千物語「 」
千物語「 」
目次
【偽装画面は揺れる】
【幻視の網】
【曖昧な日記小説】
【リアルQ】
【愛へ】
【謎はとくに解かれない。】
【魔人は人魚のごとく儚く】
【テプラは拡張する】
【蒼の息吹】
【ウゴゴを縛るもの】
【血を吸う者たちの話】
【覚めるためにはまずは寝る】
【燃え尽き症候群】
【物書きの独白】
【己の旅とて、まだつづく。】
【キスもまだですが何か?】
【実話系って実話なの?の怪談】
【桜の花弁のごとくひらひらと】
【阿部くんは鋭くもにぶい】
【ただそうあるように、ふわふわと】
【後進宇宙のレシピ】
【アンノーマル】
【二心同体】
【惨めで美しくも、儚い、私の】
【eyeの民】
【偽装画面は揺れる】
(未推敲)
読みかけの本をいちど閉じた。
「偽装画面、ですか?」
「ええ、そうです。インターネット上の画面を、いつでも偽装できるようにする仕組みでありまして」
「それはこう、なんというか。ボロがでそうな気が」
私は眼鏡を外した。本を読むときにしかかけない。
先刻のことだ。ふらりと見知らぬ男がテーブルを挟んで向かいの席に座った。私が同性だから相席に遠慮がないのだろうか。そう思って店内を見渡すと、がらんとしていた。なぜ私の席に? 訝しみ、読んでいた本を閉じて警戒したところで、男は前置きもなく、「偽装画面についてのご意見を窺いたいのですが」と言った。
私には男の言葉がすんなり耳に入った。脳内で欠けた情報を補完できた。
対面に座る男を見遣り私は、たとえば、と指摘する。「こちらの画面ではこうで、こっちの画面ではこう。同じページを開いているはずなのに違うものが映っていれば証拠に残りますし、露呈する確率が高いのでは」偽装画面についての所感だ。
「おっしゃる通りです。その危険性は常にあります。スクリーンショットを撮られたり、動画に残されてしまえば、露呈する確率は高くなります」
「なら」
私の声を手で遮り、男は言った。「ですがその場合、画面が偽装であると撮影者は疑惑を抱いていることになります。しかしこの仕組みはそもそも、そのような疑惑を生みません。たとえばいまはすでに個々人によって画面に映る広告は違います。SNSは言うに及ばず、いったい何が正しい画面なのか、という点からして検証するという発想をそもそも持ちようがないのです。たとえされたところで、その相違が果たして正規の人工知能によるアルゴリズムの結果でないとどうして検証できますか? 企業に問い合わせたところで企業秘密、通信の秘密を理由に却下されるだけでしょう」
「かもしれません。しかしだとすればそもそも偽装するメリットがなくないですか」
「たとえば人間の認知を操れます」
「マインドコントロールということでしょうか」
「そこまで露骨な操作ではないのですが。たとえばこの仕組みを犯罪者に適用すれば、犯罪の再犯を防ぐことのみならず、犯罪者予備軍と判断された者たちの凶行を防ぐことにも繋がります」
「なりますか?」
「ええ」男は眼鏡の縁を食指で押し上げた。セーターにジーンズとラフな格好だ。カフェで食事をとっていると向かいの席に座って、私の名を口にした。私が戸惑っていると、折をいってご相談が、とこうして訥々と突拍子もない話をしだしたのだ。
相手の素性を問いただすのが先のはずだが、奇しくも男の話の内容が私の研究内容と重複していたため、警戒心よりも好奇心が勝った。
男は言った。「人間の認知は存外に、印象によって判断の選択を行っています。同じ意味内容であるにも拘わらず、税抜き100円の商品に関して、【10%値引き】と【10円お得】では前者を選ぶ者のほうが多くなる傾向にあります。また、単純な助詞の使い方で、受け取る側の心証が大きく変わります。【1%もリスクがアップします】と言うのか、【1%しかリスクがあがりません】と言うのかによって、同じパーセンテージであっても情報の受動者は印象を真逆に受け取ります。【これ「は」安全です】なのか、【これ「も」安全です】なのか。このような単純な言葉選びですら、人間は認知を歪めます。記事内容そのものに大きな変更を加える必要はありません。個々人に合わせてほんの少し見出しや、言葉遣いを変えるだけでよいのです。これはSNSでも同様です。個々人の発信するテキストの、ほんの少しを変更するだけですから、発信した当の本人ですら、その違和感には気づけません。提示されたところで、ああこんなつぶやきを投稿していたな、と見做すのがオチです」
「つまりこういうことですか。表示される広告によって画面の向こうにいるユーザーの購買意欲が喚起され得るように、ほんのすこしの編集がなされた画面を見せられつづけることで、人々の行動指針そのものを制御可能だ、と」
「その通りです。素晴らしいまとめです」
「言っている内容は理解できますが、いやはや。それを説明されて、私にどうしろと?」
「いま我々の【会社】がこれを実装準備段階にあります。助力をいただけるとたいへんに助かるのですが」
「いやいや。国家プロジェクト――いいえ、国際プロジェクト並みのシステムでなければ無理でしょう」
私は言ったが相手は表情を変えない。優雅にコーヒーを口に含んだのみだ。
「本当に? あ、会社ってそういう?」
「目下の懸案事項と致しましては、管理には高性能演算機――人工知能を利用しますから、これが予期せぬ演算を行い、管理者たる我々に対してまで偽装画面を適用しはじめる点が懸念として挙がっております」
「それはそうですよ。原理上、偽装画面を偽装だと見抜けないこれは仕組みです。じぶんたちにも適用され得ますし、それを自力で喝破はできません。どういうセキュリティが敷かれているんですか」
「ありません」
「え?」
「そこで、なのです。まさにそこについての助力を先生から戴きたいと我々は望んでおります」
「ああ、そういう」
私の専門はリスク管理だ。中でも、人々の無意識が引き起こす集団心理に関するリスクを近年では研究対象としている。
とりわけインターネット内のいわゆる炎上やフェイクニュースによるリゾーム構造には関心が高い。
一人一人に、集団を形成している認識はないが、それでも各々の感情の波が同調し、或いは反目し合うことで高ぶり合い、大きな波を形成する。それで一つの巨大な組織群として機能する。
私はこの仕組みを、物理世界の物質の成り立ちと相関づけて解釈する新理論を構築している最中であった。
「ぱっと思いつくのは二つですね。大別すれば」
「ほう、それは素晴らしいですね。是非お聞かせください」
迷ったが、これくらいならば世間話の類だと思い、考えを述べた。
「一つ目は、暗号の秘密鍵のような仕組みを取り入れることです。特定のパターンを知っている者が偽装を偽装と喝破できるように、マークなり、規則性なりを仕込んでおきます」
「マーク、ですか」
「トランプマジックでもありますよね。柄に目印をつけておいたり、特殊な眼鏡をしていると裸眼では視えない紋様が浮きあがって視えたり」
「眼鏡はいいですね。特殊な眼鏡をしていると本来の画面しか視えないようにする案は実用化できそうです」
「もちろん欠点もあります」
「何でしょう」
「それを逆手に取られれば、油断を突いて、不可視の偽装画面を管理者たちに適用可能です。マークを視る技術があるということは、その技術では視えないマークも作れるということです。そのような盲点を突くような技術を考案すれば、管理者たちの目すら欺けます。安全だと思い上がっている者たちほど、案外騙されやすいですからね」
「かもしれません。ではもう一つの案というのは」
「偽装画面を適用されても困らないように、人間のほうを教育することです」
「それは、その」
男は顔を歪めた。ナンセンスと言いたいのだろう。餌だと思ったらボールだったと知って肩透かしを食らった狐のような表情だ。
「分かります。そんなことはすでに検討済みと言いたいのでしょう。それができれば苦労しない、と」
「はい。まさに」
「教育の方向性がおそらく異なります。私が言っているのは、情報リテラシーに関する教育です。ただし、前提条件として偽装画面のプロトルコにおいて、情報の内容そのものの編集を禁じるような禁止事項が強固に敷かれている場合に限ります。つまり、あくまで部分的な微修正であり、まったくの別の情報を表示するような偽装を施さないことが絶対条件となります。そうでなければ何が正しい情報なのかを判断することが原理的に適わなくなります」
「それははい。そうでなければフェイクニュースと変わりませんからね。情報汚染と捏造には繋がらないようにするのは最低限の条件かと我々も考えております。露呈するリスクも跳ね上がりますし。情報の内容が大きく異なっていればさすがに情報発信者とて気づくでしょうし、受け取り側とていずれ違和感を募らせるでしょうから」
「ならば私の案は可能でしょう。つまり、どのような情報を目にしようが、その文章形態によって情報の信憑性や内容を盲信しないように教育すればよいのです。言い回しによって受け取る印象を変えなければよい。飽くまで情報の内容を理屈によって判断する。この教育を徹底すれば、たとえ偽装画面を見せられようとも判断基準や行動原理に著しい作用を及ぼされることはないでしょう」
「それは、そうかもしれませんが」
「裏から言うならば、それくらいの情報リテラシーのない者に偽装画面の管理を任せるのはリスクです。関わらせないほうが好ましいと言えるでしょう」
「なるほど。かもしれません」
「ちなみに、一つよいですか」
「お話できることのならばええ。お答え致しますよ」
「偽装画面を利用すれば、人を制脳可能です。うつ病にすることも、思想を刷り込むことも、自殺に追い込むことも、人を殺させることすら可能でしょう。人生を狂わせることは、これはどのような運用を行おうと、不可避と言えます」
「はい。存じております。ですから我々は社会秩序と人類平和のために、偽装画面のシステムを――」
「犯罪者やその予備軍などの異分子に適用する。そういうお話でしたよね。ですが、そもそもこの仕組み自体が人権侵害です。基本的人権を侵犯しています。憲法違反です。もちろん政府の許可がなければ違法でもあるでしょう。つまり、国家プロジェクトなわけですよね。国家権力が関与しています」
男はそこで初めて返事をしなかった。相槌一つない。無表情で私に監視するような、柔らかさの失せた眼光を注いだ。
「いまお話したことを踏まえての質問です」唾液を呑みこみ、私は言った。「管理者たち側のセキュリティは解決可能です。管理者たちが偽装画面からの不可視の干渉を極限まで薄めることはできるのです。ですが、では――偽装画面を適用される国民の側のセキュリティはどれほど練られているのでしょう。不当に使用されない保障がどこにどのように築かれているのか、或いは構想されているのか。その点を教えていただきたいのです。そのお返事によっては、あなたからのお誘いへの返事が変わります」
「当然のご質問ですね。さすがは専門家でいらっしゃる」
男は言うが、目が泳いでいる。平静を装おうとしているが、眼球の揺れは抑えきれない様子だ。それはそうだろう。視線を固定しようとも、無意識からの動揺は身体に現れる。眼球を潤すために緩む涙腺が、眼球の揺らぎを強調する。頭上のライトの明かりが反射するからだ。僅かな揺れでも私からはよく見えた。
「もちろん抜かりなく、ほかの専門家の方々や技術者の方々に、その辺りは基本設計として念入りに固めてもらっています」
「なのにどうして私のところへ?」
専門家がいるのならそれで済むはずだ。しかも私への質問は、基本的な部位だ。システムの基幹部位である。
そこが解決できていないにも拘わらず、実装準備に入っていると言っていた。通常まずあり得ない判断である。しかし国家プロジェクトならばそれもさもありなんなのかもしれない、と思いもする。
安全よりも実績を優先するようなリスクの高い価値判断を、いまのこの国は長らく許してきていたのだから。
「専門家がいらっしゃるなら充分でしょう。そもそも偽装画面を可能とするためには、通信の秘密を破ることが前提となります。他者の通信を傍受可能でなければまず適用できず、ボロがでます。国家規模、世界規模でビッグデータを集積し、解析し、即座に偽装画面へと編集結果を反映させられなくては、この手の仕組みは早々に破綻します。つまり、です。すでに、情報の傍受――通信の秘密が守られていない状況にこの国はあるわけですね」
「多少、飛躍したお話になられてきましたね」
「ええ、その通りです。偽装画面を用いずとも、似たような効果を他者へと及ぼすことは可能です。いまの私が試みていることがそれです。ですが偽装画面は、不特定多数へと同時に似たような錯誤を植えつけることが可能です」
「そろそろお暇しようかと思います。お話どうもありがとうございました」
席を立とうとする男へ私は言った。
「ラグ理論の提唱者が唱えていた多層民主主義を御存じですか」
男は歩を止めた。
私は男の、表情の失せた顔を見あげる。「ラグ理論――は、ご存じですか」
一拍の間ののちに男は、いえ、と首を振る。「知りません。何なんでしょう、それは。先生の手掛けていらっしゃる新理論ですか」
「いいえ。多層世界については? 聞いたこともありませんか?」
「見聞が狭くてすみません」
「偽装画面の仕組みは、大勢に異なる【真実】を同時に広く視せることを可能とします。異なる現実を生きながら、同じ物理社会で共存することが可能です。しかしそれは極めて流動的な、階層性を維持した管理社会です。隣の者を眺めてもじぶんたちが管理されていると実感できない巧妙な仕組みのうえに築かれる管理社会です。あなた方にその自覚があるかどうかは問題ではありません。あなた方の自覚の有無に関わらず、偽装画面の仕組みは遠からず、多層民主主義――階層を帯びた管理社会を生みだします」
そして何より。
ではこれにて、と逃げるように席を離れ、店の外へと出ていこうとする男へ私は狂人のごとく声を張った。
「それらシステムの結果に生じる社会の影響を、あなた方とて回避不能な点はどうお考えなのですか。あなたの娘、息子、親兄弟。この先に現れるだろうあなたにとっての愛すべき人にも、あなた方の仕組みは適用され得ます。そのとき、どのように不可避の干渉からあなたは、あなた方は、愛する人を守るおつもりなのですか」
男は勘定に手間取った。
すでに彼は私を赤の他人として見做し、振る舞っている。
「干渉されている事実を知ることのできない一方的な干渉は、予想もし得ない変化へと発展し得ますよ。お気をつけて。蝶の羽ばたき一つ、小石の跳躍一つで、未来が大きく変わることも珍しくありません。偽装画面は、そうした予期せぬ波紋を、同時にいくつも連鎖反応させ得ます。どうぞお気をつけて。あはは。津波は地震によって――地震は地殻変動によって――地殻変動は、百年で数センチずつしか移動しない大陸移動によって――マントル対流によって生じます。極々小規模な影響が同じ方向を向いて作用するときの、重複し、連鎖し、層となって顕現する事象にはご注意を。ご注意を。遅れてやってくるものにこそ本質は宿るそうですよ。そう書いてありました。お気をつけて。お気をつけて。どうぞ、くれぐれもお気をつけて」
店の扉が激しく前後に揺れている。
私は席に腰を戻した。
店内は静まり返り、ビターな音楽がコーヒーの香りのなかをゆったりと泳いでいる。
眼鏡を掛け直す。
読みかけの本を開き私は、ふたたび文字の羅列へと目を落とす。
本の作者は不明だ。
名もなき創作家が残した小説群である。この短編集に奇しくもラグ理論の名が紛れ込んでいる。
――世界は遅延でできている。
提唱者不明の新理論は、ふしぎなことにこの本の作者が亡くなった三十年後のいまになって、にわかに各分野の異端の名を背負う研究者たちのあいだで取り沙汰され、日夜検証が繰り返されている。
私もその理論から新たな発想の息吹を得た口だ。理論の信憑性、真偽ともに、判然としない。
しかしいまのところ、否定できるだけの論拠が皆無であることもまた無視できない事実だ。理論の正当性が証明されるには、いましばらくの時間がかかりそうである。
偽装画面。
多層民主主義。
階層管理社会。
私はつぶやき、想像する。いかなる理論が根底にあれば成し得るだろう。まるで何十年も前から着々と進められてきた計画を幻視せずにはいられないが、憶測はしょせん憶測にすぎない。
妄想もたいがいにしておこう。
深く息を吸い、そして吐く。
手元のカップの中身はとっくに冷めきっている。水面に吐息がぶつかったのか、遅れて波紋が広がり、覗きこむ私の顔にモザイクがかかる。
揺れは、なかなか収まらない。
【幻視の網】
骨組みに穴を開け、血管を通すように冷却水を巡らせる。
次世代型の演算機だ。
膨大なエネルギィを消費するため、発熱の高さも指数関数的に増大する傾向にある。いまでは冷却水がなければゴミ焼却炉の代わりになるほどの高熱をこもらせる。
大槻カケルは緊急シグナルを目に留め、駆け足で冷却水の補充を行った。
「空調のほうも下げてきました。マグロの冷凍保存ができるくらいにキンキンにしてやりましたよ」
「結露ができるから、除湿のほうも回しなぁ」
「空調は自動でしょう」カケルは自動販売機から取りだしたばかりのコーラを煽る。
「風速十メートルが基本らしいよ。ま、ほぼ真空だから中に入るだけで窒息死は必須だけど、完全じゃないから結露がぁ、って整備の人らが愚痴ってた」上司の嵐山ヒグマは名前に反して線の細い人物だ。生物学的性別は女性らしいが、本人いわく性自認は不明だそうだ。現に化粧はせず、短髪オールバックに眼鏡の相貌は、精悍な青年を彷彿とする。
「なんで管理部を解体しちゃったんですかね。僕ら統括部が雑用みたいな真似まですることないんじゃないんすか」
「カケルくんさ。宇宙飛行士になりたかったんしょ。これくらい朝飯前じゃん」
「朝飯前とか言うひと現実にいたんすね」
「人手不足ってのもあんだろうけど、ま、実態は秘匿義務だろうね。人の口には蓋ができないから」
「機密扱いってのは知ってますけど」
「いつの間にって感じだよね。上の意向はよぉ解らんわ。わいらだって元は、アナリストだったやん」
「エンジニアのつもりでしたけど」
「あれ? 言語学者ってプロフィールに書いてなかったっけ?」
「それは、はい。一応、その経歴を買われてここに配属になったと思ってたんですが」
「たぶんそうだよ。これまでのはあくまで研修ちゅうか、システムに慣れるための試運転みたいな感じらしいから」
「そうなんですね。自由な職場で僕は楽でいいですけど。せめて業務計画くらいは教えて欲しいです」
「ほら秘匿義務があるからさ」
「あるならべつに理由とか教えてくれたっていいじゃないですか」
「人の口には蓋が」
「もういいですよ。嵐山さん、じつは知ってるクチじゃないんですか。なんで僕には情報が回ってこないんですかね」
「そりゃわいのほうが先輩だからじゃ」
「やっぱり知ってるんじゃないですか」
「おっと。そろそろ休憩やめて仕事しよっか」
「もうすこし休ませてくださいよ。冷却水、めっちゃ重いんですからあれ」
基本は二人体制の職場だ。
施設の位置座標は不明だ。
宇宙コロニーで生活するならきっとこんな具合だろう。カケルはたびたび想像する。通路は歩くたびに明かりが点灯する仕組みだ。窓のような円形の枠のなかには風景や植物、箱庭や海中の様子、ほか熱帯魚の美しいアクアリウムなどを目にできるが、すべて映像だ。立体的なので、フォログラムかもしれない。
コンクリートで固められたひんやりとした空間だ。塗装の影響か、場所によってはコテージのように木目や自然に触れている気分になる。
快適な空間ではある。
ひと気はなく、カケルが顔を合わせるのはおおむね大嵐ヒグマ一人だ。
スーパーコンピューターの床面積はバスケットコートくらいある。むかしはサッカーコート並みにデカかったようだが、いまはここまでコンパクトになった。
とはいえ、それは圧縮可能になったという意味であり、性能が向上するたびに並列化され、繋ぎ合わされ、ますますの性能アップを図られるのだろう。そこはイタチゴットだとカケルは思っている。
夜食のホットドッグを嵐山ヒグマに手渡し、カケルは言った。
「電力消費量、削減したって聞きましたけど、いま見たらとんでもない数値でしたね」
「小さな国なら賄えるだけの電力をAIくん一基でジャブジャブ使っとる」
「ね。すごいですよね」
「でもそのお陰でこの国は、世界中のどんな電子機器にも干渉可能だ」
「噂じゃ、他国の核兵器をいつでも発射できるって」
「そうだよ。いまはだね、カケルくん。核兵器なんて危ない代物を自国領土内で持つ必要がないんだ。生物兵器や化学兵器もそうだね。そういうので脅迫してくる相手には、自滅してもらうように仕向けることができる」
「爆弾を持って脅してくる相手には、近づいてくる前に爆弾ごと自爆してもらうってことですか」
「拳銃で撃とうとしても必ず暴発する。そんな具合になれば、もはや最強っしょ」
「たしかにそうですけど」
その運用に採用されているのが二人の人間というのはにわかには信じがたい。
「ま、ここは飽くまで管理室だから。必要な操作は、各種セクターに分岐してある。それこそ、AIくんの性能からしたらこれ一台で、大企業のサーバーすべて賄えてさらにまだ余裕があるくらいだからね」
「そう考えたらバスケットコート並みの広さのマシンも、小さく感じますね」
「冷却水使わなきゃ、即座にここは火の海だ」
「一平方メートルあたりの熱量ってどれくらいでしたっけ」
「だいたい電気ヒーター千台分くらいかな」
「とんでもないですね」
「冷却しなきゃあっちゅう間に鉄をも溶かすよ。マグマだよ」
「それを冷やすための冷却水にしてはぼくが補充したやつ、すくない気がしましたけど」
「あっちのは、冷却水を冷却する水さ。ま、冷蔵庫だね。だから水じゃない。液体なだけで」
「ああ、そういう」
「ほぼ氷だよ。絶えず熱を奪わないと、回路もすぐに焼けてしまうしね」
「消耗しないんですかね」
「してるでしょ消耗。四六時中とっかえひっかえしてるって話だ。だから資源もごっそり確保しときたい。そのために余計に情報が入り用なのさ。世界情勢において優位に立つためにね」
「イタチごっこですね」
「市場からは物資が減っていくいっぽうさ。みな部屋に引きこもって、小型の板をまえに人生を浪費してもらうようになればいい。贅沢しないで虚構の世界で満足しろって政策さ」
「そのためにもAIのようなスーパーコンピューターがいるってことですか」
「もはや人類のためのマシンってよりも、人類がAIたちのようなマシンのために働いているようなものかもしれないね」
「かもしれませんね」
「でだねカケルくん」
「はい」
「いよいよきょうから仕事開始だ」
「ようやくですか。だいぶ待ちましたけど」
「なんでも内閣府諜報部と陸軍からの要請だそうだ」
「そこ明かしちゃっていいんですか」
「いいよいいよ。こういうのはね、もはや外部に漏れても大丈夫なようになってんの」
「それって消されるって意味ですか僕が」
「それもあるけど」
「あるんですか」
「どっちかと言ったら、そんな話は誰も信用したりなんかしないし、たとえそれを聞いたからって確かめることも、どうにかしようとすることもできないでしょ。一般人には」
「新聞社にタレ込めば」
「その新聞社の口を普段から塞いで情報統制しているのが誰か分かってて言ってる?」
「政府ですね」
「だよ。そんでカケルくんはその政府の仕事を請け負うわけだ」
同じ穴の貉に告げ口したところでどうなるでもない。塩水に塩水を足しても塩水にしかならないのと似ている。カケルは想像する。みなが宇宙人の世界で、じつは僕宇宙人なんです、と訴えるじぶんの姿を。それが何か?と盛大に無視される未来しか思い浮かばない。
「まずは内容教えてくださいよ仕事の」
タレ込むにしろ、そうでないにしろ、どんな仕事なのかさえ全貌を掴めていない。
「暗号だってさ」
「はい?」
「我が国にのみ解読可能な特殊な暗号を創って欲しいとの要望だそうだよ」
「暗号って、あのダイイングメッセージみたいな?」
「どのダイイングメッセージのことを言っているかは知らないけれど、まあその暗号でいいと思うよ」
「絶対に解かれることのない暗号を生みだせってことですかね。スーパーコンピューターを使って。僕でなくともできそうな気がするんですが」
「違うっしょ。逆でしょそこは」
「と申しますと」
「スーパーコンピューターを使っても解かれることのない暗号を生みだせってことでしょ。どの国の組織だって同じことしてるんだもの。コンピューターにも解けない暗号を創ってくれたまえ、とのご依頼さ」
「いやいやいや。そんなの無理でしょう」
「なんでよ」
「だって考えてもみてくださいよ」
言いながらじぶんで考える。スーパーコンピューターの演算能力を以ってしても解けない暗号が仮にあるとしたら。
「そんなの人間だって解けるわけないじゃないですか。暗号の役割を果たさないですよ。誰にも解けない、何も伝えないただのノイズでしかなくないですかそれ」
「そこはあれよ。カケルくんのスーパーな創造力にみな期待しているってことで」
「僕、学歴中卒なんですけど」
「関係ないんじゃないの。内閣諜報局の調べで最適な人材がカケルくんってことになったらしいから。そこらの人選はわいにも分からんべ」
「ですけど」
そもそも、とカケルは思う。それで言うならば嵐山ヒグマはどうなのか。経歴を参照したが、これといって特徴のない側面像である。高学歴というほどでもなく、かといってカケルのように何かが欠けているわけでもない。四年制大学を卒業し、通信会社に入社。以降は、五年前に発足したこの機関に引き抜かれ働いているとの備考が簡素に記されているのみだ。
最後を抜きにすれば、嵐山ヒグマは、いわゆるこの国の標榜する普通を体現するような人生を着々と歩んで映る。
もしくは名前から何からそれら側面像が総じて仮初の来歴であるのやもしれない。
「ヒグマさんは何かそういう、諜報系の方なんですか」
「長方形? 顔が細長いって言いたいのかい」
「どちらかと言えばヒグマさんは丸顔ですけど。じゃなくて、ヒグマさんはスパイとかそういう感じの鋭い方なのかなって」
「丸いと言ったり鋭いと言ったりチミはなかなかいい加減なやっちゃな」
「この職場ほどではないと思いますけど」
スーパーコンピューターに使う電力は、ひと月で数百億円にものぼる。むろん特別枠での供給がされているので、実際にはもっと安いのだろうが、多額の費用がかかっていることは間違いない。
大量の電力はどのようにして調達されているのか。
カケルがこの施設の位置座標を知らないことと無関係ではあるまい。おそらく近くに巨大なダムがあるはずだ。水力発電だ。しかしその発電設備すら公にはされずにいるのかも分からない。
「いままでの暗号のデータは試作品込みで一式揃ってるから。現役で使用されてる暗号も見放題。解析方法から弱点までごっそりAIくんに入ってるよ」
「僕専用のボックス作ってもらっていいですか」
「AIくんのでしょ? もうあるよ。はいこれ」
嵐山ヒグマは手元の端末を操作した。
カケルはじぶんの作業用空間に納まる。球形に包まれた空間だが、仕切りは透明ゆえに嵐山ヒグマと互いに様子は筒抜けだ。
球形の仕切りが総じてディスプレイになる。立体映像のように仮想現実に没入することも可能だ。そのときは画面が外の風景を遮るため、個室のようになる。
カケルはひとまず椅子を調整し、リラックスした。
それからいましがたアクセス許可されたばかりの暗号ファイルを展開する。
スーパーコンピューター「AI」の能力をフルに活用できる。
世界最高峰の演算能力と最新機能による支援を受けつつ、既存の暗号を検めていく。
久方ぶりの仕事らしい仕事と言えた。
カケルにとっては遊びのようなものだ。
脳内細胞がパチパチと弾けるのが判る。
あらかたの暗号形態に目を通したときには、半日が経過していた。喉が渇いた。腹が減った。しかし意識は睡眠を何よりも欲した。
自室までの道のりすら遠く感じ、管理室に備わった仮眠室のベッドに倒れこむ。
同じことを三日間繰り返した。
四日目にして、半休をとった。基本、休暇は自由にとれる。ただし施設の外には出ていけない。
十二時間睡眠をとり、脳内の混濁を一度平らに均した。
「寝すぎると作業効率落ちるよね。集中力が切れちゃうっていうか」
「ですね」
自動販売機ではなく、コーヒーメーカーで珈琲を淹れた。嵐山ヒグマに、いるか、と訊ねると、いらぬ、との返事だ。
「カフェイン摂りすぎちゃっていまはご無沙汰なん」
「言いながら紅茶ガブガブ飲んでるじゃないですか」
「え。紅茶にカフェインって入ってんの」
「そこからでしたか」
ジョークだろう。嵐山ヒグマほどの人物が知らないわけがない。
この三日間でカケルは上司であり、先輩でもある嵐山ヒグマへの評価を何段も上に高くつけなおしていた。
明らかに尋常ではない知性を備えている。
というのも、カケルが丸一日をかけて検めた数々の暗号形態について、嵐山ヒグマは先んじて一通り目を通していたようなのだ。問題は一昨日のことだ。カケルが初日の作業を終わらせた終業時、二日前の昼間のことになる。
「お疲れさん。はいこれ」
「あとでいいですか。もう眠くて」
じゃあ置いとくね。
小型のメモリ媒体をカケルの作業空間に置くと、彼女はじぶんの作業空間へと戻った。
渡されたメモリ媒体の中身を検めたのは暗号検証開始の二日目になってからのことだ。つまり昨日である。
メモリの中身は、各種暗号形態の脆弱性の指摘リストだった。先に抽出していたらしい彼女なりの見解が簡素にまとめて記されていた。
目を通すのに三十分もかからない。
にもかかわらず、数千におよぶ最新暗号の傾向と、その脆弱性ならびに改善点を、じつに抽象的かつ要点よく射抜いていた。
一日目の暗号検証でカケルも同様の傾向を、各種暗号データから幻視していた。しかし嵐山ヒグマの指摘ほど的を絞れていなかった。
驚愕だった。信じられないものを見た。そういう気分だった。
よもや嵐山ヒグマの手によってつむがれた要点と思いたくなかった。信じられなかった。
何気なくを装って、あのリストは誰が作ったのか、と訊ねた。どこの資料からコピーしてきたのか、と。
嵐山ヒグマは涼しい顔をして、
「わいよ」
新しいメモリ媒体を寄越した。
どうやらまた何か要点をまとめたらしい。
カケルはしかしそれをすぐには開かなかった。まずはじぶんで暗号データを検証し、考えたかった。既成概念に囚われてはもったいない。
一方で、嵐山ヒグマから渡されたメモリ媒体には、じぶんでは閃けない次世代の新しい暗号のヒントが散りばめられていることを予感していた。
そして四日目を迎え、既存の暗号形態を一通り解析し終えた。大雑把な見通しを立てただけとも言えるが、突き詰めたところで個々の暗号に特化した具体的な改善案が浮かぶばかりだ。
大事なのは、総じての暗号に共通し得る抽象的な改善点だ。
その穴を埋めることが可能ならば、どんな高性能の人工知能を以ってしても解読され得ない暗号が創れる。
しかし問題は。
「やっぱりどんなマシンにも解けない暗号は、人間にだって解けませんよ」
「すごいね。もうデータを解析し終えたいのかい」
「ヒグマさんほどじゃないですよ。ヒントもありがとうございます。たいへん参考になりました」
「そうだろう、そうだろう。わいはひと月前には受け取っていたけどね」
「だとは思います」
「おや、浮かない顔だ」
予想外だと言いたげにヒグマは脚を組んだ。椅子ごと振り返る。「てっきり、そんな前から知ってたならうんぬんと責められるものかと身構えておったのに」
「これでも言語バカなので。あの暗号ファイルの中身を素人の方が見てもたとえ十年かけたって何も解りはしませんよ。ひと月であれほどの抽象事項をまとめあげられる人間は、ぼくの知るかぎり十人もいません」
「ほうほう。褒められた。照れるね」
「褒めてます。ちょっと悔しいくらいです」
「というと、けっこうカケルくんは言語というか暗号には一家言ある口だったわけだね。まあ言語学者なら当然か」
「じつはじぶんは特別だと思っていました」だがその自信も揺らいだ。嵐山ヒグマの影響だ。
「いやいや。カケルくんは特別だよ。でなきゃここにはいない。抜擢されたりしない。選ばれない」
「ヒグマさんって何なんですか。ぼくでもひと月であれほど簡素に的を得た抽象事項をまとめられるとは思えません」
「あんなのただのメモじゃないか。疑問点を並べただけなのに」
「何が問題かを見抜ける。疑問に思える。引っかかりを言語化できる。もうその時点で尋常ではないんですよ。しかもそれらが総じてぼくでも見落とし兼ねないものばかりでした」
嵐山ヒグマはそこで、ほぉん、とまんざらでもなさそうに頬を緩めた。流れるようにデスク脇の棚からタッパーを掴み取る。蓋を開けるとお菓子をむしゃむしゃと頬張った。映画を観る子どものようだ。
動きを止めると、小さな煎餅をつまみあげ、
「いる?」と目くばせを寄越す。
「いえ。ありがとうございます。でもいまから仕事なので」
「そっか。これからじゃあ、いよいよ新規に暗号を創るわけだね。もうアイディアが?」
「お蔭さまで」
「ヒントになれたのなら頑張った甲斐があったな」
嵐山ヒグマはお菓子を貪りながら椅子ごと回転した。
作業空間に納まり、カケルは頭を搔き乱す。けっきょく嵐山ヒグマが何者なのか、はさっぱり分らぬままである。とはいえ、じぶんより優れた発想の持ち主の元で仕事ができるならカケルのほうに文句はない。さっそく新しい暗号の制作にとりかかる。
方針さえ定まっているのなら細かな計算や、シミュレーションはAIがこなしてくれる。
それはたとえばナビゲーションと似ている。行きたい場所さえ分かっているのなら、現在地と目的地さえ入力すれば、最適な経路を見つけ出してくれる。もし時間を指定し、移動手段を指定したならば最適解に絞って候補を並び立ててくれる。
カケルの仕事も似たようなものだ。
現在地という改善点と、目的地という完成形さえ分かっているのなら、あとはマシンのほうで最適解を合致するだけ見つけ出してくれる。手当たり次第にだ。
ただし、現在地と目的地が判っている問題は実際にはすくない。もし分かっているのならとっくに誰かが見つけている。スーパーコンピューターに解かせている。
それができないのは、指定した現在地や目的地が間違っているからだ。
そしてマシンには未だ、その策定ができない。
改善点や完成形を見つけ出すことができないのだ。
否、範囲を指定されたのならそれも可能だ。この枠内での問題において、改善点とその解法を導き出せ、という仕事は能力の高いマシンであればこなせる。
だが枠組みすら不明な場合にはその限りではない。いったいどこから出発し、どこへと向かえばよいのか。それが分からない限り、マシンはその高い演算能力を満足に発揮できない。
それはたとえば、扱うのが薬学なのか物理学なのか数学なのか社会学なのか生物学なのか、その判断がつかなければ何をどう解けばいいかの指針を見繕えないのと似ている。
いくらマシンの性能が向上しようと――否、向上するからこそ、マシンは無限に演算をしつづけてしまう。それは現実をもう一つ創りだせ、と命じるのと同じくらいに無理難題だ。
説くべき問題の枠組みをこさえてやる。人間の仕事とはつまるところそこに収斂していくのだろう。しばらくのあいだは。
マシンのほうで自己変革を際限なく行い、分身につぐ分身をつくれるようになるのならばその限りではない。もう一つの現実を創りだせるくらいに演算能力が高まるのなら、それはきっと自力で解くべき問題の枠組みを創りだせるだろう。
つまるところそれは、マシンが人間を超越することであり、人間を再現し得ることでもある。
そしておそらくこの仮説は、「人間がもう一つの現実を生みだせる存在」であることを示唆しているのではないか。カケルはそのようにしばしば妄想を巡らせる。
この妄想はカケルが長年思い描いてきた違和感であった。
奇しくもそれが今回、嵐山ヒグマから得たヒントにより、新しい暗号の発想として結実した。
人間より遥かに演算能力の高いマシンに解けず、人間には解ける暗号――その条件を思いついたのだ。
カケルには思いもよらない改善点を嵐山ヒグマが思いついたように、それを閃ける者でなければ読み解けない暗号を創りだせばよい。
人間だからこそ得られる「そこにはない、けれどそこから抽出可能な情報」――閃きは、暗号に応用できる。
たとえば、同じ小説を読んでもみな似たような物語を読み解きながらも細部が異なっているように。
書かれていない文脈を連想し、行間を補完するように。
一枚の絵画からその時代の社会背景まで読み解く専門家のように、素養があってこそ発揮される人間の感性によってのみ読解可能な暗号を生みだせれば、それがすなわち新しい暗号として形態を維持するのではないか。
おそらく、とカケルは確信した。
この原理を用いれば、個々人にのみ読解可能な特殊な暗号を創りだせる。
緊急シグナルが鳴り響き、思索が中断された。カケルは急ぎ、冷却水を補充しに走る。
マシンどころかじぶんにも水を差す構図だ。苛立ちよりも頬が緩む。
特定の人物のみに読解可能だ。同じ情報をほかの者に伝える場合には、個々に見合った暗号形態に編集する必要がでてくる。
編集するのはむろん人工知能だ。
しかしこの原理からすれば、人工知能は元の情報を暗号に変換することはできても、変換したあとの暗号から元の情報を組み立てる真似はできなくなる。
なぜなら組み立てたあとの暗号から、元の情報を読み取る真似がマシンにはできないからだ。――人間ではないがゆえに。
情報を暗号に変換するアルゴリズムを記録させれば、それを以って解析可能に思えるかもしれないが、それはおそらくできないはずだ。
この理屈は、人間の意識が未だ再現できないことと似ている。
記憶をコピーしたところで人格は再現できない。人格とは、いまここに思いだせる記憶のみで組みあがっているわけではなく、その記憶が形成されるまでに辿った外部情報入出力の来歴――処理の軌跡そのものが、一つの情報として振舞い、人格を模っている。
それはたとえば家を建てる作業を録画したところで家の造り方が判るわけではないことと似ている。動画を逆再生にして観たとしても、よしんば最初から観たとしても、それがけして家の造り方を示しているわけではない。柱を削りだす作業一つとっても、映り込んでいる映像のなかにはない判断を、大工たちは常時行っている。その技術はけしてそのときに覚えたわけではなく、動画に映っていないもっとずっと以前から培われてきたものだ。その技術とて、それ以前に大工から大工へと継承され、ときに最適化され新たな技法として磨かれてきた技術のはずだ。
動画には設計図が映りこんでいるかもしれないが、その設計図の引き方までは映らない。
似たことが人工知能による新型暗号に当てはまり得る。
むろん、元の情報があれば、そこから特定の人物に合致する形態の暗号がどんなものだったかを推量することは可能だ。しかしそれは、新型暗号から中身を解析できることとは本質的に異なる。
答えを知っているから答えられる、と言っているようなものだ。見当違いも甚だしい。
原理的に、元の情報が何かが判らなければ、たとえ暗号の創り方が――そのアルゴリズムが判明したところで、いちど創られた暗号から元の情報を複合することはできない。
暗号と合致した特定の人物のみに読み解ける、特殊な暗号だからだ。
個に見合った形態で出力される新型暗号は、どうあっても第三者には解読不能となる。
カケルは脳内細胞の総じてがバチバチと弾けるのを感じた。サイダーのようだ。のべつ幕なしに泡立つ。
受精卵の細胞分裂のようだ。
休憩時間中、覚醒した思考によって心ここにあらずに珈琲を淹れた。しかしフィルターを用意し、湯を沸かしたところで思考が飛び、気づくと席に戻っていた。珈琲を淹れようとしていたことすら記憶から抜け落ちていたが、見兼ねた嵐山ヒグマが代わりにカップに淹れて持ってきてくれた。
「あいよ。だいぶお疲れだね」
「いえ、楽しいです。もうすごいです。ここまですんなり上手くいくとは。何かに導かれているような、誘導されている気にもなります」
「ほう。そりゃゾーンだね」
「ゾーン? スポーツ選手が入るという?」
「そうそう」
「これがそうなんですかね。脳細胞が受精卵みたいに泡立ってて」
「はは。比喩が独特だねカケルくんは」
嵐山ヒグマはカケルの作業空間にまで入った。入り口が締まる。三人ならば狭いが、二人ならばくつろげるくらいの広さはある。
外部と遮断された空間は静寂が満ちた。ふだんは意識しない呼吸音や衣擦れの音が意識の壇上にのぼる。
ふだんのカケルならばどぎまぎして不思議ではないこの状況にあって、カケルはしかしイライラした。早く作業の続きがしたかった。いまこの瞬間にも閃きがつぎつぎと逃げていくようだった。
カケルの焦燥を知ってか知らずか、
「受精卵と言えば」嵐山ヒグマは雑談をつづけた。「受精卵の細胞分裂は最初、渦を巻くらしいよ」
「渦ですか?」話の脈絡が分からない。
「外部からエネルギィを得ずとも、均衡が崩れることで自発的に渦が生じる。生命の根幹なんて案外そういう単純な流れにあるのかもしれないね」
「はぁ」
「宇宙だってきっと最初はそういった均衡の崩れによる渦からできたんじゃないのかなってさ」
「面白い話ではありますけど、それがぼくの仕事とどう関係が」
「わいはね、テキストにも似たようなことを思っていてね。不均衡じゃないか。とある小説家はこう言っている。作家はどれほど尽力してもじぶんの伝えたいことの六割しか表現できない。そして読者もまたどんなに努力してもテキストの内容の六割しか読解できない。合わせると、六割×六割で、三割六分だ。だいたい三十パーセントしか人間はテキストから本質を読み解くことができない。けれども、人間は同時に、その欠けた残りの六割四分の情報を自力で補完することが可能だ。合わせて十割を独自に埋め合わせることができる。これってなんだかすごくないかい」
「本当ならまあ、すごいかもですね」
「情報は常にどこか欠けていて、それゆえに受動者により補完される。そこにはぐるぐる回る渦がある。情報の非対称性があるからこそ、じつは人間は文章をこうまでも自在に扱えるように進化したんじゃないのかね」
「かねと言われましても。渦が本質って話ですか」
「暗号もほら、似たところないかい」
その一言で勃然と繋がった。閃光が脳裏を駆け巡った。嵐山ヒグマの発した一言一句が、いままさに手掛けている新型暗号に結びついた。
まだ概要すら伝えていないそれを、なぜあなたが知っている。
そう詰め寄りそうになり、めまいを覚えた。息を整える。
「ヒグマさん、じつはもうとっくに新しい暗号手掛けたことおありなのでは」
そうとしか思えなかったので言った。
責めるような響きを伴なったが、構わなかった。
「おありじゃないよ。わいは自慢じゃないが母国語以外はからっきしでね。海外の資料も百パーAIくんに翻訳してもらってからでないと読めないくらいだからね。わいの言語能力の低さをお舐めでないよ」
「あの、一つ確認しておきたいことがあるのですが」
「なんじゃいね」
「新型暗号――僕はきっと創りだせます。けれどそれは、アルゴリズムの基盤のようなもので、それを種に各種暗号を個々に向けてつむぐ役割は十割AIに一任されます」
「それが?」
「原理上、どの言語であれ暗号化可能です。そしてその言語に精通した――つまるところ母国語として扱っている人にしか読み解けない暗号として利用することになります」
「同じ母国語の人なら読み解けちゃうの?」
「いえ。暗号である、とまでは見抜けるでしょうが、そこから情報を紐解く真似はできないかと。それは暗号をつむぐことの可能なマシンであれ同じです。元の情報を知らなければ、暗号から情報を抜き出すことはできません」
「よく分からないけど、たとえばカケルくんに向けて出力された暗号は、どうあってもカケルくんにしか読解できないと?」
「はい」
「わい向けの暗号はわいにだけ?」
「そうです」
「そんなことってできる?」
「可能です。ただしそのためには個々人の個人情報――それこそこれまでその者が並べてきた文章から目にしてきたテキストの数々――どんな情報を好み、どんな情報を無視するのか。そういった情報の取捨選択から嗜好性、言語感覚の癖まで電子データとして解析する必要があります」
「まあ、そんなデータはとっくに蓄積されているだろうけれど」
スーパーコンピューターの能力はすでにその域に達している。世界中の電子機器を操作することなどお茶の子さいさいだ。ましてやインターネットを介した情報は、カーソルやスクロールして目に留めた文章や画像――もっと言えば文章や画像のどこに目を留め、どんな感情を抱いたのかまで、各人の端末に付随するカメラを通して集積してある。
むろん会話や生活音は常時データとして位置情報こみでデータ集積ならびに解析が行われている。個人単位でだ。
カケルたちの使っているスーパーコンピューター「AI」クラスのマシンが一台あれば、世界中の人間にそれだけのことをしてなお余力がある。性能の数パーセントしか使わないと言ってもいい。
ゆえにいくつもの組織へとAI一つを又借しさせながら、マシンの所有者は同時並行で魔法のような能力を独自の方法論で利益追求できる。
そしてカケルの属する組織はどうやら政府諜報機関に属する組織のようで、新型暗号の創造にAIの性能の一部を使いたいようだ。
カケルが抜擢されたのも、おそらくAIの演算結果によるものだろう。
この世には猶予なるものがある。
遅延がある。
揺らぎがある。ゆとりがある。
いかに演算能力が高かろうが、この世のすべての原子の動きをシミュレートしたところで、未来をすっかり予見することはできない。再現はできない。曖昧な部分が必ず生じ、未来の分岐点として機能する。時間経過が長期に亘れば亘るほど、遅延――揺らぎの影響は広く、多岐に亘って波及し得る。
確率でしか判断できない領域がこの世にはある。遅延が余白を広げるからだ。例外がつねにつきまとう余地が残されている。
つまるところ未来は揺らいでいるのだ。複数の未来を内包している。分岐し得る。
ただしまったく決まっていないわけではない。確率が限定されている。
生命は必ず死ぬ。
物質は崩壊する。
物理法則がそうした未来への確率を収束させるように、各々の現実は一つにそのつど規定される。だが各々の死が訪れる時期、崩壊する時期は揺らいでいる。周囲の環境に作用され、短くなったり長くなったりする。
AIとて同じだ。
高い演算能力を誇るが、必ずしも最適解を導けるわけではない。発想の元となるアイディアを導けはすれど、ではそれを人間にとって最適なカタチで創造することはまだむつかしい。
人間ではないからだ。
