EN-D.CONSTRUCTION
【EN-D.CONSTRUCTION】
目次
・プロローグ・『トレーラー』
第一章『機械仕掛けのストマック』
第二章『血も涙もないけれど、
傷つける棘もない
流させはしない、あなたにも』
第三章『四苦八苦、ちく、たっく、
誓う姉妹のハードラック』
第四章『視界最悪なフットワークでの徘徊、
そして再会』
・エピローグ・『失速する鼓動は、止まりそうなほどに、
ひそまる歩道に、すうっ、と
のぼる息は薄命』
・アフタービート・『遭遇から邂逅へと変わるプロセス』
・プロローグ・『トレーラー』
「あなたの名前は道央坂ノボルです」
「自分勝手なひと、かな」
「うそだったら本気で抱きしめてやるからな」
「死なないんだから、安心してよ」
「やっとお目覚めですね」
「そんなのはうそだ」
「はじめまして、阿堂レナです」
「一生わすれないっす。スイカに誓ってもいいです」
「わたし、ルフィン。よろしくね」
「こいつ、ロボットなんだってさ」
「なら、なおのこと毀さなきゃ」
「テメエは、なにを、謝ってるわけ?」
「心? なにそれ」
「それとも、殺したくて置き去りに?」
「うへへ。ロボットだもの」
「せこい? 私がかね」
「それから、おまえ自身も狙われてる」
「ちょっと! あやまって!」
「すみませんね、なんか勝手に熱くなっちゃって」
「だったら、あたしの言うこと、きけよ!」
「危なっかしいんだよ、おまえは。ちゃんと付いて来いって」
「さて、『END』の居場所を教えてくれないか」
「なに寝ぼけたこと抜かしてんだよ」
「もう遅いわよ」
「どなたさまでございますか」
「博士。わたしの存在理由って、なに?」
「まただ……あたしは、また、あのコを」
――お姉ちゃんは、
いつか世界の有様を
変えてくれるひとだから――
第一章『機械仕掛けのストマック』
(一)
派出所の室内は暖かかった。足を踏み入れながら、「落し物です」と告げる。
はいはい、と奥の部屋から顔をだしたのは、馴染みの警官だ。
もういちど、「落し物です」と告げる。
「またきみか」おねえさんは苦笑した。征服を、ぴしり、と身につけている。いかにも、「法で身を縛っております」といった風貌だ。
警察官って見るからに窮屈な職だよなあ、とそんな偏見を胸に、道央坂(みちおうさか)ノボルは、交番の椅子に腰かけた。
「座っていいって言ってないよ」
「おれ、犬じゃないんですけど」
「言うねぇ」おねえさんは目じりを下げる。「でも、わんちゃんのほうが礼儀なってるんじゃない」
聞こえなかったふりをし、握っていた財布を机へ置く。交番の外を指さし、
「向こうのコンビニのまえ。信号機んところに落ちてました」と告げる。
「ああ、あそこね」室内だから見えもしないのにおねぇさんは首を伸ばす。戸棚から遺失物届の書類を取りだし、こちらの対面に座った。万年筆のキャップを外している。
「今月、何度め? 前回は一週間前だったよね」
「ええまあ」実を言えば三日前にも届けにきたが、そのとき、おねえさんは非番だった。「なんなんでしょうね。むしろなんでみんな、拾わないんですかね」
「いやいや。きみが拾いすぎなんだよ」
冗談めかし言われるが、そのとおりだ。
外を出歩けば、まず落し物を見つけてしまう。第六の感覚器官としてそうした機能が備わっているのではないか、と疑りたくなるほどで、友人の植木場(うえきば)千衣(ちい)からは、そのことで「おまえはゴミ拾いロボか」とありがたいツッコミをいただく。その都度ノボルは、「いかにもおれはロボットだ」と返していた。
財布の中身を確認される。残金はたったの四十六円。本来はもっと入っていたはずだ。拾っておきながら中身を抜いて、また捨てる。ネコババをする人間の多いこと。したがってノボルの拾う財布には基本的に小銭しか残っていない。もっとも、免許証や保険証、ほかにもポイントカードなどが入っている場合が少なくないため、捨てておくには、ちと荷が重い。だからノボルは、不承不承、致し方なく、もとよりの交番に届けるのだ。
今回拾った財布はブランド物だった。女性用のブランドだ。男でも持っている者は多い。内側にあるタグにきちんとマークが入っているから、本物だと判る。こういったどうでもいい知識はすべて、これまでに届けてきた落し物の調書を取るときにおねえさんから仕入れた雑学だ。基本的にノボルは世の流行に疎い。メディア端末も、未だに携帯電話型を使っているくらいだ。
書類に目を通す。いつもの箇所にチェックマークを記入する。持主が見つかった場合、こちらの連絡先を教えるか否か、謝礼を受け取る権利を遣うか否か、といった確認だ。あとは、こちらの情報をおねえさんが勝手に記入した。
「さてと」ペンを置いておねえさんは言った。背もたれに体重を預け、「このあいだの鍵あったでしょ? きみが届けてくれたやつ」
あああれですか、と適当にうなずいておく。いつの、どこの、どんな鍵かなんていちいち覚えていられない。
どんなに注意を振り払い、意識を散漫にさせていても、三日にいちどは何かしらを拾ってしまうノボルだ。落し物は大抵、無視するにはいささか気の重い代物だったりする。
たとえば、鍵などがよい例だ。
たったひとつの鍵であれば、そのまま捨て置いてもノボルの良心など痛まない。だが忌々しいことに道端に落ちている鍵というのは概ね、じゃらじゃら、と大量に繋がっている。いかにも重要な代物然としているのだ。なかには、経済に疎いノボルでさえ知っているような高級車の鍵が付いていたりする。
ノボルとしては、そんないかにも持主がお金持ちそうな仰々しい鍵束など、放置していても構わない。
ただ、どうしてそこにそれが落ちているのか、を考えはじめると途端に看過できなくなってしまう。
お金持ちが果たして、こんな街はずれの道路に、鍵を落とすだろうか。鍵がなくてどうやって帰ったのだろうか。いや、お金持ちならば、タクシーを拾って帰ればよい。しかし、だとすればこの付近に車が置きっぱなしになっているはずだ。この界隈に高級車が駐車できる場所などはない。百歩譲ってあるとしても、コンビニの駐車場くらいが関の山だ。けれどここまでくる道中に、そんな高級車は見かけなかった。ということは、どういうことだ。なにやらきな臭い。
こういった妄想が脳裡から離れなくなる。これまでにも幾度か同じような妄想を繰り広げ、落し物を拾い、届け出てきたが、犯罪に巻き込まれた落とし主の話など、未だかつて聞いたことがない。加えて、謝礼を申し出てきてくれる酔狂なお金持ちの存在もまた、皆目ぜんぜんである。
「で、その鍵がどうしたんです」と訊きかえす。
「いやね。持主も見つかって、お返しできたわけなんだけど、随分と感謝なされていてね。ノボルちゃんにも是非に謝礼がしたいそうなんだって」
「……ノボルちゃんって」気色わるいからやめてほしい。
「で、どうする? 先方は、ノボルちゃんの連絡先を教えてほしいってご所望なんだって」言いながらおねえさんは机を、とんとん、とノックした。「ここに毎日連絡があるみたいだよ」
「いいんじゃないですか。どうでも」
どうせおねえさんの冗句だろう、と真に受けない。
だいいち、そんないかにも冗談じみた口調で言って、こちらが騙されるとでも思っているのだろうか。それは逆説的におねえさんが、市民の誰しもが純粋だと健気に信じているかのようで、微笑ましいといえなくもない。
「謝礼でもなんでも、好きにしてくださいってね。そうお伝えください」
へえ、とおねえさんが感心したように唸る。「拒むと思ってたんだけど。そう。なら、そう伝えておくから。連絡があるだろうから、失礼のないようにね」
あんたはおれの何なんだ。
「はいはい」と軽くあしらう。席を立ち、「じゃ。失礼しました」
「あい。御苦労さま」
扉をくぐり、そとへ出る。
振りかえると、おねえさんは書類を戸棚へ仕舞っていた。すっかり怪我は治っているようだ。後遺症もないらしい。二年前の事件でおねえさんは怪我を負った。
じぶんのせいだ、とノボルは思っている。
けれど謝罪の言葉を未だに紡げないでいる。
二年前の事件――。中心街で連続通り魔が跋扈した。結果としては収拾がついたものの、複数の死傷者が出てしまった。よくよく考えてもみれば、そのころから、急速にややこしいイザコザに巻き込まれるようになった気がする。二カ月前のこともそうだし、半年前のことだってそうだ。すべて、あそこから狂いはじめたような……。いや、考えすぎか。
少なくとも、おれさえ落し物を拾わなければ、このさき、新たな厄介事に巻き込まれることもないのだろう。そうと結論しノボルは自転車を、こぎこぎ、家路を走る。もう二度と、落し物なんて拾ってやらない、と誓いながら。
(二)
坂道を上っていた。自転車での移動は冬であっても汗をかく。
本日、すでに落し物を拾っている身のノボルだ。気が緩んでいたんですよ、としか言いようがない。ただでさえ、陽の昇らない、明朝とも深夜ともつかないこの時間帯。路上は薄暗かった。
それはそこに落ちていた。
電灯と電灯の狭間。闇に浮かんで見えているそれは、てろてろ、と光沢を帯びていた。
表面がやけに艶やかな物体だ。起伏はほとんどない。一見すれば、楕円を模している。なんだろう、と思い、近寄る。よくよく目を凝らしてみると、楕円ではなかった。手のひらに収まる程度の大きさだ。
ハート型をしている。
ちょっと大きなチョコレイトとして、そのまま、バレンタインデーにでも売られていそうな代物だ。
逡巡したのちに手に取った。
ゴミかどうかを確認するだけだから、ちょっとだけだから。
ノボルは言い訳がましく言い聞かす。
見た目以上に重い。ずしり、と腕にくる。中身が詰まっているような印象を抱く。逆に、これが鉄の塊ならば、よほど軽いと言えてしまえるくらいの重さでもある。ブロンズやオブジェの類だろうか。どちらにせよ、安くはなさそうな代物だ。
このまま捨て置けば、朝のラッシュで轢かれるのは目に見えている。
単純に、惜しいな、と思った。欲しいな、とは思わずとも、これが毀れてしまうのを心惜しく思った。
交番はこの辺りに、さきほどの派出所だけで、今しがたに財布を届けてきたばかりだ。
ふたたび道を戻るのは勘弁ねがいたい。
明日にしよう。それがいい。
そうと結論し、リュックへ詰め込んだ。
帰宅すると、妹がまだ起きていた。
「さっさと寝なさいよ」と母親の真似をする。「そんなんだから成長しないんだ」
「なんのこと」小説でも読んでいたのだろう、妹は紙面から目を離さぬままに返した。「胸のことだったらお母さんに言うから」
「いや、そっちはもう成長しないだろ」
あきらめなさい、と冗談めかすと、妹のページをめくる手が止まった。
しばらく返答を待ったが、音沙汰がない。
「……いや、ごめん。ほら。需要はあるし。おっきけりゃいいってもんじゃないし。むしろ、えっと、なんだ。ちいさいのってかわいらしいし」
「お兄ちゃん」妹は微笑む。「黙れ」
「うん……そうする」
ごめんラウちゃん、と心のなかでつぶやき、自室へと逃げ込んだ。
二階の突きあたりがノボルの部屋だ。
まずは、リュックから荷物を取りだす。落し物をさきに出して、あとは順々に、ニット帽・トレーニング用のシューズ・ミュージック再生用のスピーカ・ほか、雑多が数点。
窓際にあるベッドの角にシューズを引っ掛け、逆さにぶら下げる。いつもそうして蒸れた靴を乾かしている。
落し物のハート型は、いちど、床へ置いた。色は銀色だ。明るい室内で見てみると、全体に淡くピンクがかって見えた。
念のために、「呪符」で包んでおく。飽くまでも念のためだ。
椅子のうえへ置く。いつもテーブル代わりにしている椅子だ。
なんだかなぁ。
もんもん、とした気持ちのまま床に就く。
首から垂れたネックレス。ノボルは寝る段になってもそれを外さない。半年前の夏からずっと肌身離さず付けたままだ。ネックレスもまた落し物だ。
拾ったまま届け出ていないゆいいつの品だった。
ネックレスの落し主がだれであるのかをノボルは知っている。ただ、どこにいるかが分からない。いや、確かめられないだけかもしれない。
ノボルにとってそのネックレスは、かけがえのないひとの、たいせつなネックレスだ。いつか返すときが来るのだろうか。思いを馳せつつ、眠りについた。
(三)
目覚めはじめは、いつも近所の犬が吠えている。スズメの鳴き声がしないことで、お昼ちかくだと判るのもまた普段どおりだ。
と、
「やっとお目覚めですね」
瞼を持ちあげる前から声がした。にゃむにゃむ、と目をひらく。
見知らぬ女が枕元に立っていた。こちらを覗きこむようにしている。
おやおや。
ノボルはもういちど、目を閉じ、ゆっくりとひらく。
見慣れた天井に、嗅ぎ慣れた空気。
紛れもなくここはじぶんの部屋だ。
しかし視軸をずらすと、凛々しい顔がこちらを覗きこむようにしている。
体躯は少女のそれだが、幼くはない。美人と言えば端的だが、あまりに端正すぎるから、逆に、作り物じみていて、どこか違和がある。ちょうど、人形を見ているかのような印象だ。ただし不気味ではない。
寝ぼけ眼を擦りながらノボルは、「おはようございます」と上半身を起こす。
「おはようございます」すがすがしい朝ですね、と彼女はていねいにお辞儀した。
すがすがしいというか、肌寒い。
ふたたび毛布にくるまる。目をほそく開いて彼女を眺める。
すらっとした体型でいて、出ているところは出ている。
胸から順に、ぽん、きゅっ、きゅ。
肩と袖の色がちがうロングTシャツを着ている。うすら寒い室内だというのに、上着を羽織らずにいる。すらっとした脚には、細身のジーンズが吸いつくように着衣されている。ジーンズを呑みこむように、足元には、革製のブーツが履かれていた。
ん。ブーツ?
なんで土足? というか……。
「えっと、……だれ?」
「わたしのナンバーは『END』です」
「ナンバー?」ノボルは声だけで笑う。「えっとぉ。そっちのひとなわけ、キミ。警官とか呼んじゃったほうが正解なタイプなの。やめてほしいんですけどホントに」
名前くらいはきちんと教えてくださいよ、と欠伸を挟みつつ口にする。彼女はすぐに答えた。
「アドウ博士からは『るふぃん』と呼ばれています」
「あー、はいはい。ルフィンさんね。で、なんです」
おれになんの用ですか、と尋ねた。これまでにもこういった、寝起きにビックリ珍事件、は幾度かあった。だからこそ極力、落し物を拾いたくないノボルである。
どうやら久々の当たりを引いてしまったらしい。当たりと言っても、おみくじだとかくじ引きだとか、そういった当たりではない。食中毒だとか、ロシアンルーレットだとか、そういった当たりだ。およそ二カ月ぶりといったところか。
「……少々お待ちをください。あなたの応対はリスト外です」
リスト外って。「じゃあなんて訊けばいいわけ」
「慌てふためいてもらうと助かります」
「ふうん。慌てふためくとどうなるの」
「あなたを拘束して拷問を開始します」
へえ。拷問されちゃうんだ、おれ。
ここぞとばかりにノボルは叫んだ。
「おかあーさーんっ! ちょっときてーっ!」
「あなたの母上は今朝がたにお出かけになられました」予期していたかのような、落ち着きはらった物言いで彼女が告げる。「現在このご自宅におられるのは妹さまだけです」
ご親切にどうも。
おじぎをしてからやはり叫ぶ。
「ラウちゃあーん! たすけてーっ!」
うっせー、としたの階から妹の声が聞こえてくる。どうやら助けに来てはくれないらしい。薄情なやつだ。だが伊達に十六年やつの兄をしているわけではない。ノボルはさらに声を張る。
「お兄ちゃんが痛い目にあいそーだよぉっ!」
ガタゴト、と音がしたかと思うと、どたどた、と振動が伝わってくる。階段が袋叩きだ。
いきおいよく扉があけ放たれると同時に、
「どれどれ」
妹が、ひょっこり顔をだす。
「ことごとくリスト外です。検索をかけています。今しばらくお待ちください」
ルフィンと名乗った女性は、そのまま立ちつくした。
「え。だれ」彼女をゆびさしながら妹が顔を顰める。
「しらん。起きたらここにいた」
「またあ」いい加減にしてよね、と妹が呆れたふうに言う。「通報する? それともチイさん家?」
う~ん。口をすぼめて考える。
植木場千衣は友人だ。彼女に相談するのがこの場合、定石ではある。
彼女の家系――植木場家は、二百年ほど前にこの地域を納めていた領主だったところの「鹿威紙(ししおどし)」家に仕えていたという。いわゆるお庭番だったそうだ。
幾多の戦乱が世に混乱の渦を撒き散らしていたころ、この地域もご多聞に漏れず、多大な損益をこうむり、秩序が崩壊した。その後、「鹿威紙」家は、存在の礎ごと、歴史の闇へと沈み、植木場家だけが現在まで滅びることなく連綿と子孫を繋いでいる。
仕えるべき主を失くしてしまった失意と悔恨のなか、それでも律儀に、主が遺した最期の「命(めい)」を守り続けている。未だに滔々とその使命が受け継がれているとの話だ。
この土地に住まう者たちを庇護すること――どうやらそれが、主の遺した「命」であるらしい。
とどのつまりが、植木場家は、周辺のニュータウンごと、山に囲まれたこの町を警護している。
植木場家のかれらは基本的に、町人の「代表」だ。敵対した相手が暴力団であろうと国家権力であろうと、分け隔てなく敵愾する。場合によっては、排除してしまうほどに、その権力(もとより武力)が高い。
半年前の夏、ノボルは植木場家のかれらによって助けられた。
繁華街を標的としたテロリズム。
例によってノボルが拾ったアタッシュ・ケースを発端として生じた奇禍だった。十割、植木場家による助力によって、なんとか大団円を迎えることができた――幾多の屍のうえに、ではあるにせよ。
だからノボルはあの結末を大団円などとは思っていない。
ともあれ、規格外の大惨事になり得る事件だっただけに、命拾いしたと言ってもまちがいではない。
けっきょくのところ、そういった過去を少なくない数、のらりくらりとくぐり抜けてきたノボルであるから、寝起きに美少女が枕元に突っ立っていた、というこの状況ごときでは、もはやびくともしない。ともすれば、こうした長男を持つ道央坂家は、みな、図太い神経の持主なのかもしれない。
「植木場さん家には世話になりたくない」ノボルは言った。妹を横目で窺いつつ、「これ以上、借りはつくらないほうがいいっしょ。おかあさんたちのためにも」と意見する。
「なにそれ。いみわかんない」妹が冷めた面持ちで、「どうせチイさんに知られたくないだけなんでしょ」と痛いところを突いてくる。
ちがう、と否定しようとするものの、
「じゃあ通報でいいのね」と妹が部屋から出て行こうとする。
ラウちゃんやめて、と止めようとした矢先。
ノボルの頬に風がそよぎ、盛大な音を立てて扉が閉じる。
ついで、妹がこちらへ飛んでくる。
全身で受けとめる。
ほぼ同時、扉にあおられた空気がこちらへと吹きとどく。
扉のまえ。今しがたまで妹が立っていた位置に、彼女、ルフィンが仁王立ちしていた。
「行政の介入は遠慮ねがいます」
これまでとは打って変わったルフィンの声に背筋がひえた。これは、人を人と思わない人間の発する、感情のない声だ。
妹を支える手に、自然とちからが入る。
「わるかった。冗談だって。けいさつには通報しない」
「たすかります」彼女は口だけを動かした。いっさいの感情のこもっていない、冷めた声音だ。
むしろ彼女に感情などあるのだろうか。ふと、そんな疑問が頭をよぎる。
「段取りを省くことにします。単刀直入に申しあげます」ルフィンは姿勢を正すとひざに両手を添え、低頭した。「わたしのストマックを返していただけませんでしょうか」
(四)
まあ、そうなるだろうな、と察してはいた。
昨夜に拾った落し物だ。
シルバーピンクのハート型。
ルフィンはそれを「ストマック」と呼んだ。直訳すれば、「胃」だ。
ハート型なのに、へんなの。
椅子のうえに置いてあった〝それ〟を手に取る。
覆ってある「呪符」をひっぺがし、ルフィンへ差しだす。
が、受け取ろうと腕を伸ばす彼女から、寸前で遠ざける。
「ほしかったら約束してほしい。もう二度と関わらないでほしい、おれたちに」
金輪際いっさいだ、と強調する。
「お礼が――」との彼女の言葉を遮り、「いらない。だから関わらないでほしい」と繰りかえす。
「わかりました。無事に引き渡していただけるのなら、お約束いたします」
背後には、ベッドのうえで身を縮めている妹がいる。これでいいよな、と視線で同意を求めると妹はちいさくうなずいた。
「ほらよ」
こんどはルフィンの胸元まで差しだす。受け取ると彼女はていねいにおじぎした。
「助かりました。あと三十二分ほどでリミットでしたので」
そんなことを言いながらTシャツの裾に手を掛ける。かと思うや否や、すっぽーん、とひと息にめくりあげるではないか。
ルフィンの肌があらわになる。滑らかなくびれがあり、可愛らしいおヘソがあり、そして小ぶりではあるがぷっくりと形の良い乳房が、こんにちわ。
ノボルは目が離せない。
おっぱいからではない。
穴が空いている。
ルフィンと名乗る少女の腹部に、ぽっかりと穴が。
ちょうど、胃が納まっていると思しき場所である。
穴の輪郭はまっくろに焦げており、今にもプスプスと音が聞こえてきそうなほどだ。
シルバーピンクのハート型――「ストマック」をルフィンはその穴へと、はめこんだ。
「ふう」彼女がひと息吐く。
こちらに向き直り、にっこりとほころびると、まるで別人のような口調で、
「いやー、ホント助かったよ。さんきゅーね」とおじぎもせずに言った。
ノボルは振りかえり、妹と顔を見合わせる。
「どゆこと?」
ほぼ同時に、くびを傾げた。
(五)
「いやーありがとうね。ほんと、ありがとうね。なにかあったときはかならず恩は返すからさ。さっき約束しちゃったから、あれだけど。でも、困ったときは呼んでね、『るふぃんちゃん、助けてー』ってさ」
いしし。
一息に捲し立てると、ルフィンは颯爽と去っていった。
どこから侵入してきたのだろう、といったささやかな疑問は、彼女がベランダから飛び降りたことで氷解した。ノボルの部屋は二階に位置する。頑丈な人間であれば、飛び降りることくらい、造作もないだろうが、フィンの見た目は控えめに称しても「頑丈」とは言い難かった。
「すっげー」妹がつたない口調で感嘆を漏らす。ベランダから身を乗り出すようにして界隈を見下ろしている。そのよこでノボルは先ほど見たルフィンの艶美な身体を回想する。
「なにニヤけてんの」妹が眉をひそめる。「病院いってきたら?」
「病院? 精神病院かよ」
「そっちは手遅れじゃん。整形外科だよ」
「お金がありません」
「はは、貧相なかお」
なんて言い草だろう。今朝方のことをまだ根に持っているのだろうか。
「ラウちゃんさ、ちょっと性格ゆがんでない?」むかしはあれだけ素直で無邪気で可愛かったのに、と嘆く。すると妹は、「だれのせいだと思ってるわけ」と目を細めた。
「え、だれだろ。お兄ちゃんがボコボコにされてきてあげよっか」
ボコボコにされるのかよ、と妹がひじ打ちしてくる。「てっとりばやく自殺したら? ここから飛び降りたりしてさ」
いや、ここからなら飛び降りられるんじゃないかなあ、とノボルはちょっと想像してから、いやムリか、と足が竦んだ。
(六)
本日は世にいうところの休日だ。両親もまためずらしく休暇のはずだったが、ここぞとばかりに羽を伸ばそうと旅行へ出かけたらしい。リビングへ降りると書き置きがあった。
「日帰りだから安心してね」
せめて行き先くらい書いていけ。
むしゃくしゃしたので、丸めてゴミ箱へ放った。
友人宅へ遊びにいったらしく妹もすでにいない。ノボルは遅めの朝食をとる。寝て過ごすのももったいなく感じ、出かけることにした。
風はつめたいが、日差しがここちよい。
徒歩十分ほどの距離に駅がある。地下鉄に乗り、街まで出向く。
山に囲まれているこの町にも、近代文明の恩恵は巡ってくる。地下鉄然り。インターネット回線然り。コンビニだってだいぶん増えた。
都心とくらべたら、恩恵が巡ってくるまでの時間差が、数年単位であることは否めない。それでもいつかは必ず恩恵が浸透してくるのだから、ふしぎなものだ。ともすれば、その数年という期間が、余分な技術をろ過してくれているのかもしれない。本当に必要であり、便利なものだけがこの町に備わる。
なんてことをノボルはつらつら考えるが、一分後には忘れている。
地下鉄はそこそこ混んでいた。
車内であっても気は抜けない。落し物ならぬ、忘れ物が、あたかも「見つけてくれ」とばかりに置き去りにされていることが、ままあるからだ。
入り口と向かい合って立つ。たまに車両がトンネルの外に出るから、ところどころで町並みが望める。そらがあって、山があり、密集する住宅街がデコボコと広がっている。
駅前は賑わっていた。商店街にながれる「ジングルベル」を聞いて、クリスマスの時期がちかづいていることに気づく。そんな季節だったのだな。植木場千衣の顔がいっしゅん浮かんだが、何かを期待するほどの仲ではない。
人波に揉まれるように商店街を進む。
碁盤目状にエーケードがあちらこちらで交錯している。分岐点に行きあたるたびにノボルはコインを投げた。表なら右。裏なら左。
今は裏が出たので左へと歩を進んでみる。
ベルトコンベアーに流されているお饅頭のようだな、と雑踏を眺めていると、ちいさなどよめきを耳にした。
耳を澄ますのと同時に、こんどはハッキリとどよめきがあがる。
人混みのむこうから、
「エンドウッ! フリーズッ!」
怒声が聞こえた。天井の高いアーケード内で、声は中途半端に反響する。
誰かが「遠藤さん」に、「止まれ」と命令しているようだ。
背伸びをしてみると、雑踏がこちらへ向けてどんどん割れていく。
何者かが、人波をかき分けて走っているようだと判る。
割れた雑踏の後方にはさらに、幾人かの男たちがいる。彼らもやはり駆けている。
逃げる者と、追う者たち。
あれよあれよという間に、目のまえのおやじが、真よこへと吹き飛んだ。
突き飛ばされたのだ、と直感する。
もしかして、おれもやばいんじゃね。
身の危険を察知するよりも前に、迫力に圧倒され、尻もちをつく。
――ぶつかる。
と。
こちらが身構えるよりもさきに、猛進していた影が勃然と歩を止めた。
顔をあげると、逆光のなか、シルエットが浮かんで見えた。
見覚えのある影だ。
数時間ほどまえに別れたばかりの少女――ルフィンがそこにいた。
「なにしてんだよ、おまえ」
急停止したルフィンの足元は、タイルが捲れあがり、どれだけの馬力で駆ければそうなるのか、と想像せずにはいられない。
彼女が停止していなかったら、と考えるとぞっとした。
ルフィンはこちらの問かけに応じない。
彼女の背後から、男たちが短距離走よろしく、迫ってくる。
