいと軽すぎやしないか、と責めたてたくもなる。こちとらかるくトラウマだよ、おまえらと過ごした数日が。

 こちらの不満を知ってか知らずか、

「ふっちゃんから聞いたんですけど」伏見は人懐っこい顔を近づけてくる。「右京さん、あのコたちを止めてくれるそうで。引きうけてくれてありがとうございます」

「引きうけるもなにも、雇い主の命令だ。あんたらのためじゃない」

「え、ちがうんですか」おれたちのために引きうけてくれたんじゃないんですか、と伏見は素朴な調子で瞠目した。まるで、あれ、これの賞味期限って今日までだったんじゃないんですか、とちょっとした失態を呑みこめない少年のようだ。

「ちがう」意にそぐわない誤謬を抱かれそうで、だから私は、「仕事は選ばない主義なんだ」と補足する。

「人を殺すのが仕事ですか?」

「そうだ」

「趣味でなく?」

「趣味でもある」認めてから、「趣味を仕事にしたっていいだろ」と唇を尖らせる。

「でも、おれたちのことは殺さないんですよね。ふっちゃんとも話してたんですけど――けっきょく右京さん、どうして見逃してくれるんですか、おれたちのこと」

「殺せるならとっくに殺してる」ああ、めんどうだ、と私は頭を掻きむしる。「言っちゃうけどな、私はなにもおまえらが気に入ったから殺さないんじゃない。殺したくても殺せないんだ。そこは履き違えてくれるな」

「でも、右京さんの話じゃ、殺したい相手っていうのは、つまり……その」

「もういい。みなまで言うな」

 分かったからその子犬みたいな笑みをひっこめろ、と伏見の顔面にナイフを突きさしたくなる。

 話を逸らしたくって私は周囲を仰々しく見渡し、「どうでもいいが」と伏見へゆびを突きつける。「ここで待つな。中に入ってろ。どこで観られているか分かったもんじゃない。おまえらはおまえらで追われる身だってことを忘れるな」

「鬱蔵さんのことですか」

 そうだ。皮肉好きこと白衣の男。やつはいまもなおこの街に監視の目を張り巡らせているはずだ。

 だが、私の懸念に対して伏見は、

「いまはまだだいじょうぶでしょう」とお気楽なものだった。「たぶん、あのひともあのひとで、逃げた子たちの対処でいっぱいいっぱいだと思いますし。だいたいにおいて放置しておいても、おれたちは無害ですからね、ひとまず後回しにされるかと」

「一理ある。が、油断はするなよ」

「うれしいですね。心配してくれるんですか」

「面倒事を増やすなってだけだ」

 バカなこと言ってんじゃないよまったく、と懐からナイフを引き抜き、その場で伏見の喉を切り裂いてやる。血吹雪が舞う。私を黒く染めあげるものの、すぐに霧散霧消する。

 地面に倒れた伏見が、あーびっくりした、と言って身体を起こす。「やめてくださいよ、死なないとはいえ、痛いんですから」

「痛みも慣れれば快感だ。そのうち病みつきになるぞ」

「じょうだんに聞こえないから困りますね」ホントにやめてくださいよ、とまんざらでもなさそうに伏見ははにかんだ。

 その幼子みたいな伏見の反応を見て私はふと、この場に役者がひとり足りないことに気がついた。

「そういや、ミウはどこだ。どっかに置いてきたのか」

 投げかけると、伏見は痛いところを突かれたといったふうに顔を顰め、

「はぐれてしまいまして」と言った。

「はぐれただあ。まさかミウまで暴れ回ってるわけじゃないだろうな」

「だといいんですが」

「あー、そゆこと。それを含めて私に対処してほしいと」

「恐縮です」伏見は畏まって、「ミウは右京さんにとてもよく懐いていたように思いますので」とこちらをおだてるようなことを抜かす。

「そうか?」

「そうですよ。いくらふっちゃんにお願いされたからって、あそこまで部外者の右京さんを許容したなんて、しょうじき信じられないくらいですから」

 右京さんを利用する最大のネックといえばそこでした、と伏見は語った。

「あの家のセキュリティは、ふっちゃんが概ね解除していました。だから右京さんもエレベータに乗るだけで、あの階に到達できたんですよ。でも、あの場にはミウがいるじゃないですか。ミウはおれらふたり以外の人間にはとことん容赦ない性分でして。いちおうふっちゃんの言うことには素直なんですけどね、それだって日常生活の範囲内でのお願いごとですよ。あれを片付けてだとか、これで遊んでいなさいだとか」

「ほかの者には容赦ないってのは、横島一味に対してもか」

 半ば冗談で口にした質問だったが、意に反して伏見は、

「ええ」と肯定した。「ふっちゃんとおれ以外には容赦ないですね。だから横島さんたちはおれたちのもとを訪れるときは必ず、ミウから攻撃されないで済むような〝なにか〟を持っていたらしいんですけど、それがどんな代物かってのはおれもよくは知らないんですよ。知っていたら、もとから右京さんに持たせていただろうし」

 まあな、と相槌を打つ。裏路地で襲いかかってきた伏見の姿が蘇る。殺人代行者だなんてよくもまあヌケヌケと名乗ったものだ、といまになっておかしくなる。

 用意周到なようでこいつらはどこか抜けている。

 そこで私は、もしや、と思い至り、

「でもな」と意見する。「もしかしたらミウはおとなしいのかもしれないぞ」

 番犬とは名ばかりの、本当は見た目どおりの、ただかわいらしい女児である可能性は否めない。

「いえ、それはありませんね。現にミウは、横島さんのお仲間を数人殺してますから」

 もっと多かったんですよ最初は、と伏見は私の意見を否定した。

 どうやら現在二人しかいない白衣の男たちは、むかしはもっといたらしい。それをミウが減らしたというのであれば、なるほど、「番犬」の異名にふさわしいように思う。むしろ、『狂犬』と呼んだほうが障りないかもしれない。

「そういう意味では、番犬たるミウが、右京さんに牙を向けないようにするには、ふっちゃんがお願いしただけでは不完全だろうな、と危惧してはいたんですよ。ですが」

 それは杞憂だった。実際のところはどうだったかと言えば、

「ミウが招き入れてくれたようなもんだったもんなあ」

「つよき子どもの家」へと踏み入れたときのことを思いだす。私を出迎えたのは、番犬とは程遠い、人懐っこい子犬のようなミウだった。

 そんなミウは現在、ほかの狂暴化した子どもたちと共に、街中で迷子になっている。たったひとりぽっちで淋しい思いをしている。

 想像したら鼻の奥が、ツンとなった。それから目頭が熱くなりはじめたことに気づき、短く息を吐く。

 冷静になれ、私よ。

 考えてもみろ。なにゆえ私がこいつらの尻拭いをせねばならんのか。

 じぶんの境遇をやるせなく思う。

 と同時に、それをどこか使命のように感じているじぶんがいることに、半ば投げやりに呆れている達観したじぶんもいるのだから、これはもう、すべてを受け容れているのと大差ない。やはり嘆息が漏れる。

「殺しちゃっても文句は言うなよ」

「ええ。右京さんこそ。ミウたちに殺されちゃっても文句は言いっこなしですよ」

 伏見はやわらかく述べてから、腰を折り、ふかぶかと頭をさげた。

 フローといい、こいつといい、まったく。

 見ぬ振りをして私は歩きだす。

 道路を曲がるときに振りかえってみたが、伏見はまだ頭をさげたままだった。

 まったく、と思う。

 そんな、腹痛にもだえている子どもみたいな格好をされても。誠意ってのはそんな安易なポージングで伝えられるものじゃないだろうに。

 内心でぼやきつつもしょうじきなところ、ひとに頼られるというのもたまには良いものだな、と思わないわけではなかった。

 それこそ、利用されるよりかはいくぶんもマシというものだ。


      (6)

 ランから入れ知恵された作戦という名の指令は、至ってシンプルだ。

 誰でもいいから子どもたちの一人に接触し、横島一味のアジトの場所を伝える。そこで戦闘になってもいいし、ならなくてもいい。私がつぎにすべきことは、横島一味のアジトに先回りし、子どもたちを待ち受けることだ。

 そもそも子どもたちは何のためにそとへ出たのか。

 いなくなったフローを捜すためだ。

 だが実のところフローは、いなくなったわけではなく「つよき子どもの家」の地下室に閉じ込められていたわけなのだが、そんな事情など知る由もない子どもたちは、フローを求めて、籠のそとへと飛びたった。

 そとに出てみたまではよかったが、すぐに子どもたちは途方に暮れたはずだ。

 はじめて触れた世界は、あまりに広大だ。

 そこで怯えてしまうのが子どもという生き物である。極限まで高まった緊張により、彼らは暴走状態へと陥った。憶測だが、顛末としてはこんなものだろう。

 子どもたちはかってに出てきてしまった手前、「つよき子どもの家」へ戻ることもできない。或いは、迷子になって戻りたくても戻れない可能性もある。

 そこで私が、臆病なキツネリスに手を差し伸べ、「こわくないよ、こわくない。横島奈心のアジトは、あっちだよ。解りやすいように、私のにおいを辿っておいで」

 と言えば、彼らは大人しく私の誘導に従うだろう。

「いや待て。散り散りになってるんなら、全員に教えてやらなきゃ無駄なんじゃないか」

 とは私の意見だったが、ランいわく、

「あのコが言うには、子どもたちの感覚器官は獣並らしくってね。それこそ、集まろうとすれば、遠吠えの一つでもして、かんたんに集まるんじゃないかって話だったよ」

 フローがそう言ったらしい。わたしにはできないことがあのコたちにはできるのだ、と。

 不服そうな私の顔をくすぐったそうに直視しながらランは、

「子どもたちがどうしていまなおバラバラに逃げまどっているかといえばだ」と説明を続けた。「それこそ彼らが子どもだからで、つまりは、ほかの大多数の人間たちもじぶんたちと同じような感覚器官を持ち合わせていると考えてしまうから――言い換えれば、大多数の他人に自分の居場所を知られたくないから、だからいまはまだ各々で逃げ回っているってことだろうね。いまに至ってはほら、パトカーだとかが騒がしいでしょ。物陰に隠れておびえてるんじゃないかな」

 要するに、そこで私が出ていって、おびえた彼らに横島奈心のアジトの場所を教える。そこにフローがいるよ、と言えば、子どもたちが食いつかないわけがない。のこのことアジトにやってきた子どもたちを私がこの手で一網打尽にする、という手筈である。

「おびきだす場所はどこでもいいんだけどね。でもできれば、事後処理が楽な場所のほうがいいでしょ」

 ランはそう言って、メディア端末をいじくった。ディスプレイをこちらへ向けて、

「あそこならさ、こうしてぼくも観戦できるし。何か不足の事態が起きても迅速に対処できるでしょ」

 横島一味のアジトはすでにランによって掌握されているらしかった。メディア端末のちいさな画面に監視映像がずらっと碁盤目状に映っている。

 それにしても、と私は憤懣やるかたない。

 よりにもよって、ランのやつときたら監視のことを観戦と言いやがる。これから私が殺し合いをはじめようというのに、あいつときたらその映像を肴にパーティをはじめようって魂胆だ。理解の範疇を超えている。

「他人のセックス観て何が楽しいんだかな」

 夜の街をぶらつきながらぼやく私は、ひどくみじめだ。


      (7)

 街をすこしぶらついただけで私は諦観を抱いた。あれ、これってちょっとムリじゃね、というのが率直な感想である。

 この入り組んだ街中で、檻から解き放たれた狂犬たちを捜しだすというのはひどく難儀に思われる。それこそジャングルに潜むコヨーテやジャッカルなどを見つけだすに等しい暴挙であり、ややもすれば大冒険にすらなりかねない。

 まずは子どもたちを見つけないことにはどうしようもない。だがひょっとしたら彼らはもうこの街にいない可能性だってある。

 いったい私にどうしろというのか。ランのやつは肝心なところで抜けている。

 メディア端末の替えを貰うのも失念していた。これでは通り魔殺傷事件の続報を観ることもままならない。

 サイレンは方々から鳴り響いている。緊急厳戒態勢にでもなっているのだろうか。通行人の姿が見えない。時間帯が時間帯だからか。外出禁止の勧告が敷かれている可能性もある。

「あぁ……帰りたい」

 手も足もでないどころか、雲をつかむような話に、私のやる気はとんと底を突く。

 公園のブランコに腰掛ける。あと一時間したらいちど診療所に戻ろう。それまではこうしてブランコをこぎこぎ、じっと機を窺い、新たな事件現場がどこぞに発生していないものか、とサイレンの音に耳を欹てていることに専念しよう。

 倦怠感の募ったじぶんを鼓舞して私は、今すぐにでも踵をかえしたいところを踏ん張った。

 星空を見上げる。

「なんだかもう、秋の空だなぁ」

 夏だ夏だ、と思っていたが、夏ももう終わりらしい。昼間は相も変わらずポカポカ陽気だというのに、夜はいっぺんして肌寒い。

 身震いを一つする。

「さて、そろそろいいかな」

 十分も経過していないくせに診療所へと戻ろうと私はベンチから腰をあげる。

 ふと、温かい飲み物がほしくなった。

 自動販売機のまえに立つ。ホットココアを購入することにする。が、ここでもメディア端末がないことに気づき、うんざりする。昨今、メディア端末がないと自販機も利用できない。さいわいなことに小銭の持ち合わせがあったので、なんとか無事にココアを手に入れることができた。温かい。

 飲み干すまえに頬に当てたり、両手で転がしたりして、冷えた身体を暖める。

 視線の端には、電灯がくすぶっている。

 煌々とした明かりのした。

 人影があることに気づく。

 視線を移す。

 パーカを被った少年だ。歳のころは七つといったところか。

 両腕をだらりと垂らし、やや前屈みにして佇立(ちょりつ)している。

「なんだボウヤ、一人か? こんな夜更けに」少年から視線を外すことなく、緩慢な所作で未開封のホットココアを路肩に置く。「子どもはネンネの時間だよ。それとも何かな、おねえさんに遊んでほしいのか」

 少年の顔は陰になってよく見えない。眼光だけが炯々と鋭く光っているみたいだ。まるで猫だな、なんて思うのは、それこそ少年のパーカが猫耳のようなデザインであるからだ。

「どうした。口がきけないわけじゃないんだろ」みじろぎ一つしない少年に不気味さを覚える。「こんばんはおねえさん、の一言くらいかけてくれてもいいんじゃニャいの」

 猫の鳴き真似をし、おどけてみせる。

 少年がゆらりと動いた。

 かと思えば、少年がすぐ目のまえまで移動している。

 まずい。

 胆を冷やす。

 死を意識する。

 おどけたじぶんが恥ずかしい。バっカじゃないの、とすら思う。

 汗がぶわ、と滲む。私は、ふしぎとほころんでいる。

 危機感を抱くと同時に、フローの言葉が蘇る。

 ――わたしの数段素早いですから、あのコたち。

 たしかに速い。この身の熟しは人間離れしている。猿だってもっと人間らしい動きをするぞ、と文句のひとつも言いたくなるほどだ。

 真横に飛び退き、かろうじて少年の突撃をかわす。

 少年は鉄砲玉もかくやという跳躍から一転、足音一つさせずに着地し、体勢を立て直した。

「びっくりさせんなよ。鬼ごっこでもしたいのか」

 余裕を醸すものの、相手はガキだ。こんな小芝居で動揺を誘えるほど頭を働かせたりはしないだろう。案の定、こちらがつぎの言葉を紡ぐまえに、飛びかかってくる。

 だがこんどは少年の動きを捉えることができた。

 バカの一つ覚えみたいに、ぴょんぴょん跳ねまわりやがって。

 避ける間際に、少年の首根っこめがけて手刀を放つ。

 捉えた。

 少年は、首を支点にがくん、と身体を仰け反らせる。

 が、体勢を崩しながらも彼は地面に倒れることなく、私から距離を置き、立ち直る。

「チッ」浅かったか。

 腰を落とした少年は、かんぜんなる臨戦態勢をとった。

 一撃で動きを封じるつもりが、火に油をそそいだだけだった。相手を本気にさせてしまった。が、そうこなくてはおもしろくない。それこそ、

「殺し甲斐がないってもんだ」

 そうだろ少年、と私も腰を落とし、戦闘態勢になる。

 殺し合いにおいての鉄則は、一つだ。

 一撃必殺であること。

 けっして次の一手を考えてはならない。考えた時点で、相手の一撃に殺される。

 これは喧嘩ではない。ましてや勝負でもない。

 命を摘みとる、という先手必勝の、殺し合いだ。だからこそ、アイコなどはない。あるのは、仕留め損なう、という失態だけだ。本来であればその時点で即、死あるのみ。失態はそのまま失命を意味する。

 さきほどまでの少年との攻防はまだ殺し合いとは呼べないじゃれあいでしかなかったが、こうしてお互いに目的を明確にさせて向かい合ってしまったが最後、ここからはもう、死線を跨いだ状態だ。互いに、奪うか奪われるかしかない。

 少年もまたこちらとのあいだに漂う空気の変化を感じとったようで、無闇に仕掛けてこなくなった。

 これは利口なのではない。少年のそれは、本能だ。

 さすがだな、と褒めてやりたくなる。冴えわたるその感覚に嫉妬してやってもいい。こちとら、そうした感覚を身につけたのは、ここ数年のこと――いちど死にかけてからだというのに。

 きっとこのガキは、生まれたその瞬間から体得していたに相違ない。意識するよりもさきに赤子が呼吸の仕方を知っているように、少年は死線がどこにあるのかを感覚的に知っている。

 風が止む。

 私たちを隔てるものは何もない。

 いざ。

 呼吸を止め、足のゆびに体重を乗せたところで、

『ちょっと待ったぁ!』

 絶叫が響きわたる。

 私は疾走のリズムを失い、「おっとっと」と石につまずいたおばあさんのようになる。

 少年も少年で、突然の声におどろいたのか、後方へ飛び退いて私との距離を空けた。

『うっちゃんってば、なに本気だそうとしちゃってんの! 順序が逆でしょ、それはマダでしょ!』

 ランの声だ。姿は見えない。拡声器でも使っているのか、耳障りな響き方をしている。どこから聞こえているのか、と音源を探すと、街灯の上部に設置されているスピーカから発せられていた。推測するに、町内へ運動会のお報せなどを告げたりするのに使われる広報用のスピーカだろう。昨今、めっきり使われているところなど見受けられないというのに、そのスピーカからランのうるさい声がキャンキャンと放たれている。

『うっちゃんねえ、ここでそのコ殺しちゃったら、次がないでしょうに。わかってんのかなあ、ぼくが言った作戦の意味。ここではそのコに、アジトの場所を教えてあげればそれでいいの。この場はそれでおしまいなの。だのに何なのうっちゃんてばさあ。黙って観てたら興にのっちゃってさあ。ホントなんなの。ねえ、なんなの?』

 数年前から公園にも監視カメラが設置されるようになったのは知っている。が、そこからコイツが映像ジャックして観戦しているとは思わなかった。てっきりアジトに入ってからの観戦かと思っていた。

 ということは、だ。

 私がガキどもの捜索にてこずって、ブランコに腰掛け、肌寒い夜風に体温を奪われつつ哀愁漂わせていたところを、ランのやつは暖かい部屋でぬくぬくとおいしい食べ物を頬張りながら眺めていたということになる。

 腹立たしいことこのうえない。

 少年はすでに、状況を把握している様子だ。休日の朝に鳴りはじめた目覚まし時計がごとく煩わしいこの声が、自身の存在を脅かすものではないと察し、ふたたびの臨戦態勢をとっている。

 私もまた意識を少年へ差し向ける。ごたごた考えている余裕はない。ランはああ言ってはいるが、実際に猛獣と対峙しているのは私だ。

 すでに情勢は、やるかやられるかの瀬戸際にある。このさきの憂慮などしていられない。

『ちょっとコラぁ! うっちゃんってば何またカマキリ拳法みたいな構えしてんのさ! 本気だしたらダメだって言ってるでしょ。殺すならまとめてでしょ!』

 うるさい黙れ。じゃまをするな。だいたいカマキリ拳法って何だ。せめて蟷螂(とうろう)拳と言え。

 ランの制止を無視する。

 全身全霊で少年を殺すため、意識を集中させる。

 五感を研ぎ澄ます。

 五体の覚醒を感じる。

 これほど昂るのはいつ以来だろう。

 しだいに、やかましいはずのランの声も遠のいていく。

 知らず、音が遮断されていく。

 無音。

 ではない。

 少年の身体から発せられる音のみを拾おうと、私の聴覚が音を濾(こ)している。

 少年の、骨の軋みや、衣擦れの音、心拍や呼吸音――ほかにも、靴が砂利を擦る音などから体重の移動を察知する。

 視界も徐々に彩りを無くし、ただ、少年というひとつの物体を捕捉するためのセンサに成り下がる。

 こちらに突破口を看破されぬようにとの対処だろう、少年から、あらゆる気配が消えていく。しかし、極力抑えられているようで隠しきれていない。まだ未熟であるためか、濃厚なまでの殺気が、全身から立ち昇るように滲みでている。

 おそらく私も少年への殺気を隠しきれていない。こればかりは仕方がない。殺したいものは殺したいのだ。隠せるような感情ではない。むしろ少年のそれは、私の殺気に呼応しているようですらある。

 私も少年も、互いに一歩も動けずにいる。

 先手必勝といえども、相手に動きを読まれては意味がない。

 相手の一挙一動から、機微を窺い、隙があればすかさずそこを突く。

 逆にこちらは相手に、僅かな隙を与え――誘惑し――そこを突いてきたところを叩く。

 すでに攻防ははじまっている。これは駆け引きなどという生ぬるいものではない。

 歴然とした戦闘であり、死闘であり、喰う者と喰われる者との境を揺れ動く天秤のごとくに牽制しあう、繊細ゆえに盛大な、これもまた殺人行為である。

 だからこそ、少年の注意がかんぜんに私から外れたにも拘わらず、私はそのあまりにも大きすぎる隙に敢えて食いつくことをせず、むしろ警戒した。

 意図があると思ったからだ。

 将棋でいえば、「詰むか詰まれるかのこの局面で、飛車角落ちってどういうこと? なにかの間違いでしょ?」と二度見してしまうような致命的な隙を、少年はつくっている。

 はげしく、動揺している。私のことなどもはや眼中にない。

 私の意識もまたそこで少年から離れ、周囲に向けられる。

 音が賑やかさを取り戻し、視界に彩りが戻る。間もなくすると、ここが公園で、いまが夜で、街灯の明かりだけが周囲に形を与えている暗がりであるのだと思いだす。

『――と、いうわけで、これを知るのはキミだけだ。きょうだいに報せるなら早いほうがいいよ。キミも知っているだろうけれど、キミひとりでどうにかなるほど、あの男たちは甘くないからね』

 私が遮断していたあいだもランの声は、この公園内に轟いていたようだ。

 少年は私のことなど一顧だにせず、踵をかえして去っていった。

 ぽつねんと取り残された私はなんだか惨めだ。

 街灯を見上げ、

「おい、ラン」と呼びかける。「まだ観てんだろ。おまえ、あいつに何言った」

 どうして邪魔をした、とは責めない。

『あはは、観て観て。うっちゃんが何か言ってる。聞こえないのにね。アホみたい』

 電灯を蹴りあげる。電灯の上部が激しく振動する。ユサユサと頭を揺さぶるやじろべいみたいだ。

『やめてって、折れたらどうすんのさ』ランが喚く。『解ったってば、どうせあれでしょ。ぼくがなんて言ったか聴いてなかったんでしょ。というか聞こえてすらなかったんでしょ。うっちゃんてば集中すると、とたんに周りの声に鈍感になるんだもんなあ』

