千物語「斜」

千物語「斜」 


目次

【マル、】

【厖】

【ギバーはきみだ】

【夜のまどろみとケーキ】

【目網打】

【ルンルンランラン低評価】

【瞋恚の息吹】

【渇きの癒える宵がくる】

【河童と源五郎】

【オセチドリ】

【触れた祟りに慈悲はなし】

【亡霊は佇む】

【祓い漁】

【きょうの日誌】

【意に反する黴はいらない】

【月はマシュマロのように】

【摘まれる音がする】

【全身烏龍茶人間】




【マル、】

(未推敲)


 その猿は群れからはぐれていた。産まれたころから身体がちいさく、みなにはある鞭のごとく長い尾がなかった。

 兎の尾のようにくるんと丸く尻にくっついている。

 ほかの猿のように尾で枝にぶらさがることもできなければ、疾走中に素早く急旋回することもできない。

 群れは尾の丸い小柄な猿――ここではそれを、マルと呼ぼう――マルを群れの最下層に置いた。マルは群れからはぐれてはいたが、いつも群れのすぐそばにいた。

 群れはマルを歯牙にもかけぬが、追い払う真似もしない。

 マルがいれば序列があがる。誰も最下層になることはないと、本能から知っていたからだ。

 マルはひもじぃ思いをしながらも、群れの端からほかの猿たちの、毛づくろいをし合う姿を眺めた。

 マルには特技があった。

 それをじぶんの特技だったのだ、とマルが気づくことは、マルが死ぬまでずっとない。

 マルは小柄ゆえに指先もほかの猿たちと比べて細かった。枝先のようなそれを駆使すれば、マルはおそらくほかのどんな猿よりも毛づくろいが上手だったろう。

 だがマルには毛づくろいをする相手がいない。

 その代わりマルは、その寂しさを紛らわせるために、みなが目もくれぬ動物の糞や、洞や、岩の隙間に指を突っ込み、そこに埋もれた種や、虫や、苔を集めた。

 ほかの猿たちから食べ物を分けてもらえない。それら未知の餌を、マルはときに食べ、ときに雛たちの旅立った鷹の巣へと蓄えた。

 鷹の巣には蛇はおろか、ほかの猿たちも近づかない。

 いちど旅立った鷹はもう二度と同じ巣には戻ってこない。マルはそれを知っていた。じっと同じ場所から眺めていて気付いたことだ。ほかの猿たちのように、同族同士で戯れない。時間はいくらでもあった。

 マルのきょうだいたちが軒並みつがいを築き、子を持った。マルはそれを群れの端からやはり見守った。

 このころになると、次世代の猿たちがマルをつけ回し、執拗に攻撃するようになった。群れの序列の外にいるマルへの好奇心、そして何をしても仕返しはおろか、ほかの大人の猿たちからの叱責もないとくれば、遊び盛りの子猿たちにとってマルは、テイのよい動く遊び場であった。

 小石を投げつけられることもしばしばだ。

 マルはいよいよ群れにいられなくなった。

 群れが餌を求めて移動しても、もうマルは群れについて行かなかった。

 群れから離れると却ってスッキリした。

 マルは蓄えた餌を食べながら、静かな日々を過ごした。

 しかし、束の間の平穏は、なかなか降りやまない長い雨季によって唐突に終わりを迎えた。

 雨がやまない。

 例年であればとっくに晴れ間を覗かせておかしくない。だがマルの乞うような眼差しをあざ笑うかのように雨は草木を打ち鳴らし、地面を水底に沈めた。

 辺り一帯が巨大な水溜まりとなった。

 マルは木の上での生活を余儀なくされた。

 尾のないマルにとって木の上での日々は、不安との戦いだった。マルがそうであるように、地上で暮らしていた獣たちのおおむねも木々の上に避難している。クロヒョウやアナコンダ、ほかにも獰猛な動物たちがこぞって木々を足場に、腹を空かせて彷徨っている。

 毒虫の類とて、幹の表面をびっしりと鱗のように覆っていることもしばしばだ。

 おちおち寝ていられない。

 否、それでも寝てしまうのだ。疲れるからだ。何度、枝から転げ落ち、危うく地上の水溜まりへと落下しそうになったことか。

 木の幹にしがみつくようにして寝る癖がそうしてできた。これが却って功を奏した。というのも、耳を幹に押し当てる格好になるため、夜な夜な忍び寄る脅威に気づき易くなった。

 足音がする。這う音がする。

 なるほど、これならば生きていけるかもしれない。

 不安の日々に活路が開けた気がした。

 慣れるものである。

 マルはいつの間にか、木々のうえで、地上よりも優雅な日々を送りはじめた。

 餌を探す必要がない。

 虫は取り放題だ。すこし気を移るだけで、以前よりもふんだんに虫の群れを見る。

 地上で暮らしていたときは、木々にはなるべく登らなかった。尾のないマルにとって、そこは選ばれた群れの者たちの居場所だったのだ。

 だがいまはそうではない。

 ここそがじぶんのいるべき場所だと再認識した。

 マルとて猿である。ほかの動物よりかは木登りは得意だ。そんな当たり前の事実にマルはようやくこのときに思い至ったのだ。

 小柄なのは相変わらずだった。

 手先の器用さも健在だ。

 食料を備蓄する癖も抜けていない。

 長い長い雨季がようやく終わったころ、マルは一匹のクロヒョウと行動を共にするようになっていた。

 まだ雨の降りしきる時分、腹を空かせ弱っていたクロヒョウを、マルは助けたのだった。

 なぜそんな真似をしたのか、マル自身には分からない。

 ただ、どうすればクロヒョウを救えるのかは理解できた。どうすれば木から木へと乗り移れるのか、その道程が見えるのと同じように、クロヒョウの求めていること、そしてどうすればそれを満たすことができるのかをマルは手にとるように察し至れた。

 試してみたかっただけなのかもしれない。

 それとも群れることなく孤独に腹を空かせ、弱っているその黒き森の悪魔に、かつてのじぶんを重ね見たのかもしれない。

 マルは同族と毛づくろいをしてこなかった。それゆえ、自己の像が不安定だった。己が一匹の猿であることを、いつしかマルは忘れていた。

 マルはクロヒョウへと、獲ったばかりの野鳥を与えた。雨季、野鳥の多くは葉の下や洞の中でじっとしていた。コツさえ掴めば、死角から獲るのはマルの観察眼をすれば造作もなかった。

 クロヒョウは息を吹き返した。

 マルははじめ、クロヒョウからは距離を置いた。回復すれば襲われる。恐怖を忘れてはいなかった。

 だがクロヒョウはマルの後について回った。マルの生活を脅かさぬギリギリの距離で、しかし互いの姿が見える距離を保って。

 つけ狙われているわけではないらしい、とマルが確信したのは、件のクロヒョウが、ほかの肉食獣からマルを守ってくれてからのことだ。

 マルはクロヒョウを自身の縄張りに入ることを許した。

 クロヒョウは、夜にはマルの身体を囲うようにして眠った。暖かい。何より枝の上から落ちる心配も、忍び寄る脅威への不安もなかった。

 マルは初めて神経を張り巡らせずに眠りを経験し、そのあまりの無防備なじぶんに却って強固な警戒心を呼び覚ました。

 この黒き森の悪魔は脅威ではない。だがいずれじぶんから生き残る術を奪うだろう。

 マルはふたたびの距離をとった。夜は幹にしがみつき眠る。食料もじぶんのものだけを獲るようにした。

 クロヒョウはしばらくマルそばに付き従ったが、野鳥をもらえぬと知るとある日の夜を境に姿を晦ませた。

 マルはまた平穏を手にする。

 雨季が明けてしばらくすると、地上の水は引いた。クロヒョウがマルから大人しく離れた理由の一つだろう。ふたたび多くの生き物たちは地上へと下りた。木々での暮らしは以前よりも厳しいものになった。だがマルには備蓄がある。

 木々の上での生活は、却って快適になった。脅威となる生き物の多くが地上へと戻ったからだ。

 備蓄をついばみながらマルは、それが減るごとにすこしだけ精をだして森を散策した。尾がない分、慎重になる。木から木へと移るのにも、かつての同族たちがしていたように飛び移る真似はしない。枝から枝へと、橋とならぬ場所は歩かない。

 細い枝の先にこそ、新芽が萌える。美味な餌に目が留まる。

 アブラムシや木の実にもありつける。

 慎重な歩みは、マルに豊かさな実りを与えた。

 マルの縄張りが、森の各地に転々と輪を広げる。滞在した時間の経過が長ければそれだけ波紋が色濃く残るようだった。とはいえ、マルの縄張り意識は希薄だ。

 いまいる地点を基準に、退避不能な範囲への侵入者へは威嚇も辞さないが、そうでなければ軒並みマルのほうが引いた。争って勝てるわけがない。退散するのがマルの常であった。

 マルにとって縄張りは、見知った場所以上の意味合いはなかった。じぶんのものではない。森は広い。いくらでもよそに移ればよいと考えるでもなく行動する。ずっとそうしてきた。

 地面がすっかり乾ききり、森が以前のような活気あふれる騒々しさを取り戻したころ。マルの縄張り内に、ほかの猿たちがやってきた。

 見知った猿はいない。

 否、たとえいたとしてももはや見分けは付かなかっただろう。

 マルはいそいそと場所を明け渡すべく備蓄を抱えられるだけ抱え、残りは洞のなかに押し込めた。マルが去れば鳥がついばみに集まる。巣とてこさえよう。さすればつぎに戻ってきた際、運よくすれば卵が手に入る。そうでなくとも、洞に居ついた鳥を獲ってもいい。

 マルはほかに、いくつもこうした備蓄場を設けていた。

 縄張りを去ろうとしたマルであったが、しかし不運はつづくものだ。進行方向からもほかの猿の群れがやってきた。こちらはマルとは異なる種族のサルたちだ。

 遠目に見たことはあった。好戦的で、同族同士でも殺し合うような群れだ。

 マルは引き返そうとしたが、そこではたと思う。

 このままでは、群れと群れが鉢合わせする。

 なぜかそこでマルは動けなくなった。

 あれほど退散するのを常としてきたマルが、どうしてだか身体を思うように動かせなくなったのだ。

 臆したのか。

 脅威の群れが雷雨のように迫りくるのを目で耳で、毛の一本一本で感じながら、それでもなぜかマルはその場からの逃走経路を見繕えなかった。

 視えなかった。

 ほかの道が視えているからだ。

 マルは意を決した。

 キィと一つ鳴くと、小柄な体躯を翻し、木々の上へ、上へと昇る。

 脅威の群れが間もなく真下を通る。

 奇しくも、マルの同族たちが、接近するよその群れを迎え撃つために押し寄せてきていた。縄張り意識が強いのはお互い様であった。

 一触即発のいま、マルはそれでも頭上から丸々と肥えた蜂の巣を落とした。一つきりではない。

 頭のなかの過去を頼りに、

 ここにも、ここにも、そういえばここにもあったはず。

 マルは無言で枝から枝へと渡り、合計で八つものハチの巣を叩き落した。

 眼下はそれこそハチの巣を突いた狂乱に包まれる。枝にぶつかりながら地上へと落下した蜂の巣は、砕けるたびに膨大な数の小さき毒虫を宙に放った。

 一足早く踵を返したのはマルの同族たちだ。

 縄張りより先に、身の安全を優先する。臆病な性質は、マルだけの専売特許ではなかった。

 反して好戦的な猿たちの群れは、頭上から降ってきた毒虫の雨に怒りを爆発させた。けたたましい威嚇の叫びがマルのいる木々の先端へとそそがれた。集中砲火のごとく叫喚は、まるで森そのものが怒り狂ってるかのようだった。

 マルはじっとしていた。

 そうしていれば見つからないことを学んでいた。無駄に動くから狙われる。

 こちらから見えているからといって、相手から見えているとは限らない。幹に伝わる音のほうにこそ神経を配る。

 ふだんならばそれでやり過ごせた。

 だが今回ばかりは、多勢に無勢だ。角度によってはマルの姿は筒抜けであった。頭隠して尻隠さずのお手本のような醜態を晒していた。

 森が一瞬、しんと静まり返った。

 豪雨によって波打つ水面に、蓮の葉の傘が差したような静寂であった。

 つぎの瞬間、獰猛な猿たちが一目散に木々を駆け上る様をマルは察知した。鳴き声一つない。木々から木々へ、枝から枝へと飛び移り、昇りつめる。

 幹に耳を押しつけていたマルだからこそ気づけた。

 通例であれば、そこでマルは逃げれば済む道理であった。しかしこの日は勝手が違った。伝うべき枝がなかった。道がなかった。

 マルのいる場所は木の先端であった。

 これまでこんな場所に身を隠したことがなかった。

 マルは木から木へと飛び移ったことがない。枝と枝が橋になっていなければ渡れないのだ。

 絶体絶命である。

 マルは死をすぐそばに嗅いだ。真下から競りあがる濃厚な死の香りは、血に飢えた獣から立ち昇るそれと似ていた。

 視界のさきでは、マルの同族たちが距離を置きながら様子を窺っていた。何が起きたのかを掴めていないのだ。

 無事なようだ。

 マルはそれを知り、身体のこわばりが解けたのを感じた。

 地上は遥か下だ。落ちれば死は免れない。だがこのまま先端に齧りついていても活路は見いだせない。

 ならばいっそのこと。

 尾のない身体のちいさな猿はそこで、産まれて初めて宙へと身を投げだした。

 となりの木までは距離がある。落下しながら枝を掴めれば御の字だ。

 だがマルの細い指は、枝葉に掠るだけでそれを捉えることはなかった。

 風がマルの毛を逆立て、毟り取ろうとする。枝葉がカミキリムシに噛まれたときのような鋭い痛みを皮膚に伝えた。

 耳を塞ぐ風切り音からは、獲物が消えたことにふたたび怒れる獰猛な群れの叫喚が近づいては、遠のいた。

 反響音がくぐもる。

 地面が近い。

 マルは悟った。

 失敗したのだ。

 じぶんは死ぬ。

 マルは脱力した。諦めた。やるべきことはした。ここがじぶんの終わりなのだ。

 最後にじぶんの道理を曲げてしまった。尾がないくせにほかの猿の真似をした。猿真似だ。

 だがふしぎと身体をつつむ風を心地よく感じた。

 じぶんは猿だったのだ。そうとつよく実感した。

 尾がないだけの。

 ただの猿だ。

 宙を飛んだ瞬間の浮遊感、そして現在進行形で落ちつづけるじぶんをマルは、何度も思いだす。枝に一つ掠るたびに、一瞬のうちで何度も思いだす。

 ふっ、と枝葉の感触が途絶え、ようやく地面に辿り着くのだ。

 マルは長い旅をした心地で目を閉じた。

 すると、ガシっ、と胴体部に淡い痛みが走った。腹と背に同時に加わったそれは、ぬるりと暖かい熱を帯びていた。

 身体をつつみこんでいた風は止み、なぜか縦ではなく横殴りの風がマルの顔を撫でた。

 重力の変移が納まる。

 何が起きたのか、咄嗟には判断つかなかった。

 頬に、手に、足に、地面のひんやりした落ち葉の感触が伝った。

 マルは目を開ける。風圧にあてられたせいか、涙で視界は濁っていた。

 目のまえにはふしぎと夜のごとく闇が佇んでいた。

 ぐるる、と低く呻る声がある。

 闇はゆらりと動くと、一瞬でマルの視界は光を帯びた。

 遠ざかる夜が、一線の闇となって木々を駆け上る。

 獰猛な群れの叫喚が、これまでと打って変わって悲鳴に変わった。砕けた蜂の巣のごとく、悲鳴はあっという間に三々五々に散らばり、間もなく聞こえなくなる。

 マルは呆気にとられた。

 未だ何が起きたのかを把握できなかった。

 だが胸のなかの鼓動は、鐘のごとく、熱く素早くマルの芯を打った。

 すたり、と頭上から黒く大きな陰が舞い降りる。

 ぐるる、と低く呻るそれに、マルは恐怖を感じなかった。

 マルの体躯より大きな頭部がマルに押しつけられ、そこから伸びる赤い舌が、ぺろりと、マルの顔を舐めた。

 毛づくろいをするような所作に、マルはくすぐったくなり、押しのける。

 黒き夜の化身は、そこで何を思ったのかマルを口に咥えた。

 なされるがままに口で運ばれるマルは、先刻背と腹に走った痛痒を振り返り、何が起きたのかをそっくり察した。

 黒き夜の化身は音もなく木に登る。マルはふと、枝の節目に挟まるちいさな毛の塊を目に留めた。

 黒き夜の化身もまたそれに気づいた様子だ。マルを枝の上に降ろすと、毛の塊に鼻先を持っていく。

 そこにいたのは、猿の赤子だった。

 先刻、黒き夜の化身に追い払われた獰猛な群れの忘れ形見であろう。親は存命であろうが、いちど棄てた子を拾いに戻る親はいない。

 牙を剥きだしにし、いまにも食らいつかんとする黒き夜の化身を、マルは宥めた。毛の塊とのあいだに割って入り、無防備に背を向ける。

 そしてマルは毛の塊、置き去りにされた異種族の猿の赤子をその手に抱いた。

 背後では黒き夜の化身が不満そうに呻っているが、マルを押しのけてまで我を通そうとする素振りはない。

 自身の腹に赤子をしがみつかせると、マルはじぶんの足で枝から枝へと渡って歩く。マルは敢えて細い枝を道に選んだ。

 黒き夜の化身は、途中からついてこられなくなった。地上に戻ったのだろう。だがそれから数日経っても、マルの周囲にはたびたび黒き夜の化身が姿を晒した。

 いまに限ったことではなかったのだろう。

 ずっといたのだ。マルがそれに気づけなかっただけのことで。

 マルは森で拾った赤子を育てた。

 異種族の子ゆえ、見る間にマルの背丈を追い越した。獰猛な種族の血を引きながらも、マルの育てた子は、マルによく似て慎重で指先の器用な猿に育った。

 マルのそばには黒き夜の化身がいた。獰猛さを誇ったところで高が知れると早々に学んだお陰かもしれない。

 子はすくすくと育った。自力で餌をとり、備蓄し、脅威の接近を目敏く察知する。

 マルが、子を引き連れ、かつての縄張りのおおむねを巡り終えたころ。

 森に雷が落ち、大規模な火災が起きた。瞬く間に森は火の海に呑まれた。

 森は姿を消した。

 炎の断ち消えぬ前に、生き物たちのほうがつぎつぎに息絶えた。

 黒き夜の化身は、火事が起きてから間もなくマルたちのまえに姿を見せなくなった。

 マルは子と共に、火から逃げて、逃げて、やがて森の果てへと行き着いた。

 奥には空がまだつづいている。

 それに引っ張られるように草原がどこまでも広がっていた。

 煙にいぶられた鼻腔を清らかな風が洗う。

 マルは子の背中を押した。

 進みなさい。このさきへ。

 後ろを振り返らずに。戻ってはいけない。

 子は拒んだ。だが、マルの背後に忍び寄る、どす黒い闇の気配を察知すると、気後れしながらも背の低い草むらへと身を忍ばせた。

 背後に迫るどす黒い闇が、呻る。雷鳴のごとき音が、風になびく草原に虚しく響いた。

 聞き慣れたはずのその声は、ひどく飢えに渇いていた。

 マルは子を追わなかった。

 子は、振り返らずに進んだ。

 子は、これからのことを、これからすべきことを、考える。マルから学んだ過去を重ねて、まだ見ぬ道を視るために。

 考える。

 子はマルからそれを学んだ。

 木々を燻る火の香りが風に混じらなくなったころ、ひと際甲高い猿の悲鳴が聞こえた。

 一つ響いたきり、あとはない。

 子は進む。

 天高く轟く大気の躍動が、草原には地を這うように、身体の芯を揺さぶるように、どこまでも染み渡っている。




【厖】


 南のほうの、ある国では一年で気候が四度変わる。

 書物によれば四季と呼ぶそうだが、この地には季は一つしかない。

 厖(ぼう)だ。

 それが国の名でもある。否、それを国と呼ぶことをこの地の民は知らぬ。

 儂のような境界を跨ぎ、往来する者が、便宜上そう呼んでいるにすぎない。

 国土は広い。しかし人の住める土地が限られているがゆえに、すべての村々を集めても小島ほどにも満たぬだろう。

 村と村は隔絶している。交流はほとんどない。

 にも拘わらず、どの村に足を運んでも、まるで地続きの集落を歩いているような錯覚に陥る。風景が変わらぬのだ。

 人も、家も、風習も。

 文化が丸ごと同じだ。共通している。

 ふしぎなのは、どの村の人数もだいたい同じなことだ。そして使われる名前――記号――もみな同じだ。

 これを厖を知らぬ者に言ってもいまいち伝わらない。見なければ解からぬようだ。

 しかし足を運べば一目して瞭然だ。

 この区画のこの家には、誰々と呼ばれる家族が住む。それはどの村でも見て取れる共有項だ。住人の顔は村ごとに違う。だが名前が同じだ。家族構成が同じなのだ。

 一軒だけではない。

 軒並みの家がそうなのだ。家族がそうだ。村の造りが揃っている。

 旅人はだから、一つの村を訪れればほかの村でもおおむね打ち解けられる。どう振る舞えばよいのかを最初の村で学ぶからだ。そこで体験したことは、当然ほかの村には伝わらない。

 したがって、最初の村で悪事を働いても、ほかの村では何食わぬ顔で旅人として愛想を振りまける。名前や家族構成だけでなく、村にいる人物の性格もだいたい似たり寄ったりだ。この名前の人物ならば馴れ馴れしくすれば信用され、こっちの名前の人物ならば、食事を奢ると親しくなれる。

 一つの村ですべての共通項を学ばずともよい。

 転々としながら、行き着く村々で、すこしずつ前回とは異なる人物に接触すればよい。そのほうがいつまでも新鮮な気分で旅ができる。そのうえ、すでに学んだ相手ならば容易に宿や飯を得られる。

 基本は根のよい人々だ。

 厖の外からきた旅人と知れば警戒されこそすれ、無害と判れば却って珍しがられる。

 厖には、アドという外にはない生き物がいる。

 寿命が長く、繁殖力がある。

 年齢によって、大中小、と大きさが様々だ。

 陽の下で生きる個体と、夜にしか活動しない個体があるが、これはどうやら幼獣のころに分かれるようだ。元は同じアドであるらしい。

 全身が鱗に覆われている。鱗は刃物でこそぎ落とすと、羽毛のように柔らかくなる。

 肉はずっしりと引き締まっており、幼獣の肉であれば焼かずとも生で食べられる。

 厖での主食は、もっぱらアドの卵や肉だ。

 成獣の肉は寄生虫が潜んでいるため焼かなくてはならないが、却って足りない栄養が摂れると、村人たちはみな寄生虫をありがたがる。

 食べてみると香ばしく、脂っこいアドの肉と合う。慣れれば、寄生虫のほうを先に齧りたくなるほどだ。栄養不足も関係しているかもしれぬ。

 痩せた土地でありながら村人たちがみな脚気にかからぬのも、この寄生虫のお陰なのではないか、と儂は見立てているが、定かではない。

 調べようがないのだ。

 文明の利器がない。

 火とて未だに火打石を使っている。

 とはいえ、村の中心には絶えず火が焚かれている。井戸から水を汲むようにそこに行けば、誰であっても火を使える。

 アドには食料のほかにも労働力としての側面があった。

 成獣ともなれば、荷車を引く。

 そうでなくとも、生まれて三年もすれば人を乗せて走るのに充分な大きさに育つ。アドの餌は、人間の糞尿だ。

 奇妙にも、この地の者たちは、全体で巨大な生態系を築いている。究極の自給自足を体現していた。

 農作は盛んではないが、技術はあるようだ。儂のような旅人がかつて伝えたのかもしれぬ。育てているのはもっぱら、火種となる綿だ。

 それを糸や布にはしない。繊維の類は、火にくべる薪との区別はないようだ。

 厖の者たちはみな、アドの鱗を器用に編んで服を織る。

 アドの皮は、靴に。

 骨は様々な道具に加工される。

 アドの角は、岩を砕くほどに頑丈だ。そのため、角だけはどうあっても加工できずに、生のままで道具としている。使い勝手は良さそうだ。

 角は何度も生え変わる。幼獣の角はそれゆえに手にしっくりと馴染み、重宝される。

 外の刃物よりも切れ味が鋭い。

 そのため、持ち出せば相当な金にはなるが、それをしようとした者の末路は、地獄絵図を地で描く。

 厖の者たちはみな、基本は根がよい。しかし逆鱗には触れてはならない。郷に入っては郷に従うのが利口だ。厖とて例外ではない。

 儂は長らく厖の村々を転々と巡っている。

 もはや境界をふたたび跨ぐ気を阻喪している。外に帰るつもりがない。

 厖はよい。

 どこに歩を向けようとも、故郷に辿り着く。新鮮な風に吹かれながらも、安寧の念に包まれる。触れる人々こそ違うが、纏う空気が同じなのだ。

 どの村でも、儂は温かく迎え入れられる。ときが来れば、惜しまれながら送りだされる。

 厄介者と見做されぬ内に去り、敬意を以って歓迎される日々を過ごす。その繰り返しだ。

 儂には、村々を回るうちに蓄積された厖の知識がある。情報が、ある。

 記録する術を持たぬ厖の民にとって、儂は歩く歴史と言えた。

 たかだか三十年とて、厖の者たちには分厚くも長い歴史なのだ。

 厖には言葉がない。

 文字が、ない。

 語る言葉がなく、態度と表情のみがこの地での言語だ。名前は手話のごとく、手のカタチで示される。

 厖での暮らしは、まどろみに似ている。

 同じ村にいると、いまがいつで、どれくらい経ったのかを見失う。

 寝ているのか、覚めているのかの区別が曖昧になりはじめたら、つぎの村へと旅立つ契機と思い、重い腰を持ちあげる。

 厖は広い。

 未踏の村もまだどこかにはあるはずだ。

 まばらに点在する砕けた薄氷のように、繋がり合うはずのない村々にて、儂は幾度も落ちては覚めぬ夢に遭う。




【ギバーはきみだ】

(未推敲)


 仮想現実のなかでは、他者からの評価がすべてだ。高い評価をたくさん集めれば、それだけ贅沢な暮らしができる。好みの美貌が手に入る。屈強な肉体だって、おしゃれな衣服だって、便利なアイテムとて、評価の底のつかない限り思い通りに使い倒せる。

「ようビリー。おまえはいつもビリケツみたいにみすぼらしいな」

「やあゼイム。きみはいつも美しくてかっこいいね」

「強いと言ってくれ」

「うん。強そうでもある」

 ビリーは彼に、素晴らしいな、の意思表示をする。するとゼイムの評価ポイントが数ミリ上昇した。

「おいおいビリー。おまえの評価なんかいらないぞ」

「そんなこと言われても」

 素晴らしいな、と思うと、かってに相手に評価が加算されるのだ。そういう仕様なのだからビリーの意思ではどうにもならない。

「黙っててもこうやってポイントが集まってくるんだ。使わずにいるとケチだと思われる。オレの身にもなってほしいものだね」

「ごめんなさい」

「おっと。これから注目のアイドルたちと取材があるんだ。遅刻しないように一番に現場にいないとな。こういうところから信用ってのは生まれるんだ」

「偉いね」

「当然のことさ」

 まるで白馬の王子様のようなキラメキを残し、ゼイムは逞しい肉体を揺さぶりながら最新の流行スーツに換装した。一瞬でゼイムの姿が、スチームパンク風の装いから近代的な高級感溢れる装いに様変わりする。

 ゼイムの評価ゲージは目減りするが、すぐさま元の値――要するにゲージ一杯に蓄積する。

「かっこいいなぁ」ビリーが思うと、またもやゼイムの評価ゲージが僅かに上昇し、蓄積タンクが一個増えた。

 スポンサーのついた人物にはああして評価ゲージがいっぱいになっても、ストックを溜めるためのタンクが贈呈される。評価ゲージは現実の世界で換金もできるので、ほとんどお金と同じ価値を持つ。

 ビリーはじぶんの評価ゲージを見詰める。

 ゼイムとしゃべっていたあいだに溜まったポイントはゼロだ。それはそのまま、ゼイムはビリーに対して何の評価も行わなかったことを意味する。

 期待していたわけではないが、ビリーはため息を吐く。

 まあいい。

 じぶんの、いいなぁ、の気持ちが僅かにでも他者のポイントになるのなら、それこそよろこぶに値する僥倖だ。じぶんのような何の取柄もない冴えないでくのぼうでさえ、誰かにプラスの価値を与えることができるのだ。ただただ本心から相手の何かしらに感動するだけで、相手にもお返しができる。

 感動をもらっているのはじぶんのほうだ。そのうえ、相手にお返しができるのだから、これ以上ない仕組みだ。

 ありがたい。

 ビリーの胸は徐々にほくほくとしてきた。

 そうだとも。

 たくさんの感動を余すことなく甘受して、それを以ってお返しをするのだ。

 ビリーはこの日予定していた絵画展へと出向き、そこで数多の表現に触れ、それらを見せてくれる表現者たちに、僅かなりとも評価ポイントを付与した。

 この日、二十四時間のうち二十時間を仮想現実で過ごしたビリーであったが、ビリー自身についた評価ポイントはゼロであった。

 翌日、六時間の睡眠をとってから、腹ごしらえにビリーは物理現実のショップへと買い出しにでかけた。ショップは繁盛していた。しかし大半の客は、デリバリーの代行であり、多くは自動飛翔体である。

 ビリーのように生身の身体で買い物に出る者はいまではほとんど見かけない。ショップには店員もおらず、ほぼ自動で商品の陳列や掃除が行われている。

 商品を店のそとに持ち出せば自動で清算される。泥棒が入っても、いまは街中どこにでもカメラがある。店のそとに商品を持ちだすのは誰でもできるが、その後ほぼ十割の確率で御用となる。

 ビリーはリュックサックにひと月分の食料を詰め込み、運搬用の自動飛翔体に飲み物を二十リットルほど持たせて店をでた。

 代金のほとんどは、仮想現実で稼いだお金だ。ゼイムのように評価ポイントを換金できればよいのだが、ビリーにはお金に換えられるほどのポイントはない。その代わり、さまざまなアイテムを創作することで、日々の糊口を凌いでいる。

 ビリーの生みだすアイテムの多くは、拘りの逸品だ。たとえばリアルを追求したい人向けに、カビやサビなどの汚れを再現する加工アイテムや、本来は除去されるようなノイズを再現し、音楽や自然環境の音を聴けるようにするアイテム――ほかにも、そういった情報量の増えるアイテムを使った際に、処理能力の負荷を軽減させるためのアイテムなど、一言で言えばマニアックなアイテムばかりを生みだした。

 これが一部のマニアの目に留まり、細々とながらも売れつづけている。一人でならば暮らしていけるくらいの収入になっている。

 ほとんど仮想現実のなかで過ごしているのだ。食費や光熱水道代以外にはかからない。安上がりな生活なのである。

 衣服とて安物の透過ジャージだ。表面に様々な柄を投影できるため、これ一着あればひとまずお洒落に気を使わずに済む。

 そうは言っても、投影できる柄にも値段がついている。最新の流行ものや、データ流通数のすくない限定デザインほど高値がつく。本当にお洒落な人々はそうしたデータに大枚をはたいて、物理世界においても評価ポイントを貯めている。

 やはりこちらの物理世界でもビリーの評価ゲージは微動だにしない。評価ポイントを消費もしなければ、蓄積もしないため、滅多に確認することはない。

 たまに知り合いと会ったときには、ひょっとして好ましく思ってくれたかも、と淡く期待を募らせることもあるが、いまでは落胆すると学んでいるので、やはり極力目にしないようにしている。

 ふと道端の花に目が留まった。

 スミレだろう。青く小さい花が、ガードレールの下にまばらな群れとなって咲き誇っていた。

 きれいだ。

 ビリーは買い物袋を抱えながらしゃがみこみ、まじまじと目に焼きつける。

 つよく瞬きをすることで、写真も撮った。コンタクトレンズを通して画像から動画まで、視覚情報をデータに変換し、外部記憶領域に送信できる。

 じめじめと湿った場所だからか、苔が生している。テントウムシがその上を這っており、絵になるな、とビリーは夢中になった。

 ひとしきり自然の美を堪能し、顔をあげる。

 傾きかけた日が鮮やかだった。もうすこし待てばきれいな夕日が望めるだろう。

 逡巡したが、まずは部屋に荷を運ぼうと決めた。腕が疲れた。ろくに運動をしていないため、体力がない。買い物が唯一の運動と言えた。

 それすら機材を新調すれば、仮想現実での挙動を肉体に反映するシステムを利用できる。筋肉疲労を起こせる。だがそれを利用するには相応の購入費と維持費がかかる。ビリーには手も足もでない。それこそ、日々無尽蔵に評価ゲージを満杯にし、スポンサーがつくような人物でなければむつかしい。

 せっかく昂揚した気分が陰鬱とした。他人とじぶんを比べるたびに頭のなかにモヤがかかるようなのだ。

 ビリーは空を仰ぎながら、住処へと帰還する。

 空や花をいくら褒めても、自然へは評価ポイントが溜まらない。あれほど感動をくれる自然へじぶんは何も返せていないのだと思うと、ますます気分が塞ぐようだった。

 食事を済ませ、ビリーはこの日も仮想現実の世界へと同期する。きょうはずっと応援しつづけてきた表現者たちの舞台がある。仮想現実ならではの技術が満載の舞台だ。奥行きのある映画といった具合で、観客の好みでアニメ調にも劇画調にもなる。まさに映画の世界に入り込んだような臨場感を味わえる。体験できる映画とも言える舞台だった。

 ビリーは胸をトキメかせながら、会場の入り口を通った。入り口付近では、若者たちがたむろしていた。みな各々に出演者たちに馴染みのある服装や仮装をしている。

 入り口を潜る際にビリーへと何かしらのアイテムを向ける者がいた。レーザーポインターじみたそれは、ビリーに当たると瞬時にビリーの頭上へ、十桁の数字を並べた。

 それを見た子どもたちが、わっと笑った。

 ビリーは全身がカっと熱くなり、恥辱の海に溺れるような心境に陥った。

 明らかに子どもたちからもたらされた数字は、全世界におけるビリーの立ち位置であった。すなわち、これまでの期間、仮想現実内で、否、物理世界を含めた双方の世界における他者からの高評価の総数を、全世界の人口で順位付けしたものだった。

 ビリーは、最下位も同然の順位であった。

 知りたくなかった。

 いや、頭のどこかではそうかもしれないとずっと思ってきた。しかし、ああも無邪気に公衆の面前で突きつけられると無傷ではいられない。堪えるものは堪える。

 ひるがえってそれは、ビリー自身が、他者からの評価を得られないじぶんをさもしく思っていることの証でもあった。それを自覚することのほうが、順位の低さよりも耐えがたい苦痛をビリーにもたらした。

 怒りとも絶望ともつかない混乱のさなか、舞台が幕を開けた。

 しかしビリーはついぞ、それを楽しむことができなかった。終演するまでのあいだ、応援しつづけてきた表現者たちへ評価ポイントを与えることのできなかったじぶんに、ビリーはますますを以って失望した。

 せめて、次回公演の資金の足しになれば、とビリーはなけなしの銭を、チップ代わりに寄付した。

 客の多くは、座席からそのまま物理世界に回帰したようだ。会場の外にでようとする列は、入るときよりずっとすくなかった。

 出口を潜ると、外にはまだ子どもたちの群れがあった。しかしこんどは誰もビリーに見向きもしない。

 子どもたちは、会場の外で見送りに並ぶ舞台の出演者たちに釘付けで、写真や動画を撮るのに夢中の様子だ。

 ふと、一人の男の子と目が合った。その子だけはなぜかビリーをずっと見ていた。ビリーが気づく前からどうやらこちらを見ていたようだ。

 どうしたのだろう。またからかわれるのかな。

 ビリーは身構えた。急に尿意を覚えた。

 思えば、子どもの姿をしているからといって相手が子どもであるとは限らないのだ。

 男の子はポテポテと目のまえまでやってくると、歩を止めて会釈をした。

 何かありましたか、とビリーは訊ねた。腰はもうほとんど逃走の構えを見せており、いまにも背を向けてしまいそうだった。

「あの、確かめてみてもいいですか」男の子が言った。拙い発声に、ああこれは、とビリーは安堵する。本当に子どもなのだ、と判ったからだ。「何を確かめたいんでしょう」と身体ごと向き直る。

「えっと、これです」レーザーポインターに似たアイテムを差しだされ、ビリーは苦笑した。評価ポイントの順位付けを可視化させるためのアイテムだ。子どものイタズラ用だが、昨今この手の順位付けがイジメの原因になっていると社会問題になっている。

 かといって順位を見ることは違法ではないし、評価ポイントの総合が低いからといって罰があるわけでもない。事実は事実なのだ。それを以って、不当に他者を低く見る者の価値観が、公平ではないというだけのことで。

「いいけど、ぼくは物凄く低いと思いますよ」ビリーは承諾した。

 男の子はきょとんした様子ながらも、許可を得たからだろう、アイテムの先をビリーの胸に当てた。

 音もなく頭上に数値が浮かぶ。

 ビリーは敢えて見なかった。確認するまでもないのだ。したくなかった。

「どうでしょう。満足しましたか」男の子に微笑んでみせたのは、十割じぶんの矜持を守るためだった。こんなことで傷ついたりはしないよ、とお手本を示したかった。

 だが意に反して男の子のほうでは、目をキラキラと輝かせた。ここが仮想現実であるのだからそれは誇張された感情表現であるはずだ。男の子の姿とて、生身の姿を反映させた仮初である。だが心情の変化に合わせて、表情が、アニメのように過剰に演出させる仕様が一般化している。

 男の子のそれはだから、真実に彼が何かしらに胸を弾ませた結果だと言えた。

 しかし、何に?

