そらたかくおちるきみへ

 【そらたかくおちるきみへ】 


目次

・プロローグ・

第一章『手紙か手がかりか』

第二章『過去は加護を受け、下降し加工』

第三章『踏み外したってここは底だもの』

第四章『代わる代わる躱すカラス』

第四・五章『現実と真実と虚構の狭間で』

第五章『落ちる、満ちる、朽ちる、果てる』

第六章『人は死ぬよいつだって』

第七章『掃除機で葬式を吸う式、それは好きという数式』

第八章『真相は心臓にわるく、心境は深層でワルツ』

第九章『死者に口なし、障子に目あり』

・エピローグ・

◎伝心羽 森羅

◎香夜乃

◎そらたかく・かぜ裂き落ちる・紙飛行機

・アフタービート・『藪をつついて蛇を足す』

◎店長




   ・プロローグ・

      『旅立ちの決意』

 

 

                 +++

 

 ちょっと急だけど、ごめんね。

 でも、だいじょうぶだから。

 きっとなにもかわらないから。

 

 生きている資格だってなくなっちゃった。

 私にはね。もう、なにもないの。

 穢れてしまったから。

 あんなにも穢されてしまったから。

 穢れた私だから、もしかしたら別の場所へいくことになっちゃうかもしれません。

 でも、待ってますね。

 きっとだいじょうぶです。

 だからみんなは焦らなくたっていいからね。ゆっくり来てくださいね。

 あんまりはやく逢っちゃうと、私、ちょっと気まずかったりしちゃうから。

 ちゃんと生きてくださいよ。おねがいしますよ。

 じゃあね。またいつか。

 ありがとう。

 いってきます。

 

 燈真寺さつえ より

 親愛なる、みなみなさまへ

 

              かしこ。

   第一章『手紙か手がかりか』

 

      ◎

 

 ――――――。

 読み終わると僕は、なんとも言えない不安な気持ちになっていた。

 不安定な場所に追い詰められてしまった感覚、もしくは、不確定な何者かに追われてしまうような曖昧な心配にちかい。

 読まなくてもよかったそれを(途中で放棄してもよかったそれを)なぜか僕は一読してしまったのである。全文をすみからすみまで徹頭徹尾、集中して、順々に、文字へと視線を走らせていた。

 手紙とも小説とも付かない十枚のコピー用紙に文字がぱらぱらと並んでいる。

 印刷された文字で、直筆ではない

 どことなく資料じみた紙面で、印刷されたテキストをさらにコピーしたものだと判る。

 僕はひらいたときとおなじように折り目の通りにそれをたたみ、机のなかへと仕舞う。

 破り捨ててゴミ箱へ捨てなかった理由は、いくつか挙げることは可能なのだけれど、そのうちでもっとも適当な動機としては、書かれていた内容と、その紙が玄関の扉の隙間に挟まっていたことへの疑心。

 ポストに入っていたわけではなく、扉に挟まっていた。

 扉はマンションの通路に面している。つまり、ほかの住人たちにも、この紙の存在は十二分に認識可能な状態で放置されていたことになる。手に取り読んで、ふたたび扉に挟み直すことも可能なのだ。不特定多数に読まれていても不思議ではない。

「あら、ここのネクラさん、こんなヘンテコな手紙を遣り取りしているだなんて、陰気なだけでなく病気だったのね。どうりでねー」

 ――などとあらぬ噂をたてられでもしたらたいへんだ。すでにつぶれてうすっぺらくなってしまっている僕の面目が、まるつぶれどころか、陥没してしまう。

 そうだとも、

 ただでさえ、平凡に拍車をかけて、から回ったその拍車に歪められてしまった僕の「芸術は爆発だ」的なこの美貌にさらなる拍車がかかってしまうのだ。危険である。そうなれば、こんな専業主婦至上主義のマンションになどに居られるはずもない。彼女たちはなによりも見た目でひとを判断する。つぎの判断基準が「噂」ときたものだから、だれかたすけて。

 手紙を扉に差し入れた者が何者かは判らない。

 加えて不明なのが、なぜポストに入れなかったのか。

 誰がどうしてこれを、僕の部屋へと届けたのか。

 いったいなにを伝えたくて、こんな真似をしたのか。

 いくら考えても見当が付かない。

 だから僕は、その紙を捨てることなく、机のなかに仕舞った。

 処分を、しなかった。

 窓を見遣る。

 カーテン越しに、朝日が滲んでいる。

 陽が昇り、夜がかき消されていく。

 なにかが失われれば、同じだけなにかが現れる。

 不思議なのは、その「失われるもの」と「現れたもの」とでの必要度がまったく異なるという点だ。

 正と負では、正のほうがより重宝され、陰と陽とでも、同様に陽のほうが好まれる。

 なぜだろう。不思議だ。

 呑み込まれるくらいなら、僕は呑み込んでしまいたい。でもそのときは、お腹をくださないように気をつけなければならないな、と僕は至極つまらないことを考えた。

 夜がしぼんでいく様がカーテン越しに伝わる。

 

      ◎

 

 およそ十八時間前。

 僕は朝から出かける準備をしていた。

 空は快晴で、窓を開けると気持ちのよい風が吹きこんだ。

 すがすがしい天気だけれど僕は憂鬱だ。

 理由は腹が減っているから。

 至極単純でひどく健康的な理由だ。

 腹を空かしているということ自体は不健康であるものの、腹が空かないよりかはましだろうと考え、僕は自分を慰めるわけなのだけれど、どれだけ屁理屈をこねたところでパンが焼けるわけでもない。

 冷蔵庫を開けてもそこには調味料しかなく、固形物はもとより、飲み物さえなかった。

 昨日、ただでさえ中身のすかすかであった冷蔵庫を僕は漁りつくした。食せる物はおおかた胃袋へ放りこんでしまった。ならば、食べられるものをなにか買いに行けばいい、ということになるのだけれど、それができないからこその、この飢餓だ。

 お金がない。

 ゆえに食事もままならない。

 もっとも、今日はバイトの給料日で、待ちに待った、というよりかは、ギリギリ間に合った、といったような心境だ。

 

      ◎

 

 勤務日ではなかったけれど、バイトさきの居酒屋へと僕は向かった。給料を受け取るためだけに向かった。果報は寝ているだけでは訪れない。奪いにいかねばならぬのだ。

 手持ちのお金はとっくに底を突いている。なので、移動手段は自転車だ。「僕は超人、自転車マン!」といつも妄想しながら、ペダルをこぎこぎ疾走する。単なるナルシストやロマンチストにならぬよう、この妄想のことは誰にも言っていない。気持ちわるさを自覚している分、僕は単なるナルシストでもロマンチストでもない。陶酔していないナルシストかつロマンチストである。制御できている。計画的かつ局所的だ。これは無自覚よりも性質がわるいな、とまで自覚している。――と点で的外れだろう自己分析が、僕は大好きだ。

 

      ◎

 

 居酒屋『こうちゃん』では給料が手渡しであった。

 振り込みではお金の大切さ、もとより重さを実感できないから、というのが店長の持論である。彼は変わり者だ。僕にそう評価されてしまうくらいなのだから、相当である。

 朝は営業していないが、仕込みや仕入れ作業を店長がすでにはじめている時間帯にはなっている。正午まであと二時間といった時刻だ。

 案の定、店の鍵は閉まっておらず、引戸をスライドさせ、お疲れ様でーす、と声をかけながら店内へ足を踏み入れる。

 店長はモップでフロアを磨いていた。そういった雑用こそバイトにやらせればいいのに、と嘆きたくなるような雑務を店長は率先して行う。上に立つ者がもっとも重要な下準備を行う、というのが店長の持論であるらしい。

「あれ、どうしたんだい藪くん、こんな朝はやく?」

 挨拶もそこそこに店長はモップの手を止めずに言う。接客業の主である者がそんなズボラでよいのだろうか、と思いつつも、

「朝早くって、正午まであと一時間ですよ」と指摘する。

「もうそんな時間かい。いやはやタイムいずマネーとは言うものの、時間ってのは貯金できないから厄介だねえ。で、どったの? 給料でも取りに来たのかな?」

「いえ、あの、はい、じつはそうなんです。すみません。どうしてもまとまったお金が必要でして」

 言い訳がましく断ってから僕は、はよそこせや、と店長をせっついた。

「いいよいいよ、そんな見え透いたスケスケの虚栄張らなくたって。せっかくだし藪くんも一緒にご飯食べていきなよ。今よっちゃんが準備しているからさ。どうせまたお金なくって餓死寸前ってやつなんだろ?」

「いえ、そんな」

 わるいですよ、と続けようとした途端に腹の虫が精一杯に間抜けな音をあげた。

「ははは。身体は正直だねえ。遠慮はいらないよ、いっしょにたのしい時間を過ごそうじゃないか」

「やめてくださいよ。そとから聞かれたら僕たち、危ない関係に聞こえますって」

 半ば本気で顔を顰めると、

「へぇ、藪っちと店長ってそんな関係だったんだ?」

 厨房のほうから声がとどいた。

 厨房の暖簾をくぐってエプロンで手を拭きながら、よっちゃんこと香夜乃が現れた。

「そうだよ」と店長。

「ちがうよ」と、僕。

「どっちよ」香夜乃が呆れたように言い、「で、食べていくんでしょ?」とぞんざいにあごをしゃくる。「今ならまだひとり分増やすの、間に合うんだけど」

「あ、是非とも戴きたいです。ご馳走さまです店長」

「はあ? なんで? なんで私にはお礼がないの?」

 それって男女差別だ、と香夜乃がわざとらしく頬を膨らませる。

「男女差別っていうか、因果応報的なね。仁義には応えるけれど、人鬼には応えたくない――みたいなね」

「うだうだ御託並べるもいいけどさ。相手に意味が伝わらなきゃ言葉の意義がないじゃない」

 睨まれたので睨み返す。蛇に睨まれたカエルの気持ちが解るようだ。

「喧嘩両成敗! むしろ、よーせやい」

 店長が割って入ってくる。「どっちもどっちだよね。なに言っているのか、店長には解りませんでしたよ。でも、なんだか楽しそうじゃないですか、店長もまぜてほしいなあ、なんてね」

 はぁ、とことさらふかい溜息を吐き香夜乃は、店長あのさ、と冷淡に呼びかけた。

「なんだい、よっちゃん」

「寒いです。寒すぎて痛いです。痛いうえに煩いです。煩いうえに邪魔です」見下すように香夜乃は目をほそめ、抑揚のない業務的な口調で捲し立てる。「邪魔ついでに言っておきますが、おととい、吉原のママさんが、『お宅の店長さん、ホンマいい加減ウザいですわー』って深刻に嘆いていました。ストーカーするなら迷惑のかからないように――いえ、せめて先方にばれないよう、気を張ってお願いします。気を付けるのではなく、気を張るのです。気を張り巡らせ、気配を沈め、獲物に気取られないよう細心の注意を払いつつ、張った気に獲物が掛かるのをひたすらに、じっと待つんです。蜘蛛にだってできることです、いくら無能とはいえ、人間である店長にできないわけがないじゃありませんか。いいですか、蜘蛛はかかった獲物を殺さずにやさしく丁寧に包んで、あとで食すんです。それも、殺すのではなく、生きたまま、体液を啜るんですよ。殺さずに無傷で美味しいところだけを啜るんです。虫にもできるんですから、人間である店長にできない道理はないんですよ。ほら、まずはケツを出してください、その汚い不潔な愚ケツに、糸を捻り紡ぎだせる穴を空けて差しあげますから。ほら、どうぞ遠慮なさらずに、そこに、そこへ、跪いたらいいじゃないですか」

 最後のほうは鬼気迫ると表するべきか、剣幕で鬼神が見えた、と形容すべきか、香夜乃はいつもよりも気合を入れて、気持ちを入れて――けれど冷淡に――鬱憤晴らすがごとく言い放った。質量を伴った言霊を力一杯に、「えいやっ!」とぶつけるような、物理的外傷を伴いそうな、そんな毒舌であり、いつもにも増して見事な饒舌であった。

 香夜乃は星の数ほど存在する小規模劇団の女優である。感情が高ぶると、以前覚えたであろう劇の台詞を口にするのだが、たいがい血の気の多いサディステックな役柄なので、出てくる言葉も毒ばかりだ。

「ほら。はやく跪いてくださいよ店長」香夜乃がすごむ。「汚れたその卑しい卑しいケツをひん剥いて、高らかに突きあげながら、『わたくしはゴミ虫であります』と声高々に宣言してたらいいじゃないですか。さぞかしお似合いですよきっと」

 微笑むと香夜乃は付け足すように、

「ちょっと藪っちさ」とこちらへ視線を当ててきた。「私の鞄からカメラ取ってきてちょうだい。録画して、吉原のママさんにプレゼントするから」

 なにを撮るんだよ、と聞き返すと、なにって、と香夜乃は視線を戻し、「店長の尻穴が増える様をだよ」と艶笑を浮かべた。

 僕は「スナック吉原」のママさんと店長の関係――店長がママさんへ一方的な好意を抱いていて、そのアプローチの仕方が少なからず褒められた所業ではないことを知らないわけではなかったので、同情しようにもできなかった。そもそもこの場合、香夜乃の言ったことは、棘のある口調以外は概ね正論なので、お門違いな声援をかけるのが僕の精一杯であった。「店長、ひっひっふーです」

「ねえ、カメラは?」

 まだなの、と香夜乃が催促してくるので僕はカウンターに載っている水槽まで行き、そこで飼っている亀さんを一匹取りだした。そのまま香夜乃へ手渡す。

 彼女は亀を受け取ると、

「そうそうこれで、店長のあられもない惨めな姿をね――こうやってポチっとつっ突くと、頭が引っ込んだり手が引っ込んだり尻尾が小ちゃかったりで、だからこれは――カメやッ!」

 彼女、思いのほかノリが良かった。

 せっかくだと思い、

「いやいや。それはカメラでしょ」と被せてみる。

「そうだよね、これがカメなわけないよねー」

 私ったらほんとアンポンタンだなぁまったく、と香夜乃は自分の頭をコツンと叩く。

「いや、カメでしょ」店長が言った。「誰がなんと言おうとも、どっからどうみたって、それはカメさんでしょ」

「あのさ藪っち。殺虫剤ってどこかな? この季節、虫が沸いちゃってホント困るわ。今もほら、どっかでクズが喚いているわよ」

 なんて言い草だ。僕は笑った。

 店長、と進言する。「こいつ、クビにしましょう」

「いや無理でしょう」店長はあっけらかんと言った。

「どうしてですか」

「だって、よっちゃんがいなくなっちゃったら、この店まわらないもの。実際、ここを『飲食店』として成りたたせてくれてるのって、よっちゃんだし」

 経営者あるまじき言動だったが、否定しきれない事実でもある。香夜乃がいなければここは、大学にあるサークルの部室のようなもので、三日と経たないうちに、客と従業員の区別すらなくなるだろうと思われた。

「不甲斐ない店長を詰ってなにがわるいの?」香夜乃は調子にのった。「むしろ店長を更生させるべく、敢えて私は冷たくあしらってあげているんだから。褒められはすれど、文句言われる筋合いなんてこれっぱかしもないのよ。だいたい、給料もらいに来ただけの藪っちにどうして私がマカナイ作ってご馳走しなくちゃならないのよ。しかもお礼を店長だけに言って、私には労いの言葉もないわけ?」

「もちろん手伝うってば」香夜乃を宥めつつ僕は、「で、なに作ってたの?」と話題を逸らしがてら厨房へと逃げ込む。

「あとで話がありますからそのおつもりで」と背後から香夜乃の冷めた声が聞こえ、店長のかぼそい返事がすぐあとに聞こえた。

 

      ◎

 

 香夜乃が食べ終わったころ、店長も『香る夜のスペシャル』を箸でついばみはじめた。(僕は食べるのが遅いのだけれど、香夜乃はそのことを抜きにしても早すぎるのだ)

 食後の後片付けの皿洗いは僕の役割だ。

 お腹もいっぱいになったことだし、本日の目的はすべて完了されたと言ってよく、つまりはこのあとの予定は皆無であり、掻い摘んで言ってしまえば暇であった。

 だからでもないけれど、開店一時間前の午後三時まで僕は、店支度を手伝った。料理の仕込みやら、お酒の整理やらレジの清算やら。たいへん真面目に働いた。

 結局、タダ飯とはいかなかったが、タダより高いものはないので、香夜乃からの理不尽な怒りをもらわずに済む分、よしとする。

 

      ◎

 

「ああそうだ。藪くん」

 店長から給料袋を受け取った時のことだ。

「あの本、もう読んだかい?」と投げかけられた。

「ああはい。興味深かったです」

 感想を述べてから、「明日持ってきます」と、ちゃんと返却する意思があったことを示した。

「いやいや。返してくれるのはいつだっていいよ」きちんと返してくれるならね、と店長は冗談めかし言う。「適当にまた戻しておいてちょうだいな」


 居酒屋『こうちゃん』は、お店として機能していると同時に、店長の住居でもある。スタッフルームは店長の住居と繋がっており、そちらはほとんど書斎である。書斎A、書斎B、書斎C……、と扉に番号札が貼ってある。ものすごい量の蔵書で、そのすべてが店長の所有物だという。

 漫画なども充実していたので、僕はたびたびそこに入り浸った。

 店長から本を借りるようになったのはつい最近のことで、読みたい本の題名を言うと、店長は予言者のように本のある棚を示した。

 最近借りた本は、「我幽(がゆう)芯(しん)」の短編集であった。

 我幽芯は、海外の小説家「ガユシン・レパセザリー」のファナティストであったと聞く。だから自身の筆名もガユシン・レパセザリーをもじったもので、作風もその小説家の影響を受けているとの話だ。

 ガユシン・レパセザリーの名を聞くといつも兄を思いだす。兄が大層気に入っていた作家だったからだが、あいにくと僕は、その作家の本を読んだことがなかった。

 我幽芯という作家は比較的若い小説家であるそうで、覆面作家であり、履歴はもとより、人物像までもがなぞであるという。そういった記事を僕はインターネットを介して読んだ。

 兄のこともあり、気になったので彼の本を読んでみようと思ったわけなのだが、なぜか、彼の本はデジタル書籍化されておらず、またインターネットの記事によれば死亡説も流れており、多くの著作が絶版扱いされているという。

 そんな折に、期せずして店長が蔵書狂だと知り、

「我幽芯の本ってありますか」

 訊いてみたところ、もちろん在るといい、そうして僕はしばしば店長から本を借りるようになった。すべて、我幽芯に関する書物である。

 いま借りている本もまた我幽芯の著作で、帯には、短編集とあるが、中身はどちらかといえばショートショート集のようなものであった。詩集も兼ねていたので、なんだか持ち歩きたくなるような文庫である。ただし、持ち歩きはしない。

「どれが印象にのこったかな」訊きながら店長がメディア端末を操作している。食材の発注をしているのだろう。僕は答えた。「男の子が一番になるやつです」

 ああアレかぁ、と店長はすぐに応じた。「藪くんもなかなか変わっているねー」

「わかるんですか?」僕はやや驚いた。こんなに明確な反応をもらうとは思わなかった。

「だって覚えているもの」店長はこめかみをゆびで小突くようにし、脳みそを強調した。

 うっそでぇ。

 訝しげに声をあげると、店長はサクサクとまるでラップを口づさむように、我幽沁の本の一節――どころか、短編まるまる一つをそらんじてみせた。

 すごい。

 テキストの精確なところまで覚えてはいないけれど、たしかに読んだ覚えのある物語だった。

「どうやったんですか?」

 まさか本当に暗記しているとは思わない。

「だから覚えているもの。印象的だからね、彼の作品は」

「見直しました。超人的ですよ、その記憶力はちょっと。びっくりしました」

「んー。でも。本だけなんだよ」

 ほかのことはさっぱりさ、と店長は照れるでもなく頬を掻いた。


      ◎

 

 店をあとにし、自転車にまたがる。

 駅の通りを抜けていく。

 信号機を待つあいだ、わずかな時間潰しの感覚でメディア端末を取りだすと、メッセージが二件、届いていた。

 とりあえず一番上のメッセージから開いてみる。着信時間の早いほうで、言い換えれば、新しいメッセージだ。

 乃泉(のいずみ)タイナからだ。

 高校時代から付き合いのある同級生で、たしか乃泉は、このあいだの飲み会の席で香夜乃とも仲良くなっていたなあ、と姉妹のように連れ立って歩くふたりの姿を思いだす。

 

 ――Tプラザのベンチにチョコしています。

 ――今から逢えたら嬉しかったり嬉しくなかったり。

 

 文面はこれだけだ。着信時刻は十分ほど前。

「トルネードね」

 自転車を持ち上げ、進路を変えた。

 居酒屋『こうちゃん』から歩いて二十分程度の距離に地下鉄の駅がある。改札口を出ると目のまえにバス停がひろがっており、バス停を抜けてさらに奥へ進むと、ちょっとした広場へと出る。

 ピロティだ。

 中心には、地上へと伸びる螺旋階段があり、それを称してトルネードプラザと呼ばれている。

 乃泉が最近よく口にする「チョコしている」というのは、このあいだの飲みの際に、香夜乃が、待ち合わせの場所に、ちょこんと座っていた乃泉を指差して、「あそこでチョコってる娘がノイズちゃんか?」と言ったことから、待ち惚けして座っている様を形容する言葉として、乃泉に採用された表現である。乃泉は気にいっているようだけれど、しょうじき寒いと思うのは産まれてきてこの方バレンタインと縁のない僕のひがみではないと思いたい。




  第二章『過去は加護を受け、下降し加工』


       ◎

 

「それ、喪服?」

 乃泉はまっ黒なスーツに身を包ませていた。壁際のベンチにインコを思わせる素朴さで腰かけている。

 就職活動中であることは知っていたので、彼女がまっくろなスーツに身を包ませていても別段ふしぎにも思わないし、そもそもスーツが黒いだけでは喪服かどうかの判別をつけるだけの鑑識眼が僕にはないのだけれど、乃泉の手首には数珠が垂れていたので、身内で不幸があったのだなと察することができた。彼女は元々アクセサリーなどを身に付けない質素な人種でもあったので。

「うん。ともだちが――えっと、高校時代のクラスメイトが亡くなっちゃって」彼女はわざわざ言い直して説明した。「お通夜だったの。その子の」

 となりに腰かける。

 敢えて場所を移動しようと提案しなかった。

 以前にもここでいちど彼女から相談ごとを持ち掛けられたことがあった。自分とは無関係な人々が漠然と目のまえを無数に過ぎ去っていく。騒然としていながらに排他的な空間が、彼女にとっては落ち着くのかもしれない。

 横目に様子を窺うと、彼女は俯いており、いつものような覇気がない。友達が死んでしまったのだから詮なきことだ。

 黙っていると、あのさ、と乃泉は言った。

「ん?」

「ふつう、お通夜に警察の人ってくるかな」

「どうだろう」あまり一般的ではないように思う。「ん、なに? なんかの犯罪に巻き込まれて死んだの、亡くなった友達って」

「事故に巻き込まれて、って聞いていたんだけど。あの様子じゃ、事故じゃなかったのかもしれないね」

 それに……、と乃泉は目を伏せる。

「それに?」

「うん。おばさんの――あ、彼女のお母さんのね……その、視線っていうか、目付きっていうか」

「目付き……。なにか変だったんだ?」

「疑心暗鬼って言うのかな、ああいうの。すっごい形相で睨んでくるの。――ううん、私だけにじゃなくって、その場にいた参列者のみんなに。恨めしそうともちがうし、なんだろ、探してるみたいな? 探るような、かな?」

「探る? だれを? 犯人とか?」

 冗句のつもりで言ったのだが、案に相違し、

「うん。たぶん」

 肯定されてしまう。

「殺されたってこと?」

「どうなんだろ。だとしたらニュースとかにもなっていると思うし。でもなんか釈然としない感じだったよ」

「自殺だったのかなぁ」自殺と断定されない不審死だった可能性もある。

「あ、そうかも」

「ちなみに名前、なんて言うの」

「わたし?」

「お前は乃泉だろ。そうじゃなくって」

「あ、亡くなったコの? どうして?」

 なぜ知りたいのか、と問うように彼女は小首を傾げ、こちらの顔を覗きこむようにした。

「だって、その子の死んだ理由、気になってんだろ? だったら調べてあげるよ。こう見えても僕は顔が広いんだ」

「ともだち、少ないのにね」

「あ、そういうこと言っちゃう」

 だって事実だもん、と乃泉はようやく笑った。「ありがと。でもそこまでしてくれなくてもだいじょうぶだよ。ちょっとショックだったなって話を聞いてほしかっただけだから」

「ふつうに気になるから言うだけ言って」

「なにを?」

「だから、亡くなったっていうひとの名前。言いたくないならいいんだけど」

「カナコちゃん」

 小石を投げ捨てるような軽い調子で乃泉は言った。

「小中って私、同じ学校だったの。高校にあがってからは遊ばなくなったんだけど、それでもたまに連絡取り合ってたんだ。電話だけどね。彼氏いるの、とかさ。ほら、前にいちど、藪くんに女の子紹介してあげるって言ったことあったでしょ? それ。その子がカナコちゃん」

 全身が粟だった。わるい予感がし、

「その子の名字は?」

 平静を装い、訊いた。

「結田(ゆた)だよ。どうして?」

「……へえ」気の抜けた相槌しか打てなかった。

 僕は彼女、結田(ゆた)加南子(かなこ)のことを知っていた。

 結田加南子――。

 

 

 話はすこし前に遡る。

 トルネードプラザまで自転車を走らせていたあいだに僕は、着信していた二件のメッセージのもう一方を開いて確認した。

 以前のバイト先で仲良くなった「神灯(かみひ)光姫(こうき)」からの、いつもの誘いメールだった。

 

 現在のバイト先、居酒屋『こうちゃん』で僕が働きだしたのは半年前のことで、それ以前の僕はというと、深夜のコンビニでバイトをしていた。そこで一緒だったのがコウキである。

 お世辞でも都会とはいえない街である。コンビニは深夜になると客足が途絶える。

 コウキがバイトをしている日には、そうして閑古鳥の鳴いているコンビニへと向かい、そこで僕は部外者ながらもバックルームへと身を滑らし、他愛もない雑談をコウキと交わしつつ、廃棄の弁当をむさぼり、漫画雑誌を片手に人生を浪費している。

 批判を俟つこともなく、僕のしていることは泥棒と大差ない。

 コウキから誘いのメールが来れば、僕は何をしてでも、どんな先約があろうとも、自利以外のすべてを擲って、かつてのバイト先であるところのコンビニへと向かうのだ。

 万年金欠の僕としては、バックルームという空間は、食費を浮かせつつも漫画を座りながら読めてしまえる、夢のような空間だった。なにせタダである。

 もちろんこれらは褒められた所業ではないし、或いは犯罪行為でさえあるのかもしれないのだが、僕はそのコンビンニで毎回、百円ジュースを購入しているので、すくなくとも客ではあるのだ。

 だからなんだ、とコウキなら言うだろう。

「客だって人を殺せば犯罪者だ。客が廃棄弁当くっていいという法律はこの国にはない」

 にべもない正論を吐きつけては万年金欠で腹をすかしているかわいそうな僕に、コウキはオアシスを提供してくれる。


      ◎

 

 ――そして今。

 乃泉から、亡くなった友人の名前を聞かされた。

 僕は慄然とした。

 コウキの恋人、つまりガールフレンドが、そのカナコちゃんなのである。

 すごい偶然があったものだ。

 与り知らぬところで乃泉の旧友が僕の知人と付き合っていた。

「死んだって、なんで?」赤の他人の死ではさほど感じない動揺を僕は途端に禁じ得なくなる。

「だから、よくわかんないんだってば」

 乃泉は不機嫌そうに、「ひとの話、ちゃんと聞いてましたか?」と教師じみた口調で言った。

「そうだった。なんかびっくりしちゃって」

「なにが?」

「うん」隠す必要もないと思い、「カナコちゃん。僕も知り合いなんだ」と告げる。「いや、知り合いっていうか、まあ知り合いか」

「うっそ!?」

「ほんと。ほら、コウキいるでしょ? まえ、香夜乃と僕と四人で飲んだことあるじゃん」

 覚えてないかな、と水を向けると、

「覚えてるけど……コウキさんが、どうしたの?」

「だから、コウキの恋人がそのカナコちゃんなんだよ。結田カナコ」

 さすがに同姓同名ではないだろう。

「もしかしてコウキさんの名字って、カミヒ?」

「うん、カミヒ。神灯光姫」

 そういえば、と思いだす。

 コウキは自分の名前が、「光の姫」と書くことにつよい反感を示していた。

「なんで『コウキ』っつー男っぽい名前に『姫』なんか当てるかなあ」と不平を鳴らしていたのを憶えている。・

「カナコちゃんから聞いてた? コウキのこと?」

 ここに繋がるのか、と僕は感慨深いものが湧く。

「うん聞いてた」

 したを向いているのだろう、くぐもった声だ。「前に、そうだなぁ、半年くらい前かな。久々の電話だったとおもう。そのときにね、恋人ができたって聞いてたんだけど……まさかコウキさんだったとはなぁ」

 世のなかって狭いなぁ、と乃泉が口にした。

 嘆くような口調だが、きっと彼女はほかのことに驚いているにちがいない。それを口にしないあたりが乃泉らしくあり、彼女のそういったつつましさが僕は好きだった。

「なんだろうね、やっぱりさ、人って死んぬんだなあ、ってさ――そう思ったことはたしかなんだ。それでもまだカナコが死んだってことが信じられない。受け入れることはできるんだけどね、でも、死んだってことが信じられないの」

「信じる必要もないんじゃないのか」

 現に死んでしまっているのなら。

「そうなんだよね。だから受け入れることはできるの。でもなんだろうな……」釈然としないようで、考えこむようにしながら乃泉は続ける。「うん、だってさ、もともと私の生活の外にいたんだよね、今のカナコは。だから、死んでいても死んでいなくとも、同じなんだよね。あの子が死んだって、私の生活は何一つ変わらない。コウキさん的に言えば、物理的な生活が変わらない、かな? 失った、っていう感覚がないの。だからかな、信じられないんだ。というかね、もしかしたら私にとってカナコはもう、高校にあがったころにはすでに死んじゃった人だったのかもしれない。同じ体験なんか共有できないって解っていながら電話越しに近況を報告し合って、それで以前の関係性だけを継続させようとしていただけなんだろうね。でもさ、それって、アルバムを開いて死んだ人との思い出に浸ることと、対して変わらないことだったんだよたぶん。だから、カナコは死んじゃったけど、もう逢えないんだけど、でもそれは今までと同じで、変わらない気がして、だから結局カナコが死んだってことがわたし、信じられないんだよね。多分これってさ、死んだ人は死なないってことと同じなんだと思う。いま適当に考えてしゃべってるだけだから、うまく言えないんだけど……」

 ごめん、やっぱりなんでもない、と乃泉ははにかむようにした。

「同じ体験なんかどうやっても共有なんてできないよ」僕はわざと突き放すように言った。「僕たちだって同じだよ。こうして僕らは顔を合わせているけれど、でも乃泉の考えていることなんて僕には解らないし、感じていることとか、見ている世界だって同じじゃない。こうして面と向かってたって解らなのは解らないよ。でも、僕は生きているし、乃泉だってそうだよ。生きているなら、それでいいんじゃないのかな」

「つまり、どういうこと?」

「死んだやつのことなんか考えるだけ無駄ってこと」

「ひどすぎる」

 言いながら乃泉は笑った。




                  +++

 

 幼いころの記憶は拙い。けれど、鮮明なままの印象として残っている記憶は、僕にもまだ残っている。

 たとえば、僕の兄はとても優しかったこと。歳は離れていたものの、兄は対等に僕を扱ってくれた。厳しく接することもなく、また、子ども扱いするということもなかった。

 一緒に遊ぶ段でも兄は本気で遊んでくれるのだ。手加減をしないということではなく、本気で楽しもうとしてくれた。遊んであげているではなく、遊んでもらっている。兄自身はいつもそう言って、僕に「ありがとう」と言った。

 なぜ礼を言われるのかが解らなかったので、なぜ礼を言うのか、と問うと兄は困ったふうに、「お兄ちゃんのほうがアマトに遊んでもらっているんだから、ありがとうなんだよ」とはにかんだものだ。

 兄のそんな照れ隠しの顔が僕は好きだった。

 

 三十二階建てのマンションが近所にあった。敷地内にはアスレチック然とした遊具が充実しており、僕らみたいな一戸建てに住む子どもたちにとって、だからそこは極上の遊び場となっていた。

 ソレは極々自然に転がっていた。倒れていた。

 いや、

 ソレはそこに落ちていた。

 マンションの非常階段のすぐ脇で、三メートルも離れていない。

 アスファルト。

 人型。

 チョコレイト。

 溶けた、チョコレイト。

 人型からこぼれでてくるチョコレイト。

 人が寝ている。僕はそう思った。こんな場所で寝ているなんて、酔っ払いだろうか。起こしてあげようかな。でも酔っ払いにあまり良い印象はない。

 僕はしばらくソレを眺めていた。なぜだか、股間が湿っぽかった。

 

 マンションから女の子が飛び出してきた。急ブレーキをかけたように立ち止まる。彼女のまえにはソレが落ちている。チョコレイトがアスファルトに溢れつづけている。どろり、としていて、あまりひろがらない。

「わおっ」

 彼女はおどけたふうに声をあげた。

 ソレを覗き込むようにしゃがみこんでいる。

 女の子は僕に笑いかけた。

「しんでるねっ」

 しんでいる――?

 ああそうか。

 僕はそのときようやく思い至った。自分がなぜ〝ちびっていた〟のかも腑に落ちた。

 落ちていたソレは、

 寝ているのでも、

 酔っ払っているのでもなく、

 ――死んでいたのだ。

 でも、どうして?

