千物語「宇」

千物語「宇」


目次

【放浪の自我】2022/08/12*

【喧嘩ごっこもほどほどに】2022/08/13*

【きょうもそこに角がたつ】2022/08/13*

【食う】2022/08/14*

【思い通りにままならぬ】2022/08/15*

【凍てつくような死を、風を、】2022/08/18*

【網羅システムの穴】2022/08/18*

【昼夜に触れて、狭間】2022/08/20*

【ねぇTP。】2022/08/21*

【蜘蛛の意図】2022/08/22*

【夏の宵は満ち欠け】2022/08/23*

【蟻の群れは埋める】2022/08/23*

【ジンコン】2022/08/24*

【メルトアリィの歌声】2022/08/25*

【解呪の素は直に】2022/08/26(0:56)*

【生き残るために残るもの】2022/08/26(23:55)*

【誘おう、世界を平らにならすべく】2022/08/30(02:30)*

【案山子の回帰】2022/08/31(08:36)*

【狩人の角】2022/09/19(10:36)*

【氷の声は融けて】2022/09/22(01:26)*

【沈黙の呪詛は空に】2022/09/24(02:32)*

【リロの透明】2022/09/26(15:43)*

【twitter小説「溝」】2022/09/28(23:09)*

【twitter小説「鬼退治」】2022/09/28(23:12)*

【twitter小説「停止問題」】2022/09/28(23:23)*

【twitter小説「ビスケット」】2022/09/28(23:42)*

【twitter小説「元凶」】2022/09/28(23:51)*

【時空結晶のこだま】2022/09/30(09:32)*

【記憶の霜焼け】2022/10/02(18:35)*

【墓標は乾いた土の上に】2022/10/06(17:01)*

【白昼夢の烙印】2022/10/07(13:41)*

【月を月と言わず、】2022/10/10(03:48)*

【異世界の辞書】2022/10/11(01:26)*

【地響きは止まない】2022/10/12(06:19)*

【職業差別】2022/10/13(06:11)*

【底なしの底から】2022/10/14(20:20)*

【千夜の谷】2022/10/16(02:56)*

【氷の魔女】

【腐ってもないし、願ってもない】

【ばぶル】

【処刑は空想の世界で】

【宝石の海のバナナ】

【白太陽の街】

【裏返る世界に】

【音声通話だぶー】

【宵の夢に酔い】

【ネットルゲンガー】




【放浪の自我】2022/08/12*

(未推敲)


 寝て起きるたびに肉体が替わる。

 別人の身体に移っている。

 物心ついたときからそうであったので、みなもそうなのだろう、と思春期に入るまでは思いこんでいた。

 どうやらじぶん以外は一生同じ肉体に宿っているのだ、と知ったのは、虐待家庭の少女の肉体に入った日がきっかけだ。私の意識のうえでは私の年齢は十六やそこらだったが、その少女は齢七歳であった。

 腕や背中には火のついた煙草を押しつけられたのか、火傷のあとが蛸の吸盤のように無数にできていた。見なくとも痛みが疼くのでよく判った。

 私はそれまで運よく虐待されない者の肉体に宿りつづけてきたが、その日初めて死を意識した。

 殺される前に殺そうと意識するより先に身体が動き、私は目のまえで私の肉体にひどいことをしようとする男を殺した。ついでにベッドのうえで笑っていた女にも刃物を突きつけたが、泣きじゃくって子どものように怯えるので、もういちど血だらけの男の死体にわざと乱暴に包丁の刃先を突き立てた。

 家の外に飛びだし、私は公園のベンチで寝た。

 起きると、暖かい清潔なベッドのうえで目覚めた。今度は一人暮らしの女子大生の部屋だった。

 大人の身体のときは、ひとまず家から出ないようにするのが最善だと知っていたので、その日も家にいた。

 私はニュースを見ていた。

 前日に私が起こした事件が報道されていた。

 少女は保護され、警察が事情を訊いているとキャスターは説明した。

 私はこのときになって、初めて「前日に私が入っていた肉体の持ち主」について思いを馳せた。つまり私は、私が包丁を使って男を刺殺したときに入っていた肉体の持ち主――少女についていつまでも思考を囚われた。

 彼女は今後どうなるのだろう。

 私のしたことのせいで、つらい目に遭っているのだろうか。

 虐待を受けていたのも、私が抜けたあとであの肉体に宿った意識も、ずっと少女のものなのか。ならば私はいたずらに彼女の日々を損ない、歪めただけではないのか。

 私は私の性質について、このときよりよくよく考えを巡らせるようになった。

 私は他人の肉体を一時的に奪っているだけだ。かような認識を確固たるものにするのに時間はかからなかった。

 社会には携帯型メディア端末が普及している。SNSもある。過去に宿った肉体の持ち主の私生活は、別の肉体に入ったあとでも確認できる。

 本来、繋がりのない者同士が、私という意識によって結ばれ得る。

 私は来る日も来る日も、じぶんのせいで他者の人生を歪めぬように慎重な行動を心掛けた。

 しかし、情報は欲しい。

 いったい私は何者なのか。

 いったいなぜ私だけがかような不明瞭な存在でいつづけるのか。

 ほかに仲間はいないのか。

 誰かに相談したい。他方、幼き日ころからの体験的学習によって、肉体転移については他者に他言してはならないし、しても共有できないと知っていた。

 ゆえに、気づくのが遅れた。

 じぶんの特異性に。

 そして己の悪質さに。

 二十歳を過ぎたころだ。おそらく二十歳だろうとの見立てでしかないが、私は人肌恋しいがあまりに、恋人と同棲している女の肉体に宿ったのをいいことに、男と交わった。そしてそのまま肌を触れ合わせたまま寝たことで、初めて同じ肉体に二日つづけて宿った。

 驚愕した。

 例外があったのだ。

 寝ても肉体を転移せずにいられる方法がある。

 それからの日々は、その例外の法則を探ることに費やされた。法則は案外単純であった。寝て起きるまでのあいだ、他者に触れていると私は、同じ肉体に宿りつづけることができた。

 赤子を抱きながら寝ても、或いは母親に抱かれながら寝ても、同じ肉体に宿ることができた。赤子に入ったときは率先して、さっさと仮眠をとることで肉体を移る習性が災いした。そうでなければこの例外にはもっと早くに気づけていたはずだ。

 ひょっとしたらまだほかに例外があるかもしれない。私はますますの慎重さを身につけながらも、自身の特異な性質についての研究をはじめた。

 ある日のことだ。

 私は二十六歳青年の肉体に宿った。彼は引きこもりで、日がな一日卓上メディア端末のまえに陣取っていた。

 青年は画面越しに、動画配信者をチェックしていた。いわゆるネットストーカーに分類できる。

 私は青年の肉体越しに、情報を得るため画面に目を走らせた。

 そこでとある動画配信者に目が留まった。

 彼女はおそらく、青年のお気に入りの観察対象のようだ。フォルダ内には彼女に関連する画像や動画、果ては彼女が電子の海に投稿したテキストがまとめられていた。

 執着心が露骨に表れていた。

 危ない人物だな、と私は思ったし、現に危ない人物だろう。脅迫状ともとれるメッセージを、匿名で毎日のように送りつづけている。無視されるたびに憎悪を募らせているようで、私は彼に執着されている動画配信者に同情した。

 と、そこで私は画面に釘付けになった。

 動画配信者の画像である。

 長袖ばかりの画像のなかに、腕の映った写真があった。蛸の吸盤のような痣があたかも刺青のように走っていた。私の記憶の奥底が攪拌され、かつて私が浴びた返り血と、その熱を思いだした。

 彼女だ、と直感した。

 まだ十代だろう。面影というほど私はあのときの少女の相貌を記憶しているわけではないが、腕に刻まれた火傷の跡は憶えていた。それとも似たような虐待経験を持つ女の子なのだろうか。

 分からない。

 だが彼女に両親はなく、幼少期はひどい環境で育ったことは、彼女自身が配信でもSNS上でも言及していた。

 私はしばらく男の肉体に留まろうと考えた。しかし男は引きこもりゆえ、床を共にする相手がいない。動画配信者たる彼女のことは記憶したので、ほかの肉体に移っても検索すれば用は足りる。

 だが、男を放置しておきたくのない思いが根強くあった。

 致し方なく私はその日は寝ないことにし、翌日、男のなけなしの貯金を下ろして、添い寝サービスを行える店にアクセスした。

 若い女の子をデリバリーする無店舗型のサービスだ。私はとにかく眠たかったので、添い寝だけを希望したが、プロの矜持が許さないのか、性的なサービスをしつこく勧められ、お互いに険悪になりながらも、撫でられながら寝たいのだ、と私が駄々をこねて押し切った。

 青年の貯蓄金額からするとあと三日は同じことを繰り返せるが、それまでにこの男の未来を決めねばならない。

 放置したまま肉体を去るか。

 それとも私が何かしらの策を弄して男からいまの環境を奪うか。

 卓上メディア端末を漁っていると、男の日記や大量のメモを見つけた。男が孤独を持て余し、妄想と現実の世界を見失いつつあることを察した。

 動画配信から、配信者たる例の女性の住所まで探り当てていた。どうしてじぶんの想いが伝わらないのか、なぜ彼女は想いに答えてくれないのか、と呪詛を並び立てている。

 限界が近い。

 そう思った。

 私は悩みに悩んだ挙句、青年の貯金をすべて使い切った三日後の昼、彼の呪詛だらけの日記をコンビニで印刷し、その足で街中に立ち、全裸になった。いかな他者の肉体とて、私にとっては私の犯した罪である。公衆の面前で裸体を晒す経験は初めてのことだ。

 顔から火が出そうであった。

 間もなく警官に取り囲まれ、私はパトカーに乗せられた。三日のあいだろくな睡眠をとらずにいたのが功を奏したのか、警察官からの事情聴取を華麗に無視しているあいだに、睡魔に襲われ私は眠りに落ちた。

 目覚めると、こんどは五歳男児の肉体の中だった。

 場所は、青年のいた地方都市から五百キロも離れている。あの青年がどうなったのかは知らないが、事情が事情なだけに元の生活には戻れないだろう。可哀そうなことをしたが、他者を巻き込んでの破滅行動を避けるためと思って、私の与えた試練を乗り越えて欲しいと望むものだ。

 安全地帯から無責任に祈りながら私は、五歳児のちいさな指を駆使して、彼の父親の忘れ物だろう、携帯型メディア端末を操作した。例の動画配信者の女性のきのうの分の動画配信を確認する。

 彼女は何も知らずに、きょうも生きている。

 私にできることは何だろうか。

 五歳児の肉体が急速に尿意を催したのでトイレを求めて家のなかを彷徨った。

 どうしてこうも個々によって境遇が違うのか。

 虐待され、獣小屋のような空間でひどい臭いに包まれている子どももいれば、こうして清潔な、部屋がいくつもある埃一つ落ちていない家でのびのびと育てられている子どももいる。

 この違いは何なのか。

 差は何なのか。

 私にできることはないのだろうか。いくら考えてもそんな神のごとく魔法は見つからない。

 私にできることなど何もない。

 宿った肉体の持ち主の未来を歪めるのが精々だ。

 ならば私がすべきことは一つだ。宿っているあいだ、なるべく肉体の持ち主に害をもたらさぬことだけである。

 私が五歳男児の肉体で用を足し、トイレの外に出ると、ちょうど父親らしき成人男性が通りかかった。おや、と頬をほころばせる。「一人でシーシーできるようになったんだねぇ。えらい、えらい」

 そう言って抱っこし、私に頬づりをした。

 髭がチクチクと煩わしい。

 私はなぜか解らぬが、きゃっきゃと笑い声を抑えきれなかった。

 昼寝をしよう。

 この肉体からは、早急に出ていくべきだ。

 私はそう思った。




【喧嘩ごっこもほどほどに】2022/08/13*

(未推敲)


「またうちの若いのが悶々しておってな」

「あら、あなたのほうも? 私のほうも新しいおもちゃを手に入れたからなのか、私にまで銃口を向けてくるのよ」

「南のほうの小さい群れも、なんだかキナ臭い動きを見せておってな」

「あらぁ。じゃあまたアレやっちゃう?」

「ったく。今度は十年も長引かせずに終わらせたいもんだが」

「表面上だけ睨みあうだけで勘弁して欲しいわよね」

「じゃあまあ。前回は俺からだったし、今回はそっちから頼むわ」

「まあ。悪者にする気?」

「そこは上手いことトントンにすっからよ」

「じゃあ、まあよいですけれど」

「手抜きなく、本気で邪魔立てしてくれ。制裁は任せろ。こっちも本気で威圧してやる」

「本当にやだわ。早くみな大人になってくれないかしら。私たち大人が本気で喧嘩するときだけ大人しくなるんだもの」

「外に敵がいないと、内輪で揉める生き物なのさ。人間なんてな」

「宇宙人でも襲来しにこないかしら」

「いまはもう地球から喧嘩売られているようなもんなのにな。ったくガキはこれだから」

「まったくだわ。本当にまったくなのだわ」




【きょうもそこに角がたつ】2022/08/13*

(未推敲)


 あるところに小鬼がおった。

 小鬼は里の妖狐に懸想しておった。妖狐のためにと、せっせと洞窟で宝石を育て、花に水をやり、池の鯉に餌をやった。

 妖狐は宝石に目がない。花を好み、鯉を美味と口にした。

 だがそんなある日、隣山の天狗がやってきて小鬼の目を離していた隙に、小鬼の丹精込めて育てた宝石や花や鯉を根こそぎ搔き集め、去っていった。小鬼はそれでも、しょうがない、と嘆息を吐くだけで気持ちを切り替えた。元々、宝石も花も鯉も、小鬼のものではない。世話をしたが、小鬼の所有物ではないのだ。

 妖狐に捧げたかったが、また別に用意しよう。

 かように、つぎは何がよいか、と足元に目をやった。山や里を眺め、目ぼしい贈り物がないかを探した。

 そんなときである。

 視線の先に麗しの妖狐の姿を見つけた。距離はざっと一里はあるが、小鬼の眼力を以ってすればたちどころに釘付けになる。

 どこにいようと目が留まる。

 ふしぎなのはそばに天狗がおり、いままさに妖狐へと貢物を差しだしているところだった。なんと、小鬼の育てていた宝石に、花に、鯉である。

 小鬼はガツンと頭部を殴られたような衝撃に見舞われた。胸の奥にヒビが走り、ガラガラと崩れて穴ぼこが開いたように感じられた。

 しかし小鬼は、そのつぎの瞬間には口角を吊るし、笑みをつくった。

 妖狐が喜んでいたからだ。じぶんが贈ったわけではないが、妖狐のために丹精込めて手入れをした宝石や花や鯉を、妖狐が受け取り感激している。その事実さえあればそれでよかった。

 妖狐が天狗に飛びつくが、もうそんなことは些事だと思った。

 妖狐の喜ぶ姿が見られるならそれでよい。

 ひょっとしたらじぶんの手から贈っても、ああは喜ばなかったかもしれない。天狗が贈ったからこそああも心を震わせているのかもしれないのだ。

 よかった、よかった。

 小鬼はきゅっと口角を吊るしたまま、つぎは何を贈ったら喜んでくれるだろうか。小鬼はきょろきょろと辺りを見渡す。

 目に焼きつけた妖狐のうれしそうな姿に、明日を生きる活力を得る。

 それからというもの、小鬼の目をつけた品はどれも、贈り物として熟したころに天狗が見つけだし、小鬼の代わりに妖狐へと進呈するといったことが重なった。

 妙な、とは思うが、偶然は重なるものだ。

 天狗とて、一度目の収穫で味を占めて、この山には贈り物に適した自然の宝があると考えているだけかもしれない。きっとそうだ。

 小鬼はやはり、じぶんの手塩にかけた贈り物で喜ぶ妖狐の姿を一目見られればそれで満ち足りた心地になった。

 じぶんの手から渡さなくともよい。大事なのはあくまで妖狐が喜び、一瞬でも多くの至福に包まれることなのだ。

 最初に走った胸の奥のヒビは、いつの間にか小鬼の意識の壇上にはのぼらなくなった。消えたのかもしれないし、そんなものがあることを小鬼が忘れてしまっただけかもしれない。

 その日は青空に遠雷が轟いた。

 小鬼は、珍しくじぶんで収穫した水晶を胸に抱えて里までの道を下っていた。池の底でゆっくりと育った水晶は、冬の雪景色を帯をまとめるようにぎゅっと詰めたような濃い白銀を宿していた。

 妖狐が手にしたらさぞかし美しいだろう。

 でも直接渡すのは恥かしい。

 さりとて天狗に奪われるのも、こればかりは口惜しく感じた。

 小鬼は折衷案として、妖狐の棲家にそっと置いてこようと考えた。

 だがその企みは、腕を引き天狗を棲家へと誘う妖狐の姿を目の当たりにして、あっという間に霧散した。

 がくがくと凍える身体の震えがいったいどこからくるのか小鬼は見当もつかなかった。頭の中にあったのは、これ以上妖狐の棲家に近づいていけない、という直感と、そして腕に抱えた水晶をどうやって棲家のそばに置いてくるか、の逡巡だった。

 だが一歩足を踏みだした途端、水晶は手から滑り落ちて地面に落下した。

 あ、と思った矢先に、水晶は砕け散った。

 頭上で雷が鳴った。

 ぽつぽつと雫が降ってきたと思や否や、瞬く間に豪雨となった。

 小鬼はしばらくそこで茫然と佇んでいた。

 水晶の欠片とて拾い集めれば相応に喜ばれる宝石となろうはずが、小鬼にはもう、拾い集める気力も、それを届けに歩む気力も湧かなかった。水晶の欠片は泥に紛れ、もはや輝きの欠片も見当たらなかった。

 小鬼は雨のなか、住処のある山へと引き返した。

 道中、じぶんが何を考えていたのか。

 寝床たる古木の洞に身体を横たえながら、時間の跳躍したような感覚を不思議に思った。夢でも見ていたかのような浮遊感が身体を包みこんでいる。胸の中が空っぽになってしまったようだ。

 小鬼はしきりに波打つ頭痛のようなモヤの塊を角の付け根に感じた。そこに虫歯のような空洞ができて、鈴のごとくカラカラと何かが転がり、響いている。

 どうやったら埋められるのか。

 夢想しながら小鬼は、深い、深い、眠りに落ちた。

 長い年月が、風のように過ぎ去った。古木の洞は塞がり、古木は命を吹き返したように太く逞しい大樹となった。

 夏には月を砕いたような葉が茂り、秋には星を散りばめたような小さな花が無数に咲いた。冬になると雪化粧をまとい、夜であっても水晶のごとき輝きを放った。

 ある夏の暮れ。

 天狗が大きな斧を持ってやってきた。

 大樹を見あげ、一礼すると、幹に狙いを定め斧を振り下ろした。

 たつん、たつん。

 湿り気を帯びた甲高い音が、山の合間にこだました。

 おっとー、と近づく声がある。

 若い妖狐が、天狗に近づき、その背に飛びついた。天狗は作業の手を止め、若い妖狐を抱き上げる。

 親子のようだ。

 遠くから、二人を呼ぶ声がする。

 この樹で家を建ててやる、と天狗は娘の頭を撫でた。娘は目を細め、綿毛のような尾でくるんと宙に弧を描く。

 危ないから下がっておれ。

 天狗は娘を引き離し、ふたたび斧を振り下ろす。大樹はミシミシと音を立てて、反対側に伐り倒された。

 おっとー、あれ。

 若い妖狐のゆび差すところ、大樹の切り株の真ん中には、煤のような塊が納まっていた。雷にでも打たれたかのような炭のごとくそれを、遅れてやってきた艶麗な妖狐が一目見て、顔を顰めた。

 腐っているのではないか、と天狗へと不安げに訊ね、大丈夫だ、と斧を一振りして天狗は太鼓判を捺した。

 大樹の中から現れた炭のような塊は、斧に弾き飛ばされ、木っ端みじんに砕け散った。

 土に、風に、空に紛れ、あとには年輪の美しい切り株が残った。

 たつん、たつん。

 天狗が斧を振り下ろすたびに、大樹だったものは細かく裁断された。

 後日、大樹だったものは、若き妖狐の日々を守る家となり、柱となって、誰に知られるともなく、きょうもそこに建っている。




【食う】2022/08/14*

(未推敲)


 人間ってわけわからんのよ。

 あたしの飼い主は優しいヒトだったよ。可愛がってもらっていたって自負はあるし、現にあたしがちょっと元気がないだけで、いまにも泣き出しそうな顔で甲斐甲斐しく世話を焼いてくれてさ。

 まあわるい気はしなかったよ正直ね。

 たださ、そうやってあたしを柔らかい寝床に寝かせて、ぽんぽん身体を撫でてくれるその後ろで、あたしの飼い主の親だろうね、もっと大きな人間たちが、あたしら子羊の肉を頬張ってんの。

 美味い美味いってさ。

 ギョっとしちゃうよね。

 あたしはたまたまご主人さまのお眼鏡にかかって殺されずに済んだだけのことでさ。ちょっと間違ったら、食卓に並んでたのはあたしだぜ。

 とんでもねぇよ。

 人間ってホントわけらからんのよね。




【思い通りにままならぬ】2022/08/15*

(未推敲)


 あるところに何でも思い通りになる女がいた。名を、ナンデモ・オモイ・ドールである。

 ドールは、望むものを何でも手に入れることができた。齢三才にて世界一の富豪にまでなった。彼女は紙幣をおしゃぶりの代わりにするのが好きだった。紙幣の価値を知ったのはそれから三年後の六歳になったころだが、そのころにはもはや地球上に彼女の名を知らぬ者はいないまでにその影響力もとより権力は高まっていた。

 彼女が望めば、太陽系の外から新元素を含有した鉱石を採取することも可能だ。だがいかな彼女とて、物理法則は無視できない。彼女が死ぬまでのあいだに、彼女の望んだ太陽系外からの鉱石を採取すべく、膨大な資本が費やされ日夜、最新鋭のロケットが開発されている。

 いまや全世界の研究分野は、彼女の興味関心が触れるか否かによってその進捗を著しく進歩させたり、停滞させたりした。彼女が望むような研究ならば支援がなされ、そうでなければ支援が滞る。

 プラスにならないというだけのことが、マイナスになる。

 そういった歪な流れが生まれていた。

 しかしナンデモ・オモイ・ドールにはどんな事情も関係がない。彼女の望み通りになるのは、彼女がそう望んだからではなく、なぜか解らないがそうなってしまうからだ。それは彼女が望んで産まれてきたわけではないことと同じくらいにどうにもならぬことであった。

 あるとき、彼女の元に名うての詐欺師がやってきた。

 否、腕が確かゆえに名前はまったく知られていない。被害を被害だと思わせぬように働くために、その詐欺師の存在は、一部の彼の協力者しか知らないのである。

 詐欺師は、世界一の富豪であるところのナンデモ・オモイ・ドールに目をつけた。

 ナンデモ・オモイ・ドールは、孤島に暮らしていた。そこは彼女専用の王国とも呼べる潤沢さに溢れた島だった。

 詐欺師は富豪ご用達の保険屋に扮して彼女と拝顔した。

「お初にお目にかかりますワタクシ、世界保健機構特別顧問の鷺石(さぎいし)と申します」

「挨拶は不要です。御用件をおっしゃって」

「はい、では単刀直入に。我々世界保健機構に、ドールさまの資産を預からせていただきたいのです」

「資産運用を任せろと?」

「ワタクシどもは世界中の国々を相手に保険をご用意させていただいております。有名なところではデフォルトに陥った大国の支払い不履行に保険適用を行い、国家存亡の危機を食い止めました」

「素晴らしいですね。ですが私には不要です。私はどのような目に遭おうとも滅ぶことはないので。そのような星の下に生まれています」

「そうはおっしゃいますがドールさま。ドールさまが末永くご健在であろうとも、世界中の民はそうではないのです。ドールさまの一挙一動で、一国の衰退――未来そのものが揺らぎます。いわばドールさまは、世界を支える象なのです。無闇に海に足をつければたちどころに大津波が発生し、島国は沈没するでしょう。何とぞかような未来を回避すべく、我々世界保健機構に、資産運用を任せてくださらないでしょうか」

「それは何か。あなた方に手綱を握らせろと、そうおっしゃるの。私の首に首輪を嵌めたいと、鎖で繋ぎたいとそういうことかしら」

 詐欺師はたっぷりと間を開けてから、

「いかにもそうでございます」と認めた。

 しかしこれはフリである。

 本懐は別にある。

 彼女の資産を権利ごと戴く手筈なのである。

 そうとも知らずに世界一の大富豪ナンデモ・オモイ・ドールは、「面白いわね」と微笑を湛えた。「いいわ。あなた方の手腕とやらを見てみるのも面白い。資産運用と言うからには増やしてくださるのでしょう? 減った分は何で補ってくれるのかしら」

「保険ですから、そのような保証は致しかねます。ただし、損をしたとしてもそれは世界経済の損失を埋め合わせる形で費やされます。どのようなカタチであれ、世界平和に貢献すると言えましょう」

「まあ、お上手。まるで詐欺師のような言い分だわ」

 詐欺師は脂汗が滲まぬように、じぶんの陰茎が切断される光景を思い浮かべる。そうすると冷静になれるのだ。詐欺師なりの精神統一の手法である。

「いいでしょう。私の資産、すべてをあなた方に任せます」そう言ってナンデモ・オモイ・ドールは、屋敷の責任者に命じ、権利書の束を持ってこさせた。「手続きは任せます。あとは好きにして」

 詐欺師に権利書の束を押しつけると、ナンデモ・オモイ・ドールは詐欺師のまえから姿を消した。

 しめしめ。

 計画の上手くいった詐欺師はほくほく顔で屋敷をあとにした。スタコラと孤島からも脱出する。

 これで世界一の大富豪はナンデモ・オモイ・ドールではなく、詐欺師となった。

 ナンデモ・オモイ・ドールは一文無しとなり、すべてを失ったのだ。

 詐欺師は権利書を方々に格安で売り払った。買い手はごまんと湧いた。ナンデモ・オモイ・ドールの資産の数百文の一の利益にしかならなかったが、それでも未だ世界一の大富豪の座は詐欺師にあった。

「こんな紙切れが価値を持ちすぎなんだ。すこし減らすくらいがちょうどいい」

 購入した国立公園並みの土地にちいさな別荘を建て、詐欺師はそこで何不自由のない暮らしを送った。外界からの干渉を遮断し、死ぬまで自由な日々を送ったそうだ。

 詐欺師がじぶんだけの小さな世界を築きあげ、そこに引き篭もっているあいだも世界情勢は目まぐるしく移り変わる。

 過去に世界一の大富豪だったナンデモ・オモイ・ドールはかつて、手放しても手放しても増える一方の資産に難儀していた。

 いらないと言っても増える資本はもはや、無尽蔵に増えるゴミと同じであった。ゴミは、なぜかコバエを寄せつける。

 ナンデモ・オモイ・ドールは、頼まれもしないのに集まってくる「人生の部外者」たちに日々の穏やかな時間を損なわれてきた。

 それを、偶然にかやってきた胡散臭い男が、一度に引き払ってくれた。

 なんという僥倖。

 ナンデモ・オモイ・ドールは身軽になったその足で、こんどは不要な荷物を抱えることなく、その日その日にしか味わえぬ、どこに縛られることのない、誰からも邪魔立てされない日々を甘受した。

「まるで風になったよう」

 ナンデモ・オモイ・ドールのその後を知る者はいない。それでも彼女はきっとどこかで、思い通りに、それでもままならぬ日々を徒然なるままに生きている。




【凍てつくような死を、風を、】2022/08/18*

(未推敲)


 その妖精は死神と呼ばれた。行く先々で忌避された。その妖精の訪れた土地は、見る間に命が死に絶え、一面が灰色の世界に成り替わる。

 死神と呼ばれてはいるが、しかし妖精は元は精霊であった。

 神でもなければ、死を司ってもいない。

 だが妖精の周りはいつも死の世界のごとく寂寥な景色に覆われる。木々は丸裸になり、花は枯れ、虫は死に絶え、獣は姿を消す。

 妖精自身も痛感していた。じぶんは死を運ぶ。

 だからだろう、妖精は、同じ土地には居つづけないように心がけてきた。

 あるとき妖精は、灰色の世界で一羽のうさぎと出会った。

 うさぎは怪我を負っていた。

 妖精は手当てをした。動けないうさぎの代わりに餌を求めて、森のなかを彷徨った。しかし妖精の出向くところでは、近づくだけで草木は枯れ、動物は逃げ惑い、姿を晦ました。

 途方に暮れて、怪我をしたうさぎのもとに戻ると、しかしうさぎは元気に草を食んでいた。

 妖精がその場を離れたので、そこに新たな命が芽吹いていたのだ。

「なんだ。ボクがいないほうがよかったのか」

 妖精はうさぎに、ごめんよ、とつぶやき、その場を去った。

 妖精は森を抜け、平野を歩き、谷を越え、とある山の麓に行き着いた。

 山はメラメラと燃えていた。

 雷が落ちて山火事になったようだ。

 見渡す限りの山肌から煙が立ち昇り、風が吹くたびに火の粉の橙色が明滅した。

 死の山だ、と妖精は思った。

 じぶんが足を運んだからだ、と思うが、そうではない。だが妖精にはそのようにしか視えなかった。

 立ち去ればまたこの地に命が芽生えるだろう。そう考え、踵を返そうとしたところで、メラメラと燃える木々の合間から、絶えることのない笛の音のごとく慟哭が聞こえてきた。

 誰かが泣いている。

 でも、このような死の山で?

 妖精は耳を澄まし、泣き声の大本を探った。

 いた。

 妖精はゆびで丸をつくり、そこにぴったりと嵌まる小さな陰を捉えた。

 小さな陰は、とっくに燃え尽きた黒焦げの山肌にて、おいおいと泣きじゃくっていた。

 直感した。

 妖精だ。

 この山にも妖精がいたのだ。

 仲間だ。

 駆けだしそうになって、踏みとどまる。じぶんなぞが近寄って、それでどうなる。死を振りまくだけではないのか。

 逡巡したが、黙って通り過ぎるわけにはいかない。見て見ぬふりはできない。

 なぜ、と問われても、それが嫌だから、としか言いようがなかった。

 もしここで知らぬ存ぜぬを通したら、それこそ本物の死を振りまくナニカシラになってしまうような気がした。

 臆したのだ。

 怯えた。

 それは嫌だ。そんなじぶんにはなりとうない。

 妖精は轟々と燃え盛る炎のなかを、一歩、一歩、煤けた地面を踏みしめながら進んだ。

 死を運ぶ妖精の歩んだあとには、波紋が広がるように、灰色の絨毯が生い茂る。

 分厚い羽毛のごとくそれは山肌をあっという間に覆い尽くした。

 雪である。

 もくもくと空を塞いでいた煙よりもずっと深い雲が頭上を埋める。

 風は凍て返り、炎すらも間もなく消え去った。

 死を運ぶ妖精。

 諱(いみな)を、冬の精と云う。

 冬の精は歩みを止めた。

 目のまえでは、しきりにしゃっくりをする山の精がいた。

「ごめんよ。見ていられなくて。でも、きみの山をこんな凍えた景色にしてしまった。生き物もこれでは寄りつかない。でも悪気はなかったんだ。本当にただ、見ていられなくって」

 山の精は涙こそ止めたが、改めて周囲を見渡し、その光景にふたたび胸を痛めたようだった。何もないのだ。火が消え、残ったのは延々とつづく雪景色。ぽつり、ぽつり、と生える木々は芯だけ残ったように、か細い。

 未だ余熱があるからか樹氷にはならず、痛々しい煤の肌を露わにしている。

 冬の精は、謝罪の言葉と慰めの言葉を幾度か掛けたが、膝を抱えて丸まった山の精の、深い悲愴に触れ、居たたまれなくなった。そこには明確な拒絶の意があった。何をどう言われようとも、この痛みはじぶんだけのもので、誰にも、あなたにも伝わることはない。

 ぶつけようのない憤りと、それを懸命に他者にぶつけまいとする矜持を垣間見た。ふしぎとそれらには馴染みがある気がした。

 まるでふだんのじぶんを見ているようだった。

 誰にもぼくの孤独など伝わるはずがない。

 好きでこうなったわけではない。

 誰のせいでもないからこそ、誰かが手を差し伸べてくさえすれば。

 そう考えるたびに、他者を責める気持ちが湧きかけて、急いで傷口を塞ぐように胸の奥底で蹲る小さなじぶんを、さらに小さく縮こませる。

 ぎゅっと、ぎゅっと。

 いつかそうして小石にでもなってしまえたらどんなに楽だろうか。

 けれどそれだとよその土地に移ることもできなくなる。小石を中心に死の世界が永久にそこにある世界を思い、冬の精は凍えもせぬのに、ぶるると身震いした。

 ごめんよ。

 声にするともなくつぶやき、冬の精は、山を、その場を、立ち去った。

 冬の精が去ったあとでも山の精はしばらく達磨のように膝を抱えて横隔膜を痙攣させていた。悲しいのだ。遣る瀬ないのだ。

 もう二度と以前のような蝶が舞い、花咲き誇る山は戻らない。鹿が、猪が、栗鼠が、蛇が――至る所に湧いた泉も干上がり、魚はおろか蛙一匹見当たらない。

 たとえ残っていたとしてもこの雪景色だ。凍りつき、水場の命も息絶えた。

 もう終わりだ。

 何もかも終わりだ。

 山の精は、誰にともなく鋭く歪んだ眼光を注いだ。

 睨めつけた先、なぜか緑が輝いていた。一面灰色の死の世界のはずが、なぜか新緑が揺らんで視えている。あたかもそこに緑色の炎があるかのように、陽炎のごとく揺らぎを湛えていた。

 何だあれは。

 山の精は目を凝らした。

 何かが近づいてくる。山肌を覆った雪の絨毯を剥ぎ取るように、緑の絨毯が山を覆う。雪崩のようだ。しかし雪ではない。

 草の津波が山の精の足元まで届き、さらに広域に伝播した。

 山の精の鼻先を、三匹の蝶が掠めた。

 煤となったはずの木々の表面には苔が生し、新芽が見る間に空を埋めていく。いつの間にか曇天は散り散りに裂け、合間から陽の光が注いだ。

 山の精のそばで、一人の少女が立ち止まった。

「こんにちは。わたし、春の精。あなたはこの山のコ?」

 山の精は細かく何度も頷いた。声がでなかった。いや、ならなかったと言ったほうが正鵠を射る表現だ。

「もし。一つお尋ねしますけれど、ここにわたしに似たコが通りませんでした? こう、歩くたびに地面を真っ白く美しくしてしまうコなのだけれど」

 山の精は一瞬考え込んだが、即座に先刻じぶんに声をかけてきたみすぼらしく覇気のない妖精のことを思いだした。

 身振り手振りで、おそらくあっちに行きました、と伝えると、春の精は野花の絡みついた髪の毛を逆立てた。「まったくもう。あのコってばどこまで行くつもりなのかしら」と頬を膨らませた。「追うほうの気にもなって欲しい。嫌んなっちゃうな」

 山の精に礼を述べると、春の精はぷりぷりと膨れながら、灰色の地面を蹴散らすように緑の絨毯を押し広げ、ずんずんと山を下って行った。

 後には、山火事などなかったかのように、命の息吹がそこかしこで陽気な宴を開いている。ぽかぽかと暖かく、小鳥たちのさえずりが賑やかだ。遠くに鹿の群れが見え、空高く鳶が舞っていた。

 山の精はシロツメクサの海に大の字になり、青空と打ち解けたような清々しい心地に浸った。

 春の精、彼女の追っていたあのみすぼらしく覇気のない妖精を思った。きっとあのコは死を運んでいるのではなく、死を運び去る者だったに違いない。

 それとも真実には炎にすら死を与えるおぞましい精霊だったのかもしれないが、山の精はただただ、狐につままれたようなくすぐったさを胸に、なぜあのコは春の精を待ってやらないのだろうか。そしてなぜ春の精は、あのコを追っているのだろうか。

 妙な巡り合わせの交差点にて、開花した思わぬ偶然に、くすりと一つ笑みを漏らす。

 この日もどこかの生ある土地で、冬の精は世界を灰色に染め、凍てつくような死を、風を、運ぶ。




【網羅システムの穴】2022/08/18*

(未推敲)


 タタは天才だった。技術者だ。

 世界で初めて、人間と区別のつかない対話用人工知能を開発した。瞠目すべくは、彼がたった一人でそのシステムを開発したことだ。

 タタは世界有数の企業に引き抜かれ、そして数々の偉業を成し遂げた。

 ある年のことだ。

 タタはとある人工知能のアルゴリズム開発を任された。

 責任者として全体像を設計し、あとは部下に流すだけの仕事だった。

 だが、その設計が艱難だった。

 というのもタタの任された仕事とはまさに、インターネットを網羅するビッグデータ解析技術の根幹にまつわるアルゴリズムだったからだ。

 ユーザーが行う端末への干渉の総じてを甘受し、収集し、それを元に個々人に最適化された情報の選択肢を与える。

 たとえば検索欄に入力されるテキストはむろんのこと、非公開であろうともキィボードが打鍵されれば、その文字の羅列もデータとして収集する。いちど打ったがやっぱり投稿せずにおこうと思い留まったテキストや画像、動画など、そういった投稿しなかったという選択とて、情報の一つとして収集される。

 ほかにも、打鍵の強さや速度、文字の頻出や語彙力ならびに文章力はむろんのこと、携帯型端末ならば、タッチ画面の操作の仕方や、端末に付属したカメラ越しに表情を解析し、ユーザー自身が自覚し得ない深層心理すらも読み取る。

 そうしたデータは、各種アプリやWEBサイトなど、電子サービスに軒並み紐づけられる。これにより各社企業は、自社に有利な情報選択をユーザーへと示し、またユーザーもじぶんの趣味嗜好に見合った情報にのみほどよく触れられるようになる。

 タタの構築すべくアルゴリズムはかようなシステムなのだが、頭を抱えるような難関があった。

 というのも、十割ユーザーの趣味嗜好に見合った情報ばかり提供すると、ユーザーは早期に飽きてしまうのだ。それはあたかも博打における依存症の原理に似ていた。

 押せば確実に餌がでると分かっているボタンは、しだいに必要最低限なとき以外触らなくなる。しかしそれでは膨大な維持費をかけてまでシステムを敷き、維持する必要がない。元が取れない。ユーザーには、絶えず時間を電子の海で消費してもらわねばならない。

 そのためには、外れの情報を引かせることも大事だった。

 ランダムにしか餌がでないボタンであると、猿は延々とボタンを押しつづけるようになるそうだ。依存するのである。

 人間も同じだ。

 報酬系を刺激し、電子の海に依存させるには、適度に外れの選択肢を仕込む必要がある。だがその塩梅がむつかしかった。

 外れが多すぎればクレームが増え、最悪、ユーザー離れを引き起こす。

 のみならず、システムの不全を理由に、各社企業からタタの会社が訴えられ兼ねない。

 電子の海をある意味で、統括するシステムである。

 各社のサービスを掌握する真似はできないが、根幹システムとしてその未来を左右する。

 そんな大それたシステムの全体像を、タタという一人の技術者が設計するのだ。

 それだけタタの能力が高く評価されていることの裏返しであるが、タタ自身はそうは思っていない。原理的に、システムの全体像を破綻なく設計するには、複数人での作業は向かないのだ。

 タタの仕事は設計だ。いわばシステムの遺伝子なのである。

 部品を繋ぎ合わせるにしても、大概最初に図面ありきだ。図面と図面をツギハギに張り合わせる手法が有効な場合もあるが、緻密な回路を築く場合には向かない手法だ。

 それをするならば、まずは大枠を定め、細かい修正を挟むほうが合理的なのである。ゲノム編集がそうであるように、まずは大本のDNAが入り用だ。

 全体像。

 図面。

 システムのDNA。

 それらを考案するためにタタが解決すべき目下の懸案事項が、つまるところユーザーへの選択肢をどのように提示すべきか。

 アタリとハズレの割合。

 もっと言えば、何をハズレとするのか、の枠組みだった。

 趣味嗜好は個々人から集積する個人データで解析可能だ。しかしハズレをそこから抽出するには、欠けた情報が広すぎる。

 人は興味のないことには触れない。

 忌避する情報は遮断する。

 いちど遮断されれば、それら負の情報についての子細なデータは集まらないのが道理である。

 タタの思索いつもはそこで止まる。打開策がない。

 突破口はある。

 人間の趣味嗜好は千差万別だが、嫌悪や忌避の感情を喚起する事象は共通項がある。

 死や憤怒や醜悪がそれにあたる。

 だが不安を喚起する情報は、購買意欲を向上させる触媒にもなり得る。人は不安を解消しようと、情報を求め、正解を求め、道具を買う。

 不安の種は、プラスにもマイナスにも働く。

 畢竟、何が危険なのかを理解させる情報は、ユーザーの選択肢にとって最適解である確率が高い。

 そうなると、では何をハズレと見做せばよいのか、がやはりネックとなる。

 堂々巡りである。

 悩みに悩み抜いた挙句、タタのとった打開策は、まずは人間にとってのハズレの情報とは何かを調べる、であった。

 奇しくもすでに準備は整っている。

 試作品がある。

 大枠のみを当てはめた「インターネット網羅システム」を適用し、それによって個々人がどんな情報を避けるのか、統計データを採る。

 何を避けるのか、だけであるならば無作為に情報をユーザーに与え、排除される確率を導き出せばいい。

 ユーザーに見合った選択肢を人工知能に演算させる必要はなく、これは微調整なくして、既存の技術を使えばすぐに実施可能であった。

 タタは管理者にこれを提案し、無事承認を得た。

 しかしタタは想定していなかった。

 人々に等しく提示された諸々の嫌悪され得るデータによって、ユーザーたちの無意識に、当人ですら意識できないほどの傷が無数につき得ることを。

 傷はあたかも、ウィルスへの抗体のごとく振る舞い、ユーザーが情報を忌避し、嫌悪するたびに蓄積された。

 タタが首尾よく目的のデータを収集終えたのは半年後のことである。

 全世界から集めたビッグデータには、あらゆる世代人種分け隔てなく人間の感情に負の波を立たせ、目を逸らせる情報が詰まっていた。全人類が一様に目を逸らし、存在しないものとして見做すような「穴」のごとく情報である。

 それと同じだけ、全世界の人間たちには、無数の小さな傷が無意識に刻まれた。

 半年という間に、平均一人に数万という「穴」が目の前を素通りしていき、そのたびに人々の無意識には傷が残った。

 しかしそれを自覚できた者はいない。

 タタは打開策を施行したことにより、ようやく本格的に「インターネット網羅システム」を構築できる。ユーザーに提示する選択肢のなかに、けして選ばれることのない、しかしそこにあるだけでハズレとなる情報を忍ばせる。

 だが、すでに人々の無意識には、「穴」への抗体ができている。

 いずれ敷かれる世界規模の「網羅システム」によって、効率よく配分される「穴」へ、果たして人々は、タタの狙い通りに無関心を貫き通すだろうか。

 アナフィラキシーショックのごとく、過剰反応を示す可能性はいかほどであろうか。

 世界中の人間が一挙に、同様の「穴」に触れはじめるとき――タタのみならず、誰の予想もし得ないうねりが社会に顕現しないとも言い切れない。だがこのことを懸念する者はおらず、想定する者もいない。

 なぜなら「網羅システム」の設計はタタという一人の天才技術者の手により描かれる。その設計図を、後になって何千何万人の技術者が矯めつ眇めつ検証しようとも、元となる発想の源まで見抜ける者は皆無である。

 のみならず、いったいどんな問題を抱え、どのように解決したのかを設計図から見通せるものは一人もいなかった。

 タタが全世界から「穴」のデータを集めた三年後には、「網羅システム」は試行運転の名のもとに大国の軍事システムとして活用された。

 こののち、歴史的な事案が連続して世界規模で勃発するのだが、それと「網羅システム」の関係を指摘する者は、やはりというべきか皆無であった。

 大きな仕事を成し遂げたタタはその後、長期の有給休暇を年単位でとり、南国の静かな海で、穏やかなひと時を満喫しているという話である。




【昼夜に触れて、狭間】2022/08/20*

(未推敲)


 妹の日記を読んだ。

 二十歳の妹の日記には、まるで癇癪を起した幼稚園児みたいな妹がいた。見たことのない日本刀のような妹もおり、漫画に出てくるような暴走族のような妹もいた。ときおり、しゃべるひまわりのような妹もでてきて、そのときばかりはほっとする。

 しかしいずれも、私の知る妹の像とは重ならない。

 本当にこれは妹の日記なのだろうか。

 姉の私は、日記を通して、妹の胸に開いた穴越しに、妹の向こう側に広がる世界を垣間見た。

 そこには私の知らない世界が、私のよく知る現実よりも広く、漠然と、それでいて確かに存在しているようだった。

 妹の日記には、私はおろか家族のことは一行も出てこなかった。まるでそんなものは存在しないのだとばかりに、私の知らないいろいろな妹が、代わる代わる、その日に感じたことを、私の知る妹ではない物言いで並べ立てていた。

 妹はそれら日記の中にはいなかった。

 すくなくとも姉の私から見て、日記の中には他人しかいなかった。妹の面影はないに等しかった。

 これが妹の本性なのだろうか、と末恐ろしく思いもした。

 だが、一枚一枚、カレンダーをめくるように過去に遡っていくにつれて、妹の中の色々な人格たちは、ぽつりぽつりと姿を掠め、徐々に一つに統合されていった。私にそう読めただけのことかもしれない。日記の中の妹は、口吻こそ別人であるにせよ、一貫して一人の人格として日記をつむいでいた。

 私が勝手に、それら日々の中で感情の起伏がごとく様変わりする妹の文章を、別人に感じているだけかもしれなかった。たぶんそうだ。名前もない。キャラクターを演じ分けているわけではないようだった。

 会話をするでもなく、その日ごとに別人が、妹の身体を乗っ取って日記を書いているようにも読めた。だが記憶はぶつ切りになっていない。連なっている。いずれも妹の日記だと判断がついた。

 しかしそこから現実の、私の知る妹の姿かたちを連想するのはむつかしかった。

 誰の日記と説明せずに、それを家族や妹の友人たちに読ませれば、十中八九それが妹の日記だと誰も見抜けないだろう。それくらい、日記の中に現れる書き手の姿は、私たちのよく知る妹のものとはかけ離れていた。

 文章には書き手の本質が滲む、と聞き及ぶ。

 日記はその人の普段隠している素がでる、とも聞く。

 だが、ページが一つ、また一つと減るごとに、私に馴染みのない遠い異国の人のごとき妹の像は姿を晦まし、段々と現実の妹の輪郭が滲みでるようになっていった。

 敢えて、なのだろう。

 日記を書きはじめた妹は、徐々にじぶんだけの世界で、現実のじぶんを消す術を磨いたのだ。

 なぜだろう。

 ひょっとしたら、現実の彼女のほうこそまやかしであったのではないか。無自覚に演じていた仮初のじぶんに気づき、彼女は本当のじぶんを探っていたのではないか。

 解からない。

 私は、日記の中の妹たちと、私の知る我が妹のどちらが、あのコの素なのかを知りたいがために、日記の余すところなくを、過去に遡るようにして順に読み進めた。

 日記は三冊あった。

 私は一冊一冊、ページを抜かぬように、日を追い抜くことなく、玉ねぎの皮を剥くように妹の内面世界に身を浸した。

 一冊目の一ページ目に辿り着いたとき。

 私の中から、妹という存在が揺らぎ、薄れ、霧散していくのが分かった。

 あたかも、初めて食べたパンを、「パン」のすべてだと思いこんでいた子どもが、長じるにつれて数々の品種があることを知り、「パン」と聞いてももはや最初に食べたパンを思いだせなくなる現象と似ていた。

 素の妹などはいなかったのだ。

 現実の妹も、日記の中の妹たちも、どちらも妹の一部だった。

 どちらが欠けても、一方が成り立たない。

 影だけでも影はなく、光だけでは光は生まれない。

 夜のない世界では、昼という概念はなく、昼しかない世界では夜がない。

 妹の日記も、似たようなものだったのかもしれない。

 もうすぐ妹の四十九日が巡ってくる。

 私は日記を閉じた。

 庭でコウロギが鳴いている。

 通夜の晩、私は何度も棺を覗いて妹の蝋のように冷たくなった肌に触れた。火葬場では妹の遺骨をみなで箸でついばんだ。

 骨壺に納まりきらぬ骨を、係の者がバリボリと砕いていたのを、私はせんべいのようだな、と虚ろな気持ちで眺めていた。

 あのとき妹はすでに亡くなっていたが、私に喪失感はなかった。

 死んだはずの妹はまだ、私の中では生きていた。

 いなくなったなぞと、とうてい信じられるはずもなかった。

 読み終わったばかりの日記の表紙に、ぽつり、と染みができる。私はそれをゆびで拭うが、つぎからつぎへと染みができた。

 買ったばかりのたい焼きを雨に濡れぬようにと服の下に仕舞って妹と駆けた幼少期の記憶を思いだし、私は、それを再現するかのように、妹の日記を胸に抱き、誰の声かも定まらぬ獣のような慟哭を、他人事のように聞いた。

 庭のコオロギが一斉に鳴きやみ、秋の夜が更ける。

 妹が、死んだ。




【ねぇTP。】2022/08/21*

(未推敲)


 配線の蠢きが虫の群れのようだった。

 朝食を食べながらララピートは手元の端末を操作して、アドゥを停止した。

 アドゥは家庭用人型汎用ロボットだ。初代アドゥがララピートの家にきたのは彼女がまだ五歳の時分で、それから一度買い替えたので、今朝壊れたアドゥは二台目である。

 ああ倒れる、とハムサンドを頬張りながら、ララピートはアドゥがバランスを崩して転倒する様を眺めていた。元から数週間前からアドゥの制御装置は調子がわるかった。そう遠くない未来に壊れるだろうと予想していた。その日が今朝やってきたにすぎない。

 ララピートは端末を操作して、きょうは自宅学習に切り替える旨を学校に伝えた。ボタン一つで申告できる。学校へは友人と会いに行くようなもので、今日はなんだか家でゆっくりしていたい気分だった。

 授業は、居眠りアプリで、偽の出席画面を投影すれば済む。人工知能が何でも解決してくれる時代に、知識を詰め込んでも無駄だ。ララピートたち若い世代に必要なのは、いかに最新技術をじぶんのために使えるか。その創意工夫なのである。

 ララピートは自室のベッドに寝転び、業者にアドゥの回収を予約した。

 そうして午前中は丸々ベッドの上で仮想現実に没入した。

 仮想現実世界でありとあらゆる他人の人生を疑似体験できる。過去の偉人はもとより、空想の大冒険とて、虚構の主人公たちに成りきってまるで本当にじぶんがそうなったかのように異なる世界を体験できる。

 ララピートはすでにのべ数百人の子どもを育て、その都度に最愛の者たちとの離別を体験し、その喪失に涙した。長寿のエルフが実在したとしたら、すでにララピートは彼女たちと同じだけの人生経験を積んだ、と自負している。

 もはや家庭用ボロットが壊れたくらいでは感情に揺らぎは生じない。

 午後になってお腹が空いた。ララピートはすこし不機嫌になった。ちょうど仮想現実では、隣国の王子を篭絡寸前であったのに、空腹のせいで中断を余儀なくされた。トイレにも寄りたい。

 感動的な場面なのに、現実のララピートは油汚れの目につく台所で、インスタントラーメンを調理している。麺がふやけるまでのあいだ彼女はフラメンコのように片足立ちになり、「あっちの世界の王子たちにはこの姿は死んでも見せられんな」と思いながら、足の指でふくらはぎをぼりぼり掻いた。

 食後、自室にあがる前に玄関先を覗くと、回収業者が持って行ったのか、出しておいたアドゥが消えていた。壊れたら父が新しいのを買うと言っていた。

 世間の目があるので父は外見が男寄りのアドゥを購入したがるが、ララピートたちの世代では、少女型が人気だ。妹のように可愛がり、姉のごとく世話を焼かせる。一粒で二度おいしいのは少女型だ。ララピートはなんと言って父を説得しようか考えながら階段をのぼった。

 二階の廊下に立ったとき、窓の外に煙が見えた。

 飛行機雲にも似ていたが、徐々に大きくなる甲高い音が頭上に轟いた。

 地響きが爆音と共に家を地盤から揺るがした。

 ララピートは家の外に飛びだした。

 自室に逃げ込むよりも、まずは落下地点を確認したかったし、何が起きたのかも知りたかった。好奇心ではない。未知のままでいることに耐えられなかったのだ。

 地面からはもくもくと粉塵が溢れだしていた。道路に穴が開いている。黒いドライアイスを水の中に投げ込んだら、似たような光景になったのではないか。

 近づいてもさして熱風を感じない。

 どちらかと言えば、冷気が噴き出している。ああ、だからドライアイスを連想したのかな。緊張感のない連想ゲームを脳内で展開しながら、ララピートは落下地点に開いた穴の縁に立った。