 世界で最も他者から評価されない人物にどんな感動を覚えるというのだろう。存在価値があってないような人物でも何不自由なく生きていけている事実に安心したのだろうか。それならば納得だ。

 世界は平和である。

 ただし、理不尽はなくなってはいないが。

「すごいですね。こんなにすごいギバー、初めて見ました」

 男の子は未だ目を輝かせている。

「すごい? 何がですか。ギバー?」聞き慣れない単語だ。

「ギバー。知らないんですか。歩くしあわせ、って言うんですよ。ボク、初めて会いました」

 男の子は真実に感動している様子だった。表情だけでなく声音まで上擦っている。

「歩くしあわせ……」ビリーは検索した。

 ギバー、歩くしあわせ。

 候補の記事がずらりと並ぶ。

 どれも最近急上昇中の話題だった。どうやら若い世代にとっての新しい価値基準の中枢をなす概念のようだ。

「えぇぇ……うそでしょ」ビリーは逃げだしたい衝動に駆られた。何かの間違いだと思った。

 ギバー。

 それは歩くしあわせだ。

 評価ゲージの蓄積ポイントがそのまま貨幣価値に直結する時代である。しばらくのあいだは評価ポイントをいかに集められるのかが、その人物の社会的価値を担保した。

 しかし時代は進み、そうした評価ポイント至上経済は飽和しつつあった。

 バブルが膨れだし、もはや数値の高さほどの価値が見出されなくなりつつあるのだ。

 そこで注目が集まりだしたのがギバーだ。

 他者への好感を抱き、高く評価することで、他者の社会的価値を底上げする。じぶん自身の価値はあがらないが、ただそこに存在するだけで、周囲の者たちの価値が上昇していく。

 まさに歩くしあわせ。

 生きるパワースポット。

 価値生みだし機。

 いかな人物とて高く評価されなければ貨幣価値はつかない。創作物とて、成果物とて、例外はない。それを指して高く評価する者があるからこそ、貨幣価値が生じ得る。

 なればこそ。

 どんなものにでも感動できる者の存在は、評価ポイントというシステムの普及した社会では、無尽蔵に価値を生みだせる打ち出の小づちと同義である。

 評価ポイントは半ば自動的に他者へと付与される。

 精神の昂揚をセンサが察知するからだ。

 嘘は吐けない。

 心底に感動し、好きだと思い、高く評価した場合のみ、他者へとポイントが加算される。

 したがって、どんなものにでも感動できる者の存在は、どんなものからでも価値を引きだせる魔法使いと同義であった。

 打ち出の小づちであり、魔法使いこそが、ギバーなのである。

 歩くしあわせ。

 若い世代にて急速に波及しつつある、次世代の目指すべき理想像。

 目標、とそれを言い換えてもよい。

 ビリーは唾液を呑みこむ音を頭蓋骨の響きを通して耳にする。その響きは、仮想現実にいながら、物理世界を実感する数少ない現象だ。尿意や便意につぐ共感覚と言える。

 目のまえの男の子は、コツってありますか、と質問した。不安そうなのは、ビリーの表情が強張っていたからだろう。

「コツ? コツってなんのでしょうか」

「どうしたらいっぱいギブできますか」

「ギブ?」

「ほかのひとに、どうやったらポイントを渡せますか?」

「あ、ああ。そういうことか」

 えっとね、とビリーは頭を回転させる。思考がまとまらない。

 考えたこともなかった。

 どうやったらポイントを他者に与えられるのか。

 感動すればいい。

 好きなものを好きとただ思えばいい。

 そうするとかってに周囲の者たちや、表現や、創作物の評価ゲージが貯まっていく。ビリーが何かをしたわけではない。むしろもらっていたのはじぶんなのだ。

「分からないです」ビリーは正直に告げた。「いいものを、ただ、いいなぁ、と思えばそれでよいと思いますよ」

 男の子はきょとんとしながらも目玉をせわしく動かした。ビリーの返答をなんとか咀嚼しようと努めているのだ。

 ビリーは付け足した。 

「好きなものを、ただ、好きだなぁ、と思えばいいと思いますよ」

 こんどは伝わったのか、男の子はぱっと表情をほころばし、ありがとうございます、と握手を求めてきた。

 ビリーはすでに全身が汗でぐしょぐしょだったが、ここが仮想現実であることを思いだし、念のために太ももで手のひらを拭ってから、男の子に手を差し伸べた。

 握手を交わす。男の子のちいさな手の感触が伝わる。圧力だけだ。もっと高級な設備を使えるなら、手のやわらかさや熱まで再現されるが、ビリーの使用しているマシンでは圧力やカタチを感じるのが精いっぱいだ。最新機種では匂いまで再現できるというのだから、現実との区別がつくのか、とそちらの方面で不安になる。

 ビリーはいまの設備で充分だった。

「また会えますか」男の子が乞うような眼差しを真下からそそいだ。

「たぶん、会えるんじゃないでしょうかね」

 曖昧な返答でも満足したようだ。男の子はぺこりとお辞儀をすると、ほくほく顔でスキップをしながら離れていった。

 しばらくその背中を眺めていると、男の子の姿が急に消えた。物理世界に回帰したようだ。

 じぶんもそろそろ帰還しよう。

 そうと思い、離脱手順を踏むと、いつもはない通知が点滅した。

 なんだ。

 宙に浮かんだ通知に触れると、評価ゲージが展開された。

 ここ数年なんら変化のなかったはずの評価ゲージがいまは半分ほど埋まっていた。ゼロにちかかったはずだ。それがなぜか目に見えて増えている。しかも、半分も。

 ビリーは周囲を見渡した。舞台会場の周辺にはまだ、演者と戯れる観客たちの姿がある。

 しかしそこにビリーを目にしている者はおろか、存在を気にしている者すら皆無であった。誰も関心を寄越さない。

 ではこの評価ポイントは。

 先刻に男の子の消えた場所を見遣る。

 たったいちどの好意でこれほどまでに貯まるなんて。

 いや、あれは好意ではなかったのかもしれない。

 ビリーは、それを授けてくれたあの少年に、敬意と感謝と、そしてきっと彼も抱いただろう、憧れの気持ちを覚えた。

 こんなぼくのような人間に、ああも純朴な眼差しをそそげるものだろうか。その心根の清らかさを、心底に美しいと思った。

 ギバーはきみだ。

 歩くしあわせさん。

 またいつの日にか会いましょう。

 ビリーはここが仮想現実であることなど忘れ、たっぷりと息を吸い、吐く。

 身体の内側があたたかく、やわらかいものでいっぱいになった。

 太ももをもじもじと掻き合わせながらビリーは、尿意さめやらぬ物理世界へと舞い戻るべく、仮想現実から離脱する。




【夜のまどろみとケーキ】


 クリスマスイブだった。アーノルドはこの日、街角の潰れかけのケーキ屋の店頭に立っていた。客はみなクリスマスケーキを流行りの人気店で買う。アーノルドの番する店へと聖夜前日にやってくる客は乏しかった。

 アーノルドはショーケースの上に肘を載せ、欠伸を噛みしめていた。店長家族はこの日は留守だった。どうせ客がこないからと家族水入らずで親戚の家でディナーだそうだ。

 アーノルドも声をかけられたが、店長が店番をするというので、それを差し置いて家族でもないじぶんがディナーを楽しむ真似はできないと断った。

「俺が代わりに店番しときますよ。その代わり時給弾んでください」

 感謝された。

 店長一家からの言葉に偽りはなく、真実にアーノルドを誘ってくれていたのだ。店長は、こんなクリスマスイブは初めてだ、と感じ入っていた。まだ過ごしてもいないうちから感動できるその心根の豊かさにアーノルドはようやくというべきか、妬心を覚えた。じぶんを置いてきぼりにしてみなが幸せになっていくようで面白くなかった。

 だが湧いた淀みをおくびにも出さずに、本日、退屈な店番を十全に果たしている。

 その客がやってきたのは、そろそろ店仕舞いをするか、とアーノルドが立ちあがったときのことだ。売れなかったケーキは翌日もショーケースに並べる。このままいけば、たいがいが廃棄になるだろう。そのときにどのケーキをもらっておくかを頭のなかで考えていた。

 ホールごとでは食べきれない。ちょっとずつ別種を切り分けてもらおう。

 算段を立てていると、赤い厚手のコートを着込んだ娘が飛びこんできた。

 頭には雪を被っていた。

「いらっしゃいませ」

「あの。ケーキを。クリスマスケーキを戴きたいんですけど」

「ございますよ。ここに並んでいるので全部ですが。何に致しましょう」

「ホールがいいんですが」

「ではこの辺ですね」

 娘はケーキの列に真剣な眼差しをそそいだ。

「ではこれを下さい」彼女が指さしたのは、フルーツのタルトだ。層になっており、下段はチーズケーキになっている。アーノルドが目をつけていたケーキでもあったので、もってかれちゃったな、とこっそり残念に思った。

「ではお包みしますね。宛名とか、チョコレートでお書きできますが、どなたか様へのプレゼントだったりしますか」

「あ、そうですか。なら」そこで娘は考え込んだ。ややあってから、有り触れた名前を口にした。気になったのは、なぜか名字だけだったからだ。

「ではこちらにお名前をお書きください」書き間違えないための方策だ。紙とペンを手渡す。

 娘から受けとったメモを元に、クッキーのネイムプレートに名前を記す。それをケーキの頭に添え、箱に入れた。

 お祝い用の包装紙で包み、さらに紙袋に入れて渡す。

「どうぞ。お気をつけてお帰りください。足元きっと滑りますので」

「ありがとうございます。よかった。どこのお店も売り切れで」

 ほくほく顔は、店に入ってきたときとは別人のようだった。

 アーノルドは遅れて、娘の笑顔に緊張した。思えばじぶんと同世代と思しき娘とこうしてしゃべったのはじつに数か月ぶりではないか。ふだんは、顔見知りの御婦人や取引先の従業員ばかりだ。みなアーノルドより十は年上だった。

 どぎまぎしながらも制服替わりの愛想を絶やさず、アーノルドは店先まで娘を見送りに出た。扉を手で支え、礼を述べる。「すこし早いですがメリークリスマス。よいクリスマスをお過ごしください」

 娘は小刻みに頭を何度も下げ、夜の街へと小さくなる。

 すっかり姿が見えなくなるまで見届け、アーノルドは肩を抱きながら、寒い寒い、と店のなかへと引っ込んだ。

 それから店仕舞いの時刻まで客はなかった。

 こんなことならいっそ店を閉めればよかったのに。

 じぶんに支払われるバイト代を思うと、店長家族に申し訳なく思った。廃棄になるだろうケーキたちにもわるい気がした。

 反面、先刻やってきた娘のよろこぶ顔は、値段には置き換えられない春の陽気のようだった。真冬真っただ中だからなのか、余計に得難いものに触れた気がした。

 このままきょうは心地よい余韻に浸って軽く酒を飲んで寝よう。

 あすは休みだ。

 店長に、廃棄のケーキをとっておいてくれ、とメモをして、戸締りして店をでた。帰り支度をしはじめてから一時間が過ぎていた。

 家や店から漏れる明かりはない。道は暗かった。

 街灯が駅のプラットホームのように、明かりの輪を広げている。通り抜けるたびに、ほっと息を吐く。

 雪はいちどやんだが、背後に仕事先の店が見えなくなるころにはまた降りはじめた。

 ひと気はない。

 そのため、視線の先に動く陰が見え、ぎょっとした。

 街灯の真下、ベンチに人が座っていた。

 赤い厚手のコートが灰色の世界に浮きあがって見えた。そこだけ白紙に絵の具を垂らしたように鮮やかだった。

 彼女は膝に紙袋を抱えていた。

 店にきた娘に間違いなかった。

 アーノルドは迷った。

 だが足はしぜんとそちらへと動いていた。

「あの、どうかされましたか」雪の降る勢いは増していた。

「違うんです。すみません。ちょっとボーとしてただけなので」

 立ちあがって逃げようとする娘を、アーノルドはいちどは見送った。だが彼女がすこし離れたベンチに座り直したので、溜め息を吐く。自動販売機でホットココアとコーンスープを購入してから、娘の座るベンチに赴いた。

「どっちがいいですか」買ったばかりの缶を二本とも差しだす。

「あの、大丈夫ですので」

「飲まずとも持ってるだけでも」

 半ば強引にホットココアを押しつけた。思ったよりも強情そうだ。アーノルドはその場で缶を開け、コーンスープを口にする。

「ケーキ。さっき買われましたよね」明かすか迷ったが、言うことにした。「あっちのお店で。いらっしゃったので」

「ああ」娘はそこでようやくアーノルドと店員の顔が重なったようだった。「さっきはどうも」

「ケーキ、どうされたんですか。家に帰れなくなったとか? いえ、言いたくないのなら言わずにいてよいのですが」

「はい。ちょっと事情がありまして」

「寒くないですか。こんな雪の中で。誰かが迎えに来てくれるのを待っているだけならばよいのですが」

「そういうわけでもないんです。ありがとうございます。もう大丈夫ですので」

 そうは見えなかった。

 このままでは一晩中こうしていそうな予感があった。

 アーノルドは缶を逆さにして、底のほうに残ったコーンをもどかしく思いながら、ころころと口の中へと転げ落ちてくる粒を頬張る。

「これは個人情報漏洩に当たるのかもしれませんけど」アーノルドはまずじぶんから一つ禁を犯してみせることにした。ここで反感を買っても構わないと思った。「ケーキにお書きした宛名――その方に連絡はとれないのですか。その方に会いに行こうとされていたわけですよね。でもそれができなかったのでこうしていらっしゃるのかな、と。余計なお世話ですが」

「その通りです。約束はしていなかったんです。ただ、喜んでくれるかなと思って」

「会えなかったんですね」

「会えました。家に行きましたから。ほかの女の人が出てきて、驚いちゃって。相手の人もぎょっとしていました。奥のほうで半裸のあの人と目が合っちゃって。慌てて走って逃げてきちゃいました」

「知らなかったんですか。その、なんというか」

「どっちが浮気だったんでしょうね。私が遊ばれていただけなのか。それとも相手のコのほうなのか。私よりも若く見えました。まだ学生さんなんじゃないかな」

「娘さんとか」

「半裸の親とクリスマスイブに過ごす娘がいますか」

「そっちのほうが嫌な現実ですね」

 すみません、と謝る。言いたくはなかったはずだ。無理に言わせてしまった。

 罪悪感が競りあがる。

「頭を冷やしていたんです。ばかなことしてたなって。過去の私を懲らしめたくって」

「わるいわけではないでしょう。騙していたのは相手のほうなんですから」声が尖った。

「どうしてあなたが怒るの?」おかしそうに彼女は目を見開いた。いつの間にかホットココアに口をつけていた。

「怒りますよ。正直に言うと、僕はきょうけっこう幸せだったんです。きょう初めて足を運んでくださったお客さんが、ここ一番の笑顔で買い物をしてくださって。クリスマスイブに店番なんかするもんじゃないな、と思っていたところだったので。店番を買ってでたじぶんを褒めてあげたくなったくらいなんです。それがこれですよ。相手の男の人には腹が立ちますね」

「そう思いますよね」

「同じ男として許せませんね」

「いえそうではなく。男の人じゃないんです。相手の人」

「へ?」

「女です。ステキな女性です。でも、私は遊ばれちゃったみたいで。きょうを一緒に過ごす相手には選ばれなかったんだなってショックで」

 彼女との会話を思いだす。そうだ。一言も相手が男だとは言っていない。ケーキに書いた宛名も、名字だけだった。

 聖夜前日に娘と半裸で過ごす父親はいない、と思ったが、娘と半裸で過ごす母親も同じくいないだろう。いたら相応に深刻な事情がありそうなものだ。

 やはり、浮気をされていたのだ。

 彼女は。

 ほかの年上の女性に。

「それを聞いて安心したと言ったらあれですけど。もしよかったらウチで休んでいきませんか。下心がないと言えば嘘になりますけど、そちらがどうあっても拒むと判ったいまなら気楽に誘えます。乱暴はしませんので。何かあれば店に苦情を言いに来てもらって構いませんし」

「お気遣いありがとうございます。でも本当に大丈夫なので」

「きょうが真冬でなければ僕も無理には誘いません。ですがさすがに見て見ぬふりはできませんよ。なんだったら僕のほうが家を空けてもいいですし。そうだ。僕は店で過ごしますよ。それがいい」

「お店、入れるんですか」

「ええ。鍵持ってますし。あすの朝一番で店長がくるので、そっちに泊めることはできませんが」

「甘えてもいいんでしょうか」

「こういうのは甘えとは言いません。家が近いとかなら別ですが」

「じつは終電が過ぎてしまって困っていました」

「ですよね。僕の家は、こっから徒歩で十五分もかかりません。案内したらそのまま僕は店に行くので。シャワーを浴びるなり、休むなり好きに過ごしてください。鍵はスペアがあるので、出ていくときにポストにでも」

「なら、お願いしてよろしいですか」

「案内しますね。ちなみにお名前窺ってもよろしいですか。偽名でいいですので」

 彼女は言い淀んだ。

 それからたっぷり間を空けてから、マーリンです、とつぶやく。その声は、闇を舞う雪にすら掻き消されそうなほど小さかった。

 彼はそれを聞き逃さなかった。

「マーリンさん。鈴の音みたいに美しい名前ですね。僕はアーノルドと言います。部屋、散らかってますけど引っ越してきて間もないので、洗面所とかベッドとかは綺麗なほうだと思います。欲しいものがあったら持って行ってもいいですから」

 暗に、何かあっても責めたりしない、と伝えた。

 それくらいの覚悟がなければ最初から手を差し伸べたりはしない。放っておく。だがアーノルドにはそれができなかった。

 下心がなかったとは言わない。

 だがいまはそれは些事だ。

 店でのやりとり。

 そしてぼた雪の舞う夜空の下で凍えている人を目の当たりにして、アーノルドは看過できなかった。たとえその相手がじぶんのような男であろうと、年配者であろうと、同じことだ。

 きょうという日をぬくもりのある日に変えてくれた人には、凍えてもらっては困る。

 じぶん自身が気持ちよくクリスマスを迎えたい。せっかくの聖夜だ。ぬくもりのあるままで終わりたい。

 時計を見遣る。

 零時をとっくに過ぎていた。

「ケーキ。どうしよう」彼女が紙袋を開いた。

「食べきれます?」

「分かんない。あ、もしよかったら一緒にどうですか」

 アパートの階段に積もった雪を踏みしめながら、アーノルドは、それくらいならまあ、と店に引き返すはずのじぶんを押しとどめる。

 部屋を片付けてから引き返してもいいかな。

 玄関扉に鍵を差しこみ、

「ポストはここなので」

 扉に備わった簡易ポストに触れる。「帰るときは、鍵を閉めたらここに入れておいてください」

「あしたもお仕事ですか?」

「あしたは休みです」

 靴を脱ぐアーノルドの背中に、なら、と彼女の声がぶつかった。「帰ってくるまで待ってます。いいですか」

 そこに熱っぽい響きは微塵もなく、却ってアーノルドは安心した。

「七時ごろには戻ると思います。寝てていいですよ。あ、シャワーはここです」

 部屋の間取りを教えて歩く。

 明かりを灯す。

「思ったより片付いていますね」

「お気遣いどうも」

 こんなことなら、と思わずにはいられない。「ちょっと片づけてから行きますね。あ、紅茶飲みますか。いま淹れますね。そこ座っていてください」

「わ。オコタ」

 コートも脱がずに潜り込む彼女から紙袋を受け取り、切り分けてやるか、と台所に立って包丁を手にする。フルーツタルトのクリスマスケーキは、アーノルドの目をつけていた品だ。

 せっかくだし食べてくか。

 包丁の刃を、名字の刻まれたクッキーに押し当てる。半分に割れたそれを、じぶんの分と彼女の分に、それぞれ割り当て、皿に盛った。

「わ。美味しそう」

「名前切っちゃいました」

「あはは。砕いていいよ」

 あっけらかんとした物言いからは、もう大丈夫、の心の声を聴いた気がした。

 部屋が温まるとアーノルドはケーキを食べ、そして店に戻るべく部屋をあとにする。

 街は雪に埋もれ、夜のまどろみを濃くしていく。

 店に辿り着くころには靴の中がぐしょぐしょに濡れた。

 裸足になり、店の暖房をつける。

 休憩所の押し入れから毛布を引っ張りだし、包まって横になる。

 この出会いがどうなるのか。

 アーノルドは欠伸を噛みしめる。どう転んでも、ぬくもりでしかない。

 吹けば消えてしまうような蝋燭の火のごとくちいさな。

 けれど足元を照らすには充分な。

 口の中にはまだ、ケーキの味が残っている。




【目網打】


 僕は頭が弱い。難しいことが考えられない。でもそういう人間のほうが社会の大部分を占めているはずだ。そうでなければとっくに僕だって幸せになれているはずだ。そうでないのは、みなが僕と五十歩百歩だからで、大して変わらないからだ。

 僕は女性に優しい。子どもに優しい。お年寄りに優しい。弱い者に優しい。

 正義の味方を気取るつもりはないけれど、でも悪を野放しにしてはおけない。

 かといって悪の敵になるつもりもない。

 正義が幅を利かせる現代ではむしろ、悪のほうが弱い者だ。

 僕は悪の味方でいることも辞さない。善悪など強者の裁量で決まるからだ。

 僕はあるとき、気がついた。

 この世の強弱は、選択肢の多寡なのだと。

 道具はそれを補完する。

 選択肢の多寡の差を、道具が平らに埋め合わせる。

 技術が差を縮め、強弱の属性を転覆させ、反転させ、打ち消し、公平な世の中を実現する。

 まだそうなっていないのはきっと技術が足りないからだ。

 道具が足りないからだ。

 僕はみなに道具を配る花咲か爺になる。

 優先すべきは虐げられている者たちだ。

 僕は電子の網の目を使って世に目を配った。そして多くの女性たちが、夫や恋人やそうでない身も知らぬ男たちから尊厳を損なわれていると知った。

 生を、曇らされていた。

 放っておけばあれほど輝く者たちを、その他の強者が汚している。歩むべき道を塞ぎ、いたずらに呪を植えつけている。

 一方的に相手から享楽を奪い、代わりに拭えぬ曇天のごとく記憶を置き土産にして。

 許せるものだろうか。

 僕がどう考えようとも、世はそれを許している。

 ならば世こそを平らにならさねば。

 曇りには曇りを。

 淀みには淀みを。

 呪には呪を。

 僕は道具を与えるべく、女性たちに贈り物をする。

 世の不公平をならすのだ。

 男たちが谷の上から獲物を探るのを常とするのならば、獲物のほうには翼を与えよう。鋭い鍵爪をつけてもよい。

 上空から、獲物を狩る標的の獰猛な姿を目に捉え、狩りに夢中になる無防備なその背目掛けて、鋭利な爪を突きたててやれ。

 目と、網と、打を。

 僕は一連の仕組みを、プログラマーとしての腕を駆使して組み上げた。

 僕の放った目網打(もくもうだ)はよく機能した。

 女性たちは自らを損なった相手の姿を、目網打を通して記録し、その他の女性たちと共有する。さらにはそれらを証拠に、然るべき組織に訴えてもよいし、そうでなく相手の人生を損ない返してもいい。

 家庭に、職場に、不特定多数の目にする電子の網の目のなかに。

 相手の行為はそのまま相手の未来を奪う、矛となる。

 世は公平になる。

 立場の上下は消え失せ、男女で弱者をくくる意味合いは薄れる。

 そのはずだ。

 徐々に、世に虐げられていく者たちの中から女性の姿が減っていく。

 そうすると、これまで放置されてきた、虐げられている男性に目が留まるようになってくる。

 なんだ。

 まだあったのか。

 僕は彼らにも道具を、技術を、矛を与える。

 差を埋めるのだ。

 男とて、立場の上下はそこかしこにあった。上の者が下の者を、損なっている自覚なく損なっている。

 耐える者があり、自由を満喫する者がある。

 耐える者には翼を与え、そうでない者は鍵爪の餌食となる。

 性暴力は、暴力の一形態だ。

 男から男への暴力のほうがむしろ多いのだと僕は知った。それが暴力ではないと見做される社会風潮があるばかりだ。

 のみならず、男から男への性暴力とてすくなくはなかった。それが暴力と見做されないだけで。

 見る者が見れば一目して暴と暴かれるにも拘わらず。

 目網打は、僕の手を離れて生き物のように増殖した。

 知らぬ間に人から人へと伝わった。

 虐げる者は自滅する。

 暴を暴かれ、自らの暴に焼かれるのだ。

 だがそのうち、かつて焼かれた者たちが、徐々に目網打を手にするようになった。それはそうだろう。焼かれてなお焼かれつづければ、その者もまた虐げられし者となる。

 全世界の人間が目網打を手にする日はそう遠くないことのように思われた。

 現に、じぶん以外の他者に目網打を利用する者が続出した。

 最初は善意からだったそれら救いの手が、瞬く間に己が好奇心を満たす覗き穴と化すのに時間はかからなかったようだ。

 僕がその見逃しがたい宿痾に気づいたとき、すでに目網打は救済の道具ではなくなっていた。

 虐げられる弱き者へと翼を与え、鍵爪を与えた分、その利を上回る勢いで、社会に透明な毒牙を広めていた。

 誰もが目網打を用いて他者の人生を覗き見れる。

 そしてそうした事実を、覗き見られている側は自覚できない。

 実害はない。

 一見すれば。

 なぜなら、いったい誰が目網打を有しているのかを、使用者を含め、大多数が把握できていないからだ。

 認識できていない。

 それはそうだ。

 全世界に蔓延しつつある目網打は、正規の仕組みではない。合法ではない。本来、世には存在しないはずの技術であり、道具だ。

 それを手にし、用いる者たちは、その事実を他者に話したりはしない。

 得た情報を共有こそすれど、自らの個人情報を明かしたりはしない。

 なればこそ、いったいどれくらいの規模で目網打が世に広がり、普及しているのかを知る術がない。

 つまり。

 僕以外ではいないのだ。 

 いまのところ。

 誰の手に目網打が渡り、それを使用しているのか。

 どのように救われ、どのように悪用しているのか。

 目網打を生みだし統括する僕には、それらデータが集まってくる。

 僕の世に放った道具は人々に行きわたりつつある。

 僕の意図を離れて。

 僕の支配から逃れるかのように。

 僕にはすでに事態の収拾を図れない。目網打は、人々の欲望を糧に増殖の一途を辿る。人々は自らを安全地帯に置き、他者の私生活を覗き見る。

 弱みを求める者。

 欲を満たす者。

 復讐の機会を探る者。

 利をくすねる者。

 義憤を燃やす者。

 暇つぶしに使う者。

 そこにはかつてと変わらぬ、優位な立場の者たちが、そうでない者たちを食い物にする構図が横たわっていた。

 平らにならしたはずだった。

 僕が世に放った翼は、鍵爪は、目は、網は、打は――世から理不尽を失くし、差を失くしたはずだった。

 いちどは地平線のごとく平らになったはずが、あっという間に起伏ができ、凹凸ができた。

 いまでは誰もが、相手に損なわれている事実を悟らせないようにしながらにして他者の人生を損ない、未来を奪う悪を行える。

 僕は悪を、さらなる悪にしただけだった。

 でも、しょうがない。

 僕は頭が弱い。難しいことが考えられない。

 こうなることが前以って分かっていたならば、目網打を生みだしたりなんかしなかった。人に与えたりなどしなかった。

 でも、こうなってしまったのならあとはなるようにしかならない。

 僕は新しい技術を生みだすべく、日夜、目網打の効力の届かない遮断領域にてじぶんの時間を過ごしている。

 僕は、みなが手にした翼や鍵爪に怯えずに済む。

 それはそうだ。

 僕のしたことが露呈したら、僕はあっという間に滅んでしまうから。

 ひょっとしたらそう遠くないうちにそうした日が訪れるかもしれない。そうなったときのために、僕はいまのうちに、対抗策を編みだしておく。

 世の中は不公平だ。

 公平な世の中になるとよいな。

 頭の弱い僕は、誰より弱い立場のままで、そう願う。

 そう願うよ。

 本当に。




  

【ルンルンランラン低評価】

(未推敲)


 居酒屋で意気投合して、そのままアトリエまでついてきてしまったが、部屋のなかに入って出されたコーヒーを飲んでいるうちに、なんでこんなところにいるのだっけ、と段々と酔いが醒めてきた。

 アトリエはがらんとしており、作品が一つも飾られていなかった。製作途中の絵もない。

 部屋着に着替えてきたのか、ウルハさんが部屋に戻ってきて一枚の紙を差しだした。「ほらこれだよ」

 僕は受け取る。紙には絵が描かれている。

 ウルハさんは僕の向かいの席に座り、ほうれい線の刻まれた口元をゆびで撫でた。そこには自作の絵を見られる気恥ずかしも、評価されることへの気負いも見受けられなかった。

 僕は手元の紙を凝視する。

 絵は波打ち際を描いたものだろう。あたかも貝の視点から眺めているような、立体感のある構図だ。砂の一粒一粒にまで光沢があり、本当に貝から見たらこういうふうに見えるのではないか、と想像の翼をくすぐられる。

「どうかな」

「いいですね。いえ、素直にすごいです。こういうのを売りに出してるんですか?」

「そうだね。まあ、あまり買い手はつかないが」ウルハさんは椅子に腰かけ、脚を組んだ。化粧気のない顔は精悍で、白髪や顔の皺や骨ばった骨格は老いというよりも貫禄を思わせた。「きみは私よりも二十は年若いわけだろう。いまはこういうアナログの絵でもスキャンしてデジタルの絵として販売できたりする。もうそういう時代になっているんだよね。そこのところの話を教えてほしくてね」

「そう、ですね。いえ、僕は漫画なので、絵描きさんとは微妙に市場の流行りみたいのは違うのかもしれませんけど。僕のお話でよければ、いくらでもさせてください。むしろウルハさんのほうの、絵描きさんの現状がどうなっているのかのほうが知りたいというのが本音ですけど」

「私もそこらへんの流れがまったく分からないからね。話したくとも話せないんだ。時代に取り残されてしまったよ」

「でもネット通販は利用しているんですよね」

 居酒屋での会話を思いだす。酔いが回っていたときの記憶なのでもう何年も前の記憶を思いだすような色褪せた感があるが、かろうじて会話の内容は憶えていた。

 居酒屋で、ふいに作品のネームを思いついたので電子端末に覚書きとして絵でメモをとっていたら、ウルハさんが覗きこんできたのだ。

 電子端末で絵を描く、ということに興味があったらしい。いまの若者はそういうので絵を描くんだねぇ、と面白がっていたので、ぼくはじぶんのものではない素晴らしいデジタル作品をいくつか見せると、こういう表現がいまは流行っているのかぁ、としきりに感心していた。

 おそるおそるじぶんの漫画を見せてみると、ウルハさんはじっくりと時間をかけて読み、おもしろい、とぽつりと零したのだ。

 僕はもうその時点で半分有頂天だった。読者の感想を、おそらくは素朴につぶやかれただろうその一言が、鳴かず飛ばずでかろうじて漫画家としてやっていけている僕のような作家をどれだけ奮い立たせるだろう。

 ウルハさんが絵描きさんだという点も、うれしさに拍車がかかった要因かもしれないけれど、これはあまり誠実な態度ではないかもしれない。相手が誰であろうと、どのような属性を有していようと、読者は読者だ。ただそのときどきの感想があるのみなのだ。

 そうは思っても、うれしかったものはうれしかったのだ。

 僕はすっかりウルハさんに心を許して、どんな人なのだろうとの興味関心が暴走した。

 これは僕の漫画家としてのサガでもあるし、元から備わった僕の気質でもあった。

 気になることがあると知りたくてたまらなくなる。

 いちど興味を持ってしまうと、根掘り葉掘り相手に質問を浴びせてしまうので、対人関係を築くうえで、僕はこれまで幾千の失敗を重ねてきた。

 けれどウルハさんは僕の質問を大きなスポンジで包み込むように、ゆったりと受け止め、私はこう思うがきみはその点に関してどう考えているのかな、と必ず僕の意見を訊き返した。

 しぜんとお互いに意見が交換された。

 そこに善悪の判断は持ち込まれず、ただただそういう視点もあったのか、と新しい発見があるのみだった。

 僕はもうこの時点でウルハさんという人物への警戒心はきれいさっぱりとなくなっていた。もしこのさき彼女に騙されることがあってもきっと恨まないだろう、と思うほどに彼女の人となりに興味津々だった。

 だがそれはあくまで酔いが回っていたときの、僕の本性が歯止めなく、止めどなく暴れていたときの僕である。こうしてアルコールの抜けはじめ理性の戻ってきた僕にはもう、かってに家に押しかけてコーヒーを御馳走になっている現状は、恥辱の念を覚えさせるのに充分な厚かましさを披露していると言ってよかった。

 だからせめてウルハさんに失礼のないように、できるだけ謙虚に、よい印象を残して暇を告げようと、このときじぶんの行動指針を定めた。

 これ以上ご迷惑はかけられない。

 だから絵を見せられたときに、その指針が早々に揺らいだじぶんに僕は、おいおい、と内心呆れていた。

 しかし、しょうがないのだ。

 絵を生業とする漫画家の端くれとして、ウルハさんの絵は盗みたい技術の宝庫だった。

 またしても僕はじぶんの気質が暴走すべく屈伸をして準備運動に余念がなくなるのを感じた。

 酔いが抜けはじめているにも拘わらず、こんどは理性までもがその支度を手伝っている節がある。

 居酒屋での会話のなかでウルハさんは、じぶんも絵を売っている、と言っていた。

 これまではずっと個展を開いてきたのだが、例の世界的疫病蔓延の影響で個展を開けなくなり、折衷案としてネット通販を利用しはじめたのだという。

「これほどの絵ならいっぱい売れたんじゃないですか」僕は絵をまだ見ていたくて、手元に置いたままで言った。「これは水彩ですよね。水彩でこんな油絵みたいに立体感のある色合いって出せるもんだったんですね」

「いちおうクレヨンとかクーピーとかマジックも使っているから純粋な水彩ではないがね。それに思っていた以上に売れなくてねぇ」

「そうなんですか? あ、宣伝が足りなかったとか」

「それもあるだろうが、個展とて宣伝しているわけではないからね。だが個展で売るよりも売れない。まあ、需要がそもそもないだけの話なんだろうがね」

「いやいや、これは売れますよ。ちゃんと宣伝したりすれば。そうだ、出版社に持ち込んで挿絵の依頼とか受けてみたらどうですか」

「うーん。あまり気乗りしないな。以前はそういうのも声を掛けられたんだが、相性が良くないと気づいて、以降は断るようにしていたら縁が遠のいてしまったね。まあ、お互いそのほうがよい」

「でもそれじゃあ食べていけなくないですか」僕自身を否定されたように聞こえたので、つい語気があがった。

「食べていけないね。だからときどき知り合いのツテを頼って、細々と専門学校や大学の臨時講師をさせてもらっている。あとは劇団の小道具づくりか。ま、小遣いにしては割のいいバイトではある」

 しかしウルハさんはもう若くはない。このままの生活をあとどれだけ続けていけるのだろう。僕は改めて彼女の描いた絵を見る。これほどの作家が無名のまま消えていいわけがない。

「あの、ほかの作品も見てみたいんですけど」

「ほかのは保管室に仕舞ってあるね。どれ、持ってこようか」

「あ、いえ。壊れたらたいへんなので。保管室ってあとで見せてもらうことはできますか」

「構わんよ」

「そうだ通販って、どこを利用されているんですか。カタログじゃないですけどその画像を見てみたいです」

「ああ、そうだね。それはいい」

 彼女は立ちあがり、部屋の隅に置いてあった板状の端末を持ってくる。「買ったばかりでね。まだ操作も慣れていなくて」

 ゆっくり作業をする彼女の背中を眺める。近視なのだろう。作業をするときは眼鏡をするのだな、と眉間に皺を寄せる姿になぜかほっこりする。

「これだよ。知り合いに勧められてはじめてみたんだが」おやおや、とウルハさんはほころんだ。「なかなか評価が厳しいね」 

「ちょっと失礼しますね」

 席を代わり、画面を覗く。

 全部で三十ほどの作品画像が並んでいる。写真はじぶんで撮ったのだろう。撮り方は下手ではないけれど、ほかの作家たちは作品をスキャンしたものを紹介画像に使っている。

 これではいくら作品そのものがよくとも目劣りしてしまう。

 それにしても、と僕は顔をしかめる。

「この評価はひどいですね」ウルハさんの出展作品には、それを目にした者の評価がつけられている。買い手側が鑑賞者の視点で品評できる仕組みでもあるようだ。買わずとも、作品にコメントや評価を付けられる。

 評価は五段階式だ。

 ウルハさんの絵にもちらほらと評価が付いているが、どれも星が二つきりだ。コメントはない。評価だけである。

「これ、たぶんやっかみだと思いますよ」僕は言った。「ひどいですね。本当に価値がないと思ったら星一つにすればいいのに、それすらせずにやっかみだと見抜かれないように、あたかも本当に微妙な作品だと示すのにちょうどいい星二つにしているんですよこれ」

「そうなのかい」

「だと思いますよ。コメントもないですし、買い手がつかないように妨害してるんですよ」

「ほう。それはうれしいね」

「何でですか」

 そこで僕は気づいた。ウルハさんには低評価が付けられたことを気にしている素振りがまったくない。どころか、先ほどから目元をほころばし、どこかうれしそうなのだ。

「悔しくないんですか」僕はじぶんのデビュー作が出版されたときのことを思いだした。通販サイトに付けられた評価はきれいに二分しており、高評価もあれば酷評もあった。その酷評を目にして、あまりに的外れで、イチャモンまがいの低評価に当時の僕はたいへんに憤ったし、傷ついた。

 そのときの感情を思いだし僕は、ウルハさんの絵に僕の作品を重ね見てしまった。

 だからウルハさんがこうして飄々と、というよりもどこか低評価を歓迎している様子を目の当たりにして困惑した。

 どうしてそのように鷹揚に構えていられるのだ。

 僕はたぶん、ウルハさんにも怒ってほしかった。ひょっとしたら傷ついてほしいとすら思っていたのかもしれない。

「嫌な気持ちにならないんですか」僕は訊いた。

「ならないねぇ」

「この評価がたとえ嫌がらせでも?」

「それこそ本望さ。作家冥利に尽きるね」

 その言葉に強がっている響きは滲んでいなかった。本心からウルハさんは歓迎しているようだった。

「どうしてですか。だって低評価ですよ。これ見たら買い手だっていなくなっちゃうかもしれないじゃないですか」

「他人の評価で買うかどうかを決める相手にはそもそももらってほしくはないよ」

 僕は言葉に詰まった。作り手が買い手を選ぶなんて傲慢だ、と思ったのかもしれない。同時に、屈託なくそう言えてしまえるウルハさんに強く惹かれたのかもしれなかった。

「それにね。低評価だろうと高評価だろうと、それを意思表示しようと思ってもらえたことがうれしいじゃないか」

「うれしい、ですか」よく分からない理屈だった。「どこがですか。だって低評価ですよ。これはよくないものだ、って言われたんですよ。僕は漫画家なので、そういう声が多くなるとそもそも仕事をつづけることすらできなくなります。もちろん、そう言われてしまう作品をつくってしまう僕の腕のなさがわるいんですけど、すくなくともウルハさんのこの絵たちは違うじゃないですか。こんな扱いされていい絵じゃないですよ」

「きみのその評価もうれしいよ。もちろんね。ただね、人の心を動かした、という意味ではどのような評価であろうと同じだと私は考えていてね。きみのように高く評価されたくて描く絵もあれば、敢えて反発されたいがために描く絵もある。まあたいがいは好きに描きたいから描いているわけだが、できあがった絵を観て何を思うのかは、それこそ見る者によって違う。何を思ったのか、どう思ったのか。じぶんにとってその絵がどういうものであったのかをじぶんの外側に表現せざるを得ないほどの影響を受けた場合にしか、人は評価というものをしないんだ。行動に移さない、と言ってもいい。それがたとえ妨害だろうとひがみだろうと、素直な心からの低評価だろうと関係ない。それをみなに知らしめざるを得なかった。それだけの影響を私の絵は、評価者に与えたということだろう。それは何よりの報酬ださね。低評価だろうと高評価だろうと、私にとっては同じだよ。光栄に思うよ。素直にね。素朴にさ」

「それは」

 芸術家の言葉だと思った。だがビジネスの視点がごっそりと抜けている。それだけではやっていけない。甘くない。

 なんだかじぶんの根幹を揺るがされた気がして、黙っていられなくなった。

「でもそれだとウルハさんはいまのまま世に埋もれたまま、絵の買い手もつかずにいずれは生活が破綻してしまうんじゃないですか」

「かもしれんね。いや、遠からずそうなるか」

「だったらちゃんと高く評価されるように努力したほうがよいのではないですか」

「ううん。いちおう私にとってはこの状態が、きみの言うところの高く評価されるための努力をしている、ということになるのだが、きみにはそうは思えないのかい」

「だって低評価されたほうがいいだなんてそんなこと言われたら」

「いやいや。低評価されたほうがいい、とは言っていない。評価はされた時点で、光栄だ、という意味だよ。評価の内容に関わらずね。高かろうが低かろうが、どちらもうれしい」

「ですが、ほかの人はそうは見做しません。低評価をつけられたら、ああそういう作品なんだな、と満足に見もせずに判断しちゃうんです。絵を観てもらう機会すらなくなるんですよ。それでもウルハさんはいいと言うんですか」

「絵を観てもらう機会が減るのはちょっとは困るかもしれないね。ただ、大勢に観られたいとは思ってはいないのかもしれない。それから、低評価をつけられることが、低評価だとみなに思われることに直結するとも考えていない」

「どうしてですか。現にこうして買い手がつかないじゃないですか」

「だがちゃんときみは私の絵を好ましく思い、そうして怒ってくれたじゃないか。私の絵が低く評価された、というだけのことで、きみはそこまで感情を乱して怒ってくれている。私の絵のためにだ。これほど素晴らしい評価のされ方がほかにあるかい?」

 僕はこんどはハッキリと息を呑んだ。何かがグラグラと揺らぐのを感じた。酔いがまだ残っているのだろうか。視界が歪んでさえ感じる。

「まず考えを整理してみようか。低評価をされるのにも大別して二つある。真実に価値がないか、価値があるがそれを観測者に価値あるものと見做されなかったか、だ。仮に私の絵が前者だった場合、真実に価値がない場合には、低評価は真実を映した評価ということになる。怒る道理がそもそもない。何せ正当な評価だからね。では後者の場合、真実には価値があるがそれが観測者にうまく伝わっていなかった場合にはどうだろう。真実に価値があるのなら、観測者にどのように評価されようともその価値は揺るがない。やはりここでも怒る道理はないね」

「ですがそれでは、真実に価値が認められるまではお金を稼げないじゃないですか」

「お金を稼ぐために描いているわけじゃないからね。お金を稼ぐために描くなら、きみの言うとおりだ。稼げるように、できるだけみなからお金を払ってもらえるように、大多数から高評価をもらえるように工夫したほうがいい。それは私もそう思うよ。ただ、私はそういう創作を目指していないからね。いまのところは、との但し書きがつくが」

「貧しくてもいいということですか」

「貧しいのは嫌さ。そりゃあね。対価をもらえるのはうれしい。ただしそれを最優先にしてはいない。ただそれだけのことさ」

 理屈としては分かったような分からないような、モヤモヤとしたもどかしさを僕は拭えずにいた。

 僕が難色を示したからか、

「うん。ではこういう言い方をしよう」ウルハさんは言い換えた。「きみの言うように、買い手がつかなければ困るから人から高評価を得たほうがよい、としよう。ただ真実に価値のある絵を描いたならば、さっきのきみではないが、低評価をつけられたからこそ反応せざるを得なくなることもあるのではないかな。つまり、低評価をつけられたほうが、潜在的に高く評価してくれる者の購買意欲を刺激すると言えるのではないか」

「ですが僕はそれでもウルハさんの絵を買いたいとまでは思いませんよ」僕はウルハさんの思想とも呼べる考え方に嫌悪感を抱きはじめていたので、すこしきつい言い方になった。

「うん。それがふつうの感覚だね。絵というものは現代ではそういう扱いだ。そもそも購入してまで手元に置きたいと万人が思うようなものではない。たとえばきみはモナリザの絵を欲しいと思うかい」

 僕はすこし考え、

「値段によりますかね」と答える。

「だがそれは、モナリザの絵を欲しいのではなく、モナリザに付属した価値を吟味したうえでの判断ではないのかい。もし仮にモナリザが無名の、誰からも高く評価されていない作家の描いた絵だったらどうだろう。きみはそれでも手元に欲しいと思うのかい」

「それは」

「ピカソでもゴッホでもいい。いや、私はゴッホの絵はたとえ無名の作家の絵だとしても手元に欲しいと思うが、ピカソの絵はそうでもない。これは絵の価値がどうこうではなく、私の好悪の問題だ。感性だ。何を美しいと思い、何に感情を揺るがされるのか。私はゴッホの絵を、筆のタッチを、あの色合いをすなおに美しいと思う。たとえ世に高く評価されておらずとも、私はああいう絵が好きだ。たとえそれが何かの模倣であろうと、よしんば偽物であったとしてもね」

 僕はじぶんの手のひらを眺める。そこに引いてある手相の意味を考える。遺伝子によって模倣されたこれらの線にいったいどんな価値があり、どんな意味があるのか。そんなものは観測者の気分しだい、解釈しだいなのかもしれなかった。

 けれど僕は僕としてここにいる。

 ウルハさんの言葉を素直に受け入れることはできないけれど、言わんとしている価値観はなんとなくだが掴めた気がした。

 僕が押し黙ってしまったからか、ウルハさんは席を立った。コーヒーのお代わりとクッキーを持って戻ってくる。

 カップを手渡しながら彼女は、

「きみは数学は得意かい」と言った。

「いえ、あまり」

「うん。たいがいの人にとって数学は難解だ。とくに、現代では数学的に偉大な発明であればあるほど大勢からは称賛されない傾向にある。何がすごいのかを理解することすら多くの者には適わない。学生のいったい何割がフェルマーの定理のすごさを理解し、それのすばらしさを正当に評価しているだろう。むしろ説明しようとすれば煙たがられることのほうが多いのではないかな。数学である、というだけで低く評価されることもすくなくないだろう。これは何も数学だけではない。どんな分野であれ、突き詰めていけばいくほど大衆からの理解からは遠ざかる。直感に反した、嫌悪感を喚起するような発見が、よりこの世界の根幹にちかかったりすることも取り立てて珍しくはない。芸術とて然りだ」

 反論しようとするも、うまく言葉が見つからない。ただ、どうしても賛同したくはなかった。

「分かりました。ウルハさんが納得しているなら僕がどうこう言う問題ではなかったです」

「いやいや、どうこう言われたいよ。本当にうれしい。私は存外目立ちたがり屋だからね。多少ひねくれているので、どうこう言われるにしても、できればじぶんのいないところで言われたほうが好ましいと思っているだけのことでね」

