群れなさぬ蟻【裏】

    群れなさぬ蟻【裏】 

 

目次

神津 戒

ニオ子

薬尾 夜神

蝶野 緑沙

毒親寺 ユヅ

路坊寺 清祢

伊乃葉 衣子

茶紗

葦須 炭兎



     ○~神(かみ)津(つ) 戒(かい)~○

 お母さんがぽっくりいってしまわれた。

 これはべつにお母さんが、「ぽっくり」と唱えたわけでも「ポックリ」という島へ旅行に出かけたわけでもなくて、わかりやすく言いなおすと、せんしゅうお母さんが死にました、となる。

 「死んだ」ではなく「ぽっくり」と言っているのは、そのほうがかなしいきもちがうすくなるからで、だからぼくはお母さんがぽっくりいってしまってからの一週間、人から事情を訊ねられた際には、「おかぁさんがぽっくりでして」と口にするようにしている。

 ほんとうに急なお別れだった。

 ぼくにとっての認識はこのようなものなのだけれども、ほかのひとたちにとっては、それほど急というほどでもなかったみたいだ。

 きみのお母さんはおそかれはやかれ、ぽっくりいくさだめにあったのだよ、と割りきっているみたいにおとなのひとたちはみな一様に、淡然としていた。

   ○~

 お母さんが病弱体質だったことをぼくはお通夜のときに初めて知った。親戚のおじさんやおばさんたちが話しているのを横目に、「ふうん。おかぁさんってからだ、弱かったんですね。ぼく、きづきませんでした」と、どこか他人事みたいにして聞いていた。

 

「だから反対したんですよ、私は。子供なんか産んだりしたら、いずれこうなりますよって」

「ほんにねえ。まだ若いのに。男に逃げられたあげく、子供だけ抱えて、そのうえ身体までこわして」

「あのコが生まれてからは、ろくにそとも出歩けなかったって話でしょ」

「気の毒だよ本当に。なにか助けになってあげられたらよかったんだけどね」

 会ったこともない、白髪まじりのおとなたちがよってたかって、お母さんのことを「かわいそう、かわいそう」と言いあっていた。

 ぼくはそれを、来週からお世話になる施設の職員さんの背中ごしに眺めていた。

   ○~

 思いかえしてもみればたしかにお母さんは、ほとんど家のそとに出なかった。仕事も内職で、牛革を加工して、財布やカバンをつくっては、それを売って生計をたてていた。ぼくのつかっているランドセルも、お財布も、お母さんの手作りだ。

 お母さんは、ぼくのお世話をする以外は、ベッドのうえですごしていることが多かった。

 今年の春にぼくが小学校へあがるまではずっと、お母さんのひざのうえが指定席だったくらいだ。

 指定席にぼくがおさまるとお母さんは決まって、絵本を読んでくれた。

 お母さんの読んでくれたお気に入りの本たちはもうびっくりするくらいにヨレヨレで、手にするのもはばかられるほどだ。ぼくのよだれと手あかのコーティングの成果だ、と言えなくもないけれども、きたないので言わないでおくほうが賢明だとぼくは考えるしだいだ。

 お母さんを燃やしてしまうとき、いっしょにこのヨレヨレの本たちも燃やしてあげようかな、と思ったりもした。でもそれだとぼくがさびしくなってしまうこと請けあいなので、ここは燃やさずに手元においておくことにする。天国にも本屋さんがあるといいなあ、とぼくはセツジツにねがうものだ。

   ○~

 お母さんの体調が崩れたのは、ぼくの肺炎が完治した翌週のことだった。お母さんはそれまでずっと夜を徹して、つきっきりで看病してくれていた。なので、こんどはぼくがお母さんを看病する番だ、と奮起してみたぼくであったのだけれども、どうにも病みあがりだったせいか、やることなすこと、ことごとく裏目にでて、よけいな仕事ばかりを増やしてしまい、けっきょくお母さんの負担にしかならなかった。

 それでもお母さんはけっしておこらなかった。笑顔を絶やさぬままにぼくの頭を撫でながら、ありがとう、と言ってくれた。

 ぼくの頭を撫でてくれるお母さんのその手が、日に日にほっそりと萎んでいく様をぼくは、ただ見ていることしかできなかった。

 そして、あの晩。

 ぼくは、お母さんが息をひきとる前からすでに涙をこぼしていた。

 ぼくには解っていたからだ。お母さんがその夜、ぽっくりいってしまうのだと。

   ○~

 天使という存在をぼくは、お母さんの読み聞かせてくれたいくつかの本をとおして知っている。

 そしてきっと、天使というのはこんな姿をしているにちがいない、とぼくはお母さんのおでこに口づけをしている女のひとを見て思った。

「なにをしていますか」

 こわごわと声をかけてみると、女のひとはびくんと跳ねるみたいにして振りかえった。「びっくりしたあ。あはは」

「どちらさまですか」お母さんよりも若くて、それでいてお母さんよりも背の高そうなおねぇさんがお母さんの枕もとに立っていた。

「あらら。どうしたことでしょう。子どもに声かけられるなんて何十年ぶりだろ。あ、きみ、もしやして小鬼ちゃんだったりする? だったらわたし捕まえちゃうんだけど」

 おねぇさんの陽気な様子に、ぼくはすこしほっとした。「コオニではないのです」

「だよねぇ。だって鬼なんてここ数十年、めっきり見なくなったもん」

 待っててください、と断りをいれてからぼくは、玄関と窓の、鍵を確認して歩いた。四畳半のアパートなので一周するのに十秒もかからない。鍵はどれもかかったままだ。侵入してからおねぇさんがかけ直した、という可能性も考えられるけれども、おねぇさんが鍵をかけ直した、というならば、それはそれで侵入する前にも鍵がちゃんとかかっていたことになる。

「どこから入ってきましたか」

「わたし?」くふふ、とおねぇさんはそこで愉快そうにほころびた。「わたしは、どこからでも現れるし、どこにでもいるよ。きみたち人間が、どこにでもいて、いつでも死んでしまえるようにね。だからどこから入ってきたか、ってきみの質問にはこう答えるとしよう。わたしはどこからも入ってきていない」

 むつかしいことを言う。ぼくはなっとくしたふりをして、

「おかぁさんの知り合いのかたですか」

 母の知人の可能性を考えた。お見舞いにきたのかもしれないぞ、と。

「知り合いじゃないなあ。会うのは二度目だけど」答えてからおねぇさんは、話を逸らすように、「てかこのコ、きみのママさん? お姉ちゃんかと思ってた。かわいらしいひとだね」とお母さんのほっぺをむにむにする。

「ぼくもそう思います」じぶんを褒められたみたいに照れてしまう。

「きみを産んだなんて信じられないくらい、あどけない顔して、まあまあ」

 ホント人は見た目によらないよね、こんな娘っコでもやることやってんだからさ、とおねぇさんはまたよくわからないことを言って、イシシと笑った。

   ○~

「どろぼうさん、ですか」

 知人でないというのなら、あとはもう、どろぼうか、おばけくらいが関のやまだ。こんな夜更けにやってくるのだからそれ以外に考えられない。ほんとうはもう一人、とある人物の可能性に思い当たっているのだけれども、こちらはすぐに否定する。なぜならぼくはおかゆをつくろうとしてあやうく火事をおこしてしまいそうになった、わるい子だからだ。そもそもおねぇさんにはヒゲが生えていないので、やっぱりこれはちがうように思う。

「どろぼうさんでもないなあ。だってわたし、何も盗らんもの。盗人ではないから、安心なさい」

 見舞いでもなく、盗むでもない。では、

「なにか用ですか」

 さいしょからこれを訊くべきだった、と反省する。

「うん。なにか用だね。むしろ用があるのはわたしじゃなくって、このコのほうなんだけど、まあ、それも含めてわたしの用事か」

「どんな用事ですか」

「わたしはどろぼうではないからね。奪うんじゃなくって、与えにきたのさ」

 与えにきた、という言葉を聞いてぼくはなんだか、さきほど否定したばかりの、どろぼうでもなくおばけでもないもう一人の可能性を期待してしまう。なにをくれるのだろうか、とそわそわおちつかなくなってしまうのは、今宵がクリスマスイブだからだ。

「あなたが誰であるのかを確認してみてもいいですか」

「いいよ。当ててみて」

「おねぇさんは、サンタさんです」もしくは、天使さんかもです。

「お、いい線いってる」

 おねぇさんはゆびをパチンと鳴らし、

「わたし、死神なんだ」

 へへん、と得意げに笑うのだった。

 ぜんぜんおしくないことに腹をたてないぼくはえらいと思う。

 どうだ、たまげたか、と腰に手をあてていばりちらしているおねぇさんの歯はまぶしいくらいにしろかった。ぼくは歯磨きをしないで寝てしまったことを思いだし、やっぱりぼくはいいコではないのです、と現在進行中で大忙しのはずのサンタさんに懺悔するのだった。

   ○~

 おねぇさんは鏡に映らなかった。それを確認したからぼくはおねぇさんの自己申告をすんなり受け入れた。

 おねぇさんは死神だ。

「おかぁさんを連れていくのですか」

「連れてく? どこに?」

 おねぇさんの頭上にはハテナがいっぱいだ。

 おかどちがいな質問をしてしまったのかとあせっていると、

「ああ。天国とか地獄とか、そういうこと?」ぼくの質問の意図を汲んでくれた。「それはわたしの役目じゃないなあ。というよりも、そんなところがあるのかもわたし、知らないし」

「おかぁさん、死んじゃうんですか」じれったくなってぼくは訊いた。それもわたしの役目じゃないしなあ、とおねぇさんが言ってくれることを期待した。

「死ぬよ。きみのママんは、今日、ここで死ぬ。わたしが死を与えにきたんだからね」

 かなしい? と、おねぇさんはしゃがんでぼくの顔を覗きこんでくる。

「別れるのは……つらいことだと、思います」

「そっか。それはいい」

 ぼくはむっとして、「おねぇさんはひどいひとです」

「死神だから?」

「ぼくがつらいことをよろこんでいます」

 タタミをにらみながら非難する。

 ああ、そっち、とおねぇさんの声は相も変わらず笑っている。

「きみがつらいってことはさ、きみはしあわせだった、ってことでしょ? しあわせだったならこれはもう、よろこばしいことじゃないか」

「でも、これからはしあわせではなくなります」お母さんが死んでしまったなら、ぼくはきっと、雨の降らない日のカタツムリみたいになる。

「それはどうかな。考え方によるよね。いっしょにいることを基準にして考えてしまえばそうなるけど、でもね。本来は、大好きな人といっしょにいられるほうが異常なんだ。ラッキーなことなの。だから、ママんといっしょにいられてきみはラッキーだった。でも、ママんがいなくなったからってきみはべつに不幸になるわけじゃない。ただ普通の状態に戻るだけ。もうちょいただしく言うなら、普通にちかづく、だけどね」

 人は一人で生まれてきて一人で死んでいくんだからさ。

 おねぇさんは、ぼくの鼻のあたまを、ちょんと押した。

「ふつうってなんですか」

 鼻をこすりながら訊ねると、

「普通は、普通だよ。基準となるくらいに、より長いあいだ継続する状態のこと」おねぇさんは、なんでそんなことも知らないの、と呆れたみたいに、「きみにとっての普通は、ママんがそばにいることだったのかもしれないけど、そんなのは、十年も生きていないきみにとっての普通であって、それはやっぱり普通ではないよね」

 はやくち言葉を唱えるみたいにつらつらと話した。

 おねぇさんはよくわからんことを言うなあ、とぼくはおねぇさんを「むつかしいひと認定」する。

「あ、きみ。さては解ってないな」

 おねぇさんはするどい。ぼくはいそいでなっとくしたふりをする。「なるほど。ぼくはふつうではないのです」

「あ、ちがうちがう。そういうことじゃなくってね」困ったふうにおねぇさんは、んっと、と目玉をぐるりとまわした。それからぼくのほっぺを両手で挟むと、ぼくの目を覗きこむようにしながらこう言った。「きみにとっての普通が、万物――この世にとっての普通とはちがうよ、ってこと」

 わかったかな、と小首をかしげられたので、しかたなくぼくも小首をかしげかえした。

   ○~

「ねえ、これさあ」おねぇさんがカベかけ時計を見ながら言った。「時間あってる?」

「五分だけすすんでいます。なので今は二十三時じっぷんです」

「そっか。ならまだだいじょうぶかな」

 なにがだいじょうぶなのですか、と気になる。

「イヒヒ」おねぇさんはぼくのほっぺをむんずとつまんで、「ちょっとだけきみに時間をあげよう」

 言いながらぼくの顔をもてあそぶ。「わたしからのお年玉だよ」

「おひょうがつは、まらふぇすよ」お正月はまだですよ、とぼくは言ったつもりである。

 イヒヒ、と笑っておねぇさんは、「知ってる」とぼくのほっぺから手をはなし、こんどは頭を乱暴に撫でつけるのだった。

「その時計で零時になったら戻ってくるから。それまでに、最期のお別れ、きちんとしなよ」

「おねぇさんが戻ってこなかったらいいのに」

 ぼくはわざと言葉に棘をまとわせて言った。それから、

「らいねんまたきたらいいのに」とあまえた声もだしてみる。今年はやめて来年にしたらいいのに、と。

「それはムリなおねがいだ」

 わたしはサンタじゃないからね、とぼくの心を見透かしたように言って、おねぇさんは闇に溶けこむように、その場から姿を消した。

 それから五十分ものあいだぼくは、寝息をたてたお母さんの枕もとでただしずかに涙をながしているしかなかった。

 きちんとしたお別れの仕方なんて、ぼくはまだ、知らない。

   ○~

 時計の針がきっかり零時をさしたころにおねぇさんはふたたび現れた。それからじっくり五分間、ぼくの見守るなか、お母さんの身体中にまんべんなく口づけをしていった。

 じゃまをしちゃえ、とも思ったけれど、けっきょくぼくはおねぇさんのやることをただ呆然と眺めていた。じゃまをしても、お母さんを苦しめるだけのような気がしたし、だいすきなキャンディを舐めまわすようなおねぇさんの一心不乱な様子に、すっかり気がひけてしまった。

 さいごにおねぇさんがお母さんの唇に、唇を押しつけたところで、お母さんはぼくのお母さんではなくなった。その予感が如実に感じられた。お母さんの身体のなかに灯っていた火が消えてしまったかのようなさびしさが、部屋いっぱいに充満した。

 おねぇさんはなにも言わずに、ぼくの頭を二回こづいて、また掠れるように姿を消した。

 ぼくはお母さんのベッドにもぐりこんで、すでに冷たくなりはじめたお母さんの身体にしがみついた。ぼくのだいすきなお母さんの匂いはまだ、消えてはいなかった。

 ぼくはたまらず、つぶやいた。

「おかぁさん。ぼくもぽっくり、いきたかったです」

 べつに「ポックリ」という島へ行きたいわけではなかった。

 誰もいなくなった部屋には、ぼくの息づかいだけが、ひっそりと、大きくひびいて聞こえている。

   ○~

 施設に入ってから、ぼくは一言も話さなくなった。予想が的中したのだ。お母さんが死んでしまったので、雨の降らない日のカタツムリみたいになってしまった。カタツムリとちがって雨が降ってもげんきになることもない。

「カイちゃん。いっしょにお絵かきしない?」

 なかなか打ち解けないぼくを気遣って、職員さんがほかの子たちとの仲をとりあおうとしてくれる。

 でもぼくは、持たされた色鉛筆を片手に、まっしろな画用紙を見つめるだけ。

 とてもではないけれど絵を描くきぶんになんてなれない。職員さんもムリ強いしてくることはなかった。

   ○~

 施設で生活するようになってからあっという間にひと月がすぎた。お正月もおわって、春から新しく通う小学校を、施設の子たちに案内してもらったりした。

 馴染むつもりのないぼくに対して、ほかの子たちは、おどろくほどやさしく接してくれる。どうしてだろう、とさいしょはふしぎに思っていたけれども、なんてことはない。かれらもぼくとおんなじなのだ。

 たいせつな人がぽっくりいってしまった。じぶんたちを残して。

 かれらはたちなおって、ぼくはまだウジウジとひきずっている。

   ○~

 夏。

 ぼくはまだ雨の降らない日のカタツムリをやっている。慣れると思いのほか快適だ。

 みんなももっと「独りの時間」をたいせつにしたほうがいいよ。

 たまにこう言ってみんなに教えて歩きたくなるけれども、これはたぶん、ぼくがさびしいからだ。さいきんやっと、さびしい、というきもちを思いだせるようになった。

「カイちゃんもいっしょにやるよね」

 みんなはことあるごとにぼくを遊びに誘ってくれる。でもぼくは地面のアリを観察しているのにいそがしいから、返事をしない。

「気がむいたらきてね。待ってるから」

 誘ってくれるコは毎回ちがう。みんなとてもやさしい。やさしいうえに、ムリにこちらの世界に踏みこんできたりしない。

 ほんとうはぼくが地面のアリなんて見ていないことに気づいていても、気づかないふりをしてくれる。

 そんなかれらの、わきあいあいとした空間へぼくはいつの間にか、入りたいと望むようになっていた。

 きっかけはいつだって、あるのに。

 ぼくはまだ、さしだされた手をつかめないままでいる。

    ○~

 さいしょから、見慣れないひとだなあ、と思ってはいた。

 施設の廊下を男のひとが歩いている。包丁を握っていたので、なるほど、ぼくたちの食事を用意してくれる調理師のひとですね、と考えた。

 でもちがった。

 職員さんのひとりが、男のひとに気づいて足早にちかづいていく。つぎのしゅんかんには、職員さんのTシャツが、まっくろに染まった。タコを突っついてスミをかけられたみたいな光景だった。

「カイちゃん、こっち」

 みんなニゲテ、と胸のあたりから血をながした職員さんの叫び声がひびくなかで、マイちゃんがぼくのうでをひっぱった。彼女はぼくのふたつほど歳うえで、なにかと手を焼いてくれる、世話好きなコだ。

「不審者がでたら、そとに逃げるの。訓練したでしょ!」

 施設に入った直後に、避難訓練があったのを思いだす。凶器をもった暴漢が施設に乱入してきたら、敷地のそとにでて、おとなりの教会に逃げこむ手筈になっている。

 ほかの子たちも同様に、身近な門をとおって、教会へなだれこんでいく。

 門をぬける際に振りかえってみると、職員さんたちが棒にクワガタムシの頭をとりつけたような器具で、男に応戦していた。

 がんばれ、まけるな、と心のなかで応援したのも束の間、男が包丁を捨てて、おしりに隠していたらしい拳銃をとりだした。

 職員さんたちがひるむのが分かった。

 拳銃が出てきたからではない。男の背後に、幼少組の子がひょっこり現れたからだ。

 トイレに入っていて逃げ遅れたのか、その子はびっくりした様子で立ち止まり、ぽかんと男を見上げている。

 ぼくはマイちゃんの手を振りほどく。

「どこいくの! あぶないってば!」

 マイちゃんの怒鳴り声を背中にうけながらぼくは駆けていた。

 ぼくに気づいた男が、銃口をこちらへ向けた。

   ○~

 引き金がひかれることはなかった。

 その前に男が、とつぜん気を失ったみたいに倒れたからだ。

 職員さんたちが、男のからだに覆いかぶさっていく。角砂糖に群がるアリみたいだ。そのよこで、手持ちぶさたに首を鳴らしている女のひとがいた。

 見覚えのある顔だ。

 ぼくは乱れた呼吸を整えながら、彼女をにらみ据える。

 こちらの視線に気づいたようで彼女は歩み寄ってきた。

「やあやあ。また会ったね」

 返事をしようとしたけれども、半年ものあいだ使われていなかった声帯がうまく機能してくれなくて、ぼくは咳きこんでしまう。

「あらら、どったの。もちまえの馴れ馴れしさはどこへいっちゃったのかな?」

「どうして、いるのですか」と、なんとか声をふりしぼる。

 なぜ死神のおねぇさんがここにいるのだ、とぼくの頭のなかはハテナでいっぱいだ。

「前にも言ったよね。わたしはどこからでも現れるし、どこにでもいるって」

 おねぇさんはお茶をにごすようなことを言った。ぼくは、そんなんじゃなっとくしませんよ、と上目遣いにおねぇさんの顔を射ぬく。

「そんなこわい顔しちゃって、まあまあ」

「アレ……おねぇさんが、しましたか」ぼくは山積みになった職員さんたちをゆび差す。そのしたに埋もれている男の、あの勃然とした卒倒は、おそらくおねぇさんが引き起こしたものだ、とぼくはにらむものだ。

「そうだよ。わたしがやった。てかそうだなあ。よし。いい機会だ、すこし話そう。わたしときみはさ、ほら、これから長くはないけど短いともいいがたい、お付き合いになるんだしさ。まあ、これもきみにとっては、の話か」

 イシシ、とおねぇさんはやっぱりよくわからないことを言った。

   ○~

「さいしょに断っておくけど、わたしはこれをきみに黙っておいてほしい、と頼まれた。でも、それは頼みであって、契約ではないから、きみに話してもとくに問題はなくて、だから話しちゃうけど。つまり、えっと、なんだ――もしかしたらきみは、この話を聞いたら怒るかもしれないし、傷つくかもわからない。ただ、わたしの話がほんとうに訊きたいなら、ひとつだけ約束して」

 ぼくはべつにどうあってもおねぇさんの話が聞きたい、というほどでもなかった。ただ、いつになく真剣なおねぇさんのまなざしに気圧されて、「聞かなくてもいいです」と言うタイミングをうっかり見失ってしまった。

「約束して。話を聞いても、ぜったいに泣かないって」

 そんなことならおやすいごようだ。ぼくは「わかりました」と承諾する。お母さんがぽっくりいってしまったあの晩をさかいに、ぼくは泣きかたを忘れてしまった。

「うん。じゃあ話したげる」

 おねぇさんは、花壇に腰かけて語りだした。ぼくもまたおねぇさんのとなりに座って、ここから見える教会のステンドグラスを眺めた。

 ここは施設の裏手で、表側では職員さんたちが暴漢拘束後の対応に追われ、てんてこまいになっている。その様子が、がやがやとした喧騒となって聞こえている。ほかにも、遠くからパトカーやら救急車やらのサイレンがちかづいてくるのが耳に届いた。

 そういったノイズを押しのけるように、おねぇさんの声は、ぼくの鼓膜にまっすぐ染みこんでくる。

   ○~

「本来わたしはさ、きみのママんに死を与えるんじゃなかったんだよ。ほんとうは、きみに死を与える予定だったの。きみ、病気でふせってたでしょ? そのとききみはそのまま死ぬはずで」

 ぽっくりいくのはお母さんではなく、ぼくのほうだった。おねぇさんはそう言った。

 ではなぜぼくは生きていて、お母さんがぽっくりいってしまったのだろう。

「きみの枕もとに立ったとき、それをきみのママんに見つかっちゃってね。ほら、きみがわたしを見つけたときみたいな感じでさ、ホントきみら親子だよね。で、きみのときみたいに事情を話してみたら、このコだけは見逃して、って言うの。むちゃなお願いだよね。でも、どうしてもって食い下がられて、めんどうだったから、一つだけ方法があるよって教えてあげたわけ」

 どんな方法か、なんとなく察しがついた。

「きみのママんはそれでいいって言うでしょ。だからわたし、契約してあげたのよ。で、ママんの寿命を、きみに与えたわけ」

 つまり、ぼくのこの命は、お母さんのもの。

「寿命をもらってしまった以上は、わたしもきみのママんのお願いを一つきかなくちゃならなくなった。契約だからね。そこできみのママんはなんて言ったと思う? 『あのコをしあわせにして』だって」

 そんなのはムリだ。

「そうだよね。ムリだよね。だってきみはどうせ、ママんといっしょに死んだほうがしあわせです、なんて思っちゃうんでしょ。わたしもそう思ったから、そう教えてあげたわけ。したら、きみのママん、やっぱりちがうのにするって考えこんで、こんどはなんて言ったと思う?」

 ――あのコを泣かせないでください。

「そんなんでいいの、って肩すかしくらっちゃったけど、まあ、わたしとしては断る理由もないでしょ? で、わたし、その願いをひきうけたわけ。契約成立」

 人の命と引き換えに願いごとをひとつ聞く。そんなのはまるで悪魔じゃないか。死神だと名乗ったくせに、とぼくは毒づく。

「わかってないなあ。神さまだから、お願いをきくんだよ。それに死神だとか、悪魔だとか、天使だとか、そんなのきみらがかってにそう呼んでいるだけで、どれもけっきょくわたしのことじゃんか。言っても、天使は神さまに仕えているわけだから、天上天下唯我独尊のわたしはやっぱり、死神かなあって思うんだ」

 おんなじ理由で悪魔もきゃっかね、とおねぇさんは、ここ重要だから、と言わんばかりに鼻息をあらくした。

「ま。そういうことだから。きみが死ぬまで、わたし、きみを泣かせないために、ちょくちょく出現するけど、そのへん、ご理解とご協力のもと、よろしく」

「もしもぼくが泣きそうに、なかったら。おねぇさんはにどと現れませんか」

 ぼくはもうおねぇさんの顔なんて見たくなかった。

「そうだね。泣きそうになかったら、現れる必要もないかな。言っても、きみの寿命なんて、きみのママんのものだから、換算したらえっとぉ」

 ぼくの目を覗きこんでおねぇさんは、

「のこり、二十三年ってとこだ」

 さらっと重要なことを言ってのけた。「そんな長くないんだから、まあ、そんなに気張らなくってもいいんじゃない。泣きそうになったら、わたしがなんとかしたげるしさ」

 あと二十三年。ぼくにとってはこれまでの人生の四倍にもおよぶ長い年月だ。

 ただ、おねぇさんの言ったようにこのときぼくは、それくらいなら生きてみてもいいかな、と漠然と思えた。

   ○~

 ナイフをもった男もまた、お母さんのときとおんなじように、ぽっくりいっていた。

 あんまりみんなしてぽっくりいくので、そのうち地球上の人類がそっくりそのままポックリへと移住してしまうのでは、と心配になる。でも、ポックリという星はないので安心だ。

「ひとつ確認したいことがあります」引っかかっていたことがあるので訊いてみた。「人に死を与えるときおねぇさんは、ちゅー、しなきゃいけないのではなかったですか」

 お母さんをぽっくりいかせるとき、おねぇさんはそうしていた。

 そう指摘するとおねぇさんは、しまった、という顔をしたあとで、何事もなかったかのように、

「さっきのはとくべつ。いそいでたから」

 あさっての方向を見ながら、しれっと答えるのだった。

 おねぇさんはうそをつくのがとてもヘタだ、とぼくは見做すものだ。

   ○~

 おねぇさんはあの日をさかいに、たびたびぼくのまえに現れた。

 小学校の運動会や学芸会などの行事ごとをはじめ、誕生日やお母さんの命日――ほかにも映画を観るときや、お寿司を食べるときにさえ、ことあるごとに姿をさらした。

「だって、泣いちゃったら困るでしょー。契約は守んなきゃ」

 おねぇさんはわざわざお寿司のワサビをぬいてぼくに手渡してくる。おねぇさんの姿はぼく以外に見えていない。おねぇさんの干渉する現象もまた、ぼく以外のひとたちには意識されていないようだった。

「だったら、ぽっくりいかせないでください。ぼくのまえでは、誰も」

 人に死を与えるのはとうめん禁止です、とぼくは言いつける。

「えぇー。それだときみを守れないじゃん」

「おかぁさんとの契約にはなかったはずです。そんな事項は」

「カイちゃんってば、まっじめー。そんなんだからモテないんだぞ」

 おねぇさんはトノサマガエルみたいにぷんぷんとふくれた。

 うぬぼれているわけではないのだけれども、おねぇさんは契約違反の防止にかこつけて、ぼくに会いたいだけではないのだろうか。そう邪推してしまうほど頻繁におねぇさんは姿をみせるのだった。




   △ニオ子△

 頭から生えるツノを見ればたいてい、それがどんな生き物なのかが判る。ツノを見られることすなわち、正体をしられるということだ。でも、正体をしられて困るのはよわい生き物だけであるので、あたいみたいに、ヒエラルキーの頂点にぽつんと座っている気高い生き物は、正体をかくす必要なんてない。

 だからあたいがこのツノをかくしたことはいちどもない。クワガタだってカブトムシだってツノをかくしたりしない。それと似ているけど、実はちがう。

 あたいのツノはまだちっこい。ちっこくて、ひとつしか生えていない。生えている位置からして、あともうひとっつ、となりに生えてくるはずだ。おっとーみたいな立派なツノが二本、もうちょっとしたらあたいの頭にも生えそろう。あすかもしれないし、あさってかもしれない。

 おっとーのいなくなった七年前からあたいはずっとそうやって、なかなか生えそろわないちっこいツノを手入れがてらに、くりくりいじくる毎日だ。

「生えなきゃこのツノ、ちょんぎるぞ」

 なんて歌っても効果はない。ちょんぎるつもりも毛頭ない。

   △

   △

 おっとーはいなくなる直前まで小言のように、毎日あたいにこう言った。「鬼たるもの、いついかなるときも泣いてはならぬ」こうも言った。「鬼たるもの、閻魔さまに胸を張れるような悪人をつくらねばならん」

 ただの畜生ではなく、たしかな芯をもった極悪人を閻魔さまは好むそうだ。

 会ったこともないのになあ、閻魔さま。

 そんなお方のためにあたいがひぃこら何かをなさなければならない、という未来は、しょうじき見たくない。胸なんて張れなくても生きていけるのに。

 あたいはいつもそんな疑問で頭をもたげさせながら、

「張ったところであたい、おっぱい、ないんだけどなー」

 足元まですっとんと見渡せる見晴らしのいい、おむねを見下ろしつつ、おっとーの薫陶を受けていた。

 おっとーは、身の丈八尺と、鬼としては小柄な赤鬼だった。ふだんは動きやすいようにとひと回りちいさく萎んでいたけど、あれはただ目立ちたくないだけだったのだとあたいはにらんでいる。鬼のくせにシャイなのだ。おっとーの話では、人間たちに戦国時代をひらかせた「一角戦鬼」の子孫にあたるらしい。ひつぜん、あたいもその子孫になるわけだけど、そんなたいそうなご先祖さまも、現存している一族があたいひとりきりだとしったら涙ちょちょぎれて、とたんに小鬼びいきのやさしいおじぃちゃんになってくれること必須である。

 あたいのおっかーは、あたいを産んでから、入れちがうように死んでしまった。だからあたいはおっかーの顔をしらない。おっかーだけでなく、おっとー以外の鬼も見たことがない。

 どうしてあたいらだけなの、と訊いてみたことがある。ほかの鬼にはどこへ行ったら逢えるの、と。おっとーは、吹いていた草笛をやめ、しずかにこちらを見下ろした。

「おらん」

「なんて?」おっとーの声は野太とくて、聞きとりにくい。

「父のほかにはもう、鬼はおらん」

「いないの?」

「おらんなあ」

「だからあたい、トモダチできないんだ」そっかそっか、とあたいは長年のなぞが解けてほっとする。

「なんだニオ子。おまえ、そんなものがほしかったのか」

「だってぇ」あたいは唇をとんがらせて、「トモダチいたら、鬼ごっこだってできるよ」

 猫を飼えばネズミだって狩ってくれるよ、とペットを飼いたいがために親を説得する人間の子どもみたいに言ってみた。

「鬼ごっこなぞ、いくらでもしてやるというに。父でダメなら、そこらのわっぱでも追いかけて、捕まえて、バリバリ頭から喰らってしまえ!」

「あのねぇ、おっとー」あたいは呆れてしまう。「ニンゲンなんて喰えるわけないでしょう。喰いたくもないよ」おいしいわけないじゃん、ばかじゃん、とだいすきなおっとーを虚仮にする。「もういいよ。おっとーでがまんする」

「ぐっふ。たしかになあ。ニンゲンは至極マズそうだのう。ニオ子はかしこいのう」

 こんなことであたいの頭を、ゆっさゆっさ、撫でつけるおっとーは重度の親ばかだったのだといまになってはそう思う。

   △

   △

 おっとーからの遺伝子をふんだんに受け継いでいるので、あたいのほっぺは年中、赤ちゃんほっぺだ。寒くなると、ふだんよりもほっぺがほんわか赤みを増すので、あたいはいまの季節がいちばんすきだ。

 駅前はかっこうのえさ場である。

 いつ来てみてもヒトがわらわらと湧いている。各々が別個に行きかっているものだから、すれちがう相手の顔なんて誰も見ちゃいない。蟻だってもっと秩序を保ってあるくというのに。あたいはたまに人間どもが解らなくなる。

 立体歩道橋のうえから雑踏を見下ろす。ざっと品定めする。じぶんの吐く息で視界がしろくにごるので、しばらく呼吸をとめる。

 あたいはひもじくなったらここへくる。鬼のあたいが生きながらえるためには、コレはしなくてはならないことなのだ。

 めぼしい人間を見つけたらあたいは見失わないように注意しつつ、標的のまえにさきまわりする。まえをあるく人間のせなかにうまくかくれつつ、標的とすれちがう寸前にあたいは慣れた手つきで標的のパンツの、うしろポッケからお財布をぬきとる。

 縦長の財布をつかっている人間が狙い目だ。標的となるのは男が多く、たいていちょいとわるそうな匂いをぷんと漂わせている。

 気高き鬼から、孤高の鬼となったあたいは日々こうしてスリをはたらき、糊口をしのいでいる。ご先祖さまが見たら泣くだろう。しかしおっとーはたぶん、褒めてくれる。

「おまえもなかなか、わるよのう」とかなんとか言って。

 今日の標的もまた例にもれず男だった。正面から顔を見たとき、あたいはいっしゅんギョっとした。男の目は、そこに深い孔があいているみたいに、暗かった。丈のあるニット帽をふかくかぶっているせいもあるだろうけど、それだけじゃないどんよりとした危うさが見てとれた。

 目をあわさないように、足元を見てあるく。

 中止しようかどうか迷ったけど、ここでひいたら鬼としての名がすたるような気がした。むろん気がしただけだ。ひいたほうが鬼としての体面は保たれる。でも、体面でお腹はふくれないので、あたいはそのまま男とすれちがう。

 難なく財布をぬきとり、その場から離れる。すれちがうようにあるいているので、接触したあとは、距離がしぜんにひらいていく。

 うしろを振りかえらず、雑踏にまみれるようにしてあたいは駅前をあとにした。

   △

   △

「ちぇ。これっぽっちかよ」

 今日の収穫は、これまでのなかでも最低だった。まずお札が入っていない。さいきんでは電子マネーが主流なので、これはべつだん珍しくもないけども、その肝心の電子マネーを引きだせるカードが一枚も入っていないのだ。