 僕の疑問を見透かしたように女の子はのどを伸ばした。僕もつられて顎をあげた。

 そらがある。

 くもがある。

 陽ざしがあって。

 鳶がいた。

 マンションが陰になって見えている。

 まるで巨人のように思われた。

 足元が、くらり、とゆらめく。

 このマンション、こんなに大きかったんだ。地面に足を付けているのに、まるでこのままどこかへ落ちてってしまいそうな感覚に陥る。

 あんな高いところから落っこちたら大変だ。僕は不安になった。

「落ちるなら、いちばん、たかいところからがいいな」

 いつの間にか女の子が僕のよこに並んでいた。こちらを見据えている。見つめかえすと、「ね?」と同意を求めてくる。

 僕は素直にそうだねと応じた。

 ――落ちるなら、いちばん高いところからがいい。

「でも、こわくない?」

「きいてみたら?」

 彼女がソレを指差す。

 言われたとおり僕は尋ねた。「こわかったですか?」

 もちろん、応答など得られるはずもない。

 ふたりして肩を揺らし笑いあった。

 その瞬間、僕らはそこで友達になった。

 いま思い起こしてみても、やはり笑えてくる。僕は手の甲で目元をぬぐった。

 僕の記憶に焼きついた印象。

 アスファルト。

 人型。

 チョコレイト。

 落ちていたソレは、僕の兄だった。



   第三章『踏み外したってここは底だもの』

 

      ◎

 

 乃泉は徒歩だった。自転車には乗らずに、僕は引いて歩いている。

「藪くん、わたし今日、ちょっとひとりになりたくないかも」

 トルネードプラザで乃泉がとつぜん、甘ったれた声で甘ったれたことをぬかした。

「じゃあ実家にでも帰ったら?」

 僕はものすごく愛想よく言った。だのになぐられた。「藪くん、それ、ひどい」

 たしかになあ。僕はしみじみ考えた。かつての親友を亡くしてしまった彼女の心情をかえりみれば、彼女のその甘ったれた迂遠なお願いを無下にすることはひどいことなのかもしれない。そういうわけでいま僕は彼女を自宅であるところのマンションまで案内しているところだ。

「そういえば藪くんって、彼女とか、いたことあるの?」

「なんだよ急に」

 彼女がいるかではなく、いたことがあるのか、という質問。なんだろう、まるで僕がいわゆる「童貞」であることを前提としているかのような具合ではないか。心外だ。

「いないけど。なんで?」

「ふうん。どうして?」

 僕は笑った。こちらの「なんで?」という質問に対して、「どうして?」ときましたか。果たしてそれは、「どうして彼女ができないの」という意味だろうか、それとも、「どうして彼女をつくらないの」という意味だろうか。判断に困る。

「どうしてだろうね」僕ははぐらかしがてら疑問を返す。「どうしてだと思う?」

 乃泉は思案の間をあけるとこう言った。

「ホモだから?」

 自転車のペダルにすねをぶつけた。

「ホモ? 僕が?」なんで、と狼狽しているのは、僕の期待していた返答とまったく異なった、予想だにしていなかった返答を乃泉がしてきたからだ。確認のために僕は、ホモではないことを自分に指摘しておこう。僕はホモセクシャルではない。ちなみに僕が期待していた返答というのは、「好きな人がいるからでしょ?」「やっぱりね」「一途なんだね、藪くんって」「すてき」というものである。

「だって藪くん、つくろうと思ったらすぐに彼女できるでしょ?」

 なぜホモだと思ったのか、というこちらの質問は流された。

「思うんだけどさ、彼女とか彼氏とか、そういうのって、つくろうとしてつくるものじゃないよね。だって、最初に好きな人ありきでしょ? なのに、彼女がほしいから、付き合う、っていうのは、なんだかおかしいと思うんだよ。好きな人ができない限りは、付き合うことってないと思うんだよね。むしろ、付き合ったらだめなんだと思うくらい。さらに言っちゃうと、好きな人と両想いになるってこともまた難しい。だから普通は、めったにカップルが成立することなんてないんだよ」

 かっぷる、と乃泉が声に出して反芻した。まるで聞き慣れない言葉を拾うような口ぶりだ。

「藪くんって」彼女は残念そうに嘆いた。「けっこうガキなんだね」

 自転車のハンドルに股間をぶつけた。

「ガキって……」甚だ心外だ。けっこうカッコいいこと言ったつもりだったのに。「じゃあ、乃泉はどうして好きでもない人と付き合えるんだよ」

「好きになれるかどうかを知るためだよ」乃泉は飄々と答える。「もちろん、相手に自分を知ってほしいってのもあるけど……だから最初はともだちでもいいんだけど……でもそれだと、相手を知ろうとする努力をいつまで続けていいのか分からなくなるでしょ? もしかしたら自分だけが相手を知ろうと頑張っちゃってて、途中から相手はその努力を放棄していた、なんてことになっちゃうのはいやじゃない? だから、お互いに、相手を知る努力と、自分を知ってもらう努力、そのふたつを注ぎあいましょうね、って。そういう誓いだと思うんだよね。付き合うっていうのはさ」

 わたしひとりだけがそう思ってても意味ないんだけどね、と口元をほころばせながら乃泉は眉をしかめた。

「ごめんなさい」僕は頭を下げる。

「どうしてあやまるの」

「いままで誤解してた。乃泉、おまえ、僕より大人じゃん」

「ん? しらなかったの?」

「だって胸が」とここで脇腹に乃泉のスイングした肘がヒットした。「体型と精神年齢は関係ないんだよ藪くん」

「ご、ごめんなさい」

 息も絶え絶えに謝罪しながら僕は、乃泉の考え方に半ば感銘を受けていた。

 なるほど、好きになるために付き合うという考え方もあるのか。

 相手を好きになれるかどうかを知るために――。

 なんてすてきな考え方だろう。

「わたしね」と乃泉が歩を進めながら言った。「もしも付き合うなら、今の話に共感してくれるひとがいいなって思ってたりするんだ」

「そうだね。うん、きっと共感してくれるって。だれだって」

 あとを追うようにしながら僕は尋ねた。「ああそうだ、乃泉。今、好きなひとっているのか? よかったらそっちの相談にも乗るけど」

 おや。聞こえなかったのだろうか。無言でしばらく併走する。横顔を窺うようにするも、わざと目を合わせないようにしているようだと判る。

「あそっか」僕はどうやら早合点していたようだ。「もう付き合ってるひと、いたんだっけ?」

 乃泉が立ち止まった。

 僕も遅れて歩を止める。

「どうしたの?」

「藪くん。それ、わざと?」

 わざと――?

「なにが?」

 上目づかいに睨まれる。

「……なんでもない」

 呟いて乃泉は早歩きで歩をすすめた。すこし先で、立ちどまり、

「藪くん」とこちらを呼ぶ。

 なんでございましょう、と応じる。

 彼女は顔だけで振りかえり、

「――ガキすぎ」

 吐き捨てた。

 髪を振りかざすようにまえを向き、そのまま足早に去っていく。

 乃泉を追うため自転車に乗ると、彼女はまっすぐと僕のマンションへと入っていった。

 僕は苦笑する。

 なんだよ。場所、知ってんじゃん。

 

      ◎

 

 エレベータのまえで乃泉に追いついた。

「歩くのはやいよ」僕は女の子みたいに言った。

「藪くんがのろまなだけ」乃泉がクールな男の子みたいに応じた。「そんなんだから彼女のひとりもできないんだよ」

 傷つきそうなのを我慢して僕はぐっと天井を仰いだ。だって涙がでちゃう、モテないんだもん。

 ようやくエレベータが到着した。扉がひらく。中にはだれも乗っていない。乗り込む。「二十四階」と表示されているボタンを押す。扉が閉じる。わずかな加重を感じる。上昇中。チーン。黙祷。扉がひらく。見慣れた通路。

 この階には、八世帯分の部屋がある。

 僕の部屋はフロアの中央に位置する。左右にはいわゆるお隣さんが住んでいる。いちおう、近所づきあいは良いほうだと自負している。

 通路先に誰かがしゃがんでいた。

 僕の部屋のまえだ。目を凝らすがよく見えない。

「よっちゃん?」乃泉が呟いた。

 しゃがんでいた人物が立ち上がる。「おそい!」

 声で確信した。香夜乃である。こちらへ、クマのようにドカドカ歩んでくる。

 僕は立ち竦む。

「もう。なんでまっすぐ帰ってないんだ」がさつな口調で香夜乃が言った。「あー腹へった。なんか食わせろ」

 極めて横暴な挨拶を頭ごなしに吐かれるこちらの身にもなってほしい。

 そのくせなぜかよこにいる乃泉に対しては、「久しぶりね」とたおやかに微笑むのだ。

「急で申しわけないとは思うんだけれど、私もお邪魔させてもらうわね」

 ごめんね、と恭しく付け足す始末だ。

 僕は訴えたい。差別いくない!

「今日はもう諦めてたのでかまいませんです」満面の笑みで乃泉は、「むしろうれしいです」と香夜乃に抱きついた。

 よしよし、と彼女の頭をなでながら香夜乃が、「おいこら藪蛇」とすごんできた。

「……なんでありましょうか」

 乃泉をなでなでしたままで香夜乃は眼光炯炯と僕を射るだけで、なにも言ってこない。まるで、言わなくとも分かっているよな、と脅しているような具合であるが、なるほどなんのことかさっぱりだ。

 そもそも、と僕はメディア端末の時計を見る。この時間帯、香夜乃はまだバイト中のはずだ。なにゆえここにいるのだろうか、と疑問する。ともかく彼女たちを部屋へお通しすることにした。

 立ち話するには場所がわるい。

 なにせ、僕の隣人たちは変人だからだ。

 部屋の鍵を差しこんでいると、ふいに隣のドアがひらいた。噂をすればなんとやらである。

 背中までとどくながい髪はゆるくウェーブがかかっている。ネグリジェ姿で、寝起きと思しき倦怠感をまといながら、頭をぼりぼりと掻きつつ、隣人こと「泉谷(いずみや)いずむ」通称――イズ姉が現れた。

 目が合う。

 彼女は表情筋の一切を微動させることなく、のどの奥からしわがれた声を発した。

「酒、ある?」

 ありません、と断絶しようと僕が唇を湿らせたあいだに香夜乃が、「あ、そうそう」と声をたてた。「私、とっておきのを持ってきてたんだった」

 見ればたしかに僕の足元には一升瓶が三本置いてある。どうやらバイト先から高級な酒をくすねてきたらしい。ということは、店長がまたふらりといなくなってしまったということだろう。

 盗っ人をはたらく香夜乃は褒められたものではないけれど、しかしあの店長にはこれくらいのお灸は据えられて当然だと思われるのもまた然りである。

 足元の一升瓶に目をやるイズ姉。万年鉄仮面の彼女の顔が一瞬だけほころんだように見えた。

「おい、さっさとあけろ」

 イズ姉がネグリジェ姿のまま出てきて、僕の肩に手をまわした。息をとめる。なにせ彼女、ものすごくいい香りがする。以前にふたりきりで酒を酌み交わしたときなど、その香りに惑わされないようにするのに苦労した。斟酌せずに言えば、僕はイズ姉のにおいを嗅ぐと欲情する。むろん一途な僕であるだけに童貞は死守しているが、ただ臆病なだけと言われれば否定するのはむつかしい。

 

      ◎

 

 香夜乃とイズ姉は知り合いだ。香夜乃と乃泉が姉妹ならば、彼女たちは「師妹(しまい)」となる。

 一方で乃泉は、イズ姉と面識はないはずだ。様子を窺っていると、乃泉がなにやら下唇をかみしめて、恨めしそうな顔をしている。

 目が合う。

 なんだろう、その、縋るでもなく咎めるでもない中途半端な上目づかいは。

 言いたいことがあるなら態度ではなく、言動であらわしてほしい。僕は肩をすくめ、玄関をくぐる。彼女たちも、うしろにつづいた。

 乃泉だけが、お邪魔します、と口にする。いいコだ。

 師妹コンビはなにやら通信メディアを介して情報交換をしている。礼儀もなにもあったものではない。いや、靴を脱いであがってくれただけでも御の字かもしれない。彼女たちに慎みぶかさ、もとより礼儀という名の常識を期待するなんてドラゴンから翼を奪い、火を吐くなと言いつけ、わたしはトカゲです、と名乗らせようとするようなものだ。無謀であり無茶である。

 が、いつかはしてみたいと思わせるくらいには彼女たちとの仲は浅くない。言っても出会って三か月だけれど。

 

 

 どうやら香夜乃は酒だけでなく、つまみなども大量に仕入れてきてくれたようだ。あっという間に宴がひらかれた。ちなみに僕は下戸であるので、酔っ払いの輪には加われず蚊帳のそとだ。

 初対面であるはずの乃泉とイズ姉は、なにやらすっかり意気投合しており、それこそ杯を交わしていた。その呪われし「師妹」の誓いの采配を握っていたのが、香夜乃であることは、僕のこの明晰な頭脳を駆使することなく導かれる必然であるだろう。僕が蚊帳のそとなのは、それこそ香夜乃のせいである。

 香夜乃は鯨飲だ。もっとも今日はイズ姉の手前だからか、高級酒であるところの「松尾芭升」にはあまり手をつけていない。ちびりちびりと舌さきを浸す程度である。

 イズ姉もまた香夜乃に引けを取らないほどに飲むかなりの酒豪だが、香夜乃とちがってイズ姉は酒を、我が子のように慈しんで飲む。食べちゃいたいほど愛おしいので食べちゃったといった塩梅だ。一向に酔いつぶれることのない、冬の海を思わせる飲みっぷりは、眺めているだけでこちらまで胸がほくほくしてくる。

 ただし、ひとつ難点がある。

 彼女、酔うと脱ぎはじめる。体温があがって暑いのだろう。しかし今日は、はなからネグリジェ一枚だ。ブラジャーとパンティを含めれば三枚である。

「あの、酒のほうが底を突きそうですしそろそろ」

 宴もたけなわ、終わりにしてはどうか、そのまま帰ってみてはいかがか。

 おそるおそる窺うと、

「あ、じゃあ私買ってきますよ」

 香夜乃がいらんことを抜かし、こちらが止める間もなく部屋を出て行った。

 マンションのとなりにコンビニがあるので間もなく両手に山盛りのアルコール飲料を持って戻ってくるはずだ。

「にしても暑いな」

 言いながらイズ姉がネグリジェを脱ぎはじめた。

 僕はぎょっとし、いつの間にか二人きりになっている状況に危機感を抱き、

「乃泉さがしてきます」

 いつの間にかいなくなっていた乃泉を探すべく、居間をあとにする。


      ◎

 

 一般的に考えれば乃泉は、化粧直しといったところだろう。酒を飲んだのだからそう考えるのが妥当だ。

 廊下に出るとトイレの明かりは消えたままで、なぜか僕の部屋の扉が開いていた。

 隙間から覗くと乃泉を発見した。

 僕のベッドのうえで、なにやら悶えているように身をくねらせている。

 ――なにやってんだ?

 はぁ、はぁ、と息遣いが荒い。

 ――まさか。

 僕は焦った。けれどもう、僕には理性を働かせる余裕などはなかった。

 勢いよく扉を開け放そうとしたところで、

「なゃッはっはっはー」

 乃泉が腹を抱えて転びまわった。

 …………おそかったか。

 肩を落とし僕はその場にへなへなと崩れ落ちた。

 乃泉が振り返る。目があう。彼女の目じりがいやらしく下がった。

 ほてった頬をふくらませて、「うぷぷ。藪くん、これ」と手を掲げる。

 手には大学ノートが。

 表紙には、「詩的で私的な指摘」とある。断るまでもなく、僕の字だ。

「……読んだの?」

「藪くん、才能あるね」

 うぷぷ、とこらえきれない陽気をわざとらしく漏らし、彼女は純粋に僕を虚仮にした。

 

 ところで、誰にだって見られたくはない、あれやこれや、といった妄念の類はあるだろう。通常、それらの妄念は、「精神」という名のベールにつつまれており、他人に露呈することはない。

 けれども人というものは、そういったせっかくつつんでいたベールを剥ぎとることに快感をもよおす生き物らしい。それは、他人にある秘密であれ、自分にある恥辱であれ、変わらない。

 自分の裡に隠された、あれやこれや、をあばく性質。

 人間にはそういった「表現」という性質が備わっている。

 表現されたあらゆる妄念は、その姿を五感で感受可能なかたちで顕在させる。音楽であれ、絵画であれ、彫刻であれ、歌であれ、ダンスであれ、みんなそうやって姿を現すのだ。

 僕にもまた、そうした「表現」の魔性にとり憑かれていた時期がある。

 中学二年生の時分で、いわゆる思春期だった。

 いずれにせよ、乃泉が手にしているその大学ノートには、僕の内なる妄念が、うんざりするくらいの誇張と潤色をまとった「言の葉でできた箱」に詰め込まれ羅列されている。きっと「言の葉でできた箱」を振ってみれば、カランカラン、とくぐもった鈴の音がひびくに相違ない。中身などスッカスカである。

 ――詩。

 それは言葉の絵画である。

 その人物の目から視えた風景そのものと言えよう。

 しかしながら、残念なことに、視えもしない風景を描きたくなる時分――現実逃避したい時期こそ思春期なのである。

「なにがいちばん、おもしろかった?」

 平静を装い、僕は訊いた。敢えてそうすることで湧き立つ恥辱を覆い隠そうとした。

 乃泉は寝そべったまま足をぱたぱたさせている。

 えっとねぇ、とノートをひろげ、舌足らずな声で朗読した。

 

「  染みた、なみだ、海よ

   枯れた、こえは、風よ

   疲れた、からだ、山よ

   垂れた、よだれ、川よ

   晴れた、きもち、空よ

   目覚めた、わたし、朝よ  」

 

 僕は赤面した。

 乃泉は腹を抱えて悶えた。そのまま笑い死ねばいい。

 彼女は続けて唱えた。声がふるえている。笑い死ねばいい。

 

「  時は過ぎ去り、一度きり

   今は二度と繰り替えさない


   なぜか暦に惑いし人は

   四季に、正月、年度末

   今年も来たと喜怒哀楽


   時は過ぎ去り、一度きり

   今は二度と繰り替えさない  」

 

 あたりまえである。

 時間は不可逆だ。そんな当然のことを偉そうに宣巻いている場合ではない。社会における前提を蒸し返したくらいでいい気になるんじゃない。僕はむかしの自分へそう言ってやりたかった。その通りだよと。おまえの認識はただしいよと。だから、そんな間抜けな詩をつくるよりも、もっと有益なものを手に入れるために時間を費やしなさいと。僕は本当に言ってやりたい。

 乃泉はそれから続けていくつかの詩をよみあげた。彼女によみあげられただけで、僕の入魂の詩たちは、たちどころに恥辱のかたまりへと変貌をとげていく。耐えられなくなり、僕はすなおに打ち明けた。

「かんべんしてください!」

 土下座しそうな勢いで泣きごとを吐いた。

 僕の頭を撫でるようにし、乃泉は言った。

「藪くん、こういうのがタイプなんだ?」

 なんの話だろう。

 面をあげると乃泉が手にしていたのは、ナイスバディの女性が裸体でポーズを決めている表紙のあれである。あれと言えばアレしかない。枕のしたに隠していたアレである。だから僕はあえて言わない。

 そんなアレを乃泉がしげしげと見つめていた。枕のしたに隠していた理由は、ざっと百項ほど挙げ連ねることが可能である。そのうち、もっとも打ち明けたくない理由としては、枕のしたに好きなひとの写真を敷いて眠るとそのひとの夢を視る、というなんとも胡散くさい巷説――その応用的検証をしていたから、というものだ。絶対に知られるわけにはいかない。もし乃泉の手にしているそれが仮に好きなひとの写真であったならば、まだ情状酌量の余地が生まれたものの、僕の枕のしたからこんにちはしたのは、一般的な男子が、おのれの情けないチョメチョメをチョメチョメするために足りない想像力を補うためのアレである。

「藪くんはおっぱい大きい女のコのほうが好きなんだね」

 ひととおり中身を改めるとなぜか乃泉は不機嫌そうに言った。

「おっぱいに大きい小さいなんてないよ。おっぱいはあるかないかだからね」

「ならおっぱいがないコは嫌いなんだ」

「おっぱいがないコなんていないよ。だから僕は女のコが無条件に好きだと言える」

「へんたい」

「知ってる」

「ならこのなかでどれがいちばんタイプなの」

 乃泉は持っていたアレを投げつけるようにし、そこに映る蠱惑的な女性たちのなかから一人を選べと命じた。

 蠱惑的な女性ばかりなので選ぶのはむつかしかったが、怖い敵のような女性ならば僕には選ぶことができそうで、それはまさに今目のまえにいる乃泉だったのだか、しかしそれをバカ正直に口にできるほど僕には勇気がなかったので、命じられるがままに僕は女のコの目のまえで裸の女性たちを審査していく。

 どれくらいそうしていただろう。ふと気づくといつの間にか乃泉が、僕のベッドのうえで寝息をたてていた。

 彼女の顔のよこには大学ノートが転がっている。

 今のうちだ、とばかりに拾おうと腕を伸ばすと、なぜか僕は態勢をくずした。

 乃泉が抱きついていた。

 いや、これは抱きつくなんて生易しい表現では足りない。

 巻きつかれている。締められている。がんじがらめといった具合だ。

 だのに彼女は目を閉じたまま、くーくーとかわいらしく寝息を立てている。

 寝ぼけているのだろうか。無防備すぎやしないか。僕は乃泉の今後を心配する。

 彼女の脚が僕の足に絡みついている。膝を割るようにして足の付け根に彼女の太ももが当たっている。

「ちょいちょい。乃泉さん?」

 こちらの声に反応を示すことなく、或いは反応したためか、彼女は僕の背中にうでを回すようにした。さらに寝がえりを打つみたいにしてこちらの胸にほっぺをこすりつけてくるではないか。

 一途な僕もこれには苦笑い。

 このまま男としてひと皮剥けるのも一興かもしれないな、なんて思いはじめたとき、ふと、かつてよんだ詩の一節が脳裡をよぎった。

 

「 戦わぬひとが

     弱いだなんて

         いったいだれが

    決めたのですか

 

   競わぬことが

      逃避だなんて

         どこのどいつが

    決めたのですか

 

   生きる

     というのは

       抗うことです

 

   抗うわたしに抗うことです 」

 

 そうだとも。

 抗わねばならぬ。

 僕は一抹の理性をふるいたたせ、乃泉をやさしく振り払った。

 欲情にながされるな。

 そこに愛はあるのか。

 自問することなく、そんなのは自明である。愛はある。僕は乃泉が好きだ。だからこそ、手は出せない。いや、手を出さない。

 そうだとも、これでいい。

 僕は自身に言い聞かせるようにし、立ちあがってからワイシャツを一着、手に取った。

 ベッドで眠るさびしそうな乃泉をのこし、じぶんの部屋をあとにする。

 

      ◎

 

 リビングに戻るなり、買い物から戻ってきていた香夜乃がものすごい形相で僕を睨んだ。

「おまえ、ほんとにタマついてんのか?」

 あうち。見透かしたようなことをおっしゃる。

「そんなこわい顔するからしぼんじゃったよ」

「つぶすぞ」

「どこを!?」

 イズ姉がなにか言いたげにこちらに視線を寄越す。涼しい顔をしているからって騙されてはいけない。彼女、あれで結構に酔っている。油断は禁物だ。

 彼女の手元には数年前から愛用しているらしいメディア端末が握られており、それはあたかも、誰かと連絡を交わしていたといった感じが漂っている。

「どうしたんですか」とイズ姉に投げかける。

「トマトくん。ひとを呼んでもよろしいか」

「僕はアマトです」間髪容れずに抗議する。「失礼ですよ。ひとを真っ赤な野菜みたいに」

「すまんすまん」わるびれる様子もなくイズ姉は、「で、甘党くん、ひとを呼んでもよろしいか」

「ですから僕はアマトです」どちらかと言えば辛党だ。「ひとにものを頼む態度じゃないですよ、それ」

「するめするめ」するめイカを食いちぎりながらイズ姉は言った。「で、マントくん、ひとを呼んでもよろしいか」

「僕はヒーローの代名詞的ゆったりとしたつくりの外套じゃないです。わざと言ってますよね」

「酔っぱらってしまって」

「うそだ。わざとです」

「ぱっぱらぴってしまって」

「わざとじゃない!?」

 もういいや。訂正するのも面倒くさい。

「ひとによります。だれを呼ぶんですか」

「シンラだ」

「……ああ」僕は逡巡する。

 ――伝心羽(でんしんば)森羅(しんら)。

 彼もまたイズ姉と同様に、僕のお隣さんである。

 イズ姉とシンラさんはどうやら学生時代からの知り合いらしく、たまにこうしてお酒を飲みあう仲らしい。けれども、僕の見聞の範ちゅうでは、仲睦まじいといったふうではない。イズ姉いわく、「腐れ縁」だそうだ。

 シンラさんと僕は、なぜかうまが合わない。いや、こうして苦手意識が芽生えてしまっているのは僕のほうだけであり、一方のシンラさんはというと、なにかにつけ僕との交流を深めようと干渉してくるので、余計に僕の苦手意識に拍車をかける。

 僕はこの部屋の、あるじ、たる威厳を声に宿した。

「だめですっ」

「ありがとう」

 つぶやきイズ姉は手元のメディア端末のボタンを押した。

 ほぼ同時にリビングの扉がいきおいよくひらく。

「おじゃまするよ」

 さわやかな発声で伝新羽森羅ことシンラさんがあらわれた。遠慮会釈もなくあがりこんでくる。いくらなんでも、はやすぎる。玄関のまえに張り付いていたのだろうか。なんて暇人。むしろ鍵はどうやってあけたのだろう。イズ姉の仕業だろうか? まったくもうなんだってこのひとは、と僕はイズ姉にワイシャツを投げつける。自室から持ってきていたものだ。半裸のイズ姉をこのままにしてはおけない。僕の理性がもたないからだ。僕だって男の子だい。

 

      ◎

 

 いつにもまして今日はなにやらめかしこんでいるシンラさんは、紺のスーツにハット帽、ネクタイにはピンもしてあり、上着のなかにはカーディガン。極めつけは、革製の靴。

 ん? クツ?

「今すぐぬげっ!」僕は叫んだ。

「安心したまえ少年」シンラさんはすてき笑顔を浮かべた。「これは新品だ」

 会話が成り立たない。僕は早々に匙を投げた。

「シンラ、酒」

 イズ姉が座ったまま手を差しだした。

 みごとなまでに端的な催促だ。

「そうだったね」シンラさんは上着からウィスキィをとりだした。「ほら、報酬だよ」と放る。

 片手で、ひょい、と受け取ると、

「またのご利用を」イズ姉は中途半端に言った。それから僕に一瞥をくれる。「みず。ロック」

「はいはい」

 僕は唯々諾々とキッチンへ向かう。

 

      ◎

 

 シンラさんの職業を僕は知らない。また、イズ姉がどんな方法でもってお金を稼いでいるのかも知らない。どうも二人とも堅気の仕事ではないようだ、といったくらいには想像していたりする。イズ姉は見た目どおり魅力的な肉体をもった女性で、警戒したくなるほど艶っぽい。シンラさんもまた端正な容姿で、体つきだって男の僕からしても理想的に思われるほどだ。

 一方でシンラさんの雰囲気は、どこか危うい。いかつさとは無縁のおだやかさに包まれた人物ではあるのだけれど、掴みどころがなく、むしろどこを掴んでもいいくらいの変人に映るときがある。

 たとえばこのあいだなんて、シンラさんは、ホームレスのような恰好をしていた。あまりかかわりたくない身としては、どうしたんですか、と尋ねるわけもいかず、遠巻きに眺めていると、

「いかすでしょ、これ」目ざとくこちらを見つけては近寄ってきた。「カッコいいから取り換えっこしてもらっちゃった」

 聞けばホームレスと自前の服を取り換えたのだという。金額からすれば数万単位かそれ以上の差額があったはずだ。ふつうじゃない。

「ヤマトくん。たいな姫はどうした」イズ姉が訊いてきた。カップにくちびるをつけて、水割りをちびりと舐めている。

 ところで僕の名前は、どっかの戦艦みたいな名ではない。けれども指摘するのも面倒くさい。僕はながした。

「眠ってますよ。僕の部屋で」

「ほうか」

 頷きイズ姉は、せっかく着たワイシャツを脱ぎはじめた。僕は目を伏せる。

「シンラさんもどうぞ」香夜乃がよこにずれ、カップを差しだした。「こりゃどうも」と彼は座った。

 僕だけまた蚊帳のそと。

 おっかしいな。

 たしかここは僕の部屋なのだけれど。

「なに突っ立ってんのよ」香夜乃がすごむ。「あんたも座るの」

 言われるがままに僕は座った。

 ちゃぶ台を囲むかたちで四人が座っている。

 僕の向かいに香夜乃。左側にイズ姉。右側にシンラさん。

 なんだろう。

 気まずい。

 どうしてだれも話さないのだろう。僕がいるからか? 僕がいると会話が弾まないのか?

 イズ姉はマイペースに酒に舌鼓を打っている。香夜乃は香夜乃で、この部屋に飾っておいた漫画(骨董品でレアな品)に目を通しているし、シンラさんは相も変わらずにすてき笑顔を僕や彼女たちへ振りまいている。僕はいたたまれなくなって、口をひらいた。

「あの、みなさん。なにしに来たんですか?」

 むしろいつまで入り浸る気だろう。

 僕が珍しく険のある声を出したからか、

「私、じゃま?」

 香夜乃がしおらしく言った。

 おまえ、だれだよ。

 面食らう。

 こんな可愛らしい香夜乃なんて、香夜乃じゃないやい。

「好きなだけいてください」

 言うと、香夜乃は冗談めかし、

「ちょろいぜ童貞」と言った。腐っても女優というだけあって、性根が腐ってやがる。

「シンラさんは」と水を向ける。「なにしに来たんですか」

「ボク、じゃまかい?」

「邪魔です」

「……だよね」

 静寂。

 さらに数分後。

「……え、だからなんで来たんですか?」

 あぶないあぶない。

 危うく、このまま居座られてしまうところだった。

「シンラさん、用があるなら言ってください。ないのなら出ていってください」

「藪くんは、〝獣憑き〟――って知っているかな?」

「はい?」

「古より、人には邪悪なものが憑くとされてきた。悪魔だの、妖怪だの、悪霊だのとね。そういったものを総称して、獣憑き、と呼ぶんだ」

「なんの話ですか?」

「獣憑きの話さ」

 話の意味はわかる。

 が、その話を僕にする意図がわからない。

「で、それが何なんですか」僕は努めてぶっきらぼうに言った。

 はやく要点を言うがいい。そして消えるがいい。

 寝転がってマンガを読み耽っている香夜乃を窺うようにしながらシンラさんは、最近、と言った。

「最近、この近辺で自殺者が出ている。急増中だ。それは知っているかな?」

 聞かない話だ。「いいえ」

「ではこう言えばどうだろう。十二年前――」

 そこで僕の心臓が嫌な弾み方をした。

「十二年ほど前だ。市内のとあるマンションで、立てつづけに落下事故が起きた。幾人かの人間が転落死したんだね。みな、マンションの最上階から三つしたの階から落ちて死んだ。でもね、そっちはどうやら自殺じゃなかったらしいんだ」

 香夜乃が耳をそばだてているようだと気配で判った。

 シンラさんはなんでもない調子でこう告げた。

「最近この周辺で急増している自殺者。彼らも身投げなんだってね」

 十二年前の落下事故。シンラさんは敢えて、事故、と表したのだろう。けれどあれは事故ではなかった。事件だった。でも僕は表情を消し、感情も消して、投げやりに反問する。

「それが、どうしたんですか?」

「うん。興味深いなと思ってね」

 シンラさんは憎たらしいほど爽やかな笑みを浮かべている。

 

      ◎

 

「おはようございます」

 背後から声がとどき、振り返ると扉のまえに乃泉が立っていた。

「なんでだれも起こしてくれないの」

 眠そうに目元をこすり、僕のよこに座った。せまい。

「ねえ、ノイズちゃん」香夜乃が声をかけた。

 なんです、と乃泉は小首を傾げる。

「獣憑き、って聞いたことある?」

「獣憑き……? キツネ憑きならありますけど」

「お、よく知っているね」シンラさんが嘴を挟む。「むかしは、そう、タヌキに化かされただとか、キツネに憑かれただとか、そう言ったんだよ」

「それがどうしたんですか?」乃泉はちいさく欠伸をはさんだ。

「う~ん。よくわからないのよね。シンラさんが急にそんな話をはじめちゃって」

 ふ~ん、と興味のなさそうな乃泉はそこで、はっと気づいたように、居住まいをただした。

「は、はじめまして。あの、わたし、乃泉たいな、と申します」

 そういえば乃泉はシンラさんと初対面だった。まだ寝ぼけているのだろう、言葉遣いが幼い。

 ――ああ、きみが。

 シンラさんが珍しく笑みを消した。けれどすぐに相好をくずし、「お噂はかねがね」

「どんな、おウワサですか?」

 訊きかえす乃泉もたいがいだ。

「チョコレイトのようにほろ苦く、きょとんとするほどに、ちょこんとおわしている。まるで妖精のような女の子だとボクは聞いていますよ」

「だれから?」乃泉の頬が上気する。

 僕も聞きたい。だれがそんな歯の浮く台詞を言ったのだろう。「誰の台詞ですか?」

 はは、とシンラさんはみじかく笑った。「だれだっけ?」

 出ていけよ。二度とくるな。

 思ったが口にしない僕は偉い。

 シンラさんの要件はいつだって、適当なでっち上げじみている。要するに、なんの要件もないのだろう。にも拘わらず、こうして僕のテリトリィへ侵入してこようとするものだから迷惑千万このうえない。

 

      ◎

 

 マンガに飽きたのだろう、香夜乃がリビングを漁りはじめた。

 我が家といわんばかりの横暴だ。僕はここぞとばかりに抗議する。

「おい。ここは僕の家だぞ」

「知ってる」

 香夜乃は部屋をほじくり返す手を止めない。

 八つ当たりも甚だしい。

 僕は言った。

「店長とケンカするのは勝手だけど、その鬱憤をウチで晴らすのはやめてほしい」

「いやよ。別にあんたでもいいのよ。私のために死んでみる?」

 もうなにも言うまい。勝手に漁ってろ。

 乃泉とイズ姉はふたたび意気投合し、談話に花を咲かしている。聞けばどうやら猥談だ。酔っ払った女どもの猥談ほど艶めかしく過激なものはないもので、僕は閉口した。

 シンラさんはもちまえの適応力で、彼女たち魔性のくちびるが紡ぎだすピンク色に染まった言の葉たちをものともせずに、ずっと顔面に微笑を張り付けている。さながらマネキンだ。

 またしても僕は蚊帳のそと。

 時刻は二十時をまわっている。

 もういいや。

 僕にだってほかに友達はいる。あんな薄情なやつらなんて知るもんか。

 泣きたくなるのを我慢しながら僕は、今日も泣く泣く自宅をあけ渡す。

 

      ◎

 

