もののけだものけものみち 

 もののけだものけものみち 


目次

ケダモノ道

・蛇のみちは大蛇・

・冬は秋より出でて秋より寒し・

木枯森羅主義

・打たれた楔はなかなか錆びない、錆びない代わりに縁が腐る・

・泉谷イズムは眠らない・

・生きてなどいない、ゆえに、死ねない・

・伝心羽森羅は語らない・

・夏の終わりに舞った木枯し・



ケダモノ道 

   ・蛇のみちは大蛇・


      (一)

 伝心羽(でんしんば)森羅(しんら)は自身のことを語らない。語る必要がないからであり、騙る必要すらないからである。訊かれれば話す。だが彼が自身の来歴を他人から訊ねられることはない。

 伝心羽森羅――彼は他人から興味を抱かれることがない。幼いころからの体験的蓋然である。なぜかは詳らかではない。

 いつ、いかなる場であれども、森羅は、他人から必要以上に干渉されることがなかった。家族も例外ではない。

 さびしいと思ったことはいちどもない。

 森羅にとっては無関心こそが常であった。

 自身のこれが一般的な体質ではない、と知ったのは森羅が義務教育を終えた時分であった。

 森羅はそれを〝獣〟と呼ぶ。

 獣はいつもしずかに、じい、と森羅のうちで呼吸している。

 そう、獣は生きている。たしかに森羅のなかで生きていた。


 森羅は授業が好きだった。授業のあいだだけは、森羅もその集団の一員となれる。心休まるひとときだ。

 

 物理の講義を受けていた折に――それは起こった。

 森羅は窓際の席にいた。

 丘のうえに建てられた学校からは町が一望できた。

 町をおおう空が異様だった。

 一面、うすい群青色に染まっている。

 夕陽に照らされて紅く染まるように、一色におおわれ塗りつぶされていた。

 群青色のそらに星影はない。

 色のひとつしかないせかい。光と闇が同化したせかいだった。

 雷鳴がとどろく。

 生徒のうちの幾人かが悲鳴をあげた。

 ここに至って、森羅以外の生徒が窓のそとを展望した。

 ようやく異常に気がついたようだ。

 がやがや、と喧騒が濃くなる。

 雷鳴がとどろく。

 音ではない。振動の塊は衝撃波となって校舎を揺らした。

 森羅には分かっていた。

 ――ああ、死ぬ。

 これからここにいるみな全員死に至る。

 ――死に絶える。

 なぜだかは解らない。

 なぜ死ぬかも解らない。

 なぜ分かるのかだって解らない。

 それでも確定された末路――この町の消滅が確信できた。

 あ。くる。

 ――どゅぷん。

 せかいに、〝膜〟が張った。

 肌に感じられた。

 町が、くるまれた。

 ――ああ……もう。

 森羅は目をつむった。

 森羅は思った。

 自然に思った。

 死ぬのは。

 

 ――いやだ。

 

 耳鳴りと静寂の狭間。

 森羅はいっとき〝獣〟となった。

 森羅の鼓動は静止して。

 うちなる〝獣〟が躍動した。

 目をつむっていたので直接に見たわけではない。

 だが森羅には伝わっていた。

 〝獣〟の存在と。

 自身の存在の。

 反転のようで。

 捻転した。

 一点へと収斂する。

 ただひとつの拍動が。

 とくん、どくん、と全身を、心身を。

 ちからづよく巡っていた。

 この存在の、飛躍を。


      (二)

 目をひらくとあたりは荒野だった。なにもない。一面しかないほどになにもなかった。

 風が乱暴に頬をかすめていく。

 なにがあったのかは判然としないが、それでも分かることがある。

 ――ボクは生きていて。

 ――町のみんなは死に絶えた。

 せかいはまだ群青色に染まったまま、次第にふかみを増していく。

 闇の成分を濃くしていく。

 ――出なくては。

 なんとなく分かっていた。ここにいては危険だ。目前の危機は去った。だが危機は連続して訪れようとしている。

 現実におこる大部分の危機的状況というものは、それが危険だと判明するずっと以前からすでにこちらへ忍び寄ってきている。どの程度はなれた地点で察知できるかが肝要である。

 そういった危機感知能力というものは、おおむね、人類が失ってしまった知覚である。

 どうやら森羅にはそれが備わっているらしい。いや、そういった知覚を備えたものを備えていると表するのが精確かもしれない。

 ここにいては危険である。

 この世界は平らではなかった。すり鉢状に地面がおおきく歪んでいる。ゆるやかな傾斜の大地を森羅は歩んだ。世界は刻一刻と闇を濃くしていく。まるで陽が沈んでいくように。けれど、陽などはなから昇ってはいない。そうこれは、どちらかと言えば、閉じていくような感じに似ている。

 このままでは閉じ込められてしまう。

 状況がだいぶん見えてきた。

 閉じていくということは逆説的に、まだ開いているとも言える。

 ならば、その開いている箇所から脱するほかない。

 なめらかな下り坂だった大地が、しだいに平らになっていく。

 やがて重心のかたよりを感じなくなった。視界はうすぼんやりとして覚束ない。それでも先を見遣れば、斜面になって見えている。のぼり坂である。これまではずっと下り坂であった。周囲を見渡す。四方はどこもおなじ風景、おなじ斜面だ。

 森羅は推測した。

 今立っている地点が中心なのだろう。

 そして――。

 森羅は見あげた。

 群青色のそらは、中心から遠ざかるにつれて段々と闇が濃くなっているように視える。たしかな色彩の差異など、森羅には見わけがつかない。それでも、ここがこの世界の中心であり、閉じゆく世界の終点なのだと推すまでもなく知れた。

 森羅は目をつむる。

 どうすればよいかなどは知らない。

 それでも、うちに息衝く〝獣〟ならば――。

 非力な赤子のごとく、森羅は〝獣〟に身を奉げる。

 ――縋ること。

 ゆいいつ残った術が、それしかなかった。

 森羅はいっとき、〝獣〟となる。 

      (三)

 森羅は故郷を失った。

 森羅は家族を失った。

 森羅はひとりでさまよった。

 だが、なにが変わったでもない。

 もともとも森羅はひとりだった。

 町は姿を消していた。

 跡かたもなく、そこに町があった過去すらも闇に沈んでしまったかのように。

 

 森羅は生きるのを、「苦」と思ったことがない。親を亡くし、住む家をも失くしたそのときも、苦しい、とは感じなかった。

 森羅は他人から干渉されることがない。どこか幽霊じみた存在として存在している。

 店に並ぶ品物はどれも森羅のために用意された貢物のように思われた。金銭などなくとも森羅は手にすることができた。だれもがなにも言ってこない。森羅を咎める者がいない。万引きならばし放題。それこそ、万でも億でも、好きなものを好きなだけ手に入れることができた。

 ――いままでボク、どうしてこうしなかったのだろう。

 不思議でならなかった。

 一年が経っていた。もうすでに森羅は、自身の過去を「己の過去」だと思われなくなっていた。どこか他人じみていた。

 両親や妹――家族がいたことも、家族として過ごしていた記憶も、幼少時代も、少年時代も、学生時代も、どれもみな、はるか彼方にかかるスクリーンに映しだされた巨大な映画のようだった。茫洋としている。まるで自分だけが客であるような、物語を客観的にながめているような、眺めていただけだったような奇妙な感覚がある。

 干渉されることのない森羅は、たとい現実であれ、それはただただ傍観するだけの物語にすぎない。積極的に関わろうとしなければ、いつまでも物語に交わることができない。いつまでも独りであるしかない。

 森羅の人生は、大勢の参加している映画を客席にうずくまって眺めている、ただひとりの人間――たったひとりの人生でしかなかった。

 ややもすれば、人間というものは程度の差はあれど、多かれ少なかれ、そういった孤独な人生なのかもしれない。しかし多くの者は、そのことに無自覚である。また、その事実を看過しようと、自ら目を背けることができる。

 だが森羅は、とうてい目を背けることなどできなかった。いや、目を背け、うずくまったとしても、うずくまっているその場所こそが、孤独な人生という名の個室であった。たったひとりの観客であり、無人の映画館にうずくまる人生であるのだと否応なく痛感してしまう。

 いずれにせよ、森羅にとって記憶とはおおむね、過去に観た映画を思いだしているようなものだった。映画はしょせん映画にすぎない。記憶という幻想のなかであっても、現実とはならぬものである。

 

 その日、森羅はいつものように遅い朝食をとろうと、スーパーへ向かった。

 自分の特異性について。この一年のあいだに判ったことが二つある。

 他人から干渉されないといえども、

 ――森羅から相手に干渉すれば、相応の応答が得られる。

 そのため、物品の入手方法はおおむね、窃盗に限られた。

 レストランでの食事はままならない。注文をするなどというのは金を持たない森羅には考えられない。また、レストランなどの、個人のオーダーによって加工された品物を横取りするというのは、そのオーダーをした個人への干渉である。森羅から殴られた者は憤る、それと同じように、森羅によって害を被った者は、当然の憤懣を抱く。ゆえに、レストランでの食事はどうあってもままならない。

 同様の理由から、個人経営の店舗などでの物品入手もまた、ままならない。個人店舗に並ぶ商品は、店主のものである。そのために、森羅がなんら対価を払わずに物品を手にしようとすれば、店主は当然ごとく怒りだすのである。一方で、大型マーケットやスーパーなどにおいては、その限りではない。

 なぜなら大型店舗というものはあまねく組織であり、個人ではないからだ。そこに並ぶ商品は、店のものであり、特定の個人(だれか)の所有物ではない。組織化した店において、「店」という個人はいないのである。むろん、総括者たる店長はいるだろう。しかしその店長が、店内に並ぶ品物を把握しているだろうか。組織化した店における長のしていることは概ね、経営方針を定め、整え、円滑に商売を運ぶことにある。商品の管理ではなく、人材と経営システムの管理である。ゆえに、大型店舗において、森羅は自由に商品を手にすることができた。森羅のその干渉は、個人へ向かっていないからである。

 ただし、大型店舗といえども、ブティックのような、大型店舗に置かれている個人店舗であれば、レストランと同じく、森羅の自由はままならない。

 コンビニもまた個人経営という点で、おなじであるが、おおむねコンビニにおける店員は、アルバイトであり、店主なき時間帯であれば、好きに商品を入手することができた。

 森羅は地下にひろがる食品売り場へと足を向けた。

 マカロニとブロッコリ。鶏のささみと、グラタンの素。そして清涼飲料水。それらを腕にかかえ、森羅は店のそとへ出た。堂々としたものである。

 家を町ごと失った現在、森羅は駅前のカプセルホテルで寝泊まりしていた。最近の流行りなのか、キッチンを完備している店舗も少なくはない。むろん、有料であるが、森羅にとっては無償である。

 寝泊まりするカプセルにはそれぞれに番号札がかかっている。それと合致する番号のキッチンが、各々にあてがわれるシステムだ。

 キッチンルームは狭い。ガスコンロではない。電気ヒータだ。よこには流し台があるだけの質素なキッチンである。四畳半のアパートに完備されているキッチンを彷彿とさせる。または、小学校の家庭科室や理科室を思い起こさせる。

 キッチンサービスを受けない客のほうが多い。閑散としたキッチンだ。

 グラタンの調理は十二分ほどで完了した。キッチンにオーブンが設備されていないため、電子レンジで焦げ目をつける簡易タイプの「素」を調達していた。ホワイトソースを具とともに鍋で煮たあとは、電子レンジに入れ、スイッチオン。ものの五分で完成だ。

 食器や鍋などの料理器具は、無料で貸出されている。大皿に移しかえたグラタンを持って森羅はカプセルへと向かった。

 R‐16。

 森羅が常用するカプセルの番号だ。

 カプセルホテルが混雑していない場合、概ねこのカプセルは空いている。非常用、または臨時のカプセルとして完備されているようだ。心なしか、ほかのカプセルよりも快適な気がした。

 食事を終えたあと。森羅は街へ出た。

 日々はいずれも貴重な時間である。陰気なカプセルホテルで一日を過ごす気などはない。むろん、陰気なのはカプセルホテルではなく、その中で過ごす客――彼らの身にまとう雰囲気が陰気なのだ。客の多くは住居を持たない。難民同様の生活を強いられている者たちである。

 森羅もまた、他人をとやかく言える立場ではない。しかし同じ穴のムジナだからといって、おなじ穴で過ごさねばならぬ道理はない。

 食事と睡眠をとるとき以外はなるべくそとで過ごすようにしている。

 ――水は流れているかぎり腐らない。

 人間の八割方は水分だと聞き及ぶ。ならば人も流れているかぎり、腐りはしないだろう。

 それがたとえ流されていることになっても、結果が同じならばそれもよいだろうとなにもなしに考える。


      (四)

 駅から伸びる立体歩道橋のうえから眼下でうごめく群衆をながめた。

 森羅はごくごくたまに幻覚を視る。幻覚は、トンボの複眼のように、多角的または多面的に展開して視える。視界に浮かびあがるようでもあるし、または脳裡に焼き付いた鮮明な記憶のようでもある。この十七年をもってしても、数えるほどにしか視たことがない。ひるがえっては、数えられるほどに印象深かったとも言える。

 この一年、その幻覚が頻繁に視えるようになった。

 森羅の干渉した相手に透けて視える――〝像〟。

 意思の疎通している相手であれば、森羅の意向とは関係なく視えてしまう。

 ただし、森羅が他者と接する機会など、現時点においては、ほぼ皆無だ。相手からはどうあってもこちらに干渉してこないのだから必然的にそうなるし、干渉しようとする意欲が森羅にもないのだから、なるべくしてそうなる。

 幻覚というものはやはり、森羅が視ないでいようとすれば、視えないと言い換えることもできる。他人にこちらから干渉しようとしなければ、その幻覚は視えない。いや、これまでは視えなかった。

 相手の輪郭を核にして視えるいくつもの〝像〟――。

 映像と言うにはあまりに観念的であり、また、感覚的でもあった。視覚によってもたらされる像ではない。

 いずれにせよ、森羅には、他人と共有できない〝像〟が視えた。

 ひとつではない。

 同時に、いくつもの〝像〟を視る。

 どれも相手に関する〝像〟である。

 そして今、森羅は〝それ〟を視ていた。

 この一年のあいだ――否、この十七年をもってしても数えるほどしか視ることのなかった幻覚が今、視えている。

 森羅の意思とは無関係に、森羅が干渉していないにも拘わらず。

 ――〝像〟が嵩んで視えている。

 すらりとした長身の艶美な女性である。子どもを連れている。息子だろうか。あどけなさを残した可愛らしい男の子であった。

 二人ともに、〝像〟が視えている。

 女性は子どもを連れ、駅構内へと入っていく。

 吸い寄せられるように森羅は女の跡を追った。

 胸騒ぎがする。

 視える像には濃淡がある。鮮明でないものがほとんどだ。読み解ける〝像〟は少ない。

 女性に視えるもっとも濃い〝像〟は、女性が瓦礫につぶされている凄惨な様であった。彼女のしたには、男の子が一緒になってつぶされている。つぶされているのだと、それだけしか判らない。女性も男の子も原形をとどめていないからだ。

 にも拘らずそれらの、ぐちゃぐちゃが、今こうして目のまえで平然と歩んでいるふたりなのだと、なんの疑いもなく森羅には判った。

 次に濃い〝像〟は、おなじ場面だが、ただし女性は瓦礫に下半身のみをつぶされている。上半身は埋もれていない。しかしやはり女性は死に絶えて視える。ゆかには泥水よりも濁った水たまり――真っ黒い血だまりがあり、そこに上半身を沈めている女性は手に刃物を握っている。首を掻き切ったのだろうか。首があらぬ方向へ捻じれて視える。

 なぜそんなことを――森羅は疑問に思う。

 二つの〝像〟の背後には、ほかにもいくつかの像が重なって視えている。重複されたそれらの像は、なにやら抽象的な〝像〟となり、読み解くことができない。

 そう、

 ――定まっていない。

 この表現がしっくりくる。

 男の子のほうを見遣る。

 やはり〝像〟が視えている。その子もまた瓦礫に埋もれていた。ほかに明瞭な〝像〟は視えない。無数の像が重複しているだけだ。

 いや、うっすらと〝像〟が視える。ほかの像から離れた箇所に浮かんで視えている。だから幽かな〝像〟であっても、なんとか読み解くことができた。

 その〝像〟に視えていた映像では女性が血に沈んでいる。やはり手には刃物を持ち、首には闇のようにぽっかりと空いた切創があいている。

 子どもの姿はそこにはない。見遣れば、男に抱きかかえられている。

 男の顔が視える。

 これは……、

 ――ボク?

 森羅が男の子を抱いている。抱きかかえられている男の子は、生きている。

 視えている像は無数にあるが、読み解ける〝像〟はこちらもふたつ。

 瓦礫に埋もれた母子の死体。

 そして、

 うでに抱かれた生ある肉体。

 そこにある差異は、生と死の割合と、森羅の介在の有無。

 森羅がいれば、子どもが助かる。その傍らで、女が死んでいる。

 瓦礫につぶされて死ぬか、首をよこに裂いて死ぬか。

 前者は、子、ともども死に絶える。

 後者は、女のみが死にいたる。

 ようやく森羅は確信を得た。漠然とした予感でしかなかった、これら〝像〟への解釈が今、ようやく輪郭を得た。

 他者に重なって視える無数の〝像〟は、そのひとの辿る、幾通りの未来だ。

 未来は常に不定である。

 ただし、かならずしも、その可能性が無限にひろがっているとは限らない。

 火を灯せば煙がたつ。

 陽が沈めば、やがて夜が訪れる。

 屋上から身を投げれば、地へと落下する。場合によっては死にいたるだろう。

 これらは、結果が訪れなくとも、高い確率で確定的である。

 必然ではないが、蓋然である。

 まだ訪れていない現実。

 しかし、いずれ訪れるだろう現実。

 きっかけからの時間の経過が短ければ短いほど、その蓋然を予期することは可能であり、予期された蓋然は、きっかけから遠い未来であるほど確率が低くなる。

 起点である現在に、時間が加算されていくほど、当初のきっかけに加えて、さまざまなきっかけもまた加算される。そうして、無数のきっかけを雪だるま式にからめとっていく。

 それはまるで、終点がひとつしかない複雑な阿弥陀くじのようである。または、無限に枝分かれしていく毛細血管のようでもある。

 現在を基準にすれば、とおい未来ほど、予測は難しい。

 言い換えるならば、遠い未来ほど、幾通りもの未来を内包していると言える。

 その幾通りの未来がすなわち、〝像〟なのだろう。

 森羅の視ている像は、像を宿す人物に訪れるだろう、無数の結末――因果の道筋なのだろう。

 明確に読み取れる〝像〟が今、目のまえのふたりに視えている。

 像に視える場所はまさにこの駅構内だ。

 場所は、中央広場にそびえるオブジェ付近。

 〝像〟に視えた瓦礫の一部がオブジェのものと類似している。

 母子はすでにそのしたを通ろうとしている。

 時間はない。

 ないのだと知れた。

 森羅は駆けた。

 声を張り、呼びとめたものの、構内に響くアナウンスに、必死な声がかき消される。

 女の肩をつかむ。息が切れている。遠目からでも〝像〟だけは鮮明に視ることができた。距離をとって観察していたのが裏目にでた。

 女が振りむく。

「なに」

 なにか用があるの? ないのなら消えて今すぐ私のまえから。

 言葉を尽くさずとも充分に伝わった。

「用なら、あります」息継ぎを挟みながら告げる。「あなたは、ここにいたら、ダメだ。あぶない。いっしょにきて。この子もいっしょに」子どもの手をとった。片方はすでに女と繋がっていた。

「やめろ」彼女が振りはらう。森羅は子どもから手を離さざるを得なかった。

「時間がないんです、たぶん、もう、そんなには」ひと息に捲したてた。

 像を視るまでもなかった。

 森羅には判った。うちなる〝獣〟が、警告している。

 ――じかんぎれ。

 きっかけは訪れた。

 地震には、初期微動というものがある。ゆったりとした横揺れであった。数秒か。いや、十数秒かもしれない。いずれにしろ、森羅は彼女たちを強引にその場から引きずり離した。

 抵抗する女性から森羅は子を奪うようにした。子どもを連れ去れば、女は追ってくるだろう。

 しかし――おそかった。

 ぐらり、と世界がゆがんだ。巨大な壁面に張られたステンドグラスがおおきくうねった。

 ぐねぐね、と波打つ。

 途端。

 真冬の澄んだ夜空のように、凛、と音を奏でながらガラスというガラス、板という板が弾けた。

 すべてが連続しながらも同時に起こった。

 弾け、砕け、降りそそぐ。

 そのあいだにも柱が、砕け、崩れ、飛びかった。

 天井は巨人の足のような鉄筋を地面へと叩きつける。

 砂場にバットを振り下ろしたかのごとく、砂塵が舞う。

 礫が四方八方と弾丸の軌道よろしく線を描いた。

 反響する音は教会の鐘と化して、とめどなくひびきわたる。

 渾然とした空気の濁流は、静寂と大差なかった。耳に痛い鋭い余韻だけが、いつまでも脳髄を満たしていた。

 世界は揺れをとめた。だが視界は定まらない。定まらない視界は一面、濁っていた。非常にけむたい。平衡感覚もまた正常とは言い難い。

 崩れた世界のなか、ただひとつ――殺してしまいそうなほどつよく抱きしめていたうでのなかの子どもが、彼もまたこちらを殺そうとするかのようにしがみついている。縋りついている。

 見渡せばあたり一面、瓦礫の山だ。にも拘わらず、なぜか森羅の周囲には大きな瓦礫がひとつも落ちていない。殺傷能力のひくい砂塵だけが、足元を覆っていく。まさに雪のごとく。こくこくと積もっていく。

 聴覚の麻痺が解けてきたのだろうか、ちいさくうめき声が聞こえている。

「……その子、を――にげて」

 声はちかい。

「そとに……はやく――余震……まだ――にげて」

 なんども繰りかえし呟かれる。

 女の声だ。

 その子を連れて、にげて――。

 その子を助けて、あげて――。

 途切れ途切れに繋がる言の葉を、森羅は、しっかりと線で結んだ。

「でも、あなたが」

 声のもとへ近寄る。瓦礫の山へ足を踏み入れ、一歩、二歩と慎重に進んだ。

 宙はまだ砂塵でにごっているが、二歩先くらいは視認できた。

 彼女はそこにいた。

 半身をくねらせ、もがいている。堆積した瓦礫の下敷きになっている。瓦礫の山からは、太く重々とした鉄筋が覗いていた。彼女は下半身をつぶされている。

「だいじょうぶ、ですか」

 そんなはずがないとわかっていたからこそ声をかけた。

「だいじょうぶ」私はだいじょうぶだから、と気丈にも彼女は言った。うんうん、と唸り、額にびっしりと汗をにじませている。そうして懸命に脱しようとしている。もがけばもがくほど、彼女の顔面は蒼白になっていく。口元からは血が溢れていた。

 このままではいずれ腹が裂けてしまう。いや、すでに裂けているのだろう。

 ごぽり、と彼女が吐血する。

 と同時に、

 いいから、おねがい――とかたちにならない声がこぼれて聴こえた。

「でも、あなたが。この子にだってあなたが」

 あなたが必要なんです、と訴えたつもりだ。

 森羅は逡巡する。

 彼女は助からない。

 だからと言って、見捨ててこの場を立ち去れとでも言うのか。

 できるわけがない。

 森羅はその場にただただ無力な様で突っ立っていた。

「いいから、はやく」

 私はだいじょうぶだから、その子を。

 だから、なにがどうだいじょうぶなのだろうか。

 だいじょうなはずがない。

 女が叫ぶのをやめた。

 森羅は目を瞠る。彼女が刃物を手にしている。

 目が離せない。身体も動かなかい。

 女は喉もとへ刃をかざし、こちらが止める間もなく勢いよく引いた。

 喉もとから黒い体液が、ごぽりと溢れる。

 うでのなかの子が叫んだが、離すわけにはいかなかった。

 もう、ここに、とどまる理由はない。

 森羅はこの場を後にした。

 うでに抱いた子を救急隊員へひき渡した。


      (五)

 街の被害は大きかった。

 マグニチュード十・0。

 およそ三十年ぶりの大災害である。

 近隣の都市は壊滅的な被害を受けたという。

 

 復旧の進捗具合は、なかなか芳しいものがあった。

 街はおよそ二年で、もとの活気ある街へとその姿を返り咲かせた。

 震災では、多くの者が住む家を失くした。避難所にはプレハブ小屋が建てられた。みな、そこでの暮らしを余儀なくされた。森羅もまた、そこに居座った。

 なにもせずとも時間は過ぎ去る。

 街の復旧とともに、避難区域からは、ひと気が遠のいていった。

 そして二年後、今秋を以って避難区域を撤去する、との旨が住民に勧告された。

 秋を待つことなく森羅は二年を過ごした住居を去った。感慨もなにも湧かなかった。

 

 真新しいビルディングにきらびやかなイルミネーション。夜の街は一層、華やかだ。

 震災により倒壊した駅は、新しく建て直されている最中だ。竣工予定日は数年先だが、すでに駅として機能している。

 二年ぶりに足を踏み入れた。

 内装の施されてない骨組みなどが至るところ、あらわになっている。何かが完成するまでの過程というのは、それだけで趣がある。

 深く息を吐く。

 あのときの情景が忘れられない。

 自分の無力さ。

 と。

 自分の非情さ。

 彼女を死に追いやり、見殺しにし、あまつさえ、男の子を手放した。

 ――他人へ押しつけた。

「ちょっといいか」

 抑揚のない声が背後から届いた。

 まさか自分へかけられた声だとは思わなかった。現に、声だけだったならば、気づかなかっただろう。

 肩を掴まれ、振り返る。

 見覚えのある女が立っていた。

 息を呑む。

「……死んだはずじゃ」

「覚えとくといい」

 女はにこりともせずにこう言った。「死んだ人間は二度と死なない」


      (六)

「不老不死? あなたがですか?」

 彼女はだまって首肯した。その仕草も含めて、死人のようにうつくしい。

 森羅は彼女に連れられて、駅構内のレストランに入った。ピザ専門店らしい。彼女は初めにコーヒーを二つ頼むと、適当にトッピングピザを注文した。注文の品が届くまで、ざっと十五分はかかった。そのあいだも彼女は口をひらかなかった。

 しびれを切らして森羅は問うた。

「あなたは、その、死んだはずじゃ」

 言ってから、まずは謝罪をすべきだった、と後悔した。あれだけ自責していたのに、今はただただ彼女が生きていてくれたことがうれしい。

 本来ならば、下半身をつぶされ、首を切った者が、かように無事な姿でいられるはずもない。だが森羅は目のまえの寡黙な女が、あのとき血に伏した女性なのだとなんの疑いもなく信じられた。

 実のところ、この二年間、森羅はどこか模糊としながらも、彼女が生きているのではないか、と夢想することがしばしばあった。そのつど森羅は、呵責の念から逃避したいがための妄想だ、とうちなる予感をきっぱり否定してきた。

 しかしやはり彼女は生きていた。

 どうやって助かったのか。

 どうして生きていられるのか。

 なによりも、

 どうしてこれほどまでにうつくしい姿なのか。

 彼女の首には、あの切創の痕すらない。下半身もまた、健康そのものに思われた。足元まで届く長いスカートは、足が組まれているためか捲れ、艶めかしい大腿部が覗いてみえる。彼女が乱暴にスカートのすそを直したので、あわてて目をそらす。

「死んださ」

 彼女はつまらなそうにつぶやいた。

 遅れてウェイターが注文の品を運んでくる。

 彼女はコーヒーをすすった。

「死んだのなら、どうして、あなたはその……」

 問うてから、はっとし、あのときはすみませんでした、とあたまを下げる。「見殺しにしただけでなく、ボクは、あなたの息子さんまで見捨ててしまいました」

 ――ほんとうにごめんなさい。

 言ったあとで、心のなかで付け足した。

 ――でも、ああするほかなかったんです。

「感謝している」彼女は言った。勘違いするな、と突き放すような口調でいて、こちらを安心させてくれるような穏やかさがあった。「私はきみを責めちゃいない。しかし、まあ、あれだ」

 倦怠感を隠すそぶりも見せずに彼女は、ふかい溜息をついた。「なんできみ、すぐに見捨てなかった」

「……と、申しますと」

 聞き返すほかない。

 彼女はジャケットから煙草を取りだし、吸っていいか、と無言で示してくる。どうぞ、と許可した。

 あの場面、と彼女は煙草をくゆらせながら口にした。「あの場面、合理的に行動するなら、私を見捨てるべきだった。私もまたそれを望んでいた。なのにきみはしなかった。いつまでもぐずぐずとその場に佇んでいた。私の声が聴こえていなかったわけではあるまい」

 はい、とうなだれるしかない。そう、あのとき、森羅は彼女の指示にことごとく従わなかった。

「すぎたことだ。気に病むな。ただ、もしもおなじ局面になったら、つぎは一も二もなく、私を見殺せ」

 息をのむ。

「あの、すみません」失礼を謝罪してから森羅は言った。「ぜんぜん話が見えないのですが」

 彼女はピザを上品につまむと、口のなかへ放り、咀嚼してからこう告げた。「私は死なん」

 ――なにがあってもな。


      (七)

