ファンシィ・ニスト

   ◆ファンシィ・ニスト◆ 

目次


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「決めつけるな」と怒るひとは大抵、そのひと自身に断定したがる傾向がある。

 なぜ分かるかと言えば、わたしがそうだからだ。

       *

 わたしの髪がまだ引ッ詰めに結うにはみじかすぎたころ。

 サポータと名乗る、どこからどう窺ってもただのパン屋さんにしか見えない男から、わたしは声をかけられた。

 彼はフランスパン片手に言った。

「きみは保持者だ」

「あんたはパン屋さんだ」

「ごもっとも」彼はうなずき、付け足した。

「パン屋であり、サポータだ」

 それから彼は滔々と語りだした。ひと波が轟々と行き交う道ばたで、である。

 わたしもまたひと波にモミモミ揉まれつつ、だまって彼の言葉に耳をかたむけていた。

 なぜわたしがそんなパン屋さんの戯言に耳を貸したのか、といった顛末を敢えて説明する気にはなれないし、必要もないだろうが、しかしその説明意欲のひくさの根源にあたるだろう因子が、彼から差しだされた焼きたてアップルパイにあるかどうかは現在わたしの内で目下解析中である。解析結果が出そろい次第、追って報告する。

 とにもかくにも焼きたてアップルパイを、はふはふ、さくさく、もにゅもにゅ、と咀嚼しながら聞かされた彼の語りは、わたしのまつ毛ほどの琴線をエレキギター並みに揺るがせた。ぎゅいーん。

 生粋のリアリストを自称しているわたしであるが、三つ子の魂百まで、元来のわたしは生粋のファンシニストである。「ファンシニスト」などという名詞など存在しないが、在りもしない言葉をさも平然と常識であるかのように造語し、用いてしまうくらいにわたしはファンシニストなのである。そんなわたしがあんなベタでファンシィで荒唐無稽でエレキテレツな話を聞かされて、だまっていられるはずもない。わたしは即興で彼の口上に乗った。目のまえに大波がきて見過ごすサーファーなどサーファーではないし、目のまえでホットなミュージックが流れているのに踊らないダンサーもまたいないように、目のまえでファンシィな話を聞かされて乗らないファンシニストなどはいない。そもそもファンシニストなどがいない。

「――というわけで、きみは保持者だ。でもって、ここへ行くがよい」

 すっかりわたしは彼に洗脳されていた。洗脳されていた、といまでもそう思う。けっして彼の唱えた、「世界の料理食べ放題」だとか、「年中無休でなまけ放題」だとか、そういった邪悪な呪文に屈したわけではない。断じてない。だからわたしは彼に洗脳されてしまっただけなのだ。ああ、なんと嘆かわしい。

 翌日には彼から指定された食事処をたずね、あれよあれよという間にわたしはこの「学び舎」へ行きついてしまった。ついでに住みついてしまった。すっかり馴染んでもいる。それもこれも彼の洗脳のせいである。ああ、なんとおそろしい。

 

 この「学び舎」は彼が話していたよりも五割増しで素晴らしい社会であった(今もなおわたしは洗脳中である)。彼の唱えた、「世界の料理食べ放題」は、「世界の文化むさぼり放題」となったし、「年中無休でなまけ放題」は、「年中無休で年中公休」となった。いやはやなんともすばらしい。

 義務ではなく、権利として与えられている「講義」というものも、わたしはいちおう受けつづけている。タダでくれるというのなら、タダでもらっておくのがわたしの道理だ。

 タダで受けさせてくれる講義では、不思議にも、わたしはひたすら褒められつづけた。

「きみのパーソナリティは実に素晴らしい。アークティクス・ラバーになれるかもしれん」

「なんですかその、アイスクリーム・バーとは? おいしそうです」

「おお。きみはジョークまで抜きん出ているな。まったく解らない」

 そう言って教官はわたしを上位クラスへと昇級させた。その上位クラスでもわたしは、「なんですか、そのゴリラ・タクティクスとは? かっこいいです」と高尚な質問を投げかけ、さらに昇級させられた。

 どうやらわたしにはほかのひとにはない、特別な〝何か〟があるようであった。

 おだてられていたわけではないが、「きみには才能がある」と諭されてからというもの、わたしは自身の可能性について認識を改めた。

「わたしは選ばれた者かもしれない」と小学校三年生までなんの根拠もなく頑なに信じることができていたわたしも、小学校四年生にもなると、「自分にできることには限りがあり、しかも伸び白というものにも限度があるぞ」といった人生において重要な但し書きを、現実という名のサディストに叩きつけられてからというもの、「秘められた可能性」などといった他愛もない妄想をきっぱりと封印していた。才能才能うるさいのう――そのくらいに他愛もない戯言だったのだ、と割り切ってもいた。

 だが、この学び舎に来てからというもの、わたしにはどうやら特別な才能があり、むしろ特別な才能というよりかは、わたしそのものが特別なのかもしれない、とそう思いあがるまでにわたしは自惚れにあっぷあっぷと溺れていた。

 それはそれで仕方があるまい。

 だって、だれも助けてくれないのだから。助けてくれないどころか、甘い水を、「どんぶらこー、どんぶらこー」と注いでくるのだから溺れないわけがない。だからわたしは自惚れた。

 その結果が現在である。

 引ッ詰めに結った髪を、がしり、とつかまれてわたしは引きずられている。

「ずびばぜん……もうにげまぜんから、ゆるぢてくだざい」

「なんで逃げんだよ、これ終えたらラバーになれんだぞッ」

「だからですよぉ」ぐすん、ぐすん、としゃくりをあげる。「ラバーになんか、なりたくないです」

 ひっくひっく、と横隔膜が痙攣する。

 ああなんてかわいそうなわたし。

 そんないじらしいわたしは今、ノリさんにイジメられている真っ最中である。ノリさんはいちおうわたしの上司だ。

「イジメてねーよ! しかも『一応上司』ってなんだよ」言いながらノリさんがうでを振る。がすん、と頭をなぐられた。「相変わらず失礼なやつだな」

 イタイ。

 〝波紋〟を読まれた。

「読まれる云々抜かすまえに、〝糊塗〟しろよ! 脳内ナレーション駄々漏れだっつーの」

「……わざとです」

 がすん。

 鉄槌の追撃が降ってくる。

「おし分かった。もうおれ知らねー。おまえの研修に付き添うの今日までな」

「え、ホントですかっ」嬉々として聞きかえす。うそ泣きの涙も瞬時にひっこんだ。「今日でやっと解放ですか!?」

「明日から付き添いアズキな。頼んどくから」

「なんでっ!」

「再来週はミツキだから」

「なんの罰ですかッ!」

「それがイヤなら今日で終わらせろ」

 髪束から手をはなすとノリさんは、「ほら、いくぞ」と床にへたりこんでいるわたしを置き去りにして歩をすすめる。

 わたしは彼の背を憎々しげに眺めながら、ざっと計算してみた。このままノリさんを出し抜いて今日を切り抜けた場合、どうなるだろうか、と脳内シミュレーションを展開させる。

 アズキさんとの研修…………おお、サイアクだ。想像するだけで謝りたくなる。脳内に浮かんだアズキさんにむかってすでに、「ごめんなさい、ごめんなさい」と一〇〇二回ほど頭を床へ打ちつけてしまった。あやうく地球がまっぷたつになるところだ。あのひと、こわい。研修をサボる気がなくとも研修になんて身が入らないのは目に見えている。

 そしたらつぎはミツキさんかあ…………あのひとは、もう、なんだろう。想像したくもない。

 仕方なくわたしはノリさんのあとを追うことにした。背に腹はかえられない。ノリさんで我慢しよう。ついでにこの際だ、ラバーにもなってしまおう。ラバーになったら任務を熟さなくてはならなくなるようだが、そんなのしったこっちゃない。任務なんてしらん。わたしは年中無休で年中公休なのだ。洗脳されてしまっているのだ。仕方ないのだ。騙されている真っ最中なのだ。ラバーにさえならなければ、たとえ一日中ナマケモノの真似ごとをしていても、だれからも「あ、なまけ者だ」と後ろ指をさされることもないどころか、「やあやあキミはナマケモノさんかい、わたしなんか今日はキリンさんですよ、明日はウサギさんにしようかな。はっはっは」といっしょになってアニマル着グルミで戯れることも可能だったのだ。それを、「きみには才能がある」などと陳腐な呪文におどらされて、こんな義務だらけの汗くさい「修行オタク」どもの巣窟に投げこまれ、紛れこみ、あまつさえこんな施設のおく深く――「研修」だなどと詐欺紛いのプレートを掲げた、地獄の門のまえまで――迷いこんできてしまった。

 こうしてぷんぷんと不平を並べて、並べた不平にうっとり見蕩れていると、いつの間にかノリさんの姿が通路のさきに見えなくなっていることに気が付いた。わたしは慌てて駆けだした。

 しばらくすすむと、

「タツキ、こっちだ」

 さけばれる。急ブレーキ。

「相変わらずの方向音痴だな。はやく直せって」

 いやいや、とわたしは思いきり、にらんでやった。

 あんた、なんでうしろにいるのさ。

      *

 ノリさんはアークティクス・ラバーである。

 学び舎で暮らす保持者たちの尊敬の念を一身にあつめてしまえる、そんな大層なお方たちの一員だ。

 ほかにアークティクス・ラバーは十二名いる。そのうちの三名が、わたしへ、指導という名の免罪符を盾に、強制的に干渉してくるのだ。めいわく千万である。

 この際だから、ざっと紹介しておこうではないか。

 まずはノリさん。サイドネイムはノリマキ、長いのでノリさん。性別は男。わたしと同年代らしい風貌のくせして、やたらと横暴。髪型が棘棘している。背丈は一七〇㎝ないだろう。男のくせに、ちっさ。器ちっさ。

 つぎに、アズキさん。性別は女。でも中身はオヤジ。地震雷火事オヤジのオヤジである。とてもこわい。むねが小ぶりのメロンみたいで、なおかつ、「背がたかく、胴がみじかく、足がながい」(川柳のリズムで)。具体的に比較すれば、わたしよりもきゅうり一・五本分背がたかく、またそのくせ、きゅうり三本分谷間がふかいのだ。ちなみに彼女、きゅうりとマヨネーズが苦手らしい。ざまぁみろ。

 最後に、ミツキさん。性別は女。髪型が常時ザンバラ髪。蓬髪というやつだ。寝ぐせなのか、それともそういったパーマなのかをいちど尋ねてみたい気もしないではないが、できるだけ彼女と会話をしたくない。とりあえず、七面倒くさいひとである。自分勝手なひとでもある。だのに憎めないから悲惨である。関わらないのが賢明だ。

 まだ直に会ったことはないのだが、彼ら三人を取り纏めている「社長」と呼ばれているラバーがおわすらしい。私の上司が、ノリさん方三人であるならば、お三方の上司がその「社長」に当たるだろう。かと言って、「社長」がこの学び舎を仕切っているわけではない。「社長」は仇名であり、社長のうえにはさらにこの学び舎を仕切っておられる総括部の面々がおわしている――らしい。わたしはあったこともないし、わたしごときが拝顔できるようなお方たちではないのだろう。くっそ、えらそうに。

 そうそう、

 重要なことを今さらながらに補足しておくと、この学び舎で暮らすには、本名を捨てて、サイドネイムという偽名を名乗らなければならない。わたしのサイドネイムは、「タツキ」である。性別は推して知るべし。性格も言わずもがなであるが、それくらいはサービスだ、惜しげもなくおしえてやろう。

 わたしは赤ちゃんの頬っぺたの匂いが大好きな、そんな乳くさい美少女である。

      *

「……おぉ」

 この腹のそこからひねくりだされた高貴な鳴き声は、なにをかくそうわたしの驚嘆である。

 うなるように驚嘆をあげた理由は、数年ぶりか数カ月ぶりかの区別も付かないほどに遠くむかしに見た街並みを、今まさにこの目で、この身体で感じているからである。

 くっそ、学び舎のそとに出られると知ってさえいれば、もっと素直に研修に勤しんだのに。

 がすん。

 視界が揺れた。

「バイタル通信で報せてあっただろうが、研修の内容」ノリさんが見下ろしてくる。「見てなかったのか」

 ゲンコツの痛さのあまり、しゃがみこんでしまう。

 わたしは小声で毒づいた。「くっそ、チビのくせに」

 降ってくる拳。

 がすん、と両手に伝わる重さ。

 なぐられる寸前。肘をクロスして防いでやった。ざまぁみろ。

「変なことだけ学習すんな」

 はいはい、とわたしは素直に謝罪した。

「罪は千でした」

「閻魔様もびっくりの極悪人じゃねーか」すみませんでしたくらいちゃんと言え、と『オブハート』を差しだされる。「それに今日の研修内容、書いてあるから、さっと目通せ。今すぐ」

 オブハートというのは、ごく薄のクリアフィルムで、〝バイタル〟通信用のメディア端末である。わたしたちが発する波紋と同調して、メモ帳代わりにもなる。読み書きというよりかは、波紋を通じてオブハートに直接記録したり、記録されたメモリを直接脳内にたたきこむ、といった感じである。アークティクス・ラバー専用の七つ道具、とそんなふうだろうか。学び舎の住人たちには遣い熟せない代物らしい。こんなに簡単なのに、不思議である。

「不思議である、じゃねーよ」

 なに気取ってやがんだ、と足先で小突かれる。

 くっそ、シークレットシューズのくせに!

 がすん、と両手に伝わる重さ。またしても防いでやった。ざまぁみろ。学習しないなあサルは、などと余裕ぶっこいていると、両手に伝わる重力がどんどん増していく。ノリさんが片手でぐいぐいと圧撃を加えてくるのである。え、まって、ちょとちょっと、と訴える間もなくわたしは地面に圧しつぶされてしまう。

 チビのくせして怪力だ。

「ぎゃんっ!」

 ヒップを踏まれた。

 この扱いはあんまりである。

      *

 駅まえ商店街にある十字路。平日だというのにひと通りが多い。大学生六割、主婦二割、休日と思しき子ども連れの社会人二割と、あとサラリーマン一割。

 あれ、一割多い。

 まあ、たいして問題はない。

 

「サポータから報告のあった対象は、あと十分ほどでここを通る予定だ」ノリさんが気取った立ち方をしながら、間抜けた口調で言った。「タツキは〝浸透〟したままここに待機。対象が現れたらそいつの〈レクス〉に同調しろ」

「〝同一化〟でなくてもいいんですか?」

「できねーだろうがおまえ」

「さいでした」

「おれはそばで監視してっから。タツキは対象の〈レクス〉において、逸脱者が逸脱者たり得ている大本を処理してくること」

「日本語つかってくださいよ。なに言ってるかさっぱりです」

 ノリさんが拳をにぎったので、すかさずファイティングポーズ。

 シュっシュっ、ワン・ツー。

「……まあいいや」拳を解いてノリさんは言った。「要するに、逸脱者の〈レクス〉が周囲の『プレクス』に干渉してしまっているから、今後一切、そうならないようにしてこいってこと」

「ああなるほど」もっともらしく首肯する。「つまり、逸脱者が逸脱者たり得ている大本を処理してくればいいのですね」

「…………おう。それでいい」

 くっそ!