 近所のコンビニではないほうのコンビニに向かいながら僕は考える。

 シンラさんは言っていた。

 ――最近、この近辺で自殺者が出ている。急増中だ。

 彼の言わんとしていることが模糊としてではあるけれど、ほんとうは、わかっていた。

 きっと彼は知っているのだ。僕が、十二年前に起こった連続殺人事件の関係者であることを。

 そしてシンラさんは疑っているのだろう。最近になって増えている自殺者が、その過去の事件となにかしらの接点で繋がっているのだと。

 疑っていたからシンラさんは、かまをかけたのだ。

 僕に。

 そしてあの場にいた、三人にも。

 ふと道端に目がいく。泥水に浸かった雑巾のような塊が転がっていた。

 猫の死体だ。

 車に轢かれたのだろう。元々の体毛がなに色だったのかも判別つかないほどぐちゃぐちゃだ。

 腹の底から湧きあがるような痺れが、全身の表面を伝った。僕は見なかったことにする。

 メディア端末を取りだし、メッセージを作成する。

 神灯光姫に今から行くと伝えた。  




                  +++

 

 今でこそ僕は、彼女の名が燈真寺(とうしんじ)さつきだと知っているのだけれど、それでもあの当時の僕は、彼女についてなにも知らなかった。

 彼女と出会ったあの日から数日のあいだ。兄の葬式やら、事後処理やらで、両親ともに、ばたばたとしており、兄が自殺したことで両親が急に過保護になってもいたこともあり、僕はしばらくのあいだ親のテリトリィから出られないでいた。

 彼女と二度目に会ったのは、兄の死から二カ月後のことである。

 兄の落下地点。つまりは、兄の死んだ場所――僕が彼女と出会ったあの場所に、花をお供えしに行った日のことだ。母に連れられて僕はそこに立っていた。

 マンションの入口のよこには階段があり、各階を経由しながら渦を巻くように最上階まで伸びている。もちろん、マンションにはエレベータが設置されているので、滅多に階段をつかうひとはいないし、そもそも、その階段をつかうには、いったんマンションのなかに入ってからでないと、のぼれない。

 三階を越すあたりから壁が途切れ、階段が露出する。町並みが展望できる設計になっており、兄はその階段から飛び降りたのだという。

 すこし離れた場所に母は花を添えた。通行の邪魔にならぬようにとの配慮なのだろう。母のうしろすがたがやけに小さく映ったのを覚えている。

 兄の落下地点を見遣る。

 溶けたチョコレイトのシミが、まるで兄の影のように滲んでいる。

 たくさんの献花がお花屋さんみたいにこんもりと山をつくっている。

「わお」

 声がとどき、僕の胸は楽しげに跳ねた。

 声の主がだれであるのかはすぐにわかった。

 彼女に逢えたらいいな、とここへくる道中ずっと考えていた。

「えっとお、あれ?」

 わたしとアナタは知り合いだっけ、とでも言いたげな様子で彼女は、とことことそんな効果音が似合う歩き方で僕のとなりまできた。離れた場所に佇む母の姿を確認すると、「ああ」と納得の声をあげた。

「あら?」彼女を見て母は言った。「こんにちは。アマトのおともだち?」

「こんにちは、おばさま」聞こえた声は、僕が知っている彼女のそれとは異なっていた。「わたしたち、おともだちです」

 大人びた口調だ。僕の抱いていた彼女の印象は、わお、と快活に声を漏らす、そんなひょうきんな女の子だった。

「そうなの。よかったわね」母は無理やりうれしそうにし、「なかよくしてやってね」と僕の背を押しながら、「この子おともだち少ないの」と困ったように言った。

 ばつがわるいのと、格好わるいのとで、僕はむずがるように肩をゆすった。

 母は機嫌がよかったのか、その日、僕をその場にのこし、家路へ去った。もしかすると、長男を亡くしたことで多少ナーバスになっていたかもしれない、とこの時になって、ようやく自覚したのかもしれない。思えばその日を境に僕は、以前とおなじように遊びまわることができていた気がする。

 女の子はいちども名乗らなかった。けれども僕は彼女のことを、「シーちゃん」と呼び、慕った。

 どんな経緯で僕が彼女に「シーちゃん」とあだ名を付けたのかは覚束ない。それでも僕にとって彼女は、「シーちゃん」だった。

 

 兄が落ちたマンションは自殺の名所だったとあとになって知った。これまでにも幾人かが飛び降り、亡くなっていたそうだ。兄が死んでからも幾人かが同じように亡くなったと聞く。

 そう。

 僕があのマンションを訪れなかった二カ月のあいだにも誰かがあのマンションから落下し、死んでいた。

 たくさんの献花は、その亡くなった彼らへ送られたものだった。

 シーちゃんはとても利発な女の子だった。彼女との歳の差がいくつあったのかを当時の僕は知らなかった。

 僕にとってシーちゃんは、友達であると共に、優秀な先生でもあった。僕の知らないことをシーちゃんはなんでも教えてくれた。

「赤ちゃんがどうしてできるのか、知ってる?」

 今でこそ僕は赤ん坊がどうやって母体に宿るのか、その手段を知ってはいるけれど、どうして赤ちゃんができるのか、その仕組みを説明することは未だにできない。生命誕生のなぞを解明している者など、現在において、ただのひとりもいはしない。

 にも拘わらずシーちゃんは、赤ちゃんが宿る手段と仕組み――その両方を僕におしえてくれた。

「赤ちゃんはね、男のひとの破壊衝動が、女のひとの恐怖と交わってできるの」

 シーちゃんは言った。

「破壊衝動っていうのはね、虚しいって気持ちを生むの。心を空っぽにしちゃうんだよ。それでね、恐怖っていうのは、縋りたいって願いを生むの。空っぽの心を満たしてほしい、って願いなの」

 虚しさを、満たそうと、縋る願いで――満ちる空。

 そうして虚しさが渇いた願いで満たされると、赤ちゃんができるのだと、シーちゃんは謳った。

 



  

   第四章『代わる代わる躱すカラス』

 

      ◎

 

「もしもの話だけど」

 前置きしてから僕は口火を切った。

「自分の友達とか、親しい誰かが殺されたら、コウキはどうする?」

「今日はそうきたか」コウキは相好をくずし、「相変わらずだな」と嘆き口調で言った。

 いったいぜんたい、なにがどう相変わらずなのかは生憎と身に覚えがないのだけれど、おう相変わらずだ、と相槌をうっておく。

「そうさな」

 コウキは事務机に頬杖をついた。いかにも、真剣に考えてみましょうか、といったふうである。しばらくそうして、監視カメラの映像がながれている画面を眺めていた。店内に客がいないときはこうして店員はバックヤードで休んでいる。僕はしずかに応答を待った。

 ふうん、とコウキが唸る。

「親しい者が殺されたら、ねえ。それはあれか、そのままの意味か? 『傷つけられたら』ではなく、『殺されたら』って意味だろ」

「そうだね」

「殺されたらどうするか、かあ。ふうん。殺されたらどう思う――ではなく、どうする――と訊くところが中々どうして藪っちらしい」

 どこら辺が僕らしいのかが皆目察し至らない。僕はかるくいなし、「で、どうするの」と返答を促す。

「ああうん。そうだな。多分、何もしないだろうな。ただ、そうだな……うん。その殺人者がオレのまえに現れてくれさえすれば、オレはそいつを殺すかもしれない」

 いや殺すだろうな、とコウキは言った。言いつつも、煙草を取りだし、火を点ける。

「だったら探してでも殺すべきじゃないの?」

 仇が目のまえに現れたら、なんて悠長なことを言わずにさ。

 僕はろくすっぽ考えもせず口にした。

「藪っちは誤解しているよ」言いながらコウキはよこを向き、そうして僕に当たらないように副流煙を吐く。「オレは復讐がしたいわけじゃない。オレが抱かされているこの腐った感情の捌け口に、その殺人者を割り当てたいだけだ。つまり八つ当たりだな」

「八つ当たり」

「そう、八つ当たり。断じて仇なんかじゃないんだよ。だってそうだろ? オレが傷つけられたわけじゃあない。オレの右腕を奪った、なんつーことになれば、そりゃあ問答無用でそいつの右腕を奪いに行くけど――まあ、あれだ。オレがされたなら、同等の仕返しをしてやるってことだけど、オレではない、誰かが、たとえそれがオレの知り合いであっても――、オレ以外の誰かが傷つけられたからって、オレは加害者に対して何もしやしないよ。オレができることと言えば、害を被っただろう人間の治療くらいなものだからね。でも今の話では、その被害者が死んじゃっているわけだろ? だったらオレにできることなんてのは、それこそ骨を拾って埋めてやることくらいだ」

 実にコウキらしい理屈である。

「あれ、そういや前にもこの話したよな」

「だね」僕は述懐する。「死んだ者が悲しんでいるだとか、死んだ者の遺恨だとか、無念だとか、そんなのは総じて生きている人間が一方的に抱いている思い込み、生きている者が自分のために抱く感情だ、って話でしょ。でもそのディスカッションの結論は、意思や感情というのは、そもそもが生きている人間のものだから、そうやって死者を悼み、死者の視点に立って、死者を慈しむというのは、生きているという証明――つまり人間が人間らしく存在するためには必要なプロセスだって話で結ばれた。僕の記憶ちがいでなければ、そう主張したのはコウキのほうだったはずだけどね」

「そういやそうだったかな」コウキは煙草を咥えた。眉を顰めつつ思いっきり吸い込む。煙を吐き出しながら、「ああ、そうそう、あのときの藪っちといったら何がそんなに気に食わなかったんだかな」と顔をゆがめ、くつくつとのどの奥のほうで笑った。「いやいはや、『死んだ者を敬う気持ちのどこが利己的で恩着せがましい感情なんだ』とかなんとか口角沫を飛ばしちゃってまあ。うだうだとオレに突っかかってきたっけ」

「コウキの言い方がわるかったんだよ」僕は弁解する。「だって、あのときのコウキの理屈でいえばさ、生きている限り――生きようとしている限りは――すべての思想や行動が、自分の都合で生み出された自分勝手で打算的な思慮である、ってことになっちゃうでしょ。その揚げ足取りみたいなさ、なんていうの? そう――コウキの屁理屈に僕は腹を立てたんだ。人を悲しむのも、人を助けようと思うのも、それは打算的とか、そういったことじゃないだろうに」

「いやいや、だって」コウキが反駁する。「それは藪っちがそうやって、他人を助けたり、人が喜ぶ場面をみることで満足できる人間だからだろ? 藪っちはあまねく人間が傷つくことが嫌いなだけで、だからそういった場面を極力自分の世界から排除したいだけじゃないのか」

「そうだよ。それの何がわるいの?」

「わるいだなんて一言も言ってないし、たぶんオレはあのときだって、そんなことは宣巻いちゃいなかったはずだぞ」

「でもコウキの口調では、どこかそのことに反発的だった」

「だからさ、たぶんあのときも言っただろうが、オレが指摘していた点はだな。ああもう面倒っちィな――もう二度とこの話はしないからよおっく聞いとけよ。理解しようとする意思がないわけじゃないんだろうからさ。しっかりと聞いてくれ」

「おっけ」

 理解できるかは保障しないけれど、と内心で呟く。

「オレが言いたかったことはだな。結局はどいつもこいつも、自分の視ている世界、自分のいる世界でしか物事を認識できないし、だからこそ、自分を中心にしてでしか思考できないよ、ってことだ。人のためを慮って思考している、だなんて言うけどな、どんな人間も、自分の世界を抜けだして世界を視ることなんざできやしないんだ、他人の世界を覗くことなんかもっとできるわけがない。できたとしても、それは他人の世界を覗いたつもりになっているだけだ。そもそもオレたちは世界を視ちゃいないだろ、目で見ているわけじゃないんだ。五感から得た情報をもとに、選別して、過去の情報と照らし合わせて、何度も何度も瞬時に取捨選択しつづけて、そうやって己の世界を構築しているだけだ。脳のなかでな。オレたちが言う本当の世界、ってやつは、そういった己だけの世界のことなのさ。でも実際はちがうだろ? 本当の世界っていうのは、自分の外にある、広大で雄大で偉大な――それこそ宇宙のことだろうに。でも、それでもオレたちは、その宇宙を完璧には認識できないんだよ。曖昧で希薄な世界しか認識できないし、構築できない。でもって、個々人が己の内に構築する自分の世界っていうのは、個人差があるわけで、だからこそ、常日頃オレたちは誤解や錯覚、思い違いや見間違い、気の迷い、なんてものを引き起こしちまう。もちろん、誤解や思い違いなんてのは、言葉が拙いだの、相手が発した情報が曖昧だっただの、人為的なものが原因なものも多々あるだろうさ。でもな、それら人為的な原因で引き起こされた、そもそものきっかけこそが、【自分の世界】と【他者の世界】とのあいだに生じている【世界のズレ】なんだ。もちろんそこには、本当の世界とのズレも含まれる。――と、ここまではわかるな?」

 正直に打ち明けた。「わからない」

 はぁ? とコウキが呻く。

「わからないけど、でも、続けていいよ」と先を促す。

「わかんねえのか……。まあそれも、オレの世界と藪っちの世界とのあいだに生じているズレなんだろうな。――まあ、ここまでくれば、あとは簡単なこった。オレたちゃ、そうやって死ぬまで己の世界で生きていくしかない。でも、その己の世界ってのは、ひどく脆いものなんだ。ちょっとしたことで崩れちまう危険が、己の裡に世界が構築されはじめたその瞬間から、すでに組み込まれちまってる。でもって、人によって己の裡の世界がそれぞれにちがっているみたいに、その脆い部分も千差万別、いろいろだ。その脆い部分ってのは、鍵みたいなもんで、特定の刺激が加わると、己の世界を揺さぶるんだな」

 こうぐらぐらとね、とコウキは身体を左右に揺するようにした。

「――で、その特定の鍵ってのが、たとえば藪っちで言えば、目のまえで人が傷つく現実だったり、人が死ぬ場面だったり、残酷な風景だったりするわけだ。でも、必ずしもほかの者たちが藪っちと同じようにその鍵で、己の世界が揺さぶられるかってえと、そういうわけでもない。むしろ藪っちの鍵で、世界が安定しちまう人間だっているわけだ」

「人を殺したり傷つけることで安定するってこと?」

「そゆこと」

「さっきから聞いてたけど、ようするにコウキの言う『己の世界』っていのはさ、心のことでしょ」僕は先ほどからずっと口にしたかった旨を指摘した。

「う~ん。いや、心とはちがうんだ。心ってのは、要するに感情だろ? 思考や倫理や道徳や良心とか、そういった理性、または逆に、欲動や憎悪などを司る感性のことだ。それらを総じて『心』と呼んでいる。ちがうか?」

「それを僕に訊かれても困っちゃうんだけど」

 僕は学者じゃない。

「でも、仮にそうだったとしたら、なんなの? コウキの言う『己の世界』と『心』って、なにがどうちがうの?」

「だとすればやっぱりちがうね。大いにちがう。オレの言う『己の世界』っていうのは、オレらが普段から身を置いていると思っている、この空間的世界も含めた【認識している世界】そのもののことだ。そんで『心』ってのは、得てして精神的なものとして扱われている。でも、オレの場合、精神と物理世界を切り離して考えたりはしていない。同等のもの――いや、乖離することのできない複合的なもの、かな」

「表裏一体、ってこと?」

 煙草を灰皿に押し付けながらコウキは、ううん、と首をよこに振った。「それだとさ、――表裏一体だと、裏と表に分けられるっしょ? オレがいま話しているこの理屈では、そもそもが分けられないんだよ」とコウキは強調した。「たとえばだが、己の裡に世界を構築しているから感情が生まれるのか、それとも感情があるから世界が構築されるのか。自我が先か、認識が先か。藪っちはどっちだと思う?」

 コウキの問いを僕は咀嚼する。

「認識というのは、外の世界を、ってこと?」

「そうだな」

 世界が先か、自我が先か――という問題。

 自己あっての裡なる世界なのか。

 世界あっての自己なのか。

 身体があるからこそ世界が視える。けれど、身体と自我は同一ではない。身体と自我が同一だとするならば、死体にも自我があるということになってしまう。それはやはりちがうだろう。死体は物であって、そこに自我はない。やはり、身体と自我は別物だ。

 身体とは即ちシステムなのだろう。機能してはじめてその意義が生じる。

 ――自我を生み出すためのシステム。

 ――世界を認識するためのシステム。

 自我がなければ身体はただの高感度な有機的機械にすぎず、世界を構築できなければ、それはただの虫けらだ。機械か虫かのちがい。どちらにしても人ではない。

【自我の育み】と【世界の構築】どちらか一方を削った途端に人は人とならぬのならば――。

「――同時じゃないのかな」僕は答えた。「認識するからこそ自我が生成されるし、自我が存在するからこそ、外界を認識して、己の世界を構築できる」

「うん、オレもそう思う」コウキは首肯した。「だからこそ乖離はできない」

「ああ、なるほど。複合的なものなわけなんだ」

 持ちつ持たれつ、切り離せない、というわけだ。

「ただ、それだけなら表裏一体でもいいわけだ」

「あ。本当だ」

「口頭で説明するには多少ややこしいから、なんとも形容し難いんだが。たとえばさ、他人は自分を映す鏡だ、なんて言ったりするじゃん」

「まあ、たまに聞くね」

「それっつーのは、とどのつまり、見ている光景は総じて自分の鏡である、とまで拡大して言えることだと思うんだよ。この比喩はどう? 解りやすいっしょ?」

 僕は正直に述べた。「わかりにくい」

「そっかあ」コウキは首をひねり悔しそうにした。「わかりやすいと思ったんだけどな。まあ、それもこれも、藪っちの世界とオレっちの世界に生じたズレなんだろうな。まあ、要するにだ、世界が歪めば人格も歪むし、人格が歪めば、世界も歪むってことだよ」

 どういうことだろう。

「自分のせいで世界が歪むことなんてあるの?」

「だからさっき説明したじゃんか。己の世界には脆い部位があるんだ。その部位に合うような鍵がだね、こう、ひょいと目のまえに現れちゃうとだ、途端に世界は歪んじまうんだよ」

 こうぐらぐらとな、とコウキはまた椅子をガタガタと揺さぶった。

「はあ、なるほど」

「納得した?」

「まあ、一応は。でさ、それが『死者を思いやることが利己的な感情だ』という理屈とどう結び付くの?」

「あれ、そんな話からきたんだっけ?」

「そうだよ」笑いながら僕は呆れた。「そもそもは、親しい者が殺されたらどうするか、っていう話だったじゃないか」

「あぁ? ったく、それはいつの話だよ。藪っちは、なに時代から来た人ですか?」

 勝手に脱線しといてよく言える。僕はさらに呆れた。

 ぽーん、と客の来店を報せるインターホンが鳴った。

 会話は一時中断し、従業員らしくコウキはバックルームから出ていく。

 監視カメラの映像。コウキの接客ぶりを観察しながら僕は考えていた。

 どのタイミングで、カナコちゃんの死を伝えればよいだろうかと。

 この数時間、コウキの様子を窺っていたのだけれど、そこからは、恋人の死を悼んでいるような気配は見つけられなかった。

 コウキは知らないのだろう。

 カナコちゃんがもう、生きてはいないことを。

 ――死んでしまったそのことを。

 二人の交際を知る者はけっして多くはなかっただろうと思われる。コウキはただでさえ人づきあいが希薄だ。

 コウキの落胆する顔を想像するのは難しかった。怒りにふるえる表情もまた浮かべられない。





                   +++

 

 シーちゃんと出会ってから半年が過ぎた。

 その日は雨だった。

 もうすぐ雪が降りそうな気配なのに、空から落ちてくるのは雨だった。どこか粘り気をおびた雨で、けがれているから粘っこいのだろうかとそんなふうに夢想しながら僕は傘をささずに濡れていた。

 口から漏れる息はしろい。

 魂のかけらだろうか。

 こうしてひとは呼吸をしているかぎり、魂がはがれていく。

 生きているかぎりひとは、魂を吐きだしつづける。

 そうして、放たれた魂のかけらは、風に舞って、だれかの体内へと吸い込まれていく。

 白くけがれた魂が世界に揉まれて、しぼられて。

 けがれの嵩んだ魂が、ふたたび白くけがされる。

 呼吸の役割は、けがれとけがれの代謝を促す尻尾をくわえた大蛇のごとく無へと向かう輪っかのごじゃごじゃ、卑猥なもじゃもじゃ、ねじれた僻邪(へきじゃ)。

 マンションを仰ぐ。したから見上げたのではてっぺんは見えない。いつだって僕はつぶれた地殻のうえにいる。

 そらはたかい。

 僕はちいさい。

 雨つゆはもっとちいさいし、でもそのちいさな雨つゆも、蟻にとっては溺死するに充分な脅威をともなっている。

 ちょうど、このそらに比べてちいさなこのマンションも、僕ら人間にとっては、落ちるだけで死にいたる脅威をはらんでいるのとおなじように。

 兄が落下した地点に僕は立っていた。

 ついさっき、シーちゃんが男のひとの手をひいて、マンションのなかへと入っていった。僕は手を振った。シーちゃんはこちらを見た。なのに、顔色を変えることなく、ひどく冷たい雰囲気をまとったままだった。まるでシーちゃんじゃないみたいに、自動ドアの向こうに去っていった。

 僕は入口のまえで佇んでいる。

 雨つゆにぬれて。

 僕はそこにぽつねんと。

 見あげていた。

 ――ああ、おちる。

 僕はみていた。

 ――ああ、おちる。

 僕はみていた。

 ひとが液化するその瞬間を。

 僕はそのとき如実にしった。

 ひとは固体ではないのだと。

 みずで、できているのだと。

 僕はみていた。

 男がひしゃげたその狭間。

 男がおちて、ぶつかった。

 男はつぶれて、音をたて。

 男が溶けて、ながれだす。

 つらつらと。

 つやつやと。

 まっくろいろのと。

 まっしろいのと。

 まっちゃいろのと。

 まっかいろのと。

 チョコレイト。

 男はおちて死んでいた。

 それそれは。

 みにくくて。

 とてもとても。

 おかしくて。

 たいへん異形な。

 死にざまだった。

 半身が捻じれ。

 足もねじれ。

 ひざを支点に間逆に折れて。

 ――こわれている。

 ――ひしゃげている。

 頭蓋が割れて砕けている。

 脳髄が豆腐をこぼしたみいたいに飛び散っている。

 途中で壁にぶつかって、回転しながら落下した。

 僕はみていた。

 じいっ、とみていた。

 ――チョコレイト。

 そらを仰ぐとマンションの階段に、ずっと遠く、天にちかい場所からひょこりと顔が覗く。

 こちらに向けて手を振る少女は、あの子はそう、見紛うことなく快活にわらう僕のよく知るシーちゃんだった。 

      ◎

 

「この社会ではさ、殺人が許容されていないだろ? 死刑っていう例外は存在するっちゃするけどさ、それでもその死刑ですら、殺人という認識はされていない。そうは思わないか?」

 適当にうなずいて僕はさきを促した。コウキは続ける。

「獣と化した人外の駆除。災害の排斥。その程度の認識だとみんなの中では意味付けられている――オレにはそう見えるんだ」

「そう?」

 懐疑な相槌をうちつつ、

「というよりもみんなってだれ?」と茶々を入れる。

「みんなはみんな、オレ以外のみんなさ。そうだな、みんなはそんなふうには考えていないのかもしれねーな。つーよりも何も考えていないんだろうな。賢い選択だ」

「選択か」

「選択だ。それは思考の洗濯でもあるのかな。白紙にすることで黙認するんだな、みんなはさ」

 紙パックのジュースを唇に運び僕は、二口飲んでから、「洗剤はいれたほうがいいの?」と紙パックを、くいと掲げる。

「洗剤は必要ない。だってもともと汚れてなんてねーんだから。この社会で、何がもっとも忌むべき問題かっつーとそれはだな、その思考が汚れに見えちまってるってこと、それだと思うわけだ」

 オレさまはね、とコウキは机を蹴って椅子ごと回転した。

 回ることがそんなに楽しいのか、というくらい、コウキは顔をほころばして回転した。子どもみたいに無邪気だ。

 回りつつコウキが足を伸ばす。デスクに引っ掛かる。ぴたり、と回転が止まる。コウキは講釈を続ける。

「よくあるだろう? 何の関わり合いも持たないあかの他人を無差別に殺したやつが、『誰でも良かった』って答えることがさ。口裏を合わせているみたいにみんなそう言うんだ。まあつっても実際はさ、いかにも敵いそうのない人間にゃ手を出していないっつーところを鑑みればだ、真実だれでも良かったわけじゃねえんだろうけどな。それでもまあ、仮に、そいつに無敵の力が備わっていたとしようか。だとすればそいつは、自分以外の誰しもを、赤子を蹂躙するみたいにして殺傷できちまうっつーことになるわけで、だから多分そいつは、本当に無差別に――自分の暴力のとどく範囲に獲物がいたっつーだけの、とんでもなく理不尽な判断でもって、適当かつ無味乾燥に、淡々と人間を殺せるんだとオレは思うんだよ。あれは、オレが思うに、社会の外に自分を置くこと――それを諦めちまったんだろうな。いや、社会のしがらみからはどうしたって逃れられない」

 やつらはそのことに絶望したんだろうよ――とコウキはまた机を蹴って回転した。

「抽象的すぎて伝わらないんだけど」椅子の回転が治まるのを待ってから僕は口にした。「言わんとすることが、僕にはわからない」

 ああそうだろうね、とコウキは笑った。

「オレも適当に話しているだけだ、気にするな。おなじ話を藪っちの口から聞けば、オレはきっと、黙って本屋へ向かうよ」

「専門書でも買うの?」

「いや。辞書を探しにだ。藪アマト語なる難解な言語についてのな」

 僕は苦笑する。ねじれた揶揄を受けながす。

「で、八つ当たりってのはどういうこと?」と話を元の軌道にもどす。

「なんだ、随分こだわるな」

「そういうわけじゃないんだけど、コウキの話はだいぶ世間とずれているから、聞くぶんにはそれなりに楽しい」

「議論するには稚拙すぎるけど、か?」

 先に言われてしまった。「わかってるじゃないか」僕は口元を吊るす。

「そもそもオレはこの世のなかに悪だの正義だの、正しいのだの幸せだのって、そういう二元論がまかり通っていることに疑問をもっている。たぶんそれは、大多数の者が持っている疑問だろう。ただ、疑問を大多数が持っているからといって、それだけじゃこの世のなかが変わらないことぐらい、オレにもわかる。疑問よりも、実質的な便宜のほうが、みんなには必要だからだ。この社会に、二元論は必要だった。簡潔な基準が必要だったんだな。馬鹿な人間にも、不肖な人間にも、人間として発達途中な幼児に対してもね。必要とされているからこそ、なくならない。オレが言っていること、これぐらいはわかるだろ?」

「うんまあ」

 曖昧に首肯する。

 もの事は単純じゃない。こと人間の思考や感情に関して言えば、それは顕著だろう。ましてそれを善や悪、幸副や苦痛などという二択で決定できることなどでは決してない。僕ですらそう思う。はやい者なら小学校に上がってからすぐに気が付くだろうし、もしかしたら人は、言語を操ると同時にそのことに気が付いて、教育を受けていくにつれ忘却し、社会と触れるころになってふたたび思い出すのかもしれない。

 コウキは煙草に火を点けて一口吸った。煙を吐き出しながら、ただ、と続ける。

「ただ、オレが奇怪なのは、それで納得できちまっている人間が多数いて、そんな人間たちがこの社会に溢れていて、そして彼らがみな一様に、変わることを望んでいないという点だ。オレのこの腐った感情は多分、それに対しての憤りなんだと思うわけだ。やつらは強く疑問を抱いているにも拘わらず、そしてその疑問について不満を抱いているにも拘らず、なぜか変わることを望まない。なぜなんだ? なぜ疑問を疑問としてほったらかしにしておけるんだ。許しておけるんだ。そのことがオレにはひどく奇怪で、忌々しく映るわけだ」

「だって便宜上必要なことだからでしょ? コウキだってさっきそう言ってたじゃん。彼らはすでに答えを出している。コウキだって同じだよ」

「それはなぜ二元論がまかり通っているかという理由であって、オレが疑問視していることについての答えじゃない。もういちど言うが、オレが疑問に思っていることは、この社会に溢れている理不尽や他人の矛盾、そして自家撞着、それらを認識しておきながら、そしてそれらに不満を抱きながら、なぜ彼らはこの社会に身を置き続けるのか、ってことなんだ」

「そうしなきゃ生きていけないからだろ?」

「ちがう。そうしなくたってオレたちは生きていける。彼らがそうしないのは、それをしたことで訪れる社会からの制裁と、その結果に感受しなくてはならなくなる、今の生活とのズレを畏れているからだ」

「だから、それがつまり生きていけないってことでしょ?」

「ああ、なるほどね。その『生きる』という前提からして、オレと藪っちはズレているんだよ。例えば、藪っちはさ、ホームレスの方たちを見て、生きている、と思うか?」

 駅前にいるだろ、あいつらが生きていると思うか、とコウキが問うてくる。

「生きているけど、生きていない」考えながら答える。「生物学的には生きているけれど、社会的には生きていない」

 浮浪者が不肖かどうかはまた別として、それでもやっぱり彼らは生きていると見做されていない。大多数の人間に生きていない、と見做されれば、それは生きていないのと同じになってしまう。本当のことはいつだって本当であるはずなのに。正しいことは正しいはずなのに。大多数の人間が勘違いをしているというだけのことで、本当のことは嘘となり、正しいことは欠陥物として扱われる。だから現実問題、浮浪者のひとたちは生きていないのだ。すくなくとも、僕らと同じような人間として扱われてはいない。平等な人間として扱われていない。

 たとえば僕が道端に寝ていたら、きっと親切なひとが声をかけてくれるだろう。でも、あからさまに浮浪者の格好をしていたなら、きっと声をかけてくれる者は皆無だ。浮浪者のひとたちは、道端で寝ていることが当たり前だと見做されている。貶されている。見下されているのだ。そんなの、おなじ人間として生きている、だなんて言えないだろう。

「まあ、そうなるだろうな。そして藪っちも含めたみんなは、社会的な『生』に重きをおいて思考している。思考の基準がまずは社会において、なんだ。この際だから『生』について定義しちまおう。いや実際、『生』について明確に線引きなんてできないんだろうが。それでも生物学的な『生』を、脳が自己を認識できる状態、と曖昧に定義しておこう」

「それだと寝ている状態が死んだことになるよ」と揚げ足を取る。

「いやならない。人は寝ていても、揺さぶれば起きるだろ? それは、脳が身体を自己として認識しているからだ」

「あ、なるほど」それで、と続きを促す。

「うん。で、社会的な『生』については、たぶん、自己から離れたところでの認識が必要になる。というよりも、自己を離れた認識でしか、社会的な『生』は認められない。他者からの評価でしか、自分の『生』が決定されないんだ、社会的な『生』だとね」

「と言うと?」

 コウキの話は迂遠だ。もっと簡略に話してほしいものだ。

「そう急かすなよ。話しながら考えるというのは難しいんだからさ。非効率でもあるし、稚拙な行為であり、そして」

「幼稚な思考になる、でしょ? いいから続き話してよ。いい加減先に進まないことで僕の腹は空いてきた」

「そうだな。まあ、せいぜい理解する努力をして聞いてくれ」

 コウキは一呼吸おいて話しはじめた。

「社会的な『生』が、他者からの認識でしか決定づけられない、というのは、そのまま社会の本質を露わしている、とも言える。少なくともオレはそう考えている。

 社会に必要なのは、社会という名のシステムと、そのシステムの原動力である人材と、そしてその人材たちへ示す、システムからの評価だ。

 評価ってのは、『自分は社会にとってどういった存在なのか』といった身分であり、存在理由であり、存在価値だ。人はときにそれを『職』と呼び、あるときは親や兄弟といった家族関係で呼称し、またあるときには友人や彼氏、彼女といったふうに、交友関係で表す。それらの『評価』がなくては社会が成り立たない。また、そうした『自分が社会にとってどういった存在なのか』といった評価は、現代の社会を生きていくにあたって、不可欠な要素でもあるんだ。

 だけどそれらは、自分自身で付加することはできないものだ。

 どんなに言い張ったところで、他者から、お前は友達じゃない、と拒まれてしまえば友達ではないし、無職であるにも拘わらず、教職員を名乗っても、それは嘘でしかない。

 でもな、実際に事実と異なっていても、例えば詐欺師が政治家を名乗り活動し、それを大多数の人間が信じれば、その詐欺師は政治家でなくとも政治家たる何者かになれてしまう。こんなふうに、社会的に生きるというのは、自分の意思を離れた、大多数の認識に委ねられている。

 そして、藪っちも含めたみんなの言う『生きる』っつーのは、この社会的な『生』に他ならない。自分がどんなに生きています、と叫んだところで、大多数から蔑まれ、『お前はすでに、死んでいる』と思われれば、そいつは生きていないことになるんだよ」

「当たり前の話だよそんなのは。つまり、社会的な常識が全てだって、話だろ? 学がないよりもあったほうが思慮深い人間である割合は高いわけだし、顔が醜いよりも、顔が整っていたほうが親しみを抱きやすい。そんなのは、当たり前の話だ」

「そうだ。誰もが当たり前だと考えて、そして首を捻る。人間の価値はそんなことで決まるのだろうか、と。この社会に蔓延している当たり前のことが、本当に正しいことなのだろうか、と誰もが訝しがっている」

「人間の価値はそんなことでは決まらないと僕も思うよ。でも、そういった、人の外見だとか――信用のおける機関からの学歴みたいな保証だとか――他者から付加される価値に、人は大いに左右されるのは確かでしょ? むしろそういった基準は必要なことだとすら僕は思うけど。現代社会ではなおのことじゃない? 希薄な人間関係が乱雑しているんだもの」

 ひと息おいてから、さらに付け足す。「常識だとか、そういった『当たり前』っていうのはやっぱり全てではないと思うけれどね。でも、円滑な人付き合いを築くうえでは、重要な基準になっているんだと僕は思うよ。沢山の人と関わるようになった現代ではなおのことじゃない? 比べるための基準がないと、大変だもの。常識っていうのは基準なんだよ。そのことをみんなだって理解しているんじゃないかな。他人からの評価だとか付加価値だとか、そういったものは必要だけど、飽くまでも『基準』としてとらえて、絶対視しないように心がけているはずだよ」

「うそだな」

「なにが?」なにがうそだと言うのだろう。

「誰も心掛けてなんかいやしない。心掛けっつーのはだな、自分を戒めるってことだ。いったい誰が戒めながら、その社会的常識とやらを甘受できるんだ? それでは、『僕は人を殺すのはいけないことだと思います』と言いながら、人を殺し続けることと大差ねえだろうに」

「そうなるか?」

「そうなるさ。藪っちの言ったことはそういうことだ。そしてオレの今の指摘に憤りを感じたなら、オレが感じていることは、今、藪っちが抱いたその憤り、そのまんまなんだよ」