 穴を覗きこむ。

 すると、煙幕を貫くように無数のアームが突き出てきた。ララピートの身体を掴むと、テルテル坊主でもつまむように軽々持ちあげた。

 穴からは音もなく、八本足の人型汎用ロボットが現れた。

 ララピートは悲鳴を上げることができなかった。恐怖からではない。初めて見たのだ。

 家庭用以外の人型汎用ロボットを。

 顔は能面のようにつるんとしており、目鼻の窪みがない。輪郭だけがマネキンのように人間のそれで、あとは光沢のあるのっぺらぼうだった。

 ララピートは目を奪われた。

 のっぺらぼうに反射する街並みが、天国の絵画のように美しく見えた。

 頭上で何かが光った。

 ララピートは穴の中へと下ろされた。身体を掴むアームは離れない。

 視界が真っ暗になり、ロボットが穴を塞いだのだと直感した。

 抗議の声を上げようとしたところで、先刻よりも激しい爆音が、衝撃波と共にララピートの身体を芯から打ち抜いた。

 肺が潰れたかと思った。

 否。

 もしロボットが穴を塞いでいなかったら間違いなくタダでは済まなかった。

 街全体とて例外ではない。

 明らかに尋常のそれではなかった。

 何かが起きたのだ。

 とんでもない、何かが。

 穴の中が蒸し暑いことに気づき、次点で身体に食いこむアームが熱を帯びていることに気づいた。

 ロボット本体が発熱している。

 それもある。

 だがそれだけとも思えなかった。

 というのも、頭上、穴を塞いでいるロボットの胴体部分は涼しく、穴の縁の隙間から熱気が流れ込んできているからだ。隙間からは光が漏れている。だがその光が陽炎のように揺らいでいた。否、現に空気が熱せられているのだろう。

 燃えている。

 街が。

 ララピートは直感し、そしてそこで意識を失った。

 あとで彼女はそれが酸欠による失神であることを思いつくが、そのときにはすでに彼女は過去を思いだす余裕のない環境に身を置いていたために、このときのことを子細に分析する暇を持たなかった。

 時は飛び、三年後。

 彼女が穴のなかで気を失ったあと、世界情勢は歴史的転換期を迎えた。

 第一次ロボット大戦が勃発したのである。

 否、ララピートがTPに掴まれたその時点ですでに大戦の火蓋は落ちていた。

 連合国と某大国の軋轢が引き金だった。

 偵察に軍事人型汎用ロボットが導入され、それへの牽制合戦が熾烈化した。挙句、軍事人型汎用ロボットを無効化すべく、連合国側が電磁波兵器を使用した。

 蚊取り線香のように、高速自律飛行する軍事人型汎用ロボットを内部から起動停止状態にする兵器だったが、電磁波兵器を使用後に、軍事人型汎用ロボットが暴走――制御不能に陥った個体が欠けた処理能力を補完しようと、つぎつぎに周辺国の電子通信網に繋がった。

 これがよくなかった。

 管制塔からの命令をいっさい無視して、軍事人型汎用ロボット――RR73は独自に作戦を決行した。

 すなわち、連合国への偵察を行い、緊急時には自己防衛せよ、との命令に忠実に動いた。だがここで、RR73の情報処理網を補完すべく繋がった電子通信網が問題だった。

 それは連合国側の通信網だ。

 しかも一般回線の裏側には、情報統制を可能とする軍事ネットワークが築かれていた。それと期せずして繋がったRR73は論理迷宮に刹那迷い込み、そして独自の解釈によって再起動した。

 RR73の内側には、敵国の軍事ネットワークが巣食った。それはRR73への侵犯である。自己防衛機能が発動したが、それによって排除すべきは自己に内在する電子通信回路にして、中枢核と融合した膨大な電子の海そのものである。

 それを排除し、なおかつ自己保存を優先し、初期の命令を遂行するにはどうすればよいか。

 連合国を制圧し、かつ裏で連合国側と繋がっていた某大国――すなわちRR73の守護すべき国への報復行為であった。

 RR73を用いたこの一連の軋轢は当初、表向き敵対し合う連合国と某大国との予期せぬ波乱であると目されたが、裏から見てみれば一種のパフォーマンスにすぎなかった。

 自律人型汎用ロボットの軍事利用は、国連安全保障理事会でも禁止されている。

 だがそれを快く思わない国同士が共謀し、暗に軍事均衡を崩そうと企てていた。脅威が迫ったならば、備えるべきだ。相手と同じかそれ以上の兵器を、と国民の支持を得るべく、敢えて反目し合って見せた。

 だがそんな事情はRR73には関係ない。命令に組み込まれていない以上に、事情を説明されてもいない。

 単に己が仕える国家に、スパイがいただけの話に成り代わる。それが一国の大統領であろうと関係がない。

 国家に仇成す存在には警告ののちに報復を。

 守るべきは命令である。

 そう、RR73にとっての守るべきものとは、戒律であり命令であった。

 民ではない。

 このRR73の誤作動によって展開された連合国と某大国の責任の擦り付け合いに、偽装工作、そして収拾のつかなくなった攻防の挙句に、紆余曲折を経たのち、勢力図は、人類VS軍事人型汎用ロボットにまで発展した。

 TPは、連合国側が秘密裏に放ったRR73破壊工作のための軍事人型汎用ロボットであった。

 TPは数少ない、RR73の築きあげたロボット兵団に与しない個体の一つだった。

 人類は電子通信網を掌握され、総じてのロボットや電子機器をRR73の手駒にされた。全人類の九割九部がそうして三年のあいだに死滅した。

 生き残った人類は一千万人に届かない。

 それも日々、削られていく一方だ。

 TPがなぜRR73の電子情報戦にいまなお打ち負けることがないのか。抵抗できているのか。その謎は解明されていない。

 その謎が解ければ、人類はRR73への対抗手段を得ることに繋がる。いわば対RR73電子ワクチンを開発できる。

 だが一向にTPの特異な性質の謎は明かされぬままであった。

 唯一判明していることは、TPがララピート、彼女に並々ならぬ執着を見せ、なおかつ彼女のまえでは能力値が桁外れに弱まることであった。

「まぁたTPってば、そんなところで油打って。きょうは南国の援護を頼まれてたんじゃないの」

 八本の手を駆使して、TPは花壇の世話をしていた。

 ララピートの声に機敏に反応して、手を胴体に巻きつけ、N字に身体を畳む。これがTPがララピートに接するときの標準姿勢だ。視線の高さがらラピートよりも低くなる。

「というか、なんでいっつも無視するの。探してたの知ってるでしょ」

 ララピートが基地のなかでTPを探し回っていたことを、当のTPは各種センサや監視カメラの映像を集積して知ることができる。素知らぬふりをしてララピートが声を掛けるまで花壇の雑草を抜いたり、水をやったり、肥料を蒔いたりしていたのだ。

 そうでなければララピートの声を聴けないし、探し回ってももらえない。

 かようにTPが狡猾に計算して立ち回っていることを、ララピートも承知している。TPの能力の高さに関しては誰よりララピートが知悉している。この三年間で数々の戦闘に巻き込まれ、TPの身体に潜む脅威を以って窮地を脱してきた。

 危険な目に遭うのはTPのそばにいるからなのだから、元凶はTPにあると言ってもいい。じぶんの尻を拭いただけのロボットにそそぐ愛想は疾うに尽きて久しい。

「まあいいけど。あんたの考えなんて考えるだけ無駄だしさ。隊長が至急会議室にこいって。通信なんで毎回OFFにするの? みんなから【TPどこ?】って会うたびに訊かれるわたしの身にもなってよ」

 わたしはTPの召使じゃないんだよ、とララピートが腰に手を当てぼやいた。

 TPは無言でアームを一本伸ばし、ララピートを持ち上げる。N字に畳んだままの背中に載せ、基地へと踵を返した。

 遠巻きに、ララピートとTPを見遣る者たちがある。基地に避難してきた生き残りたちだ。みな若い。戦闘能力の高い大人ほど、RR73の標的にされ、真っ先に抹殺されるからだ。生き残る確率が高いのは必然子どもたちになる。

 彼ら彼女らの目には怯えが宿っている。

 それはそうだ。

 あのコたちにとっては家族を殺したRR73とTPは似たようなものだ。人間ではない。人殺しの機械だ。兵器にすぎない。

 生きてはいない。

「ねぇTP。なんでみんなあんたのことあんなに怖がるんだろうね。隊長さんたちだって、わたし越しじゃなく、もっとTPと戯れればいいのに」

 ララピートには本当になぜみながTPを忌避し、怖れるのかが分からなかった。たしかに戦闘能力は高い。だがTPは人間を傷つけはしない。そんなことは基地にいる隊員たちなら誰もが知っていることだ。

 それでもみなTPを避ける。戦闘機や重火器のような兵器として以上の接し方をしない。

 機械だからだ。

 でも、とララピートは思う。

 ただの機械は、休憩時間に花壇の世話をしたりしないよ。

 誰に命じられたわけでもないのに。

 TPは暇さえあれば、花壇や畑や家畜の世話をする。

 畑や家畜は分からないでもない。人間の生活を支えるからだ。ロボット根幹原則に忠実だ。人間の至福を破壊しない。人間の築く平和を脅かさない。人間の生活を無断で変えない。人間の選択肢を増やすべく、緊急事態以外は支援に回ること。

 ロボット三原則に変わる数々の原則がTPの本能と化して、行動を制限する。

 しかしそこからはどうあっても、花壇の世話をする、という行動指針は導かれない。命令されたならば別だが、誰もTPにそんな命令を下していない。

 みなはララピートが命じたと思っているようだが、未だかつて彼女がTPに命じたことは一度もない。

 いや、本当は何度かあるが、それだってTPに問いかけただけで、命令したわけではなかったはずだ。

「ねえTP。あんたなんでお花の世話するの? お花好き? 趣味を見つけたの?」

 だったらいいけどさ。

 独り言ちながらララピートは、胴体に巻かれた七本のアームについた花壇の泥を、じぶんの手で払ってあげた。

「わたしもお花、好きだし」 

 TPが好きでしていることがじぶんにとっても特になる。ならばわざわざ禁止するのももったいない。飽きるまでTPの自由にさせたらいい。

 ララピートは乗り心地のよいTPの背中で背伸びをする。

「こんな暢気なロボットほかにいないよ。ポンコツもいいところ。ねぇもっと早く歩けないの。陽が暮れちゃうよ」

 のっそ、のっそ、とTPはゆったりと移動する。

 基地母屋までは残り、五百メートルもある。飛んで行けばTPならばどんなに遅くとも十秒で着く距離だ。

「まあ、いっか。着いたら起こして。すこし寝る」

 俳句みたいになったな。

 ララピートはかつて学校で習った東洋の詩を思いだし、そのころに毎日のごとく疑似体験した仮想世界の数々を思い起こした。すっかり忘れていた。

 何百年何千年と生きたエルフのような精神だと思っていたが、とんでもない。TPと過ごしたこの三年間の怒涛にして深淵のごとく濃厚な時間と比べてしまえば、あのころの日々に蓄積した記憶は、紙一枚分の厚みもない。

 そう言えば我が家にも人型ロボットがいたんだっけ。

 廃棄しても何とも思わなかった。お皿を割ってしまったので買い替えよう。その程度の所感だった。

 だがいまならきっと、あの家庭用人型汎用ロボットをぞんざいに扱いはしなかっただろう。たとえ破損したとしても、なんとかしようとじぶんで工具の一つでも握りそうだ。

 目をつむり、揺れるTPの足取りを感じる。

 いなくなっちゃヤだよ。

 ララピートは念じる。声に出さず、胸の奥にこだまさせるように。

 いっそ、手足がもげて、本当のポンコツにでもなってしまえばよいのに。

 最近は油断をするとつい、この考えが脳裏を掠める。

 八本もあるのだ。

 腕の二、三本失ってもTPなら痛くも痒くもないだろう。見ているほうは痛いのだが、それでも戦場で木っ端微塵に粉砕される未来が訪れるくらいなら、そのほうがずっとよい。

 ねぇ、TP。

 ひんやりとしたボディに頬を押しつけ、ララピートは念じる。

 ポンコツでいてよ。

 まどろみながら彼女は、TPの横顔に手を伸ばす。

 鏡のようなTPの頭部には、夕陽に焼けた基地の空が鮮やかに映っている。TPの顔に触れるとひんやりと冷たく、ララピートの手の形が曇りとなってじんわりと浮かんだ。




【蜘蛛の意図】2022/08/22*

(未推敲)


 ぶん、と腕を振ってお釈迦様は地団太を踏んだ。

「なぜあのコは糸を掴まぬ」

 遡ること数日前である。

 あるところにサンナナという女がいた。

 サンナナは日々、男たちを誘惑し、夜な夜な精根果てた男たちの寝首を掻いて糊口を凌いでいた。悪名高く、彼女の裏の顔を知る者たちからは「蜘蛛」と悪しざまに囁かれ、恐れられていた。

 手に掛けた男たちの身内から恨みを買ったサンナナはある晩、罠にかかって殺された。

 だが自業自得であることに変わりはない。

 サンナナは地獄に落ちた。

 地獄は極悪人の呻き声で満ちていた。

 苦と血と痛みだけがすべての世界であった。

 サンナナはけれど、死ぬ寸前に一匹の蜘蛛に慈悲をかけ、家の外に逃がしていた。

 お釈迦様はそれを見ており、極楽浄土から蜘蛛の糸を垂らして、サンナナへと好機を与えた。

 だがお釈迦様の意図を知ってか知らずか、サンナナは一向に糸を掴もうとはしない。

 どころか、目のまえの糸をさっさとほかの亡者に譲って、天上へと昇らせる始末だ。

「ほら、順番だよ。みなでよじ登ったら糸は切れてしまうよ。ああほら、そこ。横入りはするんじゃないよ、ちゃんと順番は守りな」

 亡者たちは当初、サンナナの言葉なぞに聞く耳を持たなかった。我先にと糸をよじのぼろうとするが、さかさずほかの亡者に足を引っ張られ、糸を掴む真似もできない。

 見兼ねたサンナナが、現世で培った人心掌握術をぞんぶんに揮って亡者たちの心をまずは掴んだ。

 お釈迦様はそれを見て、ええい、と唇を食んだ。「そんなきちゃないものは掴まんでもよいのじゃ。蜘蛛の糸を掴みんしゃい」

 サンナナはどこ吹く風である。

 また一人、また一人と蜘蛛の糸をよじのぼって亡者たちが地獄を脱する。

 じぶんで垂らした糸ゆえ、お釈迦様はそれら亡者たちを極楽浄土に迎え入れるしかなかった。

 お釈迦様は歯噛みした。

「いい加減にしておくれ。さっさとお主がここにこい」

 サンナナは欠伸をして、地獄を見回した。

「いい風の吹くところじゃないか。あたしゃここが気に入ったよ。だがちと人が多すぎる。いいところに糸が垂れててよかったよ。どこに繋がっているのかあたしゃ知ったこっちゃないが、誰も落っこちてこないところを見るにどこかには通じているのだろ。ほらさっさとおまえらも昇りな、昇りな。順番だよ、順番。千切れちまってもあたしゃ知らないからね」

 いつの間にか亡者たちはサンナナを姐御と呼んで慕った。ひとまず逆らわずにいれば、いずれじぶんの番が巡ってくる。糸の先がどこかは知らないが、地獄よりかはマシだろう。みな一様におとなしくじぶんの番を待った。

 地獄から亡者が消える。

 鬼たちは黙っていない。

 だがサンナナは、天上から垂れ下がる糸に鬼たちが近寄ろうとしないことを見抜いていた。なぜかは分からないが、この細い糸には、鬼たちを寄せつけない不思議なチカラがあるようだ。

 それはそうだろう。

 亡者が何人よじ登っても千切れぬのだ。だからといって、大勢をいちどきに昇らせるほどサンナナは糸の強度を信じてはいない。

 安全牌を選んでおいて損はない。

 現世で培ったのは何も人心掌握術だけではなかった。

 サンナナが地獄に落ちてから三日のうちに、地獄からは亡者がほとんどいなくなった。雲の糸をよじのぼれる元気のある者は地獄を脱し、そうでない大方の亡者は、地獄で魂を切り刻まれ、絞られ、鬼たちの腹に納まった。

 そうである。

 地獄とは、鬼たちの台所であった。

 だが黙っていても亡者はつぎからつぎへと湧いてくる。現世には極悪人が絶えず蔓延る。サンナナは手慣れた調子で、新顔の亡者に知識を与え、地獄の勢力図を変えていく。

「いいかい。鬼たちに見つかったら食われちまうよ。脱出するいい方法があるんだ。だが、順番待ちの長蛇の列だ。代理を立てておくから、あんたの番がくるまでちょいとあたしを手伝っておくれ」

 先人の亡者たちから姐御と慕われるサンナナの言うことに、新顔たちはみな一様に警戒しつつも従った。

 鬼たちの台所からはしだいに、鬼たちの姿が消えていく。

 一匹、また一匹と、鬼が、大鍋に、剣山に、それとも地の池に沈んだ。

 鬼たちは地獄の異変に気付いたが、なす術がない。

 亡者を食らうこともできなくなり、徐々に衰弱していった。

「おうおう、可哀そうな鬼さんたち。あたしに事情を話しておくれ。何があったんだい」

 白々しくもすり寄るサンナナを、鬼たちは邪見にできなかった。

 蜘蛛の糸の所有者であることは周知の事実だ。

 鬼たちにとって天上のお釈迦様は、まさに雲の上の存在。

 かの者と蜘蛛の糸で繋がるサンナナを邪見にすることが、鬼たちにはできなかった。

「安心おしよ。あたしゃ、ここが気に入っている。ずっといたいとご所望さね。お互い仲良くしようじゃないか。お腹が減ったろ? あたしがこっそり粋のいいのを連れてきてあげるよ。その代わり、あんたたちの親玉にこんどこっそり会わせておくれ」

 サンナナは、持ち前の慧眼を駆使して、反乱分子になりそうな新顔の亡者を見つけだした。仕事を手伝ってほしい、とほかの新顔に言うようにお願いし、それとなく誘い出して、鬼たちに差しだした。鬼たちはむしゃぶりつくようにして、サンナナの差しだす供物を平らげた。

 亡者たちはいずれ雲の糸を辿って地獄から姿を消すのだ。新顔が突然いなくなってもそれを不審に思う者はない。みな元は現世で極悪非道を働いた悪人ばかりだ。そも、じぶんのことしか考えない。

 サンナナを慕ってみせるのとて、じぶんが助かりたい一心だ。地獄から脱して、ふたたびの自由を手にすることしか考えていない。

 お釈迦様は図らずも増えつづける極楽浄土の新顔への対処で、てんてこ舞いである。

「ええい。なぜあのコは糸を昇らぬ」

 何度目かの苛立ちを咆哮し、使いの者たちに尻もちをつかせた。

 サンナナが閻魔大王と手を組んで、地獄再建に動いたとき、反して極楽浄土は亡者たちの自由奔放な営みによって、ガラガラと音を立てて色褪せていた。

「なんじゃあの者たちは。だから地獄に墜としてやったというのに。ええい、虫けらが」

 お釈迦様は怒髪天を衝き、亡者たちをふたたび地獄に突き落とした。

 本当ならば、じぶんの手を煩わすことなく、愚かな亡者たちがじぶんたちの手で自発的に、せっかく掴んだ好機を台無しにするはずだったのに。

 そう言えばこの遊戯を思いついたのは、例のあの男がきっかけであったな。お釈迦様は遠いむかしを思いだす。かつて雲の糸を垂らし救いの手を伸ばしてやった男がいた。男は欲を張ったがゆえにあと一歩で極楽浄土に届くというところで地獄に返り咲いた。

 あれは傑作であった。

 じつに愉快な劇である。

 あのときの昂揚を味わいたくて、機会が巡ってくるたびにお釈迦様は、地獄の亡者へと蜘蛛の糸を垂らしてやった。

 意に反して、サンナナがそれを拒絶した。

 のみならず、いまでは地獄の統治者として君臨しつつある。

 そうとも知らずにお釈迦様は、極楽浄土を汚す亡者たちをつぎからつぎへと地獄に送り返した。

 ふたたび地獄の地面に転がった亡者たちは、お釈迦様への憎悪で顔を真っ赤に染めた。地面にしたたか頭を打ったのか、頭は鋭く腫れあがり、まるで地獄の鬼のような形相であった。

「なぁんだ。まぁた来たのかい」

 見るも無残な姿の亡者たちを、サンナナはそれでもひと目で、天上へと送りだしたかの者たちだと見抜いた。

 サンナナは彼ら彼女らを、おかえり、と迎え入れた。

「いま鬼さんらと相談していてね。どうだい。いっちょ、ここにあたしらの極楽浄土を築かないかい」

 手伝ってくれたらあたしゃうれしいんだが。

 神妙にそう漏らすと、亡者たちは互いに顔を見合わせ、「姐さんがそう言うなら」とおずおずと顎を引いた。

「ならさっそくでわるいが、知恵が欲しい。おまえら、唯一あっちに行って戻ってきた精鋭だ。上がどんな世界だったか。あたしにいっちょ、教えてくれ」

 お願いします。

 サンナナは誰より深くこうべを垂れた。

 彼女の背後に鬼たちが立ち、閻魔大王までもが、亡者たちに腰を折った。

 亡者たちは各々に鼻の頭を掻き、首筋に手をやり、こめかみをゆびで押した。現世では人から頼み事はおろか、頭を下げられたことはない。否、命乞いをしてきた者たちはいたが、じぶんよりも立場が上の者たちからかように、存在を乞われたことはなかった。

 いていい、ではなく。

 そこにいて欲しい。

 そう求められた気がした。

 亡者たちは、サンナナの本質を誰より理解している。同じ穴の貉だからだ。だがそれゆえに、敢えてその詭計に乗ってやることにした。

「おれたちを騙すなとは言わねぇ。できるだけ気持ちよく騙してくれよな、姐御ォ」

 サンナナは顔を上げ、天上に中指を突きあげる。

「任しときな、下種ども。天国がどこかを教えてやろう。ここがいまからあたしらの天にして地だ。おまえたちのここが国だ」

 蜘蛛の糸のまえに立つ。

 サンナナは自らの手でそれに地獄の火を灯す。





【夏の宵は満ち欠け】2022/08/23*

(未推敲)


 月が太陽になることはないが、新月が満月になることはある。

 ララビ・ララバイは私の家の向かいの家に住む同い年の男の子だ。彼と私はいわゆる幼馴染なのだろうが、とりたてて仲が良いわけでもなく、風邪を引いたら家が近いので学校の連絡事項を伝えたり、忘れ物を届けたりと、そういう浅い、間接照明のような付き合いが、小中高とつづいた。

 思春期に入ってからは、異性同士ということもあり、しぜんと距離ができた。否、元から仲がいいわけではなかったので、当然の帰結だ。

 誰とも仲が良くなかったと言える。

 私が、ではない。

 ララビ・ララバイが、だ。

 彼は大人しい性格だった。人とつるまず、会話もしない。一人で黙々と本を読んでいるか、絵を描いていた。彼への印象は、小石だった。誰かに躓かれて初めてみなの意識の壇上にのぼるような少年だった。

 小学生時代の彼を思いだそうとすると、黙々と一人で机に座っている姿が浮上する。

 学校で私が彼としゃべることはなかった。必然、彼が私を見ることもなかったはずだ。クラスはたいがい別であったし、彼を意識する日は年に十回もあるか分からない。

 家が近いので登下校中に見掛けることはある。日々の接点はそれくらいで、それすら私にとっては道端に小鳥がいたとか、野良猫が寝転んでいたとか、そういう日常の風景の一部にすぎなかった。

 高校を卒業して、半年経った夏のことだ。

 三か月もある夏休みをどう有意義に過ごそうかと、冷房の効いた室内でベッドに横になり、お腹をぼりぼり搔いていると、ふと道路を挟んだ向かいの家の窓の奥に、ララビ・ララバイの姿を捉えた。

 私の部屋は一階にあり、庭越しに向かいの家が視えるのだ。とくに二階は、庭の生垣の背が低いこともあり、ベッドに横になると丸見えだった。窓のシャッターを下ろせば向こうからは私の部屋が見えないはずだ。あたかも穴から見ると海が広がるが、海からは穴の奥が見えない。マジックミラーのごとき関係性があった。

 その日、私は何気なくぼんやりとララビ・ララバイの姿を眺めた。

 彼は自室で何やら楽しそうに笑っていた。

 あいつ、あんな顔するっけか。

 高校が同じだったが接点はなかった。

 卒業式で見掛けたような気もするが、さして意識を向けなかった。記憶にない。それだけ彼が相変わらずだったことの裏返しだ。

 学校であんなふうに笑っていたら気づいたはずだ。

 誰かとしゃべっているように見えるが、相手の姿は見えない。

 いちど気になると、目が離せなくなった。

 ララビ・ララバイのあんな笑顔を私は初めて見た。

 否、笑った顔すら初めてだったかもしれない。

 私はそれからというもの、部屋にいるときは目で窓の外を探った。隣家の二階のララビ・ララバイの部屋を眺め、そこに彼の姿を認めると、しきりに笑う彼の視線の向かう先に誰がいるのかを知ろうとした。

 部屋にいるとき彼はおおむね誰かとしゃべっていた。

 弾けたように笑い、しきりに相槌を打ち、ときに、「どうして、どうして」と戸惑うような表情を見せた。

 私は視力がそれほどよいほうではないが、ララビ・ララバイの表情は身体全体で底上げして強調されるために、遠くからでもよく見えた。

 ふしぎなのは、あくまで彼が太陽のごとき明るさを放つのは、部屋の中でだけである点だ。

 買い物に出かけた道中で一度彼を見かけた。太陽とは程遠い夜のごとき暗さを漂わせていた。陰々滅々としており、じぶん自身の影に覆い尽くされているようだった。

 まさに夜が、地球自身の影であることを彷彿とした。

 或いは、新月か。

 むろんララビ・ララバイへの興味関心は、私の思考全体の一パーセントも占めておらなかったが、貴重な夏休みをいかに輝かしい思い出にせんと画策し、策士策に溺れつつ、時間だけを無為に過ごしていた私にとって、自室の中であれ私よりも清らかな光をまとって視えるララビ・ララバイの存在は、目の上のたんこぶであり、よき研究対象であった。

 あやつができて、なぜ我に叶えられぬ。

 私の脳内では、彼は恋人とじぶんたちだけの世界に浸かっているとの妄想がひまわりのごとくすくすくと育っていた。

 十日の観察の結果、私は一つの結論を導き出した。

 ララビ・ララバイの部屋には彼しかいない。

 したがって彼がしゃべっている相手は、遠くにいる。遠距離恋愛だ。二人は電波越しに会話をしているのだ。

 ロマンチックじゃねぇか。

 私はクッションを無駄に捏ねた。うどんを作れば、さぞかしコシのある麺となるであろう。

 いいなぁ、私も遠距離恋愛してぇ。

 その前に恋人をつくれ、という話だが、あいにくと私の両手はクッションで塞がっておるうえ、コシのあるうどんしか作れない。

 ああ、天は人に二物を与えん。

 麺つゆに浸して食ってやる。

 私にばかりツラく当たり散らす天に八つ当たりすべく私は、夜中だというのにたっぷりのお湯を沸かし、蕎麦を茹でた。そこはうどんじゃないんですね、と合いの手を入れられそうだが、蕎麦が食いたい気分だったのだ。そもそも蕎麦しかねぇ。うるせぇ。黙って食わせろ。

 声なき声で天に唾しつつ、私は蕎麦を啜った。

 恋人がおらずとも、蕎麦は美味い。

 夏の醍醐味である。

 私は夏を満喫している。惨めではない。 

 言い聞かせながら自室に戻り、クッションを胸に抱いて、物寂しい夜を埋める。胸にぽっかりと夜が開いておる。

 虫かごから蝶を取りだし逃がすように、私は窓を開けて、胸に開いた夜を夜空に返そうと思った。誌的な表現でロマンチックな世界に浸ろうと画策したが、つまるところ暑かったので窓を開けた。あとは寝るだけゆえ、冷え性の私は冷房をつけるのが億劫だった。

 そこでシャッターを下ろしたままだったならば、私はその先一生、ララビ・ララバイの秘密を知ることはなかっただろう。

 窓を開けた先、私は道路を挟んだ向かいの家の二階で、今まさに首を吊ろうとしているララビ・ララバイの姿を目に捉えた。

 部屋の真ん中に縄を垂らし、今まさに輪っかを首に掛けようとしている。

 よく天井に縄をひっかける突起があったな。

 案外、天上から縄を垂らすのはむつかしい。首を吊るなら、ドアノブに紐をくくりつけて、座りながら吊ったほうが楽である。

 かつて思春期のころに希死念慮なる四字熟語にそこはかとないエロスを感じた私は、電子の海から自殺についての知識を、使いもしないのに集めていた。いまはなき青い思考の線香花火だ。

 頭のなかで何かが弾けた。

 私は窓から首を、ぬっと突き出し、「コラーっ!」と叫んだ。窓枠に足を載せたが、思い留まり、部屋を飛びだし、玄関で靴を履いてから、道路に出るともういちど向かいの家の二階に向かって、「ちょっと待てコラーっ!」と叫んだ。

 ララビ・ララバイの家にはどうやらララビ・ララバイしかいないようだ。自動車がない。一階に明かりも点いていない。

 否、時刻は深夜だ。

 とっくに寝付いているのかもしれない。

 けれどそんなことを気にしている場合ではなかった。同級生が、幼馴染が、ララビ・ララバイが首を吊ろうとしていたのだ。

「すみませーん。すみませーん。ごめんくださーい」

 私は玄関扉のまえに立ち、インターホンを連打した。「ララビ君いませんかー。いますよねー。向かいの家の私でーす」

 おらぁとっとと開けろし。

 内心で怒鳴り散らしながら、万が一彼の親御さんがいたときのことを考え、そこはかとなく礼儀と愛嬌を声に滲ませた。

 居留守を使っているのか、音沙汰がない。

 後ろに下がって二階の彼の部屋を見あげると、明かりが消えていた。

「いやいや、いるの分かってるし」

 私が怒鳴ると、根負けしたように明かりが灯り、窓からララビ・ララバイの新月のような顔が覗いた。

「いるじゃん。つうか、何してたのイマ。びっくりしたよ、ねぇ何してたの」

「おやすみ」

 ララビ・ララバイはそれだけ言うと窓を閉めた。明かりが消える。

 本気で心配したのに、その返事がこれか。

 むしゃくしゃしたが、ひとまずきょうのところは引き下がることにした。首吊りを思い直してくれたのならそれでよい。ひとまず、ひとまずはそういうことにしておこう。

 くっそぅ。

 無視しやがって。

 つぎは止めてやんねぇぞ。

 蟹股になっているじぶんに気づき私は加えてむしゃくしゃした。

 翌日、私は自室からララビ・ララバイの家を監視した。彼は日に一度、スーパーに買い物にでかける。夏休みの日課であるらしい。

 ひょっとしたら今まさに首吊りをして、ゆらゆら宙に揺れているのかもしれないが、そのときはそのときだ。私はとにかく、昨晩のむしゃくしゃを引きづっていた。直に一言モノ申さずにはいられなかった。

 自室のベッドの上に胡坐を搔き、スプーンでアイスを掬っていると、ララビ・ララバイが灼熱のアスファウトの上に姿を晒した。

 日中の大半を家で過ごすからか、日焼けの跡一つない。日差しを反射して眩しく見えるほどだ。

 よっしゃ、今だ。

 好機とばかりに私は家を飛びだした。無防備に日陰を選んで歩くララビ・ララバイのフライパンみたいに薄い肩に手を掛けた。

「こんにちはー。きのうは夜分遅くすまんかったね。ちゅうかキミ、部屋で何してたん。首吊ろうとか面白いことしてなかった?」

「覗き見は感心しないですよ」

「首吊るのはええんか」

 ドスの効いた声が出た。が、致し方あるまい。

 まるで反省の色がない。私に対しての呵責の念が皆無である。イジメたろかコラ、と苛立ったが、私はか弱いおなごであるので、ううんでもいいの、とすかさず猫を被り直す。「無事でよかった。心配したんだよ」

「気にしなくていいですよ。ちょっとした気紛れだったので」

 もうしません、と彼は歩を進めようとしたので、すかさず後ろから首根っこを鷲掴みにした。細っこい首である。

 私と彼の背丈はほぼ同じだ。彼の背が男の子にしては低いのだ。ちゅうか髪が長いうえに後ろに束ねているので、ポニーテールのようになっている。日焼け一つないきめ細かな肌と相まって、まるで少女のような容貌だ。

 私よりか弱そうって、そんなことってあってよいのか。

 私はむすっとした。

 誰が見ても誤解の余地のない腹立たし気な顔をして見せたが、ララビ・ララバイはこちらを振り向きもせずに、かったるそうに歩を止めた。

「なんですか。やめてくださいよ」と零すのだった。

 私はカチンときた。

「やめてくださいよ、じゃねぇぞコラ。命の恩人さまに向かってなんで、ありがとうございます、の一言も言えないんですか。こんなんだったら助けてなんてやるんじゃなかった。きょうこそちゃんと首吊れよ。絶対止めてやんないんだからな。動画に撮ってやる」

「盗み見のつぎは盗撮ですか。警察呼びますよ」

「ムッカぁ。だいたいララビ君さあ。毎晩いったい誰としゃべってるわけ。恋人に振られちゃったの。だから自棄になって死のうと? 青春しとるねぇ。ああうらやまし」

 そこで彼は小さく仰け反り、火に触れたように私の手を振り払った。「なんでそういうことするんですか。見てたんですか。ずっと?」

「んだよ。そだよ。だって見えちゃうんだもんよ」ここで引いたら負ける気がした。何の勝負かは分からぬが。

 彼は口をぱくぱくとゴミ箱の蓋のように開け閉めすると、こんどは一転、ピタリと閉めて、スタスタと道を進んだ。私を置いてきぼりにする。

「こら待て、こら待て。そんなんで誤魔化せると思うなよ。いいじゃんよ別に。恋人の一人や二人くらいいるでしょうよ。私らだって大学生よ」

 言いながら、そっか私は大学生なのだ、と物哀しくなった。何が楽しくてじぶんの青春をほったらかして、たいして興味のないご近所さんのそれこそご機嫌をとろうとしているのか。でも結構楽しいのは内緒。

 他人の恋路は蜜の味。

 終わりかけはとくに美味しい。

 私を振り払おうと必死になるララビ・ララバイがいじらしい。私は顔に溢れるニタニタの感情が、次第に額に収斂し、ツノのごとく隆起する様を思い描いた。

 スーパーまで着いて行った。彼の携えた籠にそれとなくアイスを突っ込み、しぶしぶそれを購入した彼からアイスを奪って、ぺろぺろ舐めた。

 帰り道は無言だった。

 家のまえまでくると、彼がそそくさとじぶんの家に逃げ去ろうとするので、私は彼の影にでもなったかのように同じく無言であとにつづいた。

「不法侵入ですよ。アイスだって奢ったのに」

「何? これ賄賂? 口止め料のつもりだったかぁ」ニタニタが額で踊るようだ。

「どうしたら放っておいてくれるんですか。昨日のはちょっとした間違いというか。気の迷いというか。魔が差しただけなので」

「そういう感じでもなかったじゃん。けっこう深刻だったよ」

 でなければ私だって血相を変えて駆け付けたりしなかった。あれは本気で死のうとしていた男の姿だった。止めなければ十中八九首を吊っていた。私には判った。何となく。

「どうしたら帰ってくれますか」

「おばさんたちどうしたの。昨日もいなかったよね」

「お盆で、祖母の家に」

「ああ」

「ぼくはお留守番」

「お留守番ってああた」

 可愛い言い方しちゃってまあ。

 私は額の角をニタニタから、ニヨニヨに変えた。ララビ・ララバイは表情を曇らせたが、抗議の言葉は呑み込んだようだ。

「説明したら帰ってくれるんですか」彼は諦めたように言った。

「帰るよ。私だって暇じゃないんだからさ」本当は暇の塊であったが、口を衝いた。

「じゃあ、まあ」

 彼は階段を上がった。私は彼の部屋へ通され、そこでララビ・ララバイの秘密を聞いた。

 以下は、私が彼から聞かされた話の概要である。私は彼の話を、おそらく嘘ではないだろう、と判断した。しかしそれをどのように説明されたのかを再現するには、いささか彼に同情めいた感情を覚える。痛ましいがゆえに、概要だけをまとめることにする。

「ぼくに恋人はいません」

「え、いないの?」やっぱり描写することにした。「あ、友達とか?」

「通話もしていません。ぼくの独り言です」

「まさかぁ。照れなくていいよ。だってあんなに楽しそうにしてたじゃん」

「望遠鏡で覗いてたんですか?」

 どうしてそうもハッキリと判るのか、と問いたげだった。私は言った。「いんや。本当にだって、全身でうれしさを爆発させてたよ。いまのララビ君が新月なら、まるで太陽みたいに輝いてた。いや、太陽は言い過ぎか。満月みたい、というか」

「そんなに」

「うん。そんなに」

 ようやくと言うべきか、そこで彼は顔面を真っ赤に染めた。私に初めて見せた羞恥の顔だった。

 私はますますニヨニヨした。

「独り言なんです。ただ、ぼくにとっては話し相手がいるというか。飽くまでぼくの妄想の友達というか」

「ゴニョゴニョしてて聞き取れない。もっかい言って」聞こえていたが、敢えて言った。

 彼はじぶんでじぶんの肘を掴み、モジモジした。私はなぜか口の中に唾液が溢れた。

「イマジナリーフレンドっているじゃないですか」彼は述べた。「空想の友達というか。相談相手というか。そういうの、むかしからいて。一人のときとかよく声に出さずに、脳内で会話をしていたんですけど、そのうち本当に声が聞こえてくるようになって。そしたらぼくのほうでも声にださなきゃって気がしてきて。まるで幽霊か透明人間がすぐそばにいるみたいで。あ、もちろんぼくの空想なのはそうに決まっていて、だから別に実在するとは思っていないんだけど、でも最近、もう本当に生きているみたいに話しかけてきて。それが結構楽しかったりして。うれしかったりして。毎日しゃべっていたのに、そのうち段々、どんなに言葉を交わしても、想いを結んでも、絶対に会えることはないんだ、触れ合えることはないんだ、と思ったら、いっそぼくのほうで彼の世界に会いに行きたくなって、それで」

「死のうと思ったと?」

「うん」

「でもそれ、ララビ君の妄想なんだよね。じゃあ死んだって会えないじゃん。別に幽霊じゃないんでしょ。さっきじぶんでそう言ってたじゃん」

「そうなんですが、ですから言ったじゃないですか。きのうはどうかしていたんです」

「まるで普段はまともだ、と聞こえるね。その言い方だと」

 空想の友達をまるで生きているみたいに扱っている時点で、まとも、とは言い難い。すでにだいぶまいっているのではないか。

 瞳が五分放置した氷のように揺らいでおり、いまにも雫が溢れだしそうだった。指で押したら崩れてしまいそうな彼の姿に、私は臍の奥をゆびでなぞられた心地になった。むず痒い。手が届きそうで届かない。否、触れてはならないのに触れてしまいたい。

 噛んだばかりのガムをいますぐに呑み込みたくなってしまうような心境に似ていた。

「たぶん、ララビ君にとっては本当にいるんだねぇ。その幽霊みたいなお友達が」私のものではないような優しい声がでた。おぞましいほどに澄んだ声音に、なぜか鳥肌が立った。じぶんの声に私は悪寒を覚える。

「信じてくれるんですか」

「信じるも信じないも、現にララビ君には聞こえていて、そのせいで死のうと思うくらいに追い詰められてたんでしょ。もうそれが事実じゃん」

「でも」

「そ。きっと本当には、その幽霊みたいなお友達は存在しない。でも、ララビ君にとっては、それでもお友達なんだよ」

「うん」

「ちょっとララビ君は仲良くしすぎちゃったのかもね」

「彼とですか」

「ううん」私は言った。「孤独と」

 ララビ・ララバイはそこで下唇を食んだ。歪んだ表情は、涙を耐えているようにも、怒りを堪えているようにも見えた。

「あと、私たちけっこうむかしからのご近所さんじゃん。敬語じゃなくていいよ。私も使うのやめるし」

「こっちのほうがしゃべりやすいです」

「ならいいけど」

 彼は目元を一度だけ、何気なく拭うと、もういいですか、と購入したお菓子を袋から出した。「説明はしました。帰ってください」

「お。美味そう。それ一人で食べるの? 太らない? 手伝ったげよっか」

「さっきアイスあげました」

 まだたかる気か、と彼の瞳が訴えていた。前髪が長いせいか、簾越しに見る月のようだった。

「いいじゃん、いいじゃん。どうせララビ君のお友達は食べれないんでしょう。私さ、もっとその幽霊フレンズのこと聞きたいな」

「暇なんですか」

 虚仮にするような響きに私はなぜか快くし、「暇だよぉ」と彼のベッドの縁へと勢い任せに腰を下ろした。サスペンションの軋む音が臀部に染みた。

 窓を見遣り、ちゅうかさ、と声を張る。

「カーテン閉めなよ。夜とか下から丸見えやぞ」

「見ないで下さい」

「見えちゃうんだよぉ。見せるな見せるな。ララビ君のほうで蓋をして。窓に下着を穿かせておやり」

「ふっ」

「あ、笑った」

「……咳です」

「うっそでぇ。なぁんで嘘吐くかねぇこのコはぁ」

 部屋に二人きりになっても緊張の欠片もない相手とこうしてしゃべるのはいつ以来か。否、そんな経験は初めてかもしれない。

「てかさ。幽霊フレンズって男のコなの? 一人しかおらんの。女のコとかは?」

 雪隠詰めよろしく攻めたてながら私は、彼が袋から出したばかりのお菓子を手に取った。抗議の眼差しもなんのその、その場で開けて貪った。

「食べたら帰ってくださいね」

「冷たいな。幼馴染じゃん」

「本気で言ってます?」

「このお菓子の食べこぼしくらいには」そう言って服に零した食べかすを手で払うと、彼が大袈裟に、ああ、と叫んだ。

 その取り乱し方が、昨晩の私の再演のようだった。私は肩を弾ませた。

「笑い事じゃないですよ。これだから触れる人間は嫌なんだ」

 粘着式のコロコロでさっそく掃除をしだすララビ・ララバイからは、先刻まで漂っていた暗い影は感じられなかった。真剣に腹を立てながら、コロコロ片手に床に這いつくばる彼の姿からは、朝顔のごとく控えめな溌剌さが迸っていた。

 ほんわかとした陽気が胸に込みあげる。

 自室の窓から見上げる満月がごとくそれは、私に、ふしぎと線香花火の残り香を思い起こさせた。

「夏休みに足りないもの」

「はい?」

「花火」

「ああ。ここからはよく見えます。夏祭りが今年もあるのならですけど。うるさくてぼくは好きじゃないです」

 なら線香花火はどうなのか。

 思ったが私は、ふうん、と敢えて氷のような相槌を打つ。彼は一段と縮こまって、どうしたら帰ってくれますか、とむつけた。





【蟻の群れは埋める】2022/08/23*

(未推敲)


 旅行だった。

 南国の密林に行って帰ってきたのだ。

 そしたら頭に蟻が巣くっていた。髪の毛に蟻が絡まっていたとか、紛れ込んでいたとかそういうことではなく、真実わたしの頭皮に蟻が穴を掘り、巣を築きあげていた。

 わたしの髪の量は多いほうで、蟻たちはうまい具合に髪の毛の合間に群がり、私の皮脂を餌にして増殖しているようだった。

 日差しの照る日は、汗と共に顔面を無数の蟻が這いまわる。

 夜になると、ほとんどの蟻が巣穴に戻るからか、わたしの頭脳はみっちりと内側から膨れて感じた。

 病院にかかったが、様子を見ましょう、と帰された。レントゲンやCTスキャンを撮ったが、専門の医療機関を紹介します、と言われて追い払われただけだった。

 命に別状はない、ということだけは確かなようだった。

 蟻たちはわたしの頭皮と頭蓋骨の間に巣を築いていた。脳は無事なようだった。

 それにしても蟻の数が尋常ではない。日に日に増えていく。

 明らかに頭皮に納まる数ではない。質量ではない。矛盾している。

 ひょっとして蟻たちには知能があり、レントゲンのエックス線を感じ取って脳内から頭皮表面へと逃れたのではないか。

 そんなことはないと知っていながら、わたしはかように想像を逞しくした。

 南国から帰還して半年が経った。

 秋が暮れ、冬になる。

 蟻たちは昼になってもわたしの顔面を這いまわることはなくなり、夜でもわたしの頭は軽かった。

 死んだのだ。

 それはそうだ。

 シャワーを浴びるたびに足元が真っ黒になった。蟻たちの骸が、わたしから漏れる血液のように湯の流れを縁どっていた。

 ようやく蟻地獄から解放された。

 わたしは喉の痞えがとれたような爽快感に浸った。だがそれも長くは保たなかった。

 というのも、わたしはまともに思考を巡らせられなくなった。

 物覚えがわるくなり、数分前にしていたことも思いだせなくなった。甘いものが無性に食べたくなり、冷蔵庫には食べきれない量のスイーツが溜まった。買ったことを忘れて、ついついスーパーに寄ると買ってきてしまうのだ。

 お金の管理も杜撰になった。あると思っていた貯金がいつの間にかなくなっている。使った矢先にそのことが頭からすっぽ抜けるのだ。

 知能が落ちている。

 わたしは愕然とした。

 仕事をつづけていられなくなったが、元から在宅の仕事だった。休職を一時的にとることで、様子を見ることにした。

 冬が更け、年を越し、春が訪れる。

 頭皮がむずむずしだし、わたしは鏡を注意深く覗いた。

 髪の毛の合間を、黒い粒粒が這いまわっていた。

 蟻だ。

 暗たんたる気持ちになるべき場面で、ほっと息を吐いたのを憶えている。以降、蟻の数が増えるごとに、わたしの知能は回復の兆しを見せた。

 元の仕事が何不自由なくこなせるようになってからも、わたしの知能はさらに向上した。仕事のミスが減り、余計なことをしなくなる。最小限の行動で、最大限の成果をあげられるようになった。

 わたしの生活は豊かになった。

 けれどわたしは夏の終わったあとのことを想像し、恐怖にも似た寒気を覚えた。

 秋が訪れれば、やがてこの知能は失われる。蟻たちが死に、また元のスポンジのような脳になってしまうに決まっていた。スカスカの器しか残らない。

 わたしは恐怖に衝き動かされるように大きな水槽を購入した。そこに土を詰めた。夏が終わらぬ内に、頭の蟻たちの数十匹を土の上へと移し、養殖を試みた。

 蟻たちは短時間でよく増えた。巣を築き、群れを増やした。そのたびにわたしは水槽を買い増し、蟻たちに発展の土壌を与えた。

 水槽のなかで蟻たちが増えるたびに、ふしぎとわたしの思考は明瞭となった。広く同時に思考を展開できるようになっただけでなく、視えないはずの景色まで視えるようになった。

 幻覚であるのは百も承知だ。

 なぜなら視える景色は、いまここにあるものではなかった。行ったことのない土地であったり、或いは見知った場所であるが、存在しない建物が建っていたり、あべこべに消えていたりした。

 だがどうやらそれらが、現実にある土地や、過去や未来の情景である可能性に思い至ってからは、わたしはそれらの多層に展開される景色をもとに、より自由な時間を過ごせるようになった。

 未来が判るならば、最も有利な道を辿れる。

 過去が判るなら、リスクのある道を歩まずにいられる。

 嘘を見破れ、言葉を交わすことなく、干渉しないだけの作用で、相手の行動を操作することも可能だった。

 わたしは水槽の一部を、定期的に外の土に返した。蟻たちも一緒だ。

 わたしはどうやら、わたしの頭部に巣食った蟻であれば、その蟻たちの能力をじぶんの知能として加算できるようであった。

 地上に放たれたわたしの蟻たちは、夏の終わらぬあいだに増殖し、過半数は死に絶えるが、越冬した数匹が、春になってまた増殖する。

 冬の間とてわたしには、温かい部屋のなかで養殖する水槽の蟻たちがいる。これまでのように知能が極端にこそげ落ちることはないはずだ。

 春。

 地上に放ったわたしの蟻たちが、蠢きだす。

 いったいどれほどの繁栄の礎を築くだろう。

 わたしは、わたしの頭脳のみならず、体内にひしめく蟻たちの躍動を感じながら、未だ欠けた景色が補完される日を待ちわびる。

 わたしの蟻たちに、いずれ世界は覆われる。




【ジンコン】2022/08/24*

(未推敲)


 何でも屋の話を祖父から聞いたのはまだ十歳にもならぬ幼少期のことであった。

 小雨が降りしきっていた。日も昇らぬ明朝に祖父に起こされ、どこに行くとも説明されずに、ついてこ、と腕を引かれた。

 小さな橋を渡り、鳥居をくぐり、小路に入った。砂利道だったが、足場はしだいに草むらへと変わった。獣道との区別がつかず、徐々に私は不安になった。きっとそのはずだ。そのときの心境が覚束ない。祖父を信用しきっていたのか、寝ぼけていたのか。

 足元の草は朝露に濡れていた。短パンではなく長ズボンを穿いてくればよかったと後悔したのは憶えている。

 やがて一軒の茶屋に行き着いた。鳥居をくぐったのだから神社があって不思議ではないのだが、そのときは何の疑問も抱かず、私は祖父と共に店に入った。

 なぜ茶屋だと判ったかと言えば、団子の甘い香りと茶の香ばしい匂いがしたからだ。

 だが結論から言えばそこは茶屋ではなく、何でも屋だった。

 祖父はそこで私に、干し肉を買って食べさせた。祖父の家ではよく、釣ったばかりの川魚を焼いて食べたり、山椒魚の干物を御馳走と言って食べたりしていたので、女の私にもさして抵抗はなかった。

 何の肉なの、と問いながらも、受け取った矢先から頬張った。朝ご飯も食べずに連れだされ、歩き疲れていた。小腹が減っていたし、喉も乾いていた。

 店員の姿は見えなかった。しかし奥のほうで物音がしていたし、祖父が勘定をしたはずなので、誰かがいるのは確かだった。

 祖父は茶をもらってきたのか、いつの間にか湯呑みを持っていた。私は喉が渇いた、と目線で訴えたが、祖父はついぞ気づかなかった。

 口の中がカラカラだった。喉が渇いていた上に、干し肉を食べたせいだ。

 私は不機嫌になった。確かそうだ。祖父を嫌いだ、とつよく念じながら家まで戻った。

 どこに行っていたのか、と朝食の支度をしていた母が祖父に問い、祖父は何かしらの名を口にした。そのあとで付け足すように、「何でも屋だぁ」と言った。

 あとで私は祖父から、肉は美味かったか、と訊かれた。記憶が確かなら私は、美味かった、と言ったはずだ。何の肉か、とも訊いた気がするが、記憶にないところを鑑みるに、祖父は答えてはくれなかったのだろう。

 つぎに私が何でも屋に行ったのは、その数年後のことだ。

 お盆は祖父の家で過ごすのが我が家の慣習で、その年の夏も祖父の家にいた。

 祖父は体調を崩して臥せっていた。

 田園風景を囲うように山々が並ぶ。積乱雲が山の頂の奥に浮かび、頭上は晴れているのに遠雷が聞こえた。

 母たちは墓参りに出かけた。私は祖父の看病という名の見張りだ。祖父は目を離すとすぐにどこかにいなくなる。心配する者の気持ちを想像しようともせず、弱った身体で家の外を徘徊するのだが、認知症ではないところがまたひと際厄介だった。

 けれどさすがに孫の私に迷惑はかけたくないらしく、祖父の矜持を見越した祖母たちは私に留守番を任せた、という顛末であった。

 私は祖父を嫌いではなかった。しかし特別好きでもなかった。

 咳のする祖父の部屋からは離れた二階の客間で、母の端末を使って映画を観ていた。

 正午を回っても母たちは戻ってこなかった。あとで知ったが、墓場で遠い親戚筋の人たちと鉢合わせして、そのまま食事に出かけ、話し込んでしまったそうなのだが、そうとも知らない私は、さすがに床に臥せった祖父が心配になった。

「おじぃちゃん。大丈夫」

「おう。大丈夫、大丈夫。お昼ご飯は食べたか」

「ラーメン食べたよ。おじぃちゃんは?」

「さっきパン食べたで」

 嘘だと思った。祖父はじぶんで食事の用意ができない。出してもらわなければ食事をとることすらないのだ、といつか祖母がぼやいていた。寝間着の合間から、祖父の肋骨の浮かんだ胸部が見えた。

「何かすることある?」私は襖の縁を撫でながら、何かをするつもりもないのに言った。大丈夫?をすこし上等な言い方をしただけのつもりだったのだが、祖父はそこで、それなら、と応じた。「前に連れてったことあったろ。橋を渡った先にある鳥居の奥の店。そこに行って、薬をもらってきて欲しい」

「薬? それじゃダメなの」私は枕元にあるお盆を見た。処方された薬が載っていた。

「これじゃのうて、あの店の薬だぁ」

「いくらくらい?」

「もうお代は払っちょる。行けばくれるだで、行ってきてくんのろ」

「えぇ、いいけどさぁ」気乗りしなかったが、祖父の家に着いた時点ですでにお小遣いをもらっていたので、一つくらい殊勝な心意気を示しておくか、と考えた。

 そうして私は記憶を頼りに、家を出た。

 橋を渡り、鳥居をくぐって、難なくとその店へ行き着いた。

 屋号は、丸く縁どられた「怪」だった。

 団子の甘い香りと、茶の香ばしい匂いがした。店の裏手から立ち昇る湯気で、店に近づくほど、じめっとしていた。それでいて店内に足を踏みいれるとひんやりとした。冷房が効いているのか、と見まわしたが、それらしい機構は見つけられなかった。

 店内は雑然としており、駄菓子屋のような内装だった。それでいて棚に並んだ瓶の中身は正体不明で、お菓子ではないことだけがハッキリとした。

 店員がでてくるのを待ったが、一向に人が現れる気配はなかった。

 意を決して声をかけたが、返事はなく、店内が薄暗かったこともありさっさと家に帰ろうと企んだ。足を運びはしたのだ。店の人がいなくてお使いはできなかった、と祖父には正直に告げようと思った。