 わたしは地団太をふんだ。「こいつ、渾身のボケをながしやがった! わたしの渾身のボケを!」

「声に出てっから」ノリさんにど突かれる。「こいつ呼ばわりも最悪だ。仮にも上司のおれに向かって」

「がすん!」

「まだ殴ってねーし。自分で言うなや効果音」

「がすん!」

「だから殴ってねーし」

「がすん!」

「イッテっ! なんで殴んだよっ」

「がすん!」

「だからなんで殴んだよ! おまえがッ」

「がまん!」

「できねーよッ」

 信号機したの歩道である。かるくひとだかりができていた。

 見せもんじゃねーぞ、金とンぞ!

 にらんでやったら睨まれた。「あんた邪魔だよ」

 至極ごもっとも。

 わたしは逃げるように雑踏に紛れ、〝浸透〟した。 

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      ***

 日差しが照っている。ビルの合間に入道雲が浮かんでいる。

 梅雨ももう終わりか。

 ――小さい頃から視えていた。

 〝それら〟が視えてはならないものだと知ったのは物心ついてからだ。視えてはいけないどころか、視えていることすら他人に知られてはならないのだと学んだのは小学校にあがってから間もなくのことになる。

 ――壁に向かって話しかけ。

 ――誰もいない場所へと挨拶をし。

 ――虚空に向かって怒声をあげている。

 斯様な子どもがいたら確かに気味がわるいだろう。そうでなくとも心配になって、「どうしたの?」と声を掛けるかもしれない。仮にその心配に対する応答が、壁に指を差しての、「〝この子〟が帰ってくれないの」だったら、さすがの私も、「ああ、この子は〝そういう子〟なんだな」と憐れんでしまうのだろう――幼少期の私に対する大人たちの反応がそうであったように。

 幼少期の私に対して大人たちは一様にそのような、ある意味で寛容であり、またある意味では無責任な反応であった。

 だが、私と同年代の子どもたちは違った。

「ええ? だれもいないよぉ」親切にも見たままの光景を正直に教えてくれたのだ。彼ら子どもたちが正直であったように、当時の私もまた正直であった。私に視えている風景を私は疑うことすら知らなかったのだ。そこに視えているものが他人には視えていない、などとは微塵も思わなかった。頑なに私は言い張った。

「いるでしょ、ここに」

「いないよ?」

「なんでっ! いるでしょ! ここにッ」

 私は〝それ〟に触れて、彼らの前へ押し出した。だのに彼らは怪訝な表情で(むしろどこか恐怖染みた表情で)私を不思議そうに見詰めているだけだった。すっかりいきり立っていた私は〝それ〟をぐい、と彼らへ投げつけるように押しやった。これが決定打だった。〝それ〟は彼らを通り抜けたのだ。触れることもなく。ぶつかることもなく。通り抜けたのだ。

 私が世界への認識を改めた瞬間だった。

 

 嘘つき呼ばわりはまだよかった。

 どんなに悪辣な仇名も胸に突き刺さる中傷も、私がそこにいるものとして私に呼びかけてくれるのだから、嘘つき呼ばわりされるだけなら甘受するに余りある待遇であると私には充分に思われた。

 ところが、私のクラスメイト――どころか学校という名の社会は――私をことごとく無視した。

 無視という行為の辛辣さが分かる人間はそう多くはない。不本意にも私はその多くはないほうの人間に属してしまった。こういった無視に対しての慰めにおいて、「無視ならまだマシだよ。オレなんか完全なパシリでさ……」といった戯言を耳にする機会がままあるが、私からすればそういったお門違いな慰めは、無視に対する認識が大きく甘い、と弾劾したくなるほどの謬見だ。決して慰めにはならない戯言なのだ。

 ――無視の本質は、不干渉ではない。

 ――一方的な干渉の強制、それなのだ。

 私は私とそして存在しないものとして扱われる。

 しかし、私は現に存在している。

 だからたとえば、通路ですれ違うときなど、彼らからすれば私は存在していない人間である為に、彼らが私を避けることなど絶対にない。むしろシャドーボクシングをしながらこちらに近づいてきても、彼らは避けることをしない。なぜなら私は存在しないのだから。けれど現に私は存在しているわけで、彼らのシャドーボクシングはただのボクシングとして私の腹や背中を殴打する。それでも周囲からは彼らがただ単にシャドーボクシングをしているようにしか見えないわけで、私はただただ不遜な害だけを被るのだ。

 また、存在しないクラスメイトには座席も必要ないわけで、存在しないものとして扱われている私の座席もちょくちょく消失した。むろん、机の中身と共に。教材からはじまり、財布や買ったばかりのメディア端末なども一緒くたにして処分された。それら理不尽な処遇に対して当初は私も憤慨し、糾弾を試みたが、存在しないものとして扱われている私の声が彼らの鼓膜を揺さぶることはあっても、彼らが私の声に応えることはなかった。

 彼らがそういった態度をとるならば私だって、と報復を思い立ったこともないことはないが、けれど、その意気込みもすぐに衰退した。

 なぜなら、存在していないものとして扱われているならば、こちらも存在しないものとして振りまいてやろうか、と奮起してみたわけであるが、現に存在している私が彼らを貶めるようなことを仕出かせば、たちまち私は公序良俗に反するただの社会的異分子に成り下がり、教師や警察のお手を煩わせることになるのは明白であったからだ。

 私はそういった学生時代を過ごしてきた。

 小学校では嘘つきと蔑まれ、

 中学校では病人と疎まれて、

 高校では存在しないものとして扱われた。

 

 ――他人に見えていないものが私には視える。

 

 それを他者に知られることは己の損益なのだとすでに学んでいた私であったが、どうしても私は、他人から奇態に見える所業を仕出かしてしまうのだった。

 年齢と比例して私に対する周囲の扱いが悪化していったのには、そういった背景がある。

 なぜなら私には、〝みんなに見えていないそれ〟が、〝私に視えているこれら〟のうちの〝どれなのか〟を識別することができないからだ。

 挨拶をしても挨拶を返さない人間はそれだけで忌避される傾向にある。実際に無視されることを強いられてきた私だからこそ、そういった些細な無反応を過剰に気にしてしまうのかもしれないが、それでも挨拶というのは人間関係を良好に構築していくうえでは無下にしないほうがよいことだ。それを自覚していながらに、私はいっさいの挨拶をすることができなかった。

 私が挨拶をしようとしている〝それ〟が、果たして本当に実在しているかが判らないからだ。挨拶をしたことで、また奇異な眼差しで見られ、無視されるかと思うと、迂闊に声を掛けられなかった。

 だから私は極力、人との交流を避けた。

 それは結果として、社会で生きるうえでさらなる困難を私へ強いた。

 人と友好を築けない人間は、社会において容易には生きていけない。

 社会とは、友好という名のレッテルを相互に貼りつけ合う、その行為でできあがっているからだ。一方的に貼りつけるだけでは駄目なのだ。相手からも貼りつけられなくてはならない。どんなに寛容な心持ちであっても、どんなに優しい性格でも、相手から拒まれては意味がない。そういった友好のレッテルを貼られることのない人物というのは、社会の中で孤立する。孤立するものに社会の恩恵は回ってこない。

 孤独であっても、孤立だけはしてはならないのだ。

 それでもなんとか糊口を凌いでこられたのは、私の運がよかったからだろう。

 いや、私の運がよかったのではなく、周囲の彼らの運がわるかったのだ。可哀想だとは思うが、同情を抱くこと以外に私がしてあげられることは何もない。

 なぜなら私は、

 存在しないものとして存在しなくてはならないのだから。 

   ※TREE(二)※

      *

 わたしは手元のオブハートを見遣る。ディスプレイには若い男の画像が映しだされている。きっと卒業アルバムの画像だろう。現在の画像を用意しろよ、と不平を鳴らしたくもなるってもんだ。

 オブハートに記載されている情報(とは言っても波紋を通して直に読みっているわけなのだけれど、それ)によれば、男の名前は「仲間(なかま)星(・せい)弥(や)」というらしい。

 高校を卒業後、一年間の浪人を経て、県外の国立大学へ入学。卒業して、地元の企業に就職。入社三年目の現在において主要幹部という、相当の切れ者らしい。

 写真を見たかぎり、中々の優男である。

 問題は、彼が『逸脱者』であることだ。

 逸脱者――その定義はひろく、多岐にわたる。

 要は、保持者ではなく、またサポータでもない一般人が、持ってはいけない力を持ってしまった、といった場合に、その一般人を、「逸脱者」と呼んでいるだけのこと(らしい)。彼ら逸脱者にはわたしたち保持者のようなパーソナリティはない(らしい)。また、サポータのように、波紋の感知や虚空の存在を知覚することもできない(らしい)。なら何ができるかと言えば、『プレクス』を、自身の〈レクス〉と同等の環境に変質させる、その世界への浸食だとされている(らしい)。

 らしい、ばかりで申しわけないが、これらの事項は全部、このオブハートに記載されている情報なのだから仕方がない。わたしがこの眼で、この身体で感じ知ったことではない以上は、無闇やたらに断言するのは気が引ける。

 なにしろこのオブハートはあのイジワルなノリさんから手わたされたメディアなのだ、どんな意地汚いうそが書いてあるか分かったものではない。そうだとも、ノリさんはイジワルなのだ。イジワルなうえに色んな意味合いでちっさい男だし、すぐひとの頭をなぐるは、お尻を蹴るはで、セクハラとパワハラとの間に産まれた「セパクワ」のような男である。言うまでもなく「セパクワ」などと語呂のわるい名詞などは存在しないが、しかしその語呂のわるさはうまい具合に対象(ノリさん)の性根の腐った感を醸しだしていて中々に乙である。

 関係ないが、わたしはすこぶる乙女心である。傷つきやすいのだ。機敏なのだ。繊細なのだ。

「割れ物注意」とプリントされたTシャツを着ているのはそのためである。

      *

 ひと込みのなかからサポータや保持者を探し当てるというのはわたしたち保持者からすればさほど難しいことではない。いっぽうで、探索する対象が逸脱者ともなると、それは中々に骨が折れるものなのだ。

 逸脱者とは言っても、実際はパーソナリティを持たない一般人である。彼ら一般人の発する波紋は、それはそれは微々たるもので、波紋を元に探索するのは言ってしまえば、アリの群れから特定のアリを探しだすようなもの。波紋にたよった捜索はむしろ逆効果である。

 だからしてわたしは身を粉にして目を凝らし、オブハートに表示されている対象のかお写真と通行人たちを見比べながら、ひたいの汗をぬぐいつつ、苦心惨憺とアイスクリームをぺろぺろほお張っている。バニラ、チョコミント、スイカの三段がさねである。ホッペが落ちちゃいそうなほどにおいちい。

 実を言えば、現在わたしは公園の噴水のちかくのベンチで涼んでいる最中である。もっと言ってしまえば、わたしの手元にはオブハートなどはない。あんなもの捨ててやった。なにが研修だ。そんなものはアイスクリームのコーンに巻きついているこの包装紙のように、こうして、こうして、くしゃくしゃにして、もっともっとクチャクチャにちいさくしてから、ゴミ箱へむかって「ポイっ」だ! へへん。ざまぁみろ。

 

 さきほど交差点で、逃げるように浸透してからわたしはついでにとばかりに実際にここまで逃げおおせてきた。

 ノリさんなんかしらん。研修なんぞしらん。ボイコットのなにがわるい。

 木々がつくる日陰で足を組みつつわたしは優雅にアイスクリームをぺろぺろしていたいのだ。

 こんな平和な願望を乱そうだなんて輩がいるならば、そいつは鬼にちがいない。さっさと地獄へ帰るがいい。帰れないと言うのならわたしが豆を投げつけて強制送還してやってもよいくらいだが、しかし生憎とわたしは豆を持ち併せていないので、豆の代わりにこの公園を徘徊している鳩どもを投げつけてやろう。アイスクリームを食べ終えたわたしはいそいそとベンチから腰を浮かしてお尻を、ぱんぱん、とはたいてから、鳩どもの開いている集会へと小走りで乗りこんだ。鳩どもは豆を持たないわたしに対しても豆鉄砲をくらったような素っ頓狂なかおのまま一斉に飛びたった。はっはっは、見たまえ。鳩がハトのようだ。実にゆかいな心持ちである。言い知れぬ充足感に満たされながらも、わたしはどうしてこんなアホウなことをしているのかしらん、とそらに浮かぶソフトクリームのような雲を見あげながら、しばらくその場にぽつねんと佇んでいた。

「豪快ですな」

 と声がした。

「爽快でもありますなあ」

 だれだ貴様は、と内心でさけびながら、わたしはきょろきょろとかわいらしく周囲を見渡した。

 やがて声の主らしき人物をわたしはこの眼で捕捉する。

 そいつはそこにいた。

 わたしがそれまで腰かけていたベンチのすぐうしろの木、根元に寄りかかるようにしてすわっている。スーツ姿のおっさんである。

「だれだ貴様は」わたしはベンチのうえに飛び乗って無駄におっさんを見下ろした。とくに意味はない。なにともなしにえらそうに振る舞いたい気分だったのだ。ええい、責めてくれるな。

「私かい?」

 おっさんはおどろいたようにわたしを見あげ、

「私はナカ……」

 そこまで口にして首をふった。

「いや、名乗るのはやめにしよう」

 いや名乗れよ。

 そこまできたら全部言えよ。

 気になるだろ、いちファンシニストとして。

 口をすぼめてわたしはベンチから飛び降りた。「いいじゃん名前くらい」

「だったらまずはあなたから名乗るべきでは?」

 至極ごもっとも。

「わたしはタツキという」かくす必要などはない。堂々と名乗ってやった。名乗ってから自分の身体を見下ろして、「見ての通り、赤ん坊の頬っぺたの匂いが大好きな美少女だ」

「はっは」おっさんは笑った。「おもしろい冗談をいう娘さんだ」

 はっは、とわたしも笑いかえした。どのへんが冗談に聞こえたのだろうか。考えるとすぐに思いあたったので腹が立った。かと言って、「冗談だと抜かしやがったかこのスットコドッコイ、こちとら半ば本気だいっ!」とはさすがのわたしでも恥ずかしくって言えない。なにが恥ずかしいって、「スットコドッコイ」と口にするのがいちばん恥ずかしい。なんだよ「スットコドッコイ」って。