 腕組みをして街灯を睨み据える。

『ああうん。えっと、だから、ぼくってばただうっちゃんの代わりにアジトの場所を教えてあげただけ』

 それだけか、と目を細めて追及する。

『あとは、えっと――そこに行けばきみたちの大事なひとが苦しまずに済むかもね、って言ったら、あのコは逃げるように去って行きました。以上です』

 それではまるでフローが拷問に耐えているような言い方だ。姉思いの少年からすれば、身を引き裂かれるような通告にちがいない。その実、麗しの姉君が、それを告げた人物のとなりでぬくぬくと紅茶をすすっているとは夢にも思わなかっただろう。酷な話だ。

 私はもういちど街灯を蹴りあげる。

『なんで蹴るの!』

 しょうじきに答えたのに、と不服そうなランの声を無視し、街灯の揺れが収まる前に公園を後にした。


      (8)

 繁華街の駅前へと向かう。横島一味のアジトで子どもたちを待ち受けるためだ。

 深夜ということもあってか、雑踏はない。ひっそりとしている。閑散とした街並みはふだんどおりだが、通り魔事件が報道されたからか、緊迫感のようなものが薄い膜のように張って感じられた。

 駅前ビルを見遣る。巨大ディスプレイに流れるニュース速報に目を通す。

 「つよき子どもの家」から脱走した子どもたちは、どうやら中心街からどんどん遠ざかっていたようだ。さきにアジトへ乗り込まれたら厄介だな、と心配していたが、杞憂だった。気づけばサイレンの音も、夕方のときより、遠くから響いて聞こえている。

 急ぐこともなかったかな、とすこし乱れた呼吸を整える。

 子どもたちを待ち伏せすべく私は、アジトへと乗り込む。

 エレベータに乗りこみ、ボタンを押す。

 扉が開くと、白衣の男が拳銃を構えていた。むろん銃口はこちらを向いている。

 またか、と苦笑する。デジャビュだ。

「なにしに戻ってきた。というよりも、どうやってあの部屋から脱した」

 地下室から脱出したことを白衣の男こと、皮肉好きはまだ気づいていなかった様子だ。

「いや、なに。ボタンを押したら開いてくれたよ」

「監視モニタには今でもあんたらが映っているぞ。地下室にいながら、そんな小賢しい真似ができるとは思えん」

 偽装映像のことだと察する。監視カメラの映像を現在進行中で差し替えてあるのだ。フローではない。これはランの仕業だ。

 私たちの脱出を知らなかったということは、言い換えれば皮肉好きはまだ、ランの介入には気づいていないということになる。

 推し量るに、エレベータの監視映像に私が映りこんだものだから慌てて部屋を飛びだし、エレベータのまえで待ち伏せたのだろう。拳銃片手にご苦労なこって。

「カップ麺でも食ってたのか。口元に食べカスついてんぞ」

 なぬ、と唸った皮肉好きは、ごていねいにも拳銃を持ったほうの手で口元を拭った。

 こんな姑息な手にひっかかるなんて、と憐憫にも似た情を抱くも、この隙を逃すわけにはいかないので私は、皮肉好きの足を払う。ゆかに倒れたところを、手首を捻りあげ、拳銃を奪う。

 さてどうしてくれよう。

 皮肉好きへ銃口を向け、

「ばん」

 つぶやくと、

「やめろ撃つな」

 皮肉好きはひらひらと手を振った。

 そんな乾いた口調で言われてもな。

「そもそもこれ、安全装置外れてないだろ。ベタなミスしやがって」

 あまり見ない型の拳銃だ。特注品だろうか。

「武具は専門外でな」

「言い訳はあの世でしな」

「殺すならそれもいい。だがその前にすこし話をしないか」

「ベタな命乞いだな」思わず陽気が鼻から噴きだした。「時間稼いだって、死ぬことに変わりはないぞ」

「そうじゃない。あんたがここにいるってことは、あのコたちもあの部屋を出たってことだ。そうだろ? すくなくともフジのほうは生きているはずだ。さすがのあんたでもあいつは殺せないだろうからな」

 はん。言ってくれやがる。

「フジのやつとあんたがどこまで親交を深めているのかは解らんが――むしろ因縁を深めている可能性のほうが高そうだが――おそらくはあんたもまた、現状がいかほどに逼迫しているのかを理解したうえでここへ来たのだろう。どういう意図があるにせよ、ワタシにはもう、どうすることもできん。情報を提供してやる。あとはあんたの好きにしろ」

 ひっかかる物言いだ。

「おい。私もまた、とはどういう意味だ」

 まるでほかにも誰かここを訪れた者がいるかのような物言いだ。

 そう指摘すると皮肉好きは、そのとおりだよ、と口角を吊りあげ、不敵な笑みを浮かべた。「ふしぎには思わないのか。あんたの待ち伏せがなぜワタシ一人なのかと」

 言われてみればそうだ。「なんでだ」

 あのラジコン兵士たちはどうした。相方の冴えない初老のお仲間はどこにいった。

「死んだよ」

「へえ。なんで?」

「殺された」

「ふうん」そうなのか、と相槌を打つ。皮肉好きの視線がどこか剣呑であることに気づき、もしや疑われているのか、と心外な気分になる。「私じゃないぞ」と弁明する。「誰かが殺されるごとに、すべての犯人を私と決めつけるってのはいかがなものかなあ、と私なんかは思うわけだが」

「あんたじゃないのは知っている」小馬鹿にしたような口吻だ。「あいつらはワタシの目のまえで殺されたのだからな」

 であれば犯人を見たということか。ならばその責めるような目つきはなんなのだ。「興味はないけど、訊いてやる。誰が殺した」

「番犬だ」皮肉好きはそっけなく告げた。「いつかこうなるような気がしなかったわけではないが、皮肉なものだ。ワタシらの最期が、飼い犬に噛み殺されて終わるというのはな」

「お似合いの最期だろ」

 褒めてやると、皮肉好きはちからなくほころび、

「自業自得と思うかね」

「さあな」

 どんな結果も究極のところは因果応報、自業自得だろう、と思う。人は生まれてこなければ死ぬこともない。わざわざ強調して言うほどのことでもない。

 だのにこの男ときたら、自業自得を認めるどころか、

「わるいがこれはちがう。自業自得ではなく、あんたのせいだ」と抜かすではないか。責任転嫁もはなはだしい。「あんたの存在が、ワタシらにこのような結末を突きつけている」とまで言う始末だ。性質がわるい。

「ひとのせいにするなって」言わずにはいられない。「おまえの自業自得だ」

「あんたが人であるなら、そのとおりだが、あいにくとワタシのまえにいるのは人ならざる殺人鬼だ。元凶としては申し分ない」

 からかわれていることに気づき、力んでいた腹のちからが抜ける。

「ああ、そうだな。私がわるい」だって人殺しだもんな、と認めてやる。「というかだな、番犬に殺されたって言ったか。番犬ってミウのことじゃないのか」今更ながら、皮肉好きの言葉を咀嚼し、ひっかかりを覚える。「ミウがここに来たのか? それでおまえらに襲いかかったと? そもそもなんでおまえだけ助かってんだよ。殺されるならいっしょに死んでやればよかったものを」

 薄情なやつだ、と指弾する。仲間といっしょにくたばればよかったじゃないか、と。

 十倍返しで皮肉が返ってくるものと身構えてみたが、皮肉好きは顔を伏せて、

「ワタシはもう、疲れた」

 つぶやいたきり、押し黙る。

 私は面食らう。真に迫った弱音だ。調子が狂う。

「ところでさ」私は話題を変えることにした。「ミウ、どこに行ったんだ。連れて帰らなきゃならんのよね。知ってたら教えてくれ」

 おそらくここにはもういないのだろう。こいつが生きているということはそういうことだ。

「なぜ連れて帰る必要がある」皮肉好きは訝しげに眉根を寄せた。

「なんでって」すこし考えてから、「頼まれたからかな? うん、頼まれたからだ」

 答えると、

「フジにか?」と仰天される。

「どっちかって言うと、フローちゃんからの依頼だな」口にしてから、そうだった、と思いだす。エレべータを振りかえり、「これからここにガキどもが集まってくる予定でさ。ちょいと騒がせてもらうけど、いいよな。それから広い部屋があるといい。ここは暴れるには、ちと狭すぎる」

 子どもたちを一人ずつ相手にするつもりはない。多勢に無勢を楽しみたい。

「なんだ。あんた、あのコのちからになってくれるのか」

 フローと敵対しているとでも思っていたのか、皮肉好きは心底、意外そうに言った。殺人鬼のくせに、と揶揄するような響きさえある。

 私は唇をすぼめ、

「依頼だもの」とそっけなさを醸して言う。毒を食らわば皿まで。「仕方がないんだよ」


      (9)

 私が事態の収拾に乗りだしたと知るや、皮肉好きはふたたびのふてぶてしさを取り戻した。

「協力してやる。要望があれば言うといい」

 いちばん広い部屋を要求すると、通路奥の部屋へと案内された。例の精密機器の並んだ、ラボじみた部屋だ。

「いいのか」と確認する。高価そうな機器ばかりが、所狭しと並んでいる。「たぶん、めちゃくちゃになるぞ。壊れたってしらないぞ」

「ワタシらの計画はすでにめちゃくちゃだ。横島さんが死んだ時点でな」

 このときばかりは、皮肉好きの皮肉が、沈痛な赴きを伴って聞こえた。

 奪った拳銃は皮肉好きに返した。協力してくれるというのならこれくらいの譲歩は必要だろう。たとい銃口を向けられたところで、ハムスターに噛みつかれたほうがまだ危機感を覚えるというものだ。

 室内を見渡す。無数のディスプレイが壁を埋め尽くしている。ディスプレイはフィルム状で、壁に貼られるようにして設置されているので、遠目から眺めれば、モザイク柄のタイルみたいにみえる。街中の映像が一望できる。ひとつの画面に、複数の映像が流れている。目が回りそうだ。

 これだけ多いと、映像をチェックするだけでも一苦労だろうと思われる。

 そう零すと、皮肉好きは、

「まさか」と笑った。「これをワタシらが四六時中見張っていたとでも? 目がいくらあっても足りん」

 聞けば、映像ジャックされたこれらの映像は、コンピュータで解析されているという。目当ての人物が映れば一発で判明するというから、驚きだ。

「便利なものだな」

 この男は知らないだろうが、これらの映像はさらにランのやつがジャックし、覗き見ている。いつもそうだ。アイツは美味しいところだけを持っていく。

 そう思うと、この皮肉好きも実のところは他人に利用されているだけのかわいそうなやつなのかもしれんね、と同情してやりたくなる。だのにこの男ときたら、

「どうした。顔がたるんでるぞ。眠いのか」

 あろうことか私の希少な憐憫のまなざしをふぬけ面呼ばわりする。悔しいからあくびをしてごまかした。ふぁーあ。

「おい。ほんとうに来るのか」

「どうだろ」なかなか現れない子どもたちに、私もまた、ほんとうに来るのだろうか、と心配になる。「私が知りたいくらいだ」

「おいおい。だいたいにおいて、なぜここにアレらがやってくる。何かしらの考えがあってのことだろうが、その考えとやらは当てになるのかね」

「考えってほどのものでもないんだけどね」

 暇つぶしをかねて私は、この男が知らないだろう顛末を話して聞かせることにした。

 要点をまとめて話してみる。

 ランの助けで私たちは密室から脱した。そのころ街では、逃げた子どもたちが暴れまわっていた。対処に窮したフローがランに助けを求め、狩りだされた私がランの指示のもと、ここを訪れた。

 ながれとしてはこんなにも単純だ。五分ほどで語り終える。

 皮肉好きは言葉を挟まずに終始無言だったが、話を聞き終えるや否や、

「腑に落ちない点が三つある」と言った。頼みもしないのに話しだす。「一つ、あんたらが依頼で動くならあのコたちはなぜわざわざあんたを利用した」

 フローがなぜ最初から依頼という方法をとらなかったのか、ということだろうか。もっともな疑問だが私には答えられる。

「フローたちは知らなかったのさ。私がランに雇われていることを」

 殺人鬼の情報を齎してくれた情報屋が、まさかその殺人鬼を手駒にしているとは思わないだろう。知らない術を利用するのは不可能だ。

 納得したのか皮肉好きは、

「では二つ目だ」

 すんなりつぎの疑問を呈する。「消えたあのコを探すために、アレらは逃げたとあんたは話したが、それはおかしい。アレらにとって、あのコは指揮官であり操縦桿だ。コントローラがなくなったからといって、ラジコンはかってに動かない」

「どういう意味だ。フローの命令以外には子どもたちは動かないって話か?」

「そう解釈してもらっていい。ハウスから逃げた、とあんたは言ったが、アレらはそもそも逃げるという発想を持たない。アレらにとってはハウスが世界のすべてだ。世界から太陽が消えたからといって、宇宙を知らぬ者がどうして宇宙へ飛びたてる」

「つまりこう言いたいのか。子どもたちは、何者かによって操られていると。『太陽は宇宙にある。取り戻したくば飛び出せ』とそそのかされたと?」

「そう考えれば筋がとおるという話だ。或いは、ワタシの想像を外れた起因によって、アレらが暴走しているとも考えられる。いずれにせよ、もはやワタシの手には負えん」

 かんぜんなるお手上げのご様子だ。

「最後になるが、腑に落ちないことの三つ目だ。これがもっとも解せんのだが、番犬――あのコはなぜこの場所を知っていた? あんたが教えたわけではないとすれば、番犬がここに現れる道理はない」

 言われてみればそうだ。

「ワタシはてっきり、あんたが寄こしたものかと考えていたくらいだ」

 飼い犬を飼い主にけしかける。たしかに私のしそうなことではある。が、

「私じゃないな」

 あいにくと心当たりはない。

 にも拘わらず、ミウはここを訪れた。知るはずのないアジトへと乗り込み、皮肉好き以外の横島一味を皆殺しにした。

 子どもたちに入れ知恵したヤツがいる。操っているやつがいる。

 いったい誰なんだ? 

「私、いちどフローちゃんにハメられててね。おまえらのボスを殺したのも、元はといえばフローちゃんのせいだ」

「らしいな」

 皮肉好きの反応を窺うも、怪しいところはない。だからなんだ、そんなことは知っている、とつれない態度だ。私は単刀直入に要点を言う。

「今回も担がれているのかもしれない」

「可能性はある」皮肉好きは即答し、「だが、目的が見えない」と思案の間を空けた。ややあってから、仮に、と発言する。「仮にあのコが、ミウをけしかけ、ワタシらを葬り去ろうとしたとして、今さらなんのためにそんなことを? 横島さんを葬る、という目的はすでに果たされている」

「いや。そもそもフローちゃんの目的は、横島奈心一人を殺すことではなく、おまえら全員を抹殺することだったんじゃないのか。けっきょくおまえら、白衣組は、私のきまぐれで死なずに済んだだけだし」

 本来であれば、あのときこの男も私に殺されていたはずだ。ことのほかこの男が愉快であったことに加え、不老不死を見せてやる、なんて大口を叩くものだからすこしばかりの猶予を与えた。とどのつまり、私はこの男の口車に乗っかってやったわけだ。

 フローたちにとってそれは不測の事態だったに相違ない。

「ほんとうは復讐だったりしてな」ふと思いつく。「干渉されずに暮らしたい、なんてもっともなことを言ってたけどさ、フローちゃん、ほんとうはおまえらに復讐したいだけなんじゃないのか」

 皮肉好きはひややかにこちらを見上げると、

「そうかもしれんな」

 うっすらとほころび、そうかもしれん、とちいさな声で繰りかえした。


      (10)

 ラボの奥には八つの遺体が寝かされていた。そのうちの半分は私の手によって息の根を止められた者たちだ。横島奈心と、三人のラジコン兵士。

 見逃してやったはずの初老の男と、ラジコン兵士の残り三名が、新たに遺体となって転がっている。皮肉好きの話を信じれば、これをやったのはミウだ。

「凶器はなんだ? ずいぶんときれいな仕事だな」

 新品の遺体はどれも喉元を抉られている。一撃で致命傷を負わされたと判る。「これをミウがやったってのか?」

「そうだ。凶器などはない。強いて言うならあのコ自身だ」

「噛みついたとでも?」

「いかにも」

 番犬というくらいなのだから、驚くことのほどでもない。しかし。

 私は横島奈心の遺体を見下ろす。この女の致命傷もまた、噛み傷だ。私がこの口で喉元を噛みちぎってやった。

 ミウのつくった噛み傷と見比べる。

 私の噛み傷が惨めにみえるほど、ミウの噛み傷は美しい。惚れ惚れするほどだ。

 鋭利な刃物で抉られたと言われたほうがまだ信じられる。かといって、鋭利な刃物ではこのような傷口――いかにも噛みました、といった傷口にはならない。

 胸に湧くこのもやもやとした感情は、嫉妬、なのだろうか。

 殺人狂としての矜持など、持ち合わせてはいない私だ。それでも、ほかの誰よりもきれいな殺し方をしてきたという自負は持っているつもりだ。

 初めての殺人から、ずっと気をつけてきたことなのだから。

 よりきれいに、人を殺すことを。

 私はずっと求めてきた。

 それがこうして、私の理想を超えた、芸術的とも呼べる遺体を見せられたら、いくら温和な性格の私であっても、ふつふつと湧きたつ妬(と)心(しん)を禁じ得ない。

 私は律道よく歯を鳴らす。ギリギリと、顎の噛みあわせを確認するように。

 固まったまま、不可解に歯を鳴らす私がぶきみだったのか、

「どうした」

 背後から皮肉好きが声をかけてくる。

「私にだって、これくらいできるし」

「なにがだ? なにをむつけている」

「むつけてなんかいない」

 もう誰でもいいと思った。私のすぐうしろには生きた人間がいる。しかも、それなりにいい男だ。やや不潔そうなのが玉に瑕だが、些事であることに変わりはない。だったら私はこいつを殺す。

 理由などはない。

 強いて言うなら、ムラムラしているのだ。悶々としちゃっているのだ。

 この欲求を堪える理由がどこにある?

「むりやりでごめん。でもさ」

 私は彼を押し倒す。不意を衝かれたからか、皮肉好きは無抵抗にゆかへ倒れ、後頭部を強打する。ちいさく呻いた。構わず私は皮肉好きの両肩を脱臼させ、大腿骨に乗っかって身体の自由を奪う。

「な、いいだろ。気持ちよく逝かせてやるからさ」

 だからかんべんしておくれ。

 言葉にならない何事かを口走っている皮肉好きの顔面を、口を覆うようにして片手で鷲掴みにし、ちからいっぱいにゆかへ押しつける。

 唇で首筋に触れると、息を呑んだのか、彼の喉仏が上下に動いた。その動きがなぜだか無性に愛おしく感じられ、舌先でちろりと舐めてやる。皮肉好きはちいさく弾み、身じろいだ。

 脈打つこの喉を噛みちぎったら、とっぷりと血が溢れるのだろうな。

 想像したら、口のなかが唾液で湿った。股の奥まで、アツく疼く。

 パンツの替えを持ってくるの忘れちゃったなあ、とぼんやり考える。帰りはまたノーパンか。

 抵抗しようとする皮肉好きのもがき具合が、押さえつけている腕に伝わる。だが私は人間の身体の構造を熟知している。この部位へこの角度から力を加えると、人は動けなくなる、ということを知っている。

 足掻こうとするが足掻ききれない男の姿に、ぞくぞくと全身が毛羽立つ。ふと私は気がついた。人を殺すことで満たされる私は、その過程の「蹂躙」においても言い知れぬ快感を覚えていたのだ、と。思いがけない発見に顔がほころぶ。

 なるほど。私は、支配を楽しんでいる。

 これまで殺してきたやつらの顔などまるで憶えてはいない。それでも私は彼らを記憶に留めようと努めるかのように、時間をかけて甚振(いたぶ)った。焦らすかのようなその拷問は、きっと私なりの愛撫だった。

 愛おしいと思うほど、胸の裡に、ぽっかりとがらんどうが広がっていくのを私は感じる。

 この感情の名を私はこれまで知らなかったが、皮肉好きの息の根を止め、命を奪おうとしている今に至って判明した。

 せつない。

 私はそう、せつないのだ。

 愛おしい者を愛そうとすると私は殺す以外にその手段を見出せない。愛おしい、愛おしい、と気持ちが昂(たかぶ)るにつれ、愛おしさの向かう対象はその身体から大量のぬくもりを放出させ、終いには冷たくなる。私の息の根をうるおし、果てるのだ。

 私は満たされていたと思っていた。だがひょっとすると、私を満たしていたと思っていたものは、大量のぬくもりなどではなく、このせつないという感情であり、ぽっかりと広がるがらんどうではなかったか。

 がらんどうばかりが私の裡を満たしていき、だから私はいつまで経っても本当の意味では満たされていなかったのではないか。

 私に注がれ、溜まっていたものは、がらんどうばかりだ。満たされる道理もない。

 フローを殺せなかった理由が解った気がした。

 私はきっと、おそれたのだ。

 フローを殺すことで、私自身が本当はがらんどうでできあがっていた事実を鮮明に突きつけられることを、私は直感的におそれた。死ぬことのない存在を万回何千回と殺せるのだと胸を高鳴らせていた私だったが、その実、フローはほかの大多数の者たちと同様にたった一度しか殺せない。その事実にいたく胸を抉られ、途方もないがらんどうを感じた私ではあったが、そのときに抱いた感情が、実のところ日々人を殺すたびに抱いていた満足感とひどく似ていることに半ば気づいていた。

 私はそう、いつだってせつなかったのだ。

 自傷することで落ち着きを取り戻す精神異常者のごとく、私もまた心にぽっかりと孔を空けることで満足したつもりになっていた。いや、真実に私は満足していたはずだ。私にとっての満足とはつまるところ、隙間のないほどに何もないことだったのだ。

 なにもない。私には何も詰まってはいない。何も残ってなどいないのだ。

 じぶんの存在が、かぎりなく虚無にちかしいことを認めたくないがために、私はフローを殺せなかった。

 笑ってしまう。解ってみたところで何ということもない。

 存在していたと思っていたものが存在していなかっただけのことだ。それでも私は満たされる。満たされている、と実感できる。たいせつなのは客観的事実ではなく主体である私のこの感情、この精神、この猛りだけ。

 身体に悪いと知ったとしても自慰を止められない思春期の少年たちのように、私もまた精神に悪いと知ったところで人殺しを止められない。

 堪らないのだ。

 殺すまでの過程と、この手に伝わる感触が。

 まるで同化するがごとくに、私は他人のぬくもりを直に感じる。

 そう。

 私はあなたを愛したい。

 愛されるより殺したい。

 これだけ思考を巡らせても、現実世界の一秒にも満たない。言語化するから遅延する。思考はいつだって刹那に巡る。同時に巡る。入り乱れ、錯綜し、結論の一点へと収斂する。

 皮肉好きの眼が泳いでいる。視点が定まらず、小刻みに震えている。彼がゆっくりと瞬きをする。

 ふたたび瞼が開かれる。こんどはちゃんと視線が交わる。だがすぐに逸らされる。彼の視軸は私の背後に合っているようだ。

 はっとする。この男は、と思い至る。

 この男は、恐怖のために私と目を合わせないのではなく、私へ向けてアイコンタクトをしているのではないか?

 私が閃いたと同時に、空間すべてが赤褐色に変色する。おそらく非常用ライトだろう。このやんわりと照らす赤い明かりは、どこか診療所の玄関の赤色灯と似ている。

 警備システムが発動したのだと判断する。音はならない。誰かが侵入したのか、と瞬間的に考え、同時に、いや、と否定する。ここのシステムはすべてランのやつが掌握している。警備システムなどもはや機能していないと考えるのが妥当だろう。であれば、これはランのやつがわざわざ発動させたと結論づけるべきだ。では、なんのために?