「面倒臭い人ですね」僕は言った。

 ウルハさんは呵々大笑し、その通り、と顔面の皺をさらに深くした。

 僕はそれから大きなお世話かもしれないと思いながらも、通販の写真はもうすこし拘ったほうがいいと指摘し、ほかにもインターネットを用いた広報活動の手法をいくつか紹介した。

 現代の若者なら誰もが利用している仕組みをウルハさんは知らないようだった。せめて現代社会の市場でも戦えるように、情報だけは知っておいて損はない。そういう話をちらほらとすると、至極もっともだ、と言ってウルハさんはしみじみと相槌を打った。

 すっかり酔いが覚め、窓のそとではスズメたちが追いかけっこをはじめた。

 昨今スズメも激減しているらしい、とウルハさんがぼやき、朝ごはんでもどうだい、と席を立ったので、そろそろお暇します、と僕は遠慮した。長居をしすぎた。朝食までご馳走にはなれない。帰り支度をする。

 廊下を歩くと、ウルハさんはとある扉のまえで歩を止めた。

「ここが作品の保管庫だ。どうする、見ていくかい。こんどまた来るときがあればそのときでもいいが」

「あ、いま見たいです。見せてもらってもいいですか」

「どうぞ、どうぞ」

 扉を開け、彼女は部屋の明かりを灯した。

 ずらりと絵画が立ち並ぶ。大半は間隔の狭いドミノのように安置されている。とくに大きな作品は壁に飾られていた。どの絵も透明なビニールでカバーがしてあるが、その上からでも絵の魅力が伝わった。

 僕の漫画の背景がオモチャに思える。否応なく、世界観が押し広げられ、価値とは何かをイチから叩き込まれる心地だ。

「ずっとここにいたいですね。ここで作業をしたいくらいです」

 もし僕が物書きだったら、国立図書館の書庫に足を運べば似たような感慨を覚えただろうか。ここに足を運ばなければ目にすることも適わない、唯一無二のかけがえのない出会いがこの部屋にはある。

 ウルハさんには、ある。

 そう予感できてしまえるじぶんをすこし誇らしく思い、その予感がほとんど確信にちかいこともまた僕には判った。

 僕にはウルハさんみたいな価値を生みだすことはまだまだ当分できそうにないけれど、目指すに値する一つの道を、それが道なのだと見抜くだけの眼力が備わっていた事実を知り、やはり誇らしい気持ちが湧くのだった。

 また来てもいいですか、と訊ねると、おいでよ、とウルハさんは後頭部に手を組んで青年みたいに口元を吊るした。

 玄関口に立ち、僕は彼女に低頭する。

「ありがとうございました。またお邪魔させてください」

「いつでもおいで。いっしょに絵を描こう。つぎに会うときまでには私もいろいろできるようになっておくよ」

 デジタル絵のことを言っているのだろう。

 よろしくお願いします、と言って僕は彼女のアトリエを背にして歩きだす。

 ぽつりぽつりと雨が降っている。

 分厚い雨雲が頭上を覆う。

 けれど心は晴れやかだ。

 僕はこれからもきっと変わらずに、大勢から高く評価される漫画を目指して絵を描きつづけるだろう。物語をつむぎつづけていくのだろう。

 それでもすぐとなりにウルハさんのような別の道が、どこまでものらりくらりと延びている。世の流行が生みだす濁流を避けながら、きっと彼女だけはいつまでも死ぬまで、何に縛られることなく、何に縛られるのかすら自在に選びとりながら、絵を描きつづける。

 奮い立つ、なる言葉がある。

 ウルハさんはまさに仁王立ちする奮いそのものだ。

 ありがたい。

 奮いの権化のような人と出会えて、僕の足取りはいつになく軽やかだ。掴むように地面を踏みしめ、律動を刻み、心がそうであるように僕はいま踊っている。




【瞋恚の息吹】

(未推敲)


 咎の剣はコポリと血の泡を浮かべた。我が親友の胸から剣が生える。否、たったいま我が手で刺したのだ。

 神器の名に負けず劣らずの切れ味だ。肋骨だけでなく背骨ごと貫いてなお、腕に加わる感触は無に等しい。泥に釘を突き立てるほどの抵抗もなく、我が友を串刺しにした。

「なぜあんな真似を」虫の息のテトスを質す。

「言ったろ。試したんだ」

「ほかにもっと術はあっただろ」

「ないさ。ああするほかなかった」

 テトスが乱暴に身体を揺すった。声で制止するが、そのまま身体を傾け、身体から咎の剣を抜いた。否、自ら切り裂かれたのだ。

 わき腹から臓物ごと大量の血液が零れ落ちた。泥の溜まった樽桶を倒してしまったかのような勢いで地面が血に塗れる。

 おろおろと我が友に触れることもできずに、死ぬな、と声をかけるよりなかった。いったいほかに何ができただろう。咎の剣でトドメを刺しておきながら、どの面で言えたものか。しかし、叫ばずにはいられなかった。

「死ぬなテトス」

「もういい。答えはでただろう」

 そう言って彼は、城の下に広がる光景を望んだ。

 眼下には大都市が広がっている。

 手前には川が。

 奥には森が。

 真ん中を巨大な壁が聳え、街を二分する。

 百年以上前に勃発した緑王の戦は、緑王亡きあとまで尾を引き、三十年前に終戦してからも、大都市を分断しつづけた。

 その分断された市街の一方が業火で焼かれている。絵描きに写生させればそのままそれが地獄絵図となるだろう。さいわいなのが、市民の多くがもう片方の都市に避難し終えていたことだ。

 こうなることをテトスは前以って予言していた。

 それを、予告、と言ってもよいだろう。

 テトスの揮った瞋恚(しんい)の息吹が大都市を襲う二日前、私は彼から袂を分かつ旨を告げられた。

「聞いたか。また夜獣がでたらしい。女子供を庇って七人が死んだ。その女子供らも夕刻亡くなったそうだ」

「怪我を負っていたのだろう」

「なぜ王は夜獣を放置なさるのだ。あれを神の遣いの仕業と信じている者などもはやおらぬだろう。夜獣は人間だ。夜な夜な人を切って遊んでおるだけだ。なぜ誰もかれもが真実から目を逸らすのか」

「王があれを夜獣の仕業と見做す限り、あれは夜獣の仕業なのだ。我ら人間さまにはどうすることもできん。生贄と思って呑み込むよりあるまいて」

「ふざけた話だ。王も王ならば、神官も神官だ。王に妄言を吹きこんでおるのはあの古参の神官だろう。緑王時代からの古株かなんだか知らぬが、民を見殺しにして平気でいられる精神がまずおかしい」

「声を抑えろ。処刑されたいのか」

「はん。おまえも神官さまの従順なる信者さまであったな」

「そうではない。テトスの言うことにも一理ある。しかし我らがいまさら神官さまの審議に背くような異を唱えれば、それはそのまま王の意に背くようなもの。街の警備は増援しているそうだ。夜獣とていままでのようにはのさばれぬだろう」

「そこだよ。なぜ夜獣の野郎はああも警備の網の目を縫うように殺戮を繰り返せる。しかもさも壁などないかのごとく、双方の都市を行き来する。あれはどう考えても、城の者の息のかかった者の仕業だろう。我らの身内が夜な夜な民を慰み者にし、遊んでおるのだ。違うか」

「それはテトス、おぬしの憶測だろう。何も証拠はない。壁を無視して往来するなどよほど高位の者でなければできぬ道理。なればやはりあれは夜獣の仕業だ。そうではないか」

「高位の者にならば可能なのだろう。ならばなぜその可能性を疑わん。わしはそこを考慮すべきではないのか、と申しておるだけだ」

「あり得ん話だな。高位の者がなにゆえ下々を襲わねばならぬ」

「さあな。狩りでもしたいんだろう」

「話にならんな。疑うなとは言わんが、もうちっと頭を冷やしたらどうだ」

 冷静になれ、証拠はあるのか、と質すと、

「証拠はないさ」テストはあっけらかんと認めた。「いまはない。しかし確かめる術はある」

「おい、どこに行く」

「おまえにはもう相談せん。わしは護衛団を抜ける。きょう限りだ。いまからはただの反逆者じゃ」

 鎧を脱ぎ捨て遠ざかるテトスを、私はそのとき引き留める真似ができなかった。内心、かってにしろ、と突き放していたのかもしれない。

 それから翌日の朝には、神殿にて侵入者ありの一報が入った。並々ならぬ守衛の網を掻い潜り、賊は神殿に納められた三種の神器のうち二種を奪い去った。

 一つは瞋恚の息吹、もう一つは飛翔の扇。

 残された神器が、咎の剣だった。

 報せを受けた際、まっさきにテトスの犯行だと直感した。

 よもやこれほどの大罪を犯すとは思いもしなかった。

 いったい何をする気だ。

 奥歯を噛みしめながら昨晩の我が友の姿を思い起こし、あのときに止めておけば、とやはり臍を噛む。

 神器はそれ一つで一国を滅ぼすことの可能なほどの威力を秘める魔具である。

 緑王の戦では、隣国のうち四つが神器によって滅んだ。

 市民の多くは事の重大さを理解できない。過去の大戦の話はすでにおとぎ話の域にまで薄れている。

 だが城の者たちは違う。

 神官を中心に厳戒態勢が敷かれ、城は封鎖された。大都市との繋がりが完全に断たれた。城は周りを深い掘りで囲まれている。城と街のあいだには河が流れており、舟を漕がなければ街から城へは渡れない。橋を上げたいま、城にはネズミ一匹侵入できないはずだった。

 だがテトスには神器がある。

 飛翔の扇は、巨大なつむじ風を起こす。

 のみならず、人間一人ならばやすやすと宙に舞わせ、運ぶくらいの空気の流れを生みだせた。

 神殿襲撃から半日後、日暮れ時にてそれは起こった。

 宵闇に紛れ、空から難なく城に侵入すると、賊は王を人質にとり、神官たちを含む城の者たちをみな城外へと追放した。

 橋も下ろさずに、みな我先にと河へと飛びこむ。

 賊に抵抗した者たちは容赦なく、瞋恚の息吹にてその場で灰となった。

 私はその光景をこの目で見た。

 そして賊が紛うことなきテトスなのだと知った。

 予想はしていた。

 しかし、そうであってほしくはなかった。

 説得を試みようとしたが、テトスは私にも躊躇なく火炎を噴いた。私は城から飛び降り、脱出した。

 河には、大都市から救援の舟がだされていた。私は彼ら街の者たちに救われた。城の者たちは、二分された都市のそれぞれにて拾われたようだった。

 凍えた身体を焚き火にて温めながら私は、我が友にこれ以上の凶行をさせまい、と心に誓った。

 私はまず街の者たちに危険を報せた。

 城が占領されたこと。

 賊が神器を有していること。

 それがたいへん危険であること。

 そして、賊が大都市のみなにも狂気を向けるかもしれない旨を、それぞれの区画のカシラをまえに訴えた。

「我々はどうすればよろしいので」

「賊は私がなんとかする。それまでどうか民を不安にさせぬよう、傷つけあわぬよう、何が起きても落ち着いて対処できるように策を講じてくれ」

「この話、壁の者たちは知っているのですか」

「おそらくは」私は壁を見た。

 都市を分かつ壁だ。

 都市の者たちは、壁の向こう側を互いに異国として扱う。壁の者と呼び合い、いがみ合う理由もなく交流を避けてきた。往来は城の許可なしにはできない。

 壁は河の中ほどにまで達しており、城との懸け橋の土台にもなっている。

 ゆえに河を辿って都市を跨ぐことはむつかしい。たとえ渡れたとしても川の流れが激しく、一方通行にならざるを得ない。自力で往来するのは不可能だ。

 ちょうど私は川下のほうの街にいた。向こうからこちらの街にはこられても、こちらから向こうには渡れまい。

 向こうの街にいるだろう、同士たちと連絡を取り合えればよいのだが。

 思案していると、集まったカシラのうちの一人が頭を抱えた。

「夜獣だけでも手いっぱいだというに、いったいどうすればいいものやら」

「案ずるな。一か所に集まれば夜獣とて手出しはできまいて」

「しかし城中のお方がたも街に下りられたのでしょう、あなたさまのように」

「そうだが」何か問題があるのか、と問うと、街の者たちは何かを言いたげに口をつぐんだ。

「なんだ。言いたいことがあるならば遠慮なく申せ」

 語気をつよめて詰めると、ようやくカシラの一人が口を開いた。

「夜獣はおそらく、人でございましょう」

「なにを愚かなことを」

「街の者なら誰もが存じております。しかし城のお方々はみなさまそうおっしゃられるばかり。夜獣などどこにもおりませぬ。いるのはただ、人殺しを楽しむ残忍な人間でございます」

「人間風情にあれほどの被害を毎度のようにださせたというのか。おぬしらとて武道の心得はあろう。なにゆえ指を咥えて眺めておった」

「魔具を使われては、いかな我々とて手も足もでません」

「魔具を使うのか」

「目撃者の証言によればそのようです」

「しかし夜獣が人間だというのならおぬしら街の者のだれぞかもしれぬだろ」

「魔具は城の方々しかお使いになられぬ道具ゆえ、そも我々の同胞が下手人ではあり得ぬのです。不躾ながらお尋ねいたしますが、過去に魔具が盗まれたといったお話を御存じでいらっしゃるのでしょうか。なければやはり城の方々のお身内さまのどなたか様が我々の同胞を夜な夜な殺傷して回っていたと考えるよりないのではないでしょうか。よその者という考えも捨てきれませんが、壁を自在に往来している模様。なればこそ、やはりこの街にゆかりのある者、それでいて魔具を自在に使いこなし、壁を行き来しても怪しまれぬ者。そのような人物はすくなくともこの街には一人もおりませぬ」

 彼の言葉には説得力があった。

 そのほとんどが昨晩、テトスに突きつけられた疑念と合致した。

「夜獣のことはいまはいい。まずは賊をなんとかせねば。王が捕らえられておるのだ」

「王様が」一同がどよめく。

「おぬしらだけが頼りだ。街の者たちをよろしく頼み申す」

「あなたは様はどうされるので」

「私か。私はそうさな」城を見あげ、武者震いを一つする。「賊を退治する」

 雲間に月がかかる。

 河の水面には細かな波が立ち、明かりを幾重にも砕く。地上の星空のごとく煌めきだ。

 私はいちど神殿まで足を運び、そこから咎の剣を持ち出した。三つの神具のうち、残った一本だ。

 城の騒動で警備は手薄になっていた。しかし手練れの守護者が神殿の入り口を固めている。

 いちどの失態を犯したとあって、ふだん以上の気の張りようであった。

 守護者は何人たりとも神殿への侵入を許さない。いかな理由があろうとも、神官の許可なく神殿のなかへと立ち入ることはできない。

 しかしテトスはそれを成し遂げた。

 なれば私にそれができぬ道理があろうか。

 心が痛むが、事が事だ。

 話の通じる相手ではないがゆえに、私は守護者たちに奇襲をしかけ、しばしの戦闘ののち、神殿内から咎の剣を持ち出すことに成功した。

 いちど神殿のなかに入ってしまえばこちらのものだ。

 入り口を外から塞がれようと、咎の剣さえ手にできれば、壁などあってなきがごとくである。どこにでも出口をつくれる。

 集まった守護者と、召喚の儀により現れた翼竜どもを咎の剣にてばったばったと斬り伏せた。さすがに守護者には峰打ちで済ませたが、術者による治療を受けても半日は起き上がれぬだろう。

 それから街へと踵を返し、用意するようにと前以って指示しておいた舟にて、河を渡った。

 城までは舟で漕ぎつけるしかないがゆえに、その手法をとった。

 城から砲撃されれば船は大破を免れぬ。

 イチかバチかの賭けだった。

 しかし勝算はあった。

 なにせ賊は一人なのだ。

 テトス一人しかいない。

 四六時中、城の四方を見張る真似が原理的にテトスにはできない。

 たとえ城に侵入されたところで、テトスには人質たる王がいる。刺客を何人差し向けられようと、王の元から離れなければそれでいい。神器と人質を有したテトスが負ける筋書きはあり得ないのだ。

 なればこそ、城へ渡るだけならば造作もないと考えた。

 この考えは当たった。

 難なく舟で対岸に辿り着き、城内にもすんなり入れた。

 じぶんがテトスならば王をどこに監禁するだろうか。

 地下の牢屋ではないことは確かだ。あそこは窓もなく、外の様子を窺えない。ばかりか逃げ道がない。

 では王室はどうか。

 あそこは窓がありすぎる。

 いつ刺客がやってくるか分からない状態で、あそこに引きこもることはないだろう。

 なればどこだ。

 城下を一望でき、なおかつ堅牢な壁に囲われている場所。

 思い浮かぶのは一つしかなかった。

 神官の祈祷の間だ。

 歩を向けると、どうやら勘は当たっていたようだ。

 城中央部からは祭壇がせりだしている。太陽の明かりをぞんぶんに浴びるそこで、王は神官からもたらされるお告げを民に報せる。

 祈祷の間まで細い階段が伸びている。左右を壁面に囲われており、人が一人通るのがやっとの狭さだ。

 階段は祭壇に繋がる。

 街を背にして祭壇に立てば、祈祷の間への扉が真ん中に開いている。

 祭壇に天井はない。

 ゆえに城のてっぺんから壁伝いに下りれば、祭壇に落ちることは可能だ。だがその高さが尋常でない。

 生半な縄では祭壇に降り立つ前に途切れ、宙ぶらりんのまま力尽き、転落死する。

 せめて飛翔の扇があれば宙を舞って楽に侵入できたものを。

 そこでふと閃く。

 じぶんには咎の剣があるではないか。

 これを使えば、壁を切り裂き、掘り進められるのではないか。

 よい案に思え、試しにそばにあった壁を四角くくり抜く。

 シュルの実で作るフワウのように、とぅるり、と取れた。幾度か動きを反復し、問題ないことを確かめた。

 あとは祈禱の間か、祭壇の位置を見極め、壁を掘り進めればよいだけだ。

 この辺だろうか。 

 当て推量で、ひとまず突き抜けるまで内側から城壁を四角く切り崩していく。

 間もなく、薄暗い穴のなかに明かりが差した。新鮮な空気が流れこみ、外に通じたと察する。

 すぐには穴を開けずに、外の様子を窺う。

 刀一刺し分の隙間から覗き込むと、まさにそこは祭壇だった。

「そこまで言うのならば確かめてしんぜようぞ」

 怒鳴り声が聞こえた。

 時点で、祭壇に人が現れる。

 テトスだ。

 彼は王らしき人物を引きずるように運び、祭壇の床に転がした。乱暴にされてなお王は毅然とした態度を崩さない。両手は縄で縛られているようだが、いまのところは無事のようだ。

 テトスはそれから二三、王と言葉を交わした。

 うまく聞き取れないが、王が平静を維持しているのに比べ、テトスの気性は荒かった。

「いいよ解かった」

 踏ん切りをつけたような怒声を皮切りに、テトスは腕を振り抜いた。

 その手には扇が握られていた。

 飛翔の扇だ。

 しかしなぜいまそれを使うのか。

 疑問は、一拍の静寂のあとに訪れた分厚い閃光に掻き消された。

 隙間から刃のごとく光の帯が流れ込む。

 次点で地鳴りがし、矢継ぎ早に轟音が熱風と共に吹き荒れた。

 穴のなかにいたからこそ無事だったものを、外にいたらひとたまりもなかった。そう予感させるほどの威力を伴なう何かがさく裂したと判った。

 振動が止む。

 しかし未だ、轟音は止めどなく、遠くから響いて聞こえた。

 いったい何が起きたのか。

 脳裏には最悪の事態が連想されていたが、それは元からそれを阻止するために行動していたからで、つまり神殿から二種の神器が奪われた時点で想定される最も避けるべき事態こそが、その最悪の連想と合致していた。

 そしておそらく。

 私は咎の剣で壁を開き、外にでる。

 目に飛び込んできた光景に言葉を、呼吸を、失った。

 大都市が業火に包まれていた。

 かろうじて岩石地帯に築かれた神殿が無傷なのが判る。

 しかしそれより手前、森と川に挟まれた二つの都市が見る影もなく轟々と熱気と黒煙を噴き上げていた。

 使ったのだ。

 瞋恚の息吹を。

 のみならず、その火力を飛翔の扇により最大規模に高めたのだ。

 火炎と突風、その二つが巨大な爆弾のごとく様相で大都市に着弾した。

 私はその場に立ち尽くした。ときおり祭壇にまで熱風が昇り、顔の表皮がヒリヒリと痛んだ。火に炙られたような痛みだ。否、真実に焼けているのだろう。

 テトスの仕出かした凶行を思い、その取り返しのつかなさに、そしてそれを止めることのできなかった己の愚鈍さに、罪悪感が込みあげた。

 背骨を引っ張りだされるような苦痛を感じ、脳髄が融けだすような虚無を感じた。

「なんだ来たのか」

 距離にして跳躍三歩分。互いの間合いのギリギリの場所にテトスが立っていた。

「もう終わったよ。これでハッキリする」

 私は彼の名を叫びながら突進した。我を忘れた。怒りというよりもそれは自己の否定だった。じぶんを消したかった。現実を否定したかった。ゆえに飛び掛かった。

 幻影を振り払いたいがために闇雲に陽炎に猛進する幼子のように、そうすれば目のまえの現実が消え去り、元通りのなんの変哲もない日常が戻ってくるのだと妄信する狂信者のごとく。

 私はじぶんが咎の剣を握っていることすら忘却し、テトスに向けそれを突きだした。

 テトスは抵抗しなかった。

 私の突撃を物ともせずに、屈強な腕で私の肩を抱きとめる余裕すら見せた。

 だが私の握る咎の剣は、我が友の胸を軽々と貫いた。

 傷口からコポリと血の泡が浮かぶ。

 わなわなと震えるテトスの手が、私の頬を撫でた。

「なぜあんな真似を」私は刀の柄から手を離すことができなかった。

「言ったろ。試したんだ」

「ほかにもっと術はあっただろ」

「ないさ。ああするほかなかった」

 テトスは我が手から逃れるように身体を揺すり、咎の剣を身体から乱暴に引き抜いた。否、咎の剣はテトスの身体を容易く切り裂き、胴体を真ん中から真横に開いた。

 床に膝をつくなり、テトスはそのまま床に身体を横たえた。

 テトスが身体を動かすたびに、切断面からは外にでてはならない身体の内部のやわらかいものがダボダボと零れ落ちた。

「ああ、ああ。すまないテトス、すまない」

「いいんだ」

「しゃべるな。動くんじゃない」

「気に病むな。これでいいんだ」

「おまえひょっとして最初からこのつもりで」

 だから咎の剣を神殿に残したのか、といまさらのように思い至った。

「死ぬなテトス」

「もういい。答えはでただろう」

 そう言って彼は、祭壇の下に広がる光景を望んだ。

 二分された大都市が炎上している。しかし妙だ。一方の街からのみ黒煙が昇り、もう一方の街からは見る間に火炎と煙が引いていく。

「誰を守るべきか、城下の者たちはとっくに知っていたのさ」彼の口からは音もなく血が溢れる。「こっから避難した城の者どもは城下にて二分した。夜獣はどちらかの街に必ず行き着く。顔を見れば一目瞭然だ。なにせ目撃者はこれまでにも大勢いたんだ。だが城の高位者ゆえ、手出しできん。神官の保護まで受けていたのでは告げ口一つできんだろう。だがみな夜獣の正体には気づいていた。気づいていてなお、何も言えやしなかったんだ」

 私がテトスから疑念を聞かされた際のことを思いだす。同僚であり我が友であるテトスから聞かされてなお、私は彼の疑念に耳を傾けることすらせず、一笑に伏した。

 そんなはずはない、と高をくくった。

 私相手のテトスですらそうだったのだ。

 城下の者たちがいかに述べようと、どのような仮説も城の者に拾いあげられるはずもない。どころか誹謗中傷の罪で刑に処され兼ねない。

「街の者たちの情報網は風のごとくだ。瞬く間に情報は行きわたる。それこそ、壁の向こう側ともとっくに通じていたはずだ」

「壁があるのにか」

「壁は下には伸びてやしねぇ。ああして夜獣のいないほうの街へと避難するくらいのことはいつでもできるようにしてあったんだ」

 片方の街だけが燃えている。もう一方はすでに鎮火しており、煙が晴れたことで建物の被害も最小限であることが窺えた。

「テトス、きみはいつからそれを知っていたんだ」

「問題は、いつ、じゃない。知ってなお、わしにすらどうにもできなかったことが問題だった。誰も聞く耳を持ちやしねぇ。わしが話して無理なら、もはや誰が話しても無駄だろう」

「神官に直訴すれば或いは」

「本気で言ってんのか」

 大量に血を吐きながらもテトスは笑った。

 卑屈に笑った。

「神官とて承知のうえのありゃ遊戯ぞ。お墨付きを与えてやがんのさ。王すら例外じゃねぇ。いや、王は関与はしていないだろうが、薄々気づいていてなお、看過した」

「なぜだ」

「憂さ晴らしだよ。緑王の戦が終わって三十年。血の滾りを持て余した古参どもの血抜きをするのに、城下の連中はテイのいい獲物なのさ」

「人間のすることではない」

「だがしてやがった。夜獣なんざこの街に存在しねぇ。いるのは薄汚ねぇ、人間を人間とも思わねぇ、何をしてもじぶんらなら許されると思いあがった愚者だけだ」

 だが見ろ、とテトスは力なくあごを振った。

「誰を守るべきか、城下の連中はみな理解してる。城下の連中は何があっても城の者に真実を告げ口することはない。誰が夜獣の名を騙って下種な遊びに興じているなんてことは口が裂けても言えねえんだ。ならわしが、誰の目にも明らかなカタチで白日の下に晒すよりねぇだろうがよ」

「だからと言ってこんな、こんな大罪に手を染めずとも」

 もし失敗したら民は滅んだのだぞ、と私は声を枯らした。

「城の者にもよいやつはいる。城下の連中から慕われているやつらはいる」

 おまえみたいにだ。

 テトスは震える手で私の肩を掴んだ。

「瞋恚の息吹は神器ゆえ、魔具で防げる。都市一個分の魔力供給があれば、神官級の術者が何人かいるだけでも防御はできる。民を想う者があるならば、民と団結できたならば、わしの攻撃なぞ物ともせぬだろう違うか」

「しかし、しかし」

 なにもおぬしがそれをせずとも。

 彼をそこまで追い詰めたのはじぶんだ。

 悔しさと情けなさに私は、奥歯を砕けんばかりに食いしばった。

「頼む。頼む」テトスの目は虚ろに宙を彷徨った。「わしにできるのはここまでだ。これくらいのことしかできなんだ。あとのことは頼む。わしの罪を肩代わりさせるようで心苦しい。申し訳ない。だがわしにはおぬししか頼れる者がおらなんだ」

 テトスの目から涙が一滴、滑り落ちる。彼の口元から溢れる吐血に交じり、雫はその表面に赤黒い渦を浮かべた。

「もうよい。しゃべるな」私は彼の手の甲に、手を重ねた。

 頼む。

 頼む。

 テトスは血の言葉を吐きながら最期まで私の肩に指を食いこませ、我が魂に遺志を刻み込むように繰り返し唱えた。

 ほどなくして彼は息を引き取った。

 シンと石のように動かなくなったテトスの肉体は、割れた彫刻のようにみすぼらしく、彼の悲痛な想いのごとく猛々しさで燃え盛る大都市の片割れからは後日、幾人かの神官とその一派の遺体が炭と化して見つかった。

 王は無事解放された。

 早晩、王の指示のもとに壁は打ち砕かれ、城の堀は埋め立てられた。

 城は大都市と結びつき、首都として繁栄の礎をより盤石に、豊かに、民のものとする。






【渇きの癒える宵がくる】

(未推敲)


 気泡のパチパチと弾ける音が脳のひだの揺れのごとく聞こえた。

 グラスの中で絶え間なく浮上しては弾ける透明な液体は、口に含もうと顔に近づけるだけでとろけるような甘味の香りを立ち昇らせた。

 弾けた気泡が、空気中に味を溶かしている。

「サイダー、そんなに好きじゃなかったんですけど」

 おずおずと私は言った。正直に吐露したほうが、却って感動が伝わると思ったのだ。「こんなに美味しいものを飲んでしまったので、大好物になりました」

「それはよかったです」

 彼女は胸元のボタンをしぜんな所作で一つ外した。日焼け一つない肌は、ブラウスの布地に負けぬキメの細かさで窓から差しこむ日差しを反射する。

 彼女、ミワケさんと私が言葉を交わすようになったのは、つい先日のことだ。

 窓の外では、うだるような日差しがアスファルトから熱気を上らせる。百年に一度と毎年のように大袈裟な表現で叫ばれる夏の陽気は、来年も、そのまた翌年も、度の過ぎた灼熱によって新たな形容の仕方でけばけばしく人から人へと口の端に上ることだろう。

 私は学生の身分でありながら、暇さえあれば昼夜問わず仕事をしていた。

 何でも屋と言うと胡散臭いが、昨今流行りの、手軽にできるお手伝い請負いの仕事だ。

 手隙の時間に、近場の依頼をこなすだけでいい。

 だが夏の日差しに、私の身体は根をあげた。

 寝不足がたかったせいだ、とミワケさんはのちにぼやくが、私はしかしそのお陰で彼女との縁を繋げたので、寝不足のお陰です、と言い直す。

「まさかお仕事の途中で倒れるなんて思わないもの」

「でも最初はサボって寝ていると思ったんですよね」

「起こそうと思って触れたら、とても冷たくてびっくりして」

「初めてなって知りましたけど、熱中症って身体に熱がこもる割に皮膚は冷たくなるんですよね」

「そうみたい。死んでるかと思って」

「ははは」

「笑いごとじゃありません」

「ご心配おかけいたしました。お詫びに、ミワケさんのお仕事なら無料でお引き受けいたしますよ」

「わるいですよ」

「いまのは口実です。おしゃべりしたいんです。ミワケさんと」

 またいつでも呼んでくださいね、と私は歯の浮きそうな台詞を飄々と口にした。本音だから仕方がない。偽っても、誤解を与えるだけだろう。小細工を弄さぬ実直な性分がじぶんの長所だと私は自負している。

「ま。人をからかって。わたし、そんなに寂しがりに見えるのかしら」

「違います。私が寂しいのです」

「そうやってまた」

「ミワケさんは年下はお嫌いですか」

「弟が欲しいとは思っていましたよ。むかし。小さいとき」

「ミワケさんの小さいころの話、聞きたいです。どんな子だったんですか」

「わんぱくでした」

「それはまた」私は噴きだすようにした。「いまのミワケさんからは想像もできませんね」

「そう? いまでもときどき木登りしますよ」

 今度はしぜんと噴きだした。「木登り?」

「はい。あなたに伐ってもらった枝、ありますでしょ」

「あの木に登るんですか」

「鳥が巣をかけるの。それで、卵が落ちていたり、雛が落ちていたり」

「巣に戻してあげるんですね。ミワケさんらしいです」

「上手ですよ。木登り」

「でも危ないので、つぎからは私を呼んでください。秒で駆け付けます」

「ゆっくり来てくれなきゃ呼ばないわ」

「ならお土産を買ってから行きます。ケーキでいいですか」

「いりませんよ。きてくださるだけで充分。お代もお支払いします」

「私が頼んでいるのですから。それに、私はもうミワケさんとは、お客さんとの関係ではないと思っていますし」

「あら。どんな関係?」

「お友達ですよ。違いましたか」

「どうかしら。わたし、お友達っていたことないから」

 その言葉をどう受け取っていいのか逡巡した。返事をする間を逃したので、私は手つかずだったグラスに手を伸ばし、液体に口をつけた。

 サイダーだった。

 気まずい沈黙をどう次に繋ぐかに思考を費やしていたはずの私が、一瞬にしてその液体の甘美さに意識を奪われた。

 私が凍りついたように動きを止めたからか、くすくす、とミワケさんは笑った。

 私は絶賛した。

 こんなに美味しい飲み物を初めて飲んだ、とありていな言葉で告げ、さらに私は思いつく限りの賛美を送った。

 というのも聞けばそのサイダー、ミワケさんの手作りだというのだ。

「手作りできるんですね。サイダーって」

「できますよ。すこし手間がいりますけど」

「ですよね。こんなに美味しいんですから」

「それもありますけど、シュワシュワが、ね」

「ああ、なるほど」

 私は感心した。

 たしかに手作りで炭酸水を仕込むのだけでもひと手間だ。

「これはタダで飲んでいい味ではないですね。お手伝い何かさせてください。私にできることがあるなら、部屋の掃除でも、買い出しでも、執事の真似事だってしますよ」

「至れり尽くせりね」

「サイダーの作り方だって教えてくださるなら、次からは私がご用意しますけど」

 軽い冗談のつもりだった。

 あわよくばレシピを知りたいとの魂胆がなかったとは言わない。

 だがそんな淡い稚気はミワケさんから、スっ、と引いた笑みを見て霧散した。カレンダーを引き抜いたような、秋から冬へと一瞬で切り替わったような印象があった。

「あの、冗談です」私はしどろもどろに釈明した。

「あなたはお客さまでしょ。余計なことはしなくていいの。して欲しくはない」

「……はい」

「お代わりはいる?」

「あ、はい。いただきます」

 断るのも彼女の気分を損ないそうで、唯々諾々とお代わりを所望した。

 一度部屋を出ていった彼女だが、グラスにサイダーを容れて戻ってくると、さきほどの豹変が嘘のように、ふたたびの微笑を湛えていた。

 グラスを受け取り、私はさっそく口をつけた。

 ミワケさんがじっと私を見詰めていたので、飲むように急かされている気分だった。彼女の気分を害したくなくて、私は努めて、喉がカラカラだったのだと言わんばかりに飲み干した。

「とっても美味しいです。まだ口のなかでシュワシュワ云っています」

「そうでしょう。でも次はもっと味わってね」

 微笑は薄れなかったが、その口吻からはサイダーに浮かんだ薄氷のような響きが滲んでいた。

 それからというもの、私は定期的にミワケさんにお呼ばれするようになった。その都度、必ず彼女は私にサイダーを御馳走してくれた。

 私は学生であるので、時間の融通は効くほうだ。卒のない性格はむかしからで、テストやレポートも苦ではない。

 暇さえあればミワケさんのお宅へお邪魔した。

 迷惑であるのは百も承知だが、しかしいつも帰り際にミワケさんのほうで、「つぎはいついらっしゃるの」と乞うような目を向けてくるので、いつの間にかミワケさんに会う日が固定された。それは水金土である。

「あしたもまた来ますね」金曜の夜に暇を告げると、

「きょうはもう遅いから、泊まっていったら?」ミワケさんは手を打った。あたかもそれはよいアイディアね、と私のほうで提案したかのような錯覚に陥る。ミワケさんはときおりそうして、じぶんで唱えておきながらじぶんで受け入れ、その自己完結する際にできる渦に私をしぜんと巻き込むのだった。

 抗う術はない。

 抗う理由がそもそもなかった。

「いいんですか、泊まって」

「なぜダメなんでしょう?」

「いえ、だって」

 私は柄にもなく赤面した。玄関の姿見にじぶんの顔が、情けなく映った。

「お友達を泊めるだけですもの」

 それの何が問題なのですか、と解いたげにミワケさんは言った。

 現に、その日からというもの機会があるごとに私はミワケさん宅に宿泊するが、これといって彼女との仲に進展はなかった。恋仲になることはなく、私だけが一方的に懸想する関係が深まるばかりだった。

 間もなく、金曜日はミワケさんの家に泊まるのが習慣化した。ミワケさんのほうでそれを仕向けていた素振りがある。

 私はすっかり彼女の手料理の虜となっていた。

 ミワケさんは料理が上手かった。三つ四つの小皿によそわれた、豆腐やサラダや肉料理は、料亭を彷彿とする上品さと風味を私に刻印した。

「ごちそうさまです。あの、よかったらこれ、足しにしてください」私はお礼を渡すが、ミワケさんが頑として受取ろうとしなかった。

「いいんです。わたしが好きでしていることですから」

「でも受け取ってもらわないと私の気が済みません。つぎからも気兼ねなくこれるように、どうか受取ってください」

「いいえ。受け取りません。でも、そんなに言うのでしたら、ひとつお願いしようかしら」

「なんなりと」

 私は食べ終えた食器を台所に運び、慣れた調子で洗いはじめる。ミワケさんが隣に立ち、洗い終えた食器を布巾で拭いた。

「じつはサイダーの試し飲みをして欲しくって」

 ミワケさんは語った。

 自家製サイダーを改良したいのだが、じぶんで味見するのはたいへんだ。味見役がいるとたいへんに助かる。あなたにそのお手伝いをお願いできないかしら。

 まとめればそういった話であった。

 窓の外には柿木が生えている。葉の落ちた枝には柿の実が生っていた。

 私はミワケさんの提案をよろこんで引き受けた。

 彼女の振る舞ってくれる手料理は格別だ。それは揺るぎない。だがそれを考慮に入れても、彼女のお手製のサイダーはまた無類であった。

 美味というのでは収まらない。

 飽きないのだ。

 出されれば出された分だけ飲み干せる。そのうえ、食傷の片鱗も見せない。

 途中からは半ば、サイダーを飲みたいがために通っていたようなものだった。

「ミワケさんはきょうだいはいるんですか」だいぶん仲は打ち解けた。話題も枯渇しつつあり、いよいよとなって私は突っ込んだ話を訊いた。

「その話は嫌」

「すみません。ぼくは一人っ子なので、けっこう我がままなんですけど、ワケミさんは落ち着いていらっしゃって。妹や弟がいらっしゃるのかな、と」

「長生きなだけなの」

「はは」

 どう見てもワケミさんは私のせいぜいが四つ六つ上だ。ひょっとしたら同世代かもしれないが、屋敷のような家に一人で住んでいることを思えば、もうすこし年上だろう。

 私の考えではミワケさんは未亡人だ。

 資産家の夫を亡くして、屋敷と財産を持て余している悲哀の婦人なのである。

 それとも単にいいとこのお嬢さまかもしれないが、立ち振る舞いがいささか落ち着きすぎて映る。いくら年下とはいえ私のような男と二人きりでいてすこしも物怖じしない姿を思えば、下卑た推測になるが、男を知っていると見ていいはずだ。

 部屋に写真は一つもない。家具は骨董品ばかりだ。洋風の家だが、家具は木材が多く、和を彷彿とする。

 私は屋敷にいないあいだもミワケさんとの会話を幾度も脳裏で反芻した。意識して行うこともあれば、しぜんと無意識に夢想していることもある。

 夜中、寝床のなかで一人悶々と彼女を思い、自らの猛りを慰めることもあるが、ふしぎと果てたことはない。罪悪感とは違う。物足りなさ、いいやもっと異質な感覚が私の情欲を妨げるのだ。

 肉体的な繋がりを欲しているわけではない。肉欲では満たされぬ融け合いを、私はいつの間にやらミワケさんに求めはじめていた。

 その日は初雪が降った。

 私がミワケさんの家に着くころには、道路はどこも薄っすらと雪化粧をしていた。

 ソファに腰掛ける。指定席と化して久しい。

 ミワケさんとは、先日話題になった映画を観たので、その話をした。時間は花弁を毟るように、時計を見るたびに飛んだ。

 席を立つとワミケさんは腰にエプロンを巻いた。きょうは着物をまとっているが、ドレスをまとっていることもある。質素な柄のうえ、ミワケさんに馴染んでいるために違和感がないが、おそらくこのまま外を歩けば相当に目立つはずだ。ドラマや映画の中でだって彼女ほどに常日頃、服装に気を使っている人物はいないのではないか。

 しかしそのことに気づいたのは、私が屋敷に通うようになってからのことだ。それまで私自身、彼女の異様さを、異様と思わずにいた。

「きょうはお鍋にしましょう」

「いつもご馳走様です。あの、やっぱり何かお返しをしたいんですが」私は彼女のよこに立ち、腕まくりをする。

「こうして来てくださるだけで充分ですよ。それに、お手伝いまでしてもらって」

 彼女は私に鍋の具材を渡した。

 まな板のうえで私はそれらを刻む。

 彼女は後ろで出汁の準備を行った。

「これくらいはお手伝いとは言いませんよ」私は言い張った。「その、もっと贈り物のようなものをしたいな、と」

 何か欲しいものはありませんか、と私が問うと、

「器を」

 ミワケさんの声が肩越しに聞こえた。耳朶を下から縁取り、鼓膜を介さず頭蓋に直接響くような聞こえ方をした。

 私は肩を竦め、快楽を伴なう悪寒に声を震わせた。

「びっくりしました」

「なぁに?」

 振り返ると、そこではまさにいま振り返ったミワケさんの姿があった。一瞬で元の位置に戻ったにしては距離があるし、何より空気の揺らぎを感じなかった。

「あの、いま」

「ん?」

 彼女のしぜんな様に私は勘違いをしたじぶんが急に恥ずかしくなった。まるで私の欲望が幻聴を聞かせたように思えたのだ。

「いえ。あのいま、器と聞こえたような気がしたもので」

「器?」ミワケさんは小首を傾げ、あごに食指を添えた。「そうね、そう。器は欲しいかもしれないわ。そろそろだいぶん、古くなってきたものですから」

「骨董、お好きじゃないですか」新しい食器が欲しいと望むにしても、ミワケさんの口から、古いことを理由に新調したい、という言葉が飛びでるとは思わなかった。

 似合わない、と思ったのだ。

 そして私は彼女には、どうあっても似合わない言動をとって欲しくはないのだ、と知った。己の欲望の輪郭をついになぞった気がした。

「骨董? 骨董は好きよ。好きです。でも、器はそうじゃないの。なんというか、そう」

 飽きるの。

 彼女は私にザルを渡した。私はそこに切り分けた具材を載せる。

 私が鍋と共に具材を食卓に運んでいるあいだに、ミワケさんはコンロを運んできた。

「夏場だったら七輪をだすのだけれど、きょうはこれで」

「夏場に鍋も粋ですね」

「美味しいのよ。本当よ」

 なら来年は一緒に鍋をしましょう、と私が言うと、守れない約束はしないことにしているの、とミワケさんはくすりともせず言った。その真意を測る真似が私にはできなかった。いつだって私は彼女の底を知れずにいるのだ