「先ほどからおひとりのようでしたが、どなたかと待ち合わせですか」おっさんが訊いてきた。

 いやだから名乗れよ。

 こっちは名乗ったんだからさっさと名乗りやがれ。

 そう責め立てようとするもののおっさんから、「食べきれなかったもので……残り物ですがよかったらどうぞ」と差しだされた地元の銘菓にわたしは出すはずの文句をわすれ、逆にその差しだされた銘菓を受けとり、呑みこんだ。うまい。こんなおいちい食べ物をくれるなんて、なんて親切なおじさんだろう。わたしは認識を改める。

「はっは」おじさんは笑った。「食欲があるというのはいい。夏バテだからかな……私はどうにも食欲が湧かない」

「おいしいれす、これ」舌鼓をうちながらわたしは尋ねた。「おじさん、休憩中なの」

 仕事の合間にこんな公園でお土産用の地元の銘菓をつまんでいるなど、サラリーマンという種族はなぞである。ちなみに「おっさん」から「おじさん」へと呼称を昇格させた理由が彼から戴いた銘菓にあるかどうかはわたしの内で目下解析中である。解析結果が出そろい次第、追って報告する。

「休憩中……と言えば、そうなのかもしれないな」おじさんは遠い目をしながら、でも、とつぶやく。「でも、終わりのない休みなど……あるものかね」

 ずいぶんと曖昧な回答である。ここに来てわたしは、はた、と思い至ってしまった。

 まっぴる間におじさんがひとりさびしく公園の木のしたで地元の銘菓を食しているという場面――これがいわゆるリストラのあとに待ち受けているだろう、現実という名のサディストとの葛藤ではなかろうか。

 地元のお土産用の銘菓を、地元の人間が食すことは稀である。だが、リストラされたおじさんへ、会社からの労いの意として寄与された品であれば腑に落ちる。まっぴる間からこんな公園のはじっこの木の根に寄り添っているのも納得だ。ほかに行くべき場所がないのだろう。もし家族がいれば、なんと説明したものか、と頭を抱えて迷うだろうし、そうでなくともこれからのことを考えれば路頭にすら迷い兼ねないのだ、いやがうえにでも家にはもどりたくないだろう。すくなくともこんな天気のいい日に、陰気な気分のままで、陰気なアパートのきちゃない自室へなんぞに帰りたくはないだろう――とわたしはかってにおじさんの日常をむだに鮮明なストーリィにしたてあげて悲嘆した。

 ああ、なんてかわいそうなおじさん。

 どうにかひと肌脱いであげたいなと思ったのはいっときにすぎず、こんな見ず知らずのおやじにひと肌脱いで、自分ですら見たことのない皮下組織を晒すだなんて、血迷ったとしか思えなくなった。むしろおじさんのひと肌を削いでやりたくなった。

 可哀想さ余って憎さ百倍。なんて理不尽。

 なんだかやっぱり純粋に、かわいそうに思われてきた。

「よし。わたしがなんとかしてあげる」

「なんとか?」

「そう。なんとか」ちからづよく、うなずいてみせる。「わたしがその気になればね、職の一つや二つ、三つや四つ、五つや六つ、六つや七つ、」

「そんなに職を持ってどうする気だい」

「とにかく。わたしがおじさんを助けてあげる」

「どうやってだい」邪険にするでもなくおじさんはおだやかに相槌をうってくれる。

「まずはそうだなあ」

 わたしは考えた。

 そしていちばん重要なことに思い至った。

「ところでおじさん、何にこまってんの?」 

   ※TRUE(2)※

      ***

 浪人した理由は学力的なことよりも、卒業という、一種の快感にちかい〝呪縛からの解放〟に、私の精神が揺さぶられてしまったことが大きいのだろう。「ストレスに対抗し拮抗することでなんとか保っていた自我」の均衡が完全に崩れてしまった。もう学校に行かなくていい。ただそれだけの生活の変容で、これまで強靭に塗り固めてきた私の精神はあっけなく崩壊した。

 ――強がる必要がなくなった。

 たったそれだけで私は、人と触れあうことの一切を放棄してしまった。

 もう二度とあんな環境に身を置きたくない。そういった自己防衛じみた逃避だったのだろうといまになってはそう思う。だが当時の私に斯様な自己分析などできるはずもなく、私は卒業から半年の間、自室から一歩も外へ出なかった。

 ほんとうに申し訳ないことながら食事については、仕事の合間を縫って母と父が私の部屋まで運んできてくれた。それでも飲み物以外、ほとんど手につかなかった。排泄物は最初の二日間こそ垂れ流しであったが、私の尋常ではない自失ぶりに、家族によって至急、「おまる」と「おむつ」が支給された。私は前者を利用した。

 朝と夜に、手の空いている者が、おまるの中身をトイレへと流し、また私の部屋へと置いてくれた(手の空いている者とは言ったものの、私の為にわざわざ時間を割いてくれていたことは誤魔化しようのない事実だ。我ながらほんとうに情けないと忸怩たる思いを抱く一方で、そうやって私の為に貴重な時間を割いてくれる者がいたと知れただけで嬉しく思ってしまう現在の私でもあり、ほんとうに有り難いと感謝してもしきれない。ただ、どちらにせよ、現在の私がそう思えるのであって、あの当時はそんな風に考えることすらできなかった)。

 一方で、私が摂取していた食べものの大半が液体であった為に、私から排出されるものもまた大方が液体であった。ゆえに、おまるの掃除はそこまで重労働ではなかっただろうと思われる。だからと言って、なんの弁解にもならないのが我ながら悲惨だ。

 私は決して引き籠っていたわけではなかった。また、他人を拒んでいたわけでもなかった。ドアの鍵を閉めるということもなければ、部屋に入ってくる者、話しかけてくる者に対して、邪険に接したり、意固持に排他しようと強行することもなかった。だから家族はもちろんのこと、家族が呼んだ医師の診察も私はきちんと受けていた(もっとも実際には、赤子のようにただ成されるが儘に受動していただけであるし、拒む気力すらも湧かなかっただけのことなのだが)。

 そうしている間も、私は、誰とも言葉を交わさなかった。

 いわゆる、緘黙症というやつだった。

 言語を失っていた所為か、その当時の私が、どんなことを考え・何を悩み・何を感じていたのか、について私は皆目覚えていない。そういった意味では緘黙症とはまた異なった疾患であったのかもしれない。

 現在の私にあるのは、当時の私が知覚していた光景に関してのみであり、それらを受動したことで私がどんな思いを抱いていたのか、については微塵も覚いだせない。それとも、覚えていないのではなく、言語化して思考していなかった為に、言語化して思考している現在の私ではその当時の気持ちを理解することがままならない、といった可能性も無きにしも非ずであるし、また、言語だけではなく、喜怒哀楽といった感情までもを失くしていた為に、その当時に思い抱いていただろう概念すらも、現在の私には、解釈できないのかもしれない。

 要するにあの当時の私は、〝私の外の世界〟に対して、ことごとく無関心であったのだ。

 私が無関心を身に纏っていた間にも、家族は、私へ懸命に言葉を投げかけ続けてくれていた。家族は私を見放さなかったのだ。そういった光景はきちんと記憶されており、現在の私はそれを思い出すことで、遅ればせながらも言葉では決して言い尽くせない感謝を抱くに至っている。

 

 私には兄妹がいた。

 兄妹たちは、忙しい両親に代わって特に私を気にかけてくれた。

 しっかり者のやさしい妹は、思春期まっただ中だったにも拘わらず、自分よりも七歳も大きな兄(私)の排泄物の処理をしてくれた。両親もさすがにそんなことをさせるわけにはいかないと配慮したようだが、妹は自主的にそうしてくれていたらしい。

 兄に至っては、わざわざ実家に戻って来てまで、献身的に看護をしてくれた。数年前から家を出ていて、兄はとっくに自立していた。たまに会う程度だったのだが、私が廃人となってからは付きっきりで側にいてくれた。

「弟のいち大事なんだ。看過できるわけがなかろう」

 言葉を持たぬ私に対して兄はそう言ってくれた。そういった記憶だけが残っている。今にして思えば、その言葉はもしかしたら、兄が自分自身に言い聞かせていたものなのかもしれない。

      ***

 妹が生まれたとき、私は七歳で、兄は十七歳だった。

 大人びた風貌でありながらも子どものように無垢な兄は、私にとっては生活全般における先生であり、また、初めての友達でもあり、さらには生涯における親友だとすら思っていた。兄は私にあらゆる「初めて」をもたらしてくれた。

 親の愛情を独占したいが為の敵愾心から始まり、嫉妬、競争心、憤怒、許容、狡猾、頑固、謝罪、感謝、憧憬を経て、最終的に「信頼」を私に教えてくれた。と同時に、与えてもくれた。

 私は兄にだけは何でも打ち明けることができた。オネショをした朝にあたふたしていた私は、兄へ助けを求めたし(兄ならからかうこともせず、また怒ることもないだろう、と私は信じていたからだ)、初恋をした際にはその感情が、恋、だということを兄は私に丁寧に諭してくれた。

 だから私は、私にしか視えない〝それら〟のことも相談したことがあった。両親にすら相談できなかった〝それ〟をだ。

 幼いころ。わたしが〝それら〟と会話していると、「ふざけるのはやめなさい」と両親は頑なに〝それ〟の存在を否定した。いや、否定する以前に、認めるという選択肢がはなから度外視されていたのだろう。親はついぞ信じてくれなかった。それでも兄なら解ってくれるとそう思った。

 無条件の信頼があった。

 無責任な信頼でもあった。

 兄は言った。

「視えることがわるいわけではないんだ。それに、視えないことがわるいわけでもないんだよ。セイヤには本当に視えていて、でも、お母さんたちには視えていない。それだけなんだ。どちらがわるいじゃないし、どちらが変でもない。たとえば僕が、『ここに林檎がある』って言うとする」

 兄はそう言って左手を差しだした。なにも握られていない手の平だ。

「でも、ここにある林檎はセイヤには視えないだろ? それでもセイヤは僕の言葉を信じて、ここに林檎がある、って信じられるかい?」

「にぃちゃんが言うなら、リンゴ、あるんだよそこに」

「ありがたいけど、」と兄は苦笑う。「でも、セイヤにはこの林檎、視えないだろ? 触れられないだろ? 食べられないだろ?」

「うん」とうなずいたものの、それが何なのだ、と幼心に私は疑問していた。

「もしもこれから一生、セイヤに対して僕がオヤツだとか、オモチャだとか、そういったものを、こうして僕にしか視えず、僕にしか触れられない〝もの〟としてセイヤにあげるとして。セイヤはそれで満足するかい?」

「いいよ」それでもいいよ、と私は言った。「にぃちゃんとおんなじがいい」

 兄は困った顔をした。

 私の頭を撫でながら、

「……セイヤはやさしいんだな」

 それ以上、兄は、なにも言わなかった。 

   ※TREE(三)※

      *

 おじさんはどうやら、探し物をしているらしかった。

 なにを失くしたのか、といくら問いただしてみても一向に吐かない。なんだか刑事にでもなった気分だ。

「言ったとしても、お嬢さんには分からないだろう」

 おじさんはそう言って言葉をにごす。

「言ってもらわなきゃ、分からないかどうかさえ判らないだろ」と頬っぺたを、ぷくぷく、ぷんぷん、と膨らませてみせるものの、「理解されない、と突きつけられることほど辛いものはないんだ」とおじさんが悲しそうな表情を浮かべるので、ぷしゅー、と頬をしぼませるしかない。

 なんだよもう、本格的にかわいそうになってきちゃったじゃないか。わたしは頭髪を掻きみだす。

「あーもう! 陰気くさいんだよ、おじさん! 元気だせなんてむりは言わない。でもさ、元気なフリくらいはしてくれよ! じゃないとわたし、いつまでもおじさんのこと見捨てられないじゃん!」

 ぽかんと口を空けて、おじさんがこちらを見あげてくる。

「あのね、おじさん。おじさんが探し物をおしえてくれたらわたしはすぐにでも見つけだしてあげるよ? おじさんを助けたいって、わたし、さっきからそう言ってんじゃん! だったらおとなしく助けられてりゃいいんだよ」わたしは腰に手を当てて威圧的ににらみすえる。「こまってるんでしょ、おじさん?」

 ぽりぽり、と小さくこめかみを掻くおじさんは、「困ったなぁ」とつぶやいた。

「え、あれ……もしかして悩みの種って、わたしの存在だったりする? わたし、じゃま?」

 ふあんげに尋ねる。おじさんから、煩わしい、と思われていたらいやだなと思った。それはかなしい。

 おじさんは首をちいさく、よこに振った。それから、真うえからそそぐ木漏れ日にかき消されそうなほどしずかな声で、ありがとう、とこぼした。

 

「おじょうさんには、兄弟はいるかい」

 脈絡もなくおじさんが訊いてきた。

「今は、いないよ」

 わたしにはかつて姉がいた。ほんとうにいたのかは分からない。かおも覚えていない。だれにも姉の存在をおしえてもらったことはない。それでも遠い記憶にある。わたしは姉に助けてもらった。そんな漠然とした記憶だ。

 煮え切らないわたしの返事でおじさんは察してくれたのだろう、「そうですか」とだけ言って、微笑んでくれた。

 あたたかい。

 しばらく二人して、ひなたぼっこに専念する。公園をながめる。にぎやかだ。なのにどうしてだろう。とてもしずかに感じられてしまうのは。

 

 おいしょ、とおじさんが立ちあがった。「すこし、歩かないかい?」

「いいけど、どこまで」

 駅まえのほうは遠慮ねがいたかった。かおを真っ赤にしたノリさんが小鬼と化して、わたしを捕まえようとあっちこっち駆けずり回っているにちがいない。想像しただけで笑えてくる。小鬼のノリさん。なんだか異様にかわゆいじゃない。

 おじさんはわたしの「どこまでいくの」という問いに答えてくれた。おもい腰をあげるような、決意のあるふかい溜息を吐いてから、

「探し物がなにかをね、訊きに行くんだよ」

 遠い目をするのだった。 

   ※TRUE(3)※

       ***

 ――およそ半年。

 高校を卒業し、言葉を失くし、廃人同様になってから、およそ半年で私は復帰した。

 抜け殻みたいに自室で籠城するようになってから、短期間と呼ぶには長すぎるが再起するには充分に短期間と言えるだろう、その期間内で復帰できたのには、それ相応の理由があった。実際問題、理由、と言うよりも、要因、と言ったほうがより正鵠を射ているのかもしれない。

 

 ことの発端は新しくやってきたカウンセラーと母との会話だった。

 おそらく、夕飯を一緒に、と母が誘ったのだろう。忙しい母は、医師たちと話し合う機会が極端に少なかった。だから、こうして食事に引き止めて、話を伺いたかったのだろう。ともすれば、溜まった不安を吐きだしたかったのかもしれない。