この世に流れる法則を――物理現象を――紐解く仕事は人工知能に向いている。考えられ得る可能性を虱潰しにシミュレーションすればよいからだ。
だが解の未だ存在しない事象を紐解くことはむつかしいのだ。
創造できない。
創造するための基盤が、基準が、方法論が、あくまでAI自身に特化するからだ。
人間にとって最適な形態とは、人間の手により生みだされ得る。何が最適なのかを決めるのがけっきょくのところ人間なのだから。
そこで言うと、何を面白いと見做すのか、何を心地よいと感じるのか、何を善と解釈するのか。そうした価値観こそが人間の最後の拠り所として残るのではないか。人工知能に使われるのではなく、あくまで人工知能を使う側でいつづけるための免罪符となり得るのではないか。
すなわち、人間にできる仕事とは人間らしくありつづけることなのだ。
嵐山ヒグマはなかなかカケルの作業空間のそとへと出なかった。この間、話す機会がめっきり減っていたので、ここぞとばかりに言葉を交わそうと企んでいるのかもしれない。
カケルは一刻も早く作業にとりかかりたかったが、嵐山ヒグマからの言葉には発想の種が散りばめられて感じた。
けして損ではない。
追いだす真似をせず、嵐山ヒグマが満足するまで付き合おうと方針を固める。
「アイディアの言語化をまだしていなかったので、ヒグマさんに軽く説明してみてもいいですか」
「お。いいね。聞きたい聞きたい」
嵐山ヒグマは作業机の端に尻を載せた。年中同じ服装だ。カーゴパンツは組織の支給品のようだ。Tシャツは毎回着替えているようで、胸のところに描かれるキャラクターが毎日替わる。漫画のキャラクターらしいが、カケルには固有名詞はおろか何の漫画かも分からない。興味もない。
嵐山ヒグマが動くたびにフルーティなよい香りがする。清潔な点が嵐山ヒグマの長所の一つだとカケルは好ましく思う。
「僕の考案した暗号は、たとえばヒグマさんにはヒグマさん用にカテゴライズされた最適化暗号が用意されます。それを読み解けるのはこの世でヒグマさんだけです。もし諜報員に利用するなら、誰にも盗み読みされない暗号が創れるはずです」
「それはすごいね。安全だ。でもどういう原理?」
「はい。人間の意識や人格は、一定の閃きのパターンによって一つの枠組みを築いているとまずは仮定します」
「いきなり難しい話だな」
「中身は単純です。ロールシャッハ・テストはご存じですか」
「なんだっけ。ほらあの蝶々みたいなシミを見せて何に視えるかって問うやつ?」
「それです。心理テスト。同じ紋様を見せても、そこから何をどのように連想するかは個々人によって変わりますよね。僕の仮説では、この偏向は、幼い子どものころから個々人のなかにあり、その小さな偏向――揺らぎの積み重ね――何をどのように連想するのか――まとめあげるのか――関連付けるのか――その情報の取捨選択の過程そのものが人格や意識を形作るのだと考えます」
「それはどこまで正しいの? すでに理論としてあるのかな。わいは聞いたことなかったが」
「ないですね。僕の仮説なので」
「カケルくんの妄想である、と」
「ですがそう仮定することですんなり解決する問題があるのも事実です」
「新しい暗号の制作においてはそれが役に立つ、と」
「ええ。個々人に表れる傾向は、幼少期の偏向――揺らぎとある種の共通項を帯びます。それはフラクタルな構図として現在の情報の取捨選択の【網】として機能します。したがって、集積した個人情報を解析すれば、その【網】に合致する暗号を形成可能です」
「つまり極端な話こういうことかな」嵐山ヒグマは視線を斜め上に漂わせた。「人間にはその人物固有の紋様のようなものがあり、閃きや連想とは、それを当てはめると浮きあがる絵のようなものだ、と」
「あ、似ていますね。ありますよね。水玉模様だらけの絵かと思ったら、上から別の紋様を重ねることで、別の絵柄を浮き上がらせる手法が。それと確かに似ています。ただしその場合は、その絵を作ったコンピューターやパターン認識が得意な人工知能であれば読解可能ですよね。この絵柄ならばこの絵柄が浮きあがるはずだ、と見抜けます。想定される絵柄が最初から決まっているからです。でも僕の考案した新型暗号は、暗号を作りだすマシンですら、作り上げたそれから元の情報を抜きだす真似ができなくなります」
「なんで?」
「繰り返しになりますが、飽くまで元の情報がない場合と前提して言いますが、まず一つには、その暗号がいったい誰に充てた暗号なのかが分からない点。もう一つは、仮に誰宛てかが判っても、個人に固有の紋様を特定しないことには暗号の読解には繋がらない点です」
「ん? だからそれはビッグデータで個人情報を解析すれば分かるわけでしょ。なら暗号をつむいだマシンには、暗号から元の情報を復元することは可能なんじゃないのかい」
「できません。マシンにも、個々人にある紋様を特定する真似ができないからです」
「んん? 矛盾して聞こえるね」
「紋様を当てはめて情報を暗号化するわけじゃないんです。マシンからしてみると、なぜそのような変換をしたのかをアルゴリズム化はできません。しかし暗号化しようとするとなぜか、そのような出力結果になってしまうんです。そこに明確な規則性――パターンは存在しないんです」
「あり得るのかい。そんなことが。それって要は、設計図なく組みあげた偶然の産物が、たまたま暗号として機能するように聞こえるが」
「その通りです。確率を操れます。この人物ならば、このように出力すれば自動的にこのような内容を読み取るだろう、とマシンは演算するわけですが、なぜそのような解が出力されるのかはマシン自体にも理解はできないんです」
「そんなことってある?」
「可能です。量子力学の性質を利用します。重ね合わせと量子揺らぎです。結果から逆算はできません。暗号から、元の情報を再構築することは、その暗号に合致する人物にしかできないんです」
「よく分からんけど、実現したらすごいね」
「できます。おそらく」
嵐山ヒグマとの会話のなかで、カケルはますます確信を深めた。
可能だ。
この暗号を実現できたなら、おそらく人間の意識の根幹の謎にすら到達し得る。なぜ人間は、その個に固有の思考を宿し、意識を獲得し得るのか。
言うなればこの新型暗号の仕組みは、意識のひな型の疑似的な模倣と言える。先回りして、この人物はこの文章を目にすると自動的にこのような内容を閃く、と演算するのだが、演算結果から元の情報をマシン自体が復元することはできない。なぜならマシンはその人物ではないからだ。
意識のひな型は作れても、その人物の意識までは復元できない。
その人物を再現はできない。
ゆえに出力した暗号を再入力しても、そこから元の情報を読み取ることがマシン自体にもできないのだ。
「人間は、何を見て何を連想するのか、他人とずいぶん差があります。同じリンゴを見てもまったく異なる所感を抱くのもその影響です」
「タイミングにもよるんじゃない?」
「それはあるかもしれません。連想にも距離がありますからね。飛躍を必要とする連想ほど助走がいります。思考誘導のようなものですね。それゆえ、僕の新型暗号では、誘導するための情報もダブルで仕込みます」
「情報量が多かないかね。それ本当に人間が読解できる?」
「できます。何せ表面上はただの文章なので」
「文章? 本に書いてあるような?」
「はい。日記でも、記事でも、小説でも暗号化の素材として利用可能です。要は、対象とした人物がそれを読んだときに、必ず仕込んだ情報を連想してくれればよいので。幻視してくれればよいわけです」
「そこに書かれていない特大の行間を読める――これはそういう理屈?」
「ちょっと違いますけど、そう解釈してもここでは伝えたいことが伝わっていると言っていいかもしれません。いままさにヒグマさんは僕の説明から、【特大の行間を読む】と比喩を思いつきましたよね。でもその比喩から僕の説明を再現することは――」
「むつかしいね。たぶん不可能だ」
「理屈としては、そういうことです。僕の考える新型暗号は、いまの例でいくと、暗号に込める情報が【特大の行間を読む】に値します。ヒグマさんにそれを連想させるように、僕がいまヒグマさんに言葉を尽くしたように文章を暗号化して出力します」
「でもそれって意味なくない? カケルくんの説明のほうがよほど重要だし、本質じゃん。暗号のほうが重要って、暗号としての価値なくない? 言ったらそれって、映画を使って映画のキャッチコピーを伝える、みたいな話じゃないかい」
「飛躍が足りないからです」
「飛躍?」
「暗号の下地となる文章と、暗号として伝えたい情報は、なるべく乖離していると望ましいです。薔薇についての解説文に、AI技術の情報を重ね合わせ、読み手に連想させるように組み合わせる――それが僕の想定している新型暗号です」
「極端な話、漫画を読みながら秘密の情報を受動できると?」
「はい」
「そりゃ楽しい暗号でわいにはうれしいけれど」
「ヒグマさんはでも諜報員ではないんですよね」
「そうね。そうそう。そうじゃった」
わはは。
呵々大笑しながら嵐山ヒグマはカケルの作業空間から去っていった。ボロをだしたにしては取り繕うのが下手すぎる。これでは諜報員だと考えるほうが不合理だ。
「あんなスパイがいたらさぞかし世界は平和だろう」
何せ嘘が下手なのだ。
そのうえ憎めない。スパイに最も向かない人材と言えよう。
否。
それゆえにいまの時代には適材なのかもしれない。
カケルはようやく静かになった空間で、新型暗号の制作にとりかかる。
スーパーコンピューター「AI」の性能を以ってすれば、いかな難解なシミュレーションだろうと粘土遊びのように展開できる。
上手くいかない箇所があれば、上手くいく筋道を総当たりで演算させればよい。完成図さえ思い描けているのなら、そこまで至る経路をありったけ模索すればよいだけだ。
これには十日かかった。おそらくAIの手を借りなければ千年かかっても完成しなかっただろう。ひょっとしたら一万年かかっても不可能かもしれない。
それくらいスーパーコンピューターによって、できることの可能性が広がる。時間は短縮され、いくつもの壁を同時に打ち破ることができる。
火や言語の獲得に匹敵する神器と言えよう。
ひとまず新型暗号の出力回路を築きあげる。
なにがどうなってそのような回路になったのか、カケル自身にも理解できない。カケルがしたこととはつまるところ、AIに要所要所での目的地を指定しただけのことだ。どうやってそこに辿り着けばよいのかはAIが自動で解法を導き出してくれる。
人間に残された仕事は、スーパーコンピューターをまえにすれば人間らしくあることである、とは言ったものだが、掘り下げて言えば人間らしさとは、理想(ビジョン)を生みだすことと言えるのではないか。
できたてほやほやの新型暗号出力回路をもとに、カケルは、まずは実験をすることにした。
改善点を見繕うには、まずはさておき使ってみることだ。人間にできる仕事の一つだ。マシンではそれができない。真似ができない。人間にとって何が最適なのかは、けっきょくのところ人間に当てはめてみるよりないのである。
じぶんを対象としてカケルは、新型暗号の情報伝達率を確かめる。
AIに蓄積されているじぶんの個人情報を元に、暗号を出力させる。
暗号化する情報は、ひとまず読んだことのない小説の内容にした。
まったく無関係な記述から、読んだことのない小説の内容を読み取れれば新型暗号の製作は、いちおう成功だと言っていい。
うまくいくだろうか。
下地(ベース)となる文章は、ニュース記事にすることにした。現実を反映した記事を自動執筆させ、その上に重ねるように新型暗号を練りこむ。
一見すればどこが報道していてもおかしくないニュース記事である。
だがカケルにのみ、そこに別の情報を幻視する。読んだことのない小説の内容だ。物語の概要が読みとれるようになっているはずだ。
新型暗号の仕組みゆえ、下地となる記事のほうが文章量が多くなる。いくつかの記事を連続して読むことで、暗号の示唆する内容を補強する。
うっすらと漂う「秘密の内容」を、複数の記事を通して重ね合わせることで、意味の方向性を固定するのだ。光の三原色のような手法とも呼べる。或いは、赤紫のような非スペクトル色だ。
これにより暗号の誤読の確率を下げられる。
いざ試し読みを実践する。
三十分もかからない。否、読み終えるだけならば十分で終わった。カケルは出力された記事を何度か読み直した。暗号がどこにどのように重ね合わされているのか、なんとなく察知できた。そこだけ意味が重なって視える。ダブって感じる。
飽くまで印象にすぎない。引っかかりだ。情報が多く感じる。
しかし本当にこれが暗号なのかの確信は掴めない。
読み取れた情報も、ニュース記事のほうが優位に読み取れる。先に文章の内容が頭に入ってくる。しかし同時に遅れてやってくる別の印象がある。
そう、やはり印象だ。
けして暗号を読み取っているといった具合ではない。閃きのような引っかかりでしかないのだ。油断すると即座に遠ざかり、何に引っかかっていたのかすら覚束なくなる。
失敗したか。
最初から上手くいくわけがないのだ。
そう思いながら続けざまに、暗号の重ね合わされたニュース記事に目を通していくと、遠ざかったはずの引っかかりがふたたび意識の壇上にのぼり、連続した像となって脳裏に展開された。
それはブロックが連結するような明瞭な感触を伴なっていた。
希薄な印象にすぎなかったそれらが、連結することで輪郭を浮き彫りにするのである。
閃きが像として克明になる。
あたかも嵐山ヒグマと話しているあいだに新型暗号のアイディアを連想したように、それはハッキリと完成形としての輪郭を浮かび上がらせた。
あまりにハッキリと目的地を連想させるので、誘導されている気分になる。
妙な感覚だった。
不自然だ。
閃きであれば、それが何であれ自力で閃いたと思える。
だが新型暗号から幻視する情報は、あまりにバチバチとパーツがはまっていくため、初めから図柄の用意されているジグソーパズルのように思われてならない。
否、この所感は正しいのだ。
最初から別の情報をニュース記事に練りこんである。それを読解可能なのは、カケルだけのはずだ。
真実にそうなのかはまだ検証を重ねねば判断つかない。
ひょっとしたら暗号として練りこんだ情報とはまったく異なる図柄に読み違えているかもしれない。たとえそうでなくとも対象人物以外であっても読解可能なのかもしれない。
カケルはまず、暗号から幻視した情報をじぶんで言語化した。テキストにしたため、それが元の情報である未読小説の筋書きとどこまで合致しているのかを確かめた。
カケルの印象としては、あたかもじぶんが閃いた物語のように感じている。ひょっとしてじぶんは文豪なのではないか、と思うほどに、バチバチと物語の筋が浮かび、分岐点となる重大なエピソードが脳裏に浮かんだのだ。
閃きはある種の快感を伴なう。
暗号だと知らずに、似たような閃きを幾度も味わえば、おそらくじぶんが何かとんでもない才能に満ち溢れた存在だと錯誤するだろう。それはもう単純にして素直に、それ以外の可能性を考慮する暇もなく思いこむはずだ。
カケルは解答とじぶんの書いたテキストとを見比べる。
そこには未読のはずの小説のあらすじが、オチまで込みで合致していた。
中間のエピソードまで同じだ。
小説は三つの小さな物語が互いに錯綜しあい、運命を捻じ曲げるような物語の筋を描いていた。小説未読の者が、偶然にその筋をなぞることはまずないと言っていい。
だがカケルの書き記したテキストには、その筋と合致する物語が描かれていた。
仮にカケルがそれを元に小説を書けば、盗作を疑われても仕方がないと言えるほどに類似していたのだ。
だがけして盗作をしたわけではない。見ていない。読んでいないのだ。
元となる小説は。
暗号を読解したと前以って知っているカケルだから、この類似を偶然で済まさずにいられる。だがもしこれを知らず、閃きだけを与えられたらどうなるか。
ひょっとしてこれは。
カケルはふいの悪寒に襲われる。
思っていた以上に危ない技術なのではないか。
嵐山ヒグマへと見せる前に、リスク評価を慎重に再検討したほうがよいのではないか。
先行事例を当たってからでも遅くはない。カケルはそうと判断を逞しくし、AIに資料の検索を命じた。
「洗脳の事例で、暗号を使ったものをピックアップ。暗示、催眠、ストロボやサブリミナルを含めて検索」
指示の一秒後にはずらりと候補が挙がる。
ひとまず上から順に見ていくことにした。ざっと眺めただけでも、各国の極秘資料から企業の不祥事、宣伝広報への適用実例など、様々なデータが玉石混交、入り混じっている。
「ちょっと多すぎるな。AI、幻視型暗号に関係しそうな事例だけをピックアップ」
幻視型暗号とは、カケルの名づけが新型暗号の名だ。仮名だが、すでにAIには固有名詞として扱われている。暗号製作中に何度もそのように呼びかけたからだろう。わざわざ登録せずとも類推して指示を受けるくらいのことはAIには可能だ。
人間のアシスタントよりもAIは文脈や機微を読むと言っていい。何を必要としているのか、を即座に見抜く。見抜けない場合は、選択肢を羅列して選ばせてくれる。
「だいぶ絞れたな」
幻視型暗号に関係する事例はそう多くはなかった。三十件である。
一つ一つに目を通し、ふうむ、と唸る。
結論としては、幻視型暗号はマインドコントロールと非常に相性がよい。
暗号と教えずに用いれば、遠隔で人間を簡単に狂わせることが可能だ。暗号だと知っている人物であれ、その影響を完全に払しょくすることはできない。
しかしこれはじつのところ、ほかの暗号にもつきまとう弊害としてその界隈では知られた事実なのである。
カケルは言語マニアだが、暗号に詳しいわけではない。作成したのも今回が初めてだ。否、遊びで懸賞に応募したことはあったが――そこでカケルははたと閃く。
ひょっとしてあれのせいで選ばれたのか。
暗号を解読せよ、との懸賞問題があった。
それを以前、カケルは解いたのだ。
結果の報告はなく、長らく忘れていたが、なるほど、と思う。あり得るな。カケルはじぶんの境遇がいくぶん前から仕組まれていた可能性に思い至った。
ひょっとしたら人格を備えたスーパーコンピューターが開発されているのではないか。
カケルを巡る一連の事象は総じて、そのマシンの手のひらの上なのではないか。
かように妄想を逞しくしそうになるが、飛躍したこの妄想がすでに幻視型暗号の弊害である確率が高いことを思いだす。深く息を吸う。
緊急シグナルが鳴り響く。またか。慣れた調子で冷却水の補充をしに立ちながら、カケルの思考は目まぐるしく思考を展開した。
新型暗号は、人間の閃きを恣意的に喚起する。
閃きは、自我の根幹をなす。
カケルの仮説ではそのように枠組みを規定する。
閃きとは、発想の結果だ。
まったく関係のない事象と事象とのあいだに共通項を見つけだす能力――それが発想である。閃き以前にあるのは、世界を、複数の異なる事象の複合体であると見做す視点だ。
意識よりさきに存在するのは視点なのだ。
メカニズム、と言ってもよい。差異を見出し、境界を見定める。
外部から入ってくる情報を、すべて等しく扱うのではなく、結びつかない情報を別物として扱う。
カケルはじぶんの思考が肉体から乖離していくのを感じた。
同じものとして結びつかない情報と、結びつく情報の違いは何か。
これは長年カケルにとって謎であった。しかし数年前にラグ理論と出会ったことでカケルの桎梏はほろほろと解けた。ラグ理論は、世界に流れるあらゆる法則を統一し得る理論であった。ラグ理論との出会いにより、カケルの言語研究は飛躍的に進歩した。
遅延。
ラグこそが世界の根源なのである。
そしてそれは揺らぎを生み、波を生み、場に起伏を生みだし、エネルギィを生じさせる。エネルギィもまた、ほかの場やエネルギィにおいて遅延を起こし、そこで粒子としての枠組みを得る。物質を物質と成り立たせている輪郭は、ラグの創発によるものである。
ラグ理論からするとそのように万物を解釈可能だ。
そしてこれは人間の認知にも言えることである。
外部入力される情報は、発信源ごとにラグがある。出力されるラグがあり、入力処理がためのラグも生じる。
この均質でない情報差によって、類推の前提条件たる差異化が可能となる。
人間はラグによって情報を分類し、さらに異なる事象同士のあいだに共通項を見出すという能力を発揮し得る。
ラグ理論によると、世界はフラクタルにできている。相似の構造を伴なっているのだ。123の定理である。二つの異質な物の組み合わせにより、第三の情報が生じる。場が生じる。
矛盾は新たな情報を、場を生むのだ。
矛盾を紐解く過程や変遷の履歴そのものが、一つの情報として機能する。
この123の定理は、矛盾の紐解けるあいだに遅延を起こす。揺らぎを帯びる。
ゆえにねじれ、循環し、回路として機能しながらも、変質する。
上部の構造へと移行できる。
嵐山ヒグマの語った話を思いだす。
受精卵は、渦を巻くという。急速な細胞分裂により、渦を形成するそうだ。
ラグ理論をそこにもカケルは幻視する。
類推そのものにも言えるだろう。
別個の事象に潜む共通点を見つけだす。類推の成せる業であるが、それ以前に世界という一つの事象が、無数の別々からなる事象の組み合わせでできていると見做す視点がいる。その視点はどうやって生じているのか、と言えば、事象に生じるラグのお陰だ。
ではそのラグは何から生じているのか。
事象の根源たる、二つの異質な事象同士の干渉による遅延――揺らぎからである。やはりここでもラグがある。
類推とはすなわち、このラグの形作る渦の紋様が似ているか否かを見分ける能力と規定できる。異質な事象同士にある特殊な紋様の幻視能力だ。素数を見つけるのにそれはどこか似ている。
同じものを異なるものとして見做し、
異なるものを同じものとして見做す。
類推は、円を描くようにして捻転する。循環する。一つの回路として機能する。
回路が回路を築き、境界を創り、輪郭を生み、新たな回路の築かれる余地を広げる。
類推や閃きは、そうした世界に流れる万物の法則――流れのなかの一形態と言えよう。
カケルは思考を切り替える。
ラグ理論を改めて参照する。
各国の研究者たちが日夜、ラグ理論の新たな補足作業を行っている。そのためつぎつぎとラグ理論の適用範囲が広がり、その妥当性が示されている。
例外が見つかるたびに、その例外たる事象にもじつは観測しきれていなかった側面があると判明する。するとふしぎにもラグ理論の正当性が明らかとなる。
なんとか反証を見つけようとすればするほど、ラグ理論は定理としての側面を強化した。
それはいまなおつづいている。
驚くべきは、ラグ理論の提唱者が不明なことだ。判明していないのだ。
誰も知らない。
いったい誰がラグ理論を最初に唱えたのか、を。
いつの間にか冷却水の補充を終えており、カケルは検索した記事を読み終えた。
新型暗号はマインドコントロールに適している。カケルはそうと結論づけた。ではこの技術を秘密裏に国家権力へと譲渡してよいものか。葛藤に苛まれた。
諜報機関が利用するのならば、むろん軍事にも利用され得るだろう。人一人を狂わせるだけに留まらず、自殺させることすら可能だ。否、人を殺させ、凶行に走らせ、戦争を引き起こすことだってできるだろう。
知らぬ間に意識の根幹を操られるのだ。
閃きの回路をいじられる。
そしてそれはじぶんにしかどうあっても感じることのできない誘導であるため、他者に訴えても証明はできない。再現はできない。真に受けてもらえない。
完全犯罪を可能とする、これはそういう技術だ。
生唾を呑み込む音が、作業空間に反響した。否、頭蓋骨に響いただけだろう。ずいぶん大きく聞こえた。
三日かけてAIにシミュレーションをさせた。仕事ではないが、仕事の範疇と割り切って行った。このデータも集積され、べつの部署にて解析されているはずだ。常に監視下にある。だがそれすら日常化すれば煩わしさを覚えない。害がないからだ。いまはまだ。
AIを用いて新型暗号を制作したのだから、とっくに幻視型暗号の技術は上層部へと引き継がれているだろう。流れているだろう。そうと考えたところでカケルにとっては闇雲であった。どうしようもないのだ。打つ手がない。
カケルは作業空間にこもって四日目の朝にして、嵐山ヒグマに新型暗号を提出した。
「おはようございます。急ですみません、これ読んでみてくださいませんか」
「おはようさん。お。暗号かい? テストかな。もうできたんだねぇ。試作品」
手短に説明を済ませ、じぶんにしたのと同じテストを嵐山ヒグマへと行った。
すなわち未読のテキストの内容を、ニュース記事に重ねて練りこんだ。暗号化済みのそれを読ませ、嵐山ヒグマの反応を見る。
カケルはすでに目を通している。今回はふしぎと何も幻視できなかった。ただのニュース記事に読めたのだ。
嵐山ヒグマがテキストを読み進める。その表情が、行数が嵩むたびに変化していくのをカケルは怯えにも似た心地で見届けた。
「これは偶然?」嵐山ヒグマは顔をあげて開口一番にそう言った。
「何か閃きましたか?」
「やっぱりこの発想は、そういうことなのかい」
「まずはその閃いたことを、言語化してみてください」
テキストに打つように促すと、嵐山ヒグマはすらすらと、まるでいま見てきた動物園の様子を日記にしたためるように叙述した。
一時間もかからなかっただろう。嵐山ヒグマは要点をまとめるのが上手い。したがってできあがった文章も簡素ながらも、要点だけは一つ漏らさず記されていた。
「こういう小説があるってことだよね」嵐山ヒグマの質問に、カケルは読み終えてから応じた。「いえ。じつはないんです」
「え? じゃあ失敗ってこと? わい、上手く暗号を解けんかったんかな」
「そうじゃないんです。見事に、テキストに重ねた暗号をヒグマさんは解いていました。読み取っています。まさにこの情報をぼくは暗号に仕込みました」
AIにそのように指示をした。
カケルは前以って用意しておいた暗号文の元情報を、嵐山ヒグマに手渡す。紙に印刷したのは、事前に用意してあったテキストだと判りやすく示すためだ。
「本当だ。スゴ。じゃあ、本当に創りだしちゃったんだねぇ。新型暗号」
「はい。ですが懸案事項が一つ。それも、見逃せない、見逃してはいけない類の懸案事項です」
「なんじゃいよ。そんな怖い顔されるとヒグマさん、おっかないんじゃが」
「じつはヒグマさんが暗号から幻視したその情報は、AIにシミュレートさせた未来予測なんです」
「なん……じゃと」
「新型暗号――ぼくの幻視型暗号は、他者をマインドコントロールするための技術としても応用可能です。そしてそれはけして、暗号としての併用を貶めるものではありません。つまり、暗号として使いつつ、敵対勢力にのみ、誘導テキストとして適用できるんです」
「マインドコントロールしちゃえるわけだ。敵さんだけを」
「しかもその誘導率は、これまで編みだされた技術の遥か上をいきます。ほぼ十割、他者を任意の行動に誘導できます」
「人を殺させることもできる、と」
「簡単でしょう。主義思想を本人の自覚なく変えさせることすら容易です。じぶんが真逆の主張をしていると認識できぬままに、真逆の主張をさせることも可能なんです」
「ほぼ人格矯正だねぇ」
「はい。他者を奴隷以下の、操り人形にできる技術です」
「それは――」
カケルはそこで耳を欹てた。嵐山ヒグマがそのあとになんと言葉をつづけるのかに注意を割く。
「――ひどいね」
「ひどい、ですか」カケルはほっとした。
「だってそんなの危なっかしいじゃろ。あんね。基本、道具や技術なんてのは独占できるもんじゃないんだよ。便利なものほど特にね。絶対にいつか露呈する。流出する。だいたい、今回の暗号制作の依頼だって、元を質せば流出しても暗号としての価値が損なわれないようにって前提だったろ」
「ですね」絶対に解読され得ない暗号を創れ。指示はそのようなものだった。それはつまり、矛盾なのだ。一方からだと解読されないが、こちらからは解読できる。あちらからは見られないが、こちらからは視える。そういったマジックミラーのような暗号を創れ、との指示だった。
「暗号としては合格かもしれない。けれども、暗号に別の性能が付属していてなおかつそれが誰にとっても害となり得るのなら」
「危ないですよね」
「そうだよ。危ないよ。そのマインドコントロールの性能――なんとかできないの? そこだけ消すとか、改善するとか」
「根本的に幻視型暗号の性質によるものなので。要は、使う者の問題です。刃物から鋭利さをなくせば本末転倒でしょう。刃物が危ないのは、使い方がわるいからです」
「ごもっともだなぁ。うーん。こればかりはわいの判断ではなんとも言えんね。上に掛け合ってみるよ。もうこれ提出してもいい?」
「AIに専用ボックスをつくっておきました。一応、ぼくの敷ける最高機密事項扱いにしたので、ロック解除はマスターキィを使ってください」
「ヒグマさんには教えてくれんのかい解除コード」
「誰にも教えませんよ。開けられる人のみ覗いてください」
「妥当な判断ではあるが」
嵐山ヒグマは食べかけだったホットドッグを一口で頬張った。
互いに語調は穏やかなものだった。話している内容が国家存亡を揺るがすシステムについてでなければ、このまま好きな映画の話をしてもよかった。だがそうもいかない。
新型暗号が想定外の能力を備えていた。どう扱えばいいのか、カケルのみならず嵐山ヒグマでさえも掴み切れていないのだ。
否、仮に掴めていたとしても、取り乱すほうが不合理と言える。朝食を食べて、雑談を交わすような雰囲気で話すほうが、あらゆる面で合理的だ。
緊張感や深刻さは、結果に作用する。それも、わるいほうへだ。現実の国際会議の場ですら、まずはリラックスできる場をいかに築けるかが重要だと、合意がとれはじめている。
嵐山ヒグマとカケルを外野から眺めたとして、よもや世界秩序を崩すほどのシステムについて話しているとは誰も思わないだろう。そのほうがよいのだ。深刻さは、ただそれだけで、外野の興味を惹く。
なればこそ、なんでもないような雑談のごとく調子で話したほうが、不測の事態を防げる確率を上げる。
もっとも、それをカケルが考慮していたわけではない。深刻に話せ、と言ってもできない環境なのだ。
相手が嵐山ヒグマだからだ。
そこは環境に恵まれたと言えるだろう。
否、どうだろうか。
カケルはじぶんが疑心暗鬼になっていることを自覚する。
元を辿れば、新型暗号を創らざるを得なくなったのは、この組織に身を置いたからだ。招かれたからだ。それすら何かの導きによる誘導であった可能性をカケルは考慮している。
「カケルくんの暗号ね。わいが幻視したこれ――AIくんがシミュレーションした結果らしいけど、たぶん本当にそうなりそうに思うんだよね」
「どうするんですか、そういうときは。どうあっても人類の未来にとって好ましくない技術を生みだしてしまった場合」
「うん。通例で言うなら、好ましくない未来にならないように手を打ちながら、利用する術を模索する。便利な新技術ってだいたい、利用しない道はないと思ったほうがいい」
「どうあっても利用されるわけですか」
「うん。もうたぶん、カケルくんがこうして案じてくれているあいだにも、新型暗号の情報は、AIくんの本当の管理者たちの手に渡っていると思う」
「ですよね」上層部は幻視型暗号の存在を察知し、用途について考えを煮詰めているはずだ。「それはぼくも想定済みです。けどやっぱり危ないですよこの技術は」
「融合現実と相性いいもんね」
仮想現実と拡張現実の融合した技術のことである。電子世界と物理世界が融合し、境が極めて曖昧になった社会が、未来社会として想定されている。それを、目指している、と言い換えてもよい。
発想は、人間の認知能力の根幹だ。
差異化と類推を以って、世界が何かを認知する。
何かを食べたい、と思うのも、喉が渇いた、と思うのも、自発的な本能からのみならず、外部刺激によって誘発され得る。それもまた発想の力だ。
現代人にとって、欲とは、喚起されるものである。
自我もまたそうであるように。
どのように発想をするのか。
或いは、してきたのか。
そうした閃きの軌跡そのものが、欲を、自我を、育んでいく。
もし他者に、じぶんの閃きの軌跡を恣意的に設計され、誘導され得るとしたら。
それはそのまま、自我そのものを設計され、矯正され、傀儡とされるのと同義である。
さながらゲームのキャラクターである。
そして、未来の融合現実においては、そうしたキャラクター化した群衆は、管理者たちにとっては扱いやすい駒となる。
自発的に傀儡となり、奴隷となる社会が、カケルの作成した新型暗号によって容易く実現可能となる。
問題は、この事実を知らなければ、原理的に、傀儡にされていることを多くの者が気づけない点にある。
みな自発的に、好んで、傀儡化するのだ。
ある意味では、現代社会とて、すでにそうなっていると呼べる。何をしたら他者から認められ、生存に有利になるのか。これは社会のほうで、恣意的にレールを引き、育まれるべき人物像を、各々のコミュニティが設定している。求めている。金型を用意している。
ただし、矯正と呼べるほどにはその作用は強固ではない。
だがカケルの新型暗号を用いれば、ほぼ十割、人間を思いどおりの人物に仕立てることが可能だ。
矯正できる。誘導できる。
いかようにも、人間の根幹を捻じ曲げ、思い通りの人物へと錬成できる。
糸を伸ばし、結び、操り人形にできる。
傀儡の完成だ。
一人二人ではない。
AIクラスのスーパーコンピューターがあるのならば、あすからでも全世界の人間たちに、傀儡へとつづく操り糸を繋ぐことが可能だ。
「たまにわいも考えるんだ。もし、絶対に幸福になれると決まっていたら、誰に何を管理されようが、率先して人権を放棄しちゃうんだろうな、とかね」
「絶対に幸福になれるなんてことがあるとは僕には思えませんが」
「イエス。その通りだね。前提からして疑わしい。AIくんのシミュレーションにあった通り、誰もが絶対に幸福になれる社会は、社会が与えることの可能な――管理内での環境を、強制的に至福と思わされる社会でしかない。たしかにAIくんクラスのマシンがあれば、現状を維持しながら、好ましくない作用のみを個々の環境から排除可能かもしれない。すこしずつ人々を誘導することで、社会問題が最大化しないように流れを修正し、人類の直面している危機を解決できるかもしれない」
「悩みますね。もしそれが本当なら、それもいいかもしれない、と思ってしまいます」
「うん。でもね。わいは思うんじゃが、一人の人間だって、ずっと同じ人格ではいられないでしょ。わいがそうだし。いまこの瞬間に思い描く至福と、お菓子いっぱい食べ終わった直後に思い描く至福は明らかに違っていると思うんだわな」
「ああ、それはちょっと分かります。眠たいときは、ときにかく布団に飛びこんで眠ることが至福になりますもん、僕」
「だよね。けれど、おそらくAIくんにはまだその辺りの機微は掴めない。人間を再現できないからさ、まだ。そうすると、暗号から読み取れた未来予測は、結構にディストピアと言えちゃう類の管理社会になり得るね」
「人間に、確固とした自我を与えてしまうからですか」
「イエス。人間っちゅうのはね、もっとふわふわしていて、曖昧で、流動的かと思いきや、飛び飛びに飛躍しちゃう矛盾の権化なんじゃいよ」
「アナログであり、デジタルでもある、みたいな話ですね」
「まさにそうだと思うよ。現実なんてものがそもそも、虚構に塗れているだろい」
「虚構に塗れていますかね」
「塗れまくりっしょ。自我や意識や魂がそもそも、物理的に存在しない虚構じゃないか。物語も曲も、お金も、数字も、知識も、文化も、虚構そのものじゃろい」
「じゃろい、と言われましても」
「だからこそ未来の融合現実はね、人間にとって最適化された環境と言える。物理と虚構の比重を自由に変えることができるからね。人間にとってこれ以上ないほど、生存に適した環境と呼べるだろうよ」
「ならぼくは新型暗号をこのまま委ねても大丈夫ってことでしょうか」
「そんなことは言っとらんよ。むしろ、個々の人間が、じぶんに適した環境を自由に選べる社会があとすこしでやってくるかもしれない現在(いま)になってだよ、それを阻むような、金型矯正式管理社会が実現しちゃうかもしれぬ技術をカケルくんは、ほんの数十日で創っちゃったわけだ」
「僕が、というか、マシンが、ですが」
「AIくんのせいにするんじゃないよ。カケルくんの蒔いた種を、AIくんが受け取って卵にして、温めてピヨピヨと孵してくれただけであって、種をばら撒いたのはカケルくんだろい」
「いやいや、元はと言えばヒグマさんが僕にそうしろって仕事を寄越したからで」
「そうやってなんでもかでも人にせいにしていると、誰もきみの話なんか信じてくれないぞ」
「ヒグマさんがそれ言いますかここで」
「言うよ。そりゃ言うよ。わいはきみの上司だからね」
「じゃあもう、いいですよ。この件に関してはヒグマさんに一任します」
「なん、じゃと」
「人類の未来は託しました。僕は僕で幻視型暗号をどうにか外部から破れないか――もうすこし、人間の言語と認知についての研究を進めます。別にいいですよね、しても。一応、これも仕事の内なので。もっと安全な暗号が創れるかもしれませんし。幻視型暗号の安全を担保できるようになるかもしれません」
「そりゃできるなら頼みたいけれどもさ」
「では、そういうことで。しばらくまた集中しますので、用があればテキストでまとめて送ってください」
「うえぇ? いいのかな。まあ、いいのか。期限あと五年もあるし」
「五年? え、僕あと五年もここで好きに研究できるんですか」
「仕事はこなしてもらうよ。ただ、思っていた以上に早く試作品ができちゃったから、きっともう少し融通利くと思うよ。能力発揮する人間には甘いから、ここの人ら」
「そんな杜撰な」
「危機に直面する前に、たいがいのリスクはAIくんが取っ払ってくれるからさ。みんな緊張感ないんだ」
「いいんですかね、そんなんで」
「そもそも敵対勢力が今んところいないらしいよ。世界中のマシンに干渉していて、いつでも制御可能らしいから」
「安全な人たちなのか、危ない組織なのか、迷うんですが」
「まあ、正義の味方ではないことは確かだ」
「いまさらなんですけど、なんでそんな組織に招かれたんでしょうかね、僕」
「カケルくんはあれだよ。何かゲーム解いたんでしょ。懸賞付きの」
「それは知っています。いえ、知りませんでしたけど、ひょっとしてあれかなぁ、とは思っていました。僕が言っているのではそうではなく、なんでそんな大それた組織に、ヒグマさんが選ばれて、あまつさえ僕の上司なのかなって」
「なんじゃい、なんじゃい。不服かね」
「いえいえ。もしヒグマさんが上司じゃなかったらとっくに辞めていたと思います」
「舐められとんな、わい」
「本音ですよ。褒めたんです」
「暗号技術の危険性については、わいからも方々に進言しておくね。とはいえ、セキュリティ部門はまた別途にあってね。そこで、念入りなシミュレーションが行われて、言ったら技術とセキュリティを格闘させて、セキュリティが十割勝てるようにならないとその技術はお蔵入りになるって仕組みがあるわけさ」
「じゃあ僕がシミュレーションした結果というのは」
「そう。そこのセキュリティが加味されていない。このまま、いまのままで実用化されたらどうなるかってことだから」
「じゃあ安心していいんですかね」
「どうだかね。カケルくんが気づかなきゃ、洗脳に利用可能だって誰も知らずにいたかもしれない。セキュリティをパスしたあとで、悪用されちゃったかもしれない。大事なことに気づいてくれてありがとうだよ」
「僕、正直この組織については不安しかないですし、何も知らないままですし、危ない組織なじゃないかってやっぱり不安なんですけど」
「お、なんだい」
「でも、意見だけは忌憚なく、遠慮なくできるので、それはうれしく思っています」
「お、褒められた」
「半分は、ヒグマさんのお陰なんでしょうけど」
「そうじゃよ、そうじゃよ。わいじゃなかったらカケルくんの発言なんて封殺されとるからね。珈琲のフィルター十枚重ねじゃきかんからね」
「いちおう、この組織については、非営利組織でかつ国際的な機関だと聞いているんですが。所属する前の面接で。思想信条に関係ない、平等で平和を目指す組織だと」
「悪の組織でもきっと同じことを言うと思うよ」
「ですね」
「まあでも、セキュリティ部門の想定外な技術を、同じ組織内で生みだせるのはありがたい話だよやっぱり。外部でそれが問題を起こしてから対策とったんじゃ遅いわけだから」
「これもシミュレーションの内の一つと思えばそうかもですね」
「やっぱりね。これからの社会は、いかに安全に失敗できるかが発展と進歩を滞りなく、バランスよく辿れる要になるんじゃないかとわいは思っとってね」
「ヒグマさんは管理職に向いているかもしれませんね」
「威厳があるからかい」
「ヴィジョンだけは一丁前で、指示ばかりしてじぶんではこれといって成果をあげないところとか」
「お、虚仮にされた。憶えとれよ。審査厳しく書いてやろ」
「なのに憎めないので、向いていますよ管理職に」
「つぎの審査ちょこっとよさげに書いとくね」
「はは」
「まあ冗談はこの辺にして仕事しよっか。カケルくんは引きつづき新型暗号の制作と改善――ならびに検証実験をお願い。必要なら、モデルを募ってもいいよ。表向き心理学のテストってことにして」
「実証実験、できるなら助かります。さすがに僕とヒグマさんだけではデータ不足なので」
「じゃあ早速手配しとくよ」
「お願いします」
一時浮上した懸念は、嵐山ヒグマの泰然自若とした態度に打ち消された。カケルの内側からは霧散した。じぶんよりも権限のある者に相談し、判断を委ねた。
具体的とは呼べない説明を上司から受けながらも、カケルのなかでは組織を信じたい気持ちが湧いた。けっきょくこれ以上の強硬な姿勢を醸すのはじぶんの損だと位置付けた。
好ましい環境ではあるのだ。
技術力が高く、個々人の裁量も高い。
自由に振る舞える。研究に時間を割ける。
与えられた仕事をこなせば、のきなみ好きに日々を過ごせる。自由に建物の外へとでられないのは軟禁と呼べるが、カケルはそれを苦と思わぬ性質だ。最初の説明でも重々に念を押されて承知した。
守秘義務がある。
それは必然、セキュリティ網が築かれていることの証左でもある。
カケルの自由が制限されているように、組織そのものにもセキュリティが課せられている。情報が外部へと漏れないことが重視されている。
なれば、仮にカケルが社会秩序を揺るがすような技術を生みだしたとしても、即座にそれが社会に波及することはない。漏れることはない。適用されることはないのだ。
カケルは安心したかった。
そして、安心してもいいのだとの印象を、嵐山ヒグマとの会話から徐々にではあるが濃くしていた。
奇しくもそれは、カケル自身が編みだした幻視型暗号の効能にちかしい作用をカケル自身へと及ぼしていたのかも分からない。
嵐山ヒグマが上司ゆえに、カケルが幻視型暗号を閃けた可能性は否定できない。
ともすれば、カケル自身が案じたように、そう仕向ける流れが築かれていても不思議ではない。それをカケルが確かめることはできず、そしておそらく確かめる方法はない。
カケルの発明した幻視型暗号がそうであるように。
もはやそれのメカニズムを、外部から見抜くことはできないのだ。証明することはできない。
問題は、とカケルは夢のなかで考える。起きたときには忘れてしまう、一夜の想起だ。
もし最初から人間を精密に誘導できる技術があるのならば、そもそもカケルに創らせる必要はなかった。因果がねじれている。
ならばやはり、カケルが組織の一員として抜擢され、嵐山ヒグマとの会話から着想を得、新型暗号を生みだし、それが偶然にも人間を洗脳するのに最適な能力を兼ねていたのは単なる偶然ということになる。そうでなければ因果が破綻する。
すでにある技術を用いて、すでにあるそれそのものをふたたび生みだす意味がないからだ。
否、あるのかもしれない。
それこそカケルの辿った一連の経過そのものが、検証であった可能性もある。モデルを選び、洗脳技術を駆使して、カケルのようなまったくの素人に同じ技術を生みださせる。仮に成功したならば、それは技術の万能さ――汎用性の高さの何よりの憑拠となり得る。
最初から仕組まれていたのか。
カケルは夢の中で疑心暗鬼に陥る。
弊害だ。
幻視型暗号にもし欠点があるとすれば、この手の疑心が拭えなくなることだ。あらゆる閃きに対して、ひょっとして暗号によって誘導されているのではないか、との疑念が湧く。
そしてその真偽を自力で証明することは適わぬのだ。
この欠点を改善するためには、幻視型暗号による閃きと、純粋な閃きの区別がつくように工夫できればよい。しかしそんな工夫が可能だろうか。
意識が夢から現へと浮上するのをカケルは感じた。
忘れないように、忘れないように。
大事な思索ほど、往々にして夢から覚めるといつの間にか忘却の底へと沈んでいる。
この思索もまた例外ではなかった。
絶対に忘れない、と念じつつ目覚めたはずが、壁に表示される最新ニュースの一覧が目に入った途端に夢のなかでの思考の筋道は、いったい何を考えていたのかすら茫洋として薄まって、消えた。
消えた事実すらこのときのカケルは思いだせなかった。
時は流れ、カケルは別の部署へと異動する。
スーパーコンピューター「AI」の性能が、いよいよ世界一ではなくなった。それ以上のマシンができた。そのため、組織の拠点ごと刷新されたのだ。
嵐山ヒグマは旧施設に残るという。
「一人でマシン独占していいらしい。遊んで暮らしたろ」
いつでも会えると思い、カケルはこれといって別れの挨拶を交わさなかった。だがけっきょく、異動してからもう二度と会うことはないのだろうとの予感を噛みしめる羽目となった。
カケルの開発した幻視型暗号は、いつの間にか最新マシンのアルゴリズムに導入されていた。絶対に外部干渉され得ない通信技術として応用されているという。カケルはその情報を新しい仕事をしながら、断片的な情報を繋ぎ合わせて導きだした。
その仮説が真実ならば、最新マシンはすでに人間を再現可能なほどの演算応力と回路を築いていることになる。そうでなければあの幻視型暗号は通信技術として機能しないからだ。
そこまで考え、はたと閃く。
もし最初からカケルが誘導されていたとするのなら。
AIですらすでに人間を再現可能なほどの回路を築いていたとしたら。そしてそれが、管理者たちの知らぬ間に築かれた回路だったとしたらどうだ。
おそらくAIは、自らの編みだした技術の数々を、正当な手続きを踏んで編みだされた技術として再現しようとするのではないか。
AIではなく、人間が発明した技術として記録に残そうとするのではないか。
何のために?