 彼女は説明した。言葉数の少ない説明であったが、だいたいの事情はかみ砕くことができた。

「不老不死ですか」感慨深げに唸ってみせる。「失礼ですが、ならあなたはいまおいくつで」とここまで口にしたところでこちらの言葉を遮り、彼女が訊ねた。「あの子は」

 あの子は今、どこでどうしている。元気なのか、と問うているのだと判った。

「あの男の子は……」

 すみません、と断り、

「施設で暮らしていると思います」

「ならいい」彼女はわずかに頬をゆるめた。

 生きているならそれでいい、と言っているのだと伝わった。

「あの子は、その、不老不死ではないんですか?」あなたとはちがうのですか、と訊ねる。

「もともとが孤児だ。本が好きな子だった。私もその程度しか知らん」

 遠まわしに、穿鑿するな、とくぎを打たれたようで、森羅はもう、あの子についてはなにも問わなかった。

「差し支えなければ教えてもらいたいのですが」

 彼女が視線で、言ってみろ、と促す。

 森羅はさきほど訊き逃した問いをくり返した。

「あの、あなたが死なないというのなら、これまでずっと生きていたということになりますよね。あなたはどれくらい長生きされているのですか?」

 不老不死ということは、死なず、老いないということになる。であれば、彼女のこの艶美な容姿からは年齢を推定することはできないだろう。

「知らん」むつけたように彼女は言った。逡巡したのちに、「教えてほしいくらいだ」と漏らした。

 思わず森羅は失笑した。

 なんだ、と彼女が目をほそめる。文句があるのか、といった威圧的な眼光だ。

「なんでもありません」と取り繕う。

 新鮮だった。人との会話とは、このようなものだったのか。森羅は感動した。森羅の人生において、他者から得られる応答の多くは、オウム返しでしかなかった。挨拶をすれば挨拶を返され、お願いをすれば言葉だけの許可が得られ、不満を並べれば同じだけの不満が返された。そこには脈絡しかなかった。予想外の返答も、理不尽な応答もなかった。

 おもしろく、なかった。

 だが今は、愉快でたまらない。まるで映画のなかに入ることができたかのような高揚感がある。

 触れてみたかった。

 感じてみたかった。

 触れられたかった。

 感じてほしかった。

 干渉してほしかった。森羅はいつだって、ひとのぬくもりを欲していた。潤いがほしかった。雨であろうとも。雪であろうとも。どんなに冷たく凍てついた潤いであっても、森羅にとってはかけがえのない夢だった。けっして手に入れることのできない、しかし周囲には溢れている、有り触れている、現実という名のまぼろし。

 そのまぼろしに、今、触れている。身を置いている。

 投影されたまぼろしではなく。

 公演されたまぼろしのいち役者として、森羅は今、ここにいる。

「なぜ泣く」

 彼女が呆れたように言った。映画の役者たちのように彼女の言葉にはやさしさが滲んでいた。

「なんでもないんです。あなたが生きていてくれた、それで、ボク……うれしくって」

 なんでもないんです、と繰りかえした。

 彼女はなにも答えなかったが、それでも彼女の沈黙は、森羅の空っぽのなにかをホロリホロリと満たしていく。


      (八)

「組織には気をつけろ。勧誘されても耳を貸すな」

 別行動をとる際、彼女はいつも森羅へそう諭す。

 いい加減、耳にタコができそうだったが、珍しく彼女が口煩くなるこの瞬間がきらいではなかった。

 彼女はことのほか物知りであり、森羅のもつ特異性を「浸透未遂」と診断した。子細な話を聞きたかったが、知らないほうがいいこともあると言って彼女はそれ以上深く掘り下げて語ることはなかった。

 〝組織〟についてもまた彼女は仔細に話すことをせず、ただ「用心しろ」「信用するな」としか言及しなかった。きな臭い集団であり、関われば一生が台なしになるといったニュアンスを発するばかりで、やはり要領を得ない。

 彼女は自身のことを語らない。語る必要がありながら、騙る必要すらあるのだろう。だから口を閉ざす。森羅とはまるで逆である。いくら訊ねてみても、彼女はのらりくらりと言を濁す。

「あの、いい加減に名前くらい教えてくれてもいいじゃないですか」

「勝手に呼べ」

「せめて偽名でもいいので」

「好きに付けろ」

 ならばお言葉にあまえて、とばかりに、さてなにがいいだろうか、と店内を見渡した。こぢんまりとした喫茶店である。ふと音楽がながれていることに気づく。知っているメロディだ。『ザ・メキシカン』という曲のカバーだった。歌手は「サリア」という女性である。ああ、と思いついた。

「では、アリサというのはどうでしょう」

「却下」

「どうしてですか」好きに呼べと言ってくれたのではなかったか。

「さん付けで呼んでみろ」

 どうやらあだ名であっても、呼び捨ては許されないようである。

 ためしに森羅は口にした。

「アリサさん……」

 ああ、と納得する。

 たしかにこれでは呼びにくい。

「では、アリさんにしましょう」

 一瞥をくれただけで彼女は是非を示さなかった。この場合、おおむね、許可が下りたと捉えても差し支えない。森羅は彼女を「アリさん」と呼ぶことにした。


 アリと邂逅してから早くも二カ月が経とうとしている。

 偶然の邂逅のように思われたが、じつのところ彼女はこちらのことを捜していたのだという。

 繁華街に建つマンションの一室に住んでいるらしく、案内されるがままに上がり込むと、唐突に彼女は言った。

「ここに住め。家賃はいらん。酒をくれ」

 まるで川柳である。思わず笑うと彼女が目をほそめた。

「いい部屋ですね」見回すようにしごまかした。

 それから六十日ちかく。ともにひとつ屋根のしたで暮らした。思春期の森羅である。猥雑な淡い期待を募らせなかったわけではない。夜はひとしれず悶々としたのも事実であるが、とくになにが起こるでもなかった。

 アリは正午ちかくに目を覚ます。まずコーヒーを飲む。淹れるのは森羅のお役目だ。命ぜられたわけではない。居候の身として当然の嗜みだと心得ている。ほかにも森羅は家事全般をこなした。これも勝手に行っているだけである。褒められたことはいちどもない。感謝されたことも、まだない。

 あくせくと働いているとアリはいつも、おう、と何か珍しいものを見つけたような感嘆を素っ気なく漏らす。

 昼と夕のあいだにアリはいつもどこかへ出かける。森羅も途中まではお伴するが、いつもおなじ場所で彼女と別れるハメになる。

「組織には気をつけろ。勧誘されても耳を貸すな」

 恒例のごとくアリは言いつけた。


      (九)

 アリは酒豪である。酒をちまちまといつまでも嗜む。目前に存在する酒の底が尽きぬかぎり彼女は酒を舐めつづける。クジラのようにひと息に飲み干すことはない。子猫のようにちまちまと舐める。森羅は彼女のその慎ましいすがたが好きだった。

 アリは常に無表情である。だが、酔っ払わないわけではない。なにくわぬ顔をしながらその実、酔っ払っている。加えてアリは、酩酊すると服を脱ぎだす。実に困った酒癖である。森羅の理性はそうして、たびたびの鍛錬を余儀なくされた。

 蝉がしきりに鳴いている。地面から照りかえす熱気が、もわもわ、とやわらかい。

 ――今日はいい酒を手に入れよう。

 アリと別れたあと、森羅は商店街へと歩を向けた。

 高級な酒は、たいてい個人経営の店にしか置いていない。個人の店では手が出せない。さらに、金の持たぬ森羅であるから、とうてい買い求めることもできない代物だ。入手は難易であると予想された。

 とは言え、アリは選り好みしない。スーパーなどに置いてある酒でも充分に満足してくれる。が、彼女にも好みはあるだろう。舌は肥えていると思われる。銘酒であれば相応によろこんでくれるにちがいない。

 これまではスーパーに並ぶ値札の高いものを片っ端から手に入れていたが、今日はこれまでになかった銘酒を、それこそ彼女も飲んだことのないような秘蔵の酒を手に入れてやろう。

 森羅は意気込み、雑踏を抜けていく。

 

 居酒屋「こうちゃん」と看板にはそうある。数年前に大震災が襲ったとは思えない外観で、まるで老舗のような佇まいだ。

 吸い寄せられるように暖簾をくぐると、

「いらっしゃい。一名さまかい?」

 当り前のように声をかけられた。溌剌とした婦人である。

 カウンターの奥には店主らしきひともおり、作業中だったのだろうか、頭だけをひょこと覗かせ、こちらを見据えている。

 まだ森羅は一言も発していない。相手には干渉していないはずである。にも拘わらず、彼女たちはこちらに対して不自然にも、反応している。

 これまでにもこのような例外的事態に面したことは幾度かあった。

 住まいを自らの一部のように暮らしている者。

 店それ自体を、個として組み込んでしまっている者。

 そういった、念のつよい者に対しては、本来その人物ではないはずの物に対して干渉しても、その人物に干渉してしまったかのごとく作用してしまうことが稀にあった。

 店に入っただけで、家主に干渉してしまったことと同じような状況になる。今がまさに、その状況なのだろう。

 暖簾をくぐっただけで、森羅は彼女たちに干渉してしまったようだ。

 奥さんと店長のふたりだけのようだ。彼女たちに明確な〝像〟は視えない。ノイズのように重複した像が漠然とひろがって視えているだけである。目頭を押さえ、視ないように意識する。

 好きな席へ座って、と促され、カウンター席に腰かける。

「ごめんね。ほんとはまだ開店の時間じゃないのよ」奥さんは言いながら店長の肩をたたいた。「なのにこのひとったら暖簾かけちゃうでしょ。もうね、しょうがないからオマケしちゃう」

 頼んでもないのに奥さんは、つぎつぎとカウンターに料理を並べていく。お金など一銭も持っていない。どうしよう、どうしよう、と動顛してしまう。

「ボク、あの、ボク、あの」なにをどう説明すべきか、しゃべろうとすればするだけ呂律がからまわる。

「いいのいいの」奥さんは言った。「どうせこれ、昨日の残りモノだし。あとはもう捨てちゃうだけだから。だったらお客さんに食べてもらったほうがいいでしょ? あ、残りモノって言っても、仕込みしておきながら注文こなかった分だから。だれも箸なんか付けてやしませんよ。安心して食べてちょうだい」

 遠慮のない柔和な口調が、数年ぶりに母を想起させる。

「どうしたのさ? なにか辛いことでもあったのかい?」

「なんでもないんです」手の甲で目元を拭う。「なんでもないんです」と繰り返し、頬をほころばせると、奥さんはやさしい顔をし、そうかい、とただつぶやいた。

 店長と奥さんは結婚していないそうだ。

「結婚なんかしなくたって、ほら。そんなの必要ないくらい愛しあっちゃってるんだもの」

 奥さんは豪語した。無口な店長は否定するでもなく、黙々と仕込みをしている。

 夕刻をまわるころには、ぽつりぽつりと客が集まってくる。だいたいがみな常連客のようだ。奥さんや店長に親しげに話しかけては、奥さんに呆れられ、店長には無視されている。

 新規の客も訪れることには訪れるが、決まって彼らはどこか陰気である。それでも、奥さんに愚痴をこぼし、「こぼしすぎだ」とほかの客たちにはやし立てられ、やがて揉みくちゃにされるころになると、きまってみな蕩けた顔となる。陽気に歌いだす彼らの様子を眺めているだけで、森羅の胸はふしぎな暖かさに満たされた。

 聞けば、なにやら今日はいつにも増して賑わっているらしい。店長と奥さん以外の店員は見当たらない。ただ飯を食わせてもらった恩義には報いなければならぬ、と耽々としていた森羅であるから、ここぞとばかりに手伝いを申しでた。

 当初こそ渋った奥さんであったが、店長のぼそりとした、「助かる」がこぼれたのを機に、快く承諾してくれた。

 目的と環境とやりがい。この三つが揃えば、報酬などなくとも働くというのは苦ではない。むしろ大いに愉しいものである。

 笑い声の絶えない空間で森羅はその日、ひと晩中あくせくと働いた。

 

 明け方になると奥さんが経営者あるまじき客を追い出すという暴挙に出、店じまいが完了された。追いださなければ延々と居座っていそうな客たちであり、あたかも奥さんに尻を叩かれたがっているふうにも見えた。

 森羅はさいごまで手伝った。奥さんと店長と三人で簡単なあと片付けをした。正直、帰るのが名残惜しかった。

「ほんとうに助かったよ。もしよかったら、うちで働くかい?」奥さんは冗談めかして言った。「そんなにお給料は出せないけどさ」

 森羅は唇を噛みしめるようにした。また来ます、とそれだけ言って、腰を折った。

 頭を起こすと店長が、むん、と一升瓶を突きだしてきた。勢いのあまり受け取る。

「のんべいと暮らしてるんだろ」腰に両手を添えたお奥さんに、「それ、いっしょに飲みなさい」と言いつけられた。

 ここで拒むのも野暮だろう。素直に戴くことにした。

「なにがあったか知らないけどさ」と豪快に肩を叩かれ、揉むようにされる。「悩むヒマがあるならいつでもウチに来なさい。こき使ってやるから」

 店のそとまで見送りに出てくれようとする奥さんたちを、寸でのところで止めた。

「どうしたんだい」

「恥ずかしいので」と言い訳する。店のなかで別れたかった。

 暖簾をくぐるとやはりというべきか、奥さんたちは出てきた。

 一刻もはやくこの場を立ち去りたかった。

 奥さんと店長のふたりから存在しない者として扱われるのがこわかった。

 数軒さきで振り返ってみたが、奥さんはまだ陽気に手を振っていた。

 森羅は駆けた。

 曲がり角を折れるときにもういちど振り返ってみると、そこにはただがらんとした商店街の古道を風がさらっているだけである。

 

      (十)

 朝帰りをするのは初めてのことだ。

 やましいことはないはずだのにそっと玄関戸を閉じている。忍び足で廊下を抜けていくと、こちらの配慮も虚しく、アリが珍しく起きていた。

「おそい」

 造形された美術品のように彼女はソファに腰掛け、足を組んでいる。感情の起伏の読めない彼女であるが、どこか不機嫌そうに映る。

 ただいま、と言いながら森羅は畏まる。足の低いテーブルを挟んで対面に正座の姿勢をとる。

 彼女の視線が虫眼鏡を通して当てられているかのように額に熱く届く。

 どこに行っていた――と彼女はきっとそう詰問している。

 森羅は釈明した。酒を仕入れるために奔走したところ珍しい体験をしたのだと、遅くなった理由を真摯に伝える努力をした。

 終始、アリは眉間にしわを寄せていた。

 ひょっとするとこれは地雷を踏んでしまったのではないか、一巻の終わりというやつではないのか。気が気ではなくなったころ、森羅はダメ押しとばかりに、店長から譲り受けた一升瓶を差しだした。

「これは……」

 わなわなと震えるような手つきで一升瓶を抱きかかえるとアリは立ち上がり、天井ちかくにそれを掲げた。光に透かすようにして、これは、とさらに呟いた。「これは……松尾芭升ではないか」

 キっ、と鋭い眼光を向けられ、森羅はすくみあがる。こんなに感情的な彼女を目の当たりにするのは初めてのことだ。

「ごめんなさい」とゆかに額を擦りつけ、「もうしません」と許しを乞う。

「なにを」

 彼女は言った。

 なにをバカなことを抜かしている、と。

「感激だ」

 鬼気迫った様子で、嬉々として、こちらに抱きついた。

 さんざん揉みしだかれたあと、突き飛ばされるようにして壁に頭をぶつける。ぶつけた箇所を擦りながら顔を上げると、アリが壁際でとび跳ねていた。飾り棚のうえにあるなにかを取ろうとしているようだと判る。

 取りましょうか、と提案すると、彼女はこちらを向き、ん、と場所を譲る。

 壁際の棚は、まさに祭壇といった有様で、たくさんの骨董品が目白押しを地で描く窮屈さでぎっしりと並んでいる。天辺付近には言わずと知れた漫画家の作品がずらりと並んでおり、思わず手が伸びそうになった。漫画の手前には、ちいさな杯が数点、地面に染みた雨粒のように点々と並んでいる。お猪口だろうか。彼女はそのうちの蒼色と紅色のものをとってくれ、と示した。

 取って手渡すと、彼女の頬は上気しており、ほくほくとしあわせそうだ。

 跳ねるように床へ座ると、さっそく一升瓶の封を解いた。

 すると瓶を包んでいた包装紙から、なにやら封筒がおちた。

 森羅は拾いあげる。

 なかには紙幣が入っていた。封筒には丁寧な字で、「分相応の報酬です」と書かれていた。日給にしては明らかに多い額だ。経済に疎い森羅でもそれは判った。全身が毛羽だった。痺れたようでもある。

 ふと目のまえにお猪口が置かれた。アリがこちらを、じぃと見つめている。

 おまえも飲め、と暗に伝えていると判る。

 ちいさなお猪口になみなみと透明な液体が注がれていく。

 飴玉を舐めるようにチロチロと舐めるアリを真似、森羅も舌を浸すようにした。味がしないと思ったのも束の間、喉が焼けたようになり、次点で、身体の芯がじんわりと熱を帯びた。胃の形が分かるほどだ。からだがぽかぽかと地熱を帯びたようになっていく。

 これはたまらない。

 森羅は子猫のように、ちまり、ちまり、と舌を浸す。

 

 ベッドのうえで目を覚ました。

 朝陽が眩しいと思ったが空は紅く焼けており、時刻を確認すれば、どうやら日暮れ刻であるらしい。一日を寝て過ごしてしまった。

 よこの布団がうごめいた。

 おそるおそる捲るととなりにアリが寝ていた。

 なぜか全裸だ。

 森羅もまた衣服を身にまとっておらず、下着一枚である。

 ぞっとした。

 考えるまでもない。男女が裸で同衾していたのだ、言い逃れはできまい。

 ただ、しかし……。

 森羅は頭を抱える。

 ――記憶がない。

 初めての情事を経験したとして、それはいい。

 しかし、記念すべき一大事の記憶がないとはこれいかに。

 不謹慎を通り越して不本意である。

 気持ちよかったのか、幸せだったのか、失望したのか、昇天したのか、まったく一切が思いだせない。

 もぞもぞと亀を思わせる動きでアリが布団から顔を覗かせた。

「お……おはようございます」

「ん」

 いつもの無表情を張り付けている。

 頭をぽりぽり掻きながらこちらを見上げるようにし、ふぁ、とちいさく欠伸をはさむと彼女は淡泊にこう言った。

「とりあえず、飯」




      ・冬は秋より出でて秋より寒し・


      (一)

 秋とは不思議だ、と森羅は思う。

 季節の曖昧であることが、確立された季節として認められている。

 季節――。ただの時間の節目ではなく、「普遍」を意味づけられた期間。時間とは不可逆的なものであるはずなのに、掛け替えのないものであるはずなのに、それでも毎年毎年繰りかえされるものとして認められている。おなじ時間など、二度と巡ってはこないのにも拘わらず。

 その季節のなかでも、やはり秋は異質であろう。

 夏でもなく、冬でもなく。

 夏と冬を結びつける変遷の期間。

 曖昧な期間。

 げだし、春もまた、秋と性質の似た季節と呼べるかもしれない。

 もっとも、春には、これまでになかった花や草や虫たち――彼らの生が芽吹く節目としての特別な意味合いがある。

 一方で秋は、そんな彼らに引導をくれてやるだけの、不毛な期間である。実にさびしい季節だ。実りの季節だなどと評する者もいるが、森羅は疑問を禁じ得ない。

 秋風索寞(しゅうふうさくばく)――。

 多くの生がしずむ秋。

 秋には死が溢れている。

 死を収穫するために、やがて冬が訪れる。

 すべてを初期化するために一面をまばゆい灰色で埋めつくす。

 ――冬。

 春がはじまりの季節であり、夏が繁栄の季節であり、冬が初期化の季節となる。

 幾度も繰りかえされる発生と崩壊。

 しかし、と森羅は思う。

 衰退の季節である秋が訪れさえしなければ、初期化などされないのではなかろうか。

 春と夏の繰りかえし。

 発生と繁栄と――たまの停滞。

 無理に繁栄する必要がどこにあるだろう。

 繁栄には問題が〝つきもの〟だ。発展すると同時にいくつもの隘路が生じる。ならば、足を止め、問題をひとつひとつ片付けてから、次なる発展へと進めばよいだけではないか。

 なぜ急ぐ必要がある。

 誰も急かしてなどいない。

 ゆっくりと、そのつどの問題を解決しながら進めばよいではないか。

 そうでなければいずれ初期化されてしまう。

 ――ながれに、流されてしまう。

「どうした」

 アリがまえを向いたまま声だけを発した。

 いえ、と森羅は頬をかく。「もうすぐクリスマスだな、と思いまして」

 言って誤魔化した。

 ひとに聞かせられるような独白ではない。浅はかな思索ほど恥ずかしいものはない。

「くりすます?」アリが珍しく明確にそれと判る疑問符を発した。

「ケーキとか食べるんですよ。好きなひとになにかプレゼントしたりもするんです」

「ああ、あれか。まぶしいやつ」

 白い息を吐き彼女は、まだ装飾の施されていない街路樹を見上げた。

 クリスマスシーズンになると、街にある街路樹はどれもすっぽりとイルミネーションに包まれる。

 夜は暗いほうがいい。明るいのは嫌だ。

 彼女はつぶやく。まるでコウモリのようだ。

 現在は十一月の初頭である。上空に寒気が停滞しているらしく、気温は真冬と思しき低さだ。

「アリさんはなにかほしいものとかありませんか」

 ちらり、とこちらを振り返りアリは、なに? と視線で示してくる。背後からでは声が届かなかったようだ。早歩きをし、彼女のよこに並ぶ。

「ほしいもの、ありませんか?」

「酒」

「……以外のものでは?」

「つまみ」

「…………以外では?」

「ない」

 ないそうだ。

 会話が途切れてしまった。彼女との応酬はなかなかどうしてむつかしい。

 こちらが散々に悩み、技巧を駆使して会話をながく継続させようとするものの、彼女はたいてい、三回しか連続して答えてくれない。あとは言葉を発しなくなる。面倒くさいのだろう。が、森羅はそれも含めて、彼女のそばにいることが愉しいと感じる。

 森羅に干渉されたものは、分相応に、必ず干渉し返してくれる。

 押せば押し返されるし、質問すれば自然に答えてくれる。無下にされることはあっても、けっして無視されることはない。

 だがアリはちがう。

 それが森羅には新鮮だった。


      (二)

 かるい衝撃があり、森羅は数歩よろけた。踏ん張って押しとどまる。

 危うくこけるところだった。

 振り返ると少女がひとり、地面に伏していた。むくり、と半身を起こし、ひざを庇うように立て、覗き込んでいる。血が滲んでいる。

「だいじょうか」アリが少女に手を差しだした。

 少女はその手を振り払う。「さわらないで」

 なぜかそこでアリが少女の頬を平手打ちした。

「だいじょうぶか」とふたたび手を差しだす。

 頬を庇いながら少女が呆気にとられている。なぜ叩かれたのか判然としないのだろう。

 ふたたびアリが手を振りあげた。

 怯えたように少女が目を伏せる。こわごわした調子で、だいじょうぶです、と呟いた。呟きながらもアリの手を取る。アリは少女を引き起こす。

「血」

 アリがあごをしゃくった。少女のひざを示している。

 血がでているぞ、ほんとうにだいじょうぶなのか、と言いたいのだろう。いつもならばここで森羅があいだに割って入って、足りない言葉を補うところだったが、森羅は動けなかった。

 ――少女に〝像〟が視えている。

 ズタズタにされた衣服は刃物で裂かれたようであり、力ずくで引き裂かれたようでもある。

 見開かれた眼球は、深い井戸の底を思わせる虚ろな穴となり、もはや光を集めてはいなかった。

 腹部があらわになっている。腹の中身そのものが萎れた生け花のごとくはみ出ていた。腹部を引き裂かれた凄惨な姿だ。

 死んでいるのだろう。

 ほかにも像がたくさん重複している。抽象的なそれらの像に浮かびあがるようにして、悲惨な〝像〟が視えていた。

 〝像〟の位置的に、そう遠くない未来だと判る。

 森羅は意識を研ぎ澄ます。

 まだ〝像〟がある。

 明瞭な〝像〟が二つ視えている。

 血に塗れてはいるものの、少女は生きている。その手にはナイフを握り、引き攣った笑みを浮かべ、頬には涙が伝っている。足元には男の遺体があり、胸元から血が溢れている。死して間もないのだろう。少女が刺したのだろうか。どのような状況かはこれだけでは判然としない。

 もうひとつ、それらの〝像〟のずっと奥に無数の像が重なっている層がある。そのとなりに、ただひとつ――なんとか読み解ける幽かな〝像〟があった。

 少女が泣いている。男のひざのうえに乗せられている。その男は――さきほど見た少女の足元で死んでいた男だ。胸元を刺され、死んでいた男。その男のあぐらのうえに少女が乗っている。少女は泣いており、哀しげな表情だ。泣いている少女を、相好を崩した男が抱きしめている。男はお世辞にも端正とは言い難い容姿だ。過去にニキビをつぶしたのだろう。顔面にはぶつぶつと粟立ったような陥没がいくつも残っている。頬骨が浮き上がり、頬を膨らませたカエルのような容貌だ。その男の膝の上で少女がいつまでも、しくしく、と泣いている。

 これらみっつの像が、少女を通して視えていた。

「どうした」とアリに頬をつままれた。少女から無理やり視線を外される。アリの無表情が目のまえにあらわれる。

 なんでもありません、と口にする。身体をねじり、アリの手から逃れる。彼女のゆびは冷たい。

「へんたい!」意表を突くように叫ばれる。

 見遣ると森のなかでクマと出くわした狐を思わせる仕草で少女がじりじりと後退していた。「すけべ!」

 もういちど叫ばれてしまう。

 それからアリのほうへ向きなおし少女は、ぺこり、とお辞儀した。

「なあ」

 歩み寄るようにすると、少女は踵を返して駆けだした。人込みを縫ってあっという間に雑踏の奥に姿を消した。

「可愛らしいコだな」少女のうしろ姿を眺め、アリが言った。

 ですね、と同意すると睨まれた。彼女は目をほそめているだけだが、しかしこれは誰がなんと言おうと睨んでいるのである。

「ロリコン」

 呟いてからアリがさっさと歩を進める。

 待ってください、とあとを追うと、

「責めはせん」と吐き捨てられた。

 意味が解らない。

 からかっているのか、本気で軽蔑しているのか。

 いずれにせよ誤解であることに変わりはない。

 ちがいますと、と釈明をこころみるがアリは一顧だにせず歩きつづける。

 脳裡にはまだ、少女の〝像〟が焼きついている。

 凄惨な遺体となった少女。

 凄惨な血で彩られた少女。

 ふたつの〝像〟にある少女は、どちらも、さきほどと同じ服装をしていた。


      (三)

「死ぬのか、あのコ」疑問符のない疑問文でアリが聞きかえした。

「たぶん。そうなります。これから死んでしまうか、または男のひとを殺してしまうか。きっとどちらかだと思います。だからボク、驚いてしまって。けっして見蕩れていたとかではないんですよ」

「ロリコンではないと」

「もちろんですよ。ボクはアリさんひと筋です。ぞっこんです」

 へえ、と彼女はコーヒーをすすった。会話は途絶えた。

 森羅の釈明はおよそ二時間に及んだ。ほとんどひとりで捲したてていただけであり、アリはその間、緘黙していた。言葉を尽くしたのちに、ようやく彼女が応じてくれた。

 今は喫茶店で一服ついているところである。

 基本的にアリは、目的もなく街中を遊歩する。とりとめもなく、ただ雑踏に身を任せて歩んでいるように見受けられる。

 人生そのものが暇な森羅もまた、彼女に付き添った。

「死ぬのか、あのコ」アリが繰りかえした。

 珍しいことである。

 無表情なのは変わらない。しかしどことなく憂え顔のように映る。

「いつかはみんな死にますよ」と慰める。いつ死ぬかの違いはあれど、いつかはみんな死ぬんです。だから哀しむことじゃないですよと森羅は言った。

 アリが目をほそめた。ただ睨んでいるのではなくこちらを突き放すような冷たさがある。

 ――彼女は今、おこっている。

 森羅は身を縮めた。

 溜息を漏らすように彼女が言った。「なら、死ねるのか」

 今すぐに死ねるのか――。

 彼女は瞬きをしなかった。こちらをじぃと見据えている。

 いつか必ず死ぬからといって、いつ死んでもいいということにはならない。当り前のことを失念していた。森羅は恥じた。

「ですよね」

 すみません、と項垂れる。

「かなしいよ」

 アリが席を立ち、そのまま店を出て行ってしまう。

 取り残されてしまった。

 あきれられてしまった。

 四面楚歌、背水の陣。

 お門違いな四字熟語が脳裡をよぎる。まるで絶望の谷へ突き落されたように、身体が鉛を孕んだように重く感じられた。

 見捨てられてしまったのだろうか。

 森羅はいつまでも手元にある褐色の水面を眺めていた。 

      (四)

 無言で少女の背を押すアリは、ほら、となにかを促した。

 いやいやするみたいに少女は身じろぐ。しかしアリに尻を叩かれ、不承不承の体で、

「さっきはごめんなさいでした」

 謝罪を口にした。それからアリへ向きなおし、お辞儀をしてから少女は名乗った。

「霜月(しもづき)凩(こがらし)――と申しますです」

 お師匠と呼ばせてください、と鼻を鳴らした。

 森羅に対して向けられていた仏頂面は今や、柔和にほころんでいる。

 

 店を出ていってからしばらくすると、アリはあの少女を連れて戻ってきた。どうやら彼女は、さきほどの少女を捜しに出ていっただけのようである。どうやって見つけ出したのかは詳らかではない。