 ここまで思考を巡らせて、私はたった今しがた閃いたばかりの、皮肉好きからのアイコンタクトの意味を悟る。

 背後にだれかいる。

 私は皮肉好きを突き飛ばし、私自身も前方に飛んだ。ゆかを転がりつつ、背後を振りかえる。膝立ちの体勢で動きを止め、こちらに忍び寄っていた背後の人物を捕捉する。

 そいつは腕をうしろ手に組んで、ちょこんと立っていた。

「おどかしちゃいやだよ」私は皮肉好きを庇うように立つ。「でしょ、ミウちゃん」

 柔和な声を意識してはいるが、全身の神経は、乙女の充血した蕾がごとく研ぎ澄まされている。

「おねぇちゃん、こあい」こちらから滲みでる凝縮された(押し殺された)殺気に気づいたのか、ミウが怯えたように言った。だが言葉とは裏腹に、ミウは笑っている。「こあいよぅ」

 私はひと目で理解した。

 なるほど、こいつだ。

 こいつが元凶だったのだ。

「あのさ、ミウちゃん。フローちゃんが心配していたよ」まずは探りを入れようと、効果的な接ぎ穂を考える。思ってもいないくせに、「さ、いっしょに帰ろうか」と表面上はさも何も気づいていませんよ、の体で貫く。

「うん、かえる」言いながらもミウは困ったふうに目を伏せて、「れもね、ミウね……やらなきゃなの」

 やらなきゃ?

「なにをかな」

「んっとねぇ」ミウはしばし黙考した。それから思いだしたように、「あっ」と発声し、身体を斜めにする。こちらの背後を覗きこむような体勢だ。ミウの視線は皮肉好きへ向かっている。

 こちらの質問には応じずにミウは、

「おさるさん、もってるの?」

 皮肉好きに笑いかけるようにして、

「それ、ミウにちょうだい」と催促する。続けて、舌足らずなかわいらしい声音で、「おねぇちゃんが、よこして、ミウに」と注文を付け足した。

 皮肉好きが猿を持っている? それを私が取りあげ、ミウへ渡せということだろうか。

「おい。持っているのか」私はミウから視線を逸らさず、皮肉好きへ確認する。

「持っている――が、今は渡せん」

「大事なもんなのか」

「いや……お守りだ」

 お守りねえ。

 手放したくない、というよりも、手放せない、といったところか。

「ミウちゃん、わかったよ」言いながら私はわざとミウから視線を外す。背を向け、「こいつから」と皮肉好きを見下ろし、「こいつからお猿さんをもらって、そんでミウちゃんに渡せばいいんだろ」

 素直に言うことをきくフリをする。皮肉好きが億劫そうにこちらを見上げている。

「おまえ、私に殺されても文句はないんだよな」ミウに殺されるのは不本意だが私ならいいんだよな、と詰るように問う。

「文句はある。が、抵抗のしようがない。それだけのことだ」

 嘯く彼は、どこか諦観を抱いているようでもあり、臍を固めているようでもある。

「約束する。おまえは私が殺す。ぜったいだ」私は皮肉好きの懐を漁った。彼はとくに抵抗するでもなく、なされるがままおとなしくしている。懐から手を引き抜く。猿の置物が姿を現す。両目を塞いだ猿だ。ミウへと向きなおし、

「これか?」

 手を掲げてみせる。

「うん」ミウは頷いた。こちらへ両手を差しのべ、「ちょうだい」とかわいらしくおねだりをする。無防備な佇まいだ。

「ほらよ」

 猿の置物を投げてやる。ミウは、飛んでいるトンボを素手で捉えるような鋭い軌道でそれを受けとり、

「てんきゅー」

 さっそくとばかりに握りつぶした。ミウのちいさなおててに収まりきらない猿の置物は、それでも粉々に砕け散り、無数の破片となった。薄っぺらい飴細工が岩に叩きつけられたがごとくだ。

「はぁ。これでやっとそいつ殺せる」

 肩の荷がおりた、と言わんばかりにミウが微笑む。

 私はぞっとした。外見は幼い女児のままであるのに、人格が豹変したかのようなミウの言動に息を呑む。舌足らずのあのコはいずこへ、と呆気にとられたりもする。

「助かったよ、おねえさん」

 これまでのように、おねぇちゃん、とは呼ばずにミウは、「おねえさんのおかげでようやく目のうえのたんこぶ、潰せる。あたい、これでもおねえさんには感謝しているんだ。ほら、このとおり」

 腰を折った彼女は、

「そんで」と姿勢を正し、

 さようなら。

 口元だけを動かした。


      (11)

 私は瞬きをする。意図したわけではない。きっと、目のまえの光景を受け入るための確認作業のようなものだ。

 反射的に瞼を閉じ、ふたたび開いたときには、目と鼻の先にミウが迫っていた。両手をだらんと垂らして、ミサイルよろしく突っこんでくる。

 おいおいおい。

 初期動作はなかったはずだ。身体にいっさい力が籠められていなかった。おそらくは足のゆびの力だけで――それこそ足のゆびで地面を弾くだけで、ミウはこちらへ向かって移動した。

 しかも、速い。

 フローよりも格段に。

 公園で対峙したあの猫耳パーカの少年よりもさらに、ミウは敏捷なようだ。

 皮肉好きを庇う位置に立っていた私だが、ここは避けざるを得ない。

 いちど公園で少年と対峙していてよかった、と思う。初っ端からミウを相手取っていたら、まず反応できなかっただろう。彼らの速度に適応している。いや、速度というよりも、彼らの常人ならざる行動様式に虚を衝かれることがない、といったほうが精確かもしれない。

 予測できる。私にはミウの出方が。

 速度が違えども、ミウのそれは公園の少年とおんなじだ。

 私は公園でしたのと同様に、真横へ飛び退く。

 間一髪であるにせよ、ミウの初撃をかわす。

 勝機が見える。一撃目をかわせた私の優位性は大きい。だがここで私は反撃をせずに、ミウとの距離を空けるだけに留めた。

 ここで殺してしまっては不満が残る。端的に、つまらない。

 まだだ。

 私は知りたい。

 ベールに包まれたミウの秘奥を。

 掌握し、同情し、理解して、支配する。

 私はミウを殺したい。だがその前にミウを支配し、蹂躙(愛撫)したい。

 距離を空け、まずは対話を図るべく、ミウをどうやって説得しようかと考える。思考は刹那に巡る。これまでに体験したあらゆる人体破壊行為を思いだす。極力相手を傷つけずにどうすれば戦意を削げるだろうか、と思案する。

 殺さず、生かさず、動きを封じる。相手を半殺しにしても対話は対話だ。

 ただし、しゃべられるだけの余力と気力を相手に残さなくてはならない。

 これは相当にむつかしい。拷問すればいい、という単純な話ではない。

 拷問とは、すでに相手が拘束されていることを前提にして語られる。しかし私が今希求しているのは、いかに拘束するか、という一点に集約される。

 殺し合いをするなかで、いかに相手を生け捕りにするか。

 これは言わば、狩りである。

 喰うか喰われるか、という殺意の拮抗のなかで、「調理」という過程を重んじる者にのみ宿る高揚感。死闘でありながらも、狩りでは、追う者と追われるモノ、狩る者と狩られるモノが、決定的に線引きされている。

 ケモノの世界にあって、ゆいいつの法則――弱肉強食。だがその世界から逸脱していながらに人はなおも狩りをする。

 とどのつまりが私の示す狩りとは、遊戯であり、娯楽であり、人が人として暮らしはじめてから築きあげてきた営み――余裕――そのものである。

 私は人として、このバケモノを狩る。

 殺し合いの果てに、圧倒的優位を手にし、そして命を摘むのだ、息の根ごと。

 想像すると、脳髄に愛液が染み渡るかのような快感に襲われた。

 疼きとも痺れとも判らない。全身の細胞を一つ一つ、ちゅぱちゅぱと舌で舐めころがすかのような刺激が、ぞくぞくと内側に反響し、増幅し、凝縮され、蓄積されていく。今にも零れてしまいそうだ。或いはすでに零れており、それに溺れてしまいそうでもある。

 もっと、もっと、私をもっと潤してくれ。

 潤されるごとに乾きばかりが増していく。

 考えてみればそれも当然だ。虚無により潤され、がらんどうにより満たされる私は、それゆえに乾きをも募らせる。矛盾然としたこれは、循環系として機能し、永久機関のように私に殺意を抱かせつづける。

 私の行動原理とは、かくも単純であったのだなあ、と突然の発見に愕然とする。

 時間にしたらコンマ五秒もなかっただろう。私はその間にこれだけの思考を巡らせた。

 そしてミウもまた、この短時間で、標的を私ではなく皮肉好きへと変えていたようだ。こちらには一瞥をくれただけで、そのまままっすぐと皮肉好きへと突進していく。

 しまった、と思う。え、そっちに行くの、と戸惑いもした。

 私の考えでは、ミウはまず私を始末するはずだ、と高をくくっていたのだ。

 ところがミウは、何を措いてもまずは皮肉好きを葬り去りたかったようだ。

 なぜだろう。

 なにか、ミウのなかに渦巻く拘泥(こうでい)のようなものを感じる。

 もしかして、と閃く。

 ミウの目的は端からこの男だったのか?

 俊敏性において、私はミウよりも劣る。そして私のほうが皮肉好きまでの距離が遠い。当然の帰結として、私は皮肉好きの盾になることも、ミウの突進を阻むこともできない。

 にも拘わらず、

「ッくしょう。なんで、なんでッ」

 ミウの懊悩に満ちた声が反響する。「アレは毀したじゃん。毀したのに、なんでッ」

 どうしてコイツが殺せないッ、と地団太を踏みだすミウがいた。

 床が陥没してもおかしくない身体能力を有しているはずだのに、このときばかりはなぜだかミウは、その矮躯(わいく)に似つかわしい、たどたどしい所作での足踏みをした。どこかほほ笑ましくさえある。

 私が追いつくと、はっとしたようにミウが後退する。皮肉好きからも距離を置いた。

「おまえッ……」乱暴に呼ばれる。ミウは歯を食いしばり、「おねえさんさ」と言い直した。

「おねえさんさ、さっきあたいに渡してくれた猿――アレ、どっから取りだしたの」

 言いながらミウは、質問する相手がちがうな、と思い直したのか、皮肉好きに視線を飛ばし、

「アダさん。ねえ、アダさん。あんたまだ持ってるよね。どうして? あたいが毀したアレはなに?」

 謡うように口ずさむ。

「さあな。ワタシは最初からコレしか持っておらん」皮肉好きが懐から猿の置物を取りだした。こちらは口を塞いでいる猿だ。元々このアジトに置かれていた猿だろう。「キミが破壊したのは、そっちの殺人鬼が持っていたものだ。彼女がどこでソレを手に入れたのかはワタシも知らんよ」

 皮肉好きの視線を辿って、ミウがこちらを凝視する。「なんでおねえさんが持ってるの」

 そう。私は猿の置物を持っていた。正しくは持たされたと言うべきか。

 だれに?

 いわずもがな、あのキザな精神科医に、だ。

「あれれ、ごめんごめん」私はそらと惚ける。「ミウちゃんってばもしかして、アレがあると人を殺せないのかな?」

「なにが『もしかして』なの。しらばっくれないで」

「ごめんごめん。おこらんでおくれよ」

 なんだか一杯喰わせたことがうれしくって私は、

「説明は受けてたんだけどね、半身半疑っていうのかな。でもまさかミウちゃんがねえ。へえ」

 いじわるくニヘラニヘラと頬を緩める。するとミウが、

「一つ忠告してあげる。ニヤニヤしないほうがいいよ、おばさん」と、『おばさん』を強調して言った。「小じわが目立つから」

「おばっ」唐突な毒舌にたじろぐ。ミウからしたら、どんな少女だっておばさんだ。

「安い挑発にのるな」皮肉好きが忠告してくる。「ワタシはともかく、あんたは彼女に殺され得る。油断すれば死ぬぞ。いくらあんたでもな」

 言われるまでもない。傘がなければ雨に濡れる。当然だ。

「理解できないなあ、あたい。おねえさんさ、アレが何か知ってて、どうして手放すような真似をするの? 持ったまま交戦すれば、あたいは手も足も出ないのに。それこそ楽に始末できたのに」

「楽に始末したくないんだよ」それくらい解ってよ、と大袈裟に唇をとんがらせてみせる。どういう原理かはさておき、猿の置物は、「番犬」としてのミウを無害化するようだ。無抵抗な番犬など、子犬ほどの手応えもないだろう。しかしそれでは面白くない。だから私はアレを手放した。

 これも理由の一つではある。が、本懐はべつのところにあった。

 自身が応戦できないことを悟ればミウはこの場から離脱しただろう。それを阻止するために私は猿の置物を放擲(ほうてき)したのだ。

 牙を折られ、殺傷能力を奪われた獣は、そうそうに逃亡の道を選ぶ。

 フローとの交戦がそうであったように、追いかけっこに発展すれば、私に勝ち目などない。

 だから私はキィアイテムを手放した。

 本音を披歴すれば、今ここでミウを始末するための予防線を張ったようなものだった。目先の利益に目を奪われていては、いつか足を掬われる。肉を護っても骨を断たれては意味がない。捨てるべき肉は、捨てるべきである。

「あたいも舐められたもんだね」

「舐めてんのはそっちだろうが」

 嘆息を吐くミウを私は冗談めかし凄むのだった。

 心が踊る。目のまえに佇立するちいさな体躯の女の子。私にはもう、この女児が、屠(ほふ)るべき生粋のバケモノにしか見えなくなっていた。

 人殺しの私はいまや、魔王に挑む勇者さまだ。

 魔王はうっちゃんのほうじゃないの。

 どこからか、ランの声が聞こえた気がした。

      ***二時間前***

 猿の置物を持っているだけで、ミウの「番犬」としての性質を無効化できる。

 診療所でランのやつがそう宣巻いたのを、私はうんざりして聞いていた。フローには席を外すように言ってあったので、このときは廊下で待機していたと記憶している。

「今回の仕事、コレを持っているだけで楽に終わるからさ。ぼくがここまで太鼓判を押すんだよ。ね? 持っていったほうがお得でしょ」

 軽薄な笑みを湛えるランは、私が辟易している様子に気づいてもいない。

 私の憤懣がぐつぐつと煮えはじめた理由は主に二つある。太鼓判を押された理由がふざけすぎていたのと、それを今になって打ち明けたランの思考回路が理解不能だったからだ。

「なんでこのお猿さんが、キィアイテムなんだ」

 尋ねると、ランは飄々と応じた。

「ヨッチーこと横島奈心たちはさ、うっちゃんの言うところのラジコン兵士を開発してたでしょ?」

「ああ。それがどうした」皮肉好きとの会話はランにも話してある。が、こいつのことだからもしかしたらあのときの会話を盗聴していたのかもしれない。理性がどうたらこうたら、といった冗長な会話だ。

「あの技術って実は、ヨッチーたちが生みだしたバケモノたちの制御にも利用されていたみたいなんだよね。つまりが『つよき子どもの家』に住まう子どもたちの調教にだよ。脳内にマイクロチップを埋めこんで、彼らの行動に枷を強いていたわけ。これまでフローちゃんたちがあの空間から出ていけなかったのもその影響なんじゃないかな。もちろん『出てはいけない』と言いつけられていたからとか、『逃げだしたら残りの者たちを処分するぞ』だとか、そういった恫喝による抑圧もあっただろうことはいまさら言を俟つこともないだろうけれどね」

「で? それがこのお猿さんとなんの関係があるんだ」

「解らないかな? じゃあ逆に訊くけれど、『侵入してきた者たちを処分しろ』とインプットされた番犬をまえにして、ヨッチー一味がどうやってあの家へ出入りしていたと思うわけ」

 横島奈心たちが、いかにしてミウを懐柔していたか、という問いだろうと解釈する。

「それはだから」と考える。「じぶんたちには歯向かうなって命令をだな。あいつらは、ミウに課していて」

 私の答えを退けてランは、

「ロボットじゃないんだよ」と言った。「彼女たちは飽くまでラジコンだ。Aという指令があればそのとおりに動くけれど、そこにBという指令が届けば、こんどは一転、Bのようにしか動かない。AかつBという高度な指令の出し方は受け付けないのさ。『我々に柔順に』と言いつけられていたら、そのようにしか行動できないし、『侵入者は皆殺し』とインプットされたら、彼らは皆殺しにしちゃう。侵入者をあまねくね」

 であればミウに殺されないようにするには侵入者以外になるほかに術はない。投げやりにそう意見すると、

「さすがはうっちゃんだね、勘がするどい」

 正解をもらってしまう。

「言ってしまえば、対象外になってしまえばいいのさ。侵入者に対して軒並み敵愾する番犬でも、最初から室内にいるフローちゃんたちには柔順なわけでしょ? だったら、室内にいる人物として認識してもらえるようにすればいい。単純な話でしょ?」

 かくして横島奈心一味は、非侵入者のシグナルを発する装置を開発した。

「それがコレなわけか」

「いかにもソレなわけ」

 誇らしげに破顔するランの手元を見遣る。猿の置物が握られている。その猿は両耳を塞いでいる。

 私は皮肉好きと交わした会話を思いだす。主君が複数いた場合に、ほかの主君を殺せと命じられたロボットがいかような行動をとるのか、といった話だった。あのとき皮肉好きは、「対象外バッジ」をつくったと言っていた。つまるところそれがこの「猿の置物」であるのだろう。

「ちょっと待て。話の真偽はおいとくとして」

「疑るわけ?」

「おいとくとして」と強調し、「なんでおまえが持ってんだ。その猿を。なんでおまえが」

 糾弾さながらに尋ねる。

 横島一味の、護符とも呼べる代物をなぜコイツが所有しているのか。

「前にも言ったかもなんだけれど、だからね、コレは忘れものなんだってば」

 依頼主の忘れもの。たしかに、私が診療室でこの猿を見かけたとき、ランのやつはそう答えていた。だとすれば、ここへ依頼をしにやってきた人物で、なおかつこの猿との所縁(ゆかり)のありそうな人物といえば――。

「不死身(あいつ)が置いてったのか? 二か月前に?」

 伏見がここへ情報を買いに来たときに忘れていったものだと考えれば、なるほど、筋は通る。

 ところがランのやつときたら、

「うんにゃ。ちがうよ」

 しれっと否定するのだった。「置いてったのは、番犬ちゃんだよ」

「んんっ!?」

「だから、あのちっちゃくてかわゆい、ミウちゃんの忘れもの。これ」

 鼻持ちならないランの己顔は、その言葉が冗談ではないことを歴然と示していた。

 ミウがここへ来た? いつ?

 二の句を継げないでいると、

「ほら、二か月前にさ、この辺で通り魔が出たことあったでしょ。一日だけの単発型通り魔」

 またその話か、と思う。顔を合わせるたびに犯人扱いだったので忘れようにも忘れられない。

「私じゃないぞ」と半ば反射的に否定している。

「もちろん、うっちゃんじゃない。あれ、たぶん犯人ミウちゃんだよ。来るときはコレ持ってたから無害化してたんじゃない?」ランが猿の置物を撫でる。「でもって、帰りはコレ忘れてっちゃったでしょ。だから『番犬』として覚醒して、出会い頭に、遇う人、遇う人、見かけるたんびに殺しちゃったんじゃないかな」

「ん、ん?」頭が混乱する。

「分からない? 内側と外側ってさ、言ってしまえば、主観の問題なわけ。自分が属しているところが内側で、それ以外が外って括りになる。『つよき子どもの家』の外に出たミウちゃんからすれば、こんどはこっちが内側になっちゃったんじゃないかな。んでもって、『つよき子どもの家』の外の住民たちが、こっちにはたくさんいる。ミウちゃんからすれば、彼らは総じて侵入者――『つよき子どもの家』にいるはずのない、けれど内側にいる異分子なわけ。だから、まあ、当然のながれとして、見かけたら殺しちゃうよね。だってそうインプットされちゃってんだもの」

 番犬は、守るべき家の敷地内にいるからこそ番犬足り得る。敷地のそとに放たれたが最後、番犬は狂犬として、見知らぬ者たちに牙を向ける。ランの話はこういうことらしい。

「でも、あの『つよき子どもの家』は監視されてんだぞ、そうそう脱走できないだろ。二か月半前だとまだ伏見のやつも脱走してないし、フローだってまだ計画を行動に移してないはずだ」

「んー、その辺はどうなんだろうね。ぼくもよくわからないけれど、まあ、かくれんぼしてたんです、とか適当に誤魔化したんじゃない?」

「ああ」

 間抜けな声がでた。フローもそんなことを言っていたっけ、と思いだす。かくれんぼしていたが、それを横島奈心たちに脱走したものと見做され、拷問を受けたと言っていた。いちど誤解してしまった以上は、ミウの姿が見当たらなくなったくらいでは、横島奈心たちもつよくはでられないはずだ。脱走した事実が露呈する前にミウが戻ってきたならば、単なるかくれんぼの延長で処理されただろう。

 だがこれらの話はすべて、

「インプットされた内容がおまえの言うとおりだった場合の仮定だろ」

 侵入者を皆殺しにしろ。

 仮にこれがミウへインプットされている指令だとしたら、の話だ。「なんでおまえがそれを断言できる」

「もちろんこれは仮定だよ。でも、既成事実としてすでに起きてること――ぼくが知ってる情報をもとに推測すれば、そう考えても差し支えはないでしょ。なんにせよ、重要なことは、このお猿さんを持ってさえいれば、ミウちゃんは『番犬』としてこちらに牙を剥かないってことだけだし」

「だから、それも含めて断言できないだろ」

「うん? ああそういうことか。コレが真実に効力を発揮するのかって、確証がほしいわけね。それならもう確かめてあるよ」

 ランは手のひらで猿の置物をころがした。

「ふしぎに思わなかったかな。閉じ込められたうっちゃんを救いだすために『つよき子どもの家』へ踏みこんだぼくがなんで無事だったのか。どうして戦闘力ゼロのぼくが、番犬の待ちかまえる屋敷へと忍び込み、お姫さまを救出できたのか」

「お姫さまってだれのことだ」

「答は単純だよね。だってぼくってば、コレを持ってたんだから」

 言ってランは猿の置物を、お手玉のように扱う。

「ね? 分かったでしょ。もうコレの効力は実証済みなわけ。ぼくはおとなしいミウちゃんを尻目に、地下室へ赴き、お姫さまを無事救出したのであった。めでたしめでたし」

「だからお姫さまってだれのことだ」

「今ざっと話した内容は、うっちゃんが質問してきたから話したまでで、だから、うん。備考として聞き流してもらっていいよ。仮定の部分はちがってても問題ないんだ。とにかくこのお猿さんは、番犬ことミウちゃんを無害化する。これだけは確かなんだからさ」

 唖然とするほかにない。

「いやいや、問題ありまくりだろ」むしろ話の細部のほうが重要に思える。「ミウはなにしにここへ来たんだ。おまえ、ほんとうはどこまで知ってる」

「ぼく? ぼくはなにも知らないよ。知っていることはこうしてうっちゃんに話してるし。あ、なに? またぼくのこと疑ってるの」

「質問に答えろ。ミウはなにしにここへ来たんだ」

 こちらの語調に腹をたてたのかランはむっとした。「事実だけを話すなら、彼女は伏見ッチと同じだよ。人殺しを請け負ってくれる人物を紹介してほしいって依頼だった。でも、そんな人物はいない」

「だから私の情報を売ったわけか」

「うん。知りたがってたからね。生粋の人殺しはいないか、ってことを。だからうっちゃんの情報を売ってあげた」

「おまえ、なにも思わなかったのか。あんないたいけな女児がここを一人で訪れただけでなく、そんな物騒な依頼までして。あまつさえ、そのあと同じ情報を求めて伏見も現れたんだ、無関係だと考えるほうがむつかしいだろ」

「そうだね。だから言ったでしょ。事実だけを話すなら、って。ぼくの考えたこと、想像を話すことはできるけれども、それは情報屋としてのぼくの仕事ではないんだよね。範疇外さ」