「……と言うと?」

「だからな」コウキは溜息を吐いてから、心底呆れたように、加えて心底面倒くさそうに、口にした。「お前らは生物学的な『生』よりも社会的な『生』を重んじているくせして、日常的に人を殺しているってことなんだよ。社会的にな」

 陳腐な言い方で言えばだな、とコウキは少し考えるようにしてまた椅子ごと回転する。机に足を着き、ピタッと止まってから、そう、と続けた。

「そう、言いかえればだ、命よりも尊厳を大切にしている、みなみなさまはだ、その尊厳を日常的に人から奪っている、ってこと」

 わかったような、わからないような。僕は言葉には出さず、表情にその不満を浮かべた。コウキはそこから十二分に僕の心境を読み取ってくれたはずだ。

「まあ、いいさ。で、ここでさらに最初の話に戻るわけだが、オレは八つ当たりで人を殺す。生物学的にだな。肉体的破壊だ。この社会は人殺しを許容しない。でも、オレは殺人がわるいことだと思っていないし、みんなだって本当はそう思っている。だからこそ、家畜の肉を美味い美味いと食らいながらも、一方では、ペットの虐待に怒ったり嘆いたりする。殺人がわるいことじゃない、自然なことだと知っているからこそ、人はペットの命を慈しむんだ。矛盾していると思うか? でもな、ペットの命を慈しむ理由は、『命なんて尊くもなく、大切なものでもない』と誰もが本当は知っているからだ。いいか、人間はな、死んで当然の家畜や虫けらのような命と、自分の命が、同じだと思いたくないんだ。自分の命と、その他大勢の命、それらの境界線をあやふやにしたいだけなんだ。だからこそ人は、家畜や虫けらと、人類との間に、ペットという緩衝材を置いている。そのことで、自分はペットに比べてさらに死んではいけない、慈しむべき命であることを、社会に示しているんだ。家畜と私との間には、これだけの差がありますよ、だから私を殺さないでね――そう嘯いているにすぎないんだよ。この場合、だからペットは、ただのスケープゴートでしかない」

 まずいな、と僕は思った。だから話題を逸らした。

「なんか、むかしコウキとした話を思いだしたよ。人はなぜ殺してはいけないのか、ってやつ」

「そんなくだらない話もしたのか、オレたちは」

「僕らの会話なんていつだってくだらないよ」

 それもそうだな、とコウキは屈託なく笑った。

「あのとき僕はさ、人を殺していけない理由を、『自分が殺されたくないからだ』と説明したよね。そしたらコウキは、『だったら死んでもいいと自暴自棄になっている人間は殺人を犯してもいいのか』って切り返してきた」

「随分幼稚な議論だったことをオレもいま思いだしたぞ。二十歳を過ぎた男が滑稽だよな。小学生だってもうちっとまともな議論をするよ」

「そうだね。で、そのときのコウキの結論はね、『人を殺したっていい。でもオレは人を殺さない』だった」

「そうだったか? だったら今のオレとそいつはきっと別人だな。オレには双子の弟がいたようだ」

「いや、そうでもないよ。今のコウキはそのときの主張を元に話しているような気がする」

「気がする、かよ」

「うん、気がするだけ。僕もよく解ってないからね。でも、コウキが『人を殺したっていい』と思っていながら、誰も殺さない理由と、『大切な人を殺されたらきっとそいつを殺す』っていうのは、矛盾していないと思う」

「矛盾しまくりだろ。正反対もいいところだ」

「そうかなあ」

「そうだよ。しかもオレは過去、『人を殺さない』とも言ってもいるんだろ? これが矛盾以外のなんなんだっつーの」コウキは腰をひねった。背骨がなる。背伸びをしながら、でもまあ、と続けた。「でもまあ、『人を殺していいと言っておきながら、大切な人を殺されたら、それを理由にそいつを殺す』――これっつーのは道理に適ってはいるな。言い換えれば、『人を殺した人間ってのは、殺されても文句が言えない』ってことになるわけだからな。まあ、だからこそ、復讐が許容されているうちは、殺人なんて絶対になくならねーんだろうな」

 よく分からぬままにコウキは勝手に自己完結していた。満足そうなコウキをしり目に僕は、おや、と疑問を抱いた。

「じゃあ、なんでコウキは、大切なひとを殺したその犯人を殺すのさ?」

 そうだ、最初からこれを訊いておけばよかったのだ。

 そりゃあだって、とコウキは謳った。

「オレはね、人を殺したっていいと思っているし、殺したいという欲動も兼ね備えている。それでもオレが人を殺さないのは、社会的に殺されるのが嫌だからだ。でも、オレは人を殺したい。そんなときに、『大切な人を殺された』っつー大義名分を得てみろよ、オレは殺人者となりながらも、社会的には殺されないんだ。社会は大義という名に弱い。それがただのお飾り、薄汚い歪んだバッジだとしても、社会はそのバッジに刻まれたブランド名を、このオレとして認めてくれる。誰ひとりとして、オレという人格を認めちゃいないが、『被害者の遺族』としてのオレは、自分に付与されたそのブランド名を免罪符にして、人を殺せるんだ。遠慮はいらない、隠ぺいも工夫もいらない、大切な人を殺された遺族、それだけでオレは、社会的に抹殺されようとしている犯人を、物理的に惨殺できる。まあ、最初の藪っちの質問の答えはそういうことだ。この説明でわかるか?」

 わかるよな、とコウキはまたくるくると椅子を回転させた。

「言い分はわかるけど、同意はできない」

「はは。それでいい。さすがオレの友人だ。分を弁えている」

「それは自分を弁えている、という意味?」

「そう。その『分』だよ」

 ぽーん、とインターホンが鳴る。客の来店だ。

 おっと、とコウキは煙草を受け皿に置き、慌てたように出ていった。業務を怠ることはしないえらいやつである。

 煙草のけむりが線香のつむぐ蜘蛛の糸のように、するする、とのぼっていく。菊の花が落ちるように、ぽたりと灰がくずれ落ちる。




                  +++

 

 ぶり返すようだけれど、

 僕の兄はとても誠実なひとだった。

 すくなくとも僕にたいしてはそうだったと記憶している。十二年も前の話である。僕に遺るこの記憶が――僕の思いだせる兄の記憶が――果たしてどの程度の鮮明さを保って過去を結晶化させているのかは判らない。

 記憶というのはそういうものなのだろう。

 過去もまたおなじだ。

 確定されているのは現在というこの瞬間の【今】だけである。

 僕の存在に注がれる幾層もの過去――その経過。

 現在にあるのは、経過を辿った影響だけだ。

 影響が影響を――そうして現在がかたちづくられている。

 けれどこの現在という稀有な瞬間もまた、確定された時点でふたたび過去というひどく漠然とした【存在しないもの】に変遷してしまう。

 影響とはかたちなきものである。

 ――存在しない存在である。

 過去も未来もおなじである。

 ここには存在しない。

 ここ、とはつまり、自分である。

 自分をとりまく世界である。

 過去も未来も。

 記憶も可能性も。

 僕からすればどれも幻。

 現在の僕がみる夢にすぎない。

 だから――。

 そう、だから。

 僕の兄は誠実なひとなどではなく。

 やさしくもなく。

 たのしくもなく。

 したしくもなく。

 それゆえに僕は、

 かなしくなどなかったのだ。

 兄が死んでも僕は、ぜんぜんかなしくなどなかった。

 それはだって、僕の兄は、かなしむに値するひとではなかったから。死んで当然で。殺されて当然で。いなくなったほうが善くって。そういった、存在するに値しないひとだったから。

 だから僕はぜんぜんかなしくはなかった。

 シーちゃんと笑いあったあの日。

 僕は――。

 そう僕は。

 僕のながしたあの涙は。

 兄の遺体があまりにも滑稽で。

 かがやいていて、すてきすぎて、すきすぎて。

 うれしくって、たのしくって、ふくよかで、おだやかで。

 あれはだから。

 

 ――うれし涙だったのだ。

 

 僕の兄は誠実なひとだった。

 とてもとても誠実なひとだった。

 僕にとってはそれが兄の記憶である。

 僕のみていた幻想にすぎない。

 とてもゆがんだ夢にすぎない。

 

 僕は未だに夢にみる。

 この手で兄を突き落とす――そんな叶わぬ幻想を。 

      ◎

 

 三時になった。

 業者のひとが荷物を運びいれてくる。パンやおにぎり、弁当や飲み物。予定されていた時刻通りだ。

 コウキの手伝いをし、三十分ほどで品物の陳列を終えた。

 ふたたびバックルームに入るが、

「そろそろ帰るよ」と暇を告げる。

 壁にかかるシフト表を眺める。

「今日もなんだ?」

 日付変わっての今日である。本日もコウキは夜勤であるらしい。

「んだよ。明日も四時まで。来たかったら勝手にどうぞ」

「うん。そうする」

 僕が突っ立っていたからだろう、どうした、とコウキが言った。

「あの、カナコちゃんのことなんだけど」

「ん? あいつがどうした」コウキが椅子を回転させる。こちらへ身体を向け、いじっていたメディア端末を置いた。

「最近、連絡つかないんじゃない?」

「なんだよ。なんで藪っちが知ってんだよ」コウキがばつのわるそうに笑った。「くっそ。あいつ。オレは無視するくせに、藪っちには応答すんのかよ」

 僕は腹をくくった。

 いや、最初から腹はくくっていた。

「で、あいつ、今、なにやってんだ?」うなじに手を回しコウキはさびしげに、「オレ、振られちったのか?」

「いや」

 そうじゃない、と否定する。カナコちゃんはコウキのことが好きだった。それはたしかだったのだと僕は信じている。「コウキは振られてなんかいないよ」

「そっか」コウキは安心したみたいにふかく息を吐く。「で、あいつ今、どこにいんだよ」

 僕は告げた。

「死んだんだって」

「は?」

「カナコちゃん。死んじゃったって」

 はは、とうすく笑ってからコウキは、波紋が薄れるようにすっと表情をひいた。

 やがて、鋭利な眼光を僕に向ける。

 ウソだったらたたじゃおかないぞ。

 そんな冗談、二度と口にするな。

 眼光だけが、コウキの心情をあらわしていた。

 もしかしたら乃泉の言っていた、カナコちゃんの母親の視線もまたこういった眼光だったのかもしれない。

 僕はこれが冗談でもなんでもないことを示すつもりで冷淡に言った。

「死んだんだ。今日、お通夜だったらしい」

 ぽーん、と間延びしたインターホンが鳴る。客だ。コウキの眼光は曇っていた。信じられないのだろう。実感なんて湧かないのだろう。けれどコウキには判るはずだ。僕は死んだって、こんなつまらないジョークを口にするやつではないのだと。だからコウキは戸惑っている。これまでの現実と、この瞬間に幕のあがった現実との狭間で、コウキは今、ゆれている。

 コウキがバックルームから出ていった。僕もまたバックルームから出た。コウキがレジで接客をしている。その様子はいつも通りのコウキだった。

 僕はコンビニを後にした。

 長かったようで短かった一日が終わりを告げている。

 今日も夜が、明けていく。

 

      ◎

 

 そとはまだ暗く、気づけば、ヒグラシの鳴き声がない。

 もうすぐ秋なのだな、と珍しく季節の移ろいに思いを馳せた。

 すこし寄り道をして帰った。だれもいない夜の道を孤独に歩いた。

 一時間半ほど散歩してから帰宅の途に就いた。

 コウキもバイトを終えて、帰宅しているころだ。

 まだ香夜乃たちはいるのだろうか。さすがにいないだろう。居たら居たで、追いだそう。僕だって言うときは言うのだ、と自分を鼓舞する。

 今日はバイトの勤務日で、夕方からの出勤ではあるのだけれど、今から寝ておかないと体力がもたない。

 エレベータに乗りこみ、上昇。

 そう。

 こうして僕はそれを発見した。

 玄関。

 扉の間隙。

 折りたたまれた、コピー用紙。

 それがそこに挟まっていた。

 なんだろう、これ。

 引き抜き、手に取る。

 ひらいてみてぞっとした。

 鍵を解き、玄関をくぐる。部屋に入ってからも動悸が治まらない。

 だれが、これを。

 こんなものをどうして。

 いやな汗が滲んできた。

 香夜乃たちは帰ったのだろう、部屋に人の気配はない。鍵はいつもみたいにイズ姉がかけてくれたに相違ない。イズ姉とはお互いに合いカギを預けあっている仲である。

 ただし、それ以上でもないし、それ以下でもない。

 隣人であり、たまに酒を貢いで、合いカギを預けているただそれだけの仲だ。

 自室に入り、ベッドに腰かけた。どこか、いい香りが残っている。きっと乃泉の香りだ。なんとなく照れくささを感じる。

 手に握ったコピー用紙。

 紙面にならぶ文字に視線を走らせる。

 ――ああ、どうして。

 頭を抱えたくなる。僕は引出しをあけ、そのなかへ仕舞った。




第四・五章『現実と真実と虚構の狭間で』

 

      ◎

 

 最近になって多発しているという自殺について考える。

 とはいえ、自殺なんてこの国ではもはや珍しいものではない。お国柄とも呼べる日常だ。今この瞬間にも誰かが首をつっている。自殺なんてありふれている。それをシンラさんは、多発している、と随分と訝しがっていた。それはつまり、ただの自殺ではないということなのだろう。

 たとえば、おなじマンションの住民ばかりが自殺する――だとか、おなじマンションからばかり飛び降りる――だとか。そういった、妙に作為的な印象を抱いているのだろう。

 シンラさんは言っていた。

 最近、この近辺で自殺者が出ている。急増中だと。

 つまり、この街で不自然な自殺がいくつも起きているということなのだろう。そして、重要な点は、「この近辺で」という点と、「急増中」という点にちがいない。

 さらにシンラさんには、「十二年前の落下事故」とそれら最近の自殺を結びつけている節があった。

 どういうことだろう。

 僕は考える。

 十二年前の落下事故。

 あれは事故ではなく、事件だった。

 投身自殺を装った、連続殺人事件。

 犯人は当時、八歳だった少女だ。

 名を、燈真寺さつきといった。

 僕のただひとりのともだち。

 僕のただひとりの想いびと。

 シーちゃん。

 彼女は人を殺していた。

 何人も、何人も、殺していた。

 僕の兄をも、殺していた。

 けれど、シーちゃんを責める気持ちなんて、僕には、これっぱかしも湧かなかった。未だにそんな感情は芽生えない。それどころか僕はシーちゃんに同情した。僕は彼女を可哀そうだと思い、傷つき、慈しんだ。未だにその感情はうすれることなく、かすれることもなく、僕のなかで鮮明に息衝いている。

 いずれにせよ、

 十二年前、そうしてあの事件は終息した。

 シーちゃんは拘束され、僕のもとから姿を消した。

 当時の新聞などにあった記事を読むかぎり、シーちゃんは、「八歳の年少殺人者」という異例のプロフィールが顧慮されてか、保護司処分とされたらしい。八歳の殺人者なんて世界的にみれば珍しくもなんともないのに。十歳未満の子どもたちが拳銃を手にして大人たちのはじめた戦争に、勇まなくたっていいのに、勇んでいる――そんな国だってあるというのに。

 現代のこの国の少年法によれば、未成年者は、刑事処罰されない。どころか、十二歳以下の子どもであれば、少年院に服役することもないとされている。実刑という罰則が適用されないためだ。

 僕の認識では、殺人者は極刑という認識だったので、これはさいわいと呼べた。

 シーちゃんはただの人殺しではない。

 世間で言うところの、大量連続殺人鬼である。

 けれども世論は、シーちゃんの行ったそれらの殺人に対して、おおむね寛容であった。

 なぜならシーちゃんには、世論が受け入れやすい、そんな動機があったからだ。

 シーちゃんに殺された者たちは、殺されるに値する人物だった。

 そうでなくとも、殺されても仕方がなかった人物だったと世論は、そう断じた。

 当時の記事によれば、マンションの階段――天辺の三階したから突き落とされて死んだ者たちはみな、シーちゃんを凌辱していた。

 シーちゃんは――そう、僕の記憶しているかぎり彼女は、そうとうに可愛らしい容姿だった。

 小児愛好家、とでも呼ぶのだろうか。

 シーちゃんの殺した人物のなかには、彼女の両親もはいっていた。

 彼女は実の親をも殺していた。

「わお」

 そう口にしていた彼女はあのころにはすでに、その手で両親を殺していた。寝ている父と母の肉体に、ナイフを突きたて刺し殺していた。

 めった刺しだったという。

 だがその親殺しに対しても、世間の評価はさほど厳しいものとはならなかった。

 シーちゃんの身体を玩具として利用していたのは、信じたくないことに、その両親だったからだ。

 シーちゃんの両親は、シーちゃんを商売道具にしていたという。

 インターネット上で客を募り、金と引き替えに、シーちゃんの肉体を性欲のはけ口にさせていた。客は精いっぱいにシーちゃんのあのちいさな身体を弄んだことだろう。当時のシーちゃんには避妊の必要はない。遠慮も配慮もいらないとくれば、欲望の塊となった男に、理性などかけらも宿らない。いや、理性そのものが欲情と化す。男が妄想する、あらんかぎりの欲望をシーちゃんは、その身に刻みこまれたのだろう。

 僕は願う。

 シーちゃんに触れたやつら全員この手で皆殺しにしてやりたい。

 ロリコン、ペドフィリア、チャイルドマレスター。

 どんな呼称であってもよいのだけれど――子どもを穢す存在など、みな死に絶えればいい。

 新聞などに書かれていた情報を、あらんかぎりの憎しみと共に咀嚼することができるようになったのは、シーちゃんが僕のまえから姿を消した、五年後のことだった。僕は中学生になっていた。

 そしてまた同時に僕は、どうして両親が逃げるようにあの街から引っ越したのか。

 その動機もそのころに理解した。

 僕の兄もまた、小児愛好家だったのだ。

 僕の兄は、シーちゃんのあのちいさな肉体で、

 己の性欲を、支配欲を、破壊衝動を、吐きだし、

 満たしていたのだ。

 近所のひとたちが目撃していたらしい。兄が幼い少女とたびたび一緒に遊んでいたのを。

 僕は冷静に殺意を押しとどめて考える。

 ――満たされていたのはどちらだろう。

 シーちゃんの肉体のうちがわには、彼らの吐きだした醜悪な欲望が満ちていたのかもしれない。

 毀れそうだったのだ。

 きっとシーちゃんは。

 今にも毀れそうだったのだ。

 だから毀したまでのことで、自分が毀れるまえに毀されるまえに毀そうとする相手をシーちゃんは毀したにすぎないのだ。

 それのいったいなにがわるいのだろう。

 シーちゃんは自分にできる最低限の抵抗をしたにすぎない。

 抵抗した結果、相手は死んだ。

 ただそれだけだ。ただそれだけだったのにどうしてシーちゃんは僕のまえから姿を消してしまったのだろう。どうして罪を問われてしまったのだろう。問われてしまうのだろう。

 だれも助けてくれなどしなかったのに。

 だれもシーちゃんを助けてくれなどしなかったのに。

 なのにどうして。

 どうしてようやく解放されたあのときになって、どうしてみんなはシーちゃんから自由を奪うようなことを。

 せっかく手にした自由だったのに。

 どうしてみんなは。

 シーちゃんから自由を奪ったりしたのだろう。

 どうして僕からシーちゃんを奪ったりなんか………………。

 

 アア。

 そうだとも。

 僕は今だって。

 シーちゃんのことを。

 想っている。

 ただひとつ。

 彼女の幸せだけを。

 願っている。



 

  

   第五章『落ちる、満ちる、朽ちる、果てる』

 

      ◎

 

 インターホンがうるさくて目が覚めた。

 時計を見ると午後二時を示している。バイトまであと二時間は寝られる。二度寝の態勢にはいるものの、インターホンがやはりうるさい。

 いそいそとベッドを抜け、玄関に立つ。

 のぞき穴から窺うと男が立っていた。よこにもうひとりいる。

 じれったそうにしている。セールスマンではないようだ。

「あの、なんでしょう」チェーンをかけたままで扉をあけた。

「すみませんね」

 男は威圧的に言った。

「わたしら、まあ、怪しいものじゃないんで」と胸元から手帳をとりだし、掲げる。

 警察庁、の文字がある。

「ケイサツのかた?」

 なんでと思いながらチェーンを外す。

「おもての騒ぎ、お気づきありませんでした?」

「なにかあったんですか?」

 おじさんは、じい、とたっぷり時間をかけて僕を見据えた。僕も負けじと見つめ返したのだけれど、そうそうに目を伏せてしまう。

「ヒトがね、落っこちたんですよ」よこにいたもう一方のおじさんが応じた。より年季のはいった中年といった風貌だ。

「どこからですか?」

「このマンションからです」

 屋上ということだろうか。

「いつですか?」

「発見されたのは今朝がたですな。どうもこの近辺は人通りがすくないようで、発見されるまでに時間がかかってますね」

 たしかにこのマンションの建っている土地は、人気がない。深夜ともなれば、マンションに住民が出入りすることもなくなる。通勤ラッシュの時間帯になるまでは閑散とした場所だ。

「あの……お亡くなりになられたんでしょうか?」

「いちおう病院のほうに搬送されておりますが、まあ、現場をみた者の報告によれば、すでに死亡していたと聞いておりますな。まあ、息があることを祈りましょう」

「あの、で、その方……自殺なんですよね?」

 おじさんはわざとらしく目をみひらき、「どうしてそう思われるので?」と手帳を構えた。

 メモに取るから慎重に答えろよ、と脅されている気分だ。

「だってそちらの方が」と若いほうのおじさんを目で示し、「さっき、『ひとが落っこちた』って言い方をしていたじゃないですか」と説明する。「だれかに落とされたのなら、落っこちた、なんて言い方をされないのではないですか」

「なるほど。まあ、自殺の線が濃厚ではあるんですがね。なにぶん、まだ確証も得られていないわけでして。こうしていちおう、住民のみなさまに聞いて回っておるところなんですよ」

 たいへんですね、という意味をこめ、「おつかれさまです」とねぎらった。

 いくつかの質問をされ、僕は素直に応じた。

 明朝に帰宅したときには、辺りにも、地面にも、人影をみなかったこと。帰宅したあとはすぐに就寝したこと。熟睡していて今の今まで騒ぎには気づかなかったことを伝えた

「またなにかありましたら事情をお聞きにまいるかもしれませんが、そのときはよろしくお願いいたします」

 言い残して二人の刑事は去っていった。彼らはそのままエレベータへ乗りこんでいく。

 ふたりを見送るようにし、疑問に思う。

 さっきおじさんは、「住民のみなさんに聞いて回っている」と言っていた。それは、このマンションの住民に、という意味だろう。けれども彼らは、僕に暇を告げたあと、そのままエレベータに乗りこんだ。この階には、僕のほかに、八件の部屋がある。どの部屋にもひとは住んでいる。にも拘わらず、彼らは僕の部屋以外には立ち寄らなかった。それはつまり……と僕は考えた。論はかんたんに結ばれた。

 単純に、僕が寝ているあいだ、そのあいだにほかの部屋をまわって事情を聴取していただけのことだろう。なかなか出てこない僕を後回しにしただけのことで。そうに決まっている。僕はこのように結論づけた。けれども、あれ、まてよ。さっきのエレベータ。うえとした、どっちにいったっけ?

 そんなもの、覚えているはずもなかった。

 

      ◎

 

 マンションのそとには人だかりができていた。報道陣らしきひとびとの姿もある。

 たかだか自殺者になにをそういきり立っているのだろう。

 今日はバスに乗っていくことにした。お金があるってすばらしい。

 

 居酒屋「こうちゃん」の暖簾をくぐる。

「おつかれまさでーす」

「あいよー」厨房から店長が間抜け面をだした。「今日ははやいね」

「時間は貯金できないですからね。貯金できるお金に換えておきたいんです」

「そうとも、そうとも」わかってきたじゃないか、と店長はうれしそうに声を張った。「タイムいずマネーとは言ったものの、時間は貯金できないからやんなっちゃうよね」よっし、と太ももを打って、「時給、三十円アップだ」と太っ腹なことを言ってくれた。

 たかが三〇円、されど三〇円。ひと月の給料で換算すれば、およそ四五〇〇円のアップだ。

 厨房を抜けてロッカールームに入る。店員用のエプロンを装着する。

 どうやら香夜乃はまだらしい。もし来ていたら、今朝の自殺騒ぎの詳細を聞こうと思っていたのに。

「店長―っ」と投げかける。

 あいよー、と返ってくる。

「今日、香夜乃、こないんですかーっ」

 シフト票を窺うかぎり、香夜乃はお疲れさまなことに今日も出勤日である。ただし昨日の、店長に対する憤懣やるかたなし具合を鑑みれば、今日もボイコットである可能性は否めない。ただし、香夜乃はそういった際でも、かならず店長に一言のこす。

「辞表は用意してあるんで、馘首(クビ)にしたかったら取りに来てください」

 とはいえこれは、僕の解釈としては、「やめてほしくなかったら迎えに来い」である。彼女、素直じゃないのだ。

「え、まだ来てないのかい?」店長がよくわからないことを言った。僕は聞きかえす、「どういうことです?」

「いや、店長もさっき起きたところでね。ああそっか。まだ怒っているのかな? まったくどうして困ったちゃんだよね」

 そんなんだからお腹がぽっこりとしちゃうんだよね、と店長が宣巻いたよこで、キぃぃイ、と女性用トイレの扉がひらいた。

「あっ」僕はかたまる。

「がっ」店長が畏まる。

 香夜乃が立っていた。その手にはいわゆる、女の子用具入れ。

 要するに香夜乃は本日、女の子の日であるらしかった。

 僕のつたない綻びだらけの(むしろ埃だらけの)基礎知識としては、「女の子の日の女の子は、それはそれは水がぱんぱんに張った花瓶のように過敏であるから、やたら滅多に刺激してはいけないよ」といった注意事項がある。お取扱いの際は容量用法を正しくお使いくださいというやつだ。

「店長」香夜乃がらしくもなく儚げな表情をした。「私のおなか、ぽっこりしてますか……」

「いや、その、え」なかなか二の句を継げない店長。

 僕もまた、なんと擁護すべきか、むしろどうしたら害を被らずに済むかを考える。

「このおなか」

 香夜乃はいとおしそうに、まる、を描くみたいに腹を撫でる。「このおなかはね、店長のせいなんだよ」

「えっ!?」と僕。

「げっ!?」と店長。

 それはその、そういうことなのだろうか。僕は香夜乃の真意を見抜けずにいた。知らず、脳裡に「妊娠」のふた文字が浮上する。

 いやいや、と店長が両手をなんども交差させているのだけれど、声が出ていない。

 ごつ、からん、からん。

 背後から音がした。お盆が落ちた。そんな音だ。

 振り向くと、店の入り口に女性が立っていた。スナック吉原のママさんだ。

「店長はん……今のはなし、ほんまに……?」

 なんだか否定してほしそうな、縋るような声で彼女はささやいた。

 店長はくちをぱくぱくさせ死にかけの金魚の真似をするばかり。

 あっけにとられているのだろう。やがてこわれたおもちゃみたいに、ぶんぶん、とくびをふった。けれどそのときにはすでに吉原のママさんは暖簾のしたにはおらず、とっくに踵を返していた。

 僕は見ていた。香夜乃がいっしゅん、その顔に、冷酷な魔女の笑みを浮かべたのを。

「ちょっとちょっとぉ」泣きそうな声で店長は香夜乃におっかなびっくり詰め寄った。「よっちゃんさ、なに言ってくれちゃったのねぇ。店長のせいでなに? 店長のせいで、よっちゃんのおなかがなに? え、どうしちゃったの? あれじゃまるで店長のこどもがよっちゃんのおなかに宿っちゃってるみたいに聞こえちゃうでしょ!」

「そんなわけないじゃない」香夜乃は一蹴した。「やることやってないんです。赤ちゃんなんて宿るわけないじゃない」

「だったら!」

 店長の悲鳴を遮り、香夜乃は言った。

「ですから、店長のせいで私のおなかに皮下脂肪がついちゃった、と言いたかったんですよ。毎回毎回、あんな豪勢なまかいを食べさせるから。だから私はほんのちょっとですけど、ふとっちゃったの」

 ひどい言いがかりである。僕は笑った。「店長、こいつ、クビにしましょう」

「それができればどれだけ……」中途半端に店長は嘆いた。しくしく、とゆかに散乱した和菓子を一つ一つていねいに拾いあつめながら、めそめそ、とさらに嘆いた。「店長がわるかったとはおもうよ。でもさ。この仕打ちはあんまりじゃないか」

 店長のいじけたくなる所感はよく分かる。あの吉原のママさんがめずらしくウチにお裾分けを持ってきてくださったのだ。このお店へ直接に持って来てくれたということは、十割、店長へ持ってきてくれたのだと捉えて差し支えはない。なにせ、僕や香夜乃にご馳走してくれるときは、店長をはぶいたかたちで、もてなしてくれるからだ。そんな吉原のママさんがわざわざこのお店の暖簾をくぐって訪れてくれた。店長にしてみればそれは、女神が地上へ君臨してくだすったような未来永劫語りにつくすに恥じない奇跡なのである。

 ざんねんながら誇張ではない。

 茶番はここまで。

 ぱんぱん、と香夜乃は両手をうった。「さっ。開店の準備、すませちゃいましょ」

 僕はそそくさと厨房へむかった。

 店長は可哀想ではあるけれど、なんというか、まあ、自業自得だ。

 

      ◎

 

 食材の下準備をしつつ僕は香夜乃に今朝の騒動を話して聞かせた。自殺さわぎのことである。

「ああ。らしいわね」

「知ってたの?」

「まあね。昨日、私、イズちゃん家に泊まったから」

 イズちゃんとはイズ姉のことだろう。

 聞けば昨夜、僕の部屋を片付けることなく散らかし放題、放置したままで立ち去った香夜乃たち御一行さまは、そのあと、二手に別れたという。香夜乃はイズ姉の部屋で二次会と称して飲み明かしたらしく一方で、乃泉は、時刻は時刻だっただけに、シンラさんに送ってもらうことにしたのだという。けれど、シンラさん、自動車の免許をもってないのではなかったか。まさか徒歩で送っていった、だなんて青春ロマンチックなことをしたわけではあるまいな。もっとこう、タクシーを呼ぶだとか合理的な送迎方法かつ安全な護衛方法でもって乃泉を送ってくれたことを僕は祈る。

「で、朝まで飲んでいたわけ?」 

「そうよ。わるい?」

「いや」

 わるいなんてことはないけれど、でも、ということはつまり香夜乃、ぜんぜん寝ていないのではなかろうか。「寝不足じゃないの? あんまり無理しないでよ」

「だいじょうぶ」こともなげに香夜乃は言った。「私たち、寝なくていい体質なんだ」

「うらやましい」彼女のジョークを僕はひろう。「で、朝に帰るときには、すでにあんなさわぎだったんだ?」

「ん? だれもいなかったわよ」

「だれも? 報道陣だとか、野次馬だとかは?」

「まだいなかったわ」

 ではなぜ、自殺さわぎのことを知っているのだろう。

「ならなんで知ってんだよ」

「だって」香夜乃は作業をつづけながら、「うえから落ちてきたんだもの」としれっと告げた。

 うえから落ちてきた――なにが?