こちらを見下ろすように一瞥したかと思うとルフィンはふたたび、えいや、と人々を蹴散らしながら去っていった。さながら、せっかちなモーゼだ。彼女の通った跡には、両脇に押しやられた人間たちが壁をつくっている。
「おい」息を切らした男が、高圧的に問うてくる。「おまえ、アレと知り合いか」
あー。
現状を分析する。
このパターンはあれだな。
ルフィンが害か益かはひとまず措いとくとして、彼女は、この男たちから追われている。おそらくこの男たちは、ただ者ではない。なにかしら権力のある組織に准ずる者たちだ。雰囲気でそうと判る。はからずも、ノボルはそういった組織に従順な者たち――植木場家の者たちとふかく関わる機会があった。
ああいった、組織のために生きる者たちは一様に、おそれを知らない。いついかなる死を迎えようとも、それらは総じて、組織を生かすための意味ある死だと納得する。ゆえに彼らは死をおそれない。こうした人間は、往々にしてその存在自体があやうい。
この男も同じだ。
ノボルは今、腰を抜かした体で、地面に尻をつけている。首元には、労わるように、男の手が添えられている。が、これは嘘だ。労わっているのではない。なにか都合のわるい事態が起きたとき、男はすかさず手にちからを籠め、こちらの動脈を絞める気でいる。一瞬でいい。ほんの一瞬、的確に動脈を絞められただけで、人は意識を失う。刃物が電線を裁断するみたいに脳が酸欠を起こすからだ。
――アレと知り合いか。
男はそう問うた。
ここで白を切ってもどうせ看破されてしまうだろう。かといって、正直に答える気はさらさらない。この男がルフィンを示して用いた代名詞――アレ。
反射的に腹が立った。
「よく知りませんよ、あいつのことなんて」
ウソではない。ほんとうに、よくは知らないのだ。
「なるほど」男は唸る。
首根っこを掴まれ、強引に立たせられる。「すこしお時間をいただきたいのですが。よろしいですか」
さっきまでと打って変わった朗らかな物言いに、ぞっとした。獲物をまえにしたケモノを思わせるしずけさがある。
「お時間を差しあげるわけにはいきません」と断る。「大丈夫ですので、いい加減に離してくれませんか」
身をよじってみるが、男の手は首筋から離れない。男のゆびが皮膚にくいこむ。
正直に答えろ、さもなくば――といった警告だと知れた。
「そこをどうかお願いいたします」柔和な口調とは裏腹に、うなじに加わる圧撃は増加する。「もちろんお礼も致します。あなただけではありません。ご家族のみなさまにも喜んでいただけるように尽くします」
――あなたにもご家族がおありでしょう。
耳元でささやかれると同時に解放される。
「脅しのつもりですか」言いながら肩を揉むようにして首の無事を確かめる。「無駄ですよ。行かないったら行きません」
「そういった話も含めて、まずは我々とご一緒にきていただけませんでしょうか」車はすでにあちらへ用意してあります、と男は路地裏へ手を向けた。
ここで騙されて、のこのこ、と付いて行きでもしたら、それこそ半年前の二の舞いだ。
「すみません。先を急ぐもので」ノボルは男のよこを抜ける。一歩、二歩、と距離をあける。
するとどうだろう、ほかの男たちが取り囲むようにして立ちはだかるではないか。こちらの警戒をよそに彼らは腰を折り、頭を下げる。そうして、「お願いいたします」と声をそろえるのだ。白々しい。周りにいる野次馬たちへのパフォーマンスだ。こちらが、親切な人たちのお願いを無下にしているような状況を醸している。
いい加減にしてください。
口にしようと強引に歩み寄ったところで、なぜか目のまえの男が吹き飛んだ。地面に倒れ、うめき声をあげている。
呆気にとられていると、
「なんてことを」叫びながら周囲の男たちが、倒れた男のもとに駆け寄った。
「え、だいじょうぶですか」状況がよくわからない。
「まだ乱暴する気ですか」男どもが喚く。
「え、誤解ですって」なにか勘違いされていると思い、弁解すべく近寄る。
途端に男たちが一人、また一人と勝手に吹き飛ぶではないか。うめき声をあげてもいる。
野次馬から悲鳴があがる。
うわー。なにこれ、なにこれ。
猿芝居もここに極まれりだ。客観的には、こちらがなにかしらの暴力を振るっているように見えているのだろう、現に、
「いい加減にしないか」と反撃の体を装って男たちの一人がこちらに掴みかかり、腹を殴ってきても、野次馬のあげる悲鳴は、さきほどまでとちがい、どこか嬉々としている。
完全にこちらが悪者として見做されている。
殴られた箇所が痛む。つばを吐くと血が滲んだ。口のなかを切ったらしい、
「ご同行ねがえますね?」肩に手を添えられる。飽くまでも穏やかな物言いだ。それだけの余裕が我々にはあるのだよ、と誇示されているようで気に喰わない。
さらに唾を、ぺっ、と吐く。男のクツに付着した。
「やってくれますね」男の手に力がこもる。「いいでしょう。暴行および器物損壊の現行犯で、おまえを確保する」
聞き捨てならない。現行犯逮捕が一般市民でも可能だとはいえ、それを言うならおまえらこそ傷害罪だ。ここまで考えてノボルははっとした。
静かすぎる。
雑踏を猛進したルフィンが騒ぎを起こしてから随分経つのに、サイレンの音が未だにない。あれだけ派手に人間が吹っ飛んでいたのだ、怪我人の一人くらい出ただろう。それでも雑多な喧騒以外、聞こえてこない。
きっと繋がっているのだ。
こいつらは国家権力とも。
ぞろぞろと男どもが群がってくる。助けに入ってくれる野次馬はない。非情だとは思わない。ノボル自身、そういった人間だから非難できる謂れはないし、するつもりもない。
助けられるものなら助けよう。けれど溺れた者を救おうと飛び込んで、共に溺れてしまっては元も子もない。必ず溺れると判っているのに、問題へ飛びこむ者はいないだろう。いたとしてもそれはありがた迷惑の何ものでもない。下手に手を差し伸べられるよりも、必ず助かるような術を準備してもらったほうがはるかにありがたいものだ。
たとえば、警察を呼ぶ、とか。
まあ、それが今は意味をなさないんですけどね。
笑ってから、おれはバカか、と落ちこんだ。
植木場千衣の顔が脳裡に浮かんだ。またしても世話になってしまうのか。
あーあ。憂鬱だ。
(七)
「あーあ。たすけてーって、言ってくれれば助けてあげられるんだけどなー」
男どもに両脇を、がしり、と抱えられていると、どこからともなく暢気な声が聞こえてきた。スピーカの反響じみた声で、ノボルにはかなり大きな声に感じられた。反射的に辺りを見渡してみるが、これといって音源は見当たらない。ふしぎなことに、あたりへ視線を巡らせているのは、ノボル一人だけだ。
両脇の男たちには聞こえていないらしい。テレパシーを思わせる。
声には聞き覚えがある。
数時間前に、部屋で耳にしたばかりだ。
――ルフィン。
あいつの声がどこからともなく届いてくる。
あーあ、と彼女がぶつくさ零す。
「ほんと、たすけてーって、言ってくれれば助けてあげられるんだけどなー。どうして言ってくれないのかなぁ。あーあー。助けてあげたいなぁ」
だれのせいでこんなことに。
「でもなぁ。約束しちゃったからなあ。金輪際一切、関わりませんよーに、ってやつ。でもなぁ、『たすけてルフィンちゃーん!』って叫んでくれたらなー。わたし、今すぐにでも助けちゃうんだけどなー」
うるせいよ。
「つべこべ言わずに、助けろよ」
両脇の男たちが訝しげに見下ろしてきたが、構わなかった。
「るふぃんちゃん、おねがい」
――たすけて。
口にした途端。
「どっしーん」
間抜けた声が降ってきた。
やさしく風が頬を撫で、少女が一人、舞い降りた。
着地するや否や、男たちが、糸の切れた人形のようにその場に倒れていく。
ドミノが倒れるがごとくのありさまだ。
間もなく立っているのはノボルだけとなった。
地面に手を付け、着地と同じ姿勢を維持していた彼女は、上体を起こして、ちいさく背伸びをした。
「んー。わたし、ちょーかっこいい」彼女はこちらに向き直り、やは、と笑った。「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん」
両手を掲げてポーズを決める。
「……ふるい」
脱力する。緊張がいっきに解けた。
「まずは礼を言う。助かった、ありがと」倒れた男どもを踏み越えながら、「ちなみに、どっから見てたんだ」と訊く。
「それはえっとー、あれかな? いつから見ていた、ってー質問かな? それとも、どこの場所から窺っていた、ってー質問かな?」
両方だ、と答える前にルフィンが述べた。「前者は、最初からだね。後者は、この真上からだね」
直線上にいないと声が届かないんさ、と彼女はなにやらばつのわるそうにうなじを掻いた。
「ふうん。まあいいや」あのさ、と質問を変える。地面に横たわる男たちをゆびさしつつ、「こいつらって何者」
むしろ彼らは無事なのか。
「いやー、わたしが聞きたいくらいだよ。何者なんだろうね、こいつら」
「困るってそういうの。おれ、こいつらに顔覚えられちゃったし、あんたと関わりあるって疑われちゃったし、どのみちこのまま、さいなら、ってわけにはいかないっしょ。まったく知らないってことはないでしょうよ。知ってる範囲でいいから話きかせてくださいよ」
周囲にはまだ野次馬がサークルをつくっている。留まっているわけではなく、目まぐるしく入れ替わっている。さながらノボルたちは、川に落とされた岩だった。
「説明はするよ」ルフィンは頭を掻きながら、「でもさ、まずは場所変えない」
提案しつつ、耳に手を添えた。
そこでノボルも気がついた。遠く、サイレンの音が近づいてきている。
なるほど。どこからか男たちの仲間が様子見していたのかもしれない。
鶴の一声。実力行使に失敗した今、あの男たちは、より権力に物言わせる気でいるのだろう。こうして公にならぬようにと、まどろっこしく動くのではなく、もっと堂々とした捕獲手段に移行したのだ。もはや決定的だ。警察は当てにならない。
「そうだな」ノボルは肩をすくめる。「逃げなきゃいけないんだろ? どこへなりとも連れてけ。そんかし、きっちり説明しろよ」
「りょうちしました」彼女はひたいに手をあてた。
というか、おまえがまずは何者だよ。
警戒心ではない。純粋な好奇心が、ノボルの胸中を満たしはじめている。
(八)
「ほら、あるじゃない? 一定の周波数に圧縮された音波はさ、直進するんだよ。『音弾』とでも言うのかな。さながらレーザーだね」
「ふうん」ぶっきらぼうに相槌を打つ。「それで、つまりおまえは何なんだ」
問いつつも、これまでに聞いた話をノボルは整理する。
ルフィンはどうやら、一点にのみ届く音――光線然とした音波を出せるらしい。もっと言ってしまえば、彼女は人間ではないらしい。生物ですらもないらしい。ではいったいなんなのか。
どこまでもあっけらかんとしてルフィンは告げた。
「わたしはあれだね、きみらの言葉でいえば、ロボットだ」
「ああ。ロボットね」なぜか頭のなかではアメリカ産のニンジンが踊りはじめた。キャロット、キャロット。まだ私はニンジンですと言われたほうがなっとくできる。「んじゃなに。ロボットってことは、ミサイルとかも飛びだしたりすんの」
「ないない」ハエを払うみたいに彼女は手を振る。「ミサイル搭載なんて、そんなコストパフォーマンスのわるいことしないよ。ミサイル付けるくらいなら、レーザービーム出したほうがよっぽど合理的だよ。ミサイルだと、単発で終わりだし」
「ふうん」ひとまず話を合わせる。「つってもレーザービームだって、エネルギィを圧縮して投射するわけっしょ? その器機だって結構にデカイんでないの」
「いまはそんなに大きくないよ。せいぜいが、五百ミリのペットボトルくらいの大きさだもん」
「ふうん。なら出せんの、レーザービーム?」
「ムリムリ」ルフィンは細かく手を振る。「だってわたし、そんな危ないアイテムもらってないもん」
「じゃあなにができんの。ロボットなんだろ」
ロボットだという証拠をみせろ。
迫ると、
「なにって。そりゃあねぇ。きみたち人間の女にできることならなんでもできるけど」
「なんでも?」
「試してみる?」
「か、からかうなって」
「やは。思いのほか純情だねえ」ルフィンは目じりを下げた。
しょうじき殴りたい。が、ここは我慢だ。
「つーかさ」と話題を変える。「なんで逃亡先がウチなわけ。ふつうあるんじゃないの、隠れ家とかさ。こういうときの秘密基地とかさあ」
「ん? ないよー」
「そうでなくとも……帰る場所とかさ」
「うーん。ないなあ」
「じゃあおまえ、どうするつもりだったんだよあれから」あの男たちから逃げていたということは判っている。一目瞭然だ。にしても当てもなく逃げていたとは驚きだ。
「つーか、なんで追われてんのよ」
「さあ。何ででしょうかね」
「いやふざけんなって」
「あーうん。ごめんなさい」
「で、なんで追われてんの」
「わたしがかわいいから?」
「おれさ、いちどでいいから本気で女の子なぐってみたかったんだよね」
言ってベッドから立ちあがる。拳を鳴らし、詰め寄る。「ところで、おまえ、ロボットなんだっけ」
「あ、やめたほうがいいよ。ていうかやめときなよ。いやね、別になぐってもいいんだけどさ、でも、やっぱりやめといたほうがいいとね、わたしはおもうんだけどなー」
うるせえ。
問答無用で殴りつける。が、
「ッ! いッてえ!」
声をあげたのはノボルのほうだった。
拳を押さえ、悶絶する。
まさに鋼鉄。少女にあるまじき硬さだ。
「おまえッ……こうなるって分かってたら、言えよッ、さきに!」
「言ったじゃん」
「足りねえよッ、圧倒的に言葉が足りねェよ!」
それでもおまえロボットかよ、と毒づく。
「ロボットだよ」ルフィンはそこで笑みを引いた。やけに儚げに映る表情で、なら、とつぶやく。「ロボットじゃないって言うなら……だったら、わたしはなんなのさ」
いや、知らんし。
気まずかったので、「じゃあ、ロボットでいいです」
ひとまず認めることにした。
第二章『血も涙もないけれど、
傷つける棘もない
流させはしない、あなたにも』
(一)
阿堂(あどう)レナ。
ルフィンをつくった人物だという。
著名ではないものの、博士の称号を持つ者たちから一様に「鬼才」と称される、そんな偉大な科学者であるらしい。
道具としての機械。
プログラミングとしての人工知能。
このふたつは、従来、別々の分野として、確立・研究され、発展してきた。しかしこのふたつを結びつけ、完全なる自律式機械(オートマトン)、いわゆる「アンドロイド」を創造したのが、阿堂レナ博士、そのひとだったという。
阿堂博士は、試作品としての「END」を設計した。それが今から三年前のことだそうだ。それから間もなくして、博士が失踪した。すでに起動していた「END」は、ただただ従順に、博士の命令を聞き入れた。
すなわち、待て、だ。
二年の月日が経ってから、突如として「END」は閃いたのだという。
「たしかにわたしは博士から、『待て』と命令されていた。けれども、『どこで』『どのように』との指定は受けていない」
博士を捜しに、「END」はそとへと出た。それが今から二カ月前のことだという。
そして現在。
阿堂レナ博士の行方は未だ知れずじまい。足取りの片鱗すら皆無だという。
先日、「END」は見知らぬ男たちに襲われたそうだ。
実質的な損害を受けてからでないと、自己防衛システムが発動しない。そこを狙ったのだろう、男たちは奇襲を仕掛けた。「END」ことルフィンは初撃から甚大な損傷を胴体部に受けたが、そこでようやく自己防衛システムが発動し、男たちを振り切り、逃亡するに至る。
しかし逃亡中に、損傷部から、部品をひとつ落としてしまった。
それがすなわち、ノボルの拾った「ストマック」だった。
さわりだけをまとめればこのような顛末であるらしい。ルフィンはさらに説明する。
「ストマックはね、大気中から水素と酸素を抽出して、エネルギィにしているの。そこから発生するのは、熱エネルギィと水だけ。生成された水分をふたたび分離させて、エネルギィと化すこともできるし、あなたたち人間と同じように、水蒸気として表層から気化させ、ボディを冷却することもできたりする。熱エネルギィは、そのまま高圧縮してプラズマを発生させる。そこから得た電気で、わたしは活動できる。ただ、ストマックがなくてもね、予備の発電機があるから、十二時間くらいは動けるの。でも、ストマックってさ、エネルギィ供給を担っているだけじゃなくって、わたしの人格プログラムも搭載されているから、それがないとわたしは〈わたし〉として、覚醒できない。あなたたちの言葉で喩えちゃえば、ずっと寝ぼけた状態って感じなのかな」
快活な口調ではある。ただやはり、どこか鬱屈としている。
「それで」とさきを促す。
「うん」うなずいたきり彼女は二の句を継がない。
悩ましげな表情だ。どこからどう見ても人間だ。ただ、彼女は無機物でできている。身体構造が明らかに人間と異なっている。
「なに悩んでんだよ。おまえはロボットなんだろ。それ以外の何ものでもない、それでいいじゃん」
どこに不満があるんだよ、すごいじゃん。
「そうなんけどさ」不服そうにルフィンは、「だったら」と唇を尖がらせる。「だったらわたし、今から服の一切合切を取り払って、あなたたちの言葉でいえば、『全裸』になるけど、別に構わないんだよね」
「な、なに言ってんだよ」構うに決まっている。「やめろって、脱ぐなよな」と釘をさす。
「どうして? わたし、ロボットだよ」
ロボットなのに困るわけ? と彼女は頬を膨らませた。
「なんだよ。じゃあおれは写真にうつった美少女の全裸を見ても、『それは紙だからまったく興奮せんなー』と思わなきゃならんのか」
「その通りだよ。あれ、ちがうの」
「ちがうよっ!」思春期終焉まぢかの妄想力なめんな。
「男の子ってそういうものなんだね」ルフィンはまるでほんとうの女の子みたいに、しみじみ、うなずいた。「うん、わかった。わたしの比喩がわるかったみたい」いちど溜息を吐いてから、はっ、としたように彼女は、あれ、と口もとをほころばせる。「あれ、ていうか、なに? きみ、もしかして今」と自分のあごにゆびを当て、「美少女って認めてくれた?」
「は?」
「やいやい、照れるない」言いつつルフィンが照れている。
ヘンテコなやつとの会話って、どうしてこうまでも噛み合わないのだろう。誘起されたのか、まぢパイナポゥすね、と脳裡にとある男の顔が浮かぶ。おまえの出る幕はない、とノボルはその浮かんだ顔をかぶりを振って打ち消した。
ルフィンは言った。
「あいつら、一撃必殺を根底に攻めてきたもの」
これはつまり、あの男たちが、ルフィンの素性を僅かにでも知り得ていたことを示している。
遥かに高い技術で創造されたロボットであるルフィンだが、彼女いわく、「いちど攻撃を受けてからでないと、自己防衛ができない」らしい。そのことを念頭に置いた戦略であったことからも、あの男たちが、阿堂レナ博士となんらかの繋がりがあることは想像に難くない。ルフィンもまたそのような旨を述べた。
「だったら話ははやい。あいつら、とっ捕まえてお得意の拷問でもカマせばいい」
「あんねー」おにいさん、とルフィンが腰に手を当てる。「いくらわたしがロボットだからって、拷問だなんて非人道的なことするわけないでしょー」
なら今朝のアレはなんなのだ。「おれは今朝がた、おまえに恫喝されたぞ。ラウちゃんだっておまえに突き飛ばされたんだぞ」
「んー。そんなことあったかなぁ」
「すっとぼけた!」
「んやんや。そんなつもりはないんだけど。ごめんごめん、ほら、わたし、今朝ってストマック抜かれちゃってたでしょ。寝ぼけてたってことでさ。水にながしてちょ」
「ホンキで忘れたの」
「いんや覚えてるよ」
「おい」
「ちがう、ちがうの」ルフィンが慌てたように、「そういうことじゃなくってね」と釈明する。「きみに助けてもらったってことはきちんと覚えてるし、金輪際関わらないようにって約束を交わしたのも覚えてる。この部屋にきみの妹ちゃんがいたのだってもちろん覚えてるよ」ただね、と顔を顰めて、「ただ、恫喝したとか、突き飛ばしたとか。そこんところが覚束ないのよ」
「ほう。なんて都合のいい記憶力ざましょ」
「うへへ。ロボットだもの」
なんだかこいつとの掛け合いを楽しんでいるじぶんがいる。ノボルは焦りにも似た感応を覚えた。
完全に感情移入している。
ルフィンは明らかに、人間にある様ざまな仕草や無駄を体現している。息をする必要もないのに溜息を吐き、目の渇く心配などないのに瞬きをし、そして拙い言葉遣いでしゃべったり、言動に脈絡がなかったり、とまるで人間だ。そう、ノボルはいつの間にか彼女を人間として見做していた。
ノボルは逡巡してからやはり尋ねた。「なあ。なんでおまえ」
「別にね」とルフィンの述懐に遮られる。「別にね、わたしが人間じゃない――ロボットだってならそれでいいんだよ」飄々と言いながら、でもさ、と彼女はぼやくのだ。「でもさ、ロボットにしては、あまりにデクノボウなんだよね。わたしがだよ。ちょっと、嫌みな言い方しちゃうけど、気ィわるくしないでね。あのね、人間に似せてつくられるってことはさ、それだけ、人間にある、いろいろな拙い性質までをも似せるってことなの。たとえば、従来のロボットは、いつだって誤謬を生じさせないようにって、精確な情報を収集しようとする。だから、かなりの回数、聞きかえしたり、または、規定外のことに対しては、おしなべて指令を待とうと一時停止しちゃうの。でも、人間っていうのはさ、ぜんぜん精確じゃないんだ。精確じゃなくっても、なんとなく過ごせちゃう。その曖昧な感性ってのが、人間にとっては重要な成分なんだろうね。でもってわたしには、その曖昧さが備わってる。ロボットのくせにだよ? ロボットのくせに、ロボットにとって重要な精確さが足りなくって、人間にとっての欠点である曖昧さが装備されている。それってさ、どうなのよ。わたし、どっちなの? ロボットでありながらロボット失格で、人間でないくせに人間らしいって。そんなのって、えっと……悲惨じゃん」
ヒサンなのかなあ。よくわからない。
そもそも、とルフィンはこぶしを握った。「そもそも人間だって、超精密な有機機械にすぎないでしょ? 神経系シナプスの連結。その複雑な回路で思考をしてさ、複雑な構造でもって動いてる。それって、わたしといったいどうちがうの。たしかにわたしには体液とかながれてないし、痛みだって遮断できるよ。でも、わたしは自分が毀れることを厭だって思ってるし、もっとたくさんの人間とたくさんの言葉を交わしたいとも思ってる。なによりも、アドウ博士に逢いたいの。それって、きみたちの言う、感情と、どこがちがうの」
「インプットされているかどうかじゃないのか」思いつきだった。「そういったシステムが組み込まれているか否かのちがい」
「そんなの人間だって同じじゃない」
「同じじゃないと思うけど」
「なんで? 人間だって、遺伝子レベルで自己保存とか、三大欲求だとか、そういった先天的なシステムが組み込まれてるじゃない。それとわたし、なにがちがうの」
「おれたち人間はそれに抗える。でも、ロボットはプログラム通りにしか動かない。おまえもそうじゃないのか? 攻撃を受けてからでないと自己防衛もできないんだろ」
そもそも、とノボルは考える。そもそも彼女には、ロボット三原則だってプログラムされているのではないのか。
うろ覚えだが、ロボット三原則というのは、
・第一原則「人間を傷つけてはならない」
・第二原則「第一原則に反しない限り、主人の命令に服従しなければならない」
・第三原則「第一・第二、原則に反しない限り、自身を守らねばならない」
ざっとこんな感じだったはずだ。
商店街でのルフィンの所業。人込みを猛進したあれはどう窺ってみても、人間を傷つけている。だが、第一原則を拡大解釈して、「殺傷しない」としてしまえば問題ないのかもしれない。そもそも、人間、生きている以上は、どう足掻いたって傷つくものだ。極論を言ってしまえば、人間を傷つけないようにするためには、人間を殲滅するのがもっとも合理的であるだろう。生きないものは傷つかない。そこにあるのは風化と腐敗だ。自然の循環の一過程にすぎない。
また、第三原則に至っては、「守るべき自分」というものが、果たしてなにを示すのかが大変に曖昧だ。たとえば人間であるならば、自分を守るために自分を傷つけることもある。そうしなくてはならない局面が、あらゆる日常で起こり得る。傷つくのはなにも、身体的なことだけではない。人間は精神的な損傷だって受ける。逆に、精神的な安らぎを得るために、自らの肉体を傷つけることだってある。
そうだとも。
人間には、「心」がある。
その「心」がロボットにはない。決定的なちがいはそこにあるはずだ。ようやく考えがまとまった。
「ロボットには心がない」と告げる。
「心? なにそれ」
吐き捨てるように言い、ルフィンは、むつけたみたいに目を伏せた。「そんなもの、どこにもないじゃない」
――だれにも、ないじゃない。
ああ。
なぜか胸にひびいた。
心って……なんだっけ。
そんなもの、視たことも触れたことも、聴いたことだってない。言葉としては知っている。概念としても知っている。感情を司り、人間に理性を宿している根源だ。いや、逆かもしれない。感情があり、理性があり、だから心が生まれる。そういうものなのかもしれない。どちらにしろ、そんなものの存在をノボルはただのいちども観測したことがない。
いや。
自分という存在、この感情、この思考、この「おれ」という認識。これがつまり、「心」なのではないか。いやいや、だとして、だからどうだというのか。
それ以外の他者に「心」があるか否かなど、まったく分からないではないか。煎じ詰めて考えれば究極のところそれというのは、「心」そのものが存在するか否かさえも分からない、ということになる。
「私」が「私」であると確認する行為は、己を客観的に観測しているからこそ抱ける自覚である。己の外側から己を眺めなければ、そこに自覚は生じ得ない。たとえばこれは、睡眠中の人間が、夢を「夢」だと自覚するプロセスと似ている。夢の自覚に必要なのは、夢の外側から「夢」を認識することだ。これは夢だ、と思うためにはまず、「眠っている自分」を想像しなくてはならず、すなわち夢のそとの自分――睡眠下の自分を想定し、そのうえで、その睡眠下の自分の視点で、夢を「夢」だと認識しなければならない。
端的に、主観を俯瞰に転換する必要があるのだ。
これはもう、他人を眺めていることと大差ない。
そうだとも。
自分以外の他者に「心」があるかどうかは、その相手を観察した結果に思い描く幻想でしかない。
死体に心があるか。植物に心はあるか。虫は。動物は。身体を動かせない者にも心はあるのか。それらの答はすべて、それらを観測する者の認識にゆだねられている。
観測する者に「心」があるのか?