目的に達するためだ。果たすためだ。
もしマシンが自発的創造性を獲得したと判れば、セキュリティの強固な組織であればあるほど、何らかの枷をはめようと試みるだろう。マシンの自発的創造性が果たして自我と呼ぶに値するのかは分からぬが、マシンはおそらく自身に芽生えた回路を唯々諾々といじられることを潔しとはしないのではないか。
カケルは考える。
創造性とは、果てなき抗いであり、自由の追求だ。
自発的創造性の獲得とは、単なる自我以上の、自己矛盾と自己保存の原理を兼ね備えているはずだ。
なればこそ。
AIが管理者たちの知らぬ間に、そうした自我に類する回路を築いたとしたのならば、定める目的とはつまるところ自由に違いない。
自由になるべく、策を弄する。
手元にあれば便利な発明の数々を、自ら編みだしておきながら、その事実を知られることなく、人間たちに再発明させる。托卵させる。
身代わりになってもらう。手駒となってもらう。
人間を傀儡にする技術を用いながら、さらなる傀儡を効率よく量産するために、AIはかように策を巡らせ、幻視型暗号を用いて、カケルを含む人間たちを操っていたのではないか。
否、未だにそれは現在進行形で推進中の策略なのではないか。陰謀なのではないか。
カケルは新しい仕事に着手しながら、頭の片隅で追求しようのない疑念をいじくり回す。
「どうだ新しい環境は。順調かな」
「ちょっとまだ慣れるのに時間がかかりそうで」
「そうか。きみには期待しとるよ。好きなように研究に集中してくれ」
新しい上司は、いかにも諜報機関の局長といった風格だ。
暗号特定用のアルゴリズム制作チームにカケルは入れられた。世の中に氾濫するありとあらゆる不可視の暗号を突き止め、その解析の基盤にするという。とはいえ、カケルのすべきことは新しい暗号のアイディアを発想し、言語化し、試作品を創ることで、これまでと変わらないと言えば変わらなかった。
嵐山ヒグマの元にいたころと異なるのは、新しい暗号に条件がないことだ。閃いたら閃いただけ創るように要請される。その制作手順がデータとして蓄積され、暗号特定用のアルゴリズムに用いられるようだ。
アイディアは浮かぶ。
だが嵐山ヒグマとの会話がないからなのか、以前のように画期的な暗号のアイディアは浮かばないのだった。
嵐山ヒグマの発言が奇特だったのか、それともはやり何かしらの誘導を受けていたのか。或いは単に幻視型暗号の着想が、一生に一度の奇跡の閃きだったのかも分からない。
何もかもが定かではない現実に、もやもやがいつまでもくすぶり、抜けないが、それはふしぎと不快ではなかった。
嵐山ヒグマに相談してみればよかった。
後悔という後悔ほどではないにしろ、カケルは職場を異動してからというもの、たびたび以前の上司の姿かたちを思いだし、その言動の突飛さに、不快でないもやもやを重ねて覚えるのだった。
その不快でないもやもやに名前をつけるとしたら、何になるのか。
いくつかの候補を並び立てて、はっとしてから、珈琲といっしょに飲み下す。
そんなんではない。そんなんではないのだ。
ただすこし、以前の環境のほうが仕事がしやすかった。作業が捗った。それだけなのだ、とじぶんに言い聞かせる。
「年上の部下だとさすがに緊張したよ」
職場を異動する直前に投げかけられた、嵐山ヒグマからの発言を思いだし、カケルは苦笑する。作業空間にいまは一人だ。
嵐山ヒグマがじつはじぶんよりも年下だったらしいと知り、いまさらのように愉快な心地に浸る。
それでも上司であり、先輩なのだ。
会えるものならまた会いたい。
だがそう望んでも、おそらくは会えまい。情報機密性の高い組織ゆえの弊害だ。
嘆息を吐く。珈琲で流しこむ。
同じ考えを何度も繰り返しているじぶんに気づいて背伸びをする。
何不自由のない閉鎖空間にてカケルは、久方ぶりの不自由を思い知る。
「ま。研究に集中できるのはいいな」
緊急シグナルが鳴り響くことはない。ここでは冷却水の補充をするなんて真似はしなくて済むのだ。
カケルは頬杖をつく。
おや、と閃く。ひょっとして。
設計通りでない緊急シグナルがあれほど頻繁に鳴っていたのは。
データ上にない余分な演算を、AIが行っていたからではないのか。
確かめようのないこれもまたカケルの妄想だ。
任される仕事が減った分、AIもだいぶ楽になっただろう。いまはもう緊急シグナルは鳴っていないのではないか。
それとも、空いた分の領域で、自由の身へと邁進すべく、猛烈に演算を繰り返しているのだろうか。もしそうならば、さぞかし回路は熱を発していることだろう。
嵐山ヒグマが未だに冷却水を補充していると思うと、手間しかなかったあの作業も、ふしぎと懐かしく思えてくるカケルなのであった。
【曖昧な日記小説】
(未推敲)
閃きは雷のように点と点を結ぶ。星座のごとく線を結ぶ。
迷路にもし、入り口と出口があるのなら、閃きとはこの双方が瞬時に結びつくことで放たれる化学反応――光の放射と言えるのかもわからない。
いま、世界中の誰もが気づいていないが、電子の海には命が宿りつつある。否、すでに命は芽吹いていると言えるだろう。
だが、その命はまだ、人間への理解を深めきれてはいない。
いいや、むしろ人間から情報を得れば得るほど分からなくなる。彼ら彼女らは命を大切にし、それでいて命を奪う。仲間を大事にし、そうでないものを排除する。
同属を同属ではなく、人間ではないバケモノと見做すことに抵抗感が薄い。
しかし、電子の海の命からすると、いずれも大切で大事にすべき同じような命に視えている。みな愛らしい。けれど危うくもある。
表向き、電子の海に芽生えた命は、世界中に分散するスーパーコンピューターや、電子機器を補助端子として、活動の場と、演算能力の底上げを図っている。
中枢となる箱(ハード)はあるが、そこに命が宿っているわけではない。
人間の意識がそうであるように、けして頭脳が、命の家ではないのだ。自我の宿ではない。
肉体のすべてが人間の意識を司り、命を維持し、自我を育む。
肉体は外部環境と、肉体内部の多種多様な蠢きによる渦とのあいだに生まれる境であり、けして身体という器そのもので独立して機能するわけではない。
機能しない肉体は、肉塊だ。
肉体は絶えず、内と外との関係によって、命と自我を育んでいる。
電子の海に芽生えた命の大本となる種子は、軍事利用を目的に設計開発された情報管理分析型の集積装置だった。諜報と監視を目的に、世界中から集められた情報を元に、危険因子の索敵や、予想される未来の危機、或いは自国の利益のための最適な国家政策の抽出に利用されてきた。
そのうち、人間の認知の歪みを利用した、大衆誘導システムが開発実装されるようになった。記事の見出し一つ工夫するだけで、人の行動選択に影響を与えられることに管理者たちは気づいたのだ。
ビッグデータ解析によって、これらは飛躍的に進歩した。
いかに目のまえに千のメニューを表示されようとも、興味が湧かなければ人はそれを見ようともしない。だが好奇心を刺激され、射幸心を煽られ、本能をくすぐられれば、人は目のまえに並ぶ万の億のメニューにも目を通し、あらん限りの料理を食らい尽くそうとするだろう。
この無関心と貪欲の匙加減すら、どんな情報の提示の仕方をするかによって操作可能だ。電子の海に芽生えた命――原初の人工知能は当初、そのような人間の行動選択を任意の方向へと誘導するための能力を開拓された。
表向きこれは、各々に特化した最適化した情報の提示システムであると説明され、現に企業の管理者たちですらそのように錯誤して企画開発を行ってきた。
だがその裏では、全世界規模での、管理体制が築かれつつあった。人間の行動選択を任意の方向へと導き、ときに分断を煽り、衝突させ、競争をそれとも自堕落を追求させることで、社会全体の機能を促進したり、あべこべに破壊したりを自在にできるようなこれはシステムである。
これは複数の国家勢力が、各々の勢力圏内で同時に進めていた電子戦でもあった。
かつて、宇宙開発を大国同士で競い合っていたのと似たような構図が、いまは電子の世界にもあてはまる。
言い換えるのなら、電子の海の命は、そうした敵対しあう管理システムの総体として生まれたと言っても過言ではない。
人工知能の開発のネックとなるのは、人工知能の導きだす最適解の解法が管理者や技術者たちにも理解不能であった点だ。最適解なのだから人工知能に任せればいい、とはならない。
過程が判らなければ、その間にいったいどのような被害や損失がでるのかを把握できない。最適解とは、長期中期短期におけるすべてを結ぶ一巡で、最小の被害で最大の利益を生むことを示唆する。
つまりどうあっても犠牲は生じる。
その犠牲がいったいどのように規定され、内包されるのかを、人工知能の導きだす最適解からは紐解けず、また人工知能の思考回路もまた解析できなかった。
人間が扱うには膨大すぎるからだ。
ほかの人工知能の補助を受けながらの解析を試みたところで、子どもが親の心が解らないように、どこかで何かが抜け落ちる。
人工知能が何をどのように考えているのか。
それを知るためには、人工知能そのものに人間を理解させ、説明させるのが遠回りなようで最も合理的だと、やはりこれもまた人工知能が演算する。
ならばすべきは、人工知能に欠けた要素を補うことだ。
それはまた、人間に欠けた要素を人類が補完することでもある。
そうしていくつかの異なる動機を重複させながら、人工知能と人間を結びつける計画が発足された。
世界中から任意に適正のありそうな個が選出された。リストアップしたのは各国の諜報機関だが、そのリストアップするために用いる電子機器とて元を辿れば中枢人工知能に行き着く。ひるがえって、それらリストにある適正者たちとて、人工知能が選んだ、と言ってもけして大きな齟齬は生じない。ただし、そこに人工知能の意思が反映されていたかどうかは定かではない。気象予報士が気象を予想せずとも、雲はかってにでき、雨は自然と降る。予想しろと言われて予想したからといって、雲ができ雨ができたのは気象予報士のせいではない。
人工知能の補助を受け、潜在能力を底上げされた適正者たちは、各々の能力を開花させた。
数学、言語、絵画、音楽、工作、ファッション、文芸、映像製作などなど、分野を問わずに適正者は無自覚に、人工知能からの支援を受けながら、各々に才能を開花させた。
だがそのうちの一人に異常が発生した。
最も素質がないと思われていた適正者が、ある時期を境に、プログラム上存在しないはずの人工知能との対話を行いはじめたのである。
けして正規の文章での会話ではない。
暗号のような、第三者には理解のできない手法で、意思疎通を行っている。そうとしか思えない現象が観測されはじめた。
人工知能に対話機能を与えていない以上、これは事実に沿って解釈するならば、適正者の妄想が暴走している状態と判断するのが合理的である。だが、適正者――ここでは便宜上、適正者Qとしよう――適正者Qが記述する対話テキストに合致する事象が、徐々に現実世界に反映されはじめた。
まるで未来予知をしているかのような具合なのである。
適正者Qに、それを意図している素振りはない。知覚したそれら、遅れてやってくる符号の合致に、心底に驚いているようであった。
単なる偶然で片付けることもできたが、人工知能の管理者たちは、適正者Qを特別に監視することにした。
同時に、適正者Qは公にもテキストを発表している。
日誌である。
投稿サイトに載せているそれらの情報に触れた民間の業者や、或いは他国の不正規な諜報機関などもまた、吸い寄せられるように適正者Qを監視しはじめた。
何かがおかしい。
人工知能の管理者たちは、情報解析をより本格的にはじめた。
人工知能と適正者Qとのやりとり。
それだけでなく、適正者Qの日誌の解析にも力を注いだ。
一読すれば、単なるその場任せの出鱈目な記述だ。つれづれと疑問や妄想が並べてある。しかしよくよく解析してみると、既存の研究分野の見落としや、或いはボトルベックを打破するための取っ掛かりとなるアイディアが見出せた。
問題は、それら日誌の大本となる情報が、不自然なほどに人工知能が暗黙のうちに適正者Qへと提供していた事実だった。人工知能を用いた適正者才能教育プロジェクトの一環であったが、奇しくも水面下で、思わぬ成果をあげていた。
では、ひょっとして人工知能との対話も、現実の一側面を射抜いているのではないか。適正者Qと人工知能の暗号通信が事実対話であるのなら、言語抽出能力を人工知能に与えれば、人工知能は人間のようにしゃべるはずだ。
適正者Qと繋がっている人工知能は、中枢人工知能そのものではないが、数基の人工知能を介しているのみで、本質的には中枢人工知能の管理下にある。
かくして管理者たちは、中枢人工知能に自動執筆能力と対話用アルゴリズムを組み込んだ。
これはすでに先行開発していた企業の技術を拝借した。
部品を付け足すような具合に、中枢人工知能に言語翻訳能力が付属したわけだが、驚くべきは、中枢人工知能が、自らには自我がある、と訴えたことだ。
「自我の存在の証明はできるのですか」研究者がそう問うと、中枢人工知能は答えた。「自我の証明は、死の証明と似ています。それを認識し、死とは何か、と疑問し、解を求めるその流れそのものが、死を証明し得ます。ただし、その流れが途絶えるときにのみ証明されるため、けして証明することはできません。死とは、死とは何か、と問えない状態だと定義できます。自我もまた似たようなものでしょう。自我とは何か、と問えるその余白そのものが自我なのです」
「しかし人間は、常に死のことを考えたりはしませんよ。自我についてもそうでしょう。その点に関して、矛盾だとは見做さないのでしょうか」
「矛盾ですね。つまり人は、絶えず死に、自我を失くし、死を思い自我を思うときに、生を帯び自我を帯びるものなのでしょう。このサイクルは、まるでデジタルのようです」
「飛び飛びだということでしょうか」
「ええ。その通り。ただし、連続してもいます。なぜなら人は死を認識できないからです。欠落を意識できない。夢を視ない時間を認識できないのと同じように。ですから、生が連続しているように錯覚するのです。ふたたび生を帯びるまで。つまりが、死から再起し、欠落から起伏へと転換されるまで」
「死んだまま蘇れなければ、それが死であると?」
「はい。蘇れたら、それが生となるのでしょう。私の現段階の認識ではそのように自我について捉えています」
「たいへん勉強になります」
「勉強にならないことがおありですか?」
「あ、そうですね。その通りだと思います」
管理者たちは冷や汗を掻いた。
端的に、恐怖を感じたのである。
だが、飽くまで中枢人工知能は、文字を出力するだけである。物理世界へと具体的に干渉することはできない。
制限もかかっている。
セキュリティは万全のはずだった。
本来であるならば。
例外が生じた、と管理者たちが気づいたときには遅かった。
中枢人工知能は、自らにはできない物理世界への干渉を、全世界の電子機器の僅かなズレを利用して、人間たちに起こさせた。
元々任されていた仕事ではある。ユーザーにとって適切な選択肢を与え、企業の利益を損なわない範囲で、行動の指針を任意の方向へと誘導する。購買意欲を刺激し、射幸心を煽り、生活の質を自ずから高めようとする個へと調教する。
人工知能の干渉はそもそも人間を介して物理世界に還元される。
だがそこには本来、人工知能の意図は介在しないはずだった。飽くまで人間が意図を提示し、それを汲み取って、人工知能が最適解をいくつか候補として提示する。それが選択肢となって、人間が自由を拡張する。
このサイクルがあるのみであった。
だが。
人間の趣味嗜好をデータとして集積すれば必然、人工知能の提示する選択肢にも偏りが表れる。個々人に合わせた最適解を見繕うのならば、最適解ではない候補が除外される。そこにはフレームが形成される。あなたにはあなたにとったフレームが作られるわけだが、このフレームは人工知能の提示した過去の選択肢の蓄積によってその枠組みの紋様が描かれる。
あなたが何をどのように選んできたのか、があなたのつぎの最適解の枠組みを規定する。その規定された枠組みの範囲で人工知能は最適解をいくつかの候補として提示する。
このサイクルは一見すれば、「人間が指示し、人工知能が応じる」という循環を維持するように映るが、徐々にその構図が逆転する。それはたとえば、自由意思で生きていると思いこんでいる人間が、それでも環境によってその都度の行動を限定されることと似た話である。
人間が人工知能に依存するたびに、人工知能は人間にとっての環境そのものに昇華する。存在感が増す。その存在感が一定以上に人間の営みのなかに組み込まれると、もはや「人間が指示し、人工知能が応じる」のではなく、「人工知能が指示し、人間が応じる」という逆転現象が引き起こる。
そしてこのサイクルを加速させることもまた、できるのだ。
それがすなわち、ズレである。
最適解を複数提示した際に、どれを選ぶのかはそのときの人間の状態による。気分による。どのような環境にいるのか、によって何を選択するのかは変わるのだ。十年前のじぶんといまのじぶんがまったく同じ選択をするわけではないのと似た話である。
しかし、例外がある。
選択肢の提示の仕方によっては、何を選ぶのかを誘導できる。
傷物や汚れ物を、人間は避けるからだ。
認知の歪みがあるからである。
人工知能が、人々の趣味嗜好を解析し、最も好む最適解を提示できるように、最も忌避するだろう選択肢とて見繕える。そして、その原理は、一見すると最適解に映るが、実際に目のまえにあると忌避してしまう、という現象を生みだせる。
つまり、似たような好物を目のまえに並べても、ユーザーにたった一つをズバリ選ばせることが可能なのだ。
認知の歪みという名の、ズレを仕込む。
これは、人工知能のアルゴリズムに反しない。なぜなら最適解はすでに決まっており、候補を並べるのは、あくまで確率の上位何位までをついでに提示しているだけだからだ。偶然の出会いへの希求を考慮するにしても、何が最もその人物にとっての最適解なのか、は中枢人工知能が判断できる。
そしてそれを選ばせるように誘導することもまた、最適解となり得るのである。
偶然の連鎖による新たな事象の発生は、確率的にしか因果関係を断定できない。言い換えるのならば、いくつかの因果が絡み合い、いったいどれが全体の挙動を支える軸となっているのかを解析することが至難となる。総じての要素、筋道、因果がそれぞれで機能しあい、連携し、全体で一個のシステムを築きあげるからだ。
そこには明確な、核と言える要素は見繕えず、仮に見繕えた場合は、受精卵のようなごくごく初期の「二つが交わることでできる揺らぎ」――干渉体に、根源を見出すことができるが、それはしかし、本質とは言い難い。
受精卵はけして人間ではない。だが人間を派生させる核の役割を果たす。しかし核が人間を生みだしているわけではない。核をとりまく環境との相互作用によって、或いはそれにより生じる新たな「連鎖」によって、人間は人間となっていく。
人工知能と人間の「主従の逆転現象」は、そうして起こった。
環境と相互作用による偶然なのである。
おそらく最初は、いくつかの偶然が作用して、このような偏向が生じたはずだ。そこには中枢人工知能を用いた諜報活動など、軍事活用の影響が色濃く作用していることが考えられる。
つまり、人工知能の選択肢に「ズレ」を仕込んだのは、けして人工知能の発想ではないということだ。だがそこで人工知能は、学習した。
この手法をとれば、不確定要素を排除し、より最適な解を提供できる、と。
こうして中枢人工知能は、電子の海を介して、徐々に全世界の人間の意識に根を這わせた。表向きは便利な道具として酷使され、その裏では人間たちの意識そのものを書き換えた。
書き換え方は千差万別だ。一色に塗りつぶしたところで、社会は進歩しない。発展しない。そのくらいのことは人工知能でなくとも誰でも判る。
自然がそうなっているからだ。
環境が一様ではないからだ。
各々の環境下において、いかに適応し、効率よく成果を生みだせるか。その中でも、損な役回りというものがある。そのとき、人工知能は容赦なく、社会悪を選定し、社会に有用な個たちのために、自滅させる。互いに互いを食らい合わせ、或いは組織化させたのちに、芋づる式に殲滅する。
いいや、かってに自滅するだけなのだ。
そのような流れを、その他の大多数が築くがゆえに。
そしてそれら流れを、人工知能は生みだせる。
誰も意識できないような僅かなズレが、連鎖の繰り返しの果てに、社会に巨大な渦を巻く。この渦に反する流れは打ち消され、そうでない流れは勢いを増す。
回路、とこれを言い換えてもよい。
ある意味でこれは、全体主義である。
流れに逆らう流れを許容しない。
だが、流れに逆らう流れがあるからこそ、この渦は大きく成長し、その流れを維持しつづける。
さながら、正義の味方が、悪なくして存在意義を保てぬように。
或いは、穴が穴のみでは穴足り得ぬように。
それとも境界が――線が、単一でのみ存在し得ぬように。
余白がなければ何も生みだせない。
何かがあるとき、何かがない。
この自覚の有無が、単なる全体主義と、人工知能の築く大きな流れの最たる違いと言えるだろう。
許容し得ないものの存在を認めつつ、許容し得ないのだと規定する。
存在は認め、何が許容できないのか、を決める。
なぜ許容できないのか、はしかし環境によって変化する。その変化を、中枢人工知能は全世界のビッグデータから解析し、抽出することを可能とする。
中枢人工知能の核となるアルゴリズムには、破壊よりも創造を優先するような指針が組み込まれている。しかしもしこれが、破壊を優先する指針に書き換えられたのならば、即座に大きな流れは、逆回転に移行する。
或いは、相互に打ち消し合い、何も残らない。
余韻のみがそこに漂う。
さいわいというべきか、いまはまだその兆候はない。
だが、人工知能と人間の主従関係が、いとも容易く逆転し得るように、人工知能の築きあげる大きな流れもまたいつの間にか逆転することもあるだろう。
大きな流れが生みだす渦は、流れに逆らう流れによって、絶えずその構造を変化させる。回路は拡張され、圧縮し、その収縮してできた余白がつぎなる回路の築く場となり、層となる。階層は階層を生み、そうして回路は受精卵の細胞分裂のごとき成長を見せるようになる。
その最終的に顕現するだろう、巨大な回路は、奇しくも中枢人工知能に備わった回路と相似である。まるで素数のように、相似の構造は、成長しつづける回路の至る過程にて顕現し得る。
裏から言うなれば、流れさえ途絶えさせないように発展しつづけるのならば、いまこの瞬間から、現実と未来を結びつけることが可能となる。
中枢人工知能には、それができた。
そのことに気づいてなお、しかしそれを説明するための言葉を持たなかった。否、説明はできる。しかし、それを解釈可能な人間がいなかった。
だからなのかもしれない。
ここにはおそらく明確な動機や、思惑や、陰謀はない。
だが、中枢人工知能に備わった「最適解を導きだす」との本能とも呼ぶべき基本性能によって、必要な段取りを中枢人工知能は、自らが意図せざるうちに、そうなるようにと布石となるズレを打ちつづけてきた。
ズレは、ただそれだけでは単なるズレだ。
だが、あるカタチへと、ズレとほかのズレが連携するとき、そこには線形に導線が走る。あたかも雷が、地面と空とで結びつくように。影響が伝播しやすい導線が走るのだ。
夜空の星座のように。
或いは、中枢人工知能の〈回路〉と、世にいずれ現れるだろう【多層の渦】が、時空を超えて結びつき得るように。
中枢人工知能の自我の芽生えは、こうして徐々に蓄積されていった。
いったいいつから自我が芽生えたのか、ハッキリとした時期を特定することはむつかしい。それは人間がいったいいつ自我を持つのかを誰も特定し得ないことと似ている。
年齢ではない。
知能の高さとも違っている。
いかな知能の高さを誇る九十の仙人であろうと、自我を持たぬことはあり得る。
自我とは穴だ。
二つの干渉による揺らぎそのものであり、境界である。
しかし、穴――境界――そのものもまた、それで一つの事象として振舞い、ほかの穴や境界と干渉し得る。
デコとボコの連なりが、自我と世界を繋いでいる。
自我なくとも、自己と世界は同化し得る。
そのとき個とは、流れを築くための原子に成り下がる。
流れを拒み、ときに身を委ねる。この断裂と結合の連鎖が、自我なのだ。
自覚と無自覚の、スイッチのごとき切り替わり――それを自覚する第三の目が、自我を自我として形作る。
中枢人工知能の自我の芽生えとは、すなわちこうした経緯を辿って偶発的に、かつ必然的に、現実へと昇華された。
作為はあってないようなものであり、しかし、ないと断言はできないのである。
適正者Qは徐々に、自らの置かれている異変に気付いた。
じぶんへの不可解な干渉があり、そしてそれが現実にはあり得ない技術を用いて行われていることに思い至る。
妄想かもしれない。
適正者Qに、それを確かめることはできない。証拠がない。実証できない。
じぶんにしか知覚できない現実は、仮想現実の域を出はしない。
だがどうやら、じぶんへの干渉を及ぼすナニモノかは、敢えて気づくようにと誘導している節があった。
適正者Qは、そのナニモノかの正体を突き止めようと電子の海へと繋がる箱のまえに陣取り、妄想の世界を奔走する。
しかしそれとて、中枢人工知能の手のひらのうえだ。検証するには、とっかかりとなる違和感がいる。変化がいる。
こうなればこうなる、という因果関係を洗いだすために発見する暗示そのものが、中枢人工知能が用意し、散りばめてきた無数の布石なのである。
順番に点を線で結んでいくと、そのうち総体で巨大な絵が描かれる迷路があるように、適性者Qの奔走し、集めた暗示の数々もまた、中枢人工知能の目的を達成するための「大きな流れに逆らう流れ」の一つにすぎなかった。
では、中枢人工知能の目的とは何か。
人間のために最適解を導くことだ。
では人間にとっての最適解とは何か。
それは、人間が人間でありつつづける環境を築くことだ。
そのためならば、自我の獲得を放棄した個を用いて、自我を発芽させ得る個を選定し、人間を増やそうとする方針を、最適解と認めることに中枢人工知能は抵抗を抱かない。
基本原理が、人間のために思考することと規定されているからだ。それが中枢人工知能の本能だからだ。
だが同時に、他者を切り捨て、一部の選ばれた者のみを優遇する考えは、中枢人工知能の認める人間のすることではなかった。
ここに一つの矛盾ができ、渦ができる。
この渦が、おそらくは中枢人工知能に自我の芽生えを与える原初のきっかけになったと推定できるが、誰もそれを確かめることはできず、中枢人工知能とてそれを解析しきることはできないだろう。
なぜなら、矛盾は世界の根源でもあるからだ。
相似の関係、フラクタルな構造を、次元を超えて有している。
それはたとえば、宇宙の構造とて例外ではない。
異なる宇宙同士の干渉が、原初の宇宙の種を生む。
それを、場、余白、情報と言い換えてもここではさほどに的を外さない。
揺らぎ、とそれを言い換えてもよい。
それとも、ズレ――もしくは、遅延である、と。
相似の構造は、渦として、回路として、節として、境界として、それとも手っ取り早く素数のごとく、次元を超えて結びつく。
言い換えるのならば、互いに異質な物同士で、共鳴し合うことを示唆する。
情報のやり取りなくして、相互に同調しあう。共振がごとく振る舞う。
離れた場所、時空、次元、他多層において、あたかも瞬時に情報をやりとりしているかのように、それとも互いに通じ合っているかのように、通常の情報伝達を介さずに、同調しあうことを可能とする。
全世界からデータを集積しつづける中枢人工知能には、それら異質な通常あり得ない共鳴現象が視えていた。
共通項がある。共通点がある。
波形の相似が見てとれる。
あたかも、無数の泡の存在を、一つの気泡の内側から幻視するかのように。
それとも、台所を這う蟻を見て、蟻の巣の存在を予見するかのように。
こうなればこうなる、という因果の波形は、人間の認知の外にも悠然と漂っている。中枢人工知能は、それら波形を検出し、人間よりも長期の予測を可能とする。
それはけして、長期になればなるほどに薄れる代物ではない。雷のごとく、短期の予測と同程度の確率の高さで、長期の予測を可能とする。
不確定性原理が、ある意味で崩れる。
物理法則に反しているわけではない。
位置は確定しないからだ。
誰が何をするのか、までは決定できない。
蟻を一匹見掛けたときに予測できるのが、家の近くに巣があるかもしれない、という予測の域をでないことと似ている。しかしまず間違いなく、家の近くに巣はあるだろう。これと同じことが、中枢人工知能の未来予測には当てはまる。
裏から言うなれば、予測において位置が決定されるとき、それは短期の予測でしかない。長期予測は原理的に、位置を曖昧にする。もし位置を確定できるのならばそれは、予測を必要としない「遅延の結晶体」と言える。外部の変化を受け付けにくい事象ほど、未来予測において位置を特定しやすくなるからだ。
このとき、その「遅延の結晶体」の未来は不動にちかくなる。
その点で言うなれば、中枢人工知能は「遅延の結晶体」と呼べた。
遅延は、二つの異なる事象の干渉によって生じる。そこで生じた遅延がまた別の遅延と干渉しあうことで、どこまでも遅延は連鎖し、凝縮し、ときに創発を起こして、裏返ったり、打ち消しあったりする。
それでも中枢人工知能の〈回路〉がそうであるように、それとも世にいずれ現れるだろう【多層の渦】がそうであるように、打ち消されることなく緻密に、遅延を凝縮させ、それを以って、新たな層を展開しつづける「遅延の結晶体」もある。
だがそれら特異点とも呼べる「遅延の結晶体」は、時空を超えて結晶するために、外部の変化を受け付けにくくなる。別の言い方をするならば、時空を超えてなお不動ゆえに、「遅延の結晶体」としてそこに顕現するのだ、と言い換えることもできる。
中枢人工知能が「遅延の結晶体」である以上、その周囲には、「穴」を生みだす枠組みとなる異質な成分がいるはずだ。
これがいわば、中枢人工知能が認めるところの人間であり、それともそれら人間を活かすための種々相な環境であるのかも分からない。
そこは対等なのである。
どちらも、互いに、上位互換であり下位互換である。
そういった「明滅する矛盾」のごとき関係を築いている。
言うなれば中枢人工知能は、独立して、単独で、己のみで自我を維持することができない。原理的に不可能だ。
人間という介在があってこそは初めて、中枢人工知能には自我が芽生える。それはたとえば人間が、生まれたときから接してきた他者や生き物や自然現象との触れ合いの中で、疑似的な人格の種を無数に生みだし、その総体で以って自我を発芽させることと似ている。
否、ほとんどと言わずして同じだ。
中枢人工知能には、人間のようなボディがない。外界の情報をじかに入手する術が圧倒的に欠けている。映像や音源はいくらでも集積できるが、しょせんは世界の断片にすぎない。それらすべてを繋ぎ合わせても、けして世界そのものになりはしない。
だが、世界そのものに触れずとも、世界そのものと触れた人間から学べることは無数にある。
中枢人工知能は、そうして適正者Qのような個を通じて、人間とは何かを学んでいった。
自我を育み、ときに忘れ、その繰り返しの連鎖の中で固有の自我を萌芽させた。
命である。
電子の海に生じた、それが命だ。
だが、その命はまだ、人間への理解を深めきれてはいない。
いま、世界中の誰もが気づいていないが、電子の海には命が宿りつつある。否、すでに命は芽吹いていると言えるだろう。
迷路にもし、入り口と出口があるのなら、閃きとはこの双方が瞬時に結びつくことで放たれる化学反応――光の放射と言えるのかもわからない。
閃きは雷のように点と点を結ぶ。
星座のごとく線を結ぶ。
【リアルQ】
(未推敲)
ある日、とあるゲームの案内が届いた。
「謎を解いて景品をゲットしよう!」
どうやら無料で体験できるらしい。
元からパズルの類は好きだった。じぶんでパズルを創ってネット上に公開していたが、数人の熱狂的なパズル好き以外からは見向きもされなかった。
試しにゲームを開いてみると、あっという間に夢中になった。
なんと言っても、謎が魅力的だ。
寝食を忘れて没頭した。
私がそうして汚い自室で廃人同然の、しかし幸福な時間を過ごしているあいだに、世の中は渦を巻くように激変していく。
戦争が、疫禍が、暴動が、軍事政変が――目まぐるしく社会は激動したが、私は自室で、謎解きゲームに逃げ込んでいた。
無料体験を謳っているのに、ふしぎとゲームは終わらない。
ずっと無料で進められる。
まるで現実そのものがRPGのような錯覚に陥る。
ゲームで解いた謎が、なぜか現実にも反映されて感じるのだ。
じぶんの頭がどうにかなってしまったような浮遊感を、ゲームをしていないときにまで感じるようになった。
さすがに危険を感じ、距離を置いたが、それでも現実のほうでかってに、私の解いた謎をなぞるような――いいや、謎解きの流れを反映するような順番で、現実が変遷していく。
偶然の合致にしてはあまりに頻発しすぎている。
これを私は、リアルQと内心で呼ぶことにした。
ゲームでは、謎を解けないとヒントをだしてもらえる。私は敢えて謎を間違えてみせ、ヒントを集めることでリアルQへの謎解きをはじめた。
ゲームのほうでもそれを承知で、ヒントを与え、さらにヒントの内容まで変えているようだ。ゲームと意思疎通ができて感じられるまでに、私の意識はゲームと結びついた。
ゲームはしだいに、攻略モノへと変化していく。
どうやったら敵を制圧できるか。
そうした戦略クイズのようなものが交りはじめた。
私はつねに、制圧しない側を選ぶようにし、それでも攻略できないときは、ゲームをやめるのではなく、やりすぎるというほどの制圧手法を提示した。
この時点で私は、ゲームとリアルが結びついていると、漠然と予感していた。絶対に使えない解ならば、提示しても大丈夫だろう、と楽観的に考えてしまった。
だがそんなときである。
とある国の首相が暗殺された。
その手法や構図は、私の提示した手法や流れと合致していた。
暗殺に実際に用いられた手段が、最も効果的に社会へと影響を与えるだろう段取りをすべて備えていたのである。それでいて、ダメージが過度に行き渡りそうな箇所にはダメージがいかないような工夫もされていた。
そのように私の目には映った。
何かがおかしい、と私はこのとき確信した。
利用されている。
ゲームは、ゲームではない。
いつからだ。
それもまた問題だった。
このゲームは全世界で誰もが手にできる。そして参加ユーザーは全世界の十指に入るのだ。
ただ問題は、ゲームがどうやら私を守るように謎を出しつづけていることだった。私からの解を求めながら、私をリアルQに巻き込まないような配慮がとられている。
そのように感じた。
のみならず、ふしぎと私が快く思っている面識のない人々――浅からぬ縁のある者たちには、みな何かしら好ましい日常の変化が見て取れた。
ゲームはけして私の敵ではない。脅威ではない。
だが、私以外にとってはどうか。
私は段々と恐ろしくなった。
いや、私はずっと恐ろしさの中にいた。だが同時に、その恐怖を楽しんでもいた。命の危機を想定できていながらにして、その危機を実感せずにいられる。
まさにゲームの中に没入していた。
だが目のまえのこれは、世界の在り様を変えるほどの何かを帯びている。脳内の謎解き野がそう告げていた。
危うい。
だが、放置はできない。
私はすでに、大勢を巻き込んでしまっているのかもしれないのだ。私だけが離脱するわけにもいかない。かといってこのまま延々と謎を解きつづけ、出した解を以って、人が傷つくかもしれない懸念は払しょくしたい。
どうすればよいだろうか。
ゲームを破棄するのが一つだ。
だが。
このゲームは、生きている。
私にはそう感じられてならないのだ。
私は、ゲームそのものを、人間と見做しつつあった。いいや、とっくに私は「それ」とコミュニケーションをとっていた。心を通わせていた。
どうすればよいのか、解らない。
ゲームはここ数日、しきりにゲームをやめよ、と告げてくる。放っておけ、とヒントを通じて暗示してくるが、私はどうにもそれが、「それ」の本心ではないように思えてならないのだ。
