ぼくと狐と我が愛娘 

※2023/12/04(18:16)この小説だけ抜け落ちていたので、補足します※


【ぼくと狐と我が愛娘】 

目次

(1)~(22)



 (1)

 子供は三人欲しかった。優しい妻と、可愛い子どもの五人家族。おとーさんとけっこんするー、なんて言われながらも、十年後には、いっしょに洗濯しないでよ、と言われるような、どこにでもある、けれど絆だけは一丁前の家庭を築くことが、ぼくのむかしっからの夢だった。

「おっとー。なんか、しっぽがむずむずするー」

「あ、ったく! また猫と遊んだろっ」

「だってー。なんか、淋しそうだったんだもん」

 淋しいのはおまえだろ。

「あーもう。ダニ移るからダメって言ったのに」

 そうだ。淋しい子どもだったぼくは、子供が三人欲しかった。思い描いていた娘の数は、けっして一人ではなかったし、頭にこんなモフモフの耳なんて生えていなかった。まかりまちがってもぼくの娘は、こんな、枕やマフラーにでもしたら暖かそうな、かわいい尻尾なんてふりふり振ったりはしない。

「おっとー。なんか、しっぽがー」

「あーもう! ちょと待ってろ!」

 人形を抱いて、「おとうさん、えほん読んで」と夜中までぼくを待ってくれている愛娘。そうだとも。ぼくが思い描いていたのは、そっちであって、こんな尻尾を胸に抱えて、「しっぽが痒い」だなんて訴えてくる童女ではなかった。

 枕カバーを頭からスッポリ被ったみたいな服装が普段着の、尻尾が窮屈だからといって年中「NOパン嗜好」な、生後一カ月ですでに疾風の如く駆けまわっていた、「冗談でもそんなのはおとぎ話の中だけにしてくれ!」と叫びたくなる――こんな獣モドキなどでは、断じてなかった。

「おっとー。はやく何とかしてくれろー」

「わかった。服脱げ。いっしょに風呂だ風呂」

 こんなにぴーぴーやかましいのでは、おちおち課題のレポートも仕上げられない。お手上げどころか、土下座したいくらいだ。

 田沼(たぬま)樹(たつき)こと大学生のぼく二十歳は、どこでなにをまちがったのか、父親になってしまった。

 この家に妻はいない。出て行ってしまわれた。

 娘をひとり、ここに残して。

 なにも言わずに出て行った。

 ぼくはそう、世間でいうところのシングルファザー。

 妻の名は、ヨウコ。本名ではなく、ぼくが勝手にそう呼んでいるだけで、単なるあだ名のようなものだ。本名を知らないどころかぼくは妻についてなにも知らない。なにが好きで、なにが嫌いか、なんて彼女の嗜好をはじめとするありとあらゆる情報――生い立ちやら性格やら、年齢までも含めてのいっさいがっさい、彼女についての情報を、ぼくはほんとうになにも知らないままで、なにをどこでまちがったのか、どこでナニをしてしまったのか――娘だけを儲けてしまった。

 強いて言うならば妻の性別だけがぼくのゆいいつ断言できる個人情報で、もっと言ってしまえばぼくは彼女がどこの誰で何者であるか以前に、人間であるのかさえ覚束ない。

 ぼくと彼女とのあいだにあるはずの縁は、希薄とも脆弱とも呼べる、心許ない糸でしかない。

 ぼくはその拙い糸の色を勝手に「赤」だと信じているけれど、実際は釣り糸なみに半透明かもしれないし、獲物を絡め捕ったり、悪戯に救うふりをして無慈悲に突き落したりするだけの、蜘蛛の糸だったのかもしれない。

 いずれにせよ、ぼくの妻であり、娘「月音(つきね)」の母でもあるヨウコは、実に面妖な女性だった。

 ぼくと月音を置いて、姿を晦ましてしまったヨウコ。

 ヨウコと呼ばれることを嫌がった、ぼくの愛しき女(ひと)。

 ――ヨウコ。

 漢字で書けば、妖狐。

 ぼくの妻は、そう。

 古風溢れる、化け狐である。

   ***

 ヨウコとの出会いを少し語ろう。

 ぼくの娘「月音」がまだこの世に誕生していなかった年のことだ。

 高校卒業を期にぼくは修学旅行へと出掛けた。というのも、うちの校風はちょっと変わっていて、修学旅行はもとより、校外学習や部活合宿などの、宿泊を必要とする行事がまったくなかった。昨今流行りの不祥事の影響なのか、教師たちは、ぼくら生徒との交流を持ちたがらなかったし、責任問題に発展しそうな活動は極力自粛させられた。

 おかしいと思うこと自体が禁じられていたような、不合理とも不可解ともちがう、異様な雰囲気が充満していた。ぼくが三年間在籍していた学院は、そんな場所だった。

 ともかくそこを卒業したぼくは、修学旅行に出掛けることにした。

 すでになんとなく察することが可能ではあるだろうけれど、ここは敢えて自虐の道をひた走り、これを諧謔へと変換させようと試みるわけなのだが、当時、疑問を持つべきではない環境で、持つべきではない疑問を抱いていたぼくに、居場所なんてものはなかった。

 端的に、ぼくには友達がいなかった。

 男で独りの小旅行。

 気楽でいいじゃないか。

 電車に揺られて、がったんごっとん。車窓から射す日の光が、木々の網目を縫っている。春先であるというのに、新緑はまるで紅葉したみたいに色鮮やかだ。

 都会を離れ、ビル景色がなくなり、視界がひらけていく。遠方に山が連なり、線路に沿って田んぼが広がる。やがて木々が視界を遮りはじるころには、電車は見知らぬ山のなか。

 古ぼけた鉄橋を渡るころになると、人工的な建物なんて線路以外に見当たらなくなっていた。

 ぼくはそう、地元を離れ、どこまでも天然自然のひろがった森の奥地までやってきていた。

 駅に着く。

 無人駅のようだ。

 時代錯誤も甚だしい。

 なんてすてきな場所なんだ。

 キセルをする人間なんてこの世に存在しないかのようなこの寛大な待遇。

 人件費が嵩むから駅員を配備できない、とかそんなちんけな大人の事情なんて考えたくないぼくは、田舎のなかの田舎の実情を、百六十度ひんまげて解釈し、ひとり無意義に感銘を受けていた。

 雰囲気(ムード)に弱いぼくである。

 駅を出てもそこは砂利道。バスプールなんてものはないし、車が通れそうな道でもない。

 糸みたいに細々とした道が一本。神社へつづく小径みたいに、駅からずっと延びていた。

 人が住んでいる場所とは思えない。少なくとも、近代的な生活は営めないだろうな、と思わずにはいられない。どこもかしこも、自然がたくさん。

 人里ではあるはずだ。予約可能な民宿があったくらいなのだから。

 けれどはやりここには、近代を象徴する類の、鉄筋コンクリートのビルディングや、コンビニ、ショッピングモールなんて無骨なものはありそうもなかったし、実際問題、メディア端末はずっと「圏外」マークを浮かべっぱなしだった。

 どれくらい歩いただろうか。十分か。二十分か。一時間ってことはないだろう。

 やがて民家らしき建物が、ぽつりぽつりと見えはじめた。

 どの家もかやぶき屋根という、まるで教科書にでも載っていそうな景観だった。

 やたらと狐が多かった。生身の狐ではなく、石造りの像だ。お稲荷様みたいな感じで、道なりに点々と並んでいた。祀られているとか、村おこしのために設置されているとか、そういうふうな趣でもなさそうで、草むらに埋もれるようにして無造作に落ちている。そう、置かれているのではなく、落ちている。かつては祀られていました、といったような形骸的な置き物と化していた。

「キツネかぁ」

 感慨深げにつぶやくが、これといって思い入れがあるわけでもない。どちらかと言えば、たぬきのほうが親しみがある。

 地面からは、ふきのとうが頭を覗かせていた。細かい花を咲かせていて、天ぷらにするには旬がすぎてしまったようだ。雪国であるからか、ぬくぬくとした陽射しの下であっても、未だにキラキラと白銀の幕がどこまでも地面を覆っている。

「春だなぁ」

 ぼくはアホまるだしに自由を身体で感じていた。

 バカと自由は紙一重。

 自由を抱いているとき、人はみな、一様にアホウである。

 (2)

 不自由だ。嘆くぼくは凍えている。

 こんな田舎にくるんじゃなかった。泣きたい気分である。

 そもそも駅を出た時点で気づくべきだった。こんな辺鄙な山村にインターネットが普及しているわけがない。世間から五十年も取り残されている村に、どうしてインターネット予約のできる宿があるものか。

 そうなのだ。

 ぼくは降りる駅をまちがえた。

 村人はまるでぼくを宇宙人かバケモノのように忌避して、話し掛けようにも顔さえこちらに向けてくれないし、のどが渇いたと自販機を探しても見当たらない。もしやと思い、村を練り歩いてみれば、お店の一つもないではないか。途方に暮れているうちに日まで暮れはじめた。

 タイムスリップしてしまったのではないか、とぼくは本気で考えた。

 むろん、そんなことはない。

 ひとまず踵をかえし、駅まで戻った。

 まちがえたなら、乗りなおせばいい。

 至極まっとうな発想でぼくは現状を打破し、失態の汚名返上を試みたわけだが、現実はそんなにあまかぁなかった。

 電車は一日一本。たったのそれっぽっちしか通っていなかった。無人駅も納得だ。利用者がほとんどいないのだから人員を割く意味がない。

 ふたたび一本道を戻る気力など、とうになくしていたし、戻ったところで民宿などあろうはずもない。

 あーあ。

 せっかくの修学旅行だったのに。

 肩を落とすと同時にぼくは、友人といっしょでないことを幸いに思った。こんな事態に、複数人で陥ったならば、十中八九大喧嘩だ。

「おまえのせいだ」「なんだと、おまえのせいだろ」「待て待て、おまえら二人のせいだろ」「そういうおまえこそ、なにもしてねぇだろ役立たず」「なんだと」「このやろ」「やっちまえ!」

 こんなふうにきっと三つ巴、極寒の山中で三人仲良くお陀仏だ。

 だったらこうしてぼく一人きりでお陀仏したほうが生産的ってものだろう。犠牲は少なければ少ないほうがいい。

 なんだかんだと妄想しながらも、そもそもだから、ぼくにはいっしょに旅する友人なんていないのだ。なんてむなしい杞憂だろう。

 そういうわけでぼくは、駅のプラットホームのベンチに腰掛け、陽のとっぷり沈んだ満天の星を仰ぎながら、「あー。もしかして凍死しちゃうんじゃ」とルーベンスの絵に思いを馳せつつ、うつらうつらしはじめた自分の薄弱さを痛感していた。

      ***

「おい。死んでいるのかい。ここはあたいの場所だよ。ほら、どいとくれ」

 身体を揺さぶられている。なんだよもう、せっかくいい気持ちだったのに。じゃまをしないでよ、と寝返りを打ったところでぼくは、おや、と思った。知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。

「なあ、おい。生きているのかい。死んでいないのならどいておくれ」

 死ぬなら死ぬではっきりしておくれよ、とでも言いたげな、迷惑そうな口吻だ。なかなか目覚めないぼくに業を煮やしているふうでもある。

「死ぬならちゃんと死んだらいいじゃないか。なにもこんな淋しいところで死なないでも」

 女性の声だ。

 判るなりぼくは現金にもここで意識を鮮明にさせた。ややもすれば、「寝るならベッドで寝なさいね」と母親がぼやくみたいな彼女の物言いに、興味を引かれたからかもしれない。

「おや。この匂い…・・・もしや、おぬし」すんすんと鼻を鳴らしているらしく彼女は数秒しずかになった。ややあってから、「ちょっと起きれ」とふたたびこちらを揺さぶってくる。さきほどよりもつよく、かつ乱暴に、

「ぬし、村の者ではないな」

 叩き起こすというのはこういうことを言うのだ、と誰にともなく演じて見せているかのような強引な揺さぶりにあう。抵抗の余地もなくぼくはベンチから転げ落ちる。背骨をアスファルトに打ちつける。

「くっぅ」

 極寒のなかで眠っていたから身体がすっかり麻痺している。ただ衝撃が骨までもろに響かれたのではさすがのぼくも、悶絶しないわけにはいかなかった。

「ってぇよぅ。あにすんだ」

 背中を丸め、呻くぼくを気遣うこともせずに彼女は、

「ぬしが、中々起きんのがわるい」

 わるびれる様子もなく吐き捨てるのだった。

 電灯もない夜のプラットホームで、月の明かりが眩しい。

 未だ重たい瞼を薄く開くようにし、ぼくは声の主たる彼女をようやく視界に入れた。

 月明かりに照らされ、さらりと垂れる小麦色の髪がつややかな光沢を浮かべている。女性と呼ぶにはまだあどけなさを残した娘がこちらを見下ろすように立っていた。

「どうしたんだい。口をぱくぱくさせて。息の仕方を忘れたのかい」線のほそい体つきとは裏腹に、彼女の声には、頭上に広がる夜空と比べてもひけをとらないほどの威厳があった。「ほんとうにどうしたんだい。すっとんきょうな顔をして。まるでたぬきどもが鉄砲玉を喰らったような顔じゃないか」

 打ち所がわるかったのかねえ、と彼女は笑う。

 言葉が出ない。面食らっていた。たじたじどころかこれが現実ではなく夢のつづきではないのか、と疑うほどだ。これはまだ夢から目覚めていないぼくが大自然のなかで凍死寸前に陥っているために見てしまっている現実逃避ゆえの壮大な幻影なのではないのか、と。

 それほどまでに彼女の容姿は、この世のものとは思えないほどに神々しく、真冬の花火みたいに幻想的だった。

「ほんとうに、だいじょうぶかえ」

 ぼくが固まってしまったからか、彼女はきょとんとして、「どれ」と手を伸ばしてくる。ぼくは反射的に身構えるものの、身体を縮こませるだけでは拒みきれずに、ほっぺをむんずと掴まれる。

「ありゃー。こりゃまたずいぶんとひゃっこいじゃないか」こちらの顔を覗きこみつつ彼女は、「んー、それにしてもぬし、ずいぶんとまた、ちんちくりんなナリじゃあないかい」

 こちらの鼻や耳を引っ張ってくる。

 さんざんぼくの顔をむぎゅむぎゅもてあそんでいた彼女はやがて、ぴたりと手を止めた。

 どうしたのだろう。

 伺ってみると、さきほどまで漂わせていた柔和な雰囲気を消しさり彼女は、眉間にしわを寄せ、一変して、こわい顔を浮かべていた。変貌具合にひやりとする。何か気に障ることをしてしまっただろうか。

「つかぬことを訊くが、ぬし。親はいるか」

 急にそんなことを問うてくる。有無をいわさぬ威圧感がある。なぜにそんなことを訊くのでしょう、と訝しみながらもぼくは、「母は……いません。ぼくを産んで間もなく亡くなったみたいで」と応じた。

「では父か?」

 父に育てられたのか、という質問だろうと察する。

「ええ」肯定してからすぐに、「……あ、いえ」と否定する。あの男に育てられたのは事実だが、それを認めるのにはいささか無視するには大きすぎる抵抗がある。答えに窮していると、

「ふむ。いずれにせよ、ぬしは母君の顔を知らぬわけだな」

「そう、ですね」

「ということは、だ。ふうん」

 目を細め、舐めるように見詰めてくる彼女の顔には、退屈していた子どもが思わぬ玩具を見つけたときのような、いたずら心四割、好奇心六割の、純粋ゆえに残酷な天使の微笑が浮かんでいた。

 ぼくは、赤子をまえにした猫のように、彼女の一挙手一投足を見逃しまいと身体を硬直させて目を皿にする。

「なんだい。そんなに見詰めないでおくれ。照れるじゃないか。もしかしてこれが気になるのかい?」

 警戒心丸だしになったぼくの視線が気に掛かったのだろう。彼女は両手を頭にもっていき、

「そんなに珍しいのかえ」

 ツノみたいにぴんと張っているふたっつのかわいらしい耳を撫でた。

 撫でるたびに彼女の耳はぴくんぴくんとちいさく跳ねる。

 そう。彼女には立派な耳が生えていた。ふわふわの毛に包まれた獣に特有の三角形をした耳が、ぴょこんぴょこん、と。

「どうしたんだい。なんなんだい、今気づきました、みたいな顔をして。じゃあなにがそんなに気になるんだい。耳じゃないなら、こっちかい」

 うりうり、と今度はちいさなお尻を振って彼女は、今度は立派なしっぽをしならせた。箒然としたしっぽがふりふりと揺れるたびに、ぼくのほっぺがふぁさふぁさと払われる。

「うわあ。ゆめみたい!」

 彼女のしっぽは、意思を持っているかのように器用に動く。作り物などではないのは明白だ。

 人間ではない。

 彼女はおそらく、というか一目瞭然、十中八九人間ではない。ではなにか、と考えたときに恐怖心が湧かなかったと言えばうそになるが、ぼくはこのとき、彼女が人間ではないらしいぞ、と判ったところで思考を止め、ぬくぬくのモフモフのすべすべなしっぽの肌触りに身を委ねていた。

「うーむ。ぬしは肝っ玉がちいさいのか大きいのかわからないね。ヒトの子があたいをまえにしてここまで反応が薄いというのは初めてだよ。村人でさえ、あたいを見たら一目散に逃げてしまうというのに。ぬしはなかなかどうしておもしろいねえ」

 しっぽふりふりから解放されたぼくは名残惜しさ十割のせつない顔をしていたに相違ない。そんなぼくの情けない顔を彼女は、恐怖に慄いた顔と勘違いしたようで、

「安心おしよ」と言った。「なにもとって食ったりはしないよ。ヒトの子の肉は美味いんだけどね。お腹をこわしてイケないのさ」

「食べたことあるんですか」

「おや、ないのかい?」

「ないですよ」

 答えつつも、彼女の口調が冗談じみていることに気づき、

「おいしいんですか?」と言ってみる。

「どうだかねえ。改めて訊かれると困ってしまうよ」ふふ、と彼女は息を漏らし、「食べてみたら判るんだけどねえ」と、ふたたびくつくつと笑った。

 そんな彼女の屈託のない笑みからぼくは目が離せなかった。

 彼女の口元からは、ナイフ然とした鋭い牙が覗いていた。

 (3)

 ヨウコとの出会いは、他人に信じてもらえるほど現実的ではないし、他人に聞かせられるほど劇的というわけでもなかった。

 行き先を間違えた迷子のぼくが、駅のプラットホームで野宿しようとして死にかけ、そして、そんな死にぞこないのぼくが横たわっていたベンチが彼女の指定席だったという、ただそれだけの偶然が重なっただけの話だ。

 ぼくの娘「月音」は、ぼくたちが初めて出会ったあの晩に、ヨウコが身ごもったそうだ。

 娘をもうけた以上、ぼくとヨウコはきっとそういう関係になってしまったのだろうけれど(つまりが、やることはそれとなくちゃっかりしっかりやっていたのだろうけれど)恥ずべきことにその際の記憶がぼくにはなかった。

 ぼくが憶えているあの晩の記憶というのはひどく断片的なものだった。

 ヨウコはああ見えてもやさしい娘で、凍えていたぼくを自分の住処へと招いてくれた。そのとき、体力の限界に近づいていたぼくの意識は朦朧としており、ヨウコの住処へとたどり着いたころにはすっかり満身創痍となっていた。

 ヨウコの住処は古びた神社で、むろん暖房なんてものはなく、凍えきっていたぼくは、なけなしの生存本能を振り絞り、ヨウコにこう懇願した。

「ぬくもりが足りぬ! ありったけのぬくもりをぼくへ! ぷりーず、へるぷミィ!」

 ぼくとしては、駅でヨウコにしてもらった「しっぽふわふわ」を要求したつもりだったのだけれど、ぼくの現状を鑑みるにどうやらヨウコは全身全霊でぼくにぬくもりを注いでくれたらしい。対してぼくはと言えば、大量の白い天使たちをヨウコへと注ぎこんでしまったらしい。

 この等価交換をぼくは「愛」と呼びたいのだけれど、呼んでみてもよいものかを実のところずっと悩んでいる。同時に、「どこが等価交換だ、これは詐欺だ! ぬくもりを返せ!」といつ訴えられるのかビクビクしてもいる。

 ヨウコとは出会った翌日に別れた。彼女の案内で駅へと戻り、一日一本しかない電車でがったんごっとん揺られて帰った。しきりなおして旅行をする気力なんてすっかり失われていた。

 ぼくの卒業旅行はそうして終わった。実りのない旅行など、あっけなく終わる以外に道はない。

 実りのない旅行であったくせに、ぼくはぼくの知らないところであろうことかヨウコを身ごもらせていた。

 ひとり旅でとんでもないことをしでかしておきながらぼくは、なにも憶えていないのをいいことにそそくさと山を下り、そうしてなにごともなかったかのように入学式を迎え、意気揚々と大学生活に身を投じたのだから、男として以前に人としてどうなのか、と指弾されても致し方ない。

 キャンパスライフという未知の領域はぼくの思っていた以上に過酷な世界だった。いかに楽をして単位を稼げるか、という情報戦略社会そのもので、まじめなだけでは生き抜けない。高校生活とは段違いに「ともだち」という存在が必要不可欠だった。

 まことに遺憾ながらぼくには「ともだち」がつくれなかった。なぜだろう。こんなにいい人なのに。見る目のないヤツらばっかりだ。

 大学生活に足を踏み入れたそばからつまずづいてしまったぼくは、なんだかんだとバタバタした半年間を過ごしていた。

 そして。

 ヨウコとの出会いを一夜の幻と思いはじめていたころ、彼女はふたたびぼくのまえに現れた。

「会いに来ちゃったよ」

 玄関のドアを開けると、ヨウコが立っていた。

 こんな朝早く、今日はいったいどこの宗教の勧誘だ、と寝癖も直さずに顔を出したぼくは面食らった。

 ヨウコは流行の服装に身をくるませていた。いっしゅんどこのモデルさんかと思った。あまりにまばゆくて、ぼくは彼女を直視できず、「なんでこんな寝起きのかっこうで出てしまったのだろう、顔くらい洗っておくべきだった」と後悔した。

 恥ずかしすぎて目を伏せる。すると彼女の足下には、ぼくの膝丈ほどしかない(それでいて赤子でも幼児でもない)ちいさな女の子が、彼女の脚にすがりつき、こちらをおっかなびっくり見上げていた。まるでヨウコと瓜二つで、見たこともなくせに彼女の幼少期の姿を見ている気分になった。

「な。めんこいだろ。ツキネと名付けたよ」

「はい?」

「はいじゃないよ。なんだいせっかく会いに来てやったのに。もっとよろこんだらどうなんだい」むすっとしたあとで彼女は、女の子の背に手を添え、「ぬしの娘だぞ」とこちらへ押しやった。

「ヌシノムスメ?」なんの呪文か、と思った。

「そうさ。このコはぬしのむすめだよ」告げてから彼女は、「このコは、ぬしとあたいの娘だよ」と言い直した。

 はあ。ぼくとあなたの娘ですか。

 へえ、はあ。

 うんっと。

 よし。ちょっと待て。

 開いた口が塞がらない。このコがぼくの娘? しかも彼女とのあいだにデキた娘だって?