「だが、おまえは私の雇い主だ。だろ?」必要な助言はくれてもいいはずだ。そう零すとランは、

「うん。だからこうして話しているでしょ」

 わるびれる様子もない。淡々としたものだ。

「今じゃおそいんだって言ってんだ」もっと前に話されておくべき内容だ。話すタイミングだってあったはずだ、と険のある声をださざるを得ない。たとえば私が横島奈心について訊きにきたときとか。私はそう言ってランを非難する。

「たしかにあのときぼくはすでに『うっちゃんってばまたぞろおもちろいことに首をつっこんでいるなあ』って思っていたよ。でもね、うっちゃんがここへ横島奈心についての情報を求めてきたとき、うっちゃんは情報屋としてのぼくを求めていたでしょ。だからぼくも情報屋として応じたまでのことで」

 いつぞやのランの言葉が蘇るようだった。情報屋は情報を売るのであって、憶測を売りにするのは探偵のお仕事なのだよキョウちゃん、と彼女に嘯かれたことがある。

「でも今のぼくは情報屋としてうっちゃんのまえにいるわけじゃない。今は、雇い主として、うっちゃんと会話してる。だから、確定していない情報――ぼくの憶測や推測を話して聞かせているんだよ。助言としてね」

 こいつの融通のきかなさは理解していたつもりだ。だが、ここまで頑迷だとは思っていなかった。ランを責めるよりもさきに、認識が甘かったようだ、とじぶんを責めてしまうほどだ。

「憶測ついでに言っておくと、このお猿さんはわざとここへ置いていかれたんだと思うんだよね。ミウちゃんは、わざとコレをここへ置いていったわけ」

 なんのために? 私の疑問を見透かしたようにランは、

「ぼくがなんらかの形で助けにいくことを予期していたんじゃないのかな」もしくは、ふたたびぼくのもとへ依頼をしにくる予定があったかだ、と言った。「ミウちゃんがどこまで計画していたかは定かではないよ。けれどね、伏見ッチがフローちゃんの指示のもとで『つよき子どもの家』から逃げだすところまでは前提条件としてミウちゃんの計画の一部に組み込まれていたと思うんだよね」

「あいつも肩棒を担いでいたってことか」ミウは単独犯ではなく、伏見と組んでいたのだろうか、と想像する。

「それはどうだろう。むしろ伏見ッチもまた、ミウちゃんの手のひらの上で踊らされているんじゃない?」

「私みたいにか」

「そ。うっちゃんみたいに」かんたんに肯定されてしまう。「で、ことの発端であるところの伏見ッチの脱走が起きるわけなんだけれど――伏見ッチが逃げだせばもちろんそこで捜査網を敷くわけでしょ、ヨッチーたちはさ。ところがヨッチーたちは人手不足で、人海戦術を使えるほどの人材を確保していなかった。であれば手段は限られてしまうわけで――そこでヨッチーたちは、手持ちのコンピュータと、自らの頭脳を用いることにしたわけ」

 つまりが、映像ハックだ。

 当然ミウには予想可能だった。横島奈心たちが街中の監視映像をハッキングすることを。そして、この診療所もまた例に漏れることなくその捜査網の一端に活用されることを。

「でもここに住んでいるのはぼくなわけじゃない? ぼくに対しての敵対行為ではなかったとはいえ、情報屋相手に情報戦略を施しちゃうっていうのはいただけないよね。それこそ河童に相撲を挑むようなものだもの」

 無謀と言いたいのだろう。まあな、と生半可に相槌を打つ。

「で、話を戻すけれど、ミウちゃんは、横島一味のハッキング行為にぼくがわりとはやい段階で気づくところまで、予期していたと思うんだよね。ヨッチーたちの存在を知ったぼくが、ややもすれば接触を図るかもって」

「だからコレを置いていったのか? おまえのために? わざわざ?」

「ちがうよ。ぼくのためじゃない。フローちゃんのためだよ。そこに伏見ッチを加えてもいいけれどね。ミウちゃんは、彼女たちをしあわせにするために、こんな傀儡師の真似ごとをしているのさ」

「え、そうなのか」

「たぶんね。今回の一件、誰がもっとも手を汚さず、そして利益を得ているかと言えば、フローちゃん以外にいないんだもの。フローちゃんとしては、ぜんぶ自分が仕組んだことだと思っているのだろうけれどもね。実際のところミウちゃんが黒幕なわけなんだけれど。ただ、ふしぎなことにその黒幕たるミウちゃん自身には、とくにこれといって実利がない。ミウちゃんにとって横島奈心という女性はさ、いてもいなくてもどっちでもいい、毒にも薬にもならない、家族でも隣人でもない赤の他人レベルで、関心の湧かない単なる神さまみたいなものなんだよ」

 神さまのちからは絶大だけれど、干渉の余地はないんだ、とランは言った。

「透明人間みたいなものだよね。番犬にとって重要なのは、主ではなく家なのさ。そして横島奈心はミウちゃんにとっての主であり、フローちゃんこそが守るべき家だった」

 食指を立ててランは、自信満々に説明を続ける。

「フローちゃんのためにこれだけの計画を立てたミウちゃんだもの、途中で計画が頓挫したときのことを顧慮しなかったとは考えづらいよね。そこでミウちゃんは布石――保険を打っておいたわけ。その保険というのが、このお猿さん。正確には、このお猿さんをぼくに持たせておくこと、だね」

「保険になるのか、そんなことが」と訝しむ。

「なってしまうからおそろしいよね」ランは一呼吸かけてから、たとえばさ、と言った。「たとえば、もし仮にぼくがヨッチー一味のハッキングを不審に思って、ヨッチーたちに接触を図ったとするよ。そのころにはもちろん伏見ッチが脱走していて、ぼくのところに駆けこんでいるころだろうから、ぼくがヨッチーにどういうアプローチをしようとも、遅かれはやかれ、フローちゃんたちの奸知がヨッチー一味に露呈してしまうよね。向こうもバカではないんだからさ、ぼくの存在を知ればあとは芋づる式にフローちゃんたちのしようとしていたことが発覚する。そしたら計画は失敗だ。フローちゃんたちは今まで以上に、徹底的な管理を受ける。それを阻止するには、実力行使しかないんだけれど、そこでヨッチーたちを殺せるなら、最初からそうしているわけで、つまるところミウちゃんにはどうしたってヨッチーたちを殺せない。それはフローちゃんたちも同じだよね。で、残る道は集団脱走のみなんだけれど、これもまたむずかしい。なぜかと言えば、さっきも言ったけれど、『つよき子どもの家』の住民――つまり子どもたちにはマイクロチップっていう、強力な枷が埋めこまれているから。脱走できるのは、現状、ミウちゃんとフローちゃんの二人だけ。いや、もしかしたらフローちゃんにもマイクロチップが埋めこまれているのかもね。現に伏見ッチには埋めこまれてたんだし。まあ、そこは考えても解らないところだから、既成事実としてミウちゃんだけが脱走できるとするよ。実際にミウちゃんは、ぼくのところに一度は訪ねて来たんだから」

 なんだかもやもやとする話だが、理解はできる。「つよき子どもの家」の子たちのなかで自由に行動できるのは『番犬』たるミウだけだったのだ。

「で、ミウちゃんは最後の賭けにでるわけなんだけれど、それは何かと言えば、ぼくのところへ来て、ぼくに助けを求めることなんだよね。大金を積んで。『このままだとアナタもあの女(ひと)に殺されますよ』とかなんとか、都合のいいことを言ったりしてさ」

 ははあん、と話のさきを読む。「そんときのためにコレを置いていったったわけだ。おまえに襲いかからずに済むように」

「そういうことじゃないかな。ぼくの当て推量だけれどね」

「だけどなあ」釈然としない。「だっておまえ、大金積まれたからって、他人の尻拭いなんてしないだろ」

「しないね。でも、ぼくの人格的傾向なんてミウちゃんには解らないでしょ。それに、最初からミウちゃんが殺人代行の依頼をしてきたなら百パーセント断るって断言できるけれど、でもね、どうだろう――ぼくが接触したことでヨッチーたちがぼくに対して、なんらかの敵意を向けていると知れれば、ミウちゃんの依頼とは無関係に、ぼくはヨッチーたちを始末しようと考えたかもね。それこそ、うっちゃんに頼んで」

 ランの言葉を聞いて私は背筋がぞっとした。そうだった。私もいちどこれと同じことを考えていたではないか、と思いだしたのだ。

 私は今回の一件で、害虫駆除二回分を棒に振っている。しかし、損をしている、と私が実感しているのは、それこそ、害虫駆除二回分の情報を――つまりが横島奈心に関する情報を――ランにせびらなくとも、私はいずれ横島奈心を殺していただろうことが蓋然的に決まっていたと想像できたからだ。

 私はどうあっても横島奈心を殺すことになっていた。

「ミウちゃんはさ、どうあってもフローちゃんをしあわせにしたいんじゃないのかな。そのための必要条件が、横島奈心の死――だったんじゃない?」

「けど、それはもう達成されただろ」

 横島奈心は死んだ。ミウの筋書きどおり、私がこの手で殺してやった。

「うん。そこのところがよく解らないんだよね。まあ、今の話ぜんぶぼくの憶測だし、ほんとうはもっと別の目的があるのかも分からない。黒幕はミウちゃんじゃなかったって結末もあり得るわけで。いずにせよ、これからうっちゃんはミウちゃんと殺(ヤ)りあわなきゃいけない。そうでしょ?」

「そうだな」

 番犬であり、狂犬と化したミウを、私はこの手で止めなくてはならない。それが今回の依頼だからだ。

「まあそういうわけで、うっちゃんは〝コレ〟を持っていったほうがいいとぼくは考えているわけ」

 散々好きかってほざいた末に、ランは話をぞんざいに結んだ。猿の置物を差しだしてくるランへ向けて私は、

「なんでおまえは、ったく、なんでおまえは!」

 腹の煮える思いで、幼稚に指弾するほかなかった。


      (12)

 けっきょくランのやつに、押し切られる形で預けられた猿の置物。

 実のところ私は、これと似た置物をべつの場所でも目にしていた。

「つよき子どもの家」と横島奈心のアジト、の二か所で、だ。

 口を塞いだ猿と、両目を塞いだ猿。

「つよき子どもの家」でミウと出食わしたときの情景が蘇る。

 あのとき、ミウはただのおとなしくてかわいらしい女児だった。扉をおいしょ、と開けて、てとてととペンギンのように姿を現したのだった。本来であれば部外者の私を始末しようと襲いかかってくるはずだのに、ミウはそれをしなかった。

 おかしいではないか。

 ミウのあのときの様子は、ミウに備わった「番犬」の性質からすれば異常と呼べるのだ。

 伏見の言葉を思いだす。しょうじき信じられないくらいですから、とかれは言っていた。

「あそこまで部外者の右京さんを許容したなんて」

 そう、部外者である私を許容するはずがないのだ。

 であれば、考えられる可能性はひとつだ。

 ミウは握っていたのだろう。猿の置物を。

 私を招き入れるために、自ら無害化すべく、ずっと握りしめていたのだ。

 猿の置物は、院長室にあったものを利用したのだろう。なぜ横島奈心がそれを置いたまま出ていったのかは定かではないが、おおかた、脱走した伏見の対処に追われて頭が回らなかったのだろう。フローでさえ、番犬抑制装置の存在を知らなかったのだ。対処を講じる必要はないと判断し、気を緩め、詰めを甘くしてしまったのも解らなくはない。

 ただ、ミウだけは知っていたのだ。なぜ自身が横島奈心たちに牙を向けることができないのか。その原因が猿の置物にあったことを。

 院長室で私とフローが会話に意識をとられているあいだにミウは、猿の置物をそっと机のうえに戻しておいた。これでフローも私も、ミウの小細工に気づくことはなくなる。

 猿の置物の適用範囲がどの程度の距離において有効かは知らないが、すくなくとも手放してすぐに「番犬」としての性質が戻ることはないのだろう。院長室を出てからもしばらくミウは、私の背中でおとなしくしていたのだから。

 ミウの計画は順調に運んでいた。

 ところがだ。

 私の気まぐれのせいで、白衣の男こと皮肉好きが生き残った。

 計画の歯車がそこで狂った。

 せっかく並べたドミノが途中で崩れてしまったのだ。

 崩れたドミノは、意図しない暴走をみせ、つぎつぎと連鎖していく。

 だが、ドミノは、どの道すべて崩されるさだめにある。

 結果がおなじになれば問題はない。

 そうと考えたミウは、横車を押しとおそうとしている。

 狂った歯車をむりやり回すようにして。

 皮肉好きもろとも、狂った駒を葬り去ろうとしている。

 私をその手で、殺そうとしている。




  

    第六章『正義は勝つ。邪心の敷いたレールのうえで』



      (1)

 殺す者と殺される者とでは、圧倒的に殺される者のほうが多い。殺人鬼が一人いれば、被害者は最低一名以上になる。なにもふしぎなことはない。

 これは、「ゴキブリを一匹見つけたなら、ほかに三十匹は隠れているぞ」という教訓と似ている。似ているだけで的を射っているとは言い難い。

 私は皮肉好きを視界に入れつつミウと対峙しながら、そんなことを考えていた。

 殺す者と殺される者が、今まさに配分されようとしている。この場に三人しかいない現状、生き残るほうが多いだなんてことはありえない。こと、私が殺人狂で、ミウが頭のイカレタ狂犬であるのならなおさらだ。

 畢竟(ひっきょう)するに、最後に立っている者は一人きり。

 だが、事態はなかなか進展をみせない。私もミウも、対峙したまま動かない。

 なぜならミウは皮肉好きを殺せない。殺すには私の協力が必要だ。ゆえに、すぐに私を殺すことはできない。

 いっぽうで私もミウを殺せない。

 まだはやい。私はまだ、ミウを理解していない。殺すのはもっと理解を深めてからだ。

 ミウの内に秘められた懊悩を、葛藤を、動機を、思索を、哀しみを――すべて語らせてから、同情心たっぷりに慈しみつつ、私はミウの息の根を止めてやりたい。

 他方、皮肉好きは、私たちを殺す手段を持ち合わせていない。屈強な身体も、冷酷な精神も、頭のネジの緩み具合だってミウと比べたら、凡庸も凡庸。ゆいいつ誇れる特質といったら、頭に詰めこまれている知識がちょいと豊富だってことと、口を開けば出てくるのが皮肉だってことくらいだ。現状、私たちの敵ではない。

 敵ではないことをいいことに、皮肉好きときたら、

「そのままでいい。聞いてくれ」

 私とミウを尻目にひとり語りだす。

「ワタシはもう長くない。あんたが生き残ろうが、そのコが生き残ろうが、ワタシに残された道は『死』以外にない。そうではないか」

 ミウも私も応えない。それどころではないからだ。互いに相手の命を奪おうとしない私たちはそれゆえに、同じ考えを抱き、相手の隙を窺っている。

 生け捕りをすべく、相手の肉体を破壊するきっかけを狙っている。

「まあ、いい。いずれにせよ、ワタシに生きている意味はなくなった。あんたがあの女を殺してくれた時点でな」

 どういう意味だ。いっしゅん意識が皮肉好きへと向きかける。だが踏ん張った。踏ん張ったが、なぜだかミウのほうが過剰に反応した。

「おッさんは黙ッてて」

 ミウがけたたましく叫ぶ。

 まさかの発声に思わずたじろぐ。せっかくの好機を、とこちらが悔しがっているのを横目に、ミウはこちらへの警戒をいまいちど高めてから、

「アダさん、ねえアダさん。あたいたち、今いいとこなの。邪魔しないでくれないかな」

 横槍を入れてきた邪魔者を非難する。

「邪魔はせんよ。したくともできん。茶々を入れるつもりも毛頭ない。だがどうだろう。キミは嫌がるかもしれんが、そちらの殺人鬼のお嬢さんは、ワタシの話に興味があるようだ」

 皮肉好きの話に興味?

「いや、ない」わるいが今は聞いている余裕はないのだ。

「そうすげなくするな。あんたの話でもあるんだ。聞いて損はなかろう」

「私の話?」

「ねえ、おねえさんさ」ミウが話を遮るように言った。「あたいから提案があるんだけど。そいつ邪魔でしょ? さきに消してしまわない? あたい、逃げないよ。どうあってもおねえさんはここで死んでもらうんだから。ね? あたいと殺しあい、したいでしょ?」

 だから皮肉好きをさきに殺しましょう、そうしましょう、とミウはしきりに私を誘うのだった。

「ダメだ。私はね、ミウちゃん。きみを動けなくしてから、そのあとでそいつを殺す。嘘つきのそいつをな」

「嘘つきとは失敬な」

 皮肉好きの不平を流して私は、ミウの申し出を突き返す。

「これは決定事項だから。その提案は呑めない」

「そ。ざんねん」

 ミウが動く。手にはいつの間にか、実験に使用する類のニッパーが握られている。うでを振りかざして彼女は勢いよくそれを投擲した。

 私へではない。皮肉好きへ向けてだ。

 鋭い音を鳴らして、壁が抉れる。ニッパーが深くめり込んだことで、ずいぶんと分厚い壁だったのだと判る。

 ニッパーに当たっていれば皮肉好きは即死だ。

 こりゃ死んだかもな、と冷めた心で諦観を抱くも、皮肉好きは無事だった。無傷な姿のままで、

「仰天させないでほしいものだ」とゆかに尻をつけている。

「やっぱりダメだね。ホント、忌々しい」

 猿の置物を持っている以上、ミウは皮肉好きを直接殺せない。しかし間接的には殺せる。その直接と間接の境界線が私にはいまひとつピンとこない。それはミウも同じであるようだ。制限の強いられた自身の肉体にもどかしさを感じているのか、歯ぎしりしている。

 察するに、ミウは猿の置物の近くにいるときは、「番犬」としての力を発揮できないようである。猿の置物の保持者に対して無害化するだけでなく、膂力をはじめとする細胞の覚醒化による肉体強化が無効化するようだ。

 言い換えれば、猿の置物から距離をとりさえすれば、「番犬」としての性質は無効化されない。

 つまり、私との戦闘は十二分に成立する。

 そう。これは殺し合いではなく、明確に戦闘である。

 命を奪い合うことなく、相手の動きを制するための。

 ミウはふたたび工具を手に取った。大きなペンチだ。ドラゴンの牙だって抜けそうだ。喰らったら無傷では済まないだろう、木端微塵に粉砕されてもふしぎではない。飛沫する瓦礫の破片が当たっただけでも負傷しかねない。

 皮肉好きも災難だな、と同情していると、

「おねえさん、死なないでね。こんなので」

「え、ちょっと待て」

 ミウはピッチャーよろしく振りかぶって、投げた。こんどは一直線に私へ向かって。

 弾丸よりは遅い。

 が、破壊力は雲泥の差だ。

 かろうじて避けた私の背後からは壊滅的な破壊音が轟く。粉塵が巻きあげられ、私たちの視界を塞ぐ。

 それでもミウは、手を止めることなく、つぎからつぎへとのべつ幕なしに工具をつかんでは投げ、壁という壁を、機器という機器を破壊していく。電子機器は破壊されるたびに、バチバチと火花を散らした。

 暗雲たちこめるようなこの視界では、監視カメラも用をなさない。さすがのランのやつも覗き見できまい。

 ざまあみろ、と診療所でぬくぬくしているだろう雇い主のことを罵倒し、その合間に私は、かわしきれない工具どもを、バッタバッタと打ち返す。剥きだしだったパイプをもぎ取り、バットの代用品にして。

 きれいに打ち返せれば、ミウに対するカウンター攻撃として有効になるのだろうとの考えもあったが、こう視界がわるくては、匙加減もうまくいかない。

 そうでなくとも私はこう見えて運動音痴だ。球技などしたこともない。見よう見まねでバッティングの真似ごとをしてはいるが、弾に当てるのがせいぜいで、パイプに当たった工具どもは、四方八方てんでばらばらに飛び散っていく。

「おいおい、気を付けてくれ」

 皮肉好きまで慌てふためいている。「当たったらどうする気だ」

「私になら殺されても文句はないんだろ」

 怒鳴り散らすも、

「殺すならきちんと殺してくれ。これではまるで、事故ではないか」

 文句を言われる始末だ。

 安全な場所まで避難したのか、皮肉好きの声は、さきほどの地点からは程遠い、部屋の奥のほうから聞こえてきた。位置的にはこちらよりもミウに近い。

「おい、かってに動くな。死んでも知らないぞ、ホントに」

 居場所さえ判っていれば、さいあくそちらに飛ばさないように工具どもを打ち返すことが可能だ。しかし皮肉好きはちょこまかと移動しているらしく、私のパイプに籠めるちからもイマイチ振るわない。

 或いはミウは、これを期待しているのかもしれない。バッターの打ち返した球には、ピッチャーの意思など反映されない。ミウは私を介して皮肉好きを殺そうとしている。

 なるほどさすがは黒幕なことはある、この短時間でよくもまあ頭の回るものだ、と感心するも、投擲が急に止む。

「ちょっと、おっさん、こっちこないでよ」

 なにかと思えば、ミウが騒ぎたてている。おおかた、皮肉好きが接近したために、「番犬」としての特質が失われたのだろう。

「やめてよ、やめてってば」

 粉塵の奥であたふたしているミウは、ゴキブリと遭遇した若妻のようであり、自分の下着と父親のパンツをいっしょに洗濯された思春期の少女のようでもあった。


      (2)

 千本ノックが途中で途切れたため、視界を覆っていた粉塵が晴れはじめる。うっすらと皮肉好きたちの姿も見えるようになってきた。

「頼むからうろちょろしないでくれ」皮肉好きへ、懇切丁寧にお願いする。「邪魔をするなら本気で殺すぞ」

「そうしたいのも山々なんだがな、あんたらのお遊戯は、盛大にすぎる。もうすこし静かにできないものか」

「できないものだね」

「ならばせめてワタシを巻きこむな。巻きこむくらいなら、てっとりばやく殺してくれ」

「だったら死ねばいいじゃない」今すぐ自分で、とはミウのお言葉だ。

「自ら命を断つくらいなら、ワタシはとうに死んでいる」皮肉好きはよく解らない理屈を捏ねた。「まあいい。ワタシの場所が判ればよいのだろう。ならば今しばらく独り言つとしよう。声のするほうには手を出さんでくれよ。そうだな。さて、どこから語ってやろうか。まずはワタシについて述べてみるとしよう。死ぬ前の自分語りというのも定石であるだろう、一興ではないか。さて」

 ワタシには生まれてくるはずの娘がいてな、と皮肉好きの声がミウから離れていく。

「うるさいんだってば」

 かな切り声をあげたのはミウだった。「殺してあげるから、黙ッてて」

 言うや否や、拳を壁に叩きつけた。壁が陥没する。皮肉好きへの威嚇だろう。せっかく晴れかけた粉塵がふたたび舞った。

「耳障りなのは百も承知だが、最期に言葉を遺すくらい勘弁してほしいものだ」

「耳障りじゃないの。目障りなの。今すぐ死んで、お願いだから」

 なにをそんなに苛立っているのか、とミウの過剰な反応に違和を抱く。

 騒ぎに紛れて私は、こそこそと部屋の隅に移動する。ついでに部屋の扉を施錠しておく。ミウが逃げるとは思っていないが、いまはまだ姿を現さない、脱走中の子どもたちが介入してくるやもしれない。この状況での多勢に無勢は、さすがの私も遠慮ねがいたい。ミウを仕留めたあとでなら歓迎だ。

 思えば、ミウは粉塵たちこめた室内であっても私の位置をわりと精確に捉えている節がある。工具の雨アラレが漏れなく私に集中豪雨化していたことからもそれが窺える。暗闇とちがって粉塵は物理的に視界を覆っているので、視覚以外の知覚によってミウはこちらの位置を把握している、と考えられる。