「からぶったぁ」

 悔しさからおもわずお腹が、ぎゅるる、と鳴る。思いかえしてもみれば、ここ数カ月、ずっと空腹がつづいている。いや、空腹というなら、かれこれもう五年以上前からだ。

 おっとーがそばにいてくれたときは、お腹に食べ物をつめこまなくたってよかったのに、おっとーがいなくなってからは、まるで人間みたいに食いしん坊になった。それもさいきんになって悪化している節がある。たくさん食べても、あたいはちっこいままだし、ツノだってなかなか生えそろわない。食費だけが嵩むばかりで、まいってしまう。

 あたいはコンビニでおにぎりを八つ購入し、ぺこぺこのお腹を満たした。満たした矢先に、ぐー、と鳴る。

 歩道から生えた木を囲むようにして備えつけてあるベンチに腰かけ、暮れはじめた冬のそらを眺める。

 夕焼けがあざやかだ。だいだい色に焼けたそらを目にしていると、おっとーの顔がよみがえる。

 最期のお別れのとき、おっとーの顔はこの夕暮れのように、しだいにどす黒く変色していった。

「ニオ子。父はもうおまえのそばにいてやることはできぬ」

「どうして」

 おっとーは黙したまま何ごとかを口にしたが、遠くの山から雷鳴が轟くような響き方をして、うまく聞きとれなかった。

「しんじゃうの?」否定してほしくて言った言葉だ。

「鬼は死なぬ。父はただ、鬼でいられなくなっただけのこと」

「じゃあ、おっとーとしてはいられるの?」

 不安と期待がないまぜとなって、ふたつの感情が反応しあい、目頭を熱くさせる。鬼としてではなく父親としてならずっとそばにいられるのでは、とあたいは潤んだひとみで訴えた。

「いられるよね? だっておっとーは、あたいのおっとーだもん」

 すっとんきょうな理屈で横車を押しとおそうとするも、かぶりを振られてしまう。おっとーが動くたびに、おっとーの身体はひび割れ、表面からこまかく欠けていく。

「やだ。ひとりにしないで……あたい、こわいよ」

「ニオ子」

 おっとーはパリパリと割れるのもお構いなしにうでを伸ばし、あたいの赤ちゃんほっぺに、そのおっきな手でやさしく触れた。

「案ずるな。おまえはひとりではない」

 その日、あたいはひとりになった。

   △

   △

 むかしの記憶を顧みていると、気がついたときには陽がとっぷりと暮れていた。歩道に沿ってたち並ぶお店のネオンや、街灯が、凍てつく夜をあたたかそうに照らしている。今日はいつにも増して、街ぜんたいが華やいでみえる。街路樹にさえイルミネーションが施されているのだ。

 聞き憶えのある曲がどこからともなく聞こえてくる。ジャングルジムがいったいどうしたというのか。

 駅前にいたときは気づかなかったけど、道行く人々も、どこかほくほくとした顔つきだ。足どりも軽やかで、高揚しているふうでもある。きっと足どりが重くなるようなやからは今日、この場にはいないのだ。

「あたいもひきこもってりゃよかったよ」

 ジャングルジムが、ジングルベルへとちゃんと聞こえるようになったところで、今宵はクリスマスイヴなのだと確信した。

 むかしのしょっぱい記憶を思いだし、ひとり、くすぐったい気分に浸る。「まさか、サンタの正体がなあ」

 サンタの正体をしったとき、あたいは初めて、おっとーもウソを吐くのだ、としり、衝撃を受けた。赤ちゃんほっぺもまっさおだった、とは、おっとーの証言である。突きかえされたプレゼントを片手におっとーは、こちらが申しわけなくなるほど憔悴しきった顔つきで、「ニオ子が青鬼になってしもうた」と嘆いた。

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   △

「さがしたぞ」

 流れるように点滅するイルミネーションを眺めながらおっとーとの思い出を懐古していると、となりに男が座った。

「たいして入っていなかったはずだ。返せ」

 鼓動がいっしゅん止まり、せき止められた血液ごと一気にまた流れだす。つづいて、真冬のほしぞらのしただというのに汗が、ぶわっと噴きだした。

 あたいはぎこちない動作でよこを見遣る。男の座ったのとは逆の方向だ。誰もいない。首をもどす。こんどはおっかなびっくり男のほうに顔を向ける。

 男はこちらを見ていない。祈るように組んだ両手にあごを乗せ、歩道を行きかう人々に視線を当てている。独り言ちるように彼は、

「おまえが人でないことに興味はない」とつぶやいた。「財布の中身もくれてやる。だが、財布だけは返してくれ」

「な、なんのことだろう」

 いちおう、そら惚けてみる。効果のほどは期待できない。

 こちらを睥睨すると男は、ほぅ、と唸った。

「鬼か。めずらしいものがいたものだ」

 ごくり。

 じぶんでもびっくりするくらいに大きく、のどが鳴った。

 立ち去りたい。でも、動けない。

 男から伝わってくる雰囲気は、へたに動くと危険だとわからせるのに充分な威圧を伴っている。

「拒むならそれもいい。抗うのも構わない。どちらにせよ、俺はおまえに容赦しない」

 組んでいた両手を解き、男が立ちあがる。巾着のくちをぎゅっと縛っていた紐がゆるみ、中身がこぼれてしまうような調子で、男の全身からドスグロイ渦のようなものが立ち昇った。

「見えるか。見えるだろうな。おまえら鬼は、ヒトの邪心をもてあそぶ」

 あたいは鬼である。しかし、鬼だってビビることはある。この男は、桃太郎よりもこわい。

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 ほら、これでいいでしょ、と財布を放る。

 男が空中でキャッチする。財布の表面を丹念に撫でている。無事だと判ると彼はついでのように中身を確認した。

「もうないよ。使っちゃった。言っても、ちょいびっとしか入ってなかったけど。返せってなら、返すけど……すこし待って」

「いらん」ぞんざいに言って男は、駅前のほうへとあるきだした。そのまま去ってくれることを祈っていると、急に歩をとめ、振りかえる。あたいは身体をこわばらす。

 彼は忘れものを思いだしたような調子で、

「たいせつなものでな。こわがらせてわるかった」

 乾いた声で詫びてくれた。

 こわばっていた身体がうそみたいに解ける。胸のおくがふわふわと膨張する。ひさしく覚えなかったこの感覚にあたいはとまどった。

 おっとーはあたいを叱ったあとで必ず、「ニオ子がおらんと父は困るぞ」とうしろから抱き締めるようにだっこしてくれた。おっとーのひざのうえであたいは泣きべそをかきつつも、あたいだってこまるもん、と言いかえしたものだ。

 凝縮した一点からふわふわとひろがりを帯びていくこの感応は、あのときの感覚にとてもよく似ている。

   △

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 男のあとを尾行(つけ)てみた。鬼の実存をしっているだけでなく、彼はあたいが鬼であることをひと目で見抜いた。もっとも、あたいの頭にはツノが生えているので、見る者が見ればあたいの正体を喝破することはさほどむつかしくない。ただ、あたいのツノは髪の毛に埋もれてしまうほどにちっこいから、一目瞭然ではないことはたしかだ。たしかな事実に気づき、あたいはしょげた。

 電車に乗ることなく男は、徒歩で郊外まで移動した。閑静な住宅街の寝息のような明かりを遠目にできる場所に、闇に同化して立っているビルが、ぽつんとあった。男はそこへ入っていく。

 あたいもこっそりあとにつづく。

 三階にあがったところで、男と鉢合わせした。待ち伏せされていたらしい。気取られているのでは、とあたいもうすうす気づいていたので、さほど動揺はしない。

「要件を言え。ないなら失せろ」

「しってたら教えて」男の気が変わらないうちに投げかける。「あたいって、さいごの鬼なんだって。おっとーが言ってた。ホントにあたいら、もういないの?」

 鬼が鬼であると見抜けるこの男であれば、どこかべつの地域でほかの鬼を見ているかもしれないと思った。

「さあな」俺がしるか、といった顔をされる。「要件はそれだけか」

 突き放すような物言いよりもむしろ、男の暗い目にあたいはおじけづく。周囲に満ちたどんな高濃度の闇よりもよどんだ目だ。

「どうしてあたいが鬼だって、判ったの」声をふりしぼるように訊ねる。「あんた、何者」

 もしかしたらこの男も鬼なのではないか、とひそかに期待していた。雪だるまみたいなそのニット帽のしたには、おっとーみたいな立派なツノがかくされているのではないか、と。

 男はこちらの『何者か』という質問にはふれず、「おまえが最後の一匹かどうかはしらんが」と最初の問いに答えてくれた。「ただ噂だが、ずいぶん前におまえら鬼どもが、滅ぼされたと聞いたことがある。おそらくそのとき、大半の鬼が消えたんだろう」

「滅ぼされた?」

「もういいだろ。俺はこう見えていそがしい。邪魔をするならおまえも消すぞ」

「いいよ」

 いいのかよ、と男がはじめて動揺をみせた。

 売り言葉に買い言葉で、とっさに口を衝いただけの返事だったけども、ここで消えるのもいいかな、とほんきで思えた。

「なんかもう、どうでもよくなっちゃった」いい加減な性格だと自覚していたつもりだったけど、ここまでじぶんがちゃらんぽらんだとは思わなかった。「殺してくれるんでしょ。いいよ殺して」

「生きたくはないのか」

「だってつまんないし」そもそも何のために生きているのだろう、と考えたら途端に虚しくなった。「おっとーがいなくなって、あたいずっとひとりでさあ。話す相手もいなけりゃ、けんかする相手もいない。ツノだっていつまで経ってもちっこいままだし、毎日毎日ひもじいし」

「ひもじい?」男は怪訝な表情をつくった。それから、「そういやおまえ、ツノはどうした」

 屈辱的な言葉を吐きやがった。あたいは傷ついた。半分むっとしながら髪を掻き分け、ちっこいツノを見せてやる。「ほら。あるでしょ、ちゃんと」

 地べたの蟻を観察するように男が顔をちかづけてくる。あたいの頭を覗きこむ。そんなに見るない、と恥ずかしくなる。

 男は満足したのか顔を離し、

「おまえ、いつから食べてない」

 感情を押し殺したような声で訊いてくる。

「さっきおにぎり食べた。八つ。あんたのお金で」

「そうじゃない。ヒトを喰らわなくなってから、という意味だ。どれくらい経つ」

「なん?」

「おまえ、このままだと死ぬぞ」

「んんっ……!?」

 とつぜんの宣告にあたいは両手をぴんと伸ばして、固まる。男はやおらに窓際まであるき、倒れたロッカーに腰をおろした。

「座れ。すこし話を聞いてやる」

「いそがしいんじゃなかったの」

 命じられるがまま、男のとなりに腰かける。足がゆかに届かず据わりがわるい。宙ぶらりんの足をちいさく振った。

 窓ガラスのほとんどが割れている。射しこむ月明かりがあたいたちを照らし、足元に影をつくる。男の顔は、それでもやっぱりどんな影よりも暗かった。

   △

   △

 あたいはじぶんの生い立ちを男に話して聞かせた。相槌も挟まずに男は祈るようなかっこうで、じっと足元を見つめている。

 ひととおり語り終えると、男はようやく、「なるほどな」と唸った。

「なにが、なるほどなの」

「おまえ、鬼がどんな生き物かしらないだろ」

「しってるよ」それはさすがにバカにしすぎでは、と思う。「あたいらはほら、人間を操って、わるささせるんだ。閻魔さまが好みそうな悪人を生みだすのが役目で」

「閻魔さまは余計だが、まあ、当たらずとも遠からずってところだ。ほかには」

「ほかに?」予想外の追加注文にたじろぐ。「鬼はだから、えっと」じぶんのことを考える。「ツノがあって、ヒトよりちから持ちで、長生きで、それから」

 そう、それから。

「あたいしか、いない」

「ちがうな。鬼はもう、どこにもいない」

「うん。あたい以外は」

「そうじゃない。おまえの親父が消えた時点で、鬼族はとっくに滅んでいる」

「んー?」

 物分かりのわるいあたいに業を煮やしたのか、男は淡泊にこう告げた。

「おまえは鬼ではない」

 ぽかーん。

 男の言葉が咀嚼されることなく脳裡でごわんごわんと反響する。あたいは鬼じゃない。へえ。そうなんだ。へえ。

 混乱した頭と格闘していると、彼はついでのように、「ヒトでもないがな」と言い添えた。

   △

   △

 男の話ではどうやら鬼という生き物はヒトを喰らって生きながらえるものらしい。ヒトを喰らわなくなった鬼はやがてひび割れ、朽ち果てる。鬼にとってそれは、人間に殺されるよりも忌むべき最期であるそうだ。

「ヒトを喰らわない鬼は、もはや鬼ではないからな」

「じゃあ、おっとーは……」

 おっとーの死に際の言葉がよみがえる。

 ――鬼でいられなくなっただけのこと。

 おっとーがどんなきもちで消えていったのかを考えたら、胸が張り裂けそうになった。

「でも、どうして」

 どうしておっとーは、ヒトを喰らわなかったのだろう。

「解らんのか。おまえがいたからだ」

 男の言葉は、おまえのせいだ、と歪曲して聞こえ、あたいの胸を貫いた。

「おまえの親父はたしかに鬼だったんだろうがな。おまえを産んだ女はおそらくはただの人間だ。鬼じゃない。だからおまえはそうして、中途半端に生まれた」

「おっかーが、ニンゲン?」あたいのツノやおっぱいがこんなにちっこいままなのは、あたいが半分しか鬼じゃないからなの?

「ちがうな。おまえは鬼でも人間でもない。どちらにもなれない、半端者だ。それでも鬼の性質は受け継いでいるらしいからな。ヒトを喰らわなければ、ちかいうちに、枯れるだろうよ。おまえの親父がそうなったようにな」

「でも、あたい。ヒトなんて食べなくても生きてこられたよ」

 これからだってきっとだいじょうぶだ、と言い張る。

「それは親父さんがいたからだ。鬼は、自分の精気を、子へ与えることができる。おまえがひもじい思いをするようになったのは、親父さんがいなくなってからじゃないのか」

 そのとおりだ。

 でも、だったらどうしておっとーは、こんな大事なことを教えてくれなかったのだろう。

「かんたんな話だ。ヒトの世で生きていくかぎり、ヒトに仇をなしては生きていけない。鬼のいなくなった現代なら尚のことだ。おまえの親父は、おまえにヒトとしての生き方を教えようとしたんだろうな。だがなまじ自分が鬼だから、ヒトの親としては振る舞えなかった」

 だからおっとーはあたいを鬼の子として育てながらも、鬼としては育てなかった。

 ヒトの世で生きていけるように。

 あたいがひとりでも生きぬけるように。

「おっとー」

 胸がつまった。しゃっくりが止まらない。息までつまって、死にそうになる。

 鬼たるもの、いついかなるときも泣いてはならぬ。おっとーの口癖だった。それに倣ってあたいはいつだって泣かなかった。おっとーがいなくなった日も、ひとりぼっちでさびしい日々も、あたいはぜったいに泣くもんか、と抗っていた。

 だってあたいは鬼だから。

 鬼なのだ、と信じていたから。

「つらいときは泣けばいい。さびしいときも泣いていい」

 相も変わらず抑揚のない冷めた声で、男は、

「おまえは鬼じゃないんだから」と突き放すように言った。

 なんども言ってくれなくていい。

 頭を撫でてくる男の手をあたいはちっこいツノで突ついてやった。

   △

   △

 男は鬼ではなかった。頭にツノも生えていない。ニット帽をとると男は、ぐんと若返ってみえた。たぶん髪型が幼いせいだ。

 男は日本中を放浪してまわっているそうだ。何日も付きまとっているうちに、ついてくるな、とは言われなくなった。

「いつまで旅するの」

「探しものがあってな。それを見つけるまではやめるつもりはない」

「ふうん」そういえば財布を盗ったとき、彼はわりと短時間であたいのもとまで辿りついていた。探し物の達人なのかも、と想像する。

 男は物知りだった。ヒトの世の影に生きづくモノたちについてことのほか詳しく、ときおり霊媒師の真似ごとをして小銭をかせぐこともあった。あたいみたいなヒトならざるモノと言葉をかわし、情報を提供するかわりに条件を呑んでもらって、問題を解決する。彼はそれを頑なに「お祓いだ」と言い張っているけども、それはちょっぴりちがうように思う。

「詐欺じゃないの」あたいはそれとなく冗談めかし、言ってみる。

「人聞きがわるい」

「でも、お祓いって、やっつけることでしょ」

「イチイチ発想がぶっそうだ」と非難される。「俺の場合、祓うのは問題であって、原因ではない」

 原因を排除せずとも問題を解決することはできる、と男はつまらなそうに説いた。「だいたいな、客でもなんでもないおまえに文句をいわれる筋合いはない」

 それもそうだ。

「それより」と男は言った。「体調はよくなったか」

「体調? うん、すっかり」

「自分のちからは制御できるようにしておくべきだ。死にたいならべつだがな」

「うん」

 あたいは鬼ではないけど、鬼の性質は受け継いでいる。鬼は人間の邪心を掌握し、人間にわるさをさせる。その際に、人間の邪心を操るのではなく奪うことができれば、鬼はヒトを喰らわずとも生きながらえることができる。朽ちることなく生きていける。男はあたいにそう教えてくれた。

   △

   △

 あたいは実際に男から教わった方法を試してみた。邪心を立ち昇らせている人間を見つけ、そいつにちかづき、ゆびで邪心を絡めとるようにする。からめとった邪心を、糸みたいに引き延ばせば人間を操り人形にすることができる。糸にせず、ゆびに巻きとって綿あめみたいにして食せば、それがあたいを生かす糧となる。

 けど、あたいは失敗した。邪心を絡めとるはずが、逆に絡めとられてしまったのだ。標的にしていた人間は暴走し、あたいはそいつを見失った。

 邪心を奪われたあたいは困憊し、しばらくのあいだ動くこともままならなくなった。あたいは男に協力してもらい、暴走人間の行方を追った。後日、男からの知らせにより、そいつが死んだことをしった。

 とある養護施設を襲撃し、そこで息絶えたことが発覚したのだ。死んだそいつはナイフや拳銃などの凶器まで所持していたという。

「あたいのせいだ」

「そうだな。おまえのせいだ」男の言葉に棘はない。

「怒らないの」

「怒る? なにをだ。おまえが俺を利用しておきながら、なにも対価を払わないことについてか」

「そうじゃなくて。あたいが人間を殺しちゃったこと」

「俺が怒る筋合いはない。今もどこかで大勢が殺されている。イチイチ腹を立てていたのではキリがない」

「そういうのとはちがう気もするんだけどなあ」男はどこか、同族に対しての愛着のようなものが欠落しているように感じられる。「クマが人間をおそったら、人間はクマを始末するものじゃないの」

「おまえはクマではない。そして、人間をおそったわけでもない」

「でも、あたいのせいで死んだ」

「そうだな」男がこめかみをぼりぼり掻いた。「なんなんだ、いったい。怒ってほしいのか」

「そういうわけじゃ……」

 でも、これがおっとーならあたいを折檻したあとでひざのうえにのせ、「ニオ子がいなくなったら父は生きていけぬぞ」と抱きしめてくれているところだ。

 ここまで考えてから、おや、と思い、あたいは耳が熱くなったのを感じて、慌てて話題を変える。

「今日もまた野宿なの」

 返事はない。さきほどから男は、自分の影を追いかけるみたいに俯き、一心にあるいている。やがて、たしかにな、とつぶやいた。

「俺は、人間が好きというほどでもないのかもしれん」

 なにやらひとりで自己完結している。

「じゃあ、あたいとおんなじだ。あたいも人間、好きくないもん。きらいでもないけど」

「いっしょにするな」と拒絶される。「おまえはバケモノだが、俺は人間だ」

 おまえの苦手な、人間だ、と彼は強調した。

「すげない男だなあ、きみは」

「うるさい餓鬼だな、おまえ」

「おまえじゃないよ。あたいにはニオ子って名前がちゃんとあるんだ。これからはニオ子さまって呼んでもいいよ」

 かれいに無視される。聞こえていないのでは、と心配になるほどだ。

 道ばたから聞こえる虫の音が、春の夜のしずけさを際立たせている。

   △

   △

「今日はあそこで休む」道のさきに、潰れたガソリンスタンドが見えた。「付いてこなくていいぞ。寝首を掻かれたんでは、オチオチ夢も見ていられん」

「もうしないよぅ」

 人間を暴走させてしまったあとのことだ。あまりのひもじさから、邪心を喰らってやろうと寝ている彼をおそった。「がるるる!」あたいの気配をあざとく感じとったのか、彼は目を覚ました。「ふざけんな!」彼の鬼畜な反撃によってあたいの夜這いは不発に終わったわけだけども、あの夜にできた頭のタンコブのおかげで、しばらくのあいだちっこいツノが生えそろったふうにみえたので、結果オーライだ。

「俺はここで寝る。おまえはあっちだ」指定された場所は、車両洗浄機のなかだった。

「いやいや」

「店のなかには入ってくるなよ。でなきゃそのツノ、へし折るぞ」

「いやいや」

 男は左手のおやゆびを立てた。右手でそれをにぎり、蟹の脚をもぐように、胸のほうへと折りたたむ。男の左手があたいの頭部にみえた。錯覚にはちがいないが、ツノの付け根がツーンとした。

「……あい」

 あたいは馬小屋みたいな四角い空間で、ひとりさびしく夜をすごす。

 春の夜風はつめたくて肌寒い。あたいはなかなか寝付けないでいた。

 どのくらい時間が経っただろうか。お月さんがあたいから見えないところまで移動したころ、虫たちがいっせいに鳴きやんだ。

 あたいは身体を横たえたまま、息をひそめる。意識を車両洗浄機のそとへとさし向けると、足音がちかづいてくるのが聞こえた。

 足音はあたいのすぐそばまできて、立ち止まり、それからすぐにまたもと来た道を戻っていく。

 虫たちがふたたび合唱しはじめたころ、あたいは起きあがって、車両洗浄機のそとに顔をひょっこり出してみる。ガソリンスタンドの店のなか。男が懐中電灯を片手に、店内をあるいていた。

 あたいは身体にかけられた毛布をかぶりなおす。カビくさいが、ぬくぬくだ。

 胸のおくまで、ふわふわとあたたかくなる。こんどはちゃんと寝付けそうだ。

 さびしさで凝り固まったあたいの心を融かすあの男の名を、あたいはまだ、しらない。




   +++薬尾(やくび)夜神(よがみ)+++

 双子の弟は、産声をあげた数分後にこの世を去った。ただ死んだのではなく、無脳児というやつで生まれてきたせいで、延命処置さえ施されずに産科医の手によって息の根を止められた。

 母体のなかで俺が弟の分まで栄養を独占していたせいだ。それ以外に、俺が生き、弟が死んだ理由が考えられない。

 俺が産まれてから母方の祖父母が相次いで亡くなり、その葬式で俺をあやしてくれた父方の祖父も、その翌月に急死した。

 それだけならまだ誰も、彼らの不幸が俺によってもたらされているなどとは考えもしなかっただろう。だが、俺が四歳になるまでに母が交通事故に巻きこまれ半身不随となり、その後に父まで病死したならば、さすがの身内も、ただひとり無事な俺の姿に疑惑の目を向けないわけにはいかなかった。

 身内の誰も、俺たち母子に関わろうとしなくなった。かろうじて金銭的援助をしてくれたものの、それも或いは、俺を蔑にすることで自分たちに不幸が訪れるのではないか、と怯えていたからかもしれない。

 ざんねんなことに彼らもまた、海外の旅行先で強盗に射殺され、会社が倒産したことで自殺し、そして引きこもりの息子に惨殺されたりした。

 そんな不幸の咲き乱れる一族のなかで俺は風邪ひとつ罹らずに、ただひとり健康に育った。

 母は俺を幼稚園には通わせなかった。俺をとりあげ、弟の息の根を止めた産科医が自殺したとの話を、風のたよりで耳にしたためだろう。死神もまっさおの俺の不幸媒体体質は、一族以外にも通用すると、そのとき母は確信したそうだ。

   +++

 交通事故以来、母は、車椅子での生活となった。歩けなくなってからも俺の世話を怠ることはなかった。他人に任せるような真似だけはけっしてせずに、いつも俺のことを気にかけていた。

「おかあさん。公園にあそびにいってきます」

「そう。気をつけるのよ。いまはすぐ暗くなるから、遅くなっちゃダメよ。今日は夜神くんのだいすきなシチューにしてあげる」

「やったー」

 俺が出掛ける前の母はとても明るく、天使のようだった。そんな母が俺は大好きで、毎日飽きもせずに、遊び相手もいない公園へ行って、勇者ゴッコをした。

「ただいまあ」母の言いつけどおり、暗くなる前に帰宅する。

「あら、はやかったわね」出迎えるときの母はいつも浮かない顔をしている。「もうすぐシチューができるからね。手を洗って来なさい。ちゃんとよく洗うのよ」

「はーい」俺は促されるままに、風呂場へと向かい、しっかり二時間、全身をくまなく洗う。

 一般的に手を洗うという行為が、入浴を示すものではないと知ったのは、小学校へあがってからのことだ。一般的な入浴が二時間もかからないことや、身体を洗うのに塩なんて必要ない、といったこともそのころに知った。

 母は俺と触れあう時間を極限まで削ろうとしていた。

 母もまた忌むべき子供として俺を見做していたのだ。

 このコは、呪われた子なのだ、と。

   +++

 小学校へあがってから俺は、じぶんが集団のなかでは生きられない存在なのだと痛感した。友達ができないわけではない。ただどうしてだか、俺が親しくなった子たちのあいだで、良くないことが重なった。

 たいていの場合、その子たち自身に何かが振りかかるということはなく、その子の家族など、周囲の人間が病に倒れたり、怪我をしたり、多額の借金をするはめになったりする。俺の親しくなった子たちはみなそうして、渦中に巻きこまれる形で不幸に見舞われた。必然、俺の周囲から人がいなくなる。それは文字通り、学校から姿を消すのだ。これらの出来事が、俺の存在から派生している不幸なのだと知るのは、小学校を卒業したあとのことになる。

   +++

 中学生になって俺は恋を知った。彼女はクラスでも目立たないタイプで、友人たちの輪のなかにいても、常に聞き手にまわるような、自己主張の薄い少女だった。病弱な体質らしく、欠席することも珍しくなかったため、クラスのなかではわるい意味で浮いていた。そんな彼女が、まるでじぶんと同族のように感じられ、俺はいつしか彼女の姿を目で追うようになっていた。

 委員会が同じになったというありきたりなきっかけで俺はそのコ、鬼頭(きとう)篠子(しのこ)と親しくなった。

「って、感じで。俺、あんまり友達できなかったんだ」

 じぶんの境遇を嘆くようにして彼女に相談した。実をいえば、相談を装っての迂遠な求愛だった。あわよくば同情をひければな、と姑息な考えを抱いていた。

「そっかあ。それは、さびしいね」彼女は、あたりまえのことをなんの臆面もなく本心から口にできる、素直でやさしい娘だった。

「できれば俺、心から繋がりあえるような友達が欲しい。なにがあっても、友達でいられるような」

「薬尾くんならできるよ」

「でも俺、口ベタだし」

「そんなことないんじゃないかな。わたしもそう思ってたけど、話してみたら、ほら。こんなに話しやすい」

「そ、そう?」

「うん。わたしもね、友達はいるんだけど、親友って呼べるくらいに仲のいいコっていないんだあ。誰もわたしのことなんて興味ないの。すぐに忘れちゃう」

「そんなことないって!」

「ふふ。薬尾くんはやさしいね」

 ムキになって否定してしまったことに気づき、顔が熱くなる。

「だいじょうぶ。わたしが保証してあげる。薬尾くんならぜったいできるよ。心から繋がりあえる、親友」

「鬼頭さんはなってくれないの」ずうずうしくも俺はそんなことを言った。

「へ? わたし?」

「俺の友達、第一号。鬼頭さんなんだけど。俺だけかあ。友達だと思ってたの」

「えぇ……でも」

 彼女は下を向いて、ごにょごにょと消え入りそうな声で不平を鳴らした。「友達じゃないほうが、いいんだけどな」

「え、なに?」

「うんん。なんでもない」彼女は言葉を繰りかえすことはせずに、はにかむことで取り繕った。

 ――友達じゃないほうがいい。

 良い意味とわるい意味、両方に捉えられたが、彼女の物言いは、どう聞いても良いほうの意味にしか聞こえなかった。友達ではなく何ならよかったのだろう。それに思い当たらないほど俺は幼くはなかった。目のまえに差しだされた宝物が眩しすぎたために俺は、聞こえなかったフリをした。彼女の言葉に怖気づいたのだ。

 俺と彼女は、友達でも恋人でもない、微妙な関係のまま、順調に心だけを通じさせていった。

 だが別れというのは唐突だ。

 学校で鬼頭さんが入院したと知らされた。担任に訊ねても詳しい話を教えてくれない。俺は事情を聞くために彼女の家を訪れた。初めて目にした彼女の家は、おどろくほど大きく、戦国大名のお屋敷のようだった。

 彼女の母親からは、「暴漢に遇った」とだけ告げられた。その言葉の意味するところを察するには、俺はまだ無垢すぎた。彼女がすでに退院していると聞いて安堵したほどだ。

 会わせてほしい、と頼んでみたが断られた。

 その数日後、学校に流れる噂を耳にしたとき俺は、じぶんの無知と無力さに怒りを覚えた。怒りによって全身が凍えたように戦慄いたのをいまでも憶えている。

 「ぼうかん」は、一字ちがうだけで、「ごうかん」となる。

   +++

 俺が男である以上、彼女のそばに居つづけることは、彼女を余計に苦しめるだけだ、と考えた。

 いや、これは偽りだ。じぶんを正当化したいがために見繕った詭弁にすぎない。

 俺が彼女のことを想いつづけていれば、お互いの心を結んだ糸が切れることはなかっただろう。鬼頭篠子は俺が思っている以上につよい人間だ。

 俺のほうが、耐えられなかっただけだ。

 彼女の身に起こった出来事が、どれほど彼女の人としての尊厳を踏みにじり、傷つけたのか、を知ることが、俺にはとてもおそろしかった。

 何より。

 彼女にどう接すればよいのかと思い詰め、母に答を乞うたとき、俺はじぶんの忌まわしい性質を突きつけられた。

 母は、俺の身の周りの人間が辿った不幸な末路を、呪文を唱えるように、区切りなく言い並べた。

 

「ごめんね。お母さん、いつかは話そうと思ってたんだけど」

「うそだ」ばかなことを言うな、と俺はいきり立った。

「うそじゃないんだよ、夜神」

「じゃあ、鬼頭さんも……篠子も、俺のせいだってのかよ」

「夜神のせいじゃないよ。でもね、夜神と関わらなければ、そのコもそんなひどい目には……」

 俺は母の、すっかり棒きれのようになった脚を見た。視線を感じたのか母は、長いスカートのすそを直し、脚をかくした。長い沈黙が訪れる。

「もういちど言うけど、夜神のせいじゃないよ」

 母はこのとき、一度も俺の顔を見てはくれなかった。

   +++

 高校を卒業し、独り暮らしをはじめた時分に、母は亡くなった。心筋梗塞で倒れ、運ばれた病院で翌日にはしずかに息を引きとった。

 俺を育てるためだけに母は生きていたようなものだ。さびしい人生だと俺ですら思う。いつ死ぬかも分からない恐怖に耐え、実の息子に怯えて暮らす日々。考えただけでも悪心を催す。

 そして俺が自立できるようになったのを見計らったように、人生に幕を下ろされた。

 幕を下ろしたのはほかでもない、この俺だ。俺の存在が、母にそのような人生を強いていた。

 俺という存在は、親しい人間に不幸をまき散らす。

 死ぬよりも辛いことなどいくらでもある。死ぬことが不幸なのではない。不幸に死が内包されているのだ。死もまた、数多の不幸のうちの一つにすぎない。

 母が死ぬことなく生きながらえていた背景には、こういった不幸という基準の曖昧さが関係しているのだろう。俺とすごした十数年は、母にとって悪夢のような日々だったにちがいない。

   +++

 祓い屋、という職業があることを俺は、バイト先の清掃会社で知った。

「おい新入り。知ってっか。今日の現場はな、これまで何度も自殺があった場所でな。オレも前に片づけたことがある。今回は三度目だ」

 トラックを運転しながら、ひげ面の舘尚(たちなお)さんが言った。

「自殺したくなる部屋なんですかね」当たり障りのない返事をする。

「呪われてんだろうよ。だから今回は、祓い屋っつって、よその業者も来るらしい」

「祓い屋?」

「悪霊たいさーん、つってな。ホウキでも振るんだろうよ」

 振りませんよ、とは言わなかった。

   +++

 どこにでもあるマンションの一室だった。そこの部屋だけ、ほかの部屋よりも家賃が格段に安く設定されている。この立地条件で、その値段設定ならば入居希望者は後を絶たないだろうと思わせる部屋ではあるのだが、せっかく住んでも自殺してしまうのでは、元も子もない。

 管理人の説明を聞きながら俺はそんなことを考えていた。

「ワタシも見てしまいましてね。首を吊ってましたよ。こう言っちゃなんですけどね、イヤなものを見てしまった」

 おっと、ここですね、と管理人が歩を止める。件の部屋のまえに到着したようだ。「というわけでして。あとは業者さんにお任せします。床の張りかえが必要なようでしたら、そちらもお願いします」

「わかりました。床のほうはたぶん、ええ、張りかえずとも大丈夫でしょう」舘尚さんは部屋も見ないで応じた。「今の季節なら、まあ、まだギリギリ腐りにくいでしょうから」

 遺体のことを言っていると気づくのに時間がかかった。まだ涼しい季節だから遺体が腐らずに液状化せずに済んだはずだ、と舘尚さんは見ているようだ。

「では、よろしくお願いします」鍵を渡して、管理人は去っていった。その背中を見届けながら俺は舘尚さんに訊いた。「首吊りだって言ってましたけど、どうして腐ってないと思ったんですか」

 今の季節でも、発見が遅れれば遺体は腐る。

「あのおっさん、言ってたろ。首吊ってたの見たって。首吊りの場合な、腐ると切れるんだよ。首と胴体がな、こう縄からきれいに、ぶっつんと」

 そういうものなのか、と感心する。

   +++

 舘尚さんが扉に鍵を差しこんだところで、「あれ」と声を発した。

「開いてんな」

「掛け忘れですかね」

 扉を開けると同時に、中から、顔にスカーフを巻いた女性が出てきた。舘尚さんがおどろいたように、「うわ」と声を発し、一歩後退する。体勢を立て直しがてら、女性の進路を妨げるように仁王立ちした。