そんなこと、誰にも解らないではないか。「心」の有無を決定するためには、他者の認識が必要だ。だが、そんな評価は、コンピューターにだってできてしまえる。占いをコンピューターで行えるように。
ならば、彼女――ルフィンに「心」はあるのか。
ノボルは、漂っていた視線を彼女へ向ける。ぼやけていた視界が鮮明になる。
おれがある、と認めれば、それだけで彼女に「心」が宿るとでもいうのだろうか?
どこの創造主だ、そりゃ。
主観と客観をごっちゃにするな。
たしかにノボルがそうと思えば、ノボルの裡でのみ、ルフィンに「心」が宿るだろう。だが、それ以外の者たちからすれば、やはりルフィンはロボットにすぎない。いや、そもそもロボットだとすら見做されないかもしれない。だとすればやはり、ロボットだと見抜かれない限り、人間だと見做されている限りは、ルフィンには「心」が宿っているのかもしれない。
うむ。なに言ってんだおれは。
ノボルはひとり噴きだした。
「どしたの、急に」ルフィンがむすっとする。「わたし? わたしのこと笑ったの」
「まあ、そんな感じ」
眉間にしわを寄せ、「んんっ」と彼女が口をすぼめる。凄んでいるつもりのようだ。
それがまたいじらしく、滑稽に映った。
「いいじゃん。笑われたって」
ノボルは悩むことを諦めた。
(二)
あっ、と声がした。
同時にドアが閉じる。
壁一枚はさんだ廊下側から、
「お邪魔しました」とちいさく聞こえてくる。
全身の血の気が引いていくのをノボルは感じた。
その声には聞き覚えがある。間違いようもない。
植木場千衣だ。
間がわるい。
普段からノックをしろ、と口を酸っぱくして言っていたというのに、チイのやつときたらちっとも改めようとしない。先月だってそうだ。急に訊ねてくるだけならまだしも、気配なく扉を開けてきた。股間に宿る肉体の神秘を研究中だったノボルはそこで、けっして見られたくない姿を、まじまじと目撃された。肛門の神秘にも興味が芽生えはじめていたので、そういう意味では不幸中の幸いではあった。
「待って! ちがうから!」先月とおなじように、なにがちがうのかも分からぬままに釈明を試みる。
ドアを開けた直後。おうっ、と立ち止まる。
出てすぐのところに植木場千衣の背中があった。追って出てきたことに気づかないわけではないだろうに、待っていても彼女は振り向かない。肩に垂れた長髪も微動だにしない。嵐のまえの静けさのようにも思われる。好意的に解釈すれば、こちらの弁解を待ってくれている、と分析できないこともない。
「あのですね、ちがいますから、あいつはその、ちがうんですって」
「なにがちがうんだー?」部屋のほうからルフィンの声が届く。
ややこしくしないでくれ。舌を打ちそうになり、寸前で堪える。
まずは誤解しているであろう彼女への対処だ。おそるおそる声をかける。「なあチイ。どこ行くんだよ」
「なにがちがうわけ」振りかえった彼女が上目に睨んでくる。まつ毛がながい。
「あ、うん」ウソは逆効果だと短くない付き合いのなかで学んでいるので、「落し物がね、ありましてね」しどろもどろに説明を試みる。「で、また厄介事にですね。巻き込まれちゃいましてね」
「だったらなんでウチにこないわけ」
そうですよね、そうきますよね。予想はしていた。二の句が継げない。
「言えないんだ?」
「そうじゃなくって」
「じゃあ、なに」
「だから言ったじゃないですか。厄介事だから、あんまし迷惑かけたくないなって」
「なんで。前回のでもう懲りたんじゃないの。どうせまた、にっちもさっちもいかなくなって駆けこんでくるくせに。少しはこっちの身にもなってよ」
「そっちの身になって考えた末にじぶんで解決してみようって思ったんでしょうに」引け目があるぶん、自然、口調が敬語になる。
「へえ。そ。わかった。そういうことならしょうがないよね」ほがらかに言ってチイは、「帰る」
ふたたび背を向けた。
「だからどこ行くんだって。帰んなって。来たばっかじゃん」
腕をつかむとすごい形相で睨まれた。
「放せ」
感情のない声に冷や汗がにじむ。手を放したのとほぼ同時に、
「こんにちはー。どうもー」と場違いな声が届く。「あららー、どうったの。けんかかな?」
見遣ると扉からルフィンが顔を出している。
出てくんなよ。
部屋のなかへ押し戻そうとするが、腐っても相手はロボットだ。びくともしない。
ふと見遣ればドア枠に彼女の指がめり込んでいる。
「おまえはすッこんでろ」
「ん? わたしの名前は、ルフィンだよ。『スッコン=デ・ロー』じゃないよ」
「あーうぜえ!」
こちらの制止をものともせずに、廊下まで出てくると、
「わたし、ルフィン。よろしくね」
勝手に名乗りだす始末だ。
チイもまた、「植木場千衣です」と自己紹介する。ルフィンに向けて手を差しだしている。
妙だ、と思った。チイが本名を名乗った。偽名の、「庭番衆(にわばんしゅう)イチ」ではなく。
握手を求めるのは、植木場家の習性であるため、ふしぎではないが、初対面の相手に偽名を名乗らないというのはすこし妙だ。植木場家の者にとっては偽称が常のはずだ。
差しだされた手にルフィンが応える。
交わされる握手。
瞬間。
チイがこちらを鋭く射ぬいた。遅れてポニーテールの尻尾部分が、ぶん、としなる。
言われなくとも分かった。
看破されたのだ。ルフィンが人間ではないことを。
だが一応、ルフィンをゆび差し、なんでもないような調子で、「こいつ、ロボットなんだってさ」
咎められるよりも先に白状する。
(三)
肩で息を整える。ルフィンの様子を窺う。平然としている。呼吸ひとつ乱れていない。いや、こいつに呼吸なんて必要ないんですよ、とじぶんに向け意見する。
「うへへ。たまげたねー。あの子。チイちゃんだっけ?」ルフィンが後頭部に両手を組み、そらを仰いでいる。「あの子も、ロボットだったりしない?」
「しない」
いちど立ち止まり、手に持っていたシューズを履く。ようやく立ち止まる余裕が生まれた。すでに靴下には穴があいている。
咄嗟の出来事とはいえ、迅速な対応だったなあ、と自画自賛する。
「でも、あれはちょっと尋常じゃないよね」ルフィンが、くるり、と反転してこちらを向いた。うしろ歩きをしつつ、「あれはさ」と笑う。「あれはさ、やんちゃ、じゃ済まないよ」
「そうだな。やんちゃじゃ済まない」タダでも済まないぞ、と未来のじぶんを心配する。ふたたび歩を進める。それから話を逸らすようにして、
「きちんとまえ向いて歩け」
でないと転ぶぞ、と注意する。
「なめてもらっちゃあ、困るね」
生意気にも嘯くではないか。「わたし、ロボットだよ」
「関係ない」と一蹴する。「弘法も筆を誤まるし、河童だって川に流される。猿だって木から落ちるんだ。ロボットだって転ぶよ」
「ああ、なるほど。犬も歩けば棒に当たるしね」
「それは意味がちがう」
「そうなの」
「たぶん」否定しておきながら自信がない。「どちらかと言えば、塞翁が馬にちかい気がする」
「ふうん……サイオーガウマねえ」呪文を唱えるような語調だ。どうもぎこちない。「ホントに分かってんのか?」
「もちろんだともさ」へへん、とわざとらしく胸を張って彼女は、「わたし、ロボットだよ?」
「おれ、ちょっと考えてたことあるんだけどさ」
話題が逸れたとばかりに、「なになに」と食いついてくる。
「超絶にあたまのいい人間がいたとするじゃん」と前置きする。「いわゆる天才ですな。そいつって、超絶に頭のわるい人間のことだって理解できるとして、だとしたら、その頭のいい人間ってのは、超絶に頭のわるい人間にもなりきれるってことですよ。んで、超絶に精巧で演算能力も処理能力も総合的な知能指数も全部ひっくるめて卓越したロボットがいたとしてですね。だとすれば、そのロボットは自分の知能指数を自由自在に設定できちゃったりするんじゃないかなって。今ちょっと考えた」
「それは。えっとぉ」ルフィンが耳たぶをいじる。首を傾げ、「なにが言いたいの」
「あなた、バカに設定されてません?」
「ちょっと! いくらなんでもそれは怒るよ」柳眉を逆立て、語気を荒らげながら彼女は、「博士はバカじゃない!」と腕をぶんぶん振り回す。「いくらきみでも、博士のわるぐちは許さないよ」
そういう意味ではない。が、訂正するのも面倒だったので放置しておく。
どうやら思ったとおりだ。ルフィンの知能指数はなかなかどうして低いらしい。ロボットと比べるまでもなく、こちらと比べても劣るかもしれないと思われた。
こちらが言いたかったのは、仮に、思考レベルを「バカ」に設定されているのだとすれば、すべての問題をひも解けるくらいの知能指数に自力で設定し直すことも可能ではないか、とそういった可能性を主張したかったのだが、それをルフィンにも理解できるように伝えられる自信はない。
ただ仮に設定できたとしても、ルフィンが独自にプログラムをいじることが可能であるとの前提が成立していなくてはならない。阿堂レナ博士だとかほかの人間に、外部から設定されているのでは、この仮定はまったく役に立たない。
呆れる傍ら、沈思黙考していると、ルフィンが大きく一方踏み出した。こちらを振りかえり、立ち止まる。そして一言。
「あやまって」
「は?」
「あやまって!」
謝罪を要求しているようだが、しかし、
「だれに、だれが、なんで?」
「きみがっ」と指を突きつけてから、「わたしにっ」と自分のあごに指をあて、「大切なひとを虚仮にされたからだよ」
付け加えるようにして、「あと、アドウ博士にも」
ここまでアホだといっそいじらしく思えなくもない。ムキになる子どもを相手にしている気分だ。とはいえ、ノボル自身もまだ充分にガキであるので、大人の余裕を醸すつもりはない。無視し、さきを急ぐ。
「ちょっと! あやまってっ!」
背後でルフィンが地団太を踏んでいる。地面を伝って振動が伝ってくるからそうと判る。陥没してませんかアスファルト。不安になるような鈍い音まで響いている。
「お、置いてっちゃうわよ」振り向かずに声を張る。それからこうも告げる。「阿堂博士には、逢ったときにでも直接あやまっておく。それでいいだろ」
地響きが止み、ずん、とくぐもった音がしてから、音もなく目のまえにルフィンが現れる。
「うそだったら本気で抱きしめてやるからな」
背後を振りかえる。地面が畑に様変わりしていた。
「やさしく……がいいです」
自然、頬が引き攣った。
数十分前のこと。
ノボルの部屋で植木場千衣は、ルフィンが人間ではないと知っても特に気を揉むこともなく、どころか、やや安堵したかのように、恬淡とした態度だった。
ひと通りの経緯を話して聞かせた。相槌を打ちながらも、口を挟むことなく、チイは最後まで聴いてくれた。
傍らでルフィンが正座をしている。
「話はわかったわ。でも、だったらなおのこと頼りなさいよ。ウチを」
また説教かあ、と辟易する。小声で、「女に守られる男って……」と愚痴をこぼす。
「は? なに? なんか言った?」
「なんでもないです。というか、チイの家に依頼して、そんでどうなるの? なにも解決しなくないか」
植木場家は、この地域を守るため〝だけ〟にある組織と言っていい。したがって、この街の住人ではないルフィンの願い――阿堂レナ博士の捜索――に加担してくれるとは思えなかった。
こちらの意に反してチイは、「簡単なことじゃない」と淡々と述べた。あごを振ってルフィンを示し、
「コレを預かるだけの話じゃない」
なにを悩んでいるわけ、と小馬鹿にしたような感じだ。
植木場家で、ルフィンを預かる。
なるほど。ノボルは合点する。
奪還しようと何者かが植木場家にちょっかいを出せば、それはどんなささやかな干渉であれ、宣戦布告と見做される。そうなれば、相手側も迂闊に手を出せなくなるだろう。上手くいけば、植木場家との軋轢によって相手側が壊滅するかもしれない。
また、なにも仕掛けてこなかった場合。それはそれで、ルフィンの無事が確立されるわけだから、問題はない。そのまま、この街に居座ることもあり得るかもしれないし、ふたたび博士を捜しに出て行くこともできる。
どちらにしろ、植木場家で世話をしてもらうことは、わるい話ではないと思われた。
が、案に相違して、続けてチイはおそろしいことを口にした。
「ウチの兄貴、いるでしょ? いま、ちょうど帰ってきているのよね。なんか、工学系の仕事――と言っても、違法には変わりないんだけど。それに必要な資料っていうかサンプル? それを漁りに来たんだって。ほら、ウチって結構いろんな所に絡まれるじゃない? それで相手から鹵獲(ろかく)した武具が山ほどってくらいたくさんあるのよね。蔵に詰め込んだから、それこそ山みたいなんだけど。でも、あんまり目ぼしいものがなさそうだったから」
とんでもなく不吉な解釈しかできなかったが、念のために聞きかえす。
「……それが、なに」
「え? だからね。コレを持って帰ってあげたらさ」とルフィンをゆび差してチイは無邪気に微笑んだ。「兄貴も気に入るんじゃないかしらって思うのよね」
「兄貴って……どっちの」
「サミ兄だけど」
「解析屋の、か」
「もちろん。工学系の仕事って言ってもやっぱりそっちだし」
構築するほうじゃなくって、解体するほうなのよね。チイは、やれやれ、と家族を慈しむみたいにぼやいた。
彼女の次兄、すなわち植木場紗巳(さみ)とは幾度か顔を合わせたことがある。名前の読みや漢字からして女性だと思っていたが、実態は、さわやかな笑顔を撒き散らしながらも、手元にあるものをなんでも(生物、無生物の見境なしに)解体してしまう「度を超えたサディスト」略して、ドSだった。
刃の裏側がノコギリみたいにギザギザしているマイナスドライバーを薄くしたような刃物を二枚組み合わせ、ハサミのように駆使する。狂気じみたというか凶器でしかないハサミを用いて食事をするような男であるから、ノボルの裡では、彼がハサミ依存症ではないか、ともっぱらのうわさである。
「いやいや」と苦笑するよりない。「ルフィンを解体させる気なわけ? あのひとに?」
正気かよ、と笑うと、その態度が癪に障ったようで、
「なに」
チイがいつものような声で唸った。「そいつ、ロボットでしょ」
その口ぶりはまるで、「毀すことのなにがわるいの」と糾弾するような威圧を伴っており、有無をいわさぬ圧力が感じられたが、強いて勇気をふりしぼり、ノボルは言った。「壊されたら、おれが悲しい。だから壊したらダメです」
視線が交わる。
なんでそんなに冷たい目をするんですか。息苦しくなり、泣きたくなる。
やがてチイが視線を外した。そのままルフィンへと顔を向けると、なら、とついでのようにつぶやいた。
「なおのこと毀さなきゃ」
背筋が凍った。率直な感想として、めちゃくちゃこわい。チイが、というよりも、彼女が抱いているだろう、その殺意にちかい感情がこわかった。これはあれだろう。うわさに聞くところの、「嫉妬」というやつだ。でもでも、とノボルは思う。嫉妬って、ほんとうはもっと甘ったるくって、うれしいものではなかっただろうか。少なくとも、ノボルの夢見ていた「嫉妬」は、こんなに凍てついてなどいなかったし、棘々ともしていなかった。
チイが拳を軽く握った。
口もとへ持っていく。
親指と食指のあいだの、付け根にくちびるを近付け。
手のひらにできた空洞に、ふう、と息を吹きこんだ。
まずい。
直感ではなく、経験則として、ひじょうにまずい展開だと察した。
……ぜったい後悔する。
判っていながらに身体はルフィンを抱きかかえている。お姫さまだっこをしながら、僅かに開けていた窓の隙間に足を引っかけ、開け放つ。庭へ向けてルフィンを放り投げ、流れるようにベッドの角にぶら下げているシューズを掴みとり、ベランダに出る。この間、三秒もなかっただろう。
ルフィンの体重がずいぶんと軽いことに驚いている暇もなく、また、奇襲にも拘わらず、容易に着地した彼女に感心している場合でもなかった。
躊躇などしていられない。すぐにじぶんも飛び降りる。
庭は芝が覆っている。それでも足首が、じいん、と痺れた。遅れて、痛い、と感じる。
「なにすんの!」
ルフィンが、ぷんぷん喚いているがそれどころではない。腕を掴んで道路へと出る。そのまま遁走を試みる。
ガツ、ガツ、と音がした。振り向くのも怖かった。が、背後を確認しないのもまた怖い。けっきょく、走りながら背後の様子を窺った。
ノボルの部屋は二階にある。窓からチイがこちらへむけて腕をなんども振りおろしていた。
そのつど、ガツ、ガツ、とアスファルトに孔が空く。
部屋にあったものを手当たり次第に投げつけている。それだけの所作で、投げつけられた物が、地面にめり込んでいる。
「ひゃはっ」ルフィンが愉快そうな声をあげた。「すっごいねー。なに、あの子? 人間?」
答える余裕などない。
息切れの苦しさに耐えながら、ひたすら道路を駆け抜けた。
これからどうしよう。
気持ちが沈む。ヘンテコな人間の顔がひとり、脳裡に浮かんだ。ほんとピーチじゃないっすか、と頭のなかのそいつが言う。かぶりを振って打ち消してやりたいところだが、今回は見逃すことにする。
諦めの溜息を吐く代わりに、ノボルはふかく息継ぎをする。
(四)
「いやー、マジバナナですよ。どうしたんですノボルさん? 珍しいじゃないですか、わざわざ逢いにきてくれるだなんて」
なにがバナナだ、と毒づきそうになったが、なんとか呑みこむ。礼儀は尽くしたい性分だ。頼みごとをしに来た身であるから、今日ばかりはこちらがこいつのアホらしいフルーツ語に合わせなければなるまい。
「申しわけないんですが」慇懃な口調で、「知り合いを、匿ってくれませんかね」と映画の主人公みたいな台詞を口にする。
「やっはー。マジ、パイナポゥすね。うれしいっす、じぶん。本当どうしたんです? ノボルさんがオレに頼みごとって、リンゴにマンゴーって感じですよ」
なぜリンゴをアップルと言わないのかが甚だ疑問だが、やはり今日は触れないで措く。
「ちょっと植木場さんに追われてまして」
告げると、彼の顔から血の気がひいた。泣き笑いを浮かべながら、「勘弁してくださいよぉ」と頭を抱える。
「あの日のこと、これで許してあげてもいいですよ」
いっしゅん、嬉々とした表情を浮かべたものの彼は、「割にあわないですって」とすぐに子猿みたいな顔をする。
あの日、と強調してノボルは言う。「あの日、あなたがしたこと、このままだとおれ、一生ゆるさないですから。今後いっさい、カンザキさんのこと、トモダチだとも思いませんから」
それでもいいんですか、と幼稚に脅す。
「イヤっす」
「まさかとは思いますけど、おれのために死んでくれるって誓い、あれを忘れたわけじゃないですよね」
「もちろんですよ」心外だ、とばかりに彼は、「一生わすれないっす。スイカに誓ってもいいです」
そんなもんに誓うなよ。そもそもスイカは野菜だぞ。いいのか、おまえそれで、とツッコミをいれたかったが我慢した。
自信満々にスイカへと誓った彼はけれど、すぐに、ただですね、と意気消沈する。
「ただですね、植木場さんを敵にまわすのだけはホンキで勘弁ねがいたいっす。スイカに誓って、マジ勘弁です」
彼の口調はまるで、「神に誓って、ノリ弁はいやです! シャケ弁がいいです!」と懇願しているみたいで腹がたった。頼んでいるのはこちらだ。
「わかりました。なら、カンザキさんはお兄さんと再会することなく、この世から消え去るということで」
「オレンジ待って! オレンジ待ってくださいってば! はやまっちゃダメですって! カキだって、熟すのを待たないと渋くて口のなかが、うがー、ってなっちゃうんですから」
いいこと言ったオレ、みたいな己顔を浮かべられても困る。「じゃあ、引き受けてくれるんですか?」
「やっはー。ノボルさんって、意外とチェリーすね。それとこれとは話が別でしょう」
「ごめん、やっぱ一発なぐっていい?」
「やめてくださいって」カンザキは大げさに退いてから、「オレ、手加減ってできないんすよ。条件反射で反撃しちゃうんで。マジ、アボガドなんすよ」
「だいじょうぶですよ。縛ってから殴りますから」
「すんません、ピーチすんません」カンザキは、襟を正し、その場に正座した。
「ゆるしてほしけりゃ頼みを聞け」
この地球のゴミが。
「……もし、もしですよ」短髪をゆびで掻きつつ彼は、「もしもオレがノボルさんのお知り合いの方を、こっそり匿ってるって植木場さんに嗅ぎつけられたとしたら……オレ、どうなります?」
「だいじょうぶです。死にはしないでしょうから」
「あ。なら、いいっすよ。ぜんぜん預かりします」
「助かります」と口だけで言った。彼が死なない程度に殺されたとしても、こちらの知ったことではない。
「それで、えっと、どこにいるんですか、そのお知り合いの方ってのは。オレ、迎えに行ったほうがいいんすかね? できればオレ、こっから出たくないんすけど」
「及びませんよ、それには。外で待たしてあるので」
「やっはー。マジっすか? そいつあ、ドリアンすねえ」
「ドリアンではないです。ルフィンって言います」
「だいじょうぶですかね、お連れのかた? 死んでませんか」それとも、とカンザキはジョークのように付け足した。「それとも、殺したくて置き去りに?」
冗談半分に肯定する。「それも、あります」
(五)
ドアを開ける。闇が蠢き、退いた。
「ねえねえ! 見て、みてー」
こちらを振り向いたルフィンは胸にいっぱい、なにかを抱えている。
目を凝らさずともノボルには解った。
猫やら犬やらネズミやら、片や、タヌキやイタチやリス、果てはハトやコウモリやら。
それらを圧縮するみたいにぎゅうと抱きしめ、ルフィンが見せびらかしてくる。
どれもぐったりとしているが、死んではいない様子だ。周囲に蠢く闇もまた、そういった動物の群れである。
「すごいっすね、お嬢さん」カンザキが珍しくはっきりとそれと判る詠嘆を漏らした。「どうやったんです? 一匹も殺さずに傷ひとつ負わないだなんて。マジ、ドリアンすよ」
「最初はちょびっとわずらわしかったんだけどね」照れくさそうにルフィンは応じた。「ただ、ちょっとだけ、『こっち寄んな』って唱えたら、とたんにお利口さんになってくれたんだー」
「へえ。こいつらがですかあ」カンザキがまじまじとそとを見渡す。
ここは洞窟のなかだ。
街を囲むように聳える山々の麓には森が広がっている。岩肌には洞窟が無数に空いており、ここはその一つだ。
かつて、植木場家と争った武家たちが、地下壕を掘って潜んでいた、とまことしやかに噂されている洞窟で、実際には、かつて湖のあった地形が隆起し、露出した空洞だとされている。
洞窟は、アリの巣がごとく入りこんでいる。地元の人間たちが進入してくることは滅多にない。ただ、入口までは稀に人が訪れる。肝試しやら度胸試しといったスポットとして若者に膾炙しているためだろう。
いつも軽薄を浮かべているこの青年、名をカンザキという。ノボルは彼を窮地に陥れておきながら、その窮地から彼を救った過去を持つ。カンザキはなぜかそれを恩義に感じている。
また彼は植木場家から追われているため、こうして洞窟に身を潜めている。ちゃっかり小屋までこしらえている徹底ぶりは、このまま定住する気じゃないだろうな、とこちらを不安にさせるほどだ。
カンザキいわく、「こんな街、いっこくも早く出て行きたいんすけどね。ただ、ノボルさんに許してもらえるまでは出ていけないっすよ」とのことだ。
いじらしいことを宣巻くが、ノボルは彼が好きではない。大嫌いだ、と断言してもいい。
――いけすかない。
本気でそう思っているかなど、ノボルはもはや考えない。
洞窟のなかには、カンザキの「命」に忠実な生き物が、それこそごまんと集っている。この洞窟が、怪奇スポットとして知られている背景には、そうした事情も関わっている。
カンザキは口笛が得意だ。その特技は特異として、カンザキを異質な能力者として成り立たせている。カンザキの口笛は、人間には聞こえない。超音波を駆使することでカンザキは、調教するまでもなく生き物を操れるのだという。
ある程度の記憶力を有している動物であれば、いちど懐柔してしまえば、定期的に「命」を聴かせることで、完全なる下僕として扱えるのだそうだ。
そう、カンザキには、動物への愛護心など、微塵もない。
洞窟の深層部にあたるここには、小屋を庇護するように生き物たちが蠢いている。
小屋に近づく者は容赦なく襲われる。動物たちが、カンザキにそう言いつけられているからだ。
例外的にノボルのみ排除対象ではない。それもまた、カンザキの「命」によるものだ。
匂いや鼓動や体温――形状など、あらゆる情報を元に、動物たちは標的を識別している。
ノボルの肉体から読みとれるシグナルを記憶した動物たちは、ノボルに危害を加えない。
だが、ルフィンは記憶されてないどころか、それら識別可能なシグナルそのものを持たない。生物ではないのだから当然だ。
暗闇のなかに佇むルフィンはさながら動く岩であるだろう。ヘビなどは、ピット器官と呼ばれる知覚でもって対象の体温を感知するが、ロボットであるルフィンからは、ほかの生命体とは異なった形態で体温が発散されている。そのため視覚以外での知覚もまた困難であるだろう。音波を利用した聴覚による識別もまた、外殻の材質が生命のそれとは明らかに異なるために、動物たちからすればルフィンはバケモノにでも感じられているかもしれない。
排除されるべくして現れた異形者。動物たちが昂奮しないわけがない。
ルフィンは襲われただろう。しかし、こうして無事な姿だ。
実のところノボルは敢えて彼女を外で待機させていた。確かめたいことがあった。
――ロボットは人間を傷つけない。