 ということは、こうして動かずにじっと物陰に身を潜めていても、あまり効果的ではない気もする。

 ミウはまだ皮肉好きに気をとられている様子だ。

 せっかく得た反撃の機をみすみす逃す手はない。

 私は、ゆかに転がったこぶし大の瓦礫を手にし、不意打ちを試みる。

 これくらいで死んでくれるなよ。

 祈りながら、思いきりうでをブンと振り抜いた。

 瓦礫の軌道に沿って粉塵がやわらかく弾ける。宙に浮かぶ目に見えない壁に穴が空き、ドーナツ状に渦巻いた。

 きっとミウには造作もなく避けられるだろう。または、かるがると素手で受けとめられるかもしれない。私は楽観的とも悲観的ともつかない予測をしていたが、意に反して結果はどちらでもなかった。

「ぷぎゃっ」

 ミウの悲鳴にも似た声と共に、タイヤがパンクするような破裂音が室内に轟いた。

 瓦礫の軌跡に沿って、視界が晴れる。

 視線のさきでは、ミウが悶絶している。みごとに片腕がもげていた。

「え、あれ。ごめん。当てちゃった?」予想外の展開に戸惑う。

「ざッけんなよ、ババァ」

 乱暴な言葉づかいをするミウは涙目になっている。「ッツー」と息を吸ってから、

「だッかッらッ、言ッたじゃん」

 誰にともなく、

「邪魔すんなッて」と怒鳴り散らす。

「すまん」皮肉好きが、部屋の隅っこのほうから謝罪している。「そちら側のほうが邪魔にならないような気がしてな。横切らせてもらったが、どうにも間がわるかったようだ。他意はない。邪魔をしてすまない」

 想像するに、瓦礫を投げたと同時に、皮肉好きがミウへ接近し、無害化したミウに私の投擲した瓦礫が命中してしまったようだ。

 ここまで考えてから、いやいや、とかぶりを振る。

 いくらなんでも瓦礫が当たった程度で、腕がもげるものか。

 私の膂力は、誇張して言っても一般的な成人男子の域をでない。特異なのはせいぜいが敏感な反射神経と、芸術的な関節技、それから人体の構造を熟知しているからこそ発揮できる、アクロバティック・ムーブくらいなものである。投石での攻撃力なんて「当たり所がわるければ死にますよ」程度のもので、人体の一部を吹き飛ばすほどの威力はない。

 威力はないはずだのに、ミウの片腕がもげている。切断面からは体液がほとばしり、実に痛そうだ。

「だいじょうぶか」思わず声をかける。

「だいじょうぶにみえるのかな、これが? おねえさんにはさ」

「いやほら。ミウちゃんも再生したりできるんでしょ。伏見みたいに」

「できないよ。あんなバケモノといっしょにしないでくれない」

 ずいぶんと棘のある言い方だ。「伏見が聞いたらきっと泣くぞ」

「泣くかもね。あいつバカだから」

 冷静さを取り戻したのか、ミウは蒼白を浮かべながらも、

「攻撃してこないんだ。もしかして待っててくれるの。親切だね。そうだお礼に、今すぐあたいが殺してあげる」

 言いつつ、残った腕と顎を使って器用に傷口を止血した。「じゃ、仕切り直して、はじめましょうか。ここからはあたい、我慢しないから」

 これまでは我慢してくれていたのだろうか。私は部屋をぐるりと見渡す。癇癪持ちのゴリラだってここまで部屋を壊滅的に散らかしたりしないだろう。これで我慢してくれていたというのだからぞっとしない。

「カルシウム足りてる?」

 短気は損気なんだぞ、と殺気をグネグネと立ち昇らせはじめたミウに、私はそっと教えてあげた。


      (3)

 ミウは怒髪天を衝いていた。冷静さに欠けていると分析できるほどに、私を本気で殺そうと攻撃をしかけてくる。

 どうどう、と宥めるようにしてミウの攻撃をかわしながら私は、

「いいのか」と投げかける。「私を殺したらあいつは殺せないんだぞ」

「殺さなくたって同じでしょ。どうせおねえさん、あたいの頼みなんかきいてくれないんだ。だったらおねえさんを殺して代わりを探す。それで終わり。文句ある?」

 片腕を失くした影響か、ミウの動きはフラフラと安定しない。頭に血がのぼっているせいもあってか、攻撃もどこか単調だ。

 仕留めるだけならそうむつかしくない。美しく殺すにしても、時間をかけてすこしずつ消耗させれば可能だろう。だがそれで私が満足いくかは微妙なところだ。

「ミウちゃんさ、もうちょい落ち着きなって」

 攻撃を回避しつつ、ミウの腕の傷口をナイフで抉る。ミウは呻き、動きをさらに鈍くさせる。

「ほらね。すぐに死んじゃうよ」楽しくないよ、と私はやんわり忠告してあげる。

 ミウの体力は目に見えて落ちている。これだけの深手に加えて、失った体液も少量ではすまない。こうして動きつづけていること自体が、ミウという女児がバケモノであることを如実に物語っている。

 だがミウの威勢だけは一向に衰えをみせない。どころか増していくばかりだ。

 番犬として生きてきただけあって、ミウは獰猛だ。だが、番犬であったがために、これまでその手にかけてきた者たちはみな一様に、殺されるべくして殺される弱者ばかりだったはず。殺し合いの経験はもとより、戦闘になど発展しなかったのだろう。だからこうして、負傷というこれまで体験したことのない事態に直面し、おどろくほど平常心を乱している。

 井の中の蛙、食物連鎖の頂点にして大海に出て怯える、というやつだ。

 強者でありつづけた者は、弱者の痛みに耐えられない。弱者はある点において強者よりもつよい。

 私はミウの繰りだす単調な殺傷行為をひらりひらりと交わして、その都度、ミウのぷぬぷぬとした白い矮躯へナイフを突きたてチクチクと肉を削ぎ落とす。なるべく主要な血管を傷つけないようにして。

 イタッ、と声をあげるミウを尻目に、

「どれどれ」

 削いだ肉を口に含んでみる。

 数回咀嚼しただけで、ぺっと吐きだす。「まあ、美味くはないわな」

 そもそも私に人肉嗜食(カニバリズム)の気はない。だが、傍から見た私がどう見えるかはまた別問題だ。

 ミウは泣きだしていた。

 くちゃくちゃとガムを噛むようにしてお肉を味わう私を見ては、

「変態」「鬼ババぁ」「さっさと死ね」と罵詈雑言を飛ばしてくる。

 汗と共に目元から弾かれるミウの涙は、ぽろぽろと宝石みたいで、ついつい摘みたくなってしまう。しゃっくりを耐えているのか、ミウは歯を食いしばっている。歯の隙間から声を漏らすように呻き、私への罵倒を放つのだった。

 愉快である。

 ミウの反応は実に蹂躙しがいがある。水をタプンタプンに張ったコップへ一滴一滴水を垂らし、「いつこぼれるかな、いつこぼれるかな」とハラハラする緊張感を楽しむいっぽうで、水で膨らんだ風船をぎゅうとつよく握りしめ、「割れそうで割れない」もどかしさに胸の奥をもぞもぞさせる感覚がある。

 ここでもしコップの水が零れ、風船が割れたりなどしたら、私はしょげるだろう。中途半端にイってしまったような物足りなさに肩を落とし、こんなことならもっと早く殺しておくべきだった、とふかく臍を噛むことを潔しとせず。かといって、かんたんに殺してしまっては、こうした快感は得られないのだから、ミウの息の根を止めてあげるわけにもいかず。あちらを立てればこちらが立たず、均衡の崩れたヤジロベーがごとく自家撞着に懊悩する。

 蹂躙とは常に二律背反を伴うものだ。殺さずに生かさずに。

 そのアンヴィバレスンな境界線に究極の快楽は漂っている。

 ミウは猪突猛進よろしく猛攻を繰りかえす。それを闘牛士さながらに避けながら私は、肉を削ぎ、血を舐め、まれに「いいコ、いいコ」と頭を撫でたりして手玉にとる。

 するとミウはさらに逆上し、冷静を欠くことによって私の思うつぼにハマってくれる。

 ああ、イイ。

 私は今、私を利用し、私を操った黒幕をこの手で愛玩具(おもちゃ)にしている。

 ざまあみろ、と思う気持ちはない。蔑む思いなど、これっぽっちだって生じない。

 溜飲を下げているわけではないのだ。私は今、全身全霊をもって愛撫している。ミウの殺意(愛)を受け容れている。

 私にとってこれは戦闘であり、未だ狩りの域をでていないが、ミウにとってはもはやこれは殺し合いだ。

 殺さなくては殺される。

 獣に特有のするどい生存本能によってミウは私を排除しようとしている。そこには奸知も野望もなにもない。ただただ本能に忠実に、「番犬」として、葬るべき異物を排除しようとしているだけなのだ。

 ならば私もそれに応えたい。

 人として、狩る者として、獣に挑まなければならぬのだ。

「ミウちゃん、誓うよ。私はきみを殺さない」

 死ぬのはきみの、かってだから。


      (4)

 決着はほとんどついたも同然だった。ミウは泣きじゃくり、私はそんなミウを弄ぶ。

 構図としては、姉から執拗にいじめを受ける妹がそれでもぽかぽかとうでを振りまわし、抵抗をやめないようなものだった。やる分にも、観る分にもこれはたいへんに滑稽である。

 粉塵の晴れた今、視界は明瞭、胸糞わるいことにさぞかしランのやつもご満悦のことだろうと思う。

 私たちが戯れているあいだ、皮肉好きはというと、ずっと自分語りをしていた。声が籠っているところを鑑みると、机やらボードやら何かしらを盾にして身を隠しているのだろう。

 当初こそ耳障りなBGMとして聞き流していた私だが、彼の話が研究成果から自身の来歴に移ったところで、ぴくりと耳介が反応した。ミウの噛みつき攻撃を捌きながら皮肉好きの声に、意識を差し向ける。

      ***

「あれはもう、かれこれ二〇年ほど前になる。横島さんと出会う前のことだ。

 ワタシには娘がいてな。いや、いたというよりも、いるはずだったと言うべきかもしれん。

 ワタシたちの娘は、ついぞ生まれてこなかった。

 ワタシと出会う前に妻のほうが癌に侵されていてな。手術により病巣を除去したが、それでもまたいつ転移し、再発するか分からないと先刻されていたようだ。ワタシがそれを知らされたのは、妻が妊娠してからのことだった。妻の身体には、手術の痕などどこにもなかった。ワタシは知らなかった。最近の医療があれほどまでに傷跡を残さず手術をすることを。ゆびを這わせれば、どこまでもうつくしい柔肌がつづいた。だからかもしれん。ワタシは妻の告白をそれほど深刻には捉えなかった。癌の再発率がそれほど高くなかったことに加え、再発してもまた同じように手術すればいいと考えたからだ。

 だが認識が甘かった。

 妻は再発していた。

 妊娠が発覚してから何度目かの定期健診のときだ。癌が全身に転移していたことを医師から告げられた。手術をしなければ母子ともに助からないだろうと言われた。愕然としたのは一瞬のことで、すぐに医師の文脈からすれば、手術をすれば助かるのだろう、と期待した。だがその期待さえすぐに打ち砕かれた。

 そのころ、妻の容態はすでに一度の手術にさえ耐えられるかも分からない、危険な状態だった。

 だが母体のなかの娘はまだ、人としてのカタチをなしていない。未熟児以下の生命だ。

 妻が癌の摘出手術を受ければ、おそらく赤子はもたないだろうと言われた。たとい赤子の命を優先させたとしても、妻がそれまでもつかどうか……。妻の余命はすでに半年を切っていた。

 逡巡の猶予もゆるされなかった。今スグに手術を決断しなければ、妻はぜったいに助からない。そして手術をすれば娘は生まれてくることなく死ぬことになる。

 ワタシが断腸の思いに打ちひしがれていると、その医師は、『手術の成功を高めるなら人工流産を』とすすめてきた。

 ワタシはそのとき、医師の助言を聞くことをやめた。

 妻と話しあった末にワタシらは、赤子の命を優先させることにした。周囲の反対はすさまじかったが、それでもワタシは妻の意思を尊重した。ワタシ自身、そのときはまだ妻が死ぬことなどありえないと現実から目を逸らしていたのやもしれない。妻はまだ、ワタシのよく知るうつくしい女性のままだった。

 手術をしない、と決断して以降、日に日に妻は萎んでいった。老いていくのとはちがう、あれはまさしく萎んでいったと言うほかにない。

 まるでお腹のなかの娘に、自分の命をそそぎこんでいるかのような壮絶な変化だった。

 つきっきりで看病していたワタシが一日でも逢わない日をつくっていたら、おそらくワタシは変わりゆく妻を同一人物として見做せなかっただろう。

 ワタシは自身に言い聞かせた。末期癌とはこういうものなのだ、と。

 ワタシは否定したかったのだ。日に日にやつれ、萎んでいく妻の変貌を見て、目を背けたい、と思ってしまう自分を――妻を醜いと思ってしまう自分を否定したかったのだと、今になってはそう思える。

 知らぬうちにワタシは、目のまえの現実をすべて、ふつうの光景として扱うように振る舞っていた。

 妻のこれは異常ではないのだと。

 ワタシの妻は、変わらずに妻なのだと。

 だが、妻は花弁が実を結ぶために散ってしまうように、あっけなく死んでしまった。医師の先刻した余命よりもひと月もはやかった。

 放射線治療を受けなかったからだ、とワタシはこれもまた我田引水に結論づけた。胎児への影響を顧慮して妻は放射線治療をはじめとするあらゆる治療行為を拒んだ。これはいわば延命処置を辞したようなものだとワタシは安直に考えていた。

 それでも妻は最後まで、癌治療センターに入院していた。安らかな死を迎えるためにとホスピスに移るよう医師から勧められることもなかったから、ワタシは、医師たちがワタシたち夫婦の意思を汲んでくれているものかとばかり思っていた。

 医師たちを信じたわけではない。

 他人を疑う余裕がそのときのワタシにはなかっただけのことだ。

 妻と娘はそうしてワタシのまえから永久に姿を消した。

 失意の底でワタシは、虚しい日々を過ごした。

      ***

 妻が亡くなって一年ほど経過したころだ。

 ある日、唐突に疑問が生じた。

 妻は真実に癌で死んだのか?

 娘は本当に死ぬさだめに置かれていたのだろうか、とワタシは急に知りたくなった。親愛なる者の死を受け容れられないこれもまた、現実逃避だったのやもしれん。

 医療行為に関しては門外漢だったワタシも、学者のはしくれ。妻の癌が発覚してからというもの、癌については軒並み調べていたが、医療行為そのものについてはまったく手を触れていなくてね。

 妻の看護に時間を割いていたことも大きく、またiPS細胞による医療革命が起きてからというもの、一朝一夕でどうなる分野とも思っていなかった。

 だが、調べてみるにつれ、妻の受けていた医療行為が、どうにも正規のものではなかったことに気がついた。

 ワタシは資料を揃え、担当医に直談判すべく、妻の入院していた病院へ向かった。

 だが、そこで突きつけられた事実にワタシは愕然としたよ。

『そのような医師は、当院にはおりません』

 記録をいくら検索してもらっても担当医は存在しないことになっていた。

 それだけではない。

 ワタシの妻の通院履歴から、カルテまで、ワタシたちが闘病し、感涙し、鬱屈し、絶望し――それでも前向きに生きていたあの日々が――あの日々の軌跡が、データ上からはまるっきり消えていた。

 混乱した頭でワタシは、妻の戸籍データを閲覧した。

 するとどうだ。妻は、事故死として処理されていた。

 ワタシが失意のどん底にあった一年のあいだに、妻からはなぜだか『病死』という来歴が削除されていた。事故死というありもしない死因を上書きされてな。

 ワタシたちを担当した医師までもがその存在を晦ましていたというのだから、あとはもうこう考えるのは必然であるだろう。

 あの医師はワタシたちを利用した。

 利用して、殺し、自らは安全な場所へと姿を晦ました。

 姿を晦まして、いまもなお、のうのうと生きている。

 赦す、赦さないの次元を超えていた。ワタシははじめて使命を感じたよ。

 あの女医を生かしてはおけない。

      ***

 それ以来ワタシはあらゆる手を尽くした。研究途中だった大脳埋蔵型マイクロチップの開発は、自閉症やパーキンソン病、アルツハイマーなどの治療目的から大幅に方針を変更し、人の理性を制御して人間の行動をある程度コントロールできる仕様に開発しなおした。

 斯様な表立って発表できない研究であっても、興味をもってくれる資産家はことのほか多くてな。資産家自ら研究者である場合もすくなくない。そしてワタシは、とある研究グループと手を組み、彼らをパトロン兼助手として扱った。

 彼らは倫理観という非合理的な制約を度外視できるだけの資本と施設を保持していた。

 ワタシは彼らの協力のもと、大脳埋蔵型マイクロチップの開発に尽力した。彼らの要望を叶えつつな。つまり、軍事用を目的とした研究だ。

 妻が亡くなる以前からすでに、大脳埋蔵型マイクロチップの原形はできあがっていた。あとはソフト面でのプログラムを、医療目的から軍事目的へと変えればそれでよかった。完成までに要した期間は、ざっと五年ほどだ。

 研究成果をワタシはさっそく学会へ発表したよ。

 人権を蔑にするような研究だったからな、案の定、学会からは追放され、めでたくワタシもアウトローの仲間入りを果たした。むろん、アウトローの社会に足を踏み入れるだけなら学会からの追放など無用の工程だったが、アウトローどもの跋扈する生簀(いけす)に餌を撒く段取りとしては欠かせなかった。

 学会から追放されることでワタシは、ワタシ自身の存在を、アウトローの世界へ知らしめた。ワタシの研究に着目し、接触を図ってくる者たちもいるだろうと睨んだのだ。それこそ表の社会には流れてこない情報を容易に知り得るやつらがだ。

 そのころワタシが欲していたのは情報でな。

 診療データを抹消し、戸籍データまでも改竄できるほどの人物。

 ワタシの、妻と娘を材料にして実験を行った害悪。

 とどのつまりがあのクソッタレた女医の情報をワタシは欲していた。

 アウトローの社会は狭くて、深い。

 図らずも、ワタシに接触してきたとある男の共同研究をすすめていた相手が、あの女医だった。

 研究内容は、癌細胞をモデルとした細胞活性化による人体増強でな。自然治癒能力の向上を図ることを目的とした研究ではあったが、やり方がいかんせん人道に背きすぎていた。あれはまさに悪魔に身を売った女がやりそうなことだ。

 女医のデータには数えきれないほどの被験者の資料が載っていた。そのなかにワタシは妻の名を発見した。

 律義な女だよ。実験材料と言いながらも、被験者のデータだけは事細かに記してあるんだからな。

 妻のデータにはむろん夫としてのワタシの名もあったが、膨大なデータのなかの、さらに膨大な個人情報の一文になどに、研究一筋のあの女が目を向けることなどあるわけもなく、ワタシは研究グループの一員としてつつがなく順応した。

      ***

 あの女はすでにバケモノを造りだしていた。研究の成果としては認められるものであるにせよ、成功と呼ぶにはあまりにお粗末な出来で、あの女自身、造りだしたバケモノどもの扱いに手を焼いていたようだ。だが、処分するにはおしい試作品でもある。

 そこで呼ばれたのがワタシというわけだ。

 管理下におけないバケモノどもを、ワタシの開発した大脳埋蔵型マイクロチップを用いて制御してほしいという要望でな。だがいかせん相手がバケモノでは、効果があるとも思えなかった。なにせ大脳埋蔵型マイクロチップは、理性を制御することで、人の行動を操る代物だ。

 理性のないバケモノに対して有効に働くとは、とてもではないが思えなかった。

 そこでしばらくワタシは試行錯誤の研究を重ねることになる。

 あの女――横島奈心への復讐を練りながらな」


      (5)

 ところどころ聞き漏らしていた私ではあったが、皮肉好きの語りに「復讐」の二文字と、「横島奈心」の名が登場したところで、意識をぐいと持っていかれた。さながら突発的に発生した竜巻に吸い寄せられるがごとくだ。

「ッ死ね、ばばァ」

 皮肉好きの語りに気を取られすぎたのか、「好機!」とばかりにミウが瓦礫を投げつけてくる。一つではない。散弾銃よろしく、片手でつかめるだけの瓦礫をつかみ、同時に放たれる。

 ミウの手元を離れた瓦礫たちは、じゃりじゃり、バラバラ、と飛礫の壁と化して私に振りかかる。

 多すぎるうえに、範囲が広い。

 避けるのは無理だろうと判断。

 足元のボードを蹴りあげる。浮いたボードに足から突っこみ、飛び蹴りの要領で、ボードごと瓦礫の壁をくぐり抜ける。ひゅんひゅん、と空を裂く無数の礫(つぶて)の音を耳にしながら、私はライオンの輪くぐりを思いだす。サーカスの獣たちもかくやという華やかな曲芸だ。

「逃げんなッ」ミウが呻る。唾を吐き捨てるように、「そんなにあたいに殺されるのがこわいのか」と息巻く。「あ? 変態くそビッチが」

 もはやミウの発する言葉のことごとくは、かわいらしい女児が口にしてよい言葉ではなかった。

「殺したけりゃ殺してみ」私は挑発する。「おねえさん、手加減してあげるから」

 ぶっちん、と聞こえた気がした。血管の切れる音か、堪忍袋の緒の千切れた音か。

「舐めてんじゃねぇよ、手駒のぶんざいで」

「ミウちゃんってば、こわい。睨まないで」

「ザッけんなッ……ころすッ」

 ころす、コロス、殺すコロス殺す。

「テメェは今スグこの手で殺す」

「あららミウちゃんってば、そんなに殺気立ちゃって。フローちゃんが見たら哀しむよ」

「あたいの名を呼ぶんじゃねぇよ。テメェごときがその名、気安く使ってンなよ。つーか、テメェ、なにかってにあのコに色目使ッてンッだ、あのコはあたいだけのモンなンだ、テメェごときが見てンじゃねェよ」

 会話にならないレベルで怒り心頭に発しておられるご様子だ。

「そっか、そっか。ミウちゃんって、フローちゃんのために、いろいろ計画してたんだ」惚けた口調で私は言った。「はあはあ、なるほどなるほど。愛しい愛しいお姉さまのために、ミウちゃんてば、こんなバカバカしくも壮大なスゴロクをしてみたわけだ。愛しい愛しいお姉さまそのものまで使って?」

 なるほどねぇ、とニタニタしていると、

 

「それはちがうな」

 

 皮肉好きの声が耳に届く。

 同時にミウが鼓膜ごと脳髄をつんざくような絶叫を発し、こちらへ突進してくる。

 思いきりゆかを踏み込んでの突撃だ。これまではこちらに軌道を読ませないようにとミウは、初動なしからの飛び込みを繰りかえしていた。だが今回は、フェイントもかけずに、バカ正直に「おまえを殺す」という殺意を、躍動にかえて突っこんでくる。

 捨て身ですらない。

 避けることは容易だった。たとえ速度があがろうとも、軌道が読めていればこちらはほんのちょっぴり横へずれるだけで回避可能だ。速度があがっているだけにミウ自身も、肉体を制御できないのは自明の理である。

 だが私は敢えて真っ向から弾丸よろしく迫るミウを迎え撃つ。勝算はあった。

 ミウの頭部を蹴り飛ばす。全体重を足の裏へ乗せて。体重差はこちらに分がある。私も相応に吹き飛ぶが、ミウの非ではないだろう。

 予想どおり、ミウは自身の攻撃力をモロに返され、反対側の壁まで吹き飛んだ。壁にめりこみ、ぐったりする。

 私は宙返りをうって、ミウからの衝撃を回転数へと変換させる。難なく着地したまではよかったが、

「イタタっ」

 目が回ったうえに足の裏がジンジンする。ミウの石頭を受けとめただけあって、足への負担が大きかった。しばらく身動きをとるのにも手こずりそうだ。

 ミウは壁際に崩れたまま、動かない。死んだのか、気を失っただけなのか、ここからでは判然としない。

 この隙にと思い、私は皮肉好きへ向けて質問をする。どこにいるか分からないので声を張り、

「さっきの『それはちがうな』ってのはどういう意味だ。なにがちがう。コレはミウが仕組んだことなんだろ。ミウがフローを利用し、そして私に横島奈心を殺させた。これはそういう話だろ?」

「だからそれがちがうと言っている」

 散らばった瓦礫を押しのけるようにして皮肉好きが顔を覗かせた。洞窟から這い出てくる熊を思わせる。のっしと立ちあがり、

「これは、ワタシが仕組んだ復讐劇だ。番犬もまた手駒にすぎないのだよ。ワタシのな」

 偉そうに言うでもなく彼はどこまでもつまらなそうに、ふん、と鼻から短く息を漏らした。


      (6)

「先刻、話して聞かせたとおりだ。ワタシの妻と娘は横島さんに殺された。あの女はな、女医を騙って、癌患者や妊婦に近づき、無断で試験体として利用していた。それを病院側は黙認していた。あの病院のパトロンが横島さんだったと知ったのも、ワタシが横島さんの研究グループの一員になってからのことだった。ワタシが加わってからこそ、中絶希望者を対象に被験者を募っていたようだが、それ以前は、手当たり次第に人体実験を繰りかえしていたのだ、あのひとは。それこそ通り魔のようにな」

 皮肉好きはメディア端末を左手に握っており、見下ろすようにディスプレイを眺めている。死んだという妻の写真でも映っているのかもしれない。右手には拳銃が握られている。こちらは私がここへ来たとき、いちど取りあげた拳銃だ。

 視点の定まらない虚ろな表情のまま、皮肉好きは訥々と言葉を紡いでいく。

      ***

「横島さんにも娘がいたという事実を知ったのは、番犬どもに大脳埋蔵型マイクロチップを適用したあとのことだった。そのころは、彼女への効果的な復讐をどうして達成してやろうか、とそのことばかり考えていた。

 そんなとき横島さんがなぜこの研究をはじめたのか、とその動機に関心が湧いた。

 先にも述べたが、横島さんの研究は、テーマだけを取り上げれば社会的に有用な研究でな。わざわざ人体実験などと横暴な真似をせずとも、時間をかければ、正規の段取りでも充分に成果をあげられた。だが横島さんはそれをせずに、人体実験という大罪を犯してまで研究を押し進めた。それはなぜだ?