「え、なにが?」

「だから」

 苛立たしげに香夜乃は、

「ひとが」

 と語気を荒らげた。

「ひとが落ちてきたの。だから、『ああ、きっとこのあと、騒ぎになるだろうな』って思ったの。それだけ」

「ごめん」僕は言った。「そのジョークはひろえない。質がわるい」

 香夜乃は鼻で笑う。「ジョークじゃないってば」

「自殺した瞬間を目撃したってこと? ほんとに?」

「さあ。どうなのかしら」香夜乃は肩をすくめた。「あれが自殺かどうかなんて、私にはわからないし」

「なんで通報しなかったの」彼女のその行動はどう窺ったって一般的ではない。目のまえでひしゃげた人間をみておきながら、香夜乃はそのまま立ち去ったのだ。一般的ではないだろう。

「通報? なんで?」

 どうして私がそんなしち面倒なことをしなくちゃならないの、といった調子で香夜乃は首をかしげた。ほんとうに真実、意味がわからないわ、といったふうである。

「だって、香夜乃、見てたんだろ?」ひしゃげたそれを見ていたのではないのか。

「見てたわよ。陽がのぼってたから、もう、ばっちり」

「だったら救急車とか、警察とかさ。そういうのを呼ぶのが普通だと思うんだけど」僕は控えめに指摘した。

 ああ、と香夜乃は納得の声を発した。

「だってその落ちたひと、即死だったもの」

「ソクシ?」

「生きてなかったってこと。ああでもどうだろ、私、医者じゃないし。もしかしたらまだ生体反応はあったのかもしれない。でも、すぐに死ぬことに変わりはなかったわよ。通報しても無駄だったってこと」

 すでに生きていなかった。だから助けを呼ばなかった。

 筋は通っているような気がするが、気がするだけだ。

「なんだかずいぶんと冷静なんだな」僕は感心した。目のまえでひとが死んだ。おぞましいと言っても構わないような死にざまだったはずだ。

「でも、今の説明だと救急車を呼ばなかったってことの説明にしかならないんだけどね。どうして警察を呼ばなかったのかの説明にはならないでしょ?」香夜乃は自ら白状した。「私、警察とかに関わりたくないのよ」

「ああ、どうりで」僕はおどけた。「香夜乃、犯罪者だったのか」

「まあね」

 あっさり流される。

「その死んだ人って、女性?」

「ううん。あれはおんなって感じじゃなかった」香夜乃は曖昧に答える。

「顔面、つぶれてたの?」

「そう。よくわかるわね」まるで見てきたみたいじゃない、と香夜乃は揶揄した。

「似たような死体、見たことあるだけ」と正直に答える。けれど香夜乃はジョークと捉えたようで、「ふうん。まあ、よくあることよね」とボケた。

 そんなことはない。僕は指摘した。

「貴重な体験だよ」


      ◎

 

 転落死したのは、僕とおなじマンションに住む高橋という男性だそうだ。ディスプレイに映しだされた写真をみるかぎり、見覚えはない。

 彼の写真をたずさえて、この居酒屋「こうちゃん」にあらわれたのは、シンラさんだった。頼みもしないのに彼は詳細に説明してくれた。

「そのひとは」とディスプレイを指で示しシンラさんは、語った。「そのひとは、マンションから出てきた女性に発見されたらしい。午前八時三十分に女性が救急センターに通報。その十五分後に救急隊が到着。病院に搬送後、死亡を確認されたようだね。まあ、状況から判断するに、女性が通報した時点ですでに死亡していたとみるのが妥当かな」

「どうしてそんなことを?」なぜ僕に話すのだろうか。怪訝に思いながらも、注文の品を置く。「ごゆっくりどうぞ」と心にもないことを言う。

「ああ、待ってくれよ。これはキミの分だ。いっしょに食べようじゃないか」

 シンラさんはオムそばを二人前注文していた。たしかにオムそばは僕の好物である。けれども今は勤務中、いちおうお客さんであるところのシンラさんと会食を共にするわけにはいかぬのだ。

「心配はいらないさ。店長にはもう許可を得ているんだから」

 厨房のほうを見やると店長がひょっこり顔を出し、手を振った。「ごゆっくりどうぞ」

 店長の手にはなにやら怪しい紙包みが。買収されるのは構わない。けれどこの時間の分のバイト料もきちんと払っていただきたい。僕がよほど不満そうな表情をしていたのだろう、シンラさんは、「バイト代はボクが弾むから」と封筒をよこした。

 覗けば、札束がぎっしり詰まっている。

 僕はおどろいた。「いただいてもよろしいんですか!?」

「いいよ。もちろん、タダで、とはいかないけどね」

 ですよねー、と僕は封筒を置いた。「なにをすればいいんですか」

 まずは座って、と促され、僕は対面にこしかけた。食べながら話そうということになり、二人そろってオムソバを頬張る。うまい。

 やがて、

「ボクの質問に答える。それだけでいいよ」

 シンラさんは言った。

「それだけでこれだけの大金を?」

「かわりといったらなんだけど、正直に答えてほしい。いやちがうな。言えないことは言わなくてもいい。ただし、ウソだけは吐かないでほしい」それができたら、とシンラさんは封筒をあごで示し、「それは全部あげるよ」と言った。

「言いたくないことは言わなくていいんですか?」

「うん。言わなくていい。そのときは、言えません、って正直に答えてほしい」

「わかりました」

 こんなおいしい話、断るほうがバカだ。

「じゃあまず初めに、藪くんはこのひとを知らないんだね?」

 みたびディスプレイを見せられる。今朝がた自殺した男性の画像だ。

「知りません」

「じゃあ、このひとは?」

 シンラさんはディスプレイを切り替える。

 数名の写真を立てつづけに見せられた。見覚えのない顔ばかりだ。どれも男性である。聞けば彼らはみな亡くなっているらしい。彼らの死因はすべて投身自殺として処理されている、とシンラさんは語った。

 なにげなくシンラさんの説明を聞きながら、僕はあたらしく切り替わったディスプレイを見て心臓がはねた。

 僕の知るおじさんが映しだされていた。

「このひと、知ってます」僕は告げた。「うちの常連さんです」

「ああ、ようやくヒットか」シンラさんはなにやら端末を操作した。「知り合いだったんだね?」

「はい」

 ここの常連だっただけではない。まえのバイトさきであるところのコンビニでもよく顔を合わせていた。「あの、このひとも、その……」

「そうだね。まさか知らなかったのかい? このひとも亡くなっているんだよ。えっと、一週間と二日前だね」

「どこでですか?」死因は聞かずとも察しがついた。

 このひともまた――落ちたのだ。

「ここからほどちかい高層ビルからだね」飄々と言ってのけるシンラさんはどこか異様に感じられた。「ベランダから落下したらしいよ」

「あの、つかぬことお伺いしますけれど」

 どうしたの改まっちゃって、とシンラさんは苦笑する。僕は訊いた。「シンラさんって、探偵かなにかなんですか?」

 こんな自殺者たちのことを調べているなんて。趣味にしては懲りすぎている気がする。

「え、タンテイって現実にいるの?」すっとんきょうにシンラさんは言った。

「見たことはないですけど、探偵って職業はあるみたいですよ」

 なぜそんなことを知っているのかと言えば、ここからひと駅さきにある早乙女駅のちかく――そこに、「依頼募集中」「日本初」「女性探偵主流」「社員随時募集中」の文字が描かれた看板がデカデカと掛かっているからだ。しかも、そこには数名の、探偵らしき社員の写真まで載っているのである。なかなかに美形な女性たちであった。とはいえ、探偵が顔をさらしているとは滑稽だ。たいへん愉快に思ったのを覚えている。

「へえ、あるんだねえ」シンラさんは感慨ぶかげに唸る。「雇ってもらっちゃおうかな、ボク」

 ずいぶんとしみじみとしたつぶやきであったので、「ああでも」と僕はまじめに忠告した。「社員募集のしたに、『女性限定』って但し書きがありましたよ」

「だいじょうぶさ。こう見えてもボクはね、女装をすれば美人なんだ」

 返答に窮するので、笑っておいた。

「で」僕は迫る。「探偵じゃなかったらどうしてこんなこと調べてるんです?」

「ううん」こめかみを掻くとシンラさんは、「おかしいなあ」とはぐらかした。「今はボクが質問するほうで、藪くんは答えるほうだったような」

 そうでしたすみません、と引く。

「うん。じゃあ次ね」シンラさんは端末を操作した。ディスプレイにまた写真が映しだされる。今度は女性だ。鼓動がつよく脈打つ。

「結田加奈子ちゃん」シンラさんは僕が反応するよりも先に口にした。「藪くん、このコのこと、知ってるよね?」

「……はい」

「このコもまた先週亡くなっている」

 それもまた僕はしっている。

 乃泉のかつての親友であり、そして、コウキの恋人だったひと。

 死因は聞かなくともいい。カナコちゃんもまた……。

「落下したんだね。このコも」シンラさんは言った。

 そうだとも。

 みんな落ちていく。

 重力には逆らえない。

 引力は平等に、みなに、はたらいている。

 ひきあい。

 ひきつけあい。

 そうしてみな落ちていく。

 奈落のそこへと堕ちていく。

 堕落のそこをも突きぬけて。

 ぶつかるまでつぶれるまで。

 ひとはみな、おちていく。

 おちつくまでどこまでも。

「今、見てもらった写真の人たちはすべて自殺だと判断されている」

 シンラさんはこれまでに聞いたことのない冷たい声を発した。「でもボクはそうは思わない。かれらはみな殺された。ボクはそう思っているんだ」

 藪くんは、どう考えるかな――シンラさんはそう言って相好を崩した。

「どうしてそう思うんですか?」

 問いに対して問いかえす。どうして自殺じゃないと思うのですか、と。

「どうしてだろうね。ボクにもそれが解らない」それだけがどうしても、とシンラさんは嘆くように言う。「ほかのことは大体、なんとなく分かるんだけどね。でも、どうしてなんとなく分かってしまうのか、それだけがうんともすんとも解らないんだ」

 茶化されていると判るが、どうしても言い返したくなった。

「なら、だれが殺されるか、シンラさんには前もってわかっていたってことですか?」

「もちろんだともさ」

 冗談だと判っていても、反感が湧く。ではなぜ止めなかったのだろう。「でしたら、つぎに誰が殺されるのか、それも分かってるんですか?」

「分かってるともさ」

「だれですか?」

「藪くんもよく知るコだよ」

「ふざけないでください」

 さすがにわるふざけがすぎる。

 僕のよく知る人物が死ぬ? 僕の知人はけっして多くはない。すくなくとも今は、香夜乃やイズ姉や乃泉――そしてコウキと、四人くらいなものである。そこに店長とシンラさんを含んだって、六人しかいない。

「ふざけてなんてないさ。こう見えてもボクはね、これまでいちどだってふざけたことはないんだよ。真面目に生きてきたんだからね。真面目ついでに告白すれば、ボクが生かしたいのはそのコじゃない。藪くん、きみだよ」

「はい?」

「いや、この言い方だと語弊があるかもしれない。できることならきみだけじゃなく、ボクはそのコも生かしてあげたい。でもたぶん、彼女は無理だ。彼女に〝像〟は視えなかった。もう、ひとつしか視えなかったんだよ」

 ぞっとした。焦点が合っていない。

 シンラさんはまるで僕を見ていなかった。僕へと視線を向けていながらにして、ずっとむこう、はるか彼方の宙を眺めているみたいだった。

「僕も死ぬってことですか……」

 まだわからない、とシンラさんは首を振った。

「ちかいうちに死んでしまう未来もある――その程度のことなんだよ。藪くんの場合はね。でもあのコはちがう。すでに彼女に〝像〟はなかった。一つしか視えなかったんだ。どうしてそのコが殺されてしまうのか――なぜ彼女を殺すのかといった殺人者の動機はボクには解らないし、知る術を持たない。ただね、やっぱり、そのコは殺されてしまうんだよ」

 このままだと――とシンラさんが含みのある言い方をした。

「ならどうして止めないんですか」

 これから殺されそうな人物をシンラさんは知っていると宣巻く。だったら護ってあげればよいではないか。

 だのにシンラさんは言う。「無理だからだよ」

 むり――? なぜ?

「どうしてですか?」

「ボクにはただなんとなく分かるだけだからだ。ボクにできることは、その『分かる』ことだけなんだよ。すでに決められたこと。これから起きると確定的にされたこと。不可逆的なこと。不可侵的なこと。それがただなんとなく分かるだけ。止めたり、変えたり、そんなことはできない。いや、ボクに分かる〝それら〟が押し並べて『なになに的』といったように極めてささやかながらも、変質の可能性が残されているという点では、どれもまだ確定されていないとも言えるだろうね。でもやっぱり、ボクには変えることはできない。そうした〝ながれ〟を変えるだけの力が、ボクにはないからだ」

「なら今こうしてやってること――シンラさんのしていることって、なんなんですか?」

 止められず。変えられず。ならばなにを成そうとしているのか。

 なぜこのように干渉しようと抗っているのか。

 僕が問うと彼は答えた。

「趣味、かな」

 しゅみ――。全身が粟だった。

 自分の悦楽を得るために、ただそれだけのために、他人の死を暴いている。

「ならシンラさんは、このさき死ぬ人間が誰かがわかっていて、それでもそれを止められなくって…………じゃあ、なにがしたいんですか」

「ひとを殺すのはひとじゃないんだよ」シンラさんはおだやかに語る。「ひとを殺すのはいつだってひと以外のものだ。ナイフであり、縄であり、銃弾であり、毒薬であり、地面であったりする。たしかにそこに、ひとの意思が介在することはある。けどね、それは単にドミノに触れたような些細な干渉にすぎないんだ。ボクらのあたり一面にはね、すでにドミノが敷き詰められている。キミが触れなくたっていずれ誰かが触れただろうさ。そうでなくとも、すでにドミノは連鎖的に倒れているし、あらたにどこかで駒が倒れはじめる。もっとも、そこだっていずれ倒れることは決まっているのだから、時間の問題という点では、いつ誰が倒そうと変わりはないんだ。すべてが連続でなくなったというだけの話でね。連続でなくなってもけっきょくは連鎖していることに変わりはないんだよ」

「なんの話……ですか」

「世界の話さ」

 世界の話――なんだか狂気じみている。僕は身構えた。

 シンラさんの口上は支離滅裂だ。自殺の話から他殺の話へと飛び、それから今度はなにやら眉つばな「ボクは予言者なんだ」といった暴露然とした話をはじめた。それからひと息に世界の話をしはじめたものだから――もう、なんと答えればよいのだろう。そもそもいったいなんの話をしていたのやら僕にはとんとなぞである。

 シンラさんは言葉をつむぐ。

「この世界には、あらかじめ、ドミノが配置されている。それらドミノが倒れることで、特定の『絵』が浮かびあがる。ボクらはそれらドミノにまみれ、世界を覆う駒の一部として存在し、『絵』を描くために動きつづける。与えられた役割をこなすために、ボクらはドミノの駒としてこの世界に存在する。

 過程はどうであれ、いずれ訪れる結末は変わらない。

 それは『死』という現象を考えれば理解しやすいんじゃないかな。

 生まれたその瞬間からボクらには『死』が内包されている。いずれ必ずひとは死ぬ。でもだからといって、『死』が訪れるまでの人生までもが決定されているかと言うと、それはちがう。いや、それもまた、可能性の制限を受けているという点では、決められていると言ってしまってもいいのかもしれないけど――でもね、それでもボクらには無数の人生が用意されていることに変わりはない。どの人生を選ぶのか、それくらいの自由がボクらには与えられている。

 とは言っても、やっぱり、この世界にはドミノがいたるところに敷かれている。それに触れた途端、ひとは巨大な『絵』を構成する〝ワンピース〟になり下がる。ほかの意思持たぬ駒と寸分変わらぬドミノの一部としてなり果ててしまう。強大な〝ながれ〟に流されてしまう。流された結果、異常な行動をしてしまったとしても、それは決して責められるものではないんだよ。なぜって――だってそのひとは、ドミノにちょこっと触れただけなんだから。触れただけのことでそのひとは、ドミノの一部として、その存在意義をまっとうしなくてはならなくなる。強制的にだよ。巨大な『絵』を浮かびあがらせるために――完成させるために――そのひとは自分の意思とは無関係に、行動してしまう。流されてしまう。きっとそのひとだって、そんなことはしたくなかったはずだ。それでもそうせざるを得なくなってしまうんだ。それこそが、ドミノのちからであり、それこそが本来の、ボクらに与えられている存在理由――役割なんだ。いちどドミノの〝ながれ〟に流されてしまうとあとはもう、抗う術なんて、ボクらにはない。

 だからと言って、ドミノにながされた者に責任がまったくないかと言えば、現実問題、そうはならない。ドミノの話は前提だからね。一生、ドミノに触れない者だっている。むしろそちらのほうが大多数なのかもしれない。触れてもドミノを倒さないひとだっているかもしれない。だからやっぱりこれはね、ドミノを倒してしまったからといって、そのひとに責任がないというふうには見做されないんだ。どんな理由であるにせよ、ひとを傷つけてしまったら償わなければならない。ドミノを責めることなんてできないのだからね。いや、責めることはできるけれど、そこにはただただ虚しさしか生まれない。責めた結果、相手が苦しまなければ、人という生き物は満足できないんだ。だからこそ、ドミノに触れた人間のほうを責めなくてはならない。矛先はいつだって、ひとに向かい、ひとから発せられるものなんだ」

「えっと……あのぅ」

 もはや苦笑するしかない。

 ヘンテコなひとだとは思っていた。だがここまで意思の疎通が困難な人だとは思っていなかった。

「わからないのかい?」こちらの怪訝な心象が伝わったのか、シンラさんは明朗とした声で、「じゃあね、こう言えばどうだろう」と襟を正した。やれやれ。まだつづくようだ。僕は耳を塞いだ。

「この世界にはドミノであふれている。すでにドミノが配置されているんだよ。でもね、どこから始まるかは決まっていない。どこからだっていいんだ。どこが始点でもいい。始点がひとつじゃなければ駄目だ、なんてこともない。さらに言えばだ、ドミノのいたるところに、ボクらのような、曖昧な存在が点在している。われわれは、配置されたドミノに干渉することができる。いわばボクらという存在は、不定の駒なんだ。いつどこで、ドミノの連鎖に加わるか、それは定かではない。ただし、それでもボクらはドミノの一部であることに変わりはない。

 この世には、『すでに確定されているもの』と『不定なもの』――の二種類にわけることができる。

 確定されているものというのは、それこそ、物理法則といったシステムからはじまり、そのシステム下におかれた意思もたざる物質、システムに従順なものたち――そういった〝ながれ〟に抗う術をもたないものたちのことだ。

 逆に、不定なものというのは、その〝ながれ〟に抗うすべを持ちえているもの。いわゆる生物がそれにあたる。ボクたち人類こそが不定の代名詞とも呼べるのかもしれない。

 たとえば、波紋というものは、中心から離れれば離れるほど、円周が広がりを増していく。言うなれば、可能性が無数に増えていくことを意味している。それはまた逆に、波紋は、円を形成する以前の『点』であるかぎり、そこには可能性なんてないとも言える。ただひとつのゆるぎない世界があるだけだ。それがいったん円をなしてひろがりを帯びると、またたくまに無数の可能性を生じさせる。

 中心から距離があけばあくほど、可能性はひろがり、不確定になっていく。これはまた、時間にもあてはまることだよ。

 時間というものを、現時点を基準にとらえたとき。現在という中心から離れればはなれるほど、無数の未来がひろがっていく。しかし、自分がたどれる道はひとつしかない。たったひとつの直線のみしかひくことができない。その直線が行きつく円周上の点。結ばれる点。それこそが、おとずれるべき未来となる。

 だとすれば、時間の経過が現在にちかければちかいほど、未来の可能性は狭まっていく、限定されていく。

 つまり、現在にちかい未来ほど、予測可能であることを示唆している。たとえば、ガムを道端に吐けば、地面にはりつく。それくらいは簡単に予測できるだろう。しかしそのガムが十年さき、二十年さき、さらには千年さきにどうなっているかなんて、想像もつかない。

 そうしたこととおなじように、『現在という中心』からよりちかい未来は、とおい未来よりも予測しやすいということになる。一年後どうなっているかよりも、五分後どうなっているか、そちらのほうが想像しやすいだろ。

 そうしてまた、ボクたちの周囲には、現在という基準を中心にして、多くの未来がすでに周りをかこっている。ただよっている。それらは、概念的にではなく、実際にすぐそこにただよっているんだよ。そうした無数のみらいを――重複した未来を――知覚することも不可能ではない。それはちょうど、放射線状にひろがる電磁波のように、この世界にはたしかに存在しているのだから。

 とは言うものの、ボクたち人類はつたない存在だ。

 電磁波にしたって、紫外線や赤外線を直接に知覚することはできないし、音波だって、聴きとれる周波数はきまっている。嗅覚や味覚、触覚にしたっておなじことだ。ボクたちは欠落した世界を生きている。ほんとうの世界なんて、これっぽっちしか認識していないんだ。そんななかで極めつけが、さっきはなした未来軸。それを人類は、ほとんど知覚できていない。ボクたちはほんの目先の、ごくごく微小な未来軸しか感じられていない。

 けれど、いいかな。

 蝙蝠がボクらに聴こえない周波数の音波を知覚するように、犬がボクらに知覚できない粒子を嗅覚できるように――そうしてボクらにはとうてい認識することのできない〝未来軸〟を認識できる生物がいたとしてもおかしくはないんだよ。現にこうして世界にはそういった生物が存在する。すまない、前置きがながかったね」

 ――それこそが、〝獣〟だよ。

 シンラさんはようやくひと息ついた。

 ついていけない。僕は辟易した。

 なにを宣巻いているのだろう、シンラさんは。

 これでは思春期の妄想小僧ではないか。もっとも、大人だって妄想をする。

 だたし、大人はその妄想を口にだすことをしない。

 なぜなら、そんな独りよがりな妄想なんて、だれも聞きたくなどないのだということを学んでいるからだ。

 ともすれば、思春期というのは、自分が案外に他者からするとどうでもいい人間なのだ、と学ぶ期間なのかもしれない。これまでは無条件で可愛がられていた「子ども」という名の魔法が取り払われ、とげとげとした社会のかぜに揉まれ、風邪をひくことで免疫力をつける。

 つまり、無関心に対してひたすら傷つき、そのうえで鈍感になっていく。そうした麻痺こそが、思春期の役割なのだろう。

 シンラさんに触発されたからか、僕は久々の妄想を巡らせ、いつの間にか意識を裡に仕舞いこんでしまっており、気づくとシンラさんの話をからっきし聞き逃してしまっていた。

「――とまあ」とシンラさんが声を張る。

 僕ははたと我にかえった。シンラさんは口上を結びにはいっていた。

「そういったわけでボクは藪くんに話を聞こうと思った次第なんだ。わかってくれたかな?」

「……はあ」曖昧にうなずくしかない。「それで、質問はもう終わりですか?」

「いやいや、これからが本番さ」

 さきほど辟易したばかりだというのに、僕はさらにうんざりするに余念がない。半ば自棄になって、「なんでもどうぞ」と一気にオムそばを平らげた。冷めてもうまい。

「わるいとは思ったんだけど、藪くんの来歴というか経歴というかね。ボクなりに調べてみたんだよ」

 なにをいまさら。僕は呆れた。散々これまで胡散くささをあますことなく発揮して僕の周囲を嗅ぎまわっていたではないか。あれで隠していたつもりなのだろうか。頭隠さず尻も隠さず。威風堂々としたものではなかったか。

「まあ、とどのつまりがボクの要点というのはだね。十二年前のあの事故についてなんだ」

 十二年前の事故――。

 僕は感情のゆらぎが顔に滲まないようにと努めた。

「十二年前だよね。藪くんがお兄さんを亡くしてしまったのは」どこまでも恬然とした物言いでシンラさんは続ける。「う~ん。ボクはね、ちょっとそれだけが理解できないんだよ。お兄さんの死亡背景だけがね。だからちょっと聞きたいんだけどね」

 言い淀んでからシンラさんは、

「あの事故、ほんとうに一連の事故と同じだったのかな?」と言った。

 一連の事故――。

 小児愛好家たちの死。

 被害者である少女によって彼らは殺された。地上から遠く、空にちかい場所から突き落とされたのだ。僕の兄もまた同様に落下して死んだ。

 彼らを突き落とした人物、彼女こそが、僕の愛しいシーちゃんだ。

「兄もおなじです。殺されて当然の人間でした」

「ほんとうにそうだったのかい?」

 まるで見透かしたようなことを言う。

 どういう意味ですか、と噛みついている。

「どうもこうもないさ。訊いたとおりの意味だよ」シンラさんはまだオムそばを上品に食している。そうして口に運びながら、とんでもないことを言いだした。

「藪くんのお兄さんね。彼、ほんとうに小児愛好者だったのかい?」




   第六章『人は死ぬよいつだって』


      ◎


「へえ。そいつあ、ぶっ飛んでるな」とコウキが笑った。「シンラさんだっけ? 逢ってみたいもんだ」

 バイトを終えたのは午前二時をまわったころだった。四時までは勤務時間だったのだけれど店長が早々に暖簾を仕舞ってしまった。

「どうせ今日もお客さん、来ないだろうし」

 シンラさんが本日最後の客となった。

 夜の街並を歩きながら僕は、思いだしていた。

 シンラさんの話を――。


   ***

「いいかな。十二年前のあの連続落下事故――まあ、世間では事件としているようだけど――とにかくあのマンションから落下してひとが亡くなったことについて、藪くんはどこまで知っているのかな?」

 知りません、と答えた。いまさら知りたくもなかった。

「ならこれはどうだろう。あのマンションでいちばん初めに落下して亡くなったひとが誰か、藪くんは知っているかな?」

 知っていた。たしか、どこぞのサラリーマンだ。中年まぢかのおやじである。世間は彼を誹謗した。野蛮人。人格異常者。欠陥人間。自業自得。天誅。人類の敵。激しく僕も同意した。シーちゃんを穢した人間なんて、死んで当然である。それでも足りないくらいなのだけれど、万死に値するからといっても、残念なことに人間はいちどしか死ねない。だから男は死んだままだ。清々しいようで、やはりどこか遣り切れない。

 僕は忌々しい小児愛好家の名を口にした。

 すると、

「ちがうよ?」シンラさんはあっけらかんとした調子で、「その男のひとは、二番目さ」と否定した。「世間の言うところでは、あの落下事故の犠牲者はすべて男性だと報じられている。事実そうなんだろうね。でもね、ボクが調べたかぎり、あのマンションでは、一連の落下事故が起きる一年前に、ひとりの女性が亡くなっている。もちろんマンションから飛び降りてね。世間はそれを、一連の落下事故と、無関係の自殺だと見做した。現に彼女は自殺だった。一連の落下事故の被害者である彼らとは死に至るまでのプロセスが異なっていた。つまり、彼女には自殺するだけの動機があり、そして現に彼女は自殺した。そういうことなんだ」

「なにが言いたいんですか」

「だからね、ボクの伝えたいことっていうのはだよ。その最初の投身自殺者である彼女の死が、あの十二年前の連続落下事故を引き起こしたきっかけになったんじゃないだろうか、ってことだよ。そして現在、最近になって多発している落下事故――こちらもまた、その影響を引きずっている。いや、十二年前の影響に引きずられている、と言ったほうが精確かもしれない」

「なんの話ですか?」

「きみの話だよ」シンラさんが笑みを引いた。「いいかな。ボクは藪くんに忠告する。きっとこれは無駄な忠告になるんだろう。それでもボクはボクのために、できることをしておきたい。結末に納得したいからだ。だから言うだけ言わせてくれないか」

 勝手にどうぞ、と僕は許可する。


「きみはちかいうちに大切なものを失くす。いいかい、きみにとって大切なものだ。それは藪くんがいちばんよく知っているはずだ。それを失くしたくなかったら、いちばん大切なものを得ようとしないでほしい」

 ――諦めてほしい。

 シンラさんは儼乎な雰囲気のまま頭をさげた。

「話はおわりですか?」席を立つ。面をあげたシンラさんを見下ろした。「諦めたほうがいいのはシンラさんですよ。あなたはもっと現実を見るべきだ」

 ――そんな妄想はやめたほうが身のためです。

 忠告して僕は厨房へと逃げ込んだ。

 シンラさん。

 彼は危険だ。

   ***


 一時間ほど深夜の街を散歩した。

 メディア端末を確認すると時刻は午前三時をまわっていた。

 昼間は、雑踏でにぎやかな駅前も、この時間帯は森閑としている。

 そこで僕は偶然にも乃泉を見かけた。

 駅前の花壇にぽつねんと腰かけていた。

 なんだか珍しく暗い顔(こわい顔)を浮かべていた。

 心配なのと暇だったのとで背後から声をかけてみた。

「どうしたの」

「あ」乃泉はおどおどした。「ま、まいごじゃないよ?」

「まいごなのか?」そっちのほうが驚きだ。「なにしてんの。待ち合わせ?」

「藪くんは?」

「今からコウキんところに行くんだけど」僕は誘ってみた。「いっしょにいく?」

「え? コウキさん? だって今日はバイトだって……」

 これはおどろきである。乃泉がコウキの日程を知っているだなんて。互いの連絡先は知っているだろうけれど、頻繁に連絡を取り合う間柄ではなかったはずだ。すくなくとも僕の認識ではそうだった。

「うん、バイトだよ」と肯定する。「今からそこにいく途中。今日は四時までらしいから、廃棄の弁当もらってすぐ帰るつもり」

「そう……なんだ」

「いく?」ともういちど誘う。

 深夜の街だ。女の子をひとりで徘徊させるには抵抗がある。

「ありがとう。でも今日はもう帰るね。ともだちと遊んでて……。その帰りだったの」

 友人のすくない身の僕としては、へえ、と愛想よく返すのがやっとだった。

 乃泉には僕以外にも友人がいる。そんなことは至極当たり前のことなのに。それでも僕はこれまで曖昧模糊としながらも、乃泉には僕しかいないような謬見を抱いていた。勘違いも甚だしい。逆説的にそれは、乃泉が、僕にとってかけがえのない存在として昇華されてしまっていたのだという事実を示唆している。

 恥ずかしげもなく僕はそんな破廉恥な思索を巡らせた。

「ごめんなさい。またね」

 言って乃泉は小走りで去っていった。

 

      ◎


 コンビニはきょうも閑古鳥が鳴いており、バックヤードで僕は今日あった印象的な出来事をコウキに話して聞かせた。日付変わってすでに昨日のことだ。自殺騒ぎのこと、発覚した香夜乃のズレた感性、そしてシンラさんの突飛な発言。

 珍しく熱心に聞き耳を立ててくれたコウキは、シンラさんへ向け、「ぶっ飛んでんな」と最大級の賛辞を送った。

「そう、ほんと頭のネジがぶっ飛んでる」

「よっちゃんも相当だよな」

「まったくだよ」

 コウキは煙草を取りだしたが、火を点けず咥えただけだ。「――で、要件はなんだ?」

 すっかり見透かされているようだ。

 けれど僕はそらとぼけた。「なにが?」

 つま先で小突かれる。

「しらばっくれんな。まだなにかオレに告げたいことがあるんだろ」

 隠してることがあるんだろ、とうんざりした顔をされてしまう。

 カナコの死をどうしてもっとはやく言わなかった――と、すこし怒っているのかもしれない。

 一昨日、乃泉から仕入れた情報を話した。カナコちゃんは殺された可能性があるかもしれないと告げる。

「だから昨日、あんな話……したのか?」

「うん。きっとこれを知ったらコウキ、じっとしているわけないだろうなって。心配だったから」

 はん、とコウキは反りかえるようにし背もたれに寄りかかった。「親しい者が殺されたらどうするか、だったよな。昨日の議題」

「そうだよ」

「――で、オレはなんつってた?」

「なにもしないって……」

 だろうな、と煙草を咥えたままでコウキは笑った。「なにもしない、だろうな。そうだとも、オレはカナコを殺した野郎には何もしない。意味がないからな。大義だってないさ」

「どうして?」

 大義ならあるだろう。それこそ、コウキは昨日、その大義を用いて相手を殺せる、と宣巻いていたではないか。

「カナコはオレの彼女だった。それは認める。だがオレはカナコのなんだった? あいつにとってオレはどんな存在だった? 知らねーのさ、そんなことは。どうでもいいのよ、そんなことは。オレはあいつの何ものでもねえ。あいつにとっての何かになってやったつもりもねえ。だからあいつが死んだことで――それを理由にして――オレがなにかを成そうだなんてことはない。そんなのはごめんなのさ。オレはオレだよ。仮にオレが人を殺すときは、オレはオレの意思で人を殺すさ」

 オレはオレのためにひとを殺すよ――コウキは大真面目に口にした。

「コウキらしいね。安心したよ」

「藪っちに心配されるほど落ちぶれちゃいねえさ」

「なに言ってんだよ。僕らはもうとっくに落ちぶれているだろうに」

 こんなにも落ちぶれているだろうに――。

 僕は同意を求めるように見つめた。

「そうなのか?」

「そうなんだよ。僕らはとっくに堕ちているよ」

 ふうん、とコウキは煙草に火を点ける。吸い込んでから、天井へ煙を吐いた。

「もしも落ちるなら、天辺からがいいよな」

 胸の奥がぐずりと疼いた。

 あのコの声が、聞こえた気がした。

 

      ◎

 

 夢をみた。

 人がこちらへ向かってくる。

 人がこちらに落ちてくる。

 声がした。

 人の悲鳴が遠ざかる。

 闇をつんざく絶叫が。

 そこの底のそとの底。

 ずう、としたへと消えていく。

 ずう、としたから漏れてくる。

 風の音。

 チョコレイト。

 かぼちゃの馬車とチョコレイト。

 ひしゃげたかぼちゃのチョコレイト。

 どごり――と。

 どちゃり――と。

 聞こえたような気がしていた。

 風の音が邪魔である。

 立っている場所を間違った。

 ここではダメだと思いなおし、立っている場所を変えてみた。

 ひしゃげたものに触れてみた。

 ――あたたかい。

 だからとろけたチョコレイト。

 風がつめたい。

 僕はちいさく戦慄いた。

 目を覚ます。

 布団をめくる。

 シーツをさする。濡れていない。

 僕は下着だけを取り替えた。

 

      ◎

 

「統合失調症って知ってる?」香夜乃が訊いてきた。

「聞いたことはあるよ」

「シンラさんって、それじゃないの?」

 統合失調症――。

 メディア端末を取りだし調べてみると、括弧でくくられ、精神分裂症、とある。

 香夜乃の突飛な主張はとどのつまり、「シンラさんって精神病なんじゃないの?」というものであった。

 居酒屋『こうちゃん』に警察が来訪したのは、香夜乃が帰ったおよそ一時間後のことであった。

「藪アマトさんはいらっしゃいますか」

 昨日の刑事さんたちだった。

 店長はおどおどとしながら、

「藪くん、いったいなにをしちゃったんだい。がっでーむ」と腹の立つ顔をした。

「昨日、話しましたよね。うちのマンションで身投げしたひとがいたんですよ。きっとそのことです」

 店長へ説明しつつ、ですよね、と刑事さん方へ同意を求める。

「ええ、まあ。それもありますが」

 なんだか煮え切らない返事だ。

「ほかに、なにか?」

「この方、ご存知ですよね」

 断言口調で刑事が言った。

 差しだされたディスプレイを眺めると、可愛らしい娘が映っている。

「知っていますよ」

 僕はそのコの個人情報を惜しげもなく披露した。「乃泉たいな。二十歳です。彼女、ちょっと天然っぽいですけど、実際かなり天然ですよ。うっかりしてると、なにをしでかすかわかったもんじゃないんです。えっと、それで――乃泉がなにか?」

「そうですか……。ええっと、そうですね」

 好々爺然としたほうの刑事さんが手帳をひらいた。「このご様子ですと、どうもまだご存知でなかったようですな。……僭越ながら、では、唐突ではありますが、私らのほうからお報せ致しましょう」

 はぁ、と気の抜けた相槌をうつしかない。

「乃泉たいなさん、今朝がたにお亡くなりになられました」

 お悔やみ申しあげます、と刑事さんがふたり揃って腰を折った。

「えっと………………はい?」

 じぶんでも頬が引き攣ったのがわかった。

 なにを言っているのだろう。耳がおかしくなったのかと思った。

「乃泉が……その、え? ほんとうに彼女、死んだんですか?」

「残念ながら」

「……なんで」

「現在のところ、死因は、高所からの落下による、全身打撲です。自殺の線が濃厚ですな。なにぶんこの手の自殺が多発しておりまして」

 おっとすみません、と若いおじさんが謝罪した。

 なにを謝ったのかは判然としない。乃泉の死をひとくくりに扱ったことへの謝罪だろうか。

「昨日の男性といい、今回の乃泉たいなさんといい、どうも最近、この近辺で同じように死亡される方が急増していましてね」

 シンラさんと同じようなことを言う。

 いったいどこが不自然なのだろう。

 ――落ちれば人は死ぬ。

 ごくごく自然なことなのに。

「それも、調べてみれば、ここ数年に渡って続いていたようでして。まあ、自殺として処置されていたわけですから、まあ、自殺なのだとは思うのですが。なにぶん今回は立て続けですからね。しかも局所的ときてますでしょう。念のために過去のデータを調べなおしてみたんですよ」