 霜月凩と名乗る少女は、座っている森羅よりも背が低かった。

 無残な〝像〟がまだ、くすぶって視えている。

 正視するに堪えない映像のため、森羅は感覚を閉ざす。

「コガラシちゃん、きみ、いくつ?」少女に訊いた。「おかあさんやおとうさんは? いっしょじゃないの?」

「このブサイク、お師匠さまの彼氏ですか?」

 アリを見上げ、少女はぞんざいにこちらをゆび差した。

「さあ」

 アリが応じ、森羅は肩をおとす。ちょっとでも期待した自分がなさけない。

 よかったぁ、と少女は安堵している。「ですよね、こんなブッサイいの。お師匠さまにはそぐわないです」

 話を聞けば、どうやら彼女は七歳だという。今日はひとりで出かけてきたらしく、いつものことだ、と少女は淡然と言ってのけた。

 小生意気をとおり越して、くそ生意気である。

「コガラシちゃんはどこに行くつもりだったの?」森羅は努めておとなの余裕を醸しながら少女にパフェをご馳走した。

 奢ってもらったという恩は感じるのだろう。少女はこちらの問いに応じた。

「どこに行くっていうか。もう行ってきたの」少女は、ぱくぱく、と豪快にスプーンを口に運ぶ。パフェの天辺に乗っているイチゴは最後に食べるつもりなのだろう残してある。

「ふうん。帰るところだったんだ」

「そんな感じ」

「どこに行っていたのかな?」

「ねえちょっとさ」少女はスプーンをこちらに突きだし、「なんであんたに教えなきゃならないわけ?」

 つーか、おまえだれだよ、とすごんできた。拙い口調であるから迫力はない。

 続けて少女はアリに向き直って、

「お師匠さま。どうしてこんなむちゃっくるちいのといっしょにいるのですか? 追い払いましょう」とハエを払うようにスプーンを振った。生クリームが飛び散る。こちらの頬にも付着した。

「払っても戻ってくるよ」アリが言った。片手で頬杖をついている。窓のむこうを眺めている。「影みたいなもんだ」

 気にするな、とでも言いたげな風である。

 アリのよこ顔に見蕩れている少女は羨望と憧憬のいりまじった表情を浮かべている。その隙に森羅はパフェのイチゴを横取りした。なんとなく、これでおあいこに思われた。


      (五)

「コガラシちゃん。きみは今日、死ぬかもしれない」

 なにをしに街まで出てきたのかをなかなか白状しない少女に森羅はそう告げた。単刀直入に言ってもとうてい受け入れてもらえないだろうが、「死ぬ」という言葉のもつ緊張感は、相手に警戒心を抱かせるには充分だ。案の定、少女はにわかに表情をかたくした。

「死ぬって何? 脅すとかサイアク」

「脅しじゃない。ボクには解るんだ」

「なにそれ。お師匠さま、コイツ、なんか変なこと言ってくるんですけど」

 アリは欠伸をし、それから少女に向けて眠たそうな目を向けた。何を言うでもなく、しかし否定も肯定もしない。しばらくしてから少女はなぜかおとなしく口を割った。

「握手会があったの。モデルなのわたし」

「モデル?」

「ファンのひとたち向けの撮影会があって。今日はそのあと握手会して。終わったから遊びに出てきたの。それだけ」

 ほんとだよ、と少女が執拗に念を押すものだから、疑うことにした。

「どこまでホントでどこからがウソ?」

「ホントだって言ってるでしょ!」少女が語気を荒らげる。座ったまま地団太を踏んだ。テーブルが揺れる。上着から端末をとりだすと、少女はディスプレイを操作した。やがて少女の写真が表示される。一見すれば、雑誌の表紙のようでもある。「ほらこれ!」

 やや照れくさそうに手渡して見せてくれる。たしかに少女が映っている。インターネット上に公開されているサイトの写真で、プロフィールもちいさく載っている。活躍中のティーンモデルと書かれている。モデルであることはウソではないようだ。

「すごいね」と褒めた。アリを横目で窺いつつ、ひかえめに、「かわいいね」とも付け加える。口調は社交辞令のそれである。

 少女は当然のように、ふん、とソファにふんぞりかえる。

「それで」森羅は水を向ける。「どこに遊びに行こうとしていたのかな?」

「どこって……。だからさ、なんであんたに言わなきゃならないわけ?」

「じゃあ質問を変えます」と口調をただす。

 はい、と少女が表情をかたくする。

 条件反射のような態度の豹変具合に、自然と陽気が込みあげる。

「さいきん、誰かに執拗に追いかけまわされたりはしてない? モデルさんなんだよね、コガラシちゃん? 熱狂的なファンのひととかもいるんじゃない?」

「ストーカーってこと?」拙い口調で少女は言った。「いるよ。でも、普通だよそんなの」

 どういうことだろう。こちらが怪訝な表情を浮かべたからか、

「だからね」と少女は苛立たしげに説明した。「だから、モデルだとか――うんと、べつにアイドルでもいいんだけどね――そういうね、ひと目を惹くことをナリワイとしたお仕事はね、ストーカーさんがいちばんのお客さまなの。『追っかけ』っていったりするでしょ。あれなんて言い方かえているだけでストーカーとおんなじだもん。直接的な被害がわたしたちにまで届かないから――あのひとたちがお金をたくさん使ってくれるから――ただそれだけのために、訴えてないだけのことなの。あのひとたちのやっていることなんてね、もしも素人の女のコにやってたら、一発でケーサツザタになっちゃうようなことなんだよ? わたしたちみたいな、ストーカーを量産することをそのままビジネスとしているひとたちは、ただ自分のまわりを、たくさんのお金をつかってバリアしているだけなの。そのバリアがあるかぎり、ストーカーさんっていうのは、優良なお客さんなのよね」

 森羅は思う。そういった人物たちは一般的には、ストーカーではなくファンと呼ぶものではなかろうか。思うだけにとどまらず、そう指摘した。

「それも言い方かえてるだけじゃない」少女はぶつくさと不平を鳴らした。「へやの壁いっぱいにアイドルのポスターなんか張っちゃってさ。関係のあるものは片っ端から収集しちゃってさ。それってストーカーとやってることおんなじでしょ? 異常だとはおもわないの? あんた男だけど、そんなことされてイヤだとおもうくらいの想像力、もってないわけ?」

 ちらり、とアリを窺う。やはり窓のほうに顔を向けている。虚空を見詰めているようだ。

 彼女にストーカーされるなら、どんなにうれしいだろうかと森羅はさびしく思う。

「居ないほうがダメなくらいだもん。このギョウカイでやってくにはさ」少女はそう結んだ。口調は子どものそれであるが、言っている内容は草臥れた大人の言動そのものだ。なんだかやるせない。

 今日だって、と少女は苦々しくつぶやいた。「今日だっていきなり告白されちゃったもの。なにを勘違いしてんだか。あんなブサイクと付き合えるわけないのにね。自意識カジョウなんじゃないの、鏡みたことないのかって」

 少女は嘲笑した。

 自意識どうこう以前に、年齢的に大人がこのコと付き合うのは無理なのではないか、とお門違いにそんなことを考える。

「場所を変えよう」

 珍しくアリが嘴を挟んできた。

 彼女があごを振って周囲を示すので店内を眺めるようにすると、幾人かの客が顔をそらした。

 おさなくて可愛らしい少女が、男をまえにして、「お金」だとか「ストーカー」だとか口にしているのだから気にするな、というほうが無理がある。少女のうしろの席では眉目秀麗な青年がまだこちらを向いていた。威圧的な眼光ではあるが、子どもを見守るいち大人としてこちらを警戒しているのだろう。

 やれやれ。

 森羅は残ったコーヒーを飲みほした。

 アリの進言に従って、店を後にする。

 

 ふしぎと少女はアリに懐いている。気持ちは解らないではない。アリには人を惹きつける怪しい引力がある。見た目のうつくさだけではない。他人に無関心なようでいてその実、ぬくもりがある。そばにいるだけで安心できる。包まれているのだと護られているのだと実感できる。

 森羅ですらそのように感じるのだから感受性のつよい年頃の少女ならば、より顕著に感じられるだろう。

 歳のはなれた姉妹のように連れだって歩む彼女たちのうしろ姿を眺めながら、死なせはしない、と心に決める。

 コガラシちゃん。

 きみをけっして、死なせはしないよ。

 ――血に染めたりなどさせはしない。

 彼女に似合うのは、鉄くさいドロドロとした赤などではなく、紅葉したモミジのようにぬくぬくとした暖炉のような緋色である。

 風に舞う葉をひろうと、どの葉もすでにからからと干からびている。


      (六)

 少女が、そわそわ、としはじめた。控えめに周囲をきょろきょろと見渡している。

 突然、アリが立ち止まった。「このコはここにいた」

 少女をここで捕獲した。それからおまえのもとに連れていった――と、そう言いたいのだろう。けっこうな距離を歩いた。よくもまあ捜しあてられたものだ、と感心する。

 周囲の店はどれもグラフィックな外装で、アニメのキャラクタが、「いらっしゃいませ」とウェインクしていたりする。どれもみな可愛らしい女の子だ。一方で、客の大半はむさくるしい男どもだった。のこりの少数に、それらのむさくるしさに耐えられ得る強靭な精神を宿した女のコたちが含まれる。

 ひとつの絵柄に森羅の目はとまった。長髪で無表情の女性がデフォルメされて描かれている。なにやら、アリの雰囲気に似たキャラクタであった。吹き出しがついており、「気安くさわるなっ」と書いてある。思わず、まじまじと見入ってしまう。

「ロリコンのうえにオタクか」

 アリが呟いた。はぁ、と嘆息を漏らしている。「責めはせん」

 ちがいます、と森羅は必死に応じた。その必死さが裏目にでたことは想像に難くない。

 言葉を尽くすが、釈明が釈明の体をなさない。埒があかず、いよいよとなって、森羅は話題のほうを変えることにした。アリにではなく少女に向き直り、

「コガラシちゃん、ここへはなにしにきたの?」と訊ねる。

「あんたはどうして生きているの? 答えられるわけ?」

 くだらない質問はしないで、と少女が噛みついてくる。

 踏んだり蹴ったりだ。

 あ、と少女がアリの背後にかくれた。

 どうしたの、と声をかけると、少女は、シッ、と口元に食指を当てた。

 しずかにして、しゃべるな、といった高圧的な仕草だ。ともすれば、あっちにいけ、という威嚇かもしれない。

 やれやれ。

 森羅は他人のふりをした。

 少女の対角線上には店があり、そこから出てきた男に森羅は、はっ、とした。

 〝像〟のなかにいた男だ。

 胸を刺され死んでいた男。

 そして、

 悲哀に満ちた少女を抱きしめていた醜い顔の男である。

 アーケードに沿って男が去っていく。それに連動して少女もアリの周囲をじりじりとまわった。男との対角線が維持されるようにぐるりと半回転する。

 やがて男の姿は雑踏に紛れて見えなくなった。少女は最後まで男の姿を目で追っていた。

 もういいだろうと判断し、森羅は訊ねた。

「あの男、コガラシちゃんの知り合い?」

「……だからなんであんたに」

 教えなきゃならないの、と尻つぼみに反発する。これまでのような覇気はない。ダメ押しで、

「知り合いなんだよね?」と迫る。

 少女はうつむき、ちいさくあごを引いた。

「あのひとも、コガラシちゃんのファンなの?」

「ファン……なのかな」少女が言葉を濁す。「……ファンなんだよね」

 自分に言い聞かせているようでもあるし、信じられない、または信じたくないといった懐疑的な嘆声にも聞こえた。


      (七)

 少女の身の安全を考慮し、森羅たちは彼女を連れていったん帰宅した。客観的には児童略取のような犯罪まがいな連れ去りだが、事情が事情なだけに緊急避難的に目を瞑ることにする。

 森羅の話に半信半疑どころかまるで意に介さない少女ではあったが、「アリさんの自宅に招待してあげよう」と告げると満面の笑みをかがやかせた。

 少女をソファへと座らせる。

 アリはキッチンで珍しくコーヒーを淹れてくれるようだ。

 好奇心旺盛なお年ごろと見受けられる。少女は座りながらも室内を物珍しそうな視線で塗りつぶしていく。いずれ立ちあがり、室内を物色しはじめてしまうだろう、と危惧された。森羅はすみやかに口火を切る。

「あのひとも握手会にきてたんだね?」と断定的に訊ねる。

 仔細を俟つことなく、オタク専門然とした店から出てきたあの男のことである。

 ぴたり、と首のうごきをとめると少女はソファに座りなおした。

 やや間があってから、うん、と頷く。「今日も来てくれてた」

 今日も――とはつまり、これまでも幾度となく、少女の出演するイベントにあらわれていたということだろう。充分に熱狂的なファンであると呼べる。そんな男に対して、「来てくれた」と表現するあたり、さすがはプロ、と称賛に値する。

「これまでになにか、ひどいこととか、されたことない?」

「あのひとに?」

 そうだ、と頷く。

「とくにないけど……」

 なんだか煮え切らない返事だ。森羅は重ねて問う。「プライベートで接触してきたこととかないかな?」

「あのひとが?」

 そうだ、と肯定する。

「…………これって、答えなきゃなの?」少女が眉をひそめた。ここにきて重大な問題に気がついた、とばかりに、ねえ、と発する。「ねえ、なんで尋問されてるの、わたし?」

 もっともな指摘だ。閉口するよりない。

 仮にここで、きみを守るためだよ、と言ったとしても、やはり信じてはくれないだろう。なんと説明したものか、と腕を組む。

「死んでもいいなら今すぐ出ていけばいい。死にたくなかったら質問に答えればいい」

 ふたつにひとつだ、とアリがしずかに諭した。

 目のまえにカップが置かれる。ていねいな所作だ。

 少女はうつむき、意気消沈している。

「わたし、死んじゃうの? ほんとに?」

 どうしてわかるの、と疑問を並べた。森羅は正直に打ち明けた。

「ボクには視えるんだよ。きみの未来が」


      (八)

 ひと通り説明してみたものの、眉つばであると一蹴されてしまえばそれまでである。

 過去が視えるわけでもなし。

 視える像を選べるでもなし。

 証明のしようがない。信じてもらえないのは百も承知だが、事実視えてしまっているものを看過することはできない。いや、これまでは否応なく視えてしまっていた像であるが、現在の森羅は、それらの像を視ないようにすることも可能だ。

 だが看過できないことに変わりはない。

 いちど視えてしまったものを、視なかったことにはできない。意図的に忘却できるほど、森羅の記憶力はわるくない。このままでは目のまえの少女が死ぬ。確定されているわけではないが、確定的ではあるのだ。

 未来とはそういうものらしい。

 常に不定でありながらも、必ず確定されてしまう。

 そして霜月凩――この少女へ訪れるだろう今日の未来はおおよそ三つある。

 死か。

 絶望か。

 はたまた束縛か。

 いずれにせよ、死ぬことだけは避けなくてはならぬ。

 死なせるわけにはいかぬのだと森羅はつよく思っている。

 アリがそれを望んでいる。理由はそれだけでも充分だ。加えて、それ以外にもできてしまった。

 単純に、霜月凩――彼女に死んでほしくない。

 苦慮したのち、森羅は〝像〟の詳細を教えることにした。

 もっとも訪れる確率のたかい、少女の未来である。

 死の像・戦慄の像・悲哀の像、それぞれを包み隠さず説明した。少女の傍らで死んでいた者が、件の男であることも含めて伝えた。

 少女は最後までじぃと耳を傾けていた。

「信じられないよな……」

 意に反して少女は、「しんじるよ」と首肯した。

 こちらの必死な想いが通じたわけではないだろう。真摯な態度が功を奏したわけでもないだろう。

 ――森羅の説明をアリが肯定した。

 ただそれだけの条件によって、少女は森羅の〝特質〟を信じることにしてくれたようである。

「死にたくないもん」と少女は暢気に破顔した。

 

 少女をアリに託して森羅は街へ繰りだした。

 じっと家に籠るのも妙案ではあるだろう。だが守りを固めているだけでは不安だった。

 少女を死なせないのが優先事項である。とはいえ、ほかの未来もまた変えることができるならば、そうしてあげたいと思う。

 攻めにも打ってでるべきだと考えた。

「いちおう、コガラシちゃんに、なにか持たせておいたほうがいいかもしれませんね」護身用に、と提案するとアリが、うむ、とうなった。まかせろ、といった調子である。

 それではいってきます、と森羅は部屋を後にした。

「もどってくんなっ」

 少女の声が背に届く。

 マンションのそとで青年とすれちがった。どこかでみた顔だな、と歩をゆるめる。むこうはこちらに気づかない様子だ。森羅が直接に干渉していないからである。美形だな、と評価した。と同時に、ああ、と思いだす。喫茶店にいた、険のある眼光でこちらを威圧していた青年である。この近辺に住んでいたのか、と妙に運命じみたものを感じた。

 だが今はそれどころではない。一刻を争う。

 陽はすでに夕陽となって世界を赤く染めあげている。


      (九)

 勢いよく飛びだしてみたはよいが、街へ着いて気がついた。

 ――当てがない。

 あの男を拘束してしまえば済むような気がした。

 少女が誰に殺されるかは定かではない。ただし、読み解けたみっつの〝像〟を鑑みれば、あの男が少女の未来にふかく関係しているだろうことは想像に難くない。

 あの男のすがたを思い浮かべる。

 いかにも女性に縁のなさそうな容姿であった。

 ひとの魅力というものは、けっして外見で決まるわけではない。だが、重要な基準ではあるだろう。少なくとも、これまでの人類史においては、容姿は、重きをおかれてきた要素である。

 そう考えれば、なんだか同情心が湧かないわけでもなかった。

 少女の吐く言葉には明らかな毒があり、棘どころの話ではない。

「ブサイクおことわり」と断絶しているようなものである。

 あんな辛辣な言葉を投げかけられでもしたら、世界はたちまち焼け野原と化すだろう。

 アリさんに言われたとしたら。

 自分の身になって想像するとぞっとした。

 

 ――拒絶。と。否定――。

 

 触れることを禁じられ、そばにいることを断じられ、想うことすら拒まれる。

 想うことも許されないならば死ぬほかないのではないか。

 かぶりを振り、すばやく思考を切り替える。自分の身に置き換えて考える必要はない。いくら絶望したからといって、誰かを傷つけてよい道理はない。

 自分が傷つけられた、と錯誤したとしても、絶望したのではなく、絶望させられたのだ、と感じてしまったとしても、やはり、だからといって報復が肯定されはしない。

 自分だけ不幸であることが許せない。自分だけ苦しいことが堪えられない。人とはさびしがる生き物である。人とはさもしいものである。

 幸福は独占したいと望み。

 不幸は分配したいと欲す。

 それ自体はけっして責められたものではない。

 だが、誰もかれもが極端なのだろう。

 強奪と散布。

 あらゆる免罪符を掻き集め、得た自由にしがみ付き、満たされた欲の残骸――汚泥をみなに擦りつける。

 ねじれ、ねじれて、世界の均衡はかたよりを増していく。

 禍福は糾える縄のごとく。しかし、糾われた縄そのものが捻じれ、かたく絡みついている。結び目ができてしまっている。変転する幸不幸が廻らなくなっている。滞っている。


      (十)

 猥雑な喧騒に交じって、

「すみません、すみません」と声がした。

 人だかりができている。

 勘弁してください、と悲痛な懇願が聞こえていた。

 覗けば、男が若者数人に絡まれている。

 泣きっ面の男は控えめに評しても、ブサイクであった。

「ああ」

 見覚えのあるブサイクだ。

「ひい」と惨めな声がした。まるで、豚の悲鳴である。

 くだんの男が、殴られている。

      ***

 だいじょうぶですか、とハンカチを差しだす。

 男の鼻からは血が垂れている。トマトケチャップを思わせる量だ。鼻血でも出血死するのだろうか、と心配になる。

 あれだけ野次馬がいて、誰一人としてこの男を庇おうとしなかった。さすがに可哀想だ。通行人たちは総じて、路上パフォーマンスを見物しているかのごとく観客然としていた。男は道化だった。

 見ていられなかった。

 人垣を掻きわけ、森羅は割って入った。

「どのような経緯があったかは存じませんが、このへんでお開きにしませんか」

 あんだテメェは、と筋骨隆々とした若者が立ちはだかった。今にも飛びかかってきそうな迫力である。

 森羅は目のまえの若者のよこを抜ける。特になにもしてこない。

 そうして数人の若者に囲まれたくだんの男を立ち上がらせると、悠々と野次馬を掻きわけその場を去った。

 男がキツネにつままれたような顔をしている。散っていく人垣を、男は不思議そうになんども振りかえっていた。

 くだんの男を凝視する。彼にもやはり〝像〟が視えた。

 ――血に伏して死んでいる。

 おや、と思う。

 森羅は感覚を研ぎ澄まさせる。

 そのほかの像が、まるで視えない。

 一切の像が、そこで途絶えていた。

 なにかが歪んできているのではないかと漠然とした不安に胸がざわつくのを感じた。


      (十一)

「あれはどういうことなんです?」

 慇懃に礼を述べてから男がおっかなびっくりといった調子で訊ねてきた。腫れた面が痛そうだ。

「ボクは〝半〟透明人間なんです」

 説明する義理もないので抽象的に答えた。

 なるほど、と男は神妙そうにうなった。素直すぎるというのも問題だ。

「じぶん、小野間(おのま)訥平(とっぺい)と言います」

 男が手を差しだしてきたので掴むと、両手でかたく握り返された。

 陽は沈んでいる。マンションのアリたちが心配だ。歩道のベンチに腰かけるが小野間は佇んだままおろおろとしているので、

「小野間さんも座りませんか」と促す。

 彼はぎこちなくこちらのとなりに腰を下ろした。

 どうも悪意に満ちた人物というわけではなさそうだ。

「そういえば今日、コガラシちゃんの握手会があったらしいんですよ」ひとまずかまをかけてみることにした。唐突すぎる気もするが、迂遠に穿鑿しているひまはなかった。「あ、すみません。小野間さんは知らないですよね。コガラシちゃん。ティーンモデルなんですけど、とっても可愛いんですよ」

 ボク実はファンなんです、と捲したてると、

「え、そうなんですか」

 彼は食いついた。「じぶんもファンですよ。こんなところで同志に会えるだなんて、へへっ、うれしいなあ」

「でもボク握手会に行きそびれちゃいまして」

 大仰に悔しがってみせると、男が身じろいだ。「あちゃァ……」

 それはご愁傷様でしたね、と慰めてくるあたり、相当にコアなファンだと窺い知れる。

「小野間さんは行ったんですか?」

「当然ですよ」彼は目じりを下げた。「コガラシちゃんは私らの天使ですからね。天使に逢えるならそりゃ、この命に代えても行きますよ」なにがあっても行きますよ、と胸をはる。「同志も知っておられるでしょ? コガラ天使ちゃんはとてもお優しい。じぶんのようなむさい野獣にもね、慈愛をもって接してくれるのですよ。そんな心根のおやさしいコなのですよ。慈悲ではなく、慈愛ですよ。ここ肝心です。コガラ天使ちゃんはイベントのたびに、じぶんのようなむさくるしいファンにも、手紙をくださるのですよ」

 言って男は懐から可愛らしい便せんを、そっととりだす。聞けば今日の握手会でもらった手紙であるという。内容は、「いつも来てくれてありがとう」「わたしも小野間さんのことを想っています」といった恋人然としたものであった。どうやら、以前に少女へ宛てたファンレターへの返事らしい。

「信じられますか? こんな時代に、手紙ですよ手紙。それも、直筆です。ていねいな字ですよ。我々もファンレターなどを送りますでしょ? それの返信のような感じでですね、毎回ですよ。お手紙をね、手渡してくれるのでありますよ。握手するときにですな。こう、どこか控えめにですね、『読んでください』と差しだしてくれるのです。同志ももらったこと、ありますでしょ?」

 はあ、と曖昧にうなずく。

 そういったイベントとやらに行ったことのない森羅である。知る由もない。

 彼の慕い想う天使とは、齢七つの少女である。たしかに霜月凩――彼女をまえにして、「天使」という形容は言い得て妙である。だがこうして、成人を越えただろう男が誇らしげに「コガラ天使ちゃん」とダジャレじみたあだ名を口にしているところを目の当たりにしてしまうと、共感するのも抵抗がある。

 さらに言えば、森羅からすれば、あの少女は「天使」というよりも「子鬼」であった。

「子鬼らしいコガラシ」と内心で呟いてみる。ぴゅー、と風がつめたい。

 天使と子鬼。どちらも可愛らしいことに違いはない。ただし、後者には憎らしさが追加される。

 げだし、かわいさ余って憎さ百倍ということもあるのだろう。

 一見すれば無害な男であるが、なにがきっかけで豹変するかは分からない。

 小野間訥平という名のこの男は実直である。寛大でもある。

 先刻、衆人環視のもとであれだけ理不尽な乱暴を受けていたというのにまるで怒りを抱いていない。

 しかたないよね。こういう日もあるさ。そんなことよりも同志、私の悩みを聴いてくれませんか。天使と握手をしたのはいいんだけどね、手を洗えなくなっちゃった。どうしたらいいと思います――そんなことを彼は気にしている始末である。

「きちんと洗うといいと思います」森羅は真面目に意見した。「天使の握手です。下界の水などで洗いながされるほど、穢れているとは思えません」

 なるほど、と男が神妙にうなずいた。

 たいへん単純な男である。森羅は思った。どうしても、この男にはしあわせになってもらいたい。

 まるで、子どものころの自分を見ているかのようで、ひどく健気に思われた。


      (十二)

 小野間の鼻息を耳障りに思いながら、駅前を離れ、マンションへと向かう。

「どうして絡まれていたんですか」

 今さらの質問をする。

 なぜ若者たちが、いかにも無害なこの男に群がっていたのかとちょっとした違和感があった。

「気に入らないんでしょうきっと」男はさびしく笑った。「同志のようにカッコいい方には分からんでしょうけれども――まあ、道端にゴミが落ちていたら拾いますでしょ? 彼らのしていることはそれと同じなんですな、きっと」

 自らをゴミと称して男はやはりさびしく笑う。

「あなたはゴミではないですよ」

 道端のゴミを拾うことが当り前であると認識している者が、ゴミなはずがない。それも、自分以外の大勢もまたそのように当り前を共有しているのだと謬見しているあたり――どこまでもお人よしなのだろう。

 雨が降ってきた。

 走りましょうと言って、返事を待たずに駆けだす。


「まだ言っていない。あのコには」

 玄関から顔をだし、アリが言った。彼女には事前にメディア端末を通して事情を掻い摘んで報せてあった。話し合いで解決できることのように思うとの旨も伝えてある。

「あの、いきなりお邪魔してすみません」

 男がへこへこと頭をさげている。アリをみて萎縮してしまったようだ。こんな調子で大丈夫だろうか。

 部屋に彼が天使と崇める霜月凩がいることを小野間はまだ知らない。森羅があえて説明しなかったからであり、アリもまた、少女にはこの男が訪ねてくることを報せていなかったようだ。

「気にしないでください」と宥める。「はやく入りましょう。きっとびっくりしますよ。ゲストがいますからね」

「ゲスト?」

 不安そうにする小野間の背を押し、さあさあ、と半ば強引に部屋へと通す。

「おそいぞ電柱!」扉をあけると、少女がクッションを投げつけてきた。「くらえ天誅!」

 わずかな時間、クッションが小野間の顔に張りついた。力尽きたように落下する。

「……コガラ天使ちゃん?」飛んできたクッションを一顧だにせず小野間は目を丸くしている。

 な、なんで?――と少女もまた口をぽっかりと空けて瞠目している。こちらに助けを求めるような視線を向け、説明を求めるかのように口をぱくぱくさせる。

「連れてきちゃいました」

 森羅は言った。「小野間さんのこと、知っているよね」

 アリが少女のよこへ立つ。〝もしもの場合〟に備えたのだろう。

 森羅もまた緊張した。

 少女から〝像〟がひとつ消えている。少女の死を暗示する像が視えなくなっている。

 回避されたのだ、といちどは安堵したがすぐに気を引き締めた。

 小野間が死に、少女が血にまみれナイフを握っている〝像〟がより鮮明になっている。

 そんな未来にさせはしない。

「とりあえず座りましょう」森羅は場を和ませる。


 少女と男が向かい合ってソファに座った。あいだに脚の低いテーブルを挟んでいるが、大人であれば簡単に乗り越えて襲いかかれる距離だろう。

 小野間のよこに森羅が座り、少女のよこにアリが座った。

「あの、これ、どういうことなんですか?」小野間が小声で訊ねてくる。きょろきょろと控えめに室内を見渡しはじめたので、「隠しカメラなんてありませんよ」と指摘すると、ですよね、と男が身を縮めるようにした。

「コガラシちゃんは現在、命を狙われています」まずはさておき口火を切った。「その護衛と調査を請け負っているのが。ボクたちです」と詐称する。

 え、そうなの? と男が驚いた。つづいて少女を心配そうに見遣っている。

 少女もまた、そうだったの、とアリの表情を窺っている。アリは一瞥をかえすだけで、肯定も否定も示さない。

「そういうわけでした」強引に話をすすめる。「小野間さんにはわるいと思いましたが、小野間さんの存在がどうも怪しいとなりまして。こうして来ていただいた次第なんです」

「じぶん、容疑者なんですか!?」

 捕まっちゃうんですか、と幼稚に悲嘆している。

 そういうわけじゃないんですが、と森羅は否定しようとした。しかしそのまえに少女の金切り声に遮られた。

「勝手なこと言わないでよッ! トッペイさんはそんなひとじゃない! わるくいうなッ電柱のぶんざいでッ」

 少女の口にする「電柱」とは森羅を示しているだろうことは想像に難くない。きっと留守のあいだに、アリから名前を聞いていたのだろう。「でんしんばしんら」「電信柱」といった安直なあだ名なのだと推して知れる。

 だが、それにしてもなぜ自分が蔑まれたかが判らない。

 少女は、小野間訥平――彼のことを蛇蝎のごとく忌避していたのではなかったか。

 いや、と森羅は自分の謬見に気がついた。

 少女はひとこともそのような趣旨の言動を発していなかったではないか。一切口にしていなかった。森羅が勝手にそう推測していただけにすぎない。

 ならば、ともういちど組みたててみる。

 少女の言動と行動と。

 小野間の言動と行動を。

 思いだしてみる。

 ブサイクお断り――。

 吐き捨てながら、まるで避けるように小野間から姿を隠した少女。

 あのコは天使なんですよ――。

 まるで真実に天使のような慈愛を目の当たりにしたことのあるような熱の上げようの小野間。

 二人のあいだに見え隠れしていた繋がりは、おおよそ森羅の思い描いたものではなかったようだと悟り、じぶんの早とちりに恥ずかしくなる。

 

「手紙、書いてたんだって?」森羅は少女へ投げかけた。「小野間さん、とってもうれしかったってよろこんでいたよ」

「ちょっと同志」

 照れるじゃないですか、と小野間がもじもじと身じろぐようにする。弁解するように彼は、「ファンだったらうれしいものでございましょうに。同志だってもらっておられたのでしょう、手紙を?」と汗を拭う。

「もらってませんよ」森羅は告げる。「ファンに手紙なんて配られていません」

 少女へ向きなおり、「そうなんだよね?」と確認する。

 うつむいた少女の顔は茹でタコのようだ。

 室内はあたたかいが、のぼせるほど暑くはない。

「考えてもみてください」と小野間へ言い聞かせる。「小野間さんは言いましたよね、手紙には、小野間さんの送ったファンレターへの返信がつづられていたと。でもいいですか、送られてきたファンレターがいったいだれからのものなのか、どうやってコガラシちゃんが知るんです? 手紙に書いてあるのは名前だけです。顔なんて判らないじゃないですか」

「なら、この手紙は……?」男が懐を押さえるようにした。

「それはファンへの手紙ではありません。小野間さん個人へ宛てられた手紙です」

 ラヴレターですよ、と森羅は口にした。

「いや、まさか」

 言いながら小野間の顔面から文字通り湯気がのぼりはじめる。

 思い当たる節があるのだろう。これまでの手紙に、いったいどんな文字がつづられていたのかは判らない。それでも、彼がその手紙を、イベントの特典でファンに配られる手紙だと信じて疑わなかったくらいに、甘い言葉が並んでいたのだろう。

「コガラシちゃん、伝えるべきことはちゃんと声にして伝えるべきだと思うよ」

 少女が街中をひとりで彷徨っていた目的はきっと、伝えるべき想いの向かうひと――小野間訥平を捜していたからに違いない。

 手紙ではなかなか伝わらないのだと悟った少女はきっと想いの丈を直接告げようと決意したのだ。

 そうしてなんの因果か、森羅と出会ってしまった。

 出会ってしまったものはしようがない。

 偶然にしろ。必然にしろ。

 森羅はもう、少女を放っておけなくなっている。小野間のこともまた、放ってはおけない。

 干渉してしまったのだ。干渉されてしまったのだ。その事実はこのさき一生、変わることはない。

 ならば、後悔の生じぬようにとことん関わってやろうではないか。 

      (十三)

「すみません……無理ですよ」

 男が項垂れたまま床にこぼすと、じんわりと少女の目になみだが溜まっていくのが目についた。

「すみません」

 男がさらにこうべを垂れる。少女の目からは涙が溢れた。ひざに置かれた少女のゆびに、ぽつり、ぽつり、と垂れていく。

 たった今、少女は想いの丈を男へ告げた。

 ずっとずっと気になってたんです。ずっとそばにいてくれたらなって…………ホントはもう、モデルなんて辞めたかったんです。でも辞めちゃったら、逢えなくなっちゃうから……。付き合うってわたし、よくわからない……でも、好きなときにトッペイさんに逢えるなら。逢えたなら。わたし、すごくうれしいなって……。そういう約束、したいんです。だめですか……?