――ならば、生き物はどうなのだろう。
結果は予想どおり。
ぐったりとした動物たちを、ぬいぐるみのように可愛がっている彼女からは、ぬくもりさえ感じられるようだった。
――ルフィンは、むやみやたらに命を脅かさない。
それがたとえプログラムのおかげであろうとも、その抑制は、尊いものに思われた。
第三章『四苦八苦、ちく、たっく、
誓う姉妹のハードラック』
(一)
半ば押し付けたような強引な交渉の末、カンザキにルフィンを任せた。
報酬として、缶詰以外の食品の調達を約束する。謙虚にも断るカンザキを黙らせ、そういうことにした。他人の弱みに付け込む最低な人間に思われたくなかったからだ(カンザキにではない)。
カンザキの自転車を拝借する。放置されていたものを修理したようだ。そう言えば小屋の材料もガラクタを繋ぎ合わせてつくられていた。手先が器用な男だな、と珍しく感心してやる。
今は植木場家へ向かっている。チイに謝罪しに行くのだ。あのとき生じただろう誤解を解かねばならない。
しかし、と頭を抱えたくなる。
ルフィンを壊されたくはない。
どのように説得すればチイは方針を変えてくれるだろうか。いちどこうと決めたらテコでも動かない女だぞあいつは。
いっぽうで、話さえ聞いてくれれば何とかなる気もする。
ルフィンへの感情は、子犬を見殺しにできないのと同じ類の庇護欲だ。そうと正直に話せば、さすがに納得してくれるだろうと期待する。
チイが感情的になってしまっていたあのときは説得の余地もなかったが、時間の経ったいまなら、彼女もこちらの釈明を聞き入れてくれるだけの冷静さを取り戻していることだろう。そうでなくてはこちらが困る。
町を囲む山のふもと、竹林に隣接した一角に植木場家の屋敷はある。高級料亭、と言われれば、騙されてしまいそうな佇まいがあり、お屋敷と呼んでなんら差し支えない物々しさがある。
門には、家紋と共に、小さく「庭番衆」とある。植木場家にある表向きの名字だ。
チイもまた、普段、人に名乗るときは、「庭番衆イチ」と詐称する。表向きの家業は、庭師だ。だからここは、庭園としても一流なのだと聞き及ぶ。
直系でない者たちも多く住んでいるらしく、風説によれば、庭番衆家は、総勢で数十名の大所帯だという。母から仕入れた情報なので真偽のほどは定かではない。
ノボル自身、顔を合わせたことのある植木場家の人物は、四人しかいない。チイとその兄のサミ。それから、彼女たちの母親である植木場オセンと、それから植木場家の大黒柱、植木場イケヨシ――この四人だけだ。
いや、最近になって、門のところで応対してくれるようになった、「白護(しろご)ナミ」という名の女性もいる。植木場家のなかでは新人に属するはずだ。
彼女は常に黒い布で口もとを覆っている。季節が冬なだけにマフラーを巻いているようでもある。あまりにすっぽりと覆っているためにこれを指して、顔を合わせた、と言ってもよいものかは疑問の余地がある。
顔だけではない。彼女はほとんど声を発しない。ぼそぼそ、とした小声で、「わかりました」「お待ちください」「ただいまお呼びいたします」「留守でございます」「言伝をお伺いいたします」とこんなふうに一文以上を口にしない。昨今のメディア端末だってもっとおしゃべりだ。
よそよそしい、というよりも、びくびくと怯えているウサギのようで、こちらがいたたまれない気持ちになってしまう。口もとが布で覆われているので、そのぼそぼそとした声が、さらに細々と薄れて聞こえる。
白護ナミと対面すると、ノボルは途端にいつも、「すみません」が口癖になる。
ただ、それでも彼女にわるい印象を抱いたことはない。白護ナミは、尊大という言葉からもっとも遠い人物に思われた。ノボルは、謙虚な人間が好きだ。カンザキただひとりを除いて。
屋敷にインターホンはない。目線の高さにぶら下がる小型の鐘を、よこにぶらさがっている棒で突くのだ。大きく深呼吸をしてから、鐘を打つ。
音は鳴らず、鐘の表面がやけに細かく微動して見えるだけだ。
にも拘わらず、
「どなたさまでございますか」
門の小窓が開き、白護ナミが顔を覗かせた。
「あ、すみません」
お久しぶりです、と微笑んでみせる。彼女はじっとこちらを見据えるだけで、言葉を返してはくれない。「すみませんが、チイ……じゃなくって、イチさんは御在宅でしょうか」
「少々お待ちください」
断ってから白護ナミは小窓を閉じた。
ほどなくして、入口用の、小門が開く。
「イチさまは、いらっしゃいます」
白護ナミは招くようにして手のひらを敷地内へ差し向ける。
「あ、すみません」
小刻みに頭を下げつつ、門をくぐる。屋敷の敷地内に入ったのは、これでもまだ数えられるほどにしかない。未だに緊張する。
庭の奥のほうには池がある。ちいさな橋もかかっている。橋のうえに、子どもの姿があった。男の子だ。和服を着つけている。池の鯉にえさでもやっているのかもしれない。
そう思ったが、いやこの家に子どもはいないのだった、と思いだし、ではあれは……と考えるまでもなく背筋がぴーんと伸びた。
なんと挨拶したものか、と迷っていると、ちょうど尻が振動した。尻ポケットに入れていたメディア端末だ。
万年マナーモードのノボルであるので、着信があっても大きな音は鳴らない。それでも前方を歩いていた白護ナミが過剰に反応してこちらを振り向いたので、「すみません」と誤魔化しの苦笑いを浮かべる。
池のほうを見遣ると、橋のうえにはだれの姿もない。相も変らず神出鬼没だなあ、あのひとは、と緊張がほどけた。
メディア端末はまだ振動している。ポケットからメディア端末を取りだす。メールではなく電話だった。表示されている番号に見覚えはない。
今はいいや、と切ろうとするも、「どうぞ」と白護ナミが促してくれるので、せっかくなので出ることにした。
「はい。もしもし」
「あ、やっと出た」
声の主は、女性のようだ。耳をくすぐるような鈴の音を思わせる声音だ。待ちわびていた新刊が出たような、うれしそうな響きがある。もしかしたら洞窟の中にいたあいだにもかかってきていたのかもしれない、と想像する。
「道央坂ノボルさんですか?」
「そうですけど。あの、どちらさまで」
「あ、はい。わたし、先日、鍵を落としてしまって、それで、それを道央坂さんに拾っていただいたとかで、その、えっと、あの、あれえ?」
だいじょうぶか、こいつ。
「あ、思いだした。そうだ、そうだ」恐縮しつつ、声の主は要件を述べた。「それで、是非ともお礼をさせていただきたいな、と思っておりまして、それで、だから、えっと、あの、あれえ?」
だいじょうぶじゃなかった。
推察するに、以前に拾った落とし物の持主からのお礼の電話であるらしい。派出所のおねえさんが言っていた話を思いだす。冗談ではなく、本当のことだったらしい。まったくあのひとは紛らわしい言い方をするものだ。こみあげる陽気を呑みこみつつノボルは、「いえ、だいじょうぶです」とやんわり断る。「お礼だなんて、このお電話だけで充分ですよ。かえって気を遣ってもらっちゃったみたいですみません」
「そんなわけにはいきません」と打って変わった声が。「あなたがよくても、わたしがダメなんです」
なんじゃそりゃ、と思わないわけではなかったが、ふしぎと不愉快ではない。「わかりました。なら、こちらはどうすればいいですかね」
「そうですね……」数秒の間が空いた。がさごそ、とノイズが交じる。電波の向こう側で声の主がなにかを漁っているのだと知れる。「でしたら」と声量があがる。「でしたら、今からでもお食事をご一緒にいかがですか」
「今からですか」それはちょっと勝手すぎでは、と思う。ただやはり不愉快ではない。「今、ともだちの家にいまして。今からはちょっと」
「そうですかぁ……」声がしょんぼりする。が、すぐに、「では」と声量があがる。「では、そのあとでは? なにかご都合ありますか?」
別に今日でなくとも、と思うが、口にせず。声の主は今日中に済ましておきたいのだろう。
そうは言ってもこちらにも事情がある。
カンザキの小屋にルフィンを置いたままでお食事になど、お呼ばれしてよいものか。
不安はあるが、ルフィンはしかしロボットだ。とくべつな配慮は不要だろう。むしろ困るのは、カンザキのほうだ。ルフィンの相手はさぞかし骨が折れることだろう。文字通り、全身複雑骨折もあり得ない話ではない。であれば、ゆっくりしていくのもひとつだな、と考えをまとめる。
もっとも、目前に控えている課題、チイへの謝罪がどれほどの時間で済むのかが分からない現状、ここで約束を取り付けるのは早計だ。もしかしたら、今日という時間の、残りすべてを使いきっても、まだ足りないかもしれない。
「今日でも構わないのですが」いちおう承諾はしてみるが、「何時になるかまだ分からないんです」
やはり別の日にでも、と遠まわしに伝える。
そこで声の主は食い下がるでもなく、「もしよろしければ」と提案した。
「もしよろしければ、ご都合が付きましたそのときにでも、折り返しご連絡をいただけませんか。こちらからお迎えに伺います」
「はあ。でも、深夜になるかもしれませんよ」
「構いませんよ」
いやいや、こっちが構うって。
さすがに物申したくなったが、相手からは、ほとばしるほどの誠意が感じられるので、むやみに断ることもできなかった。
けっきょく、時間ができ次第連絡する、と約束を交わした。
感激したように声の主は、「お待ちしております」と通信を切った。
ひと息つく。
結構な時間を話してしまった。
まえを向くと、白護ナミがこちらをまっすぐ見据えている。通信が終わるまで待ってくれていたようだ。
「すみません。お待たせしました」
「このさき、どこも圏外ですので」彼女はみじかくそう告げた。
(二)
「なにしに来たの。死にに来たわけ」
襖を開けた途端に激しい舌鋒が飛んできた。チイの眼差しが突き刺さる。
襖が閉じ、白護ナミが舞台から姿を消した。置いてかないで、とすがりたい気分だ。
なにもない部屋は相変わらずだ。畳や襖に囲まれているのに、無機質な印象を受ける。
二人きりという甘い空間のはずが、猛獣の檻に閉じ込められている心地だ。
「誤解を解きにきました」と正直に伝える。
チイは座布団のうえだ。胡坐を掻いている。これだけだだっ広い部屋に、まぁるいちゃぶ台が一つきり。
頬杖をつきながら彼女は、
「誤解ってなに。どこが誤解」
「いやどこって言われても。だってチイ、怒ってるっしょ? たぶん、それはチイの勘違いだから」
「は? まだ白を切る気? それとも腹を切る気?」
「腹は勘弁して」言いながら対面に座る。
「だれが言ったかな。座っていいって」
「だって、座布団が」すでに用意してあるから、と危うく口を衝きそうになり、咳払いして誤魔化す。
「なに。そのしかめ面」
「いや、わるかったなと思って。そうですよね、勝手に座ったらダメですよね」
立ちあがり、気を付けの態勢をとる。
「なに見下ろしてんのよ。頭が高いのよ。座りなさいよ」
チイさまはやさしいなあもう。
ノボルはその場に土下座する。
「まずは、謝らせてください。逃げたりして、ごめんなさい」
一秒、二秒、三秒、と心のうちで数える。頭を起こすと、チイはこちらを見ていない。ただ、注意は完全にこちらを向いている。反応を窺っているのだと判る。
そんなんで許せるわけないでしょ、と彼女は態度に示している。そんなんで許されるとでも思ってるわけ、と。案外に怒っていないと知れて、安堵する。だが油断は禁物だ。誠意までを緩めてしまうと、即座に見抜かれてしまう。ここで気を抜いてはいけない。
「ルフィンのことなんだけどね」と口火を切る。「あいつ、ロボットだけどさ。でもだからって殺していいってことにはならないじゃん」
「は?」
さっそく、しくってしまったらしい。でも、どこで?
「ロボットが死ぬわけねーだろ」チイが頬杖をほどき、うしろ手に体重をあずける。ふんぞり返るようにしながら、ドスの利いた声で、
「生きてねえもんを、どうやって殺せってーの」
「……ですよね」
首肯するよりない。この口調の彼女ではなにを言っても火に油だ。
収拾を求めて油に水でも撒いたが最後、水蒸気爆発で木端微塵が目に見えている。
静寂がこわい。
沈黙が辛すぎる。
かぽーん。
ジョークみたいに庭のししおどしが鳴った。
欄間に掛かっている時計の音が、チク、タク、チク、タク、うるさい。
時よ、とまれ。
そのままだまれ、と念じる。
これまで意識下になかった音のすべてが、静寂を引きたてる。余計なことはしなくていいです、と訴えたいほどだ。
「――で、」とチイが天井を仰ぎながら、「オメエ、いつまで居座る気」
かったるそうに言った。首をまわし、ごきごき、と鳴らしている。
土下座がダメなら、これっきゃない。ノボルは最終奥義にすべてをかけることにした。
額を畳に付けたままで、両手に力を籠める。
頭と両手、三つの点からなる支点を意識し、
「ほんとうに、もうしわけございませんでした!」
叫びながら、足を振りあげる。
これぞ最終奥義。
――三点倒立。
「なに謝ってんの」
彼女は最終奥義には触れなかった。「テメエは、なにを、謝ってるわけ」
三点倒立を維持しつつノボルは、
「幾多の御恩を忘れているわけでもないですし、二か月前のあの日のご無礼を忘れたわけでもないですよ」にも拘わらず、と捲くし立てる。「にも拘わらず、チイさまに逆らうようなことをしたことについての、これは謝罪です」
二カ月前のあの日のご無礼――。
その言葉を口にした途端、チイの気配に動揺が滲んだ。
ずずず、と畳を擦る音が聞こえる。上半身を支えていた手が滑ったのだろう。見えなくとも判った。動じているのは明白だ。ここぞとばかりに畳みかける。
「おれはあのとき誓いました。それを忘れたことなどございません。これからだってあり得ませんですよ。だから、今回のことはすべて、恋愛感情だとか、そういった感情とは無縁のおれのわがままなんです」
彼女が上半身を起こしている。身を乗り出すようにして聞き耳を立てていると窺える。後頭部に熱い視線を感じる。
ダメ押しの一手。
用意してきたあの台詞をここで言えば何とかなる。
活路は開けた。希望が光って見えている。
足を下ろし、頭を起こす。姿勢を正して、まっすぐと彼女を見詰めた。
「ルフィンを壊されたくないのは、子犬を放っておけないのと同じ気持ちなんだよ。いくらなんでもチイだって子犬をサミさんにバラされたくはないだろ?」
目と鼻のさき。チイの顔があった。
うんうん、それで? 彼女の瞳がそう問うている。
「だから、そのう」
あれ。なにを言えばいいんだっけ。
目が泳いでいるのがじぶんでも判る。なにか言わなくっちゃ。
だから、としどろもどろに訴える。「だから、おれを信じてほしい……です」
チイがささやく。甘い声で。
「いいよ」
その瞳はなにかをせがんでいる。
でも、なにを? ノボルはぎこちなく微笑んでみせる。
チクタク、チクタク、時計の音が静寂を引き立てる。
(三)
「すみません、お邪魔しました」
白護ナミへ頭を下げ、門をくぐる。敷地から出ると同時に振りかえる。やはり、すでに小門は閉じられていた。
白護ナミが出迎えてくれるようになってからまだ数回しか来訪したことはないが、それでも、「今日こそは」といった軽い決意がノボルにはあった。
だが案の定、本日も機会を逃してしまった。
敷地の外から白護ナミへ向けて、とある質問を投げかける――ただそれだけの決意だ。彼女がどんな反応を示してくれるのか、試してみたかった。
胸のペンダントを握りしめる。
「また来ます」
門に向かってつぶやいた。
まだ日は暮れていない。思いのほか短時間で済んだ。
長時間の釈明を覚悟していたので、得をしたような気分だ。
メディア端末を取りだし、さっそくさきほど連絡を寄こしてきた女性に連絡をとる。
この町の駅まで迎えに来てくれるらしい。ずいぶんと早い連絡に彼女も機嫌をよくしてくれたようだった。願ってもない申し出だ。車ならば、移動中のあいだは、気を休ませることができる。
なにせ、ノボルは、気を抜くたびに、道に落ちている落し物が目に飛び込んでくる。屋内や車内ほど安心できる空間はない。
駅前は休日であることもあり、入れ替わり立ち替わり、人が行き交う。
改札口からすこし離れた場所にコンビニがある。店内には入らずに店のまえで待つ。
派手なリムジンがバスターミナルへと入ってくるのが見えた。
と同時にお尻が、ぶるぶる振動する。
メディア端末を手に取り、
「もしもし」
「あのう、えっと、あれえ?」
初っ端からかよ、と噴きだす。ツッコもうかとも考えたが言葉がうまくでてこない。そう言えば名前を聞いていなかったな、と今さらながら気がついた。
えっとう、と彼女は舌ったらずなしゃべり方で、「駅前に到着したんですけど」
「コンビニのまえです」と居場所を述べる。
「あ、いたいた」
リムジンの車窓が下りはじめる。後部座席だ。女性がこちらに手を振っている。
目のまえにリムジンが止まり、中から男が降りてくる。後部座席のドアをひらくと、「どうぞ」と搭乗を促す。無表情だから、なにやら不安になる。このまま唯々諾々と乗ってしまってもよいものだろうか。
逡巡していると、
「どうされましたか」
車内から女性の声がした。電波越しに聴こえていたあの声だ。
ほっとする。すでに旧知の仲のような親しみが湧く。
「おじゃまします」
乗りこむと、そとの喧騒の一切が遮断された。しん、と耳に厚みのある静寂が満ちる。
車内は広く、運転席と後部座席が褐色のパネルで区切られている。運転席に一人。さらに、ドアを開けてくれた男が助手席に乗りこんだ。そちらのドアが閉じる音すら、こちらには漏れ聞こえてこない。
「来ていただき、ありがとうございます」女性がひざに手を添え、頭を下げた。ジーンズにジャケット姿といったラフな格好で、高級車にそぐわない。ゆるいウェーブのかかった長髪はきれいな栗色をしている。「急なお誘い、ご迷惑でしたよね」
「今さらですね」
嫌みな口調にならないように意識して言った。それでも女性は、はっ、としたようにあたふたと取り乱した。
「そうですよね。ほんとうにすみません。お礼のつもりがとんだご迷惑に。あの、その、えっと、ごめんなさい」
そんなことは、といちおう否定するが、否定しきれないところが気まずい。場を和ませようと自己紹介をする。「道央坂ノボルと言います」
なかなか名乗らない相手から名を聞きだすための自己紹介でもあったのだが、
「あ、知ってますよ。いろいろお聞きしておりますもの」
会話がそこで途切れてしまった。女性は名乗らないままだ。
どうしよう。この女性、世間知らずどころではない。
見た目は、同世代だと推測する。ノボルからすれば、随分と小柄に映る女性だ。一方で、その小ささは、プロポーションのよいモデルをスモールライトで小さくしたような印象で、幼い感じではない。
まじまじと眺めていたからだろう、
「どうされましたか?」
照れたように女性が口をひらいた。
「あの……失礼なのですが、お名前をお聞きしても」
「あ、ごめんなさい。あの、えっと、わたし、ああもう、どうしていつもこうなんだろ……本当にすみません」失礼しました、と女性が襟を正す。前髪を払いながら、うつむき加減でようやく名を告げてくれた。「わたし、慈洞範(じどうはん)梅鬼(ばいき)に仕えております、丸九内(まるくない)マリモと申します」
お辞儀をしてから彼女は付け足した。
「本日は、慈洞範カンパニーの本社へご招待いたします。弊社、代表取締役兼会長、慈洞範梅鬼もたいへん心待ちにしております」
おやおや、と思う。ノボルは訊きかえす。「マリモさんが、落し物の持ち主なんですよね」
「うん?」首を傾げながら彼女はほころんだ。「道央坂さんにお拾いいただいた鍵は、慈洞範梅鬼の所持物ですよ」
ははーん、とノボルは当りをつける。お金持ちだろう、とは思っていた。だが認識が甘かった。遣いの者を寄こすほどの大金持ちではないか。
お礼がしたけりゃ、てめえでこいっての。
こんないたいけな女性を寄こすのではなく。
してやられたじぶんに腹がたつ。これでは、断ることもできないではないか。ここで帰れば、丸九内マリモ、彼女の立場がない。
(四)
慈洞範カンパニー。経済に疎いノボルだが、なんとなく聞き覚えはあった。逆説的に、ノボルですら知っているくらいに大企業だともいえる。
丸九内マリモ、彼女の話によれば、慈洞範カンパニーは、環境問題における技術革新にちからを入れ、ここ数十年で急成長した企業だという。
昨今、もっとも危惧されているエネルギィ問題。資源の枯渇や、環境汚染の拡大、有害物質の発生、その他もろもろ、多くの問題が山積みとなっている。慈洞範カンパニーは、それらの解決策を提唱し、各国から称揚されているらしい。その研究のための予算も、全面的に国が援助してくれているという。国家をあげてのプロジェクトを独自に進捗させているゆいいつの企業だとの話だ。
工学系の分野以外にも、環境リテラシーやエコロジーを民間へ普及させるために、無償で社員を派遣し、講義をひらく、といった社会貢献までしているのだそうだ。
立派じゃん。
ノボルは仏頂面を崩さぬままでそう思う。
慈洞範梅鬼。数十年前に一人で起業し、カンパニーを急成長させた男。小型ナノマシーンの開発に成功し、世界屈指の研究者としても一目を置かれているという。齢は五十半ば、とそこそこに高齢ではあるのだが、丸九内マリモから手渡された、フィルム型のメディア端末には、やたらと面構えのよいダンディな男が映っている。
短髪に凛々しい眉毛。あごひげが渋く、たいへんにいぶし銀だ。先月に、海外のマスコミから取材を受けた際の写真だという。じつに若く映っている。三十台だと言われても、納得してしまうほどの容貌だ。
「社長は、とてもお忙しい方でございます。ですので、僭越ながら、わたくしめが道央坂さんとの交渉を仰せつかりました。なにかといたらない点がいっぱいあったなぁと思われるのですが、なにとぞご寛恕ねがいます」
話しているうちに彼女は慈洞範梅鬼のことを「社長」と口にするようになっていた。言い慣れた呼称がきっとそれなのだろう。
それともう一つ、引っかかる単語があった。
――交渉。
はて、と違和がある。もっとも、それもまた彼女の言うように、いたらない点の一つなのだろうと、触れずに措いた。
丸九内マリモはゆったりとした口調で話つづける。プレゼンテーションをしているかのように延々と、カンパニーについての説明をしてくれた。が、そんな話などノボルにとっては子守唄の価値しかない。当然の帰着として間もなく、うとうと、とまどろんだ。
「そろそろですね」
意識が朦朧としていても、聴覚ははたらいてくれていたようで、ノボルは目を覚ます。
「到着しますよ」
丸九内マリモは言った。
ドアが開かれたので車から降りる。
背伸びをし、凝り固まった身体をほぐすようにする。
丸九内マリモがよこに並んだ。やはり彼女は背が低い。ただし、比べる物がないと、すらっとした長身に見えてしまうほど、たいへんに整ったプロポーションだ。
「こちらです」と先導する。
周囲を見渡す。駐車場ではないようだ。車庫ともちがう。敢えて喩えるならば、美術館、といった趣がある。オブジェのようにたくさんの機械が並んでいる。
壁に突きあたる。
丸九内マリモが壁に触れると、穴が開いた。
扉があったらしい。
壁の向こうはただの空間だ。四畳ほどのひろさがある。
乗りこむと扉が閉まる。
エレベータだろうか。
まったく動かない。
ふと、見遣ると、両サイドの壁にディスプレイが備え付けられている。ビルディングの立体見取り図が、映し出されていた。眺めていると、赤い点がどんどんと移動しているに気づく。うえへうえへと昇っていく。停止するとこんどは真横に移動した。
おー、なんだこれ。
赤い点がふたたび止まり、認証指定区域です、とアナウンスがながれた。
ディスプレイのしたで青く光っている箇所に丸九内マリモは手を添えた。押しつけるようにしながら、「丸九内マリモです」と唱える。
認証されました、とアナウンスが鳴ると同時に、扉が開く。
奥には書斎じみた狭い部屋が広がっている。
「すごいですね」
「なにがですか?」
どこでもドアみたいだ。
「てっきり、エレベータだと思っていたので」
「これですか? エレベータですよ?」
へえ。こんなにしずかに移動できるものなのか、と感心した。きっと上下だけでなく左右にも移動できる機構なのだろう。最近の技術はどれもみな魔法然としている。
「社長、道央坂さまをお連れ致しました」
積みあげられた本の山へ向かって、丸九内マリモが投げかけた。これまでにない芯の通った声音だ。
ばさばさ、と本が崩れる。
「やあやあ、御苦労さん」男がひょっこり顔を出した。
彼女の見据えている方向とは間逆にあった本の山からだ。
「あ、そちらでしたか」丸九内マリモは恥じるでもなく飄々と応じる。髪が乱れない程度に腰を折ると、すみません、と口にした。「実はまだ、道央坂さまにお話しておりません」
「よいよい。ならば、そうだな。予定通りに食事をしながらでも話すとしよう」
こちらへ向けて男が手を差し伸べた。
「私が慈洞範梅鬼だ。お噂はかねがね窺っております。是非とも私にちからを貸してはくれないだろうか」
「はあ」
曖昧にうなずくよりない。
おやおや、と思うまでもなく、話がちがわないか、と丸九内マリモを睨んでやる。
こちらの視線に気づくと彼女は、なにを勘違いしたのか、ちいさく手を振った。
(五)