 カウンセラーもまた、母の意図を汲み取って、夕食の席に付いてくれたようだった。流石と言うべきか、カウンセラーは、母の零す不安の数々を残らず受けとめたのちに、話題を私の診断に、より適切な方向へと誘導していった。

 私は、したの階から聴こえてくる〝それらの会話〟を、風の音のように耳にしていた。

 

「村田先生からのご紹介につきまして、カルテを読ませていただきましたが――セイヤくんは以前から中度の統合失調症であったとありますが、症状は現在、どれくらい緩和されていますか?」

「最近はこうですから、なんとも……」

「ええそうですね」カウンセラーはいったん同意してから、でしたら、と質問をより具体的にした。「でしたら、セイヤくんが高校生のころは如何でしたか」

「そう……ですね。幻視、というんですか。怒鳴ったり、話しかけたり、そういったことはなくなったんですが……。それでもどこか、〝そういったもの〟を視ているような素振りはあるんです。誰もいないのに庭先を見詰めていたり、チャイムも鳴っていないのに玄関に出たりと……」

「そうですか」沈思の間を空けてからカウンセラーは、まあでも、と口調を明るくし、「まあでも、庭を眺めるというのは別段奇異な行動とは言えませんし、チャイムが鳴ったように聞こえるのも、そうですね、たまになら私にだってありますよ。ほら、携帯電話が鳴ったような気がして確認してみると、着信していなかったりとか、あるじゃないですか」

「……だといいんですけど」

「それよりも不思議なのは、」とカウンセラーが声を張った。きっと要点はそこなのだろう、と声だけを記憶している私には判った。「どうして仲間さんは、食卓にセイヤくんの分のお食事まで用意するんですか?」

「どういうことですか」母が怪訝そうに声を発した。

 そのとき、父以外の家族はみな食卓を囲んでいたはずだ。

 母、妹、兄、カウンセラーの四人。

 だからきっと、食卓には五人分の食事が用意してあったということなのだろう。つまり、一つ多いのだ。

「お父さんのぶんです」と妹が答えた。

 普通に考えれば推して知れることだろう。だのにカウンセラーは妹の返答を聞いても、合点がいかないようで、「〝そこにある分〟はそうでしょう」と笑みを含んだ声で言った。

「ですが、〝ここにある分〟はどなたのですか?」

 戸惑ったような間が空く。

 やがて、

「成大(なりひろ)のですが」と母の声が聞こえた。

「ナリヒロくんというのは、その……?」

「兄がなにか」妹が険のある声をだした。

 妹もまた兄を慕っている。すぐよこに兄がいるのに失礼だ、と憤ったのだろう。

「いえ……はい」カウンセラーの声は笑っている。咄嗟にはたらく自己防衛。弱みを見せてはならないという虚栄が無意識の笑みをもたらすのだ。カウンセラーは言葉を選ぶようにして、「〝ここにいるのが〟その、ナリヒロくん――お兄さんなのかな」と確認した。

「そうですが……」母がぎこちなく肯定する。「ナリヒロがなにか」

「いえ、ナリヒロくんがどうというわけではなくてですね――」カウンセラーはその場の雰囲気がどこまで本気なのかを推し量っているみたいだった。逡巡の間を空けたのちにやがて、完璧に調整された柔和な声で提案した。「みなさん、今からここへ、私の友人を招いてもよろしいでしょうか」

      ***

 結論から言えば、私の家族はみな狂っていた。

 私と同様に、狂っていたのだ。

「仲間成大」などという人間は存在しなかった。兄は存在していなかったのだ。

 私の大好きな兄は〝それら〟と同じだった。

 いや、兄こそが〝それら〟に外ならなかった。

 カウンセラーの呼んだ「友人」というのは、その道では知らぬものがいないというほどの権威、そういった臨床心理学者であった。かくして私の家族は私ともども、その道において語り継がれるだろう稀有な事例として一躍、名を馳せた。

 伝染する新種の精神病。

 命名、

 ――マイルド・フレンド。

 一見すれば温和な仲間家において発症していた病気だから、「マイルド・フレンド」。なんとも安直極まりないネーミングだ。

 名誉なのかそれとも不名誉なのか、私にはとんと判断つかない。

 重要なことは、あれ以来、私の家族は家族としての機能を完全に崩壊させられた――という、その事実だけ。それだけだ。

 母も父も妹も、精神病棟へ幽閉された。

 母も父も妹も、兄が視えていたのだから、赤の他人から「そんな人物は存在しない」と言われても、「そこにいるでしょ」と悲痛に訴えるしかない。両親にいたっては二十九年も兄の人生を見守ってきたのだ。確かに見守ってきたのだ。今さらそれが虚構だったなどと信じられるはずもない。毀れているのは私たちではない、視えないあなたたちのほうだ、とすら思っただろう。幼かったころの私がそうであったように。

 そのような中でどうして私だけがこうして社会を闊歩できているかと言えば、それもまた、兄のお陰なのだろう。

 

 私は兄を慕っていた。

 こう言っては傲慢無礼、厚顔無恥、と詰られても致し方ないかもしれないし、その通りなのだとすら思うのだが、私は、父や母よりも兄のほうを尊敬し、敬愛していた。

 親愛なる兄が実は存在していなかったなどと知れた日には、流石の私も寝耳に水だ。

 すっかり目が醒めてしまった。

 むくり、と背を起こし、自室からおよそ半年ぶりに敷居をまたいだ。

 リビングでは青筋を立てて妹が懸命に説明していた。兄が存在しないと言われたら、あの心根の優しい妹のことだ、必死になって否定するだろう。「ナリ兄はそこにいるでしょ! アルバムにだってほら、ここに映ってるじゃない」

 母はその様子をはらはらと見守っている。止めるべきか、一緒になって訴えるべきか、「ねえ、ナリヒロ、どうしたらいい?」一人だけテーブルに座ったままの兄へ、母はそう尋ねている。その様子を、カウンセラーの呼んだ学者の部下たちが、興味津津といった眼差しで凝望している。

 ――にいさん。

 すっかり骨と皮だけになった足を引きずって私はリビングへ這っていった。

「セイ兄!」

 妹がまっさきに私に向かって叫んだ。

 私のもとへ一斉に視線が集まる。

「セイヤ、あんた、あんた」母が涙をこぼしている。父はまだ帰宅していないようだ。

 カウンセラーたちはまるで舞台の外にいるかのごとく、カメラを回していた。

 記録の為に母や妹たちの様子を撮影していたのだろう。いや、兄がカメラに映らないことを、母や妹たちに突きつけて自覚させようとしていたのかもしれない。斯様なもの、なんの意味もなさないのに。だって兄は、そこにいるのだから。カメラにだってきちんと映っているのだから。あなたたちに視えないだけで、きちんと、そこに――。

「視るなセイヤ」

 兄は唸った。研ぎ澄まされた、うすい、うすい、叱声だった。

「私を視るな。私に話しかけるな。私に触れるな」

 でもにいちゃん、と訴えたかったのに、私の声は枯れていた。

 半年ものあいだ使われることのなかった声帯は、とっくにその性能を失っていた。

 兄はこちらを見遣ることなく立ちあがり、私に背を向けた。

 

 ――おまえに兄などはいない。

 

 兄の最後の言葉は、枯れた私から、一抹の潤いを奪っていった。

 兄の言葉を私は、枯れた声で、なんどもなんども反芻していた。

 耳にして、口にして、零れた言葉を拾うことで、なんどもなんども溢しつづけた。そうすることで、現実を受け入れようとしていたのかもしれない。

「兄などはいない……兄などはいない……兄などは………………」

 それ以外の言葉を発しなかった私を診て、学者たちは我田引水に推測したのだろう。

 ああ、この子は家族のなかでただひとり、正常だったのだと。狂人のなかでは、正常者こそが狂人と見做される為に、この子は自分の殻に閉じこもってしまったのだと。

 呆れるほかない。

 怒る気力も、異議を論じる意気も湧かなかった。

 言ったところで、私たち家族が狂っていたことに変わりはないのだから。

 兄は存在した。

 だがそれは私たち家族にとってだけの存在であり、

 ひとたび世界を広げてみれば、

 兄は存在していなかったのだ。

 私は家族を救いたかった。

 母を、父を、妹を、そして――兄を。

 家族はきっと、兄の存在を否定することはないだろう。決してないだろう。

 なぜなら私もまた、

 否定できないからである。

 家族はこれから先もずっと兄の存在を疑うことはないだろう。

「兄はいる」と訴えていくのだろう。

 そう訴えている以上、父は、母は、妹は、幽閉されたままだ。

 だったら私は、家族を取り戻す為に、私にできることをするしかない。

 幽閉されることはわるいことではない。

 ただ、満足できる自由を得られない、その不満が生じるから問題なのだ。

 だったら私は、家族が満足できる環境に、家族を幽閉してやればいい。

 そしたら私は、家族と共に、そこへ幽閉されればいい。

 そうすれば、

 そうすることができたならば、

 家族に幽閉を強いていた仕切りはたちまち、

 私たち家族を守る為の防壁へとその姿を変えるのだ。

 そこには母がいて、父がいて、妹もいて、私がいて、そしてきっと――兄がいる。

 忙しかった父と母にはもう、忙しくする職はない。

 またむかしのように〝四人で〟、私たちは家族をすることができる。

 その為に私は、権力を得らなくてはならない。

 兄が教えてくれた、敵愾心からはじまり信頼で終わる、そんな様々な感情を駆使して、私はこの社会で存在しないものとして生きている。

 

 ――自分を殺して、生きている。 

   ※TREE(四)※

      *

 どこに行くの。

 笑み。

 どこへ行くの。

 微笑み。

 どこさ行くのさおじさん!

 莞爾とした笑み。

 ドコサヘキサエン酸ッ!

 苦笑。おじさんはようやく声を発してくれた。

「マグロでも食べたいのかい?」

 よくこんなボケが通じたなと感心しつつも、「ツッコミがあまいよぉ」と拗ねてみる。

「すまないね」おじさんは歩調をゆるめてこちらを見下ろした。意外にもおじさんは背がたかい。「高度不飽和脂肪酸の一種を急に言われてもね。なんと返すべきか迷ってしまって」

「ほかに候補があったの」

「そうだねえ。『まだ私には必要ないよ』とか、『どなたですかなお嬢さん』だとか、敢えてボケにボケを被せてあげようかとも思ったんだがね。少し高度だったかな、と思ってやめたんだよ」

 ドコサヘキサエン酸は老人性認知症の予防や治療に応用できるのではないか、と期待されている物質だ。このおじさん、思っていた以上にやりおる。やや心惹かれた。すくなくとも、「ボケ殺し」の異名を誇るノリさんに比べれば、月とすっぽんぽんだ。わざわざ断る必要もなく、すっぽんぽんなのはノリさんだ。きっとあっちのほうもちいちゃいにちがいない。ざまぁみろ。

 にへらにんにん、と相好をくずしていたわたしに、通行人たちの視線はつめたかった。

 まるでわたしが変質者であるかのような、不快感あふれる視線だ。

 なぜ通行人が不快に感じているのかを考える。きっとわたしが、とてもかわいらしく「にこにこ」としていたからだろう。

 ってあれ、わたしがわるいのか? なんで!?

 ちきしょう、なにかってにわたしで不快になってやがんだよぉ。

 見てんじゃねーよ、金とンぞ!

 がるるるッ!

 ひと先ずうなってみた。こんどからは「猛獣注意」とプリントされたTシャツを着て歩こう。

 歩道を川のように流れていたひと込みが、みるみる遠ざかっていく。あからさまに避けるようにして。さながらわたしは川に投じられた岩石のようなものだ。

 半径五メートル四方にひとが寄りつかなくなった。

 するとどうだろう、不快な視線が余計に増したではないか。さらには、微量の恐怖が含有されているように見受けられる。こまったことに、新たに進化した視線は、射撃のごとく、遠くから容赦なくそそがれるようになってしまった。これでは防ぎようもない。仕方がないのでわたしは、しっちゃか、めっちゃか、威嚇した。

「がるるるッ! がるるるッ!」

 気づけばひとだかりができていた。通行人が立ち止まってこちらを中心に円をなしている。

「ガオーッ、ガオーッ! どうりゃあ、てい!」

 やがてポーズを決めると、拍手喝采の雨あられ。ブラボーと叫ばれる。

 視線はさらに増したが、どこを見渡しても「不快」の文字は見当たらなくなっていた。

 いや、あった。

 そのかおには見覚えがある。

 さきほど信号機のまえで、わたしに対して「邪魔だよ」とナンパしてきた野郎だ。

 わたしは野郎のまえまで行くと、したり顔で言ってやった。

「どんなもんよ。あん?」

「パフォーマーの方でしたか」彼は親指を突き立てた拳を突きだして、「ピン芸人、尊敬します」と褒めてくれた。

 あらやだ。さわやか。

 ハートにズキューン。

 恋は盲目スイッチがONになる。

「じゃ、オレ、これから彼女とデートなんで」これからもがんばってください、と彼は桃色の香りをのこし、去っていった。

 撃たれたハートは早々に砕け散った。

 そりゃそうだ。

 矢なんか突き刺さって無事なわけがない。

 恋のキューピット? はぁ?