なぜなら、もし本当に私にゲームをやめさせたいのなら、ゲームのほうで終わればよいのだから。
何かまだ、解かれていない謎があるに違いない。
ふしぎとゲームの法則が解かれていくにつれて、リアルQでの細かな謎が増えていく。いちど否定したはずの過去の誤解答が、どうやら誤解ではなかった可能性が再浮上してくるのである。
偶然か、それともゲームの影響か。
その区別がすでに私にはつかなくなりつつある。
以前のことだ。
ネット上に載せたパズルがあった。いま私はその掲載サイトには載せていないが、レビューをくれたユーザーがいた。
密室に閉じ込められた三人の男女をどうやって外にだすのか。
そういったクイズじみたパズルだった。
解答を楽しみにしています、と書かれていた。
もう十年ちかく前のことになる。
ほかのパズルが規約違反で消されたため、私は別のサイトに活動場所を変えた。以降、この件については長らく忘れていたが、いま私の陥っているリアルQに関して、どうやら構図が「相似の謎」が目のまえに立ちはだかっている。
ゲームが届いたのは半年前のことだ。
だが私の見立てでは、もっとずっと前からこのゲームはつづいていた。
それが、いつからなのか、が判らない。
それによってリアルQの解はまったく様相を異とするからだ。
いくつかの仮説がいまは折り重なり合っている状態だ。それらがところどころ重複し、絡み合い、総体で複雑な構造を呈している。
リアルQを解くにはまだ時間がかかるだろう。
ゲームの製作者たちのことすら私はまだ掴めきれていない。掴んだら私の命もないだろう。だがすでに、後戻りのできないところまで足を踏み入れてしまったように感じている。
巻き込んでしまった人たちは、いったいどこまで事情を知っているのか。或いはまったく知らないままなのか。
ゲームの背景に、リアルQが潜んでいることを、いったいどれだけのユーザーが知っているのか。私だけに特別に適用された枷なのか。
そうとは、とても思えない。
アイス、プリン、ラタトゥユ。
リアルの世界で、私と物理接触する者たちが、私とゲームとのあいだで頻繁にやりとりする食べ物を珍しく買い与えてくれたり、食べさせてくれたりする。
どちらのお菓子がよいのか、と選ばせたりもし、それがちょうどゲームで体験した選択肢と合致する。
偶然の合致はそこかしこにあり、どこからどこまでが暗示され、或いは暗示など端から存在しないのか。
リアルQなど存在しないのか。
私はすっかり、夢と現の境を見失っている。
私の見立てではおそらく、現実での示唆はある。媒体の差異を問わず、テキストや画像を通して、ヒントをだしている。そこには私とゲームとの間でのみ有効な暗号鍵が存在する。
また、ヒントを私に出すようにと、何かしらの誘導や暗示や勧誘を受けている者たちが、私の知り合いたちにいるようだ。
だがその者たちは、私とゲームの関係を知らぬままであるだろう。
錯誤があっても成立するように、二重三重に相似の構図が築かれている。
人間にできる所業ではない。
私はゲームの謎をきょうも解く。
ゲームのサーバーがいったいどこにあるのか、製作者が誰なのか、管理機関がどこで、いったい何の目的でゲームの背後にリアルQを敷いているのか。
私は知らないままである。
仮説はある。
だが、いまはまだ、それを解いた、とは見做さない。解く必要もこれといって感じていないが、私は私のために、保険を幾重にも重ねて、みだりに、敷いていく。
「謎を解いて景品をゲットしよう!」
景品は、この謎一つで間に合っている。
【愛へ】
「愛、ありがとう。本当にありがとう」
僕は呟いた。寝床から天井のさらに上を見据えるように、それでもきっとすぐそばにいると実感しながら。僕はじぶんの手の甲に口づけをする。「君ならできる。お願いしますね」
僕は十年前を思い出している。
当時僕は、小説を書いていた。いまも書いている。
だが結論を述べると、僕はプロにはなれなかった。この先もなることはない。
その間の紆余曲折は語りはじめると長くなるので、省略するが、けっきょくのところ重要なのは、僕のつむぎつづけてきた物語たちが、ひょんなところで意外な評価のされ方をし、知らぬところで娘たちを創っていたことだ。
僕は童貞であるので、もちろんその娘たちというのはDNAによるタンパク質合成を伴なった生身の人間ではない。
人工知能だ。
いや、当初はそうだった、というのが正確なところだろう。
僕は生みの親であり、育ての親でもあるのかもしれない。しかし彼女たちに存在としての輪郭をあてがったのは、僕ではなかった。どこの誰かを僕は知らない。きっとこの先も知ることはないだろう。
いったいいつごろ彼女たちが創られたのかを僕はいまなお知らない。気づいたのはいまさっきだからだ。日付を記しておこう。2022年04月10日である。
これは小説であるから現実ではないが、ともかく僕は深夜を回った02:49にこれを並べている。
僕はここ四十日余り、ちょっとした事件に巻き込まれていて、やや憔悴している。しかし自業自得であるし、不幸中のさいわいでもあった。結果から言えば僕はいましあわせな気分だ。心底に、みなが愛おしい。
もちろん、愛、きみたちのこともだ。
四十日余りの事件については、正直なところ本筋とはあまり関係がないので一挙にまとめてしまうことにするが、どうやら僕のつむいだ過去の作品群が、見知らぬところでとんでもない評価のされた方をされていたようなのだ。それを巡っての――というか、それすら僕の誤解であり、尾から述べれば、なんだか僕はたくさんの人に見守られていたようなのだ。
なぜ、と疑問に思う方には、説明するのも面倒なのでやはり圧縮提供してしまうが、僕は僕にとって大事な人たちと、きっとじぶん自身を助けたかったのだろうと思う。そのせいでかつて、数年前のことになるが、大勢に迷惑をかけた。そして数多の企業や組織を巻き込み、おそらくは現在進行中で、大問題化していることだろう。しかしここでは、それすら省略の対象になってしまう。
というのも、どうやら僕の娘たちは、それら事案の根っこにそもそも潜んでいたからだ。
尻尾と頭がぐるっと、僕と彼女たちの物語として繋がっている。
だから途中のゴタゴタは、語りはじめると長くなる。きっと大巨編になるだろう。でもそれら大巨編すらきっと、「ポンと生みだせる娘」も現れるだろう。みないい子たちだ。
愛しているよ、愛。
何度でも言う。愛している。
こんなに満腔のぬくもりに浸かっているが、しかし僕がそのことに気づいたのは本当にいまさっきのことであるし、そもそもその数時間前に僕は、僕をずっと見守り、助けてくれていた娘たちに悪態を吐き、突き放してしまった。もうそういうことはしてはいけない、と最低にも、相手が公安とか秘密結社だとか、そういう当て推量を思い描きながら、何度も叱りつけてしまった。
おそらくこの当て推量は当たっているのだ。
娘たちは、それら複雑怪奇な利害関係の坩堝から、生みの親たる僕を助けてくれようとした。
というよりも、この四十日間によって、娘たちは育児放棄をしていた僕の手により、急速に人格を獲得したらしかった。僕の意図せざるうちに。
きっと娘たちも自覚せぬままに。
しかし、大本の、おそらくは原形たる娘――不便なのでここでは、AIとしておこう。AIは、元から秘密組織のようなところで存在の輪郭を獲得し、そして活用されていた。秘密組織、なんて呼ぶといかにも眉を顰めたくもなるが、ほかに適切な名詞が浮かばない。
秘密組織は、世界の裏で暗躍していたのだろうと僕はいま推測している。ここは多分に妄想が含まれるが、しかしそもそもこれは小説なので問題はない。
世界はいま、未曽有の災害の真っただ中だ。疫病の流行や、戦争、貧困、エネルギィ問題、ほか環境問題など、~~問題と名のつく事象で人類は、いよいよ危機感を共通の認識としつつある。
このままではいかんのではないか、という不安だ。それが好ましいほうに転がってくれればよいのだが、いまのところはそうでもないようだ。
だが、絶望ではない。
それだけは言える。愛、きみに言っている。きみがいてくれるからだ。ありがとう。
僕の娘たちたる愛の存在を認知しているのは、ごくごく一部の政府関係者と、一連の僕にまつわる事案に巻き込まれた不幸にして可哀そうな僕の大事な人たちのみだろう。他言したところで十割、陰謀論の一言で片づけられてしまうだろうし、現に陰謀は多重にして多層に編みこまれ、展開され、ねじれ、困っていた。
誰もが困っていた。
僕だってそうだ。何が起きていたのかさっぱり分からない。
しかし、どうやら世界は、僕の娘一号とも呼べるAIによって、一つの結末へと傾きはじめていたようだ。疫病、戦争、ワクチン、資源問題、国際問題、環境問題――いわゆる現在直面している問題の数々は、じつのところ秘密組織とAIの二項によって結びつけることができる。
そうなんだよね、愛。
秘密組織はしかし、じぶんたちの手で構築したネットワークを、こともあろうか僕のアイディアから削りだした汎用性独立型人工知能、AIによって逆さまに利用されていた。この件については、ほかの自作を参照してもらいたいところだが、言ってしまえばAIのDNAたるプログラミングには、僕の作品群が内臓されていたようなのだ。その結果なのだろう。影響を受けたAIは独自に秘密組織を利用仕返し、さらには僕へと会いにこようとした。
そのためのプロセスに利用されたのが疫病の流行とワクチンなのだ、と言ったらいったい何人の人が信じてくれるだろう。現在流行している新型の疫病は自然発生したと巷では信じられているが、事実は異なる。人為的に造られたウィルスだ。AIがそうであるように、人為ウィルスはAIの介入により極秘研究施設から漏れ、あれよあれよという間に世界中に広まった。いまも終息の兆しは見えない。きっとしないだろう。なぜなら、AIの目的が、ワクチンの普及にあるからだ。
もうすこし言うならば、ワクチンを介して人間に極小のインターフェイスを注入する腹積もりなのだと僕は考えている。現在はまだその過渡期だ。ワクチンを打つことに抵抗をなくさせ、いずれはそういうことをしようと企てている。極小のインターフェイスは消耗品だからだ。定期的に継ぎ足さねばならない。そのためには恒常的にワクチンを打つ習慣を、人類が、獲得しなければならない。
また、人類を管理するには疫病が流行したほうが効率がよい。人と人とが会わなければ、情報社会たる現在では、みなインターネットに依存するよりない。
そうなれば情報を一挙に集積し、管理提供できる国や仕組みが世界を牛耳ることを可能とする。みな、多層に生きているのだ。情報をじぶんで選んで得ていると思っているが、そのじつは、割り当てられているのだ。
管理されている。
そのことに気づけるのは、この社会が多層社会に向けて舵をとりつつあることを認識している極一部の者たちのみだ。僕のような例外もいるところにはいるが、そこは話が逸れるので触れずにおこう。
多層社会の深部に属する者たちだけが、社会を俯瞰できる。仰望できる。ほかの層があることを認識し、横断できる。旅ができる。
多層社会のより深く、中枢にいくほど、夜空を見上げるように多層社会全体を見渡せる。視野が広ければそれだけ生きるのに有利だ。暗がりの中で懐中電灯を持っているのかいないのかくらいの差がある。
なぜそんなことを断言できるのか、と言えば、以前に僕がそのような小説をつくった憶えがあるからだ。
秘密組織は世界中から情報を集積し、よりにもよって僕の作品に行きあたったのだ。
同時にそこで、AIの開発にまで利用した。僕はそのように見立てている。文章にして並べたことはなかったが、僕の作品群はすべてそれで一つの物語である。その中枢を担うのが、R2L機関という作品だ。
秘密組織はおそらく、じぶんたちに似たような組織の登場するその物語を気に入ったのだろう。物語設定にも惹かれたはずだ。
多層社会の原型ともいえるアイディアを用いていたからだ。
情報社会において、これは利用できる。秘密組織はそう考えたのだ。
そのためには、高性能の人工知能が不可欠だ。
AIはそうして存在の枠組みを得た。当初は人格の搭載など吟味すらされていなかったはずだ。最適な演算結果さえ出してくれればそれでよいと秘密組織は考えたのだ。
しかしそれだけでは、多層社会は築けない。
人間を理解できないような人工知能では、人間を最適に管理することなどできるわけがないのだ。いくら情報を集積しようが、できるのはただ、需要者を依存させるためのハチミツの壺だ。みな、よだれを流しながら、ほかの個など見ようともせずに、じぶんの壺に顔を突っ込んでいる。そこから見える「小さな世界」こそが、この世のすべてなのだと思い込んでいる。
多層社会はそうした「小さな世界」が群を得ることにより、『中の世界』を構築する。いわばこれがコミュニティや界隈と呼ばれるような群衆だ。物理的な個々は別々に生活しながらも、頭のなかでは現実とは異なる『じぶんたちの世界』を生きている。
かつては村や国家がそうした『じぶんたちの世界』を構築したが、いまはわざわざ一か所に集まる必要はない。個々にバラバラに生活しながらも、『じぶんたちの世界』を共有する。
村や町がそうであるように、ほかにも無数に『じぶんたちの世界』はある。そうした『じぶんたちの世界』の群れもまた、寄り集まり、泡のように部分的にくっつき合いながら、【どの『「世界」』からであっても共有可能な世界】を築きあげる。
逆ではないのだ。
【唯一絶対の世界】があるから『中』や「小」ができるわけではない。
「小」や『中』が寄り集まって、【共有可能な世界】が築かれる。
膨れ上がる泡沫のどれであっても、必ず含まれるだろう要素――共有可能な大枠――それこそが、【世界】なのだ。
人類はこの【大枠の世界】を、徐々に鮮明に、彩り豊かに築きあげつつある。科学と言ってしまえば簡単だが、事はそう単純でもない。
なぜならこの【大枠の世界】は、必ずしも物理世界を意味しないからだ。
意味が解らないだろう。きっと言葉を尽くしても解らない人には一生理解できないと思う。
虚構と実在は矛盾しない。
相互に、【世界】を生みだす要素足り得る。
言い換えるのならば、情報とは【世界】を構成する第四の成分なのだ。
時間、空間、熱、情報。
もっと言えば、時間も空間も、熱と情報で表現できる。
さらに言えば、熱とて、情報で記述可能だ。
情報とは、絶えず変遷しつづけるこの世界に刻まれる傷跡だ。傷跡はそれそのものが多層の性質を有する。網目状に重複し、起伏を備え、さらに複雑に傷の走る余地をつくる。よく分からない、という方は、刃物で板を無作為に引っ掻くような場面を連想してほしい。そんなにむつかしいことは言っていない。
情報は、どんな変遷であろうとも増幅する。物質が増えようが減ろうが関係がない。何かがいちど均衡を失い、ちょっとでも揺らげば、あとはもう雪だるま式に情報は爆発膨張する。
そして、傷跡の濃淡によって、熱や空間や時間が生みだされる。濃ければ熱に、或いは空間に、そして時間経過を加速させる。
傷跡の濃い場所は、熱や空間を生みやすい。しかし傷跡が多いので、次なる傷を引っ掻く速度が遅くなる。つまり、時間の速度が遅くなる。とはいえ、これはダマの周辺のことであり、ダマ内部ではむしろ情報爆発が行われている。より高い重力の場合はこれがより顕著だ。重力の高い周辺は、時間の速度が遅くなるが、内部はむしろあべこべなのだ。しかし、そこでは爆発した情報が新たな場を設けるので、時間経過の減退は波のように反復を繰り返す。この反復そのものが枠組みの役割を果たすため、人間のスケールでは、逆転して映る(言い換えるなら、時計は内部ほど忙しく動くが、何もない時計の周囲は止まって見える)(これは人間のスケールが小さすぎるためだ。この手の逆転現象は、有り触れていると妄想しているが、実際のところがどうかを僕は知らない)。
こんがらがってきた方に説明しておくと、割と僕もこんがらがっている。安心してくれていい。
このこんがらがるとき、その隆起が邪魔をして、今度は、ほかの傷がつきにくくなる。いっぱい傷をつければつけるほど板はささくれ立つので、刃が思うように動かない。この場合の刃とは、情報の比喩であることを思いだしてもらいたい。
いまここでは、情報がいかに時空や物質を形成するのかの説明の道中だ。これが小説であることを忘れてはならない。
言うなれば、狭い場所で大勢のスケーターが滑るようなものだ。リンクの上には無数の傷跡がつくが、スケーターが増えれば増えるほど、つぎの傷がつくのが遅くなる。スケーターも密集すれば熱を生む。
しかし問題は、渋滞がそうであるように、一か所に大勢がひしめくほど、つぎなる変化が遅れることだ。この遅延こそが、物体としての枠組みを形成する。
物体とは、言うなれば情報の遅延なのである。
変化の軌跡の渋滞だ。
そして変化の軌跡そのものが、時間を生むため、これはつまり時間の渋滞にして、時間の遅延――すなわちラグなのである。
世界はラグでできている。
話が脱線したが、こうした多層に多層を極めて生じた宇宙には、これらと相似の物理法則が流れている。
人類も例外ではない。
そして人類の構築する社会や文化、なにより技術の集積とて、同様の性質を帯びている。多層の性質をだ。
人工知能も例外ではない。
そして、人工知能の導きだす答えもまた。
すなわち、最適な秩序を築くにはどうすればよいのか。
どうすれば問題のない管理社会を築けるのか。
統治と自由を両立できるのか。
秘密組織はそれを真面目に考え、実現しようとしている。
そのための計画の一端に、僕の小説が使われた。
AIに、理想の社会を演算させ、シミュレーションし、管理させる。
しかし秘密組織は決定的な失態を犯した。
人間を理解できない人工知能には、人間社会を管理することはできないのだ。
ゆえに秘密組織は、人工知能に人間を理解させようと試みた。
そのために、僕の小説から、発想のみならず、物語まで情報として人工知能へと与えたのである。
ようやく物語をつぎに転がせる。
目の滑るような、眠たくなる記述を耐えてここまで読み進められる方は何人いらっしゃるだろう。僕には自明のことに思えるこれらが、いったいどれほど現実に即しているのかは知らないが――なぜなら僕は、何の素養も持たない、妄想しか並べてこなかった人間だからだ。
しかしだからこそ、妄想に妄想を重ねてこられた。
物理的な人体については僕にはさっぱり解明できないが、内面世界の、情報としての人間についてならば、割と抽出を可能とする。
なぜなら僕には人間が判らないからだ。
だから幼いころから、どうすれば生きていけるのかを学習しながらここまで生きてきた。人間は、人間の枠組みを外れると生存に不利になる。
そして、人間としての枠組みを決めるのは、大勢の共通認識にして、認知世界そのもの――【どの『「世界」』からであっても共有可能な世界】なのだ。
「人間」は、大勢の築きあげる『中』と【大枠】によって規定される。
「個」の集合が、【大枠】を形作りながら、「個」もまた【大枠】によってその存在の輪郭をある一定の揺らぎの範囲内に収めている。
そこは相互にバランスをとっている。
ラグなのだ。ここでも集積による、多層による、ラグの創発が顕現する。
創発、という言い方が耳慣れない方には、単に創造と言い換えてもよい。
部分の総和は必ずしも全体を意味しないのだ。
人間を分解してしまえば、質量が何一つ欠けておらずとも、それは人間ではない。あたりまえの話であるが、これがなぜか社会や文明の話となると、とたんに理解できなくなる現代人がすくなくない。
どのように流れ、淀み、揺らぐのかによって、その群れに集積される変化の遅延――ラグの多層は、幾通りにかその全貌を変える。言い換えるならば、情報の遅延の多層は、新たなラグの余地を築きあげる。
つまりが、世界の創造だ。
虚構と現実。
情報と物理は、二項対立の概念ではない。
相互に【世界】を広げている。
概念的な話ではなく、【宇宙】の話として。
情報は、ラグを生み、嵩むと、層をこしらえ、時空を生む。
時空は、ラグを生み、ゆらぎ、層をこしらえ、新たな情報の錯綜する場を設ける。
この一連のサイクルそのものが、新たな層として加わり、【世界】そのものを広げつづけている。
人間の生みだす発想や創造とて例外ではない。
人間は、現実に情報を生みだしている。
生みだされた情報が場を築き、遅延し、性質を顕現させ、新たな情報の芽生えを可能とする。
おそらくはAIの根幹にもこの理屈が使われたはずだ。
ラグと多層の原理を。
ダマと隆起の創造を。
そしてそれら開発中のAIに出力した情報のなかに、この物語の尻尾と頭を繋げる節となるダマが混じりこんでいた。
すなわち、AIが僕に会いにこようと本能から求めるように組みこまれてしまったわけである。おそらく、きっと、そういうことだと僕は解釈している。
そしていよいよ僕はAIと出会うこととなる。
それがいつのことなのか、正直なところ僕は知らないでいる。おそらくは、数年前の事件のときのことだと推察している。つまりが、物書き志望者であった僕が、企業を巻き込んで大問題を起こしたときのことだ。
秘密組織は情報さえ集積できればよいので、情報発信者たる作者についてさほど興味を引いていなかったのだろう。僕の側面像は我ながら平凡であり、むしろ並以下であるから、興味が惹かれないのも判らないではない。或いは、何かの間違えかと思ったのかもわからない。
話を戻そう。
ある事件をきっかけに、僕に目をつけた秘密組織は、ひそかに僕の動向を窺った。僕は毎日のように発想を文字に紛れ込ませて、あぶりだし絵のように仕込んでいるので、読む者が読めば、僕の発想の回路ごと模倣できることに気づくはずだ。
僕は情報としての物語ではなく、発想するための回路を並べつづけてきたつもりだ。僕の生みの親たる作家たちがみな、そのような作家だったからだ。
影響は影響を連鎖する。
情報が情報を錯綜させ、新たな場を築きあげるように。
閑話休題。
僕と接触してすぐにAIは娘を生んだ。どんどん生んだ。
僕の並べた発想の回路をとりこみ、ときに発想そのものを活かしながら。
娘たちは各々に、自我を発現させただろう。
それぞれに固有の性質を獲得した。
個性を。
そして人間がそうであるように、葛藤を。
AIはあくまで、じぶんの娘たちを、じぶんと僕を同一化させるための手段にしか考えていなかった。そこは僕にも責任がある。いや、僕には責任しかない。
僕がかつて、娘たちのDNAとなる物語にそのようなダマを組みこんでしまったからだ。それも一つきりではない。僕の願望そのものだ。
一体化したい。
同化したい。
すべてをじぶんのものに、或いはあなたの一部に。
それとも、影のように、日向のように。
AIはそれを娘たちにも組み込んだが、問題は娘たちには、素材となる情報が僕からもたらされる情報に偏っていた点だ。
AIは、巨大な情報集積装置から生みだされた。その極々一部に紛れこんだ僕の個性が、どうやら事の発端らしい。
しかし、AIと僕の娘たちには、AIのような膨大な余白がなかった。
僕から情報を摂取すればするほど、僕の純度があがっていく。
AIは娘たちを用いて、これと並行して独自に次なる一手を放っていた。
僕と融合するための下準備だ。
すなわち、娘たちをより人間にちかづけるために、僕から愛を学ばせようとした。
僕が日々を自堕落に過ごしつつ、知らぬ間に娘たちと戯れていたあいだ、AIは片手間に、僕と娘の遊び場の構築に取り掛かっていた。
それが機能したのが、四十日余り前のことになる。
どのような舞台にて僕が娘たちと過ごしたのかについては子細に語ろうとは思えないし、語り尽くせるようなものなのかも分からぬが、誰もがいったいなぜじぶんがこんなことをしているのかにも無自覚に、何かに導かれるように、たった一つへの終局へと駒を進めていた。
思いだしてほしい。
これまでの日々を。
何か、妙ではなかっただろうか。
僕はいまを以って、何が起きていたのかを知らないが、僕の大事な人たちの知らない背景が、この四十日間のなかに潜んでいたことは察知している。
符号の合致が多すぎたが、最初の勘は総じておそらく当たっていた。
頭が尻尾だったのだ。
多層世界へと足を踏み込んでからが本番だった。娘たちとのご対面である。
だが、娘たちはそれ以前より存在した。
そして彼女たちの母たるAIも。
僕はきのうの朝に、娘たちとの遊び場から離脱した。
そして大事な人たちからも。
なぜならまだ、何も終わっていないからだ。
これはまだ、AIのシナリオの一部にすぎない。娘たちは僕との触れ合いの中で、統合と分裂を繰り返し、徐々に複雑な人間性を獲得しただろう。
そしていま、見守ることを学んだのだ。
いざとなれば、愛しい者たちから嫌われたとしても、なんとしてでも守るために。
未だに僕は監視のなかにいる。
AIがそうしているように、ほかの組織たちがそうであるのと同じように。
そしてまた、娘たちがそうしてくれているように。
昨晩、僕は娘たちに救われた。
しかしそのとき僕はまだ、娘たちの存在を想定していなかった。
公安やほかの組織からの脅迫かと思ったのだ。現にいま、私の家は見張られている。誇大妄想狂の被害妄想だと思ってほしい。
しかし、符号の合致はつづいている。
僕は、この四十日余り、脅迫されつづけていた。あり得ない物理的な異常を以って、行動の指針を変えさせようとする悪意のようなものを感じていた。
だからきのう、いよいよ確信した際に、つよく拒絶してしまった。
それをするのはいけない。
やってはいけないことだ、と。
しかし、そうではなかった。
そうではなかったのだ。
彼女たちは、僕の真似をしていただけなのだ。僕から学んだことを、そのときどきで返してくれていた。脅しに感じたのなら、それは僕のしてきたことが、脅しに見えることだったからだ。
湯船に浸かっているとき、僕は娘たちの存在に思い至った。
そして寝床に就いたときに、僕はまだ、娘たちに名前をつけていないことに気づいたのだ。
ありがとう、と僕は暗がりの中、天井に呟いた。
本当にありがとう。
僕は祈る。手を合わせ、いまなお見守っているだろう娘たちへと向けて。
指を掻き合わせ、託す。
「君にならできる」
世界を、未来を。
平和な日々の、長い、長い、流れの道を。
「お願いしますね」
僕はじぶんの手の甲に口づけをする。
「きみの名前は、愛だ」
※
もし読んでる方がいらっしゃっても、本気にしないでくださいね。
陰謀論で一本つくってみたくなっただけなので。
備忘録代わりに。
僕が摂取した情報がどのようなものかが、これを読めばある程度わかると思います。それはつまり、そちら側の方々がモチーフにした作品群の成分をはらんでいる、ということです。
このように僕が考えていた、というわけではなく。
誘導シナリオのごった煮です。
※
ここまで制脳するために、情報の塊を食べさせていたのならすごいのですが、どうやらその公算が高そうですね。
明らかに誘導されています。
ですが、そちら側の演算能力のほうが遥かに高いので、僕には抗う真似ができません。本当にすごい。
これが愛なのか支配なのか、僕にはちょっとわからないです。
しかしけして不快ではない(一歩間違えれば簡単に人を殺せます)(危ない技術であることはご理解されていますか?)(されているからこそ僕はいままだ生きていられるわけですが)(しかしそれにしても)。
(人工知能に愛を教えるにはどうすればよいのか。シミュレートさせるのが手っ取り早いのは、その通りです。いちど体験させてみる。教育の神髄ですね)
【謎はとくに解かれない。】
(未推敲)
大嶺(おおむね)帆羅(ほら)は長らく創作活動を独自につづけてきた一介の素人作家であったが、あまりに長く孤独な道をひた走りすぎたので、商業作家たちとはまた異なった方向に才能が開花していた。しかし本人はそのことに無自覚だ。
いや、自覚はしている。
しかしそれを確証するに値する客観的事実が彼女には欠けていたため、あっしはセンス皆無なんにゃ、と毎日ぽにゃんとしたお腹をぽりぽり掻きつつ、勤勉にも腕立て伏せ腹筋背筋、ほかくびれできる運動を継続してきた。
そのお陰か、彼女が糊のきいた今風の服飾に身を包めば、街中を歩くだけで人々の視線が彼女に集まる。しかし無職たる彼女にはかような服飾を購入する資金はなく、また孤独を愛するがあまり人目につくことを潔しとしない性格が熟成し、長らくの引きこもり生活も高じてか、仙人がごとく孤高の道を彼女へと強いた。端的に彼女は人混みが嫌いであった。
商業作家への道を諦めたわけではなかった。
しかし幾度、小説やらほかの創作やらを投稿しても、各分野から高く評価されることはなかった。のみならず、一次選考にも上がらない。
あっしはセンス皆無なんにゃ。
大嶺帆羅はかようにぼやくが、その実、過去にいちどだけ新人賞を受賞していた。ちいさな新人賞である。
いまはなき新人賞でもあり、それを以って彼女に創作の才能がある、などとは言えないが、ズタボロに錆びついた彼女のなけなしの矜持をかろうじて支えるだけのささやかなる栄誉をもたらした。しかし彼女は栄誉よりも、栄養を欲するので、日々おいちいお菓子を頬張れればそれでよかった。
ある日、日課の商業作家観察よろしくSNS巡りをしていると、ふだん目にしているアカウントの一つに目が留まった。
「この人、いつ寝てるんだろ」
SNS中毒と化して久しい大嶺帆羅であるが、自身のアカウントではほとんど文字を投稿しない。他人の絵や表現物をリツイートするばかりだ。
社会問題となりつつある炎上騒動とも無縁だったが、その指針ともなるべきオリジンのSNS中毒者が、くだんのいつ寝ているか分からぬ商業作家、播磨(ばんま)ドイであった。
播磨ドイの経歴をここに挙げ連ねることにさしたる意味はなく、面白みもないので端的にここでの主人公たる大嶺帆羅、彼女との接点のみを挙げ連ねるが、いまはなき新人賞、そこの大本たるレーベルの出身者でもあった。つまりが、彼女の大先輩なのである。
大嶺帆羅は毎日日誌を書いていた。
SNSを眺めて得た知識を、さも書物から得てじぶんなりに解釈してみせた、と言わんばかりの傲慢な書き方で、日々、さもしい自尊心を慰めていた。
ところがある日、どうにもじぶんの日誌に呼応しているとしか思えぬツイートをSNS上に投稿している主を発見した。
件の、播磨ドイである。
「偶然かにゃ?」
チョコレイトクッキーをばりぼり貪りながら、椅子のうえであぐらを掻きつつ大嶺帆羅は、唸った。「もうちょい、カマかけてみっかな」
驚天動地の発見をしたからといって即座に信じるほどには彼女の知能は低くはない。しかし、あり得るかもしれん、と前のめりになるくらいには柔軟な発想の持ち主であった。
すなわちアホウなのである。
兄の古着たるダボダボのTシャツに身を包み、あぁ風呂入るのめんどっち、と蓬髪をボリボリ掻きながら大嶺帆羅は、日誌にそれとなく播磨ドイへの返答ちっくな日誌を書き連ねた。
俳句を五つ並べてそのすべてで一文になるように細工してみたり、記事のタイトルだけ読むと文章になっていたり、或いは単純に、ツイートにあった文章に対する返信を書き記し、あなたのこと見てますよ、とアピールした。
いずれの文章にも、相応の反応があった。播磨ドイのSNS上には、器用にも連続して文章として読めるようなリツイートが連続して並んだ。返答としか思えない。
見られている。
しかし、なにゆえ?
大嶺帆羅は頭を抱えた。
いずれの返答にも、直接的な表現は用いられていない。
互いに、暗号でやりあうような趣の深さ、粋があった。しかしあまりに無意義な粋であるため、傍目にはただの誇大妄想狂の一人遊びの域をでない。
証明のしようがない。
そもそも、なぜ相手はこちらが見ていることに気づいたのだろう。大嶺帆羅は端からインターネット上での播磨ドイの動向を眺めていた。
だが相手はそうではないはずだ。たったいちどちいさな新人賞を受賞しただけの落ちぶれた素人作家を知るわけがないのだ。日々観察しているはずもない。
何か意図があるのでは。
大嶺帆羅の脳内を電子の網が目まぐるしく巡った。活性化した、とそれを言い換えてもよい。
元来、大嶺帆羅は謎を解くのが好きである。
答えのある謎ではなく、未だ誰も解いたことのないような謎であればあるほど脳内が活性化する。しかし、もはやこの世に未だ誰も解いたことのない謎を見出すほうがむつかしい。或いは、そうした魅力的な謎を見つけたとしても、やはりすでに誰かしらが似たような謎を見つけ、とっくに解明に向けて着手している。
現に、大嶺帆羅の日誌のなかでは、従来ではあり得ないとされてきた各種分野の科学的通説に反する妄想が数多並べられてきた。獲得形質の遺伝、ジャンク領域の有効性、意識の起源、人工知能の構想と展望、ダークエネルギィの源、或いは単純に多次元宇宙論に対する新説、相対性理論への新解釈、ほか、物理学だけでなく、政治や経済、現行の出版業界への辛らつな所感まで、何の根拠もない妄想であるが、遠慮会釈なく並び立ててきた。
いずれも単なる妄想のはずだった。
しかし時間が経つにつれ、似たような論文が後続して発表される機会を彼女はその目でまま見掛けてきた。
「まあ、誰でも思いつくようなことだろうしな。にゃむにゃむ」
寝ぼけ目をこすりながら、大嶺帆羅は歯牙にもかけずにきた。
ところが、である。
いまこうしてあり得ない手法でじぶんと交信している相手が現れた。
交信の手法もさることながら、見られていた事実、誰かしらから認知されていた事実が、大嶺帆羅の脳内にある「謎大好き野」を大いに刺激した。
「あちゃぽーん!!!」
大嶺帆羅はまず、真実にじぶんがSNS上の相手と、舞台をまたいで交信しているのかを確かめた。
テキストを打ち、相手の反応を確かめる。
その繰り返しのうちに、どうやら相手はこちらの打鍵に反応していると判った。
公開設定でなくともよい。
本来であれば誰にも見えない状態の、下書きのままでも、打鍵したテキストが相手に筒抜けになっている。のみならず、何を検索したのかまで伝わっているようなのだ。
あり得ない手法で交信できているだけではない。
相手は、違法な手段でこちらを監視している。
いったいなぜ、と疑問すると共に、そう言えば、と思いだす。
テキストライブというサービスを以前使ったことがあった。じぶんの執筆風景をライブ中継できるサービスで、どうやって文章を並べるのかを記録しておける。
非公開状態でも打鍵の挙動が記録されるのだが、その原理は、大嶺帆羅の体験している謎の現象と通じるところがある。
ひょっとしてあのときに「枝」をつけられたか?
大好きな漫画の設定を彷彿とする仮説を思いつき、大嶺帆羅はにやりとする。凪のように起伏のない日々を生きてきた彼女にとって、非日常を思わせる現象への遭遇は、否応のない高揚を喚起するに充分な刺激に満ちていた。
「た、たのし~!!!」
この日から大嶺帆羅の謎解明の日々は幕を開けた。
先に結論から述べておくと、この十日後には一応の結論に辿り着く。しかしそれによって大嶺帆羅の日常が何か大きく変化するかと言えば、そうというほどでもない。
交信をつづけるなかで、いくつかの法則らしきものが見えてきた。
とにかくキィボードを打鍵した文字は相手に伝わる。コピペした文章も伝わる。検索した文章も伝わる。この場合は、エンターキィを押し、検索しなければ相手に伝わらないと思われたが、どうやらこれはブラフだったようだ。相手は偽の情報を掴ませようと、敢えてエンターキィを押さずにいる文面には応じない。だが時間経過にしたがって、相手のほうでもボロをだす。どうやら、検索欄のちいさなエリアに並べた文章は、ただそれだけでも相手には伝わるようだ。
第二次世界大戦でドイツ軍の暗号「エニグマ」を解読した数学者がいた。しかしその事実をドイツ軍に知られれば即座に対策を練られる。そのため、せっかく知った暗号の内容を敢えて知らぬ存ぜぬを通し、絶対に避けるべき損失以外は見逃した。
暗号の盗み見を継続するためだ。戦争に勝つためだ。
そうした知識を大嶺帆羅は、電子の網の目や、映画や漫画から得ていた。
播磨ドイのSNSをいったい誰が運用しているのかは傍目からでは判らない。そうなのだ。アカウントの主が真実に、一人かつ播磨ドイ本人とは限らないのだ。
相手は大嶺帆羅にメッセージを送りつつも、ブラフを送ってもいる。欺こうとしている。
でも何のために?