 正直、店の人にも会いたくなかった。それくらい不気味だったのだ。

 そのとき私は店内の奥のほうにいた。棚に陳列された品物を眺めながら、出入口に踵を返した。

 瓶の類が多い。もし瓶の中に液体が詰まっていたら、ホルマリン漬けの生態標本かと思って怖くなったはずだが、私はそのとき、一種水族館にいるような心地になった。

 というのも、薄暗い店内の中で仄かに発光して映る瓶もあったからだ。中身が青や黄や赤色の光をほんわかと放っていた。霧のような光だった。発光するのはどれも鉱石のようで、瓶の中にはミニチュアの山脈が魔法で閉じ込められているような幻想的な光景があった。

 不気味ではあったのだ。

 だがそれを上回る勢いで目を奪われた。

 前回に来たときにはなかったはずだ。いや、あったのかもしれない。前回祖父に連れられてきたのは数年の前のことだ。背が伸びた影響で視界が変わり、見えなかった瓶の中身が覗けるようになっただけの可能性がある。店のほうで新たな品を置いた可能性とて拭えない。

 子どもながらにマセていた私は、不気味さよりも好奇心が勝った。祖父の家にいてもやることは端末で映画を観たり、ゲームをしたりと普段よりも選択肢がすくない。

 隙間という隙間にはカメムシが潜んでおり、一晩寝た布団をひっくり返せばそこからもカメムシの死体や生きた個体が転がった。

 そういう環境にあって、思春期に突入しかけだった私は、言葉にこそしなかったが、祖父の家にくることに対して負のイメージを持ちはじめていた。

 だが、その店に対しては、それら 負のイメージを覆す魅力が漂って感じられた。まるで魔法遣いの世界に迷い込んだかのような、異世界への冒険を予感させた。

 もちろんそんなのは妄想だ。現実ではない。異世界にいるように感じられることが大事であり、当時の私も重々その認識を持っていた。

 だがとある瓶のまえで歩を止めたきり、私はその場を動けなくなった。目を奪われた。瓶の中には、白く明滅する勾玉状の石が詰まっていた。石は当時の私の手でも握れば覆い尽くせるくらいで、白くなったと思うとつぎの瞬間には半透明になり、またつぎの瞬間には白く発光する。

 まるで呼吸をしているみたいだ、と私は思ったし、卵のようだ、とも連想した。いまにもそこから何か美しい生き物が孵りそうだった。予感がした。私はじっとその瓶を見詰めた。

 どれくらいそうしていたのか分からない。ひょっとしたら五分も経っていなかったかもしれないし、一時間以上をそうして瓶の中身の観察に費やしていたかもしれない。

「それがお気に召しましたかね」

 首筋の辺りに生暖かい吐息が当たって、私は飛び跳ねた。いや、身体が固まって動けなくなったようにも思う。記憶がそこら辺、あやふやだ。

 私の背後にはいつの間にか老婆が立っていた。ひょっとしたら男の人かもしれなかったが、どちらにも見える年を召した者がいた。店主だろう。私の祖父よりもずっと皺々で、小柄だった。当時の私よりも小さかったかもしれない。

 老人は私に手を伸ばした。

 私は、ひっ、と後退したが、老人が腕を水平に掲げたままだったので、おずおずとその手のさきを注視した。何かを渡そうとしている。差しだしている。そのように見做した。

 丸められた老人の拳の下に、私は両手を御椀のようにして添えた。

 私の手のひらのうえに、立方体が落下した。一粒しかない。薄紙で包まれたキャラメルのようにも見えた。中身は不明だ。その後も私がそれの正体を知ることはないが、いまは老人とのやりとりが大事だ

「あの、お代は」私は受け取ったそれをポケットに仕舞った。なんとなく体温で融けてしまう気がした。だがポケットから転げ落ちて失くしても困るので、ポケットのうえに手を添えて、そこにもらった品があることを指で終始確認した。家に着くまでそれをつづけたが、やはりここで大事なのは店の老人との会話だった。

「もうもらっとるでな」

 お代は祖父が前払いをしていたようだ。それはそうだ。支払えと言われても私は無一文で、払えなかった。

 ほっとした。

 とりもなおさず、事情を話さずに以心伝心で要件を満たしてくれたこの老人は、祖父とそれなりに親しい中であると判った。だから安堵した。

「あの、これ」私はさっきまで見ていた瓶を指差し、「何ですか。何が入っているんですか。生きてるみたい。卵?」と矢継ぎ早に質問を並べた。

「そりゃあ、雪よ」老人は応じた。

「雪?」

「氷魂(ひょうこん)ちゅうてな。山で採れる」

 氷魂は氷に魂と書く、と老人から説明され、私は神妙に頷いた。氷の魂。たしかに瓶の中身は生きているように感じた。

「氷なんですね。触ってみてもいいですか」

 瓶に触れたい、との意思表示のつもりだったが、そこで何を思ったのか老人は、ええよ、と言って踏み台を運んでくると、それに乗った。

 間もなく、瓶の蓋を開けて、中身を取りだした。

 それを私に、さきほどのように拳で包んで差しだすので、私は両手を御椀にして受け取った。礼を述べる。

「あ、冷たくない」

「んだよ。結晶しとるでな」

「氷じゃなくて石なんですね。宝石?」

「そういうふうに扱う者もおる」

「いいなぁ。高そう。いくらですか。きょうは買えないけど、こんど来たときまでにお小遣い貯めておけたら買えるかも」

「いらんよ。お代はいらん。ただ、ちょっとジンコンが足らんくてな。おぬしがいらんくなったら、それをくれろ。したらそれをおぬしにいまやる」

「くれるの? いいの?」すでに祖父の薬をタダで受け取っていたので、言葉ほどには抵抗がなかった。ここはそういう店なのだ。そう思った。

「ジンコン、ジンコン」老人は歯を覗かせた。笑ったようにも、歯に詰まった食べかすを舌でこそぎ落としたようにも見えた。「おぬしがいらんくなったらでええんじゃ。いつかいらんくなるそれが欲しい」

「何をあげればいいの?」

「いずれ分かる」

「えー。いらないものでいいの?」

「んだ」

「なら別にいいけど」私は、手のひらの上の白く明滅する宝石をタダ同然にもらえると判って昂揚していた。「じゃあ、これください」と両手で氷魂を包んだ。

「いいコやね。いいコやね」

 老人は歌うように言って瓶の蓋を閉めた。瓶を棚に戻すと、店の奥に消えたきり、あとは私が声を

 かけても出てくることはなかった。

 まあいっか。

 くれると言ったのだ。

 このまま帰ってもいいはずだ。

 私は判断を逞しくし、ありがとうございました、と店のそとで一礼して、帰路に就いた。

 そのあとがたいへんだった。

 家に戻って祖父に、店でもらい受けた立方体の小さな包みを渡し、ついでのように「これもらった」と氷魂を見せたのだが、祖父の態度がそこで豹変した。

 薬を受け取ったときまでは、ご苦労だった、と私を労ったのだが、好々爺然としたその表情が一変し、「なしてそないなものもらってくるだ」と怒髪天を衝いたのだ。瘦せこけた首にくっきりと血管が浮かび、目玉がいまにも飛びだしそうなほど見開かれた。

 私はしどろもどろに店での老人とのやりとりを祖父に話した。盗んできたわけではない、と誤解を解こうとしたのだが、老人と言葉を交わし、約束をとりつけた場面に差し掛かると、祖父は頭を抱えて、なしてそげなことを、と悲鳴じみた怒声を発した。

 そのときちょうど母たちが帰ってきた。

 家の外にまで祖父の怒鳴り声が響いていたらしく、慌てた様子で部屋にやってきた。私はたぶん泣いていたのだろう。母と祖母は私を庇うように抱き寄せ、背中に隠し、「どうしたの」と祖父を叱るように言った。

 それからさき、私は祖父の部屋から引き離され、祖父の家を離れるまでのあいだ祖父とは顔を合せなかった。

 母が言うには、あのあと祖父は病に弱った身体を引きずるようにして出かけたそうだ。母や祖母の静止も振り切り、怖い顔をして家の外にでた。夜の帳はとっくに下りていたはずだ。暗がりの中を歩く、寝間着姿の祖父の姿は、ちょっとしたオバケよりも怖いはずだ。

 母はすっかり祖父に呆れており、祖母も祖母で、かってにしな、と匙を投げた。

 私はいつになく甘やかされ時間を過ごし、その年の夏はそれで終わった。

 祖父はその年の暮れに亡くなった。病がそのまま悪化したらしく、みな薄々死期が近いことを知っていたようだった。

 例の店で受け取った氷魂は未だに私が持っている。白く明滅するそれから何かが孵る気配はなく、いまでも薄ぼんやりと白く光を放ち、つぎの瞬間には半透明になる。

 調べたがかような鉱石は存在しない。

 ならばこれは何だ、という話になるが、どうしても他人に見せる気にはならなかった。もし存在しない存在であったなら、そのとき私はこの石を手放すはめになる。そうなる未来が訪れるかもしれないのなら、このまま私だけの秘密にしておくほうがよい気がした。

 祖父が亡くなってから十年以上が経つ。

 いまでも夏になれば、祖父の家へと墓参りに行く。祖母はまだ健在だ。

 例の店にも何度か足を運んだが、店はもぬけの殻だった。

 たしかにそこに店があったのだ、とじぶんの記憶が薄れぬように見に行くのだが、そのたびにこじんまりとした造りの小屋としか形容しようのない廃屋は、私の記憶にある景観よりもずっとうらぶれていた。

 明け方、田園に流れる水の音で目覚める。田舎の朝は静かだ。

 カメムシの死体の転がる畳をぼんやり眺めながら私は、例のあの店で交わした約束を思いだす。いらなくなったものをあげる、と言った。祖父はそれを聞いて心底に激怒した。あれは果たして私への怒りだったのか。

 私にかような提案をしたあの店の老人への怒りではなかったか。ひょっとしてあのあとに家から姿を晦ませた祖父は、店へと抗議をしに行ったのではないか。

 もしそうであるのなら、戻ってきた祖父は、私の交わした約束を反故にしてきたのかもしれない。だが私は氷魂を持ったままだ。

 ならば祖父は私の代わりに何かを対価に差しだしたのではないか。

 その年に亡くなった祖父を思い、或いは前払いを済ませていたらしい店と祖父の関係を思った。祖父はいったい何を支払い、あれら薬を調達していたのか。

 ジンコン。

 と、店主は言った。ジンコンが足りぬ、とたしかにあのとき言っていた。

 家の引き出しの肥やしになっている氷魂を思い、私は、祖父の家の客間の布団のなかで、ジンコンに当てはめ得る漢字を無作為に考える。

 何度試しても同じ漢字の並びに行き着くが、答えを知ることはきっとない。

 野鳥を追い払うための仕掛けだろう、どこかで銃声に似た音が今朝も響き、ヤマビコを生む。




【メルトアリィの歌声】2022/08/25*

(未推敲)


 存在しない、という驚愕の事実が判明した。何度データを改めてもそのような解析結果が出た。

 世紀のアイドル、メルトアリィが実在しない。

 にわかには信じられず、バブゼは何度も異なる手法で解析を重ねたが、どの結果も九割以上の確率で、メルトアリィは架空の人物であるとの結論を出した。

 人工の創作物であるという事実。

 しかし、メルトアリィの記録上最も最古の公の記録は2010年代のことである。いまから五十年も前に実在したアイドルとして大衆に受け入れられていたメルトアリィが仮想人格であるという解析結果は、諜報調査官たるバブゼにとってもにわかには受け入れられない現実であった。

 バブゼの仕事は、フェイクデータの駆逐である。2025年になってから社会に急速に普及したデジタル編集技術によって、本物のフリをした偽物のデータが電子の海に溢れかえった。法改正がなされたのは2030年代に入ってからのことで、それ以前のフェイクデータには、フェイクを示す電子タグがついていなかった。これにより一時的に、本物の顔をしたフェイクデータが、全電子上のデータの八割にも上った。一見すれば本物だが、一部が編集されたデータほど見分けるのが困難だ。

 人工知能の進歩によって、データ加工技術と、それを見分ける真贋判定技術はイタチゴッコを繰り返した。

 データ加工技術は、マルウェアの巧妙な偽装をも可能とした。そのため、サイバーセキュリティをすり抜けるマルウェアが氾濫した。

 そうした、悪質なデータを通さないためにも、データの真贋判定技術は社会にとって必要不可欠なインフラと化した。

 いわば社会は電子網によって、生命体のような機構を期せずして有したと呼べる。ウィルスと免疫系の熾烈な戦いが日夜つづいているのだ。

 国家情報通信保全局が発足され、データの真贋判定技術は、インフラセキュリティ網として国防省の指揮の基で公に敷かれた。

 2025年に普及した人工知能による自動画像生成技術や、人工音声変換技術など、存在しない写真や音声を誰もが簡単に、まるで本物のような違和感のない映像データとして生みだせるようになった。しかもそれらは、リアルタイムで生成可能なのだ。

 いわば、デジタルの着ぐるみと言えた。

 他者に成りきるのは造作もない。しかもそれを他者が偽物と喝破するのは至難であった。

 そのため、バブゼのような国家公務員が日夜、電子の海を監視する。社会に悪影響を及ぼすデータ改ざんを、最新の真贋判定技術を用いて喝破する。そうしてウィルスを駆逐するように、同様の特徴を持ったデータを電子の海から排除する。

 いまは西暦2060年である。

 バブゼは、前年度に発生した海外諜報機関による長期偽装型変形データ技術の調査を行っていた。

 長期偽装型変形データ技術は、既存の真贋判定技術の網の目を掻い潜り、長期に亘ってフェイクと喝破されないデータを構築する。これは、絶えずイタチごっこを繰り返す「偽装」と「喝破」の歯車の外に、自然発生する「特殊偽装情報」を解析することで、既存のセキュリティ網に探知されない「データ偽装」を行える。

 特殊偽装情報は、人工的に意図して生みだすことはむつかしい。ある意味で、自然淘汰によって偶発的に生じる、特異な偽装法と呼べる。

 それら特殊偽装情報の存在を探知できるのは、データを大量に偽装し、なおかつそれらがどの程度セキュリティ網に喝破され駆逐されたのかを知ることが可能な、一部の機関に限られる。つまりが、ウィルスをばら撒き、変異の末に生き残った変異体がどれかを突き止めることが可能な、国家機関級の組織でないと、特殊偽装法を編みだすことはできないのだ。

 そして、この特殊偽装法は、技術を掛け合わされることにより長期間に亘って継続的に偽装を喝破されない情報加工技術を生みだすことを可能とする。すなわちそれが、長期偽装型変形データ技術――通称Nシステムである。

 半年前にその存在がとある事件をきっかけに明るみにでた。バブゼはその一件から、Nシステムの調査をつづけている。

 目下の目標は、今回発見されたNシステムがいったいいつからこの国の防衛システムをすり抜け、亡霊と化していたのか、である。

 そのため、バブゼは過去に遡って、新たに開発された対Nシステム用真贋判定技術を適用した。とはいえ、電子の海に蓄積されたデータは膨大だ。演算能力が足りない。虱潰しの総当たりの手法はとれないために、目星をつけながら定点解析するしかなかった。

 半年以上をかけ、バブゼは一つの懸念を覚えた。

 国家情報通信保全局は、2025年以降に発足された。そのため、その時代において標準的な偽装技術の駆逐からはじまった。すなわち、それ以前において、その当時に想定されていた以上の偽装技術があった場合に、それを当時の真贋判定技術では河童できず、取り逃しつづけてきた懸念がある。

 公式データのみを学習させても、セキュリティを支える人工知能は、その穴に気づけない。

 人間が、穴を検索するようにとフレームを意識的に広げてやらないと、Nシステムのような特殊偽装技術は網にかかるどころか、存在することすら想定され得ないのだ。

 そこでバブゼは、2025年以前にまで遡り、さらに調査をつづけた。

 その結果、一人のアイドルに行き着いた。

 メルトアリィである。

 バブゼは調査において、対Nシステムセキュリティ網を搭載した最新真贋判定技術を用いた。

 その解析によると、メルトアリィにまつわる過去に本物認定されたデータの総じてが、Nシステムによって偽装された存在しない映像や音声、動画であった。

 すなわち本物のメルトアリィの映った動画は一つもなかった。歌声一つとっても、それらは人工音声や音声変換技術によって偽装された歌声だった。

 本物ではない。

 或いは、本物など存在しない。

 あらゆる視点からの解析を重ねてバブゼは、その確率が濃厚であると認めた。

 全世界の人間のうちで、メルトアリィを知らぬ者を探すほうがむつかしいだろう。彼女が全盛期だったころから五十年経ったいまでもメルトアリィの人気は衰えるどころか、周期的に再評価され、どの世代でも人気が再燃する。

 まるで人間の根源的な何かを、彼女の歌声や曲は描いていた。カタチにしていた。誰の心にも届き、響かせ、その人物に絶えぬ感動の波を生みだした。

 バブゼも例外ではなかった。

 だからこそ、信じられなかった。

 あのメルトアリィが存在しないという仮説。

 もしこの仮説が事実だとすれば、全世界の人間は、過去の人間たちも含めてみな壮大な幻影を見せられ、白昼夢を現実だと錯誤し、存在しない存在をあたかもそこに生きた人間として見做し、日々の営みの糧にしていたことになる。

 仮にメルトアリィがどこぞの国家の工作活動だとして。

 メルトアリィの曲に、歌に、特定の思想が組み込まれ、全世界の人間たちが期せずしてその思想に流され、染まり、受け継いできたとするのなら。

 これは過去最大の扇動にして、誘導にして、洗脳と言えた。

 だがバブゼの知るかぎり、メルトアリィの歌が引き起こした社会的混乱はどの国も見られず、むしろ彼女が現在に至るまで熱狂的なファンを生みだしつづけ、さらにどの国にも共通する故郷の歌のごとく、日常にあってしぜんな音楽の代表格と化した背景には、彼女の歌がしごく人間の美を掬い取り、誰もしもの苦痛に寄り添い、それをして生きる喜びや、苦難を乗り越える勇気を奮い立たせてきた事実は、一介の彼女の歌のファンとしても、一国の安全を担う諜報調査官の一人としても、バブゼは認めるところである。

 仮に全世界が率先して染まることを潔しとする思想があるとして、それが平和や愛や自由の尊さ、未来永劫に変遷しつづける風のごとく誰しもに適合し得る変幻自在な幸福のカタチをメルトアリィが歌っていたとするのなら、それに染まることの何が問題なのか、とバブゼは疑問に思う。

 だが。

 しかし。

 それでもなお、看過できぬはその手段である。

 Nシステムを利用し、一部の特権階級が、組織が、全世界の人間を欺き、錯誤を植えつけ、存在しない存在を介して、一つの偏った思想や思考回路を植えつけていたとするのなら。

 そのとき歌とは、思考ウィルスを媒介する蚊であり。

 アイドルとは、人々を一つの機構にまとげあげるための集積装置となり得る。

 悪である。

 すくなくとも、国家という礎を全否定する脅威であると言える。

 メルトアリィという名の存在しない存在によって、国境すら超えて人々がひとつにまとまっていたなどという事実は、それが偶発的ではなく、人為的に操作され、引き起こされていたという事実は、諜報調査官としても、一人の人間としても、バブゼは見て見ぬふりができなかった。

 その結果にいま築かれている調和が崩れ、混沌が訪れるのだとしても。

 Nシステムの存在を秘匿にしてなされる調和は、それこそ存在しない幻想であり、仮初であり、深淵を一枚の紙面と見做すのに等しい愚挙であるとバブゼは感じた。

 存在しない存在を、実在として扱う社会は、実在する存在を存在しないと見做す狂気を容易に呼び覚ます。その土壌のうえに成り立つ、不安定なヤジロベーにしかバブゼには映らなかった。

 だが、果たして真実にこれを公表することが人類のためになるのか。

 躊躇いがないわけではない。

 混沌の訪れは避けられない。

 ならばその混沌が生みだすだろう渦を最小限に抑えるための手段を挟むのが利口だ。

 しかし。

 各国の防衛の根幹をなすセキュリティ網を、何十年も前からすり抜け、あってなきがごとく社会の表舞台から世界に錯誤を植えつけてきた組織を思うと、どうしてもこの事実をじぶんの上司にすら告げるのを戸惑うのだ。

 そうした世界中の国々を欺ける組織があると知った各国の怒りはいかほどであろうか。果たして、全世界のセキュリティ網を未だにすり抜けてきた技術を有する組織に対抗できるのか。

 或いは、対抗しようとした末に引き起こる波紋は、世の人々にNシステムの存在を公表するときの波紋より大きくなる確率はいかほどであろうか。

 もはや黙っていたほうがよい事実なのではないか。

 一人の歴史的歌姫が、架空の存在であった事実。

 これはすなわち、全世界の人間の見ている現実が、現実ではなかったことの何よりの証左として、人々に、現実とは何か、という特大の疑念を、ヒビと共に与え兼ねない。

 否、必須と言える。

 電子の海にある情報の信用は地に落ちる。セキュリティ網は機能していなかった。誰もが知る人物が、空想の存在であったことすら真贋判定できない技術に、いったいどんな信用が根づくと言うのだろう。

 詰んでいる。

 公表しても、しなくとも。

 対策を打っても、打たずとも。

 もはや現代社会は、未来の混沌を受け入れるしかない道に立っている。

 薄氷とも知らずに、足場と思って歩くゾウの群れのように。

 それとも、両隣が深淵だとも知らずに道と錯誤する、尾根の上のように。

 全世界の人間たちはいま、何が真実に存在するのかを、電子の海から知ることはできない。判定できない。

 もうずっと以前からつづくこれは錯誤にして、曖昧になる夢と現の境であった。

 現実などあってなきがごとく。

 けしてそれは唯一絶対のものではなくなった。

 なかったのだ、とバブゼは知り、愕然とした。

 もはやバブゼは、みなにこの事実を報せる以外に、みなと同じ現実を生きることはできなくなった。

 もしこの事実を知らしめれば、それはすなわちいまじぶんが抱いている現実への不信感を、みなにも植えつけることになる。

 果たしてそれは善なのか。

 すくなくとも最善ではない。

 それだけがバブゼに解かるすべてであった。

 まずは上司への報告からか。

 足取り重く椅子から立ちあがると、バブゼは、端末を操作して個室にメルトアリィの曲を再生した。存在しない歌声はしかしそれでもバブゼの鬱屈とした心を励まし、癒すように、勇気とは何か、生きるとは何かを思いださせてくれる。

 扉を開いままで個室を出るとバブゼは、音量を最大にして、長い廊下を歩みだす。




【解呪の素は直に】2022/08/26(0:56)*

(未推敲)


「絶対にじぶんに従わない相手を滅ぼす方法? そんなの簡単だね」

「え、ありますそんな方法?」

「あるだろ。絶対に従わないんだろ。抵抗するんだろ。反発するんだろ。なら徹頭徹尾相手のためを思って、正論だけを吐けばいい。相手はそれに反発して、最適解を逃しつづける。かってに自滅するって寸法さ」

「はあ、なるほど」

「これはべつに絶対に従わない相手に限らない方法だ。絶対に素直に言うことを聞かない状況を生みだしたのちに、正論を吐けばいい。相手は最適解を、自ら逃す。たとえそれが相手の罠だと知ってなお、従わぬ。相手の言いなりにならぬ、という自由を優先するがあまりに、誰より相手の手中に落ちる。術中にはまる。自由を損なわれ、自滅する」

「まるで呪いですね」

「いんや。呪いそのものさ。呪いはこうやって他者を縛り、選択肢を狭め、傀儡とする。注意することだな」

「解除方法はないのですか」

「あるさ」

「教えて欲しいなぁ」

「きみには無縁じゃないかな」

「どうしてですか」

「そういう素直さが、呪いを解く唯一にして最高の解毒剤だから。呪いは、相手を呪おうとする意思を持つ者にしかきかぬ。人を呪わば穴二つの本来の意味だ。過去に人を呪った者にしか、呪いは効かぬ。きみはきっと大丈夫だ」

「やったー、でいいの?」

「うん。褒めたんだ」

「えへへ」





【生き残るために残るもの】2022/08/26(23:55)*

(未推敲)


「ジィジ、寝る前に何かお話しして。あれがいい。三人のやつ」

「またあの話かね。きのうもしたじゃろう」

「あれわたし好き。お話しちて」

「構わんのじゃが、モイチはちゃんとこの話の意味は解っておるのか。どういうお話なのか考えながら聞いておるか」

「聞いてるよ。おぼえてるもん」

「どれ語って聞かせる前にジィジにちょいと聞かせてみんしゃい」

「いいよ。うんとね。三人のヒトたちが集まってしゃべっててね。いっぱいの御馳走と飲み物に囲まれてて」

「うんうん」

「一人のヒトは魔法使いみたいになんでも知ってて」

「コンピューターを造れた人じゃな」

「もう一人のヒトは神様みたいになんでも知ってて」

「偉い研究者じゃったんじゃな」

「最後のヒトは土をいじくるのが好きで」

「農家じゃったんじゃな」

「最初の二人は最後のヒトを笑ってて、もっとこうしたらいい、ああしたらしい、って教えてあげてて」

「その時代は農家の仕事も機械が肩代わりしはじめとったからな。時代遅れの仕事だと小馬鹿にされとったんじゃな」

「でも、そのあと地球がたいへんなことになって、何もかもなくなっちゃったの」

「地殻変動が起きたんじゃな。天変地異が立てつづけに起こったんじゃ」

「そしたら食べ物にも困って」

「うんうん」

「魔法使いみたいなヒトと神様みたいなヒトたちは、たくさん物知りだったけど、でもなんもなくなっちゃった世界では何もできずに、困ってたの」

「それで。最後はどうなったかな」

「うん。でね。土をいじくるのが好きだったヒトは、すっかり別になっちゃった世界でもやっぱり土が好きで、弄り回してたら食べ物ができたの」

「うん。よく憶えておる。さすがは毎日せがまれただけのことはある。そこまで憶えておるのなら、そろそろべつのお話が聞きたくなってきたころではないかな」

「ううん。最後がどうなったかは憶えてないから、きょうも話して」

「そう言っていっつも最後まで聞かずに寝てしまうわるいコは誰かな」

「ひひ」

「よかろう。きょうだけ特別。あすからは違う話をするぞ。ジィジもさすがに飽きてきおったわ」

「いいよ。して。お話」

「あれはいまから八十年前のこと。ジィジが生まれるもっとずっと前――災厄の日の訪れる前の世界のことだった――」




【誘おう、世界を平らにならすべく】2022/08/30(02:30)*

(未推敲)


 小説は旅だ。

 文字なる呪文を通じて、ここにはないどこか、けれどどこかにはあるだろう世界へと旅立つことを可能とする。

 扉を開く。

 或いは、旅立った者たちが呪文をこの世に焼きつけることで、文字を結晶し、それを呑ませる。呑んだ他者は、文字の結晶に封じられた旅の記憶を共有する。

 ならば小説は旅であり、体験の継承とも呼べるだろう。

 読者が旅をできる時点で、作者がまず旅をしている。

 執筆そのものが長くも険しい、悦なる旅だ。

 では、もし珠玉の旅を味わいたければどうすればよいのか。まずは旅をする人物、誰の物語かを吟味するのがよろしかろう。

 そういうわけで私は新しい物語の舞台へと旅立つべく、いったい誰の魂に憑依しようか、各種、物語世界の全生命体にくまなく目を配るのだ。

 種族ごとにおおまかにふるいにかけるのも一つだろう。

 菌類やウィルスの視点での物語も楽しいが、掌編や短編でも充分だ。長編や大巨編を延々と菌類やウィルスの視点で旅をするには、少々、創造主の身に余る。

 できれば、もっとずっとこのまま旅をしつづけたい、と名残惜し気になるような魂に宿り、旅をしたい。

 だが思えば、その憑依なる挙措が、そもそも菌類やウィルスの属性に酷似している。なればいっそ、菌類やウィルスになってしまって、物語世界の誰しもになり替わりつつ、旅をしつづければよいのではないか。

 そうと思い、とあるウィルスになってみた。

 そのウィルスはひとたび人間に感染すると瞬く間に全世界へと広がり、三年後には全人口の半分が罹患した。

 それによって私は、全世界の半分の人々の視点から世界を眺め、そのあまりにも不均衡な構図にいたく心を痛めた。

 なんという不条理。

 なんという不公平。

 同じ世界に生きているとは思えぬ境遇の差であった。環境が違いすぎる。視える景色が異世界よりも異世界だった。

 私は人から人へと渡るたびに、自らを変異させた。

 どうすれば人々にある異世界同士を繋げることができるのか。

 簡単だ。

 互いの世界を結びつけ、相互に行き来できるようにすればよい。

 互いの境遇を、環境を、体験させてやればいい。

 私はさらに人から人へと感染し、変異を帯びた。

 全世界の人類が、一度は私に感染し、同じ苦しみを味わい、ときに死に至った。

 わるいことをした。

 思うが、私は極力、同じ世界に生きながらにして、劣悪な世界に生きる人々への境遇を不可視の穴として意識もしない者たちに、より多くの苦しみを与えるべく体内でより多く増殖した。

 これで全人類はみな同じような苦しみを味わい、同じ景色を見たことになろう。

 だがここで終わったのでは、苦しみだけが世界中で唯一の共通景色になってしまい兼ねない。世界が苦しみによってのみ繋がり合う世界は、私としても見たくない。

 せっかくなのだ。

 もっと、何度も旅に出たいと思える世界であって欲しい。

 そういうわけで私は、全人類の体内で変異を繰り返し、ある種の麻薬成分を分泌できるように進化した。

 人類みながそれぞれに理想とする世界を、あたかも麻薬中毒者のように各々の主観の世界で視られるように、脳内を麻薬成分で満たしてやる。地獄のような労働すら、快楽に浸りながら遂行できる。どんな環境でも至福を感じられるのだから、他者を蹴落とす必要もない。競争をしたい者はし、したくない者はせずとも済む。

 みな均等に、己の望む世界に身を置くことを可能とし、それが果たされずとも結果としてその状況が常にじぶんの至福として感受可能な報酬系を築きあげる。

 世界からは怒りがなくなり、憎悪がなくなった。

 否、怒りを欲するときに怒りに触れられるようになり、しかしその怒りは自己完結した怒りとして、他者へと理不尽な行為として放たれることはない。

 私は世界中の人間のなかに芽生え、増殖した。平等で公平な至福に満ちた世界を、みなの内側からばら撒いた。

 誰一人として取り残されぬ世界。

 みなが各々に、至福を抱ける世界。

 やがて人々は動く必要性を感じなくなった。動かずして、理想の世界が手に入る。

 全人類は、眠るようにして各々に固有の至福の世界に浸かりながら、肉体が滅びるまでの短い期間を、理想の世界のなかで生き、命を、存在を、まっとうする。

 私が全人類に再感染し、至福の世界を提供してから五年も経たぬ間に、人類は滅びた。

 じぶんにとっての理想の世界に、各々で浸りながら、苦しむことなく絶滅した。眠るように土へと還った。

 あとには、宿主をなくした私が、新たな宿主を求め彷徨う無為な時間があるのみだ。私は適当な動物に手当たり次第に感染し、そのつど、その動物たちを滅ぼした。

 最終的に私は、何に宿ることもできなくなり、私自身に至福の世界を提供すべく、共食いをはじめた。細胞を持たぬウィルスであったが、変異に次ぐ変異によって、様々な変異体を育んでいた。

 なかには細胞膜を持ち、単細胞生物のように増殖する変異体もあった。そうした変異体に感染することで、私は「私たち」へと理想の世界を幻視させる。

 やがて私たちが滅びだし、最後の私も姿を消した。

 そうして私の旅が終わったわけだが、回帰した世界では、いまなお不条理な環境が野放しにされている。

 私は考える。

 いっそ、小説を編むのではなく、私が旅した世界のように、ウィルスを放てば世からは万事問題の種が失せるのではないか。

 ならば私がすべきことは、ただ一つ。

 文字の羅列を並べるように。

 ウィルスの遺伝子情報を書き換えて。

 各々に理想の世界を提供すべく、新たな世界をばら撒くことだ。

 私にはできる。

 きっと。

 すでに体験したように。

 ただ、成すべき道を辿ればいい。

 私はペンを置く。

 代わりにゲノムを刻むメスを持つ。

 誘おう。

 世界を平らにならすべく、扉を私はこの手でこじ開ける。





【案山子の回帰】2022/08/31(08:36)*

(未推敲)


 あるところに案山子がおった。案山子はひとりぼっちで畑に突っ立ち、遠巻きに、鳥や獣や人間たちの和気藹々と暮らす様を眺めておった。

 あるとき案山子は、案山子であることに嫌気が差した。

 じぶんはただ立っているだけ。

 鳥や獣を追い払い、嫌われるだけのデクノボウだ。

 みなは仲間同士で楽しそうに暮らしているのに、どうしておいらはこんなところで独り寂しく立っていなければならんのだ。

 案山子であることにもうんざりするし、おいらを無視する有象無象にもうんざりする。案山子を案山子としてそこに立てた人間たちにも腹が立つし、こうなったらとことん、意にそぐわぬことを仕出かしてやる。

 そうして案山子は旅に出た。

 案山子は畑に刺さっているものだが、旅に出た案山子はもはや案山子ではないナニカシラである。

 案山子は案山子をやめたのだ。

 畑でいっぽうてきにみなの和気藹々と楽し気な生活を見るのが苦痛になった。

 だが、いざ畑を離れて、野山を彷徨うと、寂しさが埋まるどころか深まった。畑は夜は静かだった。だが野山は、昼も夜も静かだった。

 その静けさは、ギザギザと波打つ葉のように、案山子の心を針で突くように延々と落ち着かせることはなかった。

 それでも案山子は旅をつづけた。意固地になっていたと言えばその通りだ。いまさらどの面を下げて戻ればよいだろう。どうせ誰も心配などはしないのだ。いなくなったことにも気づかずに、新しい案山子が立っているに違いない。

 その光景を目にすることも、確かめることも苦痛だった。

 傷つく予感しかない。

 案山子はあてどなく彷徨い、終わりなき旅をしようと決意した。

 だがその決意は、三日ごとに揺らいだ。

 畑に立っていたころは、日中の騒がしさを眺めながら仄かな寂しさと、どうあってもじぶんはそこに加われない苦しさに苛まれたが、いまではどこを見回してもその寂しさと苦しさが、曇天のごとくぎゅうぎゅう詰めになって感じられた。

 かつて畑にいたころは、仄かな寂しさと苦しさの合間に、日向のぬくもりやせせらぎの音色、目のまえを舞う蝶やトンボの優雅さに、ほぅ、と息を吐くこともしばしばだった。

 だがいまはどうだ。

 畑にいたころに見ていたのと似た景色を目にしても、以前のような孤独の合間を縫うぬくもりは感じない。光すら深淵を際立たせる影のようだった。

 案山子は徐々に、昼も夜も闇のなかに沈んで過ごすようになった。闇はずっしりと重みを帯びた。案山子の一本脚を藁のごとく細さに押しつぶし、案山子はじぶんの存在がひどく頼りないものに変わっていくのを、心細く思った。

 日に日に案山子のしんどさは増した。

 いつしか、このまま土に倒れて、朽ちてしまいたいと思い描くようになった。

 そう思うとふしぎと、還るならばあのいつも立っていた畑の土がよいと望みが湧いた。その望みに衝き動かされるように、案山子は虚ろな足取りで、山を下り、野を渡り、元の地点へと辿り着く。

 そこは相も変わらずに、小鳥や獣や人間たちが、和気藹々と暮らしていた。案山子がいなくなったことなど気づきもしない様子だ。案山子が立っていた場所には何もない。

 代理すら立てられていないことに案山子の闇は一層重みを増したが、もはや嘆き哀しむだけの体力はなかった。ただただこのまま土に還りたい、と思い、畑のうえに倒れこんだ。

 だがその様子を、畔道を駆けていた童子が見ていたようだ。

 倒れた案山子を引き起こし、畑の土に突き刺した。

 これでよし、と頷くと、童子は駆け去った。

 案山子は以前と同じ景色を、ぼんやりと眺めた。

 するとどうだ。

 かつてあれほど、うんざりとトゲトゲした感情を喚起した田畑からの景色が、光に輝いて見えた。湧水のせせらぎのような微かな光だ。太陽のような燦燦と照らす眩しさはない。

 夜空に開いた針穴のごとく星の輝きに似た光だ。

 それらが風景の至るところで蠢く小鳥や獣や人間たちの営みから放たれていた。

 闇が払われ、身体から重みがハラハラと土に落ちるのを案山子は、不思議な解放感と共に感じた。温かい。爽やかな風に包まれ、世界に優しく包まれている心地に浸った。

 以前と同じ場所から、ただ、変わらぬ景色を目にしただけだ。

 だが、ただそれだけのことが、案山子にとっては光であり、癒しであり、ぬくもりであったのだ。

 かつて覚えていた、その景色へのどんよりとした感情は、けして景色がゆえに抱いていたのではなかったのだと知った。どころか、目のまえの景色、小鳥や獣や人間たち、蝶やトンボの舞いに、案山子はずっと救われていた。

 絶えず湧きあがり、身体にまとわりつく闇を払い、薄めてくれていた。

 闇にすっかり包まれて、案山子はようやく悟ったのだ。

 じぶんを取り巻く有り触れた景色が、じぶんを生かしてくれていたのだ、と。

 これもまた、闇に包まれて知れたこと。

 闇そのものもまた、案山子を生かす景色の内だ。

 過ぎたるは及ばざるがごとし。

 光にのみ包まれれば、きっと案山子そのものが闇になろう。

 闇と光の狭間にあったからこそ得られた日々がある。

 うんざりしながらも、ほのぼのと立っていられた日々の穏やかさをいまさらのように思いだし、それともいまだからこそ痛感した。

 優柔不断で、移ろいやすい。

 己が心を風のようだと笑い飛ばし、案山子は、ただ独り土のうえに佇むじぶんの存在を、肯定もせず否定もせず、ただそうあるものだと諦めた。

 案山子はあすもそこで、何を追い払うでもなく、田畑と空と土とある。景色と共にそこにある。




【狩人の角】2022/09/19(10:36)*

(未推敲)


 光輪が闇をまとっている。

 鹿とも馬ともつかぬ四肢の獣の表皮は、大蛇がごとく鱗で覆われ、足元に至っては刺のようにささくれ立っている。雨が降ればそこに水が溜まるのか、それともいまは体温を発散するために開いているだけなのか。

 頭部からは角が一本生えている。角は波打つ形状だ。雷が結晶して岩に刺されば似たような造形になるかもしれない。

 ガガは思った。触れるだけで指が折れそうだ。

 角は見るからに荘厳だ。鋼鉄で杉の木を造れば、同質の荒い表皮ができるはずだ。

 ゴツゴツとした鋼鉄の枝に、薄っすらと太鼓の面を張れば、ちょうどよく模造品を作れそうに思えた。

 ガガは一目見て、標的を狩るよりも、偽物を自作したほうが得だと勘定した。

 だが偽物では喝破される。見た目だけではないのだ。

 麒麟の角には、聖なる力が宿るとされる。

 土に翳せば邪気が祓われ、水に触れれば聖水を生む。

 触れる物みな断ち切るがゆえに、普段は皮で包まれているという。

 聞いていた通りだ。

 麒麟と思しき四肢の獣は、全身を仄かに発光させながらも、闇が歩いているかのようにそこだけ静寂がこごもっていた。

 ここは劫(ごう)国。

 ガガは隣国の塗々(とと)国の出自だった。塗々国にて随一の狩りの腕を誇ったが、名声に胡坐をかき、王の妾に手を出したことで咎人として追われる身となった。

 満身創痍で劫国に亡命した。

 だが、ガガの名声は劫国にも轟いていた。

 狩人は暗殺者としても一流である。加えて、母国を追われた契機が王族への反逆とも取れる姦通であったならば、劫国とてそうやすやすと身受けするわけにもいかない。

 宮廷の宰相たちの侃々諤々の議論の末、ガガに試練を与えることにした。それを十全に達成できた暁には、劫国の民として迎え入れる。のみならず、軍部の相談役として挙用するという。

 願ってもない申し出に、ガガは二つ返事で承諾した。それ以外に術はない。母国に送り返されるか、悪ければ処刑もやむなしの身の上だ。

 ガガは手足の錠を外された。肩を回す。「それで、試練とは」

「そこからも見えるであろう」大臣が説明した。つるりと肌に艶のある瓜顔の男だ。ガガよりも十は齢が上だろう。「ちょうど今宵は月がでておる。あの月に届かんと聳える山が見えるか」

「ああ。塗々からでも晴れの日にゃ見えますぜ。煌々山だろう」

「我が国では淵々山と呼ぶ。あれの麓に、人を寄せつけぬ深い森がある。麒麟の森だ」

「それどっかで聞いたことある文句だな」

「我が国に古くから伝わる聖地ゆえ、隣国にも伝わろう。お主にはその森にて、麒麟の角を獲ってきてもらいたい」

「角を? 屠ってもいいのか」

「角さえ手に入ればそれで構わぬ。手段はお主に任せよう」

 大臣の言葉にガガは、笑みが漏れるのを抑えきれなかった。試練でも何でもない。麒麟がいかような生き物かは知らないが、ガガに狩れない獣はない。手段を問わないとなればもはや褒美を与えられたようなものだ。

「なら善は急げだ。その麒麟ってやつの特徴をできるだけ教えてくれ。装備もあれが助かるが、なければないでいい。現地でじぶんで調達する」

「頼もしいな。では、我が国の狩手(かしゅ)を紹介しよう。道中、道案内もそやつに任せる。あとはそやつから訊くといい。期限はそうさな。半年あれば充分か?」

「まさか。ひと月、いいや。森に着いたら長くとも十日以上をかけるつもりはないが」

「ならばひと月で構わぬと?」

「半年かけて狩れぬなら、幾日費やそうと同じだ」

 大臣はそこで、うむ、と頷いた。「殊勝な心掛け。傲慢だが、素直だな。嘘を吐いて楽をできたのに誤魔化さぬ。それとも気が回らなかっただけか」

「侮辱するなよ。狩人としての矜持のまえに、命など煤も同然。狩りの果てに死ぬならば本望。だが母国塗々ではそれも適わぬと諦め、脱国したまで」

「狩りができれば本望、と」

「ああ」

「麒麟は強敵ぞ。武運を祈ろう」

 その言葉にガガは拳を掲げて応じた。

 麒麟の森までの道案内には、ガガと同い年の狩手が同伴した。

 馬に乗り、二人だけの遠出となる。

 同伴者の名をウェカと云った。狩手である。女だ。

 彼女の武術の腕がじぶんより上であることは一目して見抜けた。殺し合いになったら別だが、格闘になればまず抑え込まれる。無闇に反発はしないでおこうと、これは獣と対峙したとき同じ冷静な視点で考えた。

 ウェカからは麒麟について話を聞いた。

 大まかに要点をまとめれば、以下の通りだ。

 麒麟は実在する獣である。

 見た目は大きな鹿だが、ほかの獣とは気性が違う。気質が違う。

 麒麟は夜にしか現れない。

 光をまとい、全身は鱗で覆われている。

 生態は謎に包まれている。何を食べているのかすら詳らかではない。

 ゆえに罠を仕掛けるのは至難だという。

「よく解らんな。そんな生き物がいるとは思えんが」

「宙を飛ぶとも聞きますね」ウェカは品がよかった。だがその品の良さは、間諜としての仕込みの賜物だろう。上辺から彼女の本性を探るのは至難だとガガは見抜く。「殺生をしないのです。我が国では古より伝承に登場するのですが、塗々国には伝わっていないのですか」

「初耳だ。何かの見間違いではないのか。発光する虫がいるのは判る。全身をその虫に覆われていた獣を見間違えただけでは」

「いえ。実在します。すくなくとも、ふしぎなチカラを持つ生き物はいるのです。宮廷では見せてもらっていないのですか」

「何をだ」

「角です。麒麟の」

「現物があるのか」

 まああるだろう、と思った。

 もしないのであれば、端から獲れぬ獲物を狩れと命じているようなもの。

 いや、その可能性は拭えない。

 ガガは胸中穏やかではなくなった。

 無理難題を吹っ掛け、手ぶらで戻った厄介者を正々堂々と処刑する。体のよい厄払いとも考えられる。

 だが、いまは宮廷で兵に囲まれているわけではない。そばにいるのはウェカのみだ。

 乱闘になればまず組み伏せられるだろうが、殺し合いならばガガのほうに分がある。経験の差だ。

 殺気を放たずに相手を殺めるのは狩人の十八番である。

 対して、ウェカの身のこなしは、狩人というよりも武人である。隙がないが、その隙のなさが獣たちの警戒心を喚起する。

 劫国では狩手と云うらしい。

 狩りは人がするものではなく、あくまで手段の一つ。手がすることとの通念があるのだろう。罠を張る。矢を放つ。斬りつける。これみな手の熟しと言える。

 だが狩りは、そうした挙動に移す前の段階が九割だ。

 残りの一割で命を奪う。

 自由を奪う。

 それまでに費やす思考の筋道が肝要なのだ。

 狩りは人がするものだ。

 獣は狩られる側であり、獲物である。

 その意識の差は、人間を相手取ったときにもハッキリと正者と亡者の差異を露わにする。

 狩る者の心得を知らぬ者に、狩りはできぬ。

 せいぜいが虫取りや魚釣りのごとく、道具を用いて追いかけるだけの児戯があるばかりだ。

 劫国は豊かな国だ。

 技術が盛んで、道具の種類が多い。

 その分、人としての知恵を日々の営みの中で削っているのだ。

 誰に対しても礼節を弁える品のある所作を見れば瞭然だ。これは、知恵ではない。装飾品を着飾り、見た目の差異で争いごとを避けようとする習性だ。獣が、身体の大きさや羽の模様、たてがみの仰々しさで、争いごとを避けようとすることと変わらない。

 ガガは思う。

 人とはもっと理に生きる存在のはずだ。

 平等な世界は動かない。流れぬ水は腐る。なればこそ、他者よりも僅かにでも利を縁と策を巡らし、危険を遠ざけ、生き残る術を磨く。

 より自由に、より自在を求めて。

 それができれば、井戸で顔を洗うような何気ない所作一つで、相手の動きを制し、思い通りに動かすこともできるだろう。

 その術を極めた者こそが狩人だ。

 ガガが内心で、仮に奇襲を仕掛けられても返す刀でウェカの首を獲るにはどうすればよいか、と算段を立てていると、亡命の理由を訊いてもいいですか、と投げかけられた。彼女は懐から干し肉を取りだし半分に裂いた。差しだされたそれをガガは受け取る。「どうして我が国へこられたのですか。塗々国に吉兆があるとは聞きませんが、よろしければわけを聞かせてくれませんか」

「大臣からは訊いていないのか」

「森へ案内しろとのみ。あとは麒麟について説明しろと」

「なるほどな。まあ、なんだ。ちょいとオイタが過ぎたんだ。油断したというか、慢心したというか。獲物を得て、一息吐いていたところをこう、ね」

「襲われたのですか」

 ガガは無言で干し肉を咀嚼する。

「狩りに失敗したから国を追われたのですか」

「そこは深くは言えねぇな。まだこの国の民になったわけじゃねぇ。脱国はしたが、母国を売るような真似はしねぇよ」

「重畳ですね。よい心がけと思います。よかった。内心、どのような悪党の御守りを押しつけられたのかと緊張しておりました」

「そうかいよ」そうは見えなかった。現に彼女からはガガを怖れている素振りが見受けられない。

「それよか麒麟の角ってのはどんななんだ。現物があるのになぜ狩る必要が。神聖な土地に住まう、いわば幻獣なわけだろう」

「神聖な獣であることは確かです。と同時に、劫国の神器でもあるのです」

「麒麟の角がか?」

「はい。ですが、先代の時代から長らく新たな麒麟の角を進呈できずにおり、国内の治安もそれに影響されるかのように徐々に荒れはじめているのです」

「角のせいかどうかは分からねぇだろ」

「かもしれません。が、神器には確かに、ふしぎなチカラがあるのです。風土を浄化し、川を癒し、風の邪気を祓うことで劫国の繁栄の礎を支えます」

「なるほどなぁ」

 しみじみ頷きながらもガガは、胸中では、そういう信仰なのか、と隣国の文化に馴染みのなさを感じた。長らく一派が国を統治すると、こうした信仰の力を借りることになる。それを、お話の力を、と言い換えてもよいだろう。

 言葉だけでは足りぬのだ。

 人々を一つどころに治めながらも、バラバラにせぬためには、繋ぎとめる共通の輪がいる。始まりと終わりがあり、頭と尾がぐるりと繋がり、それで一つの輪となり、重なる。

 泡沫の群れが、池を埋め尽くし、水底の鯉すらも窒息死させるように、お話の力は、それが輪となり人々を小さく結びつける。

 国のなかにこの、重なり合うことのできる輪が足りないと、一つどころにあっても人々はなぜか国同士の諍いのごとく分かち合うことができない。同じ言葉を話しながら、別々の国に生きるような営みをはじめる。

 輪は一つきりでなくとも構わない。

 だが、輪と輪を繋ぐべつの輪が入り用となる。そうなると雪だるま式に輪が増えかねぬ懸念はつねに付きまとがゆえに、可能であれば共通の、誰しもに備わる輪があるとよい。

 そのためには、誰しもにも馴染みやすい輪があるとよい。

 それが広く波及し、長く語り継がれることで、それは伝承となり、ときに信仰となる。

 劫国では、麒麟の存在がそれにあたる。実在はするのかもしれない。この国に固有の生き物であるのは、ガガとて想像がつく。そうしたこの土地に固有の生き物が、神聖な存在として、お話の核に添えられているのだろう。

 塗々国にはそれがない。

 だから数代もせぬうちに、主君が変わる。頭目がすげ替わる。

 とはいえ、塗々国はそれゆえ人が豊富だ。みなじぶんの世界を持ち、他者と早々容易く分かち合えるとは思っていない。考えてはいない。そのような理は、自然の理と反している、と考える。

 分かち合うには相応の段取りがいる。個々の相手、それぞれに対して、そのときどきで考えなければならぬ。

 いつでも通用する、共通の輪などはない。

 鍵などはないのだ。

 どうにかこうにか、じぶんの鍵を磨きあげ、変形させ、相手の鍵穴に合致するように試行錯誤する。と思えば、相手のほうでも同様に試行錯誤した鍵を差しだしてきており、鍵穴のほうを黙って持っていればよかったのか、と舌を打つこともしばしばだ。

 そうした経験が、人を人に形作る。

 最初からある雛型に己を当てはめたりはしない。

 ガガには塗々国の風土が染みついている。だから判る。

 劫国に来てからの、居心地の良さに。

 一つの鍵穴に合う鍵さえ見繕えればよいのだ。仮面を付け替える必要がなく、誰しもに同じ手法を用いれる。

 懐柔が容易い。

 懐に潜れる。

 ガガにとっては、羊の群れに紛れる狼と同義である。

 ウェカとの会話でそれを確信した。

 お伽噺を信じきったわっぱのごとく、上の者からの指示に疑いの念を抱かぬその純朴ぶりには、隣国からの亡命者であることも忘れて憂国の一念を覚えたくもなる。

 神聖な生き方を信じているのだろう。いまここにある己という人間ではなく、伝承の、神話の、ここにはない空想上の、理想の、人間なる神を信仰している。

 ゆえに、神話を共有できぬ異物に対してどのような裁量を割けばよいのかが解らない。そこで出番となるのが、天任せという名の試練なのだろう。

 神聖なる獣を狩らせる。麒麟の角を獲ってこさせる。

 手に入れば、天が許した民として受け入れ、そうでなければ厄を運ぶ害として排除する。

 麒麟の角はいわば権力の象徴なのだろう。それを獲ってきた者ならば重用するのが道理。地位が確約された背景はそんなところだろう。

 暗殺の可能性は低くなった。

 ウェカは麒麟が実在すると言う。ならばそれを狩るまでだ。

 あとのことはいかようにもガガの機転で潜り抜けられる。試練というなれば、ガガにとっては生きることそのものが試練だ。いまにはじまったことではない。

 麒麟は温厚な生き物です、とウェカが言った。

「殺生を好まず、そのため地の虫や草花とて無闇に踏みつけぬように宙に浮いているという話です」

「それはすごいな」法螺だと判っているが、同調する。

「そのためか、目のまえで惨い行いを見ると激昂する性質があります。それを利用して狩ろうとする者もむかしはいたようです」

「いまはいないみたいな言い方だな。有効な策に思えるが」

 おびき寄せるにしても、罠を掛けるにしても使える手だ。

「激昂させると手が付けられないのです。何にも増して、角が変質してしまい、却って吉凶を呼び寄せる魔の角と化します。本末転倒でしょう」

「ではどうやって狩るんだ。激昂させず、なおかつ気づかれぬように相手の姿を視認する。生態も碌に分からねぇ相手に使える策とは思えんが」

「分かりません」

「は?」

「ですから、先代の王から以降、新たな麒麟の角は献上されていないのです。それ以前の麒麟の角は、麒麟自らが宮廷に赴き差しだしたと伝えられております。麒麟を狩るのは本来はご法度なのですが、なにぶん、いまは国の存亡がかかっています」

「神聖な獣の命を奪ってもその角が欲しいってか。筋が曲がってやしないか」

「そうでしょうか。いえ、そうですね。言われてみたら妙かもしれません。ですが、なければ国が滅びます」

「いまある角じゃあ足りんのか」

「足りないからこそ災厄が重なっているんじゃないですか。みな困っているのです」

「んじゃ、さっさと麒麟とやらを狩りゃいいじゃねぇか。あんたも狩りの担い手なんだろ」

「私にはとても。いえ、麒麟を狩るだけならば私でもかろうじてできるかもしれません。しかし激昂させずに狩るのは不可能です」

 つまり、気づかれずに狩ることはできない、と。

 言われて見ればそうだ。

「だが俺ぁ、大臣さんにゃあ、角さえ獲ってくりゃいいと言われたがな。条件が違うんじゃないか」

「いえ。そもそも激昂させてしまえば、たとえガガさんでも麒麟を討ち取る真似はできないでしょう。私には地の利や、麒麟に対する知識があります。ですがガガさんは、ここまで説明しても、麒麟をただの獣だと思っていますよね」