 そんなん、ただの連続(シリ)猟奇(アル)殺人者(サイコキラー)じゃんかよぉ。ふざけんな。

 出し抜けに生じたサークルも、今はもうない。なにごともなかったみたいに雑踏がながれている。

 おじさんのもとへとわたしは、とぼとぼと踵をかえす。

「すごかったね。楽しかったよ」

「フラれました」と申告する。「たった今、わたし、袖にされちゃいましたよぉ」

「だいじょうぶだよ」

 おじさんは元気になる呪文を唱えてくれた。「見る目がない男が多いんだ。そんな男の子たちにキミなんかはもったいない。キミはもっと自信を持ったほうがいい。だってほら、」

 ――こんなにも素敵な女の子じゃないか。

 砕けたハートは見る間に再構築していく。おじさんの言葉は魔法の瞬間接着剤だ。重要なのは、魔法の瞬間接着剤をつかってわたしのハートを繋ぎ合わせてくれたのが、おじさんである、というその主格。おじさん以外にこんな魔法の瞬間接着剤をつかわれたら、わたしのハートは全身を駆け巡る悪寒によって瞬く間に粉砕し、白い粉まみれになってしまっていたことだろう。

 

「さあ行こうか」おじさんがふたたび歩をすすめる。「もう少しで着くから」

「どこまでもお伴しまっす!」

 恥ずかしながらわたしは、おじさんに惚れた。

 誤解のないように断わっておくが、恥ずかしい理由というのは、惚れた相手が「中年おやじ」だから、ではなく、むず痒いような、歯がゆいような、隔靴掻痒なこの感情が恥ずかしいのだ。

 分かるだろ、わたしは乙女なのだ。

 数歩さきにあるおじさんの背中を凝視しながらわたしは、ああ、このまま一生おじさんと旅をしていられたらな、とありきたりなヒロイン気取りで久方ぶりの恋に夢中だった。そう、おじさんに夢中なのではなく、恋をしている自分に夢中なのだ。酔っているだけだ。しかし泥酔はしていない。陶酔どまりだ。

 いいぢゃんか、別に。

 恋に恋してなにがわるい。そこから産まれる本物の愛だってあるだろうに。陣痛という名の悪魔との死闘を越えて手に入れる、そんな愛だってあるのだから。二人が愛で結ばれるっていうのは、きっとそういうことなんだよ。うん。

 男女間の愛なんてそんなもの、わたしはこれっぱかしも信じちゃいない。女女間も男男間も同じだ。

 わたしが信じる愛はただ一つ、それは、赤ちゃんの頬っぺたの匂いが醸しだす、あの愛嬌だけである。 

   ※TRUE(4)※

      ***

 現代社会において重要視されるのは個人の技能ではない。

 個人に付加されている価値だ。

 言うなれば権威だ。

 どんなに無能であっても、付加される肩書きが社会的地位において高ければ、それだけでその人物の権威というものは確立されてしまう。むろん、有能である人物が権威を獲得しやすい傾向がより高いこともまた事実だろう。それでもそうではない事例は決して少なくはない。無能な人間が、バブルのような付加価値によって、有能な人材をぞんざいに扱っているなどという事例は枚挙に遑がない。

 だがそのことを私は糾明したいわけではない。また、そのことに不満があるわけでもない。

 なぜなら、私は有能な側の人材ではないからだ。

 私のような無能な人間にとってはたいへん好ましい悪習とすら言えるだろう。

 資本主義社会とは言っても、それはけっして実力主義というわけではない。資本を持っている者が実権を握る、というその単純なまでの法則。そういった〝ながれ〟が肯定されている、というだけのこと。

 問題なのは、資本を得るのに、手段はあまり問題視されないということ。どんな手段であれ、利潤を得ることができれば、それは肯定化され得る。

 証券然り。

 戦争然り。

 付加価値は、物理的な商品と引き換えてこそ、その本質を全うする。だのに付加価値で付加価値をとっかえひっかえ捏ね繰り回して実在しない価値だけを肥大化させるなど、「私は神だ」と宣巻いて、強盗を正当化しようとしているようなものだ。

 だが私はそれがわるいと言っているわけではない。そういったシステムがまかり通っている以上は、そういったシステムが生みだす利潤を必要とする者が多くいるということであるだろうし、また一方では、そういったシステムがまかり通るように社会を変えた者がいるならば、それは無能か有能かで言えば、有能に属するだろう。私からすれば、そのような者たちを「天才」と呼んでもなんら差支えない。

 彼らには才能があった。

 社会を変えるだけの才能が。

 私にはそれがない。

 重要な事項は、それだけだ。

 私には社会全体を変えるだけの「力」がない。

 そもそも私の個人的な不満ごときを理由に、社会を変える必要すらないと思っている。

 だがそれでも、社会を変えることはできなくとも――社会を変えようとは思わなくとも――それでも私は、私の身の周りにある極々狭い範囲の世界だけは変えたいと望んでいる。

 家族を取り戻したい、と希求している。

 

 小さな変化は大きな〝ながれ〟によって掻き消される運命にある。

 運命、という言い方が気に食わないならば、法則、と言い換えてもよいかもしれない。

 エントロピー増大の原理を引き合いにだせば、それっぽく聞こえるだろうか。

 要するに、この世界には、個人の努力では到底抗えない〝ながれ〟が存在し、個人に叶えることのできることごとくは、そういった〝ながれ〟によって容易に覆されてしまう、ということ。

 個人にできることと言えば、手の届く範囲――変化を及ぼせる範囲――そういった自分の身の回りが、猛然と氾濫した〝ながれ〟に巻き込まれることのないようにと祈るだけ。ただそれだけなのだ。

 ただしそれは、少なからず、自分の身の周りにおいては誰であっても変化を及ぼせる、という逆説でもある。どんな個人にもそのチャンスは与えられている。

 自分が身を置いている環境は、自分で変えることができるのだ。

 とは言え、容易なことではない。艱難辛苦、苦心惨憺、臥薪嘗胆、気息奄々、なんでもよいのだが一筋縄ではいかない。それは確かだ。

 大きな〝ながれ〟に呑み込まれたことで、逆に環境が好ましい状態に一転することもないわけではないだろうが、それこそそれは、宝くじに当たるようなもので、期待するのは善しとしても、当てにするようでは自滅をもたらすだけであろう。

 結局のところ、私のような人間は、身の周りの世界をちまちまと自分の嗜好に合わせて装飾していきながら、細々と健気に生きていくしかない。

 ただし、権威という付加価値さえ手に入れられさえすれば、装飾を施せる範囲は一気に拡がり、また、装飾自体も豪勢に潤沢にできるようになる。さらには、大きな〝ながれ〟に抗うことすらもある程度できるようになるのだから、権威とは偉大ではないにしろ、重大だ。

 だから私は権威を求めた。

 利潤こそが権威を形成する。

 利益こそが信用を結びつける。

 利得こそが自由の幅を拡張する。

 自利を追求する行いのみが、さらなる自利を生む。慈悲などはそこに必要とされない。雑念ですらある。

 むろん、論を俟たないくらいに当たり前の話であるが、この世は金がすべてではない。金よりも大切なことなど幾らでもある。むしろ、大切なことを得る為に金が必要だというだけのことで、大切なものを守る為に必要だというただそれだけのことにすぎない。

 けれど、

 近代における人間社会では、金がすべてだ。

 全ての主軸の根元に任意の楔を打ちこむことで、「全」は「金」となる。

 敵と味方、消費と生産、需要と供給。

 本来、「金」の役割は、経済の円滑剤としての役割であったはずだ。もっとも、いつの世も、目的と手段が逆転するのが人の常であるらしい、金銭のやり取りこそが経済の本質となり変わってしまった。

 社会の求めている目的とは、あらゆる行為を金に変えること、それのみだ。

 なんとも単純。

 だったら私は金を得ればいい。ただそれだけでいい。

 ただのそれだけで私は家族を取り戻せる。

 家族と共に幽閉されることが叶う。好ましい空間に閉じ籠れる。

 誰の邪魔も入らない、そんな環境に。

 誰の常識にも捉われない、そんな空間に。

 金が欲しい。

 金が欲しい。

 欲しいのは金ではないのに。

 けれど金がなくては叶えることができない。

 まるで魔法だ。

 金とは魔法だ。

 まやかしの法則。

 魔性の法権。

 法空。

 実体のないあやかし。

 肖りたいという羨望がみせる、暗示。

 暗示がとりなす合意。

 合意という名の催眠。

 催眠という名の洗脳。

 都合がいい。

 洗脳されていることに気付かない者は、洗脳しやすい。

 私自身もまた、そうであるように。

 かの作家はこう綴った。

 ――洗脳とは、理不尽な損害からの盲目をもたらす。

 傷ついていることに気付かないというのは幸せだろう。

 傷つけられていると窺知できないというのは幸せだろう。

 ましてや、傷つけていると自覚できないというのは、なんと幸せなことだろうか。

 ――存在しないものとして存在する。

 私が及ぼす盲目は、私以外を傷つけない。

 なぜなら傷とは、意識されて初めて「在」を成すものだからだ。

 意識されない傷など、傷足り得ない。 

   ※TREE(五)※

      *

 おじさんが足を止めてビルを見あげている。駅まえにドンと構えている百貨店だ。

「ここ?」わたしは尋ねる。「ここが目的地?」

「たぶん」おじさんは表情を硬くしたままビルを見据えている。やがて表情をほころばせるとこちらを向いた。「なにか食べたいものとか、欲しいものはあるかい」

「へ?」

「ここまで付いてきてくれたお礼に、奢ってあげるよ」

「ホント!」やっほー、とわたしはバンザイをする。「わるいけどわたし、えんりょしないよ?」

「ここが潰れない程度に抑えてくれれば」柔和に言うとおじさんは、ふたたびビルを見あげた。

 そのよこがおは、どこか儼乎な風情を感じさせた。このさきさらに数十年も経てば、きっと、すばらしい好々爺になるだろう態が確定的に明らかなおじさんには、とてもではないが似つかわしくのない表情であった。なんだか今から戦にでも挑もうとしているかのような、気迫みなぎる決意が感じられた。

 きっと破産覚悟でわたしに礼を尽くそうとしてくれているにちがいない。わたしに奢るというのはそういうことなのだ。自慢ではないがわたしは、「遠慮するな」と言われたら死んでもえんりょはしない、そんな素直な美少女である。

 とは言ったものの、実際問題、つぶれるなら百貨店のほうではなく、おじさんの懐のほうではないだろうか。そもそもたくさん買い物をしたらお店側には利益がでるのだからつぶれる心配などはじめからないのではなかろうか。――などと怪訝に思わなかったわけではないが、「遠慮はいらないよ」とお墨付きをもらったようでわたしはひと先ず歓喜した。「おっしゃー」

 

 店内はすずしかった。さっそく最上階へとむかい、レストランをはしごする。

 アイスクリームからはじまり、パフェへとつづき、ひとしきりデザートを堪能してから、やっと本番――うな重、ピザ、パスタ、コーンスープ、ステーキ、ハンバーグ、コーンスープ、カレーライス、コーンスープ、関西風お好み焼き、グラタン、コーンスープ、餃子、肉まん、お寿司、コーンスープに舌鼓みを打ったあとは、ふたたびパフェをほお張り、もたれた胃をアイスクリームで冷ましてフィニッシュ。

 ぷひゅぅ……。ご馳走さまでした。

 張ったおなかを、ぽんぽん、とかるくたたく。いい具合に小気味よい音が鳴った。

「……だいじょうぶかい?」おじさんが気遣ってくれる。

 そんなに食べて大丈夫なのかい、という意味だろう。しかしわたしからすれば、こんなに食べて、お会計のほうこそだいじょうぶですか、と今さらすぎる懸念を抱いた。店を出るときはいつもおじさんを残したままでわたしだけがさきにそとに出て、通路にそって垂れさがっている種々雑多な暖簾や看板を見比べつつ、つぎに挑むべき食事処を品定めていたのだから、おじさんがいかなる心境でもってお会計を済ませてくれていたかなど、わたしが知る由もない。

「満腹ぷくぷくです」わたしはひときわ愛想よく述べた。「ありがとうごじゃりました」

「それはなによりです」おじさんも満足そうに言った。「ほかに欲しいものはないかい?」

「う~ん、別にないかな。久々の外食だったから張りきっちゃったけど。でも実際、学び舎のとそんなに変わんなかったし。むしろわたし、味なんて分かんないし」

 お腹いっぱい食べられればそれでいいんだ、とまたお腹をぽんぽんたたいてみせる。実を言えば、まだ腹八分目であるのだが、おじさんの懐ぐあいが気になったので、多少ひかえ目に食を終えていた。ああ、わたしってば、なんて謙虚なのだろう。いいお嫁さんになれそうだ。あとはいい夫が現れるのを待つだけである。ちらりとおじさんを睥睨すると、おじさんは、従業員らしい女性を目で追っていた。

「この浮輪者っ!」わたしは叱咤する。

「海難者にはもってこいの逸材だ」即座につっこんでくれるおじさん。「それにしても、いくら私のお腹がでているからって、浮輪あつかいはひどくないかい?」

「お腹がでているのはわたしも同じだい!」なんだかよく分からないがとりあえず張りあった。「ちょっと、おじさん。あんましわたし以外の女の子のオシリ、目で追わないでほしいかも」

「うん?」

「返事は『ハイ』だよ」有無を言わさぬ勢いで、「おじさん、返事は?」と迫る。

「……はい」

 よくできました、とわたしは胸を撫でおろす。

 ラブ・イズ・ブルー。恋は水色、要するに無色なのだ。ひとは故意に盲目(透明)になる。

 じゃあ、とおじさんが水をむけてきた。「そろそろいいかな?」

「いいけど」と首をかしげて、「なにが」

「探しものが何か、訊きに行くよ」

「どこへ」と首を逆にかしげなおす。

 おじさんは、とあるレストランを指差した。

「え、まだ食べていいの」嬉々として訊きかえす。

「え、まだ食べ足りなかったのかい」おじさんのあまりに素っ頓狂な声に、わたしはたじろぐ。食い意地のきたないオコチャマに見られたくはなかった。「ジョウダンです」と目を伏せる。

「いや、食べたかったらいいんだよ」おじさんがこめかみを掻いた。「遠慮はいらないって言ったじゃないか」

 こめかみをぽりぽりさせるのはおじさんがこまっているときのサインである、とわたしはすでに見抜いている。

 ちくしょう、いじけているように見られているのだ。オコチャマじゃないのにっ!

「あのレストランに行くんでしょ。ほら、行くよ」わたしはつかつか歩みつつ、ぷりぷりとお尻を振った。

 まったくもって腹が立った。

 そしてやはり、腹が減った。

      *

 レストランに入るとおじさんは淡々と料理を注文した。わたしもなにかたのもうとしたのだが、あまりにおじさんが淡々としていたものだから、注文するタイミングを逃してしまった。メニューとにらめっこしていたあいだにウェイターが去ってしまったのだ。わたしがあたま抱えて葛藤してんだから、給仕人たるもの、赤子を見守る母親のような眼差しをそそぎつつ、悩める乙女であるところのわたしを待つのが仕事だろうに。わたしの腹は煮えくりかえって沸騰し、噴きこぼれたその分、さらに腹が減った。これはレストランの陰謀だ。断固として注文などしてなるものか。わたしは空いた腹を水でごくごく満たしてやった。

 おじさんが注文した品は中華そばであった。しかしおじさんはいっしょに運ばれてきた箸を手に取ると、品には手を付けずにそのまま立ち上がって、「こっちだよ」と暗にわたしに付いてこいと微笑みかけてくる。唯々諾々とあとにつづいた。

 着いた場所はレストランの化粧室。またの名をトイレット。

 しかも男性用……っておいッ!

 ここにきてわたしは一連のながれに既視感を覚えた。おっちゃんと街中で出逢って、すこしおしゃべりをして、そのあとは好きなものをたくさん買ってもらって、そんでもってそのあとに……あれやこれや?

 あちゃあ。これってあれじゃね、ほら、ひとむかしまえにニュースとかで流行った、援助交際だっけ、そういったなに? 貢がせた見返りに交際してあげるっていう、えっとなに? そういったなに? おトイレでアレコレちょめちょめ、そういった、えっとぉ、あれれ? え、え、ええええっ? ちょっとおじさん、なにする気っ!? わたしとわたしでわたしにおじさん、なにする気っ!