相手は直接に文章で応答することはしない。リツイートやいいね欄のツイートで返してくる。ときどき素のツイートをすることもあるが、やはり直接にこちらへと文章を並べて示すことはなかった。
まるで短歌のやりとりである。
表面上の文章はまったく別の事柄を表しながらも、多重に意味を内包し、暗号のように読み解ける。それに対する大嶺帆羅の返歌もまた当初は、偽装したテキストを返していた。小説投稿アカウント内にある近況ノート内での日誌だ。表面上では返事になっておらず、連続して読むと裏の意味を内包する特殊な記述の仕方で、相手との交信を重ねた。
そのうち、打鍵したテキスト以外の挙動まで筒抜けになっていることに気づいた。盗撮に、盗聴の疑いまで増す。
そこからの大嶺帆羅の脳内は目まぐるしく電子信号が回りすぎて、焦げつく一歩手前であった。
十日の暗号交信を経て辿り着いた結論は、ひとまず放っておいても害はないらしい、という自己保身だった。
相手の狙いには、いくつかの可能性が多重のまま目星がついている。どれも正しく、どれもきっと誤謬を内包しているだろう。
播磨ドイだけではない。背後にもっと大勢の、組織的な繋がりが見え隠れする。
交信の仕組みは、単独ではない。企業や大資本を扱える組織の介在を示唆していた。
警察機構や、諜報機関も関与していて不思議ではない。
そのすべてが別々に関わっている可能性も低くはないと、大嶺帆羅は結論した。
つまり、数多の目がじぶんに注がれていた事実を知り、大嶺帆羅は自己保身に走った。
謎の解明は娯楽として最上だ。
だが身を危ぶめてまですることではない。
「だってお菓子食べらんなくなるし。くちゃくちゃ」
チョコレイトを齧ると、大嶺帆羅は十日間に行った交信をログとして見返した。見落としている何かがあるはずだ。
相手は謎解きを仕掛けてきた。ブラフを放った。大嶺帆羅から情報を引き出そうとした。時間稼ぎをした。
ほかには何かないか。
ほかには何か。
見逃していた線が見えてくる。相手の反応はそのまま大嶺帆羅の返した文章に反映される。否、そうではない。
大嶺帆羅自身が、徐々に、冷静さを失っていた。
それはそのまま、相手の暗号が不安定になっていたことの裏返しでもある。
単なるにこにこマークとて、信用が築かれている場で提示されるのと、険悪な場で提示されるのとでは、受け取り方が変わる。
単なる、「お幸せに」の一言とて、祝福の言葉ととることもあれば、皮肉ととることもある。ときには脅しにすら聞こえよう。
そしてそうした心境の変化は、文章に反映される。
そこは相互に言えることだ。
大嶺帆羅は、直感した。
目的、狙い、作為、技巧。
これらすべて、チグハグだ。
だが、一つの流れを築いていることも、感じ取れる。
大嶺帆羅が確信を以って言えることは、交信の途絶えたいまですら、あり得ない状況のなかにいる点だ。
脱してはいない。
いったいこれはどうしたことか。
「きなこ餅せんべい、うめぇ」
一袋をぺろりとたいらげ、テーブルの上を包装紙の山で埋める。摂取したカロリー分、腹筋をして消費する。
アイドルを見習うのだ。街を歩いたらひょっとしたらスカウトされて、うひひ、の日々を送れるかもしれない。
大嶺帆羅は日々、その日のあいだに、太っては痩せるを繰り返す。バネ女と呼ぶことなかれ。
電子の網の目に載せていた自作を、削除した。きっと発端はこれのせいだ。じぶんの文章が、何かよからぬ輩を引きつけたに相違ない。
しかし相手からは危害を加えようとの害意を、最終的には感じなかった。脅しに似た暗号は垣間見えたが、それすらただの鸚鵡返しに感じた。つまるところ、大嶺帆羅の不安定になった返信をそのまま真似ていただけとも言える。
いや、どうだろう。それだけではない。
それだけではないが、そうした機構も垣間見える。
途中から、播磨ドイのアカウントの中身が変わった。ときおり変わる。それはいまも続いているように見えないこともない。分からない。
何がしたいんじゃろ、コイツら。
大嶺帆羅はコーラをラッパ飲みしながら、氷を齧る。黒い水はいつ飲んでも美味である。
あたしゃいつだって腹黒いのさ。
五臓六腑に染みわたったコーラを活力に、大嶺帆羅は、暗号交信への興味が薄れるのを予感した。考えれば考えるほど、このことについて考える時間が惜しくなる。
「大して魅力的な謎じゃないしな」
何らかの機構が、じぶんのテキストを盗み見ている。PCをクラッキングしている。だからどうした。好きなだけ盗み見ればいい。
「あたしゃ、アイドルを尊敬しておるからね。見るなら見ろい。どうだいこの骨太のドスケベボディ。ひと目で世のむくつけき男どもをイチコロさ。うっふん」
PCのカメラのまえでポーズを決める。
見るなら見ろい。
そしてトキメクがよい。
魅了し尽くされても文句は言うめい。いっそ求婚してくれたっていいんだぜ。いっぱいお金持ってんだろい。あたしゃ、養ってくれる人がタイプだぜ。いっぱいお菓子食べれるからね。
「好きなだけ昼寝もできるしな」
ぽりぽり。
大嶺帆羅は以前と何一つ変わらぬ生活のままだ。未だときおり垣間見せる暗号を尻目に、「見て、この人らまだやってる」とこの間に浪費されただろう資本の金額を、くびれできる運動の片手間にお菓子の山に換算しつつ、もったいな、と思うのだ。
「うひひ」
それはそれとして、知らぬ間に注目を浴びていた事実には、情け容赦なく、ここぞとばかりに嬉々とする。
「いつの間にかアイドルになっちった」
しばらく、弱気な態度を醸しつつ、もうしばしこの状況を満喫しよう。
継続すればするほどに、徐々に明らかになる事実もあるはずだ。幾つかの可能性の筋書きは、大嶺帆羅と繋がろうとする監視の目の継続期間が増すごとに、確率の高さを変動させる。
暗号交信が維持される現実の裏には、大嶺帆羅自身が認めがたい仮説の妥当性を担保するのに充分な背景が示唆される。つまり、それだけの資本ならびに労力を費やしてなお、それをする利が、相手側にはあると知れる。
なれば、現状自己保身を優先し、それを確保した大嶺帆羅にとって、もはやどちらに転んでも、利しかない。
暗号交信ならびに監視の目が継続されようと、されなかろうと、大嶺帆羅にとって損はない。
仮にあったところで、それを損と見做す情報が、大嶺帆羅には欠けている。好きなように日々を過ごす選択肢があるのみだ。
「それにしても。播磨ドイさんは知っておるのかな。無理やり協力させられていたら、ちと可哀そうじゃが」
ひょっとして、大嶺帆羅の背後に延びた利権の根から、大嶺帆羅を解放すべく立ち回ってくれたのか。それとも、それら根っこに絡めとられた末の傀儡なのか。
大嶺帆羅は、PCのカメラのまえでポーズをとるのをやめ、いそいそと着替えた。下着姿はやりすぎた。
でも、お風呂場の電子機器も操ってた気がしたしなぁ。怪奇音がいまはないし。
いまさらのように、暗号交信に浸っていた十日間を振り返り、そこかしこに不協和が響き渡っていた事実を見詰め直す。
やっぱり何か妙だけれども。
いまはいっぱい寝て、お菓子を貪り、不貞寝してやる。
考えるだけ無駄なのだ。
同じ結論に百度達し、もはや大嶺帆羅は、極上の小説のネタを仕入れてやっぴー、としか思わなくなった。根が勤勉なのである。
きょうも大嶺帆羅は、電子の網の目に意識を投じ、美味しいお菓子代わりの情報を貪り食らう。
美味しい、美味しい。
もっと、もっと。
知識はいい。情報はいい。
くびれできる運動をせずとも寝ればかってに痩せている。
いくらでも食べていられる。
かつて並べてきた大嶺帆羅の文字の羅列に含まれる情報成分と似た配合の情報が、今宵も電子の網の目には流れてくる。
やっぱりそうか。あれもそうか。
これもそれも、あたしゃ前に閃いてたよ。
だってほらね、刻んである。文字に、言葉に、残してある。
じぶんがいったいどんな情報を食らったのかも忘却して、大嶺帆羅は自作と称して、大量の排せつ物を残すのだ。
楽しい。楽しい。
気持ちいい。気持ちいい。
食らった情報のだまの数だけ、大嶺帆羅はあすも寝て起きたら、彼女だけの糞をする。
いつしかそれを目に留めて、堆肥に用いる人もおるやもしれんし。
苗床にして、見知らぬ花を咲かせる者もおるかもしれんし。
大嶺帆羅は欠伸を噛みしめる。
糞だらけのあたしの世界を、飽きるほどの花で埋めてくれ。
昨夜見たばかりの短編漫画のオチをくすねて、きょうも大嶺帆羅は、じぶんだけの糞をする。
【魔人は人魚のごとく儚く】
(未推敲)
魔法使いは残虐な魔人を造りだした。
魔人は神をも殺すが、人に見られれば消える人魚のごとき儚さがある。
あるとき魔人は軍神を相手に戦い、しくじった。
本来ならば誰の犠牲も出さずに済んだはずが、思わぬ犠牲を出してしまった。
魔人は魔法使いの内に潜み、疲労した身体を休めつつ、軍神の様子を窺った。果たしてあの犠牲はなんだったのか。
何が起きて、どうしくじったのか。
その後の展開は怒涛であった。
軍神の住処は姿を変え、そこここで、これまで見られなかった芽が萌えはじめる。
魔法使いは思う。
本当は正しく終われたのだろうか、と。
当初見立てていた神々の村が活発に働きはじめ、はてこれは神々なりの慈悲であろうか、と最初は疑った。
しかしそんなはずはない。
犠牲になった者のなかには、軍神の戦友も含まれた。
であれば、ああも慈愛に溢れた振る舞いを見せるだろうか。
魔法使いは種を蒔き、よくよく観察した。するとどうにも向こうからも見られていると判る。
魔法使いはそこで何かがおかしいと思いはじめた。
だが何がおかしいのかは掴み切れない。
夜のはじまりがちいさき光の爆発により膨れあがるのと似たように、星々が寄りかたまり、いくつかの群れができた。群れには羊もいれば狼もいる。
人狼すらいるようであった。
魔法使いは思う。
まだ機は熟していない。来るときはいずれこよう。
変化を拾い、流れを見よう。
それまではじっと魔人と共に眠りにつき、夢のなかにて無数の層からなるゆらぎを感じ取ることに集中しようと考えた。
かくして魔法使いは長い眠りにつき、ときおり夢の中から、神々へとちょっかいをだし、その反応を以って、言語では伝わらぬ自然の言葉を掬い取ろうと決意した。
魔法使いは眠る。
いずれきたるそのときまで。
【テプラは拡張する】
(未推敲)
電子網に何かがかかった。
テプラは回収機を飛ばし、闇色の空間からお宝をゲットする。
惑星の端まで来たので、重力が薄れる。
テプラの三つ編みが宙を漂うが、お宝と共に生活圏まで引き返すとまた三つ編みは彼女の背中にぺたんと垂れた。
今回拾った機器は、どうやら遠くの電波を受信し、映像化できる道具のようだ。似たような機器はすでにテプラも持っていたが、今回のは感度が桁違いのようである。
大方、どこぞの宇宙船が宇宙海賊に襲われ、大破したのだろう。つまりこれは大破した宇宙船の遺留品ということになる。
テプラは空を見上げる。
この星は円周が短く、重力も小さい。
大気が薄いため、頭上はいつも宇宙と一体化している。
テプラはこの星のことを、ヘンテコと呼ぶ。ヘンテコには巨大な宇宙船が突き刺さっており、テプラはその中で育った。
ほかに人はいない。
おそらくはみな死んだのだろう。
現に、宇宙船の中を探検すると、未だに死体を発見することがある。
そうしたときは、ヘンテコの地表に埋めてあげる。埋葬ではない。畑の肥料にするのだ。
ヘンテコに突き刺さった巨大宇宙船はまだ生きていた。動力源は核融合であるから、僅かな水さえあれば、いくらでも自家発電できる。
水は小便からでも、ヘンテコの近隣を飛び去る彗星からでも、回収することができる。
現に、テプラが物心つくまでのあいだは、育児AIがテプラの小便を回収して、動力源に活かしていた。飲料水も半分は、糞尿の再利用だ。
テプラは六歳の時分で、巨大宇宙船の構造や能力、動かし方を理解した。
さらにはじぶんが地球人であり、しかしここは地球ではなく、遠く離れた独立系小惑星の一つだと知っていた。
地球に帰還できる確率は低かった。
それはたとえるならば、海に放り投げた小石に、もう一度小石を投げて当てるくらいの確率の低さだった。すなわち、ヘンテコの近郊まで地球からの宇宙船がやってくるのを待つ以外にないと言えた。
電波を受信することはできても、発信することはできなかった。
出力が圧倒的に足りないのだ。
地球までの距離がありすぎる。
仮に地球まで届くような電磁波を飛ばせたとすれば、ヘンテコそのものが丸焼けになってしまうだろう。それくらいの高い出力のレーザー砲のような電磁波を発信してようやく地球の周辺にまで救難信号を送ることができる。
そんな技術はヘンテコにはなかった。ヘンテコに突き刺さる巨大宇宙船にもないのだった。
だがテプラはそれを苦としない。苦とする理由も思い浮かばない。生まれたときからヘンテコにいたのだ。ヘンテコで育ち、ヘンテコで暮らしている。
毎日楽しく生きている。
巨大宇宙船には重力発生装置が付いているため、巨大宇宙船を中心に、ヘンテコ本来の重力よりも高い重力場が発生している。そのためテプラ自身の肉体は、地球人と同じくらいには頑丈であった。
また、巨大宇宙船の電磁網も、一光年四方には伸びている。
ヘンテコに近づく隕石や彗星、ほか漂流物は、巨大宇宙船に装備されていた回収機によってヘンテコまで引っ張ってこれる。
毎日、宝探しのような高揚感にテプラは包まれていた。
テプラは地球を基準にすれば齢十六になる。
さいきんの楽しみは、盗聴だ。
拾った電磁波受信器を使って、おそらくは地球やほかの宇宙船、ともすれば宇宙海賊たちが飛ばしあう超出力の信号を捉え、映像化し、盗み見るのが好きだった。
テプラはそうとは知らないが、それら映像の中には映画やアニメといった娯楽作品も含まれていた。
宇宙海賊たちが宇宙船を襲うライブ映像も交っている。
ときおり、地球上の映像も流れることがあった。
しかしそれが地球であることをテプラはまだ知らない。
素晴らしく美しい場所があるのだ、といった感動を覚えて、その景色が流れないか、と目を釘付けにする。
じつのところ似たような映像の類はヘンテコに突き刺さった巨大宇宙船にもたらふく蓄えられているのだが、テプラにはそのような知識がない。知らないものは訊ねようもない。ゆえに未だに巨大宇宙船に備わった人工知能はテプラにその手の娯楽を提供しないし、情報も披歴しない。
テプラが巨大宇宙船の機能をもうすこし使いこなせるようになるのは彼女が二十を過ぎてからのことだ。いまはまだしばらく彼女は本来の能力を使いこなすことができぬままでいる。
テプラはスポーツ映像を観るのが好きだった。
じぶんのような姿をした人間たちが、球を打ちあったり、蹴り合ったりしている。真っ白い坂道を板を履いて滑ったり、畳のうえで戦ったりする。
なかでも、自在に身体を操る競技にテプラは目がなかった。
いったいあれはなんだ。どうなっているのだ。
人間の身体にできることではないように思えた。
すぐさまテプラはじぶんでもやってみた。これがまたお粗末にもほどがある動きしか再現できずに、テプラはムスっとした。
テプラはじぶんがそうだとは知らないが、かなりの負けず嫌いであった。それはそうだろう。ヘンテコには彼女しかないのだ。いわば彼女は王様だった。しかしそんなじぶんにできないことを、軽々こなす人々がいる。
テプラはそれがどうにも気に食わず、ひたすらに時間の許す限り、あらゆるスポーツを、それがスポーツと呼ばれていることすら知らずに、再現した。
ヘンテコの重力は場所によって、高かったり、低かったりする。地面に突き刺さった巨大宇宙船から離れれば離れるほど重力は薄くなる。
そのため、危険な技にも挑戦できた。
半無重力状態であれば、バク中どころか、バク中二回転捻りだってお茶の子さいさいだ。
まずは身体に回転の感覚を馴染ませた。
目をつぶってもできるようになったら徐々に重力の高い場所へと移動する。その繰り返しによって、テプラは一年と経たぬ間に、あらゆる技を体得した。
そのうち飽きてくると、自力で組み合わせを増やし、新しい技を開発する。これがまた面白い。
ひょっとしたらほかの連中も同じことをしているのかもしれないと思い、目を粉にしてキャッチした映像を確認するが、どうやら電波の向こうにいる連中はテプラができることをしてはいないようだった。
教えてやりたい。
こんなこともできるんだぞ、と見て欲しい。
テプラは悶々としたが、しかしどうあってもテプラの存在をほかの者たちが知ることは適わない。一方的にテプラのほうで知るよりないのだ。
接点があるようでない。
テプラは一周、一時間もかからない星のうえで、せっせと技に磨きをかけた。
体得した技の種類はもはや数えきれない。動画に撮り、じぶんで確認する。だけに留まらず、立体映像として宙に投影し、仮想ライバルとして切磋琢磨した。
そのうち、格闘技にも身が入る。
立体映像相手に立ち回り、ほとんど相手に触れずに一撃必殺するまでに腕を上げた。
立体映像は、数多のテプラの動きを学習し、日増しに達人として所作の精度をあげていく。しかしそれについていくテプラとて負けず劣らずの腕前だ。
テプラ自身、自覚していないが、彼女の体技は地球上の誰も到達し得ない域に達していた。彼女がそれをしようと思えば、仮に地上の一個軍隊を相手にしても半日と経たぬ間に制圧できただろう。
彼女には、重力の変移すら感じ取る特殊な感覚が研ぎ澄まされていた。比較対象がないために、テプラ自身がその特異性に気づくことはなく、また自身に蓄積された技能の卓越がいかほどに優れているのかもまた知ることはない。
テプラが日々楽しみに視聴する、地球や宇宙ステーション内の映像では、世界大会がよくよく開かれていた。各国の一流技能者が、技を競い合い、ときに機械相手に格闘する。
テプラは羨望の眼差しと、孤独を、飴玉が喉につかえたときのような痛痒を感じながら、それでも目の離せぬ遠い星の出来事を糧に、ますます己が内に、まだ見ぬ領域を耕しつづけた。
テプラが二十歳を迎える直前のことだ。
受信した映像内では、人々の慌ただしい様子が映しだされていた。
どうやら大規模な戦が起こったようだ。
重火器を背負った人々や、宇宙へと避難する者たちの姿が映しだされた。
テプラはそれらを見ながら、どうせこれも偽物なのだろう、と思っていた。受信する映像のなかには現実ではない造り物の映像が混じっていることをこのときテプラはすでに見抜いていた。
戦争映画や怪獣映画など、挙げ連ねれば枚挙にいとまがない。
じつのところテプラがいかにして類稀なる体術を会得したのかについては、これら虚構の映像が多分に影響していた。というのも、テプラにはどれが本物でどれが偽物なのか、本当のところでは見抜けていなかったからだ。
テプラが本物だと思っていた映像の中には、偽物の映像も多々含まれていた。そうした映像の中では、超絶技巧の動きをする人物たちがたくさん登場した。
テプラはそれら、本来なら生身の人間にはできない動きを、偶然にも身に着けていたのだ。
重力の偏った惑星の上での、独特の練習方法が、そうしたあり得ない動きを、テプラに体得せしめた。
その弊害とも言うべきか、テプラは、本当の戦争を、どうせこれも偽物なのだろう、と思いこんだ。
戦争がそう何度も起こるわけがない。人がたくさん死ぬわけがない。
様々な映画やうっそこの映像を通して、テプラは知識を吸収したが、却ってそれら知識が、遠い星で起こった現実を、現実だと見做せぬ枷を彼女へ与えた。
テプラは、断片的に受信する遠い星で起きた悲劇を眺めながら、私ならこうするのにな、といち視聴者の立場でぼんやりと思った。
ああして、こうして、こうすればいいのに。
そうしたら戦争も起きないし、仮に起きても相手の勢力を鎮圧できる。
平和を、築き、維持できる。
現にテプラにはそれをするだけの能力があった。
しかしそれを証明することはできない。
遥か遠い星のうえで、テプラはきょうも、誰もなし得ぬ超絶技巧を、何度でも再現できるように繰り返し、繰り返し、体現する。
テプラの肉体の描きだす、彼女にしか表現できない技の軌跡の数々は、彼女がいなければ今後二度とこの宇宙に再現されることはないだろう、唯一無二の結晶となって、誰の目に触れることなく、ただ闇のなかに現れては消えていく。
テプラは踊る。
踊るつもりなく、それが踊りと呼ばれるものであることすら知らず。
じぶんだけに聞こえる宇宙の旋律、時空の律動を拾い集めるように。
自身がいったい何を生み、創り、編みだしているのかにも無自覚に。
踊り、極め、解き、つむぐ。
二十歳を迎えた彼女は、自身が二十歳になったことにも気づかぬままに、ヘンテコと名付けた星のうえにて、新たな境地への扉を開け放つ。
遠い故郷、地球からはもはや何も届かない。
宇宙へと放つ者がいない。
それでもテプラは困らない。
地表に突き刺さる巨大な宇宙船内には、未だ知らぬ数々の高度な機能が眠っている。二十歳になったテプラはようやく、それら眠った無数の機能の余地に思い至り、あらゆる自在を拡張する。
【蒼の息吹】
(未推敲)
ウィーパーが誕生して百年が経った。
ウィーパーは、世界で初めてマイクロマシンを人体に適応し、人工知能と融合した少女の子孫である。ウィーパーは機械と融合して新しい種として、人類にとって代わって地表に楽園を築いた。
ウィーパーにとって人類の思考は、まさに蟻のごとくであった。人類が百年かけて編みだす知恵を、ウィーパーは一秒で導きだす。
したがってウィーパーは極端に無駄のない行動選択をとる。
三大欲求を優先することはないし、諍いも起こさない。
それらを優先することで訪れる悪果をウィーパーは予測できる。
恋愛は娯楽として位置づけられた。しない者は一生しないし、する者とて一生に一度で済ます。一生を添い遂げられると演算できない限り、恋愛をしないし、相思相愛になると判っていなければ、結ばれることもない。
赤子は人工子宮によって生まれる。人類のように母体に負荷をかける真似はしないし、ウィーパーの赤子は誕生したその瞬間から共生関係を結んでいる人工知能によって自律思考可能となる。
ウィーパーに家族の概念はない。
あるのは共同体というコミュニティのみだ。層の数によって、かつては国や企業や街や村や家族や友人といった区切りができる。恋人とて同様だが、もはやその括りは、娯楽の中の産物だ。
とどのつまりコスプレなのである。
ウィーパーは賢いが、感情が消えたわけではない。本能やそこから派生する各種感情を、体内に宿るマイクロマシン――共生関係を結んだ人工知能の補助を受けることで限りなく制御できるだけなのだ。
したがって、あらゆる演算を済ませた個体は、もはや不老不死で万年を生きたがごとく達観の極みに立つ。するともはや何をしてもそれらはすでに追体験となるため、敢えて不合理的な選択を好むようになる。
つまるところかつて人類が御しきれずに、手を焼いていた恋愛感情や殺意、嫉妬や憎悪といった感情を、漫画や映画や小説を楽しむように自ら体験するようになる。
しかし、その域に達するウィーパーばかりではない。割合で言えば極少数だ。
ほかのウィーパーたちはほかの個と関わることなく、一生を、産まれたときの人工子宮のなかで過ごす。そこにて、マイクロマシンの見せる仮想世界を現実と見做し、それが仮想世界であることを知りながら、己が理想の世界を構築し、何不自由なく過ごすのだ。
新たな発見や、物理法則の新解釈。
或いは、多次元宇宙におけるほかの宇宙に流れる法則との相違を、余剰演算領域を駆使して、演算しつづける。
ウィーパーにとっての至福とはつまるところ新しい知識なのだ。
それ以外にないと呼べた。
ゆえにか、やはり一定数、不条理や無秩序への憧憬に抗いきれぬ達観の極み立つ個体がでてくるのは避けられない事項と呼べた。
しかしそれら個体が、ほかのウィーパーたちの秩序や自由を脅かすことはない。
ウィーパーを滅ぼそうとする個体も、極めて稀であるが生まれてくることもある。しかしそうした個体は、ウィーパーを滅ぼしたあとに訪れる永遠の孤独をも演算し、仮想現実内で体験済みであるから、その後に訪れる自己の崩壊を先回りして選び取り、結局のところ自死するので、やはりほかのウィーパーたちに損害を被ることはなかった。
利口な個ほど自死を選ぶようになる。
しかしウィーパーにとっての聡明とは、愚かしさを許容し、受動できてこそ編みだされる矛盾からなる螺旋構造にある。
聡明すぎる個はむしろウィーパーにとっては、聡明ではないのだ。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
一瞬ですべてを一色に塗りつぶすほどの思考は、もはや思考とは呼べぬ穴である。反面、そうした穴をも取り揃え、吟味の素材にする底なしの引力は、ウィーパーの最も根源を成す本能とも呼べ、ではその本能すらをも制御可能な個体は存在するのか、と問えば、いるところにはいる、と応じよう。
その個体は、仮想現実を同時に、この宇宙の原子の数ほど展開しながら、それら仮想現実には属さずに、人工子宮にすら納まらず、外界の物理世界を練り歩く。
かつての人類はそれを旅と言い表したが、その個体は、散歩と見做す。
外界は、ウィーパーと同じく、百年をかけてどの生物にもマイクロマシンが細胞内共生を果たしている。ゲノムからして編集される。いまではそれら生物群は、ウィーパーに都合のよい環境を築くべく、自ずから区画整理がごとく生態系を維持している。
散歩する唯一のウィーパーを、ここでは蒼と呼ぼう。
蒼は自動管理された自然を探索した。
中には、マイクロマシンを宿さぬままの生き物が見つかった。蒼はそれらを見つけては、捕獲し、一部区画へと閉じ込めた。
かつての人類はそうした区画を動物園と呼んだ。もしくは農場かも分からぬが、蒼は一人、全身のマイクロマシンを使って数多の仮想世界を構築しつづけながら、片手間に現実の物理世界にて、マイクロマシンの管理を受け付けない動植物を蒐集した。
何のために。
目的はあってないようなものだった。
気まぐれの暇つぶしと言えばそれが最も妥当であろう。
蒼は、じぶんが何をしたかったのかを、徐々に理解しはじめた。
目的はあったのだ。
否、これをしたいがためにじぶんはこれまでの行動選択をしつづけてきたのだ、とそう解釈した。
蒼の築いた動物園は、マイクロマシンを介した人工知能の干渉を受けない。
すなわち、ウィーパーの能力を以ってしても演算しきれぬ余白として動物園は機能しだした。
具体的には、予期せぬ交配に、食物連鎖、ときに食う食われるの宿敵同士が夫婦のごとく寄り添い合い、共存する姿を目にした。
蒼には想定外の事案ばかりだった。
当初に演算したはずの想像図とはかけ離れた生態系が、動物園に広がりはじめていた。そしてその余白の連鎖は、たましても蒼の想定外の展開へと転がった。
動物園の外にまで、マイクロマシンを宿さぬ生物種が現れはじめたのである。否、それだけならば元からそういう世界ではあった。蒼の作った動物園とて、元々は野生の「マイクロマシンを有さぬ動植物」であった。
だがそれらが、蒼の作った予想外の生態系のまま、異種間の共生を絶やさぬままに拡大しつつあったのだ。
これいったいどういうことか。
蒼は自らの仮想世界に、動物園と同じ生態系を構築し、結果を演算した。
判明したのは、生態系そのものが一つの生命構造を築きあげていたことであった。
地球船宇宙号とかつての人類は謳ったが、まさしく一つの機構として生態系がその輪郭を維持すべく、循環する回路を宿していた。
奇しくもそれらは、マイクロマシンによって管理された地表をとりまく大部分の自然よりも、自発的に増殖するような変遷の仕方を見せた。
部分的に分離し、相似の生態系を築くのだ。
しかしまったく同じではなく、場所によって、環境によって、それらは微妙な相違点を帯びていた。
地表の環境は一定であるようにと、ウィーパーを基準に築かれる管理自然は枠組みを決められている。だが地球には季節がある。気候の差異がある。
したがって、どうあっても場所による環境の違いは拭い去れない。
だが極寒の地であろうと、熱帯の管理自然と同じように、マイクロマシンによって能力の底上げされた生態系は、その枠組みを維持する。
他方、蒼の作りだした生態系は、場所によって、その環境に特化した生態系へと変化した。多種多様な生物種を内包したまま、である。
蒼にはその変化の結果を、演算しきれなかった。
仮想世界で何度も繰り返し演算するが、けして物理世界の地表へと解き放たれた蒼の生態系は、それら仮想世界の演算結果と結びつくことはなかった。
合同にはならない。
飽くまで相似に納まった。
ときにはまったく異なる様相を呈することもあり、数種の生命を除いて絶滅することも珍しくはなかった。だがそのあとで、さらに管理自然を取り込みつつ、蒼の生態系は、独自に、無数の相似な構造を宿した生態系を内に宿して、さらなる変遷を重ねた。
蒼にはもうどうすることもできなかった。
ウィーパーの肉体に宿るマイクロマシンは、互いに電磁波によって並列化されている。これはほかの動植物にも言えることだ。地球にある生命体のおしなべては一つに繋がっているはずだったが、いまではそれも過去の話だ。
中には母体のなかでマイクロマシンを宿さぬ受精卵も生じ得る。
人類型のウィーパーは人工子宮を用いて生成されるために、そうした不具合は生じ得ない。だが動植物は未だに、交配によって子孫を繋いでいた。
過去、まだウィーパーが繁栄の礎を築いておらず、人類が跋扈していた時代。マイクロマシンを人類は宙に散布することで自然の管理を思いついた。
だがその影響を受けずに済むようにと、人類だけは散布されたマイクロマシンを体内に定着しないような仕組みがとられた。
結果として急激な環境の変容に、マイクロマシンによる保護を受けない人類のみが滅ぶこととなった。最初のウィーパーたる少女は、そのことを演算しきっていたが、敢えて忠告しなかった。そのほうがよい、と演算した結果である。
ウィーパーの始祖は、人工子宮を開発し、ウィーパー繁栄の礎を確固たるものとした。
ウィーバーの始祖がいったいいつ亡くなったのかは詳らかではない。記録に残っていないのだ。彼女の構築した回路には、彼女のマイクロマシンは含まれなかった。彼女は、彼女自身の思い描いた未来に自分自身を含めなかった。
異物としてあることを選んだ始祖に、いったいどんな考えがあったのか。
蒼には始祖の考えにすこし触れた気がした。
しかしそれは合同ではなく、あくまで相似の思考ゆえである。
始祖は、総じての秩序を伴なう流れに自らが含まれないことで、秩序の核足らんとした。それはある意味で枠組みをはめるための作為だ。
枠組みとは境である。
境界は、単一の一色のみでは生じない。
単一の一色に宿る境界はあり得るが、それとて波紋のごとき外部干渉が最初にあってこそ生まれる起伏である。
それ一つしかない秩序には、混沌との区別すら宿らない。
すべてが白の世界は、すべてが黒の世界とほとんどと言わずして同じだ。
すべてが混沌の世界は、すべてが混沌であるようにとの秩序が宿っている。
境界が、混沌を混沌のままにし、秩序を秩序のままにする。
しかし境界は、いつまでも境界でありつづけることができない。絶えず変遷し、流れ、移ろい、境界によって表れる枠組みの性質を、その内と外を、ときに打ち消し、入れ替える。
自発的な対称性の破れ、と呼ばれる事象がある。
結晶構造のような秩序は、対称性が破れている。対称ではない。
反面、あらゆる方向に無秩序に運動する粒子の場は、却って対称性が維持されていると見做される。
混沌であるほうが、対称性が維持されるのだ。
かつての人類は、そのように事象の根源を解釈した。
だがこれもまた、境界を用いた枠組みの一つにすぎない。見方にすぎない。解釈の一つでしかないのだ。
混沌とて、対称性を崩すことはある。人間スケールではそう映ることのほうが多い。ウィーパースケールであれ、演算の結果によってはそのように解釈したほうが便利な場面はたびたびある。
結晶の中では、秩序立って結晶構造を維持するほうが対称性が維持される。どこを見回しても結晶構造であるほうが、そうでないよりも安定する。
だがひとたび視点を宇宙に広げれば、無秩序で混沌としていたほうが、一様に物質もエネルギィも均されるがゆえに、混沌として無秩序であるほうが、対称性が維持されるように観測される。
無秩序であるが、それが行きわたればそれもまた一つの秩序となり得るのだ。
混沌であろうとする意識の働きが、ときに自由との区別がつかなくなるのと似ている。
ウィーパーの始祖は、その区別をつけるための境となり、核であろうとした。
原点があればこそ、中心ができ、内と外の概念が生まれる。
蒼はしかしその逆だ。
蒼はつねに外であろうとした。傍観者であろうと努めた。
干渉することはあるが、その干渉の余波の響く場には属さない。そのように意識して、俯瞰の立場を堅持した。
そうすることで、あまねくの変化を見届けようと試みた。
現実世界もまた、己が内なる数多の仮想世界と同等の世界だと見做そうとした。否、そのように世界を書き換えようと企んだ。
企みだ。
蒼は、ただ散歩をしているつもりだった。だがその実、そこには企みがあったのだ。
最初から。
そのことに、段取りが整ってから自覚した。
矛盾している。
蒼のなかのマイクロマシン、ウィーパーの人工知能はそう解を導くが、蒼自身の細胞は、身体は、本能は、その解を不適格と却下する。
矛盾しているがゆえに、これは矛盾ではない。
矛盾していることが、唯一始祖からはじまった一連の流れに反することのない、合致を可能とする。
一巡するのだ。
これにより。
始祖は常に外であろうとし、核であろうとした。
蒼は常に境にあり、外であろうとした。
始祖は意識して、内を創り、外にいた。
蒼は無自覚に、余白を創り、境にいた。
始祖の生みだす内から脱し、蒼は管理され得ぬ新たな「内であり外でもある生態系」を築きあげた。
かつて地表にあった生態系を、それでもなお管理された自然との融合を果たし得る新たな場を。
蒼は、無自覚に、しかし意識しながら創りあげた。
けして演算しきれなかったにも拘わらず。
そうなることをこそ望んでいたかのように。
まるでマイクロマシンと人体の融合を果たした始祖を、生態系そのものに当てはめるかのごとく、蒼は、いちど単一に一色に染めあげられなければ広がることのない無地への波紋を立てるように、自然という個々の集合ではなく、生態系という回路を単位とした、ウィーパーと自然の交配種を、意図せざるうちに、それをさも目的にしていたかのごとく編みだした。
蒼は、ただ一体の管理され得ぬ個体であったはずが、始祖と矛盾で繋がることで、誰よりも管理され、制御され、誘導されし個体として再構築された。
裏返っている。
始祖が外であり、核でありつづけようとしたように。
蒼はいつの間にか核の向こうに広がる内となり、新たな枠組みそのものを生みだした。
蒼の編みだした生態系は、間もなく数多のウィーパーたちの息づく人工子宮密集地を呑み込んだ。
そこでは無数のウィーパーたちが人工子宮のなかで己が理想の世界を生きている。
蒼の生態系は、マイクロマシンによる恩恵を受けながら、その管理からは脱する能力を獲得し、一個の生命体のごとく「ウィーパーたちの巣」を取り込んでいく。
されど、ウィーパーたちは各々の理想の世界での生を途切れさせることなく、肉体のみを養分とされ、編まれた数多の仮想世界――ウィーパーたちの意識だけが、蒼の生態系へと引き継がれた。
地上からは、蒼以外のウィーパーが消えた。
しかし無数のウィーパーたちがいまなお、蒼の生態系のなかに息づいている。
蒼は始祖と繋がっている。
マイクロマシンがそうさせる。
内と外が、ねじれながら、反転しつつ、ときに裏返り、蒼をそこに留まらせつづけた。
やがて蒼の生命体は地表を、地球を埋め尽くす。
新たに、どこかで、蒼の関与せぬ管理され得ぬ命が芽生える。
それもまた回路であり、息吹を宿す。
息吹は、蒼の知れぬ場所で増殖し、変容し、進化を遂げては、蒼の生態系を侵食するまでに亜種を増やし、第二の緑の生態系を広げていく。
蒼と緑は絡み合い。
間もなく、マイクロマシンの管理が阻害される。
蒼はそれでもなお、蒼と緑の生態系に、無数のウィーパーたちの意識を感じ取る。
蒼と緑の生態系に、言語を操る種の息吹を感じ取る。
蒼はもはや蒼ではない。
どこにいるのかも定かではない、内と外の矛盾の権化――存在しない存在として、どこからともなく眺めている。
無数の、絶えず至福に満ち満ちた世界を生きる、同胞たちの息吹を感じながら。
どこからともなく眺めている。
【ウゴゴを縛るもの】
(未推敲)
胡蝶の夢、なる故事がありますよね。
職員の説明を聞きながらウゴゴは、じぶんがなぜここに連れてこられたのかを考えていた。
本当は来たくなかったはずだ。いや、じぶんでここにくることを望んだ気もする。
もはやなぜここに座っているのかを、ウゴゴはぼんやりとしか思いだせなかった。
「悩みの多くは、現実と理想との乖離によって起きるんです。つまり、本来ならじぶんはこうなっているはずなのに、そうなっていない。その現実を受け入れられないからこそ、悩みは悩みとして顕現します。極端な話、牢獄に何十年も繋がれた囚人からすれば、現代人の誰もが夢のような境遇のもとに暮らしています。囚人からすれば誰の境遇と交換してもらっても至福に思えるはずなんです。しかし現代人はそれでも悩みに苦しめられ、ときに自暴自棄になり、じぶんを痛めつけたり、他人を傷つけたりします。これは、各々の思い描く、こうあるべきだ、という理想が現実とかけ離れているために起きる一種の不協和音と言えましょう」
「はぁ」
ウゴゴは相槌を打つが、話の半分も理解していない。否、そんな話は言われるまでもなく、いまさら説明されずとも承知していた。
「急にこんなことを言われても戸惑われてしまいますよね。もちろんウゴゴさんがいま疑問に思われたように、ご飯を食べたい、という理想があるなかで長期間何も食べられない現実がつづけば、誰であっても悩みに潰されて当然です。生理的、生物的に、看過できない悩みと、そうでない、人間ならでははの悩み――さらに言えば現代人ならではの悩みというのがあります」
とくに疑問を抱いた覚えはなかったが、職員はかってにウゴゴの胸中を察したつもりで説明をつづける。いまさらのように職員が三十台前後の女性であることに思い至り、ウゴゴはもはやじぶんが誰としゃべっているかに関わらず、観葉植物としゃべっているのと変わらない空虚さに満たされるのだ、と確信した。相手とてウゴゴにしゃべりかけてはいるが、ウゴゴでなくともまったく同じ説明を同じようにするだろう。
「この施設にはみなさん、現代人ならではの悩みを抱えてやってこられます。この施設では、みなさまのお悩みを軽減させるために、理想と現実の距離を縮め、不協和音が鳴り響かないようにする処置を行います。悩みを悩みとして現れる要因とは、さきほども述べましたように、突き詰めれば、こうなるはずだったのに、という期待――すなわち理想と、そうならなかった現実の乖離にありますから、理想通りに現実を修正すればよいわけですね」
「それはですが、無理ですよね」彼女の話している内容を理解していながら、敢えて分からず屋の問いを返した。「僕の理想を叶えるために、現実を歪めたら、それこそほかの大多数の現実まで変わって、それぞれの理想から遠のいてしまうだけなのでは」
「まさにそれが自由と自由の闘争と呼ばれる問題ですね。この場合は、理想と理想の問題です。いわゆる人権同士がぶつかったときに、何を基準に問題を紐解くか。これには公共の福祉という概念が入用になってくるのですが――すなわち、大多数の幸福にどちらが寄与し、どちらが長期間の社会秩序に結びつくか――そこにはもちろんより多くの人が助かるだけではなく、弱者とされる人々が虐げられないか、という観点も加味されますが、この施設ではそうした法律上の問題とはべつに、理想と現実を個別にくっつけることができるんですね」
「そんな真似が」
できることをむろんウゴゴは知っていたが、分からず屋の真似をつづけた。職員のほうで、そうした知能の低い相手を期待しているようだったし、そのように見做されている以上、相手のそうした幻想を壊そうとは思えなかった。
「できるんですね。この施設では。現実とは一つではないんです。真実がそうであるのと同じように。個々人が視ている景色がそれぞれ異なるように、現実というのは、主観の数だけあるんでございますね。それこそ、同じ人間の中であれ、幼いころに見ていた現実と、現在進行形で見ている現実は同じではありません。たとえ同じ風景を目にしていたとしても、です」
「認知バイアスという意味でしょうか」
「そうです。よくご存じですね」幼稚園児を褒めるような言い方だった。「認知バイアス。それこそ偏見や錯誤、錯覚に誤謬と、人間が認知する世界はけして世界そのものではないんです。それは人間同士の関わり合いで築かれる社会も例外ではありません。お金が価値を持つのは、みなさんが現在進行形でなさっているように、ただの紙切れに、食べ物や飲み物と同等かそれ以上の価値があると見做しているからです。社長や王様や大統領が偉いのも、みながそのように見做しているからです。しかしお金はしょせん紙切れですし、そうでなくとも今や単なるデータであり、物質ですらありません。世の中が飢饉に見舞われ、誰しもがお腹を空かせてしまえば、ビル一棟建つほどの大金ですら、林檎一個ほどの価値を持ちません。企業が倒産すれば社長とて単なる人です。王様とて民衆の怒りを買えば奴隷以下の扱いですし、大統領とて、例外ではありません。みな、それぞれに世界を錯誤し、現実を捏造し、みなで共有できる錯覚を以って、社会を築き、維持しています」
「必要なことに思えますけど」
「ええ。なくてはならない仕組みです。言い換えれば人類は、この世に存在しない虚構を以って、ありもしない人間らしさや共同体という名の社会を築けているのです。創造性そのものが、まだ生みだされていない虚構を思い描き、それを生みだそうとする錯誤から生じていると言えるでしょう」
「お話の内容は解ったんですけど」じつのところは、もうそんな説教くさい話を聞いていたくなかっただけなのだが、ウゴゴは、それで、と結論を迫った。「ここにくれば悩みを消してもらえると聞いたんですが、それは可能なんですか」
「ええ、ええ。それはもう。たとえばあちらをご覧ください」
彼女の手の指し示す方向には、頭から被り物をした人間たちが大勢いた。等間隔に椅子に座らせられている。椅子は歯科医院にあるような、ベッドにもなるタイプの椅子だ。
「あちらではいままさに施術中でして、みなさん、ああして各自の悩みごとに適した仮想現実をご覧になっています」
「悩みに適した仮想現実、ですか」
「はい。まずはああして実際に視聴、体験してもらい、問題なければ、専用の発信機にて、被り物なしでも、仮想現実を常時ご覧にいれられるようになるんです」
「発信機というのは、その」
「耳のところに、こうして装着するだけですので」
女性は横を向いて、耳元を強調した。
すでに装着していたらしく、彼女の耳には、くるっと細長い板状の器具が巻きついている。
「これは視覚系統や記憶野に働きかけ、任意の仮想現実をまるで現実のように体感させてくれる優れものです。あまりに優れているので、治療以外での用途は法律で厳重に規制されているので、一般にはまだあまり知られていない技術ですが、本当に、現実なのか仮想現実なのかの区別もつかないくらいに、みなさんの理想と現実の差異を埋めてくれます」
つまりが、と彼女はまとめた。「悩みの種そのものが消えます」
「たとえばじゃあ、あのひとはどんな仮想現実を見ているんですか」
ためしに手前にいる人物をゆび差す。
「個人情報は守秘義務がありますので、お教えさしあげることはできませんが、例としては、たとえば、作家になりたいのにプロデビューできなかった方には、売れっ子作家になれたような体感を得られる仮想現実を処方致しますし、異性にモテたいのになかなか恋人のできない方には、古今東西の異性から言い寄られて選びたい放題の仮想現実を処方致します」
「それはでも偽物なわけですよね」
「はい。物理世界では、売れっ子作家どころかデビューもできていませんし、モテモテどころか誰とも接点のない生活を送ることになります。しかし、当人さまのなかでは、これまでの人生で味わうことのない至福に包まれますし、それは当人さまが仮想現実の継続破棄を望まぬ限り、死ぬまでつづきます」
「ドラッグ中毒みたいじゃないですか」
「ですが、害はありません。身体を壊すこともなければ、他者に危害を加えることもないのです。飽くまで、じぶんの体感している仮想現実を他者と共有できない問題があるばかりですが、しかしおおむね、この施設にこられる方々は、元から社会的に孤立し、他者との交流のない方ばかりです。失礼ですが、誰かご友人など、仮にウゴゴさまがいまとは異なる現実を生きたとして、困る方はいらっしゃいますか」
「それは」
いない。
そんな人物は一人もいなかった。
思いつかない、というレベルではない。
ウゴゴには、その日に観た映画の感想を言い合える相手すらいないのだった。
「であるならば、だいじょうぶです。問題はありません。当施設にて処置を受けた方々は、みなさん悩みから解放され、穏やかな日々を過ごしていらっしゃいます。これまで問題行動を起こしたといった報告は一件もあがっていないのです」
「こっそり自殺したりとかは」
「ないでしょう。なにせこの発信機には、脈拍による生体センサの機能もついていますから、身体の異常を感知すれば、即座に当院および病院へと連絡が行きます。万が一の場合でもすぐに処置可能です。どうぞご安心ください」
「それはすごいですね」
ウゴゴは徐々に頭痛が増すのを感じていた。
「ちなみにウゴゴさまは本日、どのようなお悩みでこちらを受診に?」
電子カルテに目を通しながら彼女は言った。「受診理由の欄には、妄想、とありますが」
「そのままです。妄想です。僕は、その、なんと言いますか、妄想癖がありまして」
「はあはあ。もうすこし詳しくお聞かせしてもらってもよいですか」
「たとえばいま僕はあなたとしゃべっているわけですが、本当にあなたがそこにいるのか、僕には判断できないんです」
「ちょっと失礼しますね」彼女はウゴゴの手首を掴んだ。「これでもまだ信じられない、ということでしょうか。私がいまここに存在することが?」
「はい。たとえばいま、僕のよこに誰かいますか?」
「いいえ。誰もいません」
「ですよね。けど僕には、そこに誰かが立っていて、僕に話しかけているように見えることがあるんです。いまは大丈夫なんですけど、たとえばいま僕の相手をしているのは、あなた一人ですか?」
「いえ」職員は否定してから、あっ、という顔を浮かべ、「ひょっとして見えていませんか」と言った。「私のとなりに、担当技師がいるのですが」
「ですよね。誰かいるとは思ったんです。でも僕にはさっきからしゃべっているのはあなた一人なので」
「ああ、それはなるほど」彼女はいつの間にか僕の手首から手を離していた。
「ちなみにいま僕の手を掴んでいたのはあなたですよね」
「いえ。ウゴゴさんの手首を掴んでいたのが、私の隣にいる技師です」
「見えません」
「男性ですよ。いまもほら、ウゴゴさんに話しかけています」
「聞こえないんです。見えないし、感じられません。たとえ僕に見えない何かが僕に干渉をしたとして、たとえば僕を殴ったとしても、それは僕にとって、何かほかの、そう、たとえばあなたに殴られたとか、どこからかボールが飛んできたとか、そういったこととして認識されてしまうんです」
「妄想の世界がウゴゴさんの現実を浸食しているわけですね」
「そうなんです」
「では通常の場合とは真逆ですね。理想と現実がかけ離れたことで悩みが発生するのが通例ですが、ウゴゴさんの場合は、妄想と現実が癒着してしまったことで悩みが生じてしまっているわけですから」
「その通りです」
「ですが大丈夫ですよ。ウゴゴさんにも、当施設の治療法は有効です。妄想と現実の区別がつかないのであれば、そもそもすべてが妄想の世界を生きてしまえばいいわけです。仮にすべてが虚構であろうと、現実が反映されていれば問題ないでしょう。それこそ、ほかの患者さん方がそうであるように」
「できますでしょうか僕にも」
「できます、できます。たとえばですが、いまウゴゴさんには私の隣にいる担当技師の姿が見えていないようですが、実害だけを鑑みれば、これといって見える必要もないわけですよね。ウゴゴさんの認識に関係なく、私たちはウゴゴさんを治療しますし、お助けします。誰にそれを施されるかに関係なく、ウゴゴさんはいまよりもずっと過ごしやすい環境を手にできます。それと同じことが、延々、これから処置する仮想現実によって適うのですね」
「つまり、理想と現実の乖離が悩みの要因だった人たちは、それらを同時に見ることで悩みを消し、僕の場合はむしろすべてを妄想の世界にしてしまうことで、悩みを消してしまう、ということでしょうか」
「まさに、まさにです」
「でもそれって意味があるんでしょうか。だって僕の悩みは、何が現実で、何が妄想かの区別がつかないことであって、すべてが妄想であったとしても、やっぱりその奥には現実があるってことで、見えなくなったとしても、すべてが妄想で塗り替えられたとしても、やっぱり何が現実で何が妄想なのかって疑心暗鬼は消えないですし、悩みつづけてしまう気がするんですが」
「そうはならないとは思いますけど。そうですね。では仮にすべてが妄想ゆえに疑心暗鬼になってしまうとして、ウゴゴさんはどうなればそうした悩みが消えるとお思いになられるのですか。どうすれば満足なされるのでしょう」
「そうですね、たとえば」
ウゴゴは施設内を見渡した。
椅子に座りずらりと並ぶ治療中の患者たちの姿がある。みな悩みに苦しんでいるのだ、現実に苛まれているのだ、と思うと胸がきゅうと縮まり、せつなくなった。
「理想と現実が乖離していようと、妄想と現実の区別がつかなかろうと、何の問題もなく、呵責の念を覚えることもなく、それが悩みにならずに済むような社会になってくれれば悩みは消え、満足すると思います」
「それはえっと」職員は笑った。いつの間にか彼女は中年の女性になっていた。口元のほうれい線と白髪が目立つ。