 横島さんに訊いてもいつもはぐらかされて終わりだった。『好奇心を満たすのに、理由が必要かしら』などと言われてな。

 だがあるときだ。いつものように横島さんの所有するデータベースへハッキングをしかけていた際に、隔離されたファイルを見つけた。本来であればワタシら研究員が干渉できるアクセス領域ではなかったが、そのときワタシは横島さんから施設全体を総括するサーバの管理を任されていた。

 横島さんは医療の分野に関しては天才的だったが、コンピュータに関してはてんで素人、そこらのハッカーのほうがよほど詳しかったと評価できる。その点、ワタシの専門分野は人工知能開発から派生している。そこらのハッカーに教示できるレベルのワタシにとって横島さんのデータを漁ることなど造作もなかった。

 が、扱うデータは膨大だ。

 いくら解錠できるからといって、兆単位の扉をすべて開けて中身を確認するのは、至難のわざだ。

 だが、さいわいなことに横島さんは自ら、機密にしておきたい情報を見つけやすいところへ置いてくれていた。本人は隠したつもりなのだろうが、ワタシにとっては見つけてくれと言われているようなものだった。

 隔離ファイルの中身は、横島奈心という女の人生が、画面が真っ黒にみえるほどの膨大な文章によって克明に綴られていた。幼少期から思春期、そして成人を経て、恋愛し、結婚し、娘を儲け、母となるまでの日々が、砂時計から落ちる砂塵を一粒一粒てのひらで受けとめるかのように、丁寧に並べられていた。

 彼女の日記だった。むかしから几帳面な女だったようだ、毎日欠かさず記されていた。

 日記を読むかぎりでは、横島奈心という女は、現実的であり、かつ女としての幸せが夫と子供たちと健やかに暮らすことだと信じて疑わない、夢見がちな乙女のような性格だったとワタシは見做す次第だ。

 ところがだ。

 ある日を境に日記の様相が一変した。

 夫と娘を乗せた車が事故に巻き込まれ、そして夫は死に、娘が植物状態となった。

 そこからだ。横島奈心という女の人生が、根本から崩れ、歪みだしたのは。

 横島奈心は、死にもできず生きることもできない娘を、目覚めさせるために、自然治癒能力を極限まで高める研究をはじめた。それまで勤めていた製薬会社を辞してな。これが二〇年前のことになる。

 横島さんは、あらゆる手を尽くすことに何の躊躇も抱かなかった。ワタシがこの目で見てきた彼女も、日記に綴られた彼女も、血に飢えた獣がごとく研究の成果達成にのみ己の人生を捧げていた」

      ***

 緩やかな傾斜をダラダラとのぼるような皮肉好きの語りを私は、頭のなかで一言に要約した。

 ――すべては娘のために。

 キザな精神科医ことランの言葉を思いだす。あいつは言っていた。『ヨッチーってさ、いったい何が目的だったのかなって』

 こうも言っていた。『横島奈心。ヨッチーは果たして、この三つのうちのどれなのか、をぼくは推量できないんだよ』

 人がなにかを成そうとする場合、人はその行動のさきに、自らが手に入れるだろう報酬を見出すものだ。ランいわくそれは、現代人においてつぎの三つに還元できるらしい。

 知識、権威、金――の三つだ。

 だが横島奈心はこのどれでもなかった。

 彼女はただ一つ、娘の復活を信じ、求め、そして自らの道を定めた。

 他者の歩む道を踏みにじってでも、己の道を突き進む覚悟を彼女は決めたのだ。

「愛」と似て非なるそれを私は何と呼ぶのか知っている。人を殺す瞬間、私は満腔の想いで殺す相手を愛おしむ。だが、それはけっして「愛」からくる行為ではない。私の人殺しの日々と、横島奈心の行ってきた酷虐の日々は、とてもよく似ている。

 愛することと「愛」は等価ではない。殺すことと生かすことが必ずしも矛盾しないように――横島奈心にとっては、娘を救うことと、他者を犠牲にすることが、等価だった。

 他者の命を犠牲にして自らの幸福を叶えようともがくという一点において、私と横島奈心はおんなじだった。そこにあるのは「狂気」であり、「愛」より卑近で「悪」よりも平凡な、人が人として存在するために必要な要素。それを邪心と言い換えてもいい。

 人は常に、邪心によって生かされている。

 邪心のまえでは殺すも生かすも同一だ。邪心が絡めば、そこに貴賎は寸毫たりとも発生し得ない。

      ***

 皮肉好きは述懐を続ける。彼の眼差しは、過去を顧みるというよりも、すぐ目のまえに広がる光景を眺めているような感じだった。

「横島さんの目的が、娘を救うことにあると知ったとき、灰色だった世界に色が差した。噴火口から立ち昇る黒煙がごとく胸中に渦巻いていたモヤモヤが晴れ、ワタシの、あの女への復讐劇が、あのとき明確な像を結んだ。ワタシは閃いたのだ。横島さんは自分のすべてを捧げた相手によって殺されるべきだ、と。つまりが、彼女の娘に、横島さんを殺させようとワタシは考えた」

 なるほど、なかなかいい考えだ、と私は思う。が、まことに申しわけないことに彼女を殺したのはこの私だ。私は横島奈心の娘ではない。ということは、皮肉好きのその閃きはすでに不発に終わっていることになる。

「おまえの復讐は叶わなかったわけだ」

 ざんねんだったな、と言ってやる。

 私の横槍を受けても皮肉好きは、頑として動じず、口角だけを持ち上げただけの不敵な笑みで応え、「横島奈心の研究は」と続けた。

「横島さんの研究は、ワタシが研究グループの一員に加わった時点ですでに幾つかの成果をあげていた。

 一つは、細胞活性化を促すナノマシーンの開発でな。癌細胞をもとにしたそのナノマシーンは、人類の限界を超えた肉体を顕現することに成功していた。『ナノマシーン融合体』――バケモノどもの誕生だった。アレらは常に若々しく健全な肉体を保持する。そのうえ人類には出力不可能な身体能力をも発揮した。

 ところが『ナノマシーン融合体』は、ナノマシーンとの適合レベルに合わせて成熟度が決定されるため、保持させる肉体の基本形が個体によってまちまちだった。適合値が低ければ幼体のまま成長は止まり、基本形として肉体が固定させる。

 細胞活性化――すなわちナノマシーン適用――の副作用として老化が防がれるというのは僥倖だったが、同時に成長までしなくなるというのは一つの問題だった。

 また、細胞を活性化されたところでナノマシーンそのものが消耗品である以上、いつまでも肉体が健康であるなどと都合のいい話はありえない。定期的にナノマシーンのメンテナンスをしたとしても、『融合体』の寿命はもって一五〇年といったところだった。

 そこで横島さんは、ナノマシーンに細胞活性化以外の、もう一つの性能を付加した。

 これが成果の二つ目――。ナノマシーンによる、遺伝子操作だ」

 ふむふむ。私は呑みこみのはやい生意気な少年のように首肯する。細胞活性化を実現させた横島奈心は、その副産物として不老体を造りあげた。これはどうやらそういう話であるらしい。しかし横島奈心の生みだした不老体は不完全だった。永久に不老なのではなく、人魚の血よろしくナノマシーンとやらが体内に巡りつづけているかぎり、という期限つきであったのだ。

「ナノマシーンによって強化された肉体は、極端な話、筋トレをして筋肉を肥大化させたことと本質的には同じだった」と皮肉好きは説明した。

 これは私にも解る気がした。筋トレを怠れば筋肉は衰えるし、ナノマシーンが壊れれば肉体は元に戻る。防腐剤がきれればどんな肉も腐りはじめるのとおんなじだ。

「その問題を払拭するために横島さんはナノマシーンを改良した。これにはワタシも一枚噛んでいる。強化された肉体が仮初ではなく基本形となるように、遺伝子を操作するよう、ナノマシーンをプログラムした。はやい話が、遺伝子の書き換えだ。これにより強化された肉体が、遺伝子情報として全身に定着する。また、この性能を付加したことにより、『ナノマシーン融合体』の自然治癒力が格段に向上した」

「自然治癒能力が?」

「そうだ。初期型の『融合体』であっても、傷付いた肉体の再生スピードは健常者と比べて倍ちかく速くなってはいたが、それでも主要器官に損傷を受ければ絶命足り得た。一時的に不老体にはなっても、不死身にはならなかったのだ」

 それがナノマシーンの改良により、不死身にちかしい肉体を造ることに成功したのだな、と私は話のさきを酌む。

 視線を皮肉好きから離す。ミウはまだ瓦礫に埋もれたままだ。死んだわけではないだろう、荒い息づかいが聞こえている。皮肉好きとこうして話していられるのも時間の問題だ。

「ナノマシーンの改良後と前とでは傷の修復プロセスがまったくちがった」皮肉好きもまたこちらから視線をはずし、ミウのいるほうを見遣る。わずかに鷹揚だった舌鋒が鋭くなる。「初期型は、ナノマシーンが傷を察知し、傷の具合を判断したうえで細胞分裂の活性化を促すが、改良型では、基本形となる原型がすでに定められているため、如何様な傷であろうと付いたそばから肉体がもとに戻ろうとする。さながら形状合金がごとくだ」

「まさしく不死身だな」

「理論上はそうなるはずだった」

 どうやらそうは問屋が卸さなかったようだ。

「適合値の問題があってな。けっきょく適合値が低ければ、改良の是非に拘わらず、肉体は不老体にも不死体にもならかった」

「せいぜいがバケモノどまりってことか」

 いかにも、とやけに素直な首肯をもらい、私はすこし照れる。皮肉好きはつぶやくように、

「幼い身体のバケモノだ」と告げた。

 その無機質な表情が、私にはやけに哀しげに映った。


      (7)

 話を聞いていて疑問に感じていたことがある。

 横島奈心にとってのすべてと言っても過言ではない娘の存在だ。

 横島奈心への復讐として、その娘の手で彼女を殺してやる、というのは確かに愉快な案ではあるが、そもそもその娘というのがランから仕入れた情報によれば、一一年前にすでに死んでいる。皮肉好きがその復讐案をいつごろ思いついたのかは定かではないが、壊れたナイフで人は殺せない以上、その復讐案は一一年も前に破たんしていることになる。

 私がそのことを指摘すると、

「娘が死んだというのは間違いではないが、ただしくもない」と曖昧に反駁された。

「どういう意味だ」

「言ったとおりの意味だ。横島さんの研究はナノマシーンという形で不完全にしろ、たしかな成果をあげていた」

「バケモノの発明だろ」

 冷やかすも、

「いかにもバケモノの発明だ」

 もっともらしく首肯される。

「横島さんの娘は人としては死んだが、バケモノとしては生きている。横島さんの当初の目的は、的を大きく外した結果ではあるがいちおうの達成をみせていたのだ」

「つまりなんだ。娘は目覚めたってことか」

「いわずもがな。あんたも知っている人物だ」

「んん?」私も知っている人物? 誰だ。

 横島奈心の娘は二一年前の事故で昏睡状態になり目覚めぬまま、一一年前に死んだ。享年十五歳だったというのはランによる情報だ。だが娘は、そのとき骨にならずに、母親の開発したナノマシーンを注入され、バケモノとして目覚めていた。皮肉好きの話からすれば、そういうことになる。

 十五歳といえばちょうどフローくらいの年だ。

 と、ここまで考えて、「えぇえ!」と思わず声をあげる。さもフェルマーの定理を証明し終えた学者の心境で私は、「わかった」と手を挙げる。横島奈心の娘は、

「フローちゃんだ」

「ちがう。番犬だ」

 おっと。

 予想外の答えに、

「ふへへ」

 しぜん、へんな笑みが漏れた。

      ***

 皮肉好きの話をまとめればこうだ。

 横島奈心の娘は五歳のときに事故に遭い、それ以来ずっと昏睡状態にあった。肉体の形状をそのままに、意識もなく、成長もせず、ただただずっと十年という期間を変化なく乗り越えていた。さながら琥珀に閉じ込められた太古の羽虫みたいに。

 そして一一年前、横島奈心は、ナノマシーンを駆使し、琥珀の殻を打ち破る肉体を娘に与えた。しかし琥珀から出てきたのは娘ではなく、娘の姿をしたバケモノだった。そのとき娘の実年齢は十五だったが、経過した時間は肉体に蓄積されておらず、容姿は事故当時のまま、五歳児のものだった。

 ナノマシーンの使用により目覚めたはずの娘には自我がなかった。動くものには手当たり次第に反応し、その圧倒的な膂力で捻り潰し、或いは人類を超越した顎のちからで人体をいとも容易く食いちぎる。

 ねんど遊びにふける幼子のように悠々と他者の身体を弄ぶ娘の姿は、横島奈心の描いていた娘の姿とあまりにかけ離れすぎていた。

 それでも横島奈心は諦めなかった。こんどこそ我が娘を取り戻そうと、引きつづき研究を継続させた。バケモノとなった娘をひとまず抑制し、飼いならしがら。その際に、娘の抑制のため、白羽の矢を立てられたのが皮肉好きだったというわけだ。

      ***

「横島さんも本望だろう。自分の娘の画策で死ねたのだからな」

 無事、復讐を終えたかのような皮肉好きの言葉だったが、相も変わらず抑揚がなく、感慨のひとつも感じられない。

「ミウは知っているのか。あの女が母親だったってこと」

「知っている。だが知ったところで番犬は『番犬』だ。守るべき〝家〟以外に興味はない。そして番犬にとって〝家〟とはフローにほかならない」

「フローちゃんが〝家〟? なんだそれ」

「あのコは〝家〟であり〝檻〟だ。バケモノどもは理性を持たない。ゆえに大脳埋蔵型マイクロチップを適用してもほとんど効果がない。そのためにワタシは、大脳埋蔵型マイクロチップの性能を限定し、理性ではなく『バケモノとしての本能』のほうを抑制することだけに特化させた。つまり、理性の付加だ。だがそれはある意味でバケモノに知性を与えることに等しい。知性は多様性を生み、多様性は混沌を生む。それによりバケモノどもを統率することがむずかしくなった」

 そこで造られたのがフローというわけか。

 皮肉好きは、子どもたちの頭にマイクロチップを埋めこむことで、バケモノたる子どもたちへ理性を与えた。与えた理性をもとにこんどは、フローに柔順であれ、という命令を組みこみ、「バケモノとしての本能」を抑圧し、「飼い犬としての本能」へ転換させた。

 皮肉好きは、「混沌は限定により秩序を生む」と言い添えた。

「バケモノどもには、フローに対して無条件に従順である性質をプログラムした。いっぽうでフローには、ワタシらに歯向かえなくする限定を組み込んだ。そうすることでバケモノどもは、フローという管理下に置かれ、同時にワタシらに歯向かえなくなる。フローはバケモノどもの『親』として、『子どもら』を躾ける。これによりワタシらはバケモノどもの管理に手を焼くことがなくなった」

「そんなことしなくても、自分らに対して絶対服従ってプログラムすればよかっただろ」そうすればフローを介さないぶん、より自在に管理できる。

「解っていないようだな。ワタシらの研究グループは共同体ではあったが、一心同体ではないのだよ。信頼している、と表向きは装っていたが、真実に信頼しあっていたわけではない。誰か一人に優位性を独占させるような真似は極力さけるべきだと誰しもが考えていた」

 ラジコン兵士のことを思いだす。主が複数名いると面倒なことになるのは目に見えている。問題が芽生える種だと判っているならば、そんな種は撒かないでおくのが正解だ。そこで皮肉好きたちは、バケモノたる子どもたちを制御する権限を、自分たち以外に与えた。それが子どもたちのなかの一人、フローだったというわけだ。

「ならフロー以外は子どもたちを動かせないってことか」

「ちがうな。あのコたちはフロー以外を必要としていない。ゆえに、フローのためなら何でもする」

「じゃあ、フローが子どもたちを操ることはないわけだ」

「ああ、ない。だがフローのためなら誰の指示を仰ぐことなくあのコらは暴走する。そうならぬようにとワタシらはけっかとして、フローにことごとく甘く接する破目になったのだがな。いま考えればそれも横島さんの策だったのだろう」

 横島の策? そこのところはよく解らないが、つまりこういうことか。

 子ガモが親ガモを求め彷徨うように、子どもたちもまた、消えたフローを捜しにでた。誰の命令でもなく、虫が光に集まるように。

 ミウはきっと子どもたちにこう告げたのだ。「フローは『つよき子どもの家』のそとにいるよ」と。あとは子どもたちが勝手に動く。ミウはおそらく、その混乱に紛れて、皮肉好きを殺そうと考えた。ところがいざそとへ出ようとしたところでランのやつがやってきて、皮肉好きを殺すことなく、フローたちを救出してしまった。ミウにとってもランの行動は想定外なものだったにちがいない。だがそこでミウは計画を変更させずに、皮肉好きを葬るべく、フローたちのもとを離れ、このアジトへとやってきた。

「ほかのメンバーを殺すこともおまえの計画だったのか」

「まさか。まったくの予想外だ」

「でもおまえに操られてんだろ」

 ミウはおまえが操っているんだろ、と私は瓦礫に埋もれたミウをゆび差す。

「あのコは気づいていたよ。ワタシの敷いたレールに気づいておきながら敢えて乗っていた。ワタシはあのコを利用したが、あのコもあのコでワタシに利用されることでワタシを利用し返していたと言えなくもない」

 ふたりの利害は一致していた。横島奈心を殺すこと。ただそれだけを目的に、片や相手を駒として、片や相手を騎手として、信頼なき共同体の契りを暗黙のもとに結んでいた。

「おまえの動機は聞いたが、ミウはなんだってこんなことを」

「わからんか」

「フローのためか?」ランは、ミウの動機をそのように推測していた。

「あのコのためというなら、バケモノどもはあまねくあのコのために生きる。番犬も例外ではないというだけの話だ」

 自覚しようとしなかろうと、子どもたちはフローのために行動する。フローにとって横島奈心一味が邪魔な存在であるのだと認識したなら、子どもたちは誰に指示されるともなく、邪魔者を排除しようと動く。たとえそれが、直接手を下せない相手だとしても。

 横島一味に牙を剥けずとも、子どもたちは彼女たちに敵意を剥きだしにする。

「だからミウは、おまえを殺すことに拘ってんのか」自分の背中から伸びる糸を断ち切りたいがためにミウは、皮肉好きを葬りたいのだ。

「だろうな。目的を達成したいま、もはや無用な存在なのだ」

 お互いにな、と言った皮肉好きの言葉にはどうにも危うい刃がこっそり忍ばされているようで、目ざとくも私は胸の奥がもぞもぞと蠢くのを感じるのだった。


      (8)

 深海からポコポコと浮かびあがってくる気泡然とした皮肉好きの語りはまだ、つづいている。

 私が彼の話に聞き入っているあいだに、ミウは回復したようだ。瓦礫に埋もれていたところから、這いでてくる。怒りが冷めたのか、落ち着いた佇まいだ。失った腕の部位をもういっぽうの手で今さらのようにさすり、舌打ちをする。

「やってくれるじゃん、おねぇさん」ほかにも傷がないか、全身をくまなく確認している。「あたいをこんなにしてくれちゃって」

「ミウちゃん、聞いたよ。きみも利用されてたんだって? 私とおんなじだ」にっこり微笑んでみせる。「仲良くしようよ」

「いっしょにされたら困るよ、おねぇさん。あたいはさ、利用されてやったんだよ。間抜けづら下げて利用されただけのおねぇさんといっしょにしないで、おねがいだから」

 かわいらしい顔して言ってくれる。かわいい顔には棘がある。思いついた諺を頭のなかで転がしながら私は、

「邪魔だ、さがってろ」

 皮肉好きへ指示する。彼はおとなしく壁際に移動し、壊れたロッカーの扉や瓦礫を盾代わりにして身を隠した。

 さて。

「ミウちゃんさ。一つだけ教えてくれないかな」返事を待たずに私は問いを投げかける。「どうしてフローちゃんに拘るの。そんなにまでしてさ」

 皮肉好きの話からすれば、「つよき子どもの家」の子どもたちは無条件にフローを慕い、彼女に付き従うという。それは人間が本能的に腹を減らすことと並べられるほどに強制的な枷であり、つまるところ本能だ。

 だが、腹を満たすだけなら手の込んだ料理など必要ない。そこへいくとミウのしていることは、どうにも腹を満たすだけのものではなく、料理を楽しんでいるかのような、「無駄さ」が感じられる。

 私の質問の意図が解らないのか、ミウは柳眉を曇らせたまま仏頂面を浮かべている。

「たとえばさ、ミウちゃん。きみはフローちゃんのためによかれと思って、こんなことをしているとして、でもね。この計画が成功したとしてフローちゃんはそれで、よろこぶのかな」

 ミウのしているこれが果たしてフローのしあわせに結びつくのか。私にはどうにも想像つかない。

 フローは私を利用し、そのフローをミウが操り、そして黒幕だったはずのミウはこの男の手によって行動を決定されていた。

 だが、ミウは皮肉好きの本懐を見抜いていた。そのうえで、わざわざ黒幕として立ちまわり、ついには元凶たる皮肉好きをもその毒牙にかけようとしている。

 その先に待っているのはなんであるのだろう。

 奇しくも先刻、私は似た内容を考えていた。

 人がなにかを成そうとする場合、人はその行動のさきに、自分が手に入れるだろう報酬を見出すものだ。

 フローは不自由という名の自由を。

 皮肉好きは復讐という名の自己満足を。

 そして私と横島奈心は狂気という名の邪心を胸に抱いていた。 

 ではこのコはどうなのだろう。人として生まれ、バケモノとして生まれ変わり、番犬として躾けられ、現在は狂犬として振る舞っているこの「ミウ」という娘は、いったい何を望み、なにを見据えているのだろうか。私の興味はそこに収斂し、それさえ知れればあとはもう満足だ、と思えた。