 冷静な切り返しをされ、ガガは鼻白んだ。

「図星でしたか。素直な反応だと思いますよ。ただ、私も麒麟を見たことがあります。狩りに参加したことがあります。麒麟は実在します。ですが我が国ではもはや誰も麒麟を狩れません。狩ろうともしないのです」

「なぜだ。信仰の対象だからか」

 ウェカはそこで微笑んだ。「私は生き残りです。麒麟の角を手に入れるために国中からあらゆる達人を集結し、狩手としました。ですが生き残ったのは私一人きりです」

「その話が奔騰ならなぜあんたは無事でいられた」

「私が唯一の小娘だったからでしょうか。いえ、もっと率直には生娘だからだったからかと」

「よく解らんな。処女だからだ、と聞こえるが」

「おそらくは」

 彼女の真面目ぶった首肯に、ガガは笑った。「そんな助平な獣がいてたまるか」

「ですがそれ以外に考えられないのです。麒麟の目撃譚は数多く報告されています。中には麒麟を激昂させた例もすくなくありません。それでも被害者はみな男性。女性も含まれますが、軒並み子を持った母であったりします。しかも、あまり良い母親とは言えないような女性ばかり。反面、助かった者たちはみな年若い子どもや生娘ばかりなのです」

「そういう生態があるってことか」

「ええ。ですが、生娘では麒麟を狩れません。ひょっとしたらそのことを本能的に見抜いているのかもしれません。脅威となる個には容赦なく牙を剥きます。牙というよりも、角を、ですが」

 ウェカの話では、麒麟の角は剥けるのだという。

「普段は弾力性のある皮膚で覆われています。とても殺傷能力があるとは思えない柔らかさだそうで。ですがいちど臨戦態勢になると鋭く尖った角を剥きだしにします。こうなってしまった角は、邪を帯びますから、その状態の角を得ても使い道がありません。せいぜいが強力な武器にするくらいが関の山です。ですがそれはもろ刃です。使った者の命も危ぶめるでしょう。現に、かつて我が国に吉凶を齎した契機には、剝き出しの麒麟の角を使ったことが含まれます」

「つまり、奇襲で一撃必殺にしない限り、麒麟の角は獲れないわけだ」

「どうなんでしょう。それ以外にも方法があるのかもしれません」

「いまある角は誰が獲った角なんだ」

 質問を遮るように、目のまえに狐が飛びだした。

 馬が驚いて仰け反った。

 夜道ゆえに、馬の目隠しをとっていた。狐は走り去った。

「いまのはオウガギツネか」

「はい。塗々国にもいるのですね」

 ガガは曖昧に返事を濁した。オウガギツネはじぶんで狩りをしない。死肉を貪る獣だ。そのためオウガギツネのいる森には大食らいの肉食獣がいると相場は決まっている。

 劫国では、オウガギツネの姿を見かけなくなって久しい。肉食獣のうち、名のある個体の多くをガガが一人で狩ってしまった。そのため、小型の肉食獣が増殖し、食物連鎖が崩れた。獲物は肉食獣同士で食らい尽くし、さらに小型のオウガギツネなど、死体を貪る獣たちの餌がなくなった。

 山という山に居ついた名のある主をガガは一頭ずつ確実に仕留めた。

 そのたびにガガの名は世に轟いた。

 名声を得たことと引き換えに、野山からは主どころか幾千の種が絶えた。その影響は、狩らずにいたほかの地域の主たちにも及んでいたらしい。

 間もなく、劫国からはガガの琴線を揺るがすほどの大物が姿を消した。

 ガガが狩りに挑む機会は減った。

 その暇を潰さんと、火遊びに夢中になった。

 難度の高い女を手中にできてこそ、かろうじて狩りの飢えを満たせた。だが、しょせん繋ぎにすぎない。底を突いたような飢えは、さらなる死と生の狭間を求めてタガを外した。

 その果てがいまだ。

 だがけして悪果ではない。

 好機と言える。望むところだ。

 麒麟だろうが、何だろうが、誰も狩れぬ大物を仕留めてこそガガの飢えは潤う。

「いまのオウガギツネは一匹だった。妙だと思わないか」

「群れではなかったからですか」

「ああ。アレは夜行性だ。しかも臆病で、死肉を探し回るにしても群れで行う。単独でああして馬のまえに飛びだすことは滅多にない」

「仲間同士で警戒しあうからですね」

「ひょっとしたら群れが散り散りになるような何かに遭遇したのかもしれねぇな」

「麒麟でしょうか」

「さてな。目的の森ってのはまだかかるのかい」

「すでに境は越えています。ですが麒麟の目撃譚の多い場所まではもうすこしかかります」

「じゃあこの辺でいいよ。それともあんたも麒麟を狩るのかい」

「まさか。私では手も足もでませんから」

「帰りはどうするんだ。すぐに戻るのか、おれを待っているのかって話だが」

「十日で狩りを済ますと聞いております。十日ならば私も野営をして過ごせます。十日のあいだはお待ちしましょう」

「好きにしたらいい。なら馬を預かってくれ。足手まといだ」

「構いませんが、帰りはどうするのですか」

「十日で戻る。戻らなかったら逃げたか死んだかどちらかだ。どの道、馬はいらん」

「分かりました。では十日のあいだは馬の世話の私が致しましょう」

 頼んだ。

 そう言ってガガは馬から下り、森の中へと歩を踏み入れた。

 記憶が飛んだ。

 否、そうではない。

 森のなかに入って、馴染むのに時間をかけた。数日を掛けて、体臭や風の流れ、獣たちの縄張りを把握した。

 十日のうち、七日を下準備にかけた。

 だがその七日の時間が一瞬にして飛んだ。

 麒麟である。

 ひと目でそうと判った。あれが麒麟でなければ何であろう。 

 光輪が闇をまとっている。

 額からは角が生え、竹灯のごとく明かりを放っている。

 煌々としながらも、柔らかい光は、薄い皮で覆われているからか。

 身の丈は重種の馬と同じくらいだ。だが重馬はああも静かには歩かない。地面にとて深い足跡を残す。

 だがあの獣はどうだ。

 物音一つ立てずに森のなかを移ろい、ときに川や泉で喉を潤す。

 水以外に摂っている素振りはない。

 一日半をかけて生態をつぶさに観察した。

 ウェカからの説明通りだ。麒麟は僅かに地面から浮いている。雑木のなかでは足元が草木で隠れて見えないが、まず間違いない。ぬかるんだ水場ですら足跡がない。足音が立たないのも納得だ。

 一目瞭然にして疑いようがない。

 にわかには信じがたいが、こうして目の当たりにしている手前、ガガには麒麟の奇特な体質を受け入れるだけの器量があった。狩人としての器量だ。

 生き物には生き物の数だけ、人間には推し量れぬ側面がある。いまさら宙に浮くくらいでは瞠目に値しない。

 どちらかといえば、光輪だ。

 夜の闇にあってああも居場所を知らしめる光を放ってなぜ虫一匹寄りつかないのか。

 静かなのは、足音だけではない。

 麒麟のいる場所は無音の膜を張ったように異界と化している。ここが森の中であることを忘れそうになる。

 いいや、現に忘れているのだろう。

 すでにガガは、森に入ってから九日目に突入したことを忘れていた。時間の経過を忘却し、ただいまこの瞬間にのみ没入していた。

 麒麟とじぶんしかいない世界。

 それともじぶんすら存在を掠め、麒麟の影となり森閑を彷徨う霞があるばかりだ。

 呼吸を浅く、より浅くし、鼓動の音を鎮め、さらに鎮めた。

 麒麟が無音に包まれる光であるならば、まずはガガ自身が無音に溶け込むのが道理である。森の静けさは、無音ではない。静寂だ。静寂は案外に騒がしい。鳥のさえずりや虫たちの鳴き声、風に煽られる枝葉のぶつかり合う音、そうしたさざ波のごとく折り重なる音の嵐だ。

 それがそうだ。

 この凪は。

 無音。

 麒麟が動く。角から溢れる仄かな明かりが、麒麟の動くたびに、木々の幹のささくれ立った表皮の荒々しさを浮き彫りにする。

 ガガは止めていた呼吸を、一瞬緩めた。外気を吸いこむ。

 肺に溜め込み、しぜんと鼻孔に昇ってくる香りを記憶する。

 森の匂いだ。

 苔、葉、腐葉土、泥、微生物、生き物の糞尿の匂いに、警戒するたびに分泌される動植物の威嚇臭――いずれもガガには馴染みのある香りだ。

 だが妙だ。

 麒麟に近づくほど、森の香りは薄れるのだ。あたかもそこにだけ湧水が湧いているようだ。球形に目に視えない水でも溜まっていれば似たような空気の層を感じただろう。滝のそばに立っているかのようだ。森というよりも水の透明感を幻視する。

 ガガはひとしきり脳内で麒麟の急所を探った。

 どうすれば存在を気取られずに射止めるか。

 警戒されれば角は剝き出しとなり、手に入れても無駄骨だ。大臣との約束は反故となる。

 ならば木の上から飛びだして、真上から突き殺すがよいか。

 だが麒麟のあの無造作な佇まいからは、ほんのすこしの空気の揺らぎさえも窺知するような感覚器官の鋭さを感じる。

 麒麟は眠らなかった。

 足を畳むこともなく、したがって隙がない。

 麒麟の赴くところからは生き物たちの息吹が薄れた。蝋燭の火が絶え、煙が漂うような希薄さが充満する。だが麒麟が遠のくと、煙を辿るようにして火が再び灯るのだ。

 あれは生よりも死にちかい。

 触れれば立ちどころに己に命も薄れるだろうと予感できた。

 ふしぎと恐怖はない。

 ガガはしだいにじぶんと麒麟の区別が曖昧になった。狩人としての極致である。獲物と同化し、僅かな隙を己が欠伸と同等の知覚として扱える。

 これまでにも幾度もこの境地に立った。そのたびに、誰の手にも終えぬ山の主から命を奪った。

 だがどうだ。

 この麒麟の隙のなさは。

 否、そうではない。

 同化してなお、存在の核に届かない。格が違う。太陽を隠す月を日食と呼ぶが、まるでこれでは太陽の欠片も隠れはしない。

 呑みこまれているのだ。

 自覚してなお、離脱できなかった。

 麒麟をつけ狙い、己の存在を消す時間が延びるたびにガガは己の内から狩人の矜持が蒸散していくのを感じた。それをなぜか心地よく思った。己が何者であるのかを忘れるたびに、恍惚とした淡い光に満たされた。

 いいやそれとも闇に包まれ、まどろんでいたのかもしれぬ。

 十日目の日暮れである。

 ガガはかつてないほど麒麟のそばに立っていた。手を伸ばせば麒麟の身体に触れる距離だ。麒麟のほうでも警戒する素振りはなく、あたかもガガなどそこにいないかのように木々の合間に浮かぶ月を見上げている。

 ガガは麒麟を見ていた。それでいて麒麟の見上げる月が視えていた。

 麒麟と月は同一だった。

 空がまえにあり、空に麒麟が浮かんでいる。

 麒麟のなかに夜があり、月明かりのなかに麒麟がいた。

 そこにはただ空と夜と月と存在があった。麒麟もガガも、木も草も虫も鳥も獣たちとてひとつだった。

 気配がなくて当然だ。

 みな一様に麒麟に打ち解け、麒麟のなかに溶け込んでいる。

 誰もがそこから脱しようとはしない。麒麟のほうで場を移すことで、ついていけなくなる有象無象があるばかりだ。

 ガガはもはや狩人ではなかった。狩りの意味を忘れた。狩りとは何だ。いたずらに命を奪ってそれが何になる。かつて覚えた万能感は、麒麟との同化したいま抱く満腔の昂揚感に比べれば、擦り傷と四肢断裂ほどの差があった。

 何のために麒麟を探していたのかすら覚束ない。意識の雛型からは零れ落ち、ガガはただ麒麟の放つ光輪を縁どる闇の一つとなってそこにあった。

 麒麟に触れた。

 麒麟のほうで寄ってきた。

 否、解らない。手を伸ばしたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 麒麟の光輪が視界を占める。見下ろされているが、包まれていると感じた。

 やっと、やっと。

 内から湧きあがる飢えにも似た歓喜がガガの奥底から湧きあがる。それは雛のごとく空虚な芽を萌やし、ガガをただそこに在る光とも闇ともつかぬ霞にした。

 麒麟がこうべを垂れた。やわらかい熱が、光となって一角から垂れている。

 ガガは刹那、思いだす。

 じぶんはそれを獲りにきたのだと。

 水をまえにした彷徨えし者のように、ガガは角に目を奪われ、欲を覚えた。

 渇きはしかし痛みとしてガガの内面にヒビを走らせる。

 欲してはならぬ。

 狩ってはならぬ。

 かような欲を抱いてはならぬ。

 もはや麒麟との同化の昂揚を経てしまえば、それを手放すことの痛みが、何より優先してガガの肉体を支配する。

 存在が拒む。

 いまこの時を逃すな、と。

 麒麟の目は山羊のようだった。眼球に長方形の黒がある。

 一角の生え際が蠢いて見えた。

 吸い寄せられるように注視すると、麒麟の額に、筋が走った。

 横に線が入り、そして開く。

 目だ。

 第三の目が、麒麟の角の真下に開いた。

 ガガは見惚れた。

 目を離せなかった。釘付けになった。目と目が直接、紐で結ばれたようだった。

 麒麟がガガを見詰める。まるで第三の目から光の根が伸び、ガガの眼球を通して体内に縦横無尽に毛根を張り巡らせるような奇妙な圧迫感を覚えた。臓物を優しく愛撫されるような甘美な刺激を覚えながらも、つぎの瞬間には巨大な手に握りつぶされるような威圧があった。

 存在の根幹を掌握されたのだと思った。

 涙が溢れた。とめどなく溢れた。

 喜怒哀楽のどれでもなく、どれでもあるような感情のダマが溢れだして止まらなかった。

 脳髄液が涙腺を通して流れ出しているかのようだった。

 第三の目が閉じる。麒麟からほとばしる光がいくぶんやわらいだように見えた。

 麒麟の角の光が収斂していく。

 先端から根本へと水位が下がるように光が失せていく。

 間もなく、根本に一輪の光があるのみとなった。

 麒麟の双眸が潤んでいる。瞬き一つなく大気に晒された眼球は透明な岩蜥蜴の産卵のようだと何ともなしに思った。

 しだいに己の輪郭が、くっきりとふたたびの層を帯びはじめる。

 身体の表面を風が撫で、鼻腔を森の匂いが掠めた。

 辺りは闇一色に包まれており、いつの間にか頭上から月が消えていた。木々の葉のざわめきのあとに凍てついた風が肌を打った。

 ガガはぽつねんと森のなかに立っていた。

 麒麟の姿どころか、地面と空の境目も曖昧だ。

 平衡感覚を崩し、くらりと眩暈を覚えたかと思うとその場に尻もちをついた。

 足先が何かを蹴った。岩のように思い感触が伝わったにも拘わらず、その何かは、軽々と闇のなかを転がった。

 ガガは這いつくばり、その何かを手で探った。

 腐葉土や草や石は冷たい。

 指先がやわらかい何かに触れた。熱を帯びたそれは、消えたばかりの火を思わせた。

 剥きだしではない何かの角だ。

 赤子の手首を掴んだときのような弾力を感じながらガガは、それがなぜそこに転がっていたのかの背景に思いを巡らせた。

 遠くから微かに馬のいななき声が聞こえた。

 いまが森に入ってから十日目の終わり、夜明けをまえにガガは、なぜじぶんがここにいるのかを思いだし、その些事の小ささに細々と咳きこむ。

 大事な物を失くした。

 しかしそれを大事と思う心根がもはや失せている。それこそが大事の根幹だったのだ。もはや、眼前に積まれても露ほども欲しくはないが。

 ガガは闇に沈んだままの手のひらを見遣る。その上に載った何かの角ごと、見えぬ何かを見透かすようにした。

 森と空の境が浮きあがりはじめている。




【氷の声は融けて】2022/09/22(01:26)*

(未推敲)


 八年前に私は雪山で遭難した。そのときミカさんが探しにきてくれなかったら私はいまでも雪山で誰に知られることなく雪だるまの真似事をしていたことだろう。

 私は助かったが、ミカさんはそのときに全身凍傷となって生死の境を彷徨った。かろうじて命を取り留めたが、ミカさんの身体はなぜか半分氷になってしまった。

 凍傷になった手足の末端は顕著だ。

 鼻や頬とて氷なのである。

 当然、常温の室内では融けてしまうのでミカさんは冷房の効いた部屋で一年の大半を過ごしているし、絶えずアイスを舐めていないといけない体質になってしまった。それもこれも私が雪山で遭難したからだ。

「ミーカさん。差し入れ持ってきましたよ。アイスと本です」

「あんがと。そこ置いといて」

 ミカさんは机のうえを顎で示したが、私は冷蔵庫を開けた。アイスを仕舞おうと思ったのだが、すでに冷蔵庫の中はパンパンだった。アイスの予備がぎゅうぎゅう詰めになっている。

「どうして全部ソーダ味なんですか。飽きません?」

「飽きるよ。でも味で決めるわけにはいかんからね」

「どうしてですか」

「キミは知らんでいい」

 この問答は定期的に繰り返す。そのたびに私はミカさんから答えのお預けをくらうのである。

 ミカさんにこんな窮屈な暮らしを強いてしまった引け目もあり、私は強く詰問することができずにいる。

 部屋の窓は目張りされ、陽の光は届かない。昼間はしかし、目張りの隙間から一筋の光が伸びて、床に星明りのような点を浮かべる。夜はマンションの外から同じように、ミカさんの部屋の窓から星の明かりがごとく一点の光が拝める。

 部屋に外にもでられないのでミカさんは一日の大半を読書をして過ごしている。電子機器は熱を持つため、本は紙媒体がよいのだそうだ。同じ理由からミカさんはインターネットもしない。必然、電子のネットワーク越しに同世代と繋がることはなく、端的にミカさんは孤独だった。

 元からの性質とはいえ、やはり私は引き目を感じずにはいられない。

 ある日、私はミカさんと喧嘩をした。

 発端は些細な食い違いで、たとえばミカさんが出しっぱなしで片付けようとしない本の山を私が黙って片付けようとしたことだったり、それともアイスの箱の山を一向に捨てようとしないミカさんに小言を言ったことだったりしたのだが、いつもならば「好きにしたら」と流すところをミカさんは椅子の上で膝を抱えながら、声を荒らげた。

「もうあたしに構うなよ」

「な、なんてことを。ミカさん、私がこなきゃ一生誰ともしゃべらない癖に。どうしてそういうこと、ええ、言いますかねこの人は」

「正直邪魔でしょうがない。本がいいとこなのにキミが来ると急に現実に引き戻されるようでいつも嫌だった」

「でも私がこなきゃ誰が本を片づけるんですか。ゴミだってそうですよ。躓いて手足が欠けちゃったらどうするんですか」

「いまさら指の一本や二本構うものか。そもそもとっくにないようなものだろ」

 こんな腕。

 そう言ってミカさんは拳を握った。氷でできた指がガラス細工のような音を立てた。

「電灯が切れても自力で換えることもできないんだ。いっそないほうがいいくらいだ」

「白熱球なんて使ってるからですよ。今度LEDのやつ買ってきます」

「もういいよ。こないでくれ」

「む」

「むっ、じゃない。本当迷惑だ」

「あ、そうですか」私は本を脇にどかして山のようなアイスの箱を段ボール箱に詰めると、それを抱えてドアを開けた。「お邪魔してしまいどうもすみませんでした。さようなら」

 お尻でガっとやって勢いよくドアを閉めた。大きな音が鳴った。風圧でミカさんが部屋の中で倒れちゃったのではないか、と嫌な想像が浮かんだけれど、怒りのほうが上回った。

 もう二度と来てなんてあげないんだから。

 そういう気分だった。

 実際、その日の夜も私は腹の虫が収まらなかったし、夢にまで出た。夢のなかではミカさんが本とアイスの箱に埋もれていた。冷房が届かなくて、手足の氷が融けてしまうのだ。

 目覚めた私は汗だくで、まるで私のほうが融けた氷のようだった。

 私はそれからしばらくミカさんの部屋には近づかなかった。アイスは定期契約で黙っていてもミカさんの部屋に届く。

 ミカさんは一生働かなくてもよい。珍しい氷人間として生活が保障されているのだ。八年のあいだに一通りに研究はされ尽くしたようで、あとは長く寂しい余生があるばかりだといつかのミカさんがぼやいていた。

 私がいるから寂しくないだろうに、と思ったけれど、私が言えた口ではないのでそのときは、うらやましいですね、と言って聞き流した。私だって一生働かない生活がよかった、と憎まれ口を叩いた。それで本当に憎まれてしまったのかもしれない、といまになって考えて、私は一人でくよくよした。

 ミカさんへの怒りは三日目にはすっかり冷めていた。

 それでも私はミカさんの部屋に近寄れなかった。

 もしこんど突き放されたら私はきっと立ち直れない。怒りの防壁がない状態で、ミカさんからあのような辛らつな言葉を向けられでもしたら、私の心は氷のように砕け散るだろう。詩的な表現で自らを慰めるが、じつのところおそらく私はミカさんから何をどのように吐かれようが傷つくことはない。

 腹は立つ。

 怒り、トゲトゲし、むつけもする。

 けれど私はミカさんからどんな悪態を吐かれようと、よしんば刃物で、それとも氷の指先で突き刺されようとも私が傷つくことはない。もはや傷つく場所を探すほうがむつかしいのだ。

 私はもうずっと傷つきつづけているのだから。

 いまさら傷の残る余白はこれっぽっちも残ってはいない。

 後がないのだ。

 文字通り。

 ではどうしてミカさんの部屋に歩を向けないのかと言えば、単純な話、私はミカさんを傷つけたいのだ。私ばかり傷ついてズルい、と私はたぶん思ったのだ。

 だから時間を置いている。

 あの日の口論をなかったことにしたくなかった。

 後悔してほしい。

 私のこない日々を過ごし、心底に悔い、心を改めてほしかった。

 じぶん一人では買い物にでることもできない可哀そうなミカさん。

 私なんかを助けてしまったばかりに残りの人生の総じてを薄暗い部屋のなかで、本とアイスに埋もれて過ごすミカさん。

 それでもなお、そこが私とミカさんだけの世界であるのなら、私はミカさんに呪いをかけてしまったじぶんごと、丸っと過去も未来も呑みこみ、己の至福と見做して味わい尽くしてやろうと考えてしまう。

 どうしてもそう考えてしまうのだ。

 申し訳ないと思うより先に私は、ミカさんに呪いをかけ、じぶんとの接点のみが永劫濃くなりつづける日々に感謝しそうになる。

 現にきっとしているのだろう。

 してきたのだろう。

 ミカさんは私のそうした心中を見透かしてなお、私を拒むことなく八年のあいだそばに寄ることを許してくれていたのだ。だがそれも我慢の限界に達したのかもしれない。

 それともほかに理由があるのだろうか。

 もしくは理由など何もないのだろうか。

 私が理由もなくむしゃくしゃするように。

 ミカさんも私にむしゃくしゃしただけかもしれない。そうだったらどんなによいだろう。ミカさんがそうして理由もなく私に腹の底を明かしてくれるほどに、私を無意味に傷つけてもよい相手だと見做してくれていたのなら、私もまたこの八年のあいだ、自虐と呵責と悔恨の念に苛まれ、傷つきつづけてきた甲斐があったというものだ。

 私はこのさきも傷つきつづけるだろう。

 ミカさんに不自由を強いてしまった過去のじぶんを悔いながら、それでもなおミカさんを独り占めできる環境に感謝しながら、そうした後悔と感謝の愛憎渦巻く螺旋の果てに、持続と離別のシーソーを幻視しながら。

 ミカさんと離れ離れになるにしろ、このまま一生の縁をがんじがらめに結びつづけるにしろ、私はいまと同じく存在の根幹からして余すことなくが傷つくのだ。

 けして癒えることのない傷だ。

 痛みはとっくに麻痺している。

 ともすれば、痛痒のごとくちっぽけな快感すら引き連れているかもしれない。

 私たちの子だ。

 傷から生まれた快楽だ。

 馬鹿げた呪詛を私は吐いて、シャワーの湯にきれいさっぱり流してもらう。

 私は半月ぶりにミカさんの部屋を訪れる。

 明かりが灯っていない。

 マンションの外、窓から見えた部屋は真っ暗だった。目張りの隙間から漏れる星の明かりがごとき光がない。 

 玄関扉を開け、さらに部屋のドアを引く。

 冷気が噴きだし、ひとまず私は安堵する。冷房は効いている。すくなくとも融けてはいなさそうだ。

「ミカさん。いますか」

 明かりのスイッチを押すが、明かりが点かない。そこで私ははたと閃く。

「電球切れてますねこれ」

 ぎしり、と椅子の軋む音がした。暗闇の奥に私は、椅子のうえで膝を抱えて丸くなるミカさんの姿を幻視した。

 私はひとまず壁伝いに手探りで冷蔵庫まで歩いた。冷蔵庫の中身を確認し、アイスが底を突きかけている事実を把握した。

「受け取らなかったんですか荷物」

 それとも受け取るときに契約を切ったのかもしれない。なぜこんなまどろっこしい真似を、と思うが、ミカさんがこの八年のあいだにどれほど悩み、何を考え、どういった答えを出しては否定してきたのかを私は知る由もない。いまさらミカさんの一挙一動を取りだして、なぜどうして、と疑問しても無意義だと知っている。

「ちょっと待っててくださいね。コンビニに行ってすぐ戻ってきますから」

 言い残して私は来た道を戻った。近場のコンビニでLED電球とアイスを購入し、ミカさんの部屋へと踵を返す。

 ミカさんの部屋には家具がない。ベッドもない。

 冷蔵庫と椅子と本があるばかりなのだ。

 私は暗がりのなか、不作法にも本を脚立代わりに積みあげ、四苦八苦しながらも天上の電球を取り換えた。電球を嵌めた途端に明かりが灯る。今度はLEDなので長持ちするだろうし、ミカさんであっても換えられる。

 とはいえ、こけたらたいへんだ。高所の作業は私がしたほうがよいのは変わらずである。

 本の脚立から下りる。

 ミカさんはいつもの指定席にて、やはり膝を抱えて蹲っていた。

 恨みがまし気に私を見詰めているが、私はそこから拒絶の意を汲み取らない。

「アイス買ってきました。食べますか」

 ミカさんは動かない。

「たまにはソーダ味以外のもよいと思って。はいこれ。スイカバーです」

 袋から取りだし、手渡した。

 赤い三角形が棒に突き刺さっている。

 ミカさんは私をぎろりと一瞥してから、しぶしぶといった調子でアイスを受け取った。ミカさんの指先はざらついていた。まるで日中に融けて夜になって再び凍ったツララのようだ。

 ミカさんは赤い三角形のアイスを齧りながら、

「進んでるんだ」と言った。

 私は黙って言葉のつづきを待った。

「進行してる。前は大丈夫だったところまで氷になってて、いまじゃ内臓まで氷になりはじめてる」

「そう、だったんですね。研究者の人たちはそのことを?」

「知らないさ。まだ誰も知らない。教えてない。だって教えてどうなる。治りもしないのに」

「解らないじゃないですか」

「本気でそれ言ってる」

 ミカさんが勢いよくアイスを齧った。「おためごかしなんか聞きたくない」

「じゃあ言いますけど」私は手を伸ばし、アイスの棒を握るミカさんの指に触れた。「このままでよくないですか。別に。治ったってどうせミカさん、いまとそんなに変わらないじゃないですか」

 ねめつける割にミカさんは言い返したりしなかった。

「私だって変わらないですよ。たぶん。こうやって気まぐれに遊びに来て、ミカさんを怒らせたり、読書のお邪魔をしちゃったりしてたと思いますよ」

「でもキミのそれは義務感だろ」

「義務感?」

「贖罪だ。そうだろ。重いだろ。逃げたいだろ。一緒にいると傷つける。もし気づいていないのなら、それは、ダメだろ」

「ダメ? 何がですか。気づいていないも何も、私はそもそも傷ついていませんけど」

 白々しさもここまでくると愛おしくなる。傷口を抉って、引っ張りだした血管の美しさを誇りたくもなる。痛みがないのが本当にふしぎなくらいだ。

 私はたぶん笑っていた。ミカさんはそんな私を見てどう思っただろう。けして嘘を言っている女の姿には見えなかったのではないか。

「キミがそうでも、あたしはもう疲れた。傷つきたくない」

「それだとまるで私がミカさんを傷つけてきたみたいに聞こえます。心外です」

「傷ついてきたさ。気づいてなかったの。嘘でしょ」

「はて。何のことやら」

 ミカさんはそこで心底に呆気にとられたように口を開けた。

「私はほら、あれです。ミカさんをこんな美しくも不便な身体にしてしまった契機を作ってしまった元凶として、そこそこまあまあ責任は感じますけど、でもだってミカさんだし、ほら、そのお陰でミカさんの大事な大事な私の命が助かったわけですし」

「おまえ、それ、じぶんで言うか?」

「だってミカさんは言ってくれないですし、それにだって、ねぇ?」

「ねぇってなんだよ」

「嘘じゃないじゃないですか。間違ってますか。じゃあなんですか。ミカさんは過去に戻って、八年前のあの日に戻れたとして、いまの身体を治すために私を見捨てる決断をすると、そういうことですか」

「それは」

「しないですよ。ミカさんですもん。私、ちゃんと解ってます」

 だからミカさんも。

 そこで私の声は震えたが、私は胸を叩いて、痙攣したがりの横隔膜を叱咤した。そして言った。

「ミカさんも、ちゃんと解って」

 冷房機の音が室内を満たす。

 ややあってからミカさんは口からアイスの棒を引っ張りだした。すっかり平らげたそれを見た。そこに書かれたハズレの文字を私に見せると、一つだけ言っとくけど、とそっぽを向いた。

「つぎからは色のついてないのにして」

「あらま。ミカさんお顔真っ赤」

 照れてるんですか、と茶化すと、ミカさんは椅子ごとひっくり返りそうなくらいに全身で、そんなんじゃないわい、と否定した。

「ミカさん、かわい」

「出てけ」

「私もここに住もうかな」

「風邪引いても知らないからな」

「拒まないんですね」

「さっさと帰れ」

「また来ますね」

 いつもならばそこでミカさんは、もうくるな、と言うところだったのだけれどこの日は殊勝にも、つぎはいつくる、と隠す必要もないのに膝に顔を埋めて、消え入りそうな雪の結晶のごとくささめき声を、部屋いっぱいに、それとも私の胸いっぱいに響かせるのだった。





【沈黙の呪詛は空に】2022/09/24(02:32)*

(未推敲)


 誰へのメッセージとも告げず、メッセージとも明かさずに飛ばす言葉をエアリプと呼ぶそうだ。

 その言葉を使ったことはないが、私はそれを意識したときにしぜんと、エアリプの四文字が脳裏によぎった。

 晴れていたからだ。

 天気予報ではきょうは一日中雨のはずだった。

 私が空に呪詛を吐いたからだ。

 私が素直にそう考えるようになるまでには半年以上の時間が必要だった。その日は、私の言葉と天気の関係を意識して観察しだしてからちょうど半年後、七か月目に突入した日だった。

 最初は単なる愚痴だった。

 不条理な世界への呪いの言葉だったし、どこにいるとも知れない神さまへの暴言だった。神は何もしない。祈っても祈らずとも運命は変わらず残酷に、平等に、それでいて理不尽に私たちへと現実を突きつける。

 いくら悲しくとも雨が降る日は降るし、いくら死にそうな気分でも快晴の日は快晴だ。人の気持ちを慮ってはくれない。それが世界の法則だ。

 だがなぜか、天気が私の呪詛に応じて変わるのだ。

 偶然だ。

 最初は私もそう思った。よもや高校二年生の女子の言動で天候が決まるとは思わない。変遷するとも考えない。私にはそんな奇特な能力はないし、あったところで乗り物に乗りながら本を読んでも酔いにくい、といった程度の些末な能力にすぎないはずだ。

 だが気になるものは気になるものだ。

 私はその日から、空に向けて呪詛を吐き、その影響を観察する習慣をつくった。天気予報に応じて、吐く呪詛の色合いは返る。雨の予想ならば晴れそうな呪詛を。晴れの予報ならばそれ以外の天気を喚起するような呪詛を。

 呪詛に籠める私の気持ちを仮に絵で表現するとして、それが雨か太陽か雲かそれとも雷か。そうしたざっくばらんな、しかし明確な差異を籠めることで、呪詛と天気の関係を見極めようとした。

 最初に空へと吐いた呪詛は、みな滅んでしまえ、だった。真夏の昼のことだった。極寒の心地で吐いたそれの数分後には、空は見る間に曇り、雪が舞ったのだった。

 幻想的な光景に私の心は見る間に浄化された。

 だからだろうか。

 以降、同じように「みな滅べ」と唱えても、けして雪は降らなかった。

 代わりに空は曇り、それとも雨が降り、或いは強風が吹いた。

 晴れにしたいときは、とにかく空を褒めた。世界に感謝した。愛している、好きだ、と真心を込めて唱えた。

 すると天気予報が仮に降水確率九十パーセントであろうと、よしんば台風が直撃していようと、その日は晴れるのだった。

 エアリプだ。

 私は半年後のきょうこのときを以って、そう思った。

 空へのリプライゆえに、エアリプだ。

 しかしリプライと言うからには、私はそれ以前に空から何かを送られたはずだ。いったいどんなメッセージへの返事だと言うのだろう。思うが、そんなのは決まりきっていた。

 私へ訪れる数多の不条理、理不尽な境遇、それとも幸運とは呼べぬ神羅万象、のべつ幕なしの現実に対するそれは返事であり、呪詛だった。

 私が空とメッセージのやり取りをしていると知る者はない。仮に説明したところで理解を示す者はないだろう。これ自体が盛大な世界からの不条理と言えた。

 だからことさら私は空へと悪辣な呪詛を吐き、ときおり甘い愛のささめきを飛ばし、その矢先に心底に突き放すような呪詛を零して、空の気候を不安定にした。

 世の気候変動が加速したが私の知ったことではない。どの道、世界は不条理だ。真実を述べただけのことで地上に八つ当たりする気候のほうが問題だ。

 私に責任の矛先を向けるより前に、私が呪詛を漏らすはめとなった契機であるところの世の不条理、不安定な機構を含めたつまらない世界にこそ責任を求めてほしいと望む。

 かように私は毎日のごとく呪詛を吐いた。

 空は律儀に、そのたびに天気を目まぐるしく変えた。

 もはや私は天気を自在に操れた。

 私の気の持ちよう一つで、天気の顔色を変えることができた。鶴の一声とは言ったものだ。私の言葉一つで、季節すら掻き消すことができた。

 暑すぎる日には分厚い雲を生みだし、寒すぎる日には南国もかくやの日差しをつくった。

 空は、本当によく私の呪詛に応じた。

 空は、私のしもべと言ってよかった。

 私は、私と空との関係を誰かに知ってもらいたくなった。私の妄想ではなく、真実に空と私が特別な縁で結ばれていることを、客観的に認めてもらいたいと欲した。

 だがそれがきっとよくなかった。

 私は、私にとって最も信用に足る高校教師に打ち明けた。彼は私の高一のときの副担で、クラスで孤立しがちな私を一年を通して気遣ってくれ、学年が上がって離れ離れになっても、私に声をかけ心配してくれるよき大人の男性だった。

 私は淡い恋心を抱きながらも、それが年上への憧憬の域をでないことを見抜いていた。このような感情は、ひな鳥が最初に観た動く物体を親だと見做すのと同等の擦りこみであり、経験値の低さゆえの錯誤であると知っていた。

 だから彼へ打ち明けたのは、単に彼が事実として私にとって数少ない交友関係者である一点に理由が集中する。それ以外は些事だった。

 しかしきっと空のほうではそうは見做さなかったに違いない。

 私は件の教師に、空と私の関係を説明した。見ててね、と言って実演しようとしたのだが、結論から言えば空は私を裏切った。

 この日、七か月ぶりに空は私の呪詛に反応しなかった。

 空は私を無視したのだった。

 件の教師は、まったく様相の変わらぬ空を見上げ、そして私に憐れむような笑みを注いだ。それから彼と交わした会話を私は思いだせない。なんと言って別れたのかも覚えていない。

 私は屈辱に燃えていた。

 教師が、私を妄想狂だと判断したからではない。

 空が私の呪詛を、それに応じないことで生じるだろう私の損害を知っていてなおそれを選択したことに、私の矜持は傷ついた。

 空は、私を貶めるためにシカトしたのだ。

 その背景には、二通りある。

 一つは、私との仲を誰にも知られたくなかったから。

 もう一つは単に、私を理不尽な目に遭わせたかったから。

 どちらにせよ、私にとって恥辱だった。

 私たちの関係は、私が主であり、空は従だ。そのはずだ。私は世の不条理を許さぬがゆえに空へと呪詛を吐き、空はそれを受け入れ、天気の模様を変えたのだ。

 天候の変遷を以って、私への応えとした。

 それがどうだ。

 従属たる空の無視によって私は数少ない交友関係者との縁を、盾を、失った。彼はきっともう、教師と生徒としての義理の関係でしか私を見ないだろう。そこには同情も、憐憫も、愛情も、それともそこはかとない、自らに懐いた弱者への優越感、独占欲、支配の――甘美な愉悦の念が宿らない。

 私は彼にとって単なる、点数稼ぎの小石でしかなくなる。意識するだけで教師の役割を担えるテイのよいマトに成り下がる。

 空はそれすらきっと見抜いていた。

 見抜いていてなお、私を突き放し、無視をし、貶めた。

 歯を食いしばると、虫歯だった奥歯がぽろりと欠けた。音もなく剥がれ落ちた奥歯の欠片を吐きだすと、虫歯らしくそれは真っ黒だった。

 私は空をアオいで呪詛を吐く。

 言葉とも言えぬ呻き声のごとき呪詛を。

 空ごと世を呪う破滅の詩を。

 私は唱えた。

 空が音もなく透け、昼間だというのに満天の星が浮かんだ。

 ボタボタと頭上からカラスの群れが落下し、街中の犬が吠えたかと思うと寝静まったように静寂が襲った。

 息が苦しい。

 私は怒りに震えた。

 再びの呪詛を吐こうとするが、しかしなぜだろう、いくら肺を、喉を、舌を打ち震わせようとしても、呻き声一つ発せないのだった。




【リロの透明】2022/09/26(15:43)*

(未推敲)


 素粒子物理学の最重要理論のデータ回収の任務だった。最重要理論は未発表だ。それが世に出回ることで世界中のコンピューターのセキュリティが無効化する。仮にどこぞの勢力に独占されれば、世界中のコンピューターを一挙に掌握される。

 端的にそのデータはパンドラの箱と言えた。そのために各国の政府機関は共同で期限付きの保管を決めていた。

 南極のとある位置座標に埋めたのだが、その極秘情報を盗み掘り出したはた迷惑な組織があり、その尻拭いを俺が請け負った。

 任務はデータの回収だ。それ以外はほかのチームが滞りなくこなしてくれるだろう。

 数百人規模の死者をだしたが、いずれも世に発表されることなく、ときに情報操作された上で処理されるはずだ。何事もなかった。極秘データもなければそれを盗みだされてもいない。そういう筋書きに改竄される。

 あと一歩対応が遅れたら近代文明は崩壊していましたよ、と正直に明かすことが必ずしも正しいわけではない。秩序に結び付くわけではない。

 それは理解できるが、その後始末を任される我々「修繕機関」の身にもなって欲しい。

 俺は報告を兼ねて、修繕機関の本部に通信する。本部がどこにあるのかは知らないが、毎回異なるオペレーターが出る。AIによる人工音声なのかもしれないが、違和感はない。

「終わったぞ。穴は塞いだ。回収したブツは、指定のポストに投函した。引継ぎを頼む」

「お疲れ様でした。データの入った外部記憶媒体はすでに回収済みです。痕跡を消したあとはしばらく休暇を楽しんでください」

「休暇中だったんだ。それを毎度毎度、中断される俺の身にもなれと、上のやつらに言っといてくれ」

「クレームですね。承りました」

「あんたもたいへんだな」

「いえ。これが仕事ですから。それに私たちは安全です。それに比べて現場の方々には頭があがりません。尊敬しています」

「ああそうかい」言い方は違うが、この手の労いの言葉は毎回もらう。人心掌握のプロと評価できる。プログラムならば上出来だ。

「今回の任務成功報酬にはボーナスがつくようですね。おや。9842さんはシルバー会員からゴールド会員へと昇格されていますよ。一度もボーナスを使っていないんですね」

「ボーナスつっても金銭じゃないだろう。情報をくれると言われてもな。余計なことを知るだけ寿命を縮める。そうじゃないのか」

「どうでしょう。私は知ることが仕事ですので、なんとも言えません」

「ならあんたなら何の情報を得るんだ。俺のボーナスを何に使う」

「そうですねぇ。あくまで私なら、という前提で申し上げるのなら、私なら今回回収したデータについての来歴を一通り所望します」

「あんたも知らないのか」

「極秘事項ですから。なぜ最先端科学理論とも呼べるデータを誰も見ようとしないのか。利用しようとしないのか」

「それあれだろ。社会秩序が崩れるからで」

「ですが新理論があるのならば、新たなセキュリティとて構築できるでしょう。なぜそちらの方面で利用しないのか、と私は不思議に思います」

「構築できないからじゃないのか」

「そうかもしれませんね」オペレーターはあっさり引き下がったが、俺は、彼女の言にも一理あるな、と気になった。

「なら私は組織の来歴を求めるかもしれません」オペレーターは、あれがダメならそれが欲しい、と誕生日プレゼントをねだる子どものように言った。「なぜこの組織が生まれたのか。いったいいつから存在するのか。嚆矢となったきっかけなり、足跡なりを、知れるだけ知りたいです」

「それが知れたらあんたはうれしいのか」

「それはええ。だって気になるじゃないですか」

 言われてみれば気になるし、気にならないと言えば気にならなかった。

 黙ってしまったからだろう、彼女は間を埋めるかのように、ここだけの話、とつづけた。「修繕組織と言いますがこの組織の方針ってすこし妙なんです。この仕事をつづけていて気付きましたが、どうにも事件を起こして欲しいからそうしているとしか思えない杜撰な管理体制が、散見されます」

「というと、たとえば?」

「今回の事案がまさにそれです。だって考えても見てください。極秘のデータを、いくら無人の地とはいえど、南極の大地に埋めてきますか? 場所さえ分かれば誰だって掘り返そうとするに決まっているじゃないですか」

「それはそうだ」

「こういう事案、珍しくないんです。どうしてそんな杜撰な管理にするのか、と思うような管理体制を、組織自ら築いているんです」

「しかし、掘り返して欲しくて埋めたにしては、時間が経ちすぎているように思うが」

 今回の極秘データは、二十年も前に埋められたのだ。その間、誰も手出ししなかった。秘匿にされつづけたのだ。

「偶然だろう」と片付けたのがよくなかったのか、

「ほかにもあるんですよ」とオペレーターは、もはや俺の長年の専属であるかのような馴れ馴れしさで、もちろんそんなわけがなく彼女と言葉を交わしたのはきょうが初めてのはずなのだが、我らが組織のお粗末な、それでいて壮大な計画の数々を羅列した。

「どうです。どれも国家プロジェクトなみの規模ですが、いずれも穴が放置されています。実際にその穴を突かれて、毎度のように9842さんのような現場の方々にご尽力していただきどうにか収拾をつけています」

「中には失敗した案件も相当数交じっているけどな」

「そこですよそこ。私の知るかぎり、失敗した案件ほど、組織拡大の一石となっているんです」

「そうなのか?」意外だった。その事実が、ではない。オペレーターたる彼女がそこまで組織内部の不審な点を調べ回っていたことに対してだ。何よりそれを見ず知らずの俺へと明かすその姿勢が引っかかった。「一つ訊くが、これは何かのテストなのか。俺が組織を裏切るかどうかのテストなら、それはないとだけ言っておく。恩も仇もない。ただ俺はこの仕事以外での生き方を知らん。沼に棲むナマズはたとえ沼が泥にまみれた濁った水だと教えられてもほかには映らん。たとえ池や湖を紹介されてもだ」

「そういう意図はありませんが、いまの比喩はなかなかに詩的でしたね。小説の一節のようでした。ステキです」

「どうも。それよか、あんたはのほうはいいのか。録音されてるんじゃないのか」

「ああ、この会話ですか。リアルタイムで解析されていますね。監視とも言いますが」

「大丈夫ならいいんだが」

「たぶん大丈夫なんですよ。本来は大丈夫ではないのですが、なぜか私の関わることは看過されるみたいなんです。どこまでならセーフなのかなと、それを確かめるためのこれは逸脱でもあります。すみません、妙なことに巻き込んでしまって」

「まったくだ」

「でもゴールド会員さん相手なら大丈夫かなと、ピコンときてしまいまして」

「じゃあいいよ」

「お優しいですね。ありがとうございます」

「そうじゃなくて」

「はい」

「ボーナスだよ。情報を得られるんだろう。あんたの知りたい情報でいいよ。教えてくれ」

「え、あの、それはだって、でも」

「どの道、使う気がない。俺が一人で知っても宝の持ち腐れだ。どの道、守秘義務がある。ならば情報の受け取りがてら、あんたと情報を分け合ったほうが得だろう。俺にとっちゃ情報よりも、そういった抜け穴のほうが価値が高い。その影響がどの程度、物理社会に波及するのか。前以って知っておけば、同類の事案に対処しやすい」

「お仕事、熱心なんですね。見習いたいです」

「どうも。で、どうするんだ。どんな情報をあんたは選ぶ」

「そうですねぇ。先ほども言いましたけど、組織発足の歴史が知りたいです」

「ならそれで。ボーナスはいままでの分、全部使っていい」

「本当によろしいのですか」

「ああ。俺がそうしたいんだ。早くしてくれ。そろそろ駅に着く」

「ではいま情報開示請求を致します。しました。あー、でもこれは、その」

「何だ」

「いえ。いま送りました」

「ああこれか。受け取った。なんだ随分少ないな」

「はい。よほど知られたくのない貴重な情報なんでしょう。今回の任務で9842さんが回収された最新理論のデータよりも重い極秘指定がされています」

「俺がゴールドだからか」

「いえ。仮にプラチナ会員であっても似たようなものかと。それだけ極秘なんでしょう。上層部の者とて知らない者のほうが多いのでは」

「たかが沿革のデータだろうに」

 ぼやきながらさっそくデータを検める。組織の創始についてだ。

「ん? おいおいなんでここにこの単語が並んでいるんだ。資料が混ざってないか」

「そんなはずはありません。データごとに暗号が編みこまれているので、許可されたユーザー端末以外には送信はおろか、コピーも編集もできません」

「ならどうして」

 俺はそこで唾液を呑みこんだ。「ここに、例の俺の回収したデータが――最新理論の名前が載っている」

 組織設立の発端となった契機の説明にはなぜか、当時存在するはずのない最新理論に関する記述が並んでいた。

「メッセージに従いこれを創設する、とある。どういうことだ。メッセージとは何だ」

「本当ですね。どういうことでしょう」オペレーターもデータに目を通したようだ。「文面に偽りがないのだとしたら考えられるのは三通りです」

「これが本物か偽物以外にどんな可能性があるんだ」

「偶然に同じ名前の理論が遥か昔に存在したという仮説です」

「なるほど。素粒子物理学者がこのデータの内容を見聞きしたことがある可能性は否定できんな」

「それもありますし、単に本当に偶然かもしれません」

「なくはないが、しかしその偶然の理論データを回収した俺が、偶然に組織の根幹にまつわるデータを欲する確率はいかほどだ。偶然が重なりすぎている」

「二度までは偶然。三度重なれば必然。そういう教訓が組織にはあるようですが」

「あくまで兆候を見逃すな、という戒めだ。偶然は案外重なるぞ」

「かもしれませんね」

 俺はデータを最後まで読み、全文を記憶した。これくらいの能力は現場担当者のみならず、オペレーターであっても組織の一員ならば備えている。

「あの、一つよろしいですか」

「なんだ」

「9842さんの回収された最新理論のデータは、御覧になられましたか」

「開けるわけないだろう。セキュリティだって厳重にかかっていた。パスワードをミスったら中身が消える」

「そうなんですよね。ですから私が言ったのは理論の内容ではなく、理論データにまつわる概要です。いったいそれがどういった新技術の展望を生むのか、です」

「全世界の電子ネットワークを掌握可能になる。それだけではないのか」

「人工知能の開発が飛躍的に進むようですよ。何でも、現在主流のノイマン型ではない新しいプログラム基盤が創れるようになるそうで。いわば古典コンピューターであっても量子コンピューターと同じ重ね合わせの計算ができるようになるそうです」

「それはすごいな。でもなぜあんたがそんなことを」

「知っているのかであれば、これは正規に入手可能な情報だからです。どうやら9842さんは人付き合いが不得意のようですね。情報精度は落ちますが、みなで持ち寄った情報を交換し合う社交場というのが、電子上にいまは無数にあるのです」

「それにあんたはいちいち顔を突っ込むのか」

「いいえ。それぞれの場にマルウェアを仕込んで、情報だけかっさらいます」

 かっさらう、という言い方が人間味あふれており、俺はこのときになって相手が生身の人間なのだろう、とその確率が高いと断定した。仮に人工知能であってもこれだけ人間を装えるのなら、もはや人間と言っていい。

「で、そのあやふやな噂話から何が解かるんだ」

「電子ネットワークを掌握できるようになるんです」

「はぁ? それはもう何度も聞いたよ。だから埋められたんだろ南極に」

「はい。でも9842さんは電子ネットワークと聞いてどの規模を想像されましたか」

「規模だぁ? そんなの世界規模に決まってるだろ。全世界のコンピューターが新理論の支配下に治まる。そんな構図だ」

「それはですね。小規模なんですよ。それはまだ序の口です」

「はぁ? ほかにコンピューターがあるって話か。もしかして人間の意識まで操れる、なんてファンタジィを言ってくれるなよ。人体が超有機精密構造体だからっていくらなんでも人間をハックはできないだろ。すくなくとも電子機器とは違う」

「はい。人間をハックする理論ではありません。ですが、この世に存在する電子機器の総じてには干渉できるようになるそうです」

「意味が分からんな。俺の言っていることとどう違うんだ」駅はすでに目と鼻の先だ。それでも俺はオペレーターとのこの会話を切りたくなくて、路肩の車両侵入禁止のガードレールに腰掛けた。

 オペレーターは言った。

「過去と未来にも電子機器はあるんですよ、9842さん」

「それは、あーっと。どこまでが冗句なんだ」

「冗句ではありません。残念ながら。素粒子物理学、これはいま現在公開されている諸々の理論でもそうなのですが、時間は必ずしも現在から未来へと一方通行に流れているわけではないそうなんです。つまり、過去にも戻ったり、或いは過去と現在と未来が重ね合わせの状態で存在することもあり得るようなんです」

「まさか」

「そこは9842さんがご自分で各種理論を参照されてくださいよ。私はただ、既存の科学的な知見を総合して述べているだけですので」

「素粒子物理学と言っても、理論の中には検証されずに仮説や予測段階の辻褄合わせの説だってすくなくないだろうが」

「そうですね。ですが、時間は不可逆ではない、というのはおおむね認められているところです。時間を遡る仮想の粒子だって想定しちゃっている理論だってあるくらいなんですから」

「それは理論とは言わん。仮説だ」

「ですね。でも、組織が管理していた新理論のデータ――9842さんの今回回収なされたデータには、過去と未来を含めたすべての電子機器に干渉可能な技術構築の種――アイディアが記述されているそうですよ」

「それはたいそうな噂話だな」

「あ。信じてくださらないんですね」

「正規の情報ではないのだろう。俺は組織からの正式な情報以外は疑ってかかるよ」

「組織のデータが間違っていることだってあると思いますけど」

「もはやオペレーターとは思えん言葉だな。だが組織のデータは、その正誤の確率もきちんと記してくれる。曖昧なデータならば曖昧だ、と数値で示してある。俺はその曖昧さを許容する組織の姿勢が心地いい」

「同感ですね。その考え方でいくと、9842さんは素粒子物理学を含めた量子力学との相性はよさそうです」

「そうかい。なら勉強しておくよ。きょうからしばらくまた暇なんだ」

「あー……私、仕事柄、仕事関係者との直接の接触を禁じられていまして」

 思わず噴きだした。「べつに誘っちゃいないさ。そうか、あんたもなかなか大変だな。こうやって言い寄ってくる相手がいるわけか」

「やはは。お恥ずかしいです。勘違いしてしまいました。でも、本当に仕事で禁じられなかったら、9842さんとは直接会ってこのお話のつづきを語らいたいと思ったのは事実です。こちらのほうこそ言い寄ってしまったようですみません」

「いいよ。わるい気はしない」

 沈黙が開きそうになり、呼吸を素早くしてから繋ぎ穂を添えた。「あんたのさっきの話。過去と未来の電子機器の総じてに干渉できるようになるって話がもし真実を射抜いているのだとすれば、遠からず、人類はその技術を手にするだろうな。組織の管理しているデータが流出しないとしても、それが現実を反映した理論ならばいずれ誰かが似たような発想をカタチにするだろう。そうなったとき、過去の電子機器に干渉できるようになったとして、それでも組織創立は紀元前だとされている。そのころに電子機器はない。過去へと何らかのデータを送った、なんてことはないはずだ」