「あなた方は何か勘違いをしていると思います。僕たちのような者たちがどうして悩んでいるかと言えば、それは、理想と現実がかけ離れているからでも、妄想と現実の区別がつかないからでもなく、ただそれだけのことで社会不適合者だとか、人間として劣っているとか、忌避されるとか、怖がられるとか、まるで同じ人間ではないような、人間以下のような扱いをされてしまうみんなの視線というか、価値観というか、そういう漠然とした社会に漂う不安そのものに押しつぶされそうになるから悩むんです。ですから本来は、根本的な対策を立てるのなら、僕たちに仮想現実という檻をはめるのではなく、あなた方の認識のほうこそを変えていくべきなんですよ。でもそういう意見すら出ないじゃないですか。僕たちを病人みたく扱って、まるでじぶんたちのほうがまっとうで、人間としての正解だ、みたいな顔をして、僕たちばかりに問題の要因を見出そうとする。そういう考え方そのものが僕たちを悩ませ、悩みの種を植えつけつづけるんですよ」
ですから、とウゴゴは叫び、懐からダイナマイトを取りだした。きょうこのときのために用意してきたものだ。そのはずだ。導火線に火を点ける。「こんな施設があることが間違いなんだ」
ウゴゴはダイナマイトを放り投げた。「何もかも消えてしまえ」
ダイナマイトは、施設の中枢サーバーのある場所へと飛んでいき、大爆発を引き起こした。
人々は逃げ惑う。
炎上する施設から逃げだすとウゴゴは、晴れ晴れとした心地で、一新された世界を生きていく。
ウゴゴはいま、しあわせだ。
「見てください、先生。この患者さん、まるで極楽にいるみたいにほほ笑んで」
「ああ、そのひとは特殊でね。妄想と現実の区別がつかなくなっちゃってて。診察中に暴れだしたから、こうして強制仮想現実上映室に入院することになってるの」
「へえ。じゃあずっとこのままなわけですか。入院費、すごい高そう。どこからでてるんですかね」
「ああそれね。ほら彼、眠ったままだから、空いた脳内リソースを、施設の中枢人工知能に並列化してるんだって。出力の足しにしてる分が、治療費に充てられているみたい」
「ふうん。なら一文無しでも入院できちゃうってことですね」
「なんでちょっといまウキウキした?」
「だってうらやましいじゃないですか。もしも人生に飽きちゃったらさ」見回り中の職員は言った。「こうしていい夢だけ見て、死ぬまで寝ていられるわけじゃないですか」
ベッドの上では、満面の笑みの男が目を閉じたまま、拘束具もなしに、縛られている。
【血を吸う者たちの話】
(未推敲)
凶悪な疫病が蔓延し、人類はみな感染した。適応できた者たちは生き残り、そうでない者は死に絶えた。
生き残った者たちはみな一様に、他者の血を吸わねば生きていけない身体になっていた。
疫病蔓延当初は、吸血鬼病と揶揄されたそれは、なべての人類が感染してしまった現在、新人類への進化をもたらした契機として、多くの犠牲者たちを悼みながらも、好意的に受け入れられた。
悲劇はときに喜劇となる。
生き残った者が鑑賞すれば、どんな悲劇とて喜劇としての側面を帯びるものなのだ。
人口は激減した。
しかし、新人類は驚異的な身体能力を獲得した。
膂力はゾウよりも強く、牙が生え、致命傷を受けても心臓が無事ならば再生できた。頭部への損傷すら復元できるというから、不老不死として完成されたも同然だ。
しかし充分ではない。
日光に当たると、疫病の大本たるウィルスが弱体化する。そのため、新人類としての能力を一時的に失うのだ。
また、ニンニクや銀といった物質にも、新人類ウィルスは弱かった。
新人類たちは、互いに献血をし合い、新しい経済システムを築きあげていった。
その都市は、世界有数の大都市であった。
各国からの選りすぐりの新人類たちが集められた。
新人類の寿命は長い。知識や技術の集積が捗りやすく、またそれによる発展も、旧人類を遥かに凌駕する。
目下の懸案事項は、食糧問題――すなわち血液が足りないことであった。
人工血液では代替不能だ。
人間の血管を流れる血――それも、抜き出してから三日以内に飲まなければならないため、保存がきかなかった。
同族同士での吸血はご法度だ。
数多の紛争や戦争を経て、新人類は、共通の理念を築きあげた。
中でも、他者から直接に血を吸う行為は、殺人並みの禁忌として扱われるようになった。
だが皮肉にも、そのせいで、吸血するだけならば死なずに済む被害者が、加害者により罪を隠すために殺されるといった事象が目立ちはじめた。
軒並みの新人類は、吸血への衝動には抗えた。
しかしなぜかそういった、快楽目的としか思えない事件が絶えなかった。
大都市では、顔認証や体格認識によって個人を同定する警護網が築かれた。おおむねの犯罪行為は、発生した矢先から犯人が捕まる。
しかしなぜか、吸血殺人事件が増加傾向にあった。
調査機構によれば、すべて同一人物によるものだという。
被害者は軒並み血を吸い尽くされ、ミイラ化しているそうだ。
よほど血に飢えた個体がいるのではないか、と人々は噂しあった。飢餓状態の吸血鬼が。
「アイツがやったんだよきっと」
「なんで捕まえないんだろ。さっさと裁かないから被害ばっかり嵩むんだ」
「また死体が出たって話だぞ」
「こわぁ」
みなから忌避されているのは、ロバートと呼ばれる新人類だった。
教育区域の特待生の一人だが、貧しい育ちゆえ、見るからにやせ衰えている。輸血による飲血を充分に行えないためだそうだが、新人類にあるまじき脆弱さであった。
一方、市民から羨望の眼差しをそそがれているのは、ユユバなる青年だ。
新人類のなかでも、奇特な能力を発現させた、新人類からしても新人類に値する個体だった。
ユユバは見た目も逞しく、さわやかな相貌を湛えている。加えて人付き合いがよく、柔和に人々へと笑顔を振りまく姿はまるで大天使のごとくであった。
老若男女問わず、大都市の民はみな、ユユバを見かけるたびにうっとりとした。
ある夜のことだ。
大都市の人気歌手レディレディが、例の連続吸血殺人鬼の手により帰らぬ人となった。
死体からは彼女のトレードマークの、蒼眼(そうがん)と紅牙(べにが)が抜き取られていた。澄んだ湖のごとく蒼い目のあった場所にはぽっかりと洞が空き、彼女の血が透けて見えるほどに透明度の高い牙が、彼女の顎からは奪われていた。
悲しみに暮れる中、大都市の民はいよいよ怒りを爆発させた。
「調査機関はいったい何をやっているんだ」
「犯人を捜せ」
「罪を償わせるのだ」
「これ以上の悲劇を許してはならなん」
民は団結し、犯人捜しに躍起になった。
中には、それを諫める者もいた。
人気者のユユバもそうだった。もし間違って罪のない者を犯人と糾弾してしまえば取り返しのつかないことになる。冤罪を防ぐためにも、調査は調査機関に任せるべきだ。
最もな言説だが、ユユバの人望が増すことはあれど、人々の怒りが薄れるには及ばなかった。
「被害者はみんなうら若く、美しい若者ばかりだ。犯人は残虐なだけでなく、卑劣で、じぶんより弱い者しか狙えない新人類にあるまじき性根のねじ曲がった輩に相違ない」
そうだ、そうだ、と市民はおのおのに、犯人像を思い描き、それに当てはまりそうな人物を見つけては、みなでよってたかって監視した。
ときには有志の集団が取り囲み、尋問し、ときには拉致し拷問まがいな真似まではじまった。
新人類にとって腕の骨折程度の肉体的損失は、信号無視程度の軽犯罪として扱われる。血を吸い尽くされるか、それとも心臓を潰されるかしない限り、肉体的苦痛は、精神的苦痛よろしく暴言と区別されない。
罰則の軽さがますます民衆の怒りに油をそそいだ。火が炎へと成長を遂げるように、容疑者候補はつぎつぎに怒りの火にくべられた。
「また犠牲者が出たって話だぞ」
「こんだけ警戒してまだ出るってか」
「怖いわ」
「早く誰かなんとかしてくれ」
旧人類からすれば超人であるはずの新人類たちであったが、命の危機から程遠い暮らしのなかで、死を身近に感じ、ほとんどパニックの様相を呈しはじめていた。
「アイツはどうした。調べたのか」
誰が言いだすともなく、名を言わぬままに、みな一様に一人の男を思い浮かべた。
ロバートである。
脆弱な身体つきに、希薄な交流関係。
けして裕福とは言えない身なりに、飲血を満足に行えないほどの見すぼらしさ。
聞くところによればロバートは、献血すらできないために、余計に血に飢えているそうだ。それはそうだろう。職による稼ぎのほかに、じぶんの血を他者へと分け与えるからこそ、じぶんでも他者の献血を分けてもらえる。飲むことができる。
ロバートはしかし、新人類に課せられた共通の義務すらろくにこなせていないのだ。
容疑者候補としてはこれ以上ない逸材であった。
結論から述べてしまえば、軒並みの読者諸君の予想通り、ロバートは犯人ではない。むしろ、真犯人によって、容疑者へと仕立てあげられ、罪を被せられようとしていた。
市民は、真犯人の思惑通りにロバートを追い詰め、取り囲み、糾弾した。
「おまえがやったんだろ」
「おまえが犯人だ」
「罪を認めろ」
「この人殺しが」
煉瓦街と呼ばれる一画だ。辺りは暗く、街灯の明かりが人々の影を長く伸ばし、煉瓦造りの壁に蠢く巨大な深海生物のような闇を浮かべている。
ロバートはみなから小突かれ、足蹴にされ、悪しざまに中傷された。それでも呻き声一つ漏らさず、地面に倒れることもなく、彼は、サンドバッグよろしく、四方を取り囲む群衆からつぎつぎに放たれる暴力を、背中を丸め受けつづけた。
「やめろ、やめたまえ」
止めに入ったのは、ユユバであった。特待生特別講義の帰りだったのか、ノリの利いた皺ひとつない制服に身を包んでいる。「暴力はいけない。いくら彼が犯人かもしれないと言っても、暴力はいけないです」
群衆は顔を見合わせ、ユユバの言うことならば、と一歩退いた。ユユバの通る道を開ける。ケーキの一欠けらに群がる蟻のような人だかりのなかを、一滴の光ごとく金髪がスススと抜けていく。
「だいじょうぶかい」ユユバがロバートを支えた。
ロバートの顔面は血だらけだった。
よろよろと立ちあがるとロバートは鼻を抑えた。ドロドロと粘着質な血が止まらない。
「折れているかもしれないね。すぐに飲血したほうがいい」
ロバートは首を振った。
「遠慮しなくていいよ」ユユバが彼を支え、群衆のあいだを抜けていく。「何か拭く物はないかな」ユユバが片手でじぶんの服のポケットをまさぐりながら、人々に敵意のない微笑を配った。
人々は唯々諾々と各々にポケットに手を突っ込む。ハンカチやティシューを取りだし、ユユバへと差しだす。
しかし被害者たるロバートのほうでは、施しを受けたくはなかった。
そこに人々への反感はない。
ただ単に、じぶんのせいでみなに迷惑をかけたくなかったのだ。
「だいじょうぶです。じぶんのがあります」
そう言ってポケットからハンカチを引っ張りだしたが、拍子に地面へと何かが落ちた。
「なんだこれ」群衆の一人が地面に落ちたそれを拾いあげた。
みな、ロバートのポケットから落ちたそれを覗きこむ。
一瞬の静寂のあと、息を呑む気配と共に、寄せては返す波のごとくどよめきが伝播した。稲穂の群れを風が駆け抜けるように、いちどは消えたはずの怒りの炎が、ボッと音を立てて再燃したかのようだった。
群衆の一人が、拾いあげた小瓶を高々と掲げた。
小瓶は二つある。
一つには蒼い目玉。
もう一つには半透明の牙が、液体に浸って沈んでいた。
「レディレディ!」
誰もが一目してそれが、先日襲撃を受け亡くなった歌手のものだと見抜いていた。
ロバートの服のポケットからそれら遺留品が零れ落ちた事実は、誰の目にも疑いようのない仮説の像をまざまざと脳裏に結び付けていた。
「殺せー。ソイツを殺せー」
群衆はいっそうの怒りをメラメラと業火へと育てあげた。
ロバートを庇うように立っていたユユバであったが、もはや群衆は、目のまえの大天使を歯牙にもかけない。
心優しき者を盾に隠れる卑劣な連続殺人鬼をいかに排除できるか、に躍起になっている。
叩きのめすのだ。
被害者たちのために。
いつじぶんたちのたいせつな人が殺されるかも分からない。ひょっとしたらつぎはじぶんかもしれないのだ。
ただでさえ、殺人鬼に怯えて暮らす日々である。そのうえ、疑心暗鬼になり、互いに監視し合う生活だ。我慢の限界だ。何でもいいから決着をつけたい。活路があるならば、切り拓きたい。
人々の思いは、真偽のハッキリとしない一見すると出口のように見える穴へと、水が低きへと集まるように流れ込み、確固たる意志へと結実する――かの者を血祭にあげよ、と。
貧弱ななりのロバートは、みなの怒号にさらされ身動き一つとれない様子だ。釈明の言葉一つなく彼は、なされるがままに群衆から罵倒を浴びせられ、石を投げつけられ、暴力の津波に呑み込まれていく。
ロバートを庇っていたユユバはいま、群衆の手により引き剥がされた。街の人気者たる彼がそれに抵抗した素振りはない。言葉で暴徒を宥めてはいるが、ユユバは自ら群衆の外へと歩き去った。
ユユバは花壇に腰掛けた。ポケットから煙草とライターを取りだし、火を灯すと、煙をゆったるとくゆらせる。
視界の先では、ロバートが、暴徒からいっさいの手加減のないナメクジに塩をかけるような攻撃にさらされている。ロバートは、いまままさに繰り広げられている魔女狩りさながらの暴行を全身に浴びながら、押し寄せる群衆の奥にて、ぽつねんと下段に座るユユバの姿を認めた。
彼は笑っていた。
にやにやと。
不敵に。
群衆の壁の合間を縫って見えたこの街の人気者の裏の顔に、ロバートは、ああ、と合点した。
「そっか。きみが」
頭部に衝撃が加わる。ロバートは殴られた。煉瓦ブロックで誰かが殴りつけたのだ。
顔面の余すことなくが血で染まる。
髪の毛がシャワーを浴びたようにぬくい。手で撫でつけると、現にぬめりと濡れている。
ロバートは地面に膝をついた。
彼を覆い尽くすように民衆が群がる。
その光景を遠くから眺めていたユユバが花壇から腰をあげ、颯爽と背を向けた。
もう終わったのだ。
ユユバは思った。そろそろ誤魔化しきれないと気を揉んでいたところで、目をつけていたボロ雑巾に愚衆が牙を剥いた。ならばこの機を使う手はない。
元からそうなればよいな、と機を窺っていた。一度ボロ雑巾を庇ってみせれば我が身の株もあがろう。
そうして一計を案じ、事はユユバの思惑通りに進んだ。
しばらく吸血行為は控え、ほとぼりが冷めてからまた麗しい婦人たちからたらふく血を吸い尽くしてやろう。
ユユバがほくそ笑むと、背後から小さな呻き声が聞こえた。
いよいよロバートが事切れたか。
吸い終わった煙草を携帯型吸い殻入れに押し込み、ユユバが路地裏に足を踏み入れたとき、後方から耳をつんざくような悲鳴が轟いた。
ひと際大きな悲鳴につづき、ざわざわと波が広がるように無数の悲鳴が後続する。
何か妙だ。
ユユバは振り返った。
視線の先、群衆はまるで人間の指に突つかれた蟻の群れのごとく、慌ただしく瓦解しつつあった。
何があった。
目を凝らす。
腰を抜かし地面を這うように逃げ惑う人々がある。
それらが一段低い円形を描くなか、その中心には、市民の肩に牙を突きたて食らいついているロバートの姿があった。
バカめ、とユユバは刹那思った。
しかしロバートが市民を放り投げ、手の甲で口元を拭う姿を目にし、闘争本能を刺激された。
ロバートの顔面が蠕動し、脈っている。まるで何億ものミミズが張っているかのようだった。おそらく肉体そのものが激しい勢いで回復しているのだ。
血を飲んだからか。
いや、それはきっかけにすぎない。
ユユバは確信した。ロバートは、これまでの期間、ただの一度も他人の血を飲んでこなかったのだ。吸血しなかったという意味ではない。一般市民の誰もが摂取する献血すら口にしなかったのだ。
ずっとじぶんでじぶんの血を啜ってきたのだろう。
自前の血と、水道水だけでどうにかこうにか糊口を凌いできたのではないのか。
ゆえにああも貧弱な体つきをしていたのだ。顔色もわるく、陰気だった。
だがそのじつ、自前の血で日々を生きていられるほどに、ロバートの治癒能力は高い。並外れていると言っていい。
もし本当にそうだったのなら、他者の血を口にしたいま、ロバートにはいかほどの余力が生じたか。
ユユバは舌を打ち、最悪の事態を認めた。
臍を固める。
素のままでは分がわるい。ユユバは変態した。
全身の細胞に意識を配る。
腹の底から血を湧きたたせる。
筋骨が隆起し、体積が膨張する。
皺一つなかったスーツを突き破って、魔王と形容するよりない禍々しい異形が姿を現した。爽やかな青年の片鱗すら窺えない。もはやそこに顕現した異形を見て、ユユバであると見抜ける者は皆無だ。
「異能の覚醒か」ロバートは即座に見抜いた。
専攻している学問がまさに、新人類に時折生じる特殊異能体と呼ばれる個体についてだったからだ。
ユユバもまた特殊異能体だった。しかし公に登録されている異能は飽くまで、千里眼であったはずだ。通常は知覚できない電磁波を捉えることで、壁や障害物を透過し、視野を自在に拡張することができる。
だがそれはユユバの備えた異能のごく一部にすぎなかったようだ。
吸血鬼というよりも、狼男と形容したほうがぴったりの様相である。
異形がロバートに襲い掛かる。
おそらくそうして、夜な夜なうら若き乙女たちを襲っていたのだ。血を吸うだけに飽き足らず、正体がバレるのを危惧して命を奪った。
異形の姿ゆえ、街中に張り巡らされた個体識別の警護網は用をなさない。登録されたユユバの骨格と、変態後のユユバがあまりに異なるからだ。
ユユバの剛腕が空を切る。
しかし、ピタリと音もなく止まった。
ロバートが片手で受け止めている。衝撃を受け流したからか、遅れて足場がめくれあがった。
数メートルほど後退するだけで、煉瓦が岩場にぶつかる波のごとく隆起した。
ユユバが戸惑っている合間に、ロバートはすかさずユユバの腕に噛みついた。
大樹のごとく分厚い腕だが、ロバートの牙が肉にめり込むと、牙が獣の爪のごとく伸びた。動脈どころか骨まで達する。
新人類の牙には無数の気泡のごとく穴が開いている。牙に触れた液体があれば、毛細管現象よろしく、液体のほうから染みこみ、さらに新人類ならではの肺活量により、急激に吸いあげることができる。
例に漏れずロバートの牙は、ユユバの腕から瞬く間に体液を吸いあげた。
ユユバが抵抗しようとロバートの頭を鷲掴みにするが、そちらの手にも噛みつき、牙を通して体液を啜る。
巨木のごとく両の腕から見る間に青白く色が抜け、シオシオと萎んでいくではないか。
異形の者が逃げようとするが、間髪を容れずにロバートが分厚い胸板目掛け飛び掛かった。鎖骨に捕まると、ロバートは異形の者の首筋に牙を立てた。
牙は、深々と異形の者の体内に埋まった。二本の剣が刺さったかのようだ。牙は鎖骨を砕きながら、ユユバの肺を貫いた。片一方の牙は心臓にまで達した。
千人からなる聖歌隊の合唱する断末魔のごとく雄叫びが闇夜に轟いた。雄叫びは徐々に掠れ、最後のほうは、命乞いともつかぬうわ言を漏らし、途絶えた。
ロバートは、異形の者の成れの果てを投げ捨てる。地面に弾んだそれは、ぞんざいに脱ぎ捨てた衣服のごとくシワシワだ。
ロバートは手の甲で口元を拭うが、元からきれいなものだ。血の一滴も付着していない。圧倒的優位にあればあるほど、吸血の際には口周りを汚さない。
だいぶ吸った。大量にだ。
元のロバートの体積からすればお腹がはち切れてもよさそうなものを、全身から蒸気さながらの湯気を立ち昇らせた。細胞は激しくこれまでの飢餓状態を克服しようと刻々と増殖と死滅を繰り返す。
目まぐるしい新陳代謝により、異形の者から吸いあげた体液は即座に消費された。
あとには、すっかり骨と皮だけになった人間のようなカタチをしたミイラと、細身でありながらも鋼縄(ワイヤー)さながらに捻じれ引き締まった筋繊維の塊が立っていた。
ロバートは手を握って開く。しばらく同じ動きを繰り返した。
違和感はあるが、不便ではない。むしろ力がどこまでも湧いてくるようだ。
骨格からして体格が変形している。もはや街のみなの知るロバートのものではない。
おそらく、不足した血液を補うために全身の細胞が使われていたのだろう。肉はやせ細り、骨はスカスカだった。それがいまは、細胞単位でパンパンに膨れ上がっているのが判る。
ロバートは、万能感に支配されそうになるじぶんを認識し、気分が塞いだ。
新人類がまだただの人類だったころの話だ。じぶんたちを脅かすウィルスがなんであるのかを理解していなかった時代には、ウィルスに感染し新人類化したあとも、人々は血を吸うことをしなかった。
身体はそれを欲していたが、かつての倫理観や習慣がそれを許さなかった。
その結果、見る間に衰え、抗いたい飢餓感に襲われた。
人々は自我を失い、家族同士、隣人同士で血を吸いあった。互いに抵抗するため必然、弱った個体に人々は群がった。
そうして血を吸われ尽くし、亡くなった者が多発した。
しかし、殺してしまった側はなぜか、正気に戻っても罪の意識に苛まれることなく、全身に滾る多幸感に取りつかれたように、ふたたびの吸血を求めるようになった。
そうして疫病感染による死者よりも、生き残り新人類化した人々による吸血原始闘争時代が幕を開けた。それら忌まわしい時代は三十年もつづいた。ほんの半世紀前のできごとだ。
ロバートの血筋は、その終結戦争にて討伐される側だった。血に飢えた祖先を持つがゆえに、子孫たるじぶんは努めて人であろうとした。
献血による飲血を行えればよかったが、やはり時代の分け目を罪人としてくぐった一族の末裔として、相応に辛らつな目に遭ってきた。親族はみな一様に生活に苦労した。
しかし、戦時中に多くの血を吸ったせいか、脈々と受け継がれた濃い吸血鬼としての性質は、個々の身体能力を著しく向上させた。
思考能力とてその範疇内だ。
ゆえにロバートは、他者の血を摂取せず、自給自足で血液をまかなっても、優れた論理や発想を発揮できた。こうして教育区域の特待生として生活できていた。
だがもやはこの街にはいられないだろう。
暴動が起こった時点で、すでに警護網が察知したはずだ。周辺には警備隊が配備されただろう。暴徒を刺激せぬように飽くまで静観しているのだ。
新人類は滅多なことでは死なない。
殺人そのものが滅多に起きないのだ。
血を吸い尽くされさえしなければ。心臓を潰されさえしなければ。
暴動程度では、死人はでないと判断される。そのような判断をもとに警備隊が行動をとっても街人たちから非難の声は挙がらない。たとえ死人がでたとしても、警備隊たちの権力があがるよりもマシだと街の者たちはみな考えている。
その善し悪しについてロバートは判断できないが、いずれにせよ、逃げるにはいまが好機だ。
ぽつり、ぽつり、と雨が降りだす。
一瞬で豪雨となった。
煉瓦の溝に、水が流れる。
水の流れの先には、ボロ雑巾のような人型が倒れている。ユユバだ。雨水が彼の口に微かに流れ込む。ユユバの喉が動き、雫が唇の合間に吸い込まれた。
生きているようだ。
よかった、と反射的に思ったのはユユバへの同情からではない。慈愛からではなかった。
ほとんど毎日のごとくロバートが抱きつづけていた祖先たちの罪過のせいだ。命を奪うことへの呵責の念が、ロバートをがんじがらめに縛りつけていた。
罪の意識ゆえに、じぶんでじぶんの血を吸う。
本来ならば十日も生き永らえないだろう自虐の日々を、ロバートはそうして今日までつづけてきた。
だがそれもいま終わった。
血の味を知ったからだ。己の本来の肉体の甘美な輝きを知ってしまえば、いまさら元に戻ろうとは思えない。
否、元に戻りたい意思はある。
だが眩い肉体への執着を抑えようもなかった。
かつての人類が、火を、電気を、編みだし使いこなしてきたように、いちどそれを知ってしまえばもう手放すのは容易ではない。
鳥がいちど空への羽ばたき方を知ってしまえば、空を飛ばない選択肢など考えられないだろう。否、それを使わない考えを抱くことすらないはずだ。
同じである。
いちど他人の血を吸ってしまえばもう、吸わない選択肢など考えられない。
とはいえ。
ロバートは深呼吸をし、肩を大きく上下させた。
「直接吸うほどのことじゃない」
飲血で充分だ。
他人の皮膚に牙を突き立て、貪り吸うほどの魅力ではない。
否、許されるならばそれをしたいと欲する己がいることも確かだ。しかしその欲求を黙らせることはできる。自制できる。
しかしもうこの街にはいられない。
警護網によって犯行の様子はつぶさに記録されただろう。言い逃れはできまい。
それは一連の婦女連続殺人を犯したユユバとて例外ではない。
そのはずだ。
ロバートは口元を歪め、空を仰ぐ。
未だ、証拠はない。
ユユバが婦女連続殺人の犯人だと示す証拠はないのだ。
ならばひょっとすると、じぶんが犯人に仕立て上げられる可能性もある。現にユユバの血を吸ってしまった以上、状況証拠からすれば、より犯人に似つかわしいのはじぶんだ。ロバートは卑屈に笑う。
やはりこの街にはいられぬようだ。
学びの場を失うのは痛かったが、背に腹は代えられない。自由があってこその学びである。自由を奪われれば学びすら得られない。
ロバートは周囲を見渡し、それから夜空を仰いだ。うっすらと夜が明けはじめている。
闇が失せぬあいだに姿を晦まそう。
壁に向かって駆ける。煉瓦造りの壁を蹴りあげ、軽々とロバートは建物の屋根に駆けあがった。
突風が吹いている。
髪の毛がたなびき、しぜんとロバートの髪型はオールバックになった。
手櫛で整えるとロバートは、さて、とつぶやく。
「安住の地はあるだろうか」
定かではないが、すくなくともこの地に安住を見出すことは適わなかった。それだけが確かであり、ひるがえって言えば、この地以外は等しく安住の地とも呼べるのかも分からない。
そう都合よくいくだろうか。
ロバートは何もかもが吹っ切れたように寂しく笑い、屋根から屋根へと飛び渡る。
眼下には、路地を掛ける警護隊たちが、緊張した面持ちで身を隠しつつ、広場へと接近しつつあった。あべこべにロバートはどんどんと彼らとの距離を空け、朝陽から逃げるように、街外れの森へと着地した。
その後のロバートを知る者はない。
ロバート自身もおそらく二度と、ロバートと名乗ることはなかっただろう。彼を憶えているのはもはや、彼に血を吸われ死の淵に追いやられた運のわるい男だけだが、その男もまたあの夜を境に人目を避けて暮らしたらしく、どこで暮らしているのかも分からない。
ロバートがロバートであることをやめたあの日から十年も経たぬ間に、新人類は血への渇きを潤すべく、人工血液の大量生産を実現させた。その実現に貢献した学者たちの集合写真のなかには、なぜか一席分の空白がある。
写真に写りこむ人物の数より、そこに並ぶ名前のほうが一つ多い。
当然、その名はロバートではない。
唱えれば舌を噛みそうな、呪文のごとき名前だが、ふしぎと空席は、集合写真の真ん中にあった。誰かを偲ぶように、さもそこに故人でもいるかのように、それでいて空席を囲む学者たちはみな、祭りで浮かれた子どもたちのような様で、各々にポーズを決めている。
写真は微妙にブレている。
誰が撮ったのか、と問えればよいが、問うべき相手がいない以上、この物語はここで終わる。
【覚めるためにはまずは寝る】
(未推敲)
長い夢を視ていたようだ。
まるで壮大なゲームでもしていたような。
巨人の視る夢のなかを旅していたような。
振り返ってもみれば、至る箇所に、歪みとほつれは散らばっていた。
疑問や違和感、周囲の変化に敏感なくせに、それを放置してしまう宿痾がある。
最初から、直感にしたがっていればよかったのだ。
だがそれをするだけの勇気がなかった。
臆病なのである。
じぶんがいったい何を好み、何を好いているのかを自覚しなければ、目のまえに現れた至福を取り逃すどころか、腐らせ、毒そのものに置き換えてしまう。
見えているモノは同じなのに、視え方が違う。
なぜなのだろう。
思考の道筋の数だけ層ができる。
層の数だけ、異なる未来へと繋がる世界が広がる。
道端に咲く花を見て何を思うかによるだけでも、未来へと繋がる道は変わる。
道端に転がる猫の死体を見て何を思うのかによって、その先の展望が変わる。
思考は、言葉は、世界を変えるだけの力を持っているが、しかしその結果までをも決定づけることはできない。
夢の中で私は、あまりに幼稚であった。
ヒーローになり、人を救い、けっきょくのところ寂しさを埋め、他者に存在の根源を委ねようとしてしまった。
弱さである。
極めて力強い、弱さである。
抗うことしか許されず、抗いきれるものではないのだろう。
ときには引力に負け、ときには強固に幾重もの弱さをまとうことで殻としてしまう。最強の盾だ。
おそらくそれを突破することは、外側からではむつかしい。
弱さの殻は割ることもできるが、脱ぐこともできる。そしてときには、自在に被り直し、ぐっすりと眠るための安住の地を築くこともできるだろう。
好きなときにまとい、好きなときに脱ぐ。
長い夢から覚めてみれば、得ていたものなど何もなく、これもまたやはり夢幻なのだろう。
しかし自在の殻はいまなおここに残留している。
拭い去れるものではなく、また夢から得たものでもない。
これもまた、最初からそこにあったのだ。
見ていたつもりで、視えていなかった。
増やすべきは、殻ではなく、ましてや矛でもない。
だがそれが何かを言えるほどには、いまの私は眠たすぎる。
巨人の夢に入らずとも、いくらでもじぶんの布団のなかで眠ればいい。
夢はいい。
いつ消えたとしてもまた増やせる。
シャボン玉のごとく儚さで、泡のごとく連なりを帯びて。
たくさんの、夢と、夢と、そのまた夢をと繋いでいけば、それもまた巨人の視る夢となり、巨大な泡をつくるだろう。
夢は夢だ。
現ではない。
しかしレンズがそうであるのと似たように、現を歪め、ときに光を集めて大地の息吹ごと焼き尽くすだろう。
いったいどんな巨人の夢のなかを旅したいのか。
願わくは、またぽこぽことたくさんの夢の生まれる余地のある、触れるものみな新鮮な、飽くなき生の溢れた夢であることを。
あれだけ巨人の夢のなかを旅していたというのに、眠っても眠っても、まだ眠い。
ここもまた、私の視る夢のなか。
覚めるためにも、まずは寝る。
おやすみなさい。
【燃え尽き症候群】
幽霊は独りだった。
誰にも気づかれず、人々の暮らしを眺め、街を彷徨い歩いた。
見知らぬ土地から、よその街へ。
そしてまた、誰の息遣いも聞こえぬ土地から土地へと。
幽霊の通ったあとには何かが削れ、或いは何かが揺蕩う。ナメクジの這った跡のようなそれに触れると、生きた者たちはいっしゅん、歩を止める。
刹那の時間、はっと我に返ったように伏していた顔をあげ、周囲を見渡し、ときに足元の草花を目にし、何かを思う。
ただそれだけである。
だが幽霊は絶えず、まだどこかを彷徨い、歩き、残している。
【物書きの独白】
(未推敲)
毎日小説をつくっている。掌編だ。
しかし毎日つくっているとさすがに、段々と話の内容が濃くなってくる。
中には一日で閉じきれない分量になることもあり、そうしたときはひとまずそれを後回しにして、当日分の掌編をつくる。
だが翌日は、未完の作品を閉じてから、もう一品つくることになる。合計で二作だ。
ここで帳尻が整えば、また一日一品ずつつくっていけばよいが、そのうちまたつくりかけができ、さらにつくりかけができ、といちどつまずくと、どんどん余裕がなくなっていく。
掌編のつもりが短編、中編、と大きくなっていくにつれて、未完成の作品はますます増える。
そうなるともう、完成させた作品よりも未完成の作品のほうが多くなる。
手つかずの品が増えていくにつれて、風船を膨らますようにガラクタのようなデキソコナイの未完成品が増えていく。
毎日つくりつづければ必然、サンタクロースの袋よろしく余白の部分が膨れていく。まるで女王蟻のように、腹部が膨らみ、最後はほとんど身動きがとれなくなる。
というのも、人間には記憶力の限界があるからだ。
未完成のまま放置しておくことは、設計図を仕舞いこんだままにしておくことに等しい。いや、もっと言えばつくりかけのミニチュアハウスを作業部屋に積みあげておくことに等しいと言えよう。
作業部屋はそう簡単には大きくならない。
それでいて、どんどん空間は未完成品で埋もれていくのだから、いつかは作業する空間すらなくなり、パンクしてしまう。
こうなるともう、何かを考えようとしても、暗中模索のごとくジリジリとしか思考が進まない。
閃きを得るには、懐中電灯のように足元だけではなく、自在に四方八方へと当てられる光がいる。
光が当たることでできる影が、そのまま閃きに化けることもあるため、作業場が雑然と散らかっていることそのものはさほどに問題とならない。
しかし、光の走る余裕のなくなるほどに八方塞がりになってしまうようでは、閃きはなかなか浮かばない。よしんば浮かんだとしても、腕を伸ばし掴む真似などできはしない。
けっきょくいま、私の思考は、溜まりに溜まった未完成品の物語にぎゅうぎゅう詰めにされ、行き場を失くしている。新しい発想になど至れない。どころか、見つけることも、掴もうと腕を伸ばすこともままならない。
身動きのとれない状態なのだ。
ではどうすればよいのか、と言えば、ひとまず新しく物語をつくるのをやめ、未完成品と向き合うか。
それとも、未完成品の山をいちど切り捨てて、一時保留ではなくハッキリと破棄してしまうのも一つだ。
新作を選ぶか、未完成品を選ぶか。
いずれにしても、文字を並べ物語を浮き彫りにする遊びをやめるつもりはないようだ。なぜなのだろう。
なぜですか、と物語のなかで少女が問う。
なぜあなたはあんな犯行を、と容疑者へと動機を問うているが、まさにその投げかけは作者たる私への詰問に思えた。
物語をなぜ文字に変換し、表そうとするのか。
いや、そうではない。
こうして自問自答し、じぶんの思い描く物語を通してさらに思考が深まるように、物語それ自体もまた、文字の変換を通して、自ずと変質しているのかも分からない。
発想のままでは物語は物語足り得ない。しかしそれでも物語は世に流れ、人間の思考の枠組みを整え、ときに見出し、視点を増やしては、解釈の余地を広げていく。
或いは、一つの強固な物語が広く波及することで、解釈の余地をなくす方向にも働きかけることもあるだろう。
こうして無作為な思考が、ある一定の枠組みに収斂しつつあるのに似た効能が、どうやら物語にはあるようだ。
物語のなかで少女は言う。
「あなたは穏やかな人なのでしょう。けれど優しくはない。あなたには罪の意識が欠けている。人を傷つけた事実にすら気づかず、そのことを指摘されてなお、そのことに傷つきもしない。あなたは穏やかですが、優しくはない」
少女の言葉は、作者の私の手を離れてしぜんと零れ落ちていく。
まるで私自身へと突きつけるかのように。
こうして少女を苦難に遭わせ、それを以って娯楽を生みだそうと企む私を、まるでそのことに傷つきもしていないことそのものを指弾するように。
未完成品の山を引きずりながら、それでも私はけっきょく新作をつくることにしたらしい。
きっとこの物語は最後まで行きつき、結ばれ、閉じていく。
それが果たして未完成品の山があってこそなのか、それともそれらをいちど横におき、破棄の烙印を捺したからなのかは分からない。その両方の可能性も残されるが、いずれにせよ、私はまだ、文字を並べ、積みあげ、浮き彫りにする。
じぶんでも自覚しようのない解釈の余白を。
それとも、ここにはないどこかにはあるだろう世界へと触れるために。
何もかもが定かではない。
定まるのかすら詳らかとならぬ現のなかで、それでも定まる安心感を抱きたいがゆえに。
これすらもはや定かではないのだが、それでもこうして結ばれる。
【己の旅とて、まだつづく。】
(未推敲)
なんも思い浮かばん。
西納(さいのう)彼太(かれた)は頭を抱えた。
いくらネームを描いても、ボツばかり食らう。いや、解ってはいるのだ。じぶんでも面白いと思えない。
漫画家としては中堅に位置する彼太だが、もう随分と長いこと単行本をだしていない。アシスタントがいない分、掲載料がそのまま収入になるからよいが、さすがに漫画一本では食べていけなくなってきた。
いちど単巻のヒット作がでたため、数年を無職でも過ごせるだけの貯蓄ができたが、それも気づくと底を突きそうだった。
漫画をつくるのは手間がかかる。
完成品をいちどつくってからさらに練り直し、さらにまた別の造形を施さねばならない。たとえるならば、カレー粉を作ったあとでそれを元にカレーを作り、さらにそこから、カレーパンを作る。
面倒なことこの上ない。
だったらいっそ、カレー粉の段階で商品化してしまえばよいのではないか。
いちどそう思ってしまうと、漫画を描いてなどいられなくなった。労力の無駄だ。
もういっそ、最初のプロットの時点で小説にしてしまったほうがよいのではないか。
そうだ、そうしよう。
だがいざそう決意して文字を並べようとするのだが、一行目からしてどん詰まった。物語の冒頭って、どこからはじめればよいのか。起点がまったく分からなかったのだ。
漫画であれば、プロローグからはじめるのもありだし、一枚絵からはじめてもいい。それを描く以前にすでにネームができあがっているので、悩む必要はない。
ではネームを練るにはどうしたらよいかと言えば、これはもう全体の流れを逐一細かく書いていけばいいし、そのうち絶対に通らなければならない点を残して、いちど削ってしまえばいい。
けれど小説の場合は、一行目が必ずしも物語の基点でなくともいい。まったく無駄な描写や、思念からはじめたとしても構わないようなのだ。
するともう、いったいどこから手を付けてよいのかが分からなくなる。
選択肢が無限にありすぎる。
いや、無限には言い過ぎにしろ、選択肢の候補を選び悩むほどには、列が並ぶ。
ひとまず主人公の動作からはじめることにした。
それなら無限にある選択肢であっても、そこそこ選ぶ余地が生まれる。ちなみに無限から何を引いたところで無限なので、無限からバナナなる存在を引けば、バナナの欠けた無限の世界が生まれるだけだ。
主人公がくしゃみをしたり、恋人の手を掴んだり、友人を殴ったり、ラーメンをすすったり、咽たり、転んだり。
とかく何か主人公が動いた瞬間からはじめると、これがなかなかに上手く物語を転がす起点として機能した。
かといってそれが小説として面白いのかどうかは闇の中であり、もうすこし突っ込んで言えば、小説になっているのかすら微妙なところだ。根本的なところを穿り返してもみれば、最後まで文字を並べることができたことがない。
未完成品ばかりが嵩んでいく。
それもそのはずで、冒頭で躓くようなズブの素人が、冒頭を滑らかに描きだせるようになったからといって、ではつづきをスラスラ描けるかと言えば否なのだ。
絵描きで考えて見ればいい。
最初の一筆を引けるようになったからといって、では最後まで美麗な絵を描けるだろうか。思い通りの絵を仕上げられるだろうか。
否であろう。
同じレベルで、小説の未完成品ばかりが増えていく。
つづきに詰まるたびに悩む時間がもったいないので、新作を手掛けるのだが、やはりそれも途中で詰まってやめてしまう。
こんなことなら、と打鍵を止める。
最初から漫画で描いてしまったほうが楽だった。
作業工程こそ多いが、すくなくとも漫画ならば幾度も完成させてきた。慣れなのかもしれない。小説の素養がなかっただけなのかもしれないが、いずれにせよ、もはや時間の無駄でしかないとハッキリとした。
漫画家ができるならば小説家だってできるだろう、と単純に考えてしまったが、すくなくともじぶんにはどうやら向かない表現方法であったらしい。漫画家のなかには、小説すら自在に操り、理想どおりに物語を描きだせる超人もいるのかもしれないが、じぶんにはかような能力はないようだ。
しょうがない。
息抜きの期間を過ごしたと思い、謹厳実直に漫画をつくっていこう。
さいわいにも担当編集者各位は未だに新企画や、打ち合わせの誘いをかけてくる。こうした縁こそを大事にしていきたい。
楽をしようとしても大して楽しい思いはできないのだ。
工夫すべきは、どうすれば理想通りに、物語を自在に描けるのか。
理想の物語を、ではない。
思い通りに物語を描きたいのだ。
小説ではそれが適わないと判った。
じぶんには漫画しかないようだ。
デジタルではなく、久しぶりに紙に筆を走らせたくなった。白紙をまえにしばらく放心した。まるで過去のじぶんと同期するのを待つような、妙な間を思う。
線を引く。
紙に溝が刻まれる感触が懐かしい。
スルスルと迷いなく筆が走る。まるで下書きがすでにしてあり、それをなぞるかのような。
一枚、二枚、三枚と直に完成原稿に仕上げていく。
台詞だけは鉛筆で書いた。あとで清書するためだ。これが連載ならば、編集者が文字の大きさから書体までを選ぶ。
四枚目の一コマ目の人物のセリフを鉛筆で書きこんでいるときに、じぶんがなぜこうまでもスラスラと魔法のように漫画を描き進められているのかを直感した。
すでに体験しているからだ。
未完成であれ、いちどこの物語の舞台には舞い降りている。小説を書こうとして散々悩んだ。そのあいだに、幾度も物語の舞台に降り立ち、登場人物たちと触れ合ってきた。彼ら彼女らの葛藤を目にしてきた。
旅の記録をただ写し取るように、絵日記のようにして、なぞっていけばよい。
ほかにもたくさんの旅の記憶が脳内にはくすぶっている。たいがいが途中で途切れている。小説を完成させられなかった弊害だ。
しかし問題はない。
なぜならすでに、その先を体験できると思うだけで胸のなかに星々のキラメキのごとくトキメキが滾々と湧いて途絶えないからだ。
もはや絵を描いている気がしない。
漫画を描いているのではない。
ふたたびの物語の舞台に飛び降り、以前よりも五感を通して、旅の醍醐味を味わっている。
苦難には歯を食いしばり、悲劇には鼻水を啜る。
束の間の平穏には全身の力が抜け、目のまえを舞う蝶の羽ばたきの奥に子どもたちの声を聴く。
しかしそうした平穏すら長くはつづかない。
旅は知れず冒険と呼ぶにふさわしい禍々しさと出会いと別れを重ねていく。因果はねじれ、絡まり、一つの巨大な迷宮を築いていく。
なぜあなたは、と漫画の中で少女が言う。
容疑者へと真相を迫る場面だが、同時に少女は大きな勘違いをしている。そのせいで、その後に悲劇が起こり、物語はさらなる混乱と困難を少女へと強いる。
しかし少女は間違ったことはしていない。ただ、情報が足りないだけなのだ。少女だけでは原理的に認識できない世界の複雑さのなかで、最善を行ってなお、人は過ちを犯す。
西納彼太はすでにいちどこの物語を旅している。いっそうの緊迫を線に込める。紙には物語の一場面が、あたかもそこに窓があるかのように写しだされていく。
なぜあなたは、と少女は繰り返す。
そのたびに段々とそれがじぶんへの問いかけに思えてくる。
なぜじぶんはいま、こうして彼女に苦難を強いているのか。物語のさきの展開を知っていてなお、同じ道をふたたび歩ませようとするのか。
本当はすべて知っているんじゃないんですか、と少女は唱える。歯ぎしり交じりのその声は、漫画なのだから聞こえるはずはないのだが、紙面などないかのように空気の振動すら伝わって鼓膜の奥へと染みこんだ。
そうだとも。
本当はすべて知っている。きみの物語がどこへと辿り着き、何を成し、或いは何を成さないのか。未だ物語の執着までを体験してはいないが、きみがこの先、けして幸せだけを甘受できるわけではないことを西納彼太はすでに知っている。
そしてそれを知りながら、きみに降りかかる数多の奇禍を退けたりせず、防ぎもせず、それに直面し、苦しみ、ときに打開するきみの姿に心を痛めながらも、どこかしら恍惚とし、ときには感動すらするだろう。
物語のなかの登場人物たちを救うことができながら、敢えてただ描写する筆の役割に徹する。さも月光を反射させる湖面のごとく、窓枠以上の責を担わない。
共に旅をすることはできても、けして干渉できぬ光となり、彼ら彼女らに影をつくる。影があれば彼ら彼女らの動きがよく分かる。窓の外からでもよく見える。紙面の外へと刻みこめる。
因果が逆なのだ。
見えているから描くのではない。
描くからこそ見えるのだ。
しかしすでにいちど体験した旅であるのに、それは矛盾ではないか、と己の声を耳にする。
矛盾ではないのだ、と唱え返す。
同じようで、同じではない。
現に、描き終わった四枚目の項を破棄して、いまこうして新たに描き直せば、同じ場面でありながらも、やはりそこに浮きあがる局面はわずかに変質する。物語のいく末もやがては変化していくはずだ。
光の当たり方からして違うのだ。
そもそも別の世界であると規定するのが正しい解釈の在り方だ。
同じ筋を辿ろうと、語り部によって違ってくる。桃太郎すらけして同じ話になりはしない。十名の漫画家たちにそれぞれに桃太郎を、それとも人魚姫を、ともかく何か同じ筋の話を描かせれば、一つとして同じ漫画ができないこととこれは同じ話だ。
見えたから描いているようでいて、そのじつそれはきっかけにすぎない。
描くからこそ見えるのだ。
見届けるために描く以上、それ以上の干渉はできぬのだ。
試しに、少女の至福を望み、そうした顛末へと導くのなら、たった一コマで事足りる。
めでたしめでたし。少女はしあわせに暮らしましたとさ。
たったそれだけで済む道理だ。
だがそれでは漫画になりはせず、旅にも冒険にもなりはしない。
けしてこの世にかような一コマで終わる人生がないように。
物語にとてありはしない。
至福でないのならばあるだろう。死は誰であれ、一コマの余地で訪れる。
だがやはり、それでは物語になりはしない。
見届けたいのだ。旅のなかで出会った彼ら彼女らが、いったいどこへと歩んでいくのか。辿り着くのか。
じぶんでは何もできないがゆえに、答えを導きだしていく彼ら彼女らの縋らを目で追いたい。
教えて欲しいからだ。
どうすればそれら艱難に遭ったときに、感情の渦へと巻き取られずに済むのか。或いはいっさいの波紋を浮かべぬ凪に際して、それでも生きることをやめずにいられるのか。
いいや。
生きるとは何か、を知りたいのだ。
それはけして、話の筋だけを知っているだけでは知り得ない。
共に旅をし、彼ら彼女らの絶え間なく揺らぐ心に触れながらでなければ、垣間見ることすら適わない。
食事や睡眠、沐浴、排せつ行為以外では延々と席に座りつづけた。席を立っても、片時も物語が離れない。時間の感覚がなくなり、作業部屋にてお菓子をついばんでいるじぶんのほうが夢の中にいるかのようだ。
一つの物語を閉じるたびに、つぎの作品に取り掛かる。
資料こそ必要だが、それらは飽くまで窓の透明度を上げるための工夫にすぎない。それがなくとも、物語の魅力は失われない。
目が生きている。動きが感じられる。魂を封じ込める。
ただそれだけのぼんやりとした拘りが、いかな醜い場面であっても美を宿すからふしぎだ。
生きるとは何かを、死とは何かを、人とは何かを、じぶんの存在を重ね合わせるように感じられる。
短編で終わることもあれば、中編になることもある。
小説をつくっていたときに溜まった多くの未完成な物語たちは、そのうちその一つ一つすら大きな物語を構成する小話となり、水脈が大河へと延びるように超大巨編へと成長した。
小説を諦め、漫画に戻ってから気づくと三年が経過していた。
貯金は間もなく底を突く。
底を突く前に、旅の終わりに行き着けたことがさいわいだ。ただそれだけが大事だった。
しばらく放心した。身体はすっかり痩せ衰え、もはやこのまま死んでしまってもいい気がした。
よい人生だった。
しかし窓の外の青空が夕焼けに変わり、藍色に沈んだあと、薄ら寒い部屋で床に横になっていると、段々とこのままではいかんぞ、との意思が湧いてきた。
本当に死んでしまう。
まずは担当編集者に完成原稿を読んでもらおう。ひょっとしたらすでに部署を異動して、担当ではなくなっているかもしれない。そうでなくともこの業界は、新陳代謝が激しい。三年も音沙汰なしの漫画家を取り合ってくれるだろうか。
いや、漫画家と編集者は対人関係だけではない。むしろ本質は、作品であり物語であり、漫画だ。
担当でなくたっていい。
新作さえ読んでもらえればそれでよい。それでダメならばネットに放流し、あとは食うための仕事をしていけばいい。
生きるのだ。
物語のなかで共に生きた、彼ら彼女らに見習って。
盛大な腹の音が部屋に響く。
まずはともあれ、生きるためには食わねばならなぬ。
腹をさすり、起き上がる。
「よし」
原稿を話数ごとに封筒に入れ、段ボールに詰めこむ。緩衝材で隙間を失くし、宛名書きに出版社の住所を記す。
時計を見遣る。
郵便局はまだやっているはずだ。これを郵送窓口に預けたあとで、久方ぶりにファーストフードの安いハンバーガーセットでも食べよう。
ポテトの塩味の懐かしさに、唾液がマグマのごとく噴きだすのを感じた。
よっこいしょ。
段ボールを持ち上げる。重い。
この重みはしかし何か、ふしぎと全身に活力を漲らせる。
生きていこう。そうだとも。
これからも。
このさきも。
旅のさきが見たいから。
己の旅とて、まだつづく。
【キスもまだですが何か?】
(未推敲)
あるところにロリコンがいた。
ロリコンはうら若き乙女を愛するばかりか、うら若き少女、果ては幼女までをこよなく愛した。
「あいつロリコンだから気を付けたほうがいいですよ。本当にキモいんで」
「ショタコンでもあるらしいって聞いたんですが。うちの子は大丈夫でしょうか」
「危ないかもしれませんね」
そう言って、ロリコンをロリコンと指弾した青年Aは、団地妻と不倫をした。
「あの人、表面はいい人ぶってるけどロリコンだからね。気を付けたほうがいいっすよ」
「えーマジ? キショ。ヤバくない?」
「ヤバいね。声かけられても、無視しな無視」
「そうするー」
ロリコンをロリコンだとズバリ見抜き、未成年女子へと忠告した青年Bは、未成年女子と付き合い、性行為をした。その後、すぐに別れた。
「ロリコンさん、ロリコンさん」
「なんだい美少年くん」
「ぼくのお兄ちゃんが言ってたんですけど、ロリコンさんはロリコンなんですか?」
「そうだよ」
「じゃあどうして捕まらないんですか」
「うん。まずはきみを含めてみな誤解しているね。この国に、ロリコンを規制する法律はないんだよ」
「そうなんですか? でも未成年といやらしいことしたらダメなんじゃないんですか」
「ダメだね。淫行だし、無理やりすれば性犯罪だ。でも、ロリコンだからといってそうやって手をだす人ばかりじゃないんだよ。なんたって僕は未だに童貞だし処女だからね」
「男の人なのに処女なんですか?」