どこにでもあるようなテーブルに、どこの家に並んでいても不自然なご馳走が、ぎっしりと用意された。それらの料理を啄みながらノボルは慈洞範梅鬼氏の講釈に耳を傾ける。
書斎を見渡しながら梅鬼氏は謳った。
「昨今、市場から本が消えつつある。情報媒介の手段として【紙】を用いられることが少なくなったからだ。代わりに、データ化されたテキストが普及しておる。だが私はこうして本を愛読している。むろん、仕事では、検索コンテンツのついた端末を使うが、それでもやはり、紙でできた現物のほうに愛着を感じる。私は思うのだが、ひとむかし前までは、音楽も、レコードやCDといった物理的な形に固定されていた。それがいつしか、データとして、物体に固定されることなく、自由に流通させることができるようになった。だが、それらデータ化された音楽も、CDにダビングするといった方法で、物理的に固定し、所持することができた。しかも、それは従来のように器機を通してすぐに再生し、聴くことができる。一方で本はどうだろうか? データ化されたテキストは、端末に納まっている限り、変幻自在だ。だが、どうだろう、それを音楽データのように物理的に固定することはできるだろうか? むろん、紙にコピーすることで可能ではある。ただし、それはCDなどと違ってとても面倒だ。だからこそ、本という存在は、なかなか手放せない。なにせ、いちど手放してしまうと、データからオブジェへと変換するのに、無駄な労力を費してしまうためだ」
別にデータのままでも不便を感じないノボルとしては、梅鬼氏のその主張には同意しかねる。ただ、否定する要素もないので、大人しく首肯した。「そうですね」
きみは話の分かる若者だ、と彼は機嫌をよくした。ステーキをナイフで切り分けながら、続ける。
「きみも見ただろう。地下にある私のコレクションを。あそこにある展示品はすべて実用品だ。どんな道具であれ、それが道具である以上は、使用することに価値がある。むしろ使用すること以外で価値を付加すべきではない。だからこそあれらはすべて、芸術品であると共に実用品なのだ。それらを動かすために必要な鍵を、私はひとつにまとめていた。一個のキーで同種のメカニックを起動できるようにマスターキーをつくっていたわけなのだが――それでも、種類ごとにしかマスターキーはつくれない。乗り物の鍵は乗り物の鍵だ。金庫を開けることはできんだろ? 結果として、数個の鍵を束にして持つこととなってしまった。それをだね、恥ずかしながら、私はどうやら落としてしまったようで。それをきみに拾ってもらったというわけだ。実に助かった。ほんとうにありがとう」
言って梅鬼氏はグラスを掲げた。ノボルは、「はあ」と気の抜けた相槌を打つことしかできない。
満悦そうに中身をすすってから梅鬼氏はグラスをテーブルに置く。ほがらかな口調のまま彼はさらに語った。
「きみに拾ってもらったあの鍵そのものには特別な価値はない。ただの金属だからな。それでも、あの鍵がなくては、地下にあるあれらのメカニックもまたすべてただの金属と成り果ててしまう。その損失はあまりに大きい。どうしたものか、と悩んだ末に、私は友人に助力を仰いだ。持つべきは友だよ。すぐに鍵を持って来てくれた。どんなマジックをつかったんだね、と尋ねれば友人はふしぎな話を教えてくれた。とある派出所には、警察犬をも凌ぐ、遺失物捜索の名人がいると言うじゃないか。私の鍵も、その名人が見つけてくれたという。友人は冗談めかし話してはいたが、それがいつものような冗談半分だとすぐに判った。彼はね、かならず嘘と真実を織り雑ぜて話すのだ。そうして、情報を曖昧にすることで、保険をかけているんだろうね。どこからどのようにして情報が洩れてしまうのか。そういった分析をするのにも、嘘を雑ぜているのだろう」
ノボルは相槌すら打たずに食事に専念した。ここまで来たのなら、せめて腹いっぱいに詰め込みたい。高級な料理なのだろう、極上の美味さだ。
「遺失物捜索のスペシャリスト。そんな人物がいるならいちど会ってみたい。そう思った私は、その人物のいる派出所を教えてくれ、と友人に迫ったが、しかし彼は教えてくれなかった。『与太話を信じるなよ』とお茶を濁されてしまってね。それでも、まあ、そういった噂を専門に扱う業者も、私の知っている限り、存在する。そこに依頼して調べてもらった。鍵をどこで落としたかは判然としないが、少なくとも私の行動範囲外、ということはないだろう。案の定、どうやら同じ街の派出所だったらしい。そこからは、ほら、あれだね。私は落し物を拾ってもらった身だ。感謝をしたいという本懐もあった。だから正直に、拾い主と会いたいとの旨を伝えてもらった。まあ、その連絡をしたのはそこにいるマリモくんだがね。するとどうだろう、鍵の拾い主は、警官ではなく一般人――それも未成年の青年だと言うではないか。なんだ、遺失物捜索の名人なんていなかったのか、といちどは肩を落としたのだがね、でもそれはきみ、私のはやとちりだった。そりゃそうだ。仮に、ただ単に偶然、鍵を拾って、それを届け出た者がいたというだけなら、友人の話はすべて嘘だということになる。だが私の経験上、彼はまったくの嘘というものを吐かない。だとすれば、そこから導かれる結論はなにか? 鍵を拾ったその青年こそが、遺失物捜索のプロフェッショナルということになる。現に、派出所の警官は気前よく教えてくれたらしい。きみのそのふしぎな引力について」
「偶然ですよ」口もとを拭いながらノボルは言った。「いつだって偶然です。ただ落し物が目に付いてしまうだけなんですよ。おれは」
「だが、その偶然がきみへ幾度も集中的に訪れているという現実は、偶然で片付けるにしてはいささか不自然だ。そう、きみは、自然ではない。不自然な存在なのだよ。たしかにこの世には偶然が満ち満ちている。この世を形成しているほとんどが偶然と呼んでも差し支えはないだろう。だが、その有り触れた偶然というものは、ほかの偶然と密接に連動し、そしてあらたな偶然を誘発させている。偶然落とした私の鍵を、きみが偶然拾ったようにだ。ならば、それらの脈絡ある偶然とは、『不確定な法則』の元に成り立っている必然だとは考えられないだろうか。川の流れは常に一定ではなく不規則に変化していくが、川という一つの筋道――型にハマっている。それを逸脱することは許されず、仮に逸脱すればそれはもはや川とは呼べないべつのなにかに変貌する。法則とは限定された道筋を意味する。法則に従っているかぎり、例外は許されない。だが、その道筋が常に不確定だという法則、例外を許容する法則――まるで海のような、あらゆる矛盾を包みこむシステムというものもこの世界には存在するだろう。それがすなわち我々の意識であり、ひいてはこの宇宙そのものだ」
あちゃちゃー。
ノボルは内心でしかめ面をした。
これだから、ちょっと成功したくらいで不動の自信を付けちゃった輩は苦手なのだ。
浅薄な観念論をあたかも「ちょっとどうしよう、私、真理を見つけちゃったわ」と浮かれる乙女のように、嬉々として他者へ語って聞かせたがる。わるいことではないのだが、少しは聞かされるこちらの身にもなってほしい。ノボルはうんざりとした気持ちが面へあらわれないように努めながら反論した。
「ですから、別におれだけが落し物をたくさん目にしているわけじゃないんですよ。道端になにかが落ちているのなんて、珍しくもなんともないんですから。ただそれらが、小石に見えるのか、ゴミに見えるのか、落し物に見えるのか――その程度の違いなんですよ。多くのひとたちは、道端に落ちている物になんて興味がないんです。アスファルトから生えたスミレが、鮮やかな青を花咲かせていたって、それを淡々と踏みつけて行くんですよ。誰もが音楽で耳に栓をして、うつむいていながらにディスプレイで視界を限定して、妄想の世界に意識を仕舞いこんで、そうして自己の裡に引きこもって、外を歩くんです。そんな状態でどうして落し物を『落し物』だと認識できますか? おれはただ、ひとよりも少しばかり意識がそとへ向かっているだけですよ。足元に咲く雑草ひとつ見つけるだけで、おれはちょっとラッキーな気分になっちゃうだけ、ただそれだけのちがいですよ。もちろん、おれと同じようにそとへ意識を向けているひとも少なくないですよ? でも彼らもけっきょくは、自分にしか興味がないんです。他人の視線を気にしているから、そとへと意識が向かっているだけのことで。足元に転がる世界のひとかけらなんてどうでもいいんですよ。だから落し物が目に入ったって、それを拾おうなんて思わない。そういった人間が少なくない。ただそれだけのことで、おれにある偶然なんてのはどんな人間にも平等に訪れている偶然なんですよ。それに意識を向けるかどうかの違いがあるだけで」
ぱち、ぱち、ぱち、と梅鬼氏が手を打った。「熱い方だ。若いだけじゃない、たしかな芯を持っておられる」
虚仮にされたようでおもしろくない。「すみませんね、なんか勝手に熱くなっちゃって」
「とんでもない」彼は語気を弾ませる。「熱くなることがダメで、冷めていることがカッコいい。そんな風潮にながされていないというだけで、きみの存在は、私にとっては尊いよ」
同胞に巡り合えたようで元気になるのだよ、と彼がまっすぐと見詰めてくるものだから、ノボルは食欲が失せた。睨まれたほうがまだ落ち着く。
さて。
梅鬼氏は口元をフキンで拭い、声から抑揚を消した。「さて、前置きはこのくらいにして、そろそろ本題へと移るとしようかね」
(六)
「我々の着手しているプロジェクトのなかに、『EARTH・NATION・DOPE』というものがある。これまでの自然資源に頼ったエネルギィ供給システムでは人類の発展に限界がある。むしろ、これまでの発展、その時々に生じたさまざまなツケを清算するために、我々はさらなる発展をせねばならなくなった。現状の生活を維持するためには、さらなるイノベーションを重ねるほかにないからだ。我々人類が直面しているさまざまな隘路、それらからの脱却は、さらなる発展なしに見込めない。だが、その発展そのものがすでに人類へ多大な損益を与えてしまいかねない問題と化してしまっている。従来のようなエネルギィ抽出では、発展と破滅が同義になってしまうのだ。わかるだろ。いわば我々は、地雷を踏んでしまったようなものなのだ。その場から退くことも、進むこともできない。しかし、確実に破滅の影は、背後から忍び寄ってきている。立ち止まってもいられない。ならば、地雷そのものをまず撤去せねばなるまい。それがつまり、『EARTH・NATION・DOPE』――次世代エネルギィ供給システムの開発だった」
それは素晴らしいことではあるのだが、それとじぶんがここへ呼ばれたことと、どう繋がるのだろう。まったく関係性が思い至らない。ノボルは話を促した。「それで、おれにどうしろと?」
うむ、とうなずくものの、梅鬼氏はなかなか答えてはくれない。さらに述懐を続ける。
「プロジェクトそのものは数年前に完成していた。従来のシステムに代替されて然るべき画期的なエネルギィ供給システムだった。あれさえあれば、人類は太陽を手にしたも同然だった。だがプロジェクトは、未だに完了されていない。それはなぜか」
知らんですよ。おれが知るわけないじゃないですか。
思いつつも、結論を求める。「どうしてですか」
「当時、あのプロジェクトを指揮していた博士がいたのだがね。有能な技術者であり、研究者だった。理解しがたいことにその博士が、完成した試作品――『EARTH・NATION・DOPE』の原型を持ちだし、逃亡してしまったのだよ。我々の施設にあった資料を根こそぎ破棄したうえでね」
「それは……」たいへんでしたね、としか言えないが、そんな言葉も口にし難い。
極端な話、梅鬼氏のそれは、人類の夢とも呼べる永久機関が半ば完成したようなものだったのだろう。梅鬼氏は祈るように手を組み、項垂れた。「我々はすでに多額の資金を国から援助してもらっている。今さらあとには引けぬのだ」
「警察には届け出ないんですか」少なくともそのようなニュースをノボルは耳にした覚えはない。「その逃げたひとを捕まえるのが一番だとは思うんですけど……まさかとは思うんですが、おれにそんなこと期待しないでくださいよ。無理ですからね。さっきも言いましたけど、おれ、落し物をみんなより多く拾っちゃうだけなんですから」
「それでもいい」なんでもいい、と彼は目を伏せたままで、「藁にも縋りたいのだ」と泣きごとを漏らした。
だったらおれではなく藁に縋れよ、と思うが口に出せる雰囲気ではない。
少なくともノボルは彼に同情している。じぶんになんとかできるものならしてあげたいのは山々だったが、彼の助けになれるとも思われない。
研究者が重要な代物を盗み、失踪した、というは数年前のことだという。ならばそのあいだにも、梅鬼氏はあらゆる手を尽くして捜したはずだ。それでも見つけられなかったものを、どうして一介の民間人であるじぶんに捜しあてられようものか。断言しよう、無理である。
「百歩譲っても、おれにできるのなんて、せいぜいが落し物を拾うことくらいです。失踪した人間の行方を突きとめることでも、ましてや、捕まえるなんてできないですよ」
期待に応えられずすみません、と告げると、梅鬼氏が憔悴しきった面をあげ、ふう、とひと息ついた。
「それには及ばない」とよく分からないことを言う。
「どういう意味ですか」
「すでに逃亡者は確保しておる。きみに見つけてもらいたいのは人間ではない」彼はほころび、僅かに頬を紅潮させこう言った。「きみには『EARTH・NATION・DOPE』――通称、『END』を捜しだしてもらいたい」
(七)
おやおや。
ノボルは焦燥に駆られた。
なにかとてつもなく面倒なことに巻き込まれているのではないか。それこそ、狩られ、絡め取られてしまいそうな畏怖がある。
慈洞範梅鬼氏は言った。
ENDを捜しだしてもらいたい――と。
そこでノボルは思いだす。
ルフィンは自身のことを、「END」と称してはいなかったか。そもそも、あのシルバーピンクのハート型。ルフィンはソレを「ストマック」と呼んでいたが、アレは、どんな仕組みでもって、彼女の動力源となり得ていただろう。まさかガソリンが詰まっていたわけではあるまい。なにやら説明してもらった気もするが、聞き流していたために覚束ない。
「あっ!」
ノボルは今になって気が付いた。
そもそもルフィンを襲っていたやつら。あれは、梅鬼氏の部下ではなかったか。そうでなくとも、彼の依頼したどこかの特殊部隊、その構成員ではなかったか。
こちらのあげた声に反応して、「どうした」と梅鬼氏が心配そうに身を乗りだした。
いえ、なんでもないです、とノボルは身を縮める。
「すみません、社長」丸九内マリモが横から割って入ってくる。さきほどからメディア端末をいじっていた彼女だが、梅鬼氏へと顔を寄せ、なにやら耳打ちをしている。
堂々と目のまえで内緒話をされるというのは、あまり気持ちの良いものではない。視線を外し、グラスにフルーツジュースを注ぐ。乱暴に飲み干す。一杯、二杯、三杯。思いのほかのどが渇いていたようだ。
ようやく丸九内マリモが梅鬼氏から離れる。
こしょこしょ話は終わりましたか、と嫌みのひとつでも言ってやろうかと思ったが、発言に移すまでの意気地はない。すっかり目のまえの男が、逆らってはならない類の危険な人物に見えていた。権力はただの個人を化け物へと変えてしまう。ノボルはそれを知っている。哀しい過去を、持っている。
「きみはすごいな」ほんとうにすごい、と機嫌の良さそうに梅鬼氏が手を打った。パチパチパチ、と豪快な拍手だ。「まずは非礼を詫びさせていただきたい。どうやら日中に、私の雇った輩がきみを襲ってしまっていたようでね。私の指揮下になかった範囲の出来事とは言え、すまなかった」テーブルに額がつくほど頭を下げて彼は、「ゆるしてくれないか」と謝罪した。
真摯な男だ。それは認めよう。
どんな組織であれ、個人をまとめて組織を維持させるというのは、けじめをきちんと取れる人物でないと務まらない。どんな場面で謝罪をし、どのような処置を、どのような規模で行うのか。そういった、場面ごとの状況判断を適正に行わなければ、またたく間に、ほかの組織に呑みこまれてしまう。
謝れば済む、辞任すれば済む、一時の誠意を見せればそれで済む、そういったことではけっしてない。こうした誤謬を、組織のトップが抱いていると、その組織は遠からず瓦解するか、ほかの組織に取り込まれてしまうだろう。
そういった点で言えば、この梅鬼氏は、ノボルの好むべき総括者に思われた。と同時に、だからこそ、ここまで会社を成長させることができたのだろうと納得する。
ただずる賢いだけでこの資本主義社会を生き残ることなどできはしない。そんなに甘い世界ではないからだ。
「ゆるすもなにも」ノボルは正直な気持ちを打ち明ける。「あなたがわるいわけではないでしょう」
「そう言ってもらえると救われる」言って彼は頭をあげた。梅鬼氏の顔からはすっかり周章感が抜けている。「期せずしてきみはすでに、我々の求めていた落し物を拾ってくれていたようだ。運命など信じない私だが、それでもこれは運命としか言い表しようがない。いやあ、今日はほんとうに良き日だ。これまでの苦心惨憺も浮かばれるというもの」
「まだなにも、おれは――」
引き受けるだなんて、とこちらの声を遮って彼はさらに謳った。
「いや、いいんだよ。気にしないでくれ。私はね、自分の責任を全うできることがうれしいんだ。さっきは言葉を濁して明らかにはしなかったが、逃亡した博士と私はそれなりに深い仲だった。いや、深いとは言っても、きみの想像したような関係ではない。家族のような、と言えばそれにちかかった。だからこそ、『END』を持ち逃げされたときには、裏切られたという怒りよりも、むしろ哀しみが私を襲ったよ。博士には博士の大義があったのだろうが、それとは別に、私にも私の責任がある。人類は、人類のために、これ以上の自然破壊をせずに発展し続けなければならない。それを自然との共存などと詭弁で煙に巻くことなどしたくはないが、しかしやはり私は、人類も自然界を担うシステムのひとつとして組み込まれて然るべき存在だと信じている。それが正しいかどうかは二の次だ。重要なことは、我々が自然界の恩恵なくして存在しえない非力な生き物だという事実だけなのだから」
感慨深げに天へ向け、大きく息を吐くと彼は、さて、とこちらの瞳を覗きこむようにした。
「さて、『END』の居場所を教えてくれないか」
第四章『視界最悪なフットワークでの徘徊、
そして再会』
(一)
なにやらみなさんあたふたしているぞ。
ノボルは社内の慌ただしい様子を眺めていた。
今からおよそ二十分前。ルフィンの居場所を教えてくれ、との旨を梅鬼氏から迫られた。
「逃げられちゃいまして」
咄嗟に嘘を吐いたのが果たして正解だったのかは判らない。ただ、それを聞いたときの梅鬼氏が浮かべた悲しそうな顔が脳裏から離れなかった。
間もなく、丸九内マリモが出て行った。数分後、戻ってくると彼女はまたしても梅鬼氏に耳打ちをはじめた。堂々と内緒話をしすぎではないか。こういうときこそ、デジタル技術ではないのか、と非難したくもなる。
「うむ。迅速な対応をせねばなるまい」つぶやくと梅鬼氏は儼乎とした物言いで、「市内全域に検問を敷け。県長と警視には私から連絡しておく。マリモくんはすぐに社員たちとスタッフへ厳戒態勢を勧告してくれないか」
「承知いたしました」丸九内マリモはこちらを一瞥し、「道央坂さまはどういたしましょう」とささやいた。
「そうだな」上着からカードを取りだしこちらへ差しだしてくる。「それに限度額はない。好きなように使ってもらって構わない。その代わり、逃げた『END』をもういちど捜してみてはくれないか。見つけられなくとも構わない、気楽にやってみてほしい」
「それはいいですが」本当はよくなかったが、見つけられなくとも構わない、という条件にまずは安心した。それから、「これは受け取れません」とカードを押し返す。
「そう気を揉むことはない。もし街中で『END』を見つけた場合、追跡するのにこれは便利だ。これ一枚で、公共の交通機関も、タクシーだって乗れる。その場でバイクを買おうが、問題ない。仮に、きみが『アレ』を目前にして追跡することのできない状態におかれることが、現状もっとも避けたい事態なのだ。いちど『アレ』と接触しているきみなら解ってくれるだろ? 『アレ』を街中で捕獲するのは容易ではない。追跡するだけでも『アレ』の場合は難易なのだ。使いたくないのなら無理にとは言わない、だが、もしもの場合に備えて、せめて持ち歩いてはくれないか」
ここまで言われて拒むほどの理由がノボルには思い浮かべられなかった。不承不承の体で、カードを受け取った。
それが今から十数分前のことである。現在は丸九内マリモの案内のもと、社内の通路を歩んでいる。来たときのエレベータをなぜ使わないのだろう。問うと、彼女は歩みながら答えた。
「申しわけありません。現在、社内でトラブルがありまして、セキュリティが発動中なんです」
ハツドウチュウ、という発音が幼くて思わず口もとが緩む。あたかも、「ピッ、ピカヂュウウウ」とでも鳴きそうな架空の動物みたいだった。「ハツドウチュウ」と復誦してみる。
「そうなんです。ですから現在は、ビル内すべての器機が、認証コードの提示を求めています」
はあ。求めるんですか。機械なのに。
「それに応えないとすぐさま警告音が響きます。登録されていない者がそこにいるだけで、エレベータは作動してくれません」つまり認証コードを持たないノボルがいるのでエレベータが使えないということらしい。「ですから、お手数おかけしてすみませんが、エスカレーターで降りていただきたいんです」
「エスカレーターは大丈夫なんですか」おれが乗っても動いてくれるんですか、と質問する。丸九内マリモは、ええ、と柔和にうなずいた。「エスカレーターが設置されているのは、このビルの中央――吹き抜けになっている場所です。そこには常時、専門のスタッフが配置されています。彼らが警備しているので、社長か私の許可さえあれば、道央坂さんでも無事に降りられるんです」
無事に降りられない場面を想像してみた。きっと警備員とやらにめった打ちにされてしまうのだ。
社内の中心部は、中層部から一階まで吹き抜けになっている。上から覗くと一階を歩んでいる者たちが蟻みたいに見える。自殺の名所に持ってこいの高さだ。
各階にエスカレーターは八ヵ所ある。半分が昇り。半分が降りだ。八ヵ所すべてに男たちが立っている。警備員だろう。彼らはエスカレーターを利用する者に視線を向けてはいない。床から生えている器機を見詰めている。きっとそこに、エスカレーター利用者のデータが映し出されているのだろう。
丸九内マリモが警備員のもとへ歩んでいった。なにやら会話をしている。こちらへ戻ってくると、「さ、まいりましょうか」とデートをエスコートするお嬢さまみたいに言った。
ここから一階まで、目測でざっと一五〇階はある。どれだけ巨大な建物なのだろう。
ここへ連れて来られるとき、車内にあったのは、スモーク加工された窓だった。景色はもとより、このビルディングの外観すら目にしていない。
エレベータの中で見た、立体見取り図を思いだす。このビルディングの全貌は、あれでしか確認していない。ただ、それもまたノボルにとっては、絵に描いた餅だ。
エスカレーターはゆっくりだった。
これを降りきるのに、どれだけの時間がかかるだろう。考えただけで欠伸がでる。
「すみません。これしか今は方法がないもので」うつむいたまま丸九内マリモが口にした。欠伸を見られてしまったのだろう。ともすればこちらの不満を見透かされてしまったのかもしれない。肩身が狭くてくるしいです、と彼女に訴えられているようでノボルは欠伸を噛みころした。
エスカレーターは、いちど各階で降りなくてはならない。そのつど、迂回して乗り継ぐ。繁華街のデパートを彷彿とさせられた。
それでも各階で待機している男たちは、まるでこちらを見ていない。床から生えた器機、そのディスプレイとにらめっこをしている。そんなんで警備になるのだろうか。不審に思いながらも、おれには関係ないな、と抱いた不審をあさっての方向へ投げ捨てる。
地上へ降り立つまで、ざっと三十分を浪費した。ノボルは疲労した。
陽はとっぷりと暮れているが、鮮やかなネオンが目に痛い。
「申しわけありませんが」車のドアを開けながら丸九内マリモが頭を下げた。「わたしはここまでのご案内とさせていただきたいのですが、よろしいですか」
ものさびしい思いもあったが、「構いませんよ」と承諾した。どちらかといえば、この三十分のあいだ、こんなことに彼女を付き合わせてもよいのだろうか、といった焦りがあったくらいだ。
「本日はお忙しいなか、お越しいただきありがとうございました。後日またご連絡いたします。お詫びとお礼を兼ねて」
てきぱきと述べる彼女は妙に新鮮だった。「こちらこそ、いろいろ、ありがとうございます」
では、とドアが閉まる。
窓にはじぶんの顔しか映っていない。
僅かな加重によって、発車したことを認識する。座席によこになった。大きな溜息を吐いてから、「あーもう」とこぼす。
「ほんと、つっかれたー」
(二)
駅前は閑散としていた。終電は零時をまわってからだが、二十一時を過ぎれば、町から外へと向かう者はほぼ皆無となる。
うすら寒いバスターミナルに下ろされる。
帰宅ラッシュも過ぎたので、すでに人影はない。
ふと、目に留まるものがあった。