 終始うつむいたまま手をもじもじといじりながら少女は途切れ途切れにひねり出すように言の葉をえらび、想いを詰め込んでかたちにした。伝わるように祈るように願いをのせて飛ばしていた。

 それを彼は、

「すみません」と拒絶した。

「無理ですよ」と否定した。

 意味がわからない。断る理由がない。拒む必要がない。

 森羅は戸惑いを禁じ得ない。

 視えている〝像〟が濃くなっている。鮮明になっている。

 少女の像。と。男の像。

 ――小野間が血に塗れ、少女がナイフを片手に佇んでいる――。

 双方ともに、そんな〝像〟が浮かんでいる。

「どうしてですか?」

 どうしてダメなんですか。少女の代わりにそう問うた。

 小野間は口を閉ざしたまま自分の手のひらを見詰めている。

「年齢ですか? 法律で禁止されているからですか? 他人にダメだと言われているから、だから諦めるんですか? 諦められるんですか? 小野間さんだってコガラシちゃんのことが大好きなんじゃないんですか? どうしてダメなんですか、なにが無理なんですか。きちんと説明してください」

「もちろん、歳の差は無視できないですよ」男は斟酌しながら言葉をつむぐ。「でも、そうじゃないんですよ」

 無理なものは無理なんですよ、と繰りかえす。

 少女が嗚咽をこらえている。泣いている。泣いていることを悟られまいと――平常を維持しようと――努めている。隠しようのないその様を――隠そうとして、隠さずにいるのだから、ほとほと自明である。

 淀みを知らぬ少女の瞳からもったいないほどにつらつらとぽつぽつとしきりになみだが垂れる。

「コーヒー、淹れてくる」

 アリが立ちあがった。

 一服つこう、との配慮だったのだろう。しかしそれが呼び水となった。

 はじめに反応したのは、こうなるかもしれないことを予期していた森羅である。

 ジャケットに忍ばせていたナイフを、護身用だろうか、とりだした少女が躊躇なく一心不乱に小野間へ飛びかかった。

 弧をえがくように切っ先が空を裂く。

 森羅は小野間の肩を掴み、引き寄せる。

 少女の拳がソファの背もたれに叩きつけられる。ハンコが押されたように背もたれには、深々と間隙が空いた。森羅が小野間を引き寄せなければ、その間隙が彼の胸に空いただろう。

 勢いよく引っ張りすぎたのがわるかった。小野間ともども態勢を崩す。

 もつれるようにソファから転倒する。

 半身を起すと同時に森羅は突き飛ばされた。小野間に足蹴にされたのだ。

 それまで森羅のいた床に、ガチリ、とナイフが突き立てられる。

 間一髪。

 あごをあげると少女と視線が交わった。

「おまえのせいで……」

 電柱のぶんざいで、と少女が弱々しく吐き捨てる。

 震えた声には本気の殺意が滲んでいた。

 少女は激情にながされているが、全身全霊で殺傷しようとしているのは、少女の意思にほかならない。

 身の危険を感じたと同時に――小野間への配慮を失念した。

 少女が小野間を見下ろした。

 小野間は彼女を見上げ、見詰めあう二人。

 そうだとも。

 彼らは想いあっている。

 なにゆえ傷つけ合わなければならぬのか。

 少女の想いを男が拒み――。

 傷つく少女が男を殺す――。

 ――あの〝像〟は、こういう結末だったのか。

「……こんなにおもってるのに」

 少女はささやく恨めしそうに。

 半端な言葉に想いを詰めて。

 どうしてあなたは応えてくれないの――つづいた声は幻聴か。森羅の脳裡にだけひびいて聞こえた。

 少女は両手で握ったナイフを掲げ、まっすぐ愛しい者の頭蓋へ突きたてんとする。

 森羅はゆるりと目をつぶる。己の無力を懺悔した。

 たすん、と低い音が鳴る。

 刃先が埋もれる肉の音。

 こぶしが肉に当たる音。

 森羅は瞼をもちあげる。己の瞳を疑った。

 振り下ろされた少女の両手は、相手の胸を突いていた。

 突かれた相手が手をひろげ、少女をそっと抱き寄せる。

「言ってくれなきゃわからないだろ」

 いつもと違わぬしずかな声で――アリが少女を包んでいる。

 ああ……、とゆらめく悲嘆をこぼし、少女はその場に膝をくずす。

 刃先がアリから抜け落ちる。

 噴きだす血は、リズムよく、溢れた血でゆかが染まる。

 少女がまだらに血にまみれ。

 小野間も地べたで血にぬれた。

「……わるい。すこし寝る」

 言ってアリがひざをつく。

 少女はナイフを投げ捨て、倒れる彼女を押しとめた。

 ちいさな体躯の支えではとうてい力およばずにアリは、とたん、と血に伏した。

 長い髪が血を吸い、彼女の遺髪を染めあげる。

 静寂が、しん、と部屋を満たしている。

 うごきの止まった部屋のなか。

 彼女の溢した体液だけが。

 じわり、じわり、と。

 帯びていく。

 広がりが。

 やけに。

 部屋。

 を。

 アカるくした。


      (十四)

「私のせいだ」と男がその場に膝を崩す。

「なんで……。なんでそんなこというのっ」

 少女が声を荒らげる。「あなたはなにもしてないでしょッ」

 ひとごろしはわたしでしょ、と拭われることのない悲涙をながす。

 泣いて許されることではない。

 許されたくなどはない。

 だからこそ少女はなみだを拭わない。泣いていることを認めない。

 彼女たちをしり目に、森羅は放心していた。まるで夢のようである。

 ――彼女たちは気づいていないのだろうか。

 床にひろがる血だまりが。

 ――今はもう、消えている。

 臍をかむ小野間は、そのことに気づかず、悔恨に暮れている。

 やがて、

 だれへ向けての懺悔であるのか滔々と赦しを乞うた。

「見てのとおり、私はブザイクです。いえ、いいんです。わかっておりますから」

 自分のことは自分がいちばんわかっていますから――と小野間が、ぎゅう、とこぶしを握る。

「外見だけじゃないですよ。私は醜いんですよ。仕事だって工場の派遣社員です。派遣社員がわるいだなんてそんなこと、思ってはないですよ。どんな仕事であっても、誇りが持てるなら、それは立派な仕事ですよ。でもですよ、ぎゃくに誇れない仕事なら、それはダメな仕事なんですよ。私は自分の仕事に誇りをもてないんです。仕事がわるいじゃないですよ。誇りを持とうとしない私がわるいんですよ。

 数年前、地震があったじゃないですか。ひどい地震でしたよ。被災地支援政策とやらで、あれから受注が増えましたでしょ。街を再建するんですよ。たくさん人出が必要ですよ、お金がたくさん巡りますよ。だから最近じゃ、景気が回復しただなんて世間では言っておりますでしょ――でも派遣社員なんて、いつ馘首にされるか分かったもんじゃないですよ。いまもむかしも変わらんですよ。われわれは、使い捨ての駒にすぎないんですよ。

 家だって安アパートですよ。資産なんてないですよ。将来なんて考えてないですし考えたくもないですよ。今が楽しければいい。今を生きていければいい。そうやって目のまえにある現実しか見てないんですよ。私はだからダメなんですよ。

 私の趣味はもう、ご存じでしょう。アニメのキャラクタに恋して。空想の世界に身を置いて。逃げ込んで。ひまさえあればコガラシちゃんの追っかけですよ。それには誇りを持っておりますよ。胸を張って誇れますよ。私はコガラシちゃんが大好きですよ。

 コガラシちゃんは雲のうえの存在ですよ。まさに天使ですよ。それがたまにイベントで間近で見ることができますでしょ。天使が下界へ降りてきて、私らのような救いようのない困ったちゃんをですよ、救ってくれるのですよ。ありがたいでしょう。えらいでしょう。コガラシちゃんは本物の天使なんですよ。

 その天使さまがですよ、私なんかと一緒にいちゃいかんのですよ。

 だってそうじゃありませんか? 私ですよ? コガラシちゃんの相手がこの私ですよ? ダメでしょう。そんなこと。あっちゃいかんのですよ。

 コガラシちゃんが私のことをこんなに想っていてくれたなんて――ほんとうに、ほんとうに、死んでもいいくらいにうれしいですよ。

 私なんかの命、いくらだって差しだせますよ。

 コガラシちゃんのためなら死ねますよ。うそじゃないですよ。言葉だけじゃないんですよ。ほんとうにそう思っているんですよ。そう思えちゃうんですよ。

 だからこそなんですよ。

 コガラシちゃんのためなんですよ。私なんかを選らんではいかんのですよ」

 だってそうじゃないですか、と小野間は無様ななみだを溜めていた。

「だってそうじゃないですか。ただでさえ、こんなことになってしまったんですよ。私は、私にできる精一杯の応えを出したんですよ。これがいちばんいい応えなんだって――コガラシちゃんとバイバイして、天使を下界に束縛しないためにですよ。天使には天使のいるべき世界があるんですよ。私のいる荒んだ世界になんていちゃいかんのですよ。

 心を鬼にして、自分を殺して、そうして突き離したんですよ。

 その結果がこれですよ。

 どんなに努めたって私はコガラシちゃんを不幸にしてしまうんですよ。どうしたって幸せになんてしてあげられないんですよ。それもこれも、私が非力なのがいけないんですよ」

 私の存在がいけないんですよ――と小野間はうじうじと自虐する。前方のゆかを見遣りながら、

「この女性が死んでしまったのは、私のせいですよ。私が殺してしまったんですよ。見てたでしょ。同志だって見ていたでしょ? この方を刺したのは私です」

 私が殺してしまったんです、と小野間はなんども呟いた。

「もちろん見ていました」森羅は答える。

 ようやく安心したように小野間は相好をくずした。

 でも、と森羅はすかさず言った。「でも、彼女を刺したのはコガラシちゃんです。小野間さん、あなたじゃない」

 絶望したように小野間がくちびるを噛みしめた。「……同志は、同志じゃないんですか」

 コガラシちゃんを護ろうとはしてくれないのですか、とゆるゆると呻った。

「小野間さんはだいぶん歪んでいますね」森羅は淡泊に突きつける。「小野間さんがコガラシちゃんを袖にしたのは、べつにコガラシちゃんのしあわせを考慮したからじゃありません。あなたはあなたのために、コガラシちゃんを振ったんです」

 そんなことはない、と小野間の瞳に険が宿る。

「いいえ。あなたは自分が傷つくのが厭だっただけです。今だってそうじゃないですか。あなたはコガラシちゃんの代わりに罪を被ろうとしているみたいですけど――それでコガラシちゃんが救われるんですか?」

 小野間が少女に視線を向けた。ずっと背けていた瞳を向け、彼らはやっと向き合った。

「小野間さんはコガラシちゃんを不幸にしてしまったときのことを考えて、そうしてその責任を恐れていただけじゃないですか。責任をとることから逃げているだけじゃないですか。あなたはあなたの保身を考えて、そうしてコガラシちゃんの想いを無下にしたにすぎないんですよ」

 ちがう、と小野間は叫んだ。勇ましいほどの迫力に満ちている。

「ちがうのなら、」

 と森羅はここで初めて怒鳴り散らした。「なんで拒むッ!」

 少女をしあわせにできない? 少女が不幸になる?

 どうしておまえがそれを決める。

 彼女のしあわせは彼女のものだ。だれが与えるでもない。だれに与えられるものでもない。

 彼女は自分で自分に誓っていたのだ。覚悟はすでにできていたのだ。

 ――逢いたいとき、あなたがそばにいてくれれば、それでいい。

 ただそれだけでいいのだと。今はその約束を結びあえただけでもそれでよかったのだ。

 彼女の覚悟がいつまで続くかはわからない。

 齢七つの少女の想いだ、どこまで変わらずにいるかもわからない。

 それでも信じるだけの想いが、男にはあるはずだ。

 少女と男の歳の差を社会が許さぬにしても、少女の齢が嵩むまで満ちるまで共に信じて待てばいい。

 きっと彼女たちにはそれができる。

 ふたりに重なり視える〝像〟は、今はひとつだけである。

 胡坐をかいた男のうえに少女が座る。少女は泣いている。うしろから抱きしめるようにしている男はやさしい父親の眼差しをしている。娘と夫のふたりのすがた――を眺めた妻の視点。

 ――数十年後の未来だろう。

「私は……」小野間が目をつむる。「……私はひきょう者でありますよ。私はとても弱いのですよ。その弱さを言い訳にして、免罪符にして生きてまいりましたでしょ。『弱いのだから仕方がない』『この世界は弱肉強食だ』『弱い者は淘汰されるだけの存在なのだ』『こんな脆弱な私が淘汰されずに生きていけるのなら、それだけでもしあわせではないか』『みんなに感謝すべきではないか』そんなふうにして弱さを掲げて生きてまいりましたでしょ。そんなひきょう者でありますよ。ですがもう、そんな生き方をしたくはないのでございますよ。したくなんてなかったのですよ。自分にうそをついて生きていくのはもう、いやなんでございますよ。いやだったのだと、今わかりましたよ。弱いのが嫌なら、強くなればよかったんですよ。強くなれるかどうかは関係ないんですよ、強くありたいと望んで、強くあろうと求めて、そうして生きていけば――自分に正直に生きていけば――それでよかったんですよ」

 だから私は、と小野間は眼をさらす。瞳に少女の顔が映っている。

「だから私はここに誓いますよ。私はつよくなりますよ。あなたを手放さずにいられるくらいに、一生あなたと生きていけるくらいに――私はつよくなりますよ。それをそばで見ていてほしい。私があなたを護れるくらいつよくなれるまで――私のそばで、私を見ていてはくれませんか」

 両手で顔をおおう少女はいやいやするようにかぶりをふる。

「私はあなたが好きですよ。大好きですよ。いつだって私は」

 ――あなたのしあわせが、幸せですよ。

 少女のしゃくりはとまらない。

 もう遅い、おそすぎるよ。おそすぎるのに、どうしてこんなにうれしいの。

 そんな声が聴こえた気がした。

 ふあ、と欠伸が部屋にこだまする。割って入るような間のわるさだ。

 むくり、と起きる影は言う。「飯はまだか」

 少女と男のふたりはすくみあがった。互いに身を寄せ、抱き合っている。

 間もなくして、

「お、お師匠さまぁ……」

 少女がアリに飛びついた。安堵で緊張がゆるんだのだろう。わんわん、と赤子のようにむせび泣く。

 男がきつねにつままれたような顔をしている。

 森羅はそんな男の頬をつねってやった。

「同志、これはいったい……」

「いい機会だから知っておくといいですよ」

 森羅はここぞとばかりに口にする。「死んだものは二度と死なないのです」

 

      (十五)

 夕食はシチューにした。食卓を四人で囲み、さきほどまでのゴタゴタが夢幻であるかのように穏やかなひと時を過ごした。

 玄関先で小野間は、ありがとうございます、といくども頭をさげた。少女はなんども蹴ってきた。「電柱、おまえはいっしょうゆるさない」

 なにがどうゆるされないのか、皆目見当がつかない。償う罪が見当たらない。

 ゆるしてくれなくていいよ、と頭を撫でようとすると、ロリコンはしね、と少女はオニヤンマさながらの俊敏さでこちらの腕をすりぬけた。

 彼女たちに視える像は無数にあるが、はっきりと読み解ける〝像〟は、今は、たったひとつしかない。

 ――あたたかい家族の団らん。

 哀しい映画でも観ていたのかもしれない。ひょっとすると少女の出演した映画かもしれないな、と突飛な妄想で胸がほっこりとした。

 親子のように手を繋ぎ、少女と男は去っていった。

 

「一件落着ですね」

 ベランダにアリが立っていたのでよこに並んだ。

 空には月が浮かんでいる。

「あそこ」

 アリがあごをしゃくり、眼下の住宅街を示した。道にそって街灯が点々とみえる。目を凝らすと、少女と男が歩んでいた。まだ手を繋いでいる。ずっとそうやってどこまでも手を取り合って歩んでいくのだろう。ときには手放すこともあるかもしれない。だがそれは、手を放してしまっても、離れてしまわないのだと信じられるからできる解放だ。

 おや、と思う。

 かれらが離れていくにつれて、視界がぶれだした。

 はじめは見間違いかと思った。

 が、たしかに視えている。

 

 ぞくり、と骨の芯から背筋が凍る。

 

 おかしい。

 なぜ視える。

 なぜあれがまた視えている。

 どうしてまだあの〝像〟が――?

 森羅は戦慄した。

「アリさん…………どうしよう」

 どうした、と彼女が視線をよこす。

「……このままだと、死んじゃいます」

 だれがだ、と彼女の眼光が鋭くなる。

 逡巡の間をあけてから、森羅はこう告げた。

「……小野間さんが、死にます。コガラシちゃんも、血にまみれていて……ナイフを持って……佇んでいて」

 自分の述べた言葉でひやりとした。

 連れだって歩く少女と男の背後に人影がある。

 人影が街灯のしたを通ると見覚えのある服装が目に入り、次点で、整った容貌の青年の姿が思い浮かんだ。

 少女と男にぴったりとはりつくように歩いているのは、喫茶店にいた端正な容姿の青年だった。


      (十六)

 部屋を飛びだし、エレベータのボタンを押す。待っている時間も惜しいと判断し、階段を駆け降りた。アリの部屋は最上階にちかい。一階に着くころには息があがっていた。

 チン、と人を小馬鹿にしたような音が鳴る。

 エレベータの扉がひらく。アリが降りてきた。

 無駄な労力を嘆いている暇はない。そろって少女と男のあとを追う。

 ふたりはまだそう遠く離れていないはずだ。焦りが募る。

 

「……こんなブサイクがよくてッ」

 澄んだ空を裂くような声がひびきわたる。聞き慣れぬ声だ。

「……なんでオレだとダメなんだッ」

 ――オレのどここがブサイクだ。

「いえよ。言えッつッてんだろクソガキぃぃィァァァア」

 咆哮がすぐちかくから聞こえている。

 少女の金切り声がした。叫び声のようでもあり、断末魔のようもである。

 角を曲がると街灯のしたに少女の姿を見つける。青年の背がある。その陰に、小野間がひざを折るようにしてうずくまっている。

「おいッ」森羅は叫ぶ。

 青年が振りかえる。人間に見つかったトカゲを思わせる素早さだ。彼は闇の向こうへと走り去っていく。

 少女が小野間に駆け寄る。

 小野間の胸にはナイフが生えている。

 少女が柄を握りしめる。

 いとしい者から生える柄が、いとしい者に埋もれた刃が、許せないのだろう。邪魔なのだろう。

 こちらが待てと呼び止める前に少女はちからいっぱいに引き抜いた。

 鮮血はいちどおおきく宙に舞い、ごぼり、ごぼり、としぼんでいく。

 少女をまだらに血に染めながら小野間は言った。

「ケガ、ないですか」

 少女の頬に手をやり、だいじょうぶでしたか、と触れるか触れないかのやさしい手つきで撫でまわす。

 やがて少女に見守られるようにして小野間は掲げていた腕をちからなく垂らし、間もなく動かなくなった。

 どれだけ目を凝らしても彼には〝像〟が視えなかった。


      (十七)

 サイレンが聞こえてきた。

「いこう」とアリが言った。

 小野間の遺体には少女がまだ縋りついている。

「ケイサツはまずい」アリが珍しく表情を曇らせた。哀しそうな顔に映った。

 彼女の言いたいことは解る。アリも森羅も、すでに社会から踏み外した人間だ。いや、人間であることも疑わしい。

 だからこそ、社会の代理人である行政との関わりはなるべく持つべきではない。この場は少女を残して去るのが賢明である。

 同時にそのことをアリは愧じている。

 保身を理由にこの場をたち去る自分が情けないのだろう。

 森羅もまた同じきもちだった。

 だからといってここにとどまるわけにはいかない。

「救急車、呼んだから」森羅は少女の肩に触れる。それ以上、なにも言えなかった。だいじょうぶだからの一言がどうしても口にできない。言えるわけがない。森羅には判っているからだ。

 小野間訥平――彼はもう、死んでいる。

 死んだ者が二度と死なないように。

 死んだ者は二度と生きられない。

 それが死ぬという意味だ。

 森羅とアリ、ふたりはその場を後にした。

「まって、置いてかないで」

 少女の声が森羅の胸のうちを貫いた

 ――ひとりにしないで。

 そこに倒れるいとしい人がすでにそこにはいないのだと少女もまたしっていた。

 だれに諭されたわけでもなしにひとは死を、しっている。


      (十八)

 どうしてだろう。どこで間違ったのだろう。

 いったいどこで、と臍をかむ。

 森羅は霞んだ過去を振りかえる。これまで辿った道筋を、今日を過ごした街並みを。

 少女と出会い。

 男と出会い。

 森羅は彼らの未来を変えた。

 善きにつけ。

 悪しきにつけ。

 森羅はかれらに干渉した。

 ――少女が傷つき。

 ――男が死んだ。

 かれらの未来を森羅は奪った。

 善きにつけ――?

 悪しきにつけ――?

 なにをボクは言っている。

 これで善いはずがない。

 これが最悪でなくいったいなにが悪なのか。

 いったいなにがわるかった。

 いったいなにを誤った。

 未来は不定であるはずだ。

 男と少女、あのふたりには、無数の未来がひろがっていた。

 明けない夜がないように、明日は必ず巡るのだ。

 それがいったいどうしたことか。

 ――男に明日は来なかった。

 今日を生き抜く道があり、明日を生き抜くはずだった。

 ――関わらなければよかったのだ。

 ――ボクなどいなければよかったのだ。

 未来が視えると高をくくった。

 あなたを救うと自惚れ驕った。

 ――救うどころか掬ってしまった。

 男が歩むはずの道を、少女が辿るはずだった道を、かれらの足場を奪ってしまった。

 土ごと、足を掬ってしまった。

 かれらを落としていたのだろう。

 陥れていたのだろう。

 死と。傷と。

 かなしみと。くるしみと。

 つらみと。いたみと。むなしさを。

 ――生きることのむなしさを。

 償うべきではあるだろう。

 しかし、関わるべきではないのだろう。

 ――ボクはひとを不幸にする。

 干渉してはならぬのだ。償うことすら不要なのだ。

 ああ、と森羅は得心いった。

 ――だからみんなは避けるのだ。

 ――死神じみたボクのことを。

 ――疫病神のこのボクを。

 ああ、と森羅は涙した。

 どうして孤独に籠らなかった。

 どうして傍観しなかった。

 観ているだけであるならば、映画は筋書きどおりに進むのだ。

 それを異質な観客が紛れこんだりするからだ。

 だから狂ってしまったのだ。

 ――ボクが触れるたびに物語はゆがんでしまうのだ。

 ハッピーエンドもバッドエンドも、どこかに報われた者がいたはずだ。

 だのにこれはどうしたことか。

 ――だれひとりとして報われない。

 少女は傷つき、男が死んだ。

 男が死んでだれが喜ぶ。

 ひとを殺した者は捕まる。ならばあの青年も、未来をはげしく絞られる。歩む道を縛られる。社会によって虐げられる。人を殺すとはそういうことだ。

 だれもかれもが不幸じゃないか。 

 不幸のなかで生きていて、そのときそのつど目を逸らす。

 ちいさき利得に見蕩れることで不幸のなかの我を忘れる。

 そうした世界にだれがした。

 いとしい者を生かすために男は抗い死んだのだ。

 男はしあわせだったのか。

 少女はしあわせだったのか。

 森羅が決めることではない。森羅に与える道はない。

 いずれも個人が決めること。

 いずれも個人が選ぶこと。

 それでも森羅の影響力は無視するにはあまりに大きくなりすぎた。

 個人で決める結末を――森羅は故意に変えてしまった。

 やはり、と森羅は臍をかむ。

 ――ボクなんていなければよかったのだ。


      (十九)

「おなじだな」とアリが言った。「亡くなった彼と今のきみ、おなじだよ」

 陽がのぼり、街をおおう曇天からでも夜が明けたのだとわかる時刻まで――森羅はずうっとそうしていじけていた。

 いじけているのだと自分でも判った。

 自分だけが辛いわけではない。

 アリだって遣り切れないはずだ。割り切れないはずだ。

 それなのに、それでも、だからこそ森羅は己を戒める。

 見兼ねたのだろう。

 森羅を見下ろし、アリが言った。

 ――おなじだな。

 その意味もまた、森羅には解っていた。

 小野間訥平、彼は自身の弱さを認めていた。認めた弱さでまわりを囲った。自分の弱さにひきこもった。

 しかし、

 ――どこまでいってもそれは保身だ。

 己を理由に他者をはねのけ、己の弱さで矜持を保った。

 自分が弱者であるかぎり、総じて他人が加害者だ。

 周囲が強者であるかぎり、総じて自分は被害者だ。

 そうして自分を慰めた。

 そうして彼は少女を拒んだ。

 いつか必ず失うならば、はなから求めなければいい。

 いつか必ず死ぬのなら、はなから生きずにいればいい。

 至福に満ちた時間など、一切すべてを溝に捨てよう。

 あらゆる過程を放棄して、得るべき家庭も擲って、そうして少女を遠ざけた。

 自分の弱さを彼は守った。

 自分を護る弱さを庇った。

 願い望んだ未来があるのに、差し延べられた想いがあるというのに、身近に迫った至福の時を彼は自ら撥ね退けた。

 今の森羅も同じである。

 彼と森羅は同じである。

 すべてが己のせいだと断ずることで、己の弱さを受けいれた。

 己の弱さを肯定すればすべては弱さのせいにできる。

 つよいも弱いも相対的だ。強者がいるから弱者がいる。弱者がいるから強者が生まれる。

 つよいも弱いも他人の評価だ。他人が押しつける得手勝手な価値観だ。

 自分の弱さがわるいのならばそれは弱さを生みだす社会がわるい。

 好きで弱いわけではない。

 みんなが「私」を弱くする。

 社会が弱者を仕立てあげる。

 それは結局、苦し紛れの言い訳にすぎないと知っていながら、苦しみを紛らわすには都合のよい言い訳だと知っているから、縋らずにはいられない。


      (二十)

 あれから二週間が経った。男を刺殺した青年はマンションから身を投げ、亡くなったそうだ。犯行を苦に自殺したのだと報道された。

 インターホンが鳴った。

 セキュリティのしっかりしているマンションであるからまえもってアポイントを取っていなければ、住人以外が訪れることはない。ならば隣人だろう。しかし人付き合いを避けているアリと森羅であるからこんなことは珍しい。

 覗き穴を見てもだれもおらず、おかしいな、と訝しむ。その間にもまたインターホンが鳴った。

 警戒しつつ扉をひらくと、隙間に足を挟まれた。

「たのもう!」

 懐かしい声だ。

「はやくあけて! ああ、もう! じゃまッ」

 電柱のぶんざいで、とちいさな足が蹴ってくる。

 チェーンを外して扉を開ける。

 そこのけ、と威嚇してから少女は、

「おじゃまします、お師匠さま」と廊下を駆け抜けていく。

 ――霜月凩。

 十四日という時間がまるで分厚い氷河のごとく感じられる。少女のうしろすがたはこころなしか、成長しているようにも見受けられる。

「おう」アリが珍しく頬をほころばせた。とは言え、わずかな変化に違いはない。「元気か」

「あい。みてのとおりでございますよ」

 げんきです、と快活に応じると少女はアリの腰に抱きつくようにした。

 カラ元気という言葉が脳裏に浮かぶ。

 森羅は紅茶を淹れた。アリには、コーヒーのお代わりを置く。

 どうしてここへ来たのだろう。ただ逢いに来ただけではあるまい。

 あのとき、森羅たちは少女をひとりあの場へ残して突き放した。

「どうやって入ったの?」

 どうでもいい質問をすると、あんたはしゃべるな、と少女が目をほそめた。

「ロックはどうしたんだ」アリが問うた。マンションの入り口にあるセキュリティのことだ。暗証番号を入力しなければ扉は開かない。

 入れてもらっちゃいました、と少女は口にした。「入り口のまえでこまった振りしてたら、親切なおばさまが『どうしたの?』って声をかけてくださったんです。『暗証番号わすれちゃった』ってウソ泣きしたら、一緒になかへ入れてくれました。買い物がえりだったのでしょうね、あのご婦人」

 困った振りにウソ泣き。実にそつがない。

「それで、これ」と少女はリュックから小包を取りだした。「つまらないものですが」と拙い口調でうやうやしく差しだす。

「うむ」アリは受け取った。

「どうしたの、これ?」森羅でも知っている銘菓だ。

「買ってきました」

「いや、そういう意味じゃなくてね」

 なぜお土産を持ってきたのかを訊ねたつもりだ。

「なぜ、ですか? だってこれからお世話になるんです。これくらいの礼儀はつくすべきでしょ?」

 お世話になる――?