 たとえば、と刑事は癪に障るほど遠慮なく口にした。「たとえば、十二年前の事件だとか」

 言いたいことは模糊としながらも伝わった。

 このおじさんたちも、僕の過去を訝しんでいる。

 シーちゃんとの想い出を聞きだそうとしている。

 だれが言うものか。

 僕の想い出は僕だけのものだ。

 だれにも触れさせはしない。歪ませはしない。

 そとに晒すなど、死んでもするものか。

 そとに晒した瞬間、すべては風化しはじめる。

 大切な想いほど、それは顕著だ。あっという間に色褪せてしまう。

 だからこそ、ときには、仕舞いたくなるものである。

 言の葉でできた箱に――詰めこんだりもするだろう。

 けれどもそれは過ちだ。

 大切な想いほど、破棄できなくなってしまう。

 取りかえしすらつかなくなる。

 いちど想いの詰まった箱は――二度と消せなくなってしまう。

 捨てることもできはしない。

 直すこともできはしない。

 それはとてもたいせつな。

 僕を支える中身なのだから。

 刑事さんは手帳をひらいて筆を構えた。「――それで、当時の様子を窺えたらなと存じまして」

「むかし、何度も答えました」

「まあそうなんですがね。我々が聞いたわけではないですし。当時はまだ藪さんも幼かったでしょう? こうして成長してから思いだすとまた、違った景色が――」

「忘れましたよッ!」僕は半ば悲鳴をあげるように言った。「何年前のことだと思ってるんですかッ」

「十二年前ですよね」

「そうですよ。十二年ですよ? だったら刑事さんたち、十二年前のこと、なにかひとつでも鮮明に思い出せるとでも言うんですか?」

「……大変でしょうとは思われますが」

「だったらもう聞かないでくださいッ。僕にとってはもう、終わったことなんです」

 そう。

 すでに終わってしまったことなのだ。

 今というこの世界――それもまた、終わってしまった過去にすぎない。

 刻一刻と衰退していく現実という名の幻相。

 幻相という名の過去。

 乃泉との想い出は、そう、やはりすでに過去のもので、過去のものはすでにこの世にはないもので、だから乃泉はもうこの世にはいなくて、だからきっと乃泉なんて元からいなかったのだろう。

 そもそも僕は、シーちゃん以外の人間を求めてなどいなかった。

 僕にとっては、シーちゃんだけが人間だった。僕を生かしてくれる、ただひとりのもの。ただひとつのひと。

 シーちゃんだけが僕にとっての永遠なのだ。過去ではない。だってシーちゃんはいつだって僕のなかにいるのだから。

 密封した容器のように僕のうちに仕舞ってある。

 シーちゃんとの想い出だけが過去ではなく。

 いつだって僕はシーちゃんのそばにいて。

 いつだって僕はシーちゃんを求めている。

 僕はとても。

 ――一途なのだ。

 

      ◎

 

 刑事さんたちはあっさりと引き下がった。

 乃泉の死亡推定時刻は明朝の三時~六時のあいだだという。そのあいだ、なにをしていたのか、と訊かれた。

「三時ごろに乃泉と会いました」

 そうだ。彼女の死の直前に僕は彼女と会っていたのだ。たしかに乃泉はまだあのときは生きていた。まさかそのあとすぐに死んでしまっていたなんて……。

 乃泉と別れたあとは、コンビニに寄ってから、五時ちかくに帰宅した。

 僕は正直にそう告げた。

 コンビニの店員が証人だとも付け加える。

 刑事さんたちの質問には包み隠さず全てはなした。

 またお話をお伺いにきます、と刑事さんたちはなんだかまるで親しくなったかのような調子で去っていった。

「なんだか、あれだよね。ごしょーしょーしゃまですね」

 店長が恐縮そうに言った。

「言えてないじゃないですか」あえて僕は言った。「ご愁傷さまです、ですよ」

「うん。それ」

 カウンター席に腰かけ、店長はうなだれるようにした。「なんだろうね……どうしてだろうね。人が死んじゃうのっていうのはさ。とても……とってもかなしいよ」

 乃泉のことを言っているのだろう。「どうしてですか」

 店長は乃泉との面識はないはずだ。

「だれの死だってかなしいさ。だって店長、そのコとはもう二度と繋がりあえなくなっちゃったんだよ? そのコの線は途切れてしまった。店長の線と交差する前に途切れてしまったんだね」

 かなしいよ、と店長は繰りかえす。

 やさしいひとだな、と僕は思った。

 気づかれないように、そっと、なみだを拭った。

 乃泉が死んだと聞いてから僕はすぐに泣いていた。

 溢れたなみだを僕は素知らぬふりをした。

 なぜなら僕は、

 ずっと一途なのだから。

 

      ◎

 

 僕は疲れてしまっていた。だからバイトが終わったあと、まっすぐに帰宅した。

 泥に沈んだように眠りに就いた。このままきっと僕は、泥んことおなじになるのだろう。そうしたら、天空から落ちてくるだれかを受けとめてあげよう。溶けたチョコレイトの底なし沼となって。どこまでも。いつまでも。僕は堕ちていく。共に落ちるひとを得たから。僕は彼女といっしょとなって。どこまでも。いつまでも。どこへともなく。ぶつかることもなく。ゆるゆると。ひゅんひゅんと。落ちていけたらしあわせだった。

 ――どごり。

 ――どちゃり。

 のぺー、とひろがる僕はドロ。

 あまくてにがいチョコレイト。

 ごくり、と唾液を呑み込んで。

 目覚める僕はあたらしい。

 おはよう僕。

 さようなら、昨日までの僕。

 こうして今日も僕は、僕を引き継いで、あらたな世界を生きてみる。





   第七章『掃除機で葬式を吸う式、それは好きという数式』

 

       ◎

 

 箱に納まる乃泉は目を閉じまま数時間後には骨だけになる。

 彼女の死体を見て香夜乃は泣きじゃくっていた。

 意外だった。

 このあいだまでの香夜乃はどこへいった。人のひしゃげたその様を目撃しておきながら涼しげな顔して料理の下準備をしていた彼女は、いったいどこへいったのか。

 香夜乃の背に僕はそっと手を添えた。

 なんで、なんで、とちいさなしずくが落ちていく。

 通夜は、終始、しめやかだった。香夜乃の嗚咽がうるさかった。

 乃泉の遺体は想像以上に綺麗だった。

 きれいだな――と僕は思う。

 ひしゃげた人間はおぞましい。

 人間であって、人間ではないものになりさがる。

 雄大な自然の風景にも劣らぬ、一種、美的な醜さがそこには見てとれる。

 だのにそれがこんなに綺麗なままだなんて。

 きっとたくさん整形されたのだ。

 頭蓋だって縫合されたに違いない。

 閉じられた瞼のしたに、眼球なんて納まっていない。

 綺麗だけれど、綺麗だから、

 だからこれはもう、綺麗ではない。

 

 そとに出ると、やあ、と声をかけられた。

「来てたんですね」

 駐車場の隅にシンラさんがいた。花壇に腰かけている。

「よっちゃんは?」

「なかですよ」

「……まあ、なんだろうね」

 シンラさんはそらを仰いだ。「なるべくして……なってしまったんだろうか」

 僕は彼から目をそらさない。辺りはとっぷりと暮れている。

「あなたが殺したんじゃないんですか」

 乃泉が死ぬ前から、彼女が死ぬだろう、とこの男は知っていたは。ふつうに考えれば、そんな未来を知ることができるのは殺人を犯そうとしていた犯人しかいない。

「そうかもしれないね」

 否定はしないよ、とシンラさんは息を漏らす。「ボクは藪くんに言ったよね。きみのよく知るコが死ぬよって。でもあれは、ほんとうなら乃泉ちゃんじゃなかったんだよ」

「あなたは病気です。警察のまえに病院へ行くべきだ」

「そう、ボクは病気だよ。みんなには視えないものが視えてしまう。でも、受けいれるべきセカイから目を背けて、視えていないふりをしている『誰かさん』よりかは幾分も増しだと思うんだよ。ボクはさ、ほら、ちゃんと自分の異常性を認識しているだろ? でも藪くんたちはそうじゃない。自分たちが正常だと無意識に思いこんでいる。自分たちを無意識のうちに基準にしてしまっている。そちらのほうがよほど異常だと思うけど、どうだろう?」

 こいつ、と僕は腹が立った。こいつ、認めやがった。自分が毀れていることを自覚している。そのうえで他人へ干渉しようとしている。干渉してきている。他人の世界を異常と見做している。見做そうとしている。こうして僕の世界を――僕だけの――僕とシーちゃんだけの世界を。異常なのだと。狂っているのだと。

 歯を食いしばる。

 あなたは、と腹のそこからひねり出す。

「……あなたはもっと、ひとの不幸を知るべきだ」

「知っているさ」

 うんざりするほどにね、とシンラさんは柔和に微笑む。

 知っているはずもない。

 不幸を知る者が、そうして笑えるはずもない。

 ――虫唾がはしる。

 それこそ、ほとばしり。したたり。おちるほどに。

「ボクは変えたいんだよ」シンラさんの眼から一粒のなみだが零れおちた。微笑んだまま。欠伸をしたあとのように。なにごともなく。泣くわけでもなく。なみだだけをながしていた。

「なにをですか?」なにを変えたいのだろう。意味がわからない。

「もう、やめよう」

 彼が朗々とした声で訴えてくる。

 なにを伝えたいのかを模糊としたまま。

「ですから、なにをですか?」

「藪くんさえ変わってくれれば、きっと彼女だって変わるんだ。いや、変わることすらなかったんだよ」

「はい?」もう勘弁してくれ。

「でも彼女はすでに変わってしまった。だからもう、変わらないのかもしれない。とまらないのかもしれない。それでもさ、藪くんが変わってくれさえすれば、あるいはまた彼女も元に戻るかもしれない。いや、そうじゃないのだろうね。きっと彼女は」

 ――目を覚ましてしまったんだ。

 頭がどうかしている。それこそ脳の構造からして異常だ。

「僕、予定があるので。これで失礼します」

 香夜乃が心配だったものの、僕は彼女を置いて、いちど帰宅することにした。

 会場へ入っていく店長の姿が見えたからだ。きっと迎えに来てくれたのだ。

 

      ◎

 

 シンラさんは車を持たない。だから僕よりもはやくマンションへ辿りつくことはないだろう。

 シンラさんはいちど大切なものを失ってみるべきなのだ。

 そうすれば毀れた人格も正気にもどるだろうと思われた。

 だって、穢れをしらぬその振る舞いが、どれほど穢れているのかを、彼は気づいていない。まっしろいシーツは、なににも増して汚れが目立つ。はなから穢れた紋様に彩られてさえいれば、その汚れもまた紋様の一部となる。

 駐輪場に自転車を格納する。

 マンションの入り口に設置されている端末にゆびをあてがう。

 指紋を認証させ、それから暗証番号を入力する。

 扉がひらく。

 と。

 ほとんど同時だった。

 背後。

 数メートルさき。

 反響しながら風が舞った。

 重い、重い、なにかが落ちた。

 地球よりも重いと言ったのはだれだったか。きっと父だ。そして母だ。いのちは地球よりも重いのだと。彼らはしきりに謳っていた。そんなわけがないというのに。いのちだなんて重くないのに。だから重いと思いたいのだ。重くないから謳うのだ。

 ――おもい。おもい。いのちが落ちた。

 ――落ちて。つぶれて。折れ曲がって。

 地面は暗いが、電灯の余韻がそれを仄かに照らす。

 艶っぽい太ももに、

 豊満にはったむね。

 服のはだけた隙間から、くびれがちらりと覗いている。

 足は百二十度の角度でひらき、行儀わるく左右へくたりと伸びている。

 腰から身体が折れている。

 ねじれた身体は絞られた雑巾のようだ

 二つ折りにも拘わらず、彼女のむねは、ほしぞらと対面している。

 彼女の顔はこちらを向いている。

 ――ひしゃげている。

 そう、これは、ひしゃげた女の塊だ。

 髪がながい。

 あちらとこちら、頭部がみっつに割れていた。

 頭蓋の割れたその顔は。

 中身のこぼれたその顔は。

 欠けていながらに、妖艶で。

 ゆがみながらも、秀麗で。

 地面にこぼれた脳髄は。

 白桃色の、ぷるぷる、は。

 やがて黒く濡れていく。

 ひろがり蕩ける粘液に、僕はちいさく戦慄いた。

 またしても。

 僕はちいさく漏らしていた。

 鼻をつく錆の匂いを、

 風がつめたくあらってくれる。

 泉谷いずむ。

 ――彼女がひしゃげて死んでいる。

 

      ◎

 

 イズ姉の部屋に鍵はかかっていなかった。

 入ると人影が立っていた。

 シルエットから一目でそこに立っている人物が彼女なのだと判った。

 開いた窓から夜風が舞いこむ。

「通夜は?」彼女が口にする。「まだ戻ってこないって高をくくってたんだがなあ」

「抜けてきちゃった」

 ああ、と気の抜けた相槌を打たれる。

「みた?」

 彼女があごをふった。ベランダの向こうを示している。

 僕の場所からは見えないけれど、今しがた見たばかりだ。

 イズ姉が、ぺこり、とこしを折るように。

 地べたに、べちゃり、とはり付いている。

「どう? オレからのプレゼント」

 お返しさ、と彼女は肩をすくめた。「気に入っただろ?」

「記憶、もどったの?」

 僕は問う。まずは確認したかった。

「わお」と彼女が口にする。

 それだけで充分だった。

 ああ……シーちゃんだ。

「待ってたんだ。ずっとずっと待ってたんだ。僕はずっときみのこと……」

「やめようや」シーちゃんは照れくさそうにうなじを掻いた。「別にわたし、待っててね、だなんて頼んだ覚えはないけれど?」

 くふふ、と僕は肩をゆらす。「その口調、なんだかすこしへんな感じ」

「だよなあ」シーちゃんが恥ずかしそうに頬を掻いている。ふう、とひと息吐いてから彼女は、で、と疑問を口にした。「まずは聞かせろよ。なんでカナコを殺したよ」

「なんで――? それを僕に言わせるの?」

「ああ。ぜひとも聞きたいね」

 なんてイジワルなのだろう。まるでむかしのシーちゃんだ。僕はあまりにうれしくて、今にも死にたいくらいだった。

「言いたくない」と駄々をこねてみせる。僕だってこの十二年、成長しているのだ。「言わなくたって分かってるくせに」

 へへん、と彼女はくるりと回った。そのままソファに腰を落とす。「まあな」

 ガラスでできているテーブルを挟み、僕も対面のソファに腰かけた。

 彼女を見つめる。室内は暗いままだけれど窓から差しこむ月光のおかげで、お互いの顔を見ることができた。

「むしろこっちが聞きたいよ。どうしてシーちゃんは殺しちゃったの? 乃泉を、どうして」

「それこそ説明なんていらねーだろうが」

 そう、いらなかった。聞かずともなにともなしに想像はついていた。

「――相談、されたんだ?」

「そう。されちまったのさ」

「読んだの? あれ?」

「読んじまったよ。おかげさまでこの通り。すっかり思いだしちまった」

 四日前に、マンションの扉に挟まっていたコピー用紙。

 ――言の葉に詰めた、〝僕の想い出〟。

 あれを読んだ乃泉は、僕の部屋から無断で盗んだのだろう。

 しっかり隠していたつもりだったのに、彼女はそれを見つけてしまった。

 そうしてあの日、持ちだしたのだろう。

 カナコちゃんの死をすでに知っていた乃泉は、だから勝手に持ちだして、コウキに――シーちゃんに――相談したのだろう。

 イイ子じゃないか、とシーちゃんは笑った。


   ***

 イイ子じゃないか。かなり心配していたよ。最初はなに言ってんだかさっぱりだったけどさ。きっとあの子もさぐりさぐりだったんだろうな。

『藪くんから聞きました。カナコと付き合ってらしたんですよね。なら、カナコがどうして死んだのか、知っていますか?』

 そんなこといきなり投げかけてくるんだ。こっちは藪っちからカナコが死んだって報されたばっかだっつーのにさ。

 そんときは単純にムカついたよな。なんで乃泉ちゃんがオレんところにそんな話を突きつけにきたのかなんてわからねーじゃん?

 むしろオレからすりゃ、カナコを苦しめていた張本人――元凶がさ、今さらカナコの話を持ちだしてきたんだ。それもカナコが死んでからだぞ?

 カナコはな、乃泉ちゃんに惚れてたんだ。なのに乃泉ちゃんは相手にしなかった。

 カナコの性別が女だからっつーそんなちいさな事を問題だと見做してやがったんだ。きっとカナコが男だったら、あの子はさ――乃泉ちゃんはさ、付き合っていたんだろうよ。

 ちっちゃなどうでもいい点をさ、ネックだと思い込んでやがんだ。

 どいつもこいつもちっさいよ。

 好きなら好きだし、嫌いなら嫌いだろ。

 そこに性別だとか人種だとか階級だとか、関係ねぇじゃん。

 同性愛だとか異性愛だとか、そんな分類、意味ないんだって。

 相手が女だから好きなのか? 男だから好きなのか?

 ちがうだろ。相手が相手だから好きなんだ。

 そこを履き違えてっから、いつまでたっても愛のなんたるかを語れねーんだ。

 オレはさ、そんなふうに怒鳴っちまった。溜まりにたまった鬱憤だ。いちどでいいからオレは乃泉ちゃんに言ってやりたかったんだ。これまで我慢してたんだ。カナコが嫌がるだろうと思ってな。そしたらあの子、逆切れしやがった。

『今はそんなことどうでもいいでしょッ』

 ほざきやがった。

 んなこと言われて我慢できるか? 乃泉ちゃんは、カナコの想いを『そんなこと』呼ばわりしたんだぞ? オレは我慢できなかった。

 ちょうどオレたちがいた場所がトルネードプラザの真うえだった。螺旋階段があんだろ? あそこ、明け方ってだれもいねーじゃん? そこで話してた。カッ、となった。落としてやった。乃泉ちゃん、ちいさいからな。ちょっと押してやったら、そのままバランス崩して落ちてった。

 ギャグだったよ。あれは。

 階段降りて見にいった。死んでたよあの子。まあ、殺すつもりで落としたんだけどな。

 死んでてもらわなきゃこまるよな実際のとこ。

 あの日はさ、直接逢いに来られたんだ。だから端末には特に調べられて困るようなものは残っちゃいなかったけどさ。万が一にも作成中の文面でも残ってたら厄介だろ? 乃泉ちゃん、最初はメッセージ送ろうとしてたかもしれねーじゃん?

 そう思って念のためにあの子の懐を探ったんだ。

 したら藪っちのアレがでてきた。

 手紙だよ。

 あ、小説か?

 よくわかんねーけどさ。

 ガツン、って衝撃だった。

 藪っちがもしかしたら犯人かもしれないって。カナコを殺してしまったのかもしれないって。まず最初にそれに衝撃受けた。

 すぐあとに、既視感が襲ってきた。

 懐かしい描写だったんだ。

 藪っち、随分はっきり覚えてくれてたんだなって――素直にわたし、うれしかった。

 そっからはもう、なにがなんだか。いちどに。一気に。怒涛だよ。

 ぜんぶわかっちまった。

 藪っちがなにをしようとしていたのかも。なんでオレのバイトさきにいたのかも。

 ぜんぶ想像できちまった。

   ***


 ありがとう、うれしいよ――。

 言ってシーちゃんは上着から丁寧にあの手紙を取りだした。

 僕の綴った想い出だ。

 オリジナルのテキスト。

 扉に挟まっていたのは乃泉がコピーしたものだったのだろう。

 なぜ扉に挟んだのかは判らない。もしかしたら、僕を止めたかったのかもしれないし、優しい脅迫だったのかもしれない。

 ポストへ入れずに、部屋の扉へと直接挟んだ理由――。もしかしたら乃泉は、ほんとうはあの日、話をしに来たのかもしれない。扉のまえまで来てみたはよいけれど、僕が留守だった。だからコピーした紙だけを扉へ挟んで踵を返したのだ。

 ――オリジナルはわたしが預かっています。

 暗にそう伝えたかったのだろう。

 僕は魯鈍だから、気づかなかった。

 乃泉のその配慮に。

 やさしさに。

 僕はまったく気がつけなかった。

 乃泉は僕を庇おうとしてくれていた。

 ――そういうことだったのか。

 僕は冷静に受け止めた。

 とくになにも思わなかった。

 それよりも、

 なによりも、

 あの僕の無駄にキザな文章をシーちゃんに読まれてしまったのか、と思うと、顔から火がでそうなほどに恥ずかしかった。

 シーちゃんはふたたびその手紙を上着に仕舞った。

 目のまえで破り捨てられるかもしれない、と危惧していた僕だけに、おおいにホッとした。

 テンションのままに綴ったラブレター。

 出さないでいようと仕舞っておいたのに、期せずして想い人の手に渡ってしまった。

 別にわざわざ語るほどの話ではなかったけれど、それでも僕はシーちゃんに知ってほしかった。

 僕がきみを、

 ――どれほど欲していたのかを。

 

      ◎

 

「シーちゃんは施設に入れられたんだよね。調べたらそこまでは簡単に分かったよ。だからすぐに逢いに行けるかと思ってた。なのに……きみは名前を変えちゃっていたから」

 ――燈真寺さつき。

 彼女は戸籍を変更していた。

 神灯光姫と名をかえて。

 施設からも卒園し、社会に身を置き自立していた。

 もちろん、殺人者としての過去を彼女はしっかりと背負わされていた。定期的に、保護司官のもとへも赴いていたはずである。身元の照合を義務付けられているのだろう。未だに彼女は社会の監視のもとにあるはずだ。旅行へ勝手に出かけることもできない。

 でも、ほかには基本的に自由なのだ。こうしてバイトで糊口をしのいでいても、とくにお咎めはないらしい。

 そうして。

「――四年前だよ。僕はようやくきみを見つけた。さがしてたんだ。ずっとだよ。十二年前からずっとだ」

 ひと目でシーちゃんなのだと分かった。成長していたけれど、僕が見間違うはずもない。だって、彼女のことをずっとずっと想いつづけてきたのだから。

 それで? とシーちゃんがさきを促す。

「……やっと見つけたっていうのに、きみはまったく変わっちゃってるんだもの。記憶を失くした? バカなこと言うなってね。同性愛者になっていた? シーちゃんらしくはあるけれど、それもまたふざけた話だよ」

 まったくだ、と彼女も笑う。

「演技だと思ってた。最初はね。だけれどやっぱりそうじゃなかった。確信を得るまでに時間がかかった」

「バイトで一緒になってからか? それまで信じられなかったのか?」

 記憶を失くしているってことに、と彼女は疑問した。

「それもあるよ」

 ああ、と彼女は声をあげた。「オレがカナコと付き合いはじめたからか」

 そう、と首肯すると、シーちゃんは「気づくのおっせーよっ」と腹を抱えた。

 あー死にそう、と涙を拭う。

 そこまで笑わなくとも、と僕は愉快だった。

「それで、カナコを殺したのか」急に真面目な顔をされ、僕はひるむ。

「それで、っていうか……だってシーちゃん、本意ではなかったでしょ? カナコちゃんと恋人になるの」

 シーちゃんの本意ではなかったでしょ、と同意を求める。

「誤魔化すな。オレを理由にカナコを殺したのか? だったらオレさまがっかりだ」

「……それ、ずるい」

「なにがだ。なあいいか? あたしはな、自分の欲望に忠実である行為ならどんなものでも許容する。それが欲望でなく、願望であるなら、むしろ称賛してあげるわよ。でもね、そういった自分本意の行為を、あたかも他人のためだ、なんてほざくような人間」

 わたし、と歯を食いしばり彼女は、

「いっちばん嫌いなのよ」

 ――虫唾がはしるわ。

 とテーブルへ、かかとを叩きつけた。

 大きな音を立て、ガラスが砕け散る。

「ごめん」僕はうなだれるしかない。「そう、だから、あれは……だって」と白状する。

「だって僕はずっとシーちゃんのことを想っていたのに――なのにシーちゃんは記憶を失くしちゃってて。そんなのってないじゃんか。記憶がないのなら責めることなんてできないし。むしろ諦めることだって僕にはできなかった。だって記憶を失くしているのなら、シーちゃんの本意ではないってことでしょ? カナコちゃんと付き合うのだってシーちゃんの本意ではなくって、記憶を失くしたシーちゃんの――コウキの想いなわけでしょ? だったら僕は直接シーちゃんからシーちゃんの気持ちを聞きたいじゃないか」

「――で? だからなんでカナコを殺したよ」

 説明になってねーよ、とシーちゃんがすごむ。まるで怒ったときのコウキだ。

「イヤだったんだ……僕はシーちゃんが好きなのに、僕以外のひととシーちゃんが想いあうのがイヤだったんだ」

「それで邪魔なカナコを殺した?」

「……うん」

「まいったなこりゃ」シーちゃんは腕を組んだ。ふんぞり返り、足も組む。「藪くんよ、ちょいときみ、自分を見失ってやいませんか」

 どういうことだろう。

「まだ分からない? まあ無理もねーか。きっとどっかで自制が働いているんだろうな。うん、きっとそうだ。藪っちはさ、本当は分かってんだ。分かっているからこそ、それに気づかないふりをしているだけなの」

 ――いい? と彼女は強調した。

「きみは百パーセント自分のためにカナコを殺した。そこにわたしへの恋慕だの、愛情だのと、そんなのは一切かかわっちゃいない。仮に関わっていてとしても、それは言い訳の域をでないのよ。大義にしているだけ。あのね、きみは殺したいから殺したの」

 ――ね、そうでしょ。

 言いながらシーちゃんはじぶんの髪を束ねるようにする。

「どういうこと……?」

 ほんとうに僕には分からなかった。

 彼女はソファへよこになった。すっかりとくつろいだ様子で、「藪っちさ」と命令してくる。「ちょっとそこに起立しなさい」

 言われるがままに腰をあげた。

「そのシミはなに?」シーちゃんがあごを振って僕のズボンを差した。股したから太ももにかけて。すこしシミが浮かんでいる。僕は正直に打ち明ける。「びっくりしちゃって。だからすこし漏らしちゃって」

「漏らしただあ?」すっとんきょうな声をあげてシーちゃんは厳めしい顔をした。「それ、ホンキで言ってんの」

「ウソを吐く理由がない」

 こんなウソをついて僕にどんな得があるだろう。ただ恥ずかしい思いをするだけだ。

 するとシーちゃんは打って変わって哄笑しだした。「いくら童貞だからって半端ねーな、おい」

 僕は、むっとする。「ドウテイは関係ない」

 むしろこれまで一途に純潔を保ってきた僕を褒めてくれてもいいものを。

「いやいや失敬」

 身体を起こし彼女は、あごを振って僕の股間を示した。「藪っち、それなあ」

「うん」

 言いにくそうにシーちゃんは頬を掻き、それから短くこう告げた。

「射精してるよ」




   

                  +++

 

 シーちゃんは変わってしまっていた。

「神灯光姫」という人物になっていた。

 自分が殺人者だったことまで忘れているのかもしれないと疑ってみたこともあったけれど、それでも僕はそれを直接尋ねることができなかった。

 もしも本当にあのときの出来事を――過去を――忘れてしまっていたとするのなら、それはつまり、僕のこともすっかり忘れてしまっているということで。

 それはだから、シーちゃんにとって僕は存在しない人間ということで。

 出会わなかった人間だということで。

 友だちでもなく。

 知り合いですらなく。

 この世界に存在したあらゆる人類のうちのひとり――大勢の他人のうちのひとり――滾々と引き継がれていく過去に埋もれるだけの存在にすぎないということで。

 それはだから究極のところ僕という存在が――シーちゃんの世界には関係のない――世界を構成する粒子のような――意識されることのない無数のうちの一欠けら――その程度の存在としてでしか僕が存在していないということになってしまう。

 いやだった。

 そんなのぜったいにいやだった。

 だから僕はもしものときを考え、もしも僕がシーちゃんにとってどうでもいい他人になり下がってしまっていたとしても、自暴自棄にならずに済むようにと考えて、神灯光姫としての彼女とも友だちになっておこうと考えた。

 そうして僕はコウキと知りあった。

 友だちになった。

 だのにコウキは女のくせに、シーちゃんのくせに、女の子しか好きじゃなくって。

「男とセックス? 虫唾がはしるね」

 そんなことを宣巻く始末で。

 けれどそれはそれで安心した僕もいて。

 でもだったら。

 ――だったら僕はなんなのだ。

 シーちゃんもコウキも僕のことを想ってくれていなくって。

 想ってくれることはなくなって。

 だったら僕はどうすればいいっていうんだ。

 僕がそうして悩んでいたあいだにコウキはあのコと付き合った。

 好きあった。

 ――結田加南子。

 邪魔だった。あのコが僕には邪魔だった。シーちゃんにとってだって邪魔なはずなのだ。コウキはコウキ。シーちゃんではない。シーちゃんだけれど、シーちゃんではなかった。

 僕の欲したシーちゃんではなかった。

 求めていたんだ。

 ずっとずっと想っていたんだ。

 僕の彼女はどこへいった。

 僕のシーちゃんはどこへ眠った。

 目を覚ましてあげたかった。

 目を覚ましてほしかった。

 シーちゃんに、思いだしてほしかった。

 ――結田加南子。

 彼女はいらない存在だ。

 僕にとっても。

 シーちゃんにとっても。

 僕らにとって。

 ――邪魔だった。

 しかたがなかった。

 術もなかった。

 離れてほしかった、消えてほしかった、どこまでも遠くへ、記憶のかなたへ、過去の果てへ。

 それでもそんなことはできなくて。

 ならどうすればよいだろうか。

 僕は考えた。

 たくさんたくさん悩んだあげくに、僕はようやく思い至った。

 死んでもらうしかないではないか。

 落ちてもらえばよいではないか。

 ああそうだ。

 同じ記憶を持つべきだ。

 僕もまた。

 シーちゃんにある体験を。

 ひとを落とす体験を。

 ひとのひしゃげたその様を。

 僕もまた、うえから見下ろし眺めたいよ。

 鼓動でむねが張り裂けそうだ。

 鼓動がむねから突き抜けそうだ。

 こんなに心躍る日は久しい。

 生きてゆけるのだ。

 シーちゃんと。

 

 共に笑いあったあの日を境に。

 色の満ちたこの世界。

 あのまま全てが。

 

 ――いろ褪せていく。

 

 それを僕は止めたかった。

 はしなくも、止めることができるようだ。

 はかなくも、あのコをこの手で落とすことで。



   第八章『真相は心臓にわるく、心境は深層でワルツ』


      ◎ 


 ――藪っちはひとつ勘違いをしているよ。

 シーちゃんは語った。

「藪っちだけじゃない。オレがやらかしちまったあの出来事――十二年前のあの事件。あれを知っているやつはらはみんな勘違いしてやがる。オレは別に男どもに穢されてやしねーよ。両親に無理強いさせられていた? どこのだれが言い出したんだか。たしかにオレは親を殺したさ。つっても、お父さんもお母さんもやさしかった。ありゃいい親だったよ。でも殺しちまった。我慢ならなかったんだ。あいつらやさしすぎたんだ。死人に対してだって、いつまでも、どこまでも、愛情を失わなかった。ずっと悲しんでやがった。えらいよ。親の鏡だよ。でもさ、わたしがどれだけあんたらを慕っていたか。褒めてもらいたかったか。見てもらいたかったか。それをあいつら……死んだ人間のほうばっか、いつまでもどこまでもグジグジとウジウジと気にかけてやがって。引きずりやがって。『なんで自殺なんかしたの、辛かったのはあなただけじゃなかったのに』そう言っていつまでも嘆いてやがった。だからわたしは〝あいつ〟の代わりに、同じ状況から立ち直ってみせようと思った。我ながら健気じゃねーか。親を元気づけようと思ったんだな」

 知ってたか、と彼女は立ちあがる。窓の向こうの夜空を見つめる。

「オレの〝姉〟は自殺したんだ。レイプされたんだとよ。そんなくっだらねー理由で死にやがった。自分で自分を殺しやがったんだ。そのせいでお父さんもお母さんもひどく悲しんだ。だからわたしは思ったんだ。姉きみたいに男どもに犯されておきながら、それでも自分を殺すことなく明るく生きてあげよう――そうすれば喜んでくれるかな、元気になってくれるかなってな。そう思ったの」

 シーちゃんの背中はまるでウサギみたいに震えていた。

 ベランダの向こうに浮かぶお月様は、まん丸かった。

 杯のようなその月に向かって彼女は、

 わたしはさ、と詠うように声を張る。

   ***

 わたしはさ。好きでもねえ、あかの他人さまである中年どもにだ、気持ち良くもねー愛撫されて、それでも明るく生きている娘――それをみせてあげようと思ったんだ。姉きにできなかったことをわたしがしてあげようと思ったの。

 元気になってほしかった。ただそれだけだったんだ。

 だのにあいつら、逆切れしやがった。てめえらのためにしてやったってのによ。あいつらわたしに激怒しやがった。

 全否定だぜ、信じられるか?

 たしかに今になって考えてみりゃ随分とくっだらねーことしちまったって思うさ。でもよ、てめえらのために娘が必死こいて行動したんだぞ、それを全否定はないだろって。

 オレはまあ、今だって餓鬼だけどさ。むかしはもっと餓鬼だったんだ。やっちまったもんはしょうがねえじゃん? なのにあいつらは自分のことを棚にあげてオレをズタズタに否定しやがった。

 てめえらがいつまでも死んだ娘のほうを大切にしてっから――だからオレは――あんたらを想ってやったことだっつーのにさ。

 姉きが生きてたころだってそうさ。オレはいつもいつも二番目だ。姉きはさ、利発なお子さまだったのよ。善い子だったんだな。親の関心はいつも姉きに向かっていたさ。

 オレは姉きがうらやましかった。

 憧れていたくらいだ。

 だのにその姉きはあっけなく死んじまった。あいつらは悲しんだよ。お父さんもお母さんもたくさん泣いて、たくさん喧嘩するようになった。

 仲直りしてほしかった。

 むかしのお母さんたちに戻ってほしかった。だってさ、もう姉きはいないんだ。わたしが一番になれるはずだったんだ。だのにそうはならなかった。

 だからわたしは姉きの失敗を乗り越えてあげようと思ったの。

 わかるでしょ、わたしのきもち?

 ったくよ。やりきれねーじゃん?