「うれしくって言葉も出ないのかい。来た甲斐があったねえ。ほら、ツキネ。この頼りなさそうな男があたいのオットで、おまえのオットーだよ」

 ちいさな女の子は不安げにヨウコを見上げたあと、こちらを見上げ、

「おっとー……だっこして」

 両手を伸ばし、恥ずかしそうにせがんできた。ぼくは唯々諾々と、主人に命じられた出来損ないのロボットみたいに、そのちいさな身体を抱き上げた。周囲を見渡しつつ、これはいったい誰の仕掛けたドッキリだろう、とキャンパスライフで孤立したぼくへのいやがらせの可能性を考え、必死にカメラを探す。

「なにをキョロキョロしているんだい。まったく、なにを考えているんだか分からない男だねえ。いいからほら、はやくお家へあげておくれ。長旅で疲れてしまったよ。なんたって、里を下りたのは久方ぶりだからねえ。慣れないことはするもんじゃないね」

 ヨウコはぼくを押し退けて強引に部屋へと入っていった。止める暇もない。

「あっとそうそう。言うのを忘れていたよ」

 ちいさな女の子をおっかなびっくり抱きあげたまま未だ状況が見えずに固まっているぼくを振り返ってヨウコは、「そのコはね」と微笑みかけた。「頭を撫でられるのが嫌いだよ。そんな抱え方して、噛みつかれたって知らないよ」

 忠告してもらったそばから、

「イッテ!」

 食指を噛まれた。なにすんだ、と睨みつけるもののツキネは歯牙にもかけず、「おっとー。くすぐったいよぅ」とちいさなおててで、同じくちいさなお耳をこしこし掻いた。

 そう。母たるヨウコと同じように、ツキネにもちんまりとではあるにせよ、ぴんと立った獣の耳が、頭のてっぺんから生えていた。

「ほらほら。言わんこっちゃない。そのコの歯がまだ生えていなくてよかったね。もし生えていたら今ごろぬしのゆびは、ツキネ専用のゆびしゃぶりになっていたよ」

「おっとーのゆび、おいしい!」

 きゃっきゃとはしゃぐ(ぼくの娘らしき)女の子を胸に抱きながらぼくは、フリフリと元気に揺らぐかわいらしいしっぽを眺め、ああこのコのしっぽは茶色なんだなあ、ヨウコとはちがうのだなぁ、とじぶんでもふしぎなくらい冷静に観察していた。

 にしても、とぼくは思う。自由気ままに動くしっぽを見ていまさらのように、

「なんでこのコ、ノーパンなの……」

「なんでだろうねえ。しっぽがきゅうくつなんじゃないのかい」

 ヒトの子の服を着せたのは今日がはじめてだからねえ、とヨウコは肩をすくめた。

 これがぼくと彼女の再会であり、そしてぼくのわがままな娘「月音」とのはじめましてだった。

      ***

 晴れた夜。彼女はあの駅のベンチに座り、澄みわたった星空を眺めるのが日課だったそうだ。

 長閑と言うにはいかんせん淋しすぎる気がした。ほかにすることはなかったのだろうか、とぼくなどは思ってしまう。だから、

「なんだってまた」ぼくはすこし彼女を小馬鹿にするようにして言った。再会から半月ほど経ったころの話だ。ぼくの揶揄ともとれる言葉を黙って聞きながらも彼女は気をわるくするでもなく、

「なんでだろうねえ」とやさしい顔を浮かべたまま、月音の寝顔を撫でていた。「そうだねえ。むかしはさ、待っていたんだよ。最初は日課じゃなくってね。約束したわけでもないんだけどね。ただ、あたいは待ちたかっただけなのさ」

 他人事のような口振りだった。なんのことか今一つピンとこない。もしかしたらこれはまだぼくには踏み込むには早すぎる話題だったのかもしれない、と遅まきながら気がついた。

 きまりのわるさからなかなか相槌を打てずにいると、ヨウコが見かねたように、

「ただ待つだけというのは飽きるものだよ」と話してくれる。「だから、ついでだったのさ。星を見るついで。月を見るついで」ついでに待っていたのさあ、と歌うように彼女はつぶやいた。

 はい、この話はこれでおしまいだよ、と暗に強調されたようでぼくはやはり口ごもるしかなかった。

 それからさらに二ヶ月半ほど経ったころ。つまりが現在(いま)から半年前のことだ。

 肌寒い朝だったのを憶えている。前の晩に珍しく雪が舞った。うっすらとアスファルトを覆うくらいの積雪だったけれど、それでも街の景観を一変させるには申し分ないぼたゆきだった。

 月音は生まれてはじめて目にしたらしく、窓に張り付いてなかなか眠ってくれなかった。

 翌朝。目覚めたぼくはすぐに異変に気がついた。家のなかの空気がまるで変わってしまっていたのだ。なんだか家のなかが色褪せて感じられた。暖炉の火が消えてしまったみたいなセピア色が、充満するみたいにぼくの周りの世界を、家のなかを、希薄にさせていた。

 ヨウコがいない。

 家中を探し回るよりもさきに、玄関の靴の有無を確認したぼくの勘はこの日に限っては冴えていたと誇ってもいい。

 いそいで外に出たものの、彼女の姿はどこにもない。

 誰も踏みしめていない道路には、アパートから駅のほうへと足跡が点々とつづいていた。その足跡がほかのだれでもない、じぶんの妻であるヨウコの足跡だとぼくには判った。その足跡を追ってみたけれど、駅に近づいていくにつれて無数の足跡に埋もれていき、完成されたジグソーパズルが徐々に欠落していくみたいに、やがて完全に無数の足跡と同化してしまった。

「おっとー。かっかー、どこぉ?」

 家に戻ると、月音が玄関先で待っていた。起きてみたら誰もおらず、心細かったのだろう、腕には枕がぎゅうと抱かれている。

「かっかー、どこぉ? おっとー、なんで?」

 なんで裸足でそとへ出かけていたの、という質問だと判る。そとに出るときは靴を履くこと、と日頃から口を酸っぱくして言い聞かせていたものだから、おっとーばっかりずるい、と言いたくなる月音の気持ちは分からなくはなかった。

「こういうときは仕方がないんだ」言いながら、こういうときとはどんなときだろう、と考え、そして「ああ、妻がこっそり家を出ていったときだな」と自答し、ようやく自分の陥った状況を呑み込むことができた。

「ふうん。シタカないのかあ」満面の笑みを浮かべた月音が裸足でテトテトと駆けだしたのを見てぼくは、

「まてまて、どこへいく」

 かろうじて娘を抱きかかた。「おまえはだめだ。しかたないのはおっとーだけ」

 裸足、だめ、ぜったい、と勧告する。以前、月音が裸足でそとへ出たとき、ぼくは風神の実在を信じた。子供は風の子とはよく言ったもので、ぼくの娘も例に漏れず風の子だった。成長すれば風神になること間違いなしの、人間離れした疾走だった。世間の目を気にして焦ったぼくの追跡を、鬼ごっこの開始と勘違いした月音は、その日、ぼくがヨウコに泣く泣く頭を下げて捕まえさせるまで、一日中この街を駆けずり回った。翌日のニュースに、「目撃! 白昼屋のカマイタチ!」の見出しを発見したぼくが、その日以来、あらゆるマスメディアのデータベースにアクセスしなくなったことは言うまでもない。

「おっとーばっかりズルーい。ツキネもおんもでたいよぉ」

「わがまま言ったらいけません」と一喝する。「だめったら、だめなの!」

 ぶぅー。

 月音の下膨れがしょんぼりほっぺになる前にぼくは、「それよりも月音」と姑息に、

「ほーら、ヒコーキだぞう」

 ぶーらんぶーらんと両手で大きく揺すって、わがままな我が娘の気を反らせる。

 きゃっきゃ、とかんたんにはしゃいでくれる月音を見て、ぞんがいにぼくも娘の扱いに手慣れたものじゃないか、と感慨深くなり、なぜかふと、お手玉をしているピエロの姿が脳裡に浮かんだ。胸からせり上がるもやもやとした感情に中てられ、ピエロは足を払われたみたいに宙返りをし、みすぼらしい格好の案山子に姿を変えた。主柱をなくしてしまったのだろうか、ぐらぐらと不安定な案山子はそれでも片足一本でかろうじてバランスを保っている。今にも倒れそうだけれど、倒れない。なぜか。案山子の姿はそこで、左右で大きさのちがう歪つなヤジロベイへと容姿を移ろわせた。

 明らかに片方のうでが重いはずのヤジロベイはそれでも、グラグラと大きく揺れて、けっして倒れたりしない。なかなかしぶといじゃないか。しぶといのは、倒れないヤジロベイ本体なのか、それとも、これだけ大きく揺さぶられても投げ出されずにくっつきつづけているちいさな重りか。あるいは、ちいさな重りが身体いっぱいで暴れ回るからこそ、ヤジロベイは倒れずにいられるのかもしれない。

 なんだか解らないうちにぼくは眠っていた。夢だったか、と安堵したのも束の間、家に充満しているセピア色の希薄さに気づき、夢じゃないのか、と肩を落とす。部屋はまっくらで、暖房もついていない。

 全身に悪寒が掛け巡った。けれど凍えるには至らない。

 ぼくの胸元には、ヤマネみたに丸まってすやすやと寝息を立てている月音がいた。視界が濁って感じられるのは、すでに夜だからだろうか。ぬくぬくの娘を抱きしめる。夢に逃げるわけではないけれど、このままもう一眠りすることにした。

 朝になれば、やっぱり夢だったじゃないか、と胸をなでおろすぼくは、なにも知らないヨウコを理不尽に怒鳴り散らし、どつきかえされる。それを見て、月音がケタケタと笑っている。ぼくはやっぱりピエロで、案山子で、ヤジロベイ。そんな夢を見た気がしたけれど、目を覚ましたぼくはもう、セピア色の家のなかを見ても動じずに、ただ胸に抱いた娘へ向けて、「おはよう」とつぶやいた。

  (4)

 ヨウコと初めて出会ってからちょうど一年後、言い換えれば月音がやってきてから半年余りが経ったころに、ぼくは妻を失った。

 見失ったと言えばそれにちかく、見捨てられたと言えば抵抗がある。見限られたと言えば端的で、納得せざるを得ない説得力がそこにはあった。

 けれども、ヨウコがぼくを見限り家を出ていったとして、果たして月音を置いて出ていくだろうか。なんど考えてみてもぼくのふがいなさ以外に理由があったのではないか、と思わずにはいられなかった。

 ヨウコがいなくなってからというもの、ぼくは失踪した妻を追う以前に、忙殺に追われていた。落ち込んでいる暇さえなかった。

 責めるわけではないけれど、月音の存在がぼくに、悲しむ時間も、戸惑う猶予も与えてくれなかった。

「おっとー。かっかはどこぉ?」

 ことあるごとに訊いてくる月音はたいてい、クレヨン片手にお絵かきをしている。

「えっとぅ。なんか、旅行に行ってくるって言ってたぞ。自分ばっかりずるいよな! あはは」

「ずるーいねぇ。かっかは、もう。ずっるーいねえ」

 口ずさむように言うのは母親ゆずりだ。

「帰ってきたらこっぴどく怒ってやろうな」

「やろうな」頷いてから月音は付け足すように、「でも、かっかー……おこるとこわいからなあ」

 大人びた口調でぼやくのだ。

 一日一回は尋ねてくる娘からの迂遠な要望「かっかーに逢いたいなぁ」を、ぼくはこうして勢いで乗りきっている。

 きちんとヨウコがいなくなった事実を説明してあげればいい、と考えなくもなかったけれど、そもそもぼく自身、なぜヨウコがいなくなってしまったのかが解らないし、ヨウコが人間ではない以上、失踪届を出すこともできない。だいいちぼくは実のところヨウコが何者かすら知らないままなのだ。説明したくともできないのが正直なところだ。よって月音にはまだ、母の失踪を気づかせるわけにはいかない。そういうことにしておく。

 本音を言えば、面倒くさかっただけだ。じぶんのことだけで精一杯なのに、月音にまで配慮を回すなんて余裕がぼくにはなかった。月音はただバカみたいに笑っていればいいんだ。アホ面さげて戸惑うのはぼくだけでいい。

 とはいえ、自慢ではないがぼくの娘は、わがままだ。

 ちょっと目を離せば近所の猫とケンカをし、ちょっと躾を怠ればテトテトとひとりで冒険という名の遠出をしてしまう。パンツも履かずに、屋根を伝って、線路はつづくよどこまでも。

 ヨウコがいたときは留守のあいだの世話を任せていられた。ぼくも安心だった。しかし、ヨウコなきいま、家を離れているあいだは気が気ではない。片時だって月音の様子を考えないときはない。

 恋する乙女みたいな表現をしているけれど、実際は、「内緒でライオンを飼っている。なんと野放し。しかも場所はボロアパート!」くらいに不安で胸がいっぱいだ。

 これまでヨウコがしてくれていた月音のご飯から、教育から、子守歌までのすべてを熟さなければならなくなったぼくにとって、自由時間などあってなきがごとくだ。

 月音の世話のほかにぼくは、大学の講義にも出席し、そのうえで単位を落とさないで済む欠席数を計算し、貴重なキャンパスライフを犠牲にしてなんとか捻出した時間で、月音の養育費分のお金を、あくせくとバイトをして稼がなければならなかった。

 そもそも学生の身分であるぼくはヨウコと再会するまでのあいだはずっと、生活費の大半を奨学金でまかなっていた。バイト代から学費を引けば、ほとんど手元に残らないくらいの貧乏具合だ。貯金なんてもってのほかだ。

 そんななかで、さらに月音の養育費を稼がなければならないとなると、これはちょっとぞっとしないものがある。

 けっかとしてぼくは、睡眠時間を極端に削り、バイト時間を増やし、なおかつ月音から目を離さずに済むようにと、困窮極まった家計簿のなかからなんとかやりくりしたおこづかいで監視用のメディア端末を購入し、月音に持たせた。これによりぼくは講義中も、バイト中も、移動中も、とかく月音と物理的に距離をあけているあいだ中ずっと、電波ごしに月音の監視を可能とした。

 月音が家から出ようものなら、すかさず電話を掛け、「今日の夕飯はササミの唐揚げ、甘醤油あえだぞ」と誘惑し、猫とケンカをしようものなら、「明日の夕飯は納豆ご飯だぞ(月音は納豆が苦手)」と脅迫し、メディア端末を手放そうものなら、「おっとーは今日から旅行です」と突き放す。

 我ながら、よく調教できている、と思う。

 だが父親失格だ。

 分かっているが、どうしようもない。

 しかたがないことなのだ、とぼくはじぶんに言い聞かし、そして考えること放棄している。

 ぼくの娘はわがままだ。

 とても無邪気で、すごく無垢で、なにより人間ではない。

 それだけがぼくの救いであり、だからこそぼくは冷酷でいられる。

 でも、夜。

 月音のほそく、しなやかな寝息を耳で掬いとるように聴いているじぶんに気づくと、ふいにこう自問せずにはいられなくなる。

 ぼくは娘を愛しているのだろうか、と。

      ***

 ともだち、恋人、同僚、親戚。両親を含めたあらゆる人間関係が枯渇しきっているぼくには、なぜだか娘だけがいる。娘しかいない、と言い換えることもできるけれども、あいにくとぼくにもなけなしの交友関係というものがある。

 ヨウコと再会するちょっと前、大学生活で孤立したぼくは第二の人脈を手に入れていた。

 幼なじみである。

 (5)

 ミーコが本日三個目のハンバーガーを頬張りながら、

「さいきん食欲がなくってさあ。もしかしたら妊娠したかもわからんね」

 深いため息を吐くものだからぼくはぎょっとしてしまう。が、すぐに、どの口が言うのだ、とどついてやりたい衝動に駆られた。

「なにが妊娠だ。相手はどこの魔法使いだ? 実体を伴わない架空の人物にしか興味のないおまえが、どうしたら妊娠なんかできんだよ」

 世の中には生身の人間よりも、触れ合うことのできない相手に貴重な愛情を惜しげもなく注ぐ人種というものが存在する。ぼくは彼らおよび彼女たちを「オタク」と呼んでいるが、そのオタクであるはずのミーコいわく、

「べつにオタクじゃないよ。あたしはたまたま好きになったヒトがこの世に存在しない子だったってだけの話でね」だそうだ。

 というか、そうだ。

「つーかミーコ、そもそもレズじゃん。相手がいようと無理じゃん」

「レズじゃないんだなあ、これが。好きになった相手がたまたま女の子だったってだけの話でね」

「いいよもうそれは。どっちにしろ、相手が女じゃ妊娠はムリ」

「んなことあるめえよ。たとばそう――想像妊娠ってあるじゃん? あたしのこの底なしの想像力をもってすれば、次元も性別も越えて、この身にぷっくりぱんぱんキューティプリティな愛の結晶を宿せるんさあ」

 音程をつけて言ったミーコにぼくは、さいですか、とそっけない相槌を打つ。相手をするだけ無駄だと判断し、中断させていたレポートの写しに取りかかる。

「あらら。にべもないこって。せっかくミーコさまが、レポートを見せてあげてるってのに、その態度はないんじゃないの。腐ってもいちおう女なんですよあたしだって。食欲がなくなって、妊娠したかもっていったら、これってそれなりに一大事じゃん? 心配してくれたっていいわけじゃん? むしろするべきじゃん? それなのになに? あたしよりもレポートが大事ですってか。ふざけんなよこのすっとこどっこい」

「黙れ」

「そうする」

 聞き分けのよさには定評のある女だ。

 ミーコは、ぼくがむかし住んでいた町の神社の娘だった。家が近かったこともあり、ぼくはしょっちゅう神社の境内で遊んでいた。まだ幼かったことや、ミーコの男勝りな性格も相まって、ぼくたちはすぐに打ち解け、いっしょに冒険をする仲となった。冒険といってもいま思い返してみればぼくらのしていたことは、どの過ぎたイタズラでしかなく、蛇のかば焼きをつくって食べてみたり、それが原因でお腹を壊してみたり、野良猫という野良猫をとっ捕まえて手当たり次第に眉毛を書いてやったりと、やりたいほうだいだった。そのことでよくミーコの親父さんであるところの神主さんに叱られていた。

 あの町から引っ越したぼくが、ミーコと別離したのは今からもう十余年も前のことになる。そして進学を期に、ふたたびこの町へと舞い戻って来たぼくが、大学の同期としてすっかり大人びたミーコと再会したのは、それほどふしぎなことではないように思う。

「でも、びっくりしたよ。ミーコってばいきなり跳び蹴りだもんな」

 登校初日から孤立してしまったぼくのもとへ、「タっちゃーん!」と叫びながら駆け寄ってきた女の子がいた。言を俟つことなくそれがミーコだったわけだが、猛進してきた彼女はそのまま足を止めることなく、何事かと戸惑っているぼくへきれいなダイビングキックを放ったのだった。

「なにすんだ!」ここでキレたぼくを誰が責められるだろうか。否、誰も責められやしない。

「タっちゃんこそ、どの面下げて帰ってきやがった! 針千本ここで呑め! 呑んだうえであたしに万回殺されろ!」理不尽に逆ギレされたぼくを誰が慰めてくれるだろうか。否、誰も慰めてはくれなかった。

 どころか、半殺しの目に遭いそうにいなっているぼくを助けようとしてくれる者は皆無だったし、ぼくを半殺しにしようとしているミーコを止めに入る者もいなかった。

 あのときのことを思いだしてぼくは、「ホントに殺されるかと思ったよ」と言った。作成し終えたレポートを鞄にしまう。

「だってホントに殺そうと思ってたもん」しれっと言ってミーコは、「もう行くの? バイト入れすぎじゃない?」

 ぼくの今後を心配してくれる。三つ子の魂百まで、お節介焼きな性格は相も変わらずであるようだ。

「したくてしてるわけじゃないし、こればっかりはどうにもならん」お金がなければ生活できない以上、ぼくは稼がなくてはならないのだ。「ミーコが養ってくれるってんなら辞めてもいんだけどね」とジョークを口にする。

「えー、……うーん。今はまだムリっぽいよ。もうすこし待ってちょ」

 ミーコの真剣そうな返事に思わず噴きだす。演技力を磨いたじゃないか、と素直に感心する。

「そっかあ。ざんねん」ぼくも負けじとしょげてみせる。ミーコは下唇を噛んだ。ぼくと同じく、湧いた陽気を堪えているのだろう。笑いだしてしまわないうちにぼくは、「じゃあ、また」と伝票を持って、席を離れる。どさくさに紛れて支払いをミーコに任せてしまおうかと思ったけれど、今回ばかりはおごってやることにした。ミーコを残して、店を後にする。

      ***

 実のところミーコは有名人だ。ミーコをミーコだと知らなかったあいだにぼくはミーコの姿を大学の構内で見かけていた。

 端的にミーコはモテる。ものすごくモテる。

 どのくらいモテるかというと、構内には現役AV女優がいるのだけれど同じくらいミーコは注目を集めていた。だから当然のごとくミーコの生活圏に急に現れたぼくなどは、格好の噂の的となった。

「あいつだれだよ」「ミーコさんの親せきって話だぜ」「ちがうってパシリだよパシリ」「ストーカーって聞いたけど」「武術の達人で護衛してるって話じゃなかった?」

 よくもまあ口から口へとあることないこと出てくるものだとぼくなどは思うのだけれど、当のミーコが平然としているものだからぼくとしても対処に困る。耳に入っていないはずはないんだけどなぁ。

 バイトを終え、オンボロアパートに戻ると

「おっとー。ねえねえ、これ、なぁに?」

 月音が胸にメディア端末を抱いていた。アルバム用の端末だと判る。背丈が伸びたとはいえ、まだぼくの太ももくらいにしかない矮躯の月音だ。メディア端末はさながらシャリに乗る寿司ネタだ。

「そりゃパパのむかしの写真が詰まってる宝箱だぞ」

 なぜおとなというのは幼子相手に大袈裟な物言いをするのだろうと思いながら、その口でやはり、「見たけりゃパンツを穿いてきなさい」

 でないとおしりを齧っちゃうわよ、と言いつけている。

「うー。かじられるのヤダぁ」

 言いながらもパンツを穿いてくる気はないようで、畳に尻をつけ、尻尾を隠すようにして、「どうやったら見れる」とおもむろに画面をパチパチつつきはじめる。

「コラコラ。乱暴にしたらダメだぞ」

 荷物を置き、冷蔵庫を開け、今晩はなにがいいだろうか、と考える。よし豆腐のみそしるとピーマンの肉詰めだ。

「これはこうするんだ」ひとまずアルバムを見せていれば料理しているあいだもおとなしくしてくれるだろうという打算から、端末を起動させてやる。「こう画面をゆびでスースーってなぞれば次々流れてくれるから」

 画像の見方を教えてやる。それから付け足すように、

「パパはべつにおまえの尻尾が気に食わないわけじゃないからな」

 何気ない口調で言った。頭を撫でて、台所に立つ。

 いつもはピーマンに肉を詰める作業は月音の役目だったがきょうはじぶんでやる。月音に任せては時間ばかりかかって食べるのが遅くなる。が、親子の触れ合いの時間とも呼べる作業なので、なるべくいっしょに作りたいとは思っている。が、こういう日もあっていいだろう。肉を詰めたピーマンに爪楊枝を刺して固定し、油の敷いたフライパンで炒めていく。こんがり焼き目がついたら皿によそって完成だ。醤油をかけて食うと、パリッとした触感のあとで香ばしい肉汁が口のなかに広がる。隠し味として細かく切ったチーズを混ぜてあるので、とろけた風味も合わさって格別だ。

 端末に齧りついたままの月音は、いくら言っても画面から目を離そうとせず、そのままの格好でパンツを穿かせ、ひざのうえに載せ、端末を絵本のように構える月音の口もとに、あーん、と言ってご飯を運ぶ。

 こうしているとまるでじぶんが自動飯食わせ機になったような気になってくる。じっさいのところ児童飯食わせ機と言っても間違いではないので、苦笑せざるを得ない。

 こんな生活を見られでもしたら妻たるヨウコからは、「躾もできないのかい」と蔑まれ、幼馴染のミーコからは、

「え、ちょっとなにそのコ」

 そうそうこんな感じで驚かれるに違いない。

「って、ええぇぇええ!?」

 声のしたほうを向くと玄関の戸が開いており、むろん四畳半のオンボロアパートであるからして居間と玄関は目と鼻の先にあり、必然、扉の向こうにいる人物は手の届きそうなほどの距離に立っているわけだけれども、なにゆえそこにミーコが立っている。

「こ、こんばんは……」まずはさておき挨拶をする。

「あ、夜分遅くすいません」ミーコが折り目正しく腰を折るが、「いやいやそうじゃないっしょ」とすかさず面をあげ、「ちょっとなんなのそのコ。タっちゃんのなに? 姪っ子? ていうかタっちゃん兄弟とかいたっけ」

 靴も脱がずに、四つん這いの格好で、それこそ這うように上り込んでくる。

「待て待て。なに勝手に入ってきてんだよ。つうかなんでウチの場所知ってんだ」

「学生課に訊いた」

「教えんなよ!」なぜだか無性に学生課の事務員をなじりたくなった。「で、なんで来たわけ」

「そりゃ心配だからでしょうよ」

 間髪容れずに応じるミーコの言い方はどこか演技がかって聞こえた。

「で、本当の理由は?」

「えへ?」

「どうせぼくがバイトと偽ってなにか得体のしれないことやってるんじゃないかとか勘ぐったんじゃないのかよ」

「そう、それ!」

「まったく。きょうもちゃんとバイトして帰ってきたところだよ。で、今こうして夕食を」

「うんうん。で、その子はタっちゃんのなに? ひょっとしてベビーシッターのバイト? というかなんでその子コスプレしてんの」

 かわいいという言葉を口にしてはいないが、ミーコの目は月音を捉えてから輝きが増している。キラキラと零れ落ちそうな星が浮かんでみえるようだ。

「まあバイトではないけど、頼まれてるっていうか」なぜ誤魔化すのかとよくよく吟味しないうちからデマカセが口をつく。

「ふうん。でもどことなくだけどタっちゃんの子供のころに似てるよね」

「まあな」ミーコの勘の鋭さにどぎまぎしながら、「親戚の子だし」と誤魔化す。

「名前は?」

「ツキネ」

「ふうん」

 と、ここで月音がこちらの襟をひっぱり、耳を引き寄せるようにして、こしょこしょ声で、しかしミーコには筒抜けであろう発声で、「おっとー。このひとだれさん?」と言った。

「おっとー?」

 ミーコが訝しげな声をあげたがぼくは聞こえないふりをし、

「こいつはパパの幼馴染だ」とこれはミーコに聞こえないように、内緒話のお手本をみせるつもりで言った。

「ふうん」と月音はなぜか真顔のまま、或いはきょとんとしているだけかもしれないが、ミーコを見た。

「こ、こんばんは」ミーコはなぜかうろたえた。「ごめんね急に押しかけちゃって。ご飯の邪魔しちゃったよね。つづきをどうぞ。そうだ、パパと食べようと思ってケーキ買って来たんだよ。ご飯のあとで食べようねえ」