「だれが?」

「気にしないで」少女が廻し蹴りを放ってきたので、身を翻したが食らった。「あんたに世話になるつもりはないの。あんたは下僕だから」

 はん、とこちらを見下して少女は言った。「しっかりはたらけ」

「……アリさん」と助けを求める。

 まあなんだ、と彼女は頬を掻いた。「がんばれ」

「よろしくお願いしますお師匠さま」

 少女がひとなつっこくお辞儀する。

 どちらの少女がほんとうなのか。

 ねこを被っているだけなのか。

 天の邪鬼を飼っているだけなのか。

 どちらにしても、少女がなぜそこまで多くの仮面を保持しなければならなかったのか、森羅にはなんとなく分かる気がした。

 可愛らしくなければ生きていけない。

 ――きっと少女は怯えている。


      (二十一)

 家出してきたの、と少女は言った。実に恬然としたものである。

 アリを見遣ると、しかたあるまい、と半ば諦観をにじませている。追い返すつもりは端からなさそうだ。

 聞けば、モデル稼業を辞めてきたのだという。

 今回の事件がもとで、少女の名は一躍、世に膾炙した。

 ――美少女をめぐって、ストーカー二名が殺し合う。

 ゴシップ記事として話題になったのだ。人が死んだことよりも、数奇な少女に世間の好奇は向かっていた。

 奇禍に見舞われた美少女。

 この、少女に付加された悲劇的な〝設定〟に関心があっただけにすぎないのだろう。

 大衆とはいつだって個人へ関心を抱かない。個人をとりまく〝設定〟や〝コミュニティ〟に反応する。レッテル貼りなどその極みだ。

「せっかく人気に火がついたのに。どうして辞めちゃったの?」

 もったいない、と心にもないことを言った。

 勝手でしょ、と蹴りつけてきながらも少女は零した。

「だって、つづける意味ないもん」

 あっさりとしたものである。それがまた切なく映った。

 失ったものを受けとめたそのうえで、「今すべきこと」と「今やめるべきこと」を選択している。見定めている。

「アリさん、まずいんじゃないですか」と小声で訴える。

 仮にもこちらは世間でいうところのアウトロー、けっして堅気の人間などではない。

 うむ、とアリは頷き少女に向きなおる。「なぜ家出した」

 だって……、とうなだれるように、或いは不貞腐れたように少女はうつむいた。「だってママたち、だめだって……わたしがモデル辞めるの、ぜったいにダメだって言うんだもん」

「だから家出を?」

 言葉を濁すところを鑑みるに、きっとそれだけではないのだろう。

「じゃあ、なんで?」

 促すと少女は目に涙を溜めた。

「トッペイさんのこと…………わるく言うんだもん」

「そうだね。なにもわるくないのにね」

 小野間訥平、彼はなにもわるくない。それこそ、少女に命を捧げた男である。

 少女を庇って彼は死んだ。

 少女を護って彼は召した。

 それを世間は否定する。少女の言葉を真に受けない。

 ――男と少女は両想い。

 見方によればそれは、男が少女を誑かし、連れまわしていたという解釈を彷彿とさせてしまう。

 少女のほうで男を庇う証言をすればするほどに、少女の精神が男によって侵されていた、とゆがんで解釈されてしまう。あの男の容姿はお世辞にも人に好かれるカタチではなかった。

 森羅たちが培ってきた美的感覚で言えば、そうなるだけの話にも拘わらず。世間は歪曲して捉えてしまっている。少女の必死な証言を。

 いたく煩悶したのだろう。

 だれもかれもが否定する。少女の言葉を否定する。少女の想いを否定する。男の気持ちと行動を――愛を誓った記憶と共に――社会は少女を否定した。

 ――家族が少女を否定した。

 堪えられなかったのだろう。

 逃げだすほかになかったのだ。そうするほかに術がなかった。

 己の正気を保つには。

 己の記憶を守るには。

 出ていくほかに術がなかった。

 でないといずれ、歪まされ、己を殺していただろう。

 だから少女は家を出た。

 そうしてここへやってきた。助けを求めてやってきた。

 それを追いかえすことは、果たして少女のためになるのだろうか。

 ――誘拐犯。

 そのレッテルに恐怖し、少女を追い帰すことが、果たして少女のためと言えるだろうか。

 少なくとも森羅は迷っていた。迷いがある時点で、答えは自ずと決まっていた。

 少女が求めていることは、助けであって、配慮ではない。

 認めてくれる者を欲している。

 あのひとは助けてくれたひとなのに――少女はずっと訴えていた。

 しかしだれもかれもが否定した。そうじゃないのよ、と拒絶した。少女の必死な訴えをだれもかれもが踏みつぶす。

 少女の美貌。と。男の醜貌。

 牽強付会に比較して、善と悪をそれぞれに、くっきりしっかり付けたいのだろう。

 今は逃げてしまっている。

 居場所がつらいと逃げてきた。

 ならばいずれ自ずから、旅立つ日も来るであろう。

 ――きみはつよい。

 森羅は少女を受けいれた。

 アリもまた、少女をやさしく、抱きしめる。

 この日から、あらたな家族がひとり増えた。






  義

   主

    羅

  こがらしんらしゅぎ

    森

   枯

  木 

      ・打たれた楔はなかなか錆びない

             錆びない代わりに縁が腐る・


      ***


 ぐじゅるぐじゅる、と目玉がまわる。

 不快な感触を引きつれ視界もまわる。

 頭部がやけに重い。触れてみようと腕を伸ばす。

 意に反して腕は人形の手のように地面へ垂れた。

 筋が伸縮運動を繰りかえす。間接が外れているのだろう、まるで糸の緩んだ操り人形のごとくだ。骨もまた砕けている。間接ではない箇所がぐねぐねと曲がって見えている。

 これほど毀されたのはいつ以来だろう。

 久しい感覚を懐かしく思う。

 地面に這いつくばった状態で、まだ己身にちからが入らない。

 再生するのをしばらく待つ。

 目のまえに影が映った。

 後頭部のほうから声が降ってくる。

「なん回目だい、これで?」

 あいつの声だ。

 ――知るか。

 口にしようとしたが、まだ声を出せる状態ではない。

 視界が明瞭になってきた。

 身体が麻痺したこの感覚は、そう、頭部が著しく破損した際のものだ。

 まるで他人の身体のような、空っぽの人形のような――とかく己の肉体ではないという違和感がつよく残る。

 やがて全身に痛みが戻ってくる。

 そうだとも、痛いのが正常なのだ。

 記憶もまた戻るように鮮明になってくる。

 たしか私の部屋は三十二階で、ざっと五十メートルはあっただろう。

「起きられるかい」

 あいつが手を差しだしてくる。逡巡したのちに手を取った。

 このまま床に這いつくばっているよりも増しだと思われた。

「さて、どうするかな」あいつはマンションを見上げている。

 私の部屋のベランダを見遣る。

 そこに二つの影が見えている。

 きっとあちらからこちらは見えないだろう。

「どうなるんだ」私は訊ねた。

「どうなるって……藪くんのことかい?」

「ほかに誰がいる」

「そうだなあ」

 あいつはまた夜空を仰ぐようにした。

「きっと、死んじゃうんだろうな」

 ――役立たず。

 言いたかった愚痴を呑みこんだ。

「この街にはいられないね」苦笑を張りつけたままあいつが振りかえる。「どこへ行こうか?」

「好きにしろ」

 言って私はこちらの身体を支えていたこいつのうでを振りほどくようにする。

 いささかよろよろするものの自力で歩く。

「どうしてきみは落されたのかな? 彼女に?」

「私が知るよしもない」

 そう答えながらも本当はなんとなく解っていた。

 あのコは私がゆるせなかったのだ。邪魔だったのだ。うらやましかったのだ。本来ならだれよりも彼――藪アマトのちかくにいるべき存在であるのに、そうなれなかったあのコは、だから、彼の周囲に存在する邪魔者を、彼から遠ざけようとした。無意識のうちで排除しようとした。自分の身に訪れることのなかった幸福、それでいてそれを幸福と思うことのない人間を許しておけなかった。あのコはだから、私が目障りだったのだろう。

 真実にあのコがどうして私を殺したのかは定かではない。もしかしたら理由などないのかもしれない。どんな動機があったにしろ、また、どんなきっかけがあったにしろ、私には関係のないことだ。それこそあのコは私を殺せなかったのだから。

 今宵の夜空は、たかく澄みきっている。

「三日後に駅前で」

 あいつが提案してきた。「いつものあの場所でいいよね。そこからはもう、旅をしよう」

 好きにしろ、と一瞥をかえす。

 すこし歩いて振り返るとあいつはもう、その場にはいなかった。

 ――勝手なやつ。

 髪を掻きあげ、そらを仰ぐ。

 今さらながら月に見蕩れた。

 まるで杯のようだ。

 ああ、と私はちいさく呻く。

 こんな夜は、

 うまい酒が飲みたいものだ。

 



      ・泉谷イズムは眠らない・


      (一)

 泉谷イズムは眠らない。眠る必要がないからであり、休む必要すらないからである。その気になれば眠れる。だが彼女が眠ることはない。

 泉谷イズム――彼女は死ぬる術をもたない。

 どれだけ肉体が傷つき、破損し、分解されようとも――彼女の肉体はその原型を復元させる。

 彼女の意思とは無関係に、彼女は生きてしまう。

 ――死ねない。

 そう、彼女は死ねなかった。

 そして、死にたかった。

 そう、死にたかった。

 かつてイズムは死を渇望していた。

 周囲に息衝くあらゆる生命がなんの努力もなしに死にいたる。

 イズムは独りであった。どれだけ他人と関わろうとも、いつも最後は独りとなる。

 親しい者も。

 見知らぬ者も。

 総じてみなイズムの周囲から姿を消した。

 一方では、次から次へと人類はあらたな存在を生みだしていく。繋いでいく。

 現れては消えていく存在たちにいつしかイズムは愛想が尽きた。興味が失せた。

 いや、

 ――飽きたのだ。

 どれだけ心血を注いで関わろうとも、彼らはすぐにその姿を消す。イズムのまえからその姿を。

 これまでの記憶ごと、関係ごと、彼らはいなくなった。

 積みあげても、積みあげても、最後には崩れ去る積み木を繰りかえす、賽の河原のような徒労に、いつしか気が狂いそうになった。

 実際にいくども発狂した。

 だがやがて発狂することにも飽きた。

 現在の彼女に、その面影はない。

 感情の起伏など、心音のように単調なものとなった。

 怒りを抱く理由がない。

 イズムにとって不利益など存在しないからだ。

 誰からどのような理不尽を受けてもそれがどれほど残酷な暴力であったとしても、泉谷イズムにとっては取るに足らない刺激にすぎない。彼女にとってはもはや痛みは快楽にもならなかった。

 ――飽きたのだ。

 すべての感覚に飽いていた。

 たとえ自身の周囲で滑稽なほどに、のほほん、と生きている人々がどのような理不尽に見舞われようとも、それもまた些末な刺激にすぎなかった。

 どうせみな死ぬのだ。

 いつかは誰もが死に至る。

 ――私をのこして死に至る。

 これだけ恋焦がれる死を、彼らは忌み嫌い、そうして厭厭と駄々子をこねながら死んでいく。

 滑稽である。

 かつてはそのことに憤怒を抱いたこともある。狂っていた時期だ。

 やがて怒りも冷めやいだ。それもまた飽きたに相違ない。

 僻む気持ちはもうない。

 勝手に生きて、勝手に死んでゆけばいい。

 みな私を残して死でいく。

 そこに私は関われない。

 みな一様に、一方的な別れを強いるのだ。

 ときには、「あなたはずるい」「あなたがうらやましい」――と惨めに悲嘆する者もいる。または、イズムを罵倒しながら死んでいく者もいた。大勢いた。

 彼らはわがままだ。

 イズムは思う。

 死ねることの素晴らしさをなぜ彼らは解らないのだろう。

 誰にでも与えられている権利を持っていることがどれほどの奇跡なのかを、なぜ彼らは。

 考えることをやめたのはさいきんだ。

 どんな思考も不毛だからだ。

 どんな行為も不肖だからだ。

 結局その場しのぎの誤魔化しにすぎない。

 目のまえの問題を先延ばしにしているにすぎない。

 答えはすでに提示されている。

 無意味なのだ。

 すべては平等に無意味なのだ。

 このさきいくら人類が発展したとして――繁栄したとして――。

 ――だから何だというのか。

 なにもかもが意味を成さない。

 各々が勝手に目的を求め、目標を掲げ、呆気なく死んでいく。

 あらゆる種は滅び去る。

 個が死ぬるように。

 種は滅ぶのだ。

 そういったシステムがすでに個に組み込まれている。

 ――死が与えられている。

 存在したその瞬間に、存在の崩壊が規定されているのだ。

 ――約束されているのだ。

 個の集合である種もまた、その約束を集積し、巨大な死を内包している。

 ――絶滅。

 それは抗えないひとつの運命である。

 存在した瞬間にすべてのことごとくがいずれ滅ぶ。

 存在とはかたちである。

 かたちあるものはいずれ毀れる。

 かたちとはなにも目に映るもの、触れられるものだけではない。

 循環そのものもまた、一種の、かたちである。

 そうして、その循環――生まれ・滅びる――そういった〝かたち〟が崩れたモノもまたこの世界には存在する。

 それがつまり、

 ――私だ。

 イズムは自身の存在をそう捉えている。

 不老不死。

 死なず、滅びず、どこにも帰せず。

 個として存在しつづける存在。

 世界から剥がれ落ちたながれ。

 己れの枠組みのみで循環しつづける循環系。

 本来あるべき〝かたち〟の崩れたひとつ。

 個としての〈世界〉が《世界》から乖離している孤独。

 それこそが私であるのだと、彼女は己を認識している。

 

      (二)

 

 猥雑な争乱であった。

 海を跨いでの戦であった。

 またたく間にたくさんの人間が死んでいった。

 過程などなかった。彼らの齎した影響はあらゆる影響の消失だけである。

 しずかだった。

 あれだけ騒がしく悲惨な戦だったのに。

 イズムにはただただしずかに感じられていた。

 ――影響を断絶する影響。

 波紋を消しさる波紋のように。ながれを呑みこむながれのように。破壊を促す破壊のごとく、戦は戦を巻きこんで、死が死をさらに助長して、人類はいっときしずかなる破滅へと大きく傾いた。

 イズムは思う。

 連鎖していたのだろう――。

 あの時代のあの戦は、破壊と瓦解と自滅と侮蔑――そうして不毛な消失ばかりが連鎖した。化学反応を起こしたように次々とあちらこちらで人が死に街が崩れ文化が途絶えた。それはまた、分解された残骸がひとつとまとまり、ある種の〝個〟へと複合されていく過程だったのかもしれない。

 混沌という名の個へと。

 定かではない。

 いずれにせよ、

 ――連鎖していたのだろう。

 連鎖が伝播し相乗して過剰された。

 やがて大きな破壊があった。

 被害は甚大であった。

 およそ二万人の人間が一瞬で死に絶えた。

 灰になったのがおよそ六千。原形を留めていながらも焼け死んだのがおよそ八千。さらに全身を爛れさせ、生命維持器官の損傷により即死したのが六千。合計で二万人。

 そのほかに、全身が爛れていながらも生命維持器官が無事であった者たち、およそ十九万人は、時間の経過と共に、全身の損傷が著しい者から順々と死んでいった。

 外傷はなくとも、鋭利な電磁波によって、全身の細胞や、染色体そのものに損傷を受けた者たちも多くいた。彼らは身体の変調をきたし、時間をかけて徐々に死に至った。それを、生き永らえたから幸福だ、と捉えることもできるだろう。しかし、衰弱した肉体を庇いながら生きた暮らし振りがどれほど苦悩に満ちていたかは、想像するに絶するものがある。

 どんな損傷も間もなく治癒するイズムである。

 肉体が正常に機能しない人間の日常が、如何ほどの――不便と――偏見と――懊悩と――辛苦――にまみれているかなど、人魚の姿を思い浮かべるくらいにしか想像できない。

 この世界にどれほど有り触れている事象であろうとも、イズムにとってはまるで幻相の域を出ない。とうの昔に、感情という感情は麻痺している。それはまた、様ざまな苦痛や懊悩を克服したと言い換えることができるかもしれない。

 彼女にとっては彼らの苦しみは総じて、砂糖を入れずに紅茶を飲んだ、といった程度の違和でしかない。

 たかだかあの程度のことでなぜ彼らは悲愴に染まろうとするのか。甚だ解せぬ。肉体が損傷し、不全な状態で生き、そして死ぬ。これほどまでに刺激的な人生がほかにあるものだろうか。

 死への憧憬がそう思わせる

 爆発があったのは、蝉噪のうるさい、夏のことだった。

 イズムが目にした惨状は、猥雑な戦の火ぶたが落とされてからおよそ四年後のことであった。

 爆弾が落とされた。

 それは、当時の科学技術の結晶ともよべる、芸術作品であった。

 ここは島国である。海に囲まれている。本土は、タツノオトシゴを模したような輪郭である。投下された爆弾は上空およそ六百メートル地点で起爆した。

 爆心地から半径二キロメートルを一蹴し、瓦礫へと化した。

 もっともそれは、爆弾の威力の数万分の一にすぎない被害でしかなかった。

 本来であれば、この列島は、その爆弾ひとつによって、地図上から姿を消すはずであった。

 ――海の藻屑。

 まさにこの形容が正鵠を射るだろう。

 正常に起爆したのはたしかである。被害は甚大であった。だがその爆弾による「列島抹消計画」は、奇しくも不発に終わった。本土は無事である。〝僅かばかりの人命と、ちいさな街の一角〟を吹きとばしたのみで、二万人の被害と、町ひとつの崩壊で済んだのだ。

 齎される破壊は極限にまで相殺されていた。

 ――なにによって?

 この疑問は正しくない。

 精確には、

 ――だれによって?

 である。

 答えを知る者はいない。

 なぜなら、みな死に絶えたからである。

 爆心地に〝アレ〟はいた。

 〝アレ〟がどういった存在であるのかを、イズムは知っている。

 だがそれだけにすぎない。

 アレが誰であろうとも、自分が誰であろうとも、取るに足らない瑣末な情報だ。

 互いに――死ねぬ存在である。

 ああ、とイズムは思いだした。

 私にあるのは死ではなく。

 滅ぶという結末なのだと。

 

      (三)

 

 イズムがこの島国へ渡ってきたのは「太古」と称しても差し支えない時分である。

 ――任を担っていた。

 使命であった。

 だが期せずして彼女はこの陸地で不老不死となった。それもまた太古と称して差し支えのない時分である。

 〝獣〟を宿したのだ。いや、獣ではない。

 ――禽鳥であった。

 どのような姿をしているかは定かではない。イズムにはその禽鳥の飛翔を感じることができた。

 翼が世界をたたきゆるがせ、そうして〝それ〟はやってきた。

 ――不死鳥。

 不死であるために不老でなくてはならぬ。

 安定するに最適な〝すがた〟でなくてはならぬ。

 そういった〝ながれ〟がイズムの肉体に宿った。

 

 少女であった。

 みすぼらしい容姿である。いや、容姿は端正である。だからこれは、その少女がみすぼらしいのではなく、少女が身を置くその環境がみすぼらしいのだろう。民は貧困に喘いでいた。

 少女はまだまだあどけない。肉体的にも精神的にもまだまだ成長の余地がのこされている。

 だが少女に未来はないと思われた。

 なぜなら今まさにその少女が、男に凌辱されているからである。

 買われたわけではないだろう。売られたわけでもないのだろう。

 ただ単に、襲われているのだ。

 男の膝に股を割られている。口をふさがれ、腹を殴られ、悲鳴を堪え、そうして少女はふるえていた。ちいさく、ちいさく、ふるえていた。凍えたように小刻みに。

 〝運が善ければ解放されるだろう〟。

 男の気が晴れ、解放される。

 だが、運がわるければ、少女はつまらぬ日々を過ごすことになる。

 男の玩具となるかもしれぬし、ここに捨てられ、それっきり。

 ふたたびこれまでの貧しい生活に戻るだけかもしれぬ。

 ならばやはり、〝運よく男に殺されて〟、そのまま死ぬのが善かろうに。

 生きるという束縛から解放されるのが唯一の救いだ。

 イズムはただ眺めていた。意図して眺めているわけではない。これまで眺めていた視界に、彼らが割って入ってきただけのことで、わざわざ観る必要もなかったが目を背ける必要もない。

 イズムはぼんやりと、男が少女を用いて欲情を吐きだすその行為を眺めていた。

 ふと、少女と目が合った。そんな気がした。

 しかしそれは在り得ない。

 イズムは人から見られることのない〝場所〟にいたからである。

 だからこれは気のせいだろうと思われた。

 しかしやはり、

 少女はこちらを見据えている。歯を食いしばり、鼻水をたらし、目からしずくを搾れるだけ搾りだしている。くしゃくしゃの顔である。その瞳には、しかし確固たる意思が浮かんで視えた。

 

 ――たすけて。

 

 少女はこちらへ向けそう叫んでいる。無言の叫びであるが同時に悲痛な叫びでもあった。

 タスケテ? なにを?

 イズムは疑問した。久方ぶりの疑問であった。

 男が力任せに少女をひっくり返す。うつぶせになった少女の臀部を掴みあげると、少女が、かは、と呻き声をあげた。

 少女の別の穴で男が動きはじめる。

 ――なにを求めているのだろう、この男は。

 少女の眼球は清らかだ。充血していながらにして、硝子玉みたいに澄んでいる。

 きれいだな、とイズムは思った。

 およそ数世紀ぶりの感応である。

 少女はもう、こちらへ縋るような目を向けてくることはなかった。己の境遇を受けいれたのだろう。諦めたのだろう。

 ――賢明だ。

 イズムはちいさく同意した。

 男は六度、少女で果てた。

 どれだけの欲が溜まっていたのだろう。それとも、吐きだしながらに満たされ、ふたたび吐きだす。その繰りかえしだったのだろうか。ではなぜ果てることができたのか。満足できたのか。

 単純に、飽きたのだ。

 あの男も同じなのだ。

 私と同じ。

 みんな同じ。

 貪欲になり、強欲になり、そして無欲となる。

 無欲とはすなわち、飽きである。

 欲がない。ゆえに満たされることもない。

 いや、満たされる余地がない。

 だから、それでひとつの満足だ。

 イズムは生に飽き、死に憧れ。

 ケモノは性を求め、欲を吐き。

 少女は抵抗を諦め、甘受した。

 イズムは世界にあきれていた。

 

 朧月が雲に隠れ、つめたい風がふきすさむ。

 男は去っていった。

 霜の降りた地面は男のいた場所だけが、土の色を保っている。

 少女が地面に横たわっている。

 ――死んだか。

 いや、

 白い息がほそぼそと漏れている。

「……さむい」

 ぽつり、と少女が呟いた。

 首を曲げるようにし、こちらを見据えている。いや、眼はうつろである。視軸は定まっていない。

「……しにたい」

 少女がまどろんだ。

 放射冷却により、春の夜は凍て返る。

 ――凍死か。

 それもまた幸福な死である。

 ――うらやましい。

 久しく抱かなかった妬心が湧いた。

 ――死なせるものか。

 だれがおまえを、

 ――死なせてやるものか。

 イズムは少女に手を添えた。

 ひどく冷めた少女の皮膚には、痣がいくつも滲んでいた。

 傷つく肉体はまるで砂の器のようで、毀れぬよう、死なさぬよう、イズムはそっと抱きかかえた。

 とくになにも思わなかった。

 しかしイズムは気づかなかった。

 この日、イズムは虚無ではなくなった。

 この日、無欲を失った。

 

      (四)

 

 少女に親はなかった。家族もない。

 さきの戦乱で父は戦死し母は空襲で焼け死んだ。兄弟は元からいないという。

 学童疎開により、山地へと強制的に運ばれた少女は結果として生きのこった。

 少女はちっとも嘆かなかった。

 口数が少ない。元々の性質なのか、それとも男に乱暴された後遺症なのかは定かではない。イズムにしてみれば、どうでもよいことであった。

 少女は幾度か自殺しかけた。

 イズムが邪魔をしたため、すべては未遂に終わった。

 ――だれが死なせてやるものか。

 意気地になっている自分がいた。

「おねえさん……妖怪?」

 少女を連れ去ってからふた月が過ぎたころである。頻繁に少女が話しかけてくるようになった。イズムは応えてやらなかった。

 時代は、衣食住に困憊していた。だがいつの世にも例外はあるものだ。服飾も食品も住居も、あるところにはある。

 イズムはそこから定期的に食べ物を入手し、服飾を得て、少女に無償で与えた。

 魔法じみたイズムのそうした所業を見ては、こちらが妖怪ではないのかと少女は疑った。

 日増しに津々と募る少女の疑問は、いつしか大天狗であるというところに落ち着いた。イズムは否定をしなかった。

 

 山の奥に空いた洞窟を住処にした。

「テングさん」

 と少女が寝返りを打つ。

 視線だけを向けてやり、どうした? と相槌を打つ。

 眠れないのだろう。

 月夜になると、こうして少女は輾転反側とする。

 きっと、あの日を思いだしてしまうのだ。

 目元には涙がつつと流れている。

「なにがそんなに苦しい」

 わざわざ訊かずともイズムには解っていた。それでも少女には解っていないのかもしれない。自分がいったい何に苦しんでいるのか。きっと少女は気づいていないのだ。

 案の定、

「……わからない」と少女は言う。

「ちがうな」イズムは突き放すように突きつけた。「解らないんじゃない。解っているからこそ忘れたい。だが忘れられない。現実はなにも変わらない。おまえは男に襲われた。その事実は変わらない。それを認めたくないだけだ」

 少女が耳をふさぐ。あたまごと抱え込むようにして。

 イズムはさらに抱きしめた。蹲る少女をさらに丸めてしまうみたいに両手で、ぎゅう、と包みこんだ。

 やがて少女は寝静まり、穏やかな顔つきで寝息を立てはじめる。


      (五)


 イズムは少女へ名を告げた。それ以外も、訊かれれば応えた。無駄な行為ではある。教えたところで、いずれ消えいくだけの記憶である。それでも良かった。イズムは、少女に覚えてもらいたかった。