「どちらさまですかね」

「そちらこそ、どちらさまですか」女性は帽子を被っているため、目元だけが露出してみえる。

「見てわからんかな。掃除しに来たんだよ、この部屋の。したら不審な人物が出てきた」

「わたしは祓い屋です。オーナーに依頼されて来ました。聞いてませんでしたか?」

 管理人はそんなことを一言も言わなかった。さきに部屋へ通していたとして、それを言い忘れるものだろうか。不審に思うものの、しかし祓い屋が来るという話自体は舘尚さんから聞いている。舘尚さんはそれを社長から聞いたのだろう。

「ああ、あんたが」彼は首肯を示した。

「はい。祓い屋です。作業は終わりましたので、おさきに失礼します」女はひかえめに低頭し、舘尚さんを押し退けるように進んだ。

 俺は舘尚さんのうしろに立っていた。大柄な舘尚さんのおかげで、女からは俺が見えていなかったのだろう。俺は彼女とぶつかり、よろめいた。

「すみません」と謝る。

 いっしゅん、女と目が合った。時間が止まったかのような感覚に襲われる。黒目の大きな彼女を見詰めていると吸いこまれそうになる。

 と、不意に目を逸らされる。女は何も言わず、逃げるようにこの場から去っていった。

「へんな女。ん、女だったよな、あいつ」

 舘尚さんの微妙にずれた発言に、俺は、この人はもしかしてゲイではないのか、と疑った。

   +++

 冗談めかし訊いてみたところ、なんと舘尚さんはゲイだった。

 さいわいなことに、俺はタイプではないそうだ。

「警戒すんなよ、新入り。同性愛者だからってな、男なら誰でもいいってわけじゃねぇんだ。おまえだってそうだろ。女だからって誰かれ構わず欲情するか? しねぇだろ」

「しないスね、俺は」

「だろ?」舘尚さんはうれしそうにゲイについての生態講座を披露した。俺はそれを、清掃作業をしながら聞き流すことに専念した。俺は別にゲイのアナリストになるつもりはない。

 清掃作業も佳境に入ったころ、舘尚さんが「なんだコレ」と声をあげた。

「どうしました」

「札が貼ってある。邪魔だな。取っちゃうけど、いいよな」

 取らないほうがよいのでは、と意見する間もなく、舘尚さんは柱の裏に貼られていた「呪符」をひっぺがした。ゴミ袋に捨てればよいものを、丸めて、こちらのポケットに仕舞ってくる。イヤガラセを装ってのこれはセクハラだ。

「よし。あとすこしだ。ちゃっちゃと終わらせて帰るぞ。奢ってやるから、飲みに付き合え」

「取っちゃっても良かったんですか」

「あ? ソレか?」舘尚さんはわざわざ俺のポケットを叩く。どさくさに紛れて尻も触ってくる。「落書きみたいなもんだろ。部屋をキレイにするのがオレたちの仕事なんだ、避けてはとおれねぇよ」

 カッコよい台詞だが、言っている状況がカッコわるい。避けてとおってもバチは当たるまい。それに、

「さっきの女性が貼っていったものかもしれないですよ」

「さっきの女性? どこのどんな女だよ。幽霊でも見たか?」

 舘尚さんはなぜか怪訝そうな表情で惚けたことを言った。ジョークにしては真に迫っている。

 うまい返しを思いつけないでいると、

「で、飲みには来るのか」

 せっかく流した話題を舘尚さんはぶりかえした。

「遠慮しておきます」

「オレが同性愛者だからか?」

「それも、あります」

「マジでか」

「冗談です」

「コノヤロ、ふざけんな。焦ったじゃねぇか」

 がははは、と舘尚さんは豪快に笑った。

   +++

 俺は清掃会社を辞めた。理由は、舘尚さんがゲイだからではなく、憎めない人だと感じたからだ。俺が自給二千円の仕事を諦めるだけで、舘尚さんは不幸にならずに済む。しあわせにはなれずとも、人生のどん底を味合わずに済むはずだ。

 そうと考えて辞めたわけだが、当てが外れた。辞めるのが遅すぎたのだ。

 清掃会社の社長から、「連絡しようかとも迷ったんだけどね」と訃報をもらった。「ほら、薬尾くん、舘尚さんと仲良かったでしょ。いちおう、報せておこうと思って」

 周囲の人間からそう思われてしまっていた時点で、俺がどう対処しようとも無駄だったのだ。

 合わせる顔など、どこにもない。

 舘尚さんの葬儀には参列せずに、香典を包むだけで帰ってきた。

   +++

 母がまだ生きていたころのことだ。じぶんのせいで親戚一同が死に絶えた事実を知った俺は、「なぜこんな死神を生かしておいたのか」と母に激しく当たり散らした。思春期を迎えた時分での母からの告白に、俺の精神は耐えることができなかった。そんなとき、母は俺にこんなことを言った。

「お母さんね、あるときふと、気づいたの。人はいずれ死ぬものだって。当りまえのことなんだけどね。ただ、そう考えると、べつに死んでしまうことがそれほどわるいことではないような気がしてきて。もちろん、長生きはしてもらいたかったわよ。お父さんにも、みんなにも。ただ、きっかけがなんであれ、人は死ぬときは死ぬわけじゃない? だったらどうせいつかは来るんだもの、そのきっかけが訪れるまでは、楽しんで生きるのもいいかもな、って。お母さん、そう思ったの」

 それは母が自身に言い聞かせつづけてきた胸のうちであるのと同時に、俺に対する庇護のようなものにも感じられた。

 ――楽しんで生きるのもいいかもな、って。

 母はそう思いこみたかったようだ。息子のせいで数多の人間が死んでいった。その重責を、息子の代わりに背負いこみながら、それでも母は、俺と生きようとしてくれていた。

 俺は知っていた。

 母が俺のことを呪われた子として見做しながらも、だからこそ、俺を守るために、あらゆる努力を惜しまなかったことを。

 俺との接触を避けていたのも、母として俺のそばから離れずに済むよう――死に別れずに済むようにとの苦肉の策だったのだろう。日常的に俺の身体を清めることで、厄災や穢れを祓おうともしていた。

 どれも無駄な努力でしかなかったが、そこにはたしかに母の想いが散りばめられていた。

「かぁさん。ごめん。俺、やっぱり生きてちゃダメなんだ」

 大切に思われていた過去がある分、親しく接してくれた舘尚さんの死は、ことのほか深く俺の胸の奥に刻みこまれた。

   +++

「兄は自殺するような人ではありませんでした。なにかお心当たりはありませんか」

 舘尚さんの妹が俺の住むアパートを訪ねてきたのは、俺が清掃会社に返し忘れた清掃着を処分しようとして、ポケットから見覚えのある「呪符」を見つけた日と、奇しくも同じ日だった。

 強引に俺の部屋へとあがり込んできた舘尚さんの妹は、舘尚さんの死因が自殺であったことや、その自殺が不審である点を、まるで俺が舘尚さんを殺した犯人であるかのような剣幕で捲くし立てた。

「白状しなさいよ、でないとあんたの家族がどうなっても知らないからね」

 俺が舘尚さんを殺したというのはあながち間違いではない。糾弾さながらに迫りくる妹さんをまえにし、俺は追いかえすこともできずに、彼女の、夕立のように激しい言葉にただじっと耐えるほかなかった。

   +++

「申しおくれました、私、舘尚(たちなお)レナイと言います」

 意気込みすぎて疲れたのかレナイさんは、興奮冷めやいだ様子で、いまさらながらの自己紹介をした。

 ようやくお茶を淹れる余裕が生まれる。

「このたびは……」湯呑を差しだしながら俺はうなだれる。気の利いた言葉もでてきやしない。

「いいんです。薬尾さんのせいではありません」

 さっきの威勢はどこへ行ったのか、と責めたくなるほど、今度は一転、彼女は意気消沈した。クマのような舘尚さんとは似ても似つかない容姿のレナイさんだが、よく見ればなるほど、ところどころ兄の面影が見てとれる。性格に至っては、横暴なところがそっくりだ。憎めないところまで似ているから、始末がわるい。

「自殺は考えられないとおっしゃいましたが」俺は静寂を破った。「舘尚さんは本当に自殺だったんですか」

「それは間違いないようです。警察の方に、何度も問い質しましたから」

「何度も、ですか」対応した警官に同情する。あなたのそれは脅迫というのですよ、と教えてやりたくもなる。

「兄だけじゃないんです。兄が死んで以来、母や父まで体調を崩して。もちろん、兄の死がショックで、精神的にまいっているだけとも考えられます。でも、それにしては、母と父の様子がおかしいんです。まるで、死ぬ直前の兄のようで」

 気になる話だ。「どんなふうにおかしいんですか」

 レナイさんは、事細かく、生前の舘尚さんに起きた変異や、現在進行形で進んでいる両親の異変、それからそれら二つの共通項などを挙げ連ねた。そのあとで彼女は青息吐息、

「まるでとり憑かれているみたいで」と話を結んだ。

「とり憑かれて、ですか」

 テーブルの端。昼間に発見し、置き忘れたままだった「呪符」が目に止まった。

   +++

 レナイさんが帰った後、俺はすぐに社長に電話をして「祓い屋」の連絡先を訊ねた。

「教えるのは構わないけど、何? 舘尚くんの幽霊でも出た?」

 四十九日も迎えていないうちからそんな冗談を言える社長も、舘尚さんに負けず劣らず、図太い神経の持ち主だ。

「まあ、そんなところです」

 俺は電話を切り、さっそく社長から仕入れた番号を押した。ツーコール以内に相手がでる。

「ご用件を承ります」女の声だ。名乗りもしないとは、恐れ入る。

「祓い屋さんですよね。依頼したいので、すこしお話を伺いたいな、と思いまして」

「構いません。こちらから伺いますので、お名前とお電話番号。それからご都合の日時と場所を教えてください」

 俺は偽名を使った。日時と場所については、あすの正午にそちらのお店で、と相手のホームタウンである「祓い屋」の事務所を指定する。

「承知しました。こちらの場所は――」相手は、繁華街に立つショッピングモールの裏側に位置する住所を口にした。

「では、あすの正午、お待ちしております」

「ええ。あす、必ず」

 電話が切れる。

 俺はさっそく、住所をメモした紙と「呪符」を手にし、出掛ける準備をした。

 外は陽が暮れはじめ、もうすぐ夜がやってくる。俺は電話の声の、淡泊な口吻を思いだし、それから自殺の乱発するマンションの部屋から出てきた、あの女を連想した。

   +++

「あすだと伺っておりましたが、どういった了見でしょうか」

 祓い屋の女は、電話の声と同じように、冷たく尖った物言いで俺を出迎えた。

 氷柱みたいな女だな、との所感を抱く。

「いえ、もしかしたら逃げられるのではないか、と不安でして。急遽予定を前倒しにしてみました」

 今日も彼女は、スカーフで口元を覆い、深々とニット帽を被っている。

「ご用件だけをおっしゃってください。わたし、これから帰るところだったんです。三日ぶりの帰宅です」

 なぜ邪魔をするのか、と憤っていらっしゃるご様子だ。ほかの従業員の姿は見えない。元々いないのか、それともすでに退社したのか。

 と、ここで俺はふと、彼女の言動に違和を感じた。

 玄関先で彼女は、俺の顔を見てすぐに、さきほど電話してきた男が俺であると判断し、どういった了見でしょうか、と非難めいた言葉を発した。

 だがおかしい。俺はまだ名乗ってもいない。なぜ俺が電話の主だと判ったのだろう。俺は、小細工を要す真似はせず、単刀直入に用件を切りだす。

「これに見覚えがあるはずです」ポケットから「呪符」を取りだし、女に見せる。「自殺者のでるマンション、知ってますよね。あなたはあの部屋にコレを貼ったはずです。それを剥がした俺の先輩が、先日亡くなりました。無関係だとは思えなくて、つい、こんな不躾な真似を。ただ、もし先輩の死因がコレと無関係でないなら、被害が増えないうちに俺はなんとかしたいんです。心当たりがあれば、教えていただけませんか」

「一つ、約束してくれますか」

「なんでしょう」

「二度とわたしのまえに現れないと誓ってください」

 どういう意味かをしばし考える。祓い屋と名乗っている以上、こちらの不幸媒体体質を彼女は見抜いているのかもしれない。

「わかりました。二度と現れません」俺は彼女と約束した。

   +++

「あなたの推測したとおりあなたの先輩は、コレを剥がしたせいでお亡くなりになられました」祓い屋の女は、俺の出した呪符を指さして言った。「自殺ですよね」

「はい」

「逆にあなたはコレを持っていました。だから〝あのコ〟からの干渉を受けずに済んだんです」

「あのコ、とは?」

「あの部屋にいた、言ってしまえば、悪霊のようなものです。わたしたち祓い屋は、依頼を受ければ、人間に仇を成す現象を解決するために、原因となるあのコたちのような異形を、祓います。ただし、わたしたちがするのは、飽くまでお祓いであり、滅することではありません。ですからああいったときは、『護符』という結界を貼って、部屋に異形を近づかせないようにするんです。ただ、それを」

 舘尚さんが剥がしてしまった。異形は、部屋には戻らず、舘尚さんにとり憑いた。

「でも、それだと、護符を貼ったところで同じことでは?」護符があのまま貼ってあったとしても、部屋から追いだされた異形はまた別のところで自殺者を生産しつづける。意味がないのでは、と俺は指摘した。

「そのとおりです」言い訳をするでもなく彼女は認めた。「ですからわたしたち祓い屋は、この世からなくなることはありません。原因を消さず、問題だけを解決し、そしてまたどこかで新たな問題が生じる。そうしてわたしたちは、祓い屋として存在しつづける」

 忌まわしいと思いますよね、と彼女は自らの存在を否定するかのように、零した。

 そんな彼女の、ごにょごにょと消え入りそうな声を耳にし、俺ははっとした。いつの日にか聞こえないフリをした幼き日のじぶんの姿がよみがえる。

 俯いた彼女に手を伸ばす。素顔をかくすスカーフを奪いとるつもりで、そっと動く。こちらの挙動に気づいた彼女が素早く身を引くが、すでに俺に掴まれていたため、反動でスカーフは勢いよくほどかれた。

「なにしてんだよ……鬼頭さん」

「あーあ。バレちゃった」彼女は中学生のときと変わらぬ仕草ではにかんだ。「ひさしぶりだね、薬尾くん。まだ、覚えていてくれたんだ」

「忘れるわけないだろ!」

 忘れられるはずもないのに。

「ふふ。薬尾くん、変わってない」

 大人になった鬼頭篠子は、それでも俺の記憶にあるままのあどけない顔つきで、そんなにおっきな声で否定してくれなくても、と照れくさそうに目を伏せた。

 氷柱の印象など、スカーフと一緒に消えていた。すっぴんを見られた女子が悔しがるように彼女は不貞腐れながらも、どことなく、ヘルメットをやっと外せた宇宙飛行士のように清々しそうだった。

   +++

「祓い屋の一族はね、代々こうやって家督を継ぐの。そのために男子は元服、女子は裳着を期に、祓い屋としての技術を身につけるために、実際に現場に派遣されたり、修行場って呼ばれる神霊地に赴いて、祓い屋一族としての血を目覚めさせてりするの」

「中学のときの話か?」

「うん。わたしもあのころ、ちょうど祓い屋として仕事のお手伝いをしてて。わたしはね、薬尾くん。血が濃すぎて、ちいさいころからよく異形にとり憑かれたりしてたの。だから、そとを出歩くだけで体調をわるくしちゃうことが多くて」

 彼女が病弱だったのは祓い屋としての血筋が関係していたようだ。

「その日もわたし、仕事をするために学校を休んだの。そしたらびっくりだよ。受けた依頼が、薬尾くんを祓ってほしいって内容だったんだもん」

「え? 俺を?」なんで、と思うと同時に、あり得る話だ、と納得する。俺の不幸媒体体質は、有害にすぎる。俺自身、誰かに駆除されたいと望んでいた時期があったほどだ。

「祓うだけなら、わたしもがまんできた。しょうがないよね、って諦められたの。でも、薬尾くんはわたしたち祓い屋でも手に負えない存在だった。だって、わたしでさえ判らなかったくらいだもん。薬尾くんは、わたしたちや異形とはまったく別の次元にいる。言ってしまえば、神の域。そういった次元に薬尾くんはいる」

「神の域?」すこし壮大すぎやしないか、と思う。

「そんなことないよ、薬尾くんは疫病神にちかい存在なんだから」

「疫病神、ね」言い得て妙だ。

 それは解ったが、と適当に相槌を打ち、話をもとに戻させる。「俺を祓えって依頼はどうしたんだ」

「さっきも話したと思うけど、祓い屋は飽くまで、問題を解決するための組織。原因を葬ることはできないの。でも、例外的に、原因そのものを排除しなくちゃならない場合もでてくる」

「原因を排除する以外に、問題を解決できない場合か?」

「そう。薬尾くんのちからは祓い屋ではどうすることもできなかった。そうなるとでてくるのが、始末屋の連中」

 始末屋とはまたぶっそうな名だ。

「陰陽師って言えば分かりやすいかな。相手が鬼だろうと神だろうと、容赦なく葬り去る、冷酷なやつら」

「でも、俺が生きてるってことは、そいつらの出番はなかったわけだ」

 怒らないでね、と前置きしたあとで彼女は、

「あの時、わたし、薬尾くんを護ろうと必死だった。だから、始末屋に連絡が行く前に、わたし……仕事仲間の口を――」

「まさか」

 殺したのか。

「そこまではしないよ」荒らげた声をいまいちど静めて彼女は言った。「ただ、あのひとたちはもう二度とそとを出歩けない」

「もしかして、そいつらって」

「……そう。わたしを襲ったってことになってる、男の子たち。みんなわたしのせいで、記憶を失くした。それだけでなく、犯罪者のレッテルまで貼られて、いまはきっと祓い屋一族の、隔離所に閉じこめられていると思う」

「全部、俺のためか」

「ちがうよ。わたしのためだよ。わたしが、厭だっただけ」

 あーあ、と彼女は嘆息を吐いた。「一生黙ってるはずだったのになあ。こんなひどい女、嫌いになったよね」

「なるわけないだろ」今度も俺はきっぱりと否定した。「むかし言ったよな。俺は、なにがあっても友達でいられるような友人が欲しいって。そしておまえは変わらず俺の、友達、第一号だ」

「わたしも言ったよね……あのとき。友達じゃないほうがいいんだけどな、って」

 彼女は泣き笑いを浮かべながら、ホントは聞こえてたくせに、と下唇を噛んで、それでも堪えきれない涙を溢れさせた。

   +++

 子供をつくってしまおう、と篠子が言った。

 そうすれば、祓い屋一族も、俺のことを身内として受け入れざるを得なくなるはずだ、とそう言って、俺たちは一緒になる誓いを立てた。娘が産まれたのは、俺たちが誓いあった一年後のことになる。

 俺たちは、娘が産まれるまで、常に一緒の時間をすごした。片時だって離れずに、互いの体温をすぐそばに感じた。

 ――もう二度とわたしのまえに現れないと誓ってください。

 別れることがなければ、現れることもできない。俺は篠子と交わした約束を破らなかった。

「わたしにとっての不幸は、薬尾くんが死んでしまうこと。だから、薬尾くんのそばにいても、わたしが不幸になることはないよ。だって、薬尾くんのちからは、けっして自分を傷つけたりしないもの」

 篠子の読みどおり、俺は大切な者のそばに居つづけても、彼女を失うことはなかった。

 だがそれも、娘が生まれてくるまでの話だ。篠子は、だいじょうぶ、と言っていた。

「どんなにかわいい子を産んでも、わたしの一番は、薬尾くんだから」

 虚勢ではない。嘘偽りのない本心からの言葉であることは、俺にも判った。彼女を疑うつもりはないし、今だって俺は彼女の一番であると信じていられる。

 しかし、産まれた娘が二番だとも思えない。一番が二人になったとしても、ふしぎではない。

 これが俺の杞憂である可能性もある。ただ、起こってしまってからでは遅いのだ。

 俺は妻と娘をのこし、単身、旅にでた。

 篠子が、自分のために俺を庇ってくれたように、俺もじぶんのために、大切な者たちを護ってみせようと思う。

 俺はいま、独りだ。

 だが不幸ではない。





   STP蝶野(ちょうの)緑沙(りょうくさ)PTS

「人間はあらゆる可能性を無意識のうちから否定している。それは自己という現象を、他者を通してでしか認識できないためだ。

 他人にできないことは、自分にもできない。

 そうして人は、自らの可能性を狭めていく。

 だがときに、自らの裡にのみ自己を見出す者が現れる。彼らは、他者の裡側に自らを見出さない。

 なぜだか分かるか、悩める乙女よ。

 彼らは、本質的に見抜いている。疑うことなく、自らと他者がけっして分かち合うことのない別種の生き物である、と。

 彼らは選ばれた人種である。人類として、ほかの大多数の者たちよりも上に立つべき神人だ。

 いや、実際に上に立っている。だからこそ、彼らは我々には出力し得ないちからを発揮する。

 蟻を見下ろす、我々のように。

 彼らは、我々をはるか頭上から見下ろしている。

 我々は、彼らをこう呼んでいる。

 超能力者。

 英語で言えば、エスパーだが、これは実のところ、『スゴイ(S)・(天然)(T)パーマ(P)』の頭文字(イニシャル)である」

   STP

 オジは頭がおかしい。会うたびに真面目くさった顔で、「エスパーになりたくはないか!」とヘンテコな踊りをしながら勧誘してくる。あまりにヘンテコな踊りなので、動画に撮って共有動画サイトにアップしてやったら、またたく間に人気動画の一つとして人口に膾炙してしまった。

 世界は奇人を求めている。

 そしてオジは、どの国の人も認める、奇人であるようだ。

 母の弟にあたるオジは、歳でいえば、父よりも兄にちかい。歳がちかいせいもあり、兄はオジを慕っている。

「あんなアホに洗脳されるなんて、みそこなったぞ兄ちゃん」

 目を覚ませよ兄ちゃん、とオジからの有害電波を遮断させようと試みるものの、

「オジちゃんの良さが解らねぇなんて。レナはまだまだだなあ」

 逆にぼやかれる始末だ。

「おとなびてやがる! ぴちぴちブリーフのくせに! 高校生にもなって!」

「ブリーフのなにがわるい。さては知らねぇな、レナ。男の色気はな、ブリーフから匂い立つもんなんよ」

「まさか!」

「おっと。オコチャマにはまだ早かったかな」

「勝ちほこった顔をするない! 私だって知ってるし。ブリーフの色気くらい!」

「さては、兄ちゃんの嗅いだな」

「ちがうわい。父ちゃんのだい」

「父ちゃーん。レナがなぁー!」

「ぎゃー! ゴメン兄ちゃん、今のウソ!」

 オジは頭がおかしい。同じくらい私と兄も狂っている。すべてオジから受けた悪影響だ。

 教育とは、かくも悲惨な洗脳である。

   STP

 オジが今日も今日とてやってきた。

 暇な男である。

 と、嘆く私も、漫画本片手にソファに寝転んでいるところを鑑みるに、暇な女である事実が否めない。かなしきことに。

「やあレナちゃん。きみはエスパーになりたくはないかい」

「なりたかねぇよ。誰がてめぇみたいな天然パーマなぞに」

「そこで『ニートのオヤジ』と言わないところが、レナちゃんの良いところだ。おじちゃん、無限のやさしさを感じちゃう」

「ほかのモン感じてたら殺すぞ」

「あれ、ルルくんは?」

「兄ちゃんなら、部活」

「日曜なのに?」

「日曜日だから」

「柔道だっけ?」

「卓球」

「あんな巨体でかい?」

「あんな巨体で、卓球」

 兄は無駄にクマみたいな巨体を駆使し、ウサギみたいな敏捷さで、スコスコ飽きもせずに玉を打ちあう。その様はたいへん滑稽であるが、なんども見たいと思うほどステキなものでもない。

「兄ちゃんは・何をしても・むさくるしい」私は俳句を読むみたいに節をつけて言った。

「そっかあ。部活じゃしようがない。ざんねんだけど、今日のところは諦めよう。せっかく特別に連れていってあげようと思ったんだけどね。まあ、致し方ない」

「は? どこに?」おまえごときが兄ちゃんをどこへ連れて行こうとぬかすのだ。

「この前来たときに約束したんだよ。つぎ、集会があるときには是非連れてってくれって」

「だから、どこに」

「集会だよ。STPの」

「スゴイ天然パーマの?」

「そ。スゴイ天然パーマの、集会」

 なんだその、超絶ウサンクサイ会合は!

 どうでもよい話だが、「ウサンクサイ」と「ウンコクサイ」は、ひと目みただけでは見分けがつかない。そしてオジの手はウンコ臭い。

 私はオジであるこの男、「スゴイ天然バーカ」の魔の手から兄ちゃんを護るため、超絶ウンコクサイ会合に潜入する臍を固めた。

   STP

「おい。天然おバカ。おまえ、集会って言ったよね」

「言ったね、レナちゃん」

「集会ってのは、『特定の目的のために多くの人が一時的にする会合』のことだって、広辞苑には書いてあるんだけど」

「そうだね。概ねそのとおりだ」

「じゃあ、なんであんたら、三人ぽっちなわけ?」

 オジを除けば、集まっているのは二人だけだ。眼鏡の女性と、前髪パッツンのちびっこだ。しかも場所は公園ときている。そこらで幼稚園児が駆けまわっているけども、それでいいのかおまえたち。

「おまえさ。これのどこが『多くの人』なわけよ」

「うんまあ。今日はちょっと集まりがわるいかも」

 そうなんですか、と眼鏡の女性に訊ねてみる。

「いや、こんなもんだよ。いつも」

「おいコラてめぇ。なにちょっと見栄はってんだよ。身内の私まで恥ずかしいじゃん」

「いやでも、いつもはあと一人くるんだよ?」

「一人かよっ!」

 テンでお話になりませぬなあ、と私は頭を掻きむしり、地団太を踏む。だむだむ。

「まあいいや」

 喚いたら落ち着いた。「んで、STPの集会ってなにすんの。ダベッて終わりってことはないよね、さすがに」

「なあ、お嬢ちゃん」眼鏡の女性が発言した。「エス、ティ、ピィーって――なに?」

 おうふ!

 おどろきのあまり、じぶんでじぶんのオデコをノック・アウツしちまった。

「オジさん。ねえ、オジさん。私、もう責めないからさ。ほんとうのこと言って。私、見ててつらい。姪として」

「あー、うん。え? いや、本当のことって言われても――ねえ?」

 オジは、眼鏡の女性とちびっこを見遣って、ヘチャムクレな顔をさらにヘチャムクレに歪めてみせた。

 わー、オジさん、こまったお顔、じょうずね。ダメな息子を無駄に褒める母親のきもちが解ってしまった。中学生女子としてこれはいかがなものか。青少年保護育成条例で定めていただきたいものだ。

 女子中学生たるもの、むやみにゴミを甘やかさざるべからず。

「ゴミとはひどいなあ」

 心の嘆きをゴミに読まれた! と焦ったが、そういうわけではもちろんなく、オジは、公園を見渡し、やれやれ、とひときわ小憎たらしい顔を浮かべている。小憎たらしい顔がどんな顔かというと、ゴキブリが二足歩行で、やれやれ、と触覚をピクピクさせている様を思い浮かべてほしい。そうだ、あの顔だ。

   STP

 私が「説明しろ」と眼光を炯々とさせて催促すると、オジは「いやね」と、尻を小突かれてパッパカ、パッパカ走りだす馬鹿みたいに話しだした。そうだオジは馬鹿だ。

「いや、ここ最近ね――言っても、ひと月くらい前からなんだけど、この公園が荒らされててさあ。トイレの壁に落書きされてたり、あとは、遊具が壊されてたり。イタズラの域をでないような、ちゃっちいことなんだけどね。いやホントちゃっちいことなんだけども、ほら、ほっとけないでしょ?」

 ちゃっちいイタズラなだけに、行政もすぐには動いてくれないそうだ。

 そこでオジは「公園見回り隊」の隊員を募り、結成してみたのだという。

「待て。募ったのはあたしだ。こいつじゃない」眼鏡の女性が意を唱えた。

 私はオジをきつく睨む。これ以上恥を上塗りするようなことになれば命がないと思え、と念じる。

 殺意が伝わったのか、オジは、ブルルと身震いした。

   STP

 見遣ればなるほど、トイレの壁には消されぬままの落書きと、落書きのような「落書き禁止」の張り紙、そして遊具には「使用禁止」の張り紙が貼られている。よくよく目を凝らしてみると、落書きはトイレの壁を削って掘られたものだ。どんな器用なヘンタイがあんな芸術的落書きをしたのか、と目を瞠るほどだ。子どもたちは、せっかく公園に来ているというのに駆けまわっているばかりで、たしかにこれは看過するには、いささかおおきすぎる事態だと思われる。

「で、今日の被害は、ゴミが散らかされていると、そういうわけですか」

「そういうことになる」オジではなく、眼鏡の女性が応じた。

 見渡してみると、そこかしこにゴミが散乱している。公園内にあるゴミ箱をひっくり返しただけでなく、外からゴミを持ちこまないと、ここまで、ごちゃー、とゴミでデコレーションすることはできまい。

 イタズラとしては質のわるい部類だ。これをしても、やった本人以外、誰も得をしない。下手をすれば、本人さえ報われないかもしれない。

「ゆるせないね」

「うむ。そうだな。ゆるせない」

「やめさせないと」

「まったくだ。お嬢ちゃんは話のわかるやつだ」

 私は眼鏡の女性と視線を交わし、うん、と頷きあってから、がっちし肘を絡ませあった。

 オジはそれを、車に轢かれたカエルのような面でさびしそうに眺めており、ちびっこは足元の蟻を目で追いかけている。

   STP

「犯人を捜そう。捜しだして、とっちめよう。そうじゃなきゃこんなこといくらしたって、無駄だよ。無駄毛以下だよ、てやんでぇい」

 ゴミをえっちらほっちら掻き集めながら私は、こんなことを仕出かした犯人を思い、瞋恚の炎をメラメラ燃やす。

「お嬢ちゃんな。女の子なんだからもっと言葉づかいには気をつけよう」

 眼鏡の女性こと、脛木(すねぎ)鯉沙(こいさ)さんに叱られる。「じゃあなんて言えばいいんですか」

「そういう場合は、ファッ・キュー、と言うといい」

 ファッ・キュー、と声にだしてみる。

「ちょっとちょっとぉ。脛木さん、やめてよぅ。うちのかわいい姪っこに、そんな危ない言葉、吹きこまないで」

「オジさん、オジさん」

 呼びかけ、天然パーマがこちらを向いたところで、

「ファッ・キュー」

 にっこり微笑む。

「天使のような悪魔の微笑! って、いやいや、レナちゃん、本当にダメだって。オジちゃん、お母さんに怒られちゃうから」

「ママに?」

「そ。レナちゃんのママに」

「殺されちゃうの?」

「いやー、さすがにそこまでは」

「ファッ・キュー」

「ちょっと脛木さんー! あんた責任とんなさいよ! コレ、どうしてくれんのさぁ」

「コレって言うなしっ」

「だってレナちゃん、意味分かって使ってないでしょ」

「知ってるよ。ファッ・キューのなんたるか、くらい」

「へえ。じゃあ、ちょっとオジちゃんに教えてみ」

「えっとぅ」

 私はこてんとかわいらしく小首をかしげ、

「お尻の穴でズコズコしちゃうぜ、ベイベー、みたいな?」

「わりと合ってる!? ちょっとちょっと、レナちゃんってば、そんなこと考えながら口にしてたの。やだわこのコ、卑猥だわ。もうオジちゃん、興奮しちゃう!」

「滅すぞ」

「調子のりました。申しわけございませんでした。お母さまには何卒ご内密のほどを」

「しょうがないなあ。じゃあ、パパにしてあげる」

「もっと言っちゃダメ! オジちゃん、ドラム缶に詰まって、海の底に沈んじゃう!」

 と、ここで、オジの肩をトントンと叩く制服男児が現れた。

「なによ」オジは振りむき、つばを飛ばす。「今ちょっと取り込み中っ!」

「すみませんが派出所までご同行願いますか」

 警官二名が立っていた。

「え、なんで? ていうかタイミング良すぎじゃない?」

 オジは周囲を見渡した。脛木さんがメディア端末をポケットに収納しているところだった。

「あ、ごめん。通報しちゃった」

「なんでっ!?」

 あまりにオジがかわいそうだったので、やさしい中学生女子の私は、オジのために警官たちへ説明してあげた。

「アレ、ああみえて私のオジなんです。見てのとおり、頭がちょっとアレでして。天然パーマでして」

「ああ。天然パーマなら仕方ないね」

 警官二人は納得して去っていった。

「なんでっ!?」

 助けてやったというのにオジは不満そうだ。

   STP

「考えてみたんだけども」私はパンパンになったゴミ袋の口を結びながら話す。「犯人が単独犯にしろ、複数犯にしろ、実際問題捕まえるとなると、現行犯で逮捕する以外に、効率的な方法ってないと思うんですよ。そこのところ、脛木さんはどう思いますか?」

「やっぱり同じこと考えるよね。あたしもそう思ってさ、暇あるときにちょくちょく見張りに来てたんだ。だが無駄だった」

「一日中見張らなきゃ、効果は薄いですよね」

「そうだな。防犯以上、摘発未満って感じだ」

「現にこうしてゴミ、やられちゃったわけですもんね」

「あたしらで交代で見張るってのも有りっちゃ有りなんだが、お嬢ちゃん一人のときに来られても逆にこまるしな」

「だいじょうぶだよ」オジが嘴を挟んでくる。「レナちゃん、こう見えて柔道、有段者だから」

 ぼくもむかしはよく投げ飛ばされたっけなあ、と懐かしむように目を細めたオジの身体を私は旧式一本背負いで地面に叩きつけてやった。「ひとのプライベート、ベラベラしゃべってんじゃねェよ」

「ゲホゲホ。コンクリートのうえはマズいってレナちゃん……。さすがにオジちゃん、死んじゃうからね」

「つうか、しゃべんな。耳が腐る」

「ちょっと、扱いひどすぎない?」

「むしろ、え? なんで息してんの? 穢れるんだけど、大気が」

「地球規模の口臭って相当だよ、レナちゃんっ!?」

「てか死ね」

「オブラートが溶けきった!」

「きゃー、脛木さん助けてー、変質者が私を見てるー」

「社会的に消す気だ! というか見ただけで犯罪って相当だよ、レナちゃんっ!?」

「脛木さん気を付けてくださいね。オジさん、眼鏡フェチなんですって」

「レナちゃん、もうやめて! 脛木さんもその軽蔑の眼差しやめて。たしかに眼鏡フェチだけども、脛木さんのはすこしちがうの」

 脛木さんが突如、オジの腹を蹴った。靴の底で抉るように。

「なぜに……!?」オジが呻く。

「なんとなくだ。強いて言うなら腹が立った」

 その理由はさすがの私もちょっと引く。腹が立つごとに腹を蹴られたのでは堪らない。

「いやいやレナちゃん、なに引いてんの。ああたが、いちばんあり得ないからね。理不尽だからね」

「うえーん。脛木さーん、オジさんが私をいじめるのー」

 彼女は私の頭をヨシヨシと撫でて、あやしてくれた。「こんなにかわいい姪っこなのに。いじめるなんてどこの、キチガイ・包茎・短小・童貞ニートだろうね。ヨシヨシ。泣かないでおくれ」