 あれよあれよという間にわたしは個室においやられ、おじさんに背をむけたまま、男子便所の洋式便座とご対面していた。おじさんは扉の鍵を閉め、なにやらわたしの背後でゴソゴソやっている。

「ちょっと狭いけど」おじさんの声がうなじにひびく。「すこしの辛抱だから我慢してくれるかい」

 がまんしてってなにをですか?

 これからなにをなさって、ナニを出して、わたしにナニをがまんさせる気かしらっ!?

 人間、パニックに陥ると、咄嗟の状況判断が極端にニブル。選択すべき候補がありすぎて、迷ってしまうのだ。この場合、わたしはおじさんを殺すべきだろうか、それとも殺すべきだろうか、否、否、やはり殺すべきだろう。よし、殺そう。

 わたしは過剰防衛という名の正当防衛をもってしておじさんをなぐり殺すことにした。拳を、かたぁく、にぎりしめる。

 チーン。

 エレベータのような間抜けな音が鳴った。

「さあ、着いたよ」

「へ?」おびえた声がでた。拳を構えたまま振りかえる。

 おじさんのおだやかな破顔がそこにはあった。

「ここで待ってる? それとも一緒にくるかい?」

 個室トイレの扉は開け放たれていた。そのさきに広がるのはトイレの通路でも、男子便所の壁に設置されている便器でもなく、平然とひろがる真っ暗な空間であった。ただ暗いだけでなく、そこがとても深遠な空間であるのだと知れた要因は、闇に星のような灯りが瞬いているからである。まるで夜空。いや、もっと人工的ではるかに幻想的な光景――そうプラネタリウムに似た、そんな暗闇だ。

 わたしは知らずおじさんのそでをつかんでいた。

 目のまえにひろがる闇は、個室から一歩でもはみ出たら、そのままどこまででも、深淵に似た闇へと落ちていってしまいそうな、夢のかなたへと通ずる連遠な夜空へと呑みこまれてしまいそうな錯覚をわたしに与えた。そう、暗闇からは、まるで超高層ビルの屋上がごとく、つめたくも威圧的な風がそよそよと吹きこんでいた。

「どこよ……ここ」

 知らずこぼしていたつぶやきは、おじさんの説明を誘起させたらしい。

 おじさんは語って聞かせてくれた。 

   ※TRUE(5)※

      ***

 私の就職した企業は、いわゆる人材派遣会社だった。

 有能な人材を、需要に応じて手配し、配属させる。

 たとえば、

 どんなに特殊な技能を身に付けていても、それらの技術が社会の必要とする利潤を生みださなくては、その技術者はけっして有能な人材とは認められない。けれど、彼らは一様にスペシャリストであり、その筋では有能なのだ。そういった埋もれた逸材を掘り起こし、適材適所に派遣することで、「特殊な人材」を『有能な人材』へと昇華させてみせるのが、私の勤める会社の表向きの経営理念だった。

 だがそれはスーツのようなもの。

 スーツを脱ぎ棄てた下には、陽に焼けたことのない真っ白でありながらも腹黒い、アンビヴァレンスな裸体が広がっている。私にはもはやそれが、無垢な姿なのか、穢れた姿なのか、その判断すら付かない。

 どんな企業も、ひとたび表面に着飾っている善意を剥ぎ取れば、そこにはただただ人間にある本質だけが、一糸まとわぬ形で呼吸している。

 吐いて、吸って。

 剥いで、捨てる。

 人の営みとはそういった繰り返しなのだろう。

 消費と生産。

 破壊と加工。

 どちらも表裏一体。本質的には同じこと。

 

「ボディ・カーニバル」それがわが社の社名だ。裏も表もそれは変わらない。この社名を告げれば、大抵の者たちはその態度を阿諛に染める。単純に、感心と羨望の眼差しを宿すのが表社会の人間であり、警戒と忌避の所作を必死に隠そうとするのが裏社会に身を置く人間だ。私には一目でその区別が付く。こういった慧眼を習得してしまったくらいには私もまた裏の社会に浸かってしまっているということになるのだろう。

 もっとも、表社会だとか、裏社会だとか、斯様な幼稚な言い回しを私はあまり好まない。表も裏もどちらを基準にしているのか、というただそれだけのものでしかなく、私からすれば表社会こそが裏社会に思えてならないくらいだ。ただし、往々にして「表」とされるものは、「裏」が存在することを知りえないようになっているようだ。この裏側とされるものに与えられている優位性が、「表裏」を決定する際に欠かせない要素になっているのだろう。こうして他愛もない考察を巡らせるくらいには、私もまた、「表裏」という概念に捉われてしまっている。二分することに大した意味などないというのに。

 

 わが社は、人材を商品として扱っている。それは「表の仕事」でも「裏の仕事」でも変わらない。変わるのは、取引相手が要望する派遣基準のほうだ。

 表の社会に属する経営者たちが欲するのは、主に、生産要員。一般に言う所の労働者やエンジニアなどにあたるだろう。また昨今の風潮としてはコンサルタントを希望する企業も少なくない。

 一方で、

 裏の社会に属する権力者たちが欲するのは、主として破壊要員。

 言うなれば兵士を希求しているのだ。

 資本を如何に多く動かすことができるかが権力の根底にある因子だとすれば、資本を如何に合理的に獲得できるのかが、この社会を掌握するのに求められる資質だろう。そこにルールなどはない。獲得することこそが全てにおいて優先されるべき目的であり、あらゆる手段はそこに禁止されない。

 そういった中でどんな手段が最も合理的かといえば、誰であっても最終的に導き出す答えは同じである。

 より直接的に強奪するのが最も合理的なのだ。

 最初に脅してもいい。

 拒まれれば殺せばいい。

 脅し抜きで最初から殺せば、それが最も効率的だろう。

 報復の心配もなくなるのだから、保険という意味でもやはり合理的だ。

 しかし裏社会は、表社会の秩序をむやみに脅かさない。表の社会があってこそ存在し得る社会だからだ。立体的に存在する物体によって影が生じるように、裏社会もまた、表の社会にある秩序によってのみ、その存在意義を保てる。誰が好んで近代文明を捨ててまで原始時代の争いをつづけたいと望むだろうか。だから裏社会は決して、表社会の秩序を崩すような真似をしない。

 裏社会において、権威とはより純粋な「暴力」を意味する。

 お金と暴力が、表と裏のシンボル。

 表社会は金によって権威を確立し、

 権威を欲するものは暴力を用いて金を奪う。

 表と裏は循環する。

 循環するものは、それで一つのシステムだ。

 暴力を用いて奪った金によって権威を得た者は、いずれ暴力によってその権威を、己にあるあらん限りの尊厳とともに奪われる。

 個人も組織も国も、どれも同じようなものだ。

 奪い奪われ、そうして人は右往左往する生き物らしい。

 裏と表の中間、灰色なんてものは存在しない。なぜなら、裏と表は一体だからだ。また、どちらか一方にだけ所属するなどということもできはしない。表社会の人間も、裏社会の人間も、結局は人間社会に息衝いている同じ〝ひと〟にすぎない。身を置いている社会が違うのだからあいつらとは別なのだ、などという理屈は、住んでいる家が違うのだからあんたらと私はけっして分かち合うことのできないまったく別種の生き物だ、と宣巻いているようなものである。

 そんなに環境が重大か。

 そんなに自分を中心にして考えたいのか。

 なぜ相手と同じ土台で向き合おうという気になれない。

 どうして自分のほうが正しいのだと、そう思いあがれるのだろうか。

 そもそも正しいだとか、わるいだとか、そういった価値観に翻弄されすぎてはいまいか。

 この世は二分化できるほど単純ではない。

 単純なのは世界のほうではなく、我々人類のほうだ。我々人類が単純だから、愚かだから。だからこうしてたった二つの価値観でしか物を考えることができないという、ただそれだけのことにすぎない。

 ならばそれこそわるいことだとは思わないものだろうか。思わないのだろう。いや、思っていたとしても、だからどうこうしようなどとは思わないのだろう。

 二元論、大いに結構。

 便利なのだから仕方がない。

 便利なものは普及する。

 普及したものこそが普通となる。

 そうして世界は、人類のもつ愚かさを溜めこんでいく。満たしていく。

 だがそれもまたわるいことではないのだろう。ましてや善いことでもないのだろう。

「愚か」というそれ自体もまた、善悪でくくるには複雑な事象だからだ。

 誰もかれもが愚かだ。

 誰もかれもが狂っている。

 狂っていることに気付けないほどに狂っている。

 ならばそれは幸せなことではなかろうか。

「傷に気が付けない者」が傷つくことのないように、「狂っていることに気が付かない者」は狂っていないのだ。気が付かない為には、他人に気付かれないことが大事であるし、第一だ。だから「狂っていることに気が付かない者」は自分以外の者にも狂っていることを悟られてはならない。

 なにごとも、観測されてしまったその瞬間に確定してしまうものだから。

 確定されたその事象が、共有できるか否かは問題ではない。

 そして私は、存在しない者として存在する為に、あらゆる観測者を殲滅することを思い付いた。

 他者に観測さえされなければ、私は存在しない者として存在できる。

 私は考えた――これまでに私の存在を知覚した者たちを消し去るにはどうすればよいだろうかと。

 殲滅する為には、

 まず、お金が必要だ。

 次に、暴力が必要だ。

 最後に、暴力の消失が必須だった。

 そうでなくてはいずれ私も消されてしまう。

 存在しない者として存在しなくなってしまう。

 それでは駄目だ。

 だからこそ、あらゆる権力者たちに暴力を支給する大本である、この「ボディ・カーニバル」という組織に組み込まれることを私は選んだ。暴力を根本から廃絶する。特殊な技能を持つ者は、需要がなければただの人だ。供給されなくては、兵士もただの人なのだ。有能な人材などには決してならない。

 私はいずれこの組織を潰す。

 そのときが訪れるまで私は、命の尽きぬ限り、この組織にこの身を捧げつづける。

 目的を遂行する為に手段など選んではいられない。

 身を置いている環境など問題ではない。

 重要なことはただひとつ。目的を達成できるか否か。たったそれだけなのだから。 

   ※TREE(六)※

      *

 おじさんの語ってくれた話はまるで解らなかった。

 わたしに分かったことと言えば、おじさんには家族がいて、現在のおじさんはその家族と逢えない状況にあるということ。わたしの根も葉もない「リストラで家に帰れないかわいそうなおじさん」という想像は主軸をはずしてはいたものの、案外にちかかったようだ。

 そして、このプラネタリウムのような空間のむこう側に、おじさんの〝弟さん〟がいるらしい。

 感動のご対面というやつだ。

 つい一時間ほどまえに出逢ったばかりのわたしなんかが付き添ってよいものかどうか。

「これまで私は迷っていた」おじさんは暗闇を見据えている。「だがそれも今日で終わらせよう。迷っていても仕方がないことだと頭では解ってはいたのだが、それでも迷ってしまうのが人のようだね。お嬢さん、私はね、誰かに視て欲しかったわけじゃなかったんだよ。私はただ、認めてもらいたかっただけなんだ。崇めて欲しいでもなく、褒めて欲しいでもなく、認めて欲しかったんだ。家族として、個人として、人として――そう、人として。ただの人間として認めて欲しかった。たったの、それだけのことだったんだ」

 わたしにはおじさんの言っていることが解らない。言っている意味は分かるけど、でもどうしてそれをわたしに対して言っているのか、どういう意図をもって言っているのか、それが解らないのだ。

 わたしは述べた。思っているままに。思うが儘に。

「おじさんはひとでしょ。だれもかれもが認めているよ」

「……お嬢さんが特殊なんですよ」疲れたようにおじさんは笑った。「もう、終わりにします。結局、どんなに〝頑張ってもらった〟ところで、私が救われるわけではなしに……そんなことは随分と前から判ってはいたのだがね、それでも諦めきれなかったんですよ。もしかしたら、と風前の灯のような光に、希望という名の幻影を視ていた。ただそれだけだった。ただそれだけなのだと知っていながらに、私は、そうありつづけてしまった。きっかけが掴めなかった。けれどねお嬢さん。私はあなたと出逢って、気付かされてしまいました。認められるとか認められないだとか、そんなこと、どうでも良かったんですよ。ほんとうに望んでいたことは……私がほんとうに望んでいたものは――」

 おじさんのノドボトケが、ごくり、と鳴った。言葉は途切れた。

「行きましょうか」と手を差しだしてくれる。

 まるで母親に縋る子どもの手のようだった。

 そっとにぎっておじさんを見あげる。「家族と仲間ってさ、なんか、似てるよね」

 やや沈思の間があって、そうだね、とおじさんは頬をほころばせた。

 緊張がほぐれる。

 おじさんが、やっと笑ってくれた。

 わたしは視軸をおじさんからはずした。

 どことなくセンチメンタルな気分だったのに、すぐにその感動は消沈した。

 わたしたちは今、個室便所のなかで、手を、繋ぎあっている。

      *

 プラネタリウム然としたこの闇には、足場がちゃんと存在していた。

 真っ逆さまに落っこちる、といったわたしの幼い懸念は杞憂に終わった。

 個室便所の敷居をまたいでからおよそ十数分。おじさんとわたしは手を繋いだままであゆんでいた。おじさんが先導してくれているので、わたしは身を委ねるようにして、すっかりと警戒心を解き、あたりの絢爛な夜空をながめていた。

 やがておじさんは立ち止まり、闇にむかって手をかざした。

 そうして何かをひねるような所作で手首を回した。

 闇にひかりの筋がはしる。

 縦に、闇が割れる。

 筋は幅をひろげていく。

 ああ、空間がひらけていく。

 いっしゅんの解放感がわたしを満たした。ドアであった。

 やはりここはプラネタリウムに似た屋内であったらしい。

 自然、わたしはおじさんの手をつよくにぎっていた。

「安心していいですよ」おじさんが言った。

 あごを下げて、こちらを見下ろしている。

 おじさんのかおが視える。

 闇のなかを散歩しているあいだは視えなかったおじさんの柔和な笑みが。

 今はきちんと視えている。

 ――ひかりって偉大だな。

 そう思った。

 

 無機質な部屋であった。

 コンクリート張りの空間。

 壁にドアがひとつあるだけ。ほかにはなにもない。

 壁と床と天井しかない。

 振り返ってみたもののそこもやはり壁だった。

 ではいったいわたしたちはどこから入ってきたのだろうか、と怪訝に思わないわけではなかったけれど、それでも自動ドアのように開いたのだから自動ドアのように閉まったのだろうとひとり合点した。

 おじさんはドアのまえまで歩をすすめると、右手に持っていた箸を、ドアに空いている溝へ差しいれた。

 箸はどうやらレストランで料理といっしょに運ばれてきたもののようだ。なにかしらの鍵の役割を果たしているらしい。どことなくきな臭い気がしてこないではないが、それでもおじさんへの不審感はない。なぜかなんて解らない。明確な理由なんてきっとない。