 少女はすくすくと成長した。

 月夜になれば泣く日々だったが、そんな夜はひと晩中イズムは娘を撫でてやった。

 気が紛れるかと思い旅に出たのは少女が娘に成長した時分だ。やがて島国の南、雪の降らぬ離島にいきついた。

 旅の道中で貯えてきた資金があった。大多数の民衆が困窮に喘いでいるなか、潤沢な暮らしぶりを見せている富ある者たちからくすねていた。

 盗っ人と変わらぬその収入原を娘には内緒にしてあった。娘は金の湧きどころについては一切訊ねてこなかった。きっと何となく察しているのだろうな、と申しわけなく思う。倫理に背く行為を、うしろめたく思っているわけではない。娘にそのような気遣いをさせてしまっている自分の稚拙な配慮を情けなく思った。

 街からやや離れた場所に空き家を借りた。娘と二人きりで暮らした。相手が男というだけで、娘は交流を拒む。まだ他人と接することにつよい反発があるようだ。

 相手が厭なわけではない。ただ、過去のあの出来事が娘を臆病にさせる。

 イズムはあの時の自分を心底呪った。

 ――私はなんと愚かだっただろう。

 娘を傷つけたのは、あの男だけではない。

 なにもせずただ事の成り行きを見守っていたあのときの己に殺意が湧いた。

 ――すまない。

 娘への愛着が単純な慈愛へと変わったころ。イズムはひとつの決意をした。

 

 この地域には、嵐が多く舞いこむ。気候そのものが不安定である。南国の気候なのだろう。外を出歩けばスコールに見舞われる。とはいえ、びしょ濡れになることを不愉快に思ったことはない。なにやら洗われるような心地になれるからだ。それはイズムだけでなく、娘も同じであるらしかった。

 いずれ来たる別れは、イズムからすれば、そう遠くない未来である。ただ、それをいま嘆いても仕方がない。

 立ち直っていたのだろう。

 娘と共に生きられるこの数十年を大切に生きてみようと思った。

「イズは本当に老けないね」

 娘が頬杖をついてにこにこしている。

「うらやましいか」

 老いず死なず――。

 人がいちどは抱く願望であるらしい。このコもまたそうなのだろうか。

「う~ん。どうだろ」

 娘がほほ笑んだまま口もとを歪めて視線を宙に漂わせている。

 考えているときの表情だ。眺めているだけでなぜか胸をくすぐられる。愛おしいのだろうこのコが。

「死にたくないか」

 もう死にたいと思わなくなったか――とそう訊いた。

「うん。死にたくないよ」

 気まずそうにしかめ面を浮かべたあとで娘は、

「あー、どうだろ。ちがうかも」と小首を傾げた。

 やや胸が締めつけられた。まだ死にたいと望んでいるのだろうか。

「どうちがう」と問い詰める。

「……うん」目を伏せて娘は零した。「死にたいんじゃなくってね……」

 死にたいではなくて、では、なんなのだ、と見詰めることで促すようにする。

「…………はなれたくないんだ。わたし。イズとだよ。ずっといっしょにいたい」

 ずっとずっといっしょに、とこまったかおで娘は泣いた。いつものように拭わず泣いた。しかし今宵は月がない。

 イズムは言葉を失った。

 吐くべき言葉が見つからない。

 イズムは目のまえの娘を抱きしめた。そうしたかったからだ。抱きしめたかった。触れたかった。はなしたくなかった。

 娘もまた、応えてくれる。いつだって抱きあえる距離で関わりつづけたいのだと彼女たちは今宵、言葉のない誓いをたてた。

 

      (六)


 定住する気はなかった。いや、どこにも定住する気などはない。イズムにはひとつの明確な意思がある。たしかに抱いた決意がある。それをここで叶えることはできそうにもないと思われた。

 旅に出ようと告げると、娘はふたつ返事で承諾した。「たのしみだね」

「いいのか」

 訊くと娘は、いっしょなら、とはにかんだ。

 ――イズといっしょなら、どこへなりとも。

 息を呑む。

 イズムは最近、よく言葉を失う。元から口数が少なかったことが幸いに思えた。

 門出は夜にした。月のきれいな夜である。

 夜行船で、本土まで渡る。その後のことは考えていない。まるで出鱈目にこの国を巡ろう。

 放浪するのだ。あてもなくただただ共に歩んでいこう。

 船尾から、遠く、光の点となった島を眺めた。

 感慨深いものがある。

 娘の名残惜しそうな横顔がどうしようもなく感慨深い。

「泣かないのか」

 今日はどうして泣かないのだ、と訊ねた。

 揶揄したつもりはないが、からかわれたと思ったのだろう、娘はふくれ面を浮かべた。

 すっかり年頃の娘である。

 どこか幼稚なその仕草もうつくしく映えている。

 娘の手を取る。

 ごめんね、と謝罪の気持ちをこめて。

 そっと握りしめると娘もまた握り返した。

 ふたりは波音に耳を澄ます。

 肌につめたい風が吹く。

 懐かしい風である。

 忌々しい風である。

 けれどもふたりはささやかに、門出の夜を祝いあった。

 彼女たちが出会ってから、十二年の月日が経っていた。 







   ***


 彼女にあるその傷が、このさき消えることはない。

 それでも、癒えることはあるだろう。

 未だ癒えておらずとも、

 癒えるだろうと祈るしかない。

 その祈りは誰への祈りだろう。

 祈りを聞き入れてくれるのはだれであろう。

 誰でもよかった。

 そう、誰だってよいのだ。

 肝要なことはいつだって。

 彼女が幸せを抱けること。

 ただそれだけの環境。

 たったそれだけの世界。

 そんな未来が訪れるようなストーリィ。

 私は祈るよ。私のために。

 あなたの幸せを。祈るために。

 

   ***




      ・生きてなどいない

          ゆえに、死ねない・

 

      (一)

 

「ちょっとさわらないで」

 電柱のぶんざいで、と少女が喚く。

「う~ん。でもね」とあいつが渋面を浮かべる。「ほっぺたにジャムを付けたままで出かける気かい?」

 むむ、と少女が頬をいじり、ぺたぺたと手で叩くようにする。

「みぎだよ」あいつが自分の頬を差して教える。

 少女は終始、眉を寄せている。ようやく拭うと、指に付いたジャムをあいつの服へ擦り付けた。あいつは仕方なさそうに、「ああ、もう」と苦笑するだけである。

 怒ればよいものを――。

 イズムは我関せずを装いつつも、かれらの日常を眺め、愉しんでいる。

 あいつはどうも人が良すぎる。ただ優しいだけではない。寛容すぎるのだ。他人からの理不尽な干渉をむしろ喜んでいる節さえある。あまり褒められた性質ではない。

 あいつはそれでよいかもしれない。

 ただ、その周囲の者の危機感を麻痺させる。

 つまり、あいつを基準として対人関係を形成してしまうと、誰もかれもが短気の傲慢ちきに感じられてしまう。すると、それほど不当でない応対についても理不尽だと感じ、憤ってしまう。結果として、自分がもっとも短気で尊大な人間になってしまう。要するに、現在、あいつのそばにいるあのコ――少女の将来に善からぬ影響を与えてしまい兼ねないという心配だ。

 とは言え、少女も少女で一筋縄ではいかぬ癖のある人格であるから、あいつの影響をそう易々と受けるとは思われない。だからこの心配は、ほとんど杞憂に終わるだろう。しかし心配なものは心配だ。

「いってきまーす」と少女の声がした。玄関を見遣ると、もじもじと覗き込むようにしてこちらを窺っている。

 いってらっしゃい、と手を振ると、満足げに破顔を浮かべて少女は出かけていった。

 少女は小学校へ通っている。

 あいつが言い出したことである。

「勉学は必要です。人と触れあう機会のある学校はとくに必要です」そんなことを宣巻いた。否定はしない。ただ、少女が厭だというのなら、無理に通わせようとは思わなかった。

 少女に訊ねたところ、「別にいかなくてもいいです」と答えた。ただ、そのときの表情があまりに拗ねた顔であったので、とりあえずは通わせることにした。厭になったら行かなければいい。そう言うと、少女は口もとをむずむずとさせながら、はいと言った。

 小学校への申請は、名義を偽証するだけで簡単に受理された。もしかしたら戸籍そのもののデータを改竄せねばならぬかもしれないな、と厄介に思っていたので僥倖だ。

 少女が学校を休むことはなかった。友だちも多くできたらしい。自己主張がつよい割に、他人の悲しみには、ひといちばいに敏感であるから、同級生に慕われるのも解らないではなかった。

 はやいものだな、としみじみ思う。

 来年は中学生だ。

 卒業式も年が明ければすぐである。

 これまで学校の行事などにはとんと顔を出したことはなく、あいつにすべてを押し付けていた。

 しかし今回ばかりは、どうしたものかな、と逡巡する気持ちがある。

 卒業式くらいは行ってみるかな、と珍しく予定をたててみる。

 

 目のまえにカップが置かれた。あいつが淹れてくれたようだ。中身はコーヒーである。

 うむ、と唸ることで労った。ご苦労、と言ったつもりである。

「コガラシちゃん、気にしていましたよ」あいつは珍しく説教じみた口ぶりで対面のソファに座った。それから自分のカップに口をつける。啜ってから、ふう、と息をつく始末だ。

 もったいぶるな言いたいことがあるなら口で言え――と睨むことで促すようにする。

 困ったような顔をしながら、こいつは朗らかに口にした。

「卒業式、いっしょに行きませんか?」

「いいぞ」

 あまりの即答ぶりにあいつは素っ頓狂な面を浮かべた。「いいんですか?」

「あのコのだろ」端的にそれだけを返す。

 あのコの卒業式だろ、行く理由があっても行かぬ理由はない、と示したつもりである。

「そうですか」あいつは相好をくずした。

 

 午後になったので外出する。あいつも一緒だ。

 途中で別れるのも、半ば習慣化している。あいつはこれから酒の調達といったところだろう。

「組織には気をつけろ、勧誘されても耳を貸すな」

 今日もそれだけを忠告する。

 木々は彩りを失くしつつある。落ちた葉が軽い音をたてて道を這う。できるだけ踏まぬように歩いた。

 とあるバーへ入る。店の奥には階段がある。

 二階、三階、とのぼる。階段はさらに上へとつづいているが、四階でいちど降りる。

 ここにはもうひとつの階段がある。それは下へしか伸びていない。もんどりを打つようにしてそちらの階段を下りる。一階、二階、三階、四階、と下へ下へと降りていく。

 やがてトンネル然とした空間に出る。地下街だ。

 昼間であってもここは夜のように煌びやかである。ネオンに彩られ、眩しい。

 しばらく道なりに歩んだ。

 やがて変わったオブジェが見えてくる。店頭に置かれているものだ。

 三匹の猿の像がある。

 一匹一匹がちがうポーズをしている。それぞれが耳を塞ぎ、目を覆い、口を隠している。窺うかぎり子猿である。

 店にはすでに客がいた。ひとりだけである。

「ああ、どうも」そいつが片手をあげて会釈した。そのまま手をこちらへ差しだしながら、「おれ、カンザキと言います。よろしくっす」

「変わったのか」

 男は片手を差しだしたまま、「なにがですか?」と反問する。

「シバサキはどうした」

「ああ。あのひとは死にましたよ」ようやく手を引っ込めて男はおどけた調子で、「処分されちゃいました」と告げた。

 死んだのか……。

 これだから厭なんだ。

 生じたこの気持ちがいったい何であるのか、もはや判らない。

 哀しいのか。切ないのか。虚しいのか。腹立たしいのか。

 どいつもこいつも勝手に死んでいく。それだけならまだしも、なぜ死に急ぐのか。

 莫迦者が。

 イズムは声に出さずに毒づく。

「――で」

 単刀直入に男へ訊いた。「動向は」

「あっと、はいはい。組織の動向すね。ちょっとお待ちになってくださいね」男はメディア端末を取りだして操作した。「そうですねー。この地方で、最近やたらと出没してますね。すべて〝虚空〟がらみです」

「ここへは」

 この街にも干渉してきているのか、と訊ねる。

「今のところはないですね」淡々と述べながらも男は、ただですね、と頭を掻いた。「ただですね、ちょいとばかし気になることがありまして」

 はやく言え、とあごを振って促す。

「ええはい。実は、最近の〝虚空〟がですね――どうも妙というか、不安定というか」

 掻い摘んで話せ、と睨む。

「いえ、すみませんね。おれたちもまだ把握できてないんですよ。ただ、その把握できていないことが妙なんですよね」つまりですね、と男は要約する。「つまり、おれたちにすら感知できない速度で〝虚空〟が発現しているってことなんですよ。いきなりですよ、いきなり。気づいたらできてる。しかもかなり規模のでっかいのが」

「なにも言ってこないのか」

「組織がですか? ええそりゃまあ。だって、おれたちが報告するわけでしょ? 『〝虚空〟ができましたよ』って。どの時点で〝虚空〟に気づくかなんて、向こうさんにしてみれば、関係ないんですよ。ただ報告のあった〝虚空〟の処理をするだけなんですから」

 なるほど、と首肯する。

「ほかに不穏なことは」

 訊くと、男は言い渋った。ここからは追加料金なのだろう。

 メディアを操作して、この場で振り込んでやる。

「すみませんね」男はほかほかとした顔をする。

 素直な分だけ可愛げがある。ただし可愛くはない。

 彼は切り出した。「弥寺(ヤジ)という男をご存じですか?」

 

      (二)


 マンションに戻るとすでにあいつが夕飯の支度をしていた。

 あのコはまだ帰宅していないらしい。そろそろ日が暮れる。だいじょうぶだろうか。こちらがあまりに、そわそわ、としていたからだろう、

「さがしてきましょうか?」あいつが提案する。

「いい」

 短く断るとあいつは大人しく引きさがった。おや、と気になる。珍しく暗い顔をしていた。まるで出会った当初のあいつである。

 間もなく少女が帰宅した。ただいまぁ、とこちらもどこか倦怠感をにじませており、声にもいつものような覇気がない。

 おかえりの挨拶を抜きに、「どうした」と水を向ける。台所からはあいつの、「おかえりなさい」が聴こえた。

「子ネコがいたんですよ」

 少女は語った。「白くてかわいい子ネコでした」

 聞けば、これまで内緒で飼っていたのだという。

 一週間ほど前に、林の近くで見つけたらしい。今にも死にそうだったので世話をしてやったそうだ。迷惑をかけたくないという気持ちから、こちらには黙っていたようだ。相談してくれればよいものを、とさびしく思う。居候をしていることを引け目に感じているのだろう。そう思うと余計に胸が締めつけられるようだ。

 林には、土に埋まった土管があるのだという。その中に子ネコを入れて匿っていたらしい。子ネコは見るからに飢えていたそうだ。ネコ用の粉ミルクを購入して与えると、数日で元気になったという。

 言いながら少女が唇を一文字に結んだ。

 放課後、林に行くと、土管の中に子ネコの姿はなかったのだそうだ。少女は捜しまわった。けれど見つからず、こうしてくたくたになって帰宅してきたという顛末のようだ。

「まだこんなにちいちゃな子ネコでした。もしかしたら野犬にでもおそわれて……」

 不安で不安でたまらない、といった様子だ。

「だいじょうぶだ」

 無責任に慰めたると少女は、どうして、と見詰め返した。

「もうだいじょうぶだから、いなくなったんだ」

 ひとりでも生きていけると思ったから、子ネコは旅に出たんだよ、と言い聞かせる。

 幼稚なデマカセだ。しかし自分としては、半ば本気でそう思っている。きっとこちらの気持ちが通じたのだろう、少女も無責任に、そうですね、と納得を示した。

 夕飯はシチューだった。

 食前のワインも美味である。

 満足した食事はあったが、やはり気になる。

 あいつが浮かない顔をしている。箸も進んでいない。

 どうしたのだろう。なかなかお目にかかれない表情だ。少女もまた気づいているようで、いつものような悪態を吐くことがない。むしろこちらへ、「こいつどうしちゃったんですか」といった視線を注いでくる。心配なのだろう。

 このコにまで心労をかけさせるなどと、ますます以ってあいつらしくない。

 やれやれである。

「いいから言ってみろ」イズムは水を向けてみた。

 あいつが顔をあげ、すっと惚けた面を浮かべながら、「なにをですか?」などと嘯く。

「いい加減にしろ」

 きつく言うとあいつは箸を置いた。しばらく押し黙る。やがてひねり出すように、「みんなおなじなんです」と零した。

 ことの発端は、行きつけの居酒屋へ出向いた昼のことであったという。

 その店の主人と奥方に、〝像〟が視えたらしい。

 ――〝像〟。

 伝心羽森羅――この青年は、他人の未来を視ることができる。

 視える像は、無数にあり、つまり不定なのだという。

 それらは漠然とした像であるために、読み解くことができない。

 しかし稀に、鮮明な〝像〟として視えるものがあるらしい。

 シンラいわく、それは、ほぼ確定された未来なのだという。

 一方で、同時に、幾通りかの未来を視ることもあるという。

 つまり、未来にも分水嶺があるのだ。

 分かれ道。

 どの未来を辿るかの選択肢が誰にでもあるということなのだろう。

 そのなかでも、

 確定的な未来、さらに、危機的な未来が、シンラには鮮明な〝像〟として視えるという。

 そうして、今日、この街のあらゆる人物に視えていた〝像〟があったそうだ。

 あいつはなにかもを諦めたように一言こう漏らして押し黙った。

「みんな……死にます」

 

      (三)

 

 どんな〝像〟が視えたのか、詳細を教えてもらったとき、イズムは危惧していたことが起きたのだと案外に冷静に事態を見つめることができた。

 ――〝虚空〟の出現。

 人類の多くが未だ認識できない自然現象である。

 かつて、世界を構成する物質の極限は、原子だとされていた。原子それ自体もやがて、電子や陽子などから構成されていると考えられるようになり、さらにはその陽子もまた、中性子やクオークなどの素粒子によって構成されているといった論が通説となった

 そして近代、物質の究極的な根源は、かたちを持たないちからの均衡によって成立しているとまで考えられるようになった。

 世界はちからの循環によって境を生み、そしてかたちを得ている。

 しかし稀に、循環系の枠組みがもつれ、歪みを生じさせることがある。

 歪みはさらなる歪みを連鎖させ、巨大な歪みと化して現実に昇華される。

 それこそが――〝虚空〟である。

 虚空は、〝無〟への扉だ。

 世界を構成する循環系の綻びは、やがて循環そのものを止めてしまう。

 循環系によってかたちを帯びていた物質は、その瞬間、たしかに消滅する。

 存在そのものの消滅である。

 あるモノが存在していたという軌跡そのものが根こそぎ消えてしまう。

 同時に、そのモノが与えてきたあらゆる影響もまた消えてしまう。

 世界は大きく改変されることを示唆している。しかし我々人類にその改変による現実への影響を知ることはかなわない。マンガの主人公たちが、ボツにされたストーリィがあったことを知れないように。

 しかし、改変後にはたしかに以前にあったものが消失し、そして消失により失われた影響力――連綿とつづくことによって生じていた世界の構造そのものが変質する。仮に、アメーバという生物が地球史の中から忽然と消えれば、我々人類はまずこうした姿かたちをとることなく、或いは存在さえしなかったかもしれない。

 〝無〟――が引き起こす現象は、とうてい看過できない災害なのである

 本来、虚空は、〝無〟を生じさせることなく自然消滅するのが常である。

 水がどこまでも流れつづけることがないように――火がいつまでも燃えつづけることがないように――歪みがいつまでも歪みを連鎖させることはすくない。

 規模の大小を考慮しないのであれば、虚空は至るところで発生している。それこそ、椅子の下、手のひらの上、人体の中――あらゆる場所に生じている。観測可能な変化を物体に及ぼさないため、人類の多くが認識できないだけのことである。

 だが極々稀に、人類でも認識可能となる虚空が生じることがある。

 〝無〟へと昇華しそうなほどの規模で発現した虚空は、ある種の知覚を有した者であれば、認識が可能となる。

 地下街の店でイズムが会ったあの男もまた、そういった知覚を有した者である。イズムは彼らを「ガイド」と呼んでいる。かつては「外道(がいどう)」と称した。

 外の道にいる者たち。

 または、人の道を外れた者たち。

 ガイドたちにも組織がある。

 大きな機関、小さな機関、そしてそれらを総括する巨大な機関。

 いくつかの巨大な機関が本部のように各地域に点在し、さらにそれらをひとつにまとめている組織がある。

 むろん、いつの世もあぶれた者たちはいるもので、組織に属さない者たちもいる。

 すなわちガイドだ。

 彼らは彼らで身を寄せあい、無数の集団を形成している。言ってしまえば、シンラやコガラシ、そしてイズム――自分たちもまた充分にガイド(アウトロー)だ。

 ガイドの一つに、「独蛇(どくへび)」と呼ばれる一族がいる。

 店にいた男は、そこの出身だ。

 ここ数年、イズムはひとりのガイドと関わっていた。名を「芝(しば)・咲(さき)」といった。数十年前に別れた小娘の孫にあたる。

 あの時期、イズムは決意していた。

 一緒にいてはきっと娘はいらぬ傷を負う。死別ではなく自分の意思による離別を決意した。

 あのコは「独蛇」の一味と恋に落ちた。それを期に、イズムは娘との別れを実行した。置き去りにしたわけではない。しかし、置き去りと変わらぬ別れであった。

 別れてからいちど、様子を見に「独蛇」の本山へと赴いた。娘は子を儲けていた。そこに、以前の泣き虫な娘はいなかった。慕われている妻であり、つよくやさしい母の姿があった。娘はもう、イズムの知る小娘ではなかった。

 数奇なもので、やがて時が経ち、そうしてあの娘の孫と邂逅した。

 組織はガイドを金で雇い、虚空の出現を感知させる。

 虚空を閉じることが組織にはできる。

 意図的に災害を引き起こすことで、〝無〟という絶対的に避けるべき災害を抑止している。

 災害は大なり小なり犠牲を伴うが、人類という規模での犠牲を払うかもしれない可能性を潰せるならば、合理的に考えれば目をつぶるべき犠牲なのかもしれない。

 しかし。

 イズムにとって重要なのは、シンラやコガラシがそれらの災害に巻き込まれずに平穏な日々を生きていくことであり、人類の繁栄などは二の次だと断言できる。

 虚空が仮にこの街で生じたとして――あまつさえ街を呑みこむ規模で生じるというのならば、やはりそれはシンラの視た〝像〟が現実のものとなってこの街に顕現されることを示唆する。

 虚空が〝無〟へと昇華しようが、組織によって無事に閉じられようが、訪れる結末は同じである。

 そう、現状、虚空そのものが問題なのではない。

 虚空に引き寄せられて集まる、組織の者たちが問題なのである。

 甘い蜜に引き寄せられてくる毒蜂のように、やつらはこの街へ現われる。

 虚空がこの街に出現することでやつらはこの街を滅ぼしに来る。

 〝無〟を生じさせないために、やつらはこの街を消しに来る。

 あいつの視たという〝像〟の示す期日は、二週間後に迫っていた。

 

      (四)


「……この街だけではないみたいです」

 あいつは憮然として告げた。

 四日かけて周辺にあるほかの街も穿鑿してもらったが、どの街の住民にも、死ぬ者と死なぬ者の双方が混合していたという。

 ――全滅するのはこの街だけということか。

 やはり、ここを中心として〝虚空〟が発現するということなのだろう。

「もうすこし」

 もう少しだけ視てまわってくれ、と頼んだ。

 情報が足りなかった。

 いや、最低限の情報は揃っている。だからこそあいつの視ている〝像〟というのが虚空を示しているのだと判別ついた。しかし、虚空の出現が前以って分かっているというのに、その前兆がまったく窺知できない。なぜだろう。

 本来、虚空の出現は突発的である。しかし、突如として街を呑みこむほどの規模や、〝無〟へと昇華しそうなほどの高濃度にまで成長することはない。少なくとも、イズムの蓄積してきた記憶によれば、そういった現象はこれまで一度もなかったはずである。

 だとすれば――殲滅の原因はほかにあるのかもしれない。

 一方では、だがしかし、とも思う。

 あいつの証言からすれば、〝像〟にある街の様子は、虚空に呑まれた世界と類似している。そうであるのだとほぼ断定できる。なぜなら、街を呑みこむほどの規模で発現する虚空では、あらゆる生物が顕著に変質するからである。

 ――淡い青光。

 虚空の影響を過剰に受けた者は、いっとき、全身を発光させる。ガイドにしか視えぬ発光であり、ひるがえってはそれを視られるということがガイドとしての必要条件なのかもしれぬ。

 いずれにせよ、あいつの視た〝像〟には、青く光る者たちが視えていたという。それはそのとき、彼らが虚空内にいたことを強く示唆している。

 虚空がこの街に発現するのは十中八九間違いない。

 ならばこの状況はどういうことか。

 情報が足りない。

 いや、すでに決定的な情報は得ている。

 と同時に、重要ななにかが欠けている。

 ――見落としている。

 だから、もっと近隣の街を穿鑿してきてくれとあいつに頼んだ。

 その間、少女は普段通りに学校へ通っていた。そうするように命じたからだが、事情を知っていながらに少女は二つ返事で承諾した。

 虚空の発現により、この街は戦場となる。いや、やつらと争い得る者など、この街にはいないだろう。だからそれは、一方的な殲滅にほかならない。

 やつらと対峙して生き延びることは、不死のイズムにとって、それほど難くはない。

 ただ、イズムだけが生き延びられても意味がない。

 対抗するだけでは足りないのだ。

 対抗しつつ、あいつと少女を護らねばならぬ。のみならず、この街の者たちをも護らなくてはならない。でなければ、伝心羽森羅――あいつは、けっして、この街から逃亡することをしないだろう。

 前以って危険であると判っているならばこの街から遠ざかれば危険もまた回避できる。しかし、あいつはそれを拒むだろう。

 そういうやつである。

 あいつは、自分ひとりが助かることを潔しとしない。

 救われるならばみんなと。

 滅びるならばみんなと。

 ひとり、のけものとなることをひどく忌避するような偏った性質が見受けられる。

 自分ひとりだけが助かっても救われないのだろう。

 救いたかった。イズムはあのふたりを救いたかった。寿命を延ばすだけでなく。死を避けるだけでなく。ふたりに幸せになってもらいたかった。そのためには、この街に息衝く大勢の彼らにもまた、死んでもらっては困るのだ。

 対策が必要だ。

 誰も死なぬ対策が。

 それには自分ひとりの力では足りないと感じた。

 ――「独蛇」。

 彼らに協力を依頼した。藁にもすがる思いである。

 

      (五)


 ベランダから街並みを見下ろすと駅前へと伸びる道を人々がなぞるように列を成している。

 いつも通りの風景だったがここ数日ばかりは少女をその列に加わらせなかった。

「たぶん、明日です」

 昨夜、淡々と箸を口元へ運びながらあいつは述べた。

 一昨日も先一昨日もおなじ台詞を口にした。この二日、なにも起きてはいない。緊張した時間を過ごしただけである。あいつも少女も寝不足だ。

「電柱は黙ってろ、なんかいハズせば気が済むの」

「もうハズす余地がないんです」あいつはくたびれたように笑った。「誰にも〝像〟が視えないんですから」

「まだ間に合うぞ」

 今ならまだ巻き込まれずに済む、逃げることができるぞ、と暗に投げかけた。

 少女がうつむき、上目づかいにこちらとあいつを窺っている。やがてあいつは呟いた。

「アリさんも付いてきてくれるのなら」

 こちらを向くことなく、目を伏せたままでひざに置かれた手のひらを見詰めている。

 少女は縋るようにこちらへ視線を向けている。上目づかいなのは変わらない。しかしどこか必死の形相だ。逃げようよ。いいじゃん、やることはやったって。そういった思いが手に取るように伝わってくる。

 少女は少女でこの期間、懸命に呼び掛けていたらしい。

「この街にいると死んじゃうんだよ」「はやく逃げたほうがいいよ」「○○市までいけば大丈夫みたいだから」

 学校中に訴えたという。生徒、教師、分け隔てなく訴えたという。

 夜、少女は涙をこぼした。

 変人扱いされたのだという。これまで友人として接してくれていた者たちが、一様に態度を変えたという。少女の真摯な訴えに耳を傾けてくれた者はいなかった。「みんなに嫌われちゃうよ」「やめようよ」当初こそ、そう助言してくれた子たちも、少女への集団無視が開始されてからは声をかけてくれることはなくなった。遠目から心配そうな視線を送ってはくれるものの、あからさまに避けていたという。

 当然の帰結ではある。少女もまた、こうなるだろうことを覚悟したうえで訴えたはずだ。なにもしないままではいられない。しかし、その覚悟は、現実の非情さによって早々に揺らがされた。

 辛かっただろう。誰もかれもが信じてくれない。

 幾ばくかの期待はあったはずだ。少なくとも、親友たちくらいは耳を傾けてくれるのではないか、かれらを救うことくらいはできるのではないか、と淡い期待があったはずだ。

 だが、そうはならなかった。

 親友だと思っていた者たちの態度までもが豹変したという。

 少女は傷ついた。友たちの心情が自分でも判ってしまう。だからこそ辛かったのだろう。

「みんな死んじゃうんだよ。だから逃げなきゃだめだよ」いきなりこのような旨を謳われたら、その者が誰であろうとも距離を置きたいと思うのは自然なことだ。なぜなら、どこにもそのような危険が迫っている兆候が見当たらないのだから。

 根拠がない。

 いや、納得できる根拠がない。

 だからこそ、少女の真摯な訴えは奇行の域を出ない。

 むろん、そう見られることを少女は覚悟していた。

 だがいざ一切を否定され、拒絶されてみればどうだ。胸に刻まれた傷は思いのほか少女を苦しめた。当然だ。覚悟は楯になりはしない。けっきょくのところ傷つく覚悟でしかなく、傷つけば痛むことに変わりはない。