「え、待って。今、何気に脛木さんが放送禁止用語、連発したよ」

「童貞ニートは放送禁止用語じゃないよ?」

「レナちゃん、分かってて言ってるでしょ」

「てへ。ボケました」

「うそだ。わざとだ――じゃなくって、ああ、ダメだこれ。グダグダになるタイプだ。あのねレナちゃん。アニメのキャラみたいな台詞は、使っちゃダメなんだって。そういうの危ないんだよ。知らないの?」

「でも原作は小説だし。まあ、だいじょうぶじゃない?」

「もっとマズいよぉぉぉおお!」

「オジさんは何でも知ってるね」

「何でもじゃないよ。知っていることだけ――って、言ったそばからぁぁぁああああ!」

 あはは。このスリル、ちょっと楽しい。

 見遣ると脛木さんは、途中から私たちから離れ、無口のちびっこを連れて使用禁止のはずのブランコに乗っていた。

 やれやれ。協調性のない人間ばかりでまいってしまう。



   STP

 今日はもう解散しますか、ゴミも拾ったし。

 脛木さんとちびっこは、遊び呆けているし。

 私とオジがこのように結論付けたころへ、女が一人、近づいてきた。

「やあ諸君。御苦労である。犯人確保への礎は築けただろうか。その様子では本日も実の入りが薄そうだが、いかがか」

「だれだ、こいつ」

「レナちゃん、人様にゆび向けちゃダメだって。この人はね――」

「舘尚くん。よいのだよ。自己紹介くらい、一人でできる」彼女は、脛木さんやちびっこに、かるく手を振った。それから私に向きなおり、こう名乗った。「お初にお目にかかる、セニョリータ。我が名は、蝶野緑紗。以後お見知りおきを」

 オジに負けず劣らず、またずいぶん濃ゆいのがきたもんだ。私は全身のちからがぬけるようだった。

 蝶野さんの髪型は、水みたいに艶やかなストレートパーマで、髪型もさることながら、容姿まできれいなカタチをしている。男にもみえるし、女にもみえる。彼女は、オジの言っていた、いつも集まるメンバーのうちの最後の一人だった。

   STP

 私らがこんなにヘトヘトになっているというのに、今さらノコノコ何しにきやがった。私はオジの背に隠れながら、マネキンみたいに突っ立っている蝶野さんに噛みついた。

 脛木さんとちびっこは、こんどは滑り台で遊んでいる。自由奔放か。

「犯人はすでに判っているのだ。問題は、犯人にどうしても会いたいと希求している彼女たちにある」滑り台を滑走する脛木さんたちの愉快な様を眺めながら、蝶野さんが言った。「STPは、その能力を使いすぎると、頭髪に軽度のダメージを与える。熟練のSTPであるほど、そして手練であるほど、彼らはSTPとしての特徴を顕著にさせる。それは知っているな」

「は? 日本語でしゃべれよ、男おんな」

「レナちゃん! 失礼だよ」

「構わんよ、舘尚くん。よいのだ。事実を指摘されて怒るのは、狭量な男のすることだ。しかし我は男ではないので、すこし怒るとしよう。きみ、そういう言い方はよくない」

 ちくしょう! なんだか私が餓鬼みたいだ! 「おとなぶりやがって」

「話を戻そう。ちなみにセニョリータ、きみはどこまで知っているのかね。見た感じでは、STPについての理解を深めているようには見えんが」

「蝶野さん、すみません。このコはぼくの姪っこでして。STPについては、その名前の由来くらいしか、まだ」

「ほう。そうであったか。では我が、簡素にして明快に説明してみせよう。セニョリータ、よく聞きたまえ。これはきみにとって、重大にして肝要なお話だ」

 蝶野と名乗るオジのお仲間は、

 ――人間はあらゆる可能性を無意識のうちから否定している。

 と、話しだし、紆余曲折な呪文を経て、「超能力者」という単語を最後に、こう結んだ。

「英語で言えば、エスパーだが、これは実のところ、『スゴイ・(天然)パーマ』の頭文字(イニシャル)である」

 ここにいるのが私でよかった、と胸を撫で下ろす。なにをしてもむさくるしい兄をこいつら超絶ウンコクサイ連中から救えたことに満腔の感動を覚え、私はしずかに涙した。ふぁーあ、欠伸。

   STP

 陽が沈みかけている。気づくと、公園を走り回っていた子どもたちは姿を消していた。遊具から延びる影におそれをなして逃げ帰ってしまったのだろう。退屈な心情を、これでもか、と前面に押しだしているというのに蝶野さんは気にも留めず、ひたすらにしゃべりつづけている。私がうとうとしはじめたころ、ようやく話が佳境に入った。

「我は、STPの研究を重ね、彼らの存在を追い、そしてセニョリータ、きみのオジさんと出会った」

「は?」

「きみのオジさんはSTPだ」

「たしかにスゴイ天然パーマではありますが……だからなに?」

「解りにくいなら言い換えよう。きみのオジさんは超能力者だ」

 私はオジをちらりと睥睨し、それから蝶野さんの整った顔を見詰める。「蝶野さん。いくらもらったんですか」

「ちがうよぉおおお! レナちゃんちがうからね、オジちゃんべつにお金なんか渡してないからね!」

 白い目でオジを見る。

「信用、薄っ!」

「オジさん、うるさい。黙って。てか息しないで。むしろ死ね、腐れ」

「……そのコンボはさすがにきついよぅ。オジちゃん、ちょっと風に当たってきますね」オジがトボトボと離れていく。そのままジャングルジムに登りはじめた。脛木さんたちもそこで遊んでいる。

 おまえらぜんいん野生児か。

 オジがキングコングの物真似をしはじめたのを見届けてから、私は、

「さっき言ってましたよね」

 蝶野さんに向きなおる。「犯人は判ってるって、あれ、どういう意味ですか」

「そのままの意味だ。我は犯人が誰であるのかを知っている。だが先にも述べたが、問題はそこにはない」

「じゃあ、どこにあるんですか」

「脛木さんと、ユヅくん。あの二人が、公園内で起こった今回の一連の事件とも呼べないイタズラに、過剰に反応し、犯人と接触を図ろうとしていることが問題なのだ」

「と、言いますと?」

「簡潔に言い直そう。落書きや遊具を破壊した犯人は、きみのオジさんだ。そして脛木さんたちは、犯人が超能力者であることを見抜いている。ここから推測できることは何か?」

「え、何だろ」

「脛木さんたちもまた、超能力者であり、そして自分たちと同じ能力者を捜している――と、こういうことになる」

「え、なるの」

「超能力者――STPは、能力を使用すると、チヂ・レゲェという痕跡を残す。常人にはその痕跡を観測することができないが、STP同士であれば、互いの痕跡を感じとることができる。脛木さんたちは、公園内に残された、きみのオジさんのチヂ・レゲェを確認し、そして追跡しているのだろう」

「何のために?」

「いかにも、それが問題なのだ。ただ仲間を求めているだけなら、大事ない。しかし彼女たちが、危険思想の持ち主であったならば、きみのオジさんにとって、彼女たちに正体を知られることは、マイナスでしかない」

「よく分かんないんですけど、仮にその話が正しいとして」前置きしてから私は言った。「蝶野さんはSTPではないんですか?」さきほどからまるで自分はちがうかのような物言いだ。

「我はただの人間だ。きみたちとはちがう。凡人だ」

「いや、私もSTPではないけども」

 言いながら髪を触る。私はスゴイ天然パーマではない。ちょっとだけ天然パーマなだけだ。言うなれば、CTPだ。STPではない。

 蝶野さんは、ほぉ、と唸り、それから愉快気に私を見詰め、そのシンメトリーな顔に微笑を湛えた。

 オジといい、蝶野さんといい、どうしてこうも私の周囲にはヘンテコなおとなしかいないのか。この国の暮れたそらに、明るい陽の昇る未来は訪れるのだろうか。私は不安でしかたがない。

   STP

「そんなに構えなくても」私は蝶野さんに提案してみる。「脛木さんに直接訊いたらいいんじゃないですか」

 私から見て、脛木さんは無害でしかない。むしろ正義感がつよく、謙虚で、それでいてやさしい有益な人物だ。誰にとって有益かと言えば、一般人の代名詞であるところのこの私にとってである。

「それも考えた。直接とはいわずとも、それとなく探りを入れようとな。だが途中で脛木さんがユヅくんを連れて来るようになった。ユヅくんがいては、我も迂闊に発言できん」

「なぜですか」あんなちびっこなどおそるるに足りぬ。

「ユヅくんは人の心を読むSTPだ。彼がいるとき、我はいつもゴキブリのことを考えるようにしている。常に嫌いなモノのことを考えていれば、たとい心を読まれても、『ああ、この人はゴキブリが好きなのだな』と見做してくれるだろう」

「どうせなら好きなモノを考えればいいのに」

 私の的確な指摘に蝶野さんは、ドールのような顔を壊滅的に歪めて、驚愕した。

   STP

 無口なちびっこの名は、毒親寺(どくしんじ)ユヅくんというらしい。仮に蝶野さんの言うとおり、彼が他人の心を読める能力を有していたとしよう。であれば、オジとああしてシーソーで戯れている時点で、オジが犯人であることが露呈しているのでは。

 私の呈した疑問を受けて蝶野さんは、

「それは安心してくれて構わない」と言った。「STP同士で能力が使用できないことはすでに多くのデータから観測され、STPの基本的な性質として知られている。舘尚くんもSTPであるので、ユヅくんは舘尚くんの心を読むことはできない」

 STP同士では能力が使えない。なるほど。しかし、だとすればユヅくんが能力を使えなかった時点で、

「バレてるんじゃないの。オジさんがSTPだってこと。脛木さんたちにも」

 私のするどい指摘に蝶野さんは、ラヴ・ドールじみた無表情を、くしゃみを堪えたブサイクみたいに崩して、驚愕した。私は確信した。この人もオジと同じく、「スゴイ天然バーカ」だ。

「だ、だがしかし。だとすれば、なにゆえ彼女たちは『公園見回り隊』などと酔狂な組織を結成したのか」

「いやだからさ。脛木さんたちは単純に、犯人を突き止めたいだけなんだよ。公園をこんなにしちゃった犯人をね。だから、STPとかそんなのは眼中にないわけ。もしかしたら犯人がSTPだってことにも気づいてないかもよ」

「一理ある」あごに手を添えて蝶野さんは唸った。「公園内に残されたチヂ・レゲェは、たしかにSTPであれば感知可能だが、これは意識すればの話で、そうでなければ、気づかないままであることもあり得る。なるほど、では、彼女たちに悪意はないのだな」

「最初からそう言ってんじゃん」

 と、ここで公園の入り口のほうから、「おーい」とむさっくるしい声が聞こえてきた。

   STP

「兄ちゃん!」

 やってきたのは兄だった。クマのような巨体を駆使し、ウサギのような俊敏さでスコスコ飽きもせずに玉を打ちあってきた帰り道のようだ。

「ああ、よかった。まだいた。オジちゃんからメールがきててよ。ここにいるって書いてあったから」

 駆け寄ってきた兄の顔が、男おんなこと蝶野さんの姿を確認したところで、真っ赤に染まった。兄はそのまま歩を止め、直立不動で硬直する。

「どったの兄ちゃん。マンドリルみたいな顔して。すっとんきょうだなあ」

「やあやあ、ルルくん。やっときたのかい」オジがシーソーから、黒ひげ危機一髪みたいにして飛んできた。「どうだい。ルルくんが会いたいっていうから連れて来たよ。この人で合ってたろ」

 オジは蝶野さんの背中を押し、兄のほうへ押しやった。兄は、N極同士が反発しあうみたいに後退した。

「どうした、悩める青年。初対面からいきなり避けられては、さすがの我も少々、傷付く」

「そんなつもりは……」

「本当に、どうした」蝶野さんが手を伸ばし、兄のひたいに触れようとする。「なにやら顔が赤いぞ。具合でもわるいのでは」

「だ、だいヒョふれす」

 あ、噛んだ。

「変だぞ、兄ちゃん! いつもの威勢はどこいったんだよ」私は兄の異変に戸惑う。「そんなおとこ女なんかに、惑わされんなよ、兄ちゃん!」

「おまえ、蝶野さんに向かってなんてことを」取り乱した兄だったが、「っておい、レナ、おまえ今、なんつった? え、女?」

「そうだよ、兄ちゃん。そんな女なんかに鼻のした伸ばしてんなよ」

「待て待て、レナ。蝶野さんは男だろ?」

「なに言ってんだよ。どう見ても女だろ」

「ちょっとちょっとぅ」オジが割って入ってくる。「レナちゃんもルルくんも、失礼すぎるでしょ! 蝶野さん、すみません。うちのガキンチョどもが」

「構わんよ、舘尚くん。よいのだ。性別を間違われるのにも慣れっこだ。よいか、悩める乙女と青年。我は女だ。こう見えて、胸もあるし、赤子も産める」

「うそだ」

 叫んだのは兄だった。「蝶野さんは男だ! ちゃんとデッカいチンポコだって付いてんだ! そうじゃなきゃイヤだ!」

「申しわけないが、そのような立派なものは付いていない」

「うそだぁあああ!」兄は、うわーん、と両手で顔を覆い、クマのような巨体をゆすって、乙女のように去っていった。

   STP

「なんだアレ」脛木さんとユヅくんが砂場からやってくる。「今な、クマが、内股で走り去っていった。夢でも見たかな」

「夢ではないです。あれ、兄ちゃんなんです私の」

「へぇ。あんまし似てないのな」

 兄の走り去ったほうを脛木さんは、すこし背伸びをするようにして眺めた。そんな彼女の裾を、ユヅくんが、ちょんちょんと引っ張る。

「なんだ、ユっくん」脛木さんが屈むと、ユヅくんは、今しがた兄の去っていったほうをゆび差し、なにやら徒手空拳で、ぽいぽい、と物を投げるジェスチャーをした。

「なんだと!」脛木さんが声を張り上げる。「あいつが犯人だって!」

 えぇぇええっ!?

 脛木さんは私を振りかえり、

「お嬢ちゃんどうなってんだ。ゴミ散らかしたの、おまえさんの兄貴だっていうじゃないか。そうなのか?」

「知らないですよぅ」私は今にも泣きそうだ。

 兄ちゃん。

 おまえ、私にも内緒でなにしてんだよぉ。

   STP

 蝶野さんの話していたとおり、公園の遊具を壊したり、トイレの壁に落書きをしたのはオジだったようだ。それから、ゴミを散らかしたのは自分ではないこと、そしておそらくは甥っこが、犯人であることなどをオジは説明した。

 オジから話を聞いた脛木さんは、

「事情は解った。すこし蝶野とふたりきりで話がしたい。舘尚、おまえたちとはまた今度、話そう」

 そう言って、蝶野さんとユヅくんを引きつれ、公園をあとにした。私はオジといっしょに、公園のベンチに取り残された。

   STP

「悪気はなかったんだよ」とオジは語った。「STPの訓練がてら、公園の手入れをしてあげようと思って」

 落書きのほうはうまくいったが、遊具は逆に壊れてしまったのだという。

「そしたら、脛木さんたちが『公園見回り隊』なんて結成しちゃったでしょ。マズいなあと思って。蝶野さんに相談したわけ。喫茶店で話してたら、そのときたまたま、ルルくんが通りかかってね。たぶん、そこでルルくん、蝶野さんにひと目惚れしちゃったんじゃないかなあ」

 兄は、蝶野さんに会いたいがために、公園を汚し、「公園見回り隊」が活動する機会をつくった。「公園見回り隊」に自分も参加することで、蝶野さんとお近づきになろうと、小ズルイ考えを実行したようだ。

「でもなあ」

 それがほんとうのことだとして、ひとつ疑問が湧く。「兄ちゃん、蝶野さんのこと男だと思ってたぞ」

 ひと目惚れするなら逆に、女だと思っていなくてはおかしい。

「あれ、レナちゃん知らなかったのかい。ルルくん、同性愛者だよ?」

「んん……っ!?」

「ルルくんは、男のひとが好きなのさ」オジは平然と告げながら、付け加えるようにこう言った。「ちなみにオジちゃんは、どっちもいけるけどね」

 おどろきのあまり、呼吸困難に陥る。

 落ち着け、落ち着くのだ、舘尚レナイ、十四歳。

 そうだ。

 こういうときこそ声を大にして唱えなければならぬ。私は深呼吸がてら、おもいきり息を吸いこみ、陽の暮れはじめたそらへ向かって、腹の底から叫ぶのだ。

「ファッ・キューっ!」




   〈estinto〉毒親寺(どくしんじ)ユヅ〈estinto〉

 声を持たないからといって、恋を知らないわけではない。しゃべれないだけで、僕もみんなと同じく、多くの所感を抱き、考え、そしてこの想いを相手に伝えたいと望んでいる。

   〈estinto〉

 いつもの喫茶店で待っていると、レナさんがジャケットに付いた雨露を払いながら近づいてきた。彼女の無事な姿にひとまず、安堵の溜息を漏らす。

「なんで付いてきてくれなかったの。途中までは乗り気だったのに、アパートまで行ったら急にビビっちゃってさ」

 ユっくんてば薄情すぎるんだけど、とレナさんは僕の向かいの席に座った。

 怒っていると思っていたので、やっぱりな、とこめかみを掻く。それから僕は、レナさんのことも止めたよね、と精一杯の言い訳を苦笑に籠めてみせる。

「それは解ってる」通じたようだ。「でも、私はユっくんに付いてきてほしかったし、あんなところで怖気づいてなんてほしくなかった」

 怖気づいたわけではなかったけれど、それを説明するには僕の事情は複雑すぎた。メディア端末を使って、「外で待ってたんだよ」と文字を打つ。

「そんなの、頼んでない。私、言ったよね、ユっくんに。あの男の心を読んでほしいって。そしたらユっくん、ちからになれるのなら、って言ってくれたよね」

 うん、と頷く。もちろん憶えている。ただ、相手の男が問題だった。

 マスターが水を持ってやってくる。会話とも呼べない、意思疎通が中断する。レナさんは不機嫌そうに、チョコバナナパフェを頼んだ。僕も珈琲をお代わりする。レナさんは頬づえを付き、注文した品が運ばれてくるまで、窓に付着した水滴を数えるみたいにじっとそとを見詰めている。

   〈estinto〉

 レナさんのお兄さんが亡くなったのは、ひと月前のことになる。死因は、縄を使っての頸部圧迫による、窒息死。自殺という話だった。

 だがレナさんはお兄さんの死を不審がっていた。

「兄ちゃんは自殺なんてするような男じゃない。おかしいよこんなの。ぜったいへんだよ」

 泣きながら電話してきたレナさんに、僕はなんの言葉も返せず、ただ電波の向こうでしゃくりあげているレナさんの悔しそうな声を聞いているほかなかった。警察の話によると、自殺でほぼ間違いないそうだ。それでもレナさんは頑なに事実を鵜呑みにすることはなかった。

「私、決めたから。兄ちゃんが死んだ真相を確かめるって」

 そんなことをレナさんが言いだしたのは、お兄さんのお葬式が終わった直後のことだった。

「ママたちも元気なくって……オジさんは、頼りになんないし。ユっくん、手伝ってくれない?」

 彼女の申し出を僕は快く引き受けた。僕なんかがレナさんのちからになれるのなら、この口のきけない人生を強いている神さまに感謝したっていいくらいだ。この声なき人生と引き換えに僕は、「読心」という能力を手にしているのだから。

   〈estinto〉

 最初から他人の心を覗けたわけではない。僕の場合、純粋な能力者ではなく、後天的に能力を獲得した、いわばまがいものだった。能力を使える時点で、純粋も不純も関係ないような気もするけれど、僕がいた場所――「始末屋」の養成所では、まがいものとして僕は扱われた。

「おまえ、しゃべれないんだって? そんなんでどうやって任務遂行するつもりだよ。足手まといなだけじゃん。邪魔じゃん」

 よってたかって彼ら純粋な能力者は僕にちょっかいをだした。

 僕は彼らを睨みつける。もし僕がしゃべれたとしても、同じ対応をとっただろう。こういう手合いに言葉は不要だ。

 僕は背中を丸め、彼らの繰りだす拳から、顔や腹を守る。こうしたとき、どんなに痛くてもけっして倒れてはいけない。倒れた途端に、攻撃が蹴りに移行する。袋叩き、というのは「叩く」と書くわりに、蹴られる状況を示す場合が多い。二人同時に一人を殴ることはむつかしいが、蹴りならば複数人同時に対象を攻めることが可能だ。

「ほら、なんか言ってみろよ。こんなんじゃ任務中に怪我したって、助けも呼べねェぞ」

 彼らはゲラゲラと下卑た笑い声をあげた。僕はそんな彼らを憐れんだ。

 怪我をする前提で話をする時点で、彼らの実戦技術はたかが知れていると言える。現場では怪我をした者を助ける余裕などはないし、ましてや、仲間に助けを求めるなど言語道断。万が一のときは自決する覚悟も辞さない心がまえでなければならない。

 そうと彼らに教えてあげようと思ったものの、あいにくと僕は声をだせない。僕はただ黙って、彼らの憂さ晴らしに付きあってあげるほかなかった。

   〈estinto〉

 レナさんと初めて出会ったのは、僕が「始末屋」の養成所から逃げだした一年後のことだった。

 僕を逃がしてくれた女性、脛木(すねぎ)さんに頼まれて「公園見回り隊」という地域の有志によって結成されたちいさな防犯組織に僕は参加した。その際に、同じく参加してきたレナさんを見かけたのが最初だった。当時、僕はまだ十歳で、レナさんは中学生だった。

 公園見回り隊はすぐに解散することとなったのだけれど、脛木さんにくっついて回っているうちに、レナさんとの交流を持つ機会を、僕は結果的に多く得た。

「ユヅくん、きみはしずかでいいねえ。男の子たるもの、寡黙でなければいけないよ。うちの兄ちゃんを見てよ。むさっくるしくていけないよ。オジさんに至っては、死ねって感じだし。セミだって一週間騒いだらおとなしく死んでいくというのに、あの二人ときたら、いつまで生きるつもりなんだろうね」

 レナさんは当時からいっぽうてきに話し、僕の顔を見ては、「でしょー? やっぱりそう思うよね」とこちらの感想を我田引水に受けとり、かってに親睦を深めていった。

 レナさんの傍若無人なふるまいを数多く目の当たりにする機会に恵まれていた僕としては、彼女のオジさんに同情していたくらいなのだけれど、僕の抱いていたそうしたレナさんへの淡い反感は、ことごとく伝わらなかったようだ。

「ユっくんはさ、どうしてしゃべらないの?」

 そんなことをレナさんが口にしたのは、彼女が僕のことを愛称で呼びはじめてまだ間もないころのことだった。僕が口をきけない理由を面と向かって真顔で訊いてきたのは彼女が初めてで、「しゃべれない」ではなく「しゃべらない」という言い方も、いかにもレナさんらしくて、笑ってしまったのを憶えている。

 しゃべりたくても、しゃべれないのです。

 言いたいことは山ほどあったけれど、ノートの端にそれだけ書いてみせた。

「病気なの? だったら手術とかしたら治るんじゃない?」

 レナさんの言うとおり、その時期ちょうど、iPS細胞を利用した声帯移植が可能となっていたので、声帯の異常によって声を失くしている人であれば、回復の見込みは高かかった。

 でも、僕の場合は声帯の異常とは関係がない。

 これは神さまとの契約のようなものだからだ。

 それとなく僕は、「一生このままです」という意味合いの言葉を紙に書いて、渡した。

「そっかあ。聞いてみたかったなあ、ユっくんの声」

 病気で声を失くした人が聞いたら傷付きそうなことを、レナさんは平気で口にした。きっと、それを聞いても僕が傷付かないことをレナさんは解っていたからだと思う。

 いつだってレナさんは僕に嘘を言わなかった。

   〈estinto〉

 レナさんは僕に対してもテキストメッセージではなく、電話を多用した。その日も僕は、レナさんからの着信を受け、通話ボタンを押した。レナさんのお兄さんのお葬式から半月ほどが経っていた。

「あ、ユっくん? 今だいじょうぶ?」

 僕はメディア端末の声を拾う部分を、ゆびさきで二回、トントンと叩く。だいじょうぶです、の合図だ。

「よかった。あのね、このあいだ頼んだことなんだけど、あした、お願いできるかな。死ぬ前に兄ちゃんがいっしょに働いてた人がいて、その人、兄ちゃんが死ぬ前にその仕事辞めてるんだって。これはどうみても怪しいよ。そう思うでしょ?」

 トントン。

「だよね。私もそう思う。だからさ、あした、その人ん家に行ってみようと思うの。ユっくんの出番だよ。いっしょに来てくれるよね」

 すこし考えてから、トントン。

 そのあとで、カシャカシャと同じ部位をゆびで擦る。

「なんで? だいじょうぶだって。私、つよいよ? あぶなくないよ?」

 カシャ、と一回だけ擦る。でも、と言ったつもりだ。

「あ、分かった。こわいんでしょ? 安心して。私がユっくんのことも護ってあげるから」

 そういうことではなかったけれど、電話では反論のしようもない。僕は仕方なく、トントントン、と三回叩き、ありがとうの合図を送った。

「どういたまして」レナさんは無邪気によろこんだ。「じゃあ、あす、お店で。行くとき電話するから、珈琲でも飲んでて。合流したらいっしょに、その人ん家に行って、ユっくんはその人の心を読むんだよ。いい? おねがいね」

 トントン。

「ふふ。ユっくんはいいなあ、素直で! じゃっまた」

 ありがとうもバイバイもなく、通話が終える。

 レナさんはむかしから変わらない。僕に対して礼儀や遠慮がないだけでなく、とても、馴れ馴れしい。

   〈estinto〉

 梅雨が明けた、というニュースを僕はレナさんから電話のあった日の夜に観た。鬱屈とした天気がようやく終わるのか、と思うと心なしか気分がよくなった。

 シャワーを浴びて、いよいよ寝床に就こうとしたところで、脛木さんからテキストメッセージが入っているのに気がついた。

 ――久しぶり。気づいたら電話しろ。

 レナさんといい、脛木さんといい、彼女たちは僕をなんだと思っているのだろう。歳下だからってコキ使っていいという法律はこの国にはないはずだ。

 非通知で電話をかけると、ツーコール以内に脛木さんがでた。

「よお。元気か」

 カシャカシャカシャカシャ。ものすごい勢いで非難する。

「はは。元気そうでなによりだ。かってにいなくなったことは謝る。ただ、その街に急にいられなくなってな。いやなに、『始末屋』とは別件だ。おまえが警戒する必要はない」

 それを聞いてほっとする。

「でだ。こっちですこし面白いものを見つけてな、しばらく経過を見守ることにした」

 カシャカシャ、トントン。

「あ? なにかって? 聞いておどろけよ。鬼がいた」

 動きかけたゆびが止まる。

「そうだ。まだ滅んじゃいなかった。が、最後の生き残りかもしれん。あたしらには見届ける義務があると思ってな。これも含めて、そっちにはしばらく戻れそうにない」

 カシャカシャカシャ。

「誰を心配してんだ。あたしだぞ? 万が一もないさ」

 カシャカシャ。

「だいじょうぶだって」

 カシャ。

「いい加減にしねえと怒るぞ」

 トン。

「それでいい。あ、そうだ。なにか変わったことはないか。困ったことがあればメールでまとめて送ってくれ。前の番号は通じないから、この番号にな」

 レナさんのお兄さんが亡くなった旨を僕はメールに載せて送っていたが、この様子だと見てくれていないようだ。こちらの沈んだ気配を察したのか、脛木さんが訝しげな声を発した。

「なにか、あったのか」

 トン。

「おまえのこと――じゃないな。レナか?」

 トントン。カシャ。

「ちがうか」あたたかそうな息が漏れたのが判った。「……わるい。すこしホッとしちまった。じゃあ、誰だ。というか、なにがあった」

 訊かれても僕には答えられない。

「……誰か、死んだ、のか」

 トン。

「そっか。それは……アァ」続いた沈黙の奥から、ざんねんだ、と聞こえた気がした。

 僕はまたぞろ言葉をかけることもできずに、脛木さんのつぎの言葉を待つほかになかった。

「ちかいうちにいったん戻る。都合ついたら連絡する。風邪、ひくなよ」

 トントントン。

 電話が切れる。僕はメディア端末を握ったまま寝床に倒れこみ、なんと文字を打ったものか、と思案する。脛木さんはまだ誰が亡くなったのかを知らない。僕が教えてあげなければならない。だのに僕は、添えるべき哀悼の言葉を思いうかべられず、考えあぐねているうちにまどろみ、やがて文章を作成中のままふかい眠りに落ちた。

 目覚めると、室内はすでに蒸し暑く、陽射しがカンカンと照っていた。握ったままのメディア端末は僕の汗でベトベトで、表示された着信履歴はあろうことか「レナさん」で埋まっていた。

   〈estinto〉

 謝罪をするとき、口をきけないというのは便利だ。ありきたりな言葉で誠意を示すよりも、言葉にならない態度で示すほうが、相手の胸へよりまっすぐに伝わる。

 僕はレナさんの待つ喫茶店へといそぎ、そして店内で土下座した。

「ふーん。そういう態度なんだ?」

 どうやら選択を間違えたようだ。僕は即座に襟を正し、片膝立ちになる。足を組みこちらを目だけで見下ろすレナさんへ、手を差し伸べ、こんどは英国式に忠誠を誓うポーズをつくる。

「なに? 犬ごときが私になにを誓うの? 餌を乞いたいだけなら、保健所にでも行ってきなよ」

 かるく死ねと言われた。

 僕は泣きたかった。

「なんだい、なんだい。またやっているのかい」

 カウンターの奥からマスターがやってくる。その手には頼んでもいないのに、チーズケーキの載ったお皿が二枚、持たれている。

「オジさんは関係ないでしょ。出てこないでよ」

「姪っ子が、けなげな青年いじめてるんだよ? 見過ごせないでしょうに」

 はいこれ、とマスターはチーズケーキの載ったお皿をレナさんのまえに置いた。

「ユっくんにも、はい」

 僕には手渡さずに、もう一枚をレナさんの向かいの席に運ぶ。

「こんなもので釣られるレナさまじゃないのに」ぶつくさ不平を鳴らしながらもレナさんはさっそくチーズケーキにフォークを突きさし、掬った。口元に運び、頬張る。「うん。まずい!」

「そりゃないんじゃないの、レナちゃん」

「だってホントに美味しくないんだもん」

 言いながらもレナさんは、チーズケーキをものの三十秒でやっつけた。

「こんなんじゃ足んないよ」

 彼女は断りもなくマスターが僕のために用意してくれた分にまで、手をつけ、あっという間にぺろりと平らげた。

「はーあ。お腹いっぱいになったら、歩きたくなっちゃった。ほら、行くよユっくん。ぼさっとしないで。イライラするなあ」

 代金も払わずに出て行こうとするレナさんをまえに、僕はマスターを振りかえって、おろおろする。

「今日の分はサービスですよ。いつもうちの姪っ子に付き合わせちゃってわるいねぇ、ってせめてものお礼だから。気にしないで」

 深々とお辞儀する。僕はレナさんを追って、彼女のオジの店を後にした。

   〈estinto〉

 男の名は、薬尾(やくび)夜神(よがみ)といった。レナさんのお兄さんの勤めていた清掃会社で、アルバイトとして働いていたという。お兄さんとは、一度、同じ仕事を任されただけの仲だったそうだが、清掃会社の社長の証言によれば、ふたりは馬が合っていた様子だったそうだ。

 レナさんは社長に頭をさげ、薬尾夜神の住所を聞きだしたという。レナさんはたぶん、本気で頭を下げただけだと思いこんでいるようだけれど、僕の経験上、それだけではないはずだ。僕は社長さんへの同情を禁じ得ない。

「ここで、いいんだよね」

 住所の記されたメモをレナさんから見せられる。僕は手元のメディア端末と照合し、目のまえのアパートの一室が、その住所の示す部屋である旨を伝えた。

「そっか。ここに兄ちゃんを死に追いやった犯人がいるんだね」

 その台詞を聞いて僕はぎょっとした。レナさんは何か重大な思い違いをしている。下手をすると、危険なことになる。レナさんが、ではなく、相手の男、つまりが薬尾夜神が、だ。

「よっしゃ。では、いっちょ行きますか」

 やる気満々のレナさんのうでを引き、僕は呼び止める。

 ちょっと話し合いましょう。作戦タイムです。

 紙に書く時間も、メディア端末を取りだす余裕もない。

「ちょっと、なに。ユっくんってば邪魔する気?」

 そういうわけではないのですが。

「じゃあ、なに。この手、離してよ。痛いんだけど」

 ごめんなさい、とうでを放す。

「あのさ。言いたいことがあるならちゃんと言って。そうじゃなきゃ、伝わるもんも伝わんないよ」

 それを僕に言うのか、このひとは。呆れるを通りこして、笑ってしまう。

「なに笑ってんの。ひとがせっかく忠告してあげてるのに」

 ごめんなさい、としょげてみせる。

「ユっくんはさ、いっつもそうだよね。こっちが怒るとすぐそうやって子猿みたいな顔してさ。ちょっとかわいい顔したら私がゆるすと思って。なに? ばかにしてんの」

 ばかになんてしていないし、子猿の顔真似だってしているつもりはない。

「あ!」

 急に声をあげたかと思うと、レナさんは月極駐車場の塀の陰に隠れた。「ユっくんも、はやくはやく」

 招かれるように僕も彼女のとなりへ小走りで移動し、しゃがむ。

 どうしましたか、と視線をやる。

「ほら、見て」彼女はこちらを見ていない。「あいつ、あの男。あの部屋から出てきた」

 見遣ると、メモの住所の部屋から出てきた男が、扉に鍵を掛けているところだった。

「あいつが犯人だよ、ユっくん」

 犯人と決まったわけではないし、そもそもお兄さんは自殺だったのでは。

 言いたいことが山ほどありすぎて、僕はこのときほどしゃべれないじぶんに悶々としたことはない。

   〈estinto〉

 男はコンビニで買物をし、すぐにまた部屋へと戻っていった。レナさんの言うように、彼が薬尾夜神で間違いなさそうだ。

 わざわざ部屋から出てきてくれたのはさいわいだった。彼が危険人物か否かは判らないが、判らないからこそレナさんを彼に会わせるのはしょうじき、気がすすまなかった。

 もし薬尾夜神に僕一人で接触できる機会があれば、レナさんの出番はなくて済む。彼女の手を煩わせずとも目的は達成できるのだ。そうと考えていたので僕は、薬尾夜神がコンビニで買物をしている隙に、心を覗くべく、彼に接近した。