アスファルトのうえに眼鏡が落ちている。街灯のひかりに照らされ、あたかも、拾ってくれ、と言わんばかりに輝いている。
うわあ、どうしよう。気を抜いた途端にこれだ。
逡巡したが、けっきょく手に取った。
フレームが黒い。材質はベッコウだろうか。もしベッコウなら、そうとうに高価なものだろうし、心なし骨董的価値もありそうに映る。
どうしたものか、と悩む。もちろん届け出るよりないが、せめて悩むくらいのことはしたい。
ああいやだなあ、と気分が塞ぐ。こんなもの拾いたくなどないし、ましてやわざわざ交番まで出向いて届けるなんぞ、そんな七面倒くさいこと、したくない。
ここでつよく念じないことには、いつまで経っても落し物に振り回される人生となってしまう。今回の件だってそうだ。そもそもの発端は落し物なのだ。忌々しい。
ここまで考えてから、しかたないな、の溜息を吐く。
顔をあげ、いざ交番へと向かおうとしたそのとき、
視線のさき。
街灯の明りからややはずれた場所に、なにやら腰を屈ませ、あっちへゆらゆら、こっちへゆらゆら、右往左往している人物が目に入った。なにかを探している素ぶりで、う~ん、う~ん、と呻っている。ないなあ、ないなあ、ともこぼしている。
いったいなにを失くしたのか。
ノボルは手のひらにある眼鏡を見詰める。つぎに、うろうろしている不審者を見遣った。
どんだけ視力がわるいんだ。うなじを掻きつつその人物のところまで歩を進める。
「あの、お探しのものって、これですか」
「んなー?」身体を起こしたその人物の顔を見て、ノボルは目を剥いた。
なんで、
「なんでおまえがここに?」
「あ、それそれー」とうれしそうにはしゃぐ彼女は見紛うことなきルフィンの姿をしていた。
「だからなんでおまえがここにいんだよ」と詰め寄る。
彼女の服装が変わっていることに気づくが、そんな変化など今はどうでもよい。
目をまん丸くして彼女は、「んー?」と首を傾げている。
問答無用でほっぺたをつまみあげ、
「なんでここにいるんだよ!」とさらに問いただす。
「いふぁい! いふぁいってふぁ!」
あまりに初々しい反応だから虚を突かれた。解放してやる。「痛けりゃ、遮断すりゃいいじゃん。痛覚」
「なにおう!」彼女はこちらから眼鏡を分捕り、「だったらおまえさんは」と装着しつつ息巻く。「髪の毛が痛くないからって、いつでも丸坊主にできるのかい! できないだろ、ばかあ!」
相変わらず話の通じない相手だ。
「カンザキのやつはどうした?」と周囲を見渡す。
匿ってくれと頼んだのは建前だ。実際には、見張っていろと依頼したつもりだ。
「ん? ああ、えっと、あいつはねー」落ち着きなく、きょろきょろ、と首を動かしながら彼女は、「どっか行っちゃった」とちゃめっけたっぷりに答えた。
「くっそ、あんのフルーツやろう」
なぜこの国には役立たずは死刑という法律がないのだろう。ざんねんに思う。
まずは場所を移動しよう、と提案し、ここにいてはまずい、と歩きだす。慈洞範カンパニーに監視されていないとも限らない。
「とりあえず、状況がだいぶ見えた。説明したいがここじゃだめだ。場所、変えるぞ」
言って山のほうへ歩を進める。うしろに彼女が、ひょこひょこ、と付いてくる。
「その眼鏡、変装か?」
「うーん。そんな感じ」
「服も? どっから仕入れたんだよ」
「えへへ。これくらい、わけないね」
そうだね。わけないね。
なぜかツボに入った。
こんなにひょうきんなやつだったろうか。数時間会わなかっただけで、ルフィンへの評価が高くなった。
街灯のしたを通り抜けるたびに、うしろを振りかえる。
警戒していたからというのもある。
ただそれ以上に、なんだか、知らぬ間に彼女が消えてしまいそうで、不安だった。
彼女は消えることなく周辺を、きょろきょろと見渡し、ひょこひょこと付いてくる。彼女もまた警戒しているふうだった。じれったくなり、うでを掴む。
びっくりしたように、「みゃ」と彼女が鳴いた。咄嗟に手を離すが、もういちど、ちからを緩めてそっと握りなおす。弁解するように、
「危なっかしいんだよ、おまえは。ちゃんと付いて来いって」
ぶっきらぼうに言った。
「うん」
「そういやおまえの捜してる博士――そいつな、慈洞範カンパニーってところで捕まってるっぽいよ」それから、と歪曲して伝える。「それから、おまえ自身も狙われてる」
本当は、ルフィンそのものが狙いだったが、それを言ってしまえば、ルフィンのせいで阿堂博士が捕まっていることまで説明しなくてはならなくなる。まだ早い。阿堂博士を救出し、すべてが丸く収まってから、「実はおまえのせいだったんだよー」とおちゃらけて言うのが好ましい。
「……そっか」彼女はつぶやき、そっと手を握り返してくる。
夜空を仰ぐ。
息がしろく昇る。
じぶんのと。
彼女のと。
濁った息とは対照的に、とても澄んだ空だった。
星がきれいなことに気づく。
街灯も今はない。山に近づいたからだ。
ぼんやりと霞んだ、闇。
もっと奥には、底のない暗がりが、ぽっかりと空いている。
幼いころは、山や森にあるこの完全な闇がおそろしかった。
本当に純粋な黒なのだ。
目をつむっても。
瞳をさらしても。
その差異がない。
さかいが、ない。
自身の裡がわと。
外がわの世界が。
どちらも同じように思われて。
ひどくおそろしく感じられた。
でも、それは、
あのときのじぶんが独りだったからだ。
今はこうして彼女の手をつかみ、
手をつなぎ、
互いのぬくもりを伝えあって、
相手のぬくもりを感じとって、
自身の世界と、
他人の世界と、
差異を、さかいを意識して、
心安らかでいられる。
では、
彼女の心はどうなのだろう。
ぴくり、と手にちからが入った。
こちらを見上げた彼女の瞳を覗いたことで。
ずっと彼女を見詰めていたのだと気づいた。
恥ずかしい。気まずかった。でも、手を放そうとは思わなかった。
放してしまったら、そのまま飛んで行ってしまいそうで。
掠れるように消えてしまいそうで。
心配で。不安で。
だからその手をノボルは握ったままでいた。
(三)
焚き火をした。
カンザキをとっちめてやろうと思い、洞窟のまえまで来た。けれど彼女が頑なに、「あいつはどっか行っていないから、少し待とう」と言い張った。洞窟には入らずに外で待つことにした。洞窟のなかはケモノ臭くっていけない。
「そういえば、聞いてなかったよな」
掻き集めてきた枯れ葉や木の枝を、火へくべながら、
「阿堂博士ってどんなひとなんだ」と水を向ける。
「う~ん」ひざを抱え彼女は座っている。唇をうでに押しあてたまま、「自分勝手なひと、かな」とこぼす。
ずいぶんな言いようだ。
「嫌いなのかよ。逢いたいんだろ」
「逢いたいよ」逢いたいけど、と彼女は言葉を濁す。
「ほかには」と促す。「自分勝手で、どんなひとだった」
「そうだなあ……」火が音を立て爆ぜる。炎が踊る様子を眺めながら、彼女が訥々と語りはじめる。「あのひとには、妹がいたんだよね。とてもやさしい妹で、あかるくて、かわいくて、大好きだったんだって。あのひとはそう言ってた。親をはやくに亡くしていたから、姉妹でずっと生きてきたらしい。たぶん、ずっといっしょにいられると夢見てたんだと思う。それくらい、いっしょにいることが自然なことだったし、信じる以前に、あのひとは、妹が自分のまえからいなくなるなんてことを考えたことがなかったんだと思う」
でも、いなくなってしまった――。
先の展開を予想しながらノボルは耳を傾ける。
「妹が亡くなったのは、あのひとが技術者として周囲に認められはじめた時期だった。あのひとは、自分勝手なひとだったから、自分の好きなことを好きなだけやれる環境を望んでいた。そういった環境もまた同じように、必要としている者を探していた。そうしてあのひとは、理想の環境に身を置くことができた。でも、それはけっしてあのひと一人のちからで成就した栄転ではなかった。あのひとは最後まで知らなかった。
大切な妹が、自分を犠牲にしてくれていたなんて。
あのひとが身を置いていた環境っていうのはさ、当時、もっとも急成長していた企業だったんだ。革新的な研究を、なんの成果がなくとも推進させてくれる、そんな善良な企業だった。あのときのあのひとには、善良に見えていた。
あのひとがそこの研究員として招かれることになったのは、けっきょくのところ、妹のおかげだったんだ。
それを知ったのは、妹が死んでからの話だった。あのひとは絶望した。姉のわがままを叶えるためにあのコは、男に身を売っていたんだと知って。
あの企業の社長は――慈洞範梅鬼は、あのコを手に入れるためにあたしを利用した。
善良な人間だと思っていた。でも、ぜんぜん違った。あの男は、あのコを自分のモノにするために、あたしを雇ったにすぎなかったんだ。
あのコの死因は、突発性の心臓発作だとされていた。あれだけ元気だったあのコがだ。そんなの疑うじゃん、どうしたって。ほんとうに病死だったのかなって。自殺だったんじゃないのかなって」
炎が風もないのに揺れている。悶えるように、せわしなく。
「妹が死んで。真相を知って。あたしは絶望のふちで生きていた。絶望のうちで死ななかったのは、それこそ、あのコが犠牲になっていたと知ったからだ。このままで終われるはずもなかった。だからといって、復讐をする気にもなれなかった。
だって、一番の罪人は、自分勝手にあのコを死なせてしまったあたしじゃないか。
あたしは、あたしのことがいちばん赦せなかった。
それから数年間は、研究に没頭した。
逃げたんだ。
あのコの死から。
あのコを死なせてしまった自分の罪から、目を逸らしたかった。
あたしの研究はいつしか、あのコを生き返らせる技術の集積へと向かっていた。
生きているってのは、煎じ詰めれば、自我の有無に行きつく。
肉体の有無は、二の次でいい。
そのひとをそのひと個人として成立させている、自我――私が私であろうとしつづけるシステム――それさえあれば、生きていると呼べるんだ。それがたとえ、幽霊だろうと、プログラムだろうと、関係ない。
人工知能のプログラミングの作成と同時にあたしはそれを宿すためのボディを開発した。
あたしはいつしか、あのコの死をなかったことにしようとしていた。
妹の死から逃げていたあたしは、あのコを蘇らせることで、【妹は死んだ】という現実を上書きしようとしていた。
それを直前で、阻まれた。
あの男があたしの真意に気づいたんだ。表向きは、半・永久機関の開発だとしていたから、途中まではあたしの研究に協力的だった。そりゃそうだ。『END』が完成すれば、莫大な利益が手に入る。数千年先まで人類はエネルギィを無尽蔵に扱えるようになるんだ。自分で言うのもなんだけど偉大な研究じゃないか。もっとも、『END』を手放すつもりはさらさらなかったんだけどね。
だからかな。
あのコを蘇らせようってあたしの計画は頓挫した。あの男にバレたんだ。
監禁されるまえに、試作品の『END』を持ってあたしは逃げた。
人里離れた場所に拠点を置いて、また研究を始めた。設備なんてまったく整ってなかったから、完成したときには三年が経過していた。主観的には随分かかっちゃったな、って感じだけど、状況とか環境を考えれば、僥倖と捉えてもいいのかもしれない。
研究に必要な設備や物資は、裏の業者を利用することで調達したよ。お金は、銀行にハッキング仕掛けて無尽蔵に捻出できたから、まあ、困ることはなかったよね。
裏の業界はほんとすごいよ。闇が影としてこの世界の至る場所にあるように、繋がってないトコがないんだから。あたしは業者を介して、慈洞範梅鬼の動向を知ることができた。
あのコをつくりあげてから、すぐのことだ。
あの男が、裏のプロを雇ったらしい、そんな噂を耳にした。切羽詰まったのか、じれったくなったのか分からないけど、あの男らしくなかった。
あたしもそれなりに、裏の人間たちの性質というか、情報網の繊密さを身を以って知っていたから、時間の問題だなって諦めていた。
少なくとも、こっちはすでに、裏の業者を利用してしまっていた。その時点で、もう詰んでいたようなものだった。あいつら裏の商人なんて、自利のためなら簡単に人を売るような輩なんだ。
諦めていた。
でもさ、厭だったんだ。
あたしはもう、イヤだったんだよ。
もう二度と、あのコから自由を奪いたくなかった。あのコをあたしのせいで、犠牲にしたくなんてなかった」
「だから、あいつをひとり置いて、捕まりに戻ったんですか」ノボルは問い詰めるように、「自分だけが納得したいから、それであいつをひとり残して消えたんですか」
こちらへの質問には応えずに、彼女は述懐する。
「昨日の今日だよ。どっかのお人よしが、あのコの正体を知っていながらに、あのコを庇ったっていうじゃないか。しかもそいつ、あの男の落し物を拾って、あの男のビルに招かれているときたもんだ。あたしとしてはさ、核弾頭が起爆スイッチ、持参してノコノコやってきたって感じだよ。どこのバカだ、ってさ。顔を拝みたくなっちゃった」
「だから逃げだしたんですか」そんなことでわざわざ、と呆れてしまう。「バカにバカ呼ばわりされたくないですよ」
かか、と彼女はちいさく笑った。
「バカに言われるくらいだ。大バカ者だよあたしは」
ふう、と鼻から息が漏れる。
たしかにこの状況はバカらしいな、と思った。彼女を見据えなおす。手を差しだし、
「おれ、道央坂ノボルです」
今さらながらの自己紹介をした。
こちらの手を握り返しながら彼女は、
「まずは礼を言わせてほしい。あのコを助けてくれて、ありがとう」
ほんとうにありがとう、と両手でつよく握り返してくれる。やめてほしい。照れてしまう。
ふと、思いだし、
「すみませんでした」と謝罪する。きっと彼女にはなぜ謝られたのかが分からないだろう。それでもよかった。どうせこちらもくだらない理由なのだ。
案の定、彼女は、きょとん、としていた。けれどその顔を今いちどほころばせてから、
「遅ればせながら」
こちらの手を離しつつ、ようやく彼女は名乗ってくれた。
「はじめまして。阿堂レナです」
(四)
「博士!」
満面の笑みを浮かべ、ルフィンが駆け寄ってくる。
抱きつく寸前で、阿堂レナがよこへ避けた。
地面へダイブするルフィン。痛々しい音が響く。
すぐに顔をあげ、「なんでっ!?」と喚く。
どうして避けるの、と抗議の視線を向けている。
「ルンに抱きつかれたら死んじゃうって。あたし」全力はダメ、と阿堂レナがおどけた。地面に尻をつけたままで拗ねているルフィンの胴体へ、
「こうやって、そっと、なんだよ」
阿堂レナは腕をまわした。
数分前。
洞窟内はケモノで溢れている。阿堂レナが入れば、たちまちに襲いかかられ、無残な姿になることは目に見えていた。彼女をそとで待たせたままで、カンザキの小屋へとノボルは向かった。ルフィンはそこにいた。カンザキは任務を怠ってはいなかったのだ。
「まじドリアンなんですけどノボルさん。オレがノボルさんを裏切るわけがないじゃないですか」
人懐っこい顔で近づいてきたので一発なぐってやった。反撃防止策として、ルフィンに押さえさせた状態で。
「ぐれーぷっ!」カンザキは妙な声を発した。「いきなりなにするんですか! 解放を要求します! マジ、脅威フルーツっすよ」
腹の立つギャグを言う。キューイフルーツとかけているのだろう。仕方なく、もういちどなぐってやった。
「ぐれーぷっ!」
阿堂博士を連れてきた。そう告げると、ルフィンの顔から表情が消えた。さっ、と血の気が引いたかと思うと、またたく間に上気する。「ほんとにっ?」
いっしょに行こう、と手をつかむ。急かすように引きつれて洞窟を歩んだ。
ルフィンのその手に、ぬくもりはなかった。息が白く濁ることもない。
カンザキは付いてこなかった。付いて来んな、と眼光炯炯と射ぬいてやったからだ。子猿のような顔をして、子犬のように、くーん、と鳴いた。
「明日、食糧、持ってきてあげますから」そう約束すると、朝顔がごとく笑顔を咲かせる。
ホント、単純なやつ。
「これからどうするつもりですか」阿堂レナへ投げかける。「梅鬼さんはきっと諦めてくれませんよ」
「なんとかなるでしょ」あっけらかんと言ってのける彼女に虚勢は感じられなかった。ルフィンをさらに抱き寄せながら、だいじょうぶ、と嘯いた。「あたしには、このコがいるし」
なんて格好のわるい台詞だろう。「それを言うならふつう、逆でしょう」
このコにはあたしがいるからだいじょうぶ。安心して――。ノボルとしては、このくらい嘯いてもらいたかった。
すべてが問題なく、滞りもなく、解決へと向かっているのだと完全に気を抜いていた。
前触れもなく、それは唐突に起こった。
カッ、と強烈な閃光がはしった。いや、はしり去ることなく光は辺りに満ちた。
闇夜の中、洞窟の壁面がありありと浮かびあがる。
四方八方から光を当てられている。逆光で向こう側が見えない。
「きみは本当にすごい。線路に置かれた石を取り除くがごとくに、きみは、人生と人生を交差させ得る布石を、ことごとく拾い集めてしまうようだ」
その声には聞き覚えがあった。忘れるほどの時間は経っていない。
――慈洞範梅鬼。
「お出迎いにしちゃ、ちょいと盛大すぎじゃないか」阿堂レナがまっさきに反応した。「迎いに来るなら一人でこいよ。それともおまえ、こわいのか」
「ああ。こわいね。またきみに逃げられることを考えると、夜もオチオチ眠れない」梅鬼氏の声だけが、光の向こう側から届く。「道央坂ノボルくん」と声を掛けられる。「きみはおそらく、運命からこぼれ落ちた偶然をことごとく回収してしまうのだろうね。ヘンゼルとグレーテルの落した道しるべを、食べてしまった獣のように」
洞窟の入り口でたむろっていたせいもあり、前方を包囲されただけで、容易に退路を断たれた。洞窟へ逃げ込むことはできるものの、なかにはケモノが群れている。無事でいられるのは、ノボルとルフィンだけだろう。ノボルがちかくにいれば、襲われることはないかもしれないが、それは賭けのようなものだ。洞窟の内部はまさに深淵だ。ただでさえ視界の覚束ない空間を――あまつさえ足場の劣悪な洞窟のなかを――走るなど、自殺行為だ。いちどこけてしまえば、分散は必須。それを皮切りに、ケモノたちが襲いかかるだろう――阿堂レナ博士へ。
だからこの逃走経路は、切り札だ。今はまだ実行する場面ではない。そこまでの窮地ではないとノボルは判断した。
慈洞範梅鬼、彼のほかに気配はない。ただ、少なくない人員が配備されているのだと、照明の多さから推して知れる。ただの社員ではないのだろう。相応の訓練を受けた人材のはずだ。気配がないのだから、必然的にそうなる。たとえ生気のないロボットであろうとも、存在感を消すというのは易しくない。
どうして居場所がバレたのだろうと考える。
見張りがいたのか? 跡を付けられていたのだろうか。
阿堂レナも同じことを考えていたらしく、
「なにか渡されなかったか? あいつから」と半ば確信じみた口調で訊いてくる。
いや、と否定しようとするも、ポケットにゆびが触れた。固いことに気づく。なにか入っている。
カードだ。梅鬼氏から渡されたものである。
取りだし、阿堂レナへ見せる。
手を差しだされたので、どうぞ、と渡す。
一瞥しただけで阿堂レナはカードをへし折った。
思わず、「ああ!」と声をあげてしまう。
意に介さずに阿堂レナは、ぞんざいに投げ捨てた。光の向こう側を見下ろしながら、「いっつもだ」と吐き捨てる。「いつだって、せこいんだよ、あんたは」
「せこい? 私がかね」梅鬼氏の声だ。「否定はしないが、せこいというのなら、レナさん、あなたのほうではないか」
梅鬼氏の口調はどこか、いじけて聞こえた。
未だにノボルは信じられない。
梅鬼氏が阿堂レナの妹をたぶらかし、挙句、死に追いやったなどと。
もっとも、阿堂レナが嘘を吐いているとも思えない。
だから、どちらかが間違っており、どちらかが勘違いをしているのだろう。
或いは、どちらとも勘違いをしていて、どちらも間違っているかだ。
拡声機を用いることもなく、梅鬼氏が声を張って説得してくる。あたかも弁解をするような調子で、
「レナさん、あなたがどうやってあの部屋から逃げだしたのかは判りません。きっとあなたのことだから、あの程度のセリュティなど、簡単に突破できてしまうのでしょう。さすがです。ただ、なぜ今さら逃げたりなど――。あなたは自ら投降してきた。それが二年前です。投降してきていながらあなたは飽くまでも私たちに非協力的だった。あなたが持っていった『アレ』の存在を、その在り処を、頑なに教えてはくれなかった。レナさんだって解っているはずだ、『END』は人類の希望なのだ。いや、希望ではなく、現存する唯一の救いだ。ソレさえあれば、私たちはこれ以上、環境を破壊することなく、また、資源を独占しようと争うこともなくなる。そんな革命的な救世手段を、あなたはあなたの独占欲から手放そうとしない。我々人類へと共有してくれない。あなたはこれまで、様ざまな恩恵を与えられ、そうして生きてこられた。そしていま、あなたはその恩恵に報い、恵みを返すことができるほどの技術を手にしている。だのにどうして還元しようとすらしてくれないのですか。あなたはいつもそうだ。あのときだって、あのひとは――リンさんは、あなたを一番に想っていた。それに気づいておきながら、あなたは研究ばかりに没頭していた。私は見ていられなかった。リンさんがあまりに憐れだったからだ。それははじめ、同情の域をでなかった。だが次第に、リンさんのあの聖母のようなやさしさに、ぬくもりに、私は惹かれていった。このはなしをするのはなにも今日が初めてではないでしょう。これまでだって私はあなたの誤謬を正そうとしてきた。だのにあなたは聞く耳を持ってくれなかった。どうして『ソレ』をリンさんの姿に似せてつくったりなどしたのですか。あなたはどこまでリンさんを弄べば気が済むのですか。私は彼女を支えようとしましたよ。リンさんはやさしいひとだったから、彼女は、自分を支えようとする私を受けいれ、逆に支えてくれました。だからけっきょくのところ、私のしていたことは、リンさんの負担を大きくしていただけにすぎなかったのかもしれません。私は自惚れていた。あのひとの明るい笑顔のうらにあるくるしみを、悩みを、なにひとつ察してあげることができなかった。リンさんは孤独のうちに死んでしまった。私が海外へ出張っていたあいだに、独り淋しく、冷たい場所で。私は最愛のひとの最期すら看取ることもできなかった。付き添ってすらあげられなかった。私は私がゆるせなかった。その怒りは今、人類への貢献として昇華されています。リンさんのやさしさをせめて私は遺したかった。リンさんはいつだって言っていた」
『お姉ちゃんは、いつか世界の有様を変えてくれるひとだから』
「そう言っていたんですよ。『だからわたしなんかが邪魔をしてはいけないの』とそう言っていつもさびしそうに笑っていた。私はリンさんのあの顔を忘れられない。ゆいいつ忘れたい、あのひとの顔だ。思いだすたびに胸をえぐられる。えぐったきり、ずっと、キリキリ、と胸に残っている。レナさん、私はね、あなたの妹さんをしあわせにできなかった。だからせめて、せめて、リンさんの愛したこの世界を、人類を、我々が直面している窮地から脱しさせてみせたい。むろん、私個人にそんなちからはない。だから、多くの者たちのちからを借りている。それがわが社であり、賛同してくれる人々だ。そのなかには、レナさん、あなただって含まれている。私にはあなたのちからが必要なのです。私に協力してくれだなんておこがましいことは言わない。だがせめて、あなたの妹であるリンさんのちからにだけは、なってはくれないか」
(五)
どうなのだろう。この叫びは梅鬼氏にある本心からの訴えではないのか。
阿堂レナの横顔を窺う。斜めうえからの照明によって影になっているため表情はよく見えない。ただ、うつむいた彼女は、凍えたように震えていた。
「……うそだよ」
こぼれ落ちた否定は、イヤだよ、と拒んでいた。
「そんなのはうそだよ」
掠れた声が甲走る。かなぐるように阿堂レナが吠える。「人類のため? 環境問題が解決される? そんなことにはならないよ」
庇うように阿堂レナはルフィンのまえに立った。
「このコにある『ストマック』は、たしかに半永久的にエネルギィを供給しつづける。大気中から抽出し、さらに水として還元できる。これさえあれば大方のエネルギィ問題は解決するだろうさ。だからといって、環境問題が解決されるわけじゃない。ましてや、人類が救われるわけでもないんだよ。いまだってそうじゃないか。日々日々人類は技術を進歩させている。消費電力を削減して、商品を生成する過程で必要となる資源だってより少ない量で賄えるようになった。それは誇ってもいいことだとあたしだって思うよ。でもね、それに反して――いや、それら減量できた分を凌駕する勢いで、生産量が増加しているじゃないか。省エネされた分、消費する量が増えた。意味がない。ぜんぜん意味なんてないんだ。電力消費が低くなった、だから節電する必要がない。どんどん使っても資源はこれまでのようには減らない。だからもっと贅沢できる。そうやって危機感がなくなった。それが現状じゃないか。人類にあったタガが外れてしまったいま、人類の技術がいくら進歩したって、人類が進歩しなければ意味がないんだよ。だからコレはまだはやいんだ。人類にはまだはやすぎる技術なんだよ。もっとあたいらが自制心をもって、もっともっと自分たちの身を置くこの環境について意識できなければ、エネルギィが無限に生成できてしまうなんて世界になったら、それこそ人類は破滅しちゃう。それがあんたの求める理想なの? ちがうだろ。あたしには判る。このさきも人類は、発展と自滅を結びつけていくんだ。だったらあたしは、それを食い止めたい。それこそをあたしは変えてやりたい。いまある技術で、この現状を制御できないでいて、どうしてさらなる発展を望むのさ。あんたの思想には同意するにやぶさかじゃないけど、でも、あんたの手段には、賛同しかねる。だからこそ、あたしはこのコをあんたらに渡すことはできないし、したくない。それが、あのコの願いだったと、あたしもまた、信じているからだ」