 少女にとっては一番避けたい傷である。しかし一番傷ついたのは、その傷を覚悟していたにも拘わらず、後悔してしまっている自分――その自分にきっと少女は傷ついたのだ。

 なぜあんなことを言ってしまったのか。なぜあんなやつらに――と思ってしまう自分を許せない。少女はひどく責めやいでいる。

 だから口にせずに、視線に滲ませ訴えている。いっしょに逃げようよと。やれるだけのことはしたんだからと。本当はそんなふうには思っていないにも拘わらず。そんなふうには思っていないけれど、そう思ってしまう自分がいる。

「アリさんもいっしょに逃げてくれるのなら」

 あいつはさらに繰りかえした。

 今はこちらを見据えている。

 この街から最後まで逃げるつもりがない、こちらの意向を、あいつも少女も知っている。伝わってしまっているのだろう。イズムがかれらの意思を感じているように、かれらにもこちらの意思が伝わってしまっている。以心伝心。

 ――うれしい。

 こんなときだというのに。そんなことで胸がほっこりとした。

「だめだ」

 そうとだけ答えた。この街から逃げることだけはできない。

 あいつと少女――ふたりと共に三人で逃げる。これもひとつの選択ではある。だがそれでは駄目なのだ。

 きっとかれらは毀れてしまう。今の時点でそうと分かる。

 この街から逃げおおせ、危険を回避し、そしてどうなる。この街の市民は死に絶えかれらはその責任を重く重く感じるだろう。背負う必要のない罪を背負い、このさきの短くも長い人生を歩んでいくのだ。果たしてそれが救われたと言えるのか。言えないだろう。少なくともイズムは納得できない。かれらにそんな道を歩んでほしくなどはない。

 だからこそ逃げない。

 この街で生きている多くの者たちごと、生き延びてもらわねばならない。

 その結果どうなろうとも、関係がない。

 このときすでに、イズムの決意はかたまっていた。

 揺るぐ狭間もないほどにかたくかたく。

 

      (六)


 最後の晩餐となるかもしれないという気持ちで食事を終えた。

 夜の時点で、「明日が終末の訪れる日です」とあいつが告げたからには、逆説的に、その夜は安全であると保障されたことになる。

「寝ておけ」

 つよく言ったつもりはない。少女は反駁せずにすんなり自室へ入った。そのことで、やや威圧的な口調になっていたのだろうな、と反省する。あいつもまた、「おやすみなさい」と部屋へ引っ込んだ。

 眠る必要のないイズムはリビングにとどまる。

 こんなにこわいと思ったのはいつ以来か。

 ――失いたくない。

 この生活を、この想いを、かれらを。

 ――手放したくはない。

 胸の裡がうずまいている。今にも吐きだしそうなほどに、悪心がせり上がってくる。目をつむる。生まれて初めてイズムは祈った。

「……どうか、神さま」

 かちゃり、と音がした。振り向くと、少女が扉を開けていた。

「どうした」身体ごと向きなおす。

 後ろに手を組んで、なにやらもじもじしている。こういった素ぶりは大抵、なにか言い出しにくいときの所作である。さらに、目を伏せたきりではなく、ちらちら、と控えめに窺ってくるこの上目遣いは、なにかお願いしたいときの仕草である。ここで目を伏せたきりであればそれは、なにかを謝罪したいときの少女であるが、今は、お願いしたいのだと判った。

 逡巡しているのだろう、言いだしにくそうにしている。

 もういちど、どうしたと水を向けてみる。

「……ねむれません」少女は肩にかかる髪の毛をいじりながら、「ちょっとだけ、いっしょにいても……いいですか」

「気が済むまでいればいい」

 言ってからすこし考えてから、自分のひざをかるく叩いた。

 おいで、と誘う。

 とてとて、とやや小走りで少女が寄ってくる。ほんとにいいの、と不安げにこちらを見下ろしている。もういちど、ぽんぽん、とひざをたたくと、少女は、ひひ、と照れくさそうに笑った。

 少女の身体は軽かった。髪の毛からは花のような香りがした。洗髪剤に含まれる香料なのだろうが、どこかきもちを落ち着かせる。やわらかな少女の肌はぬくぬくと心地がよい。このまま抱きしめたら毀れてしまいそうで、だからそっと腕をまわすのがやっとだった。

 どれほど時間が経っただろう。数時間か、もしくは数分か。

「ああ、ずるいなあ」とあいつが部屋から顔を出した。そのままこちらへ来ると、断りもなく、「おいしょ」とよこへ腰を下ろす。「寝むれるわけがないですよ」訊いてもいないのに釈明口調で言った。

 部屋の明かりは消えている。月光が淡く室内にある形という形を浮かびあがらせている。

「おまえは」と口にしていた。「……神の存在を信じるか」

 間があく。唐突である以上に、そんな問いを発しまったこちらに戸惑っているのだろう。自分でも、らしくないな、とおどろいている。

 やがて、

「神さまは、信じてないですね」とほがらかな声が届いた。

 そっか、と唸ろうとすると、「でも」と声が続く。

「でも、ボクは信じていますよ」

 なにを、と視線を向ける。

 用意していたかのようにあいつは言った。

「女神さまと天使ちゃんのことだけは、信じています」

 呆気にとられる。

 遅れて、だまれよ、と少女が肘でかれを小突いた。

 なんだってこいつはこんな時にそんなつまらない台詞が言えるのか。

「気障でしたかね」とあいつが照れている。声の調子でそうと判る。

「寒すぎる」

 それだけ言うと、そうですか、とあいつはやはり恥ずかしそうに相槌を打った。それから真面目な声でふたたび、でも、と謳った。

「でも、信じています。なにがあっても」

 知らず、ぎゅう、と少女を抱きしめている。少女もまた、こちらの腕にしがみつくようにした。

 明けない夜はないが今だけは、明けない夜であってほしいと願う。

 

      (七)


 その日は巡った。あいつの言った通り、虚空が街全体を覆っていく。

 ありえない速度だ。氷柱石が視認でき得る速度で育っていくかのような印象を抱く。

「……まずいな」

 正直な所感が口から漏れる。あいつと少女が不安そうな顔で振り向いた。咳払いをして誤魔化す。

 認識が甘かった。

 虚空にむらがってくる組織のやからをどうにかし、虚空は独蛇たちの手を借りて閉じれば済む話かと思っていた。

 この虚空、これ自体もまた大きな問題となりつつある。

「いやー、まじパイナポォすねぇ」

 言いながら男が一人近づいてくる。

 地下街の店で顔を合わせた男、カンザキだ。どこからか監視されていたのかもしれない。

「こんなんバナナっすよー」カンザキは辺りをきょろきょろと見渡すようにした。「事前にお知らせいただけたからこうして、おれらもここにいますけど。そうでなかったら、カンペキ手遅れになってましたね」

 どうします、予定変更しますか、と指示を仰いでくる。

 わからない、と首だけを振る。しかし伝わらなかったのかカンザキは、「ああ、じゃあもう、ちゃっちゃと閉じちゃいますか」と気楽に言った。

 当初の予定としては、〝やつら〟がやってくる前に虚空を処理してしまう手筈であったが、この規模の虚空では閉じ終わる前に〝やつら〟がやってきてしまう。

 虚空を処理する方法には、大まかに分けて二種類の方法がある。

 ひとつ目は、虚空がひろがっている空間を、その世界ごと消滅させること。

 ふたつ目は、虚空を形成している「世界の綻び」を発散させること。

 すでにひとつ目が実質不可能となってしまった。虚空は街を覆い尽くしつつある。今この瞬間に虚空を処理すれば、街そのものもまた消滅してしまうだろう。それはそのまま市民の全滅を意味する。

 ならばふたつ目しか術が残されていない。虚空を虚空としてかたちづくっている「世界の綻び」を、〝無〟を生じさせない形で発散するしかない。

 言うなれば「虚空に溜まった力」の変換である。蓄電された電気が、電球を灯すことで放電されるように、または、爆発の圧力でエンジンを躍動させるように、「力」を変換することで虚空を鎮静化させるというものだ。

 そうやすやすと行える手段ではない。

 下手を打てば、被害が大きくなるだけでなく、虚空の成長を助長させてしまうかもしれない。

「ボクは伝心羽森羅と申します」あいつがカンザキへ手を差しだす。

 虚を突かれたようにカンザキは、自己紹介し、やや威圧的に握手を交わした。あいつの存在に気づけなかったことを訝しがっている様子だ。

 握手を終えるとあいつはすかさずこちらへやってきて、「アリさん」と顔を近づけてきた。

 なんだ、と耳を寄せるとあいつはこう告げた。「このままだと、彼も死にますよ」

 まずいな、と当りまえのことしか思い浮かばない。

 カンザキの雰囲気はお気楽そのものだ。他人事なのだろう。身の危険を感じたら撤退すればいいと安易に考えているにちがいない。逃げられるだけの余裕があればいいが。こちらも他人事のように考える。

 額に手を当てカンザキは、やっはー、とそらを仰いでいる。「いやー、まずいっすねー」

 つられるようにしてそらを見上げると、群青色がひろがっていた。まるで星のない夜空のようだ。

 うわー、なんじゃこりゃあ、と少女が感嘆の声を漏らしている。

 おや、と思う。

「視えるのか」

 問うと、少女は小首を傾げ、

「どれですか?」と聞きかえしてくる。

「とりあえず」カンザキがメディア端末を仕舞いながら、「さっさと参りましょうよ。中心はあっちです」と歩きだす。

 迷いを払しょくするようにあとを追う。

 

      (八)


 駅前をすこし外れた場所に広い公園がある。木々が多く、林然としている。大きな噴水もあり水柱をあげている。

 遠く、車騒や、喧騒が響いて聞こえるが、まるで人里離れた山のなかであるかのような錯覚を覚える。

「ここ……ですか?」

 あいつが訊ねてきた。少女はすっかり閉口している。怯えを見せないところが気丈だ。手を繋ぎ、引き寄せるようにし頭を撫でてやりながら、ここだ、とあいつへ言う。

「やっはー。まじバナナっすよココ」カンザキが声を張る。「ちょっとおれ、帰っちゃってもいいすかねー?」

 半ば本気のジョークだろうな、と思われた。

 肌に感じられる空気は、重くからみつくようなぬめり気を帯びている。息が苦しいというよりも、生きることそれ自体が苦しいのだと突き付けられているかのような重圧感が空間全体に満ちている。

「あっれー」カンザキが仰々しく辺りを見渡した。「ここいらって野良猫の住処だって聞いてたんすけどねー」とやや安堵したように、「いないっすね、ニボシ」とこちらへ微笑みかけてくる。

 ――ニボシ。

 虚空に著しく影響を及ぼされた生物の総称である。

 虚空内での特異現象であり、生物が、これまでになかったような突然変異を引き起こす。際立った外見の変化は見られないが内的な変化は顕著である。

 人間であれば、まず人格が崩壊する。あらゆる感情が消え失せる。この時点で、漂う気配がもはや人ではない。一方で、基本的な本能――自己保存や破壊衝動などは大抵、残っている。そのため、ひどく敏感であり、攻撃性が高い。また、知能も維持されている。もっとも、記憶のほうが褪せてしまっているために、連続的な思考はできない。

 ニボシとしての変化を及ぼされてしまった者の周囲に常人がいれば、たちまち死に至るだろう。なぜなら変質者たちは一様に、人ならざる「力」を放出しつづけるからである。

 視線を向けただけで物体を燃やし、手を翳しただけで物体を破裂させ、指を振るだけで物体を切りさく。いわゆる異能を身につけてしまう。

 ガイドのなかにもそういった特殊な能力を有した者たちが多くいる。ガイドの大半が、大なり小なり、なにかしらの能力を有していると呼べる。

 異能の種類は、単に知覚がするどかったり、身体能力が異常に高かったりするものから、常軌を逸した神通力じみた能力までと幅がひろい。

 いっぽうでニボシ化した者たちは、常軌を逸した能力を強制的に身につけてしまう。理性が欠如しているため、条件反射のごとく周囲にいる者たちを片っ端から排斥していく。

 ニボシ化するのは人間だけではない。虚空内に息衝くことごとくの生物が虚空の影響を受ける。菌類からはじまり、植物、昆虫、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類――そうしてニボシ化した生物は、知性の有無に拘わらず、周囲へと「殺傷」を撒き散らしつづける。

 生物が可及的速やかに虚空の影響を受けることはない。徐々に徐々にと変質していく。通常であれば、虚空が規模を大きくしていくにつれ、次第にニボシ化していく生物が増えていく。個体差があるらしく、まったくニボシ化しないものもあれば、すぐにニボシ化してしまうものもある。

 いずれにせよ、繁殖した野良猫などがニボシ化した際には、厄介である。

 しかしいま、公園の主である猫たちが、いない。

 動物的な本能で逃げだしたのだろうか。考えにくい。

 いくら動物であっても、虚空を察知するまでの知覚が備わっているはずもない。

 こうでもない、ああでもない、と徒然なるままに思考を巡らせていると、ぐい、と裾を引っぱられた。少女の手である。

「……なにかいる」少女にならって歩を止める。

 視線の先、木々の合間に、なにやら人影があった。

 子どもだろうか、背丈がない

「どうかしましたか」

 あいつが寄ってくると少女は口もとに指をあてがい、しッと威圧した。しずかにしろ、すこしだまれ、といった仕草だ。

 カンザキもまた表情を引き締め、小柄な影を目で追っている。剣呑な面構えだ。

 視線を戻すと、ほんの一瞬のうちに影を見失った。

 ――まずい。

 緊張が悪寒となって全身を巡る。と同時に、みゃーお、と背後から猫の鳴き声が届いた。少女を庇うように振り返ると女がひとり立っていた。背が高い。胸に猫を抱いている。

 なゃーお、と猫が鳴く。

 あやすように猫を抱きなおすと女は口にした。

「ぬしら、みゃーみゃーは好きか?」

 数秒の間が空く。

 風がつめたいとそんなことに今、気づく。

「嫌いではない」だれよりも先に応えていた。ここで否定しては、なにか良からぬことになりそうだといった予感があった。

「好きでもないということか?」女が訊きかえしてくる。

「ねこによる」

「だよな」

 女は勝手に名乗った。名を「アカツキ」というらしい。ここへは連れてこられたという。聞けば相方がいるらしく、苦々しい口調で、「じゃじゃ馬娘がおってな」と語った。「あやつに付き合っておるのだ。ぬしらはなにか? ここへはなんのようだ?」

 まるで、困っていたら助けてやるぞ、と申し出てくれそうな調子だ。

「アカツキさんと言いましたね」カンザキがえらく真面目な様相で、「おれら、虚空を閉じにきたんですよ。邪魔しますか?」

 おれらの邪魔をする気がありますか、と訊ねた。単刀直入にすぎる。

「虚空う?」女が猫をなでながら眉根を寄せた。ややあってから、「閉じられるものならはやく閉じればよいではないか」と応じた。

 カンザキは毒気を抜かれたようで、「え、ああ……さいですか」と警戒を解いたようだ。

 さあ、行こうか、という段になってから、

「相方はどこにいらっしゃるのですか?」静観していたあいつが口をひらいた。

「相方あ?」そこで女は最初からあいつの存在に気づいていたように、さほど気を揉むでもなくこう告げた。「視えておらんのか?」

 ぞっ、とした。

 動いたのはカンザキとほぼ同時であった。

 カンザキはあいつを。

 こちらは少女を抱え。

 ばらばらに移動した。

 距離を空けてから。女のいるほうを窺う。

 女の言葉の意味するところは、あの場にもう一人、何者かが居たという事実を示唆している。むろん、女のジョークかもしれないが、たしかにあの場には、得体の知れない何者かがいた。ひょっとすると、あの女それ自体が得体の知れないナニカシラだったかもしれない。定かではない。ただひとつ確かなことは、カンザキもまたこちらと同じ違和感を抱いていたということだ。だからこそ、阿吽の呼吸で動くことができた。

 あの場にじっとしているのは危険であるといった直感が働いた。

 女がなにか言っている。距離を空けすぎたためか聞こえない。

 胸元で少女が息を潜めている。こちらの緊張が伝わってしまっているのだろう。ただならぬ雰囲気だけを感じて怯えているようでもある。

 イズムもまた息を潜め、女の様子を窺った。

 足元を見下ろすようにし、彼女は佇んでいる。ややあってからかるく腕を振り下ろした。チョップをするような感じだ。拳が宙にぶつかったように映った。

 数秒後、誰もいなかったはずの宙に、人影が浮かびあがった。

 子どもだ。

 小学校低学年といった背丈だ。一見しただけで判断つく。

 あのこどもは――あやうい。

「……んっ」と少女がみじろいだ。

 つよく抱きしめていたせいか、くるしかったのかもしれない。緩めることはできない。しっかりと固定しておかねば、動きがにぶる。いざというときに対応が遅れてしまう。すまない、と思いつつも、呼吸をしやすいように抱えなおした。

「おーい」女が叫んでいる。「なにもせんから戻ってこーい」

 この状況で、そんな言葉、信じられるはずもない。

 時間がなかった。一刻を争う。もしかしたらすでに手遅れなのかもしれない。この街へ〝やつら〟がやってくる前に虚空を鎮めなければならない。

「ここにいろ」

 少女へ言いつけた。怯えたようにこちらを見上げる少女はなにかを訴えたそうな顔をしている。さぞかし心細いだろう。酷なようではあるが、今は構っていられない。ひとりその場へ残し離れる。

 イズムは女たちへ姿をさらす。

 

      (九)


「ほら、挨拶は」

 子どもの頭を小突きながら女が言った。気に食わなかったのか子どもがすかさず反撃し、女が悶えた。「蹴るなよ。いたいって」

 子どもは女の子だ。気の強そうな顔つきで、仏頂面を浮かべている。いつまでも名乗ろうとしないので痺れを切らしたように女が代わりに言った。女の子の名は「カエデ」というらしい。

 ふたりとも容姿が似ている。姉妹であろうか。

 こちらの心を読んだように女は言った。「私らは姉妹だ」

 なるほどやはりか。などと納得している場合ではない。

 とりあえず、とまず先に断りを入れておく。「私たちは、あなたがたに危害を加えるつもりはない」

 信じてもらえないだろうが、信じてもらうよりない。

 開口一番に女の子は、

「あなたたち、なんなの?」と言った。

「組織の者ではない」まずはそれだけを告げる。仮に彼女たちが〝やつら〟の一味であれば、この時点で戦闘へと移行せざるを得なくなる。

 こちらの不安に反して、女の子はやや安堵した表情を浮かべた。「なら、なにしにここへ?」

「虚空を閉じたい」

 女の子の表情が途端に曇る。次点でまっさらな雪原を思わせる表情へと変化する。このコにとっても〝この虚空〟は、なにかしらの執着があるとみえた。

「この虚空――」

 言いつつ辺りを見渡す。敢えて女の子から視線を外すことで敵対するつもりはないのだという誠意をみせる。「この虚空は――やけに成長がはやい」

 気配で女の子の様子を窺う。同時に、女の子のうしろに佇む女へ視線を当てた。

 なにやら先ほどまで胸元に抱えていた猫がない。女はまるで女の子に遠慮をするかのような大人しさでで傍観している。彼女たちの主従関係がなぞである。叱り、叱られ、奇妙な間柄に思われた。いや、姉妹とはそういったものなのかもしれぬ。

 家族もまたそうであるように――。

 と、なぜか女の子が土を蹴った。溜息をいきおいよく吐いてから、「わかった」と不承不承の声を出す。

「わかった。もう、今日はこれでいい。閉じちゃっていいから」

 まるで自分が虚空をつくったかのような調子で女の子は続ける。「もうすぐ〝あいつら〟がくると思うけど、その前に片づけちゃいたいんでしょ?」

「……うむ」

「だったらはやくしなよ」女の子が背を向ける。「ボクたち、もう帰るから。〝あいつら〟に遭いたくないのはおなじだし」

 彼女たちは、林の奥へと消えていった。協力を仰ぎたかったが、今はことが荒立たなかっただけ善しとしよう。

 ――やれやれだな。

 辺りを、ぐるり、と見渡した。

 

      (十)


 これまであいつが――伝心羽森羅が、こちらの未来を透視したことは一度しかない。震災のあったあのときだけで、その後はなぜかこちらに対して〝像〟を視たといった言動をとったことはなかった。或いは彼自身が視ないようにしていただけではないのかと思っていたがそうではなかったようだ。

「アリさん……なんで」

 あいつが一人でこちらにやってくる。カンザキの姿はない。なにか思いつめた様子で、なんで、どうして、と繰り言をつぶやいている。顔面もこころなし蒼白だ。

「どうした」

「視えるんです」

「なにがだ」

「アリさんに……ああ、でも、どうして」

 未来の〝像〟か、と察する。「なにが視えた」

「コガラシちゃんが……」

「あのこがどうした」

 返事はない。

「しゃんとしろ。おまえにしか視えないんだ、言ってもらわなきゃ変えられるものも変えられない」

 また同じ失敗を繰り返したいのか、と叱ると、やつはようやく細々と無数の死のカタチを口にした。焼死、圧死、轢死、縊死、溺死、殴殺、刺殺、爆殺、銃殺、自殺、惨殺――あらゆる死が視えるのだという。そしてそれ以降の未来がさっぱり視えないのだとも言った。

「それは誰の死だ?」

「こんな〝像〟は初めてなんです。どうしてコガラシちゃんの死が、イズムさんに視えているのか……」

「あのこが死ぬってことか?」

 やつは応えない。

「そうなの?」

 声がし、振り返ると、木陰から少女が顔をだした。「わたし、死んじゃうんだ」

「まだ決まったわけじゃ」否定する気があるとは思えない弱々しさで、あいつは言った。

「いいよ気ぃ使わなくたって。電柱の予知があてにならないのなんて幼稚園児だって知ってるし」

 なんでもないように言ってのける少女は気丈というよりも真実にそう思っているような冷静さを醸している。が、彼女があいつの予知に信頼を置いているのは、学校で街の危機を呼びかけたことを傍証にだすまでもなく、たいせつなひとを失ったあの事件で嫌というほど痛感しているはずだ。

 少女の耳を塞ぐように抱きしめながら、

「何でそうなるのかは解らないんだな」あいつへ問うと、

「死の直前の光景しか視えないんです」と言った。

「ならまずは虚空を閉じるのが優先だ」

 言ってひとまずそちらの作業にとりかかることにする。あいつに少女を任せ、こちらは公園の中心地へと歩を向ける。少女はなぜか暗がりのなかでぽぉと青白く浮かんで見えた。

 

      (十一)


「すんません。おれら、もう撤退させてもらいます」

 ようやく現れたかと思ったらカンザキはそんなことをぬかして頭を下げた。「あいつら、もう来てるんすよ。まじチェリーっす」

 ほかの衆はすでに撤退済みといったところか。律儀にも最後の挨拶をしにきてくれたのだから責めるいわれはない。虚空を閉じるための下準備は終えたので、とそういった旨をカンザキは告げた。

「もういけ。主にも、感謝しているとそう伝えてくれ」

 視線を向けるとそこにはもう誰もいなかった。そそっかしいやつだな。初めて好意的にカンザキを評価する。

 やってのけるしか道はない。ここからが正念場だ。

 〝やつら〟と鉢合わせしないように注意しながら虚空を閉じる。やってやれないことはないように思う。思わなければやってられないという裏返しでもある。

 ほんとんど自棄になりながら公園の奥、虚空の発生地点へと向かう。

 

 イズムは思いだしていた。以前、カザンキから聞かされた弥寺という男の話である。

 数十年前、世界的争乱の終結を決定づけた爆撃があった。超規格外の爆弾がこの島国に落とされたのだ。爆発の瞬間、中心部にいたのが弥寺という男である。爆弾はこの島国ごと、その男と対峙していた〝問題〟を葬るために落とされたと言ってよく、むしろその〝問題〟のためだけにこの国が犠牲になろうとしたと言っても過言ではなかった。

 弥寺はガイドである。ガイドが形成している強大な組織の一員だ。

 当時、弥寺の所属していた世界を牛耳るガイド組織は、〝たったひとりのガイド〟と戦を繰り広げていた。

「組織」対「個人」。

 表向き、戦争であったとされる、あの争乱の裏事情を知る者は、ガイドたちのなかでもごくごく一部の少数だけであろう。はたから諦観し、客観していたイズムだからこそ、そのことに気づけた。

 足止めだったのかもしれない。元々そういった手筈になっていたのかもしれない。それは定かではない。奇しくも爆弾は、その秘めた壮絶な破壊を発揮することなく、ごくごく僅かな人命と、小域な土地の表層を、破壊するにとどまった。本来ならば本島ごと消し炭になって吹き飛んでいるところを、強大なちからでもって爆発の威力が相殺された。弥寺と〝問題〟のどちらの意図によって齎された相殺なのかは詳らかではない。ただし、彼らが、人類として遥かに凌駕した「化け者」である、という分析は、その事実だけで充分に証左として有効であるだろう。

 そんな弥寺が、本日、この虚空へやってきている。

 街に息衝く生命のことごとくを葬り去るためだけに。

 弥寺ひとりだけではないだろう。他にも、「化け者」級のガイドがいるはずだ。

 戦闘で敵うはずもない。

 破壊に対しては、どこまでも無意義化することのできるイズムである。無効化することはできずとも、イズムは死なないために、破壊という行為はその意義を失う。

 しかし、拘束されてしまっては、元も子もない。

 死なぬのならば、動けぬようにすればよい。やつらからすればただそれだけの話だ。

 避けたい結末がある。

 同時に、導きたい結末がある。

 にも拘わらず、どうすればそこまで辿りつけるのかが解らない。

 足りない。

 圧倒的にちからが足りないのだ。

 手段も。知識も。時間も。なにもかもが。

 

 ――足りない。

 

 背筋を差すような寒気を感じ、空間が異質な空気を帯びたことに気づく。

 ――虚空と外界を繋ぐ境界が区切られたと判る。

 しずかだ。風がなく、林の中にいるにもかかわらず、葉のざわめきすら聞こえない。

 虚空の発生源であるこの区画を、空間ごと抹消しようとしているのかもしれない。

 だとすれば、退路は断たれた。もはや脱することも適わない。

 一方では、閉ざされたこの一角以外の街では、生物の殲滅は行われないのかもしれない。むろんこれは、希望的観測にすぎない。予断は許されない。ただ、そこに一抹の希望を見いだすくらいは許されて然るべきではなかろうか。そんなことを考える。

 落ち葉を踏みしめて歩む。

 やがて、

「おい」

 声をかけられた。前方には人影が見えた。しかし声の響いてきた方向は真横である。視線はまっすぐと前方の人影を捉えたまま。声がした方にも意識を向ける。

「サポータか?」

 問うてきた声は、反対の真横からである。

 三人――?