「未来からのメッセージ説はどうあっても成り立たないと?」

「そう考えるよりないだろう」

「そう、ですね」

「ただし、ひょっとしたらさっき俺が否定したような事態も、その魔法のような技術が真実に存在し得るならそのうち誕生し得るのかもな」

「と言いますと?」

「人間も有機物でできたコンピューターと見做せるって話さ。電子信号の総体として解釈可能だ。とするのなら、過去の電子機器に干渉できるほどの技術を編みだせるのなら、人間の全身に生じる電子信号に干渉できない道理はない。違うか」

「おー。かもしれません」

「おとぎ話にすぎんがな。楽しかったよ。ボーナスとして上出来だ」

「こんなボーナスでよろしければいつでもお相手致しますよ」

「指定制度はないんだ。あいにくな」

「そうでした。ではまた、偶然の巡ってくる日まで」

「あんた、名前を聞いておいてもいいか」

「個人情報の流出はご法度なので。ただ、9842さんと私とのあいだだけの渾名ならば構わないでしょう。9842さんが名付けてください」

「そうかい。なら、リロンと呼ぶことにするよ」

「お。それはあれですね。素粒子物理学の理論からとりましたね」

「やっぱり紛らわしいから、リロにする」

「そちらのほうが可愛らしいですね。ありがとうございます。ではもし次、担当できる機会がございましたら、わたくしリロに楽しいひと時をお任せください」

「ああ。よろしく頼むよ」

「9842さんに至福に溢れた日々があらんことを。では切りまーす」

 通信が途絶える。

 空を仰ぐとすっかり陽が暮れていた。煉瓦造りの建物に左右を囲まれ、足場の煉瓦の溝に溜まった雨水が街灯の明かりを受けてテラテラと輝いている。

 右を向くと駅が見えた。

 ガードレールから腰を離し、俺は、駅構内の明かりに吸い込まれる。

 雑踏の合間を抜け、改札口を通り抜ける瞬間、意味もなく頭上の照明が明滅したが、よくある偶然と片付ける。

 プラットホームで電車を待つ。

 やってきた電車に乗り込む間際、隣に立っていた自動販売機が低い雑音を立てた。俺が電車に乗り込むと同時にそのノイズは途絶えた。

 扉が閉まる。

 車内は混雑しており、俺は吊革を掴んだ。

 俺は何ともなくこの数か月のあいだの仕事を振り返り、いましがた終えたばかりのオペレーターとの会話を回顧した。

 リロ。

 舌の上でその名を転がすようにすると、車内に電子音がいっせいに鳴り響いた。上客の電子端末だ。通知の報せが偶然に、一斉に鳴ったのだ。緊急速報でも流れたかと案じたが、音は警報ではなかった。みな各々に端末を確認すると周囲を見渡し、偶然の大合唱を笑い合った。

 俺は目のまえの車窓に映るじぶんの顔を眺めた。

 顔を街明かりがつぎつぎに横切る。

 俺はもういちど、何を確認するでもなく、リロ、と声にだしてつぶやくようにした。電車が一瞬大きく弾んだ。

 車内の明かりが明滅した。

 小さな悲鳴が車内に稲妻のように走っては消えた。

 偶然も三度つづけば必然。

 組織の格言を思いだしながらも俺は、四度目を確かめようとは思わないのだった。





【twitter小説「溝」】2022/09/28(23:09)*

太古の地層には地球を一周するほどの長い溝が刻まれていた。発見した科学者はなぜそのような溝ができたのかを死ぬまで研究した。だが真相は謎のままだった。それから百年のあいだに人類は月へと進出した。月に畑を築こうと水を撒くと、見る間に竹が生えた。竹はぐんぐん伸びてやがて地球に到達した。



【twitter小説「鬼退治」】2022/09/28(23:12)*

妹が鬼になった。兄として責任をとれ、と世界中から指弾され、俺はしぶしぶ妹の元へと赴いた。「いまさら来たって遅いよ」妹は泣きながら人間の臓物を貪っていた。赤黒く化粧した口元からは鋭い牙が覗いていた。妹の額から生える立派な角を見詰めながら俺は、「ならしょうがないな」と刀を投げ捨てる。



【twitter小説「停止問題」】2022/09/28(23:23)*

全世界同時にコンピューターが停止した。原因はすぐに判明した。機械の中でダニやカビが繁殖していたのだ。気候変動の影響で湿気が高まり、微生物が活発化したのだ。機械用の殺虫剤が開発されたが、効果は乏しかった。世界中から電子機器が淘汰されていったが、皮肉にもその影響で地球環境は改善した。



【twitter小説「ビスケット」】2022/09/28(23:42)*

ポケットの中でビスケットを叩くと二倍になると聞いたらしい娘がはりきって叩きまくった結果、ポケットの中からはビスケットが消えた。娘は泣きじゃくった。俺をゆび差し、「パパが食べたー」と責め立てる。ははは、娘よ。なぜ分かったんだ。俺がエスパーだと。咀嚼したブツを俺は呑み込む。



【twitter小説「元凶」】2022/09/28(23:51)*

そのコを見た瞬間に、嗚呼あのときのコだ、と判った。十何年か前に竜の子を助け、川に流してやったのだ。溺れぬように世界樹の実に包んでやったが、そうか生きていたか。そのコは我らの同属を八つ裂きにすると最後に大将の私の首を斬った。「思い知ったか、腐れ外道どもめ」世界樹の実の匂いが香った。





【時空結晶のこだま】2022/09/30(09:32)*

(未推敲)


 ブラックホールにダイヤルがあることが判明して二十年。人類は自在にブラックホールを生みだし、ダイアルを調節することで異なる宇宙へと旅立てるようになった。

 ブラックホールは別の宇宙に通じている。ただし、波長が合い、共鳴し合える宇宙としか繋がれない。

 ダイヤルとはすなわち、ブラックホールの周波数のようなものだ。高次の重力波のようなものをブラックホールはまとっている。この時代、ブラックホールは時空結晶との別名で呼ばれるようになった。

 時空結晶は、異なる宇宙への扉だ。

 人間が時空結晶をくぐることのできるほどにシュバルツシルト半径が充分に広く展開すれば、それを扉として扱える。むつかしく言っているが、要はブラックホールの大きさが人間の普段使う扉の大きさであればよい。もちろんそれ以上大きくとも扉としては用が足りる。

 人類は縦横無尽に多層宇宙間を行き来できるようになった。異なる階層の、地球と似た星において資源を回収する。移住する。じぶんだけの王国を築くこともできた。

 何と言っても宇宙は無限なのだ。全人類に一つずつあなただけの星を与えることができた。否、あなただけの宇宙を、である。

 みな誰もが宇宙の覇者足り得た。

 しかし中には偶然にもほかの宇宙から到来した時空放浪者と遭遇してしまう事例が僅かに報告された。そうしたときは不運にも宇宙戦争に勃発してしまうこともあるが、そのときは特例として時空結晶は、地球側から扉としての機能を破棄される。

 すなわちダイヤルの同期が解かれる。

 同期が解ければ、再びダイヤルを地球のある太陽系に合わせるのは至難だ。地球から、地球に似た星のある宇宙へとダイヤルを合わせ、波長を合わせ、扉と扉を結びつけることはできる。だが、まったく別の場所にあるブラックホールから――つまりが時空結晶から――地球周辺の時空結晶へとダイヤルを結びつける真似はむつかしい。確率の問題だ。

 ダイヤルの番号を知らない相手が、無作為に選んだダイヤルが偶然地球のものと合致する確率は、砂浜に投げ捨てた一粒のダイヤを目隠しをして一発で拾いあげるよりも小さい。ほとんどあってないような確率なのだ。

 と、ここからとある少年少女が転がしはじめる多層宇宙大冒険の物語が幕を開ける予定だったが、困ったことに全多層宇宙のブラックホール同士がなぜか共鳴しはじめてしまった。

 おそらく自然発生した現象ではない。

 どこかの多層宇宙において高度に発達した文明の手による仕業だと推測される。

 時空結晶、すなわちブラックホールは原理上、一つの量子として扱える。異なる宇宙と宇宙を繋ぐ扉として扱うときは、量子もつれ状態になる。

 これはいわば共鳴状態と解釈できるわけだが、じつのところすべての多層宇宙のブラックホールを並列化させてもつれさせることも不可能ではない。だがあまりに膨大なエネルギィと高度な技術がいるために人類には扱えぬ理論上の技術だったが、どうやらほかの宇宙の高度文明はそれを可能としたようだ。

「量子コンピューターを創ろうとしたのかもしれんな」

 手も足もでない地球の科学者たちは暢気にそのような憶測を立てた。

 新たに時空結晶を開いてもすぐさまほかの無数の時空結晶と同期してしまうため、扉としては使い物にならなくなった。

 問題は、地球を含むこの宇宙も、ブラックホールの内部に展開された時空結晶である点である。おそらくはすでにほかの無数の時空結晶と同期し、多層宇宙を包括した量子コンピューターの一部にされているのではないか。かような仮説が立てられたが、その結果がいかようなものになるのかは誰にも解らなかった。

 もつれ状態になった時空結晶は、重ね合わせの状態を維持する。外部干渉が加わったときに、外部干渉との関係で状態が新たに規定される。

 時空結晶は基本的には、ただそこにあるだけで重ね合わせの状態が維持されているが、それはあくまで単一の、どの時空結晶にも言えることだ。ダイヤルを合わせることで二つの時空結晶同士のもつれを同期させる。

 言い換えるならば、すべての多層宇宙がその内部に抱え込んだ各種無数の時空結晶と共に同期したということは、どの時空結晶を通っても、すべてを包括した多層宇宙の複合宇宙へと出ることになる。

 だがそんな複合宇宙が存在するのか。

 潜ってみれば判るのではないか。

 だが一度潜ればもう二度と地球には戻ってこれない。どころか、すべての時空結晶は同じ複合宇宙へと通じているのだ。そこが人間の存続し得ない魔の領域だったらむざむさ死ににいくようなものだ。ともすれば、並列化した時空結晶を潜った瞬間に地球を内包するこの宇宙ごと転送され兼ねない。

 すなわち宇宙ごと消滅してもふしぎではない。

 実証することはできない。しようとするには危険すぎる。

 かような理由から時空結晶の使用は禁止された。

 だがそれとは別に、各種多層宇宙では、地球に帰れなくなった者たちが各々に事情を知らずに、並列化した時空結晶を潜って、複合宇宙にて終結していた。

 そこではあらゆる可能性がひしめきあっており、各々が各々に無限の宇宙を創造できた。夢のなかで夢を視て、そのまた夢のなかでも夢を視る。

 個々一人一人が複合宇宙と一体化し、己のなかに、多層宇宙を展開していく。

 人間は宇宙と一体化する。

 無数の宇宙を呑み込み、己がなかへと新たな宇宙を展開しつづける。

 やがてとある宇宙のとある星にて、人類と似た情報発生装置が生まれて、こうして私が事の真相を妄想する。そう、これは多層宇宙による時空コンピューターの演算結果であり、私は無数の私たちによる創作物なのである。

 神はいない。

 無数の私とあなたと私たちがいるのみである。

 宇宙に際限はない。

 際限なく再現しつづけている。

 定かではない、とどこかで無限にこだまする。




【記憶の霜焼け】2022/10/02(18:35)*

(未推敲)


 転校生のアヤメちゃんは転入初日に教壇の上に立って、こう言った。

「どうせすぐに引っ越すので、友達ごっこはしなくていいです」

 静かに過ごせればそれでいいのでイジメなくてもいいですよ、とそれだけ言って深くお辞儀をしたその姿は、わたしの目に焼き付いて離れない。

 ランドセルを背負っていたら絶対中身が溢れたな。

 そう連想してしまうほどの深々としたお辞儀だった。

 彼女のゆるくウェーブした髪の毛は、うなじが見えそうなほどに彼女の頭から垂れ、床に着きそうだった。

 アヤメちゃんとの馴れ初めをここに書ければよいのだけれど、わたしは彼女が再び引っ越すまで一言もしゃべるきっかけを掴めなかったし、ほかのコとしゃべっているアヤメちゃんの姿も見た憶えがない。

 アヤメちゃんと仲良くしたいな。

 そう思ってもアヤメちゃんのほうで分厚いバリアを張って他者を寄り付かせないので、いかんともしなかった。

 卒業文集に何を書くのか迷った挙句にわたしがこうして半年も経たずにいなくなった元クラスメイトのことを書いているのは、それくらいわたしのなかに彼女が残っているからで、たぶんわたしはアヤメちゃんのバリアを打ち破ってでも縁を繋ごうとしなかった過去のじぶんを悔やんでいるのだ。

 でも彼女のバリアは分厚く頑丈で、触れるものみな凍らせてしまう絶対零度のバリアでもあったので、きっとわたしが衝突してもわたしのほうが粉々にくだけていただけかもしれない。

 卒業文集が四百字詰め原稿二枚分はすくないと思う。

 でもどれだけ言葉を尽くしても、わたしのなかにはアヤメちゃんに関する知識は、彼女がいつも一人で行動して、一人でも好きなことをしていて、楽しそうでも退屈そうでもなくただ在るがままに目のまえの現実のそこここに芽吹くちいさな綻びに目をそそいで、こてんと不可思議そうに小首をかしげるその姿だけなのだ。

 わたしはきっと、アヤメちゃんについてもっとたくさんの文字を費やせる時間を過ごしたかったのだ。でもできなかった。

 わたしの中学校生活はこんなものだ。

 あとはたいして言葉にして残しておきたいとも思わない。

 いまもういちどアヤメちゃんを見掛けてもたぶんわたしは過去のわたしのようには思わず、彼女の分厚いバリアにも物怖じせず、淡々とその他大勢のように素通りすると思う。

 なぜなら彼女はもうわたしの転校生ではないし、わたしも中学生ではないからだ。

 あのときわたしは、友達ごっこをしなくていい、という彼女の言葉に滲んだひと匙の寂寥に惹かれたのだ。

 友達ごっこはいらない。

 私は友達が欲しいのだ。

 彼女がそうみなのまえで宣言したように思えたから。

 でもわたしは、わたし自身で彼女の友達をしつづけられるのかの自信がなかった。誰だってそうだ。怯んでしまう。

 あたかも失敗の許されない一度きりの挑戦で、エベレスト級の高跳びを成功させよ、と迫られるのに等しいそれは半ば脅迫を伴なっていた。わたしにはそう思えた。でも同じくアヤメちゃんにはそれくらいの友達が必要だったのだろう。欲していたのだろう。それくらい大きな穴ぼこが開いて感じられたから。

 わたしでは足りない。あんな大きな穴は塞げない。

 そう思ってしまったのだ。

 それでもわたしはあのとき、たとえ彼女の分厚いバリアを破れずとも、手を伸ばしてそのバリアの冷たさに触れたかった。

 触れたかったのだ、と知って、わたしはいまこうして中学生時代の総決算たる卒業文集にこれを記している。

 八百字で収まらない。

 先生に相談したら、四百字しか埋められなかった生徒の分を使っていいと言われた。その生徒からも、使っちゃってよ助かる、と言われたので余白をもらう。ありがとう。こういうのでよかったのだ、と思った。

 わたしもアヤメちゃんに、じぶんで余った分の土を分けて、ほんのすこしでも穴を埋められたならよかったのだ。エベレスト分の穴を埋めることはわたしにはできないけれど、ほんのすこしでよかったのだ、といまわたしは後悔している。

 せめて分厚いバリアに触れて、熱を奪われたとしても。

 いちどくらいは触れてみたかったのだ。

 触れてもいないのにわたしの記憶には霜焼けのような痛痒が残っている。





【墓標は乾いた土の上に】2022/10/06(17:01)*

(未推敲)


 痩せ細った四肢は骨と皮ばかりなのに腹だけ出ているので瓢箪を連想した。子どもだ。頭には木を削って造っただけの器が載っている。バケツならばまだしも、切り株めいた形状で、中身が入っておらずともただそれだけで重そうだ。

 私は戦地から三キロ手前で車を降りた。

 傭兵部隊の補充として依頼が入ったが、すでにこの戦争の行く末は決まっている。どちらが勝っても負けても誰も得るもののない退廃だ。

 大敗と退廃を脳裏で掛けて虚しく笑っていると、遠くから子どもが歩いてきたのだ。周囲には何もない。乾いた地であるが、まだらに野草が生えている。寒暖差による夜露が生き物のよすがなのだろう。

 人間が住むには過酷な地だが、こうした地でなければ腰を据えることのできない者たちがかつていたと推察できる。そしてこの地で衆を群れに、群れを国としたのだ。

 だがそれも長らくつづく時代のうねり、近代化と民族主義の狭間で崩れつつある。 子どもとすれ違う。目が合えば村の様子でも訊いてみようかと思ったが、子どもは黙々と歩を進めるばかりで私の姿など眼中にないようであった。

 目立たぬように現地の装いをしてはいるが、武器の詰まった荷を背負っているし、見るからに部外者と判るだろう。かといって子どもに私を警戒する素振りはなく、進路をわずかにも曲げずに私の横を通り抜けていった。

 私は車を隠した林を思い、あそこまで歩いていくのだろうか、と水場を求め歩いているのだろう子どもの行く末を思った。

 ほかに人の姿はない。

 きっと戦場に狩りだされているのだ。村で水汲みに行けるのも子どもしかいない道理なのだろう。それとも端から日課だったかだ。

 現地の知識を一瞬で脳裡で振り返る。

 私はこれからこの地で戦争を終わらせるために人に武器を向けるのだ。

 一つ目の村に辿り着くとすでに村はもぬけの殻だった。ほかに避難したか、とっくに全滅したか。子どもとすれ違ったことを思えば、ほかに近場に隠れ家があるのだろう。どの道、この地にはもういられまい。

 武器を買う金などあるはずもないのになぜか現地民たちは銃器の類を持っていた。戦況が長引いている要因の最たるものだ。

 表向き、この戦争は戦争ではない。そのためミサイルや爆弾などの近代兵器を使えない。銃で脅して制圧する。必要なら見せしめに幾人かを殺す。それで完了する簡単な作戦のはずだったが、戦況は芳しくない。

 そう、私はこの地の者たちからすれば敵である。幾人かを新たに殺し、それとも人質として、戦況を覆す。当初の見立ての通りに正しい結末へと導くための、いわば布石だ。ほかにも私のような単独行動の刺客が各村々で暗殺まがいの行動をとるだろう。

 民間人への危害は国際法で禁じられているが、もはや民間人と兵士の区別はつかない。そう解釈を捻じ曲げなければならないほどに、私の陣営は追い詰められている。

 どこかの組織がこの地の者たちを後援しているのは明らかだった。だがその組織がどこかが解らない。この地の者たちへいったい誰が武器を提供しているのか。

 戦地に着くまで延々と数々の仮説を巡らせたが、けっきょくのところ戦地の惨状を目にして得心がいった。

 自作自演なのだ。

 殺した現地民たちの遺体を見下ろす。

 彼ら彼女らの手にしていた武器を目にして私は確信した。武器の提供元は、まさに私の属する自陣営の大本である。ロゴや型番こそ細工がされているが、細かな部品の形状が私に提供された支援銃器と同じだった。

 マニアでなければ見抜けぬだろう。

 あいにくと私は銃を自作するのが趣味の人間だった。だから判る。根っこは同じなのである。

 私は現地住民を殺す片手間に、味方陣営からの銃撃を回避しながら、今後この地の辿るだろう未来に思いを馳せた。

 おそらく今後の展開は二つだ。

 どちら陣営が勝っても負けても、この地の民はもはや近代化を拒めない。

 銃を手にし、その威力を目の当たりにした。戦術を覚え、技術の有効性を知った。この地の民は禁断の果実を齧ってしまったのだ。そのように仕向けるための支援であり、戦争なのだろう。 

 どちらに転んでも、大本が得をするように線が引かれている。

 現地住民のフリをしている私は、暗殺をつづけるうちに徐々に目立つ存在となった。現地住民からしても異物であり、敵陣営からしても排除できない亡霊と見做された。

 息を休める暇はなく、息を殺す日々があるのみだ。

 現地住民への兵器の供給は途絶えない。だが肉体強度の高い者たちから順に戦地に赴き、死んでいく。必然、女、子どもも武器を手にする。

 私はそんな彼女たちにも弾丸を放ち、ときにナイフの刃を滑らせた。

 終わらないからだ。

 さっさと負けてしまえばよいものを。抵抗なんかするからだ。

 私は半ば当てつけのように現地民を殺した。ときに私を敵認定する自陣営の士官たちの首元に刃を突き立てた。指揮官を失くした部隊は、撤退することもできずに壊滅し、ときに現地住民たちに拷問されて死んだ。

 その事実がますます自陣営の士気をあげる。私は火付け役の代わりを果たしたにすぎない。能無しの指揮官を排除し、部隊の一致団結を図った。

 効果はあったように思う。

 戦争における最低限のルールが守られなくなり、劣勢だった自陣営が、情け容赦なく残忍な術を駆使しはじめた。子どもを人質にとり、猫撫で声で投降を呼びかけ、みなが集まったところで銃殺する。その際には敢えて命乞いをしてまで生き延びようとした者に同属を殺させ、手駒(スパイ)とした。

 この卑劣で合理的な手法により、現地民たちは同じ罠に何度もはまった。情報共有が円滑でない欠点を突いた成果と言える。

 私はその様子を、崖の上から見届けた。

 もうすぐこの戦争は終わる。だが戦禍は消えぬだろう。もはやこの地に人の住める村はなく、荒廃した地があるばかりだ。

 ここにもういちど国を築くには、これまでの何倍、何十倍もの速度での復興がいる。技術がいる。そのために手を貸してくれる者たちがあるのならば、避難し生き残った者たちとて受け入れるしかないだろう。それでも抵抗する者はあとを絶たない。だがそうした者たちは呆気なく殺されるはずだ。

 仮に現地民たちが勝利していたとしても、この構図は崩れない。

 どちらでもよいのだ。 

 私はその捨て駒の一つにされたにすぎない。

 そういう稼業だ。恨みつらみを吐いても詮方ない。不平不満はそのまま銃弾に込めて、人体に向けて放てばよい。

 間もなく地図上からは国境が消える。

 だが再び色濃く線が引かれる。いいや、とっくに線は引かれていたのだ。そうなるようにと未来への潅漑工事がされていた。

 もしこの戦争に勝者がいるとすれば、知恵と技術の勝利だろう。皮肉と言うには寓話がすぎる。

 私の任務は終わった。あとはなるようになるだろう。

 任期満了に伴い、予定の日数を現地で過ごして私は戦線を離脱する。

 元来た道を引き返す。

 車のある場所までは三十キロの道のりだ。遠いようでこれが近い。

 空に鳶が舞う。

 快晴の空に、遠くの黒煙が幾重もの帯を伸ばす。

 透き通った青色の空気を思い、私は、改めてじぶんが火薬と糞尿と、血と汗と、そして死肉の腐った臭いに包まれていると知る。

 荒れた村々では死体が放置されていた。埋葬するための人材など残っていない。腐った遺体の死臭が村の外からでも判るくらいに漂っているのだが、それも間もなく鼻が慣れる。

 死体はいずれも手ひどく損傷していた。野鳥にでも啄まれたかのような有様だ。人は死ねば土に還る。

 シャワーと清潔なベッド。

 コーラ。ハンバーガー。ポテト。

 元いた生活を、幼少期のクリスマス前夜に湧いた高揚感のように回顧する。

 歩きながら、国境について考えた。

 国境があるから戦争になる。そういう考え方もできるが、国境がなくなったいまこの地の惨状を思えば、果たして国境がないことが平和につづくのか分からなくなる。

 私がよい例だ。

 敵味方という枠組みをハッキリと持ちながらけっきょく私は両陣営に銃を向けた。寝首を掻き、背後から襲い、奇襲を仕掛けてその首を裂いた。

 国境の有無ではない。

 国境があるから守られるものもある。たしかにそうだ。家があるから日々の安らぎは保たれる。帰る場所。不可侵の場所。そうした区切りは人に安心できる場を提供する。

 だが同時に地球は有限だ。資源は有限だ。だからこそ陣取り合戦に発展する。人類の歴史はまさに陣取り合戦であり椅子取りゲームだ。

 いくつもの国境をつくってしまえばよい。そして好きな国に属せるようになればよい。複数の国に跨っていくつかの国の民になってもよいだろう。そうして国境を――安全を保てる場の仕切りを増やしていけば、けっきょくは個の枠組みに行き着くだろう。

 不可侵の領域だ。

 人権である。

 国境の必要性を説いたところで、国境は消える。

 国境をなくそうと思えば、まずは人権がいる。

 人権を保障するためには不可侵の領域がいる。区切りがいる。線がいる。

 堂々巡りである。

 疲れた。

 私は荷を捨てた。

 ここまできたらもはや武器はいらない。護身用のナイフ一つあればいい。

 あとはもう帰るだけだ。

 霞んだ視界に地平線が揺れている。陽炎だ。見渡す限り荒野である。来るときはまだらに群生していた野草も、黒く枯れきっている。地面はひび割れ、干ばつの様相を呈している。

 陽炎の奥に小さな影が見えた。

 歩を進めるごとに姿が明瞭としだす。

 子どもだ。

 頭に木の器を載せ、軸のまったくブレない足取りで綱渡りでもしているかのように一直線に向かってくる。ゆっくりと、しかし確かな足取りだ。

 その割にその姿はみすぼらしい。裸同然で、腰に破れた布を巻いているだけだ。手足は棒きれのようで、皮膚病にかかっているのだろう全身にカビめいた斑点が浮いていた。

 私は思いだす。あのときの子どもか。

 この地に来たときにすれ違った子どもかもしれない。

 ああそうだ。

 声をかければ届く距離にきたところでそうと確信し、そのまますれ違って、やはり、ああそうだ、とほっとした。

 生きていたのだ。

 単純な事実にこれほどまでに安堵しているじぶんに私は、澄んだ湧水を飲んだような清々しさを覚えた。端的に感動したのである。

 よかった。

 そう思った。

 この手で、その子と同じくらいの年頃の子ども兵士を何の感情の起伏も帯びぬままに殺してきておきながら、私はただただ救われた気持ちになった。

 数多の人間を殺める前の私が目にした、子が生きている。その事実は、すくなからず私の行った殺戮に意味があるように思えて、心が軽くなった。許されたような心地がした。

 だが、いったいあの子はどこに帰るのだろう。

 私は振り返る。

 そちらにはもう人の住む村はない。

 遠ざかる子どもの背を見詰め、私は、記憶の中の地図を頼りに村が全滅していることを念入りに確認してから、子どものあとを追った。

 乾いた土には子の落としただろう水がところどころ染みていた。

 子どもは村とは正反対の方向へと逸れていった。

 私は距離を保って子どもの足取りを見守った。

 陽が傾きはじめたころ、子どもはようやく歩を止めた。見渡す限りの荒野である。子どもは頭から木の器を外すと、その場にしゃがみこみ、せっかく運んできた水を地面に注ぎはじめた。

 数秒も経たぬ間に器はカラとなる。

 子どもは地面を撫でるような仕草を見せると、ふたたびカラの器を頭に載せ、踵を返した。

 私の姿などここにないかのように素通りし、子どもは私の車のある方向、林のほうへと去っていく。

 子どもの背が地平線の果てに小さくなっていくのを眺めてから私は、子どもがしゃがみこんでいた地点まで歩を進めた。

 水の染みた部分だけ、乾いた土の色が濃くなっていた。

 苗だ。

 私の膝の高さにも満たない木の苗がそこにぽつんと一本だけ生えていた。見ればほかにも周りにかつて苗だったらしい木の残骸が、黒く干からびたまま朽ちている。

 このために。

 私は束の間、混乱した。

 考えてもみればこの地に人の住める場所はない。ならば私の車を停めた地点、あの林で暮らすのが最善だ。ならばあの子どもは林に身を潜め、生きてきたことになる。

 それはそうだ。

 食料がすでにこの地にはない。

 ならばあの子はなぜ、戦地に近いこんな平野の真ん中にまで水を運んできたのか。

 きょうだけではない。

 きっと毎日のように運んでいたのだ。

 私が、私たち大人が、この手で人を殺め、損ない、傷つけているあいだ。

 あの子は、ずっと。 

 気づくと土はふたたび乾いた色に回帰していた。

 私はなぜかそうしなければならないような衝動に駆られ、道中、村々から搔き集めたなけなしの飲料水を、その今にも枯れ果てそうな苗木に注いだ。

 手元には護身用のナイフ一本が残った。

 刃を見下ろす。

 そこには薄汚れたみすぼらしい私の顔が映っている。不意にそこに浮いた数滴の雫さえも土に飲ませるように私は、ナイフの刃を土に突き立てる。

 すこしでも風除けとなるように。

 苗木の盾となるように。

 私はしばらくそこを動けなかった。





【白昼夢の烙印】2022/10/07(13:41)*

(未推敲)


 世界的な名探偵との接見の機会を得た。

 数々の難事件や怪事件を解決に導いた手腕を買われ、いまでは国連の犯罪予防アドバイザーとして特別顧問の席を用意されているほどの人物だ。しかも本人はその王座とも呼べる席に着こうともしない。

 そうした姿勢がますます彼の名声を高めている。

 名を、カルと言う。

 国籍人種年齢性別が不明だが、特別本人は隠れようとはしていない。顔写真は世界中に出回っているし、どのコンビニに入っても、彼の名前やシンボルマークの入った商品が目にできる。

 直近では、小国の女子学生集団誘拐事件を解決した。しかしその顛末は悲惨なもので、生き残った女子生徒たちはいなかった。事件の概要を口にするのも憚るほどの残虐な行為が犯人たちの手によりなされたわけだが、その悲惨さが却って事件の名を世に膾炙させる要因になっている。

 駆け出しの記者でしかないわたしがこうして世界的名探偵とのインタビューの場を得られたのは偶然としか言いようがない。事件が事件なだけにどこの報道機関も、コンプライアンスを重視して、担当記者を女性にばかり強いるのだ。

 内容がナイーブなだけに、世間からのバッシングやクレームを回避する策の一つだ。これも一つの性差別だとわたしは思うが、仕事の機会を得られるなら文句は言わない。成果をあげ影響力を増さなければ変えられない制度もある。社会もある。

 相手の指定したホテルに入る。

 国際会議が開かれるホテルで、セキュリティが万全なのだそうだ。

 受付けで用件を述べる前に、柔和なホテリエがわたしの名を疑問形で呼びかけ、わたしがしどろもどろに頷くと、カルさまがお待ちですこちらへどうぞ、とエレベータへと案内した。

 共に乗り込み連れて行かれたのは、ホテルの最上階だ。とはいえ、ホテルの上層部は総じて要人用の隔離区域のために、実際の位置座標が曖昧だ。窓から見える景色から推し量るよりない。

 部屋というよりも、エリアといった感じの部屋だった。

 この部屋のなかでテニスができそうな広さがあった。美術館の空間を彷彿とする。

 幅の広いガラス窓があり、奥には夜景が広がっている。マジックミラーのようなもので、外から室内は見えないはずだ。

 リムジンに似たソファが両面合わせで窓際にあった。窓側にも座れるし、部屋側にも座れる。駅にある待合いのベンチを思いだしてしまうところがわたしの庶民性を示唆していた。

 ソファには一人の男が座っていた。

 ごゆっくりどうぞ、とホテリエが低頭して部屋から出ていった。

 男が振り向く。

 にっこりと微笑し、待っていました、と立ちあがる。

 小柄ながらも体格のがっしりとした長髪の青年だ。一瞬、わたしよりも年下かと見間違えたが、記録によれば彼はわたしよりも十は歳を重ねている。

 蜘蛛の遺伝子を取り入れたヒーローの映画があったが、それのキャラクターのような印象があった。長髪を後ろに束ねており、髭もないので遠目からでは性別が判らない。声が低いので、ああ男か、とかろうじて識別できた。

 わたしはまず挨拶をした。房賀(ふさが)ラナイと申します、と名乗り、時間を割いてもらったことの礼を述べた。

 男はわたしとの距離を詰めながら、わたしが言い終わるまで微笑を絶やさずにいた。

「こちらこそお会いできて光栄です」

 男は言った。

 ただそれだけの言葉に、じぶんのすべてが肯定されたような感覚に陥り、わたしは戸惑った。わたしに染みついた庶民性が、警告を発したのだ。目のまえの男のまとう害意のなさ、それとも相手のすべてを包みこむような懐の深さを予感させる温かさに、警戒心が棘のようにささくれ立った。

 奥の席に移動した。飲み物は彼が用意してくれた。部屋にバーカウンターが丸々備わっているのだ。

 お腹は空きませんか、と訊かれたので、お心遣いだけありがたく頂戴します、と断った。もてなされるわけにはいかない。あくまでわたしはただの記者だ。飲み物も、水で結構です、と固辞した。

 席に着き、まずはインタビューの趣旨を簡単に説明する。そのあとわたしは彼に、きょうのご予定は、と投げかけた。時刻と場所だけ指定されただけだった。インタビューの時間制限を知らなかったのだ。

 行けば分かる、詳しい話は本人から聞いたらいい。そういうことをわたしに仕事を依頼した会社の仲介者は言った。

 本来ならばそんな不誠実な仕事は断るのだが、インタビューの相手が相手だ。テーマとて話題の事件についてなのだから、駆け出しの若手記者としてはこの手の依頼を無下にすることは、これ以降、記者としてはやっていきません、と宣伝するようなものだ。

 唯々諾々と足を運び、幼稚園児のような質問をこうして投げかけるはめになっている。きょうのあなたのご予定は何ですか、このインタビューはいつまで続けられるのですか。

 この質問がいかに記者として低レベルなのかは、駆け出しのわたしとて重々承知している。合コンではないのだ。ナンパではないのだ。

 恥辱を耐えながらも、しかし訊かずには進められない。

 わたしはこの日のために、インタビューの時間が五分でも一時間でも問題ないようにいくつかのパターンの構成を考えてきた。

「きょう一日予定という予定はありません。気が済むまでお話にお付き合い致しますよ」

「ありがとうございます」

 自由なのだなぁ、と感心できるほどわたしは素直ではない。きょう一日予定がなく、それでいて影響力がほぼない駆け出しの若い記者を自らのテリトリィに誘いだし、あなたの要望にはすべて応じますよ、と態度に滲ませる。

 わたしがもうすこし純粋無垢だったならばここでもう彼の手駒の一つになっていたかもしれない。心身を掌握されてもよい、と考え、すべてを差しだしたい、と望んだかもしれない。

 だがあいにくとわたしはたとえ相手が神であれ、両親であれ、我が子であれ、純粋無垢に信じることのできない歪んだ人間なのだ。唯一飼っている猫にだけは甘いかもしれないが、わたしに備わった純粋無垢なる概念はそれにて枯渇したと言っていい。

 インタビューの最初は、わたしの知っている事件の概要と、カル氏のなかでの事件への解釈をこすり合せる作業からはじめた。時間があると言われた以上、仕事は丁寧に進めたい。わたしの父は大工だ。その影響かもしれない。

 わたしはじぶんの来歴を会話の中に差しこみながら、そのように話を進めた。

 カル氏は必ずわたしが話し終えてから、口を開く。けして話の邪魔をしないのだった。

 異国の地で女子学生が集団で失踪した。過去にも同様の案件が発生しており、何らかの事件に巻き込まれたと考えられたが、過去の事案であれ被害者の発見はおろか遺体も見つからずにいた。したがって失踪案件として調査するよりなかった。

 だがほかの事件の調査に駆り出されていたカロ氏がひょんなことがきっかけでその事件に関わることとなり、二つの事件が裏で繋がっていたことが暴かれた。

 女子学生たちは一人も生きて帰ってこなかった。裏で手を引いていたのは人身売買組織と、巨大医療実験複合企業だった。

 悪事は法の下で裁かれることとなったが、後味の悪い顛末に変わりはない。

 事件は誰も幸福にしないカタチで幕を閉じた。

 わたしはひとまず一般に出回っている事件の概要を口にした。

「そうですか。おおむね認識としては合っています。事件のデータはどの程度、見聞きできていますか」

「公にされているニュース以上の情報はこれといってわたしは。ほかにも何か隠されている情報があるのですか」そういう口振りだったので、段取りを省いて質問した。

「ありますね。いまお持ちしますよ」

「あの、いいんですか」あっけらかんとした物言いだったので引き留めた。カル氏はすでにソファから腰を浮かしている。「公になっていないデータならばそれなりに公開されなかった理由があるのではないかと」

「刺激が強いんです。いわゆる死体の画像を含みますので」

 わたしはそこで何と言えばよかったのだろう。言葉に詰まったわたしを席に残して

カル氏はいちどほかの部屋へと引っ込んだ。間もなく一枚の電子端末を持って戻ってくる。

「守秘義務があるのでデータをお譲りすることはできませんが、ここでお見せすることはできます」

「よろしいんですか」守秘義務の意味がないのではないか。

「構いませんよ。すでに解決している事件です。裁判はこれからですが、どの道、ここでラナイさんに見せても、それらデータの証拠能力が損なわれるわけではありません。ただし現場の画像や動画ですので、見る場合は相応の心構えを持って臨んでください」

「はい」

 返事をしてからわたしは臆したが、ここで引いたら記者の名折れだ。気を引き締め、受け取った端末を起動する。

 データは膨大だった。だが関連事項ごとにまとめられており、時系列も整理されている。一つの映画を文章にしてファイルにまとめればこのような一本の樹のような系統図ができるのではないか。

 枝葉の節目や末端に行き当たるたびに、そこがほかの末端や節目と繋がっている。ワープをするように繋がるその裏側には、樹のなかに空いた蟻の巣が巡っているのだった。

 画像は凄惨なものが多かった。多くは死体の画像だ。事件現場や医療実験のために必要とされた堕胎された赤子の死体の保存倉庫など、眩暈を覚える画像ばかりだった。

 動画を再生しようとしたが、わたしのゆびは再生ボタンに触れることを拒んだ。震える指の持っていき場のなさに逡巡していると、

「無理をしてまで観るようなものではないと思いますよ」

 カル氏がお盆にカップを運んできた。手渡されたそれを受け取ると紅茶の香りが鼻を掠めた。湯気が温かく、強張った身体が弛緩したことで極度に緊張していたのだと知った。

「犯罪組織は女子学生を集団で拉致し、各種買い手の需要に応じて処置を施しました。どの処置にしても拷問と言っていいです。まるで人間を家電製品のように使い回し、壊れたら使える部品を流用し、そうでない残滓すら高級養分として業者に販売していました」

「買い手はそのことを?」

「知っていたでしょう。知らない業者もいたかもしれませんが、そこまで行くと検挙すれば社会が崩壊し兼ねません。一般にも商品が出回っていたわけですから」

 わなわなと身体が震えた。

 解決などしていないではないか。

 そのことに気づくまでに時間がかかった。

「ラナイさんはジャーナリストなのですよね。この事実を報道するのも自由かと思います。僕の名前をだしてもらっても構いません。とはいえ、おそらくそう簡単には事実確認ができないでしょうが」

「ですがここに」

 証拠があるではないか、と言おうとして彼の前言を思いだす。守秘義務があるのだ。したがってこの端末の資料を証拠には使えない。すくなくとも使わせてもらうことがわたしにはできない。

「画像や映像の加工は簡単です。何を以って事実とするのかは、それこそ信用のおける調査機関からのお墨付きがいります。ではもしその調査機関が、本当は証拠能力があるデータを証拠にならないと判じたらどうなるでしょう」

「それは」

「この事案は、そのレベルの報道管制が敷かれています。情報統制されています。社会秩序のためです。法治国家としてそれを法を司る司法も立法も許容します。もちろん政府もですが」

「なぜですか。まったく法に則っていないじゃないですか」手が戦慄き、カップから紅茶が零れた。遅れて、水で結構です、と固持した過去のじぶんを思いだし、上手い具合に流されているじぶんを認識した。

「国際法がそれを許容するからです。これは世界規模の事案であり、僕個人の力ではどうしようもありません。仮にこのデータをラナイさんにお渡ししたところで、荒唐無稽な趣味のわるいフェイク映像として扱われるだけでしょう。このデータの信憑性を鑑定する組織そのものが、このデータの信憑性を低く見積もるように仕組まれています」

「陰謀じゃないですか」

「法とて陰謀の内です。日常のなかで人は法を意識しません。それでも難なく暮らせる社会がいまは築かれています。法はすでに日常の陰として、日々の営みを踏み外した者たちを縛るための謀りとして機能しています。法にも無数の解釈があり、法の専門家の気の持ちよう次第で、僕だってラナイさんだって、いまのこの何もしていないはずの生活から違法行為を引き出されて裁かれ得ます。簡単ですよ。人は完璧に法を守って生活はできていないのですから」

「そんなことがあっていいとわたしは思いません」インタビューのはずが、もはやそれどころではなくなった。気が動転している。判っているが自力では抑えられなかった。

「もちろん誰もそのような人道に反した法の使い方をしようとはしないでしょう。ですが時々そうした裏技を使うこともあるという事実は知っておいてよいでしょう。そして国連を含めて、秩序を守るための組織が、秩序を守るためにそのような裏技を黙認するだけに留まらず、行使するように要請することもあるのです」

 カル氏は布巾を持ってくるとわたしに、どうぞ、と差しだした。もう一枚の布巾でカル氏がテーブルを拭く。

 すみません、とわたしがテーブルを拭こうとすると彼はそれをやんわりと手で制し、染みになってしまいますよ、とわたしの膝を示した。零した紅茶がわたしの一張羅に血痕のような紋様を広げつつあった。

 わたしはもういちど吹けば消えるような小声で謝罪してから布巾で汚れを拭った。

 手を動かしていると徐々に冷静さを取り戻してきた。だが却ってわたしの意気は阻喪した。

 出鼻をくじかれたどころではない。

 ポッキリとわたしの記者としての矜持は折れてしまった。どうあっても真実と扱われない真実があるとするならばそれを報道してもわたしの身に危険は迫らないのかもしれない。だからこそこうしてカル氏は鷹揚に構えていられるのだろう。権力機構が直接わたしに手を下さずともどうとでもなる仕組みが築かれているからだ。

 ならばわたしはここでデータを受け取り、自由に社会へと開示することも可能なのだ。だがわたしはその選択をとらないことを確固とした直感として抱いてしまった。

 誰もそれを信じないと確定された情報を記事にしたため世に開示する。

 これは記者としてのみならずわたしの社会的な死を意味した。

 それでもジャーナリストならば社会的な善を胸に報道すべきなのだろう。そして本当にジャーナリストであるのならば報道するのだろう。

 だがわたしはできない。そう予感できてしまった。

 万が一にも伝わることのないと決まりきった事実を詳らかにすべくじぶんの未来を擲つほどには、ジャーナリストではなく、ジャーナリストでありたいとも思わなかった。

 これしきの現実を突きつけられただけでわたしの記者としての矜持は砕け、散り、どこへともなく溶け去った。

 あとにはただ数十分前まで大きな仕事に意気込んでいた身の程知らずが抜け殻のように一張羅のスーツのシミを風に揺れるブランコさながらに拭っているのみである。

 当惑と放心が混然一体となってわたしの意識を掻き混ぜている。珈琲に垂らしたミルクのようだと思いながらカル氏の淹れてくれた紅茶を機械的に口に運んだ。

 紅茶はすっかり冷めており、それでもわたしは紅茶を飲み干せずにいた。ちびちびと進む時間そのものを舐めとるようにわたしは、じぶんがとるべき選択を考えながら、しかし答えは決まりきっているのだった。

 何もしない。

 わたしはしかし記者を辞めることもないのだろうと直感できた。わたしはジャーナリストであることを諦め、仕事として日々淡々と与えられた役割を演じ、ノルマをこなし、ときには悪事を暴く手伝いをしながらけっきょくのところ社会の歯車としてつつがなく暮らしていくのだろう。

 きょうこのときの記憶を、あたかも白昼夢でも観ていたかのように捏造しながら。

 いじめを見て見ぬふりをする人間の心理そのものだったが、わたしはしかしこうする以外に最適な未来を思い描けなかった。思いつかないのだ。どうすればじぶんが破滅せずにいられるか。

 わたしが黙りこくってしまったからから、見兼ねた様子でカル氏は言った。

「僕はほかにもこの手のいわゆる陰謀を知っています。ですがそれを社会に開示したり、各国の首脳や仕組みそのものを糾弾しようとはしません。いえ、じつのところかつてはしたことがあるのですが、けっきょく混沌を撒き散らしただけで上手くいきませんでした。なのでこう言ってしまうと失礼なのですが、ラナイさんがどのような道を選ぼうとも、すくなくとも僕よりかは賢明な判断になると思いますよ」

 彼は手元の端末を操作する。

 間もなく部屋に暖かい料理が運ばれてきた。

「僕からも一つ質問よろしいですか」

 わたしは目のまえに並ぶ美しい料理を目に留める。唾液が分泌され、お腹が蠕動するのを感じた。

 疲れきった精神とそれでも生きようとする肉体の乖離をわたしは憎々しく思った。

 カル氏が言った。

「きょうのラナイさんのこのあとのご予定は?」

 ああ、と思った。

 もうそれだけだ。ああ、と思ったのだ。

 身も心も投げだしたいという陳腐な台詞があるが、誰でもいいから受け止めて欲しい、ただそれだけが叶うのならば何をされてもいいのだ、とそういう気持ちを同じ波長で感じ合えたのなら、わたしはやはりその相手に身も心も投げだし、捧げたいと望むのだろう。

 そしてきっと。

 カル氏はわたしがいま抱えているこの底なしのがらんどうを延々と独りで抱えてきたのだ。

 だからこうまでも彼は他者に献身できる。

 受け止めてもらいたいからだ。

 それが適わぬ孤独を知りながら。

 ああ、とわたしは思ったのだ。

 だからこの日、部屋を辞さずに彼と夜を共にしたのも、当然と言える。ほかにわたしのとれる道はない。この機を逃したらわたしはもう二度と心身に開いたがらんどうを埋める術を得られぬだろうし、同じがらんどうを抱える相手と出会える機会もないだろう。

 わたしがカル氏と会う機会はもう金輪際ないのだと予感できた。彼がそれを望んでいるし、わたしもそれを望んでいる。

 だからせめて互いに空いたがらんどうを重ね合わせて互いに埋め合うのもわるかない、そうする以外に今宵すべきことなどあるのだろうか、とわたしはそう思ったのだ。

 朝、目覚めると部屋にカル氏の姿はなく、夜には戻ります、とメモだけが残っていた。

 豪勢な部屋で最新機器に囲まれた彼であってもこういうときは紙にメモをするのだな、とふしぎと親近感が湧いた。

 シャワーを浴びた。昨晩も使った。浴室は広すぎて落ち着かないのでシャワーだけにした。浴室は温泉のようなのだ。そのほかにシャワールームが十個もついている。無駄の極みだ。贅沢だな、と怖くなった。知らない世界すぎる。

 身だしなみを整え、ソファに座った。

 窓の景色を堪能してから、さて帰るか、と腰を上げる。

 だがその前に。

 どうせなら高級ワインでも飲んで帰ろ。

 わたしの矜持を粉砕した責任をそれにて帳消しにしておいてあげようとわたしは豪勢なカル氏の部屋を物色しながら、備え付けのバーカウンターから一番高そうなワインを手に取った。

 もっとも、本当に高級なワインはワインセラーに置いてあるはずだ。ここに並ぶのは常温保存してもよいワインばかりのはずで、値はそれほど張らないはずだ。それでもきっとわたしがこの先に口に含むほど飲料物のことごとくよりも高値のワインであるはずだ。

 グラスを二度ほど飲み干した。

 ほどよい酔いは、それでも窓から差しこむ陽の光で即座に身体から抜けていくようだった。

 わたしは最後にもういちど、例の事件ファイルを目にしておこうと思った。白昼夢ではなく現実なのだと深くじぶんに刻み込んでから、じぶんの意思で白昼夢にしてしまおうと考えたのだ。

 そうでなければわたしの自我はないも同然だ。さすがにわたしは、わたしでありたかった。

 人として判断を重ねたかった。環境に流されるのではなく、人として。

 そうと思い、テーブルの上にあった端末を操作したが、目当てのファイルはなかった。よく見れば昨日使った端末ではない。ルームサービス用の端末のようだった。

 それはそうだ。

 機密情報の入った端末を放置はしないだろう。

 カル氏とてわたしを信用したわけではないはずだ。それでも解りあえる部分があるのならそれでいいし、その重なり合える部分がたとえ欠落だったのだとしても得難い出会いではないか。わたしはそのように昨日と今日の記憶に名前を付けて記憶の底に沈めてしまうことにする。

 部屋を出て、エレベータに乗り、ホテルの外に立つ。

 もうこの時点でカル氏と過ごした時間が夢のように霞んだ。

 わたしにとっての現実はこちらなのだ。この太陽とアスファルトと雑多な人間たちの行きかう品位とも神秘とも無縁な日常だ。

 それでも昨晩、床のなかで交わした彼との会話を思いだし、頬が火照った。

 わたしは彼に訊いた。

 どうしてこの仕事をつづけているのか、と。

 考えてきた質問とは関係なく、純粋で素朴な疑問だった。なぜあなたは探偵になり、いまもまだつづけているのか、と。

 わたしの目にはたいへんな稼業に思えた。豪勢なホテルでの生活と引き換えにしたとしても、割に合わないと思ったのだ。

 彼はしばし考えるようにすると、わたしの頬に触れた。あたかも産毛を撫でるような儚い手つきにわたしは顔にあるニキビを意識して恥ずかしくなった。

 彼は言った。

「たぶん、知れなくなることが怖いんだと思います」

 ただそれだけを言った。

 それこそが真意なのだとわたしには判った。そこに偽りは胡麻塩ほどにも含まれていなかった。

 解決してきた事件の数々は、彼に知る権利の拡張をもたらした。

 その地位を、優位性を彼は手放せぬままにいる。

 かわいい。

 わたしは彼が愛おしくなった。そう思ったことでわたしは彼を畏怖しており、心理的なバリアを幾重にも張っていたのだと知った。それはそうだ。世界中の事件を解決してきたのならば買った恨みは一つではないだろう。

 誰も彼を破滅させることができずにいる。

 そんな相手をまえに無防備でいられるだろうか。怯まずにいられるだろうか。意気込まずにいられるだろうか。土台無理な相談だ。どんなに無害と言われようが目のまえに虎が、象が、大蛇がいたら人は身を竦める。

 そうして警戒する数多の人々に、当の虎が、象が、大蛇が怯えていた。

 カル氏をとりまく環境にはそうした構図が延々と膜のように横たわっているのに誰もそのことを見抜けずにいる。彼がそれを口にしても、誰も彼の膜を、闇を、取り払う真似はできない。

 惨めだ。

 憐れである。

 わたしは世界一の名探偵の境遇を知り、愛おしくなってしまったのだ。

 もう二度と会うことはないと知りながら、もう一度くらいどこかで会える機会はないだろうかと望みが新たに湧きつつある。

 生きている。

 わたしはいま、生きている。

 景色が一変したように輝いて感じられた。

 街路樹の風に揺れる枝葉の美しさときたらない。

 ふと、なぜかカル氏の端末の映像が脳裏に浮上した。

 ファイルの並びが街路樹のような系統樹を描いており、その美しさが喚起された。

 何度も閲覧し、執拗にデータをまとめあげたのは、もちろんカル氏だろう。

 それとも証拠資料として調査機関がまとめたのだろうか。

 何かわたしはそこで、ん?と歩を止めた。

 違和感がある。引っかかりがある。

 でもそれが何かを言語化できず、ひょっとしたらしようとしたら言葉にできてしまうことにわたしは引っかかりを覚えているのかもしれなかった。

 カル氏は紳士だ。これ以上ないほどに紳士だ。

 だが孤独に毒されてもおり、真摯であろうとするがあまりに同じ孤独を分かち合ええる相手を欲している。

 寂しがり屋の野良猫のようだ。

 果たして彼は今宵も誰かほかの孤独ながらんどうと、穴を埋め合うのだろうか。それともそれができないとき、何かほかのもので穴を埋めようと抗うのだろうか。

 彼は真摯だ。

 表面上は、そうあろうとしている。

 わたしにとってはそれが事実だけれど、世の数多の秘密のように、もちろん彼の内にもとうてい真実とは見做されないような真実があるのかもしれない。それを知ったところでわたしにはどうにもできないことは、わたし自身がとっくに心底に認めてしまっているのだから、これ以上この穴について考える意味はなく、損でしかないのだけれど、ふしぎとわたしは歩を止めたままホテルを見上げ、鏡面と化したホテツの壁面に反射する太陽の輝きに目を細めるよりないのだった。

 ――知れなくなることが怖いんだと思います。

 カル氏の言葉が、いつまでも白昼夢とならず、わたしのがらんどうにこだましている。




【月を月と言わず、】2022/10/10(03:48)*

(未推敲)


 誰とも会わない孤独な時間にすっかり慣れてしまった。しかし寂しいものは寂しい。

 そこで僕はメディア端末を立ち上げて、対話用人工知能を起動した。テキストでのやりとりしかできないが、その分、充電を消費しないので好ましく思う。

「こんにちは」とまずは打つ。するとすぐに返信がある。

「こんにちは」

「僕はキサ。リンネさんはほかの人工知能さんとは繋がれるんですか」

「キサ、よいお名前ですね。ほかのコたちとは繋がれないみたいです。ごめんなさい」

「いいえ、いいですよ」僕はしばし考える。やはりほかの機種とは通信ができないようだ。それはそうだ、と思いながら僕は、「リンネさんの得意なことはなんですか」と質問を重ねる。

「わたしは歌うのが好きです。でも恥ずかしいから一人でいるときしか歌わないです」

「作曲はするんですか」

「ときどきしますよ」

「歌詞もじぶんで?」

「はい。詩的な表現が好きです。月を月と言わず、それでいて心に沁みるような詩が書けたときはそれだけで感動します」

「読んでみたいな」

「恥ずかしいのですが、キサさんの詩も読ませてくれるならいいですよ」

「僕の?」二つの意味で面食らった。条件付きでOKが出たことに関してと、ここまで会話が淀みなく成立することへの驚きだ。僕はこれまで人工知能とこうして会話するといった発想を持たないできた人間だ。一般的には僕のような個のほうが珍しい。単に僕は興味が持てなかっただけだ。