 物で幼児を釣るなんてひどいやつだ。思うが、効果はバツグンだ。月音は真上を仰ぐようにこちらを見上げ、「おっとー」となぜか目を輝かせて言った。

「なんだやっぱりタっちゃんの子供じゃんか」ミーコが膨れた。

 カマをかけられたことに憤りを抱く間もなくぼくは思った。

 こうなったら仕方がない。猫の手も借りたいところだ。ミーコにもとことん付き合ってもらおう。

 大学に入学して以降、ぼくは汚いオトナの道をまっしぐらに突き進んでいる。

 (6)

 ミーコがうちにやってきて月音の存在を知られてしまったこの日、ぼくはミーコにじぶんの秘密を、言うなれば修学旅行とは名ばかりの一人旅で、人とは思えぬ女性とのあいだに娘を儲けてしまった顛末を話して聞かせた。

「バッカじゃないの」ミーコは真実憤怒の念を籠めているとしか思えない発声でそう言った。せっかく寝かしつけた月音が起きてしまうから怒鳴らないでくれ、と宥めると、その言葉こそが彼女の機嫌を損ねるようで、どぎつい目つきで射抜かれた。

 月音の耳や尻尾など、本来人間には備わっていない身体的特徴を目の当たりにしたからか、ぼくの話の細部にケチをつけるような真似をミーコはしなかった。

「で、肝心のビッチはどこにいんのさ」

「ビッチとか言うなよ」

 異議を唱えたら睨まれた。だからでもないけれどぼくは、「出ていった」とぶっきらぼうに応じた。

「は?」

「今はもうここにいない。というかここを出ていってかれこれひと月半ってところだ」

「捜索願は? 警察に相談とか」

「できると思うか?」

 はっとした様子でミーコは口ごもった。

「人間じゃないんだよ。本当になんでって思うけど、現にこうして月音がいるし、実際のところヨウコもふつうの人間じゃなかった」

 というか人間ではなかった。

「ならどうすんのさ」

「どうするって」

「このままツキネちゃん、ひとりで育ててく気?」

「ほかにどうしろってんだよ」

「探そうとは思わないの?」

「ヨウコを? そりゃ探したいけど」

 手掛かりがない。

 いや、夫に愛想を尽かし出ていった妻。構図としてはありふれている。往々にしてこうした場合、妻は実家に帰っているものだ。

「そこにいるのかは分からないけど」ミーコはこちらの意図を汲んだように、「タっちゃんがその女と出会った山に行ってみようよ」と言った。「なんか手がかりくらいはあるんじゃない。分かんないけど」

 一理ある。しかし大学の講義をさぼるわけにはいかないし、バイトだってつづけなければ来月の生活も厳しくなる。そうした旨をなるべく愚痴っぽくならないようにぼくは伝えた。

「なんのためのミーコさまよ。こういうときこそ頼れっての」

「え?」

「任しときな。あたしの顔の広さをお舐めでないよ」

 控えめなお胸をぽんと叩くようにしミーコは、それこそ強調するように胸を張った。

「ミーコ。ありがとう」茶化そうと思ったのに、ぼくの口からはそうした言葉しか出てこなかった。

 おっとー、かっかーどこぉ。

 寝ぼけ眼をコシコしこすりながら月音が起きだしてくる。枕を脇に抱くようにし、泣きべそをかいている。

 ミーコはぼくを見、そしてぼくもミーコを見た。

「しょうがないなぁ。ほらほらオコチャマは寝るのが仕事だよ」

 言ってミーコは月音を抱きかかえるようにすると、イイコイイコと背中をさするようにし、いっしょに布団のなかに吸い込まれていった。やがてしずかな寝息が、こだまのように追いかけっこをはじめる。

 ぼくはそんな二人の寝息を耳にしながら、なぜか涙ぐむのを堪えられないのだった。

   ***

 ミーコの手際は軽やかだった。大学構内での自身の地位を利用し、言い換えれば非公式ミーコファンクラブの会員たちに接触し、神が信者に命ずるように、自身のストーカーとも違わない連中相手にものの見事に立ち回ってみせた。

「これまではなんかこわかったから見て見ぬふりしてきたんだけど、なんか案外いい奴らだったわ」

 あっけらかんと言ってのけるミーコは両手に商品券の束やら日持ちのいい食材やらを抱え、うちにやってきた。「出席確認ある授業はあいつらが代席しといてくれるらしいから問題ないし、レポートもぜんぶやっといてくれるってさ」

 これでしばらく休んでも単位を落とすようなことにはならないっしょ、と言ってなぜかぼくの衣服やらなにやらを旅行鞄に詰めだしている。

「いやありがたいんだけれどもそんな急に」

「さっさとあんたの奥さんとやらを見つけて話をつけようじゃないの」

「話をつけるって、いやホントちょっと待ってよ」

「あすの朝いちばんで出るよ。もうバスの切符だって買っちゃったんだから。それにタっちゃんだってこのままでいいの」

「よくはないけれども、でもさあ」

「そもそもタっちゃんさあ。ホントにその女のこと好きなわけ」

「へ?」突然の話題に面食らう。

「聞けばべつになんだろう、とくべつそういうことしたわけじゃないんでしょ」旅行鞄に入りきらなかったのか、なぜかミーコはカバンの中からぼくの衣服を取りだして、もういちど丁寧に畳みはじめている。「記憶がないってことは、むしろたぶんそういうことだし、そういうことをしてないってことなわけだとあたしなんかは思うわけだ」

「でも月音がいるってことはそういうことなんじゃ」

「それだって向こうさんがそう言ってるだけで、押しかけて来ただけじゃん? 言いがかりかもしんないじゃん」

「よくわからないのだけれども、ミーコはこう言いたいのかな。月音はぼくの娘ではないって」

「そういう可能性も考えておくべきじゃないのかってことが言いたいだけ」

 ミーコは乱暴に最後の荷物を詰め込むと、カバンを閉め、体重を載せるようにしてぎゅうぎゅうとやった。

「なにはともあれ、いなくなった女に聞くのがてっとりばやいでしょ。ひょっとしたら月音ちゃんの本当のお父さんが見つかるかもしれないし」

「でも……」

「とにかく明日は朝早いんだからきょうはもう寝て。あたしはいったん帰るけど、朝に迎えに来るからそれまでに月音ちゃんの旅の用意もしとくこと。じゃあね」

 バタバタと慌ただしくミーコは去っていった。

 月音はすでに寝ており、天使のような寝顔をみせている。じっとしていればこんなにかわいいのに、と破天荒な娘の溌剌さを思った。

 日中、家を留守にしているあいだ、月音はひとりぼっちでこの狭い部屋に閉じ込められている。閉じ込めているのはほかでもないこのぼくであり、可哀そうだと思わないわけではないけれども、月音に一人で外出させるわけにもいかず、断腸の思いで留守番を言いつけている。

 このアパートで暮らしはじめてからずっと月音はそうした窮屈な生活を強いられており、だからこそ不満こそあれ、この生活が窮屈であることを知らない。ほんとうの自由を月音は知らないままでここまで育ってしまった。

 ヨウコがぼくなんかのところにやってこず、ずっと山で暮らしていたならば、或いはこんな都会のど真ん中でコソコソとそれこそ岩の下で生きる蟲みたいに隠れて生きる必要なんてなかったのかもしれない。

 月音のしあわせを考えれば、人間であるぼくなんかとこのままずっといっしょにいるよりかは、いっそのこと山に置き去りにして、獣として生かすほうが月音のためになるのではないか、となんとなしに思えてくる。

 月音ならば山にさえ入ってしまえば一人でも生きていけるだろう。そう思えるくらいの生命力がこのコからは感じられる。

 同時に、月音は、人間社会に身を置いているかぎり、とうてい一人では生きてなどいけないし、他者へ助けを求めることも容易ではなくなる。

 同じ孤独ならばいっそ、孤立とは無縁の森閑な自然のなかで生きるほうが月音のためになるのではないか。

 結論を急ぐ必要はない。にも拘らずぼくは、そろそろ月音の将来について考えておくべきなのではないかと考えている。

 月音が物心つく前に。

 人間社会にかんぜんに馴染んでしまう前に。

 月音を手離すべきではないのかとぼくは、なぜか後ろめたく、けれど物寂しく思うのだ。

 (7)

 ヨウコと出会った場所の名前、あの村、あの駅がなんという名であったのか、しょうじきなところぼくはすでに曖昧糊塗としか憶えていない。地図を開いてみるけれど、どこもそれっぽく見え、ネットで周辺地域の写真を眺めてみても、記憶と一致する場所は見つからない。

 ただし本来下車するはずの駅、修学旅行の行先はしっかり憶えており、だからミーコの呆れとも軽蔑ともつかない視線を避けるように、ひとまずぼくはあのとき乗ったのと同じ電車に乗り、車窓から見える風景を頼りにあの駅に辿り着くのを待った。

 月音は徹頭徹尾はしゃぎっぱなしで、だからこそいつもよりも早めに限界がきたらしく、珍しくぐずるようにし、やがてぼくのひざのうえで丸まるようにし眠りに落ちた。

 電車に揺られること数時間、陽が傾きはじめたころ、目的の駅に到着した。

「本当にここなの?」

「たぶん」

「だって線路、一つしかないんだけど」

「下りの電車しかないみたいだね」

「そんなことってあり得る?」

 ミーコは不安そうに無人駅のなかから周辺の山々を眺めている。

「だいたいこんなところに村なんかあったっけ」改札口を抜け、獣道然とした一本道に降りたつと、ミーコはメディア端末をとりだした。

「無駄だよ。圏外だ」

「うわ。ホントだし」

 背に負ぶった月音はまだ眠っている。子どもに特有のぬくもりが背中にじんわりと広がる。

「なんか不気味なとこだね」

「言われてみればそうかも」

「なんで? 前に来たんでしょここに」

「あのときはそんなこと感じてる余裕がなかったんだ」

「へんなの」

 道なりに進むと、見覚えのある狐の像がぽつぽつと見えるようになってくる。

「こわいんだけど」柄にもなくミーコがそんなことを言う。

「ただの置物だよ」

「そうだけども」

「どうする? このまま行くと村に着いちゃうけど」

 ヨウコと出会ったのは駅なのだから行っても意味がないように思えた。だからそう告げた。「たしかどこかに古ぼけた神社みたいなのがあって、そこにヨウコは住んでたみたいなんだけど」

 あいにくとそこへ至る道のりはまったくといっていいほど覚束ない。

「憶えてない、記憶がない。タっちゃんそんなのばっかじゃん」

「だってそうなんだから仕方ないだろ」

「これじゃああんたに子供の世話なすりつけたくもなるよ」

「どういう意味?」

「あ、村人発見!」

 ミーコのゆび差したさきに目を転じると、そこには頭からすっぽりと頭巾を被ったばあさんが狐の像に団子をお供えしているところだった。狐の像はべつだん祀られているわけでもなさそうで野ざらしのままだ。

「あのう、すみません」ミーコが余所行きの声で話しかけた。

「あんみゃ驚いた。どっから来なすった。この辺の娘ごじゃねえべぇ」

「旅行で来たんですけど、たしかこの辺りに神社ってありましたよね」

 なるほどこうやってカマをかけるのか、とミーコの話術に感心しながらことの成り行きを見守る。

「おんや。なして知ってるだ。あすこはずいぶんめぇに立ち入り禁止になっただべ。道だって塞がれてるはずだぁ」

 おばあさんは頭巾をとり、それまで隠れていた鋭い眼光をミーコではなくなぜかこちらへ向けた。

「ぬしや。いったいなにを連れてきおったね」

「はい?」

「おめさんが背負ってるのはいってぇなんだとわだすは聞いとるね」

「あー……姪っ子です」ついつい嘘が口をつく。

「ぬしら、ホンに人間か」

「どういう意味でしょう」目を逸らしてしまいそうになりながら、なんとか言いつくろう。

「まあええ」根負けしたようにばあさんは目を逸らし、「ぬしら泊まるところはあんのけ。ねぇならうちに泊めてやる」

「いえまだ泊まると決めたわけでは」ミーコが言った。日帰りのつもりがある旨を言ったつもりなのだろうが、あの駅には一日一本しか電車は来ない。あすの朝までは留まらねばならないことはここに来た時点で明白なのだ。

「お世話になってもよろしいならぜひ」ぼくは頭を下げるようにし、どうして、と非難の目をよこしてくるミーコに、いいから調子を合わせろよ、と視線で訴えた。

「ならこっちさ付いてこう」ばあさんは、腰を丸めながらも年寄りとは思えない軽快な足取りで、濃さを増していく夕闇の奥へと歩を進めていく。ぼくらはあとに従った。

   ***

「ほおん。んでわざわざ田舎の暮らしがどんなかって勉強しに来なすったとそういうわけかいね」

「そうなんです」

 ばあさんから振るまわれた夜食を胃に収めながら、ミーコは村を訪れた理由を適当にでっちあげて語った。ぼくは味噌汁をすすり、まだ目覚めない月音の頭を帽子越しに撫でつける。

「暮らしだけでなく、民俗学的な伝統にも興味がありまして。たとえばこの辺りに語り継がれる民話など、お聞かせ願えたらなと」

 ミーコは巧みに村のことを聞きだそうとする。ついついぼくもミーコが本気でそう思っているのではないかと信じてしまいそうになる。

「ええよぉ」ばあさんは孫娘に向けるような笑みを浮かべ、しかし目だけは石でもはまっているかのように冷たい光沢を放ったままで、「おめさんたちも見たろぅ」と話しだす。「この村にゃ至る箇所、目につく場所に稲荷さまの像が捨て置かれておってな。むかしはちゃぁんと一か所に、あれらが祀ってあってなぁ。それこそずらりと並ぶひな人形みてぇにそりゃあ見事な様だったよぉ」

「どうして今はあんなぞんざいに?」

「転がっておるかって? ありゃわだすだちの仕業でねぇ。このあたりにゃいっとき、よその山からやってきた流れモンどもが住み着いてなぁ。やから、なぜか稲荷さまを気に食わんと、稲荷さまを崇める村を片っ端から荒しおった。この村も例外でね。けども、ほかの村のようにはならんようにと、わだすらの親は考えたんだべな。稲荷さんを祀る神社への道を封じ、そこに並んだ無数の像を、村のあちらこちらに投げ捨てで、わざとぞんざいな扱いをしてみせで、そうやっで荒くれ者どもの目を欺くことにしたんだべ」

「なるほど。それで今でも像が残っているわけですね」

 ミーコが唸り、ぼくもまた納得した。だからおばあさんは今でもむかしの風習の名残で、ぞんざいに捨て置かれている狐の像に、お供えものをしていたのだ。この村では密かに稲荷信仰が受け継がれている。

「あれ。でもそれってもうかなりむかしの話なんですよね」ミーコが何かに気づいたように、だったら、と言った。「もういちどちゃんと祀ってあげればよくないですか。稲荷さまを」

 それもそうだな、と思う。おばあさんを見遣ると、なぜかむつかしそうな顔をし、それはどこか悲しそうにも映ったが、饒舌だった口を結び、こんどはどれだけ待っても応答がなかった。

「あの、どうされましたか」

 痺れを切らし、投げかけると、

「むかしの話ではあっけども、過去の話ではねぇ」と言いおばあさんは、「きょうはもう寝ろ。風呂は沸かしといたから、かってに入ってけろ」と食器を下げはじめた。

 気分を害してしまったのだろうか。ぼくらは顔を見合わせるようにし、気まずくなった空気を持て余す。

 (8)

「なんかわるいことしちゃったなぁ」

 風呂からあがると、さきに入浴を済ませたミーコがすでに布団のなかに潜っており、となりに寝かせた月音のおでこを撫でていた。

「あした、ちゃんとお礼を言っておこう。おばあさんもそんなに怒ってはいなかったと思うし」

「うん。すごくいい人だった」ミーコは目を細めるようにして笑い、「てかよく寝るなぁこのコ」と月音のほっぺたをつねるようにした。

「やめてくれ」

「なんかいじめたくなっちゃうよね」

「解るけど、やめろ」

「ちぇ。しょうがねえなぁ」わざとらしく乱暴に言い、ミーコは寝返りを打って、こちらを向いた。「ねえどうする?」

「ん? なにが?」

「布団、二つしか敷いてもらえなかったけど」

「そうだね」

「一つはあたしが使ってて、もう一つは月音ちゃんが占領しちゃってる」

「うん」

「いっしょに寝る?」

「バカ言え」

 たんじゅんに月音の布団に潜り込めばいいだけの話だ。からかうのはよせ、と言うと、からかってなんかないんだなぁこれが、と言ってミーコは顔まで毛布をたくしあげるようにした。そのまま丸まるようにして寝息を立てはじめる。

 ぼくはミーコをまたぐように移動し、月音が真ん中になるように潜り込んだ。布団はすこしかび臭く、なぜか懐かしく思った。

   ***

 夢を見た。ちいさいころの夢だと判る。ぼくがまだミーコと出会う前の記憶で、そこには父親たるあの男の若かりしきころの姿が、光の向こう側にぼんやりと見えている。歳をとるごとに濃くしていった目のしたの隈はなく、或いはただ逆光となって見えないだけかもしれないけれども、ぼくは誰かに連れられてあの男のもとへ近寄っていく。ぼくはその誰かと手を繋いでおり、その手はあたたかく、ぼくはやさしい匂いに包まれている。匂いのもとを辿るように見上げると、やわらかい日差しのような笑みがぼくの頭上にふりそそぐ。

 (9)

 目覚めると、月音のおしりがぼくの顔のうえに乗っていた。パンツの脱げ掛けた尻からは、ふさふさの尻尾が飛び出ており、そういう機械であるかのようにぼくの頬を不規則に、しかし一定のリズムで叩いている。

「寝相がわるいにもほどがあるぞ」

 顔にかかった月音を引きはがしにかかるがなぜか片腕が動かなく、仕方なくもう一方の手でハンカチを摘まみあげるように月音の身体を剥ぎ取ると、動かないほうの腕にはなぜかミーコが丸まった猫のように絡みついており、動かそうとするとよりいっそうつよくしがみつく。

「……ミーコさん?」

「んみゃんみゃ。これはあたしんだい。だれにも渡しは……むにゃむにゃ」

「なんて寝言だよ」

 笑いを堪えつつ、いったいどんな料理の夢だろうと、食い意地の張ったミーコの性格を思い、やはり噴きださずにはいられなかった。

「起きなすったかえ」

 心臓が跳ねる。見遣ると障子に隙間が空いており、あいだからおばあさんの石のような冷たい目が覗いている。

「え、えぇ」かろうじて返事をする。

「朝食だで、顔洗って早くこ」

 一方的に告げられ、障子が閉じる。よこを見遣ると、寒かったのか月音は布団に潜り直しており、おかげで尻尾や耳を見られずに済んだと、ほっと胸を撫でおろす。

 時計を見るとまだ午前六時で、駅に電車が来るまでは十時間ちかくある。時間が訪れるまでしばらく村の周囲を散策できそうだ。

 おばあさんはぼくらの朝食を準備すると、畑仕事があるからと家を出て行った。昼までは戻ってこないということだったので、ぼくとミーコは恭しく礼を言い、こんどお礼になにか送りますと住所を尋ねると、驚いたことにここには郵便局がなく、だから配達もできないのだと迂遠に断られた。

 朝食を済ませ、おばあさんの家をあとにする段になると辺りはすっかり明るくなっており、追いかけっこをする鳥たちの声がヤマビコのように反射して響いて聞こえた。

「村のひといないね」

「畑はもっと山のほうにあるんじゃないかな」

 まずは駅のほうに戻ることにした。月音はまだ眠っており、起きたらおむすびにした朝食の残りを食べさせようと思った。

「疲れてるのかなぁ」

「月音?」

「うん。だって昨日からずっと眠りっぱなしじゃない?」

「いつも部屋に引きこもってるから」

 だから久々の遠出に疲れているのだ、と暗に伝える。本当は閉じ込めておきながらそういった言い方しかできないじぶんを卑しく思う。

 ミーコは、ふうん、と何か考えを巡らせている様子で、けれど何も言わずにぼくの一歩うしろを歩くようにし、片手間に月音のほっぺたをつんつんする。

「子ども好きなの?」

 訊かずにおいてもよかったけれど、なんとなく言いたくなった。

「え? あたし?」

「オタクでレズでロリコンとなるとぼくとしてもちょっと対応に困るものがある」

「いやいやいや」

「冗談はさておき」鼻で笑ってみせてから、「月音のほうもミーコに懐いてるみたいだし」と要件を言う。「できたらでいいんだけど、これからも仲良くしてくれないか。言ってもコイツ、友達なんて近所の野良猫くらいしかいないから、遊んでくれるなら誰でもいいんだろうけど」

「そりゃまあ。月音ちゃんはかわいいから仲良くはしたいよあたしだって」

 でもねぇ、とミーコは釈然としない言い方でお茶を濁した。ひょっとするとミーコもまたぼくと同じことを考えているのかもしれない。人間社会で暮らすよりも、いっそのこと月音は山で、自然に囲まれて生きていったほうがいいのかもしれないと。

 答えを聞くのが億劫で、ぼくはそれ以上、追及しなかった。

 駅まで来るとひと気がいっさいなくなった。村のほうにも人影はなかったものの、まだらに並ぶ家屋のなかからはひと気と呼ぶべき気配が、そこはかとなく漂って感じられた。

「こっからどうすんの」

「さて。どうしよっか」

 駅のプラットホームに立ってみる。ベンチがある。腰掛け、星の浮かばない晴天を見上げながら、あの日の夜のことを思いだそうとする。

 あの夜、ぼくはここに寝ていて、ヨウコに叩き起こされた。かしましく捲し立てられたぼくは、寒さから気を失い、気づくとヨウコの住まう古ぼけた神社のなかにいた。なぜそこが神社かと判ったかと言えば、移動の途中途中で、断片的ながらも意識が覚醒していたからだ。ほとんど映像とは呼べないような抽象画然とした印象でしかないのだけれども、ぼくは多少の道のりを憶えている。

「なんとなくだけど、こっちだった気がする」

 ぼくは駅の端のほうに移動し、地面に下りた。線路を辿るようにして歩を進める。

「待ってよ。え、そっち?」

 奥には道と呼べる足場はなく、線路のうえを伝った。しばらく進むと山とも森ともつかない木のトンネルが現れた。電車に乗っていれば数分で抜けてしまうに違いない距離なのだろうけれども、ぼくにはなぜかこの空間が、延々と同じ場所を巡るために見える幻影のように思われてならなかった。或いは選ばれた人間しか抜けることのできない迷宮、迷路ではないのかと考えたりもしたけれど、線路のうえであることを思えば、このまま進めば遠からずつぎの駅に辿り着くのだと気楽に思えた。

「ねえ。ホントにこっちなの? というか電車来たらこわくない?」

「一日一本しか来ないって言ってたろ」

「そうだけどさあ」

「どうせ手がかりはないんだ。もしつぎの駅に着いたらさ、そこにはちゃんと食事処くらいあるだろうから、ちょっとなんか食べてこ。きっとお昼になる前には着くと思うし」

「適当なことばっかり言って」

 そこでミーコは、あ、となにかを思いついたように言い、カバンからメディア端末を取りだした。「くっそー。やっぱり圏外かぁ」

 地図を起動したかったのだろう。たかだか一駅離れただけでは圏外を脱しきれないようだ。

「リュックにしとけばよかったぁ。ガタガタ言ってうるさいのなんのって」

 手で引いて歩くタイプの旅行鞄は、線路を、強いては山道を歩くのには不向きだ。

「ぼくのと交換する?」ミーコと同じく手で引くタイプだけれど、これはリュックにも変形する。

「いいよ。そっちのは背負えるけどこっちより重そうだし」

「月音と交換するって意味だったんだけど」

「いやいや、それがいちばんきついっしょ」

 あーだこーだ、と言い合いながら、それでもミーコとしゃべっているとなぜだか心が上向きになる。

   ***

 いつからだろう。気づいたときには線路から外れていた。急に立ち止まったぼくに驚いた様子で、ミーコがちょとぉ、と抗議の声をあげた。ぼくらは傾斜を登っており、だから必然足元を見て歩くことになるわけだが、にも拘わらず、しばらくのあいだ、線路から外れ、山道を歩いていることに気がつかなかった。

「え、あれ?」

 ミーコも気づいた様子だ。振り返っているが、むろんそこには鬱蒼と茂る木々があるばかりで、線路はおろか、道らしきものは見当たらない。しかしまえに向きなおるとそこには土の露出した道と呼ぶべき筋が、木々の奥に伸びている。獣道と言われれば納得するし、猟師など、里の者だけが使う秘密の抜け道だと言われても腑に落ちる。

 それほどしっかりした足場なのだ。意図してつくられた山道ではないにしろ、すくなくとも頻繁にここを通るナニカシラの生き物がいることはたしかだ。

「引き返したほうがよくない?」

 ミーコの懸念は当然だ。けれどぼくはなぜかこのまま突き進みたい衝動に駆られた。

「もうすこしだけ行ってみよう」

 強引に歩を進めると、ミーコも黙ってあとに従った。

 (10)

 記憶にあるよりも小さいな。

 念願のそれを目にしたときに思ったのは、本当にあったのかという驚きでも、本当に見つけられたという達成感でもなく、仮にここに人が住まうとなると寝床として使うくらしかできないのではないか、という疑惑だった。

 中を見てますますその思いに拍車がかかる。

 雨風をしのぐには充分だが、ただそれだけの用途しかない。

 ぼくのオンボロアパートは四畳半だけれども、もうすこし広く感じるし、ここの生活感のなさといったら比べるまでもない。

「おばぁさんの言ってたお稲荷さんの神社ってここのことかなぁ」

 ミーコがこちらに縋りつくようにしながら言った。不気味なのだろう。分からないでもない。

 ここに至るまでに、腐葉土にまみれた階段を、かろうじて階段だと判る傾斜を登ってきたし、拓けた空間に出た途端に、朽ちて倒れた鳥居が目についた。周囲には、達磨落としの崩れたような瓦礫が、それとなく狐のカタチを残して、そこかしこに散らばっている。積み上げれば車が一台組み上がりそうなくらいの量がある。

「ここじゃないのかなぁ」とミーコが境内のなかを見て言う。とてもではないがここに人など住めるわけがない。だがぼくはこここそが、あの晩にヨウコと過ごした場所だと確信できた。

「ほら見て」

 ぼくは持ってきた懐中電灯を掲げ、光を床に当てた。一面にホコリが積もっている。数か月のあいだ誰も踏み入っていないのだと判る。同時に、うっすらと浮かびあがる足跡は、数か月前に踏み入ったらしい何者かの痕跡を、それこそ時代の差によって浮き彫りになる地層のように示していた。

 ぼくは今しがたできたばかりのじぶんの足跡と、新雪のしたに埋もれた草鞋のような足跡とを見比べ、それが同じものであることを見抜いた。

 興奮気味にそのことを伝えるとミーコは、

「新しい靴買いなよ」と言った。


「タっちゃんさあ。からかわれたんだよ」ミーコは木造りの階段に腰掛け、一息入れながら、「こんなところに女が住んでるわけないっしょ」と呆れた調子で言った。

 ヨウコはただの女ではない、という反論はこのかぎりにおいては効果がないように思えた。事実ぼくも、ここにヨウコが長年一人で住んでいるとは思えなかった。

 果たしてヨウコはこんなところで月音を産んだのか? 