 触れるのはいつもじぶんの底ばかりである。

 二人で鍋を突つく。

 豆腐を口に含むだけで、身体の芯から温まるようだ。熱いくらいである。

 ミワケさんの顔は涼し気だ。汗一つ搔いておらず、私ばかりが額を拭った。

「ちょっと待っててね」

 思いだしたようにワミケさんは腰を上げた。台所からグラスを持って戻ってくる。

中身はすでに注がれており、細かく気泡を弾いていた。

 私は、全身の細胞が泡立つのを感じた。

 身体のみならず、私という存在が、無数の空虚によってできている。かような錯覚に囚われ、それは立ち退くことなく、留まりつづけた。

 まるで古の記憶を思いだした転生者のようだとわけもなく思った。

「どうぞ」

 グラスを受け取ると私は、礼も述べずに、ごくごくと一息に飲み干した。口端から零れたサイダーの雫が食卓のうえに落ちた。

 私はグラスの中身をカラにすると、溢したそれを猫のように舐めとった。

 異常だ。

 自身ととっている挙措の不自然さ、下品さ、粗暴さを思いながら、それでも身体を制止することができなかった。

「まあ、もうそんなに」

 ミワケさんはカラになったグラスを手に取ると、いちど引っ込み、お代わりを持って戻ってきた。

 私の胃は、鍋の具材で満たされているはずだった。

 だが飲み干したばかりのサイダーを、ふたたび夢中で牛飲した。砂漠を彷徨った旅人のようだ。異常を異常として見做す冷静な自我が眺めている。

 グラスがカラになるたびに、ミワケさんは台所に引っ込み、新しくサイダーを注ぎ足し、戻った。

 つぎつぎに運ばれるそれらを私は、巣で親鳥の帰還を待ちわびる雛鳥のように待った。

 飲めば飲むほど渇きが募るようだった。

 全身の細胞までもが気泡のように弾けた。錯覚だ。解ってはいるが、その快感に意識が融解するのを感じた。

 異常だ、異常だ。

 危ない。危険だ。

 自己を俯瞰で眺める自我が遠のき、或いは、深く深く沈んでいく。

 ミワケさんが戻ってくるまでの時間すら永久に引き延ばされ、待つことの苦痛が身体を蝕んだ。チクチクと肌に千枚通しを突き立てられるような痛みが実際に走るのだ。

 細胞の弾ける快感が、まるで巨大な穴にまで膨れたように肉体を痛めつける。

 だがサイダーを口に含むとたちどころにその痛みが薄れるのだ。

 何度目のお代わりかがすでに曖昧だった。

 記憶がほどけ、幼少期のじぶんが両手でコップを持っている光景が蘇る。しかしそれがじぶんの姿ならば、じぶんで見ることはできないはずで、おそらくは記憶の中にあるじぶんの写真が連想されただけだと思われた。

 記憶が混線し、思考が錯綜する。

 過去に泥酔した自我が一挙にいまここへと集まってきたような、自我の万華鏡を覗いている気分だった。

 ミワケさんがカラのグラスを持って部屋をでていく。

 すでに私の喉は乾いていた。細胞が溶けだし、どろどろになったかのようだ。まるで羽化できずに破れた蛹のようだ、と泣きたい気持ちを堪えた。

 抗いがたいのだ。待っていられない。

 私はソファから、ぬめり、と床に落ちた。

 弛緩した身体をイモムシのように這わせるが、むろんこれは幻覚だ。判ってはいる。理性が失せてはいない。現実を見失ってはいないが、徐々に、そうした異常事態を異常だと見做す自我の薄まりを止められなかった。

 否、止めたくないのだ。

 もっと、もっと欲しい。

 薄めたい。薄めたい。

 ずるずると身体を引きずって戸を潜り、台所に入った。

 壁に手を突き、尺取り虫のごとく動きで身体を起こした。

 目に飛び込んできたのは、それもまた幻覚に違いなかった。

 グラスにサイダーを注ぐミワケさんの姿はそこになかった。

 あるのは、服をめくりあげ、グラスを下腹部に押しつけ、苔でもこそぎとるように手を動かす女の姿だった。

 私は浮遊感に包まれた。錯綜していた思考がぴたりと停止した。何を思い考えるのか、思い考えるとは何か。何とは何か。思考の波を刹那に忘れた。

 一瞬の停滞は、私から時間の感覚を奪った。

 はだけた女の下腹部は、熟れたザクロのようだった。腹がなかった。皮膚がなかった。肉がなく、がらんと洞が開いていた。

 欠けている。

 グラスにはしかし、カラカラと赤色の宝石がごとく欠片が転がり、溜まった。

 肉の結晶だ。鉱脈だ。

 いいやあれは。

 私に時間の感覚が戻りはじめる。

 存在の欠片か。

 あれが、魂か。

 モヤのごとく浮遊する魂を連想するが、しかし彼女の魂はもっと物質的だった。結晶なのだ。

 それがグラスにこそげとられ、溜まると、赤みがするすると解けた。グツグツと煮え立つように泡を立たせる。

 透明な液体と化したグラスの中身は、私の目に馴染み深い、気泡を弾けさせる飲料物としてそこに顕現した。

 気泡のパチパチと弾ける音が脳のひだの揺れのごとく聞こえた。

 グラスに顔を近づければ、顔の産毛が気泡の弾ける衝撃を披露だろう。アリアリとその触感が脳裏に再現され、全身は急激な飢餓感に見舞われた。

 とっくに飢餓は臨界点に達していたにも拘わらず、底が外れたように、もう二度と埋まることはないと予感させるだけの飢えを、渇きを、覚える。

 欲だ。

 これは、欲だ。

 全身の細胞に欲が充満する。

 否、そうではない。

 欲が、開いているのだ。

 穴が開くように。

 欠けることで埋める余地を築くように。

 全身の細胞が、存在が、輪郭が、欲のカタチを伴ない開いていく。

 カラだ。

 がらんどうなのだ。

 そこに埋めたいのはしかし、なんでもいいわけではない。

 穴を、カラを、がらんどうを、気泡の弾ける甘味で満たしたい。

 目のまえにはグラスがある。

 差しだすその手はとうに抜け殻だ。

 中身がない。透けて見える皮膚の下に、血肉はなく、骨もなく、赤みがかった存在の結晶が――魂の欠片が、砂時計のように手の傾きにならってサラサラと流れ落ちている。

 喉が鳴る。

 私の喉が、雛鳥のごとく渇きを訴える。

 どうぞ。

 お召し上がりになってください。

 気泡の弾ける音に交じって、女の微かな吐息の音色が耳朶を伝ってぬるりと入る。

 穴を通って、脳のヒダをなぞるように。

 そこでは気泡のパチパチと弾ける音が、彼女の魂の浸透を待ちわびている。

 私はどこだ。

 私はいま、誰なのだ。

 疑問は、グラスの中身を飲み干すたびに薄れ、陰り、霧消する。

 透明な水面からは甘ったるい、無数の魂のささめき声がする。

 私の声が、そこから聞こえる。

 気泡の弾ける音がする。

 ガラスの砕ける音がある。

 グラスを投げ捨て私は、目のまえのはだけた洞へと頭を突っ込む。赤い結晶は、グミのように柔らかく、唇に触れると雪のように熱かった。

 私はそこに湧く、存在の泉を直に啜った。

 うなじにひんやりとした女の腕が絡みつく。

 たぁんとおあがり。

 渇きの癒える宵がくる。




【河童と源五郎】


 山の奥深くに沼がある。湖と見紛う大きさだが、水は濁り、水草が水面を覆っている。

 麓の村々では底なし沼としても知られており、近づく者はいなかった。

 ただ一人を除いては。

 その男、名を源五郎と云った。

 源五郎は変わり者で名を馳せており、村人たちはみなこの男との交流を避けていた。

 だが源五郎の家は代々、医師の家系であり、村のなかでの地位は高かった。

 源五郎は医師の資格を有しておりながら、医療に携わる道につかなかった。

 時折、親や親戚の医師たちの手伝いに担ぎだされることもあるが、そのほかの時間は総じて自身の研究に費やしていた。

 源五郎は幼少の時分より、魑魅魍魎の類に興味津々であった。異形に怪異、つまるところ妖怪の存在を信じ、解明しようと躍起になってはや二十余年。源五郎は、親の資産を食いつぶしながら、世に発刊される数多の巷説に説話、伝承と、あやしい書物があれば取り寄せ、買いあさり、妖怪研究に勤しんでいた。

 なかでも源五郎を虜にした妖怪は河童であった。

 村人たちが怖れる山奥の沼には、源五郎が幼少のときより、河童が棲む、と言い伝えられてきた。村人たちはそれを半分信じ、もう半分はおためごかしに子どもたちを怖れさせ、近づけさせない方便として用いた。

 例に漏れず、源五郎も幼少のころより河童の伝承を聞かされて育った。

 以降、源五郎は村のおとなたちに内緒で山奥の沼へと通った。

 何度も通ってなお河童の陰一つ見えないとなれば、いかな源五郎とて、足場のわるい山道を幾度も往来したりはしなかったかもしれない。

 だがその沼には真実に河童が棲まっていた。

 その河童は一匹で長らくその沼に居ついていた。

 いつからじぶんがそこで暮らしていたのかを河童は憶えていなかった。

 静かな山奥である。

 同じ日々がつづくばかりで、腹が減れば沼に息づくほかの生き物を食らい、水草をはみ、水を飲みに集まる小動物を捕まえて齧った。

 そんな折に、見慣れぬ生き物が現れるようになった。

 源五郎である。

 河童には当初それが、動く木々に見えた。着物の柄が森の風景に同化して映ったせいだろう。河童は怖れをなして、身を隠した。

 人間を見るのは初めてのことだった。

 それはそうだろう。

 これまでは人間のほうで河童を遠巻きに目にした先に逃げ出してきたのだ。河童のほうではじぶんが目撃されたことなど気づきもせずに、のうのうと暮らしつづけてきたのである。

 それがどうだ。

 源五郎はたびたび沼に現れた。

 しだいに河童のほうでも、源五郎の存在を気に留めるようになった。

 あのわっぱが何かを探しているようなのは分かる。

 池の周りに罠を仕掛けていくこともあり、河童はますます用心した。罠にはそのときどきで、鹿や兎や熊などがかかった。

 それらを目の当たりにして河童は当初、源五郎を危うい存在だと見做した。

 だが源五郎が童子から成年へと長じるにつれ、河童の胸中には源五郎への興味関心が沸々と募っていた。それら感情の高ぶりは憧憬にも似ていた。

 源五郎は沼へと足を運ぶごとに、どうにか河童の姿を目にしたい一心で、あれやこれやと手を打った。源五郎はなぜか、その沼に河童がいるのだとの確信を疑うことをしなかった。

 或いは、そうして河童を追求しつづける日々そのものが源五郎にとっては、河童の実在の証明よりも大事だったのかもしれない。

 罠以外にも源五郎は沼に、河童の興味の引きそうなものを置いて去った。

 食べ物をはじめ、玩具や書物といった人間文化に馴染みの深い代物まで源五郎は沼に置き去りにし、つぎにくるときに回収しては、河童の痕跡が残ってはいまいか、とつぶさに調べ、そしてまた新しい品を置いて去るのだ。

 置き土産が食べ物であれば、その大部分はほかの生き物たちの餌となった。

 だが河童のほうでも齧ってみたりはしていたのだ。動物たちが食べても大過ないと判ってからはむしろ源五郎の持参する、土産、には心待ちにも似た高揚を覚えていた。

 ほかにも玩具や書物にも手を伸ばした。

 罠とそうでないものの区別がハッキリとつくようになってからはむしろ、率先して源五郎の土産をいじくりまわした。

 源五郎からすれば、土産物にできた汚れや皺が、果たして河童によるものか、はたまた鳥獣によるものかの区別はつかなかった。しかしそれが却って源五郎に、河童の存在を幻視させる一翼を担ってもいた。

 沼には真実に河童がいたが、源五郎はその存在を確信しておきながら、じぶんにだけ幻視できる河童を追い求めていたと呼べるだろう。

 灯台下暗しではないが、あまりに近くにありすぎる真実ほど人は見失ってしまうものなのかもしれぬ。

 源五郎の運んでくる土産物のなかで、とくに河童は書物がお気に入りだった。 

 ふしぎと河童には文字が読めた。

 否、真実から語ればこれは発想が逆であり、人間たちのほうで河童なる種族から文字を学んだ過去があるのだが、この沼にいる河童にはその記憶は引き継がれておらず、源五郎にもそのような過去は伝わっていなかった。

 ともかく、河童は源五郎からもたらされる人類社会にまつわる雑多な情報を、綿が水を吸いこむように学習した。

 源五郎はたびたび沼に向けて巷説を語ったり、河童への手紙を読んだりしていたので、河童は知れずそれらをそらんじているうちに、人間の言語を覚えた。

 むろん源五郎はよもやじぶんのありとあらゆる沼への干渉が、河童に直接に届いていたなどとは露ほども思わず、また失敗か、といつも、ではつぎはなにを試そうか、と手を変え品を変え、挑んでいた。

 河童は源五郎のあとをつけ、人里まで下りたこともある。そのとき人間たちが一様に、布を身体に巻きつけおり、反してじぶんが裸体であることを妙に思った。恥辱の念こそ湧かなかったが、これでは目立ちすぎるな、と気を揉んだ。

 もとより河童には甲羅があり、頭部には皿が、手足には水かきに、鋭い爪、なにより顔面には嘴があった。どこからどう見ても人間には見えない。

 河童はなぜか気分が塞いだ。源五郎が住処らしい人間の巣に入るのを見届けると、河童はとぼとぼと沼へと引き返した。 

 源五郎がなにゆえ沼に足繁く通っていたのかを河童がようやく理解しはじめたころのことである。

 源五郎はいよいよ村を追いだされた。

 その日暮らしを好き勝手に送る源五郎に村人たちが業を煮やしたのである。

 源五郎は村を去り、資料置き場にと竹林のなかに建ててあった小屋のなかでの生活を余儀なくされた。

 しかし源五郎にとっては好都合であった。

 むしろこの男を村の屋敷に引き留めていたのは十割かの者の親であり、いつでも医療の手伝いをさせられるとの魂胆から、源五郎の一人暮らしを許さなかったのだ。

 だが村人からの反感の声にはさすがの医師一家も逆らえなかったようである。

 晴れて源五郎は一人暮らしの生活を手に入れた。

 親からの支援は絶たれたが、薬の調合の仕事を請け負うことで生活はむしろ以前よりも羽振りがよくなった。患者を相手にせずともよく、一人黙々と作業のできる仕事は源五郎にぴったりだった。

 源五郎は忙しい日々の合間を縫い、妖怪の研究をつづけた。

 そのころ山奥の沼に棲まう河童は悶々としていた。

 頻繁にやってきていた源五郎が姿を現さなくなったので、やれ病気になったのではないか、やれ死んだのではないか、と気がそぞろだっていけない。

 こうなったら、と河童は奮起した。「あやつの無事をこの目でしかと確かめねば」

 河童は源五郎の住処を訪ねることにした。そのためにはまず、人間に擬態せねばならない。

 衣服はむろんのこと、見た目も人間のそれでなければ、源五郎に会う前にほかの人間に追いかけ回され兼ねない。

 このころにはもう河童には、人間がいかなる生き物かの推量を働かせることができた。源五郎の置き土産である書物から、たくさんの物語を吸収した。

 その甲斐あって、人間の残虐さや、同族以外へは冷酷な所業を躊躇なく行える生き物であることを学んでいた。

 同じ人間であるはずの源五郎にすら、村の者たちは、どこか変だと言って追いだしたのだ。

 じぶんのような河童が受け入れられるわけがない。

 しかし源五郎は別かもしれぬ。

 河童は仄かな期待に胸を躍らせた。

 自ら尻穴に腕を突っ込み、尻子玉を引っ張りだすと河童は、それを手でこねて人型に整えた。人形には甲羅はなく、頭のてっぺんに皿もない。顔はのっぺりとしており嘴も消えている。

 最後に河童は、衣服やら髪型やらを装飾して整えると、人形と化した尻子玉をもう一度尻の穴を通して体内に戻した。

 するとどうしたことか。

 河童の身体が見る間に、人間のカタチにちかづくではないか。

 尻子玉で造形した人型そのもままである。

 甲羅は衣服のように身体をまとい、皿は髪の毛へと変質し、嘴は仮面のごとく顔の表面を覆い、目鼻や口を形作った。

 河童には性別はなかった。

 しかしそこに顕現したのは人間の女の姿であった。

 源五郎の置いていく書物に描かれる絵の多くは女性だった。ほかにも人里を覗いたときに家のまえで働いているのも女たちが多かった。男衆は田畑に出張っており、昼間は村にいないのだ。

 それゆえに河童の記憶にある人間の姿は女性に偏っていた。

 いっそ源五郎の姿をとってもよかったが、さすがにそれでは警戒されるだろうと見越していた。河童は世間知らずではあったが、愚かではなかった。知識が足りないだけなのだ。触れる機会がすくなかった。

 人間に化けると河童は、山を下った。

 竹林にまでくると源五郎の住処が見えた。

 しばし歩を止め逡巡する。

 いきなり門を叩いてそれでどうする。

 源五郎が巣にいるとも限らない。

 いたとして、巣からぬっと顔をだしたやつにどう応じたらいい。

 竹の葉の奏でるザザザの合唱を耳にしながら河童は、二の足を踏んだ。 

 そこへ薬草採りにでていた源五郎が通りかかる。源五郎の歩く場所には小石が埋まっている。何度も竹林を通ううちに源五郎はじぶんの通り道をつくっていた。源五郎は竹林を飛び石のごとく渡るように歩く。

 音もなく背後に接近され、河童はひどく驚いた。

 気づいたらそばに男が立っており、それがなんと目的の源五郎だったのだ。

「何をしている」源五郎は背には籠を担いでいる。底が埋まる程度に薬草が入っている。

「いえ、その」河童はしどろもどろになった。何度も練習をしたはずがうまく言葉を話せない。かろうじて、「河童を探しているのですよね」とつむぎだすと、それを聞いたとたんに源五郎の顔が、ぱっと輝いた。

 分厚く渦を巻く曇天に陽が差したような変わりようであった。

「おぬしも河童に興味があるのか」

「はい」

「おうおう、どこぞで聞きつけた。わしが河童に目がないと」

「それはもう有名でございますから」

「ほうかほうか」

 源五郎はすこぶる機嫌をよくし、立ち話もなんだ、と小屋へ案内した。

 河童は誘われるままに小屋に入った。

 茶室のようなこじんまりとした造りだ。かろうじて炊事場と物置が増設されているだけの、厠すらない小屋だった。元が資料置き場なのだから詮もない。

 小屋の中は足の踏み場もないほど書物で散らかっていた。

 ただでさえ狭い和室に、これでもかと本が積み重なっている。奥のほうにはどうやら書架があるようだが、それに納まりきらないので積みあげているようだ。

「そこ座って」源五郎は本の山を二つどかした。

「あの、すごい数ですね」本のことを言った。

「全部妖怪にまつわる書でね。茶でも飲むかね」

「あ、はい」茶とはなんだったか、と記憶を漁りながら河童は、こういうときはたしかこう言うのだっけ、と言葉をひねりだす。「どうぞお構いなく」

「久しぶりの客人だからね。もてなしておきたい。まあわしの鍛錬だと思って付き合ってくれ」

 和室の中央にはどうやら庵があったらしい。板で封がされており、そのうえにも本が積みあがっていた。

 源五郎はそれらを脇にどかすと、座布団を手に取った。破れた箇所から綿を引っ張りだし、それに火石を打て火種とした。

 間もなく囲炉裏に火が灯る。

「よかったまだ湿っておらぬようだ」

 炭火の赤がパチと跳ねる。

 鉄瓶に水を汲みに立つと源五郎はそれを火にかけ、茶を淹れた。

 河童は一連の流れを黙って見届ける。

 源五郎の慣れない手つきであっても、その一挙一動が珍しく、河童は見入った。

「そんなに凝視せんでも毒など入れはせぬ」

 湯呑みを受け取り、河童は言った。「お優しいのですね」

「これくらいはふつうだろう」源五郎は心外だと言わんばかりに顔を顰めた。「おぬし、この辺りでは見ない顔だな。いや、ひょっとしたらむかしから村におる者なのかもしれんが、なにぶんわしはみなと話さぬでな。よそ者でなかったらすまない」

「はい、じつはわたくしは村の者ではございません」

「そうだろう、そうだろう。だと思うたのだ。村の中に河童好きがいるとは知らなんだから、絶対そうだと思っておったのだ」

 どうやら顔見知りかどうかの確信がなかったらしい。

 源五郎はことさら破顔し、

「して、河童がどうしたと」と質した。「わしが河童好きとどうして知った。誰から聞いた」

「えっとそれは」

「まあ村を出歩けばわしの悪評などそこらを転げまわっておるのだろうがの」

「わたくし、河童を見まして」

「なに」

 くわっと目を見開き、源五郎は紙と筆を手に取った。

「詳しく聞かせてくだされ。いつ、どこで、いかに見なすったか。河童はその、どのような姿をしておった」

「はい」河童は自身の身体を思い浮かべながら、特徴を羅列した。

 ふむふむ、と神妙に頷きながら源五郎は筆を走らせる。

 ひとしきり語り終えると、

「ふむ」源五郎が腕を組んだ。「おおむね伝承通りであるな。やはり河童は妖怪ではないのかもしれぬ」

「と言いますと」

「現に存在しているのなれば、そういう生き物と見做すのが道理。わしは長らく、妖怪のなかで、河童のみこの世に存在してふしぎでないと思いつづけてきたのだ」

「そうなんですか」河童はなんだか分からないが、胸がほくほくとした。

「ところでおぬし、その河童はどこで見たのだ。ひょっとしてこの山奥の」

「はい、沼のところで」とつい口が滑った。

「やはりか。くそぉ。わしもあすこへは長年通い詰めておったのだ。いるだろう、いるとしたらあそこしかない、と見越しておったというのに河童めぇ。わしには顔を見せなんで、なにゆえこのようないたいけな娘ばかりに姿を」

 そこで源五郎は目を見開いた。「なるほど、河童は娘子が好きなのかもしれん」

「いえ、そういうわけでは」ついつい河童は否定してしまうが、

「なにゆえそんなことが言える」学者気質なのか、源五郎が食ってかかった。「もうすこし詳しい話を聞かせてくれんか。やはり河童は人の尻子玉を抜くのか。人間を水中に引きずりこむのか。きゅうりが好きで、腕が引っこ抜け、相撲をとるのが好きなのか」

 河童は仰天した。

 なんという偏見。

 なんという誤解であろうか。

 河童が尻子玉を抜けるのは真実だが、人間から抜くことはない。

 人間を水中に引きずり込みたいなどと思ったためしがない。

 きゅうりがどんな食べ物かがまず分からず、腕は抜けないし、相撲なるものがなんなのかの検討がつかないどころか、河童にはこれといって欲というものがなかった。

 ゆえに源五郎とのささやかな、それでいてすれ違うような一方的な交流に刺激を受けたのだ。

 河童から見る人間と、人間から見る河童は、相互にどうやら相当にズレているように感じた。

 河童は源五郎に、河童にそのような性質はないように思う、と拙いながらも懸命に説いた。

 黙ってそれを聞いていた源五郎は、あらかた話が終わるなり、けしからん、と吠えた。

「おぬしは法螺ばかりを吐いて聞こえる。河童がおとなしく無害で、人懐こいだと。そのような話は寡聞に知らなんだ。おぬしの見たという河童も、本当にそれは河童であったのか。そもそもおぬしは真実にあの沼に行ったことがあるのか。そのような貧弱なナリであの山道を行けたとは思えんな。だいたいおぬし、よその者であろう。なにゆえあの沼のことを知っておった。何度も通ったようなことを抜かす割に、わしはおぬしの家も親も知らぬぞ。いったいおぬし、何者だ」

 思いがけない剣幕に河童は怯んだ。

 全身から血の気が引き、がくがくと震えが止まらない。

 源五郎が別人に見えた。

 沼のふちに立ち、おだやかに朗々と呼びかけ、ときに物語を語って聞かせてくれたあの源五郎はたったいま河童のなかから消え去った。

 木っ端みじんに砕け散った、憧憬にも似たくすぐったさが、いまは河童の胸中を奥底からグサグサと突き刺し、苦痛ばかりを喚起した。

 源五郎は目のまえにいる河童――それは人間の娘の姿に化けた河童であるので源五郎はついぞ目のまえに長年恋焦がれてきた意中の存在がいることなど露ほどにも思い至れずに、なおもじぶんのなかの理想の河童像を牽強に主張した。

「河童は凶悪で、おそろしく、しかし子どもにはやさしく、ときにやはりおそろしい。そういう存在なのだ。おいそれと人に懐くなどありえん。友達になりたいなど、そんなわけがあるはずがなかろう」

 バカも休み休み言え、と怒鳴られ、ついに河童の忍耐は決壊した。

 すくと立ちあがると、わっと小屋のそとへと駆けだした。

 おいまだ話は終わっておらんぞ。

 源五郎の怒りはまだ収まっていなかったようだ。怒声は河童が竹林を駆け抜けるあいだも背中に、こだまのごとく幾度も届いた。

 河童は沼まで一目散に逃げ帰ると、沼の水を溢れさせ、辺りをいっそうの沼地にした。

 河童の目の届く範囲には、人はおろか、小動物すら近寄れない。

 それからというもの、河童が源五郎の姿を目にしたことはなく、その声もいまでは遠い記憶の底に沈んだ。

 河童はようやく取り戻した静寂のなか、清々した、と思いながらも、かつて日々めげずに会いにきた一人の人間をことあるごとに思いだした。

 そのたびに、そこはかとない寂寥と耐えがたい物哀しさを覚えるのである。

 どこからともなく湧きたつそれら感情に振り回されるほどには暇ではなく、河童は努めてそれら記憶を振り払い、沼の底にて優雅な孤独を満喫したという話である。

 とっぴんぱらりのぷう。




【オセチドリ】


 都会で一人暮らしするようになって何に一番びっくりしたかと言えば、お正月になっても誰もオセチドリを食べないことだった。

 僕の故郷では毎年のように新年を迎えればオセリドリが食卓に並ぶ。

 のみならず、そのために若者は大晦日や元日の朝にオセツドリを捕まえにいくのが慣習になっている。

 よもやオセチドリを食べないどころか、オセチドリの存在すらまったく周知の外にあったとは。田舎育ちの世間知らずたる僕は大いに驚いた。

「じゃあちょっくらそのオセチドリっつうのを食べさせてくれよ」

 かように軽々しく言ってのけ、帰省する僕にかってについてきたのは、今年入学したばかりの大学で仲良くなった一個上の先輩だった。

「ユウキさん、たしか今年は高校時代の後輩といっしょに年越すって言ってませんでしたっけ」

「いいんだ。アイツなんか忙しいとかなんとか言って約束すっぽかしやがんの。おもんくねぇから当てつけにほかの後輩と仲良くしてやんだ」

 あとで払うから、と言ってユウキさんは電車賃まで僕に出させた上に、「おまえん家のトイレって水洗? ボットン?」と田舎への偏見山盛りの話題で僕を辟易させるのだった。

 先輩を一人連れ帰ると実家には一報を入れておいたのだが、純粋な都会の若者がやってくるというだけで僕の育った山村ではちょっとした有名人の御来場といった有様で、親族総出で駅まで出迎えにきていた。

「まあまあ、こんな辺鄙なところへようこそおいでくださいました。うちの息子がいつもお世話になっております」

「いえいえそんなこちらこそ」

 ユウキさんは爽やかに謙虚に礼儀正しく挨拶を返す。

 僕はこのような彼の姿を見たことがなかったので、狐に化かされた気分だった。

 ちゃっかり電車に乗る前に買っておいたらしい東京のお土産を母に手渡しユウキさんは、ほかの僕の親族たちに、不束者ですが数日のあいだお邪魔いたします、と慇懃にお辞儀する。「よろしくお願いいたします」

 僕の親族もそれにならってぎこちなく、それでいて深々と腰を折った。

 車に乗り込んだあとで僕は、こっそりユウキさんに耳打ちした。

「ちゃんとした大人に見えましたよ。びっくりしました。すこしだけユウキさんを見直したかもしれません」

「詐欺の基本は信頼関係だかんな。いかに相手から信用されるかにかかってんだ。よっく覚えとけ」

「さっき見直したかもしれない、と僕言いましたけど」

「あん?」

「気のせいでした」

「慧眼だな」

 いけしゃあしゃあとユウキさんは嘯く。

 実家についてからはほとんど僕はじぶんの部屋にいた。ユウキさんにはどの部屋よりも広い客間があてがわれたはずなのだが、なぜか彼は僕の部屋に入り浸り、せっかくの実家なのに僕はくつろぐどころの話ではなかった。

 苦言を呈しても十倍になって文句が返ってくるので、互いに不機嫌になるものの、夕食時になり、ほかの家族たちと食卓を囲むと、ユウキさんはじぶんだけさっさと仮面を付け替えて、みなからの好感度を高め、確固たる地位を築きあげるのだった。

「なんであんたそんな機嫌わるいの。やな感じだよ。やめな」

 黙々と食事をしていただけのことでこれである。

 まるで僕が家族を先輩にとられていじけているみたいではないか。

「お兄ちゃんあれでしょ。家族をユウキさんにとられた気がしていじけてるんでしょ」

 高一の妹が鋭く切り込んでくるので、僕はますます面白くない。

「おまえのタイプそうだもんなユウキさん」と反撃するも、「そうだよー」と難なく首肯され立つ瀬がない。そこからはなぜかユウキさんへの怒涛の質問タイムに突入し、妹のみならず、僕以外の総勢が手当たり次第に、根掘り葉掘りとユウキさんに質問を浴びせた。

 大学生活のなかでいちども僕に向けたことのない爽やかな笑みをユウキさんは浮かべている。それを維持しながら彼は、僕に聞かせたこともないトゥルトゥルの声音を響かせるのだ。ユウキさんがしゃべるたびに我が家族は、陽気のぱんぱんに詰まった風船を何度も炸裂させるような笑い声を立てた。

 僕はデザートを食べずに一人二階の自室に引っ込んだ。

 あすは大晦日だ。

 オセチドリを捕獲するのは僕の役目になるはずだ。

 体力を著しく消費したのか、ちょっと休憩するだけのつもりがベッドに横になるとするんと眠りに落ちた。

 翌朝、一階から聞こえる笑い声で目覚めた。

 うつらうつらしながら声に耳を澄ませると、どうやら家族はとっくに朝食を終えており、談話をしているらしかった。

 時刻は正午間近だ。

 僕は着替えを済ませて、洗面所で顔を洗い、居間に顔をだす。

「ようやく起きてきた」母がコーヒーを淹れていた。

「おはよう」

「みんなもう朝ごはんは食べちゃったよ。これからみんなでお蕎麦食べに行こうって話しててね。あんたどうする」

「いいよ家にいる」

「なぁに。まだいじけてんの?」

「そんなんじゃなくて」僕は急いで言った。「ほら、オセチドリだって獲らなきゃだし」

「ああそうね。じゃあお願いできる?」

 すんなり承諾されると、それはそれで面白くない。

「ユウキさんは?」

「外でお父さんのお手伝いしてくれてるよ。誰かさんの代わりにね」

「いい人だから」ユウキさんを無駄に持ち上げておく。

「本当にね。あんたも見習いなさい」

 あの人の本性知ったらびっくりして死んじゃうんじゃないか、と不安になる。

 みなが、行ってきまーす、と家の外にでていったのを見届けてから一人で朝食の残りのサンドウィッチを頬張る。

 外のほうから車の発進する音がなかなか聞こえなかった。

 しばらくして走り去る音がする。

 にも拘わらず玄関扉の開く音がし、間もなく居間にユウキさんが顔を覗かせた。

「おーう。おまえ行かねぇのかよ」

「ユウキさん」

「おまえバカかよ。おまえいねぇんじゃおれ一人じゃねぇかよ。赤の他人の家族に囲まれて過ごすおれの身にもなれ」

 かってに田舎までついてきた人の言い草ではなかった。

「なんか獲りにいくんだって? 山菜とかそういうのかよ」

「違います。オセチドリですよ。そもそもそれ食べさせろって言ってついてきたの先輩じゃないですか」

「ああ、そうだっけ」

「ここら辺地域一帯にしか生息していない珍しい鳥なんですよ。ほかの地域でもお正月ってお節料理を食べますよね」

「おれん家はなかったけどな」

「そうなんですか?」

「オセチドリはじゃあ、お節料理の代わりに食べる鳥ってこった」

「というより、オセチなんですよ」

「だから鳥を料理に使うわけだろ」

「いえ、ですから」

「いいよ面倒くせぇ。捕まえたら分かんだろ。さっさと行こうぜ。おまえのママさん、お土産におれらにもかつ丼買ってきてくれるって」

「先輩、どこに行っても人に好かれていいですね」皮肉でなく本気で褒めたつもりだ。

「ばか言ってんな。おれが好かれてんじゃねぇんだ。おめぇが愛されてるから、おまえの先輩であるおれが歓迎されてんの。おれが構ってもらえてんのは、それがおまえのためだってあの人らみんな分かってるからだよ。気づいてねぇのか」

「そうとは思わないですけど」

「おまえなぁ。まあいいや。じゃあおれが人気者だってことでいいよ。まだ食ってんのかよ。さっさと行くぞ」

 ユウキさんは僕の残りのサンドウィッチを奪い取った。

「ん、これ生ハム多いな。ずるいぞ」

「罠にかかってるのを獲ってくるだけなんで」僕は支度をしに席を立つ。「ユウキさんも汚れてもいい服に着替えたほうがいいですよ」

「そんなもんはねぇな。服貸して」

 文句を言いたかったけれど、ここで言い合っても疲れるだけだ。どの道、僕がユウキさんに口喧嘩で勝てるわけがないのだから、ここはおとなしく引き下がって服を貸すに限る。

「着替えたらすぐ行きますよ」僕はリュックサックを背負った。

「サンキュ」

 外に出る。

 曇り空で、辺りは一面雪景色だ。

 僕の隣で、僕のジャージに父のダウンジャケットを羽織ったユウキさんが手をこすり合せる。「うぅ寒。で、どこよ。その罠ってのは」

「こっちです」

「だいたい何分?」

「三十分も歩きませんよ」

「三十分も歩くのかよ」

 ぶーぶー不平を鳴らすユウキさんを引き連れながら、庭裏の山道を登る。

 途中まで道路は塗装されている。

 除雪はされていないが、陽に当たって溶けた表面がすぐに凍るので、雪の上を埋まらずに歩くことができる。

「くるときも思ったけどすごい雪だよな」

「積もるときは一晩で三メートルとか積もりますからね」

「罠とか埋もれちゃうっしょ」

「たぶんユウキさんの思い浮かべているような罠ではないので」

「そうなん?」

「ただの箱なんですよ。樹の幹に結びつけておくと、そこに、ああほらもう見えてきました」

「どれだよ」

「あれ全部です」

 背の高い樹が乱立する。

 葉は鬱蒼と茂っており、それらを雪が覆う。

 葉と雪が屋根の代わりとなって、樹々の根元には雪がほとんど積もっていなかった。

 樹の幹にはそれぞれ四角形の箱がくくりつけられている。大きさは、靴を買うとついてくる箱くらいだ。

「超雑な鳥の巣を小学生がつくりましたって感じだな」

「最初はでもそんな感じで偶然獲れたらしいですよ。大昔の子どものイタズラがオセチドリの発見に繋がったんです」

 樹に近づく。どの箱も中身はカラだ。どうやら近所の人たちはみな朝のうちに捕獲しにきたようだ。雪のうえにも足跡が残っている。

「箱っつうかこれ」ユウキさんが周囲を見渡す。「重箱のアレじゃねぇの」

「そうです。あれをすこし大きめに作ってもらうんです。結構高価なんですよ」

 あ、ここがウチの樹ですね。

 僕は一つの樹のまえで歩を止めた。

「ウチのってなんだよ」

「一軒につき一本ずつ所有してるんですよ。そこで獲れたオセチドリはその樹の持ち主のモノってルールがあって」

「へぇ。マイナーなルール」

 ユウキさんはそこで一歩退いた。「おい、おいって。なんかいる。中になんかいる」

「そりゃそれを獲りにきたんですから」

 僕はその場にリュックサックを下ろすと、中から箱と刃物を取りだす。箱は樹にくくられているのと同じものだ。違うのはこちらには蓋がついていることだ。

 箱を地面に置き、刃物を握る。

「どうすんだよそれ」

「血抜きするに決まってるじゃないですか」

「ここで? 血抜きって、え、殺すってこと?」

「当たり前じゃないですか。あ、そっか。こういうの慣れてなかったりしますよね」

「慣れてないっつうか初めてだし」

「都会でやったら犯罪になっちゃうんでしたっけ?」

「いや、ならんとは思うけど」

「でも猫殺したらダメですよね」

「あ、ホントだ。じゃあダメかも」

「食べ物はでも命を戴いているわけで」

「そりゃそうだけど」

「オセチドリってけっこう危ないんですよ。生きたままじゃ運べないので」

 問答をしている暇はない。

 寒いし、お腹もすいた。サンドウィッチの半分をユウキさんに食べられてしまったので、お腹が満ちていないのだ。

「ユウキさん、そこ動かないどいてくださいね。箱にいるあいだはおとなしいんですけど、オセチドリ、箱からだすと暴れるので」

 箱のなかには、羽毛がミチミチと詰まって見える。四角形の箱にぎゅうぎゅう詰めだ。一匹の鳥がそこに納まっているのだ。

 一見するとそういう工芸品に見えなくもない。羽毛を詰めた箱だ。

 だがその羽毛は上下に動いている。呼吸をしているのだ。生きている。

 僕は刃物を箱の中心に突き立てる。

 体重をかけ、一突きにした。

 手慣れたものだ。刃は箱の中身を貫いた。

 手応えはなく、しばらくすると箱の中身が動かなくなる。

 刃物をそのままに、木にくくりつけられた箱からずるりとオセチドリを取りだす。

 血抜きにはコツがいる。

 ほかの獣にするようにするのではダメなのだ。この場で中身を零すわけにはいかない。

 オセチドリは死ぬと体液が一か所に集まる習性がある。

 血袋と呼ばれるそこに、専用の針で穴を開ける。

 するとどうだ。

 トクトクと水が溢れる。透明なのが特徴だ。

 ひょうたんを構え、それを受ける。

 この水も、貴重な食材になる。発酵させれば上質な酒にもなるので、業者に言えば高値で引き取ってくれる。

 羽毛も美しい。

 光の当たり加減によって紺色が銀色に輝き、死んでもなお鮮やかさは失われない。

 捨てるところのない鳥としてこの地ではむかしから重宝されてきた。

 幼いころから僕はこの収穫の儀をやってきたのだ。妹が中学生にあがってから手伝わせたが、もう二度とやらない、と泣きじゃくられ、以降はこの仕事は僕の役割となっている。

 持参した箱にオセチドリを詰め、蓋を閉める。

 もろもろを仕舞い直したリュックサックを背負い、

「では戻りましょうか」

 ユウキさんを見遣ると彼は少し離れた場所に立っていた。おろおろと僕から目を離して、ああとか、うんとか、覇気のない声で応じる。

 それから家までは無言で進んだ。

 怒らせてしまったのだろうか。

 慣れない冬山の作業だ。不機嫌になるきっかけはいくらでもあるな、と思い、そっとしておくことにした。

 家に戻り、リュックサックを廊下に置く。暖房のない場所はどこも冷蔵庫の役割を果たす。

 ユウキさんがかってに台所を漁りはじめたので、僕は紅茶とお菓子をだしてあげた。

 ユウキさんは自前の端末でゲームをはじめたので、僕はしばらくぶりの静寂を満喫すべく読書に没頭する。

 間もなく家族が返ってくる。

「ただいま」

「おかえり」

 はいお土産、と妹がテーブルに袋を置いた。中身はかつ丼だ。

 ユウキさんに片方を渡し、僕はさっそく遅まきながらの昼食にありつく。

「あんたオセチドリはどうしたの」

「廊下に置いといたよ。リュックサックの中」

「ああ、これね」母が取って戻ってくる。「じゃあ、あしたのお節の用意しちゃおっかな」母は妹を呼び、手伝って、と命じた。妹はそれを拒み、お兄に言って、と僕を名指しする。

「じゃああんた手伝って」

「いやだよ」

「ユウキさん見てくださいうちの子。こんなになってもまだ反抗期で」

「じゃあぼくが手伝いますんで」ユウキさんが台所に立つと、妹まで、じゃあわたしも、と寄っていく。

 父は近の仕事仲間たちと温泉に出かけたらしくておらず、僕はここが実家だというのに謎に孤立を深めるのだ。

 台所からはわいわい、と声があがるが、そのうち、「わ、わ、わ」とユウキさんの悲鳴じみた声が響いた。

 聞き耳を立てているうちに、うげぇとか、うっそぉんとか、そういう呻き声が聞こえてきたので、僕はしぶしぶ台所に向かった。

「先輩、素がでてますよ」

「おまえマジこれ見ろって、なんなんこれ。マジックとかそういうの?」

 妹が母のうしろから、恐々とまな板の上を覗いている。いままさに母の手により、オセチドリが解体されているところだった。

 見慣れている風景のはずだ。ならば妹はそれ自体に腰が引けているわけではなく、ユウキさんの豹変具合に驚いていると見做したほうがしぜんだ。

 母も作業の手を止め、おかしそうに肩を弾ませながらも、どうしちゃったのこのコ、と戸惑いがちな眼差しを、ユウキさんと僕へと交互にそそぐ。説明してちょうだい、と頼まれているようだったので、