 信じたいから、信じるのだ。

 壁に差しこんだ箸をおじさんはひねった。

 ドアがよこへスライドする。

 道が拓けた。

 所せましとコンテナが並べられている。目のまえにもコンテナがドンと聳えている。それがじゃまで、この空間のおくゆきがどのくらいあるのかの推量がつかない。天井を仰ぎ見る。野球ドームのようにたかい。壁と天井との境がわたしの地点からは視えなかった。よほど広い空間であることが窺える。

 おや、と思い、振りかえる。おかしい。ドアどころか、こんどは壁すらもない。これではまるで、突如としてコンテナがつくりだす立体迷路のなかに投げこまれた気分である。

 ふあんげにおじさんを見遣る。おじさんは相も変わらず破顔しており、わたしはホっと胸を撫でおろす。どうやらこれは不測の事態ではないらしい。

 辺りをきょろきょろ見渡しながらわたしはおじさんに引きずられるようにして歩をすすめた。

 どこまでいってもコンテナが敷き詰められている。人気はない。ここはなにやら格納庫らしかった。

「このあたりのはずなんだ」

 言いながらおじさんはコンテナの一つ一つに触れていった。

 じゃまにならないようにと、おじさんの手をはなす。すこし離れ、コンテナに寄りかかる。そこからおじさんの背中を見守った。

「みつかった?」

 訊ねると、おじさんはかぶりをふった。

 視線が交わる。

 そしてずれる。

 ずんずん、とおじさんが近寄ってきた。

 え、え、なになに、と緊張する。

「ここだ」

 おじさんがつぶやいた。

 わたしが寄りかかっていたコンテナにまじまじと触れている。

「あ、これだったの……」心臓が、ばくばく鳴った。

 おじさんは、あの箸をコンテナに差しこむ所作をした。わたしは近寄る。おじさんのよこに立つとほぼ同時にコンテナが口を空けた。

 人ひとりが通り抜けられるほどの隙間。

 奥が暗い。すぐそこに壁があるようにも視えるし、どこまでもつづいているふうにも視える。

 おじさんの息を呑む気配が伝わった。

「行こう」わたしはおじさんの背中に手を添える。

 おじさんはわたしに微笑むこともわすれて、ちいさく、コクン、とうなずいた。

 コンテナのなかへと足を踏み入れていく。わたしもまたおじさんの背につづいた。

 

 ひとが大勢いた。

 コンテナに入り切れるはずもない。

 だからここはコンテナのなかではない。それは判った。

 周囲の視線が〝わたしに〟くぎ付けになっている。まるで奇異な生物を目の当たりにしているような調子だ。

 なぜアンタみたいのがここに――?

 入るお部屋、間違ってません――?

 そんな嘆き声が聞こえてきそうな雰囲気があった。

 なに見てやがんだよぉ、金とンぞ。わたしも負けじとにらんでやった。

 張り詰めた空気のなか、ひとりの男だけがわたしに不快な眼差しをそそいでいなかった。

 彼の視線がむかっているさき――そこにはおじさんが佇んでいる。

 あのひとがおじさんの弟さんかぁ。中々の優男ではないか。

 がるるる、と唸りながらわたしは、なごみに似た感情にひたっていた。

「おい。確保」

 だれかがつぶやいた。

 とても冷静な声だった。「侵入者だろ、あれ」

 空気が一転した。

 殺気むんむん。如実に肌で感じられた。

 おじさんと弟さんを残したそれ以外のひとたちが、にじり寄ってくる。

 一斉に。じりじりと。わたしに。

 圧倒的な剣幕にわたしは怯え、瞬時に遁走を選択する。

 この状況、逃げるっきゃないっしょ。

 振りむきざまに駆けだそうとしたが、踵をかえした途端にオデコを壁にぶつけてしまう。

 ここもかよッ!

 入り口が消えていた。

 万事休す。

 まさに窮鼠。

 ――おじさんたすけてっ!

 目で訴えようとよこを見遣るがそこにおじさんの姿はなかった。

 ――どこいきやがった。

 泣きたい気分で見渡すと、にじり寄ってくる大勢の後方、さきほどまでおじさんの弟さんが立っていた地点に、こちらへ背をむけた格好でおじさんが、ぽつねんと佇んでいた。哀愁漂うというのはああいうことを言うのだろうか、などと暢気に考えてしまうわたしはばかだ。

 そう、わたしのばかッ! 

 こわいよぉ。

 素で恐怖した。大勢にかこまれて、殺気なんてむけられたら、わたしのような美少女など、赤子同然である。泣くか微笑むかくらいしかできない。わたしは頬を引き攣らせながら涙をこぼした。

「ご、ごべんなだい」わたしはだれにむけてでもなく、あやまった。許して欲しかった。勘弁ねがいたかった。このおっかない顔をしたみなさん方に、「ジョークでしたー、怖がらせちゃってごめんねっ」とちゃめっけたっぷりに言って欲しかった。でも、だれもそんなことを口にしてはくれない。表情は未だこわいままで、殺気をむんむんとさせている。わたしはほほ笑むみたいに頬をぴくぴくさせながら、えんえん、と涙をこぼすしかなかった。

 

『手、貸してやろうか?』

 

 耳元で声がした。直に鼓膜を揺さぶられたような、そんな声だ。

 これは――とわたしはむねをくすぐられる思いがした。

 これは、波紋だ。

 ノリさんの、波紋だ。

 ノリさんがすぐ側にいる。

『助けてほしいか?』

「つべこべ言わずにたすけろよッ!」

 わたしは怒鳴った。なりふりかまわずに怒鳴った。率直な感想はかくせない。

『おれ、帰るわ。じゃあな』

「ごめんなさい、ごめんなさい、たすけてくださいっ!」

 媚びを売りつつ、

 ひとの足元みやがって。なんて非道な。やっぱりノリさんはちっさい。

 と声にださずに毒づく。

『波紋……糊塗しろよ』

「わざとです」これだけは声にだした。

 がすん、と頭蓋に伝わる振動。

 防げたものの、敢えて喰らっておいてやる。

 このくらいの我慢は負担しておいてやろう。

『いちいち偉そうなんだっつうの』

 言ってノリさんの波紋が振幅した。

 パーソナリティを発動させたのだろう。

 あ、と今さらながらわたしは気づいた。

 〝浸透〟すればとりあえずの危機は回避できたのではなかったか。ノリさんが現在そうしているように。浸透さえすればわたしはこの場を切り抜けることができたのではなかったか。

 ちっくしょう。むだに媚びを安売りしちまった! 高かったんだぞ、その媚び!

 不平を唱えきるまえにノリさんのパーソナリティが投射された。

 大勢が蠢いているなか。

 わたしは視ていた。

 頭がぶっとんだ、おじさんの姿を。

 わたしは視ていた。

 遅れて弾き飛ばされる、おじさんの身体を。

 まるで銃で撃たれたかのようなおじさんは、

 そのまま宙を回転し、落下した。

 床に倒れたまま、動かない。

 やがて、

 パラパラと。

 パリパリと。

 おじさんの姿が崩れていく。

 パズルが剥がれるみたいに。

 ――細かく砕けて、消えていく。

 

 ……おじ…………さん?

 

 肩に置かれた手をわたしは反射的に振りはらう。

 ノリさんの手だった。

「終わりだ。帰るぞ」ノリさんが声にだして言っている。

 わたしは耳をふさいだ。

 ノリさんの波紋のいっさいを、知れずわたしは遮断している。

      *

「おれは〝同調〟しろと言ったんだ。同情してどうすんだよ」

 ノリさんの口吻はこちらを突きはなすような淡泊なものだった。

 呆れているのか、失望しているのか。

 

 学び舎に帰還してからのこと。放心していたわたしは我にかえった。

「このやろうッ!」

 ノリさんに詰め寄り、掴みかかった。

 なんでおじさんを殺した、どうして、どうして、と狂ったようにおこった。なぐりかかったりもした。

 しかしノリさんは腐ってもアークティクス・ラバーだ。わたしのようなか弱い乙女の拳が当たるはずもない。避けるどころかノリさんはわたしのうでをつかみ、うごきを封じた。

「聞けって」

 耳もとでちからづよく諭される。

「仲間星弥は逸脱者だ。その逸脱者が逸脱者たり得ている大本を処理するのが今回の任務だっただろうが」

 アークティクス・ラバーが担う任務、それを実際に遂行する。これが研修の内容だった。

 でも、だからそれがなんだというのだ。

 わたしは感情を制御できぬままに、口角沫飛ばして息巻いた。

「だからどうしておじさんを殺したんだって聞いてんだよばかッ! 逸脱者はナカマ・セイヤって男だろ! おじさんじゃない!」

「……ああ」そういうことね、と納得した声がもれると同時にノリさんのうでから、いしゅんだけ力が抜けた。そのすきを突いて、わたしはノリさんから脱する。「アンタが殺したのはおじさんで、ナカマなんとかいう男じゃないっ!」

 ばかばかッ、ひと殺しッ、とわたしは責めたてた。

「人殺しか……まあ否定はしねーよ」ノリさんらしくのない、せつない声だ。「でもな、タツキ。おまえは大きな勘違いをしている。おまえが『おじさん』と呼んでるあの男、あいつがその仲間星弥なんだよ」

 んぐ、とわたしは何かを呑みこむ。

 唾液でも、息でも、言葉でもない、なにかをだ。

「おまえ、オブハートにあった対象に関する情報、全部に目通してなかっただろ。だからだ、そんな根本的な誤解を招くんだ。仲間家には三人の子どもがいたとされている。しかし長男は存在しなかった、と〝世間はそう判断した〟。次男を除いた、仲間家の父と母と娘の三人を精神病患者だと見做すことでな。実際、仲間家以外の人間には視えなかったんだろうさ、その長男とやらがな」

 ノリさんは一息つくと、いや、と言い直した。「いや、これは正しくはないな。長男以外の連中にも、〝仲間家が視えていた〟と言ったほうが正しい」

「どういう……」どういう意味だろう。

 淡々とノリさんは告げた。

「存在していないのは、長男じゃない。〝仲間家のほうだった〟ってことだよ」 

   ※TRUE(6)※

      ***

 私は死んだのか。

 私は死んだのか。

 では私は誰だろう。

 死んだ私は死んだのだから、ではこの私は誰であろう。

 誰であろうとも意味はない。

 誰であったかも意味はない。

 私は私だ。

 私は私だ。

 ああ、私は私だったのか。

 私は私だったのだ。

 私を生んだ父は死に、

 私を産んだ母も死に、

 私を支えた妹も――私も含めてみんな死んだ。

 みんなきちんと死んだのに、私は私として存在している。

 私は私だ。

 私も私だ。

 私が私で。

 私は私だ。

 死んだはずの家族があった。

 途切れたはずの家族があった。

 そこには死んだ母がいて、

 そこには死んだ父がいて、

 そこには死んだ妹もいて、

 そこには死んだ〝私〟がいた。

 だったら私は誰であろう。

 それでも私は私である。

 私は私の家族の一員。

 私は私で家族をつくった。

 誰かが生んだ子が産んだ、

 その子が生んだ子が産んで、

 そうして私の家族は生みだされ、

 こうして私の家族は踏み潰され、

 途絶えた家族を私がつくった。

 私が私の家族をつくった。

 私が〝私〟を形つくった。

 私のつくった私の家族は、私だけの家族だった。

 私だけの家族だったはずなのに――。

 いつしか家族はそこにあった。

 ここにあったはずの家族が、私の外のそこにあった。

 私は私でここにいるのに、私は私でそこにいた。

 誰かが生んだ子が産んだ、

 その子が生んだ子が産んで、

 彼らはそこに溢れている。

 溢れたそこに家族はいた。

 彼らは私を見詰めない。

 彼らは私を見付けない。

 なぜなら私はここにいて、そこにいるのは私だからだ。

 身体は身体で空にはならない。殻にはなっても空にはならない。

 私がここにいる限り、

 私がそこにある限り、

 私の身体は私だから。

 私は私で私だからだ。

 

 ただいま。

 おかえりなさい。

 帰ってこられたね。

 やっとここに。

 戻ってこられたね。

 おかえりなさい。

 ただいま。

 

 ああ。

 私は。

 生きている。

 私だけが……私なのだ。

 私だけの……私なのだ。

 私だけで……家族なのだ。

 私だらけの……私なのだ。

 ああ。

 私は。

 生きている。 

   ※TREE(七)※

      *

「仲間家の人たちは十二年前に事故で亡くなってんだ。それなりに地位のある裕福な家庭だったらしいから、暗殺されたんじゃないかって、そういった陰謀説もなかったわけじゃない。けどな、重要なことは、仲間家の人たちは〝みんな事故で亡くなったとされている〟って事実だけだ。しかし仲間星弥は生きていた。事故に遭い、負傷しながらもただ一人生き延びた。死んだ者として扱われていながら、生きていたんだよ。それがどういった顛末を辿ってそういったことになっているのかはおれだって知らないし、おれたちの任務には必要のない情報だ。仲間星弥は生きていた。そして奴は逸脱者だった。それだけが重要なことなんだよ。いいか、こんな重要なことをおまえは――タツキは、見逃してたんだぞ。いや、そういった詳細を知らずに対象と接触していたという事実だけを鑑みれば、やっぱりおまえはアークティクス・ラバーになれるだけの素質があったってことなんだろうが、それにしても目のまえに処理すべき大本がぶら下がってんのに、暢気に構えやがって」

 処理すべき大本――その言葉がわたしのなにかに火をつけた。

「ざッけんな! 好き勝手抜かしやがってからに、黙ってきいてりゃいい気になりやがって! おじさんがあんたらに何かしたかよ! おじさんがだれかを傷つけてたかよッ! おじさんが何をした? あん? なにをしたってんだよッ! 何もしてねーだろうがこのスットコドッコイッ!」

 ノリさんは口をあんぐりあけている。わたしはその口に剣幕を詰めこむかのごとく、はちくの勢いで捲くしたてる。

「おじさん、わたしに奢ってくれた。いいひとだったんだ。それをなんだよ、逸脱者だとか狂っていただとか……そんなん知るかッ! 『おじさんのほうが狂っている』アンタはそう言うけど、もしかしたらわたしたちのほうが狂っているかもしれないだろ! そうじゃないなんて、どうして言い切れるのさッ」

「関係ないんだよ」

 ノリさんは淡々と言った。

「関係ないんだ。自分が狂っているのか相手が狂っているのかなんてそんなもん。関係ないんだよ。生きるっていうのはさタツキ、生きているっていうのはあまねく狂ってんだ。自然にちかいことが正常なのだというのなら、生きているってのは、それだけで異常なんだよ。でも、異常だからこそ特別になり得るんじゃないのか? 特殊だからこそ特別なんじゃないのか?