      (9)

 ミウは皮肉好きの復讐劇を見抜いていた。だが、どこまで彼の本懐に気づいていただろうか。黙したままのミウへ私は問を重ねる。

「そもそも知っているのかな、ミウちゃんは? あいつの復讐がだれのためのものなのか」後方へ親指を差し向け、皮肉好きを示し、「だれを殺そうとしていて、あいつがミウちゃんたちを利用していたのか」

「知ってるさ。もちろん知ってる。あたいが誰の娘で、アダさんが誰の父親なのかもぜんぶあたいは知ってるよ」

「んっ?」

 皮肉好きが誰の父親なのか、とはまた意味深長な言葉が返ってきたぞ、と身構える。

「ほらね。おねぇさんは知らないんだ。じぶんが利用されるだけの駒だって気づいていながら、自覚はしていない。どうせ今だって無自覚なままなんでしょ。おねぇさんがまだ駒のままで、アダさんのてのひらのうえであたいとダンスしてるってことに気づきもしないで。愚かだよ。ホント愚かで、惨めだね」

 まてまて、と私は額に手を添える。「あいつの娘は死んだんじゃなかったのか」

「生まれてこなかったものを死んだと呼べるのなら、もちろん死んだよ。人としてはだけど」

 バケモノとしては生まれてきたわけだ。

「さっきの話、聞いたでしょ?」

「さっきの話?」皮肉好きから聞いた話だと判るのに数秒かかった。

「ねえ、ふしぎに思わなかった? どうしてあの女――横島奈心が、たいせつな愛娘の身体に――この肉体に――未完成のナノマシーンを注入したか。おかしいよね。失敗するかもって代物を使うだなんて」

 言われてみればそうだ。「どうしてだ?」横島奈心はなぜ、未完成の『人魚の血』を使用した。

「完成したと思ったのさ。あの女はね、自分の研究が実を結んだのだと勘違いした。どうして勘違いしたのかってふしぎに思うかもだけど、事実、成功してたんだから、しかたがない。ナノマシーンを注入されたとある赤子が、不老体として誕生した。完全な不老体さ。ナノマシーンの副作用であるはずの理性の欠如もなく、順調に成長もし、やがて第二次性徴期を迎えた肉体が、基本形として遺伝子に固定された」

「だれの話だ?」

「あたいの話さ」

 あたいの守るべきひとの話だよ、とミウは言いなおした。

「あのコはね、あたいたちのお守をするための〝家〟として調教された。ほかの子どもたちと同様に、頭にマイクロチップを埋めこまれてね。でも、あのコだけは特別だった。バケモノとしてのレッテルを貼られながら、あたいと同等のレヴェルで横島奈心、あの女に特別扱いされていた。なぜだか解る?」

 わからない。

「あの女はね、横島奈心は、償いをしようとしていたんだ。自分のわがままを叶えるために多くの犠牲を重ねてきたんだもの。いつかそんな自分のまえに復讐を誓った者が現れるかもしれない。そのとき、自分はその者に黙って復讐されてやろう、なんてさ。あの女は真剣に考えていたみたいでさ」

 バカだよね、と口にしたミウの顔には、今にも消えてしまいそうな儚い微笑が浮かんでいた。

「あの女はさ。横島奈心は、ゆいいつの成功例であるあのコの父親が、期せずして自らのまえに現れたとき、思ったんだろうね。きっとこれはさだめだなのだと。自分は復讐される運命なのだと。願いを叶えるための、これは対価なのだと、あの女はそう思って、あの男に復讐されることを望んだ。男の、娘であるあのコを特別扱いしながらね」

 ミウの口にした言葉の意味を私は理解することができた。

「フローちゃんが、あいつの娘だってか」

 皮肉好きの娘がフローだった。横島奈心がそれをどこで見抜いたのかは詳らかではないが、皮肉好きが復讐を誓って近づいてきたことを知りながらも横島奈心は、彼を研究グループの一員としてそばに置きつづけた。復讐されることを望んで。彼の娘であるフローを犠牲にさせずに済むように配慮しながら。

「あのコはあいつの娘じゃないよ。だってあいつの娘は生まれてこなかったんだから」本人もそう言っていたでしょ、と嘯いたミウの口調はどこかやさぐれた少女のように険を含んで聞こえた。「あたいはぜんぶ知ってる。あの女の腹蔵もそいつの計画も」言ってミウは私の背後を射抜くように目を細める。視線のさきには身を隠した皮肉好きがいるはずだ。「すべてを知ったうえであたいは、利用されたし、利用した。ぜんぶあたいのためだよ。あたいがあのコとしあわせになるためには、こいつら全員邪魔だった」

「あのコって、フローちゃんのことか」

「ほかに誰がいるってのさ」シンデレラに苛立ついじわるな義母のように、ミウは声を荒らげた。「あたいにはあのコしかいない。あのコしかいらない。ほかは全員死ねばいい。でも、それだとあのコはよろこばない。だってあのコはやさしい娘だから。だからあたいはほかの子どもたちと、伏見だけは殺さずにおいてやろうって。でも、あたいにとっては伏見だって邪魔な存在さ。邪魔だけど、でも、あいつだけはあのコのそばにいてもらわなきゃいけない。そうじゃないとあのコはさ。あのコは、あのコじゃなくなっちゃうから」

「まあ、そうな」フローが伏見にべた惚れなのは部外者の私でも判るくらいだ。ミウがそれに気づかないはずもない。「要するに、フローのためなんだろ」

 ランの推測は当たっていた。ミウはフローのために皮肉好きに利用され、黒幕として振る舞った。

 皮肉好きの手のひらで踊りつつ、フローが伏見と結ばれるように、邪魔者を排除した。

 言葉では自分のためだと言い張るミウだが、自分の選んだ道のさきに広がる未来では、けっして自分が満足し得ないことを彼女はきちんと自覚している。それでもその道を歩むことがもっとも納得いく未来であることも彼女は解っているのだ。

 満足はしないが、納得はできる。

 愛する者のしあわせが、自分にとっての最大のしあわせであるのだと信じこめる乙女のように、ミウのそれはけなげでうつくしく、愚かで、それゆえに愛おしい。

「わかったよ。わかった」

 私を利用したことは不問にしよう。

 だって私は、こんなにもきみが、愛おしい。


      (10)

 よくもまあ、実の母親を殺せたものだね。

 かんたんに殺せる事実を知りながら、私は軽口を叩く。

「殺したのはあんたで、あたいじゃない」

 ミウに揚げ足をとられる。ミウの佇まいからは殺気ひとつ感じられず、寸毫の隙もない。いよいよ本気で私の息の根を止めようとしているのだと窺える。これで最後なのだな、と私も臍を固めた。

「そもそもあの女は」ミウは胸に拳を叩きつけ、「この肉体のために人生を捧げたんだ」と吠えた。「だったらあたいのために死んでもらうのに、なんら呵責を覚える筋合いはないんだよ、あたいにはさ」

 たしかにな、と頷こうとしたところで、私は息を呑む。

 ミウの背後に皮肉好きが立っていたからだ。

 なぜおまえがそこに? しかもこのタイミングで。

 純粋な殺し合いの火ぶたが落とされようとしているこの現状、ミウの意識が初めて私だけにそそがれている。その隙を背後から衝くような出現ぶりだ。皮肉好きは私の背後で、瓦礫に塗れて身を隠していたはずだ。

 いつの間に移動したのだ、と戸惑う。

 隠し扉でもあったのか。いやちがう。皮肉好きは、壁にあいた穴をとおり、隣の部屋をまたいでミウの背後にぬけたのだ。おとなしく身を隠していたと思ったら、こそこそとミウの崩した壁をさらに掘り下げ、貫通させていたようだ。油断も隙もあったものではない。

 皮肉好きは片手を、地面と水平になるまで持ち上げた。その手には拳銃が握られている。いちど私が奪いとり、返した、あの拳銃だ。

 引き金を引いたのが見えた。

 ミウに残された腕が弾け飛ぶ。豆腐にデコピンが放たれたかのような、破裂具合だ。

 発砲の反響音が室内の空気を波打たせ、私の身体をもビリビリと揺るがせる。このタイヤのパンクしたような音には聞き覚えがある。

 一発目の反響音が鳴りやむ前に、皮肉好きはつづけざまに、二発撃った。

 こんどはミウの両足が木端微塵に吹き飛んだ。

 ミウへ石つぶてを投げたときの記憶が蘇る。

 私がミウの腕をもいだのではなかったのだ。

 腕の一本目からして、こいつがミウに攻撃していた。

 ミウを弱らせるために。或いは、逆上したミウに、私を殺させるために。


      (11)

「なにしてんだ、おまえ」

 私のつぶやきは、私自身の耳鳴りで掻き消されるみたいに、半径三メートルで墜落する。ほどなくして、ミウの獣のような呻き声が耳に届くようになった。耳鳴りも止んでいる。

 皮肉好きは姿勢正しく棒立ちしている。拳銃を構えたままだ。銃口はミウではなくこちらを向いている。

「なんのつもりだ」視界は明瞭で、私たちを遮るものは何もない。

「ゲームは終わったのだ。駒は駒として、盤上から退場すべきだろう」

「プレイヤきどりはいいが、おまえもしょせんは駒にすぎないんだぞ」

「それもいい。ワタシ一人が残ったところで何も生まん」

「フローはどうするつもりだ。おまえの娘だろ」

「どうするつもりもない。あのコはあのコだ、かってにすればいい」

「駒でもないってか」人のことは言えないが、どいつもこいつもフローに甘い。

「ワタシにとっての駒は、番犬とあの女だけだ。片方が死に、片方が残った。ゲームは終わった。いまはもう後片付けの時間だ」

「なるほどな。駒が一つだけ残ったところで、『なにも生まん』か?」

「あんたが始末してくれれば話ははやかったのだがな。どうもあんたは、ワタシらの思い描いていような殺人鬼ではないらしい」

「私は私を殺人鬼だと思ったことは一度もないんだけどな」私は人殺しであるし、殺人狂でもあるのだが、じぶんを鬼だと思ったことはいちどもない。これからだってないだろう。「そう言えばさ」と話題を変える。食後にとっておいたデザートを翌朝になって思いだしたような調子で、「あの約束はどうなるんだ」と訊いた。「不老不死をみせてくれるって、あの約束は」

「不老不死など存在しない。これまでも、これからも。それは変わらん」

「なら賭けは私の勝ちでいいんだな」

「ああ。ワタシの負けでいい」

「そっか」しょうじきに言って、「ざんねんだ」

 発砲音が室内に響きわたる。皮肉好きが引き金を引く前に私は弾道を読み、かわす。狙撃手との距離がひらいているほど、僅かな動きで弾を避けることが可能だ。二発目を発砲させる前に、すかさず距離を詰め、皮肉好きの懐へともぐりこむ。

 親友を思いきり抱きしめてあげるみたいに私は満腔の愛を籠めて、皮肉好きの心臓を、ナイフで貫く。そのまま押し倒す。うまい具合にろっ骨の隙間に入ったようだ。彼の胸に顔を埋めるようにしながら私は愛を擦りこむみたいに、ぐりぐりと丹念に心臓を抉る。

 皮肉好きはまるで、それでいい、と言いたげに私の頭に手をおいた。或いは押しのけようともがいているだけかもしれないが、夢はいいように見るのが私の主義だ。乱雑に頭を撫でられた私は、そのまま皮肉好きが息絶えるまで、彼の身体に頬を押しつけ、身を委ねる。

 ミウがなにごとかを喚いている。どうやら私がついに皮肉好きを殺したことに気づき、笑っているようだ。

 甲高い笑い声が、静寂を埋める。短く連発するスタッカートのきいたミウの笑声が、まるでウェディングマーチのように聞こえ、私はしばしうっとりする。


      (12)

 どれほどそうしていただろう。ぬくもりが蒸散し、はやくも冷たくなりつつある人間だったモノから身体を離す。

 ゆっくりとナイフを引き抜く。

 血の通わないソレからは血が噴きだすこともない。私は小奇麗なまま立ち上がり、人間ではなくなったソレを見下ろす。こうなってしまうと足元のコレが、愛だとか殺意だとか、何かしらの感情をそそぐような対象ではなくなってしまった現実に、虚しさを覚える。真冬の露天風呂に浸かり、のぼせる一歩手前まで温まってから、立ちあがり、身体から急速に熱が奪われていくあの感覚と、どこか似ている。

 ミウは未だ、弱々しくではあるが笑い声をあげている。呼吸が乱れ、咳を挟みつつで、苦しそうだ。

 見下ろしながら、

「だいじょうぶか」と声をかける。「これくらいで死ぬなよ」

 両手両足を失ったのだから、瀕死の状態にちがいない。ミウたちの自然治癒能力がどれほど常軌を逸しているのかは判然としないが、それでもこれが楽観できる負傷ではないことくらい、私でも解る。

「誰が死ぬかよ」ミウは途切れ途切れに、「あたいは死なない」と唸った。

「不死身じゃないのに?」

「不死身じゃなくたって」

 ここまで言ってからミウは言葉をきり、それから、

「あたいはバケモノだよ。これくらいで死ぬもんか」

 死ぬわけがない、と瞳に熱く燃えさかる光を、煌々と宿した。ミウの目じりからは、たぷんと溢れるみたいに重そうな雫が垂れた。焼け石に触れたかのように、またたくまに蒸散する。つよがりではないのだと知れた。

「なんだ。死なないのか」ちぇ、と私はわざとらしく舌を打つ。

 ミウは死なないのだろう。彼女自身に死ぬ気がないのだから。

 根拠のない推測だが、私には確信できた。

 ミウは、これくらいでは死なない。

 四肢を失ったミウの身体は、忍者が代わり身に使うような丸太みたいで、痛ましい半面、愛嬌があった。こんなぬいぐるみなら一体くらい部屋に置いておきたいものだ。切断面の、出血はすでに止まりはじめている。

 私はミウを抱き抱えた。ミウは歯を剥きだしにしてガムシャラに抵抗したが、無駄であると観念したのかすぐに屈辱を噛みしめるように下唇を噛み、おとなしく私に抱きかかえられてくれた。

「だいじょうぶ。ぜんぶ終わった。ミウちゃんはもうなにもしなくていいんだ」

 返事はない。

「フローちゃんだって待ってる」フローの名をだすと、

「あのコが……」

 ミウの反応が変わった。身をちぢませて殻に閉じこもっていたかたつむりが、にわかに顔を覗かせたような変化がある。

「そうさ」そもそも、と私は教えてあげる。「私はだって、ミウちゃんを連れ戻してほしいって頼まれたんだから。フローちゃんからね」

 ミウはふたたび下唇を噛み、口を閉ざした。それはさきほどまでの頑なな拒絶を示す仕草ではなく、むしろ照れ隠しにも似たかわいらしいもので、私は堪らずミウの首筋に唇を押しつけた。血のにおいがぷぅん、と鼻の奥を突く。つづけて鼻孔のいりぐちを肌に密着させるように吸いこむと、幼児に特有のあの、あまぁいにおいが、私の脳内にふんわりとひろがった。

 突然の口づけにいっしゅん身体を硬直させたミウだったが、私から殺気が消えたのを察したのか、とくに激しく抵抗するでもなく、顔を背けるようにして申しわけ程度の拒絶を示した。あとはおとなしくじっとしていた。考えてもみればそれもそのはずで、文字どおりミウは、手も足もだせない。いまさら抵抗などできるはずもないのだ。

 すっかりおとなしくなった女児のにおいを私は鼻の奥が、つん、とするまで吸いこみ、味わった。

 へんたい。

 ミウにぼそりとつぶやかれた気もするが意に介さず。

 思う存分に満喫する。

「そいではそろそろ、いきますか」

 私はミウに見せつけるみたいに微笑んで、それからミウの首筋にかぶりつき、気管ごと動脈を噛みちぎる。

 血が噴きだし、私はその鮮血を顔いっぱいに浴びた。さらに、ジャブジャブと血の湧きでてくる傷口に顔を寄せて、口を開き、ミウの体液で口内を満たしていく。

 ああ、まずい。

 いつも思うことだが、人間というのはどの部位もおいしくできていない。調理すれば或いは美味なのかもしれないが、生で食すには適さないことは断言する。

 傷口から顔を離して、ミウの顔を覗きこんでみる。目の焦点が定まっていない。出血による酸欠で、意識が朦朧としているのだろう。

 何が起きたのかを理解した瞬間に、ミウの意識は急激にとおざかったはずだ。

 足元に広がる血だまりのうえに、ポツポツと雫が落ちる。ミウの股間から滴りはじめたこれもまた体液だ。不愉快ではない。むしろなぜだかうれしいじぶんがいる。誰も知らない素のミウを見ている気分になる。血液よりもあたたかいことに感動さえ覚えた。

「ああ、どうしよ。もうがまんできない」

 内側から這い上がってくるせつなさに堪えかねて私は、半分に切ったスイカを貪るように、傷口から覗くミウのしろい頸椎に歯を押しあて、固い骨をかみ砕いた。

 ぐわん、とミウの頭部がぶらさがる。剣玉みたいだ。頭部と胴体部が皮一枚でつながっている。

 なんだか据わりがわるいので、その皮も食いちぎり、かんぜんにミウの頭と体を切りはなす。

 刃物を使わずに馘首したのは初めてで、ふだん以上に高揚する。

 落ちた首を拾いあげる。

 生物としての気配をすっかり失ったミウの、その唇に私は舌をねじいれ、ねっとり濃い口づけをした。

 ねえ、ミウちゃん。

 忘れてもらっては困るよ。

 私は殺人狂で、人殺しが生きがいなのだ。

 なぜだか世のなかには、こんな基本的な注意事項をコロッと忘れてしまう人間が、少なくない。




   エピローグ『13』



 診療所に戻ると、ランが不貞腐れていた。理由を尋ねると、監視カメラの映像が途中から切れてしまって、観戦できなかったとのことだ。おおかたミウが暴れまわったので、カメラのことごとくが破壊されたのだろう。いい気味だ。

 フローたちは留守にしているらしく、今のうちに、アジトでの私の仕事ぶりをおおまかにランへ報告した。

「そっかあ。番犬ちゃんも、おっちゃんも、死んじゃったかあ」

「ああ。殺せるもんなら殺してみろ、と言ったおまえがわるい」

「助言のつもりだったんだけれどね。殺す気でいったほうがいいよ、って。でもまあ、これでいち段落ってことだね」

「まあな」

「で、子どもたちはどうしたの?」

「ん?」

「まさか、ほったらかしてきたってことはないよね。ぼくの作戦の意味、ちゃんと解ってた? あそこで脱走した子どもたちを待ちかまえて一網打尽にするって計画だったじゃない」

「いやでも、待てども待てども来なくてだな」

「それで、戻って来ちゃったわけ?」

「なんだよ、わるいかよ」

「かぁ。物分かりのわるい部下を持つと、これだからイヤなんだ」

「だれが部下だ、だれが」

「そもそも、なんだってあんな無茶をしたのさ。お猿さんを手放すなんて、うっちゃんてば、バッカじゃないの」

 途中までは観戦できていたようだ。だが、バカ呼ばわりされる謂われはない。

「バカって言うな。仕事は十全に熟したぞ。ガキどものことだって、今から片してくりゃ文句ないだろ。それにな、私だって、ちゃんと考えがあったんだ」

 考えがあって、おまえさんからの差し入れを破壊したんだ、とちょっとの失敗をネチネチ責める上司を指弾する。

「考えってなにさ。聞いてあげてもいいけれど、あんまり頭のわるいこと言ったら、ぼくってば、お腹かかえて嗤っちゃうからね」

「私はだな、ただ……」ランの威勢のいい発破に、柄にもなく鼻白んでしまう。「ミウから話を聞きだすためには、対等にならなきゃならないと思ったから、それでだな……」

「あ、そう言えば、そうだ」ランは思いだしたように、急に話題を逸らした。「ねえ、どうだった? ぼくちゃんの推理、当たってた?」

「え、ああ。おまえの推理な」

 コイツから聞かされていた推論は、当たらずとも遠からずといった感じで、一言で言い表すには微妙なところだった。「どっから話したもんかなあ」

 まずは皮肉好きから聞いた話をしてやることにした。

   ***

 フローは皮肉好きの娘だった。皮肉好きは、娘をバケモノにされた復讐を果たすために、ミウに横島奈心を殺させる算段を立てた。いっぽうで皮肉好きの駒として駆りたてられたミウは、端から復讐劇に利用されていると知っていたが、敢えてその策略に乗り、自身を利用した皮肉好きを利用し返すことで、フローのしあわせを叶えようとした。

 ここからは私の憶測だが、それらすべてを踏まえて、皮肉好きの詭計だったのだろうと思う。すべては、皮肉好きのてのひらで行われ、彼が死ぬることで、一連の茶番劇に幕が下ろされたのだ。

 なんだか話してみると、ゴチャゴチャしており、頭がこんがらがってくる。

 ひと通り、説明を終えると、

「それは妙だね」

 じっと耳を傾けていたランが、唸った。

「妙? なにがだ」私の天才的に整えられた説明にケチをつける気か、と危うくナイフで斬りかかりそうになる。私のうちなる葛藤をよそに、ランは、

「だって、ヨッチーの娘はすでに死んでるんだよ」

 オチャラケたことを抜かした。

「アホ言ってんなよ」

 横島奈心の娘が夭逝したという情報はたしかに、数日前にランの口から聞いている。だが、

「それがな、生きてたんだと」

 おどろくなよ、と念を押してから、

「なんと、あのミウがその娘だ」

 大仰な反応を期待したが、

「いやいや、それはないね」あっさり否定される。「だってうっちゃんの言う、皮肉好き――つまりが阿田鬱蔵の娘こそ、あの番犬ちゃんなんだからさ」

「はぁ?」

「えっとね。ちょっと待ってよ」ランはおもむろにメディア端末を操作した。「ほらあった。ヨッチーんところのデータベース漁ってたら、研究資料とか残ってて。暇だったから読んでたんだけれど、これこれ」

 データを見せられる。日記のようだ。横島奈心のものだろう。淡々とした文章が、箇条書きで記されている。画面が真っ黒になっているわけではなく、皮肉好きが読んだという日記とはまたちがうものかもしれない。

「ね? これによれば、ヨッチーの娘は二〇年前に死んでるんだよ。正規の戸籍データと一致する。で、こっち見て。ほらね」

 番犬ことあのミウこそが、皮肉好きの娘である旨が記されていた。つまりどういうことだ。皮肉好きの娘はフローではなく、ミウだった。皮肉好きは、自分の娘を利用して、さらに私に殺されるように仕向けたことになる。

「おかしくないか。なんだって、そんなことを?」

「うーん。ここからは完全にぼくの推論になるけれど。どうする? 聞くかい?」

 いいから話せ、と睨む。

 ランは、快活に一つ頷き、

「横島奈心、彼女の娘がすでに死亡しており、なおかつ番犬ちゃんが阿田鬱蔵の娘であったと仮定して話すよ」と前置きした。「横島奈心が、細胞活性化――肉体治癒の研究をしはじめた契機が、娘の昏睡状態化にあったことは想像に難くないよね。彼女はおそらく娘を救うために、あらゆる策を講じることを誓ったんだ。けれど、研究が成果をあげる前に娘は死んでしまった。数々の人体実験が無駄に終わった瞬間だね。それが現在から一〇年前だ」