「都会じゃオセリドチを食べないんだ」僕は言った。先輩の肩越しに作業場を覗く。「存在自体知られていないし、こうして解体作業を見るのもはじめてらしい」

「あらそうなの」

 合点がいったのか母は包丁を構える。まな板のそばにはお皿がいくつも配置されており、これから取りだされるオセチドリの中身が仕分けされていくのだ。

 じゃあちゃんと見ててね、と言って母は、半分まで切り開いたオセチドリの腹を裂いていく。

 羽は毟らなくてよい。

 血抜きは済んでいるので、血が溢れることもなく、母は切り開いたオセチドリの腹に手を突っ込み、

「これは黒豆。これはダシマキタマゴ」と部位ごとにお皿に移していく。

 すでに頭部は切断され、その中身の仕分けは完了していたようだ。ユウキさんはそれを見て驚愕の声を上げた様子だが、まだうまく事態を呑み込めていないらしい。

 なんでなんで、と僕のうしろに下がって、我が母の作業をおっかなびっくりと眺めている。

「オセチドリがオセチドリと呼ばれている所以ですよ」

 母がつぎつぎと取りだす、お節の具にしか見えないオセチドリの中身を見詰めながら僕は、口内に湧きたつ唾液を呑みこむ。

「味も本物のお節そっくりというか、オセチドリのそれを食べたらもうほかのお節料理はうけつけなくなっちゃうくらいで」

「手品とかじゃなくて?」

「まさか。本当にこういう鳥がいるんです。ふしぎですよね。都会で知らない人がいることのほうがびっくりでしたけど」

「知らん知らん。うわ、あれとかお雑煮ちゃうの」

「お雑煮ですね。部位で言えば十二指腸です。水分が抜けるとああいうふうに千切れてお餅みたいになります。野菜みたいなのはあれはたぶん、気嚢とか膀胱とかだと思います」

「卵管じゃないかな」母が言うので、だそうです、と僕はユウキさんに流す。

「これ動画撮ってみんなに言ってみてもいい?」

 耳元でユウキさんがこしょこしょ声をだす。

「いいですけど信じてもらえないと思いますよ」

「そうなん? いやいいよ。衝撃映像だよこれ」

「こんなので喜んでもらえるんですか」妹がうれしそうに言った。

「すごいよ。いや、すごいよ。来てよかったですよここ」

「どうぞ来年もいらしてください」母はご機嫌だ。

「来ます、来ます。もうおれここん家の子になる」

 母と妹が、ぜひぜひ、と僕をそっちのけで勧誘しだすので僕はたまらず、

「先輩」と釘を刺す。「もう一人の後輩はいいんですか。ひょっとしたら来年、いっしょに過ごしましょうよって誘われるかもしれないですよ」

「そんときゃ一緒に連れてくるよ」

「なんでですか。僕その人のこと知りませんよ」

「じゃあおまえは来なくていいよ」

「ここ僕ん家なんですけど」

「えー」妹がすかさず、「べつにお兄の家じゃないよここ」と指摘し、母がしみじみと頷いた。

 売り言葉に買い言葉、

「もうオセチドリ獲ってきてあげないんだからな」と返すも、しょうもない意地張らないの、と母に諫められ、僕の憤懣は溜まるいっぽうだ。

「そんな顔するなよ。せっかくの大晦日なのに」

 よしよし、とユウキさんが僕の頭を撫でて慰めてくれるけれど、いったい誰のせいで、と僕はむつけたくなった。

「世知辛いったらないですよまったく」僕がぼやくとユウキさんは、

「オセチドリだけに」と脈絡のまったくないセリフを唱え、母と妹がまた笑う。落とした財布をキャッチしてそのまま持ち去られた気分だ。

 何がオセチドリだけに、だ。

 あんたは僕の家族盗りだけどな、と思ったけれども、さすがにそれを言えるだけの度胸も立場も僕にはないのだった。

 ユウキさんは僕の実家で年を越し、お年玉までもらってほくほく顔で、一足先に都会へと帰った。オセチドリの美味さに感動していたので、おそらく来年もくるだろう。どう追い返したらよいか、とお断りの言葉をいまから考えていると、

「あんたもいっしょに帰ったらよかったじゃない」「そうだそうだ」

 隙さえあればこうなのだ。実家に僕の味方はいないのである。

 僕は誓う。

 意地でも休み明けギリギリまで実家に居座ってやる。

 ユウキさんは姿を消してなお、僕の居場所を奪ったままである。人たらしの詐欺師め、と僕がぼやくと、やはり母と妹、そして父までもが耳聡くそれを拾い、僕をこてんぱんに腐すのだった。






【触れた祟りに慈悲はなし】


 悪霊を祓ってくれと依頼が入った。木村にその旨を伝えると、札を一つ寄越してこう言った。

「俺ぁいまからアユちゅわんのデビュー三年目記念ウェブライブでイエッサーすっから、おまえそれ代わり行ってきて」

「なんて?」

「悪霊だろう? んなもんはあれだ、スズメバチの巣に殺虫剤蒔くようなもんだからさ、ちょちょいのちょいだからさ、楽勝楽勝」

「けっこうな一大事ですが?」

「札貼って、それっぽい呪文唱えて、それっぽくしときゃ信じっから。悪霊さえいなくなりゃあとはガワだから。飾りだから。おまえでもヨシ!」

「詐欺では?」

「いいんだよ。じゃ、あとは頼んま」

 木村はぴしゃりと扉を閉め、さらに擦りガラスの向こう側にわざわざ箪笥を移動して封をした。厳重である。仕事のほうもそれくらい手をかけてほしいものだ。

「しゃあない。やるか」

 湯につけたワカメのような札を手に、私は依頼先の一軒家へと向かった。

 その家は、裕福層ご用達のニュータウンの麓に位置する貧困層に位置づけられる地区に建つ築五十年は優に超すだろう、改築工事の跡の窺えない古ぼけた外見であった。瀟洒ではない。

 インターホンを押したが返事がない。

「すみませーん。林さーん。依頼を受けてお伺いしましたー。木村商店の者でーす」

 大声をだしつづけること三分半、隣の家から人がでてきて叱られた。

「あんたうっさいよ。そこ留守だよ。もういねぇよ誰も。住んじゃいねぇって」

「そうなんですか? いや、でも」

「あんたで三人目だよ。イタズラだよ。ほらあんだろ出前を別人が注文して嫌がらせするやつ。借金で首回ってなかったみてぇだし、未だによそ行ったって知らない業者のイタズラだろ。あんたもたいへんだな」

 言い慣れた調子で隣家のおやじさんはそそくさと家のなかへと戻っていく。よほど頻繁に似た状況に直面するのだろう。怒り半分、日常の風景半分といった調子だ。

 しばらく近所を歩いて回った。

 どの家の窓も真昼間だというのにカーテンが引かれ、中に人がいるのかどうかも分からない。たまに中が垣間見えることもあるが、がらんとしていてもぬけの殻のように見えなくもない。

 一晩で家主がいなくなって不自然ではない環境が横たわって映った。

 そこまで考え、人のことは言えないな、と一笑する。包装紙を破って飴玉を口のなかに放る。

 木村商店の名前で営んでいるが、いつでも場所を移動できる。一時間もあれば荷造りが住み、二時間もあればつぎの場所で看板をだせる。

 その日暮らしでなければやっていけない商売もある。私生活とて例外ではない。

 珍しい生態ではないのだろう。しかしそうした生態があることを知る者は限られる。ナメクジがどういう生態をなし、日々を過ごしているのかを知る者はよほどの好事家か、ナメクジ自身しかいないだろう。

 水道の元栓の仕舞われた一画にある蓋を眺め、開けたらナメクジいるかな、と連想した途端、思考が霧散するのを感じた。

 元居た地点に戻ってきている。

 依頼主の家だ。

 しかし家主はいないらしい。

 ここで却っても木村にどやされる。

 ダメもとで中に入ってみよう。札だけ這って戻ってくればよい。任された仕事はたとえそれがイタズラであろうとも、熟しておいたほうがよい。仕事の責任は木村にある。

 こちらは任されたのだ。

 こなしておくのが筋である。

 庭のほうに回ると石垣の塀が屋根に接していた。昇れば二階にあがれるだろう。ちょうど民家の壁同士が死角をつくっており、手早く昇れば目撃される懸念も低くなる。

 日頃、木村に扱き使われているだけあり、肉体労働には慣れっこだ。金がないときはとび職の仕事を請け負うこともある。

 手慣れた調子で塀をのぼり、屋根伝いにベランダに降りた。

 静かなものである。

 土足のままでよいだろうか、と思いながら、窓を物色する。

 鍵はかかっている。

 ほかの部屋はどうだろう。ベランダ伝いに四つの窓があった。いずれも各々に部屋へと繋がっている。

 案外立派な建物だ。

 外見が古いだけで、元はそれなりに羽振りのよい家主が建てたのかもしれない。

 どの部屋の窓にも鍵がかかっていたが、窓ガラスにヒビが入っている窓を見つけた。どの道、つぎに地震やら嵐やらが襲ったら割れるだろうと思われた。

 家主がいないのならいいだろう。 

 もはや社会常識よりも、帰ったあとでどやされる木村との口論を回避せんと思考が巡った。

 足先で小突くと窓ガラスは割れた。

 間隙から手を差しこみ、鍵を開けた。

 中へと足を踏み入れる。

 埃臭い。

 空気はふしぎと澄んでいた。

 隙間風が吹きこんでいるのだろうとこのときは我田引水に考えた。

 部屋の中には箪笥や物干しざおなど、家財道具から生活必需品までそっくりそのまま残っていた。人物だけがいなくなったようだ。

 しかしそんなことがあるだろうかと引っかかりを覚える。

 箪笥の中で首でもくくっていなければよいが。

 連想しただけでふしぎと空気が淀んで感じられる。しぜんと服の襟で口元を覆っていることに気づき、しばし思案し、居直った。

 いまさら死体の一つや二つで肝を冷やすほど平坦な人生を歩んでいない。

 二階の部屋をまずはざっと覗いた。人影や異臭はない。

 一階に下りる。階段には埃が膜を張っており、歩くたびに足跡がついた。

 一階の床に足を着けた瞬間、悪寒が背筋を走った。ひんやりと冷たい空気が衣服の隙間に滑り込んできたのだ。

 そう言えば庭のほうは一面、隣家の壁に囲われていたっけ、と日当たりのわるさに思い至る。

 温度が低いのだ。二階よりもぐっと体感気温が下がる。

 居間を覗き、台所を覗き、それから順繰りと部屋を見て回った。

 トイレの便器には水が張っていなかった。当然ながら水道も止まっている。薄暗いと感じないのは、単に目が慣れているからだろう。この暗さで日々を暮らせと言われたら気が滅入る。

 日中でも明かりがいるだろうと思われた。

「なんもないな」

 目ぼしい柱に札を貼って帰ろうと思った。玄関から出ていけばいい。

 どうせ盗みに入っても金目のものはない。誰が困るでもないだろう。 

 そうと判断を逞しくし、踵を返したところで、目のさきに扉が一つ飛びこんできた。

 あれ、とまずは思った。

 あんなところに扉なんかあったっけかな。見落としていたようだ。しかし、見落とすような場所でもなく見えた。

 薄暗いせいだろうか。

 いやそれにしても。

 戸惑いを半分に、その扉――近づいたことでそれが襖であると知れたが、躊躇せずに、さっさと帰りたかったこともあり、取っ手部位に指をかけ、一息に開け放った。

 茶の間のようだ、と思い、すみません、と口を衝く。

 老婆が一人座っていた。

 存在感があるので、驚きはしたが、恐怖とは無縁だった。

 家主だ、と直感した。

 ゆえに謝罪した。

「林さんですよね。私、木村商店のイツヅと申します。勝手に上がりこんでしまってすみません。お声がけしたのですが、お返事がなかったもので、心配で」

「ええですよ」

 甲高い声音は子どものようだった。老婆は置物のように微動だにしない。否、首が座らないのか小刻みに震えている。入れ歯をしていないのか、口は皺くちゃに窄まっていた。

「依頼なんですが、悪霊でお困りだとお聞きしたんですが」

「はい?」

「あの、ですから」

 耳がだいぶ遠いようだ。

 こんな状態で依頼などできるものだろうか。ほかの家族が代理でしたのかもしれないし、やはり嫌がらせの線もあり得ると感じた。

 長居は無用だ。

 老婆の耳元で大声で説明を繰り返しながら、さっさと札だけ貼ってお暇しようと方針をまとめる。

「お祓いだけしていきますから、あとはお任せくださいね。お騒がせしました」

「すみませんねぇ。ご苦労さまです。ありがとうございます。ありがとうございます」

 南無南無と拝むように手をこすり合せるので、ばちがわるい。お年寄りを詐欺のカモにしているような居心地のわるさを感じる。

 和室を出て、では失礼しました、と襖を閉めた。

 ふと柱に目がいった。どうせならばこの部屋の柱に貼っておくか。それがいい。

 襖を縁どる柱の一つに札を押しつけ、湿布を張るようにシールを剥がす。この辺、チャチな造りなので、いかにもご利益がなさそうだが、木村が寄越すものだから相応に効果はあるのだろう。

 札を念入りに柱に押しつけると、見る間に札の表面が真っ黒く変色した。

「うわ」

 聞いていない変化だ。よいのだろうか。さっそく効能が顕れたのかもしれない。だとするとちかくに悪霊がいたのかもしれない。

 札を手放したままで家の中を彷徨うのが恐ろしかったが、長居をするほうが危険である。

 飛び石を跳ねて渡るように、お邪魔しましたと背中で叫びながら玄関扉を開錠し、家の外に飛びだした。

 そのまま振り返らず一目散に帰路に就く。

 電車に乗り込み、人混みに紛れるとようやく人心地ついた。

 元よりの駅で降り、軽く昼食をとってから木村商店のアジトへと帰還する。

「ただいま。行ってきましたよ。無事完了です。札を貼ってきました」

「お疲れい」

 木村は未だにアイドルのライブの余韻に浸っているのか、戦闘服に身を包んだまま、言い換えるならば白衣の白い部位が埋もれるくらいにびっしりと埋め尽くされた缶バッチの鎧を身につけつつ、ソファに寝そべっていた。

「腹減った。なんか作って」

「あのさぁ」

「今回、けっこうな報酬もらったからさ。お利口さんには分け前弾むよぉ」

「ほとんど仕事したのこっちじゃないっすか」

「んなこと言うなし。あんな簡単な仕事滅多にないぜ」

「それはそうかもですけど」

 ラーメンを作るべく、ねぎを刻む。

 しばらく調理していると、ハムを切ったあたりで、あっと思いだした。

「そう言えば、家主に会いました。おばぁさんです。依頼については聞いていなかったみたいで焦りました。お札だって貼ったら急に黒くなっちゃうし」

 バナナかと思いましたよ、と精一杯のジョークを口にしたが、ぴたりと部屋が静寂に包まれたので、包丁の手を止める。

「どうしました」

「家主に会ったのか? 老婆?」

「はい」

「札が変色したのか? 黒く?」

「ええ」

 しばし沈黙すると木村は足を振って上半身を起こした。グラサンをしているのはいつものことだが、それをずらすと、青白い目を露わにした。

 じっと見つめられ、歯がゆい。「どうしました」

「いや、無事でなによりだと思ってな」

「なんですかそれ。怖がらせようとしてます?」

「いや」

 鍋のなかで湯が沸騰している。

「ひょっとしてけっこう危なかったりしました僕?」

「きみ素がでるときは『僕』だよね。ふだんは私なのに」

「お茶濁すのやめてくださいよ。ひょっとして何か手順とか間違ってたりとか」

「家主なんかいない」

「はい?」

「あの家に、家主なんていないんだ。誰も住んじゃいない。無人だよ。いるわけない」

「でも、ちゃんと和室に」

「あの家は、ここ十数年誰も住んじゃいない。何があったのかは言わないが、ま、調べればすぐに出るだろ。依頼人はあそこを更地にしたいっていう土地の権利者だ。譲渡されたが、どうにも馴染みの神主からの勧めで俺んところに話が回ってきた」

「悪霊というのはその事件に関係が」

「さあな。どっちが先かは分からん。悪霊のせいで事件が起こったのか、事件があったから悪霊が湧いたのか。そこは因果関係を洗わなきゃ分からんし、それをするだけの駄賃はもらってないから俺は知らん」

「でも、じゃああの老婆は」

「札が変色したっつったな。何色だった」

「ですから黒です」

「本当にか? 青とかではなくか」

「あー、ちょっと待ってくださいね。暗かったのでもしかしたら」額に手をやり記憶を漁る。「いえ、黒でした。青は好きな色なので、たとえそれが紺色でも見間違ったりはしないと思います」

「ちっ。ハズれか」

「青のほうがよかったんですか」

「ああ。しくったな。二度手間だ」

 ソファから腰を上げると、木村は缶バッチの鎧を脱ぎ捨て、いそいそと仕事着に換装しだす。

「お出かけですか」

「おまえの尻拭いだよ。ったく手間とらせやがって」

「それパワハラですよ」

「パワフルならいいじゃねぇかよ。おまえ、運だけはいいよな」

「何がですかいい加減、教えてくださいよ」

 話しながらも調理はつづけていた。

 ラーメンをどんぶりに移し、食卓に運ぶ。食卓とは名ばかりの、読み終わった書籍を積んだだけの直方体だ。

 そのうえに汚れ物のTシャツを敷いてある。文句は言うまい。じつに豪勢なテーブルクロスである。

 だがせっかく作ったラーメンに目もくれず、木村はざんばら髪を後ろ手にひっ詰めに結い、靴を足だけで履いた。

「食べないんですか」

「そんな暇があるか」

「じゃあ僕がさきにいただきますね」じぶんの分を後回しにしていた。まだ作っていないので、これを食べれば済む道理だ。

「あほ言ってんな。おまえも行くんだよ」

「ですからどこに」

「お化け屋敷に決まってんだろ。おまえ、バっ」

「またパワハラです」

「バっ、しか言ってねぇだろうがよ」

「バカとしか聞こえませんでした」

「ああもう」結ったばかりの髪を掻き乱し、木村は地団太を踏んだ。「札が黒く変色したんだろ。いもしねぇ老婆のいる家んなかで」

「ずばりその老婆のいる部屋の柱に貼りましたよ。外側ですけど」

 ごくり、と木村が喉を鳴らしたので、さすがにこれが冗談の類ではないのだ、と認識し直した。

「そんなにマズいんですか」

「おまえに渡した札はな、土地神さまを癒し、侵入を許してもらうようにするための、いわば許可証だ」

「お祓いの札ではなかったんですか」

「そんな危ねぇ仕事おめぇ一人に任せるわきゃねぇだろうがよ」

「でもじゃあなんでそんなに」

 気色ばんでいるんですか、と身の縮まる思いだ。正座に直る。

「悪霊とて、神のごとくに扱い、招き、納めれば、無駄に祟るだの祓うだのし合わずに済むんだ。それをおまえ――いやおまえがわるいんじゃねぇ。俺の見立て違いだ。すまん」

 驚いた。木村が素直にじぶんの非を認めるだなんて。

 よほどのことなのだ、と血の気が引いた。

「この様子じゃあ、悪霊じゃぁねぇなあ。まいったな。クソ。てことは、神主どももとっくにやられてんな」

「やられてる?」

「祟られてるってこった。干渉されてやがんのさ。神主クラスの認識を歪めるなんざ、悪霊なんてもんじゃねぇ。伝奇級の怨霊か――いや、そもそも実体がすでにあるのか……」

「座敷にいたおばぁさん、本当に生きているみたいでした。ですからまさかあの人が悪霊だとは全然思えなくて」

 ふたたび木村は唾液を呑んだ。額に汗の玉を浮かべている。

「札が黒く変色したってことはだ」

「それ、本当にどういう意味なんですか」

 もったいぶらずに教えてほしい、とせがみたい気持ちをぐっと堪え、木村の調子に任せた。

「拒絶だよ。最上級のお招きに対する、絶対に覆ることのない、拒絶だ」

「それだけですか」正直、それの何が問題なのかがぴんとこなかった。もっと一大事かと身構えていたため、拍子抜けしたと言ってもいい。

 だが木村はサングラスをつけたり外したりを繰り返す。尋常ではない狼狽具合だ。

「この国には数多の諺があるよな」

「ええ」

「そのなかでも随一に有名な諺が何か、おまえ知ってるか」

「猿も木から落ちるとかですか」

「触らぬ神に祟りなしだ」

「はあ」

「札の変色は――それも黒いやつは、あかん」

「拒絶なんですよね」

「祟る」

「はい?」

「おまえらを末代まで祟るってぇ、意思表示だ。いいや、すでにそれをした、という既成事実だ」

「祟る、ですか? 僕をですか?」

「おまえだけならいいんだがな」木村はそこで咽たように笑った。「しくったなぁ」歯噛みをし、木村はみたび、しくった、とつぶやいたきり、視線もうつろに脱力した。靴箱に臀部を乗っける格好で寄りかかったまま、沈思黙考するかのように動きを止めた。

 しばらく見守った。

 間もなく、彼の口元からよだれが垂れるのを目の当たりにして、ああ、と悟った。

 そちらが先なのか。

 動悸はじぶんでも恐ろしいと思うほどゆったりと脈打ち、しきりに響きはじめる家鳴りを、なぜだろう、と長閑な心地で疑問する。

 蛾が飛んでいるのか、部屋の明かりのなかにパタパタと明滅する影が混じる。しかしいまは秋も暮れ、蛾の季節ではないはずだ。遅れて思い至るが、もはや思考を一つに絞る真似はできないのだった。

 部屋にはラーメンの味噌の匂いが漂う。なぜだか咳き込むような黴っぽい畳の香りが濃くなっていく。




  

【亡霊は佇む】


 いじめられるのが好きなんです、とその子は背筋を伸ばした。ぴっちりと閉じられた太ももが、スカートに走る皺の深さに反映されていた。モーゼみたいだ、とわけもなくヨシコは思った。

 ヨシコは委員長だった。クラスの誰もやりたがらない仕事を半ば押しつけられただけだったが、それを断るほうが痛い目を見ると直感していたので、使命されるがままに引き受けた。

 クラスの問題のたいがいを、ヨシコは請け負った。まるでトランポリンにヨシコだけが乗っており、沈んだ足元にボールやオモチャが転がり込んでくるような逃れようのない摂理を感じた。

 現に逃れられはしなかった。

 問題を解決できるかどうかではないのだ。

 ヨシコが対処をする。

 その対処をしているあいだは、問題はひとまず問題として見做されないようにモザイク加工されるようだった。いったい誰が加工しているのかなどヨシコには解らぬ。

 ヨシコに言えるのはただ、じぶんが耐えれば済むことだから、というそれしきの道理だけだった。

 その娘は、亡霊と呼ばれていた。ヨシコの知るかぎり、最初は幽霊と呼ばれていたが、そのうち悪霊やら呪いやらと呼ばれはじめ、教師が注意をしたことで、亡霊に落ち着いた。

 これといって特徴のない、どの地域の学校に転校しても関心も興味も示されないような娘だった。

 ヨシコとしてはじぶんと似たような匂いを感じ取っていたが、仲間意識をそそぐほどにはやはりというべきか関心が湧かなかった。

 いじめられているわけではないはずだ。いじめなわけがない。

 ヨシコの目からしてもそのようには見受けられなかった。いじめられているというのならじぶんのほうだ。じぶんのこの境遇のほうがよほどいじめという名に似つかわしい。

 助ける、というのならば、まずは率先してじぶんが助けられるべきだ。ヨシコは言葉にこそださなかったが、内心ずいぶん傷ついていた。

 だからかもしれない。

 似たような扱いを受けながらも、なんの問題も押しつけられずにのうのうと亡霊でいつづけるその娘のことが日に日にヨシコの内面に陰を落とした。

 ヒグラシの鳴き声の聞こえなくなった夏の暮れ。

 ヨシコは教師から相談を受けた。何でも、例の亡霊と呼ばれる娘がいじめられているようだという。委員長であるあなたがまずは仲裁役を担ってくれないかしら。そういう話であった。

 ヨシコは教師に失望した。失望しながらも沸々と湧く怒りの出処を探っていた。教師への怒りではない。端から期待はしていなかった。内心で呆れ果てていた大人にさらに呆れただけだ。

 ではいったいこの怒りはなんであろう。

 考えれば考えるほど、脳裏には例のあの娘の存在感のない佇まいが浮かぶ。細部は不明瞭のまま、輪郭だけがハッキリとしかし縁取られて陰となって視えている。

 ヨシコはその日のうちに、亡霊へと声をかけた。

 放課後ちょっといいかしら。そういういかにも委員長らしい口吻で、さもいたわるように、手を差し伸べるように、そうした意図が疑いようもなく伝わるように微笑も添えた。

 亡霊はヨシコを一瞥すると、こくり、と首をわずかに引いた。ただそれだけだった。

 拒絶はされていないようだ。ヨシコはひとまずそれでよしとした。

 ほかのクラスメイトへの聞き込みも教師からは依頼されていたが、いまさらそんな真似をせずとも実情は先刻承知であった。

 ヨシコはクラスの機微を残らずすっかり拾い集めている。黙っていても向こうからやってくる。ヨシコはクラスのゴミ溜めであった。

 亡霊は、ヨシコの基準ではいじめられてはいない。しかし世間一般の常識とやらに照らし合わせれば、いじめと呼んで遜色ない扱いを受けている。そのようにヨシコは分析しているが、しかしそれを以って亡霊がいじめられている、などとは認めない。

 彼女がいじめられているのならば、私のこれはいったい何だ。

 どうしてもそう思ってしまうのだ。

 怒りが湧く。

 だから亡霊がいじめられているなどとは認めない。

 じぶんをこれ以上惨めに思いたくはないからだ。怒りなど抱きたくもない。

 だがそうしたヨシコの内なる神聖な葛藤すら、教師は向こう見ずにないものとして扱い、土足で踏み荒らし、上からさらなる汚泥をそそぐのだ。さもそれが清らかな聖水であるかのように偽装すら施して。

 否、彼ら彼女らにとってはそうなのだろう。

 ヨシコにとって、内なる葛藤が神聖なものであるのと同じように。

 そこに偽りはないのだ。

 ほかの者たちから見て、それがどう見做されるのか、との違いがあるだけで。

 放課後、ヨシコは委員長の仕事を終えてから、教室に戻った。ゴミ箱の中身をゴミ捨て場に棄てに行くのも、日直の書いた日誌をチェックして教師に届けるのも、各委員会からの報告を受けて、クラスの係の者に伝令すべくメモをとるのも、総じてヨシコの役割だった。

 いつも帰る段には、教室で一人残される。

 しかしこの日は待ち人がいた。

 亡霊だ。

 約束していたからだ。ヨシコは内心、彼女は待っていないのではないか、と期待していた。裏切ってほしかったのだ。味方であってほしくなかった。否、できるなら根っこから憎悪させてほしかった。そんな望みを抱きながら、しかし同時に同族への憐憫の情を抱いてもいる。

 要は私、とヨシコはじぶんの本懐を見抜く。

 どうあっても上から目線で、情を彼女にかけてあげたいんだわ。

 ああ、と耽美な笑みが零れそうになり、ヨシコはきゅっと口元を締める。

「お待たせ。ごめんね、すこし忙しくって」

「ううん」亡霊は首だけひねってヨシコを見た。「いつも偉いよね。偉いなって思ってた」

「そうなの?」

「うん」

「きょうはね、ちょっと先生から頼まれて、あ、先生から言われたってのもあるんだけど、それだけじゃなくて、いちど――」亡霊さんと、と言いかかけて彼女の名字に言い換えた。「――さんと、しゃべってみたいなってのもあって」

「いいよ遠慮しなくて。先生から頼まれたんだよね。わたしの様子を窺ってきてって」

「窺ってっていうか」

 思っていたのと違うな。

 ヨシコの直感がキリリと呻いた。

 亡霊の前の席の椅子を引き、またがる。馬に乗るような格好でヨシコは亡霊と対峙した。

 気を緩めてはならない。本能がそう命じた。

 逃げろ、といなないた気もしたが、そちらは無視した。私は馬ではない。乗せる側ではない。そのはずだ。

 この娘のまえでは。

「あのね。先生が、いじめられているじゃないかって心配されていて」

「いじめられるのが好きなんです」

「そっかぁ。好きならしょうがないね」

 口を衝いたのは、相手の言動を否定しない話ぶりが癖になっていたからだ。言葉にしきってからじぶんの言動のちぐはぐさに気づき、顔が熱を持った。

「委員長さんは変わっているね。変わっていますね」亡霊が口だけを動かす。

「そ、そうかな。あ、さっきの。いじめられるのが好きってどういうこと? 嫌なことはされてないの? どういうことされてるのかな」

 訊くまでもないことだ。世のニュースでやっている、自殺をした生徒たちが受けているようなことをこの亡霊もクラスメイトやそのほかのクラスの子たちからされている。きっと一部の上級生や、ひょっとしたら教師からも受けているかもしれない。

「いじめって、人間が出てて好き」

 亡霊はなぜか天井を見あげた。コカコーラの滝みたいな長髪のなかで、顔面の表皮だけが傾く。

「人間ってね、委員長さん。人間って、たまにしか姿を現さないの」

「人間? あ、ひょっとして宇宙人でしたとかそういう感じの話かな」

「そうでもいいですよ。解釈は自由にどうぞ。訊かれたから答えたまでで。べつにわたしはわたしの話を聞いて欲しいとは思っていません」

「あ、そっか。そうだよね。ごめんね呼びだしておいてこんな言い方しちゃって」

「ううん。委員長さんは好きだよ。ずっと人間してる。見てて好き」

 このとき勃然と湧いた怒りのダマが殺意であることをヨシコは自覚できた。きっとここが教室でなければ、亡霊の髪の毛を鷲掴みにして、バトミントンでもするみたいに地面に振り下ろしていたはずだ。

 自制心を保てたのはひとえに、自制の日々をヨシコ自身が長らく過ごしてきた点に集約できる。

「そっかぁ。ありがとう。私も――さんのこと、好きだよ。あは、なんか照れちゃうね」

「ふふっ。すごいね。すごい、人間してる。そういうの、どこで習うの? わたしね。ずっとふしぎだったんだ。みんなはいったいいつ、人間を習うのかなって。この学校でいま一番見てて退屈しないの、委員長さんかも」

 ヨシコは返事をしなかった。

 否、できなかった。

「みんなはわたしをいじめてるって言う。そういうふうにわたしを形容する。そのように見做しますよね。でもわたしの解釈ではそれは真実ではなく、あくまでそういうふうに視えるというだけのことでしかない。水がときに氷であったり、水蒸気であったり、泥であったり、尿であったりすることと理屈のうえでは同じかも」

「ふうん。むつかしいことを考えてるんだね。すごいね」

 命一杯の皮肉だった。

 亡霊はなぜかそこで肩を弾ませて笑った。しかし声をださずに、まるで操り人形のごとく身体だけで笑いを表現するので、ヨシコはこのとき初めて亡霊をまえに、ぞっとした。

 何かが違う、と思い直した。それは亡霊に対する認識の錯誤ではなく、じぶん自身への認識の甘さ、ともすれば危機感への見積もりの甘さかもしれなかった。

 またがっていた椅子から尻を浮かし、両脚を揃えて真横に投げだす。いつでも立ち去れるように体勢を整えた。

「いじめがどうしてなくならないか、委員長さんは知ってますか」

「さあ。どうしてだろう。一般論としては、いじめてる人はじぶんがしているそれがいじめだと自覚できないからっていうのはよく聞くよね」

「いじめは、暴力ではないからです。いじめは、遊びなんですよ」

「するほうにしてみれば、って話でしょそれは」

「いじめに、されるほうなんてものがあるのですか。いじめは、一方通行の遊びです。いじめられる、という表現がそもそも間違っているんです。わたしはそう思います。暴力に、振るわれる側、なんて言い方が当てはまりますか。暴力を振るう側がいるなら、その反対は、被害者ですよね。被害を受けた側、であって、けして暴力を受け入れた側ではありませんよね。いじめも同じです。いじめられる、なんて言い方がそもそも土台からしておかしいのです。いじめるほうがいるのならば、その反対側は、被害を受けた側です」

「まあ、そう言われてみればそうかなって気もするね」

「双方が被害を受けることももちろんあると思います」

「双方が遊んでいながらにして?」

「かもしれません。最初は遊びの一環だったのが徐々に逸脱する場合もあるでしょう。そのときは、もはや遊びではなく、闘争や競争になってしまっているのでしょうね」

 亡霊の口調が変わっていることには気づいていたが、ヨシコにはむしろ、目のまえのこの冷ややかに慇懃な物言いの彼女のほうが、亡霊の名に似つかわしく思えた。

「えっと、話の腰を折ってごめんね。それで――さんは、いじめられているのかな。いるんだよね。つまり――さんの言い方で言うと、被害を受けているってことだよね」

「いいえ。被害を受けてはいません。なので、さきほどわたしは言いました。いじめられるのが好きなんです」

「それはちょっとおかしいよ。だってさっき――さん、じぶんでいじめにはいじめる側しかないって言ったよね。遊ぶ側と、被害を受ける側しかないって言ってたよ」

「一般的には、との但し書きがついたはずですが。一般論をさきに持ちだしたのは委員長さんのほうですよね、たしか」

「憶えてないよそんな前のこと」

「わたしはいじめられるのが好きです。相手のお遊びに付き合うのが嫌いではありません。それによって一般的に被害と捉えられるような境遇に身をやつしても、わたしはそれを被害だとは思いません」

「たとえ殴られたり、傷つけられたとしても?」

「好きなんだと思います。楽しんでいる人を見るのが」

「そんなのスポーツ観戦でも、遊園地でも、どこでも見れるのに。わざわざじぶんが痛い思いしなくてもいいんじゃない?」

 ヨシコはじぶんが裏腹なことを口にしていると感じていた。けれどどうしても反論せずにはいられなかった。一泡吹かせてやりたい。単純に亡霊の物言いが気に入らなかった。

「わたしもそう思うよ」亡霊はようやく天井と見詰め合うのをやめ、ヨシコを見た。まっすぐと見た。ヨシコは思わず目を逸らした。亡霊はしずかに身を乗りだし、ヨシコの耳元に熱っぽい息ごと言葉を吐いた。「どうして人間は、痛い思いをしてまでああして遊ぶ? わたしはそれを知りたいんだ。なぜあれらはみな、自らをアヤメル?」

 ヨシコは瞬きの仕方を忘れた。息の吸い方を忘れた。言葉の聞き取り方を忘れた。

 アヤメル。

 あやめる。

 危める?

 それとも、殺める?

 反問しようと思考だけが空転するが、ついぞ適切な言葉を探り当てることができなかった。端からそんなものはヨシコのなかにはなかったのかもしれない。

「あれ、委員長まだ帰ってなかったの」

 担任の声に、ぼんやりと意識が収斂し、自我がカタチを伴なったのを感じた。

 我に返るってこれのことか、とやはりぼんやりと思った。

「鍵閉めちゃうよ。早く帰りなぁ」

 すでに教師モードを脱ぎ去っているらしく、いつになく砕けた調子で教師は教卓を漁ると、さっさと教室を出ていった。

 ヨシコは教室を見渡す。

 ほかに人影はいない。

 亡霊はとっくに帰っていたらしい。

 どれほどの時間、じぶんは固まっていたのだろう。ヨシコは壁掛け時計を見遣るが、時刻は、ふだん帰宅する時間とほとんど変わっていなかった。

 鞄を背負い、廊下を歩く。

 窓のそとに校庭が見える。奥のほうには校門があり、そこをいままさに潜るちいさな陰を目撃したが、距離があるためそれが誰なのかまでは識別できなかった。

 亡霊。

 ヨシコは口のなかで声にするともなく転がすが、いったいそれが誰のことなのか、うまく人物の輪郭を思い描けないのだった。




【祓い漁】

(未推敲)


 雨がやんだようだ。トタン屋根の鍵盤の音色が途切れたのでそうと判る。滝のような厚みのある連弾は薄れ、ポテンポテンと雨漏りにも似た明瞭な律動が浮き彫りになる。

 曇天が去ったようだと部屋の中にいても伝わった。月光の明るい夜空が広がっている光景が瞼の裏に浮かぶ。

 風の音色が澄む。

 遠くから響く犬の吠える声が耳に届く。

 ふと聞き慣れない音を耳が捉えた。

 夜の静寂に混じって、パシャパシャと水しぶきのあがる音がする。

 幼児が水溜まりの上で何度も跳ねる光景が脳裏によぎるが、しかし時刻は深夜を回っている。

 いくらなんでも子どもではないだろう。

 だが音は一向に途絶えず、間を空けながらもしばらくつづいた。

 外に誰かがいるのは間違いない。

 気になったが、物騒なので様子を窺っていると、間もなくペチペチと濡れた道路の上で何かが跳ねる音が聞こえだす。

 明らかに生き物の立てる音である。

 いったい何をしているのだ。

 いよいよ気がそぞろだっていけなくない。窓を開けるが、これといって何も見えない。

 どうやら玄関口のほうにいるようだ。

 仕方がない。髪をひっ詰めに結いあげ、袢纏を羽織る。風呂には入ったあとだ。湯冷めしてはいけない。

 念のために傘立てから登山用のステッキを引き抜く。

 それを握ったままサンダルに足を引っかけ、鍵を開けた。

 音を立てぬように扉に隙間を開け、顔だけを突きだし、外の様子を窺う。

 短い段差がある。そのさきに門が構える。

 門の奥は道路だ。向かいの家までは十メートルも離れていない。

 道路には雨によって大小の水溜まりがいくつかできていた。

 その中の比較的大きい水溜まりのそばに、雨合羽を着込んだ小柄な人影が佇立していた。

 声をかけようか迷うが、そこまでする必要はないと判断を逞しくする。

 何をしているのか、と観察していると、小柄な人物は杖のようなものを携え、それを水溜まりの頭上に掲げていた。しばらく動かずにいたかと思うと、ひょいと杖のようなものを振る。

 何かが道路にぶつかる。

 上から落ちてきたのだ。

 ビチビチと威勢よく跳ねまわる。

 魚だろうか。

 光源が家から漏れる明かりしないため、陰になってよく見えない。しかしなにゆえ魚なんてものが道路に。

 疑問している合間にも、小柄な人物は杖を構え、停止し、ひょいと振っては道路にビチビチの音を響かせた。

 釣っているのだ。

 魚に似たナニカを。

 さすがに気になったので、わざと音が響くように扉を開け、まさにいま気づいたのだと言わんばかりに、玄関の外の明かりを灯した。

「こんばんは。あの、なにをなさっているのですか。音がしたのでつい気になったもので」

 明るく声をかけ、敵意がないことを暗に伝える。

 小柄な人物は応じなかった。杖をブルルと細かく震わせたかと思うと、背中に隠した。どうやら糸を回収したようだった。

「あの、その道路に転がっているのは魚ですか」

 いや、これは魚ではない。ヒゲが生えている。

 ひょっとしてこれは。

「ナマズです」小柄な人物が答えた。音程は高く、女性の声にも子どもの声にも聞こえた。「お騒がせしてすみません。もう済みました。お暇します」

「あの、いえ、待ってください」なぜ引き留めるのかはじぶんでもよく分からなかったが、段差を下り、門にしがみつく格好で身を乗りだした。「それは釣り竿ですか。ここで釣りを? そのナマズはどうされるのですか。というか、そのナマズはいったいどこから」

 合羽をひるがえし、小柄な人物は杖を道路に突き立てた。一度で止まらずに、二度三度、と繰り返される。そこにはナマズが数匹もがいていたが、間もなく杖の先端に折り重なる。

 小柄な人物は低頭すると、

「お騒がせしました」と言い残し、駆け足で闇の奥へと姿を晦ました。

 去っていく足音が途中でしなくなった。立ち止まったのかと思い、しばらく待ったが、もうその人物は現れなかった。

 月に薄く雲がかかる。

 きれいな朧月夜だとひとしきり眺めたあと、念のために道路に下りて水溜まりを登山用のステッキで突いたが、むろんそこに池はおろか穴の一つも開いておらず、何かの勘違いだったのかもしれないとじぶんに言い聞かせて、おーさぶさぶ、と家のなかに引っ込んだ。

 翌朝のことだ。

 迎えの家の主人が亡くなったと聞き、昨夜の出来事を連想した。何かの符号を感じずにはいられなかったが、単なる偶然だと考えるほうが合理的だ。

 気を揉むほうが亡くなった主人に失礼に思え、通夜にだけ顔をだしてあとはもう忘れることにした。

 だがその翌年のことだ。例の雨の日の夜から半年が経ったころ、ふたたびあの雨合羽を着込んだ小柄な人物を目撃した。

 こんどは家のまえではなく、街中でのことだった。

 大学病院の裏手に公園が広がっているのだが、そこにぽつねんと小柄な人影が立っていた。一種そういう銅像かと見紛えたが、剣道のごとく構えた杖をひょいと定期的に振る姿を目にして、あっ、と半年前の記憶がよみがえった。

 ちょうど雨のあがりそうな夕暮れ時で、驟雨のなか傘を差さずにいるその人物に注意がいったというのもある。

 公園には大小さまざまな水溜まりができている。

 そこで例の小柄な人物らしき雨合羽の人は、凍った湖面に開いた穴に釣竿を垂らしてかささぎ釣りをするかのごとく様相で、またぞろナニカシラを吊り上げていた。

 目を瞠るべきは、獲物の大きさだ。

 つぎつぎに釣りあげられる獲物は小さいものでも、鯉の成魚ほどの長身がある。大きいものではマグロかと錯覚しかける黒々とした輪郭を地面のうえでのた打ち回らせている。

 雨合羽の人物は釣りあげたそれらが一定以上の量になると銛で突くように杖の持ち手側の先端で矢継ぎ早に刺していく。獲物は動かなくなる。

 すると雨合羽の人物は懐から風呂敷めいた一枚の布を取りだし、それを動かなくなった獲物の山に敷くようにした。

 ん、とまずは目を疑う。

 布が地面にぴたりとひっついたのだ。

 こんもりと積みあがった獲物の山が消えた。そのように目には映った。

 雨合羽の人物は何事もなく布を回収し、ふたたび釣りの真似事をはじめる。

 しばらく眺めていて、確信をつよめる。

 やはりその人物は公園にできた水溜まりで釣りをしているのだ。

 釣り上げた獲物を杖で刺して殺し、さらに謎の布できれいさっぱり消してしまう。

 いったいあれはどういう原理なのか。

 なんらかのマジックで、それをここで練習しているのだろうか。

 水溜まりからは面白いようにナマズめいた生き物がのべつ幕なしに釣りあがる。杖からは糸が垂れているのだろう。距離があるため視認できないが、それをひょいと垂らした矢先に食いつくようなのだ。

 穴場、と思った。

 この公園はきっと雨合羽の人物にとっての穴場なのだ。

 どうしたものか、と悩みながらもしぜんと足は公園の泥を踏んでいる。

「あの、すみません」まずは声をかけた。

 雨合羽の人物はぴたりと動きを止めた。振り返りもしない。杖をブルルと細かく振り、糸を杖に巻きつけたようだ。

 そうだ、そうだ。

 以前もそういう所作を見せていた。

「魚釣りですか。大漁ですね。たしかナマズでしたよね。あの、じつは以前に家のまえでお見かけしたことがあって。すごいですよね。それどういう原理なんですか。お邪魔でなければお話をその、お聞かせ願えればなと」