 結論から言うと、僕は薬尾夜神の心を覗けなかった。

 他者の心を覗くことのできる僕にも、例外があった。

 僕と同じように能力を保持する者には、このちからは通用しない。僕だけではない。能力者同士では、互いに相手へのちからの行使ができないようになっている。なぜかは詳らかではないけれど、おそらく、遺伝子に刻まれた種の保存への命令コードが、そうした枷を僕らに強いているのだと思う。

「どうだった?」

 コンビニから戻った僕を、レナさんがかたずを呑んだ様子で出迎えてくれた。

 僕はメディア端末を使って、「あの人はなにも知らないようでした」と打った。遠まわしに、会っても無駄ですよ、と言ったつもりだ。

「読めなかったの?」

 レナさんの洞察力はするどい。そんな基本的な事項を僕は失念していた。

「読めなかったんでしょ。なのにどうしてそんなウソ吐くの。ユっくんが読めないってことはさ、あいつがなんらかの能力を持ってるってことでしょ。だったら余計に怪しいじゃん」

 僕は焦った。こちらの、狡猾で情けない腹蔵をレナさんに見抜かれるのではないか、と胸の奥がきゅうと縮む。

「どうしたの? まさかここにきてビビッてるわけじゃないよね」

 それはちがいますよ、と予想外なところからの精神攻撃にたじたじになる。

「なに必死そうな顔してんの。弁解でもしたいの? そんなの必要ないからさ。ほら、行くよ。ユっくんが役に立たないならあとはもう、直接訊きに行くしかないんだから」

 さいあくの展開だ。僕はレナさんを引きとめるべく、彼女のうでを掴んで抵抗する。

「なにすんの、ユっくん。離ぁなーしーてーっ!」

 僕がレナさんをあの男に会わせたくない理由は単純だ。あの男が能力者で、レナさんもまた僕らと同じく能力者だからだ。レナさんは、自身のその能力をまだうまく使いこなせない。いや、使いこなそうという気なんてさらさら持っていないので、それは当然だ。

 そんなレナさんが、薬尾夜神――あの男のまえに姿を晒すというのは、それこそ真冬の山中へ、防寒着を身につけないで登るようなもの。無謀にして無防備すぎる暴挙でしかあり得ないのだ。

 たとえ能力者同士で能力が無効化されるとはいえ、間接的には有効である。たとえば、念力で刃物を操り、指紋を残さず対象を殺傷することも、念動遣い(サイコキネシス)なら可能だ。

「なんなの、ユっくんは!」

 レナさんがついにキレた。「きみは私の邪魔をしにきたの? そうなの? え、ちがうの? ふざけんなし。そのかわいいお顔をダイナシにしてやろうかッ!?」

 成人を迎えてからというもの、レナさんはぐんと脛木さんに性格が似てきた。凄み方や、怒るときの理不尽な恫喝の仕方なんてそっくりだ。

「約束守ってくれないのはいいよ。かなしいけど、守らない権利はきみにもあるんだから。でもね、私の邪魔をする権利は、ユっくんにはない。誰にも、ないんだ。それを解っててユっくんは、私のこのうで、掴んでるわけ?」

 レナさんの剣幕よりも僕は、彼女の泣きそうな顔に心が折れた。彼女のうでを掴んでいる手のちからをゆるめる。

「最初からそうしてよ。こっちだって怒りたくて怒ってんじゃないんだから」

 いつもなら、「そんなことはないですよね」怒りたいだけですよね、と皮肉のひとつも返してやりたいと思うところなのだけれど、今回ばかりは胸が痛むばかりだった。

   〈estinto〉

 レナさんは単身ひとりで、薬尾夜神の部屋へと突撃していった。男が扉の隙間から顔を覗かせたところでレナさんがすかさず扉をこじ開け、部屋のなかへ乗りこんだ様子を、僕は、離れた場所からハラハラしながら見守った。

 薬尾夜神。あの男は危険だ。心を覗けなくとも僕には判った。

 全身にまとった、あの、濃厚な死の気配。あの男は多くの、人の死に触れている。まるで他者の死を引き寄せるみたいに。

 彼の能力に関係しているだろうことは容易に想像がつく。

 始末屋、の三文字が浮かんだ。もちろん僕の考えすぎだろう。単独で行動する始末屋など聞いたことがない。ただ、素生の知れない男に、こちらの存在を知られるわけにはいかなかった。

 レナさんに付いていく、という選択肢は端から僕のなかにはなかった。

 僕は、そう。

 彼女の身の安全よりも、じぶんの身を案じたのだ。

 さいていだ。

 一時間待ってもレナさんは部屋から出てこなかった。二時間後、やっとレナさんが部屋から現れた。男に見送られるようにしてアパートの階段を下りてくる。

 周囲を見渡しているのは、きっと僕の姿を捜しているからだろう。でも僕は合わせる顔がなくて、そっとその場を立ち去った。

 この日の夜、レナさんから珍しくテキストメッセージが届いた。

  件名:臆病者

  本文:あす、十五時。店で。

 翌日は雨模様で、梅雨は明けたはずなのに霧雨がシトシトと降っていた。

   〈estinto〉

「お待たせしましたー。こちら、チョコバナナパフェになりまーす」

 ウェイトレスみたいな言い方で、マスターが注文の品をレナさんのまえに置いた。

「で、こっちは我輩が百年煮込んだ、うら若き魔女たちの、ケイケ――」

 レナさんの肘がマスターの腹にめり込む。間一髪で、僕は注文の珈琲をマスターから受けとった。

「ゴホゴホ。レナちゃん、なにすんのよ。オジちゃん、もう年なんだからさあ。手加減してよぉ」

「したでしょ。え、なに? 骨、折ったほうがよかった?」

「……ごゆっくりぃ」

 マスターがお腹を押さえながら、すたこらとカウンターの裏へと戻っていく。

 僕は、レナさんとのあいだに漂う重たい空気が、やわらかくなったのを感じた。マスターはほんとうにレナさんの性格を熟知している。うらやましい、と手放しで思える。

 最初、僕は、店内に流れるBGMに歌がついたのかと思った。

 ユっくん、祓い屋って知ってる?

 窓のそとを見詰めていたレナさんが、ぽつりと言った。

 祓い屋。その単語に僕は思わず息を呑み、手つかずの珈琲をひと口で飲み干す。

「昨日、薬尾さんと話しててね。あ、いい人だったんだ。兄ちゃんの葬式にも来てくれてて、事情を話したら聞いてくれて。私に協力してくれるとも言ってくれてさ。なにか分かったら、連絡くれるって。そしたら今日、さっそく電話もらったんだ。兄ちゃんがなんで死んだのか、解ったかもしれないって」

 都合が良すぎる。まさかレナさん、その話を鵜呑みにしたわけでは。

「聞いたらさ、笑っちゃうよ。兄ちゃん、悪霊みたいのにとり憑かれて、それで呪い殺されたんだって。そんなのねえ。どうなの?」

 バカバカしい。あり得ない。本来ならそう言って一笑に付す場面だけれど、僕にはそうすることができなかった。

「今日の朝、薬尾さんと会ってきた。知らない女の人といっしょにいて、コレくれた」

 レナさんは懐から『護符』のような紙キレを取りだした。

「十枚くらい、束でくれてさ。言われたとおり、コレ持って家に帰ったら、ママとパパが元気になった。もうね、びっくりしちゃったよ。スイッチが切り変わったみたいなんだもん。憑き物が落ちたみたいでさ」

 憑き物が落ちた。もちろんそうなのだろう。その『護符』にはそういった効能がある。害虫を近寄らせない、防虫剤のような性質が。

 ウチの親、死ぬ直前の兄ちゃんみたいだったんだ、とレナさんは語った。こちらによけいな心労をかけさせまいと、敢えて話さずにいたのだろう。お兄さんが亡くなって以来、レナさんのご両親は体調を崩していた。僕はそれを、息子の死を悼んでの気の病だと思っていたけれど、どうやら楽観視しすぎていたようだ。

「私さ。自分でも馬鹿だと思うんだけど、薬尾さんの言うように、兄ちゃんは悪霊に殺されたんだと思う。たぶん、それが真相なんだって、納得できちゃうんだよね」

 悪霊が相手じゃさ、仕返しもできないじゃんね。

 レナさんはそう言って、しずかに涙した。そんな彼女の顔を僕は、水滴のたくさん付いた窓ごしに見ているほかなかった。レナさんの涙だけが、窓にゆっくりと伝って映っていた。

   〈estinto〉

 悪霊には仕返しができない。レナさんはそう言っていたけれど、実のところ僕たちにはそれができる。人ならざる能力を使える僕たちには、同じく人ならざる異形を相手どって殺意を具体的にぶつけることが可能なのだ。

 でも、この事実を僕は黙っていた。レナさんは知る必要がない。知らないままでいるべきだ。

 お兄さんは自殺だったが、殺されてもいた。

 レナさんの手にした答は、答を手に入れる以前よりも、レナさんの、かなしさとむなしさを募らせただけのようだった。真相を知ったレナさんが、お兄さんの死から立ち直ることはなかった。

 なにも解決などしていない。

 けれど、レナさんは自分なりに行動し、そして一つの答に辿りついたことで、どの方向かは判然としないけれど、一歩進めたことだけはたしかだと思う。立ち止まっていたレナさんは、前に進めたのだ。

 それが良かったことなのかも僕には分からない。

   〈estinto〉

 夏も終わり、そらが高くなって感じられるようになったころ。

「ユっくんはさ。どうしてそんなに、やさしいの?」

 レナさんが今日もまた脈絡のないことを言いだした。目的地の本屋さんまではまだ遠い。歩きながら、なんですか急に、と視線を向ける。

「だってさ、ふつう、怒ると思うんだよね。だって、私だよ? こんなに四六時中私といっしょにいて、それで文句のひとつも垂れないって、これはちょっと聖人君子でもむつかしいと思う」

 またこの人は、と苦笑を浮かべる。

「あ、うん。言いたくても言えないってのは解ってるんだけど」僕の呆れた心象を見抜いたのか、レナさんは、そうじゃなくってね、と考えこむ。「なんて言えばいいんだろ。よくもまあ、見捨てずに付き合ってくれるよね、って話で――えっと、あっ、わかった。ありがとうって言いたいんだ、私」

 レナさんに感謝されるようになるとは、僕も成長したなあ、と感慨ぶかいものがある。感動していると、

「ユっくんはさ。やさしいから、イヤって言わないけど、でも、いいんだよ? ムリして付き合ってくれなくても」

 言葉の意味を推し量れなくて僕は、なんです、と首をかしげてみせる。

「だから、その、ほら、ユっくんもいい歳になったわけじゃない? 世間ではきみの歳のころは、青春と呼ばれる人生においてもっとも甘酸っぱい時期なわけだ」

 そうなんですか、とこんどは逆に首をかしげて疑問を呈する。

「そういうもんなの」レナさんは持論を押しとおした。「で、私は心配なわけ。ユっくんの貴重な青春の一ページを、こんなトイレットペーパーみたいに使っちゃって。これはいかがなものかなあ、と」

 僕はメディア端末を使って、「でも僕は楽しいですよ」と打つ。

「ふうん。そ。なら、いいんだけどさ」

 レナさんはなぜかぶっきら棒に言った。

 僕たちはふたたび黙りこくって、ただよこに並んで歩きつづける。

 視線を下げ、レナさんの横顔を盗み見る。なにを考えているのだろう。レナさんはいつも、何かおもしろいことが転がっていないだろうか、と期待しているみたいに、道路を見詰めて歩を進める。かと思えば、なんの前置きもなく急に話題を振ってくる。僕はしゃべれないので、一方的に言葉の雨あられを浴びるだけなのだけれど、たとえ言葉の傘が僕にもあったとして、きっと僕はそれを差さないと思う。

 もしも僕がしゃべれたとして――。

 いつのころからか、レナさんを見上げるのではなく、見下ろすようになってから、僕はたびたびこんな想像を巡らせる。

 もしも僕がしゃべれたとして、この想いを彼女に伝えることはあったのだろうか、と。

 たぶん、「もしもの世界」であっても僕たちはこうやって、いまとなんら変わらずにただ並んで歩いている。僕はだって、こんなにも臆病な男なのだから。レナさんに口ごたえするなんてとてもではないが、できない。ましてや告白なんて口が裂けてもできるわけがないのだ。

 本屋さんに辿り着くまでにレナさんはまた唐突に、「ユっくんはさ」と僕のことを馴れ馴れしく呼んだ。




   ×××路坊寺(じぼうじ)清祢(きよね)×××

 性別が女であり、かつ「念動遣い」であること以外に、脛木(すねぎ)鯉沙(こいさ)についての側面像は一切不明である。

 彼女の調査を依頼された時点でオレは、これが最後の仕事になるだろう、と予感していた。

 依頼人の男は、どこぞの行政機関の管理職を名乗っていたが、オレの目はごまかせない。険のある雰囲気から、危なげな組織の参謀幹部と推察できた。

 報酬は前金で五百万。後払いでさらに五百万。それに成果報酬で最高三千万がついて、合計四千万円の仕事となる。

「成果ゼロでも、一千万円のお支払は保証いたします。期限は三年間。その間の調査費用はもちろんこちらで負担させていただきますので、ご請求の際はご遠慮なく」

 つまり三年間の生活は保障するということか。あまりに美味すぎる話だ。

「対象の女は何者なんですか」

「それを調べるのがあなたの仕事です」

「言い方を間違えました。この女は何をしたんですか」

「それも含めて、あなたに調べていただきたいのです」

「探る動機を知りたい。これが契約である以上、依頼主であるあなた方をこちらとしましても信用しないわけには」

「信用はしていただかなくて結構です。ここでこの話をお断りになられるのもあなたのご自由です。ただし、今後あなたにはこのような話は二度と巡ってこないでしょうが」

「脅迫と見做しますよ」

「事実をお話ししたまでです」

 交渉に慣れていると感じる。無駄がない。

「わかりました。すこし考えさせてください」

「ありがとうございます。では、良いお返事を待っております」

 男は一礼し、「ご連絡はいつでも」とだけ言い残して、事務所から出ていった。

 報酬の金額にオレは頭を悩ませた。仕事の内容はとある女の、捜索と素上調査で、どちらもオレの得意とする分野だ。依頼主を満足させるだけの情報を集める自信はある。

 ただ、いかんせん金額が高すぎる。それだけリスクもまた高いということだ。

 だが、三年間の生活保障と、成果ゼロでも一千万、という美味い話に、オレの葛藤はあっけなく収束した。

   ×××

 調査にあたってオレはまず、対象本人を見つけ出すことにした。

 手掛かりは、脛木鯉沙という名と、性別が女であるという情報が二つだけ。顔写真もない。備考に、「念動遣い」との記述があるが、わけが解らないだけに、あてにはできない。

「脛木鯉沙は女である、と」

 スネ毛濃いな、みたいな名前しやがって。

 性別の確定は、調査のうえで欠かせない要素の一つだ。対象が女であるという情報だけで、全人類のおよそ半数を度外視できる。

 オレはさっそく知人に、身元不明者リストの検索と、偽名を使っている女のリストアップを依頼した。まずは脛木鯉沙が、すでに死亡している可能性を潰しておかなければならない。つぎに、本名を隠して暮らしている女を当たってみることにする。

 手始めに、捜索する地域をこの街を中心とした一帯に限定することにした。期間は三年ある。虱潰しに調べていくのが吉だろう。女の本名である「脛木鯉沙」でも検索をかけてもらったが、これは念のためだ。

   ×××

 脛木鯉沙の居場所はすぐに判明した。念のために検索してもらった本名に該当する女が見つかったのだ。偽名を使わずに逃亡している女というのも珍しい。

 教えてもらった住所へ実際に行ってみると、それらしい女がマンションへ入っていくのを見かけた。オレは女がふたたび部屋から出てきたところを写真に撮り、もんどりを打って事務所へ戻った。

 さっそく依頼主を呼びだし、写真を見せる。

「この女性が脛木鯉沙で間違いありませんね」

「おどろきました。はやかったですね。さすが、噂が立つだけのことはあります」

 依頼主のこの反応からして、もしかしたら、と思った。

 もしかしてこの男は、対象の居場所を端から知っていたのではないか。オレを試すために敢えて、提示する情報を名前と性別だけに限定していたのではないか。

 依頼主に担がれたことに対する不満が顔に出そうになるのを必死に押しとどめる。

「この調子で、彼女の素生を明らかにしてください。成果報酬はたしか三千万円でしたね。五千万にあげましょう。その代わり、期限を三年から一年に短縮してください」

「構いませんが、具体的には彼女の何を知りたいのでしょう」

「彼女が現在、何をしているのか。或いは、何を仕出かそうとしているのか。それを中心に探ってみてください。些細なことでも、逐一レポートに記録していただけると助かります」

「それも構いませんが、提出は一年後の決算のときでよろしいのでしょうか」

「そうですね。ではこうしましょう。ひと月ごとに、郵送でこちらの住所に」

 言って男は、このあいだ渡してきた名刺ではない、別の名刺をとりだし、差しだしてくる。名前がちがっている。どちらも偽名だろう。「こちらの住所に、ワタシ宛てでお願いします」

「報告書を郵送でこちらに、ですね」

「はい。よろしくお願いいたします」

 男の腰は前回と打って代わって低かった。それだけ焦っているということか、もしくはオレの仕事ぶりを正当に評価してくれたということか。オレはそう判断し、むかっ腹が立つ前に、嵩むいっぽうの不満をむりくり嚥下した。

 オレは荷物をまとめ、この日のうちに脛木鯉沙のいる町へ一時的に引っ越した。

   ×××

 最初の三カ月は、監視に徹することにしていたが、ひと月が経過したころになると、こんなまどろっこしい真似をしているじぶんに段々腹が煮えてきた。

 監視をはじめてからひと月のあいだ、脛木鯉沙はずっと同じ生活を繰りかえしている。それこそ本当に規則正しい生活周期で、オレは彼女がロボットか何かかと本気で考えたほどだ。

 職には就いていないようだが、金銭面で困っている様子はない。買物のほとんどがメディア端末のクレジット機能で支払われるため、財布どころか彼女が現金を持っているのかも疑わしい。

 朝五時に起床し、珈琲を一杯飲み、それから着替えて彼女は家を出る。目的地はマンションから徒歩で十分以内の河川敷だ。川に沿って洒落たブティックが立ち並んでおり、橋梁下にはホームレスが住み着いているのか、ブルーシートが目立つ。数キロ先に海が広がっているため、見晴らしがよく、風にまじってほのかに潮の香りがする。

 脛木鯉沙は、毎日同じ喫茶店へと足を運び、同じ窓際の席に陣取り、文庫本を片手に、夕方の六時までそこに居座っている。喫茶店はちいさなビルの二階に位置し、遠くからでも彼女の姿を視認することができた。

 夕方の六時をすぎるころになると、辺りはにわかに暗くなりはじめる。

 そこでやっと彼女は席を立ち、喫茶店を後にする。あとはまっすぐマンションまで戻り、朝の五時まで部屋で過ごす。カーテンが掛かっているために部屋で何をしているのかは詳らかではないが、明かりは朝まで点いたままだ。

 監視は根気のいる作業だ。だが脛木鯉沙に至っては、規則正しい生活周期がさいわいしてか、さほど疲弊するほどでもなかった。

 刺激がなさすぎて逆にオレが根を上げてしまったくらいだ。

 オレは監視からひと月すぎたある日、行動を起こした。

   ×××

「おはようございます。おはやいですね。あ、いえ、いつも外から見かけておりまして。なんだかいつもいらっしゃるなあ、と気になって」

 朝の十時。オレは休日のサラリーマンを装って、喫茶店にいる脛木鯉沙に声をかけた。

「そうな。いつもいる。で、なんだ」

 にべもない返事が返ってくる。とっつきにくそうな女だ、というのが調査対象を間近にしてみたオレの第一印象だ。

「ボク、夕方にもここを通るんですよ。そのときもたいていいらっしゃいますが、まさかずっといるんですか」

「わるいか?」

「いえ。暇じゃないのかなあ、と気になって」

「なら教えてやる。暇だ。かなりな」

 思いのほか軽快な受け答えに、気分を害しているわけではなさそうだ、とひとまず胸を撫で下ろす。

「もしよかったら、ごいっしょしてもよろしいですか。ボクも今日は暇でして」

「わるいな。よろしくないんだ。ほかをあたってくれ」

 店内を見渡す。ほかに客はいない。ウェイトレスと目が合った。注文をとりに行くべきか迷っている様子だ。

 今日のところは引き下がることにしよう、と判断する。空いている席に着き、ほっとした顔付きでやってきたウェイトレスに、ココアとホットケーキを頼んだ。

 文庫本を取りだし、字面に目を走らせる。

 正午まで居座り、この日は店を後にした。

 脛木鯉沙は、文庫本に視線を落としながらも、ちょくちょく窓のそとの風景を眺めていた。

   ×××

 休日は朝から、平日は夕方から、喫茶店に毎日あししげく通っていると、二週間ほどでマスターやウェイトレスと気軽に言葉を交わすようになった。

「窓際の女性いるじゃないですか。毎日いますけど、だいじょうぶなんですかね」カウンター席からマスターに話しかける。

「彼女のことが気になりますか」

「いえ、そんなんじゃないんです。ただ、珈琲以外を注文している姿も見たことないですし、ちゃんと食べてるのかなあ、と気になって」

「ふうん。路坊寺さんって、ああいうひとがタイプなんですね」

 ウェイトレスも床磨きの手を休め、モップの先にあごを載せて、会話に加わってきた。「珈琲だけって言いますけどね、路坊寺さん。窓際の常連さん、お代わりを十杯以上してくれますからね。それも毎日ですよ。わたしのお給料、ほとんど常連さんが支払ってくれているようなものなんですから、注文してもランチセットぽっちの路坊寺さんにはとやかく言われたくはないと思いますよ」

 一杯千三百円の珈琲を十杯以上。どうやらこの店にとって脛木鯉沙は、日に珈琲だけで一万円を使う謎の女という認識らしい。

「ふしぎな方ですよね。最初は女優さんかモデルさんかなあ、と思っていたんですけど、毎日じゃないですか。さすがにそんな時間はないだろうな、と思って」

 芸能界に身を置く人物にしては時間の使い方が贅沢すぎると言いたいのだろう。もちろん脛木鯉沙は女優でもモデルでもない。

「もしかしたら資産家やどこか大企業の社長さんの、ご令嬢かなあ、とか、想像したりしてるんですけど、ほら、常連さん、あまりおしゃべりがお好きでなられないみたいじゃないですか。訊くに訊けなくて」

「ボクも前に、あしらわれました。よっぽど人と関わるのがお嫌いなようです」

「あ、わたし見てましたよ。笑っちゃわるいなあ、と思って、がんばりました」

 なにをどのように頑張ったのかを小一時間、問い詰めてやりたいところだが、オレとしてもあまり他人に関わっている余裕はないのでやめておく。ウェイトレスはまだ学生なのか、客であるオレに対しても友人みたいにあけすけに話した。

   ×××

「今日は常連さん、珍しくホットケーキを注文しましたよ。ダイエット、くじけちゃったんですかね」

 オレが入店するとウェイトレスは逐一その日の脛木鯉沙の様子をオレに報告した。彼女のなかでは脛木鯉沙は、過酷なダイエットに挑戦中のトップモデルである、という想像で決着しているようだ。

「きっと今は修行中なんですよ。長期休暇をとって、海外から帰国して、それで、ダイエットに専念してるんです。ぜったいそうです。わたし、分かります」

 なにがどう分かるのかがオレには理解できないが、彼女は鼻息を荒くしてそう語った。

「なにを読んでるのか判りますか」と質問する。

「常連さんですか? さあ。いつもお持ちになられてる本はちがうみたいですけど、たいていCDのジャケットみたいな表紙の本を読んでますね。興味、あるんですか?」

 ウェイトレスは、うぷぷ、とわざとらしく口元に手を添えた。

「まあね」

 事もなげに応じると、ウェイトレスは、

「へ……」

 表情を消し、それから取り繕ったように、「やっぱりなあ。路坊寺さん、ああいうひと、タイプそうですもんね」と頬を緩めた。

「まいったなあ。きみはずいぶんとお節介焼きみたいだ」

「やさしい、と言ってほしいです」

「ボクは頼んでいるわけじゃないからね。わざわざ彼女のこと教えてくれたりしなくてもいいんだよ」

「おやおや。その言い草はいただけません。文句ではなく、お礼が聞きたいですよ、わたし」

「あーうん」オレは目を逸らし、「ありがとう」と照れくさそうに言った。じぶんの演技力に拍手を送りたい。

「いえいえ、いいんですよ。わたし、路坊寺さんの恋のキューピットなんですから」

 ウェイトレスはそう言って、くつくつと笑った。手で握られた鈴のように、彼女の笑い声はくぐもって聞こえた。

   ×××

 梅雨が明けたとのニュースを観て、季節が変わったことに気づき、おどろいた。はやいもので、脛木鯉沙の監視をはじめてからふた月ほどが経過している。

 これまでの雨模様がうそのように、日中はサンサンと陽射しが照りつけ、うだるような暑さが連日のようにつづく。

 オレはその日も、夕方に喫茶店を訪れ、窓際の席に陣取る脛木鯉沙を観察した。

「珈琲と、ホットケーキ。あと、サラダお願い」オレは注文を取りに来たウェイトレスに言った。

「かしこまりました。ほかにご注文はございませんか」

「今日は変わったこと、何かあった?」小声で水を向ける。

 注文をし、その流れで、その日の脛木鯉沙の様子を聞くというルーチンが、オレとウェイトレスのあいだで習慣と化していた。だがこの日にかぎって、ウェイトレスは困ったようにオレを一瞥し、うやうやしく低頭してから、なにも言わずにそそくさと立ち去った。

 見るからに怪しい。

 脛木鯉沙となにかあったのだろうか。

 窓際の席を見遣ると、そこに対象の姿はなく、代わりにオレの向かいの席に、脛木鯉沙が、今まさに座ろうとしていた。

「もしよろしかったら、すこし、話をしないか」

 脛木鯉沙は、有無を言わさぬ冷厳な態度で、まっすぐとオレを射抜いている。

「もちろんよろしいですよ。どこかの冷たい女性とちがって、ボクは、ほかをあたれ、なんて言いません」

 なんとか返せた皮肉も、我ながら苦しく聞こえる。

「あの娘から聞いた。おまえ、あたしに興味があるらしいな」

「ええまあ。あなたは謎が多いですからね」

「ここの客で、という意味か」

「ほかにどんな意味合いが?」冷や汗が滲む。

「おまえがあたしを監視しているのは知っている」脛木鯉沙はいきなり核心を突いてきた。「知っていて見逃してきた。が、おまえがあの娘の気持ちを利用したのは看過できない。おまえは人として最低のことをしている。その自覚はあるのか」

「とぼけても無駄ですか?」

「無駄ではない。拷問する名分が、あたしにできる」

「おもしろいことを言いますね。笑えます」

「笑えないさ。あたしは拷問が苦手でな。すぐに死なせてしまう」

 ぞっとするほど美しい狂気というものがあるなら、まちがいなく彼女が今この瞬間に浮かべている悩ましげな微笑が、それに当たるだろう。慈悲を秘めた殺意ほど、手に負えないものはない。

「解りました。無駄な抵抗はやめましょう。で、あなたはオレにどうしろと」

「あの娘に謝れ。謝って、ちゃんと振ってやれ」

「オレの事情をすべて話せと?」

「おまえの事情なんて知るか。どうせ雇われの探偵かなんかだろ。依頼主の情報さえ口にしなけりゃ、職業倫理からは外れん。そういうもんなんだろ?」

「ええ、まあ」嗅ぎ回られるのに慣れていると感じる。

「話は終わりだ。あの娘に感謝しろよ。あの娘のおかげでおまえはあたしと会話ができたんだから」

「大きなお世話というのもこの世にはあるんですよ」

「贅沢なヤツだな。大きいなら、その分、ふつうのお世話よりもお得ってことだろ。感謝してやれよ」

 吐き捨てて脛木鯉沙は、自分の定席へと戻っていく。彼女が文庫本を開いたのを見届けてからオレは、

「バレてたのかよ……」

 頭を抱え、久しく味わうことのなかった死にたい気分をぞんぶんに味わった。

   ×××

 開きなおる、という心の柔軟性は人生を有意義に過ごすためには欠かせない技術だ。

 オレはもう、脛木鯉沙に対して、陰に回っての調査をするのを諦めた。仕事を放棄したわけではない。いっそのこと、洗いざらいを彼女に打ち明け、ひたすらそばで監視しようと決めたのだ。

「なんでおまえが座ってんだ。邪魔だ。ほかの席へ行け」

「ここはみんなの席です。あんただけの席ではない」

 オレはサラリーマンのフリをやめ、朝一で喫茶店へと赴いた。脛木鯉沙よりもはやく窓際の席に陣取り、彼女が来るのを待っていた。

「あたしはおまえにお願いしているんだよ。邪魔だから、あっち行け」

「オレはやさしいから、あんたが相席するのを拒んだりはしない」

「あたしが嫌なんだ」

「そんなにこの席がいいのか?」それは前から疑問に思っていたことだ。彼女は随分とこの席に執着している。何かこの席ではならない理由でもあるのだろうか。

「分かった。もういい」

 脛木鯉沙は踵を返し、来たばかりの店を出ていった。

「困りますよ、路坊寺さん。常連さんを怒らせちゃ」マスターが渋面を浮かべている。

「わたしの給料が減ったら、路坊寺さんのせいですからね」衣子(いこ)からも、唇を窄めつつ非難された。

 脛木鯉沙に謝罪するように迫られるまでオレは、彼女の名前さえ知らなかった。調査代理人であることと、脛木鯉沙を調査していることを打ち明け、そのためにきみを利用した、とオレは伊乃葉(いのば)衣子に頭を下げた。

 すると彼女は、

「なにを謝ってるんですか?」と、つっぱねるように応じた。「わたしはウェイトレスですよ。お客様にご利用いただくための存在です」

 それを聞いたとき、オレは初めて胸が痛むのを感じた。ゆかに落とした目を彼女に向けることができなかった。

   ×××

 脛木鯉沙は三日間、喫茶店に姿を現さなかった。自宅であるマンションにも帰っていない。オレへの当てつけなのか、それともこの街から去ったのか、彼女の消息は完全に途絶えた。

 調査対象が韜晦してから四日目。オレは衣子からの連絡を受けて喫茶店に急いだ。

 脛木鯉沙は何食わぬ顔でいつもの定位置、窓際の席に腰掛けて珈琲を啜っていた。

「……あんたな。心配させんなよ」彼女に詰め寄り、指弾する。

「追いだした張本人がどの口叩く」

「あのな。オレに説教しといて、あんただって衣子に心労をかけてんじゃねえか」

「あたしは謝ったぞ。自分から」

 そうなのか、と背後を振りかえり、カウンターから不安そうにこちらを窺っている衣子に目をやった。怒鳴りあっていたせいか、会話が向こうにまで筒抜けだったようだ。衣子は、こくこく、と小刻みに頷いた。

「謝りゃいいってもんじゃない」と向き直る。

「おまえ、あたしの何なんだ。ママんかよ」

「オレはあんたのママんじゃない。ただの調査代理人だ。調査対象にいなくなられちゃ困るんだよ」

「おまえな。言ってることめちゃくちゃだぞ。ストーカーが逃げた被害者にイチャモン付けてんのと変わんないからな、それ」

 もっともな反駁だ。黙るしかない。

「まあいいや。心配してくれたんだろ。仕事が理由でも、心配かけたことは謝る。すまん」

「意外だな」

「なにがだ? あたしはな、筋はとおす女だ」

「曲がったことが大嫌いって、か? だったら素直に白状してくれ。あんたいったい何を仕出かして追われてんだ」

「それを調べるのがおまえの仕事だろ?」

 依頼主とおなじことを言いやがる。楽をしたって誰も責めやしないさ、と反論してやろうかとも思ったが、やめた。代わりに、「なんで戻ってきた」と質問する。やはり彼女にはこの店にいなければならない理由があるのだろう。窓際の席に座っていなければならない確固たる理由が。

「別に戻ってくる気はなかったんだ。ただ、いい場所が見つからなくてな。で、外にいたわけなんだが、したら、警官どもが職質かけてきやがって。面倒だから戻ってきた。それだけのことだ」

 マンションにも戻らずに、ずっと外にいたようだ。口ぶりからすると、同じ場所に居座っていたのだろう。不審者としては申し分ない。職務を全うしただけで文句を言われる警官が憐れだ。

「オレも、邪魔してわるかった」ここは素直に誠意を示しておこうと思った。「これからはほかの席に座るよ」

「店に来ないって選択肢はないのかよ」

 その選択肢は、なかった。

   ×××

 調査対象をまえにしてこれだけじぶんを偽らずにいるのは初めての体験だ。新鮮、と言い換えてもいい。

「真似すんなって。ホットケーキ、オレが頼みにくくなるだろうが」

「食べたいものを頼んで何がわるい。嫌ならたまには、トロピカルパフェでも頼んでやれ」

 トロピカルパフェは、果物屋に行っても並んでいなさそうなフルーツが盛りつけられた特大のパフェであるらしく、この店で二番目に高い品物だった。ちなみに一番は、一杯一万二千円もする珈琲で、原材料となる珈琲豆は、像の糞から採れるそうだ。

「パフェも珈琲も、注文してるヤツなんて見たことないぞ」

「あるぞ、あたしは」

「ホントか? どんなだった?」どれほど豪勢なパフェなのか、と興味がある。

「美味かった」

「あんたが注文したのかよ!」

「わるいか」

「わるかないが、でもな」もしや、と思いオレは、「よもや珈琲まで頼んじゃいないよな」と若干の期待を籠めて訊いた。

「おまえな。像の糞から採れる珈琲なんて飲みたいと思うか」

「だよな」

「美味かったがな」

「飲んでんじゃねえか!」

「あらあら楽しそうですねえ。ほどほどにしないと妬いちゃいますよ、わたし」

 衣子がホットケーキを運んでくる。オレの分ではない。

「じゃ。お先に」脛木鯉沙はこれみよがしにホットケーキを頬張った。

「路坊寺さんは何になさいますか?」またホットケーキですか、と衣子にまでからかわれる。

「そうだな」オレはメニュー表を睨み、「じゃあ、トロピカルパフェで」と決めた。「あと、像の珈琲も」

 注文してから、経費で落ちるよな、と遅まきながら不安になった。

   ×××

 調査対象を監視してから三カ月が経過した。依頼主から連絡があった。郵送した調査レポートについての返信かと思ったが、そうではなかった。

「あなたには期待していたのですがね。ワタシ個人としても、たいへんにざんねんだ」

「なんの話ですか」

「調査対象に接触したまではこちらとしても許容できたのですがね。あなたはあろうことか、調査対象に肩入れをしはじめた」

「肩入れ? なんのことだ」

 依頼主の言葉尻を捉えるに、おそらくオレを監視していたのだ。二重尾行ならぬ、二重調査だ。見張られていた事実を知り、頭に血が上る。

「調査依頼の、契約解消を申し入れます。報酬のほうは、もちろんお支払いいたしますが、往々にして大金を手に入れた者は、不幸な顛末を辿ると聞きます。どうかお気を付けください」