「皮肉好きたちが研究にかかわったのはそのあとってことか」

「そういうことになるね。そしてここが話の肝になる。おそらく横島奈心は最初から知っていたんじゃないかな。阿田鬱蔵が、復讐のためにちかづいていたことを」

「へ?」

「横島奈心、彼女は自身の娘のために、多くの犠牲を払った。それは娘が助かることを前提に払った犠牲だっただけに、実際に犠牲が無駄に終わったと痛感した途端、彼女のなかで大きな意識変革が起きた。それは奇しくも、彼女が人体実験も厭わないマットサイエンティストに成ったときとおなじく、百八十度の転換だったのだと想像できる。つまりが呵責だよ。払いつづけてきたあまたの犠牲へのね」

「罪滅ぼしのために、敢えて復讐されてやろうとしたわけか」

 ミウからも似た話を聞いた。しかしあれは、横島奈心の娘が死んでおらず、ミウこそがその娘だったという前提だった。いまはその前提が崩れ、横島奈心の娘は死に、ミウが皮肉好きの娘だったという前提に置き換わっている。

「そうと考えれば筋がとおるという話だけれどね」

「でもなあ」横島奈心の娘は死んだが、皮肉好きの娘は生きていた。「だったら最初からそうと告げてやればいいものを」 

「ミウちゃんはさ、人間じゃないんだよ。彼女だけじゃない、あの施設に閉じこめられていた子どもたちは、誰一人として人間じゃないんだ」

 バケモノなんだよ、とランは冷たく言い放つ。

「阿田鬱蔵の語ったっていう話は、ミウちゃんが横島奈心の娘だったってところ以外はおおむね事実だろうね。ミウちゃんは試験体第一号であり、生粋の人殺しだった。それを押さえ込むのにヨッチーたちは、ミウちゃんの頭にマイクロチップを埋め込み、フローちゃんや伏見ッチという抑止力を与えた」

 そこで、だ――と、ランは強調する。

「最初から阿田鬱蔵にすべてを打ち明けていたらどうなっていたか。頭のチップも、抑止力もなく、番犬は狂犬としてこの世に野放しにされていただろうね」

「なぜそうなる」

「解らない? たとえ生きていようが、愛娘が常に殺人(さつじん)しつづけるバケモノになり果てていたら、それこそ絶望するのが父親って生き物じゃないの。まっとうな理性なんて、それこそ頭にチップでも埋めこまないと働かせられないよ」

「そういうもんなのか?」

「さあ、どうだろうね。ぼくに訊かれても解らない。言ったでしょ、これはぼくの推論だって。いずれにせよ、横島奈心、彼女がそうと考えたとすれば、あとはうっちゃんでも想像できるでしょ」

「もったいつけんな」さいごまで言え、と凄む。

 ランは生意気にも、へいへい、とおどけ、

「ヨッチーはさ」と話をまとめた。「横島奈心は、元に戻そうとしたんだよ。バケモノを人間にね。あのコたちはみんな、バケモノでこそあれ、人類でもあったんだ。母体にいたあいだのほんの数カ月であれね。だから元に戻そうとした。本来辿るはずだった未来へ、ヨッチーは道を繋げようとした。その研究が実を結ぶまで、狂犬を『番犬』として抑圧しつつね」

「人を殺さないように、か?」

「実際は、侵入者ふくめ、数人が殺されちゃってたみたいだけれどね。それだって、番犬の溜飲をさげさせるための定期調整だったのかもしれない」

「で、けっきょく、研究が実を結ぶ前に殺されたってわけか」

「他人事みたいに言っているけれど、殺したのはうっちゃんだからね」

「知ってるよ」言われるまでもない。今回の一見で、ゆいいつ心から満足できた殺人だったのだ。

   ***

 皮肉なものだな、と思う。不老不死なんて誰も求めてなんて、いやしなかったのだ。

 横島奈心も、皮肉好きも。

 互いに偽りの野心を掲げ、腹蔵を隠し、やがて自爆した。

 復讐された女と、かたや復讐を遂げることで本懐を擲(なげう)つはめになった男。

 不老不死を求める者がいなかったということは、それはそのままフローたちが反旗を翻す必要がなかったことを意味する。

 すべての発端は、フローと伏見の性行為拒否からはじまっている。それを機軸として、ミウと皮肉好きは各々に詭計を巡らせた。

 だが、フローたちの危惧は端から杞憂なのだ。

 放っておいても、横島奈心は、性行為など迫らなかったのだから。

 すべては、すれ違いの狭間に生じた偶然による喜劇だ。

 笑ってやるのが筋だろう。

 だが笑うのは観客の特権だ。役者たるフローたちには、笑いの種を受け取る資格はない。

 私はランにきつく口止めをし、診療所を去った。仮説はしょせん仮説にすぎない。情報屋として、真実以外を報告する義務はないし、口添えをする権利もない。

 去り際、室内に張られたディスプレイには、「つよき子どもの家」の映像が流れていた。そこに子どもたちの姿がひしめいて映っているのを確認する。ネコ耳パーカの少年の姿もある。どうやらランの教えたアジトへではなく、まずは古巣へと舞い戻っていたようだ。ゴキブリホイホイに溜まったゴキブリを連想して、気分をわるくする。

 後始末をすべく私は、「つよき子どもの家」へと歩を向ける。金輪際二度と足を踏み入れることはなくなるだろう。

 私の仕事は害虫駆除。

 駆除は巣ごとが鉄則だ。

      ***

「子どもたちは、『つよき子どもの家』にいるよ。フローちゃんたちの帰りをおとなしく待ってるはず」

 フローには短くこうとだけ告げるように、とランには言いつけてある。ああみえてランは引き受けたことは正確に熟すやつだ。一言一句、まちがいなくフローたちに伝えてくれただろう。

 ミウを殺したことは告げないことにした。つよき子どもの家へ帰れば自ずと判明する。ミウもまた、そこでしずかに彼女たちの帰りを待っている。




   後日譚『要約できないただ一つの物語』



      ***

 あの甘酸っぱい茶番劇に幕が下ろされてから半年が経過した。私の日常は相も変わらず怠惰で勤勉な、人殺しの日々によって構成されている。不老の少女や、不死身の青年、人間ならざるガキどもとの殺し合いも、はるかむかしに視た気のする夢のように、茫洋としている。

 小井内フロー。横島奈心。阿田鬱蔵。

 そして、番犬のミウちゃん。

 誰か一人忘れている気もする。ああ、そうだ。伏見のやろうだ。アイツだけ影がやたらと薄く、最初から最後まで、脇役だったなあ、と懐かしく思う。

 とおいむかしを懐古しながら、メディア端末をとりだし、雇い主たるキザな精神科医の番号を呼びだす。

 一時間ほど前にランから連絡があった。あとでかけ直すように言い、いちど切っていた。

 悶々としていたので、駅前で塾帰りの少年を捕まえ、工事中のビルへと連れ込み、四肢の関節を外して動けなくしたうえで、右手のゆびさきから順々に細ぎれにした。両手を終えて、右足の太ももまで切り刻んだところで、少年は絶命した。よく堪えたほうだと思う。よくがんばったね、と生気の失せた肉のかたまりを湛えながら私は、さらに左足を切断し(これは面倒なので、ざく切りだ)、胴体を切り開いて、腸膜が破けないように注意しながら慎重に中身をとりだす。頭蓋も砕いて、開けた孔から、白い脳みそをぞんざいに掻きだす。よりはやく腐敗させるための、これらは加工である。適度な汗を流しながら、すべての肉塊をマンホールへ投げ捨て、用意していた替えのパンツに履き替えたのが、今しがたのことである。

 ひと月前に仕事を任されてから以降、音沙汰なしだったランからの連絡であるので、無視するのもどうかと思い、掛け直してやる。ツーコール以内にランは出た。

「仕事か?」単刀直入に訊ねる。

「んみゃんみゃ。ちょっと思いついたんで、確認をだね」

「なんのだ」

「フローちゃんのことだよ。いやね、うっちゃんがぼくんところに、ヨッチーの情報を聞きにきたときのこと、憶えてる?」

「ああ」

 アジトの住所を聞きだし、そのあと、私はすぐに横島奈心を殺した。「それがどうした」

「いやね、実はあのとき、ぼくってばちょいと、ポカしちゃったかもしれなくってね」

「はぁ?」

「うん、なんだろう。べつに、だからどうなるってわけじゃないし、済んだことと言えばそうなんだけれど、でもさ、ほら、据わりがわるいじゃない?」

「ポカってなんだ、ポカって」

「ミスしちゃってたかも、ってことで」

「それは判るが」

「声紋認証システム使ったでしょ、あのとき。ヨッチーの居場所を突きとめるためにさ。で、ちょいちょい気になることがあったから調べてたんだけれど、うーん、どうにもおかしなことになっててね」

「気になったって、なにがだ」

「怒らないで聞いてほしいんだけれど、よく考えたら、ヨッチーの声紋が、あのシステムで検索できるわけがないんだよね」

「なんでだ」

「だって声紋認証システムって、正規のサーバを介している端末のみ有効な検索システムなんだよ? たとえばうっちゃんの使っているメディア端末は、ぼくのオリジナルな作品だから、うっちゃんの声紋は、システムに登録され得ない。ここまではいい?」

「ああ」規格外の商品はお取り扱いできません、というやつだ。

「ヨッチーだって、おんなじだよ。裏社会に身を置いておきながら、あのシステムのことを知らないわけがない。あれだけの機材を私的に流用できていたのだから、尚更だ」

「つまり、横島奈心も、オリジナルの端末を使っていたと?」

「そうじゃなきゃとっくにお縄にちょうだいされてるでしょ。この国の公安を舐めちゃいけないよ。たとい表にでてくることのない、事件にもならない事件だって、人体実験なんて非人道的な大罪を繰りかえしてたら、否応なく噂は立つよ。公安みたいに裏社会に精通している組織が黙っているわけがない」

「だったらおまえはどうなんだ」伏見の言葉を借りれば、知る人ぞ知るって感じの情報屋だ。野放しになっているのはおかしいだろ、と半ば揶揄する。

「ぼくは例外だよ。同様に、ぼくの部下であるうっちゃんも、例外」

「だれが部下だ、だれが」

「話を戻すけれど、つまり、ぼくが言いたいのはだね」ランは声の調子を整えた。「ぼくってば一杯食わされちゃってたかもしんないってことで」

「ああ?」

「つまりね、横島奈心はわざとぼくに、居場所を知らせたんじゃないのかなって思うわけだよ。ぼくが声紋認証を使うことを見越して――そうじゃなくとも、ほかの手段を用いたとしても、必ずぼくがあのアジトの住所を突きとめられるようにって、ヨッチーってば小細工をしていたんじゃないのかなって、ぼくってば閃いちゃったわけ」

「考えすぎじゃないのか」

「でもさ。ちょっと、都合がよすぎると思わない? あの一件で、ヨッチーはたぶん、ぼくチン抜きにしたら、一番頭の良かった人間だよ。そんな才媛が、あんなミス、犯すかなあ」

「それを言うなら、皮肉好きのことも含めて、あの女はことごとく間が抜けていたようなもんだろ」

「それだよ、それ。それが一番引っかかる。そもそもヨッチーって何がしたかったの? 番犬ちゃんの証言も、おっちゃんの証言も、どれも要領を得ないよね。それぞれがそれぞれに、べつの横島奈心という人物像を想い描いていたような、そんなチグハグな印象を覚えるのさ。うっちゃんの証言にしたってそうだよ。どうなの? 実際に殺してみた感想は」

「感想?」

「そ。感想。うっちゃんいわく、あの一件で純粋に心から満足できた殺しって、彼女のノドを食いちぎったときだけなんでしょ?」

「まあ、そうな」

「で、どうだった? うっちゃんの殺したその相手っていうのは、人体実験やらナノマシーンの開発やら、そういったことを容易くやってのけるような、器の大きな、底知れない、ぼくちゃんみたいな人物だったかな?」

「おまえみたいでは、なかったが」

 というかおまえの器が大きいと認めるには、器のちいささで競えば右に出る者はいないとノミにまで言わしめる私であっても潔しとはしない。底知れぬ、というところは認めてやるにやぶさかではない。「つまり、何が言いたい」

 結論を迫ると、ランのやつは、きのうの天気を確認するかのような気の抜けた調子で、

「うっちゃんの殺したヨッチーって、ホントにヨッチーだったの?」

 またぞろ、不吉なことを言いだすのだった。

    ***

「私の殺したアイツが、横島奈心じゃなかったってんなら、じゃあ、あれは誰だったんだ」

 しぜん、メディア端末を握る手に、ちからが籠る。周囲は日が沈みかけ、どんよりと暗い。

「誰でもいいんじゃない? 助手とかさ。おっちゃんこと阿田鬱蔵が協力者として参加する前から、ほかの研究者が協力していたって、なにもふしぎじゃないでしょ。というか、そう考えたほうが自然だね。いくらヨッチーが天才的な頭脳を持っていたって、助手もなしに、自身を試験体として研究なんかできないでしょ」

「自身を試験体? 何のことだ」

「いやね。前にみせた、ヨッチーの日記あったでしょ? あれ以外のデータを漁ってたら、割と初期のころの研究ファイルを見つけてね。まあ、暇つぶしにちょくちょく読んでたんだよね」

「それで?」

「そしたら、ヨッチー、自分にもナノマシーンを注入しちゃってるんだよね」

「んんっ……っ!? バケモノ化したってことか?」

「いや、しなかったみたいだよ。ただ、成功もしなかったみたいだけれどね」

「おまえ、私をからかって楽しんでないか?」まるで映画のネタばれをして友人をからかう、意地汚いガキを眺めている気分になる。

「そんなことないよ」

「だが、知ってんだろ? 教えろ。横島奈心は生きてんだな」

「生きてるよ、たぶん。ぼくの推論が正しいなら、いまもね」

 ふざけんなよ、と口から閻魔さまが飛びでそうになる。

「横島奈心は、不老の身体を手に入れたのさ。おそらくは、その技術自体は、それほどむつかしいものではなかったんじゃないかな。考えてもみれば、ナノマシーンの初期型だって、それを適用するだけでも寿命が一五〇年まで延びるんだ。完全な不老体でなくたって、ある意味充分すぎるほど画期的な技術だもの」

 横島奈心は、自身にナノマシーンを適用させていた。皮肉好きたちはそのことを知らされていなかった。つまり、どういうことになる?

「おっちゃんが仲間入りを果たしたころにはすでにヨッチーは、不老の体を手に入れてたんじゃないかな。おそらくは彼女の助手も、またね」

 ここで私はピンときた。

「私が殺したのは、その助手か?」

 皮肉好きが不倶戴天の敵と定めた相手は、オリジナルの横島奈心ではなく影武者だった。皮肉好きの死んだ妻とやらが入院していた病院で、女医に成り済ましていたのもおそらくは、助手のほうだったのだろう。それを皮肉好きは、横島奈心当人だと思いこんだ。

「だがなあ、それにしても」もやもやする。「だってなあ。横島奈心の目的は、建前上は不老不死の生成だろ?」

「というよりも細胞の活性化、ひいては治癒能力の増強だね。娘を救うための研究さ」

「だったら不老の肉体を手に入れた時点で、研究は達成してるじゃん。まあ、娘のほうは途中で死んじゃったんだろうけど、でも、だったら助手はなんのためにそのあとも手伝いを?」

「いや、おっちゃんたちが加わった時点で、助手はラジコン化されたんじゃないかな。横島奈心に成りきるようにって」

 開いた口が塞がらない。

「いや、でもさあ。なんだってそんなことを?」

「さあね。想像するだけならいくらでもできるけれども、うっちゃんてば、仮説には興味ないんでしょ」

 フローへの口止めを根に持っているようだ。器の小さい上司だ。

「いいから話してみろ。聞くだけならタダだぞ」

「話すだけでもお金とるよ」

「金はない。言わせんなよ」ひとの足元みやがって。「こんどいっしょに秋葉まで行ってやるから、それで手を打て。わるいことは言わない。な?」

 頭のなかでそろばんを弾いているのか、ランはしばし間を空け、それから唐突に、

「横島奈心、彼女は」

 と、話しだす。どうやら交渉成立のようだ。

「彼女は、ほんとうに伏見ッチを愛しちゃったんじゃないのかな。ふたりっきりで生きていきたいと望んだわけ。横島奈心としてではなく、不老の少女としてね」

「は? いやいや……え?」

「もうね、ぜんぶ邪魔になっちゃったんじゃない? でも、フローという少女は、周囲を犠牲にして自分だけ幸せになろうなんて考える少女じゃない。だからヨッチーは、こんな回りくどい真似をして、いっさいがっさいを葬り去ることにしたんじゃないの。うっちゃんを利用してさ。エッチは好きな人と好きなときにじゃなきゃいやだ、とか思っちゃうような、ちょっぴしわがままで、うぶな少女になりきってね」

 ああ、と間抜けな声がでた。

 フローの言葉が蘇る。「つよき子どもの家」の地下室に閉じ込められていたとき、フローは、なぜ横島一味に反旗を翻したのか、そのほんとうの動機を話してくれた。その際に彼女は、

「わたしは伏見くんがだいすきです」と照れもせずに言いきった。「伏見くんのためなら、なんでもしますし、なんだってしたいと思っていますよ。でも、それと同じだけ、伏見くんがイヤなことはしたくないんです」

 好きな人の想い描いている〝フロー〟という仮初の姿を保つために、横島奈心は、仮初の姿を真実にするために、己の過去を、己ごと葬り去ることにした。

 自らの手を汚さず。

 かつ好きな人との絆を、よりいっそう深める機会を得つつ。

 幾多の理想を手放し、当初の目的と、あらゆる償いをも放擲して――。

 まとめてしまえばこういうことだ。殺人鬼を手駒として利用したはずの少女は、自身もまた他者の手駒となっていた。その事実に気づくことなく、意図しない確執の渦に巻き込まれ、終いには、利用したはずの殺人鬼によってたいせつな子どもたちを奪われた――かわいそうな少女、フロー。

 を、演じた女はすべてを望みどおりに叶え、ゆいいつの愛を手に入れた。

「まさか。ありえんだろ、さすがに」

「ほら、また訝る。仮説だって言ったでしょ。ホントかウソかは関係ないんだってば。解ったか解らなかったか。それだけ言えばいいのに」

「理解はしたが、同意はできない」歩きつかれたので、路肩に座る。メディア端末を持つ手を変え、電波の向こうにいるランのふざけた顔を想像しながら、だいたいな、と続ける。「だいたい、そんなことを言いだせば、すべての発端は伏見ってことになる。だったら伏見のやろうが黒幕なのか? ちがうだろ」

 言いながら、想像する。もっとも手を汚していないあの爽やかな青年が黒幕だとしたら、これ以上、黒幕として相応しい人物はいないのではないか、と思え、内心ぞっとした。

「それこそ考えすぎってものでしょ」ランに否定され、安心したじぶんがいる。「仮定には仮定の、それに至った道筋――論理というものがあるんだよ。うっちゃんみたいに、その場の閃きといっしょにしてもらっては困るなあ」

「なら伏見は黒幕ってわけじゃないんだな」

「そうじゃなくっちゃ、ぼくちゃんがおもしろくないもんね。伏見ッチが、あの一件で行ったことと言えば、うっちゃんに横島奈心の居場所を教えて、殺すように仕向けたことと、フローちゃんの盾となって、うっちゃんからの攻撃を回避すること、おおむねこの二点だけだと断言できる。ぼくのもとに、殺し屋の情報を求めにきたってのもあるけれど、そんなのは、おまけみたいなものだしね。それに、伏見ッチが真の黒幕だとしたら、最初っからこんなまどろっこしい真似なんてしなくていいんだよ。だって伏見ッチは、頭に埋めこまれたマイクロチップを自分で抜きとれるんだもの。頭のマイクロップがなくなればその時点で、ヨッチー一味に対するあらゆる敵対行動が可能となるんだから、不死身である彼一人で、ヨッチー一味に反旗を翻そうとすれば、それはそれで充分可能なんだよ。ただし、ヨッチー一味だって黙ってないだろうから、『つよき子どもの家』のコたちは、ただじゃ済まないだろうけれどね。

 だからやっぱり、ヨッチーは――あ、このヨッチーっていうのはフローちゃんのことだけれど――彼女は、伏見ッチに、手を汚してほしくなかったんだよ。だから伏見ッチには、雑用みたいな役柄しか与えなかったわけ。そう考えた方が、腑に落ちるでしょ?」

「まあな」不本意ながら、腑に落ちた。それでも不満そうな声をだしていたからか、ランのやつは、「逆に言えば」とさらに話を掘り下げる。

「逆に、伏見ッチを黒幕と呼びたいのなら、そういう言い方もできないわけじゃないんだよ。うっちゃんの言うように、ある意味、すべての元凶は伏見ッチなんだもの。横島奈心が伏見ッチに惚れさえしなければ、あの一件は、それほど複雑な顛末を辿らなかったんだからさ」

「食い下がるわけじゃないが、じゃあ伏見がそうなることを想定して、横島奈心に媚びを売った可能性もないわけじゃないんだな?」

「可能性は、否定できないね。ただ、かぎりなくそれは低い。むしろ、往々にしてこの世に引き起こる必然というのは、それ以前に生じた偶然によって派生するものなのさ。本当の意味での元凶なんてものはいつだって、偶然なんだ。だからこそ、そこに責任を求めることができない。ある意味では、どんな犯罪者だって、『偶然』の被害者と言えなくもないんだよ。育った環境が違っただけで、聖人君子が殺人鬼になっちゃうなんてのは、この世のなか、有り触れた出来事なんだ。繰りかえすけれど、そこに責任を求めることができないというだけの話でね」

 偶然の産物である不死身の青年は、さらなる偶然を重ねて、横島奈心のこころを奪い、そして図らずも、不自由という名の自由を手にした。往々にして真の黒幕の裏には、まったく手を汚すことなく、まっさらなままの人生を掲げ、自分の未来を切り開く、白幕なる者の存在があるものなのかもしれない。

「まあ、すべてはおまえの憶測――妄想みたいなもんだけどな」

 そうだとも。こんなのは、情報屋ゴッコをしているキザな精神科医の戯言にすぎない。真に受けるだけ無意義というものだ。弾劾するでもなく、そう話をまとめると、

「またそんな突き放すみたいな言い方しちゃってさ、感じワル」ランのやつはむくれた。「ぼかぁね、うっちゃんのそういうところが、嫌いだね。だいっきらいだね」

「ああ、そう」

 聞き流すと、ランのやつときたら、怒り心頭に発したのか、

「いんらん!」

 叫びやがった。唐突すぎる悪口に私も思わず、

「なんだって」

 過剰に反応してしまう。

「インラン!」

「言ッたなコノ」

「うっちゃんの、淫乱びッち」

「あ、もういい。殺す。今すぐ殺す」

「いいよ、ほら殺してみ。ぼくの体液で全身濡らして、ヌメヌメになって、ピクピクうねって、イッてみせてよ。うっちゃんってばホントはぼくのこと大好きで大好きで堪らないクセに、満足いくまで殺してみたらいいじゃない」

 どうしてこうも身の毛のよだつような腹の立つ言い方ができるのだろう。怒る気も失せる。

「ああ……あほくさ」

「来ないの、殺しに」

「切るぞ」メディア端末の電源ボタンに触れる。

「待って。さっき話したぼくの仮説、情報料は害虫駆除三回分なのだけれど」

 呆れかえる。舌の根も乾かないうちにこれだ。潤いをが足りてないんじゃないのか。「いらないって言っただろ、さっき自分で」

「言ってないもんね。どうせうっちゃんてば払えないんでしょ。しょうがないから特別にツケといてあげる」

 無言で通話を切る。

 夜空を仰ぎ、私は誓った。

 アイツだけは殺してやらない。なにがなんでも、ぜったいにだ。

 だがこの殺意を無駄にしたりはしない。

 殺人狂の私が見いだした、殺さずの殺し。

 いつか必ず、見殺しにしてやる。この目に苦悶の表情を焼きつけて。

 ぼくを殺して、とのたうちまわるアイツの悲鳴で、私は一晩、踊り明かすのだ。




      「息の根にうるおいを。」(終)

   ==殺人鬼に殺されない例外的方法==

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る