 雨合羽の人物は小首を傾げたようだった。幕は張ったはずだよなぁ、とつぶやいたのが聞こえたが、聞き間違えかもしれない。

 それからその人はこちらを振り返り、被っていたフードを取り去った。

 レースのように美しい縮れ毛が溢れる。胸元まで届くそれをひとまとめに結いあげると、その人は、「きみ名前は」と言った。

 目元の涼し気な凛とした発声だ。しかし声が幼いので迫力はない。

「高橋と言います。以前夜中に家のまえで」

「憶えてる。高橋くんは霊魚(れいぎょ)を知ってはいないのかな」

「レイギョ、ですか。いえ」明らかに年下のコからクン付けで呼ばれ、面はゆい。相手は女の子だとは思うのだが、端麗な少年だとしても驚きはしない。「レイギョとはそのナマズのようなもののことですか」

「ああ」雨合羽の人物は地面に折り重なったソレに目をやった。「では身内で祓い漁(はらいりょう)をしているひとはいないわけだ」

「はらいりょう?」

「うん。すこし説明しようか」なぜかそこで雨合羽の人物は口調をやわらげた。警戒心を解くような態度に、却って警戒心を刺激される。

 いまさらのように身構えた。なんとなくだが胡散臭い。

「そう構えなくていい。その様子だと結構長いあいだ見てたんだろ。ならコレも目にしたな」

 懐から漆黒の風呂敷を取りだすと、雨合羽の人物はそれを地面に折り重なった獲物のうえに被せた。やはり布は地面にぴったりと付着し、起伏らしきものを帯びることはなかった。

「マジックですか?」物体が消えてなくなるとは思わないのでそう言った。

「違う。これは法具の一種でね。虚口という。これで霊魚を浄化することで、祓うのだ」

「祓う? 浄化するというのはその」

「まずは霊魚について話そう」雨合羽の人物は公園の端に移動し、ベンチに腰掛けた。濡れてるはずだが、気にしている素振りはない。どうした座らないのか、と目で問われたので、濡れてしまうので、と断ると、雨合羽の人物は懐から法具の一種と説いた布、虚口、で座席を拭いた。「どうぞ」

「どうも」座らないわけにはいかなかった。

「霊魚というのはその名の通り、霊を食らう魚でね」

「あの、さきにお名前を伺ってもいいですか。偽名でもよいので」

「ああ、すまないね。なにぶん人と会話をするというのが本当に久々で。わたしのことはでは、クジョウと呼んでください」

「クジョウさんは一人で活動をされているんですか。その、祓い漁でしたっけ、を」

「うん。まずは霊魚について話させてほしい」

「あ、すみません」

「質問はあとで受け付けるからまずは聞いてほしい。霊魚は霊を食らう。霊は存在をなすものにはなんにでも宿っている。というよりも、カタチが崩れるたびに、そのカタチの来歴が世界には残る。複雑な機構ほど世界にはその名残のようなものが残留するわけだが、それをわたしたちは便宜上、霊と呼んでいる」

 わたしたち、と言ったからにはほかにもいるのだろう。集団で似たようなことをしているのだろうか、と疑問を蓄えながら相槌を打つ。「なるほど」

「霊は基本的には、時間経過にしたがって地中に沈んでいく。地中だけではなく、海底にも相当数の霊が溜まっている。そうした霊の織り成す水脈のようなものがあってね。霊脈と呼ばれる言ってしまえば、川みたいなものだ。霊魚はそこに棲まう特殊な生き物だと思ってくれていい」

「それをクジョウさんは釣りあげていると」

「これもさっき見せた法具と同じでね」クジョウさんは杖を膝のあいだに差しこむ。「霊魚を釣ったり、トドメを刺したりできる。だからなのか、竿とかトドメとか、呼び方は地域によって変わるな。わたしは単に竿と呼んでいるが」

「材質は特殊なものなんですか。さっきの布とか、糸とか」

「いや、材質自体は市販のものだ。ただすこし加工を施す。霊魚を釣るにしてもまずは霊脈に垂らせなければ意味がないからね。高橋くんも見ていたように、雨の日の水溜まりは霊脈に繋がりやすい。同じように霊脈の吹き溜まりのような場所があってね。まあ寺院とか神社とか、そこは色々とむかしから聖域扱いにされ、保護されているが。なんにせよ、そこに一定期間奉納し、道具を霊脈に馴染ませる。道具には道具に見合った霊がそもそも備わっているから、まあその枠組みをすこし霊脈寄りにほぐす、と言えばよいのかな。詳しい仕組みはわたしもよくは知らない」

 一通りの説明はついたのか、クジョウさんはそこで一拍置いた。

 間が開いたので、

「あの、質問をいいですか」と伺う。

「どうぞ」

「どうして霊魚を釣らなきゃいけないんでしょう。いえ、趣味とかそういう感じではない気がしたので」

「ああ、そうだね。そこを欠いたら説明した意味がない」クジョウさんは笑ったようだった。目元がほころび、その涼しい笑顔になぜか照れてしまう。

 公園には街灯がある。頭上からそそぐ淡くも煌々とした光がベンチの周囲に陰影をくっきりと刻んでいる。

「わたしたちは祓い漁と呼んでいる。いつからあるのかは知らない。霊脈を知覚できる者たちで組織された輪があってね。霊魚は霊を好む。それを食らって大きくなる。ただ、あまりに大きくなられると困ったことが起こってしまってね。大きくなった霊魚は霊脈の外に出ようとするんだ。というよりも、巨体に比べて霊脈が小さくなってしまうんだろう。狭くなったから、もっと大きな霊脈へとむりくり移動しようとする。そのときに言ってしまえば、災害みたいなものが起きてしまう。ほら言うだろ。ナマズが地震を起こすとか、むかしから」

「海で地震が多いのもじゃあ」

「いや、そこは単にプレートが原因で起きている地震もあるはずだ。断層とかね。ただそうじゃない地震もあれば、土砂崩れもある。雨の日は霊脈同士が合流しやすくてね。余計に被害が大きくなりやすい」

「じゃあクジョウさんたちは霊魚が大きく育たないように、言ったら間引きのようなことをしているってことですか」

「そうそう」

「それって国の支援とか受けたりしているんですか」

「どうだろね。いちおう仕事ではあるから、食べてはいけてはいるよ。そのお金がどこからきてるのかはちょっと知らない。お寺とか神社とか、そういうところから依頼されてるって解釈をしていたが、そうだね。ひょっとしたら国が絡んでいるのかもしれない。よくは知らないし、とくに知りたいと思ったこともなかったな」

「危険じゃないんですか」

「危険だよ。何せ霊魚は霊を食らうからね。霊魚に襲われて死んじゃった人も毎年のように出るよ。だからこの業界、つねに人手不足でね。有望な新人を見つけたら勧誘するのも仕事のうちってわけで、はいこれ」

 クジョウさんは懐から一枚のお守りを取りだした。ちいさな手だ。マニキュアをしている。うつくしいゆびだ、と見惚れていると、ん、と突きだされ、お守りを受け取る。

「それの中に紙が入ってる。求人情報みたいなものだ。地図が書いてあるから、その気があるなら行ってみて。いつでも面接は受け付けているから、本当、気が向いたらでいいし」

「ここに行けば資格がもらえるってことですか。僕も祓い漁ができるようになると?」

「そこは面接次第だね。人手不足とはいえ、それは何も祓い師だけではないから。ひょっとしたら総務のほうに回されるのかも。そこらへんの人事についてはわたしは何も知らない」

「祓い師になれたらクジョウさんともまた会えますか」

「え、なに。きみわたしに会いたいの?」

 率直に訊き返されると反応に窮する。かろうじて、それはええ、と澄ましてしまう。

「べつにそんなの祓い師にならなくても会えばいいよ。この仕事してると人付き合いが本当ないから、こうして誤魔化しに話せる相手がいるとわたしも楽でいい」

「お仲間とかはいないんですか」

「チームとかバディ組んでしている人らもいるみたいだね。わたしはそういうの向かないから一人でしてる。あ、そうそう。霊魚って霊を好むから、死者の近くによく集まる。だから葬式場とか墓地とか、あとはとくに病院の近くにはウヨウヨいるよ。事故現場とかそういうところにもか。自殺の名所とかね。だから結構、気を病むよ。見たくないものを見ちゃうから」

「だから一人のほうが楽ってことですか」

「そうだったんだがね。さすがに長くやってると慣れてくるし、そろそろ現代(いま)の人らと接点を持っとかないと、言葉も通じなくなりそうで」

「まるで長生きしてきた人みたいな言い方ですね」

 おもしろかったのでそう突っ込むと、

「ああ、うん。長生き。そうだね」クジョウさんは首肯した。「霊脈の影響でね。ほかの人たちよりか、存在の枠組みが補強されるらしい。だから長生きできるよ。ほら、仙人とか言うよね。あれ。ああいうのになれる」

「すごいじゃないですか」

「そうでもないよ。歳をとらないままでいると二十年もすれば世間に取り残されるから。孤独だよ。それでもいいならきみもなればいい。祓い師に」

「考えてみます」

 もはや目のまえの小柄な人物を年下とは思えなくなっていた。否、実際に年下ではないのだろう。人生の大先輩だ。

 本来であればこんな突拍子もない話をされて、はいそうですか、と信じるのは理性の働きのゆるい、斟酌せずに言えば愚か者なのだろうが、現にこうして祓い漁なる事象を目の当たりにしてしまえば、理屈うんぬんを抜きにして受け入れるよりない。

 これはそういう事象なのだと。

 霊魚なる存在が、水溜まりの底に潜んでいるのだと。

「人に知られちゃよくないんだ。本当はね。だから焦った」

「それにしては堂々と活動しますよね」

「人払いはしてあるよ。幕を張っているんだ。本当なら人に見られることはないはずなのに高橋くんがいけしゃあしゃあと声をかけてくるからずいぶん気を揉んだ」

「すみませんでした」

「いいよ。こういう逸材を見るのは本当に久しぶりだから。面白い体験をしているよ。うん。面白い」

 クジョウさんは雨合羽のフードを被り直すと、さてつづきをしますか、と言ってベンチから腰をあげる。

 見ていていいですか、と許可を仰ぐと、このあと時間ある、と訊かれ、はい、と頷くと、じゃあご飯食べようよ、と誘われ、あやうく有頂天になるところだった。

 いまさらのようにクジョウさんを観察する。

 性別も年齢も、ひょっとしたら国籍すら曖昧な見た目に反して、この人はずいぶんきっぱりと判りやすい性格をしている。

 祓い師なる職は孤独が深いそうだが、そんなのはいまさらである。

 元から孤独な人間にとってそれは、居場所を得ることと同義だ。

 孤独を共有できる仲間のいる場所を得ることに匹敵する。

 どうやらいまのところはクジョウさんに歓迎されているようだ。それを知れたことが、ただただ足取りを軽くする。ぬかるんだ泥のうえでも雲のうえを歩いている気分だ。

 クジョウさんは竿をブルルと細かく揺らし、糸を解放すると、それを手ごろな水溜まりに垂らした。

「あんまり深く垂らすと大物を引いちゃうから気を付けて」

「釣っちゃダメなんですか」

「大物は危ない。釣りあげるだけでも地面が割れるし、虚口で覆いきれないから祓うこともできない。トドメも刺せない。一人のときは釣らないのが賢明だ」

 ビビビ、と竿が弧を描く。

 クジョウさんは慣れた調子で竿を引く。

 ナマズの輪郭(かたち)をした霊魚が地面に転がる。

 ビチビチと跳ね回り、活きがよい。

 街灯の明かりを受けてなお霊魚は、影よりも濃く、目玉一つ浮き彫りにしない。

 クジョウさんが竿の持ち手の先端部位を真下に突き立てる。

 トドメを刺された霊魚は身動きを止め、辺りはシンと静まり返る。いつの間にか驟雨はやみ、宵闇に沈んだ空には初夏の星座を描いている。




【きょうの日誌】


 きょう、おそと出たら変なイキモノを拾った。

 最初は石だと思っていたのだけれども、カウルが吹いてもそれだけびくともしない。微動だにせずいたから、印象に残った。

 カウルが強まったからわたしはいちど家のなかに引っ込んだ。

 カウルは異常気象の一種だ。例の東のほうのアレのせいでときおり時空が乱れるせいで、突風にいろいろな干渉が作用してしまっているのだろう。よくは分からないがたぶんそういうことだと思っている。

 で、カウルがやんだので途中だった水汲みにでた。水汲みとはいえ中身は泥だ。水分があればいい。ひと掬いで三日は保つ。むろんエネルギィにする。原料だ。

 で、変なイキモノについてだ。

 さっき目を留めたばかりだ。それはそこにあった。一つだけカウルに遭っても飛ばされずにそこにある。

 目立つ。

 なにゆえカウルに吹き飛ばされずにいられたのかな。

 いわんやなぜに土に埋もれておるのやろ。

 思ったが、そもそもこの辺りはどこまで掘っても柔らかい砂地だ。石ともあれば大きくとも両手で抱えられるくらいある。

 たとえば、水汲み場――とは名ばかりの泥沼の近くには、謎の墓石が立っている。表面に文字らしき溝が刻まれているが、わたしには読めず、墓石なのかも不明である。が、いちおう、墓らしく映るので墓石として解釈している。

 ふだんは土に半分ほど埋もれている。

 しかしいちどカウルが吹き荒れると、全体の形状がさいあくでも露出する。砂が飛ばされるからだ。

 墓石が砂に埋もれないのは、吹くのが単なる風ではなく、カウルだからだ。物体と砂塵は分離して、軽いほうが飛ばされる。重い石とて例外ではない。そこには遅延があるゆえ、分離したまま保たれる。

 だから妙に思った。

 わたしの今朝方に発見した妙な石である。カウルの吹いたあとゆえ、見た目の大きさがすなわち石の全体像だと思ったわけである。

 近づき、足で踏んでみた。

 柔らかい。

 大きなキノコを踏んだのかと思った。

 幼いころに公園の隅で、妹と突ついたことがある。ぐねん、と反発した。弾力があった。表面はどう見ても鉱石――岩肌のゴツゴツとした石だ。

 わたしでも両手で抱えられるくらいの大きさだ。

 もういちど、こんどは足先でそれの真横を押した。弾力はあるが、転がったりはしない。

 しかし、それの底は見えた。

 足が生えていた。

 踏ん張っているのだ。

 砂の上で?

 疑問は、わたしがこんどは強めにかかとで刺激すると、つまりがかかと落としを妙な石に食らわせるとそれは、ずぼっ、と砂のなかに半分ほど埋まった。

 いや、そうではない。

 身を縮めたのだ。

 イソギンチャクを連想した。

 図鑑や動画で観たことしかない。

 軟体動物だ、と直感した。

 生きている。

 ひょっとしたら踏ん張っていたのではなく、砂のなかに、傘のような「返し」を広げていたのではないか。

 そのように想像を逞しくし、わたしはいちど棲家に引き返すと、強化外骨格を着込んで、掘削用の重機を担いだ。

 充電する前だが、石のようなイキモノを根こそぎ掘り返すだけならば、残りを使い切る前に、行って帰ってこられるだろう。そしてそのようにした。

 棲家のなかには広い。

 が、三分の二は食料や工場や稼働中のもろもろの機器が雑然と混合しながら密林のごとく空間を占めている。わたしは端っこのほうの開いた四畳もないスペースにてくつろいだ生活を送っている。暇すぎて、こんな日誌のようなものまでつづっている始末だ。そこそこ上手になったのではないか。

 で、変なイキモノである。

 重機で回収したそれを、畑の収穫置き場に投げだした。すると石に似た変なイキモノは床にびたん、と平面に潰れた。トマトを落としたってそこまで上手に、びたん、とはならない。だがそれはなった。

 いくばくか、蠕動運動のごとく、盛り上がったり、ひらべったくなったりを繰り返すと、諦めたのか、こんどは一回り――いや最初の大きさの二回りは小さく、ぎゅぎゅっと縮まった。丸い。

 表面には、細かなヒダがびっしりと浮かんだ。隙間がないが、つるつるではなく、一筋一筋の溝もまた深いと一目して判る。

 遠目には真っ黒い塊だ。近くで目を凝らすと、光沢を放っていた。水に浮かぶ油分のような鮮やかがある。

 棲家の床はデコボコしており、球体はちょうどうまい具合にデコボコのボコにはまっていた。わたしの乳が岩場だとすると、乳輪の大きさくらいには岩場と接していると言える。岩場が水平ならば乳首くらいの接点しかなかっただろう。床が平らなほど接点の面積は小さくなっていくからだ。上手い比喩だ。わたしは嬉々とした。

 というのも、こんな生活を送りつづけて、かれこれウン百年だ。

 もはや過去を懐かしむよりも、それが現実にあった出来事なのかを思いだすほうが骨が折れる。

 油断すると、すーぐ、文章が硬くなる。

 重ねた歳が透けて見えるため、あえて解きほぐすようにしている。でないと過去に並べた文章との区別もつかず、読み返すだけで、おえっ、となる。

 百倍に煮詰めた砂糖水を飲み干すようなものだ。

 想像するだに身体中が飴になる。

 おいしそう。

 閑話休題。

 変なイキモノである。

 調べようにも、ぎゅっとなって以降、変化がない。

 刃物で突つくが、歯が立たない。文字通り、歯(刃)を凌ぐ硬さなのだ。

 お気にの刃物を一本駄目にした。

 力を込めて先端を突き立てたのだが、たったそれしきの所作で重機加工用の三重刃がダメになった。

 調理用に回すしかない。それから三日が経過した。変なイキモノはまだ我が棲家の収穫置き場に転がっている。

 否、転がることすらなく、そこにある。

 動かぬ。

 びくともせん。

 根が生えたようだ。

 現にそうなのかもしれないが、確かめようがない。ひっくり返せない。掘り返せない。

 棲家は、洞穴だ。掘って砕いて、拡張した。築いた。

 床は岩石だ。掘削機でも掘り進められないくらいに固い層である。

 そこに妙なイキモノは根を生やしたのかもしれぬ。だとすれば大したものだ。じつに逞しい。それでいて、ぎゅっとなったまま動かぬのだから臆病にもほどがある。

 三日目の深夜。

 つまりがいまさっきのことである。さて寝るか、と思い、睡眠導入剤代わりの日誌を書いてやろ、と思って明かりをちいさくしたときに気づいた。

 棲家全体の影が、明かりの収束にしたがい、ずらりと動く。そんな中で、変なイキモノ――ぎゅっとなったまま動かぬ球体――のある箇所に、あるはずのない影を見た。球体はさらに一回り萎んで映ったが、気のせいかもしれぬ。

 わたしはもういちど明かりを大きくした。

 するとどうだ。

 球体のある周囲の床が窪んでいた。そこに、窪みの影ができていたのだ。球体を中心として、すり鉢状にへっこんでいた。

 円周は、球体の二倍はある。

 深さもそこそこだ。

 窪みの表面にはヒビが走っている。

 ん?と思った。

 だってそんなものはなかったはずだ。三日前にはたぶんなかった。

 自信がないのは、長生きした弊害である。このところ物忘れが激しい。このところ、の期間はおそらく、ざっと五十年くらいだが。一日も一年も十年も、もはやどれも変わらない。

 わたしは顔を床に近づけた。真横から目を凝らすようにした。つい先刻のことである。

 床と球体をよくよく見比べた。

 球体と床の接点はざっと、わたしの乳を鷲掴みにしたくらいの深さがあった。ほぼ円周である。直感した。

 沈んでいるのだ。

 直感してばかりの日々である。

 それとも、

 食べているのかもしれない。

 あれほどデコボコしていたはずの岩場が、窪みに限っては表面が亀の甲羅くらいに均されていた。岩肌にどくとくのざらつきが失せ、代わりに無数のヒビが走っている。

 元のデコボコ具合はさしずめ、フジツボである。

 溶かしているのかもしれない。

 岩盤を。

 思えば、わたしの拳ほどしかなかったはずの大きさが、どことなく大きくなって映る。

 小さくなっていたはずではないのか。

 思いだせぬ。

 無理に思いだそうとすると、若かりし頃、ざっと百二十年前の喜寿を思いだす。

 あのころはよかった。

 順風満帆の日々じゃった。

 孫たちに囲まれ、うふふ、おほほ、の暮らしは、例のアレのせいでオジャンになった。もはや例のアレが東のほうに起こった何かであることしか思いだせぬが。

 日誌、あとでまた読んだろ。

 油断するとすーぐ文章に年輪がでる。ぐるぐると輪を描いて素がでて自己主張を激しく振幅させ――踊りだすので――、こうして解きほぐさぬことには肩が凝る。

 何の話だ。

 何を並べようとしていたのかも抜けてしまった。

 どこいった。

 どっかいった。

 飛んでった。

 もういいや。寝る。

 そうと思い、日誌用の端末を机に仕舞った。狭っこい生活圏におふとん敷いたろ、と思って、干していた布団を回収しに歩いた。すると床にあった何かに躓き、盛大にこけた。

 せっかく干したおふとんが畑の土だらけになった。どうしてくれる。わたしは怒りに駆られた。

 我が意思に背き、無断で躓いたじぶんの足を殴り、痛がり、さらに増した怒りを、床にぶつけるべく、わたしをこんな目に遭わせた元凶と対峙した。

 そこにはなぜか球体があった。

 なんじゃこれ。

 わたしは腰を屈め、目を凝らす。床が窪んでおる。

 球体を両手で掴み、持ち上げんとするが、ずしりと腕にきて腰を痛めた。

 むっきー。

 足蹴にするが、球体はびくともせぬ。どころか、余計にわたしは足を痛めた。

 なんだコイツぅ。

 わたしはそれの上に飛び乗って、五から十ほど跳ねたが、すぐに疲れた。

 何してんだか。

 汚れたおふとんを視界の端に捉え、わたしはおとなしく畑の土の匂いに塗れながら寝ることにした。

 と、その前に。

 この出来事を日誌にせねば。

 日課を今宵も律儀にこなすべく端末を起動させる。すると、なぜかすでに途中まで文字が並べてあった。

 今朝がた、書いたのかもしれぬ。

 よくあることだ。

 文字がびっしりと蟻の群れのごとく蠢いて見え、わたしは気分をわるくした。これもよくあることだ。うえっ、となる。

 どうせ毎日似たようなことしか並べておらん。

 途中からでいいや。

 と、こうしていま、先刻遭ったばかりの出来事を継ぎ足して、きょうも何事もなく日々を終える。

 寝て起きたら日々がはじまる。

 この繰り返しを毎日、毎日、宛てもなく彷徨う。

 いつからこの棲家で暮らしはじめたのかすら覚束なく、外にある墓標らしき石板が誰のものかも思いだせない。

 日誌には残っているだろう。

 その者との日々が。

 或いは、墓標の謎が。

 読み返すのも億劫だ。おえっ、となる。えずきたくなる。わけもなく、泣きたくなる。

 あすは、久しぶりにおそとに行ってお水を汲んでこよう。水とは名ばかりの泥であるが、水分があればいい。エネルギィの原料にする。

 日誌に日付を入れる意味もないので、いまがいつなのか、ときどき忘れる。いまはいまに決まっている。だが、それももう、分からぬのだ。

 あす起きたらまた何かが変わっているかもしれない。

 畑が枯れていないことを祈ろう。

 収穫物は、わたしと同じで保存がきくが。

 ときどきやけに、皺くちゃになっている。

 腐らぬ前に、収穫しておくに限る。これだけは、忘れぬように、あすの一行目にいまのうちから並べておく。

 きょうは、水を汲みに行く。

 それから、畑の実りを収穫だ。




【意に反する黴はいらない】

(未推敲)


 お菓子が好きだ。

 毎日、異なる種類のお菓子を四袋は食べる。スーパーに寄るとリュックサックがパンパンになるほど買いあさる。それを数日で完食してしまうというのだから我ながら驚く。

 しかし菓子とはそもそも、膨らんでいる。嵩がある。

 いちどお腹に入ってしまえば、一袋もしょせんは一握りの砂糖やたんぱく質の塊になる。四袋とて、おにぎりほどの重量もない。

 きょうはさて何を食べようか。

 袋詰めのチョコレート菓子を手に取る。大袋のなかに包装紙に包まれたチョコレート菓子がいくつも詰まっている。過剰包装が俎上に載る時代だが、品質保証が売り上げに左右する以上、企業側もおいそれと破棄はできぬのだろう。

 あっという間に机のうえには包装紙のゴミの山ができる。

 仕事をしている合間は、つねに何かを口に入れていないと気が済まない。分かれた彼女からは、おしゃぶりでもしてたら、とあしらわれたが、あいにくとそういう趣味はない。

 食べても太らないのがズルい、と憎まれ口を残して彼女は私を独りにした。

 独りはいい。

 だがときおり人肌が恋しくなる。

 かといって結婚願望は薄く、性欲も湧かない。

 そういうわけでいつの間にか同性と付き合うようになって久しいが、こういう動機は不純だろうから、言えば四方八方から非難轟々の雨あられに決まっている。寂しさを紛らわす愛玩動物代わりなのか、と刃先を向けられでもしたらたまらない。

 しばらくは独りをまた満喫しよう。

 思いながら、未開封の包装紙を摘まみ取り、破って中身を口に放り入れようとしたところで、はたと手が止まる。

 固い。

 菓子はあわらかいスポンジクッキーに挟まれたチョコレートだ。

 だが私がいま手にしたのは、長方形の金属だ。

 一見すると口紅のようでもある。

 蓋を取ると、端子接続部が露出した。小型の記憶媒体だ。

 しかしなぜこんなものが。

 破った包装紙を調べるが、これといってほかの包装紙との区別はつかない。

 誤って紛れ込んだ異物にしては大層な品だ。

 仕事用の電子端末に包装紙から現れた小型の記憶媒体を繋ぐ。

 一瞬の躊躇はあったが、中身を検めた。

 かくして私は、紆余曲折壮大な陰謀に巻き込まれるわけだが、それをテキストに記すと超大作シリーズとして十冊以上になりそうなので、過程を省略して、いま私には大切な人がいる。

 恋人と言っていいのか分からないが、もはや私にとってはなぜ生きるのか、の問いの答えとして、彼女のそばにいたいからだ、との解がある。

「南部の村が滅んだって報せが」

 ヨーグルが鷹を腕に留めてやってくる。赤茶色の髪はいつでも三つ編みに結われ、彼女の肩から垂れている。鎖骨の窪みを縁どるように波打つため、私はいつもそこに目がいく。

「王都が崩れたせいでしょうね。後ろ盾をなくしたからだ」

「わたしたちのせいだよね、やっぱり」

「かといって、放ってはおけなかったでしょう。あのまま王都を野放しにはできなかった。違う?」

「だとしてもこれがよかったとは思えない」小麦色の肌が白い室内に一層の彼女の存在感を際立たせる。そうしたいがために私はわざわざ家具を白で統一しているが、言えば軽蔑されるだろう。黙っておくに越したことはない。「こんな未来になるのならいっそ」と彼女が下唇を噛んだ。窓際に立ち、ベランダの柵に腕の鷹を停まらせる。「何もしないほうがよかったかも」

「あのままでもよかったと? ならどうしてヨーグルのお姉さんはお菓子にあのファイルを紛れ込ませたの。あんな重要な情報を、どうして海外に亘るように細工したの」

「それは」

「どうにかしたかったからでしょ。ヨーグル――きみのことを。きみたちの未来を」

「でも、わたしたちが無事に解放されても、自由になっても、そのせいで王都の村々がひどい目に遭うなら、わたしは」

「嫌でしょうけど、いまさらどうにもならない。そうでしょ。交渉を拒んだのは向こうさんなんだもの。国連加盟国でありながら事実上の奴隷制度を放置し、あまつさえヨーグルたちの部族を滅ぼそうとした」

「そうだけど」

「言いたいことは判るよ。もちろんね。ヨーグルたちの部族だけが解放されても、ほかの部族が滅ぶなら同じことだと言いたいんでしょ」

「分かってるなら」

「でもどうしようもない」

「そうなの? 本当に?」

「ヨーグル。あなたたちの場合は特別だった。奇跡のようなものだったの。同じことはもうできない。再現はできないの」

「わたしたちのために張れた命を、あの人たちのためには張れない?」

「勘違いしないでね。私が行動に移したのは、偶然の連鎖。べつに私だってそうしたくてきみたちのところまで足を運んだわけじゃない。最初は無理やりというか、なりゆきだった。好きで解放運動に参加したわけじゃなくて。意図して行ったことじゃないの。失望するかもしれないけど。この話はもう何度もしたでしょう。それとも、やっぱり私を嫌いになった」

「ううん。過程はそんなに重要じゃない。あなたがあの場にいて、わたしたちのために命を賭して、わたしたちの解放を願い、王都やほかの部族たちに訴えてくれたこと。それは事実だもの」

「あなたへの下心しかなかったと言っても?」

「あの国ではむしろ、その下心が真心に視えてしまうほどに荒んでいたから。ひょっとしたらこの先、やっぱりイヤってなるかもだけど」

「なったら嫌よ。好きでいて」

「わがままな人」

「でも、縛りたいわけじゃないの」

「縛られているつもりはないですけど?」

「ならいいです」

 コーヒー飲む?と水を向けながら私は席を立った。彼女は、いる、と応じた。

 湯が沸くまで私は台所に立っていた。

「助けて欲しいって」彼女の声が届く。おずおずと切り出すような響きがあった。「手紙にそう書いてあるように見えるの。事実だけが箇条書きで書かれているだけなんだけど、でも助けて、と言われている気がして」

「それは助けたいってこと?」

「できるなら。わたしは」

「正直に言っていい?」

「うん」

「言っても失望しない?」

「わかんない。でも、嫌いにはならないって約束する」

 嘘だな、と思いながら私は言った。湯をコーヒーの粉を敷いたトリップに注ぐ。香りが鼻を掠めた。

「私は反対だな。危険すぎる」

「分かってる。でも」

「見捨てられない気持ちは解るけど、私たちが行ってもどうなるでもないと思う。王都は王政を捨てられなかった。変わる気がなかった。それを多くの民は認めなかった。ならばあとは民に任せるよりないんじゃない? すくなくとも私たちはもう、あの土地では生きないと決めたわけだから」

 そうだよね、と暗に問うじぶんを卑怯に感じた。

「そうだけど、でも」

 私はコーヒーを二人分カップに注いで席に戻る。

 ヨーグルはソファに座って、横に生えている観葉植物の葉を撫でていた。

「はいどうぞ。薄いよ」

「ありがとう。美味しそうな匂い」

 席に着いてからコーヒーを口に含む。舌を火傷したが、一気に飲み干した。

 沈黙に耐え切れなくなり、私は言った。

「分かった。出来る限りのことはしてみる」

「いいの?」ソファから今にも飛びあがりそうなヨーグルを手で制し、私は椅子ごと彼女に向き直る。「その代わり、私に黙って行動はしないでね。かってに出て行ったりしないで」

「しないよそんなこと」

「嘘おっしゃい」

 おそらく私が頑として首を縦に振らず、知らぬ存ぜぬを通せばヨーグルのことだ。じぶんで事態の収拾を図るために、故郷へと突撃しただろう。かつてじぶんたちを奴隷として扱い、命を奪おうとした相手を助けるために。

「だってわたしたちにひどいことした人たちだよ。わたしだって怒ってるよ、まだ」

「そこで怒ってるで済ましちゃう時点でもうダメね。でもいい。ヨーグルがそれでも黙っていられない、見過ごせないというのなら、私が人肌脱いであげる」

「人肌? 脱ぐ? どうして裸になるの?」

「そういう言い回しがあるの」

「ああ。諺か」

「ヨーグルと私たちは直接に関与しない。でも、私のツテで被害を抑えるように訴えることはできるかも」

「それでいい。お願い。子どもたちだけでも」

「そうだね。仕組みも何も知らずに暮らしていた人たちだって大勢いるだろうし」

 それこそあの国の実情を知らずにいるこの国の民とて同じだ。私もまた王都の人間たちと同じだった。

 ヨーグルのような人たちの人生を、命を、搾取し、こうして潤沢な暮らしを送れている。罪悪感を覚えずに済むように、安価な服や食べ物、電子機器の材料がどこからどうやって調達されるかを知らずにいても問題なく過ごせるように、目を背けていられる。

「じゃあいまから連絡とるね。ヨーグルは知らないほうがいいこともあるから、すこしだけ席を外してもらってもいい?」

「うん。ありがとう。こんなお願い、わたしほかにできる人いなくて」

「頼ってくれてうれしい。でも、どこまでできるかは分からないよ」

「いいの。きっと何もしないでいるよりかはきっとよい未来になるから」

 潤んだ瞳で見詰められると胸が詰まる。

 ヨーグルはいちど扉のまえまで歩を進めると、ドアノブを回す前に踵を返し、私に抱きついた。首と首が、彼女の三つ編みくらいに絡み合う。そのまま持ち上げてベッドまで運びたい衝動を堪える。

 性欲はない。だが、体温を感じながら彼女と一体化したような昂揚に浸るひと時は嫌いではなかった。

 ヨーグルは甘えるように私の首筋に頬を擦りつけた。ついでのように耳たぶを食むと、離れ、無言で部屋を出ていった。

 私はしばし扉を見詰めた。身体にはまだ彼女の体温とやわかさが残っている。ヨーグルの香りがすっかり薄れるまで待った。

 電子テキストを送ってもよかったが、証拠に残るようなものでの連絡は避けたかった。

 私はメディア端末を手に取ると、かつて共に死線を潜り抜けた傭兵の一人に電波を飛ばした。

 彼は解放軍で指揮を執っているはずだ。王都が制圧されたのならば、彼の率いる兵団が暗躍したはずだ。異国の戦地で技術を揮うことを生業とする殺人集団だが、彼らには彼らなりの考えがあり、行動原理がある。平和を望んでいる点では、ヨーグルと変わらない。

 そしてきっと王都で暮らしている王族たちとて同じだったはずだ。

「サキか。嘘だろ。何の用だ」端末の向こうでしゃがれた声が応じた。

「無駄話は避けたいから単刀直入に言うけど、その作戦、すこし変更してくれない?」

「いまさら依頼を変更するのか」

「修正する分の費用は負担する。必要なら重ねて手数料を払ってもいい」

「内容によるな。いまさら作戦中止は利かないぞ。王都側の部隊はほぼ壊滅だ」

「軍人はいい。その代わり、王族や民のほうで犠牲者を少なくしてもらいたい」

「それは無理だな。火を点けた油を消せと言われても、そもそも俺たちがその火付け役だ。何を言ったところでいまさら暴徒は止められん」

「なら救える分でいい。動かせる兵で、避難民をできるだけ増やしてくれ」

「王族もか?」

「できれば。まあ、犠牲にすべき人材をそっちで見繕ってくれればそれでいい。暴徒とて手柄は欲しいだろうし」

「善処しよう。でもいいのか」

「何が?」

「残党を許せば、この戦禍はのちのちまで禍根を残すぞ。おまえの顔だって割れている。復興にも時間がかかる。避難民を逃したとなれば、政権樹立後での立ち位置も危ういぞ」

「そこは上手く立ち回ってくれ。それくらいできるだろ」

「手数料を請求しよう」

「構わん。やってくれ」

「請け負った」

「あ、そうだ」

「まだ何かあるのか」

「私はもうおまえに連絡することはない。その番号も消しといてくれ」

「証拠隠滅か」

「帰還したら手紙をくれ。その後のことはそれからだ」

「俺が死んだときのことは考慮しなくていいのか」

「そのときはそのときだ。手数料を支払わずに済んだと思って楽しく暮らそう」

 通話はそこで切れた。

 相手は鼻で笑ったようだった。

 私は端末を仕舞うと、窓際に移動する。そこではベランダの柵に未だ鷹が停まっている。よもや海を渡ってきたわけではあるまい。

 あるのだろう。

 この国にも。

 ヨーグルの部族の息のかかった者たちの組織が。

 王都にて奴隷に身をやつしながらも、暗部として生きた部族の末裔が。

 この国でも、己が命を賭して、主と慕う者たちに仕えている。

 ヨーグルの姉はしかし、その血に流れる因縁を呪い、主君たる王族にも牙を剥いた。妹のヨーグルを救いたい一心だったのだろう。それとも単に復讐だったのかもしれない。

 チョコレート菓子の包装紙に紛れ込んでいた記憶媒体には、ヨーグルの母国にまつわる悪事の全貌が納められていた。

 そしてその悪因の根は、この国の企業――いいや、政府そのものにまで深く張り巡っている。いまなおそれは断ち切れてはいない。

 私は、運がよかっただけだ。

 紆余曲折を経て、それら悪因の根を司る立場にいまはいる。

 私の揮う食指一つで、悪因の根は枯れ葉て、国家が一つと言わずしていくつも費える。

 責任は重大だ。放棄してもいい。

 だがそのとき私も破滅する。

 きっと以前の私ならばそれもよかろうと、破滅への道を選んだかもしれない。

 いまはしかし、ヨーグルがいる。

 どうあってもそばを離れるわけにはいかぬのだ。

 手放すわけにはいかない。

 この至福に塗れた「シ玉」の日々を。

 私は、たとえ地獄の業火の担い手になろうとも、手放すつもりがさらさらない。

「あのコにはわるいけれど」

 彼女の同族たちには、酷な目にあってもらわねばならない。

 私は端末から、いましがた言葉を交わした傭兵の連絡先を消す。続けざまに、緊急連絡先を指定し、電波を飛ばす。

「あ、首相? 私。そうそうお願いがあってさ」 

 この国の暗部に、私の意に反する黴はいらない。





【月はマシュマロのように】


 一生に一度だけ人は月を浮かべることができる。

 わたしが小学校に入学してまっさきに習ったのは文字の読み書きでも数字の読み方でもなく、お菓子はお昼に食べましょう、ということだった。

 学校で習うまでもなくわたしたち子どもは、幼少期のころから、父や母や周りのおとなたちから口を酸っぱくして、おやつはお昼だけ、と言われて育つ。おそらく例外はない。

 夜に食べるとどうなるのかは知らなかったけれど、かといってこっそり食べてもとくにこれといった何かが起こるわけでもない。

 見つかれば叱られたものの、おとなたちのほうでは夜にもお菓子を食べているのだ。

 理不尽、なる言葉はまだ知らない幼子であったわたしであっても、そこに横たわる不公平さにはいたく膨れた。

 どうして夜にお菓子を食べてはいけないのか。

 わたしだってチョコレイトやクッキーをお夕飯のあとにも食べたいよ。

 そういった駄々を幾度もこねては、母や父から困った顔でたしなめられた。

「べつに絶対に食べちゃダメってわけじゃないの。でももしフヅキになったら困るでしょ」

「フヅキってなぁに」

「小学校で習ってきたんでしょ」

「ああ」

 どんな人間でも一生のうちで一度だけ夜空にお月さまを浮かべることができる。

 今宵の空に月が浮かんでいるのは、世界のどこかでフヅキをした者がいるからだ。

 夜に食べたお菓子を、夜空に浮かべることができる。

 それはあたかもコインを手に持って夜空に伸ばすと、そのままぴたりとはまりこむようなものだ。フヅキはコインではなく、お菓子が月となり、世界中の誰からでも見られるようになる。

 ときおり何も浮かばない無月の日が訪れることもある。

 そうしたときは、誰もフヅキを行わなかった日だと判るため、なんだか世界中の人たちがいっときに結びついたような心地に浸ることができる。

 世界フヅキデーとして、この日は無月を目指そう、という風習もあるにはあるが、実際に無月になった日は過去に数える程度にしかないそうだ。

「どうしてフヅキしちゃダメなの」

「特別なことだからだよ」

「でも一回しかできないんでしょ」

「そう。一人一回しかできないから余計に特別なの」

「ふうん。わたし、いらないけどなぁ」

 フヅキのせいで夜にお菓子を食べられない生活を強いられるくらいなら、いっそさっさとフヅキを使い、晴れて自由の身になりたかった。

「いまはいらなくとも、いずれはとっておいてよかったぁ、と思う日がくるの」

 母は言い張った。

 そうなの、とわたしは父を無言で見上げる。父は面映ゆそうに鼻の頭を掻いた。

 わたしはそうして夜にお菓子を食べる自由を奪われながらも、中学生になると、同世代のコたちはみな親に内緒で夜にこっそりお菓子を食べていた。

 それはそうだ。

 お菓子を食べるだけなら問題ない。

 要は、誤ってフヅキをしなければいい。

「食べかけのお菓子を夜空に翳さなきゃいいってだけじゃんね」わたしはもうすぐ日が暮れかけの空を眺めながら、公園のベンチに友達のペペッチと座っていた。「おとなってホント過保護。命令ばっかで嫌んなる」

「だねだね」

 ペペッチはアジア系ペペロニア人で、肌の色が青かった。ペペッチは美しい子であった。外を出歩けば否応なく好奇と羨望の眼差しを集めた。しかしなぜか色恋沙汰には興味が薄いようで、同じく恋と性欲の区別ってなんじゃらほい、と疑問視してやまなかった当時のわたしと同じ時を過ごすことがしぜんと多くなっていた。

 ペペッチの名はわたしがつけた。愛称だ。しかし本名もペペッチの響きからそれほど遠くはない。

 わたしはペペッチと共にいる時間だけは、ほっと息を吐けた心地がした。彼女にとってのわたしもそうであればよいな、と思った。彼女から見たわたしがわたしにとってのペペッチであってほしかった。わたしはたぶん、ペペッチになりたかったのだ。けれど、当時はまだその思いを告げたことはなかったし、おそらく自覚もしていなかった。

 公園のベンチで夕暮れの街並みを見下ろしながらおやつを齧るのがわたしたちの日々のひそかな楽しみだった。

「あ、見てきょうの月」割れてる、とペペッチが言った。 

「ほんとだ。しかもハートっぽくない?」

「あのクレーターっぽさはチョコチップかな」

「だろうねぇ」

「ひょっとして失恋しちゃったのかな」

「恋人へのあてつけかもよ」

 わたしたちはきゃっきゃと語らう。

「あ、見て。これマシュマロの中にチョコ入ってるやつ」ペペッチはマシュマロをゆびでつまむと、鞄からバッジを外した。安全ピンでマシュマロに穴を三つ開けた。

 穴の開いたマシュマロをゆびで潰すと、中のチョコが穴から溢れ、マシュマロの表面に即席の顔ができる。「マシュマロマン。きみはかわいいからすぐに食べちゃう」

 あーむ、とペペッチはせっかく作ったマシュマロマンを一口で消した。

「可哀そう」

「でも美味しいのがわるいから」

「わたしもやろ」

 わたしはペペッチの真似をして、マシュマロの表面に、猫を描こうとした。でもうまくいかずに、チョコのマグマがマシュマロの表面を埋め尽くした。

「あちゃ。失敗じゃ」

「見て。星」ペペッチはもう一つ作っていた。こんどのマシュマロの表面には星型が刻まれていた。

「わ、すご」

「穴をおっきくしないのがコツ」

 しかし何度教えてもらってもわたしはマシュマロをチョコ塗れにしてしまうのだった。

 悔しいので話を逸らしがてらわたしは言った。

「フヅキってけっきょく早い者勝ちなわけだよね」わたしは夜空を仰ぐ。割れた月が煌々と明かりを垂らしていた。「もうこうしてお月さま出てたらフヅキにはなりっこないんだから夜にお菓子食べてもいいじゃんね」