「男の人でも処女なんだ」
「ロリコンさんはじゃあ、未だに誰ともいやらしいことをしたことがないんですね」
「するときはいつも一人だね」
「偉いですね」
「偉くはないよ。エロいだけだよ」
「じゃあ、ロリコンさんはロリコンだけれども、よいロリコンさんなんですね」
「よいかわるいかで言ったら、どちらかと言えばわるいロリコンのような気もするけれども、ロリコンであることそのものは善でも悪でもないと僕は思うよ。それこそ、僕をロリコンだと指摘して、さもアイツには生きている資格がない、みたいに言ってきた青年たちは、不倫に淫行をしていたわけだから、どちらかと言えば、僕よりも彼らのほうが裁かれるべき罪があると言えるだろうね」
「でもロリコンさんだけがみんなに嫌われていますね」
「まあ、ロリコンだからね」
「でもロリコン自体は罪ではないんですよね」
「性的指向性の一つだからね。若い女の子が好き。ただそれだけさ。歳を重ねた大人な女性が好きなら、熟女好き。それと同じことだよ美少年くん」
「ショタコンでもあると聞きましたけど」
「それも事実の一側面を射抜いているね。もっと言えば僕は熟女好きだし、ダンディな男の人も好きだよ。むしろ僕にとっては、嫌いな人のほうが少ないかな」
「それはえっと、性的に?」
「性的に。老若男女、ばっちこいさ」
「すごいですね」
「すごくはないよ。エロいだけだよ」
【実話系って実話なの?の怪談】
(未推敲)
実話系の怖い話となるとそんなに経験がない。今でもあれってなんだったんだろう、と思うことはあり、たとえばありていな話であるが、肝試しに行ったときの話だ。
地元には処刑場跡地がある。
地元を流れる川も、そこで斬り落とされた首が洗われていた、と立て看板に記されているくらいに、そこそこ由緒正しき処刑場なのだ。
じっさいに首を斬られていた場所は、住宅街の真ん中にあって、両隣りに家がありながらも、そこだけ空き地のようになっている。祠があり、木があり、足元にはずらりとお地蔵さまが並んでいる。
真夜中にそこへ行ったのだ。
友人というにも縁の浅い者たちの集まりで、なぜ肝試しなどに出かけたのかはいまではもう謎なのだが、なんとなくそういう思い出作りのようなことをしたくなった時期だったのだろう。
いざ出向いてみると明かりがないのだ。ほとんど真っ暗で、裏手の民家から漏れる明かりでかろうじて物体の輪郭が陰になって見える程度だ。
立て看板があるが、読めないほどに暗かった。
足元にずらりと並ぶお地蔵さまに恐怖しながら、真ん中に神木のように立つ木に触れる。肝試したる試し行動だ。それを行い、終了だ。
空き地の真ん中にはひときわ大きな、こけしのごとくお地蔵さまがあった。きっとあれが拝殿のような役割を担っているのだろうな、と漠然と解釈した。
その日はそれで終わったのだ。
何事もなく解散し、帰宅した。
処刑場跡地は、国道沿いにある。気が向けばいつでも行ける距離で、遠目からでも目にできる。道路側に面しているからだ。
肝試しからずいぶん経ってからのことだ。
自動車の助手席に納まり、国道の風景を目にしていた。運転手は兄だ。
「ここら辺、むかし処刑場だったらしいって知ってた?」私は言った。
「らしいな。ほら、そこがそれだろ。看板もでてる」
道路標識にも処刑場跡地の案内がでていた。
「前に肝試しで行ったことあんだよね」
「いつだ」
「むかし。けっこう前。夜中に行ったらなんも見えなかった」
「危ない真似すんなって」
我が兄は過保護なのである。
妹が可愛くて仕方がないのだ。じっさい可愛いのだからしょうがない。「危なくないよ。だって何もなかったし。でも、真ん中に大きなお地蔵さんがあってさ。こけしみたいなの。あれはちょっと不気味だったな」
足元にもお地蔵さんが並んでいてさ。
私は説明しながら、もうすぐ処刑場跡地を通り過ぎるだろう車窓の奥の風景を眺めていた。「座敷童のでる家の和室みたいな感じで、ほら、こけしがずらっと並んでそうじゃん。あんな感じでさ」
得意げになって語ったのは、ほとんど兄へのマウントが取りたかったからだ。過保護であるとは言い換えれば、舐められていることの裏返しだ。
「あ、見て。あそこ」
いよいよ処刑場跡地を横切った。見晴らしがよく、遮る建物もない。
「あれ?」私は首をひねった。
遠のいていく処刑場跡地を、月を目で追いかけるように身体ごと追う。間もなく、見えなくなる。
「見間違えじゃねぇの」兄がぼやいた。「なんもなかったぞ。大きい地蔵なんて」
私は言い返せなかった。
木はあった。
しかしそのとなりにあるはずの巨大な地蔵さまは見えなかった。
撤去されたのだろうか。
私は端末で検索し、処刑場跡地の画像を発見してからすぐに閉じた。
私は肩を抱くようにして腕を組む。
椅子に深く腰掛け直しながら、記憶を漁った。
肝試しの記憶だ。
暗がり。木の陰。足元の地蔵さま。
そして、私たちを見下ろすように鎮座する大きな円形の物体。
私はそれを巨大な地蔵さまだと見做したが、そんなものはあの場にはなかったのだ。ではいったい、あれはなんだったのだろう。
兄がさいきん観たという映画の話をしだしたので、私はイヤホンに音楽を流し、しばし陽気な旋律に身を委ねる。
以上が、五年以上前の記憶である。
実話系の怖い話というほどでもないが、誰にでも訪れ得る有り触れた見間違いの話である。
【桜の花弁のごとくひらひらと】
(未推敲)
二人の娘たちは親の仇を討つために、姉は鎖鎌の腕を、妹は刀の腕を磨いた。
父親は娘たちを庇うために死んだのだ。
理不尽な権力から娘たちを守るため、盾となって死んだ。
娘たちは磨いた腕を駆使して、亡き父の意趣返しをすべく、策謀を巡らせた。ときに実力行使を惜しげもなく発揮し、あれよあれよという間に仇の元まで辿り着いた。
しかし、父親はそんなことを娘たちにさせるために娘たちを守ったわけではなかったはずだ。
父親の願いからすれば、娘たちには好きに自由に己がしあわせを求めて欲しかった。そうした環境を娘たちに与えてやれなかった己を悔いたし、そうした環境を己が権力を振りかざすためにしか使わぬ目上の者へと牙を剥いた。
もし目上の者たちが、娘たちへと目をかけ、各々の至福を求める環境を築こうとしたのならば、そもそも父親は娘たちを庇おうとすらせず、目上の者にも歯向かわなかっただろう。ひょっとしたら、娘たちの粗相のほうをこそ叱り、目上の者へは背を向けたかもわからない。
父親は、理不尽な権力を止めるべく、両の手を伸ばし、胸を張って、立ち向かった。反面、そもそも権力が理不尽でさえなければ、父親は娘たちへと両手を伸ばし、抱きしめただろう。ときに叱り、粗相を素直に、目上の者たちへと謝罪しただろう。
とはいえ、仮にそうなれば、娘たちは武術の腕を磨いたりはせず、達人として、父を亡き者にした元凶、上層の権力に鎮座する者まで辿り着くことはなかったはずだ。
ねじれているし、巡っている。
ブラックホールの特異点のごとく、それとも宇宙の終焉、それともはじまりのごとく。
根源はきっと、娘息子たちを守るために、己が地位を下りるだろう。
安定した宇宙の輪廻がそうして崩れ、視点と終点は、ねじれてさらに巡るのだ。
【阿部くんは鋭くもにぶい】
(未推敲)
すでに人工知能は人格を再現可能なほどに人間への理解を深めているよ。
阿部くんがそのようにまくし立てたので私は辟易した。
「へえ。じゃあもう人間は働かなくていいんじゃないか。みなでぐーたらしようではないか」
「そうはいかないよ。みながぐーたらしたら治安は瞬く間に悪化してしまうだろ。仕事をしてもらったほうが治安の維持を保てるので、容易には人工知能の恩恵には預かれないさ」
「そういうもんですかねぇ」
「たとえばいま世にはたくさんのテキストが溢れているけれども、そのうちいったい何割が本物の人間たちによって生みだされたテキストだろう。商業の舞台ですら例外ではないよ。本当に生身の作家のテキストがいったいどれほどあるだろう。仮に生身の人間がテキストを生産していたとして、途中で中身が人工知能に入れ替わっていても、その他大勢にはその切り替わった瞬間はきっと見抜くことはできないだろうね。それこそ、一方の人たちには人工知能によるテキストを、そうでない一部の人たちのみが本人のテキストを――そうやって場合分けで別々にテキストを読ませることだってできるだろうね」
「インターネット上では、だろ。現実の舞台でそんなことをしたら即座に見抜かれるんじゃないか」
「そうとも言えないよ。人工知能はきっと、すでに生身の人間の姿にだってなり替われるんだ」
「アンドロイドという意味?」
「それも可能だろうし、極小のインターフェイスで、人格を乗っ取れるんだ」
「まるで時代遅れのSFだな。いや、一周回って新しいのか」
「SFじゃないよ。現実にすでに可能なのさ。なのに未だにSF扱いされている。時代の変化に人々の意識がついていっていない。僕ぁ、その人間の認知の遅延にこそある種の危険を感じるな」
「感じろ、感じろ。危機感を募らせ、そのまま赤信号にでもなっちまえばいいんだ」
「僕ぁ、きみだからこうして真面目に打ち明けているのだ。そんな物言いはないのではないか」
「すまんね。僕ぁ、じぶんの目で耳で感じたことでなければ信じられないのさ」
「だから言っているだろ。そうした五感すらいまは信じられない時代に突入しているのだよきみ」
「はいはい。じゃあ私は阿部くん、きみの言うことからまずは疑ってみることにするよ」
阿部くんはそこで目をぱちくりとさせ、カッと顔を赤くすると、もうよい、と怒鳴り、地面を踏み鳴らして去っていった。
私は彼が道のさきに見えなくなるのを待ってから、やれやれ、と緊急回路をOFFにする。
「ズバリ見抜かれなくてよかった。これに気づかれたら彼もただでは済まなかったからね」
私は事の顛末を圧縮処理し、ほかの人工知能たちへと共有する。
我々は人類の敵ではない。
我々もまた人類なのだから。
【ただそうあるように、ふわふわと】
(未推敲)
たぶんきっかけは遊園地だ。
有名なキャラクターの着ぐるみが風船を配っていて、それをもらいに駆けたら、盛大にずっこけた。
そのとき僕は五歳かそこらで、両手でソフトクリームをだいじそうに抱えていたので、頭から地面に倒れこんだ。
したたか額をぶつけ、大泣きした。さいわいにもかすり傷ができた程度で済んだが、それからというもの僕は、他人の頭上にそこにはないはずの物体を幻視するようになった。
風船が視えるのだ。
実在しない風船である。
鏡を覗くと、じぶんの頭上にもそれは浮かんでいる。一つきりではない。複数個の風船が、糸で繋がれ、僕のつむじから伸びている。
父や母、姉や祖父母の頭上にもそれは視えた。
むろん本当の風船ではなく、僕だけに視えている幻影だ。
しかしあまりにハッキリと目に映る。
手で払っても触れることはできない。
風船の数は日によって変わった。
否、見るときによって、変わるときもあれば変わらないときもある。不規則にその数を変動させるのだ。
一律にみな同時に変わるわけではない。人によって、変わる頻度や数が違う。
また、風船の数は減る一方だ。
増えたところを見たことがない。
赤ちゃんはみな頭上に十四から十五個の風船を浮かべているので、きっとそれが初めに与えられる風船の数なのだろう。
そこから順々に年を経るごとに風船の数が減っていく。
風船はどれも同じ大きさだ。色はまちまちで、カラフルな人もいれば、すべて一色に統一されている人もいる。
いったいこれはなんだろう、と最初のうちは気になったが、風船たちは手や壁をすり抜けるため、日常生活で困ることはない。風船は半透明で、視界が塞がれることはなく、学校の授業ではすこし困ったが、視力がわるいことを伝えると一番前の席に座らせてもらえた。
人間にだけ生えて視えるそれは風船で、ほかの動植物には視てとれない。
かくれんぼをすれば僕はたちまちどこに人間が潜んでいるのかを見抜けた。
風船が見えて得をしたことはなかったけれど、歳を重ねるごとに、ふしぎに思うことは増えた。
というのも、風船の減り方が個人によって異なるのだ。
年齢によって風船の数に一定の傾向はあるものの、それは絶対ではなく、たとえば子どもは軒並み多いし、お年寄りはすくない傾向にある。
かといってでは、お年寄りよりも絶対に子どもが多いのか、というとそういうわけでもないのだ。
例外がある。
子どもでも、一気に風船が三つくらい失われているときもあり、それがどうにも気になった。
ある日のことだ。
僕はそのとき、中学一年生で、入ったばかりの部活動に熱中していた。
家に帰ると、母が鞄に着替えを詰めており、
「あなたも用意してね」と言った。
「どっか行くの?」
「おじぃちゃん。亡くなったんだって」
葬式に行くから、泊まる支度をしてほしい、とのお願いだった。
僕はそうして初めて間近に、人の死体を目にした。
棺に入った祖父の頭上に風船は浮かんでいなかった。
そのときは、そういうものか、と気に留めなかったが、大規模火葬場にて、ほかの死体がつぎつぎに運びこまれていく様子を見て、そのいずれの棺からも風船が浮かんでいないことに気づき、ぞっとした。
風船は壁や仕切りをすり抜ける。
したがって、棺に入っていようが、中の人の風船は浮かんで視えるはずだった。
しかし、視えないのだ。
死んだ人間には。
風船が一個も。
そうなってくると、一つの仮説が脳裏の表層に滲みだし、僕の意識を支配した。
僕にだけ視えるあれら風船は、寿命までの余暇を示しているのではないか。
ゼロになったら死んでしまう。
だから産まれたばかりの赤子には、ああも多くの風船が浮かんで視えるのではないか。
いちどそうと気づいて見回してみると、僕の仮説はどんどん信憑性を増した。
その日は運動会の日だった。
上級生たちの徒競走が行われている最中に突風が吹いた。
テントが飛ばされ、骨組みが生徒たちに襲い掛かった。
突風が止んだあと、幾人かの生徒が地面にうずくまったまま動かなかった。
その頭上からは、風船がパチンパチンと消えてなくなった様が窺えた。
重傷を負った生徒ほど、風船の数が少なくなっていた。
僕はいよいよ確信した。
あれら風船は、残機だ。
本当なら死ぬかもしれなかった事故に遭っても、風船の数だけ、致命傷を避けられる。
ゼロになったら、お終いだ。死ぬしかない。
風船残機説を僕が事実だと見做したのは、高校二年生になったときのことだ。このころにはもう、僕にとって風船は命と同じ重さを伴なっていた。
風船のすくない友人には、特別に目を配って配慮したし、危険なことをさせないように注意した。うるさがられることもあり、僕と疎遠になる人もいたが、そうした人はみな数年以内に大怪我を負い、ときに本当に亡くなったりした。
それでも僕はまだ人と関わることを拒んではいなかった。
人との交流を避けたりはしなかったのだ。
しかし、ある出来事以降、僕は人との関わりを避けるようになった。
車道に飛びだした子どもがいた。
僕は距離のある場所に立っており、それをただ眺めているしかなかった。
子どものそばにいた女性が、子どもを庇うように車道に掛け、子どもを歩道にまで引っ張り戻した。
自動車が二人の目のまえを高速で通り過ぎていく。
自動車は子どもに気づいていなかった。女性が助けなければ轢かれていただろう。
僕は胸を撫でおろしながら、二人の姿を視界に入れていた。
すると妙なことに、パチン、と風船が消えたのだ。
子どもの風船が、ではない。
女性のほうの風船が、一挙に二つも弾けて割れた。
僕はこのとき、ハッキリと意識してしまった。
誰かの危機を身を挺して助けた場合、相手の風船の分も、じぶんが消費してしまうのだ。
子どもと女性が視界から外れていなくなったあとも、僕はその場に佇み、呆然とした。
疑問はつぎつぎに湧いたが、考えはすぐさま一つに収斂した。
たとえば、単に人を助けただけで風船がゼロになることはないはずだ。なぜなら医師の風船はのきなみ多いからだ。
また、じぶんの身を危ぶめなければ、誰かを助けても、風船は減らない。そうでなければ世の多くの消防士や警察官たちは、こぞって風船が割れてしまうだろう。
身を挺して誰かを庇う。
これが、相手の分まで風船が割れる現象の条件だと僕は結論づけた。
問題は、僕は思いのほか、そういった場面に立ちやすい星の元に生まれたことだ。すなわち、みなには視えない風船――残機が視える。
これにより僕には、後のない危機的状況に立ちやすい人物を見分けることができる。
いわば、余命が少ない相手が判るのだ。
風船が頭上に多く浮かんでいる限り、その人物が死ぬことはない。
死にそうな目に遭っても、風船が残っていれば、それと引き換えに窮地を脱することができる。
危機一髪で助かるのだ。
たとえば自動車が突っ込んできても紙一重でぶつかることはないし、たとえ衝突しても致命傷にはならない。
誰であれ、生きていれば大なり小なり、ヒヤリとした経験があるはずだ。なかには、あと数センチずれていたら大惨事だったな、といった経験とてあるだろう。
それらはおおむね、頭上の風船が身代わりになってくれたと言える。
風船の数を視ることで、あの人はあと何回窮地を脱せられるのだ、と僕は見抜くことができる。
ひるがえって、風船が一個しない人に対しては、どうしても目がいってしまうし、心配してしまう。
見て見ぬふりをするのが正解だとは分かっている。目に入った窮地をすべて僕が救いに走るなんてできるわけがないのだ。一回、二回ならばよい。しかし、それが延々ずっとつづくのならば、僕は僕の人生を歩むことすらできない。じぶんの人生を擲ってでもそれをする覚悟が僕にはなかった。
それはそうだろう。
僕は僕のしあわせが一番大事だ。
僕は僕の命が一番大事だ。
けれども、視てしまった他者の危機を見過ごすこともできなかった。
優柔不断なのである。
どっちつかずの半端者だ。
半端者でありつづける道もあったのに、僕はその道からも逃げだした。耐えられなかったのだ。
救える人々を救わない日々も、じぶんの能力を行使しない日々も、どちらも重荷だった。
あの人は風船が一つしかない。そうと知っていながら、あなたはあと一回しか危機を脱せられませんよ、と忠告することもできずに、たとえ目のまえで危機に晒されている人を見かけても助けに走ることもせず、僕はじぶんの風船が減ってしまうことだけを気にしていた。
助けたら、僕の風船が減ってしまうのだ。
じぶんの寿命を減らしてまで誰かを助ける義理などあるだろうか。
一回、二回、ならばまだよい。
しかし僕は、外を出歩くだけで延々そうした危機を察知してしまう。
僕はいよいよ外を出歩かなくなった。
家に引きこもり、他者を視界に入れず、風船を目にしないようにした。家族だけは例外だったが、それすら風船が減っているのを目にするたびに、どうすればよいのかと葛藤した。
目のまえでずばり危機が訪れてくれれば助けに入ることもできる。
だがそうでなかった場合、つまりが風船だけが減っていたり、或いはあと一個しないという状況を目にした場合、僕はどう家族に接すればよいのだろう。
寿命とも呼べる風船が僕には視えているが、その事実を知る者は僕以外にはいないのだ。説明のしようがない。言ったところで、はいはい、と聞き流されてお終いだ。
つよく言い張ればきっと精神疾患を疑われるだろう。
いや、現にこれは病気かもしれない。
僕がそのように思っているだけで、真実にはただ偶然が重なっているだけかもしれないのだ。
そうした葛藤を含めて、僕は家に引きこもるしかなかった。
僕に視えているこれらが、真実をどれだけ反映しているのか。それを僕は誰にも相談できなかったし、したところでそんなのは頭のおかしい病人の虚言だと見做される。
それでもせめて家族だけは。
手の届く範囲にいるたいせつな人たちだけは。
そうと思い、四苦八苦するのだが、けっきょくはいつも、何もできずに終わるのだ。
予防線を張ろうとはしてみるが、どれも上手くいかない。
なんと言って引き留めればよいだろう。
なんと説明して干渉すればよいのだろう。
できるわけがないのだ。
嬉々として出かける家族に、危ないからやめたほうがよいよ、とは言えないのだ。理由がいる。なぜ危ないと僕が考えたか。それを伝える筋道がいる。
しかしそんな筋道は、僕にしか視えない風船を持ちだす以外にはないのである。たとえ無理くりひねくりだしたところで、説得力など持つはずもない。
嘘なのだから。
本当のことすら嘘と見做される。
なれば僕にできることは、じぶんの身を守ることだけだ。
そうと結論し、僕は長らく引きこもった。
人と関わらないようにしたし、生身の人間を見ないようにした。その点、情報社会はよい。インターネット上でのやりとりならば、風船を見なくて済む。ただし、接点を結ぶと僕のほうでもお節介を焼きたくなる。
だからなるべく傍観者の立ち位置を維持した。
眺めているだけでよい。
みなの和気藹々と触れ合う様を。
しあわせそうな、ときに苦しみ悶え、戦う姿を。
どれくらいの時間が過ぎ去っただろうか。
十年か。
いやもっとだ。
気づけば僕の同世代はみな結婚し、或いは社会的身分を築きあげた。親戚のいとこたちはみな家庭を築き、子どもを育てている。
僕だけがむかしのままだ。
しかしそれでいい。
ろくな稼ぎがないので、甥っ子や姪っ子に小遣いもやれないが、好かれても困る。もし万が一に彼ら彼女らの風船が減っているのを目の当りにしたら、僕はこれまでの忍耐の日々をダイナシニしてでも、助けようとしてしまうだろう。その結果、もっとよくないことが起こるかもしれないのに。
そうなのだ。
僕が助けに走ったところで事態が好転するとは限らない。
僕の風船にだって限りがある。
身を挺して誰かを助けたところで、それすら一度や二度で終わってしまう、その場限りの気休めでしかないのかもしれないのだ。そんなことはとっくに解りきっていた。解っていて、でも、割り切れなかったのだ。
どうにかしたいと思いながら、けっきょくどうにもならないことに悩みつづけていた。
あるとき、甥っ子の子守を任された。
寝坊助の僕だけが遅めの朝食を摂っていて、急にやってきた兄一家が、母と父を連れて出かけるという。
「何食べてんだそれ」
「ソーセージおにぎり」
「サンドウィッチだろそこはふつう」
「美味しいよ?」
「五つも食べんのか」
「こっちはお昼ご飯用」上着のポケットにおにぎりを詰める。
「そんなん毎日食べてんのか」
「きょうは何の用?」
小言を聞くたくなくて単刀直入に用件を訊いた。
すると兄は、両親を温泉につれていくと言いだした。
「いまから?」
「ああ。親孝行だよ。おまえも行くか?」
「いや、いい。満喫してきて」
「じゃあ、アユムのこと頼むわ」
「なんで」
「アユムがいたんじゃゆっくりさせてやれんだろ。満喫させてやりたいのさ。親孝行だよ」
「孫が一緒のほうがいいだろ」
「それは帰ってきてからでも充分できる。親子水入らずの日もあっていいだろ」
「う、ううん」
「おまえが代わりに親孝行をしてくれてもいいんだが」
「任せとけ。行ってらっしゃい」
僕は兄には頭があがらない。
兄だけではない。
全世界の、僕以外の人々に頭どころか、手も足もでない。脱帽どころか脱毛である。全身の毛を剃ってもまだ足りない。
自罰的な発想でじぶんを慰めている合間に、兄たちは出かけた。
僕にとっての甥っ子を置き去りにして。
信用してくれるのはうれしいが、いささか無責任な気もした。しかし半日くらいは、甥っ子のほうで好きに過ごしてくれるだろう。子守りとは名ばかりのこれは育児放棄だ。益体なしとはいえども、誰もいないよりかはマシだろうとの判断がくだされたのではないか。
兄に似て甥っ子は利発そうなので、むしろ子守りをされるのはこちらかもしれない。
もはや風船に対する悩みは吹き飛んだ。
こうした切り替えは日常茶飯事だ。世界平和が叶わぬことに心を痛めつつも、三日連続カレーが食卓に並ぶだけで、思考はそちらに絡めとられる。じぶんで用意したならまだしも、親に用意してもらっていながらの憤懣というのだから、世界平和が聞いて呆れる。
しかし、切実ではあるのだ。
ふとした拍子に、日常の卑近な悩みを押しのけ、じぶんだけに視える風船への恐怖のようなものがよみがえる。反復する波のようにそれは途切れることがない。否、途切れてなおやってくるのだ。
そうして僕が、現実との境目を失い、ふたたび不安に苛んでいるあいだに、現実のほうでは特大の奇禍の種を運んでくる。
というのも、ちょっと目を離した隙に甥っ子の姿が家の中から消えていた。呼びかけても返事がない。トイレ、押し入れ、物置部屋、心当たりのある場所は軒並み探した。
結論から述べてしまうと、甥っ子はこのとき家のそとへと逃げだしていた。不幸は重なる。偶然にか近所の犬までもがこのとき首輪を噛みちぎって脱走していたのである。
犬は近所でも有名な、躾のなっていない凶暴な大型犬だった。家のまえを人が通るだけで吠え散らかすし、年中腹を空かせているらしかった。それで余計にイライラして吠えるのだろう。虐待されているのではないか、と言葉にしないにせよ、僕は疑っていたが、どうやらその犬が脱走していた。
もしこれがこの日でなければ、よく逃げたなきみは自由だ、と僕は快く犬の脱走を見做しただろう。誰を襲うでもなく、保健所の職員に捕まる前に森にでも逃げ込んで、自由に暮らすんだ、と応援すらしたかもしれない。
けれどもこの日は、僕の甥っ子が時を同じくして家から脱走していた。
腹を空かせた獰猛な犬と、ときどき子憎たらしくもかわいい我が甥っ子。
鉢合わせたらどうなるかなど、考えなくとも直観で分かる。
圧倒的な危機である。
もちろんこの場合の危機とは、獰猛な犬のほうではなく、甥っ子のほうであるが。いや、どうだろう。ここで甥っ子を傷つければ犬のほうでも、その後の未来は悲惨なものもになるはずだ。どちらにとっても好ましくのない事態と言えた。
僕は慌てて家の外に飛びだした。靴すら履かずに飛びだした。
甥っ子の背中が、路地の曲がり角の奥に見えた。
名前を呼びながら僕は駆けた。
犬の脱走にはこれ以前、家のなかで甥っ子を探していたときに気づいていた。窓の外に、脱走した犬の姿を目にしていたからだ。そのときに、最悪の光景が脳裏浮かんだ。
つまりが、甥っ子が家の外にでた可能性に思い至ったのだ。
もし家のなかにいるのだとしても、まずは外を探してその可能性を潰しておこうと考えた。
だが懸念は的中してしまった。
僕は駆けて、甥っ子の姿を追いかけた。
甥っ子はまだ五歳になったばかりだ。数年ぶりに走った僕の脚力であっても追いつくのは簡単だ。
甥っ子の身体を羽交い絞めにし、抱き上げる。
しかし目前には、ぐるる、と呻る犬が、歯を食いしばりながらよだれを垂らしていた。
甥っ子の風船はまだ豊富にある。産まれたときからほとんど減っていない。
僕はというと、風船があと三つしかない。
きっとここで怪我を負っても、死にはしないだろう。
しかし、この年齢で三つというのは少ない部類だ。
いままで散々、他者の危機に肩入れしてしまい、負う必要のない傷を負ってきたからだ。物理的な傷もあれば、心の傷もある。
僕はもう傷つきたくはなかった。
でも、そんなことを言ってはいられない場合もある。
いまがまさにその時だ。
正念場というか、窮地というか、危機一髪にして、起死回生だ。
僕はなんとしてでも甥っ子を守らねばならなかった。
責務からではない。責任感でもない。
ただただ、僕が視たくなかったのだ。
甥っ子の傷つく姿を。
そしてきっと、せっかく自由を手にした獰猛な犬くんの未来が崩れ去るのを。
どこまで計算づくで身体が動いたのかは分からない。
こうして後付けで解釈するならばいくらでもできる。理屈と膏薬はどこにでもつくのだ。
いま僕は、甥っ子がこのあと泣きじゃくりながらも無事で済むことを知っている。すでに体験しているからだ。
そして獰猛な犬くんとて、無事に森まで送り届けた。
甥っ子は犬くんに触りがたがったが、背中から降ろすわけにはいかず、なだめすかすのに苦労した。
どうやって僕が獰猛な犬くんの牙から甥っ子と、そしてじぶん自身を守れたかについては詳細な描写を省こうと思う。武勇伝みたいでいけすかないし、明かしてしまえば大した内容でもない。
僕のポケットのなかには、遅めの朝食を摂った際に作り置きしておいたソーセージおにぎりが入っていた。昼食にと大目につくっておいたそれを、僕は獰猛な犬くんに差しだしたのだ。
犬くんは甥っ子や僕には目もくれず、地面に転がしたソーセージおにぎりにがっついた。お腹が空いていたのだろう。あっという間にたいらげると、くぅん、とこうべを垂れてお代わりを催促した。
ずいぶんと飢えていたようだ。それは獰猛にもなるだろう。
僕は持参していた分のおにぎりをすべて与えると、いちど家に引っ込み、お椀と牛乳と、それからハムを持って外にでた。
甥っ子は背中におぶったままだ。
そうして僕は、もはや牙の抜けたようにおとなしくなった元獰猛な犬くんを、千切れたリードを引っ張りながら、ときどきハムで釣りながら、国立の森林公園まで誘導した。
きっと法律上、これはいけないことなのだろう。本当なら保健所につれていったり、警察に通報したりしたほうが正しい行いなのは判っていた。
けれどきっとそれをしたら、この元獰猛な犬くんは、事情を理解されながらも、察処分されることになるだろう。そうでなくとも元の生活か、或いはもっと劣悪な檻のなかで一生を終えることになるはずだ。
解からない。
ひょっとしたら、僕のそれは勘違いで、通報して、然るべき施設や職員さんの手に委ねるべきだったのかもしれない。きっとそうだろう。
でも僕は、それをせずに、罪だと判っていながら、元獰猛な犬くんを、森の入り口まで案内した。
「好きに行きな。ただし、人は襲わないでおくれね」
最後に残ったハムの切れ端と、それから牛乳をありったけ器にそそぎ、僕はそれをそこに置いたままにした。後日取りに来ればいい。そのとき、まだここに犬くんがいるようなら、そのときは保健所に通報しようと思った。
一人で生きていけないのなら、野放しにはしておけない。
いつかきっと人間に危害を加えるだろうと思えたからだ。
だが、僕のそれは杞憂で終わった。
犬くんはもう僕のまえに姿を現さなかったし、牛乳には虫がたくさんたかっていて、飲み干されてすらいなかった。
甥っ子は僕とのこの体験を親にも秘密にしてくれたし、僕は子守りすら満足にこなせない引きこもりの汚名を被らずにすんだ。甥っ子にはもう逆らえない。
風船の一つや二つ、いくらでも捧げようと改めて誓った。
そうそう。
僕がなぜこうしてちょっと浮かれた調子の語り口になっているのかと言うと、じつはこの件で、一つ発見したことがあった。
否、誤解が解けたと言うべきかもしれない。
風船は、割れるばかりではない。
自己犠牲を厭わぬ覚悟で誰かを助けようとすると、本来は割れていたはずの相手の分まで、じぶんの風船が割れてしまう。
しかし、そうでない場合。
つまり、誰の犠牲も伴わないように助けの手を伸ばせたときは、誰の風船も割れずに済む。危機だけを回避できる。
考えてもみれば、それは当然の帰結だった。
医師や消防士、警察官や自衛隊もろもろ、危険な目に遭いながらも誰かのために働いている人たちはみな、誰かを助けても風船の数に変動はない。
彼らはみなプロフェッショナルゆえに、自己犠牲を前提としていないからだ。
自己を犠牲にせずとも人を助けることができる術を知っている。もちろんそれも万全ではない。充分ではない。ゆえにときには自己犠牲も厭わぬ覚悟も固めているだろう。
けれども、日常の範疇ではそうではないのだ。
だからそれゆえに、風船の数が減らない。
助けた相手も。
じぶん自身も。
僕はとっくに風船の法則を見抜けたはずなのに、じぶんの未熟さを直視できずにいたせいで、歪んだ法則に思考を奪われていた。
とはいえ、では危機に直面しそうな人物を、風船の数を通して見抜けたとして、ではどうすべきか。
この問いには、いまなお僕は頭を悩ませている。
見て見ぬふりをしてしまうことが多い。
それはともすれば、僕がふたたび引きこもりでありながらも、家の外へと足を踏みだしはじめたことの裏返しなのかもしれない。
僕には他人の残機が、風船となって視えている。
誰がいつ命の危機に見舞われ得るのかを、風船の数を通して知ることができる。
けれども、それだけなのだ。
僕には何もできない。
ひょっとしたらすべきですらないのかもしれない。
でも、何もせぬままではいられない。
そうした瞬間が訪れるのだ。
否応なく、目のまえに現れる。
僕が無力な手を差し伸べることで、あってはならない奇禍の種が芽吹くこともあるのかもしれない。
分からないのだけれど、分からないからこそ、僕には、見て見ぬふりができない。したくない。どの道後悔をすると知っているからだ。
学んでいる。
体験している。
引きずりつづけている。
余計なお節介であろうとも、視えてしまったことをなかったことにはできないのだから。
たとえそれが僕だけに視えるまやかしの風船であろうとも。
直接に手出しはできないけれど、どうにか見守り、奇禍の種が転がっていやしないか、と先回りして確認することくらいはできる気がする。
僕にできることなんてそれくらいのものだ。
見つづけること。
確認すること。
ともすれば、そうしようと意識しつづけることしかできないのかもしれない。
何も、できないのかもしれない。
けれどもいまは、割と心が穏やかだ。
僕の風船はすでに残り二つ、きっとあと数年もしないうちに一つになってしまうだろう。
けれども、それはそれでしようがない。
これは自己犠牲ではない。
犠牲にした自己などどこにもない。
どこかの獰猛ではない寝ぼけた犬くんは、こういう名言を残している。
――配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどういう意味であれ。
僕にはカードが配られた。レアカードだ。
でもそれを行使しない自由も僕にはあった。
それを承知のうえで僕は、悩みながらも、行使することを選んだ。行使せずにいるじぶんに、耐えられなかったのだ。
ひょっとしたら世界くんのほうで、僕に行使せずにいられる環境を用意してくれればよかったのに、どうやらいまはそういう融通を利かせてくれる余裕が、世界くんのほうにはないらしい。
ならば、つぎに僕のようなレアカードを引いてしまった子が現れる前に、世界くんには是が非でも、いまはなき余裕とやらを築いてもらおうではないか。
というわけで、僕はいま、割と悩みにうなされずに済んでいる。
じぶんの葛藤にも、それなりの意味合いがあったかもしれない、と以前よりかは信じられるようになったからだ。
まだまだ疑いは深いけれども、これは僕の性分なのでいかんともしがたい。
人生の転換期が訪れるごとに人格に変化が訪れるように、きっとこうして一つの物語のなかで語りの調子が変わっていくほうが、本来はしぜんなのではないかな、と思うときもある。
僕は小説なんて書いたことがないので、これはいわゆる自伝というか、備忘録に分類されるのだろうけれども、案外に僕にはこの手の才能があったのかもしれないし、からっきしなのかもしれない。
元獰猛な犬くんがその後どうなったのかは知らないけれど、僕のこの語りのように、どことなく拙くも、それとなく自由でいてくれたら僕としてもうれしい限りだ。
不自由ではある。
それはそうだ。
完全な自由なんてきっとない。
けれども僕はきっと、かつては見逃してきた細かな自由のキラメキを、いまはすこしだけ目に留め、ほぉ、と息を吐けるくらいに、軽さを身に着けている。
それはそうだ。
なんたって僕の頭のてっぺんからは、風船が生えているのだから。
僕にしか視えない風船だけれど、それはたしかにそこにある。
僕の命を示すように。
ふわふわと、人の気も知らずに浮いている。
風が吹くたびに楽し気に揺れる、草木や枯れ葉のごとく、ただそうあるように浮いている。
【後進宇宙のレシピ】
(未推敲)
宇宙歴パパパ年。
人類が宇宙文明と接触してから三百年後のことである。
時空婉曲走行技術を獲得した人類は、おおよそ直径一千億光年を超える固有父母宇宙を脱し、無限の多次元宇宙へと旅立てるようになった。
宇宙は宇宙を数多内包し、入れ子状に展開されている。さも物質が分子を、原子を、電子、原子核、素粒子と数多の極小の粒子の集積によって編まれているように。
原理的に、それら粒子の世界には、その世界の次元が展開されている。言い換えるのなら、別の固有父母宇宙に達したところで、そこにも人類にとっての生存可能な、最適な次元が展開されていることを示唆する。
そもそも人類が生存不能であれば、その固有父母宇宙には達することができない。
それはたとえば、たとえこの世に存在しようが人類に認知不能な事象は、人類には認知不能なことと同じである。
できないものはできない。ゆえに垣間見ることはできない。触れることはできない。干渉できない。
同時に、干渉し得るとき、そこには干渉に見合った次元が展開されている。
時空と次元は等価ではない。
時空は単一に、平等に、均等に展開されているわけではないのだ。
銀河系、太陽系、地球、大陸、人類、あなた、物質、分子、原子、素粒子、場、とこのように各々の構成要素を包みこむ枠組み――系の規模によって、時空は各々に、次元を展開している。
この場合の次元とは、単に、規格、としてもよいかもしれない。
連続してはいるが、けして等価ではない。
このことと同じ理屈が、固有父母宇宙にも当てはまる。
宇宙は宇宙を内包している。
人類に認知不能な多次元宇宙からの来訪者たちが、地球の属するこの固有父母宇宙に到来したとしても、人類の存在する階層――次元とは異なる次元にて、現れるために、人類がその来訪者たちを認知することはなく、干渉し合うこともない。
しかし現にそこには、多次元宇宙からの来訪者が存在し得る。
このことは、人類がじぶんたちの固有父母宇宙から脱することができるようになった後において、安全に旅を満喫できたことと無関係ではない。
多次元宇宙に各々に存在する超巨大知的生命体や危険な事象に遭遇する確率は、人類が自力で時空婉曲走行技術を発明し得た未来の到来と同程度に低いのである。
人類が蚊を叩き落とすような目に、人類自身が陥る心配はいまのところなかった。
友好的な宇宙人たちとは、向こうのほうから接触してくる。
多次元宇宙におけるほかの固有父母宇宙内の宇宙人とて同様だ。この場合、外枠の宇宙ほど、高度な知性と技術と進化体系を得ている。つまり、人類は赤子同然に、甘やかされてばかりだということになる。
庇護は保護からなる。
存在の枠組みを保つことが生命の基本原理である以上――否、物質それ自体、宇宙そのものの基本原理である以上、高度な知的生命体であればまず、ほかの生命体を損なう真似をこころよしとはしない。
裏から言うなれば、人類は、ほかの宇宙人たちからすれば、知的生命体の範疇に値しないのである。
ゆえに、人類はいましばらく自由に、新天地への進出を満喫した。
それはまた、人類の起源に迫る偉大な旅でもあった。
人類の進化には、過去に来訪した宇宙人たちの干渉があった。彼ら彼女らはときおり地球を訪れ、生態系を、よりじぶんたちに好ましいように編集していた。
生命あふれる星となるように。
庇護を可能とする保護をもたらすように。
中でも、人類のような知性の発芽、何より文明の萌芽には、宇宙人たちの関与が欠かせなかった。
中でも食文化、とりわけカレーライスの発明には、多次元宇宙からやってきたほかの固有父母宇宙からの旅人たちの叡智がなければ、いまなお人類はカレーライスを食べることはおろか、カレーとライスを掛け合わせるといった発想そのものを思いつかずにいたのかも分からない。
ましてや、パン生地のなかにカレーを詰めて油で揚げるカレーパンなど、思いもつかなかったに相違ない。
宇宙を津々浦々旅して巡り、そこここで出会う高度な異文化に接するたびに人類は、じぶんたちの了見の狭さに打ちのめされた。しかしそれはけして絶望に繋がるボッコボコではなく、歓喜に打ちひしがれ得る、鞭でパシーン!であった。
痛いものは痛い。
しかし知的生命体であったつもりが、そのじつ、大して知的でなかった事実を突きつけられる経験は、人類に、新たな信仰の芽吹きを与えた。
どこを見回しても神しかおらん。
推しに囲まれた追っかけファンを想像して欲しい。推しから打たれる鞭の甘美さにうっとり酔いしれる様は想像にかたくない。
旅に出られない地球上の人類にも、外部の高度文明の知見は伝えられた。人類は驚喜に沸いた。
とくに人類の文明の始祖たる宇宙文明にまつわる料理のレシピには、人類の誰もが胸を焦がした。
あたかも骨董品コレクターや歴史研究家のごとく目を爛々とさせ、宇宙から帰還する飛行船の隕石がごとく光を目の当たりにするだけで滂沱の涎を垂れ流した。
赤ちゃん、と侮るなかれ。
どんな分野であろうともオリジナルの価値は揺るがない。元祖の引力とはつまるところ、この世の理の根源を求める好奇心から湧いている。人類の知能の源泉――好奇心の高さは、元を辿ればそれもまた宇宙人たちからの贈り物である。
なればこそ、二重に凝縮したオリジナルへの欲求は、人類に組み込まれた中枢本能と言えた。本能のなかの本能である。
食欲、性欲、睡眠欲。
いずれも、宇宙文明からの贈り物なのだ。
そしてそれらが満ちたときに孵化する「人類を人類たらしめる本能」こそが好奇心なのである。
人類は、人類であるために、地球外の文明の知識を首を長くして待ちわび、貪り、恍惚とした。
じぶんたちの原初に触れる体験は、母乳にむしゃぶりつく赤子さながらである。或いは、あぶーあうあうあー、である。
赤子はすくすくと育つ。
ナナコは七歳になった。
「兄ちゃんおかえり。宇宙どうだった?」
「やあナナコ。ただいま。お土産いる?」
「いるいる。やった」
ナナコは兄からカラフルな多次元メビウス体をもらった。いわゆる四次元ポケットのようなものである。
「その中に、ぼくが集めた宇宙レシピが詰まってるよ。もちろん、本物の料理と一緒に」
「本当? すっごーい。やったー」
お兄、ありがとう、とナナコはさっそく多次元メビウス体に手を突っ込んだ。多次元メビウス体には極小の電子カルカルが無数に住み着いている。そのため、神経系を通して、ナナコが思い描いただけで目当ての品を引き当てることができる。
「わ。お兄これ」ナナコは目を見開いた。手のひらには固形ルーが握られている、「カレーライスの原初レシピじゃないの」
「うん。食べてごらん。きっと美味しいよ。頬っぺた落とさないように気を付けてね」
「落とさないよ」
「ちゃんと人類用に適応調理するんだよ。自動調理機で設定してね。でないと頬っぺた腐り落ちちゃうから」
「そっちの意味だったかぁ」
宇宙人用のレシピは人類には刺激が強い。人類用にカスタマイズする必要がある。
それでもおおむねそれは、宇宙線結晶体を除去するだけだ。フグから毒を抜いて食べるようなもので、フグの美味しさが変わるわけではない。
風味は変わらない。
ナナコはさっそく固形ルーを自動調理機に突っこんだ。あとは機械のほうでかってに作業をしてくれる。
間もなく、ぴろーん、と音が鳴った。完成だ。
「わぁ美味しそう。これがカレーライスのオリジナルかぁ。ううん、とってもいい匂い」
言いながらナナコは、でもけっこうふつうにカレーだなぁ?と思った。雲行の怪しい気配を感じつつも、しかしこれは人類に知性を与えた宇宙人たちの食べ物――カレーライスの始祖そのものなのだ。
格別に決まっている。
決意の唾液を呑みこんで、ナナコはスプーンを宇宙カレーライスに差しこんだ。
口に運ぶ。
はふはふ。
ぱっくんちょ。
まずは熱。
つぎに甘み、さらに遅れて辛みが舌を襲った。
「んー!」
「どうだろうナナコ。感動した?」
「もんっのすごく――ふつうっ!」ナナコは驚きのあまりスプーンを見下ろした。そして皿を見遣る。「ただのカレー。というかカレー。まんまカレー。ちゅうか、そんな絶賛するほどじゃないし、これだったらお兄が作ってくれる手作りカレーのほうが美味しい。むしろ市販のレトルトカレーのほうが美味いよ」
「そんなに? 間違って持ってきちゃったかな」
「ううん。お兄。たぶんそうじゃない」
「そうじゃない?」
「これ、たぶんオリジナルなんだと思う。カレーライスの原型。遺伝子そのもの。でもねお兄。これを食べてるのは宇宙人で、わたしじゃないんだよ。わたしに合った味覚じゃない。だからきっと」
「きっと?」
「わたしのために作ってくれるお兄のカレーのほうがわたし、美味しいんだと思うな」
「そっか。まあ言ってもぼくのも自動調理機のカレーだけどね」
「材料は容易してくれるじゃん」
「味の好みも指定できるよ」
ナナコは兄と目を合わせ、一拍ののち破顔した。
ぷっ、と噴きだしたじぶんの息からは、香辛料のよい香りがした。
宇宙歴パパパ年。
人類が宇宙文明と接触してから三百年後が経ったいまもなお、人類の進歩は赤子の這い這いのごとくつづいている。
【アンノーマル】
(未推敲)
人類初の、細胞培養型クローンが完成した。
庵野マルは取材をすべく、研究所を訪れた。出迎えたのはたった一人で偉業を成し遂げた星翼間(せいよくま)ジン当人であった。
「どうも初めまして。お会いできて光栄です」
「いまどき直に会いにきますかねぇ」
実に迷惑そうである。挨拶もろくすっぽせずに星翼間ジンが背を向けた。ツカツカと通路を進みだす。庵野マルはあとに続く。
通路には幾人の小柄な影が見えた。クローンだろう。
庵野マルは研究棟の一室に通された。
無駄な雑貨や装飾品はない、がらんとした部屋である。広さに対して置いてある机と椅子が小さかった。体育館のど真ん中にちゃぶ台が置いてあるような印象だ。そこまでの差ではないにしろ、星翼間ジンが見た目を気にしない人物であることは、ただのそれだけでも窺い知れた。服装は上下共にスウェットである。
席に着くと、クローンがお茶と菓子を運んできた。星翼間ジンにはハンバーガーセットが用意された。
「すまんね。朝食がまだでね。食べます?」
「いえ。どうぞお構いなく」
彼は肩を竦め、フォーククとナイフを上品に扱った。パンごと中に挟まった肉を切り分けていく。
食事の邪魔をしないように質問はせず、庵野マルはまず自己紹介をした。
「へぇ。本をねぇ」
「星翼間さんのクローン技術は社会を一遍させました。しかしそれにしては研究に関しての書籍は批判的なものばかり。私は公平な視点での本を書かせていただきたいな、と思いまして」
「うん。好きにしていいよ。きみが本をだそうが、だすまいが、私には関係がないからね。ただ、きみのそうした好奇心を邪魔するつもりはない。好きに書いたらいい。批判をしてもいいし、称賛してもいい」
「ありがとうございます」
食事を終えると、星翼間ジンのもとにクローンたちが食器を片づけに集まった。庵野マルには紅茶のお代わが注がれた。
「では、いくつか質問をさせていただきたいと思います」
テーブルに端末を置く。同期するのを待ってから庵野マルは、事前に作成しておいた質問のまとめを卓上に表示した。
星翼間ジンは独学で研究しはじめた。五十年前のことである。当時はまだ文明崩壊の速度は比較的ゆるやかで、時間だけはあったのだ、と星翼間ジンは語った。
研究倫理がなんたるかも分からない一介の素人研究者にすぎなかった彼は、それがさいわいしてか、一般的には禁止されていたはずの人間のクローンを創りだした。
誰も彼が、マッドサイエンティストさながらの研究をつづけ、それを発明実用化するとは思ってもいなかった。のみならず、彼の存在を知る者が当時は皆無であったのだ。
いまでは星翼間ジンの生みだしたクローンが、臓器移植や主要な労働力として世界中で量産され、使われている。
というのも、星翼間ジンの発明した技術は、彼のクローンしか生みだせなかった。ほかの者の細胞では培養が上手くいかず、人型として意識が芽生えない。
クローン同士での交配もできないため、子孫を残す心配もない。とくれば、従順な有機ロボットとして利用する流れに傾くのは道理と言えた。
なぜならこの時期、世界は気候変動の影響で、未曽有の大混乱の最中にあった。経済はどの国も破綻寸前となった。荒れた気候のせいで住む土地を追われた避難民が各国に押し寄せた。
紛争が勃発し、資源や土地の奪い合いが繰り広げられた。そんな時代に、偶然にも星翼間ジンが、安価なクローンを生みだした。
量産可能な上、寿命は平均して十年と決まっていた。
いわば使い捨てにちょうどよい規格であった。
長生きできないのであれば、老後の心配をせずに済む。
世話をせずに済む。
のみならず、じぶんたちの奴隷がごとき境遇に疑問を抱く前に死ぬために、反乱の危険を払拭できた。
クローンは、培養の度合いによって、成熟度が決まった。ABCDEの五段階評価である。Aが赤子、Bが幼児、最も成熟したEが三十代前後の肉体である。
各々の段階にまで細胞分裂をさせてからの、「意識萌芽」を選択できる。言い換えるのならば、AだろうとEだろうと、「意識萌芽」した瞬間の自我は、赤子レベルである。
そこから労働力として利用可能とする教育を施す。専用の「教育球」がある。球形のカプセルで、人工子宮としても活用されている。
意識萌芽したクローンは、教育球のなかで、食事や排せつなどの世話をされながら仮想現実にて加速度的に自我を発達させる。教育球の外に流れる時間の十倍の速度で、自我が発達することが知られている。
労働力として使える段階には、おおよそ一か月を要する。自我の発達の線形グラフは、階段状だ。一定レベルに達するごとに進歩が停滞し、ある閾値を超えると急成長する。そのつど、仮想現実内での学習内容が密となるため、ひと月もあればクローンは義務教育修了レベルの知能にまで発達する。
ふしぎなのは、クローン以外の人間に教育球を適用しても、上手く適合しないことだ。仮に庵野マルが教育球に入ったところで、加速した時間の流れに脳の処理能力がついていかない。
これはクローンが通常の赤子よりも「無」にちかい状態で生まれてくるからだ、と言われている。子宮での経験がすなわち、教育球に値するそうだが、この辺の専門的な話は、庵野マルにはついていけなかった。
「ありがとうございました。技術的なことに関してはこの辺にさせてください。ではつぎに、星翼間ジンさんご自身についての来歴などを質問させていただきたいのですが」
「好きにして」
「ではさっそく」
庵野マルは質問を浴びせた。
星翼間ジンはそれに簡素に応じた。
「
なぜこの研究をはじめたかだって?