 弁解を挟む余地なく、電話は切れた。

「なんだッてんだよ、クソッ」

 依頼主についての調査を怠っていたじぶんの軽率さに、臍を噬んでも噬みきれなかった。

   ×××

「近々この街を去ることになった。名残惜しいが、あんたともお別れだ」マンションのまえで待ち伏せし、オレは脛木鯉沙に別れを告げた。

「急だな」

「オレも死にたくはないからな」

「ああ、そういうこと」

 暗雲立ちこめたこちらの機微が伝わったのか、脛木鯉沙は、妙におとなしく首肯を示した。

「ここに住んでたわけじゃないんだろ、おまえ。帰るのか?」

「いや。あの街には戻れない」

「それはわるいことをしたな」

「なぜあんたが謝る」

「だって、あたしのせいだろ?」

 元を辿ればそういうことになるか、と納得し、「そうだな。あんたのせいだ」と責めてやる。

「じゃあ、何とかしてやるよ」

「何とかだあ?」できるもんならしてみやがれ、と失笑する。

「言っただろ。あたしは、筋はとおす女だ」

「曲がったことは大嫌いって、か」

 揶揄すると、

「いや。曲がってたって、筋は筋だろ」

 真顔で返された。

「……お、おう」

 脛木鯉沙。こいつは本当によく解らない女だ。

   ×××

 お別れなんだろ。顔くらい出したらどうだ、という彼女の意見に従ってオレは衣子とマスターに挨拶をすべく、すっかり行きつけとなった喫茶店を訪れた。三カ月にちかい期間、顔を合わせてきたというのに、脛木鯉沙と同伴するのは初めてのことだ。

 窓際の席に座る。むろん彼女と相席だ。

 いい機会だと思い、思いきって訊いてみた。

「あんた、何を見てたんだ、ずっと」

 彼女が窓のをそとを意識していたことには、オレもはやい段階から気づいていた。ただ、何を見ているのかが解らなかった。

 脛木鯉沙は、選別をくれるかのような静けさで、河川敷にいるひと組の男女をゆび差した。大柄な男と、小柄な娘が、ブルーシートへと入っていく。「ホームレスか」

「あいつらな、親子なんだよ」

「親子? 子連れでか?」

 悲惨だな、と思ったが声には出さずにおく。「で、あの親子がどうしたんだ」

 男のほうは背が高く、体格もがっしりしている。そのせいか、娘とおぼしき少女がより小柄に映った。

「あれな。鬼なんだよ」ぼそりとつぶやくように脛木鯉沙は言った。

 言葉の真意を探る。ジョークだろう、と結論づけるも、彼女の顔は真剣そのものだ。

「もうずっと前のことになる。あたしらとあいつらのあいだで、戦争があってな」珍しく彼女が饒舌に語りだした。「戦力的にはこっちが優勢で圧倒的だったんだが、そのうち向こうに味方する裏切り者や内通者が湧きだした。そのせいで当初の見立てよりも戦線が長引いてな。そのうち膠着状態に入ったが、こちらが捕虜を利用して、卑劣な作戦を決行したことにより、ふたたび情勢はこちらに傾いた」

「なんの話だ? 戦争? いつのだよ」第二次世界大戦の話ではなさそうだ。そもそも何十年も前の話を生々しく語れるほど彼女はまだ老いさらばえていない。

「あたしらは多くの異形を滅ぼした。鬼もそのうちの一つだ。彼らは人の邪心を司り、操る。こちらの人員はずいぶんと鬼の手によってむこうさんに裏返った。そいつらもろともあたしらは、皆殺しにした」

「その生き残りが、あの親子だと?」

「だがそれも、もう終わる」

「終わるって、なにがだ?」

「ここにいつまでいる気だと訊いたな。いつまでこうしているのか、と」

「ああ」

「あと数日だ。数日で、終わる」

「どういう意味だ」

「あの鬼はもう何年も人を喰らっていない。隠しているようだがツノも、すっかり変色しきっている」

「だとしたら、どうなるんだ?」

「おまえ、飯を食わなかったらどうなる」

「飯を?」

 想像を逞しくするものの、気の利いた答えは浮かばない。「まあ、死ぬんじゃないのか」

 ありていな言葉を紡ぐと、分かってんなら訊くなよ、と彼女から非難めいた目を向けられる。

「あいつらは親子だが、同族ではない。あの親が死ねば、もうどこにも鬼はいなくなる」

 親がいなければ子は生きられない、という話だろうか。よく解らない。

「それまで、待ってほしい」

「それはまあ、構わないが」

 というよりも、待ってほしい、とはどういう意味か。まさかとは思う。まさかとは思うが、俺に付いてくるつもりではないだろうな。

 何とかしてやるよ、と言った彼女のクソ真面目な顔がいつまでも脳裡にくすぶっていた。

 この会話から四日後。

 オレは脛木鯉沙と共に、愛着を覚えるまでになったこの街を去った。

   ×××

 事務所のある街まで脛木鯉沙を案内したあと、オレは彼女と別れた。

 別れ際、

「これからどうすんだ」と訊ねられ、オレは咄嗟に、「どうもしないさ」と答えた。

「オレはオレだ。たぶん、変われない」

「至言だな」

 初めて彼女に同意され、オレは柄にもなく素で照れた。

 依頼主から、未払い分の報酬が振りこまれることはなかった。オレの口座には、前金の五百万から調査費用を差し引いた、七十万円だけが残った。金額だけでいえば損をしていない分、仕事としては上々だったと言えるだろう。ただ、オレは調査代理人という職を手放し、慣れ親しんだこの街から逃げださなくてはならない。そう考えれば大損もいいところだ。

 いざ逃亡の準備を整えていると、メディア端末に流していたニュースが目についた。

 ――国立化学研究所、爆発事故により炎上、壊滅。

 その際に、記者会見をしていた男を見てオレは目が点になった。

「なんで、あんたが?」

 依頼主だった男が、額から滝のように汗を流している。彼は憔悴しきった面で頭を下げていた。テロップにはかろうじて聞き覚えのありそうな名前が浮かんでいる。

 オレの見立てはテンで外れていた。

 なにが危なげな組織の参謀幹部だ。とんだ政府のお偉いさんじゃねえか。

 緊張しきっていた肩のちからが抜けた。この日、オレは荷作りを解き、いちどは仕舞った事務所の看板を入り口に掛けなおした。

   ×××

 路坊寺のやろうが仕事でヘマをやらかした。そういった噂が流れていると、知人から教えられた。道理であの一件以来、閑古鳥が鳴きっぱなしなわけだ。

 職を手放さずに済んだとはいえ、仕事が入ってこないのでは、無職も同然だ。このままでは本当にあれが最後の仕事になってしまう。いよいよオレの予感も的中しそうだ、と笑いたくもなる。

 デスクに足を投げだして転職雑誌を眺めていると、扉をノックされた。

 見遣ると、かってに入ったのか、扉のまえに女が立っている。

「人捜しを手伝ってほしいんだが」

「お、おう……」

「あたしの依頼だ。サービスしろ」

「それはまあ、構わんけども」

 やれやれ。

 これだから予感などあてにならない。オレの最後の仕事は、とうぶん先になりそうだ。




   3Λ07伊乃葉(いのば)衣子(いこ)

 イコは万年片想いだから、と友人のカナコに言われた。ペンギンはどうして空を飛ばないの、と子どもに投げかけられた飼育員さんが、ペンギンが飛ぶのは海だから、と答えるようなやさしい響きがあった。

「だってイッコは、ずっと好きな人を想いつづけてる一途なおんなのコなんだもんねー」チカからもからかわれる。

「そんなんじゃないよ」と否定する。

「またまたあ。じゃあどうしてあんないい男、振ったわけ?」

「それは、ちがくて」

 先月のことだ。わたしは学生時代にサークルが同じだった男の子と偶然再会し、食事をしたその日のうちに告白された。彼が言うには、学生当時から好きだったのだそうだ。とつぜんの告白にわたしはもちろんびっくりした。そんなたいそうな人間ではないですよわたし、と申しわけなさを感じ、たいそうな人間ではないことをあなたも知ったほうがよいですよ、というニュアンスの言葉で応じた。

「振ったんじゃないよ。ただ、今はまだ付き合えないですって、そう言っただけで。そしたらなんか、わたしが振った、みたいになってて」

 先日、サークルの先輩の結婚式に参加した折に、件の男の子が後輩の女の子たちから、「伊乃葉(いのば)さんは男性に興味がないから仕方がないですよ」と慰められている姿を見かけた。とんだ言いがかりだったけれども、わざわざ訂正するほどのことでもないなあ、と思い、見なかったことにした。

「どうしてだろう。むかしっからなんだよね。みんな振られたと誤解するの」

 いつだって、友達からはじめましょう、と前向きに応じていたつもりだったのに。

「ふしぎだねえ、カナコちん」

「実にふしぎだな、チカちん」

 友人たちはふたりして、姪っ子に手品を見せて悦に浸っているおじさんみたいに相槌を打った。

 ひさびさに長期休暇がとれたのでわたしは、仕事が終わってからさっそく、大学時代からの友人二人を誘って、いわゆる女子会というものをやってみた。場所はわたしの希望で焼き肉屋さんにしてもらったのだけれど、チカとカナコにはイマイチ不評だ。

 話題はなぜか恋愛中心の話になりがちで、辟易したわたしがなんとか脱線を試みるも、即座に、

「あ、そういえばさ」とカナコに遮られ、

「で、どうなの? ほんとうにイイ人いないの?」とチカに軌道修正されてしまう。

 ずっとこれだ。結論がでない、もしくはすでに出ている話題をわたしたちは、ぐるぐると堂々巡りした。


「どうして男って見る目ないやつらばっかりなんだろうね。やっぱり男はアホだよ。ミジンコ以下だよ」ウーロンハイ片手にチカがぼやく。

 この台詞もすでに三回目だ。

「そうだよね。どうしてだろうね」

 言ってあげるとチカは、「ねー?」とのどを撫でられた猫みたいに目を細める。

「イコはさ、いつまでむかしの男、引きずんの。しかも付き合ってもなかった男だろ」

「またその話? もういいでしょ」かんべんしてください、とわたしはカナコの空になったジョッキにビールをつぐ。

「あんがと。で、そろそろ踏んぎりつけたら? あんたを振るような男だったんだ、見る目なかったとしか思えん」

「だよね。こんな、いい女なのに」

「あーあ。酔っ払いの相手ってわたし、苦手だな」

 嘆くと、チカとカナコはふたりして姿勢をただし、

「あ、ごめん」

「ごめんなちい、イッコ」

 しゃんとしてくれた。

「いやでもね。うちらはほんとうにイッコのことを思って言ってるんだよ。ね?」

「そうだぜ、きょうだい。アタシらは、イコのしあわせを願って言っているんだ」

「三つ言いたいことがあります。一つ、私はべつに引きずってなんていません。二つ、たしかにわたしはむかし失恋したけど、振られたわけでもありません」告白さえできなかったのだから。「三つ、この話はもう五回目です。そろそろわたし、うんざり」

「うんざりですってよ、カナコちん」

「ひどい言いようだよな、チカちん」

「あ、ずるい、ふたりして結託して。またわたしを仲間外れにする気だ」

「そんなんじゃないよ?」

「そうだぜ、イコ。そんなんじゃない」

 さっきからふたりは、阿吽の呼吸でぴったり合わせてくる。

「なんかチカとカナコって、姉妹みたいだよね。見えない糸で繋がってるみたい」いじわるく言ってみる。「嫉妬しちゃうなあ」

「べつにうちら付きあってなんかないからね、かんちがいしないでよイッコ!」

 ペっ、ぺっ、なんだいこんなやつ、とチカが大袈裟にカナコを詰る。

「うんうん。敵同士だぜ、アタシら」

「そこまでわたし、言ってないよ?」ふたりして否定しすぎだと思う。

「べつにうちら、過去にイッコを奪いあって喧嘩して、そのとき絆を深めたとか、そんなことないから!」

「へ……そうなの?」そんな話、聞きたくなかった。

「おいおい、イコちゃん。ちがうって言ってるだろ。アタシらはべつに、イコから『友達から認定』された男どもによってたかって、『振られても気にすんなよ』って、ちゃっかり『振られた認定』を擦りこんでいたとか、そういうこともないから」

「あ……。そういうことだったんだ……」

「ちがうから、ちがうから! うちらはイッコのことなんてだいっきらいだし!」

「うん。ありがと。だいじょうぶ。トモダチがちょっとヘンだからってわたし、嫌いになったりしない」

「ああ、どうしよう、チカちん。ここに天使がおられるよ」

「どうしようね、カナコちん。うちにも見えるよ、天使が」

「わたしたち、あと四年したら三十路だよ? もうそろそろ、おとなになろうよ」

「ダメっ! イッコはおとなになんか、なっちゃダメなんだから!」

「そうだぜ、イコ。おまえさんはどう見たって十代にしか見えんよ」

「だからってこうやって集まるたびに、わたしだけ飲酒禁止って、かるくいじめじゃないのかなあ」

「断じていじめなどではない」

「そうだ、そうだ。これは青少年健全育成条例に則った、正式な保護活動の一環だい」

「どうしよう、わたし。もし子どもが生まれても、ふたりに会わせたくない」

「心配すんなって。イコに子どもはできないから」

「そうだよ、イッコ。女の子同士じゃ子どもはできないんだよ? 常識ですよ、お嬢さん。常識」

「あなたたちの発言が非常識すぎてわたし、かなしい」

「どうするね、チカちん。今日のイコ、ちょっとSだ」

「そうだね、カナコちん。今日のイッコはMじゃない」

「ふたりにとってわたしって……」

「永遠のマスコット」

「マドンナ。アイドル。純粋処女」

「……ごめんなさい。さっきの発言、訂正する。わたし、トモダチがヘンなのはイヤ。すごく、イヤ」

「アタシら、そんなにヘンかなあ? どう思うよ、チカ隊員」

「ひどいと思われるのであります、カナコ隊員」

「だよなあ。だってヘンなのはチカだけなのに」

「おっと!?」

「なあなあ、イコちゃん。今週いっぱい休みなんだろ? いっしょに旅行にでも行かないか? ヘンなやつは置いといてさ」

「ここにきて裏切られた!」

「カナちゃん、ごめんなさい。わたし、もう、チカと京都に行く予定があって」

「とっくに裏切られてた!?」

 チカてめぇ、とカナコが怒鳴り、お土産なにがいい? とチカがしたり顔で火に油をそそぐ。

 そんな彼女たちの見苦しいケンカを眺め、わたしは、やっぱりひさびさの休暇はひとりでゆっくりしたいなあ、と思った。

   EΛ07

 予定していた京都旅行を、土壇場でご破算にした。チカには泣きながら、「どーしてー、なーんでー」と食い下がられたけれども、しょうじきに「一人でゆっくりしたいの」と伝えたら、渋々の様子ではあったものの引きさがってくれた。たぶん、一人で、というところが妥協点だったのだと思う。カナコといっしょでないなら良しとするか、といった計算をチカがすばやく巡らせたのが、いっしゅん空いた間から察せられた。

 休暇初日は家でごろごろし、二日目は部屋の掃除をし、三日目になってわたしはようやく外出をする決心を固めた。

 ぞんがいわたしはむかしっからずぼらで、ふまじめな性格だ。ふしぎなもので周囲からの評価はおおむね真逆であり、わたしはどうやら、おしとやかで理知的な、静謐であるがゆえに近寄りがたい女であるのだそうだ。下っ足らずで間延びした話し方がそう思わせるのか、或いは動きがおっとりしているからそう見られるのか、いずれにせよ実にふしぎな現象だと思う。

 わたしと初めてメールをやりとりする相手はたいてい、わたしの味気ない文面と乾いた内面に、「思っていたのとちがう!」と戸惑うようだ。いくどかメールを交わしただけなのに、伊乃葉さんから嫌われた、とかってに落ちこんだ友人たちの数は両手のゆびでは収まりきらない。

 こんなわたしだからか、気の置けない関係にまで発展するという事態が極めてまれだ。たいがいみんなわたしから距離を置き、やがて離れていく。

 そう考えると、チカとカナコは、ほんとうに珍しい人種だと思う。わたしなどを慕ってくれるなんて、あのふたりは良い意味で変人だ。

「やっぱり旅行、行ってあげればよかったかなあ」

 つぶやいてから、

「行ってあげれば、だって」

 じぶんの言葉に引っかかりを覚え、思わず陽気が込みあげる。

 常時、上から目線なのはわたしのわるい癖だ。治る見込みは、いまのところ、まだない。

   3V07

 さいしょは親子だと思って、いちど通りすぎた。気になって、視線を離せずにいると、常に地球に同じ面を向けてまわっているお月さまみたいに、わたしはすっかり振りかえって、後ろ歩きをする格好になっていた。

 視線のさきには、さきほどから、成人男性にうでを掴まれた少年らしき子どもが、嫌がるように身をよじっている。子どもはツバ付きの帽子を被っていて、小学校低学年くらいの背丈だ。顔は見えないものの、おそらくとても怯えた表情をしている。

 周囲の通行人は、誰も彼らを気にとめない。いっしゅんちらっと視線をやって、それでおしまい。

 わたしは溜息を勢いよく漏らし、腹にちからを籠める。

 丹田、丹田、と頭のなかで唱える。

 武術サークルだったからか、いざというときにはこうして丹田を意識する癖がついてしまった。

「ちょっとすみません。お尋ねしますが、親子ですか」

 近寄って行き、わたしは男ではなく、子どもに向かって話しかけた。「嫌がっているように見えますが、どうかされましたか」

「何なんだ、あんた。邪魔をしないでくれ。これはおれたちの問題だ」

 男にあしらわれるも、

「そうなの?」とすかさず子どもに確認する。

「これはぼくのモンダイです。カンケイないのです」

 突き放された、と面食らってしまったけれど、そうではなく、これはどうやらわたしへの言葉ではなく、男に対しての批判であるようだ。

「このコも迷惑だとおっしゃってますが、それでもあなたはこのコに手をあげるんですか」

「手をあげる? おれはただ、このコのためを思ってだな」

「悪い人はみんなそう言うんです」わたしはメディア端末を取りだし、一一〇番を押す。通話ボタンを押さずに、画面を男に見せつける。「どうされますか。来てもらってもいいんですよ、警察の方に」

「おまえなあ」男に焦った様子は見受けられない。「仕方ない」彼は名刺を取りだし、子どもへ渡した。「何かあったら、ここへ連絡しろ。このお姉さんは善人だが、おまえの〝ソレ〟には対処できない。言っている意味、わかるな?」

 子どもは名刺を受けとり、目を伏せたまま、ちいさく頷いた。

「さ、行きましょ」

 男がなかなか立ち去らないので、わたしは子どもの背を押し、その場から離れる。

「お姉さん、のど乾いちゃった。詳しいお話も聞きたいし、喫茶店に寄ってもいい?」

「うん」返事をしたあとでそのコは、あっ、と思いだしたように言った。「どうもありがとうございました」

「いいんだよ。困ったときは、お互いさま。きみも誰かが困ってたら、助けてあげてね」

 笑いかけると、そのコはなぜか、ぽかーんと口を空けていた。子犬が急に叱られて、呆気に取られたみたいな、かわいらしいお顔だった。

   3ΛO7

 喫茶店でわたしはそのコからことの経緯を聞いた。そのコは、ゆかに届かない脚を所在なさげに揺らしている。椅子に飾られたお人形さんみたいだ。

「ふうん。あの男、急にきみに襲いかかってきたんだ。こわいよね。それは、こわい」

「襲いかかってきたわけではないのです。でも、そうです。急にうでを掴まれて……なかなか離してくれなくて」

「うんうん。こわかったよね。そうだ。お姉さんがいいこと教えてあげる。そういうときはね、相手の股間を思いきり蹴りあげて、大声で『たすけてください』って叫びながら逃げるといいよ」

 教えてあげると、

「ひとを蹴ったらダメなのです」

 逆に諭されてしまった。なんて良いコなの、と感激する。

「ああいうときはいいの。お姉さんが許可します」

 正当な理由もなく子どもを連れ去ろうだなんて、断じて許せない所業だ。逆上されることを危惧してその場で警察に通報することはしなかったけれど、でもやっぱりしておくべきだったかも、と後悔する。

 注文したチーズケーキを食べ終え、お代わりしたオレンジジュースをふたりで飲んでいると、

「どこかへ行く途中だったのではありませんか」

 そのコが心配そうに言ってくれた。

「だいじょうぶ。お姉さん、今日はお仕事お休みでね、暇だったの。ぶらぶら歩いてたら、きみを見かけて」

 そういうきみこそ予定があったんじゃないの、とわたしは水を向ける。まだ夕方まで時間があるとはいえ、もしかしたら家族が心配しているかも、と思った。

「だいじょうぶです。ぼくも今日は、外出許可日なので」

「外出許可日?」

「はい。一人でそとにでかけてもよい日です」

 それは解るけれど、

「許可がないとそとに遊びに行っちゃだめなの?」躾けにしてはちょっと厳しすぎでは、と思う。

「ぼく、養護施設で暮らしてて、それで」

「ああ」そういうことか、と納得する。こちらが気に病む必要はないはずなのに、わるいことを聞いてしまった気持ちになるのはなぜだろう。親がいないことに対する同情心かもしれない。

 同情も、上から目線のひとつだぜ。

 以前、カナコから言われたことのある言葉を思いだす。そのときは全面的に否定したけれど、こうしてその言葉が楔のように胸に突き刺さってしまっているところを鑑みると、あながち間違いではなかったのかもしれない。

 わたしは自己嫌悪に陥る。

「だいじょうぶですか。顔色、よくないです」

「ううん。なんでもないの。そうだ、きみ、さっきあの男のひとから名刺もらったでしょ。それ、見せてくれない?」

 そのコは年季の入った革製の財布から名刺を取りだし、どうぞ、と渡してくれる。

 名刺には、「霊能探偵事務局」と書かれ、裏側に、電話番号と名前が記されていた。

「うさんくさいね、これ。槻茂(つきも)雄敏(おとし)って名前も偽名くさいし」

「たぶん、うそではないと思うのです」

「へ? ああ、うん。そうだね。きっとほんとうに霊能探偵事務局ってところで働いてるんだろうね」

 詐欺師がパン屋さんで働こうが詐欺師は詐欺師だと思ってしまうわたしのような人間は、このコみたいに純粋な気持ちで物事を見ることは、おそらくもう一生できないだろう。

 素直でいられるのは純粋な者の特権だ、と言ったのは誰だったか。わたしみたいに心の歪んだ者は素直になってはいけない。

「だいじょうぶですか、お姉さん。げんきないのです」

「そんなことないよ。あ、そうだ」わたしは話を逸らしついでに、ちょっぴりいじわるな気持ちで、「気になってたんだけどね」

「はい」

「どうしてきみ、じぶんのこと、『ぼく』って言うの」と質問してみる。

「へんですか?」

「へんじゃないよ。かわいいと思う。でも、女の子はふつう、『ぼく』って言わないでしょ?」

 ツバ付きの帽子に髪がしまわれているためか、遠目から眺めていたぶんには少年にみえた。しかしさきほど並んで歩いていたときに、こちらを見上げたこのコのおとぼけなお顔を見て、かわいらしい女児であることに気がついたのだ。

「ならぼくはたぶん、ふつうじゃないんだと、思います」

「あはは。そっか。いいね。わたしのおトモダチもね、ヘンなコばかりなの。きっとヘンでいられるっていうのは、それで一つの、つよさなんだろうね」

 つよい者がやさしいわけじゃないよ、と言ったのはチカだった。

 つよい者は、やさしく生きても周囲の者たちに潰されない。だからやさしくてつよい者が結果として生き残り、目だってみえる、というだけの話だという。その意見にはわたしも同感だった。チカのその持論は、「やさしい」を「ヘン」に言い換えても成立したからだ。

 ヘンな者がつよいわけではないけれど、ヘンでいられる者は、つよい。

「お姉さんがつよいのは、お姉さんもヘンだからです」

 照れたふうに目を伏せ、ほっぺを赤く染めながらそのコは言った。

「そうだね。わたし、ヘンなの。ヘンテコなの」

 いじらしすぎてわたしは堪らずそのコのほっぺを両手で掴んで、むぎゅっとした。抵抗せずにそのコは、わたしが手を離すまで、おとなしくむぎゅむぎゅさせてくれた。気のせいだろうけれど、ほっぺを弄ばれるのに慣れている感じがする。わたしが満足して解放してあげると、

「報告しなきゃです」

 ほっぺをさすりながらそのコが言った。

「へ、誰に?」

「かえったら、施設のみんなに」

「何て……?」

「ヘンテコなおともだちができました、って。きっとみんな、うらやましがると思うのです」

 そのコのまぶしい笑顔を見てわたしは、セクハラで訴えられてしまうのでは、とヒヤヒヤしたじぶんを恥じた。

   3Λ0L

 わたしたちは、陽が暮れる前に別れた。わたしはそのコに名前を訊ねなかったし、そのコもわたしが何者なのかを訊かなかった。

 それでいて彼女は、

「また会ってくれますか?」と言い、

 もちろん、と答えると、ぺこりとお辞儀をして、小走りで去っていった。

 途中で振りかえり、こちらに手を振るそのコに手を振りかえしてわたしは思った。

「ヘンなコ」

 まるで天使のようだ、と胸がほくほくする。

 家に帰り、着替えていると、ポケットから名刺が出てきた。

「しまった」

 あの男からの名刺を返すのを忘れていた。けれどすぐに、いやむしろこれはわたしが持っていたほうがいいかもしれない、と思いなおし、男の魔の手から、かわいらしいおトモダチを守れたことに、知れずわたしは鼻歌を奏でていた。

 うかれているじぶんに気づき、その場に崩れるように、ゆかに手をつく。

 かわいらしい女児と知り合い、うかれる女。

「これじゃタダのヘンタイじゃない……」

 まずい。これは激しくまずいですよ、と思う。

 養護施設で暮らしていると話していた彼女を捜しだすのは、おそらくさほどむつかしい作業ではない。ただ、こちらから会いに行くのはやめよう、と思った。

「恋ではないんだけどなあ」

 湯船に浸かりながらわたしは悶々とした。

 これが恋心ではないことをわたしは断言できる。下心があるわけでも、もちろんない。どちらかと言えばこれは母性にちかしい感情だろう。そうだそうだ、とじぶんに言い聞かせる。

 言い聞かせれば言い聞かせるほど、悶々とした想いが募っていく。

 あのコの笑顔がまぶたに焼きつき、寝床に就いても離れなくなる。ついには夢にまで現れた。

「なんなの、これは!」

 朝起きてわたしは、両手で顔を覆いかくした。初めて、チカとカナコに同情し、よくぞこの感情を押し殺してこられたものだ、と尊敬する。

 尊敬した矢先に、「いやいや。押し殺せてないからね、あのふたり」とじぶんの思いに、つっこみを入れ、わたしはああはなるまい、と心につよく誓った。

   3ΛOL

 チカから着信があったのは、お昼を回ったころで、ちょうど茹でたそばを啜ろうとしていたまさにその瞬間だった。箸を手に持ったまま電話にでる。

「邪魔しないでよ」

「え、なにさ、いきなり」チカが噴きだし、その声で、耳の奥がキーンと鳴る。

「今、おそばを食べるところなの」

「あ、いいなあ。うちも食べたい」

「来ないでよ。迷惑だから」

「行きたいけど行けないよ」

「どうして?」

「ちょいちょい、お嬢さん。お忘れですか? ちみがドタキャンしたからって、うちが支払ったチケット代やら旅館の宿泊費やらは戻ってこないんだよ」

「え? 一人で行ったの? 京都に?」

「ううん。もったいないから、カナコ誘った」

「あ、じゃあ、そこにいるんだ」

「代わる?」

「え、いいの」わたしとの通話をカナコに譲るなんて珍しいこともあるもんだ、と思う。「じゃあ、代わって」

「あいよ」

 無言で手渡したのか、ごそごそと雑音がしたあとで、

「イコ? ホントにイコか?」必死そうなカナコの声が届いた。

「うん。わたしだよ」

「今、どこに居る?」

「え。どこって、家だけど」

「家? イコの実家って京都だっけ?」

「京都じゃないよ」

「待て待て。え、おかしいな。イコ、京都にいるんだよな」

「いないよ」

「ん? ん? 待て待て。じゃあ、なに? アタシはイコのいない京都にいるの? なんで?」

「わたしが聞きたいくらいだよ。チカに誘われて、それで行ったんじゃないの」

「そうだよ、そう、そのとおり。チカのやろうが、『いっしょに連れてってやってもいいよ』とか珍しく殊勝なことぬかすから、じゃあしょうがねえな、つって付いて来てたんだ」

「そっか。ならカナちゃん、わたしの分まで楽しんできて」

 お土産は、ハツ橋の、あんこないやつがいいなあ、とおねだりする。

「待て待て、このくいしんぼう。本気で京都に居ないのか? だって、それはおかしくないか? だってイコ、チカと旅行に行く予定だったんだろ」

「そうだよ。やめたけど」

「やめたのかよ!」

 チカてめぇこのやろう、とカナコが襲いかかったらしく、電波の向こう側からは、チカの逃げ回る声と、それを追うカナコの空をきって走る音が、聞こえてきた。

「楽しそうでいいなあ」

 わたしはそっと通話をきって、のびかけのそばを啜った。「うん。おいしい」

   3VOL

 十五時。暇を持て余したわたしは、ひとむかし前の映画を観た。以前、うちに来たカナコが、ぜったいに面白いから、と強引に置いていったものだ。アメコミを実写化したもので、すでに三部作になっているものをリメークした作品だった。わたしはそういったアクション系の、いかにも少年が好みそうな映画は趣味ではなかったのでこれまでずっと放置していた。クライマックスの場面、ヒーローの青年がおばさんの待つ家へ帰った際に、たまごを買ってくるシーンがある。わたしはそこで思わず涙ぐみ、その後につづく怒涛の演出で、ついには撃沈させられた。

 滂沱の涙を垂れ流し、感動の余韻に浸っていると、間がわるいことにインターホンが鳴った。

 感動を邪魔するようなそのタイミングに、わたしは瞬間的に頭にきた。

「なんなの、もう! ホント、なんなの」

 ひとの感動を邪魔した者は死刑! という法律はないものかと本気で思う。

 ふだんなら、扉を空ける前に、備えつけのTVカメラで訪問者を確認するところなのだけれど、わたしはどうにも相手に一言物申したく、勢いをそのままに扉を開けた。

「どちら様ですか!」

「おいおい。なんでおまえが出てくるんだ」

 なんと、霊能探偵事務局だとかでお勤めの、あの、うさんくさい男が立っていた。

「あ、失礼しました」わたしはそそくさと扉を閉めようとするも、すかさず男が動き、扉の隙間に足を挟み入れられてしまう。「待てって。話だけでも聞いてくれ」

「やー、めー、てっ、くだっ、さい!」綱引きよろしく、扉を引きあう。「ケイサツ、警察を呼びますよ」

「おまえな。そう言えば男がひるむと思ってたら大間違いだぞ」予想以上に、男のちからがつよく、扉をこじ開けられてしまう。わたしは三歩退き、古武術の構えをとる。「一歩でも近づいたら、全身の関節、はずしちゃうから。気絶させたうえで」

「気絶させたうえでかよ。極悪すぎんだろ」男は踏みこんでくることなく、両手をあげた。「そのままでいい。質問に答えろ。あのコはどうした」

 応じずにわたしは、

「どうしてウチの場所、分かったの」

「おまえ、あのコから名刺を奪ったろ。だからだ」

「名刺?」まさか、と思う。「発信器でも付いてたの、あれに?」

 冗談で言っただけのつもりだったけれど、意に反し、

「微弱な電波を発信するインクを使ってある」と肯定されてしまう。「銀行強盗対策用に開発されたものらしくてな。べつにあんたに会いたかったわけじゃねえよ。あのコの居場所を教えてくれれば、それでいい。そしたら、あんたに付き纏うこともない」

「理由は?」あのコに付き纏う理由は何か、と問う。

「言っても理解してもらえんだろう。ははあん。さてはあんたも知らねえな? あのコがどこに住んでいるのか」

 うん、としょうじきに言う。「知らない」

「ったく」男が頭を掻きむしる。「手遅れになったらあんたのせいだからな」

「ちょっと、それ。どういう意味ですか」

「じゃあな。おじゃましました」男がこちらに背を向ける。

「待ちなさい」わたしは男のうでを掴んで、呼び止める。「賛同できるかは保証しないけど、でも、話を理解するくらい、わたしにもできます。おねがい。教えて。どうしてあのコに付き纏うの」

「あんたこそ、ずいぶんとご執心のようだな」

 ご執心? わたしが?