「だねぇ」

「だいたいフヅキ狙いの人って世の中にたくさんいるわけでしょ」

「むかしはプロポーズにフヅキを使うのが流行ったらしいよ」

「アホらし。一年で三六五組しか結婚できないじゃんねそれ」

「え、違うよ。ここが夜でもほかの国では昼のこともあるでしょ。同じようにここが昼のときに夜の国もある。同じ夜の空であっても、この街で見られるフヅキとずっと離れた街で見えるフヅキは違うんだって」

「そうなんだ」

「二年生のときに習ったでしょ」

「寝てたかも」

「そんなんじゃ高校生になれないよ。いっしょの高校に行けなくてもいいの」

「イヤじゃけども」

「じゃあちゃんとせめて授業だけは聞きましょう」

「へーい」

「あ、プロポーズにフヅキ使うってやつ。いまでもけっこう流行ってるっぽいよ」

 ほら、とペペッチは情報をこちらの端末に送ってくれる。

「ホントだ。でもこれだって毎日毎日陽が沈むを待ち構えてるわけでしょ。しかも全世界で何人も」

「何万人だと思うよ。もっとかも」

「一瞬でフヅキなんか埋まっちゃうよね」

「大人気の抽選みたいだね」

「ホントだ」

 わたしたちは肩を弾ませ合った。

 ある日のことだ。

 いつものように夕暮れの街並みを公園のベンチに座って、二人肩を並べ眺めていた。おしゃべりに夢中になっているあいだに辺りは宵闇に包まれる。街灯の淡い明りが頭上からそそいでいた。

 その日のおやつはクッキーだった。抹茶味の新発売の商品で、二人でお金を出し合って買った。

 しばらく順調に、菓子箱の中身を減らしていた。

「美味しいねこれ」ペペッチがクッキーを齧る。「あんまりに美味しいからヨチヨチしてあげたくなっちゃう」とまるで赤子をあやすように高い高いする。

 それから急に、あれ、と零し、手元をガサゴソ鳴らした。

「どったの」

「クッキー落としちゃったかも」

「どじっ娘」

「おいしょっと。どこかな」ペペッチは地面に手を伸ばした。そこに落ちただろうクッキーを探す。

 ベンチの影になって彼女の顔が見えない。辺りは宵闇に沈んでいた。

「べつにそのままでもいいんじゃない。どうせ食べれないでしょ。ちたないし」

「そうだけど」

「はいお一つどうぞ」

 わたしはクッキーのお代わりを差しだした。 

 ありがとう、と立ちあがった彼女の背後にわたしは、先刻までなかったはずの月が浮かんでいるのを目の当たりにした。

 硬直したわたしを奇妙に思ったのか、どうしたの、とペペッチが声を弾ませ、それから何気ない素振りでわたしの視線を辿り、振り返った。

 果たしてそこには、抹茶色のお月さまが、一口だけ齧られた具合に三日月に欠けて浮いていた。

 フヅキだ。

 偶然、この日、ペペッチが赤子に見立てて頭上に掲げたクッキーが、フヅキになった。

 タイミングの問題だろう。

 この区画の空に該当するフヅキを誰より早くペペッチが空に翳した。

「あはは。ペペッチ、もうフヅキ使えないじゃんね」わたしはフヅキに何の思い入れもなかったので、単純にペペッチのおっちょこちょいな出来事がおかしかった。

 しかしこの街が夜でもほかの街では昼であることが往々にしてあるように、わたしの思いに関係なくペペッチにはペペッチの思いというものがあった。

 ペペッチはフヅキをたいせつにたいせつにとっておいた、という事実をこの先、わたしは知ることとなるが、このときは急に泣きだしてしまったペペッチに戸惑って、わたしはとにかく、泣き止んでもらおうとしきりにわけを訊ねた。

 きっとそれがよくなかったのだ。

 わたしは彼女のたいせつなものの喪失を笑ったのだ。それがよくないことだったと自覚できなかっただけでなく、彼女をぞんざいに慰めることでそれをまざまざと示してしまった。

 世の友人関係の多くがなんてことのないすれ違いや、積み重なってきた不平不満のせいで破綻するのはそこらに石を投げれば当たるくらいにありふれた現象だ。

 例に漏れずペペッチとわたしの関係も、その日を境にぱったりと途絶えた。

 クッキーを両手で割るよりも呆気ない幕切れに思えた。

 最初こそ申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど、日が経つにつれて雪がほたほたと積もり、地面を覆い尽くすように怒りが募っていった。

 理由を教えてもらえてもいないのにどうすればいいというのだ。ごめん、の言葉だってあんなに浴びせてあげたのに。謝ってあげたのに。

 かってに泣きだして、不機嫌になって、そのあとずっと避けられたら、いくら慈愛の権化のわたしでも腹に煮え立つものがある。グツグツである。鬼だって茹で死ぬ。

 わたしはイライラしながら、でも夜にお菓子は食べないようにした。

 フヅキにこれといって思い入れはないけれど、もしペペッチみたいに偶然失ってしまったらと考えると、以前は覚えなかった抵抗を覚えた。

 人によってはたいせつなものなのだ。

 それを知ったからかもしれない。

 わたしの奥底で煮えたぎったグツグツは、さらに時間が経つと徐々に冷えて、カチカチのクッキーみたいになった。

 こんなにカチカチでは食べたさきから口のなかが干上がってしまう。モソモソだ。

 またペペッチといっしょにクッキー食べたいな。抹茶味。チョコのでもいいけど。

 気づくとペペッチとの日々を回顧していた。

 思いだすたびにお腹はふたたび煮え立った。

 お腹のグツグツはいつの間にかコトコトになっており、鍋を覗くとそこには、寂しい、の三文字がほどよく出汁を吸って沈んでいるのだった。

 うまくもういちど話す機会が巡ってこないだろうか。

 まごまごと機会を窺っているあいだに受験期に差し掛かり、あれよあれよという間に卒業の節目に立たされた。

 わたしはろくすっぽ勉強せず、それでいて難なく入れる高校に合格した。

 ペペッチはきっと地元でも有名な進学校に受かったはずだ。

 共通の友人がいないので、もはやわたしにはペペッチの進学先すら知り得なかった。先生に訊けば判るけれど、それをしたらなんとなく負けな気がした。

「勝ち負けじゃないと思うけどな」

 母がココアを淹れて戻ってくる。受け取ると、「さっさと謝っちゃいなさい」とわたしのほっぺをゆびで突ついた。

「やめて」

「あら怖い。でもフヅキを奪っちゃったのはよくなかったと思うよ。フヅキは一生に一度しか使えないんだから。人によってはファーストキスよりも大事にしている人だっているんだし」

「えぇ。なにそれ」

「あら、ホントだよ。ママのときもそうだったもの」

「じゃあ、パパにフヅキあげたの?」

「パパじゃない人だね。それに、あげたんじゃないの。大事な人といっしょに、ママのフヅキを見て欲しかったの。一生に一度のたいせつな思い出をつくりたかったの」

「でもパパじゃないんでしょその人」

「そ。でもいまでもやっぱりたいせつな思い出だなぁ」

「うー。でもじゃあ、べつにいいじゃん。わたしもいっしょに見てたんだし」 

「お友達と恋人じゃあ違うでしょう」

 言ってから母は口元に手を添えた。「あら」と目をぱちくりさせる。

 わたしはじぶんの発言に潜んでいた思いあがりに顔が熱くなった。「べつにそういうのじゃないし」

 ココアを飲み干し、じぶんの部屋に逃げ込んだ。お夕飯には下りてきてね、とリビングのほうから母の声がした。

 部屋の窓のカーテンが夕日で染まっている。

 ベッドに突っ伏し、いましがた繰り広げた母との会話を反芻しているうちに、じぶんがいったい何に怒っていたのか、その正体の輪郭がだんだんと掴めてきた。

 ペペッチが理不尽に縁を切ったからわたしは怒っていたわけではないのかもしれない。

 真実にフヅキが特別だったとしても、その場にはわたしがいた。一生に一度の大事なフヅキを共に見られたのだからそれでよいではないか。わたしはあのとききっとそう思ったのだ。

 しかしペペッチはそれでよしとしなかった。

 フヅキを無駄にしてしまったことに傷つき、それを笑ったわたしに憤った。

 だから縁を切ったのだ。

 そっか。

 わたしは縁を切られたのか。

 認めてしまうと、猛烈に悲しくなった。

 本当に悲しいとき、人ってすぐには泣けないのだな。

 そう思うと余計に身体のなかがからっぽになって、何でもいいからそこにほかの感情を詰め込みたくなった。

 ちょうどお腹が減っていたこともあり、ココアを飲み干したばかりだというのにわたしは、合格祝いにと買っておいたお菓子の詰め合わせを開けた。缶に詰まっている豪勢なお菓子セットだ。

 種類が豊富だ。一個一個が包装紙に包まっている。

 片っ端から味見してやる、とわたしは腕をまくって、さっそくがっついた。

 食べても食べても寂しさは埋まらない。

 あべこべに、なんで一人でお菓子なんか食べているのだろ、と虚しさまで交じった。

 ひどいよ。

 なんでわたしばっかこんな目に。

 八つ当たりもはなはだしい怒りが波のように、寄せては返すを、繰り返す。

 きょうはもう、やけ食いじゃ。

 手当たり次第に包装紙を破っては、口に放りこんでいると、ふと手に取ったお菓子がマシュマロなのに気づいた。

 いったん舌のうえに置いてしまったけれど、思うところがあり、取りだした。

 しばしマシュマロと見詰め合う。

 それからなんとなく鞄からバッジを外し、安全ピンの針でマシュマロの表面に穴を開けた。一つ開けて、また開ける。

 マシュマロを何個かダメにしながら、五つ目くらいで思い通りの絵柄をマシュマロに刻むことができた。

 部屋は薄暗く、手元も覚束ない。

 陽がすっかり沈もうとしていた。

 わたしは窓を開け、そこから空を見遣った。

 雲がクジラの群れのように浮いている。そこに月はまだ見当たらない。

 とくに何かを期待していたわけではなかった。

 ただ、フヅキくらいなんだ、と行動で示してみたかったのかもしれない。なんだこんなもの、といつでも投げやれると、じぶん自身に確かめてみたかったのかもしれない。

 ペペッチと同じ目に遭ってなお傷つかずにいると知りたかった。

 それとも傷ついてしまって、余計に苦しむはめになるのだろうか。それはそれで別に構わない。

 わたしがペペッチにしてしまったことを知れるのだから。

 同じ傷を負えるのだから。

 わたしはチョコを滲ませたマシュマロを頭上に掲げた。

 天を片手で遮るように。

 宝石を陽にかざし、

 光に透かして見るように。

 視界がじぶんの腕に塞がれる。

 腕をどかしたとき、そこにはさっきまでなかったはずの月が現れていた。

 満月だ。

 マシュマロのごとく真ん丸さで、その白さからか、今宵はひときわ輝いて見えた。

 この街のどこにいても、空さえ見上げればあれを見逃すことはないはずだ。

 わたしは念のために、写真を一つ撮っておく。

 今宵の月には、三つの点が描かれている。

 三角形をなす配置は、人の顔のように見なくもない。

 それら顔のような三つの点を、いびつなハートが囲っている。

 かわいくないな。

 じぶんの手先の不器用さに呆れながら、フヅキがないからなんだってんだ、とやはり怒りが再燃する。

 返事を寄越せ。

 無視すんな。

 わたしは夜の街へと吠えてみる。怒れる友へと突きつける。




【摘まれる音がする】

(未推敲)

 

 一面灰色の空間だ。

 壁際をぐるっと歩いて回るだけでも三十分はかかりそうだ。

 元はデータセンターだったそうだ。

 いまは電子機器の代わりに、ずらりと人工子宮が並び、空間を埋めている。

 人工子宮は培養液でパンパンに膨らんでいる。それらがおびたただしい数、頭上から吊るされているのだ。几帳面に並べられたそれらはまるでブドウ農園のごとくである。

 ガンジャはそれら人工子宮の果樹園を、碁盤の目を辿るように進む。歩いてはいない。自動で床を進む円盤に乗っている。

「どうです。驚きましたでしょう」先導していた女がにこやかに振り返った。束ねられた長い髪が鞭のようにしなり、彼女の眼鏡の縁が光を反射する。「初めてこられる方はみなさまこの様子をご覧になるとぎょっとされるんです。まるでSF映画みたいですね、とおっしゃるところまでがセットです」

「まるでええ。SF映画みたいですね、と思っていたところです」

 女性はガンジャの担当技師だ。名をキリサキと云った。

 ひとむかし前までは臓器移植は医師の手術により行われたが、現在は技師の手によって施術される。

「施術の説明はさきほどしましたように、ほとんど機械が自動で行ってくれます。万能ミシンみたいなものですね。このあとそのまま施術いたしますが、あすには退院いただけますよ」

「ありがとうございます。助かります」

「今回、ガンジャさまは心臓と血液のご利用となりますので、【養殖部位】の使い回しはできません。新たにイチからの培養となりますので、ご了承ください」

「費用はじゃあけっこうかかっちゃいますね」

「そう、ですね。ただガンジャさまは二回目ですので、生体情報の調査や登録を行わずに済みますので、初回ほどにはかかりません。二回目からは保険もききますし」

「よかった」

 ガンジャは懐が痛まないと知って、安堵する。

「あ、こちらですね」キリサキが止まった。

 ガンジャの乗っていた円盤も止まる。

「こちらがガンジャさまの飼育球となります」キリサキの差し伸べた先には、人工子宮がある。半透明だ。養殖部位が胎児のように丸まり、培養液に浸かっている。人工子宮同士は一見しただけでは区別がつかない。おそらく中に浮かぶ養殖部位とて個体ごとに大きな違いはないだろう。

 養殖部位は、大きな胎児だと言われれば納得してしまいそうな姿かたちをしている。

 だが人間ではない。

 より精確には、完全な人間ではないのだ。

「思ったよりも人間っぽいんですね」

「それもみなさまおっしゃいますが、ご安心ください。こちら、頭脳のほとんどが再現されておりません。意識や人格といったものはないんですね」

「たしか、受精卵を使っていないんですよね」

「はい。幹細胞から直接にぷくぷくと培養させて大きくしています。ちなみに、頭脳が未熟なのは、そういう操作をしているからではなく、現在の技術でも幹細胞から完全な人間のクローンを復元することはできていないんですね。技術的には可能なのですが、まだしばらく実用化には時間がかかりそうです。とはいえ、心臓や肝臓、血液や髄液など、移植に必要な部位は、そっくりそのまま細胞の持ち主さまと同じですのでどうぞご安心ください」

「あの、今回は心臓と血液以外は使わないんですよね」

「はいそうでございます」

「皮膚とか目玉とか、残りの臓器とかもですけど、そういうのは捨てちゃうんですか」

「ふんふん。そういうことですね。いえいえ。それらは破棄せずに、移植用臓器として、安価に医療機関へと提供いたしております。その旨は契約書にもしっかり書かれておりますし、初回契約時にもご説明させていただき、ご了承を頂戴しているものかと思うのですが」

「あ、そうだったですね。かもしれません。すみません、けっこう前のことなので忘れてて」

「いちおう、そうした社会奉仕が認められているからこそ、国からの援助も得られて、このようにそれなりに高価ではございますが、どなたさまでもご利用できるサービスを提供させていただけているのですが」

「いえ、すみません。確認したかっただけなので」

「失礼しました。ではさっそく、生体認証で、飼育球のロックを解除してください」

 ここですね、と言われた場所に手を置く。

 直接に人工子宮に触れた。思ったよりも冷たい。培養液それ自体は温泉並みに温かいのだろうが、人工子宮の膜には断熱材が使われている。保温効果を高めるためだ。ゆえに表面は鉄のように冷たかった。

「こちらの素材、じつは宇宙ステーションにも利用されているんですよ」キリサキが雑学を披露する。緊張をやわらげようとの気遣いだ。

 現にガンジャは身体がこわばっていた。なにせいま目のまえに、じぶんのクローンが培養液に沈んでいるのだ。未成熟であるにせよ、それは紛れもなく同じ遺伝子情報を有している。

「そう言えば、ニュースでやっていたんですが、銀河系の端に生命体がいるかもしれない惑星を発見したそうですよ。ご存じでしたか」

「いえ。あまりそういった方面に詳しくないものでして」

「失礼しました。でも神秘ですよね。ひょっとしたら地球に旅行にきたりする日もあるかもしれませんよ」

 そんな日がくるわけないだろ、と思いながらガンジャは曖昧に笑ってやりすごす。

 人工子宮の表面に、認証、の文字が浮かぶ。

 培養液に気泡が湧いた。

 ごぽごぽ、とあっという間に培養液が排出され、中の養殖部位はポンプに吸い込まれていずこへと消えた。

「ではこれから施術室にご案内いたします。養殖部位はいま、ほかの区画にて、ガンジャさまの臓器移植に必要な形に加工されておりますので、ご安心を」

 つまり、ほかの場所であの大きな胎児のような肉の塊は、必要な部位を取り除かれているのだ。

 いままさに解体されているのだ。死んでいるのだ。

「あの、本当に意識はないんですかね」ガンジャはじぶんのクローンに同情した。未成熟とはいえ、同じ遺伝子情報を持つ個体なのだ。分身なのだ。

「みなさま同じく、その点を気に揉まれるようです。ですがご安心ください。養殖部位は人間ではありません。意識はおろか、まともに外界認識を行うこともできません。人間であるか以前に、生物ですらないんです。なぜなら繁殖できませんので。じぶんだけで生存もできません。飼育球の中でしか生きられない時点で、ウィルスと似たようなものと言えるかもしれません。いえ、ウィルスのほうがまだ生物という点では、よりらしい、でしょう。知っておられますか。すこし前までウィルスは生物ではないと定義されていたんですよ。いまでも侃々諤々に議論が交わされているようですが、いまはウィルスも生物だろう、との認識が優勢になりつつあります。それはそうでしょう。人間とて、ほかの生物を食らって生きているわけでして。ウィルスが細胞に寄生してエネルギィを吸収し、増殖するのと原理的には同じです。その点、養殖部位は違います。あくまで、我々が飼育球のなかに閉じ込め、栄養を供給しなければ、誕生すらできず、また生きながらえることもできないのです。ですから養殖部位は、人間であるか否か以前に、そもそも生き物ですらないのです」

「はぁ、そういうものですか」

 一息に捲し立てられ、面食らう。

「ではまいりましょう」キサリキを載せた円盤が移動を開始する。

 広大な空間にはほかにも臓器移植を施術しにきた者たちの姿があった。みなそれぞれに担当者を伴ない、移動したり、説明を受けたりしている。

 定期的に足元を、清掃用の円盤が通り過ぎる。

 森閑としていると思ったが、空調の音が波のような音を響かせていた。

 施術室は思っていたより狭かった。

 ガンジャの住まいの浴室くらいの大きさだ。

 施術台が椅子のカタチに変形しており、ガンジャはキリサキに指示されるがままに、そこに上半身を脱いで腰掛けた。

 すると自動でベッドに変形し、棺桶のように周囲に仕切りが下りた。

 すっかり仰向けになると、半透明の蓋が視界を塞いだ。

「では、眠くなる空気を入れますね。つぎに起きたときにはもう施術は終了していますから、どうぞご安心ください」

 何かを質問しようとしたが、視界からキリサキの陰が消えた瞬間、秒で意識が途切れた。

 シュっ、という音を耳にしたことだけは憶えている。

 つぎに目を覚ましたとき、目のまえに下りていたはずの蓋はなく、お疲れさまでした、と何かしらの点検をしながら声をかけるキリサキの顔が覗いていた。

 施術台は自動で椅子に変形し、ガンジャは思考が明瞭になるのを感じた。

「どうですか。痛みや苦しいところはございませんか」

 胸をさするが、傷跡一つない。「本当にもう終わったんですか。どこも変わってないような」

「ご安心ください。ガンジャさまの心臓と血液は、すっかり新しく取り替えました。傷跡がないのは、レーザーで切開したからです。あ、あんまりいじらないでくださいね。傷口は接着剤でくっつけているだけなので。激しい運動も、一週間は避けてください。血が滲むようなことがあれば、すぐに連絡してください。まあ、これまでそういった報告はなされていないので、よほどのことがなければだいじょうでしょうけれど」

「そうなんですね。ありがとうございます」

「いちおう、取りだした心臓や血液を希望された方は御覧にいれられますが、いかがなさいますか」

 お勧めはしないですが、と言いたげにキリサキが顔を寄せる。脱いだTシャツを寄越してくれるので、着替えながらガンジャは訊いた。「見たほうがいいんでしょうか」

「ほかの方はあまり御覧になさりませんが、見てみたいという方も稀にいらっしゃいます」

「なら、やめておきます」

「そうですか」

 業務用の笑みを浮かべ、キリサキはそれからひとしきり、術後の注意事項を語った。

 上の空でそれら注意事項を聞きながら、ガンジャは養殖部位のことを思った。

 これからまた新しくじぶんの遺伝子を持った養殖部位が人工子宮のなかで培養されていく。そしてもしまた病気になったら、きょうと同じように解体され、じぶんの身体の一部と取り換えられるのだ。

 代替可能な部品として育てられ、そのときがきたら呆気なくバラバラにされる。

 脳がなく、意識もない。

 養殖部位は生き物ですらない、とキリサキが説くまでもなく世にはとっくに常識としてそうした解釈が普及している。

 家畜はペットではない、ゆえに食べても罪ではない。殺しても罪ではない。そうした理屈と同義になっている。

 しかしいまでは、食用の人工肉も市場に並んでいる。家畜とはいえど、なるべく命を奪わないようにしようとの考えが急速に拡大しつつある。

 そんな中にあってなお、養殖部位は、それら俎上に載せられることもない。

 命ではないからだ。

 生きてはいない。

 ゆえに、傷んだ肉体の代替部品として活用される。

 それはたとえば、成人男性が自慰によって射精するのと同じレベルの話なのかもしれない。一回の射精で、三億匹の精子が放出される。それを以って、命をいたずらに奪っている、とは見做さない。

 或いは、女性の生理だ。妊娠をせずに排卵をすることを、命を軽んじている、とは言わないだろう。

 精子や卵子と同じくくりなのだ。

 養殖部位は、人間ではない。生き物でもない。

 したがって、それらをどう扱おうとも、何かを損なってはいないし、軽んじてもいない。

 ガンジャはじぶんの考えに一つ頷き、胸中に渦巻いたモヤモヤを振り払った。

 養殖部位は養殖部位だ。

 罪悪感を覚えるのは筋違いである。

「新しい養殖部位の培養のために、細胞を採取させてくださいね。いちおう、保存された細胞もありますが、新鮮な細胞のほうが好ましいので」

「どうぞ」

「ただいま準備いたしますね」

 キリサキが施術室から出ていった。こんどは徒歩だ。どうやら移動円盤は人工子宮の森のなかでのみ利用可能な乗り物であるようだ。

 しばらく待ったが、なかなか戻ってこない。

 遅いな、とガンジャは心細くなる。

 ふと脇を見遣ると、端末があった。キリサキの使っていたものだ。置いていったのだ。

 少し迷ったが、馴染みのある型だったので、ついつい手が伸びた。

 いま話題の速報くらい覗いてもバチは当たるまい。

 ロックはかかっていなかった。業務用だからだろう。

 この手の端末の画面には常時、速報が流れる。

 大衆の声が集積され、逐次垂れ流されているのだが、ガンジャは眉を結んだ。

 都市崩壊、の文字がまず目に飛びこんだ。

 つぎつぎに被害の大きさを示す情報が、怒涛の勢いで踊った。

 いったい何が起きているのか。

 動画があり、それを開いた。

 都市の多くは壊滅していた。建物は壊れ、人々が逃げ惑い、そこらの道路に遺体が転がっている。

 どの遺体も損傷が激しかった。

 何より、映像に映りつづけるアレはなんだ。

 巨大な三角錐が上空に停滞していた。浮いているが、人工物の類には見えない。大きすぎる。人類にあれを造れるとは思えなかった。

 ガンジャは訝んだ。映画ではないのか。きっとそうだ。本物の映像なわけがない。ニュースなわけがない。

 おおかた、キリサキのイタズラだろう。ひょっとしたらこれは何かの実験なのかもしれない。

 臓器移植を謳って、ちょっとした社会実験を行っているのではないか。

 思えば、移植の施術を済ませたという話も、にわかには信じがたい。傷跡がないのはむろんのこと、あんなに短時間に済むだろうか。

 考えれば考えるほど、ここにこうして座っていることがもどかしくなってくる。

 いい加減にしてほしい。

 ガンジャは外の様子を見ることにした。

 待たせるほうがわるいのだ。

 椅子に変形した施術台から立ち上がり、乱暴に端末を置いた。

 すると妙な操作をしてしまったのか、頭上から透明な容器がするすると下りてきた。

 中には心臓らしき臓器が納まっている。

 半分ほどが黒く変色していた。血が溜まり、凝固しているのだ。病に侵された心臓なのだと判った。

 ひょっとしてじぶんの心臓か。

 想像するとぞっとした。

 慌てて施術室から出ていこうとする。

 扉のまえに立つと、自動で左右に割れた。

 一歩足をまえにだそうとして、踏みとどまる。

 床にはキリサキが倒れていた。

 否、キリサキらしき死体が転がっていた、と形容したほうが正確だ。なにせ彼女の頭部は半分に割れていた。頭蓋の中身はからっぽで、虫に食われたくるみのように空洞だ。長髪だけがキリサキらしき面影を残している。

 なぜこんなことに、と疑問する余裕がガンジャにはなかった。

 なぜならキリサキの割れた頭部から、いままさに、ずるずると脊髄を引っ張りだし、回収している人型がいるからだ。

 人間だろうか。それにしては巨躯である。

 全身が光沢を湛えた表皮に覆われている。或いはそれはスーツかもしれない。水銀が巨人の表面を包めば似たような外観になっただろう。

 ふしぎなのは、死体から引っ張りだした脊髄が、パラパラと解けて宙に消えたことだ。

 否、転送されたのだと判る。

 残滓のようなものが最後に頭上に昇っていくのが視えたからだ。

 コイツらは、となぜかほかにもこのような個体が大量にいるのだろうと予感しながら、ガンジャは、集めているのだ、と直感した。

 人体から脳髄や脊髄を、搔き集めているのだ。

 逃げるべきだ。

 逃げろ、逃げろ。

 念じるが、身体は竦んで動かない。

 圧倒的に上位の存在なのだと細胞単位で認めていた。

 命なる概念が一瞬で書き換わったのが判った。

 この者たちをまえにすれば、と痛感する。人間は、意識は、人格なんてものは、未成熟であり、欠陥品であり、何かしらの完成形をなす部位の寄せ集めでしかないのだ。

 銀色の巨人の腕が頭上に迫る。

 ガンジャはその場で、ただしきりに震えることしかできずにいる。

 あたかも死を待ち受ける家畜のごとく。

 意思に反して放出される生殖細胞のごとく。

 或いはひょっとして、使命をまっとうすべく培養液の中で浮遊しつづける養殖部位のごとく。

 強い力が頭部に加わる。

 命の摘まれる音がする。




【全身烏龍茶人間】

(未推敲)


 全身の血が烏龍茶になってしまった。烏龍茶の飲みすぎだろうか。血だけで飽き足らず、涙から小便から、体液という体液がこぞって香ばしい烏龍茶になってしまったのだが、困ったことに、これといってとくに困った事態にはなっていない。

 医者にかかったが、全身の体液が烏龍茶ですね、とのお墨付きをもらっただけで、では次の方どうぞ、と診察済みの判を捺されてしまった。処方箋一つない。

 体液が烏龍茶になっただけで、身体は健康そのものだ。却って汗がべたつかずにサラサラと心地よい。

 あれほど出っ張っていた腹までへっこみ、肌艶までよくなった。

 噂を聞きつけた記者に、小遣い欲しさから事情を話したら、そのインタビューが記事になり、全国的に有名になった。

 かといってこれまた日常生活に大差はない。外を出歩いても、まじまじと遠巻きから顔を見られる頻度は増えたが、劇的な出会いがあるとか、謎の組織から勧誘されるとか、そういった変化はなかった。

 ある日、じぶんの烏龍茶の味の良し悪しを知りたくなった。本当にただなんとなしに、わいの体液は烏龍茶にしてみるとどの程度美味なのか、と気になったのだ。

 過去、自分自身で体液を舐めたことはあるが、それはおおむね生殖器をイジイジしたあとで放出される本来ならば粘着質で白い体液であり、しかしいまならばそれもサラサラとした褐色の液体で、いざ舐めてみると味のほうは、まあ烏龍茶だな、といった感想しか湧かなかった。

 しかし不味くはない。

 飲み物として不合格ではないのだ。

 どういった化学反応の結果で体液が烏龍茶に変わっているのかは知らないが、市販の烏龍茶と比べても遜色ない味である。

 いちど気になりだすと、じぶんの烏龍茶がどのレベルにあるのか、興味関心はむくむくと膨れた。ほかに趣味という趣味を持ち合わせていない我が身のハリのない日常の弊害である。

 スーパーに行って烏龍茶を買えるだけ買いそろえた。店頭に並んでいるペットボトル飲料のものから、茶葉のものまで、烏龍茶と名の付くものは片っ端からだ。しかし家にて味比べを決行するも、どれも似たり寄ったりの味だった。

 これはもう烏龍茶ソムリエに訊いてみるよりない。

 かように思いはしたが、さりとて果たしてこの世に烏龍茶ソムリエなる奇特な御仁がいるのかがまず以って不明であり、もうすこし言えば、たとえいたとしても、その人物に会いに行くほどの熱のあげようではない。探求心ではない。好奇心ではなかった。

 そうこうしているあいだに、世界中の気候が数か月のあいだに乱れて、各地で砂漠化や寒冷地化が進んだ。とくに被害のひどい地区からは人々が避難しはじめ、うちにも大学生になりたての妹が疎開よろしくやってきた。

「なんで俺ん家なんだ。父さんとこ行けよ」

「行ったら愛人が五人も押し寄せてて、修羅場ってた」

「ああ」

「地獄かと思った。死にたくないからこっちきた」

「しょうがねぇな」

「どうしよう。大学もこのままだと閉まっちゃうらしいし、そもそも生活していけるんかな」

「どうだかな」

 世界的気候変動は加速度的に進んだ。もはや手の施しようがないらしい。日に日に被害は拡大し、市場からは日常品だけでなく、食料品まで品薄の様相を呈しはじめた。

「お兄、聞いた? ヨっちゃんとこの町、水道止まっちゃったんだって。復旧の見込みなしだって。たいへん」

「うちに連れてくんなよ」

 睨まれたので、そりゃ可哀そうだけど、と付け足す。「俺らだってこのさきどうなるか分からないんだ。いまはおまえと俺の二人で精一杯だろ。よそ様におすそ分けできる余裕なんかねぇ」

「そうだけどさ」

「まあ、おまえはいいよな。いざとなったら俺の烏龍茶でも飲めばいいんだからよ」

「お兄の? 飲むわけないじゃん。死んだほうがマシ」

 というかどっから搾りだしたやつ飲ませる気、と問われたので、どっからのがいい、と訊き返したのがよくなかった。肩を思いきしどつかれ、閉口する。

 妹が家に転がりこんできてからひと月もすると、世界の治安はますます悪化した。

 外にでると、ただそれだけで人々がこちらに獲物を見るような目つきを寄越す。気のせいかもしれないが、まるでゾンビだらけの街を歩いている気分だ。スーパーは閉まり、買い物一つできなくない。病院もほとんど正常に機能していないそうだ。

 そうしたニュースすら、間もなくして報じられなくなった。

 働く者がいないのだ。

 否、組織としての仕組みを維持できなくなった、というほうがより正しい表現だろう。水道水すら間もなくでなくなった。他方、社会が崩壊しつつある世界にあって、それでも誰かの役に立とうと善意の声をあげる者たちもある。

 余裕のある地域ほど、そうして絆の必要性を説き、それでいてひっ迫した地域や押し寄せる困窮者たちをじぶんたちの居住区には寄せつけないように、武力による防壁を築く。言っていることとやっていることがはちゃめちゃだ。そのことに対する意見の食い違いで、ますます秩序に走ったヒビが深まる。同じコミュニティ内ですら内紛一歩手前の険悪さを漂わせている。

 困窮者に援助の手を、と求める声はすくなくないが、ではじぶんたちの食料を明け渡す意思はあるのか、と問うても、それはじぶんたちの考えることではない、と横を向く。じぶんだけは浮き輪にしがみついて、あそこに溺れている人がいるよ、と叫んでいるようなものだ。せめて浮き輪を持って助けに向かってやればいい。

 だがそんなことができれば苦労はない。余裕がないのだ。じぶんたちの身の安全を保つのでせいいっぱいだ。浮き輪に二人以上がしがみつけば、共に溺れ死ぬのは自明なのである。

 それでいて社会のなかで後ろ指を指されるような反社会的な言動をとれば、それを大義に、いまある余裕を奪われ兼ねない。 

 間もなくすると、他者への支援を促す声すら聞かれなくなった。それはそうだろう。声をあげれば、じぶんの身の安全を保てている者だと自己主張しているようなものだ。誰もがあすを生き抜いていけるか分からない。みな極限の不安のさなかにある。

 我が妹ですら、あれほど蛇蝎視していた我が小便を、ありがたがって飲む始末だ。

「ねぇ、もう出ないの。もっと出るでしょ、もっとちょうだいよ」

「おまえなぁ。おまえはそうやって俺の烏龍茶を飲んでるからいいけど、俺はほとんど飲まず食わずなんだぞ。摂るもん摂らなきゃ出るもんも出ねぇんだ」

 妹はぶすっとし、立ちあがると台所を漁って包丁を手にした。

「な、なんだよ」

「血ならでるでしょ。ちょうだいよ烏龍茶」

「じょ、冗談言うなよ」

「ちょっとくらいいいでしょ。どうせ体液くらいしか能がないんだからさ」

 包丁の切っ先が鼻先をかすった。包丁が畳のうえに突き刺さる。

「ひぃ」

「情けない声ださないでよ。お兄はわたしのお兄でしょ。かわいい妹のためにひと肌脱いでよ」

「だからって生皮剝ごうとすんなよ」

 俺たちゃ兄妹だろ、と異論を投じるが、妹に聞く耳はないようだ。喉の渇きに流され、身体の主導権を奪われている。

 そう言えば、と思いだす。

 外を出歩くたびに浴びた町人たちからの熱い視線は、ともすれば喉の渇きに理性を奪われた狩人の目だったのかもしれない。過去、歩く烏龍茶製造機の題目でいちど有名になった。みなの目に我が身がどう映っていたかを考えると、ぞっとしないものが湧く。腹を空かせた野生のライオンのはびこるサバンナを裸一貫で歩き回っていたようなものではないか。よく無事だったな、とじぶんの幸運にいまさらながらに安堵する。

 妹にはああ言ったものの、このままでは妹は遠からず飢え死にする。日に日に脱水症状で衰弱していく。そうした姿は、目にしているこちらのほうからしても堪えるものがある。

 雨水で腹を満たす日々がつづくが、米も肉もないのでは餓死までの時間を先延ばしにしているにすぎない。野菜もないとくれば、脚気にかかってやはり衰弱死する。

 小便の量は日に日にすくなくなっていく。

 烏龍茶なので日持ちするのがさいわいだ。

 ペットボトルに溜めておき、雨のない日はそれを口にした。

 妹はすでに、こちらの身体を水道のように見做している節がある。小便だろうと大便だろうと、出処に関係なく、差しだせば烏龍茶をがぶがぶと飲んだ。

 大便は下痢のごとく、ビシャーとでる。

 肛門からでようが、尿道からでようが、汗腺だろうが、唾液腺だろうが、我が体液は総じて烏龍茶である。ひょっとしたら、細胞そのものがすでに烏龍茶であり、じぶんは生暖かい烏龍茶ゼリィみたいな生き物なのかもしれないと想像する。

 いちどそうと考えてしまえば、見た目が汚れたグラスみたいなもので、飢えた人間にとってはさして抵抗なく口にできるものなのかもしれない。とはいえ可哀そうなので、妹には小便のほうの烏龍茶を与えた。さすがに肛門からビシャーとでた烏龍茶を飲ませるほど妹がかわいくないわけではない。

 さいわいなのはいまのところ、雨水さえ飲んでいれば身体が不調を訴えないことだ。妹は我が烏龍茶ばかりの生活にすっかりまいってしまっている。

 栄養補給のつもりで、雑草を煎じてお茶にした雨水を飲んでいる。それがかろうじて功を奏しているのかもしれない。妹はやはり日に日にげっそりしていくが、いまのところ我が身から烏龍茶がでなくなるといった危機感はない。

 朝起きると妹が部屋からいなくなっていた。昼まで待ったがなかなか戻ってこないので、わざわざ久方ぶりに着替えてから外にでると、玄関扉のところで妹がうずくまっていた。

「何してんだ、こんなとこで。襲われちまうぞ」

 冗談半分に叱ると、顔をあげた妹の顔半分は真っ赤に染まっていた。血だ。

「怪我したのか」

 おっかなびっくり覗きこむと、妹は目から大粒の涙をこぼし、

「がまんできなかった」

 妹の膝の上にはモフモフした毛がある。

 肉や骨はついていなかった。

 ちゃんと焼いたんだろうな、と口にしかけて、これはいまかけるべき言葉ではないな、と判断を逞しくし、口をつぐんだ。

 この日から、家のそとに罠を仕掛ける習慣ができた。猫や犬や鳥がかかっていれば、捌いて食べた。ほかの近隣住人たちもみな似たような真似をしているようだ。引っ越した者も多いのか、不自然なほど街の人口は減って見えた。

 マンホールから異臭がするようになった。何度も蓋を開け閉めしている跡が見られるが、そこを開けてみようとは思わない。下水処理場が正常に起動していないから下水が溜まっているのだろう、と思うことにして、それ以上の想像は巡らせないようにした。

「さいきんお兄、調子いいね」

「そうでもないが」

「でもお茶いっぱいでる」

「おまえがいっぱい欲しがるからだろ」

 妹は寝るとき以外は絶えずカップを手に持ち、物欲しげにこちらを見詰めている。飢えはひとを狂わせる。カップの中身はカラなのに、多いときでは数秒おきに口元に運ぶので、もはや中毒者を見ている気分だ。

 食事は一日に一回だ。

 捕獲した小動物を捌き、焼き、互いに半分に分けて食べるわけだが、さいきん妹はじぶんの食事をこちらに分け与えはじめた。

「いいよ、おまえの分だろ、ちゃんと食えよ」

「食べなよ兄ちゃん。そんかし、兄ちゃんのお茶ちょうだい」

「べつに構わんけど、肉食わねぇと力でねぇぞ」

「兄ちゃんのお茶のほうがいいんだよ」

 妹は伏し目がちに言うと、すっかり癖になった仕草を、つまりカラのカップを口元に運び、ああそうだったカラだった、と気づくような表情を浮かべた。

 食事の量を増やしたところで特別、小便の量が増えるわけではない。ただし、大のほうは増えるわけで、総合して烏龍茶の出はよくなった。

 だがそれでは二人分の飢えを凌ぐには足りない。それこそ烏龍茶はこの肉体からでているのだ。もちろんじぶんでも飲むが、吐息や発汗で、しぜんに抜け出ていく水分もあるのだから、自給自足にも限界がある。そういう意味では、妹の食料を分けてもらうのは理に適っていたのかもしれない。

 やがて妹は、じぶんの糞尿までこちらに食べさせようとしはじめた。

「さすがにそれは無茶だって」

 拒むものの、

「いいから食べてってば」

 癇癪を起されてしまえば、黙るよりない。「食べて、出して、飲ませてくんなきゃ死んじゃうでしょわたしが」

 平時であれば笑ってしまいそうなセリフを、鼻水を垂らしながら、目を血走らせて吐かれてしまえば、面食らう以外にとれる反応がない。

 あわあわ、と視線をあっちにやったりこっちにやったりしながら、何か体のよい理の文句はないかと探していると、

「だいじょうぶだよ」妹は一転して柔和にささやく。「臭くないよ、ばっちくないよ。わたしだってお兄のやつ飲んでるし、元を辿ればお兄のやつだし」

「うんこってのは胆汁ってのが混じってて、それがけっこう苦いんだぞ」

「なんで知ってんの」

「一般常識だ」

「そんな常識ないって」

「それにおまえは烏龍茶だけじゃないだろ。猫ニャンやワンワン、ほかヘビやら虫やらを食べてっから、それなりに家畜の糞くらいの質の高さはあると思うよ」

 つまりそれくらい濃厚だと思うよ。

 じかに差しだされた妹の糞尿をまえに反論するが、妹にはかような反駁に耳を傾けたりはしない。

「じゃあいいよ、お兄を刺して血ぃ飲むから」台所から包丁を持ちだす妹を見て、ちょい待ち、ちょい待ち、と悲鳴を上げる。「食べる、食べる。兄ちゃんなんか急にお腹減ってきちゃったな、妹ちゃんのひねくりだしたベチャベチャをなんだかとってもたくさんモリモリ食べたい気分」

「じゃあ食べて」

 正座の体勢をとると、目のまえにバケツが置かれた。そこには妹の尿道や肛門からひねくりだされた糞尿が半分まで溜まっている。乾燥していればまだしも、ベチャベチャのミルフィーユだ。泥だってまだカチコチしている。固形食として食べられる。

「妹ちゃん」

「なに」

「コレ戴きますする前に、まずは雨水で試してみてダメ?」

「烏龍茶でるならなんでもいいよ」迷いなく妹は言った。

 許可がでたので、善は急げだ。

 雨水を貯めたポリタンクに、短く切ったホースを差し入れて、先端を口に咥える。直接吸う。お腹がぱっつんぱっつんになるまで雨水を飲んで、吐いてしまえばいい。ひとまずそれを以って、烏龍茶だと言い張ろう。ゲロであることには相違なく、しかし胃液も、吐しゃ物も、その大半はおおむね我が体液であり、烏龍茶だ。