 生きている以上、人はみな狂っている。

 狂い方の方向、広がり、深さ、色合い、せいぜいがその程度の違いなんだ。

 二人の人間がいたら、平等に二人ともが狂っているし、そのあいだに広がっている隔たりや差異は、視点が違うというだけで同じ隔たりだし差異なんだ。一方からのみ『隔たりがない』なんてそんなのは有り得ない。

 タツキが言うことの半分はその通りだ。

 おれたちは狂っている。

 ただその狂い方が、ほかの多くの者たちと似ていたり、許容でき得るという、ただそれだけの違いがあるだけなんだ。

 誰かのことを異常だと蔑む時点で、そいつもまた異常なんだよ。誰かを狂っていると弾劾した時点でそいつは『私は狂っています』と自己申告しているようなもんなんだ。

 歪んでいるのは隔たりじゃない、それを認識する個人でしかないんだから。

 だからな、この場合、誰が狂っているかなんて関係ないんだよ。

 問題なのは、仲間星弥という逸脱者が、『プレクス』に干渉して、多くの者の〈レクス〉を歪めてしまっていたというその事実だけだ。タツキ、おまえも例外じゃないんだぞ。仲間星弥はおまえの〈レクス〉にも干渉していた。

 それがわるいことかどうかもまた問題じゃないんだ。

 それがわるいことだと規定されているという事実が問題なんだから。

 逸脱者は他人に強制的な干渉を強いる。それは侵害なんだよ。

 侵害されていることにも気付かせない、そんな一方的な干渉だ。

 それが不幸かどうかなんてのもまたどうでもいい話だ。

 問題なのは、そういった行為をおれは無くしたいと望んでいる、というおれの信念だ。機関はおれのこの信念にちかい基準をもっている。それに力だってある。だったらおれはおれの望んだ世界を生きたいし、おれの信じたことをやり遂げたい。そのためにならおれは、こういった任務を善悪だとかそういった難しいことを抜きにして、ただ全うする。それがおれの望んだ世界にちかづく努力なのだと信じているからだ。

 だから、タツキの言いたいことは、おれが持っている大義なんかよりもよっぽど人間らしいし、正当な主張だと思う。けどな、だったらおまえはどうすんだ?

 目のまえで平然と痛めつけられている者を見て、素知らぬ振りして看過するのか?

 痛めつけられていることにも気付かずに、でも確実に彼らは傷ついているんだ。歪まされているんだ。

 それをタツキ、おまえは見過ごせるのか?

 おれはそんなのごめんだぞ。

 傷ついているのなら、傷ついてんだぞ、って教えてやらなきゃ。

 おれはそう思う。

 おれがそうして欲しかったからだ。

 おれはおれのために、おれがして欲しかったことをみんなにしてやりたい。これもまた自分よがりな、押しつけがましい、強制的な干渉になっちまうかもしれないけど――でもさ、少なくとも、痛みを知らねえ奴に社会を任せたくはないじゃんか。痛みは痛みとして自覚すべきだ。傷ついているなら、それは痛いことなんだよ、って教えてやらないと。おれはそう思うわけ」

 ――で、おまえはどうすんだ。

 ノリさんは疑問形で言葉を結んだ。

「……わたしは」

 わたしはどうしたいのだろう。

 ――どうすればよいのだろう。

 痛みを知らずに生きていけるのなら、それはそれで幸せなことではないのか。でも、そうではないと考えることもまたわたしにはできる。

 たとえば、昨日まで恋人だと思っていた人間が、実はかおも知らない他人の想像上の人物だったら――そしてある日突然、その恋人が、かおも知らない他人の都合で消されてしまったら。そういったことだって充分に引き起こり得る。また、恣意的に他人の〈レクス〉に干渉できてしまう逸脱者がいたとすれば、その者は他人を遠隔操作するようにしてそのひとの人生を狂わせることもできるのだ。

 ――他人には視えないものが視えている。

 そういった振る舞いをする者に対して、人はことごとく無慈悲だから。

 無関心をよそおうくせに。

 無干渉ではいてくれない。

 放っておいてはくれない。

「狂人」のタグを張られ、精神病棟という名の冷蔵庫へと収納される。

 冷蔵庫がわるいわけではない。

 狂人というタグがわるいでもない。

 わるいのは、それをわるいと思ってしまうわたしなのかもしれない。

 だったらわたしは、でもわたしは、

 だからわたしは、せめてわたしは、

 助けを求めてくれたひとだけは助けてあげたい。

 こまっているのだとわたしへむけて手を伸ばしてきたひとだけはせめて、せめて、助けてあげたいんだよ。

 そうだとも、おじさんはこまっていた。こまっていたんだ。

 だったら助けてあげてもいいじゃないか。なにも殺すことはなかったのに。助けを求めていたのに。なのにどうして。

 ――どうしてッ。

 おじさんは「物」なんかじゃないのに。どうして処理するだとか。大本だとか。そんな言い方するんだよ。

 かなしいんだ。つらいんだ。傷ついているんだ。わたしはおじさんのせいで傷ついているんだ。でもおじさんがわたしを傷つけたわけじゃない。きっと、ノリさんに傷つけられたわけでもない。わたしはわたしで、わたしがかってに傷ついている。泣いている。

 そう。わたしは泣いている。

 傷ついた皮膚から血が染みでるように、

 傷ついたわたしは涙をにじませている。こぼしている。

 ほおに伝っている。

 あごからしたたっている。

 ゆかに染みている。

 わたしの涙は。

 血のように。

 地面を。

 黒く、

 染めた。

 

「おれがしたこと、間違ってると思うか」ノリさんの声が、せつなく聞こえる。

 わたしはちいさくあごを引く。

「タツキなら、ああしなかったのか」

 もういちどあごを引く。

「でも、どうすればいいかも分からないんだよな」

 こくりこくり、とうなずく。

 やめてほしい。どうしてこうもわたしの心を見透かしたように。

 わたしはこんなにもつよく波紋を糊塗しているのに。

「だったら」とノリさんは声を張った。「だったら、どうにかできるようになればいい。これまで散々言ってきたが、今日でこれを言ってやるのは最後にする。もう二度と言ってやらない。だから耳の穴かっぽじってよおく聞け」

 下唇をどぎつく噛みしめたままでわたしは、耳だけを澄ましている。

「おまえには素質がある。きっとおれにはできない手段でもって、おれが望んだ世界にしてくれる。おれはそう信じている。だからと言って、おれはこのさきも今日と同じように任務を遂行していくからな。納得いかないんだったら、さっさと成長しろ。成長して、おれに言ってくれ。『あんたは間違っていた。こうすればいいだけじゃないか』そう言っておれに見せてくれ。タツキが選んだその手段ってやつを」

「う……っさい」

 クサいんだよぉ、とわたしはなんとかそれだけを絞りだした。

 もうなんだよ。アンタはおじさんを殺しやがったやつなのに、どうしてだよ。

 どうしてこんなに善いやつに視えるんだよ。

 くっそ、チビのくせに。

 波紋をつよく糊塗していたためか、げんこつは落ちてこなかった。

「おまえ、今日からアークティクス・ラバーだ」

 わたしはかおを上げて、ノリさんをにらむ。

 視線が交わる。

「おめでとさん」

 んでもって、とノリさんはいやらしく相好をくずした。

「ご愁傷さまでした」

「……うっさい」

 涙は、左目だけ、とまっていた。

 

  

   ※EU※

      ***

「あれあれ? ノリたん何やってんのー。こんなところでっ」

 タツキが帰ってからすぐにミツキが現れた。どこかに潜んでいたかのような出没ぶりだ。

「研修の帰り」うそではない。

「へえ」ミツキはおれの横に並んだ。今しがたタツキが消えていった通路先を見据えると、なんでもないような調子でこう言った。「で、どうしてタッちゃん泣いてたの?」

「どこから聞いてましたかミっちゃん」

「うん?」すっと惚けた表情でミツキは、「おれは同調しろと言ったんだ。同情してどうすんだよ」とおれの口真似をした。

 最初からかよ。しかも似ているだけに腹立たしい。

「じゃあ、三十分もずっとそこに隠れてたわけ。ミっちゃんさ、そういうのやめようって」

「どうしてだよぉ」

「子どもっぽいから」

「子どもっぽいのってだめなのー?」ミツキが素朴に問うてくる。なんと返したものか、と悩んでいるとミツキはすぐに、ああそうそう、と話題を変えた。「ねえねえ、なんでノリたんさー」

 ああ、ものすごくイヤな予感がする。

「――なんでノリたん、タっちゃんにウソついたの? 仲間星弥、死んでないんだよ。生きてるんだよ? そもそもノリたん、殺そうとすらしてなかったよね?」ねえねえ、どうして、とミツキが覗きこんでくる。

 ほら、きやがった。

 表情に現れないようにと努めながらおれは、湧いた苦虫を噛みつぶす。

「あれはだな……ほら、あれだ」言いながらなんと誤魔化したものか、と苦慮する。「ほら、タツキにはさ、少しばかり刺激があったほうがよかったと思ったんだ。ショック療法みたいなさ。実際にほら、彼女やる気になったじゃん。ミっちゃんも見てたっしょ」

「ああそうなんだー」ミツキは感心したように相槌を打つと、「てっきりミっちゃんね、ノリたんがあのおじさんに嫉妬して、だからイジワルしちゃったのかなあ、なんてね。そんなふうに思ったの」

 なんだちがったのかあ、となにが楽しいのやら、へへへ、と満面の笑みを浮かべた。

 おれは冷静に否定する。

「ち、ちげーますよ」

「うんうん。ミっちゃん、きちんと分かってるの。だいじょうぶ。ノリたんはそんな器のちいちゃい男じゃないもんね。好きな女の子の気を引きたいからって、その子が追いつめられるギリギリまで助言もせずに、ただ遠くからハラハラしながら見守ってたり、その子が窮地になった途端にヒーロー気取りで助けに現れたり、なんてこと、ノリたんはぜったいにしないんだもんねっ」

 おれはどこまでもクールに否定する。

「当たり前ですよ、しねえですよそんなこと」

「うんうん。ミっちゃん、きちんと分かってるの。だいじょうぶ。ミっちゃん、このことだれにも言わないから。アズちん以外には」

「アズキには言っちゃうのっ!?」

「うんうん。ミっちゃん、きちんと分かってる。だいじょうぶ。変に潤色しないで、ミっちゃんが視てきた事実をありのままに報告するだけなんだよ。アズちんならきっと、事実だけをきちんと見通してくれると思うの。安心していいんだよっ」

 やれやれ。おれはすこし焦った。

「なになにッ!? 『ミっちゃんが視てきた事実』ってどういうこと、え、ミっちゃんおれたちのこと見てたの? どっかから? 尾行してたってこと!?」

「うんうん。だいじょうぶ。ミっちゃん、アズちんに、『最近、ノリの奴がうわついているように見受けられる。まさかとは思うが、公私混同、任務に私情を挟んでいるやもしれぬ。ミツキ、すまんが明日の研修、ノリに気付かれぬように付いていってはくれまいか』って頼まれたからって、それでもミっちゃんはノリたんの味方なんだよ。でも、頼まれた以上は、ミっちゃん、きちんと報告だけはしなくっちゃなの。ごめんね。でもうん、だいじょうぶ。ノリたんもしっかり男の子だったんだねー、それが知れただけでもミっちゃん、すっごくうれしいの。きっとアズちんもよろこんでくれると思うんだよっ」

「OK。わかった。わかったから」

 おれは現実を受け入れた。

「そうだね、じゃあ、何が欲しいのか言ってごらん。お兄さんがなんでも用意してあげるから」

「うん? なんのことー? ミっちゃん、ノリたんがなにを言っているのか、ぜんぜん、わかんない。でもミっちゃんは怒らないんだよ? ノリたんのこと責めないんだよー? だってノリたん、ミっちゃんの言葉が通じないんだもんね。このあいだもさ、ミっちゃん、ゴッホの『ひまわり』が欲しいって言ったのに、ノリたん、とってもきちんとした模写を持ってきてくれたんだもんね。ミっちゃんあのとき、きちんと、『ホンモノの』って念を押してたのに」

 模写つったって、あれを用意するのに一千万にちかい費用がかかったってのに……。そんなことをミツキに訴えたところで仕方がないのだろう。あんなので騙し通せると思いあがっていた自分を殴ってやりたい。

「あのときはおれも頑張ったんだ。でもさ、美術館に飾ってあったやつはレプリカだったし、本物は地下の金庫だ。しかも警備担当してんの『モーメント』らしいじゃん? いくらおれでも気付かれずに盗ってくるのは無理だって」

「でもノリたん、気付かれてもいいなら盗ってこられたんでしょー?」

「……そうだけど」ひと殺してでも盗って来いとでも言う気かこの女は。悪魔か。「じゃあ、『ひまわり』盗ってくればいいのか」

 どうすれば黙っていてくれるのか、と乞うように訊く。

「ミっちゃん、いまは『モナリザ』がほしいかも」

 ほほお。

 バカも休み休み言え。

 そうだとも、有給休暇はバカにこそ出すべきだ。

「さすがに無茶でしょ」モナリザは無理、ときっぱり断る。「だってあれ、『機関』の所有物じゃん」

「ね、バレてもだいじょうぶでしょー?」ミツキは無邪気に笑った。

 ああ可愛いらしい。

 可愛らしいだけにおぞましい。

 なに考えていやがる、それはどう見たって反逆行為だろう。処分されちまう。

「じゃあ、もういい!」ミツキが拗ねた。「むかしのノリたんなら盗ってきてくれたのにっ。もう知らないっ」ぷい、と踵を返した。

「どこいくんだ」内心ほっとしながらもなんだか不安が拭えないのでミツキがこれからどこへ向かうのかを確認しておく。「アズキのところか」

「ちがうもんっ」

「じゃあ、どこ」

「タっちゃんのところ!」

「……なにしに」

「入院してる病院の場所、おしえてあげてくるのっ!」

「病院? どこの病院?」雲ゆきが危うい。かなり危うい。おれは重ねて問う。「誰が入院してんの」

 ミツキは歩を止めて振り返る。あっかんべーをすると、

「おじさんっ!」

 叫んでから、霞むように浸透した。

 ああ……おじさんね。はは。おれは溜息をつく。

「やめてッ! おねがいッ」

 ミツキを阻止すべくおれは、彼女を追って浸透した。

 おれの追う彼女がどちらの彼女かは、みなまで言う必要はないだろう。

 こうなったら正直に打ち明けるしかない。

 彼女の誤解を正さないと。

 まず正すべき誤謬は決まっている。

 そうだとも。

 おれは全然これっぽっちも、善い奴なんかじゃないんだ。

 



      【ファンシィ・ニスト】END

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