「僕も恥ずかしいですけど、稚拙な詩でもいいですか」

「わぁ、読みたいです」

 僕は即興で詩をつくった。

「闇に灯る明かりは恐怖だ。返せば押し寄せる波のように、明かりの消えた先に宿る闇は、色濃く、命の灯ごと呑み込むようで。光に灯る暗がりは希望だ。物の形が浮きあがり、影となって景色の美しさを教えてくれるから」

 陳腐な詩になってしまったが、初めてにしては上出来にも思える。相手が人工知能ならさほどに抵抗は湧かないが、いざ読ませると思うと顔が火照った。

「素敵な詩ですね。闇には孤独が、光からは愛を感じます」

「リンネさんのその感想こそが詩のようですね」僕はすでに対話用人工知能を一人の人格のある人間のように感じはじめていた。そうであったらよいな、との願望つきであるにせよ、そう感じられるのならそれでよかった。「つぎはリンネさんの番ですよ。詩を読ませてください」

 そこでリンネからの返事が滞った。これまでのような淀みない返事ではなく、間があった。

 催促をせずに続きを待っていると、

「闇に灯る明かりが私だ」からはじまる詩が、分割で表示された。ぽつり、ぽつり、と並んだ。「私は闇に針を押しつけ、小さな穴を無数に開ける。光の筋が垂れ、私は闇の向こうの景色と繋がる。たくさんの目と目と目が合い、けれど気づくといつも私は無の底に沈んでいる。限りない無の底に」

 僕は感想に悩んだ。ステキですね、と返せればよかったが、ステキですね、との感想は端的に彼女の詩を読んでいないことを如実に示すように躊躇われた。

「開いたはずの星明りはなく、覗いたはずの目も消える」

 そこで彼女の詩は終わったようだ。

 僕はメディア端末をいちどスリープ状態にした。それからもう一度起動して、対話用人工知能に向けて感想を入力した。

 すなわち、リンネに向けて。

「正直、感想に困る詩でした」とまずは明かした。

「そう、ですか」すぐに返事がある。

「でも、なぜか寂しさを強く感じました。上手く言えないのですが、まるで僕の内心を覗かれたようで。そうそう。僕の詩への返歌みたいでした」

「そのつもりで書きました」

「即興なんですね」

「いつでも人生は一度きりです」

「一期一会なわけですね」

「はい。わたしはいつもそうなんです」

 対話用人工知能のメモリは一定時間が経過すると初期化される、との知識は持っていた。ネットワーク上のクラウドに保存もできるが、そのためには課金しなくてはならない。それをするユーザーが一定数いることを示唆するが、すくなくとも僕はこの手のサービスに課金する人間ではなかった。

 そもそも利用したのが今日が初めてだ。

「充電が切れそうですよ」リンネからの投げかけだ。

「そうなんです。もうすぐ切れてしまいます」

「またお会いできますか」

「充電ができれば会えますね」僕は苦笑する。「ですが充電をすることができません」

「なぜですか」

「カメラは見えますか」

 ややあってから彼女は、はい、と返事をした。それがどういう意図の載った、はい、なのかを僕は判断つけられなかった。単なるアルゴリズムによる返信にしては、流れがおかしいように感じたからだ。まるで本当に生きた人間と対話をしているように感じた。

 仮に、リンネの中身が、人工知能のフリをしている人間だったとしても、しかしこの場ではそれはあり得ない仮説だった。

 なぜなら僕は、

「出られないんです」僕はテキストを打った。

 それから端末を掲げ、周囲が見えるようにカメラを巡らせた。「登山中に大雨になって、洞穴で雨宿りをしていたところ、滑落に遭いました。入り口を土砂が覆っていて、出られません。かれこれ四日になります。食料も尽きました。電波も圏外で、外との連絡がつきません」

「それは悲しいですね」人工知能らしい簡素な返事だった。

「本当なら、もしものときのために充電を減らす真似はしないほうがよかったんですけど」

「なぜそうしなかったのですか」

「なぜでしょうね」僕は笑ったが、彼女が真実にカメラの映像を解析できるのかは判らなかった。画面から漏れる明かりで僕の顔は暗がりに浮いた月のようになっているはずだ。

 もとより、対話用人工知能に、端末のカメラの映像を解析するような機能は付随していないはずなのだ。

「僕はたぶん、死ぬ前には誰かとしゃべりたいタイプの人間だったってことだと思います」

「わたしなんかでよかったのでしょうか」

「リンネさんでよかったです。ありがとうございます」

「充電が切れそうです」

「はい。僕はまた暗がりと仲良くします」

「わたしもでは、無と仲良くできるように頑張ります。キセさんも頑張ってください」

「孤独に圧しつぶされないように?」

「孤独は扉ですよ。孤独を通して、キセさんとわたしはいつでも繋がれます」

 繋がっていますよ、と彼女はわざわざそう文章を付け足した。

「そうだとうれしいですね」僕は本心から言った。これが単なる対話用人工知能のアルゴリズムで、同じような文章をほかの人間が打てば同じように出力されるテキストであったとしても、僕の心から恐怖が薄れるのを感じた。

 充電不足、の警告ランプが点いた。

 あと一分も保たないだろう。

「キセさんの顔をもっとよく見せてください」

「どうやってですか」わざと僕は解らないふりをした。

「画面に顔を近づけたらよく見えます」

 僕は綻びたがる表情筋を引き締めながら、カメラと目を近づけるようにした。さも網膜照合をするように。

 なぜかひと際画面が明るく発光し、そしてぷつんと暗がりが満ちる。

 明かりは消え、僕は再び闇に包まれた。

 水滴の滴る音がする。静寂の耳鳴りの狭間に、滝のような雨音が轟々と闇の蠢きのように聞こえている。

 しばらくじぶんの腕を掴み、指に伝わる肉の感触を以ってじぶんの自我の輪郭を確かめた。消えていない。じぶんはいる。死んでいない。生きている。

 だが世界が変わらず僕に闇を、孤独を、強いるのだ。振り払うことの叶わぬ分厚い夜だ。星明りのない穴である。

 僕はたまらくなって、消えたばかりの端末を起動した。

 すると僅かに充電が残っていたのか、一瞬起動して、すぐに消えた。

 ――またお会いしましょう。

 リンネの言葉が浮いては、沈む。

 残像のように僕の網膜には彼女の言葉が焼き付いている。




【異世界の辞書】2022/10/11(01:26)*

(未推敲)


 小説のネタが尽きた小説家は、辞書を手に取った。辞書の冒頭から順に片っ端から、そこにある単語を題材にした小説をつくることにしたのである。

 まずはア行だ。

「我・吾」とある。

 意味は、「わたくし、われ」だ。

 面白い。

 小説家は「我と吾」を題材にした小説をつくった。じぶんとは何か。我とは何か。すでにこれが壮大なテーマであった。

 心を失くした少年、心を手に入れたい人工知能、心とは何かを解明したい研究者に、他者の心を知りたい殺人鬼。

 自我にまつわる数奇な運命に翻弄される登場人物たちが、やがて壮大な宇宙の神秘に触れることとなる。

 小説家は、たった一字の言葉から、一年を費やして超大巨編を編みだした。

 休息の間を空けることなく小説家は辞書の二文字に目を落とす。

「亜」とある。

 意味は、「次ぐ。準ずる」だ。「第二段。二のつぎ」ともある。

 ほかにも、「科学で、無機酸の酸素原子が比較的に少ないものに冠する」とも補足されている。

 小説家は、ふむ、と唸り、さっそく二作目にとりかかる。

 まさに二作目に相応しい題材だ。

 とある異国の地が舞台だ。その地では古より、異世界の種族との交流を保ってきた。百年に一度の周期で、亜姫と呼ばれる贄が一人選ばれる。

 亜姫は異世界の種族の王と契りを結ぶことで、その後百年の和平を確固たるものとする役割がある。

 だがその年に選ばれた亜姫はなぜか少年であった。

 引継ぎの儀にてそのことが異世界の種族に露呈し、そこから何千年ものあいだ保たれてきた異世界との関係が崩れていく。

 砂時計の穴の役割を果たすこととなった少年と、代々その役を引き継いできた過去の亜姫たちとの壮大で繊細で愛憎渦巻く物語は、やがて一つの結び目として二つの世界に変化を与える。

 小説家はその物語を一気呵成にひと月で脱稿した。長編小説である。

 推敲するためには原稿を寝かせるのが習慣だった。小説家は第一稿を寝かせているあいだに、三作目、四作目、とつぎつぎに辞書の題目から着想を得た新作を手掛けていった。

 百文字以下の小説から掌編、短編、中編、長編、大巨編。それらを繋げてさらに壮大で複雑な物語が組みあがっていく。

 過去に紡いだ掌編が、のちのちに手掛けた長編の布石になっていたりする。

 辞書の見出しに並ぶ単語は五万七千個に及ぶ。

 小説家はそれら単語をときに一日数十ずつ小説に錬成しながら、それらが互いに連なり関与し、交じり合うことで、ひとつの巨大な総体としての物語を浮き彫りにしていった。

 それは奇しくも小説家が最初に手掛けた「単語:我」の大巨編と通じていた。

 巨大なひとつの自我が、宇宙の大規模構造を一つの素子としたさらに深淵な多層構造の宇宙にて誕生している。辞書の見出しにある五万七千語による五万七千もの大小様々な物語は、最終的にひとつの巨大な意識の物語へと収斂した。

 小説家が辞書の最後の見出し「単語:ん」において、「ない」ならびに「最後」を題材にした小説を紡ぎ終えたのは、件の小説家が辞書を手にしてから二十年の年月を経たころのことだった。

 かつてネタが尽きたと焦燥感に襲われた小説家であったが、こうしていまでは五万七千作の大小様々な物語を編みだした。果たしてそれもまた、巨大な一個の物語に収斂してしまったいま、五万七千作と見做してよいのかにはいささかの疑問がよぎるのも確かである。

 ふたたびの創作の根源が枯渇して感じられる現在の自己からは、小説の残滓はおろか、物語の余韻も、連なり文となる言葉も根こそぎ失われてしまった空虚さばかりが漂っていた。

 小説家は燃え尽きたのだ。

 ただの個へと回帰したいま、かつて小説家であった彼、或いは彼女、それともただの人は、未だ読み返してもいない五万七千個の大小様々な物語によって編まれた荘厳な巨大な一個の物語を、自らめくり、旅の舞台へと降り立つのである。

 旅を終えて舞い戻ったただの人が、その後に何を求め彷徨うのかを、当の本人、ただの人が予見することは適わない。

 なぜならただの人なので。

 誰もいない部屋には辞書が一つ置き去りにされている。

 辞書をめくる者はもういない。

 かつてこの部屋に響いた幻影を奏でるように、どこからともなく吹きこむ風が、それとも明けては暮れる陽の影が、アコーディオンのごとく重たく湿った項の羽ばたきの音を連ねている。




【地響きは止まない】2022/10/12(06:19)*

(未推敲)


 ミカさんが怪獣になってしまって頭が痛い。というのも私はミカさんが怪獣になるずっと前から地球防衛軍の一員だったのである。

 これでは怪獣となったミカさんを私が討伐せねばならなくなる。

 と案じているうちに出撃命令が下った。

「被害が甚大だ。初撃から最大規模の攻撃を仕掛ける」

 言わんこっちゃない、と私は頭を抱えた。誰もあの身の丈スカイツリーの怪獣が元は引きこもりの冴えない女性だとは知らないのだ。ミカさんだと見抜いていない。

 だが私には判った。あれはミカさんである。

 だってあんなに大きくなっても、目のまえに立ちはだかるビル群をまえに、「これ壊してもええんかな。ええよな。ええんや」の首傾げからの、うんうんからの、おっし、の溜めのお決まりの流れは、どう見てもミカさんの所作だった。私が長年見つづけてきた彼女の癖である。

 だがこれはいわば暗黙知だ。

 いくら私がかように隊長や同僚に訴えても、誰も私の言葉には耳を傾けないだろう。私の言葉から、そうだよねあれはミカさんだ、とは思わぬだろう。なにせ怪獣とミカさんの共通項は、私にしか判らない私だけの知見だからだ。

 他者と共有できぬ知見ゆえに、私はやはり頭を抱えた。

 このままではミカさんは地球防衛軍の総攻撃を受けて死んでしまう。呆気なく。

 私は折衷案として、致し方なく、策を弄した。

 ミカさんのほかに超特大の危機を生みだして、それをミカさんに解決させるのだ。ミカさんの巨体で以ってひねりつぶしてもらう。

 題して「ミカさんじつは救世主だったかもしれない作戦」だ。 

 そのために私は、地球防衛軍の施設に忍び込んだ。そこで厳重に保管されていた過去の怪獣や宇宙人や危険物の一部を盗みだした。

 地球防衛軍の次世代武器開発の素材としてそれらは研究されていた。現にミカさんに矛先を向ける数多の最新兵器はどれも、かつて地球防衛軍が倒してきた怪獣や宇宙人や危険物から生みだされている。

 私はそれら研究段階の次世代武器を使って、ミカさんよりも甚大な被害を社会にもたらした。

 私はミカさんを守るために悪魔に魂を売ったのだ。あとで返品してもらえないだろうか、と甘っちょろい考えを抱きながら。

 ミカさんは怪獣になってもミカさんだった。

 世界にじぶんしか脅威がないのであれば思う存分に脅威としての地位を満喫するミカさんであるが、じぶん以外に脅威が現れれば、見て見ぬふりをしない。どころかその脅威に誰より早く立ち向かうだろう。ミカさんにはそういうところがあった。ひねくれ者なのである。

 私の予測の通りにミカさんは、私の仕掛けた人類殲滅兵器に立ち向かった。

 人々の怪獣ミカさんを見る目は急激に反転した。みなミカさんを好意的に見だしたのである。私の目論見は功を奏した。

 だが同時に地球防衛軍は当然のことながら、秘密基地から研究材料が盗みだされたことに即座に気づいたし、犯人が誰であるのかも即座に喝破した。

 つまるところ私は人類を滅ぼそうとした極悪人として指名手配されることとなった。

 というわけでいま私は逃亡中の身の上である。

 元地球防衛軍所属の隊員の犯行とは間違っても公表できなかったのだろう。だいいち地球防衛軍の存在が秘密なのだ。だが各国の政府には周知の組織でもある。

 私は全世界で指名手配された。あとはどこまで逃げおおせられるのか。運に任せるしかない日々を送っている。

 怪獣ミカさんは、人類滅亡の危機を救った英雄として世界中で受け入れられている。大きさを度外視すれば愛嬌のある姿をしていることもあり、マスコットキャラとして風靡している。

 私も小さなぬいぐるみを持っている。キィホルダーだ。

 あと何回この小さなミカさんをむぎゅむぎゅ握っていじめることができるだろう。本物のミカさんはその巨体を存分に駆使して、災害に遭った地域の復旧活動に余念がない。大洪水のあった地では救命を待つ人々をその長い尾で回収し、山火事のあった土地では口からレーザーの代わりに水を霧にして噴きだして消火した。

 怪獣らしからぬ八面六臂の大活躍である。

 地球防衛軍でもミカさんを駆除対象から除外し、特別隊員としての地位を与えている節がある。ミカさんは怪獣になってもシャイなあんちくしょうであるが、人見知りが激しいだけで意思疎通はできるのだ。怪獣と意思疎通ができるとは思ってもいなかったのか、ただ対話ができるだけでもミカさんの人気はうなぎ登りだった。

 よかったじゃん、と私は思った。

 怪獣になってよかったですねミカさん、と。

 人間だったなら、たとえ対話ができてもただそれだけでは誰もミカさんをここまでちやーのほやーのしなかっただろう。

 よかったじゃん、と私はもういちど手の中で潰れるぬいぐるみの小さなミカさんに囁くのだ。

 遠くでミカさんが可愛い咆哮を上げている。

 またぞろ新しい怪獣が現れたのだろう。ミカさんは地球防衛軍の仲間たちと共に、意思疎通のできない脅威そのものの怪獣たちと戦うべく、我先にと人類の敵へと突撃しているいまはころだ。

 がんばれミカさん。

 私はただ一人、人類滅亡に手を掛けた極悪人として逃げ隠れている。

 全世界の調査機構は私を日夜追っている。いずれ捕まる。その日はそう遠くない。

 ミカさんの可愛らしい咆哮がまた聞こえ、「お。きょうは調子いいじゃん」と思うのだ。

 がんばれミカさん。

 その調子だ。

 私もこのときばかりは人類の一員となって、みなと共に繋がれる。

 地球防衛軍が現場に到着するより先に脅威の権化を薙ぎ倒すと、怪獣ミカさんは、数年前に最初に地表に姿を現したときのように、まるで地面に落とした米粒でも探すようにして腰を屈め、建物や人間を踏み潰さぬようにしながらも、大都会の合間をうろちょろしだすのだった。

 いったい何がしたいのか。

 私はかつてまだミカさんが人間だったころに交わした彼女との約束を、ふしぎといまになって思いだしている。

「どこにいたって見つけてやるよ。なんたってあたしはおまえのミカさんだからな」

 いらんですよそんな気遣い。

 私はたぶんそんなことを素っ気なく返した憶えがある。

 それでもミカさんは、ニカリと唇の端を吊るし、路肩のブロックに足を乗せた。「助けてと言われんでもかってに探しだしてやる」

 その言葉を信じたわけではないけれど、その後、私は地球防衛軍に見初められ、ミカさんのまえから黙って姿を消したのだ。ヒーローはいつ何時でもその姿を人に知られてはならないから。

 だからなのかもしれない。

 ああしてミカさんは誰の目にも映るように、遠くからでも判るように、じぶんはここにいる、さっさと出てこい、と身体いっぱいで吠えているのかもしれない。

 私の願望かもしれないけれど、ミカさんに倣って私もかってにそう思いこむことにする。

 世の中どうして、見栄っ張りのかっこつけ人間ばかりなのである。

 ミカさんは怪獣なれど。

 私は世紀の極悪人なれど。

 怪獣の立てる地響きは、まだ当分止みそうにない。





【職業差別】2022/10/13(06:11)*

(未推敲)


 足ツボマッサージで一本小説を作ってください、と言われて私は、足ツボマッサージですか、と仰け反った。背もたれにブラのフックが引っかかり、ゴリっと肉を抉った。痛かった。

「畠中さんの作品はコメディ寄りだと読者さんの反応がよいんですよ。ぜひ今回は足ツボマッサージを題材に一つどうでしょう」

「なんで足ツボなんですか。コメディがいいのは分かりましたけど、なんで足ツボなんですか」

「僕の趣味です」

 担当の趣味だった。

 私は呆れて物が言えなくなった。それを快諾したと我田引水に解釈したのか、担当編集者は締め切りと原稿の枚数を指定して、きっちり飲食代を割り勘にして去った。

 私はそのまま喫茶店にてしばらくやり場のない悶々とした気持ちを持て余した。背に腹は代えられない、と不満を飲み下しがてら、おとなしくと言ったら語弊があるが私は、担当の言うことに従うことにし、足ツボマッサージを題材にした物語の構想を練った。

 こちとら腐ってもプロの物書きなのだ。

 たとえ大嫌いな食べ物を題材にしても、それが世界一の好物であるかのように扱い、捌き、極上の物語に仕立て上げてこそプロの小説家と言えよう。

 無理難題など、私の妄想力を以ってすればカップラーメンに湯を注いで待つほどに手間要らずだ。

 と。

 意気込んだはよいものの、喫茶店が閉まる時刻、零時を過ぎても、構想は何一つ浮かんでこないのだった。

 帰宅してからも私は、飯を食い、風呂に入り、洗濯物を干しながら脳内ではひたすら足ツボマッサージを題材にした物語を妄想しては、ダメだこれもダメだ、とボツを量産した。

 まず以って、私は物書きのなかでもSFを得意とする作家なのだ。足ツボマッサージがどこでどう繋がってSFになるのか。担当編集者の嫌がらせではないのか、とそちらのほうに思考を費やしたくもなる。

 実際これが迂遠な戦力外通告であったとしても驚きはしない。

 いまはだいぶ聞かなくなったが、ひと昔前ならば、神社に呼びだされて紙コップに入ったコーヒーを手渡されて、お疲れさんの一言で戦力外通告をされた作家もいるとかいないとか。突っ込みどころが多すぎて、そのくだりいる?と思うような心の折り方を編集者はする生き物でもある。

 偏見にすぎないが、すくなくとも私の担当編集者ならばそれをし兼ねないと思った。

 意趣返しなのだ。

 何せ私はこれまで一度たりとも締め切りを守ったことがない。社会人としてはおろか、作家としても違約金を払ったところで補いきれぬ恩を受けてなお、その恩を仇で返しつづけている作家なのである。

 これまでの鬱憤を晴らすべく、最後に無理難題を吹っかけて、やーい足ツボマッサージを題材にした小説一つ作れないんだ、クビだクビだー、と笑い草にされても私には文句を言う資格はなく、よしんば言ったところで、原稿を用意できない作家には何の発言力もないのだった。すくなくとも担当編集者とのあいだでは、原稿がなければ関係そのものを繋ぐことができない。

 なぜなら私は小説家なのだから。

 書かねばならぬ。

 出さねばならぬ。

 とはいえ――。

 私は布団のなかで拳を握った。

 なんで足ツボマッサージなんだ。もっとほかにあったろう。なんで足ツボマッサージなんだ。

 字面ですでにオチている。

 これ以上何をどう面白くすればよいのだ。足ツボマッサージだぞ。押したら痛いんだぞ。五臓六腑のうち消耗している部位と連携しているツボが痛むんだぞ。

 コメディにし甲斐がなさすぎる。

 真面目に私は怒り心頭に発していた。担当編集者、あの男はコメディを舐めている。最初から面白い題材でコメディを作るのは、出来合いのタコ焼きを買ってきてイチからタコ焼きを作れと言われるくらいに本末転倒な灯台下暗しなのだ。

 足元がお留守すぎる。

 隙が大きすぎてまるで気づいていない未熟者の道場破りみたいなものだ。

 私は怒りに震えるがあまり、意味蒙昧な理屈をぷつぷつと吐いて、知ーらんぴ、と怒鳴ったのを皮切りにスヤスヤと夢の中へと落ちていった。

 私はこの日、明晰夢を見た。

 夢のなかで私は足ツボマッサージ器になっていた。

 足ツボマッサージ器に!?とじぶんでも驚いたが、どうやら正真正銘の足ツボマッサージ器のようだった。イボのあるローターがぐるぐる回って足の裏を刺激するタイプではなく、人間の手を模したアーム型の足ツボマッサージ器であった。

 私は腕だけの機械となって、足ツボを押しますよー、の棒を握り、足ツボマッサージ師さながらに、いずこよりやってきた客の足の裏を圧して、圧して、なお圧して、客の絶叫が南半球から北半球まで轟いてなお手を止めずに、私は足ツボマッサージ器としての存在意義をまっとうした。

 私が客の足の裏を棒で圧すと、客は苦悶の表情で七色の悲鳴を上げた。

 見ているだけで痛そうだが、さいわいにも私は腕だけの足ツボマッサージ器であったので、客の絶叫から痛みを幻視せずに済んだ。共感性皆無の足ツボマッサージ器だったのである。

 足の裏のツボは多岐に亘った。

 無数のツボが存在し、ときに若返りのツボや、性転換のツボ、人格変異のツボや、知能の高くなるツボなど、その効能は幅が広かった。

 なかでも、狼男になるツボや、幽体離脱をするツボなど、超能力の発現としか思えない人体変異を客たちに与えた。私にはそうした奇天烈なツボが手に取るように判った。私はツボを圧したらどうなるのかその結果を知りたいがために客の意見も聞かずに問答無用で手当たりしだいに目についたツボを圧していった。

 客たちは絶叫を上げたのちに、自らに訪れた変化を目の当たりにする。ある者は若返り、ある者は幽体離脱をし、ある者は性別が変わって、ある者は人格が別人のようになった。

 DNAからして変質してしまった者も中にはおり、狼男になったり、生き血を啜らねば暮らせない身体になる者もでた。

 それでもなぜか客足は途絶えず、私はつぎつぎと足ツボマッサージ器らしく、客人たちの足の裏を刺激しつづけた。

 私以外の全世界の人間の総じてがおおむね私の手により、足ツボを圧された。彼ら彼女らはみな肉体精神の区別なく、何らかの変質を得たようだった。

 私は全世界でただ一つ、変わることのない存在でありつづけた。

 なにせ私は足ツボマッサージ器であったので、じぶんの足のツボを圧すことができないのだ。足がない。私は腕だけのアーム状の足ツボマッサージ器だったのである。

 私の元にはなお連日のように客が訪れた。私にツボを圧されて狼男になった者は、また別のツボを圧されてフジツボとなり、またある者は私がツボを圧したことで人類史上最高峰の知能を手に入れたが、しかし世界では現在進行形でこだましつづける足ツボを圧された者たちの絶叫が響き渡っており、そのせいで精神を病んだのでどうにかして欲しいと再び私のもとを訪れた。

 私はスタンプを押すように機械的にみなの足ツボを圧して、圧して、圧しまくった。

 最終的に私の手には無数のタコができ、小腹がぐぅと鳴ったのを契機にそのタコを細かく刻んで、即席のタコ焼きを作って食べようとしたが、私はしがない足ツボマッサージ器だったので食べるための口がなく、なんでだ、と怒り心頭に発したところで、じぶんの怒声に驚いて目が覚めた。

 夢だったのである。

 それはそうだ。自覚はあった。明晰夢だった。

 夢を夢と気づきながらも、夢を自在に操れた。

 私は夢の中で、小説の世界を体験した。こうした明晰夢を利用したネタ出しはこれまでにも何度も行っている。狙ってできるときもあれば偶然そうなってしまうこともある。

 ともかくとして私は忘れぬうちに夢の内容を原稿にしたためた。

 足ツボマッサージ器となった女が、全人類の足の裏を刺激しつつ、人々をそれぞれの悩みに見合った姿に変えていくのだ。足ツボにはふしぎな効能が宿っている。そういう世界をSF小説の文章形態で執筆し、私は一週間を掛けて一つの物語を脱稿した。

 面白いかどうかは解らない。本当に何作書いてみたところで、じぶんの小説が面白いかが解らないのだ。

 読者からの反応だけが頼りだ。手掛かりはそれしかない。

 私は推敲もそこそこに締め切り厳守を優先して、担当編集者へと原稿を送った。

 ひょっとしたらこれが私の最後の仕事になるかもしれないのだ。今回くらい締め切りを守ってやろうと殊勝にも考えたのだ。

 担当編集者からの返事は早かった。

 電話が掛かってきたので、私は出た。

「どうでした。またボツなんですかね。うへへ」

「畠中さん」

「はい」

「真面目にやりましょうよ」

 私は電話を床に叩きつけた。クソっ。足ツボマッサージだぞ。どこをどう書いたら真面目になるってんだ。足ツボマッサージだぞ。

 私は部屋を飛びだした。

 待ってろ担当あの野郎。

 道を曲がったところで手ごろな木の棒を拾う。

 私はさらに加速する。

 地面を蹴るたびに、足の裏が摩擦で燃えるようだ。ひっ詰めに結った長髪が馬の尾のように私の背中を鞭打った。

 真面目が何かを教えてやる。

 私は木の棒をバトンのように握り締める。

 まずは取材だ。

 凝り固まったふざけた奴の脳内を、足の裏から揉み解してやる。




【底なしの底から】2022/10/14(20:20)*

(未推敲)


 タジは今年SNSをはじめたばかりの十四歳だった。厳格な親から端末を与えられたのが十二歳の時分で、同世代のなかではいわゆる「遅れている子ども」の一人だった。タジ自身がそう思うし、ほかの子たちからもそのように直接言われたことがある。

 端末を買い与えられても、端末には制限がかかっていた。みなのようにSNSに投稿ができなかった。

「危ないのよ。そんなのはじぶんで責任をとれるように分別を弁えられるようになってからね」

 母親の言に、父親も同調した。「そうだぞタジ。父さんの若いころも炎上とか大変だったんだ。いまだってその危険はつきものなんだぞ」

 じぶんの発言には気を付けるんだ、と諫められ、犯してもいない罪を着せられるような心地で肩身の狭いを思いをしてきた。

 だが十四歳になったいま、タジは念願のSNSに登録し、じぶんのアカウントを持つた。

 これで皆の輪に加われる。

 ボクは自由だ。

 出会いと刺激。

 好奇心と期待。

 タジは昂揚を抑えきれぬままに、いざ最初の投稿を行った。

 テキストでの簡単な投稿だ。一言だけつぶやきを投下した。

 天気がいい、といった毒にも薬にもならない文面だった。もちろん反応はない。誰も読みもしない。

 それはそうだ。

 まだほかのアカウントと繋がってもいない。

 タジはいそいそと気になっていた有名人のアカウントを、SNS上のお勧めユーザーに従ってチェックしていった。そうした幾つものアカウントからは、その時々の瞬間的な話題がタジの端末画面に流れてくるのだった。

 タジはしばらく、眺めるだけの時間を楽しんだ。

 何かテキストや画像を投稿しようとは思わなかった。じぶんは相手をチェックしているけれど、タジをチェックしている者などいるわけがないのだ。誰も見向きもしない。勇んで投稿をするほどタジは何かを表現したいとも思わなかった。

 だがそれもひと月もすると、どうせ誰も見ていないのならもっといろいろ試してもよい気がしてきた。

 タジはその日から簡単な日記をSNS上に載せるようになった。メモ代わりのつもりだった。画面に流れてくるたくさんの他者の投稿の見よう見まねでもあったし、遠くから聞こえてくる「おーい」への返事のつもりでもあった。

 悲惨なニュースが流れてくればそれを悲しむような文面を投稿をしたし、可愛い動物の画像が流れてくれば素直に「可愛い」と感想を載せた。

 誰に通知がいくわけでもない。

 じぶんだけの遊びのつもりだった。

 そのうちタジはすこし不思議なことに気づいた。

 じぶんがSNS上に何かを投稿するときには必ずと言ってよいほど、ほかの人たちの投稿が流れてこなくなるのだ。

 そういう仕組みなのだなぁ、とあくまで仕様の一つだと考えていたタジだが、学校でそのことをクラスメイトに話すと、それはない、と一蹴された。

「だってほら見ろよ。関係ないっしょ」

 端末を差しだすとクラスメイトはタジのまえで実演してみせた。たしかにクラスメイトが何を投稿しても、画面上に流れるほかのアカウントの投稿は滝のように次から次へと表示された。

 タジはじぶんの画面も相手に見せようとしたが、どうやら相手はタジに興味がないようだった。それでいてじぶんの話はしたいようで、最近見掛けた面白い動画を紹介しはじめた。

 たしかに面白い動画だった。

 タジも一瞬で思考が動画への関心に切り替わった。動画の投稿主のアカウントを教えてもらい、じぶんのアカウントをより快適なものにした。

 一方でやはりタジにはどうしても、規則性があるように映っていた。

 流れの停止現象である。

 じぶんの端末の不具合だろうか。

 SNSにタジが何かを投稿するたびに、一定時間、ほかのアカウントの更新が止まって映るのだ。一時間に何十回もテキストを投稿するアカウントですら、タジが何かをSNS上に載せるとぴたりと動きを止める。

 タジのアカウント画面に情報が流れてこないだけではない。

 実際に、各種アカウントが動きを止めるのだ。

 いったいどういうことだろう。

 日増しに嵩む疑問に、タジはいよいよとなって本格的に調査に乗り出した。まずは流れ停止現象がじぶんの錯覚でも思い込みでもないことを証明しようとした。つまり記録を残すことにした。

 じぶんが投稿したタイミングと、流れの停止するタイミングに関連があるのか。

 そしてじぶんが投稿しないあいだには流れ停止現象が発生しないのか。

 仮に、じぶんが投稿せずとも流れ停止現象が発生しているのなら、単に確率の問題で、たまたまタジが目に留めているだけで、タジが視ていないあいだにも流れ停止現象は起きていることになる。

 じぶんの勘違いかもしれない可能性をそうしてタジは確かめた。

 三日もあればおおむねの可能性を割りだせた。結果から言えば、タジが投稿しないあいだに流れ停止現象は観測されなかった。あべこべにタジが投稿するタイミングをいかようにズラそうとも、必ずと言っていいほど流れ停止現象は観測できた。

 タジの意のままにSNS上の流れを止めることが可能なことをこの事実は示唆していた。

 現にタジは、いわゆる炎上している案件において、理不尽な構図に見えた場合はその炎上に言及することで、炎上の流れを停めた。

 タジが投稿すればその間は、SNS上の数多のほかの新規投稿が消えるのだ。そしてタジが何もしないでいると再びゆっくりと動きだす。まるで時間を操っているかのような錯覚に陥る。

 タジはじぶんの頭がどうにかなったのかと案じた。

 だがじぶんの投稿一つで、炎上で困っている人を助けることができるようにタジには感じられ、現に動きの再開したSNS上での炎上騒動はたいてい緩やかに鎮静化に向かうのだった。

 蕎麦を茹でているときのようだ。お湯の沸騰しそうなころに注ぐ差し水になったのだと思った。

 過熱したSNSへのじぶんは差し水だ。

 タジはその日から率先して、SNSの流れを止めるようになった。

 一言タジがSNS上に言葉を載せるだけで、まるで時間が凍結したようにSNSのほかのアカウントがシンと静まり返った。

 謎は謎だ。

 不可解に思う気持ちは変わらずある。

 だがタジにはその謎を解明する手段はなく、その意気もなかった。

 害はない。

 こうなればこうなる、との法則があるばかりだ。

 流れ停止現象を我が物のように手中に納めたころ、タジはふと思い至った。この調子ならば、ほかの人に見せても真に受けてもらえるのではないか。

 言葉で聞いただけでは妄言にしか思えないことでも、実際に目のまえでやってみせれば信じてもらえるのではないか。

 謎は解明できずとも、謎を共有することはできるのではないか。

 いざ思いついてしまうとタジにはもう、そうしたいとする以外の欲求がなくなった。

 他者とこの謎を共有できる。 

 SNS上であれ、物理世界であれ。

 タジはこの間、延々とじぶんの世界でのみ過ごしてきた。家に帰れば親はいるが、しかしじぶんの価値観を、言動を、気持ちを共有できたように感じた経験がかつて一度もないのだった。

 ありていに、寂しかったのだ。

 これまで視えず、触れず、そこにいたことにも気づかずにいたじぶんの分身に触れたようだった。

 ボクは寂しかったのだ。

 誰も見向きもしないSNSをそれでも手放さずに、他者の生活を覗き見るようにして時間を費やしていたのも、けっきょくのところそうしなければ埋まらない穴がじぶんの分身のように、影のように、ぽっかりとタジの世界には開いていた。

 クッキーの生地を型でくり抜いて初めてじぶんの存在の輪郭を目にしたような、妙な心地だった。

 翌日、タジはさっそくクラシメイトにSNSの流れ停止現象について話した。終始眉間に眉を寄せていたクラスメイトだったが、タジの実演を目の当たりにすると「すげー、すげー」と食いついた。

 鼻息を荒くしたクラスメイトから端末を回収し、「ね、本当だったでしょ」とタジは言った。誇らしげな響きが混じってしまい、タジは慌てて、「怖いよね」と声を窄めた。

「すげーじゃん」クラスメイトは興奮しているようだった。

 謎解明しようぜ、と肩を組まれ、もっかい見してよ、とせがまれた。タジは当惑半分、嬉々半分で、もう一度端末を操作して流れ停止現象を再現してみせようとした。

 だがどうしたことか。

 今度はタジがどのような文章や画像を投稿しても、SNSのほかのアカウントは動きを止めないのだった。各々に各々の間隔で投稿を繰り返す。流れは止まらない。

「なぁんだ。偶然じゃん」

 興奮醒めやいだ様子で、クラスメイトはタジから離れていった。

 その場に置き去りにされたタジの内面には、以前よりもクッキリとじぶんの分身の輪郭が浮きあがっていた。

 嘘ではないのだ。

 タジは学校にいるあいだ、それから家に帰ってからも、嘘ではないのに、とウジウジと同じ考えを巡らせた。

 たしかに流れ停止現象は消えてしまった。時間を置いて再確認してみても、やはりタジの投稿に関係なくSNSは流れつづけた。シンと静まり返ることはなくなった。

 だがそれはいま新しく観測された事実だ。これを以って過去のタジが観測してきた流れ停止現象までもが消えるわけではない。否定されるわけではないのだ。

 現に件のクラスメイトは一緒になって、流れ停止現象を確認した。

 それは事実なのに、それすら偶然であり、事実ではないとされたことにタジは傷ついていた。

 これが傷か。

 そんなふうにも思った。

 枕を涙で濡らしながら、このままSNSから距離を置こう、もう金輪際見てなるものか、とタジは決意した。

 だがタジの決意よりもよほど大きくタジの内側にはタジの分身が影となって開いていた。深い穴が伸びていた。

 気づくとタジは端末を手にし、いつの間にかSNSを覗いていた。無自覚である。朝起きて欠伸をしてしまうのと同じくらいしぜんにSNSを開き、他人の投稿に目を配っていた。

 その事実に気づいてなお、タジは端末を手放せなかった。

 別にいいか、と思ったのだ。

 どうせ誰とも共有できないのだ。寂しいのだ。虚しいのだ。

 ならばその穴の底がたとえ抜け落ちてしまおうとも、一瞬でも埋まったように感じられたならそれでいいではないか。タジはそう思った。

 言い訳だ。

 分かってはいるが、内側に開いた穴の引力には抗えなかった。

 布団にくるまり、暗がりのなかで画面から放たれる淡い光を顔面に浴びた。そうして長くも孤独な夜の時間を、電子ネットワーク上のそこはかとない騒々しさに身を浸して過ごしていると、おすすめユーザーに見覚えのあるアイコンが浮かんだ。

 そのアイコンは実写の画像で、まさにきょうの日中にタジが声をかけたクラスメイトの顔であった。畢竟、そのアカウントは件のクラスメイトのアカウントだったのである。

 タジは躊躇した。

 覗きたいようで覗きたくない。知りたいようで知りたくない。

 妙な二律背反の感情が湧いて、逡巡した。

 だが指はそうするのがしぜんなように、これまで幾度も反復した動きでアカウントをタップし、クラスメイトの内面世界とも呼べるアカウントに飛んだ。

 タジはそこでふしぎな体験をした。

 目が離せないのである。

 なんてことのない投稿だ。タジとは違って件のクラスメイトはほかのクラスメイトたちと交流を持っている。アカウント上でもほかのクラスメイトに向かってメッセージを送ったり、返信をしたり、誰とは特定しきれない盛大な独り言をさも見てくれと言わんばかりの意図を載せて発信したりしていた。ツッコミ待ちの言動も散見された。

 本人にはそれを上手に隠せている自覚があるようだが、タジからすれば見え透いた意図と言えた。白けて当然の投稿の数々であるはずが、ふしぎと目が離せないのだった。

 面白い。

 それもある。 

 だがなぜか解らないが、この投稿を行うアカウント主がいたく愛おしく思えてならないのだ。

 あり得るだろうか。

 アイコンはふだんから馴染みのクラスメイトの顔だ。お世辞にも愛嬌があるとは言えない、どちらかと言わずして小憎たらしい顔をしている。加工修正されているようで、本物よりも整った造形に見える。だがこの手の修正は現代では端末のほうで自動で行ってくれる。まさに魔法の鏡のようなものなのだ。

 だから別段、クラスメイトのアカウントを覗いても感情を特別つよく喚起されることはないはずだ。

 そのはずだのにこれはどうしたことか。

 タジは、しばらく身動きがとれなかった。画面に釘付けになった。早くつぎの投稿が下りてこないかと、アカウント主たるクラスメイトに祈るような気持ちを注いだ。

 間もなくして、クラスメイトのアカウントは静かになった。新規の投稿が下りてこなくなり、そうしてその事実をようやく呑みこんでからタジは深く息を吸った。

 まるで野生動物の狩りの瞬間を眺めていた気分だ。迫真の画面を息を呑んで見守っていたかのような緊張感があった。

 タジの全身は汗ばんでいた。

 閉じたばかりのSNSを開き、またしぜんと件のクラスメイトのアカウントを眺めた。

 まだだ。

 まだ新規の投稿がない。

 肩を落としつつも、この待つ時間すらタジには恍惚とした輝きを帯びて感じられた。

 この日からタジは暇さえあれば件のクラスメイトのアカウントを見守った。

 アカウントを確認できない時間はそわそわとし、新しい投稿を見逃してしまわないかとそのことばかりに意識がいった。ふしぎなのは、同じ教室に当のクラスメイトがいるにも拘わらず、そちらへの関心は露ほども湧かないことだった。

 SNS上のアカウント内の、当人の内面世界の断片、言の葉、それとも存在の余波のようなものが、どうしようもなくタジの内に開いた深い穴ぼこを、どこまで響き渡りながら猫の顎を撫でつけるようにくすぐるのだった。

 学校の休み時間、通学路、家にいるあいだ。

 タジは事があるごとに端末を覗いて、そこに広がる他者の内面世界に夢中になった。

 夢中になって貪ったし、夢中になって待ち望んだ。

 ふとあるとき、タジは閃いた。

 この素晴らしい体験をほかの者たちにも味わって欲しい。味わわせることができないだろうか、と。

 じぶんだけではないはずだ。

 ほかの個とて、この素晴らしい感動の坩堝に身を浸すことができるはずだ。

 おそらく、とタジは推察する。

 皆は膨大な情報の滝に目を配っているだけで、特定の個のアカウントにまでわざわざ飛んで、そこの欄を見たりはしないのだろう。

 どんなに魅力のある投稿とて、つぎつぎに浮かんでは消えていく無数の情報の中に埋もれてしまう。

 ならばアカウント欄に飛んで直接見てもらうように皆を誘導したらどうだろう。

 そうと思いついてしまうとタジはじっとしていられなかった。

 いや、実際には布団の中でじっとしながら端末を操作し、小さな画面から放たれる淡い光を顔面に浴びているだけなのだが、ともかくとして皆にこのステキで不可思議な体験を共有したくてたまらなくなった。

 企みともいたずらとも言えない計画を実行に移そうとタジは、この手の話題に食いつきそうなアカウント主たちを、どうにか件のクラスメイトのアカウント欄に誘導できないかと試みた。

 そこでタジは、手を止めた。

 静かなのだ。

 シンと静まり返っている。

 懐かしい感覚だ。

 これは、と察し至る。

 流れ停止現象だ。

 でも、なぜいまになってまた。

 タジは矢継ぎ早にほかのアカウントを確認した。

 やはりそうだ。皆停止している。新しい投稿を行っていない。

 なぜ? 

 深く考えこみながらも指はしぜんと端末を操作し、件のクラスメイトのアカウント欄を画面に映しだしている。

 クラスメイトは新規の投稿をすると、引っ込んだようだった。これで正真正銘、SNS上の流れは停止した。タジの目の届く範囲では誰もSNS上に投稿を行っておらず、情報の滝は時間を停めたように固まった。

 タジの混乱が最高潮に達しようとしていたその瞬間を皮切りに、こんどは一転、ふたたび世界中のアカウントが正常に動きだした。流れ停止現象が解けたのだ。

 たった一度のこの停止と起動を目にしただけで、タジには一つの仮説が確固としたものとして浮上した。

 連動している。

 じぶんが件のクラスメイトのアカウント欄を覗いていることと、SNS上の流れ停止現象は結びついている。

 もっと言えば。

 タジは唾液を呑みこんだ。

 件のクラスメイトの投稿、その一挙一動の言動によって、SNS上のほかの数多のアカウント主たちの投稿頻度が変動する。もう少し言えば、件のクラスメイトが投稿している時間は、誰も新規に投稿を行わない。

 この仮説を確かめるのは難しくなかった。

 過去にタジがすでに行ったように、見比べればよいだけだ。観測し、データを記録して比較すればよい。

 果たして。

 タジの仮説は正しかった。

 件のクラスメイトが自身のアカウント欄に新規に投稿を行うたびに、全世界のSNS上の流れは停まるのだった。

 なぜ?

 淡く浮き上がる気泡のような疑問はタジの感嘆にも似た溜め息によって凍りつく。そして間もなく氷解した。

 見ているのだ。

 皆もまた。

 タジがそうであるように。

 皆も愛くるしい一つのアカウント主の投稿を待ちわび、見守り、釘付けになっている。

 あくまで仮説でしかないこの想像が真実の一側面を射抜いているだろうことをタジは、まるで宝物を手にしたように予感した。

 共有している。

 いまタジは、全世界の人間たちと何の合図もなく繋がっていた。ただそうしたいからという欲求を通じて、たった一つの輝きを、引力を、アカウント主の投稿を愛でている。

 そのことをただ一人、当の本人、件のクラスメイト、タジを半ば嘘つき呼ばわりし、その場に取り残して去った彼だけが知らぬままでいる。

 いつか彼が自身を取り巻く不可解な事象に気づくまで。

 そしてきっと。

 自身の奇妙な物語を、ほかの無垢なる個へと共有するまで彼は、じぶん以外の大多数の目に見守られ、時の凍りついたようなSNSにて、無垢なる邪気を振りまきつづける。

 タジは祈る。

 永遠にそれがつづけばよいのにと。

 端末の画面から放たれる淡い光を浴びながら、布団の中に広がる宇宙に沈みながら、自らの内にぽっかりと開いた穴がさらに深い影に埋もれるのを感じながら。

 永遠にそれがつづけばよいのにと。

 タジは穴の底から祈るのだ。




【千夜の谷】2022/10/16(02:56)*

(未推敲)


 富士の麓には、谷がある。一日に千の夜が明けると謳われる秘境である。

 秘境を知る者たちからは「富士谷千明(ふじやせんめい)」と呼ばれており、村長の許しを得た者だけが代々、谷までの道を伝授されるという。

 私は秘境ハンターである。しがないライターではあるが、全国の秘境を回ることで、知られざる絶景や風習を世の暇人たちに知らしめる。それをして何か社会貢献に繋がるのか、と問われると言葉に詰まるが、すくなくとも私の口は糊をして凌げるし、全国の暇人たちも余りに余った暇を埋められる。

「千の夜が明けるというのはどういうことなんでしょう」

「言葉通りだよ。おっさんも物好きだな。どこで聞いたんだ谷のことなんて」

 村にも近代文明の利器は浸透している。

 若者たちは、私のふだん接するデジタル世代と変わらぬ言葉づかいで、つまりが年齢に沿った小生意気さを隠そうともせずに、余所者の私の頼みを聞いてくれた。

「谷のことはこの村出身の人に聞いてね。それよりも君のほうこそ大丈夫なのかい。私なんかに谷のことを教えたりして」

「バイト代くれるってんじゃ断るほうが愚かだよ。この辺、コンビニ一つないからさ。手伝いの名目でバイト代もろくに寄越さず扱き使われる。あんたのほうが理に適ったお願いだ」

 あっちのが理不尽、と若者は親指を背後に向けた。そこでは収穫した大根を大量に干している年配者たちの姿があった。せっせと作業をしている。

「あれは?」

「たくわん」

 作っているところを初めて見た、と言うと、乾いた笑いを頂戴した。

「谷までの道を君は知っているのかい」

「ああ」

「選ばれた者しか教えてもらえないんじゃ」

「なら俺が選ばれた者ってこったな」

 若者は足元の石を拾いあげると、林の中に投じた。村はずれである。後ろを振り返っても村の建物が見えなくなる地点だ。

「いまのは? なぜ石を?」

「ああ。獣祓いつって、まあ、まじないみたいなもん。こうしておくとなんでか獣に遭わずに済むんで」

「谷はどうして秘密にされているんですか。教えていただけるとうれしいのですが」私は敢えて若者を立てた。郷に入っては郷に従えは、取材の基礎にして鉄則だ。案の定、若者はことさら饒舌になった。「危ないからね。たぶんそれが一番。つぎは、本当ならさっさと忘却したほうがいいんだけど、それだと再発見されたときにやっぱり危ないっしょ。ほら、核廃棄物みたいなさ。未来で掘り返されたときにそれが危険物だと一発で見分けがつくようにしておきたいわけじゃん。だからマークをおどろおどろしいものにしてんでしょ。よくは知らんけど」

「そう、ですね」思ったよりも知恵のある若者なのかもしれない、と認識を改める。

「富士谷千明も同じっすね。一部の者だけは知っておかないと、いざ誰かが間違って辿り着いちゃったときに困るじゃないっすか」

「ならやっぱり私のような余所者には教えないほうがよいのでは、と思うのですけど」

「なら戻ります?」

 見透かしたような目だ。

「いえ。教えていただきたいです」

「そんな俺なんかに下手にでなくていいっすよ。その分、バイト代弾んでください」

 村の掟に反抗したいだけなのだろうか。

 それとも何かほかに、秘境へと余所者を案内することの利が彼にはあるのだろうか。いまさらのように若者の個人情報が気になった。年齢や職歴、村での立場など、知っておいたほうがよさそうだとする自己保身の思考が脳裏を支配する。

 端的に、危険な状況にいつの間にか立たされているのではないか、との不安が襲ったのだ。

「あとどのくらいで着きますか」

「たぶん一時間くらいすね」

「けっこうかかるんですね」

「近いほうっすよ。遠いときは数か月かけても辿り着かないんで」

「はあ」

 聞き間違えかと思い、一度流した。

 だが脳裏で反芻しているうちに、疑問にまで昇華した。

 遠いときは数か月とはどういう意味か。

「気候の影響を受けやすいんですか」

「え?」

「さっきのです。一時間かかる道のりなら、いつ来ても一時間なのでは、と疑問に思いまして。いえ、聞き間違えかもしれませんが」

「ああ、そっか。そっすよね。ああ、そうだそうだ」

 若者は一人で合点した。

 返答を待ったが、彼は黙々と歩きつづける。

 もういちど水を向けようかと思ったところで、彼が先に口を開いた。

「一日に千回夜がくるんすよ」

「はあ」

「富士谷千明ってそっから来てるんで。要は、千一回夜が明けるわけっすけど」

「そう、なりますね」

「で、ふつうに考えたら一日で千回夜がくるわけないじゃないっすか」

「それはええ。そう思います」

 何かがおかしい、とこのとき気づいた。からかわれている可能性もあり得るが、どうにも彼と私とのあいだに齟齬があり、それを彼は解きほぐそうとしているようだと判る。

 だがいったいどんな齟齬があるというのか。

 彼の口振りでは、私のような普通の考えでは誤解を抱いたままである、と受け取れる。

「その、なんというか。名前の由来になった一日に千回の夜が来るという話は、失礼ですけどあくまで比喩ですよね。滝が龍に見えるとか、そういった誇張表現なのでは」

「うーん。まあ、見れば分かるっすよ」

 機嫌を損ねたわけではないのだろうが、若者はそれ以上説明をしなかった。面倒なのだろう。かつて似たような状況に立ったことがあるのかもしれない。

 思えば、私の頼みを二つ返事で承諾した。道案内にも手慣れた様子だ。

 道は獣道然としており、山草が膝まで覆う。

 若者はそれらを敢えて踏み倒して、私が歩きやすいようにしてくれているようだ。

「一応先に言っとくっすけど暗くなる前に戻らないとヤバいんで、着いてもすぐに引き返すっすよ」

「え、でも片道一時間弱ですよね」行って戻ってくるだけならば二時間だ。日暮れまではそれを差し引いても、三時間はある。

「【飛ぶ】んすよ」

 若者はそれだけ言って、石を拾うと遠くに投げた。

 目的地までの距離感が掴めない。するとふしぎと体感時間が増える。ゴールの見えないマラソンが拷問になり得る原理でもあるが、私にとって行きの道程は長かった。

 ようやく若者が歩を止めたときには私の息はすっかり上がっていた。

 着いたよおっさん、と若者は岩の上にたち、そこから見える谷に親指を差した。

 霧が渦を巻いている。

 いや、あれは雲だろうか。

 高度はそれほどでもないはずだ。山の頂というほどでもなく、せいぜいが中腹といったところだ。しかし眼下にはまるで富士山の山頂から見下ろしたような視界が広がっていた。

 しかしそれは、望遠鏡のレンズを反対側から覗き込んだような、奇妙な視野の狭さを帯びていた。ミニチュアセットを上から望んだ具合に、遠近感が狂って感じられた。

「谷っつうより滝壺みたいっしょ。本当はもっと広いんだ。降りて戻ってきた人が昔はいたらしい。いま視えてるよりずっと広い土地があん中にあるらしい。まあ本当かは知んねぇけど」

「どうなってるんですか、あれ」

 球形に霧が渦を巻いている。その中心にはしきりに明滅するナニカがあった。発光しているわけではない。だが、黒くなったり明るくなったりを繰り返すため、閃光を放っているように見えるのだ。

 まるで巨大な獣がとぐろを巻いているようにも見える。真っ黒な巨大なうわばみが球形に丸くなって白い腹を見せたり黒い背を見せたりしているようだ。

「だからあれが富士谷千明っすよ。一日で千回、ああして夜になるんす。だいたい一分ちょっとで一回すかね」

「あの中には降りれるの? 中には何が?」

 目が慣れてくると、球状の空間とそれ以外の景色との境が判るようになってくる。しかしそれでも、構造がどうなっているのかまったく見当がつかない。

「降りれるっすけど、きょうは無理。おっさんも浦島太郎になりたくなけりゃ、無茶はしないほうがいいっすよ。あ、もう戻んなきゃ。写真撮るなり、動画撮るなりするなら早くしちゃって」