 指摘されて思わず、たじろぐ。

「だって、……心配でしょ」

「ん? あんたもしかして」男が顔を覗きこんでくる。

「イヤっ。入ってこないで。折っちゃうんだから骨。いいの!?」

「よくねえよ」すぐに身体をひっこめ、男は、「あちゃー」と顔をしかめた。「しっかり当てられてんじゃねえか。ったく、どこまで迷惑な女だよ、あんたは」

「かってにひとりで納得しないでくれませんか」わたしは扉を閉じ、いそいで部屋の奥にひっこんで、ジャケットを取り、カバンを持ち、そしてふたたび扉を開けた。

「部屋にはあげられないから、そとで話します。ついてきて」

「あんたさ。自分勝手だって、責められたことはないかい?」

 すこし考えてから、「ありません」ときっぱり告げる。

 欠点を責めてくれる関係になる前に、たいがい相手はわたしのまえからいなくなる。

   EVOL

 あのコと話したのと同じ喫茶店でわたしたちは話をした。男はなにも注文せず、水だけを飲んだ。それだけで、なかなかに図太い神経の持ち主だと判る。

「はやい話が、あのコは、『憑き物』持ちだ」めんどうなのか、男は初めからはしょって説明した。

「撞きもの餅?」たしかにお餅は撞くものだけれど、それがあのコといったいどんな関係があるのか、と思う。

「憑き物は言ってしまえば、悪魔だとか、悪霊だとか、そういった類だ。国や地域によって呼称が変われど、存在自体は、すべて同じ〝異形〟にちげぇねえ」

「ごめんなさい、わたし、精神科医に知り合いがいないの。ざんねんだけど、ちからになってあげられそうにないかも」

「信じないのは自由だ。ただおれは、あのコの憑き物を祓ってやりたいだけだからな。あんたの同意も賛同も必要ない。おそらくあのコの憑き物は、かなりの大物だ。できれば仲間のもとまで連れてって、本格的に祓ってやりたかったが、説得しようと話しかけていたところに、あんたが現れて、それでこんなことに」

 わたしが邪魔をしたとでも言いたげな態度だ。

「放置しておくとどうなるの」

「信じる気になったのか。まあいい。憑き物は、宿主に対してはおおむね無害だ。ただ、宿主の身近な人物に大きく干渉する。しかも悪い意味でだ」

「危害を与えるってこと? たとえばどんな?」

「そうだな」たとえば、と男が見詰めてくる。「たとえば、宿主に対しての好意的な感情を強制的に抱かせ、感情を支配したりとか」

「ふうん。媚薬みたい」

「これはまだ序の口だが、他人の精神に影響を与えるということは、それはそのまま他者の行動に影響を与えることに直結し、干渉の度合いがつよければ、他人の人生そのものを大きくゆるがせる結果になる。これは宿主にとってプラスにもマイナスにもなり得るが、いずれにせよ、自分の存在が他者の人生に大きく干渉してしまった事実に気づけば、通常の精神を持ち合わせていれば、宿主はまず、自分の存在価値を疑うだろう。そうした葛藤を抱きながら生きる人生は、けっして幸福とは呼べまい」

「お祓い、だっけ? それってどうやるの」

「憑き物の、ランクによる。あのコの場合は、おそらく一定期間の拘束が必要になるだろうな」

「拘束?」

 非難の目を向けると、男は慌てたように、

「あのコの身の安全を確保しつつの作業になるから、それは仕方がないことで」と弁解した。

「話は解りました。結論から言います。あなたにあのコを会わせるわけにはいかない」

「なんだ。あんたやっぱり、あのコの居場所、知ってんじゃねえか」

「知らないよ。でも、捜しだすことはできると思う。わりと簡単に」

「あてがあるなら教えてくれ」

「ダメ。あぶないおじさんに、わたしのかわいいオトモダチを会わせるわけにはいかないもの」

「あんたなあ。いい加減にしろよ。あんたのそれだって、あのコの憑き物の影響なんだぞ。自分でも、違和を感じてるはずだ。ちがうか?」

「わたし、あなたの話の真偽はどうでもいいの。ただ、仮にほんとうのことだったとして、その憑き物を放っておいてもあのコは直接、被害を受けるわけじゃないんでしょ? だったら、もうすこし様子を見させて」

「異変があってからじゃ遅いんだがな。そうなる前にあんたが報せてくれるってんなら話はべつだが。どうなんだよ。あんたにあのコの監視が務まるのか」

「監視じゃなくて、見守る、と言ってほしいかも」

 わたしたちはしばし睨みあう。

 根負けしたように男がさきに目を逸らした。

「さっきも言ったが、手遅れになってもおれは知らんぞ。忠告はしたし、説明だってした。このさき、憑き物のせいであのコになにが起こっても、それはすべてあんたの責任だからな」

「いいよ。その代わり、もしあのコを見つけても、手は出さないであげて」

「手を出すって、おまえなあ。まあ……いいだろう」

 わたしは男と約束を交わし、男をその場に残して喫茶店を後にした。

   LOVE

 街に出たついでに買物をした。マンションに戻ると、わたしの部屋のまえにあのコが立っていた。扉を背にして寄りかかっている様子から、だいぶ前から待っていたのだと想像できる。

「どうしたの」

 というよりもどうやって一階玄関のセキュリティを突破したのだろう。そもそもどうやってこのマンションへ辿りついたのか。

「ごめいわくだとは思ったのですけど」

「事情があるんだ?」

「そうです。事情があるのです」

「立ち話もなんだし、あがって」

 わたしは扉を開け、そのコを部屋に招く。

「ここでだいじょぶです。すぐに終わるので」

「へ?」

 そのコは急に、「ほら、はやく」と急かすように小声を発した。わたしへの発言ではないことは一目瞭然だ。そのコは真よこを見遣って、何もないはずの空間に話しかけている。

「そこに、何か見えるの?」

「えっと」

「だいじょうぶ。しょうじきに話して」

「はい……。ぼくには、視えています」

「何がいるの?」

 そのコは言い渋るように、視線を逸らし、それから許可を仰ぐようにまた何もない空間を見遣った。やがて虚空からも目を伏せるようにすると、

「天使です。ぼくには、天使が視えています」と足元に零した。

「天使って、エンジェルのこと?」

「そうです」

 二の句を継げないでいると、

「ヘンなコだと思われるは自然なことです。お姉さんが自然で、ぼくが不自然なのです」そのコは責めるでもなく、それでいいのです、とでも言いたげに微笑んだ。

「用事は済みました。急におしかけて、ごめんなさい」

 立ち去ろうとするそのコをわたしは引きとめる。「待って。せっかく来たんだから、お茶でも飲んでって。そうだ、わたし、いまちょうどケーキを買ってきたの」ほら、と携えていた紙製の箱を持ち上げる。「いっしょに食べよ」

「いいのですか」

「なにがかな?」わたしは強引にそのコの手を取った。誘拐犯に見間違えられようが、構うもんか、と思った。「おともだちをお茶に誘ってるだけだよ。なにもわるいことはないもの」

 じぶんに言い聞かせるような言い方がおかしく聞こえたのか、そのコは噴きだし、

「やっぱり似ています」とつぶやいた。

「わたし?」誰に似ているの、と興味が湧く。

「おかぁさんです」

「へえ、そうなんだ」

「はい。でもおかぁさんは、一年前にぽっくりいってしまいました」

「あー……」言葉が詰まりそうになる。でもわたしは無理にでも紡いだ。「そっか。それは、かなしいね」

「はい。かなしかったです」

 そのコは玄関で靴を脱ぐのに手間取った。わたしはそれを黙って見守る。

「お姉さんは、おかぁさんとおんなじことを言いました」

 そのコの母親はよく言っていたそうだ。

 困ったときは、お互いさま。

 誰かが困ってたら、助けてあげなさい。

 そのコには、わたしが母親にみえてしまったのかもしれない。

 わたしには見えないナニカが、そのコには天使に視えているように。

「なら、きみのお母さんはこうも言ってたんじゃない?」わたしは食指を立て、一呼吸置いてからこう言った。「男に襲われたら、股間を蹴って、『たすけて』と叫びながら逃げなさい、って」

「それは、言ってませんでした」

「だよね」

「はい」

 靴を脱いだそのコをわたしは、「えい」と抱きあげ、部屋までひと息に運んだ。ミルクティを淹れ、ケーキをご馳走し、いっしょにアニメを観賞した。それでもやっぱりわたしたちは、名前を訊くことなく、その日も暗くなる前に、マンションのまえでお別れをした。

「またね」

「はい。また」

 踵を返し、戻ろうとすると、夕陽に照らされたマンションが橙色に輝いていた。振りかえると、夕焼けが鮮やかに広がっており、そのしたに、あのコの姿がちっちゃくあった。

「ありんこみたい」虫は苦手だけれど、テトテトと歩くあのコはの姿はほほ笑ましい。家に持ち帰り、空の水槽に入れて飼ってしまいたい、と思う。

 でも、ありんこにだって帰る場所はあるし、待っている仲間だっているはずだ。わたしはおよびじゃないんだよ。じぶんに言い聞かせる。それでいい、とすんなり思えた。

 キューピットの矢がわたしの胸から外れたとしても、胸に空いた孔が、すぐに塞がるわけではない。

 人と人とが出会えば、大なり小なり、人生は曲がっていくものだ。或いは、出会うことで、曲がりくねった道がまっすぐになることもある。

 重要なのはきっかけではない。

 天使と出会って、救われる者もいれば、不幸になる者もいる。

 極論を言えば、死神と遭遇し、救われる者だっているだろう。

 どんな石に躓くかが肝要なのではなく、躓いたことでどのような道を転がるかが重要なのだ。

 出会いとはそういうものだとわたしは思う。

 思うわたしは、同性愛者でも小児性愛者でも、もちろん、ない。

 たぶん、きっと。

 だといいなあ、と思う程度には、危うい気もする。




   ≡茶紗(ちゃしゃ)≡

 そうだ、京都へ行こう、とJRの掲げたキャッチコピーのままに友人を誘った。一度はOKをもらったが、土壇場で断られた。

「ひとりでゆっくりしたいの」

 行かない理由がこれだというのだから、とんだわがままお嬢さまだ。うちがどれだけ緻密な予定を立て、楽しみにしていたことか。宿泊先は、仲間のツテを借り、一年先まで予約のとれない超高級旅館を手配していた。移動手段だって、以前に友人が乗ってみたいと言っていたから、ほかの交通機関よりも割高のリニアモーターカーの切符をとっていたのだ。

 それが、「ひとりでゆっくりしたいの」という至極身勝手な理由でドタキャンされようものなら、うちにだって、文句の一つも垂れる権利はあって然るべきだろう。

 うちは言ってやった。

「それはちょっと、ひどすぎない」

「ほかの人と行ってきたら? 元々その予定だったんでしょ」

 そうだった、と雷に打たれた気分に陥る。

 ふつうの段取りで誘ったのでは、この友人の場合、うちと二人きりでの旅行などするはずがない、と経験上知っていたので、今回は、偶然京都に行く予定があり、寸前で相手が行けなくなったので暇だったら代わりに行かない? という体を装って誘っていた。

「もしかして、あれ、嘘だったの」

「んみゃんみゃ、嘘じゃないよ。そっかそっか。ざんねんだ。あはは」

 友人の言葉尻を捉えるに、おそらく彼女はこう言いたいのだ。

 気軽に誘われたから、気軽に断っただけなんだけど、と。

 食い下がることもできずに、通話を終えるほかなかった。うちの完璧な計画が裏目に出たとしか言いようがない。

   ≡・ω・≡

 チカてめぇこのやろう、と清水寺の舞台でカナコが叫んだ。叫んだだけで飽き足らず、彼女はうちのことを追いかけ回す。

「なに怒ってんのさ。うちは一言も言ってないからな、イッコが一緒だなんて」

「一緒じゃない、とも言わなかっただろうが、化け猫め!」

「あれぇ? もしかしてカナちんってば、イッコが一緒だと勘違いしちゃったのかなー?」

「なにが『あれぇ?』だ、すっと惚けんなよ。アタシを出しぬいてイコ誘ってたのは知ってんだ、その旅行に『一緒に行かない?』とか言われたら、誰だってイコが一緒だと思うだろうが」

「タダで旅行に同伴してる身分でよく言えるよね、そういうこと。嫌なら帰ってもいいんだよ?」

「はァ? おまえな、周り見てみろ。京都だぞ、ここ。嫌だからハイ帰ります、って距離か? だいいち、金払うってアタシの申し出断ったのは、そっちだろうが」

 はぁ、とことさら深く溜息を吐いてみせる。「あのさあ。カナちん。そりゃうちも、説明が足りなかったのはわるいと思うよ。でもね、それにしたって、その言い草はないんじゃないかなあ」

「あァん? イコがいねぇなら、誰と旅行しようが意味ねぇだろうが。つーか、おまえと二人っきりって、拷問かっつーの」

「うわ、ひっど。カナちん、それはいくらなんでも言いすぎっしょ」

「はぁあ? おまえだって内心同じこと思ってんじゃねえのかよ。つーか、今回のこれだって、自分だけ惨めな思いしたくないからって、アタシを道連れにしたかっただけだろうが」

「あ、ばれた?」

「バレバレだっつーの」

 カナコから放たれた蹴りをすかさず避ける。「化け猫相手に、なんてお粗末な蹴りざんしょ」

「かァー、ハラ立つなァーこいつ。まじで」

「なんだったら、巣でも張ったら? お尻からぶっとい糸、ひねくりだしてさ」

「イコがいねぇなら、本気でそうなるかもな。ここにいる観光客全員、干からびても知らねぇかんな」

「それならそれで助かるんだけどね。あのときの協定破るってんなら、イッコはうちのもん。あんたは二度と、イッコに近づかない。でしょ?」

「おまえを始末すれば、そんな協定、なかったも同然だ」

「本気で言ってんの」

「冗談に聞こえたか」

「へえ、ふうん。虫けらごときが食肉類(うち)に勝てると思ってんだ? 本気で。ちゃんちゃらおかしいんだけど」

「語るな、弱小。つーか蜘蛛は昆虫(むし)じゃねえ。鋏角亜門なめんなよ」

 互いに殺気立ち、睨みあうも、間のわるいことに、雷が轟き、雨がぽつぽつと降りだした。またたく間に土砂降りとなる。

「ッチ……興が削がれた」

 カナコが長髪から雫を垂れ流しながら言った。滝に打たれたような格好だ。「この勝負、また期を改めてからにしないか」

「同意。うちももう、なんかそんな気分じゃない」

「ああ。まずは、そうな。シャワーでも浴びたい」

「そうだね。着替えたい。旅館、すぐ近くなんだ」

 歩きだすと、カナコもうしろにおとなしく付いてくる。

 観光客の姿はめっきり見えなくなっていた。雨のせいか、或いはうちらの怒鳴りあいのせいか。

「着いたら、金、払うから」カナコが訥々と切りだした。

「いいよ。誘ったの、うちだし」

「じゃあ、イコの土産代、ぜんぶアタシ持ちでいいからさ」

「それだとぜんぶカナちんからのお土産みたいじゃん」棘のある言い方になっちゃった、と気づき、いそいで、「仲間のぶんのお土産。そっちの代金、よろしく」と付け加える。

「ああ」異論を唱えることなくカナコは了承してくれた。「任せろ」

 雨を蹴散らすように肩で空を切って、旅館までの小径を歩く。

 たぶん、今、カナコもうちと同じことを考えている。

 そう思って、カナコの横顔を見遣ると、視線がかちあった。思わず笑ってしまう。むかしっからカナコとはそりがあわなく、それでいて思考回路や嗜好系統が似通っている。うちらは、どちらからともなく、先に口にだしてしまえ、とばかりに声を揃えてつぶやいた。

「あーあ。イコがいればなあ」

   ≡・ω・≡

 うちらを繋ぎとめているのは、ただ一人の娘だった。そうだ。知り合ったばかりのころ、彼女とうちはまだ娘と呼ぶべき年代であり、彼女と出会うすこし前、カナコとうちのふたりは共に、殺しあいの最中にいた。

「きょうこそ、死ね。化け猫!」

「殺虫剤ぶちまけたろか、虫けらぁ!」

 どちらが先にはじめた抗争なのかは知らない。ただ、うちは代々「始末屋」の家系で、物心ついたころからすでに、「異形」と呼ばれる存在を相手どって、殺しあいを繰りひろげていた。

 カナコと出遭ったのは、うちが齢十五のころだった。

 父と母が相次いで殉死した。悼んでいる間もなく、うちは両親が熟せなかった任務に就き、そこで両親の仇と一戦交えた。

 通常、異形は、物理的にうちら生物に干渉してくることはない。いわゆる精神感応に影響を与えるため、ときに人体に対して悪影響を及ぼすことがあるものの、異形を放置しておいても、危機的事態に発展することは極めて稀だ。

 被害がでそうなとき、或いは、実際に被害が報告されたときのみ、うちらのような組織が動くことになる。

 たいてい、始末屋が動く前の段階で、「祓い屋」と呼ばれるべつの組織が動き、対処にあたる。

 ところが、ごく稀に「祓い屋」では手に負えない異形が現れることがある。

 そうなると、うちら始末屋の出番となる。

 父と母を死に追いやった異形は、うちの知るかぎり、最強最悪のバケモノだった。精神感応に長けていただけでなく、物理攻撃にも優れていたのだ。

 異形が物理的に、人体へ損傷を与えるというのは、鬼や神など、伝奇のなかでだけの話だと思っていた。


「あんな異形、見たことない」

 相手は、視えない糸を操り、まるで念力でも遣っているかのように物体を操る。

 うちは命からがら、父と母の命を奪った最強最悪のバケモノとの殺しあいを切りぬけ、満身創痍になりながらも仲間のもとへ戻った。

「仕留めたか」

「ダメだった。あれはムリだ、うちら総出でかからないと」

 父や母が、歯が立たなかったのも頷ける。あの規格外の異形とうちらとのあいだには、圧倒的な能力差が歴然とひらかれていた。

「うちの勘だけど、たぶん、あれは異形じゃない」

「異形ではない、だと」

「うん。だって、あいつ、一般人にも姿が見えてた」

 異形の姿は、通常、人には視ることができない。うちらのような特殊な血筋でなければ、ただ異形に憑かれるだけの、〝宿〟になりさがる。だが、おかしなことに、あの異形の姿は、一般人の目にも映っていた節があったのだ。戦闘の最中、通行人が異形の姿に驚いたかのように腰を抜かしたのを目撃した。

「それはまことか」

「うん。それから、もう一つ。あいつ、むやみに人を襲わなかった。うちが知らされていたのとすこしちがう」

 腰を抜かした通行人を襲うことなく、異形はその場を去った。むしろどこか、異形としての姿を見られたことに傷付いたかのような顔を見せていた。

「結論付けるのは早計だ。その通行人が一般人でなく、我らにちかしい人間であった可能性もある。或いは、異形の仲間であったのやもしれぬし、そもそもおぬしが対象と見做しているソレが異形ではなく、異形に憑依されているだけの人間であったのやしれぬ。いずれにせよ、茶紗。おぬし、よくもぬけぬけと逃げおおせてきたものだ。始末屋ずいいちの血統を誇る我ら虎豹(こひょう)一族としての、恥を知れ。罰としておぬしには、この任務、ひとりで片付けることを命ずる。特別に、『生胆』を与えるゆえ、ゆめゆめ味わって喰らうがよい」

 任務で親を亡くし、そのうえ、同じ任務で死にそうな目に遇った同族に対しての、この処遇。

 これが理不尽な仕打ちであると知ったのは、もっとずっとあとになってからのことだった。

   ≡・ω・≡

 長から命じられた内容は、端的に言って、「死刑」とほぼ同義だった。ただでさえ単独での行動などあり得ない始末屋の任務を、一人でやれ、というのはそういうことになる。しかも、規格外の異形を相手どって、だ。

 それでもうちは死ぬ気などさらさらなく、任務遂行のため、ふたたび規格外の異形に挑んだ。

 現場に向かっている途中に、いくつか引っかかる点が浮かんだ。

 なぜあの異形は、あれほどの圧倒的戦力を保持しながら、これまで陰に隠れていたのか。そしてなぜ、長は、ほとんど具体的な被害の報告されていない、あの異形の討伐を引きうけたのか。

 話ができれば、異形に確認してみたかった。が、こちらが必死であるのと同様に、向こうも隙を見せまいと必死である。

 いっしゅんの油断が命取りになる以上、話合いなどと悠長な考えは捨てなければならない。

 街外れの廃墟に、その異形はいた。

 異形の姿を視認したと同時に、こちらの存在も相手に気取られる。

 廃墟の敷地全体に、視えない糸が、張り巡らされていたのだろう。油断をしていたわけではないが、見落としていた。本来であれば失態を悔やむところだが逆にうちは、人体を寸断する糸でなくてよかった、と胸を撫で下ろした。

「きょうこそ、死ね。化け猫!」

「殺虫剤ぶちまけたろか、虫けらぁ!」

 うちらは、激しくぶつかりあい、命を削りあい、殺しあった。互いに、すべての手の内をさらけだしたころ、うちは彼女が、本気をだしていなかったことに気がついた。ジャンケンで、グーをだしたところへわざわざグーをだしてアイコにするような、ひとを小馬鹿にしたような彼女の配慮に、頭が沸騰しそうになった。


「っざけんな! てめぇ、うちで遊んでんじゃないよ。殺るなら、さっさと殺ってくれ」

 これじゃおまえに殺された、父や母に、顔向けもできやしない。

 知らず涙が溢れていた。うちも人並みに涙を流せることに、ふしぎにも安堵したのを憶えている。

「遊んだわけじゃない。ただ、アタシはおまえの親を殺した。そうなんだろ? なんとなく判る。おまえの親だったんだろ、あいつら。戦い方が似てるし、匂いもどことなく似てる」

「だったら何なんだ」

「だったら、復讐する権利が、おまえにはあるな、と思って」

「はあ?」

「おまえらは、殺さなきゃ止まらない。アタシだって死にたくはないんだ。おまえらが殺しあいを挑んでくる以上、アタシもこの手を止められない。ただ、それでも――」

「殺したくはなかった、とかほざくなよ。やめてくれ。そんなこと言われたら、うちは、うちらは何のために、命捨てる覚悟でおまえを始末するんだよ」

「待て待て。どういう意味だ。目的もなしに、おまえらアタシを狩ろうとしてんのか」

「目的はある。あんた、人を喰らうんでしょ。だからだよ。人に仇をなす異形は、うちらが始末しなきゃならない。野放しにしとくには危険だから」

「おかしなことを言うな。アタシはたしかに人を喰らうが、生きた人間を喰らったことはない。アタシは、ほら。火葬場で働いているだろ。遺体の一部をすこし貰って腹を満たす。アタシはずっとそうしてきた」

 生きた人間を喰らったことはない、放っておいても害はないだろ、と彼女は主張した。

「じゃあ、なんでうちらの元に、あんたの駆除依頼が?」

「知らん。アタシはただ、襲ってくるおまえらから身を守るために闘ってただけだ。アタシから殺しあいを望んだことはいちどもない」

「ふざけないでよ。じゃあ、なに? うちらが挑まなけりゃ、あんた、誰も殺さなかったっての!?」

「いかにも、そのとおりだ」

 いつの間にかうちらはふたりして、ボロボロの格好のまま、月明かりの照らす廃墟のなかで、身じろぎひとつせずに対峙していた。

   ≡・ω・≡

「ひとつ、確認していいか」異形が訥々と切りだした。

「なに?」

「人を殺したくないと言っているおまえらが、どうして人を喰らっている?」

「は? なんの話?」

「アタシは嗅覚が鋭くてな。だから解る。おまえも含め、おまえらぜんいん、ふんぷんするぞ。人の血肉の、いい匂いがな」

 さいしょは意味の解らなかった彼女の言葉も、よくよくじぶんの記憶と照らし合わせてみると、にわかに悪寒へと変質した。

 うちら虎豹一族は、尋常ならざる能力を使用するごとに、肉体が激しく消耗する。ときには命を落とすほどだ。肉体疲労を緩和するために、任務遂行の前に、滋養強壮食を摂食する。たいていそれは、ただ焼いてあるだけだったり、生のままであったりするので、とても料理と呼べる様相をなしていない。

 だが、うちら一族はそれを、美味と感じる。それを食したいがために任務を率先して受ける者が少なくないほどだ。

 長の言葉が蘇る。

 特別に、生胆を与えるゆえ、ゆめゆめ味わって喰らうがよい。

「まさか、あれが……」

 この日、うちに与えられていたのは、長以外はめったに食すことの許されない、「胆」と呼ばれる、部位だった。初めて目の当たりにした「胆」は、あたかも海のパインアップルと呼ばれる「ホヤ」のようで、かじると豊潤な肉汁が口内を満たした。

「なんだ、おまえ。知らずに口にしていたのか」

 異形の彼女から憐れむような目を向けられる。「人のために闘うおまえらが、人に仇をなしていたとはな。笑いたいところだが、笑えねえ。ホント、笑えねえよ」

「うるへえ」

 たぶん、このとき彼女がうちを憐れむことなく嘲笑ってくれてさえいれば、うちはもっと冷酷になれていたと思う。

 異形に対しても。

 人類に対しても。

 いずれにせよ、このあとでうちが仲間を裏切った未来だけは変わらなかっただろうと断言できる。


 以下の事実は、うちが、一族郎党みなごろしにしたあとで知ったことだ。

 うちら虎豹一族は始末屋の中でも古参の組織で、ほかの連中から人肉嗜食の疑いをもたれ、密偵されていた。一族の危機を感じた長は、食肉の気のある異形に、一族の行ってきた食人行為の罪を擦りつけようとした。

 そこで白羽の矢が立ったのがカナコだった。

 カナコは長に選ばれた生贄の一人だったが、彼女は、長の見立てよりも遥かに上級の異形であった。

 虎豹一族は、異形のちからを有した人類と呼べた。

 対してカナコは、人類の肉体を有した異形と呼べる。

 ベースが異形であるカナコはそれゆえに、単純な潜在能力で比べれば、うちら一族よりも頭一つ分どころか、身の丈以上に、秀でていた。

「身の程を知れ」

 一族の殲滅を手伝ってくれたカナコが、長の最期を目のまえにし、吐いた言葉がこれだった。彼女の口にしたあらゆる台詞のなかで、ゆいいつ純粋に身にしみた言葉である。

   ≡・ω・≡

 カナコは、異形としての生き方を、うちに教えてくれた。人を喰らわずに済む方法や、異形たちのなかにも始末屋のように組織化された集団がいること。そして、カナコのように、人類としての血が濃く流れている者がいることなどを、うちは、初めて食したハンバーガーの美味さにビビリながら、耳にした。

「でもさ。能力を遣わなきゃ人を喰らわずに済むんでしょ」

「遣わなきゃ、な。だが、遣わざるを得なくなるだろうよ」

「どうして」

「どうしてもクソもあるかよ。てめぇの一族滅ぼして逃げた危ないヤロウがいるって、方々で噂になってんだ。始末屋だっけ? おまえらんとこだって、いまごろ血眼になって捜してるぜ」

「でもさ。うちら一族は元々、かぎりなく異形にちかい人間だったんだ。遅かれ早かれ、こうなってたと思う」

「だが、だとしておまえはどうなんだ。異形として生きる気はないんだろ」

 カナコの言い方はまるで、運命に抗って生きるつもりなんだろ、と鼓舞してくれるかのようになちからづよさがあった。

「というかうちはさ、異形とか人間とか、そういった拘りはどうでもいいんだよね」

「どうでもいい、ね。じゃあ、なにを迷ってんだ」

「迷ってないよ。ただ、人は喰いたくないなあ、ってだけの話で」

「だったら余計に、このさき能力の使用は回避できないだろうな。おまえらがそうだったように、アタシらのなかにも、過激なやつらはいる。大義名分掲げて、人間喰い散らかす輩なんて、珍しくない。ただ人間を喰いたいだけの異形なら、放っておけばいいと思うが、大義を掲げてるやつらは、自分たちの意にそぐわない同族にまで手をあげる。やつらのまえで、人を喰いたくない、なんて言ってみろ。人間くさいおまえみたいな小娘、ひと口でガブリだ」

 敵は始末屋だけではない。味方なんてどこにもいないのだ、と痛感した。

 

「じゃあ、どうすればいいのさ。うちも、あんたみたいに死体をかじれって言うのかよ」

「いや。人を喰らわずに、人を喰らったのと同じ効能を得る方法が、一つだけある」

「だったらさっさと教えてよ。もったいぶってないでさあ」

「かんたんに言ってくれるな。おまえ、鬼って知ってるか」

「もちろん。うちら始末屋が滅ぼしたっていう、異形でしょ。ホントか嘘か知らないけど」

「そうだ。やつら、基本的には主食が人だったんだが、同時に、人の邪心を喰らうことでも腹を満たせたって話だ。そして、やつらが異形であった以上、アタシらも同じことができるはずだ」

「邪心って、なに? どうやったら食べれるの」というよりも、それを食しても、喰われたほうの人間に害はないのだろうか。

「その辺り、詳しい話をするよりも、実際に体感したほうが早い。おまえ、えっと――ああ、面倒だな。名前なんつうんだ」

 長から付けられた名前は茶紗だったが、うちは親が呼んでくれた通り名を名乗った。「……チカ」

「チカ、な。見た目にそぐわず、めんこい名だな」

「めんこい、ってなに」

「話を戻すが、チカ、おまえ、どうやってアタシのもとまで辿りついた? 異形の位置はどうやって探索する?」

「え。いや、なんとなく。こっちかなあ、みたいな」

「そうだ。アタシらは感覚で、同族のおおよその位置が判る。だが、厳密には、同族だからではなく、アタシらの発している特殊なフェロモンを嗅ぎつけているだけで、言い換えれば、そういったフェロモンを発している人間を、アタシらは見つけだすことができる。で、この話の胆だが、人間でありながらアタシらと同種のフェロモンを発する人間は、高い確率で、最上級の〝宿〟だ。そいつのそばにいるだけでアタシらは安定して存在でき、そいつの血肉を喰らえば異形としての能力を安定して遣い熟せるようになる」

「ああ、それで」

 鬼が凶悪な異形として駆除された理由が解った気がした。ただ人を喰らっていただけでなく、おそらく鬼は、カナコの言うところの、最上級の〝宿〟を好んで食していたのだ。

 カナコは、らしいな、と首肯した。

「鬼は、〝宿〟をまえにすると激しい飢餓感を覚え、人を食べずにはいられなくなるそうだ。だが、アタシやおまえに、そういった性質はない――鬼ではないからな。だから、おまえの目的が、人を喰らわずに能力を遣いたいことであるならば、まずは〝宿〟を探せ。そしてそいつを懐柔しろ。近づき、油断させ、親しくなり、飼いならせ」

「つまり、どうすればいいの」

 口頭だけで料理のレシピを聞かされたみたいに戸惑った。そんなうちに、カナコは端的に言い換え、こう説明した。

「そいつと、ともだちになれ」

   ≡・ω・≡

 カナコからの教示を受け、うちは最上級の〝宿〟を探した。

 イッコこと伊野葉(いのば)衣子(いこ)とはこうして出会った。偶然でも必然でもなく、強いて言うなれば運命だ。うちがカナコの手を借り、じぶんで切り拓いた道のさきに、イッコはいた。

 ミッション系の大学に通うイッコを見つけたのは、カナコとの停戦協定を結び、一族を鏖殺した二か月後のことになる。うちは、同級生を装い、イッコに接触した。

「すみません、お嬢さん。うちと、ともだちになってくれませんか」

「わたし、ネコって苦手なんだよね」

 声をかけて返ってきた第一声が、これだった。

「ネ、ネコじゃないよ!? うちはネコじゃないから!」

「もちろん、あなたはネコじゃない。ほら、ネコの毛、肩にくっついてるよ。はい、とれた」

「あ、ありがとう」

 心臓にわるい初対面だったのをいまでも鮮明に憶えている。

 

 上質な〝宿〟に逃げられまいと必死なうちに対して、イッコはいつまでも変わることなく辛辣に接してくれた。重要な点は、辛辣でありながらも、いつまでも変わらずに接してくれたという点だ。

「あしたから夏休みだよ。合宿しようよ、合宿」授業のない長期休暇は、常にイッコといっしょにいられる。この機を逃す手はない。

「合宿? なんの? だってチカってば、何のサークルにも入ってないじゃない。わたしもだけど」

「そだよ。だからじゃん。サークルに入ってない者同士、合宿をしよう。きっと楽しいよ」

「あのね、チカ。そういうのは合宿って言わないの。旅行って言うんだよ。知らないの?」

「合宿も旅行も変わらないよ。だって、どっか行って、泊まって、まくら投げやるだけじゃん」

「ちがうよ」

「あ、バーベキューもやるんだった。カレーでもいいけど」

「キャンプとまざってる。しょうがないなあ。わたしがチカに教えてあげる。合宿と旅行とキャンプのちがい」

 多少、強引に誘ったほうがイッコは、乗ってくれる。イッコは、うちが世間知らずであることを心配してくれている。そうと判ってからうちは、敢えてこちらの社会に順応する努力をしなかったくらいだ。

 ただ、あまりに話が通じなさすぎるのは困る。二人っきりで過ごしているあいだに、うちの吐いたあらゆるウソが露呈してしまうかもしれない。

 うちは対策として、カナコに協力を要請した。

 

「カナちん、ホントおねがい。いっしょに付いてきて」

「なんでアタシが。おまえの〝宿〟だろ。つーか、『ちん』ってなんだ、『ちん』って。へんな呼び方すんな」

「おねがいだってば。でないと、仕事場のひとたちにバラしちゃうぞ。カナちんが異形だって。このひと人間ではありませーんって」

「なっ!? てめぇ!」

「えへへ。ね? おねがい」

「わーったよ。そんかし、こんどアタシらの集いにも参加しろよ」

 カナコはこのころ、人間の血を受け継ぐ異形たちとなにやら活動をはじめていた。いちど来てみろ、とうちも誘われていたが、ことごとく拒否していた。

「しょうがないな。一回だけだかんね」

「何様のつもりだよ。ったく」

 不承不承うちに付いてきてくれたカナコだったが、待ち合わせ場所にやってきたイッコを見た途端、目の色が変わった。

「初めまして、カナコと申します。お近づきになれて光栄です」

「初めましてイコです。わたしも光栄です。お近づきになれて」

 イッコはスカートの裾を握り、ふんわり広げつつお辞儀した。まるで初対面ではないかのような、おどけ具合だ。終始柔和なイッコに反して、カナコは本気の顔だった。

 本気でイッコを口説こうとしていた。

 蜂の巣をつついたようなうちの、猛攻撃――もとより猛抗議をものともせずにカナコは、旅行のあいだずっとイッコを独占しつづけた。


「話がちがう!」

 旅行から帰ってきてからうちは、カナコを糾弾した。

「なにがだ。頼まれたとおり、同行してやったんだ。感謝されはすれど、非難される筋合いはない」カナコはぴしゃりと撥ねのける。「あ、集いには参加しろよ。約束だからな」

 かってなことばっか言いやがって。

 うちは激怒した。「イッコはうちの〝宿〟だ。手ぇだしたら、いくらあんただって、ただじゃおかない」

「なにも目くじら立てなくたっていいだろ。〝宿〟の共有は珍しいことじゃないんだ」

「でも、うちはイヤだ」

「ん。もしかしておまえ、あいつのこと好きなのか」

 からかうようなカナコの口調が、うちの神経を逆撫でる。「だったらどうだっていうのさ。動機なんか関係ない。あのコはうちの〝宿〟だ。あんたには渡さない」

「ほう。一丁前に、人間面なんかしやがって。バケネコのくせに」

 まだふざけるカナコにうちのくりくり頭が、怒髪天を衝いた。

「コロス!」

 この日、うちとカナコは停戦協定を反故にした。初めて顔を合わせたときに繰りひろげた殺しあいよりもうちは本気でぶつかった。容赦も、慈悲も、大義すらない。

 ただたいせつなオモチャを取りあげられて癇癪を起した幼児のように、がむしゃらに自己の正当性を主張し、侵害された尊厳をとりもどすべく、駄々を捏ねた。

「イッコはうちのだ。あんたんじゃないッ」

「ばーか! おまえのですらねェだろうが」

 