 どう考えてもここではないところを想像してしまう。

「ひょっとしたら隠れ家だったのかもしれない」なんとなくふとそう思った。

 ヨウコは夜になると、ふだん住んでいる場所から離れ、あの駅へ行くためにここに寄ったのだ。ぼくらが辿ってきた道を通って、毎晩のように通っていた。

「なんのために?」

 ミーコの疑問ももっともだ。そう、なんのためにヨウコはそんな真似をしていたのだろう。奇しくも同じ疑問をぼくは以前、ヨウコにすでにぶつけている。たしかあのときヨウコは誰かを待っているといった旨を口にしていたように思うが、どうだっただろう。ぼくに聞かせたくないようなお茶の濁し方をしていた。

 ぼくはいったん月音をミーコに任せ、神社の周囲を調べて歩いた。さきほどまでと同じような獣道を一つ見つけた。

「まだ行くの?」

 ミーコはすでに満身創痍の様子で、ひょっとすると遭難することを危惧しているのかもしれないけれど、ぼくはメディア端末の時計を見て、電車が来るまでにはまだ時間がある、行って戻ってくるだけの時間はあるよと、暗にすぐ戻るつもりがある旨を伝え、駅に戻っていたかったら戻っていていいよ、とそういった提案をやや突き離すように述べた。

「行くよ。行きますともさ」

 なにかに張り合うようにミーコは月音をおぶるようにすると、こちらに荷物を押しつけるようにした。ぼくはその荷物を神社のなかに置き、それってズルいと叫ぶミーコを無視して、さらなる山のなかに足を踏み入れる。

 ふと視界の端に転がる瓦礫の山に目がいった。なぜか耳の丸い像があるのを見つけ、妙に印象に残ったが、べつになんてことはないとさきを急いだ。

   ***

 陽はまだ高いはずだのに、周囲を囲う木々が網の目のように枝葉を伸ばしているため、陽の明かりを遮り、視界は仄暗い。空気もどこかじめっとしており、実際、腐葉土の足場は湿っている。

「そう言えばさ」

 道のつづくままに歩を進めていると、息を荒らげながらミーコが水を向けてきた。すでに月音はぼくが背負っている。「タっちゃん、どうして修学旅行なんかに行こうと思ったの。っていうか、どうして行先があそこだったの」

 ここからさらに十五駅ほど離れた地点に、当初ぼくが修学旅行先として定めていた温泉街がある。ミーコはなぜぼくがそこに行こうかと思い立ったのか、その理由を聞きたがった。

 有名な温泉があるんだ、と答えると、温泉なんかに興味ないくせに、とぼくの本懐を見抜いたようにミーコは言った。

「隠したいなら無理して訊かないけど、でもこんなところまで付き合ってあげてんだからさ。隠し事とか感心しないよ」

 今回の一件、ヨウコ探索ツアーを考案し、強行した女の言うことではない。ぼくは笑った。「それ、もはや言えと強要しているようなものじゃん」

「なら言え」

 笑いながら命じられてしまった。断る理由をでっちあげるのも疲れるような気がし、ぼくは致し方なく話してやることにした。

 一言で言うなれば、父親の育った街を見ておきたかったから、となるだろう。だがこれは正しくはない。いったいどんな環境で育てばあんないい加減な男ができあがるのかと、いちど研究しておくのもわるくないと思ったのが正直なところだ。もうすこし言うならば、ぼくの父親であり、忌むべき男であるところの田沼真貫(まぬき)の生い立ちを調べあげ、つぎ会うときまでに弱みの一つでも握っておいてやるか、といった打算が動機の大半を占めている。

「タっちゃんのお父さんって、あのスケベオヤジのこと?」

「うん……」

 幼馴染からいっさいの遠慮会釈もなくじぶんの父親をスケベオヤジ呼ばわりされてしまった。だが間違ってなどいない。何一つとして。

 あの男は下賤であり、下郎であり、下衆であり、女賎(げせん)だった。ウブな生娘を巧みにたぶらかし、そそのかし、組伏せ、骨抜きにした。話術、体術、交渉術、あらゆる技能を駆使して女を自分に惚れさせ、服従させた。従順なメスと化した女たちを道具にし、あの男は自ら仕込んだ技術で以って女に金を稼がせ、そして貢がせた。或いは道具に適したメスとして調教したのちに売り飛ばすこともあったように思う。ぼくはそんな男の手によって、その金で、義務教育を終えるまでのあいだ糊口を凌いでいた。

「そういや、うちの親もあんたんとこの親父はクズだって言ってたわ」

 思いだしたように、本当に何気ない調子でミーコは言った。そこにはある種、ぼくへの同情心のようなものが感じられ、同時にあの男への敵愾心にも似た感情が向けられているのだと判った。ミーコはぼくのために怒ってくれている。ぼくと同じ目線であの男のことを言ってくれている。

「和尚さんはそういうことを言う人じゃないでしょ」

「パパは言わないけど、でもママは口がわるいから」

 たしかにミーコの母親は性格のキツそうなひとだった。潔癖症とも呼べる正義感丸だしのオトナだったように思う。ぼくとミーコがいっしょになってイタズラをしたとき、ミーコの母親はまっさきにぼくらの無事を確かめ、それからミーコを叱り、ぼくに怪我がないことをもういちどよくよく確かめてから最後にぼくのことも叱った。やさしさというものを辛辣に、はっきりと態度で示す、そういうひとだった。

「そういやあんたんとこのスケベオヤジ。いまどこで何してんの」

「さあ。高校は寮生活だったし、入学金こそ面倒見てもらったけど、そのあとのことはぜんぶバイトでなんとかしたから、アイツがどこで何をしているのかは知らないままなんだ。大学入試のときも入学のときも、手続きはぜんぶ書面で済ませたし。そういう時期になると連絡だけはくるんだ。どこそこへ書類をよこせって。いつも住所は違ってた。今頃またぞろどこぞの女性を奈落の底に引きずり込んでる最中なんじゃないかな」

 警察に通報したこともあった。中学生のときの時分で、あの男のやっていることをすっかり理解した時期だった。けれどあの男は捕まらず、なぜかぼくは助けたかったはずの女性たちからあべこべに責めたてられてしまった。

 恩をあだで返すなんてなんてガキなの。

 マヌキさんの子供なのにぜんぜん似てないじゃない。

 まるでクズ呼ばわりされ、なぜぼくがそんなふうに言われるのかまったく解せずにいると、あの男はそんなぼくの内心を知ってか知らずか、ふだんと変わらぬヘラヘラとした顔を向け、おまえにとっての正しさなんてそんなもんだ、と目の下の隈をいっそう深くし、言った。

「学べよ我が息子。この世は欺瞞で満ちているぞ。溺れたくなけりゃ学ぶこった」

 いったい何を学べというのか。反発する気満々だったが、案に相違してその言葉はぼくの胸に深く残り、しかしあの男の意に沿うのも癪なのでせめてもの反抗にとの思いからぼくは大学にいって勉学に励むことを目標とした。

「それでうちの大学に来たんだ」

「べつにミーコのではないだろ」

「でもどうしてうちだったの?」

「なんでだろ。やっぱりすくなからず思い出の地に帰りたいという思いがあったのかもしれない」

 言うとなぜかミーコは、へぇ、とそっけない相槌を打ち、それからしばらく足元を見るようにして顔を伏せたまま、黙々と足だけを動かした。

 途中で沢を見かけた。湧水らしき澄んだ水溜まりが見られ、下りられそうなので、喉を潤していくことにした。

 脱水症状を起こされては困るので、そろそろ月音にも起きてもらおうと思い、そこでぼくは異変に気がついた。ようやくと言っていい。いくら揺さぶっても月音は目を覚まさなかった。

「どうしたんだろう」

 ミーコが不安そうに零す。べつだん苦しそうでもなく、呼吸も止まっていない。ではなぜ目覚めないのか。水で濡らしたタオルで顔を拭うようにすると、ぴょこんと糸のようなものが飛び跳ねた。ぼくはそれを払い除けようとゆびで頬を撫でるようにするが、なぜかそれは根強く存在を主張し、ぴょこん、ぴょこん、とさらに本数を増やした。目を凝らし、つまみ、引っ張ると、月音の頬は皮膚ごと隆起し、とんがった。それらは月音の頬から直接生えている糸のようなものだった。

「ひげ……だよね?」ミーコが言った。

「ひげ……なのか?」ぼくは戸惑った。

 今朝まではなかったはずだ。すくなくとも月音は尻尾や獣耳こそあれど、ほかの大部分は人間の肉体と寸分変わらぬ特徴をみせていた。なにゆえここにきて、さらなる獣じみた性質を帯びたというのか。念のためズボンを脱がせ、尻尾をたしかめるが、それはそのままそこに生えていた。窮屈そうなのでパンツを脱がし、そのままにしておく。大きめのTシャツなのでワンピースのように見えなくもない。

 なにか嫌な予感がする。その予感は、このまま道を引き返したところで払しょくできるような類の、楽観視できるものではない不穏な気配をぞんぶんに孕んでいた。

「もうすこし行ってみよう」

 ぼくは道に戻るのをやめ、沢をさかのぼることにした。

 沢の流れに目を転じる。目のまえを、ゆったりとちいさな笹船が過ぎ去っていく。

 (11)

 アマゾンの奥地に住まう民族たちも、いまではTVを見て、扇風機を回し、メディア端末でインターネットを通じて世界に言葉を発信するのが常となっている。どれだけ自然に囲まれたところで、便宜という魔法の言葉をまえにすれば人種や文化などないも等しい。

 けれど、どれだけ近代化のすすんだ国であっても、そうした潤沢な生活から距離を置き、便利さを手離し、そうすることで社会と隔絶した生活を維持しようとする集団がいてもおかしくはないとぼくは思う。

 ひるがえって考えてもみれば、便宜という言葉を追及せず、社会の発展に追従せずにいられるならば、そうした環境は、社会からの監視の目から逃れるための防壁として機能するのではないか。

 今ぼくの眼下には、教科書で見たことのあるどの時代の町村にも見られない、独特の家屋で形成された集落がある。それはある種、ジャングルのへき地で生活する狩人たちが、天敵から身を隠すために築き上げたウッドハウスのような集合体であり、どの家屋もすべて木のうえに建てられている。鳥の巣というほど明確なカタチを帯びてはおらず、むしろそれはどこかカマキリの卵を思わせ、そういった形態に育つ樹木であると言われたほうがいくぶんふさわしい趣をまとっている。

 それほど違和感なく山に、風景に溶け込んでいる。

 なぜぼくがその集落を見つけられたのかと言えば、ちいさな子どもたちがきゃっきゃと駆け回り、彼らを呼び戻す女性たちの声が、木々のうえから聞こえてきたからである。

「うわぁ。かわいい」

 岩陰からミーコが目をぎらつかせ、こころなしよだれを啜りながら彼らの姿を眺めている。ぼくも同意するにやぶさかではない。彼らは彼ら自身の身体と同程度の大きさの尻尾を、ふぁさふぁさとそれでいて丸々と生やしていた。

「キツネの尻尾……ではないよね」

 ミーコは月音のおしりから生える、彼らのそれと比べるといくぶん小さな尻尾と見比べるようにした。「色は似てるのに」

「形もそこまで違うというほどでもないぞ」

 ただ、大きさが規格外だ。彼らの頭からは、髪の毛を団子にして結ったような塊がふたつ生えており、それらはこの距離からでも丸っこい耳のように映った。狐ではない獣の耳だ。

 

「キツネじゃないならたぬきじゃないの?」

 ミーコの発言にずっこけそうになる。問題は彼らがいったい何との交配種かということではなく、ヨウコのような人外の存在が、こうもたくさん寄り集まり独自の社会を形成している点にある。ぼくはてっきりヨウコは神さまか何かで、とくべつな存在なのだと思い込んでいた。口にはださなかったかけれど、ヨウコのような存在はほとんどいないものだと思っていた。それがどうだ。山奥とはいえどもここは腐っても近代文明化をさきがける世界有数の国の一つだ。これまでの期間、誰からも見つからずほそぼそと暮らしつづけてきたのだろうか。にわかには信じられない。

「どうしよっか? 話とか聞いてみる?」

「言葉は通じそうだけど、危なくないか?」

「そう?」

 あんなにかわいいのに、とミーコはすっかり彼らの愛くるしい姿に魅了され、警戒心をほどいている様子だ。

「彼らだけとは限らないだろ。男衆だってどこかにはいるだろうし。それになにか変なチカラを持っていたらどうする気だよ」

「へんなチカラって?」

「たとえば、すごい怪力とか」

「べつにへんじゃなくない?」

「ともかく、無駄に彼らを刺激するような真似はやめよう。見たところ服飾だって自分たちで繕っているみたいだし、ほとんどこの山のそとには出たことがないんじゃないかな」

 そんな状態の彼らのまえにぼくらなどが出て行ったりなどしたら、面倒なことになるのは目に見えている。

「でもタっちゃんをたぶらかした女も、きっとここの出身だよ」

「否定はしないし、あり得るけど」

「だったら」

「きょうのところは引き返そう。電車だってそろそろ戻らないと間に合わなくなる」

「うーん」

「せっかく旅行の支度をしてきたんだからさ。帰りにちょっと寄り道して、温泉にでも浸かってこうよ」

「あ、いいねぇ」

 ミーコはようやく眉間のしわを消し、頬をほころばせるようにした。ぼくらはいったん退却し、日を改めてまた来ることにした。腰をあげようと足にちからを入れたとき、

「ねぇねぇ、なんで尻尾ないん?」

 背後から声がし、ぼくらは思わず飛びあがった。ミーコは体勢を崩し、岩場から転げ落ちている。

 ぼくは尻もちをつき、首をひねって声の主を確認する。さきほどまで視界のさきで駆けまわっていた子どもたちが、なぜか今はぼくらの背後におり、幼子に特有のしゃがみかたで、地面の蟻を観察するような眼差しでこちらを興味深そうに、それでいてボケーと見上げている。

「どしたん。なんかうまそうなもんでも見っけたか」

 うしろのほうからさらに、大柄な獣人たちがやってくる。「お、なんだこいつら。おーい、ちょっとこっちさきてけろー」「なんよなんよ」

 あれよあれよと言う間にぼくらは獣人たちに囲まれてしまった。さいわいなことに彼らの目には敵意らしい剣のある光は宿っていない。

 が、それはぼくの背負う月音を見られるまでのあいだだけだった。びっくりした拍子に月音の被っていた帽子はとれ、頭から生えた三角形のお耳が、それとは違った丸っこい耳を生やした彼らに見られ、そして彼らは目つきを変えた。それこそさきほどまであった長閑な雰囲気はどこへやら、ギラギラと矢じりのように鋭い眼光がぼくの繊細な皮膚を突き刺していく。

「こやつらイナリの手下やで」「長老様を呼んでこう」「今さっき出掛けになられたばかりだで」「追いかけて連れ戻せ」「それまでこやつらどうすっぺ」「老樹の洞にでも閉じ込めとけ」

 喧々囂々と言いあう彼らを尻目に、ぼくは視界の端で蠢くミーコの姿を見た。どうやら見つかったのはぼくと月音だけの様子で、ミーコは岩場から転げ落ちたのがさいわいして発見されずに済んだようだ。獣人の子どもたちはミーコの姿を目にしているはずだが、これまたさいわいにして獣人のおとなたちの指示で後方に追いやられており、ミーコの存在を指摘できずにいるようだ。

「立て」

 先が二つに割れた槍のような道具をつきつけられ、強引に立たせられる。一種、きょだいなフォークのようで、実際に幾人かのそれには魚が突き刺さっており、モリに似た道具だと察する。

 彼らはぼくと月音に触れようとはせず、とくべつ拘束もせずに、しかし逃げられないように五人ほどで囲み、集落の奥へと誘導するように歩いた。

 どの人物からもつねにモリの先を突きつけられ、四面楚歌を地で描かれたかたちだが、いまのところ差し迫った危険はなさそうだと判断し、ひとまず胸を撫でおろす。

 何気なく振り返ってみると、後方、奥のほうの岩陰からミーコが不安そうにこちらを眺めている姿が確認できた。

   ***

 何かの図鑑で万年杉を見た覚えがある。まさしくあれと同系統の古木が、まるで怪獣の足首のようにデンと地面に根を張っている。いくつかの洞が、ポケットのように開いており、そのうちのいくつかには頑丈そうな柵が取り付けられており、ぼくはそのなかに閉じ込められた。月音を引き剥がされてしまったけれど、どうにも彼らは月音に対して並々ならぬ嫌悪感、或いは畏怖の念を抱いているようで、粗末な扱い方でこそあれ、乱暴には扱われないようだと判り、まずは抵抗せずに引き渡した。

 門番のように見張りが二人ほどついたが、よほど頑丈なつくりの牢屋であるらしく、しばらくすると誰もいなくなった。

 長老はまだか、とそういった話を彼らがしているのを耳にしたが、それらしい人物はついぞ現れなかった。

 陽が暮れ、夜になり、或いはミーコが闇に乗じて助けだしに来てくれるのではないか、と期待したりもしたが、そういった展開にはならなかった。

 気づくとぼくは肩を抱いたように眠りこけており、陽の光を感じて目覚めると、柵の向こう側にはこちらを珍しそうに眺める数人の子どもたちがいた。

 月音くらいのちいさな子もいるが、多くはもっと齢を重ねて映る。

「ねえねえ。どっからきたのー」

 拙くも屈託のない物言いは月音と共通するところがあり、幼子というのはどこもこういうものなのかもしれない、となぜか月音を中心にして考えているじぶんに気づき、これではまるで親ばかではないか、とふしぎと胸が満たされる思いがした。牢屋に閉じこめらているくせにである。

「この山のそとからだよ」ぼくは子どもたちといくつかの言葉を交わした。みな純粋そうな瞳をこちらへ向け、言葉の端々からはこちらへの無垢な好奇心がハシハシと伝わった。

 子どもたちの話から、いくつかの状況が分かってきた。まずこの集落にはめったに外部の人間がやってこないという点だ。彼らにとってのぼくたちは、さながらぼくたちにとっての宇宙人かなにかのように映っているらしく、珍しい生き物を捕まえたといった感覚にちかいものがある様子だ。また、幼子たる彼らは一様に、山のそとにはおそろしい生き物がいると教えられているらしく、集落のそとにでることを堅く禁じられている様子でもあった。

 おそろしい生き物とはどんなものか、と訊ねると、それは答える子によってまちまちであり、ある子は目をランランと光らせた鳥よりもはやく走る岩のバケモノだと言い、またある者は、妖術使いの盗賊だと断言し、さらに多くの子どもたちは、自分たちに似た、けれどサルでも獣でもない、自分たちとは異なった怪物だと抽象的に、しかしやけに具体的に説明した。それはちょうどおまえのような姿なのだと、笑いながらこちらをゆびさし、彼らにはあってぼくにはない耳や尻尾の存在を主張した。

 気づくと柵のまえには大勢の子どもたちが、我先にと質問を投げかけてきては、ぼくの口にする答えに、目を輝かせて食いついた。まるで見世物だったが、ふしぎとわるい気はしなかった。

 陽が高くなる前に、子どもたちは飯の時間だと三々五々、駆けていった。これからぼくはどうなるのかと今まさに訊こうとしていたところで、目のまえから情報源が消え去ったことを口惜しく思う。餌だけを食われ、逃げられた魚を連想した。

 ぼくは喉の渇きを覚えながら、おしっこはどこですればいのだろう、と洞の中をいまさらのように観察した。

 さまよえるほど広くなく、立って歩けないほど狭くはない。大木に開いた穴ぼこであること以外に分かることはなく、めずらしいものなど見当たらず、キノコの一つも生えていない。

 ぼくはなかなか目覚めなかった月音のことを思い、こうなってしまえばむしろそれは好都合だったのかもしれない、と好意的に考え、しかし楽観視できない不安を拭いきれずにいる。

 へんな病気でなければいいが。

 こういうときにヨウコがいてくれれば、とぼくはヨウコがいなくなってから幾度か思い浮かべ、しかし真剣に向き合うことのなかった問題を直視した。

 人間ではない月音が病気になったらどうするのか。考えないわけではなかったが、さいわいにして月音は元気なだけがとりえと言っていいような子どもで、だから当座はその心配をせずにいいだろう、と問題を先送り、先送りにしつづけてきた。

 が、本来もっとも優先して考えておくべき問題であり、その時点で答えはすでに示されていた。

 月音はぼくが面倒をみきれるような子どもではない。

 ヨウコという同族の支えが必要であり、それは仮にぼくとヨウコが夫婦であり得なくなったときでさえも、外すことのできない基本事項であるように思えた。

 ヨウコがそれを弁えてなかったとは考えにくい。ならばなぜ月音をぼくに預け、姿を晦ませるような真似をしたのか。

 答えはまさにぼくが直面している問題と地続きで繋がっているのではないか。

 ぼくの臍は固まった。

 まずはさておき、話がしたい。

 長老だろうが、包丁だろうが、来るならばこい。

 ぼくは念じ、しかし本当に包丁のきっさきが飛んできても困るので、命乞いの仕方でも考えておくか、と柵に寄りかかるようにして頭のうしろに手を組むと、そのままの体勢ですっこーんと倒れた。古木から伸びる枝葉の合間から青空が見え、そよそよと風に揺れる葉と踊るように、キラキラと木漏れ日がふりそそぐ。

 上半身を起こし、振り返ると、柵が開いていた。元から鍵がかかっていなかったのか、それとも誰かが開けてくれたのか。記憶を探るが、昨晩までは押しても引いてもびくともしなかったように思う。確信はない。

 命乞いの仕方を考えていた矢先のできごとに呆然としていると、

「なんだまだいたのかよ」

 生意気そうな少年がこちらに近づいてくる。棒きれを剣に見立てながら、

「まあいいや。逃げるんでしょ?」と素振りのように無邪気に振る。「山狩りやるって言ってたし、しばらくうちにいなよ」

 逃げるなら夜だぜ、と少年は言った。

 (12)

 ブランコを思わせる縄と棒だけでできた装置で、ぼくは少年の家だという木のうえにお邪魔した。自力でのぼる機構ではなく、重い岩と繋がった縄を手に持ち、それが落ちるので上がりましたといった具合に、手でブレーキを掛けながら上昇する。原始的なエレベータと呼べるのではないか。