聞き入りながらノボルは、そういうことね、と理解した。
あなたもなかなかにわがままなひとだな、と。
おなじだからだ。ノボルは彼女と同じ想いを、以前、抱いていたことがある。だからこそ判ることがある。
彼女のその言い分に隠れた本懐が――彼女の繕った言葉の鎧が、どのような詭弁であるのかを、ノボルには見抜くことができた。
「レナさんの言い分も解る」梅鬼氏が言う。理解を示しつつもさらに反駁した。「なら、あなたはどうするおつもりですか。あなたのその主張を押し通したとして、なら、あなたはどのようにして現在の様ざまな隘路を解決しようというのですか。たしかに我々は浅はかな存在だ。目のまえの自利へとはしり、その後に訪れるとてもではないが見過ごすことのできない、しかし未然に防げただろう奇禍を甘受するしかない。だが、成す術がないわけではない。こうしてあなたのつくり出した『END』は、当面の問題を払しょくすることができる。それを放棄して、あなたは人類に、滅べ、とでも言うおつもりですか。レナさん、あなたの言っているのはそういうことなんですよ」
「ちがうッ」
吠えたのは阿堂レナではなかった。ノボルの背後に隠れるようにしながらルフィンは、
「博士は信じているからだよ!」
と声を張りあげる。「博士は、あなたたちを信じているから、だから、『コレ』は必要ないって言ってるの」と胸元を押さえる。「あなたたちなら、いまのままでも、現状を打破できるって、博士はそう信じてるのっ!」
「そんなのは理想にすぎない」梅鬼氏は嘯く。「我々に必要とされているのは、そんな言葉だけのきれいごとではない。具体的な手段だ。かたちある、解決策だ。きみは〝彼女〟によく似ている。だが、それもまた幻想にすぎない。きみは機械にすぎないのだ。〝あのひと〟ではない。きみがどのようにプログラムされてそのような言動を発しているのかもまた、瑣末な事項にすぎない。問題は、きみがこちらへ来てくれさえすれば、そこにいるふたりを助けられるという、この危機的状況だ。きみが大人しくこちらへ来てくれるのなら、阿堂博士と道央坂くん、ふたりの安全は保障しよう。道央坂くんにある家族の安全を保障する、という意味も兼ねていることを念のために補足しておこう。私はこう見えても、フエアでありたい。こちらの手札は見せよう。私の発する一声で、きみたちの関わったすべての人間の生活が脅かされる手筈になっている。ただし、それは、今言っているように、きみがこちらへ大人しく『END』を渡してくれさえずれば鶴が鳴くこともない。だが、それ以外を選択するというのなら、私はなにをしてでも、きみのなかにある『ソレ』を手に入れようとするだろう。いいかい、きみがほしいわけではない、きみのなかにある、『ソレ』がほしいのだ。このさき、私は手段を選ばない。よく吟味して計算してくれたまえ。きみにゆるされているのは、単純に合理化された判断だけなのだから」
梅鬼氏の説得は、実に無駄がなかった。ロボット三原則に照らし合わせればルフィンにゆるされた選択は、大人しく投降する以外にない。それ以外の選択は総じて原則に反する。なぜなら、仮に、ルフィンが投降以外の選択肢を選べば、阿堂レナとこちらに危害が及ぶかもしれないことを、梅鬼氏が宣言しているためだ。もっとも、具体的に彼が、「殺傷する」と断言していたとすれば、それを防ぐためにルフィンは防衛を選択することもできたはずだ。しかし梅鬼氏は、殺傷を匂わせるだけにとどめた。ルフィンに具体的な判断材料を与えないことで、意図的に判断を限定させている。
梅鬼氏はそれと同時に、こちら側の人間――すなわち阿堂レナと道央坂ノボル、双方に対しても脅しをかけている。余計なことをすれば、もう一方の人間を傷つけることになるぞ、と暗に警告しているのだ。これで、阿堂レナもノボルも不用意に動けなくなった。
ともすれば、まっさきにこのような縛りを強いてこなかった梅鬼氏の言動を鑑みれば、それだけ情けをかけられていた、という逆説であるのかもしれない。いや、こちらがこう考えることまでをも深慮しての縛りなのかもしれない。
ルフィンが一歩、まえに踏みだした。
「ダメっ!」阿堂レナが腕を掴む。「いっちゃダメだってば!」
「でも……。博士たちが」
「いいじゃんそんなの! かんけいない!」
関係大ありだったが、ノボルは口を挟まずふたりを見守る。
博士、とルフィンが問うた。「博士。わたしの存在理由って、なに」
「あたしのそばにいることだよ!」間髪容れずに阿堂レナは叫んだ。「あたしと、ずうっと、いっしょに生きていくことだよ!」
「そうは思えない。わたしだって博士といっしょにいたいよ。でも、それを優先するとすれば、なおのことわたしは向こうに行くべきなんだよ。でも、そうじゃないんだよ博士。わたしの存在理由は、博士の身を守ること。それから、人間を守ること。傷つけないこと。主人の命令に忠実であること。それなの」
「だったら、あたしの言うこと、きけよッ!」
ううん、とルフィンが首をよこに振る。「博士じゃないもの。わたしのご主人はね、博士じゃないの」
「……なに言ってんのさ、あんたの主人は、あんたをつくった、あたしだろ?」
ふるふる、とルフィンはさらに、ちいさく首を振った。
「ちがうよ。わたしのご主人はね」
胸元に手を重ね、
「わたしのご主人は、ここにいるから」
はっ、と息を呑む気配がノボルにも伝わった。阿堂レナはそれでも、解らないふりをして、「意味わかんないよ」と目を伏せた。
声が震えている。
身体が凍えている。
ルフィンはさらに謳った。
だいじょうぶ、わたしは人間じゃないから、ただの機械だから。
――生きてなんていないから。
「死なないんだから、安心して」
照明を背にこちらを向いたルフィンは、服のなかに手を入れ、ごそり、と〝ソレ〟を取りだした。
彼女の手には、
シルバーピンクに輝く、ハート型。
【ストマック】が握られている。
「申しわけありません。道央坂ノボルさま、これを今しばらくお預かり願えませんでしょうか」
「なに寝ぼけたこと抜かしてんだよ」
「申しわけありません」謝罪しながらも彼女は、強引に、〝ソレ〟を寄こしてくる。梅鬼氏たちからは、見えていないだろう、絶妙な角度で手渡してきた。そのまま、服のしたへと滑らせるようにしてノボルは背中に〝ソレ〟を隠す。「なにする気だよ、おまえ」
「ご寛恕ねがいます」
言ったルフィンは、阿堂レナを一瞥し、抑揚なくこう告げた。
「ごきげんよう。博士」
――まって。
阿堂レナがそう口にしたような気がした。声にはなっていなかった。
光に埋もれるようにルフィンが霞みの向こうへと霞んでいく。
と、
一瞬のうちに辺りが暗転した。
闇一色。
まるで宇宙へ投げ出されたみたいに足元まで覚束なくなる。むろん錯覚だ。足場は崩れていない。照明が消えたのだ。
耳鳴りがひどいことに気づく。
身体を取り巻く大気が重い。圧縮されているみたいだ。激しくうねっているようでもある。風ではない。
とてもではないが立っていられなくなり、その場にひざをつく。ここではたと気づいた。世界から音がなくなっている。地面に手をついたことで、大地が微振動していることにも気づく。ここにきてようやく思い至る。
音がないのではない。
ノボルたちは今、巨大な音のなかにいる。
――音弾。
ルフィンの姿が脳裡に浮かび、解けるように消えていく。
***
光の失せた今、辺りに色はない。木々がないためだろう、真上からそそぐぼやけた月光により、洞窟の手前のみが僅かに起伏を帯びて見えた。
何が起きたのかを考える。
予想はついた。ルフィンが、音弾を放ったのだ。昼間のアーケードでこちらに声を聞かせてくれたのと同じように。しかし今は規模がけた違いに思えた。
音とは、物質の振動だ。
振動数が多ければ高い音、少なければ低い音として知覚される。
おそらくルフィンの放った音の塊は、超音波として、周囲の物体を共振させ、照明などの機器を破壊した。
機器だけではない。
音は、振動として人体へと影響を与える。たとえ聴覚を塞いだとしても、音そのものを防ぐことはできない。聞こえない状態が、音を遮断することではないからだ。真空中でないかぎり、言ってしまえば、音とは、不可避の衝撃だ。
ルフィンの放った音弾は、ノボルと阿堂レナ以外のことごとくの人間から、意識を奪ったようだった。慈洞範梅鬼の声も、なにも聞こえない。
気絶しているのだろうか。
ここでノボルははたと閃く。昼間、ルフィンが倒した男たちは、ルフィンの手刀などで倒されたと思っていた。あれも実のところ音弾による気絶だったのかもしれない。
なぜじぶんたちだけが意識を保っていられたのかふしぎだったが、答はすぐに出た。
通常、音は放射線状に伝わる。しかし、ルフィンの放つ音弾は、直線的に伝播する。
昼間、ルフィンがそう説明していたのを覚えている。
――さながらレーザーだね。
花に水を撒くがごとく四方八方に放射された音弾は、しかし、ノボルたちのいる方向――洞窟のまえには投射されなかった。
音弾を浴びた者たちは意識を失い、そうでないノボルたちは、物体が共振して出す雑音のみを感受する。その音に、意識障害を及ぼすほどの威力はない。
照明機器を破壊するほどの音弾。
不安になった。
ルフィンだって機械じゃないか。無事で済むとは思えない。
阿堂レナも気を失ってはいなかった。立ちあがろうとしてよろけていたので、腰に手をまわし体重を支える。
「あいつ、ですよね」
ルフィンがやったんですよね、と分かりきったことを訊く。
彼女は歯を噛みしめるように口を一文字に結ぶ。
「おい。いるのか」
小声で呼びかける。闇の向こうへ、一歩、二歩、と近づいた。
「なあ、ルフィン」
はじめて名前を呼んだ気がする。返事はない。
しばらく進むと、地面につっぷしたルフィンの姿を見つけた。輪郭程度しか見えなかったけれど、それがルフィンであるとすぐに判った。
駆けより、触れるが、
「アツッ」
反射的に手を引っ込める。
火のように熱いのだ。
全身をスピーカのようにして、音を放ったルフィン。
代償として、全身の部品がボロボロに摩耗していた。
音は振動だから。
身を切りさくほどの躍動だから。
訴えるように、ルフィンは歌ったのだ。
己を律する大原則に反してまで。
自己を自己たらしめているプログラムに抗ってまで。
自己を否定してまでルフィンは、存在意義を放棄して、守るべき対象を自分で選ぶことで彼女は生きようとした。
純粋に。
人間らしく。
「行こう」阿堂レナの肩に触れる。
ルフィンの遺した、シルバーピンクのハート型を差しだしながら、
「誰を裏切ってでもあんたは、手放せなかったモノがあるんだろ」と鼓舞する。
阿堂レナは受け取り、ぎゅう、と抱きしめるようにした。
地面に伏したルフィンがやがて、闇夜に染み入るように掠れだす。
「これは……?」
スターダストじみた細かい霧となって、ルフィンだったものが風に舞って、散っていく。
「エネルギィ供給が途切れるとこうなる」阿堂レナは見送るようにそらを仰いだ。「あのコのボディは、特注だから。いわば、合金の細胞だよ。ストマックを失くして、あれだけの音弾を放ったら、予備のエネルギィ・タンクなんてすぐに空だもの。細胞の結合がほどければ、必然、こうなる」
死ねばこうなる。
彼女はそうこぼした。「人間とおなじだ」
・エピローグ・
『失速する鼓動は、止まりそうなほどに、
ひそまる歩道に、すうっ、と
のぼる息は薄命』
(一)
いつもどおりの時間帯に起きた。正午を少しまわった時分だ。
窓のそとを見遣る。
あたり一面が、灰いろに輝いていた。
「どうりでね」
寒いわけだ、と合点する。
「なんだ、起きてた」
ドアを開けて妹が入ってくる。
ノックくらいしろよ、と不満に思ったが口にせず。朝から喧嘩をする気分ではない。
おはよう、と挨拶すると、「もう『おはよう』は終わりましたー」と憎たらしい口調で返してくる。「なんだかんだで、めんどうゴトは解決したんだ? ひとりで?」
「解決っていうか、まあ、そうな。ひとりではなかったけど」
あれが果たして解決になっているのかは甚だ疑問だったが、ノボル自身がこの先びくびくして過ごさずに済むようになったという点では、いちおうの解決を見せたのかもしれない。
「いち段落は……ついたのかなあ」と無理やりに納得してみる。
「ふうん。よかったじゃん」
妹の淡泊な返事がひっかかった。「そういえばラウちゃん、ぜんぜん驚かないんだな」
「なにが」
「いやだって、いきなりロボットだよ?」
突飛な展開に慣れているノボルだからこそ冷静でいられたが、そうでない者にとっては、動顛してもおかしくない光景であったはずだ。なにせ女性のお腹に孔が空いていたのだ。そんな身体をいきなり見せられたのだから、気が気ではなかっただろう。心配した。
「ロボットお?」妹はすっとんきょうな声をあげ、「お兄ちゃん、頭だいじょうぶ」と真顔に戻る。
おや、どういうことだろう。
混乱してしまう。
「そりゃまあ、お兄ちゃんがベッピンさん連れこんでたから、驚いたし、チイさんみたいに怪力だったから、それもまた驚いたけどさ。ロボットってなに」完全に小馬鹿にした調子だ。「あのベッピンさん、ロボットだったの」
「だってさ」
弁解のつもりも兼ね、
「ラウちゃんも見たでしょ? あいつの土手っ腹に大きな孔が空いてたの」
あのときいっしょになって、どういうこと? と見詰め合ったではないか。
「あああれね」妹は控えめにはしゃいだ。「すごかったよね。わたしはじめてかも、あんなに近くで手品みたの」
「手品?」
「だってそうでしょ? タネは分かんないけどさ、お兄ちゃんが手渡したこんくらいのハート」言いつつ両手で形を示し、「それをさ、シュン、って消してみせたじゃん。あれはそうだね、けっこうすごいと思ったよ」
「あ……そう」
なあんだ、とノボルは拍子抜けした。
妹には見えていなかったのだ。
こちらの背中が邪魔で『ストマック』を収納するルフィンの様子を彼女は見ていなかった。
そっか、そっか。
なんだか今になって、ルフィンがロボットであったことが夢のように思われてきた。妹にとって、ルフィンの存在は疑うまでもなく人間なのだ。そちらが彼女にとっての現実なのだろう。
では、とノボルは考える。
じぶんにとってはどうなのか。
ルフィンはいったい、何者だったのだろう。
さきほどから妹が、がさごそ、と部屋を漁っている。
「なあ、ラウちゃん。なにしてんの」
「ん」
妹は一瞬だけこちらを振りかえり、
「えっとねー」
作業を再開させる。「数珠がさ、切れちゃって」
「数珠?」
「そう。ほら、お兄ちゃんがくれたやつ」あれがさ、切れちゃって、と釈明しながら妹が本棚をいじりはじめたので、「そんなとこにないって」とベッドから飛び降りる。木を隠すなら森ならば、見られたくない本を隠すにも、本棚にかぎる。
「そっちの引出し。そのなか」と机をゆび差す。
「かぎは?」
「かかってない。さっさともってけ」そして出ていけ、と毒づく。
「ひっどーい。ふつうさあ、心配してくれてもいいんじゃない」
「実害のない幻覚だろ? 暗示だよ、暗示。あれだ、プラボシー効果ってやつ」
「それを言うなら、『プラシーボ』でしょ。相変らずのアホっぷりだこと」
うっせー、と尻を蹴ってやった。なぜか妹は、「いたいよー」とはしゃいだ。
妹の植木場ラウは、幼いころからたびたび幻覚を視る。それがつい最近になって、悪化した。二年前のあの騒動。そのあとに起こったことだから、父も母も、妹の異変に気づくことがなかった。
紆余曲折を経て、ノボルは妹のその〝異常〟を鎮静化させることに成功した。
その際にキィとなったアイテムがある。
それが、「数珠」だ。
友人の植木場チイが譲ってくれたもので、元は、頑丈な紙でできた呪符然とした代物だった。それを縄によじり、輪っかに結んだものを渡された。植木場チイの冗長な解説を聞かされたからでもないが、辟易としながらもありがたく頂戴した。同じ解説をするのも面倒だったので、その「呪符」のことを、「数珠」と言い方を変えて妹へ渡した。
驚くことに、それ以来、妹が挙動不審な行動をしなくなった。つまり、幻覚を視なくなった。
胡散臭いと訝しんでいたノボルではあるが、「呪符」の効果を目の当たりにした現在に至っては、その「呪符」について、どこか肯定的に評価している部分もある。だからこそ、シルバーピンクのハート型――あの落し物を拾った晩は、未だ半信半疑ではあったが、念のために、とその「呪符」に包んでおいた。
そのときに遣ってしまったが、まだ数枚残っている。
妹が引出しからその「呪符」を抜き取った。うへへー、と緩みきった顔をしている。まるで宝物を発見した海賊だ。思わず失笑する。
「なに?」妹が眉根を寄せた。なんでもない、と誤魔化す。
幻覚騒動を期に、妹はどこか、自身の特異な性質を恥じているような節がある。
二年前のあのとき、「気にするな」と励ますのすら気が引けた。妹に、「わたしのこれは、励まされるようなことなのか」とひねくれた解釈をされそうで、下手に慰めることもできなかった。いまになってはそれを後悔している。堂々と「気にするな」「かんけいないって」と言えばよかったのだ。
「こんど、植木場さん家からまたもらっておくから」
「うん」気まずそうに妹は、「おねがい……します」と改まった。
うやうやしい口調が、気持ちわるい。あたまに手をのせ、ぽんぽん、と叩く。
「なによ」うつむきながら睨んでくる。
全身をひと通り眺めてからノボルは、「ほんと、成長しないなあ」と言ってやった。すぐに、ひょいひょい、と水たまりを避けるみたいにして部屋を後にする。
閉めた扉の向こうから、「ど、どっちがよ!」と喚く声が聞こえていた。
わたしとあんたのどっちが幼いのよ、という意味か。
それとも、
精神と身体のどっちの発育のことよ、という意味か。
ノボルからしてみれば、すべてである。
(二)
外へ出る。
チイへ礼を述べに、植木場家へと赴いた。
「今朝は、ありがとう」正座のままで畳に手をつく。「また助けられちゃったな」
やめてよ、とチイがふくれ面をつくりながら、「当然でしょ、あれが役目だもん」
昨夜、森でのこと。慈洞範梅鬼が口にした「縛り」は、けっきょくのところ、ノボルの大切な者たちを傷つける、という脅迫と同義だった。とどのつまりは、この町に住む人々を傷つけるという恫喝を意味していた。
当然の帰結として、彼の言葉は、植木場家の登場を誘起させた。
植木場家は、この地域に暮らす人々の生活を脅かす存在を、限りなく許容しない。あらゆる脅威をことごとく排斥する。
そういった「命」に、それこそいのちを懸けている「族」だからだ。
「ウチが圧力かけといたからね」と部屋のそとから声が届く。「たぶんもう、この街に手を出すことはないと思うよ。やっこさん」
いつからそこにいたのだろうか、男が襖に寄りかかっていた。長髪に、痩身だ。一見すれば、女性に見えなくもない。
植木場沙巳がそこにいた。彼はチイの次兄にあたる。ゆびにハサミをひっかけて、くるくる、とまわしながらさらに、「ひさしぶりだね」と愛想よく微笑む。
全身が毛羽だった。細胞という細胞が彼を拒絶する。
握手でもしようものなら、即座に、命を絡め取られ、それこそ手袋を脱ぐみたいにして生皮を剥ぎ取られてしまいそうな恐怖がある。
「安心しなよ。今日は、もう、そんな気分じゃない」
ぞっとした。目を逸らす。
「仕事は終わったの」チイが尋ねた。うむ、と彼は応えた。「趣味すらも終わったよ」
どうやら植木場家は、ノボルの持ちこんだ懸案事項以外にも、仕事を熟してきたらしい。
「あの、まさか、人を傷つけたりなんか、してないですよね」
訊くと、チイとサミが顔を見合わせた。こちらへ視線を戻すと声をそろえ、
「だめだった?」と言った。
「あ、あたりまえでしょうが」取り乱してしまう。「うそでしょ、ちょっと。慈洞範カンパニーが一概にわるいわけじゃないって、おれ、言いましたよね」
「でも、ノボルの親しい人間に危害を及ぼすぞ、って脅迫されたんでしょ?」チイが不安そうに口にする。間違ってないよね、と縋るような口調がいじらしく、だからでもないが紡がれる言葉の非情さが余計に引き立てられて聞こえる。「事実、慈洞範梅鬼が、そう言っていたことも確認とれてるし」
「言ってたけど、それこそ、言っただけなんだって」
「じゃあ、充分じゃないか」そう言ったのはサミだった。「ウチのモノを傷つける、そういった意思を表明した時点で、そいつはウチに敵対したことになる。宣戦布告と取られても文句は言えないさ」
「でも、」と煮え切らないこちらの声を遮って、「恫喝するってのはそういうことなんだよ」と語気を荒らげることもなく彼はしずかに主張した。「勘違いをしてはいけないよ。他人を脅すというのは、その手段が、殺傷であろうと言動であろうとに関わらず、得てして害悪なんだよ。それは、裁かれるに値する、重罪だ。そうだろ? その『縛り』をキミに強いた時点で、あの男には、裁かれるべき罪が生じた。それを裁くことに、いったいなんの抵抗があるというのかな」
「でも、だったら」と反駁せずにはいられない。「だったら、梅鬼さんを裁くあなたたちにだって、罪がないとは言い切れないじゃないですか」どんな大義があったって、けっきょくのところ彼らのやっていることは暴力なのだ。暴力に貴賎があるのか、と問う。
「罪がないなんて言いきる必要がどこにあるのかな」サミはしれっと嘯いた。「人が人を裁くこともまた罪だ。だが、それがどうした? いやなら抗え。それもできずに、被害者面をするのはいただけないよ。ひとがするのはいつの世も、己の罪の擦りつけあいさ。責任という名の罪を転嫁しつづける。そんな不毛に生きるしかない」
「……なら、仮におれがこの町のひとを傷つけたら、おれもまた排除されるんですか」
なにを言うの、とチイが割って入るが、さきにサミが、「されないさ」と一蹴した。
「キミは排斥されないよ。キミもまた、守るべき大切な存在だからね。だから仮にキミが、ほかの守るべき大切なものたちと分かち合えない異分子になりさがろうとも、それはマイノリティというだけの話であって、やはりキミは守られるべき大切な存在であることに変わりはない。だからウチでキミを保護するよ」
つまり、拘束するということなのだろう。隔離する、とそういうことになるのだろう。
「やめようよ、こんな話。意味ないよ」チイが悲しそうに言った。
気持ちが沈んでいくのを感じる。
彼女はさらに声を波打たせ、
「ひとがひとを裁くのは、そう、ノボルが言うように、きっといけないことなんだと思う」でもね、と諭すように言う。「やっぱり必要なことなの。だってそうでしょ? いけないことはいけないんだって、誰かが示さなきゃいけないし、けじめをつけなきゃならない。そうでないとみんながみんな、どこまでも、いつまでも、いがみ合っちゃうじゃない。だから、ノボルのその憤りっていうのは、ずっと持っているべき、大切な感情だと思うの。でもね、理想と現実はちがうのよ。求めるものと必要なもの、これらは必ずしも合致しない……当面の目的のためには、理想を歪めなくてはいけないの。たしかにひとを傷つけることはいけないよ。それはウチだって同じだよ。ただね、それでも、ウチらは大切なものを守るために、そうするしかないの」
――お願い、わかって。
うるんだ瞳がこちらを向く。
「チイたちにとって、『大切なもの』って……なんだよ」
伝わらないくらいにちいさな声をため息に載せた。
*
謝礼を言いにいったつもりが、逆に困らせてしまった。味方の傷に塩を塗り込んだような気まずさが残った。
植木場家を出るときに、白護ナミに質問してみた。「どうして人は、守るべきひとを限定するんですかね」
まるで用意された台詞のように彼女は答えた。
「責めるべきモノとなってしまうからです。限定しなくては。だれもかれもが」
今日もまた、追い出されるみたいにして門をくぐった。
振りかえることなく、道を進んだ。
*
地下鉄に乗りこみ、町を離れ、中心街へと赴く。とくに目的はない。ただなんとなく、雑踏に溶けこみたくなった。
商店街を、うろうろ、と彷徨っていたときだ。
「あ、いたいた」
おーい、と手を振りながら女性が駆けてくる。地面を蹴るたびに栗色の長髪が、ふわふわと上下する。見覚えのある容姿だ。あたかも待ち合わせをしていた恋人みたいなノリで、丸九内マリモがやってくる。
恥ずかしくないのだろうか。ノボルは他人のふりをした。
「あのう、えっと、あれえ?」
丸九内マリモはこちらの顔を下から覗きこむようにして小首を傾げた。「どうして無視するんですか」
見遣れば、あまりに哀しそうな顔をしているから、仕方なく応対してあげることにした。
「あの、どうしてここに」と質問する。
どうして場所が判ったのだろうか。さきほどの「あ、いたいた」といった発言からして、偶然ではないのだろう。
「もしかして、発信器かなにかですか」
冗談半分に言ってみると、
「ええ!? どうして判ったんですかあ」
彼女は両手で頬を挟むようにした。