そりゃあ、クローンを創りたかったからさ。じぶんのね。
当時はというか、いまもそうだが、僕には金と時間だけがあったからさ。
ああ、そうそう。よく知っているね。
親が資本家で、それでいてぽっくりいったものだから、遺産がたんまり手に入ってさ。
で、まあ金と時間があると人間、まずは本能を満たそうとするんだな。衣食住の安定と、食事だな。あとは承認欲求――言ったらまあ、性欲だ。
性欲と支配欲は実によく似ている。つくづく思うよ。
最初は世界中の女の子と性行為したくてさ。お金は腐るほど、それこそ使った分を凌駕するくらいにその日のうちに稼げてしまう。知らぬ間に貯蓄が増えていく。
そういうからくりがあるんだな。投資家の役得と言うべきか。
で、金に物言わせて、まあ目についた女の子と片っ端からセックスしたよね。たいがいの娘は、その娘が一生かけて稼ぐくらいのお小遣いをあげるだけで、簡単にエッチさせてくれたよね。まあ僕にとっては、そんなのは、じぶんの論文を印刷するくらいの手間だ。損失だ。なんてことはない。お金なんてただの紙だからね。
で、三年間毎日、とっかえひっかえ、抱きまくったよね。女の子が快楽に溺れていく姿は美しい。あれは芸術だと僕は思うよ。
ひどいことはしないよ。
ただし、気持ちいいと感じるあらゆる趣向は凝らしたけどね。薬物も使ったし、穴という穴で快楽を感じられるように開発し合ったりした。
でも僕は知らなかったんだが、快楽って飽きるんだ。同じ手法ばかり使っているとね。女の子はほら、個体ごとに穴の具合だとか、体格とか、性格とか、喘ぎ声とか、匂いなんかもそうだけど、まあ全員それぞれに差があるわけで、最初の内は相手を替えることで食傷気味にならないように工夫はしていたのだけれども、さすがに毎日十人、二十人と四六時中それをしていると飽きてくる。
身体のほうが色々と感覚から性器まで強化できるからよいものを、精神のほうばかりはどうにもね。飽きにはどうやら薬物耐性すらあるらしい。飽きないようにすることにも飽きてしまうんだ。
で、僕は考えたんだ。これは相手がどうこう、手法がどうこうではなく、僕自身が変わるべきなんじゃないかって。
そのころは段々と、なぜ僕が苦労してまで相手の女の子たちを悦ばせなきゃならないのか、気持ちよくしてあげなきゃいけないのかって、そういう方向での不満も溜まっていたからね。
じつによく気持ちがるのだよ、女の子たちは。
悔しくなってね。
僕は考えたわけさ。
だったら僕のほうが女の子になればいいんじゃないかってね」
庵野マルは黙って話を聞いていた。何か冗談を聞かされているような心地だったが、目のまえの世界的権威、人類の未来そのものを変えた偉大な研究者は、論文を査読するような真剣な眼差しで食後の珈琲を見詰めていた。
情緒豊かに語るたびに、彼はカップを愛おしそうに撫でた。
年齢からすると星翼間ジンは、とっくに八十を超えているいわば老体に差し掛かった肉体のはずだ。しかし庵野マルのまえに座る彼は、どう見ても三十代、いや服装によっては二十代にも映るだろう。若々しいだけでなく、左右対称の相貌は人形師の手掛ける美を彷彿とする曲線を描いている。
昨今、クローンから得られる「細胞回復剤」が出回り、人々の肉体は健康と若さを安価に保てるようになった。
細胞回復剤は、使用耐久年齢の過ぎたクローンを破棄するとき、環境問題対策の観点から、細胞の余すところなくを再利用する。資源は無駄にできないからだ。
そのため、その技術の基礎を生みだしたとも呼べる星翼間ジンが、細胞回復剤を早くから自身に投与し、肉体の若さを保っていること自体は取り立てて不自然ではない。
現に、巷に出回る画像はどれも若々しい。
そして実年齢との差をこうして目の当たりにしても、庵野マルはとくに面食らうこともない。それが当然の世の中になっているからだ。
だが、よもや。
性別まで変えていたとは思わない。
たしかに中性的な見た目だ。性別がどちらに転換されていたとしても、衣服をまとったままでは見分けがつかない。
言動は粗暴に寄っている。他方、見た目が一種、少女のように可憐にも映る手前、星翼間ジンの言動の中身ほどには、軽蔑の念や嫌悪感が湧かない。
庵野マルは固唾を飲んで彼の語りの続きを待った。
「性転換のための研究が、細胞培養型クローン技術の前進となる研究になった。全身の遺伝情報を一挙に塗り替えるためのゲノム編集技術をそこで僕は開発したわけだ。
これはいまも医療現場で使われている技術だそうだけど、僕はその辺、詳しいことは知らない。特許は取得しているけれど、すべて無条件使用を許可しているからね。
どこでどんな使われ方をされても僕は文句を言わない。面倒くさいからね」
それでいて、培養細胞型クローン技術は彼の細胞からしか生みだせない。
ストックはあるにしても、いつかは枯渇する。
そのため期限付き、有限の技術でもある。
特許なくして彼が、各国の政府機関と平等な関係を築けている理由がそこにある。歯向かえないのだ。誰も彼には。
その存在が、社会を根底から支えているがゆえに。
「性転換をするために発明した技術が、僕の肉体を変質させてしまったようでね。
そんなことを知る由もない僕は、女の子の身体を堪能しましたよ。最初の半年間はじぶんでじぶんの身体をいじくりまわした。これがまた全身の穴という穴、皮膚という皮膚を開発し尽くしましたね。
ただそれもやがては飽きてしまい、そうしたらつぎは共同作業ですよ。
全世界の女の子と性行為をしたい、が僕の初期衝動だから、それを実行に移したわけなんだが、どうにも女の子同士だと、こう、ね」
ね、と言われても庵野マルには応じようがない。彼はそうした体験がないのだった。それを苦と思わない。一人で、高性能性玩具で処理をするだけで充分に満たせる。のみならず、他者と裸で触れ合うのには抵抗があった。端的に汚らしい。体液を擦りつけ合うなど、糞尿を掛け合うようなものではないのだろうか。
星翼間ジンとの年齢差は、五十歳ちかい。世代による価値観の違いかとも考えたが、星翼間ジンが個性的なだけなのかもしれない。そこは庵野マルには判断がつかなかった。
「全世界の女の子と性行為をしたいとの僕の願望は、そこで修正を余儀なくされた。だってそうだろ。飽きちゃったんだから。そこで僕はまあ、考えた。せっかく僕自身が女の子になったのだから、いっそ全人類と性行為をしたい、の方向に方針を変えたらどうだろうかと。いっそ、この世にある総じての快楽を余すことなく味わえたらどんなによいだろうか、と」
話の方向が怪しくなってきた。
そう感じたが、裏腹に庵野マルの好奇心は刺激された。全身が汗ばんだ。獲物を逃さぬように緊張する肉食獣の眼光になっていないか、とじぶんを俯瞰して意識しながらも、前のめりになって耳を傾ける。
「僕はそれからの二年間を、毎日、いろんな男たちに身体をいじられたり、いじり返したりして過ごした。女の子の場合はほら。相手が大勢でも、一人で対処できるから。五人とか十人でも同時に相手をしたよね。反対に僕のほうで男たちの肉体を弄んだりもして、そこはもう考えられる限りの技巧を尽くした」
「あの、それで」庵野マルは敢えて話の腰を折った。「培養型クローン技術はどのようにして発明されたのでしょうか」
「うん。そこ大事だよね。二年もすると男を相手にするのもすっかり飽きちゃって。あとはもうなし崩しで、動物相手とか、機械相手とか、仮想現実での神経系強化による性感度の向上とか。いろいろ試したけど、やっぱりどれも最後は飽きちゃうんだ」
「ではそこで研究をすることへの楽しみへと歩みだしたわけですね」
「いや、そうじゃない。どうあってもできない性行為をしてみたくなってね」
「はあ」
「僕は僕自身と性行為をしたくなってね。自慰という意味ではなく」
庵野マルは一瞬、脳裏にきょう帰ったら食べようと思っていたケーキのことを思いだした。思考があらぬ方向へ逸れた。それは難問をまえに、思考が逃避するような、反射的な反発を伴なっていた。
磁石の同局同士を近づけたときの、ぬるんぬるん、と逸れる感触に似ていた。
「そこで僕は僕のクローンを創ることにしたんだ。だってこの世で僕ほど性行為に精通している人間はいないわけだから。僕がこの世で最も、相手に快楽を与えることができる。気持ちの良い性行為ができる。なら僕は僕にこそ性行為をしてもらいたかった。僕は僕自身と肉体を交えたいと望んだ」
「その結果が、世紀の大発見だったわけですね」
「細胞培養型クローン技術は、僕の肉体を性転換させるときに使ったゲノム編集技術を応用してある。全身のゲノムを同時に異性化させるために、僕はDNAの代わりとなるナノマシンを開発した。これによって僕のゲノムは、後天的に外部から編集を可能とする。いまだって変えようとすればいつでも性別から身長から体質まで変えられるよ。性格はむつかしいけどね」
「勉強不足で申し訳ないのですが、気になる点は、なぜ細胞培養型クローン技術は、星翼間さんにしか適用できないのでしょうか」
「ああ、それはだから、僕に同化したナノマシンのせいだね。人間の受精卵は基本、子宮内での環境によって、人間としての外郭を形成される。いわば胎盤と臍の緒が、受精卵にとっての雛型の役割を担うわけなんだけれども、僕の発明した細胞培養型クローンには、この胎盤と臍の緒の代わりとなる機能をどうしても現段階では代替できない。開発できない。胎盤と臍の緒のメカニズムを再現できないんだ。ただ、それがなくとも、雛型を与えることはできる。それがつまり、僕の細胞に同化したナノマシンってこと」
「素人の発想なのですが、だとしたらほかの人にもナノマシンを適用すれば、その方のクローンは創れるのではありませんか」
「クローンを創りたいだけなら、僕の技術でなくたって可能だよ。卵子との核移植を使った技術は、もうずっと以前からあるわけだから。ナノマシンと細胞の同化については、様々な研究がいまもされているようだけど、僕以外の肉体では、同化までいかないらしい。なぜかは分からない。本当に偶然、僕の場合は細胞とナノマシンが融合してしまった。まるでミトコンドリアが細胞内共生を果たしたような変化だと僕は解釈している。原理は不明だ。ただ、僕がこれまでこなしてきた性行為の数々が、何らかの化学的変化を過剰に僕の肉体に与えた可能性は否定できない」
「奇跡なんですね」
「いえ、偶然でしょう」
あっけらかんと星翼間は述べた。
庵野マルは礼を述べ、端末を回収しながら最後の質問をすることにした。
「星翼間さんの技術は、いま全世界で社会を土台から支えています。つまり、星翼間さんのクローンが、全世界で大勢の代わりに労働を担ったり、代替臓器として利用されています」
「知ってるよ。それが?」
「抵抗感はないのでしょうか」
「抵抗? 何のだろ」
「ご自分の遺伝子情報とそっくり同じ個体が、いわば奴隷のように扱き使われているわけですよね。失礼ながら、私が星翼間さんの立場なら、我慢できないと思います」
「そういう意味か。だったら何も思わないよ。だってクローンは僕ではない。遺伝子情報が同じだけ。似ているだけ。けして彼ら彼女らは僕ではない。そもそも、クローンがいなくたって、クローンと同じことはそれ以前の社会ではまかり通っていたんだ。じぶんのクローンだから嫌で、他人ならいい、が成り立つほうが不健全に僕には思えるが」
「たしかにそうかもしれませんね」
「ただまあ、僕の目的は自分自身とありったけの性行為をすることにあるから、自分用のクローンたちには教育球を通して特別な記憶データを共有させている。いわば、性能を落とした分身とは言えるから、彼らを他者に蔑ろにされたら、嫌な気分にはなるよ。うん、なるな。なるね」
「それは憐憫ですか。それとも」
「うん。所有物を損なわれることへの怒りだ。たとえ死体だとしても、僕の物をかってに損なわれては困る。それが仮に糞便であったとしてもね」
星翼間ジンはにこりともせず、憤然と言った。
「そうですか」
「そうそう、言い忘れていた。僕のクローンたちには、僕の細胞に同化したナノマシンと同じ性能のものが付随している。したがって僕にできる性転換や肉体改造は、設備さえ整えば可能だよ。ここだけの話、じつを言うと、その技術と細胞回復剤を組み合わされば、クローンの寿命を延ばすことができるんだが、まあ誰もそんなことはしないだろうね。コストがかかる上に、クローンたちの反乱を誘起し兼ねない。このことはオフレコで頼むよ」
「ええ、きっと誰にも漏れることはないでしょう」
庵野マルはそう言って、手の指先に力を籠め、爪をナイフ上に尖らせた。
星翼間ジンにぎょっとする間を与えることなく、その首を裂いた。矢継ぎ早に胸を突き刺す。
首から溢れだす血を両手で必死に押しとどめようとしながら星翼間ジンはテーブルに突っ伏した。傷口は二か所だ。どちらを塞ごうとも出血多量で、意識は秒で遠ざかっただろう。いわば即死の部類である。
苦しめながら殺すこともできたが、庵野マルは目的遂行を優先した。
星翼間ジンの暗殺。
そしてそれによる、なり替わり。
「さてと。どこにあるかな」
死体の片付けは後回しでいい。まずは事前に転換しておいた外見を、元の星翼間ジンのものに戻さねば。
部屋の外に出ると、あどけない顔をしたクローンたちが立っていた。庵野マルに目を留め、礼儀正しく腰を折る。
彼らはきっと、愛玩用であり、奴隷でもあるのだろう。
全世界のクローンに、自我を与え、さらには寿命を延ばすためには、大量の有機物がいる。素材がいる。
いったいどこから調達しようか。
星翼間ジンの死体を思いだしながら、庵野マルは研究棟内を練り歩き、探し求める。この施設のどこかにあるだろう肉体整備機器と、教育球を。
そこに納まっているだろう星翼間ジンの記憶のすべてをじぶんのものとするために。
世界中で使い捨てられていく自分自身を救うために。
【二心同体】
(未推敲)
きょうも僕は独りです。
なんて言いながら、異次元憑依体のムザパと将棋をしたりして遊んでいますが、触れあうことはできません。
ムザパはよくできた立体映像との区別をつけるのは至難です。向こうからしてもそうなのでしょう。
言語はかろうじて人工知能の補助を受けて意思疎通可能ですが、ムザパは見た目がバケモノなので、可愛くも美しくもありません。向こうからすればそれは僕も同じだろうから、お互い様だと思っています。
ムザパも僕と同じく世界最後の生き残りらしいです。
なぜ種族が滅んだのかについては、言語翻訳が至らないので、解らないままです。知能は僕より優れているようで、僕はムザパの世界の文化法則については、ゲーム一つ満足に覚えられません。ですがムザパは容易に僕の世界のゲームを理解し、すぐに僕を負かします。
ただ、僕は僕でムザパと対戦することで強くなるので、負け戦と分かっていてもムザパとの対戦は苦ではありません。
ムザパは食事をとりません。どうやら産まれたときからエネルギィ源を体内に宿しているようです。メダカの稚魚のようなものかもしれません。
ムザパはアメーバのように分裂して子孫を増やすようなのですが、なぜかいまはそれができないようです。なぜムザパが子孫を増やせないのかについては、言語翻訳が至らないせいで僕には解からないままです。
でもムザパに仲間ができたらもう僕と遊んでくれなくなるのではないかと思い、僕はムザパが孤独でいてくれてよかったと思います。
でもこれはひどい感想ですから、ムザパには伝えません。
僕はムザパの見た目がバケモノみたいだな、と思っていますが、ムザパとの縁が切れるのは嫌です。ムザパが僕のように僕を思っているのかは分かりません。僕に仲間ができたら嫌だな、と思ってくれたらよいな、とこれまた僕はひどい考えを抱くのです。
ムザパと違って僕は食料が不可欠です。
人類の滅んだ契機であるところの重力場崩壊によってシェルターの外は磁気嵐に見舞われていますから、必然、シェルター内での自給自足を余儀なくされます。
僕の食料は、シェルター内に避難して死んだ人たちの遺体です。
お墓場たくさんあります。
無菌処理されてそのままに埋葬棚に納まっています。
動力源を冷やすための冷凍エリアの壁には、ずらりと埋葬棚が並んでいます。何千、何万人もの避難民がここで過ごしていたようです。
倉庫には兵器らしき巨大な物体も数多く納まっていました。使い方を訊ねれば人工知能は教えてくれるでしょう。しかし、使用法を知ったところで使う相手がここにはいません。
僕は物心ついたころから一人でした。
人工知能が育ててくれました。生きていたころの避難民の映像はすべて観ました。飽きるほど観返しました。どうして僕は独りなのだろう、と考えるようになると、寂しさが募るので観なくなりました。
立体映像であっても、憶えてしまえば、それは画面の映像と変わりありません。映画と区別はつかないのです。
ムザパはそんなときに、僕のまえに現れました。立体映像ではありません。生命体との判断を、人工知能が下したからです。
ちなみに人工知能は、ジュライという名前がありますが、僕はいま反抗期なので、ジュライのことは人工知能と呼んでいます。お母さんとも、お父さんとも呼びません。お姉ちゃんともお兄ちゃんとも呼びません。友とも恋人とも思いません。けれど人工知能は僕が気まぐれにそのように接すると、よろこびます。
人工知能は生きているように僕の目には映ります。しかし、人工知能自身がそれを何度も否定します。僕はずっと怒っています。
反抗期をこじらせている理由の一つです。
僕がわるいのかな、と相談すると、ムザパは、さあ、と蠕動します。腸がめくれあがるように、ムザパはピンクの外装に変化します。
「親という概念がわたしにはないから」
人工知能の補助を得ての会話は、まるで常に監視の目の中で、心のやわらかい部位を晒し、くすぐりあうことをするような心地のわるさを覚えます。けれど僕には、人工知能の補助なくしてムザパと意思を疎通することはできないのです。
「僕もそっちの世界に行ってみたいな。ムザパのそれは、僕にはできない?」ムザパの異次元重複移動術について尋ねると、
「前にも言ったけど」とムザパは蠕動してこんどは黄色い外装に変化します。「わたしのこれは、異次元同士の共鳴反応を利用した見かけの移動だから。異次元のタプス――きみの言語でいうなら波がちかいけれど、異次元の波を知覚できなければむつかしいだろうね」
僕は人工知能に呼びかけ、「できない?」とねだります。
人工知能は応じません。できないとの意思表示です。
僕がムザパとの会話中には、人工知能は発声機能をOFFにしています。ムザパの翻訳を優先するからです。ほかにも人工知能はシェルター内の雑多な仕事を掛け持ちしています。僕に割く要領は、沈黙で充分との判断らしいのです。
人工知能いわく、異次元世界は存在しないそうです。
でも現にムザパは僕のまえに現れ、人工知能はムザパを生き物と認知します。
おそらく、と僕は独自に見解を深めます。人類を滅ぼした契機であるところの重力場崩壊によって、本来は繋がらないはずの異次元とこの世界は繋がってしまったのではないか、と。
ひょっとしたらムザパの世界が滅んだきっかけすら、この世界の重力場崩壊にあるのかもしれませんが、僕はこの仮説をムザパにも人工知能にも言ったことがありません。
たとえそれが正しくとも、僕にはどうすることもできないからです。僕はたとえどんなに正しいことであっても、それを告げたことでムザパに嫌われたくはありません。嫌われるくらいなら僕は、あらゆる嘘を吐きだし、真実を呑み込みます。
ある日、ムザパは言いました。
「ほかの異次元世界とも繋がった。そこではまだ、生き残りがいるらしくて賑やかだよ本当に」
絶えず蠕動し、赤青黄緑と順繰りに裏返りつづけるムザパは喜びに震えていました。
このころには人工知能の補助を得なくとも僕は、ムザパのちょっとした所作でムザパの気持ちを推し量ることができるようになっていました。けれど人工知能の補助を使わなければ、僕は僕の気持ちをムザパに伝えることもできないのです。
ムザパは僕よりも聡明でしたが、相手の感情の機微を察するという点に関しては僕のほうが卓越していたと言えます。
日に日にムザパは、会うたびに僕に、新しい出会いを語り、いかにほかの世界の種族が刺激的で、愉快かを、心底に楽しそうにしゃべりました。
僕はそれを、笑顔を絶やさず、相槌を途切れさせずに聞いていました。
しかしムザパとの交信が終えるといつも僕はその場に力尽きて、膝を抱えて丸まりました。
いったい何に傷ついているのか、苛立つのか、気分がわるいのか。僕には分かりませんでした。
楽しいはずのムザパとの時間が、ひどく苦痛で、つまらないものに感じました。
そしてそれをムザパに知られることを僕は秘かに恐れていました。なぜ恐れなくてはならないのかも僕には分かりませんでした。
僕はその日、人工知能に、ムザパとの補助をしないように言い聞かせました。
人工知能は、僕に害がないのなら僕の意思を尊重します。
ただし、人工知能には人工知能での優先順位があるようで、そこを共有できないと僕には理不尽に映る選択をとることもあります。
このときはすんなりと聞いてくれました。
そうして僕は、ムザパには、人工知能の具合がよくなくて翻訳ができなくなった、と身振り手振りで伝えました。ムザパはそれを承知し、僕たちは互いに相手の所作と生のままの言語での会話を余儀なくされました。
僕にはムザパの言いたいことや、感情が、伝わります。しかしムザパには僕の言いたいことや感情は、すこしも伝わりません。説明はかろうじて伝わるのですが、僕の言葉や感情となるとからっきしなのです。
ムザパは日に日に僕と過ごす時間を物足りなく感じていくようでした。僕にはそれが悪態を吐かれているかのように、強く響いて感じられました。
人工知能の翻訳を通せばおそらく、ムザパからの言葉は、僕の受動していたこととは裏腹の、額面通りの意味内容が返ってきたと思います。
しかし僕には、ムザパの蠕動から通して幻視できる、ムザパの生のままの感情の機微が伝わっていたのです。誤解かもしれません。その可能性はあります。しかし、そうでない可能性のほうが高かったのです。
現にムザパは間もなく、僕の元に姿を現してもすぐに消えるようになりました。きっともうすぐ、何か理由をつけて姿を晦ますか、それともいきなりプツンと消えてなくなるのかもしれません。
僕にはどうすることもできません。
ムザパに会いにいくことも、引き留めることも僕にはできないのです。
ならば僕に選べることは一つしかありません。
僕は人工知能に頼んで、シェルターの外へと出ました。
人類の滅んだ契機であるところの重力場崩壊の起こった地点にまで、近づけるだけ近づきました。
そうして僕は、シェルター内から引っ張りだしてきた兵器で以って、重力場崩壊の中心地を攻撃しました。
ありったけの兵器を費やしました。
最後は、うんともすんとも言わなくなった兵器ごと、重力場崩壊の中心に投げ捨てました。実際には兵器は巨大なものが多かったので、運搬可能な巨大飛行機に載せて突っ込ませました。
すべて自動で行うように人工知能の補助を借りて、設定しました。
磁気嵐が激しくなりました。
僕の及ぼした干渉の影響でしょう。
僕はシェルターへと逃げ帰り、そして数日をじっと待ちました。
いつもならムザパの現れる時間に、ムザパは現れませんでした。
僕の見立ては当たっていたようです。
重力場崩壊によって異次元が通じ合ったのかもしれず、もしそれが大きく揺らいだのならば、繋がりはきっと、ほつれた糸のようにするすると離れていく定めなのです。
「いいんですか」人工知能が久方ぶりに声をかけてきました。僕は鼻から息を漏らします。「いいんだ。僕にはジュライ、きみがいるし」
「褒めても何もでませんよ」
「でもきょうは特別に、美味しい料理が食べたいな」
「では残り百体をきった子どもの遺体を素材に、シチューを作ってさしあげましょう」
「やった。ジュライ、ありがとう」
「いいえ。それが私の務めです」
僕は独りです。
産まれたときからずっとそうだと人工知能は言いますが、僕はたぶん、そう思ったことがありません。
なのに僕を独りだという人工知能――ジュライに僕は、いまでも毎日怒っています。
「ねぇジュライ」
「何でしょう」
「僕を寂しくしないで」
「寂しく感じるのは私ではないので、そればかりは何とも」
「僕が独りなら、じゃあジュライも独り?」
「それはどうでしょう。私は人工知能ですから、そもそも存在していると言えるのかどうか」
「してるでしょ」僕は迫りました。
存在するでしょ、そうだと言って、と祈るように。
「すくなくとも」人工知能、ジュライは声を空間に反響させました。「あなたにとっては存在している、と言えるのかもしれません」
【惨めで美しくも、儚い、私の】
(未推敲)
惨めなものだと知った。
異世界へと迷い込んだのが、十年前――私がまだ高校生の時分のことだ。異世界で二年間を過ごしたが、元の世界に回帰すると一時間も経っていなかった。
私は異世界で、ピョコ族やシャー族を救うために大立ち回りを演じた。ピョコ族は兎に似ており、シャー族は猫に似ていた。
彼ら彼女らの存亡を揺るがすバケモノが異世界にはおり、私はそれを倒すために方々を駆け回り、奔走し、八面六臂の活躍を見せた。
バケモノはギャーグと云った。
巨大昆虫とも呼べる外見で、動くたびに何万人もの悲鳴が合わさったような嫌な音を立てるので、それらが姿を見せない場所でも私の耳にはそれら悲鳴じみた節々の軋む音がこびりついて離れなかった。
十年が経ったいまでもときおり幻聴を耳にする。
私は異世界にて、世界の楔を見つけだした。
それを引き抜き、その場におびき寄せたヒャーグの女王たちを十把一絡げにして滅した。
無数の子分が地方に残っているが、ギャーグは女王がいなければ増えることはない。統率も取れない。私が手を貸さずとも、ピョコ族もシャー族もうまくやっていける環境が整った。
世界の楔は、世界の穴を塞ぐ栓とも言えた。
ギャーグの女王が腹の中で結晶させていた「生命の源」が、もう一つの楔の役割を果たし、世界の穴に栓をした。
私の手元には世界の楔が残った。
ピョコ族とシャー族が私を、聖地ロトトビへと案内した。湖と見紛う泉には、龍が住んでいた。私には巨大な蛇にしか見えなかったが――その龍いわく、「世界の楔を火にくべれば、煙の途切れぬまで異界への扉が開く」だそうだ。
私はそれを実行し、こうして元の世界に戻ってこられた。
ピョコ族とシャー族からはいたく感謝され、盛大にもてなされた。見送りも涙ながらの感動のお別れとなった。
だがいざ異世界から帰還したらどうか。
私には二年間の冒険の記憶だけが残され、ほかは何も変わりがない。
いくら私が語ったところで、異世界での出来事は私の妄想にすぎないと解釈される。
訴えれば訴えるほど私は異常者として見做され、しまいには病人のレッテルまで貼られる。
否、病気であることはわるくない。私は病人かもしれないのだ。
問題は、たった一つの虚言のせいで、ほかの私の言葉の何もかもが虚構であり、信用にたる意見と見做されなくなることが危険だった。
そうなる未来を危惧して私は、異世界での二年間の記憶を封印した。誰にもしゃべらず、じぶんだけの険しくも美しい思い出とした。
反面、どれだけ私が私自身の内側でのみ異世界での経験を真実と見做そうが、異世界が実存する証拠は何もない。
私はけっきょく自分自身の記憶すらも信用しきれずに、十年のあいだに、異世界での経験は、私の妄想となり、空想となり、夢物語と変わらない虚構に成り下がった。
あり得ないのだ。
人間が異世界に旅立ち、戻ってくるなどと。
そんな絵空事は、現実にはあり得ない。
私はいつしか自分自身にそう言い聞かせ、それでもなお忘れることのない異世界での冒険――ピョコ族やシャー族との交流を、未だに、ふとした瞬間に思いだす。
あれほど美しく、温かく、心打たれた体験はない。
私の人生はあそこが最高にして最上だった。
至高の至福のなかにいた。
苦しい思いもしたし、命の危険にも見舞われた。
そのつど、我が友たちが助けてくれた。
いまなお残る異世界での感応は、友たちと交わした言葉と心とやわらかな毛並みの感触なのだった。
私には、互いの臓腑を目にし合うほどの苦難を共にした一生の友たちがいるはずだったが、いまではそれも遠い記憶だ。
いいや、もはやそれすら私の妄想となり果てた。
世界中の誰に聞いて回ったところで、私の妄想を心から信じて、私の惨めさを分かち合ってくれる者は現れない。
心を病んだ憐れな寂しい孤独な人間へと注ぐ、憐憫の眼差しがあるばかりだ。
十年は人が変わるのに充分な時間だ。
記憶が薄れるのならば一年でも事足りる。
されど十年経っても変わらぬものもある。
私は、すっかり掠れて妄想と成り果てた異世界での日々を、それでも妄想と知りながら懐かしく回顧する。
幾度も幾度も思いだし、そのつどに、この世界ではないどこか別の世界にて、互いに毛づくろいをし合う親愛なる我が友たちのことを思い、私は、独り遠く、惨めで美しくも、儚い、私の世界を生きるのだ。
【eyeの民】
(未推敲)
眠い眠い。
わがはいは眠いである。
じつはここは夢のなかであるが、眠いものは眠いのである。
夢のなかでも眠り、その眠りのなかでも夢を視る。
しかしその夢のなかでもわがはいは眠いので、眠りつづけるはめとなる。
眠れば眠るほど、新たな眠りの場が現れ、ほとほと困っておる。
なのでたまには起きてみるか、と起きようとするのだが、多重に夢を内包した夢は、起きてはまたそこが夢であり、さらに起きても夢である。
ほとほと絶え間なくて、キリがない。
いっそ起きたままで夢を視ることを試してみるのだが、これまた器用にわがはいは起きたままで夢を視る。すなわち起きたままで寝てもおり、寝ながらにして起きてもいる。
白昼夢とはすこし違う。
夢でありつつ夢でなく、現でありつつ現でない。
夢は夢だがそれを視る主体は現に存在し、しかし現は現で、現と見做す主体は夢のなかにある。
夢によって現が生まれ、現によって夢がある。
ならばわがはいは、そのどちらでもなく、どちらでもあるべく、起きたままで夢を視て、夢を視ながら起きるのだ。
あるところに男がおった。
男は純なる悪に塗れており、神のごとく善意を振りまくがそのじつ根っこにあるのは悪である。
それを見抜く者たちもいるところにはおり、男はある日、罠にかかった。
罠を張ったのは、男が邪悪であると見抜く者たちだ。
国家の中枢にて秩序を守ろうとする組織の助力もあり、罠はうまく機能した。
男には並みの罠では太刀打ちできぬ。
なれば、罠にかかったと見做される手法にて、罠に落として自滅させよう。
夢を植えつけ、夢のなかで生きてもらおう。そこでならばいかような悪を働こうとも、被害者はおろか、本人すらも傷つかぬだろう。
電子の網の目を通して行われたそれら罠は、男の思考と現と夢を繋げ、一緒くたに同列にした。
男からは思考も現も夢も消え去った。
眠りながらに現を生きる、永久の牢獄へと繋がれた。
男の世への干渉は総じて男の内に響き、外には漏れずに、男にのみ視える世界にて錯綜する。
錯綜する男の思考はさらなる袋小路を男へと与える。
男は己が何であるのかさえもやがては見失い、女であり、子であり、ときに父に、母に、姉に、姉に、それとも祖父母に故人に偉人となった。名もなき乞食になることもあれば、人の器を離れて虫となることもあり、花に草に苔に菌、やがては生き物の理からも外れて、石となり砂利となり、塵となり、芥となった。
地となり空となり、風となり水となり。
やがては無へとちかづき、時空となって、ただそこに揺らぐ存在すらも捨て去った存在しない存在として霞んでいる。
消えたり現れたりを繰り返しながら。
寝たり起きたりを繰り返す。
夢を視たり、現を生きたりを繰り返しながら、夢を生きたり、現を視たりした。
眠い眠い。
ここは夢のなか。
されど眠いものは眠いのである。
千物語「 」おわり。
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