 木の幹がくりぬかれており、そとから見たよりも中は広い。上だけでなく下にまで部屋があり、キツツキの巣のような個室がいくつかあるようだ。

「あとで部屋案内すっから。うちは姉ちゃんしかいないし、好きな部屋使っていいで」

 ぼくは礼を述べ、さっそくとばかりに口火を切った。

「どうしてぼくを助けてくれるんだい」

「どうして? だって助けなきゃ殺されちゃうぜ。死にたいの?」

「いや死にたくはないよ」

 しかし仲間が処刑しようとしている相手を助けるというのは、このコにとって危ない行為ではないのか。ぼくは思い、だからそう言った。

「これがバレたらきみもなにか痛い目に遭わされるんじゃ」

「んだよ。だからぜったいバレんなよ」

 口にゆびを当て、内緒だぜ、の仕草をし、かれは手慣れた調子で鍋に火をかける。「昨日からなにも食ってねぇだろ。昨日の晩飯の残りだけど食うか?」

「いいの?」

「食うのか食わねえのかどっちだよ」

「いただきます」ぼくは正座の体勢で、ゆかに額をこすりつけた。

「よし。なら食わしてやる」

 莞爾として笑い少年は、頭から生える丸い耳をピコピコと揺すった。

 焼き魚は冷めていても美味かった。白身が固くならずにそれでいてきゅっと締まっている。骨も気にならず、そのまま呑みこめてしまう。なにかしらの加工がされているのだろうけれど、これはちょっとした料亭に出しても客がつくのではないかと思える美味さだった。一晩捕虜にされていたからこうまで感動するのだろうか。思いながら手作り感あふれる茶碗を手に取り、よそわれた汁を口に含む。一口、二口、三口。息継ぎのタイミングをすっかり見失い、一息に飲み干してしまう。

「……これ、なに?」

 思わず笑みが漏れ、中身の正体を聞いている。

「ん? ただのカナミルだけど」

 応じながら毒見をするような所作で少年は自身も汁を口に含んだ。「べつにへんな味はしないと思うけど。口に合わなかったか?」

「いや、うますぎて驚いた」

「ははは。おおげさなやつ」

 少年は安心したように目じりを下げ、そして黙々と食べ物を胃に収めていく。

 食事を終え、ぼくは完全に少年を信用した。或いはなにかしらの罠や試練の可能性を考えたが、そういう不穏な感じはいっさいない。

 信用したからといってここに長居をするつもりはなく、すぐにでも逃げようと思ったのだが、なにげなく身支度をするぼくの胸中を少年は目ざとく見抜いたらしく、夜になるまでは待てって言ったろ、と縄を手に、さも柱にくくりつけてやるぞ、と態度で示し、ぼくを黙らせた。

「すこし話を聞いてもいいかな」

 なぜこの村へ来たのだ、と少年のほうから訊いてくれることを願ったが、さほどこちらの正体には興味がないようで、少年はぱたぱたとなにかしら部屋の掃除を、主として部屋のなかに入り込んだ昆虫などを捕獲している。「晩飯にするか」などと零しているが、敢えて触れず、ぼくは質問を投げかける。

「きみたちについて知りたいんだ」

「ん?」

「きみたちはいったいなんだ? いつからここで暮らしていて、なぜぼくたちを、ぼくの娘を敵視するんだ」

「質問が多いなぁ。まあ強いて答えるってんなら、おれたちが稲荷の末裔だからとでも言うんかな」

「稲荷の?」

「おまえ、村の輩ではないんだろ? でもってまったくの無関係というわけでもない。この地域、稲荷の里のそとから来ておきながら、そとのニンゲンでありながら、おまえはあのコを連れてきた」

「あのコというのは月音のことか?」

「名前なんか知るかいな。まあ言ったらあのコの存在がちょいとややこしくてな。で、そとからやってきたニンゲンは、本来なら記憶を消して里のそとに放りだすんだけど、おまえはあのコを連れてきた。だから生かしておくわけにはいかんのだな。まあジっちゃんが戻ってきたらなんて言うかは知らんけど、まあただで帰そうとは思わないんじゃね?」

 思いのほか少年は頭の回転が速いらしい。速すぎてもはや何を言っているのかよくわからん。

「要するに、月音を連れてきたのがよくなかったってことかな?」

「誰にとってよくなかったって問題はあるけど、まあ兄さん、あんたにとっちゃよくなかったね」

「もうすこし詳しく訊いてもいいかな」

「なにを?」

「なぜ月音はきみたちにそこまで怨まれるのだろう」

「怨んじゃないさ。ただ、ここではアッチの稲荷の一族は敵でしかなくてね」

「アッチの?」

「ほれ、この耳」言って少年は丸い耳をピクピクと動かした。「おれたちゃ稲荷の――たぬきの末裔だ。だが稲荷にもいろいろいてな。イタチや雷獣、ハクビシン。なかでもキツネの輩は長年、おれたち一族と不毛な争いをつづけていてな」

 なるほど、と話のさきを読みながら合点がいった。月音はヨウコの娘であり、キツネ一族の末裔だ。だからその血を引く月音を彼らは許しておけない。

「だけどまだあんな小さいのに。分別だってつかないし、それこそきみたちとのいざこざなんかまったく知らないようなコなんだぞ」

「おれに怒るなって。だいたいそれを言うなら、なんで何も知らないおまえらがおれたちの村にまでやってくるんだよ」

「それは……」

 ヨウコの跡を追っていたら偶然辿り着いたのだ。

 けれど、それを言ってもいいものか一抹の不安がある。

「仮にぼくの身内にキツネ一族の者がいたら、きみはぼくを仲間のもとに突きだすのかな?」

「なにをいまさら。すでにだからおまえはあのコを連れて来てんだろうが。無関係だという理屈はたといおまえがヘソで茶を沸かそうが土台通らん話なのさ」

「でも、その話を聞いたらぼくだけ逃げるわけにもいかないじゃないか。月音を取り返さなくちゃ」

「まあそうな。だけどそれはおれらに任しとけ」

「任せとけって。というかおれらって?」

「そろそろ戻ってくる頃合いだと思うけど」

 言って少年は首を伸ばすようにし、イビツに縁どられたのぞき穴のような窓から、そとの景色を窺うようにした。すると、その一角は扉の役目も果たしていたらしく、ばーん、とワニが口を開けるように、壁の一部が縦に割れ、そこに顔をくっつけるようにしていた少年がこちらまでぽーんとおもしろいほど軽々と、それこそボールのように吹き飛んだ。

「いで!」

 少年を受け止めきれずぼくは、少年共々弾き飛ばされ、柱の役目を果たしていた太い枝にぶつかった。

「あらやだ……ごめんなさい」

 目を向けると、そこには赤子のように丸まる月音を抱いた女性が立っていた。まるで天女のような出で立ちで、まっしろい服飾に身をまとわせ、髪の毛は焦げたような茶色をし、そこからより濃い茶色の丸い耳を覗かせている。くびれた腰の付け根からは太い立派な尻尾が、それこそ胸に抱かれた月音よりも大きな尻尾が生え、大蛇のようにしなって揺れている。

「もう、姉ちゃん!」

 少年が抗議の声をあげ、

「ごめんなさい、まさかそんなところにポンちゃんがいるとは思わなくって」とちゃめっ気たっぷりに、あまり申しわけそうでもない言い方で、しかし言われたこちらは無条件に許してしまいたくなるようなかわいらしさで、彼女はしれっとそう言った。

   ***

「まずは一族の無礼、彼らに代わって謝らせてください。野蛮な行為の数々、まことに申し訳ございませんでした」

 少年の姉は膝を折り、尻尾を腰に巻きつけた状態で低頭した。尻尾のもっとも太い部分がひざのうえに載っている。上体を起こすと彼女はそれを撫でつけるようにしながら、「わたくしポンの姉のアナッポと申します。このたびは我らが一族の男衆がとんだご無礼を働き、重ね重ね申しわけありませんでした」

 ふたたび低頭し、それから彼女はこちらがもういいですので、と言うまで頭を起こさなかった。

「話はポンくんから聞きました。納得できるものではありませんでしたが、そうせざるを得ない事情があったならば、それを責めるのは部外者たるぼくなどがすべきことではないでしょう。それこそ無断で足を踏み入れたぼくらにも非があるわけで」

「いえ。間違っているならばそれがたといどれほどその風土になじみのある文化であっても異を唱えることは非難されるような所業ではございません。唱えられた異を受け入れるか、聞き流すかはむろん相手側の裁量に任せるのが前提ではありますけど」

「ということは、あなたはぼくの唱えた意に一定の理解を示してくれるということですか」

 話の流れからすればそういう筋になる。

「と申しますよりも、わたくしはむかしからもっと広い視野で物事を見るべきだと、そうすることがわたしたち一族のためになると何度も申しあげてきたのですけど」

「年寄りの連中は姉ちゃんの話に耳を貸さねんだ」と少年ポンくんは歯ぎしり交じりに吐き捨てた。

「あなたさまの無事を保障したいのは山々なのですけど、いかんせん視野の狭い傲慢チキがわたくしたち一族でありまして」アナッポさんは恐縮そうに目を伏せ、「しょうじきなところ、あなたさまをこの村のそとに出すことくらいしかできそうにもないのです」と零した。「そのあとは自力でどうかお逃げになってください。あなたさまが牢屋から逃げたことはすでに騒ぎになっております。我が子を取り戻そうとあなたさまが血眼になっているだろうと睨み、男衆はこのコをわたくしめに預けました」

 言ってようやくというべきか、ぼくたちのあいだに寝かされた月音に話が及ぶ。

「このコはあなた方の一族ではないのですよね」ぼくは訊いた。「だから畏怖の対象とされている」

「間違ってはおりません」

「ということは、この集落のほかに、このコと同じ一族たちの村があると?」

「それも間違ってはおりません」とあいまいに濁しながらも、アナッポさんは否定はせずにいる。

「ならばぼくはそこへ行かねば」

 ならない、という義務はむろんないが、現状、月音の安全を考えるならば、助けとなってくれる者たちのもとに預けるのが得策のように思えた。

「その考えも間違ってはおりません。けれど、正しくもありません」アナッポさんは誤謬を正すように、「そもそもなぜわたくしたち姉弟が貴方がたをお助けするかについてですが」

「姉ちゃんっ」

 窘めるように口を挟んでくるポコくんを視線で諌め、アナッポさんは続ける。「以前、わたくしたち姉弟はいわゆる宿敵であるキツネの一族に捕らえられていたのでございます」

「月音の、このコの一族に?」

 はい、とアナッポさんは語った。

 (13)

 堅苦しい話し方はよしてください、ぼくのほうが余計に畏まらなくてはならなくなってたいへんだ、と冗談めかしお願いすると、あらそうですか、などと言って、アナッポさんはあっけなく順応した。

「わたしたちは幼いころ、母と父を目のまえで亡くしてて。それは不運な事故でしかなかったんだけど、場所がよろしくなくってね」

 ここから離れた土地、キツネ一族の集落の近くで、雪崩れに巻き込まれてしまったのだそうだ。

「父と母は息を引き取って、でもさいわいにもわたしたち姉弟は助かって」

「あっちの奴らが助けてくれたんだ」とポンくんも途中から話しに加わる。

「立って歩けるようになるまでしばらくお世話になったの。とても親切な方たちだった。もちろんそれはわたしたちの世話をしてくれていた方たちが親切だったってだけで、追いだすべきだとか肥溜めに沈めるべきだとか、そういった物騒な意見も耳にしないわけではなかったの。でも向こうの長老さんがとても話の分かる方で、それにはちょっとしたわけがあるとあとで知ったのだけど、ともかくわたしたちはとてもよくしてもらったの」

「だけど、おれたちの知らないところで、知らない動きもあったんだ」とポンくんは忌々しそうに、或いは哀しそうにかもしれないけれど、そう零した。

「わたしたちは何不自由なく献身的にお世話をしてもらっていたし、元気になったら家に帰してもらえると言ってもらってもいたのに」

「向こうの連中にも傲慢チキな輩がいてよ。そいでおれたちが身動きとれないのをいいことに、こっちの仲間におれたちを返してほしけりゃ山を出てけって要求して」

「人質にされたってことかい?」

「そうだけど、そうじゃない。さっきも言ったけど、親切な人たちだっていたんだ。すくなくともおれたちの目にした、おれたちを世話してくれた奴らはみんないいやつだった。それ以外の連中が勝手なことをしくさったんだ」

「長老さんはでもそれを知らなかったのかい?」いくらなんでも村の長を差し置いてそんな勝手な真似をするだろうか。

「知らなかったのだとあのひとは言った。だからわたしはそれを信じます」アナッポさんは唇を噛みしめるようにした。「でも、あのひとがそれを知ったとき、すでに要求はこちらの村に、わたしたちの一族に伝わっていた。いくらそのあとで向こうの長老があれは間違いだったのだと言ったところで、そうそう容易く覆るような話ではなかった」

 火種は瞬く間に炎と化しました、とつらそうに零すアナッポさんは、暗い過去を見つめるような鬱屈とした影を感じさせず、ただただ戸惑いと憤り、なぜもっと単純に生きられないのかと嘆くような、こうすればいいだけなのにと一人だけ答えを知っている数学者のような淋しげな目をしていた。

 聞けばそもそもの諍いの発端は、大昔、この地に住まうたぬき一族が、そとからやってきた人間に追いやられ、いちどほかの山々に逃げ散ったところまで遡らなければならない。やってきた人間たちも、けっきょくのところは当時奔騰していた戦から逃げおおせてきた者たちで、ことの起こりを考えればキリがなく、際限なく遡れる。

 ともかくとして、たぬき一族はいちどこの地を追われ、不承不承住処を受け渡した過去がある。時間が経つにつれ、人間たちは信仰を篤くし、いずこよりやってきた稲荷信仰がやがてこの地に深く根付いた。人間たちに可愛がられ、崇められたキツネたちがこの地に栄え、噂を聞きつけたキツネ一族がこの地を訪れ、腰を据えるようになったのは必然と言えよう。

 他方、ほかの地域でもキツネを祀る稲荷信仰が流行っており、ゆえにその地でほそぼそと暮らしていたたぬき一族が、ふたたび住む場所を追われだした。

「理不尽な話ですね」

「飽くまでわたしたちたぬき側からの視点で話しているからね」とアナッポさんは自分たちの話をしながらも、視野を広く保っているように映った。「わたしたちの祖先にもまったくの非がなかったといえば嘘になる。なぜって、あの当時、わたしたちの一族は、特殊な神通力を持っていて、それを使っては人間たちを騙し、或いは上手く立ち回って悪事を働き、それらをほかの生き物、それこそニンゲンやキツネたちのせいにしていたの」

「神通力って?」

「あら、あなたたち人間だって知っているでしょ? 古くから狐狸は化けてひとを誑かす。聞いたことない?」

「あるけど」

 それは魑魅魍魎、妖怪変化の類であり、巷説の域をでていない。けれどもよくよく考えてもみれば人獣などという巷説の域をでないはずの存在が目のまえにこうして鎮座しておわすのだから、荒唐無稽と断ずるにはいささか説得力に欠ける。

「ということは今もきみたちにはそうした力が?」

「あるにはあるけど、すこしだけ。わたしたちの祖先は生きていくために、けっきょく人間たちにすり寄るしかなかった。だから現在こうして残っているわたしたち子孫はみな、人間の血が色濃くなって、あべこべに神通力は薄まってしまって」

「でもできることはできるんだ?」

「やってみせようか?」

 ポンくんが言い、返事をするかしないかという間に、えいやと宙返りを決め、ものの見事にたぬきとなった。

「もふもふー」ぼくは思わず撫でまわしたくなり、とっさに抱きつきにかかるが、ガウと手の甲をひと噛みされ、正気に戻る。

「……イタい」

「自業自得だバカたれぇ」なぜかポンくんは泣きべそをかいており、アナッポさんの腰に縋りついている。

「ごめんなさい。このコ、むかしこの状態から戻れなくなったことがあって。というかわたしたちの神通力って、山の息吹の助けを借りてるっていうか。地方限定商品みたいな感じがあって」

 地方限定商品……。

 人間社会に馴染みのあるような比喩に、もしやと思い、訊いてみた。

「アナッポさんって、ひょっとして人間社会で暮らしていたことがあったりとか……」

「ええ。ここには学校がないでしょ? 子どもたちにもなるべくそとの世界については知らせないようにしていて。とくに人間たちの社会についてはひた隠しにしていると言ってもいいかな。ただし、ポンみたいに神通力を目覚めさせたコには、こっそりそとの社会について教えて、きたる日に備えて訓練させたりしていて」

「きたる日というのは?」

「さっきも言ったけど、ここには学校がない。でもあまりに無知では、突然の禍に対処できない。それこそむかしのように山を追われるはめになったとき、わたしたちはまた同じ過ちを、悲劇を繰り返してしまいかねない。だからわたしたちは、神通力が使えて、ある一定の年齢に達したとき、そとの社会にあるわたしたちの運営する学び舎に一定期間、入ることになっていて」

「学校があるの? きみたちの?」

 人間社会に、と驚きを禁じ得ない。

「ええ。ただし義務ではないから、志願者だけ。ちなみにわたしも神通力を使えるわ」

 言って彼女はつよく目を瞑るようにすると、季節の変遷を早回しで見るように、彼女の耳や尻尾がしゅるしゅると縮まり、やがて見えなくなってしまった。「こうすればもう、わたしがたぬきだなんて思う人間はいないでしょ?」

 得意げなアナッポさんを尻目にポンくんは、

「姉ちゃん、それしかできねんだ。おれのほうがよっぽどすげぇっしょ」と同じように耳と尻尾を仕舞いこんで、こんなの神通力でもなんでもねぇべしだ、とからかうように笑った。その頭にゲンコツが降りかかる様子を、ぼくは敢えて見ないようにした。

   ***

 この地を追われ、追われたさきでも土地を追われてしまったたぬき一族は、致し方なく本来住んでいたこの土地にふたたび舞い戻った。けれどこの地にはすでにキツネ一族が長きにわたって住み着いており、よそ者でしかなくなったたぬき一族は、それこそ細々と姿を偽りながら暮らしていたのだそうだ。

「でもよそからこの地に戻ってくる者たちが跡を絶たなかった。当時、たぬきは人間を化かすとして害獣として槍玉にあげられていた。迫害から逃れるようにわたしたちの一族は安住を求めて、この地を目指したの。それこそ祖先は各地にバラバラになっていたから、一か所に集まったのでは隠れきれない数になる」

 元からここに根をおろしていたキツネたちからすればいい気はしないだろう。それこそこの地方では神として崇められている一族だ。それがいちど土地を捨てた者たちが押し寄せ、我が物顔で徒党を組みだしている。加えてたぬきにはたぬきの稲荷信仰というものがある。たぬきを神の使いとして祀るような教えを、あろうことかたぬきたちはこの地でも布教しはじめた。

「とはいえ、もともとこの地にあったのはたぬきが主としての稲荷信仰だった。もとを言うならこの地はたぬきのものだった」

 でもそれを言うなら、とぼくなどは思わざるを得ない。そもそも土地は誰のものでもないはずだと。最初にそこに住んでいただけの理由でデカい顔をされては堪ったものではないと。

 百歩譲って、土地を開拓したという功績を認めるにしたって、それからいちどいなくなり、ふたたびイチから開拓し直した後釜の立場はどうなるだろう。どちらがわるいでもなく、善しでもない。運がわるいのであり、そこは過去を水に流し、現在という視点に立って話し合いを進めていくべきではないのか。だからぼくはそう言った。「過去なんて忘れてこれからさきについて建設的に話していくべきではないの?」

「そんな正論なんて」と歯を食いしばるように、「なんの意味も持たないのよ」と一蹴されてしまう。「過去を忘れろと外部の者は必ずそう言う。けれど、わたしたちにとってそれは過去などではなく、いまを生きるわたしたちを形作るアイデンティティになっているの。ならあなたに逆に訊いてみたい。あなたは家を強盗に入られて、でもそれは昨日のできごとだからと水に流せる? 一週間前なら? ひと月前なら? いったいどれだけ過去なら水に流せるの? 自分が直接被害を受けたわけじゃないのだから水に流すべきだと言う輩もいる。でもならあなたはあなたの娘がむさい男たちに損なわれても、それを水に流せるの? それで娘が殺されて、すでにこの世にいないからといって水に流せるとでもいうの? いったいどれだけ過去のことならそれを許せて、どれだけ身近なら許せるの? あなたにとって先祖が娘よりもたいせつではないからといって、誰もがそうだとは考えないで」

 アナッポさんは大きく息を吐き、荒らげた語気を鎮めるようにしてから、

「ただしこれもけっきょくはわたしたちの価値観が狭いだけで、おなじ言葉を自分たちにも当てはめるべきで」

 やり切れない様子でそう零す。

 誰もが自分たちと同じだと思うなという言葉は、それ自体が自己言及的な戒めを帯びている。誰もが自分たちと同じではないと言うならば、それをこちらに押しつけるなと言うならば、同じく自分たちの価値観も相手に押しつけてはならない。同時にこの思想そのものも相手に押しつけてはならないという見逃しがたい矛盾を孕んでいる。

 ならばどうすればいいのかというと、どうしようもないとしか言いようがなく、だからこそ言い表しようのない言葉をそれでも積み重ね、交流し、ごちゃまぜにして、新たに互いの手によって、言いようのあるなにかをつくりだしていくほかにない。別種であるから反発が起きるというのならば、同一の種としてまじるほかに術はない。そこにはさまざまな風習があり、価値観があり、自由がある。しかしそれはとても困難で、肉体に鉛をぶちこむような激しい拒否反応に襲われる。だがそうした苦難の向こう側にしか、新たな言いようのあるなにかをつくりだすのは不可能だ。そもそもが不可能なのかもしれず、けれどそこを目指すほかに解決の糸口はない。

 おそらくそれを目指すには長い年月と途方もない労力が必要であり、自分たちの代を犠牲にする覚悟がなければならないだろう。或いはそれは相手を道連れにし、死に行くような凶行を仲間にも無理強いするに等しい暴挙なのかもしれない。自分たちの代はその恩恵を受けられないが、そのつぎの代のために身を捧げよう。果たしてそれは清く正しい行いなのか。しかし、自分たちのためにつぎの世代へその責任を、対価を払わせようとするよりかはいくぶん健全なように見えなくもない。

 ぼくは学力こそないが勤勉ではあって、大学の講義をそれなりに真面目に受けていた。だから過去、世界中で起こった戦禍の数々をその規模を、言葉や数として知っている。けれどやはりそれらはけっきょくのところ知識でしかなく、当時の悲惨さ、戦場の生々しさに比べれば、髪の毛先を切られた程度の痛痒でしかなく、それを以って解った顔をするのは、絵本を読んで旅行をしてきたぞ、と宣巻うに等しい滑稽さがある。

 だが、絵本からでも伝わることはあり、読まないよりも読んだほうが、知らないよりも知ったほうが、より不条理に触れた気にはなれる。触れた気が果たしてどれほど現実に沿った感触なのかの判断はまたいちだんとむつかしく、それを現実だと捉えるのは早計だけれども、なにも考えずにいるよりかは多少はマシであるように思われる。

 だからぼくは考える。アナッポさんから聞かされた話から。アナッポさんから読み取れる深い悲しみと戸惑いから。ぼくは考え、こう言った。

「キツネ一族の集落への道、やっぱり教えてもらってもいいですか?」

 (14)

 子どもたちの話からすでにぼくに仲間がいたようだという情報が村全体には伝わっており、逃げ延びたミーコを探すべく山狩りが繰り広げられているという。ぼくが脱走したことも相まって、男衆の鼻息は竜巻でも起こしそうなほどだとポンくんが教えてくれた。

 夜の帳が下りている。ぼくは背中に月音を背負い、アナッポさんと共に山沿いの道を進んでいる。

 ポンくんが山狩りを担当する男衆たちをべつの場所へと誘導し、ぼくたちの行路を切り拓いてくれた。

「長老が戻ってこなくてよかった」

 道を歩みながらアナッポさんが言う。「長老はただ一人、相手の考えを読む神通力があるから」

 もし現れていたらポンくんやアナッポさんたちの裏切り行為が露呈していただろう。今さらながらそんな話を打ち明けるアナッポさんにぼくは背筋にひやりとしたものを感じた。

 木々の枝葉により覆われた夜空からは月光も届かず、足場は暗く覚束ない。

「あの話、まだ途中でしたよね」ぼくは水を向けた。アナッポさんたち姉弟が雪崩に巻き込まれ、キツネ一族に助けられたあとの話だ。「人質として使われて、それでどうなったんですか」

 思いだしたくはない過去のはずだ。けれどぼくにはそれらの顛末を知っておく義務があるように思えた。これからしようと思っている足掻きを思えば、避けては通れぬささやかな自傷行為であり、ぼくはアナッポさんが傷つくと判っていながら、彼女を傷つけ、じぶんも傷つくことを知りながら、話の続きを聞かずにはいられない。

「えぇ」アナッポさんはぼくを先導し、言った。「キツネ一族の長老の耳に、件の【わたしたちを人質として理不尽な要求を叩きつけた】という話が入ったとき、こちら側のたぬき一族はすでにそれを宣戦布告と見做し、いきり立っていた。あとで聞いた話では闇に乗じて火を放ち、奇襲を仕掛け、わたしたち姉弟の身を確保したのちに殲滅作戦を実行するといった、行き当たりばったりの総攻撃を計画していたみたいでね」