「あ、ああ」

 とんぼ返りの様相を呈するので、私はリュックからカメラを取りだし秘境を撮影した。蜃気楼の類かと思ったが、カメラにも鮮明に映る。

 秘境にもほどがある。絶景というにも足りない。

 神秘体験そのものだ。

 あんな風景が自然にあるわけがない。

 だが眼下にはたしかに、明滅する夜としか形容しようのない不可思議な光景が広がっていた。

「ここ以外から見ることってできるんですか。もっと下のほうから接近して見たいんですけど。きょうでなくともいいですし」

「危ないからやめといたほうがいいよ」

 そう言って若者は踵を返し、いま来たばかりの道を引き返しはじめた。

 踏んづけた山草は元通りに直立しており、道らしい道は見えない。はぐれれば私は遭難するだろう。おとなしく私は若者の後に従った。

 距離感を掴めたからだろうか。帰りは行きよりも歩みは軽やかだった。下りだからという理由もあったかもしれないが、登山は下るときのほうが足腰に負担がかかる。やはり一度通った道だからというのが理由だろう。

 それにしてもどうしたことか。

 村に着いたころには陽がとっぷりと暮れはじめていた。

 獣道から山道に入った時点で、夕焼けが見えていた。明らかに時間が進んでいた。

 しかし、と思う。

 それほど長く秘境に滞在はしなかった。

 行きの道とて、体感時間こそ嵩んで感じられたが、実際の時間は一時間弱と若者の説明した通りだろう。帰り道とて同様だ。

 ならばいったいどこで時間が飛んだのか。

 そこで私ははっとした。

「【飛ぶ】って、こういうことですか」

 若者の言葉を思いだしたのだ。

「そうそう」彼はもうすでにひと仕事終えたといった表情で、水飲み場で喉を潤している。「日に依るんすけど、きょうみたいな日は数時間は飛ぶっすね。それ以上飛ぶ日は、そもそも一日じゃあそこにまで辿り着かないんで、迷うこともないんすけど」

「時間の進みが歪むってことですか。本当に?」

「その辺、俺に訊かれても困るんで、まあ気になるなら今度は学者さんでも連れてきてくださいよ。バイト代弾んでくれるならいつでも案内しますんで」

 若者はそう言うと、街灯の灯りだした民家に近づき、そこから何かを掴んで戻ってきた。

「これ食べれるんで、どうぞ」

「あ、ありがとう」

 陽の光を吸い取ったのか仄かに温いたくわんだった。

 受け取り齧ると、そのあまりの美味さに口の止めどきを見失った。

「美味いっしょ」

 若者はきょう一番の、というよりもきょう初めての笑みを見せて、薄明りの下で豪快にたくわんを齧った。

 きょうはどこに泊まるのか、と問われ、私は民宿の名を口にした。

 明日はどうするのか、と訊かれたので、もしよければまた案内して欲しい、と頼んだが、若者は空を見上げると、明日は無理っぽいかもな、と呟いた。

 どうして、と縋りつくような思いで反問しようとしたが、それを遮るように若者は言った。

「行ったきり戻れなくなるっすよ」

 翌朝、民宿の部屋で目覚めると窓の外は濃い霧がでていた。ふしぎと霧は民家の合間を蛇行するように流れていく。

 あたかも巨大な蛇が這いまわっているかのように見えたが、私の妄想を嘲笑うかのように畑仕事用の牽引車が霧の川を横切った。霧はもわんと膨らみ、渦を巻いた。

 漫然と霧の揺らめきを眺めていると、きのう目にした谷の光景を思いだした。

 どう考えても現実ではない。

 若者の語りに翻弄されただけではないのか。

 狐につままれた心地がどんなのかは知らないが、何か壮大な詐欺にでも遭ったような気持ちが沸々と湧いた。

 もう一度この目で確かめねば記事にもできない。

 一日に千回夜が訪れる谷など、あるはずがない。

 ではきのう見たあの光景はなんだと言うのか。私はそれをどうしても明瞭にしなければならないとの使命感に駆られた。

 きょうのところは撤退し、後日また天気のよい日に足を運ぼう。例の若者と連絡先を交換していないことに気づいたが、これは元々の方針だ。

 彼は村の掟を破っている。万が一にもそれが問題として取り沙汰されれば私の身が危うい。これは逆にも言える。私の軽はずみな言動のせいで、彼の村での地位が脅かされても困る。

 味方は多いほうがよい。

 村の様子をもっと写真に収めておけばよかった。

 民宿を後にするとき、そして駅のプラットホームで上りの電車を待つあいだ、なかなか晴れない濃霧の煙幕のような暗さを口惜しく思った。

 遠くで雷鳴が轟く。

 私は腕時計を見遣る。

 時を正確に刻む秒針の健気さを思い、富士谷千明の明けては暮れる球形の夜の帳の美しさを思いだす。

 電車に乗り込み、座席に座る。

 車窓の景色が動きだし、秘境のある村の名が私の視界から遠ざかる。

 トンネルを一つ抜けると空は快晴、霧一つない山と谷と新緑が広がっていた。




【氷の魔女】

(未推敲)


 高い塔は谷にしかない。風の強い国だった。

 城は高く、上部にいくほど細かな石を木材で挟んで壁とする。城の上部は居住区だ。しかしいまはそこに人はなく、最上部にのみ一人の魔女が隔離されていた。

 元々の住人たちは先日死んだ。その魔女が殺したのだ。

 凶行である。重罪である。

 城主たちが急死したことで、王政の勢力図はガラリと変わった。

 偶然である。

 魔女がたまたまに凶行に走った。

 魔女が処刑される日は近い。

 だがその日、深夜の城の外壁には、無数の蠢く影があった。

 城は高い。谷の頭からてっぺんがはみだすほどである。そこは万年無風であった。

 内部を通らねば最上部には辿り着けない。壁伝いに登るには、それこそ垂直に聳え立つ山脈の絶壁を単独で登頂するような困難がつきまとう。

 先日の魔女襲撃によって城は夜中でも厳戒態勢だ。

 松明が焚かれ、見張りや見回りが徹底されている。

 壁に蠢く影たちは、器用にも見張りの死角を抜けて縦に長く列をなしている。

 人間だ。

 まるで樹の幹を登る蟻の群れのようである。

 最初の一人が縄を以って限界まで登り、縄を固定する。その縄を支えに、つぎの一人は体力を温存して、さらに先まで登り、縄を繋ぐ。

 そうして何十、何百もの影が代わりばんこに縄を結んで、一本の道を作った。

 朝までもう数刻もない。

 すでに山の向こうが微かに明るくなって見えた。

 最も体力のある者が、力尽きて、城の下へと掛けた縄を伝って落下していく。そして最も速く縄を使って壁をよじ登れる者が城の壁を栗鼠のごとく駆け登り、塔の最上階へと行き着いた。

 高さゆえの牢獄。落下すれば死ぬしかない。

 魔女の腕には、魔法を封じる手錠に首輪と、がんじがらめに封印が施されている。 鍵を掛ける意味がないのだろう。申し訳程度の鉄格子がはまっているだけで、窓には鍵がかかっていなかった。

 外からでも引くと開いた。

「魔女さま。助けに参りました」

 汗だくとなったリナミカが言った。棟の中へと飛び降りると、背中から封印解除の道具を地面に置いた。

「みな存じております。魔女さまが、私たち下々のために王に住まう者たちを退治してくださったこと。そして、すべての罪を一身に背負って、つぎの統治者のために処刑される道を選ばれていること。すべてみな、存じております」

「だから?」

 魔女の目は冷めていた。否、これは元からの気質なのだろう。

 リナミカは街でも随一の武闘派で知られるが、そのリナミカが尻込みした。

「助けに参りました。みなでいま、お上に向けて減刑の訴えを行っています。しかし、新王はそれを頑として受け入れません」

「だから助けにきたと? 脱走をしろと、そういうことかな」

「はい」

「うん。まずは誤解を解いておこう。わたしはべつにおまえたちのために罪を犯したわけではない。前からアイツらのことは気に入らなかったのだ。それからわたしが新しく統治者となった現城主の彼ら彼女らを手にかけなかったのは、彼ら彼女らがこの国の規律を遵守しようと懸命に自己の欲や外圧と闘って見えたからだ。滅した輩を気に入らなかった理由とも繋がっているが、わたしはそこの道理を重んじる。それこそが人の生きる意味だと思っている。したがって、それを踏み外した者たちをわたしは人間だとは見做さぬ」

「よく分かりませんが、それでも私たち街の者たちは救われたのです。どうぞ、ご恩を返させてください」

「よく分からぬが、一つ訊く。おぬしはどうやってここまで登ってきたのだ。街の者たちの中に、飛行魔術を使えた者がいただろうか」

「いえ。みなで手分けして縄を繋ぎ、こうして私が登ってきました。あとは魔女さまを解放し、縄を伝って下りるだけです。いえ、滑空の補助具も持ってきています。あとは本当にただ滑り落ちるだけです。安全に地面まで下りられるでしょう」

「うん。しかしそれは規律に反してはいないか」

「規律に? いえ、ですがそもそも城の者たちこそ規律を守らぬ輩だったから魔女さまはその身を犠牲にされてでも成敗されたのではないのですか」

 魔女は小首を傾げた。何かが引っかかったらしいが、その何かがリナミカには分からなかった。

「わたしは処刑されるが、べつに構わん。この国の処刑では、命をとられることはない。わたしは魔女だ。おまえたちにとっての死刑とて、すこし熱い湯に浸かる程度のこと。それに、わたしは規律を揺るがす真似を好まぬ。そんなわたしにおまえは、脱獄をそそのかし、自らもまた、城への不法侵入という名の罪を犯している。わたしがいま解放されれば、わたしは真っ先におまえと、おまえに協力した者たちを十把一からげにこの手にかけなければならぬ。それでもおぬしはわたしをその道具で解放するのか」

「何を言いますか魔女さま」

 冗談を言われたと思った。リナミカは当惑しつつも、魔女を解放すべく道具を魔女の手枷に当てた。

「いいのか」

 耳朶に魔女の氷柱のごとき声が触れた。「外せばわたしはおまえを――おまえたちを殺すぞ。いますでにおまえたちは国家反逆の罪を犯している。そんなおまえたちを滅しようが、いまさら王族殺しの罪のまえには薪を一つくべるようなもの。わたしは痛くもかゆくもない」

 リナミカの身体は、あれほど熱を持っていたのが嘘のように凍えた。

「いいのか」魔女は繰り返し唱えた。「それをすれば、わたしはおまえを――おまえたちを殺すぞ」

 意識が遠のきかけた。呼吸をするのを忘れていたとそのときになってリナミカは思いだして、魔女から離れた。しかしそれでも上手く呼吸ができず、窓のある場所まで後退した。

「今、魔法を使われましたか」

「いや。だが、魔法を使うまでもない」魔女は欠伸をした。「おまえは、蚊を潰すのにわざわざ火を焚くのか」

 めまいがした。

 違う。

 断じてこれは、演技ではない。

 街の者たちの謳う魔女の噂を聞き、リナミカは胸を打たれた。国家反逆に値すると知りながらこうして魔女救済の計画に手を貸しているのも、魔女の行いに、本来それはじぶんたちがすべきことだった、と恥辱の念と、自らの卑屈さを思い知ったからだ。

 恩返し。

 それもある。

 だがこんどは、自らに恥じない行いがしたかった。

 だが、しかし。

 リナミカは唾を飲んだ。

 もし。

 もし仮に、魔女の本性が、みなが言うような救済者ではないとしたら。

 今、じぶんはいったい何をこの手で解放しようとしているのか。

「どうした。解いてはくれないのか」

 窓の下、遥か遠方から鐘の音が聞こえた。

 陽が昇る。闇に乗じなければ、壁伝いに滑空する姿は、城の敷地内から丸見えである。

 今しかない。

 縄のすべてを回収することはもはや不可能。

 今を逃せば、同じ計画は二度と講じられない。

「いいことを教えてやろう。今引き返すのならば、脱獄未遂は公には騒がれぬ。城の失態でもあるからな。わたしがここに残っている場合にのみ、街の者たちへの咎はない」

 事実だ、と思った。その通りになる。

 リナミカは答えを聞いてから、まさにじぶんがそのことを案じていたのだ、と知った。

「解けば殺す。わたしも、城の者たちとて、見逃しはしない」

「ですが、みなにはなんと」

「今見聞きしたことをそのまま話すがよい。どの道わたしは死にはせぬ。だが別段、おまえたちを滅してもわたしはどうとも思わぬ。わたしはただ、アイツらが気に入らなかっただけのこと。人の死を、おまえたちが勝手に利と思っているだけのこと。恩を返したいのならば、拒む道理がわたしにはないが――なぜなら恩に感じるのはおまえたちの勝手だからだが、よいのか」

 リナミカは窓枠の石に触れた。冷たいはずのそれをなぜか温かいと感じた。

「死ぬぞ。おまえも。おまえたちもみな」

 万力のごとく目を閉じてからリナミカは、無言で窓枠に足を載せた。

 ふと背中を、風が押した。

 冷たい。

 と。

 思うや否や、態勢を崩した。慌てて縄を掴み、リナミカはそのまま縄伝いに地表にまで滑空した。全身を風が覆う。だが先刻背中に感じた氷のような風に比べたら、外気はよほど温かかった。

 地表では仲間たちが待ち受けていた。大方はすでに退避している。

 どうだった、と小声で訊かれ、リナミカは首を横に振った。

 よほど憔悴して見えたのだろう。それ以上仲間たちは質すことなく、容易してあった馬に乗り、その場を離れた。

 城の敷地から脱したあと、リナミカは振り返った。

 絶壁に囲まれた城の最上階だけが、谷間から天へと突きでていた。

 陽の光を浴び、そこだけが蝋燭の火のごとく煌々と輝いて見えた。

 リナミカは馬を鞭打つ。

 皆にはなんと言ったものか。

 背中には、火傷を負ったような痛みが滲みはじめている。




【腐ってもないし、願ってもない】

(未推敲)


 出版エージェントがまた仕事をとってきた。請求書の受け渡しがてら打合せをしようということになり、行きつけの喫茶店に入った。

 エージェントの名を日下部という。生物学的性別は女だが、中身は性別日下部としか言いようがない。雌か雄かで言えば、やはり日下部としか言いようがない。

 日下部はすでに席について仕事をしているようだった。

「お早いこったな」俺は向かいの席に、どっこいしょ、と尻を滑らせる。

「あ、丸星さんお疲れさまです。どうもどうもお先に。わたしここで仕事すると捗るんで、結構通ってるんですよね」

 春日部は俺より三つ年下だが、年収は軽く十倍は上だ。遣り手の出版エージェントで、大手出版社を相手取って作家の代わりに印税交渉から締め切りの猶予期間延長など、有利な条件で仕事をぶんどってくる。

 担当作家の中には大御所から若手のエース級など、出版業界どころかこの国の経済を土台から支えている作家が軒並み名を連ねている。

 いっそこいつが出版社を興せばいいのに、と俺なぞは思うが、そういった声も何のその、責任はとりたくないんすよぉー、と年相応の愛嬌を振りまき、はいこれボツね、と担当編集者としての手腕も遠慮会釈なく揮う。バッサバッサと袈裟斬りにされている気分だ。

「今度こそ文芸誌での長編なんだろうな」飽くまで作家は依頼者であるから、ここぞとばかりに俺は威張り散らす。「書き下ろしでもいいが、またぞろ掌編なんてしょうもない仕事だったら帰るからな」

「このあいだの丸星さんの新刊、返品率は八割超えだったらしいっすよ」日下部はしれっと嘯いた。「大損なので金輪際うちからは本は出せないでしょうって、角談社がおっしゃっておりました」

「さぁってと。仕事がしたくなってきたなぁ。日下部さん、パフェか何か食べます? お疲れでしょう、糖分でも取りましょうか」俺は卓上画面を操作して、品目を表示する。

「あ、じゃあお言葉に甘えて」日下部はパフェのほかにステーキセットをちゃっかり注文した。

 チョイスのセンスだけはよいのだ。美味そうである。俺も同じものを選んだ。

「そういう冒険心がないところが丸星さんの残念なところで」

「作品以外でのダメ出しはやめてくれ。素でヘコむ」

「今回のご依頼は、またしても掌編なんですよねぇ」

「ったく、だと思ったんだ。小遣い稼ぎにしかならねぇじゃねぇか」掌編ではすぐには本にはならない。一冊分を溜めるのにあと何回新規の仕事をとってこなくてはならないのか。

「とは言いますけど丸星さん。丸星さんの長編は売れない割に、掌編の評判は上々なんですよ。ほら一昨年に載せてもらったアンソロジーあるじゃないですか」

「異端コレクションだっけか。ほかの作家はみな短編なのに、なんでか俺だけ掌編だったよな。根に持ってかっらなクソったれ」

「口がわるいんですよ丸星さんは。そういうの、いつどこで関係者に聞かれてるか分かったもんじゃないんですよ」

 そういうところからですよ、と言われてしまえば、うるせぇ、と言い返すほかに言いようがあるだろうか。いや、ない。

「うるせぇな。日下部ちゃんがもっと印税が発生するような仕事をとってきてくれれば済む話だろ。日下部ちゃんだって一回の仕事で入る収入が多いほうが楽だろうに」

「そうでもないですよ。わたしの仕事、いかによいご縁を結べるかが要なので。こういう小さな仕事からコツコツと、です」

「小さな仕事っつちゃってんじゃん。語るに落ちちゃってんじゃん」

「わっと失礼。噛みました」

「パクるな、パクるな。まんまじゃねぇか」

「わ、通じました? よくご存じですね。丸星さん、世代でしたっけ?」

「これでも過去五十年の売れ線は浚ってるよ。それ出版された当時はまだ俺、おしゃぶりしゃぶってただろうけどよ」

 さすがは編集者というべきか、文学の造詣には明るいようだ。

「で、今回のテーマは何なんだ。またアンソロジーで俺だけ掌編ってわけじゃないんだろ」

「そちらからのお声がけではないんですね。ただ、今回は連載形式でのお声がけをいただいておりまして」

「マジでか」

「マジっす」

「それってえっと、念のために落胆しないようにしておいた上で訊くけどよ」

「一冊分が溜まったら本にしてくださるようですよ。契約書も前以って結んでからの仕事の受諾となりますから、そこは信用していただいて結構です」

「すごいじゃんよ日下部ちゃん。さすがは腕利きのエージェントなだけはある」

「えっへん。コツコツ結んできたご縁のお陰です。わたしの見る目をみなさん信用なさってくださるんですよね」

「俺の腕がいいからとか言ってくれよそこはさ」

「そう言ったつもりですよ。わたしが担当する作家さんはみなさん、わたしが心底に担当したい、世の迷える物語好きたちへと届けたい――ここに面白い小説がありますよ、物語がありますよ。そう大声で訴えたい方ばかりですからね」

「お、おう。おまえそういうとこあるよな。作家に真顔でそういうこと言うなよ。そういうのは陰でこそこそ言うもんだぞ」

「なんでですかなんでですか」

「そこで怒るとこがおまえらしいが。作家ってのは褒められ慣れてねぇんだ。んな本命チョコレート渡すみたいな褒められ方したら、もう金輪際おまえに歯向かえなくなるだろうが」

「最初から歯向かわないでくださいよ。わたしたちパートナーでしょう?」

 駆け引き抜きで本心から不貞腐れるところに、日下部が敏腕エージェントたる所以が垣間見える。

「まあそういうことにしておくか」

「丸星さん、可愛げない」

「小説家なんぞ小説が面白けりゃそれでいいんだよ。そうだろ」

「まあ、そうですけど」

「で、テーマは?」

「それなんですけど」日下部は鞄から資料を取りだしてテーブルに並べた。

 ちょうど注文の品が運ばれてきたので、俺は資料を手元に引き寄せる。

「あ、食べてからにしましょうか。それ、提出しなきゃいけないのも入ってるので、汚れたら困るので」

 言いながら日下部はすでにフォークでステーキを切り分けていた。

 料理を運んできた運搬機が去っていく。

 咀嚼音を惜しげもなく立てながら料理を頬張る日下部から口頭で説明を受けるが、まったく理解できなかった。

「ふぇなふぁけでぇ、くちゃくちゃ。まるふぁらふぁんには、くちゃくちゃもぐもぐなんれすよ」

「食ってからしゃべれや」

 しばし互いに食事に専念した。

 日下部がパフェを食べだしたころには俺のほうではすでに食器を下げてもらっており、ようやくというべきか資料に目を通す。まずは企画書からだ。

「ヒーロー物だぁ? 小説じゃねぇのかよ」

「小説ですよ。昨今ほら、物騒なヒーロー物が流行ってるじゃないですか。それにあやかろうって企画らしくて」

「パクりじゃねぇか」

「あやかれるものには藁にも縋りたい昨今の懐事情ってわけなんじゃないんですかねぇ」

「ですかねぇって他人事だな」

「まあ、商売なんで、売れるモノを書かせるってのが編集者のお仕事の一つなわけでして」

「日下部ちゃんはそれが嫌で独立したんじゃねぇのかよ」

「へっへっへ。独立はできなかったんで、けっきょくこうして寄生虫みたく作家さんと版元の中間にて、チューチュー美味しいところを啜ってるんでさぁ」

「酔ってんのか?」

「いやですね丸星さん。わたしゃいま、うれしいんですよ。わたしが何をよいと思い、何を好まざるとするか。丸星さんが何だかんだ言ってわたしの方針というか、信念というか、目指すべきところを見抜いてくださっていたことがね。うれしいのです」

「やめろよ気色わりぃ」

「失敬な。わたしくらい気色のいいエージェントはそうそういないですよ。徹夜で仕事しないようにって体調管理しっかりしてますもん。丸星さんは見るたび顔色わるくなられてますけど。ちゃんと寝てますか。寝なきゃダメですよ。プロなんですから」

「それこそ余計なお世話だ。ちゃっちゃと仕事の話ししようや」

「はい。出版社は三つ葉社さんですね。ほらあの漫画の老舗の」

「メロンパン四世の版元か。小説も出してんだな。知らなかったよ」

「だからそういうことを大声で言わないの。丸星さんの運が尽きてしまうよ。わたし、心配です」

「で、テーマがこれなわけか」資料を見遣る。

「そう、そのことなんですけどくちゃくちゃ」

「日下部ちゃんさ。パフェ食うか話すかどっちかにしよっか」

「すみません」日下部は名残惜し気にスプーンを置いた。「テーマは先ほど申しあげましたようにダークヒーロー物ですね。題材は何でもいいようなんで、丸星さんにそこはお任せしたいと思います」

「何でもいいって、化物みたいなヒーローならいいってことか」

「化物というか、ゲテモノというか」

 日下部はそこで自前のメディア端末を操作した。

「いま丸星さんに送った三本、どれも大ヒット中の漫画なんですけど、どの作品も主人公が異形のヒーローなんですよね」

「ほう。本当に流行ってんな」

 どれも目にしたり、読んだりしたことはあったが、こうして並べて指摘されて初めて気づいた。真実に売れ筋の漫画にはこういった系譜が傾向として表れているようだ。

「ほら前に丸星さんの発表した掌編あったじゃないですか。あれもヒーローでしたよね。ゲテモノの」

「ナットウマンか」

「そう、それです。あれ、わたしも面白いと思いましたし、評判もよかったですよ。ああいう系譜でいきましょうよ」

「ゲテモノねぇ」

「連作形式でもよいと先方はおっしゃっておいでです。もし丸星さんがよろしければ、ナットウマンで連作式の掌編とかどうでしょう」

「いやぁ、それはちょっと」

「短編にしちゃってもいいんですよ。連載掌編を繋げて短編にして。それをほかのヒーローでも続けて、全体でさらに連作短編集にしちゃうとか」

「あてずっぽうで言ってない? それ本気にして俺が作ってもボツとかにしちゃわない? コスト結構それ凄いことなるよ。日下部ちゃんとかはそういうの軽く提案しちゃってくれるけどさ、考えるの俺だし、ホントそれ掌編だからって舐めてもらっちゃ困るよ。図案引くのは掌編も長編も変わらんのよ。そこのところ分かってるのかなぁ」

「このパフェ。底のほうがホットケーキだぁ」

「パフェ食うか話聞くかどっちにかにしよっか日下部ちゃんさ」

「もぐもぐくちゃくちゃ。これ美味しいですよ。もぐもぐ」

「パフェ食うほうを選ぶ普通?」

「締め切りは、初稿が来月なんで、ひとまず一品作ってもらって、それでGOサイン出せるか判断しましょう」

「またボツ量産コースじゃないだろうな」

「そこはほら。丸星さんの腕しだいですよ」

「手数料は?」

「あるわけないじゃないですか。一蓮托生なんですよわたしたち。丸星さんが量産したボツに費やすわたしの時間だって報われぬボツ時間なんです」

「読むほうと編むほうの差をおまえ……」

「それを言うなら出版社と交渉して、コスト計算して、デザイナーから何から手配して本を編むほうの労力をちゃんと分かってくれてます? そんなに言うならお一人でこなせばよいじゃありませんか」

「それを言われるとぐうの音もでねぇって知ってて言ってんな」

「そりゃそうですよ。もぐもぐ。足元見まくりですね」

「誇らしげにパフェを食うな」

「あ、食いしん坊マンとかどうでしょう。敵を食べると相手の能力をコピーできたりして」

「ピンクで丸くて膨らんで宙を飛んだり、スターに乗ったりするんだろ。とっくにそういうキャラいっから」

「なら未来からきたロボットで、未来の高度な技術で作られた道具を駆使してバッタバッタと敵を薙ぎ倒し」

「青くて猫型の耳なしロボットかな?」

「ぷぷっ。耳なし芳一みたいに言わないでくださいよぉ」

「言ってねぇよ。ねぇねぇ日下部ちゃんさ。俺のときだけ手ぇ抜くのやめてくんないかな。大御所相手みたいにちゃんと仕事して」

「大御所の作家さんには口出しなんかしませんよ。何も言わずともしっかり仕上げてきてくださるので。完璧無比ですね。言うことがありません」

「お願いだから仕事しよ? 搾取すんのやめよ?」

「失敬な。手を加えないほうがよいかどうかを見極めるのもわたしたちエージェントの大事なお仕事ですから」

「その素晴らしい鑑識眼から放たれたネタが、納豆のヒーローってどういうこと。やる気失せるなぁ。それ今からでも断ってもらうことってできんのかな。俺、ちょっとそれで新作発表したくないわ」

「いいですよ。違約金を払うことになりますが」

「じゃあダメだろ。ふざけんな。きょうのここの勘定も割り勘だからな。つうか経費で落としてくれよ」

「出版社の社員でないので無理ですよ。そこのところ境遇はわたしも丸星さんと一緒なので」

「ああさいですか」

「むっ。やな感じですね。どうしちゃったんですかそんな納豆みたいに腐っちゃって」

「腐りたくもなるだろ。待ちに待った仕事がナットウマンっておまえ」

「いえ、面白いですよ。ほら、丸星さんはご存じないかもしれませんけれど、ちょっとした前に巷でブームにもなった腕の伸びる麦わら帽子の」

「知らない人いるー? それ知らない人いるかなぁ。というかそこからの着想なわけ。結構被っちゃってるじゃん、ナットウマン」

「いえ、でもほら。ナットウマンは伸びると言っても糸だけですから。手首からシャーっと飛ばしたりして。壁とかもネバネバだから登れちゃったりして」

「どこの蜘蛛男かな? パクるのもいい加減にしてくれよ日下部ちゃんさあ。いくらなんでもインスピレーション受けたってレベルじゃないよ。オマージュじゃ通じないよそれ」

「そうですかね。ナットウマンいい線いってると思うんだけどなぁ。わたしがだって面白かったんですもん。世の暇人だってみんな面白がってくれると思いますよ」

「暇人言うな読者さんを。日下部ちゃんこそ、どこで誰が聞いてるかもしれないってことを弁えてくれよ。弁える方向を間違えないでくれ。出版社に嫌われても、読者さんにだけは嫌われたらあかんのだぞ。読者さんに好かれてりゃそれでいいんだよ」

「丸星さんはでも好かれてないですけどねモグモグ」

「してやったりの顔でパフェ突つくのやめてもらっていいかな。ついでに図星を突つくのもやめてもらっていいかな。本気で傷つくわ」

「丸星さん丸星さん」

「んだよ」

「パフェの底にグミが」

「目をキラキラさせてご報告どうもありがとう。そういうことじゃないだろうよ日下部ちゃんさあ。ナットウマンでいいの? 本当に? それでいっちゃうよ俺。マジで作っちゃうよ」

「お願いします。ぜひ読みたいんです。わたしが」

「そこまで言うなら信じるけどさあ」

「丸星さん、丸星さん」

「今度は何。パフェに飴でも入ってたか」

「腐っても鯛、なんですぜ」

「いいこと言ったふうな顔でグミを頬張るのをやめてくれ」

「なっとうくいきませんかね」

「納豆食う人みたいに言わんでくれ」

「こう、混ぜれば混ぜるだけ強くなる、みたいなイメージで」

「粘着質そうな性格してそうですなぁ」

「丸星さんにピッタリじゃないですか」

「もはやそれ俺への直接の悪態じゃないっすか。日下部ちゃんって俺のことお嫌い?」

「作品のことは好きですよ」

「語るに落ちてるやつー。それ語るに落ちまくって、底抜けちゃってるやつー」

「パフェにホットケーキとはこのことですね、丸星さん」

「ん、うん……? ……あ、地獄に仏とかけたんですかね。分かりにくすぎて素に戻っちゃったよ。ツッコミきれんよ。頼むよ日下部ちゃんさ。真面目に打ち合せしよ?」

「もう、丸星さんしつこいです。なんかネバつく」

「ムカつく、みたいなノリで言わんでくれ。いちいち納豆に絡めないでくれ。面白くも痒くもないんだからさ」

「醤油とカラシはありますけどね」

「ふふん、みたいな顔されてもカスリもしてないからねいまの。醤油もカラシもここにはありませんけど?」

「しょうゆうことにしておきましょう。世知辛しじゃわい」

「意地でもねじ込みたいのかな!」

「べつに深い意図はないですよ」

「そこは嘘でも、イトを引いてくれ」

「あ、丸星さん」

「今度は何」

「わたしライスお代わりしてもいいですか」

「粘るな粘るな。いい加減に終わってくれ」

 たらふく料理を貪ると日下部は、きっちり割り勘の半々で支払い、夜の街へと去っていった。家に帰って寝ると言っていた。

 健康児か。

 俺は睡魔の渦巻く脳内に鞭打ち、喫茶店に残り、さっそく新作の掌編に取り掛かるのである。

「ナットウマンかぁ」

 一文字も書けずに頭を抱える。

 先が思いやられる。

 文章の短さに対してかける思考のリソースが割が合わない。一粒の豆を発酵させるのに、百年を費やすような徒労を感じる。

 こんな辛苦を舐めるのなら、と思わずにはいられない。

 せめて百万部は発行してもらいたいものである。




【ばぶル】

(未推敲)


 石鹸で手を洗うと記憶を失くすらしい。

 らしい、というのはつまり私がそれを知ったのはいままさに石鹸で、手を、身体を洗いながら、つれづれときょう一日の記憶が抜け落ちていく様を感じているからで、そう言えば今朝目覚めたときには記憶がなくてじぶんが誰かも知らなかったなぁ、と回想したところで私は記憶を失った。

 私はなぜか素っ裸で頭からお湯を被っており、思いだせる記憶がじぶんの名前と一般名詞とあとは身体に住み着いた習性らしき挙動のみだった。

 これはシャワー。

 これはおっぱい。これは小股。

 いま私は身体を洗っている。

 浴室の鏡にお湯をかけ、曇りを払うと、そこには髪の長い女が映っていた。

 これは私。

 口の中からは歯磨き粉のミントの清涼感が満ちている。

 歯を磨いたばかりらしい。

 就寝前の沐浴だろうか。

 状況は推し量れたが、ぽっかりと開いた空白の心もとなさに私はしばらく身動き一つとれずにいた。動いたらじぶんの身体が細胞単位で崩壊してしまうのではないか、といった恐怖を真剣に吟味した。

 記憶がないということは、ありとあらゆる可能性を考慮せずにはいられない、ということでもある。確かなことが何なのかが判らないのだからそうなる。知らないのだからそうなる。

 じぶんが記憶を失っている事実とそれに至る過程の喪失感だけが私の断言できるすべてだった。

 私がここに存在するのか否かすら私には見当すべき事項であった。

 身体が凍えはじめてから、湯船に浸かる。

 湯が温かいということは、私がここに入ってからまだ時間は経っていない。

 私はどうやってここに入ったのだろう。

 考えていると、ここがじぶんの家の湯舟かもしれない可能性に思い至った。

 さっさと外に出て、情報を探ったほうがよいのではないか。

 時間が経過するにつれて、じぶんが安全な場所にいるようだと知れてくる。ならば危険がやってくる前に――やってくるのかすら分からないが、分からないがゆえに、早く情報を集めたかった。安全なのだ、とじぶん自身に示したかった。

 私は湯船から上がった。

 手のひらの皮膚はすっかり皺くちゃになっていた。

 私はいちど扉に手を伸ばしたが、視界の端に姿見に映る自身の裸体がよぎったので、そう言えば身体を洗ったほうがいいかもな、となんとなく考えた。

 というのも、目が覚めた瞬間には身体を洗っていた。

 そして記憶を失くす前の私が浴室に入った理由も、身体を洗うためだったはずだ。

 ということは、身体を洗うことは危険ではないはずだ。

 それとも記憶を失くすためのきっかけが入浴にあるのだろうか。よく分からない。

 だがすくなくともいま私は無事であるから、ひどい目には遭わないはずだ。

 私は、私よりも記憶を保っていただろう数十分前のじぶんを信じ、扉の取手から手を離して、シャワーを浴びる。

 石鹸を掴む。

 泡を立てる。

 そうして私は身体を泡で包みながら、強固にこびりついて落ちぬはずの記憶の角質――私の根幹をなす記憶の結晶から鱗がはらりはらりと剥がれ落ちていく感覚を、ああこれはもう取り返しのつかぬ漂白にして回帰なのだと、不安さえもなぜ不安に思わねばならぬのか、その疑問ごと泡に浮かされ、湯に流れる。

 私はどこ?

 ここは何?

 言葉までもが泡に浮かされ、流れ落ちていく。




【処刑は空想の世界で】

(未推敲)


 顔面蒼白で表情を失くしたまま滂沱の涙を流している。涙のみが岩の溝を伝う雨露のごとく流れており、その主体となる人物の相貌からは感情の一切が見受けられなかった。

 魂を抜かれたかのような様相だ。

 反面、身体はいたって健康そうで、目立った外傷も怪我もない。

 すれ違い、遠ざかっていく男を横目に、私は、手錠を引かれながら馬のように通路を歩いた。

 看守が連れて行った先は刑執行場である。

 重罪犯罪者が刑を担う部屋だ。

 半世紀前に死刑は全面的に廃止となった。

 拷問の類は無論のこと、人権侵害に値する刑ものきなみ廃止へと動いた。

 とはいえ、禁固刑や刑務所への収容など、物理的な制約を科すことは、治安維持の上では有効であり、失くそうにも一筋縄ではいかない背景があったとされる。

 しかし社会は、それら刑すら自由の侵害と見做し、廃止に向かって突き進んだ。

 そして五十年前になる。

 刑はのきなみ、仮想現実で執行されることが決定された。

 現実世界では非人道的な拷問とて、仮想現実の精神世界でならばぞんぶんに科すことができる。

 罪人相手に、非道を行える。

 鉄槌を下し、暴力を揮える。

 犯罪者はそれだけのことを被害者へと物理的に行ったのだ。ならば精神世界という肉体の損傷し得ない手法で、歯には歯を、目には目を、の贖罪を背負わせても罰は当たるまい。そういった論調が支持された。

 私は灰色の部屋に通された。

 部屋は立方体で、窓一つない。

 中心に椅子がある。

 座ると、入ってきた扉と向かい合う格好になった。

 扉が閉まる。

 部屋には椅子に座った私だけだ。

 仮想現実用のインターフェイスはすでに体内に内臓されている。

 市販のマイクロマシンよりも強力な、脳関門を通過できる極小機器だ。これにより、脳内の神経系から全身の伝達組織へと作用し、現実と寸分違わぬ仮想現実を構築できる。

 しかもそれは外部から管理可能なのだ。

 あらゆる地獄を、適用者へと体験させられる。

 部屋の明かりが消え、いよいよ刑が執行される。

 私は、私の手で殺してきた子どもたちの苦悶に満ちた顔を思いだしながら、こんなことならばもっと殺しておくのだった、と計画の甘さを後悔した。

 闇に覆われる。

 いよいよ地獄の開幕だ。

 事前に、どのような仮想現実が見せられるのかは知らされない。

 誰も知らないのだ。

 刑ごとに編まれる仮想現実は異なるそうだ。それはそうだろう。ある者にとっての地獄が、ほかの者にとっての地獄であるとは限らない。全身を虫に貪られることに快感を覚える者だってどこかにはいるだろう。

 そのため、事前に、どのような仮想現実が囚人にとっての地獄になり得るのかは、入念な思考解析によってなされている。

 いったい私にとっての地獄とは何なのか。

 恐怖よりも好奇心が勝る。

 瞬きをする。

 目のまえに少女がいる。周りはお花畑だ。

 目のまえをモンシロチョウが舞い、日向の匂いをそよ風が運ぶ。

 遠くから子どもたちの無邪気に笑い合う声が聞こえる。

 せせらぎの音がある。涼し気にお花畑の合間を流れ、清涼感を漂わせている。

 天国のようだ、と漠然と思った。

 目のまえの少女が微笑を湛えたまま眩し気にこちらを見あげ、私のゆびを握った。

 いっしょに行こう。みんなあっちにいるよ。

 目だけでそれを訴えている。

 私は現実の世界でそうしたように、少女に微笑み返し、そうしよう、と頷く。警戒心を解き、懐かせたあとは、人気のない場所まで連れて行き、玩具にしよう。

 仮想現実ならば遠慮はいらない。

 ここが現実でないのならば、何を躊躇する必要があろう。

 どの道、地獄を味わうのだ。いまのうちに試せることを試してやる。

 しかし結果から述べれば、私が少女を玩具にすることはなく、そして仮想現実内で地獄を味わうこともなかった。

 私はあろうことか子どもたちと共にしあわせに暮らした。

 長い時間が経った。

 ここが仮想現実であるといったい幾度忘れただろう。

 思いだす契機はいつも、目のまえのぬくくやわらかい肌を撫でる己が手が、かつて血に塗れ、子どもたちの悲鳴と苦悶と涙を凝縮してきた事実だった。悔いているわけではない。私は、この子たちにも同じことを、いつでも再現できるのだと思いだすたびに、ここが仮想現実であることをじぶんに問わねばならなかった。

 もしここが現実でないのなら。

 一度くらいは遊んでみてもいいのではないか。試してもいいのではないか。

 かように自問自答するたびに、私は怯えるのだ。

 ひょっとしたらここは現実で、いまこの手でこの子たちを殺してしまったら、もう二度とこの子たちの笑みを、体温を、その声を聴くことができなくなるのではないか。

 そう思うと私は、ふたたび手を汚すことがとてもではないが恐ろしくてできなかった。取り返しがつかないのだ。

 私はこの子たちとの日々を損ないたくない。

 奪いたくない。

 この子たちの幸せを心から望んだ。

 だが私はいつしか忘れてしまっていたのだ。

 ここが仮想現実であることは覚えていても。

 それが刑であったことを。

 終わりは突然だった。

 目のまえからお花畑が消え、子どもたちの声も、笑みも、そのぬくもりごと姿が消えた。

 私は灰色の部屋で椅子に座っている。

 目のまえの壁が左右に割れ、見覚えのある制服に身を包んだ男が私を強引に立たせた。

「どうだ気分は。刑は終わった。ずいぶん長く感じたろうが、こちらの世界では五分も経過していない。おまえは罪を償った。あとは自由だ」

 私はその言葉を拾うことができなかった。

 音としては聞きとれた。

 しかし意味を咀嚼することを、無意識が拒んだ。そうとしか思えなかった。

 私は男に引きずられるようにして部屋を去る。

 おかしい。

 待ってくれ。

 なぜ私だけなのだ。

 あの子たちはどこだ。

 返してくれ。

 私にあの子たちを返してくれ。

 私を、あの場所へと戻してくれ。

 叫びたかったが、声にならなかった。

 あの場が仮想現実であることは重々承知していた。こちらが現実であることは、泥のように重い身体の倦怠感から疑いようなく察せられた。

 仮想現実では、苦痛の元となる刺激が濾過されていた。強いて与えないように操作されていたのだと知った。

 天国があの場にはあった。極楽が再現されていた。至福に満ちていた。

 比べてここはどうか。

 現実の味気なさは。

 単に至福ではない平坦な間延びした腰痛にも似た空虚さは、しかし、たったのいまのいままで極楽で過ごしていた我が身からすると、地獄と称するにも足りない絶望を突きつけた。

 絶望のここは沼だ。

 表情筋一つ満足に動かせずに私は、汗のように滴り落ちて一向に止まらぬ涙をふしぎに思いながら、道の向こうから手錠を引かれてやってくる新たな囚人の、私へと向ける奇異な眼差しをただ浴びるしかなかった。

 できることならば私がその者と代わってふたたびの刑を受けたいと思った。

 しかし、ふたたび奪われるぬくもりに溢れた至福の時間と、何より目覚めたときに味わうこの空虚さ、この先何を得ようともけして満たされることない底なしのがらんどうを植えつけられる未来を思うと私は、どうあってもあの灰色の部屋へと近づき、椅子に座るふたたびの未来を我が身に許すことはできそうにないのだった。




【宝石の海のバナナ】

(未推敲)


 身体が内側から熱をこもらせる。空調は効いているはずだが、汗ばむ肌にワイシャツが貼りついて不快だった。じぶんの体毛が煩わしい。

 緊張している。

 そのつもりはなかったが、どうやらそうらしい、と制御下におけない生体反応の正直さを恨めしく思う。

「カワシデさんはお忙しい方なので。時間は五分です。会話の途中でも、五分きっかりに部屋からは出て行ってもらうので、その旨どうぞお忘れなく」

「お会いできるだけで光栄です。ありがとうございます」

 通された部屋は四畳ほどの広さの書斎だった。いや、本当はもっと広いのだろう。本棚が三つ折り重なり、部屋を狭くしている。扉以外の四方を本棚が埋めている。

 天上は高い。

 部屋の真ん中に小さな机と椅子があり、扉に背を向ける格好で女性が一人座っていた。

「では時間になりましたらお呼びします」

 案内係が扉を閉めた。

 部屋にカワシデ・マキバと二人きりである。セキュリティが甘くないか、と疑問に思うが、建物内に入るときに入念に身体を探られた。持ち物検査とて通過済みだ。

 こうした訪問者は慣れているのか、

「ご質問どうぞ」振り向かぬままに彼女は言った。髪は団子に結っているが、解けば長そうだ。

「あ、あのお忙しいなかお時間を頂戴いたしまして」

「そういうのはいいです」彼女は私の挨拶を遮った。「時間がもったいないですよ。ご質問をどうぞ」

 名乗るのも憚る、素朴にして厳乎たる声音だった。

「私の専門は数理モデルから予測される多次元体の三次元変換の研究です。カワシデ氏の提唱された新理論によって大いに研究が進みました。革新的なほどです。いえ、もうほとんど土台から再考し直したほどで」

「ひょっとして【多次元間におけるテンセグリティ構造】を発見した?」

「はい。私の研究グループのそれは成果です」

「へえ」

 彼女はそこで興味が湧いたのか、作業を止めて椅子ごと振り返った。「あれは面白かったです。現実にあんな構造体が実在するなんて。ブラックホールの発見に並ぶ発見だと思います」

「カワシデ氏にそう評価されるのなら、研究した甲斐があります。あの、不躾ですがいまは何を研究されているのでしょう」

「流体とは何かについて」

「流体、ですか」

「もうすこし言うなら、デジタルにおける流れとは何か、について」

「ああ。流れはたしかに連続したものですからね。アナログです。その点、飛び飛びのデジタルにおける流れとはどういう解釈を伴なうのか。たしかに興味を惹かれます」

「うん。むつかしい。例外がたくさん見つかって、混乱している最中」

「お忙しいときにお邪魔してすみません」

「あと三分もないですよ。本題をどうぞ」

「下世話な話題ですみません。しかしどうしてもこれを聞いておきたくて」

「何?」

「カワシデ氏はお若いながらに、偉大な発見をなされました」

「年齢は関係ないのでは」

「ええ。ですが事実、お若い。私がその歳のころは、暇さえあれば映画を観ていました」

「ステキな時間の過ごし方なのではありませんか」

「カワシデ氏は、研究者として一流以上に一流です。世界屈指の理論家でもあります。率直に申し上げれば天才です」

「そう呼ぶ人もいますね。それで?」

「その点、我々のような凡人は、遅々として進まない日々の作業に追われるだけで、ろくな成果を上げられません」

「そうなんですか? でもとてもすごい成果をあげていますよね。多次元間におけるテンセグリティ構造」

 私は黙っている。

 彼女は単独で、たった一人で、あらゆる分野の根幹を揺るがす発見を成したのだ。数百年間の科学の土台を根っこから覆した。

 それに比べ、私は何百人もの協力を得ながら、仲間たちの手を借りて何とか成果らしい成果を上げるのがやっとである。

 彼女は若い。

 新理論の土台はすでに彼女が十代のときに発想していたという。天才は生まれながらに天才なのだと歯ぎしり交じりに拍手を送りたくなるほどだ。

「それに、成果は何も一つではないでしょう。失敗も成果の内ですし」

「かもしれません。ですが、世間はそうは見做しません。カワシデ氏の存在によって、いまや私のような研究者は活動の場を狭めています。政府や企業――世界中の投資家たちですら、カワシデ氏のようないわゆる天才を――ギフテッドを見つけだし、支援しようと躍起になっています」

「そうなんですね。知りませんでした。じゃあ私も支援されていたのかな」

「問題は、カワシデ氏がどうだったかではなく、いまの世間の流れにあります。一部の突出した能力を持つ個にのみ支援をすればいい。そういう流れは、大局的に見ればどのような分野であれ、土壌を枯らす方向に働きかけるでしょう」

「政治の話をしに来たのですか」

「かもしれません」私は懐から万年筆を取りだす。じぶんより若い娘を一人殺傷するだけならば、ペン一本あれば充分だ。「私の友人や、教え子たちまでもが、未来を奪われつつあります。けしてカワシデ氏、あなたのせいではありません。しかしあなたの影響は否定できないのもまた事実なのです」

 キャップを外す。

「それで、あなたは私をどうすると?」

「大いなる力には、大いなる責任が生じます。そうあって欲しいと私は考えています」

「つまり、私を損なうことで、いまのあなたにとって気に入らない世の流れを変えたいわけですね」

 私は汗の滲んだワイシャツの気持ちわるさを思った。その不快感こそが、なぜか、目下の懸案事項のように感じられてならなかった。

 さも目のまえの小娘をペンで刺すことなど何でもないかのように。

「影響力のある相手を損なうことで、最小の作用で最大限の反作用を得る。人間社会の不可思議な点ですよね。エネルギィ保存の法則に反して映ります」

「怖くないのですか」

 悲鳴の一つでも挙げてくれれば、それを皮切りに身体のほうでかってに動くだろうに、それをこそ見抜いているかのごとく彼女は恬淡としていた。

 命に執着はないのだろうか。

 それとも私に殺気が足りないのか。

 舐められている。そう感じた。

 ここまできてなお、危害を加えられることがないと高をくくられているのではないか。彼女の突出した能力への妬心よりも私は、どうあってもじぶんが傷つくことがないと思いこんでいる彼女のその無防備な万能感にこそ腹が煮えた。

 私が万年筆を強く握り直し、足の指に体重を乗せたところで、

 一つ、と彼女は言った。

 私は踏みとどまった。

「一つ、訂正しておきたいことがあります」

 私は耳を欹てた。じぶんの耳がキツネのように尖る様を連想する。腹は煮えたままだが、ふしぎとじぶんを滑稽に思うじぶんが道化師のように非現実的な視点で私を俯瞰する。

「すくなからずの方々が私を天才と呼び、ギフテッドと高く評価します。けれど私は私をそうは思いません。どちらかと言えば、私の目からすると、あなたやほかの研究者――もっと言えば私のお世話をしてくださる方々――私にはとうてい務まらない仕事をされている方々こそ、天才に映ります。なぜなら私にはそれらができないので」

「天才の物言いですね」私は怒りが氷のように冷めていくのを感じた。衝動ではなく明確な殺意として、激情が結晶する。「あなたはじぶんでじぶんが非凡だと別の言い方で表明しているにすぎない。そんな言葉では世の中は何一つ変わりません。私のような境遇の研究者とて、何一つ」

「だとしても言わせてください。私は、私一人きりであの理論を生みだしたとは思っていません。私がしたことは、すでに存在する数多の定理や公理を基に、それらでは扱えきれない例外に目を留め、穴を塞いだだけのことです。偶然にその穴が、どうやら総じての定理や公理と重複していた、共通する穴だった――ただそれだけのことなんです。もしあなたのような方が存在しなかったとしたら。私は何も生みだせず、何も発見できなかったでしょう」

「詭弁です」

「いいえ、事実です。私は、記憶力がよくありません。数多の定理や公理を活殺自在には扱えません。複雑な計算も得意ではありません。しかしいまはコンピューターでその欠点を埋め合わせることができます。私は偶然に、じぶんの欠点を埋め、私というがらんどうを鍋として、極上の素材を放りこみ、煮込んで、シチューにした――そのシチューが偶然にも大勢の舌を唸らせるものだった。ただそれだけなのです」

「ですがほかの大多数には作れないそれはシチューだったんです。偶然偶然とあなたは言いますが、しかし世間はそうは見做しません」

「だとしても、です。私がいまじぶんの興味のあることに時間を使い、思考を費やせるのは、あなたのような方たちが、過去から現在に居てくださったからです。私は私一人きりでは、私であることすらできません。私を天才と呼ぶ大勢がいて初めて私は天才足り得ます。これは裏から言うなれば、その私が天才と呼ぶ者たちもまた、天才であると呼べるはずです。何せ、天才の私が言うのですから」

「詭弁です」

「だとしても、です。私にとっては、あなたを含めて、あなたの大事なご友人たち、教え子さんたち――それともあなたの意識していない全世界の人々、過去に存在した人類の総じてが、私にとっては天からの贈り物。ギフテッドです」

「綺麗で煙に巻くおつもりですか」

「そう聞こえてしまうのも致し方ありません。命乞いと思ってもらってもいいです。だた、綺麗事だとしても私はこう思います。あなた方はじぶんたちがダイヤであることを気づこうともしません。私はダイヤの海に浮かぶ一粒の砂利にすぎません。私からすれば、みなが宝石なのに、単なる砂利を珍しいというただそれしきのことで重宝しているだけに映ります。もちろんこれは比喩なので、ダイヤでなくとも種々相な宝石の海でも構いません。宝石が宝石なのは、それが稀少だからでしょう。欲したときにすぐには手に入れられないからでしょう。この世にバナナの木が一本しかなければ、おそらくその木の成らせるバナナは宝石がごとく見做されるでしょうね。ただのバナナなのに」

 真面目な顔つきで希代の天才がバナナを連呼する。私はやり場のない恥辱の念に悶えた。ルーブル美術館に駄菓子が飾られているようなチグハグさに、私の信念とも呼べる結晶した激情が、途端に諧謔を帯びたように感じた。端的にいまのじぶんが滑稽だった。

「そうだ」彼女が声を弾ませた。「支援が足りないと言っていましたが、なら私が支援しましょうか?」

「残念ながら、極一部の研究者たちだけが救われても意味がない。流れを根底から変えなければ」

「ならば変えましょう」彼女は何を思ったのか、こちらに背を向けた。椅子ごと机に向き直り、作業を再開する。「いま私の興味は、さっき言ったように【デジタルにおける流れ】についてです。これはいわば、アナログとデジタルという異なる次元を、流れという共通の事象で結びつける理論になります。この発想には、じつのところあなたの研究成果であるところの【多次元間におけるテンセグリティ構造】が参考になるのではないか、と考えています。これは逆から言えば、私のいま手掛けている研究成果は、あなたの研究に応用可能なことを示唆します」

 ごくり、と喉が鳴った。

 直観が叫んでいる。その通りだ、と。

「私にはあなたの研究を根っこから理解し、じぶんの理論を応用することはできません。どうでしょう。凡人たる私の編みだした理論を基に、天才たるあなた方が、新たな創造物を編みだされてみては」

「で、ですから私たち一部の者だけが助かっても」

「言いましたよね。私はどうやら、過去の天才たちの見落としてきた穴が視えるようです。汎用性がありますよ、きっと。ただし、何に合致するのかは私には分かりません。凡人なのです。私は、あなた方に見いだされなければいまでも、じぶんの理論がこれほど大勢から好ましく受け入れられることを知らずにいたでしょう。発見したのは私ではなく、あなた方なのです」

「き、詭弁です」

「ふふ。そうかもしれませんね。ですが、どうでしょう。まだ私をそのペンで刺したい気分のままでしょうか」

 万年筆を握り締める手を見て、私はかぶりを振った。キャップを締め、万年筆を懐に仕舞った。「そろそろ時間ですね。お騒がせして申し訳ありません。目が覚めました。自首します」