 三日三晩、ぶっとおしで全力をだしつづけた。街中を駆けまわり、逃げまわり、隠れ、待ち伏せ、奇襲した。

 さいごは、うちらの騒ぎを嗅ぎつけやってきた祓い屋どもから、ふたりして遁走し、イッコのマンションへ転がりこんだ。

「どうしたの。なにごと?」

 パジャマ姿のイッコはかわいかった。旅行先ではパジャマではなく、ちょいとおしゃれな寝間着だったのに。

「ごめん。匿って」うちらは笑いながら、イッコにもたれかかり、抱きついた。

「あはは。くすぐったい。やめて、やめてってば」

 有無をいわさずうちらはかってにイッコの部屋にあがりこみ、そして彼女のベットへ彼女ごと潜りこんだ。さながらイッコはうちらの抱き枕だった。

「イコは、きもちいいなあ」カナコが言った。

「どうしたの。酔っぱらってるの?」

「イッコ、すごいいい匂い」彼女の背中に顔を押しつけ、うちも言った。

「シャワー浴びたばっかりだもの。あ。ふたりとも、泥だらけじゃない。やめてよ、もう。シーツ変えなきゃだよ」

 寝るのは構わないけどお風呂に入ってきて、と揺さぶってくるイッコをうちとカナコは、サンドウィッチのパンみたいに両側からふんわり挟みこんだ。彼女のぬくもりを奪うようにしてそのまま、意識を失った。

   ≡・ω・≡

 翌朝。

 三日三晩の激闘に加えて、祓い屋どもの包囲網を突破した満身創痍のうちらは、それでも最上級の〝宿〟たるイッコの癒し効果により、火の七日間よろしく癇癪の四日間がまるで幻であったかのごとく、けろりとしていた。

 カナコがベッドからもそもそと抜けでてくる。窓際に立ち、うちらは並んで朝陽を浴びた。

「なあ、チカ」背伸びをしながらカナコが言った。

「なに」イッコはまだ寝ている。

「アタシ、考えたんだけどさ」

「うん」

「イコは誰のものでもないじゃん? だって、イコはイコだし。だからさ、アタシらが奪いあうってのは、なんかその、ちがうんじゃないかって」

「不毛ってこと?」

「そう、それ。不毛だからさ、金輪際、アタシはこういうの、やめたい」

 おまえとイガミあっても埒が明かない、とカナコは欠伸まじりに言った。

「うちも考えたんだけど。たぶん、イッコの〝宿〟としての性質って、最上級のなかでも、さらにうえだと思うんだよね」

「アタシもそれ、思った」

「でしょ? だからさ。守ってあげようよ」

「アタシらで、あのコを?」

「そ。うちらで、イッコを」

「あー、うん。なんかいいな。それ」

「でしょ。いいでしょ。イッコを見守り隊、ここに結成」

 手をさしだすと、カナコも手を伸ばし、

「イノバ・イコこと『憩いの場』保護協定、ここに締結」

 うちらはがっしりと握りあった。

 背後では、ようやく解放的になったベッドのうえでイッコが寝がえりを打ち、「ふたりとも、うるさい」と寝言を零している。

   ≡・ω・≡

 旅館に着くと、うちらは雨にさらされて凍えた身体をあたためるべく露天風呂へ向かった。湯船に浸かりながらカナコがつぶやいた。

「イコ、なにやってっかなあ」

 いまごろどうしているだろうか、とうちも想像してみる。久々の長期休暇だというが、おおかた家でごろごろしているに相違ない。ああ見えてイッコはずぼらなのだ。

「あーあ。イッコがいればなあ」つい口を衝いてしまう。

「だな。イコがいればなあ」

「こんどは、三人でこようよ」提案すると、カナコも、だな、と頷いた。「抜け駆けはなしだぜ」

 そっちこそ、とうちは手で水鉄砲をつくり、カナコの顔にお湯をかける。すると、ハスの葉に弾かれたように、お湯が、てるんと砕け落ちた。

「ざんねんだったな。アタシの肌は、水蜘蛛仕様だ。どんな液体も弾きかえすぜ」どうだまいったか、と言わんばかりのカナコに、うちは素朴な疑問を呈してやった。

「それって意味あんの」

 せっかくの温泉なのに。

 お湯に沈んだカナコのほっそりとした肢体は、月明かりに照らされ、銀色の膜に覆われたみたいにテルテルと艶やかに輝いて映る。

 アホじゃまいか、と思いつつも不覚にもうちは、うつくしいな、と思ってしまった。




   ><葦須(あしす)炭兎(たんと)><

 待遇のわるい働き先を称して、ブラック企業と言うらしい。電話越しに職場についての愚痴を姉に零したところ、「そりゃあ、あんた、あれだ。ブラック企業だね」と教えてもらった。比喩的表現であるようなので、ご立派な企業を揶揄するときに使うだけでなく、たとえばおいらが半年前にアルバイトとして雇ってもらった「霊能探偵事務局」なる零細企業にもならない職場に対しても、ブラック企業だ、というふうに言うことができる。

 だからおいらは言う。

「ぜったいブラック企業ですよね、だっておかしいですよね。先月のおいらのお給料、なんだったと思います? 憶えてますか、憶えてますよね? 忘れるわけないですよね、だって冷凍マグロ一匹ですもん。冷凍マグロ一匹でしたもん! すごいデカイし、魚臭いし、おいらの部屋に猫の大群が押し寄せてくるしで、もう泣きっ面に蜂どころか、鬼に金棒で殴られたみたいな衝撃ですよ。物品支給っていつの時代ですか。どうすりゃいいってんですか。おいらもう、ひと月もマグロだけ生活ですよ、マグロづくしですよ。いくら小学校の作文で、将来の夢に『大トロをお腹いっぱい食べたいです』って書いたからって、毎朝ひねり落とされるウンコさんがマグロ百パーセントってのは、ちょいと予想外ですよ。おいらの身体、すでに九割マグロですよ。人類でなく魚類にちかいですよ。おいらはべつにマグロ人間になりたくって、あなたに雇われたわけじゃない!」

「口ごたえたぁ、いい度胸だな」おいらの上司はすずしげな顔で言ってのけた。「だがおまえの意見を玩味する以前に、指摘すべき事項が三つある。一つ、おまえにやった冷凍マグロは売れば百万単位の金になった。ぜんぶ食うやつがあるか。二つ、おれはたまにおまえに食事をおごってやった。ひと月マグロだけ生活ってのは誇張にすぎる言い方だ。以後、言動には気をつけろ。そして最後になるが、おまえは魚類じゃない、人類だ。安心していいぞ」

「知ってますよっ!」おいらは声を荒らげる。「皮肉に決まってるじゃないですか」

「さっきからなんなんだ、おまえ。大声を出すな、対象に気づかれたらどうすんだ」

「聞こえるわけないじゃないですか。だってここ、ビルの屋上ですよ。で、対象は――あそこ!」

 おいらは眼下に広がる京都の街並みをゆび差し、望遠鏡で覗かなければ視認できないほど遠くにいる対象を示した。

「解ってねえようだな。あいつらを並の人間として扱うな。あいつらは異形だ。しかも、規格外の、特一級クラスの大物だぞ。そんなのが二匹もいやがるってんだ、細心の注意を払って然るべきなんだよ。解ってんのか、この、マグロ・イヤダーめ」

「なんですか、それ」仮面ライダーみたいに言われてもうれしくないし、カッコよくもない。「だいたい、槻茂(つきも)さんは人使いが荒いんですよ。だってそうでしょ。おいら、今月無休ですからね。お休みナシなんですからね。それでいてお給料がまたマグロ一匹だったなら、さすがのおいらだって黙っちゃいられませんよ」

「今だって黙っちゃいねえだろうが。黙れっつってんのによ。わあったよ。給料は現金で。この仕事終えたら有給も使っていい。だからいまは仕事に専念してくれ」

「どうしちゃったんですか。急に素直になっちゃって。不気味ですよ」

「この仕事が無事に終われば、おれはそれでいいんだよ。さいあくおまえに辞められても文句は言わん」

「はあ、へえ、そうですか」なぁんだ、辞めてよかったのか、と肩に乗っていた重荷がとれたような開放感を抱くと同時に、突き放されたようなさびしさが胸の奥をツンとさせる。

「なに気の抜けた顔してんだよ。まだ仕事は終わっちゃいねえんだ。それにおれは言ったはずだぞ。さっきの条件はすべて、無事に仕事が終わったらの話だ、とな」

「無事に終わらないこともあるんですか」

「ん? ああ、うん」槻茂さんは口ごもった。「そういうこともなきにしもあらずだ」

「話がちがいますよね。だっておいら、今回は、京都で旅行しつつのかんたんなお仕事だって聞いてるんですけど。というか、言ったのは槻茂さんなんですけど」

「さあて、言ったかなあ、そんなこと」

「すっとぼけた!」

「知らねえのか。男たるもの、過去を振りかえっちゃならねえもんなのさ」

 やだ、かっこいい!

 いやいや、でも。

「槻茂さんはもっと過去を顧みるべきですよ。そもそもおいら、仕事の内容が尾行だってことも知らなかったんですよ。雇い主として最低限の説明はしてほしいですよ。というか今回のお仕事って、尾行なんですか?」

 不満を零すように小言を漏らすも、対象が宿泊先の旅館へと戻っていくのを確認するまで槻茂さんはこちらが何を話しかけてもだんまりを決めこんだままだった。華麗なまでのシカトだ。

 おいらはこころのなかで思ったね。

 こいつぁ、ブラックだあ、ってね。

   ><

 対象についての情報をおいらは教えてもらったためしがない。これは雇われたときからつづく悪しき風習だ。

「べつに、知りたいわけじゃないですし、知らないからって支障はないんですけどね、どうせおいらのやることといったら雑用ばかりじゃないですか。槻茂さんのパンツ洗ったり、朝食つくったり、荷物運んだり、パンツ洗ったり、んー、まあー、たいがい、パンツ洗ってますよ。おいらはもしかして槻茂さんのお母さんだったりしませんか」

「しねえよ」

「ですよね。で、仕事内容については、べつにおいら、とやかく訊きませんけども、それはそれとして、これまでご一緒しましたお仕事ではおいら、けっこうに危ない目に遭ってるんですよ。よぉっく考えてみますとね、これ、槻茂さんからお仕事の内容を聞いていれば、あんがい回避できた類のミスなんですよ。たとえばですけど、このあいだの巨大ザリガニのお仕事とか」

 ペットとして飼われていた外国産の「超ド・デカイ」級のザリガニが逃げだし、それを槻茂さんとおいらは捕獲すべく、深夜の街中を這いずりまわったのだ。

「前にも言ったが、あれはザリガニじゃねえ。西洋の異形で、スコーピ・オーガンといってな、言うなれば、低級悪魔の部類だ」

「と、槻茂さんはおっしゃいますけどもね、そこまでムキになっておいらのことをからかわなくたっていいですよ。おいらだってね、もう、幽霊とかサンタさんとか、そういうのを信じる歳は、もう、もう、とっくに越えちゃっているわけですからね。で、あのときおいらはまあ、徹頭徹尾、槻茂さんのサポートに徹していたわけですけども、というかいつだっておいらは槻茂さんのサポーターなんでございますけども、さいしょからおいらたちの追っていたのが巨大ザリガニだって知っていたのなら、おいらだってもっとうまく対処できましたよ。ホントに、もう――ぷんぷん!」

 かわいこぶってみたら無言で腹を蹴られた。これに関してはもっともな怒りだと認めるに、やぶさかではない。

「じゃあなにか。おまえがおれの取り逃がした異形に遭遇して、手も足も出ずにただ立ち竦み、しょんべん垂れ流したのもおれにオチ度があるってのか。そりゃおまえ、ずいぶんとご立派な言いがかりじゃねえか。あん?」

「やめてくださいよ、槻茂さんってば声、大きいですってば」おいらは、あわわ、あわわ、と槻茂さんの口を塞ぎにかかる。ビルの屋上から地上へと階段を使ってひぃこら舞い下りたおいらたちはいま、観光客のごったがえしている清水寺付近にやってきていた。

「こんな人込みのなかで、ちびった話なんてしないでくださいよ」

「構いやしねえだろうが、おまえがお漏らししちまったのはおれのせいなんだから。だろ?」

 だっていい歳したおまえがしょんべんちびったのはおれのせいなんだもんなあ、と槻茂さんはよく通った声で繰りかえした。

「子どもみたいなイヤガラセしないでくださいよ」

 非難すると同時に、顔に何かが張りついた。「わ、ぷっ! なんだこれ!? ぺっ、ぺっ! げっ、蜘蛛の巣だ!」

 べったりと顔面から蜘蛛の巣にひっかかってしまった。こんな道路に不自然な、と思うが、古びた街並みの小径であるので、こういうこともあるのだろう、と生じた疑問を呑みくだす。

「蜘蛛の巣ごときで、騒ぐなよ、みっともねえ。でも、あれなんだろ。これもおれがおまえに、事前に報せてなかったのがわるいんだよな。すまねえなあ、おれのせいで」

 皮肉たっぷりすぎて逆に清々しいほどだ。

「槻茂さんもしつこいですねえ。わかりましたよ、あれはおいらが臆病だっただけです。小心者だっただけですよ」

「だった? なんで過去形だよ」

 ちいさいことに拘る人だなあ。「わかりましたよ。おいらは小心者です」

「ああ知ってる」

 なら言わせないでほしい。

 おいらはこころのなかで断言するね。

 槻茂さんはやや、性格に難アリです、ってね。

   ><

 おいらは槻茂さんに、仕事上の苦言や不満をこれでもかとずらりと並べ、捲くし立ててみせた。この半年ものあいだに溜めこんだ鬱憤を晴らすがごとくだ。それに引きかえ槻茂さんは、こちらのスコールにも似た糾弾などまったく意に介さず、

「うるせえなあ。おれがおまえを見捨てたことがいちどでもあったかよ。上司の条件なんてぇのはな――部下をぜったいに見捨てねぇってだけで充分なんだよ」

 と吐き捨て、それ以後、こちらのどんな悪態にも応じることなく、黙々と歩を進めた。

 やがてとある建物のまえで歩を止める。

「着いたぞ。ここだ」

 おいらもつづいて立ち止まる。槻茂さんが見上げているのは、近未来型宇宙船もかくやと見紛う、超高級高層ホテルだった。

「うひゃー、なんだかずいぶんと豪勢じゃないですか。ここが今回の集会所なんですか? どうしたんです、これまではだって、賭けマージャンでもやってそうなボロっちいお店だったのに」

「言ってなかったか。今回の仕事は、支部の連中ではなく、本部の連中が指揮をとってんだ」

「本部? というか槻茂さんって、個人経営じゃなかったんですか。いつから組織経営に?」

「ばーか、はじめからだよ。つってもおれは、指令が来たとき以外はかってに活動している、言ったらフリーランスにちかい末端だがな。んで今回、本部が指揮とるってんで、動く金もそれなりだ。支部の連中はもとより、おれ以外の末端構成員も、だいぶ召集されてんだろうな。だから、集めた人間詰めこむ『箱』は否応なしにデカくなる。警備も厳重なところを選ばなきゃだしな」

 だから警備と設備の行き届いた高級ホテルが抜擢されたということか。

「つまり」とおいらは要約する。「今回はおいしい食べ物がたくさんでるんですね。ジュルリ」

「まあ、でるだろうな」

 いいなあ、マグロ以外のご飯が食べられるなんて。

 ひがんでみせると、

「食いたきゃ食えばいいだろうが」

 意に反してやさしいお言葉がかえってくる。だが真に受けてはいけない。

「またそんなイジワル言って。だっておいら、いっつも出入り禁止じゃないですか」

「あん? 言ってなかったか。今回は各自、協力者を一名だけ会議に参加させていいことになってんだ。ついて来たいならべつに止めないが――どうする?」

「行きます! 行かせてください!」

「いいのか。いったん入ったら、出るのはむずかしいぞ」

「がまんしますよ、だってこんなに高級そうなホテルですよ、いったいどんなおいちぃ料理が並ぶことやら。考えただけでも、ジュルリ――よだれが止まりませんねぇ、げへへ」

「なら、おまえは隅っこのほうで飯でもつまんでろ。おれはおれでやることがあるから構ってやれないが、何かあったら端末で呼びだせ。迷子にだけはなるなよ」

「どうしたんですか、妙にやさしくなっちゃって。やだなあ、こわいくらいですよ」

「ツレが迷子になるってぇのは、恥以外のなにものでもねえんだよ。おまえは会場に入ったら、あとはおとなしく養豚場のブタの真似でもしてりゃいいんだ」

「へいへい」

「んだ、その返事は。連れてかねえぞ」

「ヤダヤダ、ごめんなさいでした。おいら、槻茂さんについてきますよ。不肖おいらに、なんでもお申し付けくだせえませ。えへへ」

「食い意地張ってっとな。そのうち、痛い目みるぞ」

「ごもっともで」

 阿諛追従しつつも、おいらは思うんだ。

 マグロ・イヤダーにしたのはあんたじゃないか、そりゃ食い意地だって張りますよ、ってね。

   ><

 ホテルの最上階が会場だった。ワンフロアすべてがパーティホールとなっており、天井が高く、面積にしたらサッカーコートなみの広さがある。そこへ、部屋全体を見渡せないくらいに大勢のひとがごったがえし、一堂に会していた。

「これぜんぶ、槻茂さんのお仕事仲間なんですか?」蟻の巣を掘りかえしたかのような光景だ。

「仲間ってほどでもないがな。まあ、身内ではある」

「ほへえ。こんなにおっきな企業だったんですねえ」

「つっても、ここに集まってんのは、それなりに実績つんでるヤロウどもばっかで――言ったら選りすぐりの精鋭だ。構成員全員集めるとなったら、野球ドーム一つ貸しきっても収まらねえんじゃねえか」

「なんと!?」

 おいら、初めて槻茂さんを尊敬したかもしれない。これほど大規模な組織の一員である、というその事実だけで、なんだか槻茂さんがご立派な会社の社長にみえてきた。むろんそうみえるだけで、実際のところ槻茂さんは商店街の裏路地に事務所をかまえる、しがないよろず屋さんで、おいらはその雑用係。

 本来であれば、このような天上にちかいパーティホールにいるなんていうのはお門違いもとより場違いにすぎるのだ。

「お。そろそろはじまるな」

 ホール全体に散らばっていた客人たちが、いっせいに移動をはじめた。

「ちょっくらおれも行ってくる。おまえはここで食事に専念してりゃいい。まあ、ここからでも話は聞けるだろうから、聞きたきゃ聞いてろ。まあ、理解できるかの保証はしねえがな」

「え、なんです?」両手に持った皿に山盛りたくさんの料理を盛りつけながらおいらは、口角からヨダレを、ツツーっと垂らし、訊きかえす。

「いや……なんでもねえ。それにしても、お利口さんだなおまえは。おれの言いつけどおり、養豚場のブタの真似をして。だがそこまで迫真の演技をしなくたっていいんだぞ」

 皮肉に構っているヒマはない。おいらは「ブヒー」とだけ返事をする。槻茂さんは無言でおいらのケツを蹴り、そのまま離れていった。

 おいらは見たこともない高級そうな料理に、無心でかぶりつき、舌鼓を打った。

「うめぇでごわす。うめぇでごわす」

 ひとは美味しい食べ物に出会うと、涙をながす。そして人格(キャラ)が変わるのだとおいらは知った。

   ><

 とり憑かれたようにおいらは次々と胃袋に高級そうな料理を詰めこんでいく。間もなく会議がはじまったけども、おいらには関係ない。ひたすら千手観音がごとくわさわさと手を動かし、料理を口へと運ぶ。

 そうしておいらが人間離れした動きでもって食事に専念していても、聞こえてくるものは聞こえてくるもので、大音量で流れる主催者らしき人々の声が耳に届く。

 呪文みたいなかたっくるしい挨拶からはじまり、集まったことに対するねぎらいの言葉や、訓示を経てから、本日みなの衆が集まった理由と目的を、彼らは語った。

   ><

「諸君もご存じのように、二日前、例の虎豹(こひょう)一族鏖殺(おうさつ)事件の被疑者とみられる女――通称『茶紗(ちゃしゃ)』と、その共犯とみられる異形が、ここ京都で発見された。

 共犯とみられる異形は、特一級危険指定レベルの異形であるとの報告が入っており、被疑者もまたそのレベルであるとの認識をもっておくべきだと我々は考えている。

 ご存じのとおり、この被疑者は我々の元同士――つまりが元始末屋であり、鏖殺された虎豹一族でもある。動機は判然とせず。被疑者は自身の一族を根絶やしにし、この七年間我々の追跡をことごとく回避し、逃亡しつづけている。おそらくは、相棒とみられる特一級危険指定異形――以後、特一級異形と呼ぶが――彼女の援助を得ての遁走であると推測される。

 未確認ではあるが、ほかに仲間がいる、という情報も入っている。

 いずれにせよ本日、被疑者二匹はここ京都に逗留しており、我々にとってはまたとない好機である。

 ここで二匹を捕獲し、芋づる式に異形どもを狩るのが定石ではあるが、今回は異例の対象であるため、原則を無視し、我々で総攻撃――奇襲をしかけ、二匹をその場で始末することに決定した。

 異論、反論は受けつけない。これは指令ではなく、命令である。従えない者、または従う気のない者は今ここで挙手をしていただきたい」

   ><

 なんだか要領の得ない話だなあ、と思いつつも、危なっかしい話題であることはなんとなく判断ついた。危険な仕事はごめんこうむりたいおいらであるので、「やりたくないです!」と元気よく手を挙げようと思ったのだけれども、あいにくと両手はアリ塚がごとく料理の盛りつけられたお皿で塞がっていた。

 おいらがあたふたしているうちに、挙手をする時間が終わってしまう。

「承知した。いま、手を挙げた者は、即刻この会場――ホテル――いや、京都から出ていってほしい。というよりも」

 ――出てけ。

 ドスのきいた声に会場がシンとなる。つぎのしゅんかんには、引いた波が倍になって押し寄せてくるみたいに騒然となった。

 おいらもこのときばかりは食事の手を左手だけ止め、右手でステーキを頬張り、つぎの言葉が紡がれるのを固唾を呑むとみせかけてアップルジュースをズズズと飲み干し、見守った。

「なぜ出て行かない。はやくしろ。でなければ強制排除する。三十秒だけ猶予をやる」

 いち、とカウントする声が会場に響きわたる。一人、また一人、と挙手したと思しき人物たちが会場を去っていく。ややもすると、挙手しなかった人たちの中にも、会場を辞した人がいたかもしれない。それくらいゾロゾロと人がいなくなった。が、それでも会場に残った人だかりが減ったようには見えず、残った人々はまるで魚群のように、ひっそりと蠢いてみえた。

   ><

「現状、ここに残っている人物は、みな我々本部の意向に賛同し、協力を惜しまないものと解釈し、話をすすめる。虎豹一族鏖殺事件についてはさきに述べたとおりだが、もう一件、我々は極秘に調査をすすめている事項がある。これについては緘口令を敷く。破った者は除名処分のうえ、記憶を消させてもらうので、各々、細心の注意を心がけてほしい」

 なんだかトンデモない話がはじまってしまったようだ。おいらは生唾を呑みこむ。

 ごくり。

 よし、チーズケーキにしよう。

 メインディッシュを平らげてもマグロ・イヤダーの変身は未だ解けず、しかたなくおいらはデザートに手を伸ばす。

   ><

「はやいもので、いまやもう、二十七年も前のことになる」

 さきほどから話しつづけている男が口調を固くして言った。キーンと、スピーカーが断末魔のような音をたてる。

「あの当時の壮絶な戦いを知る者は、おそらくこの場においてもそう多くはないだろう。或いは、聞き及んでさえおらん世代もいるかも分からない。

 我々としてもあの戦は、忌むべき記憶として新しく、それゆえ忘却すべき過去として扱ってきた。語り継ぐにふさわしい美談などは一つもなく、あったのは悲劇と非情だけだった。

 だがいま、我々はあのときに残した禍根にふたたび挑まなくてはならない局面に立たされている。

二十七年前に、異形の王こと『鬼族』との戦争が終結したが、時を同じくして、とある異能者が、我々のもとを去った。彼女は、鬼族との戦においてもっとも奮闘した能力者の一人であり、突出した武力をぞんぶんに振るって、我ら『外道(ガイド)』の歴史に名を刻むほどの功績を残した。

 しかし我々が彼女の存在を語り継ぐことはなかった。

 なぜか。

 こんにちの本題はここに集約すると言っても過言ではない」

 どうやらここからが本番であるようだ。おいらは神妙な面構えで、金閣寺を模してある、ウェディングケーキ並に大きなケーキと対峙し、一人で平らげるべく、「いただきマンモス!」と格闘を開始する。

   ><

「鬼族を克捷(こくしょう)し、制圧した我らであったが、そのほとんどは我々のもとを去った彼女の功績によるところが大きい。ところが我々のもとを去った彼女は、あろうことか、異形どもを懐柔し、独自に活動をはじめた。それだけに飽き足らず彼女は、我らの管理する始末屋の養成所へと幾度となく侵入し、目ぼしい子どもたちを見つけては誘拐を繰りかえし、現状、彼らを手駒として扱っている。

 神出鬼没な彼女を、我々は可能なかぎり監視し、いつでも拘束および迎撃できるように対応してきた。

 具体的な行動に起こさなかったのにはむろん理由がある。

 彼女を不用意に刺激し、敵愾視されるのを危惧しての処遇であった。――が、それももはや限界にきている。

 彼女が我々に対抗する組織を築きあげようと目論んでいるのは自明の理だ。

 そして今回、特一級異形を引きつれた元始末屋の反逆者が、ここ京都に現れた。

 我々は彼女――通称『脛木(すねぎ)鯉沙(こいさ)』が、この二匹に接触し手駒として取りこむ前に、二匹を始末し、その後――謀反を企てた罪で、脛木鯉沙を拘束する。抵抗すればその場での処分もやむを得ない。

 我々としてはさいあく、脛木鯉沙の自由を奪えればそれでいい」

 つまり、生死は問わない、という意味だろう。澄まし顔でおいらはゲップをする。

「我々は多くを望まない。目的遂行を第一優先に、各自、各々の判断で行動してほしい。

 我らは組織で一個体だ。

 しかし、強固な個人があってこそ発揮される結束力でもある。

 責任はすべて我ら、本部が負おう。

 諸君らは、遠慮も配慮も、ひと目すら気にしなくていい。ぞんぶんに、己が本領を発揮してくれ。

 こんにちの会議は以上をもって解散とする。作戦についての仔細は、追って、各自のメディア端末へ送信する。

 では、諸君の健闘を祈る。解散!」

   ><

 解散――と、叫ばれたと同時においらは瞬きをする。

 ふたたび瞼を開けると、男が一人、宙に浮いていた。視線の先、人だかりの奥のほうだ。逆さまの体勢だと判る。浮いているのではない。

 目を凝らし、あれは宙吊りにされているのだ、と見分けがついたころ、男の首が無残にも弾け飛んだ。

「へ?」

 ここからの距離はざっと三十メートルほどだ。男の手にマイクが握られている様がかろうじて確認できる。刎ねられた首からは一瞬だけ血が噴きだし、あとはおいらがしょんべんを漏らしたときみたいに、垂れるように真っ黒い体液が人だかりの頭上に降りそそいだ。

 誰もなにも言わなかった。悲鳴の一つもあがらない。

 突然のできごとに呆気にとられているのか、はたまた、あまりにはやい展開に、思考だけでなく視覚までついていけていないのかもしれない。こうして離れた地点から眺めているおいらだからこそ確認できた、男の逆さ吊りであるけれど、間近にいる彼らにしてみれば、突如として人が消えたふうにしか見えていなかった可能性もある。

 案の定、

「うえだ! うえ!」

 数秒後には事態を把握した人たちが、こぞって頭上を仰ぎ、そしてある者は出入り口に走り離脱経路を確保し、またある者は懐から武具を取りだし、臨戦態勢をとった。

 が、彼らがそうして各々に対応を講じているあいだに、一人、また一人、と宙に吊るされ、首を刎ねられていく。

 距離があるから見えないだけだと思っていたけれど、ひょっとすると彼らを吊っている糸そのものが視えないほどに細いのかもしれない。そう疑わせるほどに彼らは、造作もなく宙吊りにされ、次から次へと頭部なき首から体液をまき散らしていく。

 ゆかには、馘首された頭部が、皮を剥かれたジャガイモのように無造作に転がり、重なりあい、しだいに山となっていく。

 やがて純白にちかかった大理石のフロアが真っ黒に染まりきったころ、人だかりは消え失せ、代わりに天上から吊るされた無数の首なき骸が、あたかも今まさに降りだした豪雨の瞬間を捉えた写真のように、頭上を黒々と覆っていた。首なき彼らは自ら鎮魂歌を謳うかのように、ゆらゆらとぶきみに揺れている。

   ><

「タント、無事か!」

 槻茂さんが駆けてくる。全身を血の雨でべっとりと彩っている。「掩撃だ。ひとまずここを離脱するぞ」

「あー、はい。ですね。それがいいとおいらも思いますよ」ことのほか冷静であるのに、身体が思うように動いてくれない。「あれ。おかしいなあ。足が震えて、あはは。歩けないかもです」

「バカヤロウ! 死にてぇのか」

 怒声をあげた槻茂さんが、おいらのまえから、ひゅん、という音を残し、消えた。遅れておいらの顔に、風が吹きつける。足元から全身を舐めあげるような、寒気のする吹き方だった。

 と。

 おいらのすぐよこに、かぼちゃ大の何かが落ちてくる。

 鈍い音が鳴る。両手に抱えた粘土を地面に叩きつけたかのような音だ。

 目を逸らす暇もなかった。

 ――ごろごろごろ。

 中身をまき散らしながらソレは大きく二度弾み、そして重心の偏ったボールのように、ぐねぐねとよろめきながら転がった。おいらの足元で停止する。

 胴体と切り離されたソレは、地面にぶつかったスイカが一部分だけ欠けて、中身がこぼれ落ちたような有様だった。

 間を置くことなく、

 ――ボツボツボツボツ。

 生温かい雨が、おいらの全身を濡らす。

「あはは。あははは。黒い雨だあ」おいらは濡れた部位に鼻を近づけてみる。「うわあ、くっさーい」

 声は笑っているのに、おいらの頬は引き攣って、ぴくぴく、ぴくぴく、痛いくらいに脈打つ。

「あはは、あははは。槻茂さんが、槻茂さんの、これ、この雨、あははは! あははははははは! もう、やだなあ。槻茂さんったら、おいらを残して、ホントにもう」

 ヤダよぅ。

 ヤダよぅ、ヤダよぅ……。

 頭上を見上げる勇気なんて、おいらには、なかった。

 周囲を見渡す。

 いつの間にかおいらは、ひとりぼっちになっていた。

   ><

「おまえ、いい匂いがするなあ」

 背後から声がした。腹の底を撫でまわされるような、女性に特有の、耳に残る嬌声だ。

 首から順にゆっくりと、うしろを振りかえる。

 すらりとした、線の細い女性が立っていた。見覚えがあるような気がするものの、どこで見たのかをすぐには思いだせない。

「アタシはさ、こうみえて、一般人に手をだすような真似はしない主義なんだ」彼女はこの惨状において、あまりに小奇麗な格好をしている。大学で講義を受けてきた帰りだと言われても納得するほどの佇まいだ。「あたしは一般人には手をださない。でも、ここに一般人はいないはずなんだよ。だってそうだろ? いましがたここでは、『外道』どもが集会を開いていたんだからさ。あいつらは、ほら――病的なまでの排他主義だろ。であれば、ここにいるのはあまねく『外道』であり、おまえも一般人ではないということになる。そうだろ?」

 ごくり、とおいらは出てもいない唾液を呑みこむ。知らず、息も止めていた。

「どうしようねえ。アタシはほら、優柔不断だからさあ。じぶんで物を決めるってことが、こうみえてぞんがい苦手なんだよ。でも、あたしはきょうここへは、『外道』の幹部らを皆殺しにするために馳せ参じたわけで、つまりが、この場にいる輩の首をかたっぱしから刎ねてやろうと思ってきたわけで、だからさあ、はっきりしてほしいんだよね」

 おまえは人間か。

 それとも外道か。

 彼女は口角だけを吊って、器用に微笑んだ。

 炯々と光る彼女の眼光はまさに、獲物をねめつける捕食者の目だ。

「おいらは――」

「うん。おいらは?」

 足元に転がる、槻茂さんの顔を見る。目玉と白い脳みそが飛びでて、ぐにゃんと歪んでいる。笑ってしまいたいくらいにヘンテコなお顔だ。おぞましすぎて、逆につくりものじみて見える。

「おいらは、このひとの」

 この、ヘンテコなお顔になってしまった男の、

「忠実な、部下……、です」

 おいらはそう、槻茂さんに名付けてもらった、マグロ・イヤダーです。

 頭のなかが静かすぎて、この穏やかすぎる危機的状況――異常事態についていけていない。でも、自覚したところでどうしようもなく、勃然と現れた捕食者をまえに、おいらはただ呆然と、反射的ともいえる応答をするほかになかった。

「そう。ならきみは、こいつらの仲間ってわけだ」

「そういうことに、なりま――」おいらはもういちどよく考えて、それから、「す、ね」と肯定した。

 おいらは槻茂さんの、部下であり、仲間だ。

 だって槻茂さんはおいらの上司なんだもの。

 上司は部下を見捨てない。ぜったいにだ。

 だから部下も安心して上司に命を預ける。

 揺るがぬ決意を胸に抱いたおいらの頬を撫でながら彼女は、耳元でそっと囁くようにこう言った。

「なら、死ね」

 急に呼吸ができなくなった。口と鼻はもとより、顔面――全身が、なにか得体の知れないもので覆われていく。

 蜘蛛の巣に絡めとられる羽虫がごとく、目に視えない帯びにぐるぐる巻きにされていくかのような感覚だった。

   ><

 意識を失う間際、おいらの脳裡には、ここへくるまでのあいだに顔に張りついた蜘蛛の巣の感触がよみがえった。そしてビルの屋上から双眼鏡越しに眺めた監視対象の女の姿も思い起こされた。

 彼女は、今まさにおいらを殺そうとしている目のまえの女性と同じ装いだった。

 尾行したつもりが、尾行(つけ)られたのだ。

 この惨劇のきっかけをつくった人物がじぶんであったことに、おいらはうっかり気づいてしまった。

 槻茂さんに知られたら、タダじゃすまなかったなあ。

 気づいたのが死ぬ直前でホントによかった、とおいらはしみじみ思ったね。

 

 遠のいていく意識の狭間で、おいらは最後に彼女の声を聞いた気がした。

「おまえの首は刎ねてやらん。苦しみあがいて、寿命で死ね」

 ――仲間の死を背負いながらな。




      【 群れなさぬ蟻「裏」 】おわり。


【群れなさぬ蟻】につづく。

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