 困っちゃうわよね、といったしかめ面をこちらに向けたアナッポさんは、そろそろいいかなぁ、と言って松明に火を点けた。神通力かとも思ったけれど、手にはライターがしかと握られている。

 キツネ一族VSたぬき一族。まるで暴走族同士のおちゃらけた青春活劇にも思えるが、じっさいにいちどたぬき一族の男衆たちに囲まれている身のぼくとしては、当時のいきり立つたぬき一族たちの、けっして目にはしたくない怨讐を、その止めようのない濁流のような剥き出しの殺気を、敵意を、想像できてしまった。

 けれど、彼らとキツネ一族がぶつかり合うことはなかった。すくなくとも直接的には。

 アナッポさんがここにこうしているという時点で、ぼくをこうして案内しているという時点で、そういうことになるのだろう。この道のさきにはいまもなお、キツネ一族の村がある。

「当時、わたしたち一族のなかに、まぁ言ったらスパイのようなものかな。今のわたしみたいに、どちらの側につくでもなく、けど一族のことは家族と見做しているような、そういった酔狂なやつがいてね」

「へぇ」とぼくは気の抜けた相槌しか打てない。ほかになんと言えるだろう。

「いろいろあったみたいだけど、まあソイツのおかげで今わたしはこうしてまた家族たちといっしょにいられるし、恩をあだで返すような真似をせずに済んだわけなんだけど」

 させずに済んだ、とアナッポさんは毅然として口にする。

 ぼくは彼女の心中を推し量る。彼女はたぬき一族たちの排他的な性質を疎んではいるけれど、彼らを家族として想ってもいる。だから命の恩人であるキツネ一族に対して恥知らずな行いをしてほしくないと思っており、それは今も変わらない。

「アナッポさんのその考えは、彼らには……」

「一族に伝えたのかって? 伝えるまでもないもの。言ったでしょ。うちの長老は読心術が使える。当時、わたしたち姉弟を迎えに来てくれたのが長老でね。いっぽうでは、あのひとが――キツネ一族の長老が引き渡し役を買ってでてくれて。たった一人で、たぬき一族のもとまでわたしたち姉弟を送り届けてくれたの」

「何事もなかったんですよね」

 問題なく引き渡しが成立したのだと、祈るように訊いた。

「ええ。ただそのときにちょっとややこしいことが起きっちゃって」

「ややこしいこと?」

「家で言ったこと憶えてるかな。キツネ一族の長老がなんでわたしたちを助けてくれたのかって。なぜたぬき一族に対して、あのひとだけは一様に寛容ともとれる配慮をしていたのかって。ほかの連中のように敵視しなかったのかって」

「言っていたねそんなことも」

「さっき教えたようにわたしたちの一族にはスパイみたいなやつがいてね。ソイツ、男なんだけど、デキてたんだよね」

「ん? デキてたって?」

「キツネ一族の長老と。あのひとと恋仲だったってこと」

 言って彼女はちらりとこちらを振りかえり、うすく微笑んだ。松明の火が彼女の淡麗なかんばせを照らし、昼間見たよりも妖艶な姿に仕立てて映す。

 生唾を呑みこむようにしぼくは、「今そのひとは」とスパイじみた真似事をしたという男が、その後どうなったのかを半ば予想し、半ば否定してほしくてそう訊いた。

「今はもうここにはいない。いられるはずもないもの。だってそうでしょ?」

 仲間を裏切っていたんですもの、とアナッポさんはまえを向いたままで、つぶやくように口にした。

   ***

 いがみあっているのだから近くにあるわけがない。思ってはいたけれど、よもやここまで遠いとは。

 キツネ一族の集落を求め歩いて、そろそろ山を一つ越えそうな距離だ。

 難なく歩みをつづけるアナッポさんに比べ、ぼくはもう満身創痍の構えを見せている。月音を背負っていたせいもあったけれど、途中でこちらのへなちょこ具合に気づいたアナッポさんが代わりに背負ってくれているので、月音を言いわけにはできない。

 山育ちなだけはある。

 訊きたい話は山ほどあるのに、呼吸をするのもままならず、ぼくは月音をおぶるアナッポさんのつまみたくなるような踵を見ながら、休憩しましょうとも言いだせずに、必死に食らいついている。

 月音はまだ眠ったままだ。

 かれこれ二日以上目覚めぬままで、はなはだ異常であると認識するに事欠かず、ぼくはもう臍を固めている。

 月音は手放そう。

 キツネ一族の集落に着いたら、事情を説明し、土下座でも切腹でもしてみせ、月音の世話を頼みこもう。

 月音のためだ。ぼく一人きりではあのコを育てていくなんてできそうにない。

 ヨウコが育てるべきであり、ひるがえっては同族である彼らのもとで暮らすべきだ。ひょっとするとヨウコはこのさきにいるのかもしれず、いないのかもしれない。いずれにせよ、ぼくはここで月音とお別れしなくてはならない。

 なぜだか呼吸がいちだんと苦しくなり、視界までぼやけてくる。

 まったくこんな体たらくを晒すはめになるのなら、日ごろからもっと鍛えておくべきだった。月音のためにバイトを増やし、月音のために家事をやりくりし、勉強は月音を眠らせたあとでし、無駄に早起きの月音に日の出とともに起こされる。

 身体を鍛える暇なんてぼくにはなかった。

 なぜかそれを口惜しく思う気持ちはない。

 月音がうちにやってくるまで、ぼくはかつてこれほどまで何かに追われ、必死になり、そして求められたことはなかった。勉強はそれなりに重ねてきたけれど、目標を見失うほど根を詰めた覚えはなく、けれど月音との日々は、辿り着くべきゴールなどはなかった。

 不安だった。

 それと同じだけ、満たされていた。

「そろそろ着くと思うけど、その前に打ち合わせも兼ねて一休み入れよっか?」

 アナッポさんが歩を止め、息を吐きながらこちらを向いた。ぼくは目元からしきりに垂れる汗を腕で拭うようにし、「それがいいですね」と言った。

「あらあら、うふふ」

 アナッポさんはなぜだか笑い声を立てた。

 (15)

 人間についての立ち位置についてアナッポさんは語った。

「いい? わたしたちは人間を畏れも敬いもしない。迫害された過去はあるけれど、そのたびにケジメはしっかりつけてきた。人間たちはわたしたちを敬うようになり、崇め奉った。わたしたちにとって人間とはそういう存在。けっして邪見にするようなものではないけれど、特別扱いもしたりしない」

「失礼のないように、という忠告ですか」

「というよりも、同等の立場だとは思わないで。人間は獣を畏れ、必要以上に厳しく当たる。言葉が通じないからと怯え、自分たちの常識が通じないからと徹底して容赦ない。でもわたしたちだって同じ。人間たちをまえにして、わたしたちはそっくりそのまま同じことをあなたたち人間に当てはめる」

「でもあなた方は人間社会で一時的とはいえ暮らしているわけですよね」学び舎という名目で山のそとに、それこそ人間社会に獣人たちの学校を設立している。

「それが?」

「だったら人間たちの脅威というか、賢さというものを知っているはずですよね」

「あなたたちだってミツバチの厄介さを知っていながら巣に近づき、甘い蜜を奪いとるでしょ? わたしたちだって同じ。人間たちの厄介さは知っているけど、だからってそこから得られる甘い蜜を奪わない理由にはならない」

 なるほど、と思う。松明の火はぼくとアナッポさんのあいだに横たわり、焚火と化して火の粉を飛ばす。標高が高いこともあり周囲には融け残った雪がまだ残っている。

「どうして月音は目覚めないのでしょう」

 答えを期待して投げかけたのではなかった。ふと愚痴のように零れ落ちていた。

 火がしずかに爆ぜ、アナッポさんはおなじくらいしずかに、或いは飄々と「それは」と口にした。「月音ちゃんが【氷眠(ひょうみん)】しているからよね」

「え?」

 思いがけない返答に、伏せていた顔をあげる。

 あれ、話してなかったっけか、とでも言いたげにアナッポさんは目をぱちくりさせる。

「わたしたち一族には神通力のほかに、いわゆる獣たちでいうところの冬眠のような性質があってね。それはもちろんキツネ一族にもあって。【氷眠】は、冬眠のすごくつよいやつ。時間を凍結してしまったように映るくらい、深い眠りなの。そのあいだは老いないし、食事の必要もない。じっさいに氷漬けにしたって問題なく目覚めるくらい外部からの変化にもつよくって」

 それはよいとして、でもなんだってそんな急に。

「月音はだってこの山に入るまでは元気にはしゃぎ回っていたのに」

 じぶんで言ってはっとした。この山に入るまではだいじょうぶだったのだ。ならば原因はこの山そのものにあるのではないか。

「たしかなことは言えないけど、なにかきっかけになるような、スイッチみたいなものに触れちゃったのかもね」アナッポさんは唇を突きだすようにし、考え込む。「氷眠の発動条件はいろいろあってね。ほら前に言ったでしょ。うちのポンもむかし獣化して戻れなくなったときがあったって。あれも原因は半覚醒というか、氷眠から覚めたばっかりなのに無理して神通力なんか使っちゃったからああなったのであって」

「そのヒョウミンってやつはどうやったら解けるんですか」

「氷眠するときに暗示っていうのかな。目覚めるための合図みたいなのを憶えておいて、それがきたら勝手に目覚めるんだけど」

 なんだその目覚まし時計のような便利機能は。けれど実際、体内時計と呼ばれる超感覚が動物の身体には内蔵されているくらいなのだから、さもありなんな話と言えなくもないような気がしないでもない。

「ならその目覚める合図ってなんなんですか。月音はどうやったら起きるんですか」

「ちょっとちょっと!? 服、服! 燃えてる燃えてる!」

 興奮しすぎて焚火に足を踏み入れてしまっていた。雪のなかに飛びこんで消火を試みる。

「びっくりしたぁ」

「それはこっちのセリフ」

 アナッポさんはさらにうえから雪を被せるようにし、「取り乱しすぎだよ」とちょっぴり叱りつけるふうに、けれど込みあげる陽気をこらえきれない様子で言った。

 念には念を入れて鎮火した部位に雪を掴み擦りこむようにすると、雪の下から狐の銅像がひょっこり顔を覗かせた。

   ***

 もうすぐ着く、というアナッポさんの言葉通り、ぼくたちは間もなくとある集落に辿り着いた。そこはたぬき一族たちのように木のうえに築かれた空中都市などではなく、ごくごくふつうの、人間が住んでいてもおかしくはなさそうな民家の縒り合せだった。

 というかここって……。

 なんだか妙に見覚えのある景観だ。夜中ではあるけれど森のなかとは違い、視界は拓けている。

 集落の至る箇所に狐の銅像が無造作に転がっており、ぼくがミーコと一緒に泊まった親切なおばぁさんの家まである。

「ホントにここなんですか?」

「そのはずなんだけど」

 案内した当の本人が不安げにしており、夜明けの薄ぼんやりとした道のさきに歩く人影へ目を留めるや否や、「あのー、すみませーん。おばんでーす」などと駆け寄っていく。

「おんや、おめさまは腹太鼓の娘ごでねか?」

「おばさま! やだ、お元気にしてました?」

 見知った顔のようで、二人は瞬く間に息を合わせ、久方ぶりの再会をよろこんでいる。

「あれま。あっちに突っ立っておんのはおとついの小僧こでねか」

 ようやくこちらの存在に気づいた様子で、おばぁさんはぼくのまえまでやってくる。

「ははあん。さては腹太鼓んどもの巣に近づぅて、逃げおおせてきたってところだべ」

 どうだ当たったか、と無邪気な様でアナッポさんに是非を問う。

「さすがはおばさま。ご明察~」

 アナッポさんもアナッポさんだ。

 あれだけぼくをビビらせておいて、キツネ一族の正体がこの村の住人たちだったなんて。

「そうならそうともっとはやく言ってよ」

 誰にともなくそう愚痴を零さずにいられないぼくをいったいだれが責められるだろうか。否、誰も責められはしない。

 (16)

 おばぁさんはぼくらを家に招き入れた。囲炉裏で湯を沸かし、茶をご馳走してくれる。

「はてさて。おまいさんらの話を聞かせてもらおうかいね」

 ぼくとミーコをもてなしたときよりもいくぶんやわらかい声音でおばぁさんは言った。

 おおむねの事情はすでにおばぁさんの睨んでいるとおりで、ぼくが話すべきは月音の世話を頼むことに終始している。けれど単刀直入に切りだして言いものかしょうじきなところ不安がある。断られたらおしまいだからだ。順序立てて語るのが正解なような気がし、だからぼくはヨウコとの出会いについて語って聞かせた。いちどミーコにも話して聞かせていたので、情報が整理されており、よどみなく話せたように思う。

「なぁる」

 おばぁさんは唸り、茶のお代わりを啜った。

「そいでそのいねくなった娘ご探しにわざわざ来なすったってことかいね。おとついおらに話したのは全部ウソだったとそういうわけかいね」

「すみませんでした」

「よかよか。話せん事情があったことくらい見抜いておったでね。けんどもよもやおらたち一族が人間さまに迷惑かけとったとは。こちらこそすまんことしたなぁ」

「いえいえ」

「どぉれ。問題のわらしさ、おらによっく見せてくんろ」

 促されぼくはうしろに寝かせていた月音をおばぁさんのまえに置いた。まるで骨董の鑑定をするみたいにおばぁさんは眼鏡をかけ、うーんと目を凝らすようにする。月音は帽子を脱いでおり、パンツも穿いていない。

「んん?」

「どうかしましたか」

「うーん」

 おばぁさんはむつかしそうな顔をしながら、虫めがねで観察するように眼鏡を付けたり離したりする。

「どうです。なにか解りましたか」

 返事がない。ぼくは心細くなって意見する。「アナッポさんの話では【氷眠】しているのではないかって」

「ふうむ」

 おばぁさんは眼鏡をはずし、懐に仕舞った。「わからん」

「はい?」

「なしてこのコが目覚めんのかよぉわからん。おめらの言うように氷眠のようだけんども、こりゃむしろわざと覚醒させんようにと暗示がかかっておる」

「暗示が?」

「手順が逆だべ。ふつう、眠るときに目覚めるきっかけさ身体に刻むんだけんどもこのコの場合は、きっかけが来たら眠るようにされとるんだべ。自分一人きりでは、んな器用な真似できねぇべぇ」

「……誰がそんなことを」

「さあてなぁ。おまいさんの話からすっと、そのいねくなった娘ごってことになるんでねか」

「ヨウコが?」

「そもそもおらだちの村からいなくなった娘ごなんてそう多くはねぇど。学び舎さ通うために里さ下りとる者もそう多くはね。ましてやおめさんはこの村のちかくでこのコさこさえたんだべ」

 こさえた、という言い方に恥ずかしさを覚えつつも、ええと肯定する。

「んだらばおらだって知っとるはずだべ。けんども誰だかよう分からん」

 ということはヨウコはこの村の出自ではないのか。

「でも、じゃあ月音はいったい」

 誰の娘ということになるのだろう。これではおばぁさんたちとの縁はなく、預かってほしいという要求をつきつけるのも容易ではなくなる。

「だいてぇなぁ」おばぁさんは渋面を浮かべ、言いにくそうに、「このわらし、おらだちの血筋じゃねぇど」と頬を掻く。

「はい?」

 となりで静かに話を聞いていたアナッポさんと声が重なる。「あの、それってどういう……」

「このわらし、腹太鼓の子どもでねか?」

 首を傾げながら、それでも自分たちの血筋ではないと確信を持った言い方で、おばぁさんは言った。

   ***

 キツネ一族にもたぬき一族を敵愾視する古くからの因縁は根強く残っており、だからこそかつて彼らにされた残虐な行いを目に見えるかたちで残しておこうと、破壊され、村中に撒き散らされた狐の像をそのままにしているのだという。だから、もし月音がたぬき一族の血を引いていると知れたら厄介な事態になると言って、おばぁさんはおめらは早めに村から出ていけ、と心を鬼にした苦しそうな表情でぼくらを家のそとへ追いやった。

「どうしよかった」

 アナッポさんは予想外の展開に戸惑った様子で、途方に暮れている。頼るべき彼女にそんな顔をされたのでは、ヘッポコ太郎たるぼくの立つ瀬がない。

「まずは駅に戻ってみましょう」

 ぼくはゆいいつ知っている道を、アナッポさんの手を引き、眠ったままの月音をおぶって進んだ。

「おばぁさん、むかしはもうすこし優しいひとだったんだけど」

「充分やさしかったじゃないですか」

 言うとホッとした様子でアナッポさんは、そうだよね、とぼくの腕をとって、絡みつくようにした。驚いて顔を向けると、だって寒いんですもの、とおしとやかに、或いはしたたかにかもしれないけれどアナッポさんは言った。

 駅に着くころには朝日の感光が周囲に彩りを与えた。無人駅に人影はなく、いつ来てもここだけは変わらない。平和の象徴にしたいくらいだと思ったけれど、変わらないことが果たして平和だろうかと疑問にも思う。

 プラットホームに立つ。ぼくがヨウコと出会ったときのベンチに座り、月音をひざのうえに寝せ、息を吐く。

 ここでぼくはようやく気を緩め、そして遅まきながらミーコのことを思った。あいつのことだからどうにか山を脱して安全な場所まで逃げおおせているだろうと思い、同時にあいつのことだからなぁ、と不安にもなる。

 ミーコならばぼくを助けだそうとしてたぬき一族の集落に忍び込む真似くらいしそうなものだ。山狩りで捕まっていまいかと考えだしたらだんだん心配になってきた。

 電車が来たらこのまま乗って、家に帰ってしまおうかとも考えていたけれど、ちょっとそれもどうかという気になってくる。

 考えなければならない事案が多すぎて、ぼくは頭が破裂しそうになっていることに今さらながら思い到った。

 ヨウコの行方はもとより、ミーコの安否も心配だ。ぼくたちを庇ってくれたアナッポさんたちだってこのまま何事もなく一族のもとに帰還できるだろうか。よしんば帰還できたところですんなり馴染めるだろうか。

 そもそも月音はいったい何の子だ?

 このコがキツネ一族の末裔ではないならば、ヨウコだってキツネ一族ではないということになる。ではヨウコはたぬき一族だったのだろうか。そう考えるよりなく、なるほど神通力で化かしていたのか、とぼくはヨウコを心のなかで非難する。あの詐欺師め。

「ひょっとしたらぼくの探している女性はあなたがたの仲間かもしれません」

 まとめた考えを打ち明けると、アナッポさんは、いえいえそれはないですよ、とぼくの考えを否定する。

「だって月音ちゃん、わたしたちとは違うもの」

「断言しますねぇ」

「だって断言できちゃんだもの」

 ここでも月音の素性を否定され、ぼくはもうならばこれはなんなのか、と生物学者にでも突きつけてやろうかとできるわけもないのに、わけもなく思った。

 こちらの内なる混乱を察してくれたのか、アナッポさんは、

「だってこのコ、お耳がわたしたちと違いすぎて」と月音の尖がった三角お耳を撫でつけるようにする。

「でも尻尾はむしろ似てますよ」と当てつけのように異を唱えると、

「そうなのよねぇ」とアナッポさんは案に相違して首をかしげた。

「どういうことですか」

「このコ、わたしたちからするとキツネ一族にしか思えないのに、でも言われてみればたしかにおばぁさんたちとも違って見えるのよ」

「どちらとも違っているということですか」

「そうなのよねぇ。どちらでもなく、どちらにも見えるというか。うーんでも、わたしたちからするとどう見てもキツネさんなんだよねぇ」

 おそらくはキツネ一族からするとどう見てもたぬき一族の末裔にしか映らないのだろう。仲間とは認められない。しかし言われてみれば敵とも違う。ぼくからすれば、どちらにも見えるし、どちらでもいい。すくなくとも人間ではないのだから。

 けれどこの認識もまた、月音ちゃんは人間でしょ、と言われれば、そうかもしれないと思える程度には月音は人間の特徴を受け継いでいるし、そもそもを言えば獣人だって人類というくくりでの一つの種族ではないのか。獣と考えるよりもいくぶんそうした考えのほうがしっくりくる。

「ならこのコはそういう存在なのかもしれませんね」

 ぼくは何気ない調子でつぶやき、深く考えるのを止めた。

「そう、なんでしょうか」

 アナッポさんだけが腑に落ちない様子で、ぼくと月音を交互に見遣っている。

 電車がやってくるまで残り六時間というところで、なにやら村のほうが騒がしいことに気づいた。

 賑やかな声が聞こえている。祭りだろうか。神輿を担いでもいれば似合いそうな暑苦しい喧騒だ。

 顔を見合わせ、ぼくらは阿吽の呼吸で嫌な予感を確信に変えた。

 月音を背負い、ぼくはアナッポさんと共に駅のそとへ飛びだした。アナッポさんは足ののろいぼくを置き去りにして、一本道の奥に姿を消す。風神を思わせる俊足に、やっぱり月音はあなたがたの末裔ではないのかと詰め寄りたくなる。

「どうして!?」

 やっとの思いで追いつくと、そこは村の入り口で、ちょっとした丘になっている。一望できる村からはむさくるしい男たちの雄叫び然とした声がしめ縄のように束となって昇り、村の反対側から上がるもう一方のむさっくるしい声と不協和音を奏でている。

 キツネ一族の村へたぬき一族が押し寄せてきたのだと察する。けれどなぜそうなったのかの経緯が不明だ。

「長老が帰ってきたんだわ」ぼくには見えない経緯がアナッポさんには見えているらしく、「わたしたちのしたことが知れて、それでわたしを追って来たんだわ」と言った。

 ポンくんを通して、アナッポさんたちの裏切り行為が露呈した。同時に、このままではキツネ一族の一員を人質にしようとした詭計がバレ、報復行為に出られるかもしれない。

 ならばやられる前にやってしまえとばかりに、たぬき一族は集団で押し寄せたに違いない、とアナッポさんは語った。

 語っている場合ではないのでは?