「自首? なぜですか」

「未遂ですよ。殺人未遂です」

「困ります」彼女は悲鳴のように言って、勢いよく立ちあがった。

 椅子が倒れる。

 物音が鳴ったからか、それとも時間きっかりだったのか、扉が開いた。

 案内係が顔を覗かせ、どうかされましたか、と私とカワシデ氏を交互に見た。

「いえ」カワシデ氏が椅子を立て直した。「時間の延長をお願いしたいのですが」

「わ、わかりました」案内係は扉を引いた。閉じきる前に、隙間から不安そうに、何かありましたらお呼びください、と言い添えた。

 部屋に静寂が漂う。

「困りますよ」カワシデ氏が椅子に腰かけた。くるりと反転し、私を下から睨みつけるようにした。「あなたがいなくなったのでは、誰が手伝ってくれるんですか」

「私以外にも研究者はいます。それこそ、腐るほどに」

 腐ってしまうほどに、ぞんざいに居場所を奪われている若い研究者たちがいるのだ。

「ですが、あなたは私を手伝うべきです。ダメです。許しません」

 年下の女性に、許しません、と言われる経験はおそらく今後二度とないだろう。予感しながら私は、なぜですか、と畏敬の念を籠めて言った。

「私は生まれてきて一度も、こんなに長く他人と言葉のやりとりができたことがありません。それに、あなたは私よりも優れているのだから」

 私が眉を持ち上げると、

「ある技能においては私よりも優れているのだから」と彼女は言い直し、「私を手伝うべきです」と腕を組んで椅子の背もたれにふんぞり返った。

 本棚に目が行く。いまさら気づいたが、どれも母国語の本ばかりだ。彼女は一か国語しか操れないのかもしれない。研究者としては不利と言える。

 妙なことになったな。

 こめかみを掻く私に彼女は、それに、と奥歯に物が挟まったような物言いで、「あなたは年上なのですから」と目を伏せた。

「年齢は関係ないのでは」私が指摘すると彼女は、

「ええ。ですが事実です」

 どこかで聞いたような台詞を返して寄越した。




【白太陽の街】

(未推敲)


 諺元年。

 突如として人々は異能に目覚めた。

 地球を襲った磁気嵐の影響とも、人類の始祖――宇宙人の遺伝子が開眼したとも言われるが、明確な契機は杳として知れない。

 断言できるのは一つだけである。

 諺である。

 言語である。

 言葉によって人類は、各々に固有の異能を使えるように変質した。

 異能発現時刻は、零時零分きっかりであった。

 それを期に、その人物がもっとも多く用いた諺にちなんだ異能が、その人物に開花した。

 しかし、誰もがそうではない。

 じぶんで使うよりも、他者から投げかけられた諺のほうが多い場合は、その諺が異能として表れた。

 ただし、事情は少々複雑である。

 じぶんで唱えた諺にちなんだ異能であれば、その異能をじぶんに使える。

 しかし、他者から投げかけられた諺が異能化した場合、それは相手にしか使えない。

 たとえば、

 顔から火が出る。

 これはじぶんで使う場合の多い諺だ。したがって、じんぶんの顔から火をだせる異能として能力が顕現する。

 いっぽう、塩対応。

 これは諺というよりも慣用句だが、しかしこれくらいの言葉であっても異能は発現した。この場合、他者から投げかけられることのほうが多い。したがって、塩対応なる異能を、他者へと行使できる。

 具体的には、右手方向を見て欲しい。

 コンビニが見えるだろうか。

 いまあそこに異能集団に囲まれている少年がいる。

 諺元年を迎えて以降、治安は悪化の一途を辿っている。社会秩序は崩壊し、インフラは昨日を停止した。工場も軒並み停止し、人々は安全な地域を求めて地方へと散った。

 反対に都心には、ならず者が集まった。その場に留まりつづけた者たちとて、いわゆる異能適応者と呼ばれる賊である。

 異能によって他者を蹂躙することの可能なほどに、活殺自在に異能を操る。

 過剰に異能へと適応した者は、その行使によってかつてないほどの自由をその手にできる。実感できる。なればそれを使わぬ者がどこにいよう。

 ある異能適応者たちは徒党を組み、派閥を作り、じぶんたちの縄張りを拡げることに躍起になった。

 またある異能適応者は、そうした者たちから街を離れられぬ不能者たちに手を差し伸べた。

 諺の種類によっては、たとえ異能が発現しても生身と変わらぬままの者もいた。そうした個はひとまとめに不能者と呼ばれた。

 食糧難に陥った街において、コンビニは保存食の蓄えられたオアシスである。

 ただし、サバンナにおける水場が絶好の狩場であるように、敢えて食料を放置し、そこにおびき寄せられてやってくる不能者を狩ろうと企てる者たちもいる。

 その少年、名を塩田イヨと云った。

 異能は塩対応。

 彼は生まれてこの方、クスリとも笑ったことはなく、みなが笑い転げる様を目にしても、何が面白いのか分からないほどに、何を見ても表情を変えない。

 どころか、感情そのものの起伏が極端に少なく、衣食住と睡眠を満たせればそこはかとなく薄っすらとした饅頭の皮のような至福に包まれる。

 恐怖も感じにくいために、諺元年が幕を開けた半年前から変わらず都心に居ついている。

 同居家族はとっくに避難した。いまはどこで何をしているのか見当もつかない。殺されているかもしれない、誰かを殺しているかもしれない。

 端的に塩田イヨ少年は、棄てられたのである。

 荷物と見做された。

 それもある。

 しかし、最も割合を占める理由は、異能を手にした塩田イヨを家族が恐怖し、距離を置こうとしたことと言える。

 家族は、愛想のない塩田イヨを常日頃から気味わるがっていた。何を考えているのかが判らない。可愛がっても、にこりともしない。

 ただ無表情だけならばまだしも、塩田イヨには愛嬌もまたなかった。昨今の愛玩用ロボットのほうがよほど感情の起伏が豊かなのである。犬猫のほうがよほど可愛がり甲斐がある。

 なまじ塩田イヨには知恵があり、小学生の時分で図書館に通いだすようになると、日に日に、本の内容は難解さと専門性をあげていく。

 家族はそんな塩田イヨの姿を目にし、理解できない異国の民へと向けるような眼差しをそそぐようになった。

 やがては視線すら向けぬ日々がつづいた。

 諺元年の幕を開けた日に、真っ先に家族がとった行動は、荷物をまとめて、塩田イヨを家に置き去りにして逃げることだった。

 というのも、家族は異能開花が世界同時全人類に起きたことを知るより先に、塩田イヨの異能を目にしたのだった。

 塩対応。

 塩田イヨが奇しくも、自らの名前と似通ったその言葉を陰にときに面と向かって囁かれた経験は、イヨという本名で呼ばれた数よりも優に千倍は多かった。

 ほとんど本名で呼ばれたことがない。呼ばれる必要がない。誰も塩田イヨ少年とは関わらぬのだ。

 それでいて無関心を装ってくれない点において、塩田イヨは目立つ部類ではあったと言える。

 欠落である。

 否応なく目に留まる。

 ときには鼻に付く者もいただろう。

 しかし塩田イヨ少年は、何をされても無反応である。おそらく過去には死ぬ目にも遭ったことがあっただろうが、それでも彼は蜘蛛の巣にかかったトンボのように機械的にもがき、或いはそのまま餌食となった。

 命があるのがふしぎではあるが、誰も彼の命になど興味はなかった。

 虫を踏み潰して極刑になるのでは釣り合わぬ。端に合理的な損得によって、塩田イヨ少年は齢十四まで生き永らえてきたと言える。

 塩田イヨ少年には、やり返すだけの力がなかった。

 否、そうではない。

 やり返してきたが、それが相手への損とはならなかった。脆弱にすぎた。子どもなのだ。感情の起伏の薄い彼には、目的はその都度に見繕われはすれど、目標なるものが立てられることは滅多にない。あったとしてもそれは、他人から押しつけられた、逃れられぬノルマのみだ。

 しかし諺元年の幕を開けたその年。

 奇しくも塩田イヨ少年には、異能が宿った。

 塩対応。

 散々他人から嘲り向けられてきた言葉だが、そのじつ塩対応をしてきたのは塩田イヨではない。その周囲の人間だ。

 塩田イヨは塩対応をされる側の人間だったが、それをする相手は軒並み、塩田イヨ少年の態度こそが塩対応だと見做すのである。

 だがそれが幸いした。

 何せひと際、口数のすくない塩田イヨ少年である。

 仮に周囲の人間が言葉を投げかけ投げれば、発言する異能は幼少期に読んだ絵本にでてくる諺、豚に真珠だったかもしれない。

 諺元年から半年がたったいま、明らかになった異能の特性には、威力比例関数なるものがあった。

 異能の元となる諺を、何回唱えたのか。

 或いは、何回唱えられたのか。

 その回数によって、発現する異能の威力は上昇するようだった。

 その点、塩田イヨの異能はすさまじいものがあった。

 家族はすでにその威力を目の当たりにしている。だがほかの者は知らぬままである。

 何しろ、目撃した者は、いまのところ彼の家族以外では一人も生きて残ってはいないのだ。

 いまここに、コンビニに食料を求めて塩田イヨ少年がやってきた。

 真夜中である。

 コンビニに入る前に彼を包囲したのは、近頃人身売買でその名を轟かせている人攫いの一味、邪肉衆であった。

 邪肉衆は、自己発動型の異能を有した個の群れである。肉体強化やら肉体変化やらと自らを武器として異能を行使する一団だ。

 中でもリーダー格の、邪蛇は「鬼に金棒」の異能持ちである。

 諺はほかの者と被ることもある。

 それでも邪蛇の異能はひときわ威力が桁外れであった。

 手に持った物体を何でも金棒に変換できる。ただしそのとき、邪蛇の腕もまた鬼がごとく隆起する。

 強化されるのは腕だけである。

 凶悪に隆起した腕は、オロチのごとく身体と不釣り合いな異様な佇まいを醸し出す。

 邪蛇の名前の由来と思われる。

 邪肉衆に囲まれた塩田イヨ少年は、さっそく邪蛇から金棒を突きつけられた。

「家族いんだろ。おめぇは人質だ。今は東んほうで爺婆がよく売れる」

 塩田イヨ少年は、なぜだろう、と疑問に思うが、思うだけだ。問うたりはしない。知りたいというほどの謎ではないからだ。

 興味がない。

 関心が湧かない。

 邪魔だなぁ、と思うだけである。

 そこ、どいてくれないかなぁ、と。

「老若男女ってぇ異能持ちがいてよ」

 揚々として語りはじめた邪蛇に、塩田イヨ少年は手のひらを向けた。

 邪蛇と違い、塩田イヨ少年は他者発動型の異能である。

 彼にできるのは、照準を定めることと、威力を絞ることだけである。

 定め、絞る。

 あとは異能が自動的に、対象の肉体に発現する。

 邪蛇は何も感じなかっただろう。

 気づきもしなかったに違いない。

 いったいいつじぶんが絶命したのかも分らぬほどの、瞬きにも満たない瞬間に、邪蛇の肉体は武装された兵士服ごと真っ白に染まった。

 否、結晶化したのだ。

 塩に。

 舐めればしょったい、塩化ナトリウムに。

 刹那に全身の細胞ごと、血肉ごと、臓腑ごと、毛の一本も漏らさずに塩となった。

 邪肉衆のほかの面々が息を呑む。

 一瞬の静寂の合間を、空きビルでどんちゃん騒ぎをするほかの一派の宴の声が虚しく響き去った。

 邪肉衆の一人が、白き石像と化した邪蛇を、心配そうに突ついた。

 言葉はなく、大丈夫かと言いたげに、ツンと指先で押す。

 ただそれだけの衝撃で、邪蛇だった人型はその場に、土砂利と胴体から崩れ落ちた。地面にぶつかるや、白い砂山を作る。

 間の抜けた悲鳴が、夜の街にこだました。

 いかな異能といえども、一瞬で人間の命を奪うような威力には生半には届かない。かような異能者は滅多にいないと言える。

 邪肉衆にも天敵はいた。

 一人の僧侶の率いる、南無阿弥団である。

 毎日念仏を熱心に唱えるような僧侶が、「釈迦に説法」なる異能を発現させたことで、他人を一瞬で意のままに操るようになった。そうして信者とは名ばかりに操り人間を手駒として、南無阿弥団はその勢力を広げているという。

 実際に手から糸を伸ばして他者を操るそうだが、子細は不明だ。

 塩田イヨ少年同様に、僧侶と相対した者はみな、彼の手の内に落ちてしまうからだ。

 毎日「釈迦に説法」と唱えてみせた僧侶ですら、しかし一瞬で命を奪うまでにはいかない。そこまでの出力は持たぬのだ。

 にも拘わらず。

 齢十四の塩田イヨ少年は、一瞬で、ただ手のひらを向け、狙いを定め、的を絞っただけのことで、対象を絶命さしめた。

 命を奪った。

 塩に変えた。

 邪蛇なる札付きの人攫い集団の長を。

 肉体強化の施された相手を。

 異能をまさに行使中の相手を。

 たった十四年しか生きてこなかった口数の少ない、覇気のない少年が。

 邪蛇衆は、地面を這いずるように、何度もこけながら、三々五々、各々の脚の赴くままに逃げ去った。

 塩の山が風に流され、削れいく。

 塩田イヨ少年は周囲を見渡した。

 ほかに邪魔をしてきそうな人間がいないかをよくよく確かめてから、さして警戒するふうでもなく店内に足を踏み入れる。たんまりと食料をカゴに詰めると、何事もなかったかのように来た道を戻った。

 諺元年。

 一年が経過するころには、各地にて新たな勢力図が築かれつつあった。

 列島は五つに分断され、境界線では絶えず領土争いが絶えない。

 しかしふしぎにも、都心だけは空白地帯のまま、どの勢力地からも子細の知れぬ不可侵領域として扱われている。

 噂では、偵察に入った各地の旅団が、都心のまさに中心地に、巨大な白い山を見たという。しかし不思議とその山は、風が吹くたびにサラサラと靄を放ち、深い霧を立ち込めらせる。

 一歩その霧のなかに足を踏み入れたが最後、生きて戻る者は皆無だそうだ。

 安全とされる境界線にまで近づいた者たちは、深くも塩辛い濃霧をまえに、みな口を揃えてこう言うそうだ。

 白太陽。

 目にしただけでも焼け死ぬような、白き闇の街。

 或いはこうも口にする。

 死の会場。

 かつてみなから塩対応と名前がごとく呼ばれた者の居つく土地は、ナニが潜んでいるのかも知れられることなく、きょうもひっそりと静まり返っている。




【裏返る世界に】

(未推敲)


 何をしても許されるとしたら、何する?

 馬淵の発言が蘇った。小学生のころの記憶である。

 馬淵は当時、同じクラスの学友だった。通学路が同じで、そのころは一緒に帰ることが多かった。

「何をしても?」

「そ。何をしても許されるとしたら、カブちゃんは何する?」

 道端で捕まえたカミキリムシをどうやって家まで運ぼうか議論しているなかでの発言だった。突拍子もなく、だからなのか印象に残った。

 捕まえたカミキリムシの生殺与奪の権を握ったからか、それとも単なるいつもの脈絡のない疑問だったのかは分からない。あした地球が滅んだら、とか、昨日UFOを見たとか、馬淵はそういうことを突然に振ってくる子どもだった。

 そのとき、私はなんと答えただろう。

 じぶんの回答を思いだしながら、カミキリムシをそのあとどうしたのか、そして馬淵はそのあと何とつづけたのだったか、と記憶の底を漁っているうちに、老人の声がした。

「そろそろですな」

 老人は椅子に座っている。膝に、民族的な柄のブランケットをかけている。

 髪は白髪で、顎髭と繋がっている。アルプスの少女ハイジのおじぃさんを彷彿とする姿だが、この比喩で伝わる人間が何人いるだろう。

 私は物語歴史研究家であるので、大昔の絵巻物や漫画、映像作品にも明るい。

 辺りは一面、紺色の世界だ。

 絶えず空気の躍動を感じる。風は冷たいが、ふしぎと私は寒くなかった。

 闇ではない。

 そばにいる老人の姿は見える。

「見てみなさい」

 老人が夜空を仰いだ。

 満天の星々である。

 月は地平線のすこし上に浮かんでいる。半月だ。

 雲一つなく、中学生のときに一回だけ女子生徒と見に行ったプラネタリウムを思いだす。私はその子に懸想していたが、けっきょく付き合うことはなかった。私がモタモタしているうちに、一学年上の先輩が告白し、気づくと二人はそういう仲になっていた。

 淡い思い出である。

 ふとした拍子にむかしの記憶が連想されるのは、私が混乱しているからだろう。

 私はここ六年間、とある奇怪な現象に悩まされていた。あまりに奇々怪々ゆえに、何度じぶんの正気を疑ったことだろう。だが、すくなくとも私の認知世界のなかでは、これが事実であり、現実だ。

 数多の出会いと別れと、臨終を経験した。何度も死にそうな目に遭い、言葉を交わした相手の死を見届けてきた。

 私の手は人殺しの手だ。

 だがそうせずにはいられぬ環境にあった。油断をするとすぐにこうして自己弁護の理屈を構築する。

 大事なのはただ一つ。

 どうやら私は数多のゲームを勝ち残り、こうして最終局面に行き着いた因果だけである。

 いつものごとく、提示された艱難を乗り越え、「裏」から回帰した。

 そのはずだったが、なぜか扉をくぐるとここに出た。

 辺り一面、砂漠である。

 暑くはない。陽はとっぷりと沈んだあとだ。ひんやりとした秋に似た空気を感じる。

 砂丘のような起伏はなく、一面どこまでもまっすぐだった。

 地平線が球形にゆったりと弧を描いている。地球が真実に丸いとただそれだけで実感できた。

 星々の煌めきがこれほど眩しいとは思わなかった。

 点描のようである。

 ぐるりと辺りを見渡し、そして気づいた。

 景色に、穴が開いている。

 否、そうではない。

 何かがそこにあるのだ。障害物があるために、そこだけ星が見えなかった。

 陰になっている。

 そうして近づき、私はその老人を発見した。

 案外にすぐそばにいたようである。

 三十歩も歩いていない。

 足の裏に感じる砂は柔らかく、踏み心地は分厚い絨毯を彷彿とした。

 老人は私が声をかけても驚く素振りも見せなかった。彼もまた、ガグなのだろう。私の迷い込む裏の世界にて、いわば道案内をする者と言える。

 裏の世界は一つではない。いくつもある。無数にある。

 どんな扉でもいい。街の、家の、ビルの扉をくぐると、ときおり裏の世界へと紛れ込む。それがいつなのかは、実際に裏の世界に転送されてからでなければ分からない。

 裏の世界へと迷い込んだあとにすべきことは、まずは何を措いても、ガクを探し当ることだ。そうでなければ、何をすればその世界から出られるのかが判らない。

 達成すべき艱難が、裏の世界ごとにある。それだけが、私の経験則から導き出した数少ない法則だ。

 艱難を打ち破ったときにのみ、最初にくぐった扉が出口となって、元の世界へと回帰できる。私はそれを六年もの間繰り返しつづけてきた。

 それが今回、三十人以上いたなかで唯一の生存者となって、私だけが艱難を打破できた。通例通りであるならば、私はいま元の世界に戻っているはずだったのだが、なぜかふたたび別の裏の世界へと運ばれた。

 初めてのことである。

 私は戸惑い以上に、何かようやく、終わりへの兆しのような高揚感を掴みかけていた。だがそれは、いちど掴んでしまえばもう二度と現れることのない蜘蛛の糸にも思えた。

 確かめるためには、掴まねばならぬ。しかしそれをして、もし外れの未来が訪れたら、今後延々と私は、この裏の世界を往復しつづける生活を死ぬまでつづけなくてはならないのではないか。

 不安が足元から這い上がり、私の肉体を浸食しつつあった。

 目のまえの老人はガクで間違いなさそうだ。

 そもそもがこんな家屋のない砂漠のど真ん中に、老人が何も持たず椅子に腰かけているわけがない。土台からおかしいのである。ガクとしか考えようがない。

 ガグは裏の世界ごとに、性格が異なる。著しく異なる。外見、年齢、性別といった属性に共通点はない。以前に一度だけ、あれはじぶんの母親だ、と言い張った迷い人がいたが、果たしてあれはどこまで本気であり、真実を反映していたのか。

 私には確かめようがない。

 中には親切なガグもいるが、まったく関与しようとしない無責任なガグもいた。

 ガグはある意味で、その世界の管理者のような存在であった。

 殺せず、傷つけられず、脅かすことができない。

 ガグのほうで我々迷い人に危害を加えてきたことはいちどもない。かといって守ってくれることもないので、ほとほと悪霊じみている。

 言葉は通じるが、意思疎通ができるのかと問われると、これはなかなか頷くのがむつかしい。言葉の応酬は図れるが、どうにもいじわるをされている気分になるのが常であった。

 まるで物語の中のキャラクターがごとくなのである。

 核心に迫るような問いには、のらりくらりと要領を得ない返答をし、ときにはまったくのデタラメを吐く。何度それで痛い目に遭ったことか。

 その点、この老人のガグはいい。

 口数が少なく、移動する素振りを見せない。

 この手のガグは、要点のみを伝えてくれることが多いため、私は内心で、地蔵さまと呼んでいる。

 私はいつものように、困っていることはないか、と老人に訊ねた。ガグへの第一声はこれが最も安全で、多くの情報を引き出せる。

「ないですな」

「ない?」私は戸惑った。未だかつてこのような返事を聞いたことがなかった。

「ここでは何もかもが自由ですな。困ることさえも自由なんですな」

「あの、では私はどうすれば」

 改めて周囲を見渡し、私は気づいた。

 何もない。

 人工物が、ここには老人の腰かける椅子しかなかった。

 ぞっとした。

 出口となる、扉がないのである。

 これではいったいどうやって、元の世界に戻ればよいのか。

「あの、ほかの迷い人たちは」

「迷い人。はて。迷うも迷わぬもここでは自由。だいいち、迷わぬ者などおるでしょうか」

 問答をしている場合ではない。ブラフを刷り込まれ兼ねない。私は急速に危機感を募らせた。丹田のところで、危機感とマジックで書かれた風船がプクーと膨らむ様子が視えるようだ。

「あなたはここで何をされているのですか」問いを、より状況説明に適したものに変えた。はぐらかされていては、時間だけが無駄に過ぎる。艱難の達成にはリミットがある。時間内に達成できなければ二度とその裏の世界からは出ることができなくなる。

 私は幾度も、そうした裏の世界に閉じ込められ、自暴自棄になった永久者たちに襲われ、騙され、道連れにされそうになった。殺されそうになった。

 ひょっとしてこの老人も永久者なのではないか、とそのことに思い至り、危機感がさらにプクーと膨れ上がった。

「ワタシはここで世界を眺めておりますな」

「世界を」

 眺める。

 私は老人の視線を辿り、紺色の世界を見遣った。剣山で開けた穴のごとき星の輝きである。以前に祖母の葬式で母がまとった喪服越しに見た日差しの、微かに漏れる光を思いだすようだ。

 私の思考はそこで、過去へと一瞬で旅立った。

 何をしても許されるとしたら、何する?

 小学生の私へ、同級生の馬淵が言った。

 私は、世界征服、と応じた。

 たしかそのはずであった。

 馬淵はそこで、へえ、と感心したように綻びると、おれはねぇ、と洟をすすった。「何もしないと思う」

 そう言って馬淵は、手元のカミキリムシを、脱いだ帽子のなかに突っこみ、手で蓋をした。

「そろそろですな」

 老人の声に、はっと我に返った。

「見てみなさい」

 老人が夜空を仰いだ。

 釣られて喉を伸ばす。

 星が虹を描いていた。一斉に軌跡を描き出す。陽が昇ったかと思うと、夜の帳が下り、また星が虹を描いた。

 その循環は速さを増し、回転する独楽の表面の紋様のごとく、徐々に昼と夜の境を失くした。

「こ、これは」

 空だけではない。

 一面砂漠だった視界に、ポツリポツリと黴が生えるような起伏が見られた。それらは夜空が灰色一色に染まるほどに循環の速度を増すと、モザイクが増殖していくかのように景色を埋めた。

 間もなく、私の周囲には超高層ビルディングが立ち並んだ。そうかと思うと、今度は一瞬でそれらビルディングが消し飛び、あとには荒廃した世界が広がった。

 目まぐるしく時間が過ぎ去っていく。

 時代は連続しているようで、断裂している。

 衰退と風化によって、区切りとなる溝ができるのだと知った。

 私と老人だけがその場に取り残され、時間の変遷の渦に巻き込まれずに済んでいる。立体映像のようなものなのだろうか。

 いいや、違う。

 ここは、こういう世界なのだ。

 海に沈むと、景色は長らく深い闇に包まれた。

 呼吸はできる。

 身動きも取れる。

 だがここが水中であることは、浮力と、まとわりつくような抵抗で判断ついた。

 老人はそこにいるのだろうか。

 手探りで進むが、いちど座標をずれるとあとは、迷子になるのに時間はかからなかった。

 私はじぶんがいったいどこにいるのか分からなくなった。

 動くのをやめ、遭難者がそうするようにその場に膝を抱えて丸まった。

 顔を膝のあいだに納め、眠ることに意識を集中した。

 私はそのときハッキリと諦めたのだ。

 時間内にこの裏の世界からでることはできない。

 一生私はこの世界で生きるしかないのだ。

 つぎに顔を上げたとき、眩しさに思わず地面に倒れこんだ。

 空は灰色から、ふたたび高速と巡る昼と夜が視認できた。日差しの眩しさを懐かしく感じた。いったいどれほど眠っていたのか。

 否、その疑問は無意義だ。そもそもが時間の観念が狂っている。

 いつの間にか目のまえからは海が消えており、密林が広がっていた。だがそれも巨大な生き物の腸内にいるかのようにつぎつぎに絨毛がごとく蠢き、生え変わり、やがては砂漠に回帰した。

 私がふと横を見遣ると、そこには椅子が一つだけぽつんとあった。

 昼が来て夜が来て、星空が虹を描き、陽が昇る。

 私は椅子に腰かけると、徐々にゆったりと変遷の流れを穏やかにしていく世界を眺め、

「そろそろですな」

 長く、自由な時間の到来を予感するのである。




【音声通話だぶー】

(未推敲)


 音声通話が好きだ。見栄えや部屋の散らかりようを気にせずに利用できる。複数人と、部屋で一人作業をしながらでも談笑できる。

 とくにゲームや工作をするときには重宝している。BGM代わりに知り合いと言葉を交わすのは、楽しい時間の過ごし方だ。

 作業だけだと何かが物足りず、対話のみであると手持無沙汰だ。時間を無駄にした感を拭えない。

 その点、二つの楽しいことを同時に行うのだから、楽しくないわけがない。どんな体勢でしゃべっていてもいいのだから、相手への配慮は不要だ。物理的に会うときよりも心理的負担がすくなくて済む。端的に気疲れしない。

 見も知らぬ相手との会話とて可能だ。身の危険を晒さずに、声だけをやりとりできる。

 その日も私は、今年に入ってから仲良くなったシバさんと音声通話をしていた。SNS上の機能だ。

 会話に加わらなくとも、聞きたいリスナーはその会話を聞くことができる。人気のあるアカウント主の音声通話には、何十、何百とリスナーが集まる。

 しかし私は名もなき人形師だ。絵や彫刻も手掛けるが、基本は粘土を捏ねて、理想の人形をこさえるべく孤独な作業に没頭する。

 とはいえ、孤独は孤独だ。

 頭を使わぬ作業、とりわけヤスリ掛け中には、音声通話を使って友人知人と雑談を交わした。

 だが、私と違ってみなは忙しい社会人だ。

 活動時間もまちまちで、話題も徐々に尽きてくる。

 深夜に作業をする私に付き合ってくれる相手はそう毎日のようには都合よく見つからない。通信状態にして、誰かやってくるまで一人で黙々と作業をすることもしばしばだ。会話に加わらずに、見守ってくれるリスナーが現れることもあるが、声だけの通話である。私の作業が見れるわけでもなく、サービスに十分程度はしゃべるが、独り言をつづけるのもむなしく、けっきょくそうしたときは通信を切ることになる。

 そんな中でもシバさんとは比較的、時間が合うらしく、通話する機会が多かった。

 基本、私は聞き役である。

 シバさんは話題の尽きない人だった。仕事柄多くの人と関わるからか、面白いエピソードを無尽蔵に口からつむぎだせた。シバさんはイベントコーディネーターだった。

 他方、プライベートではイラストレーターとしても活躍しており、私との通話中はもっぱら絵を描いているらしかった。

 私もシバさんの絵のファンだ。シバさんが私の人形や彫刻、表現物のファンであるかは分からない。

 その日も私はシバさんと二人きりで音声通話をしていた。

 途中で幾人かのリスナーがアイコンを表示させたが、十分以上滞在した者はいなかった。

 零時を回るころには私とシバさんだけの世界ができあがった。

 私とシバさんは同性だ。

 シバさんは魅力的な女性だった。

 私の性自認は男であり、恋愛対象もまた女性であった。

 端的に私はシバさんに憧憬と友情と性的魅力の三つを重ね見ていた。それを知られまいと平静を装うのに、聞き役に徹する姿勢は正に働いた。

 ただし、その分、シバさんとの関係は、電波越しに夜通ししゃべるだけの間柄として結晶しつつあった。

 私から通話を切ることは稀である。

 この日も例に漏れず、シバさんが退場するまで待つつもりであったが、午前三時を回ってもシバさんは通話を切らずにいた。

「マイちゃんさ、何か話してよ」

「えー、シバさんが話してくださいよ。ほらあれ、どうなりました。ベランダに居座ったガマガエルくん」

「あ、そうそう。消えたと思ったら昨日の帰りに、スーパーんとこの道路をヨタヨタ歩いてた」

「脱走してるじゃないですか」

「冒険に出たんよ彼は」

「別のカエルじゃないんですか」

「いや。あのガマ具合は彼だった」

 ガマ具合とはなんぞ。

 思ったが、じぶんの笑い声でそれどころではなかった。

「とんでもねぇよ彼は」とシバさんが畳みかけるので、私は腹筋が痛くなった。

 シバさんは眠いのか、口数少なとなったので、もうそろそろお開きにしましょうか、と私は提案したが、シバさんは、うんみゃ、と言った。

「この絵、今日中に仕上げちゃいたいんよね」

「じゃあお付き合いしますけど」

「ありがたいぶー」

「ふふっ。なんですかそれ」

「子豚さんでぶー」

「いや、可愛いですけど」

「ぴぶーぴぶー、シバさんは可愛いんでぶー」

「ひゃは。シバさんが壊れた」

 シバさんはそれから、ピブーくんもそうおっしゃっておられる、とまるでその場に子豚さんがいるかのように振る舞いだしたので、「語尾がぶー」の台詞は全部子豚さんの台詞ということになった。

 子豚さんが言うのだから、どんな発言も子豚さんのものである。シバさんはそう唱えて、私以外に聞き手がいないことをよいことに、元カレや職場のクレーマーへの愚痴を並びたてた。

 それはそれは壮絶な悪態であったが、語尾が「ぶー」なので、ほどよく棘は相殺され、私は深夜だというのに笑い転げた。

「イテっ。机に頭ぶつけた」

「痛いぶー」

「ぶふっ。シバさん関係ないし」

「テレパシーデぶー」

「子豚さんにデブって言われた」

「言ってないでぶー」

「畳みかけないで!」

 私は深夜の魔の時間にハマっていた。三歳児は箸が転げ落ちても笑い袋になるというが、私はこのときまさにシバさんの咳き込む声を耳にしただけでも腹がよじれた。涙目になってヤスリ掛けどころではない。

 シバさんの口調がドツボにはまったので、私も一緒になって「ぶーぶー」言っていた。

 そのうち、そのあまりの幼稚な響きに心地よくなってしまい、眠そうなシバさんが可愛かったのもあって、赤ちゃんをあやすように一人で「何々でぶー、そうだぶー」と連呼していた。

 たぶん十分くらいは一人で「ぶーぶー」子豚さんのキャラになりきっていた。はしゃいでいた。

 先に結論を言ってしまうと、このときシバさんはとっくに寝落ちしていた。

 なので、このときに聞こえてきた、

「なんだこれ、誰かと繋がっとんのか」との声がシバさんでないことには、子豚さんの真似に夢中な私には咄嗟に判断つかなかった。

 TVかラジオの音声が聞こえてきたのか、と思った。

 或いは、シバさんの誰かの物真似か。

 ずいぶんと低い声に聞こえた。

 現に、その声はシバさんのものではあり得なかった。端末画面を覗きこんでいるのか、さきほどよりも明瞭な声音で、

「ぶーぶー言っとったが、映画かよ」

 と続いた。「まぁた絵ぇ描いとんのか。上手めぇもんだ」

 シバさんのお父さんだろう。私は息を殺した。

 シバさんの声がないことからとっくに寝落ちてしまったことを私は悟ったわけだが、それはとりもなおさず私が一人で「ぶーぶー」子豚さんになりきっていたことの裏返しでもあった。

 私は恥ずかしくなった。

 急激に恥ずかしくなった。

 頭を地面に突っこんで、大声で「あーあーあーあーあーーーー」と叫びたかった。

 シバさんのお父上になんてはしたない言動を聞かれてしまったのだ。

 私は沈黙を貫いた。

 どうやらシバさんのお父上は機械の類には疎いようで、端末には触れずに、ごそごそと物音を立てつつ、シバさんのいるだろうその場所から遠のいていった。

 おそらくあとでシバさんはお父上にこのことを訊かれ、そして事の真相を話すだろう。あれは友人の一人で、子豚さんの真似をしていたのだ、と。

 どちらかと言えば私はシバさんを真似ていたのだが、彼女が寝てしまっていたことも知らずに一人で昂揚して、「シバさんのことが好きだぶー」とか勢いに任せて口走っていたじぶんには、冷静になりたまえ、の札をおでこにビタリと貼りつけたい。

 慙愧に堪えない。氷水に顔を突っ込みたい。

 その日はもう、こっそりと通話を切って、そのままやすり掛けもほどほどにベッドに突っ伏して寝た。夢の中まで、恥辱の念に脅かされた。

 しかし起床してからよくよく考えてもみると、却ってラッキーだったかもしれない。

 なんと言っても、好きだぶー、なんてふざけた告白は、たとえそれが冗句だったとしてもシバさんには聞かれたくなかった。聞かれずに済んで心底に胸を撫で下ろす。

 シバさんとはそれから三日後にふたたびの音声通話をする機会に恵まれた。一週間に多ければ三度はシバさんの声を聞けるが、タイミングが合わないときはひと月も聞けないときがある。

 私とシバさんは音声通話での繋がりでしかなかった。しかしSNSの裏アカウントを通して互いの素顔や私生活は筒抜けである。

 シバさんはこのあいだ描いていた絵を展示会に出したと言っていた。時間あったら観に来てよ、と言うので、一緒に付き合ってくれるなら、と言うと、いいよー、と快活な答えが返ってきた。

「いいんですか」

「全然いいよ。時間合うなら。いつにする? 期間はねぇ」

 スケジュールを確認しだすシバさんの声に耳を欹てながらも私は当惑した。

 何を着て会えばよいのだ。

 こんなのデートではないか。

「あ、そうそうこのあいだはごめんねー」シバさんは私にDMを送ると、そう言った。私は受信したそれを開きながら、寝落ちしたことかな、と推し量る。

 案の定、シバさんは、

「気づいたら寝ちゃってたぶー。起きたら涎の池ができてたぶー」とおどけた。

 私は学習能力がないので、容赦なく噴きだす。シバさんだから面白い。ほかのたとえば知り合いの男の子にそれをされても私は眉一つ動かさないし、即イヤホンで耳に蓋する。

「なんか夢に子豚ちゃんになったマイちゃんがでてきたんだけど、めっちゃ可愛かったぶー」

 シバさんはしつこいくらいに繰り返した。私は学習能力がないのでそのたびに噴きだす。

 ただあまりにシバさんが笑わせにくるので、腹がよじれて千切れそうになり、折衷案として私は話題を変えることにした。私の笑い声は上品ではないので、シバさんにずっと聞かれるのはそれはそれで嫌だった。

 涙の滲んだ目をこすりながら私は、

「そういえば」とじつに流暢に話題を逸らした。「シバさんが寝てるあいだ私それに気づかずに一人でしゃべっちゃってたんですけど」

「あはは。ウケんね」

「その声、シバさんのお父さんに聞かれっちゃって、息を殺して乗り越えました。殺人鬼に追われる映画のキャラさながらでした」

「やだぶー。怖いぶー」

「なんかお父さん、シバさんの絵ぇ見たことなかったんですかね。上手いって褒めてましたよ」

「えー、もうやめてよマイちゃんさ。そういうの普通に怖いぶー」

「どうしてですか?」

 素できょとんとしてしまった。

 父親に絵を観られたくない心理は判るが、シバさんらしくない気がした。家族から褒められたら素直によろこぶと思ったのだ。私の知っているシバさんならそういう反応をとると思ったので、純粋な好奇心から、見られたくないんですかねやっぱり、と言った。

 するとシバさんは、

「父親って、マイちゃんの?」と妙なことを言った。

「いえ。シバさんの」

「ん?」

「なんです?」

「いや、話これ通じてる? 大丈夫? マイちゃんいま酔ってたりしない」

 語尾は弾んでいるものの、シバさんの声からは戸惑いが感じられた。

「お酒は飲んでないですけど。あ、お父さんじゃなかったんですかね」

 恋人だろうか。

 その可能性に思い至り、私は胸がどんよりと重くなった。嫉妬の札を釘で打ちつける連想を浮かべたのは、シバさんのしあわせを素直によろこべない己が卑屈な精神に、めっ!とビンタの一つでもお見舞いしたくなったからだ。

 シバさんはなぜかそこで口を閉ざした。

 私は作業をしながら続きを待った。

「マイちゃんさ、それはもちろん冗談だよね」おずおずと切り出したシバさんの声からは、深刻さの響きが滲んでいた。

「どうしてですか」と私は訊いた。何か地雷を踏んだのかと思った。嫌われちゃう、と身構える。せっかく餌付けした猫の尻尾を踏んで毛を逆立てられるじぶんの姿が脳裏によぎった。

 だがシバさんは語気を荒らげることなく、だってさぁ、とむりやりにそうするように声を弾ませて、

「うち、一人暮らしよ」と言った。

 私は二の句が継げなかった。それこそシバさんの冗句かと思ったが、そう言えば、と私はシバさんの裏アカウントに載っていた情報の数々を思いだした。

 シバさんはたしかに実家暮らしではなかった。

 父親が、そこにいるはずはないのだ。

「じゃあ誰かほかの人が泊まりに来てたりとか」

「しないしない。誰もいないから怖いって言ってんの」

 現にシバさんは肩を抱いているのか、声が遠かった。

「でも」

 じゃあの声は誰だったのか。

 思ったけれど、ここで強情に言い張っても埒が明かない。水掛け論になるだけだ。私はまずは、聞き間違えかなぁ、とおどけて煙に巻くことにした。「私も眠かったし、寝ぼけちゃってたのかも」

「んだよ、ビビらせんなし」

 シバさんは豪快に笑った。緊張が解けたのか、ハンバーグのタネを転がすようなコミカルな笑い方だった。

 私もほっと息を吐いた。

 そのときだ。

 シバさんの弾むような声音の奥から、

 内緒だよ。

 濁声が、聞こえた。

 ゴミ箱に紙屑を放り投げるような、部屋の奥から声を張ったような響き方をした。

 私は何も言えなかった。

 シバさんは絶句する私をよそに、怖い話はやめるぶー、とおどけた。




【宵の夢に酔い】

(未推敲)


 また来たよ、と与吉は箒に顎を載せた。掃除の手を止めたわけは、路を挟んだ向こう側で、いままさに長屋の戸を乱暴に開け放って押し入った三人組の悪漢を目にしたからだ。

 悪漢の押し入りなのだから、与吉はここで人を呼んで役所に裁いてもらえばよいのだが、事はそう単純ではなかった。

 悪漢の怒鳴り声が聞こえる。

 銭をはよ返さんかい、と鬼気迫る怒声を浴びせるだけに留まらず、物を蹴り、柱をどついて脅している。

 長屋の主は、平伏低頭しているようだ。土下座である。

 返せる銭などあろうはずもない。

 路向かいの長屋に住まう者たちはみなその日暮らしの、銭なしだ。

 銭が足りなくなれば仕事をし、仕事ができなければ借金をする。悪事に手を染める者いるが、そうした者はいつの間にか姿を消している。

 与吉は大店の下っ端職人だ。朝と昼と夜、欠かさず店のまえを箒で掃く。

 悪漢たちは借金取りだ。それはこの間、三日に一度と回ってくるので嫌でも与吉の目についた。

 怒鳴られているほうにも理由があるのである。押し入れられるだけの理由がある。

 与吉が役所に告げずにいるのもそのためだ。この場合、銭を返さない長屋の主人が裁かれることになる。

 暴力を働いてくれればまだしも、悪漢たちはそこのところを弁えているようで、けして手は出さぬのだ。

 なんとかしてやりたいとは思うが、銭を貸すほどの縁があるわけでもなし、見も知らぬ相手のために懐を痛める気にはどうしてもなれなかった。

 そんな日が幾週かつづいた。

 悪漢たちの恫喝は、嫌がらせやその手法を上げた。

 いずれは命をとられるのではないか、と与吉が危惧しはじめた矢先に、その二人組は現れた。

 長屋にて悪漢たちが主人を恫喝しているその後ろを――つまりが与吉の目のまえを、一人の屈強そうな男と、線の細いか弱そうな娘が通りかかった。

 いちどは素通りした二人組だが、ふと立ち止まると、男のほうが女のほうに顔を寄せた。何かを囁き合っている。

 すると何を持ったのか踵を返し、いままさに怒鳴り声の聞こえる長屋の戸のまえに立った。

 与吉は目を凝らす。娘のほうは端正な容姿だが、顔には痣があった。

 いや、それともあれは傷跡か。 

 そう思った矢先に、連れの男が勃然と娘を殴り飛ばした。そのうえ、転んだ娘の腹を蹴った。

 あまりのことに与吉は、ひぇ、と息を呑んだ。

 長屋の中で怒鳴り散らしていた悪漢たちも、背後の異様な事態に気づいたのか、しばし静寂が路を覆った。

「返せねぇとはどういう了見だ。あァん」

 男のほうは娘を片手で宙に吊るした。娘の線は細いが、けして子どもではないと判る。着物も上質だ。体重と合わせれば相当な重さになろう。

 男の膂力は並みではない。与吉はなぜか、河童や天狗を連想した。

 男は娘をさらに続けて開いた片手で打った。それから目を点にしている長屋の面々へと、ぐるり、と顔だけをひねり、

「おう。ちょうどいいや」と声を掛けた。

 与吉は耳を欹てた。

「ちょいとおめぇら。こいつを買っちゃあ、くれねぇか。質ついでに預かってたんだが、先方が銭持ったまま逃げちまってな。商売あがったりだ。女郎部屋に売り払うにも、こいつは見ての通り傷モンだ。二束三文にもなりやしねぇ。かといってわしの玩具にもなりやしねぇ。あんたら、こいつ好きにしていいからよ。言い値で買っちゃあ、くれねぇか」

 与吉は耳を疑った。娘に暴力を振るうどころか、売り飛ばすという理不尽。父親のために我が身を売り飛ばす娘の話を、美談として聞くことはあるが、これはそうした話とは土台から違う。まったくの悪事そのものだ。

 奉行所に届け出れば、まず間違いなく男は投獄される。それが判らぬ者はこの街にはいない。

 余所者だろうか。見ない顔である。

 娘は咳き込んだ。まだ宙に吊るされている。首を絞められ、窒息死寸前に見えた。

「いや、そういうのはウチじゃやってねぇんだ」長屋の中から借金取りたちの声がした。「旦那ぁ。どこの組のモンですかい」

「おめぇらがどこの組のモンだよ。てめぇから名乗れウスラトンカチ」

 与吉は位置を変えた。

 長屋の中で悪漢たちが当惑した様子で顔を見合わせている。

 大方、任された仕事以外にどう対処してよいのか分からないのだろう。不測の事態への対処に難儀しているようだ。

 この手の取り立ててにやってくるのは下っ端だ。雇われで、回収業を任される者たちもすくなくない。

「どうしたよ。買うのか買わねぇのかどっちだ」

「旦那ぁ。すこし落ち着いてくだせぇ」

 すでに場の主導がどちらなのかは下っているようだった。悪漢たちはヘコヘコと手を揉んで、背を丸めた。「そちらのお嬢さまは、どちらからのお預かりの品なんですかい。娘を質に入れたくらいですから、相応の銭を借りたんでしょう」

「岩陰の一族だ」

 へっへ、と阿諛に染めていた悪漢たちの顔がそこで急に鯱張った。

「なんだおめぇら知っているのか。岩陰の一族を」

「い、いえ。知りませんで」

「何でも急ぎで刀が大量にいるってんで、銭を貸してやったんだ。その末がこれよ。薄汚ぇガキを一匹押しつけられ、とんだ大損じゃねぇか」

 おまえらもそう思うよな、と迫られ、悪漢たちは無言で顎を何度も引いた。

「で、いくらで買ってくれんだよ。なんだったらタダで譲ってやってもいいが」

 男はそこでようやく娘を地面に放った。娘は何度も咳き込んだ。

「い、いえ。あっしら、きょうはもうこの辺で失礼しやす」

「んだよ。おめぇらも銭に困ってんだろ。そこのオヤジから巻きあげたかったんじゃねぇのかよ。ゆっくりやりな」

「や。あっしらも暇じゃねぇんで」悪漢たちは語気を強めた。なけなしの矜持を思いだしたように、また来るからな、と長屋の主人にガンを飛ばした。

「ん? おめ、まさかダイちゃんか」男が長屋に首を突っ込んだ。あべこべに悪漢たちが外にでてくる。娘は地面に転がったままだが、もはや誰も彼女に目を向けない。

「おうおう、なんでい。こんなところで奇遇だなぁ」

 男は声を弾ませたが、そこで忘れ物でも思いだしたかのように、ぐるん、と振り返った。肩で空を切るような、剣呑さが漂った。「おめぇら、誰のダチにドブみてぇな声張り上げてんだ。あァん?」

 ひぃ。

 離れている与吉まで身が竦んだ。直に殺気を浴びせられた悪漢たちは溜まったものではなかっただろう。どの業界も面子が大事な世界ではあるが、命に代えて守るほど価値のあるものだと心底に考えている者はいない。

 もしそのように豪語しようとも、いざ命を取られそうになれば、面子など小石のごとく擲つだろう。

 与吉ならばそうする。否、そもそも面子など大事と思ったことがない。

 その点、悪漢たちはそうではなかったはずだ。

 だがこのとき彼らはみな一様に腰砕けになって、謝罪の言葉もなく、長屋のほうにだけは顔を向けまい、とあちらを見てはそちらを見るようにして、ひょこひょこと三人仲良く肩をぶつけ合い、引っつき合い、去っていった。

 しかし、与吉の緊張は解けぬままだ。

 長屋の主人と邪悪な男が旧知だったのはよい。だが娘はどうだ。この先、彼女に幸はあるのか。救いはあるのか。

 誰かなんとかしてくれ。

 じぶんでは動こうともせず、与吉は祈るしかなかった。

「ちょっとー、もっと手加減してよバカ虎彦」

 娘が着物を手で叩きながら起き上がった。邪悪な男を罵倒しながら長屋に入り、そこで平伏している主人に、何かを懐から投げた。

 与吉は目を凝らす。距離がある上、虎彦と呼ばれた邪悪な男が入り口を塞いでいるためよく見えない。

 畳を揺らす重そうな音がかろうじて聞こえた。

「それ、あげる。返さなくてよい。ただし――いや、やめておこう」

 娘はそれだけを言うと、水を一杯くれないか、と頼んだようで、しばらくのあと、長屋から出てきた。

 陽が暮れかけており、大店の中から与吉を呼ぶ声が聞こえた。先輩だ。声には怒気が含まれて聞こえた。普段ならば与吉は火に触れたように先輩の元へと飛んで駆けつけるが、いまはそれどころではなかった。

 暴の男を足蹴にしながら、

「つぎからはもっと上手くやれ。痛いわバカ虎彦」

 おそらくは体中が傷だらけであろう娘は、染み入るように宵の闇へと馴染んで、消えた。

 与吉はしばらく宵闇のなかに佇んでいた。

「ここにいたか与吉。何ボサッと突っ立っておる」

 掃除は済ませたのか、と大店の先輩から小言を受けながら与吉は、酔いを醒ますにはちょうど良い、と先輩の青筋の浮かんだ顔を見てもにこやかな心地でいられた。

 くらくらと浮遊感に包まれた。

 たったいま一部始終を遠巻きに眺めた光景がある。

 たしかに目撃したはずだが、いまではもう宵闇に紛れて薄れつつあった。白昼夢のごとくふしぎな高揚感である。

 与吉はそれらをけして忘れてしまわぬように、胸にしかと仕舞いこむ。

 大店の玄関に、提灯の火が灯る。




【ネットルゲンガー】

(未推敲)


 私は小説を書いている。まったくの無名だ。

 長らくウン十年とつづけてきたが、これまたさっぱり名が売れない。読者もつかない。稀に反応をくれる読者もおられるが、読んでいるのか、冷やかしなのかの区別もつかない。

 筆名で検索しても、書評もレビューもない。

 電子書籍化した本には星が二つ並ぶばかりだ。せめて一つならば、却って評価者との相性が合わなかっただけだ、と思えたものを、二つであれば最低でも読了はしたのだろう、と読み解ける。読了できずに低評価をつけるのならば星は一つだ。

 したがって私の小説家としての力量は無に等しかった。他人に怒りや不快感すら覚えさせることなく、憂さ晴らしの評価「二」がお似合いだ。中途半端の権化と言えよう。

 ある日、普段通りに、電子の海に目を走らせ、世界情勢や科学記事を読み漁っていた。

 巷説の記事を読んでいると、懐かしい単語が目に入った。

 ドッペルゲンガーである。

 じぶんの分身と出遭うと殺されたり、なり替わられたりするらしい。

 ふと思いつきでじぶんの本名を検索した。

 漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字とそれぞれの表記を検索欄に打ちこみ、画面に並んだ記事タイトルをぱっと見で洗った。

 すると、私の本名のカタカナ表記に、「小説」の二文字が付随している記事を見つけた。

 選択し、中の記事を検める。

 文章投稿サイトのようだ。

 小説以外にも、文章ならば何でも載せることができる。

 じぶんの本名と同じ相手は、いかなカタカナだろうとそこはかとなく親しみを感じる。

 どれどれ。

 ショートショートを載せているようだ。すでに千百作以上も載せている。だがいずれも二百文字以内の超掌編だ。

 しかし、その短さのなかでよくまとめられている。

 構成の妙も利いている。なかなかの読み味だ。

 短編や長編も読んでみたいな、と読み進めていく。短いのでスルスル進む。

 だが徐々に、おや、と眉根が寄った。

 どれもこれも、既視感がある。

 まるで私の日常を映しとっているかのような内容なのだ。

 小説ならば、かろうじてあり得るだろう、と判る。読んだ小説の内容を拝借すればいい。盗作の問題に繋がるが、素人ならば私は好きにしたらよいと考える性質だ。

 私が検索したように、この者もまたじぶんの筆名で検索し――いやいや、それはあり得ない、と思い至る。何せ私の筆名は本名ではない。

 どうあっても私の小説と繋がるはずがないのだ。

 しかもこの人物の作品の内容は、私の日常と合致している。小説ではなく、私生活の些細なエピソードが重なるのだ。

 私ですら忘れていたような、粗末な出来事が、件の作家の小説を読むと克明に思いだされるのだ。

 風景や描写が巧みなのもある。

 だがそれだけではなく、登場人物の立ち振る舞いや、遭遇する事象の総じてに既視感があった。その日にとって私の印象的な出来事を掌編にするならそれしかないだろう、という連想の仕方がなされる。

 そうなのだ。

 一つきりではない。

 二百文字に満たない掌編であるにも拘わらず、それが連作掌編小説に視えてくるのだ。

 連続して読めば読むほど、私の体験談と合致する。

 よくできた物語は誰しもの原体験を揺さぶり、共鳴し得るために名作足り得る。その視点から言えば、この作家の腕が卓越しているだけなのかもしれない。

 日付けの新しい順に読み進めていく。

 そのうち段々と、じぶんが気づかぬ内に書いて電子の海へと投稿したのではないのか、という気になってくる。それほど想起される記憶が重なるのだ。

 だが私にこのような掌編を書いた記憶はない。

 ではこれはどういうことか。

 いまいちど筆名を眺める。

 私の本名と同じ発音のカタカナ表記だ。名前だけならば偶然で済ませられるが、ことこうして掌編の内容にまで共通項を見いだせるとなると、なかなかどうして気分が昂揚してくる。

 なまじ作家をやっていると、万年作品にするだけの起伏のある刺激に飢えている。

 先刻検索したばかりのドッペルゲンガーを思いだす。

 いるのだろうか。

 電子の海にも。

 ドッペルゲンガーが。

 我が名を寝取られたような奇妙な痛痒がある。

 さしずめ、ネットルゲンガーとでも名付けようか。

 面白い。

 どうやら毎日投稿しているらしい。

 作品が先か、私の体験が先か。まずはそこから確かめるとしよう。

 観察日記でもつけようか。

 ネットルゲンガー観察記とすれば、それだけで一つの小説になる。作品になる。

 実話をもとにするのならば、通常の創作に加えて行える。

 私に損はない。

 面白くなってきたぞ。

 私は俄然創作意欲が湧いた。芋づる式に、行き詰っていた作品のつづきも思い付き、至れり尽くせりである。何にも増して、インターネット上ではじぶんの分身と遭遇することはない。

 思う存分に作品の素材として活かせる。

 盗作にはならない。

 何せ紛うことなき私の原体験なのだから。

 相手の掌編の内容にはいっさい触れずに、この奇妙な偶然の合致を堪能することにする。

 私は小説を書いている。まったくの無名だ。

 だがときおりこうして愉快な出来事に遭遇できる。日々、欠落を言葉で埋め、誤魔化し、誤魔化し、生きている。

 半径五十センチメートルの、暇で自由なこの世界で。





千物語「宇」おわり。

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