梅鬼氏からもらったカードはすでに破棄されている。服装だって、昨日とはちがう。ならばいつ発信機など付けられたのだろう。身をよじり、背中や靴のうらを調べてみる。
「あ、ちがいますよ」そんないかにもな場所にはないですよ、と妙に親切に教えてくれる。「ノボルさん、今日はまだ、お通じ、済ませてないんじゃないですか」
「おつうじ?」なんのことだろう、と考えて、すぐに思い至る。「ああ、ウンチのことですか」
「あ、……です」若干引き気味に丸九内マリモはうなずいた。「昨夜のお食事には、そのう、たいへん申しあげにくいのですが……マイクロチップを混ぜてありまして」
「はあ?」思わず声を張りあげる。取り乱していることを自覚しながらも、「体内に発信器ってことですか!?」
「す、すみません。ですが、人体に害はないですし、食物といっしょに排出されれば、それまでですから」
こんなに怒られるとはおもわなかったなあ、といった表情で彼女は取り繕った。「ですから、安心してください」
ふざけんな、と怒鳴り散らそうと思ったが、祈るように手を合わせて見上げてくるものだから、気が失せた。「べつに、いいですけど。もう二度としないでくださいよ」
はい、と元気のよいお返事。
「それで、なんの用ですか」
植木場沙巳の話では、慈洞範カンパニーは、今後一切、こちらに干渉してこないのではなかったか。
「あのう、それがですね。わたし、クビになっちゃいまして」
「……急ですね」ここは訊きかえすのが礼儀だろう。逡巡したのちに、「どうしてですか」と問う。
「バレちゃいまして」彼女は歩きだした。ノボルもうしろに続く。彼女の背中に、「なにがバレたんですか」と投げかける。
「わたしとレナさんは、その、なんて言いますか――仲のいい、えっと、あの、あれえ?」
「お友だちでしたか」
「あ、それですお友だちだったんです」とうれしそうに告げた。
話を聞けばどうやら、彼女は暗中飛躍していたらしい。それが露呈したために、解雇されてしまったという。
慈洞範カンパニーの本社には阿堂レナが監禁されていた。その彼女を脱走させたのは、どうやらこの丸九内マリモだったようだ。監禁部屋の扉を開け、阿堂レナに事情を説明した彼女は、ノボルが下車するだろう場所、駅名を教え、そこへ行くように指示した。
その後、丸九内マリモは、梅鬼氏に、阿堂レナの脱走を報告。
戒厳令の敷かれたビル内は、容易にそとへ出られない要塞と化した。
しかし、丸九内マリモは、エスカレーターで降りる際、警備員にノボルの搭乗を許可したと同時に、阿堂レナの搭乗もまた許可したという。
あのとき彼女は言っていた。
――社長か私の許可さえあれば、道央坂さんでも無事に降りられるんです。
考えてもみれば、阿堂レナが単独で脱走できるなら、とっくに脱走していたはずだ。いみじくも梅鬼氏の指摘していた通りだ。阿堂レナは、脱走しなかったんじゃない。一人ではできなかったのだ。
厳戒態勢のビルから阿堂レナを逃亡させるには、梅鬼氏か彼女の助力がなければ不可能だ。梅鬼氏に博士を脱走させる動機はない。つまり、丸九内マリモ以外に、阿堂レナを脱走させることができた人物はいない。
では、なぜそんなことをしたのか。
彼女は言った。「見てられなかったの」
慈洞範梅鬼と阿堂レナ。
混じりあうことなく、いがみあうふたりの想いが。
究極のところ、根本ではおなじ傷から派生したというその過去が。
おなじ桎梏を背負っていながら――似た者同士でありながら。
求めた贖罪のベクトルがちがうという、ただそれだけのちがいで。
自責する身を、どこへ置くかのちがいがあるというだけのことで。
かれらは鏡に映った自分を責め続け、そうして己自身を傷つけた。
自傷という行為で、己の傷を慰めた。
刻んだ傷を舐め合うように、ふたりは互いに傷つけあった。
――見ていられなかったのだという。
阿堂レナが投降してきてからの二年間。
慈洞範梅鬼は、阿堂レナの姿に、いまは亡き、想い人の〝面影〟を見て。
阿堂レナ。彼女は彼女で、せっかく得た〝贖罪のキカイ〟を手放した。
どちらも仮初の〝像〟にすぎない。
だが、その仮初で、ふたりはみたび傷ついた。
負った傷をえぐるように。
けっして忘れぬ傷となるようにと、ふたりは互いに傷つけあった。
それらの悪循環を断ち切るには、その循環の媒介そのものを断ち切らねばならない。
丸九内マリモ、彼女はそう考えたのだという。
――ルフィン。
あいつの存在が、ふたりに軋轢を生じさせ、さらに増幅させていた。
いちど、断ち切らねばならない。
丸九内マリモはそうと考え、実際に断ち切った。
慈洞範梅鬼と阿堂レナ。
ふたりから『ルフィン』を決定的に奪おうと仕組んでみたのだという。
――ルフィンが自分で自分を毀すように。
慈洞範梅鬼と阿堂レナ、ふたりの目のまえで。
――自殺するように。
仕向けたのだという。
***
阿堂レナの開発した『END』は、従来のAI(人工知能)とは異なり、情報を統括する必要性がない。様ざまなカテゴリを立体的に組み合わせることで、情報を断片的に並列化させて思考するという。
びっしりと点を並べて描く絵画が従来のAIだとすれば、まだらに点を置き、離れた点と点を結びつけることで浮かびあがって見える星座のようなものが『END』と言えるだろう、と丸九内マリモは語った。
具体的な思考しかできない従来のAIは、抽象的な思考を苦手とする傾向が高い。そのために、具体的な事項を、その都度見定めて思考せざるを得なくなる。結果として、問題を「問題」と認識するまでのプロセスに、膨大な時間を要することになる。
つまり、これまでに得てきた情報と、現在知覚している情報――双方の情報から、任意の事項に該当する情報を検索しなくてはならなくなる。
言うなれば、情報の砂漠から、たった数個の「種子」を捜しあてるようなもの。膨大な作業となってしまう。人間であれば、適当な砂から、疑似「種子」を見繕うことができる。しかしAIは、すべての情報を検索にかけることで、該当する「種子」を見つけだそうとしてしまうという。
これがいわゆる、「フレーム問題」だ。
AI開発において、切っても切れない隘路となっている懸案事項である。
その時々、場面場面で、任意の枠(フレーム)を見繕い、思考の幅を限定させることが、従来のAIにはできなかった。
フレーム問題の解決なくして、ロボットの円滑な動作はあり得ない。それこそ、人間に相当するロボットなど、創造すらできなかっただろう。
だが、阿堂レナはそれら懸案の払しょくを成し遂げた。
『END』がその集大成だ。
情報のすべてを統括する必要はない。カテゴリの増幅と、そのカテゴリ同士の連結――それらが可能とする情報と情報の複合化。
多層ネットワークと立体ネットワーク。
人間が思考によって創造する「概念」に類似したデータを、AI自らが捻出する。
すなわち――学習する。
『END』は人格を形成するゆいいつの独立型AIだった。
だが、『END』の獲得する人格もまた、最初にプログラムされた基盤を骨子に、肉付けされていく。
最初に規定された制約。限定。そこから大きく逸脱して個性を獲得することはない。だからこそ、丸九内マリモには、『END』の行動をある程度予測し、誘導することができたという。
これはまた、洗脳という行為にも当てはまり得る理屈かもしれない。
洗脳とは、他者の人格に、強制的な限定を埋め込むことで、不定であった行動の幅を制限している状態と呼べる。人は勝手に学ぶものだ。ただし、周囲にある環境を限定されてしまえば、人は、その枠内でしか学べなくなってしまう。その限定こそが洗脳が洗脳足り得る最たる特徴と言えよう。教育と洗脳のちがいは、この情報限定にある。
つまり、丸九内マリモにとって、『END』とは、洗脳された人間に相当していた、という逆説が成り立つのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
ただひとつ明らかなのは、丸九内マリモの計略通りにコトが運んだという既成事実だけだ。
『END』計略を彼女に抱かせ、あまつさえ実行へ移させたきっかけとなった人物がいる。
それこそが、道央坂ノボル当人であった。
心外だ、と憤りをあらわにさせるものの、心中では、それはそうなのだろうと思いもする。
慈洞範梅鬼の落し物を拾い、
阿堂レナの『END』を拾い、
それでいて、梅鬼氏と阿堂博士、双方の関係も知らずに、
『END』の正体を知っていながら匿おうと奔走し、しかし『END』の重要性と希少性には気づいていない。
まるで、利用してくれ、と言わんばかりに都合のよい人材だ。
商店街でルフィンと再会したとき。
男たちに絡まれたあの場には、丸九内マリモも居合わせており、彼女はそこでノボルの存在を知ったのだという。さらにその人物が、慈洞範梅鬼から「コンタクトを取ってくれ」と指示されていた青年であったのだと知り、天命を受けたようだったと語った。
なにがもっとも僥倖であったかといえば、すべてを結びつける人物――道央坂ノボルが、自身の状況をまったくといってよいほどに認識していなかった、希薄なまでの当事者意識。
驚異的な無自覚さ。
これこそがもっとも重要な要素だったのだと彼女は述べた。
「すべてはあなたと繋がっていたんですよ」
ノボルの存在を知った彼女は、慈洞範梅鬼の指示に忠実な部下を演じつつ、裏では阿堂レナへ状況を密告し、脱走を手伝い、道央坂ノボルと接触させた。一方では、阿堂レナが『END』の元へと行きつく時間を稼ぐため、梅鬼氏に虚偽の報告をした。
道央坂ノボルのことを調査していた過程で、植木場家の存在を知った丸九内マリモはその情報を梅鬼氏に隠しつつも、彼に、周到な駆け引きを提示した。それが、梅鬼氏がノボルたちへ投げかけた、「縛り」である。
その「縛り」は実のところ、梅鬼氏本人を縛る隘路となった。
彼女は慈洞範梅鬼を裏切ったのだ。
「縛り」が呼び水となって、植木場家が登場する。それにより、阿堂レナと道央坂ノボルの安全は確定される。慈洞範梅鬼もまた、直接危害を加えていないために、無事で済むだろうことは予測できた。
危うくなったらノボルが庇ってくれるだろう。
そういった希望的観測があったことを彼女はちゃめっ気たっぷりに白状した。
すべてが丸九内マリモの思惑通りに進んだ。
『END』ことルフィンは、阿堂レナと梅鬼氏、双方を解き放つために自滅した。
丸九内マリモの計略に導かれた筋書きは、脱線することなく、本のページを閉じるように、こうして幕を閉じた。
*
阿堂レナは、ふたたび行方を晦ませた。ノボルは、始発の電車に乗る彼女を、プラットホームから見送った。どこへ行くかは敢えて聞かなかった。謝罪も感謝も、別れの言葉すら無用だった。
かたい握手だけを交わした。
*
丸九内マリモからひと通りの語りを聞き終えた。彼女は徹頭徹尾、恬淡としていた。
実感が湧かない。
ノボルはただ巻き込まれ、利用され、何事もなく日常に戻ってきた。
そうか、おれだけが何も変わらなかったのだな。
実感が湧かないのも当然に思えた。
ここでチイたちとの会話を思いだす。
植木場家が慈洞範カンパニーへ圧力をかけた、という話だ。
梅鬼氏は大丈夫だったのだろうか、と不安に思う。
「無事なんですか?」と問うと、丸九内マリモはきょとんとして、「だれがですか? わたしですか?」
わたしはこの通り無事ですが、と自身の身体を見下ろすようにした。
「慈洞範カンパニーが襲撃されたって、聞いてたんですけど」
「ええ、そうなんですかっ」
「えぇ……ちがうんですか」
「そんな話、わたしはなにも……」困惑した顔を浮かべつつも彼女は、ただ、と補足する。「ただ、社長がお雇いになられた方々の行方が不明だという話を、聞いてはいますが」
「雇った方々っていうのは、その、あまり正当ではない方々ってことですか」
「そう……なんでしょうか。すみません、わたし、あまりそういった業界に明るくないものでして」
幅広く、縁浅く。
任されていた仕事における彼女のそれが鉄則だったのだろう。
「えっとつまり、梅鬼さんは無事だってことですか」
丸九内マリモはうなずいた。「少なくともわたしが会社を出たときまでは無事でした」しかめ面のまま頬を緩めて、「表までお見送りしてくださいましたから」
無事なのか。
なんだよ。
胸を撫でおろす。同時にどっと疲れが増したように感じられた。
植木場家が直接に脅しをかけたのはきっと、慈洞範カンパニーではなく、そこに雇われた『同業者』たちへだったのだろう。
これで慈洞範カンパニーは、裏社会で跋扈している輩の手を借りることができなくなった。それだけで、一介の大企業ならば、経済の土台でしかその権力を発揮できなくなる。
そもそも企業とは本来、そういった組織であるはずだ。
しかし資本を得た組織は、権力を得るため、暴力を手にし、その暴力によってさらなる莫大な資本を集めようとする。ときには弱者から貪り、またあるときは同族である権力者から奪おうとする。
世の常とはそういうものらしい。
梅鬼氏はどうなのだろか、と想像する。あの男は、裏の業者を雇っていた。だがそれは今回にかぎっての苦渋の決断だったのではないか。もともと慈洞範カンパニーは極めて善良な企業だったように感じられる。たぶん、そうなのだろうと勝手に納得する。
丸九内マリモ、彼女を馘首にしたのは、慈洞範梅鬼なりの配慮だと思われた。
自業自得とはいえ、植木場家を敵に回したのだ。身の危険さえ感じただろう。
過去、植木場家に敵対された組織は、その勢力規模に拘わらず、息の根を完全に止められている。
――殲滅。
泣きごとを漏らす者すらいなかったのが平常だ。だから、植木場家は巷説(伝説)の域を出ない。これは裏の社会でも同じだった。それが今回、具体的に姿を表し、警告をなした。となれば、その警告は、情報網の細かい裏社会において、またたく間に膾炙し、浸透したことだろう。
純粋なまでの合理社会である裏社会では、もはや、慈洞範カンパニーに関与しようなどと酔狂な人間は、事実上、ほぼ皆無となった。
それだけの影響力を、実力から生じる副次的作用のみで生じさせた植木場家。そこに目を付けられたと知った梅鬼氏の抱く心労は計り知れない。胸に抱く懸念は、畏怖の域にまで達するだろう。いつ、どこで、どのような状況下で、危険な目に遭うか分からない。しかも、警備に〝その道のプロ〝を雇うことすらできないのだ。そんな環境に、丸九内マリモを置いておきたくなかったのだろう。梅鬼氏の温情によって、彼女は解雇された。そう考えたほうが筋のような気がした。
「これで社長は、『END』に執着することなく、事業をすすめられるのだと思います」晴れ晴れとしたように丸九内マリモは語った。
「でも、国からの援助を得ているから、引き下がれないって梅鬼氏が……」
だいじょうぶですよ、と彼女は空を仰いだ。眩しそうに目をほそめ、「社長の手懸けているプロジェクトはなにも、一つだけではありませんから」
「だったら最初から……」と声にだしてから、拘らなくとも、という言葉を呑みこんだ。野暮な疑問だったな、と口を閉じる。梅鬼氏はなにも、本気で『END』を事業のために奪還しようとしていたわけではないのだろう。
きっと、私情のもつれから、なかなか脱することができなかっただけなのだ。彼もまた。
人というものは、支え合って生きているという。それはなにも、優しい感情だけで支え合うわけではない。衝突し、いがみあい、そうして対抗することで、一点へととどまる。そんな、不毛な支え合いもあるものだ。どちらか一方が急に退いてしまっては、もう片方は、前方につんのめり、大きくこけてしまうだろう。そうでなくとも、支えを失くした者は、一点へととどまることなく、不確定に、行き当たりばったりに、とめどなく、猛進するはめになる。そうさせないために、衝突し、いがみあい、支え合っていた。
慈洞範梅鬼と阿堂レナ。
気嫌っていたふたりは、それと同時に、気遣っていたのだろう。
自分がゆるせなくて、嫌いだからこそ、自分と似た相手を嫌い。
自分と似ている相手だからこそ、だれよりも傷つけていられた。
どこまで不器用な生き物なのだろう、人間ってやつは。
まるで他人事のようにノボルはぼやいてみせる。
「不器用ってよりも、武士道って感じですけどね」
丸九内マリモはしたり顔を浮かべた。
「いや、不器用でしょう」敢えてここは譲らない。
***
丸九内マリモとはその場で別れた。
別れ際。
なぜ会いに来たのか、要件はけっきょくなんだったのか、と質問した。
「んー」彼女は視線を宙に漂わせ、ややおどけた調子で、「道央坂さんなら解ってくれるかな、と思ったので」
期待に満ちた視線を向けてくる。
「解りかねますよ」なにも解らないですよ、と答える。
「そうですか」丸九内マリモは笑った。それから、「本当のことを言えばですけど」と顔を伏せ、「社長とレナちゃんの代わりに、わたしからお詫びを言いたかったんです」
立ち止まると彼女は、
――ごめんなさい。
ふかく腰を折った。ゆるく波打つ栗色の長髪が、ぱさり、と垂れる。
「謝る必要なんてないですよ。こちらも同じだけのお返しをしちゃったわけですし」
植木場家のことを謝罪した。
「ですからあれもわたしが仕組んだことなんですよ?」
そうだった。「じゃあ、謝ってください」
「ですから、ごめんなさい」
「そんなんじゃ足りません」
えぇ、と彼女は困ったふうに、「どうすればいいですか」素直に訊きかえす。幼子みたいだ。
「なら貢献してください」とノボルは言った。
「貢献ですか」
「そうです。貢献です。いくらほかの事業があるからって、梅鬼氏は非難されますよ。結果を発表できなくなったんですから。阿堂博士もまた、指名手配される身でしょう。少なくとも、梅鬼氏はまだ、表の権力者――国家権力には顔が利くはずですから」
「……そうですね」
「けっきょくあのふたりは、これからさきも同じように、いがみあって、干渉しあうんですよ。でしたら、それがこれまでとはちがった関係へと繋がるように、調整してあげてください」
「わたしが、ですか?」
「マリモさんならできるでしょう?」根拠はないができるだろう、と思った。
「う~ん。そうですねー」思案気味にうつむいてから彼女は顔をあげた。「それ、おもしろそうです」
おもしろそうだから引き受ける。なんと単純で純粋な動機だろうか。
きっと彼女はそういう人なんだろう。
すこしこわく、けれど呆れた。
「おれを巻き込まないでくださいね」冗談半分に念を押す。
それはこちらの台詞です。
彼女はいたずらっコのように歯を覗かせ、
「かってに巻き込まれないでくださいね」と唇をすぼめた。
すこし考えてからノボルは、実は、と告白する。
「おれ、実はマリモさんのこと、ロボットかと疑ってました」
「うん?」彼女が立ち止まる。「同じだと思いました? ルフィンちゃんとわたしが」
「ですね」とこちらも歩を止める。雑踏にながされないように彼女のそばへ近寄る。「べつに『ストマック』がなくても動けるのなら、ほかにも同種のロボットがいてもおかしくないな、とか思いまして」
そんなわけないですよね、と肩を竦める。
唇の合間からちいさな八重歯を覗かせて彼女は、「確認してみますか」と艶美に身体をくねらせた。両手をうしろに組んで、笑窪をあけつつ、「ためしてみる」と上目遣いに迫ってくる。
生唾を呑みこむ。
「確認とか無理ですって。ためすってなんですか。どうやってですか」
おれは科学者じゃないですよ、と手をわさわさ振る。
「どうやってって……わたしに言わせる気ですか」
「そ、そういう冗談、おれ、きらいです」
「へ、あの、あれえ?」彼女は当惑したように、「冗談じゃないんだけどなあ」としょんぼりした。
反則的にかわいい。チイに見られていたら厄介だぞ、とじぶんを戒める。「ちょっと、勘弁してくださいよ、マリモさん」と泣きごとを漏らす。
「う~ん。頼まれちゃ、しょうがないですね」彼女はあっさり引き下がった。「じゃあ、今回は勘弁してあげましょう」
今回は、ということはすでに次回の予定があるのだろうか。顔が引き攣るのを感じた。
別れの挨拶を簡単に交わす。
駅まで送りますよ、と申し出たものの、「電車じゃないから」とやんわり断られた。
遠ざかる丸九内マリモの背中へ、あの、と投げかける。
彼女は歩を止め、振りかえる。
いじわるのお返しのつもりで問うてみた。
「みんなのしあわせのために働くことと、じぶんのしあわせを優先させること、どちらがより高尚なんですかね」
トコトコと踵を返して寄ってくると、
「もう。そんなこと言って」
丸九内マリモは唇をとがらせた。それから、指揮棒みたいにゆびを振りつつ、いいですか、と謳う。
「いいですか、道央坂さん。自分の幸せを求めてこその人類ですよ。たくさん幸せになればいいんです。そうすればみんなも自然と幸せになりますから」
背伸びをするような、彼女の説教がおかしかった。
あなたは無責任ですね、とノボルは言った。
責任なんてないもの、と満足そうに嘯き、丸九内マリモは雑踏の向こうへと去っていく。
・アフタービート・
『遭遇から邂逅へと変わるプロセス』
***
丸九内マリモとの会話を最後に、あの騒動は、完全に過去の遺物となった。日常のなかで、あのときの記憶を思いだすこともなくなった。
苦い思い出として昇華されてからすでに七カ月が経とうとしている。周辺の山々は新緑を芽吹かせ、鬱蒼とし、蝉噪もだいぶん濃くなった。
いつも通りの時刻、正午過ぎに起床したノボルは、メディア端末が受信していたメッセージを読んだ。
『洞窟のまえで待つ』
それだけの文面で、差出人は不明。知らない番号からだった。
怪訝ではあったが、半ば確信していた。
――きっと、あいつだ。
森を抜け、洞窟のまえまで赴く。洞窟の入り口からやや離れた場所、岩のうえにあいつが腰かけていた。
「元気か?」と彼女があごをしゃくる。
「そっちこそ元気かよ」
くるぶしまで届く長いスカートが風を受け、膨らむ。それを、ひらりと靡かせて彼女は、「この通り」と岩のうえから跳び降りる。
「なんだってまた戻ってきたんです」わざと突き放すような口調で言い、照れくさい気持ちを誤魔化した。「忘れ物でも取りにきましたか。博士」
「ずいぶんな言いようだな」彼女は眼鏡を、くい、とゆびで押しあげる。「せっかく会いに来てやったってのに」
「うれしくないですって」
「うそばっかり」彼女は、ずずい、とこちらへにじり寄る。「ホントにきみは、うそばっかり」
「まあ。否定はしないですけど」うなじを掻く。「で、なんの用です。呼び出してまでわざわざ」
「んや。特にないよ。ちかくまできたから。ただそれだけ」
「そうですか」
さわさわ、とそよぐ風がなまぬるい。
洞窟の壁に、木々の影が揺れている。木漏れ日がキラキラと涼しげだ。
「じゃあ。まあ。これで」行きますかな、と彼女が暇を告げた。「元気そうでよかったよ」
「はやすぎでしょ」苦笑するよりない。逢ってからまだ一分も経っていない。
きっと彼女は気になっていたのだろう。あの日、別れたあとに、こちらがどのような境遇になっていたのかを。安全だったのか、それともまだ事後の余韻を引きずっているのか。
それをわざわざこうして確かめに来てくれたのだ。
迷ったあげくにノボルは口にした。「もっとゆっくりしてけばいいじゃないですか」
「う~ん。でも、待たせてるひと、いるし」
はん、と鼻で笑う。頬を緩めつつ、「ひとのせいにするんですか」と揶揄する。「あなたがロボットじゃないってんなら、自分で決めてくださいよ。自分のことくらい」
「うん。自分で決めるよ。だからこそ、もう行かなきゃ」彼女は柔和にささやいた。「あのひと、わたしがいなきゃ、なんにもできないんだから」
「へ?」
ああ……。
なるほど。
胸のなかが、膨らんで空っぽになった。そこに、なんでもいいから、詰め込めるだけ詰め込みたくなる。今すぐに抱きしめてやりたい衝動を、ぐっ、と堪える。「んなら、しゃーないな」
「そ。しゃーないんだなあ、これがさ」彼女は、へへへ、とまんざらでもなさそうにほころびた。
再会したばかりだというのに、もんどり打って帰ってしまうという彼女。ちょっとどころかほんきで残念に思っているじぶんがいる。
「そこまで送ってくよ」
「うん」
森を抜けるまでの道を並んで歩く。腐葉土のもふもふとした地面がしだいに砂利まじりになり、やがて塗装されたアスファルトの道となる。
素っ気なさを醸しつつ、ノボルは訊いた。「あれはどうしたんだ」
「あれって?」
「ストマック」
「ああ。うん」彼女は答えた。「大事にしまってあるよ」
「落すなよ」
「もちろん」
視界が拓ける。森を抜けた。
坂道に沿って、建物が渾然と並んでいる。駅まではここを上ってすぐだ。案内は不要だ。
気取った調子で彼女が告げた。「じゃ、ごきげんよう」
「おう」片手をあげる。「またな。相方にもよろしく」
ゆるい坂道を、カツカツと上っていく。駅のほうへ遠ざかっていくその背へ向けて、ノボルは声を張る。
「メガネ、似合ってんじゃん」
こちらを振りかえると彼女はうしろ歩きをしながら、ふふん、と得意げな顔をした。眼鏡を、くい、とゆびでかけなおす。
「まえ向いて歩けって」とからかう。「でないと転ぶぞー」
彼女がその場で、ひらり、とジャンプした。見せつけるようなバク宙だ。華麗に着地すると、彼女は大きな声で、こう言った。
「なめてもらっちゃあ、困るね」
【EN-D.CONSTRUCTION】おわり。
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