 ぼくは気が気ではなくなり、この場から逃げるべきか、それともどちらともなく味方となって、いずれかをバッタバッタとノしていくべきではないのかと考えたりもしたけれども、検討するまでもなくバッタバッタとノされる目に遭うのはぼくである。

「どうしよう……わたしのせいで」

 アナッポさんは口を手で覆うようにし、目に涙を溜めていく。

「あなたのせいでは……」

 ない、というのは簡単であり、同時にすべての要因はぼくにあるように思え、このままではすべての責任がぼくに圧し掛かるのではないかと考えたら、いたずらにアナッポさんの自責の念を否定するのは気が引けた。

 なんて卑しい男だろう。

 ぼくはじぶんに失望し、失ったなにかを補うべく、なにか勇ましい行動をとるべきだと臍を固めた。

 かといって万年ヘチャムクレのぼくなどに何ができるだろう。わーと割って入っていったところで、わーんと泣いて帰ってくるのが目に見えている。

 ぼくは考え、じぶんの非力さを痛感し、こんなときにヨウコがいてくれればと思い、同時にアナッポさんから聞かされた、勇敢な男スパイのことを思い、彼はいったいこんなときになにをやっているのだと理不尽な憤りに駆られた。

 なぜか頭のなかには唾棄すべき男、スケベオヤジことぼくの父親の顔が浮かんでいる。

 (17)

 戦禍の火種は月音にある。たぬき一族は月音をキツネ一族の子だと思いこみ、人質にしようとして扱った。問題はそこにあるわけだけれど、実際のところ月音はキツネ一族の子ではなく、キツネ一族にしてみればなぜたぬき一族が奇襲をしかけてきたのかさっぱりコンコンだったに違いない。

「待って、待って。待ってください。誤解です、誤解ですってばぁ」

 叫びながら割って入っていくけれど、ぼくはわーんと泣かされる以前に、呆気なくこん棒で頭を殴られ、気を失った。キツネとたぬき、いったいどちらにやられたのかも判然とせず、ひょっとするとぼくが人間であるという一点で同時に殴られたのかもしれなかった。

 明滅する視界にはいくつもの星が流れては消えていく。流れ星が消える前に唱えると願いが叶うというまじないを思いだし、ぼくはどうかキツネもたぬきも人間も、みんな仲良く暮らせますように、と願ってみせるけれども、唱えきる前に星はつぎからつぎへと流れては消え失せる。

 いつしかぼくの願いは、ぼくの声ではない声で唱えられており、ぼくはフカフカの何かに包まれ、ゆりかご然として揺れている。

 どうかこのコがすこやかに育ちますように。

 願いは星の数だけ紡がれる。

 どうかこのコが和解の象徴となりますように。

 どうかこのコが人として生きられますように。

 どうかそのときが来たら、このコが本来の姿に戻れますように。

 願いはまじないとなってぼくの鼓膜を揺るがせる。なにかが収斂していくのを頭のてっぺんに感じ、しだいにそれがこそばゆさを引き連れ、ぼくの顔の真横にくる。両アゴの付け根に、それまでなかった違和感が垂れる。本来あるべき起伏をなくし、本来あるべき場所を移動し、そこには穴が開く。

 そこへさらに女の言葉がそそぎ満ちる。

「ぬしは樹(たつき)。大地に根を張り、枝葉を伸ばし、立派な幹で家族を囲う。たぬきもキツネも人間も。ぬしのまえではただの人だよ」

 なぜか夢のなかの女は、ぼくの妻であるヨウコと同じ顔をし、まったくどうして気に食わないことに彼女のとなりにはぼくの父が、気色わるいほどのやさしい眼差しでなぜかぼくに微笑みかけている。

   ***

 目覚めると目のまえでは今まさに、キツネ一族とたぬき一族がくんずほぐれつ入り混じり、土ぼこりを舞わせている。ぼくのそばにはアナッポさんが膝折り地面に屈みこんでおり、身に纏っていた服飾を割いて、即席の包帯をぼくの頭に巻きつけてくれているところだった。

 その手が今は止まっている。見遣るとアナッポさんは口をぱくぱくと開け閉めし、言葉にならない言葉でなにごとかを言っている。

「すいません」ぼくは照れを隠しきれずに、「なんかちょっと、忘れてたことを思いだしちゃいました」と言った。

「忘れてたって、え、え? きみ、え、なにそれなにそれ?」

 彼女はぼくから生えた白銀の尾をゆびさし、そしてぼくの頭をゆびさした。彼女の視線を辿るようにぼくは頭に触れ、そこに生えるまん丸い耳を確認する。ぼくは意識して箒のような尾を振った。しならせると空気が払われ、風が起こる。アナッポさんが冗談みたいにコロコロと枯葉のように転がった。

「あわわ」

 あわてて助けに走る。彼女は目を回している。無事なようだと判り、ひとまずそのまま寝かしておくことにした。

「さあてと」

 まずはさておきぼくは雄叫びの渦巻く広場へといざ尋常に歩を進める。


 手前に二、三人の男たちが、おそらくはキツネ一族の者たちだろうけれど、今か今かと渦中に身を投じようと武具を携え、佇んでいる。ぼくは彼らの虚をつく格好で、背後から、一人、二人、と掴んでは投げ、掴んでは投げ、片づけていく。どこか雪掻きに似ているな、なんて考える。

 手短な者たちから手当たり次第に、ひょいとやって、ひょいとやる。すると、ぽーんといって、たーんとなる。広場の中心地に近づくに従い、揉み合いへし合いしている者たちが増えていき、ぼくは交尾中の蛇を引き剥がすように、ぐいとやって、ぽいとした。

 一つ、二つ、三つ、四つ。五つを超えたところで数えるのをやめ、ぼくはただひたすらに単純作業を繰りかえす。ひょいひょいぽんたーんぐいっとぽい。

 やがて村と森の境目まで後退したたぬき一族たちと対峙する。そこには背の低いずんぐりむっくりな年寄りが杖をついて立っており、毛虫のような眉毛のしたから鋭い目を覗かせる。

「ほおん」

 しみじみと唸り、老人はそこで、「やめておけ」と言った。ぼくへ向けられた発声ではない。案の定、背後のほうで武具を投げ捨てられる音が聞こえる。

 なるほどとぼくは思う。

 ぼくは背後に忍び寄るたぬき一族らしき男たちの気配には気づいており、そして返り討ちにしようと考えていたぼくの胸中を、目のまえの老人は喝破した。

 彼こそがたぬき一族の長老なのだろう。長老はさらに一つ、ほうんと唸る。

「相分かった。きょうのところは引き上げるとしよう。が、タツキとやら。おぬしが我らの諍いに首をつっこんだ時点で、これはすでにわれわれ狐狸だけの問題ではなくなった。ゆめゆめそれは忘れるな」

「父たちも承知のことでしょう。ぼくを人間として育てた父の、そして母のそれが考えのようです」

「まあよい。いずれ勝敗に興味はない。神はすべてを見透かしておられる」

 長老はおもむろに杖を掲げ、先端を天に向けた。それが合図となったのかは定かではないけれど、たぬき一族たちはこちらが感心するほどあっさりと、倒れた者や怪我をした者たちを背負って、すたこらさっさとこの場を、村を、あとにした。

「なにがなにやら」

 目を丸くしたままキツネ一族のおばぁさんがやってくる。ぼくたちの世話をしてくれたおばぁさんだ。

「ぬしや、その姿はいったい……」

「なんかぼく、純粋な人間ではなかったみたいで」

「そりゃ見たら判るがよ。なして今まで黙っておった」

「ぼくも知らなかったんですよ」

 というか忘れるようにとぼくに暗示をかけた者たちがいる。

「ひとまずたぬき一族が襲ってくることは当分ないと思いますので安心してください」

 それからぼくはすぐに山を離れる旨を告げ、しばらくアナッポさんをこちらの村に住まわせてあげるようにお願いした。

「もうすぐ彼女の弟のポンくんもこちらに寄越されてくると思いますので、いっしょに面倒を看てあげてください」

「おらはべつにいいだが、ほかの面々が何というか」

「ぼくは救世主ですよ? 彼女たちを迫害したらこの村にたたりが起こるかもなぁ」

 とりわけ大きな声でぼくは言った。遠巻きにこちらの様子を窺っている無数の村人たちの頭には一様に面妖な三角形の耳が生えている。ぼくの言葉が届いたのか、瞬時に形を失った。さも聞き耳など立ててはいませんよと示すようで滑稽に映る。もともと小心翼々な種族なのだろう。謙虚だと言えなくもなさそうだ。

「おめさん、向こうの長になにを言っただ」

 なぜああも簡単に撤退したのかと訊きたい様子だ。けれどぼくはあいまいに言葉を濁し、「おいおい話しますので」と再会したときにでも説明すると言いくるめた。

 アナッポさんはまだ失神しており、どうにも頭の打ちどころがわるかったのではないかと案じたが、キツネ一族のひとたちが、なんやかやと看病してくれているので水をささないようにし、ぼくはしずかに村を離れた。

 月音は村の入り口で眠りこけている。山を抜ければおのずと目覚めるだろう。このコもまたあのひとたちのまじないを受けている。山に立ち入れば氷眠し、山の水を浴びればより獣らしく姿を変える。

 おそらくあのひとたちはぼくが月音を連れてここには来ないだろうと高をくくり、それでももし連れてくるようなことがあった場合に備え、月音に呪詛を組み込んだ。眠りこけた子狐となれば、いくらたぬき一族に見つかったところで取って食われたりはしないだろうとの魂胆だ。わるくても追い払われるのが関の山だとぼくも思う。

 ではなぜぼくの記憶を封じ、人間としてあちらの社会で育てたのか。

「こればかりは直接話を聞かないことにはな」

 それが親としての義務だろう。

 駅に着くころにはもう耳や尻尾は引っ込んでおり、やってきた電車にぼくは月音を背負って乗り込んだ。

 一本しかない線路は、上りにしか行かず、本来修学旅行で降りるはずだった温泉街の駅で降りると、そこにはミーコが鬼のような形相で仁王立ちしていた。手には、神社に置き去りにしたぼくたちの荷物が携えられている。

「ホントに来たし。もうなんなの」

 わけが解らないぼくよりも数段、解せなそうな顔を浮かべ、ミーコはぼくを電車から引きずりおろした。

「下りの電車、三十分後だから。もう帰るよ。二度と来るかこんな場所」

 ほかの観光客たちがいっさいに振りかえり、辛辣な視線を送ってくる。ふんと鼻であしらいミーコは持っていた荷物をその場に置き去りにし、真逆のプラットホームへとつづく階段をのぼりはじめる。

 置き去りにされた荷物を抱え、ぼくはミーコの背中を追った。背におぶった月音が、うーんと春の野に蠢く虫たちを思わせるちいささで寝返りを打った。ぼくは胸に閊えていた棒きれがスコンとはずれた音を聞いた気がした。 

 (18)

 電車のなかでミーコから聞かされた話を整理する。

 ぼくがたぬき一族に捕らえられたあと、ミーコはやはりというべきかぼくを助けだそうとたぬき一族の集落に忍び込もうとした。即席の耳や尻尾をそのへんの植物でこさえてみたりしたものの、どうにも彼らの目を欺けるほどの完成度はなく、また夜になって静まってから動けばいいやと気楽に考えてみたものの、日が暮れる前に山狩りが開始されてしまい、ぼくを助けるどころの話ではなくなった。

 そこでミーコはまずは安全な場所まで、それこそ文明の利器の使える場所まで引き返そうと思ったのだそうだ。戦略的撤退と言うべきか。来た道をひた走り、神社に放置した荷物を持って山を駆け下りた。駅に着くとちょうど電車が滑り込んできて、ミーコは三秒ほど悩み、そしてまぁあいつならだいじょうぶだろうとぼくの無事を投げやりに断じ、乗り込んだそうだ。

「武器揃えて殴り込みに行ってやろうかと思って」

 飄々と嘯くミーコに冗句を言っている素振りはない。

 現に、温泉街に辿り着いたミーコはそこで武器となるべく道具を探しに回り、お土産屋さんで売っている木刀やら模造刀などを買い揃えようとしたところで、よこから声をかけられた。

「間違いなくあのスケベオヤジだったね」

 すなわちぼくの父に会ったのだという。

 断言するミーコだけれど、彼女が最後に父と会ったのは十年以上前になる。顔なんて憶えているわけもないだろと言ってみせても、「だってあの目の下の隈だよ。忘れるわけないって」と主張を譲らない。

 スケベオヤジことぼくの父はそこでミーコに、あすのこの時間に、あの電車に乗ってぼくがやってくるから、それまでこのお金で温泉にでも浸かっていなさい、と言ってぼくたちが用意してきた旅費と同じだけの金額の入った封筒をミーコに手渡して消えたのだという。

「文句を言う暇もなかったよ。まさかお小遣いくれるとは思わなかったし」

 逆ならぶん殴ってたけどさ、と言ってミーコはばつのわるそうに耳たぶを触った。

 お金をせびられたならともかくくれたというのだから、たしかに責める謂われはないだろう。ミーコは不承不承、温泉に浸かり、豪勢な旅館の食事を楽しみ、そして朝にもう一度温泉に浸かって、日の沈みかけた夕方、電車がやってくるのを待っていたそうだ。

「自分だけ満喫してズルい!」

「かってに拉致られたあんたがわるい」

 ミーコは頬をふくらませた。

 無事にぼくたちは地元に辿り着いた。帰ってきたという感慨はなく、いったいぼくたちは何をしにあんな何もない山奥まで足を運んだのか、とそのことばかりを考えた。

 考えがまとまらず、だからぼくが体験したことはミーコには話さずにおいた。

「まぁ無事だったからいいけどさ」

 淋しそうに言い、ミーコは実家である神社の石段をのぼっていく。

 ぼくはじぶんのアパートへと歩を向ける。けっきょくヨウコとは会えなかった。収穫ゼロではないか。骨折り損のくたびれもうけを地で描いてしまったと自覚すると、どっと肩が重くなった。

 けれどそれはぼくの気分だけの問題ではなく、背中におぶっていた月音が、ようやくというべきか、「おっとー」と寝ぼけ声で、「おなかすいたぁ」とモソモソしだしたからであり、だからぼくはおはようと言うのも忘れ、「きょうはとくべつに月音のだいすきなハンバーグとスパゲティのスペシャルコースだ」と意気揚々と告げるのだ。

 コーンスープは?

 素朴に訊きかえす月音がおかしくって、そうだねコーンスープもつけなきゃスペシャルじゃないね、と幼稚な理屈に胸がほっこりとした。

 買い物をすべくスーパーに寄り、充電を終えたオモチゃのようにテトテト歩く月音の手をとりながら、四日ぶりに我が家への帰路に就いた。ぼくらの住まい、オンボロアパートのまえには、なぜかあの男が、スケベオヤジことクズのなかのクズが煙草を吹かし立っている。

   ***

「なんだよ。せっかく来てやったのに閉めだすとは何事だよ。なぁおいタツキちゃん? お父さまも仲良く食事がしたいですよ。なぁおい月音もなんか言ってやってくれよ。ホント情けないほど冷たいお兄ちゃんですねぇ」

 オンボロアパートの利点は激安の家賃だけれど、欠点といえばまさにこの状況が示すとおり、壁が薄く、玄関の扉も段ボールがごとく薄っぺらい点だ。閉めだそうにもこう喚き声が筒抜けでは、閉めだした意味がない。

「近所迷惑になるだろ」

 扉越しに抗議すると、ふざけたことにこのクズ男は、

「わおーん。わおわおわおーん」

 犬の真似をし、吠えやがる。

 ふと部屋に目を向けるとさきほどまで行儀よく座っていた月音が鼻の穴を大きくして、興奮気味にこちらを見遣っている。

 いやいや月音さん。

 あなた何ちょっとソワソワしてらっしゃるの。

 キツネって遠吠えするんだっけかなどと考えながら、いい加減にしてくれとぼくは致し方なく玄関の扉を開けてやる。

「おお我が息子よ」

 大袈裟に抱擁しようとしてくる親父を避け、ぼくは月音のとなりに腰をおろす。

「おいおい。何警戒しちゃってくれてんのよ。お父さまだぜ。もうすこし歓迎というかだな」

 庇うように月音をひざのうえに載せると、

「まぁいいか」親父は興が醒めたのか、茶化すのをやめた。玄関先に置いたままになっている買い物袋に目を留め、「お。なんだよ。飯、これからか? だったらちょちょいのちょいってな。久々に俺様が作ってやるぜ」

「触んな」

 非難の声をものともせずに親父は鼻歌交じりに食材を並べはじめる。間もなく、「ハンバーグとミートソースパスタっておまえなぁ」材料から夕飯のメニューを見抜いた様子で、「肉と肉ってそれじゃ月音が可哀そうじゃねぇか」

 柄にもないセリフを口にする。まるで父親のような発言ではないか。おもしろくない。

 途切れることのない鼻歌に聞き覚えはなく、即興で奏でていると判る。むかしから妙なところで器用な男だったと段々とこの男の性根を思いだしてくる。

「よっしゃ。できたで」

 ちゃぶ台に並べられた皿のうえには、腹立たしいことにぼくが作るよりも上質なハンバーグとスープパスタ、そしてトロトロのコーンスープが、そこだけレストランかと見紛う端麗さで盛りつけられている。

「さあさあ、どうしたどうした」ちゃっかりじぶんの分までこさえ、親父はぼくたちの対面に腰をおろす。「熱いうちにほら」と勧める。「食いねぇ食いねぇ、寿司食いねぇ」

「おすし、どこぉ?」

 素朴につぶやく月音の口を手で塞ぎ、まずはぼくが毒見ならぬ味見する。判っていたことだが美味いから捨てるにも捨てられない。気づくと月音のよだれで手はベタベタになっている。このままでは腕を齧られてしまいそうなので、ぼくは月音にも食べさせた。

 途中でこちらの手からスプーンを奪うと、月音はかつてないほどムシャムシャとそれこそ貪った。

「ガキはこうでねぇとな」

 満足気な親父の己顔が気に入らない。

 なにより、ぼくが作ってもここまで夢中で食べたりはしない月音に、おとなげなく嫉妬しているじぶんが情けなかった。

 (19)

 はしゃいで食べて眠くなる。子どもの三大要素とも言うべき特性のおかげで月音は四日ぶりに目覚めたばかりだというのに間もなく眠りについた。

 さほど不安に思っていたわけでもないのに、

「しんぺぇすんな」と親父が言った。「氷眠はあの山でしか起きねぇ。あすになりゃ起きるさ」

 食器の片づけまでしてもらって、いっさいもてなさないわけにもいかないだろう。ぼくは親父に茶を淹れてやった。

「酒はねぇのか酒は」

「あるわけねぇだろ。ぼくはまだ未成年だ」

「かてぇこと言うなよ」

 そうだ。この男はこういうふざけた言葉を至極真面目に言うような男だった。徐々に気分が滅入ってくる。

「訊いてもいいか」ぼくは口火を切った。

「そのために来たようなもんだかんな」

「ぼくの母親についてだ」

「死んじゃいねぇ。まぁおおかたおめぇの察しのとおりだ」

「獣人は老いないのか?」

「いんや。まぁ時間の流れが違うといえばそうなるかもしんねぇな。ただあいつの場合はとくべつだ。いんやそうじゃねぇな」

 あいつだけがとくべつだ、と親父は言い直す。

「あいつ、ここを訪れたときも耳や尻尾を隠してなかっただろ」

 言われてみればたしかにそうだ。獣人たちが神通力を持っているならば、ヨウコだって耳や尻尾を隠せたはずだ。ではなぜあのままの姿で里を下りてきたのか。

「あいつはそういう器用な真似はできなくってな。かといって神通力がねぇってわけでもなくってよ。まあ体質と言っちまえばそうなんだろう。あいつは年を取れねぇのさ」

 親父はヨウコの性質を、常時氷眠体質だ、と説明した。

「常時氷眠?」

「そうだ。氷眠についちゃもう知ってるな」

「冬眠の深いやつだろ」

「間違っちゃいねぇが正しくもねぇな。ありゃ実際に肉体に流れる時間を極限まで拒む、いわば世界からの乖離だ」

「はぁ?」

「理屈捏ねて説明すっこともできっが、まあ頭のかてぇおめぇにゃちょいと刺激がつよすぎるかもな。簡単に言っちまえば、世界からの干渉を極力受けないようにってな、見えないバリアを張ってるようなもんだ」

「バリアだぁ」

 こちとら真面目な話をしてるんだ、と抗議すると、だからこうして話してやってんだろうが、と怒鳴られる。逆切れだ、と非難すれば、正当な怒りだボケナスが、とどやされる。しかし軽佻浮薄が常である男がここまで感情を顕わにするというのは、それだけ真剣に話しているのだと考えられなくもなく、だからひとまず話を聞いてやることにした。

 布団のうえの月音が寝返りを打つ。

「だいたいおめぇは」と親父は語気を鎮め、「せっかく学び舎に通わせてやったのに、なんだってなんも気づきもしねぇで卒業しやがって」と意味のよくわからないぼやきを口にする。

「学び舎に通わせって。なんのことだよ」

「おめぇが通ってた学院だよ学院。ありゃ獣人ご用達の学び舎だ」

「わっつ?」

「なんで英語だよ。おめぇ、あそこで孤立したろ? そりゃそうだ。同族っぽいが同族ではなし。迷いこんだ人間かとも思えるが、気配は明らかに人間ではない。近寄りたくはねぇよなそんなやつ」

「は? は?」

「まあこちとら端から友人なんぞつくれるわけがねぇと期待なんざしてなかったけどな。しかしまあなんだ。せめてもうちっと周囲の違和感ってもんに敏感になってほしかったよな。獣人の存在どころか、あの学院の特異性――外界から隔離された生活をもうちっと疑えっつんだよ」

「そりゃ変だとは思ったけれども」

 誰だって自分の通った高校が世間一般の水準から大きくかけ離れているだなんて思わないものだろう。よしんば思ったとしたって一風変わった校風だなくらいの所感の域をでないはずだ。

「俺たちはおまえを人間として育てたかった。一族の血筋にうるせぇ野郎どもの許にいたんではどうあっても馴染めねぇと知っていたからだが、まあことはそう簡単でもねぇ。おめぇにゃ一応、それなりの枷は強いていたが、神通力の発芽だけはどうしたって免れねぇ。或いは〝あいつ〟の特性が受け継がれて、なんの異能も持たねぇまま成人することもあるかも分からなかったが、まあ要はどういった可能性があろうともおめぇを本当の意味で孤立させねぇためには人間として育てるのがてっとりばやかったってだけの話だわな」

 よみがえった記憶のなかにはたしかにそういった旨を相談していた父と母の姿が、すなわち今こうして目のまえにいるクズ男とヨウコの姿が鮮明に残っている。彼らはぼくの親であり、ぼくは彼らの息子である。だから必然、ヨウコの娘である月音はぼくの妹になるわけなのだが。

「月音はいったい誰の子だ」

「おめぇと同じだよ」親父はこともなげに応じる。「俺とあいつのガキさ」

 やはりぼくは月音の父親などではなく、ぼくと月音は兄妹だったというわけだ。

 ふざけるな。

 湧きあがるこの怒りがいったい何に対して向かう反発心なのかが解らない。無性に腹が煮え、突きつけられた事実を受け入れたくはなかった。

「あんたらの企みはなんとなしに解る。たぬき一族の長老が撤退したのもぼくの記憶を読んだからだ」

「正しくはねぇな。あのジジィは他人の記憶なんざ読めねぇよ。おめぇがおめぇの記憶をもとに推測した仮説をあのたぬきオヤジは真実だと見做したってだけの話だ」

「真実ではないと?」

「おめぇの仮説がか? 当ててやろうか。おめぇはこう考えたんだ。俺とあいつが夫婦となって、交配したせいで、じぶんのようなハイブリッドが産まれたのだと。そして当時、一族を裏切った俺は追放され、それを追ってあいつも村を飛びだした。キツネ一族の長でありながらだ。が、けっきょく俺たちはおめぇを守るためにいっしょに暮らすことをせず、あいつは山で、俺はおめぇを守るために人間社会に身を置いた。すべてはおめぇをいずれたぬきとキツネ、双方の一族を一つに結びつけるための神に仕立て上げるための策なのだと」

「違うのか?」

「正しくはねぇ。なら山に残ったあいつはいったいどこで暮らしてた? あのクソ狭めぇ神社にか?」

 それはぼくも疑問に思っていたことだ。ヨウコはいったいどこで暮らしていたのか。キツネ一族のおばぁさんはヨウコを知らない様子だったし、けれど過去、ヨウコが村の長として君臨していたときのことは知っていたはずだ。ひょっとするとあのおばぁさんもグルだったのだろうか。閃き、だからぼくはそう言った。

「あのおばぁさんが村で匿っていたとか」

「アホかおめぇは」

 親父は言った。いずれ来たる争いのときにたぬき一族の長にもし見られでもしたら、せっかく巡らせた詭計が水の泡と化す。「協力者はいねぇほうがいいんだ」と親父は吐き捨てた。

 ただ単に協力者を募れなかっただけではないのかとぼくなどは思ってしまうけれど、まあいい。今はヨウコがどこにいるのか、どこで暮らしていたのかのほうがずっとだいじだ。そもそも親父とヨウコが離れ離れで暮らしていたとして、だったら月音はいったいつこしらえたのだろう。会わずに子供をつくろうとすれば、それこそ人間社会の体外受精技術が必要になってくる。果たしてそこまで大がかりな策を弄したとでも言うのだろうか。

「ちげぇよバカ」ぼくの考えを冗談めかし告げると、親父は鼻で笑い、「一緒にいなけりゃ辻褄があわねぇってんなら、ずっと一緒にいたってことになるだろうが」と妙なことを口走った。

「は?」

「だからおめぇだってずっと一緒に暮らしてたろうが」

「は? は?」

「まあ、そういうふうに誤解するようにしてたんだからその反応が当然だ。それはそれとしておめぇ、俺もまたたぬき一族だってことは俺にも神通力があるってことになんだろ。いったいどんな神通力かって興味はねぇか」

「あるっちゃあるけど」それより今はさきほどの言葉の意味、ヨウコがずっとぼくのそばにいたという信じられない発言の真意を知りたい。ぼくがそう迫ると親父は、まあまあいいからいいから、と宥め、

「俺の神通力はそれこそ特別でな」と鼻高々に、「こういうことを、自分以外にも使えるって点がなにより特別だ」と言って自身の鼻をまさしく天狗のように高くし、あろうことかぼくの鼻までを高くして見せた。

「この際だ、誤解を解いとこうじゃねぇの」親父はますます鼻を高くし、こう告げた。「俺は今もむかしもあの女にぞっこんだ。俺ほど一途な男はそうそういねぇぜ?」

 ぼくはかつて親父が手籠めにしてきた女たちの姿を思い起こし、次点で彼女たちがぼくに吐いた数々の悪態を思いだし、いったい彼女はどんな気持ちであんな言葉を投げつけたのかと、ヨウコの本懐を推し量れずにいる。

   ***

「ぼくが思っていたよりもあんたがクズじゃないってことは分かった。でもならどうやって金を稼いでたんだよ」

「愚問だな」

「なに?」

「人間として育てられたおまえがどうやって学び舎に入学できたと思ってんだ」

「そりゃあれだろ。ふつうに願書を出して」

「バカか。小中とふつうの学校に通ってたんだぞ。履歴書みりゃ人間だってモロばれだ」

「なら誰かが見落としたか、或いは」

 学び舎の運営者がぼくの素性を知っていながら受け入れてくれたかだ。

「疑問は解けたか?」

「あんたが学長だったってのか……」

「いんや。ポストはほかの面々に任せてある。陰の運営者とでも言やそれらしいかな」

「キツネやたぬきの一族はそのことは」

「ジジババどもは知らねぇままだな。俺よか下の世代、それこそ学び舎で学び、のちのち教師になった者たちはみんな知ってる。滅多に里にゃ帰らねぇってんで今回、ジジィのほうから出向いてきやがったが、まあおまえらの起こした騒動のおかげでとんぼ返りだ。バレずに済んだよ」