 全否定するような親なんざわたしの親じゃない――そう見切っちまった。

 激昂された夜だ。

 あいつらをめった刺しにしてやった。

 ――殺してやった。

 わたしが負った苦しみをそのまんま返してやったのよ。

 お父さんは目を覚ますことなく死んだわ。血に塗れてね。でもお母さんは途中で気が付いたの。お父さんから噴き出した血がおもいのほか多くて、それを浴びたからだろうな、起きちゃった。そっからはまあ、こっちも必死だよ。にどと怒られたくなんてなかったからさ。

 めった刺しカケルめった刺し――そんな感じ。

   ***

 なんだか頭のなかが、ぐにゅぐにゅ、と点滅している。

 まっしろとまっくろと。

 まっさおとまっきいろと。

 目のまえのシーちゃんをじっと見つめる。

「きみのお兄さんにはさ、わるいことしちゃったよね」

 ごめんね、と彼女がこちらにゆっくりと振りかえる。

「藪っちの兄貴とうちの姉き。付き合ってたらしいじゃん? だからまあ、なるべくしてこうなったみたいな感じだけどな」

 ドクン、と跳ねた。胸の奥が。

 へんてこな顔をしていたのだろう。僕を見てシーちゃんは察したように、「知らなかったのか?」と噴きだした。

「そっかそっか。藪っちは知らなかったのか。んじゃなにか? どうして兄貴が死んだのかも知らないままなのか? 知らねーのか?」

 ――どうしてオレに殺されたのか。

「そっかそっか。知らなかったのか。てっきりオレさま、知ってたものかと」

「だって……兄さんは、だって」

 きみを抱いて、そしてきみに殺された――そうではなかったのか。

「きみの兄貴が愛していたのはオレじゃあない。オレの姉きだよ。その妹を抱こうって気持ちは、まあ、たしかに解らないではないし一般的に考えれば男の性ってのはそういうもんかもしれねえけどな――それでもね、あのおとこはわたしを否定したのよ。あいつらと同じようにね。全否定」

 ――〝こんなこと〟はすべきじゃない。

「ったくさ。んなこと言われたってもうおせえよな。もう両親(あいつら)はオレさまが刺し殺しちまったんだし。それでも腹は減るし。だったらどうにかして金を得なきゃならねえだろ。でも、あのころのわたしにできることなんて、男から巻き上げるしか思いつかなかったの。すでにいちど経験していたしね。だから何度か男に抱かれて、その報酬で糊口を凌いでた。そんなときにあのおとこ――きみのお兄さんが、『そんなことはやめよう』だなんて言いだすものだから。――ね? 邪魔でしょ? ひどいでしょ? わたしのしていたことはさ……されていたことっていうのはさ……あのひとからすれば」

 ――けがらわしいことだったのよ。

「じゃあ、兄さんはシーちゃんには手を」

「出さなかったわよ。あのおとこ。抱かせてやるから見逃してって頼んだのに。オレのお願いをさ、あっさりと無下にしやがったんだ。わたしの存在をね、拒絶したのよ」

 ――否定したのよ。

「だから落してやったさ。ほかの男どもとおなじようにね」

 シーちゃんはほほ笑んだ。それから床へ視線を落としながら、「でもどうなんだろうな。いま考えてみりゃ、あのひとはオレになにを辞めさせたかったんだろうな? もしかしたらわたしがやっていたことすべて――人間を突き落としてひしゃげたオブジェに加工していたって、そのことも知っていたのかもしれないわね。だってあのひと、毎日悼みにきてたんだもの。お姉ちゃんの落ちた場所にさ。ひょっとしたら、見られてたのかもしれねーなあ。男の手を引いてマンションに入っていくオレさまのすがたを。そのあとに必ず出る自殺者のニュースを」

 かか、と彼女は笑うのだった。

 ――ゆかいげに。

 それでいて、

 ――はかなげに。

 目のまえにいるシーちゃんはたしかにシーちゃんなのに。

 なのにどうしてだろう。

 僕が欲していたシーちゃん…………ではない。

 僕の知っているシーちゃん…………ではない。

 シーちゃんが近寄ってくる。ゆかには割れたガラスの破片が――彼女の割ったテーブルが散乱している。シーちゃんは天使のように、ちょん、ちょん、と跳ねて渡った。

 彼女の肌が僕へと触れる。

 僕の肩にあごを載せるようにし、シーちゃんは言葉をつむぐ。

   ***

 駅前で待ち合わせするの。そのあとはホテルでやるの。

 わかる? セックスだよ。

 場所はむこうに任せるのがコツなの。こっちで用意していると男どもが警戒しちゃうから。だから場所はお任せ。

 その日はそれで終わりかな。やったあとに警戒が解けてたら、たいてい連絡先を教えてくれるんだ。まあ、捨てIDだけど。

 んで連絡すればすぐに二発目を希望してくる。

 男ってバカよね。年中発情してやがるってんだからさ。まあ同情するにやぶさかではないがな。

 で、二度目はこっちで場所を指定する。オレはどうしてもマンションへ連れて行きたいんだよ。いつまでも死体を置いときたくないからな。処理を手伝ってくれる大人を捜していたんだ。

 だのによ、どいつもこいつも腰ぬけだった。

 寝室にゃ遺体がある。すっかり腐敗して液体になったあいつらだ。オレの親だよ。

 腐臭でみな逃げ出しやがる。

 通路を抜けて、外へ――階段へと抜ける。

 そこで悪心をこらえるんだ。

 わたしね、背中をさすってあげようと思ったの。心からの親切よ。わたしなりの親切だった。ほんとうにただそれだけだったの。

 あの腐臭のひどさはオレが一番知ってたわけだからな。それこそ身に染みてたわけだ。だからさすってやったんだ。背中をよ。よしよし、ってな。

 そしたらさ、

 ――落っこちてやんの。

 そうさ。

 最初は殺す気なんてなかった。

 だのにみんなおなじようにして階段に行くもんだからさ。

 二度目からは押してやったよ。背中をな、えいや、ってな。

 それがさ、わらっちまうんだよ。やつらみんな、靴も履かずに飛びだすもんだからさ。だから落したあとは、添えとくんだよ。玄関にのこった靴をだな、チョコンと階段に。

 もちろん、バカ正直にオレの住む階に置くわきゃないよな。二階したの階段に置いとくんだ。それだけで自殺として処理された。

 まあ、つっても途中でバレちまったけどな。

 

 どうして殺したのかって?

 

 藪っちとおなじだよ。

 見ただろ? 落っこちたやつのすがた。

 ぐしゃ、でもなく、ぐちゃ、でもなくってさ。

 がきん、て感じだよな。

 芸術的なんだよ。そうさ、あれはアートだった。あれだけ不感症だったあたしがだぞ。アレみて濡れてたんだ。けっさくだよな。あたしのことを玩具同然に見做していたやつの死体をみて――あたし、エクスタシィ感じてた。だからさ。

 だからあたしは殺したよ。

 だれだってオナニーの一回や二回、したことあんだろ? 男だったら一週間にいっぺんくらいしてんじゃねーの? 女だってするもんはするもんよ。もよおすもんはもよおしちまうんだからしょーがねーじゃん。

 そうだとも、あれがあたしのオナニーだった。ああすることでしかあたしは感じなかった。ああやって人間がひしゃげた物体、その間際、その造形、その創造――そういった過程を得て、あたしはオナニーできる。あたしはあたしを満たせるんだ。

 いったい誰があたしを責められるってんだよ? オナニーしてなにがわるいっつーんだよ。だったらてめぇ、一生涯禁欲してみせろや、ってな。

 まあいいや。

 ほかのやつらはあたしを異常だって言うだろうな。そうやって自分を棚にあげて、責めるんだ。

 でもおまえはちがう。

 な、ちがうよな?

 だっておまえ、あたしとおんなじだ。

 おまえ、あのとき、兄貴のひしゃげたあれ見て、射精してただろ?

 あたしにはわかった。においでわかるよ。あれだけぶっかけられたんだ、否応なく覚えちまう。ホットケーキの種の匂い、塩素系洗剤の匂い、栗の花の匂い。そんな匂いがおまえからふんぷんしてやがった。けっさくだよ。藪っち、精通、はやすぎんだろ。

 結局さあ。

 おまえもあたしとおんなじなんだ。ひしゃげた人間のそれでしか感じられない。いや、ひしゃげた人間のそれであれば、一層の快感を覚える、そんな人種なのさ。

 な、実際にそうだったろ?

 わたしたちは、ひしゃげた人間のそれでしか、

 ――愛を感じられないのよ。

   ***

 シーちゃんはすでに僕から離れていた。だのにまるで僕に絡みついていたみたいに、彼女の声は――言葉は――舐めまわすみたいに僕のからだを這って聞こえた。

 僕は、そう、射精をしていた。たしかにしていた。つい先刻でさえ僕は――イズ姉のつぶれたあの醜い姿をみて――見蕩れて――射精していた。

 僕の下着は湿っている。

 股を伝って、したたって、太ももまで垂れている。

 これは、そう。

 ――精液だ。

 言われて気づいた。いやうそだ。僕はずっと気づいていた。だからあんな使えもしないポルノを手に入れて、満ちることのない僕の性器を。幾度となく試していたのだ。

 これまで反応していた全ての女性に、僕は重ねて視ていた――彼女たちの歪んだ姿を。

 ひしゃげた姿を。

 カナコちゃんを落としたあの日。

 あの日あの場であの僕は。

 たしかにたしかな悦びを得て、うっとり満たされていた。まるでシーちゃんが帰って来てくれたかのような悦びで満たされていた。ぞわぞわと漏れていく快楽に浸っていた。沈んでいた。

 ――おちていた。

「あの日、はじめておまえと出会った日。覚えてるか?」

 兄の遺体をしり目に共に笑いあったあの日のこと。僕はいつだって夢みていた。忘れられるはずもない。

「あの日、おまえが射精してんの見て、心底うれしかったんだ」

 シーちゃんは感激したのだという。僕をみて。

 ――ああ、なかまだ。

 安心したのだという。ひとりではないのだと。解りあえるやつがいたのだと。

「あたしの姉きは自殺した。たしかに自殺だった。でもあれもまた、殺されていたんだ。あたしが親を殺したように、姉きは社会に殺された」

 シーちゃんはベランダへと出た。

 束ねられた髪が夜風になびいている。

 やわらかに、ふわふわと。

 天使の羽が舞うようにシーちゃんのうしろ姿は、夜に浮きあがってみえていた。

 風とささやき合うようにシーちゃんは語った。

   ***

 レイプされて死ぬ女がいる。でもね、レイプされたから死んだのかしら。それはちがうわ。レイプされたって殺されなきゃ、ひとは死なないもの。だのに姉きは死んじまった。レイプされちまったから――その現実を受け入れたくなかったから。だから死んだんだ。自分で自分を殺したのよ。レイプされた自分を、自分で殺したの。それっていうのはさ、結局は、そうやって、レイプされた事実を受け入れられないように教育した社会が、姉きを死へ導いたといってもあたしは言い過ぎじゃないと思うんだ。

 レイプされたからって死ぬこたねーだろ。

 むしろ、死ぬなら、レイプしたほうだろ。

 どうして被害者が死ななきゃならねーんだよ。

 それはさ、そうやってレイプされた事実を、けがらわしい、と認識させてしまっている社会が要因なんじゃないのかなってね。あたしなんかは思っちまうわけよ。

 ――レイプされたって、別に気に病むことじゃねーよ。

 たしかに他人に身体、弄ばれんのは不愉快だ。でもそれがなんだ? そこから憎しみが生まれるのはしょうがないとしてだ。どうしてそれで自分の存在意義を見失うようなことになる?

 好きな男にはソレが許せて、見ず知らずの男ではだめだなんて、支離滅裂だ。

 いや、もちろん気持ちはわかる。なにごとも論理的に納得できるだなんておもっちゃいないよ。

 たださ、たかがレイプくらいで死ぬなんて馬鹿じゃねーの、って思うくらいの図太さ、どうして持てねーのかなってね。あたしなんかは思うのよ。

 あたしがこう言うとさ、きっとこう反駁してくる奴らがでてくるんだ。「レイプという罪の認識をかるくしていては、一向にレイプなんてなくならない。むしろ被害が拡大するだけだ」ってさ。

 でも、なんでそういった結論になる?

 レイプなんてくだらない。どうだっていい。そう認識したからって被害は増えねーよ。むしろ減少するんじゃねーのかな。

 だってさ、

 くだらない罪で重罰なんて、それこそ割にあわねーだろ。たとえばさ、万引きバレたら問答無用で懲役十年だとしたら――。万引きする奴なんて、一気に減少するだろ。それとおんなじことだよ。くっだらねーと世間で認識されているレイプ。それをしでかして懲役十年。人数によっては無期懲役。そうなったら社会からレイプなんてなくなるって。いや、無期懲役だとかそこまで厳罰でなくたってなくなると思うぞ。懲役三年。いまと変わらない刑罰であっても、きっと減少するね。そもそも性欲のはけ口なんざいくらでもあるんだ。その中からわざわざレイプをチョイスするなんてのはさ、

 ――よっぽどレイプがしたいのさ。

 そもそもレイプなんてする奴らは、性欲よりもむしろ支配欲を満たしたいってやつらだよ。まったく抵抗しない女はまず狙われない。抵抗すると判っていて、その抵抗をねじ伏せる。または、酒だとかを飲ませて無防備にさせる。そのギャップを愉しみたいのさ。

 あとは、やっぱり、レイプっつー言葉に根付いている、「けがす」という錯誤を欲しているにすぎないのよ。群れをなす野獣には頻繁にみられる特性――マーキング。行動原理としては、それにちかいんだわ。

 自分色にそめる。征服したぞ、っつー実感。

 しょせんは思いこみにすぎないのにな。わらえるよ。

 性行為したからって、相手は相手だし、自分は自分だ。

 なにが変わるわけでもなしに。

 もしも、なにかが変わるってんならそれは、「今の自分」と「食後の自分」――それらが別人だと言っちまえるってことだ。見方によっちゃそう言えるだろうが――んな見解、まったく馬鹿げてる。食前のおまえも食後のおまえも、どっちもてめえだろってな。

 童貞のときのおまえも、セックスしたあとのおまえも、どっちもおなじだよ。

 それが違うってんなら、いつだってひとはちがうのさ。

 幼稚な前提ほじくり返してんじゃねーよってな。そんな感じだ。

 それとおなじだよ。レイプされよーが、されまいが、どっちも変わらずに自分だよ。レイプされて不愉快だと感じたなら、なおさら変わらずに自分だ。以前の自分とくらべて、現在の自分を不愉快におもってんだからな。自分を自分だと連続して認識できている以上、それはまちがいなく自分だよ。

 もちろん、不愉快なおもいなんてしないほうがいい。それはゆずれない大前提だ。だから勘違いしてほしくねーけどさ。あたしはなにも、レイプを正当化しているわけじゃないのよ。

 レイプするやつなんざ人間じゃねェ。野獣と同レヴェルだ。そんな奴は処分しなきゃならねえ。もしくは矯正だ。にどと腰ふらねーようにさせねえと。

 でもね、やっぱり、だからって、レイプされたほうが気に病む必要なんざどこにもないじゃない。

 レイプされた奴がけがれたか? 処女が清くて、非処女がけがらわしいか? 娼婦がみじめで、主婦がしあわせか? んなもんだれが決めた。処女だろうが非処女だろうが、娼婦だろうが主婦だろうが、どっちもおなじだ。

 おなじように不幸にもなるし、幸福にもなれる。誰だってけがらわしさを内に秘めているし、きよらかにだってなれるんだ。

 そこに例外はない。

 線引きするなっつーの。

 不毛だろそんなの。

 だからね、レイプされたからなんだっつーんだよ。んなのはな、誰かにいきなり殴られた程度の暴力だ。やった奴は罰せられる。くっだらねー罪で、罰せられるんだ。ざまあみろだ。そうはおもわねーか?

 だからな、最初も言ったが、被害者(姉き)を自殺に追いこんだのはほかでもない、この社会だよ。きっかけが加害者にあるとしても、根本的な要因はな、この社会のほうにあるんだよ。

   ***

 わからない。

 僕にはとうてい受け入れられない理屈だった。レイプされたら悲しいし。やはり穢されてしまったと思うだろう。それは汚れだとか、そういった物質的な汚染ではない。人権をないがしろにされた、人格をズタズタに切り裂かれた、そういった存在の穢れなのだ。

 だから悲しいし。

 だから憎らしい。

 愛の裏が憎悪だなどとよく聞くが、そんなのはうそだ。

 憎悪は憎悪。

 どこを見渡したって、そこにあるのは相手の存在をどこまでも損ないたいと欲する悪意にすぎない。

 レイプする奴なんざ死んで当然だ。

 行為自体が駄目なのではない。

 相手の意思を蔑にして――手玉にとって――おもちゃ同然と見做して――そうして自分の欲情のはけ口にしても許されると思いあがった――その卑しい価値観が万死に値する。

 思想の自由は保障されてはいるだろう。だからなにを想っても罰せられることはない。だからといって、なにを考えても善いということにはならない。考えなくても済むならば、考えないほうが善いことだってあるだろう。

 想像することは必要だ。けれど希求する必要はないではないか。

 希求なしに行為はない。求めなければひとはしない。

 また逆に、

 想像なしに自制はない。戒めなければひとは止まらぬ。

 ひとはどこまでも強欲になる。

 ――貪欲になる。

 或いはその欲動は、発展と進化の糧にもなる。貪欲であることは必要だ。

 ただし、そこに自制はかかせない。

 好きなときに貪欲となり。

 好きなときに歯止めをする。

 想定することでひとは止まれる。

 考えれば当たり前のことだ。

 傷つけられれば悲しいし、蔑にされれば苦しいものだ。

 それを無理にねじ伏せて、「どうってことないのだ」と――そんなふうには思われない。

 そんなふうに思う必要もないだろう。

 シーちゃんの主張は、その通りなのだと思う。きっとシーちゃんのお姉さんは、社会によって殺されたのだ。これまで培ってきた常識や良識に殺されたのだ。

 培ってきたと思い込んでいただけで、それらは結局のところは、植えつけられていたにすぎず、押し付けられていたにすぎなかったのだろう。

 でも、だからって、お姉さんの哀しみや苦しみや――辛みや痛みを――シーちゃんが――否定するなんて――そんなのは――そんなのって――シーちゃんがいちばん――いちばん嫌っていることじゃないか。

 かなしいことはかなしいんだよ。

 くるしいことはくるしいんだよ。

 仮にシーちゃんのいうように、この社会に漂うレイプにたいする価値観が変わったとして。それでも傷つくひとはいる。

 そんなの、どうってことないじゃない――そんな軽薄な価値観を押し付けて、悪意の連鎖を進行させる。

 同じじゃないか。

 シーちゃんのその主張は、結局のところ、シーちゃんの否定した社会の価値観と同じじゃないか。責めるベクトルがちがうというだけで。ただそれだけのことで。結局、傷ついている人たちを追いこんで。ぎゅうぎゅう詰めにして。そうして傷を圧縮しているだけにすぎないんじゃないのかな。

 シーちゃんだってきっとそうだよ。

 傷を傷だと気づかぬままに、もっともっとと傷つけられて、それで生きているのだと知りたかっただけなんだ。死んだものは傷つかない。腐敗があっても、あとはない。

 腐ってしたたり、土へと還る。

 死んで、燃やされ、灰となる。

 すすけた煙はそらへと昇って。

 ひとはいずれ自然にとけこむ。

 それだけなのだとあのときすでに知っていた――学んでいたシーちゃんは――幼いころのシーちゃんは、だから自分を傷つけて、だから他人に傷つけられて、そうして実感していたのだろう。

 ――生を。

 ――尊厳を。

 虐げられ、侵され、ゆがまされた彼女の生と尊厳は――どこまで傷つき、つぶれただろう。

 どれほど傷が圧縮し。

 腐敗を溜めこみ、穢れただろう。

 そうだとも。

 シーちゃんは穢れていた。

 あのときも、いまも変わらない。

 幼いころのシーちゃんのままで彼女はずっと穢れていた。

 自らの生と尊厳を傷つけることで――穢れを溜めることで、彼女は生きていると証明したかった。

 証明できればそれで終わりだ。

 圧縮された穢れを、彼女はきっと封じてしまった。

 穢れるまえの自分を護ろうと。

 だから記憶を捨てたのだ。

 海馬の底へと棄てたのだ。

 コウキこそが、シーちゃんだった。

 偽りなどではなかったのだ。

 僕は悟った。

 自分の犯した過ちを。

 僕は愧じた。

 自分の愚かな妄想を。

 シーちゃんは、

 あのコのことが好きだったのだ。

 ほんとうは、僕なんかではなく。

 ――カナコちゃんのことを。

 

      ◎

 

 ベランダに僕はいた。自分でもいつ移動したのかが分からない。

 シーちゃんはとなりにいる。

 くるり、と反転し彼女はベランダの手すりに背を預け、あたしはさ、と述懐する。

 

   ***


 あたしはさ、カナコを愛してた。

 心のそこからオレはあいつにいかれちまってたんだ。

 あたしはな――いいか――あたしはな――むかしの記憶なんてとっくに捨ててたんだ。忘れてたわけじゃない、オレが自ら捨てたんだよ。

 いらなかった。

 なんでか分かるか?

 カナコがいたからだ。

 あいつはさ、とんでもなくまっすぐで、純粋で、やさしくて。そうだとも、とんでもく豊かな子だったんだ。

 それなのにあいつは好きなひとに受けいれられないのだと苦しんでいた。

 自分の想いを告げちまったら、きっと相手は自分のもとからいなくなっちまうと危惧してな。苦しんでいたんだよ。相手は自分のことを親友だと想ってくれている。ならこのまま、親友のままでいたほうがいいんだ、って。そう自分に言い聞かせてやがった。

 見ちゃいられねーよ。

 なんだってこんなバカな人間がいるんだってな。オレはカナコを憐れんだ。

 それがいつ恋愛感情にかわったかなんて分かりゃしねーよ。でもわたしは思ったんだ。

 ああ、この子のために生きてやりたい。

 この子を支えてやりたいってな。

 ――そう望んだんだ。

 その瞬間だよ。わたしは過去の記憶を忘れたことにした。忘れたのだと思い込んだ。そうしたら、いつの間にかほんとうに忘れちまってたんだ。

 くそったれた話だよ。

 忘れるべきじゃなかったんだよな。捨てるべきじゃなかった。

 オレが過去に、藪っちと出逢っちまってたってことを――こんな曲がりくねったぐちゃぐちゃのお友だちをつくっちまっていたってことを、オレは忘れるべきじゃなかったんだ。

 むかしのオレがおまえをこんな歪んだ人間にしちまったってんなら、あたしは過去の自分を心底殺してやりたいと望むよ。つってもな、過去のわたしも今のオレも、結局はおなじなのさ。おなじ地つづきの道のうえにいる。だったら今のオレにできることっつったら、むかしのわたしの誤り――ただひとつのあたしの理解者――藪っち、きみをだね。

 まあ、あれだ。

 ――殺してやるくらいなものなのさ。


   ***

 

 ――あいしてる。

 シーちゃんが抱きしめてくれた。

 うしろから、ぎゅう、と。

 背中に頬を押しつけて。

 腕をまわし、絡みついてくる。

 あたたかで、あつく、あつく、どこまでも僕を満たしてくれたるシーちゃんは、僕の耳元でそっとしずかにささやいた。

 ――天辺じゃなくって、ごめんね。

 なぜかふるえる彼女の声は、僕の頬を湿らせた。

 すう、と背中にかぜがながれる。

 しゃがんだ彼女のうでは足元に移り、ぐらり、と僕は傾いた。

 ふわり、と夜に放たれた。

 夜景が傾く。

 地面が遠く。

 壁が視界を遮った。

 なぜか夜空がしたに見え、するする、とかぜが僕からこぼれていく。

 手を伸ばせばとどきそうな天のちかく。

 きみはそうして昇っていく。

 天へ、天へ、と離れていく。

 僕からきみは、とおく、とおく。

 おちていく。

 そらたかくおちゆくきみは、いつまでも僕をみつめてくれている。

 手をのばす。

 きみのなみだをつかまえた。

 ずっと遠く、天にちかい場所からひょこりと顔をだし。

 夜に覗くシーちゃんは、見紛うことなく快活にわらう僕のよく知るシーちゃんだった。 

 

 

 僕も――。

    きみを――――。



           ――――――。




                 して――――――――。













――――――――――――――――――――――――どちゃ。




   第九章『死者に口なし、障子に目あり』

 

      ◎

 

「どうして乃泉ちゃんまで殺したんだい?」

 と声がした。

 わお。

 あたしは素直に驚いた。部屋のなかにひとがいた。

 いつからいたのだろう。まったく気がつかなかった。

「だれよ。あなた」

「伝心羽森羅と申します」

 頭をさげ、月明かりのある場所まで歩を進めてくる。

 あたしは警戒する。

 ――このおとこは、危うい。

「警戒しなくても大丈夫だよ。ボクはなにもしないさ。ただね、すこしだけ、話を聞かせてくれないか」

 そんな言葉、信じられるはずもない。まずは様子見といこう。

「まずはそうだな」男がしゃべる。「やっぱりね、解せないんだよ。どうして乃泉ちゃんまで殺してしまったのか、それを聞きたい。きみはだって、いちども女性を殺さなかったはずだ。これまではね。にも拘わらずきみは、乃泉ちゃんだけを例外的に殺してしまった。なぜだろう」

「あんた、探偵?」

 イラつくしゃべり方だ。気障なおとこは虫唾がはしる。

「タンテイではないよ。でもそうだね、この機会に、タンテイになるのもいいかもな――なんて思っていたりはするかもしれない」

 聞きながす。あたしは考えていた。おとこは先ほど「シンラ」と名乗った。それは藪っちから聞いていた名でもある。きっとこいつが、あたしらの周囲を嗅ぎまわっていたという頭のぶっ飛んだおとこなのだろう。

 こちらが閉口しているのをいいことに、やつは勝手に話をすすめていく。

「しょうじき、ボクはきみの趣味を許容できない。初めの数年間は我慢できていたはずだよね。なのにどうしてまた人を殺したりしたのかな? この数年だよね? きみがまた人間を【醜く加工】しようと活動しはじめたのは」

「よく調べてるじゃない。褒めてあげる」

「結局のところ、無駄に終わってしまったよ。まあ、いつものことだけどね」

「――で? なにを聞きたいって?」

 質問を投げかけながらもあたしはこの局面をどう脱しようかと焦っていた。

 ――はやく見たかった。

 はやく、はやく。

 せっかく手にしたあたしの愛を、こいつはなんで。

 ――じゃまをするッ。

 いっしゅんではらわたが煮えくり返り、沸点を越えた。

 だがあたしはそれらを堪える。

 そう、考えてもみればこのおとこも大概に狂ってやがる。同じ穴のムジナどうし、会話で解決できるものならそれも妙ってものだろう。

 ――あたしははやく見たいんだよ。

「あのコはあたしの愛を邪魔した元凶だよ? 殺すのが道理ってもんだろ。あん?」

 ちがうかよ、とベランダから部屋へ足を踏み入れる。

「なにもしないったら」

 こちらの殺気に反応したように男は飛び退いた。

「……なにもしないってのは、あれか。あたしに干渉せずにいてくれるってことか。だれにも言わないって意味も含めてか」

 そんなことは考えられない。きっとこの男は通報するだろう。もしかしたらすでに通報しているのかもしれない。だからこれだけ冷静でいられるのだろう。

 意に反しておとこは、

「しないさ」と言った。「ボクはただ、これからのために、今回の件を詳細に知りたいだけなんだ。もう終わったことだろ? きみはこれから特になにもしない。これまでのようにたまに人を突き落とし、そうして快感を得ようと趣味に興ずる。そういった人生を送っていくだけだろ? だからもう、これは、終わったことなんだ。すでに未来は確定された。過去もこのとおり、藪くんが死ぬという結末で幕を閉じた。そこにボクは二度と関われない。干渉したところで、ボクの干渉はすでに無意味なんだ」

「あんた、聞いてたまんまだな」あたしは嘲る。「シンラさんつったっけ? あんた、ぶっ飛んでやがる。ぶっ飛びすぎだよ」

「誤解だよ。でもまあ、そう思われてしまうのは致し方ないと諦めてはいるけどね」

「わるいがあんたに聞かせる話はない。あんた、なにもしないんだろ? あたしに? だったらあたしはバイバイだ。これにて退散させてもらうよ」

 言って部屋をよこぎった。おとこを迂回するように壁際を歩む。

「十二年前、きみはたしかに過ちを犯した」おとこが宣巻く。「けど、同時にあのころのきみは、たしかに藪くんを好いていたはずだ。そうじゃなかったのかい?」

 足が止まった。聞き捨てならない台詞だった。「……せーな」

「藪くんは最期、きみを道ずれにすることもできたはずだ。それだけじゃない、逆にきみだけを突き落とすことだってできたはずだ。それなのにかれは、〝きみに落とされることを望んだんだ〟」

 ――きみには生きていてほしかったからだ。

 その言葉が、あたしのなにかをゆるがせる。

「……っせぇんだよ」あたしは腹にちからを籠めていた。堪えていた。

 いいかい、とやつはまだ続けた。「藪くんは最後の最期まできみを一途に想いつづけていた。きみがどんなに突き放そうと、かれはきみを愛することを見失わなかった。愛っていうのはね、一方的じゃないんだ。かならずどこかで愛を捧げるに値する人物かどうかを、ひとは見極めようとする。相手が、ほんとうに愛するに値する人物なのかを、ひとは勘定しているんだよ。無償の愛? そんなのは存在しない。どこかでおなじだけのなにかを自分も相手からもらっているんだ。おなじだけのもの、が、『まったく同じもの』だとは限らないよ。ひとによっては、なんだそんなもの、と思うような代物かもしれない。または、とうてい見返りになり得ない見返りかもしれない。それでも充分だと思える相手だからこそひとは相手を愛することができるんだ。だからね、藪くんがきみを最期まで愛していたように、きみだってほんとうはかれから――」

「うッせェつッてンだよッ! んだテメェはさっきからッ! くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、うぜえ口ばっか利きやがってッ」

 おとこが、ふう、と息をつきやがった。

 カチン、ときた。

 もう堪えられなかった。

「なんなんだよッあんた! そうだよッ! あたしは、あいつを愛してたよッ! ずっとずっとこの十二年間、いちどだって忘れたことなんてなかったよ! 気づいてほしかったんだッ。忘れているんじゃないかって不安だッたんだ」

 

   ***


 そうだとも、あたしはあいつが好きだった。別れたあとだってずっとずっと想っていたんだ。施設に入れられてからも、あたしはあいつを待っていた。きっと捜しだしてくれると期待していた。

 だのにいつまで経ってもあいつは現れなかった。

 当前だった。

 あたしの名前はあたしのそれじゃなくなっていたんだ。

 あたしはいつの間にか、あたしも知らないあいだに他人になっていた。

 他人の名前になっていた。

 あいつが捜せなくて当然だ。

 だからあたしはあたしのほうから、あいつを迎えにいこうと思ったんだ。

 それには時間が必要だった。

 あたしがあたしの罪を背負って、更生したように見せかける必要があった。まるで別人みたいに振りまく必要があったんだ。それからオナニーだって我慢しなくちゃならなかった。

 それでもよかったんだ。なにもいらなかった。

 あいつがそばにいてくれればそれでいいと想っていたんだ。それだけがあたしを支えてくれていたんだ。

 ――あいつの存在だけがこのあたしを。

 施設を出るころにはあたしはすでに大人の娘だった。成人は迎えてはいなかったが、それでも煙草吸ってたって、酒を飲んでたって、大人と恋愛したってお咎めを受けない程度の容姿にはなっていた。きっとあいつも成長しているんだろうなって、そうやって勝手に夢みてた。

 あいつもまたあの町にはいなかった。引っ越していた。それでもあたしはあいつを捜した。ぜったいに捜しだそうと思った。だってあたしは信じていたんだ。あいつがあたしを待っているって。待ってくれているんだって、そう信じてた。

 時間はかかったけど、あたしはあいつを見つけたよ。

 あいつは高校生になっていた。

 ひと目で判ったさ。ちっさいままのあいつだった。

 でもやっぱり成長していたよ。

 カッコよくなってた。

 ほかのやつらがなんと言おうと、あたしにはそう魅えたんだ。

 声をかけようと思った。すっごい緊張した。あんな気持ち、初めてだった。まるで恋した女の子だった。情けねえよ。そうさ、あたしはあいつに恋してたんだ。いつの間にかあたしはあいつに夢中だったんだよ。そんときに気が付いた。あたしはもうすっかりあいつに惚れてたんだなって。

 でも。

 あいつに声をかけることはなかった。

 だって。

 あいつのそばにはあのコがいたんだ。

 ――乃泉たいな。

 可愛いコだったよ。弱弱しくっていかにも守ってやりたくなるようなコだった。

 あたしは狂いそうだった。いや、実際に狂っちまったんだろうな。せっかくあいつへの気持ちが特別な感情だって解ったのに――あたしはあいつが――憎くて憎くて――どうかしちまいそうで。

 あたしはあいつのことが赦せなくなっちまった。

 どんなに可愛いコに言い寄られたって、あたしへの想いは絶対だと信じていたんだ。疑うことすら思い浮かばなかったさ。それがどうだ。あいつはあたしをすっかり忘れちまっているじゃないか。

 あたしとの思い出は、すっかりあのコとの思い出に塗りつぶされていた。

 そうみえたんだ。あたしには。

 そう考えたらあたし、狂っちまった。

 だったらあたしも――って。

 そう思っちまった。

 最初は無意味な当てつけだった。

 あいつだけでなく、

 あいつから『あたしへの想い』を奪った――乃泉たいな。

 あのコも赦せなかったから。

 だからあのコの親友を奪ってやろうと思った。

 あのコの親友から、あのコの想いを奪ってやろうと思った。

 ――結田加南子。

 アイツとはそうして知り合った。あたしから近づいたにすぎないんだ。

 聞けばレズビアンだという。乃泉たいなのことが好きで、でも今の関係を毀したくない。なんだか無償に可哀想に思っちまった。

 失恋しない失恋ほど苦しいものはないんだ。

 カナコはまるであたしだった。

 あたしはカナコを慰めた。心も身体も慰めてやった。

 いつの間にかあたしらは恋人になっていた。

 それと同時進行だ。

 あいつがあたしのバイトさきで働きだした。

 念願でありながらも、いちどは諦めた邂逅だった。

 あいつは変わっちゃいなかった。鈍くさくって、間抜けていて、なにを考えているかわからない。それでいてあたしの存在のいっさいを受けいれてくれる。極々自然に。そばにいてくれる。

 堪えられなかった。くるしかった。

 抑えきれなかった。うれしかった。

 あたしはあいつに想いだしてほしかった。

 あたしとの日々を。

 あたしのことを。

 考えたんだ。たくさんたくさん悩んでみたんだ。

 むかしの自分と。いまの自分と。

 むかしの想いと。いまの想いと。

 そうして見つめあって。見比べあって。あたしはたくさんたくさん考えたんだ。

 そしたら思いついたんだ。

 あのときみたくすればいいんじゃないかって。

 ひしゃげた人間を見せれば。

 あたしのアートで魅了すれば。

 あいつもまた想いだすんじゃないかって、そうおもった。

 ――なのにあいつ。

 ずっと、あたしのことを。

 ずっとずっと…………あたしのことを。

 でも、おそかった。

 おそかったんだ。

 あたしはもう、とまれなかった。

 だって、こんなに愛しちゃってんだもの。

 愛しあいたいじゃなかった。

 愛してほしいでもなかった。

 ――あたしはあいつで感じたかったんだ。

 ――ただただつよく、愛したかったんだ。

 もうとめられなかった。

 でも殺したくなんてなかった。

 だから繋ぎがほしかった。満足するしかなかった。ほかの男どもを落として、そうしてあたしは感じるしかなかった。満たされるしかなかったんだ。

 そしたらもっとほしくなった。

 余計に身体が火照っちまった。

 足りないんだ、ぜんぜんあれじゃ足りないんだ。

 だめなんだよもう。

 あたしはあいつじゃなきゃだめだった。

 すぐにでも。

 あたしはあいつの。

 あいつのひしゃげたすがたを…………。

 

 限界だったそんなときに。

 あの子が――乃泉たいながあたしに逢いに来た。

 いちど飲みの席で会ったきりだった。でも、間近でみたあの子はまるで女だった。

 弱々しい? か弱い?