 雨水で希釈されてしまうだろうが、一度くらいなら誤魔化せるだろう。

 そういった姑息な考えのもと、雨水をホースで吸って、喉に流しこんでいくと、空腹のためなのか、ふしぎなことに胃が重くなったつぎの瞬間には、ぼっこん、とへこみ、さらに雨水を飲みこんでも、やはり即座にぼっこんとへっこんだ。

 ごくごくと喉を鳴らす。

 腹は、ぼこんぼこんと拍動を繰りかえす。

 いったい雨水はどこへ消えたのか。

 大腸か。

 それはそうだろう、現に下っ腹が張っている。

 思った矢先に、激しい尿意に襲われた。

 便意ではないことに違和感を覚えるが、そんな思案を巡らせている余裕はない。

 漏れる。

 このままではお漏らしをしてしまう。おしっこシーシーしてしまう。

 べつに妹のまえで漏らすくらいならばいまさら恥とも思わぬが、しかしせっかくの小便を無駄に床にぶちまけることもなかろう。それだけは避けたかった。

 せっかく出るのだ。妹に飲ませてやりたいし、じぶんでも飲みたい。

 雨水が烏龍茶になったようなものだ。

 何か入れ物がないか。

 部屋を見渡すと、妹の糞尿の納まったバケツが目に留まる。しかしそれに入れるのは忍びない。せっかく純なる烏龍茶なのだから、わざわざ妹の排せつ物に混ぜることはない。

 何かないか、何かないか、と探しているうちに尿意が押し寄せ、決壊寸前になった。

「もうだめだ。うひゃー」

 風呂場に駆けこみ、もう何週間も使っていない湯船に、生殖器の先っぽを向けた。

 ジョジョジョ、ジョボジョボ。

 勢いよく烏龍茶が噴きだした。

 ふぅ。

 一息吐きながら、しばらく余韻に浸かる。湯船に泡立ちながら薄くのっぺりと面を広げる烏龍茶の、徐々に濃さを増していく色合いを眺めた。

 ジョジョジョ、ジョボジョボ。

 しかしおかしい。

 一向に止まる気配が窺えない。

 眉をしかめたところで、背後から妹が身を乗りだし、湯船と生殖器のあいだに顔を突きだした。ぎょっとする。妹は口を大きく開け、いまにも我が生殖器を苦千切らん形相を浮かべている。

「ちょっち妹ちゃん、何してんの」

「いいからお兄はそのまま出してて。直接飲む」

「直接ってああた。湯船に溜まったのコップで掬って飲んだらいいだろ」

「だって汚いし」

「どっちがだ」

 言ったものの、たしかに湯舟はこの間、使用していなかっただけあって、埃が溜まっており、烏龍茶の水面にもそれら埃が浮いている。

「濾過して飲むとかさ」

「めんどいし、いいじゃんこのまま飲ましてくれたって」

 もはや妹の倫理観は麻痺している。同時に、じぶんの妹をまえにして生殖器を丸出しにしてなお、烏龍茶をだしつづけている我が倫理観も相応に狂っていると言えよう。一向に恥ずかしくない。羞恥心どこ行った。

「あー、あー、なんか勢いなくなってきてる」

「もう尿意も引っ込んできたわ」

「一口だけ、一口だけでも」

「卑猥じゃないのに卑猥に聞こえるセリフを言うのやめなさいよ」

「だって、だって」

「だいじょうぶだって、ちゃんと灰汁取り器で濾過してから飲めば」

 湯舟には、拳が浸かるくらいの烏龍茶が溜まっている。尿としては尋常でない量だ。これまでで最高記録の放出量である。

 雨水でぱっつんぱっつんだったお腹も、いまではこのとおりだ。お腹と背中がくっつきそうなほどに、スカスカだ。ぐー、と腹の虫が鳴く。

「さっき飲んだ雨水が全部でちゃった感じするな」

「じゃあもっかい出してよ」

「無茶言うな」

 言うものの、喉が渇いたのはたしかだった。

 妹はいちど居間に引っ込むと、雨水の入ったポリタンクを両手で重たそうに引きずってくる。ホースをこちらに差しだすと、ほら飲んで、と目つきを鋭くした。

 渋っても埒が明かないので、ホースを咥えて、雨水を吸った。水分が抜けたからか身体が干からびていた。

 食道を雨水がなぞり、その輪郭を感じる。

 お腹が膨らみ、圧迫感を覚える。

 ふしぎなのは、ここでもまた尿意が押し寄せたことだ。いまさっき出したばかりだというのに、これはどうしたことか。

 消化吸収されずに雨水がそとにでるだけならば、それは下痢であってしかるべきである。便意はなく、なぜか尿意ばかりが募った。

 消化吸収はされているのだろう。

 ゆえに、大量にでる。

 烏龍茶の尿として。

 ジョジョボ、ジョボジョボ。

 心なしさっきよりも勢いよくでた。

 妹がすかさず顔を、我が生殖器のまえに突きだしたので、やめなさいよ、と片手で顔を押さえつけるも、妹は負けじと踏ん張るので、とんでもない表情になっている。妹はなおも、飲ませろや、と息巻き、我が生殖器にカブりつかんとする。

 威嚇の意をこめてなのか、歯をジャキン、ジャキン、と嚙み合わせるので、我が生殖器は、意気阻喪した。

 そのお陰かどうかは分からぬが、かろうじて尿意を耐えることができた。コップを持ってこいと妹に命じ、なぜか持ってきたカラのペットボトルの口に生殖器の先っぽをあてがい、烏龍茶をそそいだ。

「コップを持ってこいって言ったんだ」

「こっちのほうがいっぱい飲めるでしょ。溢れたらもったいない」

 妹の言う通り、あっという間にペットボトルが満杯になった。あべこべに雨水を溜めていたポリタンクがおおむねカラになり、というのもこの間、ずっとホースで中身を吸っていたからだが、慌ててそちらに生殖器の矛先を変え、烏龍茶をそそいだ。

 出しきると、ちょうど雨水を飲んだ分だけの量が溜まった。

 妹はペットボトルにそそいだばかりの新鮮な烏龍茶をものの数秒で飲み干すと、カラになったそれに風呂に溜まったほうの烏龍茶を補填した。満腹感に恍惚としながら妹は満タンのペットボトルを眺め、ひとしきり酔いしれたあとで、ふと我に返ったように、ぽんと手を打った。

「お兄さ、もうずっと食べてなよ」

「何をだよ」

 唐突な提案に、突っぱねるよりさきに受け答えしてしまった。妹は言った。

「何でもだよ」

 ガツンとこめかみに衝撃が走る。

 意識が弾けた。

 浮遊感と共に身体が傾いていく重力の移ろいを感じながら、掠れる思考の壇上には、妹が烏龍茶の満ちたペットボトルを振りかぶった姿が、残像となって浮いていた。

 息が苦しくて目覚める。

 身体が動かせない。目隠しをされている。

 手足が拘束されているようだ。身体を揺すろうとしてびくともしないことに気づき、じぶんが簀巻きにされていると察する。

 背中に壁のような感触がある。

 いや、床だろうか。

 気を失う前に立っていたが、いまは寝ているようだ。平衡感覚が掴めない。

 直前の記憶を思いだし、何があったのかを考える。どう考えても妹の仕業だ。それ以外に考えられない。

 物音がしたので、文句の一つでも鳴らそうとしたのだが、声がでなかった。

 口が塞がれている。

 塞がれているだけでなく、口のなかに何かが詰め込まれているようだ。

 舌は動くが、まるで口のなかに小屋が建ったように閉めることができない。何かが邪魔をして、閉じられないのだ。顎がつねに開いている。

「あ、起きた?」

 妹の声がした。「お兄、すごいよ、見てこの量。入れれば入れるだけでるの。ウハウハだね」

 妹はご機嫌のようだが、何かが妙だ。

 身体に虫が這ったような感触があり、間もなくそれが妹の手だと判る。矢継ぎ早に、じぶんが素っ裸なことを察した。

 腹部に違和感がある。尿意が絶えずそこで、ボコボコと泡を立てているようだ。生殖器の根本が騒がしい。ジャージャー、と液体の流れる躍動を感じる。血管が切れて血が噴きだしているのではないか、と不安になるほどだ。

 どうなってんだ、説明しろ。

 かように声を荒らげようとしたのだが、口はなおも塞がれたままだ。何かが口内を占領している。

 口の中だけではない。

 呼吸が苦しいことに気づく。喉にまで何かが詰まっていると察する。

 気管は無事だ。

 食道のほうに、ノズルのようなものが詰まっている。

 否、詰まってはいない。

 絶えず胃のなかに泡立つような振動を覚え、何かを流しこまれていると知る。

「苦しい? だいじょうぶ? 死にはしないと思うからだいじょうぶだよね。わたし、お兄の妹でよかったって思ったよ初めて。すごいよ。こーんなにいっぱい飲み物があるんだもん」

 妹の声は恍惚としていた。あたかも財宝を目のまえにした王妃のような響きがある。王妃に会ったことはないのでもちろんこれは想像上の偏見にまみれた所感であるが、逆らわないほうがいいと否応なく本能が告げるほどに、妹の声からは、正常でない者の立てる響きがあった。あたかも生きている次元の異なるような、どうあっても干渉することの適わない自然災害じみた響きだ。

 脅威、と遅れて文字が浮かぶ。

「もっといっぱいとってくるね。どんな素材だとダメかを実験しなきゃだから」

 その言葉ですべてを察した。

 ツンと喉に突きあがるような臭いがあり、腹にそそがれているモノの正体を知る。

 バケツに溜まっていた我が妹の排せつ物のミルフィーユを思いだす。吐き気がこみあげるが、えづくこともできずに、フォアグラのために太らされるカモさながらに、胃の中に、素材なる物体を、のべつまくなしにそそがれた。

 排せつ物だけに留まらせるつもりが妹にはないようだ。

 間もなく、束の間の休息のあと、部屋にはゴリゴリと物体を細かくすりつぶすおとが反響し、間もなく、ベチャベチャと音を変えたそれらが、ふたたび我が腹のなかに投入された。

 途中からは目隠しが解かれた。

 妹は、あたかもこちらが指示したからそうしているのだ、と言わんばかりに、細かく砕く素材を顔のまえに掲げた。

「猫さんでしょ、犬さんでしょ、ヘビさんに、ダンゴムシさん、あとは仕上げにミミズさんもいれちゃおう」

 捕獲したらしい小動物や虫たちの死骸を包丁で細かく切り刻むと、すり鉢に放り入れて、片っ端からすりつぶしていく。ゴリゴリぐねぐねと聞こえる音が、間もなくネチョネチョになる。

 そうして妹は、それらすり潰した団子を、水で溶いて、我が口のなかにそそぎこむ。漏斗を使ってホース越しに呑まされるので、舌を経由せず、ゆえに味はしない。胃のなかに直接それらが溜まっていくのが判る。

 吐き気がするが、やはりどうあっても吐きだせない。

 呼吸をし、胃に栄養を送りこまれ、それらを矢継ぎ早に烏龍茶にする機構があるばかりだ。妹はこちらを人間として扱ってはいない。兄として見做してはいない。じぶんが生きながらえるために神が寄越したもうた奇跡の烏龍茶製造機としか目に映っていないようだった。

 あべこべに、妹のこちらへ向ける声音には、かつてないほどの慈愛の響きが滲んでいた。人間でないものへ向ける妹のやさしげな眼差しが余計に我が身を居たたまれなくする。

「お兄、すごいよ、すごいよ。これだったら近所のひとたちも、ううん、街のひとたちだってみーんな助けてあげられるよ」

 救えるんだよ、すごいよすごいよ。

 妹は嬉々として謳った。

 烏龍茶は絶えず我が生殖器から溢れつづける。ナイアガラの滝だってもうすこし息継ぎをしそうなものだ。

 妹は容赦がなかった。

 寝ていようが、失神していようが、窒息寸前になっていようが、とにかく人間が消化吸収可能なものを、のべつ幕なしに細かく砕いて、流動食にし、こちらの胃に流しこむ。数日もすると、それがふつうになってしまって却って、途切れたときのほうが苦痛だった。

 というのも、息をするたびに、胃からこみあげる臭気が悪心をもよおす。かといって嘔吐できるわけでもないので、ただただ不快な思いをするだけだ。

 つねに上から下へと流動食をそそぎこまれるほうが楽だと思うようになってからは、妹の気が済むまでこのまま付き合ってやるか、という気分になっていた。

 妹の主張には一理あるのだ。

 原理は不明だが、この肉体には、消化吸収したものを烏龍茶に変質させ即座に放出できる能力が備わっている。しかもその烏龍茶はただの烏龍茶ではなく、ある種の完全栄養食のような側面がある。

 というのも、妹はじぶんの分の食料の総じてをこちらに投じてなお、日に日に生気を取り戻していく。顔色もよく、夜などはいびきを掻いて、すやすやと寝ている。以前は不眠症さながらにカラのカップを手放さずに、ずっとぶつぶつと何事かをつぶやいていた。

 いまはどうかと言えば、以前のような溌剌とした小憎たらしい性格を取り戻しつつある。もうすこし待てば正気に戻って、なんてひどいことを兄にしてしまったのだ、と気づいてくれることだろう。

 かように期待していたのだが、ひと月が経ち、ふた月が経ち、半年もすると、どうやら悠長に妹の気が変わるのを待っていられそうにないぞ、と認識を覆さざるを得なくなった。

 妹はすでにそのとき、この街を中心とした一帯を統べる女王のような立場に昇りつめていた。

 それはそうだ。

 社会基盤の崩壊した時代にあって、安全な飲料水のみならず、それを飲んでさえいればひとまずの生命活動を維持できるというのだから、役に立たない金塊やら紙幣やらとは比べ物にならないくらいの資本を独占していると呼べる。

 我が烏龍茶はいまや黄金よりも価値があるのだ。

 新時代の統治者である。

 妹は、身辺を忠実なしもべたちで固め、組織を拡大することに躍起になった。

 最初はどうやらそのつもりはなかったようなのだが、烏龍茶を横取りしようとする輩があとを絶たなくなったので致し方なく護衛をつけたところで、その勢力があれよあれよと拡大してしまった顛末があるようだ。かってに周囲が妹を担ぎあげる。乗せられた神輿から降りることもできずに、妹は気づいたら巫女のような扱いを受けていた。

 意思に反した出来事であるにせよ、妹は現状その地位に甘んじ、じぶんに都合のよい環境を戸惑いながらも満喫している。

 日増しに我が体内にそそがれる流動食は増え、あべこべに放出される烏龍茶の量も増えた。

 初めは椅子に縛っていただけの拘束器具も、いまでは広域なバリケードのなかに幾重もブロックを積みあげ、巨大な要塞のテイを醸している。視界はない。暗がりに包まれている。仮に我が身を奪取しようと襲撃する者たちがあったとしても、中枢にがんじがらめに仕舞われた我が身まで辿り着く真似はできないだろう。ミサイル程度の攻撃ならばびくともしないのではないか、と思うほどの厳重な設備だ。

 そうだとも。

 もはや我が身は、妹のもとに集いし者たちの命を繋ぐ社会基盤そのものとなっている。こうしてじぶんが暗がりで延々とお腹を満たし、小便を垂れ流しつづけることで多くの命が飢えをしのぎ、生きる活力を取り戻せるというのなら、我が身の自由を手放すくらいは、やぶさかではない。 

 いったいどれくらいの時間が経過したのか。

 巨大な要塞の奥底に安置された時点で、時間の経過が掴めなくなった。寝て起きたらもう時間の感覚を見失った。それはそうだ。基準がない。いったいどれほど眠っていたのかが分からない以上は、どれくらい時間が経過したのかも、寝るたびに見失う道理だ。

 せめて外部とコミュニケーションが取れればよいのだが、もはや妹が話かけてくることも、顔を見せることもない。

 元気ならばよい。

 もしこれが逆の立場ならば、何を擲ってでも妹をこの境遇から救いだそうとしたかもしれないが、じぶんが耐えればいいだけならばそれもまたよしとできる。

 どの道、死んでいた命だ。

 偶然、無尽蔵に烏龍茶をひねりだせるだけの能力を授かっただけにすぎない。それだって物質の外部供給がなければあすにも干上がる。大勢に活力漲る烏龍茶を配るには、この状態が最も効率がよい。人権なんてものは、平和な社会がまずあってこそ守られるものだ。まずは平和を築かねばならない。そのために一人の益体なしの犠牲が必要というのなら、すくなくとも我が身を差しだすのに躊躇はない。

 というのも、なかなかに居心地がよいのだ。すっかり慣れてしまった。

 全身の体液という体液が烏龍茶だからなのか、つねに清潔が保たれているようだし、意識も鮮明だ。眠くはなるが、かといって眠らなければならないか、と言えばそうというほどでもない。寝るのは単に退屈だからだ。

 ただ、ふしぎなのは五感の刺激が極端に遮断されているからなのか、過去の記憶が日に日に鮮明に思いだせるようになったことだ。体験した記憶はもちろん、見聞きした記憶まで、いまここでそれを行っているかのごとく質感を伴ない、再現される。映画を観ているような、ではないのだ。じっさいにもういちどそれをじぶんが行っているような感覚なのだ。

 これには驚いた。

 まずはじぶんの部屋を再現し、そこで読んだことのある漫画や小説を片っ端から再読した。本来ならば絶対に覚えていないような内容を、細微まで憶えている。

 否、憶えているわけではないのだ。

 なぜなら読み直すたびに、新鮮な好奇心の充足を感じるからだ。

 記録でしかない。

 意識の壇上にない、記憶の底に沈んでいる記録を、再現し再読することで意識の壇上にふたたび昇らせる。

 意識下にあった情報を、意識上に持ってこられる。

 読書に限らずこれは、かつて見聞きした情景であれば難なく行えた。

 ふしぎな感覚だった。

 じぶんだけの世界を創造しているような、ある種万能感に包まれる。

 こうしたじぶんだけの世界を構築し、浸っていられたことが、暗がりに閉じ込められた境遇への憤りを限りなく薄く、ないものとして認識させた。

 苦ではなかった。

 自由な世界が、閉じ込められた先に開かれていたからだ。

 どちらかと言わずして、荒廃した世界にあって最も安全な場所でのうのうと生きていると言えばその通りだ。引きこもりみたいなものだ。自室で仮想現実のゲームにうつつを抜かし、つねに間食を絶やさず、排せつ物も好きなだけ垂れ流し放題だ。

 これのどこに不満があるというのか。人間は文化を発展させつづければいずれは植物化するのではないか、と予想した作家は数知れない。なるべく労力を費やさずに三大欲求を満たし、残りの自由時間を好きなことをして過ごせればそれが至福のひとつの究極の在り様ではないのか。

 食欲、睡眠欲、排せつ欲はどれも満たされる。性欲だけはいかんともしがたいが、それもいまでは空想世界を操り、自在に満たせるようになった。夢精ではないが、そうした体液もまた、生殖器に繋がれたホースによって収集され、みなの口へと運ばれる。いずれも烏龍茶であるので問題はない。

 認識の違いだ。

 牛、豚、鳥、蛙、昆虫、どれも貴重なたんぱく源であることに異存はない。見た目の違いで抵抗を覚える個人があるだけだ。それら抵抗感はのきなみ社会によって後天的に擦りこまれた仮初の価値観に過ぎない。偏見なのである。錯誤である。

 魔法の烏龍茶があるならばそれの出処など関係ない。命を繋ぐことができるのだ。飲まない、という判断はない。もしあるのならばそれはのきなみ、それの出処への嫌悪感であり、見たくない場所から湧きでた液体ゆえに飲みたくないのだと言われたならば、では見なければいいと、蓋をして、その奥底へと源泉たる男を封じるのは合理的であれこそ、不合理ではない。

 不条理では、という問いには、当の本人が満足しているという回答でひとまずの問答は潰える。だが果たしてこちらのそうした所感は伝わっているだろうか。我が妹は、兄を犠牲にしてみなを救うことに呵責の念を抱いてはいまいか。

 いちど気になると、居ても立ってもいられなくなり、そういう場面を想像した。記憶のなかの空想世界で妹がとるだろう行動を幾通りかの筋道に分けて再現した。未来を思い描いた。シミュレーションと言えば端的だ。

 いくつかの妹は、統率者としての仕事に忙殺され兄のことなど考える暇はなく、ほんの例外的な妹は、兄の自由を奪った罪の意識を誤魔化そうと、周囲に眉目秀麗な若者を男女区別なくはべらせて、じぶんだけの楽園を築きあげていた。

 どのように転んでも我が妹は、荒廃した世界の救世主として生を満喫する。我が物顔と言えばその通りで、独裁者と言っても間違ってはいない。

 資源を独占せずに等しく分配しようとする姿勢だけは貫徹しており、それゆえにいまのところ大きな反乱は起きていないようだ。

 もちろんこれは空想世界のシミュレーション結果であり、現実の妹がどうなのかは真実のところでは判らない。だがそれでも十中八九、苦しんではいないのだ、と予感できた。元からそういう気質の女なのだ我が妹は。

 ならばお互いに身を投じた環境をぞんぶんに楽しむだけだ。逃げだしたいと思えるほどの劣悪な環境ではない。むろん、妹にしろ我が身にしろ、投じたくて投じたのではなく、致し方なく適応しなければならなかった過去があるばかりであるが、適応できてしまったのだからひとまずはこの境遇を甘んじて受け入れ、より至福にふさわしい時を過ごす以外にすべきことはないと言えた。

 解放されたいとの欲動はなくなって久しい。

 自我にしろ意識にしろ思考形態にしたところで、多重に同時体験可能な空想世界を構築できるようになったことで日に日に拡張され、増強され、発展している。このままだと現実と空想の違いは、肉体の有無以外になくなりそうだ。否、すでになくなっていると呼べる。

 空想世界では幾度も死ねるが、現実では一度しか死ねない。

 ひるがえって、空想世界では、現実世界では試せないあらゆる挑戦を行い、実験を試し、楽しめた。

 もはや現実に帰るメリットはない。

 このまま空想の世界で、肉体が滅びるまで遊び倒したい。

 妹は感謝するよりない。期せずして最適な環境が手に入った。

 こうしてのほほんと楽しい暮らしを幾重にも同時に体験しながら、現実では多くの人々の命を支えてもいる。役に立てている。まったく何の苦労も割いていないにも拘わらず、身内たる我が妹の至福の一助を担えている。

 ある日、変化が生じた。

 ささやかな変化ではあったが、目を瞠る変化でもあった。

 空想世界では最初、じぶんの視点からでしか世界を眺められなかった。時間も時代も超越できた。ただし、主観から脱して世界を体験することはできなかった。

 だが、いつしか日に日に、他者の視点でも日々の営みを送れるようになった。主観よりも演算能力を駆使するためか、一つの視点には一つの流れしか映らない。時間しか流れない。過去を見ることも、べつの可能性を辿ることもできない。

 ただし、同時に無数の視点で、同一の世界を垣間見る真似ができた。

 種から芽が萌えたような感動を味わう。

 あたかも映画の登場人物それぞれから見た物語を眺めている気分だ。シリーズ物の群像劇を観賞している心地にも似ている。

 本来ならば映ることのない脇役の生活にも、極上の物語が潜んでいると知った。なるほど、あちらの奇跡のような出来事の背景には、こちらのドラマティックな悲劇が関わっていたのか、といった塩梅だ。そこかしこで、花が咲いたので地獄の蓋が開き、悪魔が囁いたから救世主が産声をあげる、といったねじれた筋道が、時間を超越して、あちらこちらで運命の糸を絡ませ合っている。

 世界はこうも錯綜した糸でつむがれた編み物であったのか。

 ときには、ある人物や集団の思惑が、事態をこんがらがらせることもある。意図通りに思惑が進むこともあれば、予想外に道を逸れることもある。水を広く行きわたらせようとして結果として象の群れを暴走させてしまうような失態が起こり得る。

 むろん多くの錯綜する運命の糸は、人の意図に関係なく、偶然の連鎖によって絶えず絡みあい、打ち消しあい、世界という編み物を広げつづける。

 原因はつねに無数に点在するが、ではそれら原因がなければその事象は引き起らなかったのか、というと、必ずしもそうではない。原因と呼ばれるものの多くは、たいがいはきっかけにすぎない。きっかけがなくなったところで、別のきっかけが生じれば、似たような景色を広げ得る。

 ドミノのようなものだ。

 ドミノが敷かれてさえいれば、どこから倒れるのかは問題ではない。どこかしらに何かしらのきっかけが触れ、倒してしまえば連鎖して生じる事象というものがある。否、おおむねの事象というのはそういうものだ。つねにドミノの一端をなし、きっかけとなり得る。同時に、生じた事象を打ち消す事象というのも引き起こっており、ドミノの全体像そのものが一つのドミノの駒として機能する。

 フラクタルなのだ。

 一は全であり、全もまた一だ。

 ちいさな素子は大きな流れをつくり、

 大きな流れはちいさな無数のうねりを生み、

 無数のうねりはまたどこかでちいさな素子を削りだす場として働く。

 流れ、うねり、素子、これらの循環そのものが一つの流れとして、ときにうねりとして、或いは素子としての性質を帯びる。

 複雑だ、と思う。

 この世はこうも緻密なからくりのごとく回路を築き、その回路すらいっときとして同じ動きを見せない。つねに変化し、その変化の軌跡そのものが揺らぎを伴ない、一定でない。

 ふしぎだ、と思う。

 あるときふと、気づく。

 どの人物の視点からも見えているのに、誰一人として立ち入ることのない建物がある。

 あれはいったい何であろう。

 ここはいったい何であろう。

 我が妹の視点でも世界を眺めることはできた。

 ふしぎと、我が妹のみ、思考のようなものを垣間見られた。

 それを盗み見と言っても間違ってはいないが、しかしこれは暗がりに閉じ込められた我が肉体の見る夢想にすぎない。真実に妹の思考、視点を覗いているわけではない。

 だが夢想のなかの妹の意識に同調すると、じぶんが妹に乗り移ったかのように動き回れる。ほかの者たちではこうもいかないし、これといって妹を動かしても面白くはないので、というのも、妹は統治者として忙しく、ときに権威を用いて制限なく他者を動かせるので、そういう意味で、面白みが薄いからだが、建物の中身が気になったので妹を操り人形のごとく動かした。

 記憶を読めればよかったのだが、どうやらそこまでの同調はできないようだ。これが現実ではなく妄想の世界であるから、当然と言えば当然だ。

 妹に同調し、行動するなかで幾人かに、あの建物はなんだ、といった問いを投げかけたが、いずれも愛想笑いを誘うだけで、明確な答えをもらえなかった。

 どうやら妹の築いたコミュニティにとって神聖な場所であること以外を見抜くことはできなかった。ややもすると、誰もが承知していて然るべき建物ゆえに、よもや統治者たる妹がそんな質問を真面目に投じるとは思わなかっただけの可能性もある。

 このコミュニティの大部分は、我が妹の指示よって拡張されてきた。建物の大部分も、その役割や用途を妹が決めた。むろん、配下にはそれぞれに専門家がおり、意見を集めたうえでの判断だが、基本的にここは我が妹の箱庭だ。おもちゃ箱のなかに築かれた都市のようなもので、妹の息のかかっていない建造物はないと言える。

 であるならば、むろん我が妹が無断で立ち入っても問題はないはずだ。

 街のなかを移動し、問題の建物に近づく。

 道中、どんどん人気がなくなり、見通しがよくなっていく。

 離れた距離からでも、建物の入り口付近に立つ警備隊の姿が目視できた。

 物々しい警備だ。

 巨大な建造物だから、というのは理解できるが、それにしては立ち入る者の姿がない。いったい何を厳重に守っているのだろう。

 神殿さながらの階段をのぼる。警備隊の誰かが報告したのだろう、責任者らしき女が寄ってくる。歳は五十半ばといったところか。

「何か御用でございますか」

「ああ、いやね」

「おひとりでございますか。お供の者たちはいずこに」

「ただの散歩だから」

「万が一のことがあってはたいへんです。お帰りの際はどうか護衛をいっしょに付添わせてください」

「んーまあ、そうだね。じゃあお願いしようかな」

「なかにお入りになられるのですか」

「お願いできるかな」

 女は建物の入り口を見あげた。

 建物に対して門はちいさく、家の戸くらいに質素だ。現に、見た目は鋼鉄の襖といった塩梅で、横に滑って開く型の扉だと判る。

「原則、誰の立ち入りも許されておりませんが、その規定に元首さまが入っているかどうかが不明です。元首さまがお望みならば立ち入りそのものは可能ですが、しかしどのような理由かをご説明していただけるとさいわいです。何かあった際に、こうしたミスを挙げ連ね、元首さまを陥れようとする輩が出てこないとも言い切れませんので」

「それはそうだね。えっと、そもそもこれって何の建物なんだっけ。ちょっとド忘れしてしまってね」

「あの、それは、えっと」

 質問の意味を測りかねているようだ。試されていると勘違いしたのか、女はややあってから、命の泉です、と答えた。

「命の泉?」

「はい。この中には我々にとって、いいえ、人類にとってなくてはならない命を繋ぐうるおいそのものの湧きたつ泉が厳重に祀られております」

「ああ、そうだっけね」

 女はそこで何を思ったのか早口になり詳細な説明をしだした。要約すれば、平等に誰もが命のうるおいを口にできるが、あくまでこれは元首のものであり、民はそのおこぼれをあやかっているにすぎない。誰もがみな元首に、すなちわちこの肉体たる我が妹に感謝し、敬愛し、忠誠を誓っている、とそういう耳の痒くなりそうな文言が並んだ。話が命の泉から逸れはじめたので、いやありがとう、と言って遮る。「もういいよ。充分承知した。で、なかには入れるのかな」

「それはええ、元首さまがお望みであられるのなら」

 女が先導し、建物の扉のまえに立つ。女は無線らしき機器で、ほかの面々と連絡をとった。いまから元首と神殿に入る、見張りを強化しろ、といった指示がなされた。

「ついてくるのか」

「可能であれば。元首さまに何かあったのでは、この身一つを捧げても償いきれません」

「なかに人は?」

「誰もおりません。この数年、誰も立ち入った者はないのです。ただでさえ薄暗いうえに、足元が覚束きませんので、せめて付き添いの一人でもなければ危ういかと」

「まあ、好きにしたらいいけど」

「なかに入ってからは鍵をお閉めいたしますが、どうかご気分をわるくなされないでください。いちおう、ほかの面々には言い添えておきましたので、万が一閉じ込められても助けはあるものかと」

 これがいっぱいいっぱいの対応だ、と暗に示されているようで愉快だった。

「ありがとう。無理を言ってすまないね。この礼はいずれ」

 女はそこで意外そうに固まった。呆気にとられたことを悟られまいとしてなのか、髪を噛んでしまったわ、といった調子で口元をゆびで拭い、こんどは一転して阿諛に染まった破顔で、わたわたと手を振った。「そんな、めっそうもございません」

 扉をくぐり建物のなかに入ってから、ひょっとして、と思い至る。我が妹は、元首としての立場に甘んじるがあまり、他者への礼儀を忘れてしまったのではないか。配下の者たちに傲慢に接しているのではないか、と思い、さもありなんだ、と合点する。

 これまでにも妹の挙動を、他者の視点で垣間見る機会があったが、なるほどたしかに以前から兄たるこちらにしていたような態度とまるで変わらなかった。我が身にしていたような辛らつとも呼べる態度を他者にも向けていたとなれば、礼の一つがあっただけでも驚くかもしれない。

 我が妹の未熟さに、恥ずかしくなる。これが我が身の見る妄想の世界だと承知のうえで、申し訳なく思った。

 建物のなかに明かりはなかった。松明代わりの懐中電灯を手にすると、女は先導して道案内をした。

 まっすぐと命の泉とやらに向かっているようだ。目的がそれ以外にあり得ないのだろう。建物自体がそもそも命の泉を保護するために建てられた防壁なのだとすれば、なかに入ろうとしたならば、命の泉に用があると考えるしかない。

 淡々と道を進む。いちど広い空間に出たが、突き当りの巨大な壁面に一本道の空洞が開いていた。そこを突き抜けていく。

 女の言うように、足場は不安定だった。とくに壁面の一本道に入ってからは、植物なのか、何かしらの機器の管なのか、無数の蔓のようなものが床だけでなく壁や天井をジグザグと覆っていた。

 建物のなかに入ってからはずっと耳鳴りじみた音が空間を満たしていた。虫の羽音にも似たそれは、壁面の通路を進めば進むほどより低く、大きく、鳴り響いた。振動が身体の芯を、背骨ごと揺るがすようだった。

 巨大な機械が駆動しているのだと思った。モーターのようなものだろうか。ずいぶん細かい箇所まで補われた空想世界だ、とじぶんの想像力に舌を巻く。

 間もなく銀行にありそうな厳重な扉が現れた。真ん中にハンドルがあり、それを回して開ける型だ。一つ開けると、さらに厳重な扉が現れ、女はつぎつぎに開けていく。全部で扉は五つあった。どれも開け方が異なり、奥にいくほど厳重な鍵や暗号が必要だった。アナログの鍵だ。

 最後の扉はよこに滑らせて開ける型だったが、あまりに扉が分厚く、重かったので二人して、汗を掻きながら全身運動をした。

 隙間から熱気が噴きだしたので、反射的に飛び退いた。

「ポンプの熱気です」女は言った。「わたくしもここまで立ち入るのはこれが二度目です。故障もなく、ずいぶん長いあいだ働きつづけていますが、そうですね、さすがにそろそろ点検やら改善やらしたほうがよろしいかもしれません」

 いまこの場で思い至ったのだろう、女はまるでそれこそがこちらの狙いであったかのように、畏まった。深い思慮があってのことだったのですね、といった敬意を感じたが、まったくの的外れで、うんとかまぁとか言って取り繕う。

 円形の空間だった。

 否、奥にはいけない。扇形にかたどられた空間だ。

 真ん中に巨大な瓢箪めいた機器がある。表面は金属で覆われているが、ところどころに配管が覗いている。空間を俯瞰すれば蕾のなかの子房といった感じかもしれない。それをもっと端的に、子宮と言い換えてもよい。

「これが命の泉?」

「元首さまが我々に与えてくださったすべてがここに」

 つまり我が妹は、これをみなに提供したことで現在の地位に君臨できた。これが空想の世界だとして、元々は我が身の記憶が種になっている。ならば我が妹が民に与えている命のうるおいとは、我が身からとれる烏龍茶のはずだ。

 つまるところ、このなかに我が身が封じられている。

 そこで眠るじぶんを、分厚い殻の向こう側から、いまじぶんは妹の肉体を通じて眺めている。妙な感覚だ。夢を夢と自覚しているような浮遊感がある。

 むろんこれは妄想のはずだ。

 しかし、本当にそうなのだろうか。

 全身から烏龍茶の湧くような体質なのだ、いまさら何が起きてもふしぎではない。そう感じた。

 我が妹の肉体を動かす。

 入れ物の表面に触れる。

 足場は平坦だ。通路とは違い、配管が剝きだしになったり、木の根のように入り組んでいたりはしない。

 命の泉の入れ物には、毎日大量に街で生みだされるあらゆる有機物がそそぎこまれる。あべこべに、それに見合う大量の烏龍茶が捻出され、それを糧に街の民は、日々不足しがちな食料の足しにし、ときに活力そのものを得る。

 誰より烏龍茶を飲料しているのは言わずもがな我が妹である。

 入れ物の表面に触れた手のひらがじんわりと熱を持つ。

 反応している。

 錯覚か。

 否。

 真実に、この分厚い壁の向こうにある我が身と共鳴しているのだ。

 妄想ではないのか。

 ひょっとしていままで見ていた、大勢の村人たちの視点からの光景は、真実に他者の視点からの光景だったのか。

 我が身から溢れだす烏龍茶を村人たちは口にした。そうして体質を変えた他者の精神に、烏龍茶を通して干渉できていたとでも言うのだろうか。

 解からない。

 だが。

 もはやこの手に伝わる熱が、妹の手のひらに帯びた熱なのか、それとも我が身の手のひらに帯びた熱なのかの区別がつかなくなっていた。

 夢と現の境が溶けだしている。

 すぐそこに妹がいる。

 じぶんの肉体がある。

 出られるのではないか。

 これが我が身を奉納する器であるならば、建てたときと逆の手順を辿れば解体できるはずだ。

 そもそも、完全に封じられているのだろうか。

 そうとは思えない。

 我が身は外部と管(くだ)で繋がっている。

 烏龍茶は無尽蔵ではない。対価がいる。食事がいる。

 摂取した分の栄養を体液にし、その体液がふしぎな効能を有する烏龍茶となって我が肉体から出ていくのだ。

 もし管が詰まれば我が身は餓死するよりない。

 ならばそうした不測の事態が発生したときに即座に救出できる術が確保されているはずだ。

 案の定、しばらく容器の側面を妹の手で探ると、基盤を見つけた。たくさんのスイッチが並び、そのなかに厳重に封のされている蓋があった。

 我が妹がそれの表面に触れると、赤く光っていたランプが青色に変わった。

 ロックが解除されたのだと判った。

 蓋を開けると、レバーが現れる。

 妹の肉体を通じてそのレバーを真上に押し上げた。

 するとどうだ。

 ガコン、ガコン、ガコン、ガコン、と連続して何かしらの機構が外れる音が響いた。

 足元に液体が広がる。

 烏龍茶だ、と察する。

 ゴポゴポと口周りが煩わしい。

 嵐に似た唸るような轟音が鼓膜を揺さぶる。

 顔の表皮に風が当たるのを感じ、次点で鼻から液体がドバドバと流れでた。

 妹の知覚ではない。

 これは我が肉体だ。

 鼻腔がカラになり、深く息を吸うと、刺激臭が脳髄を貫いた。

 ひどい臭いに包まれている。

 それはそうだろう。

 長らく身動きの取れない狭い空間に押し込まれていたのだ。

 汗が溜まり、全身を浸していたようだ。それもまた烏龍茶である。

 隙間が開いたので、それらが排出されたのだ。

 もがくようにすると、身体に繋がっていた管が順次外れた。

 光の筋がある。

 隙間だ。

 目のまえの壁にもたれかかるようにして押すと、思ったよりもすんなりと開いた。

 思考が朦朧としている。

 夢心地が抜けない。

 赤色灯の明かりが空間から色合いを奪い、一色に染めあげていた。

 液体の流れる音が、ジョボジョボとチョロチョロといくつか重なり合っている。

 足を踏みだすが、段差になっていた。

 体重を支え切れず、その場に崩れ落ちる。

 地面にひざまずくカタチになった。

 液体がテラテラと生き物のように波紋を立てている。

 足がある。

 じぶんのものではない。

 辿るように見上げるとそこには、見慣れた妹の姿があった。

 彼女はなぜじぶんがここにいるのかと困惑しつつ、こちらから目を離さない。

 一瞬、じぶんを見下ろす妹の視点に繋がった。

「やめて」

 妹が耳を塞ぎ、叫んだ。「お願い、もう許して」

 許すも何も、と力が抜ける。

 別に怒っちゃいないし、責めてもいない。

 無事でよかった。

 狭い容器の中に閉じ込められたのは悲しかったが、こうして無事に外に出てこられたのだ。長い夢を視ていただけだ。実害はない。

 世界がたいへんだったときに、すこしでもみなの役に立てたなら本望だ。

 そういったことを言葉にしたかったが、上手く声帯を震わせることができなかった。

 肉体が弱体化している。それはそうだろう。動かせずにいたのだから。

「怒ってないの……」

 念じただけでも通じたようだ。

 どうやら烏龍茶を介して、神通力にも似た能力が開花したようだった。

 開花というよりも、拡張された、というべきか。

 みなの細胞を我が肉体のように扱える。

 だがそれを悪用しようとも、利用しようとも思わなかった。

 お願いがあるんだが、と念じる。

「何……」

「美味い料理を食べたいんだが」とこれは無理をして声に出した。掠れた声でも妹には伝わったようだ。

 彼女は何度も頷き、

「任せといて」と言った。

 妹に支えられ、建物の外にでる。

 振り返るとここが神殿じみた建物であったことを思いだし、やはり一連のあの夢は、夢ではなかったのか、と驚嘆に駆られた。

「みんなに紹介しなきゃ」妹はぷつぷつとつぶやき、「どう説明したらいいのやら」と眉間に深い皺を刻んだ。

 久しく見なかったうちに成長したな。

 思ったが、夢のなかではずっと見ていたのだ。何をいまさら、と兄らしい所感に胸がのうちが温かくなる。

 守衛たちが、寄ってくる。ほかにも幹部らしき面々がいた。

 妹が、だいじょうぶだから、と声を張る。

 みながいっせいにその場にひざまずき、乞うような目を妹にそそいだ。

 いや、これはこちらに向いた眼差しか。

「そのお方は」

「このひとは」

 妹がごくりと生唾を呑み込んだ音がハッキリと聞こえた。まとまらぬ考えを無理くり吐き出すようにして、「命そのもの」と告げる。「我々人間の根源となる者」

 そんな大層なもんじゃないですよ。

 言いたかったが言葉にできなかった。

 しかし思いはかってにみなに伝播し、余計にみなを委縮させた。

 烏龍茶を吐きだしつづける日々は終わった。

 しかしこれからがたいへんだ。

 烏龍茶の奪い合いが起きないように、まずはこう宣言してしまうことにする。

「烏龍茶は我が物である。なんぴとたりとも許可なく口にすることを禁ずる」

 烏龍茶を介して通じた万人に一瞬に行きわたったこの宣言の直後、それまで滾々と湧きあがっていた崇拝の心は見る間に萎み、巨大な憎悪となって我が身へと跳ね返ってくる。

 しかしよく考えてみて欲しい。

 烏龍茶は我が体液だ。

 じぶんの体液をかってに啜るな、奪い合うな、と禁じることにいかほどの不条理があるだろうか。

 断言しよう。あるわけがないのだ。

 当然守られて然るべき人権の尊重を謳っただけでも憎悪を向けられるというのだから、信仰の対象とはかくも理不尽なものである。

 まがり間違っても君臨するものではない。

 最後に誤解の余地を粉砕すべく、こう付け足すのを忘れない。

「わがはい、命そのものでも、人間の根源でも、ましてや神などでもない。全身が烏龍茶で潤っているだけのただの人間である。烏龍茶なくともみなで協力し合えばどうにかなろう。これから世話になる。働きもする。どうかよしなに」

 しかし憎悪は薄まらない。

 妹はすでに後方に逃げ出しており、慌てて我が身もそれを追う。




千物語「斜」おわり。

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