 どうやらたぬき一族の長は、学び舎を視察に出かけていたようだ。

「まるで陳腐な革命だ」と揶揄するも、

「まるでじゃねえ。陳腐そのものさ」親父は意に介さない。「耳や尻尾が違うからってなんだってんだ。どちらが神の遣いかなんてどうだっていいじゃねぇか。どうだってよくねぇってんなら両方遣いを名乗りゃあいいだろ。あいつらただ、自分たちだけが優位に立ちてぇってだけで、神の遣いを名乗って好き放題してぇだけだろ。そこに正当性が一つでもあんのかって話だよ」

「だからって親父のその理屈を押し付けたらダメだろ」ぼくはアナッポさんが言っていた言葉を思いだし、言った。

「バーカ。どんだけ高尚な考えだってけっきょくは自分がしあわせになりたいっつう我がままだろ。どれだけ他人とそのしあわせを共有できるかって、ただそれだけの話だろうが。だったらより多くの種族が多少の我慢を強いてでもみなでしあわせを抱けるようにすんのが一番正しいに決まってんだろ。自分のしあわせのために他人を犠牲にすんなってだけの話だぜ。もっと言やぁ、地球規模、宇宙規模の視野で見りゃ、人類が繁栄しようが滅びようが、そんなこたぁ関係ねぇだろ。一族一族ってバカかっての。一族の繁栄を考えるよりもまずは自分のしあわせを考えろってぇの。一族のために何命張ってんだっての。一族にとっちゃおめぇのしあわせなんざ山にとっての小石だぜ。消えたところでどうってことねぇのさ。人類にとっておめぇという存在がいてもいなくてもいい存在ってのと変わりねぇ。だからって好き勝手やっていいってわけでもねぇ。いいや、好き勝手やってもいいが、すぐに破滅を迎えるぜ。破滅してぇんならかってに死ねよ。他人さま巻き込んでんじゃねぇってな。そうやって大勢の反感を買ってやっぱりすぐに破滅すんのよ。そうなりてぇ人間っってのはいなくてな。結果的にそうなっちまうってだけの話でよ。だったらもっと利口に、長く浅く楽しい日々を送りつづけるほうがよっぽどしあわせの名にふさわしいとは思わねぇか」

「だからその理屈は、それこそ親父の我がままで」

「そうだ。それでいい。そうやって非難できる自由を俺はおめぇに与えてやりたかったのよ」

 親父はらしくもなく、神妙な面で頬をほころばす。「すくなくともあの村じゃ、一族のなかじゃあ、そうした批判も口にできなかった。許されなかった。ダメだった。窮屈で窮屈でたまらなかったのよ。なにも俺ぁ、俺の考えをほかの連中に押し付けようなんざ思ってなかったんだぜ。それなのに自分で自分の正しいと思うことを考えることもあの場所じゃあ許してもらえなかった。自分の思うように想う相手を好くことも、好きあうことも許されなかった。俺は一族の考えだって否定するつもりはなかったんだぜ。あんたらがそうしたいならそうすればいいと思っていた。だがあいつらは俺にばかり押しつけて、俺の考えを何一つ理解しようとしちゃくれなかった。挙句の果てに血筋が違うというそれだけの違いで、考えが違うというそれだけの違いで、相手の一族を傷つけようとした。自分たちの都合のいいように情報を解釈し、理解してやろうという気概も持たず、一方的に嫌悪し、排除しようとした。むろん俺の一族にもやさしい奴らはいた。争いはよくないと考える者たちはすくなからずいたが、そうした声は一族という巨大な自尊心のまえでは屁の役にも立たなかった。圧倒的狂気のまえでは良心など火にそよぐ風に等しい。やさしい心根を踏みにじってみせることで狂気は狂気の有効性をはっきりと誇示する」

「言いたいことは解ったけど」ぼくはやはり言わざるを得ない。「親父のその正義感で多くの者たちの人生を無闇に掻き乱すのは正しいことだとは思えない。ぼくの人生だけならまだいい。だけど月音はどうなる。ぼくのことを父親だと思い、母には捨てられたと哀しみ、人でも獣でもなく、ならいったい何として生きればいい」

 じぶんのことなどどうでもいいと口では言っておきながら、ぼくは月音を立てまえにしてじぶんのことを理由に親父を責めている。ぼくはいったい何として生きればいい。キツネかたぬきかニンゲンか。

「好きに生きりゃあいい」親父はなんでもないような調子で、なんでもないような言葉を言った。「おめぇにゃ何も与えてやれなかったが、しがらみを残したつもりもねぇ。好きな場所で好きに生きろ」

「でも、ぼくはたぬきとキツネを束ねるための神として――」

「崇められるような玉かよおまえが」親父は噴きだすようにした。「いいか。誤解してるようだから正しとくが――まあ誤解するように仕組んでたんだから当然なんだが――おまえは何も背負わなくていい。おめぇが卒業旅行だなんだと言って俺の出自に興味を示し、あの山に近づこうとしたから、ちょうどいいと思い、それとなく気づかせようと〝あいつ〟に一芝居打ってもらったってだけの話だ。月音を預けたのも、獣人への理解を深めさせるためで、本気で世話を期待しちゃいねぇよ」

「だけどぼくは月音を……!」

「本気で娘だと思ったか? 嘘だな。情は湧いたが、どこかで我が子として育てることに対してはしり込みしていたはずだ。しょうじき今もホっとしてるんじゃねぇのか」

 我が子ではないと知ってよ、と嘯く親父の顔をぼくは気づくと殴り飛ばしている。

「あんたにゃあんたの思惑があるんだろうが、それをぼくに押し付けるな。だいたいな。ぼくはあんたに父親らしいことをしてもらった覚えなんて何一つないんだぞ。かってに押しかけてきて、かってなことを宣巻いて、かってにぼくの気持ちを決めつけるな」

「おうおう恐いねぇ。だがあんましうるさくするなよな。月音が起きちまうだろうが」

「ここはぼくの家だ。あんたが出てけ」

「やれやれ。きょうのところはそうさせてもらおうかね」

 立ち上がり親父は、「父親失格だとは思ってるんだぜこれでもよ」と目元だけを和らげる。「父親らしくしたかったとも思ってるんだ。だからかな。すこしばかりおめぇがうらやましくもあるのよ」

 言って人形のようなかわいらしさで眠る月音に穏やかな眼差しをそそぐ。

「出てけ」

 唸るように吐くと、はいよ、と親父はおとなしく部屋を出て行った。

 部屋には冷蔵庫のぶーんと唸る音が満ち、親父の残り香だろうか、タバコの匂いが漂っている。

 (20)

 休日を挟み、一週間ぶりに大学へ顔をだすと、やたらと他人の視線が痛く感じた。なぜこうも見られているのだろう。ミーコ効果だろうか、などと考えていると、案の定、

「これって本当なんですか」

 四、五人のグループに囲まれた。彼らに突きつけられたメディア端末の画面には、大学の掲示板サイトが表示されており、そこには「ミーコさまに隠し子か!?」という見出しの記事が載っている。ミーコの写真もあり、彼女の隣には月音を背負ったぼくの姿がはっきりと映っている。いったい誰が撮ったのだろう。ひょっとしたらファンクラブの会員たちがなかなか帰らないぼくたちを心配し、正確にはミーコの貞操を心配し、実家である神社のまえで張り込んでいたのかもしれない。かるく犯罪の匂いがするが、ご苦労なことだ。ともかくぼくは彼らに突きつけられるかたちで、そうしたデマが出回っているのだと知ったし、そうしたサイトがあることも初めて知った。

「まあいいんでない?」

 相談するとミーコは心底どうでもよさそうに、それよりもさ、とかろやかに話題を変えた。「あの集落の稲荷信仰について調べてみたんだけど」といくつかのコピー用紙を見せてくる。

「どうしたのこれ」

「だから調べてみたんだってば」

 訊けば大学の先輩で民俗学を専攻しているひとがおり、そのひとを通じて情報を集めてみたのだそうだ。

「そのひともミーコのファンなんじゃ」

「使えるものは使わなきゃ」

 うわぁ、仲良くしたくない人種だ、とぼくはわけもなく思った。

   ***

 ミーコの調べによるとあの集落はかつて京の都を追われた貴族が身を寄せたことで稲荷信仰が根付いたという話だった。が、そもそもその信仰というのが狐を主体とした稲荷信仰であり、だからおそらくは元々それ以前にはすでにたぬきを主体とする稲荷信仰が根付いていたのだろうと推察する。アナッポさんの話からすればそういうことになる。

 では京の都からやってきたその貴族はどこに消えたのだろうということになる。あの集落にはかつて人が住んでいたのだろうか。住んでいたのだろう。或いは、最初からキツネ一族が住み着いたかだ。

 要するに京の都を追われた貴族がキツネ一族だったという顛末である。そう考えると、なぜわざわざすでにあるたぬき信仰を押しのける形でキツネ信仰を布教したのかが頷ける。自分たちにとって都合のいい環境にし、気ままに振る舞うことを善しとする風土を築こうとしたのだ。

 そう仮定してみると、件の貴族たちがなぜ京の都を追われたのかも漠然と判ってきそうなものだ。

 諍いの種はいつの世も、我を押し通そうとする頑なな意思によって芽生えるものだ。妥協を知らず、譲歩を学ばぬ者はいずれ厄災を運んでくる。

 休みのあいだに溜まったレポートなどの写しを渡すとミーコは、みんなにお礼しなくちゃ、と言ってぼくと別れた。きょうは夜通し飲み会だ、困った困った、とマンガちっくな仕草をして、タっちゃんがいるとみんな不機嫌になるから来なくていいよ、とわざわざ言い添え出かけていった。

 ぼくはまっすぐ帰宅の途に就く。親父が去った翌日、ポストを覗くと封筒が入っており、しばらくの生活に困らないだけの大金が詰まっていた。月音の養育費にしても多すぎる金額だ。

 使わないという選択肢もあったけれど、背に腹は代えられず、いずれ突き返すのだとじぶんに言い聞かし、ぼくは三つ掛け持ちしていたバイトをすべてやめた。

「ただいま」

「おっとー。なんかしっぽがー」

 部屋に入るなり月音がたどたどしく寄ってくる。もふもふのしっぽを抱えている。またぞろ野良猫と遊んだのだろう。「わかった、わかった。あとで風呂な」

「そうでなくてー」

「なんだ」

 ぐずる一方の月音を不審に思い、ぼくは月音を抱きかかえ、逆さにし、目のまえにお尻がくるように持ち替える。よくよく目を凝らし、

「なんだこれ」

 ぼくは目をひん剥いた。

 なぜか月音は尻尾を二本生やしていた。

 (21)

 増えている。なんど数えてみても、引っ張っても、齧っても、首に巻いてマフラーにしてみせても、それはモフモフの尻尾であり、二本ある。

「なんで?」

 月音といっしょになって首をかしげる。おかしい。

 そう言えばぴょんぴょん跳ねていたひげもいつの間にかなくなっている。山で生えたのだから下りれば消えるのが道理だったのかもしれない。いずれにせよ、月音は獣化はしなかったわけだ。

 ではなぜ化け狐のような変化を?

 長生きした猫は尾が割れて、猫又という妖怪になるという。よもや月音まで妖怪変化するとでもいうのだろうか。そもそも獣人とはいったい何だ? あまりに当然至極の様相で目のまえに登場してしまったので、ああそうなのか、と存在を受け入れてしまっていたけれども、果たしてあれらは何なのか。

 キツネやたぬきと交配した人間が産んだ半人半獣というのがもっとも呑みこみやすい仮説だけれども、果たして人間が獣との子を産むだろうか。寡聞にして聞いたことがない。

 では進化の過程で獣人という種族が派生し、山奥で細々と生きながらえてきたというのはどうだ。無理がある。というか彼らには神通力なる人類には見られない奇特な性質が備わっているではないか。氷眠にしたってそうだ。やはり彼らは人類とは違った生命体なのではないか。

 というか、獣人を彼ら呼ばわりし、別種の存在のごとく扱っているぼくという存在そのものが問題の種族ではないのか。というか問題の種族からしても問題の交配種(ハイブリッド)ではなかったか。

 月音にしたってそうだ。キツネ一族でもたぬき一族でも人類でもなく、かつどれでもある異形の種。

 ぼくは思いだす。キツネ一族の村で発揮したぼくの尋常ならざる膂力を。あれだってほかのキツネやたぬきの一族には見られない奇特な性質ではなかったか。だからこそたぬき一族の長は早々に撤退を表明し、暗黙の了解での停戦協定を結んでくれたのではなかったか。

 人間社会で言うところの核兵器のような存在がぼくであり、或いは月音もまたそういった危なげな臭いを立ち昇らせる何かしらかもしれないと考えると、ひょっとして親父やヨウコは、やはりというべきか、ぼくたちを最終兵器として三つの種族を統率するための道具にしようと考えていたのではなかったか。

 それが善いことかわるいことかは分からない。往々にして時代を変える出来事は、後世から見た視点でなければその良し悪しを定められない。善しと思ってしたことも、悪しとされていることも、後世からすれば悪であり善なのかもしれないのだ。結果良ければすべてよしとでもいうようなぞんざいな理屈が、歴史的な視野をもってすれば道理としてまかり通る。

 だからもし、親父たちが自分たちの人生を犠牲にしてでも未来を切り拓こうとしていたとして、そのために自分たちの生きる時代を、ややもすれば自分たちの子供を、すなわちぼくらを犠牲にしようとしていたとしていったい何がふしぎだろう。規模の違いこそあれ、親父はそういう思想のもとで行動をしている。

 ぼくたちのためと言って、自分を犠牲にし、二つの種族を巻き込んで幼稚な革命を陰に回って推し進めていたのではなかったか。

 或いは、ぼくたちのこともそうした革命のための駒としか思っておらず、次世代のために犠牲にすべく踏み台だとしか思っていないとしていくばくの疑問が湧くだろう。父親とはどうしたって認めがたいあの男は、むかしから今に至るまで、ぼくにとってはずっとそうしたクズでわがままな男に映っている。

 かといってそんな正義感剥き出しにするような大胆不敵な男でもなかったはずだ。

 いや、あの男のことなんてどうだっていい。かってに推し進められている計画があったところでそんなのはこちらが搭乗拒否すれば済む話だ。

 まずは月音の体調がだいいちだ。ぼくはようやく考えをまとめ、意識を月音に向けた。

「痛いところはないか」

「ないけどぉ。なんか、かういよぉ」

「かゆい?」

 短い手で背中を掻くようにする月音は滑稽だ。ダニだろうか。それにしては様子がへんだ。

「どれ。ちょいとパパに見せてみろ」

 未だにじぶんをパパ呼ばわりするじぶんこそが滑稽に映る。このコは我が子ではないというのに。

 自虐しながらも月音の服をめくると、背中にはこれまでになかったはずの妙な痣が浮かんでいた。

 いや、痣かこれ?

 紋様とでも言えばそれらしい。幾何学的な紋様が、月音のしろくなめらかな肌に赤く浮かんで見えている。まさしく血の色を彷彿とさせる濃い赤で、ぼくは思わず怪我をしているのではないかと疑ったが、そういうわけでもなさそうで、それは皮膚に滲みでるように浮びあがって見えている。

「痛くはないのか」

「ないけどぉ」と月音は、「かういよぉ」と繰り返す。

 なるほど。手に負えない。

 こういうときにこそ親父の出番だろうが。なにやってんだあのクズ男は。

 憤ると同時に、もしや、と閃く。あの男がやってきたから月音がこうした変化を及ぼされたのではないか。あの男がぼくたちにそのむかし枷を強いたように、今こうして新たな枷が与えられたのではないか。

 或いは、かつて与えられていた枷がはずれはじめているのではないか。

 そうだとも。これだけの変化が生じているのに痒み程度の実感しかないというのは妙だ。身体が変化しているのではなく、これは変化していた身体が元に戻っている途中なのではないか。

 だとして、元に戻った月音はいったいどうなってしまうのか。

 いったいこのコはどういった存在だというのか。

 ぼくは焦った。まるで初めて授かった赤子がひきつけを起こしたときの父親のように取りみだす。月音を育てるにあたってひと通りの育児雑誌には目を通している。当然のごとくこうした場合の対処は載っていない。

 月音自身がさほど苦しそうと言うほどでもないのがゆいいつの救いだ。

 ぼくは念のために風呂場で月音を裸に剥き、いっしょに風呂に入った。身体を隅々まで確かめてみたけれど、外見的な異常はいまのところ尻尾と紋様だけに留まっている。

   ***

「はぁ? 裸に剥く必要があったわけ」

 翌日ミーコに話をすると、お門違いな野次を飛ばされた。ロリコンだの小児性愛者だのあることないこと詰られたあとで、なにをいまさら、とぼくはこれまで月音と繰り広げてきた父と子にふさわしい触れあいの数々を話してさしあげた。

「へんたいだー!」

「おまえはただうらやましいだけだろ」

「あたしがうらやむほどのヘンタイ的な行為だってことを自覚しろよ」

「なるほど」

「納得すんなー!」

 ならどうすりゃいいってんだ。ぼくは相手にするのをやめ、一方的に相談事を打ち明ける。

「また山に行ったほうがいいかな」

「おばぁさんたちに話を聞きに?」

「そう」

「やめときなって。ろくなことになんないんだから」

「やっぱりそう思うか」

 言うと、当りまえだろ、と肩をド突かれる。行きつけのここはファーストフード店で、このあいだの礼も兼ねて昼食をおごってやることにしたのだが、ミーコの食べる量はここが激安のファーストフード店であっても懐によく響く。月音はアパートに置いてきた。

「それよか」ミーコは超特大サイズのドリンクをストローでズズズと吸ってから、「あのスケベオヤジのほうを探したほうが手っ取り早いんじゃないの」と言った。

 親父がうちにやってきたことをミーコにはまだ話していない。ただ、月音のことも含め今回の一件に親父たちが深くかかわっている旨は知らせてある。

「そうだよなぁ」

「どうせまた困った事態になったら出てくるんでしょ。ゴキブリみたいに」

「一理ある」

「偉そうに言ってんな」

 理不尽に頬をつねられる。いふぁい。

 キャッキャウフフと小一時間ぼくらは、というかぼくは一方的にミーコになぶられた。満足したらしい彼女とファミレスのそとで別れ、だいぶん懐の軽くなった姿でぼくは月音の待つボロアパートへと踵を返した。月音の問題が一段落つくまではしばらく大学には行けそうにない。

 アパートの一部骨組みが露出している屋根が見えてきたところで、ぼくは何か妙な胸騒ぎを覚えた。気持ち駆け足でアパートのまえ、およそ五十メートル付近まで来ると、アパートの階段を今まさに降りようとしている人影が目に入った。線の細いシルエットで、髪が長く、男か女か判然としない。けれどぼくにはそいつが抱えている人形のようなものが、ぼくの部屋にいるはずの月音のようにしか映らなかった。

 反射的に叫んでいる。おい、とか、おまえ、とか、そういった言葉を口にしたように憶えている。

 そこからさきのことは断片的な記憶しか残っておらず、叫んだ矢先に、ぼくの目のまえにはアパートの階段に足を降ろそうとしていた人物の長くつややかな長髪がくすぶり、実際にぼくの鼻をくすぐった。

「おまえに用はないんでな」

 まるでわるいな、とでも言わんばかりにその人物はこちらに冷たい一瞥をくれ、そしてぼくは意識を失った。

 目覚めたぼくは、なぜか固く狭く、やたらと窮屈な場所に押し込まれており、身動きが取れず、ガンガンと耳鳴りのする静寂の奥に、パトカーか何かのサイレンの音を聞いた。

 失神する前の光景を思いだし、次点で月音の身を案じ、ぼくは何かが身体のうちに駆け巡る感覚に身を委ねた。するとそれまでぼくをがんじがらめに押し込めていた固く重いなにかが水のようにやわらかく感じられ、踏ん張るようにすると、ぼくは水中にできた気泡のように一息に上へ上へと飛びだした。

 暗かった視界が光に占領され、ぼくはようやく自身の置かれていた状況を、地中深くにめり込んでいたじぶんの尋常ではない状況を把握した。ぼくは宙に浮かんでおり、それは飛んでいるのではなく、ただ浮遊しているだけだったが、ぼくはひとまず電信柱に不時着し、体勢を整えた。

 眼下には、半径十メートルほどの深い深い穴が開いており、周囲にはぽつぽつと野次馬らしき人だかりができつつあった。みなこちらを見上げているが、メディア端末のカメラを向けられる前に、ぼくはもういちど踏ん張り、空を切り裂くように跳躍した。

 なぜ親父がぼくらを特別扱いし、あんなまどろっこしい真似をしたのか、今になって解った気がした。

 神はいたのだ。すくなくともキツネやたぬきの一族が仕えるべき神が。

 すなわち獣人は神の奴隷であり、道具だった。

 かつてそうした支配から逃れようとした者たちがいた。獣人たちこそがあの山奥で細々と暮らしていた一族だったのだ。むかしの記憶は平和な時の流れにたゆたううちに風化し、断片化した。キツネとたぬきの一族がむかしから争っていたのは本当だろう。けれど本当は、どちらが真実に神の遣いか、なんて問題ではなかったのだ。

 彼らはいずれかの一族を生贄にすることで、自らの一族を守ろうとした。

 どちらが神の奴隷となるかを、彼らの祖先は互いになすりつけようとし、争いが生じた。

 ボロボロに廃れた稲荷神社を思いだす。あれはたぬき一族が破壊したのではなく、神という絶対的な支配者から逃れようとしたキツネ一族の意思表示ではなかったか。

 ヨウコは知っていたのだ。いずれ来たるときが訪れたとき、必ずやふたたび二つの一族は神の名のもとに支配されるのだと。そのためには争いなどしている場合ではなく、手と手を取りあって打開策を講じなくてはならないのだと。けれど神を崇め奉る二つの一族に、根底からその信仰を否定するような思想を広めることは容易ではなかった。

 だから親父とヨウコは一計を案じた。

 ふたつの種族を交配し、種族というくくりをなくそうと。

 そして。

 神に対抗し得る個を、我が子を育もうと。

 では、とぼくは考える。

 月音をさらい、ぼくを殺そうとしたあの人物は何者か。

 推して知るべし、奴こそが神を名乗り、ぼくら獣人を遣いと称して支配しようとする不届き者だ。

 月音を奪って何をしようとしているのかは詳らかではないけれど。

 かってに連れだすなんて、ぜったいに許さない。

 あいつは、あのコは、我がままなぼくの我が愛娘なのだから。

 (22)

 漠然とこっちのほうではないのか、と海岸のある方向へ跳躍を繰りかえす。ビルの屋上を飛び移るようにして移動していると、ふいに目のまえに影が飛びだしてきて、ぼくを抱きすくめた。翼を封じられたカラスのように、ぼくらは絡まり落ちていく。

 さいわいにも地面に叩きつけられることなく、雑貨ビルの屋上に落下した。

 ぼくは馬乗りになられ、地面に押し付けられている。すごい力だ。逆光になって見えなかった目のまえの人物も、やがて目が慣れるにしたがい見えるようになってくる。

「どうして」

 ぼくは驚きを隠せない。

「どうしてミーコが」

 ぼくの動きを封じているのは、ぼくの幼馴染であり、ただ一人のともだちだった。

「黙っててごめん。でも、あんたじゃ無理だから」

 だから、あのコは諦めて、と人間とは思えない力でぼくの身体ごと屋上の床にめり込ませる。

 目まぐるしく回る思考は、なんとなしにではあるけれど、ミーコがどういう立ち位置でどういった心境からこうした行動をとっているのかといったことをぼくに解らせた。

「ありがとう。でも、行かなくちゃならないんだ」

「だから」とミーコは吠え、「あんたじゃ無理なんだってば」と癇癪を起こした幼子のように泣きじゃくった。

 ぼくはそんなミーコの腰に、大蛇のような尻尾を巻きつけて引き剥がす。ジタバタと暴れる彼女を抱きしめるようにした。

「いいんだ。無理でもしなくちゃならないことがある。せざるを得ないことがある。結果よりも過程のほうがたいせつなことのほうが世の中多いんだ」

 だってそうだろ。

 人生、死ぬことがゴールじゃないんだから。

 諦めたように脱力したミーコをぼくは床におろし、そしてはっとする。いつの間にかそばに何者かが立っている。すこし離れた場所でこちらの様子を窺っている。ぼくはその人物の姿を捉え、そして途端に脱力した。

 いつだってそうだ。彼女はいつもふいに現れる。

「戦う動機はできたかや」

「そんなもんはない。これからだってない。ぼくは戦いに行くんじゃない。ただ奪われた我が子を取り戻しに行くだけだ」

「動機としては申し分ないね」

「勘違いしないでよね。べつにあんたのために行くんじゃないんだからね」

「ぬしも言うようになったじゃないか」

 白銀の尾をしならせるように立つ彼女の姿をぼくは半年ぶりに垣間見る。

 ヨウコ。

 漢字で書けば妖狐。

 ぼくの妻はそう、

 ぼくと月音の母であり、

 神に盾つく、古風溢れる化け狐である。




      【ぼくと狐と我が愛娘】END 

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