 んなもんあの子の演技に決まってた。

 ――だれよりも強くあろうとする女。

 乃泉たいな。

 あの子は姉きにそっくりだった。

 顔かたちの話じゃない。人格のはなしさ。そいつを支える芯のことだ。

 あたしは嫉妬した。こんな女に言い寄られて、手を出さない男がいるものか。あたしはそれを知っている。

 あたしは男を知っている。

 厭というほどこの身体に刻み込んだんだ。浸みこんでんだ。

 許せなかった。あたしはあの子が許せなかった。

 あいつのそばにいるべきはこの子じゃない。あたしなんだッ。

 あいつと愛しあえるのは、あたししかいないんだ。

 腹がさ……。身体がさ……。はち切れそうだった。

 食いしばった歯がさ……。弾けそうだった。

 渾身のちからでもって、突き落としてやった。

 あの子、なんで、って顔で落ちてった。

 ふつうさ、叫ぶんだよ。

 不意にバランス崩しただけでも、人間ってやつは叫ぶんだ。

 でもあの子は叫ばなかった。

 ……どうして。

 そう呟いていた気がする。

 無我夢中だった。

 あのときが初めてだよ、純粋に他人の死をこころから望んだのは。

 どうでもいい男どもとはまったく違ったし。

 お父さんやお母さんのときとも違っていた。

 あたしはあの子がうらやましかった。

 あたしはあの子になりたかった。

 あたしの夢みた未来のあたしは、まさにあの子だったんだ。

 好きなひとのために泣いて。

 好きなひとのために生きて。

 好きなひとをよこで見守る。

 あいつのそばにこそ居場所を見いだす。

 ――そんな存在になりたかった。

 あの子もまたそういった存在にはなれていなかったみたいだけど。あのときのあたしにはそう映ったんだ。

 なににも増して、こうしてあたしの誤解が解けたいま――やっぱりあの子はあたしだった。

 あたしの夢みた、未来のあたしだったんだ。

 あの子はあいつのそばにいた。

 ずっと想って、見詰めてきたんだ。

 あたしがどれだけそれを望んできたことか。

 わらっちまうよ。

 あの子はあたしがいちばんしたかったことを――あたしのいちばんの望みを――――想いが通じないくせして――叶えてやがったんだ。

 つぶしてやって、正解だったよ。

 

   ***

 

「三日前にこのマンションから男性が投身して亡くなったよね」

 どこまでもおだやかな声でおとこは、

「あれもきみが?」と問うてきた。

「ほかにだれが?」

 あたしはすこしでもあいつのそばにいたかった。ちかくにいたかったんだ。だからあたしはあいつのマンションに住む男を懐柔した。

 そばにいられないならせめてもっとちかくに。あいつのよりちかくに。そうやってあたしはバイトが早く終わる日は、あいつが帰宅していることを確認するたびに、毎晩毎晩、あの男の部屋へ通った。あの男の欲望がこのからだへ注がれていくあいだも、あたしはずっと、十数メートル離れた下の階で眠るあいつを感じていた。

 それがあの日、あたしはあのマンションであのコを見た。朝靄が晴れはじめた時間帯だ。

 乃泉たいな、彼女があいつの部屋のまえで立ち往生していた。やがてその場を立ち去った。

 ――なにをしていたのだろう。

 気になるだろ普通。

 紙が扉に挟まっていた。

 あたしはそこであれを読んだ。

 コピーされたものではあったにしろ、あたしはすぐに理解した。

 あいつはあたしを忘れてやしなかった。

 それだけじゃなく、

 あいつはあたしを想いつづけてくれていた。

 あたしはあいつと、ずっとずっと、繋がっていたんだと。

 そうと知れた瞬間、身の周りに散見することごとくの存在が邪魔に感じられた。

 あたしの世界に存在していいのは、あいつだけなんだ。

 ほかのだれもいらない。

 あたしはその日、そのマンションで。

 男をひとり、落としてやった。

 今になって考えてみれば、きっとだからかもしれないな。乃泉たいな、あの子が藪っちに直接尋ねようと思いとどまったのは。あの男を落としたのはオレだっていうのに。あのコはきっと誤解したんだ。藪っちがまた人を殺してしまったんだ、って。

 

      ◎

 

「どうして声をかけなかったんだ」

 おとこが嘆くように言った。「きみたちは想いあっていた。それは決して思い上がりではなかったんだ。どうして藪くんを信じてあげられなかったんだ」

 それだけが残念でならない――とおとこは額を手で覆った。

「ボクはもう、金輪際、きみに干渉しないことにする。十二年前、あのときボクがきみを呼びとめていたら、こんな結末にはならなかったのかもしれない。贖罪にはならなかったみたいだけど、でもね」

 ――これはきみらの責任だ。

「ボクの責任じゃない」

 自分に言い聞かせるみたいにおとこは呻いた。

 なんのはなしだ、と問おうとするも、あたしの声は嗄れていた。

 開け放たれた窓から夜風がなまぬるく吹きこみ、屋内をあらっていった。これまでに吐いた言の葉の一切合切をさらっていくみたいにして、カーテンがふわりと舞いあがった。

「失礼したね。ボクはもう行くよ」

 玄関さきの闇の奥から声がした。

 おとこのすがたはもう、どこにもない。

 

      ◎

 

 きれいなものだった。

 あいつはまるでひしゃげていなかった。

 頭蓋が割れている。損傷はそれだけ。

 それでもあたしは感じていた。

 じっとり、と濡れていた。

 これまでにない絶頂に悶えた。

 愛するもので愛することが、これほどまでに気持ちよく、これほどまでに切なくなるとは思わなかった。

 ――もっともっと。

 あたしはもっとおまえで感じたい。

 あたしはあいつを、抱きかかえる。

 ぬちゃり、と中身がこぼれおちる。

 かまわずあたしは抱きしめる。

 ――もっともっと。

 あたしはもっとおまえで感じたい。

 ぶるぶる、としびれがあたしを駆け巡る。

 知れず、あたしは泣いている。

 

      ◎

 

 あたしはしばらく放心していた。このままこの場を離れたくなかった。

「言い忘れていたけどさ」

 ――と声がした。

 視線をやる。あのおとこが立っていた。

 なんのようだ、くそったれ。あたしはやつをただ見詰める。

「忠告をね。忘れていたよ」やつがしゃがみこむようにし、こちらを覗きこむ。「これからきみは千人ちかく男を殺すだろう。でも二度と快楽を感じることはない。それだけは知っておいてくれ」

 それだけ言って、おとこは去った。

 ひざのうえには毀れたあいつが眠っている。

 はん、とあたしは鼻で笑う。

 千人の男をころす?

 だれが?

 あたしがかよ。

「ざけンじゃねーよ」

 やさしくこいつを抱き寄せる。

 閉じたくちびるを割るように、やさしく舌をねじいれる。

 口のなかは濡れていた。

 溜まったこいつの血をすする。

 最初で最後の口づけだ。

 あたしはうれしくほころびる。

 だれが殺してやるものか。

 あたしが愛するただひとり。

 最後にころしたこいつだけ。

 あたしの愛するあなただけ。

 にどとあたしは感じない。

 にどとあたしは殺さない。

 上等だ。

 あたしはここに誓ってやるよ。

 なあ、藪っち。

 最初で最後の愛を受けとれ――。

 ――最期に咲かすあたしの愛を。

 あたしは遺体を持ちあげて。

 いとしいひとを持ちあげて。

 ちからのかぎり、

 

 ――――たたきつけた。

 

 地面できみをたたき続けた。

 あたしはあなたを破壊する。

 ぐちゃぐちゃに。

 めちゃくちゃに。

 原形のとどまらない。

 肉塊と体液と。

 垂れる。

 汗と、血と、アイと、しずく。

 そうしてあたしと愛しあおう。

 あたしたちの愛は、これで。

 

 

      永遠。




   ・エピローグ・

 存在するかぎり、その身に愛は宿らない。

 不在における幻相にこそ、愛は永久の底に結晶する。

                     我幽・芯

 

 

      ◎伝心羽 森羅

 

「――というわけです。藪くんは実家へ夜逃げしたそうで。よほど乃泉ちゃんの死がショックだったのでしょうね。それから彼女、イズイズこと――泉谷いずむ。あのひとはふらりとどこかへ旅に出たようです。前々からそんなことを言っていましたが、ほんとうにふらりといなくなるとは。きっと幻の酒でもさがしに出かけたのでしょう。元気にやっていますよ彼女たちならどこでだって」

「なんなの、あいつら…………急すぎよ」

 さびしそうによっちゃんがつぶやいた。

 

 伝心羽森羅が居酒屋『こうちゃん』を訪れたのは、藪アマトが死亡してから二日後のことであった。

 話をしたとき、店長とよっちゃんはまだ藪アマトの訃報を知らなかった。

 いずれ警察から事情を訊かれることもあるかもしれない。インターネットにもニュースとして載っている。

 或いは、そもそもあの遺体が藪アマトであるのかどうか。それ自体がまだ断定されていないのかもしれない。

 ――この際である。

 二日前のあの夜のことは伏せておくことにしよう。

 店長やよっちゃんにはうそを伝えた。シンラなりの親切心である。

 知らないのならば、知る必要もないのだろう。いずれ逢えないことにちがいはない。

「さて、ボクもそろそろお暇を告げさせてもらいますね」

「あらら、どっかいくんですか?」店長がグラス磨きの手をとめた。「もしかしてシンラさんも? ここから?」

 この街から出ていっちゃうのですか、とジョークのような口ぶりで、その実、どこか不安そうな口調で彼は言った。

 名残惜しんでくれるのか……ボクのことを。

 シンラは正直、心が動いた。

 とはいえ、出ていくほかにないのだろう。

 すでに彼女はいなくなってしまった。

 泉谷いずむ――。

 彼女はもう、この街にいない。

「ボクもね、そろそろ定職に就いておこうかなと思いまして」

「だったらウチを手伝ってくれればいいじゃないですか。そうすればよっちゃんだって助かって、一石二鳥ですよ」

「そんな余裕がどこにあります」よっちゃんが却下した。「ただでさえ赤字つづきなんです。シンラさんには酷ですけど、すみません、ウチにひとを雇う余裕なんてないんです。ひとり減ってちょっと安心しちゃったくらいだもの」

 藪っちにはわるいけど、と彼女は毒づく。ただ、いつものような覇気はない。

「そんなにウチ、経営難だったのかい?」

 すっとんきょうに店長が言った。

「店長ね、いい加減にしないとクビにするわよッ」

「えぇ……。店長、店長なのに」

「あ?」

「……はい。ごめんなさい。店長、がんばります」

 このふたりならこれまでのような日常を送っていくのだろう。シンラは彼らを〝ただ眺めた〟。

 そういえば、とよっちゃんがむねにお盆を抱えたまま寄ってくる。

「そういえばシンラさん。自殺した人たちの調査って、もう終わったんですか?」

「あれ? どうしてよっちゃんが知っているんだい?」

「藪っちから聞きました」

「ああ、なるほど。うん終わったよ。ボクの勘違いだったみたい」

「かんちがい……ですか?」

「そう、勘違い。思い過ごしだったみたい」

「じゃあ、乃泉ちゃんもやっぱり自殺だったってことですか?」

「それはどうだろう。事故だったのかもしれないよね。判らないさ。だって、ボクは警察じゃないもの」

 うーん、とよっちゃんは下唇をかんだ。

 なにやら納得していない様子だ。

「十二年前の事件ってなんなんですか?」

「それも藪くんから?」

「はい。あいつ、お茶をにごすだけで結局、教えてくれませんでしたけど」

 自分から愚痴ってきたくせに、とやはりさびしそうに彼女はこぼす。

「まあ、本人がいなくなっちゃたしね。言ってもいいのかな」迷った挙句、餞別代わりに答えてあげることにした。「十二年前、藪くんは連続殺人事件に巻き込まれていたんだよ。合計で九名の男性が殺されてしまったらしい。マンションから突き落とされてね」

 はあ、とよっちゃんが半端に首肯する。「さいですか。で、それが藪っちとどう関係あるの?」

「直接の被害を受けたわけじゃないみたいだけど。でも、間接的にはね、看過できないほどの影響を受けてしまっていたようだね、藪くんは」

「どういうことですか?」

「藪くんのお兄さんがね。その事件でお亡くなりになられてしまったらしいよ」

「そうだったん……ですか」

「でだね、当時、世間では、その事件の被害者を十把一絡げにして、異常者と見做したんだよ」

「被害者なのに……ですか?」

「加害者でもあったからだね」

 どういうこと、と彼女が柳眉をくもらせた。店長はなにやら厨房で作業をしている。姿は見えなかった。シンラはカウンターに寄りかかる。天井へむけて言葉をつむぐ。

「かれらを殺した連続殺人者――犯人は当時まだ八歳の女の子だった。彼女は被害者たちに凌辱されていた。性的にね。だから視点を限定しなければ、双方が双方で加害者であり、被害者だった。世間はそう見做したんだよ。殺されたかれらは殺されるに値する加害者だったのだとね。そして、その少女に殺された者たちのなかに、藪くんのお兄さんも含まれていた」

「…………藪っち、そんなこと、ひとことも……私には」

「言えないさ、こんなこと。他人にはね。いや、他人ではなかったからこそ、よっちゃんにも乃泉ちゃんにも言えなかったんだよ」よりあっけらかんとした口調を意識して続ける。「藪くん自身がさ、お兄さんの死を、『あんなこと』として卑下していたのだとしたら、なおさらだよね。でも藪くんは未だにそのことを引きずっていた。いやちがうかな。引きずっていたのだと気づかなかった。気づかないふりをしてしまっていた」

「……含みのある言い方ですね」

「いやね。ボクは藪くんじゃないし、彼のお兄さんのことだって、直接は知らないんだ。ちょっと調べてみたくらいだからね。でもね、そのちょっと調べたボクでも違和感を抱くくらいだったんだ、藪くんだってほんとうは思っていたはずだよ」

「なにをですか?」

「お兄さんが、ほんとうに加害者だったのかってことをだよ。かれだけは、単純に純粋な被害者だったんじゃないのかなってね――ボクは思ったんだ。きっと藪くんもお兄さんを信じていたんだと思うんだよね。未だにね。自分でも気づかないようなかたちでさ」

「すみません、ちょっと分からないです。どうして藪っちのお兄さんだけがちがうと思ったんですか? そもそもどうしてほかの人たちは――つまりシンラさんの言い方をすれば世間ですけど――その当時の世間は、お兄さんのことも異常者だと見做してしまったんですか? いくら大衆が流されやすいからって、まったくの無根拠ですべての被害者をひとくくりになんてしないと思うんですけど。すくなくとも私は納得できませんけど」

「証言があったからさ」シンラは淡々と口にする。「藪くんのお兄さんが、少女といっしょにいるところをね。近所の方たちが頻繁に目撃していたみたいなんだ。事件が起こる前から、けっこう噂になっていたらしいね」

「だったらそれは、その……藪くんのお兄さんがそういった……えっと、なに? ロリコン? だったってことになるんじゃないですか、やっぱり」

「そう。当時の世間もそう断じた。でもね、ボクが調べたところによればだよ。藪くんのお兄さんがいっしょにいた少女と、一連の事件の犯人である少女――彼女たちが同一人物であったという証拠はなにひとつとしてなかった。すべては近所の方がたの漠然とした供述から類推されたにすぎない憶測だったんだよね。もしかしたらお兄さんがいっしょに遊んでいた少女っていうのは、別の少女かもしれないだろ? また、その少女へ向けられていたお兄さんの関心というものが、いったいどんな感情だったのかもまた詳らかではないんだよ。恋愛感情だったのか、それとも純粋に友情だったのか、またはやっぱり純粋に倒錯された性欲だったのか。いまになっては知りようがない」

「そりゃまあ」よっちゃんは首肯した。「死んじゃっているんならそうでしょうね」

 ああでも、と彼女はひらめいたように指摘してきた。

「だったらその少女が当時、名乗り出てきてもよさそうなものですけどね。これまで仲良くしていたお兄さんが亡くなったんですから。しかもそのあとで、悪者扱いの報道までされちゃってるんですよ。親だって心配になって娘に質問したと思いますし。それでなくたって警察もそのへんの調査はしていたでしょう? それでもそんな少女が名乗り出てこなかったのなら、必然ではないにしろ、藪っちのお兄さんがご執心だったその少女っていうのは、やっぱりその犯人の少女だったってことになるんじゃないですか?」

「その考察はけっして飛躍していないし、順当な考えだと思うよ。でもね、どうだろう? もしもあの当時、その少女が名乗りでられない状態にあったとしたら?」

「え、わかんない」彼女がなぜか、ぷ、と失笑した。「もっと掻い摘んで話してくれません?」

「すまないね。そう、つまりね」

 一呼吸置いてから、

「お兄さんが親しくしていた少女――彼女がすでに死んでいたとしたら、って話だよ」

「えっとだから? けっきょく、なにがどうなるんです? あれ? そもそも結論はどこへ向かってるんですかこのお話?」

「藪くんのお兄さんが、異常者――小児愛好者だったのかどうかって話だよ」と要約する。

「それで。結論はなんなんですか?」

 シンラはおおきな欠伸をした。

「なんだろうな、すこししゃべりすぎちゃったよ。ああ久しぶりだな、こんなにひとと会話したのは」

 すこし愚痴になるけどさ、と前置きしてからシンラは言った。

「藪くんってボクが話しかけても滅多に返事してくれないからね。ボクの一方的なひとりごとになっちゃう。あれはそう、会話とは言わないんだよなあ。それはそれで彼もまた珍しい人種――新鮮な友だちとも言えたんだけどね。ただまあ、彼にも増してよっちゃんもまたけっこうに変わっているよね」

「それ、褒めてくださってるんですか?」

「うん。ボクはそんなよっちゃんが大好きだってことだよ」

 ぎょっ、とした様子で彼女はかたまった。

「よっちゃんだけじゃないさ。店長のことだって好きだ。藪くんだって好きだったし、乃泉ちゃんだっていいコだった。ボクはそうだね、この街が大好きなんだ」

「あの、だいじょうぶですか……」

「平気じゃないけど大丈夫」シンラは嘯いた。「まだ強がるくらいの余裕があるからね」

 じゃあ店長、お世話様でした、と笑顔を振りまく。こころからの感謝のきもちだ。

「またのご来店、お待ちしております」

 言って店長がちいさな小包を渡してくれた。「恥ずかしいので、旅先であけてください」

 差しだされた、それ、をシンラはありがたく頂戴する。

 では、と暖簾をくぐる。

 店のそとで、にどと逢うことはない彼らに、さよならを言う。




      ◎香夜乃

 

 箒で店内を掃いていた。

 ふと見遣るとカウンターに写真が置いてあった。

 紙媒体の写真である。プリントアウトされたものだろう。

 客の忘れものだろうか?

 香夜乃は手にとって眺めた。

 女の子がふたり映っている。

 箒にもたれかかる。

 ふうん。

 かわゆいじゃない。

「店長、これー」

「なんだーい?」

「お客さんの忘れものですよー」厨房の奥へ報告する。「どうしますか?」

 どれどれ、と手を拭きながら店長が現れた。写真を手にすると、おやまあ、と大袈裟に反応する。

「双子ちゃんだね。こりゃあ、かわいらしい」

「ロリコンはクビですよ」

「え、おかしいな。店長いま、かわいいって褒めただけなんだけど」

「問答無用」

「でもだねよっちゃん。子どもを『かわゆいなぁ』と思うのは大人の義務だと思うわけですよ店長は」

「思うのは勝手ですが、口にださないでくれませんか」蔑視を注ぎながら香夜乃は毒づく。「言われた子どもがかわいそうです」

 辛辣だなあ、と店長がにが笑う。

「ねえ、よっちゃん」

 なんですか、とむっつり応じる。

「今日もいちだんと可愛いねっ」

「なッ」

「店長は常々おもっておりますよ。よっちゃんは、かわいいなぁ、ってね」

 うぐ、と頬がゆるむ。

「ほら、どうよ。かわいいと言われて気分を害するコはいないんですよ」

 勝ち誇った顔の店長が憎らしい。

「店長はいっぺん死ぬべきですね」

「またまたそんなこと言っちゃって。よっちゃんは照れ隠しがへたくちょですねー」

「訂正します。店長、おまえ、いますぐ死ね」

 言ってそばにあったモップで顔面を磨いてやった。

 一向に繁盛する気配のないお店。それでいて潰れる気配もない。

 かくも不思議なお店である。

 駅前の商店街から外れた路地裏で、居酒屋『こうちゃん』は本日も質素に営業中である。




      ◎そらたかく・かぜ裂き落ちる・紙飛行機

 

 まだ陽も昇らぬ時刻の駅構内で女は始発電車を待っている。

 煙草を吸おうといちど腰を浮かせたものの、どこも禁煙であったことを思いだして座り直した。

 イヤホンの音量を高くする。ワイヤレスであるから手元の端子を操作するだけでいい。聴いていた曲は、どこのだれとも知らぬ素人の作曲したメローな曲で、動画共有サイトから適当にダウンロードしたものだ。

 財布をとり出す。デジタルマネーで支払いを済ますため、中身はほとんど空である。財布から一枚の用紙を取りだす。丁寧に折りたたまれている。

 ひらくと端正な文字が並ぶ。

 直筆のそれを女は黙読する。

 

 「 ちょっと急だけど、ごめんね。

    でも、だいじょうぶだから。

    きっとなにもかわらないから。 」

 

 冒頭部だけを読んでから女はまたすぐに仕舞った。

 いつも財布に忍ばせてある。

 御守りのようなものだ。

 もしかしたら戒めなのかもしれない。

 私を縛るもの。

 でもどうなのだろう。

 女は考える。

 実際には私を解き放ってくれた。

 だからやっぱり御守りなのだろうと彼女は思い直す。

 これまでにも幾度か捨てようと思った。

 その都度、とても大切なもののように思われて、結局いつも捨てられなかった。

 かつて女には家族があった。今はもうない。

 父がいて。

 母がいて。

 〝妹〟がいた。

 かれらはみな死んでしまった。

 そう、

 ――死んでしまった。

 随分と他人行儀な言い方である。自分でもおかしかった。

 ――私がかれらを殺したというのに。

 いや、直接的にこの手で殺したのは両親だけだ。

 妹は死んでいた。

 勝手に死んでしまったのだ。

 だから女の言う、「殺した」というのは。

 妹の場合のみ、物理的殺傷ではない。

 妹は死んでいない。

 ――社会的には。

 まだ、

 ――生きている。

 むろん物理的には死んでいる。ただしそれは、他人の死として扱われた。

 ――私が死んだと見做された。

 女は悪寒をこらえる。

 全身がしびれた。

 このことを考えるといつも。

 せつなく身体がうずいて仕方がない。

 ――私は生きていながらに死んでいる。

 存在しない個人。

 存在している故人。

 なんてすばらしいのだろう。

 腹の奥が、じわりと火照る。

 女はベンチに腰かけながら前かがみになり、胸を押さえる。

 堪えるように、悶えるように、女は回顧する。

 あれはそう、十三年前だった。

 あのコは墜ちていた。

 すぐそこにあった。

 曲がっていた。折れていた。つぶれていた。ゆがんでいた。

 ――ひしゃげていた。

 あのコは死んでいた。

 なぜ死んだのかはすぐに判った。

 ――落ちたのだ。

 ずっとうえに見える天辺。

 マンションの階段。

 あのコは階段から落ちた。それは判る。

 でも、なぜ落ちたのかが解らなかった。

 自殺か。他殺か。

 事故か。事件か。

 女には判らなかった。

 このとき〝彼女〟は、一通の手紙を握っていた。

 本来ならばこの日、

 ――私が落ちるはずであった。

 しかし落ちてゆがんで死んだのは。

 自分ではなかった。

 目のまえの〝それ〟が、女にはまるで、あるべき自分のすがたのように思われた。

 ひしゃげた〝それ〟こそが。

 けがれた己のすがただった。

 不意に風が吹き、 手紙が舞った。

 女は拾った。

 手にした手紙を、ひしゃげた自分へ添えてやった。

 

 ――あるべき場所へと置いてやった。

 

 野次馬が沸きはじめた時分に父と母が現れた。

 ひどく周章し、狼狽し、困惑し、滑稽なほどに取り乱した。

 むごたらしく歪んだ娘を見たから。

 だから――。

 父も母もおなじように醜くゆがんだ顔をする。

 けがれがうつったのだ。

 鏡のように。

 病のように。

 野次馬を見遣る。だれもかれもが口を手でふさぎ、顔をしかめている。

 見たくない。

 だが見たい。

 我儘な好奇心に侵されている。

 ――みにくい。

 と。

 女はこのとき、つよく思った。

 両親は自分たちの〝娘〟を見つけると、すぐにこちらを抱きしめた。

 父と母は小刻みにふるえている。

 ひしゃげた片方から目を背けたまま、かれらは嘆いた。

「なにも死ぬことはなかったのに」

 きっとこのときだろう、といまになって女は思う。

 この瞬間。

 この言葉で。

 女のなにかが。

 ――崩れおちた。

 両親は、醜くゆがんだ〝それ〟を見て、

 ひと目で判断したのだ。

 死んだのは姉のほうだ――と。

 一抹の疑いももたずに、ただ〝それ〟が醜くゆがんでいたというだけで。

 ただそれだけでかれらは〝それ〟を姉だと見做した。

 けがされたほうの娘だと。

 けがれたほうの娘だと。

 そうして牽強付会に納得していた。

 女はこのとき確信した。

 かれらの嘆く〝けがれ〟といった代物が、

 真実存在しないただの幻であったことを。

 女はこのとき自覚した。

 

 ――けがれてなんていなかった。

 ――これっぽっちだって、◆は。

 

 ぐらりと女は大きくゆがみ、

 みしりと女はふかく軋んだ。

 女は自分を失った。

 女はこのとき死んだのだ。

 地べたに張りつくひしゃげた〝それ〟が己の最期のすがたであった。

 女はこのとき自分を殺した。

 生きるために自分を殺した。

 女は冷めていた。

 きっとこいつらに体温を奪われたからだろう。

 縋るように抱きついている両親を忌々しく思った。

 ――燈真寺さつ■。

 彼女が齢八つのころの出来事である。

 若い男に身体を弄ばれた、二カ月後のことである。

 

      ◎

 

 アナウンスの声が幽かに聞こえ、イヤホンの音量を下げる。

 電車が到着するそうだ。時計を見遣ると時刻通り。

 決められた時間。

 決められた筋道。

 決められた行為。

 決められた手段。

 まるで全てがだれかの手のひらのうえで操られているような感覚が不意に訪れる。

 ――決めているのはだれであろう。

 他人か。社会か。人類か。

 それとも。自然か。宇宙だろうか。

 それら決められたシステムのなかで、私という存在に与えられている自由というものが、果たしてどれほどあるものなのだろう。

 乗り込んだ電車のなかからは街並みが一望できた。朝日が真横から注いでいる。

 ――この街ともお別れか。

 勝手な旅行だ。

 指名手配でもされるのだろうか。

 それはそれで心躍るものがある。

 いちど、あの町へと花を供えに寄るのも一興だ。

 携えていく花は一本。

 あの日あそこで落ちて死んだ――私への献花だ。

 窓に反射する自身の顔が、朝日に照らされて見えている。

 電車は加速する。

 わずかな加重を与えながら。

 いずれ落ちゆく場所へと誘うように。

 街は刻一刻と、その輪郭を鮮明にさせていく。




  

   ・アフタービート・『藪をつついて蛇を足す』

 

      ◎店長

 

 本を手に取り、ホコリを払う。

 背表紙を確認し、本棚へと収納する。

 それを幾度も繰り返す。

 よっちゃんに言いつけられ、書斎の整理をはじめた。

 いちど手を止めてしまうと、その本が気になり、中身を確認してしまう。いちどひらいてしまったが最後、ふと気付くと時間が大量に過ぎ去っている。いつになっても、終わるものも終わらない。

 ゆえに男は手を止めない。

 だが、とある本に目を留めたとき、ホコリが付いていないことに気がついた。

 ぱらぱら、とページをめくると、中身の一部が床に落ちた。

 ページが剥がれおちたのかと思い、焦った。

 けれど床にあったのは折りたたまれた一枚の半紙であった。

 拾いあげ、中身を改める。

 

 

                 +++


  親愛なる、燈真寺さつえ さんへ。

 

 あなたが閉じこもってしまってから、もうずいぶんと経ちますね。

 まるで笑いあったあの日が、はるか遠い日にみた、夢だったかのように思われます。

 また、ついさきほど、あなたの笑い声を耳にしたばかりのような気にもなります。

 ほんとうに、はやいものです。

 

 今日はすこし、思いきって、

 あなたを突き放してみようとおもいます。

 気分を害することを承知で書かせてもらいますね。

 ですから、

 さきに謝らせてください。

 

   ごめんなさい

 

 そして、

 こんな僕を、赦さないでください。

 

   ***

 

 僕の言いたいことはたったひとつです。

 僕はあなたを諦めません。

 なにがあっても。けっしてです。

 

 あんたがどんなに苦しもうと、

 あなたがどれほど傷つこうと、

 僕はあなたを想いつづけます。

 なにがあろうとも、

 あなたはあなただ。

 あなたがあなたとして、

 傷つき、

 もがき、

 悲しみ、

 もだえ、

 死にたいほど狂いそうになっていたとしても、

 いいえ、狂いそうになっていたとするのなら、

 やはりそれはあなたなのです。

 僕の大切な、あなたなのです。

 あなたがどれほど傷つけられてしまったのか、それを僕は知ることができません。それがとてもつらいのです。あなたの辛いきもちを知れないことが、僕はたまらなくつらい。

 きっと僕には知り得ない、とてつもない感情があなたを支配していて、あなたの身体を空っぽにしてしまっているのです。

 でも、だから。

 僕にはそれがわからないから、

 だからこそ僕はあなたへ伝えておきたいことがある。

 僕はいつだってあなたを想っています。

 あなたがあなたであるかぎり。僕はあなたを愛します。

 どれほど辛い現実があなたへ降りかかろうとも、

 あなたへのきもちが変わることはありません。

 僕のこのきもちだけは、

 ぜったいに、

 なにがあろうともです。

 どうか、ゆるしてください。

 僕があなたを救えないことを。

 僕があなたを救えなかったことを。

 それなのに、

 僕があなたを想いつづけてしまうことを。

 ただひとつのこのきもちを抱きつづける僕の存在を。

 あなたのそばへ、ちかよることを。

 どうかゆるしてください。

 それだけをどうか、ゆるしてください。

 

 また、逢いに行きます。

 あなたと笑い逢える、その日まで

 

 

           藪 §§より。

 

 

 これはなんだろう、と三度読みかえした。

 直筆の手紙だろう。恋文にしては、ややおかしい。

 どういった趣旨の手紙であるのかが判然としない。

 けれどもこの手紙の概要は分かる。

 だれかが閉じ籠ってしまったのだろう。

 ともあれ、そのだれかへ想いを馳せる男の記した便りなのだろう。

 閉じこもってしまった相手はなにかしら、辛い経験をしたのだろう。もしかしたら怪我を負ったのかもしれない。病であるかもしれない。詳らかではない。

 けれどもこの手紙を書いた者は、その相手を愛してやまず、その想いを手紙にしたため伝えようとした。

 しかし、と思う。

 結局、この手紙が相手へ届くことはなかったのだろう。

 手紙の挟まっていた本には見覚えがあった。

 よくよく思いだしてみれば、以前、とある従業員に貸した本である。

 手紙の差出主の氏名に、「藪」とある。

 偶然にも本を貸した従業員の名も「藪」だ。逆から読むと「天飛ぶや」という枕詞になるので印象深い青年だった。

 藪くんが本に挟んだのだろうと結論付ける。

 故意に挟んだのか、偶然に挟まってしまったのか。

 それとも栞の代わりに挟んでおいて、そのまま忘れてしまっただけかもしれない。

 あの藪くんがこんなに甘ったるい手紙を書くだろうか。どうもイメージが結ばれない。あまつさえそれを、他人から借りたこの本に挟むだろうか。ますます考え難い。

 だとすればどうなるのだろう――。

 ううん、と唸る。

 腕組みをし、男は何気なく手紙を裏返してみたところ、見知った詩が書かれていた。

 誰のものだっけ、と記憶を探っていたところ、

 なにこれッ、と声がした。

「いい加減にしなさいよ店長お。これ、ぜんッぜん片付いてないじゃないの」

 扉の敷居によっちゃんが立っていた。

「あれ? お帰りなさい。はやかったんじゃない?」

 休暇はもういいのかい、と投げかけると、

「わるい?」

 機嫌のわるそうな返事が返ってくる。「ねぇ、なんで片付いてないわけ? むしろ余計に散らかっているように見えるんだけど。どしてだろう、おっかしいなあ。ねえ、私、目がおかしくなっちゃったかも。どうしよう店長」

 悪態を吐きながら彼女はエプロンをし、ホコリにまみれの本たちを片っ端からハタキで叩いていく。

 せっかく休暇をあげてもこれだもんなぁ、と男は胸がほっこり満たされる思いがした。

 握っていた手紙をたたみ、本に挟み直す。

 手紙の裏に書かれていた詩の作者を思いだす。奇しくもそれは手紙の挟まっていた本の作者で、我幽沁のものだった。

 たしかデビュー前の同人誌に載っていたマイナーな作品の一節だったはずだが、なぜそれを藪くんが知っているのだろう。

 幻の同人誌を持っていたなら譲ってもらえばよかったなぁ。

 よっちゃんにしりを叩かれながら店長は、記憶に仕舞いこんだ我幽沁の文章を一節一節、鮮明に思いだしながら現実逃避を開始する。






「 戦わぬひとが

     弱いだなんて

         いったいだれが

    決めたのですか

 

   競わぬことが

      逃避だなんて

         どこのどいつが

    決めたのですか

 

   生きる

     というのは

       抗うことです

 

   抗うわたしに抗うことです 」 




【そらたかくおちるきみへ】おわり。

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