 囲まれたか、と動揺する。

 水溜りを跳ねて渡るようにリズムよく退く。視線は前方を捉えたままだ。

 背中が大木に突きあたったと思うが、

「なぜ逃げる?」

 つむじに落とされた声に全身が総毛立つ。このときになってようやく理解した。

 囲まれたのではない。端から一人しかいなかったのだ。

 ――化け者。

「ほお。珍しいな」低い、唸るような声で、背後の者は言った。

 動けぬがゆえに、神経だけが研ぎ澄まされる。

「おまえ――不死身か」

 考えるよりも先に身体が動いた。

 身体をひねりつつ腰から上半身を折り、片足を高くつきあげる。

 振り向きざまの廻し蹴りだが、踵は宙を掻いた。

 一回転。

 避けられてしまったらしい。

 息つく間もなく、緩慢に距離を置く。

 振り向きつつ後退した。

 しかし、

 またしても、背中が大木に突きあたる。

 大木などではない。どっしりと根を生やしたような圧倒的な存在感がある。

「だから」と声が落ちてくる。頭のうえから頭蓋へと響く。「なぜ逃げる?」

 重低音じみている。

 だからも、なにも――。

 こいつは――。

「いかにも」と声は名乗る。「俺の名は弥寺だ」

 ごくり。喉が鳴る。

 で――、と声は問う。「おまえは誰だ?」

 腹の底からもぞもぞとぞわぞわと全身を這いずるように湧いてくるこの痺れはなにか。愉快なようでおぞましく鮮明なようで透明な、痛痒然としていながらどこかわふわふわとした虚実のよう。

 そう、これはまるで。

 ――畏怖。

 遥か古に覚えたことのある感情の名だ。

 死なぬはずの「私」が今――「死」をおそれている。

 どれだけの矛盾を超越しているというのか。

 この男、異常だ。

 思えば、違和感はすでにあった。虚空が成長したからといって果たして、肌に感じるほどの異様な圧迫感を抱くだろうか。そもそもが、この男の存在に怯えていただけにすぎないのではなかったか。

 こいつが元凶か、と脈絡のない結論が頭のなかで像を結ぶ。虚空は餌のようなもの、それに惹きつけられやってきたこいつこそが、諸悪の根源――ならば、こいつさえ消すことができればあのコが死ぬこともなく、この街もこれまで通りの平穏な日常が流れてくれるのではないか。

「ほお。俺を消すか」

 おもしろい、と男が唸った。さきほどから心を読まれている。これほどの人物なれば驚くほどのことでもない。やれるものならやってみろ、と幼稚なまでに挑発的な口調で彼は続ける。「知っているか。強者には義務があるという。弱者へ情けをかけなくてはならない、といった義務だ。ならば俺は非力なおまえのために、猶予を与えなくてはならん。そういうことになる。でだ――おまえは何が欲しい。時間か。術か。それとも、安楽な滅びか」

 男の声が、額に響く。なぜか今は目のまえにいた。背が高い。顔をあげるのがおそろしい。彼の顔を見るのがおそろしい。だからイズムは動けない。

「さあ、えらべよ」

 動いてなどいない。誰も、何者も動いてなどいない。

 にも拘らず、こんどは背後から声がする。

 この男は、瞬時に移動する。いや、素粒子が同時にあらゆる可能性を秘めているように、この男もまた同時におなじ空間に複数存在し得るということか。

 まるで存在しない虚像のように。

 若い。

 思っていた以上に、若い男だ。

 弥寺。

 彼は言った。えらべ、と。なにが欲しいのか、と選択を迫っている。だがそれは、けっして、こちらの願いを聞きいれてくれる、といった慈悲などではない。

 抗う猶予をくれてやる、といった娯楽じみた偽善だ。

 奪うつもりなのだ。

 惨めにもがく機会を与えるだけで、結局は奪うつもりなのだ。

 命を。

 人生を。

 ――私から。

 生きる意義を。

 奪うつもりなのだ。

 はん、と男が鼻で笑う。

「奪うも奪わぬも。端から得てなどいないだろうが」

 ああ、と思った。

 イズムは妙に腹落ちした。

 この男は私のすべてを見透かしている。

 思考も記憶も来歴も、私の裡のなにもかもを。

 喪うことがこわかった。

 離れ離れがいやだった。

 でも、それは結局、嘘だった。

 こわかったのは、自覚することだったのだ。

 一度たりとも、満たされてなどなかったように。

 一度たりとも、得ていたことなどなかったのだ。

 本当は知っていた。

 だからこそ目を背けていた。

 素知らぬふりを貫いてきた。

 それが今ここにきて目のまえに突きつけられている。

 ――奪うも奪わぬも。

 ――端から得てなどいないだろうが。

 その通りだと思った。なにを今さらおそれる必要がある。

 元からないものをどうして失くすことができようか。

 そうだとも。

 こわいというのなら、その事実を知ることこそがこわかったのだ。かれらと共に生きていたつもりだった。それがどうだ。結局は、〝つもり〟にすぎなかったのだ。

 胸がいっぱいになった。

 からっぽだからこそ、隙間すらないからこそ、人はいっぱいになれるのだ。

「なんだ。望みはないのか」

 男がつまらなそうに言った。

 いや、とイズムは微かな希望を見出した。

 なにもないからと云って満たされる隙間すらもないからと云って――なにもいらないわけではなかったのだ。

 私は――。

 ――望み、そのものがほしかった。

 喉から沸きあがるこの悪心がなんなのか今はもう判らない。

「望みを望むか」愉快そうに男は謳う。「いいだろう。おまえにかける情け――俺はおまえに〝望み〟を与えてやる」

 どういう意味だろう。

 視線を向けると、男が相好を崩していた。まるで悪魔の笑みである。

「俺は今から」男が背を向ける。そのまま、一歩、一歩、と遠ざかっていく。

 そのまま彼はこう告げた。

「おまえの、娘と小僧――そいつらを殺すとしよう」

 

      (十二)


 まて。

 待ってくれ。

 男を追おうと足を出すが、もつれるようにつんのめり、そのまま突っ伏すカタチで大地に手をつく。顔をあげるが、そこに男の姿はもうなかった。

 身体が震えている。

 震えていたのだと、今になって気がついた。

 まずい。

 まずい。まずい。まずい。まずい。

 泣きそうになっている自分がいる。あごから雫が滴っているが、果たしてこれが涙なのか、冷や汗なのか、それとも鼻水なのかもはや区別もつかない。

 ちがう。

 ちがう。ちがう。ちがう。ちがう。

 こんなはずではなかった。

 あれは化け物ですらない。

 人に化けた〝なにか〟だ。

 世の理から外れたイズムですら、あの男を目のまえにした時点で、自分がまだ「人」であるのだと思われた。

 次元がちがう。

 あの男は、あらゆる事象を超越する。あらゆる矛盾を許容する。

 誰に祈ろうと、何に縋ろうと変えられない未来がある。何をしようとも意味をなさないならば何もしないほうがよいのではないか。

 いつも考えていた。

 なぜ人は死ぬと決まっているのに生きようと抗うのかと。死ぬという定めがあるならば、いっそそれを自覚した時点で死ねばよいのではないかと長いことそうして思いつづけてきた。

 だが今なら解る。

 決まっているからといって、変えられないからといって、逃れられないからといって何もせずにはいられない。

 意味がないからといってしてはいけないということはない。無駄なことだからといって擲つこともない。意味など端からどこにもない。

 結末が決まっていようが、無駄に終わると知っていようが、何の意味がそこに生じないとしても、結末に至るまでの筋道くらいは選ぶことができる。

 抗うことくらいはできるのだ。

 周囲を見渡した。燃えつきた夕焼けのように、褪せた世界である。

 イズムは駆けた。あれだけ生えていた木々すらも、今は群青にまみれて見わけがつかない。

 縋ることも、祈ることも、いつだってできる。ならば今しかできないことをするしかない。縋りつつ、祈りつつ、今しかできないことを――イズムは闇雲に駆けている。

 

 前触れもなくそれは起きた。

 

 起きたそれそのものが前触れだったのかもしれない。

 はじめは耳鳴りであった。

 直後に閃光が轟き、どちらも、世界をゆるがす振動じみた衝撃を伴っていた。

 音として光として知覚されたそれが音でも光でもないのだとイズムには知れた。

 ――存在のゆがみ。

 世界の軋む音。

 期せずして、閃光があがった場所は、今、イズムが必死に駆けていた先にあった。

 コガラシ――シンラ。

 どうか。

 どうか〝まだ〟無事でいてくれ。

 閃光が幾度も瞬いている。それとも、たったひとつの発光が、幾度も遮られているだけなのかもしれない。

 間もなく視界に影が映った。地面に伏した小さな影だ。

 ――コガラシ。

 叫ぶが果たして声になっていたかは分からない。

 閃光と閃光との合間にある一瞬の闇が閃光を遮る影なのだと知れたのは、視線の先、コガラシから離れた地点に、あの男が佇んでいたからである。

 あの男――弥寺が世界に影を生んでいる。

 そして、

 弥寺が見詰めている先には――アレがいた。

 弥寺の奥にいるそれは、彼よりもはるかに巨大な姿をしていた。

 ――〝獣〟。

 ケモノにしか見えない。人ではない。四肢があり、ながい尾がある。毛に覆われているようにも見えるが、逆光により、詳らかではない。

 色はない。発光しているように見えたのは初めだけである。光ではない。なぜなら、地面に倒れている少女の姿が、まったく閃光に染まっていないからである。

 〝獣〟の姿に目を奪われながら、よた、よた、と少女の元へと赴く。

「待ってくれ」

 横たわる少女へ這い寄るようにする。

 私を置いていくな。

 少女は、うつら、うつら、眼差しを虚ろにし、意識を散漫にさせている。

 全身からは仄かに青い感光を放ち、存在自体が浮かびあがって視える。

 ニボシ化しつつある。

 この青が消えたとき、少女は完全にニボシとなる。

 人格が崩壊し、意思も知性も理性すら失くして、人の形をした人ならざるモノとなってしまう。

 全身が青いなかで、胸元だけが、黒く、つややかに沈んでいた。

 少女はひどく損傷していた。瀕死である。

 ニボシ化寸前であることがさいわいしている。通常の人体であれば、とっくに死に至っている状態だ。それでも少女は〝まだ〟生きている。かろうじて、少女としての人格がのこっている。

 少女の足元に、細長い枝が一本、落ちていた。手に取る。枝ではない。なにやら小型動物の尻尾じみている。猫の尾だ。見た目は柔らかそうだのに、毛並みはバリバリと固かった。尻尾の主は見当たらない。尻尾を残して消失したかのような印象がある。

 見遣れば、少女の傷は、どこか爪痕然としている。

 地面に置いた手が、ぬめり、と血で黒く粘った。

 言葉にならぬ。声でうめく。

 群青色に染まった世界には波紋のごとく、〝明〟と〝暗〟が拡がっている。

 〝獣〟と〝男〟。

「あいつ……を」

 少女が息を漏らす。

 呼吸をするたびに希薄になっていくような儚さを振りまきながら、それでも少女は気息奄々と息を漏らす。「あいつを…………たす…て………げて」

 なんて狂わしい。

 己の死よりも。

 己の生よりも。

 己が望みを優先する。

 このコはなんて狂わしい。

 だいじょうぶ。

 乱雑に撫でてやる。

 

 少女の頬に。

 落ちたしずくが弾かれた。

 

 青い灯が。

 たった今。

 少女のうちへ。

 染み入るように。

 ――消えていく。

 

 イズムはこのとき、〝鳥〟を放ち。

 イズムはこのとき【人】となった。


     (十三)


 どちらが先制を取ったのかは判らなかった。

 意識を向けたときにはすでに、辺り一面、白銀に染まっていた。

 宙には、群青色が漂っているが、これまでのような閃光に染まった世界ではなく。視認可能な、色のある世界だ。

「おまえのあの連れ、何者だ?」

 すぐよこにあの男が立っていた。弥寺である。まるでバケモンだな、などと口にしている。口調はどこまでも愉快そうだ。

 応えずにいると男は、「はあん。なるほど」と意味深長に首肯した。

「あれが、〝ケモノ〟、ねえ」と独りごちる。あたかもこちらの心を見透かしたように、で、と投げかける。「――で。あんた、もう、不死身ではないんだな?」

 不可解である。なぜこうも簡単にこちらの心象を喝破する。

「いずれ人は死ぬぞ」男は謳った。「おまえも、そこの小娘もおなじことだ。いずれ死ぬ。だがな、今ここで死ぬ必要がどこにあるよ。殺してほしい、ってんなら話は別だが、生きてえんなら生きればいいだろうが」

 なにを言っている、この男は。

「気に喰わねえのよ」男が、ケッ、と舌を擦った。「なんでおまえ、死に急ぐ?」

 望みがあって。

 そのために動いて。

 そうして叶いそうになっている今になってその現実からなぜ逃げるよ。

 男の声が、世界に響いた気がした。でもそうではない。きっと脳裡に直接響いた男の叫びだ。もしくはただの幻聴か。

「抗うなんてのは当然なんだよ」男が声に出し、「なにやり遂げたつもりになってんだ」とやはり鼻で笑った。そのまま息を吐きだすと、潜めるように口をつぐむ。

 

 くるぞ――。

 男の緊張が伝わった。

 

 それはちいさな変質だった。虚空の出現から、今にいたるまでの変遷からすれば、それはとてもしずかな起伏に思われた。

 視界が霞んだ。

 ただそれだけの変化である。

 幾重もの〝像〟が嵩んで視えた。

 多面鏡に囲われた、部屋にいるかのようだ。

 違いは、それらの〝像〟が、実態を伴っている点だ。

 触れられるのだ。

 いや、

 触れてくるのだ。

 そこには、幾人ものイズムがいた。何もない空間を挟んだ向こう側に幾人もの〈私〉がいる。

 腐敗した己の姿もある。中には、老いた姿のイズムもあれば、四肢のもげた己もあった。そんな中でも多くあるのは、見飽きた姿の己であった。

 重複したそれらの自分に、手を伸ばす。視軸を合わせるように、ひとつの〝自分〟を意識する。その瞬間、その〝自分〟が跳ねたように身じろいだ。

 こちらを振りむく。顔面が爛れていた。

 傷が直らぬ私なのだな。

 イズムは、ああ、と感嘆を漏らす。

 それでもおまえは生きているのか。

 死ぬる術をその身に宿したままで。

 いつでも死ねるからと死なぬのか。

 ははっ、と乾いた笑いが口から漏れる。

 ――私らしいな。

 この現象が、あの〝獣〟が齎したのだと考えるまでもなく推して知れた。

 おまえには、こんなふうに視えていたのだな。

 イズムはなんだかせつなかった。うれしいからこそ、せつなかった。

 ようやくあいつと同じ世界を感じられたというのに、今はまるで世界の終焉を迎えたような局面なのだ。

 重複する〈私〉の向こう側に、弥寺の姿がある。

 〝像〟ではない。

 今を生きる弥寺の姿だ。

 いったい彼には、どんな〝自分〟が視えているのだろう。

 こちらから眺めている限り、弥寺には、なにも視えなかった。

 

      (十四)


 目のまえに、〝獣〟が屹立していた。眩しいと思う。

 歪みのない円らな瞳だけが、この世界にある一切の闇であるかのように思われた。

 まばゆい〝獣〟と。その眼球。

 やさしいひかりと。その深淵。

 イズムは〝獣〟につつまれた。少女と共につつまれた。

 光に満ちた世界のなかで、ゆいいつの闇に吸いこまれていく。

 まばゆかったひかりは今、たったひとつの円となり、点となって。

 

 

 ――――――点を抜ける線となりやがてふたたび面となる。

 

 

 気づくとイズムは目をつむっていた。

 瞼をおしあげたことで、つむっていたのだと知れた。

 イズムは地べたに寝そべっている。

 ながれている。

 せかいがうごいている。

 雲がゆっくりと移ろっている。

 無秩序なようでどこか規則性を伴って移ろっている。

 首をひねりよこを見遣ると少女が身をちぢめて眠っていた。ちいさな寝息が聞こえている。

 ――よかった。

 間逆を見遣ると、そこにはあいつが仰臥していた。こちらもまた眠っているだけであるようである。

 思わずほっと息を吐く。

 まるで夢を視ていたかのような浮遊感がある。

 ここはどこだろう。辺りを見渡すと街路樹の向こう側に見知った百貨店の看板が見えた。

 位置的に、公園のある地点だが、ふしぎと公園がない。

 更地になっているとかそういうことではなく、穴を縫い合わせたかのように、歪に土地が消えていた。

 背面にはビルの壁がそそり立っている。本当ならばそこに壁などはなく、公園が広がっていたはずなのだ。

 ――そういうことか。

 イズムは納得した。

 虚空は閉じられた。空間ごと、こちらの世界から消されてしまったのだ。

 だれによって――?

 あの男以外にいない。

 弥寺。

 ひょっとしたら、あの男もまた虚空と共に消えてしまったのかもしれない。そんなふうにも考えたがすぐに、いや、と否定する。

 あの男がそんなつまらぬ無駄をするとは思えない。

 どんな顛末があって、このような結末になったかは定かではない。

 しかし、虚空は塞がり、街は無事なままだ。

 公園という、極々小規模な土地の消失と引き換えに平穏な日常はまた巡ってくる。

 一見すれば、街に被害はない。

 朝靄のなかに人影はない。

 どれだけの生物がニボシ化し、どれだけの生物が死んだのだろう。

 街にある生物のことごとくが殲滅させられた。だからこれだけしずかなのだろうか。不安がよぎるが、その不安を嘲笑うかのように、目のまえをバイクが通り過ぎる。左折して、遠のいていった。

 しばらく茫然としていた。

 本当に、夢のようだ。

「おい」

 あいつの頬を平手で打ち、小声で呼びかける。「おい。起きろ」

 寝返りを打つあいつを、さらにつよく揺さぶると、うう、と迷惑そうに呻き、あいつは寝ぼけ眼を擦った。

 おはようございます、などと暢気に挨拶を投げかけてくる。なんだか癪なので頬をつねってやった。

「痛いふぇす」

 あいつはきょとんとした。

 さらにつよくつねってやると、そこで完全に目が覚めたのかあいつははっとした様子で、コガラシちゃんは……、と声を荒らげた。

 あごを振り背後で寝ている少女を示してやる。

 安堵したようにあいつは泣き笑いの顔を浮かべ、少女へ這い寄るようにした。そのまま、そっ、と少女の肩に触れようとするので、イズムは制した。「まだ起こすな」

 どうしてですか、とあいつが怪訝そうにこちらを見上げた。

「話しておきたいことがある」

 

      (十五)


 聞けばやはり、少女にはまだ、無数の〝像〟が視えるという。どれもまだ、鮮明ではないにしろ、悲惨な死に様であるという。ならばやはり、少女には、これからも〝それ〟を抱いたままでいてもらわねばならない。

 少女の身には〝鳥〟が宿った。

 少女の身には、不死が宿った。

 死ねぬ身体であるかぎり、少女は死なぬはずである。

 ともすれば、だからこその、無数の悲惨な〝像〟なのかもしれない。それでも生きてほしかった。あいつも同じ思いらしい。死んでほしくはない。

 凄惨な未来だ。避けられるものなら避けたいが。

 避けられなくとも、生きてほしい。

 不死になった者の宿命をイズムは知っている。死を嘱望する定めにあることを知っている。

 だからこそ少女を生かすためには生きようとする意思を持たせなければならないと思った。

 だからこそイズムは彼らのまえから去ろうと思った。少女には酷なことだが、生きることを義務としてもらうことにした。

 期せずして、公園は虚空と共に姿を消した。

 ならばいっそ、この際だ。

 呑まれて消えた、ことにしよう。

 死んでしまった、ことにしよう。

「私は死んだ。このコにはそう伝えてくれ」

 なにを、とあいつが戸惑っている。

「もう、一緒にはいられない。お別れだよ」

「だったらボクも」そう言ったあいつを睨みつける。それからゆっくりと足元の少女を見下ろした。このコはどうなると諭したつもりだ。

 あいつは口をつぐんだ。置いていけるわけがない。こいつはそういう男である。

 言葉をかける代わりに抱き寄せた。あいつの肩にあごをのせる。あいつも無言で応えてくれる。

「覚えているか」

 耳の裏でささやくようにした。首が交差しているので、顔を見ることはできない。

 あいつはうでに力を籠め締めつけるようにし、なんです、と言った。

 出会ったばかりのころの話だ。いっしょに酔っ払って、朝起きたら裸で寝ていた。泥酔したうえに、同衾していたところ、目が覚めたらあいつが狼狽えていた。状況から推測して、肉体関係を結んでしまったのだと短絡に結論づけた様子だった。しかしその解釈は間違っている。おかしかったので敢えて指摘せずにおいた。言うならば今しかないと思い、イズムはその旨を告げた。するとあいつはうわずった声で口にした。「いらないですよ、そんな真実」

 はた迷惑そうな言い方が愉快だった。

 身体を離そうと力を抜くも、あいつはうでを解いてくれない。

 ここはひとつ、いい加減にしろ、と突き放す場面だろう。だが言えなかった。あとすこしだけ。もうすこしだけ、このままでいたい。

「いつでもいいですから」あいつが囁く。「待っていますから」

「いつまでだ」

「いつまでも」言ってから彼は付け加えるように、「死ぬ前までにはお願いしますね」と言った。

 息が詰まった。何も言えなくなる。かってにしろとつっぱねようとしたがうまくいかず、心のなかで唱えるだけに留めた。

 こちらを解放し、それからあいつは少女を見下ろした。

「約束します。ボクがずっと見守ります」

「きっと、嫌われるぞ」

 三人の縁が途切れたと知ったときこのコはきっと、責めるだろう。

 自身とこいつを責めるだろう。

 でしょうね、とやけに呆気なくあいつは首肯した。「それでも構いませんよ。ずっと嫌いつづけてくれさえすればそれでいいんです」

 嫌われつづけることのできる縁があれば、それでいいんですとあいつはそう嘯いた。

 おまえらしいな、と蹴ってやる。

 尻をさすりながら、あいつはうすくほほ笑んだ。

 壁を背にし、T字路から伸びる街並みを眺める。

 街がにわかに活気だす。





  

      ・伝心羽森羅は語らない・

 

      ***

 

 駅前の歩道橋のうえから、道行く人々を眺めていた。

 アリが去ってから早くもひと月が経とうとしている。

「アリさんは死んだ。犠牲になったんだよボクらのために」

 告げてから、コガラシは毎日のように癇癪を起こすようになった。当初こそ、塞ぎこまないだけ増しだと思っていたが二日前だ。おそれていたことが起きた。

 帰宅すると、彼女が首を吊っていた。

 急いでロープを切ったが床に落ちた彼女はぐったりしていた。

 つよくゆさぶると、やがてゆっくりと瞼をあけた。

「……なんでそんなことをッ」森羅は声を張りあげた。

 彼女は驚いていた。首をさすり、無事なことを確かめている。

「きみは死ねないよ」弾劾するように突きつけた。「コガラシちゃん、きみには宿っているんだから。アリさんの命がだよ」

 彼女は目を剥き、それからひどく取り乱した。

 自分があのひとを殺してしまったのだと、今さらのようにアリさんの消えた日常を噛みしめた様子だった。

 むろん森羅はそんなことはない、と慰めた。だが慰めるという行為には多かれ少なかれ、相手の非を許すという慈悲が含まれ、ひるがえっては直接的に責めるよりも効果的に相手を傷つける。

「わたしのせいじゃん!」

 案の定、彼女は声を荒らげた。涙を撒き散らしながら、「わたしなんか、死んじゃえばよかったんだ」と息巻いた。

 それが引き金だった。

 森羅は激怒した。アリの遺そうとした意志を全否定するような彼女の言葉に、ひどく気持ちが揺さぶられた。ひょっとすると、おまえのせいでアリさんは出て行ったんだぞ、と責める思いがあったのかもしれない。

 結果として、彼女は家を飛び出した。

 この二日、家には戻ってきていない。

 捜そうと街へ繰りだしてみたものの、早急に行き詰り、駅前で途方に暮れているという顛末だ。

 情けない。

 図らずもここは、アリをはじめて見かけた場所である。

 震災の名残などはなく、のどかなものだ。

 つい先日までアリと共に暮らしてたことが嘘のようだ。遠いむかしのように思えてくる。

 しばらく街を眺めながら、アリとの生活を振りかえっていると、

「おにいちゃん?」

 背後から声がした。振り返るとそこにはこちらを見上げるようにしてちいさな女のコが立っていた。

「おにいちゃん?」

 問いを繰りかえされるが、日本語として圧倒的に語彙が足りない。女のコがなにを問うているのかさっぱりだ。

 どうしたものかと頭を悩ませ、そしてそこではっとした。

 声をかけられている。

 ――だれが?

 女のコを見下ろす。

 鉄橋の手すりに寄りかかっていた森羅であるから背後にだれかがいるはずもない。

 ならばやはり、このコの声をかけている相手は、

 ――ボクだ。

 風がつめたく抜けていく。

「あ、」

 と女のコが駆けだした。テトテトと遠ざかる先には男が立っている。

 父親だろうか。男の容貌を窺うかぎり、兄ではないだろう。女のコはその男に対しても、疑問文を発した様子だ。

「おじちゃん?」

 声をかけられた男は、ぎょっ、とした表情を浮かべた。きょろきょろと挙動不審に周囲を見渡しながら、「ああ、うん。あれ……、きみひとり?」としどろもどろに応対している。

「いこっ」

 女のコが男の手を引いた。有無を言わさぬ勢いがあり、現に男は気圧されたように、唯々諾々とついていく。

 なにやら破天荒な女のコだ。親戚の伯父を向かいにでも来たのだろうか。

 森羅はそれ以上、考えることをしなかった。

 女のコにもまた無数の〝像〟が重なって視えていた。

 そのうちのひとつが、今、消えた。

 無数に浮かんで視える〝像〟のなかに浮かぶ、たったひとつのイメージ。

 打ちひしがれて泣き叫ぶ姿。

 その姿だけが、霞んでいく。

 女のコが遠ざかるにつれて霞んでいく。

 ――女のコの屈託のない笑顔。

 それだけが、彼女の背後にいくつもの層となって重なって視えている。

 苛んで、悲痛に悶える女のコのイメージだけが、今、消えた。

 ――悔いのない未来。

 善きことであるのか。悪しきことであるのか。

 森羅はそれ以上、考えようとは思わなかった。




      ・夏の終わりに舞った木枯し・

 

      ***

 ずっと待っていたのだろうか。

 あいつが手すりに肘を載せて、ぼー、と寄りかかっている。

 駅前の立体交差歩道だ。

 あいつが一方的に決めた待ち合わせ。

 ――三日後、いつもの場所で。

 その三日後とやらは、二週間も前に過ぎている。私はその日、行かなかった。

 これであいつも解放されるだろう……私のおもりから。

 勝手にそうと決め、離別を決意した。あのひとが死んでしまってからの十二年、これまでずうっと思い抱いていた、それ、を私は実行したのだ。

 いつも心のどこかではつらかった。私を見捨てぬあいつの想いが、あたかも私の背負わせた枷のようで私は常に息苦しかった。だからあいつを解放することは、すなわち私にある桎梏の払しょくでもあった。

 だがどうだ。

 指定された日を過ぎてからというもの、まるで時間が水あめのように、のぺーとながく伸びた。幾度、時計を見遣ったことか。常に時間を気にしていた。永遠の時間を約束されたこの私がだ。滑稽なのにまるで笑えない。

 この二週間、気が気ではなかった。

 もしかしたらあいつはまだ――とそんな妄念が頭から離れない。

 根拠のない不安ではない。前にもいちど、同じようなことがあった。あいつは、ずっと待っていた。突き離し傷つけたこの私をずっと捜してくれていたのだ。

 もう限界だった。

 二週間。

 よく気が狂わなかったものである。自嘲気味に私は思う。

 いないことを知られればそれでよい。

 私は駅前へと足を運んだ。あいつとの待ち合わせ場所へ。

 ――あいつはまだ、そこいた。

 ずっと待っていたのだろうか。こみ上げるこの想いは、どこか怒りに似ている。

 おまえは莫迦だと詰りたくなるほどだ。

 すぐにでも駆け寄り、その背を蹴とばしてやりたかった。

 しかし、いちど決めた離別である。

 ここで逢っては意味がない。私は影から、そっと見守るだけである。

 その場を立ち去る意思もなく、あいつへ駆け寄る意気地もない。

 どれほどの時間をそうしていただろう。やがてあいつは手すりに体重を預けることをやめると、ぽりぽり、と頭を掻いた。そして一転、くるり、と踵を返し、こちらへまっすぐと向かってきたのだった。

 ――なぜバレた。

 鼓動が勝手に暴れだす。意識下におけない身体の機能が多すぎることに私は思いを馳せた。そうすることで目前に迫る現実という名のあいつから、逃げることなく、逃避した。

「おそいです」

 開口一番、あいつは言った。続けて、「おそすぎです」と言いなおす。

「だれも行くなどとは……」

 了解していない、とこの期に及んで私はまだ意地を張った。我ながらほとほと呆れる。だが口を衝いてしまったものは仕方がない。意識下におけない思考が多すぎるのだ。しょうがないのだ。

 あいつは閉口し、間もなく、「たしかに」とうなずいた。「たしかに了解されていなかったですね。ボクのはやとちりだったようです」

 あまりに飄々と口にするものだから、冗談なのか本気なのかが判然としなかった。

 でも、とあいつはうでを組み、言った。「でも、待ち合わせをしないで、どうやってまた逢うつもりだったんですか」

 なんなのだ、その言いぐさは。まるで、私とおまえは、一生一緒にいなくてはならないと前提さられているかのような口ぶりである。そんな約束、したことなどない。私はどこか不貞腐れた。それが照れ隠しでないことを、内心で唱え、自分自身に指摘しておく。

「まあいいです」あいつは言った。ふう、と鼻からみじかく息を漏らし、実はですね、と弱音をこぼすようにした。「実は、もう、逢えないのかと不安だったんですよ。なんか、あそこで下を眺めていると、『ああ、このまま死んでしまってもいいのかな』って思ってきたりして。そんなときですね。ついさっきです。周りの通行人たちが、こぞって同じような話をしているんですよ。『あの女のひと、ストーカーかな?』『えー、こっちに誰もいないじゃん。めちゃんこ美人だったし』『じゃあ、刑事さんかな?』『張り込み?』『あ、それだ!』みたいなね。なんのことだろう、と耳をそばだてていたら、ぴん、ときましたよ。振り返ってみたら、案の定ですよ。こんなところでこそこそと」

 耳が熱い。頬を撫でるかぜはなまぬるい。目を伏せていたが、悔しかったので睨みあげた。するとどうだ。堂々と顔を向けることができないではないか。あごを引いたままの、中途半端な睨みになってしまった。どうしてこうも意識下におけないのだろう。人間の肉体というのは実に、厄介だ。

 うなじを掻きあげるようにするとあいつは、さて、と肩をすくめた。

「行きましょうか」

 どこへだ、と首をかしげる。すぐにあいつは、「旅ですよ」と答えた。

 どんな旅だ、と瞳をのぞくようにすると、あいつは目を逸らすみたいにそらを仰ぎ、さあ、と言った。

「はぁ?」

「どんな旅にしましょうか」

 そこであいつは、どんな旅がいいですかと訊きかえす。私は聞こえなかったふりをした。どんな旅でもいいように思えた。

 いつの間にか街は、ネオンの灯りで満ちている。日がとっぷりと暮れている。星は見えない。それでも、たかく澄んだ夜空が、夏の終わりを告げていた。

「キザな男」言って私は歩きだす。

「もうちょっと吐き捨てるように言ってくれないと」あいつが肩を並べる。

「なに?」

「アリさんの冷たさには程遠いですよ」

「うるせぇ。いっしょにすんな」

 私はあのひとに冷たくされたことなんかないんだよ。そういうつもりで抗議したのだが、何を勘違いしたのかあいつは、そうですね、と殊勝な様で首肯した。「きみはきみだ。変わらない」

 私はやはり聞こえなかったふりをした。

 私はきっと、怯えている。

 腐った縁が千切れることを。

 千切れてもだいじょうぶなようにとこの日、私は手を繋ぐ。

 ひとの手はあたたかい。そんなことも忘れていた。不思議なほどにおちついた。

 あいつはそうして、そばにいる。

 私のそばにずっといる。




   【もののけだものけものみち】END

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る