ウェイク・アッパー

【ウェイク・アッパー】 


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R2L機関、およびファンシィニストの後日譚です。

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目次

□■□『鏡前の灯』■□■

第一章『平行ならざれば、いずれ線は交叉する』

第二章『問うた末の淘汰』

□■□『トンボ』■□■

第三章『絆と鎖・配りと縛り』

□■□『異化されている』■□■

第四章『ほだされるみんな・解かれぬ因果』

第五章『交叉する点在・結ぶムスメに・歪む図面』

【後日譚】

外部伝『木霊する波紋を呼び、より反響』 



      □■□『鏡前の灯』■□■

 

 ぼくという人間は、あなたという人間に意識されて初めてぼくという輪郭を得るのです。ぼくがぼくだけである瞬間には、そこに感じられる世界すべてがぼくであり、ぼくはどこにもいなく、またどこもかしこもぼくで溢れている。ぼくという存在は、あなたという存在に意識され、あなたという存在の内側に、あなたという存在として存在し得たとき、ぼくという存在はようやくあなたの世界に顕現できるのです。

 あなたのおかげでぼくはぼくとして存在される。ぼくはぼくひとりであるかぎり、どこにも存在しないし、またはどこにでも存在している。

 それがぼくであり、それがあなたです。

 ぼくの裡にあなたがいて、あなたの外にぼくがいる。あなたの裡にぼくがいて、ぼくの外にあなたがいる。その境界が意識されなければ、ぼくとあなたの境もまたいつまでもくすぶりつづけて、曖昧に、ただひとつの世界へと霞んでしまう。

 だからぼくは、あなたに意識されることを望んでいる。

 だからぼくは、あなたを意識することをつづけている。

 だのにあなたは気づかない。

 いつもいつまでも意識してくれない、このぼくを。

 ならばぼくは、ぼくの裡にいるあなたと、ぼくの外にいるあなたを、たったひとつの揺るぎないあなたとするために、たったひとつの揺るぎないあなたを手にするために、ぼくはあなたをつよく、つよく、よりつよく意識することにしようとつよく、つよく、よりつよく意識した。

 ぼくの裡にいるあなたを外へと放ち。

 ぼくの外にいるあなたを裡へと招く。 

 

 ――そうしよう。

 

 ねえ、みて。私はいつだって、アナタに意識されています。

 ほら、みて。私はいつだって、アナタを意識しつづけます。

 だって、ねえ、ほら。

 アナタはもう。

 どこにも存在しないのだから。

 だからアナタはもう。

 どこにだって存在できるのです。

 だから、

 ねえ、

 おねがい。

 手をあわせて。

 アナタのぬくもりはいつだって私をくもらすの。  



    第一章『平行ならざれば、いずれ線は交叉する』

 

 

      ◇わたし◇

 

 ノリさんをぶん殴ってやった代償は思いのほか大きかった。

 おじさんと出逢うきっかけとなったあの研修――ノリさんはなんだか規則違反をしていたらしく、罰則として、学び舎内にある医療機器の使用を、一カ月という期間、禁止されてしまったようである。そんな折にわたしが本気でぶん殴ったりなんかしちゃったものであるから、ノリさんはひと月のあいだ、顔面陥没の治癒に専念するために自宅療養することと相成った。自宅療養とは聞こえがよいものの、実際には自宅謹慎と言ったほうがしっくりとくる。ふん、ざまぁみろ。

 とは言ったものの、ノリさんが休養中でも任務はあとからあとから指令されてくるわけで、そのノリさんの穴埋めは、アークティクス・ラバーとなってしまったわたしが受け持つこととなってしまった。自業自得とはいえ、あんまりだ。

 冷静になって考えてもみれば、ノリさんがわたしの拳をかわせないはずがないわけで、結局のところ、ノリさんはわたしの鉄槌を受けてくれたということであり、それはつまり、それだけノリさんがあのときにはすでに真摯に反省していたという証なのだろう――となんとなく申しわけなく思ってしまったりもして、だからわたしは結局あれから毎日ノリさんの自宅へお見舞いに行くのが日課となってしまっている。自業自得とはいえ、不本意だ。

 お見舞いと任務と修行の日々。

「年中無休で年中公休」だったはずの学び舎とは思えぬ日々である。

 あのパン屋さんに洗脳された代償もまた、想像以上に大きかったようだ。

 いや、今もなおこうしてわたしは洗脳中である。なぜかと言えば、わたしはいま、中々に充実した日々を過ごしているなぁ、となにともなしにしみじみと感慨にふけってしまうことがままあるからだ。「年中無休で年中公休」であるはずの学び舎において、なぜに住民のみんなが一様にアークティクス・ラバーになりたがるのかが、すこしだけ、ほんのすこしだけ分かるようになった気がする。

 言っても、単に洗脳がより深まっただけのことに相違ない。

 

 今日は午後から任務である。

 なにやらわたしのパーソナリティでもって、とある失踪者たちを探索してみよ、となんとも投げやりな指令であった。

 失踪者――ここ数年のあいだに認知されているだけで十四万人にものぼる人々が失踪しているらしい。発端は六年前だとされているが、何を根拠にそう断言しているのかが、資料には載っていない。

 そもそも、単なる失踪者であるならば、わたしのような高貴な戦力を遣うまでもなく、向こうの社会にある警察の方々にお願いすればいいだけの話なのだが、残念なことに単なる失踪者ではないようだ(断るまでもなく「残念」なのは、失踪者の方たちの境遇がより劣悪であるらしいこと、であって、めんどくせーだとかそういった怠惰からくる感想ではない。断じてない)。

 あの研修の一件いらい、わたしは、任務においては眼光紙背に徹するいきおいで資料に目を通している。それだけは絶対に怠ることはない。ともすればわたしの任務はそこで終了されてもよいくらいの力の入れようである。だれか褒めれ。

 失踪者――その意味するところは、『失踪したことに誰も気づかない』とそういった〝存在ごと失踪してしまった人々〟を示すようである。原因は不明。いまのところ失踪者の足取り、および、彼らの居場所を特定できている者はいないという。まったくどうして役立たずめ。

 総括部の面々のなかには、彼らが「ティクス・ブレイク」に巻きこまれて、存在ごと消失したのではないか、と意見する者もいたが、だとすればどうしてわたしたち保持者やサポータには彼らの存在を認知することができるのか、についての説明がそれでは付かない。そのために、「ティクス・ブレイク」とはまたちがった要因で、失踪者は「失踪者」となってしまったのだろう、といった見方がいまのところ支持されている。

 じゃあその失踪者が失踪しちゃった要因ってなんだよ、と疑問に思うのも束の間、資料には、〈現在解析中〉の五文字。

 手がかりなしときたもんだ。

 んなもん、どうやって捜せっちゅーねん。

 とまあ、このような任務であり、「まあ無理だろうけどね」「期待はしてないから」とそんな迂遠な小言が聞こえてきそうなほどに投げやりな指令であった。そんな指令に対して懸命に勤しむなどわたしの道理に反する。

 だからわたしは学び舎から離脱しておいて、その実、「任務など知らん」といったふうのお構いなしで、おじさんと出逢ったあの公園へ赴き、あのときのおじさんと同じような格好で木の根元に寄りかかりながら、アイスクリームをぺろぺろと堪能しつつ、子どもが鳩を追いかけ回しているその可愛らしくもひょうきんな風景を満喫していた。

 平和だ。

 実に平和だ。

 これだけ平和だと、「いっちょ刺激的な事件でも起こしてみっか。みんなに娯楽を提供するのも一興だい」と頭にうじの沸いた人間がでてきてもおかしくはないよなぁ、とそんなふうに思ってしまったりもしないではない。

 平和だということと平凡だということは必ずしも一致しないものではあるが、期せずして一致してしまうのが現実であるようだ。人間の認識とはなんとも盲目的なのだろうな、などと自分を差し置いて沈思黙考していた。

 木漏れ日がそよ風に揺れている。

 聞こえない風鈴のようで、どこか涼しげだ。

 

「ふう。ちかれた」

 呟きながら目の前のベンチにだれか座った。ひたいの汗を拭っている。中学生くらいだろうか。いや、この落ち着き加減は成人に通ずるものがある。児童と青年の中間といった様子――う~ん、よく分からない。この際、「若者」で統一してしまおう。わたしよりも若いという意味での「若者」だ。だからわたしにとっては、小学生も充分に「若者」である。などと、どうでもよいことを黙考しながら、「ああ、おじさんからはこんなふうにわたしのうしろ姿が見えていたのだなぁ」と感傷に浸っていた。おじさん元気かなぁ。

 しばらくその若者を観察していた。

 一向に動かない。ただじっとベンチに座っているだけである。

「ヒマなやつ」とわたしは毒づいた。

 瞬間。

 ばッ、とその若者が振り返る。剣呑な表情だ。

「な、なんだよぉ」わたしはにらみかえす。「言っとくけどずっとここにいたからなわたしは。あんたがくるよかずっと前から」

 若者はなおも射抜くような眼光をそそいでくる。

 わたしのこのひたいやうでに浮かんだ汗が、真上からそそぐ木漏れ日によるものなのか、この若者の炯炯とした眼光によるものなのか、実のところ判断にこまる。

 ふと、木漏れ日の狭間にまじって、ジぃ、ジぃ、と蝉が泣いている。きっと彼らはあとすこしで死んでしまうことを身に染みて知っているのだろう。だから泣いているのだ。可哀想に。でももっと可哀想なのは、今こうしてどこの馬の骨ともわからぬ若者ににらまれているわたしだ。なににらんでんだよぉ、金とンぞ。目頭があつくなっているのはこわいからではない。ずっと目を見開いたままだからだ。自分にそう言いきかすわたしは健気でかわいい。

「ヒマなんですね」

 やがて若者はそう口にした。

 虚仮にされたように感じたが、若者の表情からはすでに険は抜けており、どこか涼しげな微笑みが浮かんでいた。「ぼく、ヒマなんですよ。よかったらすこし、お話しませんか」

「ほお。わたしとか?」そのままの姿勢で承諾する。「うむ。よかろう」

 若者もまたベンチから立ちあがることをせず、身体をよこに捻ってわたしへ言葉をむけた。

「ぼく、追われていまして」

「ふうん。鬼ごっこ?」

「そんなものです」若者は笑った。「鬼に見つからないようにしたいのですが、どうしたらよいと思いますか」

「だったらこんな場所に居たらダメでしょ。隠れなきゃ」

「なるほど」

 なにが、なるほど、だ。ほんとうに追われている者がこんな公園で暢気に一息ついているわけがなかろうに。いや、そう思う心理の裏をかいての公園という可能性も、なきにしも非ずかもしれない。木の葉を隠すなら樹と言うし、樹を隠すなら森と言うくらいなのだから、身を隠すのなら人込みは定石ですらある。しかし、人込みと言っても、流れのない人込みでは意味がない。公園に隠れるのはやはり得策とは呼べまい。

「あの、あなたはどうしてこんなところに?」若者がそう尋ねてきた。

 ふてぶてしいやつだ。そういった質問はまずは自分が答えてから相手にするものだ。

「いえ、ですからあの……ぼくは追われていまして、ここに」

 ぼくは答えたじゃないか、とでも言いたげなふうである。

 若者はわたしを視線で示すと、「それで、なにをされているのですか」とみたび訊いた。

「ひとを追っていてな」ひと際えらそうにわたしは述べた。なにともなしに張り合いたい気分だったのだ。ええい、責めてくれるな。

「はあ。なら、あなたが鬼だったのかもしれませんね」

「はい?」

「いえ、ですから、ぼくを追っていた鬼ですよ」

「鬼ごっこなんてしてないぞ」

「いえ、ですから」若者はこまったように言い淀むと、「ですね。すみません。なんでもないです」と苦笑を浮かべた。

 まるでわたしに非があるかのような振る舞いだ。話が噛み合わないのはお互いさまだというのに。まったくもって気に食わない。気に食わないが、今さらながらに気が付いた。この若者の容姿はなかなかに端整である。だからどうしたでもないが、わたしは仕舞っておいた愛想を取りだした。

「わたしはタツキという」

 名乗ってから、あんたの名前はなんだ、とあごを振って促した。

「はあ。ぼくは……サイトウと呼ばれていまして」

「うん。では、サイトウくん」おいしょと立ち上がってわたしは言った。「お腹、減ってないか?」

 

      ******

 

 腹が減っては戦ができぬ。

 されど腹が満ちても戦などできぬ。

 なぜなら争いたくなどないからだ。

 

      ******

 

 サイトウという若者はどうにもこうにも善いやつだった。奢ってもらおうだとかそんなさもしいことなどちっとも考えてなどいなかったわたしであるが、それでもサイトウ氏は自ら奢ってくれることを提案してくれた。きっと小学生などではない、サイトウ氏は立派な大人である。見た目はちびっこいけど。

「いいの? 奢ってもらっちゃって?」申し訳ないなどとはつゆほども思っておらずとも、そういった素振りを醸しだすのはいちおうの礼儀であろう。「さっき会ったばっかりなのに。わるいねえ」と満面の笑みでわたしは言った。

 ぎゃくに清々しいです、と厭みっぽくなく厭みを返されてしまう。

「奢る代わりといってはなんですが、いくつか質問してもよろしいですか?」

「おうよ」次々と運ばれてくる料理にうっとりとしつつ、じゅるり、とよだれを啜る。「なんでも訊いてくれたまえ」

「お姉さんって、保持者?」

 ぼふっ、と咳こむわたし。

 のどに水を通して息を整えつつ、

「え、はい? なに? もっかい言って」

「ですから、お姉さんって保持者なんですか?」

「ええっと」

 閉口しながらわたしは考えた。サイトウというこの若者はわたしをお姉さんと呼んでくれた。それは大変うれしい事項である。しかしそれ以上にサイトウ氏はわたしのことを「あなたは保持者か?」と質問した。これはどういうことか、幾通りかのケースを考えてみた。まず一つは、サイトウ氏もまた保持者であるということ。二つ目はサイトウ氏がサポータだということ。三つ目はサイトウ氏が一般人でありながらも保持者の存在を知っているような特異な人間であるということ。四つ目は、逸脱者、もしくはこのあいだのおじさんのときのように、サイトウ氏の〈レクス〉が『プレクス』を浸食したことで顕在化した〝存在しない存在〟である可能性もある。

 どれであっても結果的にのこる問題は、わたしがサイトウ氏のその質問に対してどう答えるかだ。正直に答えるのは論外、しかし単純に「ちがうよ」と答えたのでは肯定したのと変わらない。一般人なら「保持者ってなに?」と訊き返すのが妥当だろうか。よし、それでいこう。わたしってばなんてお利口さん。唇をしめらせてからようやくわたしは口をひらいた。

「あの、ほじ……」

「あ、もしかして、アークティクス・ラバーの方でしたか?」サイトウ氏がわたしの言葉を押しのけた。押しのけられたわたしの言葉「……しゃってなに」は尻つぼみとなって、意味の分からない呪文、「シャテナニィ」として宙へはなたれ、萎びるようにクーラーの冷風に流された。

「もしもラバーの方でしたら、ここはひとつ、どうかぼくの頼みを聞いてはくれませんでしょうか」若者は視線が途切れない程度にかるく頭をさげた。「言ってもひと探しのようなものでして」と頭を起こすと人懐っこい笑顔を浮かべて、「ある男のひとを捜して欲しいのです」とテーブルのうえに写真を滑らせた。

 すー、とわたしのまえまでスライドして写真はとまった。

「そのひとはいま、この街にいます。そこまでは分かったのですが、どうにもこうにも一筋縄ではいかない人物でして、ぼくの手には負えなくって困っていたところなんです」

 貴様、鬼ごっこをしていたのではなかったか。なにやらころころと主張を変える。サイトウというこの若者を信用してもいいものだろうか。だいたいにおいて、サイトウという名だって怪しい。いや、それはわたしも同じか。タツキと名乗ったものの、それはサイドネイムだ。本名ではない、半ば偽名である。偽名なんてものは、誰が名乗ったところで問題がないくらいに味気のない記号に過ぎない。そもそも名前なんてそんなものに、その人物の本質が垣間見えるわけがない。かと言ってこの若者が本名を名乗らずに「サイトウ」と偽名を名乗っていたのだとすれば、その「偽称」という行為には、こやつの本質が垣間見えていると言っても過言ではなかろう。

 わたしはカマをかけてみた。

「サトウくん、えっと、この男のひととはどういったご関係で?」

「うんと……そのひと、ぼくの恩人でして」

「ふうん。で、サトウくん。このひと捜してどうすんの?」

「ええ。是非ともお礼をしたくて。あとはできればなんですけど、ぼく、彼のお手伝いをしたいんです」

「へえ。サトウくん、義理深いんだ」

「そんなことはないんですけど……あの、それからぼく、サトウじゃなくって、サイトウです」

「ああ。ごめん。サトウって言ってた? わたし?」

 サイトウ氏は申しわけ程度に顔をしかめて、言ってましたよ、と言った。

 どうやらわたしの仕掛けたカマには引っかからなかったようだ。ややもすれば「サイトウ」というのは本名なのかもしれない。

「謝礼のほうはじゅうぶんに尽くさせていただきますので」

 ほお、とわたしはあごを撫でた。「いくら?」

「ビル一棟建設するくらいの資金は用意できます。お金なら欲しいだけ、成したい望みがおありでしたら、それを叶えてご覧にいれますよ」

 今一度サイトウ氏をわたしは凝望した。どう窺ってもそこらに腐るほど溢れている若者だ。彼らとのちがいは、かろうじてまだ腐っていない点だろうか。そんな大層なお方には見えない。そもそも大層なお方を間近に見たことのないわたしが見た目でひとを判断できるはずもない。

「ああでも、こんなこと言える立場ではないのですが」と言い難そうに目をふせてからサイトウ氏は、「成功報酬ってことにしていただければと……その、もしも見つからなかったら、そのときはすみません……この食事代が報酬ってことにしてもらいたいんです……厚かましくってすみません」

「まだ受けるとは言っていない」わたしは思いだしたように付け加えた。「そもそもアークティクス・ラバーってなに? 保持者ってなに? わたしはただの女子高生だ」

「え、高校生なんですかっ!?」

 あう……。

 おどろく点がそこなんだ。まあ、いいけど。たしかに女子高生は言いすぎた。見栄など張らず正直に女子大生と言っておくべきだった。反省反省。まあ言っても、どこにも入学してなかったんだけどね。ぷぷー。今さらながら、わたしはアンポンタンである。

「そうでしたか」残念そうに項垂れるサイトウ氏。「保持者でもないとすると、では、何者ですか?」

「こっちの台詞だい」

 おや、と首をかしげてサイトウ氏は、「自己紹介、名前だけでしたか?」

「なんだ。する気があったのか自己紹介」わたしは背もたれから身体を引き離す。持っていたパフェをテーブルに置いてから問いただした。「で、サイトウくん、きみ、何者よ?」

「ぼくは元、漂泊アウトローでして」

「なにそれ」

「いわゆる覚醒者(ウェイク・アッパー)、ウェイク・アッパーと呼ばれています」 



      ◆ノリマキ◆

 

 学び舎。6ステップの第三フロアにあるマンションにアークティクス・ラバーの一員であるノリマキは住んでいる。彼は現在、謹慎中であった。

 アズキが見舞いにやって来るとは珍しいこともあるものだ、と思っていたら案の定、いまさら過ぎる説教を受けた。

「――そういうことだ。わかったか」

 説教が開始してから二時間が経とうとしている。

 アズキのヤツ、ようやく気が済んだようだ、とノリマキは欠伸を噛み殺す。「わかってるよ」

「ほんとうに解ったのか?」アズキの口調に覇気が戻った。「いいか、タツキはまだ右と左の区別がつくようになった、そんな巣立ったばかりの若鳥なのだ。にしゃ(おまえ)がきちんとした飛び方を見せてやらんとタツキだってきちんと飛べるようには」

「分かってるっつーの」いい加減にしてくれよ、とすっかり腫れの引いた頬をかばいながら嘆く。腫れは引いたがまだ青くあざが滲んでいる。「もう凝りたって。アズキに言われるまでもない」

「だったらよいがな」

「おまえもな、いい加減おれなんかに構うのやめて、男でもつくれば?」

 ムッ、とアズキの眼光が鋭くなる。

「いや、無理にっつーわけじゃないけど……」

 そんなに睨まなくたっていいだろ、と誤魔化すつもりで顔を背ける。

 ふと壁に貼られた写真に目が留まる。紙媒体の写真だ。

 アズキとミツキとノリマキと――そしてアラキ。

 四人で撮った、最初で最後の写真だ。

 ふと、視線を戻すとアズキもまたその写真を見つめていた。

「まだ飾っているのか」冷たい口調で言われてしまう。「そんなもの、はやく捨ててしまえ」

「そう言うなって」

「ああそうだな。にしゃの問題であって、私の問題ではない。ノリがなにを持っていようと関係ない。私が誰と恋仲であろうが関係ないのと同等のレヴェルでな」

 なにムキになってんだ、と投げ掛けると、「ムキ? 誰がだ?」とベッドごと蹴飛ばされた。

「だいたい、にしゃは意味がわからんのだ」アズキは腕を組んで、どかり、と椅子に威勢よく腰掛ける。「どうして急にそうやすやすと気持ちを変えられる」

「なんの話だ?」

「なんのって……だってにしゃ、いままでは……その…………私のことを」

「はい?」

「……なんでもないッ」

「まあいいけど」たまにアズキはこうやってしおらしくなる。そのたびにノリマキは気がそがれる。言い換えれば、愛おしく感じる。ああそうだった、と思いだし、言い忘れていたことを切り出した。「ただな、これだけは断っておくぞ、おれは別にタツキに対して恋愛感情を抱いているわけじゃねーからな」

「……そうなのか」

「おうよ」

「では、どういうことだ。だってにしゃは、その……タツキに好かれたいから、その」 

「似てんだよ」

「うん?」小首を傾げてアズキは柳眉を曇らせた。

 誰に似ているのだ、と問いたそうな表情だ。ノリマキは教えてやった。

「あいつ、むかしのおまえにソックリだ」

 驚いた猫みたいにいったん固まってからアズキは、きょろきょろと忙しく視線を彷徨わせた。チョウチョでも飛んでいるかのような仕草だ。やがて視線は足元の床へと落ち着いた。

「なんだ……それは」

 からかうな、とぼそぼそと呟くアズキの頬っぺたは紅潮している。ただ、彼女が俯いてしまっているので表情全体を確認することはできない。ごにょごにょとアズキはさらに溢した。「私はあんなに駄々っ子ではなかったぞ」

 反駁する点がそこなのがアズキらしくもあり、また、タツキとの類似点でもある。

「そうだな。やっぱし似てないかも。タツキのほうがまだ可愛げあるし」

 どうくるかなぁ、と彼女の反応を待つ。拗ねてくれたら良し、怒ってもらってもこの場合は構わない。ノリマキは頭に両手を組んで素っ気なさを醸しつつ、横目でアズキを窺った。

 両手を拳に握って膝のうえに、ちょん、と置いているアズキ。肩が怒っている。まるで叱られた子どものような様だ。

 しばらくその姿をやんわり睥睨していると、

「……かえる」

 そう呟かれたのが聞こえた。

 あれ? しくったか、と思ったのも時すでに遅し、アズキは、すくっ、と立ち上がってこちらを見遣ることなく部屋を出ていってしまった。止める暇もなかった。

 無様に片手をドアのほうへと伸ばしたままでノリマキは固まっていた。

「いじけるとはなぁ……」

 肩を落とすように掲げていた手を下ろす。

 だいたい、ずるいっつーの、とノリマキは嘆く。

 あれから三年だぞ。

「いつまで待たせる気だっつーの」

 床には、任務通達用のオブハートが丸められたまま転がっている。アズキの持ち物だ。

 まさか忘れてんじゃねーだろうな。

 なにともなしにふと不安になった。



      ◇わたし◇


 サイトウと名乗る若者からわたされた写真の男は若かった。サイトウくんのお兄さんと言われれば腑に落ちる。ただ、この写真がいつ撮影されたものかが定かではないので、男の年齢が現在いくつなのかはなんとも言いようがない。サイトウくんがこれを頼りに捜索しているのだから、そうむかしの写真ではないだろう。

 真横から撮られている。男の横顔はまだまだ青年といった容貌だ。わるくはない顔立ちであるが、特徴のない、どこにでもいる青年に見える。無表情で、どこか物寂しく、冷徹な印象すら受ける。

 ただひとつ難点というか特徴というか、そういった不調和がこの写真の男からは匂いたっていた。

 端的に言えば、

 ――服装がむさくるしい。

 この一言に尽きる。

 街中の一角で撮られたと思しきこの写真には、周囲に歩行者が数人映っている。みな半そでだとかサンダルだとか、涼しげな出でたちだ。季節は夏なのだろう。にもかかわらず、この男の服装は、長袖のまっしろいYシャツに、デニム生地の長物のパンツ。なにやら凝ったデザインのいかつい黒いスニーカーに、とっておきは、つば付きのニット帽。

 あつい。見るからに暑い。おなじ夏に身を置いているぶん、見ているだけで汗がにじんでくる。

 それを涼しげな顔で平然と着こなしているこの男が恩人だとは、サイトウくんも可哀想だ、と同情するにやぶさかではない。

 サイトウくんは自身を「元、漂泊アウトロー」と名乗った。

 現在は、「覚醒者(ウェイク・アッパー)」と呼ばれる者だそうだ。

 なんぞそれ?

 その疑問は、サイトウくんからの質問によって問う機会をうばわれてしまった。

「お姉さんは、保持者ではなく、サポータでもない。けれど一般人でもないご様子。であれば、もしかして、お姉さんもぼくたちと同じ、ウェイク・アッパーではありませんか?」

 なんだろう、このサイトウくん、随分と素直にひとの言うことを信じすぎではなかろうか。このままわたしが、「実はわたし、人間ではなくコアラなのだ」と言っても信じてしまいそうな勢いである。ちなみにコアラの鳴き声は、超高周波で、我われ人間には聴こえない。へへ。ウソである。

「あの、もしかしてお姉さん……まだ目醒めてなかったりします?」

 待って待って、とわたしはようやく口のなかに放り込んでいたハンバーグやらピザやらを呑みこんだ。「ごめん、わたしラバーでしたっ!」

 正直に言っちった。だってめんどうくさいんだもん。なにがめんどうかって、この子――サイトウくん、あまりにもひとりで突っ走りすぎ。だんだんわたしが得体の知れない人物になり変わっていくのだからここら辺で、えいや、と訂正してやらねばなるまい。いち、お姉さんとして。

「ああやっぱり」サイトウくんは屈託のない笑顔を咲かせた。「だと思ったんですよ、だってお姉さん、あまりにもハッキリしすぎてて」

「ハッキリ?」

「ええ。お姿が」

「姿がハッキリ?」

「くっきり、でもいいですけど」

「ぱっちり、じゃダメ?」

「へ? ああ、ええ。いいんじゃないですか」

 だって、おめめパッチリのほうが可愛らしいではないか。

「で、この男を捜して欲しいってのは、まあ分かったけど」と写真を団扇代わりにして扇ぎつつ、「でもわたし、いま任務中でね」と言葉をにごした。

「鬼ごっこの鬼なんですよね」

「いや、鬼ごっこはキミでしょ。わたしはただのひと捜し。まあ人数はたくさんなんだけどね」

「だったらこのひともついでに」とサイトウくんは写真を奪い取ってテーブルへ置き直すと、「ついでに、捜してはくれないでしょうか」

「名前は?」

「ですからサイトウです」

「わたしはニワトリか。キミのはさっき聞いたよ」この男のほう、と写真をテーブルにおしつける。指紋がべったりと付いた。サイトウくんが顔をしかめた。

「そのひとは……その、知らないんです」

「は?」

「名前を尋ねる前に、その、逃げられちゃいまして」

 待って待って、と制する。「この男、キミの恩人なんでしょ?」

「はい」

「で、キミはこのひとにお礼がしたいんだよね?」

「はい」

「捕まえたいんじゃなくって、お礼がしたいんだよね?」と重ねて確認する。

「はい。そうですけど、なにか不都合でもありましたか?」

「だってさぁ」とふんぞり返ってわたしは言った。「だってだよ、なんでこのひと、サイトウくんから逃げたわけ。それってキミと関わりたくなかったからじゃないの? ああ、誤解しないでね、『泣いた赤鬼』じゃないけど、キミのことを思うからこそ姿を晦ませたってこともあるんだから。でだよ、だとしたらさ、わたしとしてはキミの意思だけじゃなくって、この男のひとの意志も尊重したいわけ」

「引き受けてくれないってことですか」サイトウくんはしょんぼりと肩を落とした。

 そうじゃないよ、とわたしは首をよこにふる。「そのひとがキミと逢いたくないと言ったら、わたしはそこで退散させてもらう。もちろん、報告くらいはキミにもするけどね」

 怪訝な表情のサイトウくん。わたしは要約してやった。

「このひとを捜しだしてはあげる。ただ、キミをこのひとに逢わせるかどうかは、保障しないよってこと」

 くもった表情を、ぱぁ、と開花させるとサイトウくんは、「ありがとう、お姉さん」とテーブルをのりこえて抱きついてきた。

 わたしは両手でサイトウくんのあたまを抑えつける。突っぱねながら、「お礼はきっちし、もらうかんね」と念をおした。 



      ◆ノリマキ◆

 

 さて困ったことになってしまった。

 ノリマキはベッドの上であぐらをかき、頬杖を付いている。

 アズキの忘れもの――任務用のオブハートだ。

 人のものを勝手に覗くのは潔しとしないノリマキではあるが、任務用と私用とは別物であると判断し、ほんの好奇心、ほんの暇つぶし程度に中身を拝見した。

「……ああ」

 そこに記載されていた情報は、ノリマキにとって到底看過できる代物ではなかった。

「……あいつ」

 ホント、お節介だよなあ、と顔がほんのりしかむ。

 アズキが珍しく見舞いにやってきたことも、見舞いにやってきたくせに見舞いの品がなかった理由も、これで合点した。アズキはこれをわざわざ報せに来てくれたのだ。重大な規則違反と知っていながら。

 杓子定規の癖に、こういったときには情を優先する。ホント、なんて困った娘だろう。

 オブハートに載っていた任務の梗概は以下の二点である。

 

   ・『シヴァ』の残党狩り。

   ・および、離反者の処分執行。

 

 最難易度かつ最優先事項の任務だ。これらの指令がアズキに下されたのだろう。この任務は六年前のあの任務のように、ほかの学び舎のアークティクス・ラバーたちと共同戦線が張られるらしかった。

 今回はきっとあの時の二の舞にならぬように入念な策戦が練られることだろう。各個人に限定された役割が与えられる。その制約がある以上、勝手な行動は許されない。アズキだって動きたいはずだ。組織の規律を乱してでも動きたいはずだ。それでもそれができるような性格の彼女ではない。

 しかし運よくと言ったものかどうかは微妙ではあるが、ノリマキにはこれらの任務が与えられなかった。それがこの謹慎によるものなのか、それとも戦力外だからなのかは定かではないし、両方ということも十二分に有り得る。

 ただ、それが僥倖であることは疑いようもない。完全にフリーに動けるのだ。

 ただし、それは重大な規則違反だ。

 組織に気取られないように隠密しながらの行動では限度があり、派手に動けば、やはり厳罰はまず免れないだろう。それでもやらねばならぬこともある。或いはそれが組織への反逆行為とみなされても。結果、その代償が、「処罰」ではなく『処分』の勧告をされ兼ねないほどの罪過を背負わされることだったとしても。

 そういったこちらの危険を知っていながらも、アズキはこの情報を教えてくれた。なんて優しい娘なのだろう。

 だからこそおれはおまえが。

 ――と気持ちわるくセンチメンタルになっている自分を認識してノリマキは襟を正した。

 あぐらを正座へと組みかえる。

 精神統一。

 知らず高ぶっていた精神を鎮める。

 恋――?

 愛――?

 そんなもん存在しない。

 おれにあるのは、「支配欲」と「支配されたい欲」のハイブリッドだけだ。

 ただただ単純に、放っておけない――それだけなんだ。

 ああ、さらに気持ちわるいことを。

 がぁー、と頭を掻き乱しながら引っくり返った。ベッドが軋む。

 そうだとも、放っておけない。

 たとえそれが、殺してしまいたいと思う相手でも同じことだ。

 愛の裏は憎しみとはよく言ったものだ。

 一方で、「裏」と「反対」は似ているが性質はまったく異なっている。

 裏と表は表裏一体。一つのものを無理矢理に二つに振り分けているに過ぎない。

 それに比べて「反対」という概念は、まったく異なった二極を強引に結びつけている、在りもしない幻相だ。「愛」と「無関心」のように。

 そう、だからこそ、ノリマキは放っておけない。

 アズキのことを放っておけないのと同様にあいつのことも放っておけない。

 ――アラキ。

 ――剥離した名。

 ――おれから遠のいた名。

 あいつはおれが見つけなくてはならない。場合によっては、あいつを処分しなくてはならなくなるだろう。果たして、殺せるだろうか。あいつは黙ってオレに、殺されてくれるだろうか。いやいや、そんなタマじゃねーよな。

「おっしゃ」

 ぱん、と膝を打って気合を入れる。勢いよく立ち上がった。

 善は急げだ。

 いっちょ捜しに行きますか。

 ノリマキは自宅を後にした。浸透する。任務ではないので「チューブ」は遣えない。そもそも謹慎中の身だ。ほかのラバーたちに気取られないよう警戒する。人気のない場所まで移動する。

 いったん、潜れる限界まで《アークティクス》付近まで「浸透」する。そこから学び舎のセキュリティに触れないように迂回する。セキュリティの綻んでいる箇所を見定めて、掻い潜り――浮上する。

 離脱完了。

 木々が生い茂っている。山中だ。けもの道を伝って、山道へと抜ける。視界がひらける。見晴らしが抜群だ。海まで見渡せる。ここから市街地までは随分と距離があった。

 はてさてまったく、どうしたものか。

 奴を捜すとは言っても、手掛かりがない。組織から三年もの期間、逃げおおせている相手である。一筋縄ではいくまい。だとすればどうすべきか。

 ――まずはタツキを探そう。

 奴を捜すには、タツキのパーソナリィが最適である。幸いにも彼女は現在、任務中だ。どうせサボっているに相違ない。公園で涼んでいる姿がありありと浮かんだ。

 とん、とん、とん、とリズムよく岩に跳びうつる。階段を駆け降りるようにして山道を一気に下る。

 向かうべきは、中心街だ。

 タツキはきっと、そこにいる。 



      ◇わたし◇

 

 サイトウくんにお会計をまかせて、わたしはさっさとひとりで街へと繰りだした。

 さっそくこの写真の男を捜索しようとパーソナリティを発動する。

 わたしのパーソナリティ。

 ――〈レクス〉の高感覚識別。

 俯瞰的に【世界】を視ることが可能だ。

 ひいては、『世界(プレクス)』をはずれた《世界(アークティクスサイド)》をも望むことができる。

 言うなれば、地図をひらくようなものだ。

 保持者もサポータも逸脱者も一般人も、生きとし生けるものは例外なく総じて〈レクス〉を有している。

 その〈レクス〉をわたしは見渡すことができる。

 視覚的にではなく、感覚的に。

 平面的にではなく、立体的に。

 展開する世界を展望する。

 見渡す限りにあふれる、点と点と、点と点。

 ――濃く青い点は保持者。

 ――紅い点はサポータ。

 ――白い点が一般人。

 そして、

 ――周期的に色を変えているのが逸脱者だ。

 ほとんどの点が白に属しており、一見すればまるで雪原である。所どころ斑に、青と紅が見てとれる。それはちょうど、雪のうえに血痕が散布しているような感じだ。

 逸脱者は目を凝らさないと、青、紅、白、のいずれかに紛れてしまって見分けがつかない。ほとんど白で、たまにいっしゅん、青か紅のいずれかに切り換わる。またいっしゅんにして白にもどる。そのしゅんかんを見逃してしまうと、つぎに点滅するまで待たなくてはならない。いつ点滅するかは完全に不規則である。そのために、逸脱者の穿鑿は、実際、ほとほと骨が折れる。集中力のほうがさきに切れてしまうのが常である。

 そして、最近になって気づいたことがあった。

 ――飛蚊症。

 これまでずっとそれだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしいことが判った。(とは言え、視覚的な情報ではないのだから飛蚊症ではないのは自明であったのだが、些細なことほどその特異性に気がつきにくいものである。水玉模様に紛れた一滴の血痕に気づける者など稀ではなかろうか。わたしはそう思う)

 白地に散らばる青と紅の斑点――に混じって、半透明の染みが揺蕩っている。

 まるで幽霊のように亡羊と座標を定めない点が、立体的な地図上を、風に流されるようにして右往左往している。

 それは、平面を直線的に移動しているというよりも、沈んだり浮かんだりを繰りかえしているような――そんな浮遊感がある。

 まるで、「深い浸透」と「浅い浸透」を繰りかえしているような、そんな感じだ。

 それの示す存在が、いったい何であるのかは未確認である。

 未だそれらに遭遇したことがないので、いくら考えたところで想像の域をでない。

 でも、もしかしたら、と思いあたる節が、たった今できた。

 ――サイトウくんの色は、濁った白だった。

 これだけ間近だったからこそ、大多数の白との見分けがついたのだろう。

 言い換えるならば、シルバー。

 これまで視たことのない色。

 これまで知らなかった点。

 それがウェイク・アッパーなのだろう。

 ウェイク・アッパーが何かしらから覚醒した存在なのだとすれば――何かから目醒めた存在だったのだとするならば――その目醒める前の段階の存在とはひょっとしたら、この半透明の点たちではなかろうか。

 色を持たない、存在。

 言うなればそれは、存在しない存在だ。

 奇しくもわたしはおじさんとの一件で、(サイトウくんたちとは性質の異なった存在ではあったにしろ)色を持たない人物と接触していた。

 けれどわたしは無闇にこのパーソナリティを行使しない。

 なぜって、したくないからだ。

 わたしのこのパーソナリティは、遠隔的な性質であると共に、接近して発動する「特質」もある。

 ――対象の分析。

 そのひとの記憶、性質、体質、病質、その他もろもろ(遺伝的・先天的・後天的)分け隔てなく、本人の知り得ない情報までをも分析することができる。それは、記憶をはなれた、本人だって意識できない、そのひとの「存在に刻まれた情報」を読み解くことでもある。

 そんなパーソナリティを遣うなど、個の尊厳の侵害にほかならない。

 そしてこの特質は、精度を落とすことにはなるが、遠隔であってもその機能を発揮する。

 展開した地図上に無数にうかぶ、点と点と点と点。それらのなかから任意の点に意識をむけることで、その点の解析を行うことがわたしにはできる。名前、性別、年齢、疾患、それくらいのことなら地球の裏側にいる者であっても朝飯前だ。

 だからこそわたしは無闇にこのパーソナリティを行使することを絶対にしない。

 したくない。

 ある意味では我が儘なこの拘泥のせいでわたしは、おじさんを――色を持たない人物を――解析する絶好の機会をのがしてしまったことになる。そのことでラバー就任そうそう、ノリさんの上司にあたる「社長」に叱られてしまった。あのひと、こわい。

 ともあれ、このまま首尾よくいけば、この任務内でわたしはその失態の汚名返上となるかもしれない。

 色を持たない存在と、銀色の存在。

 二つの存在を解析して、報告すれば、わたしのアークティクス・ラバーとしての株は天をもつらぬく上昇ぶりになるに相違ない。そうなればノリさんにえらい顔されないで済むし、ミツキさんには強請られずに済むし、アズキさんには謝らずに済む。そのためにならプライバシーの尊厳など、掠れたも同然だ。

 おっしゃー、と気合がはいる。

 もっとも、てっとりばやくサイトウくんを解析してしまえば、銀色の存在の掌握は完了したも同然なのだが、「知り合いにはこのパーソナリティを行使しない」というのが、絶対の絶対に破りたくないわたしの信条である以上、そんなことは無理からぬこと。わたしがわたしで在るために必要な、自分との約束なのだから。

 だからして、解析するならば、見ず知らずの他人でなくてはならない。

 まず目指すべきはサイトウくんから借りた、この写真の男だ。

 検索事項は、「性別が男」、「クソ暑そうな服装をしている者」、「韜晦または潜伏している者」、この三つでじゅうぶんだ。

 わたしはパーソナリティを発動させた。

 

      ******

 

 居酒屋「こうちゃん」――と看板にはそうある。

 ここは、えっとぉ、と看板を見あげていると、「いらっしゃい」と店から男が顔をだした。そのまま引きずられるようにして、店内へと拉致されてしまう。がらがら、とやかましい音を立てて引き戸が閉じた。

「いやぁー、お客さん、運がいいよ。ほら見てー、この閑古鳥が鳴いていそうな店内を。いわばお客さんの貸切だよ」

 よっ、この贅沢もの――と男が店内で呵々大笑した。

 とつぜんの拉致劇に鼓動が、ばくばく、と高鳴っている。言われるがままに店内を見渡すと、たしかに客はひとっこひとりいない。

 もういちど視線をもどして、男に視軸をあわせる。

 白いワイシャツに、こすれたデニムのパンツ。そのまま視線を落としていくと、足元には、凝ったデザインのまっ黒いスニーカー。そしてパンするように視線を一気にうえへと持っていくと、そこには店内だというのにつば付きのニット帽。そしてわずかに視線をさげると、そこには屈託なく笑う、あの写真の男がいた。

 写真とちがうのは、まるで別人かと見紛うくらいに彼の笑顔がまぶしいことだろう。服装や体形、かおの形状、これほどまでに類似している写真の男との特徴がすべてひっくり返されるくらいに。彼の笑顔は写真のそれからは結びつかないものであった。双子か?

「ちょっと、店長、お客さんこまってるじゃない」

 声のしたほうを見遣ると、厨房から女の子がひとり、顔を覗かせていた。

「はっはー。見てよ、よっちゃん」男はさんさんとした太陽然とした笑顔を、お月さまくらいにまでやさしくさせて、「ほらね、店長だってやるときはやる男なんだよ。ね、どう? お客さんをゲットしてきたよ」と自慢するみたいに言った。

「ゲットって……あきらかに引きずってたでしょうに」女の子の応答は冷ややかだ。「店長、捕まったって知りませんよ」

「誤解だよぉ」言いわけがましく男は言った。「このお客さんが困ってたから助けてあげただけだもの」

 こまってた? わたしが?

 女の子もわたし同様に怪訝な表情を浮かべている。

「いやね。どうやったらこのお店の扉は開くのだろうか、って随分と四苦八苦なさってた。なんておちゃめなお客さんだろうね、ここの扉、押すのでもなく、引くのでもなく、横にスライドさせる型なのにね。見れば判ると思うんだけど、う~ん、お客さん、若いから判らなかったのかな?」

 そりゃ見れば判るよ。どう窺ったってあの扉はふすま型だ。

「そう……なんですか?」

 女の子がわたしに首をかしげてみせてくれる。

 うん、かわいい。かわいいよ、かわいいけれど、信じるな。むしろわたしを信じろよ。扉のあけ方が判らないほどアホに見えるのか? あん? どうなんだ? くっそ、キスすんぞ。

「あっとそうだ。よっちゃん、今日はもういいよ。厨房もそのままでいいから、あがっちゃって。あとは店長がお客さんにお酌するから」まかせてちょうだいな、と男は胸をどんとたたく。

「お酌って……いつからそういうお店になったのよ、この店」

「今からだよー」はっはー、と陽気に声を立ててから男は言った。「実はねよっちゃん、このお客さん、店長のお友達なんだ。久しぶりに逢ったから、水入らずで飲みたいんだよね」

 女の子はわたしを凝視したあと、はぁ、とこれ見よがしに溜息を吐いて、「それはいいですけど――今月は給料、きっちり払って下さいよ」と捨て台詞をのこして厨房のおくへと消えていった。

 やがて、ばんッ、と裏口の扉が閉じる音がやけに激しくひびいて聞こえた。

「さてと」

 男は立ち上がってわたしを見おろした。

「なんのようだ」

 打って変わった男の口調に心臓がはねた。

 表情も写真にあったあの冷徹なものに変わっている。急激なギャップってびっくりするからやめてほしい。

「え、あの、あれ……?」

 とっさに言葉が見つからない。

「ほう。ラバーか。〝糊塗〟がまだまだ未熟だな。漏れてるぞ」

 なな、な、なんだこのひと……めちゃんこコワいんですけども。

 ものっそい勢いで帰りたくなった。正直に言えば、逃げだしたくなった。その弱音を隠すつもりも含めて、〝糊塗〟をつよめる。

「オレを処分しにきたわけではないらしいな」煙草に火を点けてから男はテーブルのうえに腰掛けた。煙をくゆらせる。「だったら、なんのようだ」

「いや、その……あんたさまを捜してくれって頼まれてて……」

 答えている途中で、ものっそい、にらまれた。

「おい。誰だ、そいつ」

「はい?」

 だれに頼まれたのだ、ってことですか?

「えっと、サイトウって子なんですが……」

「サイトウ?」

 知らないのかよ、と思わず突っ込みそうになるも、なんとか呑みこむ。「こう、ほんわかなごむような雰囲気で、背はこれくらいで」と肩くらいに手を持ちあげて、「でもって、髪の毛がこのくらいで」とサイドにある髪の毛だけでおかっぱを表現しつつ、「なんだかやたら人懐っこい、女の子」とおしえてやった。

 わたしの伝えたその情報で記憶の検索をかけているのだろう、男はしばらく押しだまった。

 やがて火を点けたばかりの煙草を灰皿に押しつけて、「もしかしてそいつは」と口をひらいた。「そいつは、自分のことを『ぼく』呼ばわりしていなかったか?」

「……しておりました」

 サイトウくんの一人称はたしかに『ぼく』であった――女の子だったにもかかわらず。変だなぁ、とわたしだって思わないではなかったが、男だって自分のことを「私」と言うくらいなのだから、女の子が一人称を「ぼく」としても変ではないよなぁ、とか思って勝手に納得していた。

 見るからに男は、ああやっぱりか、とひたいに手をあてた。「で、そいつは今、どこにいる?」

「ええっと、駅前のデパートで別れて……」アウチ、とわたしはここで気が付いた。そうだ、サイトウくんとは、たがいの連絡先を交換していないどころか待ち合わせ場所すら決めていなかった。

 わたしのこのばつのわるい心境を感じとったのだろう、男は、「おまえ、あいつと同レヴェルか」と厭みな溜息を吐いた。あたらしく煙草に火を点けて、「まあ、逆に都合がいい」

「つごう?」

「おまえ、どうやってオレの居場所をつかんだ」

 なんと説明したものか。べつにいつわる必要はないのだが、いちから説明するのはめんどうくさい。わたしは歪曲して答えた。

「……そういう保持者が仲間うちにいまして」

「パーソナリティか。厄介だな」煙草の灰を落としながら男が詰問してくる。「追尾型か? それとも観測型か?」

「はい?」

 だから、と苛立ちをかくす素振りも見せずに男は、「追尾型か観測型、どっちだと訊いている」

 ははあん。なるほど。よくわからん。

 わたしは顔面を、くしゃり、と梅干しのようにゆがめた。「それ、日本語ですか?」

「おまえ……ほんとにラバーかよ」

 そんなんでよくもまあ勤まるものだ、と言いたげなふうだ。随分と不躾である。わたしはまだ名乗ってすらいないのに。わたしがラバーだと勝手に断定したのはおたくではないか。「……失礼じゃないか、もう」

「それもそうだな」男はやけに呆気なく謝罪した。「すまん」

「わかりゃいいんだ」

 わたしは腕を組んでようやくえらそうな口をきいた。はあ、ホッとする。

 

 厨房に引っ込むと男はすぐにもどってきた。手には芋焼酎のビンが握られている。

「訊きたいことはまだある。どうやらおまえはアホウらしいからな、時間がかかりそうだ」

 あんだとぉ、と彼をにらむが、「まあ、飲め。オレのおごりだ」

「いいんですかっ!?」

「おう。今日はもう店じまいだ。あ、貸切か。まあなんだ、好きなだけ飲め。ただし、オレの質問には答えてもらうぞ」

 よろこんで、と応えてしまいそうになるのを寸前で押しとどめる。「あの、でも……いちおう、わたしにも、その、規則とかありまして……」

「気にすんな」

 気にするよッ!

 むしろあんたが気にしろよ! わたしを誠心誠意、案じろよ!

「だよな」と男はようやく、さきほどまでのような破顔をみせてくれた。「答えられる範囲でいい。まあ、基本的にオレは口が堅い。それだけは信じて欲しいものだがな」

 まあ今すぐにってのは無理か、とおでこをぽりぽりと掻いた。

「それなら……いいけどさ」

 全然よくないのにそう応えてしまう。

 とくとく、とくとくとく、とカップにそそがれる焼酎。

 なんて美味そうなんだ。すでにノドから食道にかけてアツい期待がじゅわる、じゅわる、と染みている。

「あの、わたし、タツキです」カップを持ちあげながら自己紹介をした。

「ああ。タツキちゃんな。オレのことは店長と呼んでくれ」みんなそう呼んでるから、と男は自分のぶんをカップにそそぐ。

 乾杯、となんだか一気になごやかな雰囲気となって、わたしは店長と杯を交わした。

 いいのか?

 こんな展開でいいのか?

 自戒しながらもさっそく、ぐい、と飲みほした。

 あまりに平和すぎるこの「居酒屋こうちゃん」で、わたしはかつて暮らしていたこっちの社会が急激になつかしく感じられた。みんな、元気かなぁ。

 つっても、

 いなかったんだけどね友達。

 ああ、とさらに気づいてわたしは哀しくなった。

 いまだって一人もいないのだ。

 くっそ、グレテやるッ。ヘンゼルはどこか! 



      ◆ノリマキ◆

 

 保持者の集団離反事件が三年前に起きた。この学び舎から数多くの保持者が逃げ出した。

 組織への反逆ともとれるその事件の主犯は、「アラキ」という名の保持者であった――と、されている。

 ノリマキは当時の資料を再読する。およそ重大な情報はなに一つ記されていない。離反者はどうやって募られていたのか、どうやって学び舎から離脱したのか、どうやって組織の捜索網をかいくぐって現在隠匿していられるのか、など――なに一つとして有益な情報は記されていない。追記もなし。現在に至っても捜査の進展が芳しくないのだろう。

 離反者の多くはただの保持者であり、アークティクス・ラバーではなかった。そのなかで唯一のラバーがアラキであった。そのために組織は、アラキが主犯であるとそう断じた。必然的にそういった結論となるのはノリマキも納得できた。しかし引っかかる。なにがどのように引っかかるのかは判然としないが、いまもなお、その違和感は残ったままだ。

 ただ一つ言えることは、なぜひとりで決行したのか、だ。

 奴とは同期で、ラバーにも一緒に就任した仲だった。相棒というよりも、腐れ縁にちかかった。

 粗暴なノリマキとは対極で、アラキはいつも沈着冷静だった。科目でもあり、その性格の偏りのせいか、いつも二人は一緒に任務を受けていた。

 ふたりで一人前。

 ほかのラバーたちからはよくそうからかわれたものである。

 

       ***リバース~五年前~***

 逸脱者の処理がその日の任務だった。

 サポータからの報告が入ったばかりだと聞いていた。逸脱者関連にしては、やけに迅速な処置である。はやい段階で受けた指令というのは、それだけ急を要する任務であるとも言える。

 ただの逸脱者ではないのかもしれない。念入りにデータへ目を通した。

 案の定、その逸脱者は、人間だけでなく動物や昆虫などの〈レクス〉にも干渉するらしい。ある町がまるごと突然変異したのだという。言ってみればその逸脱者の引き起こす『浸食』は、周囲の人間たちを意図的に保持者化してしまうと呼べるだろう。多くの生物が「保持者に特有の能力」を行使するようになったのだ。虚空でもなしに。

 俄かには信じられない。

 そして厄介なのが、「多くのもの」が逸脱者本人よりもつよいメノフェノン混濁を生じさせているために、誰が逸脱者なのかが判明できないという点だ。

 サポータごときでは手に負えないのは当然に思えた。

 かくしてノリマキとアラキは揃ってその町を訪れた。

 質素な町である。

 町の中心部に小さなスーパーがあるだけで、ほかにはコンビニも見当たらない。山に囲まれていて、自然が豊かである。もとよりの駅からは五キロ以上離れてはいるが、バスなどの交通機関が充実しているらしく、外界と隔絶しているわけではないようだ。

 にも拘わらず、町の様相は異質だった。

 まず、自動車が走っていない。道路はどこもみな閑散ひろびろとしている。公園は大小合わせて全部で五つあるが、どこにも人の姿がない。ゴルフの素振りをする中年も、野球をする青年も、テニスをする少女も、駆けまわる子どもたちの姿もない。しかし時折どこからともなく子ども特有の、あの甲高い笑声が響いてくる。いや、それは幻聴だ。ケーキを見れば甘味が思い起こされるように、公園を見ればそこからははしゃぎ声が呼び起こされる。たとえ物寂しい公園であっても。たとえ、実際には聴こえていなくとも。

 そんな森閑とした町中を、三十分ごとにバスが走りぬける。ほかの町も経由しているのだろう、バスの中には幾人かの乗客が乗っている。ただし、この町で降りる者は滅多にいない。また、この町から乗車する者は皆無であった。

 外からこの町へやってきた者は少なからずいるのだろうが、この町から外へ向かう者は一人もいなかった。

 バスはいつも誰もいない停留所を素通りしていく。ひとつ、ふたつ、みっつ、とまるで停留所を数えていく趣向のゲームでもしているようだ。

 一種この町はテーマパーク化していた。

 ホラー系統のテーマパークだ。町並みはどこにでもある住宅団地であるが、その実、この町に漂っている気配は明らかに異質である。

 人影がない。だが、人の気配はそこらかしこにある。

 見渡す限りここには誰もいないはずなのに、すぐそばに誰かがいるような感覚がある。

 感覚を研ぎ澄まさせてみる。警戒する。そしてはたと気づく。

 ――しずかだ。

 真夏である時分、周囲には山並みが連なっている。

 なのにこの町は静かだ。

 しーん、と耳鳴りがするほどに静かなのだ。

 時折やってくるバスの微かなエンジン音と、タイヤが地面にこすれる音だけが、町を一時、にぎやかにする。そしてまたうるさいほどの静寂がやってくる。その繰り返しだ。

 陽炎がゆらいでいる。

 猛暑である。

 涼しい顔のアラキに比べ、ノリマキはひたすら、「あっちー」と嘆いた。

 当初こそ一緒になって町を詮索していたが、さすがにじれったくなり、間もなく単独行動へと移行した。

 

 町内にある小学校を見回っていたときのことだ。

 ノリマキは背後から声をかけられた。

「おにいさん、よそもの?」

 気配などなかった。鼓動が大きく高鳴ると同時に振り返る。

 子どもがひとり、そこにいた。

 円らな瞳でこちらを見上げている。

「……きみ、この町の子か?」

「うん」と物珍しそうな表情で子どもは頷いた。警戒されている様子はない。まるでカブトムシでも見つけたような、そんな好奇な眼差しだ。「おにいさん、よそもの?」と繰り返される。ノリマキは答えた。「そうだね。よそ者かな」

「ふうん。じゃあ、はやくでてったほうがいいかもよ」

「どうしてかな?」

 だって、と子どもは身体を捻って後方を指差した。「だって……ああなっちゃうよ」

 子どもの指差した先、そこには遊具があり、ブランコが揺れているだけである。

「ああなっちゃうって……どれのことかな?」しゃがんで子どもと同じ視点に並ぶ。

「みえない?」

「いや、視えないっていうか」

 誰もいないよね――と口にしかけたそのとき。

 ノリマキはたしかにそれを視た。

 人が人を殺す瞬間というのは、それはそれは自然な光景として現実に昇華される。

 そもそも現実に顕在化するあらゆる事象は、総じて自然であるはずだ。異様な事態とは、それまで現実に引き起きていなかったから、というただそれだけのために生じる認識の遅延――現実の拒否感に過ぎない。自分を基準にして考えるから、あらゆる出来事が異常に感じる。基準となる視点をひろげてみれば、それはただそこにある現実でしかない。むろん、どちらがより善い視点であるか、などは小事であるだろう。自分に都合のよい環境を欲するならば、視点は自ずと主観に近づく。ただそれだけのことだ。

 しかし、

 人が人を殺す瞬間というのは、その視点が極めて主観と重なっていながらも、俯瞰的な広がりを帯びる。

 殺人という行為が、魚を調理するような日常として現実に昇華される。

 己の手で。

 自分の意思によって。

 人が死ぬことは当たり前で、しかも殺人という現象も決して珍しくはない。どちらも俯瞰的に世界を眺めれば、有り触れたものでしかない。しかしどんなに有り触れたものでも、それが手元になかった場合、これまで視たことも触れたこともなかった事象の場合、それらは感動的な光景として人の意識を惹きつける。その感動がはたして幸福をもたらすのか、それとも畏怖をもたらすのかは、また別の問題であるにせよ。

 期せずしてノリマキはこのとき、人が人を殺すという極めて日常的な光景を目の当たりにした。

 右手で相手の頭髪をわし掴みにして、左手に持った石を叩きつける。砕けヘコむ頭蓋。飛び散る鮮血。濁った体液。濁っているのは体液だけではない、弛緩しているのか硬直しているのか、どちらとも付かない人間は、濁った瞳を見開いたままで、今しがた自分を殺した相手の奥底を見据えるように死んでいた。

 それでもまだ、石を振り下ろしつづける人間……人間……人間。

 あれは……ひとなのか。

 そう疑問せずにはいられなかった。これまでノリマキが視てきたひとたち、触れあってきた友たち、彼らは一様にひとであった。しかしこの目の前にいるアレは、果たして自分が知り得る者たちと同じ人間なのか。同じではない。同じなはずはない。それだけは断言できた。断言したかった。

 アレとアラキたちを同じに看做したくなどなかった。

 

「ね、だからはやくでていったほうがいいよ」

 気づくとノリマキは子どもと手を繋いでいた。いや、手を繋がられていた。

 まるで怯えた大人を子どもがあやすような、そんな情けない構図だった。

「……きみは、正気か」

 怖くなった。すぐそこで人を殺めたアレよりも、この目の前にいるこの子どものほうが怖かった。

 人が人を殺す――それがこの町では日常となっているのだろう、と模糊としながらも判った。

 そんな中でこの子はずっと生活していたのだろうか。していたのだろう、暮らしていたのだろう。ずっとこうしてあどけない顔で、あんな異常な光景を、日常の風景として視てきたのだろう。それが異常でなくて、なにが異常だ。

「きみ、一人だけ? お母さんやお父さんは?」

 子どもは驚いた表情を浮かべた。「ぼくにもいるの? おとうさんとおかあさん?」

 ああ……。

 胸に湧きあがる感情の名を検索するまでもなく、目の前の無垢な子どもを抱き寄せた。

「一緒に行こう」

 その子を抱きかかえたまま、ノリマキは小学校を後にした。

 アレはまだ、石をびちゃびちゃと振り下ろしつづけている。

 

       ◇わたし◇


 酔いは思いのほかはやく回った。それはわたしだけでなく、店長もおんなじだったみたいだ。

「んでねー、わたしの上司がホンっトに独善なんですわー」

 いやいや、と店長はひらひらと手を振って、自分を指差す。「それが店長んところのバイトくんもね、ほんと横暴なんだよねぇ」

「ああ、さっきのカワイコちゃん?」

「そうそう。こう見えても店長ね、この店の店長なのに、まるで雑用扱いですよ」

「店長も苦労人だねー」

「同情してくれちゃうのかい。イイ子だなぁ、タツキちゃんは」

 へへへ、とわたしはすなおに照れた。アークティクス・ラバーとなってからはめっきり褒められる機会がすくなくなった。すくなくなったどころか皆無であり、叱られる機会のほうが多いくらいだ。

「店長も思いのほかいい男じゃないか」元気だせよ、とお酌する。

「なんだろうな、こう、おじさん、むかし話とかしたくなってきちゃったよ」

「いいね、いいね」喋っちゃいなよ、と促しつつも、それにね、と口にする。「おじさんってほど老けてないよ店長」

「はっはー。そうかい?」莞爾として笑うと店長は、よいしょ、と座りなおした。「はてさて、どこから話そうかなぁ」

「何から話そう、じゃなくって、どこから話そう、なの?」

「はっはー、気にするない」

 ひゃっひゃっひゃっ、と奇声をあげてわたしは笑う。「赤ん坊のころから語らないでよ」

「ダメなのかい?」

「ダぁメっ! どんだけ語る気だよぉ」ひゃっひゃっひゃ、とわたしは笑う。

「じゃあね、店長がまだアークティクス・ラバーだったころの話をしようかな」

「おうおう。いいね、いいね」

「あのときはたしか、そう、『逸脱者』関連の任務でね、ある町に出向いたんだ。相方とね」

 へえ、とわたしは相槌を打ちつつも、「あれ、ちょっと待て」と内心で重大な引っかかりを感じていた。そうだとも、たった今、ここぞというツッコミどころが、あったような、なかったような。

 ……ああ、とわたしは思い至った。

「店長…………元ラバーなの?」

「だよ。まだ言ってなかったっけ?」

「元ってことは、なに? いまはちがうの?」

「だともさ。だって店長、ここの店長だからね」

「てことはだよ……」ええっと、とにごった思考をめぐらせる。「…………店長ってもしかしてさ」

 うんうん、なんでも訊いて頂戴、とでも言うみたいに店長は微笑んでいる。

「もしかして…………離反者?」

「正解」

 ごん、とわたしはテーブルに思きし頭を打ちつけた。

 世界がゆらぐ。

 わたしがゆらぐ。

 バカだ。わたしは大バカ者であった。

 なにを悠長にこんな重罪人とおしゃべりしくさってんだ。お酌なんてしている場合ではない。ましてや愚痴を溢して慰め合っている場合などではなかったのだ。

 オデコのいたみで酔った理性を文字通り、たたき起こした。

 厳戒態勢。

 からの、

 攻撃態勢。

 引き戸のまえに立つ。

 逃走経路を確保しつつ、またそうすることで逆に、ヤツの逃走経路を遮断した。

 離反者は「反逆者」と同義なのだとわたしは教わっている。要するに店長はテロリストなのだ。店長にその意思があろうがなかろうが、機関から無断で逃げだすというのは、それだけでサファリパークからライオンが逃げだしたようなもの。機関から離反した時点で、保持者はあまねく、無条件で排斥しなくてはならない超危険人物となる。

 この男は、敵対すべき人物なのだ。

 ごくり、と喉が鳴った。

 店長はなおもおおらかな態度で、けれど緩慢な動作で椅子から立ちあがった。

 そうして、かの小説の決め台詞を口にした。

「はっはー、元気がいいねぇ。何かいいことでもあったのかい?」

「バッおまえ! 訴えられても知らないぞ!」

 反射的にツッコんでしまう。

「いいんだよ。この世に不思議なことなどなにもないのだよ」

「どんな脈絡だ!」

「意味なしジョークだよ」

「もうおまえ、消えろよ!」

 駄目だ、それ以上なにも言ってくれるな。これ以上わたしのエレキギターなみの琴線に触れないでくれ。まさかこんなところで念願の同属に逢えるだなんて、しかも敵ときたもんだ、なんて運命的なのだろう。わたしは猛烈に葛藤した。

 話したい。言葉を交わしたい。きっと店長はビブリオマニアに相違ない。昨今めっきりすくなくなった紙媒体で小説を読むような、そんなけったいな人種に相違ない。あんなむかしの作品から引用してくるなんて、しかも、わたしを活字中毒へと追いやった、そんな罪深い物語を――ああ、なんて素晴らしい日なのだろう。

 アークティクス・ラバー?

 任務?

 そんなものにいったいどれだけの価値があるってんだ。

 はっきり言って皆無だ。つゆほどもない。

 わたしは膝を、がくり、と床にくずした。

「わたしは……サイテイだ」

「だいじょうぶ。もしタツキちゃんが最低なら、この世界の半分も最低だよ」

 もう半分はなんだろう、と疑問すると、「もう半分は、最悪さ」と店長はあの冷徹な口調で言った。

「その最低と最悪の上にだけ、最高があるんだ」と天井を見あげるようにする。

 ――上。

 天井のさらにうえにはきっと空がある。そのもっとうえには、宇宙があって、宇宙には「うえ」も「した」も「みぎ」も「ひだり」もなくって、だからきっとどこであってもそこが中心で――こんな台詞のある物語を読んだことがあったな、と覚束ない記憶のくせに、やたらとなつかしく思った。

 タツキちゃんはさ、と店長が散らかった床を片づけながら声をかけてきた。「三猿(さんえん)円(まどか)って小説家、知っているかい?」

 当たり前じゃないですか、といった口調で、「知ってますよ」

 答えながら床に屈んでわたしも、割れたカップや皿を拾う。わたしが頭を打ちつけたせいで、テーブルから落下してしまったのだ。酒で床がぬれている。雑巾が欲しいところだ。

「店長はね、あれを読んで目が醒めたんだ」

「はい?」

「タツキちゃん、すっかり教育されていたよね」

 さっきまでは、と店長はどこから取りだしたのか雑巾で床をふきはじめる。「人は教育されることで人格を矯正されている。そのことにみんな無自覚だ。いや、危機感がなさすぎる」

「……なんの話ですか?」

「洗脳、と言い換えればどうだろう、伝わるかな? 店長の言った意味」

「……せんのう」

「いやね、それがわるいことだなんてそんな極端なことを言うつもりはないんだよ」

「それは……分かります」店長は二元論で物事を語るようなひとではない、それはさきほどまでの愚痴のこぼし合いで判っていた。「でも、わたし、洗脳されてなんか」

「それでいいんだよ」店長はぽりぽりとひたいを掻く。「タツキちゃんはそれでいい。これは、店長の身勝手な見解だから。うん、そうだとも。教育は必要だろうさ。でも、あるときから店長には、それらが本当に適当な教育だろうか、って疑問を抱いてしまった。そうしたら、店長がこれまで受けてきた教育が、とうてい適切だなんて思えなくなってしまった。『R2L』機関――あの組織が保持者たちに教えている情報や思想は、どこまで本当で、誰を豊かにし、誰を幸福にするためのものなんだろうか、ってね。そもそも組織はこっちの社会に対しては偽ることしかしていない。保持者の存在が露呈しないように、保持者の都合がわるくならないようにって、情報を恣意的に歪曲させている。もちろんそれもまた必要なことだと思うよ。異質なものは排除される、そういった傾向がまだまだ現代には根強く残っているからね。だから保持者の存在は、まだ一般人たちには隠しておいたほうがいいとは思うんだ――一般人にとっても、保持者にとってもね」

 拾った陶器やガラスの破片を左手にかさねていきながらわたしは耳だけを澄ましている。

「けど、店長は分からなかった。どうして組織はあれだけの権力を持っているのか。そして、その権力がどのように行使されて、あれらの学び舎が運営されているのか。考えてもみればおかしいんだよあの学び舎って社会は。労働なくしてどうしてあれだけの施設が維持できるかな? 違うんだよ。前提からして間違っていた。労働がないわけじゃない。労働はあるんだ、こっちの社会にね。保持者のための社会を維持するために、こっちの社会にそのシワ寄せがきている。どうして世界はこうも貧富の差が激しいのだろう。そんなのは簡単だ、どこかが極端に贅沢をしているからだ。極端に利益を搾取しているからだ。その利益が一箇所に滞っている、流れていない、だから貧富の差はどんどん広がっていくばかり。その根源的な因子が学び舎だし、『R2L』機関――あの組織だ」

 だまってわたしは続きを待った。

 どうして割れたガラスを拾うときって、音がたたないように慎重になってしまうのだろう。怪我なんて、こわくないのに。

「そう考えたら途端に不安になった。洗脳されている、と思ってしまったんだ」店長の声は陽気であり、どこかしらさびしげでもあった。「たとえ短絡的だとしても、そう思ってしまったんだよね。そうしたら、嫌になってしまった。任務を担うのも、組織に属するのも、なにもかもが嫌になってしまった」

「それで、離反した?」

「いろいろ端折れば、そうなるね」店長は自虐的に、「逃げ出したんだ」と言った。

 こわくなったのだという。

 自分の身をおいていた社会が、まるで神の皮をかぶった化け物のように思われて。

 こわくなったのだという。

 わからなくはない。

 しかし、とわたしは思う。

 ――逃げてはだめだろう。

 だがそれをここで店長に言っても仕方がない。わたしは逃げない。それでいい。店長の話がどこまで真実で、どこまで正論なのかは分からない。わたしには店長を糾弾することも肯定することもできない。わたしにできることは、せいぜいが、店長に同情して、共感してあげることくらいだ。わたしごときがだれかになにかを諭すなんてできるわけがない。

 ひとは勝手に学んで、勝手に成長するだけだ。

「飲みなおしますか」床がキレイになったところでわたしは言った。

「店長すこし酔ってるから、語っちゃうよ?」

「かたっちゃいなよ」

 言いながら、おいしょ、と席につく。

「そんかしツマミ、おまけしろ」

「仰せのままに」おどけたふうに低頭して店長は、厨房のおくへと引っこんでいく。

 胸のおくに、なにか、しこりのようなものがある。

 それが何なのか、わたしにはまだ解らない。 



      ◆ノリマキ◆


      ***リバース中~五年前~***

 

 子どもの名前は「彩杜(アヤモリ)」と言った。女の子だった。短髪でマニッシュな風貌であったから、ノリマキはすっかり男の子だと勘違いしていた。

 彼女を抱きかかえたまま町中を練り歩く。それまで誰一人としていなかった町人たちの姿が、あちらこちらに点々と視認できた。誰も彼もが死んでいた。傷つき、腐り、落ちている。「死」に呑み込まれた人々。こちらに意識を向けてくる者は誰もいない。敵意も、殺意も――今のところは、誰も。

 言葉を交わしているうちに、アヤモリがやはりどこか異質な子どもであるのだと判った。

「アヤモリくんのお家ってどこかな?」

「おウチ、あるの? ぼくにも?」

「ないの?」

「ぼく、ずっとひとりだったから」

 ――ずっとりひとり。

 言葉に詰まる。だが状況は一刻を争う。斟酌しながら話している場合などではない。早急な対処が必要とされている。ほかの町人とコミュニケートできるとは思えない。そう、この子以外は。町人から聞きだせるならばどんな情報も粗末にはできない。

 ノリマキは質問を変えた。

「いつからこんな状況に?」

「いつから?」

「覚えてない?」

「だって」アヤモリはなぜかそこで破顔した。「ずっとこうだったもん」

 ずっとこうだった……。

 それは、いつからなのだろう。

 とは言え、考えてもみれば、こんな環境に子どもがたったひとりで置かれていたら、それは記憶の混濁が生じてもなんら不思議ではない。三日間が三年でも十年にでも体感されてしまっても詮なきことだ。やはりこのアヤモリという子がどういった経緯でひとりとなり、どういった経過を辿って生き永らえてきたのかを探るのが、現況を把握するにはもっとも能率的だろう。いまのところ、このコの話から推測していくしか術はない。

「その、お父さんとお母さんっていうのは……」ひどい質問だと知っていながらに問うてしまう自分が嫌になる。「……どこにいるのかな」

「いるの? ぼくにも?」

「覚えてない?」

 うん、とアヤモリはあごを引いた。

「なら、誰と暮らしていたのかな? おばあちゃんやおじいちゃんかな?」

 さっき言ったじゃない、といった素朴な表情を浮かべながら、「ずっとひとりだよ?」とアヤモリは答えた。

「ずっと?」と確認する。

「うん」アヤモリはにっこりと微笑んで、「ずっと」と復誦した。

 もうそれ以上、踏み込んで質問することができなくなってしまった。その理由が、自分の古傷を引っ掻き廻しているようで居た堪れないから、といった自分可愛さからくる忌避なのだとノリマキは気づいていながら認められずにいる。

 

 アラキと合流しようと思い、町を巡回した。

 なぜ気づかなかったのか、と自責せざるを得ないほどにこの町は荒んでいた。誰かが誰かに襲われたのだろう、そこらかしこに血痕や肉片が飛び散っており、遺体こそないが、街並みは凄惨に彩られている。静寂が呻ってばかりいるのは変わらずだ。バスもまた、止まっていると錯覚しそうなこの町へ、時間の経過を報せるように、我関せずと無関心に駆け抜けていく。

 そうだとも、バスに乗っている彼らには視えていないのだ、この風景が。

 それの意味するところは、と考える。間もなく論は結ばれた。

 ――町の住人たちは「浸透」している。

 同じ階層で。

 それも無自覚に。

 町の住人たちの〈レクス〉が、『プレクス』よりも深い地点にある。だから、彼らを観測するにはこちらも浸透しなくては視えない。さきほどまでのノリマキがそうであったように。

 でも、とノリマキは怪訝に思う。おれは浸透したつもりはない。なぜ知らぬ間に町人たちと同じ階層まで潜ってしまったのか――考えれば考えるほど、胸に抱いているこのアヤモリの存在が脳裡にくすぶる。

 ――逸脱者。

 この三文字がどうしても浮かんでしまう。

 この子と「同一化」すれば簡単に判明するだろう。

 けれどそうする勇気がなかった。

「同一化」は極めて難易な技術である。失敗すればこちらの自我が崩壊する。だがこのときノリマキは、それをおそれていたわけではなかった。

 もしもアヤモリが以前の自分と同じ境遇にあったら……そう考えるだけで尻込みしてしまう。

「同一化」は、相手の〈レクス〉に侵入することだ。

 普段は『プレクス』に内包されているじぶんの〈レクス〉が、同一化すると、相手の〈レクス〉に包括される。ちなみに、他人の〈レクス〉と完全に同調することはほとんど不可能だと言われているが、それでも稀にそういった神業が可能な保持者が顕れることもあるのだという。

 どちらにしても言ってみれば同一化とは、相手と同じ存在になるということだ。けれどそれは融合とは違う。自分を捨てて、相手に限りなく近寄る、といったある種、自己の放棄とも呼べる行為だ。

 ――私はあなたで、でも、あなたはあなた。

 自分の存在を限りなく薄くすること。

 そして、

 相手の過去はその瞬間、自分の過去となり、

 相手の現在はその瞬間、自分の現在となる。

 ただし、同一化を解けば、萎んだ風船が膨らむようにして自己はふたたび復元される。

 しかし、

 一瞬でもまたあの時のような思いをするのは、ノリマキはどうしても避けたかった。

 弱虫なのだ。いつまでも過去の記憶に怯えている。

 記憶など、所詮は夢物語。ありもしない幻相だ。だが人はまだ体験したことのない「死」を畏れる。それと同じことなのだろう。そこに存在するか否かは問題ではない。恐怖してしまう自分がいる、それこそが重大なのだ。

 ――おそれる必要なんてない。

 死ぬことがこわいか? 

 傷つくことがこわいか?

 そんなのは錯覚だ。思い込みに過ぎない。

 死ぬことも、傷つくことも、どんな事柄も――それに対して抱く感情は総じて曖昧だ。喜ぶことも、楽しむことも、諦めることも、苦しむことも、悲しむことも、畏れることも、どんな感情を抱くことも可能だ。曖昧だからこそ、可能だ。

 だとすれば、

 なにも感じないようにすることも可能なはずだ。

 無意識に呼吸している間、我々は呼吸に関して何も感じない。意識したからといって、呼吸に対して何かを思うことは稀である。

 だから、

 それと同じように、

 死ぬことも、傷つくことも、呼吸することと同じように。

 なにも感じず、ただそうすることが自然であるように。

 そうすればよいだけの話ではなかろうか。

 ――同一化。

 胸に抱いたこの子へ、ノリマキは、溶け込んだ。


      ******


 記憶がなかった。

 過去がなかった。

 目が醒めたときにはここにいて。

 すでにここはこうなっていた。

 自分がだれで、ここはどこで、なぜこうして存在していられるのか、なぜこうして存在しているのか、そんな根本的な疑問が透明な風のようにどこにも引っかかることなく通り抜けていった。

 ふと叫喚が聞こえたのでそちらに目を向けると、大人が二人、対峙していた。今にもバットを振り下ろしそうな痩身の者と、外壁に追いやられて命乞いを叫んでいる中肉中背の者。

 僕は、僕は、と叫んでいる男たち。どちらも自分のことを「僕」と言っていた。

「……ぼく」声に出して呟いてみる。しっくりとくる。

 足もとからは怪物に似た影が、ぐーん、と背伸びをしているみたいに細長く伸びていた。

 どの地面も、まるでトマトの皮みたいに紅かった。あの夕陽が染めているのだろうか。

 カボチャを床に叩きつけたような音が聞こえた。

 音のほうを見遣ると、さきほどの二人組が、共にその場に倒れていた。

「助けを乞うしかない者と、奪うしかない者」

 すらっとした体形の影がひとつ、増えていた。「どちらがより救うべき者か――判断に困るぞ」

 ススキのように長い髪の毛が、風に靡いている。

 女性だろうか。

 陶磁器のように艶やかな白い喉元がある。

 そこから発せられたその声は夕焼けのようにどこまでも透き通っていた。

 どこまでも染みていった。

 ぼくに。

 ぼくへ。

 ぼくの声は……響かないのに。

 とても綺麗なこえだった。

 そこでまたぼくは、眠りに落ちた。 



       ◇わたし◇


「人間は、生まれたばかりの時には人格を持たない」

 ここで一息つくと店長は、それからさきを一気に口にした。「でも人格の【核】となるものは持っている。そこに、対人する者達からコピーした人格を肉付けしていく。しかしその〈コピー人格〉というものは、不確定で不明晰にコピーされている為に、中身はスカスカだったり、ふにゃふにゃだったりする。それを【核】が補強しながら大きくしていくんだよ。さも受精卵が細胞分裂を繰り返し、人型を形成していくようにね。だから個人には、出会って関係をもった他者の数だけ、人格に〈人格〉が有されている――つまりは身体が成長していくとともに、【核】を《私》という存在に形作っている〈コピー人格〉が、増えていくことになる。実在する人間だけじゃない、小説や、物語の中の、架空の人物をコピーしたりもする。それら肉づけされて大きく育っていく《人格の複合体》を視覚化したならば、葡萄のようにも、泡沫のようにも見えるかもしれない。この場合、だから、人格というものは、多細胞であるとも言い換えることができるかな。精神というのは、細胞で形作られている肉体と同様に、様々な部品の集まりなんだ。つまり、ある意味、自分以外の〈人格〉を誰もが有している。けれどその〈コピー人格〉は不安定ゆえに単独では通常、【核】となる人格にはなり得ない。《個としての人格》には成り得ないんだ。そこで私は、〈コピー人格〉たちの【核】になり得る新たな【核】を、自我という一つの《人格の複合体》に与えればよいのではないか、と考えた。でもそれには元々の基本人格の他に、幾つかの〈不安定な人格の集合〉を有している者でなくてはならない。さっき人格のことを葡萄で喩えたけど、《たわわに実ったふさ》のほかにも、たわわでなくてもいいから、その主たる《ふさ》のほかに、葡萄を実らせる『ふさ』がなければならないんだ。なぜなら、人格をひとつに統一仕切っている者に高密度の〈コピー人格〉を与えても、その〈コピー人格〉が《基本人格》に吸収されてしまうだけだから。言ってしまえば、《たわわに実ったふさ》に〈実の付いていないふさ〉をつけたって、それは《たわわに実ったふさ》の中の一つでしかない。しかも実が付いてないのだから、それはむしろ余計な『ふさ』でしかないわけだ。けれど、どうだろう。仮に、《たわわに実ったふさ》からこぼれ落ちた幾つかの実の集合へ、〈実のなっていないふさ〉を差し入れて、それらの実を『ふさ』につけられるのだとしたら。それはもう、一つの《たわわに実ったふさ》と呼んでも差支えないのではないだろうか。だからね、もしも《基本人格》のほかに主人格となり得る〈コピー人格〉の集合があったなら、そこに新たな【核】を与えるだけで、その不安定だった〈コピー人格〉の集合は安定し、新たな人格となり得るんだよ。すなわち、《ひとつの自我》に、幾つかの『個とした人格』の集合体を――第二、第三の自我を――与えることができる。個体に複数の人格を宿すことができるんだ。いや、元から揺蕩っている出来損ないの不明瞭な人格を、確固とした人格として昇華できるんだ」

 

 二度寝ならぬ二度酒は、思いのほか盛りあがった。

 それはまた、わたしと店長との絆ががっちし架橋したと言ってもいいのかもしれない。

 話題は終始、小説や漫画や映画など、自分たちの好きな物語を中心に展開された。話題が尽きることはなかった。延々とこのまま人生が終わるまで話しつづけられるのではないか、と錯覚におちいってしまえるほどに言葉は絶えなかった。

 どんな台詞が印象的だったか、とそんな話題になった。わたしはこれまであがっていた小説にでてくる、好きなキャラクタたちの台詞をあげていく。覚束ない台詞もあったが、どうやら店長は並々ならぬビブリオマニアらしく、わたしの口にしたちぐはぐな台詞を、その場で一言一句、間違いなく精確に正してくれた。

 そんななかでゆいいつ、店長が自らそらんじてくれた言葉がある。店長の好きな、小説にある台詞。

 それが、「三猿円」著作の小説『意図的な浸食』――にでてくる、とある個性的なキャラクタが語った言葉であった。主人公に重大な影響を与えた人物であったとわたしのつたない記憶にはそうある。

 けれども、店長の口にしたその長広舌が、本当に一言一句間違いないのか疑わしく思ってしまうのもむりからぬこと。

 全部で一二六六文字もあるのだ。

 いたずらに、「もういちど言ってみなさいよ」と投げかけると、店長は造作もなくまた同じ台詞をつらつらとそらんじてみせた。すごい。どんな記憶力だろう。感心するよりないが、その感心は実のところこれまでの会話ですでになん度か抱いていた感応であるので、いまさらそこまで瞳目するには及ばない。このころにはもう、疑う必要すらないくらいにわたしは店長の記憶力を信用していたのである。

「店長はね、この台詞で目が醒めたんだ」

「わたしも読んでるはずなんだけど……おっかしいなぁ、そこまで印象にのこってない」

 だろうね、と店長は頬をゆるめた。

「今の台詞自体に、それほど深い意味はないんだ。物語の上でも、この台詞を抜いたからと言ってさほど影響があるような文章じゃない、単なる解説だからね――なんて言うと作家さんに怒られちゃうのかな? まあでもね、店長たちの自我ってものが、さも自分で育てて自分で磨いて、まるで自分だけのものように認識していた店長にとっては、あまりに衝撃的だったんだ。『そうだったのか、オレたちの人格って形作られたものでしかないんだ』ってね、そんなふうに考えたら、どうにもこうにも自分がこわくなった」

 おくびょうだね店長は、とからかうと、「そうなんだ、店長、臆病なんだ」と簡単に肯定されてしまい、ひゃっひゃっひゃ、とわたしは笑い転げた。「今の、超絶カワイイ」

 思えば店長のこちら側のしゃべり方は、あの台詞を言っていたキャラクタに似ている気がしないでもない。どっちが本当の店長なのだろう、とここにきてちびっとだけさびしい気持ちがでてくる。そうだとも、どんなに意気投合したって、他人は他人、自分ではない。分かりあえるなんてことはあり得ないのだ。どれだけ理解しあったか、という暗合、錯誤、そういった曖昧な同意があるだけで。しかもそれは自分だけがそう思いあがっているだけかもしれないのだから、まったくどうして虚しいではないか。虚しいことはさびしい。さびしいから虚しいのか、虚しいからさびしいのか――きっと、二つでひとつなのだろう。

 同一化、できればいいのに……ふとそんなことを初めて考えている自分がいる。

「店長はね、タツキちゃんところの組織がダメだなんて思っちゃいなんだよ」

「じゃあ、もどってくりゃいいじゃん」そんなことはむりだと分かっていても言ってしまう。「そしたらさ、今日みたいにずっとこうやって話していられるよ?」

「楽しいことは、たまにあるから楽しいんだよ」

「もしかして店長って……飽き症?」

「もしかしなくても典型的な三日坊主だよ」

「みっかも持つの?」

「う~ん。どうだろ……自信ないなぁ」

 わたしは腹をかかえる。このまま店長をお持ち帰りして部屋にかざっておきたいくらいだ。なんだろう、この気持ちは。恋愛感情とかそういったものとはちがう。それは明確だ。ならその正体はなんなのか、と根をつめて考えてみると、そこには「家族」の二文字がひょっこりと顔をのぞかせる。「ああなんだ、キミかぁ」とほっこりとしてしまうくらいに合点がいった。そうだとも、この心温かでおだやかな感情は――いろんな小説にあったような――お母さんに甘えているあのキャラクタや、お父さんに頭を撫でてもらっているあのヒロイン、そういった描写を感受していた、いま思い返すとどこか切ないあの瞬間瞬間に抱いていた気持ちと、非常に類似したものである。

 友達ではないし、親友ともちがう。兄妹にちかいけれど、それもまたどこか足りない。

 そうだとも、抱擁されている。わたしは店長に包まれている。きっとわたしがここで敵意を剥きだしにしても、店長はわたしを傷つけない。そんな予感がわたしにこの安息を――やわらかな気持ちを――与えてくれているのだ。

 最初こそ店長はどこか得体が知れず、こわかった。

 実際にはそれもきっと店長が「おくびょう」だったからにちがいない。

 臆病な者ほど他人を威嚇する。

 それは本能的であればあるほどそういった傾向はより顕著だ。

 理性で誤魔化している。

 だれもが。

 他人を怯えさせ、支配したいと。

 ――人にあるのは、認めてもらいたいという希求ではないの。

 ――崇めてもらいたい、という欲動です。

 これもまた三猿円の小説にあった言葉だ。あの作家、どっかひねくれている。きっと友達がすくないに相違ない。ひとりも友達がいないわたしに言えた義理ではないのがどこかむなしい。

 ともかくとして、店長はどうにもこうにもわたしの荒んだ心に咲く一輪のカスミソウに、きよらかな水と、さわやかな風と、あたたかな陽差しを届けてくれるのだった。

「店長にはね、やらなきゃならないことがあるんだ」

 うん、と相槌を打つ。

「それが終わるまでは、組織と関わりたくない」

「イヤなんだ?」

「そう。嫌なの」

「だだっ子なんだ?」

「そう。店長、甘えん坊なの」

 ぷふ、と噴きだす。

 おやじ間近の男が真顔で吐いていい言葉なんかじゃない。「店長、今の、中々におもちろかった」

 そりゃようござんしたね、と店長は唇をとがらして席を立った。酒がまた尽きたのだ。

 どれだけ飲んだだろうか。話が尽きないのと比例して、消費される酒の量も倍増していた。

「店長、訊いてもいい?」

 厨房に向かってわたしは投げかけた。

「あいよ?」

「もしも……もしもだよ」

 そう念をおしてから口火を切る。「もしもわたしが、離反したら…………ここでかくまってくれたりなんか、しちゃったりする?」

 厨房からちいさくひびいていた物音がしずまる。

 鼓動が高鳴っている。緊張している。

 応答がない。

 コチ、コチ、コチ、と壁掛け時計が鳴いている。

 今の今までそこに時計があるなんて知らなかった。気にも留めていなかった。だのに今は色んなことが気にかかる。呼吸の仕方、舌の置き場、手のにぎり方、座り方から力の入れ方まで……無意識下に置かれていた様々な所作が突如として意識のうえへとにじり出てきた。

 引っ込んでろ、とつよく思えば思うほど、奴らはどんどんわたしの意識に上がってくる。しかも土足で。無断のうえに土足ときたもんだ。そんならわたしにも手段があるぞ、とわたしは眠ってやった。眠ってしまえばどんな所作も意識の舞台から退場せざるを得ないだろう。強制退去だ、ざまぁみろ。

 うつらうつらとまどろんだわたしの目にした本日最後の映像は、カウンターのうち側から伸びた拳が親指を立てている、そんな場違いなヒッチハイカーの映像であった。 



      ◆ノリマキ◆


 アヤモリには記憶がなかった。

 同一化したことで彼女が女性であることをノリマキはこのときに知った。

 抱いていた不安が杞憂に終わったことにホッと胸を撫でおろす。そんな自分がひどくさもしく思えてならなかった。アヤモリがなぜ孤独なのかは、結局わからずじまいであった。

 記憶がないことが悲しいことだとすら分からないほどにアヤモリは記憶を失くしていた。言語などの知識はそのままであることから、典型的な記憶喪失――エピソード記憶だけの欠損――だと推測された。

 アヤモリに残っているもっとも古い記憶に出てきたシルエット。

 ――あの女性が逸脱者なのだろうか。

 引っかかる。

 ノリマキはどこかであの髪の長い女性を見た覚えがある。そんな気がしてならない。それがどこであるのか、どういった経緯を辿って記憶に残っているのか、またはなぜその記憶が覚束ないのか、それらがまるで思い当たらない。

 懐かしいではない。切ないでもない。

 特にそういった感情を誘起されることはない。

 強いて言うなれば、惹かれる。

 あの姿。あの声。あの言葉。

 彼女の発するあらゆる表現がことごとくノリマキの心を揺るがせる。

 そわそわとそぞろにさせて落ち着かせてくれない。

 なにごとか。

 ――人を無感動に殺めるあんな人間に好意を寄せるなど。

 しかしノリマキは気づいていない。そういった彼らをそれまで人間だと認めていなかったことを。にも拘らず彼女を人間扱いしているその自家撞着を、そのときのノリマキが気づくことはなかった。 



      ◇わたし◇


 ちゅん、ちゅん、とスズメたちが泣いている。きっと鬼ごっこをしていた途中で鬼の子がいなくなってしまったのだ。鬼になった子が次々といなくなって、最後には鬼ではないそのスズメ一匹だけになってしまう――けれど自分の孤独を嘆いているのではなく、あくまでも、その鬼の子が心配で心配でどうしようもなくって、だからスズメは泣いているのだ。けなげだ。かわいそうに。だがもっとかわいそうなのは、目が覚めたら朝になっていて、しかもテーブルに氾濫したヨダレのダムを、こともあろうか店長に、ふきふき、と丁寧にぬぐってもらってしまっているこのわたしだ。

「寝顔、おもしろいね」

 ぎゃあああああ! 殺してくれ!

 いっそだれか! このわたしを!

 なにを今さら、と店長は朗らかなままの表情で、「女の子ぶらなくたって」と冷淡に言ってくれやがる。

「こんちきしょう! こちとら生まれたときから乙女だい!」

 主張すると、はっはー、と店長はあの陽気な表情に戻った。「まっさかぁ」

 くっそグレテやる。ヘンゼルはどこか! ぶちのめす!

「さてと」店長はテーブルに上がっていた椅子をつぎつぎと下ろしはじめた。

 どうやら床みがきを終えて、ついでにわたしのヨダレを処理していてくれたらしい。

「もうお昼だよ」

 壁掛け時計を見遣ると、正午を半刻回ったところだった。

「寝坊すけはウチには置いとけないよ?」

 うん? どういう意味だ。開店準備の邪魔になるからはやく出てけってことか?

「うっさい、こんなすたれた店、こっちから願いさげだい」

 梅干しみたいに顔をゆがめてみせると、店長はおやといった調子でわたしの面に見蕩れるようにした。

 頭痛がする。完全に二日酔いである。なんだかとっても盛りあがっていたことだけは模糊として覚えている。おたがいの仕事場における人間関係だとかの愚痴をこぼし合って、そのあとに小説や漫画などの物語の話題に移行したところまでは、かろうじて覚えている。ただ、もっとも盛りあがっただろうとおぼしきその辺りからの話題――いったいどんなしっちゃかめっちゃかな議論が展開され、どういったかたちで白熱していたのか、といった詳細などは――すっかり忘れてしまっている。

 つわものどもが夢の跡、って感じだ。うん、ちがうか。

 

 店長のつくってくれた味噌汁をすすりながら、「あたまイテー、あたまイテーよぉ」と嘆いていると、がらがらがら、と引き戸がひらいて美人さんアルバイターこと、よっちゃん、が出勤してきた。

「おつかれさまでーす」

「はっはー、今日もはやいね、お疲れさま」店長はよっちゃんへ向けて、ぽい、と制服代わりのエプロンを放った。よっちゃんはなれた手つきで受けとる。こちらに気づいたようで、「あ、こんにちは」と満面の笑顔を咲かせてくれる。

「おはようございます」わたしは頭をさげた。なんだかとっても礼儀を尽くしたくなるタイプの娘さんだ。同い年くらいだろうとは思うのだが。しかしなんだろう、この成熟した感じ。まるでわたしのほうがガキにおもわれてくるから妬ましい。

 さてと。

 わたしは腰をうかせる。

「そろそろ、おいとましますかな」背伸びを、んー、とする。それから片手をあげ、「じゃあ店長、ごっつぉーさん。昨夜のことはくれぐれも内密に」

「一夜だけのなんとやらだね」

 それを聞いたよっちゃんが、「まあ」と口元を両手でおおって、目を見開きながらかたまった。

 大袈裟だ。

 お盛んだったんですか、などと尋ねてくるからこちらとしてもばつがわるい。冗談なのだろうが、まるで本気で言っているように聞こえるから返答に窮する。

「ただ飲んだだけだよ」簡素に答えてあしらった。

「飲んじゃったんですかっ!? 店長のを?」またも両手を口元に当てがって瞳目してみせるよっちゃん。まるでわたしが店長からしぼり取った精力剤を飲みほしたかのような調子だ。まえもって店長から彼女の性格を聞いていなければ、さすがのわたしも赤面したうえに慌てふためき、取り乱しつつも必死こいて取り繕っていたことだろう。彼女、どうやらひとをからかうのが趣味らしい。

「店長のを、じゃなくて、店長と」頭にひびくのでわたしは小声で訂正する。「よっちゃん、あんまし店長のこと、イジメないであげてね」

 どうして、とよっちゃんが小首をかしげながらイジワルな笑顔を向けてくる。

 だってこのひと、と店長を指差しておしえてあげた。「ドMだよ」

 あんましよろこばせないで、調子乗るから、とわたしは店長のケツを蹴ってやった。

「タツキちゃん……イタい」店長は相も変わらずよっちゃんのまえでは微笑みを絶やさない。

 ほらね、とわたしはよっちゃんに目配りする。

 ですね、と彼女も目尻をさげた。

「じゃあまた。縁があれば」

 言ってわたしは居酒屋「こうちゃん」を後にした。

 なんだか、お祭りが終わってしまったような切ない名残惜しさが心地よい。

 そらは快晴。今日もクソ暑い。

 手をオデコにかざして見あげると、遠くには、どんよりとした曇天がある。いや、間近にせまった積乱雲か。

 風はどこかしめっている。

 日が暮れるころには雨玉が落ちてきそうだ。空耳だろうか。祭囃子に似た雷鳴がとどろいた。



      ◆ノリマキ◆


 山を下ると平原がつづいた。

 市街地へ向けて突っ走る。駆けながらもノリマキはオブハートに波紋を同調させる。ディスプレイを見なくとも情報が脳裡にはいってくる。学び舎から離脱する前に資料をコピーしておいた。先を急ぎながら、読みかけだった資料の閲覧を再開する。

 

      ***

 町の名は、徹頭町(てっとうちょう)。

 「はじまりの町」と呼ばれていた。

 人口はおよそ五千人と、規模の小さな町だ。

 五年前――それは突如としてその町を呑み込んだ。

 全住人たち五千人のうち、結果として存命できたのがたったの四名だったとはなんたる悲劇であろうか。

 彼ら町の者たちは、互いに互いで殺し合っていた。その原因が何であるのかは五年経った現在においても詳細は不明である。だがひとつ、有力視されている説がある。それは、これまでに類をみない〈逸脱者〉の存在である。もっとも、組織があの町へアークティクス・ラバーを派遣した理由が、「逸脱者の処理」であるのだから、特に声高らかに進言するほどの説ではないし、その重要な逸脱者の存在があのときに確認されなかった以上、この説にはなんの意味もない。

 あの町に逸脱者はいなかった。

 いや、元々いなかったのか、それともラバーを派遣したあの時点であの場に(生き)残っていなかったのか、どちらなのかすら定かではない。

 死者の半数は、『誰かと対峙した場合、無条件で殺し合う』というなんとも不毛な狂気によって死に絶えていたことが、あとの調査で明らかとなった。

 そして問題は、残る半数の死因。

 すなわち、誰かを殺して生き残った町人たちの死因――が、たった一人の女にあった――という到底看過できない事実である。

 たった一人の女の手によって、町人およそ三千人もの命が摘み取られていた。

 彼女の名は「片鉄頭(かたてっとう)・慄(りつ)」――保持者であった。

 町の住人ではない。

 なにかに引き寄せられるようにして彼女はあの町を訪れた。

 組織に身柄を拘束された彼女は、尋問に対して従順に応答した。

「救ったのだ」と彼女は語った。

 町の人々を狂気から救いたかったのだという。彼女があの町を訪れた動機はただそれだけだったようだ。

 組織の面々は頭を抱えた。彼女の処遇を決め兼ねていたのだ。彼女が町人たちへ及ぼした救援処置が殺戮であったことが問題なのではない。組織側の取り調べに対して、彼女の証言が徹頭徹尾、事実と異なっていたからである。

 波紋を通じての尋問――「片鉄頭・慄」、彼女は一切の嘘を口にしなかった。

 彼女の証言はすべて本当だったのだ。

 ただし、

 彼女にとっては、であるが。

「あの者たちの〈レクス〉は濁っておった。モヤがあった。だから私はそれを取り除いてやったまでだ」

 彼女はそう釈明した。

 真実、彼女はそうしていたつもりだったのだろう。

 けれど、

 その実、

 彼女の行っていた救援処置というのは、

 ――脳髄の破壊である。

 町人たちはみな一様に、頭蓋を内側から破裂させられていた。

 ――物質の共振。

 それが彼女の〈特質〉である。

 電子レンジに生卵を入れて加熱してはならない――もはや常識となったこれを、彼女は人間の頭で行った。

 激しく運動する分子は、頭蓋に抑圧されて行き場を失くし、急激にエネルギィを圧縮させていく。やがて頭蓋がそのエネルギィに耐え切れなくなり、破損。それは瞬間的な膨張を伴い、爆発に類似した規模での破裂を生じさせる。

 人間などひとたまりもない。即死だろう。

 そうして彼女は次々とあの町の住民を毀してまわった。殺してしまった。

 あの町に派遣されていたアークティクス・ラバーの二名(ノリマキとアラキ)は、彼女と接触――その後、鎮圧に成功。その顛末はレポートとして詳細に残っている。記録には、「そもそも彼女には敵意がなく、保持者であったことから、話し合いで解決できた」とあることから、戦闘沙汰にはならなかったようだと判る。

 また、生き残った四名の町人のうち、三名に意思疎通の支障がみられ、事情聴取が儘ならない状態であった、ともある。

 精神崩壊――〈レクス〉の撹拌。

 死んではいないが、生きてもいない。そんな存在へとなり果ててしまっていた。

 残る生存者一名の話により、どうやら彼ら住民たちはみな一様に、「ゾンビに襲われている」という幻覚を視ていたらしいことが判った。

 組織は一応の見解として、あの町の住民たちはことごとく集団催眠下にあった、と結論づけた。

 とは言え、むろん、催眠などにあんな悲劇を引き起こす効力などはない。

 だからして、集団催眠とは便宜上の呼称である。

 組織の出した見解はこうである。逸脱者があの町にいたと仮定した場合――逸脱者に自覚があったかは定かではないにしろ――その者の〈レクス〉があの町の住人たちの〈レクス〉を浸食していた、と考えられる。

 逸脱者の〈レクス〉では、バイオハザードが発生していたのだろう。つまり、その者が主観的に視ていた世界は、歪曲と潤色と誇張に富んだ世界となっていたということだ。《アークティクス》からかけ離れた、自分だけの世界となっていたということ。それは逸脱者本人にとっては、その〈世界〉こそが真実であり、現実であるが、ほかの者たち――すなわち我々であるが――我々からすれば、妄想の域を出ない虚構、決して共有し得ない〈世界〉なのである。

 逸脱者は、本来自分だけのその〈世界〉を、他者へ強制的に視せてしまう。

 他者の〈レクス〉を自分色に染めてしまう。歪めてしまう。装飾し直してしまう。

 ――他人の〈レクス〉を浸食してしまう。

 そうしてあの町は、逸脱者の視ていた〈世界〉へと変貌されてしまったのだろう。住民がゾンビとなって徘徊する、そんな虚構のような〈現実〉へと。

 だが、当の逸脱者は発見できなかった。

 その為に、やはりこの見解は、仮説の域を出ない。

 現在に至るまで、捜査の進展は皆無である。

 

 三千人近くの人間を殺めた保持者――片鉄頭・慄。

 彼女には事実を教えず、「彼女の真実」こそがただひとつの事実として組織は処理した。その為に、先ほどの仮説じみた見解は、公式の見解とは大きく異なる。

 事実、彼女のしたことは住人の救援であるのだから、優遇はすれど、処罰する謂れなどはなくなった。彼女の処遇についての懸案は、それこそ有耶無耶に霧散した。

 配慮として組織は、友好を深めたらしいアークティクス・ラバーの一人をかけ橋に、彼女に対して学び舎で暮らすことを勧めた。彼女は二つ返事で承諾した。

 やがて彼女はアークティクス・ラバーとなり、目下、組織の任務を十全に職務中である。

 片鉄頭・慄――その名は過去の遺物となった。

 彼女のサイドネイム――その名を「アズキ」という。

 かつて三千人の命を救った、英雄である。

 

      ***リバース中~五年前~***

 

「その子……どうしたんだ?」出逢い頭にアラキが言った。「この町の子か?」

「なんつーか」ぐむ、なんとも説明し難い。「そっちはどうだった? なんか見つけたか?」

 アラキは首を振る。「なにも。どこ行っても森閑としてる」

 森閑としている……?

 随分と怪訝な表情を浮かべていたのだろう、「なんだ、なにかあったのか?」とアラキが珍しく心配そうに(興味深そうに、かもしれないが、)尋ねてきた。

「なにかって……」まだ視えないのか、とノリマキは指差す。「あれ」

 示した先、そこには黒く塗れた遺体がある。あまりに無残であるために一見すれば元人間にはみえない。だが紛れもなく人間の死体である。死に絶えて間もないのだろう、死臭が薄い。

 この炎天下だ、一時間もすれば遺体などあっという間に腐敗しはじめる。いや、腐敗がはじまるだけなら、死んだとほぼ同時だ。元々人間の体内には無数の細菌が巣くっている。生きているあいだは免疫が正常に機能しているために、それらの細菌が細胞を分解することはない。だが、いったん死んでしまえば免疫機能は停止――肉体の内部から分解しだす。つまり、腐敗する。

 だがこの町はどうも臭くない。いや、きな臭いという意味では臭いが、死臭で淀んでいない。空気が澄んでさえいる。山に囲まれているせいだろうか。いや、そんなことはない。きっとこれは死んでも尚、町人の彼らが浸透を維持していることに起因があるのだろう。

 この町自体が浸透しているわけではない。彼ら個人がそれぞれに浸透している。『プレクス』を外れている彼らの、『この世界』に与える影響は、かなり薄れている。意識的に働きかけない限り、浸透している彼らが『プレクス』に内包されている他者へ作用することはない。また、彼らの匂いの粒子が風によって拡散しても、その粒子は『プレクス』に内包されている者たちへ届くようなこともない。存在する世界がズレているのだ、必然的にそうなる。存在している階層が違うのだ、なるべくしてそうなる。

「アラキ、いま、浸透してんのか?」

「ああ。でなきゃ会話できない」

 そうだった。首肯すると同時に疑問を抱く。

 ――だったらなぜアラキにはあの遺体が視えない?

 そうだとも、こちらだけが浸透しているならば、アラキと会話できるはずがない。その場合、アラキからはこちらが視えないのだから。けれど今はこうして会話できている。アラキはおれの姿を認知している。アラキもまた浸透しているからだ。

 だとすれば、町人の存在を感知する条件に浸透は関係ないのか?

 どうなっている――?

 ノリマキは混乱する。

 しかし、アヤモリの呟いた一言で氷解した。

 抱っこされたままで彼女は、アラキを指差し、

「そのおにぃちゃん、どうしてハリボテなの?」

 …………ははあん。

 ノリマキは気づいた。

 思えば、アラキは汗をちっとも滲ませていない。

「おい、アラキ」

「なんだ」

「てめぇ、またサボりやがったな!」

「ひと聞きのわるい」

「うっせー、今すぐここにこい! てめぇがこい」ノリマキは言い寄りながら、どん、と〈そのアラキ〉を押した。「こんな〈折り紙〉寄こしやがってッ」

 はぁあ、とゆるく息を吐くと〈そのアラキ〉は、「そと、暑いじゃん」と呟いて、その場に、どしゃあ、と崩れた。

 まるで支えを失くした積木のように。

 ぬいぐるみから零れたビーズのように。

 〈そのアラキ〉は崩れ、地面に、散らばった。

「ヒャッ」とアヤモリが声をあげてこちらの身体に飛びつく。

 無理もない。

 今の今まで人間の姿だった〈アレ〉が、ただの紙切れになり変わったのだから。

 ――限定的なサイコキネス。

 ――紙縛り。

 それがアラキの特質だ。

 紙であればアラキは、好きなように操り、好きなものを造形し、好きなように動かせる。紙を活殺自在にするというのは、紙それ自体の材質をも自在に変えられるということで、やわらかく、無数のしわの刻まれた肌の質感を再現することもアラキには容易に可能であるらしかった。

 一方で、アラキの戦力は臨機応変には発揮されない。昨今、紙媒体のメディアなどが激減したためだ。特質だけで鑑みれば、相当の武力を誇る保持者であるが、環境面を顧慮した途端にその武力はとんと落ち込む。紙が身近になければ、パーソナリティを行使できないのだから、当然といえば当然だ。だからアラキは基本的にはノリマキの補佐役である。それに不満があるのかどうかは本人が愚痴を溢すでもないので断言はできないが、アラキはこうして度々、紙で創作した自身の分身を任務に同伴させる。言い換えれば、サボる。当の本人はというと、学び舎で優雅に読書をしているのだから、こちらが憤るのも無理からぬことだ。

 路上に広がった紙切れは、風に舞って飛んでいく。きっと浸透などしていなかったのだろう。いや、いくら分身とはいえ、所詮はただの紙切れだ。浸透などできるはずもない。

 アラキはあの紙の分身から、間接的にこちらの波紋を読みとっていたのだ。

 生きていない紙は、人間にあるような〈レクス〉を持たない。

 ゆえに、たとえノリマキが『プレクス』から外れていても、《アークティクス》から外れない限り、その紙の分身にはノリマキが感知可能である。

 いつだって物質が感受しているのは、〈レクス〉でも『プレクス』でもなく、《アークティクス》なのだから。

 〈レクス〉を有する生物が拙いばかりに、彼らは《アークティクス》を直視することができない。どこか歪んだ、そんな幻相じみた現実を視ている。〈レクス〉に閉じ籠っている。

 

 ――生きてしまったがために、彼らは未熟なのだ。

 

 死んで物質へ還元しない限り、それは続く。

 『ゼンイキ』にならない限り、それは続く。

 

      ***

 

「おっす」ようやくアラキが到着した。

「……一言目がそれかよ。ふつう謝罪じゃね?」

「一言目が愚痴の誰かさんよりマシだ」

 鉄槌をくだそうと拳を振り上げる。振り下ろすまえに、幼い声が届いた。

「ねえ、このおにぃちゃん、ハリボテじゃないね」

 不思議そうにアヤモリがアラキを見あげている。

「抱っこしてなくていいのか?」アラキが無表情のままアヤモリを指差している。

 指差すなって、とその手を下ろさせる。「いいんだよ。いい加減、暑いし」

「ノリータ・コンプレックス」アラキが、ぼそり、と呟いた。

「あ? なんつった?」

「略してノリコン」

「よっしわかった。今すぐコロス」ノリマキは思い切りアラキの懐めがけて踏み込んだ。そのまま殴り倒してやろうと拳を引くと、「ケンカ、めッ!」とアヤモリが泣きそうな顔で脚に縋りついてきた。「ケンカ、やだ!」

 ちくしょう、かわいいじゃねーか。

 ノリマキは動作を止めて小さな駄々っ子に、すまん、と謝罪する。

 と、ほぼ同時、

 ガスン、と頬っぺたに打撃が加わる。その場にすってんころりん、転倒した。

 アラキに殴られた。

「なにすんだっつーの!」イテぇだろうが、と頬をスリスリかばいながら起きあがる。

「……カウンターでした」

「理由になってねーぞ!」

「……車は急に止まれない」

「てめぇは人間だっつーのッ!」

「はて、それはどうかな」小馬鹿にしたように言ってアラキは、ひょい、とアヤモリを肩車すると、「ぶーん」と無表情で唸りながら駆けだした。こちらを中心に二周ほど円を描く。

 立ち止まってアラキが肩に乗るアヤモリへ問うた。

「さてお嬢ちゃん、オレはなんでしょう?」

 くふふ、とアヤモリはご満悦に応えた。「クルマさんです」

 ほらね、とアラキはほとんど真顔でしたり顔を浮かべた。

「なんだろう……この気持ち」

 業腹以上に、裏切られた感が哀しかった。 




      ◆わたし~×~ノリマキ◇

 

 朝帰りならぬ昼帰り。いや、時刻はすでに夕刻か。

 これまでの任務でも、数日にまたいで遂行したことはすくなからずあった。ただ、それでもこれだけ任務と関係のない私用でこちらの社会に逗留したのは初めてかもしれない。

 基本的にアークティクス・ラバーは与えられた任務を果たしさえすれば、そのあいだの行動は完全に自由だとされている。定期連絡すら無用ときたものだから、バカンスへ行くノリで任務を熟している者もすくなくはないと聞く。もっともわたしに限って言ってしまえば、対価がなくては物資を得られないようなこんな社会に興味などはなく、さっさと学び舎へ帰還して、潤沢かつ怠惰に過ごしていたいと希求している――だって洗脳されているんだもん、仕方がない。

 おうおう、そうだともさ。

 店長は言っていた。

 洗脳されていると気づいてしまったから離反したのだ――と。

 だがどうだ、このかわいらしいわたしを見ろ。洗脳されているなんてそんなこと、はなっから分かっているのだ。むしろ洗脳されているのだから仕方がない、と洗脳されていることを免罪符にして、贅沢を満喫しているくらいであるから、これはもう、洗脳されていようがいまいが大差ない。大差ないというよりも問題がない。いやもちろん洗脳されてはいるのだから大問題なはずだし、大問題だからこそ、わたしは仕方がないな、と泣き寝入りの態をよそおって、潤沢な生活に入り浸っていられるのだ。なんだか詭弁っぽいけど。

 だからでもないけれど、この呟きは内心にとどめておこう。ノリさんあたりにこぼしたりでもしたら、それこそ大事だ。どうして上司という種族は説教が好きなのだろう。やつらのほうこそ洗脳でもされているのではないか、と疑いたくもなるってもんだ。

「誰が洗脳されてるって?」

 頭を、こん、と小突かれる。

「イッテーな、このやろう!」

 金とンぞ、と振りむくとそこにはチビでツンツン頭のわたしの上司、ノリさんがいた。

 こんどは容赦なくグーでなぐられる。「だれがチビだ、だれが。蛇蠍視するなとは言わねーが、せめて毒づくなら波紋、糊塗しろ」

「わざとです」

 言った矢先に頭上目がけて打撃を放たれるが、うでをクロスして防いでやった、ざまぁみろ。

「学習しないサルですね」

 へへん、とあいさつがわりに言ってやったら、思いきりヒップを蹴られた。

 防いだところでそんなキック、いたいに決まっている。

 くっそ、割れたらどうしてくれんだ!

 ヒビひとつないカワイイおしりなのに!

「で、誰が洗脳されてるって?」

 ボケをながしやがったぞこいつ!

 わたしの渾身のボケを! 「この、ヒトデナシっ!」

「うるせぇよ」ノリさんはゆびで耳に栓をする。

 その所作はかわゆい。

 耳からゆびを引っこ抜くと、眉間にしわを寄せて詰め寄ってくる。「いいから答えろ。誰が洗脳されてるって?」

 このノリさん……こわいよぉ。

 こんなの、わたしの知ってるノリさんじゃないやい。

 泣きっ面にならないように踏ん張りながら、

「わだじでず。わたしが洗脳されてるんです」

 わるいですか、と答えた。

 ずひん、ずひん、と鼻水をすする。断わっておくが、季節はずれの花粉症である。べそを掻いているわけでは断じてない。

「そいつの顔、もっかい思い浮かべてみろ。店長って誰だそいつ」

「い……いやでず」なんだか分からないが反発している。

 けれど、抵抗もむなしく、ノリさんの口にした『店長』というキーワードで、あの柔和な店長の笑顔が脳裡へと喚起されてしまった。

「……その居酒屋、どこにある」

 ノリさんの表情からは、感情の起伏の一切が消えていた。ややもすれば、波紋ごと消えている。つめたく、どこまでもふかく、深海をのぞきこんだみたいにおそろしい。なのにどうしてだろう、泣きたくなるほど切ないのは。ノリさんの裡にすけて感じるそれがきっと、いちどだってわたしに向けられたことのない、とてもとてもつよい想いだと判るからだ。

 ノリさんから視線をはずして、わたしは俯く。

 どうすれば善いのか分からない。そのくせ、このあと、どうしてしまうのかが分かってしまうから、わたしという人間の単純さがイヤになる。このさき、どんな結末になるのか、ぜんぜん想像できない。そのくせ、ノリさんのその想いを、あと押ししてあげたいと思ってもいる。

「居酒屋『こうちゃん』です……」

 告げながらわたしは、おおよその場所と店までの経路を思い浮かべた。

 ごめん、店長――目をつむってあやまる。こんな独り善がりな謝罪、自己弁護にすぎないのに、でも、謝らずにはいられない。ごめんなさい、店長。わたし、あなたをこまらせちゃう。

「さき、帰還してろ」

 急いでかおをあげると、そこにはもう、ノリさんの姿は視えなかった。


  


   

   第二章『問うた末の淘汰』


 

      ◇ノリマキ◇


 ノリマキは回顧する。居酒屋「こうちゃん」へと向いながら。

 三年前にあいつが離反してから、ずっと考えてきた。

 ――どうしてあいつはたった一人で離反したのかを。

 きっかけは多分、

 五年前のあの日――あの町でのことだ。

 

 

      ***リバース中~五年前~***

 

 本体のアラキと合流してからすぐのことだ。

 まるで、「今日は暑いな」と溢すような調子でアラキが言った。

「で、どうする? この逸脱者」

 あまりに脈絡がない台詞に、ノリマキはあやうく聞き流すところだった。アラキはアヤモリのことを指差している。

 なんの冗談かと思った。悪辣なジョークはアラキの十八番ではあるが、ここまでおもしろくないジョークは初めて耳にした。

 アヤモリが不安そうにこちらを見上げている。こちらとアラキを交互に。見比べるようにして。縋るようにして。

 アラキはまだ彼女を指差している。

 遮るように腕を下ろさせ、「さすがに、おれも怒るぞ」と言った。

「なぜ?」

「そんなこともわからないのか」アヤモリが怯えないように声を抑えつつも、語気を荒らげる。「見損なったぞ」

「わかってないのはノリのほうじゃないのか?」

「んだと」

 アラキの胸元を捻り上げる。視線が交わる。相も変わらず無表情のアラキは、しかしどこか毅然としている。いや、ムキになっている感がある。いつものアラキらしくない。ここにきてノリマキは、はた、と思い至る。

 そもそも自分だって、アヤモリが逸脱者ではないか、と疑っていたではないか。

 アヤモリと出逢ってから、この町の住人が視認できるようになった。

 アヤモリと出逢ってから、この町の惨状が窺知できるようになった。

 すべてはアヤモリに声を掛けられたあのときから繋がって、一見すれば解決へと近づいていっているように見えてはいたが、その実、深みに嵌まっていただけではなかったか。

 ――アヤモリの〈レクス〉に浸食されていただけではなかったか。

 そうだとも、そもそもおれはあのとき、浸透なんてしちゃいなかった。だとすれば、気づくこともなく知らぬ間にアヤモリに浸食されていてもなんら不思議じゃない。むしろそう考えることがもっとも論理的だと思われた。

 この子が逸脱者なのだろうか。

 アヤモリがそうなのだろうか。

 同一化はした。しかし何もわからなかった。

 アヤモリは嘘をついていなかった。なにかを誤魔化そうとする素振りもなく、ただ純粋に、意思の疎通のはかれる相手と出逢えたことに――おれに逢えたことに――喜んでいた。嬉しかっただろう。これまでずっとひとりぼっちだったから。だのにアヤモリは、自分の孤独を満たすことよりも、なによりも先に、おれの身の心配をしてくれた。

 ――おにいさん、よそもの?

 ――ふうん。じゃあはやくでてったほうがいいかも。

「出ていけ」ではなく、「出て行ったほうがいいかも」あのとき、アヤモリはたしかにそう言った。

 出ていってほしくない。側にいてほしい。そう願う気持ちが、そんな曖昧な言い方にさせたのだろう。

 わるい奴じゃない。ぜんぜんこれっぽっちもアヤモリはわるくない。

 たとえ、

 逸脱者だったとしても。

 たとえ、

 この町の住人を死に至らしめた、そんな惨劇の根源だったとしても。

「はなせ」アラキが身体をよじった。

 胸倉を掴んでいた手が振り払わられる。

「逸脱者……なのか? この子が?」なんで分かったんだ、と暗に問う。

「なんでもなにも、」無表情を仏頂面にするとアラキは、「そいつしかいないだろ」と言った。「この町に」

 この町にはその子どもしか住人が残っていないだろ。

 アラキの主張した理屈はこうだ。群集に殺人鬼が混じっていたとしたのなら、最後に残った人物が殺人鬼となる。もちろんその理屈は、仮に殺人鬼が途中で成敗されていなければ、の話ではあるが、この町の場合はそうではない、とアラキは波紋を通じて思考を伝えてくる。この町の場合は、その子どもを残したすべての町人たちが姿を消している。ゆえに、その子どもこそが逸脱者だ、というのがアラキの主張である。

 ああ……。ノリマキは拍子抜けする。と同時に自分の浅薄に呆れた。

 なんて単純なことだったのだろう。単純なだけに、その違和感に気づけなかった。

 愚鈍ながらもようやくノリマキは察し至った。

 アラキには町人の姿が視えていない。この町の惨状が、死人たちが、アラキには視認できていないのだ。にも拘らず――アヤモリのことは端からなんの問題もなく認識していた。

 それの意味するところは、二つの世界の両方に内包されている存在がアヤモリであるということ――町人たちとそのほかの者――その二つを結びつけている者――媒介する者――逸脱者――それがアヤモリであるということ。

 ふと、ここにきて、重大な見逃しがあったことに今さらながら思い至った。

 『紙縛り』で創られたアラキの分身であれば、町人たちを認識することが可能だったはずだ。浸透していたノリマキを感知していたように。しかしアラキはそんなことを一言も言わなかった。きっと視えていなかったのだ、町人たちが――あの分身を以ってしても、アラキには。

 だとしたらどういうことになるのだろう。

 考えると、やがてひとつの仮説が導き出された。

 通常の逸脱者は、他人の〈レクス〉を自分の〈レクス〉に模様替えさせてしまう。そういった『浸食』である。けれども、どうやらこのアヤモリは通例の逸脱者とは異なった存在であるらしい。

 自分の〈レクス〉へ、他人の〈レクス〉を取り込む――そういった『捕食』。

 浸食ではなく――捕食。

 そう考えると、すべてが腑に落ちる。ノリマキは突き詰めて沈思する。

 アヤモリが特異な逸脱者である――たったそれだけのことでこれまでの疑問は氷解した。

 アラキがおれを認識していながら、町人たちを意識できなかったことも――町人たちを意識できないくせに、アヤモリの存在は認識できていたことも――アヤモリがたったひとりでこの町で生き永らえていたこともすべて――納得できる。

 ――他人の〈レクス〉を取り込む。

 それは言ってみれば、己の〈レクス〉を『プレクス』に昇華させるようなもの。

 自分の〈世界〉へ、他人を閉じ込めてしまう。

 自分の〈世界〉こそを、唯一の現実として共有させてしまう。

 そんな圧倒的な干渉。

 アヤモリの〈レクス〉に取り込まれた者たちには、アヤモリの姿を意識することができない。

 樹に萌えた葉が、その樹の全体像を意識できないように。森に生えた樹が、森全体を意識できないように。

 《アークティクス》に内包されている我々が、《アークティクス》それ自体を意識できないのと同じように、町人たちにはアヤモリを意識できない。

 だからこそ、アヤモリは誰からも襲われることなく、悲惨な日常だけを目の当たりにしつづけてきたのだ。

 

 ――たったひとりで。

 

「そういうことになるな」アラキが淡泊に首肯した。「よって、こいつは逸脱者だ」

 途中から波紋を覗かれた。

 それだけおれが動揺していたということかとノリマキは察し、念のため、よりつよく波紋を糊塗した。

「この逸脱者――これまでの逸脱者たちのように、その要因だけを処理することは難しい」アラキが威圧的な口調で言う。「だとすれば我々がやることは決まっている。そうだな?」

「処分するってのか? こんな子どもを?」

 冗談言うな、と鼻で笑う。

「殺す以外でどんな解決策がある? ほかに代案があるならそっちでいいが――あるのか?」

 ……なかった。

「処分しなければ、いずれ被害者も出てくる。死人すら出かねない」

 ああ、まだアラキは気づいていないのか。すでに町人の大部分が死に絶えていることに。報せるべき情報ではあったが、ノリマキは敢えて口を噤んだ。みすみすアヤモリを殺す大義を高めようとは思わない。

「まあ、オレは所詮、ノリの補佐だからな」

 おまえが決めればいい――とアラキは突き放すような物言いで肩をすくめた。

 じっとアヤモリを見下ろす。こちらを見あげている。視線を逸らしてしまう。決意が揺れている。それを自覚して、ますますアヤモリを直視できなくなった。

 逃げ出したい。放棄したい。

 責任なんて負えない。背負えない。

 こんなちいさな命を失って得る安息なんてそんなのは嘘だ。

 でも、だったら……。

 ――どうすりゃいいってんだ。

 もう一度アヤモリに視軸を合わせた。ずっとこちらを見つめている。ずっと掴んでいる。離さずにずっとこちらのすそを。縋るように。助けを求めるように。もう二度とひとりになんてなりたくはないのだと、そのちいさな手と、澄んだ瞳が、ふるふると陽炎のように揺れていた。

 

「なにも殺すことはない」

 

 不意に飛んできたその声は、逡巡していたノリマキの葛藤を吹き消すかのごとく、森閑とした町に響き渡った。

 あの女がそこに立っていた。

 せせらぎのように滑らかな長髪に、まるで造形されたがごとくバランスの整った体躯。羞花閉月――耳に痛いほどにこの町がしずかなのは、彼女のその美貌のせいであるかのような錯誤すら覚える。

 一目惚れならぬ、二度目惚れ。もしかしたら三度目惚れかもしれない。

 アヤモリの記憶にあった、あの女である。

「その子がこの惨状の大本か?」彼女が歩み寄ってくる。

 おまえは誰だ、惨状とはなんのことだ、とアラキが訝しんでいる。

 まずい、と思いノリマキは彼女に質問を投げかけた。足元に縋りつているアヤモリは素っ頓狂にこちらを窺っている。

「だれですか、あなたは?」

「にしゃらと似た者同士だ」

「あんた、どこの学び舎だ?」アラキがあいだに入ってきた。どこの学び舎に所属するアークティクス・ラバーか、と訊いているのだろう。

 彼女は答えた。「生憎と、私は無所属でな」

 素人か、とアラキが珍しく顔を顰めた。「だったら余計なちょっかいは出すな」

 彼女もまたあからさまに、嫌悪を滲ませると、どうせ、と吐き捨てた。「どうせ、にしゃらが来たのは昨日今日であろう。私はそのずっと前からこの町の異常を察知して、今日までずっと善処してきた。で、なにか? にしゃらがやろうとしている対処というのは、その少年を殺そう、とそんな粗悪な対処ではないのか? それが玄人のやりおることなのか?」

「言葉を返すようだが、我々は今日きたばかり。それでもこうして異常な事態を引き起こしている大本であるところの、この女の子を、」とアラキは「この女の子」のところを強調した。「――この女の子を、我々は捕捉した。それに引き換え、あんたは随分と時間をかけてこの何もない町を穿鑿していたようだが――それを素人と呼ばずして、なにを素人と呼ぶ?」

 彼女が驚いたようにこちらを向いた。まさかあんたもか、と責め立てるような、心配するような、そんなハイブリッドな視線だった。

 ノリマキは釈明する。「いや、おれは視えてるよ。この町の惨状」

「ほほう。こっちの相方はなかなか見所がある――が、にしゃは点で駄目だ。話にならん」

 なんのことだ、と視線で訴えてくるアラキ。波紋を読ませてやることで事情を伝える。この町の住人の多くが殺し合いを繰り広げ、すでに死に絶えている事実を。

「なんで黙ってた」

 だって、と嘘を言った。「だってアラキ、おれの波紋、たまに盗み読んでたっしょ? それで、知ってたかと思って――この町のこと」

「ふうん」あとでコロス、とアラキの眼光が炯炯と揺らいだ。「まあいい。たしかにこの町がどうなっているのかは知らなかったが――」

 知らなかったのではなく、視えなかったのであろうが、と彼女が揶揄するように嘴を挟むが、アラキは意に介さずしれっと続けた。「――それとこの逸脱者の対処については、また別の問題だ。それともなにか、あんたには我々にない代案があるとでもいうのか?」

 ノリマキも縋るような思いで彼女を見遣る。

「ない」

 きっぱりと彼女は言った。

「そんなものは、ない」

 あまりに威厳たっぷりな態度であったから、アラキも突っ込むタイミングを完全に逃してしまったようである。かろうじて、「……だったら、我々の対処に文句を言うな」と威圧した。

「そうではない」と彼女は余裕綽々と異を唱えた。「私が言っているのは、現段階において、逸脱者をどうこうする必要はない、という意味だ」

 あの、と堪えかねてノリマキは尋ねた。「どういうことですか?」

 うむ、と彼女。「その子――逸脱者のムスメ――彼女に浸食されていた町の人々はすべて救った。むろん、私がだ。しかも一人でだ。だからして、もうこの町にはその子――逸脱者のムスメ――に侵害を受けているものはおらん。ゆえに、おまえらがその子――逸脱者のムスメ――になにかしらの危害を加える必要はない」

 そういうことだ、と彼女はこちらに微笑みかけ、次にアラキを睥睨した。

 今もなおノリマキの足元には、何がなんだかわかりません、とアヤモリが困った様子で足にしがみ付いている。いつだって当事者は蚊帳の外だ。それが世の常なのだろう。こういった場合、大体において、当事者は被害者になりさがる。そんなことにさせはしない。ノリマキはアラキに向き直った。

「――だ、そうだ。この子は処分せずに保護する」

「連れてくのか? 一緒に?」

 実を言えばアヤモリは保持者ではないので、学び舎には入れない。それでもここはそういう体で押し通す。「問題あるか? ねぇだろーがそんなん」

「言い忘れていたが、餓鬼は嫌いなんだ」

「知るかっつーの、てめぇの性癖なんざ!」

「こんな怪しい女の言うこと、ノリは信じるのか?」

「怪しくても、彼女は正しいことしてんだろ」

「どこがだ? というかおかしいとは思わないのか?」珍しくアラキが語気を荒らげた。「この町にはあんなに死体が溢れてんだぞ」とさきほど読ませてやった波紋を傍証に出して、「それをなんだ、どこが救われてんだ? 誰が救われたんだ? ここには救われた人間どころか、苦しんでる人間すらいない。どういうことだ、あ? 説明してみせろ。今すぐにだ」

「……ああ。うん」

 言葉を失うとはこのことか。アラキが感情的になったことについてではない。(少なからずそのことには驚いたが、)それよりもなによりも、アラキの言っている主張が――その指摘が――まったくもってその通りだったことに動揺した。

 彼女の言っていることにウソはない。それは彼女の糊塗しきれていない波紋を読んでいるので明らかだ。きっと、どこの学び舎にも属していないために、きちんとした技術を身に付けていないのだろう。腐っても鯛、こちらは正式に学び舎から精鋭されたアークティクス・ラバーだ、たとえ素質で彼女に負けていたとしても、育んできた才能はまだまだこちらが上である。

 だからこそ確信できる。彼女は嘘を吐いていない。

 しかし彼女の言っていることと、事実とには、どうにも看過できない齟齬がある。

 この町の住人の大部分はすでに死に絶えている。いや、数えたわけではない。断言はできないが、これまで視てきたこの町の惨状――腐った、血痕や肉塊の数々――また、それらの腐敗状況から推し量れる、量産されていく遺体の減少率(もっとも新鮮な遺体でも、すでに数日経過している。昨日今日のあいだに、殺し合いが収束してきていると考えられる)――それらから推測すれば、この町にはもう、殺し合いができるほど、住人たちが生き残っていない。と、そういった結論が導き出される。事実、小学校で目の当たりにした殺人以外では生きた町人すら見ていない。

 だとすれば、彼女はいったい誰を救っていたというのか。いったい何を救っていたというのか。

 ちょんちょん、とアヤモリがすそを引っ張る。

 しゃがむことで、なんだい、と話を促す。アヤモリが顔を近づけてきた。内緒話の仕草で口元を両手で覆っている。ノリマキは、そのまま耳を貸した。

「あのね」と幼い声が鼓膜にこそばゆい。「あのね――おにいちゃんたちさ」

 うん、と相槌を打つ。

 おかしそうにアヤモリが声を弾ませて、「おにいちゃんたち、だれとはなしてるの?」

 え、と顔を離す。「誰とって……」

 えっ――?

 アヤモリは大きく首を傾げて、「ユウレイ?」と可愛らしく尋ねている。「おひさまあるから、こわくないよ?」からかっても無駄だよ、と忠告するかのように囁いた。

 怯えていたくせに、と意地悪を言うことも忘れてノリマキはアラキに波紋を送った。

 ――わるい、やっぱり彼女、あやしいわ。

 ――どうした急に……。

 たった今判明した事実、アヤモリには彼女が視えてない、と事情を伝える。

 やや間があってからアラキが応えた。

 ――彼女の対処を任せてほしい。

 ――ダメだ。敵対する気だろ?

 ――そんな無茶はしない。

 その言葉を聞いてノリマキは安心する。きちんとアラキは分かっているようだ。彼女のパーソナリティ値が、こちらよりも数段飛びぬけていることに。彼女の波紋の糊塗技術は拙い。それだけに、断片的に読みとれる彼女の波紋からは、それだけで彼女の「危険度」を垣間見ることができた。たとえノリマキたちが彼女よりもパーソナリティ制御などの技術面で上だったとしても、経験値も素質も、けた違いに彼女のほうが上である。ようするに、「武力」は圧倒的に彼女のほうが高いのである。

 また、彼女のパーソナリティがどういった「特質」であるのかも分からない。

 暴力沙汰になることだけは勘弁願いたかった。

「おい。にしゃら」彼女が険のある声を張った。「なにをこそこそしておる」

「偉そうな女だ」アラキが彼女のまえに立ちはだかる。「おまえ、名は?」

「私か? よかろう。自分の名も名乗らぬような不遜な輩に我が名を告げるのは潔しとも、気持ち良しともせぬが、なに、生憎私には、にしゃらのように名乗るに臆する理由がない。威風堂々と名乗ってやる」

「前口上は済んだか?」アラキが苛立たしげに、「さっさと名乗れ」とあごをしゃくる。

「私の名は『片鉄頭(かたてっとう)・慄(りつ)』。かの『片鉄頭・慄幻(りつげん)』のひ孫であり、一番弟子だ」

 片鉄頭――?

「おまえが……あの?」

 まさか、と思ったのはアラキだけではなく、ノリマキも同じであった。

 

 ――片鉄頭・慄幻。

 彼は、保持者の社会でも知る人ぞ知る人物。生きる伝説として人口に膾炙している、そんな『暗殺者(アサシン)』である。

 現在、裏社会を牛耳っている勢力は主に三つある。

・『R2L』機関の傘下でもある、「UNDER×HUNTER」と。

・殺人請負会社の大手、「ボディカーニバル」。

 そして、

・組織に属さない個の複合体――「無印(ノーマーク)」。

「一撃」「鬼族」「シヴァ」といった、どこの秩序にも依存せず、貢献もしない、そんな集団(アウトロー)たちは、十把一絡げにして、「無印(ノーマーク)」と呼ばれている。彼らはなにものにも縛られない。むろん、自分たちの所属している族にだって彼らは捉われてたりなどしていない。いや、そういった無秩序を共有しきれる者たちが知らず勝手に集まって、そういった無法集団が形成され、成立しているのだろう。彼ら烏合の衆には、共通の思想も指導者も目的だってない。そこにあるのは、自由でありたい、という底なしの我が儘である。それゆえに、そういった集団同士が争い合うことも少なくはない。彼らは、「無印(ノーマーク)」と呼ばれてはいるが、決して仲間ではないし、同胞でもない。干渉する者があれば誰であっても排斥する――そんな究極のエゴイストだ。己が所属する族は決まってはいるものの、それだって、はたからすればそう見えるだけの話で、もしかしたらそこには集団という括りすらないのかもしれない。

 類は友を呼ぶ――しかし「友」という概念を知らぬ者たちであるならば、そこに集まるのは共感も許容も持たない個人でしかない。決して朱に交わることのない、すべてを自分色に染め上げることだけを求めている、そんな原色しか持ちえない者たちだ。

 だが人は、アンビヴァレンスな存在である。

 交わらなくとも、混じることはある。

 原色が一つどころにあつまれば、それは闇になる。または、光となる。

 そこに顕れる色が「闇」でも「光」でも結局は同じことだ。

 ほかの者たちからすれば、それらは自分たちを脅かす害悪でしかない。そういった多くのほかの者たちが、その闇や光を、一括りに「無印(ノーマーク)」と呼称しているだけのことではある。

 当の「無印(ノーマーク)」たちは自分たちのことをそんなふうにはけっして呼ばない。彼らは己以外の名などに興味などはないし、己以外の名も持たない。己の名こそが唯一の名であり、己の名は己のことしか示さない。

 だから彼らは一様に自分の名前に対しては並々ならぬ「こだわり」を持っている。親の名を名乗っている者など皆無である。みな、自分の名は自分で付けている。なぜなら、自分の名が自分の名である限り、自分で名付けるのが道理であるからだ、と彼らは一様にそう考えるからだ。(中には、名など必要ない、と無名をつらぬくものも少なからずいる。そういった無名たちは「ウーミン」と呼ばれ、特に蛇蠍視されている)

 そんな中で、唯一、親に付けられた名をそのまま名乗りつづけている者がいた。

 彼こそが「片鉄頭・慄幻」――その人である。

 本名を名乗るというのはそれだけで名乗った相手に、出生以前の沿革――すなわち、両親や親族、そういった一族の経歴から、自分にあるおおよその歴史を知られてしまう。

 戸籍そのものは、登録された時点で外部からの削除や捏造はほとんど不可能となる。こと、この情報ネットワーク社会の秩序を司っているのが、軍事ネットワークの「FIRE・WORKS」であるならば尚さらである。

 そのために、「片鉄頭・慄幻」その人も、とある事件を表立って引き起こして以降、すぐにその人物像は全世界にばらまかれた。

 これまで「無印(ノーマーク)」たちは一様にして謎の集団であり、構成員である個人の情報が分からないのが常だった。

 言ってみれば「片鉄頭・慄幻」は、見せしめのために、その個人情報を全世界に向けて晒されたのである。

 結論から言えばそれは、彼の所業を能率的に伝説へと昇華させる布石となった。

 一躍、「最重要・特一級犯罪者」として指名手配された彼は、その直後に、これまで自らが請け負ってきた暗殺を公言した。

 歴史が大きくゆらいだ瞬間である。

 病死、溺死、自殺――殺された事実すら伏せられていた数々の政治家や偉人、果ては特一級犯罪者たちまでもが、「片鉄頭・慄幻」の手によって殺められていたと判明した。各国政府はその事実を全面的に否定したが、大衆にはそんな真偽のほどなど関係なかった。どの国の世論も、彼のその大胆な発言に「娯楽」を見出した。

 まるで焦ったかのように各国は、自国の保安機関に、彼の殺害を許可した。

 見つけ次第、警告なしで射殺すべし――異例の勧告に、国民の関心はますます奔騰する。

 そんな折に、新聞社へ暗殺予告が送りつけられた。差出人は「片鉄頭・慄幻」その人であった。「七/七日。以下の者を暗殺に処す」――そう記された封書には、達筆な習字で、とある著名人の名が書かれていた。それと共に付属されていた五本の指。その切断された指の持ち主が、某国の国会議員であることが判明し、その暗殺予告の信憑性がきわめて高いことが認められた。

 五本の指を失くした国会議員は当時、贈賄にちかい献金を受け取り、そのことを糾弾されいったんは辞職した。だがその後すぐに選挙に出馬し、政治家復帰していた議員であった。数日後、その議員はとある港で遺体となって発見された。

「片鉄頭・慄幻」――彼の行ったその殺人に対して、世論はどこまでも寛容であった。当然、非人道的である、と彼を非難する声は絶えなかったが、そう批判する者たちも含めて総じてみんな浮かれていた。一種、お祭り騒ぎであった。

 予告のあった当日。

 厳戒態勢であったにも拘わらず、なんの騒ぎも生じることなく、ほんとうに呆気なく暗殺は完了された。ともすれば、予告がなければ、その人物が殺されたなどと誰も疑わなかったかもしれないほどしずかに。風がロウソクの灯を、すうっ、と奪っていくほど自然に。淡々と命がつまれていった。殺されたその人物は某国の首相であった。

 ――死神。

 安直過ぎるそのネーミングは、安直であるがために、またたく間に「片鉄頭・慄幻」の二つ名として人口に膾炙した。

 このころになると、彼の暗殺のすべてがすべて、依頼されて行われる仕事であることが判明しだした。

 快楽殺人者ではない。また、武装蜂起型革命家(テロリスト)でもない――その事実が判明したことで彼はまた、その名をより確固とした名誉に塗り固めることとなった。

 たとえば彼は、大抵の仕事は受諾する。老若男女に拘わりなく分け隔てなく殺す。どんな者でも依頼されれば殺す。

 ただし彼の場合、暗殺を請け負うために請求する金額が、その暗殺の難易度が高くなるにつれて安くなる。通常であれば、仕事の難易度が高ければ、求める報酬も自ずと高くなる傾向にある。しかし「片鉄頭・慄幻」は違った。

 たとえば、通りすがりの子どもを指差して、「あの子を殺してくれ」と依頼する。彼はすんなり承諾するだろう。だが、そこで彼が請求する金額は、およそ一般人では支払えない金額なのである。他方で、「あの革命家を殺してくれ」といった、軍隊が計画するような暗殺依頼に対しては、子どもの小遣い程度の請求しかしないという。

 この一見すれば義賊のようなポリシーに、世論は好意的に傾いた。

 むろん、彼のそのポリシーは結局のところ、義賊のように見えるだけであり、金さえ払えば彼は子どもだって殺すことに変わりはない。また、革命家であろうが、犯罪者であろうが、悪代官だろうが、命を奪うという行為をそう簡単に肯定すべきではないだろう。

 だが世論は彼を悪人として看做さなかった。だけにとどまらず、実際に彼の存在は、社会全体のあり様を大きく変えてしまった。

 彼のポリシーは、ある一部の人々からすれば、大変に都合のわるいシステムであった。

 他人から悪意を向けられていると知っている者は、より重層なセキュリティに身を委ねる。大抵そういった者は、誰かを踏み台にして利益を得た者であることが多い。彼らは恨みを買うことで利益を得ているのだ。そのために、セキュリティがなくては、すぐに襲われてしまう。しかしセキュリティを高くしていると、「片鉄頭・慄幻」への暗殺依頼が容易となってしまい、簡単に殺されてしまう。

 だとしたらどうすればよいか――みなそう考えた。

 やがて、悪意を向けられないようにすればいい、という根本的な解決策へと論は結ばれていった。

 傲慢だった資本家や、他人に無関心であった権力者たちは一様に、「自分たちを支えている者たち(社会)」に対して、「みなさん、私を支えてくれてありがとう」と真摯に振る舞うようになった。

 結果、

 死神が抑止力となって、社会は良い方向に傾いた――ように思われた。

 だが、報酬さえ支払えば誰でも殺す、しかもこれまでは殺し難かった者ほど安価であり、かつ仕事は十全に熟してくれる。安く確実に殺してくれるのだから、依頼が殺到しないはずがない。

 彼への依頼、それ自体は割と簡単に行える。彼自身が韜晦しようとする意思を持ち併せていないからである。彼がその姿を意図的に晦ますのは、おおよそが仕事の依頼が入った期間か睡眠のあいだだけである。

 一方で、彼を匿おうとする者は後を絶たなかった。

 どんな依頼も金さえ払えば請け負ってくれる彼は、言ってみれば魔法のランプである。それを持っている限り、敵はいないも同然だ。他方で、彼を手持ちにしていないほかの者たちは、それこそいつ自分が標的にされてもおかしくない生活を強いられていた。世界がすべて敵にまわったようなものだ。それに加え、疑心暗鬼になろうにもなれない。なぜなら、飽くまでも努めて善人の振りをしつづけなくては、敵を無闇に増やすようなもの――余命を削られるのは必須であるからだ。もはや安息の日常を取り戻すには、彼を手中に収めるしか術はない。

 世界中の資本家や権力者たちは、血眼になって彼を捜索した。各国の首脳たちが、彼を抹殺しようと全世界に異例の指名手配を下した理由も頷けるというものだ。ともすれば彼らは、こうなることを危惧していたかのかもしれない。

 そうして、宿主を点々と変えるように「片鉄頭・慄幻」は、その時代の様々な政権交代や革命を後押しした――彼にその気がまったくなかったにせよ。

 世界情勢は混沌を極めた。

 世論はこうなってからようやくその短絡な見解を曲げた。

 ――死神はやはり死神でしかなかった。

 そう主張するようになった。

 それもまた短絡的なことに相違ない。そのことに彼らのうち、いったい幾人が自覚していただろうか。

 能力の高い者が権力を持つのではなく、「死神」を手にした者が権力を手にするとは「不当」だ、と世論は糾明してはいるがその実、これまでの社会でも似たような「不当」が日常的にまかり通っていたことに彼らは気づいていない。ましてや自分たちが、そういった「不当」を社会に蔓延させている根源であることもまた、彼らが気づくことはないのだろう。

 やがて、誰が初めに口にしたことかは不明であるが――死神に依頼する者こそが死神である――といった理屈が社会に伝播しはじめた。

 ――わたしたちの世界に死神なんていらない。

 ――死神がいなければ、死神なんてあらわれない。

 集団の持つチカラとは、善くもわるくも、その「抗えないながれ」にこそある。

 共通の思想が掲げられ、そこに大多数が賛同した瞬間、その思想は「常識」という名の神を宿す。

 神に抗えば罰せられる。悲しきかな人の世の性である。

 こうして無言の抑止力が死神にかわり顕れ、死神のもたらした副作用――世界的「戦国時代~下剋上~」――は神の手によってその幕を閉じた。

 とは言え、「片鉄頭・慄幻」の、世界に残した影響力が衰えることはなかった。彼を狂信的に崇めるグループがどの国でも若者を中心に風靡し、彼は前衛的(アヴァンギャルド)や自由(フリースタイル)を意味するステータスシンボルにまでなった。それはあれから百余年あまりが経過した現在に至っても、彼は生ける伝説としてその名をつよく誇示しつづけている。

 そうである。

「片鉄頭・慄幻」――彼は未だ現役の「暗殺者(アサシン)」であった。

 予告を出してからの暗殺という手口はいまもなお継続されている。それにおいては諸説あり、本当の暗殺を隠すためのカモフラージュの殺人だ、と主張する者も多い。また、彼の名を語って、第三者がすべての罪を彼へ擦り付けて堂々と殺人を犯しているに過ぎない、と模倣犯の存在を指摘する者も少なくはなかった。(しかし予告を出してからの殺人であるのだから、仮に模倣犯であったとしても、並みの暗殺者ではないだろう)

 

 いずれにせよ、

「片鉄頭・慄幻」は、伝説も伝説、善悪を超越して世界中が認めた、ただひとりの人殺しである。

 そんな伝説の娘こそが私である、と目の前の女性が告げたのだから、疑うなと言うほうが酷である。

 驚きよりも、「そんなウソ吐くなよな」と憐れんでしまいたいくらいであるが、誰もがそう思うならば、彼女だってそう思われることくらい百も承知であるはずで、大抵の人間に「ウソだ」と疑われる嘘を彼女が果たして吐くだろうか――だとすれば彼女はもしかしたら本当のことを言っているのではなかろうか、とここまで考えてやっと驚きの感情が芽生えるのである。

「おまえが……孫? あのジジイの?」

 珍しくアラキが驚きを露わにさせている。ノリマキもまた瞳目していた。

「いかにも」彼女はたわわな胸を、ぐい、とさらに張った。「慄幻のひ孫であり、一番弟子だ」

 その証拠に、と彼女はもう一度名乗ってから、「ほらな、私の名は、おじい様の一文字を戴いておる」

 片鉄頭・慄――。

 なるほど、とノリマキは首肯した。彼女の名前についてではない。かつてたった一人で世界と対等以上に渡り合った「暗殺者(アサシン)」――彼が保持者だったのなら、納得も納得、なんの不思議もない。保持者である彼女の曾祖父が「片鉄頭・慄幻」だということは、彼もまた保持者だった可能性が高いことを示唆する。そうだとも、いくらこちら側の社会の問題だからといって、当時、組織が対処に乗りださなかったわけがない。

 きっとそれでも止められなかったのだ――。

 たったひとりの男を。

 組織の力を以ってしても。

 アークティクス・ラバーを動員したとしても。

 どれだけすごい保持者だったのだろう――とたしかに興味をそそられる。

 いや、この気持ち……これは憧れにちかいかもしれない。

 不謹慎ではあるが、それだけ我を押し通せる者というのは、まだまだ抜けきらないノリマキの童心を躍らせるには充分であった。

 そんな大層な男の孫――いや、ひ孫か――が、今、目の前にいる。

 ああそうか、とノリマキはやっと思いだした。

 どこかで見たことがあるもなにも、彼女もまた、特一級の指名手配犯であった。

 年齢、国籍、本名――犯してきた罪過と性別以外の情報が一切不明の女だ。

 以前、ミツキにお願い(強請られて)されて、忍び込んだFBI本部――当時巷を戦慄させた「連続幼児解体殺人事件」の捜査部にデカデカと映し出されていた容疑者が彼女だった。

 

「ホントにキミが、あの?」

 この問いは、あんなつまらない事件を引き起こした犯人が本当にあなたなのか、と問い質したい一心で呟かれた言葉であったが、言葉は尽くさねば伝わらない。

 何度も言わせるな、と彼女は憤る。「そうだと言っておるではないか」と泣きそうな顔になって、「私は片鉄頭・慄――おじい様のひ孫だ」

 それが本気で怒ったときの顔なのか、それとも真実泣き出しそうな顔なのかは判断つかない。それほど彼女の波紋がゆらいでいて、精確に読みとることが逆に難しくなっているのだ。

 波紋の講読に四苦八苦している顔が怪訝な表情にうつったのだろう、責めてもいないのに彼女は釈明をはじめた。

「た、たしかに私は……おじい様と血は繋がっておらん。だが、血の繋がりなどなくとも家族にはなれよう。いや、家族とは血の繋がりのことではないっ。生まれたばかりの赤子と母親は親子ではあるだろうが、その時点ではまだ家族ではない。家族とは培っていくものだ。互いに互いで育んでいくものだ。そこに血の繋がりも、種族も、身分も、国籍も、一切が関係ない。家族は家族だ。事実、私はおじい様と家族だ。そこら辺に溢れておる、親不孝者や敬老の心を失った若かりし莫迦どもに比べれば、私は幾分もおじい様と家族をしておる。そうだともっ。家族とは〝する〟ものだ! 『家族になろうとする意思』と『家族であろうとする意地』のふたつがあってはじめて『家族』となり得るのではないのか。私が真に『片鉄頭・慄』と名乗っておるのは、おじい様がそう名付けてくださったからでもあるし、私自身がそう名乗りたいからだ。この名を誇りたいからだ! その気持ちは誰であっても踏みにじることなどできはしない。いや、私がさせはしない。にしゃらが何と言おうと! 絶対にだ!」

 つぎに私の名を蔑にするようなことを言えば、にしゃらの命はそこまでだと心するがよい――彼女はそう言って大手を振った。

 ぱちぱちぱち、とアラキが拍手した。ノリマキもつられて手を叩く。

「いや、おみごと」片手を差しだすアラキ。「心打たれた。いや、ほんと」

 まんざらでもないご様子で彼女も手を差しだす。「解ればよいのだ」

 手と手が絡む。

 と同時に、アラキの袖から大量の紙が湧きあがった。たとえ猛暑であっても、その暑苦しい服装を維持していたのはこのためだったのか、と早合点してしまいそうなほど緩慢に、紙たちが彼女の身体を覆い尽くす。それこそ包装の名に恥じない覆いっぷりである。

 一息吐きながらアラキは、風圧で脱げた帽子を拾う。「さて、どうだ? これで彼女は無益だ」言いながら被り直した。

 彼女を覆った大量の紙切れ。その一つ一つには細かい文字がミミズのように――いや、蜘蛛の巣みたいに――綴られている。

 ――言霊。

 それを張りつけられた彼女はパーソナリティを発動できない。

 とは言え、これだけ大量の「言霊」を隠し持っていたアラキのほうもまた、通常であれば、パーソナリティを行使できないはずであるが、そこは「紙縛り」の異名を誇る保持者だけのことはある――アラキは紙に描かれた「言霊」の作用が働かない形で、巧みに服飾内部に収納しているらしかった。やはりどうやら、そのための暑苦しい格好であったらしい。センスがないのはまた別問題として。

 彼女が呻っている。地面に倒れ、芋虫のようにもがいている。

 アラキへ問うた。

「で、どうすんだよ。このあと」

 あとで殺されても知らねーぞ、という台詞はなんだか噛ませ犬みたいなので呑み込んだ。「つーか。彼女、息もできないんじゃ……」

「ああ。それもそうだな」ちょい、と指を捻って、呼吸する隙間をアラキは空けた。

 おいおい、あとで殺されてもしらねーぞマジで、と本気で心配する。

 彼女の呻り声が、はぁー、はぁー、といった深い呼吸音にかわった。

 それでも言葉を発するほどの隙間を空けてやらないのがアラキらしいところでもある。

「戻ろう」アラキが言った。

「アヤモリはどーすんだよ?」

「連れてきゃいいだろ」

「保持者じゃないんだ、入れない」

 学び舎には保持者でなければ立ち入ることもできない。

 アヤモリを見遣る。さながらミイラの「片鉄頭・慄」を眺めていた。きっと、これまで視えていなかった彼女のシルエットが、紙の起伏を介して確認できているのだろう。きっとアヤモリの心中としては、「ユウレイが捕まった!」といった驚愕だろうか――そう考えて頬が緩む。

「問題ない」アラキはこちらの指摘を一蹴した。品定めするようにアヤモリを見下ろして、「そもそもこいつは規格外だ」

 他者の〈レクス〉を捕食する者――たしかに規格外ではある。それでも保持者でなければ学び舎に入れないことに変わりはない。

「そうじゃない」とアラキが訂正した。「他人の〈レクス〉を捕食する、そういった性質をもつ『プレクス』を形成できる――こいつにはそれに類似した特質がある」

「はい?」ややこしい。

 アラキは告げた。「保持者だよ、こいつは」

「へえ……」と相槌を打ってから、「ん?」と疑問する。「どういうこと?」

「あのな、」と声を尖らせながらもアラキは説明してくれた。それはまるでアヤモリに言い聞かせているような、そんな不自然な口調でもあった。アヤモリを指差しながら、いいか、と強調する。「いいか、こいつはな、町人どもだけならいざしらず、ノリ、おまえにまで干渉してんだぞ」

「なんでそうなる」普段ならここで喧嘩腰になるノリマキも、このときばかりは素直にご教授願いたかった。「おれが浸食――いや、捕食されていたってことか? この子に?」

「いいや、浸食でいい。おまえは浸食されている」アラキは続けた。「いいか、少なくともオレにはこの町の住人とやらが視えなかった。違うな、今もなお視えん――屍体の血肉だってこの町には一滴たりとも落ちてやしない。それがどういうことか分かるか?」

 しばし考える。「自分が無能だって認めるのか?」

 無言の蹴りが飛んできた。

「じゃあなんだよ!」ケツを擦りつつ怒鳴る。「勿体ぶってんじゃねーよ!」

 ふん、とアラキは不快そうに、いいか、とふたたび強調した。「いいか、そもそもオレの分身にすらこの町の住人どもは感知できなかったんだ。それでもノリ、おまえが言い張るように仮にこの町には、住人の残骸がそこらかしこにあるとして、だ――それの示唆する事実ってのは、住人たちが、『プレクス』どころか、《アークティクス》からも外れた〈世界〉にいるってことだ」

 それは分かっている。

 ――“捕食”。

 他人の〈レクス〉を自分の〈レクス〉に包括してしまう逸脱者。それがアヤモリだ。

「そうだ。だが、オレの分身には〈レクス〉がない」アラキはアヤモリを指差して、だから、と言った。「だからこいつにオレの分身が取り込まれることはなかった。同一の階層にいないんだ、オレや分身に、住人たちを視ることなんてできやしない」

 それも分かっている。

 でもだったらどうして、とノリマキは疑問する。だったらどうしておれには住人たちの凄惨な様が視えるのだろう。間もなくノリマキは結論する。ああそうか、それがつまり、「浸食されている」ということなのだ。

 ノリマキには住人たちの存在が知覚できる。要するにそれは、ノリマキがアヤモリに干渉されてしまっているということだ。

 一方で、アラキには住人たちが視えていない。存在している世界が異なるからだ。

 けれどアラキにはこちらの姿が視えている。住人たちと同じ〈世界〉にいるはずのノリマキの姿を、アラキは知覚しているのだ。

 住人たちとノリマキの違いはなにか?

 それはとどのつまりが、「浸食」と「捕食」の違いなのだろう。

 住人たちはアヤモリに捕食されている。しかしノリマキはアヤモリに浸食されているだけなのだ。

 アヤモリの〈世界〉へと強制的に塗りかえられていた。知らぬ間に。ノリマキの〈レクス〉が。

 それゆえにノリマキの姿をアラキは視認することができている。

 逸脱者であるアヤモリを知覚できていたのと同様に。

 だがアラキは言っていた。アヤモリが保持者なのだと。

 それはどういうことだろうか。どうしてそういった結論が導き出されるのだろうか。それがどうしても解せない。

「ほんとうに気づいてないのか?」アラキが意外そうに言った。

「なにをだ?」

「こいつには、」とアヤモリを指差してアラキは告げた。「波紋があるだろうが」

 まったく気づかなかった。いや、気づけなかった。こうしてアラキから教えてもらってもまだ分からない。むしろアラキのほうが錯誤しているだけではないのか、と疑いたくもなる。

 保持者の定義は主に二つ――「パーソナリティの保有」と「波紋の発生」だ。

 精確には、保持者ではない一般人たちからも波紋は発せられている。しかし保持者ではないものが発する波紋は押し並べて微々たる振幅であるために、相当のスキルを持った保持者でない限り、感知できない。波紋をより顕著に発している存在、それが保持者である。

 だがアヤモリからはその波紋を感知できない。他方で、どうやらアラキには彼女の波紋が如実に感じられているようである。

「これも、おれが浸食されてるからなのか?」

「だろうな」アラキが冷たく首肯した。

 ノリマキは問うた。

「じゃあなにか。この子は逸脱者でありながら、保持者でもあるってことか?」

「どうだかな。逸脱者よりも逸脱していて、なお且つ、保持者と同等以上のパーソナリティを有した問題児――そんなところだ」

 ……ややこしい。要するに、問題児なわけだ。

「報告するっきゃないよなぁ……やっぱ」アラキへ問う。「この子、どういった扱いになると思う?」

 こともなしげにアラキは答えた。

「処分か――そうでなくとも解析が済むまでは被験体としての扱いになるだろう」

「かわいそうだよな……やっぱ」

「なんでだ? 餓鬼が一匹どうなろうと知ったこっちゃない」

 はいはい、とノリマキは軽くあしらう。

 足元ではすっかり大人しくなった「片鉄頭・慄」――と、包装された彼女を興味津津に観察しているアヤモリがいる。

「オレたちがどうこう口を挟む問題じゃないんだ」アラキは彼女たちを一瞥し、「逸脱者と、それに関連した重要参考人――その両者をオレたちは確保した。あとは総括部の連中へ引き継げばそれで任務は完了だ。違うか?」

 違わない。その通りだ。

「戻るぞ」

 言ってアラキは「片鉄頭・慄」だけを引き連れ、学び舎へ帰還すべく、先にチューブへと浸透した。

 その場に取り残されるノリマキとアヤモリ。

 急にいなくなったユウレイに、アヤモリは目を白黒とさせている。「きえた!」

「おれたちも行こう」

 囁いてから、ふとむかしのことを思いだす。

 自分が保持者だと知らされる以前の記憶だ。

 振り払うように頭を振る。

 アヤモリを見下ろす。

 彼女は彼女、けっして自分ではない。

 自分ではないが、けれど、自分のこととして考えてしまう。

 自分ならどうしてほしいだろうかと。

 自分はあのとき、どうしてほしかっただろうかと。

 なんど考え直しても、人ごととは思えなかった。

 これはチャンスではないのか。

 あのときの自分を救うことが、今の自分にはできるのではないのか――あの時にしてほしかったことをこの子にすることで、おれは自分を変えることができるのではないか。そういった想いが胸の裡に溜まっていく。

 胸に溜まったその想いは、拍動に乗って、全身を巡り、身体を動かしていた。

 この日。

 ノリマキは。

 自分を変えるために。

 己が己であることを捨てた。 



      ◆わたし◆

 

 雲のおおい夜ぞらに、星はみえない。

 街灯があちらこちらで局所的な昼をかたち創っている。

 公園のベンチにすわる。足もとにできた自分の影を、ちょんちょん、と足さきでいじくる。えいえい、といじめてやった。自分の影をいためつけると、なんだかちびっと気分が高揚してくるから不思議だ。

 黙々と夢中になっていると、となりにだれかが腰かけた。

「どうでしたか?」

 顔をあげると、サイトウくんが立っていた。

「うん。会えたよ」

 ホントですか、と声をはずませる彼女はいじらしい。

「でも、ごめんね……居場所はおしえてあげられない」

 ノリさんにはおしえてしまったけれど……ノリさんにおしえてしまったからこそ。ノリさんと店長の二人の縁をむすんでしまったからこそ。今さらサイトウくんにあのお店へ向かわせることなんてできやしない。

「ごめんなさい」ともういちどつぶやいた。

「……ですか」

 サイトウくんはあからさまに項垂れた。

 街の軽薄な喧騒が、わたしに重くのしかかる。

 すぐ背後で虫たちが泣いている。きっと、夏が終わり、死にいく季節の到来を呪っているのだ。

「……ぼく、行きますね」

 虫の音が不意にとだえた。顔をあげると、

 ありがとうございました――立ちあがったサイトウくんが腰を折っていた。

「ごめん……役にたてなくって」

 あたまを起こすと彼女は、「じゅうぶんです」と微笑んだ。

 サイトウくんとはそこで別れた。

 きっともう、二度と逢うことはないのだろうな――そんなふうに少し安堵している自分がいる。

 わたしは自分の影を踏みつけた。

 ふたたび虫たちが泣きはじめる。

 

      ******

 

 学び舎に帰還すると、ミツキさんが出迎えた。

「タっちゃん、おかえり!」

「ただいまぁ……」

 正直、つかれた身に彼女の快活な声はこたえる。斟酌せずに言えば、うるさい。

「そんなこと言わずにさ、ほら。何があったかミっちゃんに教えてごらんよっ!」

 ああ……もういやだ。このひとに糊塗がきかないのは仕様がないとしても、どうしてこうも堂々と気を揉むこともなく他人の波紋を盗み読めるのだろう。

「堂々としているのなら、盗み読みではないんじゃないのかなって、ミっちゃんは思うんだよ?」

 そう言いながらもその台詞自体が盗み読みだろ、とは突っ込まずに、「……ですね」とかるく同意しておく。突っ込む気力すら湧かないのだ、何があったかなど説明する気力なんて湧くはずもない。「勝手に読んどいて下さい」とわたしは昨日から今日にかけての顛末を思い浮かべた。

「ほうほう。ふ~ん。なぁんだ、ノリたん外にいたんだっ」

 おや、どういうことだろう。

「……任務だったんじゃないんですか、ノリさんも」

「そうなの? でも、あれだよね。いまノリたん、謹慎中でしょ?」

 そうだった。

「え、じゃあ」

 どうして……?

「いまね、みんなで捜してたの。ノリたん、いなくなっちゃったから」

 みんな?

「そう。ラバーのみんなで」

 だとしたら随分と大袈裟な捜索だ。「それってもしかして……?」

 ミツキさんは機械的な口調で、「サイドネイム【ノリマキ】には現在、離反の嫌疑がかけられている。発見次第、強制拘束すべしとの勧告がなされている。抵抗された場合、または已むを得ないと判断された場合は、戦闘も辞さないとの指令です」

 あちゃちゃちゃぁー。

「……頭、イタイ」

 とんでもないことになっていた。

 ミツキさんは、きゃはは、と笑った。「今なら、ノリたん殺しても怒られないかもっ!」

「ミツキさん……」わたしは言ってやる。「そのジョーク、笑えないです」

「それ、ウケルっ!」きゃはは、と笑い声を残してミツキさんはその場に姿をかすめていった。

 事情がイマイチ呑みこめない。

 とりあえず、とわたしは社長に報告しに行くことにする。

 わたしの任務はしっぱいでした、失踪者なんていませんでした――と。

 

       ***

 

「少しよいか」

 背後から声をかけられる。

 有無を言わせぬ勢いで、気づくとわたしはアズキさんに襟をつかまれている。

 そのまま引きずられるようにしてアズキさんの部屋へと拉致されてしまうわたしはぐったりとしている。

「ミツキから聞いた。ノリは外にいるのだな?」

「……はい」うなずきつつも、「ああいえ、もしかしたら帰ってきてるかもしれませんよ。今はもう」と言葉をにごす。

「御託はよい。ほかにも逢ったのであろう? やたら愛想の良い男に」

 店長のことだろうか。

「ええはい。でもそれは……」とここまで口にしてようやく事の重大さを自覚する。

 そうだった、店長は離反者なのだ。元アークティクス・ラバー。そのうえ、ノリさんとも因縁のようなものがあったように感じられた。ということは、このアズキさんやミツキさんたちともなにかしらの関わりがあってもおかしくはない。

「そいつの居場所をノリに教えたな? どこだ、どこにいる」アズキさんの剣幕はまるで泣き顔だ。必死なのだ、彼女もまた。

 わたしは半ば自棄になっていた。

 自分のせいでなにかとんでもないことになってしまっている。自責の念がわたしの胸のうちにどんどん積もっていき、重くしていく。穴があったら逃げ込みたい――そんな心境だ。誰もわたしを責めない。責めてくれない。逆に、まるでわたしに縋るような必死の形相を浮かべているのだから、わたしにはもう、彼らの望みに応えるしかすべがないではないか。わたしは波紋を通じて、アズキさんへ、居酒屋「こうちゃん」の場所をおしえた。

「すまん、助かった」

 事情を聞こうと、あの、と呼びかけるが、アズキさんの姿はもう、どこにも視えなくなっている。

 

      ***

 

 社長への報告はあと回しにした。もうだれとも言葉を交わしたくなかった。

 とぼとぼと歩む。ステップの内部。第三フロア。屋内であるが、ここはまるで野外のような街なみがひろがっている。見あげれば星ぞらに似た、天井と照明。

 知らず、ノリさんのお家へ向かっていた。

 もうなんどもお見舞いに通った路のはずが、今が昼間ではないからなのか、なんだか見知らぬ道のように感じられる。道それ自体があわく発光して、浮きあがってみえている。学び舎のよるは、こうしてやさしい光に満たされる。

 ノリさん宅にはもちろん誰もいなかった。期待していたわけではなかったけれど、森閑とした部屋は、わたしのむねの裡をより、ふかく、くらく、おもくする。

 ベッドのうえへ倒れこむ。ノリさんの気障な香りがホコリといっしょに舞いあがる。天井に手を伸ばすがとどかない。宙をにぎってから、そのまま腕をおろす。首をひねった。壁に貼られた一枚の写真に目が留まる。こんなのいままであったっけか。気づかなかった。じっと見つめてから、手を伸ばす。とどかない。身体を起こして、壁から写真を引きはがした。

 ――仲良し四人組。

 といった風上の写真だ。

 半ば予想していたことではあったが、写真には店長も写っていた。いまとちがい、服装はさわやかではあるものの、一目でそれが店長なのだと判った。屈託なく破顔しているからだ。店長といえばあの解顔。それがいまもむかしも変わらず、店長のトレードマークとなっているようで安心する。まるで故郷の街並みが変わらずにいてくれたような、そういった心境にちかい。

 ミツキさんはむつけた表情だ。おおかた、また我が儘を言って、このときはそれを却下されたのだろう。さすがのミツキさんも、三対一では横車を押し通せなかったにちがいない――変わらないなぁ、このひとも。アズキさんもまたまったく変わらない。容姿なんてそのままだ。いまのほうがややたおやかな雰囲気ではある、その程度の微々たる差異があるだけだ。髪型まで変わらないのはまるで漫画の主人公のようだ。

 そんななかで、現在とまったく雰囲気の異なっている人物がいた。

 ――ノリさんだ。

 たしかにそれはノリさんであった。

 でも、写真のなかのノリさんはひどく無表情で、まるで別人であるかのようで。冷徹な印象すらただよっている。しかも、服装がとにかく暑くるしい。まるで現在の店長である。

 ふと、わたしはデジャヴをおぼえた。これは、そう、店長を見つけたときに抱いた感想と似ている。サイトウくんから渡された写真に写っていた店長は、つめたく、はかない印象で、じっさいの店長の印象とまるでかけ離れていた。そう、どちらかと言えば、ちょうどこのノリさんの雰囲気に似ている。でも顔がちがう。しかも、むしろあの店長の写真よりもこの写真のノリさんのほうが数段冷徹で、儚い。まるであの店長の写真は、このノリさんを真似している店長を撮ったときの写真――そう言われたほうが納得できる。なんだろう、ややこしい。

 んん――?

 いっしゅん、思いもよらないひらめきがよぎった。

 たしかによぎったはずのひらめきは、火花のように刹那に散り、そのまま脳裡の奥底へと遠のいてしまった。

 とても重大な事実に気づいたといったような発覚じみた妙案だった気がする。

 みけんへこぶしを小刻みにぶつける。思いだせ、思いだせ、と脳みそを揺さぶる。

「タっちゃん、なにやってんのっ?」

 振り返るとすぐそこにミツキさんが立っていた。「それ、たのしい?」

 揶揄されたと思い、やってみたらいいじゃないですか、と返した。

 それもそうだね、とミツキさん。みけんを殴りながら、うー、うー、とうなった。

「タっちゃん、これイタイねっ!」

「当たりまえです」はげしく殴りすぎである。彼女に向きなおりわたしは訊いた。「この写真、なにか変じゃないですか?」

「どこが?」ひたいをさすりながらミツキさんが訊き返してくる。

「それが解らないからお尋ねしています」

「じゃあ、ヒントね」

 さっさとおしえろよ、と念じつつも、「はい」と返事する。

「変なのはそれじゃなくってね」

 とミツキさんは写真をゆび差してから、

「変なのは、こっち」

 言いながら両手をおおきく回した。

 きゃはは、と哄笑しつつ一生懸命にミツキさんが空気を掻き混ぜている。

 なにがしたいのだろう、意味わからん。

「こっちって……どっちが変なんです?」

 だからぁ、とミツキさんはさらに勢いよくうでを振り回して、「こぉーっち」

 変なのは写真ではなく、こっち…………の世界? ミツキさんはそう言いたいのだろうか?

「タっちゃん、せいかーいっ!」

「はい?」

「変わっちゃったのは、ここ」ミツキさんは地団太をふむ。それから写真を指差して、「そっちがオリジナルなんだよ」としろい歯をのぞかせた。

 そのしゅんかん、わたしの思考に閃光がはしった。

 堂々と波紋を読まれていることに腹をたてることも忘れていた。

 そういうことか、とさきほどしずんだひらめきが像を結んで浮上した。

 でもなぜ?

 なぜそういったことになったのか。その顛末と動機は定かではない。

 だがそれでも、店長が他人のように感じられなかったその理由だけは、これではっきりとした。

「あーあ。ヒマだなあ」

 ミツキさんがつぶやいた。

「久しぶりに逢いに行っちゃおっかなあ、ミっちゃんも」

「だれにです?」

 うんとね、と破顔すると彼女は言った。「元、ノリたんっ!」  

      □■□『トンボ』■□■

 

 

 ひとは複眼を持つべきだ。

 事象に含まれる見解は、ひとがいるだけ存在し、

 状況がもたらす問題は、その状況を見定める主観によって決まる。

 そのため、

 我々には常に、多角的な視点が求められている。

 そのなかで、選択と議論と妥協を、繰り返していかねばならない。

 

 トンボは、複眼の総合的な視野によって動いているのではない

 複眼に含まれる一つ一つの目が捉える情報(映像)を比較して、より好ましい情報を選び、それら選抜された情報だけを組み立てているに過ぎない。

 得た情報を切り捨てることもある。

 得ているのにもかかわらず、目を瞑ることもある。

 これらを総合的と呼ぶべきではない。

 総合的とは、すべてを踏まえたうえでの見解だからだ。

 

 だが、全てを踏まえての、矛盾なき回答など、ありはしない。

 ゆえに、総合的である必要はないのだ。

 しかしそのためには、目を瞑っているという自覚は必要である。

 なにを優先し、なにを諦め、なにを切り捨てたのか。

 そのことから目を逸らしてはいけない。

 離してはいけない。

 忘れてはならないのだ。

 

 それらを見つづける目もまた。

 複眼には。

 含まれているのだから。

   第三章『絆と鎖・配りと縛り』

 

 

      ◇ノリマキ◇

 

「いらっしゃい」

 奴はそう出迎えた。

 椅子ごとこちらを向き、足を組み、テーブルに頬杖をついている。待っていたかのような態勢だ。だが飽くまでも警戒を怠ってはいない。こちらがひとたび殺気を放てば、瞬時に対応してくるだろう。逆にまったくそう見えない態を装っているのがその証拠だ。死人と眠っている人間と同等のレベルで、隙がないのと全身隙だらけだというのは同義である。

「なんで逃げた」

 知らず、呟いている。ぶつけてやりたい想いや詰問したい事項が沢山あったのに、それらはあっさりとこの一言に収斂し、掻き消された。奴の顔はまるで変わっちゃいなかった。あのときのまま、あいつのままだ。なつかしく感じた。うれしく思った。そしてやはり、怒りを抱いた。

「なんで逃げた」もう一度呟く。今度は意識してはっきりと。「なんで、ひとりで」

「ごめん」

 と奴は頭を下げる。

 まるで警戒していない様で。

 無垢な謝罪のように。

「すまなかった」

 と床へ溢した。

 それもまた全身隙だらけで、あまりに隙だらけで、だからまるで毒気を抜かれてしまった。

 脱力するのが自分でも判った。音のならないように嘆息をもらす。

「そんなんで済む話かよ」

 悪態を吐くのがやっとだった。

 面を上げた奴の表情は微笑が浮かんでいるものの、申しわけ程度に曇っている。それこそ、申しわけなさを醸しているのだろう。くそ忌々しい。そんな顔をされたら、怒るに怒れないだろ。

「まだ『ノリマキ』でいてくれてるんだ?」奴が投げ掛けてくる。

「なに言ってやがんだ」とやっぱり怒鳴り散らしてやった。「離反者は『アラキ』とされちまってたんだ、今さら元通りにはなれねーつーのッ」

「すっかり板に付いてるなぁ――おれの喋り方」

 愉快そうなその口調がまた癪に障る。

 奴はいつの間にか手に持っていた一升瓶の中身を、これまたいつの間にか卓上に出されていたカップへ注ぎ、つい、とこちらへ滑らせた。

「まあ、積もる話もあるだろお互いにさ」

 乾杯しようじゃないか、とカップを掲げた。

 すっかり奴のペースだ。イニシアチブを取られたどころではない。これではまるで、旧友との再会ではないか。こちとら言いたいことや断罪したいことが山ほどあるんだ、なごなごとした雰囲気で酒を飲んでいる場合ではない。そうだとも、こんな場面をアズキやミツキに見られでもしたら、アズキに至っては、「にしゃ、裏切ったな!」と五年前の決闘の二の舞だろうし、ミツキはミツキで、「あー、ずっるぅーっい」とまたこのことを素材に恐喝してくるに相違ない。

 大体こいつは、と目の前の奴を睨みつけると、「へえ。目つきわるいのは変わってないんだなぁ」と和やかに言うものだから、「おまえこそ変わってねーじゃねーか」と奴の手からカップを奪い取って、ぐい、と飲み干した。

 乱暴にテーブルへ置いてやると、乾杯、と奴はその空になったカップへと杯を合わせた。

 カツ、とみじかく鈍い音が鳴る。

 奴もまた、ぐい、と一気に飲み干した。

 

      ***リバース中~五年前~***

 

 先に帰還したアラキは、彼女「片鉄頭・慄」を解析部へと引き渡した。「相方はどうした?」とノリマキの所在を問われたが、「あいつはもう少し調査すると言って向こうに残った」と偽って報告した。

 現にノリマキはそれからひと月のあいだ、学び舎へ帰還することなく行方を晦ました。その奴の長期不在が、離反ではないのか、と危惧する者もいたが、先にアラキがノリマキの動向を報告(虚偽)していたことで、嫌疑は嫌疑のままで捨て置かれた。その後――奴は何事もなかったかのように帰還した。

 提出された調査報告書には、その調査期間に見合うだけの情報が記されており、当時、奴にはなんら処罰は下されなかった。それはまた、定期的にアラキがノリマキの動向を報告(虚偽)してやっていた効果が大きいだろう。奴の所在がはっきりしなかったあいだもアラキは与えられた任務を熟していた。その度に、ノリマキと連絡を取り合っていた態を装って、虚偽の報告をしていた。

 奴の提出した報告書と共に引き渡されたひとりの人物――ひときわ異彩を放ち、奴が高い評価を得た要因――それこそが、あの町での唯一とされた無傷の生存者――「彩杜(さいと)」であった。

 アラキはそれがアヤモリだと一目で判った。それでも黙っていた。なぜ奴が彼女の名を偽称し、あまつさえ逸脱者であることを秘匿にしているのか……二人っきりになったそのときに問い詰めた。

「どういうつもりだ」

「どうもうこもうね」

 言ってはにかむ野郎は、どこか以前にも増しておおらかで春風駘蕩としていた。

 はぐらかすな、と詰め寄る。

「あの子を助けたいと思った。だからそうすることにした」

 それだけだよ、とみじかく口にした奴の眼光がその瞬間だけ寸毫の険を帯びていた。アラキはそれを見逃さなかった。怯えたわけではない。決して威圧されていたわけでもない。それでも、動揺はしていた。この一カ月間――たったのひと月――それだけの月日が経過しただけで、目の前にいるあの野郎が――まるで分かち合えない縁の薄い他人に感じられて仕方がなかった。

 それ以上、アラキはなにも問わなかった。

 これ以上、突き放されたくなかった。

 突きつけられたくなかった。

「変わったな」

 一方的にそれだけ吐き捨てて、その日は別れた。

 

 長期不在時における奴の動向は、思わぬ形で本人から告げられた。

 昼食時。食事処でざるそばを啜っていると、手前の席に奴が座った。

 しばらく黙々と食事に専念した。

「会って来た」唐突に奴はそう言った。

 誰に、と視線だけで問う。

「片鉄頭・慄幻」

 ぶほ、と鼻から麺が噴き出そうになった。「それでか?」

 それであれだけの期間、音信不通だったのか――でも、何のために?

 見透かしたように奴は答えた。

「彼女は今日からここの住人だ。仲良くしてやってくれ」

 彼女? アヤモリのことだろうか?

 ここ数日間、アラキはアヤモリの世話役でもあった。任務として仰せつかっていた。しぶしぶ相手になってやっていたが、人懐っこく聞きわけも良いアヤモリとは中々に良好な交流を築けていた。餓鬼は嫌いであるが、どうやらアヤモリは餓鬼ではなかったようだ、とようやく認識を改めたのはつい先日のことである。ちなみに、アヤモリは、自身の偽名を「サイト」ではなく、「サイトウ」と間違って覚えてしまっていたが、滑稽なので敢えて訂正はしなかった。

「アヤモ……じゃなくって、サイトのことか? やっぱりあいつもここで暮らすはめになったか」

「いや。片鉄頭・慄さんのほう」

 ぶほ、とふたたび鼻から麺が出そうになった。

 むしろ出た。

 鼻を啜りながら、「なぜ?」

「彼女をこのまま向こうの社会に戻すのは道理にあわない。彼女は保持者だ。保持者ならば学び舎で暮らすのが筋だ」

 なんだか随分と口調が変わったな、とここでも違和感を覚える。以前はもっと間抜けた喋り方だったのに。

「まあ、そうだな。あの女を野放しにしておくのはまずい」と首肯するも、だが、と異論を唱えておく。「だが、彼女が『片鉄頭・慄幻』――あのジジイの一番弟子だという話が本当なら、あのジジイが黙っているわけがない」

「話は付けてきた」

 ごほっ、と今度は咳こんだ。「どうやって?」

「さっき、『会ってきた』って言っただろ」

 そういう意味ではない。あのジジイが他人の説得に応じるような玉ではないのは、もはや向こうの社会の常識ですらある。誰にも懐柔されない者――それこそが片鉄頭・慄幻である。

 アラキは残ったそばを腹へ流し込む。

 どん、と茶碗を置いて、「訊きたいことは山ほどあるが、単刀直入に三つ訊く」

「どうぞ」

「一つ目、『片鉄頭・慄幻』とはどういった話をした? 二つ目、おまえがこの一カ月間、向こうで行動していたのはアヤモリを救いたいからだとおまえは言っていたが、あのジジイと謁見したこの件とどう関係がある? 三つ目、アヤモリも保持者である以上、やはりあいつもここで暮らすのか?」

「最後の質問から答えようか。サイトはここで暮らすことにはならない。なぜならおれが逃がしてやるからだ。二つ目の質問についてだが、片鉄頭・慄――彼女はまだ、自身が大量殺戮者なのだと知らない。しかし向こうの社会へと戻って、サイトの居なくなったあの町へともしも足を踏み入れたとしたら――彼女は事実を知ることになる。そうなったときに彼女が自暴自棄にならないとも限らん。そうでなくとも、彼女はサイトの危険性をそのとき初めて認識する。そうなったらきっと彼女はなんらかのアクションを起こす。サイトのことももちろんより詳細に調べようとするだろう。彼女ほどの保持者が大きく動けば、組織も動く。最終的にサイトがあの惨劇の元凶である逸脱者だと知れ渡る。それだけは阻止したい。そのためにもっとも合理的なのは、片鉄頭・慄――彼女にこの学び舎で暮らしてもらうことだ。それを現実のものとするためにおれは『片鉄頭・慄幻』と話を付けてきた。そして最初の質問に対する答えだが――」そこで間を空けると奴は、ぷぷっ、とちいさく息をもらした。「――アラキ、あの爺さんはおまえのことも心配していたぞ」

 だろうな、と半ば自棄になって奴のグラタンハンバーグからハンバーグだけを食ってやった。

「ああ! なにしやがんだ」とさすがの奴も以前のような調子で息巻いた。「配分ってもんがあんだよ!」あとのこれ、とグラタンを指差して「なにオカズに食やいいんだっつーの」

 知るか。

 うやうやしく肉を咀嚼し、呑み込んでから訊いた。「ジジイのネクタイの色――何色だった」

 話題が話題だけに、不承不承といった様子で奴は答えた。「蛍光色の黄色だったが……それがなんだ?」

 くっくっく、と喉が鳴った。「よく生きてたな。おまえ」

 見遣ると奴の顔が、説明しろよ、とせがんでいる。

 こちらもまた不承不承の態で説明してやった。

「あのジジイは、その日の気分をネクタイの色で統一している。気分で色を変えるんじゃない、色で気分を決めるんだ。黄色はな、攻撃色だ。気にいらない奴は誰であろうと排他する――そういった色だ。よかったな、少なくともここにおまえがいるってことは、ジジイに蛇蝎視されなかったってことになる。つっても、気に入られたら気に入られたで、厄介なんだけどな。関わらないのが利口だ」

 奴の顔から血の気が引いた。さー、と蒼白になる。さしずめ、なにか威勢のいい台詞を宣巻いたに違いない。よほどジジイに気に入られたと見える。運のいい奴、と愉快になる。

 ちなみに、と続けてほかの情報も披露した。「ちなみに、ネクタイをしてないときもあるらしいが、そのときはジジイがもっとも自由なときだ――ジジイはその姿を誰にも見せない。いや、視た奴は誰であろうと生きてはいられない。誰かに見られる、ってそれだけの干渉が許せないらしい。だからもしも、ネクタイをしてないジジイに遭ったら、そのときは諦めろ」

「……ほ、ほかの色はなんだ?」

「聞いてどうすんだよ」

「……念のためだ」

 また会う予定があるのだろうか、と多少の心配が募る。せっかく人が遠回しに忠告してやったというのに。とは言え、ここで、やめておけ、と直接忠告するのも癪に障るので、簡素に述べた。

「赤は嗜虐。青は恫喝。白は束縛。緑は鷹揚。そして黒は楽観だ」

「イメージが湧かないな」

「嗜虐と楽観――要するに赤と黒に気をつければあとはそう問題はない。つっても命の心配をしないで済むって程度だけどな」

「赤は分かるが、どうして黒もなんだ? 楽観なら無害なんじゃ?」

「どんなことでも楽観視しかできない野郎ってのは、それだけで有害だ。言ってみりゃ、寛容ってことだからな。どんな結末もそのときのジジイは容易に受け入れる。それこそ、目の前で幼児が核ミサイル発射のスイッチを押そうとしていたって、そんときのジジイは何もしない。いや、むしろ愉快げに、そうなるようにそうなることを望むんだ。そんな男だからな、あのへそ曲がりは。しかもだ、いざその幼児を止めようと誰かが止めに入れば、ジジイはその誰かを躊躇なく殺す。なにを先に『おもしろそうだ』と思ったか――それだけの条件で黒ネクタイのジジイは行動を起こす。いや、行動の目的を定めちまう。さらに言えばだ、その他の出来事に関しては、ことごとく『別にいいんじゃねーの』っつう態度だ。押そうが引こうが手ごたえなしときたもんだ。要するに、黒ネクタイのジジイだけが、何を仕出かすかがたまったく予想がつかない――そういった最悪なんだよ」

「考えただけで面倒くさいな」

「そう、メンドイ」

 巻き込まれでもしたら、生きていることそれ自体が暗欝となる。

「つっても、基本は原色ってことはない。ストライプ柄のネクタイだったり、水玉模様だったりだ。それだけに、蛍光色でしかも原色のみってのは、中々どうして貴重だよ」

 いい体験したな、とからかった。

 奴は、からから、と笑った。「まったくだ」

 笑っている奴の箸からは、ぼろぼろ、とグラタンが零れている。

 虚勢張るのも大変だな、と内心でほくそ笑み、席を立った。

 

 奴が変わってしまったのは思い違いではなさそうだ。

 けれど、たまに見え隠れする以前の奴の面影が、やはりあいつはあいつなのだ、と思わせた。

 人は成長するものだ。または退化するものである。それでもまったく別のものにはならない。もしもまったく別のものに変質してしまったのだとすれば、それはもう、まったく別の人物でしかない。その人物の成長や退化は、前の人物の成長や退化とはなりえない。

 それでも奴の急激な変化は、奴としての成長――その延長線上に位置する変化なのだと思うことができた。

 けれどこのとき、アラキは気づいていなかった。

 己自身が急激な変化を来たしていたことに。

 それが、たった数日のあいだに生じた変質であったことにも。

 そして、その数日が、アヤモリの子守りをしていた数日であったことにも。

 アラキはそのことに、まったく気づけずにいた。

 

 

      ***ノリマキ***


 居酒屋「こうちゃん」ってネーミングはどうかと思うぞ、とそんな話になった。酒の力は偉大である。実際に酔っていなくとも、アルコールのせいにすることができる。自分に言い訳ができる。こんな暢気に談笑している場合などではないが、まあいっか、と思えてしまう。

 奴の語りによれば、どうやらこの居酒屋は、先代から譲り受けた店舗なのだという。組織から離反したばかりの三年前、奴は一文なしの宿なし、名実ともに恥じない立派な浮浪者であったという。考えてもみれば当たり前の話だ。組織に居場所を気取られぬよう、離反者はパーソナリティを極力遣わないようにしなくてはならない。保持者からパーソナリティを取り去ってしまえば、こちらの社会ではただの人である。一般人から波紋は発せられていない。波紋の講読もまた意味をなさない。

 聞けば奴は、自分以外に離反した者たちがいたことを知らなかった。「え、三十人も? なんで?」そう言って瞳目していた。奇妙な話である。

 いずれにせよ、奴には当時、頼れる人間などいなかった。空腹に苛み、ついに限界が訪れたのだという。

 ――強盗。

 もうそれしかない、と空いた腹をくくって挑んだのが、銀行やコンビニではなく、街角にある居酒屋だというのがなんとも奴らしく、間抜けている。どこでもよかったのだろう。強盗を思い付いてからまっさきに目にとまった店へと奴は足を踏み入れた。

 客はなく、店主とその奥さん、老夫婦が仲睦まじく椅子に腰かけ、茶を飲んでいたそうだ。

 三年前、この店の外観は年月の経過を感じさせるに充分な風化が見てとれたという。しかし店内はというと、改装でもしたのか、真新しく瀟洒であったらしい。現に今こうして見渡してみれば、たしかに新しい。一方そのときの奴の格好といえは、薄汚れて、饐えた匂いを全身から立ち昇らせている、そんな浮浪者である。一目見れば、客でないことくらいは判っただろう。奴もそのときの心境を思い浮かべて述懐した。「金があるなら、食事よりもまずは風呂に浸かりたかったよ」

 それはまた、他人からしても同じであり、できることなら身なりを清潔にしてほしい、と希求するものだろう。だがそのとき、老婦は希求するだけでなく、真っ向から要求してきたのだという。

「あんた、臭うから、ちょいと身体を洗ってきておくれ」

 さすがにショックだったよ、と懐かしそうに奴は笑った。あんな面と向かって言われたら、と。店を出て行こうとした奴の腕を掴まえ、老婦はさらに言ったそうだ。

「どこいくつもりだい? 身体を洗ってきなさいって、あたしはあなたにそう言ったの。ほら、さっさとする」奥さんは奴を引っこ抜くように連れ戻すと、うしろに立っている店主へ向けて、「なにぼさっと突っ立ってんだい、あんたはこの子を風呂場まで案内!」

 それからはもう、なし崩し的にその店で働くことになったらしい。奥さんは白々しくも、「なにあんた、これだけ食っておいて支払えないはないだろうに。お金ないのかい? 一銭も? だったら働いて返してもらうよ。ウチはこう見えて常連さんが多いからね、ドラ猫の手だってありがたいんだ」

 半年のあいだ、老夫婦と共に暮らしたそうだ。そのあいだは、ほんとうに楽しかった、と奴はしみじみ零した。

「半年経った雨の日だよ。店を畳むってね、いきなり言われた。オレを拾ってくれる前から決まっていたことだったらしい。奥さん、末期のガンだった。オレ、ほんとに悔しくってさ。だって、学び舎なら、ガンで死ぬなんてありえないだろ? 治療法はあるんだ。なのに奥さんを救うことができない。保持者じゃないからだ。保持者でなければ学び舎の医療を受けることができない。変な話さ」

 ――なあ、どうしてこっちの社会には学び舎のような医療技術や機器がないと思う?

 奴が問うてきた。知らない、と素っ気なく返す。

 クイズの答えを口にするみたいに奴は淡々と言った。

「こっちの社会の医師連盟が拒んでいるからなんだよ。医者いらずの社会を、医者たちが拒んでいる。自分たちの存在意義を奪われるのが嫌なんだ。そんな腐った理由でこっちの社会では、死なずに済む病人が死に、苦しまずに済む怪我人が苦しんでいる。でも、それが一概に医者のせいだなんて言う気もない。医者だって人間だ。職を失えば暮らしていけない。そうなんだよ、こっちの社会には失業者に対しての温情というものが薄すぎる。失業者だけじゃない、あらゆる立場の人々に対しての配慮が足りない。それはまた、他人に施しを与えるほどの余裕がみんなにないからだ。自分だけで精一杯。ゆとりがあったとしても、家族を養うので限界だ。だから医者たちは必死に現在の地位に縋るしかない。そこから落ちれば、あとは二度と這いあがれないと優秀な彼らは知っているからだ。かと言って、保身のために救える人々を救わないだなんて、そんなのはおかしい。許されるわけもない。でも、これもまた複雑だ。ガンやほかの難病なんかを簡単に治療できる――そのことを実際に知っているのは、医師連盟の重役たちだけ。保身を理由に技術を拒んでいるのは、その一部の医療関係者だけなんだ、医者たち個人じゃない。連盟も組合も国だってそうだけど、組織の意向ってのは、それを構成する個人の総意なんかじゃない。組織に都合のいい理屈だ。だから、たとえ医者たちの一人一人が、『この身を削ってでも困っている人を救いたい』と望んでいたとしても、医師連盟という組織はその意志を反映させることはない。組織が瓦解するような主張は到底受け入れてくれない。もちろん、医師連盟の意向に反する者たちが一丸となれば、それはまた一つの組織となって、医師連盟と敵対できるほどの力を得ることができると思う。でも、だからこそ医師連盟は、そうならないように、革命的な技術の存在をひた隠しにしている。それはまた、医師連盟が『R2L』機関と密接な関わりをもっているということでもある。どこだってそうだ。裏を辿るとそこには『機関』が関わっている」

 奴の言葉は途切れない。この三年間、誰にも溢すことのできなかった愚痴なのだろう。吐いて済むことなら吐き出せばいい。ノリマキはじっと耳を欹てる

「民主主義ってのは便利だよ。ようするに多数決なんだから。四九対五一なら、たった二人の違いで、四九名の意思が廃棄される。しかも選択肢が多い場合は、たった二割の支持を得るだけでも主導権を握ることができてしまう。選択肢が多いと、票は分散するからだ。どれだけ選択肢が多くとも、順位はついてしまう。かならず一番が決定する。ただ単に、支持が多い、というそれだけで決まってしまうんだ。そこに理屈の正当性なんて関係ない。だからこそ、詭弁で民衆を騙すなんてことが合理化されるんだ。しかもこの多数決には決定的な矛盾がある。この多数決制度を導入する際、その賛否はどうやって決められた? 多数決をするかどうかを決めるのだから、このときに多数決を用いることはできない。ならどうするかと言えば、そこはもう、権力を持った者の意思が通る。力を持った者が決めてしまう。その力を持った存在ってのが、『R2L』機関だ。だから民主主義ってのは、根本的には民主主義ではないんだよ。かと言って、ならほかに――多数決以外の方法のほかに――なにか良い代案があるのかと聞かれれば、おれはなにも答えられない。今のところほかにはない。だから現状、多数決ってのはもっとも合理的な方法論なんだろう。そこは否定しない。でも、合理的であることと平等であることは必ずしも一致しない。良いように操られているよ、この社会も」

 話の筋がどんどんとズレていくのは、きっと、奴が酔っているからではない。話したくないのだろう。この三年間にあったことを。この居酒屋を引き継いだときのことを。

 だがノリマキは敢えて尋ねた。

「その奥さんってのは、どうなんったんだ?」

 はぐらかすことなく奴は口にした。

「亡くなった。店長も一緒に」

「は? なんでだよ」

「なんでだろうな?」

 乾いた声で奴は笑った。

「あの二人、オレにさ、この店を譲ってくれた。残りの余生を旅して過ごすんだって、そう言ってた……これからの人生を楽しみにしていたんだ。奥さんはオレに言ってくれた。『この店、あたしたちにはもう必要ない、あんたの好きにしていいわ。むしろ維持費だとか除去費がかかってお荷物だからね。もらってちょうだい。煮るなり焼くなり好きになさい』ってね、そんなふうに」

 店内に視線を巡らせると奴は続けた。

「きっとこの店なら、不動産を通さなくたって買い手はついたと思うんだ。でも、せっかくの御好意だったし、オレ自身もなんだかこの店を赤の他人に譲ってしまうのが口惜しく思っちゃって」

 良い店だな、とノリマキは呟く。それがやっとだった。

「奥さんと店長の旅立ちの日だよ。『また逢おう』なんて挨拶されてさ、なんだかお別れに思えなくって。オレもその気になって、『ご来店、お待ちしております』とかほざいてた。その日の夕方だ。店に警察から連絡があった。奥さんも店長も、交通事故に巻き込まれて死んじまった」

 バカだよなぁ、と奴は溢した。額に手を当て、「そんなに死に急がなくなって、待ってりゃいずれ死ぬってのに」

 それからずっとこの店を切り盛りし、糊口を凌いだという。最後となったその日の朝、奥さんに言われたそうだ。

「あたしたちはこれまでようたくさん楽しんだ。娯楽であんたに手も貸した。あたしらにとっちゃあんたは人生のおまけだよ。息子は言い過ぎだが、出来のわるい甥っ子みたいだ。人生、自分がしたようにしかならん。だからあんたも、手の届く範囲でいい。困ってる人いたら、手ェ貸してやんな。それがあんたを豊かにしてくれるから」

 懐は貧しくなるかもしれないがね、と奥さんは呵々大笑し、せき込んだ。その姿が、痛々しかったのだという。

「奥さんに言われたからじゃないけど、だからかな。おれ、助けになってあげたい人たちがいるんだ」奴はまっすぐとこちらを見据えた。「たぶん、おれじゃないとダメだと思うから」

 カップに口をつけたまま、ちびちびと酒を舐める。ノリマキは黙って奴の言葉を待った。

「昼間、ここにラバーが来たんだ」

 タツキのことだろう、と想像する。

「そのとき思った。潮時かなって」

 ――この店、畳むよ。

 奴は微笑み、口を噤んだ。

 コチ、コチ、コチ、と音がする。壁掛け時計だ。そんな場所にあったのか、と今さらながら気づく。

 とりあえず訊いた。

「そのあとは、どうすんだ?」

「助けたい人たちを助ける。もうこそこそするのはやめだ。どうせもう見つかってしまったしな」

 おまえらに――と奴は扉のほうを見遣った。

 

「はやまるなッ!」

 

 叫びながら飛び込んできたのは息も絶え絶えのアズキである。「落ち着け、なにも殺し合うことはなかろう!」

 おまえが落ち着け、と奴と声が揃う。

「殺し合ってるように見えるか、この状況が?」

 アズキが視線を店内に漂わせる。その後、奴の顔へと視軸が定まった。

 そして一言。

「な、なんで出てった」

 ぐふ、と噴きだしたのは奴とほぼ同時だった。

 おまえもそれかよ、と奴が苦笑している。こちらも同感だ。

 空いた席をぽんぽんと叩いて、「まあ、座れって」と彼女へ声をかける。

「私は許してなどおらんからな」

 不貞腐れたように不平を鳴らしながらも、どこか照れくささを隠しきれていない様子の彼女は可愛い。

「おれだって許してない」と奴を睨む。

「う~ん。こまったなぁ」頭をぽりぽり掻くと、とりあえず、と奴は頭を下げた。「とりあえず、すまなかった」

 とりあえずとはなんだ、とアズキが憤っているが、どことなく覇気のない口調だ。

「すまないとは思っている。けれど後悔はしていない。間違ったことだとは思っている。けれど誤った選択だとは思っていない。だから、とりあえず、アラキとアズキ――二人にはすまなかったと謝罪させてほしい」

 下げた頭をなかなか起こさない。

 もうアズキもなにも言わなかった。

 

「ちょっとちょっとぉ!」

 騒がしい声が響いたかと思うと、奴の頭に、ぱしん、とチョップが叩きこまれた。

「え、ミっちゃん!?」アズキが驚いている。

「なんでおまえが?」

 言うと、ミツキが、ぶー、と唇を尖らせた。

「ミっちゃんだって仲間でしょー。なにさみんなしてっ!」

 ミっちゃん、と奴が声をかけた。

 なに、とミツキがご機嫌斜めで応答する。

 ふたたび奴は低頭した。「すまなかった」

「うん」満面の笑みでミツキは言った。「ゆるすっ」

「ありがとう」呟きながら奴は笑みを起こした。

「ミっちゃんが許しても、おれたちはまだ許してないからな」

 うむ、とアズキも頷いている。

 本当はすでにどうでもいいと思っている。

 過去の鬱憤はたった今、ここに四人が揃ったことで、すっかり晴れた。下げる溜飲などはどこにもない。

 それでもこちらがこれまで抱いてきた心労は計り知れない。

 おまえが一言でも相談してくれてさえいれば――その決意を打ち明けてくれてさえすれば――別れを告げてくれてさえいれば――とそう思う。けれど、実際にあのとき打ち明けられていれば、必死に止めただろう。そんなことはやめておけと。

 離反者の処罰は厳しい。それこそ、アークティクス・ラバーの離反者ともなれば、その処罰に狩りだされるのもまたアークティクス・ラバーである。同士討ちは必至。ならばそうならぬように引き止めるのが情というものだ。こちらがそう考えるだろうと見越した上での独断専行、無断決行だったのだろう。

 奴が黙って、たったひとりで離反した理由など解っていた。

 けれど、でも、

 一言くらい――とそう思わずにはいられなかった。おれたちの縁とは、そんなものだったのか。そんな薄っぺらいものだったのかと。

 一方では、きっと奴はおれたちの縁が、別れの挨拶を言わなかった程度で消える縁ではないのだと信じていたからこそ何も言わずに出て行ったのだろうな、とも想像できた。きっとおれたちなら解ってくれる、と信じていたのだ、とそう考えたりもした。希望的観測だとは思わない。以心伝心――そういった腐れ縁に宿るというオカルトにちかい直感に思われてならなかった。

 事実、三年振りの奴は、「どうして何も言わずに、ひとりで出て行った」と問い詰めても、言葉を濁すばかりではっきりと釈明しようとはしなかった。その思わせぶりな態度は、「ホントは解ってるくせに、今さら説明させるなっつーの」と暗に示しているようでもあった。

 アズキの説教がはじまったのも束の間、ミツキが言いだした。

「このお店のお酒、ぜんぶ飲みほしっちゃおー」厨房から抱えられるだけの酒を持ち出してくる。

 奴はなにも言わずにその様を微笑みながら眺めている。

 てんやわんや、とはまさにこのことだろう。口々に愚痴を垂れ、アルコールを次から次へと腹へ注ぎ込んでいく。

 酒豪のミツキ。

 酒に弱いくせに鯨飲のアズキ。

 そしてマイペースのノリマキこと――「元アラキ」。

 下戸のくせして居酒屋の店長こと――「元ノリマキ」。

 四人は今、円を囲んで向き合っている。

 

      ***リバース中~四年前~***

 

 周囲の人間たちが自分のことを「アラキ」ではなく、「ノリマキ」と呼びはじめたのは、アヤモリが学び舎から姿を消した日とほぼ同時期であった。気味がわるいことに、アヤモリの失踪について指摘する者は、言及する者さえ誰もいなかった。

 奴に問うと、「逃がした」と答えたきり口を噤んだ。寂しくないと言えば嘘になることが自分でも自覚できただけに、それ以上、アヤモリの話を持ち出すのは避けた。その後、アヤモリを見たことはない。

「アラキ」という名も「ノリマキ」という名も、当然サイドネイムであり、各々本名はほかにある。相手の本名がどんな名であるかは知らず、また、知りたいとも思わなかった。アラキとしては、本名などとうに捨てたつもりであったし、だからといってサイドネイムである「アラキ」に何かしらの拘りやら愛着やらを抱いていたわけでもなかった。

 それでも突然、他人のサイドネイムで呼ばれだしたことには、大いに戸惑った。みな口を揃えたようにこちらのことを「ノリマキ」と呼称しだした。

「オレはアラキだ」

 何度その台詞を口にしたのかは覚えていない。もしかしたら一度きりでもう二度と口にしなかったような気もする。

 しょせん名前など、自分のためにあるものではない――と、元からそう考えていたアラキである。

 だが、なぜこのような奇怪な変化が生じたのか、そのことだけは看過できなかった。

 こちらのことを「ノリマキ」と呼びだした者たちは、総じてみな、こちらのことを「アラキ」とは認識せず「ノリマキ」だと認識した。固有名詞だけが変わったのではない、存在の認識自体がまるで入れ替わっていた。過去に「ノリマキ」が犯した失敗も、こちらがしたものとしてみんなには記憶されている。

 一方ではやはりというべきか彼らは奴のことを「アラキ」と呼んだ。

 ――オレとノリの存在が反転している。

 ――オレはオレのままで、ノリもまたノリのままで。

 けれど、

 ――みんなの認識の裡側でのみ、おれたち二人の存在が入れ替わっている。

 これはまるで、

 ――浸食だ。

 逸脱者による〈レクス〉の改竄――存在しない人物を存在するように視せることも、人物の認識を歪曲させることも、逸脱者にはできる。意図せずともできるのだから、意図して浸食することもまた可能であろう。

 この仮説がもっとも受け入れやすかった。

 そして、アークティクス・ラバーたちを含めた保持者たち、そんな者たちをも浸食できる人物など――アヤモリ以外に思い付かなかった。

 とすれば、アヤモリをこの学び舎に連れてきておきながら、外へ逃がした奴が、この壮大なイタズラに関与しているのは明白である。なぜなら、アヤモリ(サイト)が学び舎に存在した事実――それもまた歪曲されていたからだ。「サイト(アヤモリ)」というあの町の唯一の証言者は、まったく有り触れた名に記録ごと改竄されており、(これについてはアヤモリではなく、ノリマキが行ったデータ改竄ではあるだろうが、)アラキたちを除いた学び舎の住人たち全員の記憶からは、アヤモリ(サイト)が学び舎で暮らしていたその事実そのものがなかったことにされていた。

 アヤモリ(サイト)を逃がした、だからみんなの記憶から彼女の情報を消したのは分かる。アヤモリ(サイト)は保持者だ。保持者が学び舎から逃げ出すこと、それはすなわち離反である。離反者は厳罰に処されるのが鉄則だ。その処罰を執行するのがアラキたちアークティクス・ラバーなのだから、その危険性は身をもって知っている。

 離反しても罰せられない条件は、二つしかない。

 一つは、『R2L』機関そのものを壊滅させること。

 二つ目は、離反した事実そのものをなかったことに仕立て上げること。

 組織を壊滅させることなど、一個人にできるはずもない。だとすれば、二つ目の、離反した事実そのものをなかったことにするしかない。

 アヤモリ(サイト)にはそれができた。ノリマキはその後押しをした。

 それは納得できる。賛同はできないが、納得はできる。だからみんなの記憶からアヤモリ(さいと)の情報が欠落しているのか、と。

 ただ、なぜオレとノリの存在の認識を反転させたのか――それだけはどうしても解せなかった。

 

「なんでこんなややこしいことを」

 問い詰めても奴は、「すまん。慣れてくれ」と笑って誤魔化すだけだった。

 どこまで意図されていたかは奴がなにも語ってくれなかったのだから詳らかではないが、奇しくもアズキとミズキもまたこのイタズラに気づいていた。「にしゃらはアホか」とアズキは憤慨と動揺を全面にぶつけてきた(その際に生じた些細な誤解が、「決闘」という古臭い行事を誘起させた。その「決闘」が結果としてアラキとアズキの仲を接近させるきっかけになったことは今さら否定する者はいないだろう。当のアラキですらそのことを認めている)。ミツキに限っては、まるで、「おまえも浸食されてんじゃねーのか」と疑いたくなるほど順応していた。

 元来、名前という記号に頓着のなかったアラキであったために、そのままアラキは「ノリマキ」として暮らした。とは言え、そこでどんなに声を荒らげて、「おれはノリマキじゃねー、アラキだ」と言い張っても、大多数の者がこちらのことを「ノリマキ」だと認識している以上、アラキはもう「ノリマキ」として生きるしかなかった。それを面映ゆいと感じたことは幾度かあったが(たとえば、見知らぬ者から、あたかも友人のように慣れ慣れしく親切にされると、どうしても赤面してしまう、といった具合ではあったが)、とくべつ苦痛に感じたことはなかった。

 ひと月もすると、一通り「ノリマキ」として暮らす生活にも慣れた。奴が誰とどういった交友関係にあったか、なども把握した。これまで認識していた通りではあったが、どうやら奴は、多勢との交流を避けてきたアラキとはまるで対極にあった。斟酌せずに言えば、「奴は友達が多い」そして「アラキには友達がいない」である。羨ましいとは思わなかったが、新鮮な体験ではあった。

 

「これ、いつまで続くんだよ」

 アヤモリのいなくなったいま、嘆いたところでどうしようもないことは重々承知であったが、嘆かずにはいられなかった。奴は案の上、「これ、ってなに?」とこちらの口調を真似ておどけるのだった。すっかり奴は「アラキ」に成り切っていた。

 奴がアヤモリを連れて帰還してきた当初に抱いていた違和感はまさにこれであった。奴はすでにあのときから、「ノリマキ」としてではなく、「アラキ」として生きていたのだ。つまり、真似されていた。

 それになんの意味があるのかはまったく解らない。周囲の人間たちは、こちらの言動や行動に関係なく、こちらを「ノリマキ」と認識する。それは奴にしても同じであったはずだ。奴はなんの努力を注ぐことなく、「アラキ」として認識される。それなのに奴は、こちらの真似を継続している。そのことに気づいたのはすでにこの生活に慣れはじめた時期であった。そのために、なんのつもりだ、と糾弾する気もすっかり消え失せていた。

 

 片鉄頭・慄ことアズキは、アークティクス・ラバーとなっていた。学び舎へ移住してきてからおよそ二カ月での驚異的な昇進である。異例の早期就任ではあったが、彼女のパーソナリティ値からすれば必然であろうとも思われた。

 アズキの研修はアラキが担当した。そのころ、奴がまだ帰還して間もなかったからである。奴が任務に復帰してからも、なし崩しにアズキと共に任務を熟すことが常となった。自然、「ふたりで一人前」と揶揄されることもなくなった。「せいせいするなぁ」と奴は憎まれ口をたたいた。

 

 その日もまたアズキとの任務であった。

 この時期にはすでに彼女に心惹かれていた。そもそも「決闘」時に抱いた感情自体が恋慕の念であったと言ってもあながち間違いではない。それでも当の本人が、そんなはずはない、と頑なに認めていなかっただけのことである。それがこのころにはいくぶんも自分に素直になれていた。彼女の一挙手一投足がことごとくツボに嵌まる。言ってしまえば、愛おしい。こんなに他人に興味をそそられるのは自分らしくない、と気を揉むことも少なくはなかった。ややもすればこのとき、アラキは大きく「アラキ」から外れていたのかもしれない。

 

「にしゃも変わったな」

 そうアズキが口にしたのは任務を終えて帰還する段になってからだった。

 時節は冬。今年は初雪が遅かったわりに、例年よりも豪雪だった。なんだか季節がずれてきている――そんな考えも過る。

 街はクリスマスの装飾から年越しの柄へと一変されていた。

 数日前のクリスマス。四人でどんちゃんと騒いだのは苦い思い出となった。こちらが「ノリマキ」の友好を知ったように、奴もまたこちらの情報を期せずして仕入れていたようである。その情報の中には、これまで隠しおおせてきた弱点もあった。まさかあれだけクールぶっていたのに、その実、未だにオバケがこわいだなどと知られたくはなかった。

 オカルトなど信じてはいない。しかし、信じていないからこそ、おそろしいのである。幽霊などの類が真実存在していると知っているのならば、そんなのは犬猫のように当たり前にある存在なのだから、おそろしくもなんともない。むしろ死後もなお自我が保たれると知れるだけ気軽である。だが仮に、存在しないものが存在するとしたら――とこういった想像が畏怖の念を与えてくるのである。「意思ある未知」ほどおそろしいものはない。酩酊した勢いでこのように熱弁をふるってしまったあの日のクリスマスパーティは、忸怩たる以上に慙愧に堪えない失態であった。

 アズキの口にした「変わったな」という呟きは、おそらくそのことを揶揄しているのだろう。そう考えるとおもしろくない。

「そうではない」

 と彼女は柔和に笑った。

「最近のにしゃは感情豊かだ」ゆったりと歩みながらこちらを振り向き、「初めて会ったときのことを覚えておるか?」と問うてきた。

「やたら傲慢な女だな、と思ったよ」

「うむ。その言葉、そのまま返してやろう」

「おれは『傲慢な女』じゃない、男だ」

「うむ。つまらん男であった」彼女は、ぴょん、と跳ねてガードレールのうえに立った。綱渡りのように歩みながら、「なにがそんなに気にいらなかった? 私のなにが?」

「気に入らなかったつーか……なんだろう、胡散くさかった」

 かっはっは、と快活に笑ってアズキは言った。「あんな格好をしておったにしゃが言うか? それを?」

「……便宜上だったんだ」と釈明する。なるべく身体を包み隠してくれる服装のほうが、武器となる紙を隠し持てる。ただそれだけの理由だった。「それを言うならいまのあいつだろ」と奴の服装を揶揄した。

 奴は口調や態度だけでなく服装まで真似するようになった。「気色わるいからやめろ」と指摘しても、「オレはアラキだ。だったらおまえが変えりゃいい」と素っ気なくあしらわれていた。

 以来、あの暑苦しい服飾を着ることはなくなった。その理由の大半が実は、任務の際にアズキが同伴するようになったから、といった色気からくるものであることを本人は頑なに否定している。もっとも、誰からもそのことを指摘されてもいないのにも拘わらず頑なに否定している時点で、本人は半ばそのことを自覚している、と言っても過言ではないだろう。

「あいつは完全にファッションであんな格好してんだぞ」おれと一緒にすんなつーの、と息巻く。

「わかった、わかった」あんまり目くじら立てるでない、と宥められる。まるで子ども扱いだ。

 すれちがう人々は男女問わずアズキの姿に見蕩れていた。当然と言えば当然だ。これだけの美貌でいて彼女はいま、ガードレールを、うしろ向きで歩んでいるのだ。優雅に歩みつつ、会話している。その端整な容姿と奇抜なアクションを一緒にされては、見るなというほうが酷である。

「目立ち過ぎだ」と指摘する。

「こまるのか?」

「困るっつーか……」少し嫌だった。

 返答に窮していると彼女が言った。

「私は人に見られるのがそれほど嫌いではない。むしろ愉快ですらある。どんなに白い目でみられようともだ。人に見られるというのは、それだけで私が存在していると知れる。こうやって大勢のなかを歩むだろ。そうするだけで私は――多くの者に認識されるだけで私という存在は――私を認識した人物の数だけ存在できる。私は私でありながら、私ではない私が無数に複製されるのだ。とても愉快だとは思わぬか?」

 なんの話だ、と返すと、「私の話だ」と彼女は夜空を仰いだ。

 ビルとビルの合間を、闇が天の川のようにながれている。

 ネオンの光に怯えた星たちはすっかり闇に引っ込んでいた。

「そろそろ戻るか」切りだすと、「もうすこしだけ」と彼女が夜空を見据えたままで呟いた。

 彼女の吐く息が白い。もくもくと空へ昇って、吸いこまれていく。

 ――もったいない。

 ――あんなにきれいな息が消えてしまうなんて。

 そんなふうに思った。

      □■□『異化されている』■□■

 

 湯船に浸かっている。

 外の喧騒へ耳をそばだて、なにともなしにこのまま、しんしんと、どこかへ溶け込みたくなった。

 この身体を離れて。

 僕の意識を。

 どこかへ。

 言ってしまえば僕は、死のうと思ったのだ。

 今になっては信じられないことだし、莫迦らしくも狂っているとすら思えるのだけれど僕は、ふと急に、死んでみたくなったのだ。

 もちろん死後の世界など僕は信じていないのだから、死んでしまえば身体を離れるだとか、意識を溶け込ませるだとか、そんなことにはならないし、そもそも生きているうちに意識が身体を離れることすらもないのだと僕は知っているのだけれど、それでもなぜかそのとき、僕はふと、本気で死んでみようと思ったのだ。

 確かに本気だった。本気で僕は死のうと思っていた。あらん限りの意思を総動員して、自分だけの力で死のうと思った。だからして、お湯に頭を沈めて水死だとか、首を括っての窒息死だとか、ナイフを使っての失血死だとか、そういった、自分以外の力を借りて死ぬことは断固として嫌だった。僕は僕だけの力だけで死にたかった。それくらい本気だった。いや、どこかで僕は自分を信じていなかったのかもしれない。どうせ気紛れなのだろう、と心のどこかで僕は僕を見下していたのかもしれない。

 だから僕は、自分へ向けてこれが本気なのだとそう知らしめるために――つよい意志を以っての死への渇望なのだとそう知らしめるために僕は――息を止めることで死のうと決めたのだった。

 手も何も使わずに、死のうと思う意志の力によって、死のうと思っているこの意志のつよさを示すために、僕は限界まで息を吐いてから、息を止めた。

 ものの十秒で肺が息をしようとノックしてくる。

 はやくあけて、はやくあけてよ、と急かすように。

 僕の肺は、僕の意思へと訴えかけてくる。

 くるしかった。

 僕の肺は、ぎゅ、ぎゅ、とノックを強くした。

 それに連動して気道が、きゅう、きゅう、と圧縮する。

 苦しかった。

 とてもとても苦しかった。

 けっきょく僕の意思は、死のうという意志を曲げた。

 死ねなかった。

 僕は身体の訴えに耳を貸したのだ。

 莫迦め、なんてことを。

 深呼吸をしながら僕は、僕を戒めた。

 僕の意思など関係がなかった。

 僕の身体は僕の意思とは関係なく、生きたがっていたのだ。生きようと必死に僕へ訴えてきたのだ。苦しさとして精一杯に訴えてきたのだった。

 このままでは私は毀れてしまうよ。

 このままでは死んでしまうよ。

 私は生きたいのだ。

 お前がどう思っていようが、私は私の動ける限り、生きたいのだ。

 僕の身体はそう叫んでいた。

 息をしてくれ――と。

 生きてくれ――と。

 その叫びは僕へ、「苦しさ」として伝わった。

 僕は身体の叫びに負けたのだ。

 僕は苦しさに負けたのだった。

 僕の意志は、身体の意思よりもつよくはなかった。

 僕の意思は、身体の意志に屈した。僕の完敗だった。

 なにせ、何度か挑戦を繰り返したのちに、すっかりと僕は、死のうとなんて、ちっとも思えなくなっていたのだから。

 確かに本気だったはずなのに。

 なのに僕は、死ぬことを諦めてしまった。

 僕は、身体に平伏した。身体が生きようとしている限り、きっと僕は生き続けるのだろう。

 僕の意思とは関係なく。

 僕は生きている。

 僕は知った。

 生かされているのだと。  

   第四章『ほだされるみんな・解かれぬ因果』

 

 

      ◆わたし◇


 なんだかずいぶんと、なごなごとした雰囲気ではなかろうか。

 裏口のすき間から聞こえてくる喧声はまるで宴である。なにたのしんでやがんだよぉ。しんぱいして損した。

 居酒屋「こうちゃん」までもどってきたはよいが、中々どうして入りにくい雰囲気である。

 ミツキさんを追いかけるかたちで学び舎を飛びだしたまではよかったのだが、なにぶん、任務外の離脱であるために、ここまで来るのにチューブは遣えない。となると自力でここまで向かわねばならなかったのだが、それにしてもミツキさん、速すぎる。

 そんなこんなで学び舎からここまで辿りつくのに要した時間はざっと三時間。いいかげん、つかれましたよ。

 それでもってまずは偵察、とばかりに裏口にまわったものの、なぜかドアがヘコんでおり、そっと、ひらくのに手間どった。やっとひらいて、店内の様子をうかがうも、そこから聞こえてくる声が和気あいあいとしたものであるから、こちらとしては安堵よりも、「あんだよこんちくしょう」という気がまさってしまった。鬱憤晴らさずにはいられない。

 そこでわたしは、あ~あ、どうすっかなぁ、と悩んでいた。

 数あるユカイな選択肢から最終的に、二択までしぼった。

 あいつらのもとへ、「ただいま参上つかまっつった!」とさけびながら飛びこんでおどかしてやるのが一つ。

 あいつらの無断離脱を「社長」に密告しておどしてやるのがもう一つ。

 どちらがよりあいつらに「ぎゃふん」と言わせられるだろうか、と考えて、いっしっしっ、と可愛らしく微笑むわたしはとてもユカイだ。

「あ、ドロボウ」

 と背後からの声が届き、思わず身体が飛びはねた。

 振りむくと、よっちゃんがそこにいた。

「ドロボーちゃいますよ」と手で空気をかき混ぜて弁解する。エセ関西弁なのは動揺のあらわれである。とくに意味はない。

 うす明かりのなかで視線が交わる。よっちゃんは、ああ、と声をあげた。「えっとぉ、今朝の……あの、お名前は」

 そうだった、自己紹介がまだであった。「わたしはタツキと申す者。そなたはよっちゃんでしたな。今朝はどうも」

「はいはい、お疲れさまです」と彼女はお辞儀をする。うむ、可憐だ。「で、どうされたんですか? こんなところで、カサカサと?」

 わたしはゴキブリか。せめて「こそこそ」と形容してもらいたいものである。

「いやあね」わたしはベタな言い訳を繰りだした。「忘れ物があったんで取りに来たんだけど、表に暖簾が出てなかったし、看板も灯ってなかったから、今日は閉店なのかなぁって。でも声はするしね。だから様子をね、うかがってたの」

「そうなんですよ」と彼女は声を張る。

 まるで、ちょっと聞いてよぉ、と迫るいきおいである。わたしは続きを待った。彼女は抑揚よくしゃべった。

「今日も私、仕込みの準備で夕方に入ったんですけどね、そしたら店長、『今日でこのお店、畳むことにしちゃいました。急ですまないね。これ、少ないけれど、ほい、退職金。ホントにいままでありがとうね。助かりました』――こんなふうに捲し立てられて、あれよあれよと私、追いだされちゃったんですけどね。そのときは、まあ、腹立ったんで、そこのドア蹴っ飛ばしてそのまま帰ったんですけど。だって、急すぎるもなにも、いくらなんでも急すぎると思いません? ホント、腹立つ。店長のぶんざいで。それで、家に帰ってから、あんなむさい男のことなんてはやく忘れよう、ってちょっとした失恋気分を疑似体験して気を紛らわせていたんですけど、でもそれってすんごく逆効果だったみたいで……その、ふつふつと腹が煮えたってきちゃったんです。やっぱり一発ガツンとぶん殴ってやらないとこりゃ治まらんぞ、って思い立ちまして――それでこうして舞い戻って来たとこなんです」

「はあ。来たとこなんですか……」

 なんだろう、この雑然とした語りは。同意する以外に返しようがない。というか、このドアの陥没はよちゃんの蹴りによる被害であったか。彼女、格闘技かなにかやってらしたのかしら……と若干敬遠したい気持ちが生じた。

「で、店長、なかにいっらしゃいます?」よっちゃんが屈んでわたしのうえから店内をのぞく。でもここから見えるのは厨房の冷蔵庫とポリバケツだけである。けれどミツキさんの陽気なはしゃぎ声や、いつもよりもキレのないアズキさんの説教などが漏れ聞こえている。

「なんです、これ? 宴会ですか?」

 さあ、と首をひねる。

「随分と……たのしそうですね」

 ですね、と同意する。

「なんか、腹立ちません?」

 立ち過ぎてもはやスタンディング・オベーションですよ、と首肯する。

「なんかいやらしいですね、それ」

 失笑されてしまった。これっぽっちも卑猥な表現じゃないのに。

「さてここで質問です」よっちゃんが食指をたてた。

 うんうん、と子イヌのように指示を待つわたしはかわゆい。

「今から私は店長をぶん殴りますが、それは犯罪になるでしょーか?」クイズをだす調子で彼女は言った。

「りっぱな犯罪です」とまじめに答えておいた。文字通り、犯罪なのに立派なのだ。

「では第二問。店長を殴ることは犯罪ですが、しかし店長はドMです。それはつまり、どういうことでしょーか?」

 なんだそりゃ、とわたしは噴きだす。「ドMなら、まあ、いいんじゃない」

 くだらなすぎて考える気も起きない。

 よっちゃんはにっこりと頬をゆるめると、

「では、まいりましょう」

 芝居がかった口調でドアを開けはなつ。

 思い切り蹴り飛ばすようにして、

「おらおら、出てこいや、クソ野郎ッ!」

 とドスのきいた怒声をあげて突入していった。

 ………………って……どちらさま?

 もしかしたら彼女は多重人格者かなにかではなかろうか、と疑ってしまうほど様になっていたし、また、これまでの彼女からは想像つかないほどに荒々しかった。わたしは目が点になっていた。どうなってんだい、さいきんの若者は。よっちゃんが舞台女優である可能性もすくなくはないが――にしても店長といい、よっちゃんといい、ギャップって……こわい。

 

 よっちゃんが乱入した直後。

 糸が張ったような静寂が店内を満たした。

 一転して、爆笑。

 なにが起ったのだ、とおくれてわたしも突入した。

 ノリさんが引っくりかえっていた。赤面をかくすように平然と起きあがって一言。

「……ころんだ」

 一同さらに爆笑。

 ははぁ~ん。わたしはひと目で状況を察した。

 よっちゃんは保持者でもサポータでも逸脱者でもない。ただの一般人だ。彼女から波紋は発せられていない。そんなよっちゃんが驚天動地のごとく乱入してきたのだから、いくらアークティクス・ラバーの面々といえども心臓がばくばくと鳴らないはずもない。完全に意表を突かれていたはず。ただ、その動揺をどこまで表面へ露呈させるかは、個人差があったようだ。

 テーブルには、すわったままの店長とミツキさん。こちらは案外に平然としている。ミツキさんに至っては、ひゃっひゃっひゃ、と横隔膜を痙攣させて、眼ににじんだ涙をぬぐっていた。

 テーブルのおく――入り口のほうでアズキさんが浮きあがるように現れたことから、彼女が咄嗟に浸透したのだと判る。さすがはアズキさん、冷静だ。戦闘態勢と逃走経路の確保、その両方を瞬時に選択していた。

 そして、きょとんとしているよっちゃんの視線のさき――ゆかに這いつくばっていたのがノリさんである。よこには椅子がころげている。

 おどろきのあまり、引っくりかえったのだ。

 我が上司ながら、なさけない。

「いや、あれだ」ノリさんが口をひらいた。「別にな、オバケだと思ってビビったとか、そういったことじゃねーから。ただちょっとコケただけっつーか、まああれだ。ちょっとびっくりしただけですから」

「まだなにも言ってないよ、だれもっ?」ミツキさんがしゃくりを堪えながら言った。「え、なにノリたん? もしかしてまだオバケこわいのっ?」

 一同、ノリさんを直視する。

 赤面したまま、「ちがっ!」とさけぶノリさんの背後で、「わ!」とアズキさんが声をたてた。

「わぁあ」みじかく悲鳴があがる。

 一同、ここぞとばかりに爆笑する。

 腹をかかえたアズキさんが言った。「にしゃ、臆病にもほどがあるぞ」

 ぐぬぅ、と拳をわななかせ、「ちがうっつーの!」とノリさんがわめいている。

 その様がまた、なんともおさない。

 周章狼狽、威厳もなにもあったもんじゃない。

 みんなと一緒になってよっちゃんもまたご機嫌に笑っていた。彼女、他人の醜態が心底たのしいらしい。わたしもひとのことは言えないが、やはり趣味がよいとは言えまい。彼女、真正のドSだ。ただ、矛先がこちらへ向かっていない限り、よっちゃんと共に過ごす時間はたのしそうである。友達になれたらなぁ、とこのとき、ふとおもった。

「笑うなっつーの!」ノリさんが地団太を踏んでいる。その挙動がさらなるツボを刺激する。

 もうやめて、笑わせないで! くるじい!

 笑い死ぬぅ、と涙をぬぐってわたしは言ってやった。「ちょっちノリさん、化けの皮、はがしすぎ」

 それを言うなら、とミツキさんがしたり顔で、「化けの紙、だよっ!」と意味深長に指摘して、きゃはは、きゃはは、と呵々大笑した。テーブルを、ばんばん、とたたいてのた打ち回るみたいに哄笑すると彼女はそのままうごかなくなった。しずかな寝息。はしゃいで、つかれて、ねむくなる。まるで子どもだ。

「さてと」

 つぶやいた店長が背伸びをした。

「オコチャマも寝たことだし、そろそろ本題に入ろうか」 



      ◇ノリマキ◆


 なんだっつーの、みんなして。ノリマキは不愉快であった。

 心臓がまだばくばく踊っている。肝を冷やした思いをしたのに顔面は煮え立つくらい真っ赤である。

 ぷんすか怒っている振りをしているのは八割がた、てれ隠しである。弁解の余地はない。突然あらわれた女性に驚いただけならいざ知らず、腰が抜けてしまったのだから恥辱を抱くなというほうが無理である。だがそれも当然ではないか、と憤りすら覚える。

 薄暗い厨房から見知らぬ女性が、ぐおー、と怒髪天を衝いた勢いで出現したのだから、風に流されてしまいそうなぺらぺらのユウレイよりも現実的でより化け物らしいと思うのは当然の帰結だ。あらわれた女は痩身のうえ長髪で、柳のしたにでも立っていたら幽霊以外のなにものでもない、といった風貌の可憐な女性である。そんな妖艶な女性が、まるで正反対の威勢でもって迫ってきたのだから、そのギャップは相対的に彼女の異質さを際立たせる――ようにノリマキには感じられた。

 儚いくせに脅威だなんて。そんなの「真空」くらいなものである。

 存在しないものが存在する――そういった矛盾然とした事象にこそ畏れを抱くんだおれは、と心でつよく念じた。苦笑したところを見ると、奴には通じたようである。

 さて、と奴は声を張った。「さて、本題だ」

「本代?」タツキが素っ頓狂にボケた。

 つまらない茶々を入れるな、と睨んでやると、「なに読んでんだよ、エッチ」と波紋を盗み読んでいたことがバレた。これまではこの程度では勘付かなかった彼女である。ようやく彼女も、字面でしか判断付かない誤謬を指摘されることの意味するところが、波紋を読まれている、といった蓋然に結びつくようになったようだ。渋面を浮かべながらも、「中々鋭くなったじゃないか」となんだか彼女の成長を喜ばしく思う。

「イチャイチャするな」とアズキが小突いてくる。

 どっちの意味だろう、と考えて頬が緩む。『真面目にしろ』なのか、『嫉妬しちゃうからやめて』なのか。ああダメだ、まだ酔っているようだ、と自覚し、襟を正す。

 やっと静かになったか、とばかりに奴が口火を切った。

「アズキから大体の事情は聞いた。オレに処分の指令が出ているらしいな。それでも、ここにこうしてお前らががん首揃えて酔っぱらっているってことは、要するに、そういうことだと思ってもいいんだな? オレと争う意思がない、とそう思っても」

 奴が一人一人と視線を交えていく。アズキもタツキも小さく頷いた。

 タツキもまた波紋を通してアズキから聞き及んでいるのだろう、どうやらすでに事情を把握しているようだ。一方で、「ユウレイの女性」は、何が何だか、といった様子でこちらの談話を見守ってくれている。雰囲気から、嘴を挟むべきではない、と察してくれているようだ。ミツキだけが、ぐーすかぴっぴ、と寝息を立てている。こいつはホント、気儘だな。

「ありがとう」奴は頭を下げた。「ただ、それだと助かるのはオレだけだ。お前らはここにいるだけでも充分に厳罰の対象――ノリに関しては謀反の容疑までかけられている。そのうえ、指令にまで背くのはまずい。そうだろ?」

 いや、とアズキが反駁した。「指令に関して言えば、大丈夫だ。ノリへの討伐指令はいまのところ私にしか勧告されていない」

「それ、おまえが大丈夫じゃないだろ」堪らずノリマキは指摘する。「おまえはどうなるんだよ」

「どうにでもなろうが」アズキは、かっか、と笑った。

「おまえなぁ……」それでオレたちが納得するとでも思ってんのか、と怒鳴ってやりたかったがよこから届いた奴の冷静な言葉に遮られた。「ありがたいがアズキ、それは駄目だ」

 なにゆえ、とアズキが不服そうだ。奴は続けた。「重要なことは、誰かが救われることじゃない。みんなが助かることだ」

「戯言だ」とアズキが鋭く唸る。

「そうだな」奴は簡単に首肯を示した。「たしかに戯言だ。そんなことはありえない。犠牲のない救いはない。誰かが犠牲になることで誰かが救われる。誰かが苦しむことで、誰かが楽しめる」

 けどな、アズキ――と口調を一転させて奴は謳った。むかしのような語り口で、

「けどな、存在しないからといって、求めてはいけない道理なんてねーんだよ。そういった手に入れたい幻相のことを、往々にしておれたちは『理想』と呼ぶんだ」

「……きれいごとではないか」

 はっはー、と奴は快活に膝を打った。「汚くあろうとするよりか、幾分もマシだっつーの」

 もうそれ以上、アズキは食い下がらなかった。「ならば、どうすればよいというのだ」

 そうだとも、解決策とならなくては、どんな信念もただのゴミだ。

「タツキちゃん」奴は声をかけた。

「ひゃい?」不意に呼ばれて、タツキはうわずった声で返事をした。「なんでございましょう?」

 奴は不敵に微笑んで、

「サイトは今、どこにいるかな?」

「あ、え?」わたしが知るわけないでしょう、とでも言いたげなふうである。「はい?」

「ちょっと調べてくれちゃったりしないかな――タツキちゃんのパーソナリティで」 



      ◆わたし◇


 バレばれであった。

 筒抜けもつつぬけ、わたしのウソや誤魔化しや見栄や虚栄は、すべてつつぬけなのである。あーもう、なにかってに読みくさってんだよぉ。くっそ、金はらえ!

「これだから保持者は。やんなっちゃうよ、もう。これだから」

 ぷんすかぷんぷんと腹を立てながらわたしは深夜の街をつきすすむ。

 店長の「おねがい」は半ば強制であった。あんなひっ迫した雰囲気のなかで、「わたし、知り合いにはこの能力、遣わないことにしているんです」だなんて言えるわけがない。

 唯々諾々とわたしは店を飛びだした。

 サイトウくんはどこかなぁ、としぶしぶパーソナリティを発動する。

 わたしがわたしであるために必要なわたしの信念は、いともたやすく破られた。ああ、さらば純潔。さらば、きよいわたし。悲劇的なわたしはとてもいじらしい。だれか慰めれ。

 わたしの特質は、その対象へ意識を向けるだけで、意図せずとも対象の情報を読みとってしまう。どんな情報がもっとも読みとりやすいかは、個人差があって、一概には言えないのだが、たいていの場合、最初に視える情報は、そのひとの現在の心情である。喜怒哀楽からはじまり、殺意、敵意、害意、善意、欲・怨・願――と、そのひとがもっともつよく抱いている気持ちがわたしには伝わってくる。それはどこか波紋の同調と似ていて、わたし自身にそのひとの気持ちがなだれ込んでくる感じにちかい。あまり気持ちのよいものではない。むやみやたらにこのパーソナリティを行使したくない理由は、すくなからずそういった不快さからくるものでもある。

 だのにあいつらときたら、とわたしは憤懣やるかたない。

「だったらテメェら、やってみろってんだ」

 喩えるならこれは――目んたま見みひらいておきながら、風景を見ないようにするのと同じようなことだ。目をひらきゃ、否応なく映像がはいってくる。しかもその映像のなかの特定のものを意識しておきながら、それを一切見るな、というのは矛盾も矛盾、できるわけがない。それと同じことなのに。だのに「社長」やノリさんたちときたら、「パーソナリティ制御が未熟だからだ」とあくまでわたしに非があるように叱責する始末なのだ。くっそ、グレテやる。ヘンゼルはまだか!

 

 深夜の駅前。ひる間とはちがった形でにぎやかだった。

 昼間の場合、ひと波が轟々と行き交うおとが、それこそ波のうねりのように聞こえている。けれど今は人気がなく、寂寥感がただよっている。しずかな夜に呑まれている。大衆の息づかい――それらが生む喧騒は寸毫も聞こえない。代わりに、アップテンポなミュージックが鳴りひびいている。

 ひぃ、ふぅ、みぃ、と数えていくと、八名ほどのダンサーがガラスを鏡にみたてて、ステップを踏んでいた。

 音量はひかえめである。クツとフロアが、きゅ、きゅ、とこすれる音が聞こえる程度。それでもここは森閑とした駅前である。遠くまで彼らの存在が、音楽と共にどこまでもひびいている。

 そのなかに、ひときわ目を惹くダンサーがいた。

 サイトウくんである。

 まるで彼女の身体から音楽が鳴りひびいていると錯覚してしまいそうなほど、サイトウくんは音楽と同化していた。

 音に支配されるわけでもなく、

 音をぞんざいにするわけでもなく、

 曲にまみれたメロディやリズム、ビート、そういった普段は聞きもらしてしまうような意識されない音たちを、観る者へ気づかせてくれる。

 ――ここにはこんなにステキな音があるんだよ。

 ――こんな音たちみんながみんなで、この曲をかたちづくっているんだよ。

 次からつぎへと身体で音をひろっていくサイトウくんは、まるで指揮者のようであり、また、ミュージシャンみたいでもあった。

 どれくらいの時間、魅入っていただろうか。いくつの曲に、見蕩れていただろうか。

「あ、お姉さん」

 鏡と化したガラスにちいさく映っていたわたしの姿を発見したのか、サイトウくんが駆け寄ってきた。「どうされたんですか、こんな場所で?」

 自分たちの踊り場(フロア)を「こんな場所」呼ばわりとは、中々どうして図太いではないか。むしろあんたこそこんな時間に出あるいて大丈夫なのか。「きみは女の子でしょ、あぶないよ」と説教でもしてやろうと思ったが、おっとっと、わたしもまたかよわい女の子ではないかと思いだし、やめた。

「ちょっと、いっしょに来てもらいたんだけど……」説明を端折って要望だけ述べた。述べつつも、でも、と付け加える。「まだおどるなら終わってからでもいいよ。正直、もっと観てたかったりするし」

 ガラス張りのまえには、ほかのダンサーたちがこちらを見守るように突っ立っていた。きっと彼らもサイトウくんのダンスに惹かれた子たちに相違ない。みなサイトウくんより背はたかいが、若者であることは判断ついた。彼らにダンスをおしえているような素振りがサイトウくんからは微塵も見受けられなかった。それでも彼らはサイトウくんのダンスを間近に視ることで、かってに学んでいるのだろう。それを邪魔するのは野暮というものだ。いち、お姉さんとして。

「なら、あと三十分だけおどらせてもらってもいいですか?」

 サイトウくんはおがむみたいにして手を合わせる。申しわけ程度に上目遣いなのが、これまた、けなげだ。さらに言えば、「待ってくれ」ではなく、「おどらせてくれ」とたのむところが中々どうして粋じゃないか。

「いいよいいよ、気が済むまでおどっちゃいなよ」

「すみません」とはにかむサイトウくんはかわいらしい。きびすを返すがすぐに、あっ、と振りかえり、照れたように、「待っててくださいね」と言い添えた。

 ああもう、食べちゃいたい。いち、お姉さんとして。

「だいじょうぶ。帰らないし、帰さないよ」

 はてな、といった微笑みでうなずくと、彼女はこんどこそ踊り場へもどっていった。

 

 ふう、と溜息を吐く。花壇にこしかける。夜風がきもちよい。

 彼らダンサー以外にひと気はない。いや、遠めにダンサーを見つめている影があった。暗くて覚束ないが、青年のようである。じぃ、とサイトウくんたちに魅入っている。わたしもまたサイトウくんたちのダンスをながめることに専念した。

 

 ここへ来るまえにわたしはパーソナリティを遣った。

 サイトウくんの居場所がここだとすぐに判明した。

 それと同時に伝わってきてしまった情報。

 視たくないに視えてしまう。

 読みたくないのに読めてしまう。

 聴きたくないのに聴こえてしまう。

 触れたくないのに触れてしまう。

 サイトウくんの心境。

 ――消えたくない。

 ただそれだけのつよい祈り。そう、祈りだ。

 志しでもなく、願いでもなく。

 彼女はもう、諦めている。

 なぜ彼女が消えてしまうのかは分からない。それが死ぬという意味なのかも分からない。わたしにはなにも分からない。できるだけ視ずに、読まずに、聴かずに、触れずに済むようにと、彼女の情報を拒んでいたから。

 それでもやはり、伝わってきたつよい想い。

 

 ――消えたくない。

 でもせめて、消えるならせめて。

 ――一目あのひとに逢いたい。

 

 あのひと、というのはきっと店長のことだ。

 そしてたぶん、店長なら彼女のことを救ってあげられるのだろう。なんの根拠もないのに信じられた。なんの根拠もないのだけれど、わたしは勝手に幸せなきもちになっていた。救われたきもちになっていた。

 店長と彼女を逢わせるだけで。

 それだけで解決されるのだと。

 昨日、店長の居場所をサイトウくんへおしえなかった理由は、十割わたしの都合だ。わたしのせいで店長が危険な目にあうかもしれない。わたしのせいで負わずに済んだ深いキズをノリさんが背負ってしまうかもしれない。そんな現場へ、サイトウくんを行かせたくはなかった。

 けれど、サイトウくんはそれでもよかったのだ。

 どんな現場だろうと、どんな現実が立ちはだかっていようと、店長に逢えれば――店長に一目でも逢えれば――それだけでよかったのだ。

 わたしはわたしの勝手な都合で、「わたしのせい」を増やしたくないばかりに、サイトウくんと店長を引きあわせることをしなかった。それが正解だったのかもしれないし、過ちだったのかもしれない。ただ、サイトウくん、彼女にとってはまったくのお門違いの配慮であった――ということだけは確かだ。彼女は店長に逢いたいのだ。自分の最期と向きあったときに、最後まで褪せることなく残っていた望み。それは、自分が消えないことではなく、店長に逢いたいというただそれだけの望みだったのだ。

 その望みを叶えられたわたしが、彼女のその祈りを蔑ろにしてしまった。

 でも、それはきっと、挽回できる。

 今からでもおそくない。

 すぐにでも店長のもとへ連れていきたかった。それでも、おどっている彼女からは、自分が消失してしまうことの畏怖が、きれいさっぱりと無くなっていた。

 彼女からは、夜空のように透きとおった波紋が、まるでミュージックのように森閑としたよるの街にひびいていた。

 おどっている限り、彼女は生きている。

 おどることでそれを実感できるのだろう。安心できるのだろう。

 だったらわたしに、彼女のダンスを妨げることなどできるはずもない。

 おどりたいなら、おどればいい。

 ――すきなだけ。

 それくらいの余裕、あってもいいじゃない。

 これからはもう、ひとりじゃないんだから。

 

       ******

 

 感動の再会――それは当事者たちだけのもの。

 わたしたちは席をはずした。店のそとで待っていた。

 店長とサイトウくんだけが、お店のなか。

「逃げたりしないかなぁ、店長」ミツキさんが寝惚けマナコを、ごしごし、とこすりながらつぶやいた。もうすでに彼女は店長のことを「店長」呼ばわりである。順応はやすぎ。

「だいじょうぶっしょ」とはノリさんのお言葉だ。「仮に逃げたとしても、それはそれで問題はない。伝えたいことは伝えたし、言いたいことも、まあ、言ったからな」語りつつアズキさんへ同意をもとめる視線をおくっている。

「私はまだまだ言い足らぬがな」

「まだ足りないのかよ、説教?」

「あのぉ、みなさん」よっちゃんが久々に声をたてた。「店長、どこかに行っちゃうんですか?」

「まあそうな」ノリさんが答えた。「ここにはもう、いられないだろうからな」

 ああ、と悲愴な嘆き声を発するよっちゃん。「だったら私も、最後に店長に逢っておきたいんですけど」

「さっきあれだけイジメてたのに?」素朴な口調でミツキさんが、「まだイジメ足りないの?」

 おいおい、空気読めよ、とわたしはミツキさんをにらみつける。きっとよっちゃんは店長に告白したいことがあるのだ。青春じゃないか、それをジャマするのは野暮というもの。いち、乙女として。

「もうそろそろいいんじゃないかな入っても」とわたしはあと押しする。「感動の再会に乗じて、あのロリコン店長、サイトウくんになにしでかすか分かったもんじゃないですし」

「そうね。タイヘン」とよっちゃんは意気揚々と扉をあけ、暖簾をくぐり、店内へと乗りこんでいった。

 あとを追う間もなく、ひびきわたる効果音。

 粘土を壁にたたきつけたような音である。

 ついで、

「やめて、もうやめて。二発はキツイ、二発はキツイからッ」と店長の命乞い。

 あちゃあ、とわたしは察し至った。

 よっちゃん、なぐりやがった。ほんきで。店長のことを。

 押っ取り刀で暖簾をくぐると、店長が壁際においやられていた。

 拳をボキボキと鳴らして、よっちゃんが歯を食いしばったままうなっている。「おんだらぁ、こちとらこれまでドンだけ尽くしてきた思うてんのや。それをあんなはした金で済まそうやなんぞ、ずいぶんと都合がええとおもわなんだら」

 あわわ、あわわ、よっちゃんが鬼になっとるでぇ、とうろたえていると、ちょんちょん、とそでを引かれる。ミツキさんが素朴に尋ねてきた。「あれ、何弁?」

 ――知るかっ!

「あ、あのぉ」とおっかなびっくりおびえつつもサイトウくんが、店長とよっちゃんのあいだに割ってはいった。「このひとがお姉さんになにをしたかは存じませんが、このひとに代わってぼくがあやまります」その場でひざをそろえて、オデコをゆかにつけた。「お姉さん、ごめんなさい。どうかこのひとをゆるしてあげてください」

 こんないたいけな子に土下座なんてされたら、ドSのよっちゃんがよろこばないはずがない。まずい、ドS魂に火がついてしまう。

「ちょっと店長!」とよっちゃんがさけんだ。「なんでこの子にこんな最低なことさせるの!」

 いや、あんたがさせたんだ、とはだれも突っ込まない。

「もうもう、いいの、いいのよ。キミがこんな男のためにこんなことまでしなくたって……」なんだかとっても善いひとのような素振りでよっちゃんはサイトウくんを立たせた。店長を、キっ、と見おろして、「ほんと、サイテイ」

 いやいやいや、あんたがそれを言のかよ、とはだれも口に出さない。こんな茶番、さっさと終わらせてほしかった。

 

「あのぉ、よっちゃんさん」おっかなびくり声をかける。「いっぱつぶん殴ったことですし、もう気が済んだんじゃ……」

 こちらを振り向くよっちゃん。口元にゆびを当てて、「う~ん、どうだろう。なんだかまだムラムラしてるんだよねぇ」

 ――欲情しているっ!

「でも、まあ、いっかな」サイトウくんを抱き寄せるとよっちゃんは、「こんな健気な子のまえで、私、暴力なんて振るえないし」とさしずめ聖母のような微笑を浮かべた彼女はまるで悪魔だ。

 今さっき意気揚々となぐってたろうが。

「店長もいつまでも寝っころんでないで」と手を差しだして引き起こす。「ほら、さっさと立った立った」

 いやぁ、まいったまいった、と快活に笑っている店長も店長だ。

 まったくもう、と振りかえると、

「おす、相変わらずチビのまんまだな」とノリさんがサイトウくんの頭に手を置いていた。「まあ、元気そうでなによりだ」

「えっとぉ……」サイトウくんはこまったように店長を見遣ってから、ノリさんを見あげた。「あの……どなたですか?」

 ぶはっはー、と噴きだしたのはミツキさんだ。「ノリたん超ウケル―、忘れられてやんのーっ!」

 さすがにショックだと見えて、「いや、まあ、うん。五年も前だしな」とノリさんはトボトボと壁際へ引きかえした。

「気にするな、ノリ」とアズキさんに慰められているあたり、余計にかわいそうだ。「なに、気にするでない。子どもというのは、ほら、あれであろう。影のうすい奴とか、膠もない相手のことは本能的に忌避してしまう傾向があるではないか。だからほら、にしゃが忘れ去られているなんてことは、当然のことではないか。なに、そう気を落とすな。私がゴキブリを嫌い、日々の生活のなかでなるべく意識しないようにしているのと同じこと。あの子も日常的に、にしゃのことを意識しないようにしていただけのことだ。なるべくしてこうなっただけなのだから、にしゃが落ち込む必要などなかろうに」

 アズキさん……それ、わざと言ってません? そう疑いたくなるほどに思いやりのカケラもない慰めであるが、アズキさんは至極まじめに慰めているつもりなのだから、よけいにタチがわるい。

「ああ。ありがとう……」

 こんな局面でお礼を言ってのけるノリさんはえらい。とは言え、かすり傷が致命傷にまでひろがったことはたしかだ。ご愁傷さまである。

 パン、パン、と両手を打って、店長が注目をあつめる。

「はっはー。はてさて、役者が揃ったところでそろそろ開演の準備と行きましょうか」

 はてなとばかりに一同、「開演?」

「イエス。もうすぐお客さんもやってくるみたいだからね。そうなんだよね、よっちゃん?」

「ええまあ」

 飄々と首肯するよっちゃんはまるで一般人とはかけ離れたオーラをただよわせていた。ただ者ではないな、とは思っていたものの、本当にただの一般人ではなかったらしい。よっちゃんはつづけて述べた。

「向こうが浸透しているので精確な座標はつかめないんですけど、それでもだいたい、三十弱の保持者たちがこちらへ向かってきてますね。たぶん、こっちに気取られないようにって、数十キロ先でチューブから離脱してるみたい。あと二十分ほどでご来店、ってところかしら。逃げるなら今のうちですし、迎え撃つならよほどの策と術がなければ阿呆かなってところですかね。で、店長。私は帰ってもいいの? それとも手伝ってほしい?」

「う~ん、どちらかと言えば、一緒に来てほしい、って感じかなぁ」

 はぁあ、とよっちゃんはわざとらしくぼやくようにした。「しょうがないなぁ、もう」

「はっはー、すまないね」

「ほんとです」彼女は艶笑を浮かべて目をほそめるてから、やれやれと肩を揉みながらこう言った。「働いた分の給料はきちんと戴きますからね」 



      ◇ノリマキ◆

 

 勝手過ぎんだっつーの。

 勝手にいなくなって、勝手に居酒屋なんぞ営んで、勝手に仲直りした気でいて、勝手にことを進めて、勝手にこんな戦略たてやがってからに。

 ホントにこれ……大丈夫なのかよ、と不安でたまらない。

 予定の時刻。

 尖った気配がこの店を囲んでいる。波紋は寸毫も感じられない。

 そんな中で、たった一つの波紋だけが、如実に感じ取れる。まるでこの危機を報せてくれているかのように。糊塗が未熟だ。探るまでもなく馴染みの波紋である。

 ――社長。

 こんなおれたちを見捨てようともしない。それどころか、力になってくれようとまでしてくれている。

 やはりこの戦略、選んで良かった。

 急に、社長の波紋が途絶えた。

 瞬間。

 ぬたぁ、と呼吸が苦しくなる。まるで粘膜に覆われたような感覚だ。

 ノリマキは直感する。

 ――縫合された、この店ごと。

 やがて店の扉が開く。まるで食事をしにきたかのような穏やかさで、奴らが入ってきた。

 馴染みの顔もちらほら見えるが大多数は見知らぬ顔だ。

「敵対する気があるならそれもよかろう」

 開口一番、白髪の男が言った。

「だが、我々はこの通り、ただ酒を飲みに来ただけだ。キミらと同じようにな」

 それはつまり、罰せられずに済む、ということだろうか? こちらは誰も動かない。

「どうだ、我々は三十二名。それに引き換え、キミらは、ひぃ、ふぅ、みぃ、……と七名か。なにか策を弄しておるようだが、ここはすでに包囲しておる。たとえキミらがこの店から脱せられたとしても、その先へは抜けられまい」

「どんだけ大袈裟なんだっつーの。酒飲みに来ただけなんだろ?」

「やめないか」横からアズキの声が届く。白髪に向き直って、低頭した。「勝手な行動、まことにご迷惑おかけいたしました。どんな処遇も甘んじて受ける所存にございます」

「それが――『処分』であってもか?」

 沈黙する。

「まあ、キミらを処分するのはこちらとしても骨が折れる。どうやらキミらははじめから学び舎へ大人しく戻ってくる気であったのだろう? だとすればだ、まあ、罰則は免れずとも、これまでどおりの生活だ」

 なんだ、こんなに気張らなくともよかったのか、と肩の力が抜ける。

「だが、」と白髪の男が語気を強めた。「ここの店主と、そこの娘二人――そこの三名は見逃すわけにはいかん。キミらもそれは重々承知のはずだ」

 そこの三名――店長とサイトとよっちゃん。

 ここは是が非でも異を唱えたいところである。「……ですが」

「四の五の抜かすなッ」突然、奥にいた社長が怒鳴った。勢いよくこちらに向かってきたかと思うと、こちらの胸倉を捻り上げた。社長の押し殺したような低い声が耳元でふるえる。「いいか、貴様らが処分されないのは特例中の特例だ。ここで問題を増やしてみろ、即座に抹殺されても文句は言えんぞ」

「これこれ、ヤナギくん。人聞きのわるい」眼鏡の男が口にした。彼は白髪男のよこに構えている。「抹殺だなんて、そんな無粋な真似はしませんよ。飽くまでも我々が執行するのは、『処分』です」

「すんません社長」ノリマキは小声で唱える。「おれら、やっぱり従えません」

 なぜだ、と眼光を炯炯とさせて社長が凄むようにする。

「それでも、おれらのこと信じて――目、閉じてくれませんか」

 言ってノリマキたちは目を閉じる。観念したかのような仕草に見えたかもしれないし、または何か姑息な策でも張っているような仕草に見えたかもしれない。

「なんの相談かね?」白髪男がしびれを切らしたように唸った。

「ヤナギくん、戻りたまえ」言いながら眼鏡の男からは殺気が漏れている。

 こちらを威圧するためだけの殺気だと判断する。

「社長、はやく目を」と小声で訴える。「どうか、目を閉じてください」

「うるさい、ばか者が」

 社長は言った。「もう、瞑っている」

 

 それは突然やってきた。

 いや、降ってきたと形容すべきか。

 否、それは落ちてきた。

 目を閉じているのでそれがどういった容姿をしているのかは確認できない。波紋もまた感じられない。それでも何が起っているのかは模糊としながらも伝わった。

 奴らがのた打ち回っている。逃げ惑っている。

 天井を破って落ちてきた〝何か〟に怯えている。

 だがその〝何か〟は、こちらには一向に手を出してこない。

 なぜか。

 考えられる答えは一つである。

 ――ノリマキたちが目を閉じているから。

 ――〝それ〟の姿を視認していないから。

 ただそれだけのこと、たったそれだけの違いで、奴らは追いやられ、ノリマキたちは無傷である。

 突然落ちてきた〝厄災〟に対して人は、咄嗟に刮目することはあっても、目を閉じることは稀である。もしくは、反射的に目を瞑ることはあるかもしれないが、それでも目を瞑り続けることは、直視し続けることよりもつよい意思が必要である。

 一方で、こうなることを前以って知っていたノリマキたちが目を瞑り続けることはそれほど難しくはなかった。それに対して、社長は、ただ一言、「信じてくれ」と告げられただけである。それでも社長は目を瞑り続けてくれた。なぜ目を瞑っていながらにそんなことが判ったかと言えば、社長の指が、申しわけ程度にこちらの裾を摘まんでいたからだ。社長が絶世の美女だったら、これほどまでに胸のときめくシチュエーションもなかろうに。苦笑まじりにノリマキは残念に思う。

 社長は、絶世ではなく、少しだけ無愛想な、ただの心優しい――美女なのだから。

 

 間もなく静寂が訪れた。

 瞼を持ち上げる。

 空がひろがっている。

 明け方の空だ。まだ顔を出さない朝日で一面が霞んでいる。

 店内を店内と形づくっていた壁や天井はものの見事に吹き飛んでいる。半径二百メートル四方がまるで更地だ。その崩壊ぶりに呆れるよりもなによりも、

 ――目を瞑った社長って、なんだかセクシーだ。

 ノリマキはこっそり思った。

「社長、もういいですよ」そっと声をかける。

「……うむ」

 顔が赤らんでいる。もしかして息まで止めていたのだろうか?

 周囲を見渡しつつ社長は、

「貴様ら、なにをした?」

「おれらはなにもしてませんけど」

 社長がこちらを睥睨する。ほかの者たちはまだ目を瞑ったまま突っ立ている。

「もう一つ訊くが、タツキたちはどこだ」

 ぎくり、と緊張する。

「や……やだなぁ、ここに、ほら、こうしているじゃないですか」とアズキたちを指差す。

「そうですよ、やだなぁ、もう」と彼女が駆け寄ってくる。

 そんな彼女へ、社長は、本気の回し蹴りをはなった。

 彼女の上半身が宙へ舞う。

 それこそ、紙吹雪が舞うように空へ舞った。

 というよりも、

 紙吹雪が舞った。

 バレばれであった。

「いつから……その、バレてました?」

「店内に入ったときからだ」

 秒殺だったらしい。社長には敵わない。ああ、だから迷わずおれの胸倉を掴みあげたのかと妙に納得する。

「でも、どうして」

 問いながらノリマキはパーソナリティを解いた。

 どしゃり、と人型が一斉に崩れる。

 紙が舞う。

 ノリマキと社長だけがこの場に残った。

 散っていく紙を眺めながら社長は答えた。

「たしかにおまえの影分身ならぬ紙分身は精巧だ。だが、それでも紙は所詮、紙にすぎん。波紋も持たないし、〈レクス〉だって有していない。これだけの保持者が集っていて、感じられる波紋の余韻がおまえひとり分とはいくらなんでも怪し過ぎだ」

 それだけだったらこちらが巧妙に糊塗しているだけだったかもしれないのに、とノリマキはやや不満である。そんな稚拙な推論でタツキの上半身を吹き飛ばしたのか、この人は。

「それに加えて、私は貴様らの稚拙さを十二分に弁えているつもりだ。アラキ、おまえやミツキはともかくとして、タツキやアズキまでもがこれほど周到に糊塗できるものか」

「はあ……なるほど」

 ――って、あれ? 今なんと?

「あの、おれ、アラキじゃなくって、ノリマキですが?」

「現ノリマキ、だろ。久しぶりにノリマキの奴にも逢いたいしな。で、あいつらは今、どこにいる?」

 バレばれもバレばれじゃないか。この人は、もう。なんだってこの五年間、知らん顔しておいて、その実、全部お見通しだったってか? ふざけんじゃねーよ、と可笑しさが噴き出した。

「社長」と呼びかける。ワンレンの髪が風に靡いている。「ちょっとおれ、惚れちゃってもいいですか?」

「餓鬼に興味はない」

 瞬殺だ。社長には敵わない。

「それと、今の台詞、冗句でもアズキのまえでは口にするな」

「言いませんよ」と苦笑い。

「ならいいが。でないと、殺される」

「いや、大丈夫ですよ。拗ねるくらいが関の山です」

「おまえじゃない。私がだ」

 ――へ?

「言わないのならそれでいい。くれぐれも、アズキに嫉妬させるなよ」

 ――へ? へ?

 靡く髪を手で押さえる社長はやや苛立った口調でみたびこう口にした。「で、あいつらはどこだ?」 



      ◆わたし◇


 ノリさんをのこして、わたしたちは居酒屋「こうちゃん」を後にした。

 その際に初めて目の当たりにしたノリさんのパーソナリティには、ひどくおどろかされた。店内のおくにあった店長の蔵書がまたたく間にわたしたち六名分の影武者へと成り変わったのだ。そっくりとか、そういった次元ではなかった。まさしく分身だった。とは言えど、わたしに限っては、もうちっと実物はふつくしくうるわしいのだが、まあ、ノリさんにしては及第点――わたしのことをよく観察しているなあ、と褒めて遣わせるにやぶさかではない。

「紙芝居、しっかりやってくれよ」

 そう告げて店長は手を振った。「また、あとで」

 おう、と応えたノリさんを残し、わたしたちは店を離れた。

 そこからなにがどうなって、どこへいって、どうしたのか、といった顛末を語るにはあまりにも目まぐるしすぎて、わたしにある超高性能情報処理能力のキャパシティを大きく上回ってしまい、生憎と語るに尽くせない。

 だって、わたしと店長はたった二十分ほどで、あっち行って、こっち行って、あれを置いて、これを持って、またあっちにもどって、こっちへ出向いてからこれをそこに置くと、つぎは全身タトゥだらけのお姉さんに逢いに行って、彼女から三匹のサルの置物を受け取ると、「リックによろしくね」と店長がキスされていて、なんだかわたしはすっかり蚊帳のそとだし、タトゥのお姉さんはやたらセクシーだし、圧倒されたままなにも言えずにただただ閉口して店長のあとを追ってタトゥのお姉さんに指示された場所までいくと、今度はやたらロリータな女の子がいて、店長が「今日はなに色かな?」と超絶に変態クサイ台詞を投げかけるとロリータなその女の子は、「ムショク。気をつけて」とだけ告げて手を振るんだがそれがまた反則的にかわいくって、またもやわたし蚊帳のそとだし、店長はなんにも説明してくれないし、ロリータな女の子は女の子で去りぎわに大声で、「またあそんでね」と超絶かわいらしくさけんじゃって、それに対して店長が気障に手を振り返していたのをなんだか面白くないきもちで眺めていたことは覚えているのだけれど、実際問題、「パンツの色が無色ってそれってなんかやばくない?」みたいな疑問を消化しきれないままにつぎに辿り着いた場所は、やたらパンクな野郎どもがうごめいている轟音うるさいことこのうえないクラブのなかで、その店の一番おくのトイレの棚へ、タトゥの女性から戴いたサルの置物を、そっ、とお供えするみたいに置くと店長はやたら陽気に、「はっはー、なんとか間にあった。あとはもう、果報は寝て待て、ですよー」とようやくわたしに話しかけてくれて、わたしはもうほとんど涙目で、「やっと終わりですか」と祈るような気持ちで店長のうしろに付いていくと、最終的に、やたらと古くさい骨董屋さんへと出向いていたのは実のところわたしと店長だけではなく、「その店自体が骨董品だよね」みたいなこの骨董屋さんにはすでに、アズキさんたちも出揃っていて、あとはもう、なにが何だか、といった様子で、店長のお言葉――「果報は寝て待て」をみんなで実行あるのみ、となったはよいが、あれあれ?――「わたし別にお伴しなくてもよかったんじゃね?」みたいに思っていると案の定、「で、タツキさんは何しについてったの?」とよっちゃんさんにツッコまれて、わたしはもう、もう……足はぼうだし、疲労困憊だし、満身創痍だし、泣きたくなるしで、悲惨だよぉ、「くっそ店長、おまえのせいだ」と見遣ると店長は、ぐーすかぴっぴ、と寝くさっていた。

 はあ?

 殺すぞ。

 いや、ほんきで思ったわけ。生まれて初めてほんきで殺意を抱いた記念すべき瞬間。わたし、ここまで非道になれるんだって、ちょっと自分が信じられなかったくらいに、本気で店長を憎々しくおもったの。だから寝ている店長のはなをつまんで、くるしそうに寝がえりを打つその様をゆかいげに見守っていたのは、そうだともさ、とっても仕方がないことだと思うわけ。

 熟睡している店長のはなを摘まんだり、頬をつねったり、つんつん突っついたりしながら、うりうり、ともてあそんでいると、やがて社長を引き連れたノリさんが、この骨董品のような骨董屋へやってきたのだった。

 

      ***

 

 ノリさんが到着したことで、全員がそろった。社長が増えたことでむしろ、完全体になった、といった趣がある。

 ただでさえせまっこい骨董屋は、すっかり満員電車の様相をなしている、というのは言いすぎにしろ、定員オーバー感はぬぐえない。骨董屋の二階にあたる和風の部屋(と言っても、天井からはシャンデリアが垂れさがっており、洋風とも和風ともつかない歪な室内であるが、畳みとふすまに囲われているので、和風ベースの部屋と判断する)。そこに今はみんなで輪を描いてすわっている。座布団はない。中心には店長が未だにでんと寝くさってやがる。

 いいかげんに起きれ、と足蹴にしてやった。

 むう、とうなる店長。まだ起きない。よっちゃんにも蹴られてようやく起きあがった。ちょびっとだけ不機嫌そうなのは、わたしたちに蹴られて起こされたからではなく、ただ単に寝起きがわるい気質なのだろう。思えば、わたしと飲み明かした昨日から、店長は一睡もしていないのではなかろうか、そりゃあ眠いわなぁ、と気遣いながらも、「しっかりしろな」ともういちど蹴ってやった。

「イタイ。やめて」

 素のかおで言われてしまった。

「ごめんにゃさい」

 

 こほん、と咳払いがひびく。社長が立てていたひざを、すっ、と正座へと折りかえていた。

 自然、みんなの視線が社長へあつまる。と同時に、半ば反射的にわたしたちも正座へと移行する。よっちゃんとサイトウくんとミツキさんの三人だけはくつろいだままの姿勢だ。

「自己紹介は不要だ」

 社長は儼乎とした態度で口火をきった。「各々、これまで独自に行ってきた活動があるだろう。しかしそれに関しての情報交換もまた不要だ。さらに言えば、これまで各自がそれぞれに抱えてきた隘路の報告――そういった愚痴の溢し合いは不要である以上に余計だ。そんなものに貸す耳など、生憎と持ち合わせていない」

 辛辣だ。でも、この痛烈な語り口はわたしたちを冷静にさせてくれる。一同、社長の言葉に耳をそばだてる。

 わたしたちを、ぐるっ、と見渡すと社長はつづけた。

「私がまず知りたいのは、あの居酒屋で何が起こり、あの場にいたアークティクス・ラバーたちがどこへ消え、そして我々はこれからどうすべきなのか――そういった現状の把握と、そこから考えられる危惧の払拭だ。まずは現状の把握から」

 ノリマキ、おまえから話を聞きたい――と社長は店長へ視線を向けた。まるで射抜くようなつめたい眼光だ。

 店長はこまったようにノリさんへめくばせを送っている。

「すいません、社長」とノリさんが言った。「あの、まずはおれから説明させてくれませんか」

 よし話せ、と社長は眼力でうながした。

 神妙にうなずくとノリさんは唐突に、ある男の話――「片鉄頭・慄幻」の話をはじめた。こちらの社会では「生きた化石」とでも呼ぶべき伝説となっている男である。

 なぜそんな男の話を今ここで、とわたしはいぶかしむに余念がない。一方で、顔をしかめているのはどうやらわたしだけらしく、みんなはノリさんから紡がれる説明の一言一句を漏らさず拾いあつめようと真剣な表情だ。

 わたしも負けじと眉間のシワを引きしめた。

 

      ***

 

「――『誰にも、なにものにも干渉されない』なんてのはありえない。なぜかって言やぁ、『おれに干渉するな』といった禁止を強いている時点で、それもまた相手への干渉だからだ。んでもって、ジジイの場合も同様だ。『姿を視られた相手は誰であろうと殺す』――これっつーのは言い換えれば、姿を視られた相手に、ジジイ自身が縛られているっつーことでもある。そんなのぜんぜん自由じゃない。我が儘でもない。まあ、この疑問をむかしジジイにぶつけたことで、おれはジジイと袂を分かつことになったわけだが――まあ、そのことは置いとくとして。結論から言えば、自分のルールに頑固な者ほど操るのに楽なことはねーよな、っつーことで。あのジジイが姿を視られた者を必ず殺すってんなら、ジジイに殺される前に任意の場所まで移動すれば、ジジイを誘導することができるってことになる。まあ、その場合、大きな問題が二つあるんだが――。一つは、任意の場所に辿りつくまでに殺されちまうかもしれないって点。そんでもう一つは、トンデモねー男に命狙われちまうって解ってんのに、誰がそのオトリ役をやるんだっつーの、って点だ。でもその二つは、おれのパーソナリティで解決だ。波紋を有さないおれの紙兵(分身)は、ジジイからすりゃ一般人にしか視えねぇ。百歩譲って、身体能力の高さから怪訝に思われても、あのジジイならサポータだと結論付ける。まさか保持者の分身――要するに、おれが放った遣いだとは絶対に考えねえ。わざわざおれがジジイのこと偵察しに行くだなんて、そんな発想すら浮かばないだろうからな。そもそもおれ、ジジイと縁を切ったころにはまだ分身、つくれなかったし。そこまでのパーソナリティじゃあ、なかった」

 姿勢をくずすとノリさんは一息に巻くし立てた。「んでもって、前提問題として、あのジジイがネクタイをしてないとは限らないっつー難点があるんだが――それはもう言っちまえば賭けだったな。つっても、黒と緑以外なら何色でもよかったっていやぁ、まあ、よかったんだけどさ。でもまあ、ネクタイしてないに越したことはねーんだけどな。結局、一番の希望通りにジジイはあいつらを追い払ってくれた。だから、現状としては、おれたちに対する罪状は『組織離反』止まり、ってところだろうな。つっても、勧告される罰則が『処分』だろうってことに変わりはなねーんだけど」

「あい解った」瞼を閉じていた社長が炯眼を見ひらく。「あの片鉄頭が主――あやつが躍り出てきたのなら、我々程度の保持者などが敵うはずもない。要するに、ほかのラバーたちはみな逃げ帰った、と考えて良いんだな」

「ですね」とノリさんが応じた。「ああいや、でも。もしかしたら、その……やられちゃってるかも」

「さすがにそれはない」アズキさんが反駁する。「あれだけのラバーがあの場におっては、さすがのおじい様でもそうやすやすとは横車を押し通せないであろう。大方、今ごろどこかでチャンチャンバラバラやっておるだろうよ。愉快げに二人して」

 あれだけのラバー――それの意味するところは、人数の多さのことではない。アズキさんは、たった一人の保持者を示して、「あれだけの」と言っているのだ。

 わたしたちはみな社長から、波紋を通じて、ある男の情報をおしえてもらっている。ただでさえ戦闘武力の高いアズキさんがその男を「あれだけの」と形容しただけで、その男のやっかいさがうかがい知れるというものだ。

 居酒屋に団体来店してきたラバーたち。

 彼らの中心的存在。

 白髪の老人。

 名を、「サイキ」という。

 数年前、たったひとりの保持者が暴走した。〈ディスク〉――そう呼ばれる保持者だったという。その者が暴走したことにより、組織は壊滅的な損益をうけたらしい。

 ――およそ一世紀ぶりの災厄。

 八十年以上もむかし、同じようにたったひとりの保持者が暴走したことで、組織が壊滅しそうになったことがあったそうだ。そのときは、その保持者が自滅したことで事態は終息したと聞く。

 一方で数年前のその災厄は、サイキの手によって終止符が打たれたそうだ。〈ディスク〉と呼ばれる暴走者をたったひとりで「処分」した男。彼こそがサイキ――わたしたちを処分しに、総勢三十一名ものアークティクス・ラバーを引き連れてきた白髪の老人だ。

 しかし、ノリさんの話からすると、サイキという老人は、徹頭徹尾、わたしたちが仕出かした、「学び舎からの無断離脱」に関して、寛容な態度であったらしい。もしかしたら、身内にはとことん甘い性格なのかもしれない――このわたしたちの上司がそうであるように。

 社長は言った。

「我々はすでに離反者だ。各々に離反の意思がなかったとしても、期せずしてそうなってしまった。離反者のレッテルを貼られた以上、これからは『機関』と敵対する機会がまま生じることになるだろう。だが、幸いにも我々はひとりではない。信頼したいと思える仲間がここにいる」

「社長、くっさーいっ!」きゃはは、とミツキさんが揶揄する。

 意に介するでもなく、むしろどこかおだやかな表情で社長はつづけた。

「我々にはもう、属する組織などはない。ここにいる私たちもまた、組織ではなく、対等なひとりの人間の集まりに過ぎん。束縛する規律も罰則もなにもいらない。ゆえに、これから先、各自好きなように過ごせ。わざわざ集団で暮らす必要などはない。孤立が好きならひとり旅でもすればいい。寂しいのならここにいる友たちと暮らせ。好きなことを好きなだけ、好きな者たちと過ごせばいい。私は勝手に、ここにいる者の無事を祈ることにする。時には節介をやくこともあるやもしれない。そのときは大目にみてくれ」

 わずかに頬をゆるめると社長はわたしたちを見渡す。表情を引き締めなおしてから言った。

「私が許す、各自、好きなときに私を利用しろ。私を頼れ。約束しよう、私は必ず役に立つ。この身、滅びようともおまえたちの楯となり糧となろう」

 和室に満ちる静寂。

 わたしはわなないた。

 ――社長ぉ……!

 ――結婚してくれっ!

 畏れおおくも、プロポーズしたくなるほど社長はいぶし銀にかがやいてみえた。

「ひとつ、提案があるんですが」

 店長が静寂をやぶった。

「できればでいいんですけど、手伝ってくれないでしょうか」

 一同、「なにを?」と視線で問う。

「オレたちの活動を、です」

 

      ***

 

 店長はサイトウくんの背に手をまわした。

 紹介するみたいして、「この子は保持者でも逸脱者でもなく、『覚醒者(ウェイク・アッパー)』と呼ばれる存在です」とにわかに説明をはじめた。

 無表情。冷徹な雰囲気の店長だ。

 社長の手前だからだろうか、慇懃な口調になっている。

「ここ数年――存在そのものが消失する一般人が確認されていることはご存じだと思います。失踪した者の歴史――その者が存在したという事実――それが多くの者たちから、つまり、保持者やサポータ以外の一般人たちから消失している。一般人にとって、失踪者は、存在しないことになっているんです。しかし、実際には存在している。オレたち保持者にも探知できないかたちで」

 わたしのよこから、質問しようと息を張る気配がする。アズキさんだ。

 店長は先回りするがごとく、「いったいどこに存在しているのか」と語気をつよめた。

「いったい失踪者たちはどこに存在しているのか――どこへ消えてしまったのか――オレもそれが解らなかった。でも、この数年、調べてみて判明しました。いえ、仮説の域は出てないんですが、それでも見当はつきました。失踪者たちは、《アークティクス》へと浸透しているんです。オレたちですら到達し得ないほどに深い断層まで」

 みんなの気配がざわめく。わたしだけは、その可能性に気づいていたので、平常心のまま店長の言葉をひろう。

「失踪者の多くは記憶を失くしています。ある日突然、目が醒めたように意識を取り戻すようです。そういった《存在の失踪》から目醒めた者たちを、オレたちは勝手に『覚醒者(ウェイク・アッパー)』と呼んでいます」

 よっちゃんが補足するように嘴をはさんだ。

「失踪から目醒めた者でないと、まず見つからなんです。これまで、結構な数の仲間を――覚醒者(ウェイク・アッパー)たちを捜しだして、情報を与えたり、生活の援助をしてきたんですが……それでも、失踪中の彼らに遭遇したことは一度もないんです。そういった情報も、まったく」

 うなずくと、店長がつづける。

「覚醒者(ウェイク・アッパー)たちには共通して、失踪中の記憶がありません。それまでの自分が、どこで何をしていたのか、そういった記憶がない――いえ、個人差はあるんですが、必ず『失踪のきっかけから覚醒するまでの期間』――その間の記憶がきれいさっぱり欠落しています」

「ほかに特徴はないのか。その覚醒者(ウェイク・アッパー)とやらには?」社長が詰問するような口調で捲し立てる。「波紋の有無は? 我々保持者との違いは? 『暴走』の危険性はないのか」

「暴走したという事例は、いまのところ一件も報告されていません。また、保持者同様に、彼らには波紋があります。パーソナリティもまた有していますが、共通して逸脱者に類似した『特質』です」

「浸食できるのか? 他人の〈レクス〉を?」問いながらアズキさんが柳眉を曇らせている。

 店長が答えるまえに、「そんなところだ」とノリさんが応じた。まるでその話題を避けるような素振りに感じたのは、わたしの気のせいだろうか。「なぜにしゃが知っておるのだ」とアズキさんはいぶかしげだ。割ってはいるように店長が言葉を紡いだ。

「オレたち保持者と覚醒者(ウェイク・アッパー)は異なった存在です。特に顕著な違いは、さっき言ったようにパーソナリティの『特質』と、それから、彼らの存在が曖昧なままだということです」

「存在が曖昧……?」ノリさんが反応する。「どういうことだ?」

「覚醒者(ウェイク・アッパー)はオレたち保持者以外に触れることができない」店長はノリさんから視線を外して、社長へ向き直す。「いえもちろん、物質には触れることができるんですが。けれど、生物には触れられないんです。なぜだかは解りません。いずれにしても彼らはおしなべて、一般人と接触できないんです」

 それだけじゃなくって、とよっちゃんが補足する。

「それだけじゃなくって、失踪から目醒めても――彼らはやっぱり存在しない者として認識されています。いえ、違いますね……認識されないんです。私たち以外のひとたちに」

「一般人の目には映らないのか?」アズキさんが問う。

「はい」よっちゃんが首肯する。「あ、でも、覚醒者(ウェイク・アッパー)のなかには、その姿を顕在化させることができる者もいます。みなさん保持者の方たちが浸透することで姿を霞ませるように、私たちウェ……あっ……じゃなくって…………彼ら覚醒者(ウェイク・アッパー)はその姿を一般人にも認知可能にさせられるんです。もちろんそれはやっぱり、並大抵の努力ではできませんし――そうですね、ただの保持者がアークティクス・ラバーになるくらいの鍛練は必要だと思います」

「一般人には視えないんだな? 大概の覚醒者(ウェイク・アッパー)が。一般人からは?」

「はい。視えないだけでなく、その覚醒者(ウェイク・アッパー)が引き起こす現象――そういったことも含めて認知されません」

「それ、どういうこと?」わたしは尋ねた。視線が集まる。「あ、ごめんなさい」

 たとえば、とよっちゃんは即座に応変してくれた。「たとえば、とある覚醒者(ウェイク・アッパー)が街中で暴れだすとしますね。ガラスを割り、道行く人を棒でなぐり、車を奪って次々と轢いていくんです。それで、一般の方たちから死傷者が多く出たとします。でも、そのことを誰も疑問に思わないんです。視えない何ものかの存在を疑わない。突発性のつむじ風、突然に降りだした雹、欠陥自動車の誤作動――そういった解釈をされてしまう。とどのつまりがですね、覚醒者(ウェイク・アッパー)が及ぼす現象、それ自体もまた認知されないってことなの。一般人の方たちにはどうしたって認識されないのよ」いちど店長を見遣ってから、よっちゃんは噛みしめるように言った。「認識される術を身に付けない限り――そういった術があることを、誰かから教えてもらわない限りは」

「なぜ……、要因はなんだ?」とアズキさん

「つーかだな、大丈夫なのかよ」とノリさん。「言ってみりゃそいつら、なんでもやり放題の透明人間ってことだろ? なんの抑止もなく、放っておいていい存在じゃないんじゃ」

 そのとなりでミツキさんが、「くかー、くかー」と寝息を立てている。寝顔だけはかわいいなぁ、一生寝ていてほしいくらい。

 こうしてむつしい話についていけないわたしは、みんなを観察していた。

 放っておいていい存在じゃない――ノリさんのその言葉に、よっちゃんが俯いたのをわたしは見逃さなかった。

 ああ、と確信する。

 ついで、無責任なノリさんに腹が立つ。

 放っておいてよい存在などあるものか。それこそ、わたしたち保持者だって、サポータだって、一般人だって――人類だって――放っておいてよいわけじゃないのに。自分を棚にあげてなんて言い草だ。でもなにも言えない。だってわたしもまた、自分を棚にあげることでしか、他人に説教なんてできないのだから。

「問題は」と社長が声を張った。「この話を我々へ聞かせたこいつの意図が」とあごを振って店長を示すと、「こいつの意図が、これまでの話からはまったく解らない、ということ。最初に我々へ『手伝え』と言ったな? なにを手伝えばいい? もっと掻い摘んで話せ」

 店長が苦笑交じりにうなじを掻いている。「すみません、もう少し説明させてください」

「手早く済ませ」と社長がすごむ。

「はい」

 店長の表情が引きしまる。

 やっかいなのが、と口上が再開された。

「厄介なのは、彼ら覚醒者(ウェイク・アッパー)が、オレたち保持者からすると、ぱっと見、ただの一般人にしか視えないという点です。ですから、彼らを発見するのは容易ではない、むしろ困難です」

「波紋は?」ノリさんが問う。「波紋を発してんだから、波紋を辿れば済むんじゃないのか?」

 店長はちいさく頭をふる。「覚醒者(ウェイク・アッパー)を見つけたとしても、基本的に彼らは呆然自失としている場合が多いんだ。そのために波紋の起伏が極端に小さい。波紋を頼りにして探知することもまた難しい」視線をノリさんから外して店長は、社長に向き直した。「どうやらその波紋(生気)の薄さは、存在の失踪や記憶喪失による副作用、または後遺症のようなものだと考えられます。初期の特徴としては無気力――この一言に尽きますが、他人とコミュニケーションをとるようになると、次第に溌溂としてくるので、その点に関しては問題ありません。オレたちはそういった意思疎通の可能になった覚醒者(ウェイク・アッパー)たちとネットワークを築いて、『なぜ失踪者たちは失踪したのか』その原因を解明しようと活動してきました。むろん、陰に回っての活動です」

 店長はふたたびサイトウくんの背に手をそえて、

「ですが、この子は特別でした。オレが最初に出会った覚醒者(ウェイク・アッパー)だったことも――この子がほかの大多数の覚醒者(ウェイク・アッパー)と異なった性質の覚醒者(ウェイク・アッパー)であることも――関係ないわけではないんですが………この子にはなるべくこっちの世界に関わってほしくなくて……だからあの人に預けたんですが」

「あのひと?」

 わたしとノリさんとアズキさんの声が重なる。

 社長は呆れたように目をつむっていた。

 ミツキさんもまた、ぐーすか、ぐーすか、ぴーぴーぴー、と目をつむっている。サイトウくんは店長のよこで恥ずかしそうにモジモジしているし、よっちゃんはなんだか罰のわるそうな、弁解したいけれどできないような、そういったむず痒いシワをオデコに浮かべて俯いている。ドSのくせして、打たれ弱いなぁもう。なんだか無性に、イジメたくなっちゃう。

「そう、この子のお世話をね。頼んだの」

 店長は頬を掻きつつこう告げた。

「片鉄頭・慄幻――あの人に」

 

      ***

 

 たとえば、真夏の太陽へむけて、「お日さま、おねがいします。どうかもうすこしだけ、その胸くそアツい陽差しをやわらげてくれませんでしょうか?」と懇願したとして、太陽がその要件を呑んでくれるなどとだれが信じるだろうか。だれも信じたりなどしない。なぜなら太陽とは、たかが人間ごときのおねがいになど、耳をかたむけてくれないからだ。むしろ宇宙空間をはさんだ太陽にまでその声が届くはずもないし、たとい届いたとしても、そもそも太陽に耳などはない。

 なんの話をしているかと言えば、店長の告げたその言葉は、あまりにも荒唐無稽な大ボラとしてしか映らなかった、というわたしたちの認識についてだ。

 斟酌せずに言ってしまえば、わたしたちは店長へ向けて、「うそつけ!」と斉唱していた。

 各々に、想い描いている「片鉄頭・慄幻」の人物像があるのだろうが――それと照らし合わせることすら無用なほどに、「片鉄頭・慄幻」が一介の若造ごときのおねがいを聞きいれた、など、そんなことはあり得ない以上に、あってはいけないことなのである。

 太陽が農夫のおねがいを承諾するか?

 しない以上にそんなこと、あってはならない。

 だのに店長は言う。

「だって、『いいよ』って快諾してくれたんだもん」

 だもん、ってあんた……いいおとなが口にしてよい台詞ではない。

 太陽が農夫のおねがいを聞き入れるなんてこと、本来ならばあってはならないが、あってしまったものは仕方がない。

 事実は理屈よりも真なり。

 店長はふすまに、しんなりと寄りかかっている。「せっかく受け入れてくれたのに」とやさしい目をしながら、「なのに、この子――サイトは、半年前に家出したらしい」

「……ごめんなさい」

 しょぼくれた様子でサイトウくんは項垂れる。

「ああいや、責めてるわけじゃないんだ」ふすまから背を引きはがして店長は弁解する。「ただね、どうしてかな、って不思議でさ。だって、あの人たち、とっても大切にしてくれたんでしょ?」

 ――あのひとたち。

「片鉄頭・慄幻」を中心とした集団――『ONE・HAND・STANDALONE』

 ――独立した隻腕。

 ――通称:「独蛇(どくへび)」。

「無印(ノーマーク)」のなかでも、ひときわ異彩を放つ集団だと聞いている。異彩のなかでは、「異彩でない」ことが異彩を放つことになる。要するに彼らは、割と一般人にちかいかたちで、共同生活を営んでいるとされているのだ。家族を重んじるゆいいつの「無印(ノーマーク)」。それだけにきっと、どの社会の機関も容易には手がだせないでいるのだろう。たった一人の家族のために、ほかのすべての家族がその命を捧げてしまうような集団だ。むやみにヘビのいる藪を突っつく者はいまい――駆除の準備が整わない限りは。

「あの方たちには……はい……それはもう、とっても良くしていただきました」サイトウくんは項垂れたまま話す。「でも、あそこには、…………がいません」

 ごにょごにょと言葉をにごす彼女。

 店長は、まるで解らない、といった調子でうかがっている。

 とてもじゃないがわたしは、黙っていられなかった。お節介だとは分かっているが、「なにが物足りなかったの?」と助け船をだす。

 サイトウくんが顔を起こしてわたしを見た。わたしも見詰めかえす。言ってやれ、と心のうちで唱える。

「あそこには」と店長を見あげてサイトウくんは言った。「だってあそこには……あなたが………………あなたがいないじゃないですか。だってあなたは、いなくなちゃったじゃないですか」

 ぼくを置いて、かってに、だまって――サイトウくんは小刻みにふるえていた。まるで何かをいちどきにたくさん堪えているみたいにして。それでも、涙だけは堪えきれなかったようだ。

 目をまん丸く見ひらいて、店長が固まっている。意表を突かれたような表情がよけいに腹立つ。おまえ、その子の想い、知らなかったんかい。そう突っ込みたくなるほどだ。

「おまえなぁ」とノリさんが呆れたように言った。アズキさんもまたほぼ同時に、「にしゃなぁ」と責め立てるような声を出す。

 二人の声を遮るように、腕を組んだ社長が口をひらいた。「いい加減、黙っていなくなられる相手のこと、考えてやれ」

 『考えてくれ』ではなく、『考えてやれ』と言うところが社長らしい。一方で、彼――店長は、相手のことを考えないような無責任なひとではない。それはわたし以上に、社長たちもよく分かっているはずだ。だから、ほんとうなら、『考えて欲しかった』ではなく、『信じて欲しかった』なのだろう。相談して欲しかったのだろう。

 今、こうして話しているように。

 今、こうして聴いているように。

「ええ、そうします」これからは、と店長ははにかんだ。叱られているくせにどこかうれしそうなのは、断るでもなく、店長がドMだからだ。店長はサイトウくんの頭に、ぽん、と手を置いた。

「ごめんな。これからは一緒にいるから」

 ――置いて行ったりしないから。

 うん、うん、とサイトウくんはくちゃくちゃになった目元をぬぐっている。

 やってらんないよなぁ、まったく。わたしはあわい嫉妬を自覚しながらもどこか微笑ましいこの誓いの儀式に、心癒されていた。

「まとめれば、だ」

 と茶々を入れる風をよそおって、ノリさんが本題への接ぎ穂を添えた。

「おまえの話をまとめれば、おれたちに手伝ってほしいってのは要するに、その覚醒者(ウェイク・アッパー)とやらの援助を手伝ってほしいってことだろ?」

「究明と救援だ」と店長が補正する。

「そうな」でだ、とノリさんはやや真剣な面持ちで、「おれたちはなにをすればいい?」

 そうだともさ。「手伝ってほしい」と言われても、じゃあいったいわたしたちはなにをすればよいのかの具体像がまったく結ばれていない。

 視線をいちどサイトウくんへ当ててから店長は、わたしたちへと巡らせて頭を下げた。

「この子たちを守ってほしい」

 

      ***

 

 ひとはそれぞれにそれぞれの人生をおくっている。たったひとつの道。けれど、その道は、ほかのおおくの道たちと交錯している。ひとたび街中を出歩けば、すれちがう人々の数だけ、道は交差し、また離れていく。その繰りかえしがあるだけだ。二つの直線が交われば、あとは互いに離れていくのみである。

 だがけっして人生は真っ直ぐなどではない。曲がりくねり、歪み、ときには同じ場所をぐるぐると回り、からまっていたりする。

 直線ではない限り、なんども繰りかえし交差する、そういったなじみ深い道もでてくる。その接点の多さこそが縁だ。人と人とを繋ぎとめておく鎖。

 だが、必ずしもその縁が、幸福をもたらすとは限らない。

 

 サイトウくんが家出中のあいだ、彼女はとある事故に出くわしていた。あの公園でわたしと彼女が出逢う前の話だという。

 あのとき、たしかにサイトウくんは「鬼ごっこ」をしていたと言っていた。冗句の一つだろうと気にもとめていなかった。

 けれどサイトウくんは、あのときにはすでに消滅の危機に瀕していた。ずっと窮命していた。今もなお彼女は、消失の影をその身に宿している。

 彼女が出くわしたその事故は、話の概要から判断すれば、『ティクス・ブレイク』に巻きこまれた、といった結論になるだろう。

 それでもそうではないこともまた、サイトウくんから語られた話からは十二分に匂いたっていた。

 

「アレは『人』ではありませんでした」

 店長から促されるままにサイトウくんは語ってくれた。

「保持者でもサポータでも逸脱者でもなくて……ぼくの仲間でもなくて。普通じゃなかった……アレに触れられたひとたちはみんな……消えてしまったんです」

「消えた?」と怪訝に声を発するよっちゃん。彼女もまた今日がサイトウくんとの初対面であったようだ。「消えったって、人間が?」

「はい」

「失踪したってこと?」よっちゃんは重ねて問う。

 つまり、ソイツが失踪者を生みだしていたってことだろうか?

「いいえ。ちがうんです。ほんとうに消えてしまったんです。存在ごと――そのひとが存在した歴史ごと、そのひとが消えてしまいました。失踪とはあきらかにちがうんです」

「どういうこと?」よっちゃんはいちいち噛みつく。なんだかサイトウくんがかわいそうだ。思いつつもわたしは黙っている。触らぬ神に祟りなし。「だとしたら、アナタにだってその消えた人たちの存在を認識することはできないはずでしょ? どうしてアナタには存在しない人が存在したなんて判るの?」

「はい。おっしゃられるとおりです。ですからぼくにある記憶には、『だれかが消された』って、その事実しか残っていません。たぶんですけど、あの場に居合わせた多くのぼく以外のひとたちには、『だれかが消された事実』――それ自体の記憶もないのだと思います。『だれかが消された事実』それを認識することが、ぼく以外のひとにはできていなかった。あのとき、ぼく以外のひとたちは、何事もなく平然としていたんですから。すぐそばでたった今、ひとが消されたのに……。どうしてぼくにだけその記憶が残っているのかは分かりません。ぼくが覚醒者(ウェイク・アッパー)だからなのかもしれないし、もしかしたらいずれこの記憶も消えてしまうのかもしれません――だれが消されたのかを今のぼくが忘れてしまっているように。でも、確実にあのとき、だれかが消されていた。ぼくの思い違いだと言われてしまえばそれまでなんですが……でも、ぼくはぼくに残っているこの記憶を信じたいんです。あのときに視たアレをぼくはどうしても幻覚だなんて思えないんです。だって、アレと目があっただけでぼくは、その場から逃げだしてしまったんですから――アレと関わってはいけないんだって、直感していたんです。なぜかって言えばそれは……ぼくのすぐそばで、消されてしまった人間がいたことをぼくが知っていたからです。ぼくもまた消されてしまうんじゃないか、ってぼくが怯えてしまったから――怯えることがぼくにはできたから――だからぼくはあの場から逃げだした――たったひとりで――ぼくだけが」

 まるで凍えたようにサイトウくんはむねを抱く。ふるえている。

「でも逃げたあと、落ち着いてきたぼくは考えたんです。あのとき、あの場でなにがあったのかを。分析しようと……。でも、ほとんど思いだせませんでした。何度も何度もあたまを抱えて思いだそうとしたんです。でも、どうしても思いだせないんです……」

 あたまを抱えてその場にうずくまる彼女はまるで、精神を病んだ人間のようにみえて、どこかわたしはおそろしかった。べつに、そのときのことを再現しているわけではないのだろう。知らず、わたしの身体もふるえていた。まるまった彼女の背を店長がさすっている。あたためるようにやさしく。

「それから数日のあいだは何事もなく過ごせていたんです。もしかしたらアレは夢だったんだろうか――ぼくの幻覚だったんだろうかって――そう思えるようになったころです。アレがまた、ぼくのまえに現われました。目があった。ヤツはぼくのことを視ていた。じっと視ていたんです。ぼくは逃げました。なにも考えることなんてできなかった。できるわけがないんですよ。アレはぼくを追っていた。ぼくを追ってぼくのまえに現れた。ぼくを消すためにあいつはぼくをのまえに現れたんです。ヤツは笑ってた。ぼくが逃げることをたのしむみたいに」

 部屋は静まりかえっている。

 サイトウくんの声以外、なにも聴こえない。

「ヤツがぼくのまえに現れるようになってから何度目かのことです。ぼくは気づきました。ヤツは、ぼくがヤツのことを忘れはじめたころに現れるんです。ぼくがヤツにおびえているあいだ、そのあいだだけは、奴はぼくのまえにその姿を現さない。だからぼくは必死にヤツのことを忘れないようにするんです。でも、そうしている限りぼくは、ずっとヤツにおびえていなきゃならない。ヤツにおびえているあいだだけがぼくにとっての安息なんです。ヤツのことをすこしでも忘れると――ぼくが安心したり、たのしんでいたりすると――ヤツが必ず現れる。ぼくのまえへ。ぼくを消すために。だからぼくは起きているあいだ、ずっとあのときのあの場にあったことを思いだそうと記憶を掻き雑ぜるんです。あのときの記憶が沈んでしまわないように。ヤツのことを忘れないように。そして、あのとき、あの場で消されたひとのことを思いだすために」

 なんだかサイトウくんの気配がはかない。うすい。

 まるでそこにいないかのような感じさえする。わたしはふたたびこわくなった。このままサイトウくんが消えてしまうんじゃないかってそんなふうにこわかった。

 うずくまったまま、両手をあたまから離してサイトウくんは、手のひらを見つめている。

「ぼくのすぐ側で消されたそのだれかっていうのをどうしても思いだせないんです。通りすがりの他人なのか――ううん、もしかしたらぼくにとって大切なひとだったのかもしれないんです。それなのに思いだせない。いえ、だからこそ思いだしたい、思いだしてあげたいんです。覚えていてあげたいんです……」

 チカチカとシャンデリアが点滅している。まるでサイトウくんの感情に反応するみたいに。影響されているみたいに。シャンデリアに呼応して、この和室自体も明と暗とに振幅している。

「こんなこと言うのは本意じゃないんだけどね」

 とよっちゃんは淡泊に嘴をはさんだ。

「いちおう、確認させてもらうわね。アナタの勘違いってことはない? 逸脱者に浸食されたとか。こんなこと言うと感じわるいと思うんだけど、でも言わせてもらうわね。――なんだかアナタの話、あまりにも主観すぎて、信じられないのよね。たとえば、どうしてその『ヤツ』っていうのは、そんなまどろっこしい真似をするの? とっととアナタを消しちゃえばいいじゃない? なのにアナタが『ヤツ』のことを忘れる度に現れて、そのままアナタが逃げるのを嘲笑う。それって、四六時中アナタのことを観察していないとできないことよね? なんのために『ヤツ』はそんな手の込んだ真似を? ねえ、どうして? だからね、考えられるとすると、やっぱりアナタは逸脱者に『浸食』されちゃってるんじゃないかなって、私はそう思うの」

「それはない」店長が割ってはいった。「この子を浸食できる逸脱者なんていない。この子の〈レクス〉は特別だから」

 どういうことだろう、とこの場の全員が沈思したそのとき――「おいッ!」と社長が叫んだ。はっ、としたように続けてアズキさんも、「にしゃ、どういうつもりだ! ここはッ」

「落ち着いてください、大丈夫ですから」サイトウくんを庇うように店長が二人のまえに立ちふさがる。

 なにがなんだか、といった様子のほかの面々とわたしと熟睡のミツキさん。サイトウくんは店長の背中にかくれている。

「どういうつもりだ、説明しろ!」アズキさんが詰め寄る。「説明次第ではにしゃを賊子と看做すぞ」

「あのぉ」とわたしはおっかなびっくりと手をあげる。「どうされたんですか?」なんでおこってんの、と謙虚に尋ねた。

「まだ気づかないのか!?」アズキさんは半狂乱している。

「ああっ!」とこんどはノリさんが言った。「おれたち……喰われてる」

「なにを?」

「そうじゃない、捕食されてんだよおれたちは」あごで指してノリさんは言った。「サイトに」

 ――ホショク?

 聞き慣れない言葉である。

「なんでまた」とこちらへの説明なしにノリさんは店長へ投げかける。「知らなかったじゃ済まされねーぞ」

「うん。ごめん」

「謝るくらいなら、最初からすんなっつーの」

「そうじゃない。黙っててごめん、ってこと」

「どういう意味?」とこんどはよっちゃんが鬼の形相で睨んでいる。よっちゃんにも内緒だったらしい。

 おいおい、返答しだいじゃ店長、殺されちゃうんじゃ……とわたしは完全に第三者の視点で傍観している。触らぬ祟りにゃ噛まれない。

「だって、こうしておけば安全だから。急に提案してもきっと断られると思ったし。こうやって覚醒者(ウェイク・アッパー)のこととか、説明する時間もなかったし。これだけの保持者が一堂に会していたら、すぐに見つかってしまうだろ組織に。事実そうだっただろ? オレたちがあの居酒屋にいることは露呈していた。そうでなくとも、痕跡がハッキリと残ってしまっていただろうし。それってかなり厄介なんだ。でも、この子の〈レクス〉にいれば、まず見つからない。この子が探知されない限りは」

 ああ、と拍子抜けの感嘆をあげるお三方。社長のみ、すでにお尻を畳にもどしていた。

「あの、すみません。あとでちゃんとお帰ししますから、その……それまでは我慢していてくれませんか」

「いや、害意がないんならいいんだよ」なあ、とノリさんがアズキさんに同意をもとめている。「うむ」とアズキさんはうなずいた。「できることなれば、そういったことは先に断わってもらいたい。正直、これは焦る」

「あの……気持ちわるいんでしょうか……ぼくの〈なか〉って」

「だいじょうぶ」店長がサイトウくんの頭をナデナデする。「社長が気づかなきゃ、誰も気づかなかったくらいなんだから」

 わるかったな鈍くて、とノリさんが憎まれ口をたたいている。「あれ。つーか、おれたちがサイトに捕食されているんなら、どうしておれたちにもサイトの姿が視えてんだ? おかしくないか?」

「うん」それは、と店長は淡々と述べた。「それは、急にサイトの姿が視えなくなったら、それだけでノリ――おまえは捕食の可能性に勘付くだろ? 覚醒者(ウェイク・アッパー)の説明が済むまでは騒がれたくなかった。だからこの子には自分の姿をここに投影してもらっている」

「自分の〈レクス〉に分身を置けるってことか?」

「自分だけじゃない。浸透しながら、相手の〈レクス〉に分身を置くことも可能だ」

「なんか、すげーな。覚醒者(ウェイク・アッパー)って」ノリさんが感嘆しているが、わたしには皆目さっぱりの会話である。

 いや、と店長はサイトウくんのあたまに手を置いて、「この子が特別なだけ」と言った。

 

「それで」

 とよっちゃんがどしりと座った。

 あぐらを組んで、「その『アレ』っていうのは、どんな『ヤツ』なの?」と話をさきに進める。

 ――アレ。

 サイトウくんが「ヤツ」と呼んでいた諸悪の根源だ。

 ――存在を存在ごと消失させる存在。

「わかりません」

「はい?」

「ごめんなさい……わからないんです」

「でもだって、さっきはしょっちゅう現れるってアナタ、自分で言ってたじゃない」

 しょっちゅうとは言ってなかったが、しかし、たしかにサイトウくんは、何度も『ヤツ』が現れた、と言っていた。

「はい。でも、わからないんです」

「どういうこと? もっときちんと話してくれない? ゆっくりでいいから」段々とあけすけに威圧的になるよっちゃん。

「ごめんなさい……」

 サイトウくんは店長のすそから手を離して襟を正した。

「ぜんぶ、影なんです。ぼくが視ているのはぜんぶがぜんぶ影なんです。いえ、きっと目にしているときはきちんと姿を確認してるはずなんですけど、それでもあとで『ヤツ』を思いだそうとすると、人型のシルエットなんです」

「相手の存在がそうさせるのか?」ノリさんが疑問を口にした。「その『影』のパーソナリティにそういった特質があるってことか?」

「たぶん、そうだとおもいます」

「その人影ってのはどんな感じだ?」アズキさんが身を乗りだす。真剣な面持ちで問いを並べた。「性別だとか、身長だとか。体型は?」

「性別はたぶん、男性……だとおもいます。体型は……ごめんなさい、影なので、断定できないんですが……痩身で、背がぼくよりも大きいってことくらいしか」

 サイトウくんの体躯はちびっちゃい。男性なら、彼女よりも大きいのが一般的だ。あまり役にたつ情報とは言えまい。

 

「あい解った」

 緘黙していた社長が口をひらいた。

「要するに、その何者かからこの子を守ればいい。そういうことか?」

「はい。ああいえ、この子だけではなく、できればほかの覚醒者(ウェイク・アッパー)たちのことも守っていただければと。その影の毒牙から」

「ちゃんと説明しろ」社長は眼光をつめたくさせる。「覚醒者(ウェイク・アッパー)自体が狙われていると? その子だけではなく?」

「はい。ああいえ、それもまだ推測の域を出てないんですが……でも、その影は覚醒者(ウェイク・アッパー)を狙っていると思われます」

「なぜそう考える。根拠は」

「はい。それは、その影に目を付けられていながら、この子がまだ消されていない事実――そのことを鑑みますと、そういった結論になります」

 続けろ、と社長が無言で促している。

 こういったときの社長はとくにこわい。こんなするどい眼光で見据えられたら、わたしなんかはいっしゅんで畏縮して、しどろもどろとなってしまうところだが、店長は平然とつづけた。

「この子は覚醒者(ウェイク・アッパー)の始祖です。失踪者となった者たち――そのなかから最もはやく目醒めた者がこの子です。この子が目醒めたことで、次々とほかの失踪者たちも目醒めはじめた。言うなればこの子は、覚醒者(ウェイク・アッパー)の親なんです」

「ふたつ質問する」社長が言った。「ひとつ、その子が覚醒者(ウェイク・アッパー)の始祖だと断定した根拠は? ふたつ、失踪者たちを覚醒者(ウェイク・アッパー)へと昇華させた起爆剤、その火付け役がその子だと断じた理由は?」

「はい。一つ目からお答えします。オレはこの数年、様々な覚醒者(ウェイク・アッパー)たちと接触し、彼らから情報を得てきました。その彼らのなかに、この子よりも以前に目醒めたものがいないんです」

「その者たちと同一化したのか?」

「……はい」

 無茶はするな、と社長は溜息をついた。「分かった。なら二つ目は? その子が目醒めたことが覚醒者(ウェイク・アッパー)の発現に関与しているとは限らない。どんなものにも〝はじまり〟はあるものだ。だがその〝はじまり〟が必ずしも、ことの発端だとは限らない。〝はじまり〟と〝要因〟は必ずしも同じではない。それは分かるな?」

「はい。それはええ」

 社長が指摘しているのは、要するに、『サイトウくんが目醒めたから、次々と覚醒者(ウェイク・アッパー)が現れたのか』、それとも『失踪者がなんらかの要因で覚醒者(ウェイク・アッパー)となり始めた際に、たまたまサイトウくんが最初に目醒めただけなのか』――要因がサイトウくんにあるのかどうか、その是非を問うているのだろう。

「たしかなことではないんです。ですが、彼らから欠けている記憶――空白の期間――それらから推測すると、彼らは一様に六年前の秋に失踪していると判るんです」

 ――六年前の秋。

「なにかあったんですか、その年に?」わたしは店長に尋ねた。

「それがね、特にないんだよ」

「なに言ってんだよ」とノリさんが異を唱えた。「六年前っていや、ほら、ほかの学び舎との共同任務――あっただろ」

「ああ。あれか」

「なんです、それ?」なにがあったのだろう。

「私も知らんぞ」とアズキさんも興味津津のご様子だ。「なにがあった?」

 ノリさんが説明してくれた。

「いやな、『アークティクス・サイド』って学び舎は知ってるだろ? いけすかねー連中だ。高飛車っつーか、謙虚さが足りないっつーか。んでまあ、そこから離反者が出たんだが、そいつがまた曲者でな。そいつたった一人処分するのに出向いたのがおれたちを含めた四十四名のラバーだった。今回、おれたちを捕縛しに来たあいつらよりもさらに多いラバーが、そのたったひとりの保持者相手に召集かけられたってんだから、よっぽどだよな」

 今回、わたしたち七名に対して召集されたラバーの数が総勢三十二名だったらしいことはすでにノリさんから伝え聞いている。ひとり頭およそ五名。一方、六年前に離反したその保持者に対しては四十四名のラバーが当てられていたそうだ。およそ九倍。そう考えると、どれだけ危険視されていた保持者なのかが模糊としながらも窺い知れる。

「で、どうなったんですか?」よっちゃんが結末を予期した口調で訊いた。「何人の犠牲を出したうえで、その保持者を処分できたんです?」

「犠牲者は出なかった」社長が答えた。「その代わり、対象も無傷だ」

「え、逃がしたんですか?」

「逃げられたんだよ」ノリさんが言った。

「それだけのラバーがいて?」よっちゃんが、うぷぷ、と口元に手を当てて、せせら笑っている。「逃げられちゃったんですか?」

「向こうが一枚も二枚も上手だったってこと」店長が言った。「命拾いしたのはオレたちのほうだったからな」

 聞けば、戦闘にすら発展させることもなく、その保持者はたったひとりで、四十四名のアークティクス・ラバーたちの包囲網から悠久と抜けだしたのだという。奇跡にちかい。そのときの指揮官を担っていたのが社長だというのだから、ますます以っておどろきだ。この社長を出し抜くとは只者ではない。

 その失態のせいで社長は厳罰を処せられたのだという。なんて理不尽。社長に厳罰をくだした総括部の連中は、のうのうと学び舎で報告を待っていただけにちがいないのに。そもそも四十四名しか配属しなかったそいつらの判断ミスではないのか。

 わたしがそう憤ると、社長はなんともすずしげな調子で、「いや、私の判断が間違っていた」と述懐した。

「あのとき、私は仲間の安否を優先してしまった。社会秩序のためではなくてな。我々の犠牲を強いてでもあのときは処分を強行すべきだった。私の犯したミスは償い難いほど大きい」

 そんなことはない。そんなことはないが、しかし、わたしがそう反駁したところで、社長は納得しまい。

 だが、

「そんなことはないですよ」とノリさんがさらっと言った。「社長は間違ったかもしれませんが、おれたちは救われました。あの場にいた一般人たちだって誰も傷つかなかった。おれたちは一般人を巻き込まずに済みました。だれかを傷つけなくても済んだんです。少なくともおれたちは社長に感謝してますよ」

「……礼などはいらん」

 社長は顔をそむけた。「だから、礼も言わん」

 素直じゃないなぁ、と思ったのはわたしだけではないだろう。なんだろう、社長って思いのほか、かわいげあるじゃん。

「タツキ、あとで話がある」

 社長ににらまれた。

 むしろ読まれた? やっぱこわい、このひと。

 これまでの話をまとめたうえで社長はさらに問うた。

「六年前になにかが起きた。その結果、失踪する者たち――つまり、失踪者が生まれた。その一年後、この子が目醒めた。それを皮切りに、次々と失踪者が目醒めだす――覚醒者(ウェイク・アッパー)の出現――とこうなるわけだが。それがおまえの推測とどう結びつく?」

「はい」用意していたみたいに店長が答えた。「はじめに失踪者が生まれ、そのあとに彼らは覚醒者(ウェイク・アッパー)となります。ようするに、失踪者は繭の状態であり、覚醒者(ウェイク・アッパー)は成体なんだと思います。だとすれば、覚醒者(ウェイク・アッパー)の卵は何に当たるのか? 一般人を覚醒者(ウェイク・アッパー)とするきっかけは何なのか」

「種を蒔いた者がいたと言いたいのか?」

「そうです」

「なんのために?」

「狩るためです」店長は淡々と告げた。「自分で蒔いた種を、自分で狩るためです」

 動揺が走る。

 店長は断言した。

「この子が視た影――そいつこそが覚醒者(ウェイク・アッパー)の根源です」

 

 店長の述べたその結論は、あまりに飛躍した推論で、けっして論理的な回答などではなかった。けれど、そもそも必要とされる情報が決定的に欠落している、演繹的要素がすくなすぎるのだ。なにもかもが定かではない。失踪者と覚醒者(ウェイク・アッパー)の関係性だって、証明されているわけではないのだ。すべては帰納的な推論によって導き出された砂上の楼閣でしかない。しかし、現在、これほどまでに覚醒者(ウェイク・アッパー)たちの生態を掌握している先駆者が、店長以外にいないこともまた事実である。

 いや、どこかにはいるもかもしれない。

 店長以上に、覚醒者(ウェイク・アッパー)について知る者が。彼らに干渉している者が。

 店長が告げたように、覚醒者(ウェイク・アッパー)の根源――存在の存在を消失させる存在――元凶の影がどこかに存在しているのかもしれない。

 

「あい解った」

 社長がうなった。「要するに、まだなにも分かっていない。そういうことだな? だが、少なくとも、その子の身が危ぶまれている、それは事実だと判断する。ならば私は全力でその子を守ろう。そのうえ、その子の仲間にまで危険が及んでいるのだとすれば、それもまた救いたいと望む」

 おいそいつを起こせ、と社長に命じられてノリさんがミツキさんを蹴り起こした。「うにゃー」とミツキさんはうめいたものの、ふたたび眠りに落ちた。ノリさんは無言でもういちど蹴った。それにしても信じられない。寝ているひとを蹴るだなんて、なんて乱暴な。

 瞼を、ごしごし、とこすりながら、「なにさ、もう」とミツキさんがようやく身体を起こした。

 

「話をまとめる」

 社長は演説さながらに論を結んだ。

「――とある者が覚醒者(ウェイク・アッパー)をつくった。自分で覚醒者(ウェイク・アッパー)を狩るためだ。その子もまたそのうちのひとりだ」と社長はサイトウくんへ視線を当てる。「だが、そのとある者はその子を狩ることはできない。理由は、その子が失踪者を目醒めさせるきっかけとなっているためだ。その子を消すと、その後に覚醒者(ウェイク・アッパー)が生まれなくなってしまう。だから今のところその子が消されることはない。しかし覚醒者(ウェイク・アッパー)狩りは続く。そのとある者が存在する限り。我々はそのとある者からこの子を――ひいては覚醒者(ウェイク・アッパー)たちを守る。そのために、力を貸して欲しい、とこいつは我々へ助力を求めている」

 言って社長は、店長を視線で示した。そうだな、と確認するみたいに。店長はうなずいた。

 社長は続けた。

「だが、強制ではない。頼まれたほうには、断る権利がある。むしろ半端な意志で賛同されては困るだろう。これは言わば道楽だ。これから続くだろう人生に、過剰なスリルを求める者――そんな狂った者のみ、力を貸してやれ。私はこいつと共に莫迦をするつもりだ。きっと莫迦をみることになる。だがそれでも良いという者のみ――否、それを望む者のみ、共に歩もうぞ」

 拍手喝采、したのはわたしのみ。

 ほかの面々は押しなべてみんな渋面うかべてだんまりを決めこんでいる。店長が、さびしそうとも、かなしそうとも付かない様子でかおをほころばせている。サイトウくんは俯いたまま、微動だにしない。静寂に耳をそばだてているみたいだ。

「おれはこんなアホウのために」とノリさんは店長を睥睨しつつ、「こんなアホウのためにこの命、投げだす気なんて更々ない」

 吐き捨ててから、でも、と紡いだ。「社長に付いていこうとは思う。おれは社長の手伝いをしたい。おれが社長に抱いた恩を返したと思えるまでは。おれは社長に付いていきます。社長がそうするってんなら、おれはそうすることを望みますよ」

「聞いてなかったのか」社長は冷淡にかえした。「私は、莫迦をする気がある者のみ、とそう言った」

「ですが、社長」とアズキさんがよこやりを入れた。「ノリマキの主張もたいがい莫迦なのでは? こやつは莫迦をする気がなくとも莫迦なのだから、一緒であろう」

 だな、と首肯しつつノリさんは、

「そう言うアズキはどうなんだ?」

「私はまだまだ其奴に言い足らぬことが山ほどある」と店長を、其奴、呼ばわりしてアズキさんは、「其奴の是正が済むまではしばらく、共に活動することになるだろうな」とサイトウくんに微笑みかけた。

 ミツキさんはどうなのだろう、と見遣ると、

「ミっちゃんは社長にお伴するんだよ」とわたしにもたれ掛かってくる。重い。重いですミツキさん。「タっちゃん、それって失礼だぁ!」と彼女がわめくが、いやでも、重いものは重い。

「タツキはどうすんだ?」いじわるく相好をくずしてノリさが訊いてきた。

「付いてくに決まってんだろ! わたしは社長に一生の忠誠を誓ったばかりなんだっ」

 それに、とサイトウくんの手を取って、「友達がこまってんだ。一緒にいないでどうすんだよ!」

「ふふ」とよっちゃんが手を打った。「よかった。なら全員ね」

「ありがとう」と店長が頭をさげた。サイトウくんも、「すみません。ご迷惑おかけします」と畳みにオデコをコシコシこすりつけた。

「そんなことしないのっ」わたしはサイトウくんを抱き起こす。「関係ないんだよ。みんな、好きでやるだけなんだから。な、もうそんなことしたらダメ。むしろすんな。わたしら、土下座されたくてしてんじゃないんだから。分かるでしょ? サイトウくんだって、店長に土下座なんてされたくないっしょ?」

「……そう、ですね。すみません」

「その、『すみません』も金輪際なし。いっかい言うごとにキスするから」

「はい、すみま……あっ」サイトウくんは両手で口をふさいで、もごもご、と言い直した。「……ありがとうございます」

 わたしにキスされるのがそんなにイヤか。くっそ、グレテやる! ヘンゼルを寄越せ!

 

      ***

 

 言い忘れていましたが、とよっちゃんが両手を打って注目をあつめた。

「覚醒者(ウェイク・アッパー)は食事の必要がありません。ですから、食事を要するみなさんには食費を払っていただくことになっちゃいますので、その辺はご了承くださいね」

「ええぇ……」とミツキさん。「食費って、いくらぽっち?」

 覚醒者(ウェイク・アッパー)が摂食無用であるといった看過するにはいささか異質すぎるカミングアウトには反応せずに、すかさずそう訊き返すところがミツキさんらしい。

「ひとりあたま、月に三〇〇万円ほど入れてくださると助かるんですけど……」

 さんびゃくまんっ!?

 ぼったくり!

 三万円のまちがいではなくて?

「さんびゃくマンエンってどのくらい?」

 素っ頓狂に聞き返すミツキさんもミツキさんだ。まあ、幼いころから学び舎で暮らしているひとはこんなものなのかもしれない。

「おれが謹慎になる前、ミっちゃんに渡した『ガユシン・レパセザリー』の稀覯本――あれがだいたい八千万だったな」

「きゃはは、なんだぁ。ふるっちぃ本、いっさつ以下なんだねっ! ミっちゃん、心配して損した! はした金ってやつだね、さんびゃくマンえんっ!」

 え、ちがうよ。

 なんでだれも突っ込まないの?

 はした金じゃないから。大金だから。三百万円。ひと月の食費どころか十年分の食費だって余裕でまかなえちゃいますから。

 というかノリさん、今なんてった?

 『リザセパ』の稀覯本だと――?

 読ませろよ。ひと声かけろよ。なんでそんな貴重なモンをミツキさんごときに貢ぐかなぁもうッ。信じられん。ほら、店長、あんたもなにか言ってやってよ。いち、ビブリオマニアとして!

「みんな、わるいねェ。ウチ、あんまし資金がなくってね。食費だけでいいから、是非ともよろしく頼みますね」

 あれ、店長……お顔が不気味だよ。なんだか腹黒いかおしているよ。ねえ、だいじょうぶ? ホントに信頼してだいじょうぶ? むしろわたしがだいじょうぶ? ねえ、こいつらに付いてって本当にだいじょうぶなのわたし?

 安心しろ、と社長が唱えた。

 ああ、さすがにたよりになります。

「銀行という場所に行けば、金など腐るほどあるらしい。入り用になったらその都度取りに行けば済む話だ」

 おやおや、と思ったのはどうやらわたしだけのようだ。「あの、預金してあるんですか、社長?」

「ヨキン?」

 きゃはは、とミツキさんが言った。「あのねタっちゃん、お金がないなら取りに行けば済むよねって話なんだよっ! かんたんでしょー?」なんで分からないのぉ、とミツキさんがわたしを虚仮にする。

 はっはー。

 そうだねぇ。

 コイツらがどうなろうとしったことか。

 

「はいはぁーい」とよっちゃんが両手を打ってみたび注目をあつめた。「今日は記念すべき日ですね。心づよいお仲間と出会えたことに心から感謝です。遅ればせながら、私、『香夜乃』と申します。みんなからは『よっちゃん』と呼ばれていますので、『よっちゃん』とお呼びくださーい」

 保育士さんみたいなしゃべり方が中々どうして堂に入っている。

 仲良くしてくださいね、とよっちゃんは腰を折った。黒くながい髪が垂れる。乱れた髪を整えながら頭を起こすと彼女は抑揚よくしゃべった。

「私たちの活動に慣れてもらうために、これからしばらくは私の指示に従ってもらうことになります。おりこうさんにしててくださいね。私、我が儘なひとって好きじゃないの」

 おまえが言うな、とはだれも突っ込まない。いや、突っ込めない。完全にイニシアチブを握られている。よっちゃんはつづけた。

「これから先、当面のあいだは機関と影、その二つを敵視することになります。だからと言って、こちらから仕掛けるようなことはしないでください。飽くまでも私たちは、『安息の日々』をより多くのみんなと共有したいだけなんです。ですから、事を荒立たせるような真似だけはしないでくださいね。戦闘沙汰なんて、まっぴらごめんこうむります」

 ねえねえ、と胡坐を組んだミっちゃんが身体をよこに揺すっている。「ねえねえ、どうすんの? これからー?」

「そうさな」アズキさんが応じた。「ずっとここにいるわけにもいくまい。この子に護られているというのも、なんだかな」と苦笑しつつサイトウくんの頭を撫でていた。

 そうだった、わたしたちは今、サイトウくんの〈レクス〉に〝ホショク〟されている状態なのだ。

 みんなの視線がサイトウくんへと向かう。ちぢこまる彼女。

「そろそろもういいんじゃないかな」と店長に促されてサイトウくんはいったんその姿を掠めた。ふたたび現れると、「どうですか? なにかお変わりありましたか?」と不安げにわたしたちの様子を窺ってくる。

「いや……とくには」

 大きな変化はなにもない。いや、小さな変化すら見当たらない。

 よかったぁ、とばかりにサイトウくんは破顔した。

「とりあえず、」と店長が押し入れから梅干しでも漬けてありそうな壺を取りだして、中身を配った。「とりあえず、これを身に付けていてもらえば、単独行動時に気取られる心配はないでしょう」

 渡されたそれは、言霊である。

「ただ、パーソナリティも遣いづらくなってしまうので、その点だけは気を付けてほしい」

「集団では行動しないということか?」ノリさんが怪訝に問うた。「ここで別れると? 全員で行動せずにか?」

「うん」店長は首肯した。「そのほうが安全だから」

「でも、だったらどうやってコンタクト取れっつーんだよ?」

「各自、連絡はこっちの社会の通信で行おう。一応、オブハートはあるから、バイタル通信もできないことはないけど、そっちのほうが却って危ない」

「郷には入っては郷に従え、か」アズキさんがつぶやく。

「まあ、そういうこと。月に一度は集まろう。会場はここ。日時は追って報告する」

 店長が、よっちゃん、と指示すると彼女は、がさごそ、と押し入れから人数分のメディア端子を取りだした。見慣れない機器である。

「知り合いに横流ししてもらった最新型。サーバも独立型のものを経由するらしくてね、使用しても記録が残らないの。もちろんクライアントはその知り合いのところのを遣わせてもらってるから、そこを押さえられたらお終いなんだけど――うん。でも、まあ、大丈夫だと思うわ。安心して遣って」

 ふむふむ。

 さっぱりわからん。

 さば? お魚ですか?

 暗いアント? うつ病のアリさんですか?

「へえ、便利だね」とはノリさんであるが、ほかの面々はわたしを含めてみな、トンチンカン、といったご様子だ。オブハートなら手足のように遣いこなせる面々であられるが、こっちの社会の機器はからっきし苦手らしい。わたしもまたこの手の話題には明るくない。

 興味津津のアズキさんに、どうでも良さそうなミツキさん。珍しそうにメディアをいじくっている社長はなんだかかわいらしい。

 社長と目が合う。またにらまれた。目を逸らす。

 おう、さすがノリさん。早速なにやら設定しておられる。わたしのもやってもらおう、と声をかけたが、夢中におなりのご様子で無視されてしまった。くっそ、これだからミーハー(ヲタク)は!

 

 よっちゃんを講師として、メディアの操作方法をひと通り説明してもらった。そのあとは、各自、これからどこへ行くかの目処をたてた。店長とサイトウくんはこの骨董屋に留まるらしく、「なにかあったらここに来てください」と申しわけなさそうに言ってくれた。

「あれ、」とわたしはからかい半分によっちゃんへ投げかけてみた。「一緒じゃないんですか? 店長のお世話、しなくていいの?」

「休暇もらっちゃったの」肩をすくめて彼女は微笑む。「行きたいところもあるし。いい機会ね」

「あ、ミっちゃんも行きたい! 連れてってーっ!」

 ミツキさんがよっちゃんのうでに縋りついた。まるで子どもだ。このひと、だれに対してもこんな態度だなぁ。慣れ慣れしいというか、図々しいというか、ひと懐っこいというか、無垢というか……うん、わるいひとと出くわさない限りは安心なのかなぁ、なんて心配してみたり。

「いいわよ。でも、私の言うことには絶対服従ね」

「あいさーっ!」

 ……えっとぉ、うん。敢えてなにも言わない。

「丁度いい。なら二人一組にしておくか」ノリさんが提案した。それから店長に、「なあこれ」と言霊をひらひらと振って、「これ、一人じゃなくたって、二人くらいなら別に問題ないだろ?」

 ノリさんのその懸念の意図するところは、わざわざ訊かずともわたしにも分かった。

 保持者が単独で行動するのと、組みとなって行動するのとでは、天と地以上の差がある。単独の場合と比べ、複数となると、その場に生じるメノフェノン鱗状痕が、たんじゅんに保持者の数だけ、累乗される。保持者のパーソナリティ値が高ければ高いだけ、痕跡がのこるのだ。それはどんなに波紋の糊塗技術が優れている保持者であろうとも変わらない。

 なぜなら、メノフェノン鱗状痕が存在そのものの痕跡だからだ。

 ただし、メノフェノン鱗状痕を計測および検出するには、「機器」と「労力」――その両方が、おびただしく必要となるために、緊急でない限りは、即座に測定されることはない。だから通常であれば、メノフェノン鱗状痕から、こちらの情報が特定されることはないし、居場所が露呈することもない。言霊を用いて、メノフェノンを乱しているのなら、なおのことである。

「二人でも、たぶん大丈夫。でも、糊塗だけは気持ちつよめにしておくに越してことはないと思う。念のためにね」

「常に糊塗全開かぁ……しんどいな」

「私はだれと組めばよいのだ?」アズキさんが社長とノリさんとわたしの三人に目を注いだ。

「はいっはいっ!」とわたしは手をあげて主張した。「わたし、社長とがいいです!」

「うむ」社長がうなずいた。「ならばアズキは『アラキ』と頼むぞ」

 は~あ、しかたあるまい、とアズキさんがこぼしている。が、どこかうれしそうにみえるのはわたしの気のせいだろうか。

 それはいいですけど社長ぉ、と面倒くさそうにノリさんが不平を鳴らした。

「……社長、あの、ですからおれはノリマキです」今はこいつがアラキです、と店長を指差して、「ややこしいのでむかしの名で呼ぶの、やめてくれません?」

 

 なんだか和気あいあいとしていた。これではまるで、これからピクニックへ出かけるみたいだ。そんなごやかさがある。

 それでもこの先にあるのは、お花畑などではなく、影に警戒しながらも影を追い求める、そういった陰気な生活なのだ。

 ――どこにも安住などはない。

 肩をぽんとたたかれる。

 社長の手が置かれている。

「そんなことはない」と社長が言った。「どこかにはある。ないというのならば、それこそだれにだって安住などはない。だから、心配するな。私たちはいつだって生きている。タツキはこれからも、精一杯に楽しんで生きようとしていればいい」

 ――後悔してもよいと思える人生を。

 この言葉だけは、わたしの脳裡に直接ひびいていた。それが果たして社長の波紋なのか、わたしの独白なのかは判らなかった。

 

 ――後悔しないように。

 そんなのはどう足掻いても無理だ。ひとはいつだって後悔する生き物である。理想と過去を、理想と現実を、過去と現在を――そうやって対比させて後悔する。けれど、その抱いた後悔を引きずるか、それとも生きることへの糧とするかは選ぶことができる。

 ――後悔してもよいと思える選択(人生)。

 そうだとも、選べばいい。うじうじしたけりゃすればいい。笑いたければ笑えばいい。いつだってわたしは選ぶことができる。

 そして、これから先も選びつづけるのだろう。

 これまで選んできたように。

 こうして今また選んだように。

 みんなとの縁を切らないままでいることを。

 わたしは選んだ。そして望んだ。

 

 願わくは。

 ――より多くの選択肢(未来)を抱けるように。

 願わくは。

 ――多くのひとが選べる(迷える)ように。

 

 わたしには祈ることしかできないけれど。

 これからは祈るだけで終わらせたくはないのだと。

 気紛れなわたしはひとり悔しく誓っている。

 

 いっときの別れをみんなと笑顔で惜しみあい、それぞれがそれぞれのパートナと共に、ちりじり、ばらばら、三々五々と、それぞれの道をあゆんでいった。

 空をあおぐ。夜明けのそらは朝もやに包まれ。そそぐ寒光はうすくひろがる。

 ――このそらへと通ずる道はあるのだろうか。

 ふと、わたしは思った。

 この世のどこかには虹のように多彩な道があるのだろうかと。

 うみと。

 はまと。

 やまと。

 だいち。

 なぜかわたしはここにいる。 

   第五章『交叉する点在・結ぶムスメに・歪む図面』

 

 

       ◇わたし◇


 駅まえの商店街はにぎわっており、雑踏のなかを縫うようにあゆむ。

 浸透はしない。いや、できない。

 この言霊を身に付けているかぎり保持者に特有の技能を行使することはできない。それでも波紋を完全に遮断できるほどの高等な言霊ではないようだ。

 意識すると、わずかに社長の波紋の余韻が感じられる。息づかいと呼応しているみたいに。

 

 どこへ向かっているのかを尋ねてみても社長は、「着けばわかる」の一点張りで、一向におしえてくれない。仕方なくわたしは質問をかえた。

「社長ってこっちの出身ですか」

 社長が学び舎で生まれたのか、それともこっちの社会でそだち、わたしのようにスカウトされたのかどうかを訊いた。

「そうだ。こっちの出だ。だが家はない」

 家がない――。

 予想外の返答だ……気まずい。

 沈黙を引きずって数歩すすむと、社長が振りむいた。

「実家に寄っていくか? あるんだろ、タツキの家は」

「……ああいえ。わたし、施設そだちなもので」

「なれば、その施設が実家に当たるんじゃないのか」

 なるほど。

 でも、あまりよい思い出はない。

 逢いたいと思えるひとたちが残っているわけでもない。

 わたしが閉口してしまったからだろう、社長はまえに向きなおした。それから唐突に話題をかえた。

「基本的に保持者はみな暗い過去を持っている」

「……そうなんですか?」初耳だ。

「私の偏見だ。そんな統計はない」社長はにこりともせずに言った。「これから勝手に話す。聞きたくなかったら耳をふさげ」

「……はい」

 社長は、トンボの生態を説明するみたいな調子で一息に語った。えらく飄々とした物言いだった。

「アズキはな、赤子のころに山に捨てられていたところを片鉄頭の主に拾われた。捨てられていた、と言っても山に捨てられていたとなれば、それはもう『野たれ死ね』と言われていたようなものだ。手紙もなにもなかったことが逆に、両親に捨てられたかどうかの判断ができないという点で、救いかもしれん。ノリマキのやつは――ああ、いまはアラキ――店長か。やつは、『シヴァ』の生き残りだ。我々組織に親兄弟を殲滅させられた。いや、もう我々は組織の人間ではないのだったな。いずれにせよ、親兄弟のカタキに囲まれて暮らした日々が幸せだったとは到底思えん。むしろどうしてノリマキのやつが、我々に復讐しようとしなかったのか、そのことが不思議なほどだ。まあ、結局あいつは離反したわけだがな。ミツキに至っては、目の前で姉を凌辱され、惨殺された。姉を辱しめた相手は実の父親だ。しかも、その直後に実の母によって、姉は、その父親ともども惨たらしく殺されてしまったのだから救われようがない。ミツキはその凄惨な光景を、半日のあいだずっと、ベッドの下から目にしていたそうだ。ああも明るく振舞えているのが奇跡だとすら思う。と同時に悲しくもある。アラキのやつは知っての通り、片鉄頭の人間だ。あいつはなんでもないような顔をして話してはいたが、あの身内びいきの片鉄頭の主を怒らせ、殺し合いに発展させたほどのなにかがあったはずだ。言ってみればアラキは、それまで親しくしていた仲間たち全員から村八分――見捨てられた――そんな子供時代だったようだ」

 耳をふさぐ暇もなかった。

 言葉が見つからない。そんな苛酷な過去とわたしの過去を同一に見て欲しくなどなかった。まるでわたしが幸福だったとでも錯誤してしまいそうになる。そんなことなどないというのに。だからわたしは口を閉ざす。それでも勝手に口がうごいた。

「社長は……社長もなにか…………過去に」

「私か? 私は親を殺した。この手でな。我ながらひどい親だったと思う。だから殺した。臍は噛まん。わるいとも思わん。しかし、一つだけやるせない。私は妹のまえであいつらを殺してしまった。そのまま私は妹を置いて逃げた。妹を守りたかったはずなのに――守りたかったからこそあいつらを殺したというのに――私はひとりで逃げてしまった。我ながらひどい姉だ。いや、姉と名乗る資格もない。名乗り出る資格すら、私には」

 あまりにも淡々と言ってのける社長は儚い。触れたら崩れてしまいそうなほどにもろくうすく思われた。だれよりも鋭利な社長の真の姿を真っ向から突きつけられた、そんな感じがした。

「…………妹さんは……その、いまは」

「生きている。たぶん。どこかで」

 その祈るような口調がわたしから言葉をうばう。吐きだせない言葉がどんどんとわたしの心中を重くしていく。

 

「わるかった。すまない」

 

 社長が歩をとめた。雑踏が川と化す。わたしが流されないようにと、社長はうでをつかんで引き寄せた。

「こんな話、すべきではなかった。それでも、なぜだかな、タツキには話しておきたかった。いや違うな。聞いてほしかった。きっと変わらないと思えたからだ。これを聞いてもおまえはなにも」

「変わりますよ」わたしは仏頂面でむっつりと責めた。「そんなん聞かされたらわたし、みんなのこと裏切れない」

「裏切る予定、あったのか」

 うぐ……。

 その返しはずるい。

 わたしは社長をにらんでやった。

「充分だ」あの社長がかおをほころばした。「見捨てられないではなく、裏切れない、そう言ってくれただけで」

 ――さあ行こうか。

 社長はわたしの手を取って雑踏を抜けていく。

 

 すれ違うひと。

 追い抜くひと。

 

 ここにいる人間の数だけ、わたしは彼らとリンクしている。

 数秒経てばもう忘れられている存在。忘れていく存在。そんな希薄な交差の果てに、わたしはこの世界を生きている。

 それでもこの手を握ってくれるひともいる。

 リンクではなく、リンゲージ。

 連結ではなく、連鎖。

 わたしと彼らは。

 この先もずっと。

 鎖のように結んでいく。

 縁と縁。

 わたしと。

 あなたの。

 縁と縁。

 

 パン屋さんのまえを通る。

 フランスパンを片手に、男が立っていた。

 わたしは手を振る。

 むこうは気づかない。

 それでもわたしは声にだして言っている。

「ありがとう」


 ――ステキな縁の、はじまりを。 




【後日譚】



       ◆ノリマキ&アズキ◆


 ついにアズキが怒鳴った。テーブルを叩くものだから、大きな音が鳴った。うしろに束ねられた長髪が、ばさり、と跳ね、しゃなりと垂れる。

「なんでそう、にしゃは意地っ張りなのだ!」

 こちらもハンバーグにフォークを突き差し、応戦する。「ああ? どっちがだっつーのッ」

 駅前商店街から路地裏へと外れた場所にあるレストランだ。店内は薄暗い。葉のひろい観葉植物などがツルを伸ばして壁をじぐざくに巡っている。どこか密林を思わせる内装だ。

 アップ・テンポなR&Bが店内を満たしている。ほかの客の意識がこちらへ向いていることを、この店内におけるBGMの密度が物語っていた。

 だがノリマキもアズキも、そんなことを気に留める人物などではない。

 

 いさかいの種とはどの時代、いついかなる場所であっても些細なものである。ことさら男女間の口論など、スズメ同士の挨拶からはじまる早朝の鬼ごっこのようなもの。どこからが喧嘩でどこからが親睦なのかの区別も付かないのが常である。ともすれば、互いの溝を深めることも互いに親睦を深めることも、結局は同じなのかもしれない。溝がなくては噛み合わない。そう、ジッパーやボタンのように。

 いずれにせよ。

 当初こそ、運ばれてきた料理に大人しく舌鼓を打っていた二人であるが、アツアツのハンバーグが運ばれてきた数秒後――突如として、いさかいの火蓋が落とされた。

 

 浮いた腰を椅子へおさめつつアズキが皮肉を投げかけてくる。

「そんなふうだから愛想を尽かされるのだ。おじい様に」

「ああ? 誰が愛想尽かされたって? 逆だっつーのッ」丁重に投げ返してやった。「こっちがジジイを見限ったんだ」

「ぬかしおる」片腹痛し、とアズキが顔を、くしゃり、と歪めた。「アラキから聞いておるぞ、にしゃは追放されたのだとな」

「ああ? ふざけんな! じゃあ聞くがな、あのジジイの加護の切れたヤツが、無傷であそこから出ていけるとでも思うのか」

「それは…………」と彼女が閉口する。

 アズキがそれを認めるわけがない。これを肯定するというのは、ジジイの権威が巷説(伝説)にそぐわない大言壮語なのだと認めることになるからだ。

 彼女は口を一文字に結んだ。

「だろ? おれは勝手に出てったんだよ。ジジイに愛想が尽きてな」

「……えらそうに言うでない。我が儘なだけであろうが」

「誰よりも偉そうなアズキに言われる筋合いはない。高飛車って言葉はな、アズキのためにつくられた言葉だよ」

「ならば小心翼々という言葉はにしゃを元にした言葉だ」

「ああ?」ふざけんな、といちおう凄んでみたものの、聞き慣れない四字熟語であり、しぜんと語気が萎んでいく。

「オバケがこわい? にしゃ、いくつだ? 片腹痛いわ!」

「今はそれ関係ないだろ」

「ふん。にしゃはどうやら、大人の皮をかぶったオコサマらしい。オコサマに合わせるのがオトナに与えられた義務というのなら、これもまた仕方あるまい。寛大なこのお姉さまが」とアズキは『お姉さま』を強調し、「にしゃの嗜好に合わせてやろう。むろん、感謝などせずともよいからな。オコサマを甘やかすのがどうやら私たちオトナの義務らしい。そうやって甘やかされたオコサマが餓鬼に進化するところをこの眼で見ておくのも一興であろう。ん? ああいや、にしゃはすでに餓鬼になっておったか。惜しいことをした」

 ざんねんだ、と忌々しさを前面に押しだして彼女は言った。

 その態度はさすがに可愛くない。

「ああその通りだな。おれが餓鬼だったら、さしずめアズキは山姥だ」

「やまんヴぁ?」なんだそれは、とアズキは唇のしたにシワを寄せた。

 山育ちのくせして山姥もしらねーのかよ、と腹に込みあげる可笑しさがあった。「べつに、『鬼ばばぁ』でもいいけどよ」と付け加える。

 模糊としながらも意味が伝わったのか、「まだまだ若いであろうが……私は」とアズキが勢いなく抗議する。

 ここぞとばかりにからかった。

「まだまだ、は言い過ぎだな。『まだ』がひとつでちょうどいい」

「う……るさい。にしゃはだまれ。どうして食事ひとつ静かにしておられん」だからにしゃは餓鬼なのだ、とアズキはハンバーグにケチャップをたっぷりとかけて口へ運んだ。

 あ……結局ケチャップだけで食うのかよ。

 ノリマキはそのケチャップの上からマヨネーズをかけた。

「なにをする!」

「なにって、おれに合わせてくれるんじゃねーのかよ」

「だれが許可したッ! いつ! だれが!」

「今さっき、おまえがだっ!」

 そんなのは知らん、とアズキはフォークをぞんざいに放った。卓上で跳ねてノリマキの受け取り皿へと着地する。

「餓鬼みたいな真似すんなよ」

「餓鬼はにしゃであろうが。そんなけったいなドロドロを食材にかけるなど、にしゃの味覚は狂っとる」

 アズキはマヨネーズを蛇蝎のごとく嫌っている。なぜかは不明だ。食わず嫌いではないことは、なんとなく彼女の言動から推して知れる。

 運ばれてきたハンバーグはひと皿だった。大勢で取り分けて食すようなタイプの、大皿である。

 数分前、そこへマヨネーズを垂らそうとしたら、アズキが、「ぎゃああ! にしゃ、やめろ!」と絶叫した。発狂したのかと思った。それからは互いに一歩も譲らぬ膝詰談判。

 結果としては、ノリマキよりも大人であると言い張るアズキが妥協するという形で論が結んだように一度は思われたが、たった今、早急に破たんした。

「もういらん。にしゃがひとりで食え」

「ムリだろ」さすがにこのサイズは食いきれない。「ほら、マヨネーズかけたの端っこだけじゃん。こっちの部分は食べられるだろ」

「匂いが伝染(うつ)った」

 うわ、子どもだ。失笑する。拗ねている彼女はとくに可愛い。ノリマキはもうこんなくだらない拘りはどうでもよくなった。

「だいじょうぶだって」とマヨネーズのかかった部位からもっとも遠い箇所を切りわける。

「うるさい。にしゃがわるいのだろ。私はあれだけイヤだと言うておったのに。だのに……にしゃが勝手に」

「いやだって。それはさっき、アズキがおれに合わせるって言ったからで」

 遮るように彼女は声を荒らげた。

「にしゃひとりで食えッ!」

 こまった。

 まったくもってこまってしまった。

 ああ、どうしてこうも可愛いのだろう。

 胸がくすぐったい。頬がほころびる。ノリマキはうなじを掻きあげる。

 ダメだなぁ、おれ……アズキは本当にマヨネーズが嫌いなのだ。それでも困っている彼女を眺めているのが、とてつもなく愉しい。それは喩えれば、赤ちゃんが懸命に階段を登ろうとしているのに、いち段も登れない状況を眺めているような、子犬がイスに載っているオモチャを取ろうとしてぴょんぴょんと飛び跳ねているのに一向に届かない光景だとか、兄弟猫に追いかけられていて、とてつもなく迷惑そうにしている子猫を敢えて助けずにカメラで撮影するような、そういった愉しさがあった。

 相手のことが好きならば、自分の欲求ではなく、相手の幸せを願い、優先し、相手が幸せになるように努めなくてはならないはずなのに。どうしてだろう、困っている彼女、拗ねている彼女がとてつもなく愛おしく感じる。それはまた、彼女が真実ひっ迫しているのではなく、ただ少しムキになって、引くに引けない状態なのだとこちらが解っている――といったこの余裕から生じる愛嬌なのかもしれない。

「わかった。全部たべる」ノリマキは折れた。仕方なくではなく、謝罪のつもりを兼ねて。「そんかし、食べ終わるまで、待ってて」

 アズキはなにも応えてくれなかった。

 それでも、席を立って店を出て行ってしまうような気配はなかった。とりあえずは胸をなでおろす。

 襟を正してテーブルと対峙する。

 ハンバーグはざっと四人前はある。

 こちらは元々小食だ。アズキのほうが大喰らいなのだ。たしかに彼女の体躯は一般の女性のそれとは大きく異なり、いくぶんも頑丈そうではある。が、それは引き絞まっているという意味であって、見掛け上の体型は一言で表せば「華奢」のそれである。いったいその身体のどこに収まるのかと不思議なほどに彼女は大量の料理をぺろりと平らげる。

 だからこの巨大なハンバーグは、そのほとんどが彼女の胃に収まる予定であった。ノリマキひとりでは、四分の一を片づけるのが精いっぱいである。

 見立て通り、マヨネーズのかかった一帯を、腹へと詰め込むと、もう当分は肉料理など見たくない、といった気分になった。彼女に聴こえないように、うえっぷ、と嘔気を抑える。

「……無理して食べることもなかろうに」

 彼女がようやく口を開いてくれた。だが、まだ険のある口調だ。

「無理なんてしてない。アズキは知らねーのかもしれないけどな、おれはハンバーグが死ぬほど好きなんだ」

 結婚してもいいくらいだ、とおどける。おどけつつホォークでジューシーな肉を口へと運ぶ。もっとも、この時点で限界はとうに越えており、口のなかへ放る段になると、それなりの意思の力――つよい覚悟が必要であった。よし、食うぞ、マジで食うぞ、これは罰だ、なんとしてでも食わねばならない、耐えねばならない、おれはおれを許すために、おれは食うんだ、よしいけ、食うんだ、さあ行くぞ――と、ここまで意気込んでから、ゆっくりと頬張り、咀嚼し、ねじ込むように呑みこむのだ。その間およそ三分。ひと口を食い終えるのに要する時間である。このままでは一体これを食い終わるのにあと何時間かかるだろうか。気が遠くなるとはまさにこのことだ、とそれこそ胃がキリキリとした。そもそも、水で流し込むという方法を最初にとったのが間違いであった。余計に腹が満ち、苦しくなるだけであった。今はもう、水を飲む気も起きない。

「おそいッ!」

 彼女の堪忍袋がついに切れた。ノリマキは覚悟した。ここで愛想を尽かされて独りレストランに置いてきぼりにされるのも仕方あるまい。自業自得だ。そう自分に言い聞かせた。前以って構えておくというのは、これから負うだろう傷をそれなりに軽減させてくれるものである。

 意に反してアズキは席を立つことはなかった。

 ノリマキからホォークを取りあげ、残りのハンバーグを次々と皿のうえから消し去っていく。まるで手品である。あっという間に目の前にあった、にっくきハンバーグ将軍がその姿を舞台から消した。その間およそ三分。

 激闘を繰り広げてきた敵がまるで雑魚のように始末されてしまった、そんな遣り切れない思いがある。しかし今、投げかけるべき言葉は決まっていた。

「ありがとう。んでもって、ごめん。さっきは」

 口元を袖で拭うと彼女は顰め面のまま首をかしげた。

「なんのことだ?」

「え、なんのって……」

「にしゃに感謝される謂れはない。私は私の分のハンバーグを食べただけだ。にしゃに謝罪される由縁もない」

 ノリマキは、ぶっ、と噴き出す。

 まったくこの女はどうしてこうも……。

「なぜわらう」

「いや、なんでもねえ」

 大きく息を吸い込んで、晴れたきもちで、ゆるゆると吐き出す。

「腹ごしらえは済んだよな? じゃあ、そろそろお暇しますか」

 席を立つと、「……ちょっと待て」とアズキに腕を掴まれた。

「どうした?」

「……デザートが……その…………まだなんだが」

 うく、と込みあげる笑いを堪える。まだ食うのかよ。ダメだ、どうしても顔がほころぶ。にじむ笑みが隠せない。

「ごべん、忘れてた」

 若干噴き出しながらも席に腰をもどした。食後にデザートを食す習慣などはなかったが、いかにも、「ああそうだった、デザート食べなきゃ食事じゃないよな」といったふうを装った。

 もはやこれまでの諍いは、店内のどこを見渡しても見当たらなかった。ノリマキの裡にも彼女の裡にもどこにも見当たらない。

「ほら、見ろ」とアズキがテーブルに映し出されるメニューを指して、「ここのパフェはな、なんと抹茶アイスにチョコが混ざった、抹茶チョコミントがベースだっ」満面の笑みを輝かせて、「こやつ、天才ではなかろうか」

 ――ガキはどっちだっつーの。

 ノリマキは和むきもちがうすれないように、パフェを二つ、注文した。

 すでに別腹も限界に満たされていたノリマキであったが、食いきれなければ彼女に食べてもらえばいいや、とそんなあまい期待を胸に、彼女の久しく見ない浮かれた顔を、盗み見るように眺めた。

 

 が、ノリマキは気づいていない。

 誰よりも浮かれているのは彼女ではなく、自分のほうなのだと、

 そしてまた、

 二人一組となっての別行動――みんなと別れてしまった以上、食事は各自おのおのにとることになるのだから、よっちゃんへ渡す食費など不要なことにも、浮かれた彼が気づくことはなかった。

 浮かれたものは足元をみない。つまずく危険がないからだ。その予断が、つまずきなのだと、彼らは気づかない。

 とは言え、気づいたとしても彼らはよっちゃんへ三百万円を渡すのだろう。

 そこにある矛盾を知っていてもなお受け入れる。

 それこそが、信頼という名の、盲目なのだから。



   ◆香夜乃&ミツキ◆

 

 んくちゅん、とくしゃみをする。

「よっちゃん、かぜ?」ミっちゃんがこちらを見あげた。

「ううん、誰かに噂されちゃったのかな」

「どういうこと? くしゃみするの? 噂されると?」

「そうよ。『風の噂』って言ったりするでしょ。風はね、人々が口にする噂を、噂された人のところまで運んでくれるの。その噂を乗せた風にあたるとね、人はくしゃみをしてしまうものなの」

「へえ。ミっちゃん知らなかった」感心したようにミっちゃんは言った。「よっちゃんって、ものしりだねっ」

「ふふ、ありがとう。まあ、ウソなんだけどね」

「きゃはは! 知ってたっ!」

 香夜乃は微笑む。まるで悪意のないミっちゃんが、すこし憎たらしかった。

      ***

 数日を共に過ごして香夜乃はおおかた理解した。ミツキというこの娘が、到底懐柔できる小娘などではないということを。

 香夜乃は嘘つきだ。口にする言葉の八割は真実ではない。本当のことを言わないだけで、まったくの絵空事を口にするわけでもない。それは香夜乃に限ったことではなく、どんな人物であってもそうなのかもしれない。

 真実を知っている者などそう多くはない。基本的に、他人から見聞した知識は、他人から見聞したという時点で真実とは呼べない。また、自分自身で感受して刻んだその記憶が、果たして真実と呼べるものかも疑わしい。

 ひとは誤解をする生き物だ。錯誤し、自分にウソを吐く生き物である。

 しかし香夜乃の場合、自分が発するウソを自覚している。

 彼女は意図的にウソをつく。

 恣意的に情報を、潤色し、歪曲し、操作する。

 保身のためであったり、利益のためであったり、娯楽であったり、暇つぶしであったりする。基本的には保身である。香夜乃が真実を口にしたときに、それが真実であると相手に悟らせないための保険だ。

 正直者がウソを吐くからそのウソが目立つのだ。ひるがえっては日常的に意味もなくウソを吐く人間が、重大なウソを吐いてもさほど目立たない。仮に嘘つきが真実を口にしたとしても、周囲からはその真実がウソだと観測される。狼少年がいい例だ。

 発した情報が真実にしろ虚実にしろ、どちらにしても嘘つきであれば目立たない。

 ウソで身を塗り固めることで彼女は「香夜乃」という人物像をあやふやにさせている。

 それでも彼女は無意識のうちに本当の自分を顕わにさせてしまうことがある。そんなときにそれが本当の自分なのだと他人に知られたくない。だから彼女は日頃から意味もなくウソを吐く。

 ところが、

 香夜乃がウソをついても、ミツキが騙されることはなかった。

 ――ウソが通じない人間。

 そんな人物がいるとは思わなかった。

 

 香夜乃は波紋の糊塗技術が高いわけではない。

 相手が保持者であれば、まず心を読み解かれてしまう。

 だが彼女は、ウソとリアルを同一のものとして見做すことができる。ゆえに、保持者が相手であっても、欺ける。むしろ、心を読んでもらうことで、どんな突拍子もないことも真実として相手に植え付けることができる。

 それはたとえば、幼いころから「トカゲ」という生物のことを『ドラゴン』と覚え間違っていた者がいたとして、その者が『あの岩場にはドラゴンがいる』と公言した場合、その発言は事情を知らない者たちからは嘘だと判断される。なぜなら「ドラゴン」など存在しないからだ。しかし彼はウソを言っていない。彼が示す『ドラゴン』とは、「トカゲ」のことだからだ。つまり、当人にとってはウソでなくとも、周囲からすると嘘だと認識される。こういった誤謬が往々にして生じるものである。この場合――客観的には、ウソを吐いているのに、そのひとは真実を言っていることになる。うそ発見機があれば、彼は正直ものとして判断されるだろう。

 また、『ヤナギのしたに幽霊を見た』などと証言した者がいたとする。それは結局のところ、「垂れたヤナギが幽霊のように見えた」だけであるのだが、それでも当人のなかでは、「幽霊がそこに存在した」と認識されている。これはいわゆる錯覚であるが、我々はこのような錯覚を日常的に抱いている。むしろこのような錯覚は、現実を認識するうえでは欠かせないものとなっている。

 現実とは――錯覚と推測で創られた虚構とも呼べるだろう。

 たとえば、スカーフを首に巻いた女性が椅子に座っている。多くの者は、その女性を異常だとは看做さない。だがその女性、実は頭部と胴体が切り離されている。首が切断されているのだ。その切断部がスカーフで隠されている――たったそれだけの隠蔽で、ひとは、その女性が首を切断されている事実に気づけない――我田引水に、〝視えない情景〟を補完してしまうのである。だが、その〝補完された光景〟は、ウソではない。真実と異なっている虚構ではあるが、ウソではないのだ。それもまた、現実なのである。

 こういった誤解と錯誤を香夜乃は意図的に引き起こせる。ウソを現実(リアル)だと思い込める。ちょうど、小説を読んでそれが現実にあった出来事のように、のめり込めるように。

 だから彼女が波紋を通じてウソかホントかを見抜かれることはない。むしろ、波紋を覗いてもらったほうが、香夜乃の場合は、相手を騙しやすいくらいだった。

 だがどうだ。

 このミツキという保持者――こちらの吐くウソをことごとく看破する。それはちょうど、披露した手品のタネをことごとく見破られてしまうようなものである。さいわいなのは、今のところ香夜乃の披露した手品(うそ)に、それほど重要なタネが仕組まれていないことだ。だがこの先、決して見破られたくない、決死の手品(ウソ)をカマさなければならなくなることがでてくるかもしれない。確信じみたタネを、偽らねばならなくなるかもしれない。そうなったとき、果たして彼女を欺くことはできるだろうか。この緊張を果たして私は、私自身へ偽れるだろうか。香夜乃は一抹の不安を抱いている。

 これまでミツキに対して提示してきたウソの多くは、冗談の域を出ていない。からかい半分どころか、純度九九%のからかいだ。ミツキにはウソが通じないのだから、それはそのまま彼女に対するそれらの揶揄が、ことごとく不発に終わっていることを意味する。

 かと言って、まったくからかい甲斐がないというわけでもない。ミツキはいつだって騙されているような素振りをしてくれる。リアクションがよい。

 こちらより波紋糊塗技術の高いミツキの波紋をこちらは読み解けない。であるからして本当は騙されているのに、嘘だったと知り慌てて虚勢を張っている、というミツキの演技である可能性もないわけではない。

 それでも香夜乃は彼女のことを真実騙すことなどできないのだろう、と直感している。

 理由はない。そう感じてしまう自分を否定しきれないだけだ。

 往々にしてこの世にある多くの幻相は、否定できないからといって、必ずしも肯定されるわけではない。幽霊は存在するか否か、いないと言い切れないからといって、幽霊が存在することにはならない。それでも、否定しきれないということは、そこには寸毫なりとも可能性があるということだ。

 ウソが通じない人間などはいない。

 騙されない人間などはいない。

 それは当然だ。なのにどうだろう、ミツキというこのコをまえにしていると、ウソを吐くことがふしぎなほどに億劫だった。

      ***

 トンネルを抜けると、辺りいちめん雪だった。

 空と地の境もない。

 木々がモコモコと真っ白に太っている。天然のダウンジャケット。素材は羽毛ではなく、冷たい雪である。あたたかいのだろうか、と吐息でくもるガラス越しに想像する。

 目的の停留所に到着する。

 標識もまた雪に包まれていた。

 ミっちゃんは眠ったまま起きない。

 まったくもう、世話がやける。

 仕方なくおぶる。おもい。

 バスから降りる。

 運転士が親切にも声をかけてくれた。

「だいじょうぶ? 今日はもうここ、バスないけど」

「ありがとうございます。だいじょうぶです。このさきに実家がありまして」

「ホントに?」訝かしむと言うよりも、心底おどろいた、といった様子の運転士だ。「う~ん、でも、いちおう、何かあったらここに連絡しなさい」

 運転士は端末を取り出し、こちらへ情報(データ)を飛ばしてくれた。受信する。タクシー会社の広告だ。

「ちょっと普通よりも料金高めなんだけど、除雪機能付きの車なんだ。このバスと同じでね。安全にふもとまで送ってくれるよ」

 もういちど丁寧にお礼を告げる。

 扉が閉まる。

 バスはゆっくりと灰色の向こう側へと去っていった。

 山道だ。どこもかしこも同じ景色に見える。香夜乃たち以外の足跡はない。それはそうだ、と自答する。こんなところで下車する者などいない。あのバスだって形式だけでここの停留所を経由しているにすぎない。運転士の方もだからあれだけ気を掛けてくれたのだろう。

 ああもう、おもい!

 おぶっていたミっちゃんを雪のうえへ放る。ぼふん、と粉雪が舞う。

 背中に雪が入ったのか、ぶるぶると身体をふるわせてミっちゃんがようやく起きた。「あれぇ……ここ、どこー。てんごく?」

 挨拶がわりに、

「地獄におちろ」と笑顔で言う。

 きゃはは、とミっちゃんは笑った。

 ふふ、いいコ。

 しばらくふたり縦に並んで歩いた。

 荷物を少なくしてきてよかった、と香夜乃は自分の案配を褒める。

 本来なら、もっとも大きなお荷物であるところのミっちゃんを置いてくれば良かったのだが、出発当初はまさか彼女がここまでお荷物になるとは考えてもみなかった。むしろこちらの荷物を持ってもらおうと画策していたのくらいなのに、当てがはずれた。ああもう、考えていたら忌々しくなってきた。今夜はいつも以上に苛めてやろう。そうと考えてようやくきもちが落ち着いた。

      ***

 ふう、と溜息を吐く。

「着いたよ」と告げる。

 返事がないので振り返ると、ミっちゃんはまだ村の入り口で、ほえー、ほえー、と物珍しそうに周囲を見渡している。

「はやくおいで」と呼ぶ。

「なにここぉ、すっごいねっ!」きゃー、と歓喜の叫び声をあげるミっちゃん。袖につつまれた両手をうえへ掲げながら駆け寄ってくる。無邪気なものだな、とすこし羨ましく思う。

 手を上げても彼女の手のひらが袖口から覗くことはない。上着がぶかぶかだ。体型に合っていないその上着は、香夜乃が貸してあげたジャケットだ。どうやらミっちゃん、すっかりお気に召したようで、ここ数日は自分のものとして毎日のように羽織っている。なにがそんなに気に入ったのだろう。

      ***

 香夜乃が目指していた目的地。

 数日を要して辿りついたここは、その名も「七獅村(ななしむら)」という。忘れられた村だ。

 香夜乃の育った村でもある。

 完全に外界から隔絶された村だった。ふもとの流行りから、軽く十年は遅れていた。しかし今はもう、時代の技術革新(イノベーション)に遅れをとることもない。

 この村は、雪に呑まれ、時間ごと凍結されてしまった。

 村人はいない。

 廃れてしまったのだ。廃村と呼ぶのが正しいのかもしれない。

 村の景観は変わっていなかった。

 村の雪は白くない。灰色でもない。

 ――淡いピンク色をしている。

 要因は分かっている。

 この集落は山と森に囲われている。そこかしこから源泉が湧いている。噴きあげる蒸気が雪をピンクに染めるらしい。

 ――桃雪(とうせつ)。

 そう呼ばれる、ここ一帯特有の現象だ。

 この村出身の者にしか知覚できない、と香夜乃は教えられていた。事実、ふもとの人間には桃雪はただの白い雪に視えているようだった。

 村の大人たちからは、先天性の色覚異常にくわえ、後天的な要素が必要なのだと教えられた。

 幼少期のうちにこの桃雪を目にした者でないと、この雪(いろ)を視ることはできない。そういった迷信がこの村にはあった。

 ――この村出身でない者には、桃雪を視る資格がない。

 自分たちが特別な存在なのだとこの村の者たちは考え、外界の者たちを蔑み、排他し、そして村に閉じ籠った。その結果がこれだ。時代に取り残され、消え失せた。

 排他していたつもりが、逆に排他されてしまっていた。それに気づきもせずに、彼らは自分たちが選ばれた者なのだと盲信していた。疑うことすらしなかった。

 ――桃雪。

 すべてこれのせいだ。

 香夜乃はこの村の迷信など信じていない。いや、かつては信じていた。ここにいた村人たちと同様に、疑うことを知らなかった。地球が丸いことを盲目的に信じている現代人のように。

 先天的な色覚異常――?

 後天的な要素――?

 そんなものは必要なかった。

 必要だったのは、資格ではなく、知覚そのものだった。

 保持者であれば、この風景――桃雪を視ることが可能だ。

 今こうして浮かれ、はしゃいでいるミツキのように。

      ***

「きれいだねっ!」

 素直にそう言い切れる彼女がすこし妬ましく思う。

「そうね。きれいだわ」

 言って視線を巡らせる。

 毒々しく、禍々しい。そんな印象しか受けない。それでもその印象こそが〝きれい〟という言葉であると香夜乃は思い込む。そうすることで、香夜乃の言葉は真実となる。

 ちょんちょん、と裾を引かれた。

 見遣るとミっちゃんがこちらを見あげていた。

「どうしてここにきたのー?」

 そう、どうして。

 こんな村に未練などはない。

 それでも再びここを訪れた理由がある。

 ――帰郷した目的。

「忘れ物をね……取りに来たの」

      ***

 香夜乃は村人が嫌いだったわけではない。家族が嫌いだったわけではなかった。大好きだった。大好きだからこそ、欠点が目に余る。

 排他主義なところや、町人至上主義なところがとくに嫌だった。いや、これも「嫌だった」と現在の香夜乃がそう思っているだけであり、当時の彼女がそう思っていたかは疑問の余地がある。

 いずれにせよ、そういった差別的な性質を度外視すれば、香夜乃は未だに家族を慕っている。村という単位での『家族』をだ。

 だが、愛すべき家族はもうここにはない。

 いや、どこにもいないのだ。

 高校や大学へ通うために、若者はみな、そとの環境と触れ合う機会が多かった。そのために、成人してからは村を離れる若者は決して少なくはなかった。この「七獅村」もまた、過疎化が深刻だった。それでもまさか数年以内に村が滅びるなどと、誰が予期できただろうか。

 ある日突然、村は消滅した。

 村としてのかたちだけを残して、消滅した。

 その要因が、『R2L』機関という組織にあると香夜乃が知ったのは、数年前――あの男と出会ってからのことである。

 

 その男は居酒屋を営んでいた。バイトも雇わずに、たった独りで。

 現在、香夜乃は、彼のことを「店長」と呼んでいる。つい最近まで従業員としてそこで働かせてもらっていた。

 店長の本名を香夜乃は知らない。知りたいとも思わないし、知る必要もないだろうと割り切っている。

 古風というよりも薄汚いと形容したほうがいくぶんも正鵠を射ているその店へは、おじさんの足取りを追っていた末に辿りついた。

 ――おじさん。

 香夜乃が初めて男性を意識した相手だ。

 初恋の、相手だ。

 きっとあれが最初で最後の恋だったのだろうな、と香夜乃は予感している。このさき自分はきっと誰を好きになることはない、とそう思っている。

 

 おじさんが亡くなったのは、香夜乃が高校へ入学した年の冬のことだった。

 玉突き事故に巻き込まれたのだと伝え聞く。事実、全国区のニュースでも報道された事故だ。液化天然ガスの満ちたタンクローリー車へ、よこからバイクが衝突し、大爆発を起こしたらしい。死傷者、一〇二名を出した不慮の事故だったそうだ。

 遺体はあがらなかった。

 しめやかに開かれた葬式には、おじさんの写真だけがちょこんと飾られていた。写真のなかのおじさんは場違いに笑っていた。香夜乃には、その写真がとうてい遺影などには見えなかった。

 ――おじさんが死んだ?

 ――つまらない冗談はよして。

 哀しむ家族を眺めながら香夜乃は嘲け笑った。

 香夜乃には余裕があった。予感と言い換えてもいい。

 おじさんはどこかで生きている。死ぬわけがないじゃない。あのおじさんが死んじゃうなんて。そんなバカなこと。

 信じる必要すらなく確信できた。

 思いとは裏腹に、それ以来、香夜乃が叔父の姿を目にすることはなかった。

      ***

 叔父の葬式から、あっという間に春と夏と秋を迎えた。

 まるで香夜乃の時間だけが止まっているかのように、村を彩る景色は移り変わっていった

 大学受験を間近に控えた香夜乃はある日突然――目醒めた。

 ――どうしてこんなところで眠ってしまったのだろう。

 最初に抱いた疑問がそれだった。

 つぎに浮かんだ想いは、おじさんに逢いたい、との願いだった。

 都会の一角だ。

 見あげる前から超高層ビルだと判る荘厳な佇まいの建造物が乱立する街中にいた。歩道に設置されたベンチで、香夜乃は目を醒ました。

 ここがどこなのか、いまはいつなのか、母は? 父は? おじいちゃん、おばあちゃんは? みんなはどこ? 村は、どこ?

 ――こんな場所、私、知らない。

 香夜乃はよろよろと立ち上がる。喧騒の濃いほうへ歩を進めた。

 人がいる。たくさん歩いている。ああ、都会なんだ、と安堵と戸惑いをいちどきに抱いた。

 ――すみません、あの、助けてくれませんか。

 村がそのまま家族となるような地域で育った香夜乃は、困ったことき、助けを求めさえすればすぐに誰かが助けてくれるものだと思っていた。

 道行く人々は香夜乃の声に反応することもなく、淡々と目の前を素通りしていく。衝撃だった。噂は本当だったのだ。

 都会の人間はつめたい。

 村長が話していた通りだ。

 香夜乃は安直にそう思った。失望した。村長たちは大袈裟なのだとそう疑っていた香夜乃だけに、その幻滅はそのまま憤りへと変わった。

 ――ちょっと、人が話しかけているのに!

 ――無視しないでよ!

 叫んで通行人のうでを掴んだ……はずだった。

 だが、通行人が歩を止めることはなかった。

 掴めなかった。

 手がすり抜けた。

 ――まさか。

 それから数分のあいだ、香夜乃は手当たり次第に通行人たちへ掴みかかった。結果としては、掴めないだけではなかった。触れられなかった。香夜乃はだれにも触れることができなかった。それだけに留まらず、さらには、誰ひとり――これだけ溢れかえっている人込みの誰ひとりとして――香夜乃の存在を気に留めてくれる者が――この私という存在を認めてくれる者が――いなかった。

 その日は奇しくも、叔父の訃報が入ったあの日から、ちょうど六年後のことだった。

 知らぬ間に、四年もの歳月が経過していた。

      ***

 おじさんの足取りを辿ってみようと思い至ったのは、目醒めてから三カ月後のことだった。季節は初夏を迎えていた。

 おじさんは村を出た人間だ。都会で出世した数少ない村人だった。

 そとの社会を侮蔑していた村人たちであるが、おじさんの出世ぶりにだけは、純粋に称賛していた節がある。声に出して言っていたわけではないが、鼻が高い、と誇っていたことは、おじさんの話をするときのみなの口調から感じ取れた。

 いちどだけ香夜乃は、叔父の住むマンションへ入れてもらったことがある。村の中学校を卒業した際に、卒業旅行として叔父のもとへ遊びに行ったのだ。

 記憶を頼りに、あのときのマンションへ向かった。

 まだおじさんの所有物件なのかどうかは怪しかった。行ってみると、そこはそのまま、おじさんの家として残っていた。

 ホコリにコーティングされたフロアや家具が、主の不在を物語っていた。

 おじさんは生きている――そう信じる努力をそそぐことなく信じられていたのに、このとき初めて香夜乃は、叔父に逢えない現実に涙した。生きていようが、死んでいようが、逢えないのなら、悲しいのだ。切ないのだ。そんな当たり前のことに、このとき、ようやく気がついた。

 

 手掛かりは数年前に流行った記録媒体に残っていた。この形態のメディア端末を使っている者は、街中には一人もいなかったことを覚えている。時代の変遷する間隔がみじかい。あっという間に人類はあらゆる手段を進化させる。より便利に、より単純に。なによりも、より簡単に。

 そういえば、と香夜乃は思いだした。以前おじさんは嘆いていた。

 ――進歩するたびに人類は退化する。

 ――退化の許容こそが、進歩の目的なのだろうか。

 小説の一節にあった言葉なのだという。「カヨちゃんはどう思う」と訊かれた。香夜乃はなにも答えられなかった。

 予定表の一覧をひらくと、びっしりと文字が埋まっていた。おじさんは当時、相当に多忙な生活を強いられていたようだ。それはそのまま、おじさんの存在意義が、多くの人々のなかで確立されていたということを示唆する。素直に誇らしく思った。

   ・友人と食事。居酒屋「こうちゃん」。絶対。

 暗号のような予定表のなかで、そのメモだけが色つきで強調されていた。おじさんが事故にあったとされる日から、ちょうど一週間前の日付だった。

      ***

 目当てのお店は、すぐに見つかった。メディア端末には、地図も一緒に載っていたからだ。

 開店前だったが、遠慮はいらない。どうせこちらの姿は認識されないのだ。がらがらと、戸を引いて入った。

「あららー、いらっしゃい! すみませんね、まだ開店準備中なんですよ」

 軽薄な笑みを張りつけた男が声を発していた。視線をたどるかぎり、こちらへむけての言葉らしい。香夜乃はうしろを振り返る。自分へ投げかけられた言葉などとは思わない。この数カ月間、香夜乃は一言も会話を交わしていない。誰とも話していない。話したくとも、話せなかったからだ。

 うしろに人はいなかった。

「はっはー、それはボケなのかな?」

 男がこちらへ近付いてくる。

「さーさ、入って」とこちらの手を掴み、店内へと引きいれようとする。

 香夜乃は咄嗟にその手を振り払った。

 不快だったからではない。

 おどろいたからだ。

 まじまじと自分の手を見詰める。

 それから、すぐに、目の前で心配そうにこちらを窺う男へ手を差しだした。どうしてそんなことをしたのかは今になっては理解不能だ。それでも、香夜乃は手を差し向けていた。

 赤子が親へ抱っこを縋るような感覚で。。

「よくわからないお客さんだなぁ」男は言った。「店長と握手したいのかな? 握ってもいいのかな? この手を握っても怒らないのかな?」

 いま思い返してみれば、完全にセクハラ発言だ。

 それでも香夜乃は、こくこく、と小刻みに頷いた。

 純粋に、握って欲しかったからだ。

 男は造作もなく握った。

 この手に。

 私に。

 触れてくれた。

 知らずなみだが溢れていた。

「なになに、どうしちゃったのさ」男は困ったように頭を掻いた。それから口調を一転させて、「まずはいいから、座りなさいな」と神妙に言った。

 なにを話したのかはすでに覚えていない。いろいろと質問された気もする。何を訊かれたのかも、今では覚えていない。男は中々こちらの話を信じてはくれなかった。

 それでもよかった。

 なんでもよかった。

 うれしかった。

 かなしかった。

 くるしかった。

 つらかった。

 つらかったのだと知れた。

 人と触れあうことのできなかったこの三カ月間が、とてつもなくつらかったことなのだと、このとき香夜乃は身に染みた。

 あたたかかった。

 店長のあのときの手のぬくもり。

 今でも香夜乃は鮮明に思いだせる。

 この手に残っている。この瞳にも刻まれている。

 しぶる店長をそとへ連れだし、自分がいかに奇怪な存在であるかを目の当たりにさせたときの店長の顔といったら。

 思いだすたびに香夜乃は愉快になる。

 いくらなんでもあれは、

 ――ビビりすぎでしょ。

 回顧するたび、うぷぷ、とかおがほころぶのだった。

      ***

 店長は、保持者という存在だった。パーソナリティと呼ばれる個別の異能を有した人類。波紋と呼ばれる「存在の振幅」を常に身体から発しているため、波紋を通じて、思考や心理状態、果ては「存在に刻まれた、個人情報」までを読み解かれてしまうという。波紋の講読を防ぐために、保持者は、波紋にノイズをまぜる。それを「波紋を糊塗」するという。むろん、波紋の講読が可能なのは、同じく波紋を纏っている者だけである。

 そういった保持者についての情報を、香夜乃は店長から教えられた。

 R2L機関は、保持者たちの組織であるらしい。店長もかつてはそこに属していたが、事情があり、離反したとのことだった。離反者は無条件に処分の対象であり、つまりは店長がその逃亡者であった。

「どうして離反したの」香夜乃が訊いてみても、

「うん。ちょっと思うところがあってね」

 店長はお茶を濁すだけだった。香夜乃も深くは追求しなかった。

 もしかしたら私も保持者なのでは、と疑ってみたが、店長いわく、「それはない」とのことだった。

「保持者には三つの特徴があってね。一つ、波紋を発していること。二つ、パーソナリティを有していること。最後に、虚空を感知できること。実は、一つ目と二つ目の条件というのは、相互補完の関係にあってね。パーソナリティを有しているからこそ波紋を発しているし、波紋を揺るがせるからこそ、パーソナリティを発揮できる。だがきみの場合は、この二つが、完全に乖離している。きみは波紋を有しているが、パーソナリティを有してはいない」

「どうして解るの」

 訊ねると、店長は言い淀んだ。ばつのわるそうにこめかみを掻くと、

「波紋を読んでいるからね。きみの」

 その言葉が、こちらの心を読んでいるという意味だと理解するのにすこし時間がかかった。理解したと同時に殴ってやった。問答無用だ。二度と読むな、と涙目にもなった。

 店長を土下座させ、さらなる説明を促す。「ならどうして私、あなた以外に認識されないの」

 無視されるだけでなく、触れられないというのでは、まるで幽霊だ。

「そうだね。それはパーソナリティではなく、どちらかと言えば、『浸透』にちかいと思う。他者から存在を感知されないというのなら、たしかに特異な能力としてパーソナリティだと見做すこともできるけれど、ぼくが認識可能な時点で、パーソナリティとしては弱い。おそらくだけど、きみの〝その体質〟は、一般人にしか有効ではない。保持者に対しては無効なはずだ。であれば、パーソナリティではなく、『浸透』のようなものだと考えられる」

 かれは付け加えるように、

「《アークティクス》の存在を感じることができれば、誰にでも身につけることが可能な技術だよ。『浸透』はね」と言った。

      ***

 香夜乃は、居酒屋「こうちゃん」に居座るようになった。

 保持者であるという店長は、香夜乃の目からみても、特殊だと思わせる能力を有していた。

「保持者のなかじゃ、中の上くらいかな。こう見えても店長、けっこうつよいんだよ」

 はいはい、と香夜乃は聞き流した。

 暇なとき、店長はいつも話をしてくれた。保持者の社会では常識とされる類の話だった。

「世界の構造について、香夜乃ちゃんはどう考えているだろう」

「世界の構造? 原子でできてるんでしょ」

「そうじゃない。いや、物体の構成についてはその解釈で間違ってないよ。でもね、世界は一つじゃないんだ」

「一つじゃない?」

「そう。まずぼくたちは、各々に自分だけの〈世界〉を持っている。これは〈レクス〉というんだけど、〈レクス〉は気泡みたいなものなんだ。シャボン玉を考えてほしい。人は誰しも、シャボン玉のなかで生きている。けど、シャボン玉は、ほかのシャボン玉とくっついたりする。部分的に重なりあう。そうしてたくさんのシャボン玉が集まって、ひとつの大きな『泡』を形成する。それが、ぼくたちが『現実』と呼んでいる世界だ。これを、『プレクス』という」

「つまり、ここは『プレクス』なわけ」香夜乃は店内を見渡すが、実感は湧かない。

「うん。でも、『プレクス』は決して真実ではない。シャボン玉がよせ集まってできた、常に流動する世界だ。『プレクス』を形成するシャボン玉の増減によって、または重複の仕方によって、形質も形態もそのつどそのつど様変わりする。それに、〈レクス〉だって、ぜったいに正しい世界ではないんだよ。微妙に、本当の世界からズレている。それがだから、個性とか病気とか、そういった異質を人間に与えている」

 店長は、シャボン玉以外の比喩として、〈レクス〉を家、『プレクス』を、家から視える風景だ、と説明した。密集して建っている家――住宅街において、窓から視える風景はどの家でも同じようなものだ。しかし、家の内装は家によってまったく異なっているし、窓から視える風景だって、建っている場所が異なれば、微妙にちがって視えてしまう。あっちからは山を仰望できるが、こっちからでは木が邪魔になって見えない。こういった差異が往々にして引き起こっている。現実というものは、共有可能なものではあるが、必ずしも一致しているわけではない、と店長は説明した。

「そもそも大多数のひとたちは『プレクス』の外側を感じることができない。そのため、『プレクス』から外れてしまったひとを認識することもできない」

「そのはみ出し者がつまり、私?」

「いかにも」

「でも、『プレクス』だっけ? そこにいないんだったら、私はどこにいるの」

「うん。まず前提として、〈レクス〉は、《唯一絶対の世界》に内包されている。《アークティクス》と呼ばれる世界だ。ぼくたちは誰であれ、《アークティクス》の断片に生きている。たとえば、〈レクス〉をシャボン玉で譬えたけど、丸いのもあれば、四角いのもある。星型だったり、色が付いていたり、凍っていたり。一概にシャボン玉と言っても、多種多様だよね。でも、どんなシャボン玉だって、《アークティクス》を基に生まれてくるんだ。〈レクス〉も、『プレクス』も、どちらもすべて《アークティクス》に内包されている。家のそとには街があって、街のそとにはすべてを内包している宇宙がある。それと同じようなことが、存在という単位でも起きている。そして香夜乃ちゃんは、『プレクス』の外側――より《アークティクス》にちかしい断層にいるんだ」

「ごめん。よくわかんないんだけど」と謝罪してから、「つまり、私は何なの」

「だからね。前にも言ったけど、香夜乃ちゃんは、〝浸透〟しているようなものなんだ」

「その浸透ってのもよく解んないだけど」解るように説明しなさいよ、と責める。

 うん、と店長は続けた。「この世界は、《アークティクス》に内包されている。ここまではいいね? でも、誰もが自分の世界〈レクス〉を真実だと思っているし、誰もが『プレクス』こそ現実だと思っている。すごく極端な例を言えば、世界中の人間が、宇宙人はいる、と口を揃えて言い出したら、きっと自分は見ていなくても宇宙人が存在するものだと人は考えてしまうし、逆に、全世界の人間が宇宙人なんていないと言ったって、現に宇宙人と交流をもってしまえば、それがその人にとっての真実だよね。往々にして人は、〈自分の世界〉と〈他者の世界〉とを比較して、『現実』というものを規定しようとする。もちろんこれは観念的な考え方であって、〈レクス〉と『プレクス』の関係性とはちょっとちがうんだけど、本質的には似ている部分がある。重要なことは、ぼくたちはどうしたって、〈自分の世界〉から脱して、《そとの世界》を視ることができないということ。《アークティクス》だけじゃなく、『プレクス』にしたって同じだよ。〈自分〉と重複してない箇所の『プレクス』は、視ることができない。ただ、その『世界』を感受しているひとの〈レクス〉と同調しているために、実感としての『現実』を得られるだけでね」

「つまり、私は何なの?」と再度結論を迫る。

「うん。香夜乃ちゃんは、より《アークティクス》に近い断層に、〈レクス〉が固定されちゃっているんだろうね。だから、『プレクス』に属している彼らには、香夜乃ちゃんを視ることができない。ましてや、〈世界〉が重複していないのだから、触れることだってできない」

「なら店長はどうして」どうして私と話せるの、と疑問を投げかける。

「だってぼくは、保持者だもん。保持者は、ほかの大多数のみんなよりも、《アークティクス》を感じることができる。それだけじゃなく、意図的に『プレクス』から脱して、《アークティクス》に近い断層まで潜ることもできる。これを〝浸透〟というんだ。もちろん、『プレクス』に属しているかぎりにおいては、たとえ保持者であっても、浸透した保持者を観測することは不可能だ。つまり、視えないし、触れられない。でも、香夜乃ちゃんの場合は、完全に浸透しているわけじゃない。〝浸透未遂〟だ。『プレクス』から完全に脱しているわけじゃないんだよ。より《アークティクス》に近い断層にいるだけでね。言ってしまえば、船の底にくっついて進む潜水艇みたいなものだね。船上にいるみんなは、海中のきみの存在には気づいていないけれど、より海に詳しい船員であるぼくら保持者は、海中にいるきみをソナーで確認できるだけでなく、無線を通して会話もできる。どう? 解ってくれた?」

「やめてよ。ひとを金魚のフンみたいに言わないでくれない」

 たぶんこのころからだろう、と思う。香夜乃は本音を口にしなくなった。

      ***

 浸透未遂。

 香夜乃が保持者以外の者たちと接触できないことについて、店長はそう説明した。

 《アークティクス》と呼ばれる、ゆいいつ絶対の世界を感じることのできる者であれば、保持者でなくとも訓練次第で体得可能な技術であるという。

 無意識のうちで中途半端に〝浸透〟している香夜乃はだから、制御できるようにさえなれば、ふたたび他者と意思疎通ができるようになる。みんなと同じ『世界』に身を置くことができる。

 店長の比喩でいえば、「船上に戻れる」のだ。

 提示された解決策は、理屈のうえでは簡単なものに思われた。譬えるならば、無意識にしている呼吸を意識的に止められるようにするようなものだ。

 しかし、呼吸を長く止めることは、肉体に過剰な負担を強いる。止めている時間が長引くほど、死にちかづく。

 香夜乃にとっては、〝浸透未遂〟が自然な状態だった。それを止めることは、想像以上に過酷だった。

 店長たちとは逆なのだ。彼ら保持者は、息を止める感覚で、〝浸透〟する。何も意識しなくとも、彼らは、みんなと同じ『世界』に回帰できる。

 香夜乃とは根本的に、ちがっている。

 いや、これもまた逆なのだ。

 ――私が彼らとちがうのだ。

 香夜乃はやはり、独り、異質な存在だった。

 訓練は難航を極めた。店長の指導がわるかったわけではない。香夜乃の才能がなかったわけでもない。ただ、精神的な苦痛に耐えられなかった。

 せっかく仲間に出会えたと思っていたのに、その仲間とさえ相容れない存在。

 それが私だ。

 三カ月という孤独な期間を経ていた香夜乃にとって、ゆいいつ干渉しあえる店長との隔たりは、絶望の再生でしかなかった。

「今日もやらないのかい」

 訓練を拒むようになってからというもの、店長は毎日しつこく誘ってきた。

「いいよもう。べつに話したいひとがいるわけじゃないし」

 ――不満があるわけじゃないし。

 うそではなかった。

 話し相手ならここにいる。店長、あなたがいてくれる。だったら私はそれでいい。無理をしてまで、また元の暮らしに戻りたいなんて望まない。

 肉体はうそみたいに頑丈で、病気も怪我もしない。食事の必要だってない。食事は音楽を聴くのと同じ。娯楽のために、料理を味わうだけだ。

 不満なんてどこにもない。あるわけがない。香夜乃は内心、本気でそう思っていた。

 店長との決定的な差異を叩きつけられるくらいなら――痛感するくらいなら、いっそこのままでいい。

 香夜乃がそれを口にすることはなかった。

 不満がない。当たりまえだ。不満を抱くきっかけが、香夜乃には訪れないのだから。

 だから、毎日しつこく、「今日もやらないのかい」と訊いてくる店長という存在は、香夜乃にとっては、ただ一つの不満だった。

 訓練をやめてから半月ほど経ったころ。香夜乃の堪忍袋がついに切れた。

「毎日毎日バカみたいに同じこと言わないでくれない。聞きたくないのよ。いい加減学びなさいよ。私は、もういいの。このままがいいの。あんたのお節介にはこりごりなの。もうほっといてよ」

「でも」店長が叱られた子どもみたいにしょげた。「店長は、よっちゃんに訓練してほしいですよ」

「なんでよ」

「だって。よっちゃんが今のままだと、お手伝いしてもらえないでしょ」

「は?」なに言ってんだこいつ。

「知ってのとおり、お店は店長ひとりで切り盛りしておりますよ。でも、そろそろアルバイトを雇わないときつくなってきたなって思ってて。ただ、アルバイトを雇うほどの余裕が現状、店長にはないんですよ。そこで、よっちゃんの出番ですよ。よっちゃんが〝浸透〟の制御を覚えて、お客さんたちと関われるようになってくれれば、アルバイトいらず。店長は大助かり」

「は?」だから何を言っているのだこいつは。

 お手伝いなら、いままでだってしていたはずだ。客の相手はできないから、キッチンで料理の仕込みなどを手伝っていた。最近はいくつかの料理だって覚えた。店長がそれを知らないはずもない。

「いやね。今さら言い出しにくくって言ってなかったんだけど」

 いやな予感しかしなかった。「なによ」

「よっちゃんのつくってくれた料理。あれ、お客さんに出しても、まったく手をつけてくれないんだよね。どころか、注文の品はまだか、ってクレームが出る始末。ごめんね。失念してた。よっちゃんの干渉した事象って、ことごとくが、一般人には認識できないんだよね。今の状態のよっちゃんに手伝ってもらたって、意味ないの。あはは。ごめんね。無駄なことさせちゃって」

 ふざけんな、と怒鳴る気もおきなかった。

 肩のちからが抜けた。悩んでいた自分がバカみたいだ。

「さあ。じゃあ、訓練をはじめようか」店長はいそいそと準備をはじめた。

 突き放す気力も湧かなかった。どうあっても店長はこちらをアルバイトの代用にしたいらしい。

 ――ああもうッ。

 香夜乃は髪を掻き乱す。

「給料はきっちり払いなさいよ」

 いくら食事の必要がないとはいえ、人まえに出るようになれば、身だしなみに気をつかわなければならなくなる。お金は何を措いても必要だ。

      ***

 おじさんの葬式から十年。

 店長との出会いから、四年の月日が流れた。

 現在、香夜乃の実年齢は、三十路に迫っている。

 おじさんの年齢に並んでしまった。

 にも拘わらず香夜乃の外見は、十年前から変わっていない。

 目醒めたあのときから、香夜乃は成長も老化もしなかった。

 いっさいの変化が、訪れなかった。

      ***

「あったぁ? 忘れものー」

 ねえ、まだぁ、とミっちゃんが待ちくたびれたように声を荒らげる。数秒に一回の間隔で叫ばれるので、こちらとしても苛立つものが湧いてくる。

「ねえ、あったぁ?」

「もうすこしだから待って」

「ねえねえ、まぁだなのー」

「ああもう。うるさいなあ」香夜乃はしぶしぶ、「わかったから! 入って良し!」と立ち入りを許可する。

 家屋は骨格こそ崩れていなかったが、人が住めるような状態ではなかった。夏には草が生い茂ったのだろう、枯れた草が腐り、泥となって床を覆っている。獣が荒らしたのか、襖や障子はずたずたで、割れたガラスが土壌に塗れて散乱している。

 ――竜巻き。

 村を襲ったとされる災害の名だ。

 人為的に引き起こされた現象を災害などと表していいものか、甚だ疑問だ。

 店長から聞かされた話は、あまりにも独善的で、当事者たり得る香夜乃にとっては到底看過などできる話ではなかった。納得できない。

 虚空――?

 大多数の最大幸福――?

 それがなに? 私の家族はそんな言葉だけの〝形ないもの〟のために犠牲になったの?

 ――冗談じゃないわ。

 この感情は、怒りとは違う。

 そんな単純な言葉ではない。

 ――冗談じゃない。

 まさにその通りだった。冗談ではなく、現実として香夜乃の家族は、多くの人々の〝幸せ〟を守るため、そんな『形なき大義』のためにその命を――あったはずの未来を――雑草を引っこ抜くように摘み取られたのだ。

 店長は同情してくれた。仕方がないのだ、とも慰められた。

 ――仕方がない?

 信じられなかった。

 この不信感だけは今もなお、香夜乃の心中に正直な感情の一つとして刻まれ、形を帯びたまま、しこりのようにわだかまっている。

 家屋の損傷を鑑みたかぎり、竜巻きの規模はそれほど大きくはなかったようだ。それでも、室内は暴風によって散々たる有様だった。

 そのうえミっちゃんがここへ入ってきたら、と考えると、彼女を招き入れるのは賢くないと思われた。ただでさえ廃れたこの部屋が、しっちゃかめっちゃかに散らかされた光景が目に浮かぶようだ。そうはさせじと、ミっちゃんに対して、「立ち入り禁止令」を勧告していたのだが、背に腹は代えられない。「まだなのー、ねえねえ、まだなのー」とぴーぴーやかましくて敵わない。もうイライラしすぎて、今すぐにでも彼女を苛めてしまいそうだ。

 

 入って良し、と許可した途端、

「やったぁー!」と土足のまま這い上がってくる。「ミっちゃんね、さっきから気になってたんだー、コレっ!」はぁーあステキすぎる、と恍惚とした声が聞こえたと思うと、続けて、「これ、くーださいっ!」と叫ばれた。

 見遣ると、ミっちゃんが持ち上げていたのは急須だった。

 そんなのが珍しいのだろうか。骨董にもならないゴミなのに。

 ほしけりゃ勝手に持っていけ、と言いたいところであるが、こちとら、そんな正直な気持ちを口にするような人物ではない。

「ダメよこれ以上は。荷物を増やさないで」

「これいじょうって、ミっちゃんまだなんにももらってないよっ」

 不平を鳴らす彼女へ詰め寄り、香夜乃はぴしゃりと言い放つ。

「あなたがお荷物なの!」これ以上ないってほどにね、と羽交い絞めにする。

 うりうり。

 きゃはは、きゃはは、やめてぇ、とミっちゃんが悶える。その姿に、ぞくぞくする。

 ふう、すっきりした。香夜乃はふたたび作業にもどる。

 この一連の行為を香夜乃は頑なに「羽交い絞め」なのだと主張しているが、一般的には「抱擁」および「頬ずり」と呼ぶことを、彼女も知らないわけではないだろう。羽交い絞めなのだとそう言い張る相手が自分しかいないことが、なによりの証左だった。

      ***

 ――あった。

 心のうちでガッツポーズを決める。

 慎重にもちあげて、汚れを拭った。

 ――おじさんの写真。

 葬式のとき、場違いなほどの笑顔で陳列者を出迎えていたあの写真だ。

「そのひと、だれさん?」

 脇からミっちゃんがひょっこり顔を伸ばしてくる。彼女の手元にはしっかりと件の急須が抱かれていた。

 ――ダメだって言ったのに。もう。

 急須には敢えて触れずに、「この人はね」と答える。

「私のお父さん。とてもやさしいひとだったの」

「ふうん。からだ、大きいねっ!」

 写真のなかのおじさんは、大胸筋がたいそうに隆々としており、たくましい姿だ。

「そうなの。とっても大柄なひとだったわ。それに、とてもおおらかなひとだった」

「しんだの?」

「……そうね。事故で」

「ふうん。生きてたらいいのにね」

 生きていたら良い――それはその通りだ。でも、ミっちゃんが言いたいのは、「死んでないと良いね」という激励なのだと思われてならなかった。おじさんが死んだなどとこれっぽっちも信じていない、こちらの心象を見抜かれている。不思議と不愉快ではなかった。

「そうね」

 生きていたらいいね、と心の中で唱えた。

      ***

 この村を訪れた目的は無事に達せられた。

 おじさんの写真は、額縁に納められていたことがさいわいしてか、ほとんど当時のまま、きれいに保存されていた。紙媒体に印刷された写真だったことも無関係ではないだろう。仮にこれがフィルム状のメディア端末だったら、きっと壁から剥がれ落ちた際に、多大な損傷を受けていたはずだし、そうでなくともこの数年のあいだに雨風に晒され、使いものにならなくなっていたと思われる。近代文明の恩恵から暗かった村の拘泥に、香夜乃は生まれて初めて感謝した。

 

 バスの運転士から教えてもらったタクシー会社は、二十四時間体制のコンビニエンス営業だった。利用者のこちらとしてはたいへん都合がよい。正直助かった。

 思っていた以上に、村に残っていた住居の損傷が激しかったのだ。とてもではないが、一夜を越すには劣悪すぎた。認識があまかった。一晩くらい大丈夫だろう、と高をくくっていた自分の案配を反省する。

 

 連絡してから一時間ほどでタクシーが到着した。吹雪いてきた頃合いだったので、安堵する。かといって、吹雪がおそろしかったわけではない。吹雪に興奮しはじめたミっちゃんのお守りをするのが億劫だったのだ。

「きゃはは、すっごーいっ!」きゃはは、きゃはは、とミっちゃんはピンク色のスクリーンと化した吹雪の向こうへ今にも走り去ってしまいそうな勢いだった。それこそ、桃源郷へまで旅立ってしまいそうな気迫すらある。

 あーあ。

 わかいなぁ、と羨ましく思う自分を香夜乃はすかさず戒める。

 ――私だってまだまだわかいじゃない。

「まだが一コ多いんじゃないかなーっ」

 轟々とうなる風に紛れてミっちゃんが叫んでいたが、今のは聞こえないことにする。せっかく手にしたおじさんの写真を放置してまで彼女に構うつもりはない。

 あとで苛めてやろう、と忘れないように心に刻む。

 

 タクシーに乗り込むと、おどろいた。

「やあ、連絡があると思って待ってたんだ」

 あのバスの運転士だった。

「あの、どうして……」

「どうしてバスの運転士がタクシーの運ちゃんなんてやってるのか――って不思議なんでしょ? よく訊かれるよ」慣れた調子で彼はしゃべった。「ほら、この辺一帯って過疎化がひどいでしょ? 一人で遠出する年配の方たちって少なくないんだ。なのに、交通機関がまったくお粗末ときたもんだ。この国の交通機関はたしかに発展したよ。けどね、それは都会に限った話じゃない? かといって時間の融通のきくタクシーは高い。なら格安の運び屋をぼくがやっちまおう、ってね。そんな発想からはじめたんだ。年配者を発送してやろうってな感じでさ」

 発送する発想だよ、と運転士は自分で解説した。

 さむい。もっと暖房を強めてくれないだろうか。

 ミラー越しに彼がこちらを窺った。

「言っても、半分趣味だから、もうからないんだけどね」とポットとカップを手渡してくる。受け取る。カップに注ぐと、コーヒーが湯気を立てて流れた。サービスがいい。車体が揺れるので、ちびちびと舐める。身体が芯から温まる。

 運転士はこの事業をはじめたきっかけから、行政にたいする愚痴を並べ立てた。「――そういうわけなんだよ。ねえ、どうおもう?」

 香夜乃は適当に相槌を打って、行き先のみを告げた。運転士は機嫌をそこねることもなく、「りょうかい」と今度はバームクーヘンをくれた。

 別に腹が空いているわけでもないし、そもそも食事を摂る必要のない香夜乃にとって、それを受け取るのは義理でしかなかった。ただ、よくよく考えてもみれば、となりで静かに寝息を立てているミっちゃんは、食事の必要がある。まったく顧慮していなかった。さぞかし空腹だったろうな、うぷぷ、と顔がほころぶ。ミっちゃんの寝顔にデコピンをして遊ぶ。眠りながらも、うー、うー、と悶える彼女が愛おしい。うりうり、これでもくらえ。香夜乃は彼女を羽交い絞めにする。

 タクシーはふもとへむかって吹雪の山道を抜けていく。

      ***

「またのご利用、お待ちしております」

 最後まで愛想を崩さぬまま、運転士は清々しく去っていった。

 交差点を曲がるまで、香夜乃はタクシーを見送った。

 空はとっぷりと暮れており、街はすっかり鮮やかに彩られていた。ネオンが目にいたい。視線を下げる。

「さて、ミっちゃん。お腹すいたでしょ? 食事にしましょうか。なんでも好きなもの言って。ご馳走してあげる」

 今日くらい高級料理でも珍妙料理でも好きなものを食べさせてあげたいと思った。そうして配慮を向けなかった数時間を帳消しにするつもりだった。

 きゃー、と黄色い歓声をあげる彼女は無邪気だ。

 ぶかぶかの上着をマントのように靡かせて、「ミっちゃん、ここで食べたいっ!」と駆けて行く。

 彼女の向かった先は、某ハンバーガーメーカのチェーン店だ。可愛らしくデフォルメされた子犬のキャラクタが、『一食セットがにゃんと! ワンコイン!』と吠えている宣伝を駆使して全国区にまで拡大した、ふざけた店舗だ。

 そんなんでいいのか、とやはりいたたまれない。

「ミっちゃん、いちどこれ、食べてみたかったんだっ」

 きゃはは、へへへー、とその場で華麗に回転してみせる彼女は健気だ。

「わかったわ。ならここにしましょ」

 今日だけで終わらせずに、しばらくはミっちゃんの好きな食事を叶えてやろう、と香夜乃はしみじみ思った。

      ***

 味のほうはまずまずだった。特別に美味くもなく、まずくもない。強いて言いえば、肉を挟むパンがトーストされていて、触感がよいというくらいか。

 一階の座席は埋まっており、二階の客席までのぼった。二階といってもビルディング内にある店舗なので、実質六階建の高さだ。

 窓際の席に陣取ると、駅前が展望できた。

「あー、これ! 店長のお店にあったのとおんなじっ!」

 フライドポテトを聖火のように掲げてミっちゃんが叫んだ。ほかの客たちの視線があつまる。

「うるさくしないで」

「きゃはは、みんながしずかすぎるんだよっ」反駁しながらも大人しく食事に専念してくれる彼女はえらい。

 妹がいたら、こんな感じだったのだろうか、と想像する。いや、これはどちらかと言えば娘にちかいような気もしないではない。幼稚なようで聡明な娘だ。わるくないかな、と考えて、いやいや、と失笑する。

「どうしたの?」口元をケチャップで化粧したミっちゃんが首を傾げている。

 ――こんなステキなコ、私から産まれるわけないじゃない。

 ――相手だっていないんだし。

「なんでもない。これ、美味しいね」誤魔化しがてらに、ミっちゃんの注文したパフェを掻い摘む。

「でしょーっ!」ミっちゃんはまるで自分が料理したみたいに自慢げだった。「これね、こっちのポテトですくって食べると、もっと美味しいの!」

「へえ」

 さっそく試してみた。ポテトの塩ッ気と、パフェの甘味、そしてケチャップとが混ざり合って、想像以上にまずかった。

 ほかの座席から、「げ、まっじーじゃん」と漏れ聞こえた。自分の味覚が一般的であることにちょっぴり安堵する。

 間もなく料理を平らげた。

「じゃー。食後のお茶をいれましょうねっ」ミっちゃんが得意げに急須を取りだした。廃屋からもってきた、あの急須だった。お湯もなにも注がずに彼女は、「はいこれ。よっちゃんのぶん。たーんとめしあがれ」

 両手を差しだしてくる。ミっちゃんにしか見えない湯呑があるらしい。

「ありがとう」香夜乃はそれを受けとった。啜るふりをする。「はあ。おいしい。ミっちゃんてばじょうずだね」

 きゃはは、と彼女はよろこんだ。

      ***

 香夜乃とミツキのあいだで交わせる共通の話題といえば、「店長」についてだけだった。互いに知っている人物でありながら、相手は自分の知らない「店長」を知っている。香夜乃はこの四年間の付き合いのうえでしか「店長」を知らない。一方でミツキは香夜乃の知る「店長」を知らないのだ。

 ミツキと出会って実はまだ日が浅い。彼女はR2L機関から派遣されてきたエージェントだった。離反者である店長を追ってきた。ミツキのほかに、四名の保持者がいた。店長に勝ち目はなかった。通常であれば、店長はその場で処分――殺されていた。

 だが、ミツキたちもまた離反した。

 店長とミツキたちはかつて仲間だった。立場が変わってもまた、仲間でありつづけた。

 立場が絆を別つならば、同じ境涯に立てばいい。おそろしく単純な発想でもって、ミツキたちは組織を裏切り、たった一人の仲間のために、離反者となった。

 機関からの追跡はこれから次第に厳しいものとなっていくだろう。固まって行動するよりも、分散して行動したほうがいい。単独では危険すぎる。三人では目立ちすぎる。だからミツキたちは、二人ひと組で行動することにした。

 香夜乃は部外者だった。本来なら、そこで店長と今生の別れとなるはずだった。

 しかし香夜乃はそれを拒んだ。

 店長にはまだまだ訊きたいことがたくさんある。勝手にいなくなってもらっては困るのだ。

 同時に、情報提供者は店長にかぎらなくともよかった。だから香夜乃は、店長ではなく、敢えてミツキと組むことにした。そうでなければ、まるで店長と離れ離れになりたくないから駄々を捏ねたみたいに思われ兼ねない。じょうだんじゃない。

 香夜乃はミツキとは初対面だった。そのため、彼女がどんな少女であるのかも知らなかった。

 まさか、これほどまでに厄介な人物だとは思ってもいなかった。

 いちばん手軽そうな相手を選んだつもりが、とんだ見当外れだ。

 ミツキの話によれば、現在の店長は、むかしとずいぶん印象が異なるようだった。店長談義には花が咲いた。むろんのこと、香夜乃から語られる様々なエピソードは、香夜乃によって拡大解釈され、誇張され、潤色され、真実とは程遠い物語として紡がれた。

 ミツキから聞く香夜乃の知らない「店長」の話も、それはそれで到底事実だとは思われない語りだった。

      ***

「へえ。じゃあけっきょく、ミっちゃんは店長のこと、大好きなのね」

「うん! だいすきっ」即答する彼女はとても無垢だ。

 ずずずず、とストローを吸う。氷もすっかり融けていた。

 よっちゃんは、と彼女が訊いてきた。「よっちゃんは、店長のこと、すき?」

 即答できない自分が情けない。

「……きらいじゃないわ。でも、好きでもないかなあ」

「どういうこと?」

 そう、どういうことなのだろう。自分でもよくわからない。

「そうだなぁ」と考える。「店長ってね、ちょっとした仕草が、おじさんに似てたりするの」

「ふうん。ぜんぜんちがうのにね。店長、モヤシじゃんっ」

 揶揄するでもなく揶揄する彼女がおもしろかった。

「そうね、見た目はぜんぜん違うのよね。でも、なんだろう――雰囲気っていうか、誰にでもやさしいところっていうか。自分を大切にしたいからこそ、みんなのことを大切にしようとしている姿勢っていうか――そういうのがね、なんとなく似てるのかなぁって。たまに思っちゃたりするわけ」たまーにね、と強調する。

「ふうん」彼女は鼻と唇のあいだにストローを挟んだ。「ミっちゃんも逢ってみたいなぁ。よっちゃんのおじさんに」

 私のおじさん?

 おや、と香夜乃は焦る。

 たった今繰り広げられた会話を呼び起こす。

 ――私、何しゃべった?

 ああ、と額に手をあて、もたれた頭を肘で支える。

 敵わないなぁ、このコには。

 ウソが通じないとか、そういった次元ではない。ウソが吐けない。知らぬ間に本音を溢している。そして、このコはそれをまるで当たりまえのように――ウソを吐くこともホンネを溢すこともおなじことのように看做してくれる。

 敵わないなぁもう。やんなっちゃう。

 自虐の笑みを漏らす。

 えい、とテーブルのしたで彼女の脚を小突いてやった。

「なに! いたいよっ」

 むくれる彼女が愛おしい。もっと苛めたくなっちゃう。

「そろそろ寝床、さがなきゃ」

 今夜はどうして苛めてやろうか、と香夜乃は期待にむねをふくらませる。

      ***

 店内の暖房に慣れたせいだろうか、そとは予想以上に寒かった。

 ミっちゃんを見遣ると、彼女は平然としている。それでも彼女の服装は、保持者という特異性を抜きにしても、防寒に難があると思われた。だぼだぼのジャケットのしたには、Tシャツ一枚だけなのだ。

 もっと温かい上着を買ってあげたいな、とそんなふうに思った。うん、これはいい考えだ、と自賛する。

 よし、そうしよう、と夜の予定が決定した。

 これからブティックへ買い物をしに行った後で、ホテルに部屋をとり、夜通し苛めてやろう。ミっちゃんを着せ替え人形にして、ファッションショーをやるのだ。うぷぷ、と顔がほころぶ。

「お洋服、買ってあげるわね」とさっそく提案する。「そんな格好じゃ、寒いでしょ? ねえ、どんなのがいい? カワイイお洋服にしたいわ」

「ええぇー」と乗り気じゃない様子のミっちゃん。「これでいいよぉ。べつに」

「でも、そのジャケットじゃ寒いでしょ? 汚れてきてもいるし。ね、新しいの買ってあげるから」

「いいってばー! あたらしいのなんていらない!」

 素直がとりえの彼女がこんなに頑固に拒むなんて、なにか理由があるのだろうか、と不審に思う。「どうしていやなの」

「だって、あたらしいお洋服だと」

 そこでミっちゃんは言い淀んだ。

 いいから言ってちょうだい、と促す。

「だってあたらしいのだと、よっちゃんのにおい……しないもん」

 ――私のにおいが……しない?

 ああ……もう。

 香夜乃は彼女を抱き寄せた。

 羽交い絞めにするのではなく。

 真正面から。

 抱き寄せた。

 彼女のかおは冷たかった。

 すっかり冷えきっている。

 こころなしか、震えているようにも感じられる。それが果たして自分の震えなのか、彼女の震えなのかは、香夜乃にも判断つかなかった。

「もう、バカ。こんなにひゃっこいじゃない……はやく言いなさいよ」

 ――いらない洋服なんて、くさるほどあるんだから。

 言って大きく息を漏らす。

 彼女はこちらを見あげて、「じゃあ、ミっちゃん」と白い息をもくもく立ち昇らせた。「ブラジャ―がほしいっ」

 それは、えっとぉ……。彼女を見下ろす。

 しばし観察。

 結論、必要なし。

 たとえ入り用だったとしても、下着のお古は考えようだ。

「もうちょっとしたらね」とはぐらかす。

 ミっちゃんは、ぶー、と唇をすぼませた。

 もっと沢山食べさせて、なんとかブラジャーが必要になる体型にさせなくては。私がミっちゃんを変えてみせる。ステキなレディに。私が。

 香夜乃は自分につよく誓った。

 

 しかし香夜乃は気づいていない。

 この数日で、自分自身が大きく変わっていたことに。

 自分をいつわることを、忘れてしまっていたことに。

 ミツキのまえでは決して自分にウソをつかなくなっていたことに。

 香夜乃が気づくことは、なかった。



      ◆サイト&店長◆


 ふと――ほんとうにふと、サイトは思いだしたことがある。

 いや思いだしたのではなく、思い至ったと言うべきだろう。

 店長とサイトが初めて出逢ったあの町でのことである。

 サイトがいたことであの町では、三つの世界が序列を乱していた。

 サイトの〈レクス〉と。

 町人たちの『プレクス』と。

 全てを包括する《アークティクス》と。

 通常ならばそれらは、最初に《アークティクス》があり、次に『プレクス』があり、最後に〈レクス〉が内包されている(発生の順序ではなく、飽くまでも内包されている順序である)。大きな円に小さな円が内包されている。波紋の連続したような構図だ。

 それが、あのときは乱されていた。十割サイトのせいだ。

 《アークティクス》があり、〈サイト〉があり、そして『プレクス』があった。サイトは町人たちが形成していた『世界』を呑み込んでいた。

 それを外から認識することはほとんど不可能である。

 だから、あのときの店長とノリさんは、本当に運がよかったのだ、とサイトは思う。

 それでも、そう、だから、なぜ――とサイトは、ふと、そう疑問した。

 あの町に店長たちが訪れた理由を尋ねると店長は教えてくれた。

「サポータから報告があったんだ」

 だが、そんなことはありえない。サポータは浸透すらできないのだ。彼らがサイトの〝捕食〟を見抜けるわけがない。サポータでは、あの町の惨状を認識することなど、どうしたってできないのだ。

 では一体だれがあの町の惨状を『機関』へ報告したのだろう――?

 そう、現在のこの状況は、そのたったひとつの報告からはじまったと言っても過言ではない。

 

 それぞれには、それぞれの存在に刻みこまれた歴史がある。人生がある。それがあのとき、たったひとつのその報告によって、結びつけられた。店長――ノリさん――アズキさん――ミツキさん――タツキさん――社長――よっちゃんさん――そして、ぼく。

 八名の縁が、あのときに結ばれた。

 きっとその前からすでに、ひとりひとりには、布石が落とされ、小さな波紋が生じていたのだろう。その生じた波紋が、あのときの不審な報告によって――結ばれ――重なり――たったひとつの交叉となって――干渉したのだろう。増幅されたのだろう。波紋の振幅が。

 一体だれがそんなことを。

 サイトは疑問する。

 が、ついぞ解は結ばれなかった。

 この疑問、店長へ投げかけることは決して迷惑とはならない。むしろ現状の打破策の支点にすら成り得る重要な疑問である。自覚していながらサイトはこのことを自分のむねに仕舞いこんだ。

 自分が店長と出逢ったあの出来事が、だれかの手によって仕組まれた喜劇なのだと思いたくなどなかった。だからサイトはこの疑問を忘却しようと努めた。はげしく拒絶した。

 ともあれ、

 どんなことであっても、そのきっかけが如何ようなものであったとしても、肝要なことは、現在の自分がどうあるかなのだ――と思い込むには、サイトはまだ、幼すぎた。

      ***

 サイトはこれまで、考えないようにしてきた。

 自分がむかし、大量殺人を犯してしまったことについて。考えないようにしてきた。

 店長は言ってくれた。

「きみには、きみがしてしまったことを知る義務がある。それでも、それは知るだけでいい。きみがしたことではあるけれど、きみのせいではないからだ。きみがすべきことは、過去を苛むことではなく、これからを懸命に生きることだ。これからさき、二度とあんな凄惨な状況をつくらないために、きみは自分を制御しなくちゃならない。きみがすべきことはそれだ。きみにある責任はそれなんだ。そして、このさき、きみのその自制は、きっと多くのひとのためになる。だから、どうか自分と向き合ってくれ。そして、受けとめてくれ」

 店長は一度もサイトのことを「人殺し」だと言わなかった。あれは事故なのだと、そう言ってくれた。仕方なかったのだと。けれど、サイトはその言葉だけは信じられなかった。自分は人殺しだ。そう思っている。

 同時に、こうも思っている。

 人殺しである限り、ぼくはあのひとの側にいてはいけないのではないのか。幸せを感じるだなんてそんなこと、してはいけないのではないか。そう思ってしまう。

 いやだった。

 もう二度と、店長と離れたくはなかった。

 だからサイトは考えないようにした。

 自分が人殺しなのだと、思いださぬように。

      ***

 店長との生活は、このたった数日のあいだだけでも、サイトにとってはとてつもなく感慨深い幸せをもたらしてくれていた。

 店長――このひとは、ぼくにとってぼく以上にぼくを支えてくれるひとなのだと。サイトはたまに泣きたくなる。

 彼がいなくてはきっとぼくは、生きていけない。

 だが店長に縋りつづけるということは彼のことを自分自身が縛りつけてしまうということで。保持者でもなく逸脱者でもなく覚醒者(ウェイク・アッパー)でもない――なんの特異な性質をもたない一般でもできてしまう束縛で。

 むねがくるしい。

 そう。

 幸せだと実感してしまえばしまうほど、サイトはおそろしくなる。このままではいずれあのひとを失くしてしまう。そうならないようにとつよく望めば望むほど、きっとその喪失までの期間がみじかくなっていく。店長と共に生きていきたいと望み、祈り、願うたびに、絶望的な別れが確実に近付いている。

 しかしサイトは気づいていない。

 共に生きていくには、縋るのではなく、互いに手をにぎり合い、手を繋ぐだけでいいのだということに。縋る必要などないのだ。縛る必要などもない。

 それは決して容易なことではない。

 だが、

 店長はすでに、そうしてくれている。そのことに。

 サイトはまだ、気づいていない。

 

      ***店長***

 店長はむかし、一族を失っている。家族を失っている。

「シヴァ」という族である。かつて、「無印(ノーマーク)」のなかでも「一撃」や「鬼族」と並ぶ無法集団であった。

 あるとき「シヴァ」は壊滅した。一晩のうちの出来事であった。

 そのなかで唯一の生き残りが、店長である。

 その当時、組織には「シヴァ」の殲滅指令が勧告されていた。その矢先の出来事である。表向き、「シヴァ」は組織に処分されたということになっている。

 しかし、事実は異なる。

 重大な真実を、店長はそのむねに仕舞いこんでいる。

 

 おれは……。

 みんなにひとつだけ…………ひとつだけ。

 おれは……みんなを偽っている。

「シヴァ」は組織に壊滅されたんじゃない。

 ――おれが殺したんだ。

 家族を一人残さず。この手にかけた。

 おれは一族郎等、ミナゴロシにした。

 おれは薄汚い、ひとごろしなんだ。

      ***

 店長は考える。

 みんなが集った骨董屋で述べた自分の理屈は果たしてどこまで正鵠を射ていたものだったろうかと。

 あのとき、店長もまたサイトと数年振りの邂逅であった。サイトが影に追われているなど、あのときに初めて知った。みんなが気を利かせて、サイトと二人っきりにしてくれた際に、彼女から打ち明けられた。

 すぐに、どういうことなのだろう、と考えた。

 そして結ばれた論を、社長たちへ話して聞かせた。

 その際に社長は言ってくれた。「つまり、なにも分かっていないと言うことだな」

 その通りだ。

 なにもわかっちゃいなかった。

 よっちゃんの指摘したように、サイトが知らぬ間に浸食されている可能性だって否定しきれない。たしかにサイトは覚醒者(ウェイク・アッパー)のなかでも特異な存在だ。それでも、サイトが覚醒者(ウェイク・アッパー)の始祖でないとすれば――また、もっと上位にあたる覚醒者(ウェイク・アッパー)がいたとなれば――その者にサイトが浸食されることもあるかもしれない。

 さらに言ってしまえば、異様なほどパーソナリティが強烈な保持者であれば、サイトの〈レクス〉を浸食することだって、できるのかもしれないのだ。

 保持者と覚醒者(ウェイク・アッパー)――能力の上限が未知数だという点で、そう差はないのかもしれない。

 考えれば考えるほど益々以ってわからなくなる。

 ともかく、今はこの問題は措いておこう。

 まずは、これから先――。

 組織からの追跡が熾烈になってくるだろうからその対策を講じなくては。

 あとは、サイトのいう――〝影〟の正体を見極めなければなるまい。

 サイトの言うことを全面的に信じてあげたい、嘘偽りの一切ないそれは純粋な本心であるが、ほかの可能性も顧慮して対策を立てねばなるまい。そうでなくてはほかの仲間(みんな)に、申しわけが立たない。

 そう、

 何事にも批判的な視点は必要なのだ。

 批判的な姿勢である必要はないにしても。

 しかし店長は気づいていない。

 あの町で、アズキが姿を現した際――サイトには彼女の姿が視えていなかったという、その重大な見落としを。この決定的な矛盾を。

 このとき、店長が思いだすことはなかった。



      ◆社長&タツキ◆


「たとえば、原子ひとつひとつにまで〈レクス〉があったとして、だとすればそれは、一つの〈世界〉に、気泡のような〈世界〉が無数に内包されているということになる。それは結果として、全てを内包している《世界》よりも、それに内包されている無数の〈世界〉たちの割合(容積)のほうが大きいことになる。これは矛盾だ。おかしい。ありえない。具体的に喩えるならばこれは、五人乗りの車に百人の人間が平然と乗り込んでいるようなものだ。または、一つのゴミ袋に、ぱんぱんに膨らんだ同じ大きさのゴミ袋がいくつも入っている、そんな状況にちかい。だが、それがありえたとき、この矛盾は《世界》を無限に増殖さていく。拡大させていく。膨張させていく」

 わかるか、と尋ねる。

 頷きつつもタツキは腑に落ちない顔をしている。

 まあいい、と続きを語る。

「この説について、こういった批判がある――『我々の存在というのは、宇宙と比べるとあまりにも卑小であり、こんな卑小な存在が《世界》を構成する要素として重要だとは到底思えない』といった批判だ。たしかに至極もっともな指摘に思えるが、しかしそれはちがう。なぜなら、〝大きさ〟と〝深さ〟は異なるからだ――すなわち、「物体の体積」と「〈レクス〉の容積」この二つはまったく関係ない。比例しない。たしかに我々の大きさは、宇宙と比べるまでもなく、この地球と比べても、はるかに小さく、ゴミのような存在だ。だが、我々が生み出している〈世界〉というのは、それこそ、もう一つの宇宙を創造するくらいに深遠だ。《アークティクス》から程遠いというだけのことであり、〈レクス〉はとても深遠なのだ」

 タツキがなにやら口元をむずむずとさせている。反駁したいことがあるのだろう、なにか質問は、と水を向けてやる。

「あの、わたしの思いちがいだったらすみません……その、社長の言っているこれって、わたしが学び舎でおそわった『Wバブル理論』とちがっているような」

「むろん違う。最初に断わっただろう。これは『吉田歌田』という保持者が論じた説だ。『Wバブル理論』の趣旨とは異なる。正直、あまり有名な説ではない。結局この説を唱えた彼は、日の目をみることなく数年前に亡くなってしまったらしいがな。しかし私はこの説を支持している」

「どうしてですか」

「同じように考えていた時期があったからだ。私も彼と同じことを」

 ええー、とタツキが愉快げに、

「自分のアイディアと似ていたから支持するんですかあ?」

 社長らしくないです、と揶揄してくる。

 苦笑するしかない。彼女のその指摘はただしい。

「抗えなかったんだよ、私は」弁解がましくならないように弁解した。「あの当時――とは言っても今も同じようなものだが――『Wバブル理論』こそが我々保持者にとっては常識だった。言うなれば、地球は丸くないんだ、と主張しているようなもの――周囲の者たちの反応は大概が、無知なやつと嘲笑するか、頭がおかしいと相手にしてくれないかだ。私は主張することを諦めた。理解する気のない人間たちに対して、理解してもらおうなどとそんな甘い考えを私は早急に捨てた。だが、この『吉田歌田』という人は信じていたんだろうな。理解してくれる者がこの先きっと現れると。そう信じたんだ。そして私は理解することができた。彼の主張に近寄ることが私にはできた。むろん、相手の言いたいことを理解することと、賛同することは同義ではない。理解したからこそ批判することもある。だが私は理解しながらに、彼のこの主張に同意したかった。いや、同意している。この世界は、我々を含めた、あらゆる〈存在〉によって、一つの《存在》を形成しているのだと」

「う~ん。どうなんですかね、実際」

「賛同するかしないかは自由だ。批判することで生まれる新たな説というのもあるくらいだ。だが、私の話を理解してほしい、という私の気持ちは伝わっただろうか」

「そりゃあ、もう、お腹いっぱいになるくらいに」へへへ、とタツキは笑った。肩にかかった髪をいじくっている。その仕草は、照れているときや考え事をしているとき、または戸惑ったときなどによく現れる彼女の癖だ。髪の毛を指に巻きつけつつ彼女は、でもわたしは、と自分の意見を口にしてくれる。「この世界って、もっと単純なんじゃないかなって、そう思うんですけど」

「と言うのは?」

「う~ん、うまくは言えなんですけど、なんて言うんですかね。明と暗みたいな? そんな感じで」

「二元論ということか?」

「あっと、ちがいます。そうじゃなくってですね……明と暗って、ほら、分けられないじゃないですか。まっくらな部屋は暗いですよね? でもそこにロウソクが灯れば、それは明るいってなりますよね。でもでも、そのロウソクが昼間に灯ったとしてもそれは、明るい、ちがいます。ぎゃくに、昼間の空にくもがかかっているだけで、それは暗いってなっちゃいますよね? 明と暗って、堺がないんですよ。真っ黒があって、真っ白があって、あとはもう、同じなんです。むしろ、真っ黒も真っ白も、結局は同じなんです。真っ黒側からみれば、灰色っていうのは、明るいんです。でも、真っ白の側からみれば、その灰色っていうのは、暗いんです。じゃあ、その灰色からみると、真っ黒と真っ白ってどうなるかって言えば、それはもう、ただ沢山の〝いろ〟が広がっているようにしか見えないんです」

「視点によって見解が変わる――そう言いたいのか?」

「ん~、そうじゃないんです。ああもう、なんだろう。すみません、どうもうまく言えなくって」

 もどかしそうにタツキは指に髪の毛をするすると巻き付けている。それでも艶やかな彼女の髪は、一向に巻きつかない。リスが自分の尻尾をぐるぐると追いかけ回しているような、そんな印象を覚える。

 待っていると、彼女は吟味しながらゆっくりと口を開いた。

「明と暗って、対極じゃないんですよ。はっきりと二分していないんです。明るいほうへ向かって歩いていっても、ある地点からは暗くなるんです。逆に暗いほうへ向かって歩いても、いつの間にか明るくなっていたりするんです。それで、よくよく考えてみると、いま自分が立っているこの地点っていうのは、結局のところ、『たくさんの明』と『たくさんの暗』がそこらかしこにあって、それらすべてが、この地点からずうっと、四方八方にひろがっていて、どこにも、真っ黒も、真っ白もないんです」

「陰陽論に似ているように感じる」

 言いながら『対極図』を描いてやった。

 対極図――。まず円をひく。その円のなかをS字で二分する。それぞれに小さな丸を加える。そしてその小さな丸の片方を黒く塗りつぶす。最後に、塗りつぶさなかった小さな丸――それがあるほうの、円の半分を、小さな丸を残して塗りつぶす。

「あ、みたことあります。これ」

 タツキが反応する。「へえ。これタイキョクズって言うんですね」

 描いた図のよこに、漢字で、『対極図』と綴ってやった。

「この塗りつぶしたほうが陰で、もう一方が陽だ」と説明。

「じゃあ、このなかにある目みたいな丸、これ、なんです?」

 ふたつの小さな丸を、ちょんちょん、と指差すタツキ。

 ひと息に解説してやる。

「陰のなかに小さな陽があり、陽のなかにも小さな陰がある。完全に一色とはならない。そのことを示している。たとえば仮に、陽がとなりの陰を押しのけ、この円全体を占領したとしても、この陽のなかにあるこの小さな陰が円の中心にくることで、いずれこの陽は陰へとくつがえってしまう。また逆に、陰が陽を押しのけ、この円を占めてしまっても、陰のなかにあるこの小さな陽がいずれ陰に染まった円を陽へとくつがえす。この繰り返しが、この大きな円――すなわち、世界を形づくっている。そういう意味だ」

 図を駆使して解説した。うろ覚えの知識である。もしかしたら、対極図をみた際に、牽強付会に解釈をつけただけかもしれない。

 それでもタツキは合点したように、

「ああ、こういうことですよ」

 すっきりと相好を崩した。「そうそう、世界って、これくらい単純にできてるんじゃないかなって。そう思ってたりしたんですけど」崩した相好を今度はむっつりとさせて、「なんだあ、つまんないの。おなじこと、だれかもう考えてたんだ」

 ――すっごい頭いいことひらめいたと思ってたのに。

 大きく溜息を吐いてタツキは寝ころんだ。

 なにともなしに真似をしてみる。

 ひろがる視界。

 空は快晴。

 目を瞑る。

 頬をなでる風に気づく。

 そばでそよぐ風の音と。

 はるか遠くうねる大気の余韻。

 あとはもう、風にこすれる草木の音だけしか聞こえない。

 

 空があり。

 海があり。

 

 山があって。

 森がある。

 

 雨が降り。

 土に染み。

 

 湧いた水で。

 野原がうるおい。

 草木がしげる。

 

 これら一連のつながりを、川という線が結んでいる。

 いや、どこが始点かは関係ない。

 この一連のつながり――ながれ――が生じた時点で、どれも欠かせない成分(エレメント)となっている。

 私もまたその一部を担うことができているだろうか。らしくもなく、こんな些細なことで不安になった。

 来て良かった、と晴れ晴れとした心持ちになる。

 不安になれるということは、安心していたという裏返しだ。そうだとも、私は安心していた。

 となりに、彼女がいるから。

 彼女が、生きていてくれたから。

 私の罪が消えるわけではないが。しかしそれでも私は今、晴れ晴れとした気持ちを抱けている。

 それもこれも、彼女がこうして、生きていてくれたからだ。

 どれほどの傷を背負い。

 どれほど傷つき。

 そして、

 どれほど気づいているのだろうか。

 言うべきことではないのだと判っている。

 言うべきことではなかったのだとも判っている。

 それでも、言っておきたい言葉がある。

 

 ――わるかった。

 ――すまない。

 

 だがその言葉は彼女にはもう、必要ない。

 つよい娘だ。

 そして、やさしい娘だ。

      ***

 あれからもう、十六年以上も経った。

 あの当時、私はどうすれば妹が幸せになれるだろうか、とそれだけを考えていた。そのころにはすでに、親を殺すことが必要条件であった。

 あいつらを殺したその後のことについて考えた。

 そうして考え抜いた挙句に、私は妹を置いて逃げたのだ。

 仮に、一緒に妹も連れて逃げれば、それだけで世間は彼女も含めて「親殺し」のレッテルを張り付けただろう。だが、親を殺した私だけが逃げることで、事情を知らない世間はその無責任な牙を、私の妹へは向けない。むろん、逃げ切れるなどとは思ってもいなかった。だからこそ当時、私は逃げたのだ。

 親を殺して逃亡した殺人犯として私だけが捕まることで、妹は飽くまでも親を殺された被害者の側として、世間からは慈悲の目を注がれる。そう考えた。

 だが逃亡中のことだ。サポータに捕まった。「力が欲しければここへ行け」との言葉に惑わされた。力を得たは良いが、結果として私はこの十六年という時間を束縛された。

 どうにかして妹に逢いたかった。

 たったそれだけのことが許されなかった。

 アークティクス・ラバーとなれば学び舎とこちらの社会とを行き来できると聞き、血の滲む修行の末にラバーとなった。任務を仰せつかるようになると、今度は、手に入れたかった時間そのものに自由を束縛された。

 数年の年月が、風のように過ぎ去った。

 ようやく妹の動向を調べる余裕ができたころ。

 すでに彼女は本名を変え、育った施設を去っていた。足取りはそこで途絶えた。

 妹が自立できたことを素直に喜べなかった。

 このさき一生をかけて、妹を養っていこうと私は自分に誓っていたからだ。むろん、陰に回りつつの援助だ。妹の生活に極力干渉しないように努めながらの。

 だが足取りが途絶えたことで、私の誓いが果たされることはなかった。

 ――妹は元気にしているだろうか。

 それだけが気がかりだった。

      ***

 はじめは気づかなかった。

 ずいぶんと間の抜けた保持者だな、とその程度の認識だった。

 彼女のデータを見て驚いた。そこには私がいくら穿鑿しても調べ切れなかった妹の情報が、詳細に載っていた。

 『R2L』機関――あの組織の力をもってすれば、個人の来歴を調べるなど、造作もなかったようだ。だが逆に、その調査能力が高過ぎるために、調べられた情報が莫大となるという欠点もある。結果として、それら全ての情報に目を通す者などいなかった。彼女の個人データを元に、彼女と私の関係を指摘してきた者はいない。僥倖である。

 いずれにせよ。

 期せずして私は妹と再会した。

 私だけが、一方的に。

 

 私は妹を避けた。

 様々な言い訳を並べたててはいたものの結局のところ、私はこわかったのだ。

 ――妹はきっと恨んでいる。

 ――自分を置いて逃げた、親殺しの姉を。

 すなわち、

 ――私を。

 知るのがこわかった。どうしても、知らずにおきたかった。

 だから彼女にはきつく当たった。元々ほかのラバーたちからは、「辛辣で付き合いのわるいオンナ」ともっぱらの評判であったから、きっとこちらのその厳格な態度はさほど不自然ではなかっただろうと思われる。

 むしろ、ことあるごとに彼女の環境を整えたことで、あらぬ噂が飛び交ってしまうのではないか、といつも後になってからひやひやしたものであった。新人に対して三人もの担当教官をつけたのはさすがにやり過ぎであった。ただそれも、彼女自身が、特別に素質のある保持者であったことで、特に奇異に見られずに済んだようだ。

 ただひとり、ミツキにはどうやら見抜かれていたようで、ミツキが彼女に近づくたびに冷や汗が滲んだ。生まれて初めて私は、理不尽な恫喝に屈した。奇しくもあの当時、ピカソの「ゲルニカ」が盗まれた。きっと盗っ人にもそれなりの事情があったに相違ない。誰か一人でもそう庇ってくれる者がいると私は救われる。今となっては苦い思い出だ。

      ***

 タツキたちに離反の嫌疑がかかっていたと知ったとき、すぐに私は覚悟した。不謹慎ながら、ようやく償いができるのだ、と溜飲を下げている自分がいたことをよく覚えている。

 招集されたラバーのなかに、あの男がいたことで、いよいよ私は腹をくくった。

 ここでこの命尽きようとも、彼女たちが助かるのならそれは願ってもないことだ。私という全てを捧げて、救うことができる。

 そう考えていた。

 実のところ、この覚悟というものは、単なる自己本位からくる自己犠牲でしかないことを、このときの私は気づいていなかった。たとえ私が犠牲となって、あの場を切り抜けたとしても、根本的な部分では、彼女たちは何ひとつ救われるわけではないのだから。むしろ私のその〝自殺〟が、心優しい彼女たちの人生を縛り、苦しめたことだろう。そんな単純なことに、あのときの私は考え及ばなかった。

 愚かだ。

 だが何よりも愚かなのは、あれだけ腹を据えていた私だったにも拘わらず、犠牲者を出すことなくあの窮地を切り抜けられたと知った瞬間、本当に心の底から、よかった、などと安堵してしまっていた、そのどうしようもなく薄っぺらい私の覚悟だ。私は私が犠牲にならずに済んだことを、喜んでしまったのだ。そのとき私は自覚した。私はただ、自分のために自分を犠牲にしたかっただけなのだと。そしてそれは、本意からの罪滅ぼしではなく、妹によって強いられた贖罪に過ぎないのだと、私は心のどこかでそう思っていたのだ。償いたいではなく、償わなければならない――そう思っていたのだ。

 ――私は醜い。

 つくづくそう思う。

      ***

 片鉄頭の主が躍り出てきたことには未だに信じられない思いがある。伝説のドラゴンが目の前に現れたといった印象だ。あのときは目を瞑っていたのだから、姿を視ることはできていない。波紋もまた微塵も感じられなかった。それでもあの場のあの状況は、ドラゴン級の何者かが現れなければ、ああはならなかっただろう。それは疑いようもない。

 

 アラキの奴が、タツキの分身を操った際には、本気で腹が煮えた。まるで自分の分身を弄ばれたかのような不快感を覚えた。結果として私はタツキの分身を砕いてしまった。分身とはいえ、彼女の半身を蹴り飛ばしてしまったのは、一生の不覚だ。精神がまだまだ軟弱だという証だ。精進するしかあるまい。

 

 ノリマキから聞かされた仮説。

 覚醒者(ウェイク・アッパー)なるものたちの存在。

 そして、〝影〟。

 どれも根拠に乏しく、ロジックもちぐはぐと飛躍していた。

 ただし、あの少女――サイトのパーソナリティには度肝を抜かれた。真実あの少女に「捕食」されていなければ、ノリマキの話など信じる気にすらなれなかっただろう(ノリマキを全面的に信じたいという思いとは無関係に、事実の認識は精確に熟さなくてはならないからだ)。

 一方で、こちらのこういった性質を鑑みたうえでの「捕食」だったのだろうとも思う。たしかに保持者が一箇所に集合していれば、様々な問題が生じる――それは事実だが、わざわざ「捕食」するまでの必要はない。あれだけの短時間であれば、言霊を多重に身に付けるだけでこと足りる。中々どうしてノリマキのやつも抜け目のない。この数年であやつも成長していたのだろう。たのもしい。

 若いというのは、若いというだけで勝手に成長しつづけるといった特質がある。しかも、努力を注げば注いだだけ、注いだ分の成果がたしかに実る。その実った成果に納得できるか否かはまた別問題であるにせよ。羨ましい限りだ。

 

 二人一組で行動するとの案は称賛に値した。

 単独行動では不測の事態に対処できず、また三人では目立ちすぎる。一方で、ペアというのは信頼関係さえ築かれていれば、単純に戦力だけが向上する。実に合理的だと思われた。

 タツキがなぜ私を指名したのかは未だに分からない。いずれにせよ私はこうして彼女とぺアを組むこととなった。素直にうれしく思う。不安はない。あのときにはもう、私は確信していたからだ。

 

 ――彼女は姉を恨んでいない。

 

 別れ際、ミツキがそう呟いてくれた。むろん、ミツキのその言葉にも後押しされたことはたしかだ。それでも、私のうちに介在していた不安――その払拭を促進させた主たる要因は、妹の人柄――そのものであった。

 彼女は他人を恨むことを知らない。

 本人は、恨んだり、妬んだりしているつもりのようだが、それは、私の知る憎悪や妬忌とは異なった感情である。

 誠実なまま。

 無垢なまま。

 妹は育ったようだ。

 いや、この解釈では誤謬がある。

 きっと彼女は、清廉であろうとした。

 ――純粋であろうとしているのだ。

 抗っている。彼女はこれまでに負ってきた傷に侵されまいと、抗っている。抗うことが、できている。そのつよさが、私に確信を抱かせてくれた。

 

 ――タツキは、私を恨んでいない。

 

 ありがたい。

 そして、

 ほこらしい。

 私はふたたび己に誓った。それはこれまでのように、どこか歪んだ誓いではなく。私自身がそうしたいからそうするのだという、ただただ単純に私のための誓いである。

 私は彼女を、幸せにする。

 どんな苦難が訪れようとも。

 どんな災難が待っていようとも。

 このさき私は、彼女を護ってみせる。

 それが、

 私が私であるために必要な、大切な誓いとなったから。

 生きる糧に、なり得たから。

 ありがとう。

 そして。

 やはり。

 ありがとう。

 

 きみがきみでいてくれて。

 ほんとうに。

 ありがとう。

 

 私はそらへ、感謝した。

 晴天に反射したこの想いはきっと、

 この大地へと降り注ぎ、

 いずれ彼女にも届くだろう。

 そのとき、

 彼女のとなりに、

 私がいられますように。

 私は私に、祈るのだった。 



   外部伝『木霊する波紋を呼び、より反響』

 

 

      ◆ミタケン&サイキ◆

 

 待ち合わせの場所。

 雑踏の途切れることのない駅前で待っていると、やはり彼は現れた。

 老いた白髪の男だ。

 スーツを着こなし、シルクハットを被っている。どこか大企業の重役然とした風貌である。

 こちらに気づき彼は破顔した。

 頭を下げて会釈をする。

 

 サングラスを外してから、「お疲れさまでした」とまずは労いの言葉をかけた。

「疲労の元にもならんよ。あれしきのこと」柔和に囁く老人は杖を脇へと置いた。

 そのまま彼はベンチに腰掛けた。

 見届けてから、こちらもとなりへ腰を沈める。

「きみの言うておった通りの子であったな」老人が口火を切った。

 誰のことを示しているのかが咄嗟には分からなかった。「ぼくがなにか言いましたか?」

「あの子が失踪者を〝浮上〟させる鍵なのだろ?」

 ああ、と合点する。彼に依頼をした際に、波紋を読まれていたのだろう。つまり、こちらが彼のことを甘く見ていたその侮り自体も見透かされていたことになる。それをこの老人は迂遠に揶揄しているのだろう。精神構造が若い。まだまだ現役であられるらしい。

「まだ、が一つ多いがな」

 老人は、ほっほっほ、とゆったりと笑う。まるでサンタクロースだ。

「部下の方たちはどうされたのですか?」

 心配だったわけではないが、この老人の性格を把握するには訊いておくべき質問に思われた。

「うむ。記憶のほうを少々いじった」

「記憶……ですか?」

 そんなことができるのだろうか。

「ちと誤謬のある言い方であったな。とんでもない人物におそわれた、という映像を視せた。奴らは自らあの場を退いたに過ぎん」

 腰ぬけが多くて困ったものだな、とまったく困ったような素振りも見せずに老人は相好を崩した。

「そうですか」

 彼の言葉をそのまま信じれば、思っていた通りの人物であるようだ。

 無駄な殺生は好まず、人情味あふれる好々爺。

「ちとよいかね」

「なんでしょうか」

 老人は顔を近づけ、覗きこんでくる。

「きみは、そのなんだ――あの少女を利用して、なにを企んどる?」

 冗句のような口振りではあるものの、老人の眼は笑っていない。

「企んでいると申しますか……」ここは正直に答えることにした。「いま死んでもらうわけにはいかないんですよあの子には」

「人助けだときみは言うておったが、どうなのだ?」

「いえ。人助けだなんてそんな大層なものじゃないんです。ある人を助けたい。そのために、あの子の存在が必要不可欠だという――それだけなんです」

「たったひとりを救うために大勢の人生が浪費される」

 それは正しいことかね、と老人は投げかけてくる。からかうような口調だがどこか真に迫っている。

「でしたら、大勢の利益をまもるために、たったひとりの自由を奪う。それは正しいことですか?」

 質問に対して質問を返した。

「基準の問題であろうな」老人はまたもゆったりと笑った。「つまらん謎かけをしてすまんかった」

「いえ」

「きみには恩がある。だからして、これからも機会さえ合えば、いつでも助力を惜しまぬつもりだ。ゆえにこれは勝手な頼みだ。それでも聞くだけ聞いてはくれんかね」

「なんなりと」

 老人は襟をただし、身体ごとこちらに向き直った。

「きみにはもっと、信用してもらいたい」

 ちからづよい口調だ。

 真摯に訴えられてしまい、戸惑う。

 信用していますよ、と言葉で返すのは容易である。ただ、それにはいささか逡巡の間を置きすぎた。

「すみません。時間をください」

 あなたを信頼するだけの時間を、と答えるのがやっとだった。こちらの必死さが伝わったのだろう、老人はすぐさま深々と頷いた。

「それでいい。ありがとう」

 おいしょ、と腰を上げると、老人はそのまま暇を告げた。

「お送りします」と申し出たものの、「寄っていくところがあるのでな。あまり人に知られたくない場所だ。わかるであろう」と迂遠に断られてしまった。

 最後まで老人は柔和な笑みを絶やすことはなかった。

      ***

 ベンチに座ったまま、ミタケンは沈思する。

 サエキ氏の向かった場所はもちろん聞くまでもない。

 墓参りだ。

 そこに眠るひとが、サエキ氏とどんな縁(ゆかり)のある人物なのかは判然としない。

 パーソナリティ値だけを比べれば、老いたサエキ氏よりも、現在はこちらのほうが上である。それは単純に、彼には老化があり、こちらには若さがあるというだけの違いだろう。現役のときのサエキ氏と比べれば、どうなるかは考えるまでもない。

 半世紀以上も前、ひとりの保持者が暴走した。

 その保持者の名を――弥寺という。

 その災厄の際に、暴走者である彼を処分しに向かったアークティクス・ラバーは総勢一一六名いた。全員が『アークティクス・サイド』という特殊な学び舎に所属していた者たちである。先鋭されたラバーたち――その内、生き残ったのはたったの二名であった。その二名のうちの一人こそが、当時、最年少のアークティクス・ラバーであったサエキ氏である。

 暴走したあの弥寺くんと対峙して生き残ることができた人間――それだけでもあのサエキというご老人の底力が推して知れるというものだ。

 ミタケンはなんだかあの老人が、他人のようには思えなかった。

      ***

 弥寺という保持者は現在、『アークティクス・サイド』の地下深くに幽閉されている――と聞く。いや、座標が地下であるというだけで、実際にそこにはいない。弥寺は《アークティクス》と『プレクス』の狭間にいる。

 ――『世界』から外れた〈世界〉にいる。

 自ら閉じ籠ったのだという。だからそれは、幽閉されたのではなく、籠城したと表すべきなのだろう。自分を犠牲にすることで助けようと思った者がいたのだ――あの弥寺くんにも。

 そう思うとミタケンはなんとも愉快な心持ちになる。あの弥寺くんがなぁ……、とそう思う反面、あの弥寺くんだからなぁ、と妙に納得してしまう自分もいる。

 ミタケンは弥寺に恩がある。

 いや、恩しかない。

 だから解放してあげたかった。

 自分ごときが弥寺くんを助けようだなんておこがましいとは思う、それでもその自由を限定された〈世界〉からは、なんとしてでも解放してあげたいと望んだ。まずはどうしてそのような状況になったのか、その詳細な情報が必要だった。

 案外にそれは容易く判明した。

 当時なにが起きたのかを詳細に知る人物が残っていたからだ。

 アークティクス・サイドのラバー。

 ――イルカ。

 華奢な体躯の女性である。ミタケンの、元同僚だ。

 どんな手段を遣ってでも彼女から情報を得ようと思っていたミタケンであったが、彼女に接触した折に、手荒なまねをせずとも、彼女ならこちらに協力してもらえるという確信を抱いた。

 彼女は、こちらの良く知る人物を匿ってくれていたからだ。

 ミタケンは彼女に策を弄せぬまま、真正面からコンタクトをとった。彼女は当初こそ警戒していたが、こちらの話には耳を貸してくれた。こちらの要望を告げたのちに彼女は、協力する、との意を示してくれた。

 ――弥寺さんは虚空なみに局所的な〈世界〉にいます。

 ――通常の保持者が到達不能な、不可侵断層です。

 ――内側からご自分で『縫合』なされたみたいです。

 ――こう言ってはなんですけど、いくら弥寺さんといえどもあの〈世界〉に閉じ込められてしまったのでは、さすがに……もう。

 言葉を濁す彼女には申しわけないが、その可能性を考慮する気などさらさらなかった。

 弥寺くんは生きている。

 いや、死んでいない。

 弥寺くんが死ぬことなんてないのだから。

 たとえこの確信を、「盲信」と言い換えられたって、ミタケンとしてはまったく構わない。今のミタケンには、ただ頑なに信じることでしか、これから成していく行動に意味を見いだせないのだから。

 意味を見いだせない作業の繰り返しは、人を狂わせる。

 誰よりも他人を狂わせてきたミタケンだからこそ、直感的にではあるが、それを知っている。それを畏れている。

 ――弥寺くんは……もう。

 たまに脳裡へ浮かぶこの雑念をミタケンは払拭することなく、見て見ぬふりをする。一度振り払ってしまえば、その手にはもう二度と拭うことのできない染みとして、その雑念がこびり付いてしまうのだと予感しているからだ。

 だがミタケンは気づいていない。

 予感している以上、それは決して看過すべきではない問題だということを。弥寺がその〈世界〉から消失することで生じる幾多の問題――それらがもたらす世界への影響に。

 ミタケンが気づくことは、今のところ、ない。

      ***

 弥寺についてだけではなく、ミタケンが知らないだろう情報を、こちらが尋ねる前にイルカは話してくれた。そういえばむかしから彼女は要領の良い子だったっけな、と懐かしく感じた。

 失踪者の存在についてもそのとき、彼女から聞いた。

 その失踪者が、【あの少年】によって生み出された可能性が高いことも同時に教えてもらっていた。

 あの少年――ノロイ・コロセ。

 彼女が匿っていた人物。ミタケンともなじみの深い少年である。少年と表してはいるものの、実際にはもうすでに「青年」と形容すべき年ごろだろう。彼の現在の所在や足跡を問いただしてみたが、イルカはそのことに関してのみ、言葉を濁した。言葉だけでなく、波紋までもが濁っていたことから、きっと彼女もよく知らないのだろう、とミタケンは思考を本筋に戻した。

 失踪者の出生にあの少年が関わっていたとなれば、それは看過するにはあまりにも重大な情報である。

 あの少年が関わっていた――その事実が意味するところは、ただの【失踪者】の発生で済むはずがない、という最大級の懸念である。

 事実、失踪者の一部は【失踪】から目醒め、覚醒者(ウェイク・アッパー)となり、保持者と逸脱者をも凌ぐ、異質な新人類と化していた。そのことをミタケンが知ったのは、とある学び舎へ侵入した際のことであった。

 現在の組織の動向を把握しておくために、ミタケンは定期的にセキュリティのひくい学び舎への侵入を繰り返していた。セキュリティが甘いという時点で、その学び舎から知れる情報などはたかが知れていたが、それでもミタケンは自身がアークティクス・ラバーだった時代の記憶と照らし合わせることで、組織の動向を大まかに推測することができた。

 その学び舎は、逸脱者の処理を任されるような、機関のなかでも末端に属する学び舎であった。

 侵入はこれ以上ないほど容易であり、離脱もまた容易であると思われた。いつでもどこからでも離脱可能――この余裕がミタケンを予定よりも長く逗留させた。

 それは知らぬ間の変化であった。

 突然の変化でもあった。

 住民たちの【紋様】が変化していた。

 紋様――ミタケンにのみ視える、個人をとり巻く色彩。

 それが、一斉に変わった。

 紋様の極々一部、局所的な歪みであったが、一目瞭然であった。それらの歪みが保持者たちの変化をミタケンへ如実に窺知させた。

 一見すれば、どの保持者にも変わった様子はない。住民たちに著しい変化などはなかった。逆にそのことがミタケンの関心を募らせた。

 ――紋様が変化したのに、どうして彼らは正気を保っていられるのだろうか。

 ――人格の狂わない、紋様の変質。

 そんな現象を見聞したことなど、これまで一度たりともなかった。

 ミタケンは即座に行動を起こした。

 その原因を突き止めようと思った。

 学び舎を駆けまわるうちに、紋様の変化していない者――紋様が歪んでいない者――を数人見つけだした。

 そのうちのひとりの波紋を読むことで、大体の事情を察することができた。そうして、失踪者――覚醒者(ウェイク・アッパー)――アヤモリの存在を知った。

 浸透しながらであったことに加え、対象との距離があったことから、断片的な情報しか読みとれなかったが、いずれにせよ、疑問は氷解された。

 学び舎の住民たちの模様を変質させた根源がアヤモリという名の保持者だったということ。さらには、彼女が『覚醒者(ウェイク・アッパー)』と呼ばれる新たな種であるということまで判明した。

 このような情報はこれまで寡聞にして知らなかった。きっと機関すらもまだ知り得ていない情報なのだろう。この学び舎がセキュリティのひくい施設でよかった、とミタケンは安堵した。これが仮に「アークティクス・サイド」であれば、すぐさま組織に露呈していたからだ。一介の保持者ごときでは、こんな重大な情報を隠匿していられない――そのような学び舎(環境)こそが、「アークティクス・サイド」であった。

 ミタケンはさらに波紋を購読した相手について穿鑿した。

 サイドネイムは「ノリマキ」というらしい。

 しかし現在は、模様の変質したほかの保持者たちから、「アラキ」と呼ばれているらしく、ノリマキ本人もいまでは「アラキ」を名乗っている。

 彼はどうやら組織からの離反を企てているらしかった。

 ミタケンも組織から離反した身である。

 殺人者として手配されている身分でもある。離反した者が感受する大抵の苦難は、知り尽くしている。未熟者でありながらも離反してしまった者が辿るべく末路もまた、ミタケンはよくよく知っていた。

 だとすれば、彼が離反する際には、なにか手伝ってあげるのも良いかもしれない、と何ともなしに考えた。情報を齎してくれた恩返しのつもりだったような気もする。(実際に、彼が離反する段になって、ミタケンは助力をほどこした。彼の離反は即座に露呈し、追手がかかった。ミタケンは追手が分散するようにと、迅速に、ほかの保持者たちをも離反させた。以前、学び舎を詮索中に、「そとの社会へ戻りたい」と渇望していた者たちを幾人か見かけていた。彼らを離反させたわけだが、浸透できない彼らに代わり、ミタケンが簡易チューブを開いてやった。この程度のセキュリティ・システムならば、ミタケンの「浸透域」を、増幅装置で拡大させて、彼らと共に離脱することができる。ミタケンの暗中飛躍もあり、彼らを含めた保持者三十一名の離反は成功した。離反した彼らが現在どうなっているのかは定かではない)

 覚醒者(ウェイク・アッパー)についてもできるだけ知っておきたかった。

 だが、肝心の「アヤモリ」という異質な保持者(ウェイク・アッパー)は、もうすでにこの学び舎にはいないらしい。絶好の機会をみすみす逃してしまった。ミタケンは落胆する。

 一方で、失踪者や覚醒者(ウェイク・アッパー)の存在は、ミタケンへ大きな期待を抱かせた。

 ――彼らなら、もしかしたら、「不可侵断層」へ辿りつけるのではないか。

 ――覚醒者(ウェイク・アッパー)たちなら、弥寺くんを救えるのではないか。

 期待は募った。

 居ても立ってもいられなくなった。

 ミタケンは覚醒者(ウェイク・アッパー)の捜索を開始する。

 弥寺の救出を決意してから、およそ三年の月日が経過していた。

      ***

 ノリマキという保持者の離反を手伝ったときのことだ。

 ミタケンは思いがけない人物を目の当たりにした。

 他人のそら似であるという可能性は十二分にある。むしろそう考えるほかになかったのだが、単なるそら似で済ますにはあまりにもその人物は、彼女に類似していた。

 彼女。

 ――シオリ・ミサキ。

 彼女は、ミサキにそっくりであった。

 ミサキは、ミタケンの妻であり、唯一心から愛した人である。

 いや、唯一ではない。ミサキとのあいだに産まれた娘――彼女のこともミタケンは愛していた。

 だが二人は十数年前に死亡している。そう思っていた。

 彼女たちの死が、いったい何年前の出来事かすら覚束ないほど、ミタケンはその当時、自棄になっていた。自分などいつ死んでもいいと思っていた。だがそれではミサキに面目が立たない。きっと死んだあとで叱られてしまう。

 ――もう! なんでキミはすぐにそうやって!

 両手を腰に添えて、彼女はきっと叱るのだ。

 いや、叱られるならそれは本望である。だが、失望だけはされたくなかった。だからミタケンは、死ぬなら他人の役に立ってから死のうと思った。

 ――自己犠牲。

 それならミサキも、「じゃあ、仕方ないね」と言ってくれるだろうと思われた。

 だが結局それもミタケンの独善でしかない。独善でしかなかったのだとミタケンはやがて気が付いた。いや、気づかされた。それを教えてくれたのが、弥寺という男であるし、ノドカという女性でもあった。ひいては、ノロイ・コロセ――彼もまたあのとき、そう諭してくれていたのかもしれない。

 回顧は終わらない。

 それもこれも。

 あの学び舎で見かけたせいだ。

 ――あの女性を。

 ――妻に似た、女性を。 

 ミタケンは彼女について穿鑿した。どうやら彼女は波紋の糊塗技術には疎いようで、詳細に知ることができた。

 名は「片鉄頭・慄」。

 現在のサイドネイムは「アズキ」。

 親はなく、山に捨てられていたところを「片鉄頭・慄幻」に拾われたそうだ。

 それからの遍歴や沿革は、多岐亡羊としており、彼女が並みの保持者ではないこと以外、詳らかとはならなかった。

 ――親がない。

 ――親の記憶がない。

 それの意味するところをミタケンは考えた。自分が即座に結んでしまった結論が、果たして本当に妥当なものであるのかを吟味した。

 彼女はミサキに似ているだけではなかった。それだけならば、《あの人》のドールという可能性だって高い割合であるのだから。にも拘らず、ミタケンは、彼女がミサキに似ている、と判断した。《あの人》ではなく、自分の妻に似ているのだと。面影があるのだとそう断じた。

 なぜなら彼女は、

 ――ミタケンにも似ていたからである。

 心の淵から湧き上がるこの戸惑いが、単純によろこびであるという事実にミタケンが気づいたのは、覚醒者(ウェイク・アッパー)を捜し、集め、「弥寺くん解放」の段を整えているあいだに募った、彼女に対する、慈愛の念を自覚した際のことであった。

 ――あの娘(コ)はぼくが護ろう。

 この先、なにがあろうとも。

      ***

 娘は死んでいなかった。その結論は案外に容易く呑み込めた。なぜならミタケンは、娘の遺体を直に見ていなかったからである。妻であるミサキの説明と、死亡診断書で確認したに過ぎない。その直後にミサキが死に、疑問を抱いている暇などはなかった。それでもミサキが《あの人》のドールであったと知ってからは、心のどこかでは、娘がまだ生きているのではないか、と期待していた。いや、期待していた、と今になってそう判った。当時のミタケンでは、その期待がただの願望ではないと断じきれなかった。期待が外れれば、それは娘を二度失うに等しい傷を負うだろう。それを危惧しての盲目だ。

 とは言え、ミサキは、ことごとくミタケンを欺いていた。本当のことなど、彼女はなにも語ってくれてなどいなかったのだ。それを裏切りだとは思わないし、彼女と育んだ愛までもが偽りだったなどと疑ったことは、未だかつて、一度たりともない。それでもミサキの言動のおよそ九割が虚言であったことも確かだ。それを鑑みれば、娘が生存している、という推測もまた点で的外れではないだろう。

 しかしそういった考えを抱くには、ミタケンの負っていた傷はあまりにも深かった。絶望の底に落ちている限り、どんなに淡い光であっても、それは目に痛い閃光でしかない。掴んだ瞬間に消えうせてしまうような不安が常に孕んでいる。ならば目を瞑り、見ないようにするのが精いっぱいの自己防衛である。ミタケン自身がこれまで、そうであったように。

 だが今は、その目の前にくすぶっていた光が、決して消えることのない、絶望からの出口であったことに、ようやくミタケンは気が付いた。

 ――娘は死んでいなかった。

 ――保持者として、今を元気に生きている。

 おもわず涙腺がゆるんだ。

 弥寺との別れからおよそ三年振りの涙だ。

 そして人生二度目の感涙をミタケンはながした。

      ***

「弥寺くん解放」の段を整える傍ら、ミタケンは彼女――アズキの身辺にも気を配った。

 よくよく知れば、彼女もまた、アークティクス・ラバーであった。カエルの子はカエルと言うべきか――彼女のパーソナリティ値からすれば、成るべくして成ったと言えよう。彼女の母は、サポータと偽りながらも、《彼女》のドールだったのだから、その素質は計り知れない。生前、あれだけ四六時中ともに暮らしていたミタケン相手に、一切の不審を抱かせなかった。その点だけを鑑みても、彼女の母がただならぬ人物であったという充分な傍証として成立するだろう。

 ミタケンはことあるごとに学び舎へ侵入した。

 我が娘(アズキ)が心配だったからだ。

 なにか窮地に立たされるような危険な任務は任されてやしないか、なにか嫌な思いはしてやしまいか、悩みごとはないか、変な男に付き纏われてはしないか……考えれば考えるだけ不安になってくる。たとえ「ロリコン」だと詰られようが、「親バカ」だと蔑まされようが、まったく気にならない。心配なものは心配なのだ。

 そうだとも、これは一種の精神病に相違ない。

 親が子を想うキモチというのは、どこか狂っているものなのだ。

 ――普通ではない。

 無償で身を粉にして尽くす姿など、まさに狂人である。

 だが、狂人であることに善も悪もない。

 だからこれでいい。ミタケンは自身に言い聞かせる。

 ――ぼくはあの娘を護り、弥寺くんを解放する。

 いつしか、それが生きる目的となっていた。

 誰かを助けたいではなく。

 特別な個人を救いたいのだと。

 ミタケンは願うようになった。

 一方で、そのためには、より多くの者たちが平穏な社会で幸せにならなくてはならないのだ、という「絶望」も同時に抱いていた。

 優しい人が幸せになるためには、多くの者の幸せが必要なのだ。

 それも、

 できるだけ同時に。

 一切の犠牲をださず。

 それをミタケンはこの十数年でひしひしと痛感していた。

 ――なんて我が儘なひとたちなのだろう。

 そう考えると、やれやれ、と苦笑するよりほかはなかった。

      ***

 覚醒者(ウェイク・アッパー)の発見は困難を極めた。なによりもまず、彼らに関する情報が不足している。足りない情報を補おうとミタケンは、離反した彼――ノリマキの足取りを追った。彼ならこちらの知らない情報を持っているはずである。そう期待しての行動であった。

 覚醒者(ウェイク・アッパー)のどんな情報が不足しているかを把握している今なら、初めて彼の波紋を講読したときよりも、もっと効率よく情報を仕入れられると考えていた。彼の現在の生活によっては、直接にコンタクトをとることも辞さない考えであった。

 だが彼は、『R2L』機関に懐疑的であると共に、それ以外の人物たちに対しても、覚醒者(ウェイク・アッパー)についての情報をひた隠しにしようとする意思がつよかった。それは、頑なまでに貫徹していた。

 アヤモリという覚醒者(ウェイク・アッパー)――彼女の存在がそうさせるのだろう。

 だとすればやはり、彼の波紋を講読する外に術はないと思われた。

  

 彼の足取りを追うのは正直、骨が折れた。

 およそ一年という月日を要し、ようやく彼を捜し当てた。

 彼は居酒屋を営んでいた。

 一度目はひとりで切り盛りしていたが、二度目に様子を窺いに行った際には、女性の店員が一人、増えていた。

 アルバイトでも雇ったのだろう。

 その程度に考えていたが、彼の波紋を読んで、そうではないことが判明した。

 彼女もまた保持者であった。

 ただの保持者ではない。

 覚醒者(ウェイク・アッパー)だ。

 こちらがあれだけ捜しても見付け出せなかった対象を、彼は居酒屋を営む片手間に発見していたのだ。発見していただけでなく、自らの協力者として、共同関係を築いている。

 ――ただ者ではない。

 ミタケンは認識を改めた。

 彼に対する評価と自らの拙さについて認識を改めた。

 覚醒者(ウェイク・アッパー)に協力を求めたい。

 しかし容易には捜しだせない。

 だがどうやら彼には、覚醒者(ウェイク・アッパー)を捜しだす「才」があるようであった。その「才」の核が十割「運」によって構築されていることはこの際目をつぶるとしても。

 実際、彼の波紋を読んだ限り、「よっちゃん」と呼ばれる覚醒者(ウェイク・アッパー)――彼女に彼が接触できたのも、ほとんど偶然のようであった。

 だが、偶然などこの世界には存在しない。いや、むしろ、至るところに偶然は溢れている。だからこの世界は、偶然の連鎖によって形づくられていると言ってもよい。しかし、全てが偶然によって成り立っているのだとすれば、それはもう、偶然とは呼べまい。

 それはたとえば、全てが原子によって形づくられているからと言って、「椅子」を示して、「これは原子です」とは言わないのと同じである。前提として認められた事象は、その後、その存在を顧みなくともよいとされる。とどのつまりが、度外視される。

 そのことと同様にしてこの世界は、偶然のうえからさらに因果という要素が介在している。

 重要なのは、その因果である。

 たしかにこの世は偶然に溢れている。因果を有さない事象も少なくはない。むしろ大部分と言ってもあながち間違いではない。

 しかし、どんな偶然にしろ、それが何かしらの因果を形成している。または、形成していく。それは事実だ。

 なぜなら、因果の根源とは偶然そのものなのだから。

 だから――。

 彼が期せずして、「よっちゃん」という覚醒者(ウェイク・アッパー)と出逢ったことが、たとえ偶然であったとしても、それがいずれ訪れる決定的な出来事においての起因となることは、確定的に明らかなのだ。

 必然とはいつだって偶然から生じるものである。

 ならば、

 ――偶然とは、一体なにから生じるのだろうか。

 ミタケンはいつもここで思索を止める。

 これ以上考えても不毛だと知っているからだ。

 この世界の根源がどうであれ、またはこの世界の末路がどうであれ、そんなことは関係がない。

 自分が生まれてきたことも、この先、いずれ死ぬことも、それは自分の意思からかけ離れた強制でしかない。それでも自分は生きている。この生きているあいだだけは、自分の意思で生きている。たとえ、どんな環境であろうとも。どんな境遇であろうとも。

 ――自分の意思で生きようと努める。

 それだけはできるのだ。

 人間は自力で空を飛ぶことはできない。しかし、空を飛ぼうと追究することはできる。その結果、人類は飛行機を生みだした。

 自力で空を飛ぼうと努めた結果に、空を飛ぶことはできたのだ。自力では飛べなかったにしろ。

 それは、抗えないはずの大きなながれに、人類が抗うことのできた偉大な意地であろう。

 ひとは、自分の思い通りには生きられない。

 しかし、

 ひとは、自分の思い通りに生きようとすることはできるのだ。

 その意地を押し通したために、早死にするかもしれない。無駄死にするかもしれない。犬死するかもしれない。それでも意地を通すことはできるのだ。

 自分の命を賭ける意思――己という大地を駆ける意志――それこそが「意地」だ。

 それさえ抱けるなら、それはもう、「私は私を生きている」と誇るになんら差支えない。

 要するに、世界の根源がどうであっても変わりはないのである。ゆえに、不毛なのだ。

 

 ミタケンは彼の「仕事」ぶりを観察した。観察しながらも、そのさらに裏で、彼らの発見した覚醒者(ウェイク・アッパー)たちに接触した。こちらの要望(「弥寺くん解放」の手伝いをしてほしいとの旨、)を伝えた。そのうえで、さらに公約した。

 ――きみたちが成功してくれさえすれば、必ずきみたちの状態は改善する。

 そう告げて、「存在しない存在」となってしまった彼らへ、希望を植え付けた。当時、彼らはみな一様に絶望していた。

 どうして私が、どうして僕が、どうしてオレが……。

 店長やよっちゃんから、覚醒者(ウェイク・アッパー)について聞かされた彼らは、現状をより的確に把握したことで、逆に、自分の境遇に激しく絶望してしまっていた。

 それもまた当然といえば当然に思われた。

 彼らにも愛する者がいただろう。成し遂げたい目標があっただろう。壮大な夢があっただろう。それらがすべて、目の前から遠ざかった。泡と化したのだ。

 夢も希望も家族も、認識されない存在には、ただの毒でしかない。檻の向こうに広がる自由。飢餓に苦しんでいるときに、映し出されるスクリーンのなかのご馳走。そういったものにちかい。

 向こう側にはもう、こちらの手も声も、なにもかもの一切合切の表現が届かないのだ。表現が届かないにも拘わらず、干渉することはできるのだ。こちらからは一方的に、物質を介することで。

 棒で殴れば相手は傷を負う。

 なぜ傷を負ったのか、その真実にまったく気づくこともなく。

 一方的に、傷つけられてしまうのだ。

 一方的に、傷つけてしまえるのだ。

 それを知った覚醒者(ウェイク・アッパー)たちは、一様に絶望していた。

 自分は他人を傷つけない――それは良いとして。だが仮に、この覚醒者(ウェイク・アッパー)の特質を利用して、大量殺人を目論んでいる者がいれば、その危険を、大切なひとたちへ報せることはできないのだ。そうでなくとも、防げるはずの事故を防ぐことすらできずに、大切なひとが死ぬのをただただ目の前で指をくわえて見守ることしかできない――こんな役立たずな自分に、彼らは一様に絶望していた。

 とは言え、彼らにしかやれないことだってある。

 ――弥寺くんの解放。

 今のところ、それを成し遂げるには、彼らの協力が不可欠であった。いや、不可欠なわけではない。その一抹の希望に縋るしか術がなかった。ただそれだけのことである。

 そしてまた、弥寺くんであれば、彼ら覚醒者(ウェイク・アッパー)の現状を打破するにうってつけの秘策を齎してくれるだろう、とミタケンは確信していた。その確信もまた盲信と言い換えても、この場合、まったく差支えない。このときのミタケンには、ただ闇雲に信じることでしか、自分の存在意義を見いだせないのだった。

     ***

 説明会も兼ねて、ミタケンは覚醒者(ウェイク・アッパー)たちを呼び集めた。開かれたその集会では主に、『R2L』機関が社会に及ぼしている影響と、その歴史について。それから、組織から離反した自らの立場と目的をできるだけ客観的に伝えた。

 弥寺が現在どういう環境にあり、どうしてそういった状況になったのか、とそういった事情も話した。

 善悪という概念を挟まずに弁舌をふるったことが結果的に、彼ら(覚醒者(ウェイク・アッパー)たち)の共感を得ることに繋がった。総合的かつ客観的にみれば、弥寺は自業自得であるし、ミタケン自身もただの危険因子(テロリスト)である。それでも、そうせざるを得なかった背景や、そうならざるを得なかった心情――そういった情状を酌量すれば、ミタケンにしても弥寺にしても、一概に「自己責任」の一言で済ますにはあまりに理不尽であった、と彼らはそう看做してくれた。

 どんな行為も、結果だけを取り出して鑑みれば、それはもう、「なぜそんなことをしてしまったのだ」と糾明するほかない。しかし、実際には、そのときどきの我々には、行為の先にある結果など、見えていない。むろん、想像することはできるし、だからこそ想像する必要があるのだろう。しかし、人間など稚拙な生物である。我々の想像など、現実(世界)には到底及ばない。

 ナイフで人の胸を突けば、高い確率で刺された人物は死に至る。しかし、そんなすぐ目の前にある結末の推測など、「想像」の範疇には入らない。それは単なる予測であり、あらかじめ知られている情報である。

 だから、「想像」というものは本来、まだ目のまえに前兆すら現れていない不確定な未来を見通す力のことである。不確定である事象へ向けて、現時点から脈絡を付けて推測する、それこそが「想像力」という名の理性である。

 だが、現時点から遠く未来の出来事であればあるほど、その想像される出来事の幅――すなわち可能性は――無限大にひろがっていく。

 だから、いくら想像していたとしても、自分が辿った脈絡以外の道を未来が辿ってしまえば、それはもう、想像していた結末から遠く逸脱した結果(現実)へと収束してしまう。

 こういった場合、それはもう、自己責任とは呼べまい。

 たとえば、自ら選んだ土地に家を建てた。しかしその地が地震にみまわれて家が倒壊してしまった。これは自己責任か。

 または、貧困な国へボランティアに行った。しかしその国で戦争が勃発した。他国が攻めてきたためその国の治安が悪化したのだ。結果、帰国する前にその者は、その国の過激派に拉致されてしまった。異国の者というだけの理由でだ。これは自己責任か。

 そもそも、自己責任というのは、自分が問題の要因になっている場合にのみ成り立つ。基本的に、巻き込まれた、というのは自己責任にはならない。むろん、巻き込まれに行った、のであればそれは自己責任であることは今さら論を俟たない。蜂の巣をつついた者がいれば、蜂に八つ裂きにされても文句は言えないだろう。そこにどれほど正当性があったとしたって、そうすればそうなる、ということが自明だったならば責任はそれを行使した者にある。ただしたといその者に責任があろうとも見捨てる理由にはならないのもまた同じくらい確かだ。

 ともかくとして、ミタケンや弥寺は、巻き込まれたに過ぎない。

 ――《彼女》に。

 そして、

 ――《世界》に。

 話を聞いてくれた彼ら(覚醒者(ウェイク・アッパー)たち)は、一様にみな、弥寺に対して好意的に解釈してくれた。

 ミタケンが客観的に説明しようと努めた結果である。そこに弥寺の主観は挟まれない。

 弥寺という男は、自分が言い張っていたよりもずっと優しい男であった。ミタケンにはそう視えていた。

 結局のところ、主観的も客観的も、ある個人が語ればそれは、「客観的であろうとした主観」でしかない。ミタケンの語りから判断すれば、弥寺という男の像は必然的に、「口はわるいが、根の優しい、面倒見の良い男」という像に結ばれる。

 その男を解放すれば、自分たちもまた、この悪辣な現状から脱しられる――と聞けば、誰だって加勢したくなるというものだろう。

 その場の彼らは、ミタケンの要望を呑んだ。

 彼らは一致団結した。

 奇しくも、そこには家出少女の姿があった。

 ――アヤモリ。

 またの名を、

 ――サイト。

 失踪から目醒めた、最初の覚醒者(ウェイク・アッパー)である。

      ***

 集会は定期的に開かれた。参加者の数は毎回ほぼ同じでメンツもまた同じであった。ミタケンは敢えて、もうこれ以上、メンバーを募ることをしなかった。計画の漏えいを防ぐためである。

 ――「弥寺くん解放」計画。

 安直にネーミングされたこのプロジェクトは成功すれば、それはそのまま覚醒者(ウェイク・アッパー)たちの解放に繋がるはずである。ミタケンはそう信じている。

 現状の打破。

 桎梏の払拭。

 この計画が成功した暁には、彼らは解放される。しかもそれは、自分たちだけではない。この計画に参加していないほかの覚醒者(ウェイク・アッパー)たち――自分と同じ境遇で苦しんでいる者たち――彼らをも救える。ミタケンがそう信じているように。彼ら(メンバー)もまた信じていた。

 いまはまだ組織は覚醒者(ウェイク・アッパー)の存在に気づいていない。しかし、組織が失踪者の行方を調査している以上、彼らの存在が明るみに出るのは時間の問題だろう。そうなったとき、できる限り、この「弥寺くん解放」計画は知られたくない。

 となれば――。

 彼ら(覚醒者(ウェイク・アッパー)たち)へは、徹底した口止めをしておかねばなるまい。それは、人数(メンバー)の増加に比例して、難しくなっていく。だからミタケンは、メンバーを初期のまま固定し、決して増やすことをしなかった。それは、仲間意識を育ませるのにも効果的であった。また、メンバーを限定しておくことで、「店長」に知られる危険性も低くなる。

 できればこの計画は、わずかにでも組織と関わりのある保持者には知られたくなかった。本人に密告の意思がなくとも、波紋を通じて露呈してしまう危険があるからだ。

 彼らはみな、店長に対して恩義を感じている。なにも見えない闇の底にいた自分へ向けて、一抹の灯りではあるが、光を照らしてくれたのだから。その光のおかげで彼らは、自らの姿を認識することができた――自分がどういった存在になってしまったのかを知ることができた。

 さらには、誰にも認識されない寂しさからも救ってもらった、と感謝している者も少なくはない。

 店長に隠しごとをするというのは、それだけで良心の呵責に耐えなくてはならないほどの苦痛になる。その苦痛をケアするためにも、人数(メンバー)は限定して置かねばならなかった。そのうえで、箝口令を敷いた。

 

「アークティクス・サイド」という異質な学び舎についての説明が終わったころ。いよいよミタケンは、彼らに実践的な技術を身に付けさせるべく、ワークショップをひらいた。

 ――浸透。

 計画の遂行には、なによりもまず彼ら(メンバー)に、 「浸透」を体得してもらわねばならない。弥寺のいる断層へは、「浸透」なくして辿りつくことはできないからだ。

 とは言え彼らは、通常の「浸透」よりも遥かに高度な「浸透」をしていたはずである。その遥かに高度な「浸透」をしていた状態こそが、〝失踪〟なのだろう。

 だから、ミタケンのひらいたそのワークショップは、言うなれば、彼らの潜在能力を引き出すための「きっかけ」に過ぎない。

 一日、二時間。それが目安だ。

 それ以上、修行(トレーニング)しても、精神と肉体の双方ともに負担をかけることになる。身体を毀しては元も子もない。集中力と体力を保持できる時間からしても、やはり二時間が妥当であった。

 ミタケンは週に一度の頻度でワークショップを開いた。彼ら(覚醒者(ウェイク・アッパー)たち)は、よっちゃんや店長のひらく、別の集会にも参加していたためだ。こちらでは「浸透」を学び、かたや向こうでは、「顕在化」するための修行(トレーニング)を行っていた。それを体得すれば、一般人に触れたり、一般人から認識されるようになるという。だがそれもその場凌ぎの技術(スキル)に過ぎない。根本的な解決にはなり得ない。しかも、かなり難易な技術(スキル)であるようだった。彼らに垣間見える苛立ちや焦り――または失望などで、いかに困難であるかが推して知れた。

 それでもメンバーは誰ひとり欠けることなく、毎週集まってくれた。あちらを優先させるでもなく、こちらに参加し続けてくれるのは、素直にありがたいと思われた。

 元アークティクス・ラバーの身であるミタケンにとって、「成り立ての保持者」とも呼べる彼らに「浸透」を伝授するのは、さほど難いことではない。懐かしさを感じるルーチンワークですらある。

 だが、こちらが手練ているとはいえ、技術を体得するのは相手である。彼らの成長をただ待つしかない。

 基本的に、「浸透」を覚えるには、波紋の、糊塗技術(スキル)や同調技術(スキル)などを体得してからが常套である。しかし悠長にそんな段階を踏んでいる場合ではなかった。弥寺の現状を鑑みれば、できるだけはやく「浸透」を享受してもらわねばならない。「急がば回れ」とは言うがしかし、遠回りする必要がないのならば、直進してもよいはずだ。彼らには、すぐにでも「浸透」を遣い熟すことができるとミタケンは判断した。

 事実、すでに数名が「浸透」を体得していた。

 そのうちの一人は、小柄な少女であった。髪が短かったので、もしかしたら少女のような男の子かも、とも思われたが、彼女に視える紋様は女性のそれであった。

 少女は自らを「サイトウ」と名乗った。聞けば、どうやら彼女はこの数年、「無印(ノーマーク)」のもとで暮らしていたらしい。いまは家出中なのだという。現在はここで知り合った同年代と思しき子といっしょに暮らしていると聞いている。その子に世話になっている、というよりも、持ちつ持たれつの共同生活であるようであった。

 サイトウちゃんと仲良くしてくれているのは、「オウギ」という名のこれまた少女である。どうにも、とっつきにくい性格で、ミタケンはできるだけ彼女には構わないようにしていた。

 子ども扱いされるのは嫌いだが、同等に扱われるのもお気に召さない――こちらが言葉をかければ、「息が臭いわ、しゃべらないで」と毒づき、二言目には、「頭が高いわ、そこに跪きなさい。そのままくたばりなさい」と口走る――いわゆる高飛車な――ちょっとした「困ったちゃん」である。しかし彼女は、サイトウちゃんに対してだけ、不思議と心をひらいている。

 同年代であり同性でもある、という要素がそうさせるのだろうか、と疑ってみるものの、サイトウちゃんのほかにも該当するメンバーはいるのだが、そちらに対しては、まるで眼中にない――むしろ害虫を見るような視線を向ける始末で――どうにも扱いづらい子であった。

 一方でサイトウちゃんは、と言うと、彼女はまるで品行方正、一家に一人はいてほしいような女の子――ちょっと「世間知らず」且つ「世間ズレ」しているところはあるものの――とても気立てのよい娘子であった。

「高飛車な少女」と「いたいけな少女」。

 似合いのペアだな、とミタケンは微笑ましく思っていた。

 

 半月ほどが経った。

 ワークショップは累計、三十回を越えたころ。ようやくメンバーの全員が「浸透」を覚えた。(特別に覚えのわるいメンバーには、補修として週に二回のワークショップを開いたりもした)

 およそ半月での体得――しかも週に一回のペースでしか修行(トレーニング)はしていない――こんな短期間で「浸透」を覚えたというのは、やはり異常であった。いや、期間の問題ではない。一週間で「同一化」まで覚えた者もいるくらいなのだ、さほど驚くこともない。

 では一体なにが異常かと言えば、これだけの人数が、そろって短期間で体得し終えた、というその確率である。

 たった一人が短期間で覚えたのなら、それは才能であるが、これだけの人数が一同に体得できたとなれば、それはもう、疑いようもなく、覚醒者(ウェイク・アッパー)にある「素質」と評すべきだろう。

 ――保持者よりも格が上の存在。

 ミタケンは、ここにきて、初めて彼ら覚醒者(ウェイク・アッパー)に、脅威を感じた。だが、そんなことで尻込みしている状況などではない。事態は一刻を争う。一刻を争う事態が、すでに数年の月日を重ねてしまっているのだ。それらの月日を受けとめる器が脆ければ、とっくに潰れてしまっていることだろう。だが、ミタケンの知る器は特別だ。きっとまだ間に合う。これまでは、一刻を争う状況ではあるものの、争うだけの手段がなかった。しかしようやく手段が整った。

 あとは、彼ら(メンバー)の「浸透」の精度を高めれば、彼らにしてもらう準備は終わる。

 その先はもう、こちらの問題だ。

「アークティクス・サイド」への、集団侵入。

 そんなことが可能かどうか――それをこの一年、ずっと考えてきた。自分一人でならば、過去何度か侵入してきたが、それはあそこに弥寺がいたからである。彼に協力してもらうことで可能だったにすぎない

 侵入するだけでもやっとであった。

 しかし問題は、侵入したあとである。

 大きな隘路が三つある。

 第一に、「アークティクス・サイド」内にこちらに協力してくれる者がいなくては、絶対に離脱ができないという点。入ったきり、「アークティクス・サイド」から出られないのである。

 だがこれは、イルカに頼むことで解決する。

 また、もう一つの問題、弥寺のいるとされる座標――そこは「バブルの塔」と呼ばれていた(らしい)特殊な空間であるという。その空間へ介入することは難しいだろう――と以前にイルカから聞かされていた。ミタケン自身、地下フロアにそんな空間があったことなど知らなかった。だとすれば、そこへはどうやって介入すればよいか。

 答えは単純であった。そこに介入する必要はないのである。

 たしかに弥寺はその空間内で、〈世界〉を縫合し、沈んだようだ。しかしだからこそ、こちらはその空間へ入る必要はないのである。なぜなら、縫合した〈世界〉は、その空間に沈んでいるのではなく、《アークティクス》に沈んでいるからだ。ミタケンたちは、その特殊な空間があるとされる位置座標まで行けば、あとはそこで「浸透」をし、弥寺の閉じ込められている〈世界〉へと介入すれば良いのである。特殊な空間――「バブルの塔」に介入する必要はない。

 では最後の問題はなにかと言えば、その「バブルの塔」のある地点へまでの進路である。地下フロアは、セキュリティの数と複雑さが、群を抜いている。こちらの侵入が露呈しないように進攻するなど、まず無理である。だが、そこを抜けずに弥寺を解放することなど不可能。ではどうすれば良いか。

 完全に手詰まり。

 お手上げであった。

 しかしこの問題は、メンバーに相談したことで、すんなりと解決した。

「え、だったらオレらが【浸食】すれば済む話じゃないですか」

 ……ああ。

 ミタケンはすっかり彼らが覚醒者(ウェイク・アッパー)であることを失念していた。

 「浸食」を意図的に引き起こせる彼らにとって、「存在しない存在」として活動するなど、造作もないことだったのだ。

 それが可能かどうかは、すでに「店長」が実践済みである。「アヤモリ」という覚醒者(ウェイク・アッパー)を遣っての、集団浸食――効果は絶大であった。

 気がかりは消えた。

 不安など、ミタケンにはもう、ない。

 期待ばかりが膨らむ。まるで泡のように。

 イルカへの根回しなどを含めた、最終調整を済ます。

 機は熟した――。

 一団は、「アークティクス・サイド」へ侵入した。

      ***

 結果から言えば、計画は失敗に終わった。

「アークティクス・サイド」への侵入――地下フロアへの進攻――「バブルの塔」前までの到達――浸透――すべては順調であった。

 しかし、まったくの予想外の結末が訪れた。

 弥寺のいるとされる不可侵断層までは、ミタケンは到達できない。メンバーにあとを託し、その場でひとり、待っていた。

 何分が経過しただろうか。

 一向に変化がない。

 何十分が経っただろうか。

 一向に応答がない。

 様子を見ようと浸透してみるものの、やはり到達できる限界地点には、彼らの姿どころか、『世界』の変化すらもまったく見当たらなかった。

 何時間が経過しただろうか。

 いや、何日が過ぎただろうか。

 むしろ、時が止まったように、感じられた。

 ミタケンは放心していた。

 この現状を理解はしていた。

 なんとなく、想像も付いていた。

 ――失踪してしまった。

 彼らはまた。

 仲間たちはまた。

 ――《アークティクス》に囚われてしまったのだろう。

 もしかしたら弥寺くんのいる〈世界〉まで辿りつき、弥寺くんと共に閉じ込められてしまった、という可能性もあるが、それはあまり考えられなかった。

 その〈世界〉を発見したら、いちど浮上して、状態を報告してもらう手筈になっていたからだ。しかし現状はだれひとりとして、戻ってきた者はいない。

 とすれば、彼らになにかあったか、または再び失踪してしまったかのどちらかである。そしてミタケンとしては、彼らになにかあったとは考えたくなどなかった。

 ――生きている。

 その可能性を否定したくなかった。

 いつしかミタケンは、ウトウト、とまどろんでいた。

      ***

 目を覚ますと街中にいた。

 ベンチに横たわるかたちで寝ていたのだ。

 ――なぜぼくはここに?

 ミタケンは自分が狂ったのかとおそろしくなった。

 これまでの出来事がまるで夢のごとくに思われた。

 目の前を、通行人たちが轟々と行き交っている。

 周囲を見渡す。

 どうやらここは、駅前のアーケード内であるようだ。見覚えのある通りである。しかし、「アークティクス・サイド」のある山地と、この駅前では、まるで場所が違う。距離がある。離れ過ぎている。

 眠っているあいだにここまで来た――?

 知らぬ間に――?

 そんなことは考えられない。

 ならばどう考えれば納得できるかと言えば、それはもう、自分が狂ってしまったのだと思う外ない。これまで視てきた現実――そんなものは存在しなかった。すべては自分の妄想だったのだ。そう考えることが当然の帰結に思われてならなかった。

 しかし――。

 ミタケンのその考察は、点で的外れであった。

 目の前をながれるひと波。

 ただ呆然自失と。

 眺めていたミタケンは。

 その雑踏のなかに。

 失望と幻滅の狭間に、あの子を視た。

 ――サイトウちゃん。

 アークティクス・サイドで戻らなかった仲間のひとり。

 ――“失踪”したメンバーのひとりだ。

 人込みに紛れて、霧が晴れるように――または霧が一箇所に立ち込めたように――彼女がその姿を浮上させた。

 そう、浮上した。

 そんな現われ方であった。

 彼女が存在しているという事実は、そのままミタケンの仮説を否定する。夢などではなかった。現実だったのだと。彼らと過ごしたこの半年。それはたしかにあった出来事なのだと。

 ミタケンはベンチから腰を浮かして、彼女のもとへ駆け寄った。人込みが邪魔だった。それこそ、人がゴミのように感じられた。

 ――どけ、どいてくれ。

 迷惑そうな通行人たちを尻目に、さらにひと波を掻きわけていく。

 きょろきょろ、と視線を彷徨わせているサイトウちゃん。

 その彼女の肩を。

 ミタケンは。

 掴んだ。

 

 ――あッ。

 

 ミタケンは重大な失態をここで犯した。

 彼自身は気づいていないが、ミタケンの『特質』は、逸脱者のそれと大きく類似している。

 ――他人の〈レクス〉の混濁。

 ミタケンのみに視える「紋様」。他人にある「それ」に触れることで、対象の〈レクス〉は歪む。〈レクス〉が歪めば、その者は、他者との『世界』の共有を果たせない。他人とはまったく異なる〈世界〉を生きることになる。それは周囲の者たちからは、異常者として扱われる。

 ――狂人として看做される。

 ミタケンが紋様に触れただけで。

 そして今、ミタケンは触れてしまった。

 ――彼女の紋様に、触れてしまった。

 パーソナリティなど発動していたつもりはない。

 しかし発動していた。無意識のうちで。なぜだかは判らない。

 サイトウちゃんを見つけ、無意識に駆けだしていたように。ミタケンは、無意識のうちでパーソナリティを発動していた。

 かつての幼かったころのように。

      ***

 あれほどの悲鳴を耳にしたのは初めてであった。

 サイトウちゃんは振り返ると。

 まるで化け物を視たがごとく。

 愕然とした様に表情を歪めて。

 それから、悲鳴したのだった。

 むろん、覚醒者(ウェイク・アッパー)の叫び声は周囲の通行人たちには聞こえない。その絶叫は、ミタケンのみに聞こえていた。

 そしてまた、ミタケンに対しての悲鳴でもあった。

 紋様に触れた折、ミタケンは彼女の波紋にも触れていた。そもそも、紋様と波紋は、密接に関わりがあるらしい。ミタケンの臆測によれば、波紋が顕在化したものこそが、模様である。

 だから、ミタケンには判った。これまでの疑問が氷解した。

 ――なぜ自分がここにいたのか。

 ――なぜサイトウちゃんのみが帰還しているのか。

 そして、

 ――なぜミタケンには彼女が視えていなかったのか。

 そう、ミタケンには彼女の姿が視えていなかった。彼女はミタケンのすぐそばにいたのだ。いや、ミタケンが彼女から離れられなかったというべきか。

 ――捕食。

 ミタケンは彼女に捕食されていた。

 捕食された者には、彼女の姿は視えない。

 しかし、視えないだけで、彼女はすぐそばに存在している。こちらが認識できないだけのことで。

 なによりも、彼女があの「アヤモリ」であることも、ミタケンはこのとき、察したのだった。

 

 サイトウちゃんに捕食されていた。こちらが気を失っているあいだに、彼女は「アークティクス・サイド」から離脱していた。どうやって離脱したのかは詳らかではないが、(彼女の記憶には、とくになにをしたという情報がみられなかったからだが)それでもきっと、以前に店長の指示で「学び舎」を離反した際の手順と同じだっただろうと推測できた。

 ミタケンが地下フロアで数十時間を過ごしていたあいだ――実はすでに「アークティクス・サイド」から離脱し終えていたことも発覚した。

 捕食されるというのはどうやら、車に詰め込まれる、といったようなものなのだろう。サイトウちゃんが移動すれば、こちらもまた連動して位置座標を移動する。しかし、こちらが視ている〈世界〉は飽くまでも捕食された地点のもの。車が移動しても室内の風景が変質しないのと同様に。サイトウちゃんが移動しても、こちらが視ている〈世界〉は、固定されたまま。

 それはつまり、捕食されている限り、〈世界〉が極々狭い範囲に限定されてしまうということなのだろう。

 その限定はどうやら、街くらいの規模から、四畳半のような一室にいたるまで、空間的な広さに幅がある。

 

 なぜサイトウちゃんのみが浮上できたのか。そのことについては、以前に店長の波紋を覗いた際に仕入れていた情報から察しがついた。

 店長の知るあの「アヤモリ」がこのサイトウちゃんだとすれば、彼女は覚醒者(ウェイク・アッパー)の始祖である。因果関係は詳らかではないが、それでもどうやら、彼女が目醒めていなければ、失踪者たちは覚醒者(ウェイク・アッパー)にならないという。

 現在、覚醒者(ウェイク・アッパー)は、全世界に数万人規模でいるとされている。失踪者そのものの数が、認知されているだけでも、十四万人もいるのだから、その推測はけっして誇張された情報ではないだろう。

 そして今回、再び失踪してしまった彼らのほかにも、覚醒者(ウェイク・アッパー)は多く存在している。サイトウちゃんが目醒めたことで、彼らが覚醒者(ウェイク・アッパー)となっているとすれば、逆説的に、彼らが覚醒者(ウェイク・アッパー)であるかぎり、サイトウちゃんが再び失踪することはない、というふうに言えるのかもしれない。

「電源がオンになったからライトが点いた」ならば、「ライトがついている限り、電源はオンになっていなければならない」――こういった必然が働いているのかもしれない。

 それは定かではない。しかし、現実にサイトウちゃんのみが不可侵断層から戻った。それは確かだ。

 そう、彼女の記憶には残っている。あの縫合された空間の映像が。鮮明に。

 彼女たちは、辿りつけたのだ。

 弥寺くんのいる《世界》まで。

 しかしそれ以後の情報は、読みとれなった。それも仕方がないことである。“紋様”に触れたと同時に手を引っ込めてしまったのだから。講読しようとする意思を持つまえに、サイトウちゃんの紋様から手を離してしまったのだから。

 サイトウちゃんは、一目散に駆けだしていた。

 あっという間に雑踏に紛れた。

 ミタケンは追わなかった。

 いまはまだ、様子を見よう。

 すでに彼は、冷静な理性を取り戻していた。

      ***

 サイトウちゃんさえいれば、弥寺くんを救いだせる。

 そのことに気づいたのは、怯えるサイトウちゃんの背中を見送った、数日後のことであった。

 

 他人の〈レクス〉を取り込める――それはつまり、、あの空間を捕食できるということ。

 イルカいわく、「あの空間は、巨大な蟲の〈レクス〉です」であるそうだ。

 だとすれば、縫合されて沈められたあの〈空間〉を、この『プレクス』付近まで浮上させることができるということ。捕食したまま、サイトウちゃんが浮上すればそれだけで済む。

 ミタケンであれば、縫合された世界を、外から解くことが可能である。しかしこれまでは、その〈空間〉が手の出せない断層にあった、それがネックだったのだ。その隘路さえなくなれば、もう弥寺を解放するのに時間はかからない。そう思われた。

 ――一から段を整えよう。

 急がば回れ。一刻を争うからこそ、次はもう、失敗できない。

 まずはサイトウちゃんを捜しだし、彼女の様子を窺わなくてはならない。こちらが歪ませてしまった“紋様”――それがどういった変質をサイトウちゃんへ与えてしまったのか。それを確認しなくてはらない。それと同時に、組織の動向も引き続き警戒する。あとは余った時間で、我が娘――アズキの生活も見守りたかった。

 奇しくも、この数カ月後、サイトウちゃん・組織・アズキ――この三つは交錯した。

 繋がってしまった。

 それらを一点に結んだ人物の名は「タツキ」――掴みどころ満載の娘であった。

      ***

 居ても立ってもいられなかった。

 まさかあの子が――アズキまでもが――組織の離反を決意するなどとは思わなかった。

 ――カエルの子はカエルか。

 ミタケンは自虐的によろこんだ。

 いや、よろこんでいる場合などではない。このままでは、彼女たちは「処分」されてしまう。

 彼女たちのなかにはサイトウちゃんの姿もあった。また、よっちゃんや店長の姿まであった。ミタケンが気にとめていた者たちが一堂に会していたのだ。偶然なのだろうか。ミタケンは、ふと、一抹の不安を抱いた。とは言え、今はそんな淡い不安に構っていられる余裕などはなかった。

 波紋の講読は、遠方からでしか行えなかった。それでも、店長にはなにやら策があるらしいことが判る。

 やがて一同は三つに別れた。

 一人は居酒屋に残り、店長とタツキという娘が裏街へと向かい、アズキたちそのほかの者は、商店街の奥を突き進んでいった。

 ミタケンは店長たち二人を追った。

 追いつつも、店長の波紋を講読する。

 そうして店長の策が、如何様な詭計であるかを知った。

 ――穴だらけじゃないか。

 ミタケンは失望した。

 捨て身の策としか思えなかった。

 半ば自棄になっているのではないか。

 成功するとは思えなった。いや、策戦通りに事が運んだとしても、意図したような結末になるとは到底思えない。だからたとい、策が成功したとしても、生存はできないだろうと危惧した。

 黙って見過ごすわけにはいかない。ミタケンは動いた。

 彼らを救うためではない。自分が不幸にならないために、彼らには生き残ってもらわねばならない。

 離反者の討伐隊は、すぐそこまで来ていた。

 

 そのなかに、見慣れた顔があった。

 ――サエキさん。

 願ってもいない。期せずしてお膳立ては整っていた。

 彼がいるなら、幾通りかの隘路にも対処できる。臨機応変に。

 サエキ氏の波紋に同調し、事情を歪曲して説明。助力を仰いだ。彼はすんなりと応じてくれた。

 

 討伐隊のもとから離れて、店長たちの様子を窺いに急いだ。

 ビルディングの地下にあるクラブから出てきた店長たちを発見。ちょうど、仕掛けを終えたばかりのようであった。満身創痍のご様子だ。

 店長たちの跡は追わずに、ビルディングの裏口から出てきたファンキーな女性を追跡する。中々の俊足である。彼女は、三分ほどで駅前までくると、きょろきょろと駅の構内を見渡した。誰かを捜しているようだ。やがて、壁際に佇む青年のもとへ歩を進めた。直立不動の青年である。ファンキーな女性は背伸びをする。彼の耳へ向けて口を近づけた。なにやら、ごにょごにょと、耳打ちをしている。

 水を得た魚とはまさにこのことだろう。

 それまで微動だにしていなかった青年が、疾風のごとく駆けだした。

 見失いまいとミタケンは追った。

 この速力、一般人ではあるまい。こちらが浸透を繰り返し、最短距離を走ることでなんとか付いていけている状態だ。

 先ほどの直立不動のたたずまいや、この機敏な加速力。ロボットかなにかのように思われた。

 やがて青年は、速度を落とした。

 すでに周囲は森のなか。丘に出る。視界がひらけた。

 人の気配はない。

 気配がないにも拘わらず。

 大きな杉の木のしたに。

 人影があった。

 ぽつねんと。

 小柄な人影。

「だれやねん、おたく」

 渋い声。

 枯れた声。

 青年は即座に踵を返した。

 街のネオンが霞む夜の向こうに。

 あっという間にその姿を消した。

 しかし、青年が逃げたというのに、しわがれた声は重ねた。

「はよお、名乗らんかい」

 鼓動が高鳴った。

 ――気づかれている。

 ミタケンはより深く浸透した。

「まあええよ。今日は機嫌がええのんや。まだこれも途中やし」

 人影がなにかを掲げた。目を凝らす。本のようである。

「その代わしと言うたら厚かましいかもしれんが、片しておいてくれへんか。どうせ方向はおんなじやろ」

 ――片す?

 なにを片づけろと言っているのだろう。分からない。

「まあええよ。三分だけ待つ」

 声がちいさくなったことから、人影が俯いたと判る。きっと本に視軸を落としたのだ。

 そのあいだに、と声は続けた。

「――きえてくれ」

 まるで感情のこもっていない、のっぺらぼうな声であった。無関心のそれである。

 お言葉に甘えて、とミタケンはその場を立ち去ることにした。

 踵を返す。少し進んで、一度だけ振り返った。人影の胸元に、三日月がみえたような気がした。ネクタイかなにかだろう。

 気にせず、もと来た道を辿る。

 これからのことを考えた。

 サエキ氏にはどう指示を出せばよいだろうか――。

 まだ決め兼ねていた。

 森を抜ける間際。

 紙の束がそこらじゅうに散らばっていた。

 どこか焦げ臭い。

 渋い声が脳裡によみがえる。

 ――片しておいてくれへんか。

 掃除をしている時間などはなかったが、義理には応えておくのが利口というものだ。ミタケンはその散り紙を、一枚残さず拾い集めた。民家のポストに放りこんでおく。

 先を急ぐ。

 しかし、居酒屋までの道中、どこにもあの青年の姿はなかった。

 追い抜かしてしまったか、それとも青年が先に辿りついてしまったのか。どちらにしても、店長の策は失敗している。

 ――片鉄頭・慄幻、彼は追ってこなかった。

 どうすべきだろうか、と逡巡していると、討伐隊がやってきてしまった。さらに、居酒屋を中心とした半径一五〇メートル四方が縫合されてしまった。

 あれよあれよという間に、事態は暗転した。

 折角サエキ氏が出してくれた助け船を、あの男は拒否した。居酒屋にひとりで残った男だ。波紋の糊塗技術(スキル)が中々どうして高い。この状況、ミタケンとしては、多少厄介である。彼がなにを考え、何に期待しているのか。それが判らないからだ。

 それに加え、なにやら討伐隊のほうから、離反者側に肩入れするような女性まで現れた。

 ああ、どうすればいいんだい。ミタケンは頭を抱えた。

      ***

 ――目をつむってください。

 男が口にした。

 それに応じて、女性もまた目を閉じた。

 今しかない、と思われた。

 同時に、サエキ氏からも、「任せてくれんかね」と頼りになる意思を戴いた。

 成す術をもたないミタケンは、縋る思いで、サエキ氏に一任した。

 その後の展開は、まるで拍子抜けであった。

 湯飲み茶碗を手にするサエキ氏。お茶でも飲むのだろうか、なんて悠長な、と思っていると、唐突に茶碗が弾け飛んだ。真上へ向けて弾丸のごとく。茶碗は天井と衝突。崩壊する天井。それを皮切りに、討伐隊の面々が、奇声をあげて逃げ惑った。続々と居酒屋から退いていく。そのあいだもサエキ氏は、店内にあるテーブルや椅子に順々と触れていく、やさしく、ちょんと、指先で触れているようにしか視えない。一方で、サエキ氏に触れられた物体は、およそ目にも留まることのない速さで、弾けとんでいく。店内の壁という壁を打ち払い、貫通し、縫合された空間の内部にあることごとくの建物を破壊していく。

 やがてサエキ氏は姿を掠め、しずかにその場を去った。

 その場に取り残された男と女。

 二人の周りには、男の創ったアズキたちの分身も残っている。

 数時間前、彼らが三組に分かれるときのこと。もしもミタケンが、分身と肩を並べて双子然としているアズキたちの姿を視ていなければ、(波紋が一切感じられないという欠点があるとはいえ、)さすがに気づけなかっただろう。それほど精巧な分身である。いったいどんなパーソナリティなのだろう、と多少なりとも興味深い。

 一切の境のなくなった居酒屋。

 二人が目を開いた。

 その様子を見届けるとミタケンもまた、その場を立ち去った。

      ***

 サエキ氏と駅前で落ち合った。

 以前に彼とは、ここでこうして密会していた時期があった。

 今日は別段、示し合わせたわけではない。確認し合うまでもなく、サエキ氏はここに現れると思っていたし、彼も彼で、こちらが現れると確信していたようだ。いわゆる暗黙の了解というやつだろう。

 幾つかの事項を互いに質問し合った。

 他愛もない言葉の応酬である。世間話の域を出ない。

 数分でサエキ氏と別れた。

 どうやら彼は、思っていた以上に寛大な人物であるらしい。

 サエキ氏はこちらの波紋を読んでいた。こちらの弱みを握っていたのだ。それでもそのことをおくびにも出さず、弱みを握ってしまったことについて、誤魔化してくれてすらいた。

 配慮してくれていた。今回ミタケンが依頼した事項――その動機が、サイトウちゃん救出のためだ、ということにしてくれていたのだ。

 それ自体は間違いではない。

 ミタケンはたしかにサイトウちゃんを組織に捕縛されるわけにはいかなかった。それは充分に今回の一連の動機に、大きく関わっている。

 ただ、それ以上に、我が娘の存在が大きかった。

 ――アズキ。

 サエキ氏はそのことを知っていたはずだ。それでも黙っていてくれた。知らない振りをしてくれた。

 なんていい人なのだろう。

 この世にはどうしてこうもいい人が多いのか。

 むかしはまったくそんなふうには思わなかった。いや、気づけなかっただけに過ぎない。他人の優しさや配慮に、気づけなかった。

 それだけの余裕が、あの当時にはなかったからだ。

 いや、これもまた言い訳に過ぎない。

 結局のところ、本当の「やさしさ」というものは、「だれにも気づかれなくても行う気遣い」のことなのだろう。

 無償の施し。無条件の気配り。

 一方的な親切。

 それはまた、

 一方的な干渉でもある。

 押しつけがましい、干渉である。

 しかし、それが相手に、安らぎと平穏を与えていたならば、それはきっと、偉大なる慈悲なのだ。

 善良の象徴としての、慈悲なのだ。

 結局、人間の本質とは、

 ――どこまでも自分本位なのかもしれない。

 ミタケンは、自嘲するでもなく、自嘲した。

 自分を中心にして、

 自分を基準にして、

 自分を優先にして、

 ひとは生きている。

 それでも、

 その「円」と「点」と「順序」の形成する〈世界〉に、より多くの『世界』の平安が必要なのだと思える人間。そういったひとたちが、この《世界》をどこまでも無限にひろげてゆくのだろう。

 多くの〈世界〉を内包できる者こそが。

 多くの〈世界〉を内包していながらにして。

 平安でいられる者こそが。

 ――――――この《世界》を。無限に。

 ミタケンは空を仰いだ。

 空は広い。

 その広い空を、背高ノッポのビルディングが狭めている。実際には狭まっていやしないのに――空を限定することなんてできないのに――それでも地を這うように生きているぼくたちには、空が限定されているように視えてしまう。

 視点の違いは、そのまま〈世界〉の違いだ。

 だからと言って、《世界》までもが変わっているかと言えば、そんなことはない。

 いつだって間違っているのはぼくのほう。

 それでも、その間違いを許容し、やさしく抱擁してくれる存在。そういった者がいてくれればきっと、この『世界』はもっと円くなるのではないだろうか。

 ――そんな単純ではないのに。

 けれど、そう安直に信じたくなるのはきっと、余裕がないからだ。

 複雑に考えることに、疲れているのだ。

 溜息を漏らす。

 もうすぐ秋も終わる。

 今は、そう、弥寺くんを解放することが、なによりの目的だ。

 人生の、目的。

 ひと先ず、あの子の紋様をもとに戻さなくては。

 そのためには、修行をしなくては。

 人を狂わすことができるならば、狂った人を戻すことだってできるはずだ。

 それはとどのつまりが、突出した値を、平均値に歪曲させるということでしかないのだけど。

 それでも今は、自在に紋様を脚色できるように。潤色できるように。彩れるように。そうなるように。ぼくはならなくては。

 やらなければならない。

 

 しかしこのとき、ミタケンは気づいていなかった。

 狂った者が視ている世界が、《世界》に近づいていたことを。

 サイトの視ていた人影が実存していたことに。

 このとき、ミタケンが気づくことはなかった。 



      ◆リミット・ブレイカー◆


 ひっそりとした雰囲気のなか。

 夜の駅前にメローなミュージックが流れている。

 音源をさがす。

 ガラス張りの壁のまえに、数人の若者が突っ立っている。

 そのなかの一人だけが動いている。

 そう、動いている。

 動くというのは、そう、まさにああいったことをいうのだ。

 音源は彼女か。そう疑いたくなるほどに、ミュージックを構成する一つ一つの音を的確に表現している。メロディからはじまり、歌手のビブラートから、ビートの強弱から余韻まで。余すことなく表現している。

 ――踊っている。

 そう、彼女は踊っている。

 ふと気配を感じた。振り返る。斜め後方に人影があった。花壇に腰かけている。目を凝らす。暗くて像がはっきりとしないが、女性のようだ。

 こちらには気づいていないのか……いや、きっと彼女もまた、向こうにある踊りに夢中なのだろう。

 こちらもふたたび、ダンサーへと視線を戻した。

 ――ああ、いとおしい。

 今すぐにでも、そう、今すぐにでも、あの子をオレのモノにしたい。

 ほしい。

 嗚呼。

 ほしい。

 だが、まだだ。

 熟すのをまたなくては。

 そう、あの子が熟すまで。機が熟すまで。

 そうすれば。すべてが終わる。いやはじまるのかもしれない。

 この世に蔓延るおびただしい問題はあの子によって払拭される。

 すべて、すべてが無に帰せる。

 あの子がすべてを呑みこむことで。

 最後にあの子を、殺すことで。

 おれがあの子を、殺すことで。

 胸が躍る。

 嗚呼。

 胸が躍る。

 

 ああ。

 腹が減った。

 減った腹を、満たさなくては。

 滾った欲を、吐きださなくては。

 だから僕は、そのために。

 今日もこれから。

 ――人を殺す。 



END


      ――伏線の回収――

 

 五年前のあの町でのこと。

 サイトにはアズキが視えていなかった。

 とどのつまりそれは、アズキがサイトに捕食されていなかった事実を示唆する。のみならず、浸食すらもされることのない断層に、アズキがいたということにすらなる。

 ならば、なぜアズキは町人たちを殺してしまったのか。どうして殺してまわったのか。いや、そもそも、捕食も浸食もされていなかったアズキが、どうして町人たちの姿を視ることができていたのか。

 それは、

 ――アズキがサイトに『同一化』していたからである。

 しかし、なぜ?

 そう、意図的ではなかった。無意識からの同一化であった。逸脱者が意図せずに他者を浸食してしまうように。アズキもまた意識せずにサイトに同一化していた。

 だからこそ、アズキがそのことに気づくことはなかった。現段階でも、アズキは自身が行った殺戮について、謬見を抱いたままである。私は町人三千人の命を救った救世主なのだ――と。

 なぜアズキがサイトと無意識のうちで同一化してしまっていたかといえば、それは、アズキとサイトが非常に相似した〈レクス〉を有していたことに起因する。

 だがそれも、いちど同一化したことによって、均衡が崩壊してしまった。アズキとサイト、双方の〈レクス〉はその相似を類似へと変化させるに至った。ただ似ているだけでは、合同とはならない。

 自己防衛だったのかもしれない。どちらが変質したのかも定かではない。ややもすれば、双方ともに変質してしまったのかもしれない。

 いずれにせよ、それ以来、アズキとサイトが同一化することはなかった。

 アズキとサイトの〈レクス〉が相似していた要因。

 それは、《あの人》のドールとミタケンとのあいだに生れた娘がアズキであったことにある。

 つまり逆説的にこの要因は、サイトの出生にも、《あの人》が深く関わっていたことを示唆する。

 この二つの要素が、アズキとサイトの〈レクス〉を、偶然にも相似させるに至らせていた。

 この偶然を語るには、サイトが忘れてしまっている「空白の記憶」――《あの人》の過去――八千年前に起きたティクス・ブレイク――とある文明の消滅――そして、《彼女》の現在の所在。それらを語らなくてはならないだろう。

 そのためには、さらに、無数のきっかけを語らねばならない。

 だがしかし、

 語るにせよ、語らぬにせよ。

 語り手がいなくては始まらない。

 もしくは、

 語り手がいないことがすでに、

 物語の終わりを、示唆しているのかもしれない。

 げだし、

 物語はこうして、始まるものなのかもしれない。

 

 はしなくもこの瞬間にも、

 【世界】の循環は、目まぐるしく、流れている。

 


   【ウェイク